昭和12年(1937年)後編:南京以降(その二)

南京にとどまった欧米人の難民のための奮闘とその記録

 仮にもこれまで筆者のこの昭和12年の記述を、流し読みでもしていただいた方々には、以下の記録は、まだあるのかと言わんばかりの、これまであまり表に出されなかった内容で(とはいえ南京事件全体がそうなのであるが)、日本軍占領を目前に多くの外国人は南京を逃れる中であえて南京に残り、その南京城内の日本軍占領下の現場で、難民や捕虜に対する日本軍の絶えることのない暴虐から彼らを守るために、本当の意味で身を捨てて奮戦し続けた外国人たちの記録である。

南京安全区国際委員会の設立

  日本軍が上海の戦線から転じて南北三方に分かれて西の南京攻略を目指して侵攻する途中、無錫や常洲、鎮江、句容などを次々に陥落させ、(既述のように)暴虐行為を繰り返しつつ進撃する日本軍に追い払われるようにして南京まで退却してきた中国軍は、南京防衛軍に合流しつつ、侵攻してくる日本軍に使われる可能性のある南京城外の村や建物の多くを焼却してしまう「清野作戦」を実施し、家を焼き払われた農民と市民たちが多くいて、その彼らは遠くの郊外や城内にも逃げ込んでいたが、最初に戦場となっていた上海から首都である南京に避難してきた人々も多くいた。 また、やがてくる戦闘を避けて南京から逃避した多くの外交官や企業関係の外国人がいたが(12月9日、日本軍はすべての外国人は南京から退去せよとの要求を各大使館に届けた)、彼らと一緒に退去することを選択せず、覚悟の上で南京に残っていた22名の欧米の教師や宣教師・牧師・医師たちは、住民や避難民を守るために南京安全区(難民区)国際委員会を結成し、委員長はドイツ人のジョン・H・D・ラーベに依頼した。ラーべはシーメンス社の南京支社長でナチ党員であったが、日本と同盟国のドイツ人を表に出すことで、日本当局との折衝を有利にしようという目論見もあった。彼は人道的な立場から喜んで引き受けた。 そして11月22日、委員会は声明を発表し、アメリカ大使館を通してこの地域での戦闘を避けるようにと日本と中国の当局に通告したが、日本軍は国際委員会を認めないとした。12月8日、委員会は「告:南京市民書」を配布して、安全区への避難を呼びかけた。安全区にはまず南京に雪崩れ込んできていた数万人の難民が、解放された安全区内の建物に収容されたが、9日早朝から日本軍が南京城の光華門から襲撃をかけて来たため、住民も含めて安全区(難民区)に殺到し、この日に避難民は一挙に10数万人に膨れ上がった。

 このメンバーの中には何人も親日家がいて、何よりも「日本軍はよく訓練されているから掠奪や放火などはしないと確信していた」と言い合っていた国際委員会のメンバーたちは、12月13日の占領後に展開された日本軍の真逆の行為に驚き、翻弄され、南京住民を助けるための長い闘いが強いられた。この時代から日本の武士道精神という言葉を知っていた彼らは目の前に次々と展開された日本軍の暴虐行為、蛮行を信じることができなかったが、途中何度も日本大使館に訴えてわずかな望みを託した。それでも一向に蛮行は収まらず、最後には日本軍は犯罪者の寄せ集めと思うようになり、もはや単純にその犯罪者たちから難民たちを守るという姿勢に徹するしかなかった。

 まず、翌年の中国誌などに載った二つの記事からである。

 —— 国際委員会の国籍は様々であったが(アメリカ人14人、ドイツ人5人、ロシア人2人、オーストリア人1人)その意思は完全に一致していた。祖国からの命令があったわけでもなく、またわが中国政府からの要請があったわけでもないのに、自己犠牲と人類救済の精神を惜しむことなく発揮した。まさに敬服すべき全力投入であった。…… 国際法上は難民を殺すことはできないが、野獣と化した(日本軍)兵士はまさにケモノであって、その要求を押し止めることは困難であり、何かの口実を探しては大量虐殺を繰り返した。彼ら国際委員会は東奔西走、子供をいたわる慈母のように難民に呼びかけた。…… 各収容所にはビラを張り出し、社会正義を掲げて暴虐に立ち向かおうと呼びかけた、…… 彼らが経験した困難と危険はまさに涙無くしては語れない。

 —— 国際難民区の救済委員会(日本軍の圧力から後半にこの名称に変えられた)の活動はまさに賞賛に値する。難民区は二里(1km)四方にすぎないが、居留民は25万人以上にものぼった。…… そのうちの10万人以上はほとんど一銭もなく、完全に救済委員会の援助で生活していた。だからその管理は並大抵ではなかった。…… 誰も彼もみんな熱心で、われわれは深く感謝しなければならない。

(ラーベ著『南京の真実』講談社の解説より)

国際委員会主要な人々(全22名のうち)

*ジョン・H・D・ラーベ

 南京安全区(難民区)国際委員会の委員長を引き受けたドイツ人のジョン・H・D・ラーベは、シーメンス社の南京支社長であり、同時に熱心なナチス党員で、その南京支部長であった。ウィルソン医師は「彼の個性とヒトラーに対する熱狂的な支持とを一致させるのが難しい。彼は押し寄せてくる何千人もの難民たちのために休む暇なく働いてきた」と評している。彼は広い自宅を解放し、600人もの中国人を世話した。そこへ日本兵が略奪や女性を狙って何度も塀を乗り越えて来くるので、その追い出しに忙殺され、時にはそうした日本兵にナチスの腕章を見せて、同盟国(この時点では「日独防共協定」であり、三国同盟はこの後である)の家に侵入してくるとは何事か、と追い返した。ラーベの日記は50年後に発見され、「南京のシンドラー」とも称された。ラーベは翌年2月に命令でドイツに戻され、「南京の真実」を政府筋に訴えて日本に味方する自国から厄介者扱いされた。なお民間人の立場で南京に残って住民のために身を挺して活動したのは、ラーベと下記に示すドイツ人二人の三人であった。彼らはその後ナチスドイツが第二次大戦を開始し、その進軍先で日本軍と同様な他国民への虐殺を行うとは思いもよらなかった。ちなみにシーメンス社は中国国民党に対し、主に武器を輸出していた。

*ロバート・O・ウィルソン

 ウィルソン医師は南京安全区国際委員会のメンバーでもあり、南京の金陵大学(現・南京大学)付属鼓楼病院で唯一の外科医師として戦闘による患者の治療に当たった。他には内科医のC・S・トリマー、看護婦のG・バウアーと I・ハインズの4人のスタッフが南京陥落後にも残り、他の病院から避難してきた二人の中国人青年医師と三人の看護婦、さらに臨時養成の10数名の看護婦にも活動してもらった。ウィルソンは勤務中に日本軍による南京への爆撃回数を記録していた。結婚して間もない妻子はアメリカに帰国させていて、家族への手紙を兼ねた日記が残る。戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で証言に立った。

*ジョン・マギー

 アメリカ聖公会伝道団宣教師で医療活動も行なっていた。南京国際赤十字委員会委員長を務め、南京安全区国際委員会委員も兼務した。フォースターと組んで安全区内の外国人用の大邸宅を活用して避難民を収容した。フィルム撮影が趣味で、結果的に日本軍の蛮行の証拠となる多くのフィルムを残した(本人は時間もフィルムも足りなかったと語る)。東京裁判では他の在留外国人たちとともに南京事件の証人として証言台に立ち、日本軍による殺人、略奪事件、とりわけ強姦殺害について被害者からの直接聴取、自ら行った被害調査などを基礎に多くの証言を行った。

*アーネスト・H・フォースター

 アメリカ聖公会伝道団宣教師で南京国際赤十字委員会書記。前年に結婚したばかりで、妻と一緒に貧民の医療活動にあたっていたが、日本軍の南京攻略直前に妻を上海に避難させていた。カメラが趣味で、当時の多くの写真を残し、妻への手紙なども残る。

*マイナー・S・ベイツ

 アメリカのイェール大学出身で、南京の金陵大学歴史学教授で南京安全区国際委員会委員の中心メンバーとして財務や日本大使館への抗議交渉を担当、また金陵大学緊急委員会委員長を務め、大学内の難民キャンプの責任者にもなった。知日派で、妻と子供二人は日本に避難していた。戦後の東京裁判で証言に立つが、以下、日本軍占領数日後の報告書からである。

 —— 「このような状況下での恐怖支配は言葉では表せない。温厚な日本軍将校が語る『この戦争の唯一の目的は、中国人民のために暴虐非道な中国政府と戦うことである』との言葉は吐き気がするほど不快である。このような南京でのおぞましい出来事が、日本帝国の最高の業績を象徴するものでないことは確かだ。きっと責任感のある日本の政治家や軍人たちがいるに違いない。彼らは自らの国益のために迅速かつ適切に、ここ数日で加えられた中国民の危害を取り除くだろう」

しかしこの期待は見事に裏切られ、わずかも実現することがなかったことは、以下に取り上げる日記等に記される。

*ジョージ・ローゼン

 ドイツ大使館南京駐在の政務書記官でラーベの活動を側面から支えた。彼を始めとするドイツ大使館のチームは日本軍の南京攻略を前に、一時的に長江(揚子江)に浮かぶ英国の船に避難した。その後彼は南京市内に戻ろうとしたが日本側から拒否されたため、やむなく上海に移った。1月9日になって許可されて南京に戻ったが、それは日本の友好国ドイツの大使ということで特別な措置であった。

 なお、ユダヤ人の血を引くローゼンは、1933年(昭和8年)にヒトラーが政権を打ち立ててしばらく後に中国に左遷された。その4年後、日本軍が南京に迫るなか、彼は同じドイツ人のラーベらと共に、避難民を保護する南京安全区の設立に協力した。しかしもともと親日派であった彼は、皇国日本軍の南京における行為に強い衝撃を受け、ローゼンは日本軍を殺人者として激しく憎むようになったとラーベは語っている。

*ジェームズ・H・マッカラム

 連合キリスト教伝道団宣教師であるが、鼓楼病院の事務管理マネージャーで、多数の負傷者を救急車で運ぶだけでなく、難民の食料の確保などで東奔西走の活躍をする。妻子は漢口経由で香港に避難。日記兼家族への手紙が残る。

*ジョージ・フィッチ

 米国YMCA国際委員の書記で、その顧問として南京に駐在。中国の蘇州生まれで、南京安全区国際委員会のマネージャー役を担当。妻と子供二人はアメリカに避難。翌1938年(昭和13年)2月末に南京を出てアメリカに帰国、その年末まで全米で南京事件の報告と難民救済のキャンペーンを展開する。日記を残しているが、一部は下記のミニー・ヴォートリンの日記に折り込んでいる。東京裁判でも証言に立った。

*クリスチャン・クレーガー(正しくはクレーゲル)

 ドイツの貿易会社の駐在社員。1928年(昭和3年)に貿易業務で中国に渡り、主に太原で勤務、1936年(昭和11年)に南京へ。国際赤十字社南京委員会の会計と国際委員会の財務を担当し、難民のための食料や薬品の確保などに奔走し、ラーベを支えた。

*ルイス・S・C・スマイス

 アメリカ人で社会学者として金陵大学に勤務。安全区委員書記として活動した。そして南京国際救済委員会の名で近郊農村を対象としたいわゆる南京事件の被害調査を実施した(翌1938年:昭和13年3月公表)。

*W・プラマー・ミルズ

 アメリカ・プロテスタント長老派教会の宣教師で国際安全区設立の発案者である。

*エデュアルト・シュペアリンク

 ドイツ資本の保険会社の支店長。国際委員会の警察委員を担当し、日本軍の難民に対する暴行を身体を張って阻止、大勢の命と女性を強姦から守った。彼もラーベと同様、ナチス党員であった。

*ミニー・ヴォートリン

 米国の連合キリスト教伝道団に所属し、金陵女子文理学院教務主任で南京安全区国際委員会委員。委員会の中で最も献身的に、一人でも多くの中国民の命を救うためにその身を張って捧げた女性である。

国際委員会の記録と報告書と証言について

 以下、ミニー・ヴォートリンの日記を軸にして南京安全区国際委員会のメンバーによる日記や報告を混成して載せるが、これらの報告の多くは各国大使館などの外交ルートを通じて(占領当初は通信手段も閉ざされていたが)日本軍の残虐行為の詳細が送られ、米国を中心として世界に知られることとなった。知らないのは(当時も今も)日本国内の人々だけであって、なぜなら日本の新聞社も実態は伝えないし、軍による報道統制もあったからであるが、日本人記者たちは主に軍の転戦に従って動いていても、主に軍から出される表向きの報告を報道し、目の前の日本軍の暴虐行為は報道できなかったのである。実は日本軍の非道な行動に関する報告書は、委員会によってその都度南京の日本大使館にも(「不法行為」として番号付きで)届けられたが、大使館員には「良い人」が多くても、軍に対しては何も力がなかった。挙句は上海の日本領事館にはこの真相を伝えないでほしいとこの外国人たちに頼むほどの弱腰であった。何を志して外交官となったのか、保身しか考えていない官吏が存在すること自体、国の恥であろうが、目の前で相手国の人々が次々と殺され、女性が陵辱されているのを見ているはずであるが、おそらく後年、日本に戻って聞かれた時に、自分たちは何も見ていないと答えるのであろう。そしてそれを周囲の政官人たちが何もなかったと言い立てたのであろう。このようにして戦後の現在に至るまで、いまだに我々日本人はこうした客観的事実があることを知らない。それは日本の政官人たちがこうした事実を表に出すことを厭うからである。

 なお国際委員会メンバーの中の幾人かが、戦後の極東国際軍事法廷(東京裁判)において、南京事件などの証言者となった。これは委員会のメンバーのほぼ全員が、日記にしろ報告書にしろその記録を複写(カーボン紙などで)していたから残されたことによる。これをもってして、この国際委員会のメンバーはもともと「反日親中」であると断じる偏った人たちがいる。しかしすでにこうした事実は世界中にそのまま流されていたわけで、しかも友好国のドイツにも把握されていた。こうした論者のまさに偏向的視野には呆れるものがあるが、そんなことを言う隙を一分も与えないほどに、以下に記す数々の記録は厳然と存在する。実はそのメンバーの中にはもともと親日派の人たちが何人もいて(妻子を日本に避難させていたメンバーもいる)、それでも日本軍の底知れない暴虐行為が、日本人に対して持っていた良いイメージを根底から壊すほどにあまりにもひどく、その蛮行から中国人を守るために否応なく「反日親中」となって、日々奮戦するしかなかったのである。

 いずれにしろここで息つく暇もなく南京の住民を助けるために献身的に活躍した人々が、ユダヤ人の一部の人たちを救ったシンドラーには程遠いほど名前も組織も日本で知られていないのは、調べた筆者自身も不公平と思えるほどであり、それはひとえに日本側が南京の出来事を表に出すことを抑えているからで、その日本に遍在する、というよりなぜか普遍的に存在する影の圧力は、近年製作されたシンドラーに関わる映画(下記)も、日本の配給会社が上映を断ったほどである。筆者はここに至るまでにも散々記してきたが、日本はどうしてドイツのように、過去の自国の過ちを過ちとして率直に認め、反省することすら拒否するのか、これでは日本はまた戦争に突き進むのではないかと、国際社会に疑念を抱かれても仕方がない。

国際委員会委員長ジョン・ラーベの残した日記と帰国後の不遇

 ジョン・ラーベはその南京虐殺時の状況を詳細な日記に残していた。1995年(平成7年)、歴史学者、作家であると同時に外務省に勤務し、中国で大使を務めた経験をもつエルヴィン・ヴィッケルトが、ラーベの孫、ウルズラ・ラインハルトからの連絡でラーベの日記の存在を知り、一級品の歴史的資料として世に出すことを決意、編者として全面的にかかわり、中国人を救おうと奔走したラーベを、出版にあたり「南京のシンドラー」と呼んだ。この本は2年後に日本で『南京の真実』(講談社:1997年)として翻訳、出版され(これは笠原十九司の『南京難民区の百日』の後に出版された)、2009年(平成21年)、ドイツ・フランス・中国の合作によって『ジョン・ラーベ :南京のシンドラー』という映画が公開された。(なおこの映画はその年のドイツ映画賞で7部門中4部門と最多の賞を受賞し、日本人俳優も多く出演しているものの、日本では映画配給会社が揃って上映を拒否した。2014年(平成26年)5月、「南京・史実を守る映画祭」実行委員会によって江戸東京博物館ホールで行われた上映が日本初公開となった。また、2015年(平成27年)3月には日本版DVDが発売された)。

 ラーベはこの南京事件の翌年になって、シーメンス本社から南京支社を閉鎖するから帰国せよとの命令を受け、30年住んでいた中国を2月下旬に去ることになった。現実的には日本軍が南京を占領した以上、ドイツ製品は扱わなくなるから支社は不要となって商売が成り立たなくなったわけである。そしてラーベが南京を去るという話が南京の安全区に避難している女性たちに伝わると、数千人の女性たちが残って欲しいと懇願した様子が、下記のミニー・ヴォートリンの日記(2月16日)に書かれている。どれだけ彼が難民たちの救済に身を捨てて尽力していたかがわかる。(なおラーベ自身の日記の断片もヴォートリンの日記に織り交ぜる)

 帰国後、ドイツ国内の現状を何も知らないラーベは、それまで温めていたヒトラーへの上申書を提出し、日本軍による非人道的行為を止めさせるよう働きかけることを提言した。さらにラーベは、母国ドイツが日本・イタリアとの三国同盟を予定していることを知り、これに反対する政治活動を開始する。ベルリンその他で日本軍の残虐行為を証明するフィルム(ジョン・マギーによるもの)の上映・写真の展示を行ったが、政府からはまったく相手にされないどころか、直後にゲシュタポによって逮捕勾留される。以後公での言論活動を禁止され、それを約束して釈放されたが、日記とフィルムは没収された(幸いに日記はその後返された)。そしてシーメンス社に復帰したが、冷遇されたという。

 ただ、ラーベにとっては、帰国後に逮捕されたことよりも、戦争終盤になって連合国の爆撃によってベルリンの自宅が破壊されたこと、そして戦後にナチスドイツが行なっていたユダヤ人虐殺を含めた各地での、日本軍と同等かそれ以上の残虐行為が明らかになるにつれ、ラーベはまさか自分の信奉していたナチス軍がと、さぞ愕然としたことであろう。しかも1946年(昭和21年)になってラーベはナチス党員であったという理由で逆に戦犯裁判にかけられ、友人(ローゼンと思われる)が南京での功績を証言してくれてやっと免責された。これらのことで精神的に相当落ち込んだのではないか。その後、蒋介石夫人から住居と年金の提供の申し出があったというが、ラーベは断った。4年後の1950年(昭和25年)に68歳で死去した。ラーベの墓碑はベルリンから南京に移されている。

 なお、いわゆる「南京事件」を認めようとしない人の中には、後年になって出てきたこのラーベの日記、『南京の真実』を、翻訳が不出来だから信用できないとしてウィキペディアの中で難癖をつけているから可笑しい。内容をそのまま否定できないからであろう。その出版社は講談社であり、編集者と校閲者はしっかりしていて下手な翻訳を出すわけがなく、筆者も普通に読み通したが、後でその言を知り、驚いた。その論者は多少の翻訳の良否はあっても、そこに書かれている基本的な事実関係を読み取ることもできない理解力の不足した御仁なのであろう。

【ラーベの本国への報告書】

 以下、ラーベが南京を去る前の1938年(昭和13年)2月16日にドイツ大使館に宛てた多少長い報告書(12月8日から1月13日までの出来事)の一部である。

—— 南京城内で日本軍を最初に目にしたのは13日の午後遅くであった。日本軍は当初公正にふるまい、協力的でさえあった(注:これは既述のスミス記者の報告と同じである)。国際委員会はすぐに日本軍と接触し、安全区の承認を得ようと再度試みた。これは拒否されたが、まだ日本軍は事態を静観する構えを見せていた。同日午後、国際委員会は病院として使われていた外交部庁舎を引き継いだ。そこでは病院の職員は全員逃亡し、中国人負傷者が何の介護も受けずに何日も放置されていた。同時に病室の中はどこも武器弾薬で溢れていた。国際委員会は日本軍が負傷者たちに手出しをしないようにそれらを即座に運び出すことにし、中国赤十字も直ちに協力体制を整え、夕方までに死体と多くの汚物を運び出した。そのため夜に病院を捜索した日本軍に干渉されることはなかった。

 翌14日、日本軍の態度は一変した。国際委員会は外交部病院で中国人負傷者の看護を続けることを禁じられ、立ち入り禁止とされた。そして午後、(上海からの)急な行軍で十分な休養も与えられなかった日本軍兵士たちが南京城内に放たれ、言語に絶する行動に出た。彼らは難民から奪える限りの備蓄食料、毛布、衣服、時計など、価値があると思われるものすべてを奪った。抵抗すれば、仮にも躊躇したり時間がかかったりした者たちは直ちに銃剣に見舞われた。… 外国旗を尊重する様子など一切なく、あたり構わず略奪した。一人の日本兵が中国人の苦力(クーリー)4人に略奪品を運ばせている光景も珍しくなかった。

 こうした組織的な強盗と略奪は14日間も続き、今もなお彼らから身を守ることは容易ではない。中国軍の退却の際にも、何軒かの食料品店が略奪にあい、ところどころで火の手が上がったが、城内の大部分は無傷であった。ところが日本軍が支配するに至って、城内の様相は一変した。放火が行われない日は一日たりともなく、城内南部全域と夫子廟(南部にある歓楽街)は完全に略奪され、焼き払われた。割合で言えば南京城内全体の40-50%が消失したと見ている。(注:ここまでの記述は15日までいたスミス記者の報告と重なり合う)

 脱ぎ捨てられた多数の軍服は、難民区には多くの中国兵士がいると主張する格好の口実を与えた。かれらは再三にわたって難民収容所を徹底捜索したが、まずすべての若者を無差別 に、次に何らかの理由で目についた者を全員連行した。城内で中国人が日本軍に発砲したことは一度もなかったにもかかわらず、日本軍は少なくとも5千人を射殺し、その大半は埋葬の手間を省くために川岸で実行された。こうして射殺された者のなかには、市政府や発電所、水道局で働く何の罪もない職員たちも含まれていた。交通部庁舎脇の通りには、12月26日まで、縛られて射殺された30人ものクーリーの死体が転がっていて、池のなかや寺院、江西路の端には翌年1月13日時点でなお数々の遺体が散乱していた。これとは別に悲惨だったのは、多くの少女や女性に対する虐待と強姦であった。むやみな残虐行為は幼児にまで及んだ。…

 すべてのヨーロッパ人は南京城から離れることを禁じられ、城内の移動は日本人警備兵の警護つきでのみ許された。それでも、城外に行って食料の買い出しに成功した人物がいた。彼はそれまで、日本軍は城内の人間だけに懲罰を加えたとばかり思っていたが、周辺の田舎ではもっとひどいことがおこなわれていることを目の当たりにした。中国軍は退却時に軍事的な理由から(日本軍に使わせないように)一部の村や農家を焼き払ったが(筆者注:そのついでに食料その他を略奪してもいる)、日本軍はこの放火を組織的に続行した。畑地や道路沿いに水牛、馬、ラバの死体がおびただしく倒れている。虐待、強姦、射殺は日常茶飯事である。住民は主に山に逃げ込み、そこに身を隠している。彼が一時間にわたって車を走らせている間、どんな大きな村でも人を見かけることがなかった。棲霞寺には約一万人の難民収容所ができていた。しかしここでも日本兵は野獣のごとく荒れ狂っている。中国人の話では、上海か蕪湖までの地域は似たような状況にあるという。農機具もなく、稲作に必要な水牛もいず、農民はこの春、どのように田畑を耕すのか想像がつかない。…

(『ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店より)

ウィルソン医師の日記兼手紙

 ウィルソンは妻に宛てた手紙を日記形式で残した。以下はその一部である。

 12月9日:ちょうど市の外からの大砲の音を聞きながらこの手紙を書いている。日本軍の先頭は数カ所で城壁に到達している。大使館員は私たちを乗船させようと努力して、ついに全員引き揚げていった。空襲の公式記録はこれまでとしなければならない。というのは今日の空襲は朝から夜まで続く長いものだったから(注:従って既述の115回の日本軍による南京への空襲の記録はそれ以上となる)。その空襲による大勢の死傷者を迎えて、病院は再び満杯になった。… 日本軍は国際委員会を認めないときっぱり言っている。安全区の中では、利用できるすべての建物に、約数十万の人々が群がり住んでいる。委員会は大量の米を集め、大学の礼拝堂に貯蔵している。安全区はすべて国旗や旗で区画され、これまでのところは日本軍の爆撃にさらされることはなかった。日本軍は安全区を認めないにしろ、尊重はするだろうと、私たちはいまだに希望を持っている。

 筆者注:しかしその希望は完全に裏切られることになる。ウィルソンの治療の相手は虐殺からからくも逃れて瀕死の状態の兵士や地元民であり、彼らから聞いた虐殺の実態も多く、また日本軍が住民に女性を出せと強要し、それに応えない場合はどこかに連れ去られ、おそらく殺されたとの話もあった。しかし中には同じ日本軍兵士たちに強姦されて傷ついた女性を安全な場所に逃した心優しい兵士の話もある。当然兵士のみんながみんな狼になるわけではない。ウィルソン医師は抗議文書を南京大使館の日本人書記官に手渡し、話す機会も持ったが、「書記官は報告書に目を通して、その他数々の話にも耳を傾け、同情を示すものの、軍部に対してはまったく抑制力はなく、私たちと同様に陳情することしかできないでいる」とも記している。(このウィルソンその他国際委員会メンバーの日記などは以下のミニー・ヴォートリンの日記の中に織り交ぜて記載する)

クリスチャン・クレーガーの陥落時の記録

 南京攻略の翌年1938年(昭和13年)1月23日、結婚を理由に上海に移動、そこで日本軍の暴行を報告し、世界のメディアの注目を集めた。1939年(昭和14年)1月にドイツに帰国した。先に帰国した上記のラーベがベルリンで当局に不当な扱いを受けたことを聞いたクレーガーは、南京の事件のことを表に出すのを控えた。1987年(昭和62年)に南京大虐殺が50周年を迎えたため、クレーガーは自身の記録を清書(タイプ)し直し、1988年(昭和63年)にドイツの中国大使郭豊民にコピーを送った。そのタイトルは「南京の運命を決めた日」(Days of fate in Nanking)とされるが、正式出版はされていない。以下は南京が占領されるまでの彼の記録であるが、内側から客観的に見た珍しい記録である。

 —— 11月21日、大多数のドイツ居留民がクートヴォ号に乗船し、我々が船に保管していた貴重品とともに南京を離れた。12月8日、最後の外国人たちが三檣帆船に乗船し、南京を離れた。この日、日本軍は麒麟門まで進撃し、事実上の制圧を果たした。重い砲声が初めて、遠くから都の上空を轟き渡った。12月9日、日本の爆撃機は急降下爆撃し、城外の陣地と南京の城門、城南市街に配備された軍隊を狙った。洛中はすでに火につつまれて、帯のように煙っている。空気中に硝煙が立ちこめ、大量の灰が次々と散乱してきた。

12月10日、日本軍はさらに進撃し、城門の足元まで迫っていた。機関銃の弾丸が中山東通りをびゅんびゅんと流れていく。街と南城門は日本の爆撃機の爆撃でひどく破壊された。唐生智将軍は陣地を守ることができないことを認識していたに違いない。彼の提案で国際委員会は同日、停戦の仲裁を始めた。仲裁の内容は、3日間の停戦で、中国軍はこの期間を利用して支障なく都市を撤退させ、平和的に都市を引き渡すというものだ。この条件を日本人が拒否する可能性が高いにもかかわらず、われわれは翌日、アメリカの機関を通じて漢口に電報を打った。しかし、事態が急速に進展し、この停戦の仲裁は早期に終了した。この日の夜、紫金山が燃え始めた。12月11日、南京城区と中国軍の陣地が初めて砲撃された。

 南京に残った22人のヨーロッパ人は、11月中旬に「南京安全区国際委員会」を設立した。このセーフティゾーンは、日本軍は認めなかったが、その存在に気づいていたので、わずかな砲撃しか受けず、戦闘中の死者も少なかった。12月12日の時点で、当時市内に滞留していた住民は、ほぼ全員が安全区に逃げ込んでおり、総数は約20−25万人に達していた。大規模な難民収容所では備蓄米を二カ月分積み込んだり、多額の経費を提供したりといった準備が整っていた。とにかく、この町の管理権は事実上、我々の手に委ねられている。もし我々ヨーロッパ人がここにいなかったら、南京を占領した日本軍のしたことは、もっと凶悪なものになっていたはずである。

 12月11日の昼と夜は空は真っ赤で、煙が充満していた。遠くから大砲と追撃砲の轟音と機関銃のダダという音が聞こえてきた。日曜日12日、この日は非常に穏やかで、ほとんどと言っていいほど平穏だった。日本軍の砲兵部隊が市街地を砲撃することはなくなり、戦場の上空をほんの数機が飛んでいるだけだった。中国の防空部隊も、飛行機が空を過ぎる頃に限って発砲した。午後には戦局が変わり、日本軍は西では水西門下に迫っていた。しかし、我々には詳しいことはわからなかった。

 この日、中国軍は次々と撤退を始めた。撤退はまず城南から始まり、最後に撤退したのが城西守軍であった。南京の外郭をめぐる防衛戦は布陣が乱れていたため、この撤退は史上類のない大悲劇であることが最初から決まっていた。今に至るまで、これらのこと、特に唐生智最高指揮官が追い込まれた状況を考えるたびに、私は大きな痛痒を感じる。彼はかつて何人かと一緒に南京城壁と共倒れすると主張したが、いざとなると真っ先に川(揚子江)を渡って逃げた。そのため前線の各陣地は、それぞれまったく連携が取れなくなった。予定されていた重火器も陣地に入ってこなかったため、一人の将校が城南から指令を受けに来たが、総司令部が完全に空になっていることに気づいた。撤退は命令もなく潮が引くように始まった。午後5時近くになって、撤収が始まった当初は、数少ない部隊が散発的に撤退し、隊列を組んで行軍していた。その後、他の部隊が撤退し始め、動きが乱れ、人が押し合い、秩序が乱れた。夜半になると撤退は逃亡に転じた。城外の下関(揚子江の埠頭)へ通じる挹江門がすでに数日前に半分を閉鎖して、土曜日にはすべて閉鎖され、前は砂のバリゲートを張って逃げ道を完全に塞いでいた。また交通省庁舎のすぐ前の通りにもバリケードが築かれ、道の半分が塞がれていた。撤退する激しい人波が狭い通りを埋めていた。道がさらに狭くなり、ついに人々が息を吞んだ災難が襲った。この撤退によって、中国の優秀な部隊のどれだけの命が奪われたのか、永遠に統計がとれない。

 揚子江は黙々と流れ、辛抱强くすべてを受け入れて、海に向かって流れていく。渡し船の準備ができていなかったので、下関港に残ったのはタグボート数隻、ボート、ヨット、サンパン(平底の木造船)だけで、それだけで何千人もの人々が、しかも夜のうちに渡れた。多くの人が自ら筏を作ったがその数は足りなかった。それによって翌朝、追いかけてきた日本兵の銃撃で死んだ人が何人いるだろうか。12月12日は、河川上で猛烈な爆撃を経験した。その夜の光景は忘れがたい。優秀な部隊は隊列を組んで行進することができ、一部の部隊は負傷兵とすべての武器を持っていたが、多くの部隊はすべてが乱雑であった。一部の部隊は武器を持っておらず、食料だけを持っていた。大部分の部隊は米を持っていた。街道はさまざまな物資が捨てられ、軍用機資材、自転車、弾薬・砲弾箱、小銃と機関銃、手榴弾、軍服、テント、路上のガソリンを積んだトラック、静かに草を食べロバなど想像できるものはすべてあり、もちろん動けない負傷者もいる。夜の光の下では、それらのすべては、骸骨のダンスから飛び出した死神の群れのようだった。交通部庁舎が燃え、近くにある顧祝生将軍の家も燃えた。最も悲惨なのは負傷兵で、彼らを助けに来る人はいない。彼らは、日本兵への恐怖のために体を引きずりながら街を歩いた。翌日の朝に数えられた通りでの死亡者は、どれだけの人に踏み潰されたり、車に轢かれたりして死んでいったかを示している。(注:既述の「挹江門事件」参照)

 夜明け近くになると、撤退する望みがなくなった兵士たちと、最後まで日本軍と果敢に戦った優秀な兵士たちが集まった。私自身、この泣ける場面を体験した。彼らは小さな部隊になって疲弊しきった様子で西部の山岳地帯に撤退するか、あるいは他の方向に活路を見出した。後に聞くところによると、一部の散発部隊は日本軍の封鎖線を3度も突破し、多大な犠牲を払ってようやく広徳・蕪湖の一線に逃れたという。兵士の中には、武器を捨てて、リュックサックに用意してあった庶民の服装をしている者もいた。我々は委員会の事務所の前や近くの通りにあった武器を集めさせた。235丁のライフル、約80丁のモーゼルとリボルバー、2丁の重機関銃、6丁の軽機関銃、その他多くの武器があった。集めた大量の手榴弾は池に投げ込まれた。

 撤退する中国軍の退路を断つために、日本機は12月12日に長江の対岸の浦口を空爆した。残念なことに、ドイツ人の脱出を手助けしたマセソン商会の三本マストの帆船を含め、イギリス船のほとんどが攻撃を受けた。13日、日本軍は追撃を続け、浦口まで進撃し、中国軍の最後の退路を遮断した(注:実際には日本軍の別な部隊が先に浦口に到着して待ち構え、遅れて着いた中国軍兵士の多くが殺戮された)。幸いなことに、この部隊は12日に浦口に突入することはできず、また揚子江上の日本の軍艦も砲撃を開始したのは13日からであったため、中国軍は多くの代価を払ったが撤退を完了した。

ジョン・マギーの遺したフィルム

 まず、南京国際委員会で住民を守るために活躍したマギー自身の解説がある(1938年:昭和13年2月10日付)。

 —— ここに示される映像は … 言語に絶する出来事を断片的に垣間見せるものに過ぎない。私にもっと時間とフィルムがあったなら、はるかに多くの(現場の)光景を撮ることができただろう。 … その上、カメラを壊されたり、押収されたりしないように多大な注意を払わなければならなかった。 …… 日本軍将兵の態度は、中国人は敵だから何をしても構わないと言わんばかりだった。公正のために言えば、周囲の多くの日本人は一部の日本兵のひどいふるまいを認めていた。二人の新聞記者もそれを認めた。その一人は避けがたいことと言った。ある総領事も同じ言葉を述べた。自軍に対するなんという論評だろうか。

 戦争はどの国にあっても人間の最悪の部分を引き出す。どんな国にも犯罪者やサディストがいて、戦争で邪悪な本能を発揮する。…… この記録映像は日本人への復讐心を掻き立てる意図で撮ったのではない。戦争がいかに恐ろしいものかを理解し、日本軍が仕掛けた戦争を停止するためのあらゆる合法的手段の行使に踏み切って欲しいとの思いからである。

 私は何度も日本を訪れたことがあり、日本がどんなに美しく、また品性を備えた人が大勢いるかを知っている。もし日本人がこの戦争がどのように引き起こされ、遂行されてきたかについての真実を知るなら、多くの人々は恐ろしさに震えることだろう。

 (注:このフィルムは1991年:平成3年にアメリカのロサンゼルス・フィルムセンターに所蔵されているのが確認され、同年10月6日の毎日放送の番組、「MBSナウスペシャル——フィルムは見ていた——検証南京大虐殺」で紹介された。以下はフィルムの内容を記す)

(フィルム1)

 1937年(昭和12年)の9月から10月にかけての日本軍の南京空襲による被害の映像。

(フィルム2)

 九件の被害事件が収められ、その一つに上記の李秀英が多数の傷を負い病院で手術される実際の姿がある。それとは別に、「11歳の少女は日本兵が侵入してきた時、難民区の待避壕のそばに両親と一緒にいた。そこで父親は銃剣で刺し殺され、母親は銃で射殺、少女は肘にひどい切り傷を負わされた」とある。また12月16日に上海路の路上で見た光景が撮影されている(注:その状況は以下のヴォートリンの日記の合間に記している)。

(フィルム3)

 12件の被害事件が収められている(注:その事例の描写はここに書き写すのにためらわれるものが多いが、そのうちの数例)—— 「ある琺瑯製品の店員の映像。日本兵がタバコを求めたが、すぐに差し出さなかったため日本兵は頭部を銃剣で強打し、耳の後ろの頭蓋骨に大きな穴があき、脳の一部がなくなっていた。彼は入院して10日間生きた」 / 「長江に一艘の小型の平底船を所有していた彼は、日本兵に顎を撃ち抜かれた後、ガソリンを撒かれて火を放たれた。体はひどく焼け、黒く焦げていた。鼓楼病院で二日後に亡くなった」 / 「この男性は南京の家主である。日本兵が彼に女を調達せよと強く迫った。女はいないと言うと、日本兵は彼の首を銃剣で二度刺した。だがこの男性は回復するようだ」

(フィルム4)

 九件の被害事件が収められ、この中に夏淑琴に関する映像がある。その他 —— 「1月11日、この12、3歳の少年は日本兵3名に野菜を運ぶことを強要された。その後彼らは少年の有り金全部を奪い、背中と腹部を三度銃剣で突き刺した。その二日後に鼓楼病院に運ばれた時、大腸が30cm以上突き出ていた。彼はその5日後に亡くなった」 / 「この男性は自分の母親が殺されたと聞いて、真意を確かめるために1月12日ごろ、難民区を出て、友人と日本軍が安全な場所と指定する区域に向かった。母親の遺体を見つけることはできなかったが、二人の日本兵に出くわし、そこで日本軍から受け取った難民登録証を破られ、寒い中、ズボン以外の衣服を剥ぎ取られた。そして銃剣で刺され、退避壕の中に投げ込まれた。気が付いた時には友人は見当たらず、なんとか鼓楼病院にたどり着いた。彼は六ヶ所の傷を負い、その一つは胸膜を貫通していたが、助かりそうだ」 / 「1月24日、この男性は日本兵に大学病院からほど近い川合ホテルに放火をするように強制された。彼が断ると日本兵は彼の頭を銃剣で刺した。しかしどれも重傷ではなかった」。

(以上は『ドイツ外交官の見た南京事件』より)

 筆者私見:ここでふとため息が出そうになるのは、もはやこれらの残酷な場面ではなく、これらの映像さえも、例の「なかった」派の人物たちが、これが日本兵の仕業であるという直接的な証拠がどこにあるのか、と言っていることである。これはナチスドイツのユダヤ人虐殺はなかったと言う人々と同じ偏向した思考回路にあると言っていい。日本兵がそんなことをすることはあり得ないと思うのは自由だが、自分を含めて人間に関わる出来事を綺麗事で済まそうとする論者たち当人の人間性を筆者は疑う。その論者たちがどこまで清廉潔白な心の持ち主であるのかは知らないが、仮にこの当時の戦場に放り込まれたら、どういう行動を取るのであろうか。少なくとも筆者の知る限り、この中国戦線において人一人殺さなかったのは、後述する渡辺良三しかいない(「補遺」の項参照)。ともあれ自分を常に「安全区」においてものを言って済ませている政官人や言論人たちがいること、それ自体が世の中は油断がならないということである。この戦争だけでなく、戦争において人生の途中で命を絶たれた多くの敵味方の犠牲者がいる中で、野次馬的で無責任な意見を言ってはならない。

鼓楼病院のウィルソンを中心とした想像を絶する奮戦

 南京鼓楼病院(金陵大学病院)は1892年(明治25年)にカナダ人宣教師と米国教会、また南京知名人の援助の下で創設され、とりわけ南京大虐殺期間中に市内で唯一、民間人に全面的な医療治療を提供した医療機関であった。この当時の鼓楼病院は米国人外科医のウィルソンをはじめとする医療スタッフが、人手不足、資金設備の不足、日本軍の絶え間ない妨害侵犯などの困難を克服し、南京の医療救助、衛生防疫などの重責を担い、危機的状況下の南京住民の守護者となった。

 1937年(昭和12年)8月15日、日本の航空機が初めて南京を空襲した。その後の度重なる空襲は南京城内の住民に極度の恐怖を与えた。情勢の悪化に伴い、アメリカを含む各国大使館は南京に滞在する居留民に対し、南京からの疎開を強く促した。鼓楼病院の医療スタッフの一部は金陵大学に移り、一部の中国人医師と看護師も生命の安全が保障されないことを心配して南京を離れた。

 南京陥落時、看護婦42人、看護見習い50人、アメリカ人医師4人、中国人医師19人を擁していた鼓楼病院には、アメリカ人医師2人、アメリカ人看護師1人、中国人看護師14人、見習い中国人医師3人が業務を維持していた。外科医のウィルソン、内科医のトリマー、検査室長のバウアー、看護師のハインツ、行政責任者のマッカラムといったアメリカ人が医療活動の中心にいた。その中で、ウィルソンは1938年(昭和13年)2月21日までの約4ヶ月間、南京安全区で唯一の外科医であり、ほとんどすべての時間を日本軍の機銃と銃剣による負傷者の救護に費やした(南京に残る予定だった国際委員会委員で同じ外科医のリチャード・プラディは、娘の病気で12月3日に退去を余儀なくされた)。南京陥落後、徐先青、祁剛、周紀穆、李甫などのように直ちに撤退できなかった多くの軍医官も、安全の必要性と負傷した同胞のための医療を継続するという考えに基づいて、鼓楼病院の医療チームに参加した。ウィルソンたちは日勤、夜勤、内科、外科を問わず、ほぼ24時間働き続け、数千人の中国民を死の危機から救った。

 日本軍との戦闘が激しくなった1937年(昭和12年)10月、鼓楼病院は正常な医療業務を維持するほか、国民政府衛生部と相談して、重症の負傷兵を世話するために一般患者の受診率を下げ、医療スタッフを外出させて負傷兵の治療に参加させた。10月12日、ウィルソンは大量の負傷兵の処置を終えた後も、50人ほどの兵士を病院に入院させて治療を続けた。11月23日、ウィルソンは城外にある笆斗山病院に上り、3800人の負傷した兵士の中で必要な手術を施した。夜になると彼は病院の全従業員を率いて揚子江岸の下関に行き、埠頭にいた1200人の負傷兵と避難民のために、薬がなくなるまで手当てをした。(注:この時期の負傷兵などは海軍飛行隊からの爆撃によるもの、あるいは前線から後退してきたものたちである)

 南京陥落前に鼓楼病院が診察した負傷兵は、一部はフィッシャーやスマイスらによって救急車で運ばれ、一部は軍衛生隊が応急処置をして運ばれた。12月2日、入院患者75人のうち73人が外科患者だった。12月7日午後には約100名の担架が病院に運ばれ、ウィルソンは「特別な治療が必要な重症兵士12名」を担当した。12月12日、マギー牧師は中国戦地病院を巡察、病院内が混乱し、医療スタッフが避難している現状を目撃すると、直ちに鼓楼病院の男性看護師を組織して治療に向かい、負傷兵に武装解除、軍服の脱着、国際赤十字社のマークの掲揚と貼り付けを勧告し、行動可能な負傷者を鼓楼医院に移した。13日の南京陥落後、負傷兵は潮のように病院の入り口に押し寄せた。14日と15日の二日間に収容された150人の患者のうち、内科と産科の患者はわずか10人で、残りは外科患者だった。患者の一人は爆弾で上腕と橈骨を粉砕し筋肉の3/4を切断した。警官の一人は大きな破片が首を貫き、顎の一部を裂かれていた。軍刀で首を切られ、靭帯までのすべての筋肉を切断さした理髪師、軍刀で首の片方の筋肉を切り落とされた先天的に知的弱者の女の子、3つ目の脛骨と腓骨を穿破骨折した10歳の男の子、また左腹部を撃たれ、右腹部を貫通し、10数cmの長さの小腸が傷口の外にぶら下がっている商人、日本軍につかまって医療施設で強姦され、首の筋肉が切られた女性等々。鼓楼医院は毎日過酷な働きをしていて、毎日約100人の患者を収容しなければならなかった。

 12月15日、武器を置いた警官の伍長徳は日本軍に連れて行かれて城外で集団虐殺にあったが、機銃掃射を逃れた彼の背中は銃剣で強く刺されて、その後に鼓楼病院に自力で行き、ウィルソンの手術後、病院で50数日を過ごした。16日、日本軍は梁庭芳ら5千人を下関の長江沿いに連行し集団虐殺したが、彼と友人は4時間後に川に飛び込み、日本軍に機銃掃射を受けて肩を撃たれ、脱出後鼓楼医院に駆けつけて治療を求めた。18日、南京教導総隊の兵士一人が日本軍の機関銃による集団虐殺を受けた後、足に酸性の液体をかけられてやってきた。19日には妊娠6ヶ月半の李秀英が、日本兵の強姦に抵抗した際、顔、足、腹部を刺され、息も絶え絶えになって鼓楼医院に運ばれた。「顔面18刀を切られ、足にもいくつかの刀傷があり、腹部に深い刃傷があった」という。胎児は入院3日目に流産した。彼女は40日余りの治療でようやく快方に向かった(この李秀英は戦後、南京虐殺の証言者として活動し、それを捏造とする日本の「なかった派」の「識者」に対して、名誉毀損裁判を起こして勝訴した:後述)。23日、第87師団の兵士1人が投降した後も銃で殴られ、頭部と肩にけがをして治療を受けた等々。鼓楼病院は安全区域内にあり、公然と負傷兵が治療を受けることができなかったが、ウィルソンらは毅然として「負傷兵に関するすべての面倒」を引き受け、彼らの治療に最善を尽くし、粗末な施設の軍病院に連れて行った。上記のマギー牧師は鼓楼病院においてこうした中国人負傷兵や民間人を救うシーンを数々撮影した。

 さらには、日本軍による性的暴行に遭った女性たちの問題が加わった。とりわけ南京占領後の一ヶ月間、日本軍は残酷非道な強姦、輪姦などの暴行を加えたため、女性たちは心身に深刻な傷を負い、性病と堕胎が深刻な問題となった。1938年(昭和13年)1月末から、まず鼓楼医院は大量の淋病、梅毒などの患者を治療した。柏睿徳などは医院の経験に基づいて、「日本人が城内に入ってから、性病の割合は15%から80%に上昇した」と判断した。そしてこの2月から「予想されていたことが起こり」、多くの母親が鼓楼医院に未婚の娘を連れて、日本兵強姦による救いを求めた。医療スタッフは当初中絶手術を拒否したが、信仰の枠を超えて、彼女たちに堕胎手術を施した。この手術が多いときは、婦人科では処置しきれず、外科医も中絶手術を兼ねた。

 南京陥落前から鼓楼病院は避難民に無料診療を実施していた。無料患者の診療金額は毎月赤十字社に送られ、赤十字社が鼓楼病院に治療費を支払った。患者の自己負担率は、1936年(昭和11年)の90%から1938年(昭和13年)前半には10%に低下し、1938年(昭和13年)5月には30%に戻ったが、70%もの患者を無料で治療しなければならなかった。ウィルソンたちは、日本軍の侵入を避けて病院を正常に運営するために、一日24時間交代で当直勤務をしたが、疲れ果て、1937年(昭和12年)12月26日、医師のC.S.トリマーは過労で倒れ、ウィルソンはトリマーが病気になったときには、手術を除いて一日に175人の患者の世話をするという、想像を絶するほどの仕事量をこなした。1938年(昭和13年)1月30日、ウィルソンは過労で首を動かせなくなった。一方でマッカラムは一日おきに救急車を運転して白菜、米、その他の食品を買いに行くだけでなく、救急車で赤ん坊や病人を帰宅させる仕事も請け負った。病人が治った後に餓死したり殺されたりしないように、彼は事のすべてに気を配って動いた。

【日本軍の鼓楼病院に対する乱暴狼藉と略奪】

 こうして安全区の外国人たちが多忙を極めている間に、日本軍兵士はウィルソン、トリマー、マッカラムなどの自宅の財産を略奪するのである。さらに日本軍兵士はしばしば検査を理由に鼓楼病院に嫌がらせをし、病院の財産をも強奪した。1937年(昭和12年)12月14日、銃剣をつけた30名の日本兵が鼓楼医院から6本の万年筆、180元の現金、4個の時計、2巻の病院の包帯、懐中電灯、2つの両手のカバーと1枚の毛糸の衣を奪った。12月18日夜、3人の日本兵が病院の裏口から押し入り、ハインツ嬢の腕時計を奪ったほか、懐中時計6点と万年筆3本を盗んだ。この他、様々な脅迫を受けたが、ウィルソンは少なくとも3回、危ない目にあった。一度目は12月13日に眼球摘出手術中に爆弾の破片が手術室の窓を破り、手術室に落ちた。二度目は12月18日、彼は看護婦を強姦しようとした日本兵を追い払った時、激怒した日本兵が彼に拳銃を向けた。三度目は21日正午、病院の女子寮から出るよう日本兵に要求したところを拳銃で脅され、両者が街で出会ったとき、この日本兵は再び小銃弾を装填した。これとは別に12月19日、トリマーとマッカラムが病院に駆け込んだ日本兵を引き止めようとしたところ、発砲されたが、幸い弾丸はマッカラムを避けて飛んだ。1938年(昭和13年)1月27日午後、マッカラムが病院裏の寝室に侵入した二人の日本兵を連れて出て行った時、一人の日本兵が彼の顎に銃剣を突き付けた。幸いにも彼は首の傷が一つで助かった。

 こうした状況の中、鼓楼病院の全ての医療スタッフは、アメリカ人であろうと中国人であろうと勇猛果敢な精神で、難民のために生命を捧げる意志を持ち続けた。彼らは重傷を負った難民に生きる希望を与え、危難の中で南京の民の守護者となった。ラーベは鼓楼医院が安全区全体の医療の仕事のために重大な貢献をしたことを絶賛した。フォースターは、鼓楼病院の医療人の危険を恐れず、職務に忠実な勇敢な行為は、他人のために自分を犠牲にする意味を人々に理解させたと賞賛した。抗日戦争勝利後、中国政府はウィルソンの中国人民に対する人道主義的救済を顕彰するため、彼に「襟授景星勲章」を授与した。戦争で引き裂かれた民衆の血と涙の中で、彼らの決然とした勇敢さと人道主義の精神は、中国人ひいては人類の記憶の中に永遠に残るだろうと讃えた。

(中国のサイト「史海探跡」張慧卿:江蘇省社会科学院歴史研究所 2017年、訳文筆者)

ルイス・スマイスの調査記録

 南京陥落時に南京防衛軍の多くは日本軍の前線の正面を突破し、城外の南方へ脱出した。これに対しても日本軍は警戒心を強め、南京外囲防御陣地線内の広範な区域においても、 残敵兵殲滅のための掃蕩作戦を翌年に渡って長期に実施した。そのため近郊農村は繰り返し、殺害・強姦・放火・掠奪の被害をうけることになった。

 これに関してルイス・スマイスは、南京攻略から約100日間にわたっての被害者数を割り出した。これは主に民間人=農民の被害であるが、まず、「暴行死」(虐殺)として江寧県が9160人、句容県が8530人、溧水県が2100人、江浦県が4990人、六合県(半分のみ)が2090人で、合計2万6870人となっている。これは後の日中共同研究において中国側も具体的に指摘していることであるが、 南京城内の被害者数を上回るという。またスマイス調査で挙げられている暴行死者数は、基本的に「戦闘死、戦闘行為の巻き添え」を除外していて、行方不明者(日本軍に連行されたまま戻って来なかった)を含めるとしている。そのうち女性は4380人とされ、その85%が45歳以上であった。これは中国の農民が経験上高齢の女性には危害を加えないだろうと家や家財を守るために留守番役で残したというが、日本軍は遠慮がなかった。(2006年:平成18年の南京師範大学の調査では、江寧県の正確な名前が判明した死亡者が1343人、不明者が6018人で、計7361人が死亡としているが、これは70年後の調査で、スマイスの調査がどれだけ緻密であったかがわかる。また溧水県は11月29日の激しい空爆により一日で1200人が犠牲となっている事実があり、残りの900人はその後の蛮行によるものと思われる)

 ただこの数字は地域を区切ってサンプルを抽出して推し量ったものであるため、歴史家たちがとらえ直した結果、戦闘による巻き添えを除いて、郊外の農民の犠牲者はその半分程度ではないかとされるが、それ自体があくまで紙の上での推定で、実地検分を行なった上でのスマイスの数字は基本的に尊重すべきである。それに江寧県以外は、日本軍が南京に向かう途上の村々であり、いわゆる「南京事件」以前の11月からの調査となっている。これは筆者も南京事件以前の、日本軍が上海戦から南京に転戦した11月以降の南京までの途上の都市や村々の犠牲の状況を既述していて、そこには全く無視できない数々の「事件」が潜んでいることがわかる。スマイスの調査はそのことも抑えていて、むしろ世論的には南京市街区の出来事ばかりに目が行き、その取り上げ方が偏っていることに筆者は危惧を覚える。

 またここにスマイスの調査を裏付ける報告がある。崇善堂という膨大な死体の埋葬を請け負った慈善団体が、南京郊外の遺体が物語る悲惨な様相を以下のように記している。(他にも崇善堂以上に活動した紅卍字会があり、この後に何度か出てきて、南京全体の虐殺数の推計に大きな役割をしている)

 —— 郊外の民衆で未だ他所に避難できず、城内の難民区にも入れない者は、昼間は一ヶ所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本軍に見つかると多くが被害に遭う。背後から撃たれて倒れていたり、横臥した姿で刀で突かれて血を流していたり、口や鼻から血を出し顔面が青くなり脚が折れていたり、女性で髪が顔にかかり乳房が割れて胸を刺されズボンを着けていない者、また頭をもたげ目をむき口を開けて歯を食いしばり手足を突っ張りズボンの破れている者は乱暴されるのを拒んで死んだ者である。惨たるかな、惨たるかな。

 毎日夜になると集団をなして遠方に逃げる、声が聞こえると草むらや田の畔に隠れる。一番危険なのは夜が明けてから敵が高所から遠くを見渡すときで、逃げるところを見つかるとすぐに弾丸が飛んでくる。中に女性がいると止まれと合図して追ってきて野獣の仕業をなす。言うことを聞かないと殺されるし、聞いても輪姦されて殺される。立ち止まらずに行こうとする者には銃弾が浴びせられ、死者がますます増える。それゆえ農村部の遭難者は都市部よりも多い。

(笠原十九司『南京事件』より)

 また、下記のミニー・ヴォートリンの日記でしばしば記載される、南京城内で拉致されたまま戻らず、殺害された可能性のある市民は約4200人とスマイスは結論している。そして市部調査の暴行死は2400人となっている。なお、このスマイスの調査資料(だけではないが)を不正確だとして、でっち上げ的に評する人たちがいるが(スマイスの数はむしろ少ないぐらいである)、自分で現地に行って同様に調べることもせず、あるいは広範囲に裏付けを取るために内外の資料を精査して見直す努力もせず、地道な調査を重ねて来た人々の努力をないがしろにするそのような輩の思慮の浅さが筆者には理解できない。この種の人間というのは、自分の人生においても表面を飾り立て、言い訳ばかりする人生を送っているのであろう。こうした人間こそ権威に弱く、その権威の前では思考力を持たない差別主義者というしかない。つまりこの種の人間が逆に他人の「偏向」を言い立てる、まさに偏向論者に違いない。

程瑞芳の日記

 「外国人」ではないが、ミニー・ヴォートリンの属した金陵女子文理学院の中国人教師で、助手としてヴォートリンを支えた程瑞芳が書いていた日記が、2001年末に学院の中で発見され、日本では『戦場の街南京―松村伍長の手紙と程瑞芳日記』 (松岡 環:社会評論社・2009年)で紹介された。ただしこの本の中で引用されていた日記は12月末までであったので、1月以降は『程瑞芳日記』(南京出版社2016年発行・中英日版)を筆者が中国より取り寄せ、以下まとめてヴォートリンの日記の中に抜き書きして挟んでいる。

 程瑞芳は湖北省武昌市出身で1875年(明治8年)生まれ、キリスト教を信仰し1894年(明治27年)に武昌看護学校を卒業し、卒業後は地元のメソジスト婦人科病院で看護師として働き、1922年(大正11年)に聖ヒリダ小学校の校長を務め、1924年(大正13年)に金陵女子大学(現・南京師範大学)に寮監として赴任した。1937年(昭和12年)8月15日、日本軍が南京を空爆したとき、金陵女子大学学長の呉鉄芳は緊急委員会を設立、程瑞芳もその委員となった。 12月、彼女はすでに62歳になっていたが、学校とともに西へ疎開することをせず、金陵女子大学難民センターを設立し、多数の難民を収容しつつヴォートリンとともに奮戦した。時には日本軍に対し希望的観測の多いヴォートリンを叱咤することも再三あった。1946年(昭和21年)4月、程は南京虐殺の証人として来日、1969年(昭和44年)、94歳で死去。それまで日記を公開しなかった理由はわからないが、まだ時代がそれを許さなかったのであろう。実際に多くの証言が表に出されるのが主に50年以上後の1990年(平成2年)以降である。

難民で溢れた郊外の寺院とセメント工場を安全区にした欧州人二人の救済活動

 南京安全区を守った外国人委員会のメンバーの他に、郊外でも二人の外国人が多くの住民たちを日本軍の残虐行為から救った話であり、以下の本文の前に挿入しておく。

 日本軍は南京城内ばかりでなく、城外つまり郊外の各所にも駐屯し、村周辺の村落で暴虐行為に及んだ。村人たちは家を捨てて安全と思われる地域に逃げたが、その一つは南京市街から東北20kmの揚子江南岸にある棲霞(栖霞)山の寺院であった(2万4000人が避難したとされる)。しかしそこにも日本兵たちは食料その他の略奪や強姦目的で女性探しに行った。1月だけの迫害内容は以下の通りである。(1月15日付のヴォートリンの日記にも一部記している)

  —— 日本兵がトラック一台にのってやってきて、牝牛を九頭盗み、中国人に屠殺させた。ひまつぶしに近所で数軒の家を焼いた / 河岸から多くの日本兵が来て、ロバ一頭と寝具18枚を盗んだ / 日本兵が一人の婦人と14歳の少女を強姦し、寝具を5枚奪った / 婦人6人が日本兵に銃剣で脅され強姦された / 婦人4人が強姦され、酔っぱらった兵隊が寺をかけまわって、小銃を乱射し、多くの者を負傷させた / 多くの兵隊が食糧を大量に没収し、母と娘を強姦 / 多くの日本兵が若い女10人を寺で強姦した。一人の泥酔した日本兵が酒と女を出せと要求した。酒は出したが、女は出さなかった。 彼は立腹して銃を乱射しはじめ、少年2人を殺し、また道ばたの一軒の家で70歳の老農婦を殺し、ロバを一頭盗み、家に火をつけた / ロバが三頭盗まれた / 日本兵が寺中を暴れまわり、戸や窓や家具をこわし、ロバを七頭盗んでひきあげた ……

 なお、1月20日頃、日本軍の別の分遣隊が到着して棲霞山鉄道駅の警備を交替した。新しい中尉がきてから事態は改善され、寺にも日本の警備兵が一人ついて落ち着いたという。南京市街でも同様な動きはあったが、これまでに記したようにそれだけで日本兵の規律は改善されていない。

【ベルンハルト・シンドバーグとカール・ギュンター】

 こうした状況の中で、前年12月の日本軍の南京占領直前にこの寺から数km離れたところにデンマークのFLスミス社がセメント工場を立ち上げたばかりだった。その警備員として働いていたベルンハルト・シンドバーグは、10代前半で退学して海外へ行き、船でさまざまな仕事に就き、その後フランスの外国人部隊に入隊したりして、中国には1934年(昭和9年)にたどり着いた。中国ではデンマーク製のライフルの実演を行っていたが、その後、イギリスの外国特派員フィリップ・スティーブンスの運転手となった。しかしスティーブンスは1937年(昭和12年)11月、日本軍の上海侵攻を取材中、機関銃で殺され、その結果このセメント工場に雇用された(当時26歳)。もう一人、1903年(明治36年)中国の唐山に生まれでドイツ人のカール・ギュンターが、12月の南京陥落の前に、江南セメント工場で工場長代理を務めていた。

 上記の棲霞山寺との連携は不明ながら、周辺の住民の苦境を見て、二人は工場の敷地を難民キャンプとして開放することにした。6千−1万人の住民をかくまい、診療所も作ったという。後述のヴォートリンの日記に織り込んでいるクリスチャン・クレーガーの記録では、12月28日に食料の調達に出た彼が、この二人の作った難民キャンプ(難民区)を見て交流している。彼はこの時点で約4千人としているが、その後も増えていったのであろう。この敷地の各所にデンマークとドイツの国旗を掲げ(ギュンターが王という中国人に作ってもらったが、ドイツとデンマークはこの時代日本の友好国であった)、日本兵の侵入を防いで、中国民を守った。のちに提供された写真を見ると、日本の縄文時代にありそうな茅葺き屋根の三角形の小屋(アンペラ小屋とされる)が敷地内に並んでいて、それでも南京市街の安全区の学校等の建物で薪もなく暖房も効かない中よりも住み心地はよかったかもしれない。中国では、この両氏に助けられた市民は約2万人に上るとしている。あるいは4.5万人という数字もあるが、棲霞山寺の2.4万人を合わせるとほぼその数字になる。

 上記の寺院の1月だけの迫害内容は、寺の住職が日本兵の蛮行を外部に訴えるために書いた書簡を、シンドバーグがドイツ語に翻訳したとの記載があるが、別な資料にはギュンターともあり、ドイツ語なのでおそらくギュンターの翻訳であろう。書簡の表題は『人道のために関係各位に訴える』となっている。セメント工場の難民区は1938年(昭和13年)6月に解散し、ギュンターはその後、江南セメント工場の化学アナリストに転身、その間に結婚し、夫妻は1950年(昭和25年)にドイツに戻り、ギュンターはドイツで博士号を取得している。一方でシンドバーグはその後アメリカに渡り、第2次世界大戦ではアメリカの商船隊に入隊、その後はカリフォルニアに住み、1983年(昭和58年)に亡くなった。南京での悲劇についてはほとんど語らなかったという。第二次大戦の中の似たような例(ナチスからユダヤ人を救う尽力をした人たち)でも、当事者が積極的に語る人はまずいない。それほどに戦争の現場は人の心に大きな禍根を残し、例えばやり方によってはもっと多くの人を救えたのではないかという悔恨が、そうした救済活動をした人々をむしろ苦しめていた、だから自分から語る気にもなれなかったということである。

 戦後の数十年以上後、おそらく中国内での体制が落ち着いてからギュンターとシンドバーグの功績が称揚され、南京市対外友好協会は2002年(平成14年)2月、故カール・ギュンター博士の夫人と息子を、南京に招待することを決め、その際夫人から多くの貴重な写真と資料を寄贈された。 その後ドイツ・ハンブルクでも写真展「ハンブルクの息子・南京の善人」が開催され、カール・ギュンターとともにジョン・ラーベやクリスチャン・クレーガーが国際人道主義援助の事跡として紹介された。そして無名だったシンドバーグも地元デンマークでも脚光を浴び、その結果2014年(平成26年)4月、デンマーク女王が訪中して南京大虐殺記念館を見学、シンドバーグ氏にちなんだ黄色いバラが送られた。さらに南京市はシンドバーグの故郷であるオーフス市にシンドバーグの銅像を送り、彼の死後36年目の2019年(令和元年)8月31日に除幕式が行われ、デンマーク女王も出席した。なぜかこれらは日本では報道されていない。

(以上はほぼ2000年(平成12年)代に入り明らかになったことで、まだ確かな文献はなく(ウィキペディアも正確ではない)、ネット上に見いだせる各種記事からつなぎ合わせ編集した)

 なお、以上の事実は、以下のミニー・ヴォートリンの日記を中心とした記述の中でほぼ裏付けされている。

ミニー・ヴォートリンの経歴と南京安全区での活動と覚悟

 ヴォートリンは貧しい家庭に生まれ、6歳の時に母親が急逝したため、家事をこなしながら弟の面倒をみ、畑仕事を手伝い、苦学しながら短期大学を卒業、中学校の教師となった。数年後にイリノイ大学教育学部に入学、そこでキリスト教の海外伝道活動に強い関心を持ち、26歳で同校を卒業すると同時に伝道団に加入、1912年(明治45年)に中国安徽省に派遣され、その地にキリスト教女子中学校を創設した。1918年(大正7年)、休暇制度により帰米、コロンビア大学大学院に入学したが、翌年、南京の金陵女子文理学院の初代学長マチルダ・サーストンに請われ、(婚約していたがそれを延期し)同大学の教師・教務主任となった。そこから貧困家庭の女性を教育するかたわら、大学内に診療所を開設して貧しい住民を無償で治療するなど、社会活動にも力を入れていた。

 日本軍が南京へ空爆をしながら侵攻してくると、南京安全区の設営に関わり、12月8日から同区内にあった金陵女子文理学院で婦女子と子供の受け入れを開始、まず中国軍の作戦行動で自宅を焼損・破壊された女性たちだけで1000人近くに達した。しかし9日早朝、日本軍の南京城攻撃が始まると城内の婦女子だけでその日までに2750人収容予定がほぼ一杯になった。13日未明に中国軍が敗走し、日本軍が城内に入り込んでくると、統率されていない日本兵の掠奪や住民への暴行・強姦の被害が次々に報告されるようになり、ヴォートリンはそのたびに現場に駆け付けて日本兵を退去させるなどに奔走した。

 笠原十九司がこのヴォートリンの遺した日記を彼女の出身大学で見つけ出し、『南京事件の日々』(大月書店:1999年)とのタイトルで一冊の本にした。彼女はある時期まで毎日欠かさず書いていて、これほどに現地の大勢の人々の苦しみと悲しみを自分のこととして背負いこんで生きた女性はごく稀であろうと思われ、これまで広く知られていなかったことが不思議なほどの献身的な女性の記録である。ただしこれはあくまでヴォートリン一人が自分の勤める女子学院を中心した行動範囲で見た記録であり、南京全体で起きた出来事の一部でしかない。

 ちなみに日本軍が南京攻略をしてくる際に、アメリカ大使館のホール・パクストンが、城内が混乱し、外国人の生命が危険な状況に陥ったときには、長江の停泊しているアメリカ砲艦パナイ号(12月12日、日本軍機によって攻撃され沈没した)に避難するように通知したときのヴォートリンの答えは、「わたしはどんなことがあっても金陵女学院の仲間と隣保館の仲間を見放すことはできません。彼女たちはわたしを頼りにしているし、状況によって彼女たちがわたしを助けてくれるだろうし、状況によってはわたしが彼女たちを助けることができるのです」であった。実際には女学生たちだけでなく、それをはるかに超えるほどの人々を助けることになった。最終的に、南京にずっと留まることを決意した外国人女性は、他に鼓楼病院(南京大学付属病院)に勤めるイーヴァ・ハインズとグレイス・バウアーの三人だけとなった。

 以下は一日平均原稿用紙三枚(1200字)程度のヴォートリンの日記からの抜き書きである。多少長くなるが、さらにその日記の間に国際安全区委員会のメンバーの日記等を挿入した。それは同じ笠原十九司の『南京難民区の百日』と、石田勇治編集翻訳の『ドイツ外交官の見た南京事件』、そしてラーベの日記『南京の真実』、『南京事件資料集ーアメリカ関係資料編』などからであるが、もともとこのメンバーたちの日記も1日単位で見ても長く、その理由は日々の事件、出来事が多すぎるからである。

 前置きとして、国際委員会で避難民を守る外国人たちは、南京城内の安全区とした区域に避難させた住民たちを守る立場にいて、主に南京城外の揚子江岸で行われた捕虜等への大虐殺を直接見る機会はなく、ただ安全区から多くの兵民(安全区に逃げ込んだ兵士と一般の男性)が引き出され、城外の虐殺現場へと連行される兵民の姿を目撃している。またその虐殺から運よく逃れてきた住民も保護し、彼らからその殺戮現場の報告も受けていた。さらに城内における物品の略奪や女性への陵辱行為は直接見る場面が多くあり、それを阻止しようとする彼らに対し、日本兵は銃剣を向けることもしばしばあった。以下において民間人に対する虐殺と女性への強姦、ひいては略奪が表裏一体であることがわかる。これらのメンバーの記録によって、日本軍の果てしない暴虐の実態は誰の目にも明らかであるが、日本の政官人や一部の言論人たちはこうした資料をあえて無視し、また調べもせず、そのためもあって我々日本人はその実態を知らないままで来ている。

ヴォートリンの日記を中心とした南京城内の詳細な被害記録

—— 安全区国際委員会メンバーその他の記録を合わせつつ ——

 ヴォートリンの日記は南京への渡洋爆撃が始まる頃の1937年(昭和12年)8月12日から書き始められ、米国の連合キリスト教伝道団関係者と金陵女学院の理事会・後援会のメンバーにあてた報告書として作成された。以下、ヴォートリンの日記の分は名前を省略し、日本軍が南京制圧した日から始める。

日本軍の侵入から始まった暴虐事件の数々

 12月13日:(日本軍が午前4時に光華門から侵入したそうだ)。激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。日本軍が退却して行く中国軍を銃撃しているのだろうと、夢うつつに考えていた。校門のところに行ってみると、門衛が言うには退却して行く中国軍兵士たちが民間人の平服をせがむのもいて、現にキャンパス内にはたくさんの軍服が落ちていた。昼前にサール・ベイツがやってきて、交通部と鉄道部の建物が逃亡前に中国軍によって爆破されたと知らせてくれた。今夜は電気・水道・電話・電信等のすべてが止まっている。安全区には武装を解いた兵士が大勢いる。

 同日:(ロバート・ウィルソン外科医の戦後の証言より) —— 日本の兵隊が12月13日に入城して … 3人の日本の兵隊が銃剣を持って庭に立っていた。我々は(無視して)その門を押し開いて中に入ったところ、二人の日本兵が二人の女を強姦せんとしつつあった。

 同日のウィルソンの日記より:南京に残留している人々のうち15万から20万人は、難民区(安全区)に群がった。国際委員会は彼らに対して膨大な仕事をなしつつあり、今や彼らの努力によって、大勢の命を救っていることは疑いない。最後の瞬間にたくさんの中国兵が、軍服を投げ捨てて民間人の衣服を奪い取り、安全区に流入した。彼らを取り扱うことは、それ自体大変な仕事であった。さらに重大なことは、日本人は騙されず、彼らを数百人ごと駆り立てて、撃ち殺し、彼らの死体を手軽に間に合わせの防空壕に投げ込んだ。

 同日:(ジョージ・フィッチの日記より)午前11時、安全地区にはじめて日本軍の侵入が知らされた。私は委員会のメンバーと彼らに会いに行ったが、それは小さな分遣隊であった。彼らは私たちに何の敵意も示さなかったが、その直後に日本軍を見て逃げようとする難民20人を射殺した。1932年(昭和12年)の上海同様に(注:フィッチは当時上海にいた)、逃げるものは射殺あるいは銃剣で突き殺さねばならぬというのが規則であるように思われた。一方で城外に逃げることができずに保護を求めて安全区にきた兵士たちを武装解除するのに本部で忙殺された。しかしそれはむなしい作業で、その後彼らは拉致されてしまい、殺されたようだった。

 同日:(ジョン・ラーベの日記から) —— この日のうちに武器を持たずに安全区に庇護を求めてきたこの他の数千の人々は、日本人によって難民の群れから分けだされた。… 何千人もの人がこうして機関銃射撃または手榴弾で殺され、恐るべき光景が展開された。とりわけ、見つけだされた元兵士の数が日本軍にとってまだ少なすぎると思われたので、まったく無実である数千の民間人も同時に射殺された。しかも処刑のやり方も残忍で、処刑されたもののうち少なからぬ者がただ射たれて気絶しただけだったのに、その後屍体と同様にガソリンを振りかけられ、生きたまま焼かれた。そのうち数人が鼓楼病院に運びこまれて、死亡する前に残忍な処刑について語った。われわれはこれらの犠牲者を映画で撮影し(注:おそらくマギーによるもの)、記録として保存した。射殺は揚子江の岸か、市内の空き地、または多くの小さな沼で行われた。

 同日:(クリスチャン・クレーガーの記録より) —— この日我々は無人の倉庫からトラックで米を運んでいたが、一部の倉庫はすでに開けられていて、大勢の日本兵たちが中に入ってきて米を持ち出していた。安全区内の避難民の食糧事情が改善されることを期待していたが、期待は裏切られた。昼頃、街は静まりかえっていた。中国人は家に隠れて日本人を待っていたが、日本人はすぐには現れなかった。日本人との最初の接触は穏やかで特別だった。ある日本のパトロール隊が上海路の米国大使館付近で車に乗っていたロシア人を止め、何の障害もなく走行を許可した。止められたのはもう一台のバスで、乗客は降りて武器を点検された後、出発することに許可を得なければならなかった。委員会はすぐに日本人と連絡を取ったが、日本人は安全地帯を認めることを拒否した。安全地帯には中国兵が至るところにいるとの理由だった。明らかに、彼らはまだ中国人を信じていない。外交部の庁舎は病院とされていて、私がその担当になった。中はひどい状況で、すべての医療スタッフは逃げていって、負傷者たちはそこに置き去りにされ、何の介護も受けられずにいたが、中国赤十字会は男女の看護要員を派遣しこれらの負傷者の面倒をみた。私が日本軍と初めて接触したのは、深夜12時半の外交部であったが、ある日本軍将校は病院を簡単に視察し、非常に協力的な態度を見せた。日本の先遣隊の規律が良好なような印象を与えたが、残念ながらこの印象はすぐに消された。

日本軍による安全区内の査察と狩り出し

 12月14日:昨夜、日本兵によって無理やりに家から追い出された人の話や、さらには今朝、日本兵の略奪の話(苗さんの家はアメリカ国旗が掲げられ、大使館の公告が掲示されているにもかかわらず)も耳に入ってくる。… ひどい目に遭わされた少女たちの話も入ってきているが、確かめる機会がまだない。… (城内の)貧しい人々や一部の裕福な人の家にも日本国旗がたくさん翻っていた。彼らはそれを作って掲げていれば、少しはましな扱いをしてくれるだろうと考えてそうしたのだ(注:日本軍側の報告に歓迎の旗が掲げられたとあるのはその意味であった。逆に日本人であればそこまではしないが、古代より戦乱に慣れた中国人の知恵なのかもしれない)。朝、学院の使い走りをさせた魏はまだ戻ってこない。日本軍に連行されたのではないか。

 同日:(ジョージ・フィッチの日記より) —— 日本軍、つまり戦車や大砲や歩兵やトラックが町になだれこんできた。恐怖時代が始まった。… 日本軍の捜索隊(注:日本軍の用語では掃蕩隊)が本部近くのキャンプから、中国軍の制服の山を見つけだし、近辺の者、1300人が銃殺のために逮捕された。 髪の毛が短いとか、船こぎや人力車引きが仕事のため手にタコがあるとか、ほかに力仕事をした形跡がある者は、身分を証明するこのような傷によって、 死ぬ保証を得ることになった。日本軍の捜索隊によって、 安全区のこれらの男たちが妻から引き裂かれる光景は痛ましかった。 キャンプ(安全区)では、 夫や息子(すべて民間人)を連れ去られた婦人は千人にのぼった。… 難民区内における日本兵の暴行事件について、安全区委員会はその記録を作成し、中支那方面軍の司令部や日本大使館員宛に提出しては、その取締を要求した。14日の夜、日本兵の中国人住宅への侵入や婦女の強姦および連行事件が相次いで起こった。

(同じフィッチの同日の出来事に関する後日の投稿記事) —— 日本軍の連隊長が安全区委員会事務所を訪れて、安全区に逃げ込んだ六千の元中国兵の身分と居場所を教えるように要求したが、これは拒否された。そこで日本軍の捜索隊が本部近くのキャンプから、中国の制服の山を見つけだし、近辺の者1300人が銃殺のため逮捕された。安全区委員会が抗議すると、彼らはあくまで日本軍の労働要員にすぎないといわれたので、今度は日本大使館に抗議に行った(日本軍と同時に南京に入城していた)。そしてその帰り、暗くなりがけに、この使いの者は1300人が縄につながれているのを目撃した。みな帽子もかぶらず、毛布だの他の所持品もなにひとつ持っていなかった。彼らを待ちうけているものは明白であった。声ひとつたてる者もなく、全員が行進させられ、行った先の河岸で処刑された。

 同日:(ジョン・マギーの日記から) —— 14日の夜、私は通りを連行されていく男の集団を2回見た。いずれも4人ごとに縛られていた。一人の男はスボンを履いていなかった。それは大集団だった。おそらく5千から6千はいたに違いない。この数日間、市内の各地でこうした男子(注:これらの集団以外に)が虐殺されている機関銃の音が聞こえた。どれだけ多くの人が虐殺されたのかを確認する方法はないが、私の推測では往来で殺害された者を含めて、2万人はいるように思う。

 同日:(クレーガーの記録より) —— ここでやることはまず武器を整理することだった。いたるところに兵器があって、しかもセットになっている。日本人は言いがかりをつけるのが好きで、武器を理由に負傷者を処刑する可能性が高い。午後になってようやく、見るにたえないほどの穢れが取り除かれた。もちろん、まず死体が取り除かれる。負傷者たちは最初の食事を済ませた。しかし、医療の状況は相変わらず悪かったので、占領後には好転することを願っていた。火曜日の午前中には日本人が町を占領し夜には何隊かのパトロール隊がやってきた。私はまず、高級将校を連れて車であちこちを回ったが、彼は時間に合わせて正確に進行を確認しろと命令されたらしい。中央大学(後に病院になった)からトラック2台分の梱包資材や板材、薬品などを運ぶことを許可してくれた。中央大学でも人々の協力があり、困難はなかった。しかし、この日の午後になって、日本人の態度は一変した。4人の医師が説得してくれたが、そこは私の立ち入りが禁止された。その間に、都市は完全に日本人の手に握られ、日本人はすべての公共の建物を占領し、すべての場所で私たちの立ち入りを禁止した。私たちが大きな難民収容所を作った場所でさえ例外ではなかった。最高司令官の松井が到着したら状況が変わると言われた。しかしながら今でも病院側の状況は少しも好転していない。

 日本人は、死者を埋葬してもいいし、負傷者の世話は軍がすると言ってくれた。今のところ、我々が手に入れることができるのは米だけで、介護士や医師、医療物資は一切入れない。収容先の病院で判明したところによると、死亡率はかなり高く、軽い負傷者だけが生きていく希望を持っていたが、その前に後に日本人に銃殺されないことが前提になっていた。

 14日から情勢は急激に悪化した。日本の戦闘部隊の進軍が早すぎて補給不足になっていたので、街中の人々は彼らの言いなりとなった。彼らのしたこと、特に最も貧しくて罪のない人々にしたことは、常人の想像をはるかに超えていた。彼らは難民(貧者の中で最も貧しい者)の米を奪い、取れるだけの食糧の備蓄はすべて奪い、寝るための布団や衣類、時計や腕輪など、奪い去るに値するものはすべて奪った。ちょっとでもためらったりすると、たちまち銃剣で刺され、何人もの人が、何もわからないうちに、野蛮な行為の下で惨殺され、何千人もの人が殺された。すでに野獣と化した兵士たちは、難民キャンプや避難民でいっぱいの家に次々と侵入し、先に略奪した兵士たちが見向きもしないものまで見逃さなかった。今日の南京では、日本兵に壊され、乱暴に捜索され、略奪されなかった家はほとんど見当たらない。施錠されていたドアや戸棚が無理やり開けられ、中身がひっくり返され、物が奪われたり壊されたりした。日本人は最初から我々外国の国旗を尊重しないし、(同盟国)ドイツの国旗に対しても同じだった。

(注:日本軍の「進軍が早すぎて補給不足になっていた」というのは常識からくる誤った見方で、既述のようにこの日本軍の南京への進軍はもとより補給を前提としない現地調達=徴発の方針であった。したがって、余計に兵士たちの乱暴狼藉が加速された)

 これに関連したクレーガーの記述である —— 中国側の報道によると、日本人は上海から南京、蕪湖に至るまで、まったく同じ方法で農村地域を破壊し、蹂躙した。農民は農具をなくし、米作りに欠かせない水牛を(食料にされて)なくし、毎日の農作業に欠かせない生活の平穏をなくした。これがなくなったら、農民がどうやって耕作をするか、想像もつかない。とくに平穏な日々は、いまのところ保障されていない。状況が根本的に好転しなければ、飢饉が発生する可能性が高い。このような状況は、三十年戦争(1618年から1648年:元和3年~生保3年にヨーロッパで起こった戦争で、飢饉と疫病がもたらされた)を連想させるが、それが今の二十世紀だけでなく、アジアの国々の間で起こったとは考えられない。

続々と安全区にやってくる避難民

 12月15日:昼食の時間を除いて朝8時30分から夕方6時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。城内では昨夜は恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。若い人を収容する余地を残しておくために高齢の女性にはできれば自宅にいるようにお願いしているが、今夜はきっと3000人以上の人が校内にいると思う。… 昨日と今日、日本軍は広い範囲で略奪を行い、学校を焼き払い、市民を殺害し、女性を強姦している。国際委員会は武装解除された1000人の中国兵の助命を嘆願したが、それでも彼らは連れ去られ、たぶん今頃はすでに射殺されているか、銃剣で刺殺されているのだろう。

 同日:(ウィルソン医師の日記から) —— 病院は日ごとに忙しくなってきている。今日は30人の入院があり、退院は一人もいない。患者を退院させられないのは、彼らは行く所がないからだ。150人のうち10人ほどが内科と産科の患者で、残りは外科だ。最初の患者は警官で、腕に爆撃を受けて … 切断する以外に方法はなかった。二番目の患者は気の毒だった。大きな金属片が頰に入り、下顎が潰れていた。 … もう一人は耳下腺に榴散弾の破片が刺さり、顔の神経を切断していた。 … 一人は横腹に弾丸が入っていた。弾丸は胃を貫通していた。 … 別の一人は四日前に片足を吹き飛ばされ、足の下部で切断した。 … 床屋が日本兵に銃剣で刺され、脊髄菅に達する首の後ろの筋肉をすべて切断され、ショック状態にあり、おそらく死亡するだろう。彼はその時床屋にいた8人のうち唯一の生存者だった。別に負傷した二人は7人いた道路清掃人のうちの生存者だ。一般市民への殺害はぞっとするほどだ。強姦や想像を絶する蛮行について書こうとすればきりがない。

日本兵の安全区内建物侵入と止まらない暴虐行為

 12月16日:金陵女子文理学院に対する公式の査察が行われた。徹底した中国兵(便衣兵)狩りである。100人を超す日本兵がやってきて避難民のいるすべての建物内を捜索するのに案内したが、日本兵は二人の使用人の腕をつかんで兵隊だろうと連行しようとするのを、苦力(クーリー)だと言って引き止め、殺される運命を免れた。… しかし日本兵は他の男性4人を縄でつないでキャンパス西の丘へ行き、そこから銃声が聞こえた。昨夜、語学学校から少女30人が連れ出され、今日はその少女たちの悲痛極まりない話を何件も聞いた。そのうちの一人はわずか12歳の少女だった。食料、寝具などが奪われ、それに李さんは55ドルを奪われた。今夜も、8人から10人の少女たちがトラックに乗せられて「助けて」と叫びながら通りすぎていくのを目にした。私は警備係としてできるだけ正門の前に腰を下ろして過ごしている。今夜は私たちには約4000人の婦女子に対する責任がある。… 神さま、今夜は日本兵の野獣のような残忍行為を制止してくださいますよう。今日、何の罪もない息子を銃殺されて悲しみに打ちひしがれている母親や父親の心を癒してくださいますよう。そして苦しい長い一夜が明けるまで年若い女性たちを守護してくださいますよう。

 …… 軍事的観点からすれば、南京攻略は日本軍にとって勝利かもしれないが、道徳律に照らして評価すれば、それは日本の敗北であり、国家の不名誉である。このことは将来中国との友好関係を長く阻害するだけでなく、南京の人々の尊敬を永久に失うことになるであろう。今南京で起こっていることを、日本の良識ある人々に知ってもらうことができたらよいのだが。

(注:現実はその通りとなっているが、悪いことに、日本の教育は歴史的に都合の悪いことをまともに教えないから、何も知らずに興味半分で中国に行く人も多い。筆者もその一人であったが、いまだに「日本の良識ある人々」にも伝わっていないことは確かである)

 同日:(ジョージ・フィッチの日記から) —— 16日は、 敗残兵狩りのため民家や難民収容所に捜索に入った日本兵が、 婦女子を見つけて凌辱する事件が多発した。 そのため自宅にいて恐怖にかられた婦人が何百人と街頭に逃げだし、 安全な場所をもとめて彷徨した。金陵女子文理学院のキャンパスは、すでに一万人近い婦女子の難民で、 渡り廊下まで満員で足の踏み場もないほどにふくれあがっていた。

 同日:(ジョン・マギーの撮影したフィルムの説明) —— 12月16日。上海路の中国人女性たち。息子や夫たちが元兵士の疑いで手当たり次第に集められたため、跪いて日本軍に彼らの命乞いをしている。何千人もの市民たちがこのように縄で縛られ、下関の河岸や池のへり、空き地に連れて行かれて機関銃、銃剣、歩兵銃、さらには手榴弾で殺害された。

 同日:(クレーガーの記録より) —— 16日に車で下関に向かい、海軍省の前を通り過ぎる時、車は死体をひいて通り過ぎた。ここでも手足を縛られたまま銃で撃たれた人々がいた。市の清掃作業は12月29日まで続いた。それまでは、毎日のようにこれらの死体のそばを通らなければならなかった。こんな死体の夢を見ることさえある。すでに述べたように、私たちの家の前には、三人の死体と一頭の馬の死体があった。日本人は死体を埋葬することを厳しく禁じている。死んだ馬を埋めたのは、1月9日になってからだった。日本軍の残虐行為のもう一つの悲劇は、何千人もの少女や女性を虐待し、レイプしたことである。このような暴力はどの軍隊でも起こることだが、特に極東の軍隊ではそのようで、不具者や幼い子供にも見境のない虐待は意味もわからない。このような犯罪を日本軍に導いたのが日本の武士道精神なのだろうか。

恐怖の中の女性たち

 12月17日:朝、門衛所に行くと、疲れ果てて怯えた目をした女性が続々と入ってきて、昨夜は恐ろしい一夜だったと話す。とりわけ顔を黒く塗り、髪を切り落とした少女たちの話 … これらを書き留める時間のある人がいてくれたらよいのだが。午前中は報告を受けて校内のあちこちに駆け回ることで過ぎた。ここ数日は食事中に「ヴォートリン先生、日本兵三人が今理科棟にいます」などと使用人が言ってこない日はない。終日押し寄せる大勢の避難民の面倒はとても見切れない。金陵大学側に寄宿舎の一つを開放してもらい、夕刻に大勢の婦女子の二グループを引き連れて行った。何と悲痛な光景だろう。その途中、日本兵の集団があらゆる種類の略奪品を抱えて家から家へ移動して行くのに出くわした。

 夕食後、日本兵たちが寄宿舎へ向かっているとの知らせが入った。学院の使用人三人が縛り上げられていた。私は苦力と庭師だと言ったが、正門付近へ連行し、他にも学院の使用人たちがいた。彼らの身分について説明を求められたが、尋問を装って私たち学院の責任者を拘束している間に、通用門から女性12人が連行されていて、これが彼らの策略であることがわかった。

 同日:(程瑞芳の口供書より:ヴォートリンの助手で金陵女子文理学院の教師でもあった) —— 日本兵達は捜索だといつわって校庭に入り、事実は私共の娘達を捜していた。17日の夜間も彼女と私と他の者達が勤務していたにも拘わらず、兵達が校庭に入り、11人の娘(ヴォートリンの記述では12人)達を運び去った。此等の娘達9名が日本将校により恐ろしくも強姦、汚辱せられ、後に校庭へ逃げ返って来た。一人の娘は連れもどされた。彼女は歩く事も出来ない程恐ろしく傷ついて腫れて、そして彼女は4名又は5名の兵により繰返し、強姦され汚辱された事を告げた。彼女は恐怖症に襲われていた。最初の4週間というものは毎晩兵隊達が私共の娘達を手に入れる為やって来た。ヴォートリン女史は助力の限り娘達に兵隊達を近づけないようにした。

 同日:(ジョージ・フィッチの日記から) —— ミニー・ヴォートリンは街頭に出て、それらの女性避難民を集め、 あらたに婦女、子供の難民専用に設置した金陵大学寮へと引き連れていった。3、400人の女性難民の集団の先頭に立って街頭を行進するさまは、 さながら日本軍の蛮行に抗議する女性のデモ行進のようであった。この日は掠奪・殺人・強姦は衰える様子もなく続く。 ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて1000人の婦人が強姦された。ある気の毒な婦人は37回も強姦され、別な婦人は野獣のような男たちが、5ケ月の赤ん坊が泣くのをやめさせようと窒息死させ、彼女を強姦した。 抵抗すれば銃剣に見舞われてしまうのだ。

 17日の午後から夜にかけての強姦の多発は、また様相が違った。 … 南京の日本軍のほとんどの兵士が(入城式後の)戦勝祝賀ムードにみたされ、祖国凱旋を夢見て酔っぱらった。酒に酔って … 日本兵の一部は、 中国女性を凌辱するために南京の街に繰り出した。夜はまた、ある兵士のグループがトリックをつかって、金陵女子文理学院の難民女性を強姦した。

無差別の蹂躙行為

 12月18日:早朝から恐怖をあらわにした顔つきの女性、少女、子供達が続々とやってくる。キャンパス内に入れることはできるが、すでに落ち着く場所はなく、寒さが厳しくなっている中、夜は芝生の上で寝るしかない。比較的高齢の女性には自宅に帰るように説得している(注:実は日本兵はこの後も個人の住宅にも押し入り続け、結果的にこれも被害者を増やした)。米国大使館を介して日本大使館を訪れ、自分たちの困難な役目や前夜の事件について報告し、兵士を追い払うための書面と校門に貼る公告文を書いてもらった。日本大使館の田中氏も心を痛めていたと言い、憲兵二名に夜間の警備をさせると言ってくれた。これを書いている間にも外から喚き声や騒音が聞こえてくる。今夜は5000人がキャンパスにいるのではないか。

 同日:(ジョン・マギーの証言) —— 私は私共の委員会の1人であったスパーリング氏と一緒に南京の住宅街の方に行こうとしたが、周囲の総ての家に日本の兵隊が闖入している形勢であった。ちょうど入った家には一人の婦人が泣いており、彼女は強姦されたという。この婦人の話では、その家の3階にまだ日本兵がいると言い、私共は上がって3階まで行き、中から閉じられていたドアを叩き、大きな声で怒鳴り付けた。間もなく中から日本の兵隊が出て来たが、中には中国の女性が二人いた。

 同日:(ウィルソン医師の日記) —— 無差別の人殺し、数千件にのぼる強姦。畜生たちの残忍さ、肉欲、先祖の血というものは止まるところを知らないようだ。 … 昨日の夜(南京占領後に入城式が盛大に行われた夜)、大学の中国人職員の家に侵入があり、親戚筋の16歳ぐらいの少女二人が強姦されて死んだ。また8千人が避難していた金陵大学付属中学校に日本兵が10回も塀を乗り越えてやってきて、食料や衣類を盗み、気のすむまで女性を強姦し、さらには小さな男の子を銃剣で刺し殺した。今朝、五ヵ所も刺された別の8歳の少年を一時間半かかって傷の縫合をしたが、うち一ヵ所は胃まで達して、腸の網膜が一部外に飛び出していたが彼は助かるだろう。… 生まれつきの精薄(注:これは「精神薄弱」の略語で、知的障害の意味。現在では差別用語として使用を禁止されている)の少女がいる。彼女はたった一つの布団を取り上げようとした日本兵に爪を立てて抵抗した。そのために銃剣の見舞いを受けて首の片側の筋肉の半分が切断された。

 今日治療した男性は弾丸のあとが三ヶ所あり、彼は80人のグループの唯一の生き残りだった。彼らは安全区から連れ出され、西蔵路の西にある丘で虐殺された。80人のうち元兵士はわずかな数だった。また今日、17歳の少年が持ってきた話によると、年のころ15歳から30歳くらいまでの中国人男性およそ1万人が、14日にはしけ近くの川岸に連れだされたそうだ。そこで日本軍はかれらに野戦砲、手榴弾、機関銃をぶっ放した。ほとんどの死体が川の中に押し落とされ、残りの死体は山と積み上げられて焼かれたが、3人はかろうじて逃げのびてきたという。少年のあげた数字によると、1万人のうち6千人が元兵隊で、4千人が一般市民だった。彼は胸に弾丸の傷を負っているが、深刻なものではない。

 同日:(フィッチの日記から) —— 鼓楼病院には、 臨時に要請されて看護婦代わりに活躍している十数人の少女たちがいた。18日の夜、日本兵は病院に侵入し、その少女たちまで強姦したのである。 現場に踏み込んだ外科医のロバート・ウィルソンは、その日本兵を蹴りだしたが、 その兵士に銃口を向けられるという恐怖も体験した。ウィルソン医師は翌日、南京日本大使館宛に、抗議と善処を求める文書を提出した。

 同日:(マギーの撮影したフィルムの説明) —— 「この呉夫人は家族6人と城隍廟の裏側に住んでいた。この日、日本兵4人がやってきて60歳過ぎた父親と11、2歳の兄の子供を銃剣で殺し、さらに夫も首を銃剣で刺され、彼女を強姦しようとした。しかし彼女は病気だと言ったので放された」

 同日:(程瑞芳の日記) —— 昨夜、日本兵に連れて行かれた女の子達は今朝になって皆帰された。一人だけ帰って来ていない。日本兵にどこかに留置されたか、恥ずかしくて自ら帰ってこないのかは分からない。

日本軍への失望

 12月19日(日曜日):午前中は食料の手配や、中国人家族の助けを求める訴えを聞き、日本兵がキャンパス内に入り込んでいるとの知らせを受けて追い出しに行くことを繰り返すなどして過ぎてしまった。午後になって今日職員宿舎に来てくれとの声で、二階の538号室に行ってみると、その入り口に一人の兵士が立ち、そして、室内ではもう一人の兵士が少女をすでに強姦している最中だった。日本大使館に書いてもらった一筆を見せたことと、わたしが駆けつけたことで、二人は慌てて逃げ出した。卑劣な行為に及んでいるその二人を打ちのめす力がわたしに欲しいと激怒のあまり思った。日本の女性がこのようなぞっとする話を知ったなら、どんなに恥ずかしい思いをすることだろう。

 同日:(マギーの日記から) —— 私は、日本軍がこんなにも野蛮だとは思ってもみなかった —— 彼らは見つけ出した捕虜すべてを殺害しただけではなく、あらゆる年代の一般市民を広範囲にわたって虐殺した。彼らの多くは街路上でまるでウサギ狩りのように撃ち殺された。 … 中国人のほとんどが日本兵にビクビクしていて、誰何されたとき、愚かにも逃げようとして、男はそのために殺された。 … 頭を二発撃たれていた。その場の二人の日本兵は、ネズミでも殺したかのように平然としてタバコをふかしながら笑っていた。

 同日:(ウィルソン医師の日記) —— 夕飯に家に戻ると、ブラディのコックと徐さんが来て、彼らのところにいる女性が全員強姦されていると言うので、ベイツとスマイスそれにフィッチが行って、地下室で事の最中であった兵隊三人を捕まえて追い払った。 … 最近アメリカ国旗が少なくとも四旗引き裂かれた。きょうヒルクレスト学校で国旗が降ろされて、地下室で女性が一人強姦されてから銃剣で刺された。

 同日:(アーネスト・フォースターの妻への久しぶりの手紙) —— 特派員が去ってから、状況はさらに悪い地獄のようになってきている。起こったことすべてを書くのは不可能だが、まさかあのようにひどい人間を相手にしなければならないとは、思ってもみなかった。彼らは私たち外国人のことを快く思っていない、というのも、当地での彼らの蛮行を私たちに見られたくないのに、私たちが留まっているからだ。

 15日と16日、日本軍は兵隊を捜索し、小銃を持とうが持つまいが、かまわず群れをなして連行していった。彼らのほとんどが冷血にも殺害された。彼らは2、3百人が一グループになるように分けられて池まで連行され、一人一人射殺されると池に落とされたそうだ。別の大きなグル-ブは機関銃でとりかこまれ、無理やりひと塊にさせられると、ござで覆われて、生きたまま火がつけられた。数日前模範村の陳氏の会衆の中から連行された一四人は、まだ戻ってきていない。その中には陳氏の一六歳になる息子がいたが、彼もまだ戻らない。

 同日:(ジェームズ・マッカラムの日記より) —— 一週間は経過したが、思い出すのもおぞましい。どこをどう話したらよいのか見当もつかない。それはこの世の地獄であった。私は今迄に一度もこの様な残忍を聞いた事も読んだ事もない。レイプ、レイプ、レイプばかり。強姦事件は一夜に少なくとも1000件を数え日中も多くの事件がある。女子は毎朝、毎日、毎晩連れ去られている。彼等は好ましい婦女を捜しに私共の安全地帯地区にある建物内に入って来て、夜になると婦女を連れて帰って来る。若し婦女が隠れていないと責任ある者は現場で殺される。抵抗すると生命に関わり、抵抗した妊娠6ヶ月の婦人が顔面や身体に16箇所のナイフ創と、腹部に1箇所の突傷を受けて、私共の所にきた。一晩に千件は起こり、昼間でもたくさんある。日本兵に反抗したり不服のような態度でもしようものなら、銃剣で刺し殺されるか、もしくは銃殺だ。このような殺害は日に数百件を書き連ねることができる。人民は狂乱している。私たち外国人さえ見れば、脆いて額ずき助けを求めてくる。兵士らしいと嫌疑をかけられた者は、城外に連行されて銃殺される。その数は何百、何千人にもなる。私たち病院の職員も三回盗難にあい、万年筆、時計、お金をとられた。センターにいる貧しい難民でさえ、たびたび強奪にあい、身ぐるみはぎ取られ、唯一残っていた寝具まで持ち去られている。まだまだ続きそうだ。

 女性は朝に昼に夜に連れ去られる。日本陸軍全体が、建物には手当たり次第に侵入し、やりたいほうだいをしている。金陵女子文理学院、金陵大学、ヒルクレスト学校のアメリカ国旗は頻繁に引き裂かれる。そのほか神学校、聖書教師養成学校、付属中等学校、蚕廠図書館など多くの場所で、毎晩強姦、強奪、銃撃、銃剣沙汰の事件がおきている。その場にわれわれ外国人がいる場合には、いくらか回避できることもある。しかし、15や20の外国人の数では、すべての建物に常時人を配置できない。

 同日:(程瑞芳の日記から) —— 昨夜、憲兵が正門の方で寝ていて、夜中に日本兵が入ってきた。彼らは五百号棟のリビングで大勢の前で女性を強姦した。今日の昼間も二人の兵隊が五百号にやってきた。一人は入り口で見張りをして、一人は部屋の中に入って来て、女の子一人だけを残してほかの人を皆追い出した後強姦した。

取り締まるはずの憲兵までも

 12月20日:悲惨と苦難のうちに明け暮れる近頃では、快晴の天気だけが(避難民に安らぎを与えるので)唯一の天恵である。朝のうちは正門に立ち、人々の訴えを聞いたが、その後執務室で日本大使館に提出するための公式報告書を書こうとしたが、キャンパスのあちこちから呼び出しがかかり、日本兵の窃盗現場を押さえたりした。住民にとって助けを求められるのは私たち外国人しかいないのだ。その後日本軍の高級将校らが視察に訪れている最中に、日本兵2人が女性を連行しようとしたのを引き止めたが、将校は兵士を叱責しただけで放免した。これでは日本兵の卑劣な行為をやめさせることはできない。その後再び日本大使館に訴えに行くと、夜、日本軍憲兵が25名も派遣されてきた。だが、その憲兵が女性2人を強姦する事件が起きた。

 同日:(ウィルソン医師の日記) —— 午前中、17歳の少女が赤ちゃんと一緒に病院にやって来た。前の晩の7時30分に日本兵二人に強姦されて、9時に陣痛が始まり、彼女にとって初めての子供が12時に生まれた。

 同日:(マギーの証言より) —— 私は20日に一軒の家に呼び出されて行ったが、そこには約10歳から11歳位の中国の少女が強姦されていた。ただ、3人若しくは4人の日本兵が更に強姦を続けることを防ぐことが出来た。更に他の一軒に呼ばれたが、そこにいた中国人が私共に一つの部屋を指示したので、入って見たところ、そこでは現に一人の日本兵が強姦をやっている現場であった。私はその日本人を部屋から引摺り出して外の小さな道に追出した。さらに私共が食事をしている時に、二人の中国人が走って来て、日本兵が女の子を探しに来ているということだった。しかし結局その二人の中国人女性が被害者となった。

 ラーベ氏が日本の将校と一緒に自分の家に帰った時に、一人の日本兵が小屋の中で中国の婦人を強姦しているのを見た。日本の将校はそれを見て、唯その日本兵にピンタを与えただけであった。私共の匿っていた婦人たちの中で割合に年長の婦人のみを家に返して、若い娘達を引続き保護するようにしたのだが、案の定、また強姦が行われたので、年長の婦人たちは、再び私共の懐に逃げ帰ってきた。一人の寡婦は日本兵によって、少くとも17回から18回にわたって強姦されたと言い、77歳の老母までも強姦されたとのこと。(注:この後は残酷な表現が続き、省略)、…… ある兄弟の妻が暴行を拒んだので殺され、またもう一人の姉が、やはり暴行を拒んだので殺された。

 同日:(フォースターの妻への手紙) —— 三千人以上の婦女子が金陵女子文理学院にいるが、兵隊に連れ去られ、大学図書館や難民のたてこむ大学の建物の中で強姦されたりしている。昨晩は兵隊が数人、病院の看護婦棟に押し入り、大勢の少女が気を失わんばかりに脅かされた。きのうの午後は、模範村の婦人が一人強姦され、夜には、仏教の尼さんが強姦された。彼女たちは夕食を受けるため、私たちの住宅と路を挟んで住んでいたが、それからは、路上に兵隊がいるので恐ろしくて出てこれなくなった。

 ここはあらゆる情報が断たれているので、何が起きているのか分からないでいる。外国の大使館員が一人も戻ってきていないのは、おそらく、日本軍がしばらくの間はそうさせたくないからなのだろう。(注:実際にその通りであった)

 同日:(程瑞芳の日記) —— 今日もたくさんの難民が来た。二百号〔文学館〕の三階までぎっしり埋まっている。おそらく日本の憲兵が保護していると思って避難してきたと思うが日本の憲兵は女の子を庭に引きずり出して強姦する。彼らは人間じゃない。場所を問わないでやる。畜生だ。今日の昼、兵隊が来て二人の女の子を連れて行く時、彼女達の物まで奪って行った。(注:程は金陵女子学院のベテラン教師であったが、 同じ中国人女性だから被害者となる可能性があり、 ヴォートリンのように暴行を阻止しに行くことができなかった)

とまらない住民に対する虐殺と強姦

 12月21日:前日夜の事件を受け、日本大使館へ行って、憲兵の数を減らしてもらうよう要請した。昼過ぎ、アチソン氏(米大使館書記官)の料理人の75歳の父親が殺されたと聞き、現場に行くと道路の中央に老人が倒れていた。その死骸を竹薮に引き入れ、上にむしろをかけた。今度はアメリカ大使館の使用人といっしょに三牌楼にあるジェンキンズ氏宅へ行った。 彼の家は、アメリカ国旗を掲揚し、護られていたにもかかわらず、徹底的な略奪をこうむり、 彼が信頼していた使用人は車庫で射殺されていた。キャンパス内には6-7千人かそれ以上の避難民がいるのではないかと推測される。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 昨夜来た兵隊と入れ替わって新しい兵隊が入ってきた。華小姐(ヴォートリンのこと)は長官はいい人なので難民の保護のために兵隊を派遣したと思っているが、実はその長官は昨日自分の部下たちのことで自分が恥をかかされたことに恨みを持っていた。私は華小姐に、彼らは我々の敵であり、その言ったことを信じてはいけないとアドバイスした。彼らは口と腹のなかで思っていることが本当に違う。華小姐は時々日本領事館に行って日本兵の悪行を報告しているが、私は無駄だと注意した。幸いに二人のドイツ人がいるからまだ助かっているが、アメリカ人も疲れが限界に達している。… 私は華小姐が一人で出かけて悪い兵隊に殺されるのが一番心配だ。一日何回も、食事を取っている時でも日本兵がやってくる。彼らをあしらうのも華小姐である。昨夜また日本兵がやってきて二人の女の子を引きずり出して、芝生の上で強姦した。とても胸が痛かった。

 同日:(ウィルソン医師の日記) —— 一昨日ヒルクレスト校で妊娠6ヵ月半の19歳の女性が、バカなことに二人の日本兵の強姦に抵抗し、顔に18カ所、足に数カ所、腹部に深い傷を受けた。今朝病院で胎児の心音が聞こえなかったので、おそらく堕胎することになるだろう(その日の真夜中に流産した)。(注:この時の手術の様子はマギーがフィルムに収めている。また彼女のことは後述(補遺)の「二つの名誉毀損裁判」で取り上げている)

 12月22日:朝から機関銃や小銃の音が頻繁に聞こえる。ここ何日も続いた緊張感と悲しみで疲れ果ててしまった。避難民のための食料も足りない。キャンパスには避難民が一万人いるとみる人もいる。午後、アメリカ聖公会伝道団のフォースター氏が訪ねてきて聞いた悲しい話は、日本大使館が発電所の修理をしたいとのことで、ラーベ氏は50人ほどの従業員を集めて発電所に連れて行ったが、日本兵が彼らを中国政府の官吏であるとして、43人を射殺したという。

 (注:この殺害に関するラーベの同日の日記では、発電所は南京攻略戦の時に破壊されていて、「私は日本軍に、発電所の作業員を集めるのを手伝おう、下関には発電所の労働者が54人ほど収容されているはずだから、まずそこに行くように、と申し入れた。ところが何と、そのうちの43人が3、4日前に縛られて河岸に連れて行かれ、機銃掃射で処刑されたという。中国政府の企業で働いていたというのがその理由だ。これを知らせてきたのが一人の作業員で、たまたま彼らの下敷きになって河に落ちて助かったという」とある。状況説明はヴォートリンの日記と違うが、事実は同じである)

 同日:(フィッチの口供書から) —— 私の事務所の東方の地点にある池中に約50個の死骸を見受けた。いずれも平服を纏い、その中の多くは手を後に縛り上げられ、なお一名は頭の上半部を完全に斬取られて居た。その後私は数百の中国人の死骸を、それ等は殆んどが男で、同様な状態で池の中や、街路上や、家の中に見受けた。吾等の委員会は毎日、日本大使館に残虐行為の報告を提出した。

略奪と放火/慰安所の計画

 12月23日:クリスマスまであと二日、例年のこの時期のキャンパスとは大違いだ。午後、高級軍事視察員が将校三名を伴って来訪し、難民の建物の視察を要望した。城内の事態はよくなってきているので、避難民たちはすぐに帰宅できると思うと彼らは言っている。しかし現在キャンパスの中庭で生活している私たちの隣人である孫さん(女性)の話では、昨夜、60-100人の若い男性が、金龍寺南方の小さな谷間にトラックで連れて行かれ、機関銃で射殺したあと、一軒の家に運び込まれ、火をつけられたという。私は夜間に見られる多くの火災は略奪や殺戮を隠蔽するために起こされたものではないかと、ずっと以前から疑っていた。食料はますます乏しくなって街ではどんな品物も買えない。

 12月24日:(クリスマスイブ)、前日の高級軍事顧問が訪れて避難民1万人の中から売春婦100人を選別するよう要求し、兵士のための正規の認可慰安所を開設できれば、強姦事件はなくなるだろうと説明し、とりあえず21人を選別していった。多くの女性が恐ろしい窮地に直面している。夫といっしょに家にとどまれば、夫は銃剣を突き付けられて家から追い出され、妻は兵士に強姦される。夫を家に残して金陵女子文理学院にくればきたで、夫は連行されて殺害される危険にさらされる。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 外では毎日略奪が発生している。女性たちからわずかな金でも巻き上げる。日本兵はそこまでジリ貧になったのか。(注:そしてヴォートリンと同じ話を記した後)今日は特に寒い。炭が残り少なくなってしまったけど、私も足が凍傷になってしまって、耐えられなくて部屋にストーブをつけた。廊下で寝ている避難民はもっと寒くて本当にかわいそうだが、どうすることもできない。

 同日:(ウィルソン医師の日記) —— 今日入院した男性は担架兵だったと言い、長江の土手に行進させられ、機関銃で撃たれた四千人のひとりだという。

 同日:(ドイツ大使館南京駐在のジョージ・ローゼン政務書記官がドイツ外務省に宛てたこの日付の報告の内容から)—— 下関を通過した際に、「死体がたくさんあり、死体は庶民の服装をしている」とローゼンは記した。そのとき、ローゼンたちはその船から、日本軍が下関あたりで中国人を虐殺するのを目の当たりにした。 日本軍が南京に攻め入る前、ローゼンを始めとするドイツ大使館のチームは(一時避難のため)南京付近の長江に浮かぶ英国の船に招かれ、乗船していた。日本軍は機銃掃射のほかガソリンで焼き殺すなど、多くの特殊な殺人方法を採用したと報告した。その後ローゼンは南京城に戻ろうとしたが、日本側から拒否されたため、やむなく上海に移動、翌月に許可がおり、戻った。

(注:同日、上海派遣軍参謀長兼南京警備司令官佐々木到一の日記(自伝)に「(二日前からの会議により)査問工作開始」とある。以下に出てくるように特に安全区内の人々を選別してさらに「残敵」等をえぐり出し、そうでないものに「良民証」を発行するという占領地に対する徹底支配作戦である)

数々の蹂躙現場とその数字

 12月25日:昨夜のクリスマスディナーの時にサール・ベイツが「地獄のクリスマス」と題して記事を書いているところだ、と言った。校門に警備兵25人が配備され、昨夜は平穏な一日で、ここ何週もの間で初めて朝までぐっすり眠った。昼にクリスマスディナーに招かれてバックの家に行った(注:「バックの家」とは、高名な『大地』の作者、パール・バックの夫で、金陵大学の経済学部長であったが、夫妻は戦火を避けて帰米していて、この邸宅をベイツ、スマイス、ミルズ、ウィルソン等が使い、共同生活をしていた)。その間、サールとC・リッグスは再三呼び出されて中国人グループの救出などのために出かけていった。その後私自身も校門を出ようとすると、一人の女性が娘を助けて欲しいと言ってきた。彼女の示す方向にミルズの車で行くと、娘を連れている日本兵士二人を見かけ、助けることができた。

 同時期:(マイナー・ベイツの証言) —— 私の隣近所の3人の中からも、女子が伴れ去られ強姦された。私は現に強姦して居る兵隊のその現場を見て、その兵隊の5回にわたる強姦の現場を通り合わせた。私はその強姦している兵隊を女達から引き退けた。南京大学構内に居った3万人の避難民中、数百の強姦の事件が書いてあり、その正確な詳細は全部報告として日本軍将校に渡した。占領後1箇月して国際委員会委員長ラーベ氏及び其の同僚はドイツ官憲に対して、少なくとも2万人の強姦事件があったことを信じて居ると報告した。それより少し前、私はもっとずっと内輪に見積もっていて、また安全地帯の委員会の報告のみによって、強姦事件は8千と見積もっている。ほとんど毎日毎晩、日本軍兵隊の団体の多数は街を歩き廻り、…その強姦すべき相手を求めて方々を歩き廻っていた。二つの場合では、大学の構内で、こういう強姦事件に日本軍の将校までが参加した。この強姦は夜も、また多くの場合昼もされたのであって、路傍でされた場合が多くあった。南京神学院の校内で私の友人が見ている前で、一人の中国の婦人が、代わる代わる17名の人に依って強姦された場合もある。大学構内だけでも9歳の小さい子及び76歳のお婆さんが強姦されたということを付け加える。私は南京大学から多くの婦女子を9月16日(注:日付は12月の記入ミスと思われる)、日本軍が拉致してしまった、そしてまた翌日(17日)30人の婦女子をその前の晩に強姦したことを報告した。私は12月18日の手紙には、其の前夜南京大学の中に於いて6件の強姦事件があったということを報告している。そして私はクリスマスにも大学構内の一つの建物の中で強姦事件及び婦女子の拉致事件が10回も繰り返されたことも報告した。

 12月26日:金陵大学のキャンパスにいる避難民全員が今日登録をした(日本軍の要求によるもの)。依然として外界の情報は入ってこないし、こちらの情報も同盟(通信社)が提供するもの以外は伝わっていない。

 同日:(ジョン・ラーベの日記から) —— ミス・ミニー・ヴォートリン。実はこの人については個人的にあまり知らないのだが、… 日本兵の横暴が特にひどかったころ、私はミニーを直に見たことがある。400人近くの女性難民の先頭に立って難民収容所になっている大学に連れて行くところだった。日本軍当局は将兵用の売春宿を作ろうとして、何百人もの娘で一杯のホールになだれ込んでくる男たちを、ミニーは両手を組み合わせて一人だって渡すもんかと見ていた。ところが我々がよく知っている紅卍字会の上品なメンバーが、並みいる娘たちに二言三言やさしく話しかけた。すると驚いたことに、かなりの数の娘たちが進み出た。もともと売春婦だったらしい。ミニーは言葉を失っていた(注:24日のミニーの日記と同じ話)。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 今日は嬉しいことがあった。魏さんが戻ってきた。彼は捕まってから11日間も働かされたそうだ。日本兵のために句容まで二度も荷物を担いでいき、多分句容から上海まで運んで日本へ送るらしい(すべて盗品である)。帰って来る途中でも日本兵に見つかり、荷運びをさせられたということで、随分痩せていた。日本兵は盗賊よりもひどい盗賊だ。南京城は空っぽの城になってしまった。太平路のあたりの家は10軒も残っていず、夫子廟もすべて焼き払われた。… 外部との消息はまったく不通で窮地に追い込まれている。… 最近夜は兵隊が来ないが(たぶん慰安所ができているせい)、昼間は少なくとも三回はやって来る。華小姐の具合がよくない。疲れすぎだろう。彼女はだいぶ痩せて老けてきた。彼女はとても信用され、難民は彼女のことを観音菩薩と呼び、苦難があれば必ず助けてもらえると信じている。

 12月27日:城内では依然として破壊が続いている。南門から北里門橋までの間の商店は軒並み略奪され、焼き払われてしまっているのではないか。略奪は今やトラックを使って行われ、絨毯やベッドという大きな備品も持ち去られている。個人の住宅でも略奪は依然と続いていて、銅貨のような小銭さえも持ち去られているそうだ。

「良民証」発行と騙し討ちと欧米人たちの奮戦

 12月28日:安全区第五地区として女子学院での登録(「良民証」の発行のためというが、形式的なものにすぎない)が始まった。まずは男性からで、日本軍から通訳を介して訓示があり、以前兵士だった者は正直に申し出ること、危害は加えないが、労働隊に入れられるとの説明があった(注:これは日本軍の虚言であり、実際にほとんどの男性が戻ってこなかったことは、翌年数ヶ月経って、女性たちがヴォートリンに絶え間なく夫や息子を探すために助力を求めてきたことでもわかる。結局トラックで運ばれ、下関に連れて行かれ、機関銃で撃ち殺されたという地元民の証言も残る)。登録場所に向かって縦隊になって行進している彼らは、老人か大怪我をした人か、足の不自由な人であった。すでに登録に行けるような若者たちはみんな死んでしまっていないのだ。午後、P・ミルズが来訪し、彼の報告によれば、中国人の財産だけでなく、あらゆる外国人の財産のほとんどすべてが略奪されたという。

 注)良民証の発行は日本軍が行うが、それを毎日担当した兵士の発言。—— 「生年月日、職業、性別を書かせるが、字をかける中国人はとても少なかった。説明しても言葉がわからない。それでもはっきりものをいう奴はよかったが、もたもたし、しどろもどろしていると怪しいとみられて別にされ、処分されてしまった」(『南京事件』洞富雄)

 同日:(ウィルソン医師の日記) —— 日本兵が彼らを登録するとき、まず結構な演説をして、兵士を探しているだけだと述べた。もし兵士だったと進み出て認めれば、命は助けて、軍の使役隊に編入されると日本兵は言った。ソーン、ベイツ、リッグズ氏らを含むみんなの前で、このことは繰り返し述べられた。200人が前に進み出て、兵士だったことを認めた。この患者の話によると、この数百人の男性は町の西にある丘に連行され、銃剣の練習台にさせられたそうだ。彼には何人が生き残ったか見当がつかないという。

 同日:(ジョン・マギーの撮影したフィルムの説明で、上記ウィルソン医師の日記と一致する) —— 「余海棠は下関の電話会社の従業員であったが金陵大学に身を寄せる難民の一人だった。12月26日、日本軍将校が難民区の全員を登録するためと言ってやってきた。彼は自分が元兵士であると申し出るものは命を助け、仕事も与えるが、後になってわかったら命はないと言った。その後、約200人が前に出た。余もそのうちの一人で行進が命じられ、通りでは他に多くの者が連行されていた。そして数百人が金陵大学付近の丘に連れて行かれ、そこで日本兵たちは自分たちを標的にして銃剣術演習を始めた。余は合計6箇所を刺されて気を失った。誰かが彼を助けて鼓楼病院に連れてきた。ウィルソン医師が彼の手術をしている映像であるが、彼は奇跡的に回復した」

 同日:(ジョン・ラーベの日記) —— フォースターは二週間も前から放置され腐敗が進んでいる死体の埋葬を心配している。これまでにも我々はたびたび埋葬の許可を申請したが、だめだ、の一点張りだ。いったいどうなるのだろう。このところ雨や雪が多いのでいっそう腐敗が進んでいる。… 南京のことは(略奪や強姦など)どうか上海には黙っていてくださいと日本大使館の福井氏に頼まれた。私は請け合った。日本大使館を通さなければ手紙も出せないのだから。しかしここぞとばかりに中国兵の死体をいいかげんに埋葬するよう軍部にかけあってくれないかと頼んでみた。福井氏は約束してくれた。

近隣の村々でも

 12月28日:(クレーガーの記録より) —— 12月28日に初めて車で城外の棲霞山まで行った。そこで目にしたものは衝撃的で、当時は町から出ることを日本軍に厳しく禁じられていたが、食糧が必要だったので、車でそこまで行った。日本軍の報復行為は、抗日運動の首都であり中心地である南京だけで行われているものとばかり思っていたが、ここで日本軍が行ったことは、決してそうではなかったことがわかった。市街地にも負けないくらいだ。中国軍は撤退する際、農民の家や村を焼き払ったが、テーブルや椅子、農具などは失くさないように村の池に投げ込んだ。日本軍は「憎むべき中国兵を探し出せ」というスローガンを掲げ、郊外でも放火をさらに広範囲にわたって続けた。そのために水牛や騾馬がたくさん畑や道路のそばで殺され、犬やカラスに食われていた。

 農民たちは昼間、金品を持って山に逃げ込み、家には老人だけが残されたが、彼らの生命さえ危険にさらされた。一時間の道のりのあいだ、わたしはだれ一人見かけなかった。それどころか、もっと大きな村までががらんとしていた。家は焼け落ち、人は殺され、生きている人間は自動車を見るとすぐに逃げてしまった。千仏山の足元には難民キャンプができていて、そこに約一万人の近隣地域の農民が逃げ込んでいた。しかし、ここでも日本の兵士たちは少しも遠慮せず、若い男を勝手に引きずり出して銃殺し、少女をレイプした。酔っぱらった兵士たちは、気に入らない者を銃剣で刺し殺したりして楽しんでいたが、この地域には治療できるところがなかった。ただ、(12月に創業したばかりのデンマーク社の)セメント工場があり、そこには二人の外国人がいて(注:一人はドイツ人カール・ギュンター、もう一人はデンマーク人ベルンハルト・シンドバーグ)1937年(昭和12年)12月に日本軍が南京を攻略すると、ギュンターは自分が工場長を務めていた江南セメント工場に安全区を設け、そこに約4000人の避難民が持ち出せるだけの家財を持って避難した。(注:これは既述していて、結果的に最大二万人の中国人の命を救ったとされる)

 なお日付は特定できないが安全区の食料等調達係のクレーガーの記録である。

 —— 都市部の食糧供給は厳しく、状況は好転するどころか悪化するものと予想される。住民は貯蓄で暮らしているが、収入はなく、経済が回復して生産が回復するまでにはかなりの期間がかかる。南京が占領される前、私たちは約8000俵の米と1000俵の小麦粉を安全地帯に運び込むことに成功した。私たちはこの備蓄を無数に分け一部は炊き出しに提供し、約5万人の難民に無料で配り一部は住民に販売した。城内城外には米約10万俵、小麦粉4万俵が残っていたが、日本人に全て没収された。私たちは交渉を重ね、日本側も返還に応じたが、新しい食糧の備蓄はいまだに安全地帯に運び込まれていない。日本人は飢饉が起こるのをじっと待っていて、反乱者たちを従順にさせ、安全地帯を解体する第一の目的を達成しようとしているようだ。私たちはこの問題を解決する方法をまだ見つけていない。新鮮な野菜が町に運び込まれることはあっても、それは農家の荒れ果てた畑からかろうじて集められたもので、いったん収穫が終われば何もなくなってしまう。何も作っていないからだ。また、農村はどこも安全ではなく、農家は耕作できない、あるいは耕作を遅らせるしかない。上海からの輸送は、すべて日本人の恵みにかかっており、上海側では食糧の準備は整っていたが、日本人はまだ輸送を許可していない。

閉ざされた空間の中と良識ある日本人

 12月29日:石炭を手に入れるために出かけるグループに付き添って出かけた先で、一人の女性が話しかけてきた。彼女の町は中国軍によって最初は一部が焼失し、そのあとは日本兵によって完全に焼き払われた。10人の家族のうち、残されたのは夫と孫一人の三人だけで、息子二人、娘三人、嫁一人と孫一人は行方不明になっているという。これは毎日私たちが耳にする数多くの悲惨な話の一つにすぎない。

 同日:(マッカラムの日記) —— 南京には誰一人入ってくる者はいないが、ここから出て行くのも困難だ。こちらで起きた出来事やまだ引続き起きているひどいニュースをグループのなかのだれかに持ち出してもらうことを話し合っているが、いったん南京を出た者は、絶対に戻ってこれないことは分かっている。

 助けを求めに来る人がひきもきらないので、食事どきには五分と腰掛けてはいられない。トラックが盗まれるのを防いだり、あるいは、もっと多いのは婦人を日本兵から守ってあげるため、 食事は丸飲みにして急いで外出しなければならない。全員が揃って食事をすることはめったにない。… 昼安全区内のセンターの建物に侵入してきて、好みの女性を物色しておき、夜になると彼女たちを連れに戻ってくる。逃げ隠れしようものなら、その場で責任者(男性)を銃剣で刺し殺す。11歳と12歳の少女2人、50歳の婦人も逃れることはできなかった。抵抗すれば命に関わる。最悪のケースは病院で起こった。妊娠6ヵ月の身重の婦人が抵抗したために、顔と身体に16ヵ所の刃物の傷を負って病院に運ばれてきた。傷は腹部を刺していたため、胎児は亡くなった。女性のほうは一命をとりとめる模様だ。命だけは助けると約束されて、日本兵に身を任せた人々のうち、安全区に戻ってきたものはほんのわずかであり、それも悲しい形で帰ってきた。戻ってきた者の言うことには、皆は銃剣の練習台となり、本人自身もその恐ろしい体験をしたそうだ。これとは別のグループは古林寺近くに連れ出され、かろうじて戻ってきた者が、そのグループの運命を話し終えると、息絶えた。日本兵はグループの頭上からガソリンをまいて火を付けた、と彼ははっきり言い残した。 この男性には傷はなかったけれど、首、頭部の火傷がひどく、人間だとは信じがたいほどであった。… 詳細は分からないが、事実、彼ははいずりながらも助けを求めに、どうにか病院に辿り着いたのだ。二人とも亡くなった。あまりに恐ろしい話で、おまえもしばらくは食欲がなくなるだろう。まったく信じられないことだが、何千人という人が、冷血にも虐殺されている。数を推測するのは難しいが、一万人に達するだろうと言う人もいる。

 私たちのことを丁重に扱ってくれる、たいへん気持のよい日本人もいることはいるが、他はおしなべて随分と残酷で、なぐったり、ぶったりするのを見ると恐ろしくなる。たまに中国人を助けたり、中国人の赤ん坊を抱いてあやす日本兵を見たことはある。戦争は好きでない、家に帰りたい、と私に言った兵士も一人や二人ではない。日本の大使館員は誠意があって、私たちの援助をしてくれようとするが、どうにも無力だ。良識のある兵士はめったにいない。(注:マッカラムは病院のマネージャーなので、この日だけでも他に多くの被害の話を耳目にしている)

住民の登録作業と裏側での蛮行

 12月30日:まだ登録(「良民証」発行)は続いている。朝、私たちも登録を済ませた。避難民は登録すれば身の安全が保障されると思っているが、日本兵はその登録票を時々破り捨てている事例が見られる。午後、大使館へ行って電報を送ることができるかどうか確かめに行ったが、依然としてできなかった。校門のところでまた一人の母親が、24歳の娘が日本兵に連れ去られて行ったと訴えにきた。

 同日:(マッカラムの日記) —— 素晴らしい天気だが、まだまだ良い状況とはいえない。今日、病院に運ばれてきた男性は内臓を貫通されて腸が四フィートもとび出ていた。幸い彼はウィルソンの縫合手術によって九死に一生を得た。食前12歳になる少女が黄色の自動車を駆って来た二名の日本兵に誘拐された。金陵女子文理学院やマギーのところなどから男性が数人、強制的に連行された。中国兵だと訴えられて強制的に連れ去られたという。 連行される者が民間人だと証明できる友人もいたのだが、手にタコがあったため、抗議の声があったにもかかわらず、深く調べもせずに兵士の熔印がおされてしまった。人力車夫、サンパン(平底の木造船)の船頭、肉体労働者などが、ただ手に正直者の苦労の印があるというだけで、大勢処刑されている。… 病院は満杯もいいところで、出て行く者がいるとありがたい。だが、行くあてもなく、金も衣服もない者が多く、深刻な問題となっている。患者のほとんどが、南京が占領されてから銃剣や銃による怪我で病院に来た者たちだ。

 同日:(北京大使館分館書記官ハンス・ビタ-が漢口ドイツ大使館に宛てたこの日付けの報告) —— これらの目撃報告は、中国における日本軍の非人道的な戦争遂行の全過程で、南京における虐殺ほど凄惨な殺戮はこれまでなかったとの点で一致している。しかし、これらの報告は、華北の京漢(北京-漢口)鉄道沿線の高陽で、日本軍が14の村落を、匪賊と共産主義者を片付けるとの口実で、女性や子どもを含む全住民もろともに根絶やしにしたことを見落としている。同様に、華北の他の地域における日本軍の新たな残虐行為に関する報告が続々と届いている。ただ、そうした行為は信頼できるヨ-ロッパ人の目撃者が居合わせていない、裏づけがとれないこともある(注:そうした事実は筆者も既述において証言などによって取り上げている)。しかし、この種の事件は隠しおおせるものではなく、高まる国内の民族運動をさらにいっそう刺激し、戦争の深刻な急進化をもたらしている。[本報告の写しと添付書類は天津総領事館、東京ドイツ大使館およびベルリン外務省に送付される]

12月31日:男性の登録を中断して、17歳から30歳までの約1000人の女性の登録が先に行われた。彼女たちは整列させられ、日本軍将校の訓示があった。… 目的はわからないが、北と南に分かれて連れて行かれた。… 今朝、遠藤というとても素晴らしい日本人がやってきた。彼だけでなく、一緒に来た憲兵も大変好感が持てた。司令部の遠藤氏は、難民救済の業務に深い関心があると言い、援助を申し出てくれた。

 同日:(程瑞芳の日記) —— … 日本軍将校の訓示は、女性は自由がなく、三従と四徳を守るべきだと言っている。全く話にならない。彼らの話は信用できないし、何をやっているかもわからない。彼らの国は長続きしないだろう。登記を終えた難民たちの中には帰れる人もいたが、難民区の外はまだ治安が良くない。

 同日:(フォースターの手紙) —— ラーベ氏が、上海在住の妻から三通の手紙を、日本領事を介して受け取った。それからすると、日本の占領以来、南京に起こっていることがなにも知られていないと私たちは受け止めている。当地の状況についてのデマには惑わされないように。日本軍は真相を覆い隠そうとやっきになっている。

 同日:(マッカラムの日記) —— 今日は幸せな人々に出会えた。病院にはたくさんの赤ん坊がいる。母子が病院を出るときは決まって幸せそうだ。帰るところが一部屋に数百人がひしめき合う難民キャンプであってもだ。みんながニコニコ顔で赤ん坊を取り囲んでいる。彼らこそ勝利者ではないか。(その一方で)子供を産んだばかりの女性が、行き先もお金もないのに病院を出たいと言ってきかない。夫は数日前に日本軍に連行されて、おそらく戻ってこないだろう。それでも彼女は病院を出て夫を探して子供の顔を見せたいのだ。なんという悲しい思いをさせられるのだろう。(注:この後マッカラムは夜遅く、他のアメリカ人同僚たち7人と一緒にラーベの屋敷に年越しの祝いに行った)

日本兵の一つの証言

 ここで一件、日本軍兵士の証言を挟んでみる。(当時第16師団歩兵第33連隊所属・井上益男:『南京戦—閉ざされた記憶を尋ねて』より)

 —— 南京陥落後、金陵女子大学の警備に入った。この大学は女性の避難所や。そこに日本の将校たちがよく来て、将校たちは無茶苦茶で「ちょっと入るで」と言って女子大の構内に入っては女の子を連れて出て行って強姦した。わしらは警備といっても将校たちは上官なので見てるだけや。よく出入りする部隊は33連隊だけではなく、九師団と十六師団の30旅団もいた。彼らはトラックで来た。将校を含め兵隊4、5人で来て3人は銃を持っている。多いときは(トラックが)一日4、5台来るときもある。一台に20人くらいの女の子を乗せて連れて行くこともあった。送り返されてくる娘は少なかったな。当時は憲兵もいたが、将校たちの女狩りを止めることができなかった。名前だけの補助憲兵で、誰も補助憲兵の言うことは聞かなかった。… 当時日本人は中国人たちを下等人間だと思って人間として扱っていなかった。わしももちろんそう思った。今から思うとかわいそうだった。(注:これを見ると金陵女子大の中だけでも一万人の避難女性がいたから、ヴォートリンの知りえない女性さらいがずっと多かったであろう)

 筆者注:日本兵は強姦の他に普通の品物の略奪だけでなく、女性や子供から日常のものや小銭なども奪い取り、中には既述のように少女のたった一枚の布団まで取り上げ抵抗されて銃剣で刺しているわけで、何と言っても上海戦から補給の準備もせずに南京まで転戦することを強行してきた松井司令官の罪は大きい。彼は訓示だけは一人前だが、占領地域における具体的な施策も何もせず、南京城内が混乱している最中に、自分を映えさせる「入城式」を強行し、それによって日本軍の数々の蛮行の度合いを加速させたのである。

1938年
新年にも打ち続く惨事

(正月の三日間は日本軍は休暇ということで、酒が多量に振る舞われ、そこから大勢の兵士が巷に出てきて蛮行を繰り広げることになった)

 1月1日:元旦!しかし「新年おめでとう」という言葉は出てこない。「平和が訪れますように」とだけ挨拶する。午後二つの事件があり、私たちが駆けつけ、日本兵を追い返した。今夜は北里門橋の方角で大きな火災が発生している。掠奪が続いているのだ。二、三日前に聖経師資培訓学校内で女性27名が強姦された。きょう憲兵が、重大な不行跡のかどにより一般兵士7名を逮捕したそうだ。

 同日:(ラーベの日記) —— 朝、妻を鼓楼病院に連れて行って帰ってきたら、うちにいる600人の難民たちが並んで歓迎してくれ、日本軍から支給された爆竹を一斉に鳴らした。そしてたくさんの年賀状を私にくれた。…夜9時、日本兵がトラックで乗り込み、女を出せとわめいた。戸を開けないでいたら一行は付属中学校の方へ向かった。そこは絶えず日本兵に襲われている。

 同日:(ウィルソン医師の日記) —— 午後、もう一人の痛ましい患者が連れてこられた。29歳の婦人で12歳の子を頭に6人の子を持ち、市に南部の村に住んでいた。中国兵が撤退するときに村は焼き払われ、子供一人が死亡、5人の子を連れて南京を目指した。夕刻、飛行機が急降下してきて機関銃を浴びせ、一つの弾が彼女の右目から首に貫通した。意識を失い翌朝子供たちの泣き声で気がついたが、生後三ヶ月の子は母乳が必要なのに抱くこともできず、無人の家に放置する他なく、残った4人の子供と一緒に村人のいるところまで辿り着き、その村の人が彼女を難民区に連れてきて、子供たちを落ち着かせて病院に来たということだった。

 晩餐が終わった途端に誰かがマギーとフォースターを呼びにやって来た。二人が現場に着いた時は、一人の少女は強姦され、もう一人は激しく抵抗したため殴られたあとだった。

 同日:(マッカラムの日記) —— この数日、あまり人が行きたがらない市内のいちばん遠い地域に行ったが、毎回食料や患者用の積荷をつけて無事帰ってくることができた。(注:ウィルソンと同じことが記されている以外に)それから南東地区に住む尼僧が病院に運び込まれた。彼女の怪我は12月14日のものだった。地下壕に5人で難を逃れたところ、日本兵が両側から入り込んできて、しまいには5人のうち3人を殺害、二人に傷を負わせた。この尼僧と10歳になる見習いの少女は殺された友人の死体の下に隠れて、死を免れた。手当ても受けずに18日間、食べ物が底を着いてから5日経つという。近所の人がやっとのことで病院に連れてきたそうだ(注:この尼僧の話はマギーの撮影したフィルムの説明にもあり、彼女が壕の中で息絶え絶えで倒れているのを、ある日本兵が「何とかわいそうに」と中国語で言うので目を開き、彼に助けを求めた。彼は待避壕から彼女を引きずり出し、何人かの中国人に軍の仮手当て所に運ばせ、彼女はそこから近所の人の手で鼓楼病院に運び込まれたという)。

南京自治委員会(傀儡)の発足

 1月1日:(程瑞芳の日記) —— (注:一月以降は「南京出版社『程瑞芳日記』2016年発行」の中英日版からの抽出である。用語の間違いは筆者が適当に訂正している) 今日、自治委員会が発足し、鼓楼で大会が開かれた。みんなは日本の旗と中国の五色旗の二つを持たされた。…写真撮影があった。彼らの目的は宣伝で、難民の子供を抱かせて撮り、その写真を他国の人に見せ、いかに中国人に歓迎されているかをアピールするのだ。… (注:日本兵の強姦行為をヴォートリンが何とか止めたことを記したあと)日本兵が外で巻きタバコを中国人に吸わせている。中にはきっとヘロインが入っていて、将来ヘロインとアヘンを売るのだろう(筆者注:これはおそらく事実で、満州事変以来日本軍はアヘン栽培の土地を抑え、それで軍の費用も捻出していて、この頃は上海にも多く流通していた)。…

 日本軍が入城して以来、他国の人たちの入城を許さない。彼らのやっている不正なことを見られたくないためだ。今回、(国際委員会の)独米人は日本人のやっていることをはっきり見た。彼らはそれ以前は日本軍が悪いことするとは信じていなかった(注:「中国人が悪いことをするとしても」とはラーベか誰かの日記にあった)。… (今日は西暦の新年で)人々は日本の旗を手に持って通りを歩き、あちこちで爆竹が鳴らされている。彼らは何の新年を迎えているのか、内心では何を喜んでいるのかわからない(注:中国の新年とは西暦の2月初旬になる。これも日本人が新年を祝わせた結果であろう)。日本軍が何を彼らにやらせても言いなりだ。(これからの)中国では民衆を喚起し、教育を変えなければ前途は難しい。

 同日:(クレーガーの記録より) —— 1月1日、南京臨時自治機構の設立が公表された。音楽に合わせ、誇張された祝辞に合わせて、昔日の五色旗が世事を経てきた古い鼓楼の上に掲げられた。この自治委員会は紆余曲折を経てようやく発足したが、今日でも依然として自主的に行動することができない置物であり、中国人はほとんど信用していない。日本人はいろいろな面で支援することを約束しているが、しかし実際は支援を拒否している。たった数人の教養のある中国人は積極的ではなかった。世界紅卍字会も最低限の基盤を持たせるために協力する意思を表明したに過ぎない。日本の軍事当局がいわれのない猜疑心をくりかえしていたため、協力の成果はゼロといってよかった。

日本の国防婦人会の視察

 1月2日:午前、食事の配給中に年配の日本人女性三人が車で乗りつけた。国防婦人会の代表者という。私が日本語を話せたら、避難民たちの苦境の一端でも説明できるのにと残念でならない。(筆者注:しかしそれが仮にできても、日本軍からの上っ面の報告で先入観いっぱいの頭で視察にきた婦人たちは信用するどころか、彼女を不審に思ったであろう)

 同日:(マギーの目撃より) —— 一人の日本兵が午前10時から11時の間に、陳家巷五号の劉盤坤が妻と五人の子供とで住んでいる家へやって来た。兵隊は家を捜査しようとした。そこで劉の妻の姿を見て家の状態について尋ねた。婦人は質問にこたえ始めが、兵隊は婦人を部屋の中へ連れ込もうとしていた。そこで婦人は家を出ようとした。また彼女の夫劉は兵隊に乱暴な言葉を浴びせ、また平手打ちをくらわせた。すると日本兵は立ち去った。婦人は家に戻り炊事を始め、夫の方は5人の子供と一緒に食事をしようと食べ物を運んでいた。午後4時頃、同じ日本兵が今度は銃を持ってやって来て、主人を出せと命じたが、近所の人たちは兵隊に生命は助けてくれるように嘆願し、その一人は日本兵の前にひざまづいた。日本兵は台所で劉の姿を見つけるや、即座に肩を撃ちぬいた。H医師が4時半頃よばれて行ってみると、劉は死んでいた。ジョン・マギーも少し遅れてこの現場に行きあわせた。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 三人の日本女鬼子(この「鬼子」とは、例えばヴォートリンはからかい半分の子供に「洋鬼子」と呼ばれたことがある)が参観にやってきた。彼女たちは国防婦人会の人で華(ヴォートリン)は彼女たちを各所に案内し、(腹が立つから)会いたくなかった私にも会わせた。一つ腹立たしいことにその三人の女鬼子は帰るときに腐ったリンゴと飴を少し置いていったが、難民の中年女性たちが競って求め、彼女たちが手にしていた銅銭を先を争って取ろうとした。本当に同じ中国人として情けなく、死ぬほど腹立たしい。私も華も難民たちを叱責したが、子供ならいいが、大人がこんなことをするなんて、これでは中国の前途に希望がない。(注:ただし、ヴォートリンや程の記述の中では、このような難民の女性や子供たちから、その銅銭を奪っていった日本兵がいるから、それ以上に情けなく希望のない軍隊であったということになる)

行方不明だった少年の帰区

 1月3日:今夜、12月14日に使い走りをさせまま戻ってこなかった魏少年が体験を語ってくれた(注:程瑞芳が12月26日に記した少年)。私の手紙を国際委員会と大学病院に持って行く途中、二人の兵士に制止され、銃剣を突きつけられ、少年が腕に巻いていたアメリカ大使館の腕章を引きちぎり、私の手紙を破り捨て、少年の身分証明書も投げ捨ててしまった。自転車も取り上げられ、下関まで連行され、そこから10日間、彼らの掠奪の手助けとそれをトラックに運ぶ作業をさせられた。そこでは少年は何百人という中国人が殺害されるのを見た。最後は掠奪品を約100km近く離れた句容まで運ぶのを手伝わされ、そこで放免され、途中で人間や動物の死体で一杯の沼地で水を飲みながら、28日、憔悴して戻ってきたという。(注:前月26日の程瑞芳の日記と同じ少年のことだが、聞く立場によって少し内容が違う。ただしこの28日というのは26日の勘違いであろう。つまり毎日ドタバタしながら一週間後に思い出して書いているから間違えるわけである)

 同日:(マッカラムの日記より) —— 毎日毎日悪い報告ばかりだ。一人の婦人が憐れな有様でも恐しい話を持って来た。彼女は日本軍が衛生部隊の一隊へ連行した5名の女子の一人であった。—— 昼間は日本兵の衣類を洗濯し、夜は強姦するために。彼女らの中2名は15名ないし20名の兵士を無理に満足せしめられ、一番美人の婦人は毎夜40名もの日本兵を満足せしめられた。プライス氏の庭に生後6ヶ月位の嬰児がいたが、赤子は日本兵が母親を強姦する間泣き叫び、するとその兵は手を赤子の鼻や口に当てて窒息させた。また日本兵の一団が囲内の裏壁をよじ登って来て12人位の女子を強姦した。

 きのうの午後、救済本部の近くで男性が一人殺害された。午後には日本兵の強姦未遂事件が一件。これは夫が邪魔だてして妻が抵抗するのを助けた。 しかし、午後になると、その兵隊が戻ってきて、夫を撃ってしまった(注:これは上記のマギーの日記と一致している。マギーの記録は常に具体的である)。

 病院に来た女性は三人の兵士に人気のないところに連れていかれ、首を落とされそうになったという。日本兵は首の筋肉は切っていたが、脊髄は切断されていなかった。 彼女は死んだふりをして、やっとの思いで病院まで来ることができた。… ウィルソン博士が傷の縫合をしたが、一命をとりとめるかもしれないと言っている。

 連日、私たちのグループはこの悲惨な状況を日本の当局に報告している。 彼らは軍規を引き締めるよう命令を出しているが、虐殺の報は依然としてもたらされている。

*この女性を撮影したマギーの説明はこうである。—— 彼女は難民センターから他の女性5人と一緒に日本兵に軍の病院として使われているらしい建物の二階に連行され、日中は洗濯係として、夜は娼婦として相手をさせられた。女性たちはその美醜によって一晩に10回から40回程度強姦された。2日、二人の兵士に空き家に連れて行かれ、首を切られようとした 。 … 彼女の傷は首の後ろだけでなく各所に深い傷があるが、どうして殺されそうになったか、他の女性たちがどうなったかもわからないという。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 南京にはどのくらいの難民がいるかわからないから日本軍はその登録を行う。 … 南京では逃げ切れなかった軍人がたくさん死んだ。燕子磯(注:幕府山の北東:これについては詳しく既述)あたりで数千の敗残兵が三日間飢えていた。やがて二人の兵士を日本兵のところに行かせて投降を告げた。(日本軍は)二日間食べ物を与えていたが、三日目に機関銃で射殺した。これは用務員の魏さんが見ていたことだ。軍人と平民が縄で縛られたまま堀のほとりに連行され、一列一列銃撃されて掘りに倒れて死んでいく。本当に可哀想。燕子磯で死んだ人の死体がまだそこにある。 … 魏さんは「連行された日、下関あたりの道はもう道はなく、死体の上を歩いた」と言った。(筆者注:燕子磯における虐殺は12月16日と思われるが、既述参照)

*以上の三日間は国際委員会のメンバーが見聞きした範囲内だけのことで、それ以外にどれだけの日本兵が「正月休み」として蛮行に及んだか、想像を超えるものがある。何しろこの時期南京城内には数万人ではきかない日本軍兵士がいたはずであるから、仮にそのうちの10人に一人が「強姦」を目的にあちこち徘徊していたと考えるとどうなるか …。しかもヴォートリンたちが見聞きできたことは城内の一部の安全区であって、城外の村々も荒らされていたのである。

慰安所の設立

 (程の日記にあるように)年末に日本軍が計画していた「自治委員会」が、南京の主だった中国人を委員にして年初に組織された。会長は奉仕団体紅卍字会の会長の陶錫山であった。顧問として王承典(通称ジミー)という有力な商人が就き、彼の最初の公務の一つが娼館(慰安所)の設置であった。彼はこのために歓楽街に残っていた女性たちを集め、そればかりでなく、難民の女性たちの中から志願者を募った。これによって多少日本兵の強姦行為は和らいだというが、日本兵自身の証言では、強姦のほうが金を払わなくていいからそっちへは行かなかったという者(部隊)もいたのである。当初からそうであるように安全区の中の女性たちも決して安全ではなかった。

 —— 「自分の中隊は国際安全区の中の金陵女子大付近で、一ヶ月間南京直接警備部隊になった。入城式(12月17日)が終われば他の部隊は城外に出なければならなかった。金陵女子大では五、六千人ぐらいの人が避難(最大時は一万人以上)」していて三割ぐらいが女生徒だったと思う。自分は門で警備をしていて、そこに日本軍将校たちがよく来て『ちょっと入るで』と言って構内に入っていっては女の子を連れて出て行った。よその部隊の将校たちも来た。女の子の叫び声はいつも聞こえた。女性をトラックに積み込んで連れ去られるのを何回か見た。一台に20人積み込まれたこともあった。兵隊が乗り込みシートを被せると女の子たちはおとなしくなった。強姦は毎日あった。… 略奪や強姦は恥ずかしいことだからこれ以上言えない … こんなことを話すと国際問題になる … 」。

 これは『南京戦 切り裂かれた受難者の魂』で著者の松岡環が第16師団第33連隊第3大隊の元兵士井上益男から聞き出した話であるが、とっくに当時国際問題になっていたことすら下部の兵士たちは知らなかったし(報道統制のため)、戦後の日本政府も隠し続け、当事者の軍人たちも「旅(戦場)の恥はかき捨て」とばかりに誰も話すことがなかったことがわかる。

 なお新たな慰安所(娼館)にはこの後の長期の占領の間に次第に日本女性も出稼ぎでやってくるようになる。ついでに言えば満州を含めた華北地区ではより近い朝鮮女性の慰安所が多く作られているし、さらに言えばこの後の太平洋戦争に入ると(この南京での兵士の暴走に軍司令部も懲りたのかどうか)従軍慰安婦として、朝鮮人女性や日本人女性も軍隊に付属して連れて行くようになる。

 なお言えば、太平洋戦争終盤まで日本軍の各国への進駐に合わせて作られた慰安所が、『日本軍慰安所マップ』として「女たちの戦争と平和資料館」によって「証言、公文書等様々な文書を徹底調査」されて詳細な資料が作成され、ネット上にオープンにされている。それは中国はもちろん、東南アジア、南洋諸島まで極めて広範囲に渡っていて、単純にその数を計算することも難しい。ついでながら、敗戦後、日本政府は数日も経たずに米軍を中心とした進駐軍用に慰安所の設立に動き、安易な方法で女性たちを募集し、その結果精神的に耐えられず自殺した若い女性もいた(筆者の「大田区」や「東京都の概要」参照)。さらに言えば、朝鮮(南北)戦争後に、同じく米国駐留軍のために韓国でも慰安所が各所に作られているのも同じ構図である。要はこうしたことは人間の抱えている基本的な「業」の問題が根底にあり、一刀で善悪を決め付けるわけにはいかないが、問題は当時の日本軍の人を人と思わない強姦から殺戮に及ぶ行為であり、一方的な侵略戦争がそれを大いに助長した。

明かりの見えない閉ざされた空間の中のわずかな兆し

 1月4日:キャンパスでは引き続き「登録」(安全区にいる難民たちを日本軍が登録させるように命令した)が行われている。今日は多分5千人ないし1万人の女性が登録しただろう。… 概して女性は男性よりもましな扱いを受けたが、それでもやはり警備の兵士たちは牛を扱うように女性を引き立て、ときにはふざけて頰に判子を押すなどして女性たちに恥ずかしい思いをさせている。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 華(ヴォートリン)は私たちにも登録を促すが、このような登録は中国人を弄ぶだけのことで意味がないし、(しなくても)大丈夫だと言うのだが、華は認めず、誠実でなければならないと言う。彼女は日本人の意図がわかっていない。他の四人のために登録に行ったが、難民の女性たちは殴られたり弄ばされたりして可哀想だ。壇上では(日本人が)自宅に帰って安心して生活しなさいと言うが、夜になって兵士たちは人家に押し入って夫を追い払って寝泊まりする。(続けて翌日の日記)…朝早くから外から来た女性たちが登録にやってきたのに、(日本の警備兵は)登録を受け付けない。彼らは「あなたたちは良民だから登録は必要ない。家に帰って生活しなさい。誰もあなたたちに害を加えることはない」と言うが、いつもこの手口。彼らは毎日外で騒ぎを起こし、戸締りを認めない。もし鍵がかかっていたら、開けるのが遅いと発砲される。昨夜登録して家に帰った女性が今朝また戻ってきた。日本兵に押入られたのだ。

 同日:(マッカラムの日記) —— 日本軍が新年の立派な挨拶のなかで、国民党は民衆の要望は眼中にない、と言ってのけたとき、私は病院中にあふれんばかりの被害者のことを考えずにはいられなかった。

 1月5日:登録業務のため、今朝は早めに朝食をとったが、8時半までに5千人ないし1万人の女性たちが私の前をひっきりなしに通り過ぎていった。なんと哀れな光景だったことか。女性たちはたいてい四人一組でやってきた。というのもその後はその隊形で行進させられるからだ。… 9時には役人の車が到着したが、驚いたことに女性たちは誰も登録するには及ばないと言われ、重い足取りで帰っていった。… 午後、P・ミルズが昨夜強姦されたという56歳の女性を連れてきた。… 新婚18日目の若い新婦が夫を探してもらいたいとやってきた。夫は洋服の仕立て屋で12月15日に家から連れ去られて戻ってこないという。さらに別の新婚二ヶ月の新婦が12月16日に連れ去られて戻ってこないと。前者は10人家族を、後者は8人家族を扶養する一家の柱であった。このような悲しい話が絶えず耳に入ってくる。

 同日:(ジョン・ラーベの日記) —— またもや漢中門が閉まっている。クレーガーの話では、門のそばの干上がった側溝に三百ほどの死体が横たわっているそうだ。機関銃で殺された市民たちだ。日本軍は我々外国人を城壁の外に出したがらない。南京の実態がばらされたら困るからだ。

 同日:(この日上海から南京に戻ることを許されたドイツ大使館書記官ジョージ・ローゼンのドイツ外務省宛の書簡) —— 私は先の報告で、日本軍は自ら引き起こした残虐行為が我々の目に触れるのを避けるため、帰還を引き延ばしたのではないかとの憶測を記したが、それは実証された。信頼すべきドイツ人および米国人の情報提供者の話によると、外国代表者の南京帰任の意向が明らかになるや、民間人・女性・子どもにたいする無意味な大量殺戮で生じた(城内の)おびただしい死体を片づける除去作業が大慌てで始まったのである。

 同日:(マッカラムの日記より) —— 吉報来たる。アメリカ大使館員三名が今日南京に到着する、と日本大使館の福井氏が知らせてくれた。10日も前からの約束であったのに、陸軍の許可がなかなかとれなかったようだ。 私たちは大使館員の帰任要求を、日本軍を通してしようとしたが、受付けてもらえなかった。私たち全員に南京から出ていって欲しかったのだろうけど、今となってはあまりに長く滞在し、あまりに多くを知り過ぎたので、南京を出ることは、かえって許されなくなっている。つまり、囚人同様の身なのだ。… 赤ん坊の配送という新しい仕事をした。「分娩」させたのは、もちろんトリマーとウィルソンで、私は運送屋として赤ん坊を、ごみごみした難民キャンプの家まで届けた。 そのほかには、ほとんど一日おきぐらいに救急車で、白菜、米、その他食料を取りに出かけている。引渡しには、外国人が同行する必要があるからだ。

 1月6日:(マッカラムの日記) —— 大ビッグニュースだ。アメリカ領事館代表が来て、マッカラム、トリマー、ミルズ、スマイスの家族は30日に漢口を発ち、香港に向かったと知らせてくれた。彼は11月末付の手紙を幾通か仲間に持ってきてくれた。ひと月ぶりのニュースと郵便だ。… 私たちがここを出られるという確証はまだ今のところないが、そうしてもらえれば、近いうちに会える機会もあるかもしれない。… 私は南京に留まってよかったと思っている。私たち外国人は、わずか20人だが、安全区内の様々なところで、かなりの援助活動ができている。 もし日本兵5万人から身を守るために、100人の人数がいたとしたならば、もっと多くのことが成し遂げられたろうに。

 金陵女子文理学院には1万2千人、大学の建物にはおよそ2万5千人、セミナリーと聖書教師養成学校にはそれぞれ2-3千人、そして付近の住宅はどこもすし詰め状態だ。 難民のなかには、石炭や米の運搬に従事する者もでてきた。私たちはいつも車やトラックからあまり遠く離れないようにしている。

一支隊長の日記から

 同日の第16師団の佐々木到一支隊長の日記 —— 「1月5日、査問会打ち切り。この日までに城内より摘出せし敗残兵約二千、旧外交部に収容、外国宣教師の手中にありし支那傷病兵を俘虜として収容。城外にあって不逞行為を続けつつある敗残兵も逐次捕縛、下関において処分せるもの数千に達す」、さらに「南京攻略戦における敵の損害は推定約7万にして、落城当日までに守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せられる」(『ある軍人の自伝』 勁草書房 1969年)とある。

 筆者私見:この佐々木何を基準にしてこの数字を出しているかはよくわからないが、不逞行為とはどちらのことを言うのか、この日本軍の残虐性はどこからくるのであろうか。中国人を自分と同じ人間と思っていないこの日本人の止まることを知らない殺戮行為は、戦争というものが生み出したものに他ならないが、それはこの侵略戦争を手前勝手に「聖戦」とし、その軍隊を「皇軍」とした日本の軍政府の奢りに根本原因があるとしか思えない。そしてこの「聖戦」と「皇軍」という慢心のもとに行われた数々の非道が、実は天皇の存在をも汚辱にまみれさせていることに将兵たちは気づきもしていない。このどこに「東洋(アジア)の恒久平和」を築く意思がみえるのか。

 そもそも考えても見よ、筆者がこの文章を綴っているこの文字はどこからもたらされたのか、文字は大いなる文化である。その文化を創り、伝えてくれた国に対して一片の敬意を払うこともせず、しかも犬猫以下の虫けらのように扱うとは、逆にどれほどに日本軍が下等な人種に成り下がっているかを示している。我々としては恥ずかしい限りであるが、いまだにそうした事実を学ばせようとしない今の日本という国も、もっと恥ずかしい国であることに思いを致すべきであろう。

 なお佐々木は1月22日に「警備司令官の任を第11師団の天谷少将と交代。その後再び北支に転進す」とあり、次の天谷少将がまた大変な曲者であった。

ヴォートリンの祈りと放置された多数の遺体

 1月7日:ここ数日、月明かりの夜に漢口が激しい空襲に見舞われているという。あのような人口密集都市ではひどいことになっていることだろう。神さま、私たちが南京で受けた10日間の恐怖の支配を漢口人たちが味あわずにすみますように。… 安全区国際委員会の男性メンバーは素晴らしい働きをしている。彼らは自分たちの家が略奪されるがままに任せながら、中国人の大集団を救済するためにもてる時間とエネルギーすべてを捧げている。委員長のラーベは恐れを知らない。

 同日:(フォースターの手紙) —— きのうは大使館に着任したアメリカ人外交官からロバーツ司祭その他の手紙を受け取り、最高に嬉しかった。事態は多少良くなってきている。通信手段が平常の状態近くまで復旧することが期待できそうだ。私たちはこれまで、完全に隔離されていたので、揚州やその他のところで何が起きているのか皆目見当がつかない。書き溜めしてあった手紙をおまえに送る。私たちはそもそも日本軍の厄介者だ。ここの中国人たちはまだまだ大いに私たちを必要としている。

 同日:(マッカラムの日記) —— プライスの庭で、六ヵ月ぐらいの赤ん坊が泣いていた。かたわらで日本兵が母親を強姦している。兵士は赤ん坊の口と鼻を押さえて窒息させてしまった。… 埋葬許可がまだもらえないでいる。私は一人で38体の遺体を病院の地下壕に埋めた。近くの通りで見つけた遺体で、ほとんどが兵士だった。死人をみるとゾッとする。… 日本軍は民衆に家に帰ってほしいと願っているものの、いまだに脅かし続けているので、人々はすし詰めのキャンプを出たがらない。日本軍は商売の再開を望んでいるのだが、すでに在庫品はすべて店から持ち出してしまい、店は焼失している。日本軍は家畜の生産を望んでいるが、鶏、豚、その他生き物はことごとく殺してしまった。 皮肉なことだ。

 同日:(ラーベの日記) —— 南京の危険な状態について、(大使館の)福田氏にもういちど釘を刺しておいた。「この28日間というものずっと、市内にはいまだに何千もの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ」。福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 登録が終わった女性たちを家に帰らせる。しかし家屋が焼かれてどこに住むのか。(続いて翌日の日記に)一部の難民たちは家に帰って行った。今は5、6千人いるだけ。しかしまた戻ってくる難民たちがいる。日本兵が彼らの家に入っているので、元の家はない。

 日付なし:(クレーガーの記録より) —— 南京の住民がいまだにほかの町に帰ることをためらっているのは、一つには家の大部分が焼けてしまったからであり、もう一つには、日本人がいまだに勝手気ままにふるまっているからである、だから住民のほとんどはまだ安全地帯にとどまっている。日本人の口車に乗せられて、多くの難民が元の住居に戻ったが、一部は命の代償を払い、一部は日本兵による野蛮な拷問を受けた。安全地帯全体には大規模な難民収容所が26か所あり、数百人から5万5000人が収容されている。最も危険な時期に私たちの最大の収容所は約7万人の難民を収容した。今日でも5万人が食糧もなく炊き出しだけで暮らしている。どうすれば、彼らを正常な生活に戻すことができるだろうか?

日本の新聞記者たちの都合

 1月9日:晴れているが相当に寒い。渡り廊下やベランダで寝ている避難民はもういないが、今なおホールにいる。多くの人が夜泊まりに来て、日中は帰宅している。… 私が接触した日本軍の将兵はみなアメリカ人には友好的なようだが、ロシア人とイギリス人には気をつけるようにと警告する。だが今日、三人のイギリス外交官が着任したので喜んでいる。

 同日:(ウィルソンの日記) —— 日本軍の検閲を受けないうまいチャンスを見つけて郵便物を外部に出せる機会がとうとうやってきたらしい。… 安全のため、こちらにコピーを(注:日記や手紙はカーボン紙を挟んでコピーされた)一部残している。公式の記録はルイス・スマイスがほとんど一切を引き受けている。彼は、目撃したことないしは目撃者から聞き取りした一連の事例を編集している。私自身の体験としてここに書いたような話は、彼のリストに入っている。きょうはジョン・マギーに会って、前回撮らなかった写真を少し撮ったなら16mmフィルムが終わることが分かった。(注:このマギーによるフィルムは残されて戦後の国際法廷(東京裁判)において虐殺等の証拠となった)

 けさ、私たちは首二ヵ所に長い深傷を負った年配の男性の写真を撮った。彼は日本兵から女性を周旋するよう求められたが、その要求に応じなかったことが罪となった。次に撮ったのは、背中、胸、腕に銃剣の傷を受けている18歳(いや、22歳)の警官だ。この男性には何の罪もなかった。三番目は、前にも書いたように、他の五人とともに連行されて、日中は衣類の洗濯をさせられ、夜は慰みものとなった女性だ。首のけがは次第によくなってきている。彼女は肺炎になりかけていると思っていたが、どうやらならずに済んだようだ。

 同日:(マッカラムの日記) —— 難民キャンプの入口に日本の新聞記者が数名やって来て、ケーキ、りんごを配り、わずかな硬貨を難民に手渡して、この場面を映画撮影していた。こうしている間にも、かなりの数の兵士が裏の塀をよじ登り、構内に侵入して10名ほどの婦人を強姦したが、こちらの写真は一枚も撮らなかった。

 日本軍の工兵隊は電気・水道の復旧を望んでいる。ところが、ラーベを通じて従業員の職場復帰の最終アレンジが整った前日に、こともあろうに、 下士官を長とする日本軍部隊がイギリスの輸出会社・中華工業国外貿易協会の工場に行き、電力会社の従業員43名を抽出し、一列に整列させて銃殺してしまった。この電力会社は民間の会社である。兵士たちは何の調べもせずに、公務員だと言い張った。これらが一ヵ月経過後の状況だ。好転の兆しはほとんどない。

 日本軍は安全区における私たちの尽力を無に帰そうとしている。哀れな中国人たちを脅迫して、私たちが言ってきたことを否認するよう仕向けている。なかには、略奪や強姦、放火は日本軍の仕業でなく、中国軍がやったのだといわんばかりの中国人もいて、私たちは狂人や馬鹿を相手に今まで苦労してきたのだろうかと情けなく思う時がある。外国人たちはみな、この厳しい試練を乗り越えて、よくぞ生きてきた、と不思議に思う。

 同日:(クレーガーの記録より) —— 12月9日から南京城の水道が止まり、発電所は、12日から止まっていた。1月2日に発電所を一時的に復旧させ、水道が復旧したのは1月3日だった。水道電力の本格的な復旧は1月7日になってからだ。国営工場の労働者という理由で43人の電気工場労働者が射殺されたため、労働者が志願せず、募集が難しくなっている。地下水源は深刻な汚染を受けており、日本軍にとっても水の供給が不可欠であることから、一刻も早く水道の正常な供給を回復するために全力をあげているようだ。 電話回線網は完全に破壊されており、短期間での復旧は不可能だ。

良心的な日本兵と横暴な日本兵

 1月10日:午後、日本兵4人が様子を見にやってきたが、みな好感の持てる人たちだった。隊長は私と切手を交換したり、妻子の写真を誇らしげに見せてくれた。敵兵をすべて友だちに変え、彼らがこのようなありのままの姿を見せることができるように役立てたらと思う。

○ 良心的な日本兵

 戦場で日本兵の心が荒れているとはいえ、どこのどんな世の中にも善悪をわきまえた人間はいる。かのナチスの兵士の中にも、そういう人間はいた。

 —— たまに中国人を助けたり、その赤ん坊をあやす日本兵も見たことはある(マッカラムの日記)。

 —— 横浜の生糸商人だという英語の話せる兵士は、フォースターやマギーの仲間の宣教師を知っていた。この兵士は会った二日後に貴重な牛肉を一包み届けてくれた(マギーがフォースターから聞いた話)。

 —— とても気持ちの良い日本人将校が病院にやってきて、患者の食料不足を告げたところ、彼は今日、百斤の豆と牛肉を持ってきてくれ、他にも欲しいものはないかと言ってくれた(マッカラム)。

 —— アメリカで4年間過ごしたことのある日本人将校は、私たちの仕事を気遣ってくれ、必要なものがないか毎日調べにやってくる(ウィルソンの手紙)。

 —— 自分のところにいた庭師が日本軍に徴用されて行ったが、その部隊は毎日50銭を彼に支払い、食事もきちんとさせた(マギーの日記)。

 1月11日:(マッカラムの日記)—— 今日、領事館警察官、田中に関する面白い情報が耳に入った。田中は私たちを連れまわって、盗まれた品物を探すのを手伝ってくれたのに、その当の本人が、あちこちから細かいものを盗み取っているところを目撃されていた。きのう彼が瀟洒なドイツ人邸宅から出てくるのをスベルリングが目撃。 彼があれほど賞賛していた素晴らしい珍品を人力車二台に満載していたそうだ。(注:この田中は、ヴォートリンが12月18日に記している田中と同一人物と思われ、偽善者なのであろう)

 1月12日:午後、4人の中国人スタッフとともに米を手に入れるためにある寺院に出かけた。米は手に入れることができたが、運ぶ手段がなかった。雑踏する上海路を戻ってくると、大勢の露天商人が道端で盗品を売っていた。衣類やあらゆる家具、備品、食器などがある。盗品を運んでいる者たちもいた。(注:これをして中国人自身が略奪をしているではないかという人がいるが、まず日本軍が家々を壊して略奪し、その影響で家を失い行き場のなくなった住民たちが、さらに人がいなくなった家々を物色し、それを露店に出して生活費を稼いでいるのである。それに下記のように、日本軍はむしろ立派な家々の財産を略奪している)

 同日:(フォースターの手紙) —— 日本軍は部隊がらみで、恥じも外聞もなく外国人財産(大使館所有のものさえ)を略奪する。外交官が外国人の財産状況を見回っているとき、その敷地内で日本兵が略奪を働いているところにたびたび出くわす。日本兵は車はあるだけ盗みだしてしまったし、安全を期してアメリカ大使館に保管しておいた車さえ持ち出してしまった。現在、面子をたてるため、日本大使館は必死になって軍部から車を取り返そうと努力しているところだ。

 13日:(ローゼンのドイツ外務省宛の1月13日付報告書) —— 大使館ではいくつかの中国の蒔絵が日本兵に盗まれた。その後、日本のある領事館警官が現れて、中国人が犯人であると証言させるため、大使邸のクーリーに50ドルを手渡した。かれは殺されるのを恐れて金を受け取ったが、その後ドイツ人の庇護を頼りに真実を語った。身の危険を案じて証言を他言しないよう懇願した。

 (別途ローゼンは上海から短期でやってきた岡崎総領事ー松井司令官の外交顧問ーと話し合い、上海等に避難しているドイツ人関係の家々やホテルが荒らされ、車や家財道具が多く盗まれ、中にはその後火をかけられて焼失した家もあり、それらの賠償を交渉したという記述の後で)われわれドイツ人は悲しむべきこれらの事件に強い衝撃を受けているが、まさか皇国日本軍がこんな事件を起こすとは思わなかった。これが中国軍部隊の仕業でないことは、彼らは12月13日までに南京市外に逃げ出しているから明らかである。ドイツ政府としてはこれらドイツ人財産に対する破壊行為と略奪に関して、完全なる賠償請求をする予定であると厳しく伝えた。岡崎氏はいくらか理解し、相応の申請があれば現地で解決をはかる用意があると言った。(注:一方でローゼンは、日本軍が使う「慰謝料」という言葉は日本側にはおそらく好ましい概念だとしても、形だけの補償の表現としては認めることはできない、と記している)

日本大使館への報告とその無力

 1月15日:午後、夫や息子が連行されたまま戻ってこないという26人の女性の事例を日本大使館に報告した。いずれも彼らが兵士であったことはなく、家族を養うただ一人の稼ぎ手だった。大量虐殺が行われたあの時期に、このような人たちがどれほどたくさん殺害されたことだろう。夜、私を含めてラーベその他の9人の外国人が日本大使館に招かれた。重い気分になることも再三あったがジョークも口をついて出た。

 同日:(南京の北東の郊外にある棲霞山寺には2万4000人の難民が収容されていたが、その寺の住職が書いた訴状である) —— 1月15日、多くの日本兵が来て若い女を捕まえ、10人を選び出して寺の一室で強姦した。その後一人の泥酔した日本兵がきて、酒と女を出せと要求した。酒は出したが女は出さなかった。すると彼は立腹して銃を乱射し始め、少年二人を殺し、そこから引き上げる途中道端の一件の家で70歳の老女を殺し、ロバを一頭盗み、家に火をつけた。(注:この寺は郊外なので難民区のように守ってくれる外国人はいず、日本軍の暴行に対して無力であった。ただ、20日頃に別の分遣隊が到着して交代し、この隊を統率する中尉は良い人で、事態は改善されたという。このように上官がその気になればきちんと統治できるということである)

 同日:(マッカラムの日記) —— 状況は好転してきているが、恐ろしいことはまだ引続きおきている。10日ほどまえ、施療所に入っていったところ、胃と腸が一部とび出している少年がテーブルに寝かされていた。 年齢は15歳。傷は二日経っていた。日本兵は彼を野菜の運搬作業に使役させ、仕事が完了すると、少年の持ち物を調べて60セントを奪い、そのあと銃剣で数度刺したという。

 新しく赴任したイギリス大使館員たちは、私たちの話を聞いて心を痛めた。彼らはこの種の話には、あまり慣れていないので、かなり話の内容を和らげて話さなければならなかった。ところが、偶然にも、彼ら自身かなりひどい場面に直面していたため、私たちの話はすぐに納得してくれた。彼らがイギリス人の財産の見回りをするため、和平門のAPC近辺を訪れたとき、ゴルフクラブが無理やり身体の内部にねじこめられた婦人の死体に遭遇したという。中国人がなぜ、まだ難民キャンプを出たがらないのか、なぜ怖がっているのかが、これでわかるだろう。私たちがいる間は、アメリカの権益のなかで中国人を保護してこれたが、そうできたのも、九牛の一毛にすぎない。

 外国人が災難に遭わずに境界ぎりぎりの所まで行かれるようになったことは素晴らしいことだ。最近着任した外交官のなかには、私たち全員が整列させられて、処刑されなかったことに驚嘆している者がいる。

 (家族への手紙として) —— こうなる前に脱出しようと思っていた。ところが、教会の仕事が片づいたとき、病院の人手不足は深刻で、依頼を拒むことはできなかった。いったん引き受けたが最後、私は仕事の渦に巻き込まれてしまい、たとえ望んだところで、そこから抜け出すことはできなくなってしまった。私は私で、中国人の友や使用人たちに、南京を立ち去るよう勧めて良かったと思っている。 そして、自分がここに留まったことは良かったと思う。辛いことではあったけれど、ここにいる哀れな仲間を助ける一翼を担えたことは嬉しいことだ。

想定外の日本兵の残虐行為と難民の訴え

 1月15日:(ローゼンのドイツ外務省宛の1月15日付報告書) —— 日本軍が放った大火は日本軍の占領から一ヵ月経っても燃え続けており、婦女や幼女を陵辱し強姦する行為が続いている。… 日本軍は夜な夜な金陵大学内に設けられた難民キャンプに駆け込み、女性を連れ去って強姦したり、家族の目の前で暴行している。… また日本軍はしばしば池のそばで中国人を処刑し、死体を捨てたりしたため、南京の多くの池が死体で汚染され、それでも貧乏な住民はこれらの池の水に頼って生活している。…

 —— 本報告が描写した陰鬱な光景は、南京に滞在する外国人にとっては、日本軍のこうした残虐性を誰も考えていなかっただけに、いっそう衝撃的であった。潰走する中国兵、とくに四川省出身の部隊の狼藉は確かに覚悟していた。だが、日本兵のこうした行為は想像外であった。むしろ、日本軍が来れば平和と安寧が戻るのではないかと予想していたほどである。したがって、行われた残虐行為について誠心誠意の証言をした人々にたいして、それが恨みや偏見であるとの非難があってはならない。同じことを本報告における私の記述についても要求したい。

 1月17日:午前中を無為に過ごした。しなければならないことは山ほどあるが、どうにもやる気が出てこない。… 今夜は南の方向、たぶん南門の外側に立ち込めるものすごい煙を眺めていた。闇夜の空は時々炎で赤く輝いている。破壊は依然としてやまない。… 避難民たちは帰宅するようにしきりに促されているが、どうして帰宅する勇気が持てようか。… 一ヶ月前の今夜、12人の少女がキャンパスから連れ去られた。あの恐怖を忘れることができようか。

 同日:(ラーベの日記) —— 昨日の午後、ローゼンと一緒に長い時間市内を回った。すっかり気が滅入ってしまった。日本軍はなんというひどい破壊の仕方をしたのだろう。あまりのことに言葉もない。かっての目抜き通り、上海の南京路に引けをとらないと自慢の種だった太平路は跡形もなく壊され、焼き払われ、無傷の家など一軒もない。見渡す限り廃墟が広がるだけ。繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見る影もない。国立劇場も焼け落ち、いったい誰が元どおりにするのだ。南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、ひどい思い違いだったようだ。

 同日:(程瑞芳の日記) —— これまでの日本兵は配置転換されたが、新しくやってくるたびに騒ぎを起こし(注:上記の天谷少将の率いる隊のことと思われる)、人々に危害を加え、クーニャン(姑娘=若い娘)探しをする。ある年配の人が家に帰ると日本兵からクーニャンを出せと言われ、いないと返事したら探せと命じられ、探さなければ刺し殺される。だから年配の男性も家に帰る勇気がない。

 1月18日:午前9時から昼までフランシス陳と二人で第二回の難民収容所所長会議に出席した。生活手段を奪われた避難民を対象とするアンケートについての論議に大部分を費やした。… 王さんは夫や息子が連れ去られたまま戻ってこない女性たちのデータを午前10時から作成している。たぶん最後までできないだろう。というのもここ二日間に100人を超える人たちがやってきて、混雑がひどいからだ。12月16日に連れ去られた大勢の人は射殺され、死体さえ見つけることができないだろう。… 金陵女子学院には今なお5千人から6千人の避難民がいる。

 同日:(ラーベの日記) —— 当地のアメリカンスクールがまた略奪にあった。壁に大きな穴まで空けられてピアノが運び出された。再びアメリカ大使館が置かれたばかりで、日本軍がよもやこんな恥さらしなことをするとは。大使館はまたぞろワシントンの国務省に「事件」を報告するはめになった。

南京市自治委員会長の辞任

 1月20日:王さんと孫さんは引き続き、女性のデータを書き留めていたが、つい先ほど、ある女性が12月16日、38歳の夫と17歳の息子が連れ去られ、幼い娘だけが残されたという話を聞いたばかりだ。仮に彼女が自宅にとどまっていたとしても、夫と息子を救うことができたかどうか、誰が答えられようか。程先生はこうしたデータを福田氏(大使館員)に提出しても無駄だと考えている。つまり日本にとっては中国は憎い敵であり、中国人がどんなに苦しんでいても日本人は意に介さないことを忘れてはならないと。… 理事会への報告書を書いている最中、若い日本人将校が相談があるとやってきて面会したが、彼は近く南京を発つので20歳と14歳の女性二人をここに引き取ってもらいたいと言っている。今彼女たちが住んでいる場所は非常に危険だという。避難民は家に戻るようにしきりに催促されている中でそれはおかしいと思い、ここはいかに居心地が悪いかをはっきり説明した。彼は二人のうち年上の女性に関心があって、安全区の外に住ませておくのが心配なのだ。

 同日:ドイツ大使館のローゼン政務書記官がこの日付で、ドイツ・ベルリンの外務省宛に発信した内容である。 —— 「当分館の通訳に先ほど伝えられたところによると、当地の南京市自治委員会(日本軍が国際安全委員会に対抗して現地の中国人に作らせたもの)の会長陶錫山氏が辞表を提出した。その原因は、委員会が日本軍からたえず受ける妨害にある。委員会は難民を安全区から他の市区内に連れ戻す問題に漸次的かつ慎重に取り組みたいと望んでいるが、日本軍は暴力に訴え、今月4日には兵士を使って安全区から難民を追放し、その粗末な家屋と売店を破壊させようとしている。難民がいまだに安全区から自宅に戻ろうとしないのは、日本兵の暴行が依然として連日起きているせいである。たとえば、ある女性が娘二人と家に戻ったところ、二人の娘は、彼女が強姦に抵抗したさいに日本兵に突き殺された。それで母親はふたたび安全区に戻ってきたのである」

 同日:(ラーベの日記) —— 吹雪だ!難民の状態は見るも哀れの一言に尽きる。いかに情の薄い人でもこれを見たら同情せずにはいられない。… マギー牧師が中国人看護婦が見た話として伝えてくれた。一人の中国兵が食べ物が不十分だと苦情を言った(給食は小さなお椀で一日おかゆ三杯)。すると監視の日本兵に散々殴られ、その後中庭に引きずり出されて銃剣で突き殺されたと。… それなのに街には日本軍の大きなポスターが貼られていて、「家へ帰りなさい。食べ物を支給します。我々日本軍はみなさんの力になります!」と。

日本軍は犯罪者の寄せ集め

 1月21日:午後行われる女性の集会のために北西の寄宿舎に出かけようとすると、数人の避難民が走ってきて、キャンパスの裏手に日本兵がいるというので駆けつけてみると、4人の兵士が難民小屋から3人の少女を連れ出していて、私の顔を見るなり少女たちを解放して逃げた。まもなく憲兵の一団がきたので、彼らに報告した。

 ここ数日間、悲しみで狂乱状態の女性たちが報告してきたところでは、12月13日以来、夫や息子が行方不明になっている件数は568件で、彼女たちは夫が日本軍の労務要員として連行されたのだと思っている。しかし私たちの多くは、彼らは黒焦げになった死体の中か、古林寺(南京の西側にある大寺)の近くの池に放り込まれているか、埋葬されることなく定准門(挹江門の南側で下関に近い)外にうずたかく積まれた死体に混じっているのではないかと思っている。12月16日の一日だけで主に16、17歳の若者422人が連行されたが(このキャンパスにいる女性の報告によるもの)、ほとんどの場合、一家の稼ぎ手であった。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 街中では以前ほど日本兵は多くない。でも毎日家屋(や家具)を焼いて暖を取っている。今日はまた一人の子供が死んだ。合わせて18人(10日ほど前の日記には合わせて26人の赤ちゃんが生まれたとあり、この日も一人生まれた)。… 日本兵がクーニャン探しにきて、服を脱がせ、犯そうとした。幸い華が難民たちを集めて礼拝をしようとしていたので、彼らを追い払った。

 1月22日:(ラーベの日記) —— マギーがまたも悪い知らせを持ってきた。日本兵が食用の家畜を手当たり次第に手に捕まえているという。しかも中国人の若者を使って豚を手に入れ、なかなか捕まえられなかったり、全然できなかった若者は銃剣で突き殺され、なかには内臓がはみ出て垂れ下がっていたという。こんなことばかり聞かされていると気分が悪くなってくる。そうだ、日本軍は犯罪者の寄せ集めだと思えばいい。普通の人間にこんなことができるはずがない。

 同日:(アメリカ大使館アリソン書記官のアメリカ国務長官宛の電信報告) —— 南京占領後、日本軍の将校たちは明らかに部隊を統制する努力をしなかったために兵士たちは野蛮な行為を働き続けた。アメリカ人の保護施設からも婦女子が日本軍に暴力的に拉致された多くの事例があり、我々は依然として一日三、四件の割合で安全区内における強姦または強姦未遂の報告を受けている。われわれの注意の範囲外でどれだけ多くの事件が発生しているかについては言うをまたない。日本軍は中国人難民を彼らの家に帰そうとしているが、帰った難民たちの多くが日本兵により略奪、強姦にあい、時には銃剣で殺されたりしているため帰ろうとしない。こうした事件の記録はファイルにして当事務所にある。(注:つまりそれらの記録は今もアメリカの公文書館に残されているし、それらは『南京事件資料集ーアメリカ関係資料編』にも転載されている。なおこのアリソン書記官は、この時期に起きた既述の「アリソン事件」に巻き込まれた人物である)

 1月23日:(24日付のアリソン書記官のアメリカ国務長官宛の電信報告) —— 昨夜8時30分ごろ、3人の日本人が大使館の車庫に押し入った。車庫には警察官の家族が住んでいたが、一人の日本人が警察官の妹をさらった。他の二人は中国人が急を知らせに行くのを阻止していた。その一人の男は海軍の軍服を着ていてもう一人は日本の青年団員が着るような民間服を着ていた。そこでさらわれた少女を探しに行こうとしていたら、彼女が戻ってきた。他の二人の日本人が自動車まで追いついてきて、彼女は外国人のところで働いているから連れ去るのはダメだと説得したからだという。もしそこにわれわれがいなかったらそのまま事は実行されただろう。(ここで問題なのは)離れた地区にいるはずの海軍下士官と日本の一般人男性が不法行為に加わっていたことである。私は日本大使館の福井氏を訪ねて強く抗議したところ、福井はワシントンと東京に報告するのはしばらく待ってくれと懇願してきた。(注:福井に関しては上記12月28日のラーベの日記にも出てくるが、同じような優柔不断の対応で、軍に対して弱気である)

 1月24日:日本大使館の福田氏と会い、大勢の女性が夫や息子を探して私に助力を求めていることを訴えた。彼はデータを持ってきてくれればできるだけのことをしようと言ってくれた。明日、532枚(10日後に持って行った時には658枚)のデータカードを渡したら、彼はびっくりするだろう。今日来た一人の少女の話を聞くと、日本兵が城内に侵入してきた際、彼女の67歳の父と9歳の妹が銃剣で刺し殺されたと言っていた。

 同日:(ラーベの日記) —— マギーは書状一通と日本軍の銃剣一丁を私の机の上に置いた。中国人女性を銃剣で脅していたところに委員会のメンバー三人が不意に姿を現したため、その日本兵は慌てて銃剣を落として逃げて行った。現場にいたスマイスがアメリカ大使館に報告し、アリソン書記官が日本大使館に報告した。

* 日付は不明ながら、この福田事務官は、「アメリカ人やイギリス人が日本に対して敵対的な感情を持っていることは知っているが、なぜ(同盟国の)ドイツ人までがそうなのか」と、ドイツ大使館のシャルフェンベルクに逆に質問した。その無神経さに怒ったローゼンはラーベとシャルフェンベルクに、「フィッシャー(上海総領事館)が上海で松井司令官に対してしたのと同じように、私もこの殺人犯たちと一緒に席に座るつもりはない」と告げた。

中国民の日本兵への報復と共産主義への傾き

 1月25日:私たちは外国人仲間から毎日寄せられる少しばかりの情報をどれほどむさぼり読んでいることか。放送された内容を労を惜しまず書き留めて送ってくれる。漢口、武昌、長沙、重慶に避難した友人たちはどうしているだろうか。従兄も空襲されているようだ。友人たちの離散、学校の閉鎖、生命と財産の凄まじい破壊など、すべてがぞっとする悪夢のようで、いったい本当のことだろうか。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 今日はまた一人の赤ちゃんが生まれた。… 難民の一人から聞いた話だが、彼の隣の家に兄弟がいて、二人とも妻がいる。弟嫁のほうが美人だという。一人の日本兵がやってきて、彼らはお茶やお菓子など出してよくもてなし、危害は加えられないだろうと思っていたが、やはり弟嫁を連れ出そうとした。ところが弟嫁は大変機転が利き、その日本兵と談笑し、色っぽく見せたりして酒を勧めた。そこで日本兵は勘違いをして弟嫁が自分の意のままになってくれると思い込んだ。そしてたっぷり酒を飲まされたところで二人の兄弟に殺され、夜、外に担ぎ出されて捨てられた。翌日彼らは(日本兵の報復を恐れて)難民区に入った。一人を殺して鬱憤を晴らし、よくやってくれた。 (注:これは被害民からすると程のみならず、気持ちの晴れる話であろうが、この日本兵は一人で外に徘徊しての行動で、彼の属する部隊としては行方不明で処理せざるを得なかったのではなかろうか)

 日付なし:(クレーガーの記録より:この後の28日にクレーガーは南京を離れ婚約者と上海に向かう) —— 南京での受難の日々の中で、私はみんなと一緒にどれほど恐ろしい日夜を経験したことか。この方面では、中国の軍事指導者の素質は悲しいことに、全く軍人の気質を持っていないことを思い知らされた。また、日本の軍隊は絶対服従によって組織された軍隊にすぎず、いったんその服従が存在しなくなると、あるいは人為的に廃止されてしまうことを、われわれは非常に残念に思っている。このアジアの野獣は、すべての人が持っている平和条約的な制約を捨てて、赤裸々に登場してきた。共産主義に反対する先頭に立ち、中国の変革と解放のために全力を尽くそうと声高に叫んだのは、この日本の獣だった。そして中国でやっていることは、露骨に共産主義を助長している。これは大変な皮肉ではないか!

 筆者注:ちなみにこの時期の日本軍の中国での主な戦争相手は蒋介石国民党軍で、もともと蒋介石は反共主義であり、1931年(昭和6年)の満州事変の時には、日本軍相手よりも共産党殲滅の方に力を入れていた。ここに及んで日本の侵略に対抗するために「国共合作」として共産党と手を組んだ。共産党はこのころは東北満州地域を主とする中国北部地域で活躍していて、「反日闘争」を掲げてその勢力を伸ばしていた。1945年(昭和20年)に日本軍が太平洋戦争で敗戦すると、国民党と共産党は袂を分かって内戦を起こし、共産党が勝利し、今の中華人民共和国を成立させる。要はクレーガーが言う通り、日本軍は共産党政権樹立に大いに力を貸したことは確かである。

新たな師団の進駐と伝染する蛮行

○ 1月下旬、第16師団に代わり、第11師団が南京に進駐してきた。その旅団長の天谷直次郎少将が南京警備司令官を兼任し、難民区の住民は2月4日までに自分の家に戻るように命令した。それは南京の秩序が回復したことを内外に知らしめる目的であった。ところが第16師団の兵士が28日に撤去する前にもう一度と言って「けしからぬ振る舞いに及んだ」という。そして(蛮行の)噂を聞いていた新しい部隊の兵士たちが、自分たちもと、また蛮行を始めるようになる。

○ 1月25日ニューヨークタイムズ特電

 1月24日、上海発(ハレット・アベンド)。軍事的必要その他の日本軍側の口実を全て剥ぎ取ってみるに、日本軍の中国前首都攻撃から一月と十日経った南京の現状は、日本当局が外交官以外のいかなる外国人の南京訪問をも許可できないほど無法で蛮虐であるという赤裸々な事実が残る。12月26日、上海の日本側高官達は南京で掠奪、暴行が続いていることを残念ながら認めると言い、記者に対し、軍紀劣悪、命令不服従の部隊は小部隊ずつ長江北岸に移動されているところであり、その守備地域は精選された軍紀厳正、行動良好の部隊によって替わられる、と約束した。さらに1月7日にも日本当局は記者に、遺憾ながら南京はまだ嘆かわしい状況であると認め、統制を逸し、日々に何百という婦人や少女へ暴行を働いている軍の師団は2、3日中に南京から退去される見込みだ、と保証した。 

 だが1月20日の遅きに至っても無法の支配は何ら抑制されることなく続いている。もし約束通りに部隊の交代が行われたのならば、新来の部隊も旧来本市に駐屯して法と秩序の擁護者を持って任じてきた部隊と同様無規律であるということになろう。

 先週金曜日夜、上海の日本当局は率直に、この状況に関する電信報告は検閲を通過しないと通告し、事実上、日本軍の威力を傷つける恐れのある「悪意有る」報告の海外打電を禁止する旨を宣言した。

 包囲、攻撃の間ずっと生命をかけて難民キャンプの運営に当たってきた宣教師や福祉活動家が上海に宛てた南京概況報告や、現在南京駐在の領事当該高官の報告が、全て悪意あるものとはとうてい考えられない。これらの報告は何れも一致し、日本軍の残虐行為と無統制の放縦についての目撃者の証言を含んでいるのである。

 これらの報告は、その主要部分は印刷不可能であるが、当地ではきわめて厳重な憶測を呼んでいる。南京地区の軍隊の中には事実上の反乱状態が存在するのではないか、蛮行を重ねる部隊は市外への撤去、北進して徐州方面へ進撃中の日本軍に合流せよとの命令服従を拒んでいるのではないか、と観察する者もいる。(注:この転進命令を拒否する兵団はありえない。つまりこうした蛮行は流行病のように伝染するのである)

 また、いまや無規律は長江デルタ地帯の日本軍全師団に広がったのか、松井石根大将など指揮官はこれを制御できないほど無力なのだろうか。(注:その通りというしかない)

 上海の外国人特派員は日本の検閲により、上海諸新聞の外国人所有者の編集コメントの海外打電を禁じられた。

○ 満鉄社員で調査室第四係の長沢武夫は、南京の図書収集の仕事を命ぜられ、この1月下旬、物資輸送の軍用列車にゆられて南京へ行った。「その頃の南京は、獅子山の砲台の下あたりに、まだ中国兵の死体が放置されているのをよく見かけたし、南京下関と浦口の間の揚子江上には、南京を逃げ出す時の軍民の死体や、南京大虐殺の後始末の死体などで、あの広い揚子江がびっしり埋めつくされていた。これらの死体は、潮の干満で上流へ押し上げられたり下流へ流されたりしており、その光景を見たやり切れない気持を …」(『長江の流れと共に 上海満鉄回想録』: 「ゆうのページ」より転載)とあって、ひと月以上経ってもなお死体が累積されていることがわかる。そのことは後述の2月15日のラーべの日記によっても明らかである。

 ちなみにここに「図書収集の仕事」とあるが、この南京大学を始め、占領地の大学の図書の多くが日本軍(を通して日本の学者の要請)によって持ち帰られたという話が伝えられていて(一説に88万冊、開戦当初の天津の南開大学図書館においては20万冊)、その数は別として略奪は事実であるとされる(この12年の稿の補遺参照)。

帰宅できない難民たち

 2月1日:日本軍は安全地区の避難民を4日までにそれぞれの家に帰らせるようにとわれわれに指示している。しかしここにいる多くの女性は自分の家で日本兵に押入られ、夫に危害を加えられた上に自分たちは凌辱されている。そういう女性たちに家に帰るようにとどうして言えようか。今日もまた一団の女性が来て、キャンパスに残れるようにと懇願してきた。危険な家に帰るくらいならこの学校で餓死するほうがましだという。… 今日出かけて見て回った街の様子がひどい。いたるところで住宅や店舗は掠奪された上ですっかり焼き払われていた。国立中央研究所では主要な建物のうち三棟が焼かれ、長年の努力の結実である植物標本は焼け焦げて残骸になっていた。残っている研究資料も整理して保全しなければならない。仲間のメリーの家もあらゆる物が掠奪され、壊されていた。

 同日:(ベイツの証言)今朝六時半、大学を出る時、また一団の婦人が集まってあいさつにきて、彼女たちは帰宅することはできないと話す。ここ数件の暴行事件の中に一婦人の件があるが、この婦人は収容所が封鎖されたら寝具類を失うのではないかと思って、二人の娘を連れて昨日、西華門の家に戻った。昨晩、日本兵がやって来て少女たちを強姦させよと要求した。二人の娘が拒絶すると、兵隊たちは銃剣で刺殺した。その婦人の言うところでは、もし自宅に帰っても、そこで殺されるのであれば、彼女たちを収容所から追い出そうとするさいに兵隊に殺される方が、ずっとましだというのである。

 同日:(フォースターの文書から) —— マギーと二人でいるところに一人の少年が助けを求めて駆け込んできた。一緒にその家に行くと、家人が錠を下ろした寝室を指した。ドアを壊して入ると一人の日本兵が15歳の少女とベッドに一緒にいて、もう一人がベッドの横に座っていた。すでに少女は陵辱された後だった。マギーは日本軍は強姦を犯罪と考えていないのではないか、あるいは日本人には性のモラルがないのではないかと疑っている。日本軍当局が難民収容所から自宅に帰れと強制したのは、日本の将兵の慰安のために女性を自由に確保するためではなかったのかとも疑った。

 2月2日:仲間と一緒にキリスト教伝道館、アメリカ教会伝道本部などに行った。一つの建物は外側の損傷は軽かったが、最上階の部屋は徹底的に掠奪されていた。西区の校舎は焼け落ち、中華路では最高級の建物の80%が焼かれ、キリスト教青年会館は真っ先に焼かれたようだ。日本軍の入城直後の数日間は火災はそれほどではなかったが、一週間と経たないうちに掠奪と放火が始まった。中国軍も撤退する際に掠奪はするが、金銭や小物程度で、日本軍はよく訓練されているから掠奪や放火などはしないと確信していた。しかも伝道施設は日米双方の生命によって保護されていたはずであった。太平路も商店は軒並み焼かれていたが、徹底的な掠奪(現に彼らはトラックで運び出した)の証拠を隠蔽するためだ。

 日本大使館に行き、上海から帰ってきたばかりの福田氏に会い、658人分の行方不明者の資料を渡した。彼はできることはするつもりだと言ってくれたが、それは本心だと思う。しかし女性たちが頼るべき制度など存在していないことは彼も理解している(大使館レベルでは日本軍を動かせない)。午後また数名の女性がやってきて彼女たちの身の上に起きた残酷な事件について語った。いつかそのうち日本の女性たちにこうした悲劇を知ってもらいたいものだ。

 同日:(ラーベの日記) —— 今日、上海日本大使館の日高六郎参事官とローゼン宅で昼食。我々が記録した日本兵の暴行はこの三日間だけでも何と88件もある。これはこの種のものとしては今まで一番ひどかった12月を上回っている。報告書を渡すと日高氏はまったく困ったものだと呟いて、部隊が交代するときは往々にしてこういう事件が起きがちだと言い訳をした。「前の部隊は1月28日に離任させられたのですが、撤退前にもう一度けしからぬ振る舞いに及んだという話です」。この手の逃げ口上は先刻承知だ。けれども我々は今報告されている強姦などの事件が実は新しい部隊の仕業だという証拠をつかんでいる。

 筆者私見:ヴォートリンは「日本の女性たちにもこの事実を知ってもらいたい」と日記上で時折書いているが、その日本の女性たちは80年経った今もまだ、ほとんど知ることはない。まずこの時代にはこうした事実が本国に配信されることはなかったし、もはや国内は完全な戦時体制下にあり戦争への協力で目一杯であり、新聞上で日々の戦勝報告しか読むことはなく、その背後に行われている暴虐など想像外のことであった。太平洋戦争が始まるとなおのことであったが、その終盤には日本全国の都市に大空襲がもたらされ、戦後になっては自分たちが受けた悲惨な戦争の傷を癒すのに精一杯で、日本軍がよその国で何をしたとか、考える余裕もなかった。余裕ができた現在では、自分たちの息子や夫が戦地から帰ってこなかった話、そして空襲や原爆で受けた悲惨な話を語るところまでで終わっていて、しかも学校教育で日本が加害者としての戦争の歴史を教えられることはほぼないからである。

強制帰宅への難民の恐怖と嘆願

 2月3日:ひっきりなしに雪が降っている。とても寒い。一棟あたりおそらく900人以上いる二つの研究等を除くすべての棟の避難民登録を終了した。… 自分たちの家に帰らされるとはなんと恐ろしい決定だろう。帰宅すれば物品を強奪されたり、銃剣で刺されたりするだけでなく強姦される危険が待っている。だからまず比較的年齢の高い女性たちに帰宅を促すようにと時間を費やした。神学院女子寄宿舎の李さんが、その収容所の若い女性たちがここに来たがっていると相談にやってきた。

 同日:(程瑞芳の日記) —— ここ数日は本当に憂鬱でどうしたらいいかわからない。難民たちを家に返す日が迫っている。今日は日本兵が三回やって来た。一人の中国人が一緒に来たが、もともと下級士官で、日本兵に川から助けられ、今は彼らのために働いているという。日本兵が離れているときに彼は華に「難民の若者たちを家に帰させないでくれ」と涙を浮かべて話した。

 同日:(ラーベの日記)—— この収容所ではどこもかしこも似たような光景が繰り広げられている。うち(ラーベの家)の庭でも70人もの女たちがひざまづいて頭を地面にこすりつけながら泣き叫んでいる。…… 「あなたは私たちの親です。これまでも私たちを守ってくださいました。お願いです。どうか見捨てないで!最後まで守ってください。辱められた上で死ななくてはならないというなら、ここで死なせてください!」 胸が潰れるようだ。… 日本当局は奴らをならず者と呼んでいるそうだが、聞いて呆れる。こっちでは「人殺し部隊」と呼んでいる。… 今しがた張から聞いたのだが私たちがかって住んでいた家の近くの小さな家で、17人家族のうち6人が殺されたという。娘たちをかばって家の前で日本兵にすがりついたからだ。年寄りが撃ち殺された後、娘たちは連れ去られて強姦された。結局女の子一人だけ残され、みかねた近所の人が引き取ったという。…

 局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこらじゅうで見かける。吐き気がして息苦しくなる。(注:実は似たような目撃記録は各所にあるが、さすがに筆者も書き写しかねていた。収容所の女性たちがラーベに懇願するのも無理はないのである) …

 江南セメント工場のシンドバーグ氏がギュンター氏の報告を届けてくれた(注:上記の12月28日参照)。これを見ると南京だけが日本兵に苦しめられているのではないことがわかる。強姦、殺人、撲殺。同じような報告が四方八方から入ってくる。日本中の犯罪者が軍服を着て南京に勢ぞろいしたのかと言いたくなる。(注:江南セメント工場の救済活動については上記参照)

 2月4日:今日は恐怖の日だ。私たちとしては女性たちを無理やり帰宅させるつもりはない。午前中、5人の若い女性が聖書講師養成学校からやってきて、昨日そこの収容所が閉鎖されてそれぞれの家に帰ったが、夜間、兵士たちが侵入してきて養成学校に逃げ帰ったことを話した。昼前後に憲兵が二名やってきたが、私は(女子学院の)避難民は1万人はいたが、今は4千人だけで、残っているのは遠方の女性や家を焼かれて帰る家がない等の話をした。午後に大使館の警官二名がやってきて、われわれに伝えられた要点は、全員帰宅すべきこと、その場合は憲兵や警察、自治委員会が保護してくれること、夫が連行されたり、家が焼かれている場合も、四つの特別地域に移ること、今後は安全区に対する保護は行わない、というものであったが、通訳の中国人が若い女性は安全ではないからここに居残った方がよいと小声で助言してくれた(注:程の3日の記述と重なるが、どちらの日付が正しいか不明だが、おそらくヴォートリンの頭の中のほうがいろんなことが入り混じっているから、程の3日が正しいのだろう)。夕刻、プラマー(ミルズ)が相談にやってきて、どの収容所も強制退去が行われていないことを告げた。そこに200人ほどの女性がやってきて、頭を地面にこすりつけて、ここにいさせてくれとプラマーに懇願した。

 同日:(程瑞芳の日記) —— ここ数日、難民の女性たちは華(ヴォートリン)と顔を合わせる度に懇願する。夕方、米さん(ミルズのこと)が華を見舞いに来たが、帰りに彼女たちに囲まれて車を止められた。ある女性はゴミだらけの地面に跪いて泣き叫んだ。仕方なく彼は歩いて帰った。

上海派遣軍慰霊祭と松井司令官の帰任など

○ 以下の二日分は日本軍側の話である。主に国際委員会メンバーの記述から構成している)

 2月5日:この日、新たに着任した天谷直次郎南京警備司令官が各国の大使館館員を呼び、茶会を開いた。そこで天谷は、南京に駐在する外国人が、日本軍が虐殺を行っているとかの情報を海外に送り、現地の反日感情を助長して困っている。そのために多数の中国人が安全区に残っていて、常態への復帰が遅れている。しかも今の外国人たちがとっている態度は裁判官のようであり、外国人の介入がなければ南京における日中関係はもっとうまくいっているに違いない。日本軍に抵抗するようにけしかけたのは外国人に他ならない。わが軍は規律の正しさで世界に知られている。現在のような事態が起こっているのはひとえに中国側の責任である。他国の軍隊であったらもっとひどいことが起きたに違いないと確信している … と述べた。

 ラーベの報告書では(おそらくこの日の話で)ローゼン書記官が日本の将校に「あなた方の軍隊が統制を失っているから」と言うと、「なんと言われる!わが軍は世界に冠たる …」と反論し、するとローゼンは、「おや、それでは日本兵がああいうことをしたのは命令だったと言われるのですね」と切り返し、相手は黙ってしまったという。

(筆者私見:年末に天下ってきたばかりの天谷の態度と言葉というのは、すでにして今も南京事件などなかったという人々の言葉や態度に通底しているが、施政の長としてその実態を直接把握できる立場にいながら、何も調べようとせず、糺そうともせず、最初からこのように決めつけた話をしている。今の政治家にもこの種の人間は多いが、得てしてこのような偏向した固定観念で断言する政治家を、国民は案外受け入れたりするから、世の中はわからない。その発言が自分の意向や見方に沿っていると思うからなのか、であるとすれば自分で掘り下げて考えることが面倒な人が多いのかもしれない)

 2月7日:司令官松井石根は前日上海から南京に来ていて、この日の午後、司令官として最後の仕事になる上海派遣軍の戦死者1万8000余の将兵の慰霊祭に出席した(ついでに戦死した軍馬1万2000頭もその対象で、死んだ中国軍は軍馬以下なのであろう)。松井は「軍記頽廃し、これを立て直さざれば真面目の戦闘に耐えず。強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり」との陸軍中央の判断で日本に帰され、退役させられることが決まっていた。その慰霊祭終了後に参集した隊長に対して、軍紀引き締めの訓示を行い、「この50日間に幾多の忌まわしき事件を起こし、戦没将士の樹てたる功を半減するにいたった」と述べ、「南京占領後の軍の諸不始末」を日記に苦衷の思いで記している。

 またその午前中に現地の自治委員会の役職者を招き、短く、弱々しい調子でスピーチを行っている。—— 「日本軍部隊が南京進駐後にいくつかの不誠実な歴史を作り出したことは非常に遺憾である。私は哀れな難民に心から同情する。私は委員会がその仕事を精力的かつ実践的に遂行されることを望む。そして委員会に対して必要ならばいかなる援助も惜しまない所存である」と、やりもしない空言を発している。これはローゼンが、出席した委員会の孫氏から聞いた内容である。

○ いくら言葉で暴虐を重ねる兵士たちを諭しても、一旦緩んだ兵士に対して厳罰を与えるか何かの具体策を取らない限り無理な話で、しかも松井は年末に上海に戻ってからその風評の中で冷たい視線を浴びて、反省したはずが、ここまでの一月半、何をしていたのだろう。すぐに司令官として南京にとって返して具体的な処置をすべきであったろうに、何かをした形跡がない。ここには行動で示す軍人の姿はなく、自分で責任を取らない単なるお役人・高級官僚の姿しかない。責任を取るとは、言葉の問題ではなく、具体的にそれを正すための措置をとるということである。それすらできない無能な軍人たち(東條英機を筆頭にして)によって、日本国民は愚かな戦争に巻き込まれたのである。しかも愚かな戦争という言葉では済まされない、太平洋戦争を含めて内外で軍民を合わせると少なくとも2000万人以上の命が失われているのである。

 この日の夜、松井は将校たちと会食し、「各隊長等50余名来会盛会なり。予は宣撫に付、希望を述べ兎に角支那人を懐かしめ、之を可愛がり憐む丈にて足るを以って、各隊将兵にこの気持を持たしむる様希望せり」とも日記に記しているが、その場の将校たちは何を思いながら聞いていたのであろうか。松井の言葉というのはいかにも上っ面で軽いものであったことが推察される。

 実はこの翌日松井は上海に帰任するが、その前に「大使館員等と会食」、「宣撫工作に就き、予の意図を伝へ一同満足せり。なお外国関係はその後各方面の尽力に依り感情融和し、これ以上面倒起らざる見込なる旨承知し安心せり」と日記に記しているが、ヴォートリンたちが必死になって嘆願書を作成して大使館に届けていたことなど、大使館員は何も松井に伝えていないことがわかる。大使館員たちはとっくに諦めの心境になっていたであろうが、ヴォートリンはどこまでも希望を捨てなかった。

帰宅しても戻ってくる難民

 2月5日:王さんが終日私の執務室で客を迎えたり、行方不明の人たちを職業別に分類してくれていた。他の職員はこの一週間のうちに三日を費やして手に入れた資料の分類作業をしている。安全区国際委員会から救援が得られるかどうかは、私たちの勧告いかんで決まる。

 昨日自宅に帰った女性のうち4人が今朝戻ってきた。このうちの一人の40歳の女性は城門を出る際に衛兵に3ドル強奪されたうえ、その先で別な兵士に退避壕へ連れて行かれた。ところが向こうからやってくる20歳ぐらいの女性の姿を見ると彼女を解放した。危険を冒して自分の家に帰るくらいならこのキャンパスで餓死するほうがましだと思うのも不思議ではない。門衛でさえ気がつかないうちに、かなりの数の若い女性がこっそり入ってきている。彼女たちは閉鎖された難民収容所からやってきたのだ。

 同日:(ラーベの日記) —— 強姦などの暴行は2月1日から2月3日までのたった三日間でまたもや98件もあった。事態の酷さは金陵大学附属中学校の難民収容所の責任者からきた救済を求める手紙が雄弁に物語っている。(一度減少していた)難民が5千人から8千人に増えているという。

 2月7日:これまでのところ避難民の報告で行方不明とされている男性の大まかな分類は、商売人、庭師、農民、工芸職人、仕立て屋、大工、石工、料理人、機織り職人、警察官、消防士、少年(9人)等で、合計723人だった。これらの人々の大多数は12月16日(17日の入式前日で大掃蕩作戦中)に拉致され、いまだに帰宅していない。

 同日:(ラーベの日記) —— 紅卍字会の使用人二人に案内されて、午前中、ソーンといっしょに西康路の近くの寂しい野原に行った。ここは二つの沼から中国人の死体が124体引き上げられた場所だ。その約半数は民間人だった。犠牲者は一様に針金で手をしばられていて、機関銃で撃たれていた。それから、ガソリンをかけられ火をつけられた。けれどもなかなか焼けなかったので、そのまま沼の中に投げこまれたのだ。近くのもうひとつの沼には23体の死体があるそうだ。南京の沼はみないったいにこうやって汚染されているという。

 午後、許さんから聞いていた、明け方に日本兵に殺された中国人4人の現場に、その娘二人を連れてミルズと一緒に蓮沼の現場に車で向かった。娘たちの老父が、力車で二脚の椅子を運ぼうとしていたところを銃で殺された。近くに隠れていたこの老父の妻が知り合いの二人を呼んで急ごしらえの担架で運ぼうとしたところを、また日本兵は銃殺した。彼らは貧しい百姓だった。娘は母親が全財産の10ドルほどを身につけていたはずだと言っていたが、どこにも見当たらなかった。あまりのことに涙を見せずに繰り返しお辞儀ばかりしている娘に私は10ドルを握らせた。帰る前に妹の方はそれぞれの遺骸に一握りの土をかけていた。

欧米人への日本軍の接待

 2月8日:こんなうららかな日が、なぜ人を悲しい気持ちにさせるのだろうか。… 10時に使用人の一人がやってきて、南山に兵士がいると言った。大急ぎでゴム靴を履き、上着を着て駆けつけた。兵士が若い女性と一緒にいるところを見つけ、退去するように命じると、彼は腹立たしそうに私を睨みつけて塀をよじ登って立ち去った。彼女の話では4人の女性と一緒に池で洗濯をしていて、その4人は逃げだせたが、彼女はその兵士に捕まり、銃剣を突きつけられて服を脱がされているところだった。そのあと、日本大使館に行き、上海に出かける直前の日高参事官に5分ほど面会し、738人(注:2月2日の日記より80名増えている)の避難民の行方不明になった夫や父親や息子たちのために援助を要請した。

 午後、ラーベ氏とルイス氏が日本大使館主催のコンサートに行くのに私を誘ってきた。そんな気になれなかったが、義務として行った。20人編成の楽団は素晴らしいプログラムを用意していた。しかし私の心は12月14日に両手を縛られ、日本軍の歩兵と騎兵の後ろから歩いて行った100人以上の一般市民の集団、いまだに戻ってこない人たちの行列からどうしても離れなかった。そして破壊された街や荒廃した農村や強姦された婦女子の姿が絶えず私の目の前に浮かんでいた。日本大使館の職員たちは私たちに「日本軍の蛮行」を忘れさせようと試みたのだ。

 (注:ドイツ大使館事務長のシャルフェンベルグの記録では、このコンサートは日本陸軍音楽隊の42人編成で、素晴らしい出来だったという。また休息時間には大使館付の綺麗な四人の「ゲイシャ」がお茶を配ってくれ、軽食として各種の菓子や果物が多すぎるほとテーブルの上に盛り上げられ、ゲイシャは再びお茶を注ぎに来て、タバコに火をつけてくれるときも色っぽくしなを作り、それを大勢の報道カメラマンが撮影していて、あとでニュース映画や新聞を通じて「南京での日本人と外国人の心温まる親善関係を見せつけ」注目を集めようという魂胆だと見る。この一見華やかな光景の中で、むしろヴォートリンが難民たちのことを思って心を痛めたのも無理はない)

 同日:(程瑞芳の日記) —— 上海路の(難民)テントが今日大半撤去された(やはり家に帰った人々の災難の話が続いている)。今日は日本兵が工場の女子を見かけて南山まで追いかけてきて捕まえたところを、華が駆けつけて追い払った。午後二人の日本兵が来て、華はその件を話したが認めようとしなかった。午後、日本領事がコンサートを開いて外国人を招待した。行かない人もいたが華も行った。私は華を「普段は地獄で苦しい生活をしているが、今日は天国で気晴らし出来るといいね」と笑って送った。彼らは売春婦を使って茶会を催す。これは他の国にはないことだろうと思った。

(筆者注:これは程の誤解で、上記のように「ゲイシャ」クラスの女性だと思われる。当時の日本は軍が占領した地域に間髪をおかず商売人や売春婦も送ったが、大使館では音楽隊と同時にわざわざ「ゲイシャ」を日本から呼び寄せたものと思われる。ちなみに太平洋戦争敗戦後、数日を置かずして日本の新政府が決めたことは、進駐する米軍に対する慰安所設立であった:東京都大田区参照)

 2月9日:二組の女性の家族に会った。二人の女の子と一緒の女性は学者一家の出身で、災難を避けて農村に避難したが、全財産を使い果たし、南京に戻るしかなく、14歳の娘と同じ歳の姪二人は兵士を避けるために靴も靴下も脱いで原野を歩いてきた。にもかかわらず、城門のところで兵士たちに捕まり、姪は三度、娘は一度強姦されたというのだ。

 2月10日:(ローゼンのドイツ外務省宛の報告書) —— 米国人マギー牧師が密かに撮影したフィルムのコピーを送るとして、このフィルムは日本軍の残虐行為を雄弁に物語り、「(ヒトラー)総統にもぜひ映画を解説の翻訳文とともにご覧いただきたいと願う」とある。このフィルムは(注:当時のドイツは日本の同盟国であったゆえ)残されていないが、アメリカに送られたものが残された。

 2月13日:ジョージ・フィッチが上海から戻ってきていて、彼は20万ドルの難民救援金の約束を取り付けている。問題はどのように賢明に配分できるかだ。

模範刑務所に捕えられた兵民

 2月14日:午後、ビッグ王と一緒に、一般市民がいるかどうかを確かめるために、「模範刑務所」へ出かけた。街中は見るも無残な光景だった。すべての店が徹底的な略奪を被り、最高級の店は焼かれていた。それでも焼け残った店を建て直そうと戻ってきている人たちがいた。ある夫妻が私たちを追いかけてきて、三人の息子が日本兵に連れて行かれたことを話した。… 「模範刑務所」に入っている市民についての報告を確認してもらった後、ラーベに会いにいき、刑務所にいる人たちの手紙や嘆願書を彼に渡した。

 2月15日:春の小鳥たちがやってきた。… どのくらいの数の中国軍将兵が犠牲になったか知りたいところだ。下関の周辺ではおよそ三万人が殺されたと紅卍字会が計算しているとの情報があった。また燕子磯(幕府山の北東側で揚子江岸)で何万人もの兵士が退路を塞がれたとのことだった(注:程の1月3日付の日記と同じ出来事)。何とかわいそうに。

 同日:(ラーベの日記) —— 委員会の報告には公開できないものがいくつかあるのだが、いちばんショックを受けたのは、紅卍字会が埋葬していない死体があと三万もあるということだ。いままで毎日二百人も埋葬してきたのに。そのほとんどは城外の下関にある。この数は下関に殺到したものの、船がなかったために揚子江を渡れなかった最後の中国軍部隊が全滅したということを物語っている。(注:埋葬は2月に入ってやっと許可された様子がある)

ラーベの帰国と避難民の哀願

 2月17日:午後、メリーと私はラーベ氏の送別ティーパーティを催した。程先生が手伝ってくれ、他にローゼン博士、アリソン氏、ジョージ・フィッチ氏、リッチー氏、サール・ベイツ氏だった。その後理科棟の前に来た時に私たちが目にした光景は思いがけないもので、そこには2、3千人の女性が待っていて、ラーベ氏に一緒に留まってくれるようにと、彼が近づくと全員がひざまづき、哀願し始めた。メリーがなんとか彼を裏から退出させた。

 同日:(ラーベの日記) —— ミス・ヴォートリンが催してくれたお別れパーティはとても良い気分だった。ごちそうがたくさんあったが、いざ帰る時になってつらい思いをした!この大学に残っているおよそ3千人の難民の女性たちが、戸口に群がって、私たちを見殺しにしないでください、南京を離れないと約束してくださいと口々に訴えてきたのだ。帰ろうとすると一斉にひざまづき、泣き、文字通り私の服にしがみついて離れなかった。ようやく門までたどり着いたが、門を出た途端に閉められてしまったので、歩いて帰らざるをえなかった。ずいぶん大げさに聞こえるかもしれないが、ここであの悲惨な状況を見た人なら我々がこの人たちに与えたものがどれほど大きな意味を持つかがわかるだろう。これは我々にとって当たり前のことであって、英雄的な行為などではない。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 国際委員会委員長(ラーベ)を茶会に招待した。彼は商売人で中国滞在歴が長い。とても能力があり大胆だ。彼は雇い主から帰国を命じられているが、みんなは慰留している(彼自身も滞在の延長を求めたが却下された)。彼は「今ドイツに戻ったほうがあなたたちをもう少し多く助けることができる。ドイツで(南京の現状を)訴える人が必要だ」と言った。(注:しかし既述のようにラーベ自身が祖国に裏切られるが、帰国命令は日本軍の裏工作、つまりラーベが日本軍の統治に邪魔な存在として、友好国ドイツに働きかけた可能性もある)

 2月18日:晴れ渡った春の一日だった。たくさんの爆撃機が北西へ飛んで行った。諸都市が破壊されていることを思うと気持ちが重くなる。ある女性が避難している娘のところに来たが、彼女の情報では、昨日、近所の家から慰安のための婦人が大勢連れ去られたそうだ。

 2月21日:(ラーベの日記)午後、本部で盛大な送別会。中国語と英語で書かれた公式の感謝状を受け取った。アメリカ人と中国人からも見に余る賞賛の言葉をもらった。夕方、アメリカの友人たちと気のおけない夕食会。続いて夜8時にはドイツ、アメリカ、日本大使館員を招いてのパーティ。日本人の手前、スピーチは幾分控えめにと気をつけた。

 2月22日:(ラーベの日記) —— 午前中、荷造りにかかりっきりだった。「老百姓」たちがあちこちから梱包材をかき集めてきてくれた。… ローゼン宅で昼食。ミルズ、ベイツ、ヴォートリン、マギー、フォースター、ヒュルター、シャルフェンベルグが同席。夜、ローゼンと夕食。ユダヤ人の血を引いているための悩みを色々と打ち明けられた。夜十時のラジオニュースで、ドイツは日本の満州国を承認した。従ってトラウトマン大使は難しい立場に立たされることになった(注:事実彼はその後しばらくして解任された)。ここにいて本国の事情を窺い知るのはとても難しい。だが、正しかろうが間違っていようが、祖国は祖国だ(注:そしてラーベも帰国後に困難な道を歩む)。

 2月下旬:(ジョージ・フィッチの行動)フィッチは日本軍の軍用列車に乗って上海へ向かった。彼は灰色のラクダの毛のオーバーの裏地に、マギーが日本軍の残虐行為を撮影した16mmのネガフィルム8リールを縫いこんでいた。上海に着いて日本軍の検査をうまく通り抜けると、すぐに上海コダック社に持ち込んでフィルムのコピー4セットを作成し、そして上海から香港を経由してアメリカに飛び立った。そうして南京の状況をアメリカ政府と国民に知らせ、南京ばかりでなく戦禍で苦しむ中国人難民の救済キャンペーンを展開し、資金集めに奔走していく。

(筆者私見:現今、多くの日本の若い人たちが、後進国にあって戦禍で苦しむ人々を助けようと、自発的に現地に行って救援活動をしている姿を見聞きするにつけ、筆者はいつも頭が下がる思いがする。おそらく彼らはこの時代の南京の状況をほとんど知らずに活動していると思われるが、知ればどう思うかというよりも、「なかった」派の人々が少しでも彼らの行動に共感する心を持つことができるなら、南京における出来事も少しは前向きに捉えることができるのではないか、そうあってほしいと願うものである)

子供たちの死

 2月24日:今朝、4人の少女が老女に変装して農村からやってきた。彼女たちは薪炭の山に何週間も身を隠していた。また金陵大学から12月13日に拉致された夫の解放に力を貸してもらいたいとやってきた。彼女は子供を三人抱え、兄も同じ日に刺し殺されたようだ。午後にも、父母と祖母と乳飲み子の妹を日本兵に殺されたという少年がやってきた。父親は人力車夫だった。彼と盲目の女性が一緒にやってきた。… 夜、二月末までに要する避難民対策費一覧と三月の予算を作成した。

 2月25日:午後、集会に行く途中、安懐墓地のそばを通った。そこで身元引き受け人のいない死体の埋葬に、紅卍字会の作業員が今も追われている場面を見た。筵にくるまれて壕の中に置かれた、というより引き摺り込まれて死体だ。臭気がとてもひどい。これらの死体の大部分は日本軍の占領直後数日間のものだ。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 我々はこの苦難と危険の中にいるが、毎朝七時、みんなが集まって祈祷ができるのは神の加護であり、感謝しなければならない。… アメリカ人たちが助けてくれているが、それも神の力だ。彼らと私たちがここにいなかったら金陵女子学院は荒らされて空っぽになっていたに違いない。もし華さん(ヴォートリン)がここにいなかったらどうしようもなかった。彼らは進んで犠牲になってくれてありがたい。現在、中国人は強奪に遭わなくなったが、まだうまく行かず、生活は苦しい。今日はまた一人の子供が死んだ。

 2月27日:今朝は南門キリスト教会で初めての礼拝が行われた。その後、聖パウロ聖堂で二回目の礼拝。ここには一人の日本兵のクリスチャンが出席していた。(注:この記述に関するマギーの報告から —— フォスターとの聖パウロ教会の礼拝に聖書を持った一人の日本兵が参加するようになり、彼は来るたびに難民のために石鹸やタオル、菓子を持ってきてくれた。フォスターは記念のためにその兵士を写真に撮り、アルバムに貼って大切にしている)

 同日:(程瑞芳の日記) —— 張さんの息子は今なお帰ってこない。時々息子を思って泣いているが、おそらく望みはない。… 金陵大学に行ったが、ここ数日で死んだ子供がたくさんいると聞いた。昨日1日で12人。どんな病気かもわからないし、埋葬も間に合わない。

 2月28日:うららかな天気が続いている。ニューヨークに送る報告書の作成に大部分の時間を費やし、5時にそれを大使館に届けた。日本軍による被害の報告も作成した。午後、将校一名と兵士二名が来校した。彼らは避難民の人数についても尋ねたが、私はいまだに帰ってこない夫や息子たちのことについても話した。将校が言うには、「模範刑務所」には1000人以上の捕虜がいるが、彼らは将兵であり、民間人ではないという(注:それが嘘であることは、何人かの婦人が自分の夫や息子をその中で見かけたということでヴォーリトンのもとに嘆願にきていることでわかる。その将校は実際には何も知らない)。兵士と民間人の死体の埋葬をしていた紅卍字会の作業員の一人の情報によれば、死体はそれらが投棄された長江から運ばれてきたという。彼は死体数の情報を提供すると約束してくれた。

終わらない掠奪と女性への強姦

 この後も呆れるほど延々と日本兵の掠奪と女性の強姦被害の話が日々繰り返される。おそらく日本兵たちは仲間内の雑談で「うまい話」(自慢話)を聞き、では自分もと夜になると交代で出かけて民家を渉猟して回ったのではないか。そして自分の「手柄」を仲間に吹聴し、そしてまた別の男が俺もと言って … 男同士の中ではそういう面があることは確かで、筆者も男の中で生きてきた一人として容易に推察できる。戦勝側だから余計にそのような気分が蔓延していたであろう。つまり女性への陵辱も「戦果」の一つなのである。そこでどんなに軍の上層部が「訓令」しても、夜は外出禁止にして、門を閉ざし歩哨をつけない限り無駄である。もちろんそれでもそういうことはできないし、しない男はいる。いずれにしても、それらの行為が相手側にどれだけ悲痛な結果をもたらすか、そんなことをいささかも推し量ることのできない酷薄な心の状態というのは、とりわけ自分が殺すか殺されるかという戦場が生み出すものであろう。相手がどういう立場の人間かなど、考える余裕などまず持たず、罪の意識すらないのである。戦争という殺人を前提とする無法の状態(国際法などあって無きが如しであり、ほとんど意味をなさない)が人間をそこまで貶めるのである。

大量の遺体の埋葬と続く虐殺

 3月1日:午後、実験学校のキャンパスで見た光景に気分が悪くなった。私の犬が赤ん坊の頭をくわえてきたのだ。… 近所の女性の話では兵士が彼女たちの家にやってきては「花姑娘」を見つけるのだと言ってきかないので、家にいるのは今なお不可能だ。

 同日:(程瑞芳の日記) —— 戴女史が入院して私の負担が重くなった。粉ミルクの配分、作り方を彼らに教え、肝油も子供達に飲ませなければならないが、子供は飲みたがらない。… 今咳をしている子供がたくさんいる。

*この他、難民たちに牛痘やその他の予防接種をやり、建物の便所だけでは処理できない糞尿が壕の中に捨てられるが、疫病対策としてその処理を考えたり、毎日のように子供が病気で死に、程の日常は大変であった。また程の日記はこの日で終わっているが、その途切れた理由は何も見当たらないので、これ以降の日記はどこかに紛失したものと思われる。

 3月4日:正午過ぎまもなく17歳の避難民の少女が蕪湖からやってきた。そのかわいそうな女の子の話は、彼女の顔の表情に劣らず悲しい。日本軍が蕪湖に進入してきたとき、兵士たちが彼女の父親の店に行ったというのだ。彼女の兄が兵士と同じように髪を短く刈り込んでいたため、父親、母親、兄、義理の妹、それに姉すべてが銃剣で刺し殺された。彼女は他の女の子8人ほどいっしょに二人の兵士に拉致され拘束された。彼女の生活は地獄だった。二週間ほど前に兵士は少女を南京の南門に連れてきた。 他の兵士たちよりは親切な一人の将校が少女に、このキャンパスにくるように言ったのだ。わたしたちは少女に、寝具、洗面器、ご飯茶碗、箸を与えた。明日彼女を入院させよう。こんなことをしてどうして(日本軍のいう)「友好と協力」が実現できるのか。

 同日:(ローゼンのドイツ外務省宛の3月4日付報告書) —— 紅卍字会はゆっくりとしたペースで大量の死体の埋葬に取りかかっている。死体の一部は、まず池と地下壕(かつての防空用)から、ときに積み重なった状態で掘り出さねばならない。たとえば、大使邸の近くの大通り沿いがそうであった。川港町の下関一帯に依然として横たわっている三万体の死体は、日本軍による大量処刑で生じたものだが、紅卍字会はそこから毎日五、六百体を共同墓地に埋葬している。辺りを歩くと、散乱した死体が畑や水路のなかに見られるし、棺がいたるところに何週間も散らばったままである。

 翌日付のローゼンの報告書では、南京市自治委員会の楊氏が、委員会の苦しい状況を語った内容が記されている。 —— 「我々が必要とみなすことを日本軍はさせない。反対に我々が有害と思うことを実行せよと急き立てる。例えば日本軍は数多くの日本人商店を開いた。そこでは何でも買えるが、使えるのは日本軍が委員会に与えた軍票だけである。交換所で中国銭は吸い上げられ、軍票が発行される。もう一つはアヘンの専売で、日本軍は間もなくこれを導入しようとしている」

 同日:(ウィルソン医師の報告) —— 莫林岡の54歳の農夫が2月13日、日本兵たちから数頭の雌牛とロバ、それに少女を要求された。隣人たちは皆逃げてしまったので兵士はその農夫を地上に吊るし、体に火をつけて焼いた。しかし兵士の一人が止めさせて、農夫は降ろされ、帰ってきた家族に病院に連れてこられた。

 3月7日:入院しているメリーに会いに大学病院に出かけたが、病院は悲劇でいっぱいだ。彼女の隣の54歳の農民が、日本兵に女性がどこに行ったか知らないと言ったばかりに両手足を縛られて木と木の間に吊るされ、下から火をつけられた。一人の将校が止めに入ったので途中で火は消され、隣人たちがロープを切って病院に連れてきたのだという。

 同日:(ウィルソン医師の日記) —— 紅卍字会は、ここ1ヶ月間、安全区外や周辺農村部からの遺体をものすごい勢いで埋葬している。冷酷に虐殺された人々の控えめな推定数は、およそ10万人程度だ。もちろん、武器を放棄した多数の兵士達もその数に含まれている。

嘆願書作りと数々の暴行事件の報告

 3月半ばから、ヴォーリトンは夫や息子を返して欲しいとやってくる女性たちの助けになるようにと嘆願書作りに忙殺される日々が続く。これは、ひょっとして殺されずに「模範刑務所」に残されているかもしれない民間人を探して釈放してくれるように各自の署名とともに日本軍と特別委員会と南京自治委員会宛にそれぞれ提出するものだ。署名活動は4月に入っても続いた。ヴォーリトンは女子学院に夫たちを切り離して収容してやらなかったことに自責の念を持ち続けていたが、それ以上に収容すべき女性や子供の数は多かったのである。

 ヴォートリンはあらゆる可能性を求めて、ドイツ大使館を通じて日本大使館へ、知人を通じて上海の日本軍上級機関へ、南京市政公署の幹部への働きかけなどの努力をした。また四月のある日曜日に妻がクリスチャンだという日本兵が訪ねてきて、その彼が模範刑務所の警備の任に着くことになったことを聞き、入獄者の名簿と女性の嘆願書にある男性の名前とを照合してくれることになった。

 また国際委員会は1937年(昭和12年)12月14日からの日本兵による各種事件に関し、日本大使館に「安全区における日本兵暴行事件記録」を提出し続け、その通し番号がこの年の3月21日付まで470件となっていて、3月4日のウィルソン医師の報告は461番目である。これらとて実際の暴行事件の一部であろうが(国際委員会のメンバーに訴えられたもの、つまりたまたま外国人の目に届いたものしか記述されないから)、この残った記録の多くは洞富雄編『南京大残虐事件資料集第二巻(英文)』に収録されている。

 3月30日:午後は南門近くの「寡婦の家」へ行った。広州路の向こう側部分の上海路と莫愁路全体が人でいっぱいだ。にわか作りの商人たちがあらゆる種類のものをテーブルや地面に商品として並べている。ほとんどが盗品だが、これも生計を立てる唯一の方法らしい。(日本軍が大物を掠奪した後に小物を中国人の貧民が盗んでいく流れのようである)。そこでかつて避難民であった老夫婦に出会った。話によると彼の家は焼かれたが、彼の息子や孫たちに被害はなく、大変な幸運で、観世音菩薩のおかげだといっている。一方で彼の知り合いの庭師一家は18人の家族のうち、16人も失ったという。それ以外にもここに改めて書くに忍びないあまりにも残酷な話もしてくれた。彼らが侵略者どもは畜生だというのも無理はない。城南へ行く時は、かっては繁盛していた商店街への無益な破壊と荒廃を見ていつも悲しい気持ちになる。

 帰りがけ、一人の少年が自転車で走っていく私の姿を見て「洋鬼子」と叫んだ。そこに別の少年が「何を言う、華姉さんだぞ」ときつい口調で言った。実際、私たちがこの城内に残留しているというだけの理由で、私たちに払われる敬意は行き過ぎといってもよい。

(注:この彼女の謙虚さはラーベにも共通しているが、そもそもそのくらいの謙虚さがなければ、このような無私を根本とした活動は継続できないであろう。人は無私に徹してこそ自分の人間が生かされるということを実証している。このような人間の基本的なことは、「虐殺はなかった」派の人間たちには理解できないことであろう)

遺体の埋葬作業とその数

 以下は笠原十九司が、ヴォートリンの日記の4月以降から抜き書きした記述からのさらに抜き書きである。

 —— 春たけなわとなり、南京城の内外に散乱する死体の腐乱が激しく、慈善団体を総動員して埋葬作業が急ピッチで進められ、その埋葬の状況についてもヴォートリンは記している。

 4月2日:今日、紅卍字会だけで1月23日から3月19日までに3万2104体を埋葬し、そのうち1/3は民間人であるという報告が作成された。

 4月6日:国際救済委員会は救済事業を推進し、200人の男性が紅卍字会の死体埋葬作業に雇われている。特に(城外の)農村地域においてはまだ死体が埋葬されないままになっている。

 4月9日:城外南方の農村地域の婦人たちが次々と嘆願署名にやってきて悲しい顔で彼女たちの悲劇を語っていた。農家が焼かれ、水牛が殺されて日本軍の食用肉にされ、その上大黒柱の男性が殺害されて、村に帰っても農業ができなくなっている。わずかに作った作物も日本兵はそれを盗んでいく。午後、美しい婦人が三人の子供を連れて嘆願署名におとずれ、夫が拉致されて不明なまま助けてくれる人もいないと悲しそうに話して行った。この日で署名は1035名になった。その一つ一つに夫や息子を失った女性の悲劇が込められている。

 4月12日:生命の保護も含む救済を求めて大勢の女性が金陵女学院にやってきた。これ以上保護・収容ができないと告げられても、去ることができず、何度も立ち止まっては恨めしげに悲しそうに振り返る女性たちを見ると、胸を締め付けられる思いがする。私たちの力量、忍耐、資金のどれもが限られている。私たちにはできることしかできない。

 4月15日:紅卍字会の本部を訪ねて、彼らからもらったデータは以下の通りである。—— 彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになった1月中旬から4月14日まで、城内において埋葬した遺体は1793体、うち80%が民間人。城外では同じ時期に男女子供を合わせて39589体、そのうち25%が民間人である。この中には、もっと酷い殺害があったとされる下関、三叉河(城壁の南側を流れる)の地域は含まれていない。

(筆者私見:それにしてもすでに南京を占領し、傀儡市政を作って統治しているはずの日本軍がどうして自分たちが惨殺した大量の死体を放置したままでいるのか、筆者ならずとも理解できないであろう。日本にはいまだに虐殺された人数の大小で問題の軽重を問おうとしている人たちがいるが、そんな数の問題ではないことがどうしてわからないのか。仮にほとんどが戦闘による死者だとしても、すぐにその土地を統治しながら大量の死体を放置したままきちんと始末もできずに、略奪や強姦を繰り返す日本国の「皇軍」とは何なのであろうか)

 4月22日:金陵大学の馬博士が訪ねてきた。彼は家族と一緒に農村地域で5ヶ月に渡って避難生活を送ったが、日本兵により強姦、殺害、掠奪、放火のすべてがそこで行われた。その後は匪賊(中国人の賊)にも苦しめられた。それに、長江の河岸には膨大な数の死体が埋葬されないで現在も放置されたままであり、今でも多くの死体が長江を漂っていると語った。

安全区の閉鎖とヴォートリンに立ち塞がる日本軍

 5月2日:日本兵の女性への蛮行は相変わらず続いている。夜、女学院の門近くで一人の若い女性が日本兵に拉致された。その場所は自分がちょうど15分前に通ったばかりだったので残念でならない。

 5月9日:夜、三牌楼に住んでいた劉おばさんの家に二人の兵士がやってきて家の中に二人の嫁がいるのを見つけ、中に入れろと激しくドアを叩き、劉おばさんは拒絶して憲兵を呼びに行こうと外に出たところを彼らは顔と胸部を銃剣で刺して逃げ、おばさんはまもなく死亡した。

 5月13日:ほとんど毎日、私はこのような話を胸を痛めながら聞いている。—— いつまでこうした恐ろしい状態が続くのでしょうか?いつまで自分たちは耐えられるのだろうか? とみんなが問うてくるのも当然である。(注: このようにヴォートリンは書いているが、すでに自身の心が壊されつつあった。現に4日の日記では「私は疲れていて、精神的機能が低下しているのを自覚する」と書いている)

 5月28日:日本軍の爆撃機が編隊を組んで上空を飛んでいくのを見るたびに、私の気持ちは沈んでいく。

*国際救済委員会は5月一杯で安全区撤廃を決めた。最高時は26カ所の難民収容所にいた7万人の難民も6カ所の7千人に減り、女学院は約千余名であった。そのうち自活が困難な女性約700名をヴォートリンは学院に残したが、他からも100人が移されてきた。

 5月31日:(安全区閉鎖における慰労パーティが終わった後で)若い人たちのために、私たちは普段と変わらぬ態度で生活しなければならない。しかし、今日また爆撃された戦場や都市のことを思い続けている私には、笑うことも陽気になることも難しい。

 6月2日:模範刑務所に収容されている民間人の中で、元兵士でないことを証明された30名が釈放されることになったとの朗報が入った。嘆願書名運動の成果であったが、一方でその中に名前のなかった圧倒的多数の女性の失望を考えると気持ちは複雑だった。(注:金陵大学のスマイス教授の3月までの調査では、拉致されて殺害された可能性のある南京城内の市民は約4200人としている)

 夏期:ヴォートリンは金陵女学院に残った800人の若い女性に対する夏期学校を開いた。身寄りを失くした女性たちに文字や計算を教え、職業技術を教えて手に職を持たせることが目的であった。それはこれまでヴォートリンが学校で実践してきたことであった。9月には新しい教室も開設し、貧困家庭の女子にも解放し、基礎的な中学教育から始めるケースもあった。ある意味ヴォートリンの教育者としての夢が実現しようとしていたが、大きな障害もあった。

 その一つはこれだけの人数の教育費の捻出であり、もう一つは南京に傀儡政権である中華民国維新政府を成立させた日本軍当局が、繰り返し学院を訪れ、新しい学校制度に従うこと、教科書も新政府の発行する教科書を使用することなどを要求してきたことであった。これらの困難と障害がヴォートリンをさらに疲労させた。そして何よりも日本軍がいまだに次々と新たな都市を爆撃し戦火を拡大し続けている事実が、彼女の夢を打ち砕いているように思え、前年から自分が体験した中国の人々の惨禍を思い出させ、彼女の心を苦しめた。

 12月13日:ちょうど一年前の砲火と砲撃を思い出して悲痛な思いにかられる … 昨年のまさにこの日、銃と銃剣にさらされ、何千人、さらに何千人と殺された人たち … ちょうど一年前の今晩、金曜日、この時間に私たちは非常な恐怖に駆られながら正門に立っていた。その時私は知らなかったが、12人の若い女性がキャンパスから拉致された。あの夜は一生忘れることができない。

失意の中のヴォートリン

 翌1939年(昭和14年)2月以降は日記を書く日も少なくなり、タイプミスも多くなって、ヴォートリンの鬱的な症状が悪化していく様子があった。その3月末、家庭工芸科クラスの教育課程が終了し、生徒たちはヴォートリンら教職員に手作りの料理と菓子を用意して謝恩会を開いてくれ、53名が学院から巣立って行った。ヴォートリンはさらなる夢であった農村女子教育クラスの開校を計画していた。その夏、連合キリスト教伝道団は彼女の疲労を見越してアメリカへの帰国と休暇を進めたが、彼女は固辞した。まだ日本の侵略戦争の犠牲になっている若い女性たちを見捨てて帰国するなどできなかった。しかし8月に南京にやってきた初代学長のマチルダ・サーストン(もともとヴォートリンは彼女に金陵学院に誘われた)はヴォートリンの難民救済事業を非難し、彼女の心を深く傷つけた。

 そしてこの年の9月、ナチスドイツのポーランドへの侵略により第二次大戦が始まり、日本軍はさらに中国への侵略を拡大し、ヴォートリンをいよいよ絶望的にさせた。そして南京の悲劇から二年目の12月がやってきて、11日の日記には「今晩は死ぬほど疲れた。この一週間どうやっていけるかわからない」と書き、10日ほど日記を書いていない。

 1940年(昭和15年)になって、3月に上海でのキリスト教教育者大会に出席したが、その上海の街で派手で享楽的な生活を楽しんでいる多くの中国人女性の姿を見て、ヴォートリンは心が錯乱するような衝撃を受けた。侵略戦争に苦しむ自国の運命にもまったく無関心のように派手な生活を楽しむ若い女性たちを、ヴォートリンは正視することができなかった。その彼女の失望感はあまりにも強烈だった。南京に戻った彼女は極度の疲労感と無力感に襲われ、3月末に日本の占領工作に従った王兆銘が南京で国民政府を名乗って宣言したことが、彼女の心に追い打ちをかけた。彼女がこれまで必死になって築き上げた努力が無に帰していく思いに陥った。

 1940年(昭和15年)4月14日、「私の気力はもう消滅しそうだ。 … あらゆることに必ずなんらかの障害が立ちはだかっているように思える」と書いたのがヴォートリンの最後の日記となった。それ以後彼女の抑鬱状態は深刻になり、「生きているのが辛いから、いっそのこと死んでしまいたい」と周囲に漏らすようになった。そこで5月半ば、マギー牧師や親しい女性教師が付き添って彼女を帰国させることにしたが、この途中、汽船から飛び込み自殺を図ろうとしている。精神病院での診察では重いうつ病ということで、しばらく療養施設で過ごしたのち、テキサス州の静かな街で静養生活を送った。ところが1941年(昭和16年)2月、睡眠薬自殺を図り、未遂に終わって再び精神病院に入院し、なんとか回復して社会復帰を目指して金陵女子学院理事会の仕事を手伝うまでになった。しかし5月14日、伝道団の秘書のアパートの台所でガス自殺を図って命を絶ってしまった。享年55歳。「私の中国での伝道は不成功に終わった」、「不治の精神病に苦しむよりは死ぬほうがまだ楽です」という走り書きの遺書が残されていた。

ヴォートリンの死と国民政府の顕彰

 ここまで書いて、筆者は涙が溢れ出て止まらない。ヴォートリンは集合写真で見ると大柄で、鷹揚で優しい表情をたたえた女性であり、その心を病んでしまうようには見えない。ただ、自身が困窮家庭で生まれ、苦学の末、人生のすべてを困窮した女性の救済に捧げると決めて、どこまでもその志を貫き通した結果、戦争という度し難い怪物がこれでもかというばかりに彼女の献身的な心を叩き続け、その一途な精神を病みさせ、自殺に追い込んだ。どうして彼女はここまで追い詰められなければならなかったのか。それまでも南京において困窮した人々を救う活動をしてきていたが、日本軍の侵攻とそれに伴う数々の暴虐事件によって果てしのない困難な壁が次々と彼女の前に大きく立ちふさがった。彼女はもともと「日本軍」だから一定の節度を持って進軍してくるだろうという期待を半ば持っていた(それは他の外国人たちも同じであった)。しかしその期待は見事に裏切られ、日本軍は南京ばかりでなく、その後も漢口や重慶その他の都市にも爆撃と侵攻を続け、それを聞く度に彼女はそこに住む人々の悲惨な状況に想いを馳せ、心を痛め続けた。

 筆者が思うに、この死の3年半後の太平洋戦争終盤に米軍が日本本土の主要都市を大量無差別爆撃し、最終的に原爆投下に至るのであるが、ヴォートリンがその時まで生きていなくてまだよかったと。というのも日本軍から散々な被害を受けていた中国の人々は、米軍が日本本土への大量爆撃を開始する様子を見聞きして、日本に対する仕返しを米軍がやってくれたとさぞ快哉を叫んだに違いない。それが普通の人間の心の作用であるし、筆者も仮に当時の中国人であればその気持ちのほうに与するだろう。しかしヴォートリンはそこでさらに一層空爆下の日本の人々を思って心を痛めたのではないか、ましてや原爆投下に至っては。その心の中には敵味方はなく、とにかく人々の生活とその人生を一瞬で破壊する戦争というものが彼女の最大の敵であった。しかしこの敵は倦むことを知らず、どこまでも彼女の前に大きな要塞のごとく立ちふさがった。「ミス・ヴォートリンは戦場で倒れた兵士と同じように戦場で戦ってその犠牲となった」(その死を宣教師仲間に伝える伝道団の責任者の言葉)

 ヴォートリンの遺体は弟が引き取ったが、送られてきた遺品の中には中国の書画に彼女への献辞が書かれたものが多くあり、さらに一つの小箱の中には中国国民政府が彼女の献身的な勇気を讃え、その貢献に感謝して贈った勲章が入っていた。しかしこのような勲章で彼女の心が癒されることはいささかもなかったのである。ヴォートリンの死を知った国民政府は、その一ヶ月後の1941年(昭和16年)6月、その死を悼んだ。

 —— 「アメリカ人女性華群(中国名)は金陵女子大学副校長として人材の育成に顕著な成果を収め、1937年(昭和12年)の冬に敵が南京を侵攻し残虐凶暴を働いた時に、危険を顧みずに婦女子の避難・救済に奔走しその保護に尽力された功はまことに大きい。このたびアメリカにて逝去したとの報に接し、深く悼み惜しむものである。よってここに政令を発布してその徳を顕彰する」

 このことで蒋介石国民政府は、重慶にいながら日本軍に占領された南京の状況をきちんと把握していたことがわかる。その後間もなく、金陵女子学院の関係者によって南京郊外に彼女の墓が建てられた。墓碑には英文で「1886-1941 28年間にわたる中国への慈悲深き伝道の徳業を讃える」と記されている。1984年(昭和59年)、ジャーナリストの本多勝一は、南京を訪れて取材していた時、生存者の老人から「葉小姐(ねえさん)」あるいは「華小姐」と呼ばれた女性の評判を聞いた。ただその人はアメリカの女性らしいということと、難民たちは強姦目的の日本兵が現れるたびに「葉小姐」を呼んで助けを求めたということまでで、この時点では(ヴォートリンの日記も発見されていず)本多もその姿を詳しく知らなかった。ともあれ今後は、このヴォートリンのことを取り上げずして南京事件のことを軽々しく語ってはならない、と筆者は断言する。

 ところでこの戦争は誰が何のために起こしたのか?もしこの戦争を正当なものとして評価できる人がいるなら(虐殺を含む残虐行為の大小などを論じるのではなく)、その正当な戦争の理念から掘り起こして、その得られた成果も含めて堂々と論じてもらいたい。もとより戦争、とりわけ侵略戦争を正当化する理念というものがあるのかどうか、筆者は知らないが。しかもこの戦争はこの後8年間続けられ、その間に日本は太平洋戦争に突入してさらに戦線を拡大し、犠牲者を加速度的に増やしていった。

昭和12年の国内の動向と世相

 7月に勃発する日中戦争=支那事変は海軍の仕掛けによる第二次上海事変から始まったが(盧溝橋事件ではない)、ほぼ同時に海軍は台湾や九州からの渡洋爆撃による空爆を始め、すぐに上海などに基地を確保しながらそのまま空爆地域を拡大させていき、陸軍の侵攻作戦に先んじて南京その他へ空爆を展開し、陸軍の侵攻を容易にした。その途次における陸軍の数々の蛮行は既述の通りであるが、その戦争下の内実は日本国内に知らされることはなく、もっぱら日本軍の進撃の様子に国内は沸いていた。それと同時に国内では戦時体制が築かれ、この後の敗戦まで8年間、国民は様々な統制を受けることになる。そして日本軍は戦線拡大に邁進していき、例えば海軍は、1930年(昭和5年)から少年飛行兵を毎年定期的に採用していたが、この年を機に予科練習生は飛行予科練習生として採用を倍増させ(660人)、さらに年々増員していった。15歳から応募でき、のちに「予科練」との略称で少年の憧れとなったからいくらでも増員でき、太平洋戦争開戦の1941年(昭和16年)には約3800人に激増、その一部の若者が中国でも爆撃を行い、そして多くの若者が太平洋戦争でその命を散らしていくことになる。

昭和12年(1937)の国内出来事

 1月:日本放送協会(NHK)が欧州・南米向けの放送を開始。

 東京では浅草、大阪では道頓堀や千日前などの劇場や映画館の新春興行は超満員の入りとなり、また宝塚少女歌劇公演は座席券にプレミアが付くほどの人気となった。

 2月11日:文化勲章が制定され、第1回受賞者は長岡半太郎、佐佐木信綱、幸田露伴、横山大観など9人が選出された。

 2月17日:衆議院本会議で、無所属の尾崎行雄が、国防費激増の原因を問い、軍部の政治関与を批判する演説を1時間40分に渡って行う。

 2月19日:兵役法施行令が改正され、徴兵検査の身長が5cm引き下げられ、視力聴力検査の規格も引き下げられる。

 同月:文部省は思想局を廃止し、積極的に学生に対する教化を目的とする教学局 (庶務課・ 企画部・指導部)を設置。

 4月1日:東京−札幌間の定期航空が開始される。

 4月6日、朝日新聞社の神風号が東京の立川飛行場を出発、途中、台北・ハノイ・カルカッタ・ジョドプール・カラチ・バスラ・バクダッド・アテネ・ローマ・パリを経由し、9日午後3時30分(日本時間10日午前零時30分)、ロンドンの飛行場に到着した。東京—ロンドン間15000㌔を94時間18分余り(飛行時間51時間20分、平均時速約300km)で結び、当時の国際新記録を樹立して日本の航空技術を世界に印象づけた。英国国王ジョージ6世の戴冠式を慶祝して朝日新聞社が企画した訪英飛行であった。その後、凱旋のために日本各地を訪問。これが本来ライト兄弟の望む姿であったろうが、この飛行機もすぐに戦況のニュース取材と配信に忙しく大陸と日本を往復していくことになる。

 同月:「防空法」が公布され、防空業務として灯火制限、防毒、消毒、避難、救護の実施と、これらの監視、通信、警報が定められる。これにより学校や町内での防空訓練が始まる。いかにも早い訓練であるが(ドイツ軍のゲルニカへの空爆はこの直後)、日本軍がすでに航空機による爆撃を主体にする構想をもっていたことがうかがえる。実際に海軍はこの年、実用航空隊六隊(80機)、練習航空隊八隊(182機)計十四隊、海上航空兵力294機増加し、さらに数年間でこれを数倍にする計画をもっていた。

 同月:文部省は『国体の本義』(こちら参照)を作成、教育理念としての神秘的国体論を強調し、全国の学校や公的機関に配布した。国体とは天皇を宗主とする国の体制をいう。要旨は「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と定義した上で、共産主義や無政府主義を否定するだけでなく、民主主義や自由主義、個人主義をも国体にそぐわないものとした。民主とか自由という言葉を発すること自体、特攻警察の取締りの対象となっていく。

 同月15日:奇跡の人ヘレンケラー女史が浅間丸にて初来日する。

 4月、内閣情報委員会が「国民教化運動方策」を決定する。その主旨は「尊厳なる我が国体に対する観念を徹底せしめ、日本精神を昂揚し、帝国を中心とする内外の情勢を認識せしめて国民に向かうところを知らしめ、国民の志気を鼓舞振張し、生活を真摯ならしめるとともに国民一般の教養の向上を図り、もって国運の隆昌に寄与する」とある。同時に「時局に関する宣伝方策」を策定し、5月に閣議決定し、6月に「国民教化運動に関する宣伝実施基本計画」を策定、正式決定する。

 4月29日:赤坂のダンスホールのダンサー80余人が愛国婦人会の会員となり、赤坂公会堂で発会式が行われた。

 5月:日本放送協会はラジオ聴取者300万人突破記念祝賀会を東京會舘にて行う。

 5月21日:神風号の凱旋報告が数寄屋橋の朝日新聞本社前で行われ、数万人の群集で埋め尽くされた。

 5月31日:林内閣が成立4ヶ月で総辞職する。

 同月:陸軍省は重要産業五ヵ年計画を発表、これによって準戦時体制に入ることになる。

 6月4日:第一次近衛文麿内閣が成立する。ちなみに近衛は太平洋戦争開戦前にも首相を務め、直前に辞任した。

 6月:献金付きの愛国切手と葉書が販売される。寄付分は民間飛行場の建設資金とされる。

 6月:二葉あき子の歌『だまっててね』が卑俗な流行歌であるとして発禁になる。

 7月3日:浅草に東洋一の国際劇場が開場、4階建て、定員は3993名で、こけら落としは松竹少女歌劇団(SKD)の「東京踊り」であった。

 7月7日:盧溝橋事件が起こり、日中戦争(支那事変)への糸口となる。

 7月9日:政府は盧溝橋事件を受けて臨時閣議を開き、事件不拡大方針を決定するが、二日後には華北の日本人居留民の治安維持のために派兵を行うと内外に声明する。ちなみに明治以来、日本人居留民のためという建前が常に戦争の引き金になっている。

 7月11日:早くも陸・海軍により全国各地に第一陣の召集令状が発せられる。

 同日:銀座で女子店員15人が昼休みを利用して出征兵士のための千人針を町行く人に依頼する。翌日の新聞には『千人針に示す銃後の赤誠』と報道され、以降千人針が全国的に広がった。千人針は日露戦争の頃から始まり、出征兵士の武運長久を祈り、白もしくは黄のさらしに、赤糸で一人一針、千個の縫い玉を縫ってもらう。そこに5銭か10銭の銅貨を通し腹巻状にしたもので、兵士は常に肌身離さず身に付けた。5銭硬貨は4銭(死線)を超える、10銭は9銭(苦戦)を超えるという意味で使われた。陸軍省は東京府下の女学生2万2千人に対して、4万個の慰問袋の作製を依頼した。これは女学生の仕事として太平洋戦争に至るまで長く続けられた。

 7月13日:内務省警保局図書課は、「時局に関する記事取扱に関する件」として、各庁府県長官あてに軍に不都合な記事を掲載することを禁じる通達をした。(下記参照)

 7月29日:通州事件(既述参照)が起き、日本の対中敵対感情がさらに高まる。

 7月30日:内務省警保局図書課は、改めて陸軍省新聞班が作成した「新聞掲載事項許否判定要綱」を各府県庁に通達した。(下記参照)

   7月31日:陸軍省は「記事掲載禁止命令権」を発動し、軍隊の作戦・行動に関しての新聞掲載を禁止する。これによって写真や記事などは検閲され、<陸軍省許可済>を記すことが義務付けられた。

 同日:東京日日新聞社が『進軍の歌』の一般公募を始めた。裏面に録音した『露営の歌』が人気となり大ヒットする。これ以降、新聞各社が競って軍歌を公募していく。(筆者の「日本の軍歌とその時代背景」参照)

 8月1日:この日から映画の幕開けに<挙国一致><銃後を護れ>などのスローガンを入れることが義務付けられた。

 8月13日:第二次上海事変開始、日中戦争の幕開けとなる。

 8月14日:軍機保護法改正が公布され、軍事機密(作戦、用兵、動員、出師その他軍事上秘密の要する事項または図書物件」の漏洩に対する取り締まりを強化、最高は死刑となった。

  同日:植民地台湾から中国・杭州などに向けて海軍航空隊が「渡洋爆撃」を開始、翌日には長崎の大村からも漢口などへ渡洋爆撃。

 8月15日:第二次上海事変勃発:緊急閣議で日中事変不拡大方針を放棄し、全面戦争突入を決定する(宣戦布告をせず)。

 8月16日:海軍省令により、海軍の軍事に関する記事の新聞紙掲載を制限する。

 8月16日:政府は軍需工業動員法の発動を決定。

 8月24日:政府は国民精神総動員要綱を決定、その運動を推進する団体の設立を各道府県と市町村に指示した。

 8月28日:憲兵司令部警務部長は各憲兵隊に対し、「時局に関する言論、文書取締に関する件」として通達、その禁止事項の中には「事変の経過又は戦地等の状況を論議するに当り皇軍の名誉威信を損じ又は軍記の厳正を疑わしむるがごとき事項」などの他に、「国境を超越する人類愛または生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は風刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむるところある事項」とあって、ゆめゆめ人類愛や親兄弟への情を優先することのないようにとの「配慮」がなされている。

 同月:海軍飛行予科練習生に甲種として16歳からの短期修行期間の別枠を設け、募集するが応募が殺到するも第一期の採用は250名、その後ほぼ年に2回募集する。ちなみに予科練を終えると本科に行き、正式な飛行練習生となる。これらは中国戦線に向けての増員であり、実際に海軍は日中戦争が終わるまでの8年間にわたって、一万回以上の空爆を中国各地に対して行うことになる。(筆者の「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」参照)

 9月13日:中国・国民政府が日本軍の空爆行為を国際連盟に提訴。

 9月13日:政府は「国民精神総動員実施要綱」を発表、「八紘一宇」「挙国一致」「堅忍持久」の三つのスローガンを掲げ、「尽忠報国」(国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神=滅私奉公」の推進を図った。

 9月21日:大日本連合婦人会、及び同女子青年団は女子義勇隊結成運動を開始する。

 9月:第72臨時国会で、日露戦争の全戦費を上回る20億2200万円(現在の5兆円以上)の臨時軍事費が、わずか1日の審議で可決され、軍事費関連など11本の法律案も原案通り可決した。

 9月:従来の内閣情報委員会を発展させる形で内閣情報部が発足、新聞・通信・放送・出版・演劇など各分野に対して統制が強められる。

 9月26日:日本婦人団体連盟が結成される。日本基督教婦人矯風会、日本女医会、基督教女子青年会日本同盟など8つの団体が統合したもの。

 9月:国際連盟総会で日本軍による中国の都市空爆に対する非難決議を満場一致で採択。

 9月:東京小石川に後楽園球場が開場。

 10月5日:国際連盟、諮問委員会で日本の軍事行動を九カ国条約・不戦条約違反とする決議採択

 米国のルーズベルト大統領が、シカゴで侵略国を批判する「隔離」演説を行う。

 10月5日:新しい宝塚少女歌劇のレビューは「皇国のために」という軍歌調であった。

 10月:商工省は初の物資統制となる「臨時輸出入許可規則」を公布施行、綿花、化粧品、オレンジなどの果物、紅茶などのぜいたく品の輸入を禁止、さらに軍需資材の輸出を禁止する。

 10月:愛知県は県下三十余校の女学校に愛国子女団を結成し軍事教練を実施すると決定。青森でも未婚女性の女子青年団の武装演習が行われる。これにより全国で女子の軍事教練や銃後の護が実施されるようになる。また赤坂のダンサーたちも軍事教練を行う。

 11月4日:広島の呉海軍工廠にて戦艦大和の起工式が行われる。(竣工1939年:昭和16年12月)

 11月6日:イタリアローマにて「日独伊三国防共協定」の調印が行われる。

 11月:神奈川県によって京浜工業地帯の造成工事が10ヵ年事業として始まる。場所は漁業と海水浴の好適地であった。その後企業の工場などが集まり、中京、阪神とともに3大工業地帯と言われるまで発展する。

 11月18日:「大本営令」が公布される。大本営とは天皇直属の陸海軍最高統師機関で、それまでは1893年(明治26年)に公布された「戦時大本営令」があったものの、戦時のみの適用だったことから、宣戦布告なしの「日華(日支)事変」にも適用できるように新しく「大本営令」が公布された。それにより宮中に大本営が設置された。

 11月24日:第一回大本営御前会議が開催され天皇陛下に陸海軍作戦計画が報告される。

 11月30日:日本赤十字本社は全国33の病院の中、17病院を日中戦争傷病者収容にあて一般の入院を中止する。その後17病院は陸軍下に置かれ、陸軍病院となる。

 12月13日:日本軍、未明に南京を陥落させる。

 12月13日:外務省令により「外交に関する記事掲載制限」が発令され、新聞が書いてはいけない禁止事項が拡大された。

 12月14日:東京を始め全国で南京陥落の祝賀提灯行列が行われた。実際の南京陥落から2日前の11日、日本の新聞各紙によって華々しく報じられた「日本軍の南京占領」というニュースに沸き立ち、東京の銀座などで40万人の「祝賀パレード」が行われ、中学生や高校生も動員されて提灯行列に加わった。多くの日本国民は、敵国の首都を攻め落とし、17日には盛大な入城式も終えたのだから、これで日中戦争は大勝利で決着がついたと思っていた。しかし中国軍はいったん退却して日本軍部隊を大陸の奥地へと引き込むという戦略をとっていて、戦争が終わる兆しは全くなく、日本軍が中国各地で軍事的に勝利を収めていても、自国が不当に侵略されている事実を前に、中国人の日本への敵意や戦意が高まるだけのことであった。日本の軍政府は、この後も軍事費予算の獲得や権限の拡大などを法制化し、国民の負担を増大させていく。

  同日:海軍大将の末次信正が警察機構を司る内務大臣に就任し、反戦や政府批判を口にする市民への弾圧が強まった。

  12月15日:民政党の加藤代議士や山川均ら労農派理論家や日本無産党関係者ら446名が全国で一斉検挙される。

  12月19日:内閣情報部は9月から募集していた『愛国行進曲』の入選曲を発表、各レコード会社がこぞって出版し、累計販売数は100万枚を超える大ヒットとなり、国民的愛唱歌となっていく。

 12月:武蔵村山市に少年飛行兵用の東京陸軍航空学校を開校し、募集を年二回とする。年齢は満年齢で15歳以上17歳未満であり、応募者が殺到する。

  12月:帝国ホテルでは、今後一切の晩餐会、舞踏会やクリスマスダンスを廃止すると発表。高島屋では各店に軍人への慰問用品売場を設けた。

*年末までにラジオの普及が358万を超え、26%の普及率となる。日中戦争開始からラジオによる臨時ニュースが頻発に流され、国民の戦争熱を煽った。

戦時下のマスメディアの対応と扇動

【新聞社の主催する戦時高揚イベント】

 東京朝日新聞は8月9日から30日まで、つまり上海事変に突入する前から早くも「北支事変写真展」を開催、並行して「北支戦線捕獲品地方移動展」を企画して110点に及ぶ戦利品を二台の大型トラックに満載し、9日間で600km以上に渡り巡回して「今次事変における皇軍の威武」を伝えた。これは他の新聞社でも競って行われ、帰国した特派員の戦況報告会も全国各地で行われた。

 一例として松坂屋大阪店はこの年に本館増築工事を完了、大々的に新装オープンしていたが、日本政府は国民に軍事行動を知らしめる宣伝の場として百貨店を動員し、松坂屋でも国威発揚、戦意高揚を促すいくつもの展覧会が開かれていた。開戦後、松坂屋大阪店において10月、大阪毎日新聞社主催により「支那事変展」が開催され、大阪市民の大きな関心を呼び、展覧会会期中の13日間(10月15~27日)は連日数万人の人波が会場を埋め尽くした。展覧会会場となった大阪店7階には、上海、北支戦線における戦利品、大阪出身戦死者の遺品、日本軍の激戦を伝えるジオラマなどが展示されたが、建物1階には艦上戦闘機やカノン砲など本物の兵器が所狭しと陳列され、屋上には艦上攻撃機と名物のプールには水上偵察機、さらに長さ7mの潜望鏡なども展示され、見学する人々の長い列ができた。(この節は松坂屋のブログから)

 また新聞社はニュース映画にも関わり、新聞社や通信社がカメラマンを増やして競争して現地に派遣、戦況のニュース映画を持ち帰り、多数プリントして日本各地の映画館に配給した。これがヒットし、映画館は通常の映画とは別に、ニュース映画だけを安く上映する映画館も出てくるほどになった。

【新聞社の献金運動】

 1931年(昭和6年)の満州事変を契機として、陸海軍に対する飛行機の献納活動が盛んになっていて、この年さらに加速、東京朝日新聞も7月20日に社告をだし、社としても軍への献金を拠出するとともに一般国民への募金も促した。寄付金は続々と集まり、その結果陸軍では偵察機・戦闘機・爆撃機をそれぞれ10機ずつ、海軍では戦闘機・爆撃機・攻撃機をそれぞれ10機ずつ、計60機の軍用機の製造が可能となった。すぐに第二次募金も開始されたが、献金活動は比較的裕福な子女が通う女学校も含まれ、私学などでは一機の戦闘機を寄付するところもあった。また献金付きの愛国切手と葉書が販売され、切手も献金分が上乗せされ、寄付分は民間飛行場の建設資金とされた。しかもこれは太平洋戦争開始後も国民が疲弊する中でも継続的に行われた。

【新聞社の報道体制と記者たちの報道合戦】

 明治から大正時代にかけての新聞報道は、記者が前線に出ることはなく、後方の軍の作戦本部の発表を聞き、それを単純に記事にするものであった。1931年(昭和6年)の満州事変から前線で取材を行う従軍記者の形ができた。そしてそれを後方の通信基地まで連絡員をやって、電信で記事を日本に送った。写真は飛行機で送っての後追いであった。ただ前線における取材の結果、この事変では5人の犠牲者が出た。

 そして日中戦争の端緒となった7月7日の盧溝橋事件に際しては、早くも翌日8日発、「硝煙の戦線を行く」として、「凄絶、砲火耳朶を打つ」と細かな情景描写を踏まえて扇動的な記事を朝日新聞特派員が送ってきた。とりわけ翌月の上海事変からは、前年より開発された携帯用無線電話機により、また写真の電送も可能となっていて、各新聞社は数十名以上の従軍記者団を作り、携帯用電送写真機と無線電話機、それらに必要な電池や各種機器をいくつもの大きなトランクに入れて前線まで携行した。そうして前線から記者団は写真や原稿を後方に電話送稿することができた。そこから上海や天津の支社がそのデータを受け取り、整理して社有の飛行機で福岡に送り、福岡から東京や大阪の本社に電送するというやり方で、時には夕方までの出来事を、夜には生々しい写真付きの号外で東京や大阪の繁華街にばら撒くことが可能となった。このような仕組みができて報道合戦が一層激しくなった。例えば朝日新聞は事変勃発後、東西両本社から記者22名、写真班9名、航空乗務員20名、計51名と飛行機は5機を動員、軍司令部のある天津に通信本部を設置した。

(以上の主な具体例は慶應義塾大学法学研究会「日中戦争と日本のマスメディア対応」Vol.61:池井優より)

 日本軍が上海を平定し、南京に向かって進軍する上海派遣軍と第十軍の進撃状況を(どの部隊が先に南京を攻略するかも含めて)日本の各新聞社は各軍に従軍して競って報道したため、日本国民はあたかも戦争ゲームでも楽しむかのように、日々の報道を待ち受けて読んだ。「大新聞はもとより、弱小地方紙までが、 特派員の記事なしでは読者の受けが悪いとあって、上海に連絡船の着く毎に“敵前上陸”を敢行、 鉛筆とカメラと食料とリュックサック姿も物々しく、或いは軍のトラックへ便乗、或いは舟を利用し、 或いは徒歩で道は六百八十里何のその、 未だ敵の地雷の埋もれた江南の野を南京城へと殺到した。 南京包囲の報道陣-記者、カメラマン、無電技師、連絡員、自動車運転手を合わせると、 優に(大新聞で)2百名は超えたであろう」。各社は「報道一番乗りを競って、 社機を飛ばしてのニュースの空輸を敢行し、報道合戦に拍車をかけた。 南京へ進撃する『皇軍』の連戦連勝のはなばなしい詳報が、連日報道されるなかで、 国民の戦勝、祝賀ムードが必要以上に煽られた」(「南京へ、南京へ、新聞匿名月評」 — 『文芸春秋』1938年1月号)。これによって12月13日の実際の陥落以前の11日には南京陥落が早々と報じられた。ただ、ここまでで報道陣の殉職者は8名に上った。

【軍の報道統制の内容を超える報道】

 盧溝橋事件後の7月13日、内務省警保局は「時局に関する記事取扱に関する件」として、「反戦または反軍事的言説を為し、或いは軍民離間を招来せしむが如き事項」/「我が国民を好戦的国民なりと印象せしむるが如き記事、或いは我が国の対外国策を侵略主義的なるが如き疑惑を生ぜしむ処ある事項」/「外国新聞等の論調を紹介するに当たり殊更に我が国を誹謗し我が国に不利な記事を転載し、これを容認、肯定するが如き言説を為し、よって一般国民の事変に対する判断を誤らしむる処ある事項」(以下略)等を通達した。しかしこの内容は自分たち(軍政府)の現在の行為が侵略主義的で好戦的であることを内々に自覚していることをそのまま表している。

 これに続いて7月30日、内務省警保局図書課は、改めて陸軍省新聞班が作成した「新聞掲載事項許否判定要綱」を各府県庁に通達しているが、その内容は、「支那兵または支那人逮捕尋問等の記事写真中虐待の感を与うる惧れあるもの」、「惨虐なる写真」などの掲載を禁止し、「但し支那兵の惨虐なる行為に関する記事は差支えなし」として、日本軍の中国軍民への虐待はありうべきものとし、それは見て見ぬ振りをして報道してはならないが、中国側の同様な行為は大いに報道しろというまったく手前勝手な通達である。すでにして戦争犯罪は起きて当たり前の空気である。

 それでも前線における報道合戦は加熱し、既述の「百人斬り競争」の報道にもつながっていく。本来、報道統制があってこうした残虐と思われる記事ははねられるはずだが、それが英雄視され、本人も誇るほどに国内ではこの戦争が正義の皇軍によるものとの熱狂状態の中にあり、無条件に鬼ヶ島に攻めていく桃太郎の話のように、鬼=敵軍をやっつけるのは当然という雰囲気に包まれていたものと思われる。ちなみに百人斬りとは、戦闘中のことではなく(銃砲による戦闘では剣は使えない)、捕虜として捉えた相手の首を斬り落とすことで、上海から南京への進軍途上で将校がその数を競い、それを何度かにわたって当時の従軍記者が報じたものである。

 既述の「日本政府の報道統制」においても触れているが、大手新聞以外の地方紙では時折戦場の実態が漏れ出ることがあった。以下は重複するが、10月8日(南京攻略以前である)の『横須賀村報』第10号には、「素っ裸のX X兵が○名取りまかれて来るので何事かと問へば○○隊の者にてX Xするのだと言うので見物の兵と一緒に見に行きました。最初の一人を(○○刀の斬れ味を見よ)と将校の人が水をかけてすっぱりと打ち下ろしたらころりと首が落ち」と、上海派遣軍のある軍曹からの通信を掲載した。翌年1月17日の『日本武道新聞』第55号には、「日本軍に対し行動疑惑のある(つまり抗日思想のある)部落の如きはこれを攻め、妻女の前にて夫を斬り、子の前で親を撃ち、家に火を放ち掃蕩することもあります」という記事を「戦地だより」に掲載した。しかしそれぞれ発禁処分とされた。個人でも途中で日本に帰還した傷病兵には箝口令がしかれていたが、それでも「戦地では日本の兵隊が三、四人宛一緒に支那人の家に豚や鶏を略奪に行き、あるいは支那の女を強姦している。捕虜五、六人宛並べて置いて銃剣を突刺したこともある」などの発言がもれて、いずれも「造言飛語」を流したとして禁固刑に処せられた。

【従軍記者の立場】

 なお、当時の新聞記者が現地での日本軍の暴虐行為をきちんと伝えていず、自覚が欠如していたなどという論もあるが、報道統制のことは別として、何よりも国民が待ち望んでいる記事(皇軍の活躍)を書くことが優先であり、途上で心を痛める残虐行為があったにしろ、それは皇軍の印象を悪くすることであるから、書かないほうがいいとなるのは自然であったろう。それでも一つの例として、南京を攻略した山田支隊の両角部隊が多数の捕虜を得た時に、部隊の地元の新聞福島版で、(重複するが)「おゝでかした両角部隊、捕虜一万五千とは何と凄い武勲だ / 県下に又々歓喜爆発」と報じられ、12月17日の新聞では「全県下ははち切れれんばかりの爆発的歓喜に包まれ、「でかしたでかした」と出征家族の門前には感謝感激の日の丸が躍り出で、町といわず村といわず、この日の丸の下で譬へようのない喜びの挨拶が交はされ、学校では早速教室で教材に取り上げられ、生徒児童の万歳の爆発となり … [白旗を立てゝ降参するに至れり]とは痛快だ、思ひ切って一人残らず屠殺してやればよいのに、と老若男女一様に南京陥落の祝賀の興奮消えやりぬ胸を再び沸き立たせた」と報じられた。「一人残らず屠殺してやれ」との言葉を新聞がそのまま載せるということは、そうした気分を全面的に支持する論調が新聞にもあったということで、軍もその雰囲気を後ろ推しいていたと言うことが伺える。さすがにその後、その捕虜たちを本当に「一人残らず屠殺」したという報道はなかったが。そしてこの気分を前戦の兵士が侵攻各地でそのまま体現、実践していったのであった。

 いずれにしろ後の時代の人間が傍観者として、どうして(見た事実を)書かなかったのかと問うことは安直で思慮がなく、時代背景が現代と全く違うし、現場の各兵士が公けには隠したいこと、特に占領地での女性への陵辱行為なども記者は見ているはずだが、新聞はわざわざ書かない。当然記者たちは絶対的に日本軍の味方であり、軍人と一体となって戦っていた気分の中、客観的な判断はできなかったであろう。例えば1942年(昭和17年)7月12日号の週刊朝日において、支那事変五周年記念としての従軍記者の座談会の中で、記者の一人が「南京が陥落した13日、金華門(中華門)の上に上ってみると、そこに50人ばかりの捕虜が溜まっていた。兵隊さんがこいつらは抗日のひどい奴らで、これから銃殺すると言っていた。私も腹立たしくなって、こいつらのために皇軍の兵隊がやられたのだと思うと、矢も盾もなく、その50何名かに片っぱしからビンタを食らわした。殴ったり蹴ったり、何ともいえない痛快さだった」とあり、それに対して相手の一人は「それこそ溜飲の下がった話ですね」と相槌を打った。(『南京大虐殺の現場へ』)これは太平洋戦争開始の翌年の、まだ行け行けの雰囲気の中のものであり、正常な感覚が麻痺していたと思うしかない。

 こうした従軍記者の戦時下の有り様が、戦後になっても尾を引き、南京に限らず、マスメディアの中から日本軍の残虐行為が表に出されるのに何十年以上もかかった。当時各新聞社は数十人以上の単位で中国に従軍記者を派遣し、各記者は夢中で軍の進撃とともに行動し、その成果をワクワクして待つ国内に報道する使命感があった。目の前には将兵たちの大小の残虐行為があったはずだが、見て見ぬ振りというより、それを敵方に対する日本軍の優越行為として応援する感覚でいた記者が多くいたということである。その象徴的なのが「百人斬り競争」についての毎日新聞の追いかけ記事であるが、敗戦となった結果、それらの戦時下の出来事は、軍の元各将兵と同じ立場で表に出さない気運となった。何よりも軍政府が敗戦と決まった途端、内外の軍事関係の文書の廃棄・焼却を指示し、新聞社がどこまで従ったかはわからないが、発行された新聞雑誌の記事はきちんと残った。そこからメディアも極力中国のみならず太平洋戦争下の出来事に触れることは避けつつ、その代わり国内の空爆や原爆被害、沖縄戦の被害など、被害を受けた国民の立場で平和を訴えるしか手立てはなかった。

 一方で戦後も苦悩を抱え続けた記者もいたし、時折自社以外の別のメディアで発信した記者もいた。例えば朝日新聞の従軍記者であった今井正剛は、1956年(昭和31年)12月号の文藝春秋の特集で、日本軍による大量殺戮の中、支局へ出入りする洋服屋の二人を救い出す体験をし、異常心理に囚われた兵士たちの様子と自身もその心理の中にいた状況を書いている(『目撃者が語る昭和史』第5巻:日中戦争』所収)。また『南京戦史資料集Ⅱ』には毎日新聞写真部の従軍記者、佐藤振壽の「従軍とは歩くこと」が掲載され、日本兵の虐殺場面を一部記しているが、深く立ち入ることは避けている。そうしたなかでも元読売新聞の従軍記者小俣行男が著した『侵掠ー中国戦線従軍記者の証言』(1982年)は異質なものとなっているが、この後も従軍記者が率直に語る例は極めて少ない。

【雑誌の追随と扇動】

 この時期、講談社(大日本雄弁会講談社)は数々の雑誌を発行し、その中でも大正時代末に創刊された『キング』(全年齢層対象)は100万以上の発行部数を誇っていた。10月号(9月発行)では、「日支事変大特集」を組み、その内容は「日支事変大画報/赤誠報告詩歌集/北支戦線壮烈実記/上海戦線壮烈実記/天津大激戦現地秘話/在留邦人小学生及び女学生の手記」などで、また陸軍将校の「事変の由来と将来を語る」と題した対談を載せ、さらに新聞見開き大の「最新支那詳細大地図」を付録につけた。

 一方、同社の『少年倶楽部』では、「日支事変号」として、画集で各部隊の勇士を描き、「事変愛国漫画集/日支事変感激美談集/日支事変参考地図」など、作家、漫画家、画家をフル動員した。美談に中には、南京空爆に加わった海軍中尉が暗雲の中、低空飛行で何度も爆撃を行いながら擲弾を受け、焔に包まれた愛機の中から戦友の飛行隊員に別れのハンカチを打ち振りながら自爆、戦友たちは「この仇はきっと取る」と誓った話が載せられている。こうした話を読んで、少年たちは感動して飛行隊員を志し、予科練などを経てその後、太平洋戦争末期には特攻隊員となって若き命を散らしていくのである。

 この講談社の秋の「社内通信」において年始号に向け、「檄!」とのタイトルには「今や我国は挙国一致、… 正義入道の為、東洋平和の為、破邪顕正、縦横無尽の勇戦奮闘を続けている。… ここに我々一千の社員少年は何を覚悟し何を為すべきか、他無し即ち渾然一体、全社一丸となり、如何なる金城鉄壁をも奪取攻略せずんば止まざるの意気を以って満天下幾百万読者の為、御国の限りなき繁栄の為、… 真に万死怖れぬ皇軍将士の勇武に呼応し、決死的大奮闘大活動を行い、… 空前未曾有の大捷を博し、光栄歓喜の祝杯を挙げようではありませんか」と書かれている。

 これはこれほどに戦争への気運が国内に蔓延していたという証であり、すでにして戦争を止めようなどと誰もできなかったわけで、後世で言う、軍の暴走だけによるものではなく、全国民を挙げてであり、この時代の大きな潮流には逆らえないということであろう。現に、ナチスドイツが全国民総力で虎視眈々と世界を狙っていた。

【ラジオの普及と時局放送、そして軍歌の隆盛】

 一方で、1925年(大正14年)に放送を開始したラジオは広く普及しつつあったが、盧溝橋事件については翌日のNHKニュースで「(7月)7日夜半、演習中の日本軍駐屯部隊が中国軍から不法射撃を受けて交戦、これを撃退した」と報じた。これ以降、関連の動きが臨時ニュースで逐次流され、事件の連鎖によってニュースの時間枠も拡大され、そして翌月には上海事変が発生、人々が日々の「戦況」を聞きたいこともあって、この年の後半からラジオの普及が加速し始め、送電網の拡充もあって農村地帯へも普及して行った。これに伴って政府は教養放送として定着していた時間を「国民精神総動員運動」の拡張として使うべく、軍政官と民間の要人の特別講演を番組に織り込んだ。そのタイトルは以下などである。

 —— 「北支事変と国民の覚悟」「北支事変と帝国海軍」「北支事変特別税に就いて」「銃後の後援に就いて」「北支の戦跡を巡りて感激を語る」「国民と防空」「支那における排外思想の発展」「海軍航空隊の活躍」「皇軍の威武と武道」「支那における抗日団体の活動」「私供婦人の覚悟の一端」「非常時の勤労」「時局に対する青年の覚悟」等々。

 これらに並行して「国民に清新なる慰安を与え、国民士気の振作に資する」ことを目的とし、軍歌、唱歌はもとより、軍記物、銃後の美談、滅私奉公の精神によるものなどをドラマや演芸にして多く取り上げ編成した。内容は以下などである。

 —— 「ドラマ:銃後の人々」「演芸:心身鍛錬の夕」「北支事変軍歌集」「皇軍慰問愛国音楽会」「舞台劇:千人針」「日曜特集ニュース演芸:南口鎮の激戦/ああ大山大尉/南京大空襲/戦死者武勲の生還」「歌謡曲:敵陣近く/北満の空へ/軍国子守唄/銃後の花/ああ我が戦友」「ドラマ:事変余話女ごころ」「浪曲:僚おさらば壮烈梅林大尉」「浪花節:支那事変応召美談三部曲」「(上海戦線にて)琵琶:国の護り/朗読:戦地の兵隊さん/詩吟:明治天皇御製/浪花節:軍国想夫恋」等々。

<軍歌>

 ラジオの普及に伴い、時局柄兵士の士気を鼓舞するための軍歌が求められ、新聞各社も懸賞募集で軍歌作りに邁進していく。前年に毎日新聞が戦意高揚のために懸賞募集した『露営の歌』がこの年にヒットし、新聞各社がそれに追随した。南京陥落を受けて、1937年(昭和12年)の末に東京と大阪の朝日新聞が、『皇軍大捷の歌』のタイトルで懸賞金を増額して歌詞を募集した。その募集要項には「皇軍将士の世界に比なき忠勇義烈の武勲を讃仰し…銃後の決心をますます強固ならしむるため」とあった。これは年初に発売されたが、大きなヒットにはならなかった。その後も軍歌は作られ続け、敗戦まで世の中はほぼ軍歌一筋になる。こうした相互作用により、新聞各社の発行部数も増えていった。

 軍歌に関してはこの時代の雰囲気がわかるので、この年の軍歌に限って歌詞を含めていくつか例を挙げる。戦死を前提とした歌詞が多いのがわかる。(この年だけで百曲は下らない量があるが、詳しくは筆者の「日本の軍歌とその時代背景」を参照)

『露営の歌』 —— 勝ってくるぞと 勇ましく 誓って故郷(くに)を 出たからは 手柄立てずに 死なりょうか
『進軍の歌』 —— 雲わきあがるこの朝 旭日の下敢然と 正義に起てり大日本 執れ膺懲の銃と剣(注:『露営の歌』のレコードA面にあった一等当選の歌で、これに並行して同名の国策映画が製作された)
『愛国六人娘』 —— 燃え立つ血潮よから紅に 今日ぞ輝く祖国の御旗 銀のつばさに彩りて いざ行け若人われらの戦士(同名の「時局」映画のために作られた。「銃後の女性は必ず見よ!熱性溢るる六人組の女学生たち」とある)
『軍国の母』 —— こころ置きなく祖国のため 名誉の戦死頼むぞと 泪も見せず励まして 我が子を送る朝の駅(注:映画「国家総動員」の主題歌として発表され、後に出た「皇国の母」、「九段の母」と並んで、軍国の「母」もの三部作とされた)
『銃後の花』 —— 平和の世には母として 勤めを励む女等も いざ戦いの日となれば 銃後の人よ諸共に
『軍国子守唄』 —— 坊やはよい子だ寝んねしな もしも父さん敵の為 死んでも坊やは泣くじゃない 国の護りの神となり 会いにおいでよ九段坂
『祝捷音頭』 —— 勝つた勝つたよ 上海占領 ドントドント 嬉しいね 挙がる万歳 日の御旗 日本の大勝利 万歳や
『海ゆかば』 —— 海行かば水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ かへり見はせじ(注:当時の軍政府が「国民精神総動員強調週間」を制定した際のテーマ曲。太平洋戦争終盤には日本軍の「玉砕」を報じるたびに、冒頭でこの曲がラジオで流された。太平洋戦争に突入後の学徒動員時の神宮競技場壮行会でも合唱された)
『通州紅涙賦』 —— 忘るな友よ、銘記せよ 聖代昭和十二年 炎熱燃ゆる七月の二十九日の朝まだき(注:既述のように通州で日本兵守備隊を含む居留民が中国側に急襲され二百数十人が殺害されたことに対して悲憤を込めた歌)
『声なき凱旋』 —— 轟く凱歌その中に 白木の柩(はこ)と変わりたる 声なき戦友(とも)の凱旋を 迎える我は涙のみ
『南京爆撃隊』 —— 天地容れざる不義不仁 隠忍茲に幾歳ぞ 皇軍今や支那兵に 「断」の一字を余すのみ
『愛国行進曲』 —— 見よ東海の空あけて 旭日高く 輝けば 天地の正気溌剌と 希望は躍る大八洲 おお晴朗の朝雲に …(注:『海ゆかば』と同じく「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」として内閣情報部によって歌詞が公募され、テーマは「美しき明るく勇ましき行進曲風のもの」、「内容は日本の真の姿を讃え帝国永遠の生命と理想とを象徴し国民精神作興に資するに足るもの」などとあった。これは当然ながら小学校の教科書にも唱歌として採用されていたが「永遠に愛唱」とはならなかった。

補遺各種(昭和12年)

日本軍が進めた強制徴用・労働と万人坑

この1937年(昭和12年)の日中戦争開戦による侵攻作戦上で発生した数々の虐殺事件以外に、占領地で日本が関わった産業のために多くの労働力を必要とし、その過程で多くの隠れた犠牲者を出した。万人坑とはその死体がまとめて埋められた場所のことであり、以下はこの年に関わる例である。

東洋最大の豊満ダムの建設と強制労働

 日本は満州事変の翌年の1932年(昭和7年)3月、中国東北部に「満州国」を建国、そして満州政府は「満州産業開発五ヵ年計画」を立案し、すぐに鉄や石炭などの鉱物資源の確保に取りかかり、すでに存在する各地の鉱山の再開発と大幅増産を目指した。またその電力需要に対応するためにダムの建設も必要で、労働者を各地から集める施策もなされた。

 1936年(昭和11年)、吉林省吉林市の松花江の治水も兼ね、その上流で東北地方初の豊満ダムの建設を計画、この1937年(昭和12年)10月、満洲国水力電気建設局として第1期締め切り工事がおこなわれ、11月5日、堰堤工事の起工式を挙行した。ここから最初の発電供給がなされるのが1943年(昭和18年)3月で、順次工事を重ねていくが、終戦の1945年(昭和20年)8月までの工事完了部分は90%弱であった。(ダムの大きさは長さ1.15km、高さ91mで、人造湖の大きさとしては琵琶湖にほぼ匹敵する)

 そのこととは別に、建設の労働力は主に満州以外の中国各地(つまりこの後に日本軍が次々と占領していく各町村)から集められ、その場合、募集広告(「歓迎華北労工入満」との文字)を張り出すか、それでは足りずに町や村から強制的に徴用したが、数百人から一千人単位で一つの地域住民男性が連れ出された記録は(筆者自身が調べた中でも)各地に残っている。それは同じ満州のなかの炭鉱や鉄鉱山、あるいは鉄道建設などに連れて行かれた場合も多くあった。豊満ダムでは順次集められた労働者は7年間で12万人に上り、多いときは一日に1万8000人が従事し、延べ労働者は2550万人とされている。労働環境は劣悪で(牛馬のごとくともいわれるが、牛馬のほうが棍棒などで殴りつけられることはないからまだましで)、現場の診療所には医者と看護婦が各1名しかいず、伝染病などによる病死や飢えや冬の極寒や過労による死亡のほか(これは日本の敗戦後にロシア・シベリアに連れて行かれ過酷な労働を課された日本人捕虜と重なる)、土砂崩れなどによる死者も多く、また反乱あるいは逃亡者も多くいたが、途中で捕まったものは拷問死が待っていた。

 注:拷問のやり方は様々であるが、とてもここでは詳細は記せないが、酷い場合は病人は役立たないとしてまとめて小屋に入れ焼いてしまったという証言もある。本当か?と思われるかもしれないが、筆者が多少の資料を渉猟している範囲の中だけでも、日本軍が占領した町の中でも似たような虐殺事件は各所で目に付く。こうして豊満ダムでは少なくとも五千名以上が死亡した。豊満工程処労務系の統計によると、1937年から1941年(昭和12-16年)までの5年間、殺害された労働者は1913人で、そのほか病死者3684人、労働事故による死亡者が424人で、合計6021人[吉林省地方志編纂委員会 1995年]、(他に1000人余との説も)とされるが、死体は適当な場所に穴を掘って埋められ、そのような場所がこのダム近辺に10数カ所あり、それを中国では「万人坑」と言い、この名を称される場所は、集団虐殺によるものも含めて中国各地にある。その初期の一例が満州事変の翌1932年(昭和7年)に起きた平頂山事件(既述参照)によるものである。

以下、これについての中国側の記録である。

豊満労働者万人坑

 —— 日本が東北を占領している間、豊満に大規模な水力発電施設が建設された。この巨大な工事を完成させるために、日本の侵略者は欺瞞の方法を採用して関内で8万人余りの中国人労働者を騙し、強制的に奴隷にし、多くの人が血と汗を流して命を奪われるに至った。日本人にだまされて強制された労働者たちは、びっしりと並ぶ作業場に住んでいた。1938年(昭和13年)夕、労働者小屋が火事になり、67人が焼死した。豊満の冬は毎日零下42℃ぐらいで、氷と雪の道では人の肉をも凍らせた。呉洪貴、万恒生らとともに上海からやってきた126人のうち、一冬で66人が死亡し、一年後には十数人しか残っていなかった。また、シャベルをついたまま体をひっくり返して凍死した労働者もいて、毎日何人かが現場で凍死した。労働者は監督者から棍棒で殴られ、撲殺されて死体を運び出され、怪我をさせられても作業を続けなければならなかった。

 夏になると、小屋の中は暗くてじめじめしていて、蚊や蚤でいっぱいであった。6月は雨が降って、小屋の中にも雨が漏れ、地面に一尺余りの水がいっぱいになって、布団、靴、労働者の体はすべて濡れ、多くの労働者は瘡ができて苦しんで死んだ。ある晩、強風が吹いて作業場が何棟も倒れ、ある作業場が倒壊して40人以上の労働者が死亡した。作業を早めるため、日本側は労働者に穴を掘って土を出すように迫ったが、これは非常に危険な作業だった。穴は掘れば掘るほど大きくなるが木で支えることは許されず、土が崩れ落ち、労働者はその中にいた。金孝発は自分の目で一つの穴の中に38人が入っていて、落盤のあとに6人だけが走って出て、仲間を助けようとしたが、監督工は助けを求めに来た労働者をシャベルで殴って殺した。ダムでコンクリートを注入する時、労働者が平倉まで下りていった。クレーンを運転する日本人は下に平倉があるかどうかに関わらず、コンクリートの入った大きいかめを倒し、なんと人を生きたままコンクリートで埋めた。工事現場では爆破のたびに不発弾が埋まり、監督が職人にその場で穴をあけることを強要したため不発弾が爆発し、穴をあけていた者は空に飛んで即死した。王永昌は一度で三人の石工が爆死するのを目撃したが、その光景は惨憺たるものであった。

 1941年(昭和16年)までにはダムはますます高くなって、日本軍はダムの上で歩く時間を減らすために、労働者を三平方mのシリンダーの周りに座らせ、クレーンで6、70メートルの高さまで人を吊り上げた。クレーンはスピードが速く、しっかりつかまるところがなかったので、しばしば労働者たちを宙から落として死なせた。1942年(昭和17年)、ダムの上で働く人はますます多くなり、一度にレールを吊るとき、監督は多くの労働者をレールの上に座らせて一斉に吊りあげ、吊られて間もなくレールごと落ちて、その場で即死した。この年ダムの堰が閉じられ、その際に激流に巻き込まれて布団と麻袋で塞いでいた労働者100人余りが川に流された。この重く危険な奴隷制の下で、一部の労働者は不満を持ち始めた。ある年の秋のある晩、山東省の労働者6人が作業場内で郷里を思い郷里のことを話し合っているところを、棒引きに見つかり、作業場から引き出されて両手を後ろ手に縛られ、撲殺された。

 1945年(昭和20年)5月、発電所の溶接工場のガスタンクが突然爆発炎上した。日本人は意図的に破壊したと見て、労働者を逮捕して拷問し、范文才父子三人を連行して吉林県警務課に送った。一部の労働者は圧迫に耐えられなくなって次々と逃げ始めた。労働者の一人劉瑞祥が目撃したところによると、二人の労働者が逃げて日本人に捕らえられ、その場で一人が撲殺され、残りの一人は服を脱がされて大木に吊るされ、皮むちを水につけて殴られ、肉が吹っ飛んで死ぬまで殴り続けたという。逃げた労働者が捕らえられてその場で殺されなかった場合、日本人は両手両足を針金でねじり、傷口に塩をふりかけ、川に投げた。多い場合一日に138人、五日で300人以上が死んだ。

 豊満水力発電所は1937年(昭和12年)4月から着工し、毎日労働者が死亡した。日本の監督は労働者の死骸を万人坑に投げ入れさせた。数ヶ月の間に大穴は埋め尽くされ、大穴の周囲にさらに多くの小さな穴を掘り、そこも埋め尽くされた。そこから死体は穴のまわりにいくつもいくつも散らばっていた。このような人間の惨状は歴史上まれなことである。

(『侵華日軍暴行総録』 遼寧省編)

戦後の豊満ダム

 日本の敗戦後にソ連(ロシア)軍が満州に侵攻してきて、このダムでアメリカやドイツから購入していた大型発電機などのいくつかを、捕虜とした日本兵を使って持ち帰った(ソ連軍はこればかりでなく、満州内の主だった工場の設備・機械を持ち帰った)。これにより中国東北部も一時的に電気の供給が大幅に削減されたが、国民党政府が豊満ダムの修復再建に乗り出した。しかし決定的に技術者が不足し、国民党政府は日本人技術者の多くを待遇を良くして引き止めた。しかしこの後さらに国民党と共産党の対立、戦闘が繰り返され、この発電所は共産軍による破壊でさらに痛手を負ったが、共産党軍の勝利によって再建されることになった。この時も日本人技術者が引き止められ、修復に貢献した。1950年(昭和25年)、中国共産党政府が成立してからもダムの強化は優先事項として継続され、それにソ連の専門家チームも調査に来て貢献、また発電設備の再設置も行ったという事実も、戦争というものの無駄と愚かさを思わせるが、ともあれ、1953年(昭和28年)までには、満州国時代の設計構想をほぼ終えるまでに修復、完成された。その後も順次ダムは改築、強化されていくが、そのうちこの発電所だけで、中国東北部の半分以上の電気の供給を担っていくようになる。

 ダム(発電所)の近くには犠牲者の記念碑(慰霊塔)があり、その碑には「血と涙であがなった(労働者)階級の苦しみは忘れない」とあり、その奥に「豊満労工記念館」があって、当時の過酷な実態を示す写真や資料が展示され、「日本の侵略者が中国同胞の血肉を用いて建造したもの」と説明されている。記念館のそばに三棟の小さな建物があり、ここに掘り起こされた遺骨がそのまま展示されている。外側の敷地にもまだ骨が埋まっていて、長年の土地の風化で指で軽く掘るだけで骨が出てくるという。

 さらに、1980年(昭和55年)代後半には(冬の厳しい寒さもあって)設備や土台の老朽化が問題となり、これに対して日本の国際協力事業団が中国政府の要請で1990年(平成2年)から三回にわたる調査で、補強に必要なデータを中国側に提供した。それによって全面補強工事が行われ、1997年(平成9年)に完了した。

(以上は中国側資料を除き、『中国の大地は忘れない』社会評論社1995年:森正孝編、およびJETROアジア経済研究所:南 龍瑞論文などより)

 ちなみに2018年(平成30年)12月、新しいダムに役割を譲るべく、豊満ダムの爆破解体工事が始まった。120m下流に新しいダムを建設し、完成したことによる。解体を惜しむ声として「再建ではなく補修で十分なのでは?」ともあったが、中国国家電網は、「かつて帝国主義の日本が中国人民におしつけた危険性の隠蔽。このダムはそもそも先天的に致命的な欠陥がある」と一蹴した。こうした極端な発言の傾向は近年の中国共産党には多く見受けられるが、当時の日本帝国主義が多くの中国人を犠牲にしたことは揺るぎのない事実であるが(また戦後の日本がなかなか素直に謝罪しない国であるとしても)、現今の中国共産党は思想的硬直状態にあると言ってよく(ある意味、日本の戦前の統制下、つまり中国に対し満州事変を起こし日中戦争に至った時期と同じ硬直状態にあり)、自国絶対視でいい印象は与えないことを知らなくてはならないし、その意味でも戦前の日本を反面教師にしていただかなくてはならない。

その他の強制労働の地と万人坑

 日本軍が中国に侵略した目的の一つは鉱物資源の確保であった。各所の鉱山を占領し、そのための労働者、坑夫の大半は日本軍が占領した各地から強制連行され、その間に虐待死や事故死、病死で二度と故郷に帰れなかった者が多くいる。以下はこの年に日本が取得した鉱山や工場に起因する万人坑(死体を放棄した場所)である。

【山西省大同炭鉱】

 大同炭鉱は、石炭の品質が良く埋蔵量も多い有名な炭田である。たくさんの石炭が古くから大同で掘り出されたが、1937年(昭和12年)10月に日本軍が大同炭鉱を占領する。そして、敗戦までの8年間で石炭1400万トンを生産し、6万人余の中国人労工を死亡させ、20カ所の万人坑と死体焼却場が残された。そのうち、廃鉱となった坑道に遺体が捨てられ形成された煤峪口万人坑は完全な状態で保存され、1962年(昭和37年)、標高1150mの場所に記念館が建設された。煤峪口の上下二本の坑道(廃坑跡=洞窟)には、寒冷地の乾燥した条件下でミイラ化した犠牲者の遺体が今も累々と横たわっている。この記念館の展示内容はナチス・ドイツのアウシュビッツ収容所ほどの規模ではないにしろ、少なくともそれを連想させるものがある。そのことを我々日本人のほとんどが知らない。

 2008年(平成20年)に記念館は建て替えられ、近代的な記念館の背後の山の頂上部に至るまで白い石碑(無名の労働者の墓碑)が林立する。

【龍煙鉄鉱万人坑】

 河北省張家口市宣化区龐家堡鎮にある竜煙鉄鉱は1912年(明治45年/大正元年)に発見され、北洋軍閥政府と商人が採掘を行なっていた。1937年(昭和12年)に宣化を占領した日本は龐家堡の鉄鉱山(と下花園炭鉱)も占拠、龍煙鉄鉱株式会社を設立し鉄鉱資源を日本のものとした。日本軍が占領した中国の各町村で民間人や農民が労工として捕まえられ、竜煙鉄鉱に連行された。とりわけ1941年(昭和16年)の太平洋戦争突入からは鉄の増産が必要とされ、労働者は日本が占領した中国各地から強制連行された。強制労働させられた中国人労工の総人数は把握できていないが、労働者は17、8時間坑内から出ることができず、1945年(昭和20年)(その8月に日本は敗戦)の上半期だけでも8千人が死亡し、それまでの犠牲者総数は2万7千人とされる。千トンの鉱石を生産するのに、9人の労働者の命がかかっていた。まだ生きていようと使えないとされた労働者は大きな穴に投げ捨てられた。犠牲者は鉱山周辺に捨てられ、肉丘墳(数万の死体が堆積したもの)、千人地などの万人坑が形成された。多くの遺体は針金で束ねられていたという。

 1960年(昭和35年)代に肉丘墳万人坑に教育記念館を建てるとき、150平方mの小さな範囲から約300体の遺骨が掘り出された。記念館構内の中心に大きな記念碑が建立されていて、その背後の小さな建物の中に、記念館建設時に掘り出された犠牲者の遺骨(頭蓋骨)が収蔵され、所狭しと並べられている。また竜煙鉄鉱肉丘墳の内部には掘り出されたままの遺骨を見ることができる。

【井陘炭鉱万人坑】

 河北省石家庄市井陘(せいけい)炭鉱は石炭資源が豊富で古くから採掘されていたが、1937年(昭和12年)10月に日本が占領し石炭資源の略奪を始める。石炭採掘の過酷な強制労働により1945年(昭和20年)までの8年間で4万6千人の中国人労工が死亡し、南大溝・新井など6カ所の主要な万人坑が残された。そのうち南大溝では、1971年(昭和46年)に万人坑を発掘して犠牲者の遺骨を収集し、墓苑と記念館(資料館)を作り犠牲者を追悼した。1997年(平成9年)に記念館は新しく建て直され、最初の展示室では万人坑から掘り出された膨大な数の犠牲者の遺骨(頭蓋骨)の写真の大きなスクリーンが来館者をまず迎える。館内の復元「展示」の奥に、万人坑で収集された膨大な遺骨の一部が、正面がガラス張りにされた部屋に保管されている。ガラス張り部の高さは4-5m。中には少年工(童工)の遺骨や生き埋めにされた労工の遺骨も展示されている。

 井陘炭鉱では地下183mまで採炭した。地中深くから石炭を地上に引き上げるため、蒸気動力を用いるエレベーターが設置され、その設備も現存している。

【黒竜江省飛行場建設のための強制労働と虐殺】

 —— 9月、満州の関東軍は黒竜江省黒河市孫呉県平頂樹に第二軍用飛行場を建設するため、各地から2000人の労働者を強制的に徴用した。野宿状態の貧しい食事と棍棒の下で、労働者たちは耐え難い苦しみを強いられた。ある朝、集合の鐘を鳴らしたが、工事現場に労働者は出てこず、ストライキを行った。関東軍は大勢の軍警を動員して飛行場全体を包囲し、労働者全員を集合させ、銃殺、生き埋めなどの手段を用いて、ストライキのリーダーを言うように強要した。約200人の中からスト扇動者とされる6人を捕まえ、このうち4人を銃剣で生きたまま殺し、残りの2人を軍馬で引きずって血まみれにした。数日後、500人余りの労働者が昼食の隙を狙って荷物を持って集団で逃げたが、日本兵は第二駅と大嶺の一帯まで追いかけて300人を捕まえ、平頂樹のふもとで全員を殺した。

同じ満州黒竜江省樺南の飛行場建設における虐待行為である。

 —— 満州の関東軍はソ連からの攻撃を防ぐため、黒竜江省各地で盛んに工事を行い、空港を建設した。1937年から1941年(昭和12−16年)にかけて、樺南の湖南営(現・樺南鎮)と土竜山に同時に二つの飛行場を建設した。両空港は、日本の大林組と清水組が建設を請け負った。関東軍は山東、河北、遼寧などの新たに占領した土地から、だまして中国人労働者2500人余りを集め、また依蘭、樺川などの県でも強制的に労働者2200人余りを募集した。これらの労働者は現場に到着すると、数百の小屋を一つとし、各小屋は一つの大隊とされ、大隊長は日本人が務め、大隊傘下にはいくつかの中隊、小隊が置かれた。飛行場の周囲には鉄条網が張られ、七、八個の砲楼が建設され、日本兵が労働者の逃走を防ぐために昼夜見張りをした。労働者たちは毎日14、5時間かごで土を担ぎ、石を運び、食べたのは黴の生えたトウモロコシの粉、ドングリの粉、塩豆、白菜スープであった。労働は過酷で生活条件が悪く、労働者たちは病気になっても治療してもらえず、死んだときは藁の巻を使って荒野に運び捨てられた。全構築の過程で、病気、疲労、凍死した労働者は3千人以上に達した。(『侵華日軍暴行総録』 河北人民出版社)

 これら以外にも主に満州事変以降、日本軍が侵攻・占領する地で炭鉱・鉱山等が接収され、その強制労働による万人坑がいくつも形成されている。(年度は開発された年で、1937年:昭和12年以前のものはその年度あたりに記述済み)

*内蒙古自治区:海拉爾(ハイラル)要塞万人坑(1934年:昭和9年)

*黒龍江省:鶴崗炭鉱万人坑(1932年:昭和7年)/鶏西炭鉱万人坑(1933年:昭和8年)/東寧要塞万人坑(1934年:昭和9年)

*吉林省:遼源(西安)炭鉱万人坑(1931年:昭和6年)/七道溝鉄鉱(曹家墳と仮房溝)万人坑(1938年:昭和13年)/石人血泪山万人坑(1940年:昭和15年)

*遼寧省:大石橋マグネサイト鉱山万人坑(1917年:大正6年・1931年:昭和6年)/撫順炭鉱万人坑(1932年:昭和7年)/北票炭鉱万人坑(1933年:昭和8年)/弓長嶺鉄鉱万人坑(1933年:昭和8年)/阜新炭鉱万人坑(1936年:昭和11年)/金州龍王廟万人坑(1942年:昭和17年)/旅順万忠墓(1894年:明治27年)/本渓炭鉱鉄鉱万人坑(1905年:明治38年)

*河北省:承徳水泉溝万人坑(旧熱河省:1933年:昭和8年)

*安徽省:淮南炭鉱万人坑(1938年:昭和13年)

*海南省:石碌鉄鉱万人坑(1939年:昭和14年)/田独鉱山万人坑(1939年:昭和14年)

(以上は主に「万人坑を知る旅」関係の青木茂のサイトその他より)

虐殺など戦場における残虐行為の起因

侵攻途上で頻発した虐殺

 これまで記したように、戦後しばらく経って「南京事件」あるいは「南京虐殺」として様々に報じられ、逆に虐殺はなかったという論も堂々と展開されているが、筆者が一貫して思うのは、程度の差こそあれ、殺戮を前提とする戦争の攻防は無法の下に行われるのが常態であって、どこの国の戦争の中でも虐殺は起こりうるし実際に起こっている。ナチスドイツは言うまでもなく、アメリカもベトナム戦争でどれだけの虐殺をしたか、当時の政府がその蛮行を隠して公にしなくても、日本の場合と同様、後々に虐殺の記録が出てきている。南京も日本軍の攻略前は100万人が住んでいた大きい都市であり、城郭は東京の山手線と同じ長さであり、その城郭の内外への隊の配置によってそれを目撃したものと目撃していない者がいても当たり前であるし、その目撃していない者の証言を盾にしても片手落ちで意味がない。またその中で小さな隊の指揮官の賢明な指示によって虐殺や陵辱や略奪を免れた地区もあったであろうが、その限られた例をもって日本軍は皇軍として規律を守っていたなどと論じるのは無駄なことである。統制されずに集団の流れの中で不法(?)な行いを為したことなどは、帰還後、家族に語ることもできなかったし、何よりも当初は心の傷が癒えないまま心の底に閉じ込めて消し去ろうとしたであろうし、同じ隊の生き残った仲間への遠慮もあったであろうし、その人たちが50−60年もの長い時を経た高齢になってからやっと加害者としての様々な証言をし始めたことは確かな事実である。

 しかしその証言自体を否定する者たちが、自分が上記の小野賢二や松岡環の両氏のように私費で現地調査をし、根気よく元兵士を訪ね歩いて証言を得るというような努力のかけらを少しでもすることがあったのだろうか。例えば小野は調査の途中で挫折しかかり「調査はあまりにもキツかった。電話で怒鳴られ、玄関払いをくらい、調査依頼の手紙をそのまま返却される。しかも、当事者と向き合う緊張感に耐えられなくなっていた」と語っているし、松岡も「やっと元兵士の人を訪ねて『南京での体験を話して欲しい』とお願いしても多くの人が話したがらなかったし、時には老人本人やその息子さんから怒鳴りつけられて拒否されたり、話してくれても南京あたりに来ると忘れたふりをして口を閉ざす人が何人もいて、落ち込んで数ヶ月間調査が中断したことも何度かあった」等、その根気のいる努力は並大抵ではない。むしろこの二人は何に駆り立てられてこのような負の努力をしたのであろうか。

 また松岡は南京を訪れ、80歳以上の老人を片っ端から訪ね歩いたが、同行した通訳が日本人が南京虐殺の話を聞きにきましたと言っても、「日本人という言葉を聞いただけで被害者は恐ろしくて隠れてしまった。(いざ話してくれても)日本軍に肉親が殺された状況に来ると、『日本はこんなひどいことをしていまだに謝らない。日本人には我慢ができない』とブルブル震えだす人が何人もいた」。南京で親しくなった老人に「松岡さん、あなたは先生でしょう。必ず日本の若者に事実を伝えてくださいよ」と言われ、それに励まされて日本で中断していた元兵士の調査を再開した。(『南京—— 引き裂かれた記憶』より)

 そうして小野や松岡自身も自分の心に傷や負荷を負いながら集めた証言記録の記述の隙を突いて(というよりまったく読もうとせず)、「なかった」派は捏造なる言葉で空論を重ね、であるなら自分で似たような捏造文を書いてみせればよいのだが、一人としてそれを為し得た者はいない。そのようにして世間を誘導して何の得になるのか。しかも自分が戦争に行って武器を持って戦闘を経験したこともない人間が、自身の戦時の辛い体験を次世代のためになるならと戸惑いつつ行った証言者を否定する権利など微塵もないどころか、暴力に等しい行為であると筆者は思う。暴力に等しいとは、考えることを放棄した行為ということである。そうした(きれいごとを言う)彼らこそ戦場に行けば虐殺や陵辱行為を平然とやってのけ、事後には何もなかったと言い張るのではないかと思われてならないのは、筆者だけの憶測であろうか。

 いずれにしても上意下達で動く軍隊という集団での戦闘行為の中で、清く正しい行動というのはあり得ないことは戦争という殺し合いの行為自体がはらむことを前提として認識すべきである。とりわけ保守と言われる政治家たちが、元軍人の「なかった」という発言を適当に聞いただけで「そのように聞いた」と言ってのける者が多いが(石原慎太郎も同様)、基本的なことを言えば、戦後の極東国際軍事法廷(東京裁判)において、南京では「一般市民と捕虜の総数20万人以上」が殺戮されたことなどを認定し、その責任は司令官の松井石根にあるとして松井を死刑に処した。つまりここでいわゆる南京事件を実際に起きた出来事とした。そうした基本的な事実を根底において無視してしまう、あるいはまったく知らないでいる御仁たちは何のために活動しているのだろうか。いつも綺麗事を言うことで自分の政治的立場を保つことに追われ、国民の立場に立つこともせず、なんのために政治家になったのか、自分が偉ぶるためだけに生きているのか、そのように自身に問いかける思考すら持っていないのであろう。

明治期の統率された日本軍とその後の変容
 ——軍紀の頽廃と軍人精神の弛緩——

 明治時代の日清戦争(1894年:明治27年)においては清軍(中国軍)から日本軍は1790人を捕虜として捕え、その多くが日本国内の各寺に収監され、特に労働を課せられることもなく講和後には帰国させた。その後の日露戦争におけるロシア人捕虜や、 第一次大戦におけるドイツ人捕虜は戦時国際法にもとづいて待遇しようと配慮していることが伺え(特別に収容所も数カ所国内に作り)実際に国内の捕虜収容所では地域の住民との交流もあって、暖かい逸話も生まれていて、お菓子のバウムクーヘンが日本に広まったのもそのおかげである。

 ただし、この日清戦争の中国人捕虜についてはある意味表向きのことで、旅順(現在の大連市にある港町)を占領した日本軍が、その旅順の山と海に囲まれた閉ざされた空間の中で、数日間にわたり清国軍捕虜と旅順の一般住民を大量殺害した事件がある。犠牲者は軍民1万人(あるいは2万人)以上とされ、中国ではその遺灰や骨を集めた「旅順万忠墓」が設けられ、その後記念館も建てられ、今も追悼されている。これについては筆者の明治・大正編で触れている。それは別としても、日本は明治以来、日清・日露戦争に勝利し、その後第一次世界大戦で連合軍に加わって漁夫の利のような勝利を得て、軍人が慢心に陥り、次第に驕るようになっていたことも軍紀の頽廃に繋がっているのではないか。慢心は時の軍政府一体となってはびこり、数少なく良識の残る外交官の中には「もはや日本は行く処まで行って、行き詰らねば駄目」と諦めた人物(石射猪太郎)もいた。結果的にその通りとなった。

 そもそも戦争は古代より、相手方を攻め落として勝利した軍が、敗残兵を殺しながらその特権(褒賞)として宮殿はおろか民家から略奪して放火、女性への強姦を繰り返してきた。捕虜に関しても、中国の歴史を見ると、秦以前の時代から敵方の兵を十万あるいは数十万単位で虐殺して埋めた例が何度もある。しかし20世紀に入ってから、一応国際法で捕虜の虐殺や暴行、掠奪は禁止された。それを明治の日清・日露戦争、大正の第一次世界大戦までは日本軍はほぼ遵守したが、目的もはっきりしない大正時代のシベリア出兵で軍紀が緩み始め、その失敗を検証しないまま開始した満州事変から日中戦争に至っては、さらに大きく規律が緩んで、将兵ともその自覚もなく、南京では松井司令官があえて自分を誇示するような「入城式」を行ったことによって、事前の「掃蕩作戦」が行われ、その夜には勝利軍として日本軍兵士たちが羽目を外して物品の略奪や女性を漁りに出た。仮にも軍紀を乱すなと松井司令官が事前に訓戒していたとしても(既述のようにその言葉自体は残っているが、兵士たちの気分もわからなくはないと片方で言っている)、彼や将校たちがその数々の暴虐行為のきっかけを作ったに等しい。

 この五年後に日本軍が展開した太平洋戦争においても、東南アジアにおける欧米人捕虜への虐待(強制労働等)はあったし、虐待の結果多くの捕虜を死亡させているが、 投降した兵士に対しては問答無用に殺害した事例は多くなかったようである。それは相手が欧米人であるということが大きいかもしれないが、強制労働に関しては酷い仕打ちがあったと証言にある。ただし、とりわけ日本軍の侵攻により戦場となった東南アジアの各地(フィリピン・シンガポール・マレーシア・インドネシア・ビルマ=ミャンマー・ベトナム・タイ・インドそして南洋諸島等)において現地の住民たちが中国と同様に放火や虐殺にあい多大な被害を負っている。いずれにしろ、日本は「大日本帝国」としてひたすら領土や勢力圏拡大を意図し、表向きは「大東亜戦争」と称して欧米諸国からアジアを解放し大東亜共栄圏を構築するという大目的を掲げていたが、実態は「皇軍の行くところ」という下手なプライドだけで周到な作戦がなく、中国におけると同様にほとんど補給を無視した無謀な侵攻作戦が現地の住民を悲惨な目にあわせた。後世においては表向きの日本の軍政府のプロパガンダに目を向け、もともとアジア解放のための戦争であったと語る人が多いが、名目はよいとして、その名目で戦争の実態が改善されていたなどということはない。

 ついでに言うなら、太平洋戦争終盤において、敗色が濃くなった時期に、満州をはじめとして、東南アジア各地の司令部では将校たちが先に逃亡した事例は多い。つまり前線の兵士に対し、奮戦せよと命令するかたわらで上司たちが兵士を置き去りにして逃げたのである(中国軍の中でも南京戦において司令官が先に逃亡していて、彼我に変わりはない)。その結果残された兵士たちは悲惨な目にあい、その多くが無残に死んだ。終戦となったことも現地の兵士に伝えられず、ひと月後まで逃げ惑い、現地の抗日ゲリラに殺されたケースも多々ある。これは中国満洲においてもそうであり、特にソ連(ロシア)軍が急に攻め込んできた時に、将校たちは飛行機や列車で先に逃げ、残された兵士たちは捕虜となってシベリアに抑留され、放置された日本人居留民たちは家財産をすべて失い、日本へ逃避行する間に子供を含めた多くの人々が非業の死を遂げた。東南アジアでは、残された兵士たち(朝鮮人の軍属を含め)が現地に拘留され、当地の裁判でB級戦犯として千人近くが処刑された。

 こうした事実からすれば、召集された日本軍兵士たちの軍紀が頽廃していたのではなくて(元々軍事教育もまともにされていないが)、将校を占める本来の軍人たち、陸海軍の学校を出た将校たちの軍紀、言い換えれば軍人精神がすでに頽廃し、弛緩していたというしかない。そこにはすでに大日本帝国としての大東亜共栄圏構想の面影など微塵もない。それでも今もってそうした事実に背を向けて日本軍はアジアの解放のために戦ったと信じ続けている人たちがいるから不思議でならない。単に自分たちの期待に都合の悪い事実を見たくないからであろうが、自分の過去の行いを反省することがなぜ都合が悪いのであろうか。たまには自分の心とまともに向き合ってみる必要があるのではないか。

戦場という無法地帯の中の犯罪

 満州事変翌年の平頂山事件(1932年参照)のように、占領している地域で住民たちの抵抗や反抗があれば占領する軍隊が鎮圧という名で見せしめに住民を虐殺するのは「当然のように」しばしば起こされているが、どの国の占領軍も(隅々まで統制できずに)大なり小なり行なっていると言えるであろう。南京での捕虜の虐殺に関しても既述の数が仮に何分の一であったとしても、あったという事実には変わりはないし、その数の大小を論争しても無意味である。戦場という無法地帯にあっては、どこかに隙があれば兵士の不法行為(戦争自体が不法行為の上に成り立っているが)は絶えず起こりうることであるし、そもそもそのような非道な行いを日本軍はしないと思い込むこと自体が、日本人ということではなく、人間というものを総体として考え、見る目を持っていないと言える。人間は善悪含めていろんな事を成し得る。とりわけ戦時下ではどんな残虐なことも起こりうるということは、現在の平和時にも単発的に起こる残虐な事件を見ていても明らかで、とりわけ相手を殺さなければ殺されるという戦場ではそれが大きく増幅される。一番の問題は、そのように人間が潜在的に持っている自分本位の前後を忘れて衝動的に行動する面を、戦争が容易に引き出してしまうことである。罪なるは実体が伴わない国というものが起こす戦争なのである。

 この1937年(昭和12年)の山西作戦に参加して戦死した中佐杉本五郎の遺稿『大義』には、「一度適地を占領すれば、敵国民族をなる所以を以って殺傷して飽くなし。略奪して止まる所を知らず、悲しむべし、万端悉く面目更になし」(宮武剛『将軍の遺言』より)とあり、特に南京だけで虐殺が起こっているわけではなく、これがどこにおいても見られる実際の戦争の中の人間の姿であろう。それはもう仕方がないというのではなく、よほどの厳格な規律を軍に課していないと「犯罪」を抑えるのは難しいことなのであろう。繰り返すが、殺すか殺されるかという激しい戦闘の中では、兵士も平常の感覚を持ち得ず、その戦闘行為の流れの中で住民が邪魔に見えれば虐殺も戦闘の一環として行われ、とりわけ自分たちが正義の軍との思い込みがあるから、兵士たちには虐殺に罪悪感という自覚はほぼない。そのことも各種の証言記録を見ても明らかで、戦争が必然的に大小の虐殺を生むのである(ただしどうしてもそのような「勇猛果敢な」兵士になれない繊細な兵士たちは、しばしば精神を病み、この日中戦争を発端として作られた軍の精神病院に送られた——後述の「一軍医の観察と報告」参照)。虐殺はなかったという人たちは、どこかの国で未だに行われている戦闘に実践的に参加してみればよいのである。戦場がどれだけ異常な精神状態に人を駆り立てるか、戦争映画で見る戦場における殺し合いのシーンはどこまでも一面的な虚像であり、仮にもその裏でその地の住民が占領軍に暴行を受け虐殺される場面が映画で再現されることはない。

現場の兵士たちの精神状況と証言

 当時の日本軍将兵の精神状況について、書くときりがないが、まず数人の証言である(『南京戦:閉ざされた記憶を尋ねて』松岡環より)。

—— まず物を取る、火をつける。まぁ言われるがままに戦争をしてきたわけ。当時私らが思ったのは、敗残兵を処分するのは当たり前だという観念でいたね。今思うとあんなことは非道だと思うけどね。私らは捕虜を人道的に処遇することを定めた国際法なんか教えてもらったことがないんでな。食べていくのにみな略奪ばかりですわ。…(私らにとって)支那人は人間ではなく、品物ですな。日記に書いてるように、捕虜になったら処分するのは当たり前やと思ってたね。だから下関で見たように、海軍の仕官が日本刀で支那人の首を切るのを希望すると、歩兵が「どうぞ」と言って、支那人の捕虜を差し出すんだが、差し出す方も無神経や。その時の支那人は人間ではなく、品物だね。(境昌平)

—— (無錫での戦闘あたりから)町に入って掃蕩の一番の目的は女を探すことで、女を徴発するのが一番楽しかった。例えば、南京でも暇があったら女を捕まえて強姦してたな。南京に行くまでの途中で、家は朝出発の前に一軒も残さず火をつけた。南京戦の時、当時の宮さん(注:朝香宮)から命令があって、その命令は小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きているものは全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな(注:もちろん朝香宮も天皇もそのような命令を直接出すわけはない)。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた(注:これは敗戦が決まった時に軍政府が内外の記録や資料を焼却するように指示を出したことによる)。上海派遣軍は年末までに中国軍を8万4千人殺したというけど、もっとあると思う。(鬼頭久二)

—— 南京陥落の日じゃった。城内に入る時、城壁の外側(注:既述の挹江門参照)が死体の山じゃった。足下がふわふわするんで、マッチをつけて見たら、筵を敷いたように一面に死体がぎっしりじゃった。ずーと死んどったんじゃ。どの部隊がやったか知らんが、突き殺したんやな。女も子どももおった。爺さんも婆さんもおった。兵隊やないもんばっかりじゃ。新聞でよう言う”南京の虐殺”って全く本当のことじゃが、そんなこと言えんもんで、「嘘」や言うとるんじゃ。16師団が一番悪いことしよったようやと新聞にも書いとったが、わしら京都の師団のそこら中の連中が悪いことしよったんじゃ。陥落して2日ばかりたったころ下関あたりに民家のあるとこに米や食べ物を徴発にでたときに女も徴発するんじゃ。家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。その場で服を脱がして強姦したんじゃ。やった後、「やめたれ」て言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。暗黙の了解やな。後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。(井戸直次郎)

 次に、戦場の中で心が非道に慣れていく例である。(『揚子江が哭いている』より)

—— (上官に「突き殺せ!」と言われて)銃剣を構えて前に立ちはだかったものの、一人は故郷の母と同じくらいの初老の婦人であった。私が戸惑っていると上官は腹立たしそうに、「こうして突くんだ」と銃剣を構えたかと思うと、「エイッ」とその婦人の胸を一突きした。婦人はカッと目を見開き … 鮮血がドッと飛び出し、即死の状態だった。上官は私に、「お前はそれで戦争ができるか。この次は俺たちがこうなるかもしれん。その時、そんな弱腰で務まるか!」と一喝した。しかし無抵抗の老婦人まで殺す必要はあるものかと内心反発していた。ところが激戦を重ねているうちに私も変わっていった。ある休息地で当初から起居をともにし、親友となっていた同僚が、一緒に丘で昼食をとっている時に敵の銃弾をわき腹に受け死んでしまった。私の胸に名状しがたい中国人に対する憎悪の念が燃え上がり、どうすることもできなかった。あの時上官が言った言葉をはっきりと理解した。「必ずこの仇は討ってやる!」と、それから私もまた一般の住民であっても怪しげなものは男女を問わず、あたりかまわず小銃で撃ち殺した。いつしかその友人のことさえ念頭になく、敵を殺すことを当たり前のこととして行う自分になっていた。ついには上官から「余計な弾を使うな」と注意を受けることも再三あった。

 今ひとつ、この日中戦争に最初から召集されて約二年間闘って除隊した作家の武田泰淳の短編小説『審判』からである(文章表現など多少改変)。

—— 私たちは未教育の補充兵であまり役に立たない兵士だった。そして一人前の働きはできないくせに、一人前以上の欲望やわがままを持っていた。故郷では妻子もあり立派に暮らしているはずなのに、戦場では自分を導いていく倫理道徳を全く持っていない人が多かった。何のこだわりもなく住民を侮辱し、殴打し、(豚や鶏などの食糧や)物を盗み、女を姦し、家を焼き、畠を荒す。無用の殺人も何度となく行われた。武器を自由に扱い、誰も取り締まる者のない状態、その中で比較的知的訓練のない人々がどんなことをはじめるか、法律の力も神の裁きもまったく通用しない場所、ただただ暴力だけが支配する場所で、やりたいだけのことをやらかし、責任は何もない。この場所では自分がその気にさえなれば、殺人という普段なら思ってもいない行為が、すぐ行われてしまう。……ある日、すでに占領を終え、人気のない村を偵察中、すれ違って行った二人の農夫を分隊長が気まぐれで「やっちまおう」と言い、その命令で何人かで後ろから射殺する。さらにまたある日、主人公は同じように農村に残って気落ちして座り込んでいた老夫婦二人を衝動で射殺する。

…… 終戦後、戦争裁判の記事を私は毎日のように読んでいる。その裁判に引き出された罪人は、まさか自分が裁かれる日が来るとは思ってもいなかったにちがいない。否、裁き、どんな形でも裁きというものを思い浮かべたことすらなかっただろう。それでなければあれほど大量に残虐な殺人行為はできるはずがなく、罰のない罪なら人間は平気で犯すものだ。自分は少なくとも二回はまったく不必要な殺人を行った。第一回は集団に組して命令を受けたのだとしても、第二回は完全に自分の意思で行ったものだ。しかも無抵抗な老人を殺した。自分は犯罪者で裁かれるべき人間だ。しかし私は平然としている自分に驚かねばならない。私は自分の罪が絶対に発覚するはずがないことを知っていたからだ。伍長は半年ほど前に戦病死した。地球上であの殺人行為を知っているのは私だけなのだ。その私ですら、被害者の名も身元も知らず、顔すら覚えていない。私は自分が如何なる戦犯名簿にも漏れる自信があった。この犯罪行為を構成すべき唯一の条件は私が生きているということだけで、問題は私の中にだけある。……

 筆者注:以上は小説の形とはいえ、筆者があれこれと渉猟した証言記録による内容とほぼ重なり合い、とりわけ「裁判に引き出された罪者は、まさか自分が裁かれる日が来るとは思ってもいなかったにちがいない」とは、実際に「あれが犯罪になるのか!」とまったく同じように反応した人たちが多くいて、後述の「撫順戦犯管理所」でもそうした光景が展開された。その中で罪を認めた人たちが許されて日本に帰ってきて、日本軍の犯罪の重さを反省すべく証言活動などをすると、国内では中国共産党に洗脳されたとして非難され、社会的にも差別された。それに対して先に無事に帰国していた将兵たちが、同調して彼らを擁護することは一切なかった。なお武田泰淳が『審判』を発表したのは1947年(昭和22年)で(蒋介石政府の南京軍事法廷の最中)、彼らが帰国したのはそのほぼ十年後である。

一兵卒渡部良三の場合

 上記藤田茂の供述調書にあるように、軍の上官の命令は絶対的なもので(この時代、上官の命令は天皇の命令と同じであると教育されていた)、どんなに嫌でも従うしかないが、これに絶対的に反抗した若者がいた。1943年(昭和18年)10月に明治神宮外苑で行われた学徒出陣壮行会に参加して、中国戦線に送られた渡部良三はキリスト教信者であった。とりわけ中国戦線では(7年前の日中戦争から)当初より捕虜を殺すことが常態化し、新兵には度胸試しとして、まず戦場に適応させるために捉えた捕虜だけでなく反日的と疑われた民間人を銃剣の剣先で突き殺す訓練をさせられた。渡部とともに入隊したばかりの新兵49名は、縛られた中国人捕虜5名を銃剣で刺殺するよう命じられた。最初はためらっていた新兵も、次第に慣れて無抵抗の捕虜たちを殺すことに罪悪感を覚えなくなる。渡部以外の48人は刺殺をすることになるが、渡部は頑として上官の命令を拒絶した。そのことにより自分の体がボロボロになるほどに毎日激しいリンチを受けた。仲間の兵士に「目を閉じてひと突きすれば済んだのに」と言われたこともあったが、自分の信念を曲げなかった。

 歌人でもあった渡部は、毎日激しいリンチも受ける中で、約700首の歌を詠んだ。<“捕虜ひとり殺せぬ奴に何ができる”むなぐら掴むののしり激し> / <捕虜五人突き刺す新兵ら四十八人 天皇の垂れしみちなりやこれ> / <縛らるる捕虜も殺せぬ意気地なし 国賊なりとつばをあびさる> / <鳴りとよむ大いなる者の声きこゆ「虐殺こばめ生命を賭よ」> / <古兵らは深傷(ふかで)の老婆やたら撃ち なお足らぬげに井戸に投げ入る> / <人殺し胸張る将は天皇(すめろぎ)の 稜威(いつ=威光)を説きたるわれの教官>/<家焼かれ住処(すみか)のありや広き国支那とはいえど貧しき農等>などがあり、痛烈な日本軍人批判となっている。仮にもこれが見つかれば、取り上げられてさらに死ぬほどのリンチを受けたであろう。筆者もこの時代の中にいるとして、ここまで抵抗できるか、まるで自信はない。

 渡部は復員後国家公務員となって勤め上げ、39年以上が経過してから整理し、『歌集 小さな抵抗』として私家版を上梓した。その後『歌集 小さな抵抗——殺戮を拒んだ日本兵』(岩波現代文庫:2011年)として出版された。ここで一番注目すべきはこの渡部が学徒出陣で中国に送られたのは昭和18年で、この南京虐殺事件の6年後であって、その時まで依然として日本軍は捕虜(この頃の捕虜は主に日本の占領軍に対するゲリラ隊である)や住民を虐殺し続けていたという事実である。おそらく日本軍にとって、少なくとも南京において(それ以前にも多くあるが)捕虜を人間として扱わず足手まといの邪魔者として虐殺したことがベースとなって、その後も慣習的に無感覚になって捕虜(のみならず現地の住民)を殺し続けていたのであろう。その裏には中国人(や朝鮮人)を対等な人種として教育されていなかった国内の人種差別があったであろう。もちろん、既述のように明治以来、日清・日露戦争に勝利し、その後第一次世界大戦で漁夫の利のような勝利を得て、軍人が慢心に陥り、次第に驕るようになっていたことも背景にあるだろう。「もはや日本は行く処まで行って、行き詰らねば駄目」と諦めた人物(既述:石射猪太郎)もいたわけである。

(この渡部良三の歌の一部を抜き出したものは「各種参考資料」参照。中でも一人日本人逃亡兵がいて、彼にうまく逃げてくれと祈る姿が心に響く)

ある軍医の観察と報告

 金沢医科大学教授で精神医学者であった早尾虎雄が、この1937年(昭和12年)11月に軍医中尉として召集され、戦場犯罪調査の任務を負わされ、12月に中国にわたり、上海経由で戦傷者の輸送に関わりながら占領後の南京に入った。翌年1月には南京から日本軍戦傷兵600名の江上輸送で上海に向かった。そして上海の兵站病院を本拠として年末まで活動した(10月には精神病棟ができた) 。そこから日本の国府台陸軍病院(精神病院)に移ったが、その間、早尾は報告書を書き続け、「中支戦線に於ける精神鑑定書」から始めて「戦場神経病・精神病及犯罪」、「戦場に於ける自殺企画に就て」、「戦場に於ける特殊現象と其の対策」等として陸軍軍医部と陸軍法務部へそれぞれ複数通の報告書を提出していった。ただこれらは軍部にマル秘文書として秘匿され、長く表に出されることはなかった。戦後、この文書を所有する防衛庁防衛研修所戦史室は一般公開を拒否してきたが、ようやく2009年に『戦場心理ノ研究』全4冊として不二出版社より復刻された(報告書の一部は紛失している)。その後この報告書の内容はあちこちに引用されているが、なかなか分析力に優れているし、筆者がここまで扱ってきた事柄がそのまま記されている。以下はその中の1939年(昭和14年)4月に報告された「戦場に於ける特殊現象と其の対策」の内容の一部の要約である。

【「倭寇」以来の暴挙】

 まず、『戦場心理ノ研究−総論−』の一節として、「余が南京へ入ったのは陥落後一週間であったから市街には頻々と放火があり見る間市内の民家日本兵により荒されて行った。下関には支那兵屍体が累々と重り是を焼き棄てたるために集められたのである。目を揚子江岸に転ずれば此処に山なす屍体であった。其の中に正規兵の捕虜の処置が始まり海軍側は機関銃を以って陸軍は惨殺、銃殺を行い其の屍体を揚子江へ投じた。死に切れない者は下流に泣き叫びつ、泳ぎゆくを更に射撃する。是を見ても遊戯位にしか感じない。中には是非やらしてくれと首切り役を希望する将兵もある。…… 揚子江に沈んだ正規兵の屍体は凡二万人位と言われる」とあり、続いて「昔、倭は上海に上陸し南京に至る迄、此の様な暴挙に出た為めに、非常に野蛮人として卑められ嫌われたというが(その賊は「倭寇」という名で残る)、今に於ても尚同じ事が繰り返さるるとは、何とした恥辱であろう」との感想を記しつつ、「今時の事変中、将兵中に頻発せる犯罪事件は其の数極めて多く、其の原因につきても種々講究するの要を感じ、命により法務部及び憲兵隊と連絡を取り調書、司法書類、被告人等につき調査を実施せし結果により得たる所を左(下)に記述せんと欲す」と述べ、以下のように分析している。

【犯罪をなす兵の精神状態】(徴発という名の掠奪)

 今事変に見る犯罪の種類はことごとく内地に於ては重罪のもとに処刑せらるべきものなり。然るに戦場にては無遠慮に行はれ、その初めに於ては毫も制裁を受けず、却ってこれに痛快を感じ益々奨励せらるるが如き観ありき、例の徴発(注:本来は物品を金を支払って現地の住民から調達することであるが、この戦時下では奪い取ることが平然と行われた)の如き公然ゆるされし事さへ最初は躊躇せる者が遂には徴発に大なる興味を感じ、ついては競争心さへ起すに至る、ついては(軍隊生活には)不必要なる物品を自己の利欲より徴発なすに至り、是等を内地に向って送りし例も少からず、或は徴発により上官の機嫌を取り結び自己の進級等に利益をはかりし例も存せり。… 実に徴発なる教は極めて兵卒の心を堕せしめたる結果を示せり。軍隊には「員数をつける」という言葉あり。是は一種の窃盗行為なり。平時(注:特に南京陥落後に戦闘がなかった時期)に於てすら平然と行はれつつあり。… 遂には掠奪となり強奪ともなり、しかも是等の行為を恥ずるなき迄に至りしものと思はる。……

【犯罪の種類】(上海において)

 官憲の取締行き届かざりし頃は放火、掠奪、殺人、窃盗、強奪、強姦等凡ゆる重犯行為思ふがままに行はれつつありしが、取締厳となると共に放火は漸次数を減したるを見たり。必要上の放火よりは遊戯的放火の少からざるを見たり。殺人行為も減少せり。姦したる後に是を殺したる例も其の目撃者より聞けり、掠奪、強奪も見られたるも漸次減少しつつあり。これに反し奇異なる現象は休戦期間の続くと共に戦友間の傷害が目立ちて多くなり、支那人強姦例は殆ど数を挙げ得ざる程の多数に上り、詐偽、脅迫、強奪、服飾潜用等の如き犯罪をも見るに至れり。犯行は次第に在留邦人にも向けらるるに至れり。

 なかんずく傷害犯の多きこと而も是が皆飲酒の上に行はるる事に就ては兵の精神教育の不徹底を疑はざるべからざる所なり。彼等は酒を飲めば戦功を誇り、高名話を競ふ傾あり。その結果は必ず銃剣を抜き対手を威嚇する者甚だ多し。その終局は傷害を来すものなり。亦いたずらに衆人を前にして日本刀を抜き虚勢を示し、支那人を何人切りし等高言を吐く将校も幾人か目撃せり。在留邦人は陸軍軍人を猛獣の如くに怖れつつありとの文句さへ読みしことあり。功績赫々たる聖戦参加の将兵が如何に万死に一生を得たりといへども、上海に於てダンスに興じ下等なる売笑婦に戯れ、或は徒に剣を抜きて人を傷つけ、或は拳銃を発砲して傷害し恐喝し或は無銭飲食なす等、到底内地人の夢想だもせざる痛恨事なり。上海は実に犯罪都市と化したる観あり。南京亦是に次がんとする有様なり。実に日本軍人の堕落と言はざるべからず。

【犯罪頻発の原因】(優越感と功績陶酔)

 悪戦苦闘の中に万死に一生を得たる優越感と功績陶酔感は超人間的意識と変し他を侮蔑するに至りしこと / 支那人を殺戮せる快味を未だ忘れぬために銃、剣、拳銃を濫用するの弊害を生ぜしこと / 徴発の意義を誤解し掠奪と混同するに至りしこと / 将兵共に文化保護の観念に乏しきこと / 将兵共に刑法に対する観念に乏しきこと / 戦功をたてし将兵に対し当局は余りに迎合的態度に出でしこと / 戦の後に精神の弛緩を来したる時にあたり慰安方法宜しきを得ざりしこと / 酒の配給多きに過ぎしこと / 古き者を残し新しき者を先に凱旋せしめしこと / 業務閑散となり遊興に傾きしこと / 上海、南京等に酒場、慰安場を多数に開設し、自ら酒と女とのみを以て将兵を慰むる方法をとり、他に健全なる精神の転換を図る施設を忘れたること。

【性欲と強姦】(失った東洋の礼節)

 強姦罪については人間の本能を赤裸々に表したる結果にして、あたかも飢えたるものは餓鬼のごときに等しく、性欲に対しても通じる言葉なり。人間は恐怖、疲労困憊のもとには性欲発揮することなし。戦闘休止し精神に余裕を生じ休養の効果表はるると共に、更に精神の緊張失はるるを以て性欲勃然として起るは当然なり。餓鬼とならざるを得ず、これ強姦の流行せし所以なり。是を敢てせざるはその人の修養の厚きを物語るものとす。…

 …… 内地では到底許されないことが、敵の女だから自由になるだろうという考えが非常に働いているため、支那娘をみたら憑かれた様に引き付けられて行く、従って検挙された者こそ不幸なんで、陰ではどれ程あるか分からない。… しかも部隊長は兵の元気を作るために必要として見て見ぬ振りをしたのでさえあった。

 …… 勝利者なるが故に金銀財宝の掠奪(徴発といって持ち去って平然たるものがある)は言うに及ばず、敵国婦女子の身体まで汚すとは誠に文明人のする行為とは考えられない。東洋の礼節を誇る国民として慙愧に耐えぬことである。日本の軍人は何故このように性欲に理性が保てないのかと、私は戦場生活一年を通じて始終痛感した。しかし軍当局はあえてこれを不思議とせず、この方面に対する訓戒は耳にした事がない。…… 戦場の役得としての婦女陵辱行為が兵士を南京攻略に駆り立てた … (南京では)軍当局は支那婦人を強姦しないように慰安所を設けた。しかし(一度弾みがついた)強姦ははなはだ盛んに行なわれて、支那良民は日本軍人を見れば必ず恐れた。…

(以上は主に「15年戦争と日本の医学医療 研究会会誌 」第9巻・第2号:「軍医早尾乕雄の戦場報告」岡田靖雄、その他より)

 筆者注:以上は現在のわれわれには極めて真っ当な分析に思えるが、これを依頼した軍の要人には気に入られなかったようで、上層部による検閲で報告書が改竄され、その内容は無難な、皇国陸軍将兵にふさわしいものになっていった。その扱いと現場の軍隊の腐敗ぶりを直接目にして、早尾自身が“精神的なショック”を抱えたまま、除隊後は医師としての活動もおとなしいものになっていったようである。いずれにしろこのような適正な報告書が太平洋戦争以前に書かれていたことにも驚くが、それを軍部はほとんど生かそうとせず、これ以上の戦争拡大に邁進していくわけで、そのこと自体が日本の軍部自身が敗戦まで精神的病巣を抱えたまま変わらない状態であったことを物語る。

南京虐殺のユネスコ記憶遺産への登録とその意味

 南京大虐殺の様々な記録が2015年(平成27年)にユネスコ記憶遺産に登録された。これに対して日本国内からかなりクレームが出たが、虐殺は真実ではないという意見が一部の固定観念を持った人々に昔から根強くあることによる。例えば一番新しく発見された記録とも言える程瑞芳の日記もその登録資料の中に入っているが(ジョン・マギーの記録映像も当然入っている)、その中の記述はほとんど「伝聞」に過ぎないから事実とは言えないという(当然彼らは、筆者がまとめて記しているように、一緒に活動していたヴォートリンその他の外国人たちの日記と合わせて検証することなどしていないはずである)。これがいつもの彼らの論法とも言えない論法であるが、普通に考えてみて、南京城という東京山手線内の面積に等しい大きさで、しかもその城外の出来事も、どのような現場にいたとしても逐一全体を見聞きできるわけがない(同じ理由で南京攻略戦には関わったが、間もなく転戦したので虐殺のことなど知らないという日本軍部隊もいて、それを根拠に虐殺などなかったとしている似非学者もいる)。

 逆にその人たち(なかった派)に聞きたいのであるが、現今の平和な日本の中でも、数々の痛ましい事件(事故は別とする)が発生するが、それを新聞やTVのニュースで見聞きしたとして、自分自身はその現場にいなかったからこのニュースは信用できないとでも言うのであろうか。それこそ考え方の偏向した論法ではないのか。そういう人たちがいるから、上記のヴォートリンの日記の間に他の外国人の記録を差し込み、あえて長文になることを厭わない方法をとっている。しかも城内の広大な安全区に残っていた20数人程度の外国人たちも(南京の住民を守るためにも志願して残っていた有徳の人たち)、それぞれ医療や食料援助、難民たちの訴えに対する応対などの現場で忙しく(実はそれらの中に情報がたくさんある)、当時は電話も少ない上に爆撃で早々に回線は切断されたから、常に連絡を取り合っているわけではない。それを利用して、一方では見た聞いたと言っても、他方ではそんなことは知らないと言っているから、実際にあったことかどうかは実証できないなどと、それこそ屁理屈の空論を展開している。しかも国際安全区委員長のドイツ人ラーベの『南京の真実』の翻訳者の文章にすらケチをつけるという有様で(ウィキペディアの記事)、実際には何の問題もなく筆者もその訳文を利用した。

 そう言う彼らこそ、実際にかつ多角的に調べるという努力を少しもせずに、そんな資格もない者たちが犬の遠吠えのようにクレームをつけてくる。しかもなお、日本軍の攻撃とその後の暴虐行為から民間人や女性たちを守るために、国際委員会の欧米人たちは必死に動き回りながら、その合間を縫って日記や記録を書いたのである。「伝えねばならぬ」という使命から。仮にもその時に「なかった」派の論者自身がその「安全区」の中にいるとして、あなた方は同じように弱者や被害者たちのために働けたのかどうか、人間として基本的なところから考え直したほうがよい。そのような思考力すら持たない者たちが何の戯言を言っているのであろうか。

 このような人種の人間がいるから、逆にユネスコ記憶遺産に登録でもしておかなければ、日本国内でその事実が歪められてしまったままになるという危惧が中国の提起者たちのなかにはあったのであろう。だから登録されたというそのこと自体が、その論者たちのこれまでの否定的言動が導いたものであることを自覚すべきであるが、それすらわからないなら、情けない偏向人種というほかない。筆者はここまで各種の資料を調べながら記述してきて、本来、この南京事件だけでなく、それを含めた日中戦争全体の犠牲者を、この記憶遺産に取り上げるべきと考えるように変化してきている。

 それにしても、筆者がここまで資料として利用してきた本などを出版した人々、何度も南京の現地に通い、体験者を探して地道に何年もかかって聞き取り調査をし、資料を集めるために中国内ばかりでなく、アメリカの公文書館や関係する大学の図書館まで行って(残念ながら日本側には記録はほとんどない)、さらに何年もかかってその記録と資料をまとめて本にした人たち(学者も民間人も)は、わざわざ日本もしくは日本人を貶めるためにやっているとでも思っているのであろうか。膨大な時間を使って自分の国を貶めるようなことを誰がわざわざすると思っているのか。筆者だけでなく、普通はその人たちの無私の努力に敬意を表する気持ちしか持てないと思うが、そんなこともわからない偏向した人種が、この日本にいること自体が情けないと思う。むしろこの種の人たちが、反省する心も持たない日本人として、このグローバルに開かれた時代に日本人の印象を大きく貶めていることを知らなければならない。

 一般の社会生活において、他人を思いやるという基本的な心が身についていない中学生程度の精神構造の大人たち、そうしたことを客観的に自覚すらできない者たち、そういう者たちのためもあって、この1937年(昭和12年)の出来事を、想定よりも何倍もの時間と字数を使って書かざるを得なかったわけだが、それでも彼らは不都合なことは目に留めようとしないだろうし、資料や本などまともに比較して読みもしないで、その辺にチラチラと飛び交う空言だけに飛びついて虐殺などなかったとネットなどで簡単に言い続けるのであろう。一体なんのためにそうしているのか、おそらく自分という人間の心の中に信じるべきものが持てないから、うわべの綺麗事に頼って心の均衡を保とうとしているだけなのではないのか。

 逆に何のために上記の本や資料をまとめた人たちが、足を棒にして実地に当たりながら、長い時間をかけてコツコツとその結果をまとめて書いてきているのか。答えは簡単である。戦争のない世界を作るため、人種を超えて世界の人々が平和を維持して仲良く交流していけるようになることを願ってのことである。そのためには事実を明らかにしなければならない、その事実に対して率直な態度で臨まなければならない。日本のためという狭い範囲で考えているのではまったくないし、ましてや日本を貶めるためではなく、むしろ日本という国が忘れたふりをしてやってこなかった贖罪をし、改めて日本人としての誇りを取り戻すためである。現にそうした人たちの陰での地道な努力によって日本人の信用は何とか保たれていると言っていい。そして過去の苦い経験を清算しつつ、両国民あるいは近隣国の人々が共有していければこれ以上のことはない、それが被害を受けた中国人たちの希望でもあるに違いない、ということである。繰り返すが、そのような人々の地味な努力をわざわざ消し去ろうとする者たちこそ偏向人間であり、同時に(人種)差別主義者であって、むしろ日本を貶めることに加担していると言って間違いではない。

 なぜなら、この戦時下の数々の虐殺の基本的要因は、そもそも人種差別、排他主義からきているからである。日本人が生来、残虐であるということではなく、アメリカでの黒人差別による殺人がいまだに多発していることを見てもわかるように、人種差別的意識が虐殺を生むのである(ついでに言えば米国の日本への安易な原爆投下もその根底に人種差別があると筆者は思っている)。この15年戦争が始まる前の大正時代、関東大震災による大混乱の中、朝鮮人に対するデマにより数々の虐殺が行われた時も同様である(筆者の「大正時代」参照)。またこれについてもいまだに虐殺はなかったという保守的政治家その他がいるから呆れる。現にその記念日への恒例の都知事の追悼文を止めた小池都知事は「(そういう事実が)あったかどうか、歴史が判断する」というまるで他人事のような話をし、すでに90年以上経って多方面から明らかにされていることを(少なくとも海外に留学して勉学したことのある人間が)知ろうともしない。この都知事も不都合な出来事を綺麗事で済ませようとする人種の一人と言ってよい。

 今ひとつ、のちの太平洋戦争において、日本は東南アジアでイギリス人とオーストラリア人、アメリカ人を大量に捕虜としたが、彼らを捕虜として強制労働などの虐待こそすれ、(中国と比較すれば)少ない例外を除いて大量虐殺をすることはなかった。それはなぜか、日本人は中国人と違い、西欧人を自分たちより優位的な民族であると内心思うようなコンプレックスを持っていたからではなかろうか。事実、太平洋戦争開戦当初、シンガポールにおいてイギリス軍(イギリスの当時の植民地であるインド軍兵士を含む)を10万人も一度に捕虜にしたが、(そんな大量の食料を用意できないというような理由で)南京で簡単に為したような虐殺はしなかった。それは西洋諸国から後で非難されることを恐れてのことであろう。しかも日本軍はこの南京事件以降も、中国において進軍先の各地で虐殺を続けて行った。

南京における図書・書籍・文化財の略奪

 日本軍による図書略奪は、すでにこの年の7月末に天津に飛行隊からの爆撃を加えてすぐに陸軍が天津を占領、そして破壊した南開大学の図書館にあった20万冊に及ぶ書籍を略奪していて、戦後に返還された本はその一部の450冊足らずだったという記録がある。

 南京においては、復旦大学歴史学科教授の趙建民による1997年(平成9年)の論文、「南京大虐殺における図書略奪」がある。

【公立図書から個人の蔵書まで】

 —— 日中双方の資料によると、南京において日本軍が公立図書と私蔵書を略奪した状況が示されている。

1 公立図書

 戦前の南京には、1933年(昭和8年)に設立された中央図書館、もとは清朝時代の「惜陽書舎」(後の江南図書館)、蔵書で知られる耶蘇大学図書館、中央大学図書館、南京市立図書館、国民政府および中央党部会所属の各図書館がある。日本側の資料によると、日本軍に略奪された図書は合わせて64万6900冊となる。日中両国の統計を総合すると、84万4060冊以上となっている。戦前の南京公立図書関係の総量は142万冊だったが、日本軍に略奪されたのは少なくとも84万冊以上で、蔵書全体の約6割を占めた。

2 個人の蔵書

 南京陥落以降には金陵大学、中央大学、中央研究院の教授の個人蔵書は少なくない。中央大学の孫本文所有の中国語の図書は4367冊、西洋語の図書は800冊であった。金陵大学の倪青原の中国語図書は5000冊、西洋語図書は3000冊が日本軍に略奪された。中央大学の肖孝嵘教授は蔵書5000冊、孔啓昌教授は1300冊を失った。「蔵書の量で当代に名を馳せる」とされていた老漢方医の石筱軒は、日本軍によって貴重な宋版の医書十数部を含む4箱を強奪され、また三進院の邸宅全体が焼かれたが、「その住宅内に所蔵された書籍は数十万冊に及び、その多くは古籍であり、祖雲谷太史令から遺された書籍は、悉く倭寇(日本軍)のために焼失した」とされた。日本の学者松本剛氏の説によれば、略奪された個人の蔵書は約5万3千余冊である。

 この他日本軍が南京で略奪した図書として、南京国民政府文官処図書室に保管されていた「清代皇帝実録」の写本3000冊余り、これは清太祖から第11代徳宗までの宮廷日記の原本である。また国学図書館の当時の蔵書は24万冊あり、日本軍が南京を爆撃した時、倉卒は「宋元精刊及び孤本などの善本を選んで110箱に詰め、朝天宮博物館故宮分院の地下庫に保管した」。しかし「1940年(昭和15年)2月、日軍が地下庫を突き破り、同館の善本を竺橋図書館専門委員会に移して保存した。戦後は封印したまま変換されたが、善書184部1643冊が欠落していた」。

これら以外に日本軍の爆撃で焼失したもの土砂に埋もれたもの、厳しい寒さのさなかで、日本軍に燃料の代わりに家屋の床や柱や家具、さらには図書文献までもが薪炭とされて燃やされた。どれだけの図書が燃やされたのか、正確な数は当然わからない。

【略奪した図書や文化財の日本人研究者たちによる調査と整理】

 図書の略奪は日本の中国侵略政策の重要な一部となっていた。日本軍は南京占領が近づくと、1937年(昭和12年)12月初旬、図書文献の調査と接収を専門とする機関「占領地区図書文献接収委員会」を発足させた。日本軍の上海方面作戦の進展に伴い、占領地域内の中国の文化機関や官庁などの蔵書文献を緊急収集・保管するとして、上海派遣軍特務部と満鉄上海事務所、東亜同文書院、上海自然科学所が合わせて設立した15人の幹事と委員によって、「占領地区図書文献接収委員会」が設置され、特務部長名で各軍参謀長に通達された。

 続いて、12月11日から上海で滬(こ)江大学(現・上海理工大学)、大夏大学、曁(き)南大学、上海市政府図書館、民衆教育館、大同大学、世界書局倉庫などを実地検分した。翌1938年(昭和13年)1月22日から10日間、南京において外交部、国民政府文官処、考試院、全国経済委員会、省立国学図書館、国立編訳館、中央党本部、教育部、中央研究院、紫金山天文台、交通部、行政院など70カ所で現地図書の検分が実施された。その後、3月6日から4月上旬までの一カ月余りにわたって、南京の各機関や研究所など25機関から、南京珠江路の元実業部にあった地質調査所に図書を集めた。総冊数は当初約60万冊だった。このために動員された運搬人員は、軍兵367人、中国人労働者2830人であり輸送トラック310台が動員された。

 これらの整理のために「図書整理委員会」を設置し、この地質調査所の三階建てのビルの各部屋に山積したものに対して集中調査が行われ、片づけは7月1日に始まり、8月末までに一回目を終えた。この整理作業には、整理員1098名、軍兵士420名、労働者1902名が動員された。

 占領地域図書文献接収委員会は、接収の過程で、古陶器、銅器、石碑、石仏、民芸品などの多くの考古遺物を獲得したため、接収と保管の必要性から「占領地域図書文献接収委員会」から「資料委員会」が分離し、上海自然科学研究所を中心に構成して、「華中地区中央博物館」の建設に向けた物品や資料の収集と整理に従事した。

 8月25日、上海の出先機関で陸軍・海軍・外務の三省(部)会議が開かれた。図書文献の二度目の整理に取り掛かる以外は、新しい占領地域、とくに漢口占領後の図書・文物の略奪に備えた。日本軍による図書の略奪は計画的、組織的なものであり、本質的には中国を侵略し、占領し支配するためのものである。例えば宋子文・国民政府財政部長を委員長とする「全国経済委員会」の調査刊行物約80種は、中国の経済・産業調査資料と事業計画書で、いずれも貴重な資料であり、地質調査所から出版された約40種の学術調査書は、中国各地の地質、鉱物、資源に関する学術調査であって、日本軍の中国における軍事的侵略と経済的収奪、植民地支配の確立にあったことがわかる。

 さらに日本の学者を動員して中国の古典と現代の課題に対する研究を行った。前者は一部の特権的な研究者が利用するためのもので、この部分は各専門分野の貴重な図書であり、約30人の専門的な学者が利用した。後者は、日本政府が設立した国立研究機関、調査機関などの研究者を抜き出して行われた。そのための専門研究機関として、1938年(昭和13年)9月1日に企画院を中心とする「東亜研究所」が設立されたが、これは「新東亜建設をめざして東アジアにおける人文・自然全般の科学的調査を行う一大研究機関」としてあった。当時、この機関の重要性は、総裁が近衛文麿、理事が青木一田企画院次長、原敢二郎海軍中将、林桂陸軍中将、岡本武三などが務めていたことでわかる。同年12月、京都帝国大学図書館に中国経済年例調査文庫の資料6955冊を送り、大学教授たちを研究に参加させようとした。続いて日本国内では、「東洋文化研究所」(東京帝大、1941年:昭和16年)、「東亜経済研究所」(東京商大、1942年:昭和17年)、「東亜風土病研究所」(長崎医大、1942年:昭和17年)、「大東亜図書館」(1942年:昭和17年)、「民族研究所」(1943年:昭和18年)など、当時南京などで略奪された図書は、これらの研究機関で活用された。

 要するに、日本侵略軍の南京での図書略奪は、日本の中国侵略戦争の進行と完全に一致している。図書略奪は日本軍国主義の野蛮性を暴露しただけでなく、中国の国情を研究し理解し、植民地支配を確立するための政策的基礎を提供した。

 筆者注:以上の趙建民の論文に関連して、立命館大学の金丸裕一が、日中の論文を突き合わせて「曲論の系譜」のタイトルで検証しているが、要はこれらの資料や数字は相互に引用し合って正確なものが見えないとしている。それは十分にありうるが、ただ、多少の数字の差はあれ、多数の書籍や文化財を中国から略奪したという事実には変わりがなく、とりわけ学者の知識欲、探究心を抑えることは難しく、自分の研究に関わりのある書籍であれば背後関係はあえて無視して収得(収奪)する傾向がある。話は飛躍するが、満州において関東軍の中に防疫部が組織され、その後、細菌の感染、生体の解剖や実験を手がける731部隊が設置され、そこに日本から多くの医学研究者が送り込まれた。その時期にある学者が実験で虐殺され解体され摘出された脳をホルマリン漬けにしそのまま日本に持ち帰った話もある。

 戦地や植民地からの文化財略奪は、日本軍においては日清戦争の頃よりあって、植民地とした朝鮮半島からも多くの文化財を持ち帰り、近年になって日本に対しその返還を求め、その一部は返還されているが、中国への返還は聞こえてこない。これは日本に限った話ではなく、19世紀後半からの欧州諸国によるアフリカや東アジアに対する植民地政策により、多くの文化財が持ち去られた。このうちフランスは2021年(令和3年)にアフリカの文化財の返還を決め、オランダ(対インドネシア)もそれに続こうとしているが、エジプト政府が返還を求めているイギリスとドイツはこれに応じる姿勢を見せていない。

三つの軍事法廷による日中戦争戦犯裁判

  日本軍の南京虐殺について、その中の多くの捕虜と民間人虐殺が「国際法に重大に違反している」として(米軍の日本への無差別大空襲等も含め)よく言われるが、筆者はその国際法自体に疑念を持っている。つまりこの国際法は、戦争を前提とし容認しているからで、戦争を行う限り大小の虐殺事件、つまり戦争犯罪は免れないのであって、さらに勝利者側(米軍)の無差別殺戮は裁かれることがなかった事実もあるからで、誤解を恐れずに言えば国際法による事後の裁きというのは公平とは思えない。逆に言えば南京攻略の時点では日本は戦勝国であったから、その傲りもあって(また中国人への人種差別意識も加わって)、捕虜ばかりでなく住民への虐殺や女性への強姦、掠奪が多々あった。この事実については、記述の南京安全区国際委員会の各メンバーによる日本軍の残虐行為についての報告書が、次々とアメリカを中心として西欧諸国(この時期のドイツは別)に送られていて今も各国に残っている。そしてそれらの報告書をベースとして戦後、アメリカを主導とした日本に対する戦犯裁判が行われた。以下は南京事件に関して戦後に行われた三つの戦争犯罪に対する裁判についてであるが、二つは被害を受けた中国内で行われた。

極東国際軍事法廷(東京裁判)

 戦後のこの東京裁判の中で、 当時南京にとどまり国際赤十字会の会長をつとめたアメリカの牧師マギー、南京安全区国際委員会の委員で金陵大学教授のベイツ、 鼓楼病院の医師ウィルソン、 国際委員会総幹事のフィッチ、 金陵女子文理学院教師兼舎監の程瑞芳、 死体埋葬の責任者だった元中国慈善団体紅卍字会会長の許伝音博士などが出廷し(これらの人々については「南京にとどまった欧米人の難民のための奮闘とその記録」で既述)、日本軍の残虐行為について証言した。中国側で虐殺を免れた被害者の伍長徳、尚徳義、梁廷芳、 陳福宝等も出廷して証言をおこなった。そしてこの裁判の結果、「日本軍占領後の最初の6週間で(1937年:昭和12年12月13日から翌年1月まで)、 南京及びその付近で虐殺された一般市民と捕虜は、総数は20万人以上に達していた。……この数字には、日本軍によって焼かれた死体、 揚子江へ投棄されたりその他の方法で処理された死体は含まれていない」/「南京が占領された後1か月間に発生した強姦事件は2万件前後にのぼる」/「被害者であろうと、彼女を守ろうとした家族であろうと、少しでも抵抗・拒否をしようものなら、殺害された」/「日本兵は一般市民に対し、自らの欲するあらゆる物の掠奪を始め、… 非常に多くの住宅や商店が侵入され掠奪され(抵抗する住民は射殺された)、掠奪された物資はトラックで運び去られた。日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。…… 市の商業区の建物は相次いで焼き払われた。… こうして全市の約3分の1が破壊された」ということがはっきりと認められた。

 城外の地区についても、判決書では 「南京から200中国里(約100km)以内のすべての部落は、 だいたい同じような状態にあった」と述べている。こうした罪により、当時南京攻略を指揮した元中支那方面軍司令官の松井石根は、「自分の軍隊に行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももたらさなかった。自分の軍隊を統制し、南京市民を保護する義務と権限をもっていたが、履行を怠った」(この主旨も既述のようにその通りである)として絞首刑が言い渡され、1948年(昭和23年)12月23日に巣鴨プリズン内で松井ほか日中戦争から太平洋戦争までにも関係した6人(東條英機、広田弘毅、板垣征四郎、土肥原賢二、木村兵太郎、武藤章)の死刑が執行された。

 なおこの1948年(昭和23年)の極東国際軍事法廷において、南京では「一般市民と捕虜の総数20万人以上」が殺戮されたこと、そのほか放火、掠奪、強姦が繰り返されて多数の危害が加えられたことを認定し、その責任は将兵の暴走を防がなかった中支那方面軍司令官の松井石根にあるとし、松井を死刑にしたということで、いわゆる南京事件を1948年(昭和23年)の時点で認定したことになる。ところがこの裁判の結果自体が、この後の日本国内では無視されてしまう流れとなるのである。ある意味、死刑にされた松井は死人に口なしの扱いとなったわけである。いかにも敗戦が決まった時点で、内外の軍事関係書類をすべて焼き払うように指示し、この戦争全体がなかったようにしようとした国に似つかわしい。

南京軍事法廷

 上記の東京裁判を中心として日本軍が侵攻したアジア各地でBC級戦犯に対して、49カ所の軍事法廷が設置され、中国では1946年から1949年(昭和21-24年)4月までに蒋介石率いる中国国民党政府軍事委員会によって、保定、東北、南京、広州、上海、済南、武漢、太原、台湾など10カ所で裁判が行われた。蒋介石はラジオ放送で日本に対して「徳をもって恨みに報いる」(以徳報怨)との寛大政策で臨んだ。その中で南京軍事法廷(1946年2月15日から1947年12月25日:昭和21-22年まで)は南京事件を主として裁判が行われた。南京事件では「捕えられた中国の軍人・民間人で日本軍に機関銃で集団射殺され遺体を焼却、証拠を隠滅されたものは、単燿亭など19万人余りに達する。このほか個別の虐殺で、遺体を慈善団体が埋葬したものが、15万体余りある。被害者総数は30万人以上に達する」とされた。8年以上前の事件の正確な情報の収集は困難であったが、南京で裁いた戦犯は102人、そのうちの多くは日本からGHQを通して呼び寄せられたが、松井司令官のように東京で戦犯として裁かれる者もいた。判決は1947年(昭和22年)に下され、その中で死刑7人、無期10人、有期12人であった。その死刑のうち4人が既述の下関虐殺事件関連の中の第六師団で触れた谷師団長と、百人斬り競争などで目立った向井、野田、田中であった。

 ただし谷寿夫は「率いた部隊が首都を陥れたのち、兵がほしいままに残虐行為をおこなうのをともに放任した」とされたが、すでに筆者が記したように、筆者の調べでは谷は冤罪であり、確かに12月13日、南京城外で退却する中国軍と激しい戦闘を繰り広げて多くの中国兵を戦死させ死体を遺棄しているが、残された捕虜たちを虐殺する時間的余裕はなく、早々に転進している(「虐殺に関わっていなかった第六師団」参https://earthpeace.works/from-sino-japanese-war-til-pacific-war/japans-50-years-of-war-1937-3/#sixthdivision照)。しかし大虐殺を主導した当時の第十六師団長中島今朝吾中将は、戦後すぐに病死していて、現場で過激な指揮をした佐々木到一支隊長はその後満州に転属し、そこからソ連軍によりシベリアに抑留されていて召喚できなかった。そうした状況の中にあっても、もはや法廷の流れは止めようがなかったであろうし、師団長レベルの誰かを吊るし上げなければならなかった。そのためには谷師団長しか残っていず、谷は彼らの身代わりとして処刑された。もう一人第十三師団の山田支隊の支隊長、とりわけ両角大佐が重要な役割を果たしているが、どういうわけか二人とも召喚されていない。

 またこの法廷では南京事件とは別に、第28旅団の酒井隆中将が死刑判決を受けている。これは日中戦争中盤以降の「昭和16年11月より昭和17年3月にいたる間、広東南海一帯の作戦時において、その所属部隊が村民の百余名を虐殺、村民を境外に追いやり、民家を焼却した」等の罪によるものとされるが、その程度の事件・虐殺はこれまで筆者が記したものを含めて数知れず起きていて、ただ日中戦争8年間の全体を裁判の中で見渡すには時間が限られていたようであるから、たまたま先に捕えられた彼がそれらの代表として死刑になったに過ぎないであろう。

 ともあれこの判決を終えて、1947年(昭和22年)末に各地の法廷は南京に集約され、中国全体の法廷で1949年(昭和24年)までに死刑判決を受けたものは149人、400人以上に有罪判決が下された。実は日本軍との戦闘が終わって国民党と共産党との国共合作が崩れて、蒋介石としては中国共産党との内戦が始まりつつあったので、判決を急いだ面がある。そして内戦ののち共産党が政権を握ると、新たな法廷が開かれ、それが下記である。

撫順戦犯管理所と日本戦犯特別軍事法廷

 高興祖は「中国戦犯裁判軍事法廷」と名付けているが、正確には遼寧省の撫順戦犯管理所における調査ののちに設置された「日本戦犯特別軍事法廷」(最高人民法院特別軍事法廷)であって、これは蒋介石の国民党政府と毛沢東率いる中国共産党が内戦の結果、共産党軍が蒋介石軍を打ち破り、1949年(昭和24年)10月に中華人民共和国が建国されて、日本軍が満州国に建設した遼寧省の撫順監獄跡を1950年(昭和25年)に撫順戦犯管理所として設置したものである。もとの撫順監獄は、1936年(昭和11年)に日本が東京拘置所を模して作った監獄で、「反満抗日」の中国人を投獄して多くの命を奪ったところであり、ここで改めて日本軍の戦犯を裁判にかける目的とし、戦犯となって収容された元日本軍の幾人かは、かって自分たちが中国人を虐待した場所であったから、怯えてしまったという。

 この戦犯管理所には、ソ連(シベリア)に抑留されていた969人の日本人が引き渡され、貨車ですし詰めで移送されたが、これに対して中国側は白いシーツの客車で迎え、食事を準備し、 医師による検診も行われた。さらに戦後も中国に残留して中国国民党軍に加わり中国共産党軍と戦った者も収容され、別途、蒋介石国民党の戦犯も収容された。最終的に日本、満洲、国民党の戦犯合計1300人が拘留された。

 この法廷では南京軍事法廷と同様に、集団虐殺された中国側の犠牲者の総計は19万人以上とし、 分散して虐殺された者は15万人以上にのぼり、 被害総計は30数万人であるとした。「日本軍の各将校が野放しの兵士と共同して、手分けして虐殺、強姦、 掠奪、財産破壊をおこなった事実は、すでに衆人の証明する確かな事実であり、隠蔽することは不可能である」とした。まず調査は、虐殺を免れた中国人証人1250余人の聞き取りから始められた。また調査チームは、当時死体の埋葬を中心になって行った慈善団体の責任者の具体的な証言と、その死体埋葬の統計表、さらに傀儡南京市長(占領後に日本軍が指名した市長)の高冠吾が3000余りの無名の死体を合葬した場所に立てた碑文を手に入れた。そして、それぞれの合葬された場所にそって五ヶ所の塚を発掘し、被害者の死骸や頭など数千体を法医学によって分析した結果、刀で叩き割ったり、弾が当たったり、 あるいは鈍器で殴られた傷跡がたくさんあることが明らかになり、それを鑑定書に記入して証拠とされた。さらにまた、当時の日本軍が戦の手柄をひけらかすために、自分たちで撮影した虐殺の写真15枚と実地で撮影された皆殺しのフィルムも、 日本軍の敗戦の後差し押さえて没収し、裏付けの証拠とした。

(筆者注:こうした写真やフィルムが残っているのは珍しく、日本の軍政府は敗戦が決まった時点、つまり8月15日の少し前から、国内外にわたり軍事関係書類や記録の焼却処分を指示し、ほぼそれは各部署で忠実に行われていて、逆にナチス・ドイツはそのような指示を出さず、結果的に数多くの虐殺の証拠が残されて連合軍に押収され、我々も時折TVなどで目にするのがそれであり、むしろわが国のものを目にすることは滅多にない結果となっている)

 日中戦争における蒋介石の南京軍事法廷でも、太平洋戦争における東南アジアの各地域の軍事法廷においても、捕らえられたいわゆるBC級戦犯の多くは死刑に処せられたが、この撫順戦犯管理所では様相が違った。戦犯として収容された者たちの供述に少しでも矛盾があればそれを問いただし、どんなに日数をかけても本人が自分の虐殺行為と正面から向き合うまで続けられた。そこで本人が自分の行ったことに対して客観的に覚醒し、心底から罪悪感を持ち、反省していることが確認されると相応な量刑を課され、死刑にされることはなかった。前の項で触れた藤田茂も徹底的に自身が為したことを正直に供述するように導かれた。藤田が当時の中国人民革命軍に諭されたことは、「中国を侵略し、同胞を殺したのは日本の軍国主義者で、一般の民衆はわれわれと同じ戦争の被害者だ」という思想であった。

 この戦犯管理所で対策の総指揮をとったのは、かの周恩来であり、彼は「悪いのは日本の軍国主義政策である」、つまり日本人が悪いのではない、そして「罪に対しては徳を持って接する、 罪を憎んで人を憎まず」との基本方針で、捕虜に対して手厚い対応を行い、十分な食事が与えられ、強制労働もなかった。中国人管理所員は礼儀正しく、日本人を殴ったり叱ることはなく、丁寧に接した。日本人収容者は当初「最後の晩餐」ではないかとさえ思ったという。むしろ管理所員のほうの食事などが貧しく不満が出たが、周恩来は「復習や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後には解る」と所員を諭した。建国したばかりの理想を掲げた共産党政権は、ある意味人間主義的共産主義による理想国家を作ろうとして、戦犯に対してこのような対応をしたものと思われるが、それでも人間主義を体現している周恩来なくしてはあり得なかったであろう。その収容所生活の中では思想改善教育も行われたが、戦時中の中国での罪行を全て告白し、書き出すことが要求され、中国側は「告白したものには光明がある」と繰り返し、全ての罪を書くように指示し、それを現場検証や目撃証言に照らし合わせる作業も、虐殺された被害者の家族や親とも引き合わされて行われた。

 1955年(昭和30年)9月に裁判が行われ、155名が起訴され、死刑求刑7名、執行猶予付き死刑求刑3名を検察院は求めた。しかし、周恩来の減刑指示により同11月に死刑求刑は却下され、結果的に1956年(昭和31年)6月に36名が起訴された。太原戦犯管理所からも含めて合計45名(軍政府の高官のみ)が瀋陽の最高人民法院特別軍事法廷で起訴され、最高で禁固20年の判決が出た。その他の被告全員が罪を認め謝罪した結果、それを善しとして、起訴は免除され、即日釈放となって1956年(昭和31年)7月に帰国、実刑判決を受けた者も満期前に釈放され、1964年(昭和39年)3月までの間に日本人戦犯は全員帰国することができた。

 例えばその中で、例の悪名高い満州の731部隊に所属した軍医の一人が、自分たちが街角から拉致した一般男性を解剖実験し、その後「用済み」となった若い男性を将兵が軍刀によって斬首(試し斬り)したという事実があった。もちろん軍医はそれを見ていたが、戦後の5年後つまり共産主義政権樹立後、彼はそのまま中国に残留して地域の人々の医療に関わっていて評判も悪くなかった。ある日撫順戦犯管理所に戦犯として収容され、そして自分が殺人に関わった男性の母親に引き合わされた。「この人が私の息子を殺した」と目の前で指され(母親は息子が拉致される時に遠目で現場を見て、そのトラックを必死に追いかけて息子が兵舎に連れ込まれるのを見たのであった)、その瞬間「自分はこの母親の息子を殺してしまったのか!」と、罪の意識が初めて芽生え、身が震えるほどに自覚した。それまでは731部隊の中で呼び習わされた、人間の形をした「丸太」を扱ったという意識しかなく、医師の研究の一環として仕事をしていたつもりであった。それほどに戦時下もしくは日本軍の占領下にある相手の住民たちを、同等の人間とは誰もが見ていなかったということである。そしてこうした自分は死刑になってもやむ得ないと自覚したが、戦後10年も経って釈放され、帰国した。戦後すぐに帰国していて港に迎えにきた同僚に実情を話すと、「えっ、あれがか?!」と驚かれ、遠くをみるように顔をあらぬ方に向けた。彼もまったく罪の意識がなかったのである。(筆者の「各種参考資料」の中の「慈恵医大卒業生:湯浅謙の軍医体験」参照)

撫順の奇蹟(周恩来の功績)

 この結果は後に撫順の奇蹟と呼ばれるが、世界の軍事法廷でこのような結果を残した裁判は皆無である。太平洋戦争における同様なアジアでのBC級裁判では(蒋介石軍が行なった南京裁判も含めて)、1000人近くが現地の裁判により処刑されていて、その中には捕虜収容所の監視役をやらされた朝鮮人軍属もいた(命令した将校たちは「終戦」と同時にさっさと帰国し、罪を免れていた)。

 実は撫順で収容された日本軍将兵たちは当初、ほぼ全員、戦争犯罪を行ってきたという自覚が皆無であった。この意識のずれはほぼ当時の日本軍に共通の感覚であって、正義の皇軍対敵兵という図式の中で、自身が捕虜に対して銃殺や刺殺に加担していても、それが当然なことと思っていたし、その根底には中国人に対する差別意識があったから、まるで牛や豚を屠殺するような無感覚の中で行動していた。そもそも正規軍とは別に急遽動員された数十万人単位の兵士たちはまともな訓練も、軍事的教育も受けていず、戦争は敵を殺すものであって、それが戦闘行為の延長である捕虜や敵地の住民の殺害や暴行が犯罪となるという自覚もなく、勝利軍だから何をしても許されると思い込んでいたということである。

 そのような日本軍将兵に対し、撫順戦犯管理所ではそれぞれが行ってきた「犯罪」に対し徹底的に客観的に対峙させ、罪を罪として自覚させるように導いた。そもそもがこの撫順の収容所の職員たちは、すべて日本軍将兵たちにより、皆一様に、物質的・精神的に大きな打撃を受けた人々であった。中には自分以外の一家全員が日本軍に殺害された所員もいた。またある職員は、戦時中、目の前で姉を強姦されて殺された、その犯人である日本人を管理所で見つけ、思わず大声を上げて掴みかかった。その所員は当時子どもであったが現場を見ていて日本兵の顔だけは覚えていたのである。だから日本兵への怒りに耐えかねて途中で転勤を願い出た所員も少なくなかった。二代目の管理所長ですら「日本帝国主義の残酷な圧迫の下で一家が故郷を追われ、兄や妹がそのために死んだこと、中学のとき日本軍に捕まって労工にさせられたことなど苦難の連続であった過去を考えると、思わずこの戦犯たちを憎まずにはいられない。私が毎日彼らと付き合うことは、自分が監禁されたと同じように耐え難いことに思えた」と語っている。それでも戦犯たちの罪行は徹底的に批判するが、それを戦犯個人に向けるのではなく、その根源は日本の軍国主義という悪しき体制にあるという考えのもと、戦犯個人に対しては人道的に向き合い、その苦しみを共有するという基本姿勢を持ち、自分たちの日本兵士への恨みや憎しみを抑える努力を重ねることにより、やがて、管理所職員全員が戦犯を教育する責任感と使命感を強く抱くようになる。このようにして日本人戦犯と中国人所員たちは終生変わらぬ友として交流を続けていくことになる。

 その背景はこうである。

 —— この戦犯となった日本の将兵たちがソ連のシベリアでの5年間の過酷な抑留生活を終えて中国側に引き渡されるときに乗せられた輸送列車は、鍵付の家畜専用貨車で異様な匂いがしみついた最悪のものであった。しかも真夏の太陽が照りつけて蒸し風呂同然の暑さの中、食事として与えられた乾燥したパンも水がないので食べられず、輸送一日で疲労し体力が消耗していた。そのような状態から中国国境の綏芬河(スイフンガ)で中国の客車に乗せ換えられたが、それまでの地獄のような貨車から、四人がけの座席のある立派な客車へと導かれた。そこで昼食が配られ、満腹になるまで食べさせてくれた。涙が出て、満腹ということは人間にこんなに安らぎを与えてくれるのかと実感した。これには初めて人間扱いされたと感謝の思いが湧いた。この扱いは撫順の管理所でも同じであった。それまで中国人を日本人より劣等な民族だと見下し、酷い仕打ちをしていた我々の頭は完全に打ちのめされた。

 —— しかし撫順に到着した当初、『戦犯』という言葉が目に入った。彼らは全員自分の行なったことが戦争犯罪であるとの自覚はなく、単に命令に従っただけの自分たちがなぜ責任を追及されなければならないのかと怒り怯えた。「上官の命令は天皇の命令と心得よ」とする当時の軍隊組織の中にあって、それに抵抗することはほぼ不可能であった。しかしそのような弁解は、被害者の側にはまったく通用しなかった。被害者から、実際にやったのはあなたでしょう、と言われれば否定はできない。

 —— しかし撫順に到着した当初、『戦犯』という言葉が目に入った。彼らは全員自分の行なったことが戦争犯罪であるとの自覚はなく、単に命令に従っただけの自分たちがなぜ責任を追及されなければならないのかと怒り怯えた。「上官の命令は天皇の命令と心得よ」とする当時の軍隊組織の中にあって、それに抵抗することはほぼ不可能であった。しかしそのような弁解は、被害者の側にはまったく通用しなかった。被害者から、実際にやったのはあなたでしょう、と言われれば否定はできない。

 —— 我々は当然「憎むべき敵」であるはずだ。にもかかわらず、彼らは私たちにこのように献身的な奉仕をしているではないか。私は日本軍が捕虜など人間と思わず、拷問したり虐殺したりした仕打ちを思い浮かべて、大和民族と自己とを深く恥じ、彼らの心の大きさに心から敬服した。

 —— 私は功名心と立身出世のために、何の罪もない中国民衆を片っ端から捕まえては拷問を重ねてきた。捕まえた中国の人たちには散髪どころか、たった一度だって入浴もさせなかった。病気で苦しんでいる人を見ても「どうせ虫けらだ」と薬すら与えようとしなかった。水も飲ませない。食事もとらせない。自分でも相手が無実だとわかっていながら、その親たちの必死の命ごいも聞き入れてやらなかったではなかったか。この手で、中国の人たちを殺してきたではないか。そんな私が、中国の人たちから、親でもできないほどのこんな愛情を注いでもらっていいのか。申し訳ないことをしてしまった。本当に悪いことをしてしまった。こんな私は死刑になっても当たり前だ。私は次第にそんな気持ちで一杯になっていった。

 —— 元憲兵の一人は、「中国の人たちのあまりにも人間的な待遇を受ける中で、中国民衆に自分たちがどんなことをやってきたのかと、罪行への目覚めがはじまった」

(以上は主に『戦争責任の認識 ─ 撫順の奇蹟 ─』(坪田典子:文教大学国際学部紀要:第17巻1号2006年7月から)

 このように撫順戦犯管理所においては南京軍事法廷とはまったく違う方法で戦犯容疑者の証言と多角的に付き合わせ、検証しているが、撫順での数年間の時間の後半には、全員が一人の例外もなく、自分こそが戦争犯罪の一端を担っていたこと認識していく。「日本鬼子」と中国人から恐れられていた一人一人が、戦争中に自分が犯した残虐な行為と向き合い、自ら罪を客観的に認めるように意識が変わり(認罪)、心から反省・謝罪し、最終的な裁判では、自分は極刑つまり死刑になっても当然だと語っていくほどになった。これに対して極東軍事法廷(東京裁判)で審判を受けた28名の日本のA級戦犯は、最後まで一人として自分の罪を認めようとしなかった。このA級戦犯たちは中国に対しても、太平洋戦争まで日本国民を引きずり込んで多大な犠牲者を出したという意味でも許しがたい責任があり、しかしその自覚すら持てない情けない人間たちである。現に、A級戦犯の代表である東條英機は、首相であった時期に太平洋戦争を起こしたが、A級戦犯として起訴された時に演技とも言える自殺未遂を起こし、過去に自分が発した戦陣訓において「生きて虜囚の辱を受けず」として、敵の捕虜になるくらいなら自決して果てよとの考えを推し進め、多くの兵民を自決に追いやりながら、自殺未遂で米軍の病院に収容され、それを恥ともせずに死刑の日まで生き延びた。さらには日本の敗戦が決まった時、軍政府は内外に軍事関係記録資料の焼却を命じた。呆れたことに、この戦争自体をなかったことにしようとしたのである。つまりここで日本は自分の起こした戦争に対する反省とその責任を自覚することをやめたとも言える。

【帰国者たちの受けた差別】

 帰国した元戦犯容疑者たちの一部は、1957年(昭和32年)9月24日に中国帰還者連絡会(中帰連)を結成し、「反戦平和運動」、「日中友好運動」を展開した。特に、731部隊・南京事件・強制連行などについて自らが戦地で行ってきたことを積極的に証言することで、戦争の愚かさと残虐性を訴えることをその運動の核心とし、その活動を実践し続けてきた。残虐行為に関わった元将兵たちが、このような組織を作って直接社会に訴える活動をした例は他にはない。しかしその活動に対し「赤に染まった帰国者たち」(中国共産党に洗脳された反社会的アカ)として批判する論者たちが多く出てきた。彼ら戦犯たちが一度諦めていた生を得て日本に帰ってから待っていたのは、「赤に染まった」中国帰りの偏向人間という差別であった。こうした差別すること自体が偏向している人間のすることであるのだが、けだし、偏向という言葉は偏向している人間が殊更に使う言葉であることを示しているわけで、今もってその傾向は変わらない。これがそのまま「なかった派」と繋がるが、戦後に作られた元軍人の戦友会というのは、むしろそのようなことを語って自分たちの立場を危うくするようなことがないように相互に縛りを作っていた(だから元将兵の多くが亡くなっていき、80歳前後になってその縛りがなくなって、やっとその経験を語り始めた人たちが出てきたのである)。

【周恩来の精神を引き継がない後世と引き継ぐ人たち】

 この戦友会と同様に、日本の政府レベルでも、戦争を遂行した国家として戦争責任を自覚し、相手国に謝罪し、被害者に補償するという(ドイツ政府の行ったような)基本的な営為を公に行ったことは未だにない。その日本の「無為」を支えている人たちこそ「聖戦」とされたこの戦争の幻影から逃れられず、被害者の立場になって考えることのできない偏向した人種(為政者を含めて)と言うしかない。一方のドイツはとりわけ20年経った頃の1960年(昭和35年)代、世界戦争を引き起こし多大な犠牲を生んだ過去の過ちに正面から向き合い、周辺諸国にもきちんと謝罪して、賠償金も1990年(昭和65年)代まで支払い続けながら国としての社会常識を築き上げ、今はEUの中心となっている。そして片方は集団無責任体制の形を戦後も残しつつ、自国が仕掛けた戦争を振り返る意識すらなく、従って政官人の誰も反省どころか謝罪への思考回路を持たないままである。そもそもそれは、戦後総辞職した鈴木内閣の後を受け、終戦処理内閣として継いだ東久邇宮稔彦首相が、就任時の記者会見において敗戦の原因等に触れ、「国民の道義のすたれたのも原因のひとつであり、軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならない」とし、「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」(一億総懺悔論)と述べたことに表されている。国民の道義を廃れさせたそもそもの要因は何なのか、それを考える力もなく国民に反省を求めるという国としてまったく無責任なこの政・軍・官人たちの頭の構造はどうなっているのか。そもそも国がこの非道な戦争に国民を導いたことに対して、まず国民に謝罪するという基本的な「指導者としての精神」が一片も伺えない。これでは多大な被害を生じさせた近隣諸国にも謝罪しようとする思考が生まれるわけがない。

 ただしかし、戦後の日本国民は戦争の悪夢を忘れるべく、底辺で必死に働き続け、その結果経済だけは復興して「一流国」の仲間入りをした。これは決して政官人が主導したわけではなく、日本人が本来持つ勤勉さによってである。その中で民間人は経済的に進出した国々でなんとか信用を回復してきた。それに対して国際政治的には日本は(どこかの国の従属国として)二流以下の体をなしていて、いまだに発言力も薄い。

 繰り返すが、周恩来の精神は、基本的に加害者となった日本国民自身も軍国主義国家の被害者の立場であるとする思想であって、他の共産党の指導者ではここまでのことはほぼ成し得なかったであろう。正直なところ、現在の中国の同じ共産主義体制において、この周恩来的思想(人間主義的共産主義)が残されているとはとても思えない。ちなみに筆者は現実の共産主義政権は全体主義と裏表の関係にあると考えている(その全体主義国家の典型が今の北朝鮮であり、これは戦前の日本の軍国主義国家に近似している)。その意味でも周恩来の為したことは奇蹟であった。日中国交回復を田中角栄の要請に応じて成し遂げたのは周恩来であるが、周恩来のような人格者が、毛沢東のような独裁者のもとで最後まで生き残ったのも奇蹟であろう。いまだに周恩来が中国の国民の間に親しまれ、尊敬され続けている要因でもある。ただ、その間に周恩来はどれだけ忍耐(隠忍自重)を重ねてきたか、想像するに余りある。実際に現在長く日本に住む中国人数人に聞いたことがあるが、日本に来る前に親から同じこと、つまり悪いのは日本の軍国主義で、日本人ではないを教えられたと話していて、しっかりと周恩来の精神が残っている。

南京事件に関わる名誉毀損裁判

東史郎の50年後の闘い

 東史郎が日中戦争時に書いていた日記(正確には陣中メモと日記を除隊後に清書したもの)はこれまでに抜き書きし記述した。その50年後の1987年(昭和62年)7月、東史郎はその日記を、京都の市民団体の求めで「平和のための戦争展」で公開、そして同じ第十六師団20連隊の増田六助と上羽武一郎(二人の当時の日記も記述済)も加害証言の記者会見をした。東、73歳の時である。

 会見後は匿名の抗議の電話や非難の手紙、脅迫状を受け続けたが、電話には何時間でも律儀に対応した。また「殴り蹴られて、己の屋敷を侵害された者の立場を想像すれば、 日中戦争の是非は子どもでも理解できるのではないか」と朝日新聞に投稿した。1987年(昭和62年)末、日記をもとにした著書『わが南京プラトーン ― 召集兵の体験した南京大虐殺』(青木書店)を出版し、12月13日、南京事件50カ年を記念して南京事件調査研究会(学者の洞富雄主催)が南京市を訪問したのに同行し、直接の加害者として初めて謝罪した。これにより東は20連隊第3中隊戦友会「中隊会」から中隊の名誉を毀損するものとして除名されたが、その後同じ連隊の上官から名誉毀損で告訴される。

 さらに1994年(平成6年)、東史郎は2度目の南京訪問を果たし、玄武門(既述参照)の左側約50mの近くまで行くと、突然城壁の根元を指差し、自分がここで虐殺に加わったことを告げ、中国国民に謝罪した。「国際安全区から約200人の中国人を逮捕し、ここまで連行し機関銃で全員殺し、遺体はここに積んだ」ということであった。さらに東は揚子江岸下関の中山埠頭(碼頭)でも虐殺に関わったことを証言した。1997年(平成9年)8月14日から16日にかけて、第一回「侵華日軍南京大虐殺史国際学術シンポジウム」が南京で開催され、東史郎は一人息子を連れて出席し、親子は中山埠頭の遭難同胞記念碑の前に赴き、犠牲者に花を捧げ、黙祷した。この後も東は南京を訪れるが、自身が保存していた戦時日記や勲章、軍旗を南京記念館に寄贈した。(東はこの中山埠頭についても日記には書いていないが、中山埠頭=碼頭については既述の「下関地区における大量虐殺と第十六師団」の項でも触れている)

東史郎たちが日記を公開し記者会見した六年後の1993年(平成5年)4月、東を含めた三人を相手に、東の所属した第十六師団20連隊第3中隊の分隊長が、東が公にした日記等により「名誉を毀損された」として損害賠償を求めて提訴した。この提訴で奇妙なのは、その日記に記された一つの残虐行為に関わった人間として明らかに自分が指示したように書かれていて、それを自分は読んでないが、戦友たちからお前のことだと聞かされ、あくまで自分はその本を読んでいないが、知人と相談して訴訟を起こしたとしていることである。

 その問題となる箇所は筆者既述の「第九師団と第十六師団による南京城内大掃蕩作戦」の東の日記の12月21日に取り上げているが、郵便袋に中国人を入れて虐待死させた場面であり、指示した人間は仮名で記されている。そもそも、その仮名の分隊長の戦友たちがお前のことだと指摘できたこと自体がその出来事が事実であったことを裏付けているが、先の相談した知人なる人物(元将校)が主導してその場面は虚偽であるとして裁判は展開された。

 1998年(平成10年)12月(つまり南京事件より61年後)、第一審地方裁判所では、南京事件については「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害されたとの事実については……概ね否定しがたい事実」とし、しかし郵便袋事件については、「不自然というべきで……客観的証拠はなく……事実と認めるに足りない」と裁定された。これは原告側の作戦の勝利と言ってもよく、つまり南京事件については争わず、その細部を焦点とし、すでに60年も前のことを証拠立てるものは何もなく、しかも上記のように中隊の誰もが自分自身の名誉毀損を恐れて証言などする者は誰もいないと踏んだことによるものであろう。

 また判決文には「不自然というべき」とあるが、これは普通に考えてあり得ない、つまり普通の人間がなし得ることではないのであり、そのように裁判官が判断してもまさに不自然ではない。しかしこのようにあり得ない出来事は、この時期に頻繁に起こっていて、筆者自身があれこれの資料を渉猟する中で、しばしば頭の思考が止まり、書き写す手を止めて目が空をさまようことがあった。ただひとえに戦争というものがどれだけ人間の隠れた残虐性を安易に引き出してしまうかを認識し直すだけの日々であった。またこの南京の前後の日本軍の戦闘行為を調べているうちに、日本側で言う南京事件(中国側で言う「大虐殺」とは立場的に言える人は少ない)は、これ以降も続く中国人に対する大虐殺の多少大きな事件に過ぎず、この後8年間も続くのであり、ここで立ち止まってはいけないことも十分以上に理解した。

 ともあれこの裁判では、すでにこの時点(「不自然」と裁定された)で東側の負けは確定していたと言っていい。第二審に向けて東の弁護団を含めて「支える会」が結成され、支える会は実際に南京の現地に出向き、当時と同じ大きさの郵便袋を使って池に投げ込み、手榴弾も再現する等実証実験も行った。しかし第二審高等裁判所も事前に結論ありきの裁定を行った。東はさらに上告し、弁護団と支える会が改めて実証実験を行って、当時なされた事が「不自然」ではなく容易に実行できる裏付け証拠を提出したが、その約五週間後の2000年(平成12年)1月下旬に異例の速さで棄却を決定、つまりほとんど証拠書類など検討しないままの一方的に幕を引く決定であった。

 それにしても最高裁判所の裁判官というものは、なんとお気楽な職位であることか。「棄却」とはなんと便利な方法であることか。微妙な判断を強いられて面倒だと思ったら、周囲の空気に従って却下すればよいのである。この例に限らず筆者は同様な裁定に多々接しているが、今もって高位の政官の思考停止的裁定にはあきれるものがある。

 この判決後、東は、「この裁判で一番傷つけられたのは南京で殺された人々、その遺族、そして今なお癒えぬ傷を抱いたままの被害者なのではないか」と述べている。つまり東は自分のためより、南京の人々のためにこの裁判を闘ったのであるが、この南京の人々が何よりも望んでいることは、日本軍が虐殺を行った事実を率直に認め、謝罪することである。それだけでもどれだけ被害者が救われることか。実際に東はまずは当事者の一人として1987年(昭和62年)末、南京事件50周年に合わせて中国に訪問した日本の南京事件調査団に特別に同行して南京に謝罪に赴いた。その時東は「上海から南京までの列車の中で身体を震わせていた。食事もあまり取られなかった」と同行した南京記念館の段副館長が語っている。そして「南京記念館の庭で群衆に取り囲まれた時、復讐を覚悟した」という。その場ではただただ頭を下げ続け、「南京の人たちには大変なご迷惑をかけた。どうもあいすみませんでした」という言葉がやっと出ただけであった。その場にいた中国人の劉彩品氏は、「いつまでもひざまずいている東さんを見て、記念館にいた中国人は感動しました。新聞記者はその感動を記事にし、その記事を読んだ私たちも感動したのです」と語った。別途生存者たちとの会合で、一人の靴屋に、「今日まで私は日本軍を非常に憎んでいた。しかし今日東史郎の謝罪の言葉を聞いて心が晴れた。握手をしたい」と手を差し出してきた。東も手を握り返して握手した。東は「それだけでも南京に来た甲斐があった」と述べた。この時期、日本の自宅に年老いた妻が一人でいたが、右翼の宣伝カーが押しかけ、大音量で東をなじった。発煙筒が投げ込まれた時もあった。

 いずれにしろ犠牲となった中国の人々にとって、せめて日本側がその罪を認めて謝罪してほしいとする気持ちは、これはあらゆる場面の被害者が抱くものであって、その過去は取り返せないとしても、それがただ一筋の救いなのであって、東は加害者の一人としてその気持ちに応えた当時の唯一と言っていい人物であった。逆にそのような被害者の気持ちに一片も寄り添う心を持てない偏向した連中というのは、それまで人間としてどのような人生を送ってきたのか、その狭量な人生をむしろ憐れむしかない。

 以上は主に『加害と許し——南京大虐殺と東史郎裁判』(現代書館:山内小夜子他編 2001年)からである。

中国人被害者二名の起した名誉毀損裁判

 同じ名誉毀損でも以下は中国の被害者側が、その証言を日本の「なかった派」により捏造され、それに対して起こした裁判であり、二件とも(東史郎と異なり)勝訴した。

【李秀英】

 1919年(大正8年)生まれの李秀英は、1937年(昭和12年)12月、南京安全区のアメリカンスクールに避難民としていた時、妊娠6ヶ月半で最初の子供を身ごもっていた。日本兵たちの強姦に抵抗したため、銃剣で顔や体を37か所も切りつけられ、鼓楼病院で危うく命をとりとめたが、お腹の子どもは翌日流産した(この一件は12月21日のウィルソン医師の日記に記している)。戦後、李秀英は南京虐殺の語り部として証言を続けてきた。そして一連の南京事件に関し、中国人の戦争被害の損害賠償を求める訴訟の原告の一人として、1997年(平成9年)2月に来日し、東京地方裁判所の法廷に立った。これは「731部隊・南京大虐殺・無差別爆撃事件裁判」として関係する中国人被害者によって告訴されたものであった。

 ところがその2年後に南京虐殺の被害者の李秀英は「ニセ物」であると、『「南京虐殺」への大疑問』(1998年展転社)において著者の松村俊夫(民間の「歴史研究家」)がその論を展開した。これに対して李秀英は名誉毀損として、1999年(平成11年)9月、東京地裁に、この著者と出版社を提訴した。そして翌年、東京地裁の判決は李秀英の被害事実を詳細に認定し、松村の本には合理性がないこと認め、被告らに対して150万円の支払いを命じた。原告側の請求は1200万円であったが、本もさほど売れているわけではなく、その意味で被害の程度もさほど大きくないということであった。ただ、李本人としては、当時の直接的な被害よりも、今回の精神的被害の方がつらいと語っていたという。それはそうであろう、自分がこれまで生きてきた証を否定されていたわけであるから。しかし当然被告は高裁に控訴したが判決は覆らず、最高裁への上告でも被告は敗訴した。それほどにこの本に記述されていた論理は破綻していたわけである。何よりも「南京虐殺」の範囲はこれまでに多方面から筆者が記述してきたように底が見えないほど深く、たかがこの本一冊程度で否定できるものでは全くない。

 この判決を傍聴した中国人弁護士の康健は、「この種の右翼的(否定的)な本はドイツでは出版できません(注:ドイツではナチスによるユダヤ人等への虐殺を否定するような出版物は法律により禁じられている)。日本でできることがたいへん不思議でなりません」と述べたが、言論の自由があるとはいえ、旧来から日本は都合の悪い出来事は隠す習性があって、その最大の行いは、敗戦時に(連合軍に占領される前に)内外の軍事関係資料をすべて焼却するように軍政府は通達し、これらの戦争をまるでなかったことにしようとしたことである。呆れるほかないが、残っているのは個々人の意志で残した日記などであって(それをもその通達で日記を焼いてしまった人もいる)、つまりこの南京に関する事実はそれら日記類と証言に支えられている。だからこの松村俊夫のような偏向した「なかった」派が台頭してくるのであるが、それでも彼らが李秀英のような証言者をして偽物と追求してくるということは、むしろ本物は別にいるだろうということの裏返しであって、もはやこの時代になって(次々と新しい証言記録が出てきて)「なかった」論は崩れてきていることを示している。

 いずれにしろ「なかった」派の言論というのは逆説的にいえば我々日本人の犯した過去と向き合う姿勢と平和への努力を妨げる行為である。人間、個人的にも過去に犯した罪と向き合うことなくやり過ごしてしまえば、また同じ罪を犯してしまう可能性は大いにある。つまりおのれが過去になした善悪のことを織り交ぜて振り返り反省しつつ、その後の人生の糧として行かねば、まともな人間にはならないのと同様である。

 この李秀英は非常に気の強い女性のようで、彼女が具体的に残した証言がある。(否定本を書いた松村俊夫が読んでいるかどうかは不明)

 —— 私たちは五台山のアメリカの小学校の地下室の二つの部屋に隠れていた。5、60人いて、入り口に近い部屋が男性で、奥の部屋が女性だった。12月18日に日本兵が来て、多くの男性を連行していった(注:そこでおそらく日本兵は奥に女性がいると目をつけていたのだろう)。次の日の朝、食事を済ませたところにたくさんの日本兵がやってきて、女性たちが何人も引っ張って行かれたが、私は拒絶し、壁に頭と右の頬をぶつけられ、そのまま気絶した。難民区の治安の仕事をしていた父がやってきて、何度も名前を呼んでやっと気がついたが、髪も額も血だらけになっていた。次の日、私は折りたたみベッドに横になっていた。部屋には10数人の女性がいた。昼食の後今度は三人の日本兵がやってきて、まず男たちを外に追い出した。そのうち二人が30過ぎの女性を連れていったが、もう一人が腰に銃剣を下げてこちらにやってきた。そして横になっている私の服のボタンを外しかけたから、カッとなり、彼の急所を掴もうとしたができなかったので、ベッドから起き上がって腰の銃剣の柄を掴んで引っ張ったけど抜けなかった。彼は渾身の力で私の腕を掴んで押さえつけようとしたが、私は頭突きを食らわせ、さらに彼の手に噛み付いた。日本兵は大声をあげたので他の二人が飛んできた。二人の日本兵は銃剣を抜いて私を滅多刺しにし、顔のあちこちを突かれ、太ももなども刺され続けた。興奮していたから痛みを感じなかった。私は絶対に日本兵に辱められなくなかったので、命なぞ惜しくはなく、口に溢れてきた血を日本兵にペッペッと吐きかけてやった。それから腹部をブスッと刺され、意識を失った。誰かが私を呼ぶ声がして、目をあけると父が呼んでいて、私は数人が担いだ板に乗せられていた。父は私が死んだと思い、もう穴も掘って埋めに行くところだった。生きているとわかってすぐ鼓楼病院に運ばれ、アメリカ人の医者(ウィルソン)が傷口を縫ってくれ、傷口は全部で37カ所だと言われた。子供は流産した。唇が一部ちぎれて食べ物も水もみんな鼻の穴から流れてしまった。歯は全部なくなり、入れ歯になった。(注:手術の時に「痩せて背の高いアメリカ人=マギーが写真やフィルムを撮っていた」とも記していて、それは残されている)

(『南京難民区の百日』より)

 ちなみにこの李秀英は2004年(平成16年)に亡くなり、それまで訴訟に参加する母親に付き添ってきた娘の陸玲が母親の経験を語り継いでいる(一旦切り刻まれた体で次の子を産んだ彼女の生命力はすごい)。陸は、「多くの日本の一般の人は良心的。私が日本に来た時も何度も良心ある人に遭遇している。以前、母親が報告するのに付いてきた時、ある背の高い日本人の青年が母親の話を聞いて、涙を流しながら母親に向かって土下座し、『今までその歴史について知らなかった。それを知った今、前世代の人が犯した過ちについて、お詫びしなければならない』と言っていた。歴史を記憶にとどめるというのは、憎しみを増すためではなく、平和を願っているから。母親が経験したことを語るのも、平和のため」と話す。その通りであり、こうした多くの内外の証言者を否定し続ける人間がおそらく日本には諸外国と比べても多くいて、その彼らと同じレベルの政治家も後を絶たず、日本人は(ドイツ人と違って)自省する心を持たない国民として、少なくとも国際的な信用という意味では軽く見られていて、経済面は一流となっているが、国家としては二流のままである。現に、日本政府要人の発言が国際的に重く受け止められることは少ない。日本が国際的に重宝されているのは、経済面による途上国への支援金だけである。

【夏淑琴】(新路口事件)

 これは南京近郊(城外)の町村でおきた数多くの民間人虐殺・強姦事件の中のほんの一例に過ぎない出来事であるが、たまたまその生存者が戦後になって証言をした例があって、その女性を偽の証言者とする大学教授がいた。それは既述の「虐殺に関わっていなかった第六師団」で取り上げた東中野修道であるが、その別な著作、『南京虐殺の徹底検証』(展転社:1998年)の中で証言者夏淑琴を「ニセ証人」とした。東中野は基本的に南京虐殺はなかったとする前提をもって論を展開しているが、当時7歳であった夏淑琴が戦後、証言者となっていたのは、たまたま既述のマギー牧師がその避難区に連れてこられた夏淑琴の被害のことを知り、住んでいた場所を訪れ、フィルムに撮ったことによる。数多くの事件の中の「ほんの一例」と言っても、極めて悲惨な事件であり、筆者自身も書き写すのにためらわれるほどである(その理由で一度目を通していたこの事件は書かないでいたが、後に証言の真否が裁判となっていたことがわかって、やはり書く次第となった。以下は『南京大虐殺の現場へ』1988年、洞富雄他編などより)。

 夏淑琴一家は九人家族でその住居は中国では普通にある六、七家族がひとつの塀でかこまれた中庭のある長屋で、当日は隣の4人家族と夏さんの家族以外はすでに南京城内の安全区(難民区)に避難していた。

 —— 1937年(昭和12年)12月13日の未明に南京城壁を陥落させた後、朝食がすんだ午前9-10時頃、日本軍の一部がやって来て長屋の門の扉を激しく叩いた。隣りのおじさんがとびだしてゆき、カンヌキをあけようとした。夏さんは庭にいたが父親もとびだし、中庭の門の方へ走った。カンヌキがはずされて扉が開き、日本兵が何か日本語で言った。何のことか分からぬままに隣りのおじさんがまごまごしていると、ただちに撃たれて倒れた。父親がこれを見て驚き、逃げようとふりかえったとたんに背後から射殺された。仰天した夏さんは、家にとびこむと一番奥の部屋に走っていって、姉妹四人でかたまって寝台にもぐりこみ、一枚のふとんをかぶった。まもなく、家の中へ大勢の靴音が聞こえて入ってくる気配がし、ほとんど同時に銃声がした。このとき入り口近くにいた祖父が射殺されたのだった。その直後、ふとんが剥ぎとられた。八畳ほどの部屋に日本兵がぎっしり立っていた。寝台の上にかたまる四人の子供をかばおうと、祖母がその前に立ちはだかった。すぐにピストルで撃たれ、祖母の頭から白っぽい脳ミソがとび出すのが見えた。そして日本兵は、寝台の上から姉二人を連行しようと手をかけた。恐怖のあまり夏さんは叫び声をあげた。とたんに銃剣で刺された。気絶した。このときは分からなかったが、夏さんは左肩と左脇と背中の三カ所を刺されていた。そのあとで起こったことは、気絶していたため直接見ることができなかった。

 どれほど時間がたったか、四歳の妹の泣く声で気付いた。夕方になっていたが、部屋のなかは恐ろしい光景となっていた。同じ寝台の一方に、下の姉(13)が上半身のせて死んでいる。下半身は裸にされ、両足が床に投げだされた状態だった。寝台の前に祖母の死体。戸口近くに祖父の死体。そして上の姉(15)は、寝台と反対側の壁ぎわの机に上半身をのせたまま下半身はだかにされ死んでいた。母と赤ん坊の姿は見えなかった。夏さんは銃剣で刺されて重傷を負っていながら、妹をつれて中庭に這いだした。あまりのことに痛みなどほとんど感じる余裕さえなかった。中庭を這いながら、妹と一緒に、家主の内庭にある防空壕の方へ行った。日本空軍機による絶え間ない爆撃があったため、飛行機の爆音がきこえるとここに避難していた。母親は机をならべた壕のすぐ前にいて、下半身はだかにされて横たわっていた。赤ん坊(末の妹)はそのそばで死んでいた。幼い二人は、机の下の干し草にもぐりこんだ。以後二週間ほどをそのまま過ごし、寒いので家からふとんをもってきてかぶった。昼間は怖いので机の下からほとんど出なかったが、夜になると家にもどって暗がりで食べ物をさがした。水は共同炊事場の大ガメにあったが、小さな二人には届かない大きさだったので、箱などを踏み台にして水を汲んだ。

 二週間ほどたったとき、近所のおばあさんが二人をみつけた。それから数日して、さきに難民区へ避難していた伯父が捜しに現れ、難民区へ一緒に行った(それがラーベ氏の家だった)。九人家族のうち七人が殺され、そのうち母と姉二人は輪姦殺人だった。なお隣りの四人家族は夫婦と子供二人だったが、これも全員殺されていた(子供は4歳と2歳で、年上の方は銃剣で刺され、年下の方は日本兵の刀で頭を二つに切り裂かれていた)。さらに残忍なのは母親は強姦された後に陰部に瓶が突っ込まれて上の娘も陰部に棍棒が突っ込まれていたという。実はこれと同様な話は各所にあって、筆者はこんなことは書けないと避けてきたのだが(これほどまでのことが想像できるだろうか)、やむなく各所では書いている。

 その後、マギー牧師が、ラーベ氏の家に避難していた夏淑琴の話を聞いて、ひと月以上経って(翌年の1月26日)現地に行った。最初に発見した老婆に案内され、彼は戸外に筵をかけて並べられた11体の死体をフィルムに撮影したが、その中に13歳と15歳の少女と母親と赤ん坊の死体が写され、部屋の中の様子も撮影されていて、一人の少女が強姦された机の上、それから他の少女が殺された床の上になど到るところに血が散乱し、マギーはもしカラーのフィルムであればその時の血の色の工合をはつきりと写し取ることが出来たろうと思うと東京戦犯裁判の証言で語った。後に彼女が証言で来日した時に、毎日放送の記者にそのフィルムを見せられ、自分の家族と家に間違いないと確認している。夏は「殺された家族たちの死体がどうなったのかはわかりません。親の墓さえないので、墓参りもできなくて、今も淋しい思いをしています」と述べている。

以上は各種読んだ中で一番筋の通った証言を主に要約したが、夏淑琴自身が戦後になって何度も証言している中では、7歳当時の精神に異常をきたすほどの過酷な出来事に食い違う場面が出てきてもおかしくはない。普通に生活している我々でさえ、過去の自分の記憶が知人の記憶と異なっている例には事欠かない。マギー牧師の話の中でも、記述する人によっては夏の家の中で惨殺された何人もの遺体をフィルムに撮ったというものもある。またマギーが訪れたのはひと月後であって、普通、遺体が部屋にそのまま放置されているはずがないと思われるが、現にそのままであったようである。実際にその他の虐殺現場の証言を読むと、この時期は冬場であったこともあっただろうが、それよりも周囲に生き残った人が少なく、どこかに逃げてしまっているから、放置されたままの場合が多く見受けられる。生き残ってどこかに避難していた子供がひと月後に実家に戻ってみるとまだ家族の死体がそのままになっていたなど数多くある。

 マギーは、「それだけが単独に生じた出来事であったならば、加虐性変態性欲者のしわざと人が言うかもしれませんが、実際には、ほかにも戦慄すべき物語がたくさんあって、これは私が個人的にじかに接するに至ったもっとも残酷な惨劇です」と述べている。その通りで、既述のヴォートリンの日記とそこに織り込んだ国際委員会の欧米人たち証言を見れば明らかで、読むほどにわれわれの気分も塞ぐ。身を捨てて避難民を救っていったそのヴォートリン自身が、果てしなく続く日本軍の残虐行為に、自分の無力感を思うあまりに精神を侵され、自殺に至ったほどのことなのである。ついでながらマギーは戦後の東京裁判で数々の日本軍の残虐行為の証言をしているが、この彼をも東中野修道(ばかりではなく田中正明など)は実際に彼自身が見た事実はほとんどないとのようなことを言って批判しているが、自分自身が一切何も見たこともないことを取り上げて「虐殺はなかった」として、裏腹のことを言っているだけのことである。つまりまったく自己矛盾の空論で、彼ら自身が何も言う資格はない。

 ともあれ外国人たちのその立場によって見聞きしたことを総合的に集めると、あえてヴォートリンの日記に織り交ぜた各種証言のように、ほとんどが符合してくるのである。南京は郊外も含めて東京都23区に匹敵する広さの都市であり(その城壁の広さは山手線とほぼ同じ)、その空間の中では一人の人間が遭遇できる範囲は知れている。それを逆手にとって批判する単眼的視野の人物こそ偽者である。そのような空論をどこまでも展開していって飽きないとは、その人間性が疑われるが、そもそも何のために、また何を生きがいにして日々彼らは生きているのであろうか。何かの歪んだ固定観念に取り憑かれて、それにどこまでも引きずられて、まともに自分の人生を生きているとも思えない。こうした人間の無責任な言動が世の中を汚すのであり、偏向者と言わざるをえない。

 いずれにしろこうした夏淑琴の証言が、東中野は自分の「虐殺はなかった」という固定(偏向)した観念を脅かすと思ったのかどうか、上記の著作の中で、当時7歳であった夏淑琴の証言の中の齟齬をつついて「ニセ証人」とした。「しかし小学校も卒業できず、字を覚えたのも戦後になってからという彼女の境遇を考えれば、あれが精一杯の証言であろう」と、ほぼ南京事件に特化したブロガーの「ゆう」氏は記していて、その通りであろうし、証言の中の齟齬を突いて論(屁理屈)を展開するのは、東中野を始めとした「否定派」の常套手段であって、自分たち自身が直接何も調べることもせずに批判するという、言わば火事場泥棒的な(被害者のことをまるで考えない)やり方をしている。

 それにしてもこのような悲惨な犠牲者の必死な、というより目の前で次々と殺された家族のためにもと、自分の生存を賭けた証言を「ニセ証人」にするとは、東中野のような類の人間は、人の心というものをまったく斟酌することもできない、無神経極まりない精神構造をしているのだろうと思うしかない。そもそも東中野は、夏本人に直接会って改めて問いかけてみようとする考えはおろか、その勇気も持たなかったのではないか。さらに言うなら「自分の固定観念(見栄)のために」というのは、軍人がしばしばそのために戦争を仕掛ける根本の理由となる。だから仮にこの中国戦線で東中野のような人物が軍の将校となっていればどうなるか、想像してもらいたい。彼らは捕虜の立場や現地の住民の生活などをまったく無視した、当時の残虐な日本兵とまったく同様な行動に出るのではないか、つまりこうした人間こそ虐殺や暴虐行為に加担し、その事後において素知らぬ顔をする人間の側に属するのであろうということである。

 ともあれ、これに対して夏は、2001年(平成13年)、東中野を「名誉毀損」で訴える訴訟を南京で起こした。それに対して東中野は、南京における提訴の直後、「私を訴えた南京事件”虐殺”目撃者こそ”虚構の産物”だ」との論を雑誌『SAPIO』(小学館:2001年8月号)に掲載した(SAPIOはすでに廃刊)。南京の法廷が動かない中、東中野は2005年(平成17年)、東京で「名誉毀損に基づく損害賠償等の債務の不存在」の確認請求を行った。これを知らされた夏は(彼女を支援する人たちの協力もあったであろうが)、東京の法廷に「反訴」を行い、2006年(平成18年)6月より裁判が開始された。一審でも上告審においても(被告らは南京事件は国民政府の謀略である等のいつもながらの主張を重ねたが)、裁判は最高裁まで争われ、2009年(平成21年)2月6日、上告および受理申立を棄却するという決定となり、原告である夏淑琴の勝訴が確定した。判決内容は、原告が「ニセの被害者」であると決めつけ、ウソの証言までしているものと非難するものであり、原告の名誉を毀損するとともに、その人格権を著しく侵害するものであるとし、東京高等裁判所で出された「被告東中野修道(亜細亜大学教授)と展転社は350万円、東中野修道は50万円をそれぞれ原告に対し支払う」という命令を認めるものであった。(ちなみに出版社は上記の松村俊夫と同じ展転社である。また展転社の代表は東中野とは「戦友」であるという)

裁判所・裁判官の立場(筆者私論)

 以上の李秀英と夏淑琴の二人は、同じような偏向した思考回路を持つ松村俊夫と東中野修道の二人の大虐殺否定論者によって偽者と指弾され、それに対する名誉毀損裁判はまったく別に行われて、二人とも勝訴を獲得した。実はこの二つの名誉毀損裁判の弁護団は同じであり、さらに被告となる二人の著者の弁護を担当したのは、のちに国会議員となり安倍内閣の行政改革相を経て短期ではあるが防衛大臣にもなった稲田朋美議員である。筆者も知る防衛大臣時代の支離滅裂な答弁からして、この人物が元弁護士であったとはとても思えないが、すべて最高裁まで敗訴したとはいえ、「なかった」派の弁護を担当した実績を買われて、安倍によって自民党議員として擁立され、当選した。近年、このような低レベルの国会議員が多く輩出しているが、小選挙区制に伴う比例代表制がそういう現象を生み出しているのであろうか。

 それは別として、中国人二人の弁護団の一人、穂積剛は、「客観的事実と厳然と存在している史料を無視し、あるいはあえて歪めて解釈し、都合の悪いものにはすべて目をつぶって「南京大虐殺はなかった」と繰り返しているだけのメチャクチャな主張でしかなかった。あんなデタラメな言説がまかり通るなら、広島長崎の原爆投下も東京大空襲も、全部なかったことにできてしまうだろう」と述べていてその通りであろう。

 皮肉を言うわけではないが、この種の訴訟に関して、最高裁でこのような判決が出ることは珍しい。現に上記の東史郎が逆に名誉毀損で訴えられ、敗訴した裁判でもそうであるが、その意味は最高裁では結局「無難」に済ませたい政官寄りの判決となってしまうことが極めて多いからである。この女性二名の場合は、よほどに松村や東中野の論理(理屈)が狭い視野で最初から破綻したものであったからであろう。そもそもこのような思考的にも偏向し、狭量な著作しか書けない人物を教授にする大学は、自学のレベルが問われるとして恥じねばならないであろう。

 今ひとつ、既述した南京への進軍中(よく間違えられるが、南京においてではない)の「百人斬り競争」について、野田と向井二人の少尉が南京軍事法廷において死刑となったが、その二人の遺族がそれを扱った本を書いたジャーナリストの本多勝一を相手に事実無根だとして名誉毀損訴訟を起した。これにも稲田朋美が弁護士として関わったが、東京高裁は、両少尉の遺族の請求をすべて棄却しただけでなく、「両少尉が、南京攻略戦において軍務に服する過程で、当時としては、『百人斬り競争』として新聞報道されることに違和感を持たない競争をした事実自体を否定することはできず」と認定した(実際に連載ともいうべき当時の新聞報道によってそれは裏付けられている:筆者の記述の「百人斬り競争」参照)。ただ、遺族の気持ちを推し量れば、日本にいた頃の父親のイメージとの乖離は大きく、犯罪人としての父親は認めがたいものがあったであろう(今一人、300人斬りをしたとされ、同じく死刑となった田中大尉の遺族は、二遺族から誘われたが、この訴訟には加わらなかった)。それは他の多くの家族においても起こっていたことであり、戦後なんとか日本に帰還できた将兵の大半は、家族に対し戦場での出来事、そこで自分が為した非道な行いを決して語ることはできなかった。普通の人間の感覚としては当然であろうし、戦場においてはどれだけ異常な精神状態にあったかということで、その異常な精神状態で為した非情な行動を平時の世の中で平気で語ることは普通の人間では極めて難しい。

 これらとは別に、最高裁の判決が結局「無難」に済ませたい政府寄りの判決となってしまうという例は、日本国内の事例も含めて、現今に至るまで切りがなく、そもそものこの李秀英が原告の一人となって提訴した中国人の戦争被害の損害賠償を求める訴訟である「731部隊・南京大虐殺・無差別爆撃事件裁判」のほうはどうなったのか。こればかりでなく、1932年(昭和7年)の「平頂山事件」(参照) を含めて、多くの戦時損害賠償裁判が提訴されていて、しかし最高裁まで行くとある意味(事実は認められても)原告側はほぼ討ち死にとなる。いずれの裁判も「中国人戦争被害者個人の賠償請求権は、1972年(昭和47年)の日中共同声明で放棄されている」ということで原告敗訴の形で終結していったが、これは「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」とあるだけの、通常の戦後賠償として行われる国家間のことであって(これは戦後米国が主導して連合国間で決めたこと)、最高裁自身の判断逃避であろう。また、戦前の大日本帝国憲法下では公権力の行使による不法行為については損害賠償を求めることができなかったとして、いわゆる国家無答責の法理を採用したこと、さらにはすでに法理上の時効が過ぎていて請求権は消滅したという判断もなされ、どこまでもすでに終わった国家が起こした戦争の責任は問えないという。

 これらとは別に、「このような犠牲ないし損害について立法を待たずに当然に戦争遂行主体であった国に対して国家補償を請求することができるという条理はいまだ存在しないものといわざるを得ず、憲法の諸規定からこのような条理が導き出されるものでもない」という判例もある。要は、高裁や最高裁としては判断できる立場にないから棄却するということであるが、一方で国が個人に賠償をするという現実を避けたいのではないかとも推測できる。つまり、仮に一つの事例を認めて賠償すると、次々に「雨後の筍のように」訴えが起きると(裁判所のみならず政府も)困るという理由があったようである。この「雨後の筍のように」とは、実際に国内における空襲被害の補償に対する訴訟に対し、諮問委員会において当時高名な東大総長が発言したことである。つまりこの考えは日本国内の空襲被害者や戦争孤児に対しても貫かれていて、つまるところ、空襲被害に対しては立法政府が相応する法律を先に作るべきであって、それがない限り裁判所は関与できないというような判断で棄却している。それに対して日本政府は結局今の今までなんの対応もしないままできているし(筆者の「東京都の概要」参照。補償の対象となった例外は原爆被害者だけである)、それに対して何らかの対策を政府に促すことさえしない裁判所のこの判断は、三権分立の理念を放棄するものであって、故意に堂々巡りをさせるような全くの責任回避である。

 ドイツ政府はすべての戦争被害者に対して賠償責任を果たしているが、日本政府の一番の差別的政策で際立っているのは、軍人恩給と遺族年金への過剰な手当てである。つまりは南京ばかりではなく戦地で散々暴虐の限りを尽くした将兵たちに、いまだに過剰な恩給や年金を与え(年間一兆円以上)、当人が亡くなっても、その子や孫、ひいては兄弟の子などにも拡大して税金を使い続けている。にも関わらずこれまで何度も補償を訴えてきた空襲被害や戦争孤児たちを放置してきた。もちろん与党の若い議員もその都度その訴えを後ろ押ししたが、そのうち立ち消えになってしまう。これらの事実は野党も大手メディアもなぜか追求しないから知らない人が多い。

南京事件関係資料

【早くも翌年に出版されたティンパーリーによる告発文書とその経緯】

 日本国内できちんとした資料や証言に基づいて出された本は主に1980年(昭和55年)代からで、まず『─実録・南京大虐殺─外国人の見た日本軍の暴行』(ハロルド・J・ティンパーリー:評伝社 1982年)がある(原題は『What War Means: The Japanese Terror in China』)。この本は、南京事件の翌年にティンパーリーが上海において南京を主にした各地に住む外国人たちの見聞報告を読んで数ヶ月後にまとめたものであるが、8月の上海事変から南京に至るまでの日本軍の蛮行による出来事も記されていて、さらに数ヶ月後の6月に中国国民政府の支援で日本語版が出版されたが、1982年版はその復刻版である。

 このオーストラリア出身のティンパーリーは早くから中国に滞在し、1928年(昭和3年)からイギリスのマンチェスター・ガーディアン紙特派員として上海にいたが、1937年(昭和12年)5月にAP特派員として南京へ移動した。その後結婚して9月に上海に移り、フランス租界のアパートに居を構えた。すでに始まっていた第二次上海事変に際し、上海国際赤十字の副主席で難民委員会委員長であったフランス人神父の設立した南京市安全区に関与し、中国市民の保護に貢献した。そして上海にいながら南京城内の安全区委員会のメンバーであったフィッチ、ベイツからの報告や国際安全区委員会、ローゼンなどの外交官関係からの文書、その他各地の日本軍の暴行に関する報告や記事などをまとめて編集、執筆した。南京にいる外国人からの報告は占領当初は通信手段もなく(施設は日本軍に破壊されていたから)情報を集めることが難しかったが、そのうち揚子江上の船便などにより届くようになり、ティンパーリーは通信社員としてそれらを読んで海外に発信する仲介役的立場にいた。また南京滞在時にその外国人たちと交流していたから、直接情報を受け取ることもあった。いずれにしろ日本軍によって容易ならざる事態が起きていることを知り、とりわけ事件を直接見聞した外国人からの報告資料を主として集め、短期間で書き上げたのである。そしてこれをイギリスに持って行き、出版しようとしたところを国民政府関係者が知って、この原稿から上記の日本語版の翻訳が成された。その翻訳メンバーの中心は序文を書いている郭沫若(日本に留学経験のある文学者)のようであるが、訳文の読みやすさからすると日本人が目を通していると思われる。日本語版のタイトルは『外国人の見た日本軍の暴行』で、またその後の英語版とは多少の資料の有る無しがあるようである。

 いずれにしろこの日本語版は当時から禁書扱いで、戦後になっても国内で長年見出されることはなかった。戦中の1944年(昭和19年)に官吏であった榛葉英治が、南京に行った時にこの本を見せられてその内容に驚いたが、それを記憶にとどめたまま、彼は戦後作家となり(直木賞を受賞)、ある時その本を手に入れる機会があった。それを元にして1964年(昭和39年)、『城壁』という小説を書き、大手の総合雑誌に掲載されることになっていたが、中支那方面派遣軍の元参謀にも取材に行っていたところ、突然中止にされた。その後別の雑誌に掲載され、単行本にもなった。ただ、南京関係のことはその後も世間では当たらず障らずの雰囲気が続き、評伝社との合意で榛葉は手元にあった原書を出版することになった。それが1982年(昭和57年)である。ところがこの本はその10年前の1972年(昭和47年)に龍渓書舎版から出版されていて、そのことには触れられていない(筆者の手元にあるのは評伝社版で、龍渓書舎版よりも原資料から補遺されているようである)。ということはその10年前にはよほどまだタブーとして扱われていて、宣伝もままならず、普及しなかったということであろうか。

 ティンパーリーの扱っている内容(外国人関係者の報告)に関しては、1980年(昭和55年)代以降にまとめられた本などにきちんと原書から再録・整理・補填されていると言ってよく(ただし当時は特に南京在住の外国人からの報告は、その名前を入れると日本軍に指弾される恐れもあったから、その報告者の名前の多くは実名が入っていないが、後者の著作には入っているから特定できる)、筆者がこれまで各所で引用しているのはそれらからである。なお、国際委員会が日本大使館に逐一渡していた日本兵の残虐行為の報告もすでにティンパーリーの本に載せられていて、これはあらかじめすべてコピー(当時はタイプ時に紙を重ねてカーボン紙を挟んで複写した)して上海に送られていたからできたことである。

 なおこのティンパーリーの書は、当然「なかった」派から無視されあるいは「反日」書として批判されているが、それは例えば彼が「国民党中央宣伝部の秘密宣伝員」であり、中立的立場の記者とは言えないから信用できないとしていて(それにしてもこれらの記録がどうしたら捏造できるのか、それを言う人の頭の構造が疑われる)、しかしその宣伝部員とは中国からイギリスに渡って出版活動をしたのちにアメリカを経て中国に再び戻った後のことであり(国民党としては、日本軍の暴虐を国際的に訴える必要があって、立場上普通に考えられることであり、日本が逆の立場であったら同じことをするであろう)、彼の著作はそれ以前のことであり、何の関係もないし、彼がそのために短期間に集めた被害資料自体に価値がある。そんな前後の事実も確認もしていない仮想による愚かな意見が日本の識者と言われる人の中でもまかり通っているわけである。

【1990年(平成2年)までの主な記録や書籍】

 いわゆる南京事件に関する情報はおろか、太平洋戦争以前からあった日中戦争のことなど、1960年(昭和35年)代までは表立ってまともに語られることはなかった。1960年(昭和35年)代の日本は「反戦」を掲げる学生運動が盛んな時代であったが、それはもちろん太平洋戦争敗戦からわが国が学んだことが根底にあり、しかし表向きは当時の長引く米国のベトナム戦争への介入に対する反対運動が主流で、マスメディアもそれに追随していた。そうした時流の中では、日本軍がかつて日中・太平洋戦争において侵略的立場で戦争を行っていたことなど、ほとんど忘れ去られていた。現に筆者自身、その1960年(昭和35年)代後半は大学生であったが、20年前まであった日本の戦争のことを意識できたのは、早くから本や映画にされていた戦死学徒兵の手記を集めた『きけ わだつみのこえ』や沖縄戦で犠牲になった女学生の『ひめゆりの塔』、広島の『原爆の子』などを読んでからであったろうか。しかもこれらは我々国民自身の悲劇の犠牲者としての側面のものであり、それ以上のものではなかった。また今の時代と違って、過去の戦争のことに触れられることは筆者の中・高校を通してほとんどなかった。

 筆者の地元に海軍の基地とその沖合いの島に人間魚雷回天の基地があったことも、高校生になって級友から「知ってるか?」と言われて初めて知ったような状態であった。そのずっと後に、その海軍基地と街にも米軍の爆撃があったことも知ったが、子供の頃、つまり戦後10年も経るとすでに街中に出ても爆撃の跡など一つとして残っていず(これは日本人の復興力の強さを表している)、海軍基地は大きな石油精製所となった。その石油精製所が開所された時、おそらく市内の小中学校生徒全員にプラスチックの透明な30cmの定規が配られたことを鮮明に覚えている。それまでは竹製の定規であったから驚きであった。その学校でも自分たちの街にあった戦争のことは何も教えないし、それまで親や周囲の人たちも、誰一人として戦争のことを黙して語らなかった。反戦という言葉も学生になって初めて頭に入ってきたが、まだそういう時代であった。新聞等のメディアもまた同類であり、その中でも夏に広島・長崎の原爆や沖縄戦、学徒兵のことなどが取り上げられるのも戦争の悲劇として目立っていたからであり、その我々国民が被った悲劇の側面は取り上げても、日本が加害国として過去に行った戦争のことをまともに取り上げるメディアは1990年(平成2年)ごろまではほぼなかった。筆者は高校生の頃から新聞は毎日読んでいたから、それは間違いない。新聞などに取り上げられること以外は知らないのである。それはまた戦時下において国民が日本のメディアが報じる記事以外に本当の中国内で生じていた事実を知らなかったことと同じである。

 以下は日本が日中戦争時に犯した加害面を主にした書籍で、筆者がここまで記述した内容はこれらからも引用しているが、それでも日中戦争開始の昭和12年の8月からまだ半年に満たない記録であって、この戦争はこの年から8年近く続いており、この後も扱うべき多くの出来事(事件)が控えていることに気が遠くなる思いがある。翻って言えば、今の日本国内では1941(昭和16)年末に始められた太平洋戦争についてしかほとんど語られることはないが、日中戦争はその太平洋戦争が終わるまで厳然と続けられている事実がある。しかも日本軍の中国における兵力が太平洋戦争の時期に大きく減らされたことはなく(減らせばせっかく占領した地域は奪い返される)、1943(昭和18)年の学徒出陣以降の学徒兵たちも中国に振り分けられている。

*『ある軍人の自伝』 (勁草書房 1969年)

 「南京事件」における一番の主導者である中島今朝吾中将率いる第16師団の佐々木到一支隊長が、その2年後(1939年)のまだ日中戦争最中に、自分の功績を誇るようにして書いた「私記」が、このタイトルで密かに出版された。これは意外であり、この時期、まだ南京事件が国内ではほとんど表に出ていない頃であり、本人は戦後、撫順戦犯管理所(既述)に拘留されたまま1949(昭和24)年に病死している。これが改めて出版された1969年はまだ遺族によっては公開を逡巡されたのではないかという内容である。つまり自分が指揮して捕虜たちを何の躊躇もなく虐殺した事実が、征服者として当然の行為のようにそのまま書かれている。筆者はこれまで時系列をたどってこの内容を引用し、他の将兵の記録や日誌と合わせて抜き書きしている。

*『中国の旅』(本多勝一:朝日新聞社 1972年)

 著者はジャーナリストとして戦後中国の現地取材のさきがけとして、新聞での連載の後、この本を上梓した。これは(中国の土地で行われた)日露戦争あたりからの満州とその後の南京(日中戦争)に至るまでの中国における日本軍占領地区の哀史をたどったもので、まだ南京に関する論争の夜明け前であり、当時としては極めてセンセーショナルな内容となり、「なかった派」の人々に大いに叩かれていく。しかし実際にこの内容に目を通せば、彼らがまともに読まず、また検証もせずに批判していることがよくわかるはずである。筆者はこの昭和12年を書いていく後半からこれに目を通したが、筆者が調べて記した「南京以前」、つまり満州事変からの出来事と多く重なっていて、実はこの内容は日本側の著作ではこの後もあまり見かけない。

*『南京事件』(洞富雄:新人物往来社 1972年)

 洞富雄は日本の歴史学者として先駆的に南京事件の研究に取り組み、これは日中戦争の発端となった盧溝橋事件から上海事変を経て南京の出来事を書き起こしている。この本が南京事件論争の発端ともなったが、どちらかといえば各種資料を収集し提示した段階とも言え、多くはまだ裏付けの取れない状態であった。ただこの中で触れられている内容は、この後およそ20−30年かかって次々に裏付けが取られている。上記の本多はここまでの具体的な内容は知らずに中国内で取材の旅をしているが、洞はこの新聞の連載時に興味を持って読んだとこの本に記している。

*『侵掠ー中国戦線従軍記者の証言』(小俣行男:徳間書店 1982年)

 小俣は読売新聞の記者であったが、新聞社の範囲を超えてみても従軍記者の証言は極めて少なく、またこの時期としても極めて稀少な証言内容で、これ以前もこの後も従軍記者による記録はほとんど表に出されていない。従軍記者は戦場の前線だけでなく裏側でいろんな場面に遭遇しているはずで、新聞一社だけでも中国では数十人以上の単位で記者が送られていて、その全体で千人に及ぶであろう記者たちが、戦後ほとんど口を閉ざしてきた理由は何なのか。おそらく記者たちは進撃する軍人と一体となって戦っていた気分の中、戦後になっても軍人と同様に黙っているしかなく、従ってその種の問題についてはメディア自身が何も発信できず、まず表に出ることはなく、その雰囲気が解けていくのは、世代交代を待つしかなかったわけである。なお小俣はこの後、太平洋戦争についての続編を出版している。

*『決定版・南京大虐殺』(洞富雄:徳間書店 1982年)

 上記『南京事件』から10年後の出版であるが、さらにこの5年後『南京大虐殺 : 決定版 第2刷(補訂版)』(1987年)を上梓した。決定版といっても、1990(平成2-11)年代以降になって中国側からも客観的に裏付ける資料や証言が多く出てくる。筆者も「決定版」という言葉に違和感を覚え、積極的に読む気になれなかったが、洞自身も1987年版のあとがきに、この言葉を冠するのは本意ではなかったと記している。出版社の意向であったのだろうが、決定版とか完全版というのはあり得ない。

*『野戦郵便旗』(佐々木元勝:現代史出版会 1983年)

 佐々木は上海派遣軍の郵便局長として従軍、二年間にわたり詳細に日記を書き、それをまだ中国にいる間に一度ガリ版刷りで私家版を作っていた。この出版にあたり一冊では収まらず、数ヶ月後に続編が出された。これは特に戦争の告発本として書かれていないところが特徴で、逆に目の前の出来事が率直に表現されている。

*『私記 南京虐殺 ー 戦史にのらない戦争の話』(曽根一夫:彩流社 1984年)

 一般的には取り上げられない本であるが、加害者側兵士としての体験記であって、この時期としてはかなり勇気が必要であったろう。曽根はこの7年後にも『元兵士が語る 戦史にない戦争の話』(恒友出版 1991年)を上梓したが、元兵士仲間の雑談形式によって普段では話せない本音が語られている。

*『日中戦争 南京大残虐事件資料集Ⅰ・Ⅱ』(洞富雄編:青木書店 1985年)

 洞富雄が1972年版の『南京事件』を執筆するために調査・収集した資料を基本的にまとめたもので、一度1973年に出版したもの(河出書房新社)の再版で、これが今に残る。第1巻は極東国際軍事裁判関係資料編 、第2巻は英文資料編となっており、戦後の極東国際軍事法廷(東京裁判)で南京安全区国際委員会の外国人メンバーの証言記録なども掲載されていて、南京事件の定番的に引用されている。

*『南京大虐殺の証明』(洞富雄:朝日新聞社 1986年)

 証明という言葉を使わなければならないほどに、これまでの彼の著作に対して国内での拒絶反応と反論が強かったということである。筆者は購入したが、難癖をつけてくる論者に対して洞が事細かにかつ丁寧に対応している内容をちらちらと見て、失礼ながら彼らに対して何を無駄なことと思い、この本や類似の本には結局目を通さず、もっぱら原資料や民間側の証言などを集めた。

*『南京事件——「虐殺」の構造』 (秦 郁彦:中公新書 1986)

 これも先行した著作であるが(内容的には中庸を保つ)、さらに増補版が2007(平成19)年に出された。しかしその内容は20年の歳月の間に表に出された新たな資料、事実関係を補填するものではなく、その20年間に出された書籍などの名前を単に並べるだけで、今ではこの本の価値はほぼなくなっている。

*『中国の大地は忘れない——侵略・語られなかった戦争』(森正孝:社会評論社 1986年、1996年に増補改訂)

  著者は後の松岡環と同じく学校教員の出身で、これは満州を中心とした内容だが、かなり早い時期の一般人による著作として特筆される。

* 『南京への道』(本多勝一:朝日新聞社 1987年)

 上記『中国の旅』から十数年後再び中国に渡り、日中戦争開始から日本の大軍が中国に上陸してから南京攻略に至るまでの侵攻途上の町村における残虐行為を、被害者の生き残りの住民から取材し、著したものがこの本で、実は南京事件が主体ではなく、南京ばかり取り上げられる昨今にあっては貴重な内容である。もとより日中戦争の発端となった上海地区から南京に至るまでの被害・証言記録は意外に少ない。これは他の人々の調査が南京などを中心として行われたためであるが、その意味では本多の取材・調査は「への道」とある通り、南京以前あるいはその周辺から行っている。なお、本多はあとがきでこの時期に二度にわたって取材した資料の半分はまだ書き残しているとし、後年になって書き継がれたものが『本多勝一集』第23巻に収められていて、筆者はここからも引用している。

*『わが南京プラトーン ― 一召集兵の体験した南京大虐殺』東史郎:青木書店 1987年)

 上記曽根一夫に遅れるが、同様に南京における虐殺を、当時南京にいた兵士として個人的に証言したもので、これに伴う証言活動によって、既述のように徹底的に軍人仲間、元将校や保守層から叩かれながら孤軍奮闘した。この後2001(平成13)年に『東史郎日記』(熊本出版文化会館)を出版、およそ二年間の記録となっている。

*『隠された連隊史』(下里正樹:青木書店 1987年)

 著者は京都の戦争展で東史郎たち数人の日記関係の出展を見て、彼らの記録を編集して、東にも出版を勧め、彼の本と同時的に出版した。この続編も翌年出版された。

*『南京大虐殺の現場へ』(共同執筆:朝日新聞社 1988年)

 洞富雄・藤原彰・本多勝一他学者やジャーナリスト12人による訪中調査団による共同著作である。洞はこの時81歳で21年ぶりの訪中であった。またそこに上記の東史郎も特別に加わった。この中には新たな中国側の生き残りの人たちの証言もあり、それも筆者は利用している。

* 『南京事件・京都師団関係資料集』(青木書店:1989年)

 東史郎が属した京都師団、つまり第16師団(師団長は中島今朝吾であり、大虐殺の主犯格と言ってよい)の兵士たちの日記等を東史郎も含めて集めたものであり、東史郎の日記の事実関係を補填するものとなっている。

【1990(平成2~11)年代以降に出版、発表され調査記録や日記、証言】

*『南京戦史』(偕行社:1989年)とそれに続く『南京戦史資料集Ⅰ』(1989年)『南京戦史資料集Ⅱ』(1993年)

 偕行社は旧陸軍士官出身者による親睦団体で、もともと虐殺否定派であった。そしてそのことを証明するために南京戦に関係した旧軍人から証言を集め、1985(昭和60)年に機関紙『偕行』に連載することになった。ところが大虐殺否定論を否定する証言が多く出てきて、そこで証言記録をできるだけ隠さずにまとめ直して編集し、出版にこぎつけたものがこの三冊であり、はからずも正当な証言・記録集となっている。中島今朝吾師団長や山田栴二支隊長の日記なども詳しく掲載されていて、筆者もここから多く引用している。しかしこれに対し元軍人たちからこんなことを表に出すことはけしからんと、多くの非難が寄せられた。また逆にこの資料は犠牲者数をわざと少なくしていると批判する論者もいる。ただそれは筆者にも見て取れ、他の資料と比較してみればすぐにわかる。筆者はこの機関紙の連載も図書館でコピーしているが「なかった」派がこれを参考にすることは極めて少ないし、あったとしても時系列をわざと歪曲した内容を筆者は確認している。(既述の「元将兵の証言等の記録に関する偕行社の決断」他参照)

* 『日本の中国侵略』(森正孝他編:明石書店 1991年)

 南京関係、毒ガス・細菌作戦における中国側の証言・資料を主体にしているが、全体的な把握まではいかない。

*『南京大虐殺の研究』(南京事件調査会:吉田裕・藤原彰・笠原十九司他、晩聲社 1992年)

 8人の共同執筆だが、まだ証言者の名前は、東史郎などの例もあり、「なかった」派の非難中傷を慮って伏せられている。

*『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(小野賢二:大月書店 1996年)

 民間人である小野が個人的な使命感を持って地元の元兵士達を訪ね歩き、時には裏付けを取るために中国に渡って取材した記録であり、その努力には敬意を表するほかない。

*『南京の日本軍 — 南京大虐殺とその背景』 藤原彰:大月書店 1997年)

 著者は南京事件の後年になって中国に従軍し、『中国戦線従軍記』なども著しているが、これは虐殺に至る将兵の背景を主にしたもの。

*『南京事件』(笠原十九司:岩波新書 1997年)

 笠原は洞富雄の後を継ぐ形で同じタイトルでこの本を上梓した。したがって洞の時代よりずっと客観的に事実関係が記述されている。この後笠原は、日中戦争全体の史実を解き明かして行く著作活動をする。

*『加害と赦し』(東史郎の南京裁判を支える会:現代書館 2001年)

 東は1980(昭和55−64)年代の日記などの出版によって、元日本軍将校たちから名誉毀損で訴えられ、その裁判の経緯や中国に謝罪を兼ねて訪問した時の様子などを書いている。

*『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて ― 元兵士102人の証言』(松岡環:社会評論社 2002年)

 松岡は元教師であるが、上記小野と同様、南京に起きた事件を知って突き動かされ、小野とは別師団の元兵士への取材を重ねた。102人とは、その何倍もの人に接触した結果と思われ(日本人への拒絶反応と思い出すことすらできないというトラウマを抱えた人も多くいた)、女性の粘り強い取材力が発揮されている。

*『南京戦・切り裂かれた受難者の魂― 被害者120人の証言』(松岡 環:社会評論社 2003年)

 帯には「60年以上たって、はじめて自らの被害体験を語り始めた南京の市民たち」とある。上記「元兵士102人」の取材に並行して個人的に中国に渡って被害者を探して取材したものであり、これら松岡の二冊が、一つの師団が関わった加害者側と被害者側の両方の証言を成立させていて、とりわけ後者の悲惨な内容は読むには辛いものがある。

*『昭和史』(半藤一利:平凡社 2009年)

 主に満州事変から太平洋戦争までの概説であるが、同種の本を含めてこの年に関わる部分のみ引用している。

*『南京 引き裂かれた記憶 — 元兵士と被害医者の証言』(松岡環:社会評論社 2016年)

 松岡の20年以上にわたる一連の証言記録活動によるものである。

*『海軍の日中戦争』(笠原十九司:平凡社 2015年)

 一般的に日中戦争は陸軍の暴走によるとされるが、その前後から海軍が中国攻略作戦の秘策を練っており、実際に開戦に至ったのは海軍の上海特別陸戦隊の行動と飛行隊の渡洋爆撃によるもので、その後中国各地に連綿と続けられた海軍の爆撃行為がどれほど激しいものであったか、そこからさらに日本を太平洋戦争に容易に導いたことを各種資料を展開しながら記している。ちなみに筆者はこの巻末に載せられた海軍の空爆記録の異様な量の多さに触発されて、陸軍も合わせた空爆記録を、1937年から8年間分の国内の新聞と雑誌を中心として調べ、同時に中国側の資料も合わせながら作成した。(筆者の別稿『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』参照)

 筆者注:なお、笠原十九司による『南京事件論争史』(2018年)その他の論争に関わる本はこれまでも数多くあるが、先に購入していても『南京大虐殺の証明』(洞富雄)と同様にほとんど読まなかった。その理由の一つは、先に筆者は自分なりの事実関係の資料の調査を優先し、すると南京に限らず、それ以上の多くの「事件」が中国各地に多くあることがわかり、この南京を軸にした論争自体が無駄で虚しいことを理解したことが大きい。そもそも「なかった」派あるいは否定派は、特に1990年(平成2年)以降から出されてくる体験者の記録などはまともに目を通していないようであるし、筆者がここまで記述した大半の案件はまず知らないであろう。仮に目を通してもそれは捏造であるとか、虚言であるという。しかしこれほどの数々の多様で詳細な出来事(中国側の被害記録を含めれば彼らが想像する、あるいは想像すらしえないその万倍ほどの記録がある)を逐一想像して捏造できるわけがないことをどうして理解できないのか、通常の感覚からして不思議ですらある。もしそう言うなら、自分たちがどこまで架空の話を捏造できるか、仮に作家になった気分をもって書いて実践していただく必要がある。ただそんなこと以前に、現地に赴いて実地に調査した人々を、自分だけが「安全区」にいて犬の遠吠えのように人を非難する資格があるのかどうかを自分に問いかける必要があるのだが、それすらもできる人たちではないだろう。

 一例として改めて触れるが、東中野修道による『1937・南京攻略の真実』(2003年)は筆者も「真実」の言葉に惹かれて早めに購入していて、しかしその内容は南京攻略戦に関わったが、まもなく他所に転戦してほとんど「虐殺」に関わっていない第六師団のみを対象として「真実」を記述するというタチの悪いものであって、大学教授の著作とはとても思えず、この種のものは論外である(既述の「虐殺に関わっていなかった第六師団」参照)。

 以上はあくまでこの昭和12年(1937年)に限った範囲のもので、日中戦争は1945(昭和20)年まで続き、見渡すとこの年以降の戦記や被害記録のほうがずっと多いであろう。したがって南京ばかりにとらわれていてはこの戦争の全体観を見失う。それでもここには南京に関して書かれたものの何分の一もないが、後年になってこれら以外に発見された外国人たちによる記録、そして中国側の記録が多く出てきた。それが以下である。

【外国人目撃者の記録関係】

*『─実録・南京大虐殺─外国人の見た日本軍の暴行』(ハロルド・J・ティンパーリー:評伝社 1982年。原題:『What War Means: The Japanese Terror in China』 H.J.Timperley 1938年)

 ティンパーリーはイギリスの新聞社から派遣されたオーストラリア人ジャーナリストであり、この原本は南京陥落の翌年に書かれたものだが、この中には南京以前の上海事変から南京まで進軍途上の各地の事件も含めて、海外向けに発信された記事や欧米人の手紙などを収録している。出版の早い時期などを考慮すると、南京事件以前から用意されていたものと思われるが、筆者もここから蘇州や蕪湖における事件なども引用している。なおこの本の出版の経緯は既述している。

*『南京事件資料集 ー アメリカ関係資料編・中国関係資料編』(南京事件調査研究会:青木書店 1992年)

 この中には南京安全区国際委員会が南京の日本大使館などに日本軍の暴行記録として提出した400件以上の文書もある。

*『南京難民区の100日—虐殺を見た外国人』(笠原十九司:岩波書店 1995年)

 南京安全区国際委員会のメンバーや救護にあたる米国人医師たちの実見した日記や手紙を編集し、客観性が高く、各所に引用している。

*『南京の真実』(ジョン・ラーベ:講談社 1997年)

 1995(平成7)年に南京安全区国際委員会委員長として活動したドイツ人商社駐在員の日記が発見され、世に出た。ちなみにこの翻訳文を不出来だからとけなしている論者がいる。つまりこの中の「真実」を認めたくないのである。

*『南京事件の日々』(ミニー・ヴォートリン:笠原十九司他編、大月書店 1999年)

 笠原十九司がこのヴォートリンの日記を彼女の出身大学で見つけ出し、翻訳は別の訳者に委ねて笠原が編集した。このヴォートリンが日々記した内容を軸にして、筆者は既述の「ヴォートリンの日記を中心とした南京城内の詳細な被害記録」を記した。

*『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』(笠原十九司他編集:大月書店 2001年)

 当時のドイツは日本の同盟国であった関係で、その外交官は比較的自由に南京を出入りでき、日本軍に関する蛮行の多くが本国に報告された。その他、外国人記者たちの通信記録、記事も挿入されている。

  以上、ティンパーリーの書籍以外はミニー・ヴォートリンの日記にも順次組み込んで記述した。

【中国側の資料、書籍】

 中国側の資料は特に1990(平成2~11)年代から多く出版されていて、その傾向は日本側と同じである。中国は戦後すぐに共産党軍と国民党軍の覇権争いとなり、それが4年間続き、共産党が勝利してから国内をまとめていくのにも長い年数がかかり、 しかもその後「文化大革命」なる反動的運動が過去に目をやる余裕を失わせ、 しばらくは日中戦争の被害記録をまとめる余裕もなかったかと思われる。これは日本でも戦後のどん底からの経済立て直しから高度成長期を経て安定するまで過去を振り返る余裕が持てなかったことと社会状況は異なるにしろ結果としては同じである。そうした事情もあって南京事件を含めての日中戦争全体(1931年の満州事変から1945年まで:昭和6~20年)に関わる中国側による資料や記録を集めた出版物は、本格的には戦後50年過ぎてから出始めている。いずれにしろ被害者としての記録の全体量は我々の想像を超えるものがあり(日本側の万倍)、それを逐一渉猟することは今の筆者の立場では不可能である。ただ、全体的にまとめられたものがあり、筆者は主にそれを利用した。

*『日軍侵華暴行実録:全4巻』:近代史資料編集部:北京出版社 1995年)

*『侵華日軍暴行総録』(李秉新、徐俊元、石玉新主編、河北人民出版社:1995年、約1300頁)

 この二書について、中国各地つまり28の省と市において被害を受けた一般人の証言記録が前者は1340件、後者においては約2300件に及ぶ。合わせて3600件以上であるが、これらの内容は重なっているようで重なっていない。当然南京以降に日本軍が侵攻した中国各地に及んでいて、その目次を目で追っていくだけでも大変であり、気が遠くなる。そして実際に南京で繰り広げられた残虐な事件と同様な暴虐行為が中国各地で繰り返し展開されていたことを物語り、日本の人々はいまだに南京事件の有る無しや大小やにこだわっているが、その犠牲者が30万人としても、その数は中国全体の被害のほんの一部であり、その全体は既述のように1000万人をはるかに超えるという説をうかがわせるものが(『日軍侵華暴行実録』では2千万人以上とされている)記されている。しかもこれらは、中国の各省市が個別に調査し出版したものを適度に抽出したものであって、それらをすべて拾い集めることはできていない。こうした事実は日本側で論じられることはまずなく、おそらく日本では歴史学者の一部にしかその実態は知られていないであろう。筆者は中国からこれらの本を手に入れ、中国語は不明ながら、OCRで読み取って、それを数種の翻訳ソフトで比較していったが、まずはこの二点の3600件に及ぶ目次に目を通すだけでも大変である。その中で爆撃関係や日本軍の侵攻していった都市などを抽出して取り上げていった。それにしても読むに耐えない内容が各地に展開されていて、南京事件に限って日本軍の蛮行を見ていくことは大局を見失うことがわかった。この昭和12年までに触れた記録はその端緒で、この後7年半、日本軍の同様な蛮行は中国各地に展開されて行くのである。

*『中国抗日戦争大事記』(斉福霖編:北京出版社、1995年)

 これは1931(昭和6)年の満州事変からの中国側から見た出来事を年月日順に記述していて、実は日本側からはこのような詳細な記述は見当たらない。これは日本側の年表などに記される出来事の前後の流れを知るのに有益で、筆者は略記しながら各年度の頭の方に挿入した。

*『南京大虐殺 』(上・下巻:孫宅魏主編・北京出版社 1997年)

 歴史学者の高興祖が1984(昭和57)年、南京市において当時まだ健在な生存者で目撃者(中国人)の1700人の調査を行い、その中の600人の証言を整理して出版したが、その後の彼の記述などを含めて彼の死後にまとめたものである。この日本語版が『南京大虐殺30万人を証明する』として2003(平成15)年に発行されているが、これも日本では敬遠されてすでに出回っていないようである。今はネット上で簡約版などを見ることができ、既述の虐殺数の検証をする際に一部利用している。ともあれ日本側の先駆者の洞富雄の場合と同様、「証明する」という言葉をわざわざ使わなければならない、今に至る日本の言論社会とはどれだけ歪んでいるのだろうか。

*『日本侵華図誌』(​​全25卷/張憲文主編 : 山東画報出版社 2015年)

 これは25巻の中に2万5000枚の写真と200万の漢字で構成されているが、明治時代の1894(明治27)年に開始された日清戦争から台湾の占領、日露戦争(これは実質上中国の国土の中で行われた)を経て昭和の満州事変から日本の敗戦の1945(昭和20)年までのことが漏らさず書き留められている。いわば被害国として精力を傾けた記録であろうが、筆者にはこれら全てを検証する時間はない。ただこの中の第14巻『無差別爆撃』 をひと通り参考にした。これだけでも日本の中国に対する空爆の多さは推察できたが、結果的に筆者が国内の新聞雑誌を中心として収集した爆撃記録の総量の中では、その『無差別爆撃』に記録されているものの割合は1パーセント以下でしかなくなった。なお、これよりも『日軍侵華暴行実録:全4巻』と『侵華日軍暴行総録』から爆撃記録を逐一拾い出したもののほうが多い。

* 『この事実を ……』(南京大虐殺生存者証言集:南京大学出版社 1994年:日本語版=1999年)

 ここには624人の証言が集められている。その一部は時系列に従い、これまで各所に織り交ぜて引用している。

* 『程瑞芳日記』(南京出版社 2016年)

 程は当時、金陵女子文理学院の教師で、ヴォートリン女史の助手として難民保護と救援活動を支えた。この日記はやはり遅れて2001(平成13)年12月に学院内で発見され、『首都陥落留守金校日記』となっている。日記は南京事件の時期と重なる1937(昭和12)年12月8日から1938(昭和13)年3月1日までのもので、3万字余りが記されている。その資料は先に出回り、上記の松岡環も『戦場の街南京』(2009年)で年末までの記録を掲載している。2016年版は中日英三カ国版として出版され、筆者はそれを中国から取り寄せてヴォートリンの日記の記述の中に組み込んだ。

 筆者私見:筆者の中国の年下の知人によると、「(日本軍から受けたあまたの被害は)国の恥として、何代になっても絶対忘れてはならないと教育されている」という。わが国にはこれを「反日教育」と語る人々がいるが、侵略を受けた国がその酷薄な被害の歴史を忘れないように教育することは極めて自然なことであり、どうしてそれを「反日」という言葉にすり替えるのであろうか。例えばナチスドイツに侵略された欧州の国々も同様な歴史教育をしていて、ロシアでもフランスでもドイツに対する「戦勝記念日」は大々的に行われる。しかしそれをドイツ人は「反独運動」の一環とは言わないし、逆にドイツ自身も近隣国に対しての加害の歴史教育は徹底して行なっている(ドイツではむしろうるさいほど日常的に行われていると、ドイツに住む日本人知人が話している)。どうして一部の日本の人たちの思考回路はこうも歪んでいて、政官人もそれに影響されているのか、あるいはそれを利用するのか。逆に日本が仮に中国軍に侵攻されていたとすれば我々はどう対応するか少しでも考えてみるといい。その場合中国を侵略国として指弾する教育を日本は当然行うのではないか。またそういう過去の問題と、その後友好関係を深めていくこととはまったく別問題で、現にドイツを中心とする欧州がその良い例である。

余話的に(筆者私論)

【偏向したメディア】

 ちなみに既述の小野賢二の著作に基づいて、日本テレビ(読売系列)が現地に取材しながらNNNドキュメント「シリーズ戦後70年:南京事件 兵士たちの遺言」を制作し報道した(2015年10月)。そのNNNのTV放送から約1年後、産経新聞がこの番組を名指しで批判、「南京事件で虐殺はゼロかごく少数」と主張して「中国の謀略宣伝のやり方と酷似」とし日本テレビのでっち上げによるものとしてバッシング記事を載せ、”偏向番組”のレッテルを貼ろうとした。しかしこの番組は小野賢二の信用性のある第一次資料(本人が地元の元兵士を訪ね歩いて時には怒鳴られ、追い払われながら取材し当時の日記を手に入れたもの)を紹介しつつ、それらの記述や証言について矛盾がないか、かつ防衛省に残っている軍の公式記録などと矛盾がないか、そして記述を裏づける調査資料、さらに日本と中国両方でほかに目撃者はいないか、と徹底的に取材して裏を取り、信頼性のある証拠とそうでない証拠を番組内でもはっきりと腑分けして放送した。年老いて長期間もの沈黙を破って、当時の上官や仲間がほぼ他界し、迷惑がかからないことを確認して、やっとの思いで辛い証言をした元兵士たちに対しても、この産経新聞のやり方は失礼極まりないものであって、本来、各方面での取材をしながら裏付けを取って記事を発信するべき新聞社としては安易すぎるというより新聞社としての資格が疑われる記事である。公平性を使命とする全国系新聞社が、自身でまともな取材・検証もせずに、犬の遠吠えのような言論でその地位を保っているとは、産経の知性の程度が疑われると言わざるを得ない。およそこのような論者は自分で取材もしないで捏造と書き立てるが、別途自分で反証的に捏造して立派な記事を書いて見せることはしないし、できない。このような産経新聞こそが堕すべき偏向新聞と言わなければならない。事実と謙虚に向き合おうとしない新聞社など、存在する意味も価値もない。実際に南京陥落の10日後の南京城内の写真を使って、どこにも虐殺された遺体などないとしているが、これは筆者が何度か記しているように、陥落4日後の17日に「入城式」を行うために、そこに松井石根司令官だけでなく皇族の朝香宮中将も参列することもあって、全軍をあげての徹底した大掃蕩作戦をやって、城内のメイン通り (中山路など) 付近の遺体などはすべて片付けられたのである。

 このことで想起しなければならないことは、1945(昭和20)年3月10の東京大空襲で約10万の都民が焼死した時に、昭和天皇が被災地を視察したいとの強い意思を示され、やむをえず宮内省と軍はその「御巡幸」の日を一週間後の3月18日とした。そこで都民や学生の奉仕隊などが集められ、巡幸予定の通りや周辺に折り重なっている無数の焼死体を、軍人も指揮して一緒になって片付け、トラックに乗せて(上着に縫い込まれた名前などろくに確認もせずに)仮埋葬地に運んだ。その作業に従事していた人の多くは、「これではこの悲惨な状況は天皇陛下にはわからないだろう」と噂し合った。そして18日、天皇の車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だったが、富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の手前で降りられ、少しの間歩かれ、大達内務大臣より被害状況の説明を聞かれた。天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれたというが、当然住民のことは聞かれたと思うが、おそらく「軍の的確な指示により多くは早めに避難して無事にいます」とでも語ったのであろう。まさか一夜で10万人近くが焼死しているとは思わず、天皇は戦後になって知ったのである。実際にありのままを見ていれば、もっと早くに天皇は戦争を終える決断をされていたのではないか。しかしそのまま5ヶ月後に広島・長崎に原爆を受けるまで軍政府は戦争を続けた。この時の軍政府側のニュースには「數多くの民草救濟の狀況、又工場の被害狀況に寄せさせ賜ひし大御心の程を拝し奉り、我等一億ひとしく暴戾(ぼうれい)アメリカ擊滅の決意をいよいよ固め、広大無辺の御仁慈に応へ奉らむ事を期するものであります」とある。いずれにしろ南京も同じであるが、このような軍の「工作」に簡単に騙されるレベルの人たち、あるいは天皇には見せられないと体裁を取り繕う側の人たちが虐殺はなかったと言うのであり、好んで戦争を遂行してきたのである。はっきり言うが、この種の人間たちが戦争を始め、そしてその中で虐殺を安易に行うのである。そうとしか思えない。

 今ひとつ既述の松岡環の『南京戦・元兵士102人の証言』を、同じ産経新聞の雑誌「正論」(2002/11)がデタラメとして取り上げているが、この松岡の著書は上下二段組の400頁近くある本で、それも一人4頁平均もある日記を織り交ぜた具体的な証言は、せいぜい一度に数十頁読んでは一旦心を休めないと、想像以上内容に精神的に耐え難いものがあって、もちろん各人の証言をつなぎ合わせると中国人の受けた惨劇の大きな全体像が浮かび上がってくるが、その「正論」の評者がそれらの数多くの事実を克明に読んでいるとはとても思えず、これらをわざわざ偽証(デタラメ)と決めつけられるような内容ではまったくないし(このような多種多様な想像を超えた内容を頭で創り上げることは到底できないし、なら自分で別の事件をでっち上げて見せればよいのだが、そんなことはできもしないだろう)、逆に言えば、よくもまあ松岡はこれだけの聞き取り調査ができたものとその粘り強い執念に敬服する以上のものがある。

 それはともかく、そもそも「正論」というような名前を、雑誌のタイトルとしてわざわざ掲げてくること自体が客観的に言って怪しいのであり、正論であるかどうかは読み手が判断するものであるという謙虚さが一片もうかがえない。もちろん同社の偏向した内容に簡単に飛びついてくる読者がいるから雑誌も成り立っているのであろうが、繰り返すが、このような論者たちが今のドイツと違って、日本を「事実と向き合わずに反省もしない国」として国際的な評価を下げる結果になっていることをいささかでも自覚してもらわなければならない。つまり産経社には、一個の人間として何が大事かということ、そして日本が国際的に友好関係を築くためには何をすることが大事で必要かと考える力を養うこと、あるいはもっと大きく言えば、この宇宙に一つだけの地球に全人類が共存して暮らしていくために必要なことは何かという視野から人間というものを見る目を養っていただかなくてはならない。

 興味深いのは、日本テレビは読売系で、産経(フジテレビ)とともに保守系である。その読売系のTVがこのような正当な検証番組を制作したことは評価しなければならない。ただイメージとして、保守系はもちろん時の政府寄りで、政府に不都合な出来事は表向きの報道は避ける傾向がある。しかし政府に不都合なこととは何か。長期安倍政権の時代、度々起こる身の回りの不都合な出来事(不祥事)を否定し、肝心な資料を先んじて廃棄したりして隠し続け(敗戦時の日本軍が海外も含めて軍関係の全記録資料・書類を焼却したのと同じ手である)、不祥事のたびに何人かの自殺者を出しても平然とし、言い訳の論理が破綻していようがお構いなく最後まで知らぬ存ぜぬを貫き通す姿勢は、その無思考で無神経を貫く態度は見事で感心するが、その裏の事実を暴き立て、論陣を張ることを積極的に行わないのが保守系のメディアである(特に産経の姿勢はその安倍政権に酷似する)。

 ではなぜ戦時下の出来事における軍の不祥事を政権側の政治家とメディアは隠そうとするのか、また日本が過去に行なった戦争の実態を明らかにすることがなぜ政府に不都合なこととなるのか(特に戦時下での軍の不祥事は、無法下なのであって当たり前に起きることなのであるが)、日本という国は清く正しいことしかしないと言いたいのか、ならどうしてそもそも戦争を起こすようなことをしたのか → それは相手国の反日的で横暴な行為を正す(暴支膺懲=横暴な中国を懲らしめる)ためである → ではなぜ相手国は反日的な行為をするのか?そもそも日本軍が勝手に相手国に侵攻したからではないのか → それは違う、中国にいる日本の居留民を保護するためである → 仮にそうだとして、その目的であった上海を制圧したのに、なぜそこから南京まで日本軍は攻め込んだのか → 中国の首都を制圧し、中国軍を屈服させるためである → その結果中国は屈服したか?逆にますます反日・抗日勢力を増やし、結果、最大の敵としていた共産党政権を戦後に生み出すことに大いに貢献したのではないか? → ……

【保守的立場の矛盾】

 話をこの後の太平洋戦争に移すと、これは米英蘭豪(真珠湾攻撃の少し前にイギリスの支配するマレー半島と香港に同時侵攻していることはあまり知られていないが)、特に米国を最大の敵とした戦争であった。この時代は日本国民の大半がこの戦争を支持し、あるいはマスメディアを巻き込んだ喧伝によって支持させられ、政治体制も与野党合同の翼賛体制下にあり、いわば国全体が附和雷同して保守派となっていた(こう書くと保守派とは戦争を好むものなのかどうか)。そして多くの若者が憎き敵米国に対して護国のために命を捧げた。そして敗戦となり、米軍を主とした連合軍に占領されると、政官人を筆頭にして一挙に親米派となった。つまりそれまでの保守派は米国を敵としていながら、負けると戦後は一転して親米派となった。そこから何事も米国の意向に逆らうことができなくなり、その米国の「威光」(日米安保協定)は日本国憲法の上にありつづけ、実質は米国の従属国となっている状態が今も続いている。その象徴的な事例が、1964(昭和39)年12月、当時の佐藤栄作内閣の時に、日本の都市に対し大量のB29による無差別絨毯爆撃から原爆投下までを指揮し、約50万人の日本の民間人の命を奪い、明らかに国際法違反に問われるべきカーチス・ルメイ将軍に対し、勲一等旭日大綬章を与えたことであろう。理由は自衛隊創設に貢献したということであった。これがいわゆる保守派の矛盾した流れである。そして米国艦隊に特攻死して英霊となった若者たちが、この日本の指導者の豹変ぶりと、米国の従属国家としての現在の状況を仮に目にすると、何のために自分たちの命を捧げたのか、自分たちは無駄死にではなかったのかと思うのではなかろうか。ただ、彼らの犠牲があって今の日本の繁栄があるとは保守派の人ばかりでなく、一般にもよく言われることであるが、まったくのひとときの慰めの言葉に過ぎない。無駄死はどこまでも無駄死である。何よりも息子や夫を若くして亡くした遺族は、表には出さないが(出せなかった)、心の奥でそのように思っている。

 いずれにしろ米国に対する敵味方の関係が、敗戦を境にして表裏をひっくり返したようなこの矛盾を、いわゆる保守派の人々はどのように頭の中で整理しているのか、その思考経緯を聞きたいところである。戦争放棄の日本国憲法は占領軍米国に押し付けられたと言うが、仮にそうだとして、本当のところその当時の米国は、日本にまた軍隊を持たせたらろくなことをしないと思って戦争放棄の憲法を日本に押し付けたのではなかったか?しかしその後米国も自国の軍事展開の負担を減らすために自衛隊という名の軍隊を容認して支援し、日本の憲法は変えてもよいと考えるに至っていて、保守派の人々はそれに乗じているのではないか。いずれにしても現在、日本国憲法の上に日米安保協定が存在している限り(これは事実である)、そして米軍が国内の各所に駐留して特に沖縄の人々を抑圧している限り、実質はとっくに改憲している状態と変わらない。

 今ひとつ、改憲論者(つまり9条のことであるが、改憲自体は時代の流れに合わせてやるものだと筆者は思う)はそもそも憲法の前に、軍国主義から民主主義への大転換を一日にして米国に押し付けられていることを忘れているのではないか。まず自前の民主主義の制度を作り、その上で新憲法を作るべきではなかったのか(ただ、当時の敗戦国日本は自分だけでは何をしていいのかわからなかったのだろうが)。だから憲法が押し付けられたというなら、その前に押し付けられた民主主義(つまり軍国主義を捨てさせられた上での民主主義)についてはどう思っているのか?少なくとも当時の政官人ではその民主主義体制を新たに作る力はなかったと思われるが、そうした手順(民主主義を自国の力で確立する)を経ていないから、自らが起こし、内外に二千万人(うち日本人は310万人)を優に超える多大な犠牲者を出したこの戦争を、反省するという機会も自立の精神も持てないまま、真の三権分立も曖昧にされ、司法も含めて今に至るまで米国に従属する形から抜け出せないままでいるのではないのか、等々思わざるをえない。

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