中国における日本軍の年月日別空爆全記録
(大正時代から31年間の記録)

この記録について

 まず、この記録をまとめる必要を感じたのは、もともと筆者が『わが町の戦争と世界』のテーマのもとに(今は『日本の戦争』とした)、まず太平洋戦争下の東京都の米軍による空爆の被害記録から書き始め、その過程で日本の関わった戦争を明治時代から遡って調べるうちに、日中戦争(支那事変)下において日本軍の中国への爆撃の多さに目が行き、それは『海軍の日中戦争』(笠原十九司:平凡社 2015年)の巻末の「日中戦争期海軍航空隊機主要爆撃箇所一覧」を見たことがきっかけで、公平を期す目的で中国の被害記録も詳しく調べてみようと考えたことによる。

 以下の記録は、日本の書籍・新聞等の資料、中国の書籍等渉猟し、日本軍の中国への爆撃記録を混成して年月日順に編集したものであるが、日中戦争開始の1937年半ばからの爆撃記録は凄まじい(あるいは狂気に満ちた)の一言につき、太平洋戦争におけるアメリカ軍の日本への爆撃を、その年月、回数、範囲においてはるかに凌駕する。そのこと自体がわれわれ日本人には知らされていないことをまず知らなければならない。例えば『空爆の歴史』(荒井信一:岩波新書、2008年)には、戦後に作成された中国国民政府の統計では1937年から1945年まで八年間に中国各地に展開された空爆回数は1万2592回とあり、死者33万6千人、負傷者42万6千人とある。相対的に見て負傷者の数が少ないが (一般的には負傷者は死者の2倍程度、ただし東京大空襲に限っては、北風の強い日で猛火に包まれ死者の数のほうが多い) 、数字に多少の前後があるとしても、隠された事実としてはあまりにも大きいものがあった。一つの国に対する空襲・爆撃の数としてはダントツに大きい数字であり、比較的よく取り上げられる重慶に対する空爆も、この全体の爆撃のごく一部(218回)に過ぎない。また太平洋戦争における米軍の空爆による日本人の死者は約50万人とされ、そのうち広島・長崎の原爆による犠牲者は20万人以上、また東京大空襲による大火災での死者は10万人以上、その他では20万人弱となるが、それと比較しても知らないですますことはできないと理解できるであろう。そうした事実を明示するために(逐一読まれるものではないことはわかっているが)、調べることのできた範囲での記録はほぼすべて記入し、その意味で1万2592回に届かないとしても「全記録」とした。

 それと同時に、この日中戦争間の日本陸海軍の飛行隊の爆撃の多くは、中国の大地各地への陸軍の侵攻に協力して先んじて爆撃したものであり、その後地上部隊が各都市を占領していくが、そこから占領軍兵士たちの目を覆う暴虐行為が始まった大きな例が、いわゆる南京事件であり、それはたった一ヶ月程度の出来事であったが、それまで南京へは4ヶ月以上にわたって海軍飛行隊がおよそ120回の空爆を行っている。一番多く爆撃を受けた重慶との違いは、重慶は蒋介石国民党軍が最後の防衛の拠り所とした中国奥地の山々に囲まれた天然の要衝都市で、日本の地上軍は攻略することができなかった。そのため空爆を繰り返すしかなく(重慶と同じ四川省の商業都市成都も同様)、それだけでも多くの犠牲者が出たが、南京のように日本陸軍の占領による悲惨な暴虐行為(大量虐殺)を受けることはなかった。それでも南京事件は初期(初年度)の一都市の大きめの事件に過ぎなかったこと、実際には日本軍が侵略し占領した中国の多くの地域で、8年の間、同様の暴虐行為(爆撃・虐殺・強姦・略奪・放火)が繰り返されていたこともほとんど知られていないし、その虐殺の犠牲者の総数が(戦闘による戦死者数を除き)一千万人をはるかに超えるとは誰も想像ができないであろう。同様に重慶への爆撃も中国全体の一部に過ぎず、重慶だけを取り上げると片手落ちになる。

 これらが中国住民に与えた深刻な被害がどれだけ大きなものであったか、この記述の中でも中国側の資料と合わせて多少触れていくが、全体的には筆者の「日本の戦争:昭和編」のなかで明らかにする(南京事件の客観的事実関係に関しては筆者の「昭和12年」の項を参照)。今や南京や重慶のことばかりこだわっている時代ではないことは以下の大量の記述をざっと眺めてもらえるだけでわかっていただけると思う。

参考資料

 この空爆関係の日本側の参考資料については以下である。

 まず『海軍の日中戦争』の巻末付録「主要爆撃箇所一覧」(主に防衛省防衛研修所資料室の各種資料によるとしていて、これは1937年8月14日から1941年9月15日までであり、この後海軍航空隊は太平洋戦争開始準備に向かい、中国から撤退し、それ以降の記載はない)に書かれている各爆撃地の大まかな位置関係を把握するための省市を特定していった。実はこれが簡単な作業ではなかった。次に日中戦争中の『支那事変画報』(大阪毎日新聞/東京日日新聞社:太平洋戦争後は『大東亜戦争画報』となる)のデジタル版であるが、それをまとめた『戦時グラフ雑誌集成』(一ノ瀬俊也編:柏書房 2019年)を利用し、これは当然陸海軍両方の航空隊(当時は空軍はない)の爆撃記録であるが、それにすべてが載っているわけではなく、それに加えて図書館で当時の日本の新聞記事(毎日新聞)の日々の爆撃記録を拾い出していった。この作業は一人のスタッフに担ってもらったが、今はいちいちページをめくらなくても電子的に検索できるので時間はかかるが収集は困難な作業ではなかった。これらには中国側の資料にもない記録が多く、相当な量に上った。

 陸軍の爆撃記録『戦史叢書:中国方面陸軍航空作戦』(防衛省防衛研修所戦史室:朝雲新聞社:1974年)は特に海軍撤収後(1941年9月以降)の陸軍の事績に詳しいが、それでも全体のごく一部に過ぎず、また満州と華北における関東軍飛行隊の活動(特に反日ゲリラ隊に対するもの)はほとんど収録されていない。それに比して役に立ったのは『日本陸軍のアジア空襲』(竹内康人:社会評論社 2016年)、また同人が収集したサイトにある「戦争の拠点・浜松:中国侵略戦争と浜松陸軍航空爆撃隊」その他「アジア太平洋戦争と浜松の陸軍爆撃隊」などであり、その記録は日中戦争以前の事績(特に1931年の満州事変以降から1937年半ばまで、つまり関東軍の爆撃)が比較的詳しく、他にないものとなっている。

 次に少量であるが、『(別冊1億人の昭和史)日本航空史:別巻3』(毎日新聞社 1979年)、『満州方面陸軍航空作戦』(防衛省防衛研修所戦史室:朝雲新聞社:1972年)などは作戦の記載ばかりで実際の爆撃記録は極めて少なく、『日本陸軍重爆隊』(伊澤保:徳間書店 1982年)、『重慶爆撃とは何だったのか』(戦争と空爆問題研究会:高文研 2009年)も同様であった。また『重慶大爆撃の研究』(潘洵:岩波書店 2016年)は重慶への爆撃記録が詳細に記されているが、一通り書き終えた後に知り、その大半は記載済みで一部を補填として使った。『海軍航空年表』(海空会編:原書房 1982年)は主に初期からの飛行機史を参考にした。他にも陸海飛行部隊在籍者によって戦後に出版された本は様々あるが、「わが部隊はいかに戦ったか」という、それこそ上(上空)から目線のものが大半で、被害側の視点は皆無でほとんど参考にできなかった。同様な目線の戦記物は多く出されているが、なんのために書かれているのであろうか。

 筆者にとっての基本的問題は、最初に東京都で記述したように被害者側に立った記録であり、その意味では上記の竹内康人の扱った参考資料に触発され、直接中国からその資料を取り寄せ、翻訳ソフト等の助けを借りて空爆に関する被害者側からの記録を逐一拾い出していった。その資料は主に『日軍侵華暴行実録(第1−4巻)』(近代史資料編集部・中国抗日戦争史学会編集:北京出版社 1997年)と『侵華日軍暴行総録(中国28省の記録)』(李秉新・徐俊元・石玉新 主編:河北人民出版社 1994年)であり(ただし『暴行総録』は広東省などまともに記録収集がなされていない省などいくつもある)、この二つは資料の元が省によって近似しているものもあり、逆に重なっていないものも多くあり、それは元にした各地方の資料の違いによるものとわかる(また両者とも満州事変から日中戦争までの記録がほぼないが、それはその時期には取り上げるべき事実がさほどなかったということでは全くない)。また『日本侵華図志(全25巻のうち第14巻「無差別爆撃」)』(山東画報出版社 2014年)は爆撃被害の写真が中心とはいえ、結果的に筆者が収録した件数の1%にも満たず、被害側の記録としては努力不足の感が否めないものであった。『中国抗日大事記』(斎福霖編:北京出版社 1995年)は満州事変からの編年式記録であるが、中国側から見た戦時下の主な出来事、トピックをここから拾い出している。

 それと別に、事前爆撃の後に地上軍が侵入して行われた残虐記録についても『侵華日軍暴行総録』と『日軍侵華暴行実録』から任意に抜き出して要約したが(中国側のネットのサイトからも多少ある)、その悲惨な内容は想定をはるかに超えるもので、翻訳することと、それを書き写すことが辛くなることが度々であり、途中でやめた場合もあった。それ以外に陸海軍飛行隊の爆撃が関わっていない日本軍の侵略各地における暴虐行為は枚挙にいとまがないほど記載されているが、ここではそこまで扱っていない。

 同じ記録でも日本側と中国側の違い(つまり加害側と被害側)の内容が大きくへだたる場合もできるだけ併記した。日本側の記録はあくまで「無差別爆撃」など行っていないという原則のもとでしか書かれていず、例えば都市の市街地(繁華街)に対する爆撃は、記録されていないか、記録する場合「市街(市内)の軍事施設」と記していて、普通、市街に軍事施設を設ける例はないといってよく、韜晦した表現であることは目を通していただければわかる。さらに日本側の記録にないものでも、偵察飛行中に住民が何かの市が催され街中に集まっていると見るや、引き返して爆撃あるいは低空で機銃掃射して多くの死傷者を出している中国側の記述はいくつもある。これこそ無差別爆撃の典型である。

 いずれにしても日本軍は1937年8月から1941年9月までは、天気の悪い日を除いてほぼ毎日、少なくとも1日に数回(数カ所)、多い日は10カ所以上も各都市に出撃して爆撃を重ねている様子は驚くものがあり、皮肉にも日本人の勤勉さを裏付けるものとなっている。また毒ガス弾投下や731部隊による細菌散布についてもできるだけ挿入したが、毒ガス弾使用については以下の「初期航空史」でも触れるように、1919年という早い時期から日本ではその使用を目的に陸軍が化学兵器研究所を設置していて、その後その投下訓練を国内でも行い、終戦の年まで毒ガス作戦は行われている。

 総じて爆撃による死傷者の数などが記されている場合、当然ほとんどが中国側の記録からであり、それらを混成して並べているからその表現によってどちらの資料かを判断していただきたい。特に日本側の元の資料では爆撃した地区名しかない場合が多く、それでは広大な中国内での位置関係がわからず、またその事実を事実として確認するためにもネット上で検索し、その拡大した地図などで地名を確認しつつ、省市を記入することもあった。これは例えば『支那事変画報』や新聞などでは文字のカスレを読み取る手間、文字入力するための読み方を漢和辞典で調べる時間も加えて、かなり困難な作業であったが、例えばこの種の記述に関しては、えてして「捏造」という言葉を撒き散らす人たちがいることもあって、内容はほとんど細かくは読まれないとしても、必要な作業であった。ただ誤字も多少見受けられ、地名の変更もあるようで、どうしても不明なものもあり、間違っている事例も含め、ご指摘いただければ幸いである。

 なお、筆者のこの稿は研究書ではないので、上記のように参考にした資料は提示していても、収集したおよそ一万件近くの爆撃記録について、被害の主な記録以外には逐一出典を記していないことはあらかじめ了承していただきたい。

書き方と使用する記号について

 この爆撃記録は、主語に当たる「日本軍の飛行機(日本機)」をほぼ省略しているので、内容により判断していただきたい。

 *は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である。

初期航空史略記

△ 1903年(明治36年)12月、アメリカでライト兄弟が初の有人動力飛行に成功。

△ 1904年(明治37年)6月、日本軍で臨時気球隊が編成され、12月、旅順攻囲戦(日露戦争)に参加。

△ 1909年(明治42年)7月、フランスの飛行士ルイ・ブレリオが、初のドーバー海峡横断に成功した。(フランスで飛行機が先進的に開発されが、その理由はライト兄弟の実績が米国内で認められず、ライト兄弟がフランスで公開飛行をしたことによる)

△ 同年7月、陸海軍と大学の研究者が合同で、臨時軍用気球研究会を設置(まだ「飛行機」は気球・飛行船の延長で捉えられていた)。研究会の目的は、遊動気球と飛行機に関する設計試験、操縦法、諸設備、通信法の研究と定められた。飛行船は偵察目的で1915年(大正4年)まで輸入や国産品で実用化が試みられたが、爆発事故などが多く、気候にも影響され、その後は消え去った。ただし気球は昭和12年の日中戦争開始の初期まで偵察に利用され、気球隊も残っていた。

△ 1910年(明治43年)、陸軍の徳川大尉がフランスから複葉航空機(アンリ・フォルマン:50馬力、最大速度65km)を、別途ドイツから日野大尉がグラーデ単葉機(25馬力、最大速度57km)を持ち帰り、陸軍代々木練兵場で二機による初の試験飛行が行われる。(高度は50−70mで数分間の飛行)。日本人設計の複葉機も試されたが馬力不足で失敗。

△ 同年10月、別途欧州視察から帰国した海軍の飯田中佐が、飛行機の急速な進歩により近い将来航空母艦を必要とするため、海軍は気球研究会から手を引き、海軍独自の研究に着手すべきとの意見を具申、翌々年5月海軍航空技術委員会が設置される。

△ 1911年(明治44年)4月、陸軍所沢(埼玉県)飛行試験所を開設、5日に初の飛行試験を行う(フランス製1910年型:70馬力、最大速度90km)。所沢はのちに陸軍飛行場となる。

△ 1912年(明治45年)6月、海軍が神奈川県横須賀市に追浜飛行場を開設(水陸兼用:200m x 600m)。11月、横浜沖観艦式に、米国からカーチス水上機(75馬力)、仏国からモーリス・ファルマン水上機(70馬力)をそれぞれ二機購入し、海軍飛行機隊が初披露目を行った(この時期、エンジンは200馬力で航続距離10時間)。ちなみに水上機は、浮体をつけての海上からの離着で、飛行場がまだ整備されていない時期には便利であった。ただし水上機は船上からクレーンで上げ下ろしする方法で、海軍の高崎丸が「水上機母艦」とされた。

◎ イタリア軍はオスマン帝国領のトリポリ・キレナイカの植民地化を目指して攻撃、1912年9月23日の開戦とともに飛行機9機、飛行船2機を派遣、10月26日に飛行機から手榴弾を投下、以後総計330発の爆弾を投下した。これが世界戦史上初の空爆である。さらにバルカン戦争(1912−13年)ではブルガリアが22ポンド爆弾を開発し、初めて都市爆撃を行った。飛行機の軍事使用が効果をあげたことに各国が注目し、フランスとスペインは北アフリカの植民地で1913年から使用するようになった。

△ 1913年(大正2年)、海軍の輸送艦若宮(元は英国の貨物船)を水上機母艦に改造し、それに伴い多数の水上航空機を購入、同時に日本独自にファルマンの改造機を完成させたのが、海軍の中島知久平機関大尉で、のちに中島飛行機を設立する。

△ 同年3月、陸軍青山練兵場で議員たちを招いて演習を行なって所沢飛行場への帰途、フランス機(初のドーバー海峡横断に成功したブレリオ機)が突風に煽られて墜落、最初の殉職者2名が出た。

〇 こうして翌年、第一次世界大戦が勃発し、産声をあげて10年ばかりの飛行機が戦争用の最新鋭の道具(兵器)として使われることになる。もちろん、のちにこのことを人類の平和交流の手段として飛行機を開発したライト兄弟(兄は若死したが弟)は悲しむことになるが、軍用であればこそ、国の援助で次々と新鋭機が開発された。

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