(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)
東邦大学
大正14年(1925) 帝国女子医学専門学校が当時の大森区に設立される。初代理事長は額田豊、初代校長に額田晋が就任。同時に帝国女子医学専門学校付属病院開設。翌年に薬学科、付属看護婦養成所を設置。昭和5年(1930)帝国女子医学薬学専門学校に校名変更。昭和16年(1941)帝国女子理学専門学校開設。戦後の21年(1946)薬学科と理学専門学校が、現千葉県習志野市にあった旧日本陸軍の近衛師団騎兵連隊が使っていた駐屯地の兵舎を含む建物を再利用して習志野キャンパスとして移転。翌年、帝国女子医学薬学専門学校を東邦女子医学薬学専門学校に校名変更。25年(1950)学制改革により各大学を統合・再編して新制の東邦大学となり医学部、薬学部、理学部が設置される。(以下は主に50年史より)
昭和4年(1929)に鉄筋コンクリート造りの本館が建てられたが、設立当初は一帯の水田を一部を埋め立てて木造校舎が建てられ、周囲の水田には白鷺が飛来していた。大正12年の関東大震災により、大田区は主に新興住宅地として開発されていたが、休みの日は大森海岸で先輩後輩一緒に潮干狩りを楽しんだりした。昭和10年には創立10周年記念事業と式典が行われたが、この時までの医・薬学の卒業生は1400人に及んだ。その10年後には学校が空襲で焼け跡になろうとは誰も想像すらしていなかった。すでに昭和6年に満州事変が起き、戦時体制と軍国主義の強化が始まっていた。
昭和12年(1937)の日中戦争(支那事変)開戦後の翌年、国家総動員法が制定され、教育現場においても戦時色が強まり、女子学生には勤労奉仕を通じて銃後の活動が求められた。6月に文部省より「集団的勤労作業運動実施二関スル件」が通牒され、学生の勤労奉仕への動員が開始され、勤労奉仕として、春・夏休みに清掃や土木関係の簡易的な作業が実施された。15年(1940)には日本の紀元(皇紀:神話上の神武天皇が即位したとされる年から)2600年として各地で祝賀行事が行われたが、実はこの年には東京オリンピックが開催されるはずであった。しかし日中戦争への突入により、海外からの非難が高まり、また戦争継続のための物資不足を抱え、日本は2年前に開催を返上してしまった。
終結の見通せない日中戦争に加えて、日本は昭和16年(1941)12月8日に太平洋戦争に突入するが、その前の同年4月、政府は学校の軍事体制強化のため、各学校の自治組織学生会などを報国団に転換させ、当学も「帝国女子医学薬学専門学校報国団」を編成した。その中に報国隊が作られて学科ごとに「大隊」が、さらに下部組織として「分隊」が編成されることとなった。勤労奉仕は勤労動員として強化され、その際はこれらの「隊」ごとに動員先が決定された。また10月、大学・専門学校の修業年限短縮の勅令が公布されると、大学と専門学校は3ヶ月の卒業繰り上げ卒業となり、いわゆる学徒動員が実施される。その後繰り上げ卒業は17年(1942)には半年、さらに翌年には1年に短縮され、戦時の動員体制が強化されるようになった。
またこの昭和16年(1941)には帝国女子理学専門学校(現・理学部)の設立が認可された。この理学専門学校は創立者が長らく設立の申請をしていても認可されないままの状態が続いていた。しかし戦時体制強化によって科学振興が叫ばれ男性の軍需産業への動員が増加すると、女性への理系教育が急務となり、こうした背景もあって理学専門学校の設立が実現した。設備に乏しい中のスタートであったが、女性への初めての本格的理学科ということで、ほぼ無試験の中、優秀な女性が集まり、卒業生は引っ張りだこになった。(この第一回生の中に、高名な地球科学者、猿橋勝子がいる)
18年(1943)6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、学徒動員の強化が図られることとなり、理系の学生に対しては、それぞれの専門に応じて動員先が決定した。また全国各地で医学専門学校が増設され、医師需要に応じる措置がとられた。当学医学専科においても授業が優先され、長期にわたる動員は実施されなかったというが、医専の二年生はこの年の冬から金曜日と土曜日に赤羽の砲兵工廠に行き、徴用工員にツベルクリン・BCGを接種する作業に従事し、1日に千人ぐらい扱ったという。薬専科の学生はほとんど全員が半分ずつ交代で全国に分かれて動員された。製薬会社はもちろん兵器会社もあった。またこの年は学生の徴兵猶予が解除され、10月に神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。
19年の春になると、医専の五年生は占領した外地(満州など)における軍事紙幣を印刷する下谷の凸版印刷の工場に行かされ、紙幣の検品と仕上げ作業に従事した。その前は東京女子医学専門学校が動員されていたという。東京女子医専に負けないようにと二人で1日に1万単位の枚数を扱ったという。またこの年には文部省より「女子医学徒勤労動員要領ニ関スル件」が通牒され、帝国女子医専と東京女子医専に対し、「学徒医療隊」として、無医村へ集団疎開している児童の診療補助・健康指導の実施が命じられた。本学からは同年11月から翌年2月にかけて、当時の医学科3年生(17回生)が東日本を中心に「学徒医療隊」として二人一組で24ヶ所に交代で動員された。これは男性医師がほぼ従軍医師として派遣され、国内の医師不足によるものであった。
「学校の正門や手摺の鉄も供出で何時しか木製にかわり、広かった校庭には私達の築き上げた数多くの防空壕があり、絹の靴下にスカートの姿も鉄兜にモンペと凛々しく固められ、遠足の積立金も皆こぞって国防献金にした。また一年には球場外苑の清掃、三年の夏には第一小隊は三共製薬、第二小隊は血液型検査、第三小隊は陸軍省、冬には衛生材料廠、凸版印刷等へと前線の兵士を偲びつつ懸命な勤労奉仕したが、医学生として嬉しく奉仕がいのあるものは今回の疎開児童の医療奉仕であった」。
薬学科と理学専門学校の学生の動員は第2、第3学年に比重が置かれ、専門とする学科の種別に応じて動員先の工場が決められた。薬学科の学生は薬品工場や軍需工場に動員され、動員中の授業は工場内で週に数回行われた。理学専門学校の学生も同時期に軍需工場や研究所などへ動員された。動員先は羽田の日立航空機、蒲田の新潟鉄工所、大森の中央工業などであった。
昭和19年(1944)11月下旬から東京への本格的空襲が始まるが、すでに講義は一週間に一度か二度となり、集中講義も行われた。授業中に空襲警報が発令されると、学生たちは机の上に置いた鉄兜をかぶって防空壕に走った。20年3月10日、下町三区への大空襲があり一夜にして10万人近くが焼死した。こうして本土への空襲が激しさを増すなか、理事長の額田豊は空襲被害を想定して医学科の集団疎開を計画していた。額田自ら疎開候補地へ赴いて交渉を行い、20年4月9日、長野県南佐久郡臼田町(現佐久市)と福島県会津若松市の2カ所が疎開先として決定した。なお、この時期の薬学科と理学専門学校の学生は通年の勤労動員が実施されていたため、全学での疎開は不可能であった。また動員先が空襲に遭うと工場疎開に伴って全国各地へ分散動員し、工場の用地開墾や建設などに加わることもあった。
20年(1945)4月15日夜(理事長が疎開候補地で奔走している時)、住宅と軍需工場が密集していた大森・蒲田周辺は空襲によって焦土と化した。当学は本館と図書館以外の大部分の施設を焼失したが、学生や教職員から犠牲者は出なかったとされている(注:ただしそれは学校内であって、この日に限らず都内の各学生の自宅周辺で死亡した学生はいたと思われる)ただし、本館の地下室は防空壕になっていて、近隣の住民も受け入れたが、逃げ遅れて来て炎に巻かれたのか、翌朝、廊下には親子らしい二つの焼死体があった。それを宿直だった病理学の教授が検死し、骨から男女の性別を鑑定、居合わせた学生たちも見守った。建物の焼失により授業の継続は困難となり、学生は一時自宅待機となった。
『東邦大学五十年史』に4月15日の空襲当夜について、 当時助教授であった幾瀬マサの手 記が収録されている。
—— 夜の9時過ぎ、B29特有のブルーン、ブルー ンという翼音と焼夷弾が投下されるザーッという砂をこぼす ような音が聞こえ、またたく間にあちらこちらで火の手が あがった。隣の小学校や学生寮にも焼夷弾が落ち、 全員退避の命令で学生たちを退避させて、自分も 逃げようとしたところ、大型爆弾の爆風を避けるために本館 の窓を全部開け放しにしてあったのを思い出し、火が入っては大変だから小学校側の窓だけでも閉め ようと階段を駆け上がり、教室から教室へと窓を閉めて回った。すでに隣の小学校はすごい勢いで燃えだしていて、 その煙が窓から勢いよく流れこんできていた。そして、 これだけは焼きたくないと愛用のツァイスの顕微鏡を手に さげて校門を出たものの、すでに周りは火の海だった。そこ で顕微鏡はあきらめて本館1階の応接室の隅に置き、防空 頭巾の上から水をかぶって大森駅の近くまで逃げ、そこで一夜を明かした。
翌朝、学校に引き返してみると、学校の窓ガラスが光っていた。「焼けなかった」と嬉しくなって駆け戻り、どうして本館だけ残ったのかと聞くと、一階北東側の割れた窓から火が入って来た が、当時の用務員の矢島さんが、自分は元はとび職だからバケツリレーで水を運んでくれれば消せると言って、逃げ遅れた薬・理の学生7名が協力して消し止めたということだった。それには幾瀬が先に窓を閉めていたことが功を奏したわけであった。また、同じ鉄筋コンクリートの病院の建物は内部を焼き尽くしたが、職 員や看護婦たちの働きで一人の患者さんも欠けることな く避難できた。(要約)
今ひとつ、当時病院の看護総婦長であった浅見きよの手記からである。
—— 4月15日夜、点呼を終えて入浴の後就寝しようとする時、突然電気が消え、警戒警報のサイレンが鳴り響いた。先日米軍機が撒いて行った伝単に4月15・16日には蒲田・大森を焼くと書いてあったことを思い出した。急いで防空服をまとい、各部署に待機するように指示し、玄関に出て外の様子をうかがい、第二病棟に行って水を十分に用意するように注意した。一人の救急患者の手当をしている間に、爆音は近づき、ざあーという焼夷弾の摩擦音がした。玄関に飛び出すと蒲田の方に火の手が上がっている。照空灯の交差するあたりにB29が一機また一機と照らし出され、地上から高射砲弾が炸裂するが命中しない。一刻の猶予もないと、かねて患者の避難場所と定めていた池上本門寺境内への避難を指示し、患者に誘導員をつけて次々に避難させた。第一病棟の患者は階下におろし、第二、第三の重患は担架にのせて第一に運ぶ、無我夢中で爆音も耳に入らず、看護婦宿舎が燃えているが返り見る暇もなく、声限り叫ぶので声がかれてしまった。残留者に消火をやめて避難するように指示し、防空服の上から一人一人に水をたっぷり浴びせ、水が少なくなったので、屋上の貯水槽の栓を抜く。
あたりは紅蓮の炎で無風の夜が強風に変わっていた。3階に一人患者が残っていて応援を求めてやっとの思いで運び出す。命の綱の水も止まった。これまでと覚悟を決めて医師と看護婦と三人で本部に戻り、暗室の水をやたらに飲み、濡れ手拭いで煙を防ぐ。そこに患者たちを無事に避難させた看護婦たちが戻ってきた。すでにこの建物も危ない。煙を避けて床に這いながら手を取り合って地下室の死体安置室に降り、その地下の冷気でやっと人心地がついた。そこから脱出の方法を考え、一部屋ずつ辿ってゆこうとすると次の部屋には患者が2名避難していた。計9人がその部屋で待つことにしたが、外では気のはじける音、倒れる音、爆音の交錯、じっとしていられずボイラー室に行くと石炭と机が燃えていた。皆でなんとか消し止めた。やっと夜が明けた。助かったと皆で手を取り合って喜んだ。あたりは一望の焼け野原、本館だけが浮城のように残っていた。煙にただれた目に大きな真っ赤な太陽が昇り始めた。
この空襲被害を受け、予定通り6月に医学科は長野県へ集団疎開が実施され、学生たちはいくつかのグループに分かれて集団生活を送ることになった。どこもそうであったが、疎開先では食糧不足に苦しんだ。「山への薪取り、大八車での食料の運搬、豆腐が唯一の蛋白源だった乏しい炊事当番。環境の急変から病人は続出し、先生方の苦労も並大抵ではなかった」。それでも集団生活の楽しさは奪われなかった。何よりも千曲川を抱えた浅間の山容の景色は素晴らしかったし、時々農作業を手伝った農家の人々は囲炉裏端で親切にもてなしてくれた。
しばらく長野の疎開先にいた医学生たちの前に、9月末、占領米軍のトラックが延々と列をなしてやってきて、敗戦を初めて実感し、やり場のない寂しさで眺めていた。一時は焼け落ちた東京へはもう戻れないという噂も飛び交ったが、村の秋の収穫が終わり、冬ごもりの準備が整った頃、雪で信濃路が閉ざされる前に帰京した。
終戦後の授業再開にあたって多くの遠方出身者のために焼失した寄宿舎の再建が急務となり9月、学校からほど近い大田区女塚の工場の社員寮を借用して新たな寄宿舎とした。また理事長の額田は学校再建に向けて新たな土地を探し、千葉県習志野市の騎兵連隊跡地の借用が許可され(戦時中は陸軍習志野学 校になっていたが、軍隊は廃止されたことで可能になった)、1946年に薬学科と理学専門学校の習志野移転が決定した(その後この土地は払い下げを受けた)。移転は木炭車のトラックで学生全員が手伝った。しかし旧軍施設跡は草ぼうぼうの荒れ放題であり、校舎となる建物もガラスはなく、金網に糊を塗ったような代物で、冬は暖房もなく寒風の中で授業が行われた。
ところが公立の医科大学や大学の医学部以外の私学の医学専門学校はその存続が審査されることになり、このとき当学は戦時下の空襲の影響で施設・設備が整っておらず、一度は廃止の判定を受けることとなった。1947年、学校の存続を求めて全学的に「医学科復興促進会」を結成し、復興資金の寄付を呼びかけ、さらに関係各署に猛烈な働きかけ を開始した。その結果、学校や病院の再建が始まり、3月には女塚の寄宿舎の一棟に仮病院を開設、11月には学校名から「帝国」を外した。1952年に新制大学の東邦大学医学部に昇格し、同時に男女共学となった。
雪谷高校(大森高等家政女学校)
大正2年(1913)、東京府荏原郡調布村立として女子実業補習学校が開校、その後変遷を経て昭和10年(1935)、東京市東調布高等家政女学校として昇格、昭和18年(1943)、都立大森高等家政女学校となる。戦後の昭和21年(1946)、学制改革で都立雪谷高等女学校となり、23年に雪谷高等学校と改称し翌年男女共学開始。以下は主に雪谷高校70年史より。
当初は高等小学校(小学校の上の2年制の任意の中等学校)に併設する形で生徒数わずか3人でスタートした。ちなみに田園地帯であったこの地域も、関東大震災後、昭和に入って人口が急速に増えつつあって、昭和10年(1935)には59人、15年には376名、そして昭和16年には独立した新校舎が雪ケ谷に建てられ、473名となっている。この頃はどの学校でもそうだったが、新校舎が建っても校地は荒れたままで、体操の時間などを利用して生徒と先生で整地作業に励んだという。
この学校伸長期に昭和6年(1931)の満州事変を発端とし、12年に日中戦争、16年末に太平洋戦争に突入するという、いわゆる15年戦争が背景として重なった。女学校の常として前線兵士(当時は皇軍とされた)への慰問袋や慰問文の作製から始まり、夏休みを使っての勤労奉仕作業、そして心身の鍛錬の目的で歩行訓練や軍事教練としての薙刀訓練もあり、新校舎では全国的な食料増産の掛け声の下、整地のついでに畑も作られ、当時の生徒は大変忙しかった。16年ごろより徴兵による男手不足から軍需工場への勤労動員が女生徒にも一定期間割り当てられるようになった。
勤労動員の日数は次第に増えていったが、戦局がいよいよ悪化し、18年(1943)秋には男子学生は徴兵猶予が撤廃され、学徒出陣という名の出征式を境にして20歳以上の多くが在学のまま戦地に出向いた。そして19年(1944)に入ってから女子生徒の勤労動員は常態化した。ただ愛国運動が盛んに喧伝される中、生徒自身も「早く動員に行って(戦地の兵隊さんのように)お国の役に立ちたい」という気持ちになっていた。まず上級生から東京計器、富士航空計器などに分かれて行き、その後学年を下げて明電舎、大同工業、高砂鉄工所にも行くことになり、先生たちは巡回講座として各工場を回って授業をした。夏休みもなく、生徒に疲労はたまり、真夏には欠勤も増えた。とりわけ当時の校長は病気となり自宅療養中であったが、しばしば病床を離れて生徒の動員先の各工場に激励に通った。その負担がたたってか、校長は間もなく他界した。このままでは教師の負担も大きく、生徒全体が集まる機会もないと判断し、都の動員部と折衝して20年5月末に石川台の玉川電機一つに絞られた。
ただしこの5月末というのは校舎が空襲で焼失した後のことになった。20年(1945)3月10日の多大な死傷者を出した東京大空襲の後も4月13日にも城北大空襲があり、5月24日未明、当校を襲う城南大空襲があった。その時期、空襲に備えて教師4名、生徒6名で「防衛宿直」していた。日付が変わる頃に空襲警報が鳴り響くと、一斉に重要書類その他を入れたリュックサックを防空壕(前年に近くの田園調布二丁目の高台に作られた横穴式で総延長300mの立派な防空壕があったが、この場合学校のそばの簡易防空壕だったようである)まで運び、いつものように米軍機が去るのを待ったが、外の様子が違うので出てみると焼夷弾で校舎が燃え始めていた。二人の男性教師は急いで駆け寄って何人かがバケツを持って中に入ったが、火勢は強く引き返し、すぐに火の手は運動場一杯に這い回り始めた。二人の女性教師は生徒を連れて近くの川の土橋の下に避難した。
ちなみに校舎の正面玄関の上の屋根には軍が防空監視塔を作っていて、また戦後に移ることになる土地には弾薬庫と高射砲陣地があったが、まるで役に立たなかった。しかも防空用戦闘機はこの頃には国内にはあまり残っていず、空襲にはほぼ無抵抗の状態であった。
4年前に建てられ、白塗りの壁で綺麗な色瓦で作られ瀟洒なコの字型で評判となった校舎は2時間で焼け落ちた。運動場には焼夷弾の筒があちこちに突き刺さって残っていた。朝になってやって来た教師と生徒たちはしばらく呆然としていたが、すぐに残り火を消しつつガレキの片付けを始めた。顔も服も真っ黒になった。
校舎焼失後は近くの調布大塚小学校を間借りすることになった。それも学童集団疎開で教室が空いていたためであって、終戦後の10月ごろに小学生は戻って来て、まだ余裕のあった東調布第一小学校に再度移った。それでも生徒たちは軍需工場への勤労動員を休むことはできず、敗戦の8月まで学校に来る時間もほとんどなかった。終戦後、勤労動員がなくなった以降は、授業の合間に旧校庭を畑にして麦やサツマイモなどを作って戦後の食料不足をしのいだ。
翌21年(1946)、旧校地は土地が低く手狭と判断した新校長と職員が新たな校地探しに奔走し、現在の高射砲陣地があった高台の広い土地に第一期の新校舎が建てられ、翌22年(1947)6月に開校した。しかし予算が限られ、元高射砲陣地と弾薬庫の土地は荒れ果てたままで、やはり女生徒たちが土手を切り崩し、その土をリヤカーで運んで整地の手伝いをした。その後は戦地から帰還して来た男手を雇い入れて、28年(1953)にやっと完成を見た。なお雪谷中学校も設立されることになり、一時的に雪谷高女の新しい校舎に間借りし、24年に高女の旧校舎の跡に設立され、中学校が移った。
余話として、この新校舎の土地は戦時中、一人の農民から避難場所として強制的に軍に買い取られ、その後高射砲陣地ができたという。そこでこの方は終戦後に農業をするために返して欲しいと都に訴え出たが校地になるからと却下され、代わりに多摩川の河川敷を当てられたが、洪水もあったりで農地にできなかったという。
