東京都墨田区:本所区 + 向島区

墨田区の空爆被害

〇 空爆日:19年(1944)11月29−30日、12月30日, 31日、20年(1945)1月1日, 27日、2月14日, 19日, 25日、3月4日, 10日、4月4日, 13−14日, 15−16日、5月19日, 25日(全15回)

〇 被害状況:死者2万6700人以上、負傷者3万6800、被災者19万2800人、焼失等家屋8万6500戸。(上記は東京都の資料によるが、墨田区の記述では死者約2万6000人、被災者は約28万人となっている。また特に大火災から隅田川に逃れて溺死などで亡くなって、東京湾に流された多くの行方不明者がいるはずだが、おそらくその人数は別になる)

〇 出征と戦死者数:不明(敗戦直後に各自治体の兵事関係簿を政府の指示で焼却してしまったことによる)

年月日別被害記録

 19年(1944)11月29日:本所区でB29による焼夷弾での初空襲を受けたが、死者3人、負傷者12人に対して家屋の全焼291戸、半焼25戸、被災者1050人。

 12月30日、31日:主に本所、下谷、浅草、神田地域への、B29一機と二機による軽い攻撃であったが、両日で死者4人、負傷者82人に対して全焼1002戸の強風下の空襲の大惨劇を予告している。

 20年(1945)1月1日:前日夜間に引き続いて未明にB29一機と二機が主に墨田区と台東区に分散して来襲、全体で死者5人、負傷者29人、全焼25戸、半焼14戸、被災者173人であった。

 1月27日:B29が62機来襲、250kg爆弾124個、焼夷弾1200個を有楽町・銀座地区を主にして都内広範囲に投下、また有楽町駅付近は遺体であふれた。墨田区の死者は30人、重軽傷者76人、家屋の全半壊、全半焼約300戸。都内で死者532人。

 2月14日未明:B29一機が250kg爆弾を3個投下、一個は吾嬬町東の住宅地に落とされ、全半壊39戸で土砂も大量に吹き飛ばされ、なんと72名が埋没、警察や消防団が懸命に発掘に努め、31名を救出、41名が死亡。また東京無線電機亀戸工場が爆撃を受け講堂一棟全壊。全体の死者46、行方不明約10人、全半壊家屋79、被災者350。行方不明約10人とはおそらく爆弾の直撃を受け、人の形が残っていなかったと思われる。250kg爆弾はそのまま地上で爆発すれば、直径10m以上の漏斗(ジョウゴ)状の大穴が空く。その土砂の量で周囲の人と物を覆い尽くしてしまうし、直撃されれば人の骨肉は一瞬でその土砂の中に混じって散ってしまう。

 2月19日:B29 131機が主に都の北部一帯に空爆、東雲から豊洲一帯の陸軍被服本廠や海軍施設補給部の倉庫群、石川島第二工場、藤倉電線、三菱重工、海軍施設、旧城東の東京造船所などに爆撃があり、死者10人前後。

 2月25日:雪の日の朝、B29 10機と空母からの艦載機56機、午後、第二次としてB29 201機が都区の北東全域に来襲、第一次で焼夷弾7550個、第二次で高性能爆弾42t(250kg爆弾とすれば約170個)、区の死者17人、負傷者27人に対して全半焼1471戸、被災者4395人。全体の死者は約200人、負傷者440人、全焼等被災家屋約2万700人。

 3月10日未明:22:30警戒警報発令、翌日0:15、遅ればせの空襲警報発令、それから約2時間半にわたって大量の焼夷弾が落とされた。日本側の記録ではB29約150機とされたが、実際に米軍の記録では、B29・298機、護衛戦闘機36機となっている。それらが分散して低空から波状的に焼夷弾を落とし、さらに当日は晩冬の強烈な北西風が吹き荒れ、合流火災となり、逃げ惑う人々の行手を阻んだ。ちなみに米軍はこの日の天候を予測し、風下の江戸川区の荒川西岸から空襲を開始、つまり邪魔になる火災の煙を避けながら西の隅田川まで江東、墨田、台東区一帯をなめるように焼き尽くした。

 この空襲による焼失面積は、旧本所区の96%、向島区の57%であった。この日の死者は約2万5500、負傷者4万3000人、被災者28万2000、焼失家屋8万2500戸。台東区と江東区を合わると、死者は約7万3200、負傷者9万8700人、被災者77万3500、焼失家屋19万7100戸となっている。「東京の下町は火葬場の焼却炉のようになった」との証言もあるが、本所区の96%が焼失したという事実を知ると、納得できる。自宅の庭や床下に防空壕を掘って隠れた人のほとんどが蒸し焼きのようになって死んだ。途中で危ないとわかって逃げた人の方が多かったが、それでも逃げおおせた人より、逃げきれなかった人のほうがはるかに多い。

 焼け跡の様子である。——「翌日、上野の山の西郷隆盛の銅像下から周囲を見渡すと、残っているのは上野松坂屋デパートや浅草松屋デパートの建物ぐらい。その他は全て焼き尽くされていた。人の気配や生活音は感じられない」、「”キラキラと光るものが見える!”深川の方を眺めていた友人が唐突に声を上げた。それまで建物で遮られ、見えなかった東京湾だった」

 4月4日未明:B29約110機が多摩地区も含めて分散的に来襲、隅田町の鐘淵東京兵器工場に焼夷弾が多数落とされ、数棟が全焼。他の被害は不明だが、全体で死者710人。

 4月13日深夜:B29約330機がほぼまだ打撃を与えていない都の北西部に来襲、豊島、北、荒川、足立、板橋、新宿区に大きな被害が出た。城北大空襲と呼ぶ。墨田区はさらに残部の向島区に空襲を受け、被害は死者46人、負傷者は7人、家屋の全焼1321戸、その他30戸、被災者4555人。

 5月19日:B29とB24が約30機来襲、しかし爆弾投下は9個のみ。そのうち隅田町に爆弾1個落とされるが、5戸倒壊、破損するが人に被害なし。

 5月24日、25日:城南大空襲と山の手大空襲の日で、実は爆撃機も投下爆弾トン数も3/10の大空襲の倍前後となっている。相応に家屋の焼失と被災者数は多いが、死傷者は比較にならないくらい少ない。避難体制もあるが、多くの住民が疎開したことも大きい。この両日の大きな被害地区は渋谷、目黒、品川、太田、中野、新宿区である。墨田区の被害は25日で、向島地区がさらにやられ、死者11人、負傷者は33人、家屋の全半焼718戸、被災者1400人。

焼失した小学校等

 都内の小学校は多くが焼かれている。墨田区と江東区はその中で突出している。

 全焼:二葉、錦糸、業平、両国(旧江東小学校)、横川(一時廃校となり後に復校)、菊川(昭和21年廃校、33年に復校)、第一吾嬬、第二吾嬬、第三吾嬬、第五吾嬬、中川、本所、牛島、江東、茅場、本横、外手、日進、本高、三囲、橘、向島木下川、向島中川、向島大畑、向島西部、請地(廃校)、向島東部(廃校)、明徳小学校(廃校)

 半焼:緑小学校(廃校し両国小学校に統合)、柳島、第二寺島、中和小学校

 他に都立両国高校(第三中学校)、都立墨田川高校(第七中学校、ただし5月の空襲による)、都立向島工業、都立本所高等女学校(現・本所高等学校)、都立向島女子商業学校が全焼する。

戦時下の出来事

両国(隅田川)花火大会の中止

 日中戦争(支那事変)開戦の一年後の昭和13年(1938)7月、時局を鑑み隅田川花火大会は中止と報道された。さらに国民精神が動員中央連盟が主体となって、不要となった金属類を供出する「一戸一品献納運動」が奨励された。まずは金属類として壊れた玩具、歯磨きチューブ、タバコの銀紙、使った蓄音機の針、古釘、タバコや菓子等のブリキ缶、鉄棒、銅、亜鉛等の不用品などからであるが、衣類も質素なものが奨励され、食は一汁一菜、空き地にはなるべく野菜を栽培するように推奨された。この頃には代用品が増え、竹のスプーンや木のバケツ、代用皮革として蛇、サケ、蟇、食用蛙、鯨などが登場した。この後、金属の供出運動はますます強制され、最後には寺院の梵鐘まで供出された。

 さらに15年に予定されていた東京オリンピックに対し、オリンピック委員会から日本の戦争への反対で不参加が示唆され、また国内の物資不足もあって日本は中止を決定した。同時に開かれる予定の万国博覧会も返上し、日本は戦争の拡大に突き進んで行った。その結果、以下のような大空襲による惨事が引き起こされた。なお、隅田川花火大会が再開されたのは昭和22年(1947)であった。

戦時総動員体制へ

 墨田区の前身である本所区と向島区は、関東大震災の後、中小が主体の工場地帯として発展していた。従業員数10人以下の工場は1364工場(昭和10年11月調査=この時期の隆盛からすると、18年(1943)の頃には2千軒前後になっていただろう)が林立し、東京都区部全体の20%が集中していた。これらの中小工場は戦時体制へと組み込まれるなかで、民需生産から軍需生産、兵器生産に転換していった。実は3/10の大空襲は、米軍は、これらの中小の工場群を軍需工場地帯として殲滅する目的でなされたもので、よく言われる無差別爆撃の口実となった。

 そしてその増産体制により、18年(1943)の頃から工員以外にも残された高齢者や学生、さらには疎開児童以外の中学生以上や女学生や就業していない卒業生や14歳以上の就学していない女性で構成した女子挺身隊(地方からも動員された)、それに加えて朝鮮人の徴用による動員が行われた。集団疎開していなかった小学生5、6年生も自宅近くの工場に動員された。学校の生徒たちもそれまで10日や数週間程度の交代制で勤労動員していたが、19年からは通年動員となり、20年春からは学校の授業の一年間停止が通達され、それこそ国家総動員体制そのものになった。戦争終盤には学校の男性教師も次々と徴兵され、戦地に送られた。そして学校には年寄りと女の先生しか残っていなかった。

 3/10の大空襲による大火災だけでなく、その後の敗戦までの舐め尽くすような空襲により、軍需工場はことごとく破壊され、それにより焼死や爆死した人々の中には、その学生・生徒や女子挺身隊、在留朝鮮人が多くいた。ちなみに、朝鮮人に関してはよく強制連行や強制労働と言われるが、朝鮮側に労働者の手配師がいて、半ば自ら応募して日本に来た人々も多く、そして生徒・学生たちも同様に強制労働させられ、さらには東京周辺の工場が爆撃を受け、地方に疎開工場を作る際にも工場とともにその地の寮や宿泊所まで移動させられたのであり(ただ、お国のためという時代の雰囲気の中で彼らには義務感が強く、強制労働との自覚はあまりなかった)、いずれも相応の賃金は支給されていて、問題となるのは敗戦となってその給与が支払われず、朝鮮人に対して放置されたケースが多々あったことである。
ともあれ「一度戦争をしてしまうと、戦時下では周りの状況からして反対できないような仕組みとなってしまい、ちょうど津波が押し寄せてきて自分一人ではどうしようもなく、もがきながら押し流されてしまうのと同じようなことになる」(『学童疎開墨田体験記録集』より)ということであろう。

建物疎開

 迫り来る空襲による被害を予想して、住宅が密集した地域に防火用に帯状の空き地を作ること、そして軍事的重要工場を守るためにその周囲に空き地を作るとして、昭和19年(1944)年初より、建物疎開が計画され、実施された。

 例えば本所業平橋から江東区の東陽町にかけて(現在の四ツ目通り)、亀戸から大島、北砂町の南北にかけて(現在の明治通り)、また総武線の両国駅から錦糸町までの東西2.2kmの南北側の撤去などが施行され、関東大震災後に鉄筋コンクリートで建て直された学校も避難所として整備され、その周囲の建物も撤去された。これらは軍隊や消防団、町会等で結成された警防団、一般の労務者、さらに中学校以上の学徒勤労動員生(実際には彼ら「学徒」が半数以上だったようである)と集団疎開していない男子小学生5, 6年生によって実行された。この作業は木造家屋の柱などにロープをかけて引き倒す作業が多かった。この時代、中学校以上の生徒たちは遊ぶ間はもちろん、休む間もなかった。これらは戦後、幹線道路として役立ったが、大空襲の前には大きな徒労であった。渋々退去させられ、建物疎開させられた住民は当然手当をもらったが、むしろ家財道具を守ることができて幸運だったかもしれない。ただ、安全な地に疎開した人は良かったが、近隣に移った場合、新らしい家が焼失する場合も多くあった。

大空襲3月10日の様相

<小学校の惨劇>

〇 菊川小学校は関東大震災で焼失し、その後校舎は鉄筋コンクリートで再建され、戦時には避難所とされていたので多くの人々が逃げ込んだ。しかし当時の本所区は96%が焼失したほどに火勢が強く、強風もあって多数の焼夷弾が窓ガラスを突き破り、あるいは猛火でガラスが割れ、たちまち校舎の内部は燃え広がった。そして助かった人はわずかで、講堂や校舎に重なり合った死体の山は目を覆うばかりだったという。講堂は朝になっても燃え続けていた。

 ——「学校正門前の黒こげの男女、子どもの区別もつかぬ死体が重なり、午後2時ごろ講堂の中をのぞいたとき、数百人と思われる白骨死体が重なっていた。2時間後の午後4時ごろにまた学校へいきのぞくと、なんと骨さえない白灰になっていた。どうして燃えつくしてしまったのでしょう。とても考えることができませんでしたが、事実の体験です」。骨や灰になったのは約800体という。(「東京大空襲戦災誌」第2巻)

助かった人もいる。

 —— 「菊川国民学校へ避難して一夜を過ごしたが、朝になると講堂の外には真っ黒焦げの遺体が無数に転がって言葉にできない光景だった。家の方面に向かうと、貯水槽に顔を突っ込んだまま死んでいる人、黒焦げになった馬もいた。菊川橋がかかる大横川も川の水面が見えないほどに遺体がびっしりと浮かんでいた。東京大空襲は戦争ではなく大量殺人だ」。焼けなかった場所があったのであろうが、ある人の証言では、菊川小学校の周囲は延焼を防ぐための建物疎開と言って、取り壊されていたという。それでもこの大火には何の効果もなかった。

 さらに悲劇があった。下記に記すように昭和19年(1944)8月下旬より小学生は3年以上が集団疎開することになり、菊川小は千葉県大網町、土気町、東金町に分散させて疎開。しかし翌20年3月初め、東金にいた6年生100人以上が、卒業と進学のため東京に帰り、そこで10日の大空襲に遭遇した。そして約8割が死亡するという悲惨な結果となった。例えは悪いが、親と一緒に死んだ生徒はまだよいが、千葉に残って孤児となった子供たちは多く、その後過酷な人生が待っていた。昭和32年(1957)3/17、菊川小学校20年度卒業生と東金市は、疎開先の本漸寺に慰霊碑を建立した。

 そのうちの一人の方の回想である。

—— 「当時小学6年で集団疎開していたが、卒業式のために2月末に菊川に戻ってきた。あの日は警戒警報が鳴る前に家の周りはすでに火の手が上がっていた。父は地元の消防団だったのですぐに避難するわけにもいかず長姉と一緒に残った。私は母と祖母、姉と妹と一緒に逃げたが、途中で忘れ物を取りに戻った祖母は帰ってこなかった。その後、父と姉、祖母の3人を菊川橋付近で見たという人がいたが、菊川橋は身動きもできないほど避難者が押し寄せて3000人が亡くなった場所、おそらくそこで亡くなったのだと思っている。米軍機は低空飛行で、日本に高射砲などで撃ち返す気力も戦力もないことを知りながら、これでもかというほどの爆弾を落とした。逃げるときに雨が降ってきたかと思ったらガソリンだった」(同上)

 「翌朝菊川小学校についてみると、そこは地獄絵図だった。門から一歩入ると、死体の山だった。黒焦げの死体や窒息死したと思われる今にも動き出しそうな死体が散乱し、足の踏み場もなかった。しかし、なんといってもすごかったのは、講堂だった。講堂には何層もの死体が、あの高い天井にとどかんばかりにぐわんと盛り上がって、目を歯をむきだし、おそろしい臭気を放って、まだブスブスと燃えていた。それはもう、なんともいいようのないものすごさだった。火に追われた人々が講堂の中に殺到し、最初の人間は奥の壁へ押し付けられて踏みつぶされ、さらに次々と人がなだれ込んだ結果、そのような死体の山になったのだと思われた」。(『東京大空襲』早乙女 勝元)

 学校は一時閉鎖し、跡地は戦後、戦災者住宅になったとあるが、おそらく鉄筋の残った壁などを利用してのことであろう。同24年、竪川中学校として使用後、33年に復校した。また昭和40年頃まで菊川小学校には空襲で焼けたままの教室が残されていたという。

〇 横川小学校も同様に大震災後に再建されて鉄筋造りとなっていて避難所に指定され、千数百人が講堂と校舎に避難して来た。烈風による周囲からの火の勢いは凄まじく、講堂は火に包まれ、校舎にも熱風で鉄窓のガラスが割れてそこから一挙に火が入り、学校内で荷物と一緒に燃え尽きたという。ほとんど全員が焼死した。当時教員であった井上有一氏も気を失い命を落とすところだったが奇跡的に生き残り、「犠牲者の屍は炭化し、熱でおなかが炸裂、胎児が露出した妊婦もいた」と語っている。中には白骨となるまで燃えた遺体もあった。

 横川小学校の講堂に逃げ込んだ若い女性の話。

——「講堂は既に500人ほどの人々で埋め尽くされ、外は火の海。もう駄目だと皆が覚悟を決めていた。その時、一緒にいた将校が”回りは火に囲まれてしまった。表は全滅だ。扉の前も炎の海で開ることが出来ない。自分たちでここを守る以外に生きられない”と叫び、皆で吹き込んでくる火の粉を消していく。しかし”二階に火がついたぞ!”と声があがり、将校は”決死隊の第二陣出ろ、出るものはいないか、若い者でてこい”と叫ぶ。講堂の校庭に面した防火用水池の向こうも火の海だ。若い男が一人校庭に面した窓から飛び下りると、5、6人がそれに続いた。…… 用水池から、1mほどのこの火中では虫のような赤い手押しポンプで、二階へ放水している。あまりにも心もとない細い水は、たぎり立つ炎の中に一本の放射線となって頭の上あたりに、そそぎこまれている。ホースを握っていた一人が、低空のB29から、焼夷弾の直撃を受けて、人の形のまま火になって倒れた。決死隊に出た人たちは助かったのか、死んだのか…… ただ一人講堂に全身皮膚を泡立つほど黒く焼けただらせ、堅く目を閉じたまま、わずかに呼吸していた。…… 私はその若者が生き残った私たちの身代わりの、キリストの分身のように思えた」(『繭となった女』小林美代子:講談社)

 実は、陸軍の国内に駐留する守備隊が、このような美談を残すことは珍しい。多くの場合、軍人が我先にと逃げ、防空壕内の一般住民を追い出してしまう例のほうを目にする。それもこれも、その部隊を率いる将校次第である。「翌11日トラックがきて一千もの死体を投げ上げ運んでいった」と、これも倉庫で奇跡的に生き残った方が、「倉庫内にて聞きし親子断末魔の声、終生忘れなし」という言葉を残している。ただ、この例のように軍は焼け死んだ人たちの名前も確認しようとせず、とりあえずと近隣の公園に穴を掘り、仮埋葬したのである。(下記「戦後」の項と「東京都の概要」参照)

〇「中和小学校では、ある程度人が入った後に門を閉めたので、後からきた人たちは入れずに門前で山のように死んでいた」との記述があり、また後に落語家初代林家三平の妻となった海老名香葉子さんは、一人沼津に疎開していた時に家族は避難した中和小学校で兄一人以外の6人が焼死とあって、横川小のような悲劇があったかと思えたが、学校は半焼程度で、朝から焼け出された人たちが避難所として使い、各町会ごと別れて教室を占有していたと、家族を探しに学校に来た人は証言している。ただ黒くなった死体が階段や床のあちこちにあったのは事実で、入り口には数人とあるから、「門前で山のように」というのは、すでに遺体が片付けられた後であったのだろう。ただ海老名さんの家族は閉じられていた門を乗り越えて入ったということで、たまたまこの学校の中でも不運な場所にいたものと推察される。

 同様に「先に家族4人を中和小学校に逃がせて、家の消火をしたが間に合わず、途中でやめて学校に行くと、門は閉ざされて、何とか窓ガラスを破って、中に入るや気を失い、朝になって半分焼けた体のまま家族を探し回ったが、判別のつかない遺体ばかりであきらめた。いったん千葉の実家に帰って手当てをし、君津に集団疎開している娘二人を引き取りに行ったが、娘はその包帯だらけの姿に驚いた」という話(下記の学童集団疎開参照)、「家族9人一緒に中和小学校までやっとたどり着き、学校の窓から入れてもらった二人がかろうじて助かり、後の7人は窓に手を差し伸べながら、目の前で焼け死んだ。中の一人が手にやけどをしながら、身重のお姉さんを上げようとしたが、どうすることもできなかった」という話、「叔母に聞いた話では、母や弟たちは中和の正門を必死にたたいたものの、固く閉ざされて開けてもらえず、力尽きて死んでいったという」話など、どれだけの大火であったかが想像できるが、亡くなった方々の実相は、われわれが知るすべもない。

 ちなみに、中央区の明治座はやはり鉄筋コンクリートの建物で避難指定場所になっていて、みんながその地下が安全と逃げ込んだ。そして一杯になり、扉は閉ざされた。扉はしきりに叩かれたが、開けられることはなく、外に引き返した人々の多くは生き残り、地下の人々は蒸し焼きのようになり、全員が死亡した。(同区参照)

〇 二葉小学校の生徒で、疎開先から卒業式のために事前に家に帰って来ていた男性は、3/9、明日は卒業式ということで親に言われて早めに床についたが、11時ごろに空襲警報があって親に起こされ、自宅の防空壕に入っていたが、母から逃げろと言われて兄と弟三人で多少の荷物をリヤカーに乗せて避難所とされた二葉小(鉄筋三階建)に向かった。しかし警防団の人が門の扉を閉めてにもう一杯だから他所に行けと言われ、火の粉の吹き荒れる中を青物市場に何とか逃げた。夜が明けて母を探しに二葉小に向かう途中、用水路に人が頭から突っ込んで黒焦げになっていたり、交差点の真ん中に男女の区別もできない状態で人が積み重なって焼け死んでいた。すでに小学校の門は開いていて、入ると玄関ホールの左側には黒いもの(焼死体)が山になって上から青い火がぼうと燃えていた。校庭のプールの中では、まさに地獄かと思われるほどに多くの人が亡くなっていた。これはまだ一部で、地下の防空壕や校内中が死体の山になっていたという。母は結局行方不明のままとなった。翌日にはもう(一部の)死体が片付けられていて人の形が壁のタイルにそのまま焼き付いていたという(下記「天皇の焼け跡への巡行」参照)。二葉小学校も菊川小と同様、避難場所として延焼を防ぐために周囲の建物が「疎開」という名で取り壊されていたが、同様に役に立たなかった。

 今ひとつの様子

—— 「私は仕事で横浜に住んでいた。深夜からの真っ赤な大火を見てまんじりともしないまま、10日の朝、両親の住む厩橋の自宅に電車で向かったが、品川で乗り換え、やっとの事で御徒町の駅に着いたのが夕方の4時であった。まだ各所に煙がくすぶっている中、人々の焼死体を見ながら運良く残っている教会に入ってみると、そこに14歳の妹が生き残っていた。妹の話では、父母と一緒に二葉小学校に逃げたが、あまりに大勢の人の列で身動きができなかった。母が病気で動けなかったので、下駄箱の前でお前は先に行けと父に言われ、そこで別れてしまった。学校の周辺の家々が焼かれ、ついには学校にまでゴーゴーと火は渦巻きを立てて教室の中、運動場の一面にもすごい勢いで入って来た。目も開けていられず、体にも火が移り、リュックサックを背負ったままプールの角に潜り、手すりを支えにして時々頭を水に沈めて、重くなったリュックを外し、次々と入ってくる男たちに押されながら耐えた。周囲や足の下にどんどん水死体が増えていった。朝になるとプール以外にも教室や廊下まで死体の山だった。プールには翌日兵隊が来てポンプで水を汲み出し、何百人という死体を錦糸町公園の方にトラックで運んでいった。父母は見つからなかった」(「東京大空襲戦災誌」第2巻:田中由之助)

〇 柳島小学校は全焼を免れたが、それにまつわる女性教師の話である。

 大空襲の一夜は明けた。田畑の高台にあった家から本所深川方面に燃え盛る火をながめ、生きた心地もせずに防空壕を出たり入ったりしながら過ごした。自分の子は繰り上げ卒業で召集されていて、夫と二人の壕生活であった。とにかく学校に行かねばと、朝から不安におののきながら秋葉原の駅まで行った。両国方面の電車は不通で、歩いて両国橋まで歩いて行った。路上に人影は乏しく、国技館は外装のみ残って白い煙が出ていた。橋の近くまで行くと消防団の一人がどこへ行くかと聞かれた。学校へというと「両国橋から先は死人の町だ。女の行けるようなところではない」と言って通してくれない。やむなく引き返したが、翌朝は上野から押上まで都電が通るというので、その道を行くことにした。浅草から本所一帯は見渡す限りの焼け野原で、関東大震災でいち早く鉄筋建築になった学校の建物だけが不思議に高く穴のような窓を黒く見せて廃墟の中に立っていた。

 その途中で学校の小使さんが焼け跡にぼんやり立っていた。「おじさん!」と言って思わずすがりついて泣き出した。小使さんは私が泣きすがったので、ともに涙を流してすすり泣きだした。そして涙声で「この防空壕の中で家内と子供と六人が全部死にました。まだそのまま死んでいます。警報が出て私は学校に行き、家の者はここに入ったのです。一晩たって学校は焼け残ったのですが、家内や子供は……」と言って男泣きにむせび泣いた。私は言葉がなかった。新たな涙を拭うこともなく、壕の入り口に向かって両手を合わせ、深く頭を下げた。

 柳島小学校には教頭先生のほか数人の方々が学校の焼けるのを防いだ疲れで、無言で小使室の前のコンクリートの上に座っていられた。最年長の小使さんが学校に来る途中に煙に巻かれて亡くなり、一年生の教室に安置されていた。二千人近くいた児童たちはちりぢりになり、わずか錦糸公園の木陰で助かった人たちが学校に来て田舎に行く手続きをとり、どこに行くあてもない子供は父兄ともども昨年来の学童疎開先の千葉県市原の山寺に疎開して行った。 (『東京大空襲戦災誌』第2巻:進藤喜与子、当時42歳) ー 家族全員を亡くした小使さんは、その後どんな孤独の中に過ごしたのであろうか、同じ境遇の多くの人のように、自分も一緒に死にたかったと思われたのではなかろうか。

 自身が12歳の時、大火災の中を逃げ延びた記録作家の早乙女 勝元は、「一週間後に消息不明の友の安否を確認するため級友と言問橋に向かった。連日身を切るような北風が吹いていた。そして隅田川に出た時、級友が驚きの声を上げた。本当はまもなく花見の季節なのに、芽という芽を焼きつくされた桜並木の枝には、防空頭巾や衣服や布片、焼け焦げの毛布まで、色とりどりのおびただしい布類がまとわりついて、風にたなびいている。あの夜、逃げていく人たちの身から、荷物から、強風に引きはがされ吹き飛ばされて、枝という枝にからまったものにちがいなく、とうてい手の届かなぬ高さにまでぴらぴらと北風にはためいているのは、一種異様な花盛りとでもいうべきで風景だった。対岸の浅草はぺしゃんこで、ほとんど人影はなかった」と語っている。

その他の被災状況

 「この日のB29は超低空で飛んできて、ドラム缶のようなものを落とし、それが途中まで来ると破裂して無数の細い管になって落ちてくる」 —— これが焼夷弾で、この管にはリボンが付いていて、それに火がついて落ちた時に中の油脂が燃える仕組みで、米軍が日本の木造家屋用に開発した。大型爆弾よりも束になった焼夷弾のほうがはるかに効果があった。

 集団疎開に行かなかった当時小学3年生の女性の話。

——「猛火と強風の中を一歳になったばかりの赤ちゃんを背負った母が、ねんねこの上から私を紐でつないで一緒に逃げた。そうしなければ小さな子供は嵐のような風に吹き飛ばされ、風下に転がされて焼け死んでいった。みんながまだ燃えていない風下に逃げていく中、母は燃え盛っている風上に向かって行き、私がみんなのほうに行こうよ、と言っても、風下はこれから燃える、火事の時は風上に逃げなければ助からない、と言って風に向かいながらやっとの思いで両国公会堂までたどり着いた。上から火の粉が降ってくるので防空頭巾を用水桶で濡らし、それでもあまりにも火の粉がすごくて手で払いのけきれず、周りの人がみんなで隅田川に入ろうと言い始め、しかし母は、水で苦しむよりここで焼け死んだほうがまし、と言って公会堂の窓の下に避難した。そこにいた男性が公会堂の窓をこじ開け、女性と子供が先に入れと言って入れてくれ、かろうじて助かった。……夜が明けて、顔中が火ぶくれになった一人の母親が、うちの子は知りませんかと半狂乱になって探し回っていた。私はその後父とも再会できた」(「東京大空襲戦災誌」第2巻)。このようにわが子を半狂乱になって探し歩く姿は、他でもしばしば見られ、単なる犠牲者の一人として片付けられない。

〇 言問橋

 『都政十年史』の記述である。「隅田川を挟んだ下町一帯は全く火の海と化し… 白鬚橋から吾妻、厩橋にかけて道路といわず川のふちといわず、焼死者の屍がるいるいと横たわるという惨状を現出した」。中でも当時隅田川最大の言問橋(橋長239m、幅員 22m)には両岸から対岸に逃げようとする住民が殺到し、身動きできなくなる状態の中で、風に乗った火炎が人々の抱える大きな荷物や衣服に燃え移り、瞬く間に橋上全体が火の海となり、多大な焼死者を出した。阿鼻叫喚の地獄というものであったのだろう。

 朝が明けると言問橋は荷物の残骸と死体で埋め尽くされ、足の踏み場もなかった。死体は黒く炭化したものや赤むくれのもの、未だくすぶりつづけているもの、マネキン人形のようなものなど、様々であった。周囲の生き残った人たちは、この山になった死体を跨いだり踏んだりしながら肉親を探しに行ったいう。この橋の上から欄干を乗り越えて冷たい川に飛び込んだ人も多く、即死した人も助かった人もいたが、朝になると隅田川にはその川面が見えないほどたくさんの死体が浮いていた。川面が見えないほどというのは、その下にも浮き上がれない死体が多くあったということである。岸辺にも多くの死体が積み重なっていた。

 以下は「空襲日記」(上野学)から。

 空襲時、降り注ぐ焼夷弾の雨の中、人々はどこへ逃げればよいのか分からなかった。なぜなら、どちらを向いても大火災が広がっていたからである。自然と足は水辺の方へ向かった。本所区をはじめ、当時の江東下町地域には今よりももっと多くの運河が縦横に流れており、人々は川に囲まれた大小のブロックの中に住んでいた。火の広がりは川で止まるだろうから、橋を渡って向こう岸へ行けば安全だと考えた。しかし、状況は対岸の人々にとっても同じであった。大火災は複数の地域で同時多発的に発生していたし、猛烈な火炎旋風は周囲の空気を白熱化し、川を超えて対岸に飛び移った。行き場を失った避難民はやがて殺気だった群衆となり、川の両側から橋になだれ込んだ。橋の上は人と荷物で溢れかえり、押し合いへしあいの大混乱となり、橋の上から引き返すこともできない。出動してきた消防車も人ごみにのまれて立ち往生し、人の流れを阻害する要因となった。やがて舞い来る火の粉が衣類や荷物を焼きはじめ、燃え上がったかと思うと、火はすさまじい勢いで橋の上をなめ広がり、またたくまに人々を劫火の中に沈めてしまった。まさに阿鼻叫喚の巷であったという。欄干を乗り越えて川に飛び込んだ者もいたが、ほとんどは助からなかった。その朝が明けると、言問橋は死体で埋め尽くされ、足の踏み場もなかったという。死体は、黒く炭化したものや赤むくれのもの、未だくすぶりつづけているもの、マネキン人形のようなものなど、様々であった。死体の山となった言問橋の凄惨な様子は、多くの人が目にしている。逃げ惑いながらかろうじて一命をとりとめた被災者達が、朝になって、自分の家へ引き返そうと言問橋に差し掛かったのである。死体を跨いだり踏んだりせずに橋を渡ることはできなかった。昼ごろになると、軍関係者が来て、遺体をスコップですくってトラックに積んでいった。体の原型をとどめない、男とも女ともわからない断片を、まとめてかき集めた。多くの遺体は身元を確認できる状態ではなく、そのまま仮埋葬地へと運ばれて埋められた。橋上には焼け死んだ人々の血痕や脂の痕が残った。現在も、両岸に近い部分の石柱は当時のままであり、黒く焼けただれた痕が残っている。

〇 菊川橋

 また言問橋よりもかなり小さい菊川橋(大横川)でも、同様に3000人以上の死者を出した。橋は渡れないほど死体が折り重なり、道路には人の脂が染みつき、丸太棒と思えるほど丸焦げの死体が散乱していた。多くの人々がこの橋のたもとや橋の下を流れる大横川に身を投じて折り重なるように遺体が積み上がり、数カ月もかけて遺体の引き上げ作業がおこなわれた。

 ただ、この橋の上の遺体だけはすぐに片付けられたようで、日本橋方面から来た人の証言である。

—— 我が家が焼けた3月10日も深川の学校に自転車で行ったが、隅田川を渡って新大橋通りの三つ目通り交差点から住吉町まで行くと、道端のあちこちに多くの人が黒焦げになって死んでいた。大横川に架かる菊川橋はやや高くなっているが、前を自転車で行く人が自転車を降りて、その自転車を手で押して渡って行った。私もそこまで自転車に乗って行ったが、タイヤが滑って登れない。よくよく見ると、橋の上で焼死した沢山の人から流れ出た脂であった。仕方なく私も自転車を降りて歩き、その足が幾度か脂で取られそうになりながら学校まで行った。橋の上から大横川を見ると、川の中も川面が見えないほどに死体がいっぱいであった。学校へ着いてみると、防火用水に使われていたプールの中にも、火災に追われて飛び込み、亡くなった人々の死体がいっぱいあって、どぎもを抜かれる思いだった。

 戦後も橋や道路の工事をするたびにおびただしい人骨が掘り出されるため、菊川橋の北西のたもとに地元住民や遺族の手によって「夢違之地蔵尊」を建立したが、その経緯は下記の「各地の慰霊碑」参照。

 一件、2月25日の空襲の様子がある(当時堅川=現・立川で)。

 —— みんなは連日の空襲におびえていたが、朝からの大雪で、こんな日はアメリカも空襲は休むだろうと思っていた。午後になって空襲警報が鳴り、その後怒鳴り声で外に出てみると、空一面が黒くなったように何かが落ちてくる。子供を背負い防空壕に入ったとたん、百雷が一時に落ちるような音がした。前の家を見ると真っ赤な炎でいっぱいで、それが焼夷弾だった。家にも焼夷弾が落とされ、バケツリレーでは消せず、隣からも火が移って来て、早く逃げろという声に急かされて、夢中で防空壕にふたをして、布団のかい巻きをかぶって、みんなの後に続いて森下のほうへ逃げた。低空に飛ぶB29が炎にうつされて悪魔の鳥のように見えた。ちょうど千葉の妹の出産の手伝いに行った母が帰って来て驚いていた。「無事でよかった。これも国の犠牲だよ」と言った。

 このことでわが家も疎開の準備に入った。夫は郷里の秋田に行き、私は荷物を預けてある埼玉に3月8日に出かけた。翌日の深夜、東京より5里(約20km)離れた畑の中から燃え上がる空を見ながらうろうろしていた。他の人は起きてこないので仕方なく家に入り、横になってまもなく、畑の向こうから防空頭巾を被った父を先頭に、母、弟、おばさん、孤児の鉄ちゃんが一列になって歩いて来た。ああよかったと思ったとたん、夢だとわかった。思えばみんなこの時刻に死んだのであろう。その5人の姿がいまだに心の中に生きている。翌日の夕方、林の中を乞食のような姿で兄が一人で帰って来た。菊川橋の下で九死に一生を得て、「もうみんなはだめだろう」とあきらめていた。それから父母たちを探しに毎日焼け跡に通った。夫が、引かれるように行った菊川橋のたもとで、ちょうど川から引き上げられた母を見つけた。私の編んだ毛糸の羽織を着た姿だった。他のみんなは見つからなかった。埼玉に行く時に挨拶した近所の人もみんな死んでしまった。疎開児童の親たちも死に、15人の孤児ができた。学童疎開していた長女を迎えて、親子4人で秋田へ向かった。(「東京大空襲戦災誌」第2巻:大日向カツ) 

 —— (3/10)横なぐりの凄ましい猛火が人々の上を走った、人々が折り重なって倒れれた。その人たちがくすぶりはじめ、ゴウゴウと音をたてて燃えていく。私はわずかな土の窪みに顔を伏せ空気を吸った。人間が生きながら焼かれていく修羅場、その光景が地獄絵さながらに私の目の前にある。あたり一面火の海、焼き殺された左右の腕がつけ根から落ちた。両足が大腿部から焼け落ち、最期に頭がポトリと落ち、五体がバラバラになった。炭化した死体の白い骨が何かを怨み、見据えた目玉のようだった。私の着衣は焼けてなくなり、全身に大火傷を負っていた。くすぶりつづける焼死体から異臭がする。私のまわりには誰ひとり生き残った様子はなく静まりかえっていた。チクショウと腹の底からしぼりだす男の人の声が遠くで聞こえた」 (「平和のひろば」隅沢理恵)

 —— その未明、娘を背負って夫とともに隅田川の冷たい水の中へ逃げた私は、腰まで水に浸かったが、娘を水に浸けないようネンネコの上から手を添えるだけで精一杯だった。その朝の気温は2.6℃であった。私のからだは芯まで冷え、猛烈な眠気に襲われた。川のなかに置いてあった大八車に、あと1人ぐらいなら乗れると引っ張り上げてもらったまま意識を失った。夫が乗る余裕はなく、何も言わずジッと川のなかに立ちつくしていた。それが最後に見た夫の姿だった。私が意識をとり戻すと夜が明けていた。助けたと信じていた背中の娘は動かなくなっていた。首をだらんと垂れて、顔に火傷の跡がついていた。ネンネコはビショビショに濡れていた。自分が助かったのは、背中が濡れなかったからで、娘が代わりに犠牲になって亡くなったと思うと、子供を守るのが親なのに守れなかったことが、いつまでも糸を引くように残っている。戦後、戦災孤児を預かる施設で70才になるまで働いた。その子供たちが亡き娘だと思って世話しつづけた。いまだに川の中で亡くした一人娘の唯一の形見となったネンネコを時折広げて見ている。(鎌田とむ、92才:NHKスペシャル:2005年)

 —— 私は家族を疎開させていて、この日は目黒の会社の寮に泊まっていた。翌日江東橋近くの家に帰ってみると、家は跡形もなく、一面焼け野原だった。あちこちの道路には焼死体が転がっていたが、着物も焼けていず赤味をおびてうつ伏せになって倒れているたくさんの死体はおそらく煙で窒息死したと思われた(実際には一酸化炭素による中毒死のようである)。また近くの大横川には大勢の人々が熱くて川に飛び込んだらしく、川面をふさぐほどの水死体だった。本所緑町三丁目に兄嫁親子が住んでいるのを思い出し、重い義足を引きずりながら歩いて行った。数々の焼死体を乗り越えながらなんとかたどり着いたが、義姉と17歳の姪の二人は都電通りに出て倒れて死んでいた。二人とも窒息死だった。兄が病没して私を頼って東京に出てきての災難だった。その後私は5/24の大空襲で焼け出され、妻子の疎開先の種子島に行き、13年間百姓をしながら暮らした。(『東京大空襲戦災誌』第2巻:大喜隆重)

 —— 自宅は菊川町二丁目の電車通りに面して、いろんな商品の卸、小売の商売をしていた。夫は町会役員で警防の役につき、警報があるたびに本部に出て行く状態で、「今死んでは子供が小さいから困るな」と言っていた。幼い子供達は各所の疎開先に預けていて、実践高等女学校(別記参照)の長女は毎日、挺身隊(正しくは学徒勤労動員、挺身隊は学校に行っていない14歳以上の女子)で製薬会社に通っていた。9日の午後に一番下の子の静岡県の疎開先に向かった。しかしは夜半空襲警報で藤沢駅で降ろされ、心配でなんとかして翌朝東京に戻ると、東京駅には避難民が続々と来ていて、電車も動いていず、本所まで歩いて行った。家は影も形もなかった。その夜は中和小学校に避難して乾パン一袋二人分の配給を受けた。翌日江戸川の家にも行ってみたが、夫は数日前に布団やタンスなどをリヤカーで持っていったきり見かけないと隣の人に言われた。家族みんなで静岡に疎開するための用意だった。一晩そこで泊めてもらって、また本所に戻ってみたが、誰もいなかった。その夜は渋谷の親戚に泊まり、次の日から毎日、朝の一番電車で夫と娘を探しに通った。川に探しにいった時に、水から引き上げられていた長女を見つけ、夫は錦糸公園で発見した。二十日目だった。家の焼け跡で骨にした。(二人とも無数の死体の中で見つけられた例は奇跡に近い)

 その後、銀行、無尽会社(金融会社の一種)、郵便局に夫の貯蓄分を引き出しに行ったが、戦災にあった人は書類を書いて出せとのこと、保証人をつけて出したが、銀行も局も、本人がいない、印鑑がない、証明する書類がないとの理由で、三ヶ月間通ったが一銭も受け取れなかった(こういう時の金融機関はあえて融通を効かせず、結局この戦争でかなりの個人資産を横取りしたことになる。下記に述べる孤児になった子たちの親の資産も相当の金額に上っていただろう。いわゆる焼け太りである)。戦争ほど残酷なものはない。残されたのは次女以下5人の子供だけだった。。(同書:井出まつよ)

 墨田区向島で商店を営む79歳の男性の話。

 —— 3/10の空襲だけでなく、ほぼ毎日のように米軍のB29が飛んできて爆弾を落としていた。焼夷弾による空襲だけでなく、通りの真上までグラマンが飛んできて機銃掃射をする様子をこの目で見てきたし、米軍は女や子どもを狙って殺した。3/10の空襲では、近くの墨田川高校は木造校舎が全焼し、通りには爆弾が落ちた大きな穴が開いていた。戦後は隅田川に死体が山となり、それは東京湾に近い中央区月島から墨田区の白鬚橋まで延延と続き、潮の満ち引きに合わせて上下をくり返す光景が五、六年は続いており、腕が頭ぐらいにまで膨れ上がった腐乱死体をよけながら魚を捕っていた。

 現在のスカイツリーのあたりも死体の山が置かれていた場所だ。それだけ重要なことをしっかり伝えず、今では遊びの観光名所になっていることが、私たちからすると理解できない。隅田川も実際には掘り出せていない遺骨が山ほどあるはずだ。議員たちは空襲のことについて、だれ一人として触れたことがないのではないか。“そんなことは忘れた方がいい”という空気だ。空襲のことを伝える教育がないのだから、中学生、高校生も戦争について考えられない。近くの小学校や高校の生徒に、空襲の話や徴兵制の話をしても今の状況では理解できない子どもが多いと思う。…… 東京大空襲は広島、長崎の原爆よりも多くの人が亡くなっていることはほとんど知らない人が多い。しかしそれが一晩ではなく、何度も何度もくり返されて殺されている。一言で10万人が死んだというが、それは途方もない人が殺されている。また軍需工場に働きに行っていた女学生も爆撃で多く亡くなっているが、これもほとんど知られていない。空襲でこれほどの人たちが殺されたことを教えていかなければいけない。(2015年10月:長周新聞)

 筆者注:「“そんなことは忘れた方がいい”という空気」について言えば、少なくともこの東京大空襲については、戦後の30年、つまり昭和50年まで3月10日に特集で新聞紙上で取り上げられたことがなかった。現代では信じ難いことだが、それほどに国内ではこの戦争について語ることは避けられていた。もちろん日本が仕掛けた日中戦争から太平洋戦争で、日本軍が海外でどのようなことをしたかについても同様である。

大量の遺体の処理

 言問橋では、昼ごろになると陸軍の兵隊が来て、遺体(体の断片)をスコップなどですくってトラックに積んでいった。遺体の多くは身元を確認できる状態ではなく、断片をまとめてかき集め、そのまま仮埋葬地へと運ばれて埋められた。一説では橋の上だけで5000人は軽く超えるという。隅田川に浮かんだ死体も、次から次と手かぎふうの長い竿を使って何日も何日もかかって引き上げられ、岸辺に並べた遺体を、何台も何台ものトラックに投げ入れて、次々に運んでいた。名札で身元が確認できた場合は親族に引き取られたが、その間に東京湾に押し流されてお台場や品川の海岸に流れ着いた遺体も多かった(東京湾・お台場参照)。流された遺体は数万ともいわれる。

 言問橋近辺以外でも、「夜が明けると道ばたや川を埋め尽くした焼死体を、軍のトラックが来て鳶口で足と頭をひっかけて荷台に載せていく。荷台からいくつも足が出ていたのが忘れられない」/「翌日に軍が来てトラックにどんどん死体を乗せて各公園に何本もの穴を掘って埋めていった。一週間後の3月18日に昭和天皇が深川八幡を視察するということで、目に触れないように通過する場所だけ死体は手早く片付けられた(下記参照)。その他の遺体は一般市民の手で片付けられたが、持って行き場がなく、みんな河畔に埋められている」などがあるが、子細は「東京都の概要」参照。

 ただし、隅田公園は隅田川によって台東区側と墨田区側に分けられているが、広い台東区側は千数百体だったが、狭い墨田区側に約6400体が仮埋葬された。詳細は下記の戦後の項参照。

一家全滅ということ

 3/10の空襲では一家全滅が多かった。逃げるさい一家が手をつないで一緒に逃げるからである。一家全滅は死亡届けを出す人がいない。まだ戸籍簿から消えていない人が多いのではないか、と公園課の話である。

 墨田区の中和地区では85%の住民が死亡した。つまり住民100人のうち、生き残ったのは15人、菊川地区では、80%の住民が死亡した。墨田区は本籍簿も焼失した。

 本所小の疎開児童Hさんは「私は戸籍がないため無国籍になって大変苦労したが、親がいたので復権できた。私の近所の人たちは全滅しましたが、戸籍に記録がなくなっているのです。ある先生が子どもの学籍簿と疎開したときの資料から調査、照合したのですが、死亡者は名前が消えていました。記録がないのです。まるっきり名前も残らずに死んでいった人たちが多くいるということです。孤児たちも多くいましたが、届け出る親か、親戚がないと無国籍になってしまうのです」と語っている。(記録作家、金田茉莉編集のサイト「戦争孤児」より)

天皇の焼け跡への巡行

 まず、目黒区に住んでいた当時40代の白子清治の証言である(年齢的もしくは職業的に氏は徴兵されていなかったか)。

 —— 戦時下の当時、いろんな職種の人が「労務報国会」という組織に入らされていて、その人も一員であった。3/10未明の大空襲の日は下町方面の空が真っ赤に燃え上がっていた。その二日後に労務報国会に動員令が来て、各自スコップを持って碑文谷警察署に集合、夜も明けないうちに行先を告げられないまま東横線から渋谷で地下鉄に乗り換え、浅草雷門で降りた。吾妻橋を渡る頃に死体処理に動員されたことがわかった。集合先の本所石原の双葉小学校(全焼)に行くまで、どこを見ても焼死体だらけであった。二、三日のうちに天皇陛下が巡行するから、その通り道だけでも片付けよとのことであった。学校の校庭には山のように石炭が積み上げてあると思ったら、すでに軍隊がトラックで運んできていた黒焦げの焼死体の山だった。

 まず持参したスコップで校庭に穴を掘り、そこに全部埋めてしまうという作業で、焼けたトタンを拾ってきてそれに乗せて(多い時には8遺体乗せたほどに焼死体は軽くなっていた)、まるでゴミでも捨てるように穴にザーッと入れた。軍からは身元も性別もわからないから数だけ調べろと言われた。プールに飛び込んで死んだ遺体は上着の名札でどこの誰かはわかったが、上から順に引っ張り上げると後から後から死体が浮いてきて、あまりのすごさに心の中でお経をあげながらみんなで黙々と作業を進めた。二日目、親族の方であろうか、あちこちで泣きながら集めた焼け残った木片でその場で火葬にしていた。三日目、遅々として片付かない。巡行の道筋だけでもと言われた通りに動いていたが、当然、「こんなにきれいにしちゃったんじゃ、陛下は被害がどのくらいかお分かりにならないんじゃないの」という人もいた。その頃になると体ににおいが染みついてしまい、ご飯が喉を通らない。家に帰って子供が寝ているのを見ても死体に見えた。(『昭和の戦争記録』目黒区編集:岩波書店より)

 このプールに関して別の墨田区の資料で、祖父にあたる人が板橋から息子家族の遺体を探しに何日か歩き回ったあと、二葉小に行くと、知り合いの人に「一足遅かった。ついさっきプールから息子さんの遺体が見つかり、トラックの荷台にあげてしまった」と伝えられ、引き取りに行ってくれとも言えず、あきらめたが、後々後悔したという話がある。

 実際の天皇の巡行は3/18であった。深川富岡八幡付近を大股で歩く天皇の写真が残っている。道はきれいに片付けられ、焼けた木の下に多少の瓦礫が寄せ集められているだけである。これでは実際の被害の姿はわからない。天皇自身が被害状況を自分の目で見たいと望まれたものであろうが、これでは何もわからない。新聞ラジオも報道管制で正しい情報は伝えないから天皇の耳目には差し障りのないことしか入らない。この日も随行した軍関係者たちは、普段訓練していたから大半の都民は逃げて無事でしたとでも答えていたのではないか。ありのままの様相を見ていたら、天皇もこれ以上の戦争の継続に疑問を持ったのではなかろうか。

 そもそも大本からそうであろう。軍政府は自分たちに都合の良い情報しか天皇に与えず、日中戦争、太平洋戦争もやむなしとしてその都度開戦の詔勅を天皇の意思として発せさせて(恐れ多くも天皇のお言葉であるとして)国民を長い戦争に導いた。そこには本来の天皇の意思はなかった。天皇の使命というのは国民の安寧を願うということであって、それを天皇が自覚していないわけがないであろう。ただひたすら軍政府は天皇と国民に危機を煽ったのである。

集団学童疎開と家族を失った子供たち

 昭和18年(1943)秋、政府は米軍による空襲を予測して、当時の国民学校(小学校)の生徒を縁故疎開させるように奨励したが、昭和19年夏から、小学校の3年生から6年生までを対象に「学童集団疎開」を実施した。墨田区では、縁故疎開は本所区で3100余人、向島区で2600余人であったが、集団疎開では19年8月に第一次疎開として、本所区の児童約8200人が千葉県の176の宿舎へ、向島区の児童約6900人が茨城県の109の宿舎に疎開した(『墨田区教育史』では9月現在、本所区で8087名、向島区で8261名となっている)。千葉県へは両国駅から大勢の父母に見送られて出発し、沿線では日の丸の小旗を振ってくれるたくさんの人がいた。宿舎は寺院や旅館、公会堂などであった。出発の時は半分旅行気分であったが、数日もしないうちに子供たちは寂しくなり、特に3、4年生は家族が恋しくて夜はみんなでしくしく泣いていたと大半の人が語っている。

 そして3月10日の大空襲の直前に、6年生の子供たちは卒業式や進学のために疎開先から帰京することになり、やっと家族に会えるとみんな喜んで帰っていった。そしてその多くの児童が大火災に巻き込まれて、せっかく会えた親や兄弟と一緒に焼死した(上記菊川小学校参照)。例えば柳島小学校の一グループの6年生15人のうち、12人が消息不明となっている。他でも似たような数字が上がっていて、おそらく旧本所区の死亡率は2/3以上と思われ、一番高いのではないか。そこで都は新一年生から三年生までを新たに疎開させることにし、また千葉県と茨城県は米軍の上陸も予想され、軍が海岸線で「本土決戦」のための壕掘りなどの陣地づくりの準備もし始めたこともあって、本所区は千葉県から岩手県へ約2200人、向島区は茨城県から秋田県へ約2600人近くが再疎開することになり、4−5月に実施された。この時点の児童数が少なくなっているのは、3/10の空襲で家が焼かれて途中で家族で地方に疎開することになって、家族と一緒に行った子供や、親兄弟が亡くなって親戚の人たちが迎えにきたことなどによる。途中で病気で戻った子供たちもいたが、誰も迎えに来なかった孤児たちは、とりあえず岩手県などの再疎開組に同行した。岩手県には上野経由で12時間以上かかった。上野では一部の家族が会いに来てくれたが、1日でも家に帰りたいと思う子や、大空襲の後だったので「どうせ戦争で死ぬのなら家族と一緒に死にたい」と思う子もいた。小学生がそのように考えてしまうのである。

 集団学童疎開に関しては、戦後60年を期に体験談を集めて作成された『学童疎開墨田体験記録集』がある。これは108人の方々の寄稿により二段組で約370頁もあり、内容は重く、とても逐一紹介できない。その中で目についたものを旧本所区を中心に少しずつ拾い出しながらまとめる。

 旧本所区は千葉県の房総半島の東京湾側の村々への疎開が多く、それも30−50人単位で主に寺院へ、旅館などにもいくらか分散して疎開した。このあたりに疎開した児童たちは特異な経験をした。まず、東京への本格的空襲の前には偵察機がしばしば上空を通り、空襲時には、B29大型爆撃機などが静岡県の沖合を通って東京湾に入ってくるのと、房総半島の上空を通って入ってくる場合があり、疎開地へ落ち着いてから数ヶ月後から、児童たちはしばしば空襲警報とその爆撃機の轟音に脅かされ、その都度防空壕に入って暗い中で過ごした。さらに半年後の3月9日深夜からの空襲警報ののち、寝ている子は起こされ、東京湾西側にある東京方面が赤々と燃え広がる光景をまざまざと見ることになった。お互いの顔がその明るさで見えるほどで、「東京が燃えている」と子供たちは呆然と眺め、同時に自分の家族の心配をし、心を痛めた。あるグループは寺の裏山の中腹まで登って、「東京の空が地平線から天まで、左の端から右の端まで、紅蓮の炎が天まで届くかと燃えていた」光景を、「誰も声を出さずに、寒い風が吹き付ける中、みんな歯をガチガチ鳴らしながらじっと見続けた」。内陸部から太平洋側に疎開していた子供たちは夜中にB29の大編隊が東京に向かう轟音を聞いたし、山の向こうの夜空が真っ赤に染まっている光景を見た。そして朝になると、たくさんの焼け焦げた紙や、白黒の灰が風に乗ってきて長時間降り続けた。中にはお札の燃えかすも各地にあった。「竹やぶの葉がサラサラと音がするので、よく見ると10円や1円札の燃え殻だった」。前日の東京は北西からの強い風が吹いて、それが余計に大火災を引き起こしたが、その風で千葉まで灰が飛んできたのであった。同じ日に、大編隊と離れたB29が銚子に単機で焼夷弾を落とし、付近にいた疎開児童は防空壕に逃れたが、そこにも煙が入って逃げた。

 千葉県から東京へは近いので、あるグループの担当の先生が朝から生徒たちの家族の様子を見に出かけた(こうした先生は少なくなかった)。やっとの思いで帰ってきた先生は、「悲しいお知らせです」と言って、ほとんどの家が焼けて残っていないこと、そして一人一人の家族の行方を言い渡した。「〇〇さんの家族はとうとう分からずじまい、おそらく全員死亡です」と告げられた子もいた。「父母もかわいい妹たちも一緒に死んだと思うと、ただ長い時間一人で泣いていた。今まで、戦争に勝つまでとガンバってきて、お国のためにとガマン、ガマンの何年間は私にとってすべて空しいものとなった。これでもし戦いに勝ったとしても、家もなく親もいないのに、兄(一緒に疎開)と私の子供だけでどうして生きていけばいいの?と思うと何の希望もなく無気力な子供になった」。このような人たちは、疎開中にやりとりした父母の手紙やハガキを終生大事にし、時折涙しながら読み返し続けている。

 その後上記のように焼け出された家族が、次々と子供たちを迎えに来たが、中には顔を赤く焼け腫らしたおばさんが、自分に寄ってきてどこの人かと思えば、自分の母だったという話もある。誰も来ない子供たちは、家族の無事を祈りつつ待ち続けたが、迎えに来る友達の親たちに家族の死を知らされる場合もあったし、聞いても目に涙されるだけで黙って去られる場面もあり、ある友達のお母さんは、帰り際に駆け寄り、「あなたのお母さんはきっと来るから、頑張って待ってね…」と言いつつ終わりの方は声にならず、その様子で自分の母が焼け死んだことを悟り、夜、どうしても信じられず、布団をかぶって毎日泣き暮らした子もいた。他に例えば6人兄弟で、両親と5人の兄弟を一度に失った女の子、両親と弟妹3人を失った男の子もいる(下記の「戦争孤児」の項参照)。この時期の疎開児童の兄や姉、つまり中高生は、ほぼ東京で軍需工場への勤労動員に励んでいたから、家で親と一緒に焼死する場合が多かった。その他、親戚が引き取りに来て、落ち着いた先で初めて家族全員が死んだと知らされた場合もある。現在のわれわれには想像すらできず、悲痛という言葉では表せないものがある。中には「一人残して孤児にするより、死ぬなら家族一緒に死のう」と疎開先に迎えにきた親も少なくなく、同じ理由で最初から疎開させなかった親もいる。実際に一人残された子供の心とその後の苦難の道を思えば、おそらくそれが正解であったろう。孤児のまま岩手県に再疎開し、最後まで誰も引き取りに来なかった子の中には、東京の施設に連れていかれる場合もあった。

 余話的になるが、深夜に東京が燃え盛っている時、周囲の声をよそに寝入ってしまった当時6年生の男性は、その夢の中で両親がまだ小さい弟を連れて面会に来たので、その弟を抱き上げて、姉とすぐ下の弟の様子を聞くと、「公園に逃げたよ」と親が言った。その通り、二人は公園に逃げて助かり、親たちは死んでいた。その夢の中で、両親と弟の服装と、抱き上げた弟が妙に軽かったのを覚えているという。この方は残った二人の姉弟とともに母親の実家に引き取られて育った。亡くなった父親はクリスチャンで戦前に米国にも行ったことがあり、最初から「この戦争は負ける」と言い切っていた。こうした親の子は、戦争に負けたと知っても動揺せず、悔しくて泣くこともなかった。この時代、どれだけ多くの正しい情報が国民に隠され、歪んだ情報が流されていたかがわかる。3月10日の大空襲の時でさえ「我が方の損害は軽微なり」とラジオでは放送した。

 良いほうの話となるが、この房総半島に疎開した子供たちには、多くの場合、その村々が大変協力的で、比較的食べるものに恵まれ、魚や牛乳も出され、すべての村ではないが、他所の遠い疎開地のようにひもじい思いをすることがあまりなく、食べ物はむしろ東京よりも恵まれていた。最初のうち、お寺のトイレや風呂や洗面所などの工事が終わっていず(仮設トイレは墓地の側に作られたり、この時代は農家のトイレも肥やしにするためほぼ外にあったのでみんな怖い思いをしてトイレに通った)、それまで村の家々に分宿し、その後も時々泊まりに行って、ごちそうにもなった。その代わり午前中の勉強が終わると、午後は各自別れて農作業のなども手伝いに行った。そこでまた食べ物をもらって嬉しかったという。この違いは何なのかと考えるに、千葉県のこの地は農作物と海産物の多くが東京へ出荷されて、東京の経済圏であり、貧しい農家もあまりなかったのではないか、だから東京の子供たちをできるだけ支えていこうという気持ちが地元の人には大きかったのではないかと思われる(ただし、千葉県の内陸部その他ではそうでもなかったとの記述が見られ、農家の作物を勝手に畑から取って食べたりしている)。事実、旧香取郡山田町の西雲寺に疎開した江東小の生徒であった人が後で聞いた話では、当時の村長が疎開児童が来る前に、「もし村人の中に疎開児童をいじめるものがいたら、この村から出て行ってもらう」と話したという。なかなかこのように言える人はいない。そこで村人たちは交代で学校帰りの児童たちを道端で待って、大きなザルに入れたふかし芋を一人一人に手渡したという。

 集団疎開よりも縁故疎開で単独に田舎に行った子供のほうが、地元の子供によくいじめられた。「疎開者」、「焼け出され」、「家なし子」などだが、子供のいじめは率直で残酷である。それもこれも、親がそうした目でよそ者を見たり小声で噂するから、それを真似していじめる。親の教育とも言うが、親自身がきちんと教育されていないのである。いずれにしてもここに、被害者が逆に差別されてしまうという世の中の原型がある。

 そして太平洋側からの米軍の上陸が想定され、本土決戦の言葉がしきりに新聞に載るようになった20年(1945)の春に、岩手県に再疎開した子供たちは空腹に苦しんでいる。例えば岩手県の湯川温泉に再疎開した生徒の一人は、「生まれて初めて山の中で生活し、その山ばかり見ながら、飢えとシラミ、ナンキン虫に責められながら、耐えて生きた。私は終戦間近の夏に、栄養失調で(食べるものはイモ、ワラビ、ゼンマイ、玄米少々、肉類一切なし)消化不良となり、衰弱して歩行困難となり、病床に伏したままになった」と記している。極端な例では、地元の学校に通った中で、村の生徒の弁当を盗んで食べた話もある。農家で干してある柿の皮(家畜用)なども取って食べた。空腹を紛らわせるために、歯磨き粉を舐めたり、親から渡された整腸剤の「わかもと」や「エビオス」など(二点とも今も売られている)を飲んでみたり、なくなると小遣いで地元の薬局で買って、すると薬局からその品が消えたり、販売停止になったりした。ちなみにシラミの発生(髪の長い女の子には毛ジラミがわいた)に苦しめられたのはどこの疎開先でも同様で、風呂にもあまり入れず、衣類もあまり着替えがないせいもあったろうが、そこで世話をする寮母さんという方々が、洗濯に大変だった話もある。

 岩手県に再疎開した生徒の日常は勉強より、勤労奉仕が多かった。食料増産の掛け声のもと、畑の開墾のために「山を切り崩し、木の根っこや草の根っこ、石ころなどを取り除き、自分たちの食べ物として山へ山菜採り、枯れ木を薪にと持ち帰った。時々村の農家に行って風呂と食事をいただいた」。これが小学校5年生になったばかりの女の子がさせられた作業である。まるで「後進国」の子供たちの様子であるが、実際に当時の日本の農村は後進国であったと言っていい。勉強は部屋での自習が多く、時々地元の小学校に勉強に行ったという。

 親は均等に疎開の費用を負担していたが、田舎の農家の収穫物は、自前のものを除いて、ほとんどが軍隊用に供出されていたから、日本全体で食糧は不足し、当然戦争に必要な物資も枯渇していた。この戦争を、どれだけ軍政府が無理をして強行していたかが、これだけでもわかる。例えば小梅小学校の生徒は、木更津経由で久留里線に乗り換えて終点の亀山駅まで行ったが、この線路は帰るときには武器のための鉄不足で撤去されていた。最初からこれらのことを理解して日本の負けを見通していた人も少なからずいたが、その声を上げると非国民として憲兵に連行される場合もあり、近隣から家族への中傷被害も避けられなかった。

 疎開先でも男子のグループの上級生は、軍事教練を含めた規律を保った生活を送る場合もあった。「小学生といえ、お前たちは『少国民』という名の『少年戦士』である」と言われ、行軍する時は軍国調の歌を歌いながら(その中には「少年産業戦士」という歌もあった)隊列を組んで歩き、防空訓練もあり、地元の農作業の手伝いもした。学校によっては、女子の生徒の中でも軍隊式に一つのグループを小隊とし、そこから中隊、大隊とされて命令系統が作られて訓練された。家族と離れて寂しくても、お国のため、この戦争に勝つまではと聞かされていて、子供ながらにみんな頭の中で、少国民だから「辛抱する」という気持ちで「家に帰りたい」という言葉も飲み込んで、空腹も耐えて過ごした。

 時代の空気をそのまま生徒に押し付ける先生もいる。四年生の女の子は、大空襲前の2月に父と兄が来たが、事前に先生に「お父さんとよく話しなさい」と言われていて、話は「空襲がひどくなるから川口に引越しをする予定で迎えに来た」ということだった。本当は帰りたかったが、帰らないと言った。父と兄はがっかりして帰っていった。その夜先生は「〇〇は偉い。迎えに来ても帰らなかった」とみんなの前で言った。本当はその先生にはいつも「今親が迎えに来て帰る人は非国民だ。島流しにされる」と言われていたから、父には言えなかった。そのあと布団の中で後悔していつまでも泣いた。(ちなみにこのような先生は日本が負けたとなるとコロッと態度が変わる。常に大勢に合わせて自分の考えを持たない人である)。3月10日の空襲で父たちは命からがら逃げ出し、4月の岩手への再疎開前に再び迎えに来た。「東京がまた焼けてお前一人が孤児になるよりも死ぬときは一緒だ」と言って有無を言わさず一緒に帰ることになった。東京に帰り着いたときには全身がホッとした安堵感に包まれた。

 疎開先の房総半島にはB29大型爆撃機よりも、小型の戦闘機(P51などの艦載機)がしばしば飛来し、機銃掃射をされることが多くあった。この戦闘機の編隊を初めて見た子供たちは日本の飛行機だと思って万歳と叫んでいたら、そのうちの数機が急降下して機銃掃射をしてきたという(二葉小の疎開先の長南町=隣の茂原に飛行隊基地の飛行場が作られていて、それを狙ったもの)。菊川小学校の疎開した東金町(東金高女の寄宿舎)の近くにはちょうどそのころに完成した飛行場があって、攻撃の対象となり、2月16日、米軍の母艦の艦載機約100機がやってきて、生徒たちは一日中横穴の防空壕で過ごした。ただ、いずれも飛行隊員の宿泊所が近くにあって交流があったようである。現在の山田町のあたりの寺に疎開した江東小学校の生徒はある日、米軍戦闘機が墜落炎上したのを見に行き、飛行士の死体を見たというが、別な日に日本の戦闘機が撃墜され、パラシュートが開かずに飛行士がそのまま田んぼに落ちて死んだ時もあった。また中和小学校の宿泊した君津郡の長谷寺も2月25日、朝食の時に艦載機の機銃掃射に遭い、食器などにも弾が当たり、生徒は無事だったが、お寺の本堂が燃え、近くの小学生の子が、風邪で寝ているときに弾を受けて即死した。この日は墨田区も大きな空襲を受けていたが、こちらのほうは明らかに民間人を狙った行為である。これは米軍飛行士の顔が見えるほどで、戦争終盤には外にいる子供たちをも平気で遊び感覚で狙ってきた。当時子供であった人たちのそれに関する証言は日本各地で数多い。また3月9日の夜10時ごろ、つまり東京への大空襲の直前にB29が東金地区へやってきて、鳴浜小学校が全焼した。

(ここまでは『学童疎開墨田体験記録集』より)

 —— 7人家族で、当時10歳の私は姉と一緒に千葉県のお寺に学童疎開することになった。三ヶ月に一度くらい親たちの面会日があって、その日が待ち遠しく、会えた時は嬉しさでいっぱいだった。下の弟3人を連れてきていてお寺の大きな木の陰で、先生に内緒よと言って食べ物を差し出してくれた母の愛情が忘れられない。この面会が最後となって、手紙も母も上の弟と一緒によくくれたが、弟がもうすぐ二年生と書いてきた手紙が最後となった。

 大空襲の後に、父が全身に包帯を巻いて迎えにきた。寺を出る時、先生たちは目を赤くして頑張るのよと言ってくれたが、まさか母たちが死んでいるとは思わず、どうしたのかと思っていた。てっきり母たちの待つ家に帰れると思っていたら、田舎の叔母の家だった。「お母ちゃんたちは」と聞くと、「後から来るよ」と言って去っていった。待てど暮らせど母は来ず、父を恨んだ。あんなに子煩悩で優しかった父が、いつも何か考え込んで無口になり、すっかり変わってしまった。父は姉だけを育てることで精一杯だったようだ。

 叔母の家から、やがて貧しい農家にもらわれて、早朝から真っ暗になるまで、牛の世話から田畑山仕事に家事の手伝いに明け暮れ、手はしもやけとひび割れで痛く、ひどい生活を強いられた(注:これが当時孤児に対して国が推奨した養子の実態で、戦死した夫や息子たちの労働力の代わりであった)。あまりにつらくて、叔母の家に逃げ帰った。そこからも苦難の連続だった。

 のちに父に一度、母たちがどこでどうして死んでいったのかと聞いてみたが、何も答えてくれず、それっきり父は悲しみを胸に秘めたまま、孤独の中で世を去った。その後叔母から中和小学校で死んだと聞いた。(上記「小学校の惨劇」参照)

  「戦争は武器を持つ兵士同士の戦いの場ではなかったのでしょうか。罪もない母や弟たちまで空襲で殉難し、一片の骨も残っていない。(米軍は戦果を求めて)抵抗もできない人々の頭上から爆撃機で皆殺しにし、これは戦場以上に無残で常識のない戦争でした」(『東京大空襲・戦災誌』第2巻:黒河久子)

総じて、集団疎開の体験者の中には、規律的な集団生活や田舎でのいろんな経験もあって、精神的に強くなったと語る人も少なくないが、それは比較的環境に恵まれた人たちで、親兄弟を戦災で失なった孤児たちは終生悲しみと寂しさを抱えて生きていった。むしろ親と一緒に死んだほうがよかったと語る人は多い。3/10の話を誰にも一切話したことはないという方もいる。その経験はあまりにも辛く、思い出したくもないからである。「このような戦争を二度としてはいけません。友達をなくし親兄弟を失い、家や財産や思い出の数々を失う悲しく辛い生活を、次の世代の子供たちに経験させたくはありません。こんな悲しい思い出はもう結構です!」と、家を失っても幸いに家族が全員無事で、6人で6畳一間だけの生活から始めた方は語っている。

 墨田区立川で大空襲を経験した80代の商店主は、「私も中学3年生で炎の中を逃げ惑った一人だ。兄は、今の電気通信大学を卒業後、三井船舶に入社してすぐに軍の輸送船に徴用され、昭和19年(1944)7月ごろ千島に物を運ぶ途中に魚雷でやられて1日漂流して掃海艇に助けられて生還したが、今度は11月にシンガポール行きの輸送船に乗っているときに玄界灘の先で潜水艦に爆撃されて亡くなった。乗員80人のうち生き残ったのは2人だけで、11隻の船団で出発したその日の夜に全部やられてしまった。兵隊を満載した船がみんな沈められ、出て行く船は次々に沈められる時代だった。出征の日に東京駅まで見送ったが、軍属なのに海軍士官の襟章を付けていた。いかに兵隊が足りなくなっていたかということだ。近所の子どもも中学5年生になると予科練などに志願し、従兄弟達もみんな戦争にとられて死んでしまった。戦争をしなければ日本は消滅する、残った一人まで戦うんだと教育されてきたが、勝てるという日本人は誰もいなかった。はじめから負けるとわかっている戦争に突き進んだ」と語った。(2015年10月:長周新聞)

 「戦争をする」と決めた人たちは、こうした惨禍を生じさせた場所には決していず、自分の家族も安全な場所にいて、その首脳たちは大型爆弾にも耐えうる防空壕の中で、空疎な戦略を練っているだけなのである。そして国土がこの状態になっても、自分たちの頭の中だけのプライドで、戦争継続を主張し、あげくは二つの原爆投下を招き、無条件降伏を受けざるを得なかった。しかもその後、自分たちの戦争責任を回避するために、戦時下のすべての書類を焼却した。その上敗戦直後の新内閣の首相は、国民に詫びるどころか、「一億総懺悔」と言って、みんなで反省しましょうと厚かましくも語った。このような指導者たちのために、日本は310万人もの犠牲者を出し、そればかりでなく日本軍が海外に侵攻したアジア各国の戦地の人たちに対しても、丸14年間にわたって、それをはるかに上回る犠牲者を出したのである。

戦後の出来事

公園などに仮埋葬された遺体

 戦後の焼け跡にも住宅や工場が建ち、産業の町として復興し、昭和28年(1953)には工場数が戦前を上回り、商業面でも復興した。昭和53年(1978)12月、菊川公園で配水管埋設工事の時に人骨が見つかった。この小さな公園に大空襲で焼死した遺体が数千体以上仮埋葬されていて、それが十分に回収されていなかった結果であった。

 記録では(三種の記録を合体)、墨田区内では錦糸公園に1万3263体(729)/小さな菊川公園と菊川小学校校庭に4515体/中和公園(菊川1丁目)に3850体/墨田公園(向島側)に3682体(464)/緑町3丁目空地に942体/原公園に364体/緑町公園に350体/吾妻西公園に250体/法泉寺に136体/江東公園に50体/江東橋台地に30体、合計2万7432体(1193)以上が仮埋葬された。なお( )内は身元判明者。

 江東区と台東区の遺体も含めて、これらは主に昭和24−26年(1949-52)にほぼすべて掘り出され、火葬されているが、菊川公園のように残された遺骨もあって、他に住民たちが独自に埋葬した場所も多くあり、例えば「空襲後に個人により湿地帯や窪地、防空壕の中に埋め、土や砂をかけたのも多数あった」ということで、正式な火葬が終わってから発見された遺体もかなり多い。この他、隅田川から東京湾に流された多くの遺体がどれほどであったかは把握されていない。(東京湾・お台場参照)

 「亀戸天神の前通りでは水道工事のため長い穴が掘られていたが、その穴に付近の住民が多数の死体を埋めてしまった(関川氏)/昭和22年(1947)の暮れ、庭丸という屋敷のまわりは、ちょっと掘ると骨ばかりでした。その骨をきれいに集め、その上に墓標を立てました(岡田氏)/敗戦後に焼け跡に家を建てようとして、土を振ると遺骨が出てきた」等々。おそらく庭や家の床下に掘った防空壕の中で一家全滅になった場合、誰もそこを掘り返して探す人がいないから、そうした人たちの骨もあったであろうし、後にその土地を取得した人の話と思われる。

 身元判明者の遺体は一体一体が平らに並べられ、その頭に小さな墓標が立てられ、肉親を探しに来た人たちがその名前を見つけることができたが、ほとんどの死体が、上記「天皇の焼け跡への巡行」で記すように軍関係が天皇の視察の前に手早く遺体を片付けるために、区別されずに軍のトラックで運ばれ、仮埋葬された。そのため、どれだけの被災者遺族が疲労困憊しながら肉親を探し回り、結局見つけることができずに戦後も悲しみを抱いて生きていったか(だから戦争は今でも終わっていないと語る人もいる)、軍の、まるで住民のことを斟酌しない行動は、この例ばかりではない。これが「皇軍」とされたこの戦争における軍の実態であり、天皇の御心にも反しているであろう。(「東京都の概要」の同項参照)

横網町公園と東京都慰霊堂

 横網町公園は大正時代までは陸軍被服廠があった。それを北区赤羽に陸軍被服本廠として移した後に都が買い取って公園として整備していたところに大正12年(1923)9月1日、関東大震災が発生した。ちょうど昼時で食事の支度で火を使っている家庭も多く、各所から火災が発生し、周辺一帯から多くの人がこの造成中の公園を避難場所とみなして集まった。しかし火は風を呼び、風がまた火を呼んで火勢は一挙に強くなり、人々が避難の際に持ち出した家財道具に次々と火が移り、公園はたちまち大火に包まれ、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、横網町公園に避難した人だけで3万8000人が犠牲になったという。その遺体はその場で火葬され、大量の遺骨はその中に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。やがて東京の復興が進む中、この大震災による遭難死者約5万8000人の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が建てられ、昭和5年(1930)に完成。数十個の大瓶に移された遺骨は堂内に安置された。また横網町公園自体も同年9/1に開園した。翌年には当公園内に復興記念館が完成した。

 そして昭和20年(1945)3/10、この地は再び焦土と化し、多大な犠牲者が出て、当横網町公園をはじめ、多くの公園に犠牲者が仮埋葬された。その後昭和24− 25年にそれらの遺骨は掘り出され、順次火葬された。収容された犠牲者10万5400体とされ(最終的には残された頭蓋骨で計算され、その大半が身元不明者である)それを仮埋葬地別に470個の大壺に収め、当公園にある納骨堂を拡張し”昭和大戦殉難者納骨堂”として震災記念堂に合祀された。そして昭和26年(1951)に「東京都慰霊堂」と改称され現在にいたっている。

 慰霊堂には一応戦災死者の名簿が納められているが、「東京都の概要」また上記天皇の巡行の項で述べるように、当時は死者の特定がまともになされず、それはとても全体の死者数に及ぶものではなく、推定戦災死者が10数万人(隅田川から海に流された不明者も想定)に対して当初の名簿は昭和27− 30年前後に東京都によって作成された3万365名であった。この後、慰霊堂で行われる毎年の法要などに参加する人たちにも戦災死者の報告を呼びかけたりして、平成28年(2016)現在で名簿は8万人を超える数になっている。正確に名前がつかめない理由は、いくつかの区が戸籍簿を焼失していること、戦時下の「疎開」で都外に移籍した人が多かったこと、そして一家全滅が少なくなかったこと、さらには孤児になった子供たちを行政側で何のサポートもせずに放置し、浮浪児として排除したこと等があるだろう。(下記の「せめて名前だけでも」参照)

 ところが、自身が戦争孤児で記録作家の金田茉莉が、この3万365名の名簿を閲覧しようと訪れたところ、「昭和大戦殉難者の霊名簿」が慰霊堂になかったという。「慰霊協会は東京都が持っているといい、東京都は慰霊協会が持っているといい、水かけ論で一向にらちがあかない。要するに霊名簿は無くなっていたのである」と。その霊名簿は、「戦後から遺体を埋める作業、遺体発掘作業、火葬、慰霊堂へ安置、霊名簿作成と、空襲死者と32年間も向き合ってきた」都の公園課のKさんという方が自宅に持ち帰り保管されていたことが、戦後60年近く過ぎてから判明した。「伝え聞くところによると、東京都が霊名簿を焼却しようとしたので持ち帰ったという話」であった。この3万365名の名簿も、元公園課の人たちの日々の努力によって苦労をして登録されたもので、そのことは慰霊堂を訪れた遺族はよく承知しているという。

 「震災の霊名簿は立派な容器に入れられ永久保存されているが、戦災死者の霊名簿は貧弱、粗末すぎた。両方の霊名簿を比較すれば、都が戦災死者をどれほど冷遇してきたか、明白になるだろう。この証拠が残ると困るから消してしまいたかったのではないか」と金田は述べる。「戦災孤児たちの証拠書類もことごとく焼却してしまった。…“知らぬ、存ぜぬ、証拠がない”というのが官僚の常套手段である」と。軍政府は敗戦直後にほぼ全ての関連記録と資料を燃やしてしまったが、このように証拠を隠滅しておいて「証拠がない」といえる厚顔な態度はどうしたら持てるのか。本来、役人というのは公僕の意識を持って市民の要望に応えていくのが努めのはずであるのだが。

 本来、戦災の慰霊碑もしくは慰霊堂は別な場所に造営されるべきであったが(慰霊堂は震災記念堂として設立されたもので、戦災遺骨については、あ くまでも一時的な合葬場所であって、恒久的には戦災遺骨だけを保管する独立し た追悼施設が作られるべきであるという根強い意見が遺族の間にある)、米国占領軍GHQは、自分たちが行なった非道な空襲で犠牲になった人々を祀る慰霊碑の建設を許可しなかった。占領解除後も、都民がなんども陳情したが、米国の意向に遠慮し続ける為政者は取り上げることはなく、90年代に入ってやっと具体的に計画された記念館建設すら、平成11年(1999)、新しく都知事になった石原慎太郎が凍結し、現在に至っている。

 その結果、民間の寄付で江東区にささやかとしか見えない(筆者がこのサイトの作成に取り掛かった当初、訪れた時の印象で、駐車場も数台分しかない)東京大空襲・戦災資料センターが作られた(江東区参照)。ただ、国際的にも明らかに知れ渡った広島・長崎についてはそういうわけにはいかず、早くから慰霊碑・記念館とも造営されている。今ひとつ、沖縄の平和祈念公園の平和の礎(いしじ)は、敵味方と住民の犠牲者全20万人を超える氏名を石碑に刻んで扇状に並べているという、無二と言っていい施設であるが、これは多くの米軍基地で抑圧されている沖縄を、さらに抑圧することにならないように、建設を認めたものであろう。(その後も名簿は追加されて平成30年現在では24万人を超す)

 納骨堂の扉が開かれるのは大空襲があった日の3/10と、大震災があった9/1であるが、平成30年(2018)10/26、東京空襲犠牲者遺族会の要望で納骨堂が開かれ、地方からも遺族が駆けつけた。この日は歴史研究者も招待されたというが、「兄はどこで亡くなったかもわからないんです」と話す人もこの中で黙祷した。(「東京都の概要」の戦後の<東京都平和祈念館建設計画と東京都慰霊堂…>参照)

 ちなみに上記の関東大震災の際にも、朝鮮系の住民が震災に乗じて略奪や襲撃を起こしているという情報(今で言うフェイクニュース)が流れたため、一部の朝鮮人(朝鮮人と間違えられた言葉に訛りのある地方出身の日本人や中国人も含めて)が混乱下の避難民とそれを信じた軍や警察、自警団などによって殺害され、それを追悼する石碑も建てられている。その犠牲者の数は実際に震災で犠牲になった人たちもいるから定かになっていないが、800人台から千人以上とされる。またこれは都内だけでなく、埼玉や千葉県でも起こっている。この時代、朝鮮人が多かったのは、明治43年(1910)の日韓併合により日本が植民地としていたからで、多くの労働者が東京に限らず日本国内に職を求めて流入していた。そういう流言が生じたのは、普段彼らを差別しているから、その仕返しがされているのではという住民の心の内を反映したものかもしれない。

 この戦災でも、3/10を中心とした空襲で、当時東京に居住する朝鮮人の9万7632人中被災者は4万1300人、死者は被害の一番大きかった江東区が中心で、1万人を越すとされている。その多くがやはり身元不明者として納骨されているはずである。

 なお、この大震災の犠牲者追悼記念式典が毎年9/1に行われていて、その時に虐殺された朝鮮人犠牲者への追悼式も行われる。これに対して毎年都知事が追悼文を送る慣わしであったが、初の女性都知事になった小池百合子は2017年、それを断った。理由はそれは歴史が判断するものと述べたが、すでに95年も経って、歴史的資料は十分に揃っているわけで、小池知事はそれらの歴史を勉強したことがないと自分で告白していることになる。

戦後の学校教育

 太平洋戦争突入の年の春、それまでの小学校を国民学校という名に変えて、教育勅語を軸にして「皇国の道に則って初等教育を施し国民の基礎的錬成を為すことを目的とし」、要は軍国主義教育を子供の頃から徹底させようとするものであった。ただこの主旨の中にはもっと未就学児童を減らして行くという意図もあり、それまでの義務教育6年を8年にする(小学校の上に選択制の二年制の高等小学校があって、その義務化である)積極的な計画も含まれていた。しかし戦時の非常措置が優先となり後回しにされた。

 いずれにしろ戦時下では、男の子は大きくなったらお国のために戦争に行って敵と戦って死んで英霊になるのだと教育され、そういうものだと信じ込んでいた。そして敗戦となり、「昨日まで“命を捧げろ”と言い、“日本は勝つから戦争に行け”と言っていた先生ほど戦後は“これからは民主主義だ、あんな戦争はいけない”と180度変わった。労働組合にも元憲兵などが入っており、本当に信頼できるものがなにもなかった。若者には特攻隊で命を捨てさせておいて、今度はアメリカ万歳になった新聞なども同じだ」とある方は憤りを込めて語っている。

 戦後は食糧が全く足りず、戦前からの配給制が続いたが、給食のない学校では昼の弁当を持っていけない生徒もいた。同時に物や教材がなく、それでもほぼ10月から11月までに疎開先から帰ってきた子供たちに対してできるだけ早くと授業が再開された。しかし墨田区は半数近くの国民学校(小学校)が焼失していたので、学校によっては(例:業平小)翌年3月まで疎開地で授業が続けられた場合もある。いずれにしろ焼かれて教室がない学校は、時には青空教室の場合もあったが(雨の日は休業)、多くは近くの焼け残った学校の教室を借りて工夫しながら授業が行われた。昭和21年3月半ばから業平・本横・錦糸・柳島国民学校と合併授業が行われた。教科書も戦災で失った子も多かったが、新しい教科書は間に合わず、 戦前の教科書の軍国主義的な不都合の部分(主に国語や地理、歴史)を墨で塗りつぶしながら授業は行われ、先生がガリ版刷りで解禁になった英語の教科書を作ったりした。やっと届いた新しい教科書も、製本が間に合わず、生徒が自分で折りたたんで端を切って使った。食糧は占領軍GHQと、米英のキリスト教系団体の援助により、まず小学校の給食から補われた。つい最近まで憎き敵と教えられていた米英国に助けられたわけである。翌22年、国民学校は元の小学校と改められ、中学校までの義務教育が実現され、今の6・3・3の制度ができた。

 ただ戦後の教育について、中学校のPTA会長をやっていた方が、「学校でも東京空襲について教育する場はなく、焼け出された人たちは東京都内の各所に分散していったため、話題にすらならなかった。… だからこそ行政や学校などが地域の文化や歴史を残していく努力をしていくことが必要だが、公務員も先生もよそから来た人でみんな知らない。一度だけ中学生に空襲の話をしたことがあるが、みんな“はじめて聞いた”と驚いていた。今は机上の空論で戦争を語っているが、この大空襲が示していることは、自衛隊や米軍が海外で戦争を始めると、危ないのは日本本土だし、民間人だということだ」と述べた。

 また別な方は、「あの空襲で亡くなった人々の親族がこれだけもいながら、体験を受け継いできた人は少ない。そのため、もう当時のことをはっきりと覚えている人はかなり少なくなっていくなかで、次の世代が知らないままになっている気がしてならない。私が小学生のころも空襲の激しかった墨田区に住んでいたが、学校では原爆については教科書で習うが、地元の空襲体験に触れるようなことは一切なかった」と話した。(この証言は2015年10月、長周新聞の墨田区での取材記事より。長周新聞は山口県の地方紙であるが、実は筆者も山口県出身で戦後の生まれであり、地元の戦災のことは同様に学校で習ったことがなく、自分の親を含めて周囲から戦争の話を聞いたことはほとんどなかった)

 実際に、連合占領軍GHQは都内に空襲犠牲者の慰霊碑(つまり米国の無差別空襲を思い出させるもの)を建てることを禁じ、政府や都もその方針に従った。そしてたくさんの犠牲者たちも、親兄弟を失い、自身も猛火の中を逃げ惑い深い傷を負ったあまりにも辛い経験を思い出したくもなく、忘れようとした。そしてまた中国や東南アジアの戦地で兵士として戦い生き残って帰還した人たちのほとんども、同じように口を閉ざした(とりわけ加害者として語る人はいなかった)。自分の子供たちにも語らなかった。それに対して新聞等のメディアも例えば一夜にして8万数千人の犠牲者を生じた3/10の日が巡ってきても、ほとんど目立った報道もしなかった。やっと忘れてはならない日として報道し始めたのは戦後30年も経ってからである。しかし広島と長崎は原爆という特別な意味を持っていたので継続的に報道されていた。当然教育現場でも戦争については原爆の被害以外に教えられることはなかった。

 また、日本軍が当初は満州から中国に侵攻し、さらには太平洋戦争を開始して、アメリカに対してだけでなく東南アジア諸国に侵攻して、敗戦となるまでに犠牲となったアジアの人々の数はこの国内の犠牲者の比ではない。しかしこのことは決して日本国内で表に出されることはない。これは米国が日本に対して無差別空爆を忘れさせようとしたのと同等の行いであり、しかもそれらの証拠となる軍事関連の記録や資料は、日本の軍政府は(自分達への責任追及を恐れて)内外ともに敗戦時にすべて焼却してしまった。ただ米国自身は空襲後の記録写真も含めてきちんと国立の公文書館に残していて、数十年経って公開し、日本の研究者たちがそこに訪れて実態が少しずつ明らかになってきている。そしていまだに日本では官公庁でも都合の悪い書類の廃棄や隠蔽などの行為が繰り返され、新聞種になっている。これを見れば少なくとも日本はまだオープンでまともな民主主義体制ができているとは言えず、戦時中からの官僚的隠蔽体質は変わっていないと言える。

戦争孤児

 上記の集団児童疎開の項で述べるように、特に墨田区では6年生は3/10の大空襲前に自宅に帰って、その喜びもつかの間、多くが親と一緒に焼け死に、疎開先に残っていて孤児になった子供も多かった。終戦になって、交通事情の関係などで、生徒たちが集団で帰京したのは10月半ばから11月末までであったが、早めに親が迎えにきて帰る子も多くいた。しかし孤児になった子たちを迎えにくる親はいず、親戚関係が迎えにくる場合もあったが、その後に辛い人生が待っていた。中には地方の孤児院に収容されるケースもあり、東京都でも計画だけは立てられたが、中途半端に養護施設に入れられたにすぎない。その養護施設もひどい扱いで(特に公共の)、逃げ出す子も多かった。つまりほとんどの孤児は放置された。これは東京都の記録でも孤児に関わるものが極めて少ないことでもわかる。そして行き場のない孤児たちは、食べ物を求めて上野駅などをさまよい、あげくは「浮浪児」として取締りの対象となった。上野の地下道では毎日のように複数の子供が餓死や食べ物の中毒や病気で死んでいった。のちに都の行政官が戦後の混乱の中で外地からの帰還者への対応もあって、孤児のことまで気が回らなかったのようなことを素っ気なく話しているのを読んだことがあるが、子供にとって頼るべきは大人しかいないのである。為政者は親戚で引き取るか養子縁組を奨励するような「御触れ」を出したが、呼びかけだけで具体的な施策を行っていない。しかも食糧事情悪化の中、親戚に預けられた子は邪魔者扱いされ、養子先では労働力として扱われたケースが多い。集団疎開先で孤児になった子供たちのことは多少は配慮されたが、戦火の中で孤児になった子供たちには全くと言っていいほど配慮の対象になっていないことが、『東京都戦災誌』の中で何の対策も記されていない(あるのは「浮浪児」としての取り締まり対象としてだけである)ことを見てもわかる。これらに関する為政者の罪は重い。(台東区江東区も参照)

 以下、疎開中に孤児になった人たちの様子である。(『学童疎開墨田体験記録集』その他より)

 —— 3/10の大空襲のあとは東京のある西の空が何日も鉛色だった。五年生になった頃、岩手県に再疎開し、そこでは食料確保のための畑の開墾作業や炊事の手伝いなどをし、部屋で勉強したり、地元の学校にも時々通った。寂しいなか、友達や寮母さんが仲良くしてくれて、それなりに楽しかった。終戦となって、天皇の放送を聞き、みんなで泣いた。身寄りのわからない生徒は戦災孤児院に行くと聞いたので、私は薄い記憶をたどり、小さい時にたびたび家族と遊びに行った親戚の住所を、ところどころ思い出して手紙を出してもらった。すると手紙が着いたようで、親戚が遠い岩手県まで迎えにきてくれた。翌年3月、法要をするために東京に向かい、父の勤めていた会社、仮の墓地になっていた猿江公園、家族と住んでいた住居跡など全部尋ねたが手がかりはなかった。せめてもと、住居跡から母のピンが焼けて固まった物、妹とままごとに使ったガラスの食器が熱で固まったものや父の形見になるものを掘り出し、持ち帰って供養した。(間宮好枝)

 —— 二葉小学校三年生で千葉のお寺に行った28名のグループのうち、大空襲前日の3/9の時点で、その寺に残っていた者18名、そこから岩手県に再疎開した者は私一人だった。空襲後しばらくして自分の家族が全員亡くなったことを、ある家族が友達を引き取りに来た時に、私にかける遠慮がちな言葉で悟った。大空襲の日の深夜、東京のほうが真っ赤に燃え上がっているのをみんなと見て、父母と妹弟の顔を思い浮かべて心配していたことが現実となった。夜は頭から布団をかぶって泣き続け、昼間は裏山の見晴らしの良い場所に行って東京の空を眺めながら、その空に向かって「なぜ、どうして!」叫んだ。そして千葉の宿舎には自分一人が残り、4月、岩手に向かって他の宿舎に残った生徒と列車に乗った。両国を通るはずの列車から、途中一目我が家のほうを見たいと思ったが、空襲を避けるために窓の覆いは下ろされて外は見えなかった。終戦後、他の寺院にいる者10数人と合流し、北多摩の府中刑務所の北側にある施設に入った。この施設は女学校の林間学校寮だったが、図書庫が独立してあり、そこに入り浸り、本を読んでいればその世界に入り込み、何もかも忘れることができた。(山崎格:この施設に関しては、府中市参照)

 —— 昭和19年の夏、双葉小学校四年生の時に学童疎開となり千葉の長生郡の安楽寺が宿泊所となった。下に3人の弟妹がいて、姉と兄は女学校と中学校で、授業はなく、軍需工場に働かされていた。疎開での授業はお寺の中で、教材もあまりなく、昔の寺小屋の状態だった。友達の親たちは度々面会に来ていたが、私の家は印刷業で子供も多く、あまり来てくれることはなかったが、その代わり母と姉が度々手紙を書いて送ってくれた。父が一度父兄会の数人で紙芝居を持って慰問に来てくれ、母も一度だけ下の妹をおんぶして面会に来てくれた。私の好物ののり巻きを作ってきてくれ嬉しかったが、あっという間に時間が過ぎて、母が山門をくぐって帰る後ろ姿にいつまでも手を振っていた。それが母との永遠の別れになった。

 3月のある日、旧友のお母さんが突然、焼け焦げた衣服で現れびっくりした。そして東京が一夜にして焼け野原になり、鉄筋3階建ての校舎も焼け、プールにも死体が溢れ、隅田川一面にも水死体が浮いていることを聞かされ、みんなでわあわあ泣いた。級友の生き残った父母が毎日のようにきて、引き取られて帰っていった。私には誰も来なかった。しばらく経ったある日、誰かがきているというので出て行ったら、父方の祖父だった。別に住んでいた祖父が空襲の後、毎日本所に通い探し回ったが見つけられず、唯一父の遺体の話を聞いたが間に合わなかったということだった(この話は上記<天皇の巡行>に抜き書き)。まさか大家族の中で自分一人が残されるとは……。

 その後房総半島も危ないという事で、残った児童が岩手県千厩町(現:一関市)の大光寺に再疎開することになった。上野経由の列車で行くことになったが、近所の友達の親が、隅田公園の仮埋葬地に姉の墓標があると知らせてくれ、上野駅での乗り換えのわずかな時間に隅田公園(おそらく浅草側)に連れて行ってもらった。この公園はきょうだいみんなでよく遊びに来たが、その公園に見渡す限りぎっしりと約10cm角の高さ30cmほどの小さい墓標が並んでいた。その中に私の姉の藤屋玲子の名前があって、「お姉ちゃん」と言って泣きながら手を合わせた。(大半の記録では、とにかく大きな穴をたくさん掘って、胸に縫い付けた名札が残っていても確認せずにそのまま上から次々に積んで仮埋葬したという話ばかりであった。別な証言でもやはり隅田公園で名前を書いた墓標を見たとあり、あるいは「男・何歳位」「女・〇〇(姓のみ)」という墓標を見たともある。この公園の埋葬を指揮された方の熱意によるものか、他の公園にも同様な例があったのかはわからないが、比較してみるとこの浅草側の隅田公園はかなり広いわりに仮埋葬者は千数百体で、対岸の隅田公園はずっと狭く、そこに6500体が埋葬されている違いがある=「東京都の概要」の<膨大な遺体の処理>参照)

 岩手での生活もますます厳しくなり、食べ物も少なく、栄養失調になり、体におできができ、頭や体にもシラミがたかり、友達と取り合いっこをした。終戦となってもまだ帰れず、級友の親兄弟が迎えに来て、残り少ない級友の中で寂しい思いをし、厳冬の岩手で、手足のしもやけに痛い思いをしながら3月末まで暮らし、数人の級友と上野に着き、そこで祖父が出迎えてくれた。そして祖父と父の故郷である能登に移り住んだ。当時の級友たちは全国にバラバラになり、名簿もなく、今も寂しく思っている。(長岡櫻子)

 —— 私の生まれの本所区菊川町は深川区との境の繁華な下町で、家業は蕎麦屋で立地に恵まれ繁盛していた。当時は、両親、兄、私、妹、弟と他に住み込みの若い衆として従兄弟が3人一緒に住んでいて、子煩悩で大変おしゃれな父は、よくデパートで私と妹に洋服を見立ててくれ、私のタンスにはリボンやボアの付いた可愛らしい服が並んでいた。私は家族や店の者に甘やかされて育ったせいで、気難しくわがままなお嬢さんだったという。

 昭和19年(1944)8月、中和国民学校(焼けた時の様子は上記参照)の5年生の時、集団疎開で旅立つ日の朝、身重の母が学校まで送ってくれると言うのを「そんな大きなお腹で来たら恥ずかしいからいいわよ」と断ったのが今生の別れになってしまった。疎開場所は、千葉県君津郡の天南寺で、周りは田んぼが広がり、小高い山に囲まれたのどかな農村で、楽しい事もあったが、皆早く家に帰りたいと言って先生を困らせた。

 半年を過ぎた3/10の朝、天南寺の境内に黒い燃えかすが雪のように次から次へと降ってきた。後でそれは大空襲の燃えかすで、風に乗って遠く千葉まで運ばれてきたとわかった。その後間もなく、焼け出された家族が疎開先の子どもたちを次々に引き取りに来て、大店のお嬢様が家族全員を失い親類に引き取られていく様や、母親から妹の死を聞かされ泣き伏せる友を見ていたからか、次は私の番かもしれないと思っていた。生徒の半分が引き取られた頃、母方の伯父が私を迎えに来て、会うなり「お父ちゃんも、お母ちゃんも死んじゃったよ」と言われたが、不思議と涙が出なかった。今思えば非日常の世の中で、感覚が麻痺していたのでしょう。大八車に乗せられて天南寺を去る時、級友がいつまでも手を振ってくれた姿が目に焼き付いている。

 身重の母は妹や弟を連れて郷里の千葉に疎開し、東京には父と中学校の兄が残っていたが、父が体調を崩し入院するというので、母も生まれたばかりの赤ん坊をおぶって3/10の数日前に上京し、そのまま帰らぬ人となった。家族の遺体は、結局ひとつも見つけることは出来なかった。

 11才の私、8才の妹と4才の弟がこの世に残されて、この日を境に「戦災孤児」と呼ばれる辛い生活が始まった。 最初は母の郷里である千葉県の親戚に引き取られたものの、2ヶ月後には「子どもの養育は父方の義務」という理由で父の郷里新潟県の親戚に引き取られた。そこは大黒柱の叔父が出兵し、3人の幼子を抱えた叔母と年老いた祖母が細々と農業をする貧しい生活で、お湯に僅かな米粒が浮く粥を飲み、お腹を空かせたまま粗末な藁布団で寝ていた。その上、祖母はきつい口調で私たちにあたり、その顔色で自分たちが「お荷物」「邪魔者」なのが痛いほど分かった。

 とげとげしい空気の中で張りつめた思いのまま毎日を過ごし、あまりにも辛くて千葉の伯母に窮状を訴える手紙を書いたものの、下書きを祖母に見つけられて更に辛く当たられ、帰りたいという小さな望みも絶たれた。 一晩だけという約束で、隣村に住む叔父が私たち3人を迎えにきた。険しい山を越えて叔父の家につくと、山のようなご馳走をふるまわれた。そして叔母から「今日からおまえ達はこの家の子になるんだ」と言われた。しかしそこには乳飲み子も含めて6、7人の子どもがいるのに、その上私たちを本当に育ててくれるのか?それならば、何故一晩だけと言って私たちを連れだしたのか?叔父と祖母の間でどんな取り決めがあったのか?不安は限りなく続き、今まで大人たちの都合で親戚を転々としてきたので、「今度もまた知らない所へ連れて行かれるに違いない、そして姉弟はバラバラにされてしまうだろう」と思い、寝付かれない中で逃げる決意をして、夜明け前にすきを見て妹と弟を連れて叔父の家を出た。

 辛くても戻る先は祖母の家しかないと、見知らぬ暗く深い山道を必死で走り続けた。8月というのにまだ雪の残る山頂まで走り抜け、湧水を飲んで安心したとたん、堪えていた思いが一気に吹き上げてきて、「お父ちゃん、お母ちゃん、どうして私たちを残して死んじゃったのっ!」と初めて止めどもなく涙が溢れてきた。妹も泣き始め、弟もつられて泣いていた。今思い返してもこの時ほど惨めで辛い思いをしたことはなかった。

 山をさまよい歩き、夕方やっと祖母の家に辿り着くと、戸を開けた祖母は捨てたはずの私たちが立っているので「何だ、おまえたちはっ!」と大声で怒鳴った。しかし黙ってうなだれるだけの私たちを見て、逃げてきたと察した祖母は、その場に泣き崩れた。「さぁ上がれ」と家に入れて御飯を出してくれたが、私は胸が詰まって何も食べられなかった。怖かった祖母も本当は優しい人だった。戦争の不条理が怖い人にさせてしまったのではないだろうか。

 叔父が復員した後にも暮らしは楽にならず、弟をそこに残して、私と妹は千葉の母方の伯父に引き取られ育った。伯父は大きな農家だったので、中学に入ると農繁期には学校を長期で休んで農作業を手伝った。それでも恩返しの気持ちもあったから、不満もなかった。そのうち弱かった私の体も丈夫になった。二十歳になる頃から他の農家から結婚の話が持ち込まれてくるようになった。しかしどうしても生まれ育った東京に戻りたかった私は、伯父の反対を押し切って上京した。最初に亡き父の姉の家に挨拶に行くと、伯父が、「お前たちの両親が亡くなった時、自分は兵隊に行っていて、何の役にも立てず、申し訳なかった」と言われて、びっくりしてしまったが、温かい言葉が胸にしみた。その叔父に紹介されて、住み込みの肉屋の店員から仕事を始めた。しばらく経って、新潟の叔父から弟に合わせたいと連絡があって、11年ぶりに会った。弟は、物心がつくまで叔父と叔母を両親と信じて育ったので、本当のことがわかった時はショックだったようだが、会うとすぐに心が通じ合った。

 その後東京で知り合った職人と28歳で結婚したが、相手の郷里の新潟で結婚式を挙げた。その時に陰ながら聞こえてきたのが、夫側の親戚の「どこの馬の骨か …」という言葉だった。私だけでなく、孤児になった他の人たちの多くがこのような心ない言葉を浴びせられている。蔑すまれるべきは、こういう私たちを生んだ戦争ではないだろうか。

 …… 戦後は、各地に孤児が溢れかえり、自分の力で生きてゆけない幼い子どもたちが悲しい体験を強いられた。戦争は人の行為の中で「心を失う最も愚かなこと」ではないでしょうか。また、私を始め多くの人生に影を落とした東京大空襲が、あまりにも知られていない事に疑問を感じる。国は軍人や軍属の遺家族には補償を行ったが、空襲による民間人の遺家族にや孤児対しては、「空襲による死者は戦災横死者とされ援護法がない」(つまり、国が戦争孤児たちを援護するための立法を怠っているために、どんなに陳情や運動があっても取り上げられず、訴訟をしても敗訴し続け、それでも時折若手の国会議員がその実情を知って行動するのだが、なぜかことごとく途中で挫折して沈黙してしまっている)という理由でそっぽをむいてきた。2時間と少しの間に市民が10万人殺害されたという事実はもっと問題視されてよいのではないでしょうか。(この問題の経緯については「東京都の概要」の戦後の<軍人に対する手厚い戦後補償と、戦争被災者と戦争孤児に対する冷酷>を参照 )また広島や長崎(や沖縄)には平和記念館や大規模な式典がありますが、東京には出来ないのはなぜでしょう。愚かな戦争を人類が二度と繰り返すことがないよう「伝える」事を続けていきたいと思います。
(「荒川ゆうネットアーカイブ」その他より構成:星野光代)

 なお、墨田区の体験記録集の記載にはないが、『東京都・戦災誌』第2巻に、中和小学校の6年生は3/8に帰京する予定であったが、途中の船橋駅が空爆を受けたので3/10以降に変更となり、それで大空襲を免れたが、自分の両親と姉妹7人のうち、母親と3人の弟妹を中和小学校の中で亡くし、同じ疎開をしていた妹と、ほぼ全身にやけどを負って助かった父親の3人が残ったとある。その父親が10日ほどして包帯だらけの姿で迎えにきて、家に帰らずに父親の実家に疎開したが、自分以外にも親兄弟と親戚も亡くして、全くのみなし子(孤児)になった同級生が10人ほどいて、そのまま岩手県の平泉に再疎開したという。

 また、その岩手の疎開先で、子のいない夫婦に引き取られて、そのまま現地で結婚して「幸せに」暮らしている方もいる。今は幸せにと言っても、こうした方々の深い傷が癒えているわけではない。

せめて名前だけでも

 墨田区押上1丁目に「東京空襲被害者遺族会事務所」がある。筆者の協力スタッフが平成最後の年初(2019)に事前連絡をして訪れた。事務所は東京スカイツリーのふもと、住宅街の一角にある細長で古いビルの一階にある。入り口はガラス引き戸で、大きく空襲被害者遺族会と書かれ、ガラスに張り付けてある。スカイツリーと対照的に事務所はその一隅だけ時代に抗うかのように“空襲被害者”を訴えているようであった。事務所には御高齢(80歳代)の男性が3名、机をはさんで打合せをされていた。

 この事務所で、会報『せめて名前だけでも』が2001年3/10付けで第一号が発行され、年2回の会報を今も発行し続けている。筆者は遅まきながらこの会報の一部をネットで見つけ、その他の資料を求めてスタッフに行ってもらった。その中のお一人が榎本さん(遺族会事務局長)で、こちらの調査の目的を簡単にご説明し、会報頒布依頼の目的を承諾された。昨年、遺族会会長の星野弘さんが亡くなられた。長年の間、遺族会代表として裁判を闘ってこられた方である。(この裁判闘争の経緯については「東京都の概要」の戦後の項参照)

 2016年に亡くなった遺族会の世話人だった女性は、大空襲時、乳飲み子を抱えて母親に川に突き落とされて、その後たまたまそこを通りかかった漁民が救い上げてくれて助かった。しかし両親は遺体も見つからず、生きた証に、せめて名前だけでも残したいと言っていて、それで「せめて名前だけでも」を活動のスローガンにしたという経緯であった。戦後、進駐軍GHQは行政に対して空襲被害について広めたり、資料を収集したりしてはならないと指示し、それを東京都は拡大解釈して追悼誌も作ってはいけないという通達を公式に出していた。慰霊碑を作ってはならないというGHQの指示は筆者も早くから知っていたが、追悼誌まで都が規制していたとは知らなかった、それでも密かには作られていたと思われるが。

 榎本さんは、「この遺族会で働いている私達ももう、長いこと生きられないと思うので、こうして研究・調査等で今後も引き続き世間にこのことを広めていってもらえることは大変ありがたいこと」と話された。空襲とその被害者について、そして遺族会のこれまでの活動について、より多くの人に知ってほしいという訴えのようなものが伝わってきた。最近は若い方も事務所に来られ、彼等は主に、空襲被害者に対しなんら国からの補償がないことについて詳しく聞いていく。軍人軍属として亡くなった方々には支給されている年金と比較もしている。そんな若い人たちへの期待がみえたという。

 遺族会活動の原点は空襲被害の中で、名前も確認されないまま亡くなった多くの方々の名簿づくりであり、被害者の名前を手書きしたもの、それを地区毎にまとめ、集めたファイルが何冊も棚に収められている。榎本さんは「これらのファイルが私達の宝です」と話された。被害者遺族の方々それぞれにお願いして書いていってもらったものであるという。そして会報の1号から45号まで(一部のみしか残っていない号は除く)を快く分けてくださった。

 今ひとつ筆者の知り得なかった事実が記されていた。前会長の星野さんが語っている。

—— 「亡くなった方々の人数の数え方がなぜ難しいか、戸籍上その地域で亡くなった方の人数と、実際に遺体として発見された人数が全然違うということが起きていて、その理由が、東京の下町には、戸籍を出身地に置いたまま長屋に暮らしていた人がたくさんいて、結婚したら戸籍を出るというのは戦後の話で、戦前は結婚しても戸籍は動かさないのが一般的だった。徴兵の赤紙は本籍の所に行くので、軍隊に入営するとまず本籍地の軍の基地に行くため、東京にいても北海道の基地に行くというような人が下町は圧倒的に多かった」という。確かに学徒出陣の際の記録では、東京の学生たちがまずみんな出身の地元に帰っている記述があって、そこに若干の違和感を筆者は持っていた。だから、「ある地域では戸籍を数えただけだと亡くなった方は約800人だけど、実際のその場で亡くなった方は約3000人という事例があり、戸籍チェックだけだと実際に亡くなった方よりも少なくなる」という。「そうした意味で、空襲犠牲者の氏名をつかむということは、戸籍の確認よりも大事なことで、私たちは遺族会を作る前に、氏名の記録運動をやっていました。遺体も見つからず、生きていた証にせめて名前だけでも、というのを。空襲で亡くなった方のお名前の連絡を、遺族などから連絡頂いていました。FAXで入って来たお名前をパソコンに入力するために、事務所に居ることのできる日は朝から晩の遅くまで事務所に居ないとできません。当初の2回の呼びかけで把握できたのは、約7000名です。今、名簿は8万905名になりました(2017年6月現在)。これは3月10日だけではなく、一連の東京空襲全体で犠牲になられた方々です」。

 いずれにしろ、戦災死者氏名は1997年ごろ青島都知事になってから、遺族はじめ関係者の強い要請でやっと始められたが、その時点ですでに50年以上経過し、戦時30歳以上の遺族のほとんどが死亡しているため非常に困難であったが、おそらく次の知事になって止められたのであろう(現にその同じ知事で、動き始めていた「東京都平和祈念館建設計画」も止められた)。それでもと、諦めきれないこうした民間の方の手で細々と継続されてきているのである。

なお、沖縄の平和祈念公園の平和の礎(いしじ)に刻まれている20万人以上の氏名(米軍の犠牲者も含めて)の中に自分の肉親を求めて、沖縄県民だけではなく全国の戦死者の遺族も6月23日の戦争終焉記念日に訪れ、そこに自分たちの親兄弟の刻まれた名前を指でなぞりながら涙する姿が見られる。その名前は、遺族にとって生きていた証なのである。これほどの祈念碑は他にない。この戦死者数より半分近く少ない東京の戦災死者に対して、予算の規模もはるかに大きい東京都がなぜできないのか。「公」の立場にいる人たちが、その責任を自覚せず、住民のためにほとんど動いていないということが、この一事をもってもわかる。

 また、大阪は府として大阪城公園の中にある大阪国際平和センター(ピースおおさか)の中に刻銘碑を作っている。府では、刻銘する全員に関して、遺族に氏名を公開していいかを聞いたという。神戸市や千葉市では、刻銘碑が設置されたが、市が場所を提供するだけで、碑と刻銘については民間の団体の責任で作った。東京都は上記の東京都慰霊堂に記すごとく、一時はその名簿が行方不明になっていたほどである。こうした記録を行政が責任を持って行った地域はほとんどなく、特に大都市ではそれが顕著で、ある面それは犠牲者の認定をすることになるので、ではその補償はという話になることを恐れているのではないかと星野氏は語っている。事実、筆者の「東京都の概要」の「戦後の補償」の項でも取り上げているが、被災者がその補償を求めた裁判について、政府の諮問機関では、一度認めれば雨後の筍のように次々と訴訟が発生するからと、補償を回避するという答申がなされている。つまり政府は諮問機関に対しても事前にその方針を伝え、裁判所にもその方向で結審するようにと通告しているということである。それに対しドイツではすべての戦争被害者に補償が実行されている。ドイツはナチス時代の反省を徹底的に行なっていて、戦後の国際的信用を得ているが、あれもこれも隠し続けている日本はそうではない。国家の資質の違いだけでは片付けられない。

各地の慰霊碑(墨田区史跡マップ、その他より)

〇 立川にある弥勒寺の門を入ってすぐ左に、大きな観音立像がある。菊川、立川、千歳の七町会で聖観音会を組織し、昭和42年(1967)3/10に建立、犠牲者3千数百体遺骨粉が塗り込められているという。その碑文である。

 —— 「昭和20年3月9日夜間大空襲に依り本所深川は全滅廃墟となり死傷する者亦多く、劫火の中に血縁を求めて呼べども自らも倒れ死屍累々と山をなす。終戦と共に平和への悲願をこめて茲に観音像をつくり、遺骨3千余体を安置し歳々年々供養の赤心を捧ぐ。願わくば後人の争うことなく福祉の途を開かれんことを」

〇 はなみずき通りに面した吾嬬西公園には、平和地蔵尊と慰霊碑(地蔵尊墓誌)、そして供養塔がある。当時ここは空き地であって、3/10の犠牲者250名(240名の説もある)が仮埋葬された。昭和23年(1948)末頃から遺体は火葬されて東京都慰霊堂に合祀されたが、これらの犠牲者の冥福を祈り慰霊するために、地元町会、有志によって、ここに建立された。

〇 言問橋のそばの牛嶋神社では、昭和30年(1955)8/15の終戦記念日に、本所地区関係の慰霊碑除幕式が行われた。元本所区在郷軍人会会長の鈴木文雄氏が中心になり、各町会に呼びかけて建立された。祀られるのは日清以来の軍人戦没者1414名、その10年前の戦災による死者4635名(現在本所地区に遺族のいる人だけ)である。

 なお、両国にある江戸東京博物館の裏側、横網町公園側の屋外通路に、古びた手すりのようなものがある。これは博物館の展示物のひとつで、言問橋にあった欄干とその縁石である。そこに次のような説明書きがある。

 言問橋の欄干と縁石

 「言問橋は、1928年(昭和3)に完成した、いわゆる震災復興橋梁のひとつである。1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲の際、浅草方面から向島方面へ避難しようとする人びとと、その反対側に渡ろうとする人びとが橋上で交叉し、身動きがとれない状態となった。人だけでなく、荷車やリヤカーも通行を妨げた。そこへ火が燃え移り、橋上はたちまち大火炎に包まれた。橋上では逃げるすべもなく、多くの市民が焼死した。1992年(平成4)の言問橋の改修工事にあたって、当時の欄干と縁石が撤去されることとなったため、東京大空襲の被災資料として、その一部を当館に譲っていただいた」

〇 曳舟たから通り沿いの原公園は、3/10の犠牲者364名が仮埋葬された。戦後まもなく地元有志により、公園中央にある田丸稲荷神社の横に地蔵尊が建てられた。昭和47年(1972)7月に「戦災殉難者之霊」の石碑が隣接町会と解脱会により建立された。平成元年(1989)3月、原公園の改修に際して、遺骨や毛髪が若干出土した。警察の鑑識によって、戦後改葬されたはずの戦災死者のものと判明し、慰霊堂へ合祀された。

〇 立花通りにある明源寺には、「戦災殉難者慰霊塔」「戦災懐古の碑」「戦災精霊五十回忌供養塔」がある。戦災殉難者慰霊塔には、「3月10日未明の空襲における戦災殉難者及び地区内120余命の霊を慰めるものなり」と地元の有志が昭和40年(1965)3月に建立した。その右にある戦災精霊五十回忌供養塔は、平成6年(1994)3/10、五十回忌法要とともに戦災供養会一同によって建てられた。その側面には漢詩が刻まれている。

〇 菊川橋はその両側から猛火に追われて大勢の人たちが橋の上に折り重なって焼死したが、その北西側のたもとにある小さな菊川橋児童遊園内に、夢違(たがえ)之地蔵尊がある。その夢違地蔵尊縁起として石板の碑文である。

 —— 「… まだ、春浅き三月九日夜半、雨あられの如く投下された焼夷弾は、いとまなき出火となり立ち向かう術もなく、劫火の中を、親は子を子は親を呼び合い逃げまどい、或は壕に入り、水面に飛び込み、或は公園、校舎に走りついに力尽きてその声も消え果て、やがて倒れ重なりまっ黒な焼身と化し、水に入りては沈泥に骸と果て、翌朝光の中の惨状は目を覆うばかりであった。生き残れる者僅かにしてそのさまは亡者のようであった。この言問橋より小さな橋の殉難者は約三千余名といわれている。
 この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない。而して復興なり一九八三年(昭和五十八年)三月十日誠心集い、浄財を集め仏縁深き弥勤寺住職の教訓を得てこれが悪夢の消滅を願いこれを善夢に導き、再びこの悲史をくり返さないようにと、夢違之地蔵尊と命名され開眼法要、殉難者追悼供養を施行した。…」。

この児童公園には橋上での焼死者と川から引き上げた遺体が仮埋葬されたという。

 これについては余話があり「戦後すぐに、多くの人が亡くなった菊川橋のたもとに慰霊碑を建てようとしたが、区役所は拒否し建設が許されなかった。戦後、川のほとりを改装するたびに白骨がたくさん出てき、また橋の建て替えのために桜の木を伐採すると、根元に絡みつくように人骨が見つかったが、それでも区役所は許可をおろさず、東京都も一切関わろうとしなかったので、地元住民で“これ以上放っておくわけにはいかない”と無許可で地蔵を建立して毎年地元で法要をおこなっている」と地元の方が語っている。下記「東京都慰霊堂」でも触れているが、戦後の占領軍GHQの圧力によって都や国が慰霊碑の建設を認めなかったのである。

〇 以下はさらに特別なケースである。

 三ツ目通りに面したNTT石原ビルの庭に、白く細長い石の慰霊碑が立っている。この碑は、大空襲の夜に業火の中で最後まで電話交換の職務を遂行した殉職者を慰霊している。慰霊碑のそばに由来が書かれている。

 —— 「この慰霊碑は、昭和二十年三月十日未明の大空襲により当地一帯が焼け野原と化した際、電話局も全焼し前夜から勤務していた十五歳を最年少とする電話交換手二十八名及び男子職員三名が最後まで職場を守り殉職された。職員の霊と、関東大震災において殉職された男子職員二名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して昭和三十三年三月十日に建立されました」。

 ここは当時は本所電話局、今は墨田電話局である。戦災資料センターの館長早乙女勝元氏が、たまたまこの時に焼死した妹さんのお姉さんに出会った。妹さんはその時20歳だった。当時は電話のある家は少なく、しかも電話局は軍関係の重要拠点だったので、20歳前後の女性交換手が24時間体制で交代で勤務していたが、「通信戦士」として爆撃があっても逃れることは禁じられ、「ブレスト」という送話器は「死んでもはずすな」が合い言葉だったという。退避命令が出たときは、すでに時遅く、結局全員が猛烈な火炎地獄につつまれ、一室で黒こげになって発見された。夜が明けて、上司である富沢きみは自宅から駆けつけ、惨劇を目の当たりにして、その時の感想をこう記している。

 「骨になった遺体が、窓際に頭を向け、かばいあうように重なり合っていた。何かを訴えているように思えて、“誰か一言でいいから何か言って!”と叫んでしまった…」と。遺体は誰が誰やらわからない状態だったが、28人と確認できたのは、「残されたガマ口(お金入れで、当時普通に使われていた)の口金だった」という。

国技館

 戦時中も大相撲は開催されていたが、当時の両国国技館は昭和19(1944)年1月の春場所を最後として2月に大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の製造工場として使用された(千代田区の日劇、宝塚劇場参照)。このため5月の夏場所(この頃は年3−4場所の開催)は後楽園球場で行われることになり、この場所7日目には日曜日で晴天とあって、観衆8万人以上という空前絶後の記録でスタンドまでギッシリ埋まったという。その後も困難な状況下で興行は継続され、終戦前の7月にも晴天7日間の興行が催された。どんな状況下でも庶民の楽しみは奪えないということだろう。ただし若い力士たちも例外なく兵役に就いていて、戦死や捕虜として抑留された力士もいたし、空襲で焼死した力士もいた。

 終戦後の10月に連合国軍総司令部(GHQ)により再度接収されたが、11月中旬には空襲で大屋根が焼け落ちたままの国技館で戦後初の大相撲が開催された。晴天に限り10日間の興行だった。その後メモリアルホールと改称され、一年をかけて改装された。改装後の21年11月にはこけら落としとして秋場所が開催され、また双葉山の引退相撲も行われたが、その後の使用は許されなかった。GHQの接収の目的は国技館を自分たちのスポーツや娯楽場に使用することであって『日本人立入り禁止』の制札が立てられ、スケートリンクなども作られた。昭和27年(1952)、接収解除され、しばらく後に日本大学が取得し、日大講堂になった。

 柔道、剣道は軍事につながるものとしてGHQの命により一時禁止されていたが、相撲自体は本場所開催を年3回認められ、昭和22年には明治神宮外苑相撲場にて行われた。しかし青天井のため寒冷下の正月場所は避けられた。24年になり日本橋の浜町公園内に木造の仮設国技館を建設し、ようやく1月場所を開催する。24年秋から蔵前に新国技館の建設を開始、翌年、仮設のまま大相撲を始めた。その時はまだ天井が空いていて、雪が吹き込むことがあったという。29年に正式に完成、59年(1984)まで使われ、翌年元の両国に新館を完成させた。

占領軍用慰安所

 敗戦後の20年10月20日、RAA(特殊慰安施設協会:日本政府の援助により作られた「慰安所」で連合占領軍用の慰安施設)による進駐軍高級将校用接待施設「迎賓館・大倉」が向島で開業、翌月には世田谷区若林にも開業された。政府は敗戦からすぐにこの種の施設の検討に入り、最初は大田区の大森(参照)で8月下旬には開設された。それに際し「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」として募集された。これは1937年の南京陥落の際に日本軍が起こしたような中国女性への多大な陵辱行為を米軍が起こすのではないかとの不安が政府にあったのだとされている。またヨーロッパの戦場で、敗戦となったドイツではアメリカ軍将兵によるレイプの被害者が多数いたとされ、さらに日本国内でも「敵は上陸したら女を片端から陵辱するだろう」と噂が拡がっていた。こうした懸念を受け、政府は連合軍向けの慰安所を各地に設置したが、それにしても政府の素早い対応であった。ただし翌年になってアメリカの議会でこの問題が取り上げられ、GHQはこの特殊慰安施設を廃止した。

墨田区の女学校

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