(共通の背景としてはトップの「戦時下の大学・女学校の概説」を参照)
東京大学
明治維新直後に旧幕府直轄だった昌平坂学問所、開成所、医学所を統合して大学校が設立された。その後明治10年(1877)4月に統合されて官立東京大学が創設された。当初は法、理、医、文4学部と予備門を持った日本で初めての総合大学であった。明治19年に帝国大学令により帝国大学と改称し、工部大学校も吸収して5学部となり、予備門は分離して第一高等中学校(旧制第一高等学校)となった。明治23年に東京農林学校を吸収し農学部を、大正8年(1919)経済学部を設立した。なお戦前の帝国大学は東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋の7校で、他に植民地台湾に台北、朝鮮に京城が帝国大学としてあった。
<学術機関としての東大の戦争への関わり>
昭和16年(1941)11月(太平洋戦争開戦の前月)、東大に「東洋文化研究所」が設立された。これは昭和12年(1937)に始まった日中戦争(支那事変)というより、昭和6年の満州事変を経て中国北部満州を植民地とし、工業資源開発と農地開拓による食糧増産を図っていた日本にとって、中国大陸へのさらなる進出は必須の国家計画となっていて、昭和15年には内閣で大東亜共栄圏が唱えられ、東アジアを統括して日本が支配するという構想を推進するために、その研究機関として作られたものであった。哲・文・史・法・政・経・商の各部門での総合的研究を目指し、附属図書館内に研究室、書庫、事務室を置いて発足した。他の大学でも講座の形で大東亜研究科などが設置されている。
実は真珠湾攻撃と同時に日本軍はマレー半島からインドネシアなどに侵攻していて(日本軍が真っ先に狙ったのはインドネシアのオランダ系石油基地であった)、その直後、海軍は東大に「南方資源調査会」を発足させるように働きかけ、当時の平賀譲総長がリストを作成、翌17年1月、20名ばかりが集まった。その一番の目的は米国等から経済制裁として供給を閉ざされた石油その他の資源の確保であって、海軍はそれ以前から南進政策の調査立案を東大に協力させていた。そして3月に平賀総長を会長として工・理・農学部の教授・助教授により調査会が正式発足した。これと並行して学生の南方研究会もできた。テーマは「東亜共栄圏の資源について」等であった。
一方で医学部でも南方医学研究会が結成され、この後二つは合流し南方科学研究会となり、調査研究対象は農林水産、鉱物、医薬学、民族衛生となった。民族衛生とは日本軍の植民統治を前提としたものである。その後曲折を経て19年(1944)初頭、正式に「南方自然科学研究所」が設立された。総勢130名以上の陣容で、計画としては農水産試験所などを東南アジア各地約15箇所に開設する予定であった。しかしすでに戦局が悪化し、海上は米英軍に支配され、艦船や輸送船はことごとく潜水艦や爆撃機で撃沈され、南方へ出かけること自体が困難となった。さらに研究所の拠点としていた旧一高校舎も空襲で焼失した。東洋文化研究所は戦後も継続発展していったが、南方自然科学研究所は終戦翌年、立地自然科学研究所とされ、その6年後に廃止された。
このほか昭和17年に第二工学部が千葉市に設立された。平賀総長は大学卒業後、海軍の造船技師として勤務していた経験をもち、「長門」や「陸奥」を始めとして、日本海軍のおもだった戦艦の設計を次々に手がけ、第二とは軍事的応用のための工学部であった。その講座の中には造兵学、火薬学、化学兵器学、船舶・航空学などがあった。(ちなみに医学部には航空医学、兵器医学などがあった) 敗戦翌年、第二工学部の航空機体学科は物理工学科、航空原動機学科は内燃機関学科、造兵学科は精密工学科に転換され、工学部を母体として24年に生産技術研究所が設立された。
大正7年(1918)に設立されていた航空研究所は先端を行く航空機の開発(長距離航行と飛行速度)に挑んでいたが、戦後GHQ占領軍によって廃止され、理工学研究所に転換された。現在は先端科学技術研究センターとなっている。また敗戦を前にした20年1月、輻射線(放射線)化学研究所を設立、電波、光波、赤外線、X線の研究が開始されたが、25年に廃止、やはり理工学研究所に合流した。
東大のこのような関わりは、近代戦争における軍隊がいかに理工科学的総合力を必要とするか、そして大学がいかに軍事に利用されやすいかのよい例である。その意味では逆に文系の学部は戦時の兵力不足にあっては「学徒兵」召集の格好の対象にされた。
ちなみに戦争の終盤、日本が沖縄戦に敗れた後の6月下旬、米軍の本土上陸に備えて東部軍管区司令部の下に帝都防衛司令部ができ、宮城及び東京都防衛のため、その一部隊の司令部として東大を使いたい、その人員は幕僚以下約三千名であるとの申し入れがあった。それに対し内田総長は各学部長とも協議し、断る方針で動いた。それでも軍は諦めず上野の森と本郷台とを結ぶ線に陣地構築が必要であるとの計画を持ち出し、それに対しても大学としては断るという交渉をしているうちに、8月に入り、東大の付属医院を傷病者の治療に使いたいとの申し出があって、それには同意したところで15日に敗戦が決まった。
<戦時下の東京大学総長の苦悶>
戦時下に東京大学総長がどのような発言をしていたか、ほぼ目にした人はいないと思われるが『東京大学歴代総長式辞告辞集』(1997年:東京大学出版会編)から抜書きしたものを筆者の「各種参考資料」に載せている。ほぼこの時代の世相に沿った言辞が並び、軍国主義に逆らうような発言はないが、そうしないと例え東大総長でも憲兵に引っ張られて行ったであろう。
日中戦争開戦の翌年、昭和13年(1938)3月の卒業式における長与又郎総長の式辞は、「諸君の悉知せらるる如く、我国は今や未曾有の非常時局に直面して居ります、昨年夏支那事変勃発してより以来、我海陸の皇軍将兵は御稜威(みいつ:天皇の威光)の下、忠勇無比、到る所凡ゆる艱苦に堪え、赫赫たる武勲を樹て短日月間に於て世界の脅威に値する偉大なる戦果を収め、国威を内外に宣揚しました」と天皇を宗主とする軍隊の躍進を讃える言葉を並べている。
この4月に国家総動員法が発令され、戦時体制が強化される。一方で政府文部省は帝国大学の総長を学内選挙でなく、官選にすることを伝え、それに長与総長は反対し、辞任と引き換えに撤回させた。
昭和14年(1939)3月末の卒業式における平賀譲総長の式辞は「卒業生諸君。支那事変は、実に諸君の在学中に始まり今日に至って居ります。現に皇軍は、陸に海に空に、尽忠報国の誠を尽して居ります。従軍将兵の内には幾多の我が帝国大学の出身者、即ち諸君の先輩もあれば、又奉職中の職員、在学中の学生もあります、其の中には既に幾人か名誉の戦死を遂げられた方があります。…… 我が国は、今や敢然として、我が国家の基礎を一層確立するのみならず、更に世界平和の為に、東亜新秩序の建設に着手したのであります」とあるが、総長自身がこの戦争が「世界平和、東亜新秩序」を推進すると信じているのかどうかは。
昭和15年(1940)2月、すべての帝国大学の総長と当時の橋田邦彦文部大臣が出席して総長会議が開かれ、学生の徴兵猶予短縮が議題に上げられるが、総長たちはそろって反対した。もともと橋田文部大臣は東大の優れた理系の学者であり徴兵猶予を支持する立場であった。
その昭和15年3月末の卒業式における平賀譲総長の式辞は「光輝ある紀元二千六百年慶祝の年(神話上の建国から)に当り、…… 今や支那事変は既に二年有半を経過致しましたが、皇軍は陸、海、空に奮戦し、輝かしき戦果を収め、…… その赫々たる武勲は淘に感激に堪えないところであります」と語っている。
昭和16年(1941)に入ると、政府は大学の「繰り上げ卒業」を要求し、帝国大学の総長たちは大学教育の本質を揺るがすとし、平賀総長も「遺憾千万。国家の今、そして将来の大損失になってしまう」と反対した。それでも9月、文部省は各大学に繰り上げ卒業を内示、平賀総長は再度橋田文部大臣に遺憾を表明するが、10月、陸軍大臣の東條英機は繰り上げ卒業を通達し、臨時の措置として3ヶ月繰り上げを決定、12月を卒業式とした。その直後、近衛内閣は総辞職し、東條が首相となり陸軍大臣も兼任した。そしてその繰り上げ卒業式を待たずに12月8日、日本は米英に宣戦布告、太平洋戦争に突入した。
その12月末の卒業式では平賀は「本日八日、畏くも大詔を換発し給い、米英両国に対して戦を宣せられ、今や干戈相見え、国家の総力を挙げて征戦(筆者注:この時期世論的には「聖戦」と言うところ、あえて避けていると思われるが、講堂で聞く学生たちは「聖戦」として聞いたのではなかろうか。平賀のささやかな抵抗である)に従い、一億臣民心を一にして、我々日本人が祖先より承けた大使命の達成に邁進しているのであります」と述べる。
そして翌17年春の入学式で平賀総長は「私はまず諸君と共に、乾坤一擲(この言葉も平賀の皮肉にとれる)の大東亜戦争に於て、大御稜威の下前古無比の大勝を博し、国威を世界に輝かせる皇軍将士の赫々たる武勲と労苦とに対し、衷心より感謝と敬意とを表するものであります」。
そして17年には半年の繰り上げ卒業となり、9月に卒業式が行われるが、首相の東條英機が式に出席して挨拶し、橋田文部大臣も列席した。平賀は「…… 畏くも宣戦の大詔を拝してから十箇月、忠勇無比なる皇軍は御稜威の下、未曾有の大作戦に於て善謀勇戦、開戦の劈頭から前古無比の大捷を博し、……(しかし)必ずや敵は今後あらゆる手段を尽して、執拗なる反撃を繰返すべきことは明瞭なる所でありまして、…… 実に今次の大戦は武力戦たると共に、思想、経済、学術の戦でありまして、かの敵を知らず、己を知らず、はたまた精神力、生産力、学術の昂揚なき国は敗るるより外ないのであります。即ち最後の勝利を確保するがためには、あらゆる方面に於て百年の奮闘を覚悟しなければならず……」と述べ、ここで、このままでは日本は負けます、と暗に言っていることがうかがえる。
この繰り上げ卒業式の一週間後の17年10月1日、早々に入学式を行なっている。これは高等学校も繰り上げ卒業したことによる措置であった。これにより大学の卒業は一年早くなる。この時の式辞の内容は半年前の入学式と一週間前の卒業式と変わりがないが、ここですでに平賀総長は健康を害していて翌18年2月に病死した。その後高名な建築家の内田祥三が総長となる。この昭和18年早々、国は高等学校の卒業を半年からさらに一年の繰り上げを命じた。そして内田を含めた帝国大学の総長たちは繰り上げ卒業に対し当時の文部大臣橋田を批判、板ばさみとなって橋田は辞職した。そして卒業式は9月25日に実施され、翌10月21日に神宮外苑競技場にて出陣学徒壮行会が行われる。
その前の卒業式における内田総長の式辞は「大東亜戦争は大御稜威の下、忠勇なる皇軍将兵の善謀奮戦により既に東亜を侵食せる米英勢力を駆逐し、絶対不敗の態勢を整へ共栄圏新建設の巨歩を進めているのであります。…… 併しながら敵米英はその尨大なる物資と生産力とを侍みあらゆる科学と技術とを総動員して必死の反攻を企てつつありまして……」と、危機意識を滲ませている。続いて10月1日の入学式(高校などの卒業も早めたため)では、「大東亜戦争は日一日と織烈となり、深刻なる様相を呈して居るのであります。此の際政府は現下の戦局に対処し戦力を増強する為め、直接困難に赴かんとするの至情抑え難き青年学徒の念願に応え、一部の学徒をして直接戦争遂行に参加せしむると共に」と学徒壮行に触れているが、「至情抑え難き青年学徒」とは東條首相も使っていてそれに倣ったのであろうか。
昭和19年9月25日の卒業式の年、日本軍の戦線は後退を続けていて、徴兵年齢は20歳に下げられ、多くの大学生も卒業を待たず休学の形をとって応召することになる。内田総長は「今や我国は国を挙げて聖戦完遂に遭進して居り、未曾有の学徒出陣も行われたのでありますが、戦争の様相が熾烈深刻を極めていまする現段階において、諸君が本日茲に卒業証書を授けらるるに到りましたことは、これひとえに聖恩の鴻大無辺によるものでありまして……卒業生諸君の中の相当数は昨冬以来既に大命を承け皇軍の一員となり烈々たる意気を昂揚し、修文練武の成果を発揮して勉励怠りなく、優秀なる軍要員として活躍しつつあるのであります」と述べ、これは聖戦や皇軍という天皇のイメージで覆った当時の飾り言葉の羅列でしかなく、内田も思考停止状態にあることを示している。
昭和20年に入り、高校等の卒業はさらに半年削減され、そのため前年10月から半年後の4月1日、新たに入学式が挙行された。またこの前年11月下旬より、米軍は日本本土への本格的空爆を開始し、3月10日の東京大空襲の後の内田総長の式辞である。——「大東亜戦争の大詔を拝してから茲に三年有余、この間大御稜威の下我が皇軍将兵は大東亜の広域に於て凡ゆる困苦欠乏を堪へ忍び力戦奮闘絶大な戦果を収めつつあるが近来敵米英はその多大な消耗、多量の出血にも懲りず、尨大な物量と生産を侍みとして必死の反攻に出で現下の戦局は益々壮絶熾烈を極めつつある。南方海域における激戦と併行して敵は愈々本土に対する空襲を本格化し、帝都を始め大都市に対する空爆は実に悪鬼の乱舞というべきである。…… 学校の授業は原則として一箇年間停止することの閣議決定を見た事は教育史上画期的措置である。又今回入学した諸君の中には既に学徒出陣の栄を担って第一線に活躍している者もあり、或は近く大命一下皇国の危急に馳せ参ぜんとする諸君も尠くない」とあって、もはや入学式の式辞ではない。実際にこの入学式後に軍に応召し、一度も東大に戻らないまま戦死した学徒もいる。
昭和20年8月15日、日本は敗戦を受け入れた。その後の9月25日の卒業式の内田総長の式辞である。
—— 「去る八月十五日米英支蘇四箇国共同宣言の受諾に関する優渥なる大詔を畏くも玉音に拝し、…… 支那事変の勃発以来八年余、大東亜戦争の宣戦以来四年に垂んとして、遂に敗戦の悲境に直面するに到りましたことは、淘に感慨無量なるものがあり、深く反省せざるを得ないのであります。…… しかもこの諸君が、突如として今日敗戦の悲しき事実に直面しました心境は真に察するに余りあるところでありまして、私は諸君の先輩として実に同情に堪へないところでありますと共に、深く自責の念に駆られる次第であります。然しながら今や国民は、一時の感情に駆られて或は興奮激発し或は徒らに卑屈に沈潜すべき時ではありません。既に聖断は下されたのであります。…… 最後に諸君と共に本年卒業の栄誉を荷うべくして、業半ばに勇躍、一切を放下して剣を執り、力戦奮闘、不幸戦没せられました英霊並に出動中物故せられました少数の諸君に対しましては、茲に衷心より哀悼の悦を捧ぐる次第であります」。
ここで戦没した「少数の諸君」となっているが、この時点ではほとんどその数は把握できていなかったのであろう、1990年代半ばの調査では東大学徒兵の戦死者は1721名となっている。
おそらく平賀・内田両総長ともこうした時流に合わせた言辞を発することは本意でなかったであろう。およそ理系の学者は自分の研究を続けることへの意欲は強く、本来、総長などの雑務はやりたくはなかったはずであるが、大学としてはこうした理系の高名な学者を総長にすることに意義があったものと思われる。終戦後、各大学の総長たちは一通りの戦後処理を終えて翌年までに全員が辞職、内田総長も12月に辞職した。東條首相時代に辞職した文部大臣だった橋田は、占領軍GHQから戦犯として召喚されたが、連行直前に服毒自殺した。筆者の見立てでは有罪になることはなかったかと思われるし、総長たちもそのように弁護したであろう。
内田総長の辞職に伴い、南原繁が総長となった。終戦翌年(1946)の3月30日、とりあえず判明している142名の戦死者の慰霊祭が行われた(戦時下には二度行われているがまだささやかなものだった)。この時の南原繁総長の追悼文『戦没学徒を弔う』は「今や白日の下に曝されたことは、軍閥・超国家主義者等少数者の無知と無謀と野望によって企てられたただ戦争一途と、そして没落の断崖目がけて国を挙げての突入であった。……諸君はいかに愛国奉公の情熱に燃えて勇躍して我らの許を立ったか。…… しかるに不幸にして真理と正義は我らの上にはなく、米英の上に止まった。それはただに戦に勝った者が正義というのではなく、世界歴史における厳然たる”理性の審判”であり、我ら共に敗残の悲痛の中から厳かにその宣告を受け取らねばならぬ」というもので、画期的な発言であり、学生たちに感動を与えた。(この全文は筆者の「各種参考資料」を参照)
<学徒出陣と大学の50年後の調査>
学徒出陣50年後の平成5年(1993)末から学内の大学史文書館が約2年半の調査を経て『東京大学の学徒動員・学徒出陣』に関する報告書を公開、1997年に出版した。これによると、昭和12年の日中戦争開始後から昭和17年(1942:太平洋戦争開戦の翌年)までに大学の出征数は1176名(大学の教職員含む)、またこの期間の学生の応召は344人とある。遡って14年(1939)に第一次的な日本兵役法が改正されたが、その適用前13年の9月の時点では学生の徴兵猶予に達した学生(26歳以上)応召者は113名であった。14年の改正では25歳以上となった。この時期はおそらく軍内の専門的な分野に請われて応召した場合が多かったと思われる。
昭和18年(1943)9月、学生に対する徴兵猶予が全面解除になり、その年齢も2年下げられ、さらに半年の繰り上げ卒業が実施された。この時の卒業生は1980人となっている。そして10月21日に政府主催の学徒出陣壮行会が実施され、東大としては独自に11月12日に実施した。この年末の時点で東大の学生在籍者数は9711名、そのうち休学して出征した者は2884名である。さらに翌19年8月までには在籍者9285人のうち休学生は3157人となっていて、3人に1人の割合で20歳になった学生たちが休学して出征したということになる。ただし試算すると、文系の法・経・文の合計は2927人で全体の中の割合は92.7%であり、その割合は圧倒的である。次に農学部は5%程度、理工系の割合はそれぞれ1%に満たない。
さらに19年の10月には徴兵年齢が19歳に下げられた。(翌20年の敗戦時の在学生は1万2650に対し休学生は5330人で、在籍者が増えているが、これは政府の政策によって理工系の学生を増やしたためと思われる)。やはりこの休学生の大半は文系の学生でである。このうち戦死した在籍学生は372名、卒業生(繰上げ卒業も含む)は1280名、合計1652名(その後の調査で1721名)となっている。この中で法・経・文学部が1200人近くになっている。ただこの報告書の時点では7割程度の判明の結果とされ、実際には在籍学生はもっと増え、全体で2100−2500人になるだろうとされている。また判明分のうち約50名は国内の戦災や原爆死である。
戦争終盤の昭和19−20年(1944−45)のほぼ1年間の戦没者は推定で1200名以上で圧倒的に多い。戦況が悪化した中でフィリピンや硫黄島、沖縄などの激戦地に送られた結果である。本来大学生は不足していた士官や将校の候補として徴用されたはずだが、軍医や理系技術者以外の多くは特攻隊員などの即戦力として採用された(特攻隊員の死の人数は定かでないが靖国の資料では特攻隊死の東大生は33名となっているが、それ以上のはずである。中央大学はほぼ突き止めている)。その中には入学後すぐに出征し、学生生活を知らないまま数ヶ月で戦死した学生もいた。
入営した3157名の内訳を、次のような数字で紹介している。
出版された『学徒動員・学徒出陣』には1721名の「戦没者名簿」が記載されいる。筆者はふと気がついてその名簿を目で追ってみたが、この時期ある程度いたであろう植民地台湾と満州、朝鮮の留学生の名前が全く見当たらなかった。これはその戦没者がいなかったわけではなく、そこまで調べていないということのようである。他の大学の調査などでは戦没者の全名簿を記載している大学はむしろ少ないが、逆に学徒出陣以降に日本兵として徴兵され戦没した留学生の数はおよそにしろ調査してほぼ記載している。なぜ東大はそれを調べられなかったのか。この調査がいかに困難であったかを大学史の資料室は言及しているが、もとより敗戦が決まって日本の軍政府は戦争遂行に関わる記録や資料をすべて焼却するようにと国内外に指示し、それは各市町村役場の出征記録も含んでいて、大学その他の高等・専門学校にも及んでいた事実がある。決して戦後の混乱で資料を失ったわけではない。このことが調査の一番の困難な理由となっていたはずだが、東大ではそのことは言及していない。戦後50年も経って、それが忘れ去られてしまっていたのかどうか、あえて触れなかったのかはわからない。なおこの書籍には昭和18年5月の外国人在籍数が67名、19年は89名(全在籍数9285名)となっているが、その中では台湾(表記は中華民国)と満州が大半を占めるが、朝鮮出身者がいないことも異様で(この時期植民地の学生は積極的に受け入れられ、どこの大学も多少在籍している)、当時の大学の方針で朝鮮籍を排除していたのかどうかはわからない。
<学徒勤労動員>
昭和12年(1937)日中戦争開始(一般には盧溝橋事件の7月からとされるが、実際には8月半ばの上海事変から)による戦時体制が敷かれ、学生・生徒の勤労奉仕が行われるようになった。とりわけ大学では日本の植民地満州に関わる動きが多く、満州移住地学生実習団に続いて13年、学生義勇軍が結成された。さらに14年夏には興亜青年勤労報国隊が結成され、実地訓練として満州に派遣され、東大生も参加した。特に医学部は衛生隊として満州に渡り、すでに現地に派遣されている「青少年義勇軍」や開拓団(移民団)の伝染病の予防治療などにあたった。興亜青年勤労報国隊は各学部から編成されているが、特に14年から15年にかけて満州のほか、すでに日本軍が占領している北京や上海にも派遣され、その中には道路建設の工事などもある。
15年(1940)9月に発せられた文部省指令要綱により大学・学校には報国団が組織され、学校報国隊が結成され、東大は総長が報国隊長、各学部を部隊としてその下に大隊、中隊を置くという軍隊並みに組織され、総勢8300人で編成された。16年(1941)の太平洋戦争開戦直前の11月、国民勤労報国協力令が公布され、勤労奉仕は勤労動員と変えられて必須科目となり、学生の夏休みはほぼそのために使われた。農学部を例にすると千葉県の検見川の大学の運動場を乳製品を含めた農業用地とし、16年には3200人近くが動員された。18年の計画では山梨県清里村における薪生産作業、新潟県南魚沼における農村勤労作業、千葉県検見川臨時農場における農耕作業、長野県軽井沢における農耕作業、北海道・樺太における集団勤労作業、興亜学生勤労報国隊による満州建設勤労作業、また医学部では長野・埼玉県における無医村診療、石川県における農村結核調査などがあり、これらはほぼ夏休みを使って行われた。
これに並行して東大では16年から特設防護団が学内に組織され(全職員と学生が団員)、これはいわゆる「銃後」つまり国防のための組織で、迫り来る空襲への対策でもあり防火や避難訓練、救護、防疫、物資の配給等であるが、そのうち敵に上陸された場合の対策も含まれてくる。その中には防毒つまり毒ガス対策もあった(注:すでに日本軍は中国戦線で毒ガスを使っていて、当然相手も毒ガスを使ってくるという想定であったろう)。
上記のように昭和17年(1942)からは食糧増産のための農業支援と軍需品増産のための工場への勤労が多くなるが、特に18年には群馬の中島飛行機本社工場、名古屋の三菱重工業、明石の川崎航空機、羽田の日立航空機、広島の海軍工廠などへ延べ2820人が動員された。満州への動員も継続されていたが、変わったところでは樺太にも動員されている。19年には農学部は学徒勤労動員として滿蒙開拓義勇軍が合宿する八ヶ岳中央修錬農場で食糧増産幹部として長期に動員された。また農業土木科は「本土決戦」に備えて座間などで地下基地のための測量や壕掘りに従事した。ただし技術系以外の農学部生の動員先は戦地であった。全体の勤労動員は19年半ばごろは2500人前後で推移しているが、その動員先は法経文系は主に横須賀海軍工廠での軍需品製造と千葉県幕張における農作業、理工系は武蔵野の中島飛行機、三菱重工、石川島造船などであった。東大の動員記録は20年3月半ばまでしかないが、その中で法学部の有志15名が「特攻生産工場」(神奈川県)に挺身とある。
<東大図書館>
東大の総合図書館は大正12年(1923)9/1の関東大震災によって全焼し、江戸時代以来受け継がれてき文書も含め、和漢洋の大量の貴重な書籍を失った。そこで国内はもとより海外からも多数の援助の申し込みがあり、国際連盟においても図書復興援助の決議が採択され、オランダをはじめとする海外30数カ国から数多くの書籍の寄贈を受けた。同時に米国のロックフェラー財団より多額の寄付を受け、それを新たな図書館の建設資金とした。そこから4年後の昭和2年にはなんと55万冊まで蔵書を回復させた。
満州事変を経て日中戦争を開始し世界からの非難を受ける中、日本は国際連盟から脱退、米英国に宣戦布告し太平洋戦争に突入、同時に英国占領下のマレー半島やオランダ占領下のインドネシアに石油資源を求めて侵攻、しかし翌年のミッドウェー海戦に敗れてから次第に戦況は悪化し、日本本土への空爆が懸念されるようになった。そこで主要な図書館は貴重な蔵書の一部の疎開を計画、東大は昭和19年に山梨県に疎開させた。
ただし東大は周囲の街はほとんどが火災で焼失したものの、空襲の直撃も延焼も免れた。これについては「幸運にも」と東大の記述にあるが、実は米軍は皇居を筆頭に、東大のようなアジアを含めた貴重な蔵書を持つ図書館や文化財や博物館のリストと場所を事前に把握し、19年11/24から本格的に開始した空爆対象から外していた。全くの余裕と言っていい。あらかじめ勝ちを見越し、なおかつ都市の住民密集地に対しては無差別爆撃をした。世界のために貴重な文化財はできるだけ守るが、日本人には徹底的な懲らしめが必要と考えていたとされる。
<東大生が体験した「8月15日」>
『東京大学の学徒動員・学徒出陣』には学内の対応を示したものばかりで、実際に動員された学生の実情を記述する内容がほぼない。多少その内容を補填しつつ筆者はここまで要約してきたが、東大出身のジャーナリスト・評論家の立花隆が2005年(平成17年)に「8月15日の東大」として当時を体験した元東大生たち(すでに戦後60年経ち各界の長老となっていた人たち)の取材記録をネット上に掲載したものを見つけ、上記で拾えなかったものを以下に略記する。
*兵器開発に加わった工学部
第一工学部には石油工学科があり、当時の日本は米欧による制裁で石油不足に悩まされていたが、日本が占領した南方(オランダから奪ったインドネシアの石油基地など)へ送る石油技術者を養成するという意味があった。昭和19年から勤労動員で新潟の帝国石油に行き、職工として井戸を掘ったが、ただの肉体労働であった。
造兵学科は魚雷の研究もしていたが、終戦となって造兵学科は廃止され、学科名は精密工学科と変えられた。
船舶工学科は海軍が作ったものだから廃止になるのではないかと思われたが、紙一重のところで残された。終戦でいったん自宅待機して10月には呼び出しがあり、講義が再開された。
陸海軍には委託学生制度があり、勤労動員の形でその工場などに派遣され、給与をもらって開発などにたずさわった。以下は委託学生の話から。
火薬学科の学生は20人ぐらいが海軍の委託学生になり、昭和20年1月から平塚の第二火薬廠で火薬をつくる研究を行なった。そこで玉音放送を聞いた。
冶金学科の委託学生は神奈川の航空技術廠に通った。航空技術廠には製鋼所があり、航空機用の特殊鋼を作っていた。
航空学科は立川にあった陸軍の航空技術研究所に通い、初の2カ月は教練を受け、その後プロペラの設計に携わった。しかし立川の研究所は空襲にあい、20年7月に山梨県甲府の近くの中巨摩の高等女学校に疎開した。その女学校でプロペラの研究や強度の計算などをした。そのうちの一人は本郷から中巨摩に戻る途中の8月2日、八王子で空襲にあった。列車が止まり、駅の南側のどぶ川に浸かって一晩を過ごした。川は周囲の火災で熱くなっており、死ぬ思いだった。終戦後の12月に学校に集まるよう大学から招集がかかった。航空学科は廃止され応用数学科となった。
このほか昭和17年に第二工学部が千葉市に設立された。これは戦時体制下の技術者不足を見越し、平賀譲総長が軍部の協力などを取り付けて実現したものであった。
第二工学部機械工学科では、昭和19年の5月ごろから学徒動員で、陸軍航空技術研究所(目黒区駒場)の委託による隼戦闘機の設計やロケットやミサイルの研究に携わっていた。この研究所は組織的には同じ東大の一部だった。そこに戦後に日本のロケットの父といわれる糸川英夫の研究室もあった。戦後GHQの命令で航空機の研究は停止になり、航空研究所も昭和21年3月に理工学研究所となった。
第二工学部航空原動機学科の学生は千葉県木更津の巌根にあった第二海軍航空廠の巌根工場に配属されて、飛行機を造ることよりも、地下工場を造ることが先で、その地下に工作機械を入れて、飛行機を造り続ける計画だった。7月ごろには地下壕の目処がついたが、8月15日は招集がかかり、しかし放送の内容は雑音で全然わからず、1日たって上官から敗戦を聞かされた。
第二工学部電気工学科は10畳ほどの部屋に真空管を100本並べて弾道計算をしていた。これは後の仕事に生きたという。第二工学部は、昭和23年4月で募集が打ち切られ、生産技術研究所となった。
*医学部
医学部医学科は軍部にとって前線へ送り出す医師の養成は重要であり、一通りの知識を身につけるには時間もかかるが、半年間で前線へ出せるように速成教育された。前線に出された医学生の戦死率は高かった(後述の「戦没者追悼碑」参照)。
医学部薬学科は終戦の前年の3月ごろ、防空壕の中でトリカブトから迅速に大量の毒物を精製できる方法を検討しろとの教授の指示があった。教授は軍と緊密に連絡をとっていたようである。軍の人に「何の目的ですか」と聞いたところ、「そんなこと聞く必要はない!」と言われた。実際に毒物の精製はしたが、大量に生産するというのは難しかった。
別の薬学科生の勤労動員は、昭和19年の秋から始まり、神奈川県山北にあった化粧品工場で、過酸化水素を80%に濃縮してロケット燃料にする作業をクラス全員が24時間態勢でやっていた。この燃料は、後に沖縄戦で使われたと聞いた。20年になると、富山県新湊にあった十條製紙に間借りした第六技術研究所に行き、そこでは毒ガスの研究を行っていて、軍の人から絶対に口外するなと言われた。そこには1週間ぐらいだけいて、他の3人とともに甲府の陸軍医薬科に委託学生として配属された。場所はいまの山梨大で、6月に空襲で焼けたため、笛吹川上流に移動し、薬草づくりなどもしていた。そこには、茨城県出身で満蒙開拓団として渡満するはずだった人たち約160人がいて、一緒に整列してラジオで玉音放送を聞いた。何を言っているのかわからず、間もなく、戦争に負けたことがわかった。富山の研究所に残った学生は、毒ガス研究を手伝ったと思われるが、戦後になっても誰も話さず、聞くこともしなかった。
「特別研究生」として選ばれていた薬学生の一人は、徴兵は免除であったが、それでも志願して昭和20年4月、広島県賀茂海軍衛生学校に行った。仲間と一緒に早く任官してもらって前線に行きたいと、ある日みんなで教官に対し、早く戦場に送ってくれるよう要望した。すると「軍人たるもの言われたことをやればいいのであって、要望などするものではない」と、こっぴどく怒られた。
*農学部
農学部農業土木科は終戦までの半年から1年、勤労動員で神奈川・座間に行きずっと塹壕を掘らされた。敵上陸に備えていたようだ。
農学部獣医学科の場合は、農学科や農業経済学科と違って、最後に召集を延期する旨の一文があった。農学部にも軍の委託生制度というものがあり、試験にパスすると、学生の身分のままに陸軍獣医学校に入れた。陸軍獣医学校は現在の駒場にあり、昭和20年の6月上旬に空襲を受けたため、宮城県に移設されることになり軍馬とともに疎開した。
8月15日はここで迎えた。馬小屋のなかにテーブルを置き、寝台で使っている白いシーツを敷いてラジオを備え付け、電線を引きました。ラジオはよく聞こえました。敗戦だ、これで最後だ、そう思った。学生たちに動揺はなかった。それには理由があり、獣医学校には軍事学の教官もいて、なかにはビルマのインパール作戦の生き残りの人もいたが、8月5日から10日ころには、その人たちの間の空気がおかしくなっていた。もう一つ、8月10日から15日の間に、教官の官舎を訪ねたことがあり、するといきなり銀シャリとバターの食事が出てきてビックリした。士官用に特別に支給されたものだったようで、突然のごちそうと同時に、学生たちは『いよいよおしまいなのだ』という現実を突きつけられていたからである。
8月18、19日ころに解散という運びとなり、教官からは衣類と長靴は持って帰ってよいが、顕微鏡は軍需品ではない研究用品だから大学へ持って帰って活用するように言われた。ただし教科書や写真の類はすべて焼却することと言われ、校庭でそれらを焼いた。隊員だけで120から130人はいたので、すべて焼くのに2日かかった。獣医学科は昭和21年4月の学科改変で畜産学科と改称した。戦後の同期会で、すべて焼却したはずの資料のうち、当時の集合写真を持ち帰った者があってそのプリントを配られ感激した。
*理学部
理学部の数学と物理教室は、教室全体が諏訪、茅野など長野地方に疎開。勤労動員で軍の計算機としての役割を果たしていた。昭和20年4月の入学生はすぐに諏訪に疎開した。諏訪では下諏訪の温泉旅館に泊まりながら、長地村の小学校の教室を借り、そこで授業をした。疎開前には、教室全体で海軍技術研究所に勤労動員に行った。そこでは、手廻し式のタイガー計算器が何十台かあり、動員された女学生たちが計算をしていた。おそらく兵器や防空のためだったのだろうと思われた。
長野県の青木村に疎開した数学教室は、勤労動員として養蚕場に間借りしていた航空計数研究所に行き、ロケットの弾道計算などをしていた。
*文学部
文学部は勤労動員に学部単位で駆り出されていた。昭和19年3月には全員が静岡県へ土木工事など、6月から8月には3年以上が横須賀海軍工廠へ派遣された。昭和20年に入ると、1月から3月まで1年生は中島飛行機群馬県小泉工場に、2、3年生は中島飛行機三鷹研究所に動員された。5月に入ると文学部全体で新潟県岩船郡関谷村に行き農作業などに従事した。またこうした動員地から(徴兵年齢に達した者は)次々と戦地に徴兵されていった。これらの動員にあたっては身体虚弱者は免除されたが、事前の身体検査を受けない者や不参加の者には懲戒処分をくだす警告が主任教授からなされたり、勤労成績の悪いものは単位不合格となった。終戦は関谷村で迎えた。
*法学部
法学部では、昭和18年の出征前に田中耕太郎教授は壮行会で、「君たちは死ににいくのではない。武者修行に行くと思え」と諭したという。また南原繁学部長は「身体を大事にして帰ってきてください」と話されたという。それを言うと『汝は死の道を学びにきたにあらずや』と教官から赤字を入れられた。
昭和20年に入る戦争末期、本土防衛の最前線に立った者もいた。飛行機の操縦士が不足する中で、知的理解力の高い東大法学部の学生は、次々と俄か仕立ての特攻兵として速成教育され、本土防衛のため最後の特攻訓練を行っていた。19年10月に入学、20年1月に香川県豊浜の陸軍船舶幹部生隊に入隊した者の訓練は敵前上陸用舟艇で、敵が本土上陸したあとに日本軍が再上陸して、挟み打ちにするという作戦だった。その半年前に入隊した学徒たちは沖縄戦の船舶特攻に投入され、多くが死亡した。敗戦を知ると、中隊長は『あくまで戦う』といい、仲間も血書を書いて『最後まで戦う』と忠君愛国に燃えていた。そこで「天皇陛下のご命令に従って、堪えがたきを堪え、敗戦後の日本を建て直すことに努力すべきだ」との言葉で、皆は納得した。
中には昭和20年3月に東大法学部合格の通知を軍隊で受け取った者もいた。戦局悪化から入学試験を行わず、全国の高校の入学実績をもとに合格者が決定されていたが、それ以前に高校の繰り上げ卒業で軍隊に入っていたことによる。彼は米軍の空襲に対する対空射撃の訓練をしながら終戦を迎え、終戦後の11月に初上京した。
*経済学部
昭和18年の学徒出陣で、文系の学生はほとんどいなくなった。18年の暮れあたりから19年春にかけて、経済学部の講義は20歳未満と軍の検査で不適格となった人たちが、少人数で受けていた。ただし勤労動員があり、千葉・検見川へ芋掘りに行ったり、海軍工廠へ魚雷を磨きに行ったりもしていた。戦前、ハーバード大に留学していた某先生が、私たちが魚雷を磨いている姿を見て、『なんでアメリカと』と、それ以上は口にせず、涙していた姿があった。
軍の委託生制度を利用して築地にあった海軍経理学校を志願して試験を受け、主計課短期現役の見習尉官として入学する道もあった。経理学校に入ってからの6カ月間は、猛烈な訓練を受けた。前半はまず駆け足で、学校の周囲約8キロを10人1組で走り、時には、1日2回、3回と走らされることもあった。
昭和20年4月に経理学校を卒業したが、海軍の軍艦はほとんど沈められて、陸上の海軍施設部に配属され、そこから宮崎に行った。宮崎には特攻機が出撃する基地があった。着任した当日、B29の爆撃があり、年輩の徴用者を中心に200人以上が死傷した。初日の仕事がその死骸の片づけだった。次に爆撃で空いた滑走路の穴を埋める仕事で、セメントや砂利などの物資を部隊に調達した。やがて敵の空母が近づき、艦載機が飛んでくるようになって、特攻隊は島根県の美保関に移って行ったので、宮崎に残って日向市や日南市の「(人間魚雷)回天」などの水中特攻の基地の仕事をした。
<敗戦>
宮崎の海軍施設部にいた経理学校出身の学生は、8月になって、鹿児島の鹿屋支部から「8月15日正午にトラックを用意して集合せよ」という指示があり、8月14日の夜に宮崎を出て鹿児島に向かった。到着したら、みんなの様子が何か変なので聞いてみると、玉音放送があったということだった。みんな頭をどう整理していいかわからない混乱した状態で、興奮した。特攻基地にいた友人のところへ行き、敗戦について論じ明かし、翌16日には、防空壕の中に入って飲めない酒をがぶ飲みし、大事にとってあったウィスキーや焼酎などを、海軍の湯飲みで飲み干した。10月末までは残務整理で宮崎に残っていた。書類を焼けという指示が来たかと思うと、焼くなと指示が来たり、大混乱だった。大分の海軍施設部では「本土決戦になる。関係書類は燃やせ」と命令があって、それに従って、4−5日してからようやく武装解除となった。
8月15日は実験室にいた。前日までには、風評で敗戦の放送があると知っていた。安田講堂に行ってラジオで玉音放送を聞き、これで空襲の心配をする必要がなくなったと友人と話をした。空襲の翌日は大学が休みになっていたが、そのうち連日のように空襲があり、大学も休みにするのをやめていた。薬学科は薬物や危険物を扱っていたので、それらを守るためにも、何日かに1回の宿直があった。(医学部薬学科)
兄が短期現役で海軍にいたので、8月15日に敗戦の放送があると聞いていた。学校には行かず、自宅でラジオを聞きいた。当時、すぐ上の学年は動員、その上は戦地に行っていたので、学校に残っているのは我々1年生だけだった。空襲でガラスや薬は焼け、器具も医療品もなく、水道もだめになって本富士警察署の裏のポンプで水をくんでいた。電気も使えないので、練炭ストーブで蒸留していた。(医学部薬学科)
玉音放送は広島県賀茂海軍衛生学校の校庭に整列してラジオで聞き、戦争に負けたとわかると、精神的なショックで血尿が出た。病院に入院し、8月下旬に豊橋に帰った。帰るときは、自殺用の青酸カリをもらった(注:これはよく聞く話で、当時、米軍が上陸して窮地に陥った時に使えとされた)。田舎で百姓でもやろうかと思っていたが、新聞で東大がGHQに収用されるという記事を読んで(実際には回避された)、最後の奉公だと、大学の引っ越しを手伝いに東京に行った。そこで私の恩師に会い、薬学の勉強を続けることを勧められ、「しかし今まで、薬学の勉強なんて全然していません」と言うと「これからすればいいんだ」と言われた。(医学部薬学科)
文学部は新潟で勤労動員をしていた。8月7日、広島で新型爆弾が使われたらしいという話が伝わってきたが、新潟にいる我々には遠いところの出来事のように思われた。むしろ、9日のソ連参戦のニュースのほうが切実で、村の人も不安を募らせていた。8月15日に村の家に集まって、終戦の大詔を聞いた。
「茫然自失、戦争に敗けたとはどういうことなのか、これから何が起るのか、まったく考えることができなかった。そのうちどこからともなく『男は殺され、女はみな暴行されるだろう』『新潟はソ連に近いから真っ先に襲われるだろう』といった噂が広がり、不安な気持ちで過ごした。16日に大学職員が村の各集落を廻って来たが、見通しは立たなかった。しかしその翌日、文学部長である西洋史学の今井登志喜先生がきて、村の中央にある大蔵神社で次のような話をされた。『今、日本は有史以来かつて経験したことのない敗戦という事態に直面している。君たちは決して軽挙妄動してはならない。聞けば敵軍が上陸して日本の男を皆殺しにし、女には手当たり次第暴行を加えるという流言が乱れ飛んでいるようだが、決してそういうことはない。戦争終結の処理は軍が勝手にやるものではなく、まず相手国の代表と互いに文書に調印して初めて、それに従って敗戦国に手を着けるのである。これは国際法の定めるところであって、それ以外の勝手な暴虐はいわばリンチである。そんなことをしたら世界の世論が許さない』。温顔をもって語る口調のなかに毅然としたものがあり、私は深く感動した。
軍や警察などの強い者は、弱い国民に対していかなる横暴もまかり通る——それが当時の日本の常識だった。それだけに、敵軍が法に従うなどというのは、到底考えられないことで、『世界の世論』という概念も初めて耳にするもので、大変新鮮だった」。先生の言が過たなかったことは、その後のミズーリ号上の降伏文書調印、軍隊の武装解除・施設の接収、東京裁判の開始に照らして、明らかであったと思う。我々は稲刈りが終るまで手伝いを続け、9月に東京に戻った。そのときは、当初100名の仲間が50名に減っていた」(文学部国文学科)
<戦後>
「私は東京出身なので、(勤労動員から)自宅へ帰り、東大へ様子を観に行ったのは10月頃だったと思う。驚きましたね、御茶ノ水の駅から安田講堂が見えるんです。だが、かつての通学路周辺がすべて焼けているので、どうやったらその安田講堂へ辿りつけるのか、道順がわからず当惑しました」
戦後の経済学部は大きく変わった。以前に大学を去った教授たちが帰ってきて、戦争のために協力した教授たちが追い出された。戦時体制のおかげで教授になったファシストの教授たちが(右翼疑惑でGHQのパージにあうなどで)辞めていき、大内兵衛、有沢広巳、矢内原忠雄、農業政策の山田盛太郎先生たちといったクビになった優秀な先生たちが帰ってきた。こうした教授たちの入れ替わりを、学生の大部分が喜んでいたのは事実です。講義の内容もすっかり変わり、経済学部全体としても張り切った雰囲気があり、矢内原教授が学部長となり本来の経済学部に戻るんだという感じを受けた。そういう先生たちの授業はいつも学生でいっぱいだった。
ある学生は昭和18年に学徒動員となり、終戦は愛知県豊田の海軍航空隊で迎えた。大学に戻ったのは、9月の末ごろで、残務整理で軍に残らされた人もいたから、比較的早い復員だった。2年生で復学し、試験を受けて大河内先生のゼミに入った。戦中の大学では感じられなかったような学究的な雰囲気があった。大内先生の講義は、有難くて涙した学生が何人もいるほどで、いつも満員の人気だった。
矢内原忠雄先生のような立派な先生が大学に帰ってきたことはとてもよかった。私は先生が帰ってきてからの最初の講義を聞き、これは素晴らしい先生だと思って、先生のゼミに入った。総長が内田先生から南原先生に代わり、南原先生は哲学的で、政治や世論から離れて、あるべき姿を語られた。
一方で、復学してきた学生の成績に関しては、講義に顔を出しただけで、「よく生きて帰った」と、ポンと「優」をもらえた。ゼミも何も、皆復員していっぱいになり、学年もごっちゃだった。昭和21年から22年にかけて、試験に合格して入学してくる学生と、復員して復学する学生とで人数が増え、教室が足りない状態に陥った。事務局に呼ばれて、「単位はいくらでもやるから早く出て行ってくれ」と言われたりした。ただ、困ったのが学内に暖房がなく、寒さで指がかじかんでノートをとることができず、苦労した。
また、食料難で、靴1足が米1升とか、物々交換をして飢えを凌いでいたが、本がわりといい値段で売れるから、ずいぶん食料と交換して手放した。ある学生は、寮や軍隊時代の経験を生かして、皆から外食券を集めて食堂を運営し、大いに感謝されたという。
<戦没者追悼碑>
平成12年(2001)に正門向かい側に「東京大学戦没同窓生之碑」が建立された。石碑は「天上大風」と良寛の書で刻まれ、その追悼文である。
—— 昭和六年から昭和二〇年まで十五年にわたる戦争で東京大学 も多数の戦没者 を出したが戦後五〇年のあいだその実数は不明のままであった。このたび大学による学徒出陣の調査が行われ千七百人近い戦没者が明らかになったが、その実数は二千五百人にも達すると推定されている。 私たち医学部卒業生有志はこの事実に驚き、悲しみ、世紀が変わる前に追悼の碑を建ててこの事実を後世に伝えるべく追悼基金を組織した。…… 今世紀最後の東京大学五月祭初日の今日、ここに同志あい集ってこの碑を建立し音楽と花を捧げ深い哀悼を世に伝えるものである。 (平成12年5月27日/医学部戦没同窓生追悼基金)
この翌年にも医学部卒業生らが戦没医学生232名の氏名と戦没地を刻んだ追悼碑を弥生門前の弥生美術館の私有地を借用して「東京大学医学部戦没同窓生之碑」建立した。碑は中央に棺桶を担ぐ男性群像のレリーフがあり、その左右に戦没者と戦没地が刻まれる珍しいものとなっている。その追悼文である。
—— 昭和六年から…(上記と同文)… 東京大学医学部は同窓生の中から200人を越える多数の戦没者を出した。彼らの多くはアリューシャン列島アッツ島からニューギニア、ガダルカナル島、中国、東南アジア、沖縄に拡がった戦火の中で、また広島・長崎で医療従事中に原子爆弾の劫火に斃れた。私たち医学部卒業生有志はこの事実を悲しみ、これを後世に伝えるべく、基金を組織して戦没者と戦没地の調査を行い、同窓会鉄門倶楽部に医学部構内への追悼碑建設を提案した。……(平成12年5月27日)
この二つの慰霊碑はいずれも医学部同窓生によるもので、しかし先の碑は大学側に許可されず正門前の私有地を借り受け、後の医学部独自の碑も医学部教授会に校内への設置が許可されなかった。
実は軍医として出征した医学部出身の死亡率は法経系の数倍とされているから、同窓生の追悼碑への熱意は強かったようである。しかし東京大学としてはどのような理由、方針で学内に慰霊碑を建立させないのか、追悼碑存在の意味は別として、どう考えて不可解である。欧米の大学では学内で立派に顕彰されているという。
<「わだつみ像」について>
昭和22年11月、東京大学学生自治会の編集で東京大学戦歿学生39名の手記、書簡、短歌等の遺稿を集めた『はるかなる山河に』が東大協同組合出版部より出版され、話題となった。それに続いて昭和24年10月には『きけ わだつみのこえ』が出版され、これは新聞やラジオ放送を通じて募集し、全国の大学、高等専門学校出身の戦没学生75人の遺稿が収められた。これも引き続き大きな話題となり、昭和25年(1950)4月に「わだつみ会」(日本戦没学生記念会)が結成され、その会により戦没学生記念像の制作が決められ、9月20日に像は完成した。そして11月30日に「わだつみ会」の代表より「平和記念像の寄付と共に(東京大学)図書館前に建立し、12月8日(太平洋戦争開戦の日)に除幕式並びに慰霊祭を挙行したい」と東京大学に申し入れおこない、当時の東大総長(南原繁)の内諾も得ていた。しかし直前の12月4日になって、東京大学の評議会は「学術上及び教育上本学に対し顕著なる功労のあった者で、本学関係者によって企てられたものに限る従来の取り扱いによって、この申し込みを遠慮したい」と、申し入れを断ることを可決した。
この「わだつみ会」の代表は、この本に掲載されている中村徳郎(東大理学部に在籍したまま応召し、フィリピン方面に向かったまま戦没した)の弟、中村克郎であったが、却下の理由を、その像が男性の裸像であり、今後東大には女性も入ってくるから教育上よろしくないと事務責任者に聞かされた。その後も交渉したが、一度決定したことは変えられないと拒否された。その結果何度か抗議集会が開かれ、講師に呼ばれた宮本百合子は「わだつみ像は頑迷な東大当局によって建立が拒否されました。しかしそう言う東大だからこそこの構内に建立されなければならないのです」と訴えた(『「きけ わだつみのこえ」の戦後史』保坂正康より転用)。それでも認められることはなく、像は制作者本郷新のアトリエに一時置かれた。
1951年、立命館の末川博総長を先頭にわだつみ像の誘致の取り組みが開始され、誘致は決定し、本郷氏のアトリエに眠り続けていた像は、1953年11月に立命館大学に届いた。しかしわだつみ像歓迎大会に参加しようとした学生と、力ずくで阻止する警察隊との衝突で数多くの学生が重軽傷を負うという事件がおき、そうした中で12月8日に除幕式が行われた。ところがこの「わだつみ像」は昭和44年(1969)年5月、全国的な大学紛争の最中に、全学共闘会議(全共闘)の一部学生によって破壊されてしまった(この年は東大も安田講堂が全共闘学生に占拠された事件があった)。それでもわだつみ像は翌年に再建され、12月8日にはわだつみ像再建除幕式が立命館で行なわれた。このような経過を見ると、東大側としては像の建立により、こうした面倒なことが起きるのを予測して不許可にしたのかもしれない。いかにも官僚的な判断である。
<筆者私見>
敢えて私見を述べるが、『東京大学百年史』の戦時関連部分とその後に出版された『東京大学の学徒動員・学徒出陣』を読み通しながら筆者が思ったことは、具体的な記述に至るまでの前置きが長々と回りくどく(まともな資料がほとんど残っていないことによる困難な調査であることなどは別として、ただそれが敗戦時に戦時関連の記録がほとんど焼却された結果であることにも言及していない)、その主な内容は戦時下の政府等の指示に対する大学としての計画やそのやりとり、対応状況の報告などの記述ばかりで(必要と思えない小論文もいくつかあるが、これは論文を載せる場ではなく、論文のための基本的な調査資料を提供する場である)、実際に大学が現場や内外の現地に動員してその現場で困難に直面した学生たちはどうなったのか、学徒出陣した学生たちや勤労動員下の学生たちの姿が600ページを超える『学徒動員・学徒出陣』の中には(「戦没者名簿」以外には)全く見えないことである。さらに戦争そのものの動向による客観的背景とつながるような簡単な説明なども全くなく(上記で多少背景を記述している場合は筆者による)、まるでお役所の報告書である。なんと東京大学(あるいはこれをまとめた「大学史史料室」)は独り善がりなのであろうかという感想を抱くほかない。少しはこの後に取り上げるお茶の水女子大学の百年史に見習ったほうがいい。(実はこのように書いた後に上記の立花隆氏の取材記録に巡り合って、戦時下の学生の姿を拾い出すことができた)
東京大学の卒業生の多くは(理工系は別にして)中央官僚の役人になるわけだが、法律や前例、決め事などは遵守してその範囲の中で与えれた職務の遂行はするのだろうが(つまり国が戦争をすると決めればその遂行のためにきちんと努力をする)、これではそこから外れている国民の声に耳を傾けるという姿勢も生まれないのではなかろうか。この人たちが日本の国政を知ったかぶりで仕切っているということの危うさを感じてしまう。
日本医科大学
日本医科大学は、明治9年(1876)に長谷川泰によって創設された私立医学校「済生学舎」を前身とする日本最古の私立医科大学である。済生学舎出身者には、世界的な細菌学者である野口英世もいて、また明治の時代に130名以上の女性医師も生まれた。明治36年(1903)、済生学舎は廃校となり、「済生学舎同窓医学講習会」、「医学研究会」、日本医学校や私立東京医学校とが合併し、専門学校令による旧制日本医学専門学校となり、明治43年(1910)に私立日本医学校付属駒込医院(現・日本医科大学付属病院)を設立、大正15年(1926)の大学令によって旧制日本医科大学となる。昭和7年(1932)川崎市中原区に予科校舎を設置した。(以下は『日本医科大学70周年記念誌』と『日本医科大学の歴史』から構成した)
昭和12年(1937)日中戦争開戦により日本医科大学においても応召者が相次ぎ、軍医や見習医官として中国戦線に派遣されることが多くなった。学内誌にも「戦陣だより」が掲載されるようになり、学内では13年4月、御真影奉安庫が設置され、翌月御真影拝戴式が行われた。9月には中国へ出動する軍隊へ毛布232枚を寄付した。14年の4月から配属将校による軍事教練が実施され、11月には国家総動員法に基づいて国民精神総動員実行委員会を設置した。
昭和15年(1940)は(神話上の)神武紀元2600年にあたり、2月11日の紀元節には代々木練兵場で大学・高等専門学校建国奉祝式が挙行され、当学からは学長以下800名が参加した。10月、戦死した卒業生・学部生の英霊追悼祭が行われ、9名を英霊として追悼した。この頃より紙不足となり学内誌もページが削減され、「戦陣だより」も省略され、そのうち発行自体が次第にままならなくなり、敗戦の年には発行停止となった。
昭和16年には、政府による報国団結成への指示もあって、それまでの自治会・学友会の組織は解散され、新たに「殉公団」として発足した。この殉公団の下に防護団(防空・防火隊)が結成され、同時に報国隊も結成、この報国隊が勤労動員の組織となる。軍事教練としては、富士裾野演習場や茨城県内原訓練所(主に満洲開拓団向け)で訓練を行なった。そしてこの年の12月、日本は太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。
昭和18年(1943)9月、戦況が悪化する中、大学生は半年間の繰り上げ卒業となり、さらに徴兵年齢が下げられ、多くが在学のまま徴兵となり、10月21日、神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が盛大に行われた。一方で徴兵年齢に達しない学生は工場や近郊農村で勤労動員に多くの時間を割くことになり19年の秋の農繁期には埼玉県入間郡の農村に100人以上が出動した。ただ、日中戦争から太平洋戦争に戦線が拡大され、占領地が増えるにつれ、従軍医師(軍医)への需要が逼迫、医師不足となり、一般学生の勤労動員とは異なり、例えば満洲などへの「開拓医学生」も募集された。また陸軍衛生部委託学生、海軍医学生として160人の学生が採用され、政府の軍医拡充の要請によって、附属臨時医学専門学校を設置し、19年4月には120人が入学した。
昭和20年(1945)1月28日夜間、米軍機の空襲により、学部本館、大講堂、解剖・病理学教室、病棟、看護婦寄宿舎などが全焼した。この時、近隣に住む職員や学生たちが駆けつけて顕微鏡や重要書類など多少は搬出できたが、学部本館、解剖・病理学教室などの書類、また貴重な標本や記録はほとんど焼失した。ただし天皇の御真影や附属病院の患者は救い出された。さらに3月10日の大空襲により、前回焼け残った千駄木の本学校舎、附属第二病院の鉄筋建物を除く校舎、教室がほとんど灰燼に帰した。当時の学長はまさかアメリカがこうした学問の施設を爆撃するとは思いもよらず、大声を張り上げた。そして4月15日の更なる大空襲で川崎中原の予科校舎の鉄筋の建物以外と附属病院も全焼した。これらによって学生の5人が爆死した。
附属病院を持つ医科大学としては、自身の建物の焼失よりも、空襲で焼き出された人々の手当てをすることが優先であった。1月28日の空襲の際、飯田橋の附属病院では何百人もの火傷者が集団となって運び込まれた。「被災者は皮膚も衣類も全て灰一色で男女の区別さえ容易でなかった。その応急処置は医師と看護婦と学生達によって懸命になされた。…… 多くの医師や看護婦を始め職員達は実にまめに立ち働いた」。しかし医師や看護婦たちの中にも焼け出された者、消息が絶えた者、学生にも応召があり、現場にも一人、二人といなくなっていった。その中でも3月10日の爆撃による残された被災者の手術など記録は詳細を極め「江東区方面の阿修羅の惨状がまざまざと見えてくるようで」あるといい、これは学生の手によるものという。
この結果、大学での研究・教育は絶望的になり、4月、学部1−3年と附属病院は縁故のあった山形県鶴岡市へ疎開し、鶴岡市立庄内病院は日本医科大学附属庄内病院とされた。また附属医学専門部は福島県須賀川に疎開し、学部4年生は実習を兼ねて附属第一病院に留まった。ただ、鶴岡市への疎開の際、学生達が学校の資材を田端駅まで運び込んだ時、4月13日夜間からの城北大空襲でその荷物は灰となった。それでも学生達はめげずに残った手術道具なども含め(器械箱を背負いさらに両手にも持って)焼け野原を歩いて上野駅まで運び、4月23日、大雪の鶴岡駅に合流した。疎開者数は学生450、教授10、助教授ほか37人とされている。
戦後、とりあえず9月末に148名の卒業式を行ったが、多くの建物が焼失した中、授業再開の目処が立たないまま長い冬休みに入り、復興には建物以外に医療設備にも多額な費用がかかるため、廃校の危機に陥った。それに対し学生たちも立ち上がり、学校側と一緒に復興への道を探った。一方で疎開した鶴岡市ではそのまま活動を続け、庄内の病院では地域医療にも貢献する体制ができていた。疎開した学部生が東京へ戻ってくるのは終戦の翌21年の9月であり、授業を開始したのは10月、庄内病院から撤退したのはさらに一年後であった。大学ではその後も「復興会」で全国を回り、寄付金募集に奔走し、同窓会の支援もあって大学はなんとか立ち直った。軍医養成のための附属医学専門部も福島から引き上げたのは21年6月であったが、第二次入学の学生が卒業する25年をもって閉鎖となった。
東洋大学
当校は明治20年(1887)哲学館として創設され、将来は国学、漢学、仏学三科の専門を置いて東洋 大学科を開設する主旨を発表 。26年、普通科三年の上に国学、漢学、仏学、洋学の専門科二年を置き、五年をもって卒業の期限とする。昭和3年(1928)、大学令による東洋大学の設立認可、しかし昭和6年、専門学校令により設置せる大学部を廃止される(生徒の絶対数不足)。 昭和24年(1949)、新制大学へ移行。
<戦時下>
大正15年(昭和元年:1926)軍事教練を他校に先駆けて実施(合格者には幹部候補生志願の資格が与えられる)。
昭和6年(1931)、満州事変が起こり、愛国学生連盟東洋大学支部を結成。
昭和7年12月、東亜研究会を設置。(この年に日本は満州国を設立した)
昭和8年、愛国学生連盟支部を東洋大学護国会と改める。
昭和10年(1935)、軍事教練の強化、学部に教練を正科とし、予科に武道を正科とする。
昭和12年、特設防護団(防空と被災時の建物の防護訓練を行う)を設立。出征軍人武運長久祈願式を挙行。
昭和13年4月、御真影・教育勅語謄本が下付される。(国家総動員法が発布される)
昭和14年、大陸運営に必要な経済商業農業に関する実践教育として専門部拓殖(東亜経営)科を開設。集団勤労奉仕作業として赤羽陸軍被服本廠・板橋宿陸軍火薬倉庫に行く。
昭和15年(1940)、文部省教学局は全国の学生の興亜青年勤労報国隊による大陸派遣を決定、夏休み期間を利用して当校も満州・北支・蒙古などへ約20人が参加した(全国で1740人で、翌16年は約2500人が参加した)。現地における作業内容は「射撃場、飛行場、軍用道路の建設、兵器の組み立て、軍需資材の整備、戦車壕の構築」などのほか、関東軍将校や満州国官吏の講演の聴講であった。 別途、宮城外苑整備事業を行う。
昭和16年(1941)、学友会を改組し、全学的生活組織体として教職員を含めて護国会を組織、その中に報国隊を設置、勤労動員を行うが、結成式において学長は隊長として「報国隊を通じて我々の生命を陛下に捧げる決意を固めるよう」学生に呼びかけた。動員令により248名が東京陸軍兵器補給廠で十日間の勤労作業を行い、また北海道に食糧増産のために学生の一部が参加。9月、報国隊編成式を新荒川大橋際広場で挙行、また校庭で防空演習幹部訓練を行う。11月から一週間、赤羽被服廠で毎日150名宛の学生勤労奉仕を行う。12月、文部省の指示で繰り上げ卒業 を行うが、その前の8日に日本軍は太平洋戦争に突入する。
昭和17年1月、報国隊出動宣誓式を挙行。2月、戦捷第一次祝賀日行進、当学は宮城、靖国神社に祝賀行進を行う(これはシンガポールなどを陥落させたことによる)。9月、半年の繰り上げ卒業となる。
18年、7−8月のは夏休みは予科、専門部各科の一年生が軍需工場の勤労作業に従事。9月、東條首相は「法経文等の大学に於いては将来教員たるべき者などのための教育を除き、これを停止する」(戦時非常措置方策に基く学校整備に関する件として)との声明を発表した。これは文系の当学にとって存亡に関わる施策であったが、翌年2月、文学部を古典学科、東洋哲学科の二科に、専門部を経国科、倫理国漢科の二科に縮少するとして文部省の認可を得た。これは満州を含む中国各地を占領している状況に沿った改変であった。
10月、同月、学生への徴兵猶予解除と徴兵年齢を引き下げ、20歳以上の学生を在学のまま徴兵する臨時措置が決定され、10月21日、明治神宮外苑において「出陣学徒壮行会」が挙行された。その前の19日、当学は校友会主催の学徒壮行大会を講堂で実施した。11月、出陣学徒の仮卒業式を挙行、卒業生204名(この時期、東洋大学は毎年の卒業生が数百名程度に減っていた)。一方で10月、護国会を解散し、東洋大学報国団として新発足 、その中に報国隊が組み込まれた。
19年6月、 予科、専門部一年生が長野県東筑摩郡に麦刈に勤労動員、学部は野外教練のほか、城東区砂町の東京製綱宮製鋼所ほか板橋と向島の製鋼所、関東土木出張所多摩川工場、江戸川区の日本化学工業などへの勤労動員であったが、和歌山県の石原産業鉱山もあり、これらはほぼ通年動員となっていた。勤労動員のため三月末まで休講が決定された。
20年(1945)1月、学部の学生は日立工場茨城県多賀町に勤労動員、このため三月末まで授業は休講となった。
当局の指令により「東洋大学在郷軍人会支部」結成 。5月、北海道援農部隊が出発、学内にも勤労 作業が映され、漆原工場(軍用双眼鏡のケース造り)の仕事 が導入され、7月末、 神奈川県長津田町田奈で約200人が勤労動員となったが、8月15日、敗戦が決まり解散となった。
<教務日誌より>
当学100年史編纂にあたって並行して作成された大学史紀要の中に、昭和19年1月末から翌20年8月終戦まで、当時の教務課長の綴った「教務日誌」が掲載されている。以下はその要約である。
19年3月、「富士の厰舎(現富士裾野演習場)に野営、残部学生は射撃及銃剣術」とあり学生の軍事教練が日常的に行われた。各学校には陸軍の配属将校が常駐し、学内には銃器庫もあった。前年秋に学徒出陣が挙行され、多くの学生が戦地に向かっていたが、その後も繰り下げられた徴兵年齢に達すると応召され、「応召の日付で卒業させることに決める」とある。他に教職員に召集令状が来た報告も散見される。5月頃より米軍の偵察機により、しばしば警戒警報が発せられ、職員と学生が学校その他の近隣施設に集合し、徹夜で警戒にあたった。
当大学は文学部のみで学徒動員には容赦がなく、勤労動員も盛んに行われた。近隣の工場以外には茨城県の日立工場、和歌山の紀州鉱山、20年に岐阜県関町の工場に200名、横浜田奈の弾薬工場に200名などがあり、変わった例では長野県に麦刈りに、20年5月に北海道援農部隊として150名出動とある。校舎の一部も軍需品の工場にされ、体の弱い学生が従事していた。
これらの勤労動員については文部省の通達で「事業場に就業したる総日時数を通算授業日時数とする」とある。そこで出勤状況について細かく記録されたはずであるが、そうした書類は敗戦直後に焼却されている。(この教務日誌も焼却されなければならなかったはずである)
20年3月10日の下町への大空襲については「業火天に冲す凄惨なり」と記され、当大学への影響は少なかった。しかし4月13日深夜からの大空襲で、鉄筋校舎と図書館以外の木造の3校舎は全焼、講堂の内部と地下室も焼失したが、地下倉庫の学籍簿などの重要書類は無事であった。ただ、付属の京北中学校は重要書類共に焼失、京北実業(現高校)は無事であった。この後、学内に地下防空壕を造成するが、5月24日、さらに大空襲があり、焼け残った木造部分も失った。
この日誌の後半から何度も出てくるのは御真影(天皇の肖像写真)のことで、全ての学校で特別な部屋か特設の堂内に掲げられ、守るべき最優先事であったが、激しくなった空襲の危険を避けるため奉遷つまり一時的移設を検討し、最終的に5月末、今の奥多摩町氷川に移された。また16年12/8の真珠湾攻撃を記念して毎月8日に大詔奉戴式(御真影の奉拝や天皇の詔勅・勅語の奉読)が行われていた。20年4月4日に入学式を挙行したが参列者4名とあり、その後新入学生は勤労動員先決定まで自宅待機するようにと通達された。
<戦後>
敗戦後、9月20日に一応始業式を行うが、年末より残ったコンクリート校舎の復旧工事を行い、21年4月に新学制による授業を開始した。上記のように戦時下の軍事関係資料は政府の指示により焼却されたため、当学の100年史にも学徒兵の戦死者は不明とされている。当学の学生数は少なかったが、それでも沖縄戦で特攻隊員として戦死した学生もいて、全体でも相対的にみて100人近くの戦死者がいたのではないだろうか。
トピックとして戦後の昭和22年(1947)、駐留米軍が日本を知るために読んでいた日本語を含めた大量の本を当大学に寄贈してくれたと、当時の研究生で後に教授になった方が紀要で語っている。駐留米軍は移動図書館を持っていて、専属司書もいたとある。やはりアメリカは大した国である。
<平和祈念之碑>
校友会によって平成17年、白山キャンパス に祈念之碑が建立された。
「第二次世界大戦下において 学徒出陣により学業半ば にして戦場に赴き戦死した学友をはじめ 過去の大戦 で戦没された校友は多数に上る 我々はこれらの方々 に深く哀悼の意をささげるとともに 戦争の事実を真 摯に受け止め アジアの人々との真の共生を目指し 世界の平和を祈念するため 戦後六〇年に当たる本年 校友会創立一一〇周年記念事業の一つとして この碑 を建立する 二〇〇五年十一月吉日 東洋大学校友会 」
お茶の水女子大学
明治8年(1875)、東京女子師範学校として政府によって開校され、その後東京女子高等師範学校となり、附属の高等女学校も設立された。卒業生のほとんどは教職に就いたが、赴任地は自分の希望通りでない場合が多く、明治期からの植民地であった台湾や朝鮮、そして満州や樺太の例もあった。昭和24年(1949)新制大学としてお茶の水女子大学となる。以下は主に昭和58年(1984)に刊行された『お茶の水女子大学百年史』とその関連資料による。ちなみに百年史とはいえ、この時期に戦時下のことが詳しくまとめられたのは他校と比較しても早いほうであり、いろんな出来事を分け隔てなく克明に記述していて、要点を書き出すだけでもその材料が多く、その多くを省略せざるを得なかった。これは卒業生の団結力(あるいは女性のチームワークによるコミュニケーション力の高さ)によるものではないかと感心するものがある。
<思想統制の時代と15年戦争の端緒>
大正時代末期から昭和初年にかけて、女子校を含めて全国の学生の間で社会主義運動が盛んになり(この背景には昭和4年の経済恐慌と5年の米価の下落、そして6年の凶作による都市と農村の疲弊があった)、昭和6年(1931)のピークには学生の思想事件395件、処分者が991人を数えた。この中で当校の退学者は17名であった。思想事件と言っても、大正14年(1925)に治安維持法が制定されていて、主に社会・共産主義や過激思想を取り締まるものとされているが、基本は「国体」(天皇が統治する国の体制)を毀損する思想と言論を排除するもので、民主主義や自由主義も同様に危険思想であり、反皇室的言動も取締りの範囲であった。ちょっとした集会もそれら危険思想を目的としたものとされて取締りの対象となっていたが(誤認逮捕も多々あったし拷問で獄死する例さえあった)、当時は戦後の学生運動と違い、ほとんど学外の組織活動であり、逮捕や拘束されるときにはある日突然クラスメートの前から消えてしまうという有様であった。さらに翌7年に学校内で文化サークルが結成され、「お茶の水新聞」が発行されたが非合法とされ、これにより退学処分3名、停学処分4名となった。こうした摘発は学校内にも治安維持法によって警察の目が光っていたからで、実際に文部省は昭和3年(1928)に学生課を新設、9年には思想局とし、さらに12年には教学局に改組し、学生・生徒の監視と取締り強化を計っていた。少し違った例として、大正時代に、寮祭で「曽根崎心中」を演じたことを理由に退学させられた場合もあった。「教師となるべき生徒が不謹慎にも心中物をやるとは何事か」と貴族院で問題にされたからという。
昭和6年(1931)は日本が満州事変に突入した年であり、その波動で翌年には上海事変が起こり、そして日本は傀儡政権の満州国を成立させ、12年(1937)には日中戦争(支那事変/日華事変)に戦線を拡大していく。治安維持法はすでに軍国主義の流れに逆らう者、反戦思想を口にする者を学者を含めて次々に摘発するようになっていた。
そうした中で、文部省は「思想善導」として大学、学校に時局に沿った講演を軍人にさせた。昭和10年(1935)前後からの当校の講演では、海軍大将の特別講義や、「神道の創造的精神」 「ナチスドイツの現状と日本精神」 「皇国の大道」 「我が国体」など戦意高揚を意図したものがあったが、この間に婦道育成として「母の講座」がしばしば行われた。そして12年にこれらの指針とすべきものとして『国体の本義』を文部省自身が刊行し、諸学校に配布した。これは明治天皇時代の「教育勅語」の忠君愛国精神を具体的に説いたものである。
<日中戦争から太平洋戦争へ>
昭和12年(1937)にヘレン・ケラー女史が来日し、当校で講演し話題となったが、この年に日中戦争(支那事変)が引き起こされ、これを契機に政府は国民精神総動員運動を推進し、翌13年に国家総動員法を制定、国内の全産業や資源物資を統制し、労働力を軍事産業優先に利用し、言論出版も規制できる体制を作った。これに従って文部省は集団的勤労作業運動を学校に通達し、学生・生徒は夏休みなどを利用して勤労教育あるいは心身鍛錬という名目で神社や公共施設の清掃や農作業、約500名が寄宿舎に泊まり込んで傷病兵用の白衣の縫製などに従事、14年の春休みには宮城外苑整備事業奉公隊として活動を行なった。さらに精神的統制としてその年に天皇の名で「青少年学徒に賜りたる勅語」が下賜され、それをもって文部省はその聖旨奉戴を訓令し、当校でも時機に応じてその奉読を行なった。これ以外にも「教育勅語」の奉読もなされた。
昭和14年(1939)にはすでに日中戦争による出征兵士の戦没者が多数出はじめていて、当校は14年にその遺族で教員を志す寡婦のためとして、修業年限二年の特設教員養成所を併設、これは終戦の2年後まで存続した。また男子教員の応召や軍事産業への転職により教員不足となり、16年(1941)には修業年限三年の東京女子臨時教員養成所が設けられた。これはしかし18年に一般の大学と同様に半年の繰上げ卒業が実施されたが、少しでも早く男性を戦線に送り出すものであり、女性を「銃後の護り」の現場に早く送り出そうとする措置であった。
男子の応召拡大で人手不足を補うため集団的勤労作業は次第に強化され、16年には年間30日と決められ、その日数は授業に代えられるものとされた。つまり夏休みの奉仕だけではなくなった。これらの目的として当初は木炭増産や飼料資源事業というものがあり、実は日中戦争から日本は世界的に孤立し始め、15年には欧米からの経済制裁が強化され、重要な資源である石油さえ輸入を止められ、その結果戦時下では木炭バスなどが走ることになった。余話ながら松根油(松の木の根から取れる油)が石油の代替になるとされ、終戦まで小学生も動員されて多くの松が切り倒されたが、結局実用にはならなかった。このような無駄な作業は戦時下には多くあるが、一番無駄に費やされたのは内外で失った310万人という国民の命である。むろんその何倍以上、日本軍が侵攻した海外の国々に犠牲者がいる。
15年(1940)9月に文部省は学校報国団を組織するように指示し、それによって翌16年、学友会など部活動がその中に組み込まれるが、当校の場合、学内の懇親組織として如蘭会があって、これを如蘭報国会とした。例えば各種運動部は特に鍛錬部とされるが、別途国防部が設けられ、特設防護団が置かれ、防空・防火・救護班などが作られ、学生それぞれに役割を割り当てられた。普段の訓練もこれでなされたので実際に空襲があった際に役立ったという。
文部省はこの報国団の中に報国隊を各学校に結成させ、校長が隊長であり軍隊式に大隊から中隊、小隊、分隊と命令系統を組織立て、これまでの勤労奉仕から直接軍需産業への勤労動員へと移行する。そして秋に国民勤労報国協力令を発したが、これは全国民に向けたものである。
これに相応するように欧米の個人主義・自由主義思想を否定し、国体の尊厳を心得て、国家奉仕を第一して日常生活の中で実践するようにと説いた『臣民の道』が文部省から発刊され、学校にも配られた。臣民とは単純に天皇に仕える民ということで、明治憲法から使われ、国民という言葉が使われるのは戦後の新憲法からである。
このように軍政府は国内の体制づくりをしておいて、日中戦争が深みにはまったまま、16年12月8日、真珠湾奇襲攻撃により米国に宣戦布告、同時にマレーシアに奇襲上陸して英蘭にも宣戦布告した。そしてこの開戦の月に、大学と専門学校に対して、文部省は翌年3月予定の卒業を繰上げ卒業させた。この目的は女学校に対しては労働力確保であり、男子学生に対しては徴兵年齢に達しているものを戦地に送るためである。さらに翌17年には半年の繰上げ卒業で9月に卒業させた。そして18年の秋に学生に対する徴兵猶予制度を撤廃し、年齢を20歳に引き下げて在学のまま徴兵することになり、神宮外苑競技場で盛大に「出陣学徒壮行会」が開かれた。この時、都下の高等女学校の多くが動員され、スタンド席で見送っている。翌年はさらにその年齢を19歳に引き下げた。これらは国家総動員法により、国会の審議抜きで軍政府の一存でそれまでの法令などすぐに変えられた結果である。
上記の一斉学徒出陣、つまり徴兵猶予制度の撤廃は文系の学生に対してであり、理系に対しては猶予は続けられた。近代兵器の開発には理系の人間が欠かせないからで、文系のみの大学には理系を設置することが推奨されたが、理系は設備にお金がかかり、しかも教師の余力もなかった。それでも当校も理科と家政科を重視する組織に変えた。家政科とは当時は女性のための総合学科のようなもので、家庭経済を守ることと子供を育てる役目が重要視されていた。この校則改定に合わせて武道と教練が必須科目となったが、教練は陸軍からの配属将校などによって行われた。この時の校則改定の冒頭に「本校は皇国の道に則りて」とあるが、この時代はこれを謳うことが原則であり、戦争も何もかもすべて天皇の名の下に行われ、軍政府はその名を利用して圧政を敷いたと言ってよい。
なお改正された履修科目の中には外国語として英語とドイツ語が入っている。太平洋戦争開戦の頃より英語は敵性語として排除され、特に私立の英語習得を謳っている女学校での授業は禁止されている中で、当校ではその様子がない。多分公立ということと、外国語科の中に英語を入れたことによって認められたのであろうか。英語を外しては戦争遂行もできなかったから、大学レベルの師範学校としては外すわけにはいかなかった。
<太平洋戦争下の勤労動員>
当校の勤労動員は18年(1943)には青山の陸軍連隊区司令部での書類整理、大蔵省印刷局でフィリピンで使用する軍票(軍政下の臨時紙幣)の検品、精工舎でおそらく爆弾の時限装置か軍艦用の大時計、また立川の少年飛行隊の入学式の採点を手伝うなどがあった。19年に入ると「決戦非常措置要綱」の下、学生たちは通年勤労動員となった。学年によって行先は違うが、藤倉電線で電線を巻き取る作業、凸版印刷で紙揃えの作業、安立電器でハンダ付け、北区の兵器補給廠で銃の整備点検や梱包作業、各科二年生126名は板橋の第一陸軍造兵廠では旋盤やボール盤などを使って銃弾など兵器の生産に従事したが、支給される食事も貧しい中での重労働であった。ただ陸軍造兵廠は20年5月の空襲で寄宿舎が焼かれ、6月に群馬県に疎開し、そこで寝泊まりしながら農作業にも従事した。このほか体の弱い生徒や文科と家政科の生徒は深川の陸軍糧秣廠で事務的な仕事を行なっていたが、20年3月10日の大空襲で工場は全滅し、埼玉の浦和へ糧秣廠へ移動してその仕事や農作業に従事した。
また大半の学校は教室の一部や講堂を工場として転用されたが、当校にも海軍水路部が移ってきて、理科三年生の学生54名が、海軍水路部における航路計算などの仕事を行なった。この10月初日、開所式(入部式)が行われ、生徒代表が「大東亜戦争今や決戦の秋(とき)至る。時しも大宮(グアム島)、テニアン両島に於て全員戦死を伝えられ、一億の憤激いよいよ切なり。かかる時…栄えある学徒動員の御召しに接しこの重務に挺身する光栄に浴す。学徒の本懐之に過ぐるものなく、欣喜優るものなし。我等誓って驕敵撃滅の意気に燃え、作業場即ち戦場の覚悟にて敢闘せんことを期するものなり。微力挙げて御稜威に副い奉らんことをここに宣誓す」と読み上げた。当時どの学校でも、工場に集団で動員した時も行われる光景であった(注:上記のグアム島・テニアン両島は19年6−7月に陥落し、米軍はここにB29などの爆撃機を大量に駐留させ、11月下旬から日本本土への本格的爆撃を開始した)。ただこの仕事は翌20年6月には打ち切られ、残った生徒たちは陸軍造兵廠にいた生徒たちと一緒に群馬県に移って農作業に従事した(ちなみにこの海軍水路部は東京女子大学にも駐留している)。
本来、この学徒動員については女子学徒を男子とは区別して「我が国の家族制度並びに女子生徒の特性と母性たる資質を強化せしむるため」として「女子生徒の生理的事情に留意の上、常に心身の状況を観察し健康保持に格段の配慮をなすこと」との指導が19年の当初になされているが、戦況が悪化していくにつれそれどころではなく、単に男子と女子とを作業場で分ける程度のことで、現実は乏しい食事と重労働で体がもたないという思いの中にあった。ある時監督将校がやってきて何か注文があれば言ってみよというので「大変です」というと「そんなことで日本の将来はどうする」と叱られた。実際に生理が止まる生徒も多く出たが、衛生用品も不足してきていたのでちょうどよかったとある。
当校には戦時中体育科(体錬科)が設置されたが、戦争終盤の20年2月、その科を中心に家政科と臨時教員養成所の低学年生徒約200名が名古屋の愛知航空機に動員され、海軍の特攻機の製造を担った(世に知られる特攻隊が死を覚悟して片道の燃料だけで乗る戦闘機である)。翼にドリルで穴をあけ部品を取り付ける力作業などがあった。しかし寮は直前の大地震(報道管制によって国民には隠された)で傾き、窓ガラスは破れ、寒い上に食糧も乏しく病人も多く出た。付き添いの教師も病死したという。その後工場は何度も空襲にあい、7月末に名古屋の瀬戸に疎開し、新たに地下工場を造る労働に従事したが、そこで終戦となった。この工場への空襲により多くの死傷者が出ているが、当校の生徒については不明である。なお附属高等女学校の生徒の動員先も愛知航空機を除いてほぼ重なっている。
この工場に関してある卒業生が「初期の頃は仕事があった。それが空襲のため工場のあちこちが破壊されるたびに停電が続くようになり仕事ができなくなった。一方で材料がなくなり、翼の工場にたまに運ばれてきたのはジュラルミンではなく木であった。木に緑色の塗料を塗ったのである」と語っている。この木で作ったのはおそらく「赤とんぼ」と言われる練習機で、最後にはこの練習機に爆弾を積んで敵の艦船に体当たり攻撃したのである。女生徒たちはこの現場で「これで勝てる気なんだろうか」と思う一方で、これまで信じ込まされていた「最後には神風が吹いて日本は勝つ」という信念の間に心が裂かれる思いをした。
この20年(1945)春に入学する予定だった生徒たちは、激しい空襲と勤労動員でまともに受け入れることができず、待機としてそれぞれの地元の出身校の動員に参加していた。7月になって長野県の佐久市の津上製作所に集合するようにと通達がされ、8月1日にそこで入学式が行われ、その日から午前と午後の交代で授業と農作業があった。15日に終戦となり解散した。
当校は大正12年の関東大震災で焼失し、昭和7年より順次現在地に移転していた。3/10の多大な犠牲者を出した東京大空襲での被害はなかったが、4/13深夜からの城北大空襲で官舎3棟、第二寄宿舎、会館3棟を焼失、5/25の山の手大空襲では学生会館、第一寄宿舎を焼失した。新築した鉄筋コンクリート造りの本校舎は焼け残り、自宅から焼け出された多くの教職員はその校舎内に寝泊まりした。
<敗戦とその後>
敗戦が決まった翌日(8/16)に学徒動員が解除され、28日に文部省は授業再開を通達した。しかし学校の校舎復興の見通しは立たず、疎開先にいた生徒たちはとりあえず帰郷して待機することにした。数年前からの繰り上げ卒業で9月に卒業予定の4年生に対し、この1年間は勤労動員でほとんど授業は行われていなかったが、とりあえず生徒たちを東京に召集し、9月初旬から二週間授業を行い、27日に卒業式を行なった。付属高校も10月から11月にかけて授業を再開した。しかし教室もまともになく、冬には暖房もないので、晴れた日に屋上や屋外の日だまりで授業をする場合もあった。長野県の佐久市にいた新入生は12月になって東京で授業が再開された。一方戦死した兵士の遺族で教員を志す寡婦のための特設教員養成所の生徒も長野県に疎開していたが、翌年まで残って修了した。
まともに授業を受けられないまま卒業した卒業生たちの声を受け、戦後の占領軍GHQの民主化施策による民主化教育に沿って、「”戦中教育”を受けたまま卒業していった本校生徒を、夏休みの時期を使ってもう一度学校に集め、”補習”のかたちで戦時色を抜くための”色揚げ講習”ふうの授業が行なわれた」こともあった。またGHQの方針で婦人参政権が認められ、21年4/10に行なわれた総選挙で婦人39人が当選、そのうち3人が当校卒業者であった。翌年の第一回参議院議員選挙では一人が当選した。
百年史にある勤労動員記録は主に卒業生などからの聞き書きや談話などからまとめられたもので、実は昭和15年あたりからの記録がないとある。実は敗戦が決まった直後の8/15前後から、連合国の占領・進駐による追求を恐れた「文部省の指令により戦争協力についての勤労動員の記録・書類を(焼却)処分した」のである。これは他の大学も同様で、多くの大学や専門学校、高校は戦後数十年以上してから当校と同様に卒業生たちから聞き書きをしながら記録を作り直している。そもそも動員記録はその都度文部省に提出義務があり、学校の控えと合わせて両者に保管されていたはずである。つまり文部省自身も焼却していることになるが、当然軍部の書類、記録もすべて燃やされたという記述が、筆者があちこちの記録を渉猟しているうちに見出された。しかも日本全国の市町村で徴兵されて出征した記録(台帳)すら焼却されてなくなっている。
またこの当校の記述も約50年後に刊行された『記録ー少女たちの勤労動員』によりいくらか補足しているが、その中に、日記をつけていた生徒もそれを残してはいけないものと思い、敗戦後に燃やしてしまったとある。当時の徹底した思想統制の結果であるが、「聖戦」とかアジアの盟主としての正義の戦いなどと国民に喧伝し、戦死者を英霊として称揚しつつ国民や若者や子供たちを洗脳しておきながら、負けたとなると自己保身でその戦争の証拠を燃やしてしまうなどと、特攻死した英霊たちや空襲で丸太のように黒焦げになって焼け死んだ人たち、さらに解放してやると見せかけられ、侵略されて犠牲になったアジアの国々の膨大な死者たちも浮かばれない。しかもこの「なかったことにする」という精神的性向はそのまま日本の戦後政治に引き継がれ、正式な謝罪ができないから70年以上経っても国際社会の中でも発言力が弱いままの要因となっている。
拓殖大学
前身は明治33年(1900)に、当時の陸軍大臣で後に首相となった桂太郎によって設立された台湾協会(専門)学校である。その5年前に台湾は日清戦争の勝利により、中国から日本に割譲され植民地となっていて、その統治を支援するために台湾協会が31年に設立され、そのための人材養成が目的の学校であった。その後明治38年(1905)の日露戦争勝利による朝鮮半島から遼東半島(満州)の権益獲得により、40年、アジアを舞台に活躍する人材養成学校として、東洋協会専門学校と改められた。同年には朝鮮の京城(現ソウル)に分校、その後京城高等商業学校とし、中国大連に商業学校と女子商業学校、台湾商工学校、昭和に入って中国に旅順語学校、満洲に奉天商業学校を設立した。また台湾以南へも視野が向けられる中で、大正4年(1915)には東洋協会植民専門学校とされ、大正7年には昇格して拓殖大学となった(この時期からの第三代学長としては明治大正期に政治家として稀有な活動をした後藤新平がその晩年の10年間務めていて、後藤はそれ以前に台湾で民政局長として務め、台湾の改革に辣腕を発揮した)。
大学としての基本は商科大学であったが、性格は「植民学校」であった。そのため中国語を主として、朝鮮、ロシア、マレー、ドイツ、オランダ、南洋語、南米語などの習得に時間を割いた(注:オランダ語はインドネシアを植民地とするオランダの研究のため、南洋語は東南アジアと南洋諸島、南米語は当時日本は南米への移民が多かったためである)。ちなみに太平洋戦争開戦時にはハワイ真珠湾と同時にマレー・インドネシアにも同時に侵攻したが、オランダが支配するインドネシアの豊富な石油資源や他の鉱物資源の研究も拓殖大学は先んじて行っていた。この他、イスラム研究も先駆的に行っている。
以下は『拓殖大学百年史』と関連資料から、その要点の略記である。
<日本の海外侵出に連動した学生たちの海外雄飛>
拓殖大学はその設立の経緯から、植民地台湾と親密な関係を持ち、卒業生の多くは台湾に渡って各分野で活躍し、東京大学と同様に採用枠を確保されていた。また昭和に入る頃から学生達の海外研修がたびたび実施されていて、行先は朝鮮や満州の各地、北京や天津、旅順、大連、上海、内蒙古などであり、昭和6年(1931)9月、満州事変が起きると早々に拓殖大学の学生達は反応し、講演会を開いたり、連合満州視察団にも学生達は参加し、事変の絶対支持を表明した。すでに卒業生たちも500人の単位で満州に雄飛していたという。翌年に満洲国が建国されると、当国の要職の人物達と大学の交流も推進され、学生達の満州への就職志願者も増加した。拓殖大の学生達の熱意は大学の動きを超えるもので、この日本の発展の好機に大学は傍観しているとして同盟休校事件を起こしたほどであった。拓殖大を支える東洋協会も昭和10年から学生の海外派遣を制度化した。
こうした流れの中で昭和8年、拓殖大学は商科のほかに拓殖科を設置した。これはその後、他の私立大学でも追随した。昭和12年の日中戦争開戦の翌年、国家総動員法が公布されるが、大学の拓殖科は開拓科と武徳科(後に司政科)に分けられた。その目的は主に満洲農業移民と満蒙開拓青少年義勇軍の指導者養成であった。当時政府は満洲農業移民百万戸移住計画を打ちだしていて、大学には農業実習を含む農業関連科目も設けられた。14年5月には満蒙開拓勤労奉仕先遣隊の派遣があり、全国の大学生150人のうち拓大からは50人が参加した。これに続けて、文部省の通達で大学生による「興亜青年勤労報国隊」の派遣が指示され、拓大からは教官1名と学生10人が7月から二ヶ月間参加した。
ちなみにこの時参加した学生たちは小銃と帯剣による武装で行った。その先は満洲北端の内モンゴル興安嶺の麓であったが、仕事は広野の中に陣地を作り、その平原を開墾して開拓団に渡すことで、付近は治安が悪く、常に歩哨を立て、小銃を横に置いての作業であった。そして学生の一人は「日本のやっている植民地政策に非常に失望し、侵略ではないかと思った」という。実際に満洲開拓団の入植の大半は、現地に住む農民たちを追い出してのことで、そのために現地住民による反乱部隊が形成されていた。そして敗戦時はソ連軍に侵攻され、その混乱の中、開拓団の逃避行では集団自決などの悲劇を生じた。
昭和12年の日中戦争開戦あたりから大学だけでなく学校に対して(軍事)教練が強制的に課せられ、それぞれ配属将校が送られることになるが、拓大では大正末から配属将校を受け入れ、教練のレベルでは最優秀校となっていた。文部省が唱える「興亜精神」の発揚の取り組みについても、すでに普段の研究活動で実施していると文部省に返答したれされる。勤労奉仕も大学は独自に「南方開拓の人材養成」のためとして台湾や日本の占領地サイパン、テニアンの砂糖栽培の勤労奉仕に学生を送っている。また14年末には学内で学生隊を結成したが、これも他の大学に先んじている。ある意味拓大は国策に先んじた動きをしていたと言える。実際に拓大では、興亜講習所、南方大学講座、安南(ベトナム)語講習所(後に仏印学院)などを学内に設けた。
<従軍通訳>
拓殖大学の学生たちは中国語を始めとしたアジア言語の習得に励み、卒業生のほとんどは日本が統治する台湾・朝鮮・満州の諸官庁や企業へ就職した。明治時代の日露戦争において96名の通訳生が従軍しており(うち7名が戦死)、昭和3年(1928)、日本軍の第二次山東出兵にも22名が通訳として従軍、12年(1937)の日中戦争(支那事変)では約40名が従軍し、うち6名が戦火の中で死亡した(1名は研修生、2名は蒙古で)。通訳ではないが、この年の盧溝橋事件後の7月28日、夏季研修旅行中に通州事件に巻き込まれて死亡した学生もいる。翌13年にも約40名が従軍し全員無事帰国したが、蒙古で行方不明になった者もいる。その後も拓大生あるいは卒業生の従軍通訳は続いたが、あくまでこれらは大学が推進した道ではなく、自発的なものであった。
その中の一人は18年に支那派遣軍の通訳として採用され、軍事顧問に付いて日本の中国側の傀儡軍にしばらくいたが、その士気は弱く、一方で日本軍の振舞いは目を背けたくなるものが多かったという。その後現地で徴兵検査を受け、武漢への入隊が決まったが、帰国して本籍地で入隊した。「従軍通訳としてこの目で見た日本軍に正義はなく、自分から進んで中国で展開する日本軍部隊に入り、中国人に銃を向けることはどうしてもできかねた」という。同じ18年に中国の傀儡政府に職を得て、中国各地を飛び回るうちに終戦を迎え、その後の内戦で反共陣営に入り、数年後に帰国した者もいる。また中国生まれの拓大生はどうしても敵対行為に身を投じることができないと、志願せず満鉄に入社した。
昭和16年(1941)に日本は太平洋戦争突入するが、日本軍は中国から南方作戦を始めていて、その動きの中で、南洋語科生がマレーシアやインドネシアに、つまりマレー語やオランダ語(オランダは長年インドネシアを統治)の通訳として従軍し、そのまま太平洋戦争の東南アジア戦線の中で活動することになる。このように拓殖大学のアジア開拓人材養成という建学精神がこの戦時下の時流に乗り、16年度から海外雄飛を夢見た入学希望者が急増し、17年には7倍になったという。
さらにアジアの独立を標榜する思想団体に参加していた学生が、日本が真珠湾攻撃と同時にマレー半島にも侵攻した流れに乗って、「特別青年隊」として、軍には属さない形で秘密裏にインドネシアに入った。そこで現地の青年を集めて訓練所を作り生活を共にしオランダからの独立を目指したが、オランダ軍を降伏させ占領した日本軍と折り合いがつかず、帰国し復学した。その先輩で陸軍入営後に中野学校で訓練を受けたのちインドネシアに渡り、同じ青年団を訓練した将校がいて、彼は最後までジャワ防衛義勇軍を指導した。日本の敗戦直後、インドネシアはオランダから独立したが、その陰にはこうした日本人もいた。
この時期の卒業生はアジアだけではなくアメリカ、ロシア、南米、イスラム圏などにも活躍の場を求めて雄飛している。例外的に、昭和18年、時の首相で陸軍大臣、つまり日中・太平洋戦争を身をもって推進していた東條英機を、「東條は国を危うくする」として暗殺する計画を拓大生6人が秘密裏に計画し、その計画が漏れ、憲兵に検挙された事件があった。
<勤労動員>
昭和16年、太平洋戦争開戦の四ヶ月前に文部省は各学校に「学校報国団」を設立するように訓令を発した。それは「学校教練、食糧増産作業、各種団体訓練等の実施を効果あらしむる」ためとし、学生の文化・体育の部活動や研究会、親睦会などがすべて一括して運営管理されることになり、拓大では「報国会」とし、同時に報国隊も編成した。この組織によって勤労動員が実施された。
徴兵年齢に達しない学生は勤労動員に明け暮れた。食料増産の援助として北海道や山梨県、群馬県の農村に出かけ、また島根県に大水害があってその復旧作業、岩手県のダム工事、その他江東区の石川島造船所、ヤナセ自動車工場、名古屋の造兵廠熱田工場、川崎や伊豆や群馬県高崎の軍需工場、福岡県の炭鉱、宇都宮の山中の石切り場の地下大空洞に疎開した中島飛行機のエンジン工場にも行った。農兵隊というのもあり、働き手が徴兵されて人手の足りない農家を巡回して支援するためで、山形県と宮城県に分散して赴き、敗戦の日まで従事した。また敗戦の年の新入生は入学式もなく、登校もできず、出身校の勤労動員に参加、6月になって登校するとすぐに中島飛行機の地下工場に動員された。
こうした中での一人の拓大生の体験である。—— 昭和19年に専門部司政科に入学したが、三ヶ月勉強しただけで7月から勤労動員で江戸川両岸の民家の取り壊し作業に出され(注:建物疎開といって、予測される空爆によって延焼を避けるために空白地帯を作る)、150人が各班に分かれて作業した。その時の隊長は後の大相撲の吉井山であった。作業はハードで、食料は配給制だったから空腹でたまらなかった。その後11月半ばから二ヶ月群馬県高崎の軍需工場へ勤労動員となった。翌年2月には江東区の石川島造船に転属となった。そこで3月10日の東京大空襲にあった。「地獄でもあんな酷いことはない。道路には焼死体が散乱、道端の防空壕をのぞくとお婆ちゃんの焼死体があり、なんとその下にお孫さんの窒息死体、覆いかぶさったお婆ちゃんの背中は焼け焦げていた」。4月になって蒲田の三井精機に行き、製品の運搬作業をした。その次の7月に入ると宇都宮の大谷の地下に作られた中島飛行機のエンジン工場に行った。宿舎から工場までの往復は四列縦隊で軍歌を歌いながら行進した。給食は酷いもので、後輩の一人(注:おそらく一度も授業を受けていない)が工場から帰る途中、草むらにいた蛇をつかまえ、焼いて食べていたこともあった。
<学徒出陣と戦死者>
太平洋戦争の戦局が不利になると学生は即時戦力要員として求められ、特に昭和18年(1943)秋の出陣学徒壮行会を期にして、ほぼ翌年1月までに陸海軍に入営、そして戦地に赴いた拓大生は1272名、戦死した学生はほぼ90名、その中で特攻隊に志願して(その多くは「どうせ死ぬなら潔く」として)還らなかった者は21名となっている。この中には戦闘機ではなく、人間魚雷「回天」による敵戦艦への特攻もある。また特攻機の訓練中に墜落して死亡した学生も幾人かいる。この出陣式の後にも下げられた徴兵年齢に達し、休学して戦地に行った学生たちを含めると全体の出征者は1645名とされるが、それ以前の卒業生はこの数に含まれていない。
特別攻撃隊員になるにはまず陸海軍の飛行隊に志願するが、学校での訓練を終えた頃に、特攻隊員の募集がなされ、例えば「熱望する・希望する・希望しない」の選択があり、ほとんどは「熱望する」と回答する。そこからまた急降下訓練を行ったという。海軍では神風特攻隊と呼ぶが、拓大の第一号は19年12月15日、フィリピン、ミンドロ島において米軍の戦車揚陸艦に対してであり、この時の10機すべてが「散華」した。その後は(一名が硫黄島の戦闘で回天による特攻死の他)沖縄戦での特攻死が多く、全体で21名のうちの最後は20年6月21日、沖縄戦終結の二日前、沖縄海域で散った。この後は突撃すべき飛行機自体が残り少なく、練習機も使われるようになり、待機したまま終戦を迎えた特攻隊員たちも少なくない。その彼らの心のうちは、これで助かったというものではなく、自分は生き残ってしまったという慚愧の思いであった。
これとは別に、敗戦直前のソ連の満州への侵攻にあたって、多くの日本軍は敗走したという話は各所に残るが、当然迎え撃って激戦ののち多くの将兵が果てた話も少なくない。その中で拓大生の小隊の数名がソ連軍戦車団に対して挺身斬込隊を作り、爆弾を背負って深夜に襲撃、戦車団の進路を変えさせたが、自らと部下は死亡した話も「百年史」に載っている。特攻隊以外にも同様な特攻死に等しい話は数多くある。
拓殖大学は戦前までほぼ日本の国策に連動する形で多くの気骨のある人材を輩出したが、その中で一人また一人と戦場で、雄飛を夢見た心を封殺し、自身を一つの砲弾と化して突撃して行った。この姿が散華という言葉で飾られ、そして英霊と称えられた。
当大学の百年史で特記すべきは、判明した戦没者名が戦死の日と要因、場所、階級・所属も含めて一覧表にして記載されていることで、卒業生を含めて432名(最新)となっている。昭和は7年8月27日から始まり、終戦4年後の24年4月30日で終わっている。終戦後の戦死者の中には収容所や病院での戦病死が多いのが目立つ。この4年後まで追跡調査している大学は他にあまり例を見ない。24年の戦死2名はBC級戦犯としてのようである。
この記録の初期の頃の死亡は満州中国が多く、この中には現地の官吏や会社員もいる。その後は北太平洋のアリューシャン列島から南太平洋諸島とその近海、東南アジア、硫黄島、沖縄、フィリピンの全域に渡り、国内では守備軍としての原爆死もある。また終戦の20年8月15日以降の死亡者は65名で、この中では終戦直前にソ連(ロシア)の突然の満州侵攻に対する防戦による戦死、それ以降はアジア外地に残された人たちの戦病死(餓死)が多く、さらにソ連に抑留されシベリアや蒙古の強制収容所での病死、そしてアジア現地で戦犯とされ刑死した軍人も入っている。具体的にリストの中の戦死地を逐一目で追うだけで気が遠くなるほどである。当時の日本軍の、国力を大幅に超えた戦線の拡大であったことが容易に見て取れる。
<戦災と戦後>
終戦3ヶ月前の5/25夜間の山の手大空襲で大学は周辺の町とともに燃え上がった。新宿方面から爆撃が開始され、順次燃え広がり、日付が変わって大学にも火が迫り、当直の防空隊30数名が消火に奮戦したが、恩師記念講堂、第二号館、本館付属建築物10棟、高華寮、柔道・剣道・相撲・弓道場、その他倉庫等が焼け落ちた。
それより前の4月13日夜半からB29約330機が来襲、城北地区を空爆した。東洋高女、女子校等師範学校、帝国女子専門学校と附属の日本高女などが焼け落ち、帝国女子は敷地内の寮の女子学生7人が防空壕の中で生き埋めになった。その叫び声で近くの拓殖大学防空隊が駆けつけ救い出したが、寮母と寮生3人の4人が死亡した。その遺体を拓大が一時預かるとともに女学生たちのために校舎を貸した。帝国女子はその後再建できず、神奈川県に移設、相模女子大学となった。
戦後、占領軍GHQの指揮下となり、拓殖大学はその経歴上存廃の危機に陥った。しかし平和国家再建を主旨として翌年、紅陵大学と改名するが、新たな使命を果たすべく昭和27年に再び拓殖大学に戻した。
なお拓殖大学図書館は、その創立の主旨を生かし、「旧外地関係資料」と称して太平洋戦争終結前のいわゆる日本の植民地と呼ばれた5つの地域(満洲国、台湾、蒙古、樺太、朝鮮、南洋群島)に関連した資料を多く収集し、南満州鉄道、満州国政府、台湾総督府、朝鮮総督府、樺太庁、南洋庁、各地域の商工会議所等の発行物や、各地域で発行された資料などがコレクションの中心となっている。
日本女子大学
明治34年(1901)、成瀬仁蔵の女子高等教育の理念により政財界から多くの支援を得て、日本で最初の私立女子大学校として設立された(渋沢栄一も創立委員の一人)。戦前は女子の大学が認められず(一般の大学にも女子は入学できなかった)、あくまで専門学校としての大学校であった。当時の女性実業家広岡浅子の支援は大きく、そのほか森村市左衛門の財閥グループの社会奉仕団体豊明会の寄付によって明治39年に教育学部と附属豊明小学校と豊明幼稚園が設立された(森村はその後別に森村学園を創設した)。大正時代から女子総合大学を目指し、そのための学舎建設のため基金募集を開始し、皇室からも重ねて献金されたが、関東大震災(1923年)によって主要な建物が大破、3年後に新館が建てられた。昭和に入って(1927年)本格的な大学への昇格をめざし、まず予科高等学部を開校した。しかしその後軍国主義時代となり、昭和6年(1931)満州事変が勃発、女子教育への軽視もあって大学昇格は戦前には果たせなかった(東京女子大も同様)。ある時、社会事業学部を設立しようとしたが、この「社会」が社会主義を連想させるとして却下され、家政学部の中に組み込まれた。なお昭和6年、井上秀が当校出身初の校長となった。
下記は主に卒業生の桜楓会発行の『家庭週報』の資料(「愛宕山のブログ」から借用)と『創立100年の軌跡』、「100年年表」、同窓生の文集『戦いの中の青春』その他から。
<戦時下の学校の体制>
昭和12年(1937)の日中戦争開始後から国民精神総動員運動が起こされ、学生・生徒にも自発的な勤労奉仕が課されるようになった。13年には国家総動員法が発令され、生産活動に限らず学校の活動も統制されることになった。15年末には文部省指示により他校よりも早く「報国団」結成が準備され、学内の自治組織が組み込まれることになった。
16年12月の太平洋戦争開戦と同月、9月に文部省に決定された修業年限臨時短縮令により、大学、専門学校、高等師範学校の卒業が三ヶ月繰り上げられた。翌17年には半年の繰上げ卒業となる。これは男子大学には徴兵猶予制度があって、早く卒業させて20歳以上の者を応召させることと、女子に対しては早く労働力として就労させること、師範学校はやはり応召で男性教師が不足してそれを埋めようとする目的であった。そして18年(1943)秋には徴兵猶予制度を撤廃して20歳に達した男子学生を在学のまま戦地に送ることになる。
これにより18年10/21、神宮外苑競技場で開かれた男子出陣学徒壮行会には井上校長はじめ、全職員、全生徒が見送りで観客席を埋めた。全校参加はたぶん当校だけであって、校旗を掲げ、全生徒が白いブラウスで統一し、他校の女子生徒(せいぜい数百人単位で出席)から見てもかなり目立ったと記録にある。
この男子出陣に合わせて女子の卒業生で就業していない25歳までは勤労挺身隊として軍需工場に動員されることになり、桜楓会(卒業生)もその役割を担った。
12月、陸軍大尉が来校し、戦局緊迫の講演をし「学徒よたて」のような話であった。それを聞いた学生の一部が「国家の一大事に自分たちがのんきに学校で勉強しているのは申し訳ない。早く国のために役立ちたい」と言い始めた。それに対して大橋学部長が「学生は勉強することが大切なので、今は静かに勉強しているように」と語りかけた。
しかし一方では「なぜ私達が動員されなきゃならないんですか。… なぜ勉強途中の者が天皇陛下のために死ななきゃならないんですか」と言い始める学生もいて、先生に呼ばれて「たとえ思っても言っちゃいけないのよ」とたしなめられた。そして翌年年初から学校内に工場が作られ、並行して各地の工場へ長期間の勤労動員が本格的に開始された。その際に井上校長は「我等は皇国女性なり…」との励ましの言葉を与えた。しかしその後井上校長は、このままでは日本は破滅する、軍部とは意見が合わないと講演でで話すようになり、苦悩されていたのではないかと当時の女学生は書いている。
<勤労奉仕/勤労動員など>
以下は主に「100年史年表」から抜き書きした、動員の記録である。
〇 昭和12年(1937)9月:大学部・高等女学校が学校防護団結成、17日に演習実施 /12月、高等女学校が軍服の肩章作りの勤労奉仕作業
〇 13年6月、新校地の西生田(川崎市多摩区)で大学部による勤労奉仕作業開 始(食料増産のための校地の開墾、植え付け)/7月、高女が白衣の紐作り、戦闘帽の穴かがり、肩章作りなど勤労奉仕作業を二週間 /10月:大学部生が慰問袋作製。以後全学園生徒 により随時作製し献納 /12月、「戦時家庭経済展覧会」開催(於三越本店。その後全国13都市で開催)
〇 14年6月:百億(現在の金額で25兆円前後)貯蓄強調週間に向けて、戦時家計・生活 刷新相談所開設 /9月:高女、西生田校地で草取りと栗拾い作業
〇 15年11月:日本女子大学校報国団結成発表会 /12月:高女が紀元2600年を記念し、研究発表会・展覧会・再生品即売会を開催
〇 16年2月:報国団結団式 /同月:高女が慰問袋作製 /4月:高女が報国団結成 /6月:高女が失明軍人を講堂に招待し慰安音楽会開催 /8月:教職員第1回防空訓練 /10月:全校生徒防空訓練(豊明初等学校も)/12月:太平洋戦争開戦とともに、大学部は三ヶ月の繰上げ卒業。
〇 17年(1942)2月:高女の4、5年生が10日間陸軍被服廠へ勤労奉仕 /5月:豊明初等学校報国団結成 /6月:高女3年生が慰問袋作製、陸軍省へ届ける /同月:家政学部生と卒業生が川崎市菅部落農繁期臨時託児所で奉仕活動実施 /9月:高女4年生が陸軍被服廠他へ勤労奉仕10日間 。大学部がさらに半年の繰上げ卒業となり卒業生428名 /10月:高女5年生、5日間の「聖地」巡拝旅行(伊勢神宮他関西方面)実施(これはそれまでの修学旅行が自粛され、伊勢神宮を組み込んで名目を変えて行われたもので、学校によっては鍛錬旅行などと呼ばれた)/11月:川崎市菅・細山両地域農繁期託児所及び共同炊事に協力(研究科生・家政学部生・児童研究所・桜楓会員。以後19年秋まで春秋の農繁期に奉仕活動実施)/12月8日:全学園で各々に開戦1周年記念の行事を行う。また日本女子大学校国民貯蓄組合結成(全国の学校に貯蓄が奨励され、私学校では軍への寄付がしばしば行われた)
なおこの年の後半であろうが、家政学部では大陸生活研究会が大東亜研究会と改称し、満州国だけを対象とせず、広く南方その他の研究を対象とすることになった。満州国開拓科学研究所のほかに、吉林省の郡上開拓村、岐阜県郡上八幡の農村から移った180軒の家族から成る開拓村において、青年女子と生活指導等に女子大班が当たることになり、また新卒業生1名が先輩と共に北方満州開拓村の指導者として、南方地域には新卒業生6名が旅立つことになったと家庭週報にある。このような満州等への派遣は、男子大学は盛んであったが、女子大では他に見かけない。井上校長の考えからであろう。なお、この開拓団の居留民は終戦直前にソ連(ロシア)の宣戦布告により大きな惨劇を生んだ。
〇 18年(1943)1月:高女3年生が陸軍兵器補給廠へ10日間の勤労奉仕 /2月:陸軍の少将と兵務課長、文部省の学務局書記官ら一行8名が来校、全校生徒の防空訓練等を視察、その時の少々の訓示で当校の女学校としての重要な位置を述べ「思想の問題は充分に慎んでもらいたい。誤ったインテリ主義的 … まして自由主義的考え方など」もってのほかと警告している /4月:校章を真鋪から現在の七宝焼きに変えられた(これは兵器用の金属不足によるもので、このようなものまで国へ供出させられた。他校も同じで、学校の門扉や窓枠の鉄なども対象で、家庭の鍋や寺の梵鐘まであり、食料不足も合わせて国民は極端な耐乏生活に入って行った)/7月:豊明初等学校6年生、奥多摩禊道場で錬成寮開催 /同月:国文学部3年生・家政学部1、2年生が凸版印刷へ三週間の勤労動員。また高女が救急・看護訓練と待避壕掘り を行う /8月の一ヶ月間、家政学部4年生33名が満州国開拓村に生活建設協力隊として勤労奉仕に赴く /8月:高等女学校4年生、葛原工業場へ二週間勤労動 /10月:国文学部・英文学部全学生が川崎市多摩区の西生田校地に移転、その後西生田では隣接する農村部の農繁期に託児所を開設し、共同炊事の支援などを行った。別に香林寺にも保育所を設け、出征で男手が少なくなった農民を支援した。同様なことは小平にあった津田塾も積極的に行った /12月末:学校側の要望もあって学校に工場を開設、25学級が毎日交代で航空機の部品を作る作業が始まる。これは学校内であれば授業も並行してできるとの意図もあったからである。派遣先には教師も付いて行って、合間に授業を行うこともあった。
*余話:10月21日、大学生に対する徴兵猶予制度が撤廃され、さらに徴兵年齢が下げられて、神宮外苑競技場で関東の学生を集めて一斉に学徒出陣壮行式が行われた。この時、主に高等女学校に見送りとして出席が求められ、日本女子大も参加した。その参加者の中に、中国からの留学生がいた(この時期は、日中戦争開戦から6年以上経っていて、そもそも中国からの留学生がいること自体がめずらしいが、日女には比較的多くの中国人がいた)。その帰り道、そのクラスメイトの留学生が聞いてきた。「あなたは今日のことどんな風に感じていますか。悲しい?淋しい?」と問いかけれられ、戸惑ったが、「日本人なら戦争に出ることを悲しいなんて思わないの。天皇陛下のため、お国のためなら、どんな人でも喜んで命を捧げる勇気を持っているし、戦場に行くことを名誉と思っているから、そんな女々しい気持ちはないの」という意味のことを強調した。しかしそれを聞いている留学生の表情は固くなり、冷たいものが見えた。その後開かれた感想会でも私は、「八紘一宇の精神のもとに、彼らはアジア民族を白人の支配から解放せんがために戦場に行くのです。どうかそれを思い、中国の方達も私達と同じように、彼らの武運長久を祈っていただきたいのです」と発言した。それを聞いていた留学生は青い顔をじっと伏せたまま顔を上げることはなかった。今にして思えば、何と思いあがった発言だったろう。留学生たちはきっと、「何も知らない日本人たち。日本軍に占領されている中国民衆の苦しみをわかりもしないで」と心の中で叫んでいたに違いない。私達はといえば、小学校、女学校、女子大とずっと戦争ばかりで軍国主義教育を受けていて、日本は常に正しく、アジアの指導者だと信じ込んでいた。正義という戦争の陰に、侵略された側の悲しさや惨さがあることを知ろうともしなかった。30年も経ち、彼女達はどうしているだろう。不当なことを言われ、それに抗する言葉も出せずにいた留学生達の心の痛みを、今でも突き刺さるように感じる。
〇 19年(1944)1月:新たに学校工場開設(目白の英文館使用)。家政学部生の1、2年生が軍からの委託の作業(電波兵器の部品作り)を行う /同月:高女卒の挺身隊が海軍省に配置され壮行会開催(この時期から長期の勤労動員は学校では壮行会、工場では入所式が行われた)。同じく海軍技術研究所が管轄する軍需会社に理系の学生と家政学部の学徒報国隊215名が分散配置された /同月:西生田の国文・英文学部の1−3年生が陸軍省へ勤労報国隊として三週間動員 /2月:高女が「フィリピン展覧会」開催、研究発表(この時期フィリピンは日本軍に占領されていた)、同日更生手芸品即売会開催し、その純益を愛国機献納金とする(日中戦争から女学校同士の献金で戦闘機が何度も陸海軍に贈られた)/同月:高女3年生が二週間兵器製作工場へ /同月:報国隊で空襲時の救急活動の訓練実施 /4月末:第1次勤労動員壮行会開催、家政科4年生215名が海軍技術研究所他へ勤労動員、これ以後通年動員となる /5月:第2陣として西生田の国文学3、4年生206名が北区の陸軍第一造兵廠へ(最初の10日間は講習で、軍人勅諭、戦陣訓、標語、敬礼・命令の徹底、任務の完遂について教育された)、英文学4年生36名は日本赤十字社に入所し通年動員 /同月:海軍技術研究所の215名のうち100名が住友通信工業へ、その半数近くが工場の寮で生活し電波探知機などの製作 /6月:第2次勤労動員壮行会、1年生を除く全大学部生約1000名が長期動員された。動員先は海軍技術研究所、海軍衣糧廠、明電舎、横河電機、田中航空計器、第一陸軍造兵廠など /7月:高女の5年生が長期勤労動員へ /8月:高女の3、4年生が兵器製作工場へ /9月:全一年生が翌年3月まで海軍航空兵用の食料(羊羹のような携帯食)の調整にあたる /同月:校内の香雪化学館で化学専攻生が化学品の精製など(終戦まで) /11月:高等女学校実習機関として、閉園中の豊明幼稚園を使用して戦時保育所(特に軍需工場で仕事をする女性のため)を開所 / 11/24より米軍の本格的空襲が始まる。その中で工場にいた当校の女学生が伝令を命じられ、そこで「鉄カブト、ゲートル、ガスマスクのカバンの装備の上に本部伝令の赤いタスキを肩から斜めにかけ…敬礼と伝令を命令通りに繰り返して付属の建物を走り回った」とある。
*余話:この年の11月ごろから南方方面の戦いで神風特攻隊が米軍の艦船などへ体当たり攻撃を仕掛けるようになっていた。一方で日女の女学生達は軍需工場などへの勤労動員による作業に汗を流していた。そこに同じ工場にいる級友の兄がフィリピンのレイテ島で特攻隊員として体当たりして死んだとの知らせが届いた。そこで現場の20歳の女学生の隊長(当時はすべて軍隊式の組織になっていた)は、「Fさんのお兄さんの心を心として今すぐ職場特攻隊を作りたいのです。私たちでも体当たりはできると思うし、したいのです。死に物狂いで働きたいのです。私たちは銃後特攻隊になるのです」と職場の上長に訴えた。すでにこの家政科の27名の働きぶりは工場内の模範となっていた。そして特攻死した「神鷲八紘隊」の名をとって「〇〇工場職場八紘隊」として結成式を挙げ、白鉢巻をきりりと結んで早朝から夜遅くまで残業して働いた。Fの父親は中国戦線で昭和12年に戦死、他の兄二人も出征して戦場にいた。(なおこれは19年12月の読売新聞の記事によるもので、Fの二人の兄がその後戦死したかどうかはわからない)
〇 20年4月:西生田校舎に学校工場開設、機密に関する作業のため全寮制とされた。内容はアルミ箔を貼ること、電気抵抗の測定、岩塩でレンズを磨く等で、合間を縫って授業が行われた / 4−5月:軽井沢三泉寮に貴重な書籍や重要書類を疎開させる / 6月:学部生や勤労工場が焼けて仕事がなくなった生徒たちが軽井沢三泉寮に疎開し、援農隊として農地を開墾したり周辺農家に手助けに出向く / 8/6、43回生の二名が広島で原爆死。
8/15、終戦。「(田舎に帰っていた)ある日、やせこけた弟が江田島の海軍兵学校から…”ただいまっ”と帰ってきた。その時の父母の光り輝くような顔を生涯忘れられない。…(それに続くある日)軍艦大和で戦死した兄が白木の箱で帰ってきた。箱の中には(骨はなく)”英霊”と印刷した紙切れ一枚がひっそりと入っていた。父母はそれをうやうやしくおしいただき、長い長い合掌をした。母の肩が小刻みに震え、父の背中がピクリと動いた」
今ひとつ、同窓文集の中で二人が触れていることだが、終戦の日に郷里の熊本に帰っていたクラスメートが家族で自決したという。皇居前で自決した軍人もいたが、一家で自決とは、父親が地位のある軍人だったかもしれないが、現今から見ると異様な出来事である。しかしそういう時代であったというしかない。
<学生たちの国際交流と人形>
この一方で当校と付属高校の生徒たちは平和を主旨とした国際交流を盛んにしていた。とりわけ昭和2年(1927)に宣教師のギューリックの発案で米国から贈られた約1万2800体の「青い目の人形」(そのうちの2体が当校付属の豊明幼稚園に届いた)をきっかけにした人形の贈答があった。昭和8年(1933)11月に桜楓会国際係の支援で日本国際協会学生支部として振袖姿の日本人形一体をニューヨークのウェルズ女子大学に贈った。当時は船便でクリスマスに間に合う時期に送られた。10年になってこの返礼があり、日米親善の人形使節アメリカ夫妻というものであった。この間の9年に駐日公使を通じてフィンランドに、約2年後に答礼人形が学園に贈呈された。10年にはドイツへ親善人形を贈り、11年に再び満州、12年にイタリアに贈り、それぞれ現地から人形の返礼もあった。ドイツとイタリアは当時の友好国であった。
昭和8年(1933)、英文科2年生は『米国史』を原文で読み、「アメリカ歴史展」を開催した。その時にも両国の人形を飾った。同じ年に日満婦人協会が満州建国一周年記念に人形使節を60体贈る計画を立て、そのうち一体を高女生が協力して作った。しかしこの年に国際連盟は満州国を承認しないと可決し、日本は連盟を脱退してしまった。これが大きな節目となる。それまで学生の自治組織の一つに「国際連盟協会学生支部係」があったが、この時の脱退で国際連盟協会の名を日本国際協会に変えて国際親善活動を続けた。
11年(1936)8月、第3回日米学生会議が早稲田大学で開催され、米国の各大学から45名、日本から170数名(当校から10名)が参加し、平和を含めた多方面のテーマで交流した。翌12年8月に第4回会議が米国スタンフォード大学で開催され、女子学生代表7校13名(うち当校から1名)、男子学生代表が35名参加した。この12年8月に日中戦争が勃発したが、第5回は13年(1938年)に慶應大学で開催され(米国男女代表41名)、翌年第6回は南カリフォルニア大学で、そして日米関係が悪化した中での第7回(15年)は津田塾大学でギリギリまで学生たちの親善の努力は続けられた。しかし軍政府の思惑の前には無力で、それを最後として翌年に日米開戦となった。
その後、次々と戦地に赴く兵士への慰問袋とお守りとしてのマスコット人形作りが女学生に盛んに奨励された。例えばすでに陸軍航空隊の多くの荒鷲(隊)が散華(当時の戦死の形容)し、昭和17年9月、最初の航空日を迎えるに当って、軍当局の希望により、附属高女では可愛いマスコット人形を作り、陸軍航空本部を通じて第一線陸鷲部隊へ贈った。そして多くの将兵、若い生命がマスコットと共に散った。
18年あたりから「青い目の人形」は敵国の人形として全国で焼却処分された。(あきる野市参照)
<学童疎開>
空襲が予想されるようになると付属の豊明小学校は18年より縁故疎開が奨励されたが、19年に入り集団疎開が実施された。疎開先は軽井沢の三泉寮を使うことにし、8月に3−5年生約100名が向かった。本来、一年の予定であったが、11月下旬より本格的空襲が始まり、2月に残留児童1−5年生約100名が西生田の学寮に疎開、しかし空襲が次第に激しくなり、5月に軽井沢に再疎開した。新1年生も新たに加わった(卒業した6年生の実情については区の集団疎開の項参照)。食料は田舎でも乏しく(軍事優先になっていたこともある)、児童の日記には「今日も2食でした。とてもお腹がすいてすいてたまりません」とある。終戦後も都市の混乱と交通事情もあってすぐには戻れず、児童たちが帰京したのは10月の末であった。
<戦時下の井上秀校長>
この時期の戦争は15年戦争とも言われ、その発端は昭和6年(1931)の中国における日本の権益を拡大しようとした満州事変であるが、この年に当校の第一期生であった井上秀が初の女性として四代目校長に就任し、終戦翌年までその職にあった。井上は明治41年(1908)米国に留学し、帰国後は付属高女の教員からスタートした。
(以下やや長くなるが、戦時下の精神的背景を見るのに特に井上の言動が参考になるので、戦後に第六代校長になる上代タノと共に取り上げる)
井上は家政学部長時代の大正11年(1922)、前年に設立された婦人平和協会理事長として、ワシントンでの世界軍縮会議に並行して開催されたアメリカの女性軍縮会議に招かれて出席、そこで「侵略又は軍国主義は19世紀を通じて世界を支配した思想で … 今日はこの侵略主義よりもリベラリズム、帝国主義よりもデモクラシーの思想の発揮する時代であり … 若き日本は今や軍国主義を呪い、その反抗の勢いは全日本を支配しつつあり … その呼声を正しく聞き得るものは殊に日本の婦人であります」と演説している。帰国の途次、欧州を視察した。
翌大正12年の著書『婦人の眼に映じた世界の新潮流』では「日本の支那(中国)問題に対する態度について … 要するに日本は狭隘なる帝国主義或いは軍国主義の国であることを懸念されて、中には日米両国は今にも砲火を交へるであろうとまで懸念された」と記し、日本は決してそのような国ではないとしている。
この満州事変以前の大正時代後半の状況は、日露戦争に日本が勝利し(明治38年=1905)ロシアに代わって日本が満州を租借地としての権益を得て日本の関東軍が支配し、それに対して当然中国の国内では国権回復運動が起こり、そのことが国際的に懸念されていた背景があった。井上はあくまでこれは正しい管理支配であって「帝国主義或いは軍国主義」によるものではないと説いている。しかし、日本はまさしく世界から懸念された通りの道に突き進んで行った。井上はこの後の昭和3年(1928)にも、ハワイで開催された汎太平洋婦人会議に20名の日本代表委員長として出席している。その時の全体のテーマは食料、婦人、労働、教育問題などであったが、井上は「標準生活」というテーマで、一世帯の問題が社会となり国家となって繋がっているという説を掲げ、おとなしい発言であったようである。
そして校長となってからの昭和8年(1933)、井上はNHK放送で「国家非常時に直面して」というテーマで「我国は東洋平和の責任者として新満州国を助成し、その理想である王道楽土の建設を全うせしめ、中華民国との多年の親善関係を恢復し … 我が日本国家は一大綜合家族であり、天皇と臣民の関係は家長と家族の関係であって …」と述べ、さらにその翌新年、家庭週報で「ここに皇紀(神話上の神武天皇が即位したとする年を紀元とする)2594年、昭和9年の新春を迎えて天地にみなぎり溢れんとする万物生々の瑞運を体し給へる我が皇室の御繁栄を慶賀し奉り … 益々壮烈強大を加へんとする我が国家国民の将来を祝福する」と、当時の皇国史観に基づく国家主義的、つまり12年前に自身が否定した軍国主義・帝国主義的な発言を行っている。
また井上は日中戦争(支那事変)が勃発する昭和12年(1937)に5ヶ月以上かけて欧米に教育視察旅行に行っている。さらに15年10月に1ヶ月かけて大橋家政学部長(後の第五代校長)と共に満州開拓民の実状並びに教育状況視察のため満州および 北支(北京を含む中国北部の占領地区)に出張している。その翌16年1月、井上は大日本青少年団副団長に就任する。
16年(1941)12月8日、日本が真珠湾やマレー半島などに奇襲攻撃し米英に宣戦布告する。この前の10月、近衛文麿首相が辞職し東條英機内閣が成立した。翌11月24日、日本女子大学では、東條首相夫人を母校(中退だが当時は結婚を機に中退する女性は多かった)に招き、「御慰労と声援を捧ぐる日」としている。その学校総出の歓迎・歓待に応えて、東條夫人は4日後、陸相官邸で晩餐会を開き、井上校長、大橋、上代各部長はじめ 在学する東亜共栄圏の留学生(台湾・満州・泰国など)、北米系留学生らも招待した。そしてこの半月後に日本は太平洋戦争に突入するが、すでに日本軍は数ヶ月前から周到に戦争への準備をしていて、この女学校の出来事との対比は興味深い。
宣戦の当日、井上は全学生・生徒(約2千名)を成瀬講堂に集め、ラジオで天皇による「宣戦の大詔」を聞かせ、定例の瞑想会を「勝利への決心会」に変えた。そして週報に「宣戦の大詔を拝して:銃後を守る桜楓会員の覚悟に望む」として、「いよいよ米英に宣戦の大詔が渙発せられました。半年余に亘る日米会談に隠忍自重参りました一億国民(当時は台湾・朝鮮の植民地も含めて一億とした)は頭上を覆う陰鬱な暗雲がこの朝一瞬にして拭われ、天日の輝きを覚えたのであります。… しかも開戦劈頭、海陸のわが勇敢なる将兵方の決死的奮戦によって、赫々の戦果がマレー半島に、フィリッピンにグアムに、ハワイに、ミッドウェイにとあげられたのを聞きましては、国民誰一人血湧き肉躍るを覚えぬ者はありませんでしょう」と檄文を寄せている。留学も含め、幾度かアメリカに行ってその国力の大きな差を知る井上が、本当にこの戦争に勝てると思って戦時下の翼賛運動に関わって行ったのか、知る由もないが、井上と同じように当時のアメリカや欧州を実際に知る人々の中で、ここまで反米と戦争翼賛の深みにはまった例は男性以外に他に見当たらない。翌17年1月、決戦下の繰上げ卒業式にあたって、大東亜共栄圏の構想に触れ、開戦当初から次々と戦果をあげる戦局と若き航空兵の武勲などを井上は熱く語った。
17年の10月、井上校長はじめ各学部長、指導者代表と桜楓会有志ら20数名が霞ヶ浦と土浦航空隊に行き、前者では若い将校の飛行訓練、後者では少年飛行兵の基礎訓練を見学した。少年飛行兵とは満15歳以上満18歳未満である(戦争終盤になると徴兵年齢以前の彼らが志願して戦場にいくようになる)。次に同年12/3、大日本婦人会と新聞社の共催で「銃後婦人一日入営」が行われ、やはり井上校長をはじめとする教職員10名と在校生30名が一日入営した。この時同行した井上の娘で同校の教授であった菅支那子は、銃剣術の訓練の後「女といえどもいざとなれば何でもできる、最後の一人となっても国を守ろうという信念を得ました」と、戦争終盤になって唱えられる「一億玉砕」を思わせる言葉で語っている。
一方同行した学生は「射撃演習を終えて新鋭兵器の見学をし … 皇軍の偉力の根源に … 誠に敬服の念を深くした」と述べている。他国と比較する機会のない環境の中では仕方がない感想である。二年後に米軍の大型爆撃機B29が一度に大編隊を組んで来襲した姿を見た時は、その戦力の違いに呆然としたであろう。この半年前にミッドウェー海戦で日本は破れているが、そうした不利な情報は国民には隠されていた。しかも「一億玉砕」が叫ばれる頃には日本は兵器不足で女学生や街の主婦に竹槍訓練が課されるのである。
17年12/8、当校では大東亜戦争一周年記念会が行われ、井上は真珠湾攻撃から11月のソロモン海戦に至る戦果を讃え(実はこの海戦も敗れているが隠された)、「戦争の責任は米英に非があるにもかかわらず、戦争の責任を日本になすりつけている」と述べた。またこの日に、学校関係者の「大東亜の礎」とされる「英霊」44名の慰霊祭が行われた。これは女子学生の兄たちと卒業生の伴侶の戦死者に向けてのものであるが、この後も教職員も含めて戦死者は加速度的に増えていき、空襲も始まり、勤労動員もあって慰霊祭どころではなくなってくる。 ちなみにこの12月末に井上校長は大橋家政学部長と華北の教育指導・教科書編集のためとして北京へ出発(翌年1月末帰京)、18年11月にも数週間北京へおそらく同じ目的で行っている。
18年(1943)1月の家庭週報に井上は「家国一体」とする年頭所感を寄せ「敵米英の戦争目的はあくまでも自己本位にて自己の生活標準を保ち、自己の享楽を遂げんとするにある。… 臣一億ただただ大君に捧げまつり御国に報い奉る尽忠報国の一念を以って、戦時生活全般に亘って必勝敢闘を誓い奉り、我等民族に与えられたる大使命達成に光栄と歓喜を感じ、自ずから勇気百倍するを覚えるのである」と語っている。このような井上の表現は女性としては際立っていたであろうが、当時の社会の主流的な論調と言っていい。そしてこのような論調に対してこの戦争はおかしいとか勝てないと人前で言えば、非国民とか国賊とされたのである。極端な場合、教師も反対のような発言をすれば洗脳された生徒に告発されることもあった。ちなみに同じ号に井上は「総力戦に銃後なし」と記している。つまり銃後にいる自分たちも前線で戦っている将兵と同等に全身全霊で戦うべきということである。 これは上記の勤労動員における女学生たちの姿にそのまま表されている。
<上代タノ学部長の苦渋>
(『上代タノ — 女子高等教育・平和運動のパイオニア』より)
上代はこの当時は学部長で、井上よりほぼ一回り下の世代であるが、当校卒業後、新戸部稲造の引きもあって米国に留学し、戻って母校の教授となっていた。そして大正10年(1921)に井上が婦人平和協会理事長となった時に上代は10人の理事の一人であり、最も若く「国際書記」の役目を担った。その後改めてアメリカとイギリスに留学し、その間にダブリンで開かれた「婦人国際平和自由連盟」の会議に出席し、初めて日本支部(婦人平和協会のこと)としての報告をおこなう。その帰りがけにジュネーブにいた新戸部のもとを訪れ、国際連盟の活動を経験し、昭和2年(1927)に帰国、学内に国際連盟協会学生支部の設立に尽力した。
この時期に上代が上梓した本(『リー・ハント』)の中に「うそがほんとうのような擬態をしてのさばる時に、一旦口を開くと際限なく面倒が起こるので、多くの人は沈黙主義を守る」とあり、この時代(だけではないが)の日本の様子を表している。
上記の婦人平和協会については昭和5年(1930)に井上は会長を辞任し、恵泉女学院の河井道が引き継ぎ、上代が副会長となった。河井はまさに上代と志や考え方が同質であったが、新戸部稲造を師とする同じ背景をもつ。そして翌年の満州事変突入に危機感を抱き、二人が中心となり在日の米国の婦人たちと一緒に文部省に陳情に行ったり、多くの署名を集めて国際世論に訴える方法を模索したが、その二年後に頼りの国際連盟を日本は脱退してしまう。その年に河井は辞任し、社会活動家・婦人参政権運動家であるガントレット恒(作曲家山田耕筰の姉)が引き継ぐ。しかしその後12年(1937)さらに日本は満州事変の延長で日中戦争(支那事変)に突入する。
その時、井上の娘で協会の一理事であった菅支那子は、その会報に「戦争そのものは好ましからぬにしても、歪められた世界の現実においては戦争も避けがたい場合がある。… 今や南京陥落が伝えられ、戦士に対する感謝にはこの上もないものがあるが、… 日本を敵視すべく誤って教育された支那民衆の心を是正することが必要なのは言うまでもない。… 国家総動員に応じて重要な文化的役割を演ずるものはまず我々婦人でなければならない。… 和平の心を支那民衆からかち得るために…」と記している。「戦争そのものは好ましからぬにしても」とは親の井上ほどではないが、控えめながら当時の時流に乗った表現である。ただ「誤って教育された支那民衆」、「和平の心を支那民衆からかち得るため」とは、これが中国から仕掛けられた戦争であるとの当時の国内一般の見方をしていることがわかる。これは日中戦争勃発前の首相近衛文麿の発言「暴支膺懲」(暴戻なる支那を膺懲す)のような言葉が国内にも浸透している影響もあるだろうし、また当時は現地の実際の情報がいろんなメディアによって国内に流される状況にはなく、記事も軍に統制されていた。軍国主義下のいわゆる全体主義国家の最大の悪は、一方的な情報で国民の思考の自由をこのように奪うということである。
ガントレットと副会長の上代はこの後中国の人々に対する救援、支援活動を展開するが、そもそもそういう行いが軍事的占領を手助けしまうことになり、結局は戦争を止めることにならないという見方はできる。13年に正式に国家総動員法が発令され、それに対して上代ですら「わが協会もこの非常時に際し … 婦人として最も時宜を得た活動により国民総動員にいささか貢献する所あらねばならぬ。… 時局が先ず婦人識者にその必要を自覚せしめたのである」と記している。その後に「初志は世界平和であることを忘れてはならない」としているが、苦渋の思考の中にあることがわかる。しかし15年(1940)にはガントレットの婦人参政権獲得同盟が解散させられ、婦人平和協会も同じ運命となり、すべてが沈黙させられた。ここで上代も結局自分たちの真剣な親善・慈善活動も軍部に利用されてしまうことを悟ったであろう。
16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦の日、井上校長が教職員、生徒を一堂に集めて世の大勢に合わせて戦争翼賛的な言葉で語った時、どこまでも戦争はやめるべきとの意志を持った上代は、米国人の先生を引っ張って講堂の外に出た。その先生は「貴方がいるから私は我慢する」と泣きながら言った。上代のみならず、津田塾の星野あい塾長その他多くの米欧への留学経験者は、最初からこの戦争を無謀なことと思っていたが、負けないほどに留学経験し、米国でも日本婦人の代表として平和への役割を滔々と説いていた井上が、どうして客観的な目が持てずに軍国主義の全面的協力者となったのか、うかがい知れない。
先述のように東條首相夫人が時々学校に来て、そのついでに東條自身が来ることもあったが、そんな時、上代は会うのを避け、いつも後ろから抜け出していたという。日米開戦の時、上代は学生に対して「米軍の機動力に対し、日本の無計画な軍事行動が破綻をきたすのは必至である」と話していた。その愚かな決定をした張本人の顔を見、発する言葉を聞くのもおぞましいことであったであろう。(ちなみに東條は日中戦争開戦時、関東軍参謀長として満州にいて、その後陸軍大臣となり首相になった。筆者の調べではその参謀長時代に捕虜の虐殺を行っている)
婦人平和協会の灯はその後ガントレット恒が静かに守っていたが、彼女の元には憲兵がしばしば訪れ、その度に彼らと話し込み、彼らは先生のお話には同感ですと帰って行ったという。結局、この協会の当初の10人の女性理事の中で最後まで節を曲げずに平和への意志を貫いたのは、おそらくこのガントレットと上代と恵泉女学院の河井のほぼ三人のみであった(自由学園の羽仁もとこは早く脱落)。
<女学校校長たちの気概と対応>
この時期、英語は敵性語とされ、当校の英文学部は外国語学部の中に組み込まれ、その授業は削減された。しかし上代は「こんな時だからこそ英語を学ぶのです。相手を知ることです」と学生たちに語った。そして生徒たちが勤労動員で軍需工場に通う時には、昼休みと仕事後の時間を使って英語を教えた。すると配属将校が中止を申し入れてきたが、「戦争が終われば必ず相手国との交渉があり、将来は仲良くしてゆかねばならない。そういう時に敵を知らないで何ができるか」と上代は説得した。恵泉女学院創立者の河井道もまた同じ考えでその授業を減らさなかった。
文京学院創立者の島田依史子校長は戦時下に満州と北支(中国東北部)に単身で視察に行き、この戦争は中国の人々を犠牲にし、間違っているとの結論を得て帰国し、最後まで軍の指導に抵抗し、ある時はねじ伏せている(下記参照)。恵泉女学院の河井道もキリスト教精神の立場で最後まで戦争反対を貫き、何度も特高警察に拘留されている。しかも河井は敗戦後GHQから相談される立場となり、天皇を戦争犯罪者としないようにと進言した。津田塾大の2代目塾長の星野あいは卒業生最初の塾長であり、星野も長く留学などして米英の国情を知っていたが、太平洋戦争開戦の日に、星野は生徒を運動場に集め、この戦争を無謀と思ったものの、戦争に臨む必勝の信念と決意を悲壮感の中で語らざるを得ず、一方では勉強を怠らず文化の灯火を絶やさないことが実戦に参加しない女学生の大事な努めと語っている(小平市参照)。同様に東京女子大(杉並区)の石原兼学長(キリスト教史学者で、戦後文化勲章を受ける)も、戦争反対の精神を持ちつつも学生・生徒つまり学校を守る立場を貫き、表立った発言はしなかった。 今一人、大妻女子大を創立した大妻コタカも翼賛的な婦人団体の幹部として活動してたとして戦後公職追放となったが、井上のような扇情的な発言はなく、ただ天皇への崇敬とお国のためにとの純粋な熱情から来ている。
変わった例では都立三田高校(旧第六高女=港区参照)の丸山丈作校長のような公立でも自由な思考を持った人物もいて、生徒に慕われたが、時勢への非協力者として途中で更迭された。ただ、社会全体の流れの中で言えば、井上のように自分の思考を止めて時代に同調して強い言葉で発言する立場の人間のほうが力を持つことは確かである。政府のプロパガンダ作戦も大きいが、それに扇動されて時流に乗る国民が多く、そこに井上のような立場の人間の発言があればメディアが取り上げ、戦争への流れは加速する。そうして政治と国民が一体となって戦争に突入する。当時の国会内でもこの戦争(日中戦争後)を「徒らに聖戦の美名に隠れて国民の犠牲を閑却し …」と演説し、毅然として反対論をぶった斎藤隆夫のような議員もいたが(筆者の「各種参考資料」参照)、他の国会議員たちはまもなく斎藤を除名し、その後大同団結して大政翼賛会を結成して易々として太平洋戦争突入への道を作った。
<戦後>
当校は10月より授業開始としたが、前年からの空襲激化により、田舎に帰ったり退学したりと学生の数は少なくなっていた。校舎は運よく焼失を免れたが、勤労動員などで放置されていたから荒れていた。多くの窓ガラスはなく、暖房機も戦時下の金属供出でなくなっていて、寒い中の授業であった。他校の記録では戦後の混乱の中、焼け残った学校の備品などは窓ガラスも含めてその多くが夜間のうちに盗まれたというから、同様であったかもしれない。
占領軍GHQの政策の下、念願の大学への昇格を目指して動いたが、文部省は家政学部は大学として認められないとの態度であった。そこをGHQに働きかけ、昭和23年(1948)、日本女子大学が発足した。女子大学では他に津田塾、東京、聖心、神戸女学院が同時であった。
婦人平和協会は戦後間もなくガントレットから上代に引き継がれて再興、現在は婦人国際平和自由連盟日本支部として日本女子大学の中に置かれている。上代は戦後、第六代校長として10年間務めた。
<公職追放>
井上秀はこの15年戦争の間、校長という立場になってから一貫して軍国主義政策を称揚して動いた。そのため戦後、占領軍GHQの指示により戦争協力者として公職追放となるが、26年に解除され同校に復帰、晩年まで教育界に身を捧げた。戦時中は校長としての使命感と義務感がまさって、男主導の軍政府の無思考な指導に従って本来の志とは違った方向に走ったように見える。ただ学生・生徒の回想の中にも「(戦時中は)考える自由さえ奪われていた」との言葉が随所に見られ、結果的に井上も同様であったろうが、その下では上代タノが志操を守り通した。ただそれでも女学校のゆえ、学生を直接戦地に送る立場でなかったことが救いであったろう。
井上の一つの功績として、ヒトラー政権下のドイツから亡命していた著名なユダヤ人ピアニスト、レオニード・クロイツァーを学校で保護し、密かに講堂のピアノを使わせたことがある。当時はピアノを弾くことは贅沢なことで、戦争への非協力者と見られていた時代であった。そして戦後彼の下から多くの日本人音楽家が育った。世界的指揮者小澤征爾も彼から触発された一人である。
実はクロイツァーの亡命を手助けしたのは、第二次大戦下の激動時にドイツを中心として指揮者として活躍していた華族の近衛秀麿(元首相の異母弟で日本のオーケストラのパイオニア的存在)であり、第二次大戦中もドイツを中心として演奏旅行をしながら(ドイツが日本の同盟国であったからできたことである)、各地でユダヤ人演奏家たち10人以上の逃亡を手助けをしたことが近年NHKの調査で明らかになっている。ただ、そのことを近衛秀麿は終生秘匿していた。 ちなみに戦時下に首相を勤めた異母兄の近衛文麿は、戦後GHQからA級戦犯として出頭命令が下り、その前日に服毒自殺した。その前に文麿は秀麿に、お前は音楽家の道を選んでよかったなと言ったとされる。
跡見学園
江戸時代に大阪と京都で私塾を開いていた跡見花蹊が明治8年(1875)に東京千代田区神田で学校を設立、「跡見学校」とした。開校当初の学科は国語、漢文、算術、習字、絵画、裁縫、琴曲、点茶、挿花の9科目という花蹊の才能そのままに多彩な科目でスタートした。10年後には米国のワツソン夫人を招いて英語教育を始めた。生徒数の増加で校舎が手狭となり、明治21(1888)年小石川柳町(現在の文京区小石川)に移転した。明治28年には高等女学校規定に拠り、女子教育機関として認可されたが、高等女学校とはせず、独自路線を歩んだ。昭和8年(1933)年小石川大塚町(現文京区大塚)の寄宿舎付きの新校舎へ移転した。昭和19年(1944)、政府文部省の方針により跡見高等女学校となる。昭和40年(1965)、跡見学園女子大学を設置した。
<戦時下>
昭和12年(1937)7月の日中戦争(支那事変)開始より戦時体制に組み込まれ、9月には他の女子校と同様出生兵士への慰問袋作成が課され、跡見の場合は宿題のような形で一人二個ずつ、期限の日に生徒はカバンの他に慰問袋を入れた大きな風呂敷包を抱えて登校し、それら2500個が玄関に山と積まれ、トラックで運ばれた。翌年にも1200近くの慰問袋が愛国婦人会に託された。慰問袋の中には慰問文や絵や人形、缶詰、お守りの千人針などが入れられた。
この愛国婦人会の趣旨に従い12年11月に「愛国子女団」が早々に結成され、二代目校長跡見李子は「今日の時局に鑑み…銃後に於ける婦人報国の精神を鍛錬致し…国民の母となり…非常時日本のために犠牲奉仕の誠を致すべき」と訓示している。生徒はそのたすきをかけて各地の勤労奉仕に出かけた。明治神宮や宮城(皇居)外苑の清掃作業も行ったが、千代田区の女学校も定期的に参加していて、その辺りは草一本生える余地はなかったであろう。板橋や北区の陸軍の兵器工場に行くこともあった。またすでに13年より防空演習が行われたとあるから、軍政府は長期にわたる戦争を見ていたとしか思えない。この年に国家総動員体制が発令され、すべての物と事が軍事目的へと集約されていく。
昭和16年(1941)より愛国子女団は報国団とされ、日常の活動も含めて軍隊式に組織された。その主旨に「学行一体をもって負荷の大任に堪えうべき皇国民の基礎的修練をもって目的となす」とある。この中には鍛錬部、国防訓練部、生活部、学芸部などがあった。勤労奉仕は勤労動員に切り替えられ、軍需工場行きが増えて行った。学校には大正13年に父兄および校友会から寄付された埼玉県の現和光市白子の農園があって、鍛錬部として農園へ片道約11kmを競歩訓練を兼ねて行き、当初帰りは電車であったが、その後は往復徒歩となった。農園での作業は全国的に食糧事情の悪化もあって(食料は優先的に軍隊に向けられた)学園の食糧確保も兼ねていた。
鍛錬部としては他に夏季錬成として林間学校、水泳合宿、冬季錬成としてスキー合宿が18年頃まで行われたが、これはそれまでにあったものを鍛錬の名目として生徒のために行われた様子がうかがえる。17年秋には初めての運動会が体育鍛錬大会として開催され、その式次第には「国旗掲揚(国歌斉唱)/宮城遥拝/皇軍将士に感謝祈願黙祷/愛国行進曲」などがあり、その後に一般競技が行われた。ただ翌年からは運動会は開催される余裕がなくなった。
そのような確固たる戦時体制を国内で築き上げて軍政府は満を侍したかのように昭和16年12月に米英を敵とした太平洋戦争に突入する。一方で15年頃より日中戦争に深入りする日本に対し、欧米諸国は経済制裁を行い、日本は物資不足が深刻で、武器や戦闘機のための金属も不足し、家庭内の鍋やお寺の梵鐘まで供出させられたが、跡見の創立者と第二代校長の銅像も供出された。門扉などの鉄製の金属も失ったはずである。奉仕ではない勤労動員では報酬が支払われたが、17年に行なった五年生の内閣印刷局への短期勤労の報酬の一部を国防献金として陸海軍に寄付している。このようなことは他校でも頻繁にいろんな形で行われていた。
18年より学徒勤労動員が強化され、同時に秋には男子学生の徴兵猶予が解除され、20歳以上の学生が卒業を待たずに休学の形で戦地に徴兵されることになった。さらに専門学生も含めて三ヶ月の繰上げ卒業となり、軍需工場に就業させられた。すでに卒業した同窓女性にも「女子勤労挺身隊」が結成され、勤労動員された。19年には三年生(高等女学校は基本が五年制)以上が大半の授業を停止し軍需工場へ、例えば有楽町の宝塚劇場で風船爆弾(参照)の作製、小石川の印刷所、歯磨き工場、電気工場や軍服の縫製工場などが割り当てられた。下級生も授業をカットして相変わらずの慰問袋、海軍水兵の帽子、傷病兵の白衣作りなどに励み、兵士の安全を祈る千人針も女性の仕事であった。
19年(1944)より多くの女学校が工場とされ、跡見も一部の教室と体育館が海軍の軍需工場とされ、生徒たちが自身の学校で軍需品を作ることになった。教室では戦闘機の補助タンクのゴム貼作業や防風ガラス加工、体育館では五年生が戦闘機の13mm機関砲の弾倉を製造することになった。工作機械を使い、ハンマーを持ち、リベット打ちをし、溶接まで行った。ところがこの完成度が素晴らしく、ほとんどが検査にパスするとして海軍の監督官に賞賛され、他の軍需工場の責任者も連れて見学に来たという。生徒たちは抱き合って涙し喜んだ。
<空襲による被害>
米軍による空襲が本格的に始まったのは19年11月24日からで、敗戦までの約9ヶ月、ほとんど間断なく日本各地の都市が空爆された。学校工場でも生徒たちは空襲警報が鳴るたびに一斉に防空頭巾と鉄かぶとをかぶって運動場に作られた防空壕に避難する日々が繰り返された。
20年1月27日(土曜日)の昼過ぎ、宝塚劇場での作業が早く終わった3名の当校生徒が、有楽町駅で戦闘機の低空からの機銃掃射により1名が爆風で死亡、1名が重症で病院で死亡、1名が負傷、この他学校工場から宝塚劇場の同級生に会いに向かった生徒4名のうち3名が空襲で死亡したと別な証言にある。さらに世界戦史上最大の犠牲者を出した3月10日の大空襲で、地元にいた当校の女生徒2名が焼死した。
そして20年4月13日深夜からの城北大空襲で体育館が全焼した。さらに5月25日の山の手大空襲で、新築間もない木造新館が全焼、そして鉄筋コンクリートの本館と別館が外壁を残して焼失した。当然完成していた学校工場の戦闘機の補助タンクも焼かれ、生徒たちは悔し涙にくれた。焼夷弾はガラス窓を突き破って内部を燃やしてしまうのだが、屋上を貫いてきた爆弾もあった。これで校舎のほぼ6割を失った。
このような空襲激化によって地方からの生徒は故郷に帰り、あるいは疎開する生徒も増え、昭和18年半ばに1456名いた在籍者が20年3月の大空襲後には(一年の繰上げ卒業もあって)837名、8月の終戦時には約300名に減り、教師も半減していた。焼け残っていた寄宿舎にも生徒は全くいなくなった。敗戦後しばらくしてから戻ってきた生徒たちのために授業は再開されるが、 鉄筋の校舎は外壁だけは残っていたものの、二、三階など多く の教室で内部は焼けただれ、 雨天の日は傘を さして授業するなど、生徒も教師も大変であった。昭和21年(1946)には生徒総数は1034名に回復した。校舎の復興は多くの寄付金によって22年から始まり、募金活動もあって24年にほぼ終えた。
竹早高等学校(都立第二高等女学校)
明治33年(1899)、東京府立第二高等女学校として設立。昭和10年(1935)、3階建て鉄筋コンクリートの新校舎完成。18年、都制施行により都立となる。戦後の昭和24年(1949)男女共学、翌25年、東京都立竹早高等学校と改称。以下は主に『百周年記念誌』から。
昭和6年(1931)の満州事変から12年(1937)の日中戦争に至り、文部省は高女の教育内容を国体明微(天皇を頂点とする統治原理を明らかにする)の観点から大幅に改定していき、太平洋戦争が開始される16年(1941)までに「皇国の道を修練する」として戦時体制の強化とともに皇国民錬成の教育がなされていった。
要は長くなるであろう戦争遂行のための心構えを女学生たちに浸透させるためで、まず勤労奉仕として12年末より陸軍被服廠が東京の高女に軍服の肩章や襟章、そして増えつつある傷病兵の白衣や赤十字の腕章を割り当てて作らせ、第二高女ではなんと一週間で白衣700着、肩章や襟章を3000組、腕章を1800個作製し納入した。これはその後も長く続けられた。このほか前線の将兵に慰問袋や慰問文を送る作業もあった。この頃早くも防空演習があり、その時のことを生徒は慰問文に書き、「もういつ空襲されてもいいように立派に準備してあります。… 銃後の護りは私たちの手で立派に成し遂げます。東洋の本当の平和を得るために … 憎むべき敵を思う存分、一人でも多く打ち滅ぼしてください」とある。
教師も一人また一人と出征していき、その都度学校で壮行会が開かれ、また生徒たちは駅で万歳三唱をして見送ったが、それも戦争終盤では壮年者がひっそりと出征して行くようになった。戦地で死亡した兵士は地元で英霊として迎えられ、負傷して帰った兵士たちには女高生が音楽会や学芸会に招待し、例えば「白衣勇士慰安大音楽会」との名称で行われた。
高女では昭和に入って修学旅行が盛んになり、関西旅行が主だったが、第二高女では14年(1939)、関西から足を伸ばして下関から船で朝鮮まで、都合12泊(5泊が車船中)の旅行が実施された。当時朝鮮は日本の植民地だったから行きやすく、京城(現ソウル)や平壌(現北朝鮮の首都)や慶州(京都のような古都)を歴訪した。その中で慶州の小学校の朝礼に参加した。そこで見聞したものは、彼らが大日本帝国臣民としての誓いの言葉を高らかに朗誦する場面であった。そこで女生徒の一人の感想には「小さい子供のあまりに真面目 … は悲しいものだと思った。… 私たちの幸福を感じ … 勿体ないことだと有難かった」とあるが、自分たち自身が国内で小学校から日常的に行っていたことで、少しは客観的に見ることができたかもしれない。当時の校長によればこの朝鮮旅行の目的は「東洋平和建設」ということであった。なお併設されていた師範学校は満州に行ったとある。一方で男子大学生も満州に交代で行っていたが、それは「新天地開拓」を実践するためであった。
この朝鮮までの旅行は翌15年(1940)にも実施されたが、このまま何もなければ他の高女の旅行にも流行するところであった。現に10日かけて九州や北海道に行く学校も出始めていた。しかし16年からは非常時ということで自粛の通達が出た。そこで学校によっては「鍛錬旅行」という名目で日数を削って比較的近辺に切り替えて続行する学校もあったが(第二も同じで18年まであった)、校長の判断によって全く行わなくなった学校もあり、とりわけ女学生にとってこの中止は恨みの対象となり、数十年経っての思い出のアンケートにも出てくる(第六高女=三田高校参照)。
戦時下では体力第一ということで遠足の代わりに剛健遠足(40kmくらいを歩くが帰りは電車)が行われるようになり、16年末に太平洋戦争(大東亜戦争)が始まってからは耐寒訓練も合わせて行われた。「大東亜戦争決戦の年の初春、『撃ちてしやまむ』の必勝の信念のもとに … 10日間の耐寒訓練 …(早朝に)瞬く星を眺めながら登校 … 薙刀を振りかぶり必勝の信念を込めて面を切り落とした時の緊張は米英ものかは …」と女生徒たちは意気込んで臨んだ。
この太平洋戦争が始まる前、政府は各学校で組織されていた校友会を報国団に組織し直すことを命じ、それに続けて軍隊式の報国隊を組織させ、学校全体が大隊で校長が隊長、その下に中隊、小隊が編成され、この他炊出し隊、看護隊、保育隊、特設警備隊があった。これが学徒勤労動員の組織として利用され、17年度には「報国隊出動命令により高女五年生、凸版印刷へ出動」と記されていて、学年ごとに分かれて内閣印刷局や凸版印刷の別工場、理研電具工場などへの動員があった。工場では地方から来た年上の女工さんや、自分たちより若い(たぶん高等小学校卒)女工さんが手際よく明るい顔で仕事をしていたのに感心したという。
この17年(1942)に第二高女は食糧危機を受けて学校農園を探していたが、生徒の家庭から小平にある農園を提供され、ここで生徒たちが農作業に従事した。これもこのころの女学校の勤労動員の一つであった。ただ同じ労働の中でもこの農作業の方が女学生には楽しかったようである。のちには一週間宿泊しての作業もあった。
18年(1943)には勤労動員のかたわら、戦意高揚のための時局講演会や行事が多くなった。毎月8日の大詔奉戴日(開戦記念日)に宮城遥拝や教育勅語、開戦の詔勅の奉読式などを行うことはもちろん、海軍記念日には「海上戦闘における飛行機の威力」、貯蓄奨励(貯蓄は結局軍隊支援に)、南洋事情(南洋方面に戦線を拡大していた)や「日本精神と護国思想」などの講演、大政翼賛会の紙芝居上演、その他防空訓練を含めて各種体練会が開かれた。また皇族の御来校(当時は台臨と言った)もあり、「国民精神の一層の高揚」が図られた。その時の生徒の感想は「あゝ、光栄の日、何という大きな感動に溢れ … 皇国に生を受けたものの喜びを強く感じ … 益々心身の鍛錬に励み、皇恩に対し奉らねばならぬ」というものであった。
19年(1944)に入ってから最後と思われる音楽会が「音楽錬成大会」として開かれ、各種和洋楽の演奏、合唱の演目の中に「出陣の歌」「愛国行進曲(全員)」などが入っている。その後ほぼ通年となる勤労動員が開始され、登校は土曜日などの週に一度とされた。そこで教師が工場まで出向いて、昼食後の30分だけ授業という例もあった。英語は敵性語として禁止されていたが、英語教師は密かに自宅に生徒を呼んで補習したという。
この年の動員先は共同印刷工場(軍票=満州などの占領地で使う紙幣の検品)、岩谷産業で飛行機の木製翼(つまり金属が不足していたためだが、通称赤とんぼという練習機用で、しかし戦争終盤にはこれさえも特攻隊用に使われた)の骨組みの作製、また他校と同様に学校が工場とされ、機関銃の弾倉の製作なども行い、その時は一時間早く登校し、補習授業があったという。ところが翌20年に入り、都の視学官が来て、週に一度の授業を月に一度にするようにと指示された。「勤労即教育」というこじつけのようなスローガンが打ち出された時代である。
昭和20年(1945)、前年11月下旬から本格的に開始された空襲は激しさを増し、1月27日昼、銀座や有楽町を中心にした空襲で動員先の共同印刷が焼夷弾でやられ、この日はたまたま第二の生徒は休みとなっていたので被害は免れたが、ちょうど土曜日で昼までの勤労であった他の女高生の中で、帰りがけに駅周辺で戦闘機の機銃掃射にあって何人かが死亡している(全体での死者数百人)。そして3月10日未明の東京大空襲では、当校は下町の中心地帯から外れていて、それでも類焼の恐れがあったものの、寄宿生たちが消し止めたという。しかし、45回生(20年卒)の約6割が空襲で自宅を焼け出された。公立は近辺から通う生徒が多かったからである。
この後、政府は決戦教育措置要綱を発し、この年度の授業を全面停止とした。それでもわずかな新入生には多少の授業が行われた。8月、広島・長崎に原爆が落とされ、15日、終戦の詔勅により長い戦争の時代は終わった。
京華学園
明治30年(1897)、磯江潤らによって文京区湯島に京華中学校として創立。その後商業学校も設立したが、磯江は女子教育の重要性を考え、明治43年(1910)、京華高等女学校を文京区小石川に設立した。昭和6年、女学校の校舎が焼失、二年後に鉄筋コンクリートで再建された。以下は『京華学園百年の歩み』より。なお『京華学園百年史』は1200ページを超えるものであるが、ここでは男子校その他については触れない。(当時の中学校は5年生で現在の中学校と高校2年まで。高等女学校も同じ)
昭和6年(1931)満州事変が始まると軍国主義の風が吹きつけてくるようになり、7年には満州派遣軍への寄付金を集めて陸軍省に献納したり(当時の女学校は比較的裕福な家庭の子が通っていたことによる)、8年からは派遣軍兵士への慰問袋700個を女子生徒が作り、やはり陸軍省に納めた。兵士たちが満州へ出発する時には見送りに行き、学校に陸海軍の将校も来て軍事講和が行われるようになった。
昭和12年(1937)の卒業式では総代の挨拶は「我が国は国際問題、国防問題、経済問題等内外共に多事多難の秋(とき)に際会しております。かかる国家非常時に在って国民の負うべき任務は一層重大であることを自覚しなければなりません。従って私達女性の責任も容易ではないと思います」というものであった。この後8月に(満州事変の延長として)日中戦争(支那事変)が勃発し、12月には同窓会美哉是(みやこ)乃会が、陸軍航空機献納と海軍出征兵士遺族への慰問金として多額の寄付をした。
13年になると同盟を結んでいたドイツから学校への来賓が続き、講演と映画会が行われた。生徒たちは大いに歓迎した。またこの年から「集団的勤労作業運動実施」が通告、奨励され、夏休みなどを使って清掃や農作業の勤労奉仕が義務付けられ、学校では傷病兵の白衣を縫製する作業もあった。翌年からはこれが正課に準じる扱いとなり、明治神宮外苑、靖国神社、小石川植物園などの清掃作業などに従事した。このほか防火訓練や心身鍛錬のための徒歩行進、徒手体操などが行われた。15年(1940)に入ると、報国団の中に組織された特設防護団によって空襲避難訓練、防空救護訓練、防空衛生講習なども行われた。(注:実際に日本が米軍から空襲を受けるのは太平洋戦争に突入後の17年春に一回、その後は19年(1944)の後半からであるが、すでに日本は12年8月の日中戦争開始から毎日のように中国内で空爆を続けていたから、軍部はその逆もありとして将来に備えてのことであったろう)
昭和16年(1941)12月8日、日本は日中戦争の出口が見えないまま、米英などに宣戦布告し太平洋戦争に突入した。その前の5月、政府は戦時体制を強化するために各学校に「報国団」を結成させ、校長を団長とした組織を作らせた。京華高女も校友会を解散して報国団とした。そしてそれまでの勤労奉仕は勤労動員とされ、生徒は軍需工場などへ動員されることになった。まだその日数は限られていたが、18年ごろまでは上級生は各所の工場(理研板橋工場、凸版印刷、内閣印刷局、山川製薬、欄木製作所、河端製作所、鶴岡計器、東京理化工業所など)、下級生は外苑整備作業や学園の戸田農場などであった。生徒たちは汗をかいて勤労する喜びも覚え、お国のために役立つのだという嬉しさも感じたという。しかしこの後は授業の合間を縫ってという簡単な動員ではなくなってくる。
昭和18年(1943)、戦局が悪化し、1月には新たな中学校令が公布され、教科内容の改訂とともに修業年限が五年から四年に短縮された。そして大学生に対し、17年に三ヶ月の繰り上げ卒業とされていたものが半年とされ9月の卒業式となり、さらに徴兵年齢を20歳まで下げることにより、在学生までを一挙に戦場に送る「学徒出陣」が10月に行われた。それに伴い、女学校の勤労動員も強化されるが、政府はその卒業生の未婚者(当時は結婚まで「花嫁修行」として家にいることが多かった)も狙って「女子挺身隊」を創設させ、各学校に組織させた。以下は19年春の卒業式での総代の答辞である。
—— 今や国家は開闢以来未曾有の国難に当り、皇軍は北に南に赫々たる戦果を挙げております。私達は皇軍の皆様の撓みなきご苦労を忍びますと共に、このような重大時局の中に巣立ち行く私達の任務が、更に更に重大であることを感ずるのであります。すでに私達の一部は挺身隊として出動して喜びに浸りつつ専心国家の為にご奉公して居り、又残って居ります挺身隊も、四月よりの出動期日を心待ちに待っているので御座います。
19年に入ると勤労動員の期間は延長され、四、五年生は数ヶ月の授業を終えると工場(鐘カ淵紡績亀戸工場、河端製作所)へ三ヶ月連続の勤労動員となり、さらに一、二月を経て翌年までの動員となる。当時、生徒の付き添いで鐘カ淵紡績に動員をともにした川村直子教諭が語っている。
—— 私は昭和19年の11月から翌年の3月まで四年生に付き添って鐘カ淵にいた。勤務は朝の7時から夕方5時までだった。当時一日にワイシャツを17枚仕上げた人があり、翌日からそれを目標に作業するという大変な張り切り方だった。ただ入浴が月二回のお休みしかできないので汚れがひどく、生徒が「せめてもう一度」と言うので、勤労課にお願いすると「私たちは月一回ですから二回できるのが羨ましい」と。生徒は皆一生懸命で、作業中に振り向く人もいなかった。食事は貧しく藁や糠の固りの混じったご飯で、時折配給になると干し芋がとても美味しかった。空襲はますます激しくなり、二月の大雪のある日、電車も止まってしまって歩いて帰る途中、焼夷弾のため道路は火の海で仕方なく工場へ引き返し、途中何度も転んだ。夜半の空襲で、生徒に退避するように言ったところ、「死んでもいいから寝ていたい」と言うので可哀想になった。夜が明けると父兄は心配して「うちの子は生きて居りますか」と尋ねて来られ、我が子の顔を見て嬉しそうに連れ立って帰った。ある時は工場内に飛行機が落ちたこともあった。
昭和19年の11月下旬から開始された米軍による本格的空爆は、武蔵野の中島飛行機工場から開始され、そのうち東京の市街地を狙うようになった。翌年3月に卒業することになる生徒の一人の体験である。
—— 米軍機の空襲もだんだん激しくなり、19年12月27日白昼、米軍のB29(当時の最新鋭の超大型爆撃機)の編隊が東京に空爆した時、一機でB29にで体当たりして自爆した少年航空兵(19歳)がいて、亀戸7丁目あたりに飛行機もろとも墜落し戦死を遂げた。飛行機は私達の働いていた工場の庭(実際には工場跡地の沼地とされる)に落ち、防空壕に入っていた私達はものすごい炸裂音に驚き身を伏せた。…… 次に忘れられないのは(20年)3月10日の城東地区の大空襲(東京大空襲)。私は班長としての使命で、乙女心にも責任感に燃えて、夜が明けてから親の制止も振り切って神楽坂上の自宅から亀戸の工場に出かけたが、電車が動いていないので線路沿いの道を急足で歩いて行った。途中、浅草橋あたりから異臭が鼻をつき、初めは何のにおいかわからなかった。亀戸近くにさしかかり、焼け焦げた死体の匂いとわかり呆然とした。小さい子供を抱いたまま焼けただれた体、もう男女の区別もつかず炭のように真っ黒焦げの死体が所狭しと横たわり、目を覆うばかりの惨状で、筆舌に尽くし難い地獄絵だった。たくさんの死体をよけながら、やっとの思いで工場に着くと、工場も丸焼け、他校の生徒達も三、四人集まり、工場の部長に気をつけてすぐに帰るようにと言われ、疲れた足を引きずりながら気力もなく家路を急いだ。
20年(1945)3月、政府の方針で「決戦教育措置要項」が決定され、以後一年間、小学校を除いて学校の授業を停止、勤労動員となった。そして女学校の卒業は繰り上げ卒業の措置により、五年生の卒業と四年生の卒業が同時となった。しかし27日の卒業式は空襲で途中で中断となり、出席者に教室で配られた。その後も空襲は続き、5月25日の山の手大空襲で女学校の本校校舎の7教室が焼けた。ただ鉄筋コンクリート造りで校舎自体はそのまま残った。そのため付近の住民の避難所ともなり、また軍の通信部隊も駐屯した。8月15日、生徒たちはそれぞれの動員先で天皇の玉音放送を聞いた。先の川村直子教諭は「一生懸命ご奉公した生徒のことが思われて涙がとめどなく流れた」と語った。
平成7年(1996)3月、途中で中止となった50年目の卒業式が行われ、改めて校長から卒業証書を受け取った。そして当時読まれるはずであった総代による答辞が本人により初めて読み上げられた。
—— 国の為 重き務めを果し得で 矢弾つき果て 散るぞ 口惜し
有史未曾有の決戦で、硫黄島玉砕の報道に一億臣民の憤激未だおさまらぬ今日、私共は本校第三十二回卒業生としてこの欣びの日を迎えました。顧みますと、百花に魁けて匂う梅の校章を胸にこの講堂の入学式に参列致しましてより早くも幾星霜……最上級生としての一年間を国家の要請に応じて軍需工場へ動員され生産の戦士として生き甲斐のある毎日を送った私達でございました。そして「貞静 幽間 端荘 誠一」の教訓「静・慎・勤」の女訓を何時も念頭に刻み、勤労即教育の趣意を遵守、日々作業に専念してまいりました。…… 今や大東亜戦争は一層熾烈を加え我が神風特攻隊が必死心中の体当りを敢行して前人未到の戦果を収めつつありますが、本土はすでに戦場化不可避の情勢となりました。この国家存亡の期に際し学び舎を巣立つ私共の責務は思うに重大であります。よしや事態が如何に進展しましょうとも、私共は必ず諸先生の御懇到なるご指導を身に体し日本女性として恥じぬ奉公の大道を踏みしめていく覚悟でございます。……
ここにある硫黄島玉砕に続いて米軍は沖縄上陸作戦を行い、これが本土決戦の前哨戦であったが、6月23日、沖縄は敵味方約20万人の犠牲者を出して陥落した。その前の5月、「戦時教育令」が公布され、報国隊に変えて学徒隊が組織されたが、これは本土決戦に備えて生徒・学生を戦闘員とするものであった。そして沖縄が陥落するとともに「義勇兵役法」が公布された。これは15歳以上60歳以下の男子および17歳以上40歳以下の女子に義勇兵役を課し、必要に応じて国民義勇戦闘隊に編入できることとした。この間、米軍の空爆は続いて全国の地方都市へ展開されていた。そして8月、広島・長崎に原爆が投下され、15日に敗戦が決まった。勤労動員先の女学生たちの多くが敗戦に涙を流した。
東洋学園大学(東洋女子医科専門学校)
大正6年(1917)に設立した明華女子歯科医学専門学校が経営危機に陥り、宇田尚が東洋女子歯科医学専門学校として大正15(1926)年に再建した。宇田は当時の女子の職業として学校の先生か看護婦程度しかない状況に、自宅で開業できる歯科医も女子に向いている職業として力を入れ、日本初の歯科医師法に基づく文部大臣指定校として発足した(戦前、女子歯科医学教育機関は日本では他に一校のみである)。しかし昭和3年(1928)に竣工したドイツ様式の新校舎は昭和20年の戦災で機材とともに焼失し、戦後の占領期の学制改革の結果、廃校とされるに至る。そこで22年東洋高等学校(理科乙類=医学部予科)開校、25年東洋女子歯科医専第25回生、東洋高等学校第1回生卒業(最終)とともに女性の社会的自立手段を語学に置き換え、新制の東洋女子短期大学として再発足した。平成4年(1992)、東洋学園大学を設置、その後、完全に共学四年制に移行した。(以下は『東洋学園80年の歩み』より)
設立後数年にして東洋女子歯科医専の名は全国知られ、入学者は全国から集まり、一学年120-150名、全体で約600名前後、ほぼ全寮制で、寮も本校舎の最上階のほか、6館まで増やした。
とりわけ当時日本の植民地としてあった台湾と朝鮮(北朝鮮と韓国)を先駆けとし、その後の昭和6年(1931)年の満州事変からの満州占有、そして12年の日中戦争による中国北部の占領、太平洋戦争以前の昭和15年の仏印(主にフランス領ベトナム)進駐により、その各国から留学生がやって来た。珍しい例としてはタイ国の王族からと満州国から来た白系ロシア人、サハリン(南樺太で当時の日本の占有地)からもいて、留学生全体で100名以上いたという。これらの人々と分け隔てなく仲良く勉強できていたのは16年(1941)の太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼んだ)が始まるまでであった。また14年(1939)あたりから当校への志願者が増加したが、日中戦争以降は一般男性だけでなく歯科医師も遠慮なく徴兵されたので、女性の社会進出が促された効果もあった。しかしながら太平洋戦争によって「国際色豊かな東洋女子歯科医専でしたが、戦争が全てを破壊してしまいました」と学園案内にある。
日中戦争により日本への国際的な非難が高まり、昭和15年(1940)年あたりから米欧による対日経済制裁も始まり、16年にはさらに石油まで輸入できなくなった。追い詰められた日本は、中国戦線が泥沼状態になっている中、16年12月8日に米国の真珠湾に奇襲攻撃をするとともに、石油等の物資を求めてマレーシアやインドネシアへ侵攻して行き、一挙に戦線を拡大した。当時の国民の多くは軍部と新聞等のマスメディアとの共同作戦とも言える宣伝工作により、この暴挙を暴挙と思わず熱狂して受け入れたが、暴挙と受け取る人は少なからずいて、しかし仮にそれを口にすると非国民としてなじられ、場合によっては特高警察に検挙された。特に思想犯とされると、警察内で拷問を受け、戦時中に何人以上の人々が獄死した。軍政府はこれをアジア平和のための(その理屈で大東亜戦争という)聖戦とし、軍隊を皇軍(天皇直属の軍)と呼んだ。逆に平和主義的言動をするとこの聖戦を汚すものとして逮捕されたのである。当時は平和、自由、民主主義という言葉は禁句であった。
当校は一般の女学校の修学旅行ではなく、卒業旅行を主にしていたようで、それも太平洋戦争が始まる昭和16年(1941)あたりから自粛されるようになり中止した学校もあったが、「鍛錬修養旅行」と名目を変えて行われ、それも18年(1943)には終止符が打たれた。日帰りの潮干狩りまで「鍛錬潮干狩」などと称した。
その16年(1941)には文部省の指示で学校に生徒の校友会を報国団として戦時体制に直結する組織に変えられ、これにより校友会雑誌『東洋女歯校友』も同年7月発行の学術大会特集号から東洋女歯報国会発行となり、翌年から誌名も『東洋女歯報国会誌』となった。そして13年ごろから課された勤労奉仕に加えて配属将校による軍事教練、防空演習、防空壕掘りが行われるようになった。さらに報国隊が結成され、これにより勤労奉仕から軍需産業への勤労動員が定期的に始まることになる。また太平洋戦争突入と同時に専門学校と大学は卒業が3ヶ月繰り上げされ、18年には半年繰り上げされることになった。これは徴兵猶予制度(26歳までの学生は徴兵を免除する)のある学生をその分早く戦場に送るためでもあり、女学生に対しては、軍需生産に少しでも寄与させるためであった。
さらに昭和18年(1943)の秋、つまり戦争が激化して兵士がいよいよ不足してきた状況の中で、軍政府は男子学生の徴兵猶予制度を廃止し、まず20歳以上の文科系男子は徴兵するとした。そして10月21日、一挙に召集された学生たちを明治神宮外苑競技場に集め、出陣学徒壮行会を盛大に行った(東京都概要の出陣学徒壮行会を参照)。その観客席に東京と近郊の女学生たち約5万人が動員されたが、たまたま東洋の女学生代表たちの座った席が、時の東条首相の真後ろであったという。翌19年、徴兵年齢は19歳に切り下げられた。またこの19年からは勤労動員が常態化し、11月下旬から米軍の本格的空襲が開始された。
世界的に見ても、史上最大の空襲犠牲者を出した20年(1945)3月10日の東京の下町地区への大空襲の時は、地区外にあった当校は被害を免れ、代わりに学校を救護所と避難所にし、学生たちが救護に当たった。しかし、4月13日深夜の二度目の大空襲(城北大空襲)により、当校の校舎、付属病院、学寮は全焼した。幸いに学生の死者は出なかったが、これにより故郷のあるものは帰郷し自宅待機となり、残った学生は焼け跡の整理などに従事した。ところが東京都心への5月25日の4度目の最後の大空襲で、残っていた牛込寮も焼失し、この時学生と教員各一名が犠牲になった。
一時は学校閉鎖か無期休校も考えられたが、宇田は早期の学校再開を決意、7月上旬、栃木県の現鹿沼市立永野小学校の一部を借用して教室、診療所を設置し、その奥地にある宇田家の山荘を寄宿舎としてなんとか授業を再開した。そしてひと月後の8月15日に終戦を迎え、9月には宇田が理事を務めていた湯島聖堂の一部に分校を開き、翌21年(1946)3月まで鹿沼と分散授業となった。4月には千葉県津田沼の旧陸軍部隊の兵舎を借り受け、そこに授業を統合した。しかし学生には乏しい器具と食糧不足とシラミに悩まされる寮生活であったという。
ところがこの21年に宇田は激務と心労で病床に伏した。それによって夫人の愛氏が理事長、娘婿の馬渡氏が校長として引き継いだ。その後、占領軍GHQによる学生改革で大学として再出発を試みたが、戦災で失った施設、設備等の面で基準が満たされないと判定され、やむなく昭和23年(1948)年以降の募集を停止、それに代わって歯科衛生士を養成する各種学校で申請し開校したが、本体の医専が消滅すると医療スタッフが集まらず、これも一年だけで断念した。おそらく宇田が健在であればなんとか大学の設置にまで持って行ったであろうと思われる。それだけ創業者の力は大きいものである。実際に当初の明華女子歯科医専を蘇らせた宇田の手腕を、第一回卒業生の一人が称賛している。学校も、社会の組織も、そして国も、指導者によってその活かし方がまるで違ってくる。仮にも宇田のような人物が政界に多くいれば、この戦争は起こらなかったであろう。しかし政界にはしばしば利己的な野心の強い者たちがのさばり、建前を振りかざし、観念論でもって戦争を起こしてしまう。そこには実際に戦争に行く国民のことなどない。自分たちは指示するだけで行かないからである。
ところで、22年(1947)の4月、歯科医の第一回国家試験が行われ、東洋女子歯科医専は、東京高等歯科医学校(男子校)に次いで合格率第二位の成績を収めた。まる二年間、仮教室などで十分な勉強の環境がなかった中で、しかも女性だけの力で大したものである。その後も25年の最後の卒業生まで、100%に近い合格率であったという。累計卒業生は本科2844名、専攻科1612名である。ただ、一応医専の復興を目指して栃木県の宇田家私有林から杉材2000本を投じて木造二階建ての校舎と学寮が23年(1948)11月に再建され、残った学生たちは三年半ぶりに本郷の地に戻ることができた。
医専を断念した東洋は、おそらく夫人の愛氏が日本女子大の英文科の出身であったからであろうか、25年の5月に東洋女子短期大学(英語科)を設立、、英語科教員養成を目的として再出発した。
以下は『八十年のあゆみ』に掲載される卒業生の回想からの要約である。
「空襲で学校が焼失し夢にまで見た憧れの校舎は入試と合格発表の二度しか見ることがなかった。栃木の学寮のある村はトラックに乗って行くほどの山の中で、一部屋に10人くらいで入室した。しかし授業よりも食料を運んだり、草むしりの毎日だった。全体に食べ物は乏しく(農家の食糧は軍優先に供出されていた)ひもじい思いで暮らした。終戦後湯島聖堂で行われた授業は教室が足りず、三部制だった。その後の千葉県習志野では将校の集会所を病院とし、戦車の車庫が実習室で、兵倉の一部に寮が作られた。粗末な長い机と椅子で講義を受け、冬は暖房もなく寒かった。近くには順天堂や法政、千葉大医学部など他の大学も集まっていた。毎日の通学は担ぎ屋さんの運ぶ芋と一緒の荷車で、電車は雨もりがし、本数が少なく大変な通勤地獄だった。23年10月にやっと新校舎に移転、そこで病院実習や国家試験に備えての勉強に励んだ。卒業式の謝恩会には自分たちで御徒町まで買い物に行き、少しの食べ物とお茶で祝杯をあげた。歯科医業は私たちにとって<生き方>と切り離せないものであり、それによって成長してきたと言える」(S.24年卒業生一同)
「津田沼の仮校舎への登校時には皆なお腹がペコペコで下を向いている。下車と同時に自分の洋服にシラミがついていないかよく確認してから歩き出す。どうにか制服もできて学生らしさが出てきたが、パーマをかけると叱られるので校門を入ると急いで三つ編みにして授業に出た。英語の授業で料理の仕方を英語で学ぶ時にはすき腹で大変困った。寮生には18歳になるとタバコの配給があった。自分で紙を巻いて作るのだが、家に帰って父親にあげると喜んでくれた。そのうち生徒の中にタバコを吸う人も出てきたが、これはタバコをくれる国家が悪いと勝手な理屈を言っていた。秋の遠足の時に先生からもらったキャンディーの甘くて冷たい味が忘れられない。三年の終わりに本郷の新校舎に移るが、綺麗で立派なのにびっくりする。治療室には治療台が並び、レントゲン室もあり、技工室にガスも来ている。朝の通勤ラッシュもすごく、学校に着く頃にはクタクタ。試験期間は停電が多いので山手線をぐるぐる回って勉強したり、駅の待合室も利用した。どこの学生も同じで、そこで恋も生まれたりした。卒業近くになると治療台を買いに来た中年紳士の出入りがあった。下級生のいない学校に治療台はいらない。私たちでこの学校も終わりと思うと淋しい。後輩からの送辞のない卒業式、しかしこれからのことを考えると泣いていられない」(S.25年卒業生二名)
桜蔭学園
大正13年(1924)、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)同窓会の桜蔭会が、関東大震災後の女子教育機関の不足を補うものとして桜蔭女学校を設立した。初代校長後閑菊野の言葉は「学べや学べ、やよ学べ」であった。昭和元年、5年制高等女学校とし、同3年、500名、15年には1000名に増員された。以下は主に18回生の卒業生の有志が出版した『戦中女学生の記録』その他からである。
戦時下に入っての生徒の勤労動員体制への経緯は上記跡見学園等と同じであるが、やはり当校も本館と新館が工場とされ、英語の授業も停止され授業半分で軍服や軍靴(底の貼り付け作業)を作ることになった。その後、19年の秋から他校に遅れて武蔵野地区の中島飛行機工場へ勤労動員することになり、生徒の居住地によって学校工場組とに分けられた。
中島飛行機の武蔵野と三鷹の工場は19年11月24日からの米軍による本格的空襲開始からの第一目標地となり、空爆を受けたほぼその直後にに桜蔭の生徒たちは行くことになった。生徒・父母・教師を集めて事前の説明会があったのはその前で、危険はないと説明されていた。そして実際に勤労作業につく前には三鷹の本社工場で一週間の訓練を受けたが、ほとんど精神修養の話ばかりであった。
動員された工場は武蔵境駅南側にある飛行機エンジンの部品を作る中島の分工場であったが、生徒たちは初日は見たこともない大きな機械と騒音とむっとする油の臭いなどに打ちのめされ呆然としていると若い監督将校に怒られた。14−16歳の女生徒たちは工場から支給されたカーキ色の作業着の上下、頭には神風と書いた鉢巻、腕に桜蔭高女学徒報告隊の腕章、胸には住所氏名血液型を書いた布を縫い付け、工員に混じって旋盤の機械を扱い、背の低い女学生は木箱に乗りながら油まみれになって必死に働き、ほどなく熟練工と同様に狂いのない部品を作れるようになった。戦況が悪化した翌年の春からは三交代勤務制となった。夜勤明けに雪で電車が止まり、中野まで歩いて帰ったとか、空襲で電車が止まり、歩いて帰ったら自宅が焼けていた等々。生理不順の生徒も半数以上に及んだという。ただ月島工場の被害はほとんどなく、ただ指三本切り落とした工員もいた。中島の本工場では度重なる空襲で他校の動員学徒を含めて170名以上の死者を出した。
学校残留組は校内工場以外にも亀戸の鐘紡工場に通って軍服の縫製に励んだ。ただ翌年に入って工場は空襲で焼失し、学校には材料が来なくなり、気象台へ動員され、天気予報の記録とその情報を軍や宮内省や放送局へ連絡する仕事に従事した。しかし国内の天気予報はこの時代、機密情報として国民には伏せられていた。
実はこの時代の女生徒たちは勤労動員に嫌々加わったわけではなかった。昭和6年(1931)の満州事変から始まった世を挙げての軍国主義教育で、とりわけ太平洋戦争はアジア統合のための大東亜戦争と名付けられ、そして「皇国」のための「聖戦」とされ、最後は「神風」が吹いて日本は必ず勝つと信じ、前線の兵士たちを支援するために「銃後」を守るべく、軍事工場で働くことは戦場に赴くことと同じ意義を感じていた。事実、当時の桜蔭の校長は学校工場を引き受けることによって軍需工場への動員を極力引き伸ばそうとした様子があるが、動員延期に対する抗議の血判状を作って校長に持って行った生徒のグループもあったという。実際に工場に出勤して、出征した男性の代わりの力仕事も国の勝利のためと思って、辛いとかそういう気持ちはわかなかったという。ただ空襲が激しくなる中で、死ぬかもしれないと思いつつ生活していた。
勤労動員が決まり区分けされ学校工場に残る予定の生徒の中に、兄が陸軍の飛行機に乗っていたという理由で志願して中島を選んだ生徒もいた。しかし陸軍大将であった父親が12年の日中戦争から転戦した果てに、20年6月に沖縄戦で陥落前日に戦死、そしてその兄はフィリピン戦線で一通の電報を最後に同じ6月末に戦死した。
このような世相の中、19年末、週6日のうち5日亀戸に勤労動員に通っていたクラスで、残りの1日の登校日の授業の後、半地下の教室で研究熱心で地味な化学の女性教師がひっそりと「(今のこの戦争は)とても悲しいことです。一日も早く戦争が終わって世界の人々と手をつなげる日が来るように祈りましょう」と話された。それを聞いた女生徒の一部が、先生は非国民でスパイだ、許せないとして教頭に告げに行き、翌日からその先生は学校を辞した。これも小学校から軍国主義教育で洗脳された生徒の正義感からである。戦後、この心優しい先生を傷つけてしまったことが、生徒たち自身の心に癒しがたい傷として残ったことを、『戦中女学生の記録』の中に書き遺している。これ以外にも動員工場で空襲警報が鳴って防空壕に避難している時、新任の先生が声をひそめて「もし日本が負けたら皆さんはどう思う?」と聞かれ、怒りと衝撃で返事もできず、戦い抜く覚悟を鼓舞するのが先生の役割ではないかと反発する言葉を飲み込み、黙って同級生と見つめあったが、敗戦の日、先生のその言葉が理解できたとある。
これらのエピソードは、その時の自分の考えがどれだけその時代の流れに影響されるものであるかを表していて、とりわけ戦時の圧政下の時代には思考力を欠いた大人たちが、聖戦や皇軍とかの安易な発言を繰り返し(大半の学校長もそうであったし、新聞ラジオも同じ)、その異論を許さない雰囲気の中で若い人たちは、考える力も疑問に思う心も奪われていた。一方、冷静な大人や親が周囲にいて、この戦争は馬鹿げていて負けると聞いていた女生徒は、敗戦の知らせで開放感を味わい、そうでない生徒、つまり勝利を信じて疑わなかった生徒は悔しくて泣き崩れるという差があった。中間として「心の底ではもう空襲に脅かされなくてよいとほっとした気持ちがあって、本当に私は意気地なしと恥ずかしく思った」という生徒もいた。
当校は昭和20年4/13の城北大空襲により全校舎の4分の3を焼失したが本館は残った。同区内に住んでいて自分の家だけ焼け残った生徒もいて、焼け出された友達や知り合いに申し訳なく思ったという。これは実際の戦場で自分だけ生き残って申し訳ないと思った男たちの気持ちに通じる。都内で家を焼かれた生徒は縁故を頼って地方に疎開したり、田舎に帰る生徒もいて少しずつ抜けていき、終戦時には半分以下になっていた。
敗戦後生徒は少しずつ戻ってきたが、疎開先から戻って復学を願い出ても教室が足りないからと許可されない生徒もいた。ただ「勤労即教育」の国の方針で勤労動員が授業の代わりとなり、繰上げ卒業も合わせて形式的に卒業はできていた。しかし卒業はできても実際の勉強ができなかったと多くは心に空洞を抱えていた。学校に戻った生徒たちは、明るさを取り戻し、窓ガラスもない教室で嬉々として勉強した。
桜蔭には戦時中の記録は何も残っていないという。学校の本館は焼けていないから、各方面の資料からすると他校と同様、敗戦直後に軍政府の指示で焼却されたと見るべきである。彼ら指導者たちは長い年月(15年戦争ともいう)国民を苦しめた(どころではなく、戦死と戦災死でおよそ310万人の死者を出し、侵略した中国や東南アジアにもその数倍以上の死者を出した)この戦争をなかったことにしたかったのである。仮にも正義の聖戦としていたなら、何も廃棄する必要はなく、しかし国民を煽って多大な犠牲者を出したこの戦争に指導者たちは後ろめたい気持ちがいくらかでもあったのであろうが、それでも国民を守る立場にいる軍人・政治家や官僚は最後には自分の責任を逃れ、かつ自分を守ることしか考えていなかったということである。
文京学院
大正13年(1924)、本郷に島田依史子が裁縫伝習所を開き、翌年本郷女学院とした。昭和3年(1927)本郷家政女学校とする。7年に資格学校の十佳女子高等職業学校を併設した。島田は父親を幼い頃に亡くし、母を通して弱者としての女性の立場に疑問を持ち続け、男社会の横暴に屈してはならないと、早くから自立すべく勉学に励み、18歳で文部省の中等教員検定試験に合格し、22歳で自立した女性を育てる目的で学校を設立した。以下は主に『文京学園55年史』と『私の歩んだ道』(創立者自伝)より。
昭和に入って軍国主義体制が強まる中でも、女子の進学希望者は増え続けていて、学校は順調に生徒数を増やして行った。十佳には夜間部もあり、就職も専門校への進学も好調であった。
昭和12年(1937)の日中戦争開始からは他校と同様、各種の勤労奉仕作業が課され、その他戦闘機製造のための女学校あげての献金活動や、家庭からの廃品回収による収益金を陸海軍に献納、全校教職員生徒で毎月国民愛国貯金をし、学校近隣の出征軍人留守家族に慰問品を送る等行った。
昭和13年には他に先駆けて放送設備と各教室にスピーカーを設置し、校長の訓話やお知らせや音楽を流すなど有効に使っていたが、ラジオで教育するなどけしからんとの投稿が府(都)の学務課にあり、調査が入って反論したがやめさせられた。そういう時代であった。
14年には文部省の指導により教科の変更がなされ、「皇国の道に基づき国家有為の人材を育成する」との方針で修身や公民科が増やされた。増える生徒に応じるために広い敷地への移転計画があったが、せっかくの土地に(女学校ということで)邪魔が入りうまくいかなかった。その後もこの学校は戦前には土地取得に失敗し、学校を盤石にする機会を失っている。放送設備の問題ではないが、島田は当初から積極的に軍国主義の時流に乗らずに独自の道を歩もうとしたので、周囲の協力が得られなかったようである。事実、12年に始まった国民精神総動員運動から13年に発令された国家総動員法の流れの中で、島田は他校の校長のように生徒を戦争に向かって鼓舞するような翼賛的訓示を全くしていない。
昭和14年秋に初めて開催された運動会は(上記の理由でまともな運動場もなく他校を借りた)、15年には紀元(皇紀=神話上の神武天皇即位から)2600年奉祝大運動会として六義園のグランドで盛大に行われたが、昭和16年(1946)に全国の学校一斉に学校報国団が結成され、その年末に日本は太平洋戦争に突入した。その後の18年には、戦時下の統制で「陸上戦技体練大会」の名前で一般の競技は縮小され、隣組競争、担架・看護教練、報国団閲兵分列行進、敵撃滅戦(竹槍によるもの)、防火・防空教練、武道などの項目があった。他の学校でも修学旅行が廃され「鍛錬旅行」とされた時代である。
島田は学内資料の形で自伝を残しているが(筆者は学校より寄贈を受けた)、これが大変面白く、傑出した女性教育者としての姿がある。戦時下は生徒を守るために奮戦した。何事も一人で行動するという信条を持つ島田は、学校の行く末を見定めるために、翌17年に、単身で朝鮮経由で満州・中国北部の視察に行った。各地で活躍する教え子たちに再会しながらの旅であった。そして「善隣友好とは名ばかりで日本は共存共栄の精神を忘れてしまっている。中国人の国民感情を逆なでにし、自国の権益にのみ固執していたらいつかは破綻をきたし、大陸における日本民間人(すでに多くの企業が進出し商売人も出ていた)の繁栄も長続きしない」との感想を抱いた。仮に同じ視察をしてもこのように感じとる教師がいたのかどうか、多少でも征服者側の目を持って現地に入っていたらこのような見方はできなかったであろう。
昭和19年(1944)に入って軍は生徒の勤労動員体制の強化とそれに伴い校舎を軍事工場として接収しようとするが、島田は単身で大本営に乗り込み、勤労動員を遅らせなければならない理由を説き、軍需省に行って校舎の接収には応じられない理由を説いて、押し切ってしまった(軍の将校が「次からはこうはいかないぞ」という捨て台詞を吐いたほどであった)。これも「結局、軍は権力をもって国民を威圧し服従させようとし…力のみをもって治めようとする威圧的政策は、その時だけということを知らない」との信念を持ってのことであった。この時期にそのようなことができた学校長は男性を含めても誰もいなかったであろうし、筆者は数多くの戦時下の学校を調べているが、他に知らない。結局、数ある女学校・学校の中でも学校を工場にさせなかったという稀な例となった。
このような島田の行動があったから学徒勤労動員への参加は他校より遅くギリギリの19年春からであった。この年から勤労動員はほぼ通年として打ち出されたから、抵抗も限界があった。本郷家政は4月から、十佳は6月から動員先は各地に分散されたが、島田の交渉でいずれも比較的軽度の作業内容であった。そして島田は生徒には「いかなる時でも工夫して学ぶ時間を持たなければならない。国民が無知であるとき国家の栄はなく、個人の幸福も得られない」と説き、動員先の工場を直接視察して勤労動員の時間を工夫して交代で登校させて授業を行なったが、これに対し都の監督官が来校して島田を「非国民」と非難攻撃した。非国民とは当時の殺し文句であったが、島田は怯むことはなかった。
敵機の空襲が予想されるようになると学校でも防空壕作りが指示され、とりあえず中央校舎講堂の床下を掘り下げ、床板も丈夫な桜材にして対策とした。しかしその後大型爆撃機B29が頻繁に偵察に飛来するようになり、それを撃ち落とすことのできない日本軍の守備状況を見て、島田はこの防空壕では役に立たないと判断し(現実に急造の防空壕で焼圧死した人々は数多くいる)、残っている下級生を集めて「田舎に家や親戚がある人は疎開して転校しなさい。そして残る人は、地下7mのトンネルを作るから各人バケツを家から持ってきて手伝うように」と話した。トンネル補強の角材などは建物強制疎開で余った木材を区役所が提供してくれた。そして延長100mの区内で一番大きくて安全な防空壕を作り、近所の人も利用するようになり、その後の空襲で焼け出された人の一時的な住まいともなった。このような堅牢で大きな防空壕を作った学校は筆者が調べた範囲ではやはり他にない。
島田は乏しい食料の中で体を酷使して体を壊していたが、それでも学校に寝泊まりし、夜警をした。この辺りの行動は大妻学院のコタカ女史と重なる。この区にあって当校は奇跡的に校舎の焼失を免れたが、20年4/13の大空襲で、投下された焼夷弾を束ねていた大きな弾頭が第一校舎の屋根を貫き、床下まで大穴を空けた。全体の空襲で、比較的下町に住む生徒の多かった在校生(主に十佳)の9割が焼け出され、死傷者も出、消息不明もいた。
実はこの戦時下に本郷の家政と十佳を合わせて入学生は19年度まで増え続けていたが、こうした状況下、20年度の募集は中止した(経営的に考えて、例え応募は少なくても募集をした学校がほとんどであった)。
戦争が終わり島田は極端に体力を失いやせ細り、一時学校を人に任せ療養した。一方で焼け残った学校は毎日のように泥棒に荒らされ、ミシンや机や椅子、電灯のコード、水道管まで盗まれた。島田が不在の自宅も同様であったという。
勤労動員による早期卒業の措置や地方に疎開する者や田舎に帰る者も多くいて、戦後の混乱で学校に戻る生徒も少なく、しばらく学校は閑散としていた。そのうち島田の人柄を知る学校関係者や卒業生と親たちの紹介により、入学者は増えて行った。 戦後昭和22年の学制改革で本郷女学校と十佳女子を統合して文京学園とした。
筆者私見:本当の自立した女性(人間)とは島田のような人物を言い、当学園の学生・生徒及び卒業生はこの創立者を十分に誇りにして生きて行くべきである。仮にも島田のように物事の正否を、自身の損得を捨てて他者や弱者(声なき人々)のために考えて行動できる人物が当時の政治世界の中枢にもっと多くいたら(ほぼありえないが)、この愚かな戦争は起こらなかったであろう。事実そのような人たちがいなかったわけではないが、常に少数で孤立して排除されてしまい、一方で時勢に乗って建前や正義を振りかざし(正義という言葉は戦争を始めるにあたってどの国でも常に都合よく利用され、それをまず語る人を信用してはならない)、表層的に危機感を煽って声高に喋るだけの思考力を欠いた者たちが多勢を占め、戦争への流れを作ってしまうのである。
そうした者たちは天皇をも巧妙に利用する。昭和天皇はもともと開戦に反対であったが、当時の東條首相を始めとした側近たちが巧みな情報作戦で説得し(それ以外に当時の天皇にとっての情報はない)、その側近の書いた米英への「開戦の詔勅」が発せられた。そして戦争は「聖戦」とされ、その軍は天皇を戴く「皇軍」とされた。しかしここまでに他校の中でも何度か触れているが、敗戦となったら、軍政府は戦争関係の記録や資料を全て焼却するように国内外に指示した。つまり敗戦によってその責任を糾弾されることを恐れ、自分たちが始めたこの戦争をなかったことにしようとした。要するに日本の戦争は時の為政者の自己本位の傲慢な考え方とそれに同調するものたちによって起こされたのであり(日本はかつて他国から侵略されたことはない)、やむをえない状況から発したものではない。その結果、日本だけでは310万人の犠牲者が出たとはよく言われるが、実は昭和12年(1937)の日中戦争から太平洋戦争に至るまで、中国を含めた東アジアにおいて一千万人をはるかに超える犠牲者が出ていることが言及されることは少ない。これはなぜかと言えば、いくらなんでもそこまではという思いもあるからであろう。ただそれを含めて考えると、我々は自分たちが国によって受けた被害を考えて戦争反対を訴えているだけでは済まないということであり、日本が近隣諸国に与えた数々の加害と、その結果その国の人々に刻み込まれている深い傷にまで思いを致しておかないと、時折日本への批判があってもその背景はわからないし、本当の友好関係は築けないということである。
