書き方と使用する記号について
この爆撃記録は、主語に当たる「日本軍の飛行機(日本機)」をほぼ省略しているので、内容により判断していただきたい。
*は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である。
大正時代(1914年−1926年)
1914年(大正3年)
4月
△ 4月、帝国飛行協会発足。
6月
△ 6月、兵庫県鳴尾で第一回民間飛行大会開催。
7月
◎ 7月、第一次世界大戦が始まる。8月、日本はドイツに宣戦布告。
第一次世界大戦による日本軍の青島攻略作戦と初爆撃
第一次世界大戦(1914年7月から1918年11月まで)が始まると英国等の要請もあって日本は連合国側に付いた。
この年には陸軍の飛行機は16機、他に飛行船1機、気球数個であった(海軍は12機)。そのうち5機(フランス機1913型4機とN・G型1機)を、臨時航空隊飛行中隊として将校・下士官で68名、軍属16名、馬5頭と繋留気球一個でという構成で、中国におけるドイツ租借地である青島に派遣することになった。この頃の飛行機はまだ長距離を飛べず一旦解体し、まず8/22、所沢を出発し広島の宇品港まで鉄道で陸上輸送し、そこから山東省龍口まで海上輸送し9/2着、他の機材も待って現地で組み立てが完了するのに二週間かかったが、そこで初の実戦配備となった。
それに対して海軍は水上機母艦に改造した若宮に、水上航空機(モーリス・ファルマン)を前後甲板上に各1機、格納所には分解して2機の計4機を搭載して8月に参戦した。航続時間は4時間半であったため、8/23、横須賀を出航して一旦佐世保着、8/28、佐世保を発ち9月1日、青島近くの膠州湾外着。
9月
*9月5日:海上から3機が青島市街上空を飛行し、陸軍に先行してドイツ軍の無線電信信号所と兵営に日本軍としての初爆撃を行なった。この時ドイツ軍の飛行機と遭遇したが、交戦までいかなかった。
一方陸軍は9月21日より、敵となるドイツ軍の情勢に対する偵察開始、しかしドイツ機も日本軍の動向を偵察していて、24日に地上から小銃弾7発を一機体に受け、続いて25日の偵察中も要塞から50発の砲弾が放たれた。26日には湾内のドイツの艦船から砲撃があった。
*9月27日:3機が膠(こう)州湾内のドイツ軍艦に空爆、ただし命中弾は一つもなく、ドイツ艦からも対空射撃をしたが、これも効果がなかった。
10月
*10月4日:偵察しつつ青島大港のドイツ艦艇に爆弾一個を落とし、湾付近の建築物に二個を投じた。また別機がビスマルク山のドイツ軍施設を爆撃。
*10月5日:ドイツ軍砲台を偵察しつつ青島駅、およびモルトケ山を爆撃。この後しばらくは海軍機と合同で偵察を行い、ドイツ軍機と遭遇することもあったが、ドイツ機のほうが高度を上げることができ、機銃射撃するも命中せず追撃はできなかった。また「敵機出現」との情報で出撃しようとした時に、発動機が不調で飛行できない場合もあった。相手のドイツ軍は三機を所有していたが、これもすべて順調に起動できている様子ではなく、少なくとも一機が常時偵察に出ていた。21日:低空でドイツ機と遭遇し銃撃を受けるが命中弾はなかった。
*10月29日:青島市街上空から昼間と初めての夜間出撃し、市街地に爆撃をした(小規模ながら夜間については「無差別爆撃」の端緒かもしれない)。それに伴い地上部隊が防御線に対する攻撃を開始した。30日、日本側4機がドイツ機1機と遭遇するが、高度の違いで射撃は届かず、追撃できなかった。その間、地上軍はドイツ軍の堡塁を砲撃し多大の損害を与えていった。
11月
*11月に入り暴風雨が襲来し、飛行隊はしばらく身動きできなかったが、天候が落ち着くと青島市街に偵察爆撃を続行し、ただこのころの軍用飛行機の装備は、爆弾を積むと機関銃を積めず、空中戦になると拳銃で応戦する以外になかったという。その間、地上軍は要塞の陥落まで追い込んでいて、11月7日に勝利を得て16日に日本軍は青島に入城した。
海軍航空隊の活動は9/5から10/6まで飛行日数は27日で、49回出撃し、199発の爆弾を投下、陸軍機は5機が86回飛行し、爆撃回数は15回で爆弾投下は15kgのものが44個であった。この間海軍は一度も事故を起こさなかった。
その後12月に入り、青島守備隊の中では陸軍航空隊は必要とされず、飛行機は解体梱包され、人員機材ともに年末までに横浜に帰港、正月に所沢に凱旋し、1月5日に陸軍航空隊は解散した。
実際のところドイツ軍は欧州の大戦のほうに集中し、そもそも日本の参戦を予想していず、守備は手薄であり、日本軍は多くの犠牲を出さずに戦勝した。しかもこの時日本海軍はドイツの占領する南洋諸島も簡単に手に入れ、いわば漁夫の利を得て、これが太平洋戦争において戦線のむやみな拡大につながっていく。
第一次大戦はまだ塹壕戦によって、戦車と砲撃による地上戦が主な戦闘の方法であり、非戦闘員(民間人)が死の恐怖に日常的に直面することは少なかった(ヨーロッパでの民間人の死者は1000人を超えた程度)。そこから航空機の性能と機能は飛躍的に進化していき、この新兵器による空爆で前線からその向こう側の一般市民を巻き込んだ大量虐殺の時代になっていく。
〇 ドイツのフォッカー社が戦闘機に同調式機銃装置(プロペラの回転と銃弾の発射を同調させる)を据え付けることに成功し、ドイツ空軍に採用された。
1915年(大正4年)
1月
〇 1915年1月、ドイツ軍飛行船団(ツェッペリン飛行船団)は、飛行船による英国本土に対する空爆を開始した。第一次大戦中ドイツは100隻を超える飛行船を建造し、57回もの対英爆撃を実行した。これにより、1900名を超える英国市民が死傷した。一方でドイツ軍は17隻の飛行船と搭乗員158名を失った。
3月
△ 3月、海軍造兵部で新造のファルマン式100馬力で6時間の滞空飛行を記録。続いて翌月、10時間の滞空飛行を記録、水上機では世界記録。
4月
〇 4月、大戦中、フランス軍が軽機関銃を飛行機に固定してドイツ軍飛行機に射撃する戦法に出て、ドイツ軍も同様に固定銃単葉機を開発。
12月
△ 12月、常設の飛行部隊として、所沢陸軍飛行場にて航空大隊(飛行中隊二、気球中隊一)が編成された。2年後には航空第一大隊として編成し、6個大隊を保有する。
△ 12月、アメリカ人ナイルス、青山練兵場で宙返り飛行公開、以後各地を巡業。
△ 12月、海軍の年末保有機数、飛行機22、発動機38。
1916年(大正5年)
1月
△ 1月、千葉市美浜区の稲毛海岸から民間人の伊藤音次郎が、東京上空訪問飛行を行った。
3月
△ 3月、アメリカの飛行家アート・スミスが来日、青山練兵場で宙返り5回、横転2回の曲技を披露する。以後各地を巡業。
4月
△ 4月、海軍は横須賀に海軍航空隊を創設、初めての飛行基地となる。
この後、1920年に長崎県の佐世保、22年に茨城県の霞ヶ浦、長崎県の大村、30年に千葉県の館山、31年に広島県の呉に順次基地と航空隊を設置していった。
△ 4月、英国より水上戦闘機、水上偵察機兼攻撃機の実験機が届く。このころは海軍は艦船上での離発着機の開発を優先したが、その後陸上機にも力を入れていく。
6月
△ 6月、海軍は第一期航空術学生7名採用。
△ 9月、艦隊航空隊編成。200馬力の二機を若宮に搭載。
△ 9月、海軍は対潜作戦を訓練(洋上偵察と対潜哨戒とし、特に対潜水艦戦術の訓練)。
△ 10月、後に羽田空港となる現東京都大田区の干潟に、日本初の民間飛行機操縦士の養成学校として日本飛行学校が創設された。エンジンはアメリカ製で機体は独自設計であった。
1917年(大正6年)
5月
△ 5月、羽田にある民間の日本飛行学校から東京上空を飛行、一万枚のビラを乗せて飛び立つと、20分ほどかけて新橋、両国、日本橋、東京駅の上空を飛び、檄文調の広告ビラを散布した。しかし三度目の飛行の着陸時に左上翼が折れて墜落炎上、設立者の玉井清太郎と同乗の新聞記者が死亡した。この年の秋、大型台風により建物も飛行も流失し、学校は一旦閉鎖となった。
〇 第一次大戦中の5月25日、ドイツ軍はロンドン昼間爆撃に23機の爆撃機を送り込み、死者113名、負傷者285名の被害が発生した。この攻撃に対しイギリス海軍航空隊の9機が出撃し、帰還途中のドイツ機編隊の1機を撃墜した。続いて6月13日のロンドン昼間爆撃では死者162名、負傷者432名の被害を与えた。死者のうち46名は子供であり、小学校に落下した爆弾によって命を奪われた。この爆撃による被害は第一次大戦中では最大とされる。
8月
*8月:当時日本の植民地支配下に置かれていた台湾の先住諸民族が居住する山岳地帯に、日本軍は偵察機から爆弾を11回も投下した。
12月
△ 12月、中島知久平機関大尉が退職し、群馬県大田町に飛行機研究所設立。その後、中島飛行機製作所として大発展する。
1918年(大正7年)
4月
△ 4月、海軍航空機試験所を築地に設立。また東大の付属機関として航空研究所を設立。
△ 4月、帝国飛行協会主催で埼玉所沢・大阪間の無着陸飛行に成功、70馬力で6時間30分。
8月
*8月:(ロシア革命に干渉するため、日・米・英・仏による)シベリア出兵が開始され、陸軍がウラジオストクへ上陸するとともに所沢飛行場の第一、第二航空隊合わせて偵察機21機(フランス製12機、イギリス製9機)がシベリア沿海州に出動し、沿海州方面における作戦に参加、何度か爆弾を投下した。翌年の2月27日に所沢に帰還した。
11月
〇 11月に第一次世界大戦は収束するが、この戦争によって軍用機は急速に増産され、世界で3万機までになった。
1919年(大正8年)
2月
△ 2月、民間の中島飛行機が試作機の初飛行に成功、その後陸軍に納入することになる。ただしフランス機のライセンス生産であった。
△ 2月、航空に関する研究と航空部隊の育成、航空機の製造、修理を担う陸軍航空部の設立とともにフランスから航空教導団57名を迎え、千葉県下志津、岐阜県各務原、静岡県新居浜(浜名湖)で指導が行われた。これには海軍横須賀航空隊からも飛行艇を派遣し多数参加。
4月
△ 4月、陸軍航空学校が所沢に設立、同時に陸軍科学研究所が設立され、その中に化学兵器研究室を設置、早くも毒ガス研究へと向かう。
12月
△ 12月、海軍最初の正式航空母艦、鳳翔を鶴見造船所で起工。(これまで若宮の他、金剛、高崎、三笠,、山城などを母艦に転用していた)
〇 第一次世界大戦においてドイツ軍が初めて毒ガス兵器を使用した(1915年4月、西部戦線で一日で連合軍側に5000人の死者と15000人の中毒者が出た)ことを受け、1919年6月のべルサイユ条約では、ドイツの化学兵器の保有禁止が盛り込まれた。
1920年(大正9年)
6月
△ 6月、若宮と山城に装備した滑走台から艦上戦闘機の直接発艦に成功。
8月
△ 8月、陸軍省に航空局設置。
10月
△ 10月、中島飛行機で水上機の生産開始(二年間で106機生産)。
12月
△ 12月、海軍の佐世保航空隊が開設。横須賀追浜から佐世保間の長距離飛行(約千数百km)に成功。
△ 日本海軍はこの年、英国アブロ社と完成機の購入と製造権獲得の契約を締結し、同時に技師をアブロ社に派遣して製造技術を学ばせた。翌年にはイギリスより教育団が来日し、操縦教育が行われた。
1921年(大正10年)
2月
△ 2月、三菱内燃機製造で英国より招聘したハーバート・スミス技師以下10名を招聘、日本海軍初の国産十式艦上戦闘機(航空母艦に発着可能な戦闘機)の設計に着手。
4月
△ 4月、海軍は英国ショート社から3名の技師を招聘、横須賀造兵部にて飛行艇製造技術の伝習。
△ 4月、陸軍航空部は三菱と川崎飛行機に飛行機製作を命じる。
7月
△ 7月、茨城県霞ヶ浦に飛行場が完成、海軍航空隊が設置される。(この後、霞ヶ浦は東洋一の航空基地といわれるほどに拡大し、昭和5年に神奈川県横須賀にできた海軍飛行予科練習生制度いわゆる「予科練」も昭和14年に横須賀からこの地に移転し、搭乗員としての基礎訓練を受けた)。
この霞ヶ浦飛行場開設に伴い、英国の航空教育団セルビン飛行団30名を招聘し、同時にアプロ社の陸上型(504K)68機と水上型(504L)10機が持ち込まれ、これを使って海軍航空隊の実地訓練を二年間行なった。これにより海軍の航空技術は格段に高まった。またこうした経緯から、海軍航空隊はイギリス式、陸軍はフランス式となっていく。(このように陸海軍が別個に飛行機の開発を進めるのは正常ではなく、太平洋戦争に入っても続き、例えば中島飛行機の工場の左右に陸海軍の飛行機が製造される状態で、さすがにメーカーが非効率を訴えるほどであり、戦争終盤になって統合された)
9月
△ 9月、三菱内燃機の十式艦上戦闘機の試作機完成、翌月初飛行。
11月
△ 11月、航空母艦、鳳翔の進水式。
△ 胴体が水面に接して浮く、水陸両用の飛行艇が導入され始める。
1922年(大正11年)
1月
△ 1月、戦闘機試作1号機が完成。製造は三菱航空機製造で、性能は当時の戦闘機としては申し分なく、二年後の11月に制式採用された。
3月
△ 3月、横須賀航空隊に、航空戦隊を置く。
5月
△ 5月、海軍の英国製SS航空船(飛行船)初飛行。しかし横須賀での演習より訓練を終えて霞ヶ浦に帰航途上、稲戸井村戸頭中ノ台上空にさしかかったとき、突如爆発して5人の乗員とともに炎上墜落した。その後、7月にも倉庫内で自然爆発した。この一方で横須賀造兵部で国産一号の航空船が製造され、10月に24時間帯空記録を作った。
△ 陸軍は埼玉県所沢以外に6個の飛行大隊を各地においた。埼玉県所沢、岐阜県各務原、滋賀県八日市、福岡県太刀洗、東京・立川、朝鮮・平壌である。
8月
△ 8月、三菱十式艦上雷撃機完成。
9月
△ 9月、航空母艦、鳳翔竣工。
12月
△ 12月、九州の大村に航空隊創設。
〇 この年あたりから各飛行機会社において量産が始まる。フランスの主力偵察機であるサルムソン2A2は、第一次大戦後半で使われたが、川崎造船所がライセンスを取得し、4年後のこの年に各務原飛行場で初飛行に成功。
〇 この年、ドイツの租借地であった中国山東半島から第一次世界大戦による戦利品として多くの航空機が舶で運ばれた。その内、陸軍機は所沢へ移送され、水上機・飛行艇は築地海軍工廠で一般公開された。最新鋭機であったハンザ・ブランデンブルクW.29のみ横須賀海軍工廠に送られ、海軍による詳細な調査が行なわれた。調査の結果、水上偵察機として製造が決定し、ハンザ式水上偵察機として12月から愛知航空機と中島飛行機での生産が始まった。1925年(大正14年)までに約300機前後が生産された。海軍では一五式水上偵察機が採用される昭和初期まで長らく運用され、退役後は多数が民間に払い下げられ、1938年(昭和13年)頃まで魚群探知や遊覧飛行、旅客輸送に使用された。
1923年(大正12年)
1月
△ 1月、朝日新聞は、報道と新聞輸送のスピードアップを目指し、東京と大阪を結ぶ定期航空路を開設。9月に関東大震災が発生すると、臨時便を運航し被災者の手紙や電報、新聞原稿を運んだ。また旅客機内に写真現像室を作り、報道の迅速性を高めた(これが後の戦地の即時報道に役立つ)。
△ 年初から母艦鳳翔への離着艦の試験を繰り返す。
△ 上記十式艦上戦闘機は、三葉で艦上での取り回しが悪く、単座で自衛武装ができないという運用上の問題があり、20機で生産を打ち切られ、改めて複葉複座の艦上攻撃機が、十年式と同じイギリス人の技師によって設計され、1月に完成。試験の結果、性能が良好で、翌年に日本で最初の本格的艦上攻撃機一三式として採用された(エンジンは450馬力)。これは1933年(昭和8年)まで444機が生産された。
△ 海軍は英国アプロ社の飛行機を前年より広島海軍工廠で国産化を開始し、11月、その性能、実用性の高さからアブロ式練習機として制式採用した。生産は、陸上機型は主に中島で、水上機型は主に愛知で行われ、合計222機(280機という説も)がライセンス生産された。昭和初期まで海軍の主力練習機として利用され、三式陸上初歩練習機が制式採用になるとともに順次退役していった。その後多数の機体が払い下げられて、民間の航空学校で使用された。
7月
△ 7月、アストラ航空船を所沢で組み立て完了。航続距離1,560km。
11−12月
△ 11−12月、巡洋艦赤城と加賀の空母への改造工事開始。
1924年(大正13年)
3月
△ 3月、「若宮」の老朽化によりその代艦として四年前に輸送船として建造されていた「能登呂」を水上機母艦へ改装、完成した。艦形が大きいため搭載機数は倍増した。この艦と水上機は8年後の第一次上海事変にも使われる。
△ 3月、またも第三航空船爆発、五名殉職。それでも翌月に航空船の格納庫を建設している。
5月
△ 5月、陸軍航空学校が廃止され、飛行士養成のため、陸軍は三つの飛行学校を開設した。所沢陸軍飛行学校、下志津(千葉県)陸軍飛行学校、明野(三重県)陸軍飛行学校である。この年、陸軍は飛行大隊6個、総員3097名、飛行機は練習機も含めて600機を所有。
7月
△ 7月、廃艦となった艦船「石見」を爆撃機による爆撃実験に使う。各機種を使い五度目で転覆沈没。実は前年、米国陸軍も廃戦艦二隻を使って爆撃機による実験をしていて、二隻とも撃沈させた。それによって航空部隊の将校から戦艦無用論が出ていた。現実にほぼ20年後、戦艦大和は不沈艦と言われながら、初陣において米軍機の猛爆により、あえなく撃沈された。
8月
△ 8月、海軍は第四航空船建造。
△ 海軍は広島海軍工廠で国産化を開始し、1923年(大正12年)11月にその性能、実用性の高さからアブロ式練習機として制式採用された。生産は、陸上機型は主に中島で、水上機型は主に愛知で行われ、合計222機(280機という説もある)がライセンス生産された。昭和初期まで海軍の主力練習機として利用され、三式陸上初歩練習機が制式採用になるとともに順次退役していった。その後、多数の機体が払い下げられて、民間の航空学校で使用された。
△ 海軍は完成したばかりの十三式艦上攻撃機で魚雷発射訓練をしたが、海面すれすれの高度もあって、発射後海中に突っ込んだ。すでにこの時期に魚雷発射装置を付けるなど、軍事用の進歩は驚きである。
12月
12月、石川島飛行機製作所設立。
1925年(大正14年)
5月
△ 5月、横須賀航空隊、一三式艦上攻撃機二機で北京までの往復飛行成功(初の海外飛行)。
△ 5月、陸軍は航空兵科を独立させ、これまでの偵察機と戦闘機のみの編成に爆撃機を加え、静岡県三方原に飛行第七連隊を新設した。同時に植民地台湾の屏東にも第八連隊が設置された。ここまでの八個大隊合計で常備機500、高射砲20門、将校403名、下士官466名、兵卒2227名であった。陸軍はすでに植民地朝鮮の平城(今の北朝鮮の首都)に飛行基地をもち、この平城から満州の長春までの往復700kmの飛行を実施。
6月
〇 6月17日:フランスにより提唱された「毒ガス、細菌兵器の禁止に関するジュネーブ議定書」に136カ国が調印するが、日本やアメリカ、ブラジルは、第二次世界大戦前には批准せず。ただし、この議定書において制限されたのは使用のみで、開発、生産、保有が制限されない点で化学兵器・生物兵器の包括的禁止の観点からは不充分なものであった。
7月
△ 7月、朝日新聞社の「初風」・「東風」が代々木を飛び立ち、モスクワ、パリ、ロンドン、ローマまで飛行、1万6196kmを95日かけて大陸を横断した。
8月
△ 8月、東京千葉間で特別航空演習というパレードが行われ、国民の人気を呼ぶ。
△ この年、陸軍は国産軽爆撃機の試作機を中島、川崎、三菱に発注。これは三菱が採用され、のちの八七式軽爆撃機となる。こうした開発競争では各社ともまだ外国人技術者の指導によるものであったが、その過程で多くの技術者が育ち、独自の零式戦闘機の開発にも繋がっていく。
1926年(大正15年=昭和元年)
△ 十式水上機を改良した一四式水上偵察機が完成、450馬力の高性能。
△ 日本海軍は中島・三菱・愛知の三社に対し、十式艦上戦闘機の後継機の試作を指示した。昭和4年に正式採用されたのは中島であり、三式艦上戦闘機として1930年(昭和5年)から1932年(昭和7年)にかけて量産された。機体整備が平易で稼働率も良好であった。その後改良され第一次上海事変に参戦し、1932年(昭和7年)2月22日、米国人パイロットの操縦するボーイング218戦闘機を撃墜、日本航空隊初の撃墜戦果をあげることになる。
△ 日本陸軍は中島、三菱、川崎、石川島に偵察機の試作機を発注。
7月
△ 7月、陸軍は岐阜県各務原飛行場を中心に中部連合航空演習を行い、その時参加した38機の中に初めて双発の重爆撃機の姿があった。しかし翌月の爆撃演習では命中率30%で、またエンジンの調子が悪く、2機とも途中で不時着した。
〇 この年の半ば、長岡外史陸軍中将が海軍軍備に航空機重視必要論を唱えたが、加藤定吉海軍大将はこれに反駁。先駆的に海軍は航空機を採用してきたが、その現実に海軍大将は気がついていなかった。戦艦は(戦艦大和の最後が示すように)航空機の自在な爆撃に勝てないのである。
昭和時代初期1(1927年−1930年)
1927年(昭和2年)
3月
△ 3月、元巡洋戦艦の赤城が航空母艦に改造されて完成(その後1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦で雷撃を受け沈没)。
5月
△ 5月、米国リンドバーグ大佐、大西洋横断飛行成功。
7月
△ 7月、陸軍による次期国産偵察機は四社の競争試作機のテスト飛行が行われ、ドイツから招いたリヒャルト・フォークト技師の設計による機体を製作した川崎航空機の飛行機が時速240kmを達成し、その後八八式として製作される。その後も改良を経て満州事変、第一次上海事変から日中戦争の初期に至るまで前線で使用された。また、爆装をして爆撃機としても利用され(空中給油装置ももち)、八八式軽爆撃機となった。生産は1934年まで行われ、1940年(昭和15年)頃までは偵察部隊に配備されていた。
△ 別途陸軍は中島、三菱、川崎に戦闘機の試作機を発注、中島機が採用され、九一式戦闘機となる。
△ 7月、日本航空輸送旅客機、初飛行。
8月
△ 8月1日、広島県の大久野島に、極秘の軍事施設として陸軍造兵廠火工廠派出所が設立され、この島の住民を立ち退かせ、毒ガス製造所の建設が開始された。29年に工場は完成する。
9月
△ 9月、富士裾野で特殊弾効力試験(毒ガス演習)が行われた。
10月
△ 10月、第六航空船が神津島で遭難。
△ 10月、所沢を中心として加藤大尉が夜間連続飛行を三機を乗り継いで30時間を達成。
【各国の飛行機所有数】
〇 この年までに陸軍ではライセンス生産を含め600機が作られていた。これに加え海軍では約500機、民間で100機があり、合計約1200機とされている。それに対し列強諸国はフランスで3000機、アメリカで2600機、ソ連1600機、イギリス1500機、イタリア1400機(いずれも軍用機のみ)で、日本はまだ見劣りしていた。日本陸軍としてはまだ航空兵力の増強にはさほど関心がなく、逆に海軍は増強に力を注ぎ、その航空兵力は逆転していく。
1928年(昭和3年)
△ 台湾の新竹で毒ガス(イペリット)の投下演習が行われた。
2月
△ 2月、陸軍は「方今世界における軍事航空進歩の趨勢に鑑み、帝国陸軍においても国内陸上根拠地より船舶輸送に由ることなく直接主要作戦地に独立飛行し爆撃及偵察に任じ得べき行動半径大なる超重爆撃機」が必要とし、ドイツ社の大型輸送機の製造権を取得し、爆撃機へ改良するべく三菱飛行機に試作させた。三年後に試作機(九二式)が完成したが、すでに形式として古く、量産されなかった。これは例えば植民地台湾からアメリカの植民地フィリピンを直接攻撃できることを想定していて、この頃より日本軍の野心が東アジア制覇の夢を抱いていたことを示す。
3月
△ 3月、航空母艦に改造された加賀が竣工。
4月
△ 4月、海軍は航空母艦・鳳翔と赤城の2隻に駆逐艦一隊を付けて、第一航空戦隊を編成した。
5月
△ 5月4日、第二次山東出兵に合わせて、朝鮮の飛行部隊から飛行中隊が派遣された。主に偵察が目的である。
6月
〇 6月4日、中国満州の奉天近郊で、日本の関東軍の謀略によって奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された(張作霖爆殺事件)。なお関東軍は日露戦争後にロシアから獲得した遼東半島先端に位置する関東州と南満州鉄道の付属地の守備をする関東都督府陸軍部が前身で、その後、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ軍たる関東軍として独立した。
7月
△ 7月、奉天(現・瀋陽市)に朝鮮平城から三機が移動し、当時の北洋軍閥(地元の軍隊)の空軍の指導に当たる。
8月
【パリ不戦条約】
◎ 1928年8月、パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が成立。アメリカ、フランス、ドイツ、日本も含む15ヶ国が参加してパリで調印し成立した。後にソ連(ソビエト連邦:ロシア)を含む63ヶ国が参加し全世界的な国際条約となった。第一次世界大戦の惨禍を経て、世界が戦争を否定して戦争を違法化することに合意したという点で画期的なものであったが、それぞれの国家の欲には勝てず、ここから10年後にはより大規模な世界戦争に突入する。
9月
△ 9月25−27日、陸軍航空隊の「特別航空兵演習」が、静岡県浜松から愛知県矢作川あたりまでの区域を使い、航空機98機、騎兵・歩兵・高射砲兵を動員して行われ、毒ガスの演習も行われた。8月27日にアメリカ合衆国、イギリス、ドイツ国、フランス、イタリア王国、大日本帝国などの当時の列強諸国をはじめとする15ヵ国が署名し、最終的にはソビエト連邦など63か国が批准した。
10月
△ 10月、日本航空輸送(株)が東京ー大連(中国遼東半島南端で日露戦争後の1905年に日本に割譲)間の往復運航を開始。
△ 10月、第七飛行船建造。
11月
△ 11月、陸軍観兵式において重爆・軽爆・偵察の各機91機、戦闘機69機、計160機が大編隊を組んで帝都の空を覆った。
△ 11月、川西航空機設立。翌月、海軍指定工場となる。
1929年(昭和4年)
◎ 捕虜に対する扱いを人道的にする必要があるとするジュネーブ条約成立。
5月
【毒ガスの本格的製造へ】
〇 5月、広島県大久野島に完成した「陸軍忠海兵器製造所」で毒ガス製造が開始された。この毒ガスは主に1931年に起こる満州事変から使われ、日中・太平洋戦争下でも毒ガス製造は継続され、ほぼ終戦の前年(1944)まで毒ガスが製造された。延べ5000人が製造に関わり、戦後ほとんどの労働者が、皮膚や呼吸器の異常に苦しんだ。毒ガスの殺傷能力を確かめる実験動物としてウサギが島に持ち込まれ飼われていた。その後大久野島は軍の機密保持のために地図からも姿を消した。
9月
〇 9月、ドイツの大型飛行船「ツェッペリン伯号」が世界一周の途中、霞ヶ浦海軍飛行隊施設に降り立ち、これを見ようと上野から土浦まで臨時列車が出て、30万もの人々が出迎えた。その後その後太平洋を横断してロスアンゼルスに向かう。
10月
△ 10月下旬、陸軍は植民地朝鮮において、南部を担当する第20師団が「秋季演習」を行い、飛行隊も含めて南北軍に分かれて実践練習をした。
△ 戦艦として建造されていた「加賀」が、途中から航空母艦として改造されほぼ完成。
△ この年頃から空母の用法に関する研究訓練が本格化、また航空戦における射撃、爆撃、通信等が格段の進歩をする。
△ 八八式偵察機により13時間5分の航続時間新記録を樹立。
11月
〇 11月3日、日本の植民地朝鮮の全羅南道光州の学生が、植民地差別に抗議デモを行い、全土に波及する(光州学生事件)。
1930年(昭和5年)
△ 神奈川県平塚に海軍技術研究所が化学兵器研究室出張所を設立。
△ 艦上機、夜間着艦実験に成功。
△ 第九飛行船建造。
5月
△ 5月、日本青年号、立川発、モスクワ、ベルリン、ブリュッセル、ロンドン、パリ、マルセーユ、ローマ飛行に成功(1万3900km)。
7月
△ 7月、川崎飛行機がドイツ人技師により九二式戦闘機の試作機を完成し、高度1万m到達や最大速度320km/h(335km/hとも)の日本記録を樹立するが、各種の問題から計385機で生産は終了する。
11月
△ 11月、英国空軍より教官招聘、横須賀で空中戦闘法講習。
12月
△ 12月、海軍第一期高等科飛行学生入隊。
△ 12月、八九式艦上攻撃機完成(英国設計指導)。
【海軍予科練習生制度】
前年末、海軍において飛行兵養成の予科練習生の制度が設けられ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が行われた。全国からの志願者5807名から79名が合格し、6月、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した。昭和14年に予科練は、茨城県霞ヶ浦飛行場に移されるが、予科練制度が始まって終戦までの15年間で約24万人の若者がが入隊し、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴き、太平洋戦争終盤には特別攻撃隊として多くの若者が出撃、戦死者は8割の1万9千人にのぼった。
10月
【初の毒ガス弾使用】
*10月27日:日本統治下の台湾の原住民セデック族約300人が、台中州霧社で抗日暴動を起こした(台湾霧社事件)。日本人巡査が族の若者を殴打した事件がきっかけで、日頃からの差別待遇や強制的な労働供出の強要について、原住民たちの間に不満が募っていたことによる。彼らは駐在所・警察分署を襲撃後、霧社公学校の運動会に集っていた日本人約200人のうち132名と、和装の台湾人2名を殺害。これに対して駐留日本軍や警察が武力による鎮圧を開始、日本側は2日後の29日には早くも霧社を奪回した。霧社セデック族側は山にこもり、霧社襲撃の際に警察から奪った武器弾薬を使って抵抗した。
11月
11月末までに軍隊約2000人が出動してセデック族討伐戦が展開され、先住民族の部落を2ヶ月に渡って討伐したが、森林の中という理由もあって飛行機(当時はまだ機動力の劣る複葉機が主流)による爆弾と毒ガス弾(青酸及び催涙弾)を投下し、700人ほどのセデック族が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した(その後彼らの敵方=日本軍方の原住民が捕虜たちを襲撃して半数近くが死亡した)。これが日本軍が毒ガスを使った先例であると思われる。
【昭和天皇の感性】
戦死者は1000人近くの蕃族以外に、日本軍兵士22人、警察官6人、味方蕃族21人であった。この事件に関し、昭和天皇は「事件の根本には原住民に対する侮蔑がある」と漏らしたという。つまりこのような見方ができる天皇であったことは知っておかねばならない。台湾総督府(日本政府直轄)は事件後、原住民に対する施政方針を修正していく。
〇 ちょうどこの時期の11月3日の浜松新聞に、陸軍の飛行第七連隊が滋賀県で毒ガス弾を含んだ爆弾投下の演習を6日に行うことが報道されている。台湾の霧社事件での使用は同国の屏東に駐留する飛行第八連隊であるが、実はこの二年前に、台湾の新竹で毒ガス(イペリット)の投下演習が行われている。また1926年に第七連隊が浜松に移駐した直後に、焼夷弾のほかにガス弾や細菌弾の使用についての講演が行われていて、翌年の演習ではその使用法の参考書が配布されている。さらにその翌28年には、『陸軍科学研究所化学兵器講義抄録』が発行され、航空機による用法が記されている。陸軍科学研究所がその化学兵器の製造を担った。そして各種ガス弾の投下試験は爆撃訓練を主とする浜松飛行学校で行われた。こうした準備を経て、1931年の満州事変開始後から実戦で次第に使われていくようになる。毒ガスは第一次世界大戦の1915年からドイツ軍によって使用され始めたが、その後日本軍だけでなく各国でその開発がなされ、第二次世界大戦ではドイツ軍をはじめとして影の場面で多く使用されることになる。
昭和時代初期2(1931年−1936年)
1931年(昭和6年)
1905年、日露戦争に勝利した日本は、東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と付属地の炭鉱の租借権、遼東半島の関東州の租借権などを獲得した。そこから1906年に南満洲鉄道が設立され、このための鉄道守備隊が関東軍となった。この関東軍は関東総督府の管理下に置かれたが、その後独立して軍隊としての力をつけ、日本の中国における権益と領土の拡大を目指して勢力を拡大し、この年、満州事変を起こす。
(記号について:*は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である)
3月
△ 3月、三式飛行船で60時間の滞空記録樹立。
4月
△ 4月、横須賀で空中給油実験に成功。
8月
〇 8月26日:1927年にニューヨーク・パリ間の大西洋横断に成功して世界的知名度のあったリンドバーグ夫妻が霞ヶ浦の海岸に着水し、東京でもパレードが行われ、熱烈な歓迎を受けた。
ちなみにリンドバーグは、飛行機で世界を結ぶという理想を掲げていて、その後第二次世界大戦が起こり、米国の中立を訴え戦争反対の立場にいた。しかし日本軍に真珠湾攻撃されると自国は守るべきと飛行士指導官として自らも戦闘機に乗り参戦した。そして対日本軍のラバウル戦で爆撃した後に地上に降りてみて、死体等の散乱する実際の惨劇に慄然とし、文明の利器に疑いを持つようになる。戦後すぐに任務も兼ねてドイツ訪れ、大空襲を受けた都市の焼け跡も見たが、ユダヤ人強制収容所の虐殺現場も見るに至り、人間のおぞましい残虐性に対する嫌悪と怒りを抱き、広島にも三年後に空から訪れ、惨状を目にした。余生は自然保護活動に捧げ、飛行機と鳥のどちらを選ぶかと聞かれれば鳥を選ぶというほどに、絶滅の危機にある動物などを保護する活動に世界各地を回って精力を傾けた。晩年はハワイの簡素な家に移住し、生涯を終えた。
【30機余りの軍用飛行機を奉天へ移送】
8月
△ 8月下旬、日本陸軍は国内から30機余りの軍用飛行機を奉天(瀋陽)の蘇家屯まで運び、駐留させていた。
満州事変
1931年(昭和6年)9月18日に中華民国奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が故意に南満州鉄道の線路を爆破し、中国人の仕業と決めつけて軍事行動を起こした事件 (柳条湖事件)に端を発し、満州事変として展開されて行く。
この時期、日本で唯一の陸軍爆撃部隊訓練所がおかれていた浜松から日本の植民地である朝鮮の平城に飛行隊が送り出され、飛行第六連隊として駐留していたが、すぐにこの事変に対応すべく動き始める。9月19日未明、平城の飛行隊への派兵命令が出され、その日のうちに偵察用の二機が出動、それに合わせて関東軍は中国東北軍から奉天(現・瀋陽市)を奪取し、さらに20日までに戦闘機10機が集結した。一方で長春にも平城から別の飛行隊が22日までに配置された(長春も19日、日本軍が強引に占領、すぐに飛行場の簡易造成を現地苦力を使って行う)。なお、占領した奉天では残された中国東北軍の飛行機(フランスのポテー10数機)を押収し、自軍のものとした。
9月
*9月21日:偵察機が遼寧省錦州西北の大虎山近辺を偵察中、地上から射撃を受けたことを理由に爆弾を投下、さらに機関銃で攻撃した。また同日、別の偵察機が撫順西北の山地で地上800mから中国軍部隊を爆撃したが、これも地上からの射撃で損傷を受け、虎石台付近に不時着した。両機とも爆撃は簡易爆弾投下器によるものであったが、まだ大半は装置がなく、手投げ式であった。
【抗日大集会】
〇 9月24−28日、上海で24日、学生10万、港湾労働者3.5万人が日本に抗議するとしてストライキをおこない、26日には市民20万人が参加して抗日大集会が開かれ、対日経済断交が決議された。28日、北京でも20万を超える市民が抗日救国大会を開き、政府に対日参戦を要求、さらに市民による抗日義勇軍編成が決議された。日本商品ボイコット運動も広範囲に広がり、日本の対中国輸出を激減させることになる。とりわけ満州地域においては各階層の抵抗組織や秘密結社、義勇軍が多く生まれた。そして「抗日救国」の運動は翌年1−3月の第一次上海事変でも強い高まりをみせた。
〇 9月26日、日本駐米大使出淵勝次に対し、スティンセン国務長官代理が「瀋陽事件(柳条湖事件)発生以来、軍事行動が拡大したことは、その重大な責任を日本が負わなければならない」と通達した。
*9月27日:偵察機2機が曇天の中、通遼市(内モンゴル自治区)の鉄路に沿って低空飛行をしているときに射撃を受けた。
【国際連盟の撤退勧告】
◎ 9月30日、国際連盟第一次理事会で10月14日までに日本軍を南満鉄道区域内に迅速に撤退させることを要求すると決議した。日本代表は了承し実施すると形式だけの声明をした。
10月
△ 10月、フランス人技師による中島飛行機製造の戦闘機が九一式として採用される。
△ 10月2日、関東軍は「満蒙を独立国とし、これを我が保護の下に置き、在満蒙各民族の平等なる発展を期す」という方針を決定、4日に関東軍司令部の声明文として発表した。
〇 10月5日、蒋介石は日本政府に9/30の連盟理事会決議通りに、日本軍は満鉄附属地帯に撤兵すること、占拠地を9/18以前の状態に回復することを要求した。これに対し日本政府は、「9/30の決議は了承したが、決議は第二次理事会前に撤兵すべしと定めていない。これは日本人居留民の生命財産の安全の確保を前提としているから、現状では撤兵できない」と回答した。
世界を驚かせた錦州爆撃
奉天(瀋陽)を拠点としていた中国の軍閥東北軍を指揮する張学良(三年前に謀殺された張作霖の息子)は、日本軍に長春とともに占領されたため、遼寧省錦州に拠点を移していた。その錦州に向けて日本軍は世界を驚かせる爆撃を行う。
*10月8日:前日、関東軍司令官は錦州爆撃を命じ、この日午後、11機で錦州を空爆。中国において日本の航空機による本格的空襲に遭った最初 の都市となり、また世界的にも第一次世界大戦後に爆撃された最初の都市ともなった。これには6機の偵察機と奉天で押収したフランス機10数機のうち5機で編隊 を組み、奉天の基地から錦州に向かい、市内の政府建物や兵営等の主要目標に対して攻撃を行った。25kg爆弾を各機に四発ずつ搭載し、それぞれテープで巻き、爆弾を真田紐で吊るすようにして目標を確認して真田紐を切って爆弾を投下した。この日は合計75発を投下し、低空から機関銃による機銃掃射も行った。 張学良の司令部を置いた交通大学に10発の爆弾、兵営の東大営に23 発の爆弾が命中したことが確認されたが、その他の半分以上の爆弾は目標を外し、錦州駅や病院、その他の市区のいたるところに落とされ、爆弾が直撃した人の血まみれになった身体の一部がり木の枝、電信柱、屋上等に引っ掛かった。市民14人、兵士1人、ロシア人教授1人が死亡、20人以上が負傷した(翌年国際連盟より派遣されたリットン調査団記録)。当然この空爆という暴力を駐日英米大使は侵略行為の一環とみなし、日本の首相に抗議した。
もともと日本国内では戦線の不拡大方針が採用されていたが、それを無視した現地軍の行いで、それでもこの無謀な爆撃に関し、南陸軍大臣は、若槻首相にまたも「中国軍の対空砲火を受けたため、やむを得ず取った自衛行為」と報告した。いつもこのような言い訳がなされるが、そもそもこの時期、中国軍はまともな高射砲など持っていなかった。それよりも侵攻されている国側の自衛のための対空砲火はどうして認めないのか、軍隊の自分本位の思考回路を不思議に思う。いずれにしろ同様なパターンでこの後の日中戦争、太平洋戦争が歯止めなく展開されていく。
*10月9日:前日に続いて午後、日本軍は1機の飛行機を出動させて、省政府の行政庁舎、張作相の私邸、駐屯軍兵舎と駅や鉄道、病院などに対して爆撃を行い多数の死傷者を出した。
*10月14日:内モンゴル自治区通遼で300mの高度で偵察中に地上から銃撃を受けたことで爆弾を投下した。
〇 10月10−12日:英、米、伊、西の駐日大使が日本政府に錦州爆撃に抗議した。
◎ 10月24日、国際連盟理事会は、中国が提出した日中満州問題解決決議で日本軍撤兵案を採決し、賛成13票、反対1票(日本)、全会一致で採択できず、決議は無効となった。
11月
*11月4−6日:黒竜江省泰来の江橋において東北軍の別働隊(黒竜江軍)との戦闘が始まり、飛行隊も出動、大興安嶺地区の砲兵陣地を爆撃、さらに大興駅の列車に対し、5、60mの低空から爆撃と機銃掃射を行った。5日、日本軍の兵力は8千人余りに増加し、飛行機、大砲の援護の下、再び江橋北岸黒竜江守備軍陣地を攻撃、6日、日本軍一万人が馬占山軍の大興陣地に侵攻、激戦は午後6時まで続き、馬占山軍は撤退した。(中国側では「江橋抗戦」と呼ぶ)
*11月5日:前日に続いて地上軍の弱勢を支援し、中国軍の騎兵部隊などを数度にわたり爆撃。
*11月6日:続いて朝から飛行爆撃を行い、騎兵部隊等をに相当の損害を与えた。その後退却する東北軍を追撃し、砲兵および列車を爆撃。
*11月13−15日:大興駅付近の原野に飛行場を造成。
△ 11月16日:浜松から軽爆撃中隊が編成され、9機が奉天まで送り込まれ、九州の太刀洗から偵察機の中隊、朝鮮の平壌から戦闘隊が奉天に送り込まれた。
【満州への国際連盟調査団の派遣決定】
◎ 11月16日、国際連盟は四週間に渡る第三次理事会を開催、英米仏伊日の5カ国による日本の満州問題調査委員会を設置して解決を図ろうとした。12月10日、まず日本の提案により、満州での事態を調査するための調査団の結成が審議され、当事国の日本と中華民国の代表からなる六ヵ国、事実上四ヵ国の調査団の結成が可決された。イギリスのリットン伯爵を委員長とし、これをリットン調査団という。日本は正当性を訴える自信があったのか、翌11日の新聞にはやや勘違いの「日本外交大勝利」の文字が躍り、世論は湧きかえった。
【本格的空爆開始】
*11月18日:早朝、黒竜江省泰来の飛行場から出撃し、同県の小興屯陣地を25kg爆弾と12.5kg爆弾12発を手投げで砲兵や歩兵に向けて爆撃した。続けて数機が同所を爆撃した。また遼寧省錦州県の新立屯、遼陽市の大興などを爆撃し、中国東北軍(黒龍江軍)を退却させたが、さらにその退却部隊を爆撃しつつ、50−300mの低空で機関銃による銃撃を行った。別途黒龍江省黒河地区の五家子の200人の集団を爆撃、さらにはチチハルの昂昂渓や吉林省長春の楡樹屯、頭砧等へ退却する東北軍を爆弾や機関銃で攻撃、その他目につく鉄道や列車を破壊した。この日は16回出撃し、延べ出動機数は27機、爆弾254発、機関銃弾810発に及んだ。
*11月19日:黒竜江省チチハル付近を偵察し、南北合わせて500の騎兵を発見し、まず南方の200の騎兵を爆撃、次に斎克鉄道路線上の軍用車両、そして北進する300の騎兵を爆撃した。
*同日:遼寧省錦州の新立屯付近の騎兵に対し、爆弾8個を投下し、騎兵約4、50人を殺傷、他は家屋に落とされ、火災が起きた。
*同日:チチハル付近を偵察し、斎克鉄道を爆破しつつ、三回の爆撃で残った騎兵などを退却させたのちに陸軍師団がチチハルに入城し、市街地を占領した。この19日の延べ出動機数は7機、爆弾84発、機関銃弾280発であった。
*11月24日:各飛行場に駐留する飛行隊を合わせた延べ33機が、太子河(遼寧省を流れる河)を渡河する中国部隊ならびに付近の縦隊を爆撃あるいは機銃掃射して「大損害を与え四散させた」。
*同日?:遼寧省鞍山市の湯崗子の抗日部隊を空爆。
*11月27日:北寧鉄道と大虎山(中国軍の拠点)にも投爆した。
【米国の怒り】
◎ これらの爆撃に対して米国は激怒し、当時の幣原外相の国際協調主義外交はほぼ立ち行かなくなり、その後、金谷陸軍参謀総長が「錦州への進撃は禁止する」と断固たる命令を下したため、11/29に関東軍はやっと錦州攻略を中止したかに見えた。
12月
*12月17日:吉林省懐徳県における日本陸軍の攻撃を支援して爆撃。
*12月19日:懐徳県への攻撃によって退却した騎兵約300を追撃し、爆弾を投下、その時に逃げ惑う様子を「面白し」と、爆撃した側のある少佐が日記に書いている。
*12月21日:日本陸軍が錦州攻略の途上、遼寧省亮中橋、蘇路台、石仏寺一帯の軍陣地をを爆撃。
*12月23日:午前9時、双翼の日本軍機一機が黒竜江省竜江県李三店区許家村上空を侵犯、旋回した。1時間後、3機の日本機が相次いで飛来、すぐに爆撃を開始した。わずか30分の間に20軒余りの小さな村に数十個の爆弾が投下された。村はたちまちのうちに火に包まれ、血肉が飛び散った。村の家屋、馬房、豚舎などすべてが爆破され、逃げ遅れた村民30人以上が爆殺された。(『侵華日軍暴行総録』)
*12月25日:北寧鉄道営口支線の装甲列車を爆撃。
*12月29日:遼寧省盤錦市の盤山市街、溝幇子の部隊を爆撃。
△12月29日:日本政府は空爆中止命令を出すが、関東軍は聞き入れず。
【重爆機投入】
*12月30日:関東軍は12月下旬に寒冷地訓練の名目で浜松から遼寧省大連の周水子に飛来していた重爆機4機を投入して、再び錦州に「匪賊討伐」を口実として爆撃機を向け、盤山市街に続けて大虎山も空爆し、抗日部隊の拠点に打撃を与えた。また黒山県打虎山駅と溝帮子の装甲列車を爆撃するが一機が不時着し2名が福江不明となった。(この日、盤山を占領)
【海軍の準備】
△ 海軍はこのころより艦上攻撃機に対する陸上攻撃機に重点を置き、飛行機会社に作らせて量産していく。これがちょうど6年後の日中戦争全面開始にあたって役に立ち、後述するような連日の爆撃を可能にする。つまり1936年に採用された三菱製九六式陸上攻撃機は1200kmの長距離飛行が可能で、翌年の日本の基地から中国への「渡洋爆撃」を実現する。
1932年(昭和7年)
(記号について:*は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である)
【続々発生する抗日義勇軍】
前年からの日本軍の侵略と占領政策に対し、満州各地で抗日義勇軍が結成されていく。それらは民衆自衛義勇軍、救国軍、民衆自衛軍、国民(民衆)救国軍、抗日救国軍などの名前で各地で次々と結成された。そして陸軍飛行部隊はこれらの抗日軍への弾圧用に使われていく。 なお、満州や華北地区の爆撃は主に陸軍飛行隊であり、日中戦争あたりからの上海や華中への爆撃は主に海軍である。
1月
【錦州占領】
*1月1日:前年末から陸軍の地上作戦を支援する形で陸軍飛行重爆隊は爆撃を続け、遼寧省錦州を10機で空爆、それにより3日に関東軍は錦州を占領した。その後浜松からの重爆隊はいったん日本に戻るが軽爆隊は残った。
*1月8日:遼寧省の本渓湖や丹東市鳳城の抗日部隊の根拠地を爆撃した。
*1月13日:遼寧省朝陽市の北票、錦州市の大虎山、吉林省長春市の中安堡などを偵察爆撃。
*1月15日:遼寧省遼陽の沙嶺の抗日部隊を爆撃。
*同日:2機が遼寧省錦西(現・葫芦島市)の上蘭家溝、龍王廟、女見河左岸などを偵察爆撃。
第一次上海事変
前年の満州事変以来、日本に対する国際的非難が高まり、また中国各地、特に上海においても抗日運動が盛んとなり、日本人居留民との軋轢が生じていた。そこに関東軍の策略で1月18日、上海において日本人僧侶殺傷事件が起こされ、それに対し日本青年同志会が相手側を襲撃、その緊張状態の中に1月28日夜に共同租界警備の日本海軍の陸戦隊が上海市北部の閘(こう)北に治安維持の名目で出動し、中国十九路軍との間に戦闘が勃発した。これを第一次上海事変=中国側では「一・二八事変」と呼ぶ。これに呼応して日本海軍は第3艦隊の巡洋艦7隻、駆逐艦20隻、航空母艦2隻(加賀・鳳翔)及び陸戦隊約7千人を上海に派遣するとして、これが1月末に到着する。
*1月24日:黒竜江省双鴨山市尖山付近に潜む抗日軍約二千に対し6機が爆撃および銃撃したが、指揮官機が機銃を受け墜落、2名が戦死。
*同日:日本海軍は情勢を見て水上機母艦「能登呂」を上海方面に送り、威嚇飛行を行う。
*1月25日:14機が再び錦州の大虎山やその北方の梨樹県、本渓湖や鳳城市東側山地など抗日部隊根拠地をを爆撃し、威圧する作戦をおこなった。
*1月27日:中国義勇軍がハルビンの香坊などでの地で、日本軍に猛攻をかけ、日本機1機撃墜、日本軍清水大尉射殺。
*1月28日:第一次上海事変に並行して、日本の関東軍は飛行隊による空爆支援のもと北満(黒竜江省)ハルビンへ出動した。
*1月28−29日:海軍の陸戦隊が上陸、「能登呂」に続き、海軍は航空母艦「加賀」、「鳳翔」の艦載機を上海に送り、閘北地区と呉淞砲台に対して爆撃を行った。「能登呂」は水上機8機で、北停車場を爆撃、馬路を機銃掃射した。この時、「加賀」、「鳳翔」の飛行隊は上海の公大基地に進出した上で、そこから市街地に空爆を加え、その中で商務印書館と東洋(東方)図書館が爆撃され、東洋図書館が収集した数万冊の貴重な古書が灰になった。
*1月29日:日本軍は上海の閘北を攻め続けたが、中国19路軍は日本軍装甲車5台を破壊し、日本軍300人余りを銃殺した。午後、日本機は閘北を爆撃し、商務印書館及び付設東方図書館は悉く被爆し焼失した。
*1月30日:奉天の飛行場から出撃、錦州の大凌河付近の抗日軍を爆撃。
*1月31日:黒竜江省ハルビン市双城への地上軍の攻撃に呼応して、延べ8機が退却する中国軍を追撃した。(この後双城に飛行場を造成)
2月
【上海から邦人1万8千人撤退】
〇 2月1日、在中国日本大使重光葵は日本から上海に戻り、邦人1万8千人の撤退を命じた。
△ 2月2日、海軍は能登呂、加賀、鳳翔を合わせて第一艦隊を編成。
*2月3日:海軍の飛行隊が上海北方揚子江の呉淞砲台を攻撃したが、砲台は反撃し、日本艦一隻を撃沈、2隻を損傷、そして一機を撃墜した。
*2月4日:地上部隊の攻撃に合わせて双城に造成した飛行場から述べ8機がハルビン南側陣地を爆撃。
*2月5日:地上軍の払暁からの猛攻撃に合わせハルビン南側陣地および密集部隊を反復爆撃、午後、地上軍はハルビンを占領、飛行隊は退却する抗日部隊をさらに追撃した。この日の延べ出撃は20回、出動機数は67機、使用爆弾は170発であった。
*同日:上海西郊外の真如鎮上空で日本機5機と中国機4機が初の空中戦を行った。
*2月6−8日:ハルビン退却中の抗日部隊を攻撃、続けて7、8日も車両と騎兵、歩兵部隊を追撃する。
*2月7日:上海呉淞の砲台に向けて、海陸空軍が総攻撃をしかけ、甚大な損害を与えた。
*2月11日:上海市街地を爆撃し、永安第三製糸工場と呉淞大学が爆撃され大きな被害を受け、持志大学は完全に破壊された。
*2月11日(以降の日):満州東部吉林省の朝鮮との国境に接する延辺間島地区において朝鮮族の抗日組織を「討伐」すべく、爆撃を行う。さらにその北方の黒龍江省寧安東京城の抗日組織に対して吉林省敦化より爆撃、「粛清」した。
【無差別爆撃の端緒】
*2月18日:上海沖30kmの海上に進出した空母2隻に積載する艦載機が、地上軍の作戦に策応して市街地に対して無差別爆撃を行った。両艦搭載の艦上攻撃機・戦闘機の数はそれぞれ41機と26機であった。アメリカ人記者エドガー・スノー(後の歴史学者)の『極東戦線』 の記載によれば、「空襲は1時間半近くつづき,水上機はそれぞれ4、5発の爆 弾を落とすと、また新たに積み込むために基地へ帰って行った。高性能の空中魚雷とともに、50ないし100 ポンドの硫黄を詰めた焼夷弾が投下され、中国市民が密集して住んでいる地区を爆破した。この空襲は何の予告もなく、住民 は避難する間もなかったので、何十人が粉々に吹き飛ばされ、あるいはたちまち燃え広がる炎の中で焼き殺された」とある。
(これ以降1936年ごろまで満州関係は、陸軍と関東軍の飛行隊の爆撃事例であり、主には竹内 康人「戦争の拠点・浜松:満州侵略と陸軍飛行第一二大隊」からと補足として『満州方面陸軍航空作戦』(防衛省防衛研修所戦史室)、『中国抗日戦争大事記』(北京出版社)その他の引用である)
*2月19−20日:関東軍に所属する陸軍飛行隊は占領したハルビンの飛行場から13機が出動、ハルビン内の巴彦県の抗日司令部を攻撃、爆弾20数発を投下、翌20日、11機が枷板帖(現・賓安鎮)の中国軍部隊を爆撃。
*2月20日:上海の長江南岸呉淞(現・宝山)地区の中国陣地に爆撃 を加え、空中戦も展開された。
*2月22日:アメリカ人義勇兵の乗った中国空軍戦闘機ボーイングP218が、日本の空母「加賀」の艦上攻撃機1機を撃墜した。それに対して日本の艦上戦闘機3機がボーイング機に反撃、蘇州上空において撃墜した。これは最初の空中戦による戦果であるとして日本国内で大きく報道された。
*2月23日:上海虹橋空港を爆撃。
*2月26日:浙江省の杭州空港を爆撃。
3月
【満州建国宣言】
前年の満州事変後、日本の関東軍は北満州の要衝チチハルも占領し、中国の東北部満洲の東三省全土の主要都市をほとんどその支配下に置き、3月1日に満州の建国宣言をする。旧清朝の宣統帝であった溥儀を執政(皇帝)とし、 五族協和(五族は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人を指す)を掲げたが実態は日本軍の傀儡国家であった。
△ 3月3日:上海派遣軍に停戦命令。これ以降の日本軍の攻撃対象は主に抗日軍となる。つまりそれは停戦の対象ではないという理由による。
*3月17日:ハルビン以西に駐屯する吉林自衛軍を爆撃し、続いて王徳林らの救国軍部隊を弾圧するために黒竜江省牡丹江市の寧安に爆撃を行なった。
*3月18、19日:連続して黒竜江省鶏西市の虎林、ハルピンの哈家屯を爆撃。
*3月29−4月3日:抗日軍の吉敦鉄路(吉林−敦化間)への被害が拡大し、連続して爆撃、銃撃を行なった。
4月
△ 4月1日:海軍航空廠を横須賀に設置。
*4月1日:黒竜江省ハルビン市方正の抗日司令部を爆撃。
【匪賊討伐作戦による村民の犠牲】
*4月2日:未明、遼寧省遼陽を侵略した日本傀儡軍警察司令部は千人の兵力を集め、飛行機、大砲の支援の下、3路に分かれて沙嶺に向かい抗日救国鉄血軍の討伐を開始した。日本機は先に沙嶺において無差別爆撃を行い、蒋六子と金朝喜の娘を爆殺、金朝喜は腕を吹き飛ばされた。抗日軍は民間人の犠牲者を減らすため、分散して移動した。日本侵略軍に協力した中国人警察官は、司法警察と共同で沙嶺の大捜索を行い、その翌日からも匪賊討伐として遼陽各地で抗日軍を捕縛し、町村民も抗日軍の疑いで次々と殺害した。(『侵華日軍暴行総録』)
*4月某日:日本の航空機3機が 黒竜江省綏化地区双河鎮西街路の南北7カ所に爆弾21発を投下、民家10数軒を爆破、住民14人を爆殺、10人が重軽傷、牛3頭が殺戮された。なおこの後の5月27日、綏化に関東軍がやってきて、「赤色分子」として多くの住民を捕らえ、そのうちの何人かが殺され、6月には匪賊抗日軍討伐として民家40軒余りに火を放ち、村人60人が殺害された。(『侵華日軍暴行総録』)
*4月6日:ハルビン市依蘭の司令部、主要施設、兵集団に対し、72発の爆弾を投下。
*4月7日:引き続き占領した方正飛行場から依蘭の司令部などを偵察部隊と共に攻撃し、50kg爆弾96発や重爆弾、焼夷弾など計144発を投下した。
【日本人初設計、製造の戦闘機登場】
△ 中島飛行機が三式艦戦機の後継として機体、発動機ともに日本人が初めて設計、製造した戦闘機である九〇式艦上戦闘機が海軍に採用され、4月から直ちに生産が始まった。この年の後半から就役し、空母、陸上部隊の両方で幅広く使用された。海軍では、本機を使用して戦闘機の戦術研究、訓練が行われた。1934年末には空母の艦戦機が全機、九〇式艦戦になり、1937年の日中戦争(支那事変)にも活躍することになる。
【細菌兵器の開発】
4月、陸軍軍医学校に防疫研究室が設立される。のちに731部隊を率いる石井四郎 (京都帝国大学医学部出身)は1930年、細菌兵器の研究・開発のための欧米視 察から帰国すると、陸軍中央の医学関係者要人に細菌戦のための研究の必要性を説得し、その支持を得て石井を含めた軍医5人防疫研 究室を設置させ、自らが研究室の主幹となった。同時に、日本の支配する満州への出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において関東軍防疫給水部本部を設立、建前はその名が表すように日本軍の衛生管理を守ることであったが、細菌兵器の研究ばかりでなく、次第に捉えた捕虜に対して人体実験の材料として使うようになる。通称731部隊と呼ばれ、1937年の日中戦争の拡大により、各所に支部が作られていく。そして日本軍の進軍・攻撃に合わせて細菌作戦を展開し、毒ガス作戦とともに大きな禍根を残していくことになる。もっともその禍根は(誤解を恐れずに言えば)日中戦争全体での中国民の被害からすれば大きいものではない。その事実はこれ以降に記述する大量の(とても読みきれないであろうし、よく取り上げられる重慶爆撃の話どころではない)爆撃記録からしても明らかである。
5月
*5月13日:ハルビン市の阿城北方の正紅旗を爆撃。
*5月19日:関東軍の「匪賊」掃討に協力し、吉林省梅林付近を爆撃。(日本軍の侵略に抵抗する集団を「匪賊」と称しているが、相手が自国を守るのは当然の行為で、手前勝手な呼び方であるが、しかしこの呼び方は1945年の日本の敗戦まで続く)
*5月下旬:遼寧省丹東市寛甸(かんてん)での攻防戦で爆撃がおこなわれ、中国側の部隊の一団が壊滅し、城内の住民も多数の被害をうけた。
*5月下旬から28日までの数日間、馬占山らの中国抗日救国軍との戦闘を支援するために再びハルビンヘと空爆を展開、東支鉄道沿線、松花江、呼海鉄道沿線などの抗日部隊のいる場所を爆撃、さらに山東省泰安の基地からハルビンの呼蘭方面へと爆撃を進めた。
*5月30日:ハルビン市の正紅旗を再び爆撃。
△ 関東軍は、5月中旬より満州各地で蜂起する反日軍に対処するために上海で活動していた航空隊もハルビンに集結させ、「匪賊討伐作戦」として北満=黒龍江省や吉林省において地上軍の支援のため6月まで毎日のように空爆させたが、具体的な日付は抜け落ちているものが多い。ただこの時期は雨季のため、この地の飛行場はまだきちんと舗装されていないこともあって、毎日は出動できなかったとの記述もある。
6月
*6月6日:ハルビン市の五常鎮を爆撃。
△ 6月8日、日本陸軍省は「9・18」事件から1932年6月6日までに、在中日本軍は4163人の死傷者を出したと発表した。
*6月16日:ハルビン五常鎮近辺を爆撃。
(こうした空爆部隊を強化するため、6月20日、再び静岡県浜松飛行訓練所から重爆部隊を派兵し、すでに展開している軽爆部隊と合体させて飛行第一二大隊を編成した。当時軽爆機は八八式六機、重爆機は八七式四機であった。大隊の拠点は新京=現・長春におかれた)
*6月22日:ハルビン西北方李金屯の馬占山軍を6機で爆撃。
【報復攻撃としての殺戮】
*6月23日:日本の関東軍は20日に遼寧省朝陽県二車戸溝を攻撃するが 現地の義勇軍の反撃に遭い一旦退却、再び23日に錦州からの飛行隊の偵察と爆撃の支援を得て侵攻、再び頑強な抵抗で撤退した。しかしこの後の秋、関東軍は報復攻撃をし、まず 200軒余り の村の家々に火をつけ、さらに 11月9日、おそらく義勇軍のいなくなった村に侵入し逃げる村民を殺しつつ、抵抗のないのを見定めてあたらめて15日の早朝に村を襲い、15歳以上の男性57人を引き出して銃剣や銃や刀で一人一人殺害した。放置された死体は隣村の人が埋葬を手伝ってくれたが、村は寡婦と子供だけの困窮した村となった。(『侵華日軍暴行総録』)
*6月24日:早朝、遼寧省朝陽県南広富営子村に迫撃砲や機関銃の射撃があり、また数機の飛行機が旋回しつつ村に銃撃をし、ある家には火がついた。その後日本軍は村に入り、匪賊(抗日救国軍)を出せと言い張り、その結果、27人の村民が殺された。
【航空機の威力】
◎ 満州事変に対する国際連盟の決議により中国に派遣されたリットン調査団は4/20より6/4日までの6週間、奉天、長春、ハルビンなどを視察し、その報告の一部である。—— 「これら両軍(馬占山軍と李杜軍)はハルビン占領以来日本軍の集中攻撃により大損害を被った。… 日本軍の飛行機を使用することに対し、両軍がその武器を欠如していることが、これまでの中国軍の損害の大半を生じさせている」。調査団は錦州爆撃など都市の爆撃被害は調べているが、抗日組織撃滅のための村落への爆撃までの調査には及んでいない。
〇 満州事変勃発時には関東軍は飛行隊を持っていず、その後二個中隊が陸軍より派遣され、2ヶ月後には五個中隊に増強、そしてこの年の6月には九個中隊となった。これは当時の陸軍航空隊全兵力26個中隊の1/3以上であった。
〇 満州事変勃発からこの7月までの飛行機の損害は65機で、そのうち敵弾を受けて墜落したものは24機、事故によって大破等したものは40機、整備中の火災で失ったもの1機であった。その中で凍結した滑走路の凹凸で脚を折って大破したもの6機、着陸時に不投下爆弾が落下して爆発したものが4機であった。
また事変開始よりこの年の9/15までの約一年間に日本軍が整備開設した飛行場数は50ヶ所であり、この後の各方面への作戦計画には先行条件として飛行場の獲得整備が欠かせないものとなった。
7月
〇 7月7日、リットン国連調査団長は日本の内田外相に国民政府が作成した東北問題解決案を伝えたが、内田は受け取りを拒否した。
*7月8日以後、第一二大隊は黒竜江省での抗日部隊への攻撃に加わった。
*7月23日:河北省の熱河(現・承徳市)に侵入して爆撃を行った。
*7月28日:関東軍前線部隊への糧秣補給を輸送機三機で行なった。翌29日、馬占山軍主力を「壊滅」させた。その後も北満各方面の残敵掃討が行われ、偵察二個中隊と輸送機三機がこれに協力した。
8月
【街中への大量爆撃と機銃掃射】
*8月19日:午前11時、日本陸軍機5機が遼寧省盤山の高昇鎮上空から大量の爆弾投下と機銃掃射をおこない50人余が死亡、重軽傷者は100余人の被害となった。当日は高昇鎮の市の立つ日で、近隣からの来訪者数が非常に多く、避難する間もなく多くの人が爆死、或は爆傷を負った。東大通り、南北に連なる数百軒の家屋が悉く弾痕を浴び、30軒の家屋が破壊された。北街で妊婦の王馮氏が子供と一緒に庭で瓜を取っていたが、そこに爆弾が落ち、母子3人が死亡、東街では蘇永才の母、妻、妹と弟など一家7人の内4人が爆死した。高風岐は部屋に入る暇もなく、爆弾が落ち、体の大半が吹き飛び、片方の腕が屋根の上に落ちた。趙永吉の孫2人が同時に爆死し、田玉金、蘇永柱の弟、蘇憲章の妹などが爆殺された。 (『侵華日軍暴行総録』)
*8月某日:錦州西北の太盧花廟山岳、老爺嶺山地の抗日部隊に向けて爆撃。
▽ 8月28日、このような日本軍の攻撃と弾圧をはねのけるべく、抗日義勇軍21・24路軍が日本軍の駐留する奉天=現・瀋陽を攻撃、東塔空港を占領し、日本軍の戦闘・爆撃機14機を破壊、焼却し、日本軍の航空機倉庫も焼却した。
9月
*9月:中国軍の反撃に対して、満州南部の抗日軍への攻撃が強化され、奉天の基地から、15日頃まで遼寧省の遼東、東辺道の抗日軍を攻撃、山城鎮飛行場や鳳凰城飛行場も爆撃、地上部隊を支援した。
*9月5日:遼寧省の干溝子、六道溝へ爆弾12発を投下。
*9月7日:遼寧省の六道溝などへ爆弾8発を投下。
【村を焼き尽くす】
*9月8日: 遼寧省撫順市大東洲村には抗日救国軍の根拠地があった。昼、日本警備隊の騎兵13人が巡察に村に入ってきて、庄屋の家で昼食をとっていたところ、小東洲からの抗日隊に襲われた。それを受けて午後3時、日本軍守備隊は一機の飛行機の援護を受けてトラック三、四台で大東洲村を襲い、村の住民の大部分が村を脱出した。そこで日本軍は家に火をつけ、さらに10日、日本軍は五百人余りを動員して大東洲村に襲来し、村全体を包囲して家々に火をつけ、抵抗するか逃げる村人を殺した。村全体で住民13人が殺され、520軒余りの家が焼けて3軒(11戸)だけが残り、家畜も全て焼き殺され、村は惨状に覆われた。(『侵華日軍暴行総録』)
*9月10日:遼寧省の太平哨で地上軍の戦闘に協力して、12.5kg爆弾を8発投下。
*9月11日:遼寧省の東辺道、前七台を爆撃。
*同日:遼寧省の二龍渡と老営溝に12.5kg爆弾を8発投下。
*9月14−17日:日本陸軍は占領していた朝鮮から「越境」して進軍していたが、朝鮮側の対岸にある遼寧省や吉林省の老爺廟、双岔河、大清溝、楡樹、横路などの抗日軍に対し連続して爆撃をした。ただ、いずれも小部隊であった。
(9月16日:平頂山事件発生:筆者の年史1932年=昭和7年参照)
*9月27日:抗日義勇軍が遼寧省錦州の日本軍を攻撃したことへの「報復」攻撃として、錦州老城区の大雷溝(小さな村)への爆撃を含めた攻撃がおこなわれた。日本の関東軍は民衆を広場に集めて抗日軍の居場所を問いつめ、民家に火を放った。
*9月29日:黒竜江省綏化(すいか)市の北方、後津河付近で抗日軍根拠地への爆撃と射撃をした。
*9月某日:一連の抗日部隊への作戦のなかで、関東軍飛行隊は奉天の皇姑屯で一般民を空爆する。ちなみにこの皇姑屯は四年前の1928年6月に関東軍が東北軍閥の司令官、張作霖を列車ごと爆殺させた地で、高級参謀河本大作の陰謀とされ、「皇姑屯博物館」が建てられている。
*9月下旬:陸軍の山海関および熱河攻略を支援するため、遼寧省興城市、綏中県などの中国義勇軍を爆撃。
△ 下旬、満州航空株式会社が設立され、民間の運用のほか、偵察や軍事輸送、飛行機の整備、修理を任されることになる。
10月
△ 10月1日:海軍は上海陸戦隊を常駐軍とする。
【リットン調査団報告書】
◎ 10月2日、国際連盟のリットン調査団による報告書が発表された。 報告書は「9・18」が日本の「事前に決定された綿密な計画」によって引き起こされたことを認めているが、満州問題の解決は「既存の多面的な条約を遵守」し、「満州における日本の利益を認め」、東洋の国際共同管理、と自治政府の設立という内容で、中国国際連盟代表団は6日、国際連盟調査団の報告に対し、遺憾の意を表明する声明を出した。11月18日、日本の外務省はリットン調査報告書に対する意見書を発表し、日本の「満州国」に対する態度は国際条約に違反しないと主張し、満州を国際的に管理することに反対した。
*10月8日:救国軍のいる中東鉄道西側を爆撃した。
*10月9日:関東軍は遼寧省朝陽県三宝営子にいる抗日義勇軍を攻撃、飛行機からも支援して爆撃の上、機銃掃射した。日本軍の猛攻の中、義勇軍は逃走した。そこで日本軍は怒って、罪のない住民たちに報復をし、家々に侵入して、物品を略奪したうえで次々に放火し、さらに武器を持たない村人に向かって発砲した。「三宝営子村の死体は野を埋め尽くし、次々に火を放ち、家屋、食糧、家畜、柴草、財物はすべて灰になった」。10月15日の朝陽県の報告によると、「一日に住民男女百数十人が銃殺され、家屋100軒余りが爆破された」とある。(『侵華日軍暴行総録』)
【抗日ゲリラ部隊への討伐作戦と連続爆撃】
△ 10月11日、この日から関東軍は各地の抗日ゲリラ部隊の討伐作戦を行い、それに協力するために飛行隊は爆撃を重ねていく。
*10月11日:吉林省延吉市の帽児山、吉林省白山市の撫松県で数十人を爆撃。
*10月12日:吉林省白山市の撫松で3、400人に4発の爆弾を投下し、銃撃を加えた。
*10月13日:遼寧省の六道溝で約100人の騎兵に8発の爆弾を投下し、宣伝ビラを撒いた。別働隊が吉林省撫松で100人に4発の爆弾を投下しつつ銃撃、さらに老嶺の50人を射撃した。
*10月13日−下旬:「反満抗日分子」を撃破して黒龍江省を平定するための関東軍の作戦に応じ、当時「北満唯一の飛行隊である第十大隊第三中隊」が毎日早朝から夜にわたり各地に爆撃を加えた。
*10月14日:撫松街道上の中国軍兵士を爆撃、撫松中心地では100人の兵士に爆弾6発投下と機銃掃射した。吉林省の横路や東江甸子の各100の兵に爆弾8発を投下し、銃撃した。
*10月15日:三機が内モンゴルのハイラル駅や鉄道、貨車を空爆。
*同日:吉林省白山市の八道溝・撫松、通化市を偵察しつつ、小湯河で数十人、撫松で30人、大営で10数人を爆撃、射撃した。
*同日:重爆機隊はチチハルからハイラルまで飛び、中国側に接収されていた航空機を空爆し、使用不能にした。
*10月16日:ハイラル扎蘭(じゃらん)の東清鉄道沿線を爆撃した。(この時、毒ガスが使用された)
*10月17日:6機の重爆撃機が内モンゴルの中国陣地を攻撃。
*10月19日:撫松街道に沿って、山間の集落、王家営などに8発の爆弾を投じた。
(10月21日:中国軍が遼寧省建昌付近で日本機1機を撃墜)
*10月22日:吉林省 遼源市の湾溝の集落に8発の爆弾を投下し、家屋を爆破した。
*10月25日:「威嚇偵察」の名目で吉林省通化市の板廟の集落を爆撃した。
〇 こうした山間部に対する爆撃は抗日部隊の潜伏を恐れてのことである。
*10月26日:内モンゴルハイラルの東北民衆救国軍総司令部を爆撃した。
*10月27日:黒竜江省の大興安嶺以東の抗日軍を一掃する作戦でチチハルから一個大隊の爆撃機と偵察機で攻撃、四散させた。
*10月某日:内モンゴルのホロンバイル方面の民衆救国軍への陸軍の攻撃に飛行第12大隊が加わり爆撃した。
11月
*11月6日:黒竜江省チチハル市訥河(とつが)県城内の電信局を50kg爆弾を6発投下し、爆破。
*11月10日:チチハル西方嫩江右岸の抗日軍などを空爆
*11月10−19日:吉海・吉長・瀋海鉄道(吉林省から遼寧省付近を結ぶ)近辺の「匪賊」掃討作戦に協力して爆撃。
*11月12日:チチハル市の拝泉・綏化市の明水および吉林省長春双陽の抗日部隊(10/27の爆撃でこれらの地に撤退していた)に向けて爆撃。
△ 11月26日に朝鮮の平壌からの飛行部隊(第六連隊)は平壌に引き上げて行った。なお10/11から11/26までの間に第六連隊は約15kgの爆弾140発と700発近い機銃掃射を行った。
*11月28−30日:重爆撃隊が内モンゴル扎蘭屯付近を攻撃、100・200kgの爆弾を用いて鉄道を爆破。
*11月29日:日本軍は飛行隊の援護の下、満洲里、ハイラルに進攻し、蘇炳文民衆救国軍を「討伐」した。
△ 日満連絡航空開始。
12月
△ 12月1日:霞ヶ浦の飛行船隊廃止。
*12月1日−3日:同じく重爆撃隊が内モンゴルの博克図で列車を爆撃、軽爆隊は景星付近の抗日軍を爆撃した。
*12月3日:抗日軍司令が潜伏中と伝えられたハイラルの製粉工場を爆撃した。
*同日:重爆撃機1機が、爆弾が落ちずに帰投したところ、着陸時に爆弾が爆発して6人が死亡した。
*12月8−10日:内モンゴル自治区北東部ホロンバイル(フルンボイル)に住む邦人の安全を確保するとして、同市内のハイラルの抗日軍を連続爆撃。
*12月13−25日:現在の遼寧省安東(現・丹東)、奉天(現・瀋陽)、蓋平を結ぶ安奉線と満鉄戦の三角地帯の「匪賊」平定作戦で連続爆撃。
△ 12月末、吉林省の東境の抗日軍への攻撃が計画された。
民間の献金による飛行機の献納ブーム
満州事変は、今の時代から見ると国民に苦難を強いる長期の戦争への始まりであったが、当時の国民にとっては日本という国が世界に躍進していくように見える出来事であった。それによって軍への献金ムードが高まり(新聞社がそれを推進したが)、陸軍用に飛行機二機が購入され、愛国一号(スウェーデン製双発の爆撃機)と二号機(ドイツ製の患者輸送機)の披露と命名式が1/10、代々木練兵場で盛大に行われた。練兵場にはこの日7万人、場外にも観衆3万人が集まり、大臣の祝辞もあり、ラジオ中継もされ、お祝いとして所沢と下志津の陸軍飛行学校からの40数機が上空に舞い、アクロバット飛行も行われた。この一号機は当時で10万円、二号機は12万円とされ、現在の金額で3−3.5億円であろうか。これは絵葉書にもされ、少年雑誌に紙クラフトの付録もついた。
両機はこの後任地の満州の長春に赴くが(直ちにハルビン付近の作戦に参加)、こうした報道により献納ブームが起こり、小・中学校や女学校、大学、さらに新聞社を通じての献金が次々と行われ、この年の7月には32機に及んだ。中には私学校1校での献納もあり、ほぼ昭和19年、つまり終戦の前年まで続けられるが、そのうち区市町村では割り当てによる半強制になったという。女学校の資料にもこうした献金活動は出てくるが、全体で判明している愛国号は1752機、存在していたが資料で確認できないもの843機、合わせておよそ1900機、それとは別に海軍では「報国号」と名付けられて同様に献納され(九〇式から)、総数が6000機弱(未確認はあるが番号だけで追った数字)というから驚く。まとまった記録(つまり陸海軍独自で記録していたはずのもの)が残っていないのは、敗戦直後の全軍事資料焼却指令によって一緒に燃やされたからであろう。なお献納は飛行機以外にも、鉄カブトから鉄砲、機関銃や高射砲、軍用自動車・装甲車、患者輸送車、はては艦船まで、様々な献納が行われている。(以上の数字は横川裕一の「陸軍愛国号献納機調査報告」のサイトによる)
純国産飛行機への流れ
ライト兄弟が1903年に世界初の有人動力飛行に成功したが、初の日本製軍用機制作は1911年(明治44)で、これはフランス式の複製であり、戦闘機(まだ複葉機で機体は木製)は1916年(大正5)6月に陸軍航空部が開発、完成したが正式採用とならず、海軍軍人であった中島知久平が中島飛行機製作所を設立し、試行錯誤の末、1919年(大正8)に陸軍に練習機として100機が採用されるも、しばらく陸軍の軍用機は主にフランス製のものが使われ、川崎航空機や三菱航空機、石川島飛行機とともに中島もライセンス生産を続けた。陸軍が偵察機を各飛行機会社に競争試作をさせた中で、ドイツ人設計の川崎航空機のものが1928年(昭和3)2月に八八式偵察機として制式採用された。これは主翼や胴体の骨格が金属製の複葉単発機で、それまでの機体に比べ近代的な構造になっていた。これが満州事変、第一次上海事変から日中戦争の初期に至るまで前線で使用された。またこれは爆装をして爆撃機としても利用される段階のもので、後に爆撃専用の機体が開発され、八八式軽爆撃機となった。その後中島飛行機がフランスから招聘した技師を中心に設計した九一式単葉戦闘機が1931年(昭和6)に正式採用され、その後は川崎や三菱、石川島の国産機も次々と採用されていくが、1937年(昭和12)に中島の九七式単葉戦闘機が採用されると、これが量産され、この年から開始された日中戦争に投入される。さらに性能を上げた中島の一式戦闘機が1941年(昭和16)に採用され、これが「隼」と呼ばれ、太平洋戦争で活躍する。この両機の開発に関わったのが、戦後、ロケットの父と呼ばれる糸川英夫であった。また1944年(昭和19)11月下旬から始まった米軍の日本本土への本格的空襲の最初の攻撃目標が、武蔵野にある中島飛行機の工場であった。
【海軍航空隊の強化】
一方で海軍はイギリス式の航空機を採用していたが、中島・三菱・愛知の三社に対し、十式艦上戦闘機の後継機の試作を指示、929年(昭和4)に制式採用されたのが中島飛行機の三式艦上戦闘機で、1930年から1932年(昭和7)にかけて量産され、第一次上海事変に参戦し、米国のボーイング218戦闘機を撃墜、日本航空隊初の撃墜戦果をあげた。続けて中島の九〇式艦上戦闘機が後継機として投入され、性能は三式艦戦を遥かに凌ぎ、これは日本人が初めて設計、製造した戦闘機で、昭和7年後半から就役し、空母、陸上部隊の両方で幅広く使用された。この機は国民の義捐金によって報国号として献納された機体が多く、横須賀海軍航空隊では日本各地で行われた献納式で編隊アクロバット飛行を行った。これも日中戦争に投入され、1937年(昭和12)8月、九〇式艦上戦闘機10機が、上海北方の江湾上空で敵戦闘機群と交戦してコルセア機やダグラスを機計5機を撃墜報告している。その後1936年に初の全金属単葉戦闘機である九六式艦上戦闘機(三菱重工)が採用され、主に中国戦線に投入されたが、愛知航空機による九六式艦上爆撃機が別途採用され、これが1937年の日中戦争から上海やその近郊、そして南京空爆を手始めとして陸軍に侵攻に合わせて長期、広範囲にわたって大量の爆弾を投下する。日本が米軍によって大量の爆弾による空爆を受け始める7年も前のことである。この機も陸軍の愛国号に対して報国号の名前で国民から献納されたケースが多かった。さらに1940年に、2200 kmの航続距離と20mm機関砲2門の重武装で優れた運動性能を持つ零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が同じ三菱によって開発され、約1万機量産され、当初は米軍戦闘機よりも優位にあったが、そのうち米軍の新鋭戦闘機の投入で劣勢となり、最後には特攻機としても使われ、多くの若き命を散らすことになった。なおこの三菱の二機の設計主任は堀越二郎である。
1933年(昭和8年)
(記号について:*は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である)
◎ この年、日本とドイツは国際連盟を脱退。
1月
△ 1月1日、陸軍航空隊は地上部隊の侵攻作戦に備えて偵察隊とともに黒龍江省の牡丹江や遼寧省綏(すい)中の飛行場へ集結した。
【熱河作戦】
*1月3日:日本の関東軍は熱河省(現在の河北省熱河)の占領をねらって攻撃をすすめた。一方で山海関沖にある駆逐艦からの艦砲射撃と飛行隊7機の支援下で河北省秦皇島市の山海関(長城の東端)南門の中国軍を撃退して占領した。
*1月4日:日本軍は山海関付近五里の台中国軍陣地を攻撃し、その支援で飛行隊が石河一帯を爆撃した。
*同日:黒竜江省鶏西市密山、丹江市下城子に逃れて潜む抗日部隊を偵察爆撃。
*1月6日:地上部隊の支援のため、山海関の石河の中国陣地を攻撃し、秦皇島の村々を爆撃した。
*1月8日:熱河省に侵入した中国軍に対し飛行隊が爆撃を行った。
*1月10日:山海関北方13kmにある熱河省九門の中国軍補給基地を攻撃して日本軍はこれを占拠した。
*1月15−16日:一方で張学良の別働隊司令部が置かれた開魯城(内モンゴル自治区通遼市)に爆撃を行ったが、この時開魯では同士打ちによる市街戦が行われている最中でもあり、死傷者は数百名に及んだ。
*1月22−23日:通遼市(モンゴル自治区)方面への抗日軍への攻撃の支援で、通遼の開魯城内の営舎を狙っての空爆が連日おこなわれ、23日は爆弾数十発を投下した。開魯は24日、関東軍によって占拠された。
(満州各地の抗日義勇軍の主力はこうした日本軍の攻撃によって33年1月には後退を余儀なくされた。しかし侵略された側の中国人民の多くは抗日遊撃隊となって「偽満州国」の日本軍の統治に抵抗しつづけていく)
2月
◎ 2月24日、国際連盟総会はリットン調査団報告書に基づき、「日中争議に関する国際連盟特別総会報告書」を承認し採択した。
△ 2月中旬、飛行第六連隊が吉林省付近の抗日軍攻撃のために、朝鮮の平壌から中国との国境付近の江界飛行場に集結した。
*2月18日:吉林省の撫松を偵察飛行し、「牽制目的」で集落に爆弾2発を投下した。その後、牛截溝でも爆弾2発を投下し、8人が死亡した。別途吉林省の四平街に威嚇のために爆弾4発を投下した。(この後は冬の悪天候でしばらく出撃できず)
*2月下旬:日本軍は熱河省占領を目的に、本来の作戦に反して長城をこえて河北省へと侵入する。この作戦には飛行第12大隊全隊が参加、2月20日に占領した錦州飛行場へと集結し、熱河への空爆を開始した。
*2月25−26日:遼寧省朝陽市西方の大営子と大平房付近の歩騎兵を爆撃。
*2月28日:大平房付近で約1500人の中国兵を爆撃。
*同日:(天候が回復し)江界飛行場から吉林省の安図と撫松の県境を偵察、森林内の家屋に8発の爆弾を投下した。
△ 同日、一機が飛行場付近で猛烈な乱気流に揉まれ、空中分解し操縦者は戦死。
3月
*3月2日:吉林省四平街の南方高地に爆弾8発を投下。(ここまでに抗日軍主力が四散したとされ、朝鮮駐留飛行第六連隊は平壌に帰還)
△ 日本の関東軍は熱河省赤峰を占領。
【爆撃とその後の占領】
*3月2−4日:河北省承徳(当時は熱河省)方面に退却する兵を爆撃、4日の投弾量は1675kgにおよび、関東軍は承徳を占拠した。
*3月5日:続けて長城近くの界嶺口まで兵を追い、承徳の対杖子付近を爆撃した。
*3月10−12日:万里の長城の各関門(特に北京北方の古北口)での戦闘となり、飛行隊は占領した承徳と錦州から出撃し攻撃に協力した。12日、古北口を占領。
*3月13日:湖北省秦皇島市抬頭営、遼寧省葫芦島市建昌営(いずれも長城線)などを第10と第12の二大隊で爆撃。
*3月15−16日:万里の長城の関門のひとつである河北省の抬頭営界北東の嶺口付近に総攻撃をし、16日まで激戦が続き、飛行隊の爆撃支援もあって、日本の関東軍は界嶺口関門を占領した。
*3月16日:河北省の喜峰口西方望楼、羅文峪などを爆撃、地上部隊が喜峰口を占領し、長城線の要所を抑えた。
*3月23日:遼寧省葫芦島市の建昌営を爆撃、50kg弾9発、15kg弾12発。
*3月下旬:河北省秦皇島市石門砦、河北省北東部灤河などの掃討戦に協力して爆撃を続ける。
【国際連盟脱退】
◎ 3月27日、日本政府は正式に国際連盟脱退を通告した。
*3月30日:河北省の義院口、冷口付近八道河など長城の東地区へ爆撃。
△ この熱河作戦では延べ133機が33.2トンの爆弾を投下した。
△ 3月、陸軍は戦闘機、偵察機、重・軽爆撃機、練習機など計150機による大航空パレードを東京上空で実施。
△ 日本軍当局の発表によると、九・一八事変から本年3月末までに、東北抗日武装隊による鉄道破襲は1605回、うち南満鉄道襲撃は394回であった。
△ 3月末に日本軍は灤東作戦(らんとう=河北省の北西から南東に流れる灤河の北東側地区)を決定、作戦の目的は満州国の国境としての長城線を確保することにあり、あえて長城線を越えて軍事侵略を河北省に拡大していくが、日本政府は河北省までの侵攻を認めていなかった。そこで長城のすぐ外側に航空基地を設けた。
4月
△ 4月1日、航空母艦龍驤就役。搭載機は九〇式艦上戦闘機12機、一三式艦上攻撃機6機、九〇式二号艦上偵察機6機であった。
【灤東作戦】
*4月10日:灤東作戦による攻勢を開始、37機を出撃させ偵察行動としながら爆撃を繰り返した。長城の古北口、南大門(河北省張家口市)、宣化旧城の南大門(昌平門)、河北省承徳市興隆などへの攻撃に加わった。
*4月11日:河北省秦皇島市盧龍県の永平西方を爆撃。
*4月13日:河北省秦皇島市抬頭の街を爆撃。
*4月18日:北京の密雲(当時は河北省)の市街古北口を爆撃。(残された写真からは無差別爆撃とされる)
(4月22日:中国軍を灤東以南=熱河省の南側に駆逐し、日本軍は長城線外に帰り、そこで作戦停止が命じられた)
*4月23日:長城の古北口の西側の南天門付近の陣地に対して次々と爆撃した。密雲への爆撃は高度2千mから15kg爆弾54発を連続投下するというもので、全くの無差別攻撃であった。
*4月27日:河北省承徳市興隆において孤立した友軍の戦闘に協力爆撃し、四日四晩の激戦ののち、救出させた。
【関内作戦】
〇 日本軍が長城線に戻ると、現地の中国軍は再び灤東地区に兵を進めた。そこで関東軍は5月3日「関内作戦」(関内とは万里長城東端の山海関内)を発令し、灤東に進出した中国軍に対して反転して攻勢、7日、一斉に長城線を越えて華北一帯(北京近辺)に侵攻し、21日には通州占領、23日には灤河を渡って北平(北京)-天津(てんしん)を結ぶ線のすぐ手前まで迫った。
5月
*5月9日:河北省秦皇島市の撫寧から昌黎に退却中の中国軍を「大爆撃」とある。またこの夜に昌黎近くの灤河(らんが)西岸の中国軍陣地を猛爆した。
*同日:第一二大隊の軽爆隊は承徳飛行場に進んで陸軍を支援、主力の重爆隊は遼寧省の建昌営飛行場に進んで支援、重爆隊は同省綏中(すいちゅう)飛行場から出撃して戦闘を支援した。
*5月10日:関内作戦に応じて北京市密雲の中国軍の陣地、長城要塞の古北口南側に「大爆撃」を加えた。
*5月11日:陸軍第八師団は河北省承徳市隆化新開嶺の中国軍陣地を攻撃したが、その際に重爆隊も参加、250kg爆弾(当時としては最大の爆弾であろう、37年以降は500kg爆弾も使われる)も使い、夜までに攻略した。
△ 関内作戦に伴い、空中輸送隊が編成され、物資輸送だけでなく、兵士と傷病兵の輸送もこの日から6/1まで行なった。
*5月12日:陸軍は前日に続いて新開嶺南方の北京市密雲石匣鎮要塞を攻撃し、そこに飛行隊が「大爆撃」を加えた。
*同日:第六師団は武烈河(灤河支流)を渡り、第一二大隊は対岸陣地を空爆し、陸軍の渡河を支援した。
*5月13日:河北省秦皇島市の永平西方三家唐付近、河北省唐山市の遵化城壁や豊潤などを爆撃した。第八師団は三日間の戦闘で石匣要塞を占領、飛行隊の投下爆弾は440発におよんだ。
*5月19日:日本軍は河北省密雲を占領、20日には第八師団が密雲、第六師団が玉田一帯に集結、同日、日本機11機が北平(北京)上空を威嚇飛行、時には爆撃した。
△ 5月25日、第一二大隊はさらに前進して玉田飛行場に集結した。
【停戦協定と止まらない軍事衝突】
このような形で北京占領への威嚇がおこなわれ、5月25日、中国側が正式に停戦を求めたため、関東軍は戦闘行動を停止し、関内作戦は終了した。31日に塘沽での停戦協定=塘沽協定が成立する。6月5日、日本軍の撤収とあるが、日本軍は北京の密雲、河北省の石匣鎮・玉田、遼寧省葫芦島市の建昌営に兵力を残しての撤退であった。以上の三ヶ月の熱河作戦・灤東作戦・関内作戦を中国では「長城抗戦」と呼んでいる。なお「満州事変」から熱河作戦が終わるまでの日本の陸軍航空隊の戦死者は25人で、ほぼ一方的な爆撃なので戦死者は中国人の犠牲者に比して極めて少ない。そのなかには新京(長春)での着陸時の残弾爆発事故死が6人いる。
この時期から基本的に空爆作戦は沈静化するが、抗日ゲリラ隊の活動は収まらず、その都度討伐隊が送られ、空爆が行われる。また満州に接するソ連軍との航空戦に備える作戦と訓練が継続され(航空撃滅戦計画)、新式の航空機の導入と飛行場の整備も積極的に行われる。
8月
*8月7−8日:察哈爾(チャハル)省の沽源(現・河北省張家口市)の共産党抗日同盟軍(吉鴻昌部隊)を爆撃、多大な損害を与えた。
△ 8月、陸軍習志野学校が創設され、毒ガス戦研究が始まる。また浜松の飛行連隊練習部も浜松陸軍飛行学校とされる)
△ 9月14日:日本軍は張家口に飛行機から「警告書」を投じ、趙登禹部に沽源から張北、龍関以西に撤退するよう求めた。北京軍分会は日本側と交渉するために派遣した。
9月
*9月26−27日:日本陸軍は北京市密雲区から抗日軍(吉鴻昌・方振武部隊)討伐に向かい、その先遣隊として航空隊4機が黒竜江省ハルビン市の高麗にいる吉部隊を攻撃した。
*9月27日:関東軍飛行部隊は黒竜江省ハルビン市の高麗営を偵察し、停戦協定内にいる中国守備軍を爆撃。
10月
【満州事変後の戦死者】
△ 10月5日、関東軍司令部は1931年九・一八事変以来の中国における日本軍は死者1845人、負傷者4968人と発表した。このうち本年3月から5月にかけての長城・灤東作戦では、死者500人、負傷者2125人であった。
*10月16日:方振武、吉鴻昌率いる抗日同盟軍は連日国民党軍と日本軍の包囲攻撃と飛行機の爆撃を受け、おびただしい死傷者を出した。
11月
*11月3日:日本の爆撃機がソ連の上空に侵入した事実に対し、ソ連当局は日本総領事に対し、再度同様な行為があれば直ちに射撃すると通告。(この頃の日本軍にとって最大の仮想敵国はソ連であり、そのための航空機作戦は毎年のように練り上げられていたが、飛行機の保有ではソ連の方が数倍先を行っていた)
*11月6日:陸軍の討伐に合わせて熱河省にいる抗日同盟軍を空爆し、損害を与えた。
△ 12月、第一回陸海軍共同空戦演習を横須賀で行う。
1934年(昭和9年)
(記号について:*は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である)
【陸軍少年飛行兵第一期生が入校】
△ 陸軍少年飛行兵の第一期生が埼玉県所沢に入校した。多数の応募の中から、操縦170名、技術260名であった。
1月
*1月2日:チャハル省赤城、永寧、河南省洛陽の龍門所地区を爆撃した。
△ 1月23日付の奉天の新聞「盛京時報」によると、この一年間に日本の奉天警備司令部は「匪賊討伐」に485回出動し、特に8月は84回出動し、1743人を殺害し、2千人以上を負傷させてたとしている。
3月
【大満洲帝国】
〇 3月1日、日本の満洲国は「帝政」を施行し、「大満洲帝国」と改称した。執政の溥儀が皇帝に即位、満州国は皇帝即位を71カ国に通告する。日本の新聞の一面には、「満州国第一世皇帝」、「世界史に輝く一頁」、「東洋平和の礎石」という言葉が並んだ。しかし満州国を承認する国はごくわずかであった。
△ 3月1日、日本軍千人余りが天津から津浦路に沿って良王荘、唐官屯及び静海一帯に至り、大規模な合同軍事演習を行った。河北省政府は厳重抗議したが、3日、日本軍の演習は終了した。
【東北民衆自衛軍設立】
*3月:満州の黒竜江省樺南県土竜山に「東北民衆自衛軍」総司令部が設立され、銃、槍、刀などで武装した7千人の抗日部隊が生まれた。この自衛軍が日本の第二次武装移民団を襲撃、土竜山 警察を襲い軽機関銃や小銃を奪い、日本人による依蘭県建設を中断させた。これを知り、近隣県の農民一万人が「日本人移民団撃滅」をスロー ガンに立ち上がった。関東軍はこれに対して空爆したが、現地農民 は分散化しながら執拗に日本の第一次、第二次武装移民団を攻撃し続けた。5月にも依蘭民衆自衛軍は黒竜江省依蘭県湖南営の日本武装移民団を襲撃した。
【土竜山事件】
〇 3月8日、黒竜江省江依蘭県土竜山の農民は日本軍の統治に反抗して武装暴動を起こし、翌日太平鎮警察署を占拠した。(この土地に日本の第二次武装移民団が入植していた)さらに12日、土竜山の農民たちは7千人の「東北民衆救国軍」を結成、これに対し日本軍は、民衆440人余りを殺害し、家屋200軒余りを焼いた。15、19日、日本軍は二度にわたって土竜山の村々を血で染め、農民たち千余人を殺害した。4月4日、日本軍は「討伐」戦況を発表、自軍の死亡498名とした。(事件の詳細は筆者の昭和9年参照)
5月
*5月11日:日本は黒竜江省依蘭県で民田を強奪、そこを飛行機で爆撃し、多くの住民の死傷者を出した。
【抗日義勇軍討伐としての村落襲撃】
*5月19日:日本の関東軍は遼寧省瀋陽市南営子に抗日義勇軍がいると思い込み、南営子村の殲滅を企んだ。日本軍は朝陽城からやってきて大砲で南営子村に猛烈な打撃を浴びせ、村人たちは西山と東河套に逃げた。この時、一機の日本機が飛来、逃げていく村人を見つけると、すぐに機関銃を乱射した。そうして日本軍は村に押し入って、門から戸別に人を捜して捕らえた。さらに飛行機の偵察によって、村民が脱げた西山方面に捉えに向かった。西山に逃げた謝雲奎の家族9人のうち一番早く山頂に駆け上がった息子は振り返ると、日本軍が両親を惨殺していた。謝一家の七人も殺され、兄弟二人だけが逃げた。3時間もしないうちに、南営子村の住民は70歳の老人から5歳の子供まで、計27人が殺され、400軒余りの民家が焼かれ、 大火は何日にも及んだ。(『侵華日軍暴行総録』 遼寧省編)
*同日:関東軍は遼寧省建昌県谷杖子郷王砬溝村に潜む抗日義勇軍を討伐するため、飛行機の偵察と援護の下で村を襲撃、しかし義勇軍はすでにいず、代わりに村人10数人を殺害した。(同上)
6月
△ 6月17日、日本東亜興業公司は熱河開魯・アルホルチン旗一帯で大量の武装移民(満州開拓団の先兵)の入植を開始した。
7月
〇 7月、満州国奉天省情報所が7月の本省義勇軍(抗日軍)の活動を調査したところ、計759回出動し、6月より50回増え、延べ3万3443人となった。
9月
【青少年義勇軍開拓団・武装移民団到着】
△ 9月16日、日本青少年義勇軍開拓団一行の13人、黒竜江の饒河県大和村に到着し、そして「饒河少年隊」を設立した。1937年7月までに、饒河少年隊に入隊した隊員は84名に達した。続いて10月21日、第三次日本人武装移民団259名は、綏(すい)稜県北大溝に移住し、同地を瑞穂村と改称した。
〇 9月22−24日、陸軍科学研究所、千葉県の下志津陸軍飛行学校、陸軍習志野学校が連携し、静岡県の天竜川河口中洲で毒ガスの雨下=散布訓練が行われる。
10月
〇 10月19日、日本軍満州専売公署は1935年に阿片(アヘン)栽培を許可した地区及び面積を公表した。
11月
〇 11月21日、『大同報』によると、日本軍は9月1日から11月初めまで東辺道で「大討伐」を行い、柳河1県だけで焼失された民家は2641軒に達した。
△ 11月、日本軍は東満州において「集団部落」を作るため、農民2700戸を強制収容し、東北各地でその計画を推進する。
12月
△ 12月7日、日本軍千人余りが抗日部隊の住む熱河朝陽県石明信溝に対して7日間に及ぶ血生臭い「包囲討伐」を行い、34人を殺し、200軒余りの家屋を焼いた。
△ 12月14日、上海駐留の海軍陸戦隊2500人は、荒木少将の指揮で緊急出動し、虹口蘇州河両岸で大規模の実戦演習を行った。
1935年(昭和10年)
(記号について:*は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である)
【内モンゴル地区での衝突】
〇 前年末に察哈爾(チャハル)省と熱河省(満州国内)の境界で軍事的小競り合いが起こった。もとより日本軍はチャハル省(現・内モンゴルと河北省の一部)を満州に併合することを狙っていたから、この小競り合いの決着は長引いた。
1月
△ 1月1日、上海に駐留する陸海軍数千人が閲兵式を行い、在留邦人一万人以上が参加した。
△ 1月16日:チャハル省察東の情勢が緊迫。内モンゴル赤峰駐留の日本軍若松連隊が多倫に輸送を開始し、多倫駐留の偽(傀儡)警備李守信部隊を沽源(現・河北省張家口市に位置する)に向かわせた。日本機の6機が承徳から多倫に飛来。同時に日本軍の主力は熱河境豊寧県に集結した。
〇 1月16日、撫順炭鉱労働者2300人が過酷な労働と虐待に抗議する。
△ 1月17日、上海駐屯海軍陸戦隊2500人余りが虹口、楊樹浦一帯で市街戦の演習をした。
△ 1月20 日、熱河省承徳駐屯の第7師団は、飛行第8大隊第4中隊および野砲1個中隊を、翌21日には第13旅団の全兵力を出動させ、豊寧、大灘経由で一路沽源に向かっていた。さらに、重爆撃機3機を新京から錦州に移動、待機させ、奉山バスにも自動車の集中を命じるなど、本格的な軍事行動を準備し、察東地域に対する軍事的圧力を強めた。
【空陸協同による攻撃の形】
*1月22日:熱河西の日本軍千人が装甲車10数台と飛行機4機の支援を得て二路に分かれて内蒙古察東に大挙して侵入、一路は大灘から長梁・烏泥河に沿って沽源県城方面に、一路は大閣鎮から独石口方面に攻撃し、激しい戦闘になった。
*1月23日:午前10時、関東軍飛行隊4機が内蒙古察東東柵子に7個の爆弾を投下した。11時、関東軍第7師団の谷寿夫旅団が東柵子に砲40発余りを発射し、守備団や住民40人余りが死傷した(これには大砲からの被害もある模様で、日本側の死傷者は4名)。12時、日本軍は独石口東北の長城線に侵攻した。
*1月24日:日本軍永見部隊は遼寧省東棚子を占領し、更に沽源方面に兵を増やした。また日本機は独石口に侵入して爆弾を投下、中国側兵士15 人、民間人13 人が死傷、民家50軒余りが破壊された。
*同日:関東軍飛行隊は宋晢元軍の一部隊を爆撃、「殲滅的打撃を与えた」。
【中国人傭兵部隊との攻略戦】
*1月25日:日本軍はまた一個連隊を増援して、沽源の東西南北の石柱一帯を攻略した。これで察東戦線には日本軍が約3000人、偽軍(中国人傭兵部隊)が約2000人いた。承徳、大灘の間に日本軍は5000人余りに増えた。日本機の一隊は全部で9機が協力して爆撃した。
*1月25日or26日:東柵子を爆撃、兵士・民間人30人以上が死傷。
△ 日本軍は27日、東棚子を占領して長梁・烏泥河の一線を越え、28日には東棚子から撤退した。同日、日本軍300余人は沽源城東から約15里の喬家囲子及び義合成の両村を占拠した。
*1月28日:3機が熱河省豊寧県大灘の西20kmの断木梁に2発を投下し、村民30人余りを死傷させた。
▽ 1月29日:饒河遊撃隊は大旺砬子で日本軍を待ち伏せ攻撃し、日本兵100人余りを銃殺した。
(同日、米国飛行船、太平洋岸で墜落)
4月
〇 4月1日、遼寧省安東(現・丹東)の傀儡警察は”救国会”メンバーを逮捕するとして、安東省教育長や各市、県の教育局長、職員、そして小中学校の校長と教師、計500人余りを逮捕した。拷問の結果、この年の冬までに40人余りが死亡、また多くが行方不明になった。
【民衆の蜂起】
*4月3日:河北省唐山市喜峰口外の姥姥山の民衆は日本軍の日々の迫害に対し数百人が集まって反乱を起こし、警察署を破壊し、(日本側の)偽警官を射殺した。それに対し日本軍の一隊が弾圧に向かい、河北省馬蘭峪から飛行隊が出撃し爆撃した。
5月
*5月24日:河北省遵化の抗日軍に対する包囲攻撃を支援爆撃。
▽ 1935年1月から5月まで、抗日義勇軍は30回余りの戦闘の中で、日本軍および傀儡軍600人余りを銃殺し、さらに傀儡軍100人近くを蜂起させ、銃300丁余りを分捕った。
【抗日義勇軍大討伐作戦】
△ 5月29日、チチハルの日本軍第十六師団38連隊第3大隊は、吉林省舒蘭県老黒溝を根拠地とする東北反満抗日救国義勇軍に対して大討伐作戦を行い、8日間に渡って村々を侵略し、1000人以上の村民を虐殺した。(舒蘭県老黒溝惨事:別記)
6月
△ 6月12日、(協定を前にして)日本側は北京市政府に、12機から17機の飛行機が中国軍の移動状況を偵察すると伝えた。13日:日本は軍用機14機で平津(北京・天津)を通過し、第51軍の行動を監視した。14日の朝、日本機が北京に飛来、南苑で旋回数回ののち、北西に飛んでいった。
〇 6月24日、関東軍司令部は春季「討伐」抗日軍報告を発表、最近6ヶ月の間に、東北抗日連軍は2万8千人と推定され、東北北部の活働区域は40カ所余りになり、抗日連合軍と195回交戦し、日本軍は死者25人、負傷者75人とした。
〇 6月27日、前年からの国民革命軍との一連の軍事的小競り合いに関し、土肥原・秦徳純協定が結ばれる。
〇 国民政府外交部は日本機が国民政府の同意を得ず、常に平津で飛行着陸するため、特に日本に抗議を申し入れた。翌日、日本の高橋武官は、このような飛行は「塘沽協定によって許可されたもの」であり、中国政府の抗議は実のところ根拠がないと返答した。
8月
*8月19日:日本陸軍機5機が遼寧省盤山に大量の爆弾投下と機銃掃射を行い、50人余が死亡した。
△ 9月、下志津陸軍飛行学校から浜松陸軍飛行学校へガス攻撃部門が移管される。また陸軍科学研究所、陸軍習志野学校が連携し、特殊ガス弾の投下効力試験が行われる。
9月
〇 9月8日、日本の拓務省は東北(満州)移住計画を立案し、現在、東北在住の邦人は24万3668人で、満州事変前の約11万2000人に比べて大幅に増えているとした。
△ 海軍で本格的な急降下爆撃訓練の開始。
10月
【遼寧省朝陽市の焼き払い】
*10月12日:遼寧省朝陽市北票石頭梁子村はわずか7世帯、40人余りの村であるが、抗日救国軍が転戦する際にこの村を通った。日本の関東軍は抗日軍を徹底的に掃討するために、飛行機や大砲を動員して抗日軍を包囲、飛行機は空を旋回しながら爆弾を落としたが、抗日軍はその夜に撤退し、村人たちも戦乱を避けて、山の中に隠れた。翌日午後、日本軍は石頭梁子村に突入したが、村には誰もいなかった。14日の明け方、日本軍は村に入り、日本軍は村人の家に1軒1軒火をつけた。午前中に42軒の家を全焼させ、各農場の庭の穀物も全焼させた。 (『侵華日軍暴行総録』)
〇 10月16日、日本の第4回国勢調査の結果、上海在住の邦人は2万6000人余りだった。また平津(北京・天津)の邦人は7400人余りに増えた。
11月
▽ 11月2日、東北反日連合軍第5軍と人民革命軍などからなる西部遠征軍は、吉林市額穆県で日本軍を全滅させた。
△ 11月16日、日本軍錦州西駐屯守備隊は、朝陽五家子村の無辜の民378人を殺害したのち死体を積み上げてガソリン撒いて燃やし、百戸余りの村が廃墟になった。(朝陽五家子村惨事:別記)
12月
*12月2日:山海関の日本軍約千人は長城に沿って古北口、密雲、懐柔に移動した。日本機10数機が秦皇島、山海関を偵察。
△ 12月4日:日本機数機が北京上空で「自治」を促すビラを散布。
【大規模学生デモ】
〇 12月16日、北京で学生と市民1万人以上が市民大会を開き、日本帝国主義の中国侵略に反対した。続いて19日、天津で各校学生総ストライキがあり、24日、上海の学生が大規模なデモを行い、同日、3千人の学生が列車で南京政府に陳情に行ったが軍警に阻まれた。これは国民政府に反日政策を実行するようにとの運動である。
△ 12月、第三回陸海軍共同空戦演習。
△ 海軍で三菱製の九六式陸上攻撃機と九六式陸上攻撃機を採用。これと競合していた中島飛行機は翌年陸軍に九七式戦闘機が採用される。両機とも日本独自の設計思想の下に製作された。
1936年(昭和11年)
(記号について:*は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である)
【抗日軍の活動】
1月
〇 1月3日、東北人民革命軍第4軍第1師と第3軍第1師団は、黒竜江省方正県で日本軍輸送部隊を待ち伏せし、80人以上を殲滅した。7日、東北人民革命軍第2、5軍西部派遣隊が日本軍の占領する吉林市額穆県黒石鎮と沙河沿を攻略、9日には同市索鎮を攻め落とした。
〇 1月28日、東北人民革命軍第3軍、抗日同盟軍第4軍、湯原遊撃総隊などが東北民衆反日連合軍を結成した。
2月
〇 2月21日、傀儡蒙古徳王軍守備隊将兵1000余人が、日本軍支配に反抗する武装蜂起を行い、政治犯を釈放し、自治機関を破壊した。27日、抗日連合第1軍が吉林通化県熱水河子の偽軍団部隊を襲撃し、副団長以下60余人を生捕した。28日、抗日連合第5軍の一部は黒竜江寧安県蓮華泡で「討伐」に来た日本軍と激戦し、日本軍72名を銃殺し、20名余りを負傷させた。日本軍はなんと化学毒ガスを用いて抗連合軍の兵士に100人余りの死傷者を出した。
〇 2月:日本軍は抗日武装勢力を制圧するため、8、11、19日に遼寧省四道河で3度の大掃蕩を行い、15、20日に2度の大虐殺で、村長馬玉珍ら53人が殺害された。
〇 2月26日、日本国内で陸軍青年将校らによる二・二六事件発生。
3月
【外モンゴル軍との衝突】
▽ 3月29日:関東軍の偵察部隊が自動車で行動していたところ、外蒙(外モンゴル)軍機2機から機銃掃射を受けた。トラックは全車が破損し、1台が大破して鹵獲された。外蒙軍は、日本軍の越境攻撃に対抗するものとした。
▽ 3月31日:関東軍の歩兵1個中隊(重機関銃2・速射砲1)と装甲車数両をタウラン地区の偵察に出動させた。すると、外モンゴル軍機12機が飛来して70発の爆弾を投下し、機銃掃射を繰り返した。爆弾の多くは不発で損害はなく、対空砲火で3機を撃墜、3機を不時着させ、2機を損傷させた。続いて外蒙軍は機械化部隊を繰り出して日本軍を包囲攻撃したが、日本側が肉薄攻撃で応戦し、支隊主力の砲撃で外蒙軍を撃攘した。
4月
*4月1日:日本軍は戦闘・偵察各1個中隊の航空隊を出撃させ、タウランに向けて移動中の外蒙軍車列60両(装甲車20両を含む)を発見し、襲撃を敢行、「外蒙軍を追い散らした」。
〇 4月9日、周恩来と張学良は延安で秘密会談を行い、抗日救国の大計を討議し、紅軍と東北軍の不可侵、相互援助、代表の相互派遣などを協議した。
〇 4月28日、日本の内閣は華北(支那)の兵力を3倍に増やし、一年交代制から永駐制に改めた。
5月
【支那駐屯軍増兵】
△ 5月15日、日本は華北への大挙増派を開始し、第一陣1800人は秦皇島から天津に到着し、一部は通県(通州)、北京に駐屯した。日本陸軍省は、この増兵の目的は、防共・邦人保護にあるとする談話を発表した。16日、中国外交部は日本外務省に日本軍の増兵を抑制するよう通達、米国政府は日本の増兵について九か国の条約を遵守し、中国の独立及び領土主権を尊重するようにとの声明を発表した。
△ 5月23日、陸軍航空兵団司令部の編成を発令。
〇 5月28日、天津市民と学生1万人余りが街頭に出て、「日本の華北増兵に反対する」の旗を高く掲げ、また「武装密輸に反対する」と叫んだ。
△ 5月29日、新たに日本軍第3陣が塘沽に到着し、1500名余りが加わり、山海関、天津、通県の各地に派遣された。天津では日本の在郷軍人、居留民ら数百人が旗を持って駅で歓迎した。
【盧溝橋事件への布石】
△ こうして5月、日本の支那駐屯軍は一挙に3倍以上の約5700人に増兵され(1771人から5774人に増大)、盧溝橋近くの豊台にも駐屯するようになっていた。それに対して中国側は抗議したが、日本は無視して実戦さながらの演習をくり返していく。この時点でこの翌年の盧溝橋事件の種がまかれたということができる。
6月
〇 6月13日、北京の各大学中学校の学生は抗日救国大デモを行い、日本の華北増兵と武装密輸に抗議した。同日、広州市民も反日デモを行った。15日、広州の日本領事は13日の広州反日デモは中日関系に大きな影響を与えると抗議し、日本政府はこれを中日友好の原則に違反するものとした。
7月
【通化(通州)白家堡子惨事】
△ 7月15日、日本軍は抗日軍の潜むとする吉林省通化(通州)県で住民371人を殺害し、家屋60棟余りを焼却した。(「通化白家堡子惨事」は筆者の昭和11年で別記。なお翌年7月に日本側でよく知られる日本居留民襲撃の「通州事件」が発生するが、これが影響していたかもしれない)
8月
△ 8月5日、海軍の高橋三吉司令長官は76隻の軍艦2万7千の将兵を率い、厦門沖で演習を行った。
△ 8月9日、内モンゴル商都の傀儡軍王英部の数千人が、いくつかの縦隊を編成して南西に移動し、日本軍が大量に商都に入ってきた。それに対し晋軍第68師の一部が興和、豊鎮の防衛に到着した。翌日、日本軍の2個連隊が熱河から張北に到着し、多倫などで兵を増やした。11日、日本軍二千人が承徳から察北に向かい、同時に日本軍飛行隊は多倫で大演習をし、20機が張北を偵察した。
△ 8月5日、海軍の高橋三吉司令長官は76隻の軍艦2万7千の将兵を率い、厦門沖で演習を行った。
△ 8月、新潟県関山演習場で毒ガス雨下(散布)訓練が行われる。
【731部隊の前身設立】
△ 8月、関東軍参謀長板垣征四郎中将の要望で、「急性伝染病の防疫対策実施及流行する不明疾患その他特種の調査研究並びに細菌戦争準備の為」として関東軍防疫班は関東軍防疫給水部として格上げ再編成された。そこに元から防疫班に関わっていた石井四郎軍医が関東軍防疫部長に任命され、ここから疫病の元となる細菌を培養してそれを兵器として開発するための本格的な実験・製造施設が作られることになった。これが日中戦争後に731部隊として改変され、数々の細菌散布作戦を展開していく。
〇 8月24日、四川省成都の民衆1万人が反日暴動を起こし、日本人二人を射殺し、数人に暴行を加え、軍関係の将民も死傷した。翌日、四川省政府は会議を開き、反日暴動事件の善後措置を協議し、死体を検査して日本側に備えること、捕縛した犯人2人を銃殺刑とするなどを決めた。(成都事件)
【日本軍の遠慮のない演習】
△ 8月25日、日本支那駐屯軍の歩兵砲兵両部隊は郊外で夜戦演習を行い、また豊台日本軍3百人余が盧溝橋で野戦演習。27日も「午前7時、天津の日本 軍は宮島街と須磨街で再び市街戦演習を実施し、銃声が鳴り響き、睡眠中の住民は驚いて目を覚まし、午前9時に終わった。この半月来、日本 軍の市街戦演習は殊に頻繁で、一週間に四、五回行われる」ような状況であっ た。31日まで、平、津、塘、通や大沽口の港で日本軍3千人余りが市街戦演習も含めて展開した。
9月
〇 9月12日、抗日連合第2軍第5師団と反日山林隊は黒竜江省穆稜県で日本軍用列車を攻撃し、130人余りを銃殺した。
【「九・一八」5周年デモ】
〇 9月18日、「九・一八」事変5周年記念日に、西安各界で大規模な大衆大会が開催され、「内戦停止、一致抗日」とのスローガンで盛大なデモが行われた。北京、上海でも同様に集会が行われた。
△ 9月、浜松陸軍飛行学校、陸軍科学研究所、陸軍習志野学校が連携し、特殊毒ガス弾の投下効力試験が行われる。
〇 9月30日、親日傀儡の冀東防共自治政府は阿片専売を実行し、月に約700万両を売り上げた。
10月
△ 10月、海軍は朝鮮の鎮海に航空隊を設置。
11月
〇 11月9日、上海日商紡績工場の労働者は日本軍の綏遠侵略に抗議するとしてストライキを行った。ストは20日までに4万5千人に達した。
*11月18日:日本の関東軍飛行隊が内モンゴル軍を支援して、綏遠軍を爆撃。
*11月24日:日本機4機が内モンゴルの傀儡軍に加担し、百霊廟を爆撃、しかし綏遠軍に3機を撃墜された。(綏遠事件:別記)
【関東軍による内モンゴル軍支援】
△ 11月、中国綏遠省 (現・内モンゴル自治区) 東部で、日本の関東軍指導下の内モンゴル軍と国民政府軍との武力衝突事件が起こった。1930年代に入って高まった内モンゴルの自治運動は、日本軍が成立させた満州国に刺激され、36年1月、徳王は日本軍の支援を得て、5月に蒙古軍政府成立にいたったが、国民政府と対立した。その結果、両者間には小ぜりあいが続いた。そして11月、日本の関東軍飛行隊の支援のもとに進撃した内モンゴル軍は、蒋介石が支援した綏遠軍と衝突したが、百霊廟を占領され敗北した(綏遠事件)。翌年の支那事変(日中戦争)後、百霊廟は傀儡内蒙古軍に奪還され、親日防共蒙疆地区が新しく誕生することになる。 一方で日本軍の介入に対して、全国各界救国連合会、全国学生救国連合会の指導のもとに広範な綏遠運動が展開され、11月以来上海、青島、天津などで労働者のストライキが相次いつぎ、抗日運動を一層高揚させることになった。
【絶えない反日ストライキ運動】
〇 11月28日、11月9日に続いて上海の日商紡績工場26社の労働者4万人余りが反日ストライキを行い、あらゆる階層から支持を得た。
△ 11月、日本軍は黒竜江省湯原県太平川で、東西幅600m、南北長660mの範囲を画定して「集団部落」を設置し、「圏屯」、「並戸」(帰屯並戸)を実行した。これは村落から匪賊が出ないようにする作戦である。(湯原県姜家屯事件:別記)
◎ 11月、満州に対するソ連(ロシア)赤軍の脅威に対して、ドイツと日独防共協定を締結。
12月
*12月5日:朝、晋綏軍の騎兵が内モンゴル包頭ダルハン旗の傀儡軍残党を粛清した。それに対し午後、日本軍飛行機8機が前後して百霊廟を爆撃、約100発の擲弾を投下した。
12月
【西安事件】
〇 12月12日、日本軍に対し共同戦線で一致協力して対峙しない蔣介石を説得するため、張学良と楊虎城は蔣介石を拉致する実行部隊を結成し西安で「兵諫」(クーデター)を起こし、蔣介石を抑留し、全国に通電して8項目の主張を提言した。17日、周恩来らが西安に到着し、張学良と西安事件を平和的に解決する方針で会談した。(詳細は別記)
△ 関東軍飛行隊はこの年末の時点で約220機の飛行機を装備していた。
△ 12月、海軍の「予科練習生」は「飛行予科練習生」へと改称。
【一年間の日本軍の死傷者数】
△ 12月30日、日本の関東軍参謀部は、1936年1月から12月にかけて、抗日軍に銃殺された日本軍将兵301人、負傷者769人、計1070人、傀儡軍の死傷者は974人、日本軍と傀儡軍の合計死傷者は2044人と発表した。
日中戦争突入から8年間展開された想像を絶する空爆
昭和12年(1937年)
「昭和時代初期2」として1931年(昭和6年)の満州事変から、拾えた範囲で日本軍の空爆に関わる事跡を載せているが、この間に一度も(1933年の停戦協定後も)日本軍が軍事行動を控えた年はない。むしろ日本軍は植民地とした満州国(現在の遼寧省・黒竜江省・吉林省を主とし河北省の一部熱河省と内蒙古)の勢力範囲の拡大に励み、衝突を繰り返し、それに抵抗する中国軍部隊に爆撃を続けた。とりわけ1935年あたりから日本の支那駐屯軍が駐留する北京近郊の豊台で中国軍守備隊との緊張状態が続いていて、この7月、豊台の盧溝橋における衝突事件日中戦争への発火点となるが、これも日本軍の戦争拡大のための一つの理由に過ぎない。
(記号について:*は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である)
1月
【盧溝橋付近での演習開始】
△ 1月21日、日本の華北駐屯軍は、前日から豊台、盧溝橋、通県などで、盛んに演習をはじめた。
△ 1月22日、昨年、日本軍が豊台を占領してから、兵力はすでに700人ぐらいに達し、兵営が足りないとして我が国の関係者に土地を買って兵営を増築するように要求した。
*1月下旬:日本機が安徽省亳州市蒙城を頻繁に空中から偵察していたが、ある時、県城の上空を2回旋回した後、郊外の李竹竿園に小型爆弾6個を投下した。
2月
【国共合作への動き】
〇 2月10日、中国共産党中央は国共両党合作再実現のため、抗日民族統一戦線の共同綱領を提案した。
〇 2月15日、国民党第5期三中全会が南京で開催され、蔣介石は西安事変の経過を報告し、国共両党の第二次合作、連合抗日を主要なテーマとし、中国共産党が提起した国共両党の抗日協力政策を事実上受け入れた。
〇 2−6月、抗日連合軍が吉林省や黒竜江省で蜂起し続け、日本軍はその都度数十人から百人単位の損害が出た。
3月
【上海での日本軍の大演習】
△ 3月24日、日本海軍連合艦隊70隻が青島で大演習を行なった。
△ 3月26日、北京、天津で日本軍は中国を仮想敵国として演習した。
4月
△ 4月1日、上海に駐屯する日本海軍陸戦隊が滬東、滬西(上海の東西)及び北四川路の3カ所で大演習を行い、合計1200人余りが参加した。
【虐殺の予兆】
*春頃、三人の日本兵が遼寧省新賓県岔路子付近の干溝子で山林隊「平東洋」部に射殺された。関東軍は報復としてまず干溝子屯を飛行機で爆撃し、そこから関東軍が村に入って人を見ると殺し、家を見ると焼き、屯内の26戸と近くの住民の老若男女は1人の子供を除いてすべて殺された(戸数からすると100人以上と思われる)。赤ん坊は投げ出されて死に、女性は腹部を切り裂かれた。家畜や家禽類も例外ではなかった(上記二点は『侵華日軍暴行総録』)。
△ 4月11日、日本海軍上将大角岑生が上海駐屯海軍陸戦隊の市街戦演習を観閲、続いて虹口公園で観閲式を行い、第3艦隊の上海駐屯部隊を観閲した。
△ 4月15日、日本満州国は東北の各都市と浜綏・浜北線沿線で中国共産党系委員会などを大粛清、逮捕した(四・一五事件)。10月末までに逮捕されたのは480人余りで、うち80人余りが処刑された。
△ 4月6日、朝日新聞社の神風号が東京の立川飛行場を出発、途中、台北・ハノイ・カルカッタ・ジョドプール・カラチ・バスラ・バクダッド・アテネ・ローマ・パリを経由し、9日午後3時30分(日本時間10日午前零時30分)、ロンドンの飛行場に到着した。東京—ロンドン間15000kmを94時間18分余り(飛行時間51時間20分、平均時速約300km)で結び、当時の国際新記録を樹立して日本の航空技術を世界に印象づけた。英国国王の戴冠式を慶祝して朝日新聞社が企画した訪英飛行であった。その後、凱旋のために日本各地を訪問。これが本来ライト兄弟の望む姿であったが、この直後に日本は飛行機を駆使した長く苦しい戦争に突入していく。この朝日の飛行機も戦況のニュース配信に忙しく大陸と日本を往復したのであろう。
△ 海軍は実用航空隊六隊(80機)、練習航空隊八隊(182機)計十四隊、海上航空兵力294機増加し、既定計画と合わせて陸上航空隊53隊(827機)に艦船搭載機を計1089機とする航空兵力増勢を四ヶ年計画で15年度完成とする。
5月
〇 5月、ドイツ飛行船ヒンデンブルグ号がアメリカのレイクハースト海軍飛行場で爆発炎上、乗員乗客36名死亡。
△ 5月、浜松陸軍飛行学校に真毒演習用に防毒マスクと衣服が支給される。
〇 5月18日、抗日連合第6軍参謀長馮治綱は部隊を率いて黒竜江湯原県城を夜襲し、敵9人を射殺し、監獄を開放して拘束されていた共産党員と人民70人余りを救出しました。
【突然の蕪湖市爆撃】
*5月31日:東北の方向から飛んできた日本軍の18機が3つの編隊に分かれて、安徽省蕪湖市無為県に飛来、順に機銃掃射し、さらに焼夷弾を投下、無城精華の草市街、鵞鳥市街と米市街を爆破して、古くて綺麗で雄大な壮観の濡江楼(鼓楼)は壊され、倉埠門から大東門までの川沿いの船着き場の船民と避難民は、日本機によって織布のように掃射され、無数の死傷者を出した。
6月
*6月2日:続いて日本機は蕪湖市無城十字街を爆撃し、復勝祥雑貨店、永興隆雑貨店、中孚灯油スタックなどの店舗が爆破された。日本軍は何度も無城外を爆撃したほか、また村々を爆撃し、多数の民衆を爆死させた。
(上記二点は『日軍侵華暴行実録』第3巻)
なおこの年で日中戦争開始以前、蕪湖に対し突然このような本格的爆撃をしたのは何のためかは不明で、他に例がない。場所的にも規模からしても関東軍の飛行隊とは考えられず、ひょっとしたら二ヶ月半後から展開される攻撃を想定した海軍の実地演習かもしれない。
△ 6月1日、日本軍は華北(支那)駐屯軍2個団以上の兵力を北京郊外、豊台(盧溝橋)一帯に集めた。
△ 6月25日、日本軍は盧溝橋一帯で夜間演習を繰り返した。
【ゲルニカ爆撃と日本軍の爆撃】
1937年4月26日、スペインで内乱中のフランコ反乱軍と手を組んだドイツのコンドル軍団が、バスク自治政府内のゲルニカに対して世界戦史上最初の無差別爆撃を行なった。この作戦は第一に爆撃機が高威力の爆弾を投下して建物を破壊し、第二に戦闘機が機銃掃射を行って住民を射撃し、第三に爆撃機が焼夷弾を瓦礫の上に投下して大規模な火災を発生させるというもので、ドイツ軍の資料によれば使用されたのは250kg爆弾54発、50kg爆弾158発、焼夷弾5948発であり、焼夷弾が本格的に使用されたことでも世界初であった。ただ、ゲルニカの人口は6千人程度であり、犠牲者は1600−2000人とされ、人口比ではその死者数は圧倒的に多く、ピカソの絵でその残虐性は世界的に知られている。
しかしこの数ヶ月後の日中戦争開始から日本軍が上海や南京から始め、中国の各都市に対し展開していった空爆のほうがはるかに規模は大きく、8年間という長期間にわたり、中国側の調査ではなんと1万2千回以上になり、比較的知られる重慶爆撃は218回に過ぎない。こうした爆撃は敵国民の戦意をそぐために行われる戦略爆撃と言われるが、それは自ずから無差別爆撃が基本となる。すでに先述しているが、日本軍が行なった最初の空爆は、第一次世界大戦に連合国側として加わり、1914年(大正3年)、欧州の戦線で手一杯だったドイツに宣戦布告し、ドイツの中国における租借地であった青島を攻略、9月21日から5機で青島の偵察飛行を開始し、海軍機は10月6日までに49回出撃し200発の爆弾を投下(まだ初期の飛行機に爆弾を積んで手投げによるものであった)、陸軍機は5機が11月7日までに86回偵察飛行し、そのうち爆撃回数は15回で爆弾投下は15kgのものが44個であった。この時代に飛行機からこれほどの回数で爆弾投下した国も世界で初めてであった。
さらに1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件に端を発した満州事変において、10月8日、遼寧省錦州に無差別といえる空爆を行い、世界を驚かせた。ゲルニカの5年半前である。この日午後、11機で錦州を空爆、日本の航空機による本格的空襲に遭った最初 の都市となり、また世界的にも第一次世界大戦後に爆撃された最初の都市となった。 この日は合計75発を投下し、低空から機関銃による機銃掃射も行い、市民14人、兵士1人、ロシア人1人が死亡、20人以上が負傷した。当然この空爆という暴力を駐日英米大使は侵略行為の一環とみなし、日本の首相に抗議した。この時代はまだ爆弾を紐で吊るして切って落とすという方法であったが、その後爆撃機は急速に進歩し、ゲルニカにおけるように大量の爆弾投下ができるようになっている。なおドイツ・ヒトラーはこの2年後の1939年9月に第二次世界大戦を起こし、翌年からイギリスなどに空爆を開始するが、質量ともに日本軍の比ではなかったことは、以下に抽出する大量の記録が示してくれるであろうし、この後の日中戦争はまさに日本軍の大量爆撃から始められたと言ってよく、それが8年間絶え間なく続けられた。
7月
盧溝橋事件
1937年7月7日、日本軍の支那駐屯軍が北京市豊台区盧溝橋において中国軍守備隊との小衝突を起こし、それを発端として7月末には日本陸軍が北京・天津地方を制圧、陸軍では停戦の動きもあったが、8月に入り海軍が上海で強硬策に転じ、13日、海軍陸戦隊が上海で行動を開始、そして翌朝早々に海軍は台湾の基地から戦闘・爆撃機を上海に出撃させ上海への爆撃を開始、これが第二次上海事変となり、本格的な日中戦争(支那事変)突入となった。(詳細は筆者の「昭和12年」参照)
海軍はまず航空隊の機動力をもって台湾や九州からの渡洋爆撃から始め、すぐに上海などに基地を確保しながらそのまま空爆地域を拡大させていき、とりわけ陸軍の南京への侵攻に先んじて南京空爆を100回以上行い、存在感を示した。海軍は1930年から少年飛行兵を毎年定期的に採用していたが、この1937年を機に予科練習生は飛行予科練習生として採用を倍増させ(660人)、さらに年々増員していった。15歳から応募でき、のちに「予科練」との略称で少年の憧れとなり、いくらでも増員でき、太平洋戦争開戦の1941年には約3800人に激増、そして多くの若者がその命を無残に散らしていくことになる。
△ 7月7日、午後7時30分、豊台に駐屯していた日本の駐屯軍1個中隊が盧溝橋付近で夜間演習を行った。夜11時、日本軍は行方不明の1名の兵士を口実にして、宛平城に入って捜索することを要求し、中国守備軍に拒絶された。日本軍は直ちに兵力を動員して宛平城を包囲し、そして翌日未明から砲撃を開始し、中国守備軍第29軍37師110旅団吉星文部隊が反撃した。
*7月7日:北京市豊台区盧溝橋のほとりにある宛平城を爆撃。
△ 7月8日、中国は日本軍が盧溝橋から撤退することを要求、これは拒否され、11時頃戦闘は再開され、日本軍は続々と天津から豊台に軍を送り、ついに豊台を占領した。
【中国への派兵決定】
△ 7月11日、臨時閣議にて、北支(中国北部)への派兵が承認された。これに伴い、15日、日本の陸軍省は日本国内から華北に10万軍を派遣することを決定したと発表。
*7月13日:日本海軍の航空隊が北京南苑を数機で爆撃。
△ 7月15日、陸軍は臨時航空兵団を編成し、南満州に派遣。
〇 7月16日、国民政府外交部は、英、米、仏、伊、独、ソ連、ポルトガル、オランダ、比各国政府に覚書を提出し、日本が「9カ国条約」に違反したと非難した。
【早々の連続爆撃】
*7月18日:海軍の航空隊は中国の列車を3度も爆撃し、死傷者が続出した。中国外交部は日本大使館に厳重抗議した。さらに日本軍は天津に飛行場を建設した。
*7月19日:堅固な要塞のある江蘇省無錫市江陰を爆撃。
*7月20日:北京市(当時は北平と称した)郊外の南苑、西苑、北苑の空港を爆撃。
△ 7月20日、盧溝橋で再び軍事衝突が起こり、両軍は2度の激戦を繰り広げた。日本軍は塘沽の埠頭設備を強奪、天津の情勢は緊迫し、市民は租界に避難した。
同日、日本陸軍は第29軍への攻撃を決定し、豊台に第3師団を増派して長辛店、宛平を砲撃し、多くの死傷者を出した。
△ 7月23−24日、海軍の九州太刀洗飛行場から満州奉天に集中させるべく大隊が出発したが、悪天候のため不時着や行方不明が生じ、十数機が不明となった。
△ 7月24−25日、海軍飛行大隊が日本の浜松から天津に到着。
*7月26日:(廊坊事件)前日まで、北京の南東にある河北省廊坊市において日本軍の通信部隊に対する妨害が何度もあり(中国側からすれば日本軍が通信施設を奪ったことによる)、これに対して陸軍支那駐屯軍が出動、この日の早朝と昼前に、臨時航空兵団が廊坊の中国軍兵営を2度にわたって爆撃し、地上の進軍部隊を支援した。なおこの時、少年航空兵の第1期と第2期生の9名が空爆に参加、国内で賞賛された。
△ この日同時に日本の支那駐屯軍司令部が盧溝橋・八宝山近辺や北京城内の中国軍を28日正午までに撤退するように最後通告を行なった。しかし一般中国軍兵士の抗日気分は上層部も抑えようがなく、早くも夕方に北京城外の広安門で交戦があった。
*7月27日:未明、北京の東にある通州区(通化県)において中国軍と衝突、これを支援するために航空隊が爆撃を加え、中国軍を敗走させた(二日後に通州事件発生)。またほぼ同時に北京市郊外の南苑にて両軍が衝突、これを航空隊が空爆して援護した。
*同日:河南省開封市汴(べん)州を臨時航空兵団が爆撃。
*同日:天津市街、市政府を中心に爆撃。
*同日:河北省宛平の盧溝橋に爆弾2弾を投下。うち1発は不発で毒ガス弾であった。
*同日:広東省清遠県江口にある潖江兵工場に6機の日本機が爆弾12個を投下。この後10月までにこの工場は5回爆撃され、全壊した。
【北京の在留邦人への引き揚げ命令】
△ この日の早朝、北京の日本大使館は在留邦人四千人に引き揚げを命じ、大使館区域の交民巷に避難させた。
*7月28日:日本軍は(自身の最後通告の正午を待たず)北京方面への一斉攻撃を開始し、続いて航空機40機を出撃させて北京郊外の西苑の兵舎を爆撃、次に西苑の北方の沙河鎮を爆撃し、続いて地上軍が占領、さらに西苑の東北方の清河鎮を攻撃してこれを地上軍が占領、一方で地上部隊の攻撃に合わせて南苑を早朝から爆撃し、中国軍を敗走させ夕方には南苑を占領した。
〇 28日、中国国民政府は対日抗戦決意を表明。 「二年来、国土主権保持の原則下に北支(華北)治安の安寧を図ってきたが、不幸にも今回事件勃発し … わが軍は遂に自衛守土のために全力を挙げて防戦に立たざるを得ず … 対日決戦を開始する」とした。
【通州事件】
〇 29日、「通州事件」発生。これは日本側でよく取り上げられるが、筆者の「1937年:昭和12年」参照。なお、前年の7月15日に日本軍は通化(通州)において白家堡惨事を起こしている。ちなみに中国側の記述では「通県(通州)の傀儡冀東保安隊第1総隊張慶余部及び第2総隊張硯田部が反乱を起こして日本軍260人余りを殲滅した」となっているが、傀儡というのは日本軍に傭兵された傀儡軍という意味で、ここではその傀儡軍が寝返って攻撃したということである。また「日本軍260人余り」の中には多くの日本人居留民がいて犠牲になっている。この殲滅という書き方は仮に日本軍側でも同じようになるであろう。
【天津作戦】
*7月29−30日:天津作戦——28日夜半より天津の日本軍司令部や飛行場に攻撃があり市街戦が生じた。これに対して日本軍は29日に大反撃を開始、陸軍航空隊により、天津市内の北駅、東駅、市政府、警察署、裁判所、造幣廠、津浦電台(電話局)などに対して爆撃を行った。このうち、北京鉄路管理総局ビルは廃墟と化し、南開大学構内の秀山堂、図書館、文法学院、教室、宿舎などが破壊された。 「日本軍の残忍な爆撃により、天津で市民2000人以上の死傷者がでた」。また南開大学図書館にあった20万冊に及ぶ書籍は日本軍に略奪された。戦後に返還された本はその一部の450冊余りだったという。
*同日:天津の海河の塘沽対岸の大沽の中国軍に対し、海軍航空隊が協力して猛烈な爆撃を加え、また陸軍も砲撃し翌朝までに占領した。
*7月30日:北京西南の保定方面に敗走していた中国軍が保定駅で兵士を列車に満載している現場を見て、陸軍航空隊はこれに「爆撃を加え、多大の損害を与えた」。
△ 7月31日、日本の支那駐屯軍は北京・天津地区を制圧した。
*1937年8月1日:中国軍は平漢線の良郷東駅(北京西南の房山区)を押さえたが、日本機は平綏線(京包線)南口駅(北京の北方)を爆撃した。
8月
*8月2日:早朝、偵察隊により〇〇方面に〇百名の集結を見たとの報告で数機が天津付近の〇〇飛行場から出動、目的地に着き、それらしい建物を爆撃し、兵士たちが逃げ出すのを見て急降下して機銃掃射を加えた。爆撃はさらに〇〇に移り、続いて〇〇に3度目の攻撃をした。ちなみにこれは読売新聞の記事であり、一人の記者が自社が献金、寄贈した「ヨミウリ」第6号機に同乗してその様子を興奮して書いている。当時の記事は〇〇のように、自軍の動きが漏れないように秘匿されることが多かった。
*同日:午前、通州事件を受けて日本陸軍飛行隊は、通州より東方約8kmの燕郊鎮に集結していた冀東政府保安隊および29軍敗残兵約200人を爆撃した。
*8月3日:河北省張家口から北京に向けて続々と軍用列車が運行しているとの情報で、陸軍飛行隊は午前と午後の2度にわたり、下花園、坌道城、懐来駅で列車に爆撃を加え、大損害を与えた。
*同日:河北省廊坊市三河市燕郊鎮に集結する「敗残兵」に爆撃を加え、約20の死体を遺棄して四散した。
*8月4日:前日に爆撃を免れていた平綏線上の懐来駅と下花園駅にある装甲列車を爆撃。
*8月5日:張家口の津浦線(済南−浦口間)の駅を爆撃。
△ 8月7日、海軍第二連合航空隊司令部、長崎県大村から遼寧省大連市周水子に展開。
△ 8月8日、海軍第一連合航空隊司令部と鹿児島県鹿屋航空隊が台湾台北に展開。
△ 8月8日、陸軍は北京に入城、日本の避難民もほぼ自宅に戻った。
【大山事件】
〇 8月9日、海軍の大山勇夫中尉ら2人が、軍用車で虹橋中国軍用空港に突入して挑発し、空港保安隊に射殺された(大山事件/虹橋空港事件:筆者の同事件参照)。同日、日本陸戦隊は上海に上陸を強行し、中国に上海保安隊の撤退を要求したが、中国側に拒否された。
*8月11日:支那駐屯軍の北京市昌平区南口方面への攻撃に協力し、関東軍飛行集団が爆撃。
*8月12日頃、内モンゴルの包頭付近の戦闘に協力して臨時航空兵団が爆撃、さらに退却する中国軍を追撃した。
〇 日中両軍の小規模の戦闘状態が続く中、各地で日本の居留民に対する抑圧が高まり、まず漢口(武漢)の居留民一千人は5日の夜から揚子江上の日本船2隻に乗って引き上げることになり、それに下流の九江、蘇州、蕪湖の居留民も乗り込み、その後も上流にある重慶、宜昌、長沙の総領事館員たちも9日までに輸送船で引き上げた。これに関し当時の記事は、「かくの如く、長江沿岸の邦人を全部引き揚げることは、多年培養した権益を一朝にして放棄せざるを得なくなったわが方の犠牲は極めて莫大である」としているが、日本軍が戦闘を優先させた結果であるから文句は言えない。
【チャハル作戦】
7月7日の盧溝橋事件後、満州を支配する日本の関東軍は待っていたかのように上海戦に並行して独自の軍事展開を行なった。関東軍は満州国の安定化を計るため西側で国境を接する察哈爾(チャハル)省を自己の勢力下に置くことを望んでいた。そこで関東軍は8月9日から察哈爾省・綏遠省(現在の内モンゴル自治区)への侵攻作戦を行なった。作戦地域は張家口(察哈爾省の省都)以東とされ、8/14、張家口を占領して作戦は終了したかに見えたが、次に日本の参謀本部を無視して独断で作戦を張家口以西にも拡大、9月13日には綏遠省と山西省の省境にある大同を占領し、10月14日には綏遠を占領、10月17日に包頭を占領した。この際、蒙古自治政府軍も随行して綏遠省の各機関を吸収し、10月27日に(傀儡政権として)蒙古連盟自治政府を樹立した。その後、自治政府の防衛のためとして張家口に日本の駐蒙軍が置かれた。
第二次上海事変から日中戦争へ
第一次上海事変は1931年の満州事変の翌年に起こったが、それ以来、上海をはじめとして中国各地で日本軍への抵抗運動が続いていた。そして上記の盧溝橋事件をきっかけとした緊張状態の中、各種の事件が起こっていたが、8月9日に日本海軍中尉の射殺事件(大山事件)があり、これに対する処置を巡って両軍が対立し、一触即発状態の中、13日の朝から小競り合いが続き、夜になって日本海軍の軍艦の不穏な動きに対し中国軍が銃撃してまず駐留する海軍特別陸戦隊が戦闘状態に入った。これを第二次上海事変と呼ぶが(中国側では淞滬会戦)、これがそのまま支那事変(日中戦争)開戦となる。ただ日本軍はこの事態を想定し、前日までに上海居留民三万の大半を上海から自軍の艦船などに避難させ、海軍航空隊は出撃体制に置かれていて、日本政府も陸軍の上海派兵を決定していて、開戦を前提とした動きをすでにしていた。
8月14日、上海の事態が中国の「暴戻なる行動によって俄然重大化した」との理由で、日本政府(近衛文麿首相)はこの日深夜緊急閣議を開き、従来の現地解決・不拡大方針を撤回、「暴支膺懲」(横暴な支那=中国を懲らしめる)宣言を発表し、「膺懲のため断乎たる行動をとる」と決し、「自衛行動」としての戦時体制のための予算を計上することとした。事実上ここから中国と開戦となり、太平洋戦争まで突き進むことになる。
【台湾からの爆撃】
*8月14日:前日までの台風の影響が残り、曇天のこの日の未明、日本海軍爆撃機18機が台湾の台北基地から出撃し(九州の大村基地からは天候不順のため出撃できず、翌日からとなる)、中国空軍基地の浙江省杭州覧橋、杭州筧橋航空学校、杭州喬司飛行場、安徽省宣城市広徳飛行場を襲撃し、格納庫や地上にあった飛行機を10数機爆破、また空中戦で中国軍機4機を撃墜、日本機は二機が未帰還、一機が被弾し不時着。なお広徳飛行場には9機がそれぞれ250kg爆弾2発を積み爆撃したと中国側の記録にある。
*同日:別途、海軍飛行隊18機が上海の凌橋丁家洪、三岔港、石家洪沿江一帯に爆弾投下また機銃掃射を行い、それにより民家10数軒が爆破され、10人余りが死亡した。(このような死者数が書かれる場合は中国側の資料による。以下同)
*同日:午前中に北京北方の長城の南口、昌平区居庸関、河南省開封市杞県泥沟、午後には河北省張家口の懐来県沙城鎮・新保安、宣化、花園駅、陝西省楡林堡を爆撃、また沙城鎮、新保安、張家口の各駅付近で移動中の列車を爆撃した。
▽ 同日午前、中国機は十数機を安徽省宣城市広徳より出撃させ、日本海軍の陸戦隊本部、黄埔江に停泊中の軍艦を爆撃。
渡洋爆撃
14日以降の数週間の爆撃は渡洋爆撃と言われるが、この日は中国空軍第4大隊の 戦闘機27機がこれに応戦し(発進基地は上記の飛行場)、全面交戦が始まって以来初めての空戦であった。中国空軍は日本軍の九六式爆撃機3機を撃墜し、5機に傷を与えた 。中国空軍は空中では無傷であったが、離陸時に一機を失い、地上勤務者一人が死亡した。これは中国空軍の空戦での 初勝利であったが、中国空軍の中には手慣れたソ連(ロシア)の志願兵がいたこともあった。別途、中国機6機が上海市内を流れる黄浦江にいた日本の艦隊の上空に飛来し、うち3機が爆弾6発を投下、しかし雲によって照準が定まらず、5発は川に落ちて巨大な水柱を起こし、残り1発は倉庫を爆破した。日本の艦隊も高射砲の一斉射撃2回で応戦しながら各々艦載機(九五式水上偵察機)を飛ばしたが、波が高く途中で打ち切られた。
【双方の爆撃による上海市街地の惨禍】
*8月14日午後、海軍機が再び上海を爆撃した。爆弾が南京路外灘(黄浦江西岸)に落ち、 華恋(キャセイ)ホテル及びパレスホテルが爆撃で焼失した。上海の南京路一帯は混乱を極め、爆撃で崩れ落ちた建物の残骸の中で、人々が下 敷きになった。他にも建物の多くと路上に停まっていた20余台の自動車 も全部燃え上がり、電信ケーブルが地面に垂れ落ち、大火事となって被害を拡大させた。この日の爆撃により民間人1742人が死亡、1873人が重軽傷を負った。
ただし、この8月14日に中国空軍重爆隊10数機は午後4時過ぎ、再び黄浦江上の日本の軍艦を狙って爆撃するが、悪天候の雲によって照準が定まらず軍艦には命中せず、河岸近くの上海租界の歓楽街を爆撃、外国人をふくむ千数百人の民間人死傷者が出た。したがって上記の「民間人1742人が死亡、1873人が重傷」というのは、主として中国軍機の爆撃によるものとされる。
【迅速な号外記事】
早くもこの日夜に日本国内に配られた「東京日日新聞」の号外記事がある。これは中国軍の上海街中への爆撃を非難するもので、「暴虐!所構わず投弾——租界、大混乱に陥る」/「避難民の真只中へ爆弾——繁華街南京路血の海と化す」等とある。これによるとキャセイホテルとパレスホテルへの爆撃は中国軍機によるものとしている。ただ中国軍機が最初から自国民の往来する繁華街を狙って爆撃したとは思えないが、ホテルは黄浦江西岸にあったことで、曇天の中での誤爆は十分に考えられ、また共同租界の日本人居留区を狙ったことも十分に考えられ(実際に北四川路の日本人商店街が延焼中ともあるから命中弾もある)、これは記事にあるフランス租界を誤爆して死傷者を出したのがそれであると思われる(実際、フランス領事館から中国軍に抗議がなされ、中国軍は当事者を処罰している)。
一方で日本機はその一時間前の午後三時過ぎに上海に来襲し、共同租界すぐ近くの虹口飛行場や北停車場に爆撃をして、その後四時過ぎに中国機が日本機を迎撃しつつ日本の艦隊を狙ったという時間差があるから、新聞記事の中には中国機の爆撃に対する反撃爆撃というのは当たらず、ただ、航空機操縦技術は日本より劣っていたことは確かであり、上海郊外の浦東にある米国のスタンダード石油のタンクへ命中したというのも中国軍の大きなミスである。
ちなみに東京日日新聞(現・毎日新聞)や朝日新聞の号外は二時間程度で編集されて(午後六時に艦船からの砲撃との記事もある)飛行機で福岡へ、福岡から電送で東京、大阪に送られ、ほぼ夜になって発行されたもので、詳しい検証の時間はなかったであろう。
また東京日日新聞には中国軍の狂気の沙汰の非道な爆撃と書かれ、朝日新聞の号外にも「支那人繁華街で200名爆死」(タイトルは爆死でも記事は死傷となっている)、「罪なき外人多数死傷 — 支那空軍全く狂気沙汰」と書かれていて、この感覚は新聞社としては普通であろうが、日本軍の爆撃対象に「北停車場」とあるのに注目すべきで、停車場すなわち鉄道駅への爆撃は、必ず一般人を含んでいて(この日も市内の戦闘から逃れようとする避難者が多くいたであろう)、この後も北や南の駅への爆撃は繰り返され、多くの民間人が死傷している。さらに日本軍が必ずと言っていいほど都市の街の中心部や田舎の町の人々の集まる場所にも爆撃を加え続けていく(しかも8年間)ことは、順を追って見れば明らかなことで、しかしその惨状が日本国内に報道されることはまったくなかった。
〇 8月14日、国民党国防最高会議は対日抗戦に宣戦・断交方式を取らないことを決定した。
【南京への初爆撃】
*8月15日:未明に九州長崎の大村基地から九六陸攻20機を出撃させ、9時半、南京の明故宮飛行場と大校場飛行場を低空飛行で爆撃、格納庫3棟と地上の8機以上を爆破、また空中戦で9機を撃墜したが、日本機は地上砲火もあって4機が撃墜された。ただ、南京中央大学なども爆撃しているから単に軍事施設を目標としたものではない。中国側死傷者数十人。これも渡洋爆撃で、爆撃後、済州島基地(植民地朝鮮)などに帰還した。
*同日:台北から九六式陸攻(陸攻とは海軍の陸上航空隊)14機を江西省南昌および鷹潭市貴渓に向けて出撃させ、風雨の中8機が飛行場に数十個の爆弾を投下、格納庫3棟と地上で待機中の9機を爆破し、全機が帰還した。
*同日:前日と同様、午前九時、数十機で浙江省杭州の喬司との紹興の飛行場を爆撃、次に別編隊が杭州筧橋と浙江省嘉興飛行場、さらに午後、杭州飛行場を爆撃し、中国軍機との空中戦で9機を撃墜、地上の7機以上と格納庫6棟を爆破した。自軍の損失は8機で、そのうちの多くは悪天候の中、低空飛行によるもの。
▽14−16日:中国軍機は三日連続で日本軍旗艦の出雲装甲巡洋艦を爆撃し、損害を与えたと中国側の記録にある。
*同日:浙江省寧海を空爆するが、毒ガス弾が投下された。(ガス弾の場合、この時期は関東軍=陸軍飛行隊である)
△ 海軍航空部隊の14、15日における「成果」として、確実に爆破した中国軍飛行機は52機、うち撃墜26機、不確実なもの20機、格納庫17棟、自軍の損害8機とある。
*8月16日:早朝、台北から九六陸攻6機が南京に向かい二度目の空爆、午後にも三度目の空爆を行い、その帰途に隣の句容の飛行場を爆撃、地上の10機、格納庫数棟を爆破、ただし空中戦となり10機を撃墜したが、指揮官機を含む2機が迎撃により未帰還。(中国側の記録では延べ70機が5回にわたり空爆、日本軍機8機を撃墜とある)
【蘇州爆撃】
*同日:済州島(朝鮮)から九六陸攻9機を出撃させ、日暮れ時の江蘇省蘇州市揚州を爆撃した(指揮官機1機は被弾し敵陣に突っ込み爆死)。
この蘇州爆撃による中国側の具体的被害状況である。
——(日本機は)二度の出撃で蘇州を爆撃し、薊門外飛行場、閭門門外老五団(北兵営)をはじめ、道前街、西善長巷、朱家園、弁蓮巷、学士街、東西支家巷などが爆撃された。西善長巷だけで3、40人の住民が爆死、民家30余軒が破壊された。月銅錫店の浴槽で水浴びをしていた妊婦は首が吹き飛び、徐光斗一家は3人とも爆死した。。
(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
(この日から10月末まで、蘇州を130回以上爆撃し、多量の焼夷爆弾も投下、その結果、市内で四つの大火が発生し、それが三日三晩続き、商店、旅館、芝居小屋、茶館、浴場、ホテルなど二百軒、民家六、七百軒が焼失した)
【一日に数十カ所への爆撃】
この16日はさらに下記の場所への爆撃が行われたが、このような重爆撃が、少なくとも海軍が太平洋戦争に転戦するまでの1941年9月まで中国内に対して続く。
*同日:浙江省の紹興・嘉興、上海の虹橋・龍華、安徽省宣城市広徳飛行場を爆撃。
*同日:上海の呉淞(現・宝山)砲台、大場鎮砲兵陣地、浦東の陣地を連続して爆撃。
*同日:(万里の)長城線攻撃支援で北京北方の南口を陸軍航空隊が爆撃。
*同日:7機が江蘇省江陰の上空を偵察爆撃。なお江陰は8月14日から11月末の江陰陥落まで毎日江陰の上空を偵察爆撃し、機銃掃射を行い、ある日は2機、3機、ある日は10機、最も多い日は96機だった。
*同日:江蘇省松江(現・上海)を初爆撃。その後、毎日数機ないし十数機が爆撃、機銃掃射が行われ、住民は四郷に避難した。
*同日:江蘇省蘇州市呉県を二度にわたり爆撃、閭門外飛行場、老五団(北兵営)及び道前街、西善長巷、朱家園、瓣莲巷、学士街、東西支家巷などに爆撃を加えた。西善長巷だけで住民3、40人が死亡し、民家30軒以上が爆破された。
△ 8月16日、航空母艦蒼龍竣工。
【基督病院を爆撃】
*8月17日: 午前9時頃、日本軍機4機が急降下して江蘇省南通市の南通基督病院を爆撃、 たちまち病院の建物、薬局棟が火災に見舞われ弾片や瓦片が乱れ飛び、厨房、食品倉庫が倒壊、電柱が折れて電線が地面を這い、 医師、看護師、職員、入院患者ら24人が死傷した。
△ この日までに南京に残された145名の日本人が脱出、山東省青島に着いた。
【想定外の損失】
△ 渡洋爆撃の三日間の攻撃で飛行隊長機を含む12機を損失、搭乗員の戦死は65名に達し、これは日本海軍にとって想定外の損失であった。この多さから、爆撃機には護衛戦闘機を帯同させることになる。しかしこの後日本軍は上海等の航空基地を次々と占領するなど、また海軍の母艦による艦上戦闘機・爆撃機も加えてすぐに優勢を保ち、年末までには制空権を手中にする。母艦や艦船が揚子江の上流、武漢あたりまで楽に侵入できたことは日本軍にとって戦略上大きかった。
*8月18日:上海中心、上海市嘉定区南翔、湖南省衡陽、江西省吉安、江蘇省南通を爆撃。
*同日:蘇州市崑山の県城、青陽港、真義などが爆撃を受けた。県城内の170軒余りの商店は、南北両端の数軒が生存している以外は、すべて爆破され廃墟となった。
*8月19日:午後、渡洋して南京を四度目の爆撃、火薬庫に命中して大火災が生じた。夕刻に五度目の爆撃、参謀本部や軍官学校を破壊した。
*同日:海軍鹿屋航空隊は午前9時25分−30分に台北を出発し、12:15−12:35に上海甲基地上空に達して上海派遣第二航空隊と合流、午後14:00に溧水城区中央を空爆した。
*同日:北京の西北にある楊子崗高地の中国軍陣地を爆撃。
*同日:空母加賀より発信した艦載機12機が江蘇省無錫市江陰要塞に来襲、中国側も対空砲火を行い、二機が爆弾を投下したのみでまもなく日本機は引き返した。
*同日:夜明け、日本機20機余りが浙江省嘉興の上空から機銃掃射を行い、民間人5人が死亡、5人が重傷、滬杭鉄道の31号橋を破壊した。さらに8機が嘉興駅に爆弾を投下、同駅ホームの一角が破壊され、3人が死傷、付近の民家数軒が破壊され、住民5人が負傷。
△ 8月19日、海軍の23航空隊が浙江省舟山群島の最北部にある馬鞍群島(上海の東南方向)に進出。
*8月20日:南京に朝から晩まで7回空襲を実施、国民政府機関、無線電信所、飛行場、砲台などを爆撃。
*同日:湖北省武漢の漢口を初爆撃した。
*同日:上海の南市にある江南造船所、南停車場(駅)を爆撃。
*同日:無錫市江陰の要塞に毒ガス弾を投下、8月24日にも再び投下した。
*同日:安徽省宣城市広徳、江西省九江の各飛行場を爆撃。
*同日:江蘇省松江(現・上海)を爆撃、光啓中学校が全壊した。
【中国空軍の反撃能力】
▽ この日は中国空軍からの日本軍への空爆も激しく、上海の浦東一帯を中心に爆撃、日本軍司令部と日本総領事館も攻撃した。なお日本軍の調査では、この時期における中国軍(国民政府軍)は1934年に航空委員会を設立して空軍の充実に力を入れ、アメリカとイタリアの援助のもと、1936年末までに中央空軍として850機、その他の軍(独立した軍閥)で90機で合計940機に達し、その後も増やされつつあるとした。
【南京行き避難民列車への爆撃で千人以上死傷】
*8月21日:上海発、南京行きの避難民列車を爆撃し、千人以上の民間人を死傷させた。
*同日:江蘇省徐州・揚州、杭州筧橋の各飛行場を爆撃、飛行機工場、格納庫、地上の飛行機合わせて13機を破壊、空中戦で1機を撃墜。
*同日:渡洋爆撃隊は、前日に続き武漢の漢口へ向かい、飛行場の十数機を爆破、その帰途、湖北省孝感と九江を爆撃。
*同日:午後、満州国の関東軍飛行隊が、察哈爾(チャハル)作戦の一環で河北省の張家口の兵営や無線電線所その他を爆撃。これは数日続けられ、張北付近も合わせて爆撃した。
*同日:河北省張家口を爆撃し、関東軍を支援。
*8月22日:空母加賀を発進した12機が江蘇省江陰要塞上空に飛来し、3隊に分かれて襲撃、江陰要塞と電雷学校を爆撃、しかし中国側の高射砲の一弾が燃料タンクに命中し、火を噴いて墜落、同時にもう一機も撃墜されたが、日本機は再度急降下して爆撃、しかし激しい対空砲火により命中弾はなかった。
*同日:江西省南昌、安徽省安慶を爆撃。上海宝山県上空で空中戦となり中国機9機のうち5機を撃墜。
*同日:夜間、七度目の南京空爆、光華門飛行場と中華門外の兵器工場を爆撃。
*同日:京綏(すい)線(北京市と内モンゴルを結ぶ)方面の作戦に協力し、河北省張家口市懐来、北京市の新安堡、陽高、永嘉堡などを爆撃。
*同日:上海における海軍陸戦隊の攻撃を援護爆撃。
*同日:上海の北方揚子江岸の呉淞に海軍の軍艦が接近、その艦載機5機と中国空軍3機が空中戦。
*8月23日正午:上海南京路の繁華街と淅江路を爆撃し、215人が死亡、570人が負傷 した。
*同日:南京、安慶、浙江省寧波、江蘇省南通を爆撃。
*同日:未明、陸軍の上海派遣軍が上海の北方揚子江岸の上下流二ヶ所(宝山と呉淞)から上陸、これを海軍の軍艦と飛行隊が砲撃支援した。(この最初の上陸部隊は翌日の戦闘で中国軍に「壊滅」させられ、その事実は日本では報道されなかった)
*同日:関東軍飛行隊は中国軍と敵対する蒙古軍の戦闘を支援して、河北省張家口市張北西北の大益山付近を爆撃。
*同日:午後2時頃、8機が江蘇省蘇州市常熟県城を爆撃し、10分余りで爆弾を集中投下、城内8ヶ所が被爆し、益琴布工場、聚豊園の被害が最も大きく、家屋が全壊し、死傷者数十人。
【張家口市宣化城の占領と住民の受難】
*8月23日:(以下の内容は12月に起こる南京事件の前触れのようなものである)張家口市の宣化城が初めて日本の陸軍機の爆撃を受け、鉄工炉の労働者が即死、南関観音裏通りの若い母親と満1歳未満の子供が爆死し、一家5人の死亡もあった。最も悲惨なのは、東馬道の南の城壁を爆撃された時、防空壕が爆破されて崩落、避難民20数人が死亡した。さらに日本の侵略軍は宣化を攻略した後に、4つの城門を閉鎖して、住民の出入りを禁止、その後、中国の第29軍の残党を捜索するという名目を掲げて、彼らはあちこち走り回り、箱をひっくり返すようにして財産を略奪したり、女性を強姦したりして、悪逆の限りを尽くした。さらに日本軍は宣化を支配するために、城内でいわゆる治安維持会を作った。その後、満州憲兵隊に委託され、小山内という日本人が隊長となり、残忍で凶暴な悪事をはたらき、住民を苦しめた。憲兵隊、警察署、スパイ機関などを新たに設け、1938年の初めには、日本人が参政官、指導官として権力を一手に握って、住民に対する苛酷な統治を行なった。12歳から55歳までの人はすべて写真を撮り、「良民証」を発行し、用事があって城外に出る場合、必ず許可証を取らなければならなかった。この日本の占領時代(約8年間)には、どれだけの民間人が惨殺されたかわからないが、いわゆる不審な容疑者とみなせば、いくらでも処刑できた。宣化南門外甘荘子の李明成や陽原県銭家沙窪村の宋元などが「容疑」によって生き埋めにされた。経済的にも、日本軍は宣化の住民に対して人の骨までしゃぶるごとく取り立てをし、いろんな名目での苛酷な税金のほかに、住民にアヘンの栽培を強要し、「アヘン組合」という役所を設立して専門化し、宣化の人々に深刻な害を与えた。また日本軍は市街地にもクラブや賭博場などを設けて民財を吸い上げ、多くの人々を破産させ、窮地に追い込んだ。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*8月某日:上海の北蔡鎮区を襲い、鎮東街、北街、虹橋南側、南梢浜、中界橋、楊橋史家角、呉家大竹園などの街路では、数十人が死傷し、民家約30軒が爆破された。別途、上海南匯区大団鎮が爆撃され、大団町小学校は2発の爆弾により建屋の大部分が崩壊した。
*8月某日:上海市南匯の大団鎮小学校に2発が落とされ、多くの教室が破壊された。
*8月24日:嘉定(上海)、寧波、安慶などへの爆撃を継続した。
*同日:江蘇省の太倉・崑山・南通を爆撃、南通では再びキリスト教の病院が爆破され、患者30数人と数人の職員が死亡した。
*同日:河北省張家口の懐来県と沙城鎮の中国軍を数度にわたって空爆して「壊滅」させ、張家口市宣化区永嘉堡・怀安県柴溝堡駅付近の軍用列車7輌を爆撃。
【最初の日本軍上陸部隊の壊滅】
△ 上海派遣軍が上陸した呉淞では、連日猛烈な血戦を繰り広げ、羅店、砲台湾の日本軍は壊滅した。(この最初の上陸部隊の「壊滅」は事実で、中国軍の待ち伏せ攻撃にあい、約1万人が戦死、日本では報道されず、正式記録にもない)その後日本軍は呉淞鎮を陥落させた。
*8月25日:上陸した陸軍の上海における進軍を支援して空爆。
*同日:河北省承徳市平頂山とその南側の高地を陸軍の進行に合わせて爆撃、占領に成功した。(ちなみにこの平頂山は1932年に日本軍の全村殺戮事件があった場所=遼寧省撫順市とは異なる)
*同日:察哈爾省の東八里市街の陣地を爆撃。
*8月25日:河北省張家口市蔚県、広霊などを爆撃、関東軍は懐来付近を占領。また正午、日本軍用機三機が張家口市涿鹿城に8発の爆弾を投下。橋東街の「徳合堂耀記」の薬局が爆破され、薬局の主人董耀南(字は紹棠)氏とその妻、叔父の老漢方医、厨工の劉氏ら4人が死亡した。世和美の染物屋も爆破され、作業員の一人が死亡した。城里東運動場の古い建物「風伯閣」も崩壊した。商店街は閉鎖され、住民は避難した。
〇 海軍第三艦隊司令長官は、自衛と作戦上から、揚子江北岸から広東省汕頭市に至るまでの沿岸を封鎖すると宣言、つまり中国側の物資や軍需品の輸送を禁じ、これを無視するものは船舶を抑留もしくは撃沈させるとした。このような宣言をしなくともすでに各湾や河川上で数々の爆撃をしているわけで、自軍の誇示が目的であろうか。
*8月26日:再び避難民で混雑する上海南駅を爆撃し、700人余りを死傷させた。
*同日:上海松江駅に爆弾を投下、数十人が死亡した。
*同日:2機が浙江省鎮海市街爆撃、打筋街の白家楼の家屋1軒を爆破し、老婦人1人が爆死。
【大学や病院を爆撃】
*8月26−27日:渡洋爆撃で南京を夜明け前の1:30、2:30、4:00の三回攻撃し、九度目の爆撃となった。日本側の記録では「憲兵団、兵工廠などを爆撃して数カ所に火災を起こした」としているが、実際には南京中央大学、中央大学付属高等学校、革命遺族学校及び志成病院を爆撃した。ヒューギスン駐中英大使は、南京から英国国旗を掲げた車に乗って上海に向かっていたが、無錫に到着したところを日軍機に掃射され、大使は重傷を負った。市内3ヶ所で火災が発生し、およそ100人の住民が死亡する。
*同日:上海の閘北から大場鎮に通じる自動車道、京滬・滬杭鉄道沿線、南翔、真如方面に集結する中国軍部隊に「殲滅的爆撃を加えた」。
*同日:江西省南昌を爆撃し、農業大学などに爆弾を投下した。
*同日:察哈爾(チャハル)省西部の西河営、河北省張家口市蔚(うつ)県、保定市涞(らい)源、山西省孝徳を爆撃。涞源では13人が死亡。
*同日:津浦線(後の京滬線で天津と南京対岸の浦口を結ぶ路線)の山東省馬廠の兵営を爆撃、さらに天津市静海の王口兵営をを爆撃。
*同日:広東省清遠市清遠県城に一機が飛来、照明弾を三つ投下して急降下、爆弾2個を投下し、17人を爆殺した。
*同日:張家口を占領した陸軍に協力して河北省の新保安、宣化一帯の中国軍を爆撃。
*8月26−30日:福建省の漳州に40機が出撃、5日連続で漳州の飛行場爆撃、投下爆弾60余個。飛行場近くの後田、詩礅、上街などの店舗も爆撃を受け、詩礅は7人が死亡、23人が負傷、上街では12軒が破壊された。後田はわずか30戸の街だったが、すべてが爆破された。その後44年5月まで漳州は100回以上、日本軍機延べ181機が来襲、投下爆弾346個、死者189人、負傷者217人、家屋数百軒が破壊、焼失した。
*8月27日:南京の貧民街が爆撃され、約100人が死亡、そのうち50人が焼夷弾による焼死であった。
【避難民の上海南駅での惨劇】
*8月28日:12機がまたも上海南駅を襲撃し、避難民200人余りを爆殺し、500人余りを負傷させた(難民の死者7、8百人、負傷者は数知れず、との記述もある)。当日、上海では戦闘を逃れるために1800人以上が奥地や杭州方面に避難しようとしており、その中の多くは女性と子供であった。上海には 南北二つの駅があったが、北駅が戦闘地域になったため、南駅が陸路交通の唯一の出口となった。日本機は焼夷弾も投下し、駅構内及び構外がたちまち火事になって煙が漂い、至る所で泣き声 が聞こえ、その惨状は見るに堪えないものであった。上海南駅は交戦地域から 遠く離れており、軍事施設もなかったから日本軍の南駅に対する爆撃は完全に無差別爆撃であり、海外メディアの避難するところとなった。日本側は「南駅は南方からの軍隊輸送のために利用されている」と言い訳をしたが、日本軍がこの後も人の集まる街中を好んで爆撃していくことは、この後の記録でも多く出てくる。さらにこの日は別途上海市街地も爆撃し、市民700人の命を奪った。
*同日:上海浦東の中国軍部隊を「シラミつぶしにし」、さらに南市区、江南造船所、北停車場を爆撃。
*同日:天津市静海区の王口鎮を爆撃(関東軍による)。
*8月29日:山西省大同の中国軍施設を爆撃(関東軍による)。
*同日:安徽省広徳、江蘇省蘇州、浙江省杭州を爆撃。
*同日:江蘇省松江(現・上海市区)の莫家弄、菜花涇などが被爆し、民家が多数破壊され、死傷者多数。
*8月30日:南京を爆撃。(南京はこの8月に8日間襲撃された)
*同日:徐州(江蘇省)を初めて爆撃。徐州は交通の要衝であり、軍の主要な町として、日本の空襲の重要な標的となった。この日以降、11月12日も再度爆撃されたが、翌年明けに徐州の戦いが始まった後、1938年1月から6月にかけて、徐州は頻繁に空爆されることになる。
*同日:福建省建甌で1機が中山公園に2発の爆弾を投下、中国人民の死傷者は11人であった。この後建瓯は1945年3/29 までに日本軍機のべ761機、投下爆弾2581個、死傷者約千人、破壊焼失家屋650戸となる。
*同日:陸軍の侵攻に合わせて天津市静海県呂官屯・唐官屯を爆撃。また邢台市沙河の銃砲工場に爆弾2発を投下した。
*同日:河北省の津浦線上の滄州の停車場(駅)と兵営を爆撃、午後また滄州の市街地、石家荘市辛集の王口鎮を爆撃、翌日地上部隊が王口鎮を占拠。
*同日:山西省大同、河北省の保定、石家荘を爆撃(関東軍による)。
△ 同日、日本軍の砲兵隊が黄浦江に停泊中の米艦「オーガスタ号」を砲撃した。
◎ 8月30日、国民政府は日本の全面侵攻を国際連盟に訴え、日本が「9カ国条約」「パリ条約」「国際同盟」に違反していることを重ねて表明した。翌日、ロイター通信記者に対して、国際社会は平和を達成するために、日本の侵略行為に干渉すべきだと強調した。
*8月31日:広東省広州の白雲・天河飛行場を7機で初爆撃、石牌飛行場に爆弾2発を投下、高射砲で狙撃され空中戦もあったが、3機を撃墜、1機を失う。広州は、中国南部で最大の都市であるが、1938年10/20に占領されるまでの14か月間、日本機は広州に対し800機以上の出撃を行い、1万発以上の爆弾を投下し、死者は7000余人におよんだ。 (この広州への爆撃により、香港への避難民が加速的に増えていった)
*同日払暁、広東省韶関市曲江を空襲、早朝の無警戒の中の突然の奇襲で、住民147人を爆死傷させた。
*同日:上海大場鎮のバス停を襲撃し、民間人200人余りを機銃掃射で射殺した。(上海は15日からこの日まで11日間連続で爆撃された)
*同日:夜間、上海共同租界の西側虹口区に照明弾を投じて威嚇、別途南西郊外の中山路附近を爆撃。
*同日:福建省漳州の飛行場を爆撃し、地上の飛行機を多数破壊、さらに広東省韶関の飛行機製造工場を爆撃、格納庫やその他の構造物を炎上させた。
*同日:広東省の梅州市・汕頭市、福建省の竜岩市を爆撃。
*同日:福建省建甌の火薬庫を爆破、炎上させた。
*同日:新たに上陸する陸軍に協力して上海の長江南岸呉淞鎮を爆撃、上陸を成功、占拠させた。
*同日:日本軍が陣地とする虹口区を砲撃してくる中国軍の閘(こう)北砲兵陣地の中山路付近を爆撃。
△ 8月、植民地満州の黒竜江省チチハル市に関東軍技術部化学兵器班が設立される。
△ 8月15−30日、南昌・南京・広徳・杭州に対して台湾の新竹基地と長崎大村基地から、九六式陸攻38機が渡洋爆撃を行い、また延べ147機が済州島・台北から出撃、広徳、南昌、南京などを連続して空襲する。
【欧米諸国の非難】
◎ 8月29日:首都南京に大使館を持つアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの五カ国代表は8月26日の南京への爆撃に対し、明らかに自分たち外国人と現地住民を含めた無差別爆撃であるから即刻中止するようにとの要求を駐日アメリカ大使館を通して日本政府に提出した。宣戦布告をしていない相手国の首都への爆撃は、その目的を外れて教育施設や財産の無差別の破壊、民間人の死傷、生活の破壊につながっているとした。しかしこれに関し、日本政府は具体的な対応をしていない。
9月
*1937年9月1日:蘇州の松江(現・上海市)、上海の真茹駅(現・上海西駅)、安徽省安慶の黄墩を爆撃。
*同日:上海呉淞附近の(蘇州市)太倉・常熱・瀏河鎮方面の砲兵陣地を爆撃。
*同日:上海北停車場の列車砲を爆撃。
*9月2日:続けて上海の真茹駅と無線台を爆撃、南京、杭州間の連絡を遮断。
△ 同日、海軍第二連合航空隊が旅順発、5日に上海公大に進出。
*9月2−5日:陸軍の宝山城区の攻撃に参加し連日爆撃。
*9月3日:福建省厦門(アモイ)を12機が爆撃、6時間にわたり港などに砲撃を加えた。
*同日:上海および杭州の喬司を爆撃。
*同日:江蘇省松江の斜塘鉄道橋が爆破された。
【上海北新涇駅への爆撃で避難民約千人死傷】
*9月4日:上海北新涇駅を爆撃し、上海から逃れようとする避難民約千人が死傷した。こうした例は何度も見かけるが、日本軍は群衆を見ると爆弾を落とす性癖があるとしか思えない。
*同日:上海の閘北、浦東の砲兵陣地に「痛烈な爆撃を加え」、また江蘇省連雲港市の海州を爆撃。
*同日:広東省汕頭市南方の汕尾、媽宮を海軍駆逐艦と共同で二度攻撃。
*同日:陸軍の援護で天津市唐官屯を爆撃、午後地上軍が占拠した。
*9月5日:朝7時に16機が上海の北新涇住宅を爆撃、10時に2機が周家橋地区の木工場や石粉工場なども爆撃され、死傷者300人余りを出し、さらに江蘇省蘇州へ向かう河上の難民船を爆撃し、民間人400人余りを殺傷した。
*同日:河北省中部の保定市涿県、流璃河一帯を陸軍の進行に合わせて爆撃。
〇 9月5日、8/25日の海上封鎖宣言に続いて、海軍省はさらに区域を拡大して、香港やマカオや青島の第三国租借地を除き、中国の全沿岸に船舶の航行を遮断すると宣言した。これは経済封鎖が目的である。
*9月6日:福建省厦門(あもい)、安徽省広徳、広東省の汕頭を爆撃。
*同日:上海を流れる黄浦江岸軍工路を爆撃して陸軍地上軍を支援。
*同日:深圳市赤湾、宝安、墩頭湾を駆逐艦と共同で攻撃。
【山西(太原)作戦】
これはいわゆる日中戦争の裏で行われた満州の関東軍による周辺の占領地拡大への侵攻作戦である。11月8日、作戦は太原を占領して終えた。この山西作戦全体で日本軍の死傷1万1000人以上、中国軍の死傷約10万人とされる。
*9月6日:関東軍の侵攻を支援し、山西省大同市の天鎮城を空爆。
*9月7日:蘇州、広徳、杭州、浙江省嘉興の飛行場を爆撃。
*同日:福建省厦門の要塞一帯、および「市中抗日分子の策動する主要建築物を爆撃して南支(中国南部)の天地を震撼させ」たとするが、こういうケースは市街地の住民に多数の死傷者を出しているとして間違いない。
*同日:続けて関東軍の侵攻を支援し、夜明けに大同市の陽高を空爆、さらに逃走する中国軍を追撃する。そのうちの重爆撃1機が敵陣地に不時着し、5名が戦死。
〇 9月8−11日、上記山西作戦の一環で、大同市の東北にある陽高県を爆撃後の8日夜、関東軍が城内に突入しその戦闘で日本側に約140人の死傷者が出た。そのことに激高した日本軍は、夜が明けて占領が終わると、次々に捕虜や住民を虐殺、三日間で1000人を超える犠牲者が出た。これを「陽高事件」というが、当時関東軍にいて太平洋戦争開始時に首相であった東條英機も関わっていて、このほか類似の事件がこの9月から次々に発生している。これらは「南京事件」の影に隠されているが、看過することのできないものがある。(筆者の「昭和12年」の稿参照)
【収まらない難民列車への爆撃】
*9月8日:正午過ぎ、上海から北京行きの満員の難民列車が、松江駅で爆撃され、300人以上が死亡、500人余りが負傷した。
翌日のNorth China Dailynews社は「昨日、またも上海の難民に災難がふりかかった。日本軍爆撃機が上海から嘉興行きの列車を松江に停車中に爆撃し、死者300名を出したが、その大部分は婦女子で負傷者はさらに多数にのぼる。客車五輌が完全に破壊され、死傷者の中には中国兵は一人もいなかった。… 上海市長は“松江においてきわめて非人道的な爆撃にあった列車が交戦地帯から避難する難民を輸送中であったことは否定できず、攻撃は計画的で全く許せないことである”と非難した」と報道した。
*9月9日:上海付近の京滬(けいこ)線(北京と上海を結ぶ)と滬杭線沿線の松江、閔行、蘇州市崑山を爆撃、路線を分断した。
△ 9月10日、海軍航空隊は上海に公大飛行場を造成、開設した。
*9月10日:午前9時30分、5機が上海の龍華鎮を爆撃、爆弾30数発を投下し、家屋80余間を爆撃し、龍華寺内の羅漢500体が溶解し、死傷者5、60(即死8)人を出した。その後、北橋鎮を爆撃し、北橋小学校は3人の子供が負傷。別途、上海の軍工路を爆撃。
*同日:早朝、 河北省滄州市青県流河鎮に対して数機の日本機が爆撃を行い、その後日本軍はこの鎮に突入、機銃で隠れている村の人々に向かって掃射し家々を焼き払って殺した。
*同日:広州白雲区の人和鎮を爆撃。
*9月11日:上海楊浦区の楊家宅、浦東区の遠東競馬場、市政府施設を間断なく爆撃。
*同日:広東省汕頭の媽宮を爆撃。
【収まらない病院への爆撃】
*9月12日:広東省恵州を爆撃。アメリカ伝道団の病院が日本機3機によって爆破され、重傷者が出た。施設には大きなアメリカ国旗が二本掲げられ、周囲に高射砲はなく、中国軍陣地から3km離れていた。
*同日:浙江省杭州の筧橋、嘉興、江蘇省蘇州、上海を爆撃。このうち蘇州の実態の一部が下記である。
——「江蘇省蘇州市街に日本軍は一日に十数機の航空機を出動、連続爆撃を行った。蘇州の新閻門から背門の学士街まで、ほとんどの家が被害を受け、死傷した住民は400人以上となった。ひとりの老婆は両足2本を、孫は片方の膝下を切断した。病院の前は怪我をした人で溢れ、負傷者の中には出血多量で救助を待たずして死んでしまった。日本軍機は低空で、道路脇に避難している人々に向かっても機銃掃射も浴びせ子供や母親もその銃弾で惨死した」
(『侵華日軍暴行総録』)
*9月13日:午後4時頃、上海虞姫墩路の呉淞江の上空で爆弾4発を投下し、嘉興市に向かっていた3隻の難民船を爆破し、死傷者300人余りを出した。
*同日:広東省深圳の龍華、杭州を爆撃。
*9月14日:河北省の石家荘を爆撃。別途同省廊坊市固安県を35機で爆撃。
*同日:上海嘉定区南翔、宝山区大場鎮駅付近、別途、杭州を爆撃。
*9月15日:河北省保定市の涿県を爆撃。
*同日:河北省永清県の白垡村一帯を低空偵察して機銃を乱射した。 日本軍は白垡村に入ってから16日午後に村を離れるまで、罪のない村民46人を次々と虐殺、この村の13人(女性10人)と他村の1人が連れ去られた。
*同日:河南省洛陽を初爆撃、空中戦を行った。
*同日:広東省広州を爆撃。
*同日:関東軍が山西省太原市の山西軍閥の根拠地、閻錫(えんしゃく)山を爆撃。
*9月15日−22日:広東方面を攻撃、22日までに広東の中国空軍は全滅させた。
*9月某日:広西省梧州の高旺空港を爆撃。
*9月16日:河北省保定を2回にわたり爆撃、この2回目は夜間で250kg爆弾が使用された。
*同日:上海虹口区の江湾鎮、閘北、浦東を爆撃。
*同日:広東省の潮州・汕頭・掲陽を爆撃。
*9月17日:北京市房山区瑠璃河、河北省保定の松林店、高碑店、定興の各地を爆撃した。
*同日:上海宝山区の大場鎮の中国軍陣地を爆撃した。この後占領し、日本軍が大場鎮を飛行場として開設する。
*同日:江蘇省劉河鎮、上海羅店鎮、嘉定を午前と午後、繰り返し爆撃。
*9月18日:上海東区楊樹浦等の地域を爆撃し 焼夷弾数発を投下したため、この一帯の工場と住民居住地域が大火事になり大 きな被害が出た。またこの日の午前8時、怡和紡績工場に爆弾が命中、続いて 東百老滙路、公平路の8カ所の住宅が爆弾され、大火事がすぐに発生した。その他、兆豊路倉庫、百老滙路東一帯の住宅、培林洋行卵工場と住民居住 区が火事で燃え尽き、焦土となった。
【保定駅への爆撃】
*同日:河北省の保定を始め、平漢線の于家荘・方順橋・望都の駅を順に爆撃し中国軍の退路を断ち、午後には地上軍の保定総攻撃の前哨戦として槽河鎮、大夫庄、楊家屯に集結していた中国軍に爆撃と機銃掃射を加え、さらに平漢線正定北方の新県とその付近の鉄橋を爆破して退路を絶った。爆撃で最も被害がひどかったのは保定市駅だった。停車場全体が爆撃され、駅の防空壕に避難していた民間人約200人が出口をふさがれ窒息死した。また焼夷弾で住宅は焼かれ、自宅に避難していた住民ら約30人が機銃掃射で殺された。日本軍は同日夜再び保定市上空を飛行し、重要な軍政部隊を爆撃した。「保定大爆撃」は多くの保定市民の心の傷となった。
*同日:上海の閘北、北停車場、虹橋飛行場、杭州の筧橋を爆撃。
【占領した上海公大飛行場から南京への爆撃】
*9月19日:海軍航空隊は占領した上海公大飛行場から朝の8時に45機からなる第一次南京空爆部隊を出撃させた。この日、南京中央大学は250kgの大型爆弾8個を受け、破壊された。南京上空では中国軍機数十機と交戦となり、25機以上を撃墜させ、日本軍機の喪失は4機であった(中国側の記録では「敵機28機が南京で中国空軍に撃破された」とある。ただし撃破は撃墜ではない)。しかしまだ中国軍機が10機以上残っていると見て、午後に第二次空爆として32機が出撃、中国機を7機撃墜、日本機の被害はなく、日本軍は南京での制空権をほぼ手に入れたとする。
*同日:関東軍飛行隊が山西省太原市の飛行場を爆撃、地上待機中の戦闘機8機と格納庫3棟を破壊。別途、同省大同南方の飛行場で4機を撃墜。
*同日:江蘇省の徐州、鎮江市の句容、雲港市の海州、広西省の柳州を爆撃。
*同日:平漢線西部の河北省保定市満城県および徐水県を爆撃、前日の爆撃と合わせて「これがため同市の敵軍営は全滅し、事変以来最も偉大な爆撃効果を収めた」とある。
*同日:浙江省湖州の長興飛行場、太湖沿岸および長興県城への爆撃を続け、機銃掃射で多数の死傷者を出した。
*同日:午前9時頃、浙江省嘉興市平湖県に2機が汽船埠頭で3発の爆弾を投下、旅客21人が死亡、53人が負傷した。
*同日:午後、江蘇省蘇州呉県の平門駅を空襲、18発の爆弾に加えて焼夷弾を投下し、駅舎及び衛生列車や難民列車が爆破され、さらに機銃掃射も加わり400−500人が死傷した。駅の壁は崩れ、死体は至るところに散乱した。爆撃を逃れた赤ん坊は、母親の死体の上を這い、泣き叫んでいた。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:午前9時50分、日本機2機が嘉興駅付近で10発の爆弾を投下し、子供2人が死亡、さらに花園弄科甲域陸家桑園内に爆弾を投下し、男1人が死亡、女3人が負傷した。続いて10時5分、2機が駅近くの角里街と小烟雨楼2カ所に爆弾7発を投下し、民間人23人が死亡、36人が負傷、民家5棟が破壊された。また川に停泊していた船4隻が沈没。(『侵華日軍暴行総録』)
【南京への爆撃予告】
〇 上記の南京への空襲に関し、主要五カ国の停止要求に答えず、海軍の第三艦隊司令長官は、「わが海軍航空隊は9月21日正午、南京市および付近における支那軍と軍事行動作戦に関わる一切の施設に対し、爆弾その他の加害手段を加えることがある」から「自発的に安全地域に避難の措置をとられんことを強調せざるを得ず」との通告文をこの19日に発しながら、その21日ではなく19日の朝から空爆部隊を出撃させている。よく陸軍の暴発のことが語られるが、海軍の横暴はそれに負けず劣らずである。
*9月20日:江蘇省徐州・海州・蘇州、安徽省広徳を爆撃。
*同日:河北省保定に対し連日で地上部隊の攻撃を支援するため爆撃。
*同日:二機が江陰の中国艦隊の上空を旋回し爆撃、逆に砲撃も受けたが両者に損害なし。
*9月20−25日:続いて南京を爆撃するが、連日で25日の第11次爆撃まで延べ291機が出撃し、投下爆弾は355個、中国軍機40数機を撃墜、日本側の損失は10数機、戦死者は18名であった。この間、飛行場や数々の政府機関、軍の基地、砲台等を破壊し、この後の南京への空爆がほぼ自由になった。(以下25日参照)
【列車から逃げる避難民への一斉銃撃】
*9月21日:内モンゴル自治区ウランチャブ市の集寧から帰綏(今の呼和浩特)方面に避難民を満載した旅客列車が午前10時頃出た。列車が油葫芦湾一帯に到着した時、4機の日本機が列車の上空から列車に向かって爆撃、機銃掃射を繰り返した。列車が止まった時、西南から集寧に向かっていた日本陸軍は、列車から低い河原に逃げた避難民を機関銃や小銃で一斉に銃撃した。これにより300余の民が次々と銃弾に当たって倒れた。(これは関東軍の爆撃と思われる。『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:午前、何度も上海の松江城の上空を旋回し爆撃掃射した。午後に再度侵入、その音で付近の住民は銭涇橋の久大糖坊に設けられた防空壕の中に入り襲撃を避けた。ちょうど皆んなが防空壕に入った時、日本機は急降下して焼夷弾を投下して目標に命中させた。爆音がして防空壕の入り口を塞いだ。ボロ布で補強されていた防空壕はすぐに火で激しく覆われ、悲鳴や泣き声がしたが、外から工場の労働者四、五人その他に人々が救出に努力したが、30数名の老人女子子供が死に、二名が犠牲を免れただけだった。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:連日:保定前線の攻撃に参加し爆撃を加える。
*同日:海軍の艦隊飛行機が隴(ろう)海鉄道の起点である江蘇省連雲港市を爆撃。
*同日:広州市の天河、白雲山、従化の飛行場を爆撃、また東莞市の虎門要塞を爆撃した。
*9月21日−22日:臨時航空団の重爆撃機部隊が山西省太原飛行場を三度爆撃、空中戦で7機を撃墜し、兵営や格納庫を破壊、「太原を中心とする敵航空陣営を壊滅せしめた」。
*9月22日:海軍の艦隊飛行機が、山東省済寧の飛行場、江蘇省徐州の鉄道駅、淮(わい)陰の飛行場、兗(えん)州駅を爆撃。続けて翌日も兗州を爆撃した。兗州は京滬線および新兗線、兗石線が交わる交通の要衝であった。
*同日:河北省の場所は不明だが、重爆機二機が鉄道破壊に出撃し、中国軍の列車からの対空砲火で二機とも被弾し、一機に搭乗していた5名が戦死した。
*同日:南京を二度爆撃、午前は50機以上の編隊が10時半より正午まで、午後は15機が襲撃、その中には新住宅地域が含まれ、米独伊の大使館と外国人住宅があった。午後の爆撃では長江岸の下関の難民収容所を襲い、約100人が死傷した。
【日本隊への誤爆と中隊の全滅】
ある日本兵の日記ではこの22日、河北省廊坊市大城県城への総攻撃があり、一旦城外に退避する際、歩兵二十連隊第三大隊の第九中隊を城内に残し、その時日本海軍の飛行隊がやって来て城内を爆撃、「物凄い爆撃の音」を聞いた。第九中隊が戻ってこないので敵の反撃にやられたと聞くが、実際にはこの重爆機の爆撃で第九中隊は全滅したことがわかったという。もちろんこの誤爆の事実は秘匿されたから、記録は残されていない。
【一つの村の住民330人を虐殺】
*同日:19日から河北省保定市徐水県とその于坊村に対する地上軍の侵攻作戦を支援爆撃。 21日から中国守備軍との戦闘で于坊を占領したが、80歳の張志林は村民7人を率いて日本軍の小隊長の前にひざまずき、村人を殺さないように乞うたが、そのまま殺された。その後日本軍は100人以上の村民を大通りに追い出した。日本軍は住民を4組に分け、それぞれ東大橋のたもと、里街橋のたもと、東南角の小石庄と張洛賢の家に住む胡同に連行して虐殺した。惨事後の調査によると、于坊村で殺された村民は330人以上で、うち本村民280人、外村民50人以上、受難世帯120戸、焼失家屋300棟以上、家畜70頭以上、豚130口、鶏と鴨も全て捕殺された。(『侵華日軍暴行総録』)
*9月22−23日:陸海航空隊72機が上海の飛行場と空母「加賀」から出撃し、無錫市の要塞江陰の封鎖線上にいた中国艦艇「寧海」「應瑞」「香港」「平海」に攻撃を加えた。22日は50数機を出撃させ、中国海軍は頑強に応戦したが数編隊で反復爆撃、中国艦艇に多大な損傷を与えたが日本機は4機を失った。23日は早朝から午後に渡り、合計約70機の爆撃機と戦闘機が数十機ずつの編隊に分かれ中国軍の重要艦船と要塞砲台を反復攻撃、結果的に「寧海」と「平海」は撃沈された。
*9月22−23日:上海金橋地区の姜家宅などを爆撃、民家30余戸が吹き飛び、9人が死傷、3人余が負傷した。
【広州爆撃】
*9月22−23日:22日、広州の東部郊外に22機来襲し、死者約300人を出した。米国宣教師で病院を管理しているベイツ医師は爆弾がやむとトラックで現場に駆けつけ、瀕死の重傷社多数を運び出した。
—— 爆撃現場に近づくと、警官や兵士達が四方八方から私たちに声をかけ、案内してくれた。… 80過ぎの老女は頭から流れる血を抑えながら(自分のことより)瓦礫の下に生き埋めになった子供や孫達を助け出してくれと懇願した。多くの子供達が呆然としつつも母親の姿を探して駆け回っていた。… ひどい傷を負った一人の男が倒れた家の隙間から10歳くらいの少女を抱いて出てきた。… 我々は現場に出て救援にあたった六つの病院のうちの一つだった。苦痛を訴えるうめき声に混じって家族を失って嘆き悲しむ人々の声が聞こえた。病院を出たならばいったい彼らはどこで夜露をしのぐことができるのであろうか、どこで食べ物を手に入れることができるのか?この苦しみと悲しみに暮れる人々は軍需工場、兵営、幹線鉄道などの近くにも住んでいなかったしそこから離れた繁華街に住んでいたのに、侵略者の無慈悲な計画による犠牲になった」
(『南京大虐殺資料集・第2巻』)
23日、広州を3回爆撃。翌日のデイリー・ニュース社にはロイター報道として「東山付近の貧民住宅街は爆撃でほとんど粉砕されていた。ある所では死体が蠅取紙の蠅のように累々として、腕や肢ない死体は見るに耐えなかった。幾百もの婦女が悲嘆に暮れ、廃墟の中を肉親の死体を求めて歩き回っていた。… 正確な統計にはまだ日数を要するが、本社の予測では死傷者数千人は下らないだろう。今回は政府官舎、軍事機関は全部無事であった。故に我々外国人には日本機の爆撃目標がどこにあったのか、皆目見当がつかない。その大部分は草葺の貧民区に集中していた。… 東山付近の小学校も全焼したが、幸いに休暇であった」とある。このロイター報道に対して日本側は誇大であり真実ではないと非難した。
筆者私見:このような光景を若い日本軍飛行士の誰が想像し得ていたであろうか。その中のほとんどの人間が7、8年後に自分の町が米軍によって爆撃されるまで実態はわからなかったのではないか。もっとも大半の飛行士がそれまでに戦闘で死亡し、その何割かが特攻隊員となって特攻死して自国の同様な惨状を見ることもできなかったのではなかろうか。
【フランス国旗を掲げた施設へ30発の爆弾投下】
*9月23日:河北省滄州市の献県を爆撃、フランスのカトリック伝道団の施設に30発の爆弾投下。施設はフランス国旗を掲げ、日本軍の前線からも60km以上離れていた。
*同日:地上軍が重砲で保定市の城壁を爆撃する一方、数十機の日本機が城壁上の中国守軍に向かって投弾した。
*同日:江西省南昌、山東省済寧市の兗(えん)州を爆撃。
【武漢爆撃】
*9月23−24日:23日、湖北省の武漢三鎮(武昌・漢陽・漢口)を爆撃し、800人余りの死傷者を出した。武漢は重要な工業の中心地で、人口は100万人前後であったから、日本軍の重要な攻撃対象であった。
24日、数十機が湖北省武漢漢口の武聖廟と周辺家屋を爆撃。漢口、漢陽の襄河両岸に沿って10発余りの爆弾を投下し、民家300棟余りを破壊、民間人600−700人を死傷させた。また漢口漢正街泉隆巷一帯に3発の爆弾を投下し、死者113人、負傷164人、家屋98棟を倒壊させた。漢陽河川敷に12発の爆弾が投下され、189人が死亡、378人が負傷、208棟の家屋が倒壊した。
これに関するロイター通信発によるノース・チャイナ・デイリー・ニュース社の記事である。
—— 昨日午後の爆撃に引き続き、夜間も日本機の来襲あり。第二回目の空襲は時間的にはわずか10分程度であったが、被害は恐るべきものとなった。中国人の医療関係者はすべて動員され、中国赤十字会および普愛医院も積極的に救護工作に従事した。送電故障のため、多くの手術がロウソクの灯の下で行われ、重症患者には激痛を和らげるためモルヒネが投与された。夜があけてみると、漢口の武聖廟一帯の貧民区で縦60m、横45mの場所に3発の爆弾が投下され、完全な屠殺場と変わっていた。瓦礫の中の死体捜査が始まったが、この地区の道幅は2mもなく、鳥の巣のような小屋が立ち並んでいたが、跡形もなく、住民も通行人もすべて爆死し、死体が点々と横たわっていた。救護隊はそれらを一ヶ所に集積した。死んだ者も、まだかすかに生きている者も一緒にされ、多くは手当てもされずにいた。子供の死者は極めて多数に上っていて、死体は成人の者より多かった。警察、学生および有志の人々は熱心に作業を続け、負傷者の運搬や死体の処理に尽力した。武聖廟一帯の住民は約1万人で、兵器工場とは約6km離れていた。
筆者注:上記3発の爆弾が仮に250kg爆弾であるとすれば、その一個の爆弾の空ける穴は15−20m前後にはなり、「縦60m、横45m」の中に3発落ちたとすれば、中心地の遺体は残らず、その周囲の建物も吹き飛び、その周辺の人々も一挙に吐き出される土砂によって生き埋めになり、その範囲の人たちはほぼ全滅に間違いない。これは日本が7年数ヶ月後から米軍の数々の爆弾によって受けた被害の様相と全く同じである。
武昌、漢陽も爆撃され、その一つは漢陽の難民収容所に当たり、60人の死者を出した。昨日被爆した武聖廟一帯は今日もまた爆撃された。幾多の憔悴した罹災者は街頭にさまよい、疲れ切った救護班員は生き埋めになった人たちを発掘していた。中には全身に深手を負って死んだほうが楽だろうと思われる悲惨な状態の人もいた。記者は10歳くらいの男の子が、肩に血だらけの母親の死体を背負ってきて病院の門番の前に置き、その埋葬を頼んで、兄弟姉妹を探しに戻る健気な姿を見た。また一件の家の中で三人の男が生気なく座っていたが、全員が死んでいてその中の一人は死んだ赤ん坊を抱いていた。またある家では隣の部屋に死体が山ほど積まれているのに、一人の女性が平然と即時の支度をしていた。日本機の来襲は約600mの高度であったから、武聖廟一帯の人口密度や軍事的施設の有無は十分に判断できたはずであると外国人たちは語っている。なお中国側の報告では昨日の日本の爆撃機の一機が中国軍機に撃墜された。
△ 9月24日、地上部隊は河北省保定市を占領。
*同日:江西省南昌を爆撃。メソジスト米国伝道団の女性海外伝道協会に属する女子病院の施設内に4発の爆弾が落とされ、病院は破壊された。(12日のアメリカ伝道団の病院爆破といい、前日のカトリック伝道団の施設への爆撃といい、翌25日の南京の国立中央病院への爆撃といい、日本軍は当初から全くけじめのない爆撃を繰り返していることがわかる)
【南京への連続大爆撃】
*9月25日:海軍が占領した上海公大飛行場から出撃した南京爆撃は、19日からこの日までの7日間に11回で延べ289機が出撃し、 そしてこの25日一日だけで第9回から第11回まで、午前11時から午後5時過ぎまで4回(午前9時30分から午後4時30分にかけて5回との記述もある)、94機(もしくは96機)が出撃し、合計約500個の爆弾が投下された。それは、市街、産業設備、鉄道、橋などを攻撃対象とし、飛行場、政府の建物、中央大学、中央病院、国立衛生署と付属中央看護学校、放送局、中央通信社、鉄道駅、水道局、 電力発電所、さらには新街口の人口密集地域(軍事施設は一つもない)を爆撃する無差別爆撃であった。南京城内の住宅地にも150kg爆弾を投下し、市民の死者数百人(事後に約600人とされた)、 負傷者は数千人という大被害をもたらした。この中では長江の近くの下関の難民収容所(戦場の上海から鉄道で逃れてきた避難民)にも爆弾が投下され100名以上の死者がでた。 しかも国立中央病院は屋上に大きな赤十字マークと「中央病院」と漢字で書かれていて、約20個の爆弾が投下され、職員数名が死傷、病院の施設は使用不能になったが、その入院患者の中に、その前の空爆で撃墜されて救出された日本人飛行士もいた。爆弾20個とは明らかに誤爆ではない。またこの時にフランス領事館の100m近くに250kg爆弾4個が投下され、大穴が開いたと領事館の報告にある。(10/2日付、チャイナ・ウィークリー・レビュー紙:『南京大虐殺資料集・第2巻』洞富雄編より) ちなみに250kg爆弾とはこの時期では大型爆弾と言え、その大穴は15−20m前後と推測され(その範囲に居た人間は形を残さない)、この7年後に米軍が日本本土に対し多用した爆弾の大きさは主に250kgと500kgであって、すでに日本軍はと驚くものがある。
*同日:連日で漢口を爆撃。兵器廠を爆撃したとあるが、実際には前日の武聖廟一帯と対岸の住宅地を爆撃し、相当の死傷者を出す。
*同日:再び江陰に出撃し、23日に撃沈された艦船「平海」の代わりの「逸仙」を集中攻撃、同艦は猛反撃したが、戦死14名、負傷8名を出し撃沈された。日本機は2機が撃墜される。別途、江陰に向かう途中の「建康」が12機の空爆を受けて撃沈された。
【人の集まる市場への爆撃】
*9月26日:河北省の景県城(現在の滄州市)を3機が急襲した。ちょうど南関路の大市であり、商店が活気で賑わっていた時で、主要な建物に爆弾を落としつつ、群衆をめがけて低空で機銃掃射し、銃弾が雨粒のように降り注ぎ、たちまち街は大混乱に陥いった。恐怖の中で逃げる人々の叫び、負傷者からの助けを求める悲痛な叫び、痛みのうめき声、怒りと恨みの悲鳴が響き渡った。押しつぶされた食糧、ばらばらになった布、果物、札束などが一面に散らばり、あちこちに人々が倒れ肉片が飛び散っていた。日本機はさらに南関、南城門、南門里大街、文廟、天主教堂などに爆弾を投下した。家屋が倒壊し、煙がもくもくと立ち上って、がれきだらけになり、被爆した多くの人は痛々しい悲鳴を上げ、脚や足、腕を吹き飛ばされたり、ある人は目をつぶされた。特に、南城門付近はひどく、住民の一部の人々は銃撃の音を聞き、正門と桃門洞窟に逃げ込み、2つの門の洞窟の真ん中にある観音寺の横に爆弾が落下して爆発し、多くの人々がその場で爆殺された。多くの死体が散乱し、地面は血で染まり、人の肉の塊や、脳みそがあちこちに飛び散り、たった一カ所で70人以上が殺された。この爆撃で多くの人が家族を失い、妻子を失って、重大な災難をもたらし、ある人々は今なおなお体に障害を引きずっている。この日、110数人が死亡し、190数人が重軽傷を負う大惨事を引き起こした。この後景県は占領され、1945年まで県内の各村で虐殺を含めた暴虐行為は続けられた。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:午前11時頃、浙江省衢(く)県(現・衢州市)を3機が初爆撃、駅に10数発の爆弾を投下し、家屋を100軒近く破壊し、有蓋車に閉じ込められていた常山の34人の労働者はすべて爆死、全部で106人が死亡、50人が負傷。以来、1944年末まで、日本機は途切れることなく当県の都市と農村に爆弾、焼夷弾、そして細菌弾を投下した。統計によると、1938年5月から1944年9月までに、日本機による衢県城郷への空襲は計647回、爆弾投下2392発、家屋の爆破2169軒、家屋の倒壊1318軒、死者240人、負傷者363人だった。また衢県の飛行場は59回空襲され、1341発が投下された。
*同日:広州、浙江省の杭州・寧波、安徽省広徳、また浙贛鉄道(杭州と、湖南省株洲を結ぶ路線)沿線を爆撃。
*同日:浙江省金華市を初爆撃、駅の近くで6発の爆弾を投下し、12人が死亡、22人が負傷した。飛び散った腕輪をつけた腕を野犬がくわえていく光景もあった。
*9月27日:浙江省の杭州・寧波、広東省広州、韶関市の楽昌、山東省徳州などを爆撃した。また粤(えつ)漢線(武漢と広州を結ぶ路線)沿線を爆撃。
*同日:河北省滄州市の塩山城上空に来て旋回爆撃を行い、29日にも再び爆撃を行い、これに続いて10月4日、日本陸軍が滄州市から塩山城に入り占領した。その後、現地の抗日救国会と抗日救国軍が組織され、日本軍との武装闘争を繰り広げ、塩山を奪還した。翌々年1月7日から日本軍の反撃が始まり、周辺の町や村に日本軍の拠点が作り、5、6百人の日本軍を駐留させ、千人近い偽軍(中国人を日本軍に協力させたもの)を養成した。1945年までに塩山県で犠牲になった抗日救国軍は791人で、住民が1354人殺害され、この地を血で染めた。また計り知れないほどの財物を奪われ、多くの村や家屋が焼き払われ、その残酷さ、手段の悪辣さが際立っている。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:南京の揚子江岸下関の三叉河に停泊中のフランス砲艦の近くに5発の爆弾を投下した。
*同日:この日から29日まで、江蘇省徐州を3日間連続で爆撃した。
*同日:江蘇省無錫の江陰を爆撃し、その中で毒ガス弾が投下された。
*同日:広東省東莞市の虎門要塞付近に毒ガス弾を投下した。
*同日:広東省清遠市英徳が初めて爆撃され、英徳はその後も連続爆撃を受け大きな被災地となった。
*9月28日:南京、広州、安徽省蕪湖を爆撃。
*同日:浙江省の杭州・嘉興、江蘇省の徐州・淮安市淮陰・鎮江市句容・連雲港市海州、安徽省広徳、海南省海口などを爆撃。
*同日:無錫江陰の市街を連日爆撃。
*同日:午後、無錫市街が初めて爆撃を受け、当日の統計によれば、死傷者は280余人に達した。
*同日:11機が江陰の江上要塞艦を爆撃し、「楚有」は反撃したが、戦死者は8人。日本機はその後も爆撃を続け、10月2日ついに沈没した。これにより、江陰の中国主力艦船は喪失した。
筆者私見:この時代、江陰における多数の中国艦船が日本の爆撃機によって撃沈されているのを見ると、軍艦というものはすでに航空機には敵わないことが理解できる。ただその航空機を載せる航空母艦(空母)は欠かせないと思われるが、日本軍はどうしてこの後、戦艦大和や武蔵などを巨費を投じて建造するに至ったのか、実際に大和は一度の出撃で米軍の航空隊の集中攻撃で撃沈されている。中国での経験から戦略的に何が大事で有効かという現実的思考力が日本軍には欠けていたとしか思えない。
*9月29日:広州、安徽省蕪湖・広徳、江蘇省の徐州・常熟(蘇州市)・淮陰、山東省済寧、浙江省嘉興を爆撃。
*同日:浙江省湖州の長興飛行場飛行場の石油タンクを爆破し、長興飛行場は破壊された。
*同日:江陰江面に到着した中国艦艇「楚有」は、二日連続して日本機の攻撃を受けた。
*9月30日:上海は9月はこの日まで19日爆撃された。
*同日:浙江省の杭州、寧波、紹興市の諸曁(しょき)、上海の南翔を爆撃。
*同日:朝食の時間、山西省晋中市霊石県で2機の日本軍機が中国軍駐屯地の西許村の住民密集地を空爆、爆弾5発が投下され、子供を含めた村民の5人が爆殺された。東許村では8発の爆弾が投下され、8人が死亡、2人が負傷、家2棟が破壊された。別途、靳銀虎一家は中庭で食事をしていたが、急いで防空壕に避難したが、爆弾は防空壕の天井を突き抜け、3歳の子供と妊婦を含む8人が死亡した。(『侵華日軍暴行総録』より)
*9月:京漢鉄道(北京−漢口間)や北京から天津に流れる永定河を爆撃し、陸軍侵攻作戦の支援をした。
*9月某日:上海東柵溝で民家数十軒を爆撃し、住民3人が死亡、2名が負傷した。は民家10数軒が爆破された。
△ 9月末、日本軍は河北省保定を占領した。
【強制労働の例】
9月、黒竜江省黒河市孫呉県平頂樹に日本の関東軍は第二軍用飛行場を建設し、各地から2000人の強制労働者を徴用した。掘っ建て小屋の野宿状態で、現場監督の棍棒の下で、労働者たちは耐え難い苦しみを強いられた。ある朝、集合の鐘を鳴らしたが、工事現場に労働者は出てこず、ストライキを行った。関東軍は大勢の軍警を動員して飛行場全体を包囲し、労働者全員を集合させ、銃殺、生き埋めなどの手段を用いて、ストライキのリーダーを言うように強要した。約200人の中からスト扇動者とされる6人を捕まえ、このうち4人を銃剣で殺し、残りの2人を軍馬で引きずって血まみれにした。数日後、500人余りの労働者が昼食の隙を狙って荷物を持って集団で逃げた。日本兵は第二駅と大嶺の一帯まで追いかけて300人を捕まえ、平頂樹のふもとで全員を殺した。(『侵華日軍暴行総録』)
【国際連盟総会における対日非難決議】
◎ 9月28日:国際連盟第18回総会において「かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えた生命の損失に対し深甚なる弔意を表し、世界を通じて恐怖と義憤の念を生じさせたかかる行動に対しては何ら弁明の余地なく、厳粛に非難する」とした上で、「都市爆撃に対する対日非難決議」を全会一致で可決、さらに10月6日、日本の軍事行動が九カ国条約(1922年2月、ワシントン会議によって成立した中国に関する条約で、中国の主権尊重・領土保全と、門戸開放・機会均等を確認し、日本が第一次大戦で得た山東省の旧ドイツ権益の返還などを決めた)と不戦条約に違反していると判定し、「中国を道義的に支援する」ことを採択した。
*1937年10月1日:南京、広州、武漢、南昌(江西省)などを爆撃した。別途、江蘇省海州、淮陰、江陰、安徽省安慶・蚌埠(ほうふ)、浙江省寧波等を爆撃。
*同日:北京と上海を結ぶ鉄道幹線の京滬線上にある山東省棗荘市と台児荘の鉄道の要所を爆撃。
*同日:江蘇省徐州・海州、安徽省蚌埠、津浦鉄道(天津と南京対岸の浦口を結ぶ路線)沿線を爆撃。
10月
*10月1、3日:山西省太原、河南省洛陽・開封・周口(周家口)の中国軍の飛行場を爆撃し、制圧した。
*10月2日:広東省広州の中山大学(孫文記念大学)が爆撃された。また広州の北方の清遠も爆撃、清遠は軍事施設も何もない無防備の街であった。
*同日:上海、無錫江陰など、津浦鉄道の沿線を爆撃。
*10月3日:広州、浙江省嘉興・杭州、江蘇省蘇州、安徽省安慶、上海南翔、そして津浦線と粤漢線(武漢と広州間の鉄道)の沿線などを広範囲に爆撃。
*同日:江陰要塞を爆撃。これ以降も江陰一帯で敵機の空襲が続き、中国の艦船四、五隻が撃沈された。
*同日:正午、山西省陽泉市盂県下荘村正西の低空に突然日本軍機1機が飛来、旋回した後、爆弾を投下、機銃掃射を開始した。家の中庭で脱穀をしていた母や妻、子供たちも爆死、親戚一同で昼食をとっていた数家族も爆殺され、この爆撃で住民22人が死亡、230軒の家屋が破壊された。
*10月4日:南京を数波にわたり四時間かけて爆撃。鼓楼住宅区、南京駅、さらに河沿いの貧民住宅地域を爆撃するが、貧民街の人々は自由に避難できず、多くの犠牲者が出た。
*同日:山西省太原を24機が爆撃し、100数発を投下した。
*同日:午後四時過ぎ、河北省辛集市の束鹿県城の旧市街地に、一機の飛行機が来て、上空を数周した後、三発の爆弾が投下され、13人が死亡。数日して日本軍は旧市街を占領し、占領の1ヶ月間で日本軍は多くの惨事を引き起こし、何人もの住民が虐殺された。
*同日:韓庄(河南省汝南県)、臨城(河北省邢台市)、済寧(山東省)などを爆撃。
*同日:上海の紀王鎮、嘉定、南翔を爆撃、また津浦鉄道の沿線を爆撃。紀王鎮では30人余りの死傷者を出し、200軒余りの家屋を破壊。
*10月5日:約80機が出撃し、上海、南京、江蘇省揚州、そして津浦線の沿線を爆撃。
*同日:11機が安徽省蕪湖近郊の湾里飛行場を爆撃、10発余りの爆弾を投下し、飛行場に駐機していた航空機十数機、倉庫一基を破壊した。
◎ 10月5日、国連査問委員会は、日本が「9カ国条約」に違反していると認定した。同日、ルーズベルト米大統領は「防疫隔離」政策演説を行い、侵略国を批判し、各国に平和を守るよう訴えた。
*10月6日:上海虹橋などを爆撃、特に粤漢線・隴海線(江蘇省連雲港市と甘粛省蘭州市を結ぶ路線)の沿線に爆撃を重ねた。また「上海の共同租界から車で一時間足らずのところにあるルビコン鎮の村に午前10時ごろに本機9機が来襲、数個の爆弾を投下した後、再び来襲、今度は低空で機銃掃射した。これにより村人17名が死亡、数十人が負傷した。母親と妻を亡くした人、二人の娘を亡くした人、赤ん坊を亡くした人… この村には中国兵など一人もいず、なぜ爆撃を受けたか誰も説明できなかった」(『南京大虐殺資料集・第2巻』)。
*同日:南京を30機余りが3回に分けて爆撃。
*同日:(9/19に続き)江蘇省蘇州平門駅へ27発の爆弾を投下し、さらに機銃掃射を使って駅舎と特急列車(つまり一般人が乗っている列車)を銃撃、旅客70人余りを死傷させた。
*同日:浙江省嘉興の駅を爆撃。駅前の茶店が爆弾を受け、多くの死体が飛び散り、腕や足が電線に引っかかった。
*同日:無錫の停車場を爆撃、約五百人の死傷者が出た。
*同日:南京に近い江蘇省の揚州・鎮江を爆撃。鎮江は南京の東の都市で、上海から南京へ陸軍が進軍する途上にあり、その支援作戦である。
*同日:広州の天河・黄埔を66機が3回に分けて爆撃。
*同日:安徽省の蕪湖・安慶・広徳、山東省の済南などを爆撃。広徳では5機が、県城の上空に8発の爆弾を投下し、4人を爆死させ、家屋20数軒を爆破した。
*同日:この日あたりから数日間、河北省石家荘の趙県などを爆撃し、149人が死亡した。 (10/10、日本軍は石家荘を占領)
*10月7日:広州の黄埔、江蘇省徐州、山東省聊城市の臨清、広東省韶関、また粤(えつ)漢線、津浦線の沿線を爆撃。
【大市の日に爆撃】
*同日:河北省石家荘市趙県に大市があり、ちょうど人々が一番多く集まる時間の午前11時ごろ、西北と東北の両方向から5機の日本軍機が飛来し、市に集まった人々に向けて銃を乱射し、21発の爆弾を投下した。たちまち家が倒れ、煙が日を覆い、人々の悲鳴に伴って血肉が飛び散った。十字街の食糧基地が爆破され、従業員6人が爆死、望漢台の東にある王子棟の家が倒壊し、嫁と孫娘が死亡、老虎家の家族8人のうち、外出していた老虎以外の七人は全員爆死した。西馬道曹小芝家の6人の人はすべて死亡し、100m未満の東馬道街の死体は20数体、血と肉が飛び散り、あるものは頭半分を爆破され、あるものは体の半分を爆破された。この爆撃による死傷者200人余り、財産は数えきれない。(『侵華日軍暴行総録』)
△10月7日、日本軍はすでに20万人以上に増援された。
*10月8日:広東省仏山市の順徳の南方の沙河鉄道橋を爆撃して破壊。
*同日:午前10時、湖南省株州市に9機の日本機が来襲、工場などを爆撃し、40人余りの死傷者を出した。また醴陵県では2機が陽三石鉄橋に5発の爆弾を投下、10人が爆死、10人余が重軽傷。
*同日:広東省清遠市の英徳、粤漢線、津浦線の沿線を爆撃。
*同日:江蘇省無錫に対し一日中疲労爆撃(敵陣が疲弊するまでの意味)を行った。
*同日:浙江省嘉興の運河を運行する客船が機銃掃射され、二人が即死、四人が負傷。
*10月9日:広東省の韶関・英徳・虎門、山東省の済寧市兗(えつ)州、泰安市を爆撃。
*同日:河北省石家荘市趙県城に再び2機が2発の爆弾を落とし、一部の家屋を爆破した。その後12日未明、日本軍は趙県内に侵入、まず東、西、北の三門を閉鎖し、民家に押し入り無差別に人々を拘束し城東の壁の下では、30人以上の民間人が連行され一列に並ばされ、将校の命令の下で、彼ら全員が銃剣で殺された。さらに東北城の防空壕にいた60人以上が日本軍に発見され、日本軍は銃で撃ち殺した。それでもまだ生きていた住民を日本軍は機関銃で皆殺しにした。日本軍は市内で110人以上を虐殺した。
*10月10日:徐州市、広州市の従化、津浦線・隴海線(江蘇省連雲港市と甘粛省蘭州市をつなぐ路線)の沿線を爆撃。
【運動会を狙って爆撃】
*同日:浙江省湖州市安吉県で全県運動大会が盛大に行われていた。そこに午後3時頃、日本機3機が上空で旋回し、機関銃の掃射と爆弾投下を繰り返し5人が即死し、100人余りが負傷した。
*同日:浙江省金華市婺(ぶ)江辺に数機の日本軍機が襲来、機銃掃射と爆弾投下を行い、10人以上が死亡、西林寺が破壊された。
*10月11日:河南省安陽に重爆撃機2機が襲撃、城北十里鋪一帯の兵営を爆撃した。
*同日:上海市嘉定、江西省南昌、江蘇省の蘇州・太倉、津浦線、粤漢線の沿線を爆撃。
【南京への毒ガス弾】
*10月12日:南京を40数機が3回に分けて爆撃。この日の南京の米国人医師ウィルソンの日記からである。
—— 56回目の空襲があり、日本軍機が4機撃墜される。 市内南部の住宅密集地にも爆弾が投下される。 現在、大学病院には50人の負傷兵がいてその中に、 毒ガス・イペリットの負傷者が初めて見られた。
*同日:江蘇省を5回爆撃、蘇州の常熟市、常州市・松江(現・上海の区)などを爆撃、特に初爆撃した常州の被害は大きく、横林駅、曹橋、寨橋、奔牛駅、揚州市戚墅堰区車両工場、戚墅堰区発電所、常州市駅、武進電気公社、大成一二三工場、新豊街、北大街、県直街などが破壊され、南大街、西大街は廃墟と化し、血まみれの肉片が飛び散り、靴下を履いた脛部分が電柱にぶら下がり、吹き飛ばされた肉片が壁の高さに飛び散り、手足がなくなり、腕が折れ、胴体がばらばらになった死体があちこちに転がった。120人余りが死亡したが、豆市河では、一度に船上の避難民20人余りが死亡した。この常州への爆撃は11/29の陥落まで続いた。
次に常熟では2機が市街区の上空に進入し、順番に爆弾を投下し、低空での機銃掃射も加え、20数分にわたって、民間人100人余りを死傷させ、家屋100軒余りを破壊した。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:広東省の村々、広州市内の漁船・商船・鉄道・工場は市内の無防備地域も含めて日本軍爆撃機の攻撃目標となった。… 死傷者の正確な数はまだ不明であるが、広州市内外で800人が死亡、その全員が一般市民と婦女子であった。その他、中山大学、中山記念堂破壊しようとしたが命中しなかった。(10/30日付、チャイナ・ウィークリー・レビュー紙:『南京大虐殺資料集・第2巻』)
ちなみに10/11までに広州は延べ56回の空襲があった。
*同日:浙江省の嘉興・杭州、安徽省の蕪湖・広徳、広東省の順徳・虎門、江西省南昌などにつながる粤漢線沿線を爆撃。
*同日:山西省忻(きん)州市の陽明堡の源平鎮・忻口鎮の中国軍陣地を攻撃した。
*同日:河北省石家荘正定県を爆撃。
*10月13日:連日で江蘇省の蘇州・鎮江・常州・徐州を爆撃。常州では交通の要所と繁華街を爆撃し、40人余りが死亡し、数十人が負傷。鎮江では午後、6機が上空に侵入し、江辺一帯の民家を爆破、大華飯店が爆破され、民間人20人余りが死傷した。
*同日:浙江省の杭州・嘉興などを爆撃した。杭州では「爆弾は杭州城駅の前の線路を直接破裂させ、まっすぐな線路は歪んだリボンとなり、駅のプラットホームに直径12m、深さ6mの大きな穴ができた。爆弾の鉄片が枕木に刺さって、それがサボテンの玉のように見えた」。
【占領後に続く惨劇】
*同日:河南省安陽県城を重爆撃機5機で再び爆撃し、さらに機銃掃射した。11日と合わせて家屋2000近くを爆破し、被害にあった住民は千人以上となった。その後、日本軍は安陽県城を占領し、1945年までの8年間、住民への虐殺、女性への強姦・輪姦などは数知れず、ある街では屈辱に耐えかねて自殺した女性が11人(首吊り7人、井戸に身投げ4人)いた。安陽市の西門の外、水治鎮の南西の角には専用の処刑場もあった。安陽城西だけで2341人が日本軍の銃弾と屠殺刀の下で惨殺され、家屋約2000軒が焼かれた。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
なおこのような各地における占領後の惨劇はこの後の8年間無数にあって、南京ばかりにこだわっていてはならない。
*同日:山西省の陽泉の平定県新関村を爆撃、数日で10数発の爆弾を投下、住宅や窰洞(洞穴式住居)や院などを爆破し、10月29日、日本軍は新関を占領した。占領後5日も経たないうちに、村の十数人を殺害し、住宅27軒を焼き払い、耕牛30頭以上を殺生した。
*同日:河北省邢台市の 任県(現・任沢区)を4機が偵察爆撃、 100人近い村人が爆殺された。中でも大東呉村は3機が爆撃、最初の爆撃で中銭街の8棟が全焼し、蘇倉狗の三兄弟と彼の家に避難していた32人の村民全員が死亡した。 日本軍は45人の村人を爆殺し、数百棟の家屋を破壊し、数え切れないほどの負傷者を出した。(『侵華日軍暴行総録』)
*同日:昼、1機が山東省徳洲市平原城上空に来襲、干東関塩店、電燈会社に五発の爆弾を投下し、家屋十数軒を爆破し、民間人二人が負傷。夕刻、日本軍は一個大隊三百余名で機関銃、小砲をもって平原を攻略し、県城に侵入後、商店や住民から掠奪を始めた。
*同日:南京、上海の南翔、安徽省合肥、湖南省衡陽、そして津浦線、粤漢線沿線を爆撃。
*同日:中国の砲艇「綏寧」が爆撃され戦闘力を失い、船員が多数死傷した。
*10月14日:前日に続き三機が山東省徳洲市平原の恩県上空に来襲、西門里処で十数箇の爆弾を連投して、民家四十数間を爆破、死傷五十数人。住民の宋XX一家の老幼13人は全員爆死し。午後、また別の一機が来て、恩県城内で爆弾2個を投下、児童—名が爆死。翌日、日寇の一中隊150余人が德州から直接恩県城に行き、殺人、放火、婦女を強姦し、勝手に百姓の牛や羊を奪って屠殺して食用とし、鶏や鴨は数え切れない。 (『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:安徽省蚌(ぼう)埠市の駅と市場と居住区が二編隊の爆撃機に襲われ、市民88人死亡、72人が負傷。スタンダード石油は三万元の損害を受けた。
*同日:広九線(広州と香港間)を爆撃し、港や広東省までの交通を遮断しようとした。その他、滬(こ)杭線、津浦鉄道沿線を爆撃。
*同日:南京、上海、江蘇省の鎮江・常州・呉江を爆撃。また蘇州の斉門通りへ爆弾10数発を投下し、爆死した婦人はその腕の中に一緒に死亡した子供を抱いたままだった。鎮江では5機が鎮江西駅を空襲し、駅の機関庫が破壊され、6名の労働者が死亡した。
*同日:湖南省衡陽、安徽省合肥、広東省韶関、山東省徳州市の禹(う)城、浙江省杭州を爆撃。
*10月15日:広西省の桂林および梧州の市街地を初めて爆撃し、民間人の死傷者は700人に上った。
*同日:広西省宜春市の銅鼓を爆撃。
*同日:多数の戦闘・爆撃機が広東省江門市台山県の斗山、沖萎、公益などに分散して来襲、垀市と紅嶺、白石郷などを爆撃。13人を爆殺、15人を負傷。店舗三軒、新寧鉄道牛湾の鉄船一隻、工場一棟、貨物トラック6台を爆破。
*同日:杭州を爆撃、「6発の爆弾を投下し、一分もしないうちに駅全体が燃え火は三時間続いた」。さらに広九・呉輿・新寧鉄道を爆撃。
*同日:南京、上海、蘇州、安徽省の蚌埠・滁県などを爆撃。そのうちの蘇州の例である。
—— 10月15日午前9時頃、日本機2機が蘇州平望鎮上空に侵入、機銃を乱射し、12個の爆弾を投下、9ヵ所に爆弾が命中、駅にも爆弾3発が着弾した。その爆 撃で40軒以上の家屋が爆破され、18人が死亡した。他の街角で計9人が爆死した。11月14日、平望鎮が陥落し、日本軍は目に付く住民を焼殺、銃殺した。ことに東渓河石灰窯、北河西街羅家里堂口、南大街呉会豊花園、石家港水瓶庵の傍ら、北大橋弥陀殿裏などに死体の山を築き、この鎮の中で400人以上を殺した。日本軍は町を離れる時、家屋に火を放ち、大火は三日三晩燃え続け、西塘街山門口から扇子街までの家屋は一部の店舗を除き全て焼失した。
(『侵華日軍暴行総録』)
〇 日本軍発表:10月1日から15日までに平漢線や津浦線その他の鉄道沿線に爆撃を加えた要地は49カ所に至った。
【ここまでの爆撃都市名】
〇 大阪毎日の英字紙には、8/15に初めて南京を爆撃してから二ヶ月間に60カ所以上の「主要軍事地点」を爆撃したと記している。それによれば以下の通りである。
山東省:韓荘・棗(そう)荘・兗(えん)州・済寧 /江蘇省:上海・南京・浦口・句容・無錫・江陰・蘇州・崑山・嘉定・太倉・松江・宿州・揚州・南通・海州・連雲・淮(わい)陰・南翔 /浙江省:杭州・寧波・海寧・筧橋・嘉興・諸暨(き)・金華・衢(く)県・紹興 /福建省:厦門(あもい)・龍渓・建甌 /広東省:広州・石龍・虎門・恵陽・英徳・曲江・楽昌・安陽・潮汕・汕頭・黄浦 /安徽省:蕪湖・広徳・慶安・滁州・蚌埠(ほうふ)・寿陽 /江西省:南昌・上饒・余江・清江・九江 /湖北省:漢口・武昌・漢陽・孝感 /湖南省:株州
以上61地区であるが、これまで筆者のピックアップできた中でこの中にないもの、逆にこの中にあって筆者の中にないものもあるが、いずれにしろすべてを把握できないほどに毎日欠かさず、しかも一日に数ヶ所から10ヶ所に分散して精力的に爆撃を続けていたことがわかる。
【軍事的価値のない村落への爆撃】
この報道に対して「チャイナ・ウィークリー・レビュー」紙の主筆パウエル氏は11/30付けの社説で述べている。
—— これらの諸都市のうち軍事的価値を持つものはほとんどない。ことに日本機の猛爆にあった上海付近の多くの村落を含めれば、その数は現在までにはおそらく2倍になっているであろう。10/24の午後、記者は単翼双発機10機を含む24機が、各機6個の爆弾を装填して蘇州河の北部に広がる農耕地に散在する部落を爆撃しているのを目撃した。午前の爆撃を目撃した外国人の話では18機が早朝から昼までおよそ200個の爆弾を蘇州河沿いに投下し、その大半は約100kgの爆弾であった。午後に投下された爆弾はおよそ150個を超えるであろう。日本軍飛行士はまさに破壊のための野外演習を繰り広げたのであろうが、幸いにもこの地の農民のほとんどは(それ以前の爆撃によって)疎開したか逃げていた。それでも残った住民が逃げる途中で死傷し、ある地点では爆弾でできた穴の中に五人を埋葬する住民の姿があった。
(『南京大虐殺資料集』第2巻)
【南京へ二ヶ月間に65回の空襲】
〇 当時の南京市長長馬超俊が国民政府に報告した「日本軍機の空襲による損害状況」によると、8月15日から10月15日までの二ヶ月間に65回の空襲があり、被害は軍人を含まない市民392人が死亡、438人が負傷、破壊された家屋は約1949軒に達したとある。ちなみに南京へは12月12日まで120回を超える爆撃をした。
*10月某日:上海の東三林塘の孫橋を爆撃し、19人が死亡、家屋数十棟が破壊され、付近の上南鉄道が爆破された。
*10月16日:山西省太原を3回に分けて爆撃した。
*同日:南京、杭州、浙江省嘉興、河南省開封などを爆撃した。
*同日:上海の嘉定、安徽省合肥、滬(こ)杭鉄道沿線を爆撃。
*同日:江蘇省無錫・蘇州市崑山を爆撃。無錫にいた米国人医師の記録では、無錫の運河を行く石炭船を爆撃し、田畑を耕す農民に対し執拗に機銃掃射を加えた。「今日送られてきた農民の負傷者は内臓に機銃弾の貫通を受けて流血甚だしく、ほとんど望みはなかった。他に三人が殺され、四人の負傷者が出た。付近に中国軍は皆無であった何のために日本機はこうした良民を襲撃したのか」
*10月17日:太原を4回、蘇州を5回爆撃。
*同日:台湾経由で派遣された陸軍の軽・重爆飛行隊が上海市宝山区の大場鎮の中国軍陣地をこの日から数日間、50kgから250kg爆弾をもって爆撃し、地上部隊の進撃を支援した。
*同日:南京、上海青浦区の馬涇鎮、武漢の漢口、浙江省嘉興等を含め、呉輿・京滬・津浦・滬杭線の各鉄道沿線を爆撃。
*10月18日:蘇州を9回、南京を2回爆撃した。
*同日:江蘇省松江駅で難民列車を3回爆撃し、700人余りの婦女と子供が死傷した。
*同日:抗日拠点とみなされる山西省忻州市代県の雁門関(長城の関の一つ)を爆撃した。なお、この時毒ガスも投じられた。
*同日:上海の虹橋鎮を爆撃し、死傷者100人余り、虹橋橋梁と30軒余りの民家を爆撃した。
*同日:上海真如、漢口、鎮江、嘉興、福州(福建省)など、津浦・滬杭・京滬線の各鉄道沿線を爆撃。
*同日:江蘇省無錫を爆撃、再び人の集まる停車場を襲い、鉄道の守備員や民間人が爆死した。
*同日:9機が杭州の閘口自動車工場に10発の爆弾を投下し、工場建屋数間、民家15軒を破壊した。
*10月19日:南京を爆撃。米国人医師ウィルソンの日記から。
「午前2時15分から4時20分、そして5時に70回目の空爆がある。 昼食時にも大きな空襲があり、長江(揚子江)の下関埠頭と対岸の浦口駅が爆撃され、 約20人の死者と同数の負傷者が出る。下関にあるジョン・マギーのアメリカ聖公会が負傷者を収容して臨時の治療を行なった。 市内の飛行場付近に20発以上の爆弾が投下され、数人ずつの死傷者が出てその一人が我々の病院に運ばれてきたが、 背中に機銃掃射を浴びせられていた」
*同日:午前9時45分、上海の七宝鎮を爆撃し、多くの家屋を破壊、死傷者30-40人。10時30分、華漕鎮を爆撃し、死傷23人、家屋7軒を破壊。11時、北新涇鎮を爆撃し、民家21軒、橋梁一基を破壊した。
*同日:江蘇省の蘇州、無錫、松江を爆撃。また京滬・滬杭・広九・津浦の各鉄道沿線を爆撃。
*同日:5機が初めて浙江省台州を空襲し、三門県に爆撃を加え、台州の幹線道路を切断した。
▽ 10月19日、中国八路軍が山西省代県西南陽明堡の日本軍占領の飛行場を夜襲し、日本軍百人余り、日本機24機を壊滅させた。
*10月20日or23日:山西省呂梁市の汾陽を爆撃。
*10月20日:南京、上海の虹橋、江西省南昌、湖南省衡陽、別途、京滬・滬杭・広九の各鉄道沿線を爆撃。
△ 同日、海軍、第三・第四艦隊をもって支那方面艦隊を編成。
*10月20日頃:山西省と湖北省を結ぶ防衛の要所娘子関を、太原攻略に向かう陸軍の進撃に沿って爆撃。
*10月21日:南京と上海を爆撃、別途、隴海・京滬・津浦・広九・滬杭の各鉄道沿線を爆撃。
*10月22日:蘇州を13回爆撃し、杭州を6回、太原5回、嘉興3回、広九路(香港までを結ぶ広州の鉄道)に2回の爆撃。
*同日:安徽省安慶、江蘇省の常州・無錫、山東省の泰安、済寧市滋陽を爆撃。
*同日:南京、上海、広東省韶関、そして津浦・隴海・粤漢・新寧の各鉄道沿線を爆撃。
【銃殺、焼き討ち、略奪、虐殺】
*同日:日本軍機が山東省徳州市陵県(現・陵城区)東鳳凰店村を爆撃、すぐに戦車数台が街に入った。日本軍は鶏や鴨を捕獲しながら「安民告示」(公機関からの知らせ)を貼り、村人を道案内人として捕らえたが逃走したため、怒った日本軍は通行人や野良で働いていた村民23人を機関銃で射殺した。23日夜、中国の武装勢力が日本軍を襲撃した。24日から日本軍は村で虐殺、焼き討ち、略奪を始めた。子供を抱いて逃げ回った母親の髪をつかんで地面に転ばせ、子供を5、6尺の距離に投げつけ、さらに日本軍は銃床で彼女の頭を砕き、惨殺した。院内の薪の束の中に隠れていた陳氏一家4人は、日本軍に見つかり銃剣で束の中を突き刺されその後で束に火をつけられ、一家4人は焼死した。夕方、日本軍は村民数十人を村東湾坑に連行し、銃剣で胸を刺す、入江の中に蹴り飛ばす、首を刎ねる、2歳になったばかりの泣く子を奪って火の中に投げ込むなどしてこの日、日本軍は鳳凰店で村民30人以上を虐殺した。24日、日本軍は村内の捜索を続け、同様な方法と機銃掃射を行い、一度に70人以上を惨殺した。一人の女性は、日本軍に捕らえられて20日以上蹂躙された後、殺害された。(『侵華日軍暴行総録』)
*10月23日:上海莘庄を二度爆撃し、19人が死亡、4人が負傷、100軒余りの民家を破壊。
*同日:南京を20数機が爆撃。
*同日:広州、上海、無錫、安慶、常州、南昌、漢口を爆撃、別途、隴海・粤漢・広九・新寧の各鉄道沿線を爆撃。
【収まらない旅客列車への爆撃】
*同日:午前11時頃、22機が大挙して広東省清遠市の英徳駅上空に旋回し、広州から曲江に向かっていた旅客と貨物の混成車が英徳に到着した時、敵機が来襲、旅客車両は英徳駅まで行き、直ちに停車し、乗客老若男女約百人は逃げ回ったが、爆弾30数発により列車は次々と爆撃され11両が焼失し、貨物車のみ残った。11時頃から火が出て、午後6時になって火勢は消えたが、死傷4、50人。救護して英徳の病院に送った時すでに絶命していた女子供は16人だった。
*10月24日:南京、上海、漢口、広州、そして隴漢・新寧の鉄道沿線を爆撃。
*同日:蘇州を爆撃(上記〇印の項参照)。
*同日:江蘇省松江(現・上海)の西門外の銭涇橋、倉橋一帯の住宅地に燃焼弾を投下し、多大な死傷者を出した。
△ 同日、朝鮮済州島で木更津航空隊の6機が事故爆発。
*10月25日:広東省のある街の住宅密集地の駅が爆撃され、市民14人が死傷。
*同日:津浦・隴海・新寧の鉄道沿線を爆撃した。
*同日:午前、3機が浙江省杭州の閘口に18発の爆弾を投下し、民家4軒を爆破、女性の鐘馮は弾片に腹部を撃たれて死亡した。さらに11発の爆弾が民家10数軒を破壊、また閘口駅に停車していた客貨車数両が被弾して激しく炎上し、かなりの損害を被った。
〇 10月25日、北京大学、清華大学、南開大学は戦線を避け西南連合大学を統合し、湖南省長沙に移転するが、1938年に昆明に移った。
*10月26日:12機が南京を爆撃。以下ウィルソン医師の日記。—— 「午後に80回目の空襲。市内の飛行場にしこたま爆弾が投下され、まるで月面のクレーターのようだ。 上海海域から一日に千人規模で護送されてくる負傷兵の問題が深刻化、 大学病院では4、50人の負傷兵を収容、治療するのが、精一杯である」。ウィルソン医師の活動は、日本軍占領後も続けられた。
*同日:江蘇省鎮江市句容、福建省厦門(あもい)、安徽省宣城市広徳、杭州、そして津浦・隴海の鉄道沿線を爆撃。
*同日:上海の北新涇鎮の呉樹氷江橋を爆破。
【上海への空前の爆撃量】
*10月25−27日:三日間で850機が上海地区及び後方地域を総攻撃し、合計2万526発の爆弾を投下した。(11/2、日本の海軍省が発表したもの)
△ 10月14日から26日まで、日本軍機は中国守備軍のいる上海の旧閘北区をを98回爆撃し、日本陸軍は上海戦線でも難関の大場鎮を占領した。
*10月27日:上海市嘉定区安亭鎮康弄を爆撃。
*10月28日:上海、蘇州と津浦鉄道、隴海の鉄道沿線を爆撃。
*同日:江蘇省松江(現・上海市)の城廂を爆撃、家屋を多く破壊し、多数の民間人を死傷させた。
この日、南京のウィルソン医師は「2ヶ月まえに爆撃された中央大学の建物を利用して 赤十字病院が開設されたのを見に行く。 図書館の閲覧室や体育館にベットが並べられて病室に代えられ、 1200人の傷病兵が収容されていた。 この病院は急増する負傷兵のために四千のベットを準備中」と記している。
【金門島占領】
*10月28 日:日本軍は福建省厦門沖の金門島を占領、その後、金門島の近くの大嶝島、小嶝島などの島は日本軍の砲撃と爆撃を頻繁に受け、漁民の生命、財産は深刻な損失を被った。日本機は4回にわたって26機を出動させ、11の村を爆撃、28人の漁民を死亡、10人を負傷させ、祖盾3基を爆破し、民家16軒と84間を破壊、奪われた漁船と商船は6隻だった。
*10月29日:連日で松江を爆撃、メソジスト系宣教団施設と女学校その他が爆撃される。ここには星条旗が掲げられ、中国軍もいなかった。二日間で200発余りの爆弾を投下し、400人以上の死傷者を出した。
*同日:上海の嘉定区南翔、蘇州市の太倉・崑山・常熱、浙江省杭州市の建徳を爆撃。
*同日:江蘇省連雲市 贛楡(かんゆ)県 の青口鎮を爆撃、爆弾3発を投下、村民1人を爆殺。
*10月30日:江蘇省蘇州を爆撃。この日まで、蘇州は130回以上爆撃されたが、10月28−30日の三日間、多量の焼夷爆弾も投下され、その結果市内の繁華街で四つの大火が発生し、それが三日三晩続き、商店、旅館、芝居小屋、茶館、浴場、ホテルなど二百軒、民家六、七百軒が焼失した。
*10月31日:福建省福州市を爆撃。
*同日:山西省太原の火薬工場を爆撃。
*同日:山東省済南市済陽に 市が立つ日で、人々が賑わい始めた朝9時ごろ、2機が低空で旋回し、そこに爆弾8個を投下した。爆音、爆煙、叫び声とともに血 肉が飛び散った。その多くは高家の祠一帯に落ち、男5人、女6人が爆死、4人が重傷、軽傷は数えきれず、家屋21軒が破壊された。路上には血があふれ、死者の手足はばらばらで、重傷者は悲鳴をあげ見るも無惨であった。5世帯の家族全員が犠牲となり、趙洪道一家の12歳の妹と4歳の弟は爆撃で手足がばらばらになり、頭部だけが残っていた。生後6ヵ月の妹は母親の胸に抱かれて死んでおり、赤子の腸は床に垂れ、その母親の片足も吹き飛んでいた。新妻の張楽芝は腕を傷つけ、神経に異常をきたした。趙光岱の2人の娘も爆 死、郭慶祥の家にも爆弾で3人が死んだ。この後11月13日、日本軍は爆撃後済陽城を猛攻して大虐殺が生じる。(当日参照)
*同日:江蘇省無錫を爆撃、停車場と旅館が爆撃された。
*10月末日:安徽省亳(はく)州市蒙城を一機が爆撃。城東郊外の李竹竿園に6個の小型爆弾を投下。
◎ 10月末、ドイツのトラウトマン中国大使は外交部の陳介次長と会談し、ドイツが中日戦争を調停する意を伝えた。(トラウトマン工作)
△ 10月14日より31日まで上海は18日連続で爆撃された。10月では23日間、また8月14日の渡洋爆撃から10月末まで、海軍飛行隊が空爆を休んだ日は一日もない。
【三ヶ月間の戦死者の発表】
〇 10月27日の陸軍省発表:7/7の盧溝橋事件より、満州を含めた北支(中国北部)と上海戦線における10月20−23日あたりまでの日中両軍の「損害」について、日本軍の戦死者9640人、中国軍の戦死者10万5970人とある。ちなみに中国軍の重軽傷者は約30万人で、合わせて40万人超である。とりわけ8月中旬から本格的に戦闘が始まったが、約2ヶ月でこれだけの戦死者とは凄まじい。
11月
*1937年11月1日:上海中心部陥落後、日本軍機は無錫と市内の江陰、宜興への爆撃を開始し、駅、埠頭、商店、病院など無錫の都市部は、爆撃によって深刻な被害を受けた。
*同日:上海の中国兵残存地域、湖北省宜昌市の帰徳、そして隴海・広九・津浦の各鉄道沿線を爆撃。
*同日:江蘇省松江(現・上海市)を3機が爆撃。府前街、二公街、大呉橋、艾家橋、普照寺橋、豊楽橋、仏字橋一帯に集中して落ち、また城外諸行街、莫家弄も被爆し、家屋は無数に破壊され、死傷者は60余人。別途松江の銭涇橋、小倉橋一帯を爆撃、大火が発生し西門の外、北は菜花涇、西は小倉橋まで爆弾が落ち、死傷者200余人。松江赤十字も被爆した。
*11月2日:午前、松江を重爆撃5機が襲来、新東門一帯、城内裁判所から西の超果寺に至るまでを爆撃。アメリカ教会宣教団施設が破壊され、フランス人の神父が「救世軍」を率いて松江に来て難民を救出した。
*同日:上海の南翔、蘇州、隴海・広九の鉄道沿線を爆撃。
*同日:江蘇省常州を3機が爆撃、懐徳橋、豆市河上空で運河船を爆撃し、10人余りが死亡、負傷者は多数。
*11月3日:山西省太原の城門および河北省石家荘市を爆撃。
*同日:上海、広東、湖南省衡陽、そして津浦・隴海・広九・粤(えつ)漢の各鉄道沿線を爆撃。
*同日:二機が無錫に来襲、列車を目標に20分ばかり爆撃を続けた。
*同日:河南省安陽市湯陰県に2機が来襲、城南の后李朱村に次々と爆弾を投下、同時に村人に低空から機銃を乱射、この爆撃で村人6人が死亡、3人が負傷、家屋数十軒が爆破されたが、2人の女性が傷を負い、抱いていた乳飲み子は2人とも爆死した。
*11月4日:上海、遼寧省鞍山市の海城、そして広九・粤漢の鉄道沿線を爆撃。
*同日:江蘇省松江にまた重爆撃機が2回に分けて来て、米市フェリー埠頭が爆破された。
*同日:無錫を早朝に爆撃、礼拝中の教会近くに爆弾が落ち、列車も狙われ数人の死傷者が出た。
△ 11月4日未明、日本軍は河南省安陽市安陽城を猛烈な砲火で攻撃、国民党第32軍は戦闘に耐えきれず撤退したが、大院君街に避難していた住民数百人が日本軍に虐殺された。
【蘭州への爆撃】
*11月5日:甘粛省の蘭州を7機で初爆撃。東郊飛行場で爆弾数発を投下、その後、白銀市靖遠県東湾及び銀川市区でも投弾した。
蘭州は交通の要衝であり、政治的軍事的拠点で、ソ連からの支援物資は蘭州を経由して各地の前線へと運ばれていた。この年の10月には蘭州へソ連から多数の航空機と航空部隊が派兵され、ソ連の軍事・外交関係の代表所が設立されていた。一方で日本は蘭州などの奥地爆撃用にイタリアからフィアット重爆撃機を船で直接山東省大連に陸揚げさせ、現地で組み立てて実戦に投入した。しかし長期戦となるにつれ、新式の国産の九七式重爆撃機に変えられていく。
*同日:午後4時ごろ雨の中、2機が上海の龔路鎮上空から爆弾2発を投下、一発が万寿橋東に落ち、家屋3軒と船一隻が爆破し、船上の36人が死亡した。もう一発は奚家橋(蘇州)付近に落ち、老婆1人が死亡、1人が腕を骨折した。さらに2発を万寿橋北側に投下、農民教育館の家屋が崩壊し、多数の負傷者が出た。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:地上部隊が上海の金山衛に奇襲上陸するに際し、援護爆撃を行い、別途杭州を爆撃。
*同日:上海金山区張堰鎮で6発の爆弾を落とし、50人以上が死亡した。
*11月5、8日:山西省太原の西北城門を重爆機で爆撃して破壊し、地上部隊の城内突入を支援した。
◎11月5日、ドイツ大使のトラウトマンは、日本和平交渉の条件を蔣介石に伝えた。蔣介石は、まず七七事変前の状態を回復しなければならないと述べた。翌日、ドイツは中国と交渉の条件を日本に伝えた。
*11月6日:山西省太原への陸軍の総攻撃に合わせて、中国軍掃討のための爆撃を開始。
*同日:上海、松江、広東省を爆撃。
*同日:上海南匯(わい)区(当時は江蘇省で現在は浦東新区)の恵南鎮、周浦鎮が爆撃され、恵南鎮への4発で8人が死亡、周浦鎮では2発が投下された。周浦では小学校が65棟、楊潔女校が35棟、中学校1棟のほか、民間の建物14棟、上南交通公司車庫が一棟が破壊された。
*同日:浙江省嘉興市平湖を数機が爆弾20数発を投下、城内外の多くは廃墟と化し、死亡は176人に達した。さらに午後、嘉興市桐郷県の石門鎮を7機で乱爆、低空で機銃掃射を行い、東市沈家弄魚池頭の爆死者だけでも30人余りにのぼる。名医魏達三は東市で往診する時に被爆して即死した。漢方薬店では階段の下に4人が隠れ、2人が爆死、1人が重傷。日本機は石門湾上空で約2時間にわたり、民家数十棟を爆破し、100人余りの罪のない住民が爆死、爆傷した。
*同日:浙江省杭州市臨平を数機が爆撃し、曹泥船、150号鉄道橋などに5発の爆弾を投下、機銃掃射を行い、死者9人、負傷者10人、民家6棟が破壊された。
*11月7日:上海、松江を爆撃。
*同日:朝から上海の金山区朱涇を数十機が編隊に別れて連続爆撃、それに続いて陸軍が市内に突入し放火したが、風が強くその勢いで東西三里は火の海になって、三昼夜消えず、78人が焼殺された。1300戸3370軒の家が焼かれ、住民6500人が家を失った。
*同日:陝西省渭南市潼関県を初爆撃。午前9時頃、6機(あるいは12機)が県城上空に侵入し(当時はまだ警戒監視所が設置されていなかった)、前後して東関黄河波口、西関駅の正街などに投弾、旅客、行商人、車夫など多数が死亡した。その後、城内の住民は背後の山に洞を掘り、塹壕を造って防空に備えた。
【第十軍の上陸と中支那方面軍の編成】
△ 11月7日、日本陸軍は上海派遣軍を支援するために新たに上海南方の杭州湾から第十軍(三個師団と一支隊)を上陸させ投入した。そして上海派遣軍と統合し、中支那方面軍とし(これに合わせて華北の支那駐屯軍は北支那方面軍となる)、この方面軍が南京を主とした攻略戦に関わる。
*11月上旬:蘇州市渭塘鎮北にある冶長涇(川)では、江蘇省蘇州市太倉や青浦区からの避難民を満載した難民船4隻が爆撃を受け沈没、300人あまりが死亡した。
*11月8日:太原へ11機の航空機を出撃させ太原城を爆撃し、城全体を一面の火の海に陥れ、日本軍はそのまま太原を占領した。この時、日本軍は太原北城門に500kg爆弾を投下したが、500kg爆弾は地上に直径20m以上の大穴を空ける威力をもち、その中の人間は体が残されず、行方不明となるが、周辺の人もその吹き飛ばされる大量の土砂によって生き埋めとなる。そもそも、この7年後(1944年)のアメリカ軍の日本本土への空襲においても、通常は250kg爆弾で、500kg爆弾はそう多くは使っていないし、この時期(1937年)の米軍が聞けば、驚いたであろう。
*同日:津浦線(江蘇省徐州あたりか)上の客車を爆撃し、車両7両を破壊し、乗客200人余りが死傷した。
*同日:松江、蘇州の崑山、山東省済南、浙江省嘉興などを爆撃した。
*同日:5機が広東省韶関市曲江駅の貨物倉などを空襲。
*同日:朝6時半、20機が上海の楓涇守備軍陣地を爆撃、200個の爆弾を投下、夕刻日本軍は楓涇地区を占領。
*同日:安徽省宣城の寧国駅を初爆撃。
*11月8、9、10日:上海市嘉定区の厳泗橋、馬家弄及び東街質屋一帯の家屋を爆撃した。千間以上の家屋を破壊され、死者4名、負傷者1名。
*11月9日:上海と浙江省嘉興を爆撃。
△ 同日、日本機は蘇州地区に飛行機からビラを散布、三日後に猛烈な爆撃をするとの予告をした。
*11月10日:南京、上海、蘇州、無錫、松江、安徽省の滁県、福建省の厦門・漳州、さらに京滬(こ)・滬杭・広九・津浦の各鉄道沿線を爆撃(滬は上海の別称)。このうち無錫は深夜、水西門外工業区と恵山傷兵医院に一度に140発余りの爆弾を投下し、多くの死傷者を出した。「病院に送られてきた負傷者は身体の完全なものはなく、見るに耐えなかった」(上記米国人医師)
【中国軍の反撃】
▽ 11月10日、江陰黄山要塞において溯江して偵察砲撃してきた日本の艦船五隻に対して、中国軍は新式の半自動火砲4門で江上の日本艦に対して砲撃を行い、そのうちの2隻が炎上し、残りの敵艦はすぐに反転して逃げた。午後、日本機数機が報復のために飛来したが洞窟の中に要塞が築かれていたため、有効な爆撃はできなかった。逆に輸入されたドイツの高射砲は火力を発揮し、その場で一機ずつ撃墜、負傷させ、日本人飛行士の少尉一名を捕虜にした。
続いて11日、中国空軍機は中国近海にいた日本の空母「龍驤」を攻撃、大破させ、艦上の13機を炎上させた。中国側は爆撃機2機が被弾し、パイロット4人が戦死した。空母龍驤は日本本土に戻って2ヶ月を要して修理を行った。
*11月11日:河南省洛陽(中国空軍の根拠地)を爆撃。
*同日:上海の孫小橋地区に投下した数発の爆弾は新織物工場の西浜に落ち、民家2軒が崩壊した。同日2時、川沙城を空襲、爆弾2発を投下、一つは湖浜公園に落ち2人が負傷、一つは南通り鍛冶屋横に落ち1人が死亡し7人が負傷した。同3時頃、日軍2機が新陸上空に侵入、視界にはいった難民船に爆弾4発を投下し一発が命中、さらに機銃掃射をし、多数が死傷した。 (『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:上海、南京、厦門を爆撃、また隴海・津浦の鉄道沿線を爆撃。
*同日:28機が広東省韶関市の風度南、風烈などの道路一帯を空襲し、50発余りの爆弾を投下、城内の商業地区が破壊された。
*同日:江蘇省無錫を爆撃、アメリカ系宣教団の聖アンドリュー病院のそばに爆弾が落ち、病院は激しく揺れた。「間もなく四人の負傷者が病院に送られてきたが、一人は四肢がぶらぶらしていて、二人掛かりで手術し、脚部を切断した。残りの人たちの手術は夜間と明朝に回した」(上記米国人医師)
*11月11−13日:蘇州の呉江県市街と平望鎮を連続爆撃。本格的には12日夜(9日の予告通り)、日本機が蘇州に大挙来襲し、まず城内に照明弾を投下して目標を見定め、爆弾を雨のように降らせ、現在の姑蘇区を中心として何時間も爆撃を続けた。
【無錫の病院爆撃】
*11月12日:連日で無錫を爆撃。今度は聖アンドリュー病院が爆破される。「今日は悪魔の日だった。一人の鉄帽を被った中国兵が病院の玄関にいた時日本機が来襲し、彼は病院に飛び込み、その瞬間爆弾が病院の近くに落下、次々と破裂音がした。私は恐怖に陥ったが、幸いにもけがはなく、這い出てみると看護婦の姿もなかった。すぐに負傷者が運ばれてきたが、多くの命が絶望的だった。一人の父親が男子と女子を連れてきて、男子は片目を失い、女子は両腿が粉砕されていた。… 一部の人は日本機が目標を間違えたのだと言ったが、私はこれは故意の仕業だと信じる。病院の屋上には米国機がひるがえっていたし、屋上一杯に米国旗がペンキで書かれていたから、低空でやってきた飛行機がこれを誤認するはずはなかった。病院構内の損害も大きく、近隣の住民は逃げる支度を始めていた。病院の中国人職員も職場を放棄して逃亡した。(実際に翌日は中国医師が一人も出勤してこなかった)。私個人は熟考して仕事を継続することに決めた」。医師はその後無錫が戦場となると見て上海に避難した。(『─実録・南京大虐殺─外国人の見た日本軍の暴行』ハロルド・J・ティンパーリー:評伝社 1982年)
*同日:河南省洛陽を22機が爆撃し、28機が浙江省寧波市鄞県を爆撃した。さらにそこから一編隊が山東省済南を爆撃した。
*同日:上海、無錫の江陰、杭州市蕭山、江蘇省徐州、津浦鉄道沿線を爆撃。
△ 上海の羅店鎮で、進軍中であった日本軍を友軍機が誤爆、死者4名重軽傷多数、馬4頭も犠牲。
*同日:浙江省寧波市鄞県を爆撃。
【上海占領】
〇 11月12日、日本軍が上海を占領、ここまで日本軍が投入した兵力は28万余人、戦車、装甲車は300余台、作戦艦艇は130余隻、航空機は500余機、死傷者は4万余人である。中国軍は兵力70余師団を投入し、25万人以上の死傷者を出した。*11月13日:陝西省の西安の飛行場を初爆撃。西安は北西部の重要な軍事都市であるが、1944年12/4まで日本の爆撃の主要な標的の一つであって、145回の空爆を受け、1106機が出撃、3440発の爆弾により、1244人が犠牲、1245人が負傷し、6783戸の家が破壊された。
◎ 11月15日、9カ国条約会議は日本を非難する宣言書を採択し、必要な時に共同姿勢をとるべきだと声明した。しかし22日、中国の外交官顧維鈞は9カ国条約会議の宣言が空洞で、具体的な提案がないとして抗議した。
【屠殺場となった済南市済陽城】
*11月13日:山東省済南市済陽を爆撃。 10月に続いてこの日、済南市済陽城への爆撃ののち、関東軍は済陽城を猛攻した。午後4時、城内の中国守備軍は三方に敵を受け孤立無援となり総崩れとなって西門に集結した。城門が開くと軍民が押し合いへしあい出てきた。100mも走らないうちに、両側の日本軍が一斉に発砲し狂ったように銃を乱射、また砲撃した。30分しないうちに死体は山となり、血は川となり、100余の守備軍、1900余りの住民と壮丁、併せて2000人以上が一瞬にして死体の海と化した。銃声が止んだ後、残った鬼兵は一つ一つの死体を調べ、死んでいないものへは銃剣を突き、とどめをさした。生き残ったものは一人もいない。さらに狂気の日本軍は死体を収容することを許さず、人を見ると発砲した。日本軍は40日間滞在後に撤収した。戻ってきた避難民たちは自発的に協力して死体を埋めたが、これらの死体は風化し日に焼かれ、獣に食われ、耐えがたい腐臭を残し一面の残骸となって、もはや身元も分からず、集団で埋葬された。 —— この後の占領の40日間に日本軍の乱暴狼藉=虐殺、略奪、強姦、放火等が繰り広げられるが、これ以降は筆者はとても書き写せないので割愛する。…… 日本軍は済陽城を占領して、屠殺場に変え、2400余の同胞が残虐に命を奪われた。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:上海の白茆(はくぼう)口、蘇州市常熱、湖南省衡陽、福建省厦門を爆撃。
*同日:津浦線北段で激戦があり、援護のため山東省済南を爆撃した。
*同日:早朝、9機の日本機が蘇州市常熱の梅李、謝橋、支塘、古里及び常熟城内を爆撃した。梅李は300発以上の銃弾を受け、町全体の5分の3の家屋が破壊された。13日以後の数日間、日本機は終日上空を往来しつつ爆爆し、多くの村や町は焦土と化し、多くの民が路傍で爆殺された。これは海軍航空隊の陸軍の南京侵攻への支援作戦の一つであった。
*11月14日:甘粛省の蘭州を爆撃。
*同日:山東省済陽、湖南省衡陽、広東省厦門を爆撃。
*同日:江蘇省無錫、蘇州太倉を爆撃、このうち太倉城に陸軍が侵入、占領した。侵入する際、まず鉄甲車を先頭に砲撃し、飛行機は低空で機銃掃射し、応射が見られないと気球をあげて合図し、後続の騎兵が続々と城内に侵入した。日本軍は城に入った後、住民が逃げてほとんど空になっているのを見て、一軒一軒略奪を行った。二日後にはまた、四郷の農民を使って衣類や家具を運び出させ、城門の前で写真を撮った。十日過ぎてから、放火が始まり、因果橋から西門の門まで、両側の町の民家が三日三晩燃えた。城外の10−15kmの場所からも火が見えた。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日: 朝、5機の日本軍機が江蘇省鎮江駅を空爆、機関庫に銃弾を撃ち込み、労働者6人が死亡した。
【蘇州大爆撃】
*11月14−16日:上記の常熱を含め、日本機は終日上空を周回し、江蘇省蘇州各地を3日連続で700発以上の爆弾を投下するという大爆撃が行われ、多数の商店、民家、工場や駅、埠頭、鉄道、車両、船舶などを爆破し、赤十字病院も爆撃された。数えきれない住民、難民(上海からの)、兵士が爆撃にさらされ死亡し、市街はさらに家を失った難民で溢れた。住民の記録によると「謝橋下で70余弾、民家の半分が破壊され、死者は300余人に達し、福山以東は死屍累々、港口、大義橋の家屋の大部分が破壊され、死者は千人近くになり、二ヶ月後になってもまだ回収されていない死体、川で死んで浮いている者もいて、損失の大きさは計り知れない」とある。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
なお10月までの蘇州への爆撃は130回以上となっている。
*11月15日:この日も日本機は狂ったように蘇州港の洋関(税関)地区を爆撃し、これまでの蘇州への連続爆撃で犠牲となった死傷者は数えきれない。死体であふれた周辺の川や岸は血で染まり、地元民、上海地区からの避難民、上海の前線から退却していた兵士などが含まれていた。呉県内の交通沿線上の集落や農村も爆撃された。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
【邯鄲市武安の占領後、約4万人の犠牲者】
*同日:午後、河北省邯鄲市の武安に7機が飛来、県城及び和村鎮を爆撃し、県府の大講堂は破壊され、19人が死亡、30人が負傷した。この後武安地域は日本軍に8年間占領され、虐殺犠牲者は7925人、逮捕または行方不明者は1万2758人、占領によって悪化した飢饉により1万9170人、合計3万9853人が亡くなり、初期の総人口の10.7% を占めた。また深刻な暴行による障害者は5890人に上った。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
筆者注:この中の多大な行方不明者は、華北地区の鉱山や工場へ連行され強制労働を受けたものと思われるが、そのほとんどは戦後になっても故郷に戻ってくることはなかった。
*同日:江蘇省の鎮江・常州・揚州などを爆撃した。
*同日:甘粛省蘭州の東飛行場を爆撃。
*同日:上海、南京を爆撃。
*11月16日:上海、蘇州を爆撃。
(上海は11月に入り、この日まで13日爆撃された)
*同日:江蘇省無錫市宜興邑城の西門外尚武郷を爆撃、引き続き城堡を爆撃。
*同日:8機が広東省韶関市曲江の河西郷を爆撃、5発の爆弾を投下、農民21人を爆殺し生き残った5人は家を失った。
*11月17日:河南省安陽市の湯陰県城に4機を出動させ、爆弾2発を投下し、24人を爆殺した。
*同日:早朝、浙江省嘉興市南湖区新塍鎮を三機が偵察爆撃。建物の破壊以外大きな被害はなかったが、続いて陸軍部隊が同市新豊鎮に侵入し、老若男女147人が虐殺された。そのなかには日本兵に追われ、侮辱を恐れて川に身を投げて自殺した10代の少女、数人の兵に強姦された後で平湖の塘河の中で身投げした唐宅の若い婦人もいた。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*11月19日:3機が山東省平原城の北方18kmに位置する墟市村の上空に飛来し、たまたま墟市にいた数百人の住民に爆弾10発を投下し、50人余りを死傷させ、家屋約20軒を破壊した。李東芝一家5人全員が爆死した。
△ 11月19日、江蘇省蘇州を占領。
*11月20日:広州の海幢区を爆撃した。
*同日:江蘇省蘇州、無錫を爆撃。
*同日:午前11時45分、陝西省西安の西郊空港を初爆撃。1944年10月8日14時40分の最終爆撃まで、西安は計66回爆撃された(西郊空港だけでも15回)。
◎ 11月20日、国民政府は南京から重慶への首都移転を発表した。
*11月21日:河南省周家口を爆撃。
*同日:多数の日本機が江蘇省無錫の江陰を空襲し、江陰県府、紗工場、南菁中学校などを爆撃。
*同日:浙江省湖州呉興を爆撃し、陸軍の侵攻を支援。
*11月22日:南京と蕪湖を空爆したが、2機が撃墜された。
*同日:地上部隊の上陸に合わせて浙江省湖州(旧・ 呉興県)を爆撃、 まず獲港鎮に上陸、付近にいた住民たちを虐殺、日本軍が去った後、残された遺体は計41体だった。その後日本軍は袁家彙に侵入して欲しいままに焼殺を行い、一夜にして町は焦土となり、住民と外からの難民は渡し船に乗って対岸の農村に避難しようとしたが、日本軍は直ちに機銃掃射を行い、河は鮮血に染まった。この時中国軍師団長が死亡、日本軍は湖州城外において敗退した中国軍捕虜400人を虐殺した。24日、日本軍が呉興を陥落したとき、城内には退去できない住民が6、7000人おり、日本軍は殺戮、放火、強姦、略奪を行った。西門と東門で最も多くの家屋が破壊された。当時の赤十字社と「維持会」が収容した推定によると、城内の被害者の遺体は約300体であった。(『侵華日軍暴行総録』)
*同日:江蘇省鎮江城、無錫、常州、周家口を爆撃。鎮江では12機が鎮江市街を空爆、米倉巷要塞司令部、二馬路モービル石油会社、華清池浴室などが爆破され、大火災が発生し大華飯店に延焼、30人以上が死傷した。この日から数日、鎮江城は毎日のように日本機の爆撃を受けた。
*11月23日:南京を爆撃。
*同日:17機が河南省周家口を爆撃し、2機が撃墜された。
*同日:江蘇省の鎮江市丹陽、無錫市宜興、安徽省宣城市広徳、また津浦・隴海の鉄道沿線を爆撃。
【長沙爆撃】
*11月24日:午後四時頃、湖南省長沙を4機が初爆撃。駅爆撃を目標とし、落星田、小呉門一帯に六発の爆弾を投下。この空襲で300人以上の死傷者が出、多くの家屋が破壊されて通信や電気が途絶え、交通が渋滞した。駅の向かいにある旅館で結婚式を挙げていたが、新婦は傷を負い血まみれになった。以降、1945年の終戦まで長沙は119回爆撃され、4000を超える爆弾と焼夷弾を投下し、3000を超える家屋を破壊し、5300を超える民間人を殺傷した。
*同日:払暁、日本軍は30機余りの航空機を集中して浙江省湖州の呉興県城を乱爆し、地上部隊の侵攻を支援した。城の中の主要な通り、城東の東園、天后宮、潜園、呉興県政府、地方裁判所と駐屯軍司令部、城南の四面庁、学宮兜、館駅河、国産品会社、城北の壇前街玄壇廟、北門の石工場、塔下街、城西の省立湖州中学師範部、鉄仏寺など、爆撃はすべての街区を免れなかった。一時城内の街道は死体が積み重なり、川面には多くの死体が浮き、城東二里橋のあたりは死体だらけであった。城西横渚塘橋の橋脚には人の頭がいっぱいにならんでいて、橋上は血で覆われ、橋の下に浮かんだ死体が流水を赤く染めていた。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:広州の河南区その他を爆撃し、400人余りの死傷者を出した。
*同日:南京を20機が爆撃、中央市場やフランス・カトリック宣教団施設、また混雑した街路に爆弾が落とされ、約40人が爆死した。
*同日:河南省鄭州の鞏(きょう)県の造兵廠に爆撃を始め、1944年5月まで何度も爆撃し、多大な被害を生じた。
*同日:広東省広州の天河、東莞の虎門、韶関、福建省厦門を爆撃。
*同日:江蘇省常州・無錫、河南省洛陽、また津浦・隴海・粤漢の鉄道沿線を爆撃。
*同日:木更津航空隊が甘粛省蘭州を初爆撃。
*11月25日:南京、常州、洛陽、無錫市宜興、また津浦・粤漢・広九の鉄道沿線を爆撃。(この日、無錫と浙江省湖州が陥落)
*同日:陸軍の侵攻を支援して安徽省広徳を爆撃。
*11月26日:広東省珠海市の江村駅(粤漢線)付近の鉄橋を完全に破壊、電線等も分断され、広州市の白雲と従化飛行場も。
*同日:広九・津浦・隴海の鉄道沿線を爆撃。
*同日:安徽省宣城市広徳を爆撃。目撃者の証言によると、広徳北門大橋付近(元落橋)だけで、家族10人全員が爆死。一人の妊婦が通りを這っていたが、腹が破裂して腸も子もむき出しになった。誓節渡は当時300戸、500間余りの家屋がある町だったが、日本機によって400間余りが破壊され、住民100人余りと国民党の将兵200人余りが死亡した。この町の近くの朱家荘、賽里村、牌坊村なども爆撃を受けた。その後8年間の中で、日本軍機の広徳に対する爆撃は絶えることがなく、「空は怖くなく、地も怖くないが、日本機が爆撃に来るのが怖い」と広徳に伝わる歌に残っている。
*同日:浙江省湖州長興を爆撃、城皇廟が大型爆弾でやられ、十数人が死亡。
*11月27日:粤漢路(武漢と広州間の鉄道)を爆撃し、38機が軌道の大部分と橋梁一つを破壊した。
*同日:陝西省西安、河南省洛陽、広九路線(広州と香港を結ぶ鉄道)などを爆撃した。
*同日:安徽省宣城市郎渓を連日で爆撃。
*同日:江蘇省常州市金壇を爆撃。別途6機が同市溧陽城を初爆撃。
*同日:粤漢・広九・津浦の鉄道沿線を爆撃。
【鎮江市の惨劇】
*11月27−28日:27日、江蘇省鎮江市丹陽に140個余りの爆弾を投下。義渡埠頭、板橋、米倉、五街、松花巷、日新街、鎮江中学校(黄山)、鎮江師範(鼓楼崗)と沿江一帯が爆撃された。また多数のジャンク船に乗って揚子江を溯上する中国部隊を機銃掃射、「西門橋から中山橋にかけての運河に停泊していた100艘以上の民船が悉く爆破され、死傷者の血が古運河の水を赤く染め、惨状を極めた 」。340人以上の住民が死亡、156人余りが負傷した。 「江恒石炭駅内の油に弾が命中し、煙が空を衝き、……翌28日、一夜の狂風を経て炎が舞いあがり、夜を昼のように照らし、洪楊革命後に建てられた四牌楼から賢橋までの新市場すべての精華を破壊した」。2日間で鎮江城で死亡した民間人は740人余りに上る。負傷者は数えるのも難しい。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)以下は別の記述である。
28日早朝、日本軍機6機が鎮江市の都天廟から河浜公園までの運河を爆撃、機銃掃射し、約100の民間船が破壊された。死体は河中と両岸に散らばっていて、一人の女性が顔に血を流し、岸辺に座って、泣かず、何も言わず、涙もなく、両目は死んだ夫と息子を直視して、呆然としていた。中山橋から西門橋までの川の水は赤く染まり、都天宮前の鳥居が爆破され、多くの人が圧死した。難民たちを乗せた木造船が何隻も沈没し、川の中に大量の死体が浮かんだ。再度正午には、多くの日本軍機が低高度から南門越城を爆撃、約60人が死亡した。北固山下では、200人以上の労働者が石を運んで船積みしていたが、その最中に爆撃、掃射を受け逃げ切れた者はいなかった。この日の日本軍機の爆撃では500人以上が爆死した。(『侵華日軍暴行総録』)
*11月28日:江蘇省常州市、河南省鄭州の鞏県を爆撃。
*同日:安徽省広徳が爆撃され、26日と合わせて城内の家屋はほとんど破壊された。目撃者の王世盛によると、一人の妊婦の胎児と腸がすべて破裂して出てきて、溝の中にはちぎれて血まみれの人の足があった。北門大橋近くの落魂橋では10人余りが爆死し、誓節渡は300棟余り、約500室の家屋がある小さな町で、敵機によって400室余りが破壊され、住民100人余りと中国軍兵士200人余りが死亡した。この町の近くの朱家荘、賽里村、牌坊村なども爆撃を受けた。広徳は翌年初めに占領される。
*同日:安徽省で停車中の貨車数百輌に「爆弾の雨を浴びせ約一千の敵兵を粉砕した」。
*同日:広州市の天河、白雲山飛行場に爆弾を投下、また広東省清遠市の源潭、琶江口などの粤(えつ)漢線と広九線の諸駅も爆破した。
*同日:山西省臨汾の中国軍根拠地を爆撃。
【溧水:この年最大の爆撃被害】
*11月29日:日本海軍飛行隊は37機を江蘇省溧水方面に出撃させ、そのうち三隊合わせて28機が爆撃に参加した。午前9時ごろ、日本軍の偵察機が東南方向から溧水上空に飛び込み、2回旋回して立ち去った。そして午後二時から三隊が3波にわたって爆撃し、一時間半ほど続いた。日本側の記録によると、日本軍の第一航空上海派遣隊と鹿屋航空隊が投下した爆弾は計118発だったが、このうち第一航空隊は二機が60kg爆弾12発で合計24発、三機が250kg爆弾6発、60kg爆弾40発を、単弾連続投下方式ですべて投下、鹿屋航空隊は三個小隊で、第一小隊が60kg爆弾36発を市街地中央部に東から西へ、第六小隊が250kg爆弾6発のうち5発を市街地中央部より北へ投下、第七小隊は6発の250kg爆弾をのうち5発は市街中央より南の地区に、一発は市街北部に投下した。そのほか焼夷弾も多投しているが、第二航空隊の記録はない。これも含めると爆弾の総数は150発以上になるだろう。
こうした爆弾投下以外に日本軍機は逃げ惑う群衆を発見すると低空で機銃掃射し、多くの人を殺した。爆弾が最も集中していた場所は南門の小街頭(東、南門通りの交差点)で、燃焼弾はまず状元坊馬老三板鴨店、犁頭尖豆腐店に当たった。次いで三眼井翟家碗店、孫家、紀家院外、程家材木および小西門公共体育場、程四興大門口、南中街、小街頭、魯家碗店、大新旅館、三聖廟、楊鰲家後院防空洞と一部の住民区に当たった。溧水城は急に硝煙が立ちこめ、住民の娘を呼ぶ声、悲痛なうめき声、爆発音、家屋の倒壊音が響き渡って惨劇となった。溧水県城は火の海となり、至る所に血肉が飛び交い、焦げて生臭く、まるで地獄のようだった。爆撃の間、爆発音が数十里先にも聞こえた。
こうした爆撃に備えて街の各箇所には防空壕が作られていて、楊鰲家の裏庭にも防空壕があった。当時子供だった韓慶連は、「街の住民は次々と老人を助け幼児を連れて防空壕に入り、私と母が防空壕の入り口に着いた時には壕の中は人がいっぱいで、入り口にいた警察官は、もう一杯で入ることができないといい、私は階段の上に立ったまま泣き出して、母は外にいた。日本機は大型爆弾を次から次へ投下し、近くに落ちた爆弾の影響で防空壕が崩れ、続いてまた爆弾一個がすぐそばで落ちて防空壕が破壊され、私も土の中に埋められた。私は入り口の倒れた板の下になったが頭は上にあり、息はできたが動けなかった。穴の中では「助けて、助けて」という声が聞こえていた。午後4時過ぎ、敵機が去ったので近隣の人が防空壕に家族を探しに来た。まず3、4人が壕の入り口で土をかき出して家族を探していた。そこに帰ってきた父も土をかき分けて、板を除いて私を発見して助け出した。外にいた母は機銃掃射で5発撃たれて死に、私の家の隣の夏小五という私と同じ10歳の子供は、私より先に防空壕に入って死んでしまった」と語っている。防空壕では100人余りが死亡し、入り口にいた韓慶連ら4人だけが生き残った。
その後、郷紳は義勇埋葬隊を組織し、引き取り手のない死体を埋め、埋葬場所は美人山、廟地溝、荷包袋などであった。このほかも合わせて引き取り手のない遺体786体(約900体ともある)を埋葬し、引き取られた遺体は約200体で、そのほか廃墟の中に埋没したり、爆弾で飛び散って形のなくなった人々、焼失した遺体は数えられていない。なお、引き取り手のいない遺体の多くは一家ごと全滅した場合で、住民4000人のうち死者1200人だとその割合が高くなる。その他外から入ってきていた商人や、上記のように避難民も含まれているだろう。
(以上は抗日戦争記念網『侵華日軍爆撃溧水事件』/百度百科『侵華日軍爆撃溧水事件』を混成)
*同日:陸軍の作戦支援として、江蘇省常州西方に移動する中国部隊、金壇、鎮江、丹陽の部隊およびジャンク船、溧水、溧陽の集団部隊、安徽省宣城市の広徳と寧国の集団部隊に爆撃を加えた。
これは日本側の報告であり、「溧水」の名前が出てくるが、その実態は上記同日の内容である。また鎮江市丹陽(三日連続)においては29日、「敵機は例によって偵察爆撃したが、南門大街、東門大街はいずれも破壊され一面瓦礫と化し、路地裏のビル住宅のごく一部のみが免れた。初期統計からの推定では、町は平屋9006戸、複層建物1030軒、学校の校舎310軒、合計1万346軒を焼失した。… 当時丹陽城内で災禍を受けなかったのは西門街、城東燕子巷、東河路一帯だけで、その他の各街はいずれも多かれ少なかれ破壊を受けた。… 戦火で死んだ者72人、工・商・民の財産は約2千万銀元」とある(『日軍侵華暴行実録』第3巻)。丹陽はそのまま日本軍に占領され、住民にはさらなる悲劇が待っていた。
*同日:午前10時、12機が常州市溧陽を爆撃、民家数十間を爆破し、死傷10数人。
*同日:京漢線東部の河南省濮(ぼく)陽市の濮県にいる2、3千の中国軍を発見し爆撃、さらに黄河を渡って南方に敗走する中国軍「約一万に徹底的空爆を加え、これを殲滅した」。
*同日:隴(ろう)海線の河南省蘭封の東北、考城にあった軍用自動車数十輌と周囲の兵士多数を爆撃した。
*同日:河南省洛陽を爆撃。
*同日:安徽省宣城の郎渓城に襲来、爆弾と焼夷弾数十発を投下した。城内の何氏宗祠、一品香菜館及び下街の皖北会館の建物はすべて爆破され、多くの死傷者が出て、ある者の髪は壁に飛び散って、その惨状は目にあまった。
【常州市の大受難】
△ 11月29日、日本陸軍は11月に入って何度も江蘇省常州市に爆撃をしたのち、占領するが、27日の侵略より30日までに、常州市街での虐殺、放火、強姦、略奪等が行われ、少なくとも数千人が殺害され、その後もいわゆる太平洋戦争における敗戦までの間、焼失家屋3万6580軒あまり、殺害された住民は8790人あまり、強姦された女性は2570人あまりに達した。『日軍侵華暴行実録』第3巻)
これは一見信じ難いであろうが、この具体的内容は約5千字程度で記述され、すべてを読むに忍びないが、この陸軍の南京への侵攻途上での各都市における暴虐行為がそのまま12月13日からの南京占領事件に結びつき、さらにその後も日本軍の進撃により他の町々に同様の暴虐行為が繰り返されて行くから、1945年までの8年間に渡る中国における犠牲者は我々が思う以上の想像を超えるものがあると判断してよい。
*11月29−30日:10数機が江陰要塞の砲台一帯に爆撃を加えた。続く翌日の爆撃はさらに激しさを増し、編隊は交互に要塞の砲台に爆撃を加え、八市港、十市港に百数十発を投下し、江上の交通を遮断して退路を塞ごうとした。30日の中国側の砲撃で、日本機は2機を撃墜された。
*11月30日:28機が浙江省蕭山を襲撃、二時間近く上空を旋回しつつ爆撃、爆弾と焼夷弾合わせて120個以上投下。200人近くが爆死、4千人余りが重軽傷。この後1939年9月までに全県の主要な町はすべて爆撃を受けた延べ192機が72回の爆撃をし530種類の爆弾を使い、死者605人、重軽傷2227人、家屋4585を破壊した。
*同日:京漢線の彰徳(河南省、現・安陽市)南方の湯陰の中国軍2千人を爆撃、また山東省済南で津浦線を北上する列車を爆撃した。
*同日:、安徽省郎渓県城を爆撃、東門の畦が破壊された。
*11月某日: 浙江省杭州市淳安県を爆撃、この月から1942年8月までの間、日本軍機は淳安を8回にわたって空爆、数十人が死亡、民家116棟を爆破、帆船3隻が沈没した。
△ 日本の第十軍は11月28日に第114師団が宜興を、29日に第18師団が広徳を、12月2日に第114師団が溧陽を占領した。
12月
〇 12月1日の大本営海軍報道部の発表では、日中戦争開始後から約4ヶ月間に飛行部隊が撃墜した中国空軍の戦闘機は417機、海軍機の損害は60機、そして日本海軍の戦死者は835名であった。
*1937年12月1日:浙江省紹興市の諸曁(しょき)を爆撃し、700人余りの死傷者を出した。
*同日:浙江省杭州南方の龍山の中国軍司令部と大部隊を「大爆撃し殲滅的打撃を与え」、別途広九鉄道沿線を爆撃。
*同日:江蘇省江陰要塞にある牡山台と黄山台を爆撃し、さらに八市港と十市港に百数十発を投下し、江上の交通手段の破壊を企図した。
*同日:江陰要塞の対岸にある南通市天生港砲台に「巨弾を浴びせた」。
(同日:日本軍は江陰要塞を占領、中国軍は撤退の前に江陰の新式の砲門を破壊した。江陰要塞陥落で日本軍は南京攻略に専心できることになった)
*12月2日:南京を3度爆撃、中国軍機30数機と空中戦となり、13機を撃墜、(そして日本側の記録にはないが)4機が撃墜された。
*同日:京漢線彰徳付近の中国軍部隊を爆撃した。広州市の天河、白雲の飛行場、広九鉄道沿線を爆撃。
*同日:安徽省宣城市の湾沚鎮を4機が爆撃。
*12月3日:111機が南京を2度爆撃し、対空砲火で2機が撃墜された。
*同日:広九線路を爆破したが、浙江省平湖駅で1機が撃墜された。
*同日:江蘇省の江陰、南通市の天生港を爆撃、また隴海・広九・粤漢の鉄道沿線を爆撃。
*12月4日:前日に南京の東方約140kmの常州(10/29占領)に日本海軍航空基地が新たに設置され、そこを拠点に南京・蕪湖攻撃に向けて戦闘・爆撃機計19機が出動、国民党軍の撤退を阻止するために、前線の基地である宣城を反復爆撃。
*同日:甘粛省蘭州を爆撃、11機と順次出動し、蘭州市街及び東郊空港を爆撃、大小の飛行機14機を破壊した。市街には12発の爆弾が投下され、3人が死亡、2人が負傷し、3軒の家屋が倒壊、52軒が破壊された。
*同日:安徽省滁(じょ)県の飛行場で空中戦を制し、地上の11機を破壊、南京では故宮飛行場を爆撃、格納庫を炎上させた。さらに南京の南門を爆撃。
*同日:江蘇省無錫の江陰を爆撃、また粤漢・広九の鉄道沿線を爆撃。
*同日:南京の100km南方にある高淳に対し、延べ30機以上が5回の爆撃を行った。その中でこの日は3機が出撃、80個余りの爆弾を投下し、住民100人余りを爆殺、家屋700室を破壊し、整然とした大通りが廃墟となった。
【蕪湖大爆撃と避難民客船への爆撃】
*12月5日:蕪湖近郊の湾里飛行場を爆撃し、飛行場に駐機していた航空機十数機、倉庫一基を破壊した。飛行場は全面的に麻痺し、蕪湖は防空のない都市となった。さらに蕪湖の市街地を連続爆撃し、市街地、駅、埠頭で煙が立ち上り、990名以上の死傷者を出した。西の門から急な門巷に至るまで、十里(約5km)の繁華街は、瓦礫の山と化した。
*同日:日本の重爆撃機二機が蕪湖川岸(揚子江)の太古埠頭に停泊していた旅客船「徳和号」と「大通号」に爆弾12発を投下、このため徳和は炎上し、大通は多数の穴を開けられ、さらに隣に停泊していたイギリス軍砲艦にも被害が及んだ。この徳和には武漢を目指した避難民(避難するお金のない庶民ではないが)六千人(三千人との説も)が乗っていて、船は約7時間燃え続けて沈没、この惨事で死者が約千人とされる(二千人との説もあり)。8日、英国は日本に抗議したが、日本は謝罪だけで済ませ、この後蕪湖を5日連続で爆撃し、10日に占領した。徳和号は1978年に引き上げられ、大量の人骨のほか、お金もかなり見つかったという。
(日本の新聞記事では、「敗退する敵兵にして蕪湖付近に蝟集するするもの数万に達し、船舶により対岸に移動中なりしを12月5日正午頃爆撃を加えたるが、その際千トン級汽船二隻を撃沈せり」とあるのみで、船上は避難民でなく敗退する敵兵としているし、その惨状に対する記述はない)
*同日:浙江省杭州市を猛爆、他の一隊は南京、滁州(滁県)を再爆撃。
*同日:広東省の広九線と粤漢線と広三線の鉄道駅を爆撃した。
*同日:山東省泰安市寧陽の中国軍根拠地を爆撃。
*同日:広東省広州の天河を爆撃。
*同日:安徽省宣城市績渓県を初爆撃、20人余りの死傷者を出し、その後、黄山市の屯渓、歙(きゅう)県、黟(い)県。休寧県、太平、石棣等の県城、万安中学校、祁門県貴渓村などを爆撃した。
*同日:河南省鄭州市鞏県を爆撃、「兵工廠に大爆弾を投じ粉砕壊滅せり」。
*同日:10数機が南京の貧民区を襲い爆弾20数発を投下、14人死亡、20数人負傷、家屋50軒破壊。また明朝故宮が爆撃されたが、その時、ある一家の母親と娘が即死、父親は赤ん坊を抱いていたが、その子の頭部は吹き飛ばされていた。
*12月6日:30数機が南京に対し5回空爆し、その中で長江の対岸にある浦口市街を猛爆し20数人が死亡、また手前の下関埠頭でも多数の難民が死傷した。
*同日:中国軍司令部のある隴海線の河南省開封を爆撃。
*同日:安徽省蕪湖、上海の真茄、漢口、広西省などの津浦・滬杭・粤漢・広九線の鉄道駅を爆撃した。
*同日:7機が甘肅省蘭州市楡中甘草店上空に飛来、しかし中国空軍機に追撃された。
△ 同日、南京から東へ40km離れた句容県城が地上軍により陥落。
*12月7日:陸海軍の航空隊が協力して南京を空爆、海軍としては115回目の爆撃であった(南京爆撃は大半が海軍による)。
*同日:安徽省蕪湖を6機が午前と午後に爆弾30個と10個を投下、市内の吉和街、進宝街、四明路、駅、長街などが焦土と化し、80数名が死傷。また同省安慶の飛行場を爆撃。
*同日:陝西省潼関の駅や機関庫などを爆撃。
*同日:江蘇省無錫市の江陰の長江対岸の砲台を爆撃。
*同日:津浦・隴海・広九・粤漢の鉄道沿線を爆撃。
〇 この日:蒋介石が南京を脱出した。
*12月8日:南京城の中国軍陣地、市街地を爆撃。
*同日:山東省莘(しん)県の朝城の数百の部隊を爆撃。また泰安市南方の津浦線上の軍用列車を爆撃。
*同日:河南省鄭州の鞏県の造兵廠を急襲、甚大な打撃を与えた。
*同日:16機が広東省の広九鉄道の軍需輸送施設を破壊、また粤漢線の清遠、軍田、三江、潖江口を連続爆撃した。
*同日:江蘇省泰州市靖江を爆撃。
【鎮江陥落後の大惨事】
△ 10月以来の多大な連続爆撃を経て、12月8日、南京へ進軍途上の陸軍により江蘇省鎮江城が陥落。この占領時の実態の一部の様子である。
—— 12月8日午後、日本軍第13師団の天谷、安達の両部隊は、南門から入城し、鎮江の人々は史上最大の殺戮と蹂躪を経験した。東門外6標は国民党軍の元駐屯地で、日本軍は現地の住民をこの場所に一堂に閉じ込めた後、火を放ち、焼死しなかったものはすべて斬殺した。宝蓋山の東にある防空壕には民間人が大勢隠れていたが、日本軍はこの壕に機銃掃射を行い、300人以上を殺戮した。節孝祠通りに隣接する火星廟には、米国人牧師が運営した難民収容所があり、200人の難民がこの場所で日本軍に殺害された。張怿伯先生がこの虐殺を目撃して書いた『鎮江陥落記』によれば、鎮江の市街は「破壊された家、天井が吹き飛ばされた部屋、毀損した財物等は数え切れず、失った命すら統計を取ることができない」とある。この小さな鎮の多くの街で、老若男女や赤ん坊の死体が散らばり、それらを埋葬した赤十字社埋葬隊の楊佛生隊長によれば、彼らが埋めた遺体は1500体以上に上り、広東山荘、楊彭山と宝蓋路小学校の向かいの空き地に大量の遺体が埋められた。死体の層があまりに厚く、浅く埋められた遺体からは、長きにわたり死臭が漂よっていた。ここを通る人は、悲しみと憤りを感じずにはいられない。日本軍の殺戮と火の海は1月10日まで続いた。(『侵華日軍暴行総録』:なお「第13師団の天谷、安達の両部隊」はすぐに南京攻略に転じ、12月13日以降の大虐殺に加担しているから、「1月10日まで」というのは守備隊であろう)
*12月9日:陸海軍の航空隊が協力して南京を襲撃、中華門等の城壁・城門を250kg爆弾で爆撃して破壊した。
*同日:南京城外の揚子江岸に退避しつつある中国軍部隊を爆撃。
*同日:河南省開封市の蘭考で黄河渡河中の中国軍に大打撃を与えた。
*同日:江西省南昌を襲撃、空中戦を制し、16機を撃墜、地上の新鋭機など20機を破壊。
*同日:津浦・隴海・広九の鉄道沿線を爆撃。
*12月10日:南京の紫金山砲台を爆撃。また光華門など、地上部隊の攻撃を支援し爆撃。
*同日:山東省聊(りょう)城市の観城、冠県の范城、また徳州を爆撃。
*同日:河北省邯鄲市の大名県東昌を猛爆した。
*同日:江蘇省鎮江城外東方の長江南岸の亀山砲台を爆撃、砲台数門を破壊、兵舎や火薬庫も爆破した。
*同日:広東省韶関市の飛行場や粤漢線上の英徳、潖江口、源澤、そして広東飛行場を次々と爆撃。
△ 10日:安徽省蕪湖を占領。
△ 同日:海軍(鹿屋航空隊)は占領した上海虹橋飛行場に進出。
*12月10日−12日:鎮江城外焦山砲台の激戦で、飛行機4機が出動し、対象山、焦山砲台を爆撃、焦山海西庵が被弾、焼かれた。
*12月11日:陸海軍の航空隊が協力して南京の要所を空爆、富貴山砲台や鎮江対岸の都天廟要塞を爆撃。
*同日:山東省聊城市の観城、河南省安陽市湯陰県の後李朱、宜溝駅、河北省保定市の曲陽を爆撃。
*同日:河南省洛陽を爆撃。
【南京への爆撃、120回以上】
*12月12日:陸海軍の航空隊が協力して南京を爆撃、城内の中国軍部隊や長山砲台、長江対岸の浦口関の陣地などを爆撃、この日をもって南京への空爆は終わり、通算120回を超える(南京に残っていたヒューバート・ソーン牧師の日記から)この後は陸軍の最終攻撃に委ねられ、翌日夜明け前に南京は陥落。
【米国軍艦「パナイ号」を爆撃】
*同日:海軍飛行隊は長江水域の安徽省和県に停泊する米国の軍艦「パナイ号」と商船一隻を爆破して沈没させ、4人が死亡、重軽傷48人となった。パナイ号は南京の爆撃で避難用に使われていたが、この時はモービル石油会社のタンカーを含む商船4隻を護衛していた。これはパナイ号事件として日本でもしばらく問題となった。この日は別途、蕪湖の長江に係留されていた英砲艦レディバード他2隻及び商船一隻にも蕪湖を占領したばかりの陸軍が砲撃し、死傷2名が出て、米英両国より猛烈な抗議を受けた。
*同日:陝西省西安と河南省洛陽を爆撃。
*同日:江西省南昌を爆撃、空中戦で相手を2機撃墜し、地上の10数機を破壊した。
*同日:広東省の広九鉄道と粤漢鉄道の沿線を4時間にわたり爆撃、また韶関と従化の飛行場も爆撃。
【南京戦に並行して行われた江蘇省揚州の惨劇】
*12月12日:日本軍軍艦が江蘇省揚州市儀征県十二圩を砲撃するとともに、日本軍機が十二圩を爆撃し、多数の住民が死傷、多数の民家が破壊された。その後15日、日本陸軍は侵入路を焼き払いながら16日、儀征県城を占拠し、新城から北門まで民家百軒を焼き、民間人30人余りを殺害した。18日、日本軍桜井小隊長は20数人の兵士を率いて揚州から新城に来、新城王家飯店で21人の民間人を射殺した。20日には揚州から新城まで焼き払い、住民7人を刺して殺害した。この後も日本軍は新城を占拠し、住民の400人が虐殺され、200人の女性が強姦された。
筆者注:これまで記述してきた通り、上海から南京攻略への途上(南北の三路から南京を攻めていく途上)で数え切れない暴虐行為があったし、南京攻略戦時にも他の師団が各地に侵攻して暴虐行為を重ねて行く。またこれ以上に海軍航空隊はあらゆる範囲に休むことなく爆撃を重ねて行った。
〇 12月12日、南京攻防戦で雨花台、紫金山などの要地が陥落し、中国軍の南京防衛戦での死傷者は5万人に達した。
*12月13日:山東省の中国軍部隊のいる泰安を空爆して火災を起こし、済南市龍山西方の五里堂付近の列車、約20輌連結二つを「完全に粉砕した」。
*同日:江西省吉安と玉山、南昌の飛行場、さらに浙江省衡州飛行場で数十機を爆破した。
*同日:続けて広東省の鉄道を爆撃。
【南京陥落】
〇 12月13日、日本軍は南京を陥落させ占領。この南京戦における日本の上海派遣軍と第十軍の 戦死1558、戦傷4619、計6177人とされるが、これは全部ではない。またこの後、大量の敗残兵と住民に対する虐殺と暴虐が始まり、ほぼ二週間で30万人を超える死者が出た(筆者の「日本の戦争:昭和12年」参照)。
この南京攻略を受けて、米哲学者デューイ、科学者アインシュタイン、英哲学者ラッセル、仏作家ロマン・ローランが連名で日本の中国侵略を非難した。
△ 12月14日、南京郊外の大校場飛行場を日本軍が占拠し、そこからさらに各地への爆撃が始まる。
*12月14日:安徽省合肥を爆撃。翌年5月までの半年間で合肥への爆撃40数回、死者300人以上、負傷者100人以上を出した。
*同日:続けて安徽省蚌阜(ほうふ)市、浙江省紹興市を爆撃。
*同日:広東省の広九線と粤漢線の鉄道を爆撃、徹底破壊する。
*同日:江西省南昌を爆撃、空中戦で相手を7機撃墜し、地上の28機を破壊した。(南昌空襲で35機を撃墜との報で海軍司令部は喜色にあふれたとある)
*12月15日:河南省新郷市北方の衛輝の軍事施設や貨車140輌を爆破、また河南省安陽市湯陰を爆撃した。
*同日:安徽省安慶市、合肥市の盧州、蚌阜市の飛行場を爆撃。
*同日:浙江省紹興市諸曁(き)、四川省濾州を爆撃。
*同日:浙贛線(浙江省杭州と湖南省株洲を結ぶ)の各駅と付近の列車、その他粤漢・九江線を爆撃。
▽ 同日:国民政府は8月から11月末までの間に日本機300機を撃墜したと発表した。
*12月16日:続けて新郷市衛輝を爆撃、河南省の彰徳の林堂、安陽市湯陰を爆撃した。
*12月17日:広東省の天河、白雲の飛行場と粤漢線の鉄路を爆撃。
△ 南京入城式が挙行されるが、「本日の入場式には付近飛行場を爆撃したる後、六、七十機にて南京の空中守備状態に入りたる」との記述がある。
【ソ連から中国への援軍】
〇 12月3日に「中ソ相互不可侵条約」が締結された結果、中国の対日戦を援助するため、ソ連の飛行機50機と多数のパイロットが漢口に到着した。
〇 南京から漢口・武昌・漢陽(武漢三鎮)に避難してきた人民は約40万人とされた。
*12月18日:山東省済南の黄河河畔の東阿、平陰などを偵察しつつ中国軍部隊を発見し、これに猛爆撃を加え、さらに壊乱する敵兵に機銃掃射を浴びせた。
*同日:前日に続き、広東省の天河、白雲の飛行場と粤漢線の鉄路を爆撃。
*12月19日:広西省の梧州、また九江・粤漢線の鉄路を爆撃。
*12月20日:海軍の渡洋爆撃隊と大陸の飛行隊が合わせて江西省九江市の飛行場や軍施設を爆撃、「巨弾の雨を降らせた」。また別の編隊が広西省悟州に向かい、飛行場と施設を破壊した。
*同日:別の一隊が広東省に向かい、広九線と粤(えつ)漢線の駅と軍事施設を約200kmに渡って爆撃、「一つとして破壊されぬものはなく、特に韶関、南門付近は徹底的打撃を受けている」。
*同日:日本軍第18師団は20日に 浙江省湖州の安吉県、21日に孝豊県(現在は安吉州の所轄)を陥落させた。陥落前、日本軍は両県に爆撃を行い、おびただしい死傷者を出した。
△ 同日、安徽省滁県を占領し飛行場を確保。
*12月21日:甘粛省蘭州に向かい、中国機数十機と空中戦となるが6機を撃墜し、飛行場の大小8機を爆破、また大型格納庫一棟を爆破、炎上させた。飛行場付近では、14発の投擲爆弾が投下され、3人が死亡、4人が負傷し、30軒の家屋が倒壊。
*同日:広九線と新寧線を爆撃。
*12月22日:江西省南昌を爆撃、鄱陽湖上空の空中戦で中国機17機を撃墜、飛行場の6機を爆破した。
*同日:河南省周家口、そして粤漢・広九・広三の鉄道沿線を爆撃。
△ 12月23日、第十師団が黄河を渡り、12月27日には山東省済南を占領。
*12月24日:山西省太原南方の宣城鎮に集結する中国軍約千五百に対して爆撃。
*同日:日本軍は浙江省杭州市富陽県に空からの爆撃を加えつつ占領した。その後8年間、日本軍の蛮行は都市や農村に及び、蹂躙され、全県で日本軍は2431人を虐殺(爆撃爆死を含む)、致傷障害1928人、破壊された家屋5万4240間、姦淫された女性の数は計り知れない。(『侵華日軍暴行総録』)
△ 12月24日、陸軍が浙江省杭州を占領。
*12月25日:広東省韶関市南雄・清遠市英徳・広州市増城区の白石と石灘、江蘇省海州、湖北省裏陽、粤漢鉄道沿線を爆撃した。江苏省泰州市靖江
*同日:江蘇省泰州市靖江城上空を日本機が往復旋回した後、爆撃、銃撃した。被爆し倒壊、焼失した家屋は市全体の約30%を占めた。地上部隊は空爆の後、靖城 へ侵入した。「靖城を離れなかった鄭子奇と清掃・埋葬作業に参加した郭鑑唐によると、当時、靖城の内外で爆死、ショック死した人々、及び虐殺された人々の数は300を超えた。 西側の西城関を歩いていた姚積は日本軍によって腹を刺され、大腸が流れ出、姚は両手に腸を持って家に駆け戻り、帰り着くや倒れて死んだ。 この三日後の28日に日本陸軍は靖江を占領した」。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*12月下旬:海南省屯昌県烏坡墟を爆撃。
*12月26日:山東省済南市の津浦線と済南鉄道沿線を十数回にわたり爆撃、また山東の中国軍前線根拠地を爆撃して「完膚なき山東攻略をなした」。
*同日:山西省南部の臨汾付近を移動する約一千の敗残兵を爆撃、「大打撃を与えた」。
*同日:江蘇省徐州、山東省済寧市兗州、広東省英徳沙口圩、広州市白石、さらに粤漢・広九・新寧の鉄道沿線を爆撃。
*同日:7機が広東省韶関市風度南商業地区を空襲し爆弾を投下、数軒の店舗が燃やされて倒壊した。
〇 12月26日、ドイツ大使のトラウトマンは日本の講和四条件を孔試煕に送ったが、中国政府の受け入れられる内容ではなかった。
*12月26−27日:浙江省金華市を3機の重爆撃機が連続爆撃、この時、浙贛鉄道は客車も貨物車も停止した。
*12月27日:地上部隊の済南城への進撃に呼応して城内を爆撃、そして敗走する兵士達を追撃、さらに軍用列車(約250輌)に爆撃を加えた。この後、日本軍は山東省済南を占領した。
*同日:安徽省の安慶市、合肥市、蚌(ぼう)埠市、山東省済寧市の兗州、臨沂市の沂(ぎ)州・沂水、江蘇省徐州、広東省韶関市南雄、英徳沙口圩を爆撃。
*12月28日:湖北省襄陽県を初爆撃、9機が襄陽、樊城及び迎旭門外にある飛行場付近の肖家台・黄家台一帯を爆撃し、1人が死亡、4人が負傷し、11棟の家屋が爆破された。
*同日:山東省泰安駅を三度にわたり爆撃、列車20輌を爆破した。また淄(し)博市博山の敗残兵約1千人を猛爆し「殲滅的打撃を与えた」。また山東省兗州を連続爆撃。
*同日: 未明、すでに河北省石家荘と景基を占領していた日本軍は、航空機を投入し平山県を爆撃、そして平山県城に向けて侵犯、沿道で人に会う人々を射殺した。平山城の住民は四散、一部は城西天成灘の進水洞に逃げ込んだが、日本軍は洞の28人のうち26人を銃殺した。この日、日本軍は平山城内の無辜の住民37人を殺害した。
*12月29日:粤漢・広九の鉄道沿線を爆撃。
*12月30日:40機が広州を爆撃、学校数校を破壊し、数十人の死傷者を出した。
*同日:広東省広州市石龍・白石、江蘇省徐州・海州、山東省沂州・兗州、河南省洛陽、さらに粤(えつ)漢・新寧の鉄道沿線を爆撃。
*12月31日:広州の白雲飛行場と広九鉄道を破壊。
*12月某日:3機が上海遠北郷楊家村の上空へ侵入し、爆弾3発を投下、新興小学校の校舎6棟を爆破した。
△ 陸軍飛行隊が中国華北地方への爆撃をしながらこの年末までに奪って拠点とした飛行基地は、天津・南苑・承徳・錦県・陽高・保定・石家荘・徳県・彰徳などである。
*12月某日:陝西省延安市延長県の県境の交口、馬家河、城区呼家川などを爆撃し、民間人10人が死亡、家畜100頭以上が爆殺され、器物1000点以上を損壊した。
【上海共同租界における犠牲者】
〇 上海共同租界内での流弾等での死傷者5千人:外部者の調査によると、日本軍機の無差別爆撃等により、この2ヶ月間、上海共同租界内では流弾等による死亡者・負傷者数が、1932年1月28日の第一次上海事変の時より33倍多かった。この12月までに、共同租界内では流れ弾で死亡した非戦闘員は計2057人、うち外国人11人、負傷者は計2955人、うち外国人36人。一・二八時の死亡者は71人、負傷者は16人であった。ただし、この後の日本軍の中国各地への空爆による多大な犠牲者に比べると、わずかな数値である。
【強制労働の例−2】
全面的な日中戦争となったこの年、ソビエト連邦の出兵を防止するため、アムール川に沿った黒竜江省(満州)樺南と土竜山に2つの飛行場を同時に建設した。この二つの空港は、日本の大林組と清水組が建設を請け負ったが、労働力は中国現地から徴用するしかなく、関東軍はまず地元の依蘭県、樺川県などで労働者2200人余りを募集し、次に山東省、河北省、遼寧省などから、騙しの方法で労働者2500人余りを集めた。
これらの労働者は工事現場に到着すると、数百人を一工房として組織し、地域名で「大連の1株」というように、各工房はすなわち1つの大隊であり、大隊長は日本人が担当し、大隊の下にいくつかの中隊、小隊が置かれた。飛行場の周囲には鉄条網が張りめぐらされ、七、八の砲楼が設けられ、日本兵が昼夜をわかたず見張って労働者の逃亡を防いだ。労働者たちは一日14、5時間も土籠をかついだり、石を運んだりしながら、かびの生えたトウモロコシの粉、どんぐりの粉、塩豆、白菜のスープなどを食べた。住まいは葦の茅葺き小屋で、雨風にさらされ、ましてや寒さを防ぐことができなかった。労働は過酷で、生活環境は悪く、労働者たちは病気になっても治療を受けず、死ぬと葦簀(よしず)を巻いて荒野に運ばれて捨てられた。全体工事の過程で、病気や過労、凍死した労働者は3000人以上に達した。(『侵華日軍暴行総録』)
ちなみにこのような強制労働は満州事変以来多く発生し、鉄道や炭鉱、製鉄所で働かされたが、人手はこの年の日中戦争から日本軍が占領する満州以外の地域から数百人や千人単位で募集(徴用)の形をとりながら強制連行された。
