東京都中央区:京橋区 + 日本橋区

(東京都全体については「東京都の概要」参照)

中央区の空爆被害

〇 空爆日:昭和19年(1944)11月29日、12月27日・30日 / 昭和20年(1945)1月27日、 2月19日・25日、3月10日、4月4日、13−14日・15日、5月24日・25日、7月20日、8月13日(全15回)

〇 被害状況:死者1421人、負傷者3543人、被災者6万7400人、焼失家屋2万1880戸

〇 出征者と戦死者:不明

空爆被害の詳細

 昭和19年(1944)11月29日深夜:B29 25機により区内へ初めての空爆、日本橋地区と築地の浜離宮(当時軍用地だった)で死者4、負傷者19人。多くの焼夷弾投下により家屋の全焼759、半焼35戸。

 12月27日:多少の被害。

 12月30日未明:B29一機が台東区を中心に焼夷弾約450個投下、都内の死傷者22、家屋全半焼244。区内の死傷者なし。なおB29一機とは、偵察を兼ねて恣意的に空爆をしたと思われる。

 昭和20年(1945)1月27日昼:B29が62機来襲、250kg爆弾124個、焼夷弾1200個を主に有楽町・銀座地区を中心に投下、有楽町駅付近は機銃掃射が行われ、街や駅を行き交う人を狙い、付近は遺体であふれた。築地一丁目あたりに落ちた爆弾は防空壕を直撃、女子が11人即死。有楽町と銀座つまり中央区と千代田区の死者は約250、負傷者270、被災者1640、被害家屋370戸。泰明小学校に被害(下記参照)。この日は広範囲で、都内全体で532人の死者があった。

 目撃者の話:京橋の交差点はまさに地獄としか言い様が無い有様であった。私が待ち合わせをした地下鉄の入口は完全にすり鉢型の穴と化し、あたりには腕、足が飛び散り、電線には手首がぶら下がっている。あたりの壁には、血に染まった着物が張りついている。… 翌朝、自転車に乗って京橋から浜町の方を見に行ったが、悪臭と焼死体の山、そして肉親を探す人々が目につくばかりだった。(中央区のサイトより)

 2月19日:B29が131機東京中心部に来襲、死傷者386、全半焼家屋1021。区内では晴海実践女学校校舎が半壊。

 2月25日午前:B29 10機と艦載機56機、午後B29約200機が都内各地を空爆、全体の死傷者は約630、全焼等家屋は2万680、旧日本橋区では横山町から馬喰町一帯にかけて焼夷弾が落とされ、木造家屋が多く火の手はアッと言う間に拡がった。一件の店舗では一家が行方不明となり、焼跡を整理したところ、地下の防空壕の中で亡くなっているのが発見された。死者7、負傷者38、焼失戸数770。

 3月10日:東京大空襲の日。江東、墨田、台東区の下町密集地が主な対象で、中央区の被害は主に隅田川西岸の旧日本橋区で被害は死者1314、負傷者980、全焼家屋1万4270超、被災者4万5350。下町3区と比べると死者数は段違いに少ないが(3区を合わせた死者は約7万3200人)普通に見て焼失家屋と被災者は少ないとは言えない。実はこの日の強風は北西からのいわゆる冬の北風で、米軍は江東区の南東、荒川の西岸の風下から絨毯爆撃を始めた。これは焼夷弾による火災の煙で空爆地区への視界が遮られないようにするためで、隅田川までが主な目標であったので、爆撃自体は旧日本橋区までは及んでいなかった。それでも区の60%が焼失した。つまり下町3区の住民は強風に煽られた猛火と隅田川やその支流に行手を阻まれて何万もの人々が焼死したが、旧日本橋区の人々は川の向こうから迫ってくる火の手を見つつ逃げる間があり、それでも多くの家々が延焼を免れなかったということであろう。その延焼に至る経緯はこうである。

 —— 夜半からの空襲は、日本橋川の対岸の茅場町や新川などに焼夷弾を集中的に投下したので、この地域は火災に包まれ大変な大火になった。だがその日は小網町側には落とされず、初めはそれこそ川向こうの火事で終わりそうだと町の人たちもみんな思っていたようだ。… 対岸の茅場町あたりの火災が、川幅30mもある川面を渡り、小網町をひとなめにするとはだれも考えなかった。ところがB29からの焼夷弾投下も終わり、対岸の大火も盛りを越したかに見えた頃から、それまでの風が突風に変わり、火災が横に這うようになってきた。火の粉が川を渡って小網町に飛んできはじめても「まさか」「大丈夫」という気持ちが強くあって、家財道具を持ち出してまでも避難しようという人はほとんどいなかった。やがて町の人たちがますます強まる突風に危険を感じて「このままではこの小網町も焼けるのでは」と思った時には既に遅く、火災は渦巻くようにして日本橋川を渡り、アッと言う間もなく小網町の家々をなめ尽くしてしまったようだ。「ボッと全部の家が一斉に火を噴き出したようで、自分たちがそこから逃げ出すのが精一杯だった」。

  その対岸の墨田区や江東区の人々は猛火から逃れようと隅田川に次々と飛び込んでいった。—— 翌日以降、勝鬨橋から隅田川を見下ろすと、潮が引いた隅田川の川辺には数百、数千の六角形の焼夷弾がドロに突きささっているのが見え、隅田川が満潮になると、死体が川下から累々と流れに乗ってゆっくりと川上へ向かって流れのぼり、沈みかけた伝馬船にも死体が重なり、流れて行った。子供を背負った女性は仰向けに、男性たちはうつ向けの水死体となって次々と流されて来て、築地魚市場の河岸の魚を揚げる桟橋にも、誰が引き揚げるともなく、死体が積み上げられその数が増してきた。その死体を片付ける人もなく、何日かそのままになり、ついにはほとんど引き揚げられないようになった。そしてほとんどの死体は東京湾に流されて行った。(以上は中央区のサイトなどから。東京湾・お台場参照)

 この日の中央区の死者は主に十思公園に1万253体が仮埋葬され(一時的に十思小学校=現中央区十思スクエアの校庭も真っ黒に焼け焦げた死体収容場所となった)、昭和24年(1949)に掘り起こされ火葬された。

 4月4日:区の被害は軽微だったが、浅草橋交差点、清洲橋通りの道路に、爆弾で道幅一杯もあるような大きな穴があいた。

 4月13日深夜:B29が3編隊300機以上で、豊島、北、荒川、板橋区を中心にほぼ東京全区内が空爆され、多大な被害があった。城北大空襲という。区の被害は軽微。

 4月15日深夜:B29が109機、都内の死傷者は約2170、区の被害は軽微。

 5月24日未明:品川、目黒、大田区等に大きな被害。城南大空襲と呼ぶ。中央区では銀座から木挽町一帯をはじめ江戸橋、室町、兜町、小網町などの大半が焼け、死者1、重傷者15、焼失等家屋720戸。

 5月25日夜間:新宿、渋谷、中野、文京、港区に大きな被害、山の手大空襲と呼ぶ。中央区では死者3、重軽傷者150、焼失家屋約5500戸。

 この24、25日の両日は皇居より南西の地域が爆撃目標とされ、実は両日とも爆撃機数も投下爆弾トン数も3月10日の大空襲の倍前後となっている。相応に家屋の焼失と被災者数は多いが、東京を離れて疎開した人も多く、また空襲に慣れて逃げ場を確保していたこともあってか、死傷者は比較にならないくらい少ない。ちなみに25日に家を焼かれた人の中で、「毎日毎日空襲に遇っていると、自分の家が焼けた時は、何かホッとした気持ちでした。これまでは自分の家を守ることが私の義務で、必死でしたが、焼け出されてからは守る必要のある家がないため、何かあれば逃げることだけを考えればすんだからです」と語っている人もいる。

 7月20日午前:B29が1機来襲、東京駅八重洲口側にあった千代田区と中央区の境目の外濠(現在は埋め立てら、地下には首都高速が走っているが、呉服橋から鍛冶屋橋、有楽町にかけての大通りは元は皇居の外濠の堀であった)の中に500kg爆弾一個が投下され、「死者3、重軽傷者3、周囲の家屋破損多し」とある。ちなみにこの爆弾はパンプキン爆弾(原爆型の大きさを持った擬似爆弾で原爆の投下訓練用=西東京市参照)との説があり、『戦災誌』には「500kg級ト推定セラレル」とあり、この日はこれ一個の爆弾投下のみなので、そうであったかと思われる。パンプキン爆弾はあくまで形と重さを原爆に合わせているだけで、中の爆弾自体は軽いものから重いもの(約1トン)まであり、この日はかなり軽いものであったのだろう。また投下は爆撃手の目視によると厳命されており、そのことも原爆の投下訓練の一つと裏付けられる。

 8月13日朝:終戦直前であるが主に中央区と品川、大田区に、艦載機からの約60機(関東甲信越一円では500機超)による爆撃があり、区ではロケット砲を受けて佃大橋のたもとのそば屋一家4人全員が死亡、重傷15。すでに8月10日(長崎への原爆投下の翌日)に連合軍に対し降伏を通達していたが、正式発表の15日まで、米軍の攻撃は容赦なかった。

空爆で焼失した小学校など

  全焼:泰明小学校、久松小学校(両校については下記参照)、明正小学校(講堂は残る)、浜町小学校(廃校)。半焼:阪本小学校、城東小学校

戦時下の出来事

空襲下で

 —— 当時、英文タイピストとしてマツダランプ(現・東芝)の数寄屋橋ビルの7階に勤務していた。1月27日、その日は朝から雲が垂れ込めて、底冷えのするいやな日であった。昼休みが終わって仕事机に戻った時、警戒警報が発令され、私は窓際に寄って真下の数寄屋橋公園を見下ろした。何事もなかった。机に戻ってタイプを打ち始めたが、3、40分ほどたってから断続的なサイレンの音に混じって、バーン、バーンと高射砲の音が日比谷公園の方角から聞こえてきた。「空襲だ!」との叫び声で、私は咄嗟に防空頭巾をかぶって皆と一緒に、かねてから決められていた一階と二階の間の階段へ駆け降りた。ビルはすべての窓にブラインドを下ろして、防空班以外の人は地下室と一階に退避することになっていた。

 階段に腰を下ろしたかと思うまもなく、凄まじい轟音と振動の渦の中にたたき込まれた。まるでこのビルだけをねらって襲いかかってくるようだった。もはや直撃を受けて崩れ落ちるのは時間の問題かと思われた。女たちの泣き声が聞こえてくる。もうだめだ、今日で終わりだ、お母さん、さようなら…。いや死ぬものか、私は運が強いのだ。私は必死に祈った。その時、鋭い笛のような金属音とともに、ものすごい轟音と、建物の崩れてゆくような振動の中で、私は気を失った。

 何時間たったか、ふと気がつくと真っ暗闇。何かに押しつぶされたのか、身動きができない。私は死んでしまったのか、ここは土の中かと思った時、上のほうからごそごそと動き始めて、誰かが助け起こしてくれた。さっきの爆弾で階段の一番下まで転がり落ちて私の身体の上に何人かが折り重なっていたのだ。しかしみんな無事だった。身体はふしぶし痛いが、傷はなかった。さっき見下ろしていた数寄屋橋公園に直撃弾が落ち、そこにいた人達は全員死亡した。ビルの壁一重が生死の境目だった。

 そのうちものすごく熱くなって、蒸し焼きにされそうになった。ビルの周囲一面が焼夷弾で燃えていた。隣の木造二階建ての事務所も炎上している。防空班の人達は外に出てビルに水をかけ、必死に類焼を食い止めていた。4時過ぎ、やっと外に出た私はあっと驚いて息をのんだ。そこには見慣れた銀座の街並みは跡形もなく、焼けこげたビルだけが所々に残骸をさらし、筋向いの安田銀行の支店は直撃で吹っ飛び、その代わりに地面に大穴が空いているだけだった。行員はほとんど死亡した。目の前の朝日新聞の窓という窓は一枚残らずガラスが吹っ飛び、道路には泥水が音を立てて流れていた。その中を死体や負傷者を乗せたトラックが右往左往していた。そうした中でマツダビルだけが無傷で残っていた。なんという幸運であろうか。

 はやくも迫り来る夕闇、鬼火のような残照。立ち込める硝煙と死臭の中にただ呆然と立ち尽くしていた。やがて新橋に向かってトボトボと歩き始めた。有楽町駅は瓦礫と死体で埋まり、鳩居堂前の地下鉄入口は直撃を受けて埋まり、不通になっていた。歩きながら涙がほおをとめどなく流れ落ちた。モンペの上着の袖口でこすって拭いたせいか、家に帰ってから母にまるで狸のような顔だと笑われた。そういう母も涙をポロポロとこぼしながらの泣き笑いであった。

(『東京大空襲・戦災誌』第2巻:当時21歳の長岡明子)

 なおこの時期はまだ爆弾による空襲が主であったが、この後3月10日を代表とする大空襲は大量の焼夷弾によるもので、米軍は焦土作戦に傾いて行った。

 —— 私は生れも育ちも日本橋。最初は日本軍も強く、戦果の上がる度、東京下町では旗行列、提灯行列と賑やか。戦況が不利になり学童疎開が始ると「(家族が死んで)一人残ると可哀相。死なばもろとも」と言う祖母の強い願いで学校に残ったが、生徒も先生も少い。 空襲が激しく、警報が出ると給食のパンを貰って帰る毎日。隣組では東京が危ないその時は宮城へ逃げようと決めていた。夜は電気が外に洩れない様に黒い布を被せ、床下には防空壕を作り、警報が出る度に何度でも防空壕に入る。死んでもいいから寝ていたいと思った。20年(1945)3月10日東京大空襲でB29が空から焼夷弾をボンボン落し、町中焼けるのを泣きながら見た。宮城に逃げる途中、東京駅の近く東京海上の人に、宮城には入れないので会社の地下に入る様に声をかけられ、炊き出しのお結びと一晩お世話になった事を今でも忘れない。上野へ逃げ、そこを4月(おそらく13日)に焼け出され、芝に逃げ六帖一間に8人住んでいたが、5月(おそらく25日)に又焼け、今度は埼玉の与野に逃げると食べる物がない。ある朝、祖父が道端でお結び3ヶ入りの包みを拾ってきて、水で結びを洗いお粥を作り一時すごしたり、ノビル、セリ、ヨメ ナも食べたりした。8月15日、玉音放送で戦争の終りを知り、これから逃げることなく夜はゆっくり寝られると思い嬉しかった。父が復員して来て日本橋に焼け残りの廃材で掘立小屋を作り、そこに戻るが周囲の人は誰もいない。電気ガスなし、 焼け野原から燃え残っている木を燃料に、水は水道管から溢れているのを使っての生活だった。食べる物もなく、残り少ない母の和服を持って高井戸の農家に米と野菜に取り替えに母と行きしのいだ。夜になると遙か先に見える米軍が占領していた聖路加病院の明りが眩しい。その内に母の弟が山口の航空隊から落下傘を一つ持って復員してきた。落下傘は広げるとすごく大きく、全部絹なので母が丹精してブラウスを作ってくれた。着る物もないので嬉しかった。(『北区戦後70年誌』にある畑中治子の寄稿より)

明治座の惨劇

 3月10日の大空襲時は中央区の場合、明治座で被害が集中している。この近辺の人々は近くにある浜町公園に逃れようとしたが、公園には高射砲陣地が置かれ、また弾薬庫があって軍の規制で入れず、空襲の際の避難場所に指定されていた明治座(関東大震災で焼失し鉄筋製に建て替えられていた)の地下室に人々は集中した。実際にそれまでの空襲では焼夷弾で燃えることはなかったが、この日は強風下で焼夷弾も斜めに加速して突き刺さるように降り注ぎ、金網の入った丈夫なガラスを破って楽屋裏の大道具、小道具から燃え広がり、明治座の内部は間もなく焼け落ち、そして大勢の人が観客席と地下で死んだ。証言によると、地下は人々で一杯になり座る余地もなかったようで、まるで蝋人形のようにみんなが立ったまま死んでいたという。上部階の燃える熱で窒息し蒸し焼きにされたのである。その火に包まれた明治座からさらに逃げる人々も途中で折り重なるように息絶えて死んだ。ある家族は明治座の地下に行き、ドアをいくら叩いても、中からドアを押さえつけていて「ここは、いっぱいだ!他へ行け!」と怒鳴られて入れてもらえず、浜町公園に向って助かっている。

 また日本橋に住む当時13歳のある男性は、母親と兄妹3人で手を繋いで避難した。明治座に向かう大勢の人の流れで母親と手が離れ、そのまま明治座に入ったが、混雑を避けて一階の廊下の角に座り込んだ。しかし煙が充満し息苦しい中で「(舞台の)緞帳に火がついたぞ!」という声で、その場の人をかき分け外に出た。広い道路の中央に安全地帯があって、そこに停留所のようなちょっとした囲いがあって、その中に半分身を潜めて朝までじっと動かずにいた。北の方角からビューン、ビューンとトタン板などが次々と頭上を飛んで行った。熱かったが防空頭巾や兄のお下がりのオーバーで何とかやけどもせずに済んだ。朝になって外壁だけ残った明治座を見ながら自宅に戻ってみると、家は燃えてなくなり、残って家を守っていたはずの父親の姿もなく、おそらく一緒に明治座に入ったはずの母親と兄と妹もそれっきり会えることはなかった。妹は縁故疎開していたが、馴染めずにひと月で家に帰って来ていたばかりだった。ちなみにこの方はその後伯父伯母に引き取られ大学まで行かせてもらったという。

 別の人はその翌日、通りがかりに上空に戦闘機がやって来たので逃げて隠れたところが偶然明治座の裏側で、そこで何人かの人が鳶口を使ってマグロのような物を次々とトラックに積み込んでいるのを見た。それが遺体であったことに後で気がついたという。この日明治座で亡くなった人は千数百人といわれるが、この日の犠牲者数はどこにを見ても明らかになっていない。なお下記の久松小学校でも同様な犠牲者が出ている。

 当時の医学生がこの日の惨状を聞いて、一週間近く経って、かつて建物疎開で動員された浜町まで行った。浜町公園内やその付近の防火用水の中にはまだ死者が浮かんでいてその頭は黒く焼け、水中の部分は膨れていた。そして明治座に行ってみると一階正面の扉が少し開いていて、一歩建物の中に入ると骨灰の山であった。消し炭の中を歩くような感触で、靴の半分以上が埋まった。見回すと、正面扉のあたりが最も骨の量が多く、舞台に行くにつれて少なくなっていた。天井からは鉄骨が飴のように垂れ下がり、天井はすでになかった。正面左手の地下室に向かうと(これは上記の地下室とは違うようである)、階段も骨に埋まり、天井の低いその地下室も骨の山であった(『東京大空襲・戦災誌』第2巻)。明らかに遺体として残った人たちが先に収容され、近隣の公園に仮埋葬されたが、骨と灰になった人たちはしばらく放置されていたようである。

 明治座周辺で亡くなった遺体の収容作業は朝の10時頃になって始められた。兵隊と棺桶を満載した軍のトラック5、6台が明治座前に並んだ。棺に納める作業は外で亡くなった遺体から始められ、劇場内に作業が移っていったが、数台分の棺では足らなくなっていった。その後は”焼けトタン”が集められ、一遺体ずつ収容していたが、それでも間に合わず1枚のトタンに2、3遺体が乗せられトラックに積まれていった。その遺体は小伝馬町の十思小学校の裏の公園に遺体が並べられ、遺族による確認作業があったというが、ほとんどは判別できなかったという。

 戦後浜町公園のそばに一個人の志で建てられた小さな慰霊碑があるが、この大きな犠牲者にはそれだけであり、そしてこの日の各地の犠牲者に対しても、都内にはせいぜい個人や町単位の慰霊碑しかない。それは占領軍GHQが目立った慰霊碑の建設を「戦争を思い出させる施設を作らないように」と禁止していたことによる。つまり米国は自分たちが行った爆撃による惨劇を隠そうとしたわけである。そして占領から解放後も、日本の為政者は米国の意向を優先し、都民の気持ちを汲むことはなかった。現在両国横網町にある慰霊堂というのは、もとは関東大震災の犠牲者5.8万人の慰霊碑を設置した場所で、当初は仮の合祀であったはずが、そのまま都内の空襲犠牲者(10万5400名)の慰霊堂とされた。広島のような正式な記念碑と記念館は、都民の何度かの要望で計画立案までされたが、平成10年(1999)石原都知事になって凍結され、そのまま忘れ去られている。

 明治座は昭和25年(1950)新築され、しかし昭和32年(1957)5度目の焼失があり再建、さらに平成5年(1993)現在のビルに建て替えられた。上記の慰霊碑は「明治観音堂」として明治座入口の側に置かれている。「本堂は昭和二十年三月十日の戦災に依り死没せる幾多の霊の冥福を祈る為建立す」とあるだけである。

小学校の被災

<泰明小学校>

 泰明小学校の校舎は、大正12年(1923)9月の関東大震災後の復興小学校の一つとして昭和4(1929)年に鉄筋コンクリート3階建校舎として再建されていた。1月27日の昼下がり、疎開していなかった1、2年生が授業を終えて帰宅した後に有楽町を中心とした低空での空襲があり、250kg爆弾が3発直撃し、1発は3階と2階の教室を抜け1階の教員室で爆発した。そこにいた女性教師6人(男性教師は3年生以上の児童を引率して疎開先にいた)のうち4人がほぼ即死、2人が重傷を負った。この日の空爆後、学校の屋上に上がって見ると、爆弾の穴が真下までつきぬけてまっすぐにのぞき見ることができたという。泰明小学校はその後も5月24日の空襲によって全焼したが、構造的には問題なく、戦後に内外の復旧工事を経て現在もほぼ建設当初のままの姿を保っている。

 その教師の一人は、「気がついたら瓦礫に埋もれ、粉のようなガラスの中で身動きできず、警防団の人たちに助けられタンカで運ばれ再び気を失い、病院で揺り起こされて、その質問に声を出したつもりが言葉にならず、後で右頬から口元まで大きな穴があいていることがわかった。それから2か月間、生死の境をさまよい”ダイヤモインド取り”と称して身体の中の無数のガラスを取り出して、目、鼻、耳、頬、手、足と再起するのに支障がないように治療してもらった。物資も不足し、終わり頃には麻酔もなく、患部を押さえてガラスを取り出し、ガーゼ等もなくなり、雑誌の紙に薬を塗ってつける状態で、必死に痛みに耐えた。その後2年間に4回も病院で整形して貰い、その間も泰明小に勤務した。他校に転任した時は特に顔の傷は人様に異様に写り、口惜しく、悲しく、辛く思われることが何度もあった。周囲の信頼を得るために、人一倍努力せねばと頑張った。現在もまだ掌に9個のガラス、右肘に6個、右耳下に大小8個くらいと磨滅して入っているので、三叉神経、顎関節炎などで悩む状態で、自分の戦争は終わっていないと思う」と語る。また別の女性教師は、気がついたら口の中が木屑まみれで全身に重傷で後遺症として右手が不自由になった。さらに今一人は、瓦礫の下にいたけどたまたま白い手袋をしていたのでそれが救出に来ていた人の目につき助けられたが、火傷を負った顔が生徒に怖がられて、学校を辞めてしまったという。

<久松小学校>

 久松小学校は、同様に関東大震災により校舎全焼し、その後昭和4年に鉄筋コンクリート三階建校舎が完成した。そして昭和20年(1945)3月10日の大空襲で、コンクリートの校舎外側以外はすべて焼けた。学校は立派な鉄筋の校舎のため安全な避難場所と指定され、避難民が逃げ込み、すし詰めの校舎内や校庭で多くの人びとが亡くなった。鉄筋コンクリート造りとはいえ、この日は強風に煽られ、焼夷弾は横殴りで窓ガラスなどを突き破って建物内に入って来たか、そうでなくても猛火によって窓ガラスにはヒビが入って割れ、そして内部を全焼させた。ある人は「私は疎開していたが、弟と妹が近所の人と一緒に逃げた久松小学校で亡くなった。逃げ込んだ人のほとんどが亡くなったと聞いているが、今でも慰霊碑はない」と語り、近隣の多くの人が慰霊碑がないことを気にかけている。ただ、現時点でも学校での焼死者が何百人だったか、調べがついていない。そもそも明治座と違って証言者が少ないのは、ここに避難したすべての人が焼死したということであろう。他の同様な被害のあった墨田区や江東区の小学校でもはっきりしていない場合が多い。

 終戦後の10月、残留児童(まだ疎開先から帰れない子供達もいた)を集めて焼失校舎内にて授業を再開したが、地域の町会の人たちが校舎の材料を寄付するなどして徐々に復興した。実は通学区域の9割以上の建物が焼失して、近隣の人もそれどころではなかったのだが、将来のある子供たちに賭ける思いが強かったのであろう。学校はその後新築された。

 他に浜町小学校でも3名の教職員と学校に逃げ込んで来た多くの人が焼死、明正小学校も講堂を残して全焼、講堂は一時被災者の住宅となり一時的に廃校、阪本小学校は半焼、浜町は再建されることなく廃校となり、そこに区立浜町会館がある。

学童集団疎開

 昭和18年(1943)ごろから戦況が深刻化し、日本の都市への空爆が予想されるようになり、政府は子供達に縁故疎開を奨励した。19年(1944)4月1日の時点で中央区は約2350名の児童たちが地方へ疎開していた。さらに政府は集団疎開を決定、東京都区内の生徒は近隣県の他、遠くは東北や長野県などが割り当てられ、8月に開始、旧京橋と日本橋区の3−6年生の疎開先は埼玉県であった。実際に疎開したのは約4300名で、7250名が残った。集団疎開するにあたり、学校の校庭で出発式が行われ、家族も見送りに行った。校庭の片隅では母子兄妹、友達同士であちらこちらで肩を抱き手を握り、小さい声で別れの言葉を囁き泣いている姿が見られた。見送りの人は校門までとの先生の言葉に、見送る人も見送られる児童も皆モンペ姿に防空頭巾を肩にかけ口数も少なく互いに手を振って別れを惜しんだ。残った児童たちの中にはその後の空襲で焼死した者もいたが、実は20年(1945)3月10日の大空襲の前に6年生だけは卒業と進学の準備のためにと帰京していて、特に江東区や墨田区ではみすみす死にに帰った児童たちも多くいた。ただ仮に親と一緒に焼死したのであればそのほうが幸せであったろうとも思われる。というのも、疎開中に両親を空襲で失い孤児になった子供もいて、想像を超える苦難の道を歩むことになったからである。上記の「(家族が死んで)一人残ると可哀相。死なばもろとも」というおばあさんの覚悟は正解であった。

 一方、埼玉県北に疎開した京橋昭和小学校(昭和37年:1962年廃校)の子供たちは、利根川の向こうの群馬県太田町、小泉町の中島飛行機の工場を目指して飛んでくる米軍機の流れ弾に脅かされる生活を送ったという。また、明日は終戦という8月14日の夜半、熊谷空襲があり、ここに疎開していた京華小学校(昭和58年:1983年廃校)の宿舎であった二つの寺院が焼け落ち、子供たちは猛火をくぐって別の宿舎に逃げた。米軍は日本の制空権を得た戦争の終盤、自由自在に、とりわけ空から目立った寺院や学校などを容赦なく空爆している。しかも戦闘機からは外で遊ぶ子供たちを低空で直接狙って(子供たちからはその飛行士の顔が見えたと一様に証言している)機銃掃射した例も各地で頻発している。

 敗戦後の10月頃から各地の疎開学童が次々に帰京してきたが、被害の少なかった他区に比べて中央区は多くの生徒が翌年の3月まで疎開生活を継続した。それは自宅や学校の焼失もあるが、何よりも食べ物が東京にはなかったからと言い、逆に中央区の疎開先は比較的恵まれていたからであろう。

返上されたオリンピックと万国博覧会

 東京オリンピックと並び同じ昭和15年(1940)の開催を決定していたのが万国博覧会で、 関東大震災からの復興を果たし世界有数の都市へと発展した東京の姿を示すことと、またその15年が皇紀2600年(神話上の神武天皇が即位した年を紀元とした)に当たるとして記念行事を兼ねて招致されることになった。その会場が月島の4号埋立地(現在の晴海)に決定され、勝鬨橋は博覧会開催のための整備の一環で造られた。約半年間で総動員4500万人を見込むなど国家的イベントになるはずであったが、日中戦争への突入とそれに対する国際的な非難で参加国の減少が予想され、戦争のための資材不足を理由に、13年(1938)にオリンピックと共に中止が決定された。(世田谷区参照)

 ちなみにこの博覧会の前売り券は大量に市中に残されたままで、そのため特例で昭和45年(1970)に大阪で開催された万国博覧会および平成17年(2005)に愛知県で開催された国際博覧会(愛・地球博)で使用可能とされ、大阪では約3000枚、愛知の国際博では約80枚使用されたという。

空爆されなかった聖路加国際病院

 明治34年(1902)、元はスコットランドの宣教医師により明治6年(1873)に開設された築地病院を米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り聖路加(ルカ)病院とした。聖路加とは聖人ルカに由来している。大正12年(1923)関東大震災で全焼したが米国陸軍の手ですぐに天幕の仮設病院が設置され、翌年二階建ての木造の病院が竣工した。しかしその翌年にまた失火で三分の二が焼失、昭和8年(1933)に立派な鉄筋造りの6階建てで再建された。すべてトイスラーが米国聖公会やロックフェラー財団に呼びかけて資金を集めてできたものである。ちなみにトイスラー(昭和9年:1934年死去)が資金を集めるに当たって「日本はまだ不衛生な生活環境で、病気で死ぬ子供が大勢いる」と米国内の集会で訴えたほどに明治から大正にかけては日本はまだ後進国であった。そうして太平洋戦争開戦前には、1日の外来患者は約300人、入院用のベッド数は475床。全館に暖房が完備され、炊事室や配膳室、食堂があり、日本随一の最新設備を揃えた病院となっていた。

 しかし昭和12年(1937年)に日中戦争(支那事変)に突入してから、日本の侵略戦争として欧米からの非難が高まり、とりわけ米英との対立が深まる昭和15年(1940=太平洋戦争開戦の前年)からは、米国系の施設ということで日本の軍政府からの圧力がかかり始め、米国人の医師や職員が勤務することが難しくなった。それにより付属看護学校の教師も含めてこの年から16年(1941)にかけて外国人たちは次々と帰国していった。英語が通じるので外国人の患者も多く、そのために病院はスパイ活動をしているのではないかという嫌疑がかけられ、ハワイ出身の日本人女性医師と内科医として勤務していた日野原重明が特高警察に呼び出され、数日間尋問を受け拘留された。そうした状況の中で16年(1941)12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発した。やがて病院の医師たちにも、召集令状が届き始め、戦地に送られていった。軍医として前線の負傷者らの救護・治療をするためである。職員は一般兵士として召集され、看護婦も志願すれば前線に行くことができた。日野原は結核の病歴があり、戦地に行かされることはなかった。

 18年(1943)に入ると、聖路加国際病院の名前は大東亜中央病院に強制的に変えられ、病院棟の屋根上の十字架も切り取られ、撤去させられた。病院にも防護団が編成され、陸軍による防空・防火訓練や救護訓練が行われるようになった。

 東京への本格的空襲は19年(1944)11月24日より開始されたが、11月1日、事前の偵察に来ていたB29を近くの築地の海軍施設に設置された高射砲がち落そうと発砲したが、まったく届かず(その時のB29の高度は約1万mで、日本の高射砲の届く距離は6千m程度であった)むしろその破片で4人が怪我をし、それが当院で初めての空襲関係の入院患者となった。ちなみに戦闘機もその高度では飛行できなかった。時々撃ち落とすことができたのはB29が正確に爆撃するために高度を下げてきたときである。

 聖路加は米国の寄付による病院ということで、米軍は築地明石町一帯を空爆の対象から外していた。他にもそういう場所や施設があり、米国系ミッションスクール(同じ米国聖公会系列の立教大学も)や、重要と思われる文化財的建築も入っていたが、もちろん空爆はそれほど正確にはできず、対象外でも誤爆された場合もあった。そのうち付近の人々は聖路加は空爆されないと知り、警報と実際の空襲があるたびにこの病院に逃げ込んだ。

 しかし寒さが厳しくなる中、暖房のための灯油も薪も炭も手に入らない。空襲警報の度に電気が止められるので、治療や手術にも差し支えた。さらに生活物資と食料は日ごとになくなっていき、茶碗の中に入っているのは米に麦や海藻、ひえなどを混ぜたもの、味噌汁の具は病院の周りに生えている野草や、野菜の捨てる部分であった。ご飯の上にふりかけのようにかけたのは「乾燥さなぎの粉」、カイコや蛾のさなぎの死がいを乾燥させたもので、健康な人ならまだしも、患者にとっては深刻だった。栄養不足による症状が見られる患者もいた。そんな状況の中で次々と空襲があった。

 20年(1945)1月27日の昼間の有楽町近辺への空襲によって多くの負傷者が出て、聖路加や慈恵医大に運び込まれたが、とりわけ3月10日の大空襲時には千人以上の負傷者がトラックで次々と運び込まれ、次々と死んでいった。院内の待合室や地下室や廊下、チャペルのロビーなどにベニヤ板を並べ、そこに布団を敷いて臨時の病床としたが、戦場さながらであった。若い医者たちは従軍医として戦地に応召されていたので、看護婦養成の聖路加女子専門学校(当時興健と校名が変えられた)の女学生も実習訓練として動員されていた。院内は「苦しい、苦しいといううめき声とすごい火傷の匂い、傷口から膿が流れてくる、そういう匂いが混ざり合った臭気で満ちていた。走り回って無我夢中で手当をしたが、本当に平常ではいられない精神状態で、涙も枯れて、心が凍りつくようでした」(一人の学生の回想から)。

 医師の仕事の多くは死亡診断書を書く作業であったが、終戦のこの年、1月から5月末までに聖路加国際病院に収容した被災入院患者数は、延べ4293名に及んだ。5月末までというのは米軍はほぼ東京への大きな空襲を終え、地方都市への爆撃に向かったからであり、この後地方の主要都市に大爆撃が加えられる。なお8月2日に八王子大空襲があり、東京都が手配した大型トラックで、聖路加は看護学生を含めた30名以上の陣容で救護に向かった。そして広島・長崎の原爆を経て15日に終戦。この日正午、病院の職員は院内のチャペル前のロビーで、昭和天皇による終戦の詔勅をラジオで聞いた。「やっとこれで空襲がなくなり、少なくともここにいるみんなの命は助かった。あるのは感謝の気持ちでした」と日野原は語っている。

 余話ながら、3月10日の東京大空襲後、聖路加国際病院には、夜になると近所の人が集まるようになっていた。アメリカの飛行機から、日本語で『米國より日本への賜物 東京市築地聖路可病院』(原文ママ)と記されたビラがまかれたためだ。日本への賜物とは、この病院が米国の資金援助によるからである。そのビラの表には病院の写真が印刷され、裏には次のような文面があった。

 「此の戦争は我々が始めたのではない。君等の知って居る通り、この戦争は日本の軍部が予告もなく、又陛下の御許可も仰がずに真珠湾を攻撃して始めたのである。/我々はこの戦争を始めなかったが、その終局は引受ける。必要とあれば君等の軍需産業及び軍事施設を全滅し得るのだ。必要とあれば我々は君等の国がすっかり廃墟と化するまで爆撃することが出来る。/併し、我々は破壊を好まぬ。平和を好み、死を自己にも他人にも欲せぬ故に、我々はかって日本に病院を建て、それが今日も君等の間に役立っているのである。/我々は自国のために戦ふ人々に敬意を表する。君等は勇敢に戦って来た。併し、我々は無駄な犠牲を嫌ふ。君等は勇敢に戦ったにも拘らず、今非常に不利な状態に陥っている。はや、勝負は明かである。これ以上戦闘を続ければ無駄な苦しみを増すばかりである。早く戦争を止めて戦争以前の友達に成って来給え。君等の面目を傷つける様な事はしない。我々対して恐れを抱く必要は決して無い。我々が子供や病人、また苦しんでいる人々等に対して温かい感情を持っている事はアメリカ人を知っている者に聞けばよく分かる。/君等は我々を恐れるより寧ろ陛下を裏切り、何百萬の兵士を殺し、都市を死と荒廃に帰せしめ、あまつさへ、君等を衣食の不足に陥れた軍部を恐るべきである」。この原文には子供も読めるようにすべて振り仮名が振ってある。

 そしてこの内容の通りにアメリカ軍は戦後の荒廃した日本を助けた。米国の戦略というのは実に周到で、空襲をしない地域建物選びも知日派の文化人によってなされたように、人材も多角的に配置し、このようなビラも随時撒けるのである。しかし、このようなビラはすぐに軍部が回収し、他に漏らさぬようにと通告された。

戦後の出来事

戦後の聖路加病院

 聖路加は敗戦後の昭和20年(1945)9月、米占領軍に接収されることになり、一週間の期限で撤退を要求された。それをなんとか二週間に延ばしてもらい、最初の一週間で他の複数の病院に患者に転院してもらい、近くの小さな空き病院を借りることにし、米軍の手伝いで医療機材や備品や薬品移し、収容しきれないものは倉庫などに運んだ。手伝った米兵たちはこんな立派な病院は見たことがないと口々に言っていたという。聖路加病院棟は米軍の極東中央病院として使用され、25年(1950)に始まった朝鮮戦争で負傷した米兵の治療もそこで行われた。新しい仮病院はため息が出るほど小さなものだった。職員はほとんど解雇解雇され、500名が71名に減った。翌年になって、応召していた医者も戻って来、フィリピンに派遣されていた看護婦7名も、5ヶ月の捕虜期間の間に米軍の医療団のもとで看護婦として活動したのちに数名が病院に戻って来た。そこから当時の院長がその他の看護婦も呼び戻し、小さな病院ゆえの訪問看護活動を始めた。これはその後に繋がる「在宅医療」を先取りするものであったという。

 仮病院には暖房器も燃料もなく、さらに食料不足も一層深刻であった。海外からの引揚者も増えて来て、ほとんどの人が栄養失調であった。病院に患者として来れる人はまだ恵まれていた。街中は汚く、伝染病も流行した。上野駅をはじめとした地下道などで身寄りをなくした孤児たちは医者に診てもらうこともできずに次々と死んで行った。また米国からの救援物資が次々と届き、多くの子供たちが助けられたという。それほどの国力を持った米国相手に無謀な戦争を仕掛け、そして戦後、その相手国に助けられたわけである。何のための戦いであったのであろうか。昭和28年(1953)に旧館が接収解除され、31年(1956)に全面返還された。

 平成7年(1995)、地下鉄サリン事件が発生。最寄り駅である築地駅で最も多くの被害者がおり、当時院長であった日野原の積極的な指示により、聖路加は最大の被害者数を受け入れた。氏の話では、戦時の経験からその3年前の新館建築にあたって、玄関内の待合室付近は非常時用にできるだけ大きなスペースを確保する設計にしていたという。

 なお、築地は戦前海軍の施設が多く、海軍医学校と都立築地病院が並んでいたが、やはり米軍の病院として接収され、現在は国立がんセンターとなっている。

戦災孤児と「中央少年ハウス」

 戦災で孤児になった子供たちの一部は、帰るところもなく食べ物やその日だけの寝る場所を求めてまだ焼け跡の残る東京の街の中をさ迷い歩いていた。数寄屋橋(元は皇居の外堀が新橋から現在の東京駅八重洲口を通って呉服橋先まであり、橋も当時は存在した)あたりで屋台その他の商売をやっていた河村契全という方が、有楽町や銀座をうろつく少年たちのために終戦2年後の暮れ近く、古材やリンゴ箱などを集めて堀沿いにバラック小屋を建て、これを「中央少年ハウス」として彼らを収容し、食事も与えた。もともと河村は戦後になって一旗あげようと足立区からやってきたというが、行き場のない孤児たちを見るに見かねて、世話をし始めたという。

 そこを根城として孤児たちは靴磨きや宝くじ、新聞売り、時にはタバコの吸い殻を拾い集めて巻き直して売ったりもして自分たちの稼ぎを得た。河村氏は子供達にはとにかく自分で仕事を探して自分で稼ぎ正しく生きるようにと助言を怠らなかった。(この孤児たちの中に児童文学者で大学教授となった佐野美津男がいる)

 しかし昭和28年(1953)10月、この堀の埋め立てと高速道路建設のためにハウスは撤去を強いられた。そこで約40人もいた孤児たちを連れて戦前氏自身が生活していた足立区に越した(同区参照)。その後も85歳で死ぬまで親のない子供たちの育成に身を捧げた。観察補導した少年少女の数は約3万人という。79歳の時に国から黄綬褒章を受けているが、あくまで社会的立場上の階位であって、その功績の内容はもっと上位の勲章をもらっている政治家などとは比較の対象にならない。

 折に触れて記すが、河村氏のような功績者は各地にいた。孤児たちを見たら放っておけないという心情がそうさせるのであろう。筆者がその場にいたらできるかどうかわからない、いや、かわいそうにと同情はできても、大半の人は行動に移すことはできない。そして孤児たちを育てた人というのは自分の身を削って孤児を救うことに人生を捧げた。自分の身を削ってというのは、誰も、つまり国家も都も助けてくれないからである。結論から言えば、空襲で自分だけ生き残り、集団疎開の間に一人残されて孤児になった者たちは、「一円の手当ももらっていない」(自身が孤児の海老名香葉子氏)。彼らは子供であるがゆえ、訴える方法を持たなかったこと(その多くがその前に餓死や病気で死んでしまった)もあるが、その後も社会の中で排除され続けて生き残ることが精一杯で、余裕も何もなかった。とはいえ、戦災で家族を失い、自身も大きな傷を負って生きて来た人たちが全国規模の組織を作って、国へ何度陳情しても取り上げる格好だけで結局は無視され続けた。一方で軍人や軍に関係した人たちとその遺族は十分な手当をもらい続けている。このような国は先進国の中では日本だけであるという(「東京都の概要」参照)。これも、米国が自分たちが為した無差別的空襲を想起させることは慎むようにとのGHQ時代の方針に、いまだに日本政府は配慮し続けているということかもしれない。戦時中、お国のために励め、いざという時は兵隊になって立派に死ねと小学生から教育し、その戦争の犠牲になった子供や被災者を放置するとはどういう国なのであろうか。放置しながら、一方陰で最小限子供たちを助けてくれた河村氏のような功績者に勲章一つを与えておくだけで、事は済むと政府は思っていたのであろうか。

戦後の銀座界隈

 昭和17年(1942)10月、戦時統制時下で銀座と日本橋の百貨店の売り場は縮小された。さらに18年(1943)4月、銀座の街路灯を撤去し、143本の鉄柱を軍事用途に供出した。19年(1944)3月「決戦非常措置要項」に基づき、歌舞伎座、東京劇場、惨劇のあった明治座等の19座が休業、図書館も閲覧中止となる。以後、歌舞伎座は10月に白金供出者招待の特別興行が催されたのみであった。このうち明治座は上記のように3月10日の大空襲で悲劇の場となったが、新橋演舞場も外周りを残して焼失、5月25日の山の手大空襲で歌舞伎座や銀座の三越も焼失した。

 戦後は占領軍GHQ(連合国最高司令官総司令部)が各所のビルを接収し使用したが、銀座の白木屋、松屋銀座本店、服部時計店(現・和光)、伊東屋なども接収され、GHQ専用の店として利用された。山の手大空襲で焼失した歌舞伎座は焼け残った東京劇場が代わりに利用され、26年(1951)に再建された。3月10日の大空襲で焼失した新橋演舞場も23年(1948)には再築され、興行を復活させた。

 終戦の翌年頃から戦災復興の区画整理が本格化すると、膨大な瓦礫が道路にあふれるようになり、その処理のためもあって23年(1948)度の事業として三十間堀川の埋立てが行われた。三十間堀川は銀座通りの東側にあり京橋川と新橋の汐留川を南北につなぐ運河だった。埋め立てられた後、その両側には商業ビルが建てられ、戦後に林立していた銀座界隈の露店などがそこに入り、地下街も併設された。さらにその東側の昭和通りは、関東大震災復興事業により、新橋から上野にかけて新設された幹線道路で広い中央分離帯が設けられていたが(防火帯であった)、戦中から戦後しばらくの間、食糧増産のためその分離帯は麦などが植えられ畑として利用されていた。昭和30年代(1955−1964)後半に「東京オリンピック」を迎えるにあたって半地下の道路が造られたため、広い中央分離帯はなくなった。

 銀座の柳も大空襲で大半を焼失したが、戦後に再び植樹され、26年(1951)には「柳まつり」が復活。しかし、43年(1968)に通りの改修工事のため、他へ移された。59年(1984)、再度復活運動が起こり、元の枝を挿し木しながら柳を蘇らせた。

中央区の大学・女学校

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