(東京都全体については「東京都の概要」参照)
港区の空爆被害
〇 空爆日:昭和19年(1944)11月24日・27日・30日、12月27日、昭和20年(1945)1月9日・27日、2月17日・19日・25日、3月10日、4月4日・13−14日・15−16日・19日、5月24日・25日・29日、8月13日(全18回)
〇 被害状況:死者1051人、負傷者3130人、被災者15万3800人、焼失等家屋4万5060戸
〇 出征者と戦死者:不明
年月日別被害記録
昭和19年(1944)
11月24日:米軍の超大型爆撃機B29による本格的空爆開始の日、この日の主な目的地は武蔵野の中島飛行機工場であったが、東京湾の第五、第六台場も被弾、建物二棟全半壊。(台場については「東京湾・お台場」参照)
11月27日:B29、62機が24日と同様、武蔵野に向かったが気象条件が悪く、江東区と渋谷区が主に空爆され、赤坂区青山南町5丁目も一部被弾し、被害小。
11月30日:B29約10機による港区への初空襲、六本木、飯倉、飯倉片町に被害。
12月27日:B29の爆撃により宮村町に全壊1戸、軽症3名の被害。
昭和20年(1945)1月27日午後:B29約70機が来襲、京橋地区が集中して狙われ有楽町駅近辺に100人以上の死体が散乱した。都区内の死者約530、飯倉片町に自軍戦闘機が墜落し火災発生。 また福吉町で自軍の対空高射砲の不発弾で重傷1人、軽傷10人。2月17日は余波程度。
2月19日:B29約100機が来襲、全体の死傷者は約400人、港区は青山南で死者2人、重傷3人。
2月25日:B29約200機が来襲、全体の死傷者は約630人、港区も各所に火災が発生し、軍人に死傷者が出たとの記述あり。
3月10日未明:B29約300機が来襲、いわゆる東京大空襲の日、強風下による大火災が生じ甚大な被害が出た。詳細は江東、墨田、台東区を参照(この3区だけで死者は約7万5千人)。港区は赤坂区檜町や青山一帯、麻布区飯倉か三河台町にかけて大きな被害を受け、死者約120人、負傷者約300人、被災者約1万5300人、家屋全焼約4180戸。旧赤坂区の被害は微小。 また増上寺にある五重の塔と徳川家の多数の文化財的霊廟のうち北廟68棟が焼失。
4月4日:立川飛行機に向ったB29の一部が都区南部にも来襲、芝中門前町と金杉その他で死者10人、負傷者約30人。
4月13−14日:城北大空襲と呼ぶが、B29約330機が主に都区の北東部に来襲、死傷者約7000人、被災者約71万人。港区は赤坂区新坂町、青山北町に被害があり死者3人。
4月15−16日:B29約200機が夜間に大空襲(城北大空襲)、横浜から大田区にかけて大きな被害を生じる。旧麻布区と芝区の死傷者は90人程度だが、焼夷弾による全焼家屋が2900戸、被災者は約1100人。
4月19日:戦闘機20機が来襲、都の各地に分散して低空からの機銃掃射があり、芝区では日の出桟橋の倉庫や戸板高女、三田警察署、麻布区では宮村町(現・麻布十番)、板倉町などが機銃掃射により、4名が負傷した。
5月24日未明:城南大空襲と呼ぶが、B29が525機来襲。大きな被害は品川、太田、目黒区で、港区は芝区を中心に死者15人、負傷者238人、家屋焼失4100戸、被災者1万5100人であったが、旧赤坂区の被害は少。白金台付近にB29一機が撃墜され墜落、7名死亡、4名は落下傘で降下し、品川付近で捕まった大尉は大船海軍捕虜収容所へ、ほか3人は東京憲兵隊へ送られ、戦後帰還した。なおこの日はB29が各所で17機、撃墜された。(注:B29は12人乗りで通常は11人が搭乗)
5月25−26日:(山の手大空襲)25日深夜から前日の残存区域を中心にB29が470機来襲、都内広域を空襲、大きな被害は新宿、渋谷、中野区で、港区は残っていた旧赤坂区が主にやられ、その死者は551人、負傷者1100人、焼失家屋1万、被災者3万700人。芝区は死者120人、負傷者1000人超、焼失家屋1万1700戸、被災者4万300人、麻布区は死者69人、負傷者137人、焼失家屋7800、被災者約2万7300人。十番商店街も大半が焼失、また麻布の善福寺本堂や賢崇寺本堂が焼失した。この24、25日の両日の焼夷弾の投下トン数はそれぞれ3600、3300トンで、3月10日の場合、B29・300機で約1500トンであり、その倍以上となっているが相対的に死傷者ははるかに少ない。すでに都民の多くは東京を脱出していたこともある。死者は港区で737人、東京全体で4千人余りであった。
5月29日:横浜(と川崎)大空襲の日、芝区の一部も焼夷弾が落とされ、芝では負傷者11人、全体では死者41人、負傷者116人、全焼等家屋1405戸、被災者7692人。
(7月26日、連合国はポツダム宣言を発し日本に降伏を要求、日本軍政府は無視した。実は米国は7月16日に原爆の開発実験を終えたばかりで広島と長崎の原爆投下に繋がった)
8月13日:日本が降伏する通達は10日に連合国に届いていたはずだが、米軍は追い討ちをかけるように関東から北陸地方にかけて空母艦から戦闘機500数十機を出撃させ低空からの機銃掃射を行う。東京は品川、荏原、大森、蒲田、月島、佃島、港区白金一帯(芝白金三光町)で、白金では死者・負傷者各4人、都内では死傷者77人、家屋全半壊81戸、被災者約100人となった。
港区の資料では、旧各区の死亡、重軽傷、被災者数、 罹災面積は下記の通り。
芝:257名、2030名、6万8007名、27.45%
赤坂:614名、5553名、3万1834名、 75.37%
麻布:180名、1503名、4万4584名、73.24%
空爆で焼失した小学校など
芝浦小学校、神応小学校、東町小学校、青南小学校、飯倉小学校、御田小学校が5月25日に焼失、下町三区に比べて被害は少ない。芝小学校は19年(1944)に失火で焼失。なお、 芝中学校(1887年創立の浄土教の学校)が3月10日に焼失している。
戦時下の出来事
(東京都全体については「東京都の概要」参照)
空襲の様相
4月15日、麻布十番に住んでいた当時15歳の戸田勝久の体験である。
麻布十番商店街は近くに陸軍の駐屯地もあり、映画館や劇場も揃い、大正末期から発展してきた商店街であった。しかし戦争が進むと物資が欠乏し、各種の商品が統制されて売るものがなくなり、月何回かの配給日にだけ店を開ける状態となっていた。そのころ商店街は空襲に備えて防火地帯とすべく新網2丁目と宮下町が強制疎開地に指定され、二分される運命となった。3月10日の下町三区への東京大空襲を受けて、4月15日直前、新網2丁目に続き宮下町が強制疎開により壊されている中、前夜、空襲を受けた神田地区へ救援として婦人会を中心に炊き出しをしておにぎりなどを届け、また南山小学校の学童疎開の第二陣出発のため別れの晩餐をとっていた。
夜10時過ぎに警報があり、商店街の人たちはまたかという感じで外に出て、探照灯で銀色に光るB29の腹を眺めていた。すると一大爆音とともに内田山丘陵地帯の南南西の方角より、超低空でB29の機体が現れた。芝公園一帯の高射砲陣地からは矢継ぎ早に火が吹き、高射砲弾が炸裂しても、人々はまだ一大ページェントを見ているがごとく、ぼんやりと空を眺めていた。一機が無事に通り過ぎ、気の早い人は今日も無事だったと言いながら我が家の方へ歩き出した。その時、第二機が同じく超低空で現れ、一大爆発音とともにザーッと急な夕立のような音がし、続いて鬼火のごとき焼夷弾が降ってきた。周囲を見回すと十番街の中心部の四つ角一体が火の海となり、油脂焼夷弾の飛び火は電柱や塀にこびりついて火を吹いていた。疎開で倒された柱や板壁の下で焼夷弾が火を吹き、消すに消せぬ状態となった。
空襲に備えた防火帯が逆目に出るような正確で効果的な爆撃で、消火活動に関わっていた人々もなすすべもなく、私もこれまでと、家にとって返すと母がすばやくリュックに荷物を詰め、食器などを自家用防空壕に放り込んでいた。その時には第二陣の焼夷弾攻撃により、わが家の二階にも焼夷弾が二発突き刺さって火を吹き、荷を手当たり次第に持ち出すのがやっとだった。外に出ると先ほどより数分しか経過していないのに、周囲は真昼のような明るさで、いたるところで焼夷弾が火を吹き、アスファルト道路は火が走り、火災による旋風でトタン板は舞い上がっていた。母とともに手を取り、防空頭巾の上からぬれた布団をかぶり、鳥居坂下までたどり着いた時、もう十番の中心部はわが家を含め一大火炎に包まれていた。
逃避先は予定していた青山墓地も芝公園も無理だと思い、内田山大久保邸跡の防空壕に行った。その壕で一夜を過ごし、翌朝十番に戻ったが、まだいたる所で火が吹き、昼近くに再び戻った。街の人々も三々五々戻ってきてたがいの無事を喜んだ。わが家の隣の菓子店が、疎開のために前の楽器店より預かったレコードの山が、いつまでも火を吹いていた。朝食も取らず腹が減ってきたが、リュックに緊急食料を入れるのも忘れ、自家用の防空壕に戻ってみたが、薄い壕の屋根は崩れ落ちた家の圧力もあり、全部灰となっていた。少し落ち着いてから行方不明の人を皆で探すと、郵便局跡の壕に裏の人の死体があった。
目を転じると、まだ煙の立ち上る中を、疎開児童の列が田町駅へと、黙々と先生に引率されて並んで向かっていた。地元の人たちは第三高女の講堂と南山小学校の講堂に分散収容されて数日過ごし、焼け跡で貴重品を探し、また連絡先の立て札をたて、それぞれの疎開先へと別れて行った。その後六本木に移った私は、5月25日、再び焼け出された。
次は5月25日の当時10歳だった青山小学校の女子生徒の体験である。
病弱で学童集団疎開に行きそびれて、それでも数日後に行く予定になっていた。この日は父親は空襲警報で青山御所の守備要員として出かけ、母親は隣組長をしていて不在で、近所の人が世話をしてくれていた。
夜遅く空襲となり共同防空壕へ避難した。大量の焼夷弾が落とされ、まるで空から提灯を下げた花火が降ってくるようで、「きれいね」と呟くと隣のおばさんに叱られた。そのうちそばにも焼夷弾が降ってきて、そこを出て渋谷の方に歩き始めると運よく母に会え一緒に歩いたが、逃げる人波で先に進むことができないほどであった。その人波の上にも焼夷弾の燃えかすが降ってくるので母は持っていたバケツで防火用水の水を(自分たちに)かけながら歩いた。やっと表参道の交差点まで来ると四方から焼けてきて火の少ない方に歩こうとしてもまるで台風のように火と風が吹き荒れ、交差点を渡るのがやっとだった。前にあるコンクリートの防空壕に入ろうとすると一杯だと言われ、近くの木造の簡単な防空壕に入った。母は「もう生きてられないと思うから覚悟しなさい」と私に言った。そしてその壕もすぐに一杯になった。
街路樹が燃えていて、こちらに倒れてこないようにと祈った。壕の中にも煙や火の粉はどんどん入ってきて熱く、各自持っている水筒の水を軍手に湿らせ、降りかかる火の粉をはたいて消した。一層熱くなって、隣のおじさんが「ここにいてはだめだ」と言って外に飛び出した。それを追って息子さんも行こうとしたが、「ここがだめなら、外はなおだめです」と足を引っ張って止めた。すると頭が外に出た顔の右半分が大火傷となった。それでも息子さんはその入り口で入って来る火を叩いては消した。みんなが煙を吸い込まないように息を浅くして水筒の水で火の粉を消すのを夢中で繰り返した。
火も収まった様子になって、恐る恐る外に出た。一面焼け野原で、人っ子一人いなかった。前を見ると、最初に断られた防空壕に街路樹が倒れて潰れていた。まだあちこちで火は残り、地面は熱く、死体からはくすぶった煙が立ち上り、電線は垂れ下がり、この世の終わりのようだった。母が「何時かしら」と聞くと誰かが「5時です」と言った。母は隣組長の習慣で、号令をかけましょうと言って、「一、二、三 •••」と声を出し、全部で11人だった。先に出て行った隣のおじさんはそのまま行方不明となった。
家に向かって歩き始めると、青山通りは性別もわからないほど黒焦げの死体が転がっていて、踏まないように歩くのが大変だった。家の近くに来ると、焼け跡に父が呆然として立っていた。(『昭和の戦争記録ー目黒の住民が語るー』岩波書店)
筆者注: この時の火災の様子は、「道の両側から中心に向かって炎が地面を這ってくる。だから地面はすごい熱で真空状態だった」という。これは3月10日の江東区などの惨状に似ているが、この時青山通りは火勢によって強風の抜け道になったのかもしれない。実は防火訓練では空間の広い青山通りに避難するように指示があったと言い、これは隅田川をはじめとした川の橋の上に逃げた人と同様で、空気自体が発火点に達し人々の衣服や荷物から火がついたという。青山通りの「アスファルトには黒く焼け焦げた人の形が残り、道端には黒焦げの遺体が何日も放置されていた」。表参道付近ではたくさんの人が逃げ遅れ、安田銀行(現・みずほ銀行青山支店)の前には死体の山ができていたという。青山墓地まで行って助かった人もいたが、その付近の土手の下で親子3人、小さな穴を掘り、3畳ぐらいの水に濡らした絨毯を上から被ってなんとか助かったが、帰り道の表参道は死体の山で、明治神宮の石灯篭のところも同様だったという。
その現場である北青山三丁目の表参道交差点前には「和をのぞむ」と題した記念碑が、港区政60周年にあたる平成19年(2007)に建立された。——「…表参道では、ケヤキが燃え、青山通りの交差点付近は、火と熱風により 逃げ場を失った多くの人々が亡くなりました …」。
以下は赤坂区台町(現・赤坂七丁目)に住んでいた当時26歳の松本喜美子の話である。
5月25日の夜は警報発令の時から今までとは全く違った切迫したものを感じた。壕に退避した頃は地底から全身に伝わる不気味な振動と、鋭い閃光が火矢のように飛び交い、そのうち壕の外がパアーと明るくなり、玄関前や庭先に焼夷弾が落下、私達は無我夢中で飛び出し、用意の防火用具で必死に消して回った。焼夷弾は青白い閃光を放って飛び散るエレクトロン弾と、メラメラと燃え上がるのと二種類で、火を吹きながら次々と落下、その一つが私の頭上スレスレに落ちて燃え上がり、恐怖が全身を貫いた。消火の間に母を見失い、探し回りながら家の近くに燃え上がる炎を見ると、我を忘れてバケツを持ちかけ出していた。その時狂気のように私を探していた母と出会い、もう危ないと消火を断念、裏庭から逃げようとしたがその光景は凄まじく、表に回って門から走り出したが、表通りはまだ火は回っていず、隣家の奥さんと青山御所(東宮御所)に向かった。
それ以前に、隣組に避難場所を決めておくようにと通達があり、ほとんどが神宮外苑とされていて、私は青山御所と決めていた。皆さんは青山御所はとても御門を開けてはくれないと言っていたが、私は火に追われた国民を前にして門を開けられないようなことは絶対ない、もし開けられないようならもう国家ではない、我々も生きている必要はないと母には言っていた。広い表通りに出ると各方面から逃げてきた人達の群れが走り、中にはフラフラになりせっかく持っていた毛布や夜具を投げ捨てる人もいた。表通りに面した赤坂区役所は焼ける見本のように見事に全館火に包まれて燃え盛っていた。私たちが一番先に御門の前に立ったが、もうすでに目も開けられないような熱風が吹きつけていた。相当数の人が集まり開かれるのを待ったが、待ちきれずに外苑へ外苑へと叫びながら走る人が多く、しかしその人達は外苑でほとんど全滅したと後日聞いた。母も動揺していたが、私は死んでも動かぬ覚悟でいた。(注:この御所の話は新宿御苑に逃避した人達の話に似ている。新宿区参照)
ついに御門は軍装の人によって内から開けられ、皆一斉に御所内に入った。暗がりの御所内を奥へ奥へとわけ入り皆と一緒に芝生の上に座ってついに一晩その場所を動かず、悪夢のような夜を過ごした。凄まじい熱風で私達の衣服も座っている芝生も降り注ぐ火の粉でブスブスと燃え上がり、叩き消してもすぐ燃えた。頭上の松の木なども次々と火を吹き燃えていった。住宅街の方角は巨大な火焔となって炎の海となり、自分たちの家も燃えているのがわかった。御所にも火の手が上がりすべてが焼けた。(注:東宮御所は皇居と同様、米軍の爆撃対象から外されていたが、この御所の場合、延焼であった)
夜が明けきってから、変わり果てた御門を後にして焼け跡に帰った。見渡す限り一望の焼け野原だった。近くの立派な邸宅群もすべてがきれいに台石のみ残して灰になっていた。家の書籍は灰化して白い箱のようになって重なり合い、下の方はまだブスブスとしていた。近所の婦人が壕の中で全身土に埋まり、首だけ白骨になって発見され、知人の婦人と子供さんが一緒に路上で焼死体になっていた由、街の路上に散らばる焼死体はほとんど真っ黒に炭化して痛ましい限りだった。
隣組から100mたらずの所にスイス公使館があり、皆はスイスは中立国だからアメリカはここには落とさないでしょうと言っていて、お守りのように思っていたが、事実公使館はものの見事に残された。正面の一部をちょっと焦がしただけで、別天地のように残っていたが、その周囲の民家はすべてやられた。我が家の焼け跡からだけでも、30数発以上の焼夷弾の薬莢が出てきた。
(以上は『東京大空襲戦災誌』第2巻より)
学童疎開
欧州で並行して行われていた第二次大戦で、都市への凄まじい空爆が展開されていたが、日本への空爆も予測していた政府は、昭和18年(1943)より子供達の地方への縁故疎開を奨励、翌年3月末の時点で芝区2567名、 麻布区813名、赤坂区594名であり、さらに増やすべく集団疎開が計画された。国民学校の3−6年生を対象とし6月から8月までに芝区は栃木県の塩原温泉や鬼怒川温泉の旅館などに約4500名、 麻布区は栃木県南部の佐野、足利の寺院へ、赤坂区は多摩地区の村山、小平 、清瀬、府中、国分寺、神代(現調布)へそれぞれ2300名と1500名が20年(1945)3月までの予定で疎開した。最初子供達はみんな親の心配をよそに、遠足にでもいくような浮き浮きした気分であった。しかし数日も経たないうちに子供達は家族と離れた寂しさがこみ上げてきて、東京の方向の空を眺めたという。夜になると低学年生は親が恋しくて布団の中でしくしく泣くものもいた。当時の寺院の便所は離れの墓のそばにあることが多く、怖くて一人ではいけなかった。疎開先では生徒は勤労奉仕として働き手を兵隊に取られて手が足りない農家の手伝いもした。田植えや草刈り、稲刈りもしたが、その時には東京で食べられなかった白いご飯も食べることができた。しかし基本的に食糧は兵隊に優先的に回されるので主食はカボチャや芋で貧しく、子供達は満腹になることはなかった。引率の先生(先生だけでなく寮母の場合もあった)も食料調達にかけずり回った。食事のときも少ない食べ物を生徒たちに公平に分けるのに気を配った。集団生活は不衛生になるので、みんな一様に頭や下着にシラミが涌いていた。それでも生徒のみんなが戦場で戦っている兵隊さんのためにと(そう教えられていたから)一生懸命頑張ったが、時折淋しさと空腹に耐えられないと遠くの駅まで歩いて行き、東京行きの列車に乗ろうとしたが、ほとんどは簡単に駅員に捕まって戻された。不明になった生徒を探しに行くのも引率の先生であり、病気になった生徒を遠くの病院に連れて行くのも先生の仕事であった。なかにはそうした疲労が重なり、肺炎で亡くなった女の先生もいたが、貧しい食事で体調を壊して亡くなった生徒もいた。
疎開先は「学寮」と呼ばれ授業も行われたが、児童たちには児童手帳が配られ、日課としてその中の文章を大声で唱え、「少国民」としての心構えが叩きこまれていた。—— 「私たちは大日本の少国民です。大東亜戦争にかならず勝ちます/私たちは軍国の子どもです。心からの感謝をもって、兵隊さんのご恩にむくいます/私たちは戦っている国の子どもです。お国の力を私たちの力でつよくします/私たちは○○(学校名)の子どもです。何をするにも、捨て身の体当たりでいきます」。
また「児童戦時訓」というものもあった。—— 「昭和十六年十二月八日午前六時、大本営陸海軍部発表『帝国陸海軍は今八日未明にし太平洋に於いて米英軍と戦闘状態に入れり』次いでかしこくも宣戦の大詔を拝した日の息づまるばかりの緊張を私たちは一刻も忘れません。ながい間、アメリカやイギリスはアジアに勢を張ってアジアの人たちを苦しめてきました。今こそたって私たちはアジアをアジア人の手に取りもどすのです。『八紘をおおいて宇(いえ)とせん』と仰せられた建国の大精神を、昭和の大御代に生まれた私たちが命をかけてあらわすのです。皇軍のすすむ所、南も北も、東も西も、みな勝ちいくさです。勝利はつねに御稜威(みいつ)のもとにあり。勝って、勝って、勝ちぬくのです」。
そうして戦火は長引き、その翌年3月からは1、2年生も疎開させることになった。入れ替わりに先に疎開していた6年生は卒業式と進学の準備で大半が3月上旬(9日)までに帰京し、直後の10日の大空襲によって大火災を生じた地域の児童の多くが親とともに焼死した。一方で疎開先に残っていた生徒は、親が焼死し、孤児になってしまった場合も少なくない。例えば鬼怒川に集団疎開していた一人の男の子は4月の空襲で一家が全滅、それは先生に知らされたが、その先生は気の毒で言うことができず、戦後の10月の引き上げの時、叔父夫婦がその子を引き取りに来て初めて伝えられた。また3月に帰京していた生徒には4月13日と5月24−25日の空襲で被害を受けた生徒が多くいたが、その中の一人は、4月の空襲で家を失い、引越し先の家も5月の空襲で焼かれた経験を持つ人もいる。卒業・進学で帰京と言っても、都区内ではもはや学校の授業はまともになく、特に中学生は分散して工場などへ勤労奉仕させられるだけであった。なお大空襲で私立中学の試験は中止となり、志願すればそのまま入学できたという。
東京地区への空襲は5月まででほぼ区切りをつけられ、米軍はそこから地方都市への空爆に分散して向かった。そのため疎開先で空襲を受けたケースも多くある。千葉や茨城はおろか、静岡や新潟でも空爆は追いかけていき、そして3月10日の大空襲を経験して4月に仙台に逃れた一家8人(祖母、母、妹二人、弟三人と本人)のうち6人が犠牲になった例もある。
—— 7月10日、123機のB29が仙台を空襲、市街地のおよそ2割が焼失、1300人以上の人たちが犠牲になった。この方が疎開した家は親戚の大きな家だったが、周囲が焼夷弾にやられて、近くの東北大学の寮の防空壕に逃げることにし、3歳の妹をおぶって行くが、家族分タオルを水に濡らそうと風呂に向かうとき、6歳の妹がブルブル震えていて、早く行けと防空壕に行かせた。その後自分も防空壕に向かったがすでにいっぱいで、奥の家族に声をかけてタオルを投げ込み、自分と3歳の妹は近くの別の壕に入った。入り口の隙間から大学の寮が燃えているのが見え、火の粉が入ってきたが濡れタオルで消しながら落ち着くまで耐えた。火が鎮まっても外は熱くてすぐには出れなかった。外に出たら一面焼け野原で周囲には誰もいなかった。とりあえず仙台駅に向かった。… そして別の親戚の家に向かった。… そこで出会った従姉に聞くと、自分の家族はみんな窒息死して壕の上に上に並べてあって、火傷はなかったと言われた。翌日仙台に戻ったが、すでに遺体は片付けられてそこにはなかった。… その後海軍の軍属だった父親が駆けつけてきて、残った家族3人の生活が始まった。死んだ家族は共同墓地に入ったと聞き、探したが弟のカバン以外はわからなかった。… このほか疎開した家には祖母の妹と叔母がいたが、叔母は防空壕が苦しくて外に出て大火傷を負い、病院で死んだ。祖母の妹は半身不随で逃げるのを拒み、家の焼け跡を掘り返した時、胴体と頭だけが焼け木杭になって出てきた。
(以上は港区の証言サイトより混成)
仁義佛立講開拓団
これは東京港区麻布材木町(現・港区六本木六・七丁目)にあった乗泉寺の信徒が結成した満蒙開拓団である。
日本は昭和6年(1931)に満州事変を起こして中国東北地方の満州を支配する。政府は翌年から日本各地の農村貧困層を中心に満蒙開拓団(満蒙とは満州と隣接する内蒙古のこと)を募集した。昭和11年(1936)には「満州農業移民百万戸(500万人)移住計画」を立案、さらに日本は12年(1937)に日中戦争を開始、その4年後には太平洋戦争まで起こすに至った。その中で日本国内は物資不足と食糧不足が深刻となり、新天地として満州への移民が推奨された。満州移民の仕事は新たな土地による農業開拓であり、日本で不足する食糧を生産し、輸出する目的もあったが、まずは満州を占領する日本軍(関東軍)への食糧供給の目的もあった。新たな土地といっても満州農民を追い出したり、安く買い叩いたりした土地である。そのため現地の農民たちの恨みも買っていた。満州開拓団は当初、青少年義勇軍などを送り込むことによって土地の確保から始まり、そこに日本の貧しい地方の農村を村ごと移住させたが、一方で戦時下の物資不足で必要な日用品や食料は配給制となり、商売が成り立たなくなった商店街の人たちまで移住が奨励された(品川区の「東京荏原郷開拓団」、また「東京都の概要」の「満蒙開拓団」の項参照)。
そうした中でも自発的に開拓団に参加しようとする団体も出てきた。本門佛立宗では、この政府の政策に従って「佛立満蒙開拓団」として関東、関西を中心に開拓移民を募集した。関西では清風寺を送出母体とした「佛立開拓団」(645名)、東京では乗泉寺所属信徒を中心とした「仁義佛立講開拓団」(607名:約二百家族)である。そして昭和15-18年(1940−43)末にかけて満蒙国境に近い興安南省の西科前旗に入植した。
昭和20年(1945)8月9日(長崎への原爆投下の日)、ソ連(ロシア)軍が突然、日ソ不可侵条約を破棄して満洲国に侵攻を開始した。12日、開拓団にも関東軍がいる新京方面に脱出するよう避難命令が出された。しかし開拓団は国境地帯に取り残され、脱出の途上、ソ連軍機の空襲や現地の中国人暴民の襲撃に遭いながら逃避行を続けた。8月25日に竜江省洮南県西方20kmの地点でソ連軍の自動車化歩兵部隊(自動車を使用する歩兵)と遭遇した。ソ連軍は避難民へ向けてトラックで突進しながら機銃掃射を行い、多数の避難民が射殺された。その後、トラックから降りてきたソ連兵が避難民に対して、生死を問わず銃剣などで止めを刺していった。児童ですら小銃の台尻で殴り殺された。避難民の中には絶望して自決した者も相当数にのぼり、生存者は子供が20名とされている。なお、東京都八王子市加住町にある乗泉寺八王子別院の敷地内にこの開拓団の慰霊碑が建立されている。
以下はかろうじて生き残った当時15歳の金沢豊彦の手記で、本門佛立宗のサイトに掲載されているものである。
——1時間ぐらい歩き、木もなく家もない平野のところに出た。すると後方よりすごい速力で我々本隊へむかって近づいてくる数台のトラックがある。ソ連の機械化部隊だ。(中略)トラックの上から機関銃を撃ちまくり、小銃を持った兵隊はトラックから下り、一人一人を撃ち歩いた。誰も起き上がるものもなく、伏せたまま撃たれるだけ撃たれるより仕方がない。(中略)敵は中々去らず、暫くすると今度は持っていた武器を皆とりあげ、それが済むと一人一人順に大人は銃剣で刺し、子供は銃尻で殴ってきた。絶体絶命だ。それでも死んだ振りをしてじっと様子を伺っていると段々足音が近づいてきた。2m位離れたところでお袋がやられたらしい。次に妹がやられ、遂に私の番だと思った瞬間、ガアーンと一撃食らった。3回続けて殴られ鼻と口から血が出てもう生きた心地はなかった。次は弟の番だ。私の足元で伏せっていたが銃で殴られると私のズボンにしがみつき「兄ちゃん兄ちゃん」と泣きついて離れない。兵隊は無理に立たせ再び頭を殴り飛ばした。2人とも頭をやられ、こうして女子供の別なく容赦せず殴るか、銃で刺し殺した。(中略)校長先生が磁石を持っていたのを思い出し、先生を探すとじき近くで奥さんと坊やと3人頭を並べ仰向けに死んでいた。悪いとは思ったがズボンのポケットを探すと磁石が出てきた。ガラスが半分欠けているが未だ役に立つ。杉本副団長も御本尊を背負って家族の者と死んでいた。(中略)兄を探すのに大勢倒れているのでなかなかわからなかったが、約30m離れたところで大の字で仰向けに倒れ息絶えていた。刀を持っていたのでその刀で頭を切られ長さ10cm程バックリ割られており一撃で死んだようだ。頼りにしていた兄がやられ実に悲しい思いだ。服に付けていた懐中御本尊を取り外し形見に持って行くことにして身に付けた。(中略)息のある者は起こされてトラックに乗せられているらしい。(中略)とうとう見つかって引き出された。トラックの傍には20人ほど居たが全部子供だ。(中略)トラックに1時間半も揺られて満人部落へ着いた。その部落に1泊し27日に再びトラックで洮南の収容所へ入った。病院へ着いて初めて敗戦を知り、とても信じられなかった。洮南に2ヶ月余収容され、新京へ送られ、新京の孤児院で9ヶ月を過ごし、昭和21年(1946)8月10日に九州の博多に上陸した。その時は26名のうち病気で死んだり満人に連れて行かれたりして帰国できた子供は7名になっていた。
ちなみに、こうしたソ連軍の暴虐行為は当然ひどいものであるとして指弾されなければならないが、実は昭和16年(1941)6月、ナチス・ドイツはやはり独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、同様な虐殺行為をロシア人に行い、また日本も特に日中戦争において中国に侵攻した際に、同様な虐殺行為を数々行っている(筆者の「昭和12年」あるいは「日本軍の中国における爆撃全記録」参照)。
日本赤十字社と従軍看護婦
港区に本社を置く日本赤十字社は、明治10年(1877)の西南戦争時に設立された博愛社が前身であり、明治20年(1887)に日本赤十字社と改称し、国際赤十字に正式に加盟した。日本の従軍看護婦(正しくは救護員)制度が始まったのはその明治20年代とされるが、実は日赤は戦後に厚生省の管轄になるまでは陸・海軍省の管轄であった。明治43年(1910)の勅令では「日本赤十字社は救護員を養成し救護材料を準備し陸海軍大臣の定むるところにより陸海軍の戦時衛生執務を幇助す」となっていた。したがって日本赤十字社看護婦養成所を卒業した者は、卒後20年間は、平時には日赤病院その他に勤務し、戦時召集状が届けば、たとえ結婚しまだ小さい子供がいても、戦場に召集される義務を負っていた。
昭和6年(1931)の満州事変では約600人の看護婦が派遣されたが、続いて12年(1937)7月7日に陸軍の支那派遣軍による盧溝橋事件があり、それを待っていたかのように日本の陸海軍は戦争の準備を始め、7月12日頃には日本各地に召集令状の準備を始めていた。そして日赤の看護婦が召集されたのは12年(1937)7月28日であった。「日中戦争が本格化すると軍の要請で戦地に送られる看護婦を主とする救護班が編成され、200名は3隻の陸軍病院船(盛運丸、六甲丸、嘉義丸)に乗船し中国の戦場に向かった」とあるが、日中戦争(支那事変)が実際の開戦に至ったのは、海軍の陸戦隊が上海で戦闘を開始した8月半ばであり、海軍は即座に飛行隊による中国への空爆を始め、それに呼応して陸軍は上海派遣軍を編成し、中国との本格的戦闘に突入した。つまり従軍看護婦が召集されたのは開戦の二週間以上前であった。
この開戦により日本赤十字社は完全に軍の監督下に置かれ、その要請に沿って国内の各支部に派遣人員を割り当てた。そして戦時召集状(男子の徴兵と同じ赤紙である)が届いた看護婦は軍籍となり、出征兵士と同様に即座に戦地に送られた。それは「お国のために役立つ」名誉なこととされ、召集を受けた本人も意欲に燃えて応召したが、産まれたばかりの乳飲み子を置いて従軍した看護婦も少なくなかった。
そこからこの12年末まで、看護婦は第17次まで派遣され、国内の病院を除いて2378人が派遣され、5人が殉職した。日中戦争開戦当初は大陸付近の海上で病院船による看護が主であり、看護婦の「戦死者」は少なかった。病院船では火葬の設備もあったという。戦線が内陸に進むに従い、前線の後方で負傷兵の看護にあたり、犠牲者も次第に多くなる。そして昭和16年(1941)12月から太平洋戦争に突入すると看護婦は東南アジア戦線にも次々と派遣された。
さらに日赤は従来3年だった救護看護婦の教育期間を2年半に短縮し、太平洋戦争勃発後の17年(1942)には救護看護婦を甲種看護婦に格上げ、新たに乙種看護婦という速成コースを設け、採用年齢の下限を18歳から16歳にまで引き下げた。これは陸軍少年兵学校等の辿った道と同じであるが、この時期、大学生も徴兵年齢を下げられ、高校レベル以上の学校も修業年限が短縮されている。
太平洋戦争で南方に救護に行く海上で病院船や輸送船(病院船では兵士も武器も運ばれ、慰安婦もいて、輸送船でも鮨詰めの中で看護婦は運ばれた)も撃沈され、そのまま海中に沈んでいった看護婦たちも少なくない。追い詰められた東南アジアの戦場で、連れて逃げることのできない重症の兵士に劇薬を注射するよう命じられたケース、ジャングルの中をさまよい集団自決に追い込まれたケースもあるが、死亡した従軍看護婦の死因の第一は伝染病などによる病死で、東南アジアではマラリアによるものも多かった。
満州で勤務していた看護婦には、敗戦直前のソ連(ロシア)軍の侵攻により悲劇が待っていた。敵前に恥をさらすなと教育を受けていたこともあり、ソ連兵に暴行されることが頻発すると(開拓居留民と同様に)集団自決するケースも生じた。翌年、長春の病院に残っていた22人の看護婦が青酸カリ(いざという時のためとして婦長などから渡されていた)を飲んで自ら命を絶った例もある。あるいは死のうとして日本兵に死んではいけない、逃げなさいと励まされて生き残った看護婦たちもいる。あるいはまたソ連に捕まった満州の日本兵たちは何十万単位でシベリアに連行され抑留されたが、その中に何百人かの看護婦もいて、収容所の中で看護にあたった場合もあった。逆に満州の731部隊で、現地人の人体実験に看護婦としてたずさわった例もある。その場合、そういう環境下であったから罪の意識はなかったという。また中には中国側に請われて中国に残って10年近く病院で仕事をした看護婦もいる。これは戦後の中国で内戦を経て、共産党が政権を取り、日中の国交が長年閉ざされたことも影響している。帰れるものなら早く日本に帰りたかったという。
太平洋戦争終了までに出動した従軍看護婦は、日赤出身者だけで960班(1班は婦長1名・看護婦10名が標準)、合計94回、3万5785人の医師や看護婦が派遣され、1187人が殉職、そのうち看護婦が1120人であった。負傷者は4700名近くとされる。
日赤創立100周年の昭和52年(1977)、本社の前庭に殉職救護員慰霊碑と看護婦立像を建て、殉職者の名簿を納めた。すでに軍人(出征兵士)に対しては恩給等が支給されていたにもかかわらず、軍人に準じる扱いとして召集されていた従軍看護婦には兵士ではないとして、その補償の対象にされていなかった。そこで昭和53年から軍人恩給と同等の慰労金支給を求めて活動が始まり、昭和54年には従軍看護婦の会を結成、その結果従軍看護婦に対する恩給ではなく慰労給付金としていくらか支給されるようになった。しかしそれは国庫補助による日本赤十字社からで、額も限定されていた。さらに支給対象者は、3年以上の戦地勤務期間があるなど条件が限定され、従軍した日本赤十字社の看護婦の5%にも満たなかった。その後多少増額されたが、軍人恩給とは桁違いのままである。
ついでながら他でも記しているが、戦後にあって国の最大の失政は、戦災で孤児になった子供たちに対して十分な施設も与えず、また1円の補償も与えなかったことである。看護婦たちは結束して訴えを起こすことができたが、子供たちは何の手段も持たなかった。空襲の被災者も長年に渡って裁判などで国に補償を求めたが敗訴となり、また国会議員の若手も何度か取り上げようとしてきたが、大きな壁があり実現することはなかった。逆に元軍人に対する恩給や遺族年金などは、その対象者が死亡して減り続けているにも関わらず、年々増額され、今やその親族までが対象となって、毎年兆を超える予算が計上されている。(筆者の「東京都の概要」参照)
元麻布の大地下壕
本土決戦を唱えた軍部は元麻布の丘陵の地形に目をつけ、昭和20年(1945)4月、まず海軍陸戦1個大隊を横須賀から移駐させた。 この大隊は集団疎開で空いていた南山小学校を兵舎にした。そしてこのうち山田丘陵地帯一帯を本土決戦の要塞とすべく、現在の元麻布の宮村山水舎辺りと賢崇寺付近の崖下の二方面より、横穴を掘るように地下壕の構築をはじめた。途中からその作業に動員されたのは再呼集された高齢の軍人に混ざって、麻布中学の生徒たちもいた(例えば安立電機に勤労奉仕していた生徒は5月24日に工場が空襲で焼失したため、この地下壕建造に回された)。しかし計画の約6割ぐらいで終戦となった。8月15日正午、生徒達は軍人と一緒に南山小学校の校庭で終戦の「玉音放送」を聞いた。
壕は戦後そのまま放置されたが、昭和52年(1977)、周辺住民から「壕内に大量の油が浮いている」という通報があり、麻布消防署が壕内部の廃油処理をしながら調査し、総延長200mとされる壕内部の見取り図も作られた。壕は麻布山善福寺境内の斜面を通り高台に隣接するマンション(当時)の真下まで続いており、その建設で突き抜けているパイルもあった。壕の高さ2.5m、幅2.3mで入り口は鉄の二重扉であり、両壁はコンクリ-トブロックで張り固め、通路には下水溝を作り、中央にトロッコのレ-ルが敷かれていた。その後、この壕は発泡製コンクリートを充填して埋められた。
当時の記録は敗戦後すぐに軍内で焼却されて何も残されていないが、上記は地元の人が地道に調べて(当時動員された中学生の証言も集め)ウェブサイトに載せているものを要約した。実は「本土決戦」に至ってこの地下壕が支えきれない場合を想定して、軍はこれに並行して長野県松代一帯(松本市)に大地下壕を建造中で、当時の国家中枢機関である皇居や大本営などをそこに移動し、ここは撤退する計画があるとの話を軍人に聞かされた生徒もいた。
<お台場に漂着したおびただしい遺体>
お台場は現在港区であるが、東京湾の項参照。
学生・生徒の勤労動員
芝区三田にあった慶應義塾普通部(旧制中学相当で5年制、現・慶應義塾中等部の場所にあり戦後横浜市に移転)の場合、昭和19年から20年(1944~45)にかけて海軍や東京の軍事施設や区役所などでの物資の運搬、防空壕掘り、民間工場での戦車のキャタピラ・零戦の部品作りなどに従事した。中学卒業後に進学する旧制高等学校、旧制専門学校、大学予科・本科などの若者には、より遠方の地への出動や複雑な作業が任され、何ヶ月にもわたって農家や工場の社宅などに泊まり込むことも多かった。また高等部(旧制専門学校)の場合、栃木県内の農家の農作業や排水工事の手伝い、品川、 大井、横浜などの工場での作業に出動したと記録されている。昭和20年(1945)8月7日の空襲で多数の犠牲者が出た愛知県豊川海軍工廠にも最大で200人が出動していたが、その前に引き上げていて被災を免れた。なお、慶應義塾大学をはじめとするその他の大学と女学校に関しては別枠としてあり、『戦時下の大学・女学校』を参照。
戦後の出来事
日本の降伏反対への動き
8月15日、皇居でも天皇の終戦宣言(玉音放送)に反対し徹底抗戦を主張する若手将校による宮城クーデター事件(千代田区参照)が起きたが、港区でも芝区愛宕山において右派グループ12名が抗戦派軍人の決起を促すべく大臣邸を襲撃した後、愛宕山に篭城する事件が起きた。22日、警官隊が発砲し突入、追いつめられた首謀者たちは手榴弾で自決を図り、10名が死亡、2名が捕えられた。
日本の無条件降伏を求める連合国による7月26日のポツダム宣言に対し、当初は新聞等のメディアはこぞって「笑止」として反論していた。しかしその後の広島・長崎への原爆投下や8月9日未明のソ連の突然の中立条約破棄による満州への侵攻で情勢は極端に不利になった。それでもこの聖戦を完遂し本土決戦をすべきという軍内の反対論も根強くあったが、8月10日の午前3時から行われた閣議で、日本のポツダム宣言受託が承認された。敗戦を知った厚木基地の一部将兵が16日に徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。ただ、宮城事件の際、阿南陸軍大臣が反乱を止めようと自決する出来事もあり、将校たちの自決が続き、皇居前で自決する軍人もいた。それよりも、この終戦の通知が一部では徹底されず、特攻隊として出撃したり、海外では戦闘を続けたりして無駄死したケースも多くあった。
闇マーケットの勃興
新橋駅前には終戦の翌々日あたりにはもう数人の露天商が品物を並べていたという。一ヶ月も経つ頃には市場のような形ができていた。これは闇市と言われ、新橋の駅前は戦時下で空襲による延焼対策のために建物の強制疎開がされて空地となっており、そこに闇市ができた。戦時下の物価統制令によって食料を含めて配給制度が施行され、終戦後も当然物資不足はさらに深刻となっていたが、物価統制令と配給制度は維持されたままだった。それでは生活ができないと、空腹を抱えて人々は闇での物資を求め、それに対して露店が並ぶ闇市が各地に広がっていき、新橋は新宿や上野などと並ぶ大きなマーケットとなり、またバラック建の非合法の飲み屋街もできた。そうした露店に対し警察の取り締まりも強化されていくが、占領軍GHQの指示により露店整理事業もおこなわれ、新生マーケットという形で長屋型の共同店舗も建設された。その後高度経済成長に入り、再開発の一つとして昭和46年(1971)には現在のニュー新橋ビルに建て替えられ、これは一種の雑居ビルで、中の店舗は戦後の雰囲気が残っていて、また駅周辺の地下の飲み屋街も同様である。
闇市としては新宿は生活雑貨が中心で新橋は食料品が中心だったという。食料不足の時代、一般的に都民がこうした闇市ばかりに頼ったわけではなく、千葉や茨城、埼玉県などの農家に買い出しに出かけることも多く、インフレもあってお金は信用されず、着物などとの物々交換も多かった。しかし帰りの列車の中や、降りた新橋駅で闇物資として警察に摘発され、そのまま没収されるケースもあり、特にそれがコメなどの場合、泣くに泣けなかったという。また昭和22年(1947)、食糧管理法の案件などを担当していた一人の裁判官が、闇物資に頼ることはできないとし、配給される食糧だけで生活して餓死に等しい栄養失調で死亡、世間で話題になった。農家としては高く売れる闇屋に食糧を影で売るから、配給側に回って行かない事情もあり、悪循環であったろう。
失われた増上寺の文化財と土地
徳川将軍家の墓所であった芝の増上寺は二度の空襲を受け、3月10日に五重塔、仁王門(運慶作の仁王像があった)、北廟68塔が焼失し、5月25日には徳川家の残る南廟28塔が焼失、合わせて国宝建造物90塔を失った。火がついて防火隊が駆けつけた時にはすでに手の施しようがなく、何層にも漆が塗られた霊廟が燃え上がるときは美しく七色の炎で輝き、また仁王門が燃えてその火を背景にした仁王像は荘厳な姿であったと当時の警護員は語っている。こうした光景は、例えば焼夷弾が夜空に無数に落とされるときにも花火のように綺麗だったと語る人もいて、正直な感想なのであろう。もちろんそれは遠くから眺めていた場合のことである。実は増上寺は五重塔も徳川の霊廟も含めて、文化財として米軍の空爆対象から外されていた。浅草寺も同様で、それは延焼であったが、増上寺の場合、誤爆なのかどうかはわからない。
増上寺の元の敷地は宏大で、現在の芝公園もそうだが地下鉄駅のある芝大門、移築されているが御成門、そして東京タワーの敷地も増上寺の墓地跡であったが、戦後西武鉄道系に売却され、現在の二つのプリンスホテルも徳川家の霊廟群の広大な敷地跡に建てられている。焼失を免れた一部の霊廟は、ホテルの建設に際し、西武鉄道が沿線の狭山不動尊に移築させた。増上寺には現在、徳川家の宝物展示室があるが、もしこれらの焼失がなかったら、増上寺は一つの観光地になっていたかもしれない。
善福寺の役割
麻布の善福寺は歴史は古く、平安時代の創建とされるが、嘉衛6年(1853)のペリー来航から安政5年(1858)、日米修好通商条約が結ばれると、それまで初代米国総領事として下田の玉泉寺にいたタウンゼント・ハリスが公使となり善福寺を公使館として奥書院や客殿の一部を使用した。しかし攘夷を唱える水戸浪士の焼き討ちにあって書院などが焼失した。寺の僧たちが公使館員を守り、その後は本堂や開山堂も使われ、明治6年(1873)まで米国の公使館としてあった。寺には昭和11年(1936)、ハリス公使の肖像がついた顕彰碑が建立されていたが、昭和16年(1941)、太平洋戦争に突入すると米国は敵国となり、軍当局に遠慮して顕彰碑は菰がかぶせられ土中に埋められた。また善福寺は戦時下では海軍の燃料廠として使われ、その宿坊は陸軍の宿舎に使用され延べ約30万人の兵士に利用された上、戦争終盤には軍は墓石の下まで掘って防空壕を作った。そして昭和20年(1945)5月の空襲で、三代将軍家光から寄進された本堂が焼失した。
戦後、日本を占領した米軍に所在を尋ねられ、顕彰碑は日の目を見た。再び建立されたのは、日米修好条約百年祭が行われた昭和35年(1960)であったが、その後、新任の米国大使が着任すると善福寺のハリス顕彰碑に参拝をすることが慣習となった。そして翌昭和36年、焼失した善福寺の本堂は徳川家康が建立した東本願寺八尾別院本堂を譲り受け、移築再建した(2009年に大改修)。なおその年、不明であったハリスの墓所発見の報がアメリカ大使館から善福寺に届いた。墓はニューヨーク・ブルックリン外れの広大な墓所の中にあり、善福寺住職の照海師が赴き、その墓名の終わりに「日本の友人」と記されているのが確認できた。