東京都江東区:深川区 + 城東区

江東区の空爆被害

〇 空爆日:昭和19年11月27日、29−30日、12月10日、27日、30日/ 20年1月5日、9日、27日、2月2日、17日、19日、25日、3月4日、5日、10日、30日、4月4日、13−14日、5月25日、7月28日(全20回)

〇 被害状況:死者4万3900人、負傷者5万2400人、被災者27万9900人、焼失等家屋8万4600戸。

 空襲による犠牲者数としては江東区が群を抜いて多い。死者4万3900人は東京都全体の35%以上にもなる。

〇 出征と戦死者数:不明(敗戦直後に各自治体の兵事関係簿を政府の指示で焼却してしまったことによる。

年月日別被害記録

 昭和19年(1944)11月27日:11月24日の米軍による日本本土への本格的な空襲(荒川区参照)から二度目に江東区に初空襲があった。主に北砂町の工場が対象であったが、亀岡国民学校の中にあった城東工業学校も爆撃され、生徒8名、教師2名が死亡、重傷4人となっている。なおその記録の中に「御真影(天皇皇后の肖像写真)は奉遷済にて安泰なり」の記述がある。この時期は何よりもこのことが最優先であった。この日の江東区の死者30人、重軽症者29人、家屋の被害74戸、被災者185人。

 11月29日深夜:主に江東区と神田、日本橋を中心としてB29が25機来襲、爆弾と焼夷弾での空襲で、区の死者1人、負傷者0人、家屋の全半焼26戸、被災者186人、全体の死者16人。砂町第二小学校全焼、亀高小学校半焼。

 12月10日夜:B29二機、江東区の南砂を中心に焼夷弾が落とされ、死者1人、負傷者4人、町工場と住宅の全半焼14戸。

 20年1/5日夜:B29三機、ほぼ江東区の工場地帯だけに焼夷弾が落とされ、死者3人、負傷者3人、住宅を含む町工場の全半焼12棟。

 昭和19年(1945)1月9日:B29が48機来襲、主に武蔵野の中島飛行機工場に対するもので、江東区は洲崎の石川島造船所が多少破壊された程度。

 1月27日:B29が62機来襲、250kg爆弾124個、焼夷弾1200個を有楽町・銀座地区を主にして都内広範囲に投下、また有楽町駅付近は遺体であふれた。江東区の被害は深川で自軍の対空高射砲の不発弾によるもので軽傷者8人、亀戸で自軍機の墜落で被害不詳。

 2月2日夜:B29一機、南砂町に250kg爆弾を3個投下。小工場9ヶ所が全半壊、死者4人、工場と住宅の全半壊20戸。

 2月17日深夜:他地区に多数の艦載機が襲ったが江東区にはB29一機のみ、しかし250kgや中には500kgの大型爆弾、そして焼夷弾も投下し、大きな被害があった。死者約20人、重軽傷者約65人、全焼等家屋約90戸、工場の被害10棟以上。この時期にB29一機のみというのはその後の3月10日の大空襲に向けての偵察を兼ねた空爆かもしれない。

 2月19日:B29・131機が主に都の北部一帯に空爆、東雲から豊洲一帯の陸軍被服本廠や海軍施設補給部の倉庫群、石川島第二工場、藤倉電線、三菱製鋼、海軍施設、旧城東の東京造船所などに爆撃があり、死傷者10数人。全体の死者163人、負傷者223人。この時期からB29が大量に来るようになった。

 2月25日朝:B29・10機と空母からの艦載機56機、午後、B29・130機が都区の北東全域に来襲、江東区の死者22人以上、負傷者22人以上、全半焼家屋1120戸。東京全体の死者は約200人、負傷者440人、全焼等被災家屋約2万700戸。

 3月4日朝と夜の二度:B29・177機、この日は北砂や南砂町の中小の工場や住宅、学校などに焼夷弾と爆弾が落とされ、死者55人、負傷者77人。他に江戸川、荒川、北、豊島区がやられ、全体では死者約650人。全壊、全焼家屋約3100戸、半壊半焼家屋約1000戸。

 3月5日:B29・9機、江戸川区が中心で、江東区は軽微。

 3月10日未明:東京大空襲の日。B29・301機が大量の焼夷弾を投下、ちょうど北からの強風が吹き荒れる気象も重なって、火の海と言われる大火災を引き起こし、ほとんどの住民が逃げ出せずに焼死した。多少土地に余裕のある家は自宅内に防空壕を作っていたが、その中で蒸し焼き、あるいは延焼の煙によるガス中毒で死んだケースも多かった。この日だけで死者3万8000人、負傷者1万9000人、被災者27万9000人、焼失家屋7万2800戸とされる。(同日の墨田区と台東区の3区を合わせた死者は約7万3200人(行方不明者は入れず)、負傷者9万8700人、被災者77万3500人、焼失家屋19万7100戸となっている)。この日の惨劇は下記参照。

 米軍がこの3区を集中的に狙った大きな理由は、東京の下町の中小の工場群が、軍需部品を手分けして作っていて、その全体を軍需工場とみなして殲滅するというものであった。使われた焼夷弾は日本の木造家屋を効率よく焼き尽くす目的で米軍が自国内で日本の家を再現し開発したものであり、その筒は瓦屋根を貫けるものになっていた。

 3月30日:B29一機だけが、江東区の残存部に爆弾8個を投下、福住町で20人死亡。

 4月4日:B29約110機が多摩地区も含めて分散的に来襲、佐賀町に焼夷弾による火災あり死者11人、負傷者20人、家屋の全焼全壊85、被災者600人。

 4月13-14日:B29 330機来襲、城北大空襲と言われ、豊島、北、板橋区参照。江東区の被害小。

 5月25日夜間:山の手大空襲と言われ、実は爆撃機の数と投下爆弾の量は、3月10日の倍前後ほどに多いが、人的被害は大きくなかった(渋谷、新宿区参照)。江東区で焼失家屋10戸ほど。別にB29一機が東雲町の福祉施設に墜落、搭乗員10人が死亡、パラシュートで降下した一人は捕虜となり東京憲兵隊に送られ、戦後帰還。

 なおこの前日が城南大空襲で品川大田区等参照。

 7月28日:大島地区に戦闘機一機が機銃掃射。被害小。

焼失した小学校

 臨海、平久、東陽、川南(下記参照)、扇橋、深川、東川(下記参照)、八名川(多少残存)、第一亀戸、第二亀戸(一時廃校し、S26年復校)、香取、水神(一時廃校し、S35年復校)、第二大島、第二大島、第三大島、砂町(3/4)、第二砂町(第二東砂小学校と併合)、第三砂町、第四砂町(焼失後廃校し、S28年復校)、小名木(3/4)、亀高(一時廃校し、S52年復校)、釜屋掘(第一大島小学校に吸収)、第五大島(廃校)、文泉(第一亀戸小学校に吸収)、竪川(浅間小学校へ統合)、白河(明治小学校へ統合、現在Kインターナショナルスクール)、高橋(下記参照=廃校:跡地は深川第一中学校)、石島高等小学校(廃校)、明川高等小学校(廃校)。以上29校で、墨田区がそれについで28校、その次が品川区の26校である。

 ちなみに焼け残った小学校は、元加賀(3Fのみ焼ける)、明治、明治第二、数矢、毛利の5校のみ。

戦時下の出来事

建物強制疎開

 予測される空襲に対処するとして、特に都内の密集地帯に大きな道路や空地帯を設け、延焼を防ぐための防火帯として、都が計画した地域の建物を強制疎開させることになった。昭和19年(1944)より江東区の場合は主に本所業平橋から東陽町にかけて(現在の四ツ目通り)、亀戸から大島、北砂町の南北にかけて(現在の明治通り)、その東側の丸八通りなどが施行された。これらは軍隊や消防団、町会等で結成された警防団、一般の労務者、さらに中学校以上の学徒勤労動員(彼らが半数以上)によってなされた。この疎開で立ち退きになった人々の一部は、千葉県船橋市夏見台地に工場労働者等の住宅団地が造成され、海岸の埋立地には江東区からの移住者の集落ができ、都疎浜(現南本町)と呼ばれたという。しかし想像を絶する空襲により、都内のこうした「大事業」はほぼ徒労に終わった。この戦争自体が徒労以上のものであったが。

 終戦後、建物疎開で更地になった門前仲町駅前に多くの闇市露店が立ち、賑わいを見せた。闇市は非合法であったが、やがて占領軍GHQの指示によって東京都が露天商撤去のために整理斡旋委員会を設立、その頃疎開から戻ってきた一般商店と共に、都の調整を経て、露天商も家屋・営業権を取得した。またその後発足した深川商業協同組合が地区の発展を支えた。同様な事例は各所にある。

集団学童疎開

 戦況が悪化し当初国や都は縁故疎開を奨励していたが、19年8月1日、都市への空襲を予測して強制学童疎開を決定。国民学校初等科(小学校)の3−6年生を対象とし、城東区は山形県へ8800名(予定は1万4825名)、深川区は新潟県へ2791名(予定は1万5580名)が送られた。一部は静岡県へも疎開したようである。疎開先での宿泊は旅館や寺院で、そこから地元の学校へ通った。授業が終わると農家で水運びや田畑の耕作などを手伝った。地元の子供からのいじめもあったというが、それよりも農家の生産する食料は軍事優先で供出を強いられていて、田舎でも食べ物の余裕はなく、子供たちはいつも飢えていた。それに加え、集団生活の不衛生で、子供達はノミやシラミに苦しめられた。

 疎開の対象とならなかった国民学校高等科(12−13歳以上)は学徒隊として、女子生徒も女子挺身隊と呼ばれ、授業の代わりに軍需工場に通い、生産に従事した。授業のない学校の校舎も軍部の駐留や工場に変えられた。

 翌年、疎開していた6年生は、卒業式と進学準備のために20年2月末から3月9日までに帰京していて、不運にも10日未明から数時間の大空襲で、多数の児童が親とともに焼け死んだ。そのうち数矢小学校の6年生が、前日の9日に校庭に集まり卒業写真をとったが、その時の生徒173人の半数は、その翌日、大空襲による大火災によって命を奪われてしまった。当時6年生は、区内で約3500人、都区全体で約6万人いたというから、そのうち1万人以上死んだかもしれない。なお数矢小学校は在籍721名中死亡または行方不明者269名という。引率で疎開地に残っていた学校関係者は、 まるで児童達を死ぬために東京に帰したようなものだと嘆き悲しんだ(なお数矢小学校は焼失を免れた)。そもそも学校の授業を停止する戦況にありながら、進学準備のために帰京とは、単に子供たちを軍需品の生産要員、つまり学徒隊として使役するためにすぎなかったであろうに、無益以上の施策であった。

 大空襲後、更に疎開の強化が決定された。要点は現在空襲の頻発する地域の国民学校は(当時の小磯内閣は本土決戦必至の戦況からと言っている)学校に於ける授業を停止する、1、2年生の児童も疎開させ、区内に残留していた3−6年生も強制疎開させるとの主旨であった。しかしすでに疎開先で空襲に遭わずに助かった江東区の子供の多くは、親や家族を地獄のような劫火の中で亡くし、そのまま孤児となっていた。そして孤児たちは終戦後は非道な差別を受けながら苦難の道を歩むことになるが、いっそ親と一緒に死にたかったと後に語った人は多い。

 現在、江東区図書館に「学童集団疎開資料室」が設けられている。

一連の空襲の中で

 —— 私の家は、城東区北砂(現、江東区東砂)の都電通りに面して果実店を営んでいた。昭和19年の当時は何でも配給制だった。果物も八箇町内の病人と幼児のための配給を受け持っていて、子供も6人いて、忙しい毎日だった。11月24日にサイパンから東京に初空襲があり、29日夜には城東区にも空襲があり、爆弾が雨あられのように落とされ、子名木川の学校の防空壕に爆弾が落とされた。家の裏にあった救急病院には負傷した人たちが運び込まれていた。お腹に赤ちゃんのいる若い女性が戸板に乗せられ、親とはぐれた幼い子もいた。病院に入りきれずに道路に座ったり寝たりして順番を待っていた。手当を受けずに死んだ人たちが道路に身を寄せ合うようにして転がっていた。初めて目にする悲惨な光景だった。

 子供たちを守るために埼玉県の岩槻市の知人の所に疎開し、配給の仕事もあるので往復する生活になった。私の家でも押入れの下を防空壕に改造した(この程度の防空壕では役に立たないことが後にわかる)。裏手の第二砂町小学校(戦後東砂第二小に統合)に250kg爆弾が落ちた時は夜でも真昼のように周りを明るく照らし、近くの家を何十軒も焼き尽くした。翌年の2月25日の空襲では電車通りに大量の焼夷弾が落とされ、近くの東製鋼には350発の爆弾が落とされて、子供を抱き抱えてただうずくまっていた。水道も止まってしまい、積もっている雪を鍋に入れて溶かして食事の支度をした。そこで夫と小学5年生の長男を残して岩槻にいるようになった。食べ盛りの子供たちを抱えていたので、近くの農家へ着物や反物、金属類を持って食べ物と交換したが、すぐになくなった。田舎の学校では子供の小さい体で畑を耕す作業もしていた。

 3月10日未明の大空襲のときは、岩槻からも空が夕焼け空のように真っ赤に見えた。翌日の夜、夫と長男が、途中で何度も防空壕に避難しながら自転車に乗って、怪我もせずにやってきた。しかし私の実家のある本所区(墨田区)石原町に住んでいた母と姉と義兄が亡くなった。弟も北支(中国東北部)方面に兵隊で行ったきり、命があればどんな怪我をしていてもいいから帰ってきてほしいと毎日毎日願っていたが、それもむなしいことになった。空襲も続いていて、夜になると東京の空が赤く燃え上がるのを見ては、これから先どうなるのかと暗い毎日を送った。東京に出るにも規制があって電車の切符を買うために1日に数枚しか発売しないためになかなか買えなかった。戦争も終盤になると米軍の飛行機が飛んできて、チラシを撒き、「早く降伏すればキャンディやチョコレートや本もあげます。一日も早く戦争をやめて、仲良く平和になりましょう」と書かれていて、夜には東京方面が赤くなるのだった。

 8月6日には広島に原爆が落とされ、8月9日にはソ連が参戦してきて、日本はもう終わりだと、どこに安住の地を求めたらよいのかと、考えが先に進まなかった。そして8月15日、日本が無条件降伏する日が来た。天皇の終戦の詔勅を聞いて悔しくてみんなで泣いたが、それよりも子供たちの食べ物の心配をしなければならなかった。買い出しに行く電車は芋洗い状態で、目的地まで無事に着いてもそれからがまた大変で重い荷物を背負って帰ってきた。

 翌年の2月に東京に戻った。みんな家族がばらばらになり、一人ぼっちになった人、子供を探して歩く親、兄弟や肉親を探してさまよい歩く人たち、その中で私たちはそろって生活できることが何よりだった。小学校も葛西橋の土手下にあった兵舎を仮校舎にして、子供達も元気に勉強ができるようになった。 (『東京大空襲戦災誌』第2巻:永守ひろ、当時34歳)

3月4日の空襲で(当時の城東区北砂4丁目で上記に近い場所)

 —— 3月2日の夜、照明弾が投下され、一本の長い花火のようなひもが数知れず地上に降ってきたが(電波障害用テープか)、それだけに終わった。4日の朝から空襲警報が鳴り、防空壕に入ったが、五分ほどして大きな音がして直径1mくらいの鉄のトヨ(雨どい)のようなもの(焼夷弾をまとめている大筒)が落下し、すぐに大量の焼夷弾が地上に叩きつけられてきた。壕の入り口の向かい側の工場の建物が燃え、油の染みた床に火が這い、私たちの方に迫ってきた。焼夷弾は落ちると地に突き刺さったまま赤い火を吹き上げ、やがて青い火に変わり、火薬がバンと飛び散る。その火玉が体につくと衣服が燃え始める。火が赤く燃えているうちにと、私は壕から飛び出した。黄色の煙で見通しがつかないが、住み慣れたところなので感で道を走る。親子一緒だと共に死ぬはめになるかもしれないと二人の娘を別の壕に避難させていたが、いつの間にか長女がかじりついてきていた。次女の姿が見えない。次女の名前を呼び続け、燃え上がる我が家を横に見ながら大通りに向かった。通りに面した天理教会の防空壕に長女を預けて次女を探しに戻った。いるはずの防空壕にはいない。もう一度大通りに出ると、天理教会が燃えて長女のいる壕の上に倒れかかっていた。壕に飛び込んで子供の足をつかんで夢中になって引っ張って壕の外に出し、転げるように逃げた。

 大通りのアスファルトは溶け、道の両側は焼夷弾が大量に落ちていて、逃げる人でいっぱいだった。一つ先の路地口で次女を見つけた。同じ4丁目の新聞販売店の主人が奥さんに背負われて来た。長い病気で歩けないから、奥さんは2歳の子供を横脇に抱え、4歳の子供を引き連れ、ご主人を腕を肩にかけてやっと大通りの真ん中まで出て来たものの、逃げきれないと思ってか、「お父さん、もうだめ」と泣き叫びながら座り込んでしまった。「俺を捨てて逃げろ」とご主人は叫んでいたが、奥さんは再び立ち上がる気力をなくしていた。近所に赤ちゃんを産んで4日目の人もいた。

 砂町の火葬場の前を通って荒川放水路の土手まで来たが、爆弾土手上の建物に命中し、土手下にいた私たちは爆風でいくらか吹き飛ばされた。危うくそばのどぶ川に落ちかかったが、枯れ草の根をつかんでいて助かった。這い上がって葛西橋のたもとに出た。橋の上には警備隊員がいっぱいいて、銃剣の剣先を私たちに向けて戻れと怒鳴る。振り返れば下町は全部火の海で戻るすべもない。私は夢中で「殺す気か!」とわめきながら兵隊の中に飛び込んだ。剣を向けられて土手の上から荒川放水路に飛び込んだ人たちも大勢いた。その人たちは大部分死んだと思われる(おそらく機密の軍需工場でもあったのかと思われるが、ひどい話である)。私の後に続いて隣組の人たち5、6人が葛西橋を渡って走り続けた。私は隣組の群長をしていたから、みんな私について来たのである。全員が宇喜田町の知人の農家に避難できた。生まれて4日目の赤ちゃんに飲ませるミルクもない。砂糖湯を茶碗で飲ませた。中に、親が必死で逃げ回っているうちにへその緒が切れて落ちた赤ちゃんは一度も泣いていなかった。夜になってまた4丁目に爆弾が投下され、地響きが伝わって来た。

 翌朝、被災した人たちを郷里に帰すために、隣組の月掛金を預けてあった亀戸の信用組合に行こうと葛西橋を渡ると見渡す限りの焼け跡で、行きは時折B29が飛んでくるので、その都度防空壕に飛び込みながら歩いたが、どの壕も死人の山で、腹がちぎれて腸が飛び出した人、手足のもがれた人、爆風で切れてしまった人たちの上にのしかかるように入った。亀戸から取って返す帰途に、亀高神社の前の大きな池に、火に追われて飛び込んだ人たちが火煙のために窒息したか、大勢が死んでいた。あちこちのドブにも死体が折り重なっていた。コンクリート製の防火用水の桶の中に5歳ぐらいの子供がいて、火が来るたびに水中にもぐったのか、生きていた。感動で涙が出た。

 私は今年で66歳。主人は20年(1945)6月(終戦2ヶ月前)に戦死した。それから何もない世の中を、子供二人抱えて今まで言葉に尽くせぬ思いをし、ただ強く生きようと自分に言い聞かせて生きて来た。国のために主人の命を捧げ、葬祭料350円をいただいて、すべては終わってしまった。世の中は冷たい。二度とこんな不幸は繰り返したくない。(同上:池田玉枝、当時40歳)

大空襲3月10日の様相

【政府の対応】

 当時、防空法というのが定められていて、空襲が来れば逃げずに火を消すのが住民の義務とされ、初期消火の重要性が説かれ、そのために都市の人たちは町内会や学校で防空訓練、消火訓練に日々励んでいた。実際に大量の焼夷弾が四方八方に落とされる中、初期消火どころではなく、それでも消火に当たろうとして逃げ遅れて無残に焼死した人々が多かった。

 「炎の勢いは想像以上だった。自宅前の通りを北へ走った。”忘れ物をした。すぐ戻るから”と兄が引き返し、それが最後の姿となった。当時、総武線の両側は強制建物疎開で空き地となり、そこに防空壕があった。6歳の妹と母はそこに逃げ込み、妹は蒸し焼きのようになって亡くなった。母も終戦前に亡くなるほどの重いやけどを負った。私と父は、ガード下に避難した。吸い込む空気は熱く、頭の鉄かぶとも焼けた。真綿で首を絞められるような苦しさだった。目の前で少年が力尽き、燃え上がった。二人は火の粉を払い続け、生き延びた。戦後、近所の人から兄の消息を聞いた。自宅に引き返した後、防火責任者から声を掛けられたようだった」

 この日の午後7時20分、小磯國昭首相はラジオ演説で「敵は、今後ますます空襲を激化してくると考えます。敢然として空襲に耐えることこそ勝利の近道であります。断じて一時の不幸に屈することなく、国民が征戦目的の達成に邁進することを切望する」と国民へ呼びかけた。

 また翌日、『東京都長官(都知事)と警視総監の連名による告諭』として、「罹災者の救護には万全を期している/都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」と新聞紙上に載せた。

 この時代、お国と天皇のために命を投げ出すことこそ尊いとされていたから、まず自分の命を大事にして逃げてくださいとは誰も言わなかった。それにこのように通達する上層部の人たちは、立派で安全な防空壕に避難できているから自分の身の安全は確保されていた。ただ、後にこの警視総監は「わが生涯における最大の痛恨事」として、「防火を放棄して逃げてくれればあれほどの死人は出なかっただろうに、長い間の防空訓練がかえってわざわいとなった」と語っている。

(東京新聞、2015年3月4日)

【米軍の爆撃作戦とその効果】

 この日の米軍の攻撃は計算ずくであった。よく「無差別爆撃」と言われるが、そんなことは承知の上で計画された。まず、人口密集地の下町三区(江東区・墨田区・台東区)を標的にした上、風の強い日を選び、前日深夜に偵察機が東京の上空に侵入、そこで空襲警報が鳴るが、偵察機は一旦引き返した。すると「警報が解除になって一安心したとき、まもなくB29の飛行音が聞こえ、急いで防空壕に逃げ込むと同時に辺りがパッーと明るくなった。照明弾だった。火勢に押されて家のあった三ツ目通り(墨田区との境)は避難者であふれ返ったが、黒煙が立ちこめるなかでB29は低空で狙いを定めて焼夷弾を落としてきた。総武線亀沢町のガード下の防空壕はどこも満員。炎は近くまで迫り、手足を必死に動かして火を防ぐのを少しでも休めると衣服に引火する。息も苦しい状況だった。近くにいた小学生くらいの男児が突然2、3m先へ転がり、防空頭巾に火が燃え移り目の前で火だるまになった」と深川在住の男性は語った。

 この焼夷弾も米軍は、事前に日本の木造家屋を模して実験を重ね、瓦屋根を突き破ってすぐに効率よく燃え上がるように設計し開発していた。これは断面が六角形の金属の筒(長さ約51cm、直径約8cm)に、ゼリー状の油脂を入れた布袋を詰め、その筒を前後2段、計38本を束ねた状態でB29爆撃機から投下、上空約700mで束は分解し、それらが散らばって家々の屋根を貫通して、屋内で燃え広がる仕組みであった。なおこの焼夷弾の筒が逃げ惑う人を直接突き刺して即死させた場合もあり、また母親が背負った赤ん坊の首を断ち落としたこともあり、その母親はそれに気がつかず、気づいた周囲の人も気の毒で声をかけられなかったという。

 そしてこの日は米軍の予測通り、いわゆる北風、北西からの寒風が吹き荒れ、約500機の大編隊で、B29爆撃機はその逆方向、つまり風下の荒川西岸(江東区東側)から隅田川方面に向かって大量の焼夷弾を投下していった。住民たちは風上に逃げるが、B29はさらにその先に低空で焼夷弾を落とすことで家々は燃え上がり、前後から猛火に挟まれることになった。強風がさらに猛火を呼び、男児の「防空頭巾に火が燃え移り目の前で火だるまになった」とは、空気がそのまま燃えるほどの状態となったからで、まさに地獄の劫火であったと助かった人は語っている。

 こうした空襲を予測していた政府は、事前に人口密集地の住宅を建物疎開として撤去し空き地を作った。しかしその大きな空き地に周囲の住民が逃げ込んだ場合、そこでも多数の犠牲者が生じた。これは大正12年(1923)の関東大震災の時、空き地に逃げた人々の荷物の上に火が移り、万単位の人が焼け死んだことと同じで、例えば隅田川の橋でも、左右から橋の上に逃げた人々が折り重なり、その人々の荷物にも燃えた空気で火がつき、そのまま橋の上で身動きできずに焼け死んだり、あるいは欄干から川に飛び込んで溺れ死んだという悲惨な事実があり、その様子は絵画にも残されている。

 その関東大震災に起きた大火災の教訓から、焼失した小学校は大半が鉄筋コンクリートに造りかえられていて、米軍の空襲が予測され始めると、その鉄筋の校舎が近隣住民の避難所に指定された。しかし火の海となったこの日、人々は指定された学校に避難したが、強風で舞い上がる炎の熱や飛び散る物で校舎の窓ガラスは簡単に壊れ、そのまま内部にも火が移り、避難者はもはや他に逃げようもなく焼死あるいは窒息死した。遅れて学校に逃げ込んだ人々は、すでに避難者で一杯の校舎からも閉ざされ、入り口の外で人々は折り重なって焼け死んだ。以下はその学校での惨劇である。

【避難先の小学校での惨劇】

*旧深川区の各小学校と焼け跡の様相(『東京大空襲戦災誌』第2巻:佐藤垂穂)

 深川区の小学校担当東京視学官が、3月10日の空襲後の早朝から小学校がどれだけの被害をうけたかの調査に出むいた(本人は江戸川の小岩で被害は免れた)。以下は要約であるが、当時の国民学校という呼び名は小学校としている。

 …… 夜はほのぼのと明けかけた日の出前、省線(国電)も通らなければ京成電車も動かない。私は歩いて行こうと決め、身固め、足固めをして握り飯を防空パックに詰め込むとすぐに家を出た。千葉街道を小松川橋目指して歩いて行った。鹿本にかかるころからポツポツと異様な姿の人たちに出会い始めた。誰も彼も汚れて疲れ果て果てたような足取りで虚な目をし、中には裸足の者も、足袋だけの者もいて、路傍にうずくまっている人もいる。小松川橋に近づくと、堤防の上には何百人という人がほとんど動きもなく茫然自失の状態でいた。中川まで来ると川一つ隔てた対岸は焼け野原だった。浅間小学校あたりの一角を残して亀戸町から大島町、砂町にかけて海も望めるばかりの焼け野原だった。城東地区の工場地帯は、これまで何回かの爆撃を受けていたが、今度という今度は丸裸にされていた。

 亀戸駅に近づくと電柱から煙が出て焼け落ちた電線が蜘蛛の巣のように縦横に垂れ下がり、行手を阻んだ。そして路上に倒れている焼死体を見た。衣服はすべて焼かれ、皮膚が赤黒く焼けただれていた。なお行くと省線によじ登ろうとして死んだ死体が6、7個あった。駅のガード下では10数体が折り重なっていて、その一人がコンクリートの壁を這い上がるようにしていて、その焼け跡が白い壁に黒くいぶし出されていた。なんとむごいことかと、黙祷しながら先に進んだ。横十間川では繋げられている丸太に混じって幾らかの死体があり、よく見るとその数は増えていった。火に追われてこの中に逃げてそのまま水死したようだ。錦糸町駅はすっかり焼け落ちて見る影もない。はるか先のほうにはうっすらと上野の山あたりの緑が見えた。

 深川の毛利町に向かう。毛利小学校からが私の担当地区だった。毛利小学校はほぼ焼けていず、中を見ると多くの人がぐったりと死んだように動いていない。みんな疲れ切って動けないようだった。二階の方からうめき声が聞こえ、負傷者もいた。この学校は周囲の条件がよかった。すぐ隣は工場の広い作業場で、前は強制疎開で家は取り壊され、裏手は広い貯水池だった。そして住吉町から東川小学校に立ち寄って唖然とした。三階までの窓はすべてガラスが溶け落ち、長いつららのようなものを作り、鉄のサッシは飴のように折れ曲がって垂れ下がり、コンクリートの外壁は赤茶色に焦げて所々剥げ落ちていた。校舎の内部は燃えるものは燃え、コンクリートの地肌だけが残っていた。地下室を見ようと階段まで行ったが、そこには死体が重なり合って足を踏み入れるわけにもいかない。その上静まり返っていて、自分もその中に引き込まれそうな錯覚に襲われ、早々にそこを逃げ出した。裏手に回ると5人の男女が燃え残りの木を燃やして焚き火をしていた。この辺りで生きて動いている人を見た最初だった。彼らは濡れた衣服を乾かしていたが、そばの掘割の中で水に浸かり、毛布を濡らして頭から被って助かったということだった。一人に「薬はありませんか?」と聞かれ、見るとそばにうずくまっている女性が顔と手の半分が焼けて赤く腫れ上がっていた。薬の持ち合わせはなく、役所に行ったら救護の手配をしますと言って、持っていた自分用の握り飯をあげて立ち去った。(他の記録では、この学校の講堂に逃げ込んだ大勢の人々も荷物と共に焼き尽くされ、プールに逃げ込んで助かった人の話もある。——下記、その他の惨禍参照)

 …… 東川小学校を出て森下町に向かい、(深川区と本所区の堺あたりの)堀にさしかかった。堀の橋は半分焼け落ちていたが、橋の上にはおよそ2、30体の焼死体、その堀の中には折り重なった水死体、その辺りの道路いっぱいに荷車やリヤカーや自転車が焼けて折り重なり、おそらく荷物は焼けて無くなっていた。そしてまた一つの異様な光景 ——当時備えられていた各家庭用の防火用水の上に覆いかぶさったまま死んでいる女性が、はみ出ている背中から下半身が焼けて水に浸かっている頭の部分が残り、その下の水の中に幼児が一人、防空頭巾を被ったまま母親の胸に顔を向けて目を閉じ、まだ生きているような顔であった。アスファルトの道路も燃え上がった跡があり、まだくすぶっていて、所々焼夷弾の六角形の筒がころがり、その中にあちこち人の影が動いていた。道路上に焼け焦げた消防車がじっとたたずんでいて、普通の火事場の焼け跡と違って、静けさと寂しさが漂う砂漠の中にいるようであったという。

 深川区役所は外壁は赤茶色に焼けていたが、幸いに内部には火が入っていなかった。裏側には土嚢が積み上げられなんとか防いだようだった。ただ、玄関の石の階段の横には十数体の死体が折り重なっていた。中では負傷者があちこちで呻いていて、職員は慌ただしく動き回っていた。まだ昨夜からの宿直の人ばかりで、自分の家もどうなっているか心配な中で、帰った人もいたようだし、帰れずにいた人もいて、目は煙にやられて真っ赤になっていた。逆に、空襲が始まって役所に行くと言って家を出たままたどり着いていない人もいた。家に帰れない人を家に帰し、交代した。役所内には多少の救急薬と医薬品があるだけで、中でうめいている人にはとても足りなかった。そして少しばかりの薬品をバッグに入れて役所を出た。

 役所の近くにあった白河小学校は区内唯一の木造校舎であったが、礎石を残すだけで、柱一本残らず灰になっていた。途中で清澄庭園に立ち寄ったが、ここは防火地帯として火災を免れたようで、人々が出入りし動いていた。図書館も残り、ここに接するごく一部の家々も残っていた。そして明治、明治第二小学校も奇跡的に焼け残っていた。そこから門前仲町を抜けて永代橋寄りの臨海小学校に行くと完全に焼失し、狭い校庭の隅に数人の遺体が残されていた。そこから月島の方に向かったが、すでにそこらに転がっている焼死体は焼けた木材のようにしか見えず、異臭に対する鼻の感覚も失っていた。富岡八幡宮の緑も残っていて、その奥にある数矢小学校も完全に残っていた。藤倉電線の大工場のそばにある平久小学校は、工場の可燃物の影響を受けてか、勢いよく焼失していた。窓の鉄のサッシは半分溶けて垂れ下がり、体育館の鉄骨は曲がり、半分潰れかけていた。男女の区別がつかない黒焦げの死体はあったが、多くはなかった。この校長は殉職したと聞いた。

 さらにそこから東陽町に向かうと有名な洲崎の遊郭があった街は大火に舐め尽くされて一物も残っていなかった。そこと都電のを挟んで反対側にあった東陽小学校も焼き尽くされ、コンクリートの塊だけが残っていた。ただこの校庭のプールで助かった人もいて、学校の防空責任者も生き残った。この学校に隣接していた深川高等女学校も焼けたが、ここは軍需工場に転換されていて、その資材が火勢を強くしたようで、ひどい焼け方だった(深川高女については、下欄の同校をクリック)。またそこから丸太と水死体の浮いている掘割を渡ると石島高等小学校で、この学校も軍需工場化され、激しい燃え方だった。ここでは死体が目に触れなかったが、この屋上で助かった教員がいたと聞き驚いた。屋上の貯水タンクの水をかぶりながらあちこちに逃げ歩いたという。

 城東区の境の近くは扇橋の商店街で、人口密度が高く、その都電通りは空襲に備えて建物疎開が行われ、防火ベルトが作られていた。それに沿って川南小学校があり、隣接した扇橋公園に入るとコンクリート塀のあたりに数十人の人がいた。集団になっている人たちを見るのは初めてだった。近づいてみるとみんな無残な姿でぐったりいしていた。助けを求められたが、なんとか役所まで行くようにと勧めながら、持っていた油薬を両手でつかんで焼けた肌に塗ってあげた。一人が、学校が一番安全だと言われていたが、避難者で溢れて扉も閉められず、そこから火が入ってみんなやられたとポツンと言った。そこで庭から校庭に入ってみた。校庭にはあちこちに死体があった。

 一歩川南小学校の体育館に足を踏み入れ、愕然とした。その出口あたりは5、60人以上の死体が積み重なっていて、それがいまだに黒い煙を巻き上げながら3、4mもの赤い焔になってまだ盛んに燃えているではないか。その焔は壁から天井にかけて真黒い煤のあとをつけながら、うなりを上げて燃えている。下のほうにはもう焼け尽きた白骨がみえる。これはまさに地獄絵そのもので、わたしは人間の身体があのようによく燃えるのを聞いたこともなかった。しかもこれを見守る人もいなければ、消そうとする人もいなく、いたとしてもどうにもならなかっただろう。焦熱地獄とはこのことで、全くあたり一面、鬼気が漂っていた。わたしはまた恐ろしくなって体育館から急いで逃げ出した。(出口あたりに5、60人以上ということであって、体育館の大きさであればその奥には500人ではきかない人々が焼かれていたと思われる)

 次の扇橋小学校も全焼していたが、似たような焼け方であった。そしてその近くの木橋に差しかかると、この橋は中央から燃え落ちていて、渡ることもできなかったが、その上流下流におびただしい水死体が水面を覆っていた。この掘割は上記の東川小学校の裏手に続いているので、このあたり一帯が激しい火災に襲われていたことがわかる。迂回して明川高等小学校に行くと、ここも軍需工場にされていて、その資材によって激しい燃え方をしていた。その左方向にある元加賀小学校は屋上に焼夷弾の直撃を受け、三階の床で止まり、2、 3教室を焼いて消し止められた。

 深川小学校と八名川小学校も焼失していた。(別な記述では、深川小学校はやはり避難所となっていて、肉親を探しに来た方が、「ここにも全身焼けただれし避難者の群れが、たがいに肉親の名前を呼び求めて泣き叫ぶ。教室に集まりし人達の大半は煙のため顔は真っ黒で目は真っ赤にて痛々し。我も泣きながら連呼するも答えなし。死体になって廊下に倒れたる人、意外に元気な人、丹念に探せど、哀れ三人の姿は見えず。… 森下町二丁目の隣組は58名のうち生存者は5名と判明。他は一家全滅の悲運なり」とある)

 この大空襲の夜は北西の強風のせいもあっただろうが、これほどの火の勢いを誰が予想していたろう。目撃者の話によれば、道路という道路は燃えるアスファルトと共に、両側の家々から吹き下ろす火焔が、その帯になって流れていたという。日が西に傾く頃には焼け跡にたたずむ人たちの姿、家族探しや、焼け跡を掘り起こしている人たちが見えてきた。焼けたトタンでバラックを建てる人、焼け材を使って避難先を書いた札を立てる人もいた。 (『東京大空襲戦災誌』第2巻:佐藤垂穂)

(この方は同様に惨劇のあった下記の高橋小学校にも最後のあたりに立ち寄っているが、その中は時間的に見る余裕があまりなかったようである)

*高橋小学校(廃校となり、現深川第一中学校)の場合

 —— あたりはものすごい熱と風で一歩も歩けない。6坪ほどの共同便所には30人くらいが避難していた。この建物も燃えはじめた。突然、子ども連れの若い母親が私にしがみついてきた。私はなにがなんだかわからず、ただ手にしたゲートルを、水をひたして火と熱からのがれるだけ、なすすべがなかった。いつのまにか私は眠ってしまっていた。気がつくと10日の午後2時ごろになっていた。共同便所の中には昨夜の人たちが、皆からだをもたれあって死んでいる。母子も死んでいた。私は地下室へ行った。廊下は丸焼けの死体がごろごろしている。ひとかたまりの物体と化している。地下室の入り口にくると、まだものすごい熱で中へ入ることもできない。ただ中にいた人は全滅だということだけはわかった。

 地下室は2、3日は入れなかった。地下室にあった水道水が膝あたりまでたまり、それがものすごい熱湯になっていたからだ。おそらく熱気に耐えきれなくなって水をだしたのだろう。死体は熱湯に溶けていて、だれの頭か、だれの足であるか、だれの死体であるかわからなくなっていた。それらは一体として数えようがなかった。(「防空法犠牲者の会だより」石倉友次:記録作家 金田茉莉編集サイト「戦争孤児」から)

 —— 3月9日、父親は医者であったため、医療器具類を疎開するための手伝いに、栃木から従姉の19歳のきれいな憧れのお姉さんが手伝いに来ていた。深夜から空襲警報が始まり、家の防空壕に入った。外へ出ていた父親が、「ここの防空壕ではだめだから、近くの高橋国民(小)学校へ避難するように」ということで、急遽、移動することになった。6歳でまだ小さかったこともあり、静子さんは少し遅れ、従妹と看護婦の二人だけ少し先にでた。静子さんと母親、お手伝いさん、残る看護婦さんを含め5人は、ほんの少しだけ後に続いた。ところが小学校に着いたらちょうど門が閉められ、もう入れないと断られた。収容人数400人をすでに超えており、入れてもらえなかった。

 そこで近くの墨田工業学校(現墨田工業高校)の地下防空壕に入った。ここは海抜ゼロメートル地帯で、床も張られていず、30cmくらいの深さの水溜りがあった。電気もローソクの灯りもなく、気温は4℃くらいでとても寒い。そんななかでお母さんたちは子どもをおんぶして立っていなくてはならなかった。防空壕の収容人数は70人くらいで、女、子ども、お年寄りのみであった。

 そのうち上の方からドサーッ、バサーッ、というものすごい音がしていたが、外の建物や立木が燃えて崩れる音だった。建物はコンクリート製だったが、窓枠は木製で、そこに火が移り、内部の机他を焼き尽くした。そのあと、鉄製の防空壕の扉を叩く音とともに、”開けてください、中に入れてください”という人の声がした。多くは女の人の声であった。母の背にいた静子さんは、子ども心に開けてほしい、と思っていた。そのうち、外の声は”開けろー”という悲鳴に変わったが、それでも扉は開けられなかった。

 静かになったのは翌朝5時30分頃で、扉を開けようとしたが、容易には開かなかった。扉の上には何mにもなった焼け焦げた死体が丸太のように覆いかぶさっていた。外にでると月の世界のようで、遠く地平線しかみえなかった。扉を開けなかった理由は高校生になって分かった。開けていれば防空壕内にも火が回って子供たちも焼けてしまうことを大人はわかっていた。

 母は高橋小学校に避難した従姉と看護婦さんの二人を思って、翌日夕方まで二人を待ったが帰って来なかった。60歳になるまで大空襲の経験を一切、話をすることができなかった。その後、命にかかわる仕事がしたいと感染研究所で働いてきたが、60歳の定年を迎えたときの送別会で何か戦争についての話してくれるように言われ、話したところ、聞いていた若い男性が涙を流すのを見て、これは伝えていかなければならないと思った。(語り部、西尾静子:昭和14年=1939生まれ)

【その他の惨禍】

 —— 東京大空襲の当時、私は29歳だった。私は町の警防団特別警備隊員として、警戒警報、空襲警報の出るたびごとに、必ず築地警察署にかけつけていた。あの晩も(20年:1945年3月9日深夜)すぐに飛び起き警察署に向かった。すでに深川方面は火の海と化して、空は真っ赤である。間もなく築地一帯にも焼夷弾がだいぶ落下して、あっという間に火の町になった。明け方までには広範囲が焼けたが、さすがに本願寺の建物は残った。

 翌日、本所深川方面は全滅とのニュースを聞き、疲れも忘れて緊張しながらボロ自転車に飛び乗って、現場の状況を視察するために深川方面に向かった。永代橋まで行くと、わずかな荷物を背負った罹災者が、顔は真っ黒、眼は火にあおられたのか赤く細くなった姿で京橋区方面に避難する様子。門前仲町あたりでは、木場方面から都電線路沿いに頭を永代橋方面に向けて、まるで将棋倒しのかっこうで重なりあって焼死体が横たわっている。

 その瞬間は眼を見張って驚いたが、少し歩いているうちに、その悲惨さにも馴れてやや落ち着いてきた。深川不動尊の前あたりは特にひどかった。最も印象に残ったのは、幼児を抱きしめたまま死んでいる哀れな姿で、髪の毛なども焼けてしまい男女の区別もつかなかった。いま思うとデパートにあるマネキン人形の裸体が並んで倒れているような感じである。

 それから数日後まで、隅田川には毎日のように死体が流れてきた。私は築地魚市場の河岸にある事務所に勤務していたので、魚を揚げる桟橋には、誰が揚げるともなく、死体の数が増してきた。当時50歳位だった同じ職場の今関さんが、毎日家から線香を持ってきてあげていた。その死体を片付ける人もいなくなり、ついにはなるべく揚げないようになってしまった。死体の処置はたぶん3月の末頃までかかったと思う。(中央区平和記念バーチャルミュージアム:工藤利一)

 —— あの日、空襲警報のサイレンで母は12歳だった私と6歳と3歳の二人の妹を連れて家の前の防空壕に避難した。しかしすぐに「このままでは死んでしまう、逃げるんだ!」との誰かの声があり、外に出るとすでに火の海だった。公園はもういっぱいで避難できないと言われて、東川小学校へ向かった。ところが先を争って逃げる人で大混雑し、頭上には敵機が容赦なく焼夷弾を落としていて、私は持ち物を爆風に飛ばされて、拾おうと目を離した一瞬、母たち3人の姿を見失った。

 人の流れに従って講堂に逃げ込むと、たくさんの人が荷物を抱えて逃げ込んでいた。そこに激しい音とともに窓ガラスが割れ、炎が勢いよく入ってきて、人々を舐めるように襲った。中の人たちは一斉に外に出ようと校庭側の扉に殺到したが、扉はなかなか開かず、やっと少し開いた扉から出る人に押されて私も校庭に出た。しかし強風と火の塊が舞う中で、とても立っていられず、真ん中あたりでうつ伏せになった。そのうち足首が焼け、服にも火がついた。子供心にも死を覚悟し、父母や先生や友達にも「さよなら」を繰り返した。その時知らない男性が「こっち!」と言っていきなり私の手を引っ張って、プールに入れてくれ、九死に一生を得た。

 どのくらい水に浸かっていたのか、悪夢の一夜が明け、上がって目にしたものは性別すらわからない泥人形のような死体がここにもそこにもあふれていた。父と兄には再会できたが、母と妹2人の行方は分からず、家の焼け跡で待ち続けた。その夜は近くのガラス工場で残っていたレンガとトタンで囲って夜を明かした。しかし、ひどいやけどをした父は1カ月半後に息を引き取った。母たちの死がどうしても信じられず、外を歩いていても電車に乗っても母の姿を追い、似た後ろ姿を見ると追いかけて顔をのぞきこみ、それを何度も繰り返してはがっかりした。

 8歳の妹は新潟に集団疎開していて、付き添いの先生から「妹2人と母が亡くなった」と聞かされ、ぼうぜんとしたが、家族をすべて亡くした友達もいて、「いいね、琴ちゃん家(ち)は …」と、ひとりぼっちになった友だちの言葉が、今も耳から離れないという。

 戦後、私と妹は別々の親類宅に身を寄せ、私は親類宅で掃除や洗濯を手伝っていたが、子ども心に、居候なのに学校に行っては申し訳ないと思って、17歳の時に住み込みの仕事を見つけて親類宅を出た。妹は親類の家や児童養護施設を転々とし、学校の焼け跡で暮らしたこともある。

 戦争で一番犠牲になるのは子どもです。私よりも大変な思いをした子も、けがをしていまだに苦しんでいる人もいます。同じような惨事が二度と起きないよう、語り残したいのです。

(『もしも魔法が使えたら』講談社、および毎日新聞2018年3/11記事より:高橋喜美子)

 —— 城東消防署で寝ていた加瀬勇は、10日に日が変わる時間に空襲警報によって起こされ、ポンプ車を置いていた鉄道の車両工場から同僚4、5人と出動したが、周囲はあっという間に火の海になっていた。見上げると、爆撃機B29が夜空を埋めていた。火の勢いが強すぎて消火活動ができず「どこへ行こうとしても、車より速く火が走っていった」。必死に消火活動にあたったが、米軍が投下する焼夷弾は、油脂が詰められ、火は水では消えなかった。さらに、麻製のホースが焦げ出してしまう。救助を求めてきた20人ほどが目の前で風にあおられた炎に包まれた。ポンプ車は燃えさかる民家に誤って突入し、後退したところで停止した。気がつけば6人で乗っていたはずのポンプ車は運転席の自分一人になっていた。熱風を浴びて自分の顔や手の皮膚はただれ落ちていた。目をさますと病院にいた。全身にやけどを負い、重症だった。「猛火と闘う中で今でも忘れられないのが、助けられなかった人たちの姿」で、燃え盛る街をポンプ車で駆け抜けているときに、交差点で赤子を抱く女性に、この子だけは助けてほしいと必死に頼まれた。しかし消火が使命であるため救うことはできず、前を通過した。「今でもあの時の情景が目の前にちらつき、忘れられない」と加瀬は昨日の出来事のように話した。

(毎日新聞2018年8月21日)

【焼け跡に肉親を求めて】

 —— 19年(1944)の春、深川小学校四年生の時、二年生の妹と千葉市の母の実家に縁故疎開した。日曜日になると両親と妹たち(6歳と3歳)と弟(1歳)に会うために、電車に乗り、森下のわが家に帰ることが何よりの楽しみだった。そのうち空襲も激しくなり、家財道具を親戚に預けて千葉の私たちのところに一家の引っ越しが決まった。千葉より荷馬車を仕立て、10日には引っ越すことになった。明日はいよいよ一家揃って暮らせると、妹と話ながら眠りについていると祖母に起こされた。眠い目をこすりながら外に出てみると、東京の空が夕焼けのように赤い。一夜をまんじりともせずに赤い空を見ていたが、3時ごろには赤い空も暗くなった。翌日のラジオのニュースで家族の安否を心配したが、祖母と三人ではどうにもならない。

 12日の朝、勝浦の叔父が来てくれ、東京に家族を探しに行くのに私も同行した。電車は小岩までしか行けず、あとは歩いた。周辺には何もなく、彼方に神明神社の鳥居のみがそびえ、わが家の焼け跡には防空壕の穴だけが大きかった。近所の公園にはあちこちにすり鉢状の穴があり、焼夷弾のカラが散乱し、死体にはむしろが被せてあった。母校の深川小も全焼し、鉄の窓枠は飴のように曲がっていた。広場、道路といわず、橋の上、川の中にもいたるところに死体は折り重なり、それをまたぎ歩いた。学校や病院など負傷者の収容されている場所も探し、病院も話す人もいず、死んだ街のようだった。軍隊が大根でも扱うようにトビ口で死体を収容しているのを呆然と眺めていた。結局行方は分からず、その日は帰った。

 叔父はその後何日も東京に行き、私の家族5人を探してくれたが、ついにわからず、21日に平野警察署で父の所持品を発見し、すでに死体は処理されたと聞き、家族は死んだものとあきらめた。後日、生き残った近所の人の話では、父は身の回りの品をリヤカーに積み、神明神社の境内で母と三人の弟妹を待ったという。

 戦争とは人間としての感情を失わせる実に悲惨なものである。全く戦力を持たない人間を、同じ人間が絶対の優位に立ち、これを殺戮する、しかも平然と、当然のことのように。こんなことがあっていいものか、私は終生、戦争を憎む。(『東京大空襲戦災誌』第2巻:久我俊夫)

 —— 姉と私は深川の森下町から千葉県市川の祖母のもとに疎開していた。父は前年召集され中国の戦線へ、そして3月10日に母と幼い妹二人は焼死したそうで、いまだに私はそれを事実として認めることができない。母の最後も死体も、それを確認するものが一つもない。隣組は全滅したそうで、生存者を訪ね歩いても、その最後を話してくれる人もいない。

 10日以後、千葉街道は東京からの罹災者が引きも切らず、ぞろぞろと着の身着のままで、乞食の群れのように歩いて来た。祖母たちと私は、その街道の端に朝から晩まで母と妹のために、自分も食べたことのない米で炊いた握り飯を抱えて待った。握り飯は母たちを待つ間もなく、乳飲み子を抱えた多くの母親や子供などに与えられた。私よりかわいそうな子供たち、寒風の中を素足でどこに行くのだろうと。

 その後私は母が縫ってくれた一張らの銘仙のもんぺ姿で祖母と森下町を訪ねた。まだくすぶり続けているような瓦礫の山の前で、私は泣くことすらしなかった。どうして祖母が私にそれを見せたのか。… 一生涯忘れることのできない一つの事実、何事にも代えがたい戦争という愚かな営み、人の命のはかなさ、成長期の子供の心に、それはそれは重い重いものとなって今も残っている。(同巻:当時小学一年、武藤迪子)

大量の遺体処理

 —— 13日の午前中、亀戸駅に着いてみると、駅前全部が焼け野原で何一つない。人通りもない。駅の真ん中に大きな無蓋の防空壕が2、3あった。この中に男女子供合わせて数百人が折り重なり、みんな苦悩の様相で、その顔は二度とみるに忍びなかった。船橋方面、電車通りの南砂町方面は焼けて何もなく、電車のボディの残骸と電線が無数に垂れ下がり、馬が線路上に膨らんだ腹をして、目を開いて死んでいた。船橋行の土手の両側には幾百、幾千とも見当のつかない死体が続き、陸海軍の兵隊が、軍用トラックを15台くらい土手に沿って斜めに止め、どんどん遺体を荷台の上に乗せていた。異臭が鼻をついて、思わず口にハンカチをあてた。(『東京大空襲戦災誌』第2巻:宍倉寛人)

 —— その日から3、4日目であった。永代橋から深川木場の死体の片付けに従事していた学徒兵の私たちは、無数の遺体に慣れて、一遺体ごとに手を合わせるものの、初めに感じた異臭にも焼けただれた皮膚の無残さにも驚かなくなっていた。ある路地に異様な姿の遺体があり、頭も着物も焼けて、皮膚も焼けただれていることに変わりはなかったが、その遺体だけは地面に顔をつけてうずくまっていた。残った着衣で女性とわかったが、見ると赤ちゃんを抱えていた。その下には大きな穴が掘られ、その方の10本の指には血と泥がこびり付き、爪は一本もなかった。もはやと指で硬い地面を掘り、赤ちゃんを入れ、その上に覆いかぶさって火を防ぎ、わが子の命を守ろうとしたのであろう。赤ちゃんの着物は少しも焼けていず、小さなかわいい両手が母の乳房の一つをつかんでいたが、すでに息をしていなかった」(『東京被爆記』朝日新聞社:須田卓雄、 当時18歳)

 子細は「東京都の概要」の「膨大な遺体の処理」参照。

 なおこの大空襲後、街中や河辺に焼け焦げた丸太のように横たわった大量の焼死体は公園や寺院等に仮埋葬された。明細は下記の通りである。( )内は氏名判明分だが、一桁台の数字を記していても「確認分」なので正確ではない。(算出法は「東京都の概要」参照)

 江東区の元深川区:猿江公園に1万3348体(1662)/東陽町3丁目空地に3686体/東陽公園に1414体/洲崎病院前空地に1163体(1)/平井3丁目空地に859体/深川病院構内に646体/浄心寺364体/霊厳寺338体/平久小学校223体/森下公園174体/深川公園172体(9)/八名川公園152体(3)/五間堀公園102体/不動尊前空地50体、計2万2691体(1675)以上。

 元城東区:北砂町妙久寺に2516体/大島町の鍛錬道場に2469体/北砂町警防訓練所に2062体(3)/亀戸町の普門院に1334体、自性院に1262体、同町光明寺に1085体(5)/羅漢寺1036体/宝蓮寺903体/赤門寺915体/進開橋475体/勝智院65体(3)/釜谷堀公園64体/宝塔寺62体等で計1万4248体(11)、江東区の合計3万6939体(1686)以上が仮埋葬された。そしてこれらの遺体は主に昭和24年から26年にかけて掘り出され、火葬、改葬された。なお江東区の冒頭の被災死者の4万3900人と差し引きすると、川などに流された行方不明者は約7千人と思われる。

戦後の出来事

孤児となった子供たち

 以下、疎開中に孤児あるいは親兄弟と死別した人たちの話である。

 —— 疎開児童の寮母の語る話:第二大島小学校は山形県米沢市に集団疎開し、三つの旅館に分宿し、その一つで40人の男の子のとして付き添った。先生も疎開先での授業で付き添っていたが、寮母は生活面の担当であった。

 ある夜、足の悪い子が夜いなくなった。雪の降る中、先生が探しに行き、間もなく連れて戻った。先生はひどく怒ってその子を叱っていたが、先生をなんとかなだめてその子を自分の部屋に連れて行き、理由を聞いた。するとある農家の人が昼は忙しいから夜来たら煎り豆をあげるよと言ってくれたからという。それほどに子供たちみんなひもじい思いをしていた。

 20年(1945)3月10日の前に6年生は東京に帰って行った。その10日過ぎに一人の子から手紙を受け取ったが、すでに空襲で亡くなった後とわかり、泣けて仕方なかった。残った子供たちの家族も1/3しか生き残らず、その焼け出された家族は次々と子供たちに会いに来た。家族が来なかった子の一人が「僕のお父さんとお母さんは死んでしまったんじゃないでしょうか」と聞かれ、その通りであったが返事をしかねているうちに、嫁いでいたお姉さんがその主人と迎えに来てくれた。最後にどうしても引き取り手のない子が7人残った。敗戦後にその子たちは山形の施設に入ることが決まり、自分が東京に帰るときに、その7人が山の上から「先生、さようなら—」と、手を振ってくれた姿が目に焼き付いている。(『昭和の戦争記録』岩波書店)

 この残った子たちもその後、山形の施設と通う学校でで差別されていたのではないかと、各所でその事実があることから、察せられる。

 —— 私の家は代々樽問屋をしていたが、戦争が長引くにつれ稼業も不振となっていた。小学校4年(10歳)の時に私と姉は静岡に学童疎開をしていた。しかし姉は晴れの卒業式をするため、3/9に他の6年生と一緒に帰京した。大変なさびしがり屋だった姉は、久々にわが家に帰れるのをどれほど楽しみにしていたことか。そしてその姉と父母と兄(慶大一年)と4歳の弟が死亡した。私は一夜のうちに戦災孤児となり、私に残されたのは祖父や両親が営々と築いた財産の土地と、高額な税金とその延滞金だった。それらは私の後見人としての叔父が土地を物納することにより処理され、残りは私の養育費と、私が成人して後見人の叔父からもらったわずかな土地だった。

 私は子供心に、日本の国はこんなちっぽけで無力な私から(肉親を取り上げた上に)どれだけ取り上げたら気がすむのかと思ったものだ(当時の子供は「お国のために」との意識を叩き込まれていたから、このように考えるのは自然なことであった)。ただ、身寄りのあったおかげで、ミッションスクールも止めることなく高校まで無事卒業でき、その後就職して結婚もし、子供にも恵まれ、私は他の孤児に比べればまだまだ幸せであったとつね日頃思っているが、それでも潮のごとくたまらなく淋しさが押し寄せてくる時がある。今の日本の繁栄を見る時、犠牲になった多くの尊い命のことを考えずにはいられず、私以上に多くの苦しみを背負わされた人々が、じっと耐えてこの大地で生活している現実も見過ごしにはできない。

 一人の女の子が孤児という言葉の暗いイメージを嫌って、一生懸命生きて来た。そしてこれからも生き、この社会の陽のあたらぬ場所にいる人々のために何か役に立ちたいと思っている。(『東京大空襲戦災誌』第2巻:菅野絢子)

 —— 深川の千石町で生まれた私は姉3人(20、 18、 15歳)、兄一人の末っ子での7人家族だった。父は鉄工所を経営し、従業員など多くの人に囲まれて一緒に育った。広さが1万坪といわれる貯木場の池が家の裏手にあって、そこにたくさん浮いている丸太の上をぴょんぴょんと渡るのが私の好きな遊びだった。このころは夏になると材木置き場に蛍も飛び交っていた。

 小学校3年生の夏に、東京は危ないと集団学童疎開が計画され、私は一晩汽車に揺られて、翌朝新潟県に着き、西蒲原郡の大蓮寺に到着した。最初の頃は田舎暮らしがめずらしく楽しかったが、次第に家族が恋しくなり、飛んで帰りたい気持ちを抑えて過ごしていた。何しろ「戦争に勝つまでは」と厳しく教育されていたから。その中でも一番うれしいのは家族からの手紙だった。

 3月10日の大空襲で、何もかも燃えてしまったと、戻ってきた6年生から聞いた。4月に入って、先生が東京に行き、児童一人ひとりの家族の状況を調べて戻ってきた。そこでお寺では近隣からもお坊さんが集まり、お経があげられ、その中で一人ひとりが先生に呼ばれて肉親の被害を伝えられた。家族が亡くなった子供たちがあまりに多すぎて、先生の考えた方法だった。私の家は父母と3人の姉がなくなり、兄一人が助かったと聞かされた。警防団員だった父と兄は、母たちを先に避難させたが、消火は無理と判断し、後から逃げたという。母と3人の姉の遺体は見つからず、父は裏の貯木場の中で見つかった。他にも多くの遺体が池の中から引き上げられていたという。兄は空襲の夜のことはその後も一切話してくれず、母や姉たちの様子を聞きたくても口を閉ざしたままだった。後日、テレビを見ていても空襲に似たシーンではスイッチを切ってしまい、思い出すのも辛いようだった。

 残された兄妹のうち、私は母の実家に引き取られた。しかし母の実家ではいじめが続いた。叔母のものがなくなると「お前が盗ったんだろう!」とおじいさんから責められた。あげくは「タンスの部屋には入るな」と言われ、みんなで食事をする時、ご飯のお代わりをすると、「居候に2杯食わすな!」とおじいさんは怒った。母と一緒に遊びに来ていた時にはとっても大事にされたのに、親がいなくなるとこれほど扱いが違うものかと思い知らされた。おじいさんからの虐待は日増しに強くなった。あまりにお腹がすくので、食べ物は落ちていないかといつも下を向いて歩いていた。他の親戚からも「親のいない子の面倒を見るのは嫌だ」と言われていた。その後私は親戚とは一切の縁を切った。

 我慢できずに兄に手紙を出して迎えに来てもらったが、男子寮にいる兄とは住むことができず、兄の知人の家を転々とした。ある日、「そろそろお兄さんのところに行きなさい」と外に出され、行くところがないので風呂敷包を持ってさまよった。この中には疎開していた時の家族からの手紙が入っていて、一番大事なものだった。その夜は古い神社の隅っこで身を縮めて寝たが、一週間ほどここで過ごした。その間、空腹をどうしのいだか、どうしても思い出せない。ある日街を歩いていると、私を探していた兄とばったり会った。そして兄の恩師が部屋を貸してくれて、兄と一緒の生活ができた。

 ずっと学校に行っていず、つい近くの学校に一人で行ってみた。先生に「学校に通いたいんですけど」と言って持っていた小学校の通信簿を渡すと、職員室に入ってすぐに戻ってきた先生は「明日からいらっしゃい」と温かく言ってくれた。そこから3年間通ったが、とうとうお弁当を持っていくことができず、みんながおいしそうに食べている間、ひっそりと本を読んでいた。修学旅行にも行けず、高校進学もあきらめた。

 私は一人で生きていくために手に職をつけようと思い、看護婦の募集を知り、友達と一緒に受験して、当時の大蔵省付属看護学校に受かり、2年後に資格試験にも受かり、正式に看護婦として自立でき、本当に嬉しかった。これからは朝、昼、晩と三食普通に食べられる、住むところに心配もせずにすむ、本当にありがたいと思った。(ちなみに中学校にも行けなかった孤児たちは、そのために看護婦や美容師の資格も得ることができなかった事実もある)

 (『もしも魔法が使えたら』講談社:永田郁子)

 —— 呼んでみたい、”母さん” 

 私は生後間もなく亀戸の天神橋通り(亀戸二丁目)に移り、両親(酒田市出身)は大衆食堂を営んでいたが、戦争が激しくなると食糧不足のため雑炊食堂をしていた。

 昭和19年(1944)に学童疎開が行なわれ、当時5年生の私も、8月に先生や友達とともに山形県上の山温泉旅館に行った。最初は遠足に行く子供のような気安さで自分の家を再び見ることができないとも知らずに、両親と兄弟妹と別れ、みんなで歌いながら勇んで夜汽車に乗った。しかしそこには山のような苦労が待っていた。

 3月9日の夜は山形の疎開先でも空襲警報あって、全員真暗な中で身仕度をし、いつもより身体がガタガタ震えて、近くにいた友達と手をつなぎ、相手の体温で暖め合った。だいぶ時間が過ぎてから、私達の住む亀戸が空襲に見舞われているという情報が入り、その後の報もわからぬままに夜が白み、朝食もあまりのどに通らず、どのくらい時間が経過してからか、学校をはじめ生徒全員の家が焼けたことを聞いた。皆、一瞬茫然とした。そのすぐ直後、あちこちですすり泣く声が起こり、せきを切った水のように全員が泣いた。その直後先生が「奈良さん、庄子さん、伊藤さん(私)…」と弱々しい声で呼ばれ、三人は先生方の下のお部屋に行き、三人そろって先生の前に正座した。すると担任の先生は、涙をのんで「あなたがた三人のお母さんとお姉さん、また、弟さん、妹さんが昨夜の空襲で行方不明になりました…」と伝えらた。私と奈良さんは大声で泣き、廊下で二人で身体を寄せ合って、涙が滝のように流れた。しかし庄子さんは私たちの横にいながらも、涙一滴こぼさずに窓の雪をじっと見つめていた。その彼女の姿が目に焼きついている。奈良さんは母・姉・妹、庄子さんは母・姉・妹、私は母36歳・弟6歳、妹4歳を亡くした。

 私が8月に疎開してから、母と妹がその年の10月と翌年の1月2日から8日まで見舞いにきた。最後の日、上の山駅まで私と友だち二人で見送ったが、その時どうしてか、ぬぐっても、ぬぐっても涙が止むことを知らず、道を歩きながらも、ふいてもふいても涙が出て、帰ってからも部屋に入ることができず入口で泣いていた。

 後日、父から聞くと、あの業火の中、近所まで焼けてきてから母は弟の手をとり、妹を背負い先に逃げたそうで、それから30分後、隣家まで火の手が伸び、父と次兄は二台の自転車にふとんをのせ、白井方面に行き、長兄と従姉は本所方面に行き、一家二組に分散して炎から逃げたと聞いた。火の手がおさまってから生き伸びた人達が、三々五々自宅に集まって来たが、母と弟妹は一週間待っても、今日に至っても帰っては来なかった。私の家の近所では続けて三軒が全員死亡Lた。

 父は全部焼けてしまったので夜は寒く、食糧もとぼしく、住む家もないので、実家の酒田市に引きあげた。私も父や兄達と一緒のほうがと思い、さっそく父にむかえに来てもらい、酒田に住むことになった。

 私と同じ学校で学び、私より一年上級生で私の隣の人の悲劇を書かずにはいられない。家では古着屋の八重子ちゃんで通っていた。背丈は高く色白で、スポーツ万能の八重子ちゃんは、私達と一緒に疎開し、同じ部屋で勉強し、お風呂に入ったり、夏は山に薪を取りに行ったり、秋は山登りをしてどんぐりを拾ったり、また(食べ物が足りないため)栗のイガを石でたたいて生のまま食べたり、下山の時は歌を歌いながら帰った。家は隣同士なので、縄飛び、おはじき、羽根つきと遊び、ある時はけんかした幼な友達だった。疎開中は全員シラミに悩まされたが、その中で八重子ちゃんは特にひどかった。しかし、間もなく彼女は卒業して、東京の女学校へ入るために3月7日に帰京した。そしてあの3月10日に、私の母達と一緒に八重子ちゃんの家族5人も亡くなり、生き残ったのはお父さんと弟、重雄君(疎開中)の二人で、本当に彼女はわが家に死にに帰ったようなものだった。

 もう一人、わが家に死にに帰った私の大好きなお姉さんがいた。八重子ちゃんの隣の油屋さんで、両親と一人娘の栄子さんは、美人で優しい私の心のお姉さんだった。ちょうどその9日に寮から帰宅し、家族二人そろって夕食を済ませ、その後は炎の中で三人全滅だった。

 こんなに多くの身近かな人びとが一夜のうちに亡くなるなんて、何とむごいことだろう。戦争とはいえ、何の軍備も持たない住民を殺すなんて。死んでいった人々も、さぞ生きたかったでしょうに、今日まで何のつぐないもされずに。私は母の生まれ育った地に住み、生きていたらきっと母が故郷に帰って来るのを心の片隅で望みながら、この26年待ちつづけた。母をはじめ弟、妹、そして多くの犠牲者の方々も(この体験記録集で)活字に生まれかわります。人びとの目にとまり、口にのぼり、いつまでも忘れることのないように願ってやまない。

 最後に23回忌の節、、私が仏さまに作詩した「呼んでみたい」を載せます。

 「呼んでみたい」
一、母さん 帰って来てください/戦火の炎に包まれた母さん
  三〇代の花の命を散った母さん/小さな弟と妹の手を
  固く握りながら/炎の町をあるいた 母さん
  どんなに苦しかったでしょうね 母さん
二、母さん 帰って来てください/ひもじい時でも 母さん
  悲しい時でも 母さん/うれしい時でも 母さん
  何度心の中で/遠い空に向かって
  呼んだでしょうか 母さん
三、母さん 帰って来てください/かわいい孫たちがいますよ 母さん
  いつも子供たちに話す自慢の母さん/いつも髪をきれいにしてた 母さん
  一度でよいから/髪を結ってあげたい 母さん
四、母さん 帰って来てください/幼い時も 母さん
  娘になっても 母さん/子供の親になっても 母さん
  いくつになっても呼んでみたい/母さん
五、母さん 帰って来てください/母さんの生まれた故郷は
  母さんの子供のころの山や川/天は青く 地は実り
  豊かな糧と心のふるさと/母さん帰ってきて欲しかった
  この二十年   (42年3月10日記)
  —— 母を悼み 涙で書いた詩なれど 記すに足りない 心の奥を

(『東京大空襲戦災誌』第2巻:佐藤悦子)

差別の連鎖

 孤児がその後非道な扱いを受け差別されていくというのは、まず孤児であるということで差別され、戦争被害者であるということで差別され、そして国からの保護もなく公的にも差別されるという何重にも世の中から排除されたということである。今でもそのような構造が日本の社会には根強くある。これは孤児に限らず、例えば後の水俣病などの患者も同様で、近年では東日本大震災で発生した原発事故による被害者も避難先で陰で差別されていて、日本の社会には陰湿な側面が確実に存在する。

 しかも、これらの孤児や空襲被害者への補償は全く行われていない。補償されたのは軍人・軍属関係とその遺族のみであり、被害者たちは何度も国への陳情や訴訟をしたが、結果的に取り上げられないか、裁判では敗訴し続けてきた。裁判官は上級に行けば行くほど結局国の意向を忖度するからであり、その理由は国に近い立場の人ほど保身に傾くからである(「東京都の概要」の戦後の項参照)。

 しかし、仮に彼らが勝訴して軍人兵士のように補償を受けていたとすれば、それはそれで周囲からやっかみの目で見られていたであろうことも、日本の社会ではありうる。なぜなら「みなし児」という言葉が象徴するように、昔から孤児は冷たくあしらわれていた。孤児でなくても片親というだけで就職で差別を受けた話は戦後も普通にある。孤児すなわち不良児と決めつけてかかっている。ただ、孤児に関する限り、最初から相応の援助を受けていれば、親戚縁者から邪魔者扱いされることも少なく、もっと救われる道はあったであろう。いずれにしろ孤児というどこにも行き場を持たなかった子供たちは、戦時下には「少国民」としての教育をされながら、戦争が終わればその国からも放置されたということである。これほどに冷たい国があるのであろうか。

 ちなみにドイツは軍人と同様に国が仕掛けた戦争の犠牲者として民間人も補償の対象となっている。日本では戦争遂行と国家体制を守ろうとした防空法とその運用により、家族の命も失い、生きても大火傷を負って体の痛みや奇形に耐えて生きた人々、しかもそれによって差別されるまでに至った人々を無視できるこの日本とはどういう国なのであろうか。これは沖縄の人たちに対しても同様である。マスメディアの責任もあるだろう。例えば街中で寝ぐらと食べ物を求めてさまよう行き場のない孤児たちが官僚によって「浮浪児」と名付けられ、それを戦後のメディアもそのまま安易に使ったことで、それによって差別は間違いなく助長された。(台東区参照:疎開中の子供たちの様子は墨田区にも記している) 

置き去りにされた空襲犠牲者たちの一例:婚約者も家族も失った方の憤懣

 海軍にいた婚約者が、軍艦阿武隈に乗っていて、フィリピン沖の海戦で船もろとも海に沈んだ(昭和19年10月下旬)。その仇討ちのつもりと、お国のためという純真な気持ちで九段の偕行社(陸軍将校たちが運営する軍人支援機関)に勤めた。当時の外地の偕行社は女子軍属も募集していたので、志願して上海偕行社に配属された。母は「いくらお国のためといっても、女の子が外地まで行かなくても」と泣きながら東京駅で見送ってくれた。間もなく終戦となって女子軍属が最初の復員船で日本に戻ることになった。

 真っ先に城東区の家に帰ったが、一面の焼け野原で、何もなくなっていた。一縷の望みを抱いて九十九里の母の実家にたどり着いた。叔母が話すには、母、妹、弟全部が死んでしまい「死骸も何もわからないので、焼け跡の土を持ってきてお墓に埋めたから…」とのこと、私はそのまま倒れてしまった。苦しい収容所生活中(内容不明)、早く日本に帰りたい、母に会いたい、それのみを思いつめて日本に帰って来たというのに。父を早くに亡くして、女手一つで洋品店を細々と営み、私たち5人の子供を育ててくれた。私は長女だった。

 それから毎日、母の実家から東京通いをして、何か少しでも遺品をと焼け跡を掘り起こしたが、ただ空しいばかりだった。幸いにもう二人の妹が、学童疎開で生き残っていた。小さい時から芸事が好きで名取になっていたので、その特技を生かして働き、下の妹二人も嫁がせ、ホッとした時は、もうこの歳(ほぼ50歳か)になっていた。その間、お骨がなければ墓も建てられないというので、本所の被覆廠跡に各地区ごとの遺骨をまとめて祀ってあると聞き、四人分をもらって来て、松戸の霊園にお墓を作った。

 お金のことを言いたくはないが、墓を作るのにもお金がいる。赤紙で召集された遺族には、たとえわずかでも(わずかではないことは「東京都の概要」の<軍人に対する手厚い戦後補償と、戦争被災者と戦争孤児に対する差別>を参照)年金が下がるのに、同じ戦争で死んでも戦災死になると一銭の見舞金も出ないことは、まことに不公平であると思う。

 弟も生きていればとか、母も生きていればとか、一日として思わない日はない。よく人さまが、家の子は戦死しましてと自慢そうに話をしているのを聞くにつけ、私はいつも「こちらは一度に5人も死んでいるんだ。一人二人なんかものの数ではない」と心の中で叫びます。同じお国のために死んだのに、片方は国から見舞金とか恩給が出ているのに、われわれのように戦災死は片隅に、仕方がないと放置され、遺族の身としてこんなに残念なことはない。誰にこの悲しみ、苦しみ、口惜しさを訴えることができるのでしょうか。 (『東京大空襲戦災誌』第2巻:小高志づ)

各地に残された多くの遺骨

 主に3月10日の大空襲で生じた大量の焼死体は近辺の公園や寺院の空き地に仮に埋められ、4年後から数年にかけ、掘り返され、焼却された。それでも当時集めきれずに周辺に適当に埋められた遺体や、掘り残しの遺体が多く残っていた。

 都公園課の座談会で「その後、あちこちから骨が出てきたのですが、問題になるので何となく処理しました」というように、うやむやにされた例が多い。昭和30年(1955)代、経済成長とともにバラックだった家をビルに建て替えるため地面を掘ると、遺骨が出て来た。下町の建設業者の社長は「作業員が下町のビル建設は骨がいっぱいでてくるから嫌だ、といって作業にならない。骨を集め、墓標をつくり、きちんと慰霊祭を行ってから、建設作業をしてきました」と語る。

 江東区の戦前の人口は約42万人であったが、戦後の復興期を経てもなお人口は回復せず、大きな団地やマンションが立ち並ぶようになって、平成18年(2006)にやっとそれを上回った。

 戦災における最大の犠牲者を生じた区として、犠牲者の鎮魂と世界の恒久平和を希求して、昭和57年(1982)3月、平和母子像を区役所前に建立した。

東京大空襲・戦災資料センターとその経緯

 江東区の北砂一丁目に「東京大空襲・戦災資料センター」が設営されている。1990年代に、一度決まっていた東京都の「平和祈念館」建設計画が、新しく就任した石原慎太郎知事によってその必要なしとされ凍結された。そこで「記録する会」と財団法人政治経済研究所は、やむにやまれぬ思いで民間募金を呼びかけ、4000名をこえる方々の協力によって、2002年3月9日、戦禍のもっとも大きかった地に当センターを完成させた(用地は一篤志家から無償提供され、館長は記録作家の早乙女勝元氏であったが、亡くなられて現在は歴史学者の吉田裕氏)。ただ、筆者もこのサイトを書くにあたって訪れたが、一戸建ての小さな建物でスペースは限られていて、あくまで資料センターとしての機能しかない。

 この「戦災資料センター」設立の経緯のように、原爆に匹敵する大空襲による多大な犠牲者にも関わらず、それにふさわしい慰霊碑や広島の平和記念資料館のような施設が都内にはない。これは広島はもとより長崎、沖縄や他国の記念施設に比べても異例なことと言える。実は米占領軍により「1. 日本国民に戦争を忘れさせたい。2. 戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない」との通達が都の官房各課長や局長、区長など行政担当者になされていて、例えば当時の遺族による隅田公園への戦災慰霊塔の建設計画に対しても許可されず、他所も同様であった。それにより都内での戦災の犠牲者10万5400名は、すでに戦前に設置されていた関東大震災による犠牲者を祀る東京都慰霊堂(墨田区横網)に秘かに合祀された。いかにも安易である。

 原爆を投下した広島・長崎ではさすがに米国は記念碑や記念館を許可しないわけにはいかなかったし、沖縄では施政権返還後の昭和53年(1978)に平和祈念公園が設置され、戦闘終結50周年の1995年6月に国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦で亡くなった20万余の人々の氏名を石碑に刻んだ「平和の礎」を建立した。そしていまだに毎年新たな名前が追加して刻まれ、近親の方々は毎年の記念日に訪れ、その刻まれた名前を指でなぞりながら目にハンカチを当てている姿がTVで放映される。その名前が、かって確かにその人が生きていたとの証しなのである。

 この占領軍に始まった米国政府の意向に配慮し遠慮する傾向は、戦後70年を超える今も、日本の政治家の基本的な姿勢として、未だに根強く残っている。一度1990年代に入って記念館の建設計画が持ち上がり、土地も予定されたが、既述のように1999年に新しい都知事によって計画が凍結された。展示品も各種用意されていたが、どこかに移され、当初その計画を知ってできれば寄贈したいと用意していた戦災の遺物などをいまだに手元に留保している遺族も多い。

 仮に記念館の是非への議論があるとして、例えば現在でも米国人老夫婦が観光のついでに広島の記念館に訪れて、その惨劇の実態に驚き、そこを出た後に日本人は米国人に恨みを抱いているのではないかという恐れを感じ、しかし笑顔で接してくれる日本人を改めてみて、やっと安堵したという話も残っている。少なくとも見ると聞くでは大違いという、戦争への抑止的効果はあるのである。東京は、その機会を失ってしまっている。

(筆者の「東京都の概要」の戦後の<東京都平和祈念館建設計画と東京大空襲・戦災資料センター>参照)

一町会の犠牲者名簿と供養碑

 大空襲で壊滅した江東区森下5丁目に終戦の翌年に建立された「八百霊地蔵尊」がある。戦後すぐに当時の町会長が空襲による町内の犠牲者を調べ、「東京大空襲犠牲者俗名録」をそこに奉納したが、その後昭和32年(1957)に名簿を補遺した。昭和49年(1974)3月10日には30周忌を記念して新たに碑が建てられ、そして平成27年(2015)、町会が大空襲70周年を機に名簿(墓誌)を改訂、公開した。遺族からも“一家全滅した家族も含め亡くなった人々がこの地域に住んでいた証しと、供養の場所がほしい”という話も出ていたので、その過去帳をもとに昨年1月から準備してきたという。新たに判明した16人を加え、789人の名前を記した約7mの巻物を地蔵尊の側に奉納された。このように都内では各地に供養地蔵や慰霊塔がひっそりと建立されているが、全名簿の作成と見直しは珍しい例である。その写真にある名簿の名前を眺めると、5−8人の同性の名が並ぶ例が多い。それは一家全滅かそれに近い人たちなのであろう。(先に触れたように森下町二丁目内の一つの隣組も58名のうち生存者は5名、53名がほぼ一家全滅との記録もある)

 東京大空襲は10万人以上もの犠牲者を出したにも関わらず、これまで国や都は(占領軍GHQというより、アメリカの占領政策もあって)何の慰霊もせず、公に供養塔を建てることをしなかった。都内各所にある小さな碑はすべて町内会単位で自主的に建てられたもので、毎年の法要、清掃なども地域住民でおこなわれている。江東区内でも近隣の寺院や要所の角地に供養の観音像や地蔵尊がひっそり建立されていて30数カ所に上る。この慰霊碑建立にも、区役所からは「区への申請は受け付けていない」との対応で、「行政から助成を受けることもできないので、発起人を中心に町内外へ寄付を募ると“地元の者ではないが、私の家族も空襲で犠牲になったから碑を建てて後世に残すことはよいことだ”とあちこちから寄付金が集まった。この町は戦災死没者名簿がつくられていたから墓誌が建立できたが、ほとんどの町では資料が残っておらず、公的機関が動かなければ難しい。なぜいまだに占領下と同じなのか」と町会の方は語っている。

 もともと1990年代に一度計画されて進められていた東京都の「平和祈念館」建設計画が、1999年に新しく就任した石原都知事によって凍結されてしまっていた。そこから再度森下町に住む空襲遺族などが中心になり、慰霊碑建立を求める署名活動を都内全域に呼びかけておこない、11万5千筆をこえる賛同署名が集まった。その署名を持参して管轄する国の総務省に要望に赴いたところ、「署名の数ではなく、区議会、都議会、国会の採択があれば考える」と返答され、発起人を中心にして関係機関を奔走。区長や議員に働きかけ、中央、台東、墨田、江東、江戸川、荒川の6区議会、都議会で意見書が採択され、2005年には衆議院本会議で「全国戦災犠牲者平和慰霊碑建立の請願」が採択可決されるところまでいった。これを機会に国会議員連盟までつくられ、顧問となった安倍首相自身が遺族らに対して「さまざまな課題を乗りこえて国として慰霊できるようにしたい」といいながらも、具体的な計画が立てられないまま、体験者が消えていくのを待つかのような状況が続いている。署名活動に携わってきた86歳の男性は、空襲によって3人の肉親を目の前で火だるまにされた経験を語り、「あの炎の中、ヤケドで赤く膨れあがって絶命寸前の人々が“水”ということもできず、私の目の前で“ずう…ずう”と水を求めながら死んでいった。死んでいった人たちは何もできない。私たちがやれることは、せめて慰霊碑を建て、彼らの死を犬死ににさせないことだと思って活動を始めたが、平和の碑を建てたいというだけのことが70年経っても実現されない」と嘆いた。

(以上は長周新聞、2015年10月21日付とその他から混成)

 こうした経緯を考えると、よほど大きな抑止力が裏で働いているというか、あるいは日本の政官僚人たちがいまだにアメリカに遠慮して自発的に都民を押さえつけているとしか思えない。「東京都の概要」でも触れるが、被災者は慰霊碑によっても救われないばかりか、軍人と違って被災者としての一円の補償もされていない(ただし、3月10日などの大空襲以前、初期の空襲で被災した方には多少の被災手当が出ている)。これは孤児も同様である。(東京都の「軍人恩給の復活と軍属関係者への手厚い手当て」参照)

その他の地元の供養・慰霊碑

 終戦翌年の3月10日、惨禍のひどかった亀戸駅前に高さ5mの「戦災殉難者供養碑」が建立されたが、昭和29年、区画整理で普門院の境内の中に移設された。その後亀戸町連合会で維持されている。また東陽町4丁目には近隣の遺族及有志の発願によって昭和23年(1948)に三年忌法要をし、26年(1951)3月に建立された親子地蔵尊がある。

 江東区の門前仲町から南へ入ったところに、黒船橋がある。平成12年(2001)、その橋のたもとに、石塔の「戦災殉難者慰霊碑」が再建された。この地は空襲のあとたくさんの遺体を仮埋葬したところで、木製の慰霊碑が建てられていたが、大江戸線工事で撤去され、近隣町会の有志で再建した。

 白河2丁目に延命地蔵尊がある。日本の朝鮮併合により大正時代に日本に職を求めてやってきた李仁洙は、江東区の造船所の臨時工から始めて関東大震災での朝鮮人虐殺をくぐり抜け、食堂を営み、安定していたところに大空襲にあい、被災者のためにバラックを建て無料宿泊所とし、その後昭和30年(1955)、白河町の700人の戦災死者のために、この延命地蔵尊のそばに新たな地蔵尊を建立した。自身は80歳を超え、昭和46年(1971)、「在日五十四年帰国記念為建之」と記して、分断された故郷の国に帰った。

 このほか亀戸3丁目の普門院に戦災殉難者供養之碑/冬木22の冬木辯天堂に戦災殉難殃死者供養碑/南砂2丁目の第四砂町小学校付近に戦災殉難者供養之碑/白河2丁目の東深川橋南側に戦災犠牲者慰霊碑などがある。

 これらとは別に、戦前の江東区には輓馬業者が集中し、運送用の馬の数は3千頭以上いたという。その多くは軍馬として供出され、大陸や南方の戦地にも徴用された。そしてまだこの地で飼育されていた馬の大半が3月10日の大空襲で焼け死んだ。馬も群れをなして、あるいは一頭だけ残りながらも疾走し逃げ惑っていたという。結果、あちこちに馬の死体が転がっていた話が残っている。昭和28年(1953)9月、南砂1丁目に運送業者が馬たちを慰霊するために「馬頭観世音の碑」を建立し、現在は東京トラック同盟協同組合が管理、追悼している。ちなみにこの時代の戦争で軍馬として日本各地から「出征」した馬は50万頭と言われるが、そのほとんどが故郷に帰ってくることはなかった。

江東区の女学校

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