(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)
明治大学
明治14年(1881)に、司法省法学校の第一期卒業生三人が創設した明治法律学校を前身とし、明治期の日本の司法を支えた。19年(1886)に駿河台に校舎を構え、その後専門学校令により明治大学認可、法・商・政・文の4学部体制となる。大正9年(1920)大学令により明治大学となった。現在は10学部を擁する総合大学である。(以下は主に『戦争と明治大学』2010年より)
<戦時体制と学徒勤労動員>
明治大学では満州事変の2年後の昭和8年(1933)「愛国学生会」が組織され、11年(1936)に「精神国防会」、12年(1937)の日中戦争(支那事変)勃発後の13年(1938)には「学生興亜会」が結成された。同年の国家総動員法の施行により商学部に「興亜科」が設置された。興亜科には貿易科・経営科・農政科・厚生科の四つの分科があり、その目的は日本の支配下に置いた満州を含む中国における工業、商業、農林牧畜業さらには教育社会事業等の育成管理の人材の養成であった。従って中国語の習得も必須であった。次第に戦時体制が強化される中、14年(1939)には「興亜勤労奉仕隊」が結成され、少なくとも学生の春夏の休暇はそれに当てられることになった。翌年には「新体制運動」が始まり、校規が改正され、その主旨は「皇道精神」を基調にして知徳体の一体として「学徳兼備心身強権にして実行力に富む人材を養成すること」であった。
16年(1941)に入ると文部省の指導のもと「明治大学報国団」が結成され、「本団は建学の精神に基き、臣道を実践し、現下高度国防国家体制の建設につき、負荷の大任に堪うべき人材を育成するを以て目的とす」を主旨とした。その中には予科、女子部、中学(今の高校)、商業校も含まれ、団長は総長であった。この年の12月に日本は(日中戦争が拡大したまま)太平洋戦争に突入するが、報国団の責務としては「学校教練食料増産作業その他各種団体訓練等実施を効果あらしむる」とあり、そして勤労奉仕は勤労動員として義務付けられ(有給)、各種訓練も行われていく。
一方で14年(1939)には兵役法の改正が交付され、大学を含めて学校では軍事教練が必須科目となり、各校に配属将校が常駐することになった。明治では学部、専門部、予科それぞれに3名が配属された。16年(1941)12月に太平洋戦争(大東亜戦争)が開始されると、配属将校の訓示が「諸君が学徒としてではなく、戦士として国難に赴く決意を抱いているであろう事を信じて疑わない」であった。軍事教練は大学総長を報国団団長とした体制のなかで行われ、実戦訓練として茨城県の内原訓練所(満州農業移民の訓練所で、とくに満蒙開拓青少年義勇軍を訓練した)などで幹部要員を訓練した。この中では戦車隊や重機関銃の訓練もあった。また学内では軍事教練ばかりでなく、14年(1939)から防空訓練を開始していたが、18年(1943)からは本土空襲を予想しての防空訓練が行われた。実はその前年4月18日に米軍は太平洋上の航空母艦からなるB25戦闘機16機を発進させ、東京や名古屋、神戸などを爆撃していた。
勤労動員は報国団の中に報国隊が組織され、その名前の下で各大学によって行われた。食糧増産、国防施設建設、緊要物資増産、輸送力増強等に重点が置かれた。食糧増産については農耕応援作業だけでなく、学校直営の報国農場を設けて栽培することが奨励された。勤労動員は次第にその期間が長くなり、19年(1944)3月に通年動員が発令されるまでに28回にわたり延べ6942人が農村、工場で作業し、その動員先は東京だけでなく、埼玉、千葉、山梨、北海道までに及んだ。19年(1944)2月、戦局はいよいよ不利となり、政府は「決戦非常措置要綱」を決定し、国民生活の各分野にわたって当面の非常措置を定めた。さらに3月「決戦非常措置要綱に基く学徒動員実施要綱」を閣議決定し、学徒を通年動員するとした。4月、文部省は「学徒勤労動員実施要領に関する件」を指令、これは「勤労即教育」の名目で作業場を「行学一体の道場」たらしめ、学徒の「奉公精神、教養規律により、作業揚を純真且明朗ならしむること」を教職員に要請するものであった。
明大生の動員先は石川島造船所、東京軽合金、神奈川の石川島(タービンと航空機の二社)と日本鋼管、平塚火薬庫、日産自動車、三菱石油そして名古屋の陸軍造兵廠、大同製鋼、愛知時計、愛知航空機など14社にのぼった。労働環境は厳しく、事故者も出た。この中で愛知航空機には20年(1945)2月から敗戦まで189日間の動員となった。ほとんどの場合、工場の寮で宿泊しながらであったが、環境は悪く、ノミやシラミの害に悩まされ、それよりも次第に食糧事情は悪くなり、ジャガイモばかりの食事になっていった。
20年(1945)6月9日、名古屋に米軍が大空襲を仕掛け、軍需工場が壊滅的な被害を受け、多くの学徒の命が奪われた。明大の学生が動員されていた愛知時計と愛知航空機では死者1100人のうち学徒生の死者は150人に及び、明大は一人であった。一方、三菱石油川崎製油所でも7月10日の空襲で工場が壊滅的となり動員中止となった。8月15日、各工場で正午の玉音放送を聞くことになった。愛知航空機の学生の日報では「それは夢よりもまだ思いがけない厳然たる事実なり。全学徒、全社員、恐懼の極み、ただ涙にくれ、拝聴し奉る御一語、御一語に身縮み心凍る思いなり。集合する寸前、彗星一機が完成され、燦めく陽光に輝き乍ら今眼前の前を通ったのに」と無念の思いを記していた。愛知航空機では(敗戦がまだ信じられなかったのか)17日に勤労動員引き上げに関する打ち合わせが行われ、23日に決定した。
<学徒出陣>
昭和16年(1941)12月8日に日本軍は太平洋戦争に突入するが、すでに陸海軍は3ヶ月前からその準備を重ねており、10月16日に「兵役法」の改正として、大学学部等の在学年限を臨時に短縮する法令が交付され、翌年3月予定の卒業式は開戦間もない12月末に挙行され、徴兵猶予年齢も一年下げられ、卒業生と在学生(休学扱い)の対象者は、翌年早々徴兵検査を受けて下士官候補生として陸海軍に送られた。18年(1943)には広大な戦線の維持や戦況の悪化に伴い、学生の徴兵猶予年齢は再度は引き下げられ、3月の法令で大学予科満21歳、専門部満22歳、学部満23歳となり、卒業式は半年繰り上げられて9月に行われ、東京では10月21日に神宮外苑競技場で出陣学徒壮行式が盛大に行われた。学生たちは学徒兵となり、まずそれぞれ本籍地に帰って入営の手続きをした。先の勤労動員先の工場においても年齢に達した学生たちに電報で召集がかかり、その度に壮行会が開かれ、校歌を歌って仲間が送り出した。
出征した学徒たちはすぐに戦場に行ったわけではなく、当然訓練期間が必要であったが、基本的な訓練は大学の軍事教練によって終えていた。それにしても18年(1943)末に壮行会を終えて入営し、例えば海軍飛行隊に入隊した場合、一年も経たないうちに特攻隊員として指名されることになる。その6月、マリアナ沖海戦で日本海軍は米軍に大敗北を喫し、続いてサイパン島、グアム島が陥落し、大きな戦力を失い、そこから起死回生策として特攻作戦が計画された。ここに学徒兵たちがその一翼を担うことになった。海軍の場合、神風特別攻撃隊と名付けられ、10月20日に編成され、フィリピンのレイテ沖海戦で投入された。その後、翌年3月に米軍が攻め入る沖縄戦まで特攻攻撃は続けられた。
明治大学の出征学徒の数は、大学の長期にわたる調査の結果(平成22年:2010年時点)、学徒出陣式後の18年(1943)12月から20年(1945)6月までに3565名が陸海軍に入隊した。それ以前からの出征を合わせると4603名が確認されている。この中の出征学徒には台湾・朝鮮(韓国)からの留学生もおり、朝鮮籍の出征者は93名である。そして戦死者は不明も含めて323名となっているが、その中で海軍の戦死者が206名とされる。また特攻隊に関わる者たち(必ずしも特攻死ではない)の戦死者は154名(海軍の神風特攻死としては41名)となっている。
大学はこの戦死者323名のリストを戦死地と年月日別に作成していて(ただし学部などと年齢はあるが、なぜか肝心の氏名が記されていない)、これを戦地別に見ると昭和20年(1945)3−6月の沖縄戦での死者が一番多く、66名。昭和19年(1944)後半から翌年8月の敗戦までレイテ島を含むフィリピン戦でも同じく66名。この両方とも近海海上で多数死者が出ていて、また特攻死もこの両方において多い。このほか硫黄島やマリアナ諸島、ビルマやマレーシア、インドネシア、中国や台湾、南シナ海など日本が戦線を拡大した各地に渡る。
<大学としての機能喪失>
文科系の学生が次々と戦地へ送られる中、政府は理工系学科の増設を学校に指示、明治大も19年(1944)、工業専門学校の設置認可申請を文部省に提出した。5月、専門学校は機械科・電気科・造船科の三学科をもって開校した。しかし設備が間に合わず、実習工場は外部の工場に委託した。
学徒勤労動員による学内の学生減少に伴い、昭和19年(1944)に入ると政府は空いた学校の校舎を軍事徴用(接収)し、陸軍の拠点としたり軍需工場への転換を図り、明大も3月には予科の和泉校舎に東京師団経理部が、予科図書館には陸軍陸地測量部が一時駐屯し、5月10日から敗戦まで神田校舎には陸軍作戦首脳部が駐屯した。
そして20年(1945)3月10日の大空襲に続き、4月13日の空襲で明大記念館と本部校舎、体育館が破壊され、猿楽町の女子部校舎が全焼、またその後の空襲で和泉の予科校舎などが破壊され講堂、食堂、寄宿舎が全焼した。なお、大学の図書館の蔵書は関東大震災で図書館が焼失した経験から、空襲が始まる以前に山梨県や相模原、八幡山グラウンドの小屋などに分散疎開されて守られた。
20年(1945)に入ると授業は全面停止となり、8月15日終戦の日、学内には教師や学生の姿はほぼなく、23名の職員が出勤していた。他には陸軍参謀本部の将校たちがいて、前日の夜から校庭に机や椅子を持ち出し、それを焚き木にして書類を燃やしていた姿があった。
こうした軍事関係資料を焼却する様子は、軍が接収した他の学校でも見られ、敗戦によって連合国軍が日本に進駐し、戦時の関連書類から軍人たちが追求されることを恐れて、いわば証拠隠滅を図る行為であった。実際に国内外を含めた陸海軍全ての組織で書類が焼却された。これにより各大学も出征学徒の記録なども失われ、どの大学も戦後も長く放置されたが、50年前後経ってから再調査に挑むことになる。このような、為政者たちにとって都合の悪い事実を隠匿する傾向は今の時代になっても抜けていず、その都度問題になっているが、むしろ米国は日本に対するいわゆる無差別空爆にしろ全ての記録を残し、公開している。そのことにより、学者やジャーナリストは米国の公文書館に行って調査をすることが多く、そのなかで発見される事例がいまだに多くある。
<登戸研究所資料館>
明治大学生田キャンパス(川崎市多摩区)に明治大学平和教育登戸研究所資料館がある。ここにはかつて陸軍の登戸研究所があり秘密兵器の研究開発が行われていた。研究はアメリカ本土を襲撃するふ号兵器(風船爆弾:千代田区参照)の設計や、中国の経済を混乱させるための偽札作り、細菌・ウイルスを用いた生物兵器研究、スパイ兵器であるライター型カメラや缶詰型爆弾の開発など多岐にわたっていた。終戦直後、日本陸軍の指示により、証拠の隠滅として書類などは焼却されたり、破壊されたりした。その後、その広大な敷地の一部を明治大学が買収したが、そこに陸軍登戸研究所が空襲も受けず残されていた。明治大学も平成7年(1995)から教授たちが共同で解明に乗り出し、資料館として建物を改造し準備を進め、平成22年(2010)に開館した。建物内の残る現物は偶然残った文書や実験器具などごくわずかであったが、証言や資料をもとに再現した模型やイラスト、地図やグラフ、年表などを用いて五つの部屋に展示している。
法政大学
明治13年(1880)東京法学社として東京駿河台に設立され、14年(1881)東京法学校となる。明治22年(1889)東京法学校と東京仏学校とが合併して、和仏法律学校と改称。明治36年(1903)専門学校令により和仏法律学校法政大学と名称を改め、予科、大学部、専門部、高等研究科を設置。大正9年(1920)大学令により私立大学の設置が許可され、法政大学となり、法学部、経済学部を設置。今日では15学部を擁する総合大学であり、付属校を3つを有している。
<戦時下>
昭和12年(1937)7月、日中戦争(支那事変)の勃発に伴い、政府は国民精神総動員実施要綱を定め、法政大学でも第一校舎玄関正面にその国民精神総動員運動の大幕が下げられた。その6年前、日本は中国北部満州でその豊かな資源を狙い、「事変」を起こして植民地としていくが、さらにその周辺の領土拡大を目指して日中戦争に突入、国内でもそれが日本軍の東アジアへの躍進と捉えられ、国民は高揚感を持ってその新たな戦争を歓迎した。総動員運動はその流れの中にあり、大学も例外ではなく、仮にこれに反対するような言説があれば、大学は何らかの処罰の対象となったであろう。翌年、国家総動員法が制定され、すべては戦争拡大に向けての体制下に置かれるようになる。学生たちも勤労奉仕が義務付けられ、まず夏休みの多くが返上され、次第にその期間が拡大していく。昭和14年(1939)からは学生の軍事教練が1年次から必修となり、勤労奉仕は勤労動員となって義務付けられていく。
こうした流れの中で法政大学の特徴は、14年(1939)に大陸部が設置されたことである。その部長には思想家の大川周明が就任し、いわゆる「興亜教育」を行った。これは上記明治大学の「興亜科」と同種のものであり、法政大学においても当時の大陸進出という国策と強い関わりを持とうとするものであったろう。大陸とはまさに侵攻を続けている中国のことであり、支那(中国)語科も必須科目であった。この時期は興亜とか東亜という言葉が飛び交っていたが、「亜」つまりアジアの中心は中国であった。その中国へ侵攻を続ける日本に対して米英は厳しい経済制裁を行い、それに反発して昭和16年(1941)12月に日本は米英を相手に太平洋戦争に突入する。
昭和18年(1943)には戦局は不利になり、兵士不足が表面化、大学生は半年の繰上げ卒業が実施され、同時に徴兵猶予制度が撤廃され、徴兵年齢も20歳以上となって、10月21日には関東地方の学生7万人を集めて文部省主催の出陣学徒壮行会が神宮外苑競技場で挙行された。法政大学では先に10月15日に別途行われた。この学徒出陣は主に文系の学生をターゲットにしていたため、文系学部が主体の法政は、学部生の4分の3が徴兵検査を受けた。そして軍需工場等への勤労動員も加速して行った。一般の学部生が学徒出陣式を終えた後、大陸部は19年(1944)1月に学徒出陣壮行会を行なった。そしてそのまま大陸部は募集停止となり廃止された。大陸部の学生は中国戦線や満州に赴いたのであろうが、日中戦争は太平洋戦争の裏で継続されていて、太平洋戦争と同様に泥沼状態になっていた。廃部は実戦部隊への投入が急がれたせいかもしれないが、法政大学史の中でも大陸部のことはあまり触れられていない。この19年(1944)には航空工業専門学校が設立されたが、これは政府の理工系学科の増設要請による。何よりも戦争用新兵器の開発が急務であったからである。
法政大学は関東大震災でもほとんど無傷だったが、昭和20年(1945)5月23日深夜の空襲で予科と中学校のあった川崎の木月校地(現・二中高校地)で大半の建物が全焼し、続く25日の山の手大空襲の日には大学本部のある富士見校地で第一、第二校舎を焼失した。ただ図書館の入る第三校舎は焼失を免れた(他大学では図書館とともに明治時代からの蔵書の多くを失っている)。終戦から3カ月目に、大学では教員と学生の強い要望に応えるため、焼失を免れた第三校舎図書館で昼夜の閲覧サービスを開始した。ちなみに国立図書館(当時は帝国図書館)や上野の東京都美術館の貴重品の多くは事前に多摩地区に疎開された。
<戦没学徒への卒業証授与>
平成2年(1990)、法政大学では学徒出陣し、二度と学園へ戻ることがなかった学生へ「卒業証書」を交付することにした。学徒出陣した法大生は約870人。戦災等の焼失を逃れ、学籍簿が残っていた146人の本籍地を手がかりに追跡調査したところ、35人の戦没が確認できた。自らも学徒出陣の経験を持ちフィリピンのルソン島へ送られて凄惨な戦闘を経験し、多くの仲間を餓死で失った当時の阿利莫二総長は、「大学はこれらの人たちを当時歓呼の声で送りました。時の力に抗し難かったとはいえ、痛恨の極みであります。法政大学は今ここに全学を挙げ、改めてそのことに思いを致し、大学として責任を果たすことにしました」と述べ、10名の遺族に卒業証の授与を行なった。この授与式は翌年にも行われた。
そして学徒出陣50年に当たる平成5年(1993)、阿利総長が中心となって全国の私立大学に呼びかけ、全国272校の学長・総長の賛同を得て「学徒出陣50年にあたって——私立大学総長・学長の共同声明」を発表した。(内容は別記「大学と戦争」参照)
また阿利総長は平成5年(1993)、「多くの大学で学徒兵の記録はまだ整理されておらず、(敗戦時に)名簿が焼却されたので名前も数もはっきりしない」と述べた。この「焼却された」とは、各所で触れるが、大学に限らず、また日本国内だけでなく、海外の占領地も含めて敗戦が決まった時に、軍事関係書類は焼却するようにとの指示が軍政府から出され(大学は文部省から)、思考力を失っていた当時の軍人も民間人もそのまま従い、学徒出陣記録も焼却されたことによる。それを伝え聞いて、自分の日記を焼いた女学生もいる。「聖戦」という名のもとで行なったこの戦争をなかったことにしようとした日本の軍部はその根底から腐っていたと言えるが、その彼らが始めた戦争であり、そしてむやみに死地に送った出征学徒を特攻隊員も含めて「英霊」として祀り、戦後の自分たちの体面を保っていくのである。
<戦後の調査>
ちょうどこの時期の前後から各大学でも戦時下の出来事を調査し始めていて、東京大学も同様である。その後法政は遅ればせにではあるが、学徒出陣70周年を前に、平成24年(2012)から学徒出陣の専門チームを作って改めて調査を始めた。まず太平洋戦争末期から終戦直後までの期間で合わせて44冊の卒業名簿を基に、およそ8千人について確認したところ、上記約870人の3倍、少なくとも2480人が出陣していたことが分かった。ただ休学したまま戦死し復学できなかった学生は名簿に含まれていず、その後も調査の範囲を広げて続けたことにより、平成29年(2017)には最終的に出征した法政の学徒は3395名、戦没者は694名(そのうち特攻隊として40名)となった(筆者注:ただしこの数字は昭和16年:1941年の太平洋戦争開戦からのものであり、卒業生としては日中戦争開戦の12年:1932年から徴集されているから実際にはもっと多くなるはずである)。その報告書は全体で1000頁近くなるが、同時に45人の生存者(その時点ではほとんど90歳前後)への聞き取り調査も行い、平成30年(2018)に『学徒出陣証言集』を刊行した。
なお学徒兵の中では多くの大学野球部員も戦没しているが、法政関係では694名のうち26人が確認されている。その一人、豪腕で知られた投手坪谷幸一は法文学部を休学して出征し、20年(1945)5月、神風特攻隊として沖縄方面に出撃、戦死した。ちなみにその沖縄は6月下旬に陥落し、敵味方・住民合わせて20万人もの死者をだした。現在、沖縄では摩文仁の丘を平和祈念公園とし、その広場には「平和の礎(いしじ)」と名づけられた記念碑が建てられ、沖縄戦の敵味方すべての犠牲者の氏名をその石に刻んでいる。
この他、法政では明治時代より中国からの留学生を多数受け入れていた伝統があり、日中戦争後は台湾等の留学生も多く在籍し、日本兵として出征した戦死者もいる。
<平和記念碑建立>
戦後50年(学徒出陣52年)を機に、法政大学経済学部同窓会が平和祈念碑建立を計画した。中心となったのは特攻隊の生き残りで俳優の根上淳であったが、この動きは各メディアで報道され、同窓会員だけでなく関係者、一般市民へと賛同が広がり、893人の個人・団体から約980万円の寄付を集め、碑は多摩キャンパスに建立された。平成27年(2015)、20年の時がたち、平和記念碑は「教員にも当時を知る人間が少なくなり、学生にも関心を持たれていない”忘れられた存在”になってしまった」として同窓会員が立ち上がり、平和記念碑20周年事業を行なった。
碑文には次のようなメッセージが刻まれている。
「多くの学生が業なかばにして
軍や工場に動員され
学園と学問を放棄せざるをえない
不幸な時代があった
50年前のことである
君たちは決して
そのような青春を送ってはならない」
―1995年8月 法政大学経済学部同窓会
<朝鮮人BC級戦犯について>
法政大学国際文化学部の鈴木靖教授が指導する3年生8人が平成30年(2018)1月14日、「戦後補償に潜む不条理ー韓国人元BC級戦犯の闘い」というタイトルのドキュメンタリー映画を東京の飯田橋で上映した。学生たちは学校のゼミのテーマで韓国(朝鮮)人BC級戦犯被害者問題を取り上げることにしたが、その中で太平洋戦争で日本の植民地下にある朝鮮人たちが日本軍軍属として東南アジアの各地で捕虜監視員として動員され、そのために戦後、連合国の裁判によりBC級戦犯として死刑や無期懲役のような重刑を言い渡されていて、この年92歳の李鶴来(イ・ハンネ)の例を取り上げ、その生涯のドキュメンタリーを作った。李は17歳で捕虜監視員として泰緬鉄道(タイとビルマをつなぐ鉄道)の建設現場に派遣されたが、その現場では日本軍は捕虜とした欧米人(イギリス・オランダ・オーストラリア人他)を労働者として過酷な環境で働かせ、その期間中に、約1万6千人の捕虜が、飢餓と疾病と虐待のために死亡した。李はその建設現場の捕虜収容所の監視員であったが、日本軍の指揮下で捕虜たちと常時接触する立場にいたということで捕らえられ、シンガポールで連合国が開いたBC級戦犯裁判で「日本軍戦犯」として死刑判決を受けた。減刑後、東京に移され、56年(1981)に仮釈放された。しかし無念にもそのまま死刑に処せられた同胞たちが何人もいた。
日本は戦後、日本の軍人と軍属に、戦犯で死刑となった者たちも含めて恩給などを支給する法律を作ったが、朝鮮人(実は台湾人も含まれる)軍属は戦後はもはや日本国籍でないという理由で支給対象から除外された。このため李は生き残った同国人の元戦犯らと「同進会」を結成し、日本政府に「なぜ外国籍となった戦犯を差別するのか」と謝罪と補償と名誉回復を訴え、訴訟を起こしたが、平成11年(1999)、最高裁で敗訴が確定した(筆者私見:この種の国を相手とする訴訟はほぼ間違いなく敗訴する。最高裁はすなわち国である)。一方で日本の支援者も現れ、李とその仲間がグループで起業するのを助けた。李にとってはもう一つの問題があり、それは母国の韓国で「日本軍の協力者」として排除されてきたことであった。ただそれは平成18年(2006)、韓国政府によって「植民地支配の被害者」と認められ名誉は回復された。
李はドキュメンタリーを撮るために訪ねてきた学生に「死んだ仲間たちの無念を解いて名誉を回復させたい」と話したという。ある学生は「正直、日本人はいつまで謝罪を続けなければならないのかという気持ちがあったけれど、目をそらしてはならないということに気づいた」と話した。李は令和3年(2021)、96歳で死去した。
(以上は朝日新聞の記事その他から混成。またBC級戦犯については「各種参考資料」、シンガポールで処刑された朝鮮人たちの遺書については『世紀の遺書』にあり、参照)
日本大学
明治22年(1889)、日本大学法学部の前身である日本法律学校が誕生した。明治36年(1903)に日本大学と改称。日本大学は戦前から総合大学として機能を整え、文系はもとより、理工、建築土木、医学・歯学等があった。それにより学徒出陣以前から陸海軍の各部署に人材を送り出していた。軍医はもともと武官であったが、戦時下に入り日大の卒業生たちは技師ではなく歯科医武官や技術武官として活躍した。
昭和12年(1937)の日中戦争開始から学生たちへの勤労奉仕が奨励され、当初は修 練・錬成を目的として、夏期休暇中などに短期間実施された。 それが戦争が長引くにつれ、工場や農村での労働力不足を補うため、土木工事・畑の開墾・軍需物資の生産・医療衛生活動に従事させられ、勤労動員という義務的な形になっていく。太平洋戦争に突入する昭和16年(1941)あたりから学内に奉仕隊や報国団が結成され、交代で食糧増産のための農作業や軍需工場へ派遣された。特に農村の男手も遠慮なく徴兵されていたから、食糧生産も落ち込み、その食糧も軍隊優先に回されていたから、国内の食糧は不足し、その増産のためにも学生や生徒を農村などに勤労動員として駆り出し、それは中学生にも及んで行く。
18年(1943)に学生の徴兵猶予が解除され、東京では10月21日に神宮外苑競技場で出陣学徒壮行式が行われたが、日大では11月17日に改めて小石川後楽園球場での壮行式が行われ、10月に参加できなかった学生も出席した。出征しない在学生に対しては18年(1943)に発令された「学徒戦時動員体制確立要綱」により、食糧増産のために世田谷の日大予科報国隊員430名が北海道5ヵ所での援農作業に動員され、稲刈り・ジャガイモ取りなどの農作業に従事した。その時一人の学生が作業中の傷から感染症を発病、死亡した。軍需工場での作業も部科校ごとに勤労先を割り当てられた。ただ奉仕活動の枠を超えた勤労作業には報奨金が支給され、業務で死亡した場合は弔慰金が支払われることになっていた。
昭和19年(1944)1月18日には「緊急学徒勤労動員方策要綱」が閣議決定され、学徒の動員期間は年間 4ヶ月以上と なった。日本大学では支給された報奨金は工場側の責任者に組合貯金にしてもらい、卒業か軍への入隊時に一括して父母に送付することにした。続いて19年(1944)の後半からは学生の勤労動員は常態化した。日大生の勤労先は府中や横浜鶴見の日本製鋼、日本特殊鋼羽田工場、赤羽被服本廠などで昼夜2交代の勤務で社員寮で寝泊まりしながらであった。寮と工場の往復で、学生は授業を受けることもなくなった。 農学部の学生は現在も大きな公園として残る小金井・神代・砧大緑地の造成に派遣された。これは空爆による被害を抑えるために緑地帯を作る目的があった。
日大の勤労先の中に機銃や機銃弾を製造していた愛知県豊川の海軍工場があり、敗戦間際の20年(1945)8月7日(広島への原爆投下の翌日)、B29による大空襲を受け、周辺地域の住民などを含めて2800名以上が死亡、学徒(中高生以上で東京の女学生も派遣され、寄宿舎で寝泊まりして勤労していた)の犠牲者は男女計452名、そのうち機銃弾を製造する火工部に属していた日大予科生徒の6名が犠牲となった。 このうち2名は当時1年生で、入学と同時に動員され、学生生活を送ることなく死亡した。
大学は終戦70周年を前に残された学内文書から戦地への出征学徒数調査を開始した。対象としたのは日中戦争が開始された昭和12(1937)年から、終戦の20年(1945)まで、主に学籍簿と授業料台帳に記載されている「入営」「応召」といった記録から集計した。総数は7484人で上記の大学に比べても規模的に相応して多い。このうち学徒出陣のあった18年(1943)が2094人と3割近くを占めている。その中では卒業すれば軍医となるべき医学科生も入っていた。戦死者の実数はわからないが、他の大学と相対的にみて、600−800人程度と推定される。
日大はスポーツ選手を多く輩出している。昭和7年(1932)に開催された第10回オリンピック・ロサンゼルス大会で、日本は190名の選手・役員を送った。そこで男子競泳6種目のうち5種目で金メダルを獲得し、競泳男子800mリレーでは当学の遊佐正憲・豊田久吉が出場し、従来の記録を大きく上回る世界最高記録で優勝した。その4年後、ナチス支配下にあったベルリン大会でも遊佐は金と銀、同大の葉室鐵夫が金などを得て、15年(1940)には東京大会が予定されていた。
しかし日中戦争に突入していた日本は、欧米からの非難もあり、また戦争による物資不足でオリンピック開催を返上、大学の選手たちはその後(オリンピック出場の代わりに)戦地に送られる。そして水泳のホープ越戸優一は20年(1945)5月にフィリピンで戦死、陸上の3千m障害で日本記録の大澤龍雄は19年(1944)12月にパラオ諸島で戦死、拳闘部で中心選手として活躍していた加田耕士は20年(1945)5月に中国で戦病死、そして大学の夜間に通っていてプロ野球名古屋軍で活躍し、チームの勝利数のうち4割強を一人で稼ぐエースであった石丸進一投手は、同年5月11日に特攻隊として鹿児島県鹿屋基地から出撃し、南西諸島で戦死した。その前日、同期で法政大学野球部の名一塁手本田耕一(日本大学第三中学校出身)とキャッチボールをしていたが、14日、その本田も出撃した。
これとは別に箱根駅伝は15年(1940)に第21回大会が行われた後、戦争で中止されたが、関東学連は大会が途切れてしまうことを危惧し、大日本学徒体育振興会に働きかけ、反対する軍部に交渉を重ね、「戦勝祈願」 を名目に靖国神社と箱根を往復するということで、了承を得た。 そうして昭和18年(1943)1月5~6日に、3年振りに第22回箱根駅伝が開催され、日本大学・青山学院大学・ 慶應義塾大学・専修大学・拓殖大学・中央大学・東京農業大学・東京文理科大学(現筑波大学)・法政大学・立教大学・早稲田大学の11校が出場、優勝したのは日本大学だった。この駅伝に参加した選手の多くは10月に学徒出陣し、戦死した者もいる。
専修大学
明治13年(1880)経済科と法律科を併設した「専修学校」が設立され、大正11年(1922)に専修大学となった。しかし翌年の関東大震災によって校舎はすべて焼失、3ヶ月後に焼け跡にキャンパスを設置。昭和3年(1928)に鉄筋コンクリートの三階建キャンパスが竣工。戦後に占領軍GHQの勧告で昭和22年(1947)新制大学として出発する際、用地の拡張に迫られ、川崎市の生田にあった日本電気研究所の広大な敷地を購入し、主要学部が移設された。
戦時下の流れはほぼ他校と同じであるが、専修では軍事教練の導入が遅かったようである。軍事教練には陸軍の将校が配属され、将校の下に実務教官がいて、城壁登りや匍匐前進、手榴弾投げなどを行い、歩兵操典による歩兵の使い方の学科と実技があった。この教練を経て幹部候補生の資格が与えられたから、学生たちは真剣に取り組んだが、中には怪我をする場合もあった。
昭和16年(1941)ごろより学校には戦時体制による報国団が結成され、その中の報国隊により勤労動員などが行われたが、学生服も国民服に替わり足にゲートルを巻き、国民服の胸に専修大学報国隊、誰々という名札をつけて勤労動員に精を出した。学生の活動は報国隊により締め付けられ、自由な活動はできなかった。例えば厳しい勤労動員作業の中、早番で終わって仲間と上野で休んでいると憲兵に「お前ら学生のくせに何をやっているんだ」と言われて元に戻されたりすることもあった。19年(1944)に大学予科に入った学生は、最初から勤労動員で授業はほとんどなかった。日暮里のドラム缶工場での作業、鉄道が空爆で延焼して鉄道が止まらないように沿線の住宅を撤去するという建物疎開の労働、陸軍の芝浦倉庫で軍需品の積み込み作業などであった。日本鋼管の工場では工員の他に勤労動員の学生の他に女子挺身隊(学生ではない結婚前の女性の組織)、国民徴用令によって徴用された商店主(床屋、洋服屋、そば屋など)や相撲の力士隊の人たちもいた。つまり町の商店は配給制などで仕事がなくなり、相撲も興行ができなくなっていたからである。
昭和16年(1941)末の太平洋戦争開戦の年から徴兵年齢も毎年下げられていたが、昭和18年(1943)、戦局が悪化し、学生に対する徴兵猶予制度が解除され、さらに9月に繰り上げ卒業を行い、20歳以上の年齢が適応する学生には休学の措置が取られ、戦場に駆り出されることになった。そして文部省主催で10月21日に学徒出陣壮行会が神宮外苑競技場で行われたが、事前に15日に当大学でも学内壮行会を行った。大半の学生の大学生活は二年にも満たず(当時の学部は三年制で、その前に予科が二年ある)、仮卒業の制度もあり、最短で1年7ヶ月で卒業した学生もいた。このため10月には新たに入学式が行われるようになった(専門学校は変わらず)。徴兵対象は主に文科系で、その学生のほとんどが出征の対象となるが、専修大学は法学と経済学部のみであり、理工系学部のある大学と異なり、学生約三千人のうち三分の二が応召となった。
当時の文部省の指示で出征学徒の名簿が18年(1943)11月付けで作成されている。法経学部1635名中、出征者は1286名で約80%、専門学校は1507名中771名で約50%、大学校全体の出陣学徒は夜間部も含めて3275名のうち1577名で48%(ただし文部省への報告調書では65%)である。この後19年(1944)にも順次、一定の年齢に達すると戦地に送られ、学内に残る学生はほぼ一、二年生のみとなった。ただ、残った彼らももはや授業はなく、農場や軍需工場その他の労働に駆り出された。学徒兵は陸軍に約7割、海軍に約3割(軍の規模に比例)配属され、まず訓練のため日本各地の部隊に送られた。学徒兵に期待されたのは飛行機や特攻兵器の操縦者、下級指揮官、経理部将校・主計科士官などであったが、とりわけ航空兵力の増強が急務であった。
幹部候補生に採用された者は甲種と乙種に分けられ、前者は少尉候補に、後者は下士官候補者になった。甲種の学徒兵は予備士官学校や経理学校に入学するが、この時期はその卒業を待たずに戦地へ出征し、現地で卒業扱いとなり見習士官に任命された。陸軍では幹部候補生のほかに特別操縦見習士官(特操)の採用も行われ、専門学校や高等学校以上を含む学徒を対象としてパイロットを速成した。学徒出陣組は19年(1944)2月に試験が行われ、専修大生の一人は立川飛行場で目隠しで直線を歩くなどの身体能力試験を経て採用され、宇都宮陸軍飛行学校に入校し、その後中国戦線の北支那派遣軍に配属され、銃爆撃機のパイロットとして主に朝鮮半島(当時は日本の植民地)から中国への爆撃を担った。
海軍に入隊した学徒兵の多くは横須賀鎮守府の海兵団で新兵教育を受け、やはりパイロット育成などの予備学生に採用されるが、試験によって合格者は飛行科、兵科、主計科に分けられ、専修大学は飛行科に84名、兵科に91名が採用された。飛行科では一定の新兵教育を受けたのち、土浦航空隊や鹿児島航空隊に分けられ、基礎教育の後、練習機で訓練し19年(1944)9月末ごろ各地の航空隊に配属された。兵科は横須賀武山の海兵団に入って基礎教育を受けたのち、艦艇班、陸戦班、通信班に分けられ、それぞれの術科学校に入学し、12月に海軍少尉に任官、実施部隊へ配属された。
この19年(1944)秋以降に配属というのは、太平洋戦争の終盤でもはや日本に勝ち目はなく、起死回生の策として特攻隊が考え出されていた時期であり、11月ごろからはアメリカ軍とのフィリピン戦が始まり、その海戦において特攻隊(飛行機ばかりでなく潜水艇回天など)が投入された。これは翌年の沖縄戦まで続けられた。したがって19年(1944)卒業の学徒兵は、訓練期間を終えて配属された地域で終戦を迎えた場合も多かった。結局特攻隊に志願させられて実際に特攻死していった学徒兵の多くは上記18年の学徒出陣で応召した者たちであった。(この時期の学生たちは、すでに小学校の頃より軍国主義教育を受け、教科書上でも果敢に戦死した勇士が取り上げられ、大きくなったら「お国のために」戦い死ぬことを普通のこととして刷り込まれていたから、特攻隊編入もやむなしという精神下にあったであろう)。
またこの時期の日本は台湾・朝鮮・満州を植民地としていて、とりわけ台湾・朝鮮から留学生が多く来ていた。彼らは徴兵義務はなかったが、「特別志願」を求められ、多くが日本兵として戦地に赴いた。専修大では71名となっている。ちなみに陸軍の中には「朝鮮軍」もあり、これは朝鮮に駐留する日本軍のことで、当朝鮮学生も46名が出征している。
ただ、専修大では戦没者の本格的な調査ができていないとするが、どの大学も戦時下の資料が(敗戦時に軍政府の指示で)ほとんど焼却されて残っていない中、上記の出征学徒の名簿が18年(1943)だけ残っていたというのは偶然と思われる。それでも戦後50年も経って、執念で追跡調査した大学もある。ただ、他の大学と相対的に比べると、専修大の特攻隊などを含む戦死者は300−400名と思われる。
戦後、大学の一角だけが焼け残っていた。大学はすぐには再開できず、授業もまともになく、翌年から何とか始まった。服はないので飛行服を着て大学に通った学生もいる。大学に残っている古い教授(軍国主義推進派)の排斥運動も起こり、学生たちが自発的に推薦して押し上げた当学出身の今村力三郎を総長に選ぶに至るほどの運動となった。また教授が不足する中、学生たちは東大の助教授であった大河内一男や大河内の指名した清水幾太郎、内田義彦などを大学に呼んだ。学生たちは緊張してその講義を聞いたという。大河内はのちに専修大学学長、そして東大総長となった。大学に復学した学生は学徒動員によって軍人となって戻ってきた人も多く、あるいは勉学途上で中断し、勉強をしなおそうとする人も多かった。ただ、教科書が足りず、それを学生たちが謄写版で刷って学生に安い単価で分けるということもあった。また大学の資金繰りが厳しい中、学生たちが授業料の改定の話し合いにも参加したという話もあり、上記のように生田キャンパスの購入や神田校舎の改築にも学生たちは(反対もあったが)月々貯金をして寄付をするという運動も行った。
専修大学は戦前よりスポーツが盛んで、箱根駅伝の常連でもあったが、駅伝は太平洋戦争に突入する昭和16年(1941)から中止された。戦後は22年(1947)に再開されたが、出場するにも学生が足りないとか、予算が厳しい中、何とか選手をかき集め、合宿費用も工面して出場した。当時の食糧不足もあって旅館には学生が自分の田舎から米を持ち込む等の苦労があったという。
上智大学
明治41年(1908)日本に大学を設立するために3人のイエズス会員が来日、44年(1911)、財団法人上智学院設立。45年(1912)、東京市麹町区紀尾井町に校地購入、大正2年(1913)専門学校令による上智大学が開校、哲学科、ドイツ文学科、商科を置く。昭和3年(1928)大学令による大学として新発足した。
すでに日本は軍国主義体制下にあり、陸軍は各高等教育機関に配属将校を駐在させ、軍事教練を行なっていた。満州事変の翌年、昭和7年(1932)5月5日、その将校が予科(教養課程)の学生60名を引率し靖国神社を参拝した際、キリスト教信者の学生3名が礼拝しなかった。これが問題とされ陸軍は配属将校を引き揚げるとしたが、教練は卒業後の兵役猶予(正確には在学時の軍事教練により兵役に就いた時の訓練期間の短縮と幹部候補生の資格が与えられる)という学校経営上の死活問題(つまり学生の応募が減ってしまうこと)があり、また靖国参拝を受け入れなければカトリック教会への軍の弾圧も懸念され、東京司教区の大司教は政府文部省に参拝の意味を問いかけた。
政府から「参拝は愛国・忠君のためのものである」との回答を得て、宗教的行いではないと理解し、神社参拝を許容することで事態の収拾を図ろうとした。しかし10月になって事件は新聞で大きく取り上げられ、「軍教精神に背く」としてカトリック教会と大学への非難が一気に強まった。そこで教会は『カトリック的国家観』を出版し、信者にも愛国・忠君のための神社参拝が許容されることを示した。
しかし年末に配属将校は転任、新聞各紙の批判も続き、315名いた学生は翌8年(1933)の年末には約220名と急減した。その12月に陸軍将校が再び配属されたが、軍部の圧力の前に完全に屈服する形で日本のカトリック系教会は存立の危機を逃れた。このような事態に対し「信仰者の魂を売り渡し、天皇制支配に屈服し、結果として侵略戦争の推進に協力した」と後から批判するキリスト教指導者もいたが、当時の新聞各社も軍国主義的翼賛記事しか書けず、でなければ必ず廃刊される立場にあったから(裁判で争える時代ではなく)、いずれも生き残る方策として妥協するしかなかった。
この後昭和12年(1937)日中戦争に突入、戦時体制下に入った。16年(1941)より上智大学でも勤労報国隊が結成され、軍需工場などに動員された。18年(1943)秋に学生は繰り上げ卒業、主に文系の学生は学徒出陣と称して戦地に送られることになった。また文系の学部は政府の方針により縮小され、この18年(1943)に上智大商学部55名が慶應大学に移籍されたという記録がある。
当時の上智大学は絶対数が少なく出陣学徒も少ないが、平成5年(1993)発行の創立80周年記念ソフィア会誌では特定できた33名の戦死者氏名が記されている。戦争終盤時に促成栽培的に採用された20歳前後の学徒兵で、上智にも特攻隊に志願した(あるいはさせられた)ものも相応にいて、昭和19年(1944)11月からのフィリピン戦や西南諸島近海で敵戦艦に激突死した学徒が5、6名、20年4月7日に東京上空に来襲したB29に体当たりして戦死した上智大学生が2名いる。ほぼすべて、18年以降に出陣した者が19年10月から翌年の敗戦まで、つまり一年以内に死んでいて、中に2名がシベリアに抑留されて戦後に病死している。また他の大学と同様、台湾・朝鮮出身学生も戦没者に含まれているというが、33名の名簿の中には入っていない。
大学は4月13日の空襲で旧舎は全焼したが、昭和7年(1932)竣工の校舎(現1号館)は講堂が焼失しただけで全壊は免れた。敗戦後20年(1945)9月、戦艦ミズリー号上で行われた降伏文書調印に臨んでいた従軍司祭等3人のイエズス会員が調印後の9月5日、仲間の安否を尋ねて上智大学にやって来た。そのとき上智のイエズス会員たちは大学の再開を熱心に訴え、その結果世界から優秀な若いイエズス会員が日本に派遣されて大学の復興を支援、10月25日には授業が開始された(一方で21年:1946年5月、上智は公開講座を開始した)。授業開始に伴い、学徒動員の軍服のまま大学に戻った学生たちもいたが、下宿も食事もままならず、多くは学業断念の危機にさらされた。このような学生の困窮を救うために大学は学生寮の建設に取りかかり、応急策として旧中島飛行場跡地(吉祥寺)の一角を借りたが、遠隔のため不都合であった。その後米軍からかまぼこ兵舎6棟の払い下げを受け、これを学内に移築し学生寮にした。集会所として使われた1棟を除いて5棟に計80名の学生が共同生活を送り、上智会館に学生寮が開かれるまで約10年以上続いた。なおそのイエズス会の支援で焼け野原となった麹町6丁目一帯を新たに購入し、現在の主要な建物(教会、図書館・大学院研究棟、法学部校舎、学生寮、上智会館など)が建てられている。
共立女子大学
(以下は主に『共立学園百年史』より)
明治19年(1886)に鳩山春子(後の校長で子息は政治家鳩山一郎)を含む34名共同で共立女子職業学校が設立され、昭和3年(1928)に女子専門学校、11年(1936)に高等女学校が併設された。
昭和5年(1930)昭和金融恐慌が起こり、翌年満州事変が発生、全国的に軍国主義の渦巻く中、これを機に共立も含めた全国の女学校で陸軍に飛行機を献納する運動が起こり、教職員・生徒から拠出金を集めた。昭和7年(1932)、埼玉県の所沢飛行場で献納命名式が行われ、飛行機は愛国三十号(女学生号)と称された。この献納式には教職員・生徒代表数十名が参列した。この年、日本は満州国を成立させ、その祝賀式が皇居前広場で約4万数千人の男女学生を集めて行われ、共立ではそこに四年生を参列させた。
この後昭和12年(1937)の日中戦争へと続くが、開戦後の8月には国民精神総動員運動が始まり、秋には授業中に防空訓練が開始されている。鳩山校長の、「これからの戦争は、単なる剣戟や砲弾のみの戦いではなく、…… 私共女性の銃後の尽忠報国」的な役割は大きいとの指導のもと、共立の生徒たちは自発的に現金、兵士用の慰問袋、下帯、千人針などを新聞社・町会などを通じて献納した。また陸軍被服本廠の依頼に応じ、肩章、傷病兵患者襦袢と着衣を数千単位で製作し、納品した。ただ、鳩山春子校長は翌13年(1938)死去した。
中等学校以上では陸軍配属将校による軍事教練が強化され、白だすきをかけ薙刀を振る訓練もあった。高等女学校は全校850名による30km近くの強歩行軍も行った。専門学校には国防部が設置され、帝都国土防衛の防空訓練にたびたび参加した。
15年(1940)4月、学園の理事会は「国民精神総動員学園実行会」を作り、「本会は国民精神総動員の趣旨を体し尽忠報国の誠を致し時局に善処するを以て目的す」と謳った。
食糧不足の対策として空地の利用が奨励され、共立は北多摩郡小平村花小金井に二千数百坪の畑地を借りて学校農園を設け、生徒は馬鈴薯、甘藷、麦、陸稲、野菜などを栽培した。その他杉並区に鳩山一郎所有の土地約2千5百坪を借りて農園とした。これが戦後鳩山家から寄贈され、杉並学生寮となっている。
16年(1941)末、日本は日中戦争の泥沼化の中、米英を相手とする太平洋戦争に突入、戦局が厳しくなると学生は勤労奉仕から勤労動員の形に変えられていき、宮城外苑や明治神宮外苑の除草と整備作業、江戸川・田園調布方面の開墾、陸軍兵器廠・被服廠の仕事、近衛第一連隊の衣服修繕、内閣印刷局や凸版印刷で校正、製版、製本、発送等の作業、東洋乾電池、東京兵器補給廠、葛原製作所、日本製薬会社、ライオン歯磨工場、日本証券印刷、陸軍軍需品本廠に勤労動員された。
昭和18年(1943)10月、軍政府は男子大学生の徴兵猶予を解き、戦場に駆り出すことになったが、「戦時非常措置方策」により中等学校の生徒とともに女子学生は工場へと強制的に駆り出された。共立の専門学校の生徒は陸軍偕行社軍需部学校工場のほか、東京第一陸軍造兵廠、大日本紡績東京航空機、東京地方専売局足立工場、陸軍被服本廠などに動員され、高等女学校の生徒は第一海軍衣料廠、芝浦電機鶴見支社に、また職業学校の生徒は中島飛行機武蔵野製作所、東洋電機戸塚製作所等の軍需工場に動員された。
昭和19年(1944)に入り、学校校舎を軍用に転用することが閣議決定され、共立の校舎も屋上と地下に東部陸軍の部隊が駐留し、寄宿舎には陸軍女子通信隊が入った。さらに陸軍軍需部専属第四製縫所として学校に工場が設けられ、全校下級生徒を中心に、外地派遣出征将校軍装品の製縫が行われた。
19年(1944)春以降は授業はなくなり通年勤労動員となり、学校工場のほか、専門学校は東京第一陸軍造兵廠、大日本紡績東京航空機、東京地方専売局足立工場、東京陸軍兵器補給廠、陸軍被服本廠などに動員、高等女学校の生徒は第一海軍衣料廠、陸軍造兵廠、沖電気、トヨタ、林通信機、東芝鶴見工場、山川製菓に、また職業学校生は中島飛行機武蔵野製作所、東洋電機戸塚製作所、ヂーゼル自動車工業鶴見、有信精器工業、安全電機等の軍需工場に、いわば総動員された。
男子学生を繰上げ卒業で戦地へ送る措置と並行して、女子専門学校生徒も昭和16年(1941)に3カ月短縮が決められ、その年末に卒業、翌年からは6カ月短縮させられた。以後も続き、最後は高女も含めて丸1年の繰り上げ卒業となった。全ては戦争の「銃後」すなわち後方支援で軍需品を増産するためである。
千代田区から渋谷、港区あたりは、米軍による20年(1945)3月10日の大空襲からの大きな被害は免れたが、4−5月の大空襲で多くの大学、高校が焼失、しかし共立は被災を免れた。6月23日、本土決戦の前哨戦とされた沖縄が陥落し、7月26日、米英中三国は日本に対する降伏勧告書=ポツダム宣言を発する。日本の軍政府はこれを黙殺した。なおも「本土決戦・一億総玉砕」が叫ばれ、生徒たちは連日勤労動員に励む中、8月6日、広島に原爆が落とされ、続いて9日、長崎も原爆を受け、8月15日の正午、天皇による終戦詔勅が発せられた。翌16日に勤労動員は解除され、生徒は一度学校へ戻り、同時に学校再開の通知があるまで休校となった。
『百年史』に掲載された動員に付き添った教員の記録より:
「八月六日、工場に出勤しない日に学校に行き、地下の研究室で学生に渡す報償金の計算中 … 各階から兵士や将校が慌てふためいて階段を駈け降りてきて … 今日はいつもの敵機と違うのかと思い … 家に帰ってニュースを聞き、広島に原子爆弾が投下されたことを知り、びっくりしました。八月十五日の終戦、アメリカ軍が上陸すると報じられ、… 共立にいた軍隊は証拠になるものはすべて焼くという命令が下されたのか、校庭で兵士が書類を焼いているところに、屋上からフィルムが火中めがけてどんどんと投げ込まれるので、火の手は高く燃え上り、見ている私どもの方がどうなるかと不安な毎日でした」
他でも触れているように、国内海外を問わず、陸海軍の書類はこのように全て8月15日前後(すでに日本の降伏を知っていた軍人などは一、二日前から)に焼却された。これは全国の市町村の軍事出征関連書類も同様で、どのようにも隠しようもない戦争の証拠を隠滅しようとするものであった。被害者としての国内の空襲の記録は残されたが、加害者としての戦争の記録はこのように人為的に失われた。連動して大学・女子校などの勤労動員の記録も大半が焼却されている。残されたのは個人の方の判断で残すべしと思って自宅に持ち帰った場合などである。
終戦となって、昭和20年(1945)12月に卒業予定の学生たちに対し、とりあえず8月31日に簡単な卒業証書の授与が行われた。しかし混乱の中で出席者は少なかった。共立女子学園は空襲を免れたため、9月1日から共立女子職業学校・共立高等女学校の授業を再開することができた。両校の生徒は近隣から通う者が多いこともあるが、実際に何人の生徒が学校に戻って授業を受けたか、自宅等で空襲にあい死亡した生徒は何人いたかは不明となっている。翌年4月から共立高等女学校は五年制に復帰した。
共立女子専門学校の再開は、9月24日になった。遠方に住んでいる生徒が多かったことが遅くなった主な理由である。共立女子専門学校は、昭和19年(1944)の国策により育児科・保健科・被服科に再編され、裁縫・手芸を中心とした当初の教育からは大きくかけ離れた内容になっていた。戦後は学則を改正し、「皇国の道に則りて」を削除し、「本校は婦人の特性を涵養し家政に関する高等なる学術技芸を授け其の本務を完うせしむるを以て目的とす」に変更するとともに、「道義」「体練」「修練」の科目を廃止して「公民」「体育」に替え、「英語」「音楽」など新しい科目を加えた。専門学校は戦後もしばらく存続し、旧制の職業学校・高等女学校の卒業生の受け皿となった。校舎が焼失を免れたことと、中等教員免許状が取得できることで多くの志願者が集まってきた。
大妻学院(大妻女子大学)
明治41(1908)年、大妻コタカが裁縫・手芸の家塾を開く。大正5年(1916)に大妻技芸伝習所を設置、翌年大妻技芸学校とする。8年(1919)に大妻実科高等女学校を併設、10年(1921)、大妻高等女学校と改称し、昭和4年(1929)に大妻学院として統合する。12年(1937)鉄筋5階建校舎を増築し、高女は五年制となる。さらに17年(1942)、大妻女子専門学校(今の短大に相当するが、当時は女子の大学は認可されなかった)を併設した。この間、大正8年(1919)から先端を切って働く女性のためにと各分野の夜間学校を併設し、また地方の女性のために夏期学校や通信教育も開講し、当時の貧しい世相の中、常に女学校のあり方を考えて展開した。以下は『八十年史』その他から。
<軍国主義体制と戦線拡大>
大妻コタカは対外的な教育・社会活動にも積極的で、昭和5年(1930)の教育勅語40年式典に私立高等女学校長代表として奉答文を朗読する。この翌6年(1931)に満州事変が勃発し、いわゆる15年戦争(アジア・太平洋戦争)の端緒となる。さらに12年(1937)に日中戦争(支那事変)に突入、国民精神総動員運動が提唱され、さらに翌年国家総動員法が制定、すべての物と事が戦時体制の下に置かれることになった。この13年(1938)に「集団的勤労作業実施に関する件」が文部省より通達され、夏休みや春休みに勤労奉仕が課せられ、あるいは上記の共立女子と同様に軍事関係への支援体制が一層強化された。
昭和16年(1941)、前年の文部省の指示により、各学校で学校報国団が結成された。これは校友会などの部活動を戦時体制下に置くもので、特設防護団などもこの中に組み込まれた。これに並行して軍隊の組織に倣った報国隊が組織され、その後の勤労動員体制の基盤となる。さらにこの年の11月20日には創立25周年の記念式典を開催した。この時の来賓であった文部大臣の祝辞は、「……今や皇国未曾有の重大時局に当面し、一億一心……国策遂行に邁進すべきとき……女子教育の振興は正に喫緊の要務たり……皇国婦人の責務に思いを致し……」とある。
日本は日中戦争で戦線を拡大したまま、この翌月の12月8日に太平洋戦争に突入する。この翌年春に大妻は専門学校を設立するが、その趣意書の中に「帝国が大東亜共栄圏の民族生活の指導的地位に立ち、進んで文化を宣布しあるいは留学生を引き受くることを思えば……」とあって、いずれもこの時代の常套句的言い方であった。大東亜共栄圏とは15年(1940)に政府が提唱した概念で、その頃に占領していた中国と他の朝鮮、台湾、満州の植民地諸国を軸として日本が東南アジアも包括して盟主たらんとするもので、逆にこのころは米欧からの経済制裁もあって物資の輸入が困難になり、日本は窮地に立たされていて、資源を東南アジアに求めて逆転を計画していた。留学生とは、主にその植民地三国から来た学生で、各女学校に留学していた。
<勤労動員と学校工場>
勤労動員は17年(1942)までは夏春の休みを割くのが主であったが、18年(1943)から休み期間を除く年間30日となり、そして戦局悪化に伴いその秋には「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、翌19年(1944)初頭にその要綱が決まり、年間4ヶ月と延長されたが、すぐに3月には「決戦非常措置要綱」を発し、「勤労即教育」というこじつけの言葉が使われ、通年動員となった。なおこの間の18年(1943)秋に男子学生の徴兵猶予が解除され、20歳になった者達は学生の身のままで出征することになり10月21日に神宮外苑競技場で盛大に学徒出陣式が行われた。この壮行会の競技場のスタンドには女子学生・生徒が動員され、ほぼ5万人が埋め尽くしたとあり、大妻からも大半が動員されたはずである。
ここでコタカは校内誌で「勝ち抜くために」と題して、「戦争はいよいよ苛烈を極め、女子もまた……皇国の重大な役割の一端を荷うべき光栄ある機会が与えられ……ご承知のように青年学徒は学業半ばにして勇躍前線に陛下の御楯として往きました。……勉強することも勤労することも、これみな尊い修練であります。……知行一体の錬成によってはじめて闘い抜く力が養われる……どうか”われにつづけ”の気概をもって全身全霊をつくして”勝ち抜くため”の努力を続けていただきたい」と述べている。
学生・生徒たちは防空頭巾を肩にかけてもんぺ姿で都内や横浜の民間軍需工場に通った。工場で彼女たちは「神風」や「必勝」、「報国」と左右に書かれた日の丸の鉢巻に「学徒勤労報国隊」と朱書された腕章姿で軍用品生産に従事した。行先は横河電機、東京計器、住友電気、日産自動車、そして鮫洲の海軍衣糧廠で軍服を縫う仕事もあった。さらに卒業生は「女子挺身隊」として武蔵野の中島飛行機工場にも動員された。
一方で学校も工場とされ、軍服縫製の仕事もあったが、軍需会社の沖電気が19年(1944)8月より大妻高女を学校工場とし、機材と部品が教室に持ち込まれ、出張工員の指導のもとに配線のハンダ付けなどの作業が行われた。 この仕事では山梨県の身延中学や遠く東北の青森中学、弘前中学、平商業、近くの日大4中の生徒たちも動員されて学校工場に来た。さらに大妻の生徒たちは長野県の伊那の海軍衣料工場まで行って、現地の女子生徒に軍服縫製の指導もした。当校が一番誇りとしたのが軍旗の制作であった。軍旗作りは手間がかかり、刺繍入れ、紫色の房をつけ、金モールで固定し、仕上げると桐の箱に入れ、日に3−5枚軍に納入した。
工場への動員には担当教員が監督指導のために日々随行して来ていた。その一つの工場での生徒の一人の回想に「毎日毎日死にものぐるいでミシンにしがみつき、海軍の軍服を縫うお仕事をさせていただき……馴れぬ動力ミシンで指を縫う人も一日何人かいて……空襲警報で敵機がすぐ頭上を飛び、私達は抱きあって防空壕の中で息を潜め……またある時は海軍士官によって、上陸してくるかもしれない敵軍に備えて竹槍突きの指導もあり……ある時、お母様が私達を励ましにお見えくださった……あの頼り甲斐のあるにこやかなお顔で労いのお言葉をいただいた時、空襲の不安も何も一時に吹っ飛んで、安らかな心になり、さらに母校の名誉をかけて張り切ったものです」とあり、大妻校長がお母様と慕われるほど溢れるほどに情の厚い人柄であることがわかる。しかもすでに小さな学校ではなかった。おそらく国家の要請にも厚い情を持って無条件に応えようとしていたのであろう。そしてしばしば国家はこのような情の厚い人物をむやみに利用する。
<重なる空襲と校舎焼失>
20年(1945)3月9日の深夜から翌未明にかけての東京大空襲の際、学院はその中心から外れていたが、ほぼ最後の焼夷弾投下で(つまりこの日の空襲は江東・墨田区の東側から始められ、ほぼ中央区までであった)木造校舎は講堂も含めて全焼、鉄筋校舎も三階以上が焼き尽くされた。おそらく米軍は一通りこの日の任務を終えたからであろう、爆撃機B29が地上すれすれの低空飛行で逃げ惑う人々を機銃掃射してきたと、この時に寮生たちを一緒に避難させた学院の職員が語っている。その時には燃える炎の明かりで乗員たちの顔が見えるほどであったというが、米軍側はそういう事実はないと否定した。確かにそういう指令はしていないのであろうが、空襲終盤に外で遊ぶ子供たちを直接狙った戦闘機による機銃掃射がしばしば起きている。自分たちの完全な優位性から生じる遊び感覚の行いであろうと思える。この時に学院の東西南北にあった四つの寮のうち南寮だけが焼け残った。寮生が全員無事だったことをコタカ校長は何よりも喜んだ。
校長は寮生たちの食料を確保することから着手した。役所から炊き出しの塩むすびなどが配給されたが、知人や地方の卒業生などからも食料が届き、校長はみんなに配った。校内にあった校長の自宅も焼け、校長室に起居していた校長は、雑炊を作って焼け出された人々にもそれを配った。
泊まるところのない寮生たちは知人宅に身を寄せるものもいたが、多くは帰省し、その列車の切符も入手が困難であった。さらに教職員も地方に疎開するため次々と退職していき、残ったのは10人ほどであった。それでも卒業式をやると決め、3月18日に全員がそろわない中で、周囲が焼けたグランドで各学校(学部)別に行った。ピアノも焼けていたから合唱だけで君が代と校歌を歌った。しかし夕刻の夜間部などの式の時に空襲警報が鳴ったので地下室に退避し、その後各教室で卒業証書が手渡された。
このような戦局悪化に伴い、軍政府は小学生を除いた生徒・学生に対して今後一年間の授業を停止し勤労動員の徹底化をするという決戦教育措置要綱を発令した。それは自宅から焼け出された生徒にも容赦はないもので、地方に帰省した生徒にもその地での勤労動員(卒業生は挺身隊としての勤労)が待っていた。寮生は残った教室に畳を敷き、いつ空襲が来てもいいように昼間の姿で寝て、各工場に通った(実際に家を焼かれた工員ばかりでなく、高等女学校の生徒も家を焼かれた翌日に勤労動員先に出社したとの話も残る)。
5月25日に専門部の生徒の一部は信州に疎開することになったと年史にあるが、これは他校の例からするとおそらくその学生たちが通っていた工場が空襲を受けて行き場がなくなり、信州の疎開工場か、農業の支援に行くためであったろう。そしてその日の夜遅く、東京への最後で4度目の大空襲(山の手大空襲)があった。そこで残った寮と校舎も焼かれ、鉄筋の一、二階だけが残った。この時東京駅も焼かれた。
<一生徒の体験>
太平洋戦争開戦の昭和16年(1941)12月8日、小学校六年生だったが、校庭で先生から長い訓示を受けた。その後日本軍は南方諸島を制圧して行き、先生は世界地図を広げ、占領した島々を赤い色で塗っていった。戦争とは地図を赤く塗りつぶすためにするのかと思ったが、先生はニコニコ顔で「聖戦」という言葉の意味も話すので、その疑問はやがて消えた。
翌17年に私は小学校を卒業し、大妻高等女学校に入学した。教科には軍隊教育が取り入れられ、体操は軍隊にいた先生、薙刀は女の先生で「敵が上陸してきたら竹槍でもなんでも一人一殺で」と勇ましかった。女子の体力検査は千m走、弾丸投げ、重量投げ投げなどの種目があった。19年に入って三年生になったときに学徒動員令が下り、私たちは神奈川県の日産自動車に配属された。ここではトラックの他に飛行機の練習機のエンジンも作っていて、轟々とものすごい音がする。工場の奥には青い海があるというので友達とこっそり行き、岸壁に腰をかけて思い切り歌を歌った。どの歌も悲しい歌ばかりだった。
日産への往復は大変だったので、遠距離組は大崎の工場に移り、そこでドリルや研磨機を使ったが、一寸の油断も許されない仕事だった。手の傷は始終だったが、休み時間以外はトイレにも行けず、油だらけの作業着で一日中作業した。夜中作業していた新潟からの挺身隊の女性とは朝に私と交代したが、まるで監獄にいるようと嘆いていた、
全然授業を受けられない私たちに、先生は日記を書くようにと勧められ、工場の毎日の出来事を書き綴った。先生は一字も逃さず読んでくださり、赤鉛筆で答えてあり、ささやかなコミュニケーションであった。空襲警報が鳴ると電源を止めて防空壕に飛び込むが、解除されるまで何時間も動けない。その間はおしゃべりしたり歌も歌った。工場では報奨金をもらい、その中から学校の授業料を支払い、残りをもらった。一ヶ月に一度の休日には友人と街に出たが、店はどこも閉じていて、買うものがなかった。
20年(1945)に入り、激しい空襲で勤めていた工場が疎開することになった。そこで同じ大崎の明電社にいくことになったが、作業中に大怪我をして自宅療養となった。そんな中で東京の下町は3月10日の大空襲に見舞われた。下町方面の夜空は真っ赤で、私の家でも新聞が読めるほど明るかった。私は両親と妹と茫然と眺めていたが、その空の下で地獄絵が繰り広げられていたのだった。翌日学校に行くと木造の校舎は全焼していた。下町方面には友達がたくさん住んでいた。私たちは何人かで浅草方面に歩いて行った。隅田川の手前まではなんとか道があったが、そこで私たちが見たものは地獄の炎に追い詰められて隅田川に飛び込んだ人たちの遺体とそれを小舟に乗った人たちが引き揚げている光景だった。死体が並んでいる橋を渡って友達の家に行こうとしたが、そこは死の街であった。私たちは怖くなって逃げて帰ってきた。
その後母と妹は直江津に疎開したが、4月13日の大空襲は焼け残った東京を襲った。私と父と叔母は家の中に作った防空壕に入っていたが、爆風で家中のガラスが吹き飛び、壕を捨ててリヤカーを引いて走った。「リヤカーなんか捨てろ」との怒号でそれを捨てて広がる火のないほうに走った。やっと火の中を抜け出て静かなところに来たらもう明け方だった。家が心配になり戻ってみるとまさに家が焼け落ちるところだった。崩れ落ちた家を見て不思議に心がすーっとした。「これで逃げ回らなくて済む。焼け跡にB29は来ない」と。「氷川小学校に食糧がある」と聞いて私も押しかけた。死体が無数に転がっていた。炭焼きされた死体は小さく固まり、手が虚空をつかんでいた。母親におぶわれて死んでいた子供の手も虚空をつかんでいた。その学校の門の前で「食料を出せ」と口々に叫んでいた。(注:戦時下では軍が小学校などに駐留し、食料を貯めていた)
その後私も母のいる直江津に向かった。列車は満員で窓から乗り込んだ。数日後私は地元の高田高等女学校に転校したが、ここでもまた勤労動員で陸軍兵器廠に配属され軍の衣服を作る作業についた。さらに絶縁体を作る工場に回された。広島・長崎に原爆を落とされた後の8月15日、その日は自宅待機だった。私はラジオも何もない田甫の脇の小川で洗濯をしていた。翌日、工場裏の境内に集まった私たちに先生は絶叫した。「これは休戦だ。日本は絶対また戦を再開する」と。この先どうなるか不安だったが、その夜、電灯の黒い覆いをとってパッと明るくなった部屋は素晴らしかった。
(松本都紫子『なつくさ』第六号、保谷市「戦争体験をつづる会」より要約)
<終戦と復興に向けて>
その後、広島・長崎への原爆投下を経て、軍政府は一度拒否した全面降伏を受け入れ、8月15日に終戦となった。実はこの日にも大妻の生徒たちは焼け残った校舎で軍旗を作っていて、翌日将校が来て残った軍旗は焼きすてるようにとの指示があり、中庭に櫓を組んで焼いた。生徒たちには二重のショックだったという。
地方に奉職していた卒業生のある教師が、「かつて軍国主義画一教育を唱え、今ここに同じ頭でその過ちを叫ぶことの苦痛、毎日悶々とした状態で教育の道にたずさわっております。今後いかなる信念で青年の教育に処して行くべきでございましょうか」と悩んだ末に“お母様”に相談の手紙を寄せた。すぐに返事は来て、「昨日までの信念も、今日からの覚悟も決して偽りではない」とあり、励まされたという。
9月22日、職員室において慰霊祭が行われた。戦災で亡くなった職員4名、生徒52名を弔うためのものであった。生徒52名とは異様に多いが、学校への空襲によるものではなく(記載がない)、ほぼ自宅で空襲に遭ってのことであろう。このような慰霊祭は他校でも行われたであろうが、他校では亡くなった生徒の人数さえほとんど記されていない。とりわけ3月10日の空爆で大火災で丸焦げに焼かれて身元不明の行方不明者が多かったが、この52名の中にも遺体が見つからなかった生徒もいたと思われる。(江東区:深川高校参照)
鉄筋校舎の三階以上の修復は22年(1947)3月までに終えた。それでもまだ教室はとても足らず、「教室には畳が敷かれ、全ての授業を座って受けた。合併授業もあり窮屈ながらも部屋は明るい声に満ちていた。……授業が終わるとこの教室は校内寮になる」とあり、「はじめの頃はドラム缶のお風呂だった」ともある。講堂は新築の資材がなく、千葉県館山の郊外にあった海軍砲術学校の二階建ての講堂を払い下げてもらい、移築して23年(1948)5月に完成した。
ところが昭和22年(1947)4月、占領軍GHQの指示によって設立された「教職員適格審査委員会」が、大妻コタカを教育者の立場を超えて戦時中に翼賛的な婦人団体の幹部として活動し戦争遂行に協力していたとして、公職追放令により、追放した。大妻は自身の学校と空襲中にも学校を守るために離れなかった住まいを追われた。筆者から言わせれば、この審査委員会の中にも元は軍国主義的発言をしながら戦後すぐに上手く立ち回って裁く側に潜り込んだ人間もいたであろうが、少なくともコタカはその種の人間ではなかった。例えばコタカが追放となった途端に、学院の経営側に残った人たちは、コタカを千代田区に住まわせない、大妻という学校名を廃すると提案した。この種の人たちは、単に時流に乗るだけの三流の人種であって、戦時下であれば間違いなく軍国主義追従の発言をしていたはずであり、またコタカの前では常にペコペコしていたはずであるが、追放されて立場を失った人に対しては時流から外れたものとして追い打ちをかけようとするのである。ただ、この学校名を廃する動きに対してコタカを慕い尊敬する人たちが猛反対し、実現しなかった。
彼女は私利私欲を持たず学校教育に人生を捧げ、日本の国のためにと無条件に使命感を持って活動したことは間違いない。別の資料では、この追放措置の時に初めて人前で涙を見せたという。学生たちと会えないことが一番辛かったのである。その後27年(1952)に追放解除となり、コタカは理事長に復職、その二年後の29年、今度は教育功労者として藍綬褒章が与えられ、中学から大学までを擁する大妻学院に発展させる。39年(1964)には女性として初めての勲三等宝冠章を授与された。
<余話>
学校が沖電気の工場にされた時に、会社から指導員として派遣されていた当時17歳の小高という男性が、別なところで戦時体験を語っている。
—— 20年(1945)4月から大妻の担当となり、校長に挨拶すると「私もコタカよ、よろしくね」と優しい笑顔で返された。「教室には天井から電球が低く下げられ、夜でも仕事ができるようになっていた。床には電線をはわせ、各机にはコンセントを付け、電気ゴテ、糸ハンダ、ペースト等が置いてある。生徒たちも慣れない手つきで一生懸命がんばった。空襲警報が鳴ると作業を中止し地階へと避難した。…… 夜は生徒たちの作った物をまとめて、翌朝5、6人の生徒を連れて芝浦工場へ持って行った。毎夜残業をしていると校長室に呼ばれ、夜食が用意され、校長先生の家族の方や宿直の先生と一緒に語らいながら、煮込みうどん、すいとん等、たまにはお汁粉もご馳走になった。…5月25日の大空襲の日、大妻の学校工場に泊まっていて、夜遅く空襲警報が鳴ったが、またかと高をくくって寝ていた。…… B29の何百機かが窓から見えた。近くの大本営からか四方八方から高射砲の一斉射撃が始まった(皇居周辺なので警備は強化されていたが、実は米軍は皇居を空襲対象から外していた)。…… 一度高射砲が当たりB29が爆発して落ちていった(千代田区の5月25日の項参照)。…… 目の前の校庭に焼夷弾がバラバラと落ちたと思ったら火柱が上った。…… 私は夢中で階段を駆け下りると校長室の前の廊下に焼夷弾が窓から飛び込んで燃えていた。…… 何人かの先生と一緒にバケツの水をかけ一晩中消化に夢中だった。身体中水浸しで、煙と炎で顔や手が赤黒く晴れ上がり、焼け死ぬかと思った。校舎の火災が消えた頃は夜も明けていた。…… みんな無事だった。急に家族の安否が心配になり学校を出た。…… 木造の人家は跡形もなく廃墟と化し……防空壕の入り口も焼けた残骸に覆われていた。……やっと家族と会った時には涙がとめどなく出てきて声を上げて泣いた」。
彼は3月10日の大空襲も経験し、その時には沖電気の少年工や女子挺身隊約50名と多くの町の人々が明治座の地下室に避難し、全員が(蒸し焼きで)焼死したが、そこから逃れて助かった体験をしている(中央区参照)。また彼は大妻の前に東洋英和の学校工場にも行っていたことが英和の記録に残っている。
三輪田学園
三輪田眞佐子は明治13年(1880)、松山で明倫学舎を開塾。その後20年(1887)東京神田で翠松学舎を開校、35年(1905)三輪田女学校とし、翌年三輪田高等女学校となる。私立の女学校としては2番目の認可であった。三輪田眞佐子は昭和2年(1927)歿。その後、養嗣子の元道が校長となった。
<勤労奉仕>
昭和12年(1937)の日中戦争開始から勤労奉仕が奨励され、女生徒たちは慰問袋作りや傷病兵の白衣の縫製作業などに従事した。まだ都内にあった茶畑での茶摘み作業もあった。政府により食料増産が叫ばれ、それもあって15年(1940)、学園は杉並区高井戸に約3万㎡の畑地を購入した。似た例は他の学校でも多くあった。翌年から農園では理科の実習と食料増産という二つの目的を兼ねることができた。農作業の帰りには収穫物がお土産として配られ、18年(1943)ごろまでは生徒たちは比較的楽しく過ごせた。戦前の女子校の修学旅行は15年(1940)あたりが最後で、その後は戦時体制強化としていろんな学校行事が控えられるようになった。ただ三輪田学園は18年(1943)夏に家政女学院と那須に合宿旅行をしている。鍛錬旅行という名目にして比較的近い場所で行ったものである。
<初爆撃>
日本が太平洋戦争に突入して半年後の昭和17年(1942)4月18日、米軍は太平洋上の空母から爆撃機を出撃させ、小手試し的に太平洋上の空母から爆撃機を発進させ、最初の空襲を日本の各地で行い、学園の上空にも飛来、学園の小学校の子供達は日本の飛行機だとはしゃいで校庭に出たが、機体に日の丸がなく、それに気がついた教員が「危ない!伏せろ!」と声をあげ、黒い物体がパラパラと落ちて来て、遠くで黒い煙が上がったが、それに遅れて空襲警報が鳴った。その後米国はいったん空襲を控え、日本が占領するサイパンなどの島々を陥落させ、そこを基地として日本への攻撃用に新開発された大型爆撃機B29を大量に集結し、十分に体制を整えて一年半後の19年(1944)11月24日から本格的な空襲を開始した。すでにして戦力の余裕の違いが見て取れ、もとより勝てる戦争ではなかった。
<勤労動員>
昭和19年(1944)春より本格的な勤労動員が始まったが、陸軍の配属将校による軍事教練も行われていた。その他鍛錬や修練と称する時間が優先され、本来の授業時間圧縮により、敵国語である英語は文部省の通達により廃止または縮小された。校長の元道は「相手を知らずして、どうして正確な対応ができようか」と生徒に語った。
勤労動員は分散して行われ、住友通信工業では飛行機の尾翼の一部のドリルやハンダ付け、那須アルミニウムでは飛行機の燃料タンクの製造で、そのタンク内を磨く作業(この工場は3月10日の空襲で焼失)、立川飛行機では車輪の製造で、旋盤も担当、昭和電子工業ではブラウン管の組立作業、その他事務作業では金属不足でペン先が代用品のガラスであったという。学校自体も工場とされ、低学年生が軽作業をし、合間に授業を受けることになった。別に卒業生60名で挺身隊が結成され(卒業生のみならず14−25歳までの就業していない女性は挺身隊としてすべて駆り出された)、武蔵野の中島飛行機に出動した。ただ中島飛行機は米軍の空襲の最初の標的で、何度も空襲を受けて、20年(1945)に入って間もなく操業ができない状態になったが、それまでに機械を分散し、近くの学校(津田塾など)や八王子の山中にトンネルを掘り操業を続け、学園の挺身隊もそちらに移動された可能性がある。
<学園焼失>
20年(1945)3月9日の深夜、空襲警報が鳴り響き、いったん止んだが日付が変わって米軍のB29爆撃機の大編隊がやってきた。主に墨田・台東・江東区が中心で、当校にも火勢が及んだが、近くの軍隊が駆けつけて、何とか延焼を防いだ。焼夷弾の直撃で近くの病院が焼かれ、避難者を学校の体育館に収容した。この日の焼死者は8万数千人、世界戦史上最悪で、下町密集地が狙われた結果である。
そして、校舎が燃え落ちて入学式を延長する学校が多くある中、学園は大きく減った新入生に対し、4月10日に何とか挙行した。この時に三輪田元道校長は挨拶の中で「空襲の時に一番大切なものは何ですか」と生徒に問いかけた。時流に合わせたいろんな答えがある中で、校長は「それは命です。皆さん、命を大切にしてください」と述べた。実は子供たちはこれまで「お国のために命を捧げる」という教育を受けていたから、この言葉は生徒たちに新鮮な驚きをもって受け止められた。
そして、三日後の4月13日深夜の城北大空襲でその体育館や講堂、校舎も焼失した。校長たちは必死に大事な荷物を運び出したが、朝が明ける中で、40数年間の努力の賜物が「みんな燃えてしまった」と悲痛な思いで呟いた。しかし元道校長は諦めず、その日から動き、近くの嘉悦学園(当時は日本女子商業学校)の教室を借り受け、4月23日から新入生の授業を始めた。筆記用具やノートや用紙は近くの白百合学園の好意で譲ってもらい、大感激であった。しかしその白百合も5月25日の山の手大空襲で全焼した。
<集団疎開と敗戦>
学園の小学生は19年(1944)8月に東村山市にある学園所有の久米川郊外園に集団疎開した。農具を入れていた建物に床と畳を敷いて3、4年生の宿舎とし、5、6年生は近くの農家に分宿した。教室もないので松林に机やベンチ、黒板を持ち出して授業や食事をした。体操や音楽は近くの原っぱ。授業の後は枯れ枝を集めたり、上級生は防空壕を掘る手伝いをした。しかし翌20年(1945)より空襲は容赦がなく疎開地にも近づいて来て、富山県に再疎開することになった。
20年(1945)8月15日の敗戦後の21日に二学期の始業式が行われたが、これは他校に比べても異様な速さで、元道の使命感という他にない。それに遅れて疎開などで東京を離れていた生徒たちが戻ってきた。それでも18年(1943)に1300名以上在籍していた生徒数が約400名に、教師は40数名から10名ほどになっていた。翌年から嘉悦学園の教室も生徒が戻ってきて飽和状態になり、焼け残った小学校の教室も借りたが、窓ガラスなどない状態の中で授業を進めた。空襲で焼死などした生徒もいるはずであるが、記録にはない。
白百合学園
フランスの聖パウロ修道女会の3人が函館に来日した後、明治14年(1881)神田猿楽町に学校を設立。後に校名を女子仏学校とし、明治43年(1910)仏英和高等女学校となる。大正12年(1923)、関東大震災により校舎が全焼、昭和2年(1927)に九段の敷地に新校舎が完成し移転。(以下主に創立百周年記念誌より)
<軍国主義と学園の苦難>
昭和6年(1931)、満州事変に突入し軍国主義の台頭で排外思想が広がり、学園の仏英の名に合わないとの当局の指導で昭和10年(1935)に白百合高等女学校と改めた。明治以来、天皇制が絶対的なものとして確立されていて、すでに公立学校には天皇の「御真影」が下賜され、特別な場所に掲げられていた。私立系は遅れてこの頃から動きが出て来て、日中戦争の始まった12年(1937)ごろには大半がそれを願い出て、下賜された。キリスト教主義の学校は多少の抵抗もあって、受け取りから逃れた学校も稀にあったが、当学園の場合、意外に早く動いて10年(1935)の10月に奉戴式が行われた。これは歴史的に迫害を受けやすいキリスト教も立場を考慮し、学校の存続を第一優先にしたからのようである。
それに伴い、靖国神社や明治神宮への参拝、満州・中国戦線への軍人部隊の歓送迎式への出席、皇軍に感謝の催しを二日間講堂で開くなど、積極的に時局に合わせた動きをした。また宮家からの依頼で出征将兵用の靴下2000足、陸軍からの依頼で軍服の肩章8890組を教職員と全生徒が作成し、納めた。この時の生徒の感想は「御国の為に小さな奉仕が出来る!……この手と指が作っている肩章をつけて厳寒の支那(中国)で働いてくださるであろう兵隊さん方のことを想うと……兵隊さん、有り難う!」というもので、当時の小学校の教科書などの内容そのままの教育成果が現れている。
しかしながら次第に外国人修道女教師に対する圧力が強くなり、昭和15年(1940)年には仏人校長が退職、初めて日本人修道女の山本ムメが校長となった。他のキリスト教系学校でも同様の動きがあった。さらには16年(1941)、政府によって各種キリスト教団体の統合も図られ、2系統にされた(青山学院参照)。また、修道服も許されず、紺のツーピースに白のブラウスとなり、山本校長は和服とした。このころ、聖堂の十字架も外された。
外国人に対する排斥で、特に米英人は16年(1941)春頃より本国からの船などで帰国して行ったが、フランス人関係はおそらく本国がドイツに占領された時期で、その機会がなく残留する人が多かった。しかし17年(1942)9月、当校の宣教師たちは警察に連行され、収容所に入れられた。翌年末、その何人かは交換船(戦時下、それぞれの外地で帰国がままならない人たちに、双方の国から船を出し、南アフリカのケープタウンで自国の船に乗り換える方法)で帰国した。それでも帰国できなかった(あるいはその意思を持たなかった)修道女メールは前校長と一緒に、当学園の疎開地の箱根強羅で軟禁生活となった。
<太平洋戦争から敗戦まで>
こうして16年(1941)12月8日に日本は米英を敵とした太平洋戦争(軍政府の呼称は大東亜戦争)に突入、英語や仏語の授業は制限され、外国人も教壇には立てず、17年(1942)に外国語の授業は停止となった。18年後半からは本格的な勤労動員体制が敷かれ、文部省の指示で結成された軍隊式の報国隊として、陸軍省調査部で機密書類の整理等や藤倉航空工業で落下傘製造に従事、薬品やゴム工場にも通い、モンペに防空頭巾、肩から弁当と薬を入れた袋を下げ、胸には血液型を記した名札をつけて通った。楽しかったことはわずかな休息時間に級友や他校の生徒といろんな話ができたことという。また食料増産のために学園の取得した石神井の土地を農園としたが、大木の根や萱の根を掘り起こす作業から始めた。
日本軍は太平洋戦争開戦時には南方にも侵攻し、米国植民地フィリピンなどを占領したが、統治政策の一環として18年(1943)11月、日本のキリスト教団からフィリピンなどにも派遣団を送った。その中に当学園の日本人修道女2名が選ばれて、船で南方に向かった。途中で香港に立ち寄るとき、船が機雷に触れて沈没したが、救命ボートが一杯で修道女は他の家族を優先し、今一人の教区長も一緒に紐で体を縛り、祈りながら艦とともに沈んでいったという。欧州諸国がアジアや中南米で植民地として支配する時もキリスト教の宣教師たちを送って治安維持のために利用し、キリスト教は昔から多くの犠牲者を出しているが、今回は日本軍に利用されてのことである。
19年(1944)11月24日から本格的空襲が始まり、動員されていた軍需工場や学校近辺への空襲もある中、20年(1945)3月10日の大空襲後の卒業式では、その空襲で亡くなった生徒の名前も呼ばれた。その中には激しい火炎に追われて隅田川に飛び込んで亡くなった生徒もいて、当時はみんな服に名札を縫い付けていたのでそれでわかったという話もある。ある組では60名中7名が空襲と無理な勤労による病で死亡していた。また卒業生も無職でいることは許されず、女子勤労挺身隊として工場の作業に従事した。こうした中でも生徒たちは「戦争の勝利を信じて疑わなかった」。ラジオや新聞のニュースでは不利な戦況が報じられないからである。
学園には初等科(小学校)もあったが、18年(1943)半ばから都会児童の縁故疎開が進められ、19年(1944)には東京都により地方への集団学童疎開が実施されたが、私学は独自に疎開先を探すことになり、学園の父兄の縁で箱根強羅の別荘と、甲府の栄和女学校(現英和女学院)の寄宿舎の一部を借りることができ、5月と9月に分かれて両地に向かった。しかし終戦となる翌20年(1945)の初夏には甲府にもB29が飛来するようになり、再疎開を検討している矢先、この女学校は7月7日未明、空襲を受け全焼した。すぐに父兄たちが迎えに来て生徒たちはまだ危険な東京に一度戻ることになった。
実は戦時下では軍隊が各学校の一部を接収したが、当学園は他校に比べてもかなり早く、17年(1942)に接収された。あえてキリスト教系学校が狙われたようであるが、せっかく生徒が磨き上げた新講堂が軍靴で荒らされた。また学園にはフランスから送られてきたジャンヌダルクの石像があったが、続く大空襲と勤労動員による学校の空白期の20年(1945)4月頃にその石像は軍によって撤去されたらしく、その後戻されていない。
3月10日の大空襲は墨田区や江東区の下町地区を中心としたもので、学園はほぼ圏外にあった。次の4月13日の大空襲では初等科校舎に被害が及びそうになったが、駐屯する軍兵の活動で大きな被害は免れた。ただ、近所の三輪田学園が全てを失い、筆記用具などを分けて感謝された。そして5月24日に続く4度目の25日夜間の大空襲でとうとう鉄筋校舎の構造だけを残して焼失した。焼け落ちた修院本館では煙突だけが残ったが、その台所で、前夜用意していた釜の中でご飯が炊けていたという。同じ話は各地で実際にある。この後、米軍は日本の地方都市への空爆に転じ、7月9日には姉妹校の仙台高女も焼失した。
<戦後の復興>
そうして8月6日と9日に広島・長崎へ原爆が投下され、「神州不滅」と唱え「本土決戦」と標榜していた軍政府は「決戦」前に全面降伏を受け入れ、8月15日に敗戦となった。終戦の玉音放送を疎開先の箱根強羅で聞いていた小学生や一部高女の生徒の一人が、宿舎に戻ると突然、「祖国に帰れる!万歳、万歳」という歓びの声とともに踊り跳ねる異国の少女たちの姿が目に映った。彼女たちは上記の交換船でアメリカから日本に来て、さらにドイツやフランスに帰るはずだった子供で、戦火が激しくなり、交換船が途中で中止になったため、日本のこの地で抑留されていたのであった。
9月に入って焼け残った校舎、教室の中で分散して授業は再開されることになったが、窓ガラスはなく床板が焼け落ちコンクリートもむき出しで、あちこちが木材で補強されていた。雨の日は校内を傘をさして歩いた。まずは瓦礫の後片付けが大変で、上級生と専攻科の生徒たちはそれらを拾い集め、リヤカーに積んで近くの焼け跡に捨てに行った。最初はコンクリートの床に座っての授業であり、机があってもニスも塗っていない、薄く反り返った板で、椅子はベンチのような3、4人がけのものだった。その後机や椅子は父兄の寄付で何とかなった。翌年春には校舎の修復も終え、授業も次第に正常に戻って行った。
ただ、学校復興への資金集めは容易ではなく、そこで同窓会が立ち上がり、21年(1946)10月に暁星学園の講堂を借りて戦災復興バザー(有料学芸会)が行われ、翌年には3度も開催して大きな利益を上げ、学校のメールたち修道女を驚かせ、喜ばせた。
千代田女学園(現:武蔵野大学附属千代田高等学院)
仏門の島地黙雷が仏教に基づく女子教育の実践を図り、明治21年(1888)女子文芸学舎を創立した。明治40年(1907)女子文芸学校と改称、43年(1910)、高等女学校令により千代田高等女学校、昭和2年(1927)千代田女学園とし、同年千代田女子専門学校を併設した。
当学園の歴史史料編の中に、昭和15年(1940)に作成された50年史において、12年(1937)7月の日中戦争(支那事変)開始から15年の秋までの「時局と学園」としての記録がある。序に「第一線に活躍せらるる皇軍将兵の勇武を感謝し…(一億国民)打って一丸となり銃後奉公の誠を致すことになった。わが学園においても……」とある。その中の活動状況を拾い出す。
12年(1937):陸軍省より依頼あり現地への慰問袋を4、5年生が二日間で二千個作成(この作業はその後も続く) /庭球部の夏季練習において炎天下で戦う兵士の労苦を思い、「暑い」との言葉に対する罰金を定め、それを陸軍省に献金/その他各学年別や卒業生などから様々の形で献金活動が行われる(註:中には軍用機献納資金のために新聞社に寄付などもある)/横須賀の海軍病院に慰問 /東京府知事よりの依頼で軍服の肩章や襟・裾章を約二万点以上、生徒600名が25日間で仕上げた。
13年(1938):専門家政科生徒が大東京女学生人形展覧会に出展し、その人形を傷病兵の慰問として贈呈 /卒業前の生徒に「銃後を守る家庭生活」の講演会開催 /国民精神総動員週間に従軍記者や従軍将校の実戦談を聞く /親鸞聖人の誕生会に合わせて中国戦線での戦利品や現地の様子、皇軍奮戦の姿などの展覧会開催 /愛国貯金の規約を設け、教職員と生徒が毎月貯金を開始
14年(1939):反毛報国運動として、不用の毛糸や生地を生徒の家庭から回収し寄付 /中国戦線の慰問団に生徒の一人が加わり舞踏を披露するほか、生徒の慰問文一千通を各前線の将兵に託した /「青少年学徒に賜りたる勅語」の奉戴式を挙行 /映画会を開催しその売り上げで医薬品を購入し前線兵士に送った /(支那事変)開戦二周年を記念し新聞社の主催する音信報国慰問状が都内女学生から3万通以上集められ、本校生徒が代表として陸海軍省を歴訪の上、手渡した。
15年(1940):戦没者のための忠霊塔建設資金として浄財を集めて寄付 /前年に閣議決定された毎月1日の興亜奉公日を徹底するため、全教員生徒を早朝に集め、国旗掲揚、国歌斉唱、宮城(皇居)遥拝、教育勅語の奉読など行われた。なおこの日は食事は一汁一菜とし、児童生徒の弁当は日の丸弁当とすること、他に一銭(現在の50円程度)の献金が求められた /開戦三周年を記念し校長の訓話の後、靖国神社に参拝 /航空日に陸海のパイロットへの慰問文400通を大日本航空婦人会に託す。
この後昭和15年(1940)の創立50周年式典で、校長は「非常時の真っ只中……われわれもまた大政翼賛会の一翼を荷い、国家に寄与すべきである」と述べ、翌16年(1941)12月8日に日本は太平洋戦争(軍政府は大東亜戦争とする)に突入し、校長は「戦さに勝ち抜け」と訓示した。この日に開戦の詔勅が発せられ、興亜奉公日は8日の大詔奉戴日へと変えられ、同様な儀式が行われた。大詔奉戴日とは、開戦に際して天皇が「開戦の詔勅」を発し、国民がそれを奉戴した日という意味である。明治以来、国の重要事はほぼ天皇の詔勅の形で発せられたが、そこに天皇の意志があったわけではなく、戦争の決定も同様であり、軍政府の提言を承認するという形であった。ちなみに明治天皇の教育勅語にしろ、上記14年(1939)の「青少年学徒に賜りたる勅語」にしろ、天皇の側近筋が書いたものである。
その後学生・生徒の負担は一層大きくなり、専門学校は3ヶ月の繰上げ卒業(労働力を少しでも早く確保するため)、翌年報国団結成、そして勤労報国隊、最終的には高女はこの年の入学生から5年制が4年制に短縮された。18年(1943)から勤労動員は本格的になり、凸版印刷で中国占領地用の軍票(紙幣)の印刷の点検作業、東芝川崎工場、立川飛行機、沖電気の品川と大塚工場、富士航空、海軍水路部で秘密文書の整理、陸軍省で戦死者の名簿整理などに動員された。飛行機部品の工場では8時間ずつ三交代もあり勉強どころではなかった。また卒業生による女子挺身隊が結成され、50名以上が工場や各区役所に配属された。
20年(1945)5月25日の山の手大空襲により、全校舎焼失、鉄筋校舎の構造のみが残った。蔵書を誇っていた図書館の書籍も全て焼けた。悲しむ余裕もなく翌日からも勤労動員は続けられ、学内動員の一二年生が焼け跡の片付けに精を出した。この5月25日が都内では最後の大空襲で(とはいえ敗戦間近の8月1−2日に八王子大空襲がある)、米軍は地方の都市に空襲を重ねていった。
8月6日と9日の広島・長崎への原爆投下によって、やっと日本は連合軍に求められていた降伏に同意し、15日の終戦後の翌月、学園は仮修理した鉄筋校舎で授業を再開した。専門学校生は姉妹校の保谷(現西東京市)の武蔵野女子学院(後の女子大学)の校舎を借りて9月初より授業を再開、疎開先や地方から日ごとに集ってくる同級生との再会でお互いの無事を確認し、歓声をあげて抱き合い、泣き笑いを繰り返したという。翌年不要になった隣接する中島飛行機の寮舎を借り受けて移り、4年後にそのまま籍が武蔵野女子学院に移された。
女子学院
明治23年(1890)、二つの米国キリスト教系女学校を統合し設立された。
日本が戦争に突き進む中で昭和13年(1938)、集団的勤労作業が義務化され、キリスト教系学校も近くの明治神宮、靖国神社、宮城外苑の清掃作業にせっせと通った。学院の歴史にある行事としては教育勅語の奉読、天長節(皇誕生日)式典、明治神宮、靖国神社への参拝、奉拝式などが目立ち、キリスト教的行事は自粛されていた。特に15年(1940)には皇紀2600年(神話上の神武天皇の即位の年を建国年としたもの)奉祝行事が各地で行われ、キリスト教系学校も青山学院(港区参照)において全国から2万人が集う奉祝信徒大会を開催、学院の教員と3、4、5年生が参加した。この戦時下ではキリスト教系学校も天皇崇拝は必須であり、日本は皇国の民としての自覚を持たされた。
昭和5年(1930)から始まった恒例の関西への修学旅行は昭和15年(1940)で打ち切られ、生徒の楽しみな行事が次々に廃止される中、16年(1941)には学校報国団が組織され、想定される空襲に備えた防空・防火訓練が行われるようになり、授業の中には修練と体練が必須とされ、敵性語として英語の授業が削られた。しかし学院は課外授業として英語の授業をなんとか継続した。この報国団の中に報国隊が編成され、これにより軍需工場などへの勤労動員が行われていく。
15年(1940)から反米国機運が高まり、「思想国防」として学院への圧力が強まり、16年(1941)にかけて米国系の宣教師兼教師は次々と帰国させられた。その中でも大正4年(1915)年に来日した老宣教師一人が残っていて、16年(1941)12月8日の対米英への宣戦布告の日、天皇の宣戦の詔勅を聞くためにチャペルに向かう生徒たちを廊下の隅で見送っていたという。放送終了後、当時の三谷民子校長は「悲しいことにミス・ダーティは敵国人となられましたが、決して決して敵ではありません」と説いた。生徒たちにとって愛情を持って教えを受け、帰国させられた米国人宣教師のことを思うと、その心中は複雑であったであろう。
半年後の太平洋上のミッドウェー海戦における日本艦隊の敗北あたりから次第に戦局が悪化していき、物資と労働力が一段と不足し、生徒の制服も廃止、それまで限られた期間で行われていた勤労動員は19年(1944)半ばから本格的な動員となった。この時期の女学生は戦時下の思想教育でお国のためとの「熱烈なる愛国心を燃やし」、例えば一番役に立つであろう中島飛行機工場への勤務を希望する生徒もいたが、教師たちが計らって比較的安全な中央電話局(NTT)や簡易保険局、名倉電気通信芝浦工場などを選んだ。
20年(1945)3月10日の東京大空襲では千代田区の被害は少なかったが、生徒が勤労動員する電話局で監督していた若い女性教師の教務日誌には「ああ今日は何と口惜しい日であろう……憎い憎いアメリカの跳梁下にあって……彼らは日本を焼土とするつもりでいるが、次の時代の我々はあのニューヨークの摩天楼を一本一本倒し、ホワイトハウスを叩き潰し…… 一人残らず殺してやる。若い我々が桃太郎になるのだ」と記してあり、生徒の回想では「何もかも捧げたいという気狂いじみた精神状態に置かれていた。それほど国を憂うる愛情が純真であった」とある。ただここには戦争に至った背景は全く考慮されず、教師も生徒も自分たちに反撃する「敵」に対する憎しみしか見えない。この学校が米国のキリスト教によって設立されたという由来もすでに意識されていない。
その後、5月25日の山の手大空襲で学校は灰燼に帰した。この時の火災で宿直教員の一人が殉職した。 しかし前月に三谷校長は死去していて、委託された校長代理が荻窪の東京女子大学から五教室を借り受け、翌月から授業は再開された。英語の授業も「敢然と」行われていた。それでも上級生の勤労動員は継続され、週に一度の帰校日とか、動員先の工場が焼けて仕事がなくなった生徒が教室に来ての挨拶は「お久しぶり、まだ生きてたの」であった。実際に楽しいおしゃべりをして「また明日ね」と別れた親友が、その夜自宅が空襲に遭い、焼死して二度と会えなかったと語った元女学生もいて、こうした光景は日常であった。
以下は女子学院の当時二年生14歳の生徒で、動員で簡易保険局に通っていた方の体験である。
—— 一歩家を出ればどこでどうなるかわからない戦時下、「これが今生の見納め」とか「お母さん、水盃」と半分真顔の冗談を言って食後に白湯を飲んで出かけた。焼けた死体を見たり死にそうな目にあったり、毎日死と直面して暮らしていると神経がマヒするらしい。最も感じやすい年頃の少女が、人の死に直面しても死体の山を眺めようとも平然として涙一滴出てこなかった。異常事態に出くわすと人間は耐え抜く知恵として、どこかの神経をマヒさせるものらしい。
毎日の出立ちは、母の着物で作った縞のズボン(モンペ)に学生服の上着、胸にはどこで爆死しても身元がわかるように、住所氏名、学校学年、血液型を記した氏名票を縫い付け、左肩からは救急袋、三角巾、止血棒、副え木、やっと手に入れた包帯や薬品、保存食の炒り米、炒り大豆の入った袋を掛け、右肩からは祖父の夏の紋付で作った防空頭巾を掛けていた。空色の麻布で中には座布団や綿入れを潰した綿や真綿をうんとこ入れて、爆風や破片には絶対という分厚な代物だった。これに水筒を加えて戦時下の三種の神器と言えるもので、誰もがどこへ行くのもこの格好だった。
私たちは一般局員さんと仕事をしながらも学徒の特権が許されていた。毎日の礼拝と週一回の帰校日である。女子学院も軍国主義の吹き荒れるなかで、礼拝を守ることで辛うじてその特色を保っていた。英語は敵国後であるとして追放され、髪型も女の子は刈り上げとされていたが、屋上の片隅で讃美歌を歌い、聖書を読み祈りを捧げると、学生であるとの誇りと共に、気狂いじみた世相の中で、その時だけ静謐感を味わった。
縁故を頼って疎開する友、罹災して地方へ去る友、登校の度にごっそり空席の目立つ教室になっていたが、誰もが貪るように学習した。私達は胃袋が飢え渇いている以上に頭脳と精神が飢え切っていた。勉強とはこんなに素晴らしいものなのかと講義を聞きながら何度目を見張ったことか。……超満員の電車、灯火管制でつけられない電灯、忙しい動員先の仕事、一寸先の命の保証もない生活、その合間に岩波文庫などを夢中で読み漁った。
(註:この方は新宿区牛込揚場に自宅があり、4月13日夜間の大空襲で家を失った)……焼け出されても当座は悲しいとも困ったとも思わなかった。むしろ「これで一人前になった。みんなの仲間入りをした」という気持ちの方が強かった(注:この気持ちは戦災の証言の中に散見され、自分の家だけ焼け残ると申し訳ないと思ったという)。東京中焼け野原、都民のほとんどが戦災者だったから。……母の死も学業の中絶も、弟妹になめさせる惨めさも、みんな戦災に遭ったればこそ、戦争の傷の深さ執拗さを今更に知った。名もない庶民の生活は戦争という激動の前に根こそぎ覆され翻弄され、もみくちゃにされて叩きつけられる。苦しみ辛さ、哀しみ嘆きだけが間違いなく舞い込む。それはもう何十年経っても癒しきれない。忘れようと努めても忘れられない痛みだけが。
(以上は『東京大空襲・戦災誌』第2巻より)
戦後、女子学院は校舎の再建がなかなか許可されず、資金の調達も困難を極めたが、昭和29年(1954)10月、前の校舎の基礎の上を使って起工し、翌年完成した。しかしその翌年、原因不明の火災で再度校舎が焼失し、改めて共立学園の教室を借り受け、その翌年鉄筋校舎を完成させた。
雙葉学園
明治5年(1872) 、フランスのサンモール修道会の5名が来日し、仁慈堂として孤児を収容し、横浜で布教を開始。8年(1875)、東京に築地語学校を開校し、教育の他、孤児や身寄りのない老人の世話をした。明治42年(1909年)メール・セン・テレースが現在の地を購入し、雙葉高等女学校を創立。翌年、雙葉女子尋常小学校、附属幼稚園を設立。(以下は主に『雙葉学園八十年の歩み』より)
<勤労奉仕から勤労動員へ>
日中戦争の始まった昭和12年(1937)から学生・生徒の勤労奉仕が義務化されたが、その6年前に始まった満州事変後から、軍の将兵への慰問袋や慰問文作りに女学生は打ち込み、昭和10年(1935)頃に慰問団が結成され、満州へ学校の代表が訪問し、それらを直接手渡すこともあった。学園では軍服の襟章製作や箒を担いで明治神宮、靖国神社、宮城(皇居)などで清掃を行った。一方でこの12年より防空・防火演習のほかに防毒実演を見学するとの記述がある(註:これはすでに日本軍は中国で毒ガス弾を使用している事実を裏付けるものである。実際に8年(1933)に国際連盟を脱退した日本は、中国のみならず世界を相手に戦争することも視野に入れていたのかもしれない)。
太平洋戦争に突入する16年(1941)には部活動などが学校報国団として組織し直され、勤労奉仕は軍事産業支援の勤労動員となり、軍人用の衣類や衛生材料に関わる作業をした。卒業していた女子は「同窓勤労報国隊」として修道院内で作業し、その後同窓挺身隊とされ、軍事関連工場に動員された。また他校と同様、田園調布に学校農園を所有し(現在の田園調布雙葉学園で、昭和8年:1933年に開設された孤児のための菫女学院小学校と修道院があった:世田谷区参照)、開墾、耕作、種蒔き、肥料やりなど交代で行なった。ただしここで作る食料は軍隊優先であった。
昭和に入る頃から、女学校では主に関西への修学旅行が盛んに行われたが、戦時体制が強化される15年(1940)を区切りとしてほぼ中止された。ただ当学園は16年(1941)から参拝鍛錬旅行との名目で伊勢神宮への参拝も組み込み継続したが、それも18年(1943)までであった。この頃から列車の編成が貨物本位になり、旅行自体が制限され、19年(1944)から個人に対して旅行証明書も必要とされた。
その18年(1943)には陸軍人事局で出征・戦死者名簿の作成等に従事したが、19年(1944)に入り学校の一部教室を工場とされ、五年生が海軍用機関銃の弾の品質検査をした。この他二年生が東京宝塚劇場で風船爆弾のパネル貼り作業に(劇場は20年:1945年1月27日昼の空襲で直撃され焼失)、三、四年生は他の工場に動員されたが旋盤機を任され、プレス機で指を挟んだり、目に金属の粉が入った生徒もいた。一年生だけがまともに授業を受け、夏休みもいくらかあったが、20年:1945年の春からは小学校以外の生徒たちは全面授業が停止され、勤労動員一色となった。また16年(1941)以降に入学した女学生は、5年制から4年制に短縮され、卒業は前年入学の5年生と一緒にされた。生徒たちはずっともんぺ姿の動員服で学校の制服を一度も着ることがなかったという。
<食料の確保>
このころの地方からの生徒は寄宿舎に住むのが普通であったが、食料の乏しい戦時下、寄宿生のためにシスターたちの食料確保は大変で、近くの土手でかぼちゃ作りはまだよいほうで、朝早く起きて千葉の海岸まで海苔などを拾いに行ったり、しかも生徒たちを優先するため、戦争の終盤彼女たちは栄養失調状態となり、顔もお腹も膨らんでいたという。また遠くに買い出しに行って食料を担いで帰る時に列車が工員で一杯で乗せてくれず、他の駅まで歩きながら必死の思いで帰ってきたとか、『八十年の歩み』の対談で語られている(註:乗せてくれなかったのは、当時の排外主義によるものではなかったか、実際に学園の小学生はキリスト教系という理由で学校の行き帰りにいじめにあったという)。
<学園の焼失>
昭和20年(1945)4月13日深夜、大空襲により全校舎と修道院が焼失。前日は少なくなった新入生の入学式、そしてこの日は始業式があった。校内にいた30人ほどのシスターたちは(3月10日の大空襲の見聞から)火が迫る中、手当たり次第に重要書類を持ち出し、土手下や防空壕に隠し、早めに避難した。しかしその以前から校舎の一部を接収、駐留していた陸軍約300人の部隊はそれより早くトラックで逃げた(軍の指揮官によって対応は違い、駐屯する学校の消火活動に必死に当たった部隊もある)。重要書類はほぼ焼失を免れたが、同時に陸軍が防空壕に持ち込んだ書類はその上で焼けた。他のエピソードとして、残してあったさつま芋が焼き芋になっていて、それを寝ずに動いていた腹ペコの理事長が食したとか(それをシスターたちが抗議したわけではない)、またある生徒の母親は家でご飯を炊き、おにぎりにして焼け跡に集うシスターたちに持って行って喜ばれたという話も残る。
校庭にはフランスから送られたジャンヌダルク像があったが、焼け残ったものの後日盗難被害に遭うと『八十年の歩み』にある(註:ただ白百合学園にも同じ石像があり、これは同じ時期に駐留していた軍隊に撤去されたとされていて、金属製ではないので盗難ではなく軍の排外主義によるものだろうと思われる)。
<シスターたちの抑留と敗戦>
実はこの時期、勤労動員は一校全体が一工場に改められ、当学園は岩崎通信機に行くことが決まっていた。そして校舎が被災した翌日の14日に生徒たちは動員された(註:非情という他ないが、これは仮に生徒個人の家が焼かれたとしても、その生徒は「お国のため」として翌日には勤労動員の工場へ出勤した。それがこの「非常時」のやり方であった)。その後、低学年生は上記田園調布の元菫学院の教室でわずかな授業が行われた。なおこの田園調布の施設は日米開戦直後の16年(1941)12月から外国人抑留施設として接収され、そこに学園の一部のシスターも抑留されていたが、抑留場所は軽井沢などにもあった。
動員先の工場も多くが焼け、岩崎通信も新潟への工場疎開を検討し、学園生も一緒にと言われて結論が出せないうちに終戦となった。田園調布には残っていた各国の神父やシスターが抑留されていて、天皇による終戦の放送を一緒に聞いた。ただ、何の正しい情報も得られない日本人シスターたちと違って、外国人神父やシスターは独自の情報網で戦況を正確に把握し、例えば日中戦争の南京虐殺の時も彼らは日本の新聞に書かれていることを日本人シスターに聞き、それは間違った報道だとして時々言い争いになったという。この敗戦(日本の降伏)の情報も彼女たちは数日前にすでに得ていた。
終戦後の9月から田園調布の狭い教室で、午前午後、あるいは隔日の二部制で授業が再開された。授業のない日は麹町の焼け跡に行って、レンガや瓦などの片付けをし、そこを耕して芋などを植え、土手に麦も作った。その後もバザーを開催しながら学校復興の資金集めをした。この土地は戦後田園調布雙葉学園となった。
<初等科(小学校)の集団疎開>
昭和19年(1944)に入って、やがて来ると想定された空襲に備え、政府により都市部の学童集団疎開が決定され、私学は自身で行先を探すことになった。そこで姉妹校である静岡の不二高等女学校(現静岡雙葉学園)に第一、第二の3−6年生合わせて184人を8月中旬に送ることになった。田園調布の菫学院からも合流した。不二の上級生も勤労動員で登校していず、その空いた教室などを宿舎にし、教室の木の床の上に古畳が敷かれた。冬になると寒かったが暖房はなかった。この時期、本校でも同じだが暖房用の鉄器はことごとく軍事用として供出されていたか、あるいは燃料がなかった。日々の食事は芋などの代用食が多かったが、それでも私学の場合、普通校の疎開生徒よりはいろんな面で手厚くされ、楽しみな行事も多くあった。
19年(1944)12月7日、 大きな大地の揺れが学校を襲った。紀伊半島東部から浜名湖沖までに及んだM7.9の津波を伴った東南海地震であるが、戦時下の報道管制で、国民にはほとんど報じられなかった。
19年(1944)11月24日より米軍による本格的空襲が開始されたが、東京への爆撃機B29の侵入経路に富士山を指標にするルートがあって、子供たちはしばしば空襲警報で深夜に起こされた。翌年3月9日、6年生は卒業式や進学の準備で帰京した。その深夜、日付が変わる頃に大空襲があり、江東区を中心とした下町地区が壊滅状態となり、生徒の一人が家族とともに焼死、静岡に残った妹一人が孤児となった。
静岡の街も空襲に脅かされるようになり、学校は各家庭に縁故疎開をするように求め、残った生徒24人を父兄の縁で青森県弘前に再疎開させることになった。すでに特急や急行列車が廃され、本数も減っていた中、6月10日に出発し、青森に着いたのは二日後の12日であった。渋谷区の小学校の生徒たちと合流した。そしてその一週間後の 6月19日夜間、空襲で不二高等女学校が全焼した。米軍はとにかく工場だけでなく、現代では国際的に非難されるべき学校への空爆が極めて多かった。敗戦が決まっても列車の優先順位もあって生徒たちはすぐには帰れず、10月22日に二日がかりでやっと帰京した。
麹町学園
明治38年(1905)、現在の地に麹町女学校が設立された。創立者は地質学者の大築佛郎で異色と言えるが、自立した女子の育成を目的とした。41年(1908)麹町高等女学校となる。
大正12年(1923)の関東大震災により校舎が全焼したが、昭和12年(1937)に地上4階・地下1階の鉄筋コンクリート造りで再建された。その年、日中戦争開始、翌年、時局を反映して鼓笛隊が誕生し、16年(1941)12月8日、太平洋戦争に突入、その翌年早々、シンガポール陥落の際には、全国的に祝賀ムードとなり、鼓笛隊も靖国神社から神田を経て皇居前を通り、銀座通りをパレードした。
この頃から昭和15年(1940)まで入学志願者は増えたが、生徒たちは各種の勤労奉仕に動員され始めた。陸軍病院の慰問、傷病兵用の白衣の裁縫、神社の清掃、慰問袋の作製などで、夏休みも交代でなされた。また花小金井に1800坪の学校農園が設けられ、これは他校も同様の動きがあって、食料も軍隊優先で食料増産の機運があり、生徒たちは農園に交代で通い、掘った芋は大切に持ち帰った。これも勤労奉仕の一環であったが、この農園は戦後も一層食糧難となったので役立った。
学校の教室には「身は戦場にあり」との文字が掲げられるようになり、女学校も戦時体制下に組み込まれて行き、戦争の前線で活躍する兵士たちに対する「銃後」の役割が課された。18年(1943)、校服が配給の国民服と紺のモンペ姿に変えさせられた。空襲に備えて服には学校名と住所氏名と血液型が縫いつけられ、夏でも防空頭巾を離さず救急袋を提げて登校した。同年4月発行の本校生徒名簿は「報国団員名簿」となっており、生徒は第1学年から第4学年までが「第一中隊」から「第四中隊」、そして各学年共4つのクラスが「第一小隊」から「第四小隊」というように組織され、軍隊式となった。防空演習も授業中に突然鳴り響くサイレンで、麴町小学校下まで避難する訓練などがしばしば行われた。
主な勤労動員先は雙葉・跡見の女生徒と共に東京宝塚劇場で風船爆弾(参照)の和紙のパネル貼りであった。他には海軍水路部、トキコ川崎工場、中島飛行機武蔵野製作所である。宝塚劇場では、中外火工品の工員として、朝8時から夕方5時まで勤務し、作業は大きな和紙をこんにゃく糊で貼り合わせ、直径10メートルもある風船の本体を作ることであった。冬はこんにゃく糊があまりにも冷たくて、しもやけの手がタラコのように腫れ上がったという。19年(1944)末からは毎日のように空襲が続き、危険な中での作業であったが、次第に疎開や帰郷する生徒も増え、生徒数は急速に減少していった。
20年(1945)5月25日の大空襲により大震災以来、校舎は全焼した。ただ鉄筋校舎は外側が焼け残り、これが学園復興の大きな力となった。
20年(1945)8月15日、この日は都内に戒厳令が布かれるかもしれないという学校からの通達で、勤労作業は珍しく休みだった。そして、生徒たちは家で終戦の放送を聞いた。すぐに学園の再興が校長をはじめとする学園関係者により精力的にスタートした。9月半ばには焼け残った鉄筋の校舎を改修し、授業が再開された。しかし窓ガラスも天井もない空間で、焼け残りの机と椅子をかき集め、焼けたトタン板で仕切って教室にした。教師も生徒もまだ疎開先から帰って来ないため、人数はごく少なかった。冬は雪が降ると教室の隅に机や椅子を寄せ、オーバーを着たままで授業がなされた。翌年2月にバラックの平屋建て仮校舎2教室が建てられ、生徒たちはやっと一息ついた。再建された鉄筋校舎は平成14年(2002)まで55年間使用された。
神田女学園
女子教育の必要性を考える初代東京市長他3名の協力で、苦学力行して東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)を卒業した竹澤里が校長となり、明治23年(1890)創立した。詳しい資料は見当たらないが、戦時下の女子校の置かれた状況は上記の他の学校と変わらない。
それまでの勤労奉仕に代わる本格的な勤労動員としては昭和16年(1941)10月より始まり、17年(1942)からは食糧不足を補うため、江戸川河川敷で農耕作業を行なった。また工場として転換された有楽町の日本劇場で風船爆弾(上記麹町学園参照)の気球部分の製造に従事した。
20年(1945)4月13日、深夜からの大空襲で、多大な犠牲者を出した3月10日の大空襲で焼け残っていた神田一帯が炎上し、当校も昭和10年(1935)に完成していた鉄筋3階建ての校舎が構造だけを残して全焼した。戦後、この校舎を修復し再興を計った。
文化学院
大正10年(1921)、西村伊作が歌人与謝野晶子夫妻、画家の石井柏亭氏らと御茶ノ水駿河台の地に開校。芸術や文学による人間教育を目指し、国の学校令によらない自由で独創的な学校として始まった。当初は女性だけであったが、2年後、中学部において日本で最初の男女共学を行った。これは日本初のことで、明治以来日本は小学校から男女別の授業を行っていた。美術面は石井が率いる二科会のメンバーが、文学面では与謝野夫妻の他に有島武郎、後には菊池寛、堀口大学、佐藤春夫等の錚々たる作家が加わり、音楽では山田耕作などが参画した。その他の学科として理系の数学や科学を取り入れたが、これは文芸系の与謝野晶子が、女性も積極的に理系を学ぶべきという考え方で導入した。2年後木造4階建ての校舎を増築したが、落成直後に関東大震災に遭い、ほとんどが焼失。残された新校舎の半地下室の基礎の上に再び木造2階建て校舎を建築した。また平成26年(2014)、経営上の問題で土地を売って墨田区に移転、そして4年後の30年(2018)閉校となった。なお下記の内容は閉校前年の筆者の記述であるが、惜しい学校を失ったことがわかる。
<豪華な教授陣>
昭和に入って(1925)4年制の中学部につづく大学部として本科と美術科を創設。教授陣もさらに充実を図り、仏文学の講座をはじめ、豊島与志雄、芥川竜之介等も講義。さらに菊池寛を文学部長に迎え、川端康成、横光利一、小林秀雄等が創作と文芸評論を担当、演劇の授業にも力を入れた。日本はすでに軍国主義の道を歩み始めていたが、その中で文化学院は自由主義の教育を続けて時勢を恐れず、後に治安維持法で検挙、投獄され獄死する哲学者の三木清や田中美知太郎、清水幾太郎の高名な学者も講義を担当した。
<戦時下の圧力と学院の抵抗>
昭和6年(1931)に満州事変に突入してからも文化学院は大正時代から続くモダンな文化を享受する雰囲気は色濃く残っていたと、この頃米国留学から帰ってきた西村の娘は回想している。ちなみに学院から米国への留学生は多かったようで、ニューヨークには学院のクラブもあったという。文芸会も英・仏語劇、音楽演奏などに外部から多彩な指導者を呼んで催した。
日中戦争の始まる昭和12年(1937)には講堂も新築され、著名人による公開講座を行い、その中には国際情勢を語る洋行帰りの講師もいて、夏は文化人の避暑地としてあった軽井沢でもその文化人(川端康成もいた)を使って公開講座や演劇会を催した。なおこれに参加していた舞台俳優の友田恭助は帰京直後に召集令状が届き、創立したばかりの文学座で歓送会を受け、入隊二週間後、中国上海郊外の渡河戦で37歳で戦死した。
同じ12年(1937)12月に日本が南京を攻撃している時、揚子江上の米軍艦船に日本海軍の飛行機が攻撃を加え3隻を沈没させ多数の死傷者を出した(パナイ号事件)。これは誤爆としてすぐに日本側は謝罪したが、国内でも「ある筋」から頼まれて文化学院の二世を含めた可愛い(見栄えのよい)女生徒7名が選ばれて、米国大使館に謝罪に行った。この頃はまだ日米はお互いを敵視していず、ことは一応収まった。しかしその後の日本軍の中国侵攻拡大に伴って次第に米英は日本に経済制裁を課すようになり、関係は悪化して行った。
12年(1937)から各学校に対し、勤労奉仕が義務付けられるようになったが、学院は高名な教師陣を揃え、生徒には名士や陸海軍将校の子女も多くいたことによる影響かどうか、戦時体制による勤労奉仕とか軍事教練などの締め付けはあまりなかった。
昭和15年(1940)には米英との関係が悪化し、在日の英米人は国外に排除されていった。またこの年は皇紀(神話上の神武天皇即位を紀元とする)2600年として国を挙げての祝賀会が重ねられたが、校長の西村が学院誌に記載した内容が当局の検閲に引っかかって、削除を命じられることがあった。その内容は、自分は記念日に大袈裟なお祭り騒ぎをするのは好きではないという主旨のもので、その後も一度削除騒動があった。ちなみにこの年に合わせて東京オリンピックが予定されていたが、日中戦争の拡大で欧米諸国の非難と物資不足もあり二年前に返上された。
一方で国の戦時体制に準じて学校の生き残りを図ろうとする創立以来の協力者の石井と、時局に煽られた学生や卒業生が非戦の立場を貫く西村校長に辞職を求め、監督官庁にも直訴し、校長は引退を勧告された(筆者注:いわゆる時局のプロパガンダに煽られた学生を含む人々の感覚がどれほどに戦争賛美のほうにゆがめられていたかがこれでもわかるであろう)。そこで彼は自分の校長としての辞職(校主は継続)と同時に石井たち旧来のメンバーの辞職を求め、16年(1941)、西村たちは退任し、校長は娘のアヤとなった。
その年の秋に文化祭や運動会が賑やかに開かれた後の12月8日、日本は真珠湾奇襲攻撃と東南アジア侵攻で米英に宣戦布告した。学院には負けるに決まっている戦争と思う者が多かったが、義務付けられている宮城遥拝や教育勅語奉読の行事を始めると同時に、特高警察が学内に入り、式辞や講義のメモを取ったりした。特高は生徒の家にも行き、西村の普段の言動を聴取した。生徒の一人は「先生は本当のことしかおっしゃいません」と答えたという。
昭和18年(1943)の入学式には校主の西村が入学式に姿を見せず、実はその早朝に特高の刑事に連行されていた。学校は平常通りに授業が継続されたが、徴兵年齢に達した学生や若い教師が次々と出征している時期であった。それでも5月に創立記念日の祝賀式が行われたが、学校が厳しい局面に置かれていることで、一時的に休校にしたほうがという意見もあった。
<学院強制閉鎖>
18年(1943)8月に入って西村は起訴され、続いて月末、突然都から文化学院に閉鎖命令が下った。理由はその教育方針が国是に合わず、国家的行事をおろそかにし、西村の精神講座の内容も国策に反するとされた。また男女共学制も指弾された。娘アヤの閉校の挨拶には「この我が国未曾有の重大事に当たり、君(天皇)のため国のため身を挺して働き抜き……時が来れば必ず再起して……我が国の文化高揚に尽くしたい」と書かれた。(閉鎖命令は私立向島高等女学校にも下されたが、そのまま廃校となり、その真相は不明)
この時期の西村が娘のアヤに宛てた私信には「私は時勢に追従しないで……文化学院は(時勢に)便乗せずに」、「今のあわてている政府にほめられて何がうれしい」、「評判のために教育するな」、「人間的教育が先行、国家戦時的のことは最後に」、「学生各自の考えによる自由な生活を与えねばならぬ」、「しばられた中で自由を求めて……その力によって国は生きる」、「民のもつ自由が少ないとき、国力が弱る」などがあり、生徒には「世の中があなたたちを戦争の方に引っ張ろうとしている、だからわたしはあなたたちを反対の方向に引っ張ろうとしている」と語り、これが漏れれば非国民と指弾されるばかりか、逮捕される発言であった。
このような西村のやり方に守られた学院は閉校まで本当に自由な雰囲気の中にあったようで、50年史に寄稿した元院生は多士済済で、全員が戦時下の中、戦時色のなかった楽しい学校生活を語っている。登下校する御茶ノ水駅でもその服装は目立っていたという。
その後、一転して学生たちは都の教育局が用意した他の学校に転校を割り当てられ、文学部男子25名は東洋大学と駒澤大学へ、女子32名は帝国女子(現相模女子大学)、千代田女子専門学校(現武蔵野大学附属)へ、美術部男子19名は帝国美術学校(現武蔵野美術大学)へ、女子は多摩帝国美術学校へ、女学部生たちは共立、大妻、小石川高等女学校などへ引き取られることになった。また文学・美術の三年以上は繰り上げ卒業とされた。
受け入れられた学校で学院の生徒たちは「非国民の学校から来たよそ者の生徒」として白眼視され、楽しい学校生活が暗い生活になったという。
<敗戦と解放>
閉校により、講堂は東亜研究所という軍の諜報部の書庫として(中身は占領した東南アジアから持ち込んだ書籍であった)、校舎は参謀本部の情報部となったが、捕虜収容所としても使われ、文化キャンプとも呼ばれた。この捕虜たちは「日の丸アワー」として日本に有利な短波放送を海外に向けて英語で流すため、大森の捕虜収容所(大田区参照)から適任者を選び出して転属させたもので、東南アジアなどの占領地から捕虜として連れてきていて、国籍は多様であった。18年(1943)の12月から20年の敗戦まで放送は続けられた。そして後にこの捕虜の中のオランダ人と西村の娘の一人(氏には子供が7人いた)が結婚した。
閉校に際して西村の持ち物や書籍、備品は苦労して品川の自宅に運ばれたが、これが裏目となり自宅は20年(1945)5月24日の城南大空襲で焼失、しかし校舎は残った。これは校舎が連合軍の捕虜収容所となっていたため(多い時で26人、米軍の情報収集は迅速で正確だった)、米軍は空爆を避けた。このような例は各所にあり、立教や明治学院のような米国系キリスト教学校もそうであり、米国系の聖路加病院も残された。駿河台のニコライ堂が残されたのも米露関係への配慮であったろう。中には誤爆もあったが、そのような建物以外は、一般に語られるように小学校などに対しても遠慮がない無差別爆撃であった。
終戦により校舎が返還され、不敬罪として一年の懲役の判決を受け、それに対して上告していた西村は未決のまま、解放された。空襲から残った校舎は一時的に他に貸与されたが、閉校から2年半後の翌21年(1946)4月から学校は再開され、400人近くが入学してきた。日本に住む外国人の子女や、戦前海外にいて帰国した子女もいた。すぐに以前のリベラルな雰囲気が戻り、占領米軍の若い軍人たちも学院に出入りするようになった。講師にも改めて多くの著名人が揃えられ、英語の講師には進駐軍の夫人や宣教師にも依頼するなど、自由で柔軟な学校経営を続けた。
ちなみにこの21年(1946)の3月末、14年(1939)に欧州に仕事で行き、戦争で帰国できずにいた西村の娘の一人が、終戦後の最初の引き揚げ船でイタリアから三ヶ月かかってマニラに着き、そこから日本の軍用船で浦賀に着き、浦賀沖で三日も待たされ、占領米軍に事情聴取されたのち解放されて戻って来た。
彼女は一般人として帰国できたが、まだアジアの激戦地に残されて帰れない兵士や、現地で拘留されて戦争裁判にかけられようとしている中級以下の将兵が多くいた。高級将校たちは特権を利用してさっさと帰国していた。
東京家政学院
創立者大江スミは文部省の命を受け4年間のイギリス留学の後、自分の理想とする女子教育を実践するため、大正12年(1923)に家政研究所を開設。二年後に東京家政学院(家政高等師範部・家政専修部・家事実習部)を開学。昭和14年(1939) 東京家政学院高等女学校とする。町田市の東京家政学院大学は昭和38年(1963)に設立された。(以下は主に五十年史より)
大江校長は人一倍愛国心が強く、祖国の繁栄を祈って戦時下の非常時に先頭に立って活動した。家政という性質上、男子の出征により人手不足となり、それでも食料増産に励まなければならなかった農村への勤労奉仕が多くなった。生徒たちはリュックサックの中に煮干、千代紙、手荷物を入れて背負い、片手に紙芝居の道具を下げて遠い山間僻地まで出かけて行った。
受け入れる農村の人々は東京の小娘に何ができるかとバカにしていたというが、生徒同士が協力し手分けして幼い子供を背負いつつ炊事に励む姿を見てすぐに感謝の心に変わった。農繁期の農村は集団で作業にあたり、その食事の準備は100人以上の単位であって、学校で数人分の料理を習っている場合とわけが違った。大釜でのご飯の炊き方も農婦の方に教えてもらいながら準備をした。また農家の人々が朝早くから夜遅くまで身を挺して働いている姿を見て、生徒たちも気持ちを奮い立たせて頑張った。深い井戸から水を汲みあげる作業も大変であった。昼間は子供たちに持参した紙芝居を読んで聞かせたり折り紙を教えた。大江校長が普段から私心を捨てて謙虚に振る舞うようにという指導もここで生かされた。むしろ農家で食べるご飯や新鮮な野菜の美味しさに驚かされたという。
いよいよ米国との戦争突入になる昭和16年(1941) には文部省からの指示で、学院の校友会は報国団に替えられ、軍隊のような報国隊が組織されたが、その時の誓詞が「私共報国団員一同は互いに親愛協力して団結を固くし、又心身を鍛錬して困苦欠乏に耐え得る力を養い、奉仕の精神を涵養し、以って銃後の守りをいよいよ強くし、進んで皇道を宣揚せんことを是に誓います」というのもであった。
家政系の学校はこの頃の「銃後の守り」の精神から応募者が増える傾向があり、学院は昭和11年(1936)に新築していた校舎の増築をした(結果的に三年後空襲で焼失した)。しかしそこに陸軍が駐屯してきて、丈夫な鉄筋校舎の屋上に高射砲が置かれた。おそらく皇居が近くにあったからで、皇居を空爆から守るためであろう。
工場への当初の勤労動員は凸版印刷で軍費用の貯蓄債券、占領する中国・満州で使う軍票(紙幣)の検査、菓子工場で子供に特配する菓子を詰める作業、陸軍省で戦死者や出征者の名簿の整理などであった(しかしこうして整理された名簿も敗戦直後に焼却されたと思われる)。
昭和19年(1944) の入学式は無事に終え、新入生は当初は授業と工場とされた学校内での落下傘作りが隔日に行われたが、すぐに勤労のみになった。心配した校長は日曜日に授業を行うことにしたが、疲れ切った生徒は居眠りするものが多く、6月に中止された。全体での動員先は中島飛行機武蔵野製作所、品川精機、精電舎、北辰電気、そして帝国ホテルの近くの軍の軍需管理部などであった。
19年(1944)11月24日より武蔵野の中島飛行機(当時日本最大の飛行機工場であった)を手始めとして米軍の本格的空襲が始まり、生徒たちは空襲警報で防空壕に避難しながら勤労に励んだ。年明けの1月27日昼、有楽町と銀座を中心としたB29の低空での機銃掃射を含めた爆撃により、生徒たちは軍需管理部から日比谷公園の防空壕に逃げ込んだ直後、近くの爆発でなぎ倒されたが生徒に死者はなかった。
さらに3月10日未明の大空襲の日、学校にはわずかな焼夷弾しか落とされなかったが、周辺から火が迫り、校長と職員は御真影(天皇・皇后の肖像写真で、これを失うと校長は責任を取らされた)と重要書類を持ち出せたものの、校舎は講堂を残して焼失した。学校には寮生約20名と宿直の4人の教員と用務員がいたが、全員無事に近所の小学校の集合地に到着し、校長は「皆無事で有り難い、これでよい」と繰り返した。(この日一時的に学校に避難してきた近所の老人が、一緒に逃げようとして一人引き返し、その後正座したままの焼死体で見つかったという)。ちなみに千代田区の学校の多くはこの日ではなく、5月25日の山の手大空襲で焼失した。
これにより学校の機能は世田谷の千歳寮に一時移転した。4月以降の空襲で動員先の多くの工場が焼け落ち、寮にいた地方出身者のほとんどは退学して帰郷した。ただ、中島飛行機の一部は工場疎開と言って会津若松へ移動し、担当の生徒たちも一緒に疎開ということになり、しかしそこでは24時間の丸一日交代勤務という過酷なものであった。
20年(1945)8月15日の終戦の翌月、専門部の繰上げ卒業が行われ、希望者には補習科が設けられた。10月より新学期として授業は再開されたが、千歳寮にはまだ一般の被災者もいて、授業は和室を含めた狭い部屋の中ですし詰めで行われ、後ろの壁では立ったままの生徒も多かったという。
校長は学校一丸となって資金をかき集め、九段の校舎の復興に着手したが、折からのインフレで机などの設備資金が足りず、頭を下げて生徒たちにアルバイトをお願いした。それに応えて生徒たちは早速いろんな形でアルバイトに精を出し、みんなで貯めたお金を持ち寄ったのは23年(1948)初春で、その少し前の年初に、すでに健康を害していた大江校長は死去していた。この時期の特に私学の校長は、このように戦時下の無理な活動で早く亡くなった方が多い。
〇 学徒勤労動員で中島飛行機武蔵野製作所に動員された東京家政学院の生徒たちの有志が、44年後の1989年、「中島跡地めぐり」をした後に座談会を行ったが、以下はその要旨である。
<空襲>
—— 初めての空襲の時(昭和20年11月24日)、近い防空壕に入ったところ、20人位入れる中学校用の壕で、当時は男女別になっていたから叱られて、それで1万人位入れる地下壕(大きな工場を縦横につなぐ地下道を兼ねたもの)に行った。すると少し後に壕が爆弾の直撃を受け、爆風で防空頭巾が飛ぶような目に遭い、苦しいのと熱いのとで入り口から出ようとすると、機銃掃射で撃たれて出ることもできず、中からは押されるし入り口近くで多くの人が倒れたりした。機銃掃射は(爆撃機B29ではなく、随行していた戦闘機によるもので)超低空でやってくるので、飛行士がニヤッとしている顔まで見え、倒れた人を見るとまた戻ってきてバババッとやる。とにかくいなくなるまで待って友達と一緒に麻布まで歩いて帰った。家に帰り着いたのは明け方の3−4時で、家族は中島がやられたと聞いてあの子は死んだと思っていたから、「お母さん」と言ったら母は腰を抜かしてしまった。—— 私も時々機銃掃射は夢に見る。飛行士は喜んでやっているように見えた。
—— 私は駆けるのが遅くてみんなが防空壕に入った後残っていると先生と主任さんが残られて、三人でいるところを戦闘機の機銃掃射にやられた。三人しかいないのに次から次へと急降下してきて狙い撃ちして来る。終わって助かったと思ったら、体が縮んでいた。身が縮む思いというのはこういうことかと思った。
—— 警戒警報が鳴るとすぐに飛行機がくるので防空壕まで走りきれない。道路に掘った屋根なしの防空壕に飛び込んだら、後から来た人にダメだと引っ張られて別の防空壕へ入った。帰りに見たらそこに爆弾が落ちて命拾いをした。
—— 男の先生が、ボール紙で作ったものに目盛りをつけて、飛行機が真正面に来て翼の両端がこの角度に入って爆弾を落としたら自分に落ちる、その範囲に入らなければ大丈夫と教えてくれた。そのうち音で自分たちに落ちるかどうかわかるようになった。ある時みんなが伏せたところに落ちて、地面の揺れがすごかったことが忘れられない。その時みんながわあーと泣いたり「お母さん!」と叫んだりしたが、戦地の兵隊さんもそうだと聞いていた。
—— 3月7日に疎開している母たちが帰ってくることになったので7、8日と工場を休んだ。9日の夜、休みたかったが友達が代わりに来てくれというので、6時半ごろ先に食事をして家を出て夜勤に行った。いつもだったら裏の階段から「行ってきます」と声をかけて出ていくのに、その日はお茶の間でみんなが食事をしているところをのぞいて「行ってきます」と。それが家族との最後だった。10日の朝、夜勤を終えて家に帰ってみると父母きょうだい一家7人全滅だった(東京大空襲の日、この一夜で10万人近くの人が大火災に巻かれて亡くなった)。今でも行方不明のままで、私の心の中では死んだとは思えていない。
<勤労作業>
—— 適性検査を受けて一ヶ月くらい訓練し、配属されたところが研磨版の職場で、二人で並んでやった。そこでオシャカを作ると煙がパッと出る。深夜勤務で眠いものだからやり損なってしまう。オシャカを作ると国賊のような気持ちになって神経がやられ中島病院に行ったこともある。…… 私の左足が痛いのは、その頃の神経痛じゃないかと思うけど、友達もそんなことで早死にしている。—— 私は耳が難聴になっている。工場で働いていた時の機械の音も原因だろうと医者に言われた。補聴器を使っても聞こえない。
—— 10分くらいの休息があるとコンクリートの上の荷物を入れる箱のところで横になって寝ていた。/私たちはコンベアの下にもぐって仮眠をとっていた。
—— 私の仕事は細い溝の面取りをしたり仕上げの磨きをすることで、後から検査をすると必ず肺湿潤と書かれた。それは中島飛行機でいつも粉を吸っていて胸に影ができていたことがわかった。
—— 私もサンドペーパーを手に持ってくるくる回してやって、それを自分の顔に向けているから、肺湿潤となった。
—— 私はジュラルミンの粉が入って、ひょう疽になった。
—— 「あなたたちは熟練工です。お嫁に行って苦しい時も役に立ちます」と先生が言われていたので一生懸命、いろんなことを覚えようとしていた。
—— 徴用工の人が寝ていて(憲兵に)殴られたのを見たことがある。その上で引っ張っていかれて南方や沖縄の戦地に行かされた。
—— 私が勉強をきっちりやったのは二年生までで、14歳から15歳にかけて動員されていたからあまり勉強はしていない。
—— 最後の頃はピストンの新しいのがなかった。それでも落ちた飛行機の部品を洗って作り直していた。
—— 敗戦の時もまだ勤めていた。ラジオを聞いてもよくわからず、「負けたんだ」と言われて「えっ、負けたんですか」という感じで、そのまま家に帰ってじわじわとわかってきた。負けて悲しいというよりも「ああ、終わった」という感じだった。
—— 私も明日から(空襲から)逃げなくていい、電気をつけられると思った。
—— それまですぐに逃げられるように普段着を着たままで寝ていたから。
—— 義兄は外務省にいたから本当のことがわかっていたようで、20年1月に召集令状が来て出て行く時に、姉に「この戦争は早ければ半年、遅くても秋には終わるから、生きていれば帰ってくる」と言っていた。だから負けた時はショックはなかったが、この先どうなるかと不安だった。
—— 事務員で給料はもらっていたが、戦時中は何も買うものがなかった。終戦で退職金ももらってみんな貯金していたが、戦後の金融封鎖で何もなくなった。
*聖心女子学院は渋谷区:聖心女子大学参照。