靖国神社の役割

【戦時下の靖国神社】

 靖国神社は元は東京招魂社と言って明治時代の初期、維新の動乱(戊辰・西南戦争など)の時に「官軍」側の戦死者を祀るために創建された。したがって明治新政府と対峙し「賊軍」とされた戊辰・西南戦争など、つまり白虎隊や会津軍や越後長岡軍の人々、西郷隆盛とその軍は一切祀られていないという変則的な施設であった。その後明治12年に靖国神社と改称され、運営管理は内務省と陸海軍が行なった。その後の日清・日露戦争の戦死者もここに祀られた。その流れで、昭和6年(1931)の満州事変から始まったいわゆる15年戦争の間も、靖国神社は国に殉じた戦死者の「忠魂」を慰霊し、それを「英霊」として「招魂」し、神(軍神)として祀る場として存在した。したがって日本軍の戦死者は必ず靖国神社に祀られるものとされた。例えば若き特攻隊員が出撃の際、後に続く仲間に「靖国で会おう!」と言い残して散って行ったし、親が出征の前に子に対して、もし自分が死んだら「靖国に会いに来なさい」と言って戦地に向かったのである。

 日中戦争以来、次々と戦死者が出てきて「英霊」として靖国に祀る一方で、軍政府は遺族に配慮する方法として、日本各地から遺児たちの代表を靖国神社に呼び寄せ、例えば昭和16年(1941)に、中国で戦死した父親の男の子を山梨県から招待し、皇后から下賜されたという記念品を手渡した。その記念品を手にしながら仰ぎ見る姿の少年の写真が、国の情報局編集の『写真週報』4/9号(いわば国策誌)の表紙に載せられている。そして「靖国の子」として健気に生きていこうとする少年を称えている。

 同時期の記事の中に、「晴れて嬉しき靖国社頭の対面を明日に控えた3月27日、青山憲法記念館式場において、かしこくも朝香軍人援護会総裁宮殿下には、温情溢るるばかりのありがたきお言葉を賜りました。今日、目の当たり、尊き天子様のお姿を拝し奉り、また恐れ多くも国母陛下より御下賜品(おかしひん)を賜って、重なる光栄に浴した感激の全国遺児を代表してイワナカショウジ君は、殿下の御前に参進。必ずや亡き父の志を継ぎ、天皇陛下の御ために忠義を尽くし、ただいまのありがたきお言葉に沿い奉る雄々しき覚悟を謹んで奉答。この日この時の感激を、小さな胸いっぱいに膨らませて、声を限りに聖寿の万歳を奉唱いたしました」とある。これはあくまで国の立場で書いた記事である。遺児たちは夏には出雲大社にも招待されたという。

 この頃の美談記事に、例えば「この光栄の日を一生涯忘れず、宏大な皇恩に立派な日本人となって父の志を継ぎ、…」と書かれた記事を、ある新聞社が近年、高齢となった「遺児」本人に見せると、「これは捏造でしょう」とその方は一蹴した。

 同じ『週報』の昭和18年(1943)4/7号に載せられた一文は『時の立札』として「靖国の社頭に頭を垂れ/父の遺志に耳を澄ます可憐な姿/やがて父子相伝えて国に殉ぜんことを誓う/われらひたすらその健やかな成育を祈り/心を一つに力を共に/われらすべてがその父たらんことを希う」とあって(おそらく「靖国の社頭」に掲げられたもの)、父に続いて「国に殉ぜんことを誓」わされ、正直、どこに「健やかな成育を祈」る余地があるのかと、ため息が出そうである。当時の軍政府が必死に国民をなだめようとする姿は見えるが。

 親が「護国の英霊」となった遺児たちは、「靖国の遺児」「靖国の子」「誉れの子」などと呼ばれ、一方で若くして戦場で散った子の母親を「靖国の母」、あるいはその地名で「九段の母」(この歌の詞は筆者の「日本の軍歌とその時代背景」を参照)、そして結婚していた女性は「靖国の妻」、総じて「靖国の遺族」「誉れの遺族」などと呼ばれた。

 戦時中は一定期間を置いて、戦死した将兵たちを合祀する靖国神社臨時大祭が行われた。それに合わせて遺族が招かれ、その日は遺族が参道の両側を埋め尽くし、そこに霊爾簿(戦死者の名簿)を載せた御羽車が神官たちに担がれて本殿に移動し、祭主としての天皇が同じ道を通って参拝した。初期の頃、北陸からはるばる上京してそれに参列した遺族の老婦人たちが、ある婦人雑誌社の企画で座談会を開いた。それは「母一人子一人の愛児を御国に捧げた誉れの母の感涙座談会」というタイトルで、昭和14年(1939)6月に掲載された。その中に「靖国さまへお参りができて、お天子様を拝ましてもろうて、自分はもう、何も思い残すことはありません。今日が日に死んでも満足です」/「お国のために死んで、天子様にほめていただいたと、何もかも忘れるほどうれしゅうて元気が出ますあんばいどすわな」という言葉が載せられている。本音は子息を失った深い悲しみを押し殺してのことであろうが、戦意高揚を図るための企画であって、この時代、これ以上のこと(本心)を話すのは難しい。

 その後も数千から万の単位で大量の戦死者を合祀する臨時大祭が繰り返された。北は樺太から西は満州、南は沖縄・台湾から遺族が選ばれて国費で東京に招かれ、臨時大祭に列席した。戦時下の都内の学校では、数ヶ月に一度くらいこの臨時大祭の日に靖国神社に向けて拝礼する行事も行われた。

 またここに、子を思う母親の気持ちを、子ども自身が見事に表した「長歌」がある。

 「若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は/ 出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず/ 己生あるその中は 子の身に代わらんこと思い/ 己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ/ あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬ゆべき/ あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人/ 母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む …(以下略)」

 これは平成20年(2008)8月に靖国神社の社頭に掲示されたもので、実は日中戦争(支那事変)が開始されたひと月半後、見習士官であった熊本出身の立山英夫が、中国河北省に出征してわずか三週間後、偵察に出たところで戦死した。血まみれの軍服の内ポケットには母親の写真があり、その裏には母を思う上記の長歌が上下二段に書かれており、その最後には「お母さん、お母さん、お母さん」と8行に渡って24回もくりかえし書かれていた。その立山中尉(死後に特進)の上官に当たる陸軍大佐・大江一二三がそれを遺族に返し、立山の郷里での葬儀に際し、弔電を打った。

 それが、「靖国の 宮にみたまは 鎮もるも をりをりかへれ(折々帰れ) 母の夢路に」であって、この大江の歌がまた世に流れ、信時潔(「海行かば」の作曲者)が曲をつけた。(この二つの歌はネット上でも多く取り上げられている)

 立山のような心優しく感性豊かな人間が、本来決して戦いたくもない相手、時代によっては国際交流で友となったかもしれない相手を「敵」として戦って、むやみにその命を犠牲にしなければならない戦争というもの、そしてどれほどに立山を優しく包んでくれたお母さんを残して先に死ぬことに悔いがあったか、計り知れない。軍隊の教練では「天皇陛下万歳」と言って死ぬようにと言われていたが(天皇自身も一人の人間としてそれは望んでいなかったはずであり)、きっと「お母さん!先に逝くことをお許しください」と言って死んだはずである。親に先立つことほど親に与える不幸はないのである。果たして彼は靖国神社の「軍神」となって充足していると思えるだろうか、親がそれで満足しているであろうか。

 また立山の母に送った大江の歌には非常に深い意味が込められているように思える。つまり靖国神社は戦死した者たちを護国の英霊として祀った。これについては大江大佐の子息で後に茨城大学の教授となった大江志乃夫氏が、その著作『靖国神社』(1984年:岩波新書)で記している文を引用する。

 「”をりをりかへれ 母の夢路に”としかいえなかった時代、というよりも、この時代には”母の夢路に”ということさえも勇気が必要である時代であった。”英霊”となった息子に会うには母が東京九段坂の靖国神社にまで出向くのが当然と歌われた時代であった」。続いてそれを象徴する昭和14年(1939)に作られた『九段の母』の歌を引用している。ー 「上野駅から九段まで/ 勝手知らないじれったさ/ 杖を頼りに 一日がかり/ 倅(せがれ) 来たぞや 会いに来た」(全歌詞は筆者の「日本の軍歌とその時代背景」を参照)。つまり、「”護国の英霊”たるもの、”護国の神”としての任務を果たすためには片時も靖国神社から離れることがなく」、息子に会いたければ母親が出向いて来いという時代であった。

 さらに大江志乃夫は述べる。——「靖国神社は国家の宗教施設であり、またその軍事施設であり、そのゆえに国民統合のための政治的・イデオロギー的手段であった。戦争による犠牲者を、国民に対して悲劇であるとも悲惨であるとも感じさせることなく、むしろ逆に栄光であり、名誉であると考えさせるようにしむけた存在が靖国神社であった。このような仕組みについての認識にたどりつく」までに至ったのは「少年時の私自身の軍国体験であり、父の”靖国の”の歌の存在であった」。

 実際に、敗戦まで靖国神社の宮司であった鈴木孝雄(陸軍大将)は、陸軍将校向けの『偕行社記事 特号』(1941年4月)の記事で、「人霊をそこへお招きする。この時は人の霊であります。いったんそこで合祀の奉告祭を行います。そうして正殿にお祀りになると、そこで始めて神霊になるのであります。…遺族の方は、其のことを考えませんと何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです。… 一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないかと思います」と述べている(大江『靖国神社』より)。「これが靖国を通じて、国家が戦死者の魂を独占し管理するということであり、大江一二三は叱責の対象になりかねない。…… “九段の母”とは、子の命を国家に取られ、さらにはその魂までも国家に取られた“二重の悲劇”の母なのだ」(弁護士:澤藤統一郎)とは鋭い指摘であり、このように戦死者の死後の霊まで管理しようとする国の存在とはなんなのであろうか。

【戦後の靖国神社】

 戦時下の米軍の度重なる激しい空襲の中で、靖国神社は被災を免れた。これは事前に米軍内の進言で、皇居を含めて日本の神社仏閣や美術館(例えば上野)などがリストアップされ、空爆の対象外とされたためである。米軍側の靖国を示す場所の表記では「軍事博物館、招魂社、九段付近」となっている。もちろんその対象外の中でも浅草寺のように周囲の猛火から類焼し、焼け落ちてしまった例も3割程度ある。

 戦後、連合国占領軍GHQは靖国神社は陸海軍と連携して国家神道として戦争を遂行する役割を担ったとし、翌21年(1946)9月、国家機関から民間の一宗教法人に変え、それにより天皇との密接な関係も分断された。さらに新たな日本国憲法第20条に政教分離の原則が示された。ちなみに日本人にとって特別な存在である天皇の処遇もGHQにとって一番大きな問題となり、米国内には第一級戦犯とすべし、という意見もあったが、実は米国では事前に日本の政治状況や社会体制についての十全な調査研究行われていて、天皇への処断の仕方によっては多くの殉教者も出て来かねず、大きな混乱を招くという見方が大勢になっていた。そこで改めてGHQは占領早々に客観的立場の日本人に天皇の処遇についての考えを聞く機会も作り、その中にミッションスクール恵泉女学園の創立者河井道もいて(筆者の「戦時下の大学・女学校」参照)、河井は当初より一貫して昭和の15年にわたる戦争に反対し続けていて(事実何度も特高警察に拘留されている)、それでも天皇が軍政府に祭り上げられ、利用されているだけであることを見抜いていたから、天皇を決して戦犯として扱わないようにと進言した。その後、GHQ最高司令官マッカーサーと天皇の会見が実現しし、天皇はすべての責任は自分にあるとしたが、天皇制は維持されることになった(筆者の「東京都の概要」の戦後の項参照)。その後、連合国11カ国が1946-48年にかけて共同で日本人指導者28名をA級戦犯として裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)が行われた(「東京都の概要」の戦後の項の<軍の将校たちの自決と戦犯としての裁判>参照)。

 靖国神社は国家に保護された宗教施設から一般の宗教法人になったが、戦死者や戦犯刑死者(海外特に東南アジアの戦地においてBC級戦犯として捕えられ処刑された者たち)などの確認作業には無理があって、国の調査に頼ることになる。戦前に靖国を所管した陸・海軍省は、やはり占領軍によって解体されたが、残務処理を担う第一、第二復員省になった。その後も改組を繰り返し、昭和29年(1954)4月から厚生省内の引揚援護局となり(のちに厚生省援護局)そこに旧軍人が流れ込んで、軍人の援護業務を担当した。その結果、旧軍人・軍属(そして元戦犯も)には手厚い援助がなされていくが、同じ戦争の犠牲者でも軍関係以外の多くの人たちが排除されている(「東京都の概要」の戦後の項参照)。

 ここには現在明治以降の戦死者246万6千余柱が祀られ、そのうち昭和の戦争では約215万柱という。どれだけ「アジア太平洋戦争」の犠牲者が多かったかがわかる。この中には日本兵として戦った当時の植民地の朝鮮や台湾出身の元軍人も祀られている。ただし国からの補償金は全く支給されていない。このほかに、兵士と同様の資格で徴用された従軍看護婦その他の女性5万7千余も含まれているとされる。沖縄戦で亡くなったひめゆり・白梅などの七女学校部隊の生徒、これもある意味強制徴用であった。軍から徴用されたという意味である。「対馬丸」で沖縄から鹿児島へ疎開中、敵潜水艦に撃沈された小学生たち(784人)も入るというが、これは目立った例だからであろう、民間人が撃沈された船は枚挙にいとまがないし、海上では生き残りが少ないため、あまり表に出されることがないから放置されている。さらには学徒動員で軍需工場などで爆死した学生・生徒たちというが、約1万1000人の全てが入っているのか、一緒に動員されていた女子挺身隊(学生ではない14歳以上の女性たち)の犠牲者はどうなのか、掘り起こせば無数にあり、すべての人がリストアップされているとは思えない。

 ただしかし、いずれの場合においても、子を失った親としてはその悲しみの持って行きどころがなく、例えば神社内にある記念館としての「遊就館」は今は立派な建物になっているが、その館内には遺族から奉納された小さな遺影がずらっと飾られている場所があり、そのここかしこに花嫁人形が写真に相対して置かれている。それは「少年たち、青年たちのほとんどが、妻を娶ることなく、女性を知ることもなく、手さえも握ることなく、死んでいったのである。それを哀れに思った母親や姉たちが、亡き息子に、亡き弟にと花嫁人形を贈ったのである。若者の遺影の前に飾られている花嫁人形を見るたびに、私は泣けてしかたがなくなる。彼らの無念と、戦争の無情さを思い、常にその場に立ちすくむ」(三宅久之)という思いに突き動かされるものである。

 その人形たちの一つに添えられた手紙である。

 「武一よ、… 23才の若さで家を出て征く時、今度逢う時は靖國神社へ来てくださいと雄々しく笑って征った貴男だった。… 沖縄の激戦で逝ってしまった貴男。年老いたこの母には今も23才のままの貴男の面影しかありません。日本男子と産まれ、妻も娶らずに逝ってしまった貴男を想うと涙新たに胸がつまります。今日ここに日本一美しい花嫁の桜子さんを貴男に捧げます。私も84才になりましたので、元気で居りましたら又逢いに来ますよ。どうか、安らかに眠ってください。有りがとう。昭和57年3月28日 母ナミ」(この節は昭和21年生まれの方のブログより転載)

 このように、遺族の心の平安をいくらかでも保つ役割を靖国神社は担っていることは確かであろう。しかし、息子を国に奪われたとして、決して靖国に来ない母親もいることも確かであり、祀られることに異議申し立てをしているケースもある。

【戦犯の合祀】

 昭和26年(1951)9月8日に日米講和条約が締結され、形の上で日本は独立国となった。これを機に、かねてより遺族の強い要望(靖国に祀られることで、殉国者としてその死が尊いものとされる)もあって、法務省は翌27年5月の通牒によって、軍事裁判による戦犯は日本の裁判所で刑を受けた者と同様に扱われるとした従来の解釈を取り消し、戦犯の公民権回復を認めた。さらにその翌年からは公的援護の法改正があり、戦犯の刑死・獄死も公務死に準ずる「法務死」とされた。そこから昭和31年(1956)、厚生省と靖国神社が合祀事務協力を始めた。34年(1959)年3月に厚生省は初めてBC級戦犯の祭神名票を靖国神社に送付した。靖国はこのBC級戦犯の合祀にすぐに応じ、翌月に346柱を合祀した。その後も、靖国は42年(1967)10月まで4次に分けて合計984柱のBC級戦犯を合祀していったが、合祀を望まない遺族もあった。

 なお、BC級戦犯の多くは海外の戦地において、終戦となってすぐに上級将校たちは先に日本へ逃げ去り、残された無名の将兵が現地人に捕らえられ、戦時下では将校の命令で否応無く虐待したこともあり、現地で直接顔も覚えられているから死刑となったケースも多い(千代田区の「愛の像」参照)。

 昭和41年(1966)2月、厚生省がA級戦犯12名の祭神名票を靖国に送付した。12名の内訳は、東条英機を含む絞首刑になった7名と後の服役中に病死した5名である。厚生省援護局と靖国神社は44年(1969)1月、A級戦犯を合祀すること、ただし「外部発表は避ける」ことで合意した。それでも正式の合祀は、なかなか実現せず、いらだつ靖国神社崇敬者総代会はA級戦犯合祀を決議し、圧力をかけた。この背景には、A級戦犯を合祀しないと「東京裁判(戦犯裁判)の結果を認めたことになる」との靖国側の東京裁判全面否定論があった。しかし合祀をいつ実施するかについては筑波宮司の決断に委ねられ、当時の旧皇族の宮司はA級戦犯合祀を極力先延ばしにする意向であった。しかし1978年にその筑波宮司が急逝するやいなや、後任の宮司松平永芳は、「すべて日本が悪いという東京裁判史観」を否定しなければならないという東京裁判全面否定論を信奉し、3カ月後の10月、裁判の判決前に死亡した2名を含むA級戦犯14柱を秘密裡に合祀した。

 A級戦犯合祀の事実は翌年4月の新聞報道で露見した。そして終戦40周年の昭和60年(1985)8月15日、中曽根康弘首相が靖国公式参拝に踏み切ると、近隣諸国からの激越な批判を浴びることとなった。その後中曽根は参拝をやめたが、小泉首相になって復活した。これにも批判があったが、要は戦争を主導したA級戦犯が合祀されていることが一番の問題となっている。(上の2節は主にnippon.comに掲載された帝京大学教授、日暮吉延の記事より)

 ちなみにA級戦犯の中であまり目立たない人物がいる。大逆事件で幸徳秋水らの死刑を求刑した検事の平沼騏一郎は、その後日本大学総長を務め、悪名高い治安維持法設立にも関与し、枢密院議長を経て日中戦争時代に首相に就き、太平洋戦争敗戦によりA級戦犯として終身刑の判決を受けている。その後獄中で病気になり、仮釈放されてまもなく死去した。そして1978年に靖国神社はこのような人物まで合祀した。当人はもちろん「戦没者」ではなく、遠くから若者たちを戦没させた側であって、しかもそれまでに無実の人たちを「疑い」があるというだけで恣意的に検挙し投獄するという治安維持法なるものを作って、拷問等により多くの人たちを死に至らしめた。そうした人物を戦死でもないのになぜ合祀するのか。その理由は唯一、A級戦犯にされたという事実においてその資格があると判断されたとしか思えない。なんという基準であろうか。ついでに言えば、軍国主義体制下、治安維持法などによって投獄され、虐待死した人々に対して、戦後、政府が名誉回復の措置をとった話は聞かない。これは(靖国につながる)軍人関係以外の戦争被害者(戦災や孤児など)に対して1円の救済もしなかったことと同様で、そこには自分たちの失政をどこまでも認めようとしない日本の政官人の体質というものがあって、そこには欧米先進国諸国と比較して非常に狭量な思考回路(自分の身の保全を優先する)しか見えない。

【昭和天皇の靖国不参拝】

 昭和天皇は、戦後30年(昭和50年:1975)までは靖国に数年に一度参拝していたが、A級戦犯者たちが合祀された後には参拝せず、平成天皇も参拝されたことはない。昭和天皇はある意味、A級戦犯となった要人たちも含めた軍政府の巧みな説得に導かれて、望まぬ戦争突入に同意した経緯がある(なぜ天皇は戦争を望まなかったか ——それは簡単で、天皇は基本的に国民=臣民の安寧を祈る立場にあるからである)。そしてその戦時下では逐一不利な戦況を報告されることもなく(新聞やラジオも軍事統制されていたから、天皇に正しい情報が届くことはなかった)、戦後次第に明らかになった戦死と空襲等で亡くなった国民310万人のことを思うと、とりわけ若い学生たちが特攻隊で突撃死したことに対して、どれだけ天皇の心は辛い痛みに耐え続けたであろうか。A級戦犯者たちの合祀を一番望まなかったのは昭和天皇ではなかったか。

 事実、日経新聞が平成18年(2006)7/20付朝刊で、昭和天皇の側近であった元宮内庁長官・富田朝彦が遺した1988年4月28日のメモをスクープした。そこには天皇の言葉として 「私は或る時に、前の筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」とある。そしてこれを靖国側と靖国を支援する人たち(政府も含めて)は無視を決め込んだ。自分たちが囚われている固定観念に外れるものには触れないのが、その人たちのいつもの流儀である。

 平成天皇は、平成27年(2015)の終戦記念日(全国戦没者追悼式:「戦没者を追悼し平和を祈念する日」)のお言葉で

「さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。終戦以来既に70年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払われた国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に尽きることがありません。ここに過去を顧み、さきの大戦に対する深い反省と共に、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心からなる追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります」

と語られた。そのお言葉通り、美智子皇后と国内外に積極的に慰霊の旅に出かけられている。

 ところが、平成30年(2018)10月、ある週刊誌が6月に靖国神社の社務所会議室で行なわれた一つの会議で、靖国宮司・小堀邦夫が「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん?どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう?… はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」と発言したことを報じた。A級戦犯が合祀されている日本人関係だけの靖国の「英霊」に対してではなく、昭和天皇の遺志をついで、日本が侵攻した世界の各地で、日本の戦死者をはるかに超えるほどの戦争犠牲者を、分け隔てなく慰霊するという平成天皇のお志を全く否定する発言で、右翼的な人々もさぞ驚いたことであろうが、その系列の論者とメディアはやはり沈黙を保った。自分たちがある意味絶対者として崇敬する(崇敬しなければならない)天皇が、自分たちの意に沿わない行動をされることを疎んじるとはどういうことか。どうして天皇のお志がわかるなら、それを汲み取って、考えを変えていこうとしないのか、それこそ不敬なことではないのか。

【靖国の理念と現実の乖離】

 一応は靖国神社の理念は「祖国を平安にする」/「平和な世を実現する」とあるが、本当に靖国側の人たちはそのように念じているのであろうか。もともと靖国は明治以来、戦争による戦死者のために作られた神社であるから、この神社が過去に戦争で国に殉じた戦死者たちの慰霊の場所(英霊が眠る場所)として必要とされなくなったら、日本に本当の平和が訪れると考えてもいいのではないだろうか。

 今一つの問題として、日本の首相などが海外に訪問する時に、その国の戦没者慰霊施設に行き、献花する姿をTVニュースなどでよく見る。とりわけ米国のアーリントン国立墓地は有名で、ここには多くの無名戦士も祀られていて、各国の首脳が米国を訪れた時には献花する。逆に海外の首脳が日本を訪れる時に、靖国神社に参拝する姿を見たことがない。もちろん特別な場所である広島には時折訪れ、献花される。これはどういう違いなのか。靖国を参拝する政治家たちにも考えてもらったほうがいいだろう。日本の政府がより大事とする靖国神社に、海外の首脳を招き入れ、献花ならぬ”玉串”を奉じてもらうことができないのはなぜなのか、自分たち自身に問い直してみることも必要であろう。

 ちなみにアーリントン墓地には、太平洋戦時下に敵性市民として弾圧を受けながら、米国側の軍役に就いた60名を越える日系人が「歴史的に特筆すべきマイノリティー」として埋葬されている。とはいえ、ここに埋葬されるかどうかは個人、つまり遺族の意志に任され、靖国のようにその意志を聞かずに埋葬することはない。

 なお、今の靖国神社には、昭和40年に「鎮霊社」という小さな祠のような社が建立されている。そこでは江戸時代末期から明治に至る戦争・事変に関わって没した「朝敵」(西南戦争を起こした西郷隆盛を中心とする薩摩の人たちや白虎隊の少年たち、戊辰の佐幕派は靖国神社への合祀から朝敵として排除されていた)が長い時を経て、一応祀られ「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖國神社に合祀されぬ人々の霊を慰める為、万邦諸国の戦没者を共に鎮斎する」としている。この「万邦諸国の戦没者を共に鎮斎する」という主旨こそ本殿にふさわしいと思われるが、いまだに本殿は官軍のみという歪んだ状態にあり、「万邦諸国」などここにある言葉だけである。また西郷は本来、官軍創設に一番功績のあった人物である。それをどうしていつまでも建前論にとらわれているのか。関係者の度量が狭いのか、それとも歴史の勉強が足りないのかと思われる。

 一方で米国のアーリントン墓地は1864年の南北戦争による両軍の戦没者から埋葬、慰霊されているが、ある意味南北戦争は日本の明治維新に当るとして、そこで敗れた南軍を墓地から排除したかといえば、民主主義国家の米国にはそんな発想はない。敗戦後、米国から民主主義を取り入れたはずの日本は、民主主義の本質をいまだに理解していないことが、靖国神社の体質にも現れている。

【靖国の固陋な観念】

 余話として、筆者は2017年のある日、戦争終盤に集められ、米軍の艦隊などに突撃死していった特攻隊員の正確な人数などを知りたいと思って、筆者の調査スタッフに靖国神社に行ってもらった。(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会の事務所が靖国神社内の遊就館内にあり、別館に図書室として靖国神社偕行文庫があって、そこで軍事関連、各史実の叢書が揃い、特別攻撃隊戦没者名簿のある本(『特別攻撃隊全史』(平成20年8/15発行:同協会発行)の購入もした。

 図書室の職員の方はみな丁寧で親切であり、こちらの探している資料もすぐに出してくれるなど対応も良かったが、その利用目的については非常に懐疑的だったという。その後図書館長と思われる年配の男性が出てきて、”反戦に利用する人など、いろいろな人がきます(だから見せたくない)”というような反応を示された。自分は調査の手伝いをしている立場であることを伝えたが、”どうやら反戦目的”に使うのではないか、と疑われていた。他の一冊からコピーをとったので、その領収書に会社名を書いたら、館長氏は会社名をチェックしていた。サヨクとしてリストに載るかもしれないと笑いながらわがスタッフは以下のように語った。

 「靖国神社という施設がら当然なのでしょうが、8000名もの若い命を、日本を護った御霊、英霊として祀り上げていることに今更ながら違和感を覚えました。個人的には、出撃、戦死したの多くの若者の霊は靖国にはおらず、(お母さんのいる)故郷に眠っていると思います。館内には遺族から奉納された小さな遺影がずらーっと飾られている場所もあり、先の戦争(すべて”大東亜戦争”と記される)で彼らが今の日本を護った英霊と謳っていて、戦争を美化しているようにしか思えませんでした。また戦争を始めて、日本を護るために潔く死にましょう、と言っているようにも見えました。中国人ほか、外国人の訪問者も多くいて、彼らはどのような印象を受けるのか、興味を覚えました」と。

 結果的に、購入した特攻隊戦没者名簿に関しては、東大その他の大学が、自身で長期間にわたって調査した戦死者数よりも少ないものであった。したがって各大学の記述では大学側の死者数を優先した。靖国は積極的に大学と連携して新しい情報を取り入れることはしていないように思われる。

 それにしても、仮にも若くして国に殉死した特攻隊戦没者名簿を「反戦目的」に使って、何が悪いのだろう。普通に考えても意味不明である。ただ、この昭和の戦争は大東亜(東アジア)統一を果たそうとした正義の戦争、つまり聖戦であり、そのために犠牲になった特攻隊員たちは尊い英霊であるという画一的な考えが靖国側の見解であり、これが(敗戦となったという事実において)無駄な戦争で、特攻隊員たちは無駄死にであったと言われることを最も恐れているものと思われる。場合によっては今も靖国に関わり、もしくは支援する人たちは何らかの形でまた戦争が起こって、新たな英霊が生まれるのを、待ち望んでいるのであろうか。いくら何でもそんなことはないであろう。しかしいずれ、数十年以上先には昭和の戦争の遺族につながる人たちも靖国に向かうこともなくなるであろう。今の日本の平和が続けばの話であるが、靖国側の人にとってはそれが困ることなのかどうなのか。

 靖国に祀られている英霊たちというのは、そのほとんどが生きていれば社会に貢献していくはずの人生を生きることなく、そして多くの遺書に記されているように、育ててくれた「母への恩」を返すいとまもなく、その命を奪われた若者たちである。その彼らが自分たちに続いて靖国に来る新たな若者たちを歓迎するだろうとはとても思えない。彼ら自身も英霊となるより、自分の人生を最後まで全うしたかったに違いない。しかも敵国とされた側にも、同じような若者がいたわけで、戦争がなければ交換留学にしろ何にしろ、机を囲んで議論し、研究成果を競って世の役に立っていたのではないだろうか。そこまでに思いを到し、戦争のもたらす非道さを理解すれば、このグローバルに開けて世界中の相手の顔が見えるようになった時代に、戦争というもの(つまりむやみに敵を作ること)を美化することはすでに時代遅れであるとして、そろそろその実態のない(手前勝手な想念で作り上げた)敵というものを想定した英霊という固定観念から卒業する時期が来ているのではないのか。

【無駄死論】

 仮に太平洋戦争終盤における特攻隊員(だけではないが)たちの死が無駄死にではないとしよう。そこでこの戦争を遂行した当時の軍政府が最終的にどういう行いをしたかを理解すれば、見方はまったく異なって来る。つまり敗戦が決まってから、すなわち天皇の敗戦の詔勅(玉音放送)が発せられる前から、この戦争関連の記録書類や資料を内外の陸海軍すべてにわたって、焼却処分にした。例えば「内務省の裏庭で、三日三晩、炎々と夜空を焦がして燃やしました」という証言もある。これは全国の自治体から勤労動員された学校に至るまで政府の指示で行われ、戦時下の徴兵の基本となる各地方役場の出征記録すら残されていない。これはやがてやってくる連合占領軍からの調査追求を逃れようとするもので、日本の軍政府はいわばこの戦争をなかったものにしようとしたのである。

 ということはこの戦争はちっとも正義の戦争、聖戦ではなく、侵略戦争であったことを物語り、つまり特攻隊として「散華」した若き英霊たちをも軍政府は、存在しなかったことにしようとしたと言っていい。その結果、英霊たちのみならず「国家総動員法」によって長年の苦難と空襲などで命の犠牲を強いた国民をも軍政府は裏切った。さらに言えば、祀り上げてその名を利用した昭和天皇の御心をも裏切った。自分たちが長年国民や若者を正義の戦いとして煽って行なったこのような事実を覆い隠すという無責任で恥知らずな指導者たちの手によって、英霊たちは現実的に無駄死にとされたわけである。

 つまりA級戦犯かどうかは別にして、戦争開始時から体裁の良い言葉を並べて国民や子供達をも鼓舞し、国民のみならず天皇をも最後において裏切った時の指導者たち(とりわけ東条英機)をも靖国神社が許容し、合祀して神霊とするなどということがあってよいものか、よくよく考えていただく必要がある。

【敗戦までの軍政府の無責任さ加減】

 ついでながら、この戦争で大東亜共栄圏構想を打ち出した首相の東条英機は、敗戦一年前に悪化した戦局の責任を取って辞任している。ここですでに共栄圏構想は破綻し、戦争を終えるべきであったが、迷妄していた軍政府の首脳たちは意地を張ってさらに継続し、首相の座をたらい回しにしつつ(これを筆者は「集団無責任体制」と呼ぶ)、そこから敗戦までの一年間に特攻隊員も含めて200万人以上の国民を犠牲にした。つまり最後の一年間にこの長期の戦争(日中戦争から8年、太平洋戦争から4年)犠牲者のほぼ3分の2が死んで行ったのである。この重い事実をどう見るべきか。そうして日本は憎き敵として戦った米国の従属国家となった。特攻隊員が自身を納得させるために使った「皇国の”悠久の大義”に殉じる」との言葉は、米国の従属国家となることであったのか。どう考えてもそんなわけはないであろう。

 しかも東条英機は自身が発した『戦陣訓』に、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」との訓言を掲げ、それによってサイパンや沖縄で追い詰められた住民に多くの自決者を出しながら、そして結局は自らが連合軍GHQによってA級戦犯として捕らえられながら「虜囚の辱を受け」たまま軍事裁判で処刑された。しかし、実は東条はGHQから召喚のあった9月11日、一度自決を図っていた。ただ彼は、短刀と拳銃を用意しながら、その拳銃の一発が急所を外れて生き残り、そしてそのまま米国の陸軍病院に移されて治療されるという、自身の本来のあるべき精神にとってはこれ以上ないと思われる「辱め」を受けた。少なくとも切腹する勇気もなく、拳銃の一発で止めてしまったその様子から、自殺の狂言をしたとの噂も立った。一方で元帥であった杉山元陸軍大将は、拳銃4発で自決し、その夫人も後を追って短刀で自決した。誰よりも先きに、責任を取って自決するであろうと周囲や世間から思われていた東条は、それこそ恥を晒した。しかも東条の場合、天皇の第一の忠君として、何よりもまず天皇に恥じ入ってきちんと自決すべきであったろうが、この自殺未遂ではその志すら見えてこない。もともと、そのような凡人が、その発言力だけで陸軍大臣そして首相となり、日本を不幸な惨劇に落とし入れたわけであり、そのような愚鈍極まる人間を、少なくとも神聖な場所に祀るとは、靖国神社の存在意義とは何なのであろうか。

 一方で東条の前任の首相近衛文麿は、戦犯とされることを「堪え難い」として、GHQに召喚される前日に服毒自殺した。ちなみに弟の近衛秀麿は音楽の道に進み、第二次大戦下にドイツを中心として指揮者として活躍し、その立場で何人ものユダヤ人音楽家たちの亡命を手助けしたことが、近年NHKの調査で明らかになった。文麿は自殺前に、弟の秀麿に「お前はいい職業を選んだ」との言葉を残して逝った。