海老名香葉子の戦争孤児体験

(以下は「NHK戦争証言アーカイブズ」と青梅市の「戦後70年:未来に語り継ぐ私たちの体験」その他の海老名香葉子の語りをつなぎ合わせて構成し直したものである)

 私のうちは代々釣り竿職人で、本所、現在の墨田区で五代続いておりました。家族も大勢でした。両親、おばあちゃん、兄が三人、八歳下に弟が一人。居候の人が5人もいました。それでも女の子一人でしたから、香葉子や香葉子やと、とてもかわいがってもらいました。隣近所の情が通ったいい町でした。戦争前は10人ぐらいの家族みんなで食べてました。ですからとっても和やかで穏やかで、とてもいい家庭でした。私の母はおとなしい人で、父は精いっぱい仕事してました。職人のうちですからそんな裕福ではありませんでしたけど。

 昭和19年6月、疎開の話があり、父の妹の旦那さんのいる沼津に行くことになりました。出発の朝、「おかわり!」と母にお茶碗を差し出すと、母の目が赤くなっていました。顔を上げるとみんなの目が私に向けられて、私はおどけてしまいました。「私一人で疎開するの平気だよ、何でもないよ」と。出発前、母に呼ばれて母の箪笥の前に座ると、小引き出しからお守りがいっぱい入った袋が取り出されました。お守りを首に下げてくれた母が私の手をぎゅっと握って、「香葉子は明るくて元気で強い子だから大丈夫よね」と言いました。私が大丈夫と言うと、ぽろぽろ涙をこぼしました。そして、「いつも笑顔でいてちょうだい、笑顔でいればいっぱい友達ができて、みんなに好かれるのよ」と言うので、「うん分かった、そうするわ」と答えました。父に連れられ出発しました。無口な父が一生懸命話をしてくれ、最後には歌まで歌ってくれました。休んだときには、「本当に大きくなったね」と言い、「私がんばるからね」と言うと「うんがんばってね」と頭を撫でてくれました。

 昭和20年3月9日、その晩、風がびゅうびゅう吹いている中、「退避!退避!」と退避命令が出ました。あわてて山の上に登っていきました。真夜中です。獣道を高い山の上に登っていきましたら、「東京の空が赤いぞ!」と声がしたんです。「まさか、家のみんなは大丈夫かな。でも兄ちゃんたちも元気だし、父ちゃんもいる。大丈夫だ」と自分に言い聞かせて、でも心配で心配でやりきれない思いで登っていきましたら、まるで蛍光灯の灯がついているみたいにぽおーっと赤くなっているんです。駿河湾から山と海を越えて行く東京なのに、赤く見えたんです。私は凍てついた地に正座して、「神様、父ちゃん母ちゃん、みんなを助けてください。弟を痛い思いに遭わせないでください。お願いします」と一心にお願いしました。

 明くる日学校に行きますと、友達に「本所深川は全滅だってよ」と言われました。雑炊が喉を通らない、そのくらい心配でした。4日経ち、学校から帰りましたら、おばさんが「かよちゃん、かよちゃん!」と呼ぶのであわてて外に出て行きましたら、麦畑のところに唇が焼けて膨れあがった三番目の兄がぼうっと立っていたんです。「きい兄ちゃーん!」と呼びますと、中学1年の兄が「香葉子、みんな死んじゃったんだ、みんな死んじゃったんだよ」と小学校5年の私に言いました。兄は何度も何度も私に「ごめんね、ごめんね」と謝るんです。私は兄を慰めるのが先でした。「兄ちゃんがんばって、がんばってね」と兄の背中を撫でました。二人抱き合って一晩泣きました。兄の話によると、父が警防団から帰ってきたときには家に火がついていました。弟を抱いて防空壕に入っていた母を引っ張り出して、兄ちゃんたちと一緒に逃げようということになったら、おばあちゃんも国防婦人会から帰ってきました。みんなが家の前にそろった時には、上も下も右も左も前も後ろも、全部が火で、その中を、風上に逃げました。小学校の門が閉じられていて、校門の横の塀を乗り越えて、校舎と塀の間に入って火を少しでも防ごうとしたら、もう風が吹くのと熱風とでぶつぶつ音がするほどでした。母が弟を胸に抱いて地に突っ伏して、父がそこに覆い被さり、おばあちゃんを挟んで家族みんなで固まりました。兄が、「日本男児だ、潔く舌噛んで死のう」と言った時に、父が「喜三郎、あそこへ行け!」と、校舎の高いところの窓が少し開いていたのを指差しました。普通では行けないような高さでしたが、兄は夢中でそこへよじ登ったのです。兄は明け方になって気が付いて、学校中、「父さん、母さん」って言って、「お兄ちゃん」って言って、もう学校中叫んで探したけどいなかった。それ以上は聞きませんでした。みんなを探せるだけ探したけど、見つかりませんでした。みんな真っ黒焦げの死体になっていて、分かりませんでした。兄は家の前の階段に座り、三日間何も食べず水道の水だけ飲んで我慢して、家族の帰りを待っていたそうです。そして私を訪ねてきたのです。どんな気持ちで待っていたんだろうな。兄の気持ちを思うと、兄をどう慰めていいか分からなくて、「きい兄ちゃん、えらかったじゃない。えらいよ。きい兄ちゃん、えらかったんだからがんばろうよ、がんばろうよ」と兄のことを慰めました。明くる日、兄は「二人でここの家にお世話になれない。僕は東京へ帰る」と中学一年生で何も当てもないのに、東京へ戻っていきました。

 敗戦を迎えました。沼津のおばさんが「かよちゃんの父ちゃんも母ちゃんもみんな犬死にしちゃったね」と泣いたんです。犬死にしたって言われたんです。私はそれまで、お国のために死んだんだ、天皇陛下のために死んだんだと思いこんでいました。それが犬死にしちゃったと言われたんです。悔しいと思いました。お国にためにね、死んでいったんだったら分かるけど、そうじゃなくてね、無駄死にですよね、犬死っていうのはね、無駄な死に方をしたんだったら、情けないじゃありませんか。悪いこともしない人が無駄に死んでいくなんていうことは、それがもう本当に子どもながら悔しかった。

 祖母は国防婦人会の副会長で一生懸命仕事して、父は警防団の副団長ですか、団長さんはもっとお年寄りで、それで副団長っていうのは、なんかほんとにまとめ役のように忙しかったみたいで、一生懸命でした。消火訓練というのをのべつしてました。消火訓練ってすごい、もうみんなたかって見てましたけども。はしご段を、昔のはしごですから、そのはしごを2軒おいた先の、二軒長屋のおうちの片方に掛けましてね、そこに火が移ったっていう形にして母がのぼっていくのがね、とても怖そうに、おとなしい母でしたからね、もう怖そうにのぼっていく姿が分かるんです。もんぺはいて標準服着てましたけどもね。手ぬぐいかぶって。やっとのぼっていったところに、火ばたきと言いまして、今のモップのような先のものなんですけど、自分のうちで作るんです。きれの先のところ結んで玉につくってね。そんなのを持ってのぼっていってそれを渡して今度はバケツのリレー式で、バケツの水を渡していく。その作業だけは母は手が震えている。それを見たとき、母ちゃん大丈夫かなと思いました。そんな母でしたから、うちのところから防空壕に入ってたそうですけど、うちにも火がついて燃えてきてしまった時に、なんとなくみんながこう不思議なように皆ばらばらだった人がみんな集まった時には、もう行くところがなくなっちゃったんですね。それで、逃げ遅れたというか、遅れたからこそ一瞬の間でも家族が一つになれたっていうんでしょうか。風上の中和小学校へ行って亡くなった、ということなんですけど、まだ遺体を頂いたわけではありませんし、お知らせを頂いたわけでもありません。「かよちゃんのお父ちゃんもお母ちゃんも、トラックに運ばれていっちゃったよ」って、「探しても無駄だよ」って。焼け跡歩いたときに言われました。それっきりでした。兄が訪ねてきまして、一晩泊まっただけですぐ帰ってしまって、行方不明。

 10月に東京に戻ることになりました。終戦を迎えたとき、おじさんが海軍省の設計技師だったんですね。海軍省もあの秘密基地のようにどこにあるか教えられない。だから穴水っていうところは海の街なのに、私、山しか行ってない。外に出ませんでしたから。学校へは行きましたけど、分校ですけどね。これから先、どうなっちゃうのかな、おじさんが職がなくなってしまって、どうなっちゃうのかとても、日一日とね、おじさんとおばさんの会話を聞いていると、ああ、どうなるかどうなるかって心配で。学校に行くとみんながなぐさめてくれて。先生もみんな。おじさんの悲しさも分かるんです。極生寺様(穴水町にある寺)っていうお寺さんに夜になると皆さん集まってね、子どもたちも一緒に集まりまして、小さな村ですから、そこで歌を歌ったりね、お遊戯をしたり、大人をなぐさめて、そしたらおじさんがそのとき一度参加したんです。おじさん珍しいわと思ったら、ペチカの歌を歌ったんです。夏なのにね。ペチカ歌った時に、涙をつっとおじさんが流されたの。あ、おじさん、戦争は負けて悲しいんだろうなって、そう思いました。そうしたらその後、インドネシアの歌。インドネシアに行ってたって言って、インドネシアの歌を歌ってくれましたの。すっかり覚えました。その後、「あんたの面倒みられなくなっちゃったから東京行って」っていうことで、それで友達がみんな泣いて、「かよちゃん今、東京は恐ろしいところだからやめときな」って、「行くのやめな、やめな」ってみんなが止めてくれたんですけど、「大きいおばさんが後見人にならないと、土地の処分とかいろいろ処分することができないから、だから行ってちょうだい」、そう言われまして帰りました。

 東京に戻ると一面が焼け野原。これでどうやって生きていくんだろうと思うほど、全部焼け野原でした。「香葉ちゃんのお父ちゃんもお母ちゃんも、トラックに運ばれていっちゃったよ」って、「探しても無駄だよ」って。焼け跡歩いたときに言われました。弟は3歳でしたから、母の胸に抱かれてましてね。塀を乗り越えて、校舎と塀の間でって兄が言いましたけど、母は抱いて突っ伏したそうです。その上から、孝ちゃん抱いてね。その上から父が覆いかぶさって、それで家族みんなが一つになってこう。(注:海老名の家族6人は空襲時、墨田区の中和小学校に避難し、その小学校も焼かれ、兄一人が生き残った。「校舎と塀の間で」というのは、後から避難してきた人は、すでに門が閉ざされて止むを得ず塀を乗り越えたが、いっぱいだとされて校舎の中には入れてもらえず、迫る大火により校舎の外で焼かれた。しかし後者の中に逃れていた人々も大半が焼死か、煙などで窒息死した。詳細は筆者の墨田区参照)

 中野のおばさんの家へ行きました。そうしましたら、おばさんは人が変わっていました。今までは何かある度にうちに寄って「香葉子ちゃん、香葉子ちゃん」とかわいがってくれたおばさん達が、「おまえみたいな子が生き残って本当に情けないねえ。死んでくれればよかったのに」と面と向かって言われました。本当にその時はそうだなあと思いましたけれども、あんまり言われると本当に今から死んじゃえばいいかなと思うくらい、悲しい思いでした。

 学校へはほとんど行きませんでした。鉛筆、紙がほしい前に、食べるものがほしいんです。お腹がぺこぺこです。みんな狭い掘っ立て小屋。掘っ立て小屋っていうよりもあれ、焼けたトタンで囲ったところに雨をしのいで、後ろが土手なんですよ。やっと一坪くらいのところに家族4人、おじさんとおばさんと女の子と私が座ってるんですから、ちょっと動くとぱたんと倒れるくらいの家だったんです。そこで何とか雨露をしのぐっていう感じだったんです。そこのところに雨に濡れないように油紙を背中にしょったりとしてそんな状態のとこですよね。トイレもないからお寺さんのすぐ脇の土手のところなんです。穴掘ってそこで用を足してました。雨がザアザア降りの時なんかは大変。ぱっと、合羽(かっぱ)はないですから、油紙を頭にしょってそれで用を足しにいく。それであと、板をこう置いて、それで流しのような形のものを作ってかめだけ一つありましたよね、これくらいの大きなかめ、こう大きな。これに水をいっぱい張っておかないと、おばさんの機嫌が悪いんです。それで、私はその役目になりました。お寺さんの井戸へ行って、汲んで、それでそれを入れるんです。手がとれちゃいまして、ですから胸にそのバケツを抱いて、ぱちゃぱちゃぱちゃぱちゃ、寒いからここ濡れるとね、寒いでしょ。だからそっとそっと持ってきて入れて。あるとき、これくらい水、少なかったんですね、そしたらもうおばさんがヒステリーで、怒って怒って怒ってね。「なんでお前なんか死んじゃえばよかったのに」って言って、そんなこというおばさんじゃなかったの、優しくてね。もう本当にこんなに人間まで変えてしまうのかなと思うくらいにね、周りも変わっちゃいました。でも母が、別れの時に「笑顔でいればね、お友達もたくさんできるし、みんなに好かれるから、だから笑顔でいなくちゃだめよ」って。私泣き虫でしたからね。「泣いちゃだめよ」って。「泣かないで笑顔でいるのよ」って。もうそれがもう体に染み込んでましたから。だから笑顔でいようってそう思い込んでました。だから生きてこられたのかなって。親の言葉って、節目節目の言葉ってありがたいなって思いますね。父が手紙に最後のところにちょっとなんですけどね、「さみしくなったら東京の空に父ちゃん、父ちゃん、父ちゃんって3回呼んでごらんなさい」ってちょっと書いてある。そんなので、父ちゃんって、呼んでみようと思って。でもどうしてもさみしくなった時、夜空に「父ちゃん」って呼んでみたんですよ。そしたらね、ふっとしたの。あ、ほんとだと思ってね。それからは時々父ちゃんって言ってました。

 ある時、おばさんにあんまり怒られるものですから、家出をしました。行ってはいけないと言われていた焼け跡に行きました。もしかしたらみんなが生きてるかもしれないと思い、ドキドキしながら家の焼け跡の前へ行きました。石段がそのまま残っていました。金庫がひっくり返っていて、後ろからザクロのように開けられていて中身は全部なくなっていましたけれども、ああ、家の跡だと思い、掘り返して掘り返して、そしたら弟の布団の残りや焼け切れだとか、父の仕事のもの、お茶碗のかけらとか、懐かしい物がいっぱい出てきました。「私みんなと一緒に死んでれば、幸せだったのにな」と、その時思いました。

 戦争が終わってから、私には生きる戦争が始まりました。この日から生きる戦いです。子どもが一人ぼっちじゃ生きていかれませんよね。そこで生きていくんですから、生きる戦いですよ、私にとっては。

 食べるものがなくてね、焼け跡でね。転がってるお鍋拾ってきて、それで、うちの焼け跡ですから、何かしら探せば。それを火にかける。お水は水道のへんからがちょろちょろ出てましてね、お水、出せて。火はですね、煙はなんとなく出てるんですよ、残ったおうち、そこへもらいにいくの。目つけて、あそこにいけば大丈夫。「おばさん火くれない」って言って、火もらってきて。

 「もうこれが最後のお金だよ」って、おばさんたちも、もうそれまではもう親たちがいるころまでは「かよ子ちゃん、かよ子ちゃん」ってかわいがってくれてたおばさんたちが手のひら返したようにね。もらったお金をもう大事にガマ口に入れてもう大事に、ポケットのところ、洋服の中にこう入れて持って。それで闇市へ行って、ふすま粉っていうのを買ってきました。どんぐり粉っていうのも売ってましてね、どんぐり粉を買うと口中がしびれちゃってしゃべれなくなっちゃうよっていうのを聞かされてましたからね。どんぐり粉はやめよう、ちょっとあれでもふすま粉買おうって、ふすま粉、ま、いちばん、今、牛も馬も食べないそうですけど、麦の皮のところ、ですからざらざらのごわごわのものなんです。それを買ってきて、それで水でといて、それでおだんごのようにして入れるんですけど、みんな、なんていうんでしょう、とけちゃいますからね、ざらざらになっちゃって。その中に、なんだかあるものみんな入れてましたけど。でも焼け跡に、少したちましたら焼け跡のところから青い葉っぱが出てきましてね。うちの玄関の横、石段が長くあったんです。あの店じゃありませんでしょ、職人のうちですから、職場ですよね。そこから玄関まで長い石段だったんですけど、その脇のところにおばあちゃんとおじいちゃんが花鉢だとか花箱を置いてこういろいろ花をやってたんですけど。それが戦中になりましたら、小松菜だとか、すぐ食べられるもの、サフラン草っていう、サフラン草は早く食べられました。それをあったのを摘んできてぽっと中に入れて食べて、そのうち雑草が生えてきましてね。雑草のアカザ、アカザっていう雑草。それからハコベ。「かよちゃん向こうに行くとつるむらさきが生えてるよ」と言われて、そこへ飛んでいって、つるむさきの芯まで採ってきて食べました。親のいない子は、本当に無惨で、悲惨です。それを一生懸命食べましてね。それを中に入れて味も何もないものですけど、それ食べてしのでいましたの。学校に行くどころか、その日一日を生きるのが大変でした。

 あんまり寒い時になりましたら知り合いのうちに行って、「泊めてくれない、お願い」って言って、泊めてもらいましたけどね。あとはうちの石段の角のところにすみっこのほうによっかかりましてね、そこで寒さしのいでましたかね。鉛筆や紙が欲しいなって、学校に行きたいと思う前に、思ったこともありました。けどもそれ以上に食べていくことと寝ることのね、生きるということのすごさね。でしたね、食べることと寝ることがいちばん心配でした。あのときね、復員兵の兵隊さんだと思うんですけど、通りがかって、「姉ちゃんそんなところでいたら凍え死んじゃうよ、だめだよ、元気出さなくちゃだめだよ」って声かけてくれて。「これ、おあがり」って言って。私、何の気なしに、ただ黙って顔も見ないで手出したんですよ。そしたらここに、さつまいも半分にぽっと割ってくれて、それで私の手の上にぽんとのせて。それ食べたら体がぽっとあたたかくなって。あれ、あの人、神様かしらと思いましたけど。顔も何も見ないで。あの時代に物を分けてくれる人なんて誰もいません。それなのにその人分けてくれたのに、ありがとうもろくに言わないで。ただだだ心の中でね、感謝しただけで終わりましたけど。

 お国からは、おにぎり一つ、乾パン一つ、もらったこともありません。私の家族は行方不明のままですから。遺族じゃないし、孤児でもないんです。何にもいただかない。

 これはお守りみたいなものでして。風呂敷はあんまりぽろぽろになったので、取り替えましたけど。あのころしょってたの、しまのぼろぼろの風呂敷になってました。あんまり人様に見せない。これは孝ちゃんの形見です。孝ちゃんは写真もありません、骨の行方も分かりません。親戚中訪ねても写真もなんにもない。この子の生きた証ってどこにあるんだろうと思った時に、気づいたらこのめんこが一つでした。これを一つ。私の字ですけど、孝ちゃんがくれたものって書いてあるんでしょうかね。もう薄くなって見えなくなった。孝ちゃんは、孝ちゃんは。「姉(ねえ)ね」ってくれたんです、疎開する時。「孝ちゃん、空襲警報が鳴っても警戒警報が鳴っても泣いちゃだめだよ、姉ねはお国のために頑張って疎開するからね」って言ったら、「姉ね」、おもちゃ箱行ってこれ一つ持ってきてくれて。「姉ね」って渡してくれて。「ありがとう、孝ちゃん大事なめんこありがとう」ってもらって。私、ポケット、標準服着てましたから、ポケットに入れました。まさかこれが孝ちゃんの生きた形見になるとは。形見じゃないですね、生きた証ですね。かわいそうなことした。私は初めて弟を持って、姉の気持ち知りましたもんですからね、かわいそうなことしたなと思って。つらかっただろうなって、思うとやりきれませんね。

 あと、ちょっとめちゃめちゃになっちゃってますけど、これが …。父の手紙です。「孝坊も元気で遊んでいます。何か送りたいと思いますが、なんにもありません。今日少しビールを飲んだので手紙がよっぱらっています」あの父はお酒飲まない、飲めない人だったんです。それなのにビールを飲んで。「笑わないで下さい。又その内便りを致します。さようなら。中根かよ子さま。お父さんより。昨日富士さんの白い雪を見て思い出しました。思ひこそあの富士の根の疎開の子」

「かよ子ちゃん、元気ですか。お父さんも無事です。時々夢で見ます。これから寒くなりますから風邪を引かないで下さい。その内にお母さんか兄さんが行きます。なにか本をおくります。おじさんやおばさんのいうこときいてよい子供になって帰ってきて下さい。戦いが勝つまで頑張ってください。勉強しなさい」カタカナしか書いてない。私が病気して、「かよ子が病気でお世話になりました。有難う存じます。母が帰京致しまして、お礼を、お礼まで。淋しがっておりませんか。親馬鹿で心配しています」親ばかで心配している。あんまり見ないほうがいいです。

 お守りですね。守ってくれてました。これはね、もう一つずつ。これは母の最後の手紙。「東京は毎日空襲です。そちらも空襲警報がやはり時々あるでしょう。昨夜は十一時半から空襲となり、今朝五時ごろやっと解除になりました。一睡もしないで防空壕の中にいました。おかげさまで両国署管内には何の被害もありませんでした。まだまだ空襲もつづくことと思います。お母さんも勇気をだしてがんばっていますが、万々一の場合は天命と思ってあきらめてください。そのときにはかよ子ちゃんも第二の国民ですから大いにがんばって、おじさんやおばさんをお父さんお母さんと思ってよく云う事をきいてりっぱな人になって下さい。御願いします。天命があり、空襲がないようになれば、さっそくお伺いします。かよこさんへ。母よし」これが最後でしたね。これね、これが。毎日毎日、私のことを思って。これでもうこんなに減っちゃったんです。もっと、いっぱい、こんなにあったんです。毎日来てましたからね。みんな母。

 でもまあこれだけですけどもね。手紙が残ってたことだけでもね、親の80過ぎて私はまだ親が恋しいし、親はありがたいなと思いますね。これだけ見ててね。こんなにまで心配してくれてたのかなと思ってね。その人がぱたっといなくなっちゃうんですから。

 千葉の親せきの家へ行く途中、サツマイモ畑を見つけ、空腹にがまんできず、畑に入ったことがあります。すると、どこからともなく母の声やみんなの声が聞こえてきました。「香葉子がんばってね!」その声で悪いことはしまいと心に誓いました。

 昭和20年、21年から焼け跡ずっと歩いて、その当時は遺体を死亡者名簿をめくったりとか、遺体を探したりとかっていう、孤児になってしまいましたものですから。そのことで焼け跡を歩いてました。大空襲の中を生き残ったのは、3番目の兄だけでした。戦後の混乱で居場所が分からなくなった兄を捜しに、大空襲で焼けた実家跡をたびたび訪れました。終戦から1年後のある日、実家跡近くの鉄工所のおじさんから兄の居場所を教えてもらい、神田の闇市で奇跡の再会をしました。それからもずっと続きまして、22、23年、24年、25年、そうしてきましたら、釣り竿(ざお)職人だった父のお客さんの落語家の三代目三遊亭金馬さんが実家跡に「金馬来たる 連絡乞う」の立て札を残してくれていたのです。その後小さな寄席の表看板に偶然、金馬師匠の名前を見つけ、楽屋を訪ねたら、金馬師匠に奇跡的に会えたんです。思いがけない人に巡り会い、「いやぁ生きてたのか、よかったなぁ。竿忠の娘が生きてたんだ。よかったよかった」と言ってくださって、金馬師匠に拾われました。初めて会って、何の証拠もなく、私の身元も何も分からないのに、「うちの子におなり、おなり」と言ってくださったのです。で、おかみさんに「母さん、竿忠の子だよ。うちの子にしよう」「よござんすよ」となり、もうその時はとても嬉しかったです。温かいお布団に手足を伸ばして寝た時に、「これで助かった、生きていける」と思いました。それがきっかけで、兄とともに金馬師匠に引き取られました。15歳の時です。

 そこから、26年、27年にここに(初代林家三平)嫁に来まして。夫と一緒に今度は二人で歩くようになりましたけど、私が話しますとね、もうおいおい泣くんですよ、「かわいそうだったね、かわいそうだったね」って泣いてくれましてね。それが何年か続いて。子どもおぶって、歩いて行ったり。夫の仕事が忙しくなってからは子どもの手を引いて歩いて行きました。だんだん多くなって、お弟子さんが参加したり、孫ができて孫が参加したり、膨れ上がりまして。ただ、ありがたいことに一度も欠席なく、私が、行かれないことがなかったんです。病院に入院してても、ちょっと外出許可をいただいて、回りました。なんかあのもう後半はご供養半分のつもりで手を合わせに行っております。

 みんないなくなりまして一人ぼっちになりました時にね。なにしろ家族がほしい。私、兄が一人おりましたから、兄と一緒に暮らしたいとかね、そういう思いがいっぱいありましたけども、なかなかそうはいかない。こちらに来まして。家族3人からはじまりまして。しゅうとと母。そのころから幸せ。それから歯を磨く幸せ。私、毎朝歯をひゅっと磨くときに一瞬、きょうも始まる幸せっていうのがひゅっと、不思議なんです。これは疎開する時に、こんなカンカンに、そのころは粉歯磨きでしたの。磨き砂みたいな。それがこう入ってましてね。それと歯ブラシを持たされたんですね。それを粉つけて磨いてましたの。まだ親が亡くなった後もまだ少しは残っていたんです。からからやりながらこうやってたんですけど、そのうち全部なくなりました。売ってないし、買える状態でもなくなっちゃたんで、何もないところでからからやりながらこうやっているうちに毛がみんな抜けちゃったんです。棒になっちゃいました。しかたがなくてこう指で磨いてた時代がありましたね。戦争が終わって、孤児でさまよってた時代が終わって、やっと人様のお宅でお世話になって、歯ブラシをもらってそれで歯を磨いた時に、うわっと、もうそのときは、私にとってはそのときはもうやっと歯磨けるっていう。それがいまだにしみついて朝ふっとやるとき瞬間、ありがたいなとか、ありがたいのとうれしいのと、平和だからこそだなとか、いろいろ含めて、瞬間ですから。ああよかったっていう感じで。

 結婚して、しゅうとと一緒に暮らして、お箸を持ってご飯を食べられるようになって、子どもたちが増えて、もうこんな幸せはないなと思いました。だんだんこんなに家族も増えちゃった。(弟子も含めて)30人ぐらいになった。ここまで寝てたんです。こういうところ。玄関のあがり板のところ。

 戦後、ま、10年ぐらいたってからですけどね。ですから私はみなさん戦後が長く続くといいわっておっしゃいますけど、私、戦後は怖くていやです。戦後がいちばん一人ぼっちになりましたから。戦前は苦しくたってなんでも親がいるという気持ちがありましたからね、ですからどっかでよりどころもありました。でも戦後一人ぼっちになってからはもう戦後ほど恐ろしいものはない。だから戦後が長く続くといいわねって言われると、ふっとなってしまいます。

 二度と、二度と私のような子は作らないでほしい。私や兄のような子は作らないでほしい、これが悲願です。戦争プラス戦災孤児、ましてや私は親がいまだに行方不明なんです。ですから遺族になっておりませんの。戦争の遺族ではないんです、私。ですからあの公から遺族の招待とかご供養祭の通知が私にはきません。遺体を引き取った方だけにあたってるんです。まあ大人になってそういうことは知りました。不公平かな、差別かなと思いましたけども、でもそんなこと以前に戦争だけはしないでほしい。

 二度と戦争が無いように、偉い方達にもっともっと理解してもらって、話し合って、和解して、そして、世界の人たちがみんな手をつないでいけるようにしてほしいなと思います。戦争は絶対にしてはいけない。どんな戦争にも加担しない日本であってほしい。憲法9条はその証しです。なくしちゃいけない。9条の「武器を持っちゃいけない」というところが良いですね。戦争はむごいんだよ、苦しいんだよ、と伝えていかなくちゃいけない。たった一人の死でも泣くじゃないですか。悲しみを想像してほしいと思います。

 (だから)もっと対話しなくちゃだめですね。それから書き残す、なんでもいいから残しておく、ということも必要だろうと思いました。いちばん大事なのは、伝え聞いていく話題。その土地の人は、私は両親兄弟亡くなった、その場所の人が、「ええ、そんな怖いことがあったの」って言われた時、私、えっこの土地の人が知らないのかって。その学校に行ってですよ。ここはとてもひどかったんですよ。私が出た学校なんです。話したらば、全然知らない、「そんなにこの土地でそんなに大勢の人が死んだんですか、うわ」って、怖がってるの。お母さん。知らないんですよ。だから伝えられてないんです。漠然と戦争があったよっていうことは聞いてても、そんなに悲惨な無残な思い、例えば焼夷弾が落っこってきた、焼夷弾はただの火の塊が落ちてきてそれをよければいい、そうじゃないんですよ。焼夷弾っていうのは粘液を持ったたどん(炭団)のようなものが落っこってきて、ここへ落っこったら、とったらこれが全部とれちゃう、目にかかったら目の玉がとれちゃう。粘着性を持ったものだってそういうとこまで教えてあげたら、「うわ、怖い」って。「戦争ってそんなひどいことしたんですか」って。広島長崎は皆さん知ってるでしょうけれども、東京大空襲は焼夷弾っていう恐ろしい爆弾ができてそれを何度も実験したあげくに木と紙でできた密集地にそれを落とされたんですよって。逃げ場がなかった。

 付記:海老名は大空襲で両親と祖母、兄弟の家族6人を含む親族18人を失った。海老名の話の中で、「私みんなと一緒に死んでれば、幸せだったのにな」というのは、同じ孤児で記録作家の金田茉莉が、自分の子が大人になってからも、「お母さんと一緒に死にたかった」と言ったいう話と共通している。また「大きいおばさんが後見人にならないと、土地の処分とかいろいろ処分することができないから、だから行ってちょうだい」と沼津のおばさんに言われたということ、その後どうなったのか、ただ多くの孤児たちはその親の土地も縁戚他の誰かに勝手に奪われている。