港区の大学・女学校

(当時の背景はトップの「戦時下の大学と戦争:概説」参照)

慶應義塾大学

 江戸時代より続く蘭学所を福沢諭吉が慶應4年=明治元年(1868)に慶應義塾と名付けて始まる。大正9年(1920)に早稲田大学と共に大学令に基づく最初の私立大学となった。以下は『慶應義塾百年史(中巻)』及び戦後50年を期にして調査された『共同研究:太平洋戦争と慶應義塾』その他からの抽出、要約である。

<戦時下の慶應義塾>

 私学の雄として早稲田大学とともに国の政策に影響され、とりわけ軍国主義が台頭する中では慶應の「独立自尊」の精神は保ちようがなかった。昭和6年(1931)の満州事変に続いて12年(1937)、日中戦争(支那事変=支那は中国の蔑称)が開始された年に、教育審議会が新たに設けられ、その基本は「皇国の道」を学校教育に一貫する精神とし、皇国民たる資質を錬成(修練)によって養成することを目的とした。これによって大学部の学則にも広範囲の改定があった。それまでの大学予科学則の中でもないものとして「修身」と「体操(教練)」があるが、13年からのものに目立つのは文系(文・法・経)のどの学科にも「明治文化史」が入っていること、また支那(中国)語、支那文学・哲学が必須として入っていることである。さらに太平洋戦争に突入する16年(1941)には各学部の学科に「国防学」を選択科目として新設、18年(1943)には「修身」と「体操(教練)」が、「道義」、「教練」、「体練」と変えられている。

 戦時体制が強化されるにつれて、不要不急とされる文系の整理統合が図られることになり、義塾の高等部、商工学校、商業学校(夜間)は19年(1944)度から生徒募集を停止、代わりに工業学校が設立された。ちなみに女子商業学校は強化された。

 これらの関係で上智大学商学部生55名、立教大学文学部生7名を義塾が引き取ったが、これは前年の学徒出陣で残った学生である。さらに文系学部の定員は半減され、その分工学部と医学部が増やされた。

 当時は天皇・皇后の御真影を各学校に奉戴することになっていて、義塾は他校に遅れて13年(1938)2月に下賜されることになった。これには特別な「奉安所」が必要であり、一教室を改装して奉安室とした。その日の儀式は厳粛荘重なものであったが、同時に教育勅語の謄本も下賜された(空襲が始まると責任者はこれらを袋に入れて背負って安全な防空壕に運んだりした。仮にこれを焼失させると大変な責任問題になった)。このことを中心としてこの時期の儀式は数多くあった。儀式が行われる都度に宮城(皇居)遥拝、国歌斉唱、勅語奉読、講話、万歳三唱など行われた。下記はおよその行事である。

 12年(1937)12月:大学・高等部で南京陥落祝賀式、祝賀行進で皇居と靖国神社参拝

 13年(1938)7月:日華(支那)事変一周年にあたり黙祷/ 11月:漢口陥落祝賀式及び行進

 14年(1939)5月:軍事教練の項参照。「青少年学徒に賜りたる勅語」が下賜される/ 9月:1日に興亜(日中戦争を軸としたアジア興隆を目指す)奉公日として行事が行われ、この後毎月となる

 15年(1940)10月:教育勅語渙発50年記念式/ 11月:皇紀2600年(神話上の神武天皇が即位したとされる年から)奉祝式

 16年(1941)9月:報国隊結成式/ 同12月:太平洋戦争(大東亜戦争)開戦の初戦祝捷と戦勝祈願大行進を挙行/同月:三ヶ月の繰り上げ卒業式が行われる

 17年(1942)1月8日:大詔(天皇による開戦の詔勅のこと)奉戴日の行事、以後興亜奉公日に代えて毎月8日に行われる/ 2月:シンガポール陥落祝賀式/ 12月:大東亜戦争一周年記念式

 18年(1943)9月:半年の繰り上げ卒業式/10月:出陣学徒壮行会が神宮競技場外苑で行われる/11月:塾生出陣壮行会

<治安維持法と慶應義塾>

 大正14年(1925)に治安維持法が公布され、それは国体(天皇を宗主とする国家の秩序・体制)の変革、そして私有財産制の否認(つまり共産主義思想)を目的とした結社の組織とその参加、またその事前準備・集会などを取り締まる法律で、昭和3年(1928)、緊急勅令で最高刑を死刑に変更、さらに太平洋戦争直前の16年(1941)に全面改正されて細部にわたって取締範囲の拡大が図られた。

 同じ大正14年(1925)に「陸軍現役将校配属令」が公布されると全学に軍の将校が常駐し、学生に対し軍事教練が課された。当時の学生は主義主張が活発で、この軍事教練に対しても反対運動が行われた。その結果大学の全国組織のリーダーであった当学の野呂栄太郎が逮捕された。卒業後彼は政治活動に身を入れたが、特に昭和6年(1931)、満州事変が勃発する年に文部省に学生思想問題調査委員会が設置され、思想統制が強化されていった中で、8年(1933)に野呂は再び特高警察に逮捕され、3ヶ月後拷問により獄死した。同じ年に小林多喜二も拷問死している。文部省は9年(1934)に学生部を廃して思想局を設置し、軍国主義の下、思想統制は思想弾圧の傾向を強めていった。この野呂と教師の立場で討論した小泉信三は野呂の才覚を認めて特別に研究の便宜を与えていたが、この年に塾長になった。

 学生ばかりではなく、昭和6年(1931)に義塾の教授や教員が中心となって「日本経済事情研究会」が大学公認で設立され、次第に社会主義的傾向となり、内外に組織を広げた。そして日中戦争突入後の13年(1938)、この会員29名が一挙に逮捕された。

 昭和12年(1937)、日中戦争が勃発した年に教学刷新に関する施策を強化するため、文部省は思想局を廃止して教学局を設置し、『国体の本義』(思想局時代に文部省が発刊)に基づく教学の振興に関する調査管理を行なった。これはまた学会の開催・思想情報の収集ならびに文化講義・諸印刷物の検閲・推薦書などを管轄し、引き続き『臣民の道』(臣民とは国民は天皇の臣下であるとの意味)、『国史概説』などを刊行した。仮にこの教学局が異端思想と判断すれば、特高警察に連絡が行き、学生のみならず教授も尋問を受け、治安維持法に基づいて大小の処分を受けることになる。この翌13年(1938)国民の労働力と物資を戦争遂行に向けるために、国家総動員法が制定された。

 三田新聞は学生新聞の先駆け的なもので、大正時代に創刊され、大学からも認められてその補助も受けていた。この戦時下の論調は時局に批判的な記事も掲載し、必ずしも小泉塾長の意向を汲むものではなかったというが(その後の太平洋戦争突入後、小泉は学生を積極的に戦線に送りだす立場になる)、15年(1940)には二度も多くの検挙者を出した。その後編集部は特高警察に常時監視された。このほか文芸同好会、演劇部なども摘発された。ただ三田新聞は19年(1944)5月10日号をもって、紙不足などの理由により休刊した(他校も事情は同じである)。

 特高警察は当時の国体思想を基本とした軍国主義に逆らう危険思想の取り締まりを主とし、そのための治安維持法があった。その特高により14年(1939)に慶大生の「左翼組織図表」が機密資料として作成されている。その中に上記の経済研究会の構成員リストもあり、各グループ別に百数十人がリストアップされていた。これを作成するためだけでも、どれだけの学生たちが尋問され自白を強要されたか知れない。

 大学では「国防学」など時流にかなうものも次々と開講されたが、18年(1943)、経済学部の助手が自宅その他で学生にマルクス経済学の啓蒙をしたとしてトラック一杯分の書物とともに検挙され投獄された。(注:前年には出版社にいた卒業生が冤罪で検挙され、拷問を受け獄死している:横浜事件)

 この治安維持法による検挙数は敗戦までの20年間で実に数十万人とされ、送検7万5681名、拷問、虐待などによる獄死は1600名以上、虐殺90名、実刑は5162名に上る(2012年の国会請願資料による)。実はこのような弾圧による被害を受けたケースで、その被害国民に対して戦後賠償を実施していないのは先進国では日本だけであり、これは空襲被害者や戦災孤児についても全く同様である。

<思想統制下の慶大生>

 学内の授業内容も窮屈なものになってきた。「”社会”という言葉は使われず、”厚生”という言葉にされ、社会政策は厚生政策とされた」、「教授が多少米国寄りの話をしたら、一学生が”不謹慎な発言だ”と叫び、教授は釈明に汗を流した」、「金融研究会における発表会に三田警察署の特高が聴講していた」、「卒業論文に”帝国主義の植民活動”を選んだら指導教授から注意があり、内容を変更した」等である。

 部活動の「集会」も危険視された。「福沢研究会で山行きの相談をしていると隣の部屋に三田署の刑事が来て様子を伺っていた」、「弁論部にいただけで友人が警察に留置された」、「”文芸同好会”というサークルを作っただけで顧問をお願いした先生に左翼活動ではないかと疑われた」、「新橋の喫茶店の二階で劇研の集まりをしていたら官憲に踏み込まれた」、「社会学研究会で英語の原書の持ち歩きが危険ということで、タイプに打って持ち歩いた」、「戯曲の上演は事前に警察の検閲を受けなければならなかった」、「音楽も米英のものは制限があった。ただ警察官はたとえ同盟国のドイツの曲でもわからなかった」、「野球・テニスは柔・剣・弓道に比較され、抑圧された」等々、きりがない。

 普段の生活上でも学生たちは監視の対象であった。「銀座の喫茶店で紅茶を飲んでいたら警察に連れて行かれ、この非常時にけしからんと説教された」、「下宿に特高がやってきて書棚にマルクス経済学の本があるというだけで取り調べを受け、三日間留置された」、「下宿で5、6人の同級生と集まって談笑していたら特高に踏み込まれた」、「太平洋戦争の始まる直前の寒い日の早朝6時前、突然私服の刑事二人が入ってきて本棚をあさり、5、6冊の本を持ち出し、三田署まで連行され、特高刑事に休みなしに夜8時まで調べられた。本は戻ってこなかった」(この時期学生にも密告が奨励されていた)、「女友達と散策中、私服刑事に捕まって交番に連れ込まれ、”学生の徴兵猶予の特権を取り消してやる”と言われた」、「妹と銀座を歩いていて築地署に引っ張られた」、「帰省の列車の中では度々私服の特高刑事が乗り込んできてカバンの所持品を検査され、特に本の内容を調べられた」、「電車の中で赤い表紙の本を持っていただけで刑事に尋問された」等々。

 この他、卒業式の日、「慶應義塾から自由の旗が消え、鉄砲現わる」と書いたビラが貼られ、配属将校が卒業生みなを大講堂に集め、目の色を変えて首謀者探しに懸命になったという話、また一流新聞が、三田図書館の自由の女神のステンドグラスを取り上げ、これを取り外すべきと論じていたとある。当時の新聞は一流であればあるほど軍政府の御用新聞となっていて、都合の悪いことは報道しなかった。でなければ即座に発行停止になってしまうからである。

 今ひとつの例として、当時の陸軍の教科書では福沢諭吉が批判されていて、その中で、西洋思想導入はわが国本来の精神と相反するもので、「天は人の上に人を造らず」という平等主義は、天皇親政の本義を没却し君臣の関係を歪めるものであるとしている。そのため学徒兵として入営したばかりの軍隊では慶大出身者と言うと「福沢は日本に自由主義を導入した国賊である。その国賊の学校を出た貴様を叩き直す」と教官に言われていきなり拳骨で殴られ、竹刀で打たれたりしたこともあったという。勤労動員先でも監視の軍人がいて、慶大生が同じような目にあうのを女学生が見ている。

<日米学生会議>

 満州事変を発端として日本が国際連盟を脱退する等、日本の国際的な立場を憂う学生独自の危機意識により、大学生の発案により、昭和8年(1933)秋に米国に代表団を送り、翌9年(1934)に日米学生会議の開催を決定、第一回を青山学院で開催し、毎年場所を日米交互にし、13年(1938)、第五回が慶應日吉校舎で開催された。15年(1940)、第七回まで続けられたが、その後は日米間が緊迫した状況となり停止された。この詳細については早稲田大学と青山学院の同項参照。

<軍事教練>

 学校教練は陸軍の配属将校によって大正時代末から行われたが、この教練に合格したものは幹部候補生志願の資格が与えられたり、入営してからの訓練期間を短縮できるなどの特典があった。また教練は正課として位置付けられ、野外演習では実弾の練習もあった。当初はまだ全員ではなく選択制であったり、学生服のままの演習であったりしたが、昭和6年(1931)の満州事変から強化され、12年(1937)の日中戦争からは全学生に必須として課された。この時期は他校と違って海軍関係の教練と講習が主体のようである。14年(1939)5月、学校への陸軍現役将校配属令公布15周年記念として、皇居前広場に3万人を超える学生生徒が集められ、その観閲式に当学も塾長以下約500名が参加した。

 16年(1941)12月の太平洋戦争突入直前に改定された学校教練の目的は「学生生徒に軍事的基礎訓練を施し至誠尽忠の精神培養を根本」とし、国防能力の増進を図るものとした。19年(1944)に入り、軍政府はさらに「学徒軍事教育強化要綱」を発し、「実践即応の軍事訓練を施し、皇軍初級士官たるに必要なる軍事の基礎能力を付与し」と、学校は軍人養成学校の趣きを帯びてきた。しかしこの年からすでに軍需工場への勤労動員は通年となり、教練の強化自体が難しくなり、配属将校も戦線に行けない老齢の将校に代えられるようになり、形骸化してきた。その結果、これらの教練は地域単位となり、学生も勤労動員先工場の地域で教練が行われるようになった。また教師も付き添いで工場に行っていて、その僅かな合間に授業を行うこともあったが、20年(1945)にはそのわずかな授業も削られ、武器などの生産活動一筋になった。

<学徒出陣>

 戦局が悪化し、なおも戦線を拡大したままで各地で玉砕の報が国内にも漏れ伝わるようになってきた。そこで16年(1941)からの繰り上げ卒業を実施して早めに学生を卒業させて戦地に送る体制を作っていたが、それでも間に合わないとし、軍政府は18年(1943)、学生の徴兵猶予(26歳まで)を解除し、20歳に達しているものを学生のまま徴兵することに決し(ただし理工、医学部は猶予継続)、10月2日に勅命として発令、関東地区は10月21日に明治神宮外苑競技場において2.5万人の召集した学生(および9月に繰り上げ卒業させた若者たち)を集め、盛大に出陣学徒壮行会が行われることになった。観覧席には女学生5万人を含めた6.5万人が動員された。

 出陣式では東条首相等の壮行の辞の後、慶應の医学生が壮行の辞を述べた。「我々も諸兄に続いて召されていく日を想うと、湧き上がる感激に連なるものであります。我々は…選ばれたる学徒であると共に、立派な兵士であることを自負する」と。これに対する東大生の答辞は「生等、もとより生還を期せず。在学学徒諸君もまた遠からずして生等に続き屍を乗り越え…」と激烈なものであった。式を終え、学徒たちは宮城(皇居)前まで行軍を行った。

 この一ヶ月後の11月23日、塾全体の壮行会が行われ、三千余名の出陣学徒を中心に教職員と関係者、父兄、在校生が参集し、国歌斉唱等の儀礼の後、小泉塾長の訓示、在学生の送辞と出陣塾生の答辞、塾歌の斉唱、そして新作の出陣壮行歌二種等多彩な行事の後、出陣学徒は紅白の祝餅を贈られ、隊列を組んで福沢諭吉の墓に詣でた。そこに向かう時、門の付近で両側に教授、職員達に両側に並んで見送られたが、一人の教授が目に涙をいっぱい浮かべ、「帰ってくるんだよ!」と叫んだ。ただ、こういう言葉も簡単に言えなかった時代であるが、学生達の心情を思いやってのことであろう。翌月、学徒たちは本籍地に帰って手続きし、徴兵検査を受けて入営した。

 筆者私見:この時期は著名な教授や作詞家たちが複数の壮行歌などを作っているが、すべては祝事としてなされ、事実三田新聞には「祝塾生諸君出陣」と大きくタイトルをつけている。すでに地位があって身が安全な送る立場の人間にとって、どのような修飾語でも簡単に使って作れるが、学生たちをもっともらしく鼓舞する様々な言葉の連なりを見ると、言葉ほど無責任なものはないように思える。帰還してこなかった学徒たちに対して、彼らは戦後になってどういう思いで偉そうに社会活動をしていたのであろうか。一番の問題は、軍政府が単細胞的頭脳をもってして始めた戦争に対し、年配の知性と良識ある人たち、あるいは教師たちが、それに沿って戦争に意味づけをし、結果的に軍国主義政策のサポートをしてしまうことである。下記は壮行会に向けてその名士たちが慶應義塾出陣学徒のためにと作った数種の歌の一部である。

 「… 学びの友よ いざさらば/大詔(天皇のみことのり)燦とかがやくを/学徒の力 これを見よや/出で征く心 火と燃ゆる…大義に生きる 日本の/久遠の歴史 うけつぎて/いま光栄の 時きたる」
 「… 鐘が鳴る鳴る 歴史の鐘が/いつも御国の御業に添うて/おくれとらぬが 義塾の誇/征くぞそろひの 赤だすき…本も閉じたよ ノートも置いた/明日はこの手で 銃剣執って/生命捧げて やり抜く覚悟」
 「… 汝が命 生けらむ限り、いそしみていさをを立てよ/国の為——、民族のため——、虔々(うやうや)し、勅(みこと)のまにま——/…出で立ちの 汝が姿 喜び守る」

 今後もし戦争を起こすなら、この種の歌を作らせ、またそれに応じて格好良く作れる人をこそ真っ先に戦場に送るべきであろう。

 この学徒出陣により徴兵検査を受けた塾生は学部、予科、高等部合わせて4268名、実際に4月半ばまでに入営したものは3千数100名とされる。しかし大学と予科の理・工学部(藤原工業大学も含める)、医学、薬学、農学部と高等部の理科は徴兵検査だけで徴兵猶予は継続された。そして翌19年(1944)には徴兵年齢が19歳に下げられる。

 一方、当時慶應には70名の朝鮮・台湾留学生がいたが、彼らも特別志願兵として応召するように勧められ、もし応じなければ退学するか帰国するように仕向けられた。

 この頃すでに学内では、卒業生や教師、体育会、医学部卒の軍医などの戦没追悼式がしきりに行われていて、学徒出陣に重なる18年(1943)11月20日には戦没者245名の合同慰霊祭が行われた。この戦没者の数が、この後の終戦まで2年しない間に10倍近くの数になるだろうとは誰も予想していなかったであろう。

<早慶戦>

 戦前から盛んに行われていた東京六大学野球は、18年(1943)春に文部省より解散を命じられ、名物の早慶戦も中止された。しかし出征を間近にした学生たちが野球部長を説得し、そして塾長小泉の賛同を得て、早慶壮行試合として早大野球部に試合を申し込んだ。しかし早大の総長が時局を気にして難色を示し、さらに早大の野球部長も説得したが良い返事がなく、最終的に黙認の形で10月16日、早稲田の戸塚球場で決行した。小泉も応援に駆けつけ、学生と一緒の席で応援した。試合は大差で早稲田の勝利となったが、実は早稲田の学生の方がこの試合を諦めずに練習に励み、慶應の方は諦めてほぼ解散の状態にあったという。早稲田の野球部からは小泉塾長と野球部長に謝意が述べられている。そしてその5日後に学生たちは上記の出陣式に臨み、戦地に赴いた。この日の早稲田の部員のうち、5名が戦死した。(早稲田大学参照)

<学徒勤労動員/報国団/報国隊/学徒隊>

 12年(1937)の日中戦争開始ののち、国民精神総動員運動が起こされ、学生生徒に集団勤労作業が義務付けられ、夏休みなどを利用して行われ、当初は学校の内外や神社の整備・清掃などであった。そのうち休暇時だけでなく普段の日も行われるようになるが、当学で目立った作業は14年(1939)秋に約2500人を動員して、日吉の校地の谷間に狭窄射撃場(狭い場所に相応の弾丸を使って実射訓練する)を作ったことであろう。またこれは男子大学全般で行われたことであるが、文部省教学局主催で興亜青年勤労報国隊が組織され、全国から6千名以上の学生を集め、14年(1939)7月上旬から8月下旬まで占領地満州や中国の占領地域で国防建設、文化工作等を交代で行い、当学では40名が参加した。翌年は興亜学生勤労報国隊として赴いている。

 この他、食糧事情が悪化していく中、目黒区役所裏の空地を借り受け、学校農場として開梱する作業、宮城(皇居)外苑整備作業、板橋の東京陸軍兵器補給廠や赤羽の陸軍被服本廠での奉仕活動もあった。16年(1941)2月には「青少年学徒食糧増産運動実施要綱」も発令されている。

 16年(1941)夏、文部省により学校報国団の体制確立に関する指示があり、これは学友会などをその体制の中に組み込むものであったが、その行動隊として軍隊組織に倣った報国隊が組織され、これによって正規の勤労動員の振り分けがなされ、これ以降は原則的に民間も含めた軍需工場での勤労奉仕はなくなり有給の勤労動員となる。例えば9月からの赤羽の東京陸軍兵器補給廠での勤労は砲弾に火薬を詰める作業であったが、給与の形で報奨金が支払われている。陸軍被服本廠でも同様である。17年(1942)には数百名単位で各地の工場に出向くようになった。

 18年(1943)6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」が発せられ、「学徒尽忠の至誠を傾け、その総力を戦力増強に結集」せんとした。その実施に関しては「あくまで教育錬成内容の一環として」、「単なる労力提供に」終わらないようにとあるが、どこまでも建前としての言葉を並べて虚しく語っているだけで、19年(1944)には「勤労即教育」などという理に合わない言葉をスローガンにする。

 18年(1943)以降の学生の夏休みはほぼないに等しく、低学年は夏期修練として防空訓練や各種作業、体練、勤労講習が行われたようであるが、他は土木工事や農耕作業、建築工事が主で、その動員先は静岡県が一番多く、その他栃木県、茨城県、千葉県、神奈川県の村落などへ全体で二千数百名である。ただ、全く外れて樺太へ240名(鉄道土木工事)へ丸40日間というのがある。都下と横浜の軍需工場へは約350名が4ヶ所に別れて通っている。夏休み以降は数十名ずつが各所に分散され動員されているが、その中に10月から1ヶ月、1、2年の低学年生が北海道に出動している。これは北海道援農隊で、他校でも年に一度やっていた。一方で日吉の予科学生や高等部、学部の低学年生が10月下旬、1500名集められ、埼玉県児玉郡の三つの村に分宿し、芋掘り、麦播き、稲刈りに従事している。

 19年(1944)、前年秋の学徒出陣を契機に「教育実践の一環として学徒の戦時勤労動員を高度に強化し」、年に最低4ヶ月の勤労動員が課されることになり、年初の「緊急学徒勤労動員方策要綱」でそれを具体化した。ここで勤労即教育という言葉が打ち出される。言葉は使い様である。しかし2月末になるとその決定もひっくり返され、「決戦非常措置要綱」を打ち出し、「今後一年、常時これを勤労その他の非常任務に出動せしめ得る組織体制に置く」とした。いわゆる通年動員である。またこれまで学業優先の扱いを受けていた理・工・農・医学関係の学徒も、その技術を活用できる工場等に動員されることになった。ちなみにその後の4月の通達で、「学徒の勤労動員は学徒の教育実践として行う勤労協力なる理念に徹し、作業上をして行学一体の道場たらしむること」とあり、この時期の一連の軍政府の生み出す言葉は欺瞞に満ちた言葉の連鎖となる。

 19年(1944)の当学の勤労動員先は多岐にわたる。大半は東京から横浜までの軍需工場であるが、別に静岡、埼玉、栃木、遠くは岩手県まで行って土木工事や農作業をしている。軍需工場では特別に愛知県の豊川海軍工廠の宿舎に泊まっての動員が継続的に行われている。他にも東京のいくつかの大学も行っているが、ここは戦争末期、つまり敗戦直前の20年(1945)8月7日に大空襲を受け、全体で2600名以上、勤労学徒は女子も含めて約450名がなくなっている。当学は早めに引き上げていて難を免れた。ただし、この19年(1944)、塾生が一人事故死している。

 20年(1945)の勤労動員先も基本は同様だが、1月下旬に195名が名古屋の三菱航空機に動員され、到着した翌日に空襲を受け、宿舎も焼けたので引き上げたという。3月10日に東京大空襲があり、それを見て政府は「決戦教育措置要綱」を発し、小学校を除いた中学校以上の授業を一年間停止すると通達した。つまり勤労動員はそのまま継続された。この年は医学部、工学部の動員が多くなっている。変わった例では、工学部の約50名が茨城県の海軍工廠に動員されているが、これは学部所有の機械が軍に徴用され、その機械の疎開に伴って移動したのだという。他に学部の文系一年生約350名が、北海道援農隊として4箇所の村に分宿して農作業に従事しているが、5月から終戦後の10月初旬まで長きに渡る。農業は戦後も食糧不足が続き、継続は大事なことであったが、おそらく疎開児童と同様に戦後の混乱で交通事情が難しく、帰京できなかったと思われる。

 国内では米軍による空襲以外に、20年(1945)3月26日に米英豪連合軍が沖縄に対しまず空から攻撃を開始、一週間後に上陸作戦をとり、本土防衛の前哨戦としていた日本軍との戦いが始まった。これを受けて政府は5月22日、戦時教育令を発し、「食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究等戦時に緊切なる要務に挺身せしむる共に、戦時に緊要なる教育訓練を行う為、学校毎に教職員及学徒を以て学徒隊を組織し、地域毎に学徒隊を以てその連合体を組織するものとし」、「戦時に際し特に必要あるときは学徒にして徴集、召集等の事由により、軍人(陸海軍の学生生徒を含む)となり、戦時に緊切なる要務に挺身して死亡し、もしくは傷痍を受け…るものは文部大臣の定むる所に依り正規の期間在学せず又は正規の試験を受けざる場合と雖も之を卒業…せしむることを得」とあり、要は本土決戦になれば、徴集、召集するから学徒隊として戦闘員になり、もし死んだり負傷したとしても文部大臣の権限で、在学期間の不足があろうとまた試験など受けなくても卒業の手続きをとってやるから心配するな、と書いている。

 ひどい話であるが、実際にこの通り沖縄では学徒たちは中学生、女学生も含めて戦闘員にされ、一般住民もまるごと戦火に巻き込まれ、3ヶ月後の6月23日に司令官が自決し、戦闘は終わった。そして敵味方合わせて20万人を超える戦死者が出て、その半数が学徒を含む一般住民であり、その中で軍部の間違った指導により女学生を含む多くの自決者も出た。そしてこの多大な犠牲者を出してもなお軍政府は本土決戦を叫び(各新聞社も同じように煽った)、7月26日に連合軍のポツダム宣言で無条件降伏を求められてもなお無視を決め込み、8月6、9日の広島・長崎の原爆でやはり20万以上の犠牲者を出し、やっと「大本営」は敗戦を認め、降伏に傾いた。

 実はそのポツダム宣言の10日ほど前に、米国は初の原爆実験を終えたばかりで、日本が降伏を拒否したことはその原爆を実際に使える格好の機会を米国に与えたことはあまり知られていないし、ソ連(ロシア)軍にも8月8日、満州に侵攻する機会を与え、大きな悲劇を産むことになった。

<学校建物の軍の接収、重要図書その他の疎開、戦災>

 学徒出陣と勤労動員で閑散とした校内に、軍関係の施設が入ってくることになった。昭和19年(1944)3月、海軍軍令部が予科の日吉校舎を接収、広大な地下壕を造成し、連合艦隊司令部としても使用した。もともと日吉校舎の寄宿舎は、北・中・南の3棟から成るコンクリート造りで、最新の床暖房、水洗式トイレを完備し、食堂や談話室もあって司令部が使うには最適であった。同年6月には三田山上南側教室が東部第六部隊に、7月に三田校内の一部が三田警察署と芝区役所の防空壕用地に、8月に三田網町の亜細亜研究所校内の一部が三田警防団と芝消防署の器材と自動車収容用地として、8月には渋谷の幼稚舎が海軍技術研究所に、10月には憲兵隊の教練所として、また教室の一部を中央無線講習所として、翌20年(1945)には保険会社他5社に各教室が貸しつけられた。なお日吉の連合艦隊司令部は、ここから海軍のすべての作戦を指揮、つまり戦艦大和から特攻「桜花」、人間魚雷「回天」、特攻艇「震洋」などの出撃を司った。

 慶應は予測される空襲に備えて重要書類の疎開を19年(1944)夏頃から準備し、山梨や長野に順次運んで行き、11月下旬より空襲は始まったが翌年3月までにおよそ終えた。一方で同じ疎開という言葉が使われたが、この時期政府の指示による建物疎開があり、建物が密集した地域で延焼を防ぐために建物を取り壊しての間引きが行われ、慶應内でも木造の倉庫や食堂、研究室、校舎の一部等の建物を取り壊したが、この中に旧福沢邸もあった。これらは主に4月半ばから5月半ばまで行われ、5月24-25日の連日の大空襲があった際には多少の効果があったというが、取り壊したままの木材はほぼ焼失した。三田の大講堂を含め建物の6割近くが焼失した。

 20年(1945)3月10日の下町大空襲に続く5月の山の手空襲で教職員の罹災者が多くなり、学内の施設に収容する傍ら、新たに大きな家屋一棟を借り入れたり、福沢邸にも収容し、家族ごと受け入れた。ただ、教職員も地方に疎開するものが少なくなかった。

<慶應医学部>

 戦時下の医学部生は文科系とは異なり特別な扱いを受けたが、奉仕としての医療活動を多く行なっている。その中でも勤労作業・動員に医療班として同行する場合も多々あった。そうした中で特に日本の占領地での活動が多くなっている。満州はすでに日本の植民地としてあったが、14年(1939)その地で活動する青少年義勇軍の訓練所の伝染病の予防、衛生思想の普及に行ったり、満州移住協会の招きで各大学医学生からなる学生衛生隊として派遣されたり、興亜青年勤労報国隊に随行して行ったりした。当学独自の行動としては、陸海軍部隊が奇襲攻撃で占領したばかりの中国海南島に医療奉仕隊を結成して赴き、予想以上の成果をあげたとある。それは翌年も行われた。この年も同じような形で満州にも行っているが、すでに軍隊ばかりでなく移住者のための軍医も多く常駐していたはずで、報国隊や義勇軍への随行が主だったようである。16年(1941)もほぼ同様で、春休みを使って台湾や南洋諸島に実習に行っている。これとは別に16年(1941)から国内の無医村に主に夏休みを使って分散して各地に行ったが、これは三年間続けられた。

 戦線の拡大とともに軍医が不足し、民間からも召集されていて地方の医師も足りなくなって、昭和14年(1939)、政府は国公立医大13校に即成用の臨時医学専門部の設立を要請し翌年開校、18年(1943)には私立医大にも要請され慶應医学部も付属医学専門部として翌年春に開校、100名を入学させた。同時に民間の医師不足解消を目指して女子医科専門学校が7校開設された。(医学部生は勤労動員に参加することはなかったが、この医専の学生は短期的に動員されている)

 それでも足りないと、歯科医学専門学校卒業者を再教育して医師の資格を与えるとして、文部省は慶應医学部と慈恵医大にその教育を依頼してきた。そこで改めて老若の志願者500名以上から、160名を試験で選抜し、20年(1945)4月から講義と実習を行った。しかし5月24日未明の空襲により四谷の施設が6割焼失し、医学専門部は山形県に疎開した。この山形には19年(1944)4月から多くの研究器材、資材を山形県大石田町に順次疎開させていて、それもあって空襲後、すぐに学生たち270名を送り込むことができた。ただし緊急を要するこの臨時科は疎開せずに夏期休暇もなしに授業を続けた。しかし、8月15日、敗戦となり受講生たちは動揺したが、当学としては今後も必要な分野であるから、このまま授業を継続するとして臨床教育も実施し、翌年3月に158名を卒業させた。慈恵の記述によると、その後の国家試験に通るものは少なく、また帰郷した医師たちも多くいて、医師としてはその後の道は困難であったという。

 これとは別に医学部付属の看護婦養成所の修業年限も二年が一年に短縮された。看護婦も不足していたから高等女学校を卒業した女子に対しては半年の即成科も設置された。この養成所の生徒も、戦災の中で救護に走り回った。

 世界戦史上最大の犠牲者を出した20年(1945)3月10日の大空襲は江東・台東・墨田区を中心としたものであったが、医学部生は救護班として被災地の救護に行き、火傷者の手当もあったが、焼死体の処理作業のほうが多かったという。その後も打ち続く空襲により火傷者は続々と病院に運び込まれ、もともと正規の医者が軍医としての応召で戦地に行き、少なくなっていたので、資格を持たない医学部生が日々患者の手当てに追われた。

 召集された学徒兵は文系が中心であったが、ただ医師だけは戦場では欠かせず、医学生も繰り上げ卒業で軍医として戦場に送られた。野戦部隊に随行したりするが野戦病院が爆撃されるなどして軍医も多くが犠牲となった。慶應医学部の卒業生で召集された者1974名のうち戦死者は164名となっている。(実際に軍医として中国戦線に行き、現地の病院で人体実験を行った731部隊で活動した慶應の卒業生もいる。その話は筆者の「各種参考資料」の中の「慈恵医大卒業生:湯浅謙の軍医体験」を参照)

<学童疎開>

 昭和19年(1944)6月、いよいよ米軍の空襲が間近に迫っているとされ、政府は小学生の集団疎開を決定し、義塾の幼稚舎も3-6年生は8月に静岡県の修善寺温泉に移ることになった。その11月下旬から本格的空襲が開始された。翌年3月10日前日に6年生は卒業式で帰京したが、その日未明、いわゆる東京大空襲があり、下町地区が全滅するほどの多大な犠牲者を出した。そのため、4月からは新一年生以上が疎開することになったが、静岡も危険だということで6月末に青森県に再疎開した。

 疎開先は田舎だからといっても食糧不足は深刻で(軍に優先的に供出されていたこともある)、生徒たちはイナゴやタニシなども自分たちで採って食用にした。終戦後も混乱で列車などの手配もすぐにはできず、帰京したのは10月20日であった。この間、幼稚舎は海軍技術研究所に接収されていた(ただし賃貸料はもらった)。

<塾長小泉信三の戦時下の言辞>

 当時の塾長小泉信三は、創始者福沢諭吉の晩年に薫陶を受けた当学出身の英才であった。そしてまた熱情の人であり、概して学生の心に寄り添おうとする心は大きかった(その分、訓示は常に長かったようである)。ただ、それが時勢に対して客観的な目を持ち得たかどうかは別である。小泉の子息である信吉は、昭和16年(1941)春に慶應を卒業し海軍に入り主計下士官となるが、同年末の太平洋戦争突入後の翌17年(1942)の10月、彼の乗る砲艦船がマーシャル諸島近海で米駆逐艦に撃沈され25歳で死亡した。小泉はその大きな悲しみを封印し、塾長として戦時体制下の学生指導に心血を注いだ。しかしその言動の内容は戦時の国家政策をそのまま後押しをするものであった。

 詳細は筆者の「各種参考資料」の中の「慶應義塾塾長 小泉信三の戦時下の言動について」を参照されたいが、そこで述べる小泉の戦時下の言動のレベルは、戦後に占領軍GHQの監督下で行われた戦時協力者に対する公職追放令に間違いなく引っかかっていたはずであるが、なぜか小泉は対象となっていない。しかも彼は戦時下の内閣の顧問の立場にもあったからなおさらである。例えば、早稲田の田中総長の学徒出陣に際しての檄文(「往け諸君!…大君の御盾となって興亜の大業に参加し、その礎石となる … 諸君の勇戦奮闘、武運の長久を心から念願し … 併し乍ら勇士は出陣に当たって固より生還は期すべきではない、即ち身命を捧げて護国の神と為る」)とほぼ重なる内容で、ただ死んで来いとまでははっきり言わないだけである。また田中総長は終戦の前年に死去したから追放令の対象とはならなかったが、田中を継いで総長になった中野富美雄は「東亜の新しき秩序建設」、「聖戦完遂のために協力」、「我が無窮なるべき皇運の扶翼の為に」と就任演説で述べ、一年ばかりの活動で公職追放となった。また女子大(当時は専門学校)で国家総動員/翼賛体制を支えた女性校長の何人かは簡単にこの追放令で一時的にしろ学校を追われている。いずれにしろ小泉が周囲から特別な存在と認められる立場だったから避けられたのであろうか。これについては大きな疑問が拭えないが、このような矛盾した例は世の中にはどこにでもある。いずれにしても小泉は、塾長退任後の昭和24年(1949)には東宮御教育常時参与に就任、平成天皇の教育掛にもなり、多くの著書も出し、のちに文化勲章も授与している。

<戦没者調査関連>

 慶應の共同研究関連資料として戦没者名簿が作成されている。昭和39年(1964=戦後19年)発行の百年史では16年(1941)からの早期卒業生と学徒出陣以降の塾生の戦没者は800名以上としているが、戦後50年(1995)までの調査では卒業生を含めて1528名とされた。その後白井ゼミの10年間の調査により2225名となった。そのうち特攻死は36名。ちなみに一方の早稲田の戦没者は異様に多く4700名とされ、慶應は二番目、次が東大(1997年現在で1652名、実際はもっと多いとされる)である。また当時の在籍数(大学に限る)は慶大は約7千人、早稲田が8千人、東大が9千人、日大が6.5千人である。なお昭和52年(1977)から塾長を4期勤めた石川忠雄は、戦時は本土防衛の特攻隊員で、突撃する前に終戦を迎えたという。

 慶應学徒の戦没地は実に広範囲にわたるが、戦争初期からの中国・満州その付近で478名、終盤の最激戦地のフィリピンで500名、沖縄とその付近で129名、ビルマ(ミャンマー)を中心とした地域で196名、太平洋南方のインドネシアの諸島からマーシャル・ソロモン諸島あたりまで約400名、硫黄島42名、ほぼ終戦後にソ連(ロシア)に抑留された人たち46名等、日本国内の守備隊として217名(駐屯した広島での原爆死もあるだろう)、そして戦没地不明約100名である。この数字から戦争終盤での日本軍の統制が取れていなかったことがわかる。また全体の戦死者の中で餓死者は約6割とされ、とりわけフィリピンを中心とした南方諸島に多い。さらにこの戦没者名簿の中に、慶應の看護婦養成学校出身の女性2名が記され、20年(1945)4月27日にビルマで戦死とある。従軍看護婦として徴用された結果であろう。

 このような戦没者を含めた戦時関連の客観的調査は、大学の中では中央大学が戦後11年目に実施したのを例外として、戦後50年あたりまで長い間本格的に行われなかった。これは敗戦直後に占領軍の追求を恐れた軍政府の指令により、出征台帳などが日本各地の役所も含めて大学でもほぼ全て焼却されたことも大きい。大学に限っても、学生たちを戦場に送った文部省が戦後に実態調査をしようとした形跡がない。少なくとも応召・出征時にはその人数等、報告書を文部省に送る義務があったし、その控えは大学に残っていたはずである。つまり、敗戦が決まった直後にそれらの名簿は文部省の指示で焼却されたのである。当然軍部の関連資料も内外で燃やされたが、勤労動員された女学校の記録までないのである。大小の学校の年史にある程度残されているのは、ほとんど卒業生からの聞き書きと時間をかけた調査による。

 このような焼却行為は、当時の軍政府がこの戦争の証拠隠滅を図ろうとしたからである。つまり自分たちが「聖戦」と呼んだこの戦争を、敗戦となって確実にやってくる占領軍の追及を恐れてなかったことにしようとしたわけである。また軍政府はとりわけ特攻隊で戦死した学徒たちを英霊として祀り上げていたが、この焼却という行為はその自分たちが仕立てた英霊たちをもいなかったことにする裏切るに等しい行為である。戦争中から政府も軍部も腐っていたとしか言いようがない。

 戦後の調査が遅れたもう一つの背景は、日本人自身にとって、とにかくこの無益で悲惨なこの戦争のことは忘れ去りたいという心の傾きも大きかったであろうが、今一つ、占領軍GHQ支配下の時代に、米軍自身の無差別的空爆のことを日本人に忘れさせようと、慰霊碑建立などを許可しなかったことも影響している。何よりもそれを物語ることは、3月10日の東京大空襲の記事が新聞紙上にきちんと掲載されるようになったのは、戦後30年になる昭和50年(1975)頃からである(筆者調査による)。さすがに広島・長崎の場合はそうはいかず、占領軍GHQも止めようがなく、慰霊碑建立も慰霊祭も早くから行われた。

 なお、戦没地が確認されていても遺骨の約半数近く(海外での戦死者約230万人のうち113万柱=2012年現在)が残されたままであり、政府の遺骨収集への支援も遅々として進められなかった。戦後の日本は官民ともに何よりも前を向いて経済復興に邁進したこともあっただろう。同様に政府も死者のことよりも生き残った空襲被災者や戦争孤児たちへの救済に力を注いでくれればよかったであろうが、それもなされなかった。例えば、被災者は何度か繰り返し補償を求めて国にも提訴したことがあったが(戦後70年を経ても係争中の事案がある)、ことごとく無視されるか却下された。手厚く補償があったのは軍人とその家族に対してだけであり、いまだに多額の予算で追加補償されている。第二次世界大戦関連でこのような不公平で配慮を欠いた対応は先進国の中で日本だけである。その理由は軍人は国との雇用関係にあったが、一般人はそうではないからという。ここでも国民を戦争に巻き込んだ国の責任を全く顧みていない日本の姿がある。

<記念碑>

 慶應の三田山上の広場に、昭和32年(1957)12月、「平和来」と名付けられた青年像が設置された。像は彫刻家朝倉文夫による。その台石には、「丘の上の平和なる日々に/征きて還らぬ人々を思ふ 小泉信三 識」とある。すでに小泉は塾長ではなかったが、その除幕式で小泉は、「このたび台石に何か言葉を書くようにと依頼されたとき、自分はその任でないと断ったが、考えてみればこの三田山上から学徒が出陣したのは、私の塾長時代であったので、思いかえしてこの拙い言葉を刻ませてもらった」と挨拶を述べた。

 次に平成10年(1998)に「今次大戦において志半ばにして逝った学友を偲び」として『還らざる学友の碑』が三田山上に建立された。碑には当時の塾長により「還らざる友よ 君の志は われらが胸に生き 君の足音は われらが学び舎に響き続けている」と記されている。碑の中には『アジア太平洋戦争における慶應義塾関係戦没者名簿』が収められている。

明治学院大学

 江戸時代末期(1863)にヘボン夫妻が横浜に英学塾を開設したときを祖とする。明治13年(1880)、アメリカ・オランダ・スコットランドの3教会合同による東京一致神学校が築地居留地に設立され、その後ヘボン塾と合併、明治学院とし、明治22年(1889)、現在の白金の地に移った。昭和5年(1930) 神学部は日本神学校の設立にともなって本学院から分離。学院の構成は中学部、高等部、高等商業部であったが、昭和19年(1944)、戦時統合により青山学院文学部および関東学院高等商業部を統合し、明治学院専門学校とされる。昭和24年(1949)、明治学院大学の設置が認可される。以下は主に学院の百年史その他より。

<軍事体制下のミッションスクール>

 昭和に入り、6年(1931)の満州事変から12年(1937)の日中戦争(支那事変)へと続く中、キリスト教系学校にも軍国主義の影響が強まった。日本の軍国主義の基本は、天皇を神的な絶対的存在として、その天皇から発せられる言葉は神聖にして抗いがたいものとし、その上で軍政府は自分たちが推し進めて行った戦争を、事後承諾的に天皇に勅語として出させ、この戦争自体を無条件に神聖なものとして臣民(明治憲法下の用語で、天皇の臣下としての民、現憲法では国民)に従わせることであった。そしてこの国は天皇の統治する皇国であり、軍隊は天皇の統率する皇軍であるとした。この体制の中にキリスト教の神が上位とされることは許されなかった。日本固有で、皇室の祖神である神道が尊重されるべき唯一の宗教となっていた。

 この流れの中で、昭和11年(1936)、学院理事の一人は大講堂で講演を行い、「日本精神と基督教の真髄は共に神の観念に発していて … 無言の内に相通ずるものがある。… かかるが故に諸君はその根本に立ち返り、… 日本精神即ち精神国日本建設の為に基督教徒として十分に貢献すべきである」と語っている。後年の卒業生の談話では、この理事は普段では神社に神がいると考えている人などいないと発言していて、しかし時流に合わせて学院を世間的に目立たなくするためのカムフラージュだったとしている。

 一般の学校では明治天皇が発した教育勅語の奉読もあり、天皇の御真影奉戴がまず公立の学校から義務付けられ、私学とりわけキリスト教系学校にも、昭和10年(1935)あたりから督促され、立教も13年(1938)になって礼拝堂の一角を改造してその奉安所とし、奉戴式が行われた。明治神宮や靖国神社への参拝も行うようになったが、他校のように強制ではなかったという。ただ学院では朝礼の時にまず宮城(皇居)遥拝を行い、その後チャペルに行って礼拝をした。この礼拝を欠かさず堂々と行ったのも珍しかったようである。

 13年(1938)、学院の学則である「基督教主義の教育を施す為め」に「教育に関する勅語の旨趣を奉戴し」が加えられることになった。その一方で教職員の出征も始まり大講堂で壮行会が行われ、「立てよいざ立て」の賛美歌が高らかに歌われた。昭和14年(1939)には「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が発せられ、他の学校と同様にこの奉戴式を行い、行事に合わせて奉読もされた。このような中、13年(1938)に就任した当時の矢野院長は、学校を存続させることを第一として国の施策に従順に従いながらキリスト教主義をしっかり守った人物であったと言い、だから御真影を拝ませることはせず、学生達の信頼も厚かったから、戦後、戦争協力者として批判された時には、学生、教師から擁護する声の方が圧倒的だったと言う。事実、16年(1941)に米国との開戦後、礼拝時の祈りの中で、院長は「この戦争で苦労している日本の若者ばかりでなく、アメリカの若者兵士にも神のご加護を」と、外に聞こえれば特高警察に逮捕されるような言葉も発した。つまり仮に生徒・学生の中にこれを聞いて憤慨するものがいて教師を告発する例もこの時代は多々あったが(立教学院参照)、この学院ではそれは起こらなかった。

 さらにキリスト教を厳しく管理統制するために政府はキリスト教の統合を図り、それにより1940年(昭和15年)10月17日の神嘗祭(宮中祭祀の一つで収穫祭)の日に、神武天皇即位紀元2600年を記念するため、青山学院に2万人を集めて皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会が開かれた。大会は宮城遥拝の儀礼でもって開始され、この日のために創作された天皇を賛美する「讃美歌」が歌われた。その後集まった会衆はこぞって明治神宮まで参拝、大会は「吾等は全基督教会の合同の完成を期す」とし、「皇紀二千六百年奉祝基督教信徒大会宣言」が謳われた。この決議に基づいて日本基督教団が成立した。(この宣言については「各種参考資料」参照)

 一方で学院は元来ミッションからの財政的援助が重要な要素であったが、その15年(1940)あたりから、日中戦争に深入りした日本に対する米欧の圧力が強まり、援助が難しい情勢となり(石油など物資の供給が止められ、海外資産が凍結された)、自立の道を迫られた。対策としては学生生徒の定員増と授業料に拠るしかなかった。

 さらに米英敵視の風潮により、学院の米国人宣教師に対する特高警察の監視が厳しくなり、敵性語としての英語の授業削減への圧力もあってアメリカ人教師を授業から外す措置が取られ、その後彼ら(女性職員も含め)は全員帰国を余儀なくされた(帰国は主に交換船によるもので、東洋英和を参照)。16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃による太平洋戦争突入後は残留宣教師は一定の場所に拘留された。

<学徒勤労動員と学徒出陣>

 昭和12年(1937)の日中戦争突入後に国民精神総動員実施要綱が政府閣議により決定され、挙国一致・尽忠報国・堅忍持久のスローガンが掲げられた。それにより集団勤労作業(勤労奉仕)がまずは夏休みなどを使って行われ、援農作業に従事することもあった。それに並行して配属将校による銃剣を持った軍事教練も週に何度か行われ、学生たちは習志野や御殿場の練兵場にも通った。教練の時、配属将校には毎回「君たちは英語もキリスト教も捨てろ。そんな教育を受けて戦争に勝てるか」と言われたという。

 一方で情勢を受けて東亜科が昭和15年(1940)に新設された。これは満州・中国侵攻に伴い、その新天地開拓や経済開発の第一線で働ける人材の育成を目指すもので、他の男子校でも興亜科の名前でも新設される傾向があった。記述は見当たらないが、他校の記録からして、この科の学生は訓練や研修の名目で満州に数ヶ月単位で行ったと思われる。

 16年(1941)2月、文部省は各学校にその学友会(部活動などの組織)を報国団とするように指示し、そこから本格的に勤労動員の体制を作るべく報国隊を結成させた。とにかく徴兵により国内は人手不足であり、太平洋戦争に入ると勤労動員体制は強化され、まずは高等科の学生は三ヶ月の繰上げ卒業とされ、その分早期に就業させようとした。残った学生は上級生から兵器工場や軍需工場に交代で通うことになった。授業の代わりに工場での貢献度が成績にされた。19年(1944)、政府の政策により青山学院から編入した学生は4、5月は授業があったが、6月からは三菱重工横浜造船所に勤労動員となった。その工場の寮に宿泊し、朝礼の時に軍人勅諭の斉唱があった。仕事には南方で傷ついた戦艦の修理もあり、その作業員の中にはアメリカ人の捕虜もいたという。空襲が激しくなった20年(1945)1月、京橋周辺が焼かれ、京橋の区役所に動員され、鉄筋の焼けたビルの整理と清掃を行った例もある。

 戦時下の高等専門学校においては文科系は不要不急の学問とされ、理工系を持たない学院はその設置を促されたが、昭和18年(1943)9月には半年の繰上げ卒業が実施され、そして同時に文系の専門学校・大学に対して徴兵猶予が撤廃され、軍政府は20歳以上の学生は休学させて学徒出陣と称して一斉に戦地に送る措置に出た(その出陣式は10月21日に神宮競技場を中心として全国の主要都市で行われたが、翌年には徴兵年齢は19歳に引き下げられ、続いて18歳とされた)。その結果、学生数が約30-40%少なくなり、当局の指示により当校の高等学部・商学部と青山学院の文学部と商業学部、関東学院の高等商学部が統合されて、明治学院専門学校となった。また英文科は敵国語として新たな募集は禁止され東亜科に併合された。東亜科では中国語が必須であった。

 当学院は百年史を昭和42年(1977)に出版し、この中で学徒兵の問題を取り上げ、調査を行なっている。これは私立の中では最初とされる。実際に各大学が戦時下の問題を具体的に取り上げ始めたのは東京大学を含めて戦後50年ごろからである。調査の結果、この18年(1943)9月の繰上げによる卒業生は373名、おそらくそれ以外の在校生も含めて徴兵検査を受けたものが410名、またそのうち当時植民地であった台湾・朝鮮からの留学生が32名とあり、彼らにその義務はなかったが、多くは半ば強制的に志願させられた。ただし、その台湾・朝鮮両国にある日本が作った学校でも出陣式は行われている。その後戦争終盤になって両国内では一般にも徴兵制度が適用されるようになった。

 翌19年(1944)6月初の出陣学徒は在校生約1600のうち670名とあるが7月下旬の表では在学生1964名のうち出陣学徒382名、うち留学生の特別志願者が42名となっていて、11月末現在では卒業生438名のうち入営学徒が269名、20年(1945)6月の入営学徒が493名となっている。年史の中に並べられた数字は入り組んで把握しづらいが、20年(1945)までに出陣した学徒兵は1500名は超えるようである(18年:1943年3月までの卒業生は別)。そのうち戦死や特攻隊による死者は不明であるが相対的にみて120−150名と思われる(以上はその時々の理事会の学事報告による)。ちなみに18年(1943)に応召した中で海軍飛行予備学生に志願しての合格者は21名で、そのうち5名が戦死、特攻戦死が2名という。

 学院も含めて出征と戦死者の数は具体的にわかっていない理由は「正確な記録はほとんど残っていない」からで、現に元中学部(現在の中学と高校に当たる)の方が、18年(1943)までの卒業生の学籍簿はあるがそれ以降はないと語っている。当時の出征学徒の記録は文部省にも提出は義務付けられ、各学校にも控えがあったはずであって、しかし他の学校でもその記録はまず残っていず、文部省や自衛隊にも残っていないとルポライターも書いている。

 本来あるべきそれらの資料が皆目見当たらないのは、終戦直後に占領軍の調査を恐れて軍事関連の書類が全国各役所と学校でも焼却された結果である。その焼却は学校では文部省の指示によるが、おそらく当学院の学徒出陣以降の学籍簿が残っていない理由は、その中に出征記録が記載されていたからであろう。実際にその記載のある学籍簿が残っている学校はある(中央大学)。しかも焼却したという記録自体がまず残されていず、さらに戦後の調査が官民共に数十年以上なおざりにされたことで事実として伝わっていないから、戦後50年前後にやっと戦時下の調査に取りかかって、そこでどの学校も「なぜかその時期の資料がない」と記すことになる(出征関係だけでなく、女学校の勤労動員の記録も同様である)。戦後50年あたりから調査を始めた大学なども戦死者の実数がつかめず、未だにその数が更新されている。(早稲田・慶應大学等参照)

<一特攻隊員の死>

 年史の中に、長谷川信という学生の 学徒出陣から特攻隊員として戦死に至るまでのことが日記や手紙、さらに周囲の証言を含めて描かれている。彼は福島県の地元の学校で学業優秀な文学青年であったが、自分のなすべきことにに迷いつつ、まずキリスト教を学ぶべく京都の同志社に入学するも、「どこを見ても時勢に迎合する人間ばかりで」と早々に辞めて、その後満州医大で学んで医者になって貢献することも考えるような曲折を経て、17年(1942)に20歳で学院の社会事業科(厚生科)に入学する。そして翌18年(1943)秋には学徒出陣によって陸軍に入隊、志願して特別操縦見習士官として館林などで半年の訓練を受けるが、この学校で上官から「お前たちは消耗品である」という言葉を投げられ、母親に送ってもらったキリスト教の本その他も取り上げられ、死ぬことだけが生き甲斐というような「消耗品速成教育」訓練を受けた。その後、満州の飛行隊でさらに実地訓練を重ね、20年(1945)に入って特攻隊の志願者(形式上志願を募るが全員が志願する)が募られ、その中から数名が選ばれて長谷川もその一人として特攻の命令を受け、新京(長春)において陸軍特別攻撃隊武揚隊が編成された。そこで少尉に昇進(戦死を前提としての昇進である)、その後休暇を与えられ一時日本に帰国、故郷にも帰ったが両親には特攻のことは告げず、出発前日に中学校の恩師を訪れ打ち明けた。恩師が心境を聞いた時、「遅かれ早かれ同じことです」と長谷川は答え、恩師から数冊の本を借り受けた。一方で母親はその気配からどうしても落ち着かず、今一度と宿舎まで追いかけて行ったが、すでに出立した後だった。3月、任務は沖縄での特攻攻撃と決まり、4月に入りまず宮崎県の新田原飛行場へ移動し、そこで身辺整理をして日記と一緒に両親に手紙を送り、その末尾に「出撃はちょうど私の誕生日になるんじゃないかと思います」と記した。そこから熊本の飛行場、上海などを経て、台湾の飛行師団の出撃基地へ移動する途中で米軍機に攻撃され、23歳の誕生日に戦死した。その戦死の公報が届いた時、彼の母はひどく取り乱し、父は黙ってその日記を読みふけった。

 彼は見つかればどんな仕打ちに合うかわからない中で密かに日記を書き続けていたが、以下そのいくつかを拾い出す。

 「やはり俺達は、どうしても天皇と国体には救われません」/ 「俺は人間、特に現代の日本人の人間性に絶望を感じている。おそらく今の人間ほど神から遠くかけ離れた時代はない」/ 「原隊にいた時の幹候その他の試験、実に馬鹿馬鹿しい…原始的な非能率的国民学校流のものが存在するとはあきれるばかり」 /「あと、死ぬまで俺の心はどこまで荒んでいくことか」/ 「だが俺にもたった一つできる。涙を流して祈ることだ。それが国泰かれか、親泰かれか知らない」 /「俺たちの苦しみと死が、俺たちの父や母や弟妹たち、愛する人達の幸福のために、たとえ僅かでも役立つものならば…」(筆者私見:わが子のためなら命を投げ出す親はいても、その子に命を投げ出されて幸福になる親など100%いないし、親のためにならないということは、国のためになるわけもないことは自明であるが、当時はこのように考えて自分を納得させるしかなかったのである)/ 「歩兵の将校で中支那の作戦に転戦した方の話を聞く。女の兵隊や捕虜の殺し方、それはむごいとかそんな言葉ではいい表せない。俺は航空隊に転科したことに … 安堵を感じた。… 直接手をかけてそれを行わなくてもよいということだ」/ 「今次の戦争にはもはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ」

 明治学院はその性質上米国との交流があって、教師陣の多くは米国と戦争をやって勝てるわけがないと考えていたが、この時代当然禁句であった。例えばある教師の回想に「三年米国に住んでその物力を多少なりとも知っていた私には、果たして日本が米国に勝てるかという大きな疑問が心の中に残った。正直な先生の中には『馬鹿なことをしたものだ。アメリカに勝てるものですか』と公言される人もいた」とある(長谷川の兄も彼に同様なことを語っていた)。そしてその気分は学生たちにも伝わっていたようで、その分戦地に向かった学生たちの心の中の葛藤は大きかったであろうし、とりわけキリスト教を信奉する者にとっては何重もの苦悶の中にいたであろう。

<戦後>

 当学院は空襲による大きな被害はなかった。これは立教大学と同様、米国系の学校という理由で米軍の空爆対象から外されたことによる(別な理由で東京大学も外された)。一方で同区内の慶應の被害は大きく、小学校も遠慮なく空爆を受けている。そして20年(1945)8月6日と8月9日の広島・長崎への原爆投下を経て日本は降伏し、20年(1945)8月15日に終戦となった。

 終戦の二ヶ月後に、かつて日本で活動していた米国のキリスト教会の代表4人が占領軍GHQに随行して訪日し、その惨状を見て日本への食料や物資の復興支援を打ち出し、学院も多少その支援を受けたが、歪曲された日本のキリスト教系学校が精神的に立ち直るには時間がかかった。現に翌21年(1946)の学院の学則改正の中にもまだ「教育勅語を奉戴し」という言葉は残り、日本基督教団の指示の中にも「承詔必謹」や「国体護持」などの言葉が残っていた。天皇の御真影は21年(1946)半ばに奉還することになり、同時に奉安室の撤去がチャペルに組み込まれた立派な作りで難しいため、重要資料の保管庫として使ったという。またGHQは戦争に協力していたとする教師たちを審査し教育界から追放する措置を取ったが、学院からは理事も含めて6人がリストに挙げられ、解職となった。いわゆる公職追放令の一環であるが必ずしも正しい措置がなされたわけではなかった。21年(1946)から学院の宣教師たちも戻ってきた。

 戦後50年を期にして、当時の中山学院長が「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」という異例な反省の一文を公けにした(筆者の「各種参考資料」参照)。戦時下で弾圧されたキリスト教系学校ゆえの「告白」であり、当時は軍政府に従わなければ場合によっては廃校にされる危機の中、独自の道を貫くことはほぼ不可能であったろう。しかも戦争責任といっても、実際に「戦争をすると決めた人たち」はその後何の責任も取っていない。本来この一文は日本政府が内外に語ってこそ意味を持つのであるが、そのような公的発言はほとんどなされたことがない。むしろ終戦直後に首相となった東久邇宮稔彦首相は、ラジオ放送において、敗戦は「国民の道義のすたれたのも原因のひとつ」であり、「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると述べた(一億総懺悔論)。ここには政府としての国民への謝罪がない。またこの懺悔とは天皇への敗戦のお詫びの意味もあった。全ての軍事関連書類の焼却といい、都合の悪いことはなかったことにする為政者の習性はいまだにこの国には健在である。
(国内のキリスト教の戦時下の背景については青山学院も参照)

東京海洋大学(旧・東京高等商船学校/東京商船大学)

 明治8年(1875)に設立した三菱商船学校が起源。東京都港区に本部を置く。明治15年(1882)に東京商船学校、大正14年 (1925) に東京高等商船学校とする。昭和20年(1945年)、東京・神戸・清水の高等商船学校3校を統合して、高等商船学校を設立。昭和24年(1949)商船大学が静岡県清水市に設置され、昭和32年(1956)に東京へ移転、東京商船大学と改称。平成15年(2003)、東京商船大学と東京水産大学が統合した。ここでは『東京商船大学九十年史』から商船大学のほうを取り上げる。なお商船学校はいわゆる船員の養成ばかりでなく機関士などの技術者の養成も重要な役割であった。

 第一次世界大戦以降、海運業は好況であったが、大正12年 (1923) の関東大震災により学校の校舎もその時全焼し、大正末から景気も下降の一途をたどり始めた。昭和2年(1927)の金融恐慌に加え、その2年後の世界恐慌が追い討ちとなり、不況は決定的となった。昭和6年(1931)に満州事変が勃発し、そこから海運業界の不況は深刻を極め、当校の卒業生も就職が困難となり、生徒の募集も削減された。昭和11年(1936)になると海運界も持ち直し、12年(1937)に日中戦争(支那事変)が始まると海員に対する需要も増え、卒業生はほとんど海軍に招集された。商船学校の学生は、在学中は海軍予備生徒、卒業すると海軍予備少尉の階級が与えられ、有事には軍務に服することが定められていた。それにともなって商船の生徒の採用も増やされた。また戦時下の軍事需要により、5年半の修業年限は次第に短縮されて行く。

 商船士官の不足も目立つようになり、航海科、機関科、航機科の募集人員は年々増やされた。それでも船員の不足は深刻となり、昭和16年(1941)12月に日本が太平洋戦争に突入すると、汽船実習も短縮され、練習船大成丸も大洋から回収され、主に瀬戸内海での練習航海に従事するようになった。この大成丸は昭和11年(1936)12月には世界一周のため東京港を出港し翌々年3月末に帰港、16年(1941)初めには南洋のサイパンを往復するという長期の航海演習をしていたほどであった。一方で17年(1942)には生徒の急増により生徒寮の増築が間に合わず、道場も寮として使用された。それとともに卒業生はほとんどが海軍に召集された。技術実習では戦火の拡大とともに損傷艦艇の入港が多くなり、その修理中に排水した船内に戦死体が発見されることもあった。当時は一丸となって戦勝に向けて働いており、18年(1943)の秋のある日、呉の海軍廠で熱心に指導していた技術中尉が工事の完成が一週間遅れたことの責任を負って、自刃した事件もあった。この頃の商船学校実習生は、海軍予備生徒の位置付けにあって、待遇は悪くなかったという。

 昭和18年(1943)10月、一般大学生に対し徴兵猶予が撤廃されて学徒動員が行われるが、商船学校も海員の育成期間の短縮を求められ、同時に静岡県に清水高等商船学校が新設された。練習船大成丸は神戸商船学校の練習船とともに航海練習所に移管されて航海教育を一括して行うことになった。19年(1944)には専科を設けて船員の早期育成に対応するが、戦況は次第に悪化し、米軍のサイパン・グアム島などやフィリイピンのレイテ島上陸作戦によって当校卒業生の犠牲者も増え続けていった。

 昭和20年(1945)には募集を清水校一校にまとめ、東京と神戸は分校(海務学院)となるが、4月には入学定員をさらに広げ、航海科、機関科を合わせて1900名が入校した。生徒寮の収容能力の限度を超えていった。しかし実習訓練の練習船は、米軍に制海権、制空権を握られ、外海に出ることもできず、瀬戸内海に逼塞した。機関科は海軍砲術学校における訓練もまともにできず、そのまま横須賀海軍工廠に派遣された。空襲が激しくなると派遣された工場でも実習としての機能は少なくなり、単なる軍需品の生産や、損傷した艦艇の修理、空襲に備えての建物疎開の作業や、「本土決戦」に備えての斬り込みや敵戦車への体当たり訓練などに始終した。学内での授業中もたびたび空襲警報が出て授業は中断されて防空壕に避難する状態が続き、その上食糧不足で学校全体の士気は上がらなかった。その生徒たちが修業を終える前に8月に終戦となった。

 20年(1945)3月10日の大空襲によって、深川一帯は焼失し、当校にも火の手が迫ったが、在校生の必死の消火作業により焼失は免れた。7月30日には清水の地も米軍の艦砲射撃を受けたが、幸いに学校は犠牲者を出さなかった。敗戦となって学校は生徒たちを帰郷させ自宅待機とした。その翌月、占領軍GHQによって本校舎は接収されてしまった。校内に備えてあった小銃などはGHQに没収され、大砲や魚雷は地中に埋めて隠されたが、後で見つけられた。

 終戦後、軍が解体され、海軍工廠はすべて閉鎖、あるいはGHQに接収され、商船学校の実習は全国の私設造船所に分散された。しかし住宅難と食糧難もあり、工場も経営難に陥っていた。工場の経営が落ち着いてきたのは昭和25年(1950)以降であり、それに朝鮮戦争の特需景気が加わった。

 太平洋戦争による日本の船舶の喪失は2603隻、830万トンに及び、終戦時に残っていた船舶は商船、漁船、雑船を合わせて1276隻、153万トン、このなかで商船で就航可能なのは341隻、68万トンに過ぎず、しかもその7割は戦時の急造船であった。当時船舶に従事していた船員は1万4000名とされ、さらに数年以内に1万名近くの商船の卒業生を送り出すことになっていた。そこで海運総局は5150名を退学させ、彼らを他の一般の高等専門学校に優先的に転学させることにした。

 日本の船舶不足を見て占領軍は、造船の規制を緩和し、海運の再建が図られていくが、それ以前に終戦当初は海外からの帰還者を運ぶ船が足りず、米国から借り受けた船舶によって帰還者を運んだ。昭和24年(1949)までに410万人の帰還者を運び、同時に国内の必需物資も運んだ。22年(1947)までに貸与船の大半を返還し、そこで船員の職場は再び失われた。ただし船員たちは十分な教育を受けていると言えず、そこで政府は職場が復活するまでの暫定機関として22年(1947)より補習教育をするとして、3ヵ年の教育を国費で行い、商船学校も清水と東京でその役割を担った。その後やはり朝鮮戦争によって海運の景気が回復した。

 なお、20年(1945)に練習船大成丸が神戸港内で機雷に接触し沈没、41名が死亡したとある。またこの校史では、日中戦争からの戦死・戦病死・行方不明は(約22万人のうち)5万2870人とされているが、現時点では6万人を少し超えるとされている。これは終戦時の全船員数の25%にあたり、戦病者は約5万7千人(26%)、また大型船の乗組員での戦死・行方不明は3万人以上となっている。ただしただしこれは船員の数だけであって、その船に同乗していた民間人や一般の兵士は含まれていないし、戦時下ではそちらの死者のほうがはるかに多い場合がある。ただ残念ながら、商船学校関係の戦死者は調べられていないようである。筆者がこれまで多少調べた中でも、船舶関係の一般の死者数は(沈没した船の数に比して)明らかにされていない場合が多い。これは沈没すると生存者が少ないことにも起因すると思われる。

東京慈恵会医科大学

 明治14年(1881)に高木兼寛により創立された成医会講習所が始まりで、翌年貧者を無料で診療する慈善病院として有志共立東京病院が設立され、その主旨で病院は皇室の支援を受けて東京慈恵医院と改め、東京慈恵会が運営することになった。講習所は東京慈恵医院医学校→医学専門学校に改称された。大正10年(1921)に慶應の医学部に続き私立として二番目に医科大学に昇格した。現在は学校法人慈恵大学として、東京慈恵会医科大学、慈恵(第三)看護専門学校、慈恵柏看護専門学校、そして附属病院を運営している。以下は主に『八十五年史』 『慈恵看護教育百年史』から。

 昭和6年(1931)の満州事変から12年(1937)の日中戦争突入による戦線拡大に至って教職員にも召集される者が多くなり、大学の措置としては在職のままの俸給を維持し、仮に学生が応召すれば授業料を免除することにした。ただし学生は26歳まで徴兵猶予の制度があり(中にはわざわざ志願する学生もいた)、その後さらに16年(1941)12月に太平洋戦争に突入し戦況が悪化する18年(1943)にその特典は解除された。

 14年(1939)、すでに植民地となっていた満州と、占領状態が落ち着いた北支(満州を含めた中国北部)に向けて、文部省は大学に興亜学生勤労報国隊を結成させ、夏季休暇に実情視察と勤労奉仕を兼ねて学生の代表を10人から数十人単位で派遣させたが、慈恵の場合は学生衛生隊(あるいは医療衛生班)の名目であった。北支班は茨城県にある内原訓練所でまず一週間の訓練を経てからであったが、この施設は満蒙開拓青少年義勇隊の訓練所として各地から青少年(下は14歳あたりから)を集め、新天地として希望をもたせて大量に満州に送り込み、敗戦前後にその大半が開拓居留民家族とともに難民となり大きな悲劇を生んでいる。

 15年(1940)に「学徒至誠会南洋視察団の出発」とあるが、これは大正時代に日本が南洋諸島の統治権をドイツから得て、特に昭和に入ってこの島々を軍事基地として拡張していた頃であって、その視察を各大学の学生から選抜し、教師も随行して毎年行かせていたようである。ただ、これらの島々は太平洋戦争に突入後、19年(1944)から次々と米軍によって陥落させられ、その中の多くは軍の玉砕戦法で多大な戦死者が生じた。

<戦時下の医師不足>

 この戦線拡大の状勢下にあって、医者の養成は国家的急務となった。昭和14年(1939)、政府は国公立医大13校に即成用の臨時医学専門部の設立を要請して翌年開校、18年(1943)には私立医大にも要請され慈恵も慶應医学部とともに翌年春に開校した。さらにこの年、民間の医師不足の解消のため(地方の開業医も従軍医として召集されたため)女子医科専門学校が7校開設され、それでも足りずと19年(1944)、歯科学生及び年配の歯科医も医学課程に編入させる措置が取られた(実は戦地でも歯科医不足は深刻であったが後回しにされた)。ただこれらは終戦後に卒業となったが、今度は軍医の復員もあって医師過剰を予防するため正式な医師試験が行われ、その合格率は低かった。

 学生は基本的に徴兵猶予されていたが、昭和16年(1941)末の太平洋戦争突入以後は何度も繰り上げ卒業が実施され、卒業生の約8割が軍医となった。特に医学生は在学中から陸軍で訓練がなされ(国全体の配属将校による学校教練とは別)、採用試験を受けて学費支給の依託生となりそのまま軍医となる者もいた。一般的には軍医はまず見習士官としての任官であった。見習士官は曹長の階級が与えられ、軍事学と専門学の教育期間があり、その後所属部隊で衛生部将校に任官し、大学卒は軍医中尉(二等軍医)、専門学校卒は少尉(三等軍医)であった。任官には期限があったが、特別志願制度で幹部候補生の軍医として残った者もいた。任官を経て予備役となり民間医となっても再度の応召があった。戦局が悪化した19年(1944)あたりからは、予備役の45歳までの開業医が召集されることもあった。(卒業生の軍医体験は下記)

<戦災と疎開授業>

 日本本土への本格的空襲は19年(1944)11月24日から武蔵野の中島飛行機工場から開始されたが、20年(1945)に入ってからは都心部とりわけ住宅密集地へと向けられ、それが3月10日の世界戦史上最大の犠牲者を出した下町地区への大空襲であり、4度目の大空襲が5月25日の夜間で、この時、教職員の宿直者以外に学生も毎日30名ずつ防護団として学内に詰めていた。しかし大量の焼夷弾の投下は防ぎようもなく、鉄筋コンクリートの本館を残して付属病院の一部や看護婦宿舎、各種道場などが焼失した。本館は大正12年(1923)の関東大震災で大きな被害を受けた後に耐震耐火を目的として昭和7年(1932)に再建されたものであった。

 この空襲被災以前に大学や研究室の貴重な図書や研究機械は安全な地方に疎開されていたが、戦時下で医師養成の使命を帯びていた大学の教育遂行と学生の安全のために疎開授業を行うことになった。そこで6月、大田区大森の予科校舎で焼失した学生たちを栃木県益子町に疎開させ、その他の貴重な図書や機械、標本類は群馬県の鬼石町、埼玉県の所沢、金屋、秩父に分散疎開させ、そこに学生たちと教師たちを送り、主に寺などを宿舎として一緒に起居しながら7月から授業が行われた。ただ、学部の3、4年生は臨床の授業もあり、警視庁関係の救護要員として拘束されていたため、学校の防護団も兼ねて本校において授業が行われた。このため教授、助教授の中には一二泊の予定で、交通事情が厳しい中、各疎開地に通って授業を行った。実はこのころはすでに米軍の標的は地方の都市に向かっていた。このような無駄な疎開はこの時期他校や工場でも多く、しかも疎開先で空襲を受けた例(当校の所沢など)もあった。何よりも田舎でも食糧事情は深刻で(食料は軍需関係に優先的に供出させられていた)、欠配が続き、蒸したサツマイモが少量だけという日々もあった。

 8月15日に終戦となったが、まだ東京には受け入れ準備が整わず、11月から12月になって疎開先の分校から戻ってきた。

<看護婦教育所>

 創設者の高木は英国の医学校に留学した時の体験で医師と看護婦が車の両輪のように協力して患者の治療にあたっていることに感銘を受け、明治18年(1885)に慈恵医院の中に日本で最初の看護婦教育所を開設し、米国人宣教師で看護婦であったミス・リードを初代取締として看護教育を開始した。

 この卒業生は「慈恵看護婦会」に所属し、戦時下ではそこを通して12年(1937)の日中戦争開始から、従軍看護婦(当時は救護看護婦と呼ばれた:港区参照)としてまず中国の太原(山西省)に50名以上を派遣し、その後も軍部の求めに応じて各地の日本陸軍病院に多数の看護婦を派遣した。

 18年(1943)、看護卒業生に対して地域の医療に貢献する保健婦養成のための専攻科が作られたが、これも予想されていた空襲対策に合わせたものであったろう。その最初の入所式の時に、厚生省の役人の挨拶が、「皇国の隆替と東亜の興発を決すべき大東亜戦争を完遂し、大東亜圏を確立致すためには前途に容易ならざる困難の続出する事を覚悟し … 聖戦の目的を完遂し皇国永遠の発展を企図致しますために … 保健婦の活動如何は直接皇国民永遠の発展に寄与するもので…」と、当時の軍国主義的時代情勢そのままの発言であり、それに対しての生徒宣誓が、「戦争の完遂と大東亜共栄圏の確立とは私達国民に課せられた一大責務であると共に一大光栄でもあります。この重大使命の貫徹を期すべく本教育所専攻科に入学を許された私達の喜びこれに過ぐるものはありません」というのもであった。

 この後の米軍の東京への本格的空襲開始から、病院と看護婦、看護学校実習生は戦災の中で戦場のように忙殺されることになった。20年(1945)1月27日の昼、B29が低空で機銃掃射を仕掛け、銀座や有楽町駅近辺に100人以上の死体が散乱し、慈恵病院も多数の負傷者を引き受けた。その後3月10日の東京大空襲も含めて慈恵の救護班の出動は14回にわたり(5月25日の空襲で看護婦教育所も焼失する中で)終戦間際の8月2日の水戸空襲、8月6日の広島原爆の際にも出動した。

 専攻科は半年単位の入所であったが、それぞれ約30名の中で、20年(1945)10月の卒業生は17名と減っていて、これは激しい空襲で地方に疎開したりした生徒がいた結果であろう。中には空襲で亡くなった生徒もいたかもしれないが、不明である。

<慈恵医大卒業生:湯浅謙の軍医体験>

 筆者の「各種テーマ別の記録・証言」の中の「慈恵医大卒業生:湯浅謙の軍医体験」を参照。

都立三田高等学校(旧:都立第六高等女学校)

 大正12年(1923) 東京府立第六高等女学校が開校。最初は第三高女(現駒場高校)の一部を借りてスタート、翌13年(1924)に完成した新校舎に移転。昭和18年(1943)府が都になり、女子専門学校も併設される。戦後の25年(1950)に都立三田高等学校と改称、男女共学となる。初代校長は第三高女の副校長であった丸山丈作である。

 丸山は柔軟な思考力と進取の気性の持ち主で、初代校長として適任であり、最初から私学のようなユニークなやり方を貫いた。勉強をするためにはまずは体を強くしなければならないと、日陰の立場にいた体操の先生の地位を上げて増やし、その先生たちの協力で教科書も作り(文部省の反対があったが押し通した。下記にもあるが、お役人は常に新しいことに反対する)、入学試験にも他校にない体操の科目を入れた。そして何よりも歩くことを基本とし、そして年に一度10里=約40km(無理な生徒には途中で帰れる対策をして)時間にして約10時間の歩き詰めの遠足を企画し、さらに月に一度、違う目的地を決めて3里=約12kmの遠足を行うようにした。富士登山も林間学校を兼ねて行った。これは後に戦時体制に入ってからの体育訓練の先駆けであり、軍事教練や勤労動員に従事した生徒の体力維持に役立った。実は丸山は大正12年(1923、創立の年)の関東大震災の時に多くの女性が大火災で逃げ遅れて犠牲になったのを見て、女子にも体力が大事と考えてのことであって、第六の生徒は歩く姿も違うと言われたという。入学試験に体操などは、その後他の都立高女も取り入れた。

 また日本が海洋国であることを考え、学校にプールを作ろうとあちこち駆けずり回って寄付を集め、取り掛かろうとしたらまたも府(都)の学務部長が中止するように言ってきた。そこで賛同した父兄が知事を説得し、昭和5年(1930)に完成、それを翌年屋内温水プールにした(ただし戦争が悪化してから燃料がなく冬は使えなかった)。当時はプールは都内で早稲田くらいしかなく、時折あの前畑秀子も練習に来たという。しかしこれは競泳選手を育てるためではなく、全生徒の体位向上のためとした。スキーも女子にはふさわしくないとされたが、丸山はかまわずやらせた。体操の器械も東洋一と言われるほどに備え、裁縫用のミシンもドイツ製を二人に一台とし、ピアノも最高のグランドピアノを置いた。また定期的に歯科医を呼び、学校で診療と治療をした。

 その他、生徒の個性と自主性を尊重し、定期試験は無駄と考えて廃し、成績表もつけず、大雑把なランク分けをするに留め、自発性を重んじた。その方がかえってよく勉強し、進学率もよかったという。また校服もそれまで上下の袴姿であったが、専門家と相談し、ブラウスの上から肩にかけるジャンパースカートを考案し、その他のリボンなどの飾りはやめた。これは体操を重視する上で着替えに便利であり、冬は上着を着ればよいという機能性に優れ、後に他の女学校にも取り入れられた。修学旅行もありきたりの京阪神だけではなく、九州や北海道もあったし、2年生から実施し、高学年では10日という長い日程で行った。これは女性は結婚したらそういう機会が少ないからという理由であった。運動会も海軍の楽隊を呼ぶなどして神宮外苑で盛大に行った。

 また、夜間学校も貧しい家庭の子供たちのためにと昭和3年(1928)より先駆的に始めたが、これも最初は府は金を出せないからと私立学校として始めた。その後順調に実績が上がってくると、府の方から公立にしたいとのことでそうなったが、最初は反対しながら民間レベルが実績を上げると後追いするのが官の常である。その後他校も夜間学校を導入した。

 このように府(都)立にも関わらず独創的なやり方を進めて行った結果であろうか、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入する前の昭和16年(1941)の初めに丸山校長は突然更迭された(1月31日という日付から見てもそうであろう)。生徒たちは大変なショックを受けたが、そこから学校の雰囲気も変わり、戦時色に塗りつぶされて行った。夏休み明けに当校の教頭が丸坊主で登校し、ある生徒が尋ねると、その教頭のある行動が問題とされ憲兵に呼び出されて留置されていたからという話もある。

 以下は主に第六高女同窓会『ワカバ会創立60周年記念誌:私たちの昭和史』のアンケートからである。

 昭和14年(1939)あたりからの入学生は、入学時に知らされていた林間・臨海学校や修学旅行が実施される学年になる頃には戦時体制の強化により次々に自粛、中止され、大変恨めしく残念だったと多くの元女生徒が書いている。修学旅行は15年(1940)までは女学校では普通に行われていたが、学徒勤労動員が始まる16年(1941)には多くの学校で中止された。実は幾つかの女学校では戦時下独特の表現で「鍛錬」旅行として、例えば同じ関西旅行でも伊勢神宮参拝を旅程に組み込むと許可され、18年(1943)まで実施していたケースがある。

 その他アンケートからの戦時下の様子の簡単な抜粋である。

<学校行事など>

 日中戦争(支那事変)などによる国民精神総動員運動の一環として毎月1日が興亜奉公日として定められ、学校でも一定の行事を行なっていたが、16年(1941)12月8日に太平洋戦争に突入すると、天皇が開戦の詔勅を行った日として8日を大詔奉戴日とし、その日は宮城(皇居)遥拝から青少年に賜りたる勅語の奉読、校長の訓話等の行事があった。

 「アジアの国々を豊かに発展させるため始めた日本の行動(具体的には昭和6年:1931年の満州事変から)が中国で反発を受け、止む無く戦闘状態におちいり、悪循環で米英等をも相手に戦線が拡大したように教えられた」/「陸軍や海軍の記念日には軍人さんが学校に来て戦争の逸話や講話を聞かされた」/「(シンガポール陥落等の)戦勝記念日には旗行列に参加した」 

<慰問文・慰問袋>

 「自分達女、子供、老人が無事生活できるのも外地で頑張ってくれる兵隊さんのおかげですとの激励や感謝文を度々書かされた」/「慰問袋には缶詰、靴下、下着(たぶんフンドシ)、タバコ、手作りのマスコット人形、お守り、千人針、慰問文など入れた」/「慰問文は傷痍軍人に出したり、病院にお見舞いに行った」

<出征兵士の見送り>

 「突然、親しい兄弟、隣近所の男性に赤紙(召集令状)が配達され … いついつまでにどこどこの連隊に出頭するようにとあり … 出発するときには隣近所(町の国防婦人会も)や職場、親しい人々総出で日の丸の旗をふり武運長久を祈って万歳を三唱しながら見送った …… 兵士の帰国は記憶がなく、いつも英霊(戦死者)が帰ると通達があり、門前に近隣の者が集い出迎えた」/「集団では鉄道の沿線に並び、日の丸の小旗を振って見送った」/「度々、芝浦の埠頭(竹芝桟橋)まで歩いて行き、大きな船で出発する出征兵士を見送り、バンザイを叫んだが、戦局が悪化すると秘密裏に行われた」/「19年:1944年暮れ頃(終戦の前年)からは出征兵士の見送りが禁じられたようで、誰の見送りもなく汽車に乗る人が気の毒で、山手線ホームから友達とハンカチをふり見送った悲しい思い出がある」/「遺骨の出迎えが多くなると、中年男性の見送りが多くなった」/「品川駅で昼間でも(空襲を避けてか)ブラインドを下ろして走る兵隊輸送列車に度々出会った」

<学校生活など>

 大詔奉戴日は倹約として「梅干し一個の弁当(日の丸弁当)だった」/「節約週間に『欲しがりません、勝つまでは』の標語があった」/「冬は(金属供出で)ストーブもなく教室は寒くオーバーを着て授業を受けたが手がかじかんで」/「ノートも買えず、鉛筆、消しゴムもひどいものだった」/「なぜ英語を減らすのか、納得できなかった」

<防空演習等集団訓練>

 「南方の島が次々に奪還され敵軍が日本に近づくにつれ、敵機に爆弾・焼夷弾を落とされたとしてバケツリレーで砂や水をかける訓練、パラシュートで敵部隊が落下したとして竹槍で突きの練習をさせられた」/「救護で止血や三角巾の使い方の練習、担架で運ぶ訓練をした」/「空襲で電車が止まった時に備えて班を作って歩いて帰る訓練をした」

<献金と供出>

 (この時期の献金は陸海軍用)「小遣いを持ち寄り献金箱に入れた」/「街頭で募金箱を持って献金を呼びかけた」/「(家庭で)指輪、ダイヤ、貴金属、金物を供出した」/「家に伝わる家宝の金、銅製品や刀剣類も強制的に供出させられた」/「学校の手すりや家の門扉なども」

<学徒勤労動員>

 「(戦争終盤は)登校もせずに工場に通勤、貸与された国防色の作業着に『学徒報国隊』の腕章を巻き、頭には『必勝』と書いた鉢巻をしてペンをヤスリなどの工具に持ち替えての毎日」/「ほとんど勉強の時間はなかったが、お国のためというだけでどんな仕事でも克服できたし … 物資の乏しさについてもさして辛いとは思わなかった」/「残業もあり、街灯のない灯火管制下の道をまっしぐらに走って帰った」/「土曜日毎に学校で上級校試験の補習をして下さったのが唯一の学校らしい生活」/「いつも防空頭巾と救急袋を肩に下げ、その中にはお金、手拭い、救急品、炒り米などの食料を入れていた」/「(先生は)勝利の日まで頑張りましょうというのが常であったが、ある先生が、あなた方ほど犠牲が大きく可哀そうな人達はいないでしょうと言った」/「工場の標語の中に『女性美は汗と油の化粧から』というのがあってショックだった」/「(勤労動員中は日記を書かされていて)『がんばります、お国のために』と書いていれば二重丸がつき、少しでも戦争批判的な意見や早く学校に行きたいとか書くとバツがつき、時には呼びつけられて不心得者と言われた」/「毎日工場に通いつつ、こんな毎日が永久に続くのかとブラックホールに吸い込まれるような恐怖を感じた」

<食料・衣服>

 「米は麦やジャガイモ、さつま芋、かぼちゃに、砂糖はサッカリンに」/「どんぐりの粉、芋、脱脂大豆が主食」/「さつま芋の蔓や野草ののびるまで食べた」/「普通の布地がなくなり、スフ(人絹)に代わり、それも少なくなり手持ちの着物や男物を作り直して利用した」/「スカートははけなくなり、体操服もスフの代用品」/「靴は牛皮から豚皮、そして鮫皮になった。最後の運動会は裸足でやった」/「父親の男物の古靴を履いた方が多くいて、最後の頃は下駄で通学する人もいた」/「カバンは布製ですぐ型くずれするもの」/「子供の時のセーターをといて二枚を一枚に編み直す工夫をした」/「ブラウスもシーツで作った」

<空襲>

 「空襲がくる以前には避難訓練があったが、最初の敵機が来た時は校庭で眺めていた」/「その前に丸山校長が『敵機が一機でも東京に入ったら日本は負ける』と言われた」/「敵機来襲の警戒警報発令中は電気に黒布をかぶせ光が外に漏れないようにした」/「3月10日の大空襲の翌日、蒲田駅より工場への道は焼死体が何体も置かれ、その上に菰が無造作にかけられぞっとする思いで … その後工場にも爆弾が投下され、動員生も後片付けに懸命で …(焼け残った米で)炊き出しのおにぎりを食べながら、いつまでこの戦争は続くのだろう、いつか私たちもやられるかもしれないと暗澹、悲愴な気持ちだった」

<その他1>

 「〇〇先生(第二代校長)がどんなに力んでお話しされてもなんにも覚えていません。(平等と博愛を説かれた)丸山先生のことしか頭にありません」/「世の中に、してはならないことが急速に増えていった。何か変だと思っても、その時はどうしていいかわからなかった」/「聖戦と言われればそういうものだと信じて疑わなかった」/「当時のことは思い出すこともしたくはありません。戦時中の画一教育に何の疑いも持たなかった年若い私達、教育の恐ろしさを痛感しています」/「卒業写真もなし、終了証書もなし」/「動員中に担任の先生が『何よりも命を大切にしなさい』と言われたことは忘れられない」

<その他2>

 「青春だなんて思う事即ち非国民とされる戦争というものは普通の人々を簡単に異常な人間にする。小学校の時から日本は神の国、天皇は神様と教育され、普通の人々はそう信じ込み、国の奴隷になった。どんな異常なことも天皇の名のもとに正当化されたおそろしさ」/「敗戦の知らせを工場で聞かされた時、皆泣くので泣かねば非国民なのかと思うのだが、涙どころか解放の喜びを実感した」/「基礎の学力を養う最も大切な女学校で全く勉強できなかったことは、社会に出てからも常に劣等感にさいなまれ続けた」

 こうした証言の中から拾い出せた戦時中の当初の短期の勤労奉仕先は、内閣印刷局、凸版印刷で中国用の軍票(紙幣)検査、軍需品本省で兵士の下穿き作り、国勢調査の手伝いなどで、その後勤労動員(有給)となり、その先は中島飛行機、立川飛行機、富士電機、北辰電気、沖電気、東京計器、池貝鉄工所、日本ゴム、岡田乾電池(風船爆弾用)、日本電波、日本夜光、等であり、そして校舎は東芝などの学校工場となり、飛行機の配電盤や通信機を作った。

 しかしこれらは同窓生などから収集した記録であり、学校自体に19年(1944)以降の記録がないとある。また、すでに8月10日(8月6日の広島から8月9日の長崎への原爆投下の翌日)に軍政府は降伏を決め、内密に連合国に通知していて、外務省に勤めていた第六高女の卒業生は、その10日からひたすら機密書類の焼却をやらされ、14日には外務省が秘匿していた高級な品物や食料をもらったという。その翌15日に終戦の詔勅があった。学校に19年以降の記録がないというのは、終戦の日に軍内と同様戦時下関係の記録や資料を焼却するように政府が指示を出したからで、軍需工場への勤労動員の記録も焼かれた。お国のためにと、不眠不休で一生懸命に武器や飛行機の部品などを作った女生徒達はそれぞれ何のためにと気力を失ったであろうが、それよりも「聖戦」を信じて学業を投げ打って死んでいった「英霊」としての学徒兵や特攻隊員も、いなかったことにされたに等しい焼却行為であった。

 第六の生徒や卒業生は、戦後急な民主主義体制になっても、丸山校長の下で自分たちの学校がすでにやっていたことではないかと思ったという。

東洋英和女学院

 明治17年(1884)、カナダ・メソジスト教会から派遣された宣教師ミス・カートメルによって、東洋英和女学校として麻布鳥居坂に創設された。平成元年(1989)に横浜に大学を設立。以下は主に学院の『百年史』や「資料室だより」から。

<軍事体制下>

 昭和に入り、6年(1931)の満州事変から12年(1937)の日中戦争へと続く中、キリスト教系学校にも軍国主義の圧力が強まり、天皇を神的存在とする各種の行事が行われるようになったのは上記明治学院と同様である。この12年に教育審議会が設置され、そこで「西洋近代的思想の基本たる個人主義・自由主義・権力主義・主知主義等は異端である」とし、文化・思想・教育の統制に踏み出した。学院の中興の祖であったミス・ハミルトンは時勢を察知して昭和13年(1938)に早めに校長から身を引いた。また学院はやはり時勢に逆らえず、遅ればせに天皇の御真影の下賜を願い出て、事前にそのための奉安庫を作り、14年(1939)2月に下賜された。その日、御真影を学院の師範科から幼稚園までの全員が三河台から学校まで沿道に整列して迎えた。その奉戴式の後で、新任の男性校長は「神の御意は他の宗教にも現されてこそキリスト教において完成される」との理屈で書いている。ミッションスクールというだけで目の敵にされる時代情勢であり、その奉戴式で女学生は「皆の顔に安堵の色が浮かんでいるように思った」と言い、さらに附属小学校の生徒も「御真影をいただいたので鼻が高い」(百年史)と書いている。それほど世間の圧力は抗い難かった。ただ御真影には奉安庫を作れば済むというものではなく、常時「番人」が必要で、日中は女の教師、夜は男の教師が交代で宿直にあたった。

 翌15年(1940)には学校の理事長も日本人に、英語を含む各教科主任も日本人にするなど、「新体制」になった。さらに学校名の英和の文字が敵性語として16年(1941)、永和と変えられ、英語教育も縮小された。カナダも米国の同盟国として敵視されるようになっていて、15年(1940)末から長年功績のあった宣教師兼教師3名が順次帰国した。

 16年(1941)12月8日に日本は米英に宣戦布告して太平洋戦争(大東亜戦争)に突入、ミス・ハミルトンも日本に居留することができなくなり、翌17年(1942)半ば、惜しまれながらも交換船で帰国した。交換船とは、例えばアメリカ・カナダにいる日本人及び日系アメリカ人も逆に敵国人として迫害される状態にあって、両国から船を出し、途中でお互いの船に乗り換えて母国に帰るというやり方であった。すでに太平洋航路は戦闘で危険な状態にあり、インド洋を通り、南アフリカのケープタウン(希望岬)で合流した。相手の船には先に帰国し、英和で学んでいる子供二人と英和卒で母の会会長をしていた婦人を家族とする男性がいて、ミス・ハミルトンは彼の名前を船内で連呼して探し出し、日本にいる家族の無事を伝えた。翌年、抑留されていたカナダ人教師ミス・コーテスも最後の交換船で帰国し、学院に外国人教師はいなくなった。

 ちなみにミス・ハミルトンはカナダに帰ると、1880年代末頃より漁師を始めとしてカナダに移住し、すでに二世もいた日系人が(当時で2.3万人在住)日米開戦とともに(米国内の移民者のみならず)カナダへの移民者も敵性外国人として強制収容所などで隔離、抑留される状態が生じていた中で、すでに帰国していた同僚の宣教師たちとともにその日系人の子供のための教育に力を尽くした。彼女は戦後また日本に戻り山梨英和で教鞭をとり、その後創設された短期大学の教授となり、約10年後に帰国し余生を母国で過ごした。

 この16年(1939)、高等女学校令の改正により、当校も学則を改め、「本法人は教育に関する勅語の聖旨を奉戴し敬虔なる信念の涵養に努め、もって堅実なる皇国女子を錬成するを目的とす」とされた。またこの年より恒例の修学旅行も自粛するように通達があって、5年生の北海道旅行(この頃の女学校の修学旅行は10日間ほどだった)は中止となった。しかし多少の抜け道があって、他のいくつかの学校が行なっていた「鍛錬旅行」に倣って、伊勢神宮参拝を組み込むことによって17年には日程を短縮して再び実施された。

<報国団結成と勤労動員>

 日中戦争開始辺りから集団勤労奉仕が女学校にも強いられていたが、食糧事情が悪くなった中で、学校農園として小平に農場を借り受け、生徒が交代で勤労奉仕の一環として耕作から収穫までの実習作業が行われた。太平洋戦争突入前の16年(1941)から、それまで防火訓練だったものが防空演習として始められた。これは敵からの空襲を想定したものであるが、他校ではもっと早くから始められていた。(注:われわれ日本人自身にはこの後の米軍による爆撃のことしかほとんど知られていないが、実は日本軍は日中戦争開始後すぐに連日のように中国内の各都市を爆撃し、それは終戦の年まで8年間続けられていた。つまり同様な爆撃を自国も受けるであろうとの想定である)。この演習は教職員全員と5年生25人からなる「東洋永和特設防護団」として行われ、また町内の防護団も校舎・校庭を利用して行うことになる。これに並行して文部省の指示で各学校の校友会が改変されて報国団が結成された。既存の部活動などはこの中に組み込まれ、初等科の学童にも少年団が編成された。この報国団のなかに報国隊という軍隊と同様の組織が編成され、これにより勤労動員が行われることになった。こうした準備を重ねた上で12月、日本は太平洋戦争に突入した。

 17年(1942)秋頃より、上級生から軍需工場への勤労動員が定期的に始まった。生徒はもんぺなど勤労用の服装(国防服)が義務付けられ、また制服に氏名・学校名・住所を書いた布を縫い付けて、パラシュート製造工場、凸版印刷で植民地満州で使う軍票(紙幣)の点検、歯磨き工場その他電気工場や鉄工所に通った。一方で戦時下の物資不足で武器や戦闘機などを増産するため、金属類回収令が発令され、公共物のマンホールの蓋など鉄類はもちろん、家庭の鍋釜などの金属類も供出させられた。学院では門扉や窓格子、暖房器機その他多くの金属類が回収された。そのため冬は寒い教室での授業となった。

 18年(1943)には、学徒戦時動員体制が決定され、学院の卒業生の25歳まで女子勤労挺身隊として動員された。3−5年の高学年生の勤労動員も次第に長期化される中、19年4月、軍政府は学校工場化実施を決定し、7月に学院は通っていた沖電気芝浦工場指定の東洋永和作業所となり、3、5年生240名が学校内で勤労動員することになった(4年生は蒲田にある航空無線機部品の安藤電気に動員された)。他校もそうであるが、初日には入所式が行われ、生徒代表が宣誓文を読み上げた。12月からはそれまで授業中心であった2年生も加わり、この時も生徒は日の丸の鉢巻をしめて決起式を行い、代表が国語教師の書いた宣誓文を読み上げたとある。学校工場の中では礼拝は難しくなり、朝は屋上でラジオ体操と宮城(皇居)遥拝、「軍人に賜る勅語」(軍人勅諭)を奉唱して仕事に入った。作業の合間に少しでもと授業をしてくれる先生に、勉強より国が勝つための仕事が先だと意見をする軍国少女もいた。履き物もクジラや鮫の皮の代用品や下駄であったが、みんなが同じなので苦にはならなかったという。

 仕事は通信機の組み立てで、電線のコイル巻き、また何色もの電線をハンダ付けする配線作業であった。生徒たちは作業の間におしゃべりをしたり、仕事が途切れた時の3月3日には余った色カバー付きの電線をハンダで繋いでお雛様を作って喜んだりして、工場から派遣された若い指導者を憤慨させ、監督の先生に訴えに来たという。その他ブローチや校章も遊びで作ったとある。もっとも戦争終盤の20年(1945)のこの時期には部品がなくて暇になる日も多く、それでも本など読んではならず、仕事をしているふりを強いられたというから、やむをえなかったであろう。10代半ばの女子生徒はどんな状況下でも楽しむ心を持っている。昼休みも中二階で賛美歌を歌ったり、クリスマスには鳥居坂教会にこっそり行って、賛美歌を歌ったという。

 一方で食料不足も深刻で、それまでの学校農場とは別に、師範科の生徒は群馬県嬬恋農園まで行って、農作物増産に励んだ。ただ、時折動員先の工場から食料が配給され、先生も一緒にリヤカーを引いて取りに行き、みんなに配られた。

<集団学童疎開と空襲>

 戦況がいよいよ悪化してきた昭和19年(1944)8月、想定される空襲から守るため、縁故疎開ができない学院の小学生(初等科)の3−6年生が、栃木県寺尾村の満願寺に集団疎開した。寺の宿坊と講堂を借り受け、その際、便所を新設し、浴室などを改装したというが、珍しい例である。日曜日には近くの学校の教室を借りて授業が行われた。翌年4月には卒業生を高女に受け入れ、新2年生を当地に疎開させた。この寺の住職はキリスト教にも理解を持ち、生徒たちに優しく、むしろ仏教の行事も丁寧に説明してくれた。逆に戦後、この住職は娘と孫を学院に入学させたという。他校の疎開児童と比べて食糧の不足など書かれていないから珍しい例である。

 この19年(1944)11月24日から米軍の本格的空襲が始まった。学院の幼稚園は休園させられ、代わりに工場で労働する母親のため戦時保育所とされた。翌20年(1945)から米軍の空爆が激しくなり、特に3月10日未明に江東区を中心とした下町地区への大空襲では一日にして約8万数千人の死者が生じた。この影響で陸軍の一司令部が、空襲を受けていない学院の校舎の一部を占有し、また別の司令部が宣教師館を占有した。この被害により学院の小学生の新2年生と3年生も疎開させることになった。さらに5月の空襲などで生徒の自宅も焼かれ、家族ごと疎開する人々が増え、疎開先の生徒は次第に少なくなって行った。その6月下旬には疎開先の児童たちにも「学徒隊」を結成させたと校史あり、これは前哨戦であった沖縄が破れ、米軍上陸による「本土決戦」を想定して全国民を義勇兵とし、疎開先の小学生まで対象としたものであった。

 空襲の最中の20年(1945)3月末の卒業式は、本来5年までであったが、戦時特別措置で4年で卒業となった生徒と一年上の5年生との合同であった。しかし疎開して出席できない生徒も多く(空襲で亡くなった友もいた)、来賓は牧師一人だけ、父母も列席どころではなく、寂しいものであったという。花もなく、先生も生徒も着ているものはモンペやゲートル姿など様々であった。肝心の卒業証書も印刷工場が焼けたので、先生が謄写版で刷った用紙に墨で名前を記入したものであった。式後の謝恩会で用意していたはずのお菓子(生徒が一人ずつ家庭から砂糖を持ち寄って作ろうとした)は10日の空襲で菓子工場が焼けてかなわず、誰かが工面した赤飯が並べられた。みんなの心の中は今度また生きて会えるのだろうかというものだった。

 5月24、25日の城南・山の手大空襲で港区の大半が焼失したが、明治学院とともに東洋英和の焼失は免れた(明治学院に記す同じ理由、つまり北米キリスト教系の学校は空爆対象から外されていたが、それでも誤爆や延焼で焼失した学校はあった)。25日夜間の空襲では多少の延焼はあったようだが、宿直の教職員などの働きで消しとめた。しかし学院創設時に併設された鳥居坂教会は灰燼に帰した。またこの時鳥居坂警察署も焼失し、学院の校舎に移転、陸軍司令部の兵站部も一部を使用した。なおこの日の空襲により学院の先生も2名が亡くなった(一人は行方不明と聞き、先生と生徒が探しに行ったが見つけられなかった。3月10日の空襲で生徒も数名亡くなっているが、この時も見つからず心を痛めたという)。
自宅が焼けて防空壕暮らしになった生徒もいた。それでも女生徒のほとんどは日本は神風が吹いて勝つと信じていた。しかし若き学徒兵による「神風特攻隊」は肝心な飛行機が残り少なくなり、すでに終わりを迎えていた。

 この5月の空襲で勤労先の沖電気と中央光学精機の工場も全焼し(安藤電気は4月15日に焼失)、また学校工場も部品が供給されなくなり、休止された。その代わりに焼け出された陸軍の連隊が学校を占拠した。このため生徒たちは同じく陸軍が接収した駒場の男子中学校などに行き、ここでも朝は宮城遥拝と戦陣訓・軍人勅諭の唱和に始まり、その後軍内の名簿整理、召集令状書き、戦死兵士の名簿確認と遺品照合などを手伝った。しかしその召集令状も級友の父親だったり隣のおじさんだったりした。つまりすでに適齢の男性は払底し、年配の男性が召集される事態になっていた。

 またその後7月(敗戦1ヵ月前)、芝の増上寺の防空壕で、やはり棚にぎっしり詰まっている遺品の箱の上書きを見て名簿と照合する作業があった。そこにはサイパンやガダルカナル島で戦死という記録があったというが、これらは18年(1943)から19年(1944)にかけての戦闘であり、当時はまだ遺品を持って帰れる余裕が多少はあったことになるが、それ以降の19年末からのフィリピンその他での戦闘など、日本軍にとてもそのような余裕はなく、遺族に届けられた白木の箱も中は石ころや戦死の通知が入っていただけのひどいものであった。(筆者の推測であるが、敗戦直後、日本の軍政府は軍事関係の記録や書類、また各市町村の出征記録もすべて焼却させたから、生徒たちが整理した記録も焼却されたかもしれない)

 仕事も少なくなって行ったある日、空襲警報が鳴り敵の偵察機が来ると彼ら軍人は真っ先に学校の防空壕になだれ込み、女生徒たちをあっちへ行けと入れてくれなかったというが、国民を守るべき軍人のこうした姿は各所に見られた。さらに8月に広島・長崎に原爆が投下されてすぐ後に彼らはトラックに荷物を積み込み、奥多摩に行くから来たいものは来いと言う。家が焼かれてなくなった生徒が迷っているうちに終戦となった。

 外地の戦場で戦闘ではなく餓死や病死で悲惨な状態で死んだ兵士が6割もいた中、このような軍人が生き残って戦後は手厚く恩給を支給され(遺族にも)、一方で空襲によって死傷した一般の人たちや、とりわけ親兄弟が焼死して疎開先にいたまま孤児になった子供たちには何の手当てもなされないまま現在に至っている。

<敗戦と戦後>

 8月15日の終戦は、例えば牧師の立場にある人たちは、その連絡網(抑留されている外国人宣教師や牧師たち)からすでに数日前に知るところであったし、軍政府の中枢から漏れ聞いた人たちもいた(注:実際に長崎への原爆投下の翌10日に日本は連合国に敗戦の受け入れを通知していた)。しかし何も知らない多くの生徒たちや若い教師は敗戦の報に泣き崩れた。ここまで自分たちは寝食を忘れて(実際に食べ物はなかったが)必死に頑張ったのにという思いが強かった。教務日誌には「抑えんとして抑え切れぬ悲痛と口惜しさに滂沱として落つる涙を拭いも得ず、大御心の程拝察し奉り御申訳なさに身は震える」とあり、多少なりとも精神的に天皇とは距離を置いているはずのキリスト教系学校にしてさえこうであった。これも小学校の頃からの皇国・皇民教育のたまものである。しかし軍政府の中枢にいた為政者たちがこれ以上の重い気持ちであったかというと、全くそうではない。彼らは真っ先に自分たちが起こし、国民をここまで引きずり込んだ戦争に対する責任逃れを考えていた。だから他でも記すように、軍事関係すべての書類を8月15日の前後の日から焼却し始めたのである。端的に云えば彼らはもとより天皇に崇敬の念などなく、むしろ天皇を利用して戦争を起こした。天皇も国民と同様に軍政府の連中に利用されていたと言っていい。

 それにしても一般の人々にとって、今日から空襲を恐れずにゆっくり寝れるという安堵感に勝るものはなかったという。事実、終戦の詔勅が放送される8月15日の正午まで散発的に爆撃はあったし、港区を含めた城南地区にも上記「戦災の詳細」で記すような被害があった。すでに10日に米軍は日本の降伏の通知を得ていたにもかかわらずである。

 学校は9月初旬に再開されたが、すぐに生徒は揃わなかった。次第に生徒は戻ってきたが、なぜか駐留する軍の部隊はすぐに撤退しなかった。そのうち冬が近づくと、校舎を焼失した都立第三高女(現駒場高校)が教室を貸してくれとの申し出があり、翌年3月まで同居することになった。学院の経営状態は苦境にあったが、軍関係に校舎を貸与していたその賃貸料が入ってきて、多少救われたという。これは他校でも同様であった。初等科の生徒たちが疎開先から帰ってきたのは、列車が確保できないこともあって10月の下旬であった。

 何よりも食糧不足は深刻で、お昼にまともな弁当を持って来れる生徒はいず、サツマイモか粉食を混ぜて蒸したパンであったり、そもそもが何も持って来れない生徒もいた。そうした中で若い女性教師は花小金井の学校農場付近の農家に行って土下座して芋を分けてもらったり、また一人の男性教師はあちこちから食料を調達し生徒のために大釜で豚骨を入れた雑炊を作ってくれたり、風呂に入れない先生生徒のために、近所の生徒の焼けた家からレンガをもらい、校舎の地下にそれを組んで、さらに五右衛門風呂の釜をどこからか探してきて据え、みんなを風呂の入れたりと活躍した。

 早くもその10月、米国の占領軍に同行するような形で、教会を代表する人たち4人がやってきて、敗戦日本の状況を視察し、日本への支援を全米の教会とその信奉者に訴えた。その結果、翌年から以前日本で活動していた宣教師たちも戻ってきて、LARA(アジア救援公認団体)の物資援助が開始され、食料その他日用品や医薬品が届けられるようになり、戦後の一層の食糧危機の中で子供達は救われた。無差別爆撃をした一方でこのような無条件の救援をするアメリカという国はやはり大きな国である。このような国に勝てるわけがないとは、明治時代から留学経験のある日本の知識人たちは十分にわかっていたことであるが、そのような人たちもこの戦争への突入は止めようがなく、仮にそれを説けば時流に乗る人たちに非国民とか皇国が負けるとは何事かと言われて排除されるしかなかった。

 この戻ってきた宣教師たちの中に17年(1942)に帰国していたカナダ合同教会のG.E.バット氏と18年(1943)に交換船で帰国したミス・コーテスがいて、学院の理事に復帰したが、バット氏はさらにララ物資の援助その他福祉・慈善事業に身を挺して動き回り、無理がたたって昭和27年(1952)、帰らぬ人となった。その名は「バット博士記念ホ-ム」として町田市に残っている。なお敗戦の翌年、東洋永和は東洋英和に戻された。

頌栄女子学院

 明治17年(1884)、岡見清致がキリスト教精神に基づいて頌栄小学校を開校、翌年頌栄女学校を設立する。大正9年(1920)に高等女学校となる。以下は主に『百年史』より。

<戦時の抑圧の中で>

 学院がやや遅れて創立50周年を挙行した昭和12年(1937)7月7日、日中戦争(支那事変)が勃発、12月に中国の南京を陥落させたことで、国内で祝賀行事が行われ、頌栄の生徒もその行列に参加、宮城(皇居)前で万歳三唱、大本営陸海軍部に慶賀の表明に行った。翌年、政府は国民精神総動員週間運動を実施、勤労奉仕や献金活動(教員も含め月に約60円、今の金額にして約20万円)、陸海軍の病院に戦傷兵を慰問するなど、学院はキリスト教系学校の中では積極的に時流に沿った活動をした。この頃の奉仕活動は他の多くの女学校同様、授業の合間に現地兵士への慰問袋や軍服の肩章作製もした。さらに徴兵される男性のために(このころは街々のあちこちで万歳して壮行会が開かれた)兵士のお守りとして千人針(一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作り武運を祈念する手法)を頼まれることが多くなった。しかし、戦死した生徒の父や兄宅への慰問も次第に増えていく。

 さらに戦時の協力体制として、14年(1939)から興亜(アジア興隆のこと)奉公日が設けられ、毎月一日に宮城遥拝や教育勅語の奉読などの行事のほか勤労奉仕、そして贅沢を慎む例としてこの日は日の丸弁当(ご飯に梅干し一個だけ)とされ、その節約分を貯蓄や献金に回すようにとされた。また生徒たちはこの日に戦地の将兵にと、陸海軍に慰問文と慰問袋と自分たちで作った人形を持参し、大いに喜ばれ、嬉しく思ったという。

 この年、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が下賜され、その奉読式が各学校で行われ、翌年は皇紀(神話上の神武天皇即位の年を紀元として)2600年の祝賀式が全国で行われ、頌栄でも職員生徒一同が明治神宮に参拝、軍歌とともに奉祝歌を歌った。ちなみに18年(1943)に那須方面に修学旅行が行われたとあるが、16年(1941)以後は自粛するように文部省から通達されていて、それでも「鍛錬旅行」などの名目であったと思われ、それもこの18年(1943)がどの学校においても最後であった。

<勤労動員>

 頌栄には生徒の自治組織の校友会と向上会があったが、昭和16年(1941)政府の指導により報国団が結成され、校友会は報国団の中に再編された。その目的に「本団は確固たる国民的自覚に基き自治と奉仕の精神を体して共励切磋を以って皇国女性負荷の大任を全うする」とあった。

 その年の12月8日に太平洋戦争に突入、これにより興亜奉公日は翌年より大詔奉戴日(天皇が開戦の詔勅を下した日)として毎月8日に替えられ、日の丸弁当は継続された。報国団の中には軍隊式の勤労報国隊が結成され、これ以降勤労奉仕は報国隊による勤労動員となり、生徒は高学年から交代で各軍需工場に動員され、その合間に防空訓練も行われた。

 動員先の生徒の一人は、「8時には揃いの作業服に身を固め宮城(皇居)を遥拝し、一日を元気で国家のお役に立ちます様にと心からお祈り致しました。… この仕事は大変重大な役目をなすもので寸法も厳格で … 隣の女工さん達が朝早くから殆んど休息なしに一日中働いていらっしゃる姿を見る時自から頭が下がりました」と語っている。ただ他の工場に動員された生徒は、遅刻した慶応の男子学生が長靴で蹴られたり革のベルトで打たれたりするのを見たという。この頃の慶応大は福沢諭吉の作った自由主義の学校ということで、特高警察や軍にも睨まれていたからである。生徒の勤労動員先は日本パルプ、明治ゴム、新潟鉄工所、松下無線、荏原製作所、陸軍需品工場、鐘紡等であった。

 18年(1943)には勤労動員は食料増産のため、目黒の農園での作業もあった。また下級生が相変わらず戦地別への慰問文、慰問袋の作製、そして「白衣の勇士」(傷病で帰還して入院している兵士たち)100名を慰労会として学院に招待し、演芸などでもてなした。一方で軍用飛行機献納のための献金があり、生徒一人30銭(今の金額で約1000円)と記録にある。

 18年(1943)秋に男子大学生の徴兵猶予が解除され、徴兵年齢に達した学生も一斉に戦線に送る学徒出陣があった。それに伴い勤労動員は過酷になり、進学組以外の卒業生80名は女子挺身隊として組織され、軍の料理局、糧秣廠、沖電気などに動員された。一般生徒は8月には週に一度の授業も停止され、月に一度の登校で午前中2時間だけとなった。当学院の記録の中で特記すべきは、「要養護生徒」つまり虚弱生徒に対し特設学級を設置し、軽作業を当てたが、頌栄は少人数のため東京高女(現東京女子学園:下記)に合併された。いずれにしろ要養護生徒も含めて相応の報奨金が支払われた。

 早くから物資不足で武器製造のために家庭内の金属類から寺の梵鐘まで供出させられていたが、19年11月の記録には生徒の徽章や金属ボタンを献納するとある(ボタンは代わりに瀬戸物を使用)。このような状況下で一部の人たちはこの戦争に勝てるわけがないと思っていたが、それは禁句であり、口にすれば非国民とされたし、実際に教師がそのような言葉を漏らし、それを愛国心に萌える生徒が聞いて告発した例もあった。新聞ラジオの情報も統制されていて、学院でも朝礼時に「勝ち抜く誓」(みたみわれ、大君にすべてを捧げまつらん/中略/みたみわれ、この大みいくさに勝ちぬかん:「みたみわれ」とは天皇の民である私の意)の斉唱がなされ、大半の女学生たちは日本の勝利を信じて、まともな食べ物がない中、真剣に作業に打ち込んだ。

<大空襲から終戦まで>

 19年(1944)11月末から米軍の本格的空襲が開始されたが、それに伴い軍需物資増産のため工場によっては三交代勤務となり、寄宿舎に入って勤労する例もあった。男性教師の出征は中年の教師にも及ぶようになり、壮行会も目立たない形で行われた。田舎のある生徒は田舎に、親戚のある生徒はその地に疎開し、学校があればそこに転学したが、病人以外に勤労動員を免れるわけにはいかなかった。この時代は日本中の監視の目が厳しかった。16年(1941)に800名以上いた生徒は20年(1945)春には半分以下、教師も同様であった。この3月には4年前に一年短縮された4年生と、その前年の5年生が同時に卒業した。20年(1945)3月10日の多大な犠牲者を出した大空襲をみて、政府はこの春より一年間の授業停止を決め、「勤労即教育」という理屈で総力を軍需物資生産に向けようとした。

 その後の4月13日、5月24日、25日など続けざまの都心への大空襲で学校の多くが焼け落ちた中、頌栄は焼失を免れた。さらに動員先の工場が焼けてしまっても、すぐに他の工場へ動員命令が出された。そしてなおも軍政府は戦争を諦めず、6月には学徒隊を結成させた。学徒隊とは本土決戦に備えて学生・生徒をも一兵卒として「一億総玉砕」するまで戦わせようとするものであった。この時期、3月から沖縄に米軍が上陸し、本土決戦の前哨戦として三ヶ月の激戦が繰り広げられ、敵味方と住民約20万人(住民がこの半数)が犠牲となって、6月に終結した。この沖縄では学徒隊として追い込まれた女学生の集団自決が発生している。それでもなお軍政府は戦争を続行しようとしていた。そして二度の原爆投下でさらに多くの犠牲者を出して、やっと降伏を受け入れた。

 8月15日の敗戦後、数々の規制は解除され、授業は再開されたが、空襲で家をなくした生徒もいたし、年史に記載はないが親を失った生徒も、亡くなった生徒もいたであろう。それまでの戦時色の強い教科書は使えなくなり、まずはその部分に墨を塗る作業から始まった。頌栄は昭和21年(1946)に60周年を迎えたが、戦後も食糧難は一層深刻で、交通難も重なり、授業はしばらく隔日で行われた。戦前からの過労と栄養失調で健康を害している生徒、先生も少なくなかったし、食糧難で弁当を持って来れない生徒もいた。

 校舎の残った頌栄は22年(1947)都の要請を受け、新制区立中学校に進学したばかりの男女生徒約200名受け入れることになり、翌年からは女生徒のみとなったが、その生徒たちが卒業する26年(1951)まで続いた。これにより頌栄には一時野球部が存在し、近くの明治学院とも試合をした。

普連土学園(女学校)

 明治18年(1889)、当時アメリカ合衆国に留学中だった内村鑑三と新渡戸稲造の助言で、フィラデルフィアキリスト友会(クエーカー)の婦人伝道会が女子教育を目的として来日、2年の準備を経て明治20年(1887)に生徒数名で創設した。22年(1889)に港区三田に新校舎落成。明治35年(1902)、失火により校舎を焼失したが、翌年アメリカのフレンド会の支援もあって新校舎が作られた。下記は主に『百年史』から。

 昭和12年(1937)には50周年記念で校舎の増築と大講堂を竣工させ記念式典を行った(この頃の生徒数500名)。その直後に日中戦争(支那事変)が起こり、日本は「非常時」として戦時体制に入っていった。翌13年(1938)より、他校と同様、生徒は各種の勤労奉仕作業に駆り出された。

 その後、対米英関係が悪化し、15年(1940)ごろから米英人は排斥されるようになり、各キリスト教系学校の宣教師たちは次第に帰国するようになったが、16年(1941)12月8日の真珠湾奇襲攻撃による太平洋戦争突入から決定的となった。その前年からたまたま休暇で米国に帰っていた副校長のエスター・ローズは日本に戻れなくなり、40年間普連土に尽くしていた理事長のギルバート・ボールズも日本人の後任を決めてその年の夏に帰国した。ちなみにローズ女史は、その代わりとして、日米開戦によって抑留された日系人のカリフォルニア州のキャンプ(収容所)で奉仕活動をし、待遇改善等に専念した。これは東洋英和のミス・ハミルトンのカナダでの行動と同じである。さらに最後まで踏みとどまっていたイデス・シャープレスも18年の最後の交換船(東洋英和参照)で帰国した。当然この開戦で学園は米国からの支援を受けることができなくなり苦しい状況に置かれた。

 16年(1941)半ばに生徒の自治会は報国団として改組され、そこに報国隊が編成された。12月8日の開戦の日、天皇が宣戦の詔勅を発した8日を大詔奉戴日とし、毎月8日には防空演習として隊伍を組み、軍隊のように組織的に行動し、消火作業の訓練に励む日々が続き、一方で学徒動員令により軍需工場への勤労動員が始まった。

 17年(1942)には英語は敵性語として随意科目とする措置が取られ、学園の強みである英語の授業は短縮された。18年(1943)には学校の制度改革があって私立の女学校は高等女学校に改変されたが、その時に普連土(フレンド)の言葉が不適切であるとされ、「聖友」に変えられることになった。同じ例として東洋英和は東洋永和に変えられている。さらに校規の「キリスト教主義に基き」の箇所に「教育勅語を遵奉し」の語句を加えるようにされた。そして授業内容も変わり、体育は体練科となり修練が正課となって、農園作業も重視された。

 農園作業も推奨され、自校で郊外に農園を取得した学校もあったが、小規模の当校は調布のツムラ植物園で勤労作業したり、その後は小平の範多農園(英国人父と日本人母をもつ実業家ハンター氏が作った壮大な農園で近代的な温室もあった)の一部を借りて各学年交代で耕作し、肥桶を天秤棒の両端にかけて担いで運ぶこともした。しかし空襲が激化した20年(1945)年には通うことが困難になり、その後の爆撃で農園の豪壮な建物も焼失した。そこで学校の運動場を耕し、理事の一人が土浦からさつまいもの苗を手に入れ、収穫を楽しみにしていた終戦直後、一夜で盗まれてしまったという。

 19年(1944)より通年の勤労動員が始まり、まず5年生は品川駅東にある沖電気に入所し、波長計制作に従事した。しかし朝礼の時(おそらく軍人勅諭などの唱和があったと思われるが、それ以外に)「出てこいミニッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄に逆落とし」などいう軍歌を強制され、恥ずかしかったという。ただ、特配の米が支給されるのが嬉しかった。続いて3、4年生の動員となって、学校としては生徒の負担を考えて校舎を山中電気の工場としたが、作業が忙しくなかなか勉強もできず、礼拝も難しかった。5年生には金曜日を登校日としていたがそれも滅多にできなかった。

 空襲が間近に迫っていることが予測され、19年(1944)8月には小学生の集団疎開が実施され、中等学校以上にも縁故疎開が奨励され、田舎がある生徒たちは勤労動員を避けて帰るものもいたが、そこでも女子挺身隊という名目で動員は免れなかった。寄宿生はほとんどいなくなり、19年(1944)には閉鎖された。

 11月下旬より本格的空襲が開始され、翌20年(1945)3月10日の大空襲の後、空襲が続く最中に繰り上げ卒業式が行われた。16年(1941)度入学時に4年制に切り替えられていた4年生と5年生の同時卒業で、教職員も多くが退職や疎開し、記念写真もなく、寂しいものとなったが、生徒たちはいつまでも名残りを惜しんで帰らなかった。この次にいつ会えるか、明日になれば空襲で死んで二度と会えなくなるかもしれず、そうした例は日常茶飯事になっていた。しかもこの時の4年生は実質3年間まともに授業がされていなかった。また卒業生は仮に就業先が決まっていなければ挺身隊としてそのまま工場に残された。

 20年(1945)5月25日夜間、都心で4度目の大空襲があり、学校は焼け落ちた。前年よりモルタルで防火工事をしていたが無駄であった。冨山とき校長と家族が3月の大空襲を目の当たりにし、学校を守るために校内に居を移し、宿直の職員と一緒にいたが、なすすべもなかった。とりわけ学校に陸軍の駐留部隊がいたが、すでに高齢の部隊で、これも役に立たなかった。本来、米国キリスト教系学校は空襲の対象から外されていたはずであるが、この時は近くの大臣官邸の火災から移されたとある。大火災は風を呼び、周辺を瞬く間に巻き込んだ。

 校長たちはすぐに焼け残りの材料を集めて仮小屋を作って事務所とした。この日に限らず焼け出された生徒も多くいたが、それでも改めて軍や都に指定された工場に出かけなければならなかった。彼女たちがこのような状況の中でも精神的にめげずに、空腹も辛抱して頑張ったのは、これは聖戦であり皇国である日本は最後には神風が吹いて勝利すると信じさせられていたからである。実際、「一億火の玉だ」とか「本土決戦」と叫ばれていた中で、すでに最悪になっていた戦況の情報は彼女たちに届いてはいなかった。

 20年(1945)8月15日の終戦時には生徒数は100名以下に減っていた。しばらく授業は再開されなかったが、旧ボールズ理事長宅が残っていて、とりあえず12月からこの邸の応接室と食堂の絨毯に座り、みんなで体をくっつけて膝の上でノートを取った。トイレも足りず、外の公共便所も利用した。その他高輪教会や田町の工芸学校の半焼けの教室を借り受け、それも窓ガラスはなかったが机と椅子だけはあった。その時の生徒気持ちは「やどかり族」というもので、そのまま寂しい気持ちを抱えて卒業していく学年もあった。

 21年(1946)の半ばにエスター・ローズが米国友会奉仕団代表として7年ぶりに来日、学園に戻ってきた。彼女はLARA(アジア救援公認団体)の代表でもあり、日本に食料などの救援物資を届ける役目も担っていて、戦後もしばらく野天の台所を使って給食制度を維持していた学園もそれによって助けられた。

 22年(1947)に校名は普連土に戻され、フィラデルフィア友会の寄付もあって23年(1948)に第一期校舎が落成、その時、芝浦の仮校舎から生徒たちは自分の机と椅子をアリの行列のように三日間に渡り歩いて運んだ。その後一年ごとに新しい校舎が建設された。24年(1949)に冨山校長は退任し、ローズ女史が校長になった。

 筆者私見:それにしてもここまでの大雑把な記述の裏にどれだけ冨山校長の奮戦があったか、戦時下から戦後にまたがる特に私立の女学校の校長の大変さは想像を絶する。日本という国は実はこのような人たちによって支えられている。国の権力構造の中に座す人間にここまでの対応力と責任感を持った人たちが何人いるのか、この重すぎる戦争を省みると実に疑わしいし、もしいたなら、このように気の遠くなるほどの無駄な戦争は起らなかったであろう。例えば、このような学校長が本来の授業を奪われて、勤労動員と打ち続く空襲の中で生徒を守るために奮戦した姿を想像するとよい、政府の要人や高官たちが国民を守るためにそれほどに奮戦したのか、ただひたすら召集令状を発行して戦場に送り、そしてむやみに多くの国民の命(およびはるかそれ以上の海外の国の人々の命も)奪っただけではないのか、その為政者たちの姿がこれら学校長たちの姿に重なるかどうか、それだけでわかるのではないか。

東京女子学園

 明治35年(1902)、女子教育の重要性を思って棚橋一郎等の7氏が私立高等女学校の設立を計画、翌36年(1903)、当時の東京府下で初めて設置された普通科の私立高等女学校として、棚橋絢子を校長に、生徒83名、教員11名でスタート。戦時中に東京女子高等学校となり、戦後に中学校・高等学校に分離された。以下は主に『八十年史』から(生徒側の記述はあまりない)。

 大正時代末から昭和に入って学園は次々と校舎を増築し学校の基盤を固めていったが、同時に昭和6年(1931)の満州事変から天皇の名の下に軍国主義体制が伸長していった。特に12年(1937)の日中戦争以降、戦線で活躍する「皇軍」を支援するための「銃後の守り」 「挙国一致」 「一億一心」などのスローガンによって、 国民精神総動員運動が展開され、各種の勤労奉仕作業が義務付けられた。軍服の肩章や戦傷兵の白衣作製、宮城(皇居)外苑の整備など他校と同様である。また女性も体力増進に向けて、歩け歩け運動が起こり、明治神宮や靖国神社への徒歩参拝、多摩川までの強歩大会などが実施され、女学校合同の体育大会も開催された。

 その一方で食料は軍隊優先で不足し、その増産に手っ取り早い代用食としてじゃがいもやさつまいもの植え付けが推奨された。学園でも世田谷の桜新町に空き地を借りて農園作業をすることになった。これも勤労奉仕の一つで、午前中の授業の後に農園に通い、慣れない鍬や鋤を持って畑を耕し、必死に収穫まで育てた。

 しかし戦争継続のための物資不足は深刻で、政府は16年(1941)に金属回収令を発し、家庭や会社、公共機関、そして学校にも及び、家庭の鍋釜や学校の門扉など、さらに適用を拡大するうちに19年(1944)、当校の校主の胸像まで供出された。その他お寺の梵鐘や家庭の貴金属も軍に取り上げられた。

 15年(1940)から防空演習や看護訓練なども始まり、すでに軍政府はその後の空襲を想定しての戦争の長期化を視野に入れていたと思われる。当然国内でも戦闘機の増産に励み、当校の記述にはないが、女学校で献金を集め、早くから戦闘機の寄付をしていた。そして16年(1941)から勤労奉仕は勤労動員とされ、生徒たちはまずは夏休みなどの短期で交代で軍需工場などで生産に従事するようになった。その年の末に太平洋戦争に突入し戦線を拡大させると、男性の労働力が決定的に不足し、翌年より学生・生徒の勤労動員は強化された。各学校に報国団を結成させ、学徒勤労報国隊として有給での仕事であった。

 上級生から動員された先は資生堂石鹸(軍需用である)、日本電気(NEC)、さらに下級生に及び、日本光学(ニコン)、近藤製作所、中川航器、小糸製作所、住友工業、印刷局(軍事用紙幣)、日本電気、日本工学、大日本製薬、国技館(風船爆弾のパネル貼り)、厚生省、警視庁など多岐にわたる。男性教師は戦闘服、女生徒は制服を国民服に変えて工場に通った。19年(1944)秋口より米軍の偵察機が上空に往来するようになり、生徒はカバンに携帯食料や救急用品を入れて工場や学校に通った。

 この学校に特有の出来事は、19年(1944)11月、近隣の女学校(頌栄、戸板、品川、実践、聖友=現普連土学園)の虚弱体質の生徒を当校に集めて、一日2時間半の軽い作業をさせたとある。この時にも「開所式」が行われたとあり、これは勤労動員の初日に志気を高めるために行われた。一種の根こそぎ動員である。ちなみにドイツのナチスの場合、この種の人たちを隔離し、ひどい時は人体実験したケースもある。

 19年(1944)11月下旬よりまず武蔵野の中島飛行機工場などを対象に空襲が連日のように始まっていたが、年明けから都心にやってくるようになった。学校への直接の影響は4月19日、大型爆撃機B29ではなく戦闘機が低空で飛来し、機銃掃射によって校舎が被弾し、一発はガラスから柱と壁を貫通し、奥の職員室の一部を破壊した。さらに5月25日の夜、B29の大編隊が来襲、周辺は火の海となったが、当校は全て鉄筋の校舎であったため、運良く焼け残った。そこで数百人の避難者が学校に来て一部の人たちは数ヶ月校内で生活した。

 終戦後、生徒は何分の一に減っていたが9月より授業開始、しかし荒れた校舎内外の整備もあって、約ひと月は授業と整備作業を隔日に行った。しかし戦後の食料事情は一層悪く、弁当を持って来れない生徒もいて、一時的に午前中の授業だけとした。しかも翌年の冬場は空襲の影響で教室の窓ガラスがないままで寒く、数週間寒期休業とし、夏休みを短縮して当てることになった。その後窓ガラスは少しずつ修復されたが、そのガラスや他の資材もに何度か盗難にあったとある。この時期、焼け残った学校はよく泥棒に狙われ、設備機器が盗難にあった。

 一方、占領軍GHQの指示でこれまでの国定教科書の修身、地理、歴史は回収され(そうでない場合は不都合な部分を墨塗りして使用された)、再生紙となったようである。また占領軍による食糧と物資の援助も学校を中心に行われ、学校自身もバザーや音楽・演劇会などを開いて復興資金の足しにした。

戸板学園

 戸板関子が明治35年(1902)、戸板裁縫学校を創立。大正5年(1916)新たに三田高等女学校を設立、昭和12年(1937)、戸板高等女学校に改称する。別途、大正15年=昭和元年(1926)、大森に姉妹校の大森高等女学校と城南(高等家政)女学校を同じ敷地内に開校。戦後、戸板中・高等学校とし、昭和25年、戸板女子短期大学を設立。平成5年(1993)、中・高等学校は世田谷区用賀に移転、平成27年(2015)に三田国際学園中学校・高等学校と改称し男女共学とした。以下は主に『戸板学園八十周年記念誌』より。

 女子教育は明治時代の前半はキリスト教系の学校が主に担い(明治20年までに20校以上)、明治時代の後半には関子の他、多くの女性教育者が輩出し、女学校を作った。まだ女性の権利など全くない封建時代の中で、当時は女性というだけで選挙権もなかった。ちなみに文化服装学院(文化学園=渋谷区参照)の創立者の並木伊三郎は関子の薫陶を受けている。

 当校は昭和の初頭には夜学や幼稚園も含めて五校一園を持つ学園となっていたが、関子は過労と病気により昭和4年(1929)没した。あとを大森高等女学校の責任者であった次女の青木あさが引き継いだ。

 日本は6年(1931)の満州事変から12年の日中戦争が勃発する頃まではまだ平穏な学校生活で、部活のスポーツも、音楽も含めた文化系の活動も現今よりも活発に行われていた。戸板と大森の四校合同での大運動会や修学旅行も毎年行われたが、16年(1941)より修学旅行は自粛され、運動会は錬成体育会という名に変えられ、軍事教練的内容が加えられた。ただ修学旅行は女生徒の最大の楽しみなので、出発をいくつかの駅に分散してひっそりと行うなどしたが、それも17年(1942)までであった。学校によっては鍛錬旅行の名目で行われたが、全く中止した学校もあった。

 12年(1937)には日中戦争が勃発し、国民精神総動員運動が展開され他の女学校と同様、勤労奉仕が義務化され、校長も率先して陸軍の肩章や襟章作り、慰問文や慰問袋の作製に励み、すでに戦傷者が多く帰還していて、その病院へ手作りの白衣を持って慰問を行うなどした。一方で日本軍が中国の南京や広東、武漢等の都市を制圧するたびに戦勝祝賀の旗行列に参加した。また出征する若い教師の壮行会も行われるようになった。13年(1938)には国家総動員法発令があり、日常生活にも学生・生徒に対する監視が厳しくなり、映画館への入場規制、遊技場や飲食店への出入り禁止などの措置が行われ、街頭には監視員の目が光った。15年(1940)には皇紀2600年(神話上の神武天皇が即位したとされる年から)を期として国民精神高揚のための各種行事が催され、16年(1941)には文部省は各学校に報国団を結成するように通知した。そして12月、日本は米英を敵とする太平洋戦争に突入しさらに戦線を拡大、学校は一層の戦時体制に組み込まれた。

 英語は敵性語として正課から外され、滑稽なのは音楽もドレミもハニホヘトと変えられ、サイダーは噴出水などとされ、その他きりがない。制服は下がモンペの国民服となったがおそらく生徒自身で縫ったのであろう。

 それまでの勤労奉仕は報国団の学徒報国隊として有給の勤労動員に変えられた。当初は学年ごと短期の交代制で軍需工場に勤務したが、年を追うごとに戦局は悪化し、働き手の男性が次々と戦地に遣られるのに伴い勤労動員の期間は拡大し、19年(1944)半ばから通年となった。したがってこの19年(1944)4月に入学してきた生徒は学校の机に座る間もなく勤労動員となった。当校の動員先は内閣統計局、凸版印刷、東洋製罐、沖電気、中外ピストン、宮田(真空管)製作所、東亜航空機、富士飛行機などである。監督する教員の目からは「お針を持つ柔らかい手で飛行機を作っていた」様子があった。生徒には給料が支給されたが、それは「授業料」として学校に還元された。

 この中でも創立以来継続されていた戸板裁縫学校は各種学校に分類されていて、主に卒業生を対象としていた女子挺身隊として位置付けられ、生徒はもう学校には戻れないのかとショックを受けたという。各種学校は戦時下では「不要不急」の学校とされたためである。それでも裁縫学校の高等師範科の生徒は動員の時期はしばらく猶予されていたが、それでも間もなく動員された。また防空法による灯火管制が次第に厳しくなり、18年(1943)には戸板の夜間学校(三田博和女学校)は停止となった。それによりこの生徒たちも挺身隊に組み入れられたと思われる。

 なおこれらの勤労動員の全貌の「記録は全く存在せず」とある。これは戦災で焼けたわけではなく、敗戦直後に軍政府が占領軍の追求を恐れて戦争遂行に関わる記録(軍や官庁自身の分も含めて)の焼却を指示した結果であり、その記述が各所に残っている。

 米軍による空襲は早いうちから想定されていて防空・防火訓練や防空壕掘りも近所の人たちと一緒に行なっていた。米軍の本格的空襲開始は19年(1944)11月下旬からであった。地方から学校の寮に入っていた生徒は、動員先の工場の寮に移る例もあったが、頻繁な空襲により、20年(1945)には学校は全員を帰郷させた。二つの鉄筋校舎には地下室があり、空襲警報があると近所の人もここに避難した。

 20年(1945)、下町地区への3月10日の大空襲を経て、5月25日夜間、B29の大編隊が来襲した。この日、宿直の教員と校長夫妻そして当番の生徒2名の6人がいたが、無数の焼夷弾で学校の周辺は一斉に炎に包まれ、まず木造の校舎が燃え上がり、そこから鉄筋の本校舎の三階に燃え移り、すぐに全体に火は広がり、内部は焼き尽くされた。ただ重要書類を移していた地下だけは残り、また鉄筋の記念校舎はそこに駐屯していた陸軍部隊の活動で類焼は免れた。近くの慶應大学の一部や増上寺も焼失した。都内への最後の大空襲であった。なお大森高女も4月15日に焼失していた(大田区参照)。それでも生徒たちには続けて勤労動員が課され、教師たちも交代で生徒の動員先の工場への巡回を続けた。

 敗戦後、9月初めから始業したが、当初は焼けた校舎の後片付けが続いた。窓ガラスはなく、机や椅子も足りず、一つの机に5人が集まって授業を受けた。まともな教科書もなく、冬は教室に風が吹き込む中でストーブもなく(戦時中に金属供出でなくなっていた)オーバーコートを着たままであったが、それでも生徒たちにはやっと勉強ができる喜びがあった。

順心広尾学園(旧順心女子学園/順心高等女学校)

 大正6年(1917)、板垣退助の妻、絹子らによって大日本婦人慈善会が作られ、それを財団法人として翌年順心女学校が創設される。13年(1924)、慈善会を大日本婦人共愛会に改称し、順心高等女学校を設立、実践女学校を創設して明治時代から女子教育に多大な貢献をした下田歌子を校長に招聘した。昭和22年(1947)順心中学校設置、23年順心女子高等学校設置、26年(1951)、順心女子学園、平成19年(2007)、広尾学園中学校・高等学校に改称し、共学化となる。以下は主に『六十年のあゆみ』からであるが、生徒側に立った記述はなく、戦時下の勤労動員の状況も不明である。

 昭和6年(1931)の満州事変から12年の日中戦争へ突入後は日本は世界的に孤立しはじめ、さらに戦線の拡大へと軍政府は企図していた。16年(19441)12月、太平洋戦争に突入する前年の昭和15年は皇紀(神話上の神武天皇即位の年を紀元とした)2600年の式典と祝賀行事が各地で盛大に行われた。それをより盛大に世界に誇示するためにこの年に予定していた東京オリンピックと万国博覧会は戦線の拡大により13年にすでに返上されていた。

 この年に学園は記念事業として板橋の大泉町に同じ数字の2600坪(小振りの学校の敷地程度)の土地を取得し、これを学校農園とした。私学に限らず多くの高女はこの時期に郊外に農園を取得するか、借り上げている。これは物資のすべてが軍隊優先の中、不足してきている食料増産のためであって、すでに12年より始まっていた戦時下の勤労奉仕の一環であった。ただ学園では特別会計として分離され、この農具や肥料の購入や専任農夫等の維持費用は入学時に徴収された。当然これらの収穫物は生徒・教職員に配分され、大いに役に立ったという。

 戦時下の当学園で実施された特異な例として昭和14年(1939)に始められた土曜会というものがある。これは正課の補足として、土曜日の午後の数時間を利用し、学芸、技術、運動のいくつもの科目の中から生徒及び希望する卒業生に対して一科目から数科目の選択制で実施された。これについては17年に改定されたとある規約に20ほどの科目が記載されている。それはその前の15年(1940)9月に学校を「銃後」の戦力の一端として組み込むためとして、文部省は学校報国団の結成を指示し、それを受けて16年(1941)から各学校は校友会などの自治組織を報国団に変えていった動きに合わせるもので、この土曜会も報国団に属するとあり、それに並行して科目の内容が編成し直された。その中の科目の一つに英語もあって、英語は16年(1941)から敵性語として文部省の指示で排され、しかし多くの学校で英語は必要科目と認識され、選択制などの形で継続されていて、当学園にあっては土曜会がその役目になっている。また科目の中には時局講演というのもあり、おそらく戦意高揚の講話である。なお報国団の中に報国隊が結成され、組織は軍隊式であったが、それまでの勤労奉仕から軍需工場への勤労動員に転化されるにあたって利用された。

 そして18年(1943)より軍需工場等への勤労動員が強化され、授業時間が平日はほとんどない状態となって、先の土曜会が授業をいくらか補ったように見える。しかしそれも19年(1944)半ば以降はまともにできなくなり、また就業していない卒業生は19年(1944)から女子挺身隊として全国的に動員されることとなり、勤労動員の休みは日曜日の一日だけで、土曜会にも参加する余裕はなかったであろう。土曜会は20年(1945)6月まで継続されたとあるが、すでに4月より中学生以上の授業は全面停止され、この6月は、沖縄が陥落し本土決戦体制が叫ばれ、そこで義勇兵役法が公布され、女性は17歳以上45歳以下までが「義勇召集」によって、国民義勇戦闘隊員に編入される事態となっていた。

 学園は度重なる大空襲からの戦火を免れたようであるが、敗戦後の占領軍GHQの新たな施策で農地改革が行われ、地主制が廃されたが、これに連動して大泉農園は強制買い上げの対象となり、学園から切り離された。他校の学校農園は戦後に新たな校舎になっている例もあるが、強制買い上げとは「特別会計として分離され」ていた結果であろうか。

 ここに筆者が他の資料で見つけた記録がある。以下は長いがその要約である。

 —— 昭和17年(1942)、各大学・専門学校は文部省による在学年限短縮決定により卒業が6ヶ月繰り上げられ、9月卒業となった。早く卒業させて男子は戦地へ、女子は男子に代わって生産に励むようにということだ。その頃、英語は敵性語ということで、多くの学校は選択科目になって、授業は削減されるか廃止された。しかし順心高女の校長の方針で、私は英語教師として勤めることになった。9月の卒業式の翌々日の10月1日から、髪のまだ伸びきらないおかっぱのまま教壇に立つことになった。(注:この方の当時の年齢は18歳くらいと思われる。当時は五年制の女学校の後、二年制の師範学校というのがあって、五年制の女学校を四年から飛び級もできた。おかっぱのままというのはその結果である)

 私の出た学校ではすでに学生が中隊・小隊・分隊など軍隊式に編成され、防空訓練が行われるなど臨戦体制がしかれていた。順心高女ではまだ女性教師の多くは短い着物に胸高に袴をはいた和服姿で、あまり緊迫した空気はなかった。訓練(防空・防火と思われる)も月一回であったが、一休みする時が上級の先生との会話する唯一の機会であった。が、うっかり奉安室(天皇・皇后の写真のある場所)に背を向けて座ったりすると、「不謹慎です!」と叱り飛ばす先生もいた。

 この学校の独特の行事は、毎月一回全校生徒による校長への手紙書きであった。巻紙でたどたどしいながら、毛筆で書いた。上手な手紙数通が、月曜日の朝礼の時、全校生徒の前で朗読される。内容はみな、神国日本の精神の優秀さ、大東亜共栄圏建設のために戦っている将兵への感謝、銃後の国民の決意など、決まったものであった。毎回のように朗読する5年生の一人は、字も文章も上手でお下げ髪とセーラ服がよく似合う美人で、戦時下の女学生の見本とも言える学校自慢の生徒だった。感心していた私の隣で、「あの子はかわいそうね。普通の生徒のように息を抜いて遊ぶこともできないで」と一人の先生が小声で漏らした。

 また五年生が数人ずつのグループになって校長の鎌倉の別荘に一週間の家庭料理実習に行くのもこの学校の行事の一つだったが、付き添いの先生は大変だったが、生徒は修学旅行の気分で楽しみの一つだったようだ。だがそうした行事も学芸会などと一緒に戦局の悪化とともに姿を消した。太平洋戦争開始後には、開戦日の毎月8日が大詔奉戴日(天皇による宣戦布告の日)として行われ、全校生徒で明治神宮参拝のために原宿駅に集合、四列の隊列を組んで行進し、帰りは徒歩で帰校した。その間はおしゃべりは禁じられ、雨でも傘をささないで往復するので、休む生徒も多かった。

 18年(1943)になると戦局は悪化し、ラジオから「海ゆかば」の曲が流れることが多くなった(この曲は戦死者の葬送の曲とされた)。4月の新入生から国が指定した統一のセーラ服となり、生地も悪く、生徒には不人気だった。音楽ではドレミファソラシドは敵性語だから和音のハニホヘトイロハに変えられ、歴史の授業の始まる前は、歴代天皇の名を唱和する決まりになった。私が順心高女で英語の授業をやれたのは当時三年生のクラスに2ヶ月と、18年(1943)に一年生の担任となった半年で、授業の多くは勤労奉仕に変えられた。縄跳び、千米走、ボール投げ、俵担ぎなどの検定も先生に課せられた。和服に袴という女の先生もモンペに防空頭巾、男の先生は国民服にゲートル、戦闘帽になった。学校も世の中も年々軍国調が強まっていった。

 食量事情も悪化し、ご飯よりも大根の葉やさつまいもの刻んだものが多く混ぜられ、箸では食べにくいものになっていった。順心では一学期に一回、学校農園に行くが、秋の収穫期に行くのは嫌だった。収穫したじゃがいもや大根などを持ち帰る時、教師の分は生徒の倍以上になる。そういう時代であったが、前に並んだ生徒の恨めしげな眼差しが教師の持った物に突き刺さる。教師にならなければよかったと思った。

 昭和18年(1943)の後半になると三年生以上の生徒に学徒勤労動員令が出た。これが翌年には二年生以上になって、全校生が一堂に会することはなくなった。その頃、私が赴任した時に五年生だった生徒が半年の臨時教員養成の課程を終えて、「小学校の先生になりました」と挨拶に来た。男の先生はほとんど出征し、代わりにこうした若い女の先生が教壇に立つようになっていた。電車にも若い女車掌が登場していた。

 生徒の間ではどんな工場に動員されるのかが最大の話題になり、どうしても飛行機工場に行かせてほしいとクラス委員が頼みにくることもあった。三年生の中には、今は勉強よりも工場でお国のために働きたいと言って、卒業も待たずに工場に勤めにいった生徒もいた。しかし19年(1944)の半ばからはほとんど勉強はできず、勤労動員一辺倒になっていった。その年私は二年生の担当で、まだ14歳になったばかりの女の子たちが品川製作所という航空計器を作る工場に配属された。そこには立正高女の四年生が早くから来ていて、「必勝」の鉢巻を締め、カーキ色の作業服を着た上級生たちはすでに学生には見えなかった。順心の生徒は高度・速度計の組立、部品の数量検査などの部署に分かれて作業に入った。冷たいコンクリートの建物の中の、細長い作業台の前で小さな丸椅子に腰掛けて小さなネジや部品の数を数えたり、重さを測ったり、文字盤を組み立てたりする細かな作業であった。

 昼休みには工場の隣の小学校(学童疎開で児童はいなかった)の一室を借りてお弁当を食べ、そして校舎の渡り廊下の陽だまりに集まって、暖房のない工場で冷えた体を温めた。その工場では次第に材料が不足して、作業台の前にじっと座っている時間が多くなった。しかしそんな時間があっても本を読むことは禁じられ、教科書を開いただけで叱られた生徒もいた。その中でも救いはたまにある特配物資で、乾燥バナナは甘味に飢えていた生徒たちに喜ばれた。

 20年(1945)に入ってからは米軍機の来襲が増え、作業中にしばしば空襲警報が鳴り、するとすぐに防空頭巾をかぶって防空壕に避難する。ただ、工場から高輪の邸宅の中の空き地にある竪穴の壕で、そこまで10分ぐらいかかり、その間に直撃される可能性もあった。壕の中から仰ぐ空は吸い込まれるように青く高い。その空に真白い雲の筋が弧を描き、その先を銀色に光る飛行機が戦争を忘れるほど美しかった。壕の中でのひそひそ話はゆうべの空襲で田中さんの家が焼けたとか太田さんが疎開するなどで、実際に生徒が家族と一緒に疎開することが増えた。

 鹿島灘沖に米軍の航空母艦が現れると、東京は朝から艦載機の波状攻撃を受けるようになった。艦載機は低空でやってきて、操縦士の顔が見えるほどの高さから外にいる人々を狙って機銃掃射を浴びせてくる。それも避難する間に攻撃してきた。工場側は艦載機が来る日は工場に来なくてもよいと言い、ところがその翌日の朝礼の時に「立正高女生は危険をかえりみず職場を死守した。誠に立派である」と絶賛され、自分たちは裏切られた思いだった。工場でもどこにいてもいつ空襲にあうか分からず、みんなの顔を見れるのはいつまでか分からない日々で、防空壕の中で、前夜の空襲で四年生の佐藤さんが避難中に焼夷弾の直撃を受けて死んだ、という話も聞いた。通勤の電車が空襲警報で原宿駅で止まり、乗客は外に出て構内の壕に飛び込んで、その状態が何時間も続くこともあった。

 4月の初め、私は爆弾にやられた隣家の跡地で転んで怪我をし、栄養が悪かったこともあって傷から丹毒になり、二週間ほど家にいた。毎朝のように隣組の女子挺身隊の人たちが家の前を通る時、「戦果の影に無線あり。無線の影に我等あり」と歌って通り過ぎた。それで日本無線で働いている人たちだとわかった。その4月と5月24・25日の大空襲が、焼け残った東京の土地を総なめにした。翌日学校が心配で、学校に行くが、黒く汚れた防空頭巾を被り、半焼けの布団を背負った罹災者でいっぱいの電車も新宿で止まり、その先は歩いて行った。まだちらちらと赤い炎が見え、煙が吹き出している道を歩き、両側は瓦礫の山であった。

 やっと学校の近くまでくると、すぐそばの壕から、煤だらけの顔をした四年生の外川さんが出てきた。「とうとう焼けたのね」との慰めの言葉に「ハイ、焼けました!」とニコニコして答えた顔のいきいきして清々しかったこと。被災したことで銃後の務めを果たしたかのような喜びを味わっているようなその顔が、いまだに忘れられない。本当にその頃は、空襲で焼け出されないと肩身が狭いような、罹災してやっと一人前になった気持ちになる時代だった。
(田所 翠:保谷市『なつくさ:戦争体験をつづる会』第四号より)

山脇学園(山脇高等女学校)

 明治36年(1903)、山脇玄・房⼦夫妻により、獨逸学協会学校の分校があった牛込白銀町の校地に創立した女子實脩学校(本科3年制、専攻科1年制)を起源とする。初代校長を務めた山脇房子は英語教育を重視し、受け持った家庭管理の授業では時事問題を生徒同士で討論させるなど進歩的な教育を実践した。明治39年(1906)、赤坂檜町の新校舎に移転、高等女子實脩学校と改称。41年(1908)高等女学校令により山脇高等女学校となった(本科4年制、家事専攻科2年制)。昭和10年(1935)赤坂丹後町の現在の校地に移転した。戦後の昭和22年(1947)、学制改革により山脇学園中学校・高等学校となった。

 山脇学園は年史や沿革などには戦時下の記述がなく、当時の新聞を検索すると「山脇高女挺身隊」などが出てきたので、以下はその記事からの抜書きである。女子挺身隊を企図したのは政府であるが、それを受けて山脇高女が初めて挺身隊を結成したとある。その時代背景は他の女学校、あるいは「東京都の大学・女学校(その一)」の頭にある「戦時下の大学・女学校の概説」を参照されたい。

 ——(それまでの)名ばかりの挺身隊でなく新制の「女子勤労挺身隊」の実あげる帝都初の長期女子挺身隊が、赤坂の山脇高女同窓会で結成され(1943年11月24日に学校で壮行式が行われ)25日、その職場と決まった都内六桜社(小西六)で午前十時から入社式を挙げた津島くにさん(24)以下56名の隊員は、昭和16年(1941)以後の卒業生で、仲よく一年間頑張り抜こうと隊の決意はなかなか固い。その期間縁談があれば安心して新家庭に転身してくださいと同窓会は補充部隊も準備する周到さである。入社式には警視庁職業課長や厚生省その他の関係官も列席、同窓会理事長らに付き添われた挺身隊員はいずれも防空服に身を固め瞳を輝かせて激励の言葉を聞いたが、早速取りかかる仕事が航空写真機用部品の組立とあり、明るい顔も前線につながる興奮に引きしまって見えた。(1943年11月25日付朝日新聞)

 注:女子挺身隊は、当時の14歳から25歳までの未婚の女性を対象とし、女学校(当時は男女別学であった)在籍者は男子学校も含め、報国隊により勤労動員が義務付けられ、すでに一定期間各工場に勤務していたが、女学校の卒業生(ほぼ17歳以上)の場合、この時期からその女学校に所属した女子挺身隊とされた。ちなみに翌年の3月に卒業すると、そのまま山脇女子挺身隊として勤労動員することになる。

 なおこの年の10月、政府は学生の徴兵猶予制度を廃止し、20歳以上の学生を前線に送ることを決定、10月21日に神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会を挙行したが、この時都内の女学生が見送る側として約5万人集められ、スタンドを埋め尽くした。その中には山脇高女の生徒達もいたはずである。

 以下は勤労一カ月の経験後に行われた翌年1月初旬の座談会(その月の朝日新聞連載より)であるが、表向きの場では本心の発言はできない中である。実際にこの中には挺身隊の母親と、厚生省の役人、工場長などが列席し、冒頭部分以外、三分の二以上は彼らの勝手な話で、「生活に根ざした教育」「工場は女子の兵営」との言葉も出てくる。

 ——(記事:世間の荒波から離れて育てられたこれらお嬢さん部隊も、母親たちの杞憂も吹き飛ばして戦う女性の矜持をもって生産戦士のたくましさを見せている)

 A:不規則な家庭生活から団体生活に入る不安と、工場と聞いて埃っぽい雰囲気への不安はあったが、一歩工場に足を踏み入れた時から、黙々と立ち働く少女たち、また複雑な機械と取組む男性工員たちの雄々しい姿を見てから、なに私だってできないことはないという自信を持つことができた。

 B:戦果の挙がるたびにその陰で私たちの作った〇〇器が役立ったのだと思えることはどんなに嬉しいことか。誇らしさを感じてどこまでも頑張らねばならないと決心した。

 C:生産陣に働く身になってみると、道や電車で着飾っている同じ年齢の人たちを見ると、あの人の心の中はどんなのかしらと聞いてみたい気持ちになる。

 D:午前5時に起床、6時半に家を出る時の気持ちのよいこと、工場で友達と一緒に働く楽しさ、これを続ければどんなにか自信のある自分が生まれるか、張り切っている。

 E:挺身隊員になれとお奨めを受けた時、若い感激のままに承諾したが、当初は夜半も夢安からぬ幾日を過ごした。今ではすっかり心も定まり、働くことに純粋な喜びを感じるようになったが、まだまだと自分を励ましている。

 F:私は母一人で非常に困難と思いましたが、母も手伝いながら頑張り抜こうと決心し、日の丸の旗の下、厳粛な入所式での感激を持ちつづけ、帝都初の女子勤労挺身隊として働き抜きたいと思っています。

 G:仕事は電気コードの裁断や写真機の部品の組立などで、女工さんが丁寧に教えてくれ、いくら仕事をしても倦きることがなく、毎日の戦果を聞いて……みんな一年無休だと張り切っている(実際に前々年より夏休みなどない状態であった)。

 H:(4カ月後の感想)学校時代には味わえなかった仲間との親しさが沸き、心と心が寄り合ってくるのがわかる。配給品の数は少なくても仲良く分け合い、食後のコーラスも声がよく揃う。最初のうちこそ部品のハンダ付や細かい組立作業に苦労したが、今では一人でボール盤を扱い、穴あけ作業もできるようになった。機械の正確さにはほれぼれする。家庭の雑事に追われてぼんやり過ごした日々が惜しくて仕方がない。

 1944年1月、政府は「緊急国民勤労動員方策要綱」を閣議決定し、学校に向けてそれまでの「教育実践の一環として」の勤労動員から「勤労即教育」との都合のよい方針を打ち出した。そしてこの半ばより学生・生徒の勤労動員が強化され、山脇高女の勤労動員も一定期間の交代ではなく通年動員になってくる。三井精密工業へ5年生が300人、東京貯金局へ4年生が300人などを送る壮行式が6月24日に学校で行われ、そこへ岡部文相が訓示を行い、それに対する生徒代表(おそらく17歳)の答辞が以下である。

 —— 不逞なる敵はわが神州の表玄関であるサイパン島に上陸を企て、熾烈なる激戦を展開しております(注:この後7月9日にサイパンの日本軍は玉砕、日本軍の戦死者4万人以上、民間人の死者も自決を含めて約1万人、その後テニアン・グアムも陥落し、ここを米軍は大型爆撃機B29の基地として、11月下旬より日本への本格的空爆を開始する)。私達はこれまで勝ち抜く覚悟や増産の大切なことを随分聞かされて参りました。然し開戦直後の喜びに酔い、アッツ島の玉砕、山本元帥の戦死(注:前年5月)を知って悲憤に燃えながらもなお戦場は遠いという安易な気持ちを捨てきれませんでした。息づまるような戦局に直面して私達は断呼として国家の恩恵になれ過ぎたこの気持ちを一擲しなければなりません。米英は生やさしい相手ではなかったはずです。私達が決然として起って戦力増強に突進する機運は参りました。私達はペンを捨ててこぞって工場へ向かいます。光輝ある大和島根のわれら本分を盡して挺身する覚悟です。どうぞご安心くださいませ。(1944・6・25付朝日新聞)

 この後、東京への米軍の空襲は激しくなり、女学生たちは空襲警報のたびに防空壕に逃げながら勤労動員に励んで行くが、途中、家族と共に地方へ疎開しても、その疎開先の工場などでの勤労動員は避けることができなかった。1945年8月15日に敗戦となり、動員先の工場や学校などで天皇の玉音放送を聞き、泣き崩れる生徒が多くいた。およそ一年半、学校での勉強がまったくできず、「お国のために」と働きづめの学校生活であった。

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