文京区:小石川区+本郷区

(東京都全体については「東京都と戦争の概要」参照)

文京区の空爆被害

〇 空爆日:昭和17年(1942)4月18日/19年(1944)12月12日・27日・31日/20年(1945)1月27日、2月19日・25日、3月4日・10日、4月13-14日、5月2-5日・7日・10日・24日・25日(全19回)

〇 被害状況:死者640人以上、重軽傷4400人、被災14万1000人、焼失等家屋3万7140戸

〇 出征者と戦死者:不明

<年月日別被害記録>

 昭和17年(1942)4月18日午後:本土への初空襲で太平洋上の米軍母艦からB25中距離爆撃機が出動、前年の12月8日の真珠湾奇襲攻撃の返礼的爆撃である。焼夷弾と機銃掃射を使い東京から神戸までが攻撃された。文京区では小石川の関口水道町に約30個の焼夷弾が投下されたが初期消火された(荒川区参照)。

 19年(1944)12月12日夜:豊島区にB29長距離大型爆撃機2機が来襲、死傷者21人、小石川で被害は負傷数名のみ。偵察を兼ねて空爆した模様。

 12月27日:B29その他72機来襲、主に武蔵野の中島飛行機工場を狙ったもので、都全体で死傷者約160人、文京区の被害は軽微。なお日本の戦闘機も200機以上で迎撃し、B29を1機撃墜したが、自軍は20機以上撃墜されている。撃墜されたB29は戦闘機飛燕が体当たりしたもので、そうでもしないと空の要塞と言われたB29は容易に落とせなかった。その後も多くの若者が自爆攻撃していったが、体当たり直前に落下傘でうまく脱出できた特攻隊員もいた。

 12月/31日夜間:B29が二機で来襲、その二機だけで焼夷弾を何と1676個投下した。B29がどれだけの積載量を誇っていたかがわかる。都全体で死者1人、重軽傷19人、全焼家屋508戸、文京区では弾焼夷弾と不発弾が落ちたが被害なし。

 1月27日昼:B29約60数機が都区内全域を空爆、昼間の有楽町駅付近で100人以上の遺体が散乱した。文京区は死者9人、重軽傷者25人。

 1月28日夜間:B29単機が偵察を兼ねて来襲、約450個の焼夷弾を投下した。旧本郷区で死傷者30人、全焼戸数472戸。この時、日本医科大学の多くの建物が焼失、また森鴎外の旧宅、観潮楼も焼失した。

 2月19日:B29約130機が来襲、旧本郷区で自軍の高射砲による不発弾落下で負傷1人。実はB29の航行高度は1万mで、この時期の日本の高射砲弾では届かなかった。

 2月25日:都区内にB29が午前10機、午後約200機来襲、約2万戸が焼失、全体の死傷者は約410人、旧本郷区で死者6人、負傷者16人、行方不明1人とされる。駒込病院旧館4棟、富士前国民学校、都立女子商業学校等も焼失。

 3月4日午前:都区部と多摩地区にB29が177機来襲、都区内の死傷者は約千人、焼失家屋約4万戸以上、旧本郷区では死者100人、重軽傷者約220人、焼失家屋約2千戸。この時千駄木の銭湯の防空壕代わりに使われていた石炭置場が直撃され、中にいた女性と子供23人が死亡した。戦後ここに「千駄木平和地蔵」が建立された。また同じ千駄木の須藤公園の高台を利用して作られた防空壕も直撃され、入り口が塞がれ中にあった水道管が破裂し、数十人が水死した。

 3月10日:東京大空襲の日。江東、墨田、台東の下町3区が中心で焼死者8万数千人の甚大な被害。文京区は旧本郷区での死者185人、重軽傷者約1600人、焼失家屋約8千戸、被災者約2万9千人。小石川区役所、本富士警察署、本郷消防署・郵便局、佐藤高女、本郷工業学校、湯島・駒本小学校が焼失。

 4月13-14日(城北大空襲):夜半から都区のほぼ北半部にB29約330機が来襲、これは3月10日の約300機よりも多いが、全体での死傷者ははるかに少なく、死者約1830人、負傷者約5000人、家屋の全焼等約16万8700戸、被災者約70万9000人、文京は旧小石川区が主で死傷者約100人、家屋の全焼約1万3500戸、被災者約5万500人。千駄木・駕籠町小学校、第五中学校、東洋高女、女子高等師範学校、帝国女子専門学校も焼け落ち、帝国女子は敷地内の寮の女子学生7人が防空壕の中で生き埋めになった。その叫び声で近くの拓殖大学防空隊が駆けつけ救い出したが、4人が死亡した。

 5月2-5日、7日、10日:被害微小。

 5月24日未明(城南大空襲):主に皇居より南西部地域へB29・525機による大空襲で、旧本郷区で死傷者12人、家屋の全焼等約400人、被災者約1800人。

 5月25日夜間(山の手大空襲):続いてB29が470機来襲。都区内の被害は4月13ー14日の被害の1.5倍程度。文京区は旧小石川区の被害が大きく、合わせて死者約150人、負傷者約2500人、家屋の全焼等約1万3200戸、被災者約5万500人。この日は窪町・明化・小日向台町小学校、駒込・独協中学校、跡見高女などが焼失。火は強風にあおられ一大火流となり残存した東京の市街地を焼き尽くした。この後、米軍の爆撃は地方都市へと向かう。またこの日の空襲で大司教座の関口教会(関口天主堂)が全焼し、小神学校に抑留されていた外国人(昭和16年:1941年の開戦によって修道女、プロテスタント宣教師、一般婦人など女子だけが80人が敵国人として軟禁生活を強いられていた)は中落合の聖母病院に移動した。なお大司教座聖堂は再建が図られ、昭和39年(1964)に現在の聖マリア大聖堂が完成した。

<空爆で焼失した小学校など>

 主に4月と5月の米軍空襲により全半焼した。

 全焼:大塚小学校、駕籠町小学校、竹早小学校(後に廃校、跡地は竹早公園)、駒本小学校、明化小学校、礫川小学校、柳町小学校、黒田小学校(廃校)、東京聾唖学校(聾唖学校の生徒たちは埼玉県に疎開していた)

 半焼:窪町小学校、小日向台町小学校、汐見小学校、千駄木小学校、湯島小学校

 このほか、郁文館商業学校と駒込学園中学校、淑徳高等女学校(ただし後に板橋区に移転)が全焼、桜蔭高等女学校、東京文理科大学がほぼ全焼。

<仮埋葬>

 文京区は3-5月の空襲で多くの焼死者を出したが、死体の処置が追いつかず、六義園内に約600体が仮埋葬され、戦後25年になって掘り起こされ、町家の火葬場で焼却された。ただ3月10日の台東、墨田、江東区の仮埋葬の数からすればはるかに少ない。遺骨はとりあえず墨田区にある関東大震災の犠牲者約6万人(全体の犠牲者は約10万人以上)の慰霊堂に埋葬されたが、その後設備は改装され、合葬が正式とされた。しかし遺族には違和感が残る形となった。(「東京都と戦争の概要」の「慰霊堂」参照)

戦時下の出来事

(戦時下全体の出来事については「東京都と戦争の概要」参照)

 昭和6年(1931)の満州事変の翌年、東京市連合防護団が結成され、各区もその体制がとられた。8年(1933)になるとその防護団による連合防空演習が行われた。防空とは飛行機による爆撃を想定するものだが、この時期飛行機が急速に発達し、爆撃機も登場していて、日本軍は満州でも使うようになっていた。12年(1937)には日中戦争(支那事変)が始まり、本格的な戦時体制が敷かれ、町内には隣組制度が導入された。13年(1938)には国家総動員法が実施され、物資や人の移動に制限がかかった。14年(1939)には国民徴用令が敷かれ、国が必要とする軍事関連の仕事に強制的に移すことができるようになった。例えば建築技術者を中国の満州やその他の占領地に行かせるとか、国内でも東京の人間を地方の軍需工場に行かせるとかである。また防護団は警防団となり、その下に特設防護団が置かれた。15年(1940)には大政翼賛会が発足し、町会や隣組を指導することになった。また贅沢禁止令が発令され、不要不急品の製造販売も禁止された。

 16年(1941)春には小学校が国民学校とされ、軍国主義体制に組み込まれ、その12月、日本は太平洋戦争に突入した。すでに武器生産のための金属も不足し、「金属回収令」が発令され、それは家庭の鍋や釜までも対象となり、建物の鉄柵や手すり、銅像、寺院の仏具や梵鐘なども対象となった。

 17年(1942)4月、米軍は太平洋上の空母からB25爆撃機を発進させ、東京や主要都市に初爆撃を行った。それにより防空法を改正、市民に消火活動の義務付けと待避を禁止した。このことが後の本格的空襲による悲劇の下地となった。また食糧も配給制となり、市民の窮乏状態は加速し、「欲しがりません勝つまでは」の標語も生まれた。

 18年(1943)には勤労動員令が発せられ、中学校以上の学生・生徒は一定期間の勤労が課せられ、軍需工場への労働や不足する食糧増産のための農作業に従事するが、次第にその割合は多くなり、20年(1945)になると学業は一年間停止され、通年動員となった。18年(1943)10月には文科系学生の徴兵猶予が撤廃され、学生たちは休学して徴兵された。

 19年(1944)に入ると迫り来る空襲に備えて都市に空き地帯を作る目的で建物強制疎開が行われた。それは11月下旬から始まった米軍の本格的空襲にも並行して行われたが、日本の木造家屋の延焼の前にはあまり役立たなかったし、米軍はそれを狙って爆弾よりも焼夷弾を多用した。また政府はこの年から学童たちの縁故疎開を奨励したが、続いて8月からは半強制的な集団学童疎開を実施、小石川区の小学生は宮城県、本郷区の小学生は栃木県に疎開した。空襲が始まると翌年春、集団疎開は一年間延長が決定された。

 20年(1945)8月、敗戦が決まったが、疎開児童たちはすぐに帰ることはできなかった。自宅が焼かれ、親も焼死し、孤児になった子供もいた。小石川と本郷区を合わせた文京区の人口は昭和15年(1940)には約30万人であったが、敗戦時には10万人に落ち込んでいた。残った住民たちは焼け跡の半地下のバラックを住居とし、焼け残った土地に芋や野菜の畑にし不足する食糧を補った。

空襲体験

3月10日の大空襲では文京区は時間的に最後のあたりであった。

 ——本郷区春木町は江戸時代からの町で住宅と商店が入りまじり、歴史的に有名な建物もあった。子供たちはたいてい路上で遊び、石蹴り、縄跳び、まりつき、円陣遊び、羽根つき、花火など思い思いのことをし、街角には紙芝居屋、おでん屋、金魚売りなどが声をひびかせ、子供たちの声が飛び交い、夏の夜はいつまでも家々の戸が開けられて縁台や椅子が並べられ、話がはずんでいた。戦争が激しくなると路上は子供たちの遊び場から、隣組の防空訓練の場に変わり、集団疎開が始まった19年(1944)の夏からは子供たちの声は聞こえなくなった。空襲が始まってからは地方に疎開する人もいたが、(戦地に出征した男性以外に)まだ病人や老人、妊婦が多く残っていた。
 9日の夜は警戒警報を夢うつつに聞きながら眠っていて、その警報もいったん解除になり、その後空襲警報で私は飛び起きて支度をし玄関に降りた。その玄関に差し込む光を見て今日は朝から空襲かと思った。外に出ると対空砲用の照明灯が何本もゆれ、近所の人は防火用水や器具の点検などしていた。時間は12時半ごろだったが東の空が次第に赤く染まってきた。「隅田川の向こうだよ」という声がしてまだ遠いと思ったが、火は拡大し「対岸の火事」ではなくなった。一時ごろになって突然北の空が明るくなり火柱が上がった。直後に「(駒込)浅嘉町がやられた」との声がした。一時半ごろになり突然ドシーンと音がして足元がゆれた。それが続き防空壕に飛び込んだ。すぐ後にザーッと夕立のような音がし「焼夷弾落下!」との声が聞こえた。南の方に目を移すと、B29が電柱にかかるかと思えるほど低空でやってきて、去った後には焼夷弾が4m道路の中央に並んで落とされ火を吹いていた。人々は避難の用意で家の中に駆け込み、救護要員で動員されていた母も戻ってきた。本郷三丁目も火の手が上がっているという。外に出ると昼間の明るさであった。
 私たちは湯島小学校に避難した。校舎の一部に火が入り、三階の窓から炎が上がっていた。それらは消し止められ、夜が明けて人々はそれぞれの避難先から我が家の焼跡に戻ってきた。春木町は全くきれいに焼けてしまった。どこが誰の家だったか、さっぱりわからない。区役所は全焼し、地下室では死者が出た。春木座から本郷座まで演劇場や映画館も跡形もなかった。焼跡の熱気は翌日も残っていた。
(『東京大空襲戦災誌』第1巻:岩沢智子、当時19歳)

4月13日の体験である。

 ——その日はとても寒い朝で、いつものように朝礼の為に校庭に並んだ私たちの耳に響いてきたのは、勇ましい軍艦マーチと、大本営発表の我が帝国海軍が真珠湾において奇襲攻撃をおこなって大戦果を挙げたとのニュースだった。…当時私は、学習院初等科4年在学中で、家は駒込駅の近くにあり、両親と兄の4人家族で何不自由のない毎日を送っていた。はじめのうちは戦況も順調で、ラジオから流れる大本営発表のニュースも元気よく毎日のように赫々たる戦果を挙げたという発表で、これは間もなく我が国がこの戦に勝つのかな、と子供心に思ったりしていた。
 ところが昭和18年(1943)頃から様子がおかしくなってきて、空襲の警報サイレンが鳴り響いたりすることが多くなり、そのたびに灯火管制と称して電灯を黒い布で覆ったり、庭に掘った防空壕に逃げ込んだりするようになってきた。そして昭和20年(1945)3月10日、東京の下町一帯が焼け野原になる大空襲があった。
 この年3月に私は中等科に進学、初めて穿いた長ズボンにゲートルを巻いて陸軍の派遣将校の軍事教練などを受けるようになっていた。…4月13日、何時ものように家族そろって夕食をすませた頃、警戒警報なしで、いきなり空襲警報のサイレンが鳴り響き、「全員直ちに避難!!」という在郷軍人さん達の緊張したどなり声とともに、悪夢が襲って来た。防空頭巾を被ったり食料を持ち出す支度をして外に出てみると、大勢の人達が東の方向に向かって走っていた。両親と兄と4人で皆の後を追ってしばらく行くうちに、軍人さんが「敵機来襲!!」と怒鳴っているのと同時に、頭のすぐ上を「グォーン」という腹に響くような薄気味の悪い音を立てながらB29が何機も何機も通り過ぎて行くのが見えた。学校で習った通り両手で耳と目と鼻を覆い地面に伏せていたが、起き上がって周りを見るとあたり一面に焼夷弾が落とされていて真っ赤な炎を上げていた。すでに周囲は火の海で消火活動どころではなく、群衆に押されてただ逃げ惑うのが精一杯だった。何度目かの焼夷弾攻撃のあと、母の姿が見えないのにふと気づいた。父はびっくりするような大声で母の名を叫びながら人々の波をかき分け家の方に戻ろうとしていた。消防団の指揮で群衆と同じ方向に進むことしか出来なかったが、それでも火の中に突入しようとする父を、兄と私は抑えるのに必死だった。
 やがて「駄目だ、あきらめよう」とつぶやきながら父は私達の手を握って群衆とともに避難を続けた。親子3人でやっとの思いで逃げ込んだのが田端駅と日暮里駅の間にあった貨物用の引き込み線のトンネルで、既にトンネルの中には大勢の人がいたが、その間にもぐり込んで夜が明けるのを待った。その間、絶え間なく「ゴ―ッ」という音とともに熱風と火の粉がトンネルを吹き抜けて行った。私達の衣服に火が付くのを恐れた消防団や大勢の男の人たちが風上からバケツで水をブチ撒き続け、ずぶ濡れになった私達は一睡もできず、ただふるえていた。幸いにしてそのトンネルには中央に水路があって水は豊富にあった為、九死に一生を得た。
 やがて、うっすらと明るくなって来た頃トンネルを出てみてびっくり、あたり一面は見渡す限りの焼け野原、ところ所の焼け跡の水道管から魔法の様に水が噴き出していた。「ともかく家の方に戻ろう」という父の言葉にしたがって、焼け野原の中に目印を探しながら我が家が建っていた場所へ辿り着くと、母が一人で茫然と佇んで居る!親子4人しっかりと抱き合って再会と無事を喜び合い、言葉もなかった。母は何度目かの焼夷弾攻撃のあと消防団の誘導で近所の「古河庭園」の水路に潜んで難を免れたとの事、再会するまでどんなにか不安で恐ろしい一夜を過ごした事だろう。そのあとどこをどう歩いたのか全く記憶がないが、親子4人が麹町にあった父の会社に辿り着いたのは夕暮れ時だった。然し、その道中で見た見渡す限りの焼け野原と、その中に所々に転がっていてまだブスブスと煙を上げている“真黒い異様な物体”の記憶は、一生忘れることが出来ない。
 本土への空襲が激しくなってゆくにつれて学校単位での子供達の集団疎開が行われるようになってきた。私達は山形県鶴岡市という所に数十人の仲間たちと集団疎開した。幸いなことに、当時4年生の兄が一緒で、このことがどんなにか心強かったことか。その街は、戦争や空襲などと全く掛け離れた静かな美しい街だった。疎開先の建物は大きな旅館で、広い庭には池もあり池には鯉も泳いだりしていた。然し、お米の供出制度による食糧事情は、“米どころの山形”とはいえ他所と大差は無く、食べ盛りの少年たちの食欲を満足させるには程遠く、毎日が空腹感との戦いだった。(注:この人は先に帰京しているが、鶴岡市は江戸川区の学童疎開を受け入れ、敗戦5日前の8月10日に米軍の空襲を受け、子供達は逃げ回ったとある)
 そして8月15日、敗戦の日がきた。天皇陛下の玉音放送は雑音に紛れてよく聞き取れなかったが、あとから我が国が遂に戦争に負けたのだということを知った。思い起こしてみると私の戦争体験は、空襲の恐怖と食べ物のことばかりだった。
(文京区のサイトから小平稲門会の資料より:当時12歳の土子良治)

5月25日の体験である。

 ——空襲下における万民の願いは、何が何でもこの戦争に勝たねばならぬ心情であった。国民皆一丸、大切に所持していた貴金属類は戦争に勝つために強制的に無償で供出した。我が家の主人は支那事変とともに軍属として支那に赴き、家は母子5名と女中であったが、長男は父親の実家へ、下の子二人は集団疎開、女中は帰郷し、その時は女学生で勤労動員している長女と二人暮らしであった。私は私立幼稚園を経営していたが、戦火が激しくなるにつれ、園児たちが次第に疎開していき、自然に閉園となった。当時町内の隣組ではバケツリレーなどの練習をするが、それでは心細く、これで戦争に勝てるのだろうかと不安になっていた。B29は容赦なく低空で飛来し、夜はまず照明弾を落とし昼の如く照らして次々と爆弾を投下する。
 日時ははっきりしないが、ある夜、照明弾とともに米国大統領トルーマンの降伏状が投下された。長さ5cmぐらいで丸められたもので、家の門のところに落ちたから拾って読んだ。その内容は、早く降伏せよ、遅れるほど戦火は広がり、災害は増し、国民の苦しみも一層ひどくなる、と日本語で印刷されていた。それを読んだと私が話した人が警察に知らせ、私は大塚署員に連行され、戦争反対者として厳しく追求された。お前は非国民だ、スパイだ、戦争に負けることを望んでいるのかと、私の言うことにはまったく耳を貸さず罪人扱いにされた夕方やっと帰宅した。待っていた長女の顔は哀れであった。
 5月25日、東京最後の大空襲は小石川の東京文理科大学付近はかなり広範囲に空爆を受けた。私は娘と二人で防空壕に入ったが、防空団員の激しい怒鳴り声で防空壕を出て二人で庭に飛び出した。モンペばきで防空頭巾を腰に下げ、他に何も手にしていない。みんなドンドン3月に焼けた電車通りに向かって駆け出していた。後ろを見ると久堅町の方が火の海だった。どこに逃げてよいのか見当もつかない。半焼けの土蔵の壁に身を寄せ合い、防空頭巾を貯水地で濡らしてかぶり、向こうを見ると久堅町の方から女の人が着物を燃やしながら走ってきたが、その場で倒れて焼死した。後で聞くと病身であったらしい。無惨であった。防空頭巾を何度も濡らしているうちB29はどこかに去った。大塚窪町、久堅町、茗荷谷方面はほとんど全焼した。その後も時限爆弾がズドーンズドーンと耳をかすめる。誰も彼も焼け残った窪町小学校に避難した。お互いに着の身着のままで見るも惨めな姿であった。そこでわずかの食料の配給を受けた。近所の娘はこのために気が狂った。避難者は日を追って一人二人と姿を消したが、私と娘も焼け残った知人の家に身を寄せた。
(『東京大空襲・戦災誌』第2巻:当時小石川に住む加藤きく、41歳)

 —— 私の住まいは本郷台地の真下であった。私は劇団の職員で、戦争には無関心で防空演習にもあまり出なかった。戦争にも勝てると思っていたし、劇団は軍事劇の上演が中心であった。昭和19年(1944)には劇場も閉鎖され、劇団は特設演劇体を作って工場慰問などに出かけるようになるが、私は情報局が作った「大日本芸能会」に移った。2月の爆撃では恐怖を味わったが、そのころ米軍は上空からよくビラを撒いていた。その一枚に「東京帝大は空襲しない。付近の住民は疎開しないでよろしい」と書いてあった。それを信じ疎開しなかったが、実際に行くところもなかった。
 3月の大空襲では江東区の下町や神田が焼け野原となったが、日本軍の戦闘機が空中戦でB29に撃ち落とされて行くのをながめて、日本の負け戦さがわかってきた。隣近所がほとんど疎開して、残ったのは私たち夫婦と、奥さんが疎開して残ったサラリーマンの方だけであったが、その息子さんは学徒出陣で出征し、まもなく戦死した。
 銀座の大日本芸能会も4月の空襲で焼かれたが、空襲が始まると表に出たり、リュックを背負って防空壕に入ったりを繰り返した。いつかは焼かれるという意識が常態となって、悲愴感もなく明日のことも考えなくなっていた。逃げるときはリュックに配給の米と缶詰と一緒に、小型のラジオと紫檀の机を持ち出すことを覚えた。また米機が撒いた東大は焼かないという宣伝ビラで、東大の構内に逃げることを覚えた。
 25日夜、空襲警報で外に出てみるとB29が数十機上空を乱舞し、搭乗員が見えるのではと思えるほど低空から筒型の焼夷弾が落ちてくる。日ごろ訓練したバケツリレーや火叩きなどは何の役にも立たない。いたる所で火の手が上がって周辺は炎に包まれてしまった。もうこれまでと覚悟して妻をうながしてリュックをかつぎ、重い机を持って、妻がラジオを抱え、裏手の本郷坂を熱風をあびながら夢中で東大正門からグランド下の地下室にたどり着いた。そこで一安心していると、突然構内の教室から電燈が作られたのには驚く以上の恐怖を覚えた。地下室までその明かりが差し込んだので、数人の人たちと一緒に飛び出したが、二、三の教室からは電燈が点滅した。低空でB29が轟音をあげてうなっていた。まったく異様な光景であった。はるかに燃え上がる紅蓮の炎と、この構内の電燈の点滅は、「東大は焼かない」ために東大の所在を知らせる地上からの信号か、あるいはスパイ行為か、いまだに解けない謎になっている。
 夜は白々と明けて東大正門から追分の一帯と西片町は焼け残ったが、赤門前から南のほうは見事に焼かれ、やっとの思いで我が家にたどり着くと、不思議にも隣家と我が家だけが焼け残っていた。避難した人たちも夜明けとともに戻ってきたが、みな焼け跡に茫然としていた。私は秋田犬を飼っていて、逃げ出す時に鎖をほどいて放したが、昼近くに犬は憔悴して帰ってきたのには涙がこぼれた。田端の劇団の稽古場に家財の一部を疎開させてあったが、見事に焼き払われてしまった。
(同上:当時本郷丸山新町に住む樋口十一、43歳)

集団学童疎開

 空襲が予想される状況下で18年(1943)より縁故疎開が奨励され、19年(1944)4月1日の時点で文京区は約3500人の子供が地方へ疎開していた。さらに政府は19年(1944)6月に学童の集団疎開を計画、日本軍の生命線であるサイパン島が陥落し、米軍による空爆が迫っていた。8月、小学生3-6年生が対象で小石川区が埼玉県へ4300名、本郷区が栃木県へ3600名疎開。例えば本郷区の根津国民学校の児童359人と教職員ら32人は那須塩原市塩原の温泉館に集団疎開した。小石川区の児童の一部は浅草区の児童とともに宮城県大崎市の鳴子温泉郷などに受け入れられた。このように集団疎開は、温泉旅館やお寺が使われた。旅館でも政府に割り当てられた食料は少なく、旅館の人たちは子供達のために食料確保に苦労した。翌年、戦争が終わっても塩原温泉の児童らは10月まで帰れなかった。食料事情もあったが、戦後の混乱で帰れる列車がなかった。鳴子温泉の場合、最後の子供が帰ったのは終戦翌年の春のことだった。帰る家が空襲で焼けてしまったり、家族を失って孤児になった子どももいたのである。中には死ぬなら子供と一緒にと疎開を拒否した親もいたが、それが正解であったかもしれない。6年生は卒業と進学のためとして、20年(1945)3月10日以前までに帰京したが、この日未明に下町への大空襲があり、その子達の多くが再会した親と共に焼死する悲劇もあった。しかし一方で空襲で親が死に、疎開先に残されて戦災孤児になった子供達も少なからずいた。文京区の場合、4月中旬と5月下旬の空襲でも同様な悲劇があった。孤児たちは結果的に国から放置され、世間からは差別迫害され、想像を絶する苦難の道を歩み、お母さんと一緒に死にたかったと思うほどの悲嘆を抱えて生きた。戦後、当時の子供たちが大きくなって、お世話になった疎開先を訪れ、当時を懐かしむ交流は各所で行われた。

陸軍造兵廠東京工廠(現・小石川後楽園)と後楽園球場(現・東京ドーム)

 明治4年(1871)に小石川の旧水戸藩邸跡に建設され、小銃などの兵器の製造を行った。大正12年(1923)の関東大震災による大きな被害で、昭和10年(1935)に北九州の小倉兵器工廠に移転した。ただ東京には板橋と北区に第一、第二東京陸軍工廠として残され終戦まで機能した(第一陸軍造兵廠北区、第二陸軍造兵廠板橋区参照)。小石川の工場跡地は翌11年(1936)に設立した後楽園スタジアムに売却され、12年(1937)9月、後楽園球場(下記参照)や遊園地などの一大レジャー施設が開設された。

 近くの礫川公園脇の丘の上に陸軍砲兵工科学校があったが、15年(1940)に相模原市に移転し、その跡に対空高射砲陣地が築かれた。その丘の斜面下に全長280mの試射用射撃場の煉瓦作りのトンネルがあった。戦後しばらくは食糧不足の一助として椎茸栽培が行われた。その後ライフル射撃の練習場として復活、オリンピック予選などにも使われたが、平成11年(1999)に閉鎖された。園内には現在も砲兵工廠の遺構がいくつか保存され、また記念碑もある。

 プロ野球は昭和11年(1936)に始まったが、翌12年(1937)に巨人の本拠地としての後楽園球場が完成した。この昭和12年(1937)は日中戦争に突入した年であった。その日本軍の中国への侵攻が深まる中、アメリカやイギリスは日本を非難、経済制裁を強めていった。それに伴い国内では反米英機運が高まり、昭和15年(1940)には敵性語として全国的に英語の使用が禁止され、球団名の日本語化、さらに18年(1943)春から野球用語を日本語化して使われることになりカタカナが追放された。巨人で活躍するロシア系のスタルヒン投手も登録名を須田博とした。その上戦意高揚のためとして、「打者は球をよけてはいけない」「隠し球の禁止」「最後まで戦い抜くために選手の途中交代禁止」「引き分けの禁止」「9回表で勝負がついても敵を徹底的に打ちのめすために9回裏の攻撃もあり」などの方針が打ち出され、延長28回を戦った試合があり、これは日没のため試合が続行できず引き分けとなったが、「真摯敢闘の見本」と表彰された。また選手たちは「皇国に挺身して戦う野球戦士」として、ユニフォームは白または国防色に限定され、背番号や球団マークは廃止、帽子は戦闘帽となった。試合前に手榴弾投げ競争が行われることもあった。そのうち選手たちの入営も続いたことでチーム編成が難しくなる球団も出て、そのオフには2球団が解散、全6球団で戦うことになったが、19年(1944)には応召した選手たちの悲報も次々に届けられるようになった。「参加球団の総力をあげて戦力増強に資するため、野球を一時停止することを決定」、プロ野球興業はその11月に中止となった。その後の11月下旬から米軍による本格的空襲が開始された。

 国内では物資不足による金属回収令に基づいて、球場スタンドの金属製椅子1万8000個が供出され、2階のスタンドには機関砲のほか電波探知機や観測機などが据えつけられた。スタンドの下は兵隊の宿舎となり、グラウンドはトウモロコシ、ジャガイモ、カボチャ、キュウリの畑となった。20年(1945)4月14日の空襲によりスコアボードなどが焼け落ちた。ただし米軍は野球場への爆撃は占領後を見据え、基本的に避けていたと思われる。

 沢村賞に名を残す巨人の初代エース沢村栄治は、12年(1937)は巨人の米国遠征でも活躍し大リーガを驚かせ、13年(1938)には巨人の優勝に貢献する中、その年に中国戦線に応召され、負傷し肩を痛めた。その後巨人に復帰したが17年(1942)10月に太平洋戦争への召集を受け、一旦帰還したが、19年(1934)10月に再度応召され、フィリピン戦線に向かうため、乗船していた軍隊輸送船が、アメリカ海軍潜水艦により撃沈され、屋久島沖西方で戦死した。沢村は今の中学卒であったためこのように早くから応召されたという。

戦後の出来事

東京都戦没者霊苑

 この霊苑は昭和6年(1931)の満州事変から12年(1937)に始まった日中戦争を経て、20年(1945)8月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約16万人の慰霊のため、35年(1960)6月、小石川の陸軍工科学校の跡地(高射砲陣地)に建立され、その後63年(1988)に全面改修された。

 なお霊苑内には太平洋戦争における地域別の戦没者数一覧図が設置されていて、その中で特に犠牲者が多いのが中国大陸とフィリピンで、8年にわたる長期の中国大陸を除けば、フィリピンでは終戦終盤の短期間に日本人51万8000人もの戦死者があり突出している。特に18年(1943)から動員された学徒兵の多くがフィリピンに投入され、特攻隊も含め、多くの若い命が失われた。ちなみにフィリピン側の民間人の犠牲者は約110万人(フィリピン政府集計)とこれも突出している。

 これとは別に、国内での米軍の大空襲による多大な犠牲者(東京都の死者累計は約11万5千人以上)を弔う施設は(広島、長崎、沖縄などを除き)上記の大震災犠牲者との合祀の慰霊堂しかない。理由は戦後の米占領軍GHQが自分たちがもたらした日本側の被害を過小に見せたかったことによる。(「東京都と戦争の概要」の「戦後の慰霊・平和施設」参照)

戦後の後楽園球場(現・東京ドーム)

 戦争が終わると球場は日本軍兵器の集積場にされ、占領軍GHQに引き渡すために各地から機関銃や高射砲などが集められた。そしてGHQは進駐軍兵士への娯楽の提供のため、20年(1945)11月14日に後楽園球場を接収、同時に日本野球連盟の復活が発表された。他に神宮球場や甲子園球場も接収された。ただGHQは野球を奨励したこともあり、11月23日、その神宮球場で復活東西対抗試合が行われた。いろんな選手がグラブやボール、バットなど、隠して持っていたものを全部持ち寄ってやったという。翌21年(1946)2月6日にはGHQは接収を解除した。そして8球団によるプロ野球のペナントレースが開幕し、野球ブームが訪れた。

 昭和24年(1949)10月、サンフランシスコ・シールズが来日、日本軍と7試合を行い、日本は全敗した。この時は後楽園のほか神宮、甲子園、西宮、中日球場でも開催された。26年(1951)11月にも米大リーグ選抜チームが来日、日本各地で対抗試合が開催され、日本プロ球団は1勝13敗2引分けであった。

<野球人鎮魂の碑>

 太平洋戦争などで戦死したプロ野球関係者の功績を称え、また慰霊するために、昭和56年(1981)に当時の後楽園球場脇敷地内に鎮魂の碑が建立された。昭和63年(1988)、東京ドーム建設に伴い現在の場所(21番ゲート前)に移設された。碑は2枚ある。1枚目には戦死した選手76名の氏名が、2枚目には唯一神風特攻隊員として戦死した石丸進一の実兄による追悼文が刻まれている。

 石丸は名古屋軍(現・中日)に所属し昭和18年(1943)10月の対大和戦で戦前最後となるノーヒットノーランを達成している。プロ野球選手ながら兵役を免れるため、日本大学法科夜間部に在籍していたが、19年(1944)春の学徒出陣によって召集され佐世保海兵団に入団、海軍飛行科の専修予備学生として筑波海軍航空隊に配属され、20年(1945)に神風特別攻撃隊に志願して特攻隊員となった。鹿児島県の鹿屋基地に転進し、同年5月11日、石丸は神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として零戦に搭乗、沖縄方面の米機動部隊を目指して早朝に出撃し、未帰還となった。石丸は出撃前に同僚とキャッチボールを行い「これで思い残すことはない」と言って、戦闘機に向かっていったという。

 しかしプロ野球選手だけ戦死者を慰霊するのはおかしいという声が上がったため、戦後60年の節目を迎えた平成17年(2005)、中等野球、大学野球、社会人野球に在籍し(プロ経験者除く)、戦火に散った選手を対象にして製作され、野球体育博物館の殿堂コーナー入り口に設置された。平成30年(2018)現在167名の戦没者を祀っている。

わだつみのこえ記念館

 東大の赤門近くの文京区本郷5丁目に平成18年(2006)に設立された。昭和22年(1947)、東京大学生活協同組合出版部(のちに東京大学出版会)が東京大学戦歿学生39名の手記、書簡、短歌等の遺稿を集めた『はるかなる山河に』を刊行し話題となった。それに続いて、新聞やラジオ放送を通じて募集し、全国の大学、高等専門学校出身の戦没学生75人の遺稿が収められた『きけ わだつみのこえ』が同組合出版部から24年(1949)に刊行され、これもベストセラーとなった。この刊行をきっかけとして昭和25年(1950)4月に日本戦没学生記念会(わだつみ会)が結成された。その後出版社も変わり、『第2集 きけ わだつみのこえ』も刊行され、同名の映画も一度ならず製作されている。

 学徒出陣から50年の平成5年(1993)、戦没学生の遺族の高齢化が進み、遺稿の保存が困難となりつつあることを受け、記念館設立へ向けた動きが本格化、戦争体験世代と一回り下の世代が、寄付を募り、平成18年(2006)開館した。運営するのは認定NPO法人「わだつみのこえ記念館」で、学生が残した戦争の記録を約100点常設展示している。展示作品はこのほか学徒出陣で命を落とした東大の学生の手記や遺書、戦没学生が戦地から送った手紙やはがき、学生時代の日記、ノート、手紙、歌集、そして遺書などの実物、書き手の写真と履歴が添えられている。当館のスタッフは、設立以来無報酬で、維持・管理・運営等々の費用は寄付に頼っている。以下は戦没学生のひとり(田辺利宏)の詩の一節。

遠い残雪のような希みよ、光ってあれ
たとえそれが何の光であろうとも
虚無の人をみちびく力とはなるであろう
同じ地点に異なる星を仰ぐ者の
寂寥とそして精神の自由のみ
俺が人間であったことを思い出させてくれるのだ

 筆者私見:ただ、このような立場に追い込まれた学生たちの高い精神性に感心ばかりしていてはならない。この背景で、この壮大とも言える無駄な大戦争を引き起こし、最終的に若き学生たちをここまで追い込みながら、敗戦と同時に戦時関係資料を焼却処分にし、この戦争をなかったことにしようとし、自分たちだけ逃げようとした軍政府の連中たちがいることを知っておかねばならないし、その腐った心根をまずどこまでも糾弾しなければならない。そしてその者たちは戦後にうまく生き残り、無駄に戦死した学徒兵や特攻兵を「散華した英霊」という言葉で形容し、賞賛していった。A級戦犯は、処刑された要人たちだけではなく、戦後に生き残った政官の中に無数に残っていることも知るべきである。

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