慈恵医大卒業生:湯浅謙の軍医体験

(以下は『消せない記憶』増補新版:日中出版、1997年:吉開那津子のインタビュー構成からの要約)

 都内で献身的な開業医であった父親を鏡にして医師を志した湯浅は、日中戦争開始の4年後、昭和16年(1941)に慈恵医大を卒業し、半年間駒込病院に勤務する間に徴兵検査を受け合格、時代の流れで軍医将校を目指し、10月、同期の者23名と北海道旭川の連隊に配属された。その後12月8日に真珠湾攻撃があり、米国との戦争となった。中尉となった翌年早々、3ヶ月の短期訓練を経て、同窓のO中尉とともに中国山西省の潞安陸軍病院に赴任と決まった。

 軍服姿で出発、途中で東京の自宅に寄った。壮行会が持たれ、父親に捕虜になった時の自決用に青酸カリをくれと頼んだが当然断られた。見送りの駅で父親の万歳三唱を聞き、集合地の九州門司まで行き、門司から天津に渡り、そこから北京に行き数日逗留、北京から山西省の省都太原まで列車で24時間かかった。太原は日中戦争以来の要所の一つであった。そこからまた日本陸軍が敷設した軍用列車に12時間乗って1月末潞安に着き赴任した。軍医10名、看護婦(日赤からの派遣)10名、その他衛生兵等を含めて110名以上の陣容で病院長は岡山医専出身であった。この病院は中学校を日本軍が接収したものであった。

 この時期中国の北全域は北支那方面軍が占領し30万の日本兵がいた。そのうち山西省は6、7万の兵を擁し、またそのうちの潞安地区は第36師団の1万8千人が駐屯し、この野戦部隊には37、8人の軍医がいた。

 湯浅は経験上伝染病棟の担当となった。上官は慶応医学部出身であったが、結婚相手を日本に残し、すでに5年の長期勤務となっていたため精神的に荒れていて、後に前線部隊に転属させられた。また一人若い看護婦が結核で感染死亡し、病院の片隅で棺桶のないまま火葬されたこともあった。

 着任1ヶ月半後の3月半ばの昼食後、院長より突然「本日午後より手術演習をやる」と伝えられた。湯浅は慈恵の医学生時代に大陸に行けば生体解剖をやる機会があると聞いていて、「来るものが来た」と覚悟した。この演習の指令は北支那方面軍下の第一軍司令部によって発せられ、上記師団の軍医たちの教育用として実施されていた。

 生体解剖の対象となるのは日本軍に敵対する八路軍(中国の革命軍)と密通していると思われる被疑者で、陸軍付きの憲兵が連れて来た。湯浅は憲兵隊の嘱託医を兼務していたので、隊の中で時々拷問で泣き喚く声を聞いていた。八路軍は農民たちの中にも勢力を伸ばしていたから、憲兵は中国人の密偵を雇い、密通者と思われる地元民を摘発、監禁した。

 この日の手術演習の計画に沿って事前に病院が憲兵隊に連絡し、衛生兵がトラックで犠牲となるべき中国人2名を引き取りに行っていた。師団の軍医のうち11、2名が集まり、病院の医師等含めて約20名が参加した。湯浅は少し遅めに手術室に行った。談笑している師団の軍医部長と病院長に敬礼し、同じく談笑している片側の軍医たちの列に行き慶応の上長のそばに立った。部屋の片隅に衛生兵に監視された百姓風の男二人が後ろ手に縛られた姿があった。その横手に二つの手術台が置かれ、看護婦たちが手術道具を用意していた。湯浅は動揺する気持ちを押し殺し、将校としての威厳を保つよう努めて平静を装った。

 中国人二人のうち一人は観念していたが、片方は抵抗したので、湯浅も手伝って手術台に横にさせ、軍医たちは二班に別れ手術代を囲み、それぞれ服を脱がせた。一人の軍医が看護婦から注射器を受け取り、腰に麻酔薬を打った。そして四肢を縛り付け、麻酔の効果を確かめた後、麻酔薬のマスクを鼻に当て、全身麻酔をした。男は抵抗したが軍医たちが頭と両腕を抑えているうちにガクンとして昏睡状態になった。

 手術の最初は盲腸炎を想定して虫垂の摘出、次に二の腕を骨を一緒に切断、これは兵士が砲弾やその破片により四肢が飛び散った場合の血管と皮膚の縫合のやり方を学ぶためである。次は腹部に弾が貫通した場合を想定して開腹し、腸を切断してそれを縫合する、その次はやはり喉頭に損傷を受けた場合を想定して気管を切開する手術という次第であった。

 一通りの「実習」を終え、部隊の軍医たちと看護婦は引き上げて行った。中国人二人はまだ生きていた。O中尉と一緒に首を締めたりしたがうまくいかず、衛生曹長に麻酔薬を静脈に注射すればすぐだと教えられ、そうするとこと切れた。そのあと裏手の穴に埋めるのは衛生兵の仕事で、軍医は先に出た。その夜湯浅は同僚と出かけ、あまり飲めない酒を飲み、馬鹿騒ぎした。

 二度目の「実習」は半年後の秋だった。この時は顎に弾丸が当たって砕けた場合を想定した整復手術もあった。その2ヶ月後の12月、太原で軍医教育がなされ、各地から4、50人の軍医が集まり「防疫給水」の講義の翌日の講義の午後、京大医学部出身の軍医部長の指示で太原監獄に集合した。そこで目隠しをされた「囚人」2名が引き出され、二人の軍属が拳銃でその2名の腹に4、5発撃ち込み、すぐに隣室に運んで弾丸を抜く手術をした。その途中でさらに2名が撃たれて運び込まれた。弾丸を抜く手術の一方で別の軍医は軍医部長の指導で四肢の切断や気管切開をした。弾丸の摘出手術を終えたあと、4名とも出血多量で死亡した。(注:防疫給水とは本来、疫病対策を目的とし浄水を確保を目的とし、陸軍にその部隊が作られたが、昭和15年に満州において関東軍防疫給水部本部:満洲第731部隊が正式に発足し、そこから日本軍が占領する中国各地に防疫給水部は展開されたが、建前の防疫活動のほか生物兵器に関する研究も任務であった)

 こうした演習のあと病院長の命令で、埋められる前の遺体から脳の皮質を切り取ってホルマリン液のビンに入れたこともある。これは軍の命令ではなく、日本の製薬会社の依頼で、研究のためということであった。これ以外にも日本の大学医学部の教授自身が中国まで来て、脳全体を持ち帰ったこともあった。
 筆者私見:研究者というのは、世の中の背景や倫理のことよりも自分の研究対象への知的好奇心や探究心が勝り、仮にそれが結果的に戦争犯罪に加担する事柄であっても、抑制することが難しく、この大学教授はもとより、湯浅もその末席にいたと言える。人体解剖のみならず、原子爆弾開発の研究者たちも同様で、実際に日本に原爆が投下されてから後悔の念にさいなまれた科学者(オッペンハイマー)もいた。

 湯浅は普段は陸軍病院での診察や治療に追われ、伝染病室での病理検査も行ない、新しい患者から採取したチフス菌、赤痢菌などを保管していた。そこに師団の防疫給水部からその菌をしばしば取りに来て、特に考えずそのまま渡していた。後年、それが細菌戦に使われていたことがわかったが、当時の湯浅の知るところではなかった。

 実際に18年の秋に軍の査閲があり、その時に細菌戦に大きな役割を果たした石井四郎が第一軍の軍医部長として来院、凍傷の生体実験の講演も行った。この石井は昼食の雑談の中で「ガダルカナルで日本軍が負けたのは食料を持たなかったからだ。(死んだ)仲間の肉を食えばいいじゃないか」など言った。彼は敗戦が決まるとすぐに飛行機で日本に逃げ帰った。

 昭和19年4月、湯浅は病院の副官である庶務主任となった。院長に代わり生体解剖の計画と準備をする。移動部隊には新しい軍医が来るので実習は継続され、この年三度行われた。そのうちの11月の寒い日に、軍医たちの集まりが悪く、二体(2名)用意していた犠牲者が一人余った。憲兵隊に返すわけにはいかないと、剣道の腕のあった病院長が外に掘った穴の前にその一人をひざまずかせ、その首を一刀で切り落とした。周囲にいる使用人の中国人に見られないように湯浅たちが人垣を作り囲んだ上の行為であった。

 軍隊では運動会や演芸会もあり、日本から慰問団も来た。看護婦と衛生兵の恋愛沙汰も複数あったが、軍規により相応に処分された。大きな駐留軍部隊なので、街には日本人の経営する各種の慰安所(妓楼)もあり、軍人も湯浅たち軍医もよく通った。他に日本人相手の朝鮮人の慰安所もあった(この場合「従軍慰安婦」ではない)。これら以外にも太原には日本人用の飲食店や旅館があり、日本人学校もあった。つまり当時は日本軍が占領した後に駐留軍用の工事や日常の生活を支えるために日本の民間の会社や業者が渡ってきて、日本人の街が形成され、それが中国内の各所占領地に存在した。ちなみに満州は満州事変後に日本の植民地となり開拓移住地としてあった。そのことが逆に世上によく取り上げられる敗戦前後の満州における様々な悲劇を生じさせた。

 昭和18年から19年頃には当初中国にいた精強な軍隊の多くは、戦況が悪化した南方や沖縄戦線に移され、入れ替わりに来た日本軍兵士たちは年齢が高く弱体で(注:軍政府は召集年齢の上限と下限を拡大し、高年齢者は中国へ、20歳以下の低年齢者は激戦地に送られるようになった)、その戦力補強として中国人を雇って部隊(軍属)を作り、その中の衛生兵のための教育が必要とされ、湯浅も第一軍の軍医部の命令で実践医療の教育をした。

 一方で病院の糧食も次第に乏しくなり、陸軍倉庫からも御用商人からも手に入りづらくなった。そこで自分たちで「糧秣収集」として食料の調達に行くことになった。これは単純に近隣の村々に食料を相応の金を払い供出させるのだが、貧乏な村には余っている食料はなく、銃剣で脅して無理やり出させた。ただあちこちに八路軍が隠れていて、危ない場面もあった。

 湯浅は病院付軍医であったが、20年3月に大隊付軍医として出動命令を受けた。大隊長に付き添って初めて八路軍との攻防の前線に赴いた。敵味方の死も多く見た。途中で捕えた敵の工作員二人のうち、傷ついて簡単な治療をした震えている若い民兵を逃がしてやろうかと頭に浮かんだが、自分が軍法会議にかけられ、家族が非国民として糾弾されることに思い至ってやめた。若い民兵は憲兵隊に渡され、幹部とみられる工作員はその場で射殺された。

 途中から黄河を横断して河南省に転進することになり、八路軍と攻防を重ねつつ壮絶な行軍が始まった。すでに近くに米軍の基地があり、そこから発進したB29が日本国内や満州を空爆していたが、中国内の日本軍に対してはP51戦闘機が頻繁に攻撃してきた。湯浅も途中でその機銃掃射を直接受けたがかろうじて助かった。一番辛かったのはどこに逃れても食料がないことであった。

 7月半ばに帰隊命令があり、いったん太原に戻ったところで盲腸を発し、太原陸軍病院で同窓の一年先輩の大尉に手術を受けた。腹膜炎も併発していたので入院は長引いた。退院が近くなったところで8月15日の天皇による終戦の詔勅があり、病院中は大混乱となった。

 終戦となり、まず潞安陸軍病院から先遣隊が太原に到着したが、動かせない重症患者の何名かは毒殺してきたという。看護婦は男装で引き上げてきた。憲兵たちも地元民の報復を恐れて早々に引き上げてきた。潞安の病院部隊は太原の防疫給水部に合流した。防疫部で人体実験に関わった軍医たちは追求を恐れて幹部の指示で北京に遣られた。しかし湯浅と同僚たちはこうした上層部の動きに対して鈍感であった。のちに自身が戦犯として捕虜になるとは思いもよらなかったのである。

 敗戦直前にソ連(ロシア)軍に侵攻された満州と違って、この中国東北部の混乱は小さかった。当時の中国内は共産党八路軍と国民党軍の内戦があって、日本軍は半ば国民党と通じていた。したがって日本人居留民の被害は少なく(ただし当初中国人から取り上げた住宅からは追い出された)日本の陸軍病院は国民党の山西軍にそのまま接収され、中国側も日本の優秀な軍医たちに中国に残って貢献するように要請した。

 この結果、湯浅も含めて混乱する日本に戻っても仕方ないとそのまま居残る選択をするものが多かった。そこで看護婦も含め、もともと日本人居留民用であった山西共済病院に移った。日本の医者は地元民の信用が厚く、実際に治療は適確で患者の家族に食事などでもてなされることも多かった。逆に地元の漢方医から学ぶこともあった。

 翌21年(1946)、日本の師団6万人のうち1万人を太原に残留させ、山西軍に合流させる話が持ち上がったが、北京の方面軍司令部の反対で沙汰止みとなった。しかし末端まで徹底されず、約3千人が残った。さらに電気や鉄道、土木その他の技術者たち約3千人とその家族が残った。この措置は日本の敗戦軍に対する中国国民党の徴用であった。それにより八路軍と戦い、この中国の内戦で戦死した日本兵士もいたのである。逆に何かの流れで八路軍(解放軍)側について戦った残留日本兵もいた。

 太原に残った土木建築関係者が一個大隊に相当する土木工兵隊を作り、湯浅はそこに移った。22年末、30歳の湯浅は太原に残留している郵便局員の娘と結婚した。この頃から日本軍は順次日本に引き上げて行った。国民党軍は八路軍(共産党解放軍)に敗退しつつあり、23年6月の太原の南方での戦闘では日本軍は最高指揮官も含めて多くの犠牲者を出した。その3ヶ月後、日本の軍と民間人はほぼ最後の引き上げをした。親しい二人の同僚も挨拶にきて南京経由で帰国したが、湯浅は傷病兵とともに残った。これが湯浅の運命の分かれ目であった。

 翌年4月、山西軍は解放軍に戦闘で敗れ、山西軍側にいた日本軍は捕虜になった。その時湯浅は日本の同仁会が作った同僚の多い慈恵病院にいたが、解放軍に接収された。しばらく給料が出なかったので地元民の患者への往診で日銭を得た。そこからまた解放軍の命令により省立病院に移った。ここには日本軍の支援で作られた桐旭医科専門学校で学んだ日本語のできる地元の医師たちもいた。

 25年(1950)朝鮮戦争が勃発したが直接の影響はなく、湯浅は今度は同じ省内の陽泉の病院に移され、そこにも一時捕虜となった日本人医師がいた。当初は一応名士として処遇されたが、共産党解放軍による「学習」の時間が課された。翌26年1月、「収容所」行きを命じられた。てっきり帰国への準備と思っていたが、家族と収容所のある永年(広平)の邯鄲まで行ってみると元国民党の捕虜収容所であり、5、6百人の日本人が収容されたが家族とは離された。この時湯浅には三人目の子が妻の腹にいた。

 解放軍側には最初からその中に身を投じた元日本兵の区隊長もいた。現に湯浅の同窓の友人の一人も解放軍側にいたと後で聞いた。次第に顔見知りの同僚もこの地に集められた。当初湯浅は医師としての診療を任された後、労働と学習の日々を送った。収容所ではもう一つ日本軍占領時の自白が課されていて、生体解剖に関する自白をさせられ、曖昧な供述は許されなかった。

 離された家族たちとは週に一度会うことができた。比較的手厚く遇され、子供のために学校も開かれていた。しかし収容所から脱走して事件を起こし、大衆裁判で死刑になった日本人捕虜もいた。一通りの収容所生活のあと、その年末に百数十名が庭に集められ、手錠をかけられた仲間もいて不安になったが、邯鄲駅から列車に乗せられ、翌朝着いたのが自分が10年ほど前に生体解剖実習に加わった太原監獄であったことは後で気がついた。監獄では十畳程度の部屋に十人が詰め込まれた。同僚の軍医一人が結核に冒されていて、その隣に寝ていた湯浅もうつされ、のちに発症したが、同僚は途中で死亡した。

 そこから3ヶ月間獄内に閉じ込められ、検察官に対する自白の日々で、事細かに説明を求められ、矛盾があれば追求された。中でも細菌戦に関わっていたことを追求された時には身に覚えはないと言い張ったが、そういえばとふと潞安の病院で無自覚に防疫給水部の者に保管している菌を手渡していたことを思い出し供述をすると、検察官によく気がつきましたと言われ、それ以降は追求されなかった。

 全体に中国の検察官たちに横暴さはなく、常に冷静な対応であった。新たな解放軍政権としての理想と使命感が全軍に行き届いていたのであろう。湯浅たちは彼らに、帰国したら日本の民主化のために身を捧げなさいとまで言われた。朝鮮戦争が終わった頃から食事などの待遇も良くなってきた。

 湯浅たちがこの監獄に収容されたのち、家族たちは解放軍によって日本に帰されていた。そして日赤が仲介して家族からの手紙や慰問袋などが届けられた。日本の代議士が慰問に来たこともあったが、それ以前から日本では民主化が進んでいると聞いていて、なぜ自衛隊を増強するのかなど代議士に詰問することもあった。戦争はもうこりごりという思いがみんなにあった。

 この獄中生活に入って2年半後、湯浅に衝撃的な出来事があった。彼が潞安陸軍病院で庶務主任として生体解剖を仕切っていた時、中国人一人を憲兵隊から連れて来させて「手術演習」をしたことがあった。その時の犠牲者の母親から告訴状が届いた。その生体解剖した前日、憲兵隊が母親の家から息子を無理やり連れてきていた。彼女はその憲兵隊まで行き、門の前でずっと待っていた。翌朝突然門が開き、息子はトラックに乗せられて何処かに連れて行かれた。追いかけたが纏足(てんそく=中国の古い風習で足を小さく変形させた)で走ることもできず、見失ってしまった。あとで生体解剖されたことを知った。今、その湯浅が捕えられていると聞いたから、厳罰が与えられるように政府に申し出たところだ、という内容であった。

 すでに自白を終えていることであり、十分に罪の意識を持って反省していたつもりであったが、湯浅は残された親の気持ちを全く理解していなかったことに気がついた。自分はこの母親から息子を奪ったのだという取り返しのつかない事実は、反省という言葉では到底覆い隠せず、このまま終生この監獄にいるか、死刑になっても当然の報いだと思った。しかし全て正直に話したということで、訴追されることはなかった。

 昭和31年(1956)3月、湯浅たちは太原の街の参観を許された。街は清潔になりすっかり変わっていた。5月、今度は撫順にいた捕虜(戦犯)仲間と中国全土を3週間かけて参観することになり、満州各地と上海、杭州、漢口、南京などを回った。宿は政府関係の立派なもので、食事も上等であった。南京では多数の中国人が慘殺され埋められているという南京の雨花台にも行ったが、気持ちが滅入った(注:雨花台では南京事件に関わる戦犯として多くが処刑されていた)。しかしすでに街は整備され、日本軍占領時代の面影はなかった。旅行中ずっと解放軍兵士に監視されていたが、彼らは単なる付添人のような服装と態度で接してくれた。獄に帰ると別の組が出発した。このようにほぼ400人が交代で旅行した。

 間もなく、40人ほどが講堂に集められ、壇上には中国政府の幹部が並び、検察官が釈放の書類を読み上げた。理由は国際情勢の変化と大罪ではないこと、そして本人がよく反省しているということであった。そして直ちに囚人服を人民服に着替えるように告げられた。湯浅たちは夢見心地であった。講堂を出て料理店で食事とビールが饗応され、有難さで胸がいっぱいになった。その後監獄に戻り、荷物をまとめて帰国の途についた。同様に仲間は次々に釈放されたが、重罪とみなされた10名ほどは撫順の戦犯拘置所に移された。

 もともと湯浅を始め一般の軍医たちにはほとんど罪の意識はなかった。当時もしそのことが客観的に認識できていたなら、石井軍医部長のように湯浅も早く日本に逃げ帰ったであろうし、その機会は何度もあった。一方、命令する立場にあった軍の首脳幹部たちは戦争上の犯罪であることをわかっていて、石井のようにその大半は先に逃げ帰ったのである。

 戦前の日本は大日本帝国と称する軍国主義思想の中にあり、すでに台湾や朝鮮、満州その他を植民地としていた。さらに天皇を戴く優秀な日本民族が、欧米の植民地支配から東アジアを解放し、大東亜共栄圏(昭和15年に近衛内閣が唱えた標語で、16年12月8日の真珠湾奇襲攻撃後、東條内閣がこの戦争を大東亜戦争とした)を建設するという大目標のもと、湯浅たちもこれはそのための正義の戦争であり、欧米に勝利し、その大義を遂行するために日本が支配・統治する民族民衆の多少の犠牲はやむ得ないという全体思想の中にいた。言い換えれば軍医を含めた当時の日本国民はその全体思想に洗脳されていて、通常の社会の倫理観とは別な世界の中にいた。

 そうした背景の中で湯浅たちは自分たちが行った残虐な行為は、それが残虐で非道な行いであるという認識すらなかったから、過ぎれば忘れていて、自分たちは与えられた任務と義務を忠実に実行していたにすぎないという意識の下にあった。これはナチスドイツ下の軍人たちも同様な精神状態にあったという分析報告がある。実際に湯浅の知らないところで、同じ中国内で日本軍は多数の捕虜や住民を虐殺していて、それは南京にとどまらないが、戦後数十年以上経って明らかになってくる。

 湯浅が赦免されて日本に帰国した時に、とっくに帰国していた軍医の同僚が迎えにきてくれ、「どうしてお前は戦犯になったのか」と聞かれ、「ほら、(一緒に中国人を)切ったじゃないか」と言うと、彼は「ええっ!あれか!」と驚き、真っ青になり後ろを向いてしまった。彼もはっきりした自覚がないまま忘れていたが、湯浅から発せられた簡単な言葉で、長らく意識の奥にあった記憶が瞬時にそして鮮明に表に引き出されたのである。

 帰国から37年後(1993)、戦友会で「演習」の時に手術道具を手際よく用意していた看護婦にも会ったが、やはり自分の行いを覚えていないようであった。戦時の「すべてはこの戦争に勝利するために」という国民一体思想運動の下にある人間は、勝利の名の下では何をしても許されるという感覚に支配され、ごく普通の人情と思考力を奪われてしまうという例である。

 湯浅自身が語るには、もしあの犠牲者の老いた母親からの手紙を直接読むことがなければ、他の多くの軍医たちと同様、この生体解剖を始めとした自分たちの行いを記憶から引き出して公けにすることはなく、死ぬまで心の奥にしまい込んでいたであろう、それに公にすれば家族を苦しめるのではないか、自分の医師としての信用も失う心配がある、しかし自分が中国で結婚し、授かった子供の親となって、仮にも子供を失う親の気持ちが手に取るようにわかり、その悲嘆と苦しみを思うと痛恨の極みとして自身が苛まれ、どうしてもこの償いをしなければならない、それにはこうした事実を明らかにすること以外にはないということであった。

 こうして湯浅は出来上がった自分の本を潞安の町当局、太原の病院及び監獄、陽泉の病院に送った。これは償いの意味もあるが、死刑になっても当然の身で、自分を戦犯として聴取し厳しく追求した検察官が、全てを正直に告白し反省したということで赦免したうえで日本に帰してくれた、その事実に対し、中国人への恩返しの意味もあった。思想信条は別として、自分がこの戦犯として追求される過程において、広大な大陸で五千年の長い戦乱の歴史の中で揉まれてきた中国人というのは、大きな心を持った存在であると湯浅は感じていた。

 帰国後、湯浅は機会のあるたびに自分の体験を訴えてきたが、中にはお前は中国に洗脳されているといった批判をする人も多くいた。しかし逆に湯浅は長く中国に残留することによって、戦前の軍国主義に洗脳されていた精神状態から解放され、自分という人間を取り戻すきっかけを与えられたのであった。むしろその「大東亜戦争」時代の洗脳から未だに抜け出ることのできない人たちが、逆にそこから抜け出て自分の考えを持つ人間に対して、その洗脳という言葉を使っているように見えると湯浅は言う。

 筆者私見:国共内戦後、共産党が政権を握り、国民党政権に変わって(蒋介石国民党は戦後すぐに中国各地で日本人戦犯に対して裁判を行い、2年に満たない期間でその多くを処刑した)改めて日本の戦犯たちを捕らえ、収容した管理所を指揮したのは周恩来であった。その周恩来が掲げた方針は「悪いのは日本の軍国主義であって日本人ではない」ということで、その考え方を裁判所員に徹底させた。そのため、食事も管理所員よりも良いものであった。そうして5、6年もの長い年月をかけ、「認罪学習」として自分が犯した罪を正面から見つめ直し十分に反省した者たちと認められ、ほぼ全ての日本人は赦免、釈放された。これは撫順の奇跡とも呼ばれ、この帰還者たちはその恩義を心に刻み、中国帰還者連絡会(中帰連)を結成して、反戦活動などをしていくことになる。この時の中国共産党は理想の国家を作ろうとしていたことが伺えるが、今に至ってその現状を見ると、抜きがたい独裁政権となり、むしろかつての軍国主義下の日本のように思想統制を行なって国民を抑圧しているようであり、その実態は「人民共和国」とは程遠いところにある。中帰連の方々も失望していることだろう。一方で日本は、戦後すぐに直前まで大東亜構想の敵であった米国の占領軍によって、軍国主義から民主主義体制に大転換させられた。そこからそのまま米国に従属した状態で(経済は生真面目な民間人の努力によって発展したが)いまだに国際政治的に自立できていない。その今の日本というのは、まさに米国に洗脳されている姿と言えるのではないだろうか。

 例えばドイツという国は戦後、自分たちがナチス政権下で加担した戦争犯罪の負の側面を国家的レベルで検証・反省し、他の国々に対してまず謝罪した。その上で親ナチス的な発言と行動を法律で禁止し、学校でも子供達に積極的に学習させている。日本では空襲や原爆の被害は多く語られるが(その面でも米国に遠慮して数十年間はメディアにもあまり取り上げられなかったし、学校でも教えられた記憶は筆者にもない)、加害が語られることは、湯浅のように個人が体験として語る以外にはまずなかった。しかもこの加害行為と反省を語れば「自虐的」と批判するメディアが存在する。もしそうであるならドイツは自虐史観国家の典型となるが、むしろ戦後の国際政治上、ドイツは日本よりもずっと発言力と存在感を持っているのはなぜなのか。

 およそ人間の人生において、自分本位の一方的な考えや行動で他人を意図せずに傷つけてしまうことは誰にでも多々あり、それらを後からでも客観的に是非を判断し、非と思えれば素直に認めて反省していかないと、自分の人生は豊かにならない。これは国家同士でも同じである。しかしながら戦前から戦後のこれまでの日本には、他者の痛みを察することをせず、自分の国は例えば「アジアの解放」という正義の側にあったとする偏向した見方にとらわれている人々が多く存在する。仮に国家の正義の前には、その国家を支える人々がどのように犠牲になっても構わないとするなら、国家とは何であろうか。実に戦争というものは過去現在、常にそれぞれの相対する「正義」が前面に出されて行われているという事実がある。

 「侵略」を、「侵攻」もしくは「進攻」という言葉に置き換えても、行われた事実に変わりはない。実は敗戦直後に日本の軍政府は国内外の陸海全軍の軍事資料を焼却させ、それらの事実を隠蔽した(各市町村の出征記録まで焼却された)。あとで「そのような事実や証拠はない」としばしば言われるもとになっている。これは細菌戦や生体解剖を指揮した石井四郎が、敗戦と知って自分たちだけ先に飛行機で逃げ帰った事実に重なる。つまり軍の上層部は戦争犯罪の自覚を持ち、その彼らの命令で忠実に動いていた下層部はその自覚をさほど持たなかったという交錯した状態が戦争では生じていたことが湯浅の記述でわかる。そうした忠実な下層部の末端の上官たちは、敗戦後も現場的な処理もあってすぐには帰れず、その多くがアジア各地で捕らえられB級戦犯として有罪となり、またそのうちの多くが処刑された。その中には湯浅が関わった犠牲者の母親のような現地の糾弾者もいて、その結果のことなのであろう。

<付記>

 湯浅が召集される4年前の昭和12年(日中戦争突入の年)、彼の兄が召集され中国へ出征したが、15年に負傷して帰ってきた。このころは新聞やラジオでは戦地の日本軍の勇猛果敢な話ばかり流布されていた。以下はその兄に関する抜書きである。

 「わたしは兄からさぞ勇ましい話を聞かせてもらえるだろうと期待していたのだが、兄は上海から南京への侵攻作戦に参加して、村々を焼き払いながら進む日本軍の様子を語った。九江というところで兄は一軒の農家に火をつけるように命令された。ところが焼くに忍びず、マッチをすっては消し、すっては消ししていたら、分隊長が怒って、何をしているのだと兄を叱り、自分で家に火をつけて燃やしてしまったという。またわたしの家の近くの郵便局の息子が百人斬りの勇士として新聞に写真入りで出たので、そのことを兄に話すと、兄は『ああ、あいつは捕虜ばかり殺して、いばっているんだ』ということを言った。兄は(中国)大陸でドイツ製のコンタックス機を買って写真を撮ってきていたが、戦争を思わせるものは何も写していないで、中国大陸の美しい光景ばかりを撮ってきていたのもわたしには意外だった。戦争が内地で宣伝されているものとは少し違うものだということを、わたしも感じないわけにはいかなかった」

 兄は戦争は無益なものであると言いたかったのであろうが、時勢柄、湯浅は深く考えずに翌年軍医として応召した。