『世紀の遺書』(戦犯で死刑となった人たちの遺稿集)

 (昭和28年発行:巣鴨遺書編纂会)

 戦後、占領軍GHQが日本人戦犯に対する裁判を主導し、国内では主に巣鴨プリズンにA級戦犯を収監して裁判を行う他、BC級戦犯は横浜で裁判を行い、両者の処刑は巣鴨で行なった。その死刑になった者たちに最後の日まで寄り添ったのは僧侶で教誨師としての田嶋隆純であった。そして田嶋が中心となり、巣鴨以外の世界各地で死刑に処された戦犯たちの遺書を集めて遺稿集として編纂したのが『世紀の遺書』である(701編)。

 なお、BC級戦犯の判決については起訴が2244件、被告5700人、死刑984人、無期475人、有期2944人、無罪1018人となっている。

 ここではいろんな人が冤罪を含めて死刑の判決を受け、最終的に死ぬ覚悟をもって従容とした心境で処刑されている様子が伺える。ただわれわれが持たなければならない視点は、この裏側には何十万、何百万、あるいは何千万という中国を含めた東アジアの人々の死が横たわっているということである。しかもその人々の死というものは、ここで記されているような、自分の心の整理をして死に臨んで行ったのではまったくない。ある日突然、むやみに、時には助けてくれと哀願しながら殺されていったのである。もちろん遺書など書く余裕も何もない。果たしてここに遺書を残すことのできた人たちは、日本軍にむやみに殺されたその人々の影を少しでも思い浮かべることがあったのかどうか、筆者が部分的にしろ、ざっと流し読みした範囲において、それはごく一部の人を除いてしか読み取ることができない。あるのは良くも悪くも自分とその家族のこと、あるいは上級将校にあっては体裁よく日本の今後のことばかりである。

 例えばこの死刑囚の遺書の中には、これは報復裁判で不当であるのように書いている人も数多くいるが、何よりもここまで日本軍は、中国やフィリピンの戦場において、戦闘で戦友を殺されたからと言って問答無用として捕虜を虐殺したり、敵軍が逃げ込んでいる、あるいはスパイがいるとして一つの村を焼き払い何十人、何百人単位で村人を虐殺したりするという「報復」を各地でやっている事実があり、そうした自分たち日本軍としての行為に対する反省はないというか、(戦争という全体の行為の中で)忘れてしまっている様子がある。今ひとつ忘れられていることは、死刑囚たちの多くが、この結果は日本が戦争に負けたから自分たちは戦犯として犠牲になっていると語っていることで、しかし勝ち負け以前の問題として、そもそも満州事変から14年間の長期にわたる悲惨極まる戦争は、すべて日本が始め、その結果としてこうなったということである。誤解を恐れずに言うなら、ある意味「報復裁判」は、相手側からすれば当たり前のことなのである。

 また例えば国内では、空爆時に日本軍が撃墜した爆撃機から落下傘で降下してきた飛行士たちを、日本の憲兵が略式裁判によってその場で処刑したことで、米軍に戦犯として裁かれたわけであるが、そもそもその飛行士たちを処刑する前に遺書を書かせる余裕を与えたのかどうか、筆者は一応POW(戦争捕虜研究会)の資料にも目を通しているが、その範囲においてもその様子はまったく見られなかった。もちろんこの米軍の爆撃によって命を奪われたわが国の民間人も何十万人といるし、どちらがどうだったということは結局は言えないが、少なくともこの大きな戦争における幾千万人単位の死者の中で、遺書を書き得た人は非常に稀で、遺して行く家族のことすら思う間もなく死んで行った人が大半である。極端な話、戦争終盤、東南アジアの密林に逃げ込んで餓死した日本軍兵士は多く、彼らは遺書を書く紙すらなかったことなど考えれば、この戦犯としての死刑囚は、冤罪であるかどうかは別として、ある意味幸運であったのではなかろうか。

 ただ逆説的に言うなら、筆者がこれらを流し読みした範囲において感じたことは、少なくともここに遺書の載っているBC級戦犯たちのなかで、少将以上の上級将校を除いて一切の人を死刑に処する必要はなく、その代わりに「戦争をする」と決めた日本国内の政府の要人たち、あるいはその当時の(少なくとも日中戦争開始から)国会議員で戦争に賛同した者たち(大政翼賛会に参加した者たち)をすべて、そしてその周囲で策動した者たちも含者たちを含めて、BC級戦犯で処刑にされた人々と同数(900人以上)を死刑にすべきであったろう。その彼らは、国内でほとんど愚にもつかない議論をしながら、実際に戦場に行ったのは自分たちではなく、赤紙で召集された兵士たちであり、基本的にその兵士たちに責任などないのである。その意味ではA級戦犯で処刑された大将級の軍人や政治家たちだけではまったく済まされず、のちに減刑となった要人たちもすべて含めて処刑すべきであったと筆者は考える。そもそも戦争犯罪といっても(殺し合いという)戦争行為自体を許容し前提としている国際法などなんの意味もない。上の方で「戦争をする」と決め、その流れに加担し、策動した者たち全てを、もし仮にできるなら、国民の手で裁判を起こし、処刑しなければ世の中は変わらない。BC級戦犯で処刑にされた人々に対して同情して済ませている場合ではないのである。

 ただし死刑囚への「同情」の問題以外に、日本固有の問題であるのかどうか断定できないが、死刑囚ばかりでなく、有罪となった家族に対するいわゆる村八分的な問題が生じることになる。それは遺書の中でも囚人たちが「汚名」を着せられる家族のことを一番心配していたことであった。

 「戦争裁判によって家族の受けた精神的・肉体的の打撃は想像以上である。肉親が自殺した者、一家離散のやむなきに至った者等の家庭悲劇も惹った。又戦犯者の家族なるが故に就職を禁止された者、村八分の迫害を受けた者、結婚を拒否された者もある……殊に甚だしい打撃はその生活問題に就いてである。一家の支柱を奪われ、収入の途を断たれ路頭に迷へる家族を救済すべく現行の法制の適用範囲は余りにも狭い」(巣鴨法務委員会編『戦犯裁判の実相』 1952年) 。(なお、この時は戦犯者には補償金など対象外とされたが、翌年GHQの占領が解け、国会の決議でA級戦犯も含めて軍人恩給・軍人年金などは支払いの対象となった)

 「離婚もあった。婚約解消もあった。就職、入学拒否もあった。国内外に住むその家族の周囲には冷たい風が渦を巻いて吹き続けた。そうした中で千葉県の中村勝五郎氏は巣鴨プリズンの花山信勝教誨師に相談し、(高名な仏師に制作を依頼し)死刑囚の遺族の元に蓮の花弁に抱かれた小さな観音像を遺族の元に届け続けることにした。…… ある日、観音像を手に元陸軍中将宅を予告なしに訪れた。その夫人に『実は思うところあって観音像を持参しました。どうぞ供養と思ってお受け取りください』と言うと夫人はその場に気を失って倒れた。やがて起き上がると『実は昨晩、親戚一同が参りまして、身内に戦犯がいると肩身が狭い、と絶縁を言い渡されたばかりで、あまりのことに呆然としていました。それほどに冷たい世の中で、見ず知らずの方が供養として観音様を持ってきていただいて嬉しさのあまり』ということであった。…… 中村氏は言う。『身内に戦犯が出たことは家系の名折れ。これからは身内と思ってくれるな。そうして親戚からも絶縁されていった人がたくさんいる』」(『BC級戦犯・下』読売新聞大阪本社編:新風書房、1994年)

 これらの戦犯となった者たちは出征する時には近隣縁者に万歳三唱と小旗の波を受け、「勝って来るぞと勇ましく誓って国を出たからは手柄立てずに死なれよか」と見送られたはずである。そして戦地で手柄を立てたはずが、敗戦により敵方において目立った将兵が拘束された。時には日本に帰還していた将兵が現地に召喚されて裁判を受け、戦犯として有罪となった。この一方で、とりわけ学徒出陣で戦死、あるいは特攻隊員として自爆死した学徒兵たちは英雄として称揚され、英霊となった。そして彼らの遺稿集『はるかなる山河に』や『きけ わだつみのこえ』などが出版され、話題となった。その遺稿集とこの『世紀の遺書』とは何が違うのか。『世紀の遺書』を読むと死刑の期日までに覚悟して、これも運命と割り切り、従容として死に赴いて行った人が数多くいることは読めばわかる。しかし仮にその本人たちが立場として逆に特攻隊に編入されていたとしたらどうであろう。ここに取り上げた中に二人の学徒兵の死刑囚がいる(田口泰正と木村久夫)。それを読めば人間的本質は両者の立場でもほとんど変わらないことがわかるであろう。特に木村の場合、遺稿は「わだつみのこえ」にも取り上げられていることでそれは示されている。特攻兵たちの精神性が崇高であり、死刑囚たちのそれはそうではないとはまったく言えない。その「覚悟」においてはどちらも変わらない。

 問題はそのような置かれた立場によって一方では英霊としてもてはやされ、片方では戦犯として世間に排除されている事実である。しかも戦犯とは、多くの受刑者たちが書き遺しているように、日本軍が負けたが故に起訴されたわけであり、不本意この上ない結果である。その上で遺された家族が貶められる。こうした世情を許容する日本の世間とはなんなのであろうか。そもそも排除する側の人間たちは、国が起こした戦争という政策に乗っかって、出征兵士を囲んで万歳三唱していた者たちであり、戦後になって戦犯となった家族を、そのまま汚物から避けるように敬遠したわけである。しかも彼らはあれほどに「憎き敵米英」としていたその連合軍に占領されると同時に、その占領軍に易々と従った。あえて言うが、この種の人たちが戦時下に軍やメディアのプロパガンダに煽られて戦争を下から支えていたのである。


 以下の『世紀の遺書』からの引用は先入観を持たないように『遺書』を流し読みしながら恣意的に目についた遺書だけを抽出し(主に処刑になった地区のバランスも考慮し)、その後多少の資料から気になったものを追加したものである。台湾・朝鮮人の死刑囚については掲載されているものはすべて取り上げたが、全体の数に比してそれほど多くはない。またこの書は、A級戦犯もBC級戦犯も特に区分けすることなく並列に編集されているところに配慮が見られるが、A級戦犯の遺書の内容は立場上、自分の体面を重んじる恰好つけ的な面があって意味がなく、取り上げていない。BC級戦犯に対する裁判の多くは日中・太平洋戦争において日本軍が占領していた東アジアの各地で行われ、死刑執行も主にその近隣の地で行われた。それは中国を始めとして、香港(中国の範囲に入れる)、インドネシア、マレーシア(シンガポール)、オーストラリア(当時の領地ラバウルなど)、仏印(ビルマ・ベトナム)、フィリピンなどにわたっている。(BC級戦犯のおよその概略については「各種参考資料」の「BC級戦犯とその裁判について」を参照)

(以下の「……」は省略した部分)

巣鴨における刑死者

 日本におけるBC級裁判は横浜で行われ、処刑は巣鴨で行われた。『世紀の遺書』はその処刑地によって区分されていて、その中の巣鴨の遺書の量は10数%である(その他は海外)。国内のBC級裁判の主な対象は、米軍機が国内へ空襲を行なった時に撃墜されて(墜落死以外の)落下傘で地上に逃れた飛行士たちへの処遇のこと(その場で処刑してしまった例もある)、あるいは海外の戦地で日本軍が欧米人を捉えて捕虜としつつ、不足している労働力を補うとして彼らを日本国内に輸送して捕虜収容所に入れ労働させたが、その彼らに対する処遇などであった。中には東京の収容所に入れたが、米軍の空襲により収容所が焼かれ、その時に捕虜の扉の鍵を閉ざしたまま監視員が逃げて、捕虜たちを焼死させたとして裁判にかけられた例もある。いずれにしろ戦後の米軍は、不明となったままの自軍の兵士たちの行方を徹底して追求して日本各地に入り、「国際法違反」として疑われた者たちは次々と裁判にかけられ、その多くが死刑に処された。

—— 捕虜収容所における虐待罪 ——

 ここに掲げる死刑囚の遺書の中では花山信勝教誨師(僧侶で仏教学者)が関わっている様子が見られる。どんなに勝気に物を言っている人も、花山師に感謝の言葉を捧げている。花山はまた、7人のA級戦犯にも付き添っている。

由利 敬

 長崎県出身。元陸軍中尉。昭和21年4月26日、巣鴨に於て刑死。27歳。

<遺書>(御母上様)

 すくすくと曲がりなき竹も烈風狂わば倒れ油満つれど烈風強ければ燈火滅すとか、古先の士を求めて意を柔ぐ快なるやなる哉。清なるかな。悲報と共に霊妙不可思議なる猛雨漣々として地上を覆う。是我が今を悲しむ神仏の血涙ならん。我れ全絶不滅のものに悟入しつつ、まもなく仏に帰依せんとす。死するに非ず。大生命の本源に帰するものなり。只物質なる肉体のみ止む無くポツダム宣言の露と消えん。

 …… 御母上様の御声を得る術もなくして散るを悲しむ。然し今又千言云うも甲斐なし。二十六年と百八日間の桜花と共に清く武人の最後を誉とす。嗚呼悲しかる哉。御母上様の運命、想えば涙漣々果つるを知らず、何卒敬の分も百年も二百年も強く生きられよ。

 ご先祖様には然るべく伝えます。時せまれり、伊都子初め皆々様へ呉々も宜しく伝えあれ。(注:由利は福岡県大牟田俘虜収容所の分所長時代の、捕虜殺害等の罪に問われた。判決は絞首刑で、巣鴨プリズンで初めての死刑執行事件として注目された。大牟田俘虜収容所は三井三池炭鉱の近くにあり、捕虜はアメリカ、オーストラリアなど連合国軍の捕虜であり、炭鉱坑内での労働であり、またそこでは強制連行の中国人、朝鮮人が働いていた。捕虜は当初500人だったが、最終的には1750人に達し、日本国内で最大規模だった。容疑は営倉内に放置されていた米軍伍長が虐待され死亡したこと。また営倉から逃亡した米軍伍長を看守に命じて刺殺させたことであった。このほか由利のあと終戦まで分所長を務めた福原大尉など4名が死刑となっている)。

頴川幸生

 長崎県出身。元海軍上等兵曹。昭和23年8月21日、巣鴨に於て刑死。38歳。家族七人が長崎原爆にて死す。

<遺書>

姉上様

 遂々お別れです。…… 私の様な性格の弱い人聞が、斯る心境で死んで行けるとは自分でさえ思っていませんでした。……全く不思議で自分乍ら驚く程です。 約一時間半前、花山信勝先生に髪と爪をとって戴き、先生の御厚志による特別なる戒名さえつけて頂きました。…… 花山先生とも今笑って話しを致しました。こんな気持でいられる事は全く不思議な事です。これもみ仏の有難い慈悲や(三年前に原爆で)亡くなった七人の家族の霊が私を救い、見守って下されているお蔭だと感謝致して居ります。裁判の始まる迄は家族の霊がきっと自分を守り無実の罪を晴してくれると信じて居りましたが、み仏は現世にて此の身を救ふのでなくて永遠の生命に生かし霊を救って下さっていた事を知りました。…… 処刑は今夜中十二時三十分、私が第一番です。他の九名の人達と仲良く手をとって昇天します。先程から遂々雨になりました。随分暑い日ですが天も憐んでか、私達の為に涙を落としていてくれている様な気がします。今「ラヂオ」の軽音楽が遠く近く聞こえてきます。久し振りです。みんなに見送られている様です。 何の因縁か三年前家族達が次々と逝った後を追い、月も同じ八月、日も節三兄さんの二十日午前五時永眠と似通って二十一日です。 みんなが招いているのでしょう。…… 

 幸生は成程不運な男ではありましたが、皆様の愛情に包まれて今迄暮して参りました。亡き豈子(妻)も子供達も心から慕って呉れました。今度は親子水入らずで永遠に仲良く暮らせます。自分も一日も早く逝くことが倖です。本当に永い間有難う御座いました。大恩を受けて報いもせず逝く身が悔まれますが愚かな弟を何卒赦して下さい。不肖の子ではありましたが父母の最後(長崎原爆による)の折せめて僅かばかりの真心を尽す事が出来た事を悦んで居ります。私は亡き妻や子供の為にも早く死ななければなりません。……もう今度は永久に離れません。左右しっかりと抱いて親子四人父、母ともども仲良く暮します。最後の我儘な弟の願いとしてお聞き届け下さい。お姉様もう何も遺す言葉はありません。残り少ない姉弟仲良く、いついつ迄も健やかにお暮し下さる事をあの世とやらから祈って居ります。

 では永久に永久にお別れ致します。

 遺詠

 ふみのぼる絞首の台をえがきみてたじろがぬわれこころうれしく

相原一胤

 愛援県出身。元陸軍伍長。昭和23年8月21日、巣鴨に於て刑死。37歳。

<遺書>

 今日は最後の日昭和二十三年八月二十日です。私の処刑は明日二十一日午前零時三十分と宣告せられました。求刑されて一年三ヶ月私の人生に於て最も偉大なる期間でありました。達観とまで申さなくとも諦観することを得ました。或る程度迄死と言うことを知り自己を知り得た喜びに浸っています。数時間後に処刑せられるのです。……

 私は普通人以上に善人とも思ってiませんがまた死刑を受ける程の極悪人とも考えていません。軍国主義の手先として働いたとも考えていません。結局日本の国家組織に欠陥があった。この犠牲と考えればよいでしょう。其罪を個人に負荷することの是非。これは如何に人智の進んだ現代の社会に於ても解決不能なのであろう。…… 

 最後を飾らん、人生意気に感ずだ。生者必滅の習い栄枯盛衰は世の常だ。再度日本が今日の惨事を繰り返さざる国家となることを祈りつつ。…… 本日午後三時導師花山先生に最後の面会をした。先生から直接遺髪及爪を取って戴きました。仏の戒名迄名付けて下さって誠に有難い。どうぞとの戒名で先祖の碑と並べて下され度。…… 裁判の事に就いては何も申上げ度くないが死刑求刑後の生活は全く勿体ない生活が続けられた。其点大いに感謝している。

川手晴美

 東京都。東京俘虜収容所満島(長野県)分所所属。陸軍軍属。昭和23年8月21日、巣鴨に於て刑死。30歳。

<ざんげの辞世>

 人をも殺しかねぬ身が殺される今日となりぬかな

 極重罪悪凡夫の身が明日は仏となれる嬉しさよ

 八月二十日夜

 花山先生ヘ

道下正能

 石川県出身。元農業、陸軍曹長。昭和23年8月21日、巣鴨に於て刑死。30歳。

<遺書>

 生仏のような先生。私は死が近づくにつれて仏の国が目に見えます。… 先生、人間世界こそ呪ふベぎところでありますね。しかし人間として人間界を見ればまた美しい場合もありますが、私を死とする人間界の一部ははなはだ悪いところと思います。先生、人間として行動した私も決して悪いとは思われません。… ゆえに私は人間界をはなれるのをありがたいと思います。……

 花山先生

 悪いと思わず死にゆく私を叱って下さいませ。どうしてもそう思われない私を先生どうぞ叱って下さいませ。

(注:上記川手と同じ東京俘虜収容所満島分所所属である)

吉田正人

 福島県出身。中学校卒業。元陸軍大尉。未決拘留中も昭和23年6月16日、東京米軍病院に於て病死。38歳。

<遺書>

三名の子供へ

 父は大東亜戦争に於て日京帝国が大敗に帰したる結果戦争犯罪人として今聯合国の軍事法廷に於て裁かれて居ります。わずか五ヶ月余の俘虜収容所長としての勤務が罪人として裁きを受けようとは夢にも考える事が出来ませんでした。それが現実となって現われ様とは人聞の運命の恐ろしさ。事件の内容は母がよく知って居ります、母上からきかれるよう。……

 不幸にして父は修養も余り積まずも故に真の人間性を発揮することを得ず、未完成の人生として世を去ることになりました。…… 父はお前達を養育せねばならぬ義務を有して居ります。此の度の事件に依って其の義務を果し得ず世を去る父は何んとお前達にお詫びして良いやら言葉も有りません。ことに末の子は自分が戦地に在る留守に生れたる為め殆んど手も掛けず誠に申訳無い事と思って居ります。しかしお前達三名の幸福と健壌とを地下に於て必ず見守って居ります。…… ではさようなら。

水口安俊

 東京都。(朝鮮)京城帝国大学医学部卒業。元医師、元陸軍軍医少尉。昭和24年2月12日、巣鴨に於て刑死。34歳。

<日記>

 昭和二十二年七月十一日ハ(金)

 裁判所の庭に目本人の子供が二、三人集っているのが目についた。乞食同然の姿で親が無く野宿している事が一見して知れる。米兵から食物でも貰うべく群っているのだろう。私は涙が出て仕方が無かった。それらの一人は米兵の靴を磨いていた。米兵は悠然と片方の足を前につき出して磨かしていた。憐れな姿だ。私は見ておれなかった。此の様な姿は私が朝鮮でしばしば見た姿で、その時はこんなに強く感じなかった。かつての其の朝鮮人の姿が今は日本人にうつって来ているのだ。四等国民と言われても仕方がないのか。子供よひがんではならぬ、すくすくと育ってほしい、国民に食はしてやる政治は一体何時来るのだろう。

 昭和二十二年八月八日(金)

 八月七日の朝日の第一面に「六日午前八時十五分平和への第一弾が破裂して丸二年、広島は平和祭を催した云々」とかかげマッカーサーの写真入りでメッセージを載せている。考えて見るとおかしくて物が云えぬ。「平和の第一弾」とは何か。日本がこの原子爆弾を投下されても之を非難する新聞記者が一人も居ない。新聞はことごとく当時の軍の方針を無条件に賛成して拍手を送って激励したではないか。忘れたとはいわせない。今になって此んな進駐軍にへつらった云い方をする骨なしの日本記者はことごとく撲殺して仕舞うべき非国民だ。開戦当時私も長年の憂慣を晴らして思わず万歳を叫び一快哉を絶叫した。何等恐れず堂々と告白をする。誰が何と云ってもこの事には相違あるまい。然し時世の移り変りと共に人聞の考え方も変って来るのは私も認める。だから新聞記者は「当時我々も明かに政府の方針に拍手を送った者の一人である。それに対しては率直に責任を感ずるものである」と前おきすべきだ。ともかく情ない憐れな人間ばかり満ちて誠に困ったものだ。鳴呼!

<遺書>

 父上へ

 …… 最後まで忍のそばにつきそって何くれと勇気づけて下さった花山先生には受刑後一年五ヶ月間陰に陽に大層お世話様になりましたのです。私はこの先生の導きにより誠に力強く安心しておれました。どうか先生によろしく御礼を申して下さい。…… では只今より刑場へと向います。

(注:水口は軍医として朝鮮の仁川捕虜収容所に勤務していた。この捕虜収容所には1942年にシンガポールで投降した英豪軍将兵の捕虜が収容されていた。水口は20年7月5日まで勤務していてその後帰還し、日本の大津市にいたところを敗戦後、GHQから召喚され、捕虜虐待の罪で巣鴨に収容された)

 —— 石垣島事件 ——

 1945年(昭和20年)4月15日朝、沖縄県石垣島の宮良飛行場を空襲した米軍の艦載機1機が撃墜され、米兵3名がパラシュート降下し、石垣島の海軍警備隊に捕獲された。彼らは情報聴取の後、その夜に海軍警備隊本部近くの荒地へ連行され、二人が斬首された。残り一人は激昂した数十人の日本兵によって刺突演習の材料とされて殺された。死体は穴に埋められたが、敗戦直後に証拠隠滅のために掘り返され、焼いて灰にして海中に投げ捨てられたという。戦後、匿名の投書が米軍に寄せられ、事件が発覚した。横浜裁判では46人が起訴され、そのうち41人が絞首刑の判決を受けた。その後数度減刑が行われ、最終的には海軍警備隊司令官の井上乙彦大佐、幕田稔大尉、副司令官の井上勝太郎大尉、榎本宗憲中尉、田口泰正少尉、成迫忠邦兵曹、藤中松雄兵曹の7人に絞首刑が執行され、将校3人と兵曹29人が5年から無期懲役となった。(POW研究会の資料から)

 巣鴨における戦犯の死刑の実行に関しては、彼ら7人が最後となった。

井上乙彦

 神奈川県。海軍兵学校卒業、元海軍大佐。昭和25年4月7目、巣鴨に於て刑死。52蔵。

<遺書>

 昭和25年4月5日夜、於巣鴨監獄、絞刑前。

(略)

 絞刑の友◯名と準備室に曳かれて来ています。皆しっかりしているのには敬服とも感激とも言い様がありません。唯頭が下るばかりです。前から責任者である私だけにしてあとは減刑して下さいと幾度か願ったが終にこの結果になって御本人にも御遺族の方にも誠に相済みません。

 公判以来弁護に歎願にたくさんの方々にお世話になりましたが御礼の方法もなく死亡通知も出せるかどうか判らず、止むを得ぬ事だと思います。

 「笑って行く」と署名してある壁文字を遺書おく棚のわきに見出しぬ

<歎願書>

マッカーサー元帥閣下

 私は4月7日巣鴨監獄にて絞首刑を受ける元石垣島海軍警備隊司令井上乙彦であります。

 私独りが絞首刑を執行され、今回執行予定の旧部下の六名及び既に減刑された人達を減刑されん事を三回に亘り事情を具して歎願致しましたが、今日の結果となりました事を誠に遺憾に存じ乍ら私は刑死してゆくのであります。

 由来、日本では命令者が最高責任者でありまして受令者の行為はそれが命令による場合ば極めて責任が軽い事になっています。戦時中の私達の行動は総て其の様に処理されていたのであります。

 若し間に合わばこの六名を助命して戴きたいのであります。

 閣下よ。今回の私達の絞首刑を以て日本戦犯絞首刑の最後の執行とせられんことを伏して私は歎願致します。これ以上絞首刑を続行するは米国の為にも世界平和の為にも百害あって一利なきことを確信する次第であります。また神は不公正及び欺瞞ある公判によって刑死者を続出するは好み給わぬと信じます。尚之を押し進めるならば神の罰を被るは必然と信じます。願くは刑死しゆく私の歎願書を懸悲深く、広量なる閣下の御心に聞き届け給はん事を。

  4月6日 井上 乙彦

 筆者注:石垣島の警備隊司令であった海軍大佐井上乙彦は、逮捕された当初「自分は連日部隊の視察に行っており、本部に居らず、事件の事は何も知らない、命令した覚えはない」との主張をしていたとされる。しかしその後始まった裁判の中では、すべては自分の命令によるとして主張を変えたが、時すでに遅しであったという(上記のように部下6人の助命嘆願をしたのは自分を含めた7人の死刑の前日であるが、せめてものとの思いによる井上の最後の願いであったようだ)。検察側としての米軍は「共同謀議罪」として一蓮托生に処刑するという最初の方針を押し通したともされる。

 なお、死刑確定は13名であったが、執行の一週間ほど前の3月29日に6名が死刑を解除され、無期懲役などに減刑された。これは例えば減刑された中の一人、炭床静男にとっても理由がわからず、減刑されずに処刑された同胞を思うと茫然とし、まったく喜べなかったという。「そして3月29日、突如石垣島関係者六名の減刑が発表された。其の中に幸にも私の名前もあったが、遂に成迫君の名前を見出すことは出来なかった。同じ事を同じ命令に依り行ったのに、吾々のみ減刑となって君等に対して慰め様はなかった。『暫くの辛抱だと思うから頑張って呉れ』と言っては見たものの吾ながら何かそらぞらしい思いに苦しんだ。出て来る私共を笑って見送って呉れたのだが、これが今生の死別となってしまったのである。あの時の君の笑顔、そして澄み通った瞳、私はそれを永久に忘れる事が出来ない。4月6日朝、石垣島の七名は昨夜ブリュー(巣鴨拘置所内の米軍が名付けた地区名)に移されたと聞かされた。私は全身の力がぬけたようで、暫しは動く事も出来なかった。一週間前あんなに元気で送って呉れたのに、此の世には神も仏もないものか、何の罪もないものをどうして殺さなくてはならないのか。吾等の気持を考えると只涙が滲み出るばかりであった」。

 井上の死から36年後(1986年)、妻・千鶴子は、石垣島に戦死者のための慰霊碑を建立した。

 “石垣島に逝きしこゝだ(たくさん)の戦友の遺族思ひをり最期の夜ごろを”

(以上の要旨はRKB毎日放送の記事から)

井上勝太郎

 岐阜県出身。慶応大学卒業、元海軍大尉。昭和25年4月7日に巣鴨に於て刑死。27歳。

<28時間の記録>

(前略)

 29号室に司令(注:井上乙彦のこと)がいる。31号幕田、32号田口、33号楠木、34号藤中、35号成迫、此の配列は考えてみると興味深いものだ。即ち此の中に二人の老人がいる。所でその老人達は一人で冥土へ行くのは厭だと言い張って各々若者達をお供に従えた。若者と言うのは此の中四人迄は未婚で裁判当時は皆五人共二十歳台であったのだ。死刑囚棟二年の生活で二人は三十歳台になったけれども。絞首台は四つのはずだから此の組合せが一蓮托生の組合せになる訳だ。……

 不思議な因縁で今までの処刑日は大抵雨が降っている。お天道さまも拝めずじまいという事。洗面を終り体操をしていると食事を持って来る。飯が山盛りに来た。如何なる巣鴨の勇者といえ之丈けは食い切れまい。

(中略)

 今午前七時三十分

 生の最後の輝きのギラギラする如く私の想は後から後から出て来る。…… 私は三月三日に第二番目の感得する事があった。そしてそれからは実際一刻を惜んで本を読み坐禅もして来た 。云い変えれば現在を最善に生きるべく努力して来た。そして多くの事を為し遂げた様に思う。…… 現在にして振り返ってみると実に不思議な因縁だと思う。その経過中において六名の人達は減刑され我々七名は今此所にいる訳であるがスタートに於て私は斯うなる事は予期していなかったけれども、実に不思議な仏の導きに依ると言えよう。仏とは自己の内心を見よである。…… 私は死刑囚棟二年の生活が無かったなら仏道に入らして貰えなかっただう。…… 私は米軍に依って与えられた死に喜んで服する等という馬鹿げた事を言っているのでは無い。私は此の生の現在という一点を凝視し今まで歩んで来た私の道を振返って見た時、私の為し得た事に満足しているかどうかという事だ。

 実際私は私自身を見出したのだ。私は二年間悩んだ挙句昨年六月突如としで新しいものを見たのだ。それは私にとって生涯嘗って無かった歓喜だった。自分の大きさを発見したのだ。換言すれば尊厳を。私は段々足が地について遂にしっかりと踏んだのだ。それからは私は瞬間々々を疎かに生きなかった。一時一刻が尊かったのだ。……

 私の生涯にやって来た事には数多くの過誤がある。そして多くの迷惑を掛け、又御恩になり通しだった。普通ならば何も御恩返しをせずに死んでゆくというお詫びをせねばならない。然し私は之で良いのだ。…… 私は不遜かも知れない。然し或る完結を私は見て居る様に思う。

 此処まで書いた時呼び出されて指紋採取をされる。念の入った事だ。昨夜からの私の意識を反省してみると概ね自分の事と身辺の事しか考えていない。それと母や抹や弟、親戚の人々、友達の事も多少考える。実際弘は類稀なる慈愛にみちた人々の中で温く育った。私はこれ等寛容と善意に満ちた人々に対して満腔の謝意を捧げ、それ等の人々の多幸を祈る。母は戦争で父を失い、又私さえも失うのである。その悲嘆は到底私の察し難い所である。然し堪えて下さい。之は払が言うのはおかしい事ですが。そして章を立派に育てて下さい。弟は立派な人間になりましょうから。

 昨夜司令(井上乙彦)が連出される時「どうも拙い事になって申訳ない」と言った。私は今更責めようとは思わない。唯呵責と悔恨の重荷を負いつゝゆくより、有り得ざる決定に死んでゆく事は、考え様によってはつまらぬ馬鹿々々しい事ではあるが同時に不思議に気が軽い事である。昔から冤罪や自己の主義主援の為に死んでゆく人々の従容たり得し理由も分る。

 三人を処刑した事(米軍飛行士)に対し七名を死刑にする等という残虐行為を1950年聖年の復活祭前日に平然とやる様な彼等キリストを冒涜した人種が神の恩寵やキリスト教をいくら宣伝しようと何になろうか。恐るべき偽善者である。斯る国が支配する此の地上の国等は所詮呪われた世界でしかない。絞首刑の判決をして二年間生殺しにしてさて人殺し道具の利き具合を試そうという訳だ。 宜しくやり給え。之が彼等の言う人道であり正義なのだ。……

 幕田氏昼食後歌を歌えと言う。後一食を余す匂最後の晩餐のみ。昼食の時は母を思い涙止らず。

 五目飯食いつゝ涙止まずけの看守に顔をそむけたりけり

(中略)

 死というものは直面するならば何人も冷静に迎え得るものだ。我々が恐れている死は抽象的な頭の中で考えている死なのだ。死は何人も一度は迎えるのだ。言い換れば凡ての人が死刑囚なのだ。…… 死刑を待つ前の二十四時間を斯くも平静に過し得るという事は奇蹟でなく事実なのだ。

 司令は昨夜申し渡の時、彼一人で済む様に何度も云ったのにと言いし由、それは再審後の事だ。神に対して申訳する必要は無い。彼は初めから逃げ腰であったのだ。そして最初の命令は誰にも依らず彼の独断に依って発せられた事は間違いない事実であった。彼の性格の弱さが此の事件に致命的であって取返しのつかない事にしてしまった。それは彼自らが人生の終り今において知り得るのだ。万事はそれで良い。この種の事は横浜裁判中最も重い判決を起し、若い有為の人達を斯くも多く道連れにしたのだという事を率直に知って頂き度いのだ。それが我々の死を少くとももう一層意義あらしめる事なのだ。

 自己犠牲にのみ人は生き得るのだ。屈辱と不名誉のうちに埋れてはならない。それは他人の意想のうちにではない。自分自身の中に自分を滅してしまうのだ。それは絶対的な零であり虚無なのだ。…… もう直ぐ夜のとばりが降りるだろう。そして人の寝静まった頃吾々七人は密やかに還るのだ、自然に。そして再び昼を見ないのだ。

 今日は一日根限り書き続けた。戦争中に多くの同期生が死んだ。遠い南海で戦勝を信じつゝ。私は敗戦の後に永らへて獄に死なんとするのだ。

(中略)

 田嶋先生より最後の看経用に般若心経を戴く。…… 今五時、食事を用意する音がする。田嶋先生よりの話で一緒に食事になる。大いに飲み且歌う。歌の数々愉快になる。六時半に至りて止む。看守が来て様々に事件の事を問う。些か銘即したり。最後の夕食は豚カツ、刺身、すし、味噌汁(豚肉入り)コーヒー、リンゴ、梨、プドー酒、田嶋先生を交えて八人なり。看守ら疲労して眠き如し。田嶋先生の来られる迄横になる。

 暫くの後般若心経観音経をあげ静座す。落ち着いた静かな気持でやれた。有難し。一切が終わった気がする。煙草を吸う。処刑準備も概ね完了しつゝあり。今八時十分前。……

 お寝みなさいお母さん。淑子。章よ。  井上勝太郎

 母上に捧ぐ

幕田 稔

 山形県出身。海軍兵学校卒業、元海軍大尉。昭和25年4月7日、巣鴨に於て刑死。30歳

<無題>

 夜9時頃処刑言渡式があり、承認の署名を求められるかと考えていたがなかった。署名は兎に角こりこりである。全く強制暴力により署名させられ、それが自発的自白になる苦い経験は二度とくりかえしたくない。死によってすべて御破算になるのではない。

 言渡式が始まるのを外の廊下で椅子に腰かけて待っているとき本当に落着いた気持になって考えたら死というものはない様に思われる。かねがねの不死の確信が絶対間違いでなかった事が絶対の立場に臨んで確証されたと信ずる。私の肉体は亡びる。生命も消散するであろう。霊魂という様なものがあったら其れも無に帰するであろう。然し現在の私は永遠に存続する。比の世界宇宙は残っている。(中略)

 こんな理であるから理性的に考えてみれば署名した事が私の死後どうなろうと私の知った事ではないのであるが、私は現在即永遠の私の残生に対して莫迦げた高圧的な圧力に屈したくなかったのである。私の良心に対し、私の内なる仏に対し厳密に忠実でありたかったわけである。いくら考えても軍隊組織内に於て命令でやった事が比の現実的な世界に於て死に価するとは考えられない。原爆で死せる幾十万の人間を生かして私の眼の前に並べてくれたら私は喜んで署名もしよう。そうでない限り受諾出来ないのである。大体この世界に於て人間の行為に対し罰し得る者は居ない筈である。罰し得るのは自分自身だけである。自分自身の内なる仏があるのみである。敢て他人を罰するのは人間の増長慢なり。神仏を知らざる神仏に逆きたる者である。(中略)

 正直の所私は今回の判決に対して死に価するとは思わない。私の心を深くみきわめしとき人間は必ず一度経験しなければならない死を無視して永遠に自分にだけは死がないという様な考えを持っていた。それはそれでよいのであろうが一度現実の死を深く勇敢に凝視して人間の死は実際に於てはないものだとの自覚に到達するのが仏教の教えの一点であり、人生を自覚し永世を得る所以であると考える。結果は同じであり、平凡であるが自覚の内容、根底に於て異なるものがあるのだと確信する。(中略)

 古人日く「人生は生死一大事因縁をあきらめる道場なり」と、古人の比の気魄が私に無限の勇気を与えてくれ何となくうれしい。……

 一昨年九月頃から(座禅により)文字通り唯「仏の実在か不実在か」をあきらめんとして五里霧中の暗黒を彷徨しつづけた。文字通り寝食を忘れた精神が全く莫迦げた私の三十年の人生にとり一点の光明であったと信ずる。 … そして昨年五月二十五日が私の人生の永遠に再生した日であった。何の理屈もいらない、「吾即宇宙」。 … 唯釈尊も比のちっぽけな私も根本に於ては一つであったのだ。…… 次に頭に浮んだのは「私は正に処刑されんとしているが、なあんだ比の大宇宙を殺さんとしているのも同じ事ではないか、知らざる者の阿呆さよ」と腹の底から湧き出んとするのに一苦労した事であった。 … 今頃此の俺を殺さんとするのは丁度空気を棒でたたく様なものだ。

 網越しに今日見し母の額なる深き皺々眼はなれず

注)『世紀の遺書』には載っていないが、”天皇も人民も頼りとしてはをれず孤独を生きしこの二年半”という辞世の句を残している。

藤中松雄

 福岡県出身。元農業、元海軍一等兵曹。昭和25年4月7日、巣鴨に於て刑死。29歳。

<遺書>(永遠の平和を)

南無阿弥陀仏

 吾既に生れ褒り御仏の国に在り

 直ちに父母、妻子の許に帰り永遠に守り抜かん

  昭和25年4月5日夜8時30分頃 藤中松雄

 今日夕食後、突然空気が変なので悪い予感がする。直ぐ身の廻りの品を整理して時間が来るまで日記を誌すことにする。普通は点呼が済むと直ぐ訪問(他室を訪ねること)が許されるのであるが、今夜は点呼も終ってどんどん時間が過ぎてゆくが訪問が許される風はない。同室の森さんと今夜は臭いぞと語り合う。そして若し今夜であれば自分達だろうと思った。

 七時半頃になっても訪問が許されず愈々今夜だと言う予感が強くなる。お念仏を称えながら写真を写真帳に貼った。

 ここまで書いていると米兵が連れ出しに来た。今度こそは刑執行の申渡しである。手錠を掛けられ、それを更にバンドで抑え階下に連れて行かれる。下に行くと両側に米兵に挟まれて榎本さんが一人腰掛けていた。そこで申渡しがあるのかと思ったが、そうではなかった。誰かが先に部屋に行って申渡しを受けている。仏間の方から何か読み上げる声が聞える。待つこと二、三分、三、四人の米兵に護られて田口さんが出て来る。それと入れ替りに榎本さんが監視兵に両腕をとられて部屋に入って行く。暫くすると成迫さんが二階から下りて来て私の後に待たされる。

 今度は榎本さんと入れ代りに私が部屋に這入って行く。部屋は三十坪程の大部屋で電燈が昼も欺くばかり煌々と輝き、窓際に据えられている机には所長であろう。その左に二世の通訳が居てその左右には米軍将校が並んでいる。這入って直ぐ眼に映ったのは多数いる将校の中に只一人法衣を纏っている人がいる。私達の導師田嶋先生である。机の前に立って先生の方を向き、先生、御苦労様と短い挨拶を述べる。先生も吃驚されているのであろう。黙って領かれただけであった。通訳が申渡書を読み上げだした。一ヶ所不明な点があったのでそこをも一度読んで貰った。そして最後に昭和二十五年四月七日午前零時三十分頃、藤中松雄を巣鴨拘置所に於て絞首刑に処すベし云々と読み上げた。…… 申渡しが済むと二階へ連れて行かれた。宣告申渡書は日本語で書いたものが四枚と英語で書いたものが二枚を兵隊が持って来て呉れた。

 南無阿禰陀仏

 最後の瞬間になって私の友となり父母となり兄弟妹妻子となり、そして導師となって下さる人は南無阿禰陀仏以外の何者でもない。南無阿禰陀仏之即ち禰陀の本領にましまして吾が永遠の親様なり。

  昭和二十五年四月六日午前七時頃

<家族へ>

父母上様

 在家中は本当に色々実子にも及ぼぬ愛情を不孝者の私に注いで下され松雄はどんなに幸福だったか知れません。父母上様の慈悲の御恩は永遠に決して忘れは致しません。改めてここに深感謝致しますと共に其の高大な父母上様の御恩に対し万分の一の報恩も出来ず、そして報恩どころか重ね重ねの不孝此の上ない御心配をおかけしたまま散って逝かねばならぬかと思うと残念でなりません。老いたた父上様を柱と頼む光子を、十才と四才の幼い孝一と孝幸を残して逝く事はなんと言っても忍び得ない事であります。
(後略)

妻へ

(前略)

 別れなど言うと悲しい事でしょう。まして永遠の死別であって見れば言語に絶することです。然し私はそうは思いません。”死” それは永遠に亡びるものではなく只姿の代るだけで罪科に汚れた此の身を捨てて仏に生れ代らして頂くのです。そして今度は勿体なくも仏に生れかわらして頂き君や孝一や孝幸を終始守り導く事が出来るかと思いますと言い知れぬ喜びが湧き仏恩の有難さ不思議な本願のお力にただただ感泣させられます。合掌、南無阿弥陀仏。

 …… 昨夜、執行申渡しを受けて約四十分程して田嶋先生が私の部屋を訪れて下さり、同じ部屋の中で先生と二人で三十分位話し合いました。その時先生が真先きに口にされたのは藤中さん本当に気の毒ですねと言われました。…… 先生の言葉で強く強く私の心を打ちましたことは「お子さん方が可哀想ですね。併し藤中さん心配しなさるな、出来る限りの激励をして上げます」と言われた事であります。私は心から感謝致しました。田嶋先生、今井先生に呉々も宜敷お礼を言って下さい。

(後略)

子供へ(前略)

 父は例へ死んでも父の生命は何時如何なる時でも孝一や孝幸の心の中に宿っているのですから父に会いたい時は御仏を念じ父を呼びなさい。そうすれば何時でも父ほ現われて来ますから。……

 以下は大切な事だから書いて行きます。刻々と時間が過ぎて行きますから父が忘れる事の出来ない可愛い孝一と孝幸に最後の言葉として最も強く残して置きたいのは、父は何故死んで逝かねばならないか?と言う事であります。…… そうした結果をもたらした原因は何でありましょうか、それは全世界人類がこぞって嫌ういまいましい戦争なのです。父は今となって上官の命令云々などと言う時間の余裕がありません。戦争さえ無かったら命令する人もなく父が処刑されるような事件も起らなかった筈です。そして戦場で幾千幾百万と言う多くの人が戦死もせず、またそり家族の人達が夫を、子を奪われ父を兄を弟を奪われて泣き悲しむ必要もなかったのです。だから父は孝一と孝幸に願って止まない事は如何なる事があっても「戦争は絶対反対」を生命のある限り、そして子にも孫にも叫んで頂くと共に全人類が挙って願う「世界永遠の平和のために」貢献して頂き度い事であります。

(後略)

 昭和二十五年四月六日午後七時三十分頃

 南無阿禰陀仏 此処も浄土なり

田口泰正

 北海道出身。元海軍少尉。昭和25年4月7日、巣鴨に於て刑死。

<わが最後の記録>

 私に対して絞首刑執行の期が急追した事ははや数日前よりわかっていた。最終審の結果が発表されたばかりか、その理由ではなく看守等の挙動からそれが充分に察知されたのである。それのみか筆には表現出来ないある予感があった。昨夜(四月四日)囚友W氏より死刑囚の死の予感に就て伺ったが、全く同様の事が私にもあった。霊感の不可思議を否定し得ない事を死に臨んでまざまざと体感した。

 この数日聞は何かしらいやな気持であった。全く平常通りであったとは断言出来ない。昭和二十三年三月中旬横浜の公判廷にて死刑を宣告されて以来二ヶ年余り仏道に精進して居たにもかかわらずこの様かと誰かに叱られるかも知れぬが事実なれば致し方もない。だがこのいやな気持の中に、否このいやな気持を超越した大きな諦観を持って居た事を私は断言出来る。だから特に溶着きを失う様なことは無かったのだと思う。これこそ如来の大智であり、大慈でなくて何であろう。要するに我が心に二面の活動があったわけである。幸なることには正見の面の方が強かった様である。

 さて遺品の整理も出来たし夕食後読経を終えて、しばらくしていると連行に来た。この時は既に特に動揺する様な事はなく、元気一杯同囚の人達に最後の別れの挨拶をして、緑地区独房に入る前に着ていた衣類全部脱ぎ他のものと交換する。房へ入ってカギをかけられ網扉の前に看守が二人立っている。早速この最後の日記を思いたち書き始める。……

 午後十時頃階下の房で当拘置所長より通訳を介して、罪状項目の決定及び絞首刑宣告を言い渡される。罪状項目に不閉の点があったので質問したが実に簡単な一文である。…… 私の絞首刑の執行は四月七日午前零時三十分頃と宣告された。あと二十有六時間の生命である。田嶋先生が隣室に来られたらしい。幕田氏の甲高い声が聞える。今は既に明るい気持である。煙草はキンシであるが、欲しい時一本宛差入れてくれるので、喫いつつ筆を運ばせている。一寸筆を休めて愚作三首、

明月の如く澄みたる心にてあと一昼夜の生命を思ふ(以下略)

 田嶋先生が私の房に来られて三十分許りお話した。際限なくお話したいが他の人達の都合もあり、田嶋先生の御健康のことも心配になる。この短い時間に家の祖父母、父母、弟のこと、私の心境から、最後の晩食の献立の事までお話してきた。日本酒にトンカツ、ハム、寿司、白身の刺身、果物として林檎を希望した。家族宛の最後の言葉は明日に書こう。最後の一夜をぐっすりと寝るのだ。

 明けて四月六日午前五時過ぎに起床した。口をすすぎ洗面して玻璃窓を開き、十五回程深呼吸する。外は春雨がけぶっている。実に静かな朝だ。…… 一夜を越した私の今の心境も寂かである。昨夜は床に入って直ぐは寝付かれなかった。二十有八年の生涯の思い出が走馬燈の如く脳裏を廻る。楽しい思い出も、苦しい思い出も既に皆懐しかった思い出として甦って来る。……

 午前九時頃、係将校二名に依り最後の指紋をとられた。左右両指各々五本全部のを二回繰り返す。大尉はラッキー一本私に与へて火をつけてくれた。…… 房にもどって十時半頃、大体遺書を書き終えた。今頃田嶋先生は五棟三階の囚友に釈尊の日にちなんで先週来の約束たりしレコードコンサートをやっていられる事であろう。…… あと十数時間後の寿命に迫った私も全く感慨無量なるものがある。変化流転の常に絶ゆるなき現実がまざまざと身に迫る。

 十一時頃外人牧師が二人来た。井上乙彦氏(上記参照)の処に行ったらしい。クリスチャンだから仏教徒たる私の処には寄らずに帰られた。一寸横になりかけたらはや昼食である。昼食の前に林檎一個づつ配給があったので食べかけたら昼食が来た。献立は色御飯(肉、人参入)スープ(ネギ入り)大根と玉ねぎの煮付、沢庵、ミカン缶詰に日本茶である。量が通常より多いので、とても食べきれない。……

 榎本氏が午前に作ったという短歌三首程朗詠す。仲々よい歌で拍手が起る。人が恋しい、何となく人が恋しい。榎本氏もきっと人が恋しいので短歌の朗読を始められたのであろう。…… 今の私なら数時間位一人でしゃべるかも知れない。先程誰か看守に他房訪問の許可を求めていたが担否された。人聞の心中にある普遍的な何ものかが斯様な衝動に駆り立てるのであろう。

朝な夕なにわが帰るを待ち給ふ父母弟よ最後の日の暮れ

 午後三時三十分頃田嶋先生が今日初めて来訪されて、遺品として髪及爪を切られる。 田嶋先生にお伺いした処、確実に田嶋先生が家宛に御届けされる由、安心する。午前、午後に亘って田嶋先生の法話があった為遅れられた由、早くも我等の処刑の報を知った既決の人達及び昨日まで一緒に暮していた人達より呉々もよろしくとの報を聞く。友等の一刻も早き出所と健康多幸を祈って止まない。……

 もうすぐ最後の晩餐だそうである。田嶋先生を中心に(死刑となる)七名一緒に出来る許可があった由、田嶋先生より伺って嬉しく思う。午後五時半頃より一時間程最後の晩餐をする。田嶋先生を中心にしてウイスキーを乾杯し御馳走をいただく。注文の通り寿司、トンカツ、マグロ刺身、味噌汁、コーヒーにりんご、梨の果物がついた。十二分に堪能して余興に入る。十分に酔う程アルコール分は体に廻らなかったが、相当よい気持で歌い始む。世界的名曲から流行歌、渋い処まで続出する。私の伊那節にて最後の晩餐会を終り、各人夫々の房に帰る。唯今の時間は午後六時三十分、あと六時間ほどの寿命である。間もなく田嶋先生が最後の訪問に来られるかもしれないので、わが生涯最後の日記もこれにて稿を閉じねばならぬかも知れぬ。

   辞世
 ひとすじに世界平和を祈りつつ円寂の地へいましゆくなり 泰正

 では日本よ、同胞よ、祖父母様、父母様、弟よ。御機嫌よろしう。左様奈良。

  昭和二十五年四月六日午後七時  田口泰正

注)田口は東京の水産講習所(現在の東京海洋大学)に席があったまま出陣した学徒兵である。なお田口たち7人の刑死から2ヶ月後、朝鮮戦争が勃発。巣鴨プリズンを管理していた米軍部隊が朝鮮に転戦。さらには講和条約発効の恩赦などによる減刑で、田口たちが戦犯としての最後の刑死者となる。

 —— 部下を守った司令官 ——

岡田 資

 東京都。陸軍大学卒業、元陸軍中将。昭和24年9月17日、巣鴨に於て刑死。59歳。

 注:岡田資(たすく)は中将として名古屋を含む東海地区の防衛を担任する第十三方面軍司令官だった。彼の容疑は捕虜虐殺であった。20年3月以来の名古屋地区の大空襲に際して、数回にわたって撃墜したB29の搭乗員27名(延べ38人とも)を、岡田は自らの命令で戦時重要犯として処刑した。戦後、岡田と現場で処刑に立ち会った部下の計19人はB級戦犯として起訴された。岡田は横浜の法廷で処刑に至る略式手続きの正当性と、米軍の名古屋地区への爆撃は無差別のものであり、搭乗員を戦争犯罪人として扱ったのは正しいと主張、しかし「部下が行なったすべてについて、唯一の責任者は司令官である私である」として自分一人を責任者として断罪すべきであるとの論を展開した。その毅然とした態度に、米国人弁護士だけでなく、米国人検事も「終身刑が相当である」とする岡田中将の死刑執行の免除に動いたというが、他の同種の裁判に比して例外は認められず死刑判決は覆ることなく、絞首刑による死刑となった。そして部下たちは減刑され重労働という罪で済んだ。以下は岡田がその裁判所での様子を始めとして遺書の代わりに客観的に書いたものの要約である。

<白雲>

 昭和廿三年五月十七日、判決を受ける為に十時に出廷したのだが、前日に於ける委員の意見が纏まらなかったからとて一日延期された。一方我々は当然の事をしているのに拘らず、巣鴨の住人は、知ると知らぬに関らず、絶大な後援を送って呉れた。あれやこれや一種の満足感に浸ったものか、判決延期など別に気にも掛らぬ。

 十八日法廷に入ると割合狭かった室は、外来客でそれとそ立錐の余地もない、私の定席の右側にフェザ・ストーン博士の夫人と令息らしいのが居る。私は和かな気持で無雑作に呼び掛け、博士の好意に満ちた大努力に対し心から感謝した。夫人は硬直した表情で「唯々神に祈る」意味を返した。…… 右にフェザ博士左に沢辺弁護士と併列して。巌かな声で、第一起訴項目有罪、第二項目等々、そして最後にハング(絞首刑)と結ばれた。

 終始委員の頭を凝視するともなく眺めて居たが、宣告の瞬間に心なしか委員等の瞳が動くのを見た。傍聴席から軽いざわめきの起るのを聞いた。…… 私は自らの胸に聞く、嬉しゃ具常はない。手先に一寸注意を集めて見る、別に震へて居ない。

 手錠を掛けられて退場した。…… 傍聴席に居た妻には出る間際に相当接近し得たので、一言「本望である」と云うた。…… 私の身体からは眼鏡、鉛筆等を取り上げられて、準備された別室に禁固された。一物もないコンクリートの部屋だ。高窓が只一つ中庭に向って開いている。…… 真綿をもぎった様な白雲が右から左へ、一片又一片、悠々と浮び流れて行く。此の様な落付いた気持は敗戦後始めてである。…… 静かに合掌して長い軍職の最後の幕を、恥も少く引く事を得させて戴いたのを感謝した。私の気持はすっかりあの白雲に没入した。

 其の時隣室に今一人入った事を感じたので非常に心配したが、大西参謀の無期重労働なる事を知ってから、いよいよ安心した。他は問題ではないからである。

 そうこうして居る内に、扉の細長い一線窓に色々の眼や挨拶の声が明滅する。すると珍しや米軍衛兵の一人で、終始我等と本裁判の往復を共にした青年が居る。「ゼネラル」、「ゼネラル」と鼻声で、そして後には暫く言葉も無く、うるむ二つの限のみ残る。私は徴笑もて軽くうなずくのみ。

 巣鴨帰りのパス内では先づ二十分許り居眠り、覚めて見ると(他の面々は)沈思瞑目、追憶放談や、色取々である。浮かぬ顔の某が思案頭、最後迄弱気で我等を困らせたものだ。…… 巣鴨には裏門から帰った。二十米程歩いた所で、私は左、一同は右と別れた。旧東海軍司令部も愈々之で真に解散である。「御苦労様だ。私の代りに若い諸君よ、元気に新時代に尽せよ。ではさようなら」、ほんとうに左様ならだ。

 第五棟の青年諸君に 九月十六日

一、昨夕はよく送って呉れました。賑やかに旅立ち致しました。

一、実は昨夕はねし寝苦しかったと白状します。

一、私への宣告はね、爆撃機搭乗員激励方策上己むを得ないこと、就中私は東海一軍唯一人の死刑ですから。

 諸君は比れから御自身を楽観的に見なさいよ。大丈夫だよ。

 本仏実在常住、生命は久遠です。

  絶筆 9月16日

 母様/温子殿/正雄/達子/博子

 此報を得たら皆は驚くことだろう。気の毒で堪まらぬ。けれどもこれは仏の授けられた最善の途だよ。もともと覚慣を定めて渦中へ飛び込み、すべての力とすべての人々の御蔭を以て思いのままに法廷をすませたのだから夫でよいのである。色々な情報の為に且つは私の積極的活動性の為に、…… 一寸慾を出したので軽き失望感を味うたが、何一夜の夢さ。

(中略)

 今次の様な民族国家の大変動にあつては個人の事なんかとても問題でない。況んや敗戦国の将軍では犠牲壇上に登るのが当然です。聊かのうらみもない。出来得たら次の大活動をと思うたが仏の御受用は遂にこの道であった。それを喜んで頂戴しよう。好きであった酒の為に度々そなたに迷惑かけたが、其他の公人生活は御蔭で志を伸べることが出来た。人生と日本軍の将領としての最後もこれで所謂有終の美と言えそうです。……

 私は戒名なんか不要です。仏縁により今生を得て働かせてもらった。其俗名こそ懐しけれ、何々院殿ではやりきれない。子供等もあれでは遠からず忘れるでしょう。髪とか爪とが私は残す必要を認めません。……こんな世に特に葬式法要一切不要です。お曼荼羅の前に写真や俗名を並べてくれたら夫で結構です。私はとくに仏の御受用を信念として居る身です。仏を離れては私は在りませぬ。此世に御都合なところに私は又法位を頂戴して働きます。私の生命ほ真に久遠です。業は正に不滅です。小なる自我を去れば我は大我である。すべてと一体である。即ち之亦永遠である。……

(以下略)

中国における刑死者

 —— 漢口における米軍捕虜虐殺事件 ——

 まず昭和19年11月25日ごろ、日本軍占領下の漢口(武漢)に対する米軍による爆撃時、日本軍に撃墜された米軍飛行士3名が戦闘機から脱出し、日本軍に捕えられた。12月16日、漢口の日本の第34軍司令部参謀部の命令で、憲兵隊は捕虜となっていた3名を街中に連れ出し、江戸時代のいわゆる「市中引き回し」を行った。途中、激昂した漢口市民らによっても飛行士は暴行を受け、夜になって郊外の火葬場近くに到着、命令により憲兵隊は捕虜3名を絞殺後、遺体を火葬場で焼いた。これを「漢口米軍飛行士虐殺事件」という。戦後になって米軍は実行した憲兵たちを戦犯として捕らえ、1946年4月、上海における裁判で5人が死刑に処された。ただし命令した上官のうち一名はうまく言い逃れて軽い罪で済み、そのほかはシベリア抑留中で逮捕できなかった等であったが、処刑された者のうち以下は藤井、鏑木、増井の3名の遺書である。

 なお、筆者が「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」で調べ、記述した範囲では、日本機が撃墜されて飛行士が脱出し、中国側に捕らえられた場合、このような日本兵に対する虐殺事件はほぼ見当たらない。ただし中国では戦犯裁判で死刑になった者に対し、市中引き回しを行なった例はあるようである。また米軍による爆撃を受けた日本の各地でも脱出した飛行士が捕らえられた中で、処刑・虐殺され例は少なくはないが、「市中引き回し」のような例は見当たらない。いずれにしろ米軍は日本占領後、日本で不明となった飛行士の行方を徹底的に調べ、それに関わった日本軍関係者はBC級戦犯としてGHQ占領軍による裁判を受け、その多くが処刑されている。

藤井 力

 徳島県出身。元農業、元憲兵准尉。昭和21年4月22日、上海に於て刑死。41歳。

<訣別の辞>(祖国よ栄あれ)

 皇国に生を享け縁ありて主従となり、同僚となりて相識りたる上官及諸賢各位に対し目前に死を控えたる我が心境を述べ、又祖国前途多難なる秋、諸賢に寄する我が願望を書き遺し以て訣別の辞となさん。

 漢口事件の内容概要及び当時の状態は諸賢已に承知のことならんを以て詳述を要せざるべし。然れども我等個人の意志を以て事を処したるに非らず。各々其の職掌に従い、命を畏み平常の如く任務を相果したるものにして唯々奉公の一念より他なし。「勝たば官軍敗れば賊」とは軍門の慣い、其の真相知る人ぞ知る。況や神明の照覧し給うあり。我今死に臨みて更に何をか云わんや。之天命の命のしからしむる所なり。然れども本事件の聖戦の真姿に印したる汚点を如何にせん。誰か之を償い清めざるベからざるなり。畏れ多くも聖慮を悩ましたる罪万死を以て謝せんのみ。我命を捧げ罪を謝し我赤血を以て汚点を雪ぐ、光栄武人の誉之に過ぎたるものなし。我賤しきを以て股肱となり、奉公十有三年戦場に相果つべかりしを武運拙きと云わんか、今日斯る最後を以て了らんとす。感懐なき能わずと臨も安んぜよ。今心己に澄みて鏡の如く生に対する執着なく現在の悲運を託し妄念更になし。

 ……

 惟うに祖国の前途幾多の苦難去来すべしと雖も、此の異変は神が祖国に対し反省せしめ民族及び世界の状態を熟慮再考せしめ、真に理想の世界の実現に新発足せしめんとする神機を与へ給いしにやあらん。復員し或は復員を前にする諸賢の任務や実に重且つ大なり。宜しく諸賢は眼前の小事悲境に意気消沈すること勿れ。或は茫然自失、心気転倒して節を失うこと勿れ。飽くまでも皇国民たるの自覚を根基とし深く世界の推移を達観し、修養以て自己完成に精進し、万民協力心魂を上に帰し奉り祖国の再挙に奮起せよ。

 然らば祖神の加護もあらむ。禍を転じて福となる可し。我等不幸にして罪を受け汚名に死せんも祖国を愛し、民族の幸福を願望する誠、信念に変りなし。身亡びて何をかなすべき。されば祖国の再興は諸賢に嘆願委嘱せんことあるのみ。夫れ国家の興隆は惟うに国民の心構えに存す。皇国民の踏む可き道は三千年来炳として明かなり。重ねて絶叫す。諸賢此の道を誤らず、一切を上に帰一し奉り臣道の大本を忘れず勇奮せられんことを。

 拙き筆紙我が心を現し得ざるを遺憾とするも、敢えて我が心境及び祖国再建に対する願を述べ諸賢の否同胞総ての健闘を祈り訣別の辞となす。

  昭和二十一年四月二十日 於上海 藤井 力

鏑木正隆

 広島市出身。陸軍大学校卒業、元陸軍少将。昭和21年4月22日、上海に於て刑死。49歳。

<手紙>

 2月28日、上海米軍公判に於て死刑の宣告を受く。意件は予が呂武集団参謀長として漢口在任中に起りし米軍俘虜に対する惨虐行為に関し責任を問われたものにして、事件の真相は茲に詳記せざるも、予個人としては俯仰天地に恥づる点なきを以って安心せられよ。本事件により聖戦の其意義に汚点を印し又多数将兵が重き処刑を受くるに至りしは断腸の至りにして、当時軍参謀長たりし予としては此の惨虐行為を未然に予防し得ざりし不明に対し責任の重大なるを痛感しあり。軍人生活二十数年戦場にて散るべかりし身を比の如き最後に終らんとは残念至極たり。然し総べて運命と諦めあり。

 みつ子には長い年月苦労のみさせ最後に比の憂き目を見せし事、真に申訳なし。特に多く子供を抱え、今後の苦労一入ならんと思えば感慨無量なり。然し其許にも覚悟はかねて出来て居るはず。比の期に及んで新たに申し残すことなし。健康に注意し悲境に屈せず、子供の養育に家運の隆興に健闘せよ。(以下は子供たちに残す言葉で略)

  昭和21年2月28日認 於上海監獄

<友宛て>

 冠省 昨年12月23日夕刻、突然巣鴨刑務所より上海監獄に護送せられ、君に通信することも出来ず今日に至る。本年2月11日より公判を上海監獄内にて開かれ2月28日死刑の宣告を受く。

 被告十八名中死刑は小生を合し五名、無期一名、二十年一名十五年と十二年各三名、他四名、無罪一名の極めて峻烈なるものなり。特に上官の命令により行動せし下士官兵多数重き処刑を受くるに至りしは気の毒至極にて断腸の思いあり。

 当時事件の中心人物たる泉中尉は満州にありて不参、憲兵分隊長服部中佐は自殺しあり、其他下士官中当時の状況を最もよく承知しある者一名は既に死亡しあり、一名は所在不明にて不参の状況下に公判は行わる。

 泉中尉不参の為小生の立場を立証し呉れる者なく為に検事は小生が本事件を計画し泉中尉に指示せるが如く誤断想像し求刑せらるる結果となれり。泉中尉の不参は残念至極なるも致し方なし。之も運命と諦めあり。特に多数の下士官兵が重き処刑受けたる事を思えば自分の罪など軽かれとも思われず、寧ろ当時の参謀長としての重責を痛感致し此の事件の惨虐性を未然に防ぎ得ざりし不明を歎するの外なし。

 本公判により敗戦の苦味を満喫せり。今は心静かに刑の執行の日を待ちつつあり。小生個人としての気分は極めて平静なり。御安心を乞う。

 茲に旧来の友情を衷心より深謝し君の御健昌を祈る。

<絶筆>

 愈々近く現世に別れを告げむとするに方り、皆様に対し本事件に就て御迷惑をお掛けせし事をお詫びし又従来の御懇情を衷心より御礼申上候。

 皆様の前途には幾多の苦難が横はる事と存じ忍苦御敢闘の程祈り上げ候、小生は贖罪自決の心算りにて最後の場に臨むべく、見苦しからぬ最後を遂げたく念願致居候、他の四名何れも立派な覚悟の様お見受け小生感激致居候。

  四月十九日 記鏑木正隆

  福本大佐殴/外御一同様

<遺詠>公判に臨むにあたり心境を述ぷ(一部)

 み戦の真(まこと)の姿汚したるしみ清めなん我が血潮もて

 我が責めは血もて償い今日よりはあまかけりづつ御国護らむ

増井昌三

 静岡県出身。静岡工業学校卒業。元憲兵曹長。昭和21年4月22日、上海に於て刑死。29歳。

<遺書>

御高恩を謝す御両親様江

 御両親様には老いたる身を以て異郷の地に在りし為、終戦後引揚其の他の苦労で相当御心配なされました事と案じます。昨今では内地に落着き、苦労の中にも壮健にて一日を楽しくお暮しの御事と存じます、と共にお悦び申上げます。さて就きましては昌三の身の上で御座いますが実に終戦に基く悲哀な運命が宿り驚くべき悲報を最横一筆として申上げます。

 ……

 私は飽くまで良心の牢獄と良心の罪は絶対負いません。昌三の行為は総て上司の命令に因る実行行為であります。軍隊統帥権に基く命令行為は事の良否を私達下級者が問う処ででなく、又否認する事も出来ず只服従以て絶対とするものでありますが、比の点国が異なる為了解出来ないのが何と申しても残念です。早や審判に因り事滋に至っては如何ともしがたく悔ゆる事はありませんが、家系の名が惜まれてなりません。最後にどうか昌三の死刑の罪状は自己白欲に困る犯罪とは全く違い総て軍隊に於ける命令行為なれば決して御両親様は世間に肩身を狭くする事はありません。国と国との事の端片が皮肉にも比の身にかったのであります。

 ……

 最後に昌三は正義に華々しく清く散り国の為、米軍飛行士三名の英霊に冥福を捧げると共に米軍当局に対し清く謝罪致します。尚申上げます。本事件に関係せる者の内、今華と散りゆく国家の犠牲者は鏑木少将閣下外四名のつわものです。一人逝く旅路でなく非常に賑やかな境遇です。私達は閣下を親として揃い勇んで居ります。あっぱれ武士道の錦を飾りますよ。(後略)

(筆者注:ここには珍しく「謝罪」という言葉が使われている)

 —— 南京事件関係 ——

 戦後、中国では二段階に分かれて戦犯に対する裁判が行われている。最初は蒋介石が率いる国民党政府による裁判で、南京、北京、上海、広州などにおいて行われた。しかしこの裁判の途中から国民党政府は中国共産党と内戦状態に入り、時間的余裕を持たず、昭和23年(1948)までで一通り終えているが、以下の遺書はそこまでである。しかしこの時点ではソ連が日本軍の多くをシベリアに抑留していて、捕えるべき日本軍将兵をそこから引き出すことができなかった。1949年、内戦で共産党が勝利し、1950年から共産党政府による裁判が始まり、その際、シベリアの抑留者から日本軍将兵の引き渡しを受け、その多くを遼寧省の撫順戦犯管理所に収容した。この中には戦後も中国に残り、国民政府軍に加担して共産党軍と戦った将兵もいたし、技術を請われて残った医者や民間人もいた。いずれにしてもこの撫順における裁判(調査)は数年以上かけて入念に行われ、事実上戦犯としての罪を問われても、それを率直に認め謝罪するという行いによって、ほぼすべての日本軍将兵が釈放され、帰国することができた。これは当時その所長であった周恩来の「悪いのは日本の軍国主義であって日本人ではない」という考え方に基づくもので、「撫順の奇蹟」と呼ばれた(筆者の「昭和12年:補遺」参照)。したがって『世紀の遺書』には撫順の戦犯裁判による死刑囚の遺書はない。

谷 寿夫

 東京都。隊軍大学卒業、元陸軍中将。昭和22年4月26日、南京(雨花台)に於て銃殺到。65歳。

<遺言状>

 今昭和二十二年四月二十六日死刑の執行を行われることと相成り茲に愈永遠の訣別と相成申侯。永年の間梅子は私に内助のカを尽し呉れ、誠に難有全幅の感謝を捧げ申上候。

 中国側の誤まれる認定の下に只今死刑執行せらるるは誠に遺憾に有之、将来私の無実の罪に死することが必ず判明することと確信候。

 然し私只一人のみが茲に訊問せられ遂に雨花台に刑死する最後の御奉公を完うせりと思われ、落胆せざる様祈り申侯。私のなき後はあなたは谷家一統の大黒柱となりて私の代りに長寿を完うせられんことを是れ祈り侯。何卒克己、廸孝の両君も梅子を助けられ度願上候。

……

 只今四月二十六日正午を以て永遠に御別れ致して行きます。何卒皆様の幸福を是れ析る。

 今迄私が正義に立脚して最後迄私の身体を保持して皆様と再開を楽しみにしていたが遂に中国側の了解する所ならずして滋に倒ることは誠に不本意千万なれども只運命です。何卒皆様は私が立派に日本男子として御国の為に最後を遂げたことに満足して下さい。……

 何事も運命です。六十六歳を最後として最後迄努めて誤まれる疑いを晴らさんことを之れ努力せしも遂に中国側に通ぜざるか残念此上なし。只一人最後の最後迄努力して来た甲斐もなく銃殺せらるること返す返すも残念に存侯。最愛の梅子よ、それでは永遠に左様なら!……

 筆者注:谷寿夫は、筆者が南京事件関係の資料を渉猟し調べた中で知り得た事実において、冤罪と断定でき、上記で谷が訴えている通りである。日中戦争開戦から南京事件に至るまで、松井石根が上海派遣軍司令官から転じて中支那方面軍司令官として侵攻作戦を指揮し、戦後A級戦犯として巣鴨で死刑となった。谷はその中で第六師団長であったが、攻略戦では主に南京城外の南方から西方で戦闘を繰り広げ、南京占領には関わらず、間もなく蕪湖に転戦している。実際に南京事件に深く関わっていたのは第十六師団長の中島今朝吾であるが、彼は終戦から数ヶ月で国内で病死していて、そのほかに虐殺に関わった首謀者もシベリアに抑留されるなどしていて、共産党との内戦を始めていた蒋介石国民党としては、早く誰かを血祭りに上げて決着させる必要があって、日本にいた谷を召喚して南京で裁いたのである。ただし、その後の日本において、谷寿夫を冤罪だとする論説は見当たらないが、逆にこの谷の戦歴だけを分析して「事件はなかった」として『南京事件の真実』という本にしている御用学者がいるから厄介である。それらの経緯は、筆者の「昭和12年」の稿の中の「虐殺に関わっていなかった第六師団」を参照されたい。あえて言えば「南京事件」は南京だけでなく、日本が侵略した中国全土で、しかも8年という長期の戦争期間の中で行われていることで、今の日本のわれわれは(ごく一部の研究者を除いて)その実態をほぼ知らないと言ってよく、「南京事件」だけに捉われて、あったのなかったのと言っていると、その全体の実態を矮小化することにほかならないことは知っておくべきである。

田中軍吉

 東京都。陸軍士官学校卒業。陸軍少佐(予備役として)終戦まで産業報国会青年部長。昭和23年1月28日、南京(雨花台)に於て刑死(銃殺刑)、42歳。

<遺書>

昭和二十二年十二月二十二日

 田中輝昭殿

 君が代は千代に八千代にさざれいしのいはをとなりて苔のむすまで

 是れが我が熱祷にして同時に信仰且絶対の賛歌なり。我身を以て之を祈り、信じ、且歌えり。一世を通じ之を行ぜんが為に学び、鍛へ、研み、戦えり。斯くて生き斯くて死せんとす。而して君が代と共に永世に生き永遠に亡びざるものなり。

「さざれ石の巌となりて」

とは自然現象上無理なる願いなり。されどこれを祈り、これを不動の信仰とするところに民族の希求と日本の悲願を見る。苦の苦行の真因を探し書を閉じ、学を超え、知に依らず、赤裸無心天地に対し、直指悟入せよ。星は教へ、月は語り、花は笑い、烏は讃えるであろう。これは奇蹟実現の待望であり、希求であり、気附かずして身に附くる日木の絶対不動の信仰である。……

 身の幸を思い、身の責めに慎め。我確信す。大君の「いはを」たりますを。

 筆者注:この遺書の内容からはまるで想像がつかないが、田中軍吉の罪の内容は南京における「300人斬り」である。南京では300人も殺していないとして彼の冤罪を言う人もいるが、ただ田中は南京事件に関わったというより、筆者の調べでは上海から南京へ転戦する過程で、逐一捉えた捕虜を試し斬りして行き、南京では多少その数が増えて「悲願三百人斬り」を達成したということで、本人も認めている事実である。ちなみに捕虜を試し斬りにした例が多かったのは、この日中戦争の当初から、捕虜は進軍の邪魔だとして内々に「捕虜はせぬ方針」が取られていた。つまり処分する、殺せということである。その流れの中で田中の行為も黙認されたのであろう。また別に「百人斬り競争」をした隊長二人も田中と一緒に銃殺刑になっている。これらについては筆者の「昭和12年」の稿の中の「百人斬り競争」を参照。

酒井 隆

 東京都。陸軍大学卒業、元陸軍中将。昭和21年9月13日、南京に於て銃殺刑、59歳。

(注:酒井は1934年=昭和9年から中国を転戦、1935年、支那駐屯軍参謀長、1937年、歩兵第23連隊長として南京攻略戦などに参加、1941年の太平洋戦争開戦時には香港攻略を指揮し英軍を降伏させた。南京軍事法廷で俘虜及び民間人の殺害・強姦の罪により死刑判決、南京雨花台で銃殺刑に処された)

<酒井菊枝殿>

 五月三十一日朝

 …… これによって中日がまことの道を歩くこととなり、日本を侵略と言われない道に出れば私の本願です。好ぎな中国で死んで私はよろこんで逝きます。…… 科学日本、復興日本の建設を祈ります。近隣と争わず人を傷めず温和に我も人も楽しく生きる文化とそ日本の道であるべきです。……今は世界が皆苦んで困っており、日本だけが苦しいのではありません。……

 精神的にも平静です。心臓も今は好調で弾雨のうちに死ななかったのが、これも致し方なし。軍人らしく誤解のうちに死にます。私はここの所長さん陳閣下も好きです。日本人がみんなこんな人だったら、こんな今までのような間違もなかったろうといつも思います。次の時代の人々、若い人々によって、ほんとに私の羨むような日本と中国との親善のできる日を祈っています。……

 —— その他中国各地において ——

相川清七

 青森県出身。青森県師範学校卒業、元海軍嘱託。昭和21年7月27日、広東(広州市)に於て病死、34歳。

<伝言>

 これまで八年間、国の為に一生けんめい尽して来たのに敗戦のためにこんな目に遇い、死んで行くのは遺憾だ。

宮地春吉

 静岡県出身。元憲兵軍曹。昭和21年10月21日、漢口に於て刑死。25歳。

<訣別の辞>

 現世に生を享け選ばれて国家の鋒となり中国の戦野に転戦すること数年、縁ありて憲兵となり漢陽憲兵分隊に職を奉じ、只管上司の命を謹み渾身以て戦務遂行につくしたるも戦我に利あらず大勅渙発せられて終戦の止むなきに至る。固より君国に身を捧ぐ。御馬前に死するは欲する処なるも国敗れて山河変じ、〇(一字不明)敗れて武夫の道絶ゆ、天何をか以て吾身を全うせしめんとす。

 吾人の泰斗は既に没せり。

 昭和20年11月29日、武漢地方法院にて拘留せられて以来、数次の訊問を受け同21年6月28日、軍事法廷に於て最後の弁論を為したり。然れども終に刀折れ矢弾は尽き果て、同年9月28日死刑の宣告を受くるに至る。軍人として戦場に桜花と散るは望む処なるも、終戦後の犠牲として、獄窓に消ゆるも又狂い桜の美あらん。

 遡りて本件は素より小生個人の意志に依り敢行したるものに非ず、大命を忖度して職責を完遂、国体を護持し東亜永遠の平和を確立併せて中国民衆の安居楽業と福祉増進並に治安確保の為、小を抹し大乗に基きたるものなるも之が戦争犯罪者として処理せらるとは。

  「人の将に死せんとするや謂う事やよし、鳥の将に死せんとするや鳴く声や悲し」とは古語に見えたり。極力之が実情を披瀝したるも及ばず。〇(不明)く我に不利となるに至る。然るに小生の弁論に対し審判機関の調査力徹底しありや否やは扨て置き、同僚中に於いて一、二の齟齬を見たるは実に遺憾に堪えず。一層片片たる身を狂い桜として散らん。 死刑の宣告を受け独房に繋がるに至りて更に心は平静を極め明鏡止水渺渺たる大洋に等し。

 雲もなき池に遊ぶか秋の月

 何の死を虞れん。花は散れども又開くの時あり。月は欠くるも又満つるの日あらん。正なる者は神明の照覧し給う所に依り再び蘇るの時あらん。我一度逝きて帰らざるも霊魂は必ず祖国再興の礎とならん。

 獄窓のわくらば故にちる人の誠の心知る人ぞなし
 ちる我はわらつてすめど故里のおいたる父母のすがたいたまし

 最後に自治会各位に対し被拘置以来の御洪恩を深謝すると共に一日も早く自由を回復せられ荒廃日本再建に御努力あらんことを願い訣別の辞とす。

 昭和21年10月20日 宮地春吉

木下尊祐

 東京都。南支憲兵隊所属、元憲兵大尉。昭和22年1月10日、広東に於て刑死。

<最後の手紙>

 本月五日死刑の判決を受く。

 裁判に非ず復讐なり。既に覚悟しありたる所なれば何等動ずる所なし。…… 身は監獄に在れど再審大赦等のこともあれば…… 悠々自適求道に邁進しつつ再起の日を期しあり。而も遂に生を完うするを得ざらんか之天命なり。……

田中政雄

 山口県出身。元憲兵准尉。昭和22年1月13日、中国済南に於て刑死。35歳。

<遺書>

 私は中国民衆に対しては民国三十一年(1942年)渡支以来同情と慈愛とを持って接して来た筈である。…… 然るに戦争と云う惨劇は相互間に多くの犠牲と誤解を招来した。我々は不幸軍門に降り日本は一切の発言権を失うに至った。慌しい終戦処理に希望を失いつつも大命を奉じて只管(ひたすら)恭順を披瀝した。殊に民衆と多分の関係を持つ憲兵は中国人より兎角の非難を受け一部の者は動揺した。かかる雰囲気裡に私が今日迄平然と済南に止まり、そして獄舎生活を送り得た根拠は私は中国民衆に怨恨関係がなかったからと云う一事であった。

 然るに戦犯として私と共に多くの憲兵が検挙せられた。誰もかれも何が戦犯に該当するのであろうかと中国側の措置を疑わざるを得なかった。其処で我々は憲兵に対する悪評が巷間に流布せられたる為民衆に対する手前上なされたる非常措置ならむと判断せり。…… 然し乍ら私は公務上派生したる傷害致死及傷害の故を以て起訴せられ更に予審に於て中国民一名を検挙農殺ぜりと追加せられたり。之が運命の裁か、そして又公正なる裁判制度?前後六回に亘る取調に当り私は日木軍人として誠意ある陳述を為す誓いをして法廷に立ったのである。…… 身は拘束せられ我々の上官が証人として採用されない現況に於て陳述の正当性を表現するものは却ち私の選んだコースではあるまいか、死は至誠の最高峰的表現である。之に代るべき何ものもないではないか。……

高橋久雄

 北海道出身。札幌工業学校常気科夜学部卒業。華北電信電話株式会社職員。

 元陸軍軍属。昭和22年1月15日、北京において刑死。38歳。

<遺書>

 故国の皆様御元気ですか。老いたる父母の身を想う時、今でも飛んで参り度き想いです。……

 勝てば官軍負ければ賊軍の習い此の結末は誰かが責任を担はわばならないのです。幸か不幸か此の責任を担う一人として華北電信電話株式会社社員数万の中より只一人中国第十一戦区戦犯拘置所に監禁せられる身となり去る四月二十日法廷にて裁きを受け二十七日には死刑の言い渡しがあるととに成ります。過去に於て只の四年仕事の為、民衆の為に私利私欲を離れ、献身的に昼夜の別なく誠意をもって働いた。勿論身の危険は申す迄もなく、私に協力してくれた中国の青年数名が斃れたる事を想う時、斯くあるべぎが当然とも考へ何事も諦めて居ります。事実なき事も良民殺害の罪名のもとに裁かれるのです。今となって何をか言はんやです。中国としても満洲事変以来私の如き境遇にあり泣いて死んで行った人達も大勢あったことでしょう。皆様何事も運命と思召しあきらめて下さい。他にまだまだ不幸な方々のあるを想い出して元気を出して下さい。……

 中国人にして日本に協力せる為漢奸として裁かれる人達もあります。私の大陸に於ける足跡は必ず遠からず中日親善となり表現せられる時の来るを望みます。中国とは今日迄不幸な関係にありましたが国民全部が民族愛に真心を以て第一歩より踏み出し交わられん事を願う。

 勝った時なれば死して靖国神社で面会も出来るのですが、もはや靖国の社は満員で戸締りの形でしょう。同じ運命にある三人秋田県人高見准尉、長野県人黒沢曹長と諮り乍ら花札をやっております。私達よりも先に既に四名死刑に処せられたる人もあります。

 …… 私の真意の程又聞く機会のある事を祈り皆様の長命を祈り先立つ前の遺書の筆を止めます。後は死して皆様のおそばへ参ります。……

  昭和二十一年四月二十二日 北京西単石碑胡同二号に於て

 辞世 —— 悠久の大義に生くる道にして我は逝くなり物思いもせず

山田通尉

 埼玉県出身。東京満蒙学校卒業、一等通訳。昭和22年7月22日、北京に於て刑死。26歳。

<遺言>

 戦犯に問われたるも仰天天地に恥づる事無し。唯々国力の及ばざる所、千歳の痛恨事たり。今異域に刑場の露と消ゆるとも是れ天の命ずる所、父上始め家族一同御健在に。遥尉より

 父山田花祐様

田中勇高

 北海道出身。元農業。元陸軍伍長。昭和22年7月26日、広東に於て刑死。31歳。

<遺書>

 …… 小生も戦犯にて終戦後泰(タイ)国に於て拘禁され泰国よりシンガポールを経て昨年十一月十五日に中国広東省戦犯拘留所に送還されて来ております。其の後は本年四月一二十二日初めて訊問を受け五月十六日、中国の告訴による事件で私にとっては事実無根の事であるが一方的に審判されました。小生も最善を尽して戦いしが何分一方的審判で死刑の判決を受け同日広東の第一監獄に収容、罪人とじて取扱われています。無根の罪により死刑の宣告を受け残念ですが運命と思っています。……

  昭和二十二年六月十二日

 父上様

石上 保

 北海道出身。元農業。元憲兵軍曹。昭和22年3月21日、北平(北京)に於て刑死。32歳。

<遺書>

 暫く御無沙汰して居りました。御家内一同御無事で御健闘のことと思って居ります。扨て保は終戦と共に戦犯者として北京に拘留されましたが、今度不幸にして山西省当時の公務(現地部隊に於て為されたもの)の責任を負わされ今日7月8日起訴書を受けましたが、おそらくは此の責任の下に死刑の宣告を受けて逝くかも知れません。顧みれば11年間遂に父母兄弟姉妹妻の顔も見ず逝くことは誠に残念です。これ程不幸なるものが世の中にありましょうか。毎日拘留所の中で親を思う心のみです。

 日本軍隊の最後も実にみじめなものでした。吾等の上級者として今日迄指揮して来た連中も終戦と共に責任を免れる為逃走したり或は部下たる兵卒、下級士官にその責任を負わしめ己は平然として帰国して行った。また帰国に際しては凡て虚偽の口説を残してその場をつくろって行った。こんな矛盾な指揮者は他にあろうか。日本精神の教育をして軍隊解散の最後の振舞はこんなことで終るのだろうか。このような軍隊の幹部の行動は死んでも忘れることの出来ないものとなって来ます。今どんな生活をして生きて居るやら、また生を世にする価値あるでしょうか。

 今北京の拘留所に戦犯として人質となって残って居る数百名は食糧、衣類に苦しんで毎日毎夜家畜的生活を過している。日本の侵略行為に対する中国の仇は今此の吾々数百名に肉体的苦痛となって遺憾なく示されているのです。己の一身は今此の地に散って行くのはいとわないが、来たるべき日本建設には嘗ての軍国主義者の策動は断じて許すべきものにあらざるを宣言したいのです。

 もしかするとこれが別れの言葉となるかも知れませんが保が不孝な子であったことに対しまして幾重にも御詫び申し上げます。何卒御許し下さい。幸にこの手紙も同郷のもので吉野君が居りましたから御依頼して置きました。吉野君から種々な話を聞いて下さい。若し保が再度内地の地に帰れる時があれば断然この残された人々の救済を最後の事業として遂行します。必ずやります。あまりにも無関心な政府の行為。上級者の行為は目に余ります。しかし駄目かも知れません。保は只一度親の顔を見たかった。親孝行をしたかった。ひたすら親から習った神仏への祈りを致して天命を待って居ります。故郷の山川が新にまぶたの裏を焼きます。妻貞子とも遂に華燭の典を挙げず申上げる言葉もありません。しかし彼女も不幸な女性だったことと彼女のあふるる厚意に只々感謝して居ります。最後に僕の比の意志を故郷の将来に充分活かして行くことを念願して置きます。

 では御両親様、兄弟姉妹、妻よさらば、永久にさらばかも知れません。

 昭和21年7月26日、於北京拘留所内 保より

故郷のご両親様/兄弟/姉妹/妻

中村三郎

 和歌山県出身。県立商業学校卒業。元厚生公司支配人。昭和22年4月21日、広東に於て刑死。36歳。

<遺書>

母上様

 三郎生を受けてより三十有六年、孝ならんと欲しては不孝、不孝の連続、誠に申訳なし。此の度は又御心配をかけて言葉もなし。

 祖国敗戦の犠牲たれば御寛恕被下度(くだされたく)。三郎としては恥ずべき事をした事もなければ、祖国を敗戦に導く様な事をした事もなし。只戦争完遂に’勝利へに全力を傾注せるのみ。日本人として、陛下の赤子として、中村家の一人として立派に堂々とやって来た事は万人の認めるところたり。今日戦犯なる罪名を冠せられている事はとるに足らず。

母上様、三郎は二十余才より君に忠、国に忠家を外に東奔西走せるも比の度血を以て尽す事となりました。御心配下さいますな。日本男子です。堂々と立派に死にます。

 母上様御安心被下度。三郎は法悦の境地で刑を受けます。戦犯として起訴されてよりの和歌、俳句は左に記しておきましたから御覧下さい。

 3月13日死刑の判決を受けて入獄2月22日、田中曹長死刑を執行され、3月28日、田中南支派遣軍司令官執行さる。4月4日には隣房の我が歌の師堀本大尉刑を執行さる。

 只願うらくは別便にて御願いせし小生「あとめ」の件をお願い致します。

 母上様の御健康を造かに祈りつつ

  4月11日 第一監獄 中村三郎

(以下は歌の一部)

ひたすらに唯ひたすらに祈るのみ 天皇(すめらみこと)の無窮の弥栄(さかえ)を
民草に大御心を垂れ給ふ かたじけなさに涙こぼるる

高谷巌水

 大阪府出身。元憲兵軍曹。昭和22年4月21日、広東に於て刑死。28歳。

<遺書>

御両親様お許へ

 巌水は求刑の如き刑を執行される事は絶対に有り得ぬと確信はしあるも最悪の場合を考慮し茲に巌水の言葉を書き遺します。

 抑々事件は巌水が関知せるものですが、取り調べ後に関しては全然関与してなく、然るに告訴人等は自分に復讐せんが為諸々と事件を捏造して巌水に其の刑責を問わんとしたのです。第一次判決に於いて身に覚えなき殺人罪を以て死刑を宣せられたのですが南京政府より再審の通知を受け審判を受けましたが亦々前後矛盾せる告訴人の言を其儘採用され原判決と同様の刑を宣せられました。(中略)

 何れ判決書内容を御知りになると思いますが何れも事実無根なのです。巌水は高谷家よりの初の軍人として決して家名を汚したる如き行為毫もなし。然し軍人として戦さの庭に死にたかったのです。平和の今日唯国基の護持に専念せし事が反対に罪となり冤罪に因り死ぬ事は残念なのです。(中略)

(筆者注:憲兵は占領地の監視役で、住民に対する様々な抑圧的行為の現場にいたから、憲兵というだけで冤罪は受けやすかった)

 辞世 —— われもまた醜のみ盾とかえりさく時機(とき)来りなば美事さかなん

沢 栄作

 東京都。陸軍士官学校卒業。元陸軍大佐。昭和22年6月25日、広東に於て銃殺刑。54歳。

<戦犯の歌>

  ……

大御心を只管(ひたすら)に/神慮と仰ぎ畏みて/一時の恥を忍びつつ
無念の局を結びけり/ここに憐れを止めしは/国敗れたる悲しみの
深き憂のその中に/凡有(あらゆる)自由奪われて/独り異域に残されて
獄舎に深く繋がれし/戦犯の様秦(かな)でんに/聞く人誰か泣かざらん

 ……

思えば永き戦場を/東に奔り西に行き/昼夜寒暑も何のその
唯只管に戦ひて/樹てし功の数々も/今は果敢なき夢と化し
独り獄舎に端座して/偲ぶ故国は三千里

 ……

月日変りて遂の日は/街の角々引き廻し
鬼畜の如き群集の/喚呼の中に鬼と化す
君のため/国の為にと戦いし/いくさ人らに/など科やある

 ……

心あるもの忘るなよ/戦敗れし其の陰に/無念の涙しのびつつ
祖国の万を伏拝み/国に殉ぜし戦犯を

吉田保男

 島根県出身、大社中学校卒業。元憲兵曹長。昭和22年11月14日、済南に於て刑死。28歳。

<中国兵の涙ー日誌の中より>

 七月二十三日火濯日曇一時小雨

 「もうこれで済南の市街も見納めだな」と無理に意識してみてもどうもピンと来ないのが不思議でした。何か知ら他人事の様で夢の様でした。たった今戦犯軍事法廷に呼び出されて死刑と有期徒刑八年を言い渡された時も何の「ショック」も受けなかったし、審判長の言い誤りか、自分で聞き間違えたのかと凝った程でした。……

 拘置所へ帰って足枷を嵌められた瞬間、之迄時々抱いた小さな不平不満がすっかり吹っ飛んで一寸した人の好意までが無性に有難く感ぜられるのも不思議です。広岡隊長が自分で白布を持って来て「君の様な立派な男をどうしてこんな目に会はせなきゃならんのかなあ、済まない済まない」とオロオロ声で言いながら足枷の金具に布地を巻いて貰った時は「こんなに優しい隊長がどうして憎まれようか」と思い有難く済まなさに声をあげて男泣きに泣きました。気がついたら剣著鉄砲で監視をしていた周囲の四五人の兵隊もみんなホロホロ涙を落して貰い泣きをして居りました。兵隊遠の親切も身に泌みます。……

 張と言う二十才になる学兵の如きは夜中にそっとやって来て「貴兄は立派な人だから逃がして上げ度い」と言うのでこちらが驚いて「有難う。有難う。逃げ度いとは思はないのだ。それに足枷を嵌めていては逃げられないよ」と笑って答えると「そんなもの釘一本で外せます。若し逃げたければ、そっと準備をして置きなさい。私が夜間立哨して居る時なら何時でも鍵を開けて上げます。貴兄の様な支那語の上手な人は一歩拘留所から出たら絶対に捕る事はありません」と言って泣き出しました。

 お父さん、お母さん、こんな学兵にどうして迷惑を掛けることが出来ましょう。此の事だけでも僕は支那人を憎まず、怨む事も出来ません。……

 八月二十五日 月隠日

 朝、笠原少佐の部屋で河村准尉の話が出た時、笠原少佐が「河村も足枷生活の間は悟りの境地に入って居たげど、やはり凡人だから其後はすっかり油断と安心してしまって本人にとっては不幸だった」……「あの悟り切った心境のままで置いてやり度かった。まあ君も気の毒だけど犠牲になって呉れ」と言われた。嫌な気持だった。諦めと云うものは他から強いられてするものではない。自分自身でいざという時の覚悟はして居る心算だのに、他から引導を渡すような事は言ってもらいたくない。… 冷いものしか受取れなかった。

 九月二十九日 月曜日 曇

 今日は月見の節句、中国流に言えば中秋節だ。以前此所に勤務したことのある陳という兵隊が派遣された先から帰されて来て房に遊びに来て面白いととを言った。「中国に没法子と云う言葉があるが素直に之を聞けば方法がない、仕方がないという意だけれども此の法子(方法)というのはお金の事である。方法即ちお金である。金さえあれば出来ないという事はないのだ。拘留された戦犯もお金を使った人達は皆無罪や不起訴になって帰国したではないか。鈴木、笠原、米倉をはじめ山岸、妹尾、芳川等みな死刑になるべき者が金のカで無罪となり不起訴になったではないか」と。…… だけど俺は悔いない。正しい道を進み堂々と戦ったのだ。「我神と共に在り」神は御存知なのだ。強い信念で最後まで頑張ろう。

 十月二日木曜日 晴

 角さん、園田さんの奥様、病院の桑原先生が朝面会に来られた。「此の度はおめでとうございます」と言うのが此人達の口から出た僕への挨拶であった。何のことか一寸僕には分らなかったが話の中で、僕に対する再審命令が国防部から出されたとか。何と言う幸運。夢のような話。若し再審がして貰えれば必ず何とかなるのだ。助かった。感慨無量。

 お父様 お母様

 今日の夢のような喜び … 助かったら… 必ず孝行します。一度死んだものですもの。死んだ気持でやれば何だって出来ます。……

 万一僕が数年の徒刑を言い渡されましたら仮令それが無期であろうと二十年であろうと必ず来年頃には帰国出来ます。何卒其の時まで元気でお待ちになって下さい。きっときっと此の不孝のつぐないを致します。万一無罪になった場合には此の一、二年現地に残り度いと思います。残って共に難を受けた諸先輩達、広田隊長等現地で服役される人遠の御世話をさせて頂きます。恵まれた僕、幸福な此の僕を祝福して下さい。神様にも厚く御礼を申し上げます。

 十月二日 保男

(注:この後、無残にも死刑が確定したようで、日誌は途絶えている)

大場金次

 静岡県出身。東京電機学校卒業。元憲兵大尉。昭和23年6月24日、上海に於て刑死、39歳。

<遺書>

 我が独子憲次に贈る遺書(独子:孤児となってしまうわが子)

 此の遺書が無事東の海を越えて我子の許に到り其目的を達する事が出来ます様中国官憲の方々、同胞の皆様に御尽力を御願いします。私にとって霊魂であり我子にとっては光であり道であり生命の糧であります。

 此書は幸福に生れ不幸に育つ汝の身に幸多からん事を念じつゝ、中華民霞上海提藍橋監獄死刑囚監房内に在って数回に亘り分綴せる遺書なり。……

 十九年八月汝等を岩国に残したる儘、命を得て中国に派遣せられ古来日本と縁故深き浙江省寧波憲兵分隊長として一歳、此の間祖国戦災の報頻々たり。父は岩国市の安全を深く信じ日夜汝等の平和を祈りしに図らずも終戦の前日一家悲運に見舞わるとは(注:8月14日の岩国空襲による)。…… ああ何たる事ぞ、然れども天佑なる哉、汝一人微傷だも無く生き残るとは、…… 真に九死一生とは汝の事ならん。父は悲報に接しひたすら亡き五名の霊を弔い汝の孤独を医さんと早期帰国を日夜中国の俘虜集中営に祈りし に、第二の不運は之を許さず。…… 汝や故郷の事を案じつゝ罪科の晴るゝを待つ事一年有半、…… 四月十九日極刑の判決を宣せらる。第三最後の不幸父と汝とに下れり。……

 父が不幸にも処刑されるに至った根本原因は「敗戦」の二学に尽きる。事案の内容は関係記録を閲読せば略々判明せん。但し部下の言を飽迄も深く信ずる父には其真相は不明なり。…… 希くば吾等の如く数多の犠牲死が将来人類の平和の為、役立つ事を祈るのみである。汝安心せよ、父は苦しくもなく残念でもない。忠節の人道を守り人事を尽して天命に従った迄である。

 思えば昭和十九年八月二日岩国駅より征途に就く日、汝は隣家の嬬人に抱かれてニコニコ笑い乍ら大勢の見送人に和して両手を振って送って呉れた。あれが最後であった。父の性絡は軍人殊に殺伐たる戦場に在っても個人としては勇敢尽忠の精神を発揮し得たが、部下に対しては其の善を信じ寛に失した憾あり。然し其の反面部下を一人も傷つけることなく無事復員せしめ得た事は満足であり最後の奉公であり使命を完遂し得たと確信する。

 —— 英国領香港において ——

中島徳造

 長野県出身。青年学校本科卒業、憲兵軍曹。昭和23年3月9目、香港に於て刑死。30歳。

<遺書>

 御両親様、悲観しないで下さい。悲は軍人として幾度か死地を越えて来ました。八年余りの軍人生活は死生を超越せる道義に立脚した真の人間性の修養をして来ました。生あるものは総べて死すべき時期が来ます。私も華々しい散り方を希んで来ましたが遂にその時期に恵まれず現在に到りました。徳造は人間として浩然の気に生き正義心に強く感情にもろい男でありました。今刑死するは人類最大の破廉恥を犯した如く田舎の御両親を始め思われるかも知れませんが、払は俯仰天地に愧じるが如き行為は絶対に有りませんから信じて御安心下さい。……

 私が判決後最も苦しんだのは此の状態を家族に何んと云って知らせようかと云うことでした。勿論怠自身と致しましては死は少しも恐しく思つては居りません。「生ある者は死す」これは只諺ではなく現実なです。然し乍ら最後に脳裏に浮んだものが閉治維新の志士、吉田松陰が最後に詠んだ歌です。

 親思ふ心に勝る親心今日のおとずれ何と聞くらむ

 …… 子思う親心程苦しいものはない事を私は痛感致し苦しんだのです。人間と云うものは死期が迫ると幼き頃の童心に帰ります。純真の精神になります。……

(以下略)

<日記> 2月11日

 今日は紀元節である。ありし日の今日を憶えば懐かしい。敗れし今日は又悲しい。… 昨日は又旧暦の正月であった。南支方面に於ては正月行事は旧暦を以て行っている。昭和十四年以降八回の正月を此の地南支に於て自分は迎えた。深い思い出である。昭和十三年の正月を家で迎えたのみ、後は殆んど異国の正月であった。昭和二十二年には久し振りで故郷の正月を味った。又二十三年には獄舎の正月と人生の凡有る正月を迎えて来た。両親や弟妹の事が思い出されて我が胸中は苦しい。(注:一度昭和22年には故郷で正月をというのは、一旦日本に帰還していたが、戦犯として英国軍により香港に召喚されたということである)

松本長三郎

 東京都出身。早稲田大学卒業、陸軍中尉。昭和21年7月30日、香港に於て刑死。27歳。

<最後の別離に際して部下に残した教訓>

一、責任有る立場に立つ時はよくよく考慮して物事に当り処置せよ。

二、自己の生命財産を尊重すると共に他人の生命財産を尊重せよ。

 最後に部下一同も不幸であった。一日も早く刑を終りて帰国せられん事を祈る。

<伝言> 母を忍びて

 戦犯の汚名をきて死するのであったら過ぐる戦闘に戦死していたらどんなに母が喜んで呉れたろう。誠に申し訳ない、不幸をして済まなかった。

岩崎吉穂

 島根県出身。鳥取高等農林学校卒業。元教職員。陸軍大尉。昭和23年10月1日、香港に於て刑死。29歳。

<日記より抜粋 >

 4月27日

 うまくやって戦犯を逃れた者の話。内地での沢山の逃亡者の話が出た。「何故に君は逃げなかったか?」と問われて返答の仕方がない。私の不注意だったのだろうか現実に此処に居る事は神に導かれて此処にきたのではないか。妙に悲しく淋しい日。故郷への追憶と親しい人達への慕わしさ。慾念と生への執着。清算しきれない人の醜い姿は之だ。

 神の認識と呂田仰の確立の為め設けられた神の愛む場所であり、時である……と悟れないのか。

 …… 過去の私の仕事は決して私自身の理性に忠実ではなかった。自由の意志と選択性を与えられ、而ものうのうと其の機を過した愚かな自分が恥しい。自ら求めた運命でもあろう。然し神を識る機会を与えられた此の最後の好機は絶対に遁し得ない。却ってよい過程にあるのではなかろうか。……

 5月10日

 弁護士二回目の面会、K、Oの意見対立。共に言い分はあろう。だが然し当時絶対の権威者たりしKが単なる司令部勤務令や通牒の文句を引用して責任を逃れていることは明白。K、Oのいきり立つ論争を独りで静かにきく。其処に敗戦の悲愁が滲み出て来る。…… 日本人同士はまた互に自己の弁明のため他を非難し合う。同胞相食む悲しい明暮、人々は節操も道義もかつての誇りも何者をも掲げうって恥とせずも自己のためには僅かな有利の点をも求め日夜汲々たる様相は正に餓鬼道であ
ろうか。……

 5月12日

 第三回目、弁護士面会。弁護士より K参謀に重大決意を促し部下の全責任を負うべくすすめたるところ、氏は自分に責任なき事及馬淵参謀長に責任あり馬淵氏を証人として喚問する如く極力主張す。全く責任を逃るる事に汲々とす。而も私に対しては昔と同様威圧的なり。O氏は私に対して割合理解ある態度を示し現場に於ける責任を凡て私に転嫁せるは唯部下を助ける為めなる事を名言し私との協調を約す。然し彼も狸、すべては天なる神の知らるる所なり。加納君と小浜氏の激励と愛とが唯一の温さなり。誠意敢闘せん。……

 5月21日

 祖国の人よきけ!

 この様なことが南方の地で行われつつあるとは祖国で知る人はあるまい。同じ目的で戦って来た日本人であるのに。

 5月21日

 K、O、私、三人の公判今日開始さる。形式的な人の世の審き、何ぞ怖るるに足らんや。運命は只天主の知り給う所。与へらるる理性と力とを以て雄々しく闘うのみ。小浜君等三名共に死刑の悲報を受け、誠に気の毒に耐えず。

 6月14日

 早く死刑にしてほしいと言う話、何を食って死にたいと言う話、…… 戦争が起らんかと願う人達。……

 6月30日

 生きる望みのはてしない夢を追う。生きたい、再び祖国へ帰りたい、そうしたはかない望みを捨て去ることは最後までできないであろうか。…… それは私達の希望とか予想とかに関係なく導かれつつあるのであるけれども運命というものは凡ゆるものを超越して私達を其処へ引きずり込むのだ。

 7月14日

 判決言渡の日とて緊張して出廷する。O氏無罪を判決され呆然たり。首が危いと心配していたのに妙なことである。Kと私は有罪、判決は明日に延期。O氏が無罪なら我々二人は当然絞首刑と相場が定っている。遺書をO氏に託す。(翌日絞首刑の判決)

 8月17日

 一入尽忠報国の念をもやし只管(ひたすら)祖国のよき楯たらんとし上官の命に服せし者が死刑となる。神として身を捧げた我一等の天皇陛下は結局我等を足台として生命を全うせられた。死を賭して守らんとした祖国は吾々を裏切った。そうであるにしても今以て天皇陛下を尊敬し祖国を愛し続けている日本人たる血と自愛との矛盾交々至る。然し此処に一線を劃されるのはキリストへの信仰である。……私を死に導いた諸々の事、生きたい欲望と人への愛。主への信仰、憎悪と悪慾と信仰、それは夫々の強さを以て私に迫る「何故に生きたいのか」と反問する。……「永遠の生命」への希求は結局自分への言い分ではないか。……

 9月2日

(刑務所の一階は死刑の判決を受けた者や所内で罰を受けた者、二階は死刑確定者であった)二階の支那人二人は次週火曜に執行と知る。やがて我々も同じ麻縄で人生を終るのだ。支那人の中でも珍しく可愛らしい「タンジヤイ」と呼ぶ少年がいた。筆談をしたいと身体をすり寄せて来た人なつこい子、其の子が来週はもう此の世から消える。死の家に居る者達が去って行くのは淋しい事だ。其の子は無実の罪だと言っていた。可哀想な子よ。安らかに行けと祈る。俺も近く行くのだ。

 9月3日

 加納君と談笑していたら「嬉しそうな顔はよせ」と看守に叱られた。笑っちやいかんそうだ。

 9月7日

 支那人囚二名死刑執行。偉そうな白人が視察に来る。我々を動物のようにじろじろ見乍ら … 吾等四名最後迄日本人として堂々たる態度を示そうと申合す。但しK氏は別だった。…… 加納氏の死も近い。然し平然と談笑して居る。……

 私達の裁判は正義の名の下に行われた。係官は聖書に誓って神聖なる裁判を宣告した。しかしそれは正しい裁きであったか。自から基督者を以て任じ神の前に正義を誓った彼等こそ最も神を冒瀆するものであることを身を以て知らさた。其は唯日本人に対する報復手段である外何物でもない。私は上官の命令で瓦斯実験を行った。しかも其人は死んでいない。憲兵隊に依り殺されたものである。それにも不拘命令者と私は死刑、憲兵隊長は無罪、妙な具合だと思った。然しその理由は分った。憲兵隊長は帰国の時、呉で和蘭(オランダ)軍に拘引された。即ち殺人当事者の憲兵隊長は和蘭軍で身柄が入用なのだった。私は彼の罪をも負はされて濠軍の方針である二人の死刑者に充当された。この裁判では何名死刑者を取ろうとの方針通り退屈極まる時間潰しの裁判を行った。最大の流血鬼彼等への審判は神によって行われる。…… その終りの時一日も早く彼等の手を脱して神の前に出たい。日本国民には自らの楯として戦場に送った人達が今自ら降伏した国民に見放され乍ら獄死する我々の苦悩が分るかしら。我等の犠牲の上に生命を全うしている天皇及全ての国民はその家族以外戦犯者なるものを忘れているのであろうか。

 9月20日

 本日死刑確定。愈々死の道行き定まり却って平静となる。判決後六十五日予定よりは二十五日許の早し、然しそれもよからん、三十一年の生活を罪人として閉づるは断腸の思いなるも今は只何事も言わず只管(ひたすら)主の御胸にすべてを委すのみ。「アジア」同胞の日本人に対する友情を謝す。我生命は残り一週間。

 9月21日

 人は死に臨んで凡てのものが愛されてならぬ。この絶対の愛を裁きを受けずして持ち得たならばと残念なり。誰も怨むことなく後事は兄にまかせて心軽く勇んで主の招きに応ぜん。そはキリストの約束を固く信ずるが故に。……

祖国日本!その思いは絶えず去来しありて脳裏をはなれず、禁絶の筆を秘かに借りて認め残す。絞首刑室は隣りにあり。三十一年の生活を思えば涙をもよおすも凡ては信仰に捧げん。祖国よ栄えあれ。

 9月24日

 午前三時過ぎ馴染の看守が起す。最後の日だから起きて話せと云う。近藤氏も起上って扉越しに会話を始む。香港はもう秋だ。周囲はしーんと静まり秋の早朝は淋しさを誘う。あと一時間、二時間半と生涯の残りの時を測りつつ静かに待つ。六時朝食、ミルクの上等だ。周囲は逐次騒しくなる。時は次第に近づいて来たのだ。自動車が来て止ったのは七時二十分前、最後の祈りを済ませて準備を整へる。ズボンのずり落ちぬようにシャツをとって帯にする。処刑室は多くの人の出入りで騒々しい。七時所長以下臨席者が来たのであろうか、多勢の足音がする。ついで近藤氏の室の前で止った。「迎へに来たよ!一足お先へ」と彼は言う。重々しい鍵の音、私の室の木の麗がとじられた「最後に言い残すことはないか」と所長が問う。近藤氏は「色々世話になった事を感謝する」と言った。直ちに扉から出されて処刑室に行く。二分も置かずして「ガチャーン」という鈍い重い音がする。近藤氏が昇天したのだ。

 臨席者の立退る音、次は俺だ、又坐り直して聖書を開く。あと廿分を経ずして人生を終ると思えば万感満ちて苦悩と淋しさと言い知れぬ恐怖を感ずる。之はどうした事であらう。主に凡てを委ねて「永遠の生命」を喜んで待ち受ける身ではなかったか。吾が心を励まし主の祈りを繰返す。…… もう来る筈だ。然し間もなく周囲は静かになる。八時十分階下が騒々しい。其の内に白人看守が上って来た。「俺は今日ではないのか」ときくと「違う」との答に意外の感がする。……「主の御意は私に今少しの信仰の時を与えられた」……

 9月25日

 昨夜は快適に熟睡をとる事が出来た。心は静かに返る。来週火曜処刑されるのであろう。

 (註:この日の手記を最後に昭和23年10月1日、処刑された)

東南アジアにおける刑死者

 —— 泰緬鉄道捕虜虐待事件 ——

 太平洋戦争中の1942年から1943年にかけて、日本軍はタイとイギリス領ビルマ(現・ミャンマー)間約415kmの軍用鉄道建設を敢行し、その建設に連合軍の捕虜(主にタイの収容所)やアジア人労働者を大量動員し強制労働させた。動員数は現地アジア人労働者が約20−30万人、連合軍の捕虜(主に英豪蘭軍)が約6万2千−5千人とされ、この泰緬鉄道の建設約1年4ヶ月の期間中に、約1万数千人の連合軍の捕虜が、飢餓と疾病と虐待のために死亡した(ほぼ4、5人に1人)。これは極めて短期間に険しい山岳地帯と密林を切り開くという過酷な工事が進められた結果である。このため戦後の1946年10月、英豪軍は捕虜に対する国際法違反として建設を強行した日本軍と管理者たちを起訴した。その結果日本人将校以下66人、朝鮮人軍属29人が戦犯として収容され、そのうち、日本人27人、朝鮮人8人が絞首刑に処せられた。

 一方でアジア人労働者の死亡数は、約4万人−7万人と推定されているが(アジア人に対する裁判は行われていない)、この曖昧さこそが日本軍の無謀な工事とずさんな管理が行われていた証となっている(ソ連によるシベリア抑留者の強制労働の死亡数ですらこれほど大きな落差はない)。

 結果的にこの戦犯裁判では、下級者に重く、司令官に軽いという傾向があるとして、英国本国でも問題視された。事実、この工事を強行したのは日本の大本営であり、鉄道関係の司令官も有期刑で済み、死刑の大半は捕虜収容所の監督者たちで、なかでも軍属として現場で雇用されていた朝鮮人8人が絞首刑とは気の毒である(後述の「台湾・朝鮮人軍属の刑死者」参照)。

 なお、この日本軍の泰緬鉄道建設は、ビルマ経由の援蒋ルート(米軍の蒋介石中国軍への物資援助のためのルート)を遮断し、この後に計画されたインパール作戦を成功させるためともあり、翌年開始されたインパール作戦は日本軍における最大の無謀な作戦とも言われ、参加した日本軍に約9万人のうち約3万人以上が死亡している。

水谷藤太郎

 宇都宮市。陸軍士官学校卒業。陸軍少佐。昭和21年11月22日、シンガポール・チャンギに於て刑死。61歳。

<遺書>

 敗戦の犠牲として死刑の宣告を受け、刑務所に於て絞首台上の露と消えるのは残念なり。然し是れは個人的の考えにて亦誠に巴むを得ざるものあり。…… 予は妻子に対し面目なきを如何にせん。多謝多謝。最後に家族近親の幸福を祈る。

<収容日記>

 昭和二十年九月二十四日泰(タイ)国盤谷(バンコク)バンアン刑務所に戦争犯罪者の一人として収容せらる。昭和二十一年三月十三日シンガポール・チャンギー刑務所に移送せらる。収容後は一回の取調べもなくも五月十七日軍法会議の公判を開始せられ奮闘努めしも遂に六月六日死刑の判決に接す。理由は泰緬鉄道建設中数千の俘虜を管理する収容所長として多くの俘虜が衣食住の不十分より数千の病者を出し次から次へと死去せしめたるは人道に悖りたる行為として国際法に違反したると言うに在り。理由は何とでも附け得ベし。洵に己むを得ざるものあり。…… 勿論万蔵を三唱し元気に旅立せしものなるは此の点喜んでくれ。…… こんな刑務所に未糠はないが昨夜の御馳走が心に残る。

  昭和二十一年十一月二十二日

臼杵喜司穏

 北海道。元陸軍中尉(第2分所分遣所長)。昭和21年11月22日、シンガポール・チャンギに於て刑死。28歳。

<遺書>

 昭和二十一年八月二十二日「シンガポール」戦争犯罪裁判の結果死刑を判決せられ、同年十一月二十日死刑決定の報に接し今月二十二日執行せらるることとなりました。抑留起訴の内容はかの世紀の鉄道泰緬線建設に於て俘虜を虐待し多数死者を生ぜしめたとの理由によるものであります。当時私は泰俘虜収容所第四分所長として泰国の人跡未踏なるジャングル内に約五千名の英濠俘虜を管理しつつ鉄道建設作業に従事していたものであります。然し該地に於ける当時の状況は第一に鉄道建設作業の速建を叫ばれ之れに全力を集中すべく命ぜられ従って俘虜の労力は最大限に要求されてゐたのです。第二に設営地附近は大ジャングル地帯にして輸送機関の運転にも困難を生じ且環境の悪き為、患者続出という非常に不利な悪条件下に於て滅私奉公任務完遂に突進すると共に分遺所諸設の改善合理化に努力して来たのでした。勿論建設作業完成の凱歌を表する迄には斯る悪条件にあったが為多数の尊号犠牲を生じたととは止むを得なかったことであります。決して個人的虐待の結果斯る事態に立ち至ったのではありません。……

 今刑の執行を前にして往時を回顧して筆をとっているのですが死しても悔は残りません。常に誠を以て統帥の大権を承行して来たのです。不幸にして刑場の露と消ゆるも是れ大君の命なりと諦め潔く散らんと欲しております。……

 母上様、息子は大日本帝国の為大君の為尽すべきを尽し今此処に従容として父上の待つ泉国へと旅立ちます。どうぞ御安心下さい。…… 母上様の御幸還を祈りつつ愚息二十八年の生涯を終ります。左様なら。

チャンギ 1刑務所に於て

  昭和二十一年十一月二十二日執行前

弘田栄治

 和歌山県出身。和歌山県箕島商業学校卒業。陸軍大尉(鉄道第9連隊小隊長)。昭和22年1月21日、シンガポール・チャンギに於て刑死。28歳。

<最後の手紙>

 皆様に最後の御便り申上げます。栄治は皇国の臣民として昭和二十一年九月二十一日「シンガポール」の第一号法廷に於て戦争犯罪人として絞首刑を宣告されました。それは泰緬線の「ヒントク」という処で作業指揮をしていた頃の事で此の地区の多数の俘虜が死亡した。それは作業の為で其の責任者は私であるということからで、三ヶ月聞に七十名程がマラリヤ、コレラ、胃腸疾患で死亡している、某の報復を私一名に課したのである。私の部下は既に無事帰国している。御安心を願う。

 栄治は当時少尉でした。馬来(マレー)作戦を終えビルマへそれから泰緬線の建設へと転戦を重ね作業にも兵力の運用にも精慣れて来た時分であった。そして誠心を以て部下と共に、千古斧鉞を入れざる原始林に闘争を続け、雨季と悪疫に侵され、言語に絶する死闘でした。命ただ奉ずるという一言にして誠心の闘いでした。今までの栄治の戦歴をかえりみて最も戦争をしているという感じと御国働いていると思ったのは此の頃のことであります。…… 此処で極刑になるのであります。…… 唯父上 、姉上、祖母様より先に逝く事を御許し願いたい。

 …… 以上の事情のもとに栄治は悠久の大義に生きて行きます。否栄治のみではありません。此のチャンギーの絞首台に祖国の万蔵を絶叫しつつ散った人々は皆祖国の礎石となって残る国民を信じて立派に安心して逝くのです。……

 明日もニ名銃殺されます。哀歌が庭から聞えます。後から逝くぞと見送っています。—— 見送るも逝くも祖国の春を待つ

 ……

 昭和二十一年十一月二十二日九名逝く

<遺書>

 前略愈々確定が参りました。静かに母のもとへ参ります。遺言既に届いている事と思うから今夏何も書くことがない。敗戦、地震、栄治の死と内外多事多端の日々お察し申上げます。しかし栄治は生きて泰坊、昌坊を導きましょう。

 万歳、これが栄治の最後の言葉です。…… 栄治の五体は健全です。心は爽快です。只今より静かに母のもとに参ります。

星 愛喜

 東京都。東京高等師範学校卒業。武道師範、陸軍大尉。昭和22年2月25日、シンガポール・チャンギに於て刑死。49歳。

<遺書>(妻へ)

 …… 昭和十七年八月二十一日釜山埠頭でお別れしてから四年有半になりますが、片時だってお前達のことは忘れた事がありません。…… 終戦後間もなく昭和二十年九月二十四日泰俘虜収容所職員全員盤谷郊外バンアン刑務所に収容されました。当時非常に俘虜の受けがよかったので罪を受けることなどは夢想だにしていませんでした。アメリカの取調官の或る大佐などは君は俘虜を正遇してくれたそうで多くの俘虜達は皆感謝している。君を釈放して貰う様英国側に交渉中だとさえ云われました。二十一年四月十九日チャンギーに護送されることになったので意外に思いましたが収容所職員全員送られたので気にも止めずにいました。突然七月二十四日、泰緬鉄道建設に従事せるピルマ側収容所職員十五名が起訴されました。そうして濠洲法廷で裁判を受けることになりました。起訴状を受取った時余りにも誇張して書かれているので責任上覚悟せねばなりませんでしたが、星は直接虐待の出来る様な男ではないと書かれていましたので一縷の望は持っていました。当時死の泰緬線と云う題で物凄く新聞で宣伝され法廷に立つ者は次から次と死刑の宣告を受けた様な状況でしたので一同観念していました。…… 千古斧鉞を加えざる密林重畳たるジャングル地帯に追い込まれ豪雨、泥濘、糧秣途絶し悪疫猖獗せる悪状況下にあの世紀の大偉業を果さねばならぬ任務を帯びていた為に相当の犠牲者は免れなかった訳です。…… 敵の立場としては無理もない事と思いますが結局悲が運が悪かったわけです。

 …… ピルマ時代のキャンプコマンダーラムセ中佐以下四名の将校が私の減刑嘆願書を出してくれたそうですから当然減刑されるものと自他共に信じて居りましたが、濠洲側は一人の減刑者も出さず処刑することになりました。…… 僻仰天地に愧じざる自分の行為を思う時明鏡止水、心気和平、心海波静かです。生命は生を知って死を知らず。私は決して死滅すると考えていません。必ず忠義の鬼となって、極天皇基を守り長く魂説を留めて君達を守護することを信じて貰い度い。…… 明二月二十五日午前九時昇天する一行は十名だ。特に遺言することもない。三人の子供の母として最後迄頑張って戴き度い。…… (昭和二十二年二月二十四日午後一時)

 壮行会を賑々しくやっている。では御機嫌よう。皆様によろしく。

 —— マレー・シンガポールにおいて ——

木村久夫

 大阪府。京都大学経済学部出身。元陸軍上等兵。昭和21年5月23日、シンガポール・チャンギに於て刑死。28歳。(注:木村は在学中に応召した学徒兵である)

<遺書>

 父宛

 此度は御先に失礼することになりました。生前の不孝を御許し下さい。何等報ゆることなく誠に残念であります。

 一、妹をできるだけ早く結婚させてください。

 二、私の所有の書籍を私の出身の高等学校に寄贈して下さい。

 三、私の死に落胆せず、一家平和に朗らかに暮らして下さることを祈ります。

 四、私は学者として立っていく途中一冊の著書をも作り上げる分際に至らずして死んでゆくことは大変遺憾に思って居ります。

<辞世>

 みんなみの露と消えゆく命もて朝がゆすする心かなしも
 朝がゆをすすりつつ思ふ故郷の父よ許せよ母よなげくな
 友のゆく読経の声をききながらわれのゆく日を指折りて待つ
 指をかみ涙流して遙かなる父母に祈りぬさらばさらばと

(処刑前夜)

 風も凪ぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でなむ

 注)これとは別に、木村の遺稿は『きけ わだつみのこえ』に掲載されている。彼の戦犯としての罪は、終戦間近の1945年7月、インド洋上のカーニコバル島において、イギリス軍から艦砲射撃を受け、当地の日本軍守備隊はスパイがいるといううわさをもとに島民を拷問するなどして、85人を殺害したというもの。木村は語学に長け、通訳を任されていたこともあって、島民に対して前面に立って顔をよく知られていたこともあり、彼を含めた下級兵士5人と責任を認めた旅団長が死刑、しかし命令を下す立場にあった参謀は自分が命令したものではないと主張し罪を免れた。木村は上記の遺書にあるように学者を志し、頭脳明晰であることは『きけ わだつみのこえ』にある遺稿に目を通せば明らかで、軍人たちの愚かさと身勝手さを断罪しているが、その中に「天皇の名をもっとも濫用し、悪用したのも軍人であった」と記している。その通りであろう。

 なお、京都大学出身で上等兵のままで通訳というのも理解しかねるが、木村は部隊の中で非集団的態度を取っていたのかもしれない(上記「天皇の名を」というような客観的な目を持っていたこともそうであろう)。ちなみにBC級戦犯で起訴された通訳者は105人、そのほとんどが有罪で死刑となった31人の半数以上が当時の植民地出身者だった(武田珂代子の調査)。

大貫安男

 茨木県出身。元憲兵軍曹。昭和21年8月2日、シンガポール・チャンギに於て刑死。29歳。

<父母に捧ぐ>

一、大詔奉じ七年の/征剣捨てて日は浅く/吾捕われの死刑囚/ああ運命の皮肉さよ

二、親を思わぬ子はあれど/子を思わぬ親はなし/まして愛し子逝くと聞き/なげきやいかに大ならん

三、孝ならんとせば親はなし/世間の人は斯く言えど/吾に二親ありながら/相見ることの許されず

四、父母よなげくな吾は今/馬来(マレー)の露と消ゆるとも/霊魂帰り永久に/父母の御胸に生きるなれ

 命日、昭和二十一年八月二日午前七時

 後数時間後自決する覚悟でおりますが平常の心と変わりません。

 下士官で国家の犯罪を背負った私ですから褒めて下さい。戦死と同一と考えて居ります。

(注:「自決する」とあったが、同日、死刑に処せられている)

村上誠毅

 山口県出身。元憲兵准尉。昭和21年12月17日、マレー半島・ペナン島に於て刑死。32歳。

 村上善治殿/外御一同殿

一、昭和二十一年十二月九日馬来半島ペナン刑務所ニ於テ戦争犯罪者として死刑と決定す。

二、戦争犯罪者の名を蒙るも自己に於ては何等恥ずべき行為なく只誠の一字に尽きるなり。

三、現在の心境は明鏡止水の如く従容笑って死につく覚悟なり。

四、両親並兄上に受けし高恩の万分の一をも返す事なく黄泉に旅立つ事お許しを乞う。

……

国の為散りし屍を踏み越えて吾も進まん敷島の道 

鎌田喜悦

 宮城県。元憲兵准尉。昭和21年12月17日、マレー半島・ペナン島に於て刑死。33歳。

<遺書>鎌田記義殿、外一族

 余未だ存命なり。判決は九・二八、確定は一二・九、執行は未定なるも現実の生と悠久の活との境界日も近日中なるべし。今更記す事なきも許されたるを以て左に簡記す。

一、母上に先に逝く不孝を許されよ。

二、一家一族を始め三十余歳世話になりし世の五恩に感謝す。願くは永く幸福に暮されしことを。

四、余終日勅諭、勅語、国歌を奉唱しつつあり。

(以下略)

小林庄造

 大分県。元陸軍法務少佐(元シンガポール陸軍刑務所長)。昭和22年3月26日、シンガポール・チャンギに於て刑死。61歳。

<遺言>

 私は如何に考えても死刑に処せらるべき理由を発見することが出来ない。刑務所(注:小林が監督した陸軍刑務所)は法規以外虜待等の行為を行って居らぬからである。…… 何故刑務所に対し特に苛酷であるのか、それは軍法会議で死刑の判決をした俘虜を死刑に処したからである。之は総じて公判という美名の下に全くの報復手段であると考える。…… 殊に私の外四名は全く何と申しあげてよいか、慰めの言葉はない。後藤の如きは未だ独身で家庭を持ったこともない。而して職員でないから一層気の毒でならない。…… 死の決定までは落付けない心で …… 死の決定が来て見れば左程でもない。…… 祖国再建の速からん事を思念して死んで行きます。

佐瀬頼幸

 千葉県出身。千葉中学校卒業、元警察官。元陸軍警部。昭和21年9月11日、シンガポール・チャンギに於て刑死。36歳。

<手紙>(略)

<日記より>

 昭和二十一年ラプアン収容所は鉄条網内のキャンプ生活にて総員四百数十名中既決百三十名ばかり(四十名余は死刑なり)未決者中より毎日百乃至百五十名の労役あり。給与不足にて野菜蒐集に二班出場し、補足しつつありし監視英印兵は性単純にして比較的好意を抱き居り、為にさしたる苦労もなく過す。死刑の台湾囚が衛門を堂々と通り食糧倉庫から失敬して来た等々の痛快事もあり。……

 昭和二十一年四月司令部、無罪者邦人は帰還し未既決の我等百七十余名を残す。六月一日シンガポール着、要塞の知きチャンギー刑務所に移監さる。二千二百余収容せられ、冷い石造の独房に本格的囚れの生活に入る。来る日も来る日も希望もなく空腹を抱えて呆然と過す。十七日「昭和十八年十二月警察署勤務事故、国旗事件、昭和十九年十二月憲兵隊応援中反日会事件」につき起訴さる、七月十七日開廷、…… 当方の陳述全然聞かれず、全く一方的に死刑を宣せられたり(十九日)。

 斯る裁判を受くるも運命か、自分ながら驚くばかり、心平静、省みて神明に恥じなく死に対する何等の恐怖もなく生への未練執着も断ち同志四十余名一読書三味に入り、明朗に最後の日を待ちつつあり。……

 既に境を異にせる者の遺した独房中の壁面の爪跡に燃ゆる雄叫びを見よ。

  七生報園、打倒英国主義

  大君のために何か惜しからむ昭南の地に身は朽ちるとも(中村軍医少佐)

  神州の不滅を信じ日本男子の意気を示せ。

  悠久の大義に生き、新興日本の捨石たる襟度を持せよ。

  親思ふ心にまさる親心今日のおとづれ何と聞くらむ(松陰)

中村鶴松

 岩手県出身。岩手県染色講習所卒。陸軍軍属、ブト刑務所所長。昭和22年9月3日、マレーシア・クアラルンプールに於て銃殺刑。56歳。

<遺書>

 自分は刑務所要員として馬来(マレー)に派遣せられ、一年六ヶ月勤務致しましたが昭和十九年四月一日より昭和二十年一月三十日迄クアラルンプール市ブト刑務所長在勤中多数(四百人)の囚人が病気で死亡致しました。これが刑務所長の責任となり(昭和二十年九月二十一日夕イピン刑務所に収監され、幾多の苦難を突破して来たが)昭和二十二年六月三日、英国軍法裁判で死刑の言渡を受け、昭和二十二年九月三日午前七時(本書は九月二日午後一時記)死刑執行せられるのである。

 私は日本人として立派に刑に服して死にます。決して何等未練もありません。どうか我なき後は子孫の養育を頼む。尚老母が心配するでしょうが元気で死んだと頼む。…… では私は元気で行きます。

郷端逸人

 広島県出身。元建築業、元陸軍少尉。昭和23年1月2日、マレー半島、クアラルンプールに於て刑死。32歳。

<遺書>(妻へ)

 我々の幸福な生活は、無限の情愛を以て続けありしが、運命の悪戯は、遂に中途を以て遮断するに至り南海の地より御訣れの言葉を申上げることになった。…… 私は犯罪者の一員として処刑せらるるも現在迄再三再四伝言せる如く、破壊恥的行為に基くものでなく、上官としての責任を追及せられた結果に基くもので皇軍指揮系統の上、万己むを得ぬことなればも国の礎となりたるものと思って諦められたし。 …… 可哀想な靖雄、一度も見ない俊基のことを思いますと断腸の念を禁じ難きも運命に抗することは出来ず、世間の子供より肩身の狭い思いをさせぬ様に養育して下さい。……

  昭和二十三年一月一日十二時

 —— フィリピン・マニラにおいて——

大田清一

 鹿児島市出身。元憲兵大佐。昭和21年2月23日、マニラに於て刑死。50歳。

<最後の手記>

 当地は今内地の初秋の気候に侯。皆様お愛りも無之侯哉、御伺ひ申上侯。

 先日は一月二十三日附にて家族御一同の御便りに接し、それこそ貪る様に拝読仕侯。厚く御礼申上侯。御身は東京迄行かれた由、其の心根に感泣仕侯。但し万事は運命に侯。小生は今出発二時間前に落ちつき払って此の手紙を書居り侯。五十年の修養、此処に来り悠然泰然たる気持にて筆取申候。文も字も平素と少しも変わらぬ筈。呵々。 

 一月五日判決後は前便にて申上侯通り山下、本間将軍以下多くの旧友や部下と共に愉快に生活仕候。自分でも不思議な程達観し、皆して朝から寝る迄、他愛もなき話に笑ひ興じて暮申侯。米側の取扱は紳士的で寛大に侯いて、食事、起居、運動等申分無之候。身体も丸々と太り殺すには惜しき程に侯。呵々。

 裁判其他については近く帰国の旧部下岩岡大尉が貴地訪問の上詳細可申上候。小生の罪名については新聞紙上で承知の事と思う。敗けたから仕方がない。狂と呼び賊と呼ぶも人の評に委す。別に弁解は不要。

(以下は家族個々への文章で略)

槙田時三

 広島県出身。元工員。元陸軍曹長。昭和22年2月24日、マニラに於て刑死。30歳。

<遺書>

 死も亦楽し。永遠の生に入り祖国の復活を祈る。

 自分は此の様な運命に生れた事を悲しまない。生れたる運命に対し、今日迄生きたる運命に対し感謝しつつ従容として死に就く。第二の世界に待つ戦友と楽しく語る事を思う。……

 私の死をけっして悲しまないで下さい。むしろ喜んで下さい。部下の罪を一身に受けて一人の死に何名かの可愛い部下が助かると思えば死も亦楽しく幸福である。私は立派な戦死です。世の人に又部落の人にけっして肩身のせまい思いをしないで下さい。……

 事件の内容は —— 昭和十九年一月十三日、パナイ島イロイ口州ミヤガオ町サンホセ部落に於て十五名殺害、三月、ミヤガオ町内で五十五名、五月、マリンガヤン部落で十名、此の事件につき土民が起訴して居る。

 当時自分の部下であった音一戸町河部健夫君に聞けば此の事件の真実がよくわかる。又彼はバタン戦からの部下で比島へ来でからの自分の行動を詳しく知る事が出来る。(21年7月)

<第二信>

 神の御力か仏の御めぐみか、ニューギニヤ方面に居るとばかり思って居た哲夫が突然面会に来た。九月十八日の二時頃死刑囚には珍らしい面会で心あたりもなく不安に思い乍ら鉄柵を出て事務室の方へ歩いて行った。… 事務室に近づくと見た事のある人だと思ったが哲夫だとは思い出せなかった。眼鏡を掛けていたからでもあるし、まさか比島ヘ転進して来ていたとは思われない。悪戦苦斗五年、… 転戦を重ね敗戦のかなしさに彼の顔にも心にも非常な変化を来たして居たのだろう。… 二米、一米、自分は其の人の顔を見ながら遥り過ぎ様としたとたん兄さんと涙ぐんだ声で抱きついて来た。… 米兵の前で恥もかまわず感激の涙はどうする事も出来なかった。噫ゝ感慨転無量、死を目前に控へて血を分けた兄弟が相見えしは正しく神のお力としか思われなかった。… 此の戦争裁判に於て命令に依って作戦行動をなせる一下士宮に迄其の責任をおわせ、死刑にする米軍に対し満腔の恨みを抱いて居るが今日の出来事に就いて神仏は存在するものである事を痛切に感じた。そして神は自分が無罪である事を明白に知っておわすものと信じる様になった。……(22年2月25日7時55分とあり、上記の死刑日とずれがある)

加藤 実

 宮崎県出身。青年師範学校卒業。元教員、元陣軍少尉。昭和22年3月31日、マニラに於て刑死。27歳。

(第二信)

 父上、母上も忍の事は己に新聞で御承知の事と存じますが私は決して罪を感じて居りません。噌当時の中隊長が戦死されて現在居られない事や其他種々の事情で弘は死刑の宣告を受けましたが、これは決して正しい判決とは信じられません。部隊のものから話を聞かれたら何もかもわかる事と思いますい唯父上、母上だけは私の心を信じて下さい。私は戦地に来てからも唯皇国の御為のみに一身を捧げて来ましたが華々しい時代に戦死する機会を得ず、今こうなる事は残念であり、御両親様に対しても相済まないと思って居ります。…… 私は神の力を信じて居ります。必ず無罪になって帰ります。それまでは父上も母上も体に御気をつけられて待っていて下さい。……

(第三信)

 私は死刑を執行される直前迄自分の真実を通す事に努力し神を信じて一切を神におまかせ致して居ります。私が宣告された死刑を甘じて受け何もなす事なく此の世を去ったとしたならば、之れは私一人の不幸ではなく皆様の不幸であり日本人の不幸、否世界人類の不幸であります。何故ならば真実正しい事が不正なる証人、誤った裁判に依り葬り去られた事になるからであります。……

(第六信)

 私は歎願書も出しました。私の本当の事を書いて、私の出した歎願書が認められなかったら此の世の中は全く虚偽の世の中です。私は裁判を受ける時に、私は責任者ではないけれども被告の中で私が一番階級が上だから皆を助ける為に私が責任を負ってやろうと思っていました。それで私は何も答弁致しませんでした。然しその考えは間違いであったと思って歎願書を出したのです。神様は必ず私の証明をして下さる事を信じます。皆様もお祈り下さい。

(第十一信)

 二十二年の正月も半分以上過ぎました。私も今日で獄生活百五十二日になりました。集団していた「キャンプ」が次々に復員して今日は吾々と未決の人達で僅かです。 昨日は又無期有期の連中が帰国致しました。もう何日間か執行もなく私達もどうなる事かと不思議に思って居ります。何だか今年になって一希望がある様な気がして、然し決して安心して居るのではありません。私はともかく苦労を共にした友の多くが復員した事を喜んで居ります。部下となって働いて呉れた人々へ特に戦死された人々の家庭へ何とかしてお慰めして上げたい気持で一杯です。……

(第十五信)

 敏、正が無事帰還した事は何より嬉しく想います。今頃は昭子も無事帰省して居ることと想いますが私一人を除いて皆揃った楽しい故郷を毎晩想像して床に就きます。……(辞世の歌は21年8月20日となっている)

菅原亥三郎

 山形県出身。元農業。元海軍上等兵曹。昭和22年4月1目、マニラに於て刑死。36歳。

<手紙>

 貴家御一同皆様には御健在の事と察します。

 私の事件の内容を一寸申上ます。私はボルネオ島(バリックパパン)サマリンダ町の警備隊に居りました。二十一年二月米人搭乗員三名(捕虜)を死刑執行の時私も現場に行き執行者になったわけです。命令はバリックパパン司令部参謀よりサマリンダ警備隊長に来たのです。我々は何んの為に死刑になったのか知りません。ただ私の小隊長より死刑の現場に行く様と云われたから行って実行しただけです。結局命令通りやったので私の様な一下士官が何で罪あろうかと思います。それが裁判の時に至って直接命令を出した参謀が自分はそんな命令は出さないと嘘を云って居るのです。

 又其れを米人は信用して居るから詰りは我国軍隊の組織又法規を知らないと思います。現在我々戦犯者の上官連は昔豪語した事は知らん振りをして又部下を沢山殺した事も忘れ精神の抜けたごむ人形の様な者です。

 其れでも私は誰も恨みません。むしろそう云う人聞を憐れと思います。私等の事件でも警備隊中、誰かが実行しなければならないのだから私が代表して皆の為めに責任を持ったと思えば何等恥ずる事なく却って良い事をやったと思います。こんな事書くと貴方は気違いに成ったと思うかも知りませんが、私としてはそれでも何時かはわかる事と思う。日本再建の土台となったと思えば満足です。

 事件は右の如くです。皆様御丈夫に。

 敗戦国のわが国に於いて過去の事、すべては軍の誤りと一般の人は云うであろうが、私の考えとしては各個人の責任だと思います。個人々々の責任と思わなかったら今後の再建日本は難しいものである。今日の自由主義の如きことでも利己的にして卑劣なる性質を、縦横に振まい、それを普通と思い込むと云う様な傾きがある。国家というのは自分等のかたまりだと思って考え直して戴きたいと想います。(以下略)

宮本司馬夫

 熊本県出身。九州高等簿記学校卒業。元農業。陸軍伍長。昭和22年10月17日、未決拘留中、マニラに於て自決、29歳。

<手紙>

 出征以来今日まで種々御迷惑をお掛け厚く感謝致しております。

 兄上御壮健ですので忠も故郷を遠く離れて毎日の作業にも安心して精出すことが出来ます。家族の事に就きましては今後共よろしく御配慮下さいます様お願い致します。

 故郷の様子は如何でしょうか、遠く離れて居ますと家庭、親類の安否が気づかわれます。 ……

 最後に皆様の御健康をお祈りしております。(前畑のおじさん、おばさん)親類の方々によろしく。

  さようなら さようなら 九月五日 宮本司馬夫より

 兄上様

 —— フィリピン・モンテンルパにおいて——

 上記はフィリピン・マニラにおいて処刑された人々の一部の例であるが、これは米軍によって1945年10月から開始された裁判で、山下裁判を皮切りに47年4月まで一年半の間に97の裁判が開かれ、217名が起訴され、判決結果は死刑92名、終身刑39名、有期刑66名、無罪20名であった。無罪とされた中には部下にその責任をなすりつけた者もいたであろう。この後フィリピンは日本が侵略する前の過去の約束でアメリカからの独立を果たし、フィリピン独立後も米軍が戦犯の処分を続けることへの法的疑義もあって、米軍は1947年3月28日、フィリピン側に未決囚300人の引継ぎと裁判権の移管した。フィリピン側の対日戦犯裁判は同年8月1日に始まり、最後の判決は1949年(昭和24)12月28日であった。そのうち212名が起訴され、177名(この数には異説がある)が有罪(死刑69名、終身刑33名、有期刑75名、無罪33名、釈放2名)となった。法廷はマニラの米軍敷地内であったが、有罪者はマニラ郊外のモンテンルパのニュービリビッド(モンテンルパ)刑務所に移された(このモンテンルパはオールドビリビッドとともに日本がフィリピンを占領していた時期には、米軍や民間人の捕虜収容所として使用されていた)。その後の経緯は不明ながら、まず3名が死刑に処され、しばらく執行されなかったが、1951年1月19日深夜から未明にかけ、突如として14名の死刑が執行された。その者たちの遺書の一部が下記で、これが海外におけるほぼ最後の処刑であった。

 さらにこの後、残された死刑囚を含む106名(異説あり)は、1953年7月のフィリピン共和国独立7周年記念日にキリノ大統領が大規模な恩赦を行い、死刑をすべて終身刑に減刑、その後全員が釈放され日本に帰国した。キリノ大統領自身、妻と次男、長女、三女の家族4人、さらに5人の親族をを日本軍に殺されているから、よほどに私情を捨てた人道的決断で、将来の国際交流を見据えてのことであったとされる。

陣内起也

 長崎市出身。京都大学法学部卒業。元会社員。元陸軍中尉。昭和26年1月19日、モンテンルパに於て刑死。35歳。

<最後の手紙>

 御父上/つる叔母/みか小母様/公一/和子/嗣郎

 明けましておめでとうございます。二十世紀も半ばを超え新しき年を迎えました。父上始め御老年の方々にはとの変転の激しかった半世記を振返って感慨無量のものが御座いましょう。私も外地で八年目PWになって六度目独房に入って三度目の正月でございました。元旦にはプニエ所長が年賀を述べに独房に参り段々年が経つにつれて対日感情も良くなるし、今年は諸君達にとって良い年であることと思われる。又諸君達の身柄の日本返還の話も出ているから肴望を持つ様に、との話があり今年こそ忍の最良の年となってくれれば良いがと思って居ります。

 久方振りに写真を撮りましたので新年の御挨拶旁々お送りします。仏教会の人の記念写真に飛入りして撮ってもらい加賀尾先生から戴きました。皆誠に囚人顔して物凄き形相ですが実物は皆之程ではございません。皆の名誉の為(下略)

小野安夫

 小倉市出身。門鉄小倉工場工員。陸軍伍長。昭和26年1月20日、モンテンルパに於て刑死。34歳。

<手紙>

 父母様初め一同元気とのこと安心致しております。私も相変わらず元気で暮して居りますれば乍他御安心下さい。…… 私達の確実な事は判決の通り絞首刑と申し上げるより外にありません。今は噂と想像位のものです。近頃は刑の執行もなく今後も執行されないだろうとの噂が濃厚です。又日本人は全部近き将来に於て帰還出来るだろうとこれも噂にすぎません。こんな事では楽観は出来ません。私達は対日講和条約でも生前にあれば懐しい祖国の土が踏めるのではないかと望みを持って居ります。私達死刑囚は絞首刑の判決を受けたままで二年半も終ろうとしている状態です。終戦と同時に捕虜となり容疑者生活から獄舎生活の現在に至るまでの長い歳月で娑婆の生活は頭から消え去ってしまった様な南方ボケになってしまいました。…… (25年11月1日付)

 神の導きに依り日々を正しく導かれつつある我々はこうして又便りが故郷にミチエの手許に出せる事を心より感謝して居ります。…… 私もご存知のごとく判決を受けて二年七カ月は過ぎ去りましたが別に変わった事も無く…… ミチエの苦労を思えば此処にこうして日々を過ごす事は残念でなりませんが如何とも仕方がありません。只神に祈る外ありません。正月が近づいてきました。皆様にはより良き年を迎えられん事を切にお祈り致しつつペンを置きます。さよなら(25年12月14日付)

金田貞夫

 大分県出身。元農業。陸軍曹長。昭和26年1月20日、モンテンルパに於て刑死。34歳。

<最後の言葉>(刑場へ向う車上で加賀尾教誨師に)

 心は晴れています。おばあさんや兄弟へ永い間色々お世話になりました。二年の間に心もできました。安心してください。子供のことについて、どうか人並みの着物を着せてくれるよう、兄弟相助け合うよう。

 このままに比島の土に消ゆるとも無実の罪のいつか晴れなん

 碁をやっていてもう少しだったのに、おしいことをした、…… 今度の大乗のお経の導師をするところでした。大分稽古しましたのに、… 皆さんによろしく。

 先生と肩を並べて笑って行けるのが嬉しいです。どうか私の死に顔をよく見てやってください。

 水のごと澄める心を誰知るや 我れ刑台に笑みてのぼらん

—— オーストラリア領ラバウルなどにおいて ——

白木仁一

 北海道出身、元農業。元憲兵曹長。昭和21年6月26日、ラバウルに於て刑死。26歳。

<遺書>

 大東亜戦の終結以来早くも十ヶ月、次々と海列派遣将兵の帰還に伴い私のみは何時になりても帰らずさぞ御両親様には御心痛の事と思います。…… 以下私の所信及近況を記し最後の便りとします。

 私は本年一月十五日「ラバウル」の濠軍に戦争犯罪容疑者として収容せられ、去る五月二十四日、二十五日の両日の軍事裁判の結果死刑の宣告を受けました。…… 私達は戦争目的達成の為、我等が守備する「ニューアイルランド」島警備の為、野戦憲兵本来の任務たる敵諜報網を数度に豆り検挙し敵に大打撃を与え終戦前二回迄も殊勤を上申され一意自己の任務に運進して来たのです。然るに停戦となるや、濠軍の手先となって我軍の情報収集に活躍したる第三国人及原住民の厳重処分は不当な行為と称し政策的裁判に於て死刑の宣告を受けたのです。私と一緒に被告となり裁判せられし人は(陸軍中将伊東武夫以下略)の十名でした。法廷に於て伊東閣下は「本事件の全責任は此の伊東に在り、部下は私の命令を忠実に実行したるのみで責任は全然ない」と力説せられた。部下の罪を軽減せんとする閣下の心も遂に効なく閣下以下参謀及憲兵五名が死刑を宣告されたのです。幸にして精助憲兵壬名が無罪とかのたるを共に喜びました。

 死刑を言い渡されて控室に帰った閣下は、「我々は戦に勝つために総てが正なり、と信じ戦況上止むを得ず行った事で最も忠実に働いて呉れた諸君を今こうした運命に到らしめた事は此の伊東の不徳の致すところである。愚なる上官を持ったと諦めて呉れ、斯くなりたる上は最後まで明朗に暮しあの世まで手を取合って敗戦国民の犠牲者となって行こう」と言われた時は私は死刑の宣告を受けた悲しみは全然なく立派な上官を持った嬉しさと共に刑場の露と消えて行く事を覚悟致しました。…… 私と同じ運命にある憲兵も多数ありも第六野戦憲兵隊長の菊地覚憲兵大佐も既に弘と同一刑を言い渡され共に刑執行の日を待機している次第です。当ラバウルに於ても既に二十名の人が刑場の露と消えて行きました。当地に於て……約七五〇名が収容せられ今村閣下以下全員同一生活をなし次々と裁判を受けています。二十有余万の将兵中僅か七百余名中の一人に加わり、その上死刑の宣告を受けるとは余りにも不幸な伜と思われる事と推察致しますが私は決して不幸とは思いません。

 今村閣下は我等を「光栄ある国家の犠牲者なり」と言って居られ我々の収容所を光部隊と名付けています。新聞によれば内地では畏くも宮殿下までが戦犯容疑者として米軍に収容せられた由誠に畏れ多き極みです。私如き一下士官、何で不服を言いましょう。総てが敗戦国民なるが故に致方ありません。…… 前途に大きな希望を持ち乍ら二十七才を最後に今南海の露と消える事は残念至極壱あるが、一方戦友達を思ふに昭和十六年一月東部七十八部隊(高射砲第七部隊〕に防空兵として入営した同年兵の大部分はシンガポール作戦にアッツ島に或は船団防空兵として服務中殆んどが名誉の戦死をしてしまった。自分は憲兵となった為に今日まで生を得たのだ。

 又「ニューギニア」「ガダルカナル」島「プーゲンビル」島「マヌス」島の警一備の戦友達は或る者は戦死し或る者は食糧も被服、薬物に欠乏し幾万の人が病気の為に戦わずして斃れて行った。然るに私は今日まで達者で御奉公出来たのです。

 一月十五日収容されて以来の生活は軍隊生活五ヶ年半を通じて一番体には楽をした。仮令死刑になっても幾多の人達に惜まれ乍ら国家の犠牲者として散って行く事は病魔に艶れた戦友と比較一するならばそれは幸福すぎる位です。収容所内の生活は特別な作業もなく食事等も停戦前の日本軍の給与甘藷と塩汁だけのと比較すれば実に賀沢な生活で連日読書に囲碁にと余生を楽しんでゐる次第です。又日曜日などは野球もして至極明朗に暮しています。裁判の結果有期の刑を受けた方もありますが今後蔑年も囚人として苦労する事を思えば死刑の判決は私の最も希望したところです。長男でありながら何一つ孝行らしき事もせず此の世を去る事は誠に申訳なく残念に思いますが何卒悪しからず御赦し下さいませ。……

酒井 隆

 福島県出身。(上記の同名とは別人)元陸軍伍長。昭和21年6月27日、ラバウルに於て刑死。

<遺稿>

 あと二十分しかない生命。三将校は私らの毎日の日課に合せてラジオ体操をおやりになるのです。何という素晴しい落着でしょう。徹し切った真人の姿そのままではありませんか。これが数分後に死なれる方かと思うと云いしれぬ戦慄を感じたのは私だけではないと存じます。……

 私らの中には実際やられた方の名が告訴されず、告発人の名前のうろ覚えに依って訴えられ無実であり乍ら処刑される方や、命令された方が内地帰還された為、下士宮兵の身で責任を問われ極刑になられる御気の毒な方がおいでですが、これも濠洲は戦犯者の員数を揃へ様としているのだ、余り忠実に裁判すれば戦犯者が予想数以下になって了うから少しでも疑しい者は有罪として了う、きすればそれらの者の中に幾人かは真犯者が居るという風に濠測は考へて居るのだ、日本人の誰かが犠牲にならなければならないのだ。私は員数で処刑されるのだ、とお考えになって御覧なさい。すると不思議に気は軽くなり、口笛でも吹いて死のうという気になりますから。私らは只今から、処刑日の態度をあらかじめ心構え致して置きましょう。

 私が死刑執行を云い渡されましたならば、先ずジェームス少佐、スミス中尉、ショーテス准尉、ラハーム伍長に云おう。

「今日迄私ら極刑者の心理をよく理解して下さり、非常に寛大なる取扱を受けたと思います。厚く御礼申上げます。……」

池葉東馬

 栃木県出身、県立真問中学校卒。元陣軍大尉。昭和21年8月12日、ラバウルに於て自決。48歳。

<遺書>

 戦争犯罪と言えば極悪無道の者の様にお考絵になるかも知れませんが小生の為したことは元私の部下でありました印度人イシドネシヤ人(注:現地で日本軍が雇用した者たち)にして敵前に於て奔敵、逃亡した者、また党を組み多数の者を煽動して敵に走らんとした者を止むを得ず陸軍刑法及び軍命令に従って略式裁判に依り死刑を命時ましたのです。之は当時の情況上、作戦上軍紀を維持するため極めて合法的、正当なる処置でありまして俯仰天地に恥じず、一点のやましいこともないから何卒御安心下さい。……

 東京から一緒に来た中村森之大尉(茨城県人)山本兵太郎大尉(東京府人)の両君も私同様の運命に在り、御互いに慰め合って居ります。今は何事も運命と諦め只阿弥陀仏様に凡てを委して居りますから如何様になるとも御心配なきよう願います。…… 子供等のことに就ては呉々もよろしく願います。

 ……

 日本も今迄のような野蛮極まる軍国主義を廃し多年専横の限りを尽して国民を苦しめて居た軍閥が倒れ「平和の日本」として更生する日が来たことを今次戦争のもたらした唯一の収穫として喜んで居ります。そして一日も早く祖国の復興されるよう祈って居ります。子供等には東洋古来の学問、殊に支那の古典を研究するよう御指導願います。……

   昭和二十一年七月二十一日 ラバウル戦争犯罪収容所

<辞世>

 名も知れぬ草にはあれど島の辺に朽ちても残る大和心根

<自決書>

 予は左記の如き理由に依り自決す。

 未執行の諸君に対し迷惑の及ぶべきは重々承知なるも日本人として斯くせざるを得ざなるなり。……

一、予は濠軍の手に依りて死するを欲せず。……

二、予は一方的不合理なる裁判の判決に対し鮮血を以て抗議するものなり。……

 右の趣旨は濠軍当局にも書置せり。

 御手数乍ら全日木将兵各位にも宜敷御伝言あらんことを希う。

  昭和二十一年八月十二日夜

田島盛司

 埼玉県出身。元工員。元陸軍伍長。昭和21年11月2日。ラバウルに於て刑死。31歳。

<手紙>

 大兄、妹又親戚の皆様、勝つと誓った大東亜戦争も今は破れて敗戦の憂目を見るに到りました。誠に残念に思います。私も聖戦に従事して五年苦労した甲斐も無く祖国の為命をかけて尽した今、戦犯者としてラバウルの一角に収容され裁判も終り刑執行の日を待って居ります。

 此収容所には現在六百人からの戦犯者が居り死刑の判決を受けた者が百名、刑を執行された者が十数名居ります。此処には爪哇作戦で名を売った今村大将も入って居ります。他に将官級が二十数名佐官尉官は収容人員の三分の一は居るでしょう。何れも国の為に尽した人許りです。若し日本が勝って居たら皆金鶏勲章に浴す人許りです。

 私等当然この収容所に入る様なこと等はして居りませんポ停戦と同時に支那人俘虜に殺人事件で告訴されました。当時日本の軍法により行われた事件も現在の聯合国の裁判には適用されず、殺人はして居なくとも現場に立会った者は同罪であるということです。……

 事実を語れば私と米田は救はれるでしょうが事実を語れば十八名の罪人が出るのです。そして十一名が死刑七名の者が有罪になることは明かです。そして又彼等の家族のことも考えて見れば私にはとても真実は語れませんでした。…… 私は真犯人を出せば無罪となったでしょうが死刑の判決を受けた訳です。友情は最後迄失いたくありませんでした。……

馬場正郎

 東京都出身。陸軍大学出身、元陸軍中将。昭和22年8月7日、ラバウルに於て刑死。55歳。

<請願書>

 塾々考うるに小生齢既に50を超え茲に戦争の犠牲として職に殉ずるとも敢て悲しむ事にあらずと雖も未だ齢若き多数の入所者に対しては同情に耐えぬものがありますので茲に御願いする次第であります。

 此等の入所者は仮令戦犯として挙げられておりまするとも当時の戦況を考えますと実に同情に耐えないものがあります。即ち海上輸送の途絶したる当時の状況下特にボルネオの様な所では連合軍の優勢なる空海陸の攻撃を受けますときは人力の尽し難きものがあります。どうか賢明なる閣下のご理解とご同情とに依りまして取敢えず拘置所の日本内地及び台湾移動と死刑囚の減刑とを実現せしめられて先ず心の安定を計られたく御願い致します。……

 日本の将来を担う者は此等入所者の如き齢若き人々と其指導的人物でありまして今の時に於て相互理解しあいて将来の計をたてることは緊要のことと考えます。

 茲に刑の執行を前にして閣下のご健勝を御祈りすると共に右御願いいたします。

   昭和22年8月6日

  豪州第八軍管区司令官閣下

【最後の死刑囚】
津穐孝彦

 山口県出身。神戸高等商船学校卒業。満鉄社員。元海軍大尉。昭和26年6月11日、濠洲マヌス島(オーストラリア領パプアニューギニア)に於て刑死。39歳。

<手紙>

 勝負は決った。そして最後の決は時がそれを定めるでしょう。… これからが私の修養の段階に入りましょう。人間らしくなりたいものであります。… 一日一刻、一分間の中にも意義を見出して行きたいと考えます。… この文を持って日本に帰り、送り届けられる人は無罪の人です。何故他の人が無罪になるのに小生が罰を受けるのかということを考えてはなりません。当然無罪の人が無罪になるので、考え方を混同したり、うらやむべき筋合の問題ではありません。…… ポツダム宣言を受諾した日本は戦犯者を戦勝国に引渡さなければなりません。戦犯者を引渡すことによって日本の今日あることが約束されたのだという事が出来ます。戦犯者を相手国に引渡すことが日本存続の要件でありました。

 国際条約に違反した行動が戦争中あったことを見せられました。しかし多くの人は、その行為が違反したものであったことを知らずに居りました。又知って居ても異議を申立てることは当時の軍隊の命令に対しては許されませんでした。要するに命令権者の無責任な独善的な、人権と法規を無視した、神がかりの観念が原因をなしたと信じます。裁判に際して感じましたことは、日本人の或者が如何に無責任な出鱈目な、その場逃れの供述を東京でしているかと云うことであります。知らないことは知らないと云えば済むものを、話をつくり出しても関係者は生命にかかわる迷惑を受けて居ります。反対に、十分に自分で知りながら問題を他人に押しつけた者もあります。日本人は支那人を馬鹿にしますが、支那人は如何なる脅迫を受けても他人の事は決して喋らないそうです。此の点、支那人を見習はなければならない人ばかりではないでしょうか。報復的な気持でこの裁判が行はれなかったとしても、当時の軍隊の命令系統、日本人と白人の物の考え方も習慣等からして物事の解釈の仕方が具るのでも我に不利となることが生ずるのは止むを得ません。……

<最後の文>

 この文は十一日の朝小生の手を離れる第二十一信で、小生が静ちゃんに送る最後のものとなりました。…… 余り書く事は徒らに悲しみを与える事になるとは知りつつも少し書きましょう。そして先づ私は極めて平静である事を附記して置きましょう。……

 母を慕いて —— 今日の我が身を恨みつつ/きらめく空を眺むれば/想は馳せる故郷へ/いとしき母は今何処(以下略)

注)このマヌス島にける処刑は、同じ日に津穐の他何人かに対して行われたが、以下の西村もそのうちの一人で、重要人物であった。

西村琢磨

 福岡県出身。陸軍士官学校(22期)卒業。陸軍中将、近衛師団長。昭和26年年6月11日、61歳。オーストラリア領パプアニューギニア・マヌス島で刑死。

 西村中将については『世紀の遺書』に遺言はないが、上記津穐孝彦と同じく最後の戦犯死刑囚であり、その概略に触れてみる。

 昭和15年(1940)9月、印度支那派遣軍司令官として仏印に進駐。16年6月、独立混成第21旅団長。同年12月、第25軍の指揮下でマレー作戦参加。17年2−3月、シンガポール占領後、市郊外の掃討作戦を指揮。同年、スマトラ作戦参加。その後予備役編入。18年、ビルマ・シャン州政庁長官。19年、蘭印・スマトラ州知事。

 20年(1945)8月、日本敗戦によりジャワ島スラバヤ付近の収容所に入り、21年、シンガポール・チャンギー監獄に移され、22年に英軍のシンガポールにおける裁判でシンガポール華僑粛清事件で終身刑、シンガポールでの4年ほどの服役の後、残りの刑期を果たすため日本に送還される途中、オーストラリア軍警察によって香港の船から強制的に連れ去られ、西村はマヌス島裁判でマレー作戦中のムアルの戦いの後の連合国軍捕虜虐殺事件の責任者として改めて起訴された。昭和26年(1951)死刑判決を受け、同島で絞首刑に処された。戦犯裁判で実際に死刑執行がなされた最後の人物となったとされるが、実際にはこの日、他数名が一緒にマヌス島で処刑され、それらの遺書は『世紀の遺書』にある。

 取調べにおいて西村は部下らの「(西村から)捕虜の処分を命じられた」との証言を否定できなかったが、公判では「(自分は)本部へ後送するよう処置をとれと言ったはずだ」「処分しろと言ったとしても、(日本語では)処分とは本来は処置することを意味する、この場合は後方に送って処置する意味だ」と抗弁したが、この主張は通らなかった。

 筆者私見:この西村の言う「本来は処置」とは具体的に何を指すのか?これについては筆者がこれまで日中戦争を含め、将兵たちの証言記録を見てきた上での私見であるが、この時代の「処分」や「処置」という言葉はいずれも「処理」すなわち処刑という意味であることは間違いない。西村の部下がその言葉を受けて、改めて意味を聞かずにそのまま捕虜を処刑してしまうことはあり得ない。暗黙の了解があっての言葉であり、仮にも部下が「処分とは?」と聞き返せば「そんな事もわからないのか!」と怒鳴り返されるところである。この言い訳だけで西村は部下を守ろうとする腹も据わっていない指揮官であることがわかる(既述の「部下を守った司令官」と比較されたい)。したがって筆者は西村を一部の意見があるように無罪(冤罪)とは見ない。例えば戦場ではこの他に「解決」という言葉もあり、上海事変から南京事件までを通じて300人斬りを行なった一人の隊長が、これを便利な言葉として意識的に使っている事実がある。またこの「解決」という言葉はナチス・ドイツ軍でも使われた。つまりナチスはユダヤ人を「解決」するためにアウシュビッツなどの強制収容所に送り、そのまま彼らをガス室に詰め込んで大量に殺戮し、さらに焼却炉に放り込んで灰にして「解決」した。

 西村の辞世の句 ——「責めに生き責めに死すのは長(おさ)たらむ人の途なり憾(うらみ)やはする」

 —— インドネシアその他の地区において ——

森本清光

 三重県出身。元憲兵准尉。昭和21年3月31日、モロタイ島(インドネシア)にて銃殺刑。33歳。

<手紙>

 …… 去る二月六日戦争犯罪者として濠洲軍軍法会議の裁判の結果「銃殺刑」の宣告を受けた。併し余りにも重刑且不当な宣告なる為め目下更に同軍最高司令官宛上告中にして後一二ヶ月中には最後の確定を見るものと思って居るが到底原刑通り銃殺刑に処せられるものと既に当初より決心し覚悟している。総て上官の命令により戦争に勝たんが為に為したる事が敗戦したるが故に如斯く哀れなる結果に終らなければならない。到底この俺は再びお前達と会う事は出来ないであろう。後に残したお前や幼い裕輔には実に可哀想且申訳ない事だが万事は此れ抱一の不運と諦めて呉れ。……

 お前の両親其の他へ万々よろしく。では強く、雄々しく御壮健にて幸福に暮されん事を遠く南洋の地より御祈りしている。

  第五野戦憲兵隊北セレベス特設第一憲兵分隊(所属)夫より

 最愛の妻ヘ

<遺書>

 私が戦争犯罪者になりました状況に付き簡単に申上げます。其れは昨年六月中旬頃セレベス島の悲達の駐屯せる地域を襲いました濠軍爆撃機を撃墜せる時、二名の捕虜を逮捕致しましたがその二名を殺害したからです。勿論私個人の所為ではありません。其の地の駐屯地司令部より私の上官である隊長を通じ処刑せよとの命令により実施した次第です。隊長は既に当地に来る前病死致しましたので結局私に全責任がかかった訳です。(隊長の次ですから)…… 処刑された方々には全く可哀想な事であり申訳ない事です。…… 日本人であり武人です。潔よく刑に服します。…… 死を前にしながらも只祈るは日本の再建とお前達二人の幸福のみ。再び昔の日本にいやそれ以上の日本に成長する日迄も生き永らえん事を。……

 茲で一寸獄中の状況を御知らせする。六畳一間程のコンクリートの一室に私を入れて四名が起居して居ます。獄の周囲は約三百米にて鉄条網を張り廻らして居ります 。其の中に三棟のバラック建があり、二棟は懲役囚小さい一環は死刑囚にと区分されて居ります。朝六時半起床、午前午後二回各二時間宛体操を実施します。入室は午後六時半其れ迄は水浴、散歩は自由、娯楽は手製の碁、将棋トラシプ、花札等で退屈を凌いで居ります。入室後は勿論「カギ」を掛けられます。(今迄は私共は罪人を「カギ」して居りましたが今では反対です。笑うなよ)夜十時に再び開けられて用便を達します。そして朝の起床時迄就寝となりますが電燈がありますので引続き室内で碁将棋等をして出来得る限り此の世の気分を味って居ります。日本軍と同じ上下二着の衣服と蚊張(一人用)寝具、食器等が与へられて居ります。食事も三度白飯に時折果物屋パン等も与えられ先づ腹八分で丁度いい具合です。タバコも月一回二十本与えられて居ります。此の様な具合一で別に何不自由なく、又考える事もなく、お前一達の想保して居る以上に気楽に過して居ります。かえってそちらよりもいいではないかとすまないも申訳ない様な気持がしてなりません。……

 父母、兄姉上様其の他皆々様御壮健でしょうか。どうぞよろしく御伝え下さい。桜の花も漸く咲く事でしょう。祐輔も今頃は桜の木の下でたわむれて居る事でしょう。笑顔のお前、走り廻る祐輔、元気な父母、兄姉の姿が次から次へと走馬燈の様に浮んで来る。……

田島一郎

 東京都。「歩215」所属、元陸軍中尉。昭和21年7月15日、ビルマ・ラングーンに於て銃殺刑。

<日記>

 四月十二日 金曜日 晴

 私は二分に対しては常に最善を尽した積りで後悔はありませんが、親孝行と弟の面倒を見る点に於ては常に胸をしめつけられる様な後悔の念で一杯です。啓造君よ、貞哲君にも伝えてくれ、私の分迄親孝行してくれと。……

 四月十二日 金曜日 晴

 今日も亦生きられた。時々「今生きて居る」と云う事に大きな不思議を感ずる。当然迎えるであろう明日に全く新しい世界を感じつつ眠りに就く。……

 地球は廻って居る。少しづつの厄介者を振り落とし乍ら。…… 俺は何時振り落とされるかと鉄格子にしがみついて遠くの星を見る。

<遺稿>

 …… 吾々は共存共栄の最高なる道徳の世界を生み出す為に、之が障碍を排除する戦いを大東亜戦争と名付けた。そしてその結果は敗れた。然しその理想は等しく各国人の認めるところとなった。南方各国は独立を叫び、欧州各国は之を認めざるを得なくなった。…… そしてこの大いなる歩みの為に散るこそ悠久に生きる事であるのだ。

笠井次雄

 静岡県出身。元憲兵大尉。昭和22年1月9日、英国領北ボルネオ(現・マレーシア)ミリに於て刑死。28歳。

<遺書>

 天皇陛下の命に依り次雄は昭和二十年十月五日北ボルネオ「ミリ」に於て連合軍に降伏せり。昭和二十一年六月一日シンガポールに移され十月十七日英軍軍法会議に附せられ死刑を宣告さる。是れ運命なり。次雄は神の法廷に出頭し少しも怖れず神の判決を受くる事が出来た。次雄は唯皇国の勝利を希って実行したのである。此の任務の為に次雄は生来の努力の全部を投入した。それが罪禍であり得よう筈が無い。死に臨み父上母上、兄、姉、妹、弟の幸福を祈る。

  昭和二十一年十月十七日

<手紙>

 再び北ボルネオに行くべき運命になりたるを以て過去を思い一筆致します。次雄の心境は極めて落つき平静なる故此の点御安心下さい。

 次雄は昭和二十年一月十五日「ミリ」憲兵分隊長の要職に任命されました。…… ミリは泊田地帯でもあり重要地点なる故貴官に期待する所誠に大なりとの祝詞を頂き勇躍任地に到着したのでした。当時既に連合軍より若干の空襲あり、六月に入るや戦況は悪化し遂にミリにも連合軍の上陸となり日本軍は作戦上一時ジャングル地帯に撤退し約二ヶ月間交戦状態となり各部隊共に相当の損害を生じ次雄も直接部下三名を失いました。比の時次雄は既に死を覚悟していたのです。……

 次雄の事件は反日的原住民を日木軍律会議に送るべく憲兵隊に留置中連合軍と交戦状態になりたるを以てミリ地区最高指揮官相京大佐の命令に依り憲兵隊員が銃殺したので次雄は此の指揮官だったのです。日本人として軍人として当然やるべき事で正しいものと信じて実行したのです。

 次雄の裁判は部下九名と共に十月十四日より十七日の間にシンガポールで行われました。部下の中一名は死刑、二名は禁銅五年、一名は一年半、二名は一年、残り三名一は六ヶ月でした。部下に対しても申訳ないと思って居ります。今チャンギー刑務所に死刑を宣告された者五十一名居り軍司令官原田中将を始め少将二名、参謀とか将校下士官軍属等で皆大悟し死を超越し真に天国の生活です。食糧も豊富です。……

 終りに臨み次雄は決して軍人として恥ずべき行為で最後を終ったのでない、武士として日本人として当然なすべぎ事をたしたのである事を誓います。

 次維は短い人生ではありましたが今更何等心残りはありません。 唯父上、母上様に尽すべき時機のなかった事を申訳なく思っています。此の点は御許し下さい。

  昭和二十一年十一月九日

佐藤源治

 岩手県出身。水沢農学校卒業。元農業。憲兵曹長。昭和23年9月22日、蘭印(インドネシア)パタビア・チピナン(注:グロドッグともある)において銃殺刑。32歳。

<執行前日>

 更衣室で全部着替えて囚衣となった。跣足で独房に歩いて行く。山本閣下等が入っていた独房である。奥の方から浅木、佐藤、山畑、野中、斉藤、清水の順である。ゴミだらけの独房の板床の上に仰向いて寝てみたが何も考えるものがない。俳句、短歌もわざとらしく感ずるのでじっとしている。……昼食が来た。……別に胸に万感満ちもせんが、飯は食わない。

 大便をしていると検事が来た。所長とロシア人の通訳も来た。「貴方の嘆願書が却下になって48時間以内に…」と言い渡してから何かいうことはないかと云うから、「俺は死刑の執行を受けるが、心に何一つやましいところはない。君が云ったような、死者も怪我人もつくったことはない。しかし今助かることを考えているのではないから誤解するな。……その死に様をよくみておけ。……」。検事にいい終わってからニッコリ笑ってやったら、彼は泣きそうな大分困ったような顔をしていたが、さらに「一番先に執行してくれ」と云うと肯いて行った。……そのうちに私は浅木氏の室に入れ替えになった。執行順らしい。この室で坊さんと会った。いろいろとお話を承り涙が出そうであった。別れる時「野中、山畑、斉藤、清水達にはすまない。彼らには妻のある人もあり、片親の人もいる。その人達に同情し、お詫びしていることを坊さんの胸に入れておいてください」と頼んだ。佐藤師の悲壮なる決心をきき感謝に堪えず、安心して死んで行ける。

 便所用水に顔を映して眺める。これが自分の顔の見納めかと思って見ると、父の顔に似ているなと思う。笑ってみたりしかめてみたり。百面相をやってみた。マタハリの花が枯れるので、その水に挿してやった。明日まで咲いてくれと祈りながら。

 注)佐藤は日本軍の占領地(元オランダ領)スラバヤ で警備にあたっていた。敗戦後、オランダの報復の的は憲兵に向けられ、裁判は昭和21年8月5日から始められ昭和24年10月24日まで、死刑判決は64名に下された。善政の施いたとされる堀内海軍大佐も死刑、警察任務に当たっていた憲兵隊は根こそぎ死刑であった。佐藤は刑務所に入ってから獄中記を大量に書き遺しているが、それは軍用罫紙や周囲にあった煙草の巻紙や反故紙などあらゆるものを使っていて、それを後年遺族が整理しまとめ、私家版が出されていて、さらに1985年に『ジャワ獄中記』 (草思社)として出版された。その記憶力と筆力は優れていて、惜しいものがある。

伊東義光

 北海道出身、元憲兵曹長。昭和23年10月4日、インドネシア・セレベス島(スラウェシ島)「マカツサル市キイス兵営獄舎」に於て、銃殺刑。31歳。

<父上様>

 赤道遥かなる南溟の地より、義光は今次の戦争に際し南方ハルマヘラ島に上陸して転戦満三ヶ年、ひたすら報国の一念に燃えて御奉公にいそしんで来たのでありましたが、武運拙く敗れ去り二十一年六月セレべス島に於いて和蘭軍に逮捕拘留せらるる処となり戦争犯罪者として裁きを受くることとなったのであります。寿光の犯したる犯罪状況に就いては此処に詳述することは許されませんけれども将来必ず世に明らかとなり歴史が解決して呉れる問題であります。殺人其他世にいう破廉恥的なるものでは決してないのであります。即ち戦争中憲兵として当然の任務を遂行したることが国際法規違反となり所謂組織的テロ行為として其責任を問わるるに至ったものであります。 …… 私の裁判は本23年3月24日、和蘭軍マカツサル臨時軍法会議に於て部下と共に無期刑を求刑せられ、同年5月28日、同会議に於て其責任上死刑の判決を宣告せられたのであります。 …… 古今東西もののふにして戦いに敗れたるものの今日あるは元より覚悟の上でありました。願わくば父上様よりよくぞ責任を果したと誉めて戴き度いのであります。……

 私と運命を共にする人に中村益視という部下の軍曹があります。此人に対しては私は上官たる責任に於いて誠に相済まない次第であります。 …… 私の分隊長でありました大柴大尉、班長たりし古瀬准尉、分隊員たりし井手尾軍曹も運命を共にする戦友であります。 …… 義光の体は異国に滅びてゆきます。しかし義光の魂は必ずや父上と母上の御胸に永遠に生きてゆくでありましょう。

(なお、中村益視の遺書も伊東の内容に似ている。獄舎内で伊東のものを参考にしたものと思われる)

上野千里

 栃木県出身。元海軍軍医中佐。昭和24年3月31日、グアム島に於て刑死。43歳。(上野は昭和21年に復員し、実家の病院で診療を再開したが、翌年に米軍に逮捕され、グアム島に連行された)

 筆者前注:上野はいわゆる従軍医師で、西太平洋のトラック島の日本海軍の基地に勤務していた。トラック諸島は第一次世界大戦後の1919年に日本の委任統治領となり、軍人・軍属や民間人など約2万人の人々が暮らしていた。島には町が作られ、病院や小学校、映画館や料亭までが立ち並んでいた。太平洋戦争開戦後、トラック諸島は日本帝国海軍連合艦隊の重要基地となっていた。昭和18年(1943年)末、トラック環礁付近で米軍潜水艦が拿捕され、海軍警備隊は約50名の捕虜を収容した。翌19年2月、米軍はこのトラック島に大空襲を行い、その後も断続的に空爆は加えられた。そうした時期の出来事で、上野自身が妻に宛てた手紙の内容を簡略に記すと、—— 6月に米軍の空襲があり、当時収容中の米軍の捕虜5名の中、3名が即死、2名が大怪我を負った。その2名を手術で助けようとしたが、司令、副長はその2名を「片付けろ」と命令してきた。それでも自分は手術に踏み切ったが、その途中で呼び出され、その間に2名は他に移されて処刑された。その処刑の実行は自分の部下であったが、その部下の責任を負い、自分は米軍の裁判で死刑となった —— ということである。

 ところが客観的な記録によると、この年の1月から何度にもわたって、海軍第4艦隊所属の第4病院の軍医官らが医学的実験としてアメリカ人捕虜を使って生体実験を行なった。なおこの生体実験は陸軍の731部隊に遅れを取らないように計画されたともいわれる。その中の一つで6月、第41警備隊の警備隊病室で、軍医官らが、医学的実験としてアメリカ人捕虜1人を解剖し下士官に殺害を指示、同時に、別の捕虜1人を銃剣刺突によって殺害したとされている。終戦後、米軍から追及されることをおそれた司令部や第4病院、第41警備隊の関係者は、その事実が露見しないよう捕虜の死体を掘り返して海に捨てるなどして隠し、関係者に口止めをした。しかし米軍は徹底的に追求し、6月を含めた数軒を立件、グアムで裁判を行なった。

 そして判決が下った後の上野が妻に宛てた手紙は長く細々と事の経緯を記しているが、決して生体実験には触れていず、どこか言い訳がましい面がある。ただそれは妻や子供たちに対する心象を慮ったものだろう。以下はごく一部の抜き書きである。

<妻へ>

 (前略)…… 手術のことに関しても私は酷しい裁を受けましたが、このととに関する恨の連坐したのは司令と私の二人きりに止めることが出来ました。私は重い罰を受けたことよりも多数の部下が始めから起訴すらされなかったことの喜びの方が心の大部を占める自分が嬉しくあります。…… 部下の多数は … 新生日本の一員として私の分まで働いてくれるでしょう。文字に出来ぬ点もあります。お察し下さい。

 …… 私は人間の理性の限界を偽り多き彼等(軍人)の職業武士道の姿を自の辺りにまざまざと見せつけられて唯淋しく苦笑せねばならなかった。…… 斯る穀業武士道の小智が生み出した巧言に乗って悲惨な戦争に誘い込まれた国民自身も深く自らを省る必要があるのではないでしょうか。……

<遺書>(妻宛は略、五人の子供へ)

 …… 他に言わず、御身等心を合せ世の弱く貧しき人のため縁の下の力となる心意気を常日頃より養割れんことを。しかして世の正義の為、真の愛の為、美しき祖国の再建に挺身されよ。

 …… 日本の敗たるは当然なり。物資に乏しく科学性に稚なく、人心久しく腐敗し盲目なりしなり。日本の敗戦をこそ神の御摂理、聖なる裁きと心され喜びて新しき祖国の建設に身をもって一石を投ぜられよ。日本人は生れ変わるべきなり。

<遺詠>

 悲しみのつきぬところにこそ
 かすかな喜びの芽生えの声がある
 熱い涙のその珠にこそ
 あの虹の七色は映え宿る
(以下略)

 筆者後注:この遺詠はネット上でも引用され、上野医師の無罪をそのまま信じる方もいる。ただこれと類似した例として、中国の山西省で731部隊の生体実験に関わった一人の医師がいて、彼は戦後も中国に残り医師として働き、その後共産党政権樹立により改めて戦犯として捕らえられ、数年以上に及ぶ調査でその罪を認めた結果、他の戦犯とともにほぼ全員が釈放された(撫順の奇蹟)。その彼は生体実験に関わってはいたが、戦時下の異様な状況の中で、それが犯罪であるという認識はまったく持っておらず、だから戦後も中国に残っていた。そしてこの上野医師も戦後一旦日本に帰還して実家の診療所で働き、何の咎を受けるような意識も持たず医師として暮らし始めたところで召喚されて逮捕されたわけである。この片方の医師の詳しい経緯については筆者の『各種参考資料』の中の「慈恵医大卒業生:湯浅謙の軍医体験」を参照。

半沢 勇

 福島県出身。安積中学校卒業。憲兵曹長。昭和24年9月26日、ジャカルタ・グロドックに於いて刑死、31歳。

<遺す言葉>

 (前略)……

 私個人としては又私に連なる親族に不幸を及ぼす責任を痛感し、信義、友愛を立てその範囲内に於て最善を尽し彼等に与える悲嘆を減少すべくこれ努めてきました。人事を尽して天命を待つ、天は自ら助くるものを助く。誠に御承知の如く未だ前例もない程に「ベルグ」氏や裁判長が決然として私の為に助命奔走して呉れました。冤罪を被って居る私として、それは当然の様にも見えますが、実際には理論の通らない人間感情の渦巻の中では、通常こちらの言分は笑殺されても如何ともなし得ね悪条件の状況にあっては殆ど不可能と思える事でした。両者の助命努力によって九ヶ月も執行延期となり一時は有望視されたのでしたが衆寡敵せず軍配は上りました。

 結局死刑の結果そのものは同一に帰しましたが、私の死刑が過重である一立証がなり、人間的には両者の努力に感謝が湧き、到底真実を知るに困難な問題が、急速に理解される運びになったところに、有形無形に天恵あるを知ります。この両者が私の予審官と裁判官であったら …。それは時既に遅く正に運命の皮肉であります。然れ共私によって最大の打撃を受ける妻子も之等の事情を知れば、悲しみの中にも自然に慰められ、又私の妻子を愛する心に喜びの湧くことを汲みとられる事と信じます。只今これを書いている途中に松浦氏が来られ一時間快談致しまして帰った許りです。今日は25日昼少し前、執行は明朝、至極元気ですから御安心下さい。……

 今佐藤氏が来てお経を読んで下さったり、一緒にお話をして帰りました。もう執行を待つ許り、今夜はゆっくり眠って酷使した肉体を休ませて、おさらばしようと思って居ります。……

 では一日も早く御帰還される事を祈って、あなたの御家族様方にも宜敷。(後略)

  九月二十五日午後四時

<家族への遺書>(略)

<独房悲歌>

1)死ぬ意義

 何の為に死ぬのか、いや死なねばならぬか、一応は死ぬ者にとって考へねばならぬ問題である。犠牲、だが何の犠牲か。日く、日本の再建の為の、否、報復の犠牲であると。 松田長官は、犠牲でも何でもない全くの犬死であると云っていた。

 又、犠牲との見解を持する側にも三色あって勝村少佐は、日本再建の為の犠牲であって有意義であると提唱していた。和田大尉は、犠牲は犠牲であっても、報復の犠牲であり、無駄死であると云い、浅木少尉は犠牲が有意義であるか、無駄になるかは、将来の日本人が立証して呉れるものであると折衷説をもっていた。……

 谷口少佐が、処刑の寸前にすら自分は何の為死なねばならぬかと云っていたが、人間として理性が働く以上は、思索し、死ぬ迄に、一通り頭の中を整理して置きたいと努力するであろう。…… 然し納得しようがしまいが、否応なしに、刻々と時が、死を強要しつつあるところに言い知れぬ苦悶が内在して居る。……

 何故であろう。云う迄もなく、吾々が過去に於て教育された死生観は、ここで通用しないのだ。即ち青年が、これまで教育された天皇陛下のために笑って命を捧げる日本軍人の死生観原理は、何の勇気も与へず、それをロにする者も居ないのは悲しい限りである。

 臨終の際、天皇陛下万才を三唱するのは日本軍人の典型であり、それが国運の隆運を祈る日本人の表徴でもある。山畑君が出発の前日、天皇陛下万才を言いたくないが、云わないと残った家族が苦労するであろう、家族のために万才を云ってやるかなと、さびしそうに云っていた。又橋本君は刑場に発つ前迄、天皇陛下万才を三唱しないと云って居たそうである。……

 青年が純粋に信じていた筈の確固たる何かを見失うと同時に、凡てが瓦解したのだ。死ぬ者にとっては、退廃的な虚無感で充満し、和田大尉や山根軍医が、地球が破裂して一切が消えれば好いと云ったが、その心は寂寞として荒廃なるを知らう。後日和田大尉が逃亡するに及んだ一端も窺知できる。死ぬ意義を発見納得し得ない苦悩が深刻な一面を呈している。

2)覚醒と後悔

 漸く青年期に達すると兵隊に入り、戦争に従事して来た吾々青年は、国家社会、政治は勿論、自己の人生にすら無批判であったと云えよう。一途に養なわれて来たものを信じ、それが凡てであり、忠節を尽すことによって報いられるものが何であるか、深く考えてみる必要はなかった。只尽すことが要求され居り、そして尽すことが吾々の道であった。

 それが終戦後、殻を破られ、吾々が嘗て想像しなかった事態が展開し、宛然傾倒した感がある。昔売国奴と呼ばれて国外へ隠遁して居た者が、(戦後になって)今や逆転し、檜舞台に立って指導して居る。

 悪と信じて居たものは、実は悪でなかった。これが人生の最高と思って居たのは、無智以外の何ものでもない。ここが難しい問題であろう。覚醒した時は万事休すである。そして一切を運命として諦めんとする。何れにしても諦めざるを得ない問題であるが、諦めは諦めとして、常に精神と内訌の起るのは当然であろう。

 覚醒が希望となり、発奮となる立場と異り、覚醒は後悔になって、責め、萌芽せんとする思念は、自ら断たねばならぬ。無智なる者は、無智なる時に死んだ方が楽であると思う。ここに彼等が苦悩の痕を見逃せない。……

3)死の恐怖

 必然的に経験しなければならない究極の問題は死であるが、判決後、処刑の期日が迫るに伴い、刑場の情景を思い浮べて種々の空想をしているらしい。太田伍長は、室内で、一人刑場に歩む練習をして居ると話したことがあった。来る処まで来れば、死そのものは恐れる筈がない。銃口の前に立つには、そして息の根が止る迄が最も気掛りのところである。

 意識して銃口の前に立つには、相当な勇気がいる。宗教的な信仰も何もない吾々青年は日本人の意気だけで頑張れるだけだ。人に笑われたくない。それだけに真剣になってる努力が見える。

 処刑直前、和田軍曹が小さい堀を見て、「この川は、何処へ流れる河か」と訊いたのは判断に苦しむが、山根軍医が、見るもの総て清く美しく見えると云ったそうだが、実際そう見えるのだろう。橋本君が坊さんに「先になって歩いてくれ。俺は後から一人で行く」と云って凄愴な笑を浮べたと云うが、それは坊さんの臆病な見方か。が、人の真剣なるや、霊気が漂うことは肯ける。清水君が太陽を見て美しいお月様が出たと云ったのは間接的に聞いたのだが、鬼気迫るものがあろう。……

4)情懐

 彼等青年の九〇パーセントは、独身者で入営以来郷里に帰ったことの無い人も多い。

 嘗て、独房に「咆哮」という名で、各自の寄稿を編綴したものがある。毎月二回発行して独房を回覧して居るのを見て、自分も一度投稿したのを覚えている。それを一読して彼等が如何に肉親を追慕して居るかを見る。

 十年余何時かは再会を期待しつつ今日に至った時、つらつら秋風の淋しさを感じたと云うように、遠慮勝ちにその気持を叙して居る。それは弱味を見せまいとする努力も窺われるが一般に「咆哮」に書いたものは真に迫って胸を突く底のものはなかったようだ。…… 然し実際は、日常二、三人集ってしんみり話すところに、真実が浮んで居る。自分と同期生の佐藤君の厳父は、同君の死刑を知って驚き、そして如何なる重罪を犯したかと嘆じた便りを寄越したらしい。佐藤君はそれについて苦悶していた。何時かは戦犯の性質について理解される日が来るであろう。少なくとも、肉親にだけは理解せしめねばならぬが、それは又別な問題である。実際肉親からも重罪を犯したように思われるのは救われ難い苦痛であろう。……

5)自覚

 精神的準拠は覆り、虚無と絶望から危く崩壊せんとするのを強く支へて居るのは、日本人的自覚であろう。その自覚を更に確固たらしむるのは、直接間接に激励する同胞の存在であろう。日本魂は、幾多の苦悶を包蔵しながら、強く堪へ、顔で笑うことが出来るのである。

 日本人の意気を見せようと、寧ろ積極的な勇気が湧いてくる。上杉、野中君が、一暴れして死に花を咲かせようかと考えていたが、全体のためを考えて、躊躇していたのは必ずしも純粋な意味に於て壮と云へないであろうが、最後迄斗魂に燃えて居た点、異なるものがある。特に終始悠然とした恬淡さで一際目立ったのは、吾々より一代古いが、岡田少佐であろう。彼は動もすれば、沈滞的な空気を醸す状況にあって、後輩を導かんとして、一歩進んだ自覚の上に立って居た。……

 21年11月下旬、山本中佐が自殺する時、自分は隣室にいて、その断末魔の唸り声で目を覚ましたが、彼に就いては精神的な噂もあるから原因について知り得ないが、その後、岩政大尉が自殺したのや、スラバヤに送られた実松曹長、又久米曹長の自殺を、肉体的苦痛を与へられたとしても、よしんば肉体的苦痛が直接の誘因だと譲歩して考えても、彼等の心底を洗れる孤独感と絶望感を看過することが出来ない。

6)宗教

 自分が独房に来てから、嘗て宗教の話は口にでた事がなかったと云って過言でない。最近老人が独房に来てから一部に、仏が有難く涙がこぼれると云うような事を云い、仏にすがって彼の世に渡らせて貰うべく、熱心に南無阿弥陀仏を唱へて居るが、これとて話を聞けば終戦後の信仰らしい。……

 吾々青年に宗教心がないわけではない。その大部分は宗教を知らずに来たと云った方が適切であろう。生れたときから祖先伝来の宗教がある筈だが、…… ここで云い得るのは、人間が全く孤独に陥った時に、空飛ぶ鳥を見ても羨む、無力な弱い一面を知ることができるし、天皇陛下のために笑って死ぬべき筈であった日本人が、笑って死ねなくなった時、淋しい空虚を感ずるであろう。……

 はしなくも敗戦によって、従来の日本人的死生観に大きな弱点を発見した。神聖な国体を汚されたことによって、従来の国家理念に鋭いメスが加へらるべきは必然である。将来天皇中心主義者が、独善的一方面に陶酔することは不可能になった。

 この戦争を通じて、最大の犠牲を払ったのは、吾々青年の上に見られる。何百万の英霊は何の為に死んだか。南無阿弥陀仏を唱へたか、アーメンと十字を切ったか、否、天皇陛下万才を叫んだことは誰も疑はないであろう。日本人の血を感じる者、誰しもが知るところである。その崇高たる犠牲に、讃美の声を禁じ得なかった吾々は、彼等何百万の戦友が、魂の真の叫び、天皇陛下万才に改めて耳を傾けようではないか。そして又、尚天皇陛下万才が続いて居る。その犠牲に吾々は最早や嘗ての崇高なる感激を貰えるより、悲痛な哀感が強く響いて居る。独房から消えて行った、吾々とその歩みを同じくする青年が秘める苦悩、笑って訣別の言葉を交す裏面に漂う悲痛なる声は、彼等の奏する悲歌として共に味う何かを教えられる。……

台湾・朝鮮人軍属の刑死者

 以下は日本語で書き遺したものに限られている。

 —— 台湾 ——

 BC級戦犯裁判では台湾人173人が有罪となり、21人が死刑となった。そのほとんどが軍人ではなく、日本軍に雇用された軍属で、捕虜収容所などの監視員の立場であった。

安田宗治

 台湾、台北州文山郡出身。陸軍軍属。昭和21年5月23日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(注:名前はおそらく日本名)

<遺言>

 昭和十七年十二月に新嘉披(シンガポール)の富集団司令部勤務となり、スマトラ馬来(マレー)の各地に赴き昭和十九年五月にニコバル島(印度洋上の島)第三十六旅団(斉部隊〉司令部に転勤し、昭和二十年七月五日第一戦傭中にスパイ団を検挙し、命令に依り被疑者の取調を命ぜられました。

 日本軍降伏後に連合軍より摘発(拷問の廉に依り)され、昭和二十年十一月四日収容されて取調を受け起訴されて、昭南チャンギ(刑務所)に送られ、連合軍軍事裁判に付されて、死刑を宣告されました(昭和二十一年三月二十六日)。同年五月十六日に死刑確定を言渡され二十三日午前死刑執行を宣告されました。

 私が斯くの如き運命になりましたのも全く公務上に於ける責任の犠牲となったのです。母様や兄様や妻子を残して死んで行くのは止むを得ない。その点どうか理解して万事あきらめて下さい。…… 私の遺留品としては貯金通帳だけでありますが、連合軍の方で届けて送って下さるかどうか …… 左記の通帳番号及記号を書いて ……私が「ニコバル」へ赴任の途中遭難しましたから今迄の所持品は皆海没してしまったから(他には)何もありません。……

 …… 死の前夜に際し右遺言して置きます。

林 金隆

 台湾出身。陸軍軍属。昭和21年7月17日、マニラに於て刑死。

<遺言>

 大君に生命捧ぐるは/もとより台湾青年の道なり/いやしくも屍を戦場に散らすは/台湾青年の常なり/我は大日本帝国の為に/犠牲となりて天国へ行く (判決直後、四月三十日)

 第四キャンプ第一中隊通訳 中村様/台湾中隊 張楊栄様

 戦友の皆々様御元気でいられるよう。事件に関しては種々お世話になり厚く御礼申し上げます。皆々様の御努力の甲斐もなく四月三十日午後一時半絞首刑の判決があり只今第一キャンプにいる。もう死を待つばかりだ。末広軍医様の証言は非常に良好だった。厚く感謝している次第である。高崎の爺さんは何処までも責任を逃れようとして此の件に関しては未だカバナツアン(フィリピン・ルソン島の都市)に赴任していないと(嘘を)証言した。さすがの弁護士(ゴートン中尉)を始め田口通訳も之には困った。でも高崎は検事から突込まれて罪にせられようとしている。ではご健康を祈る。

林 江山

 台湾、台中州出身。元陸軍軍属。昭和21年8月30日、濠洲ラバウルに於て刑死。(日本名:林 義徳)

<絶筆>

 A群諸兄へ

 永い間御世話に預り誠に有難う御座居ました。感謝の言葉も御座居ません。只管(ひたすら)諸兄の御健康と減刑を祈って居りまずから。

 皆様さようなら行って参ります。

 御国に捧げまつらん若桜、ここラバウルに今ぞ散り行く

 友より花を贈られて(漢詩、略)

王 壁山

 台湾出身。ボルネオ捕虜収容所軍属。昭和21年10月18日、ラバウルに於て刑死。

<遺詠>

 蓬莱の島の若草もラバウル島に散るが悲しき
 友よ泣いてくれるな明日の光を心に秘めよ
 今日の日を神様は何と母に知らせていよう
 仇を友に頼みつつ我は散って行くなり

李 琳彩

 台湾、新竹州出身。元陸軍軍属。昭和21年10月18日、ラバウルに於て刑死。27歳。(日本名:鈴木三郎)

<遺衣言>(襦袢の背に血書したもの)

 母親大人尊前児大不孝平常膝下

(母上の御前、大不孝な子が膝下に跪いております)

蒋 清全

 台湾、台南市出身。元陸軍軍属。昭和21年10月18日、ラバウルに於て刑死。(日本名:川上清)

<絶筆>

 順逆不二 生死一如(敵も味方も生死一如です)

 恩親平等 是信仰法悦(恩讐を越えて仏の教えに喜びがある)

 「波羅蜜多恩愛越之涅槃像」(パーラミターにより恩愛を超える涅槃像に)

李 安

 台湾、台南州嘉義市出身。元陸軍軍属。昭和22年4月18日、広東に於て刑死。

<遺書>

父宛

一、我誓って国法を犯さず/二、一妻一子あり/三、他人と金品の貸借なし/四、我処刑さるるも、何人と雖も之が報復を許さず

董 長雄

 台湾、高雄県出身。元陸軍軍属。昭和23年6月22日、蘭印(ジャカルタ)、グロドッグに於て銃殺刑。(日本名:玉峰長雄)

<遺稿>

 本職は台湾人である。あるが故に一身を捧げ妻子を犠牲にして法廷に於て最後の一線を守り、そして散るのである。日本のためを思って終始一貫の信念を守って戦ったのである。そして国家の所属が変わっても本職は日本軍人として死んで行きたいのである。

 ……

 若し此の裁判は「正義の為」と言わずして報復と呼称せば本職は死刑に処されても何をか言わん。…… 何が正義だ!何が裁判だ!

 最後の御願いに将来大日本帝国が復興せば、どうか本職の一子董英明を政府に於て日本教育を恵み給わらん事を御願い申しあげます。 昭和二十三年二月

黄 来金

 台湾、台中州出身。元陸軍軍属。昭和23年8月16日、濠洲ラバウルに於て病死。25歳。日本名:横田金蔵。

<吾が父母上兄妹様へ>

 遥かなる故国を出て千里波濤を乗り越えてボルネオで三年余も苦労艱難と戦って九死に一生を得、不幸にして今や上官の命によりまして、濠訓俘虜虐待事件で此の戦犯生活に落ち入り日々の汗水の流れを堪え忍んでも前途に希望を待って居たが昨年の十一月頃胸部疾患にかかり約八ヶ月の一長い月日を只無駄に費し、療養の甲斐もなく日を重ねるにつれて病の状態は益々悪くなり、甚だ大不孝者でありますが、母上様より生を貰って彼此二十五年になり、父母上に御心配許のお掛けし、孝の一分も尽し得なかった事は、不肖として実に最大の「なやみ」であり、先立って此の世を去る事は重大な不幸でありますけれ共、不肖の運命と諦める他どうする事も出来ません。万事謝罪をお願い申上ます。…… 不肖としても父母上兄妹を一目見て死に度いが現在の環境ではそれも出来ません。…… 吾が家の万事は懐しい兄上様に是非お願い申上げます。不宵は当地で永遠の眠りに就きますが、此の魂は皆々様を見守って行きます。……

 では父母土兄妹様よ、これを以て永遠の別れといたします。呉々も御身体在御大切に。総て運命と御諦め下さい。さよなら。

 —— 朝鮮 ——

 BC級戦犯裁判では朝鮮人148人が有罪となり、23人が死刑となった。そのほとんどが軍人ではなく、日本軍に雇用された軍属で、捕虜収容所などの監視員の立場であった。

金 栄柱

 朝鮮、慶尚南道出身。陸軍軍属。昭和21年7月30日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名:金城健之)

<遺言>

 大変動の悲運に遭遇して過去を顧み、立派な人聞になって最後の道に進みます。長い間色々お世話になりましたばかりで、親孝行一つぜず死んで参りますことを深くお詑ぴ致します。今後米国を頼りに立派な国を作って下さい。人間的に間違っていた私の行為に就て、私は責任を負って死んで行きます。唯々皆様の御健勝のみを祈って居ります。親戚の御一同様によろしくお伝え下さい。

 妹宛

 妹達よ、宰せに暮して下さい。未だ見ぬ妹婿に対しても会えないことが残念だが、どうか末長く妹を可愛がってやって下さい。

張 水業

 朝鮮、平安南道出身。陸軍軍属。昭和21年11月22日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名:小林寅雄)

<遺言>

 私は昭和十八年より二十年迄馬来(マレー)俘虜収容所職員としてスマトラ、 バンガランバイ等に勤務して居りましたが、終戦後此の間の俘虜の取扱に関し戦争法規違反として起訴せられ、昭和二十一年九月五日死刑を宣告せられました。何事も運命と思い諦めて下さい。

 本当に長い間色々お世話になりました。只々皆様の幸福を祈って居ります。

 正義 平和 親愛 希望 永遠に忘るベからず

姜 泰協

 朝鮮、忠清南道出身。陸軍軍属。昭和21年11月22日、シンガポール・チャンギに於て刑死。27歳(日本名:岩谷泰協)

<遺言>

 私は昭和十七年より二十年迄泰(タイ)俘虜収容所に勤務して居りました。終戦後俘虜の取扱に関し戦争法規違反として起訴せられ、昭和二十一年八月二十二日死刑を宣告せられました。何事も運命と思い諦めて下さい。

 本当に長い間色々お世話になりました。只々皆様の幸福を祈って居ります。

 永遠の東洋再起は東洋人の手に、肉体は死去するも霊魂は不滅なり

  悲命二七青春

 筆者注:上記の張水業と文面が同じで、死刑の日も同じ、遺言は日本人が関わっているのかもしれない。今一人、金貴好(朝鮮、済州島出身。陸軍軍属、日本名:金岡貴好)も同様の文で、彼はジャワ俘虜収容所職員でモルッカ諸島、アンボン島などで勤務していた。以下は金貴好の遺詠。

 ——「時知らず夜雨に眼を醒まし 明日より宿る床が気になる」(処刑前夜の断想)
 ——「文武 ぶんぶと 飛び交う蚊の声も 戦犯 せんぱんときこえて 心いたし」

千 光麟

 朝鮮、京誠府出身。日本陸軍軍属。昭和22年1月21日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名「千葉光麟」)

<遺言>

 私は昭和十八年六月頃、泰緬(鉄道)線トンチャンという処に於て英軍停虜約二百五十名を管理して居りました。終戦後この俘虜の取扱に関し(患者俘虜作業提出の件、糧秣不足の件、衛生設備不完全の件、一名病死の責任を問われ)戦争法規違犯者として起訴せられ、シシガポール英軍々事法廷に於て昭和二十一年七月二十三日死刑の宣告を受けました。

 私の死に対して皆様悲しく思わないで下さい。私が愚な為に皆様を心配させました。私は皆様の幸福を祈って気持よく昇天し、再び現実界に生れ更って常に皆様のお傍におります。……

 兄様、手助もせずに心配ばかりかけましたね。弟よも私の気持を察して元気でやって呉れ。何時でも私は守って居る。嫂様様、男の子が生れたら二世の私と思って下さい。幸福を祈ります。

 父様、母様、自分の大好きな父母様、毎夜天地神明にお祈り下さいましたその御恩に報いもせずも死んで行く不孝の罪をお許し下さい。…… 皆様の幸福を祈りつつ、東洋平和の犠牲として潔く散って行きます。

趙 文相

 朝鮮、開城府出身。陸軍軍属。昭和22年2月25日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名:平原守矩)

<遺書>

 阿部中尉宛

 阿部さん、色々有難う。満ち足りた気持ちで行きます。

 「ガチャン」と共に開けるであろう豁然としたものを信じて私は行くのです。晩餐の後から台に昇るまでの迷いを少し書いてみましたから御笑覧の程を。先づP(死刑囚房)の原田閣下におあづけしますから末永く幸せに強く明るく生きて下さい。

  二十五日午前六時三十分

 若松大尉宛

 しょげたら駄目だよ。待っています。元気でついて来て下さい。「余り大したもんぢゃないですよ」体は腐っても必ず魂塊は何とか在りつづけます。故国日本、朝鮮のいやさかを祈って行ったと言ってやって下さい。(二十五日)

 胸中何の不安あるなし。

 初めて識る大なる悲観は大なる楽観に一致するを

 蓋し真実なり。悠々たる大自然に帰するのみ。

<壁に残した言葉>

 よき哉 人生/吾事 了れり

(注:彼はクリスチャンの家系であり日本語も英語も達者で、泰緬鉄道の捕虜収容所の通訳であった。「手記」として『遺書』には刑務所内の様子を記した長文があり、性格は朗らかで常に周囲に気を遣って話しかけている様子がある。惜しまれた人物であったろう)

金 長録

 朝鮮、全羅北道出身。日本陸軍軍属。昭和22年2月25日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名:金子長録)

原田閣下

 閣下の言われた事をそのまま信じて行きます。お元気で。この気持を言い表すことが出来ません。うれしいような、よかったというような気持です。うそぢゃないです。

ほんとにお世話になりました。元気で行きます。

(注:上記の趙文相と同じ立場で、同じ日に処刑された。最後の晩餐では「あの世ではまさか朝鮮人とか、日本人とかいう区別はないでしょうね」とつぶやいたという)

朴 栄祖

 朝鮮、慶尚南道出身。陸軍軍属。昭和22年2月25日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名:新井宏栄)

<落首>

生神と云える我輩も死ぬとなるとかなわん
「万歳」と昇る絞首台へ碁石を持ち行くらん
生ける屍数減りて、残る者の影淋し
降るなかれ雨様よ、俺の墓穴に水溜らん
死を待つ者にも、ねむりは襲う
最後の壮行会に臨む気持ちも爽かに
昨日より降り続く雨も吾去る朝に上らん
死を前にして爽やかな笑顔、東より昇る朝日の如し

(注:同上である。「碁石を持ち行く」というのは、死刑囚仲間で碁を打ち合って楽しんでいたことによる。また最後の晩餐会の前、のど自慢大会も開かれたという)

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