東京都世田谷区

(東京都全体については「東京都の概要」参照)

世田谷区の空爆被害

〇 空爆日:昭和19年12/20、20年2/16・19、3/10、4/4・7・15−16・19、5/24・25(全10回)

〇 被害状況:死者130人、負傷者826人、被災者4万9700人、焼失等家屋1万2375戸

〇 出征者と戦死者数:不明

空爆被害の詳細

 当時の世田谷区の西半分は半農村地帯で他区に比べて空襲を受けた面積比率は少ない。中央部には陸軍の練兵場があり、明治以来三宿から池尻、桜新町、桜丘まで陸軍関係の諸施設が並び、騎兵第一大隊や近衛輜重兵大隊・野砲兵第一旅団司令部・練兵場・衛戍病院などがあった。ただここには兵器はなく、練兵用の広大な空地が占め、ほとんど空爆の対象となっていない。空襲ではむしろ住宅地が狙われた。本来、軍需工場が標的になっていたが、米軍は途中から3・10の大空襲のように住宅密集地を狙うようになった。それもその中に中小の軍需部品工場があるという理由をつけたが、その後は歯止めが効かず、都市焦土作戦と言われるように、全国の主要な町が破壊された。

 19年12/20未明:世田谷への初空襲で、大型爆撃機B29一機が玉川地区に焼夷弾を投下、負傷1名のみで官公舎2棟、一般住宅5戸が全焼。この空爆は偵察目的のついでと思われる。

 20年2/16:関東全域に艦載機約290機が来襲、世田谷では米軍戦闘機が日本の戦闘機に撃墜され、上北沢町3に墜落、民家一戸が全焼。

 2/19午後:B29約100機による高々度からの爆弾投下で都内に66名の死傷者、世田谷は死者1、負傷者2人、家屋の全半壊9戸。

 3/10:東京大空襲の日、江東、墨田、台東区などの下町の人口密集地帯を中心にし、一日で約8万数千人という世界戦史上最大の焼死者を出す。世田谷の被害は軽度で、死者1、重傷4人、家屋全焼60戸、被災者281人。海軍技術研究所に接収されていた多摩美術学校も焼失

 4/4未明:B29約110機が主に立川方面に来襲、世田谷は死者行方不明12人、家屋全半壊61戸、被災者237人

 4/7:主に武蔵野の中島飛行機工場に向けてB29が103機来襲、調布から出撃した自軍の戦闘機が体当たりで一機を撃墜、その破片で民家が焼失。また飛行士は落下傘で無事生還

 4/15深夜:B29爆撃機が東京の城南地域に約110機来襲、大火災が発生。世田谷の被害は少なく、玉川地区で死者11、重軽傷14人、家屋全焼148戸、被災者836人。

 4/19午前:P51戦闘機による低空からの機銃掃射による攻撃が主で、死者6(岩崎通信機の勤労動員女学生1名即死)、重軽傷11人、家屋等の被害少。

 5/24未明:B29約525機が来襲、東京の南西部に大量の焼夷弾を投下、大火災が発生。城南大空襲と呼ぶ。世田谷区は軽度で死者23、重軽症者81人、全半焼家屋603、被災者約2774。なおB29が一機が高射砲で撃墜され、機体は世田谷の赤堤付近に落下し、米兵7名死亡、北多摩郡の多摩墓地に埋葬。生存した4名は捕虜になり、東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還。この時の機銃弾を一人の子供が持ち帰り、遊んで爆死。

 5/25夜:470機が来襲、焼夷弾により残存していた東京市街の大部分が焼かれた。山の手大空襲と呼ぶ。世田谷は住民の多くは縁故を頼って疎開していたが死者、58、重軽傷者622人、家屋全焼1万767戸、被災者4万2732人という最大の被害となった。現在の下北沢駅近くの踏み切りとなっている地点から、新宿の伊勢丹本店がある地点まで全て焼け落ち、一望できるほどになったという。

焼失した小学校など

 旭小学校、東大原小学校、中里小学校(半焼)、多聞小学校、松原小学校、昭和女子大付属小学校、光明特別支援学校(下記参照)

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戦時下の出来事

当時の背景(概略)

 この昭和の戦争の端緒は6年(1931)9月に満州事変が起こり日本が満州を占領したところから始まる。その延長で12年(1937)7月、日中戦争に突入し、戦線は拡大した。翌13年4月、この戦争を徹底するために国家総動員法が発令され、物資と思想的統制に軍政府は力を注いだ。この戦争を「皇国による聖戦」とし、この頃から街には「八紘一宇」(古代の日本書紀にある言葉で、この時代、「世界を一つの家にする」という戦争を正当化する意味で使われた)「挙国一致」「堅忍持久」のスローガンが目立つようになった。

 15年9月には欧州で軍事的拡張をしていた独伊と三国同盟調印した。この三国がファシズム国家とされ、日本は米英等から中国への侵略を非難され続けていて、特にこの年から経済統制も受けるようになった。その結果、16年(1944)12/8、米英を敵としてハワイの真珠湾と英国の植民地マレー半島などに同時に攻撃を仕掛け、太平洋戦争突入した。しかしすでに日本は石油等の物資が枯渇し始めていて、客観的には勝ち目はなかった。それでも軍政府は日本は天皇の統治する神国であるから、最後には神風が吹いて必ず勝つと国民を信じさせ、子供に至ってはそのような学校教育もあって疑うものは全くいなかった。

 生活面でも「欲しがりません、勝つまでは」「贅沢は敵だ!」と打ち出し、目立った服装や髪型も禁止された。さらに金属供出令が出され、家庭の鍋釜の金属類やお寺の梵鐘、学校では門の鉄柵、窓の鉄枠、帽子掛け、戸の引き手など金属類までもが対象となり、これらは武器の生産に回された。食料や生活必需品は配給制となり、次第に欠乏状態に陥って行った。それでも国民は勝利を信じて耐乏生活を送った。仮にもこれは無駄な戦争だとか、この戦争は負けると口にすれば非国民とされ、場合によっては特高警察に引っ張って行かれ、下手に集会を行うと治安維持法により検挙され、拷問を受けることもあった。

空襲下の様相

 以下は『東京大空襲戦災誌』第2巻の証言集からの抜き書きと要約である。

 当時43歳で世田谷区羽根木町に住む日下典子の手記。

 —— 同居人の女性は、住み馴れた矢来町を建物疎開で追われて、神楽坂の上に居を移したが、そこからまた世田谷に移ってきて、毎日家財道具を背に負って運び込んでいた。私も本郷の西片町に住んでいたが、神田が焼け、その時は西片町が焼け残って羽根木町が焼けるとは思わず、誘われるままに庭もあり生垣の青々としたこの家に移った。同居人は時おり声を押し殺してサイパンの情報など新聞では報道されないことを話し、新聞には故意に顔を外向けていた。

 昭和20年5月25日、空襲警報が鳴ったのは夜の8時頃であったと思うが、宵はたいへんに暑かった。出先から5kgばかりの半焼きの米をリュックに入れて背負って来た私はへトヘトに疲れていた。米は恵比寿の駅の貨物のホームにいくらでもあった。焼けても米は米で、ライスカレーなどにすると結構頂けた。同居人は早く戦争が終わることを待っていたようで、大本営発表という新聞にも、ラジオにも目や耳を塞いで、ひたすら荷物運びに精を出していた。その夜もう後一回で荷物運びは終わると私はきいた。そのうちに警戒警報が鳴り、聞を置かずに空襲警報が鳴った。縁側にはこの場合防空壕に入れる10個ばかりの包みが並べてあった。私は夢中で運び入れた。壕は大小二つあったが、同居人は小さい壕の方へ何を入れたのかと思うほどの早さで運び入れて「さあ逃げましょう」と言った。すでに空には B29の聞きなれた爆音が轟いていた。私は避難所へ逃げ出すより広い庭がある防空壕の方が安全だと私は思い躊躇していると「それじゃこんな場合ですから、あなたの思う通りにした方がよいでしょう」と彼女は、独りで足早にどこかへ行ってしまった。すると30秒と聞を置かず、耳をつんざく大音響とともに地響きを立てて五歩の位置に焼夷弾の一つが落ちて来た。隣家にも落ち、たちまち火の手が上がった。

 床の間に落ちた焼夷弾は勢いよく火を吹くと、炎は欄干を四角に走って八畳間をぐるっと取り巻き、本棚や箪笥や飾り棚を鮮明に浮き立たせて、火というものはこんなに美しいものであったかと一瞬魅せられている間にやがて火気の熱さに追われて、門の外に逃れてなおも焼ける光景に見惚れていた。家が焼け落ちて大方灰になった頃、同居人はは帰って来た。「焼けたのね」と感慨をこめて言った。どこに逃げたのかときくと、家を出て30歩位の所で道路に焼夷弾が落ちて来たので麦畑の中にしゃがんでいたという。

 焼夷弾は48個が一組になっているというから、それは家に落ちたものと同じ束のものであったろう。夜が明けてみると、道路の上には焼夷弾の破片が飛び散り、道沿いの南瓜畑からも不発弾が出て来た。そして焼け残った向いの家の庭には48個の焼夷弾の支柱が、ちょうど陶器を埋めた上に落ちて、陶器を壊したという。本はその後二日余り燻り続けたが、これもきれいに灰になった。隣組からは死傷者は出なかったが、1km位離れたところでは13体の遺体を集めて焼いているという黒煙が望見された。「人並になりましたね」、これが三日経って、焼跡を歩いて職場に出向いた時の社長の挨拶であった。身一つになってサパサパした気持でその言葉をきいたことも確かであったが、それは本土決戦というもっと大きな課題に立ち向かっていたからであろう。

 私は小学校の時次のような歌をうたって大きくなった。大正の初めである。

 北は樺太千島より/南台湾 彰湖島/朝鮮八道押しなべて/我が大君の治す国と/朝日のみ旗翻す/同胞ここに六千万

 何と倣慢な歌を教えとまれたものであろう。この倣慢さが太平洋戦争につながり、歪んだ愛国心につながり、26年前のゼロの点につながる。「自慢高慢馬鹿のうち」という諺があるが、味わうべき言葉である。いま私には経済大国などという今日の為政者の倣慢な言葉が恐ろしい。

 当時世田谷区代田に住み、高等女学校の教師をしていた21歳の杉山杜美子の手記。5月24日と25日の二度にわたって焼夷弾の直撃を受け、必死に消し止めた稀な例である。

 —— 5月24日午前一時半。熟睡していたが警報のサイレンに飛び起き、あわてて身支度する。母に言いつかっている大事なものを防空壕に運び入れるうちに高射砲の轟音が響く。雨戸を開け放つと、はるか南の上空で焼夷弾が無数に落下するのが見える。ピュー ン、ピュッと近くをかすめる高射砲の破片らしい音が恐ろしくて、縁先から10m先にある防空壕へはもう待避できないで立ちすくんでいると、突如、東の上空が異様に赤くなる。あ!B29が一連の炎となって落ち、空中分解する。万歳!万歳!妹とともに手を打って喜ぶうちにまたすぐ、一機が南の方に落ちる。高射砲の音はますますすさまじい。しかし敵の編隊が分裂して頭上に近づいてきた。こわい!と思った瞬間、ザ、ザ、ザッーという音、見回すと北側の廊下が火の海、台所の隣の電話室の床が大きくえぐられて火を吹いている。「焼夷弾落下!焼夷弾落下!消火活動を、お願いします!」と妹が、近所に向かって大声で叫んだ。だれも来ない。「おとうさま。危いから逃げましょう!」二階を守っている父に妹と声をかけ合いながら外を見ると、庭の茶室の窓からメラメラと火が吹き出している。「逃げるな!消すんだ!」と父は火の海の廊下にぬれむしろをふりかざして走っていった。床をつきやぶって床下一面に広がった焼夷弾の油は漠々たる黒煙と猛炎を吹き上げる。湯殿の水をバケツリレーで運び、穴の中めがけて夢中でたたきつける。火勢のひるんだ所を、ぬらした火叩きでこすりつける。水を打ちつけてはこすり、……やっと消し止める 。茶室の窓から吹き出す火炎に屋根の檎皮がいく枚もパリパリと燃えながら舞い上がっている。私は下半身を池に浸かって、しゃにむに水を汲んでは父と妹に渡した。あらかたを焼いて白い煙だけに変わったころ、全身疲れ果てて池からはい上がる。一息入れていると東の空はしらじらと夜明けであった。

 朝食の卓で、女子大三年に在学し、日本特殊鋼大森工場に勤労動員中で学徒勤労隊の隊長をしている妹が、「警防団の人たちってひどい。日曜毎に強制的に防火訓棟にかり出しては、パケツリレーだ火叩きだなんて何時間もやらせるくせに、いざという時はいくらどなっても、だれひとりかけつけてくれないなんて!」とふんまんやるかたない顔を紅潮させて言った。

 25日金晴、弟の集団疎開先から三日ぶりに帰った母と「また警報に起こされそうだから早めに寝ましょう」と話しながら床についたのは9時ごろだった 。弟の通学する守山国民学校も、長野県毛賀村に学童の疎開を行なった。数日前、その三年の弟が、食糧事情の悪さに加えて東京恋し父母恋しの一念から、夜に紛れて友だちと三人で脱走したが、乗り換えの辰野駅で見つかり同駅に保護されている、という連絡が入り、母が向かった。やせ細った三人の子供のあわれさに、辰野の駅長さんはピカピカの白米のむすびを、明け方の駅長室に用意してくださって、目を輝かしてかぶりつく幼い姿に涙を浮かべておられたとのこと。疎開寮は、唯一のごちそうは川魚とハチの子というほど食糧が貧しく、70人もの子供が寝起きしている板張りの広間にノミが異常発生したが、薬剤ひとつなく、夜毎、寝間着にもぐり込むノミの大群にさいなまされる子供たちは、夜中にいく度か起きては戸外に出て、脱いだ寝間着をパサバサと振ってノミをふるい落とし、またいくばくかの眠りにつくという有様など、母から聞くうちに内心恐れていたサイレンがひびき渡った。

 防空服に身を固め、防空頭巾を目深にかぶる。ベルトをギュッと締め、軍手をしっかりはめる。きのう未明の空襲で、貴重な経験を得ているので、すでに父の命令どおり、家じゅうの建具は全部とりはずし、二つの池には満々と水を張り、浴槽、たらい、バケツとことごとくに水を汲んである。ぬれむしろ、砂袋も充分に用意してある。「空襲警報発令!相模湾上より侵入せる敵大編隊は、数回に分かれて帝都西方より焼夷攻撃しつつあり。各人、持ち場を死守し、帝都防衛の任を果たされんことを期す」。近くの駒場陣地で高射砲を発射する音が、ドスッ、ドスッと地響きする。サーチライトがせわしく交差する空を仰ぐと、西の上空から火の玉を無尽にばらまきながら、続々と大編隊が近づき頭上に迫って来る。突如、敵の編隊に小さな味方戦闘機がツーッと近づくと見るや、サーチライトの光芭の中で体当りし、二機はたちまちに火を吹き、根津山の山かげの方角にきりもみに墜落する。同時に耳をつんざく音がし、庭に焼夷弾が落とされた。幾本もの松の大木が燃え上がり庭中が燃え上がり、さらに焼夷弾が落とされ、隣の家々からも火柱が立った。家の三階からも火が上がり、逃げましょうと言ったが父の叱咤で、昨日の要領で池に飛び込み、バケツリレーで妹と母と何百杯の水を運び、4時間余りで消し止めた。全身は濡れネズミで腕の付け根は疼痛、煙と火の粉で目はやられ、のどは苦しく、声を出す気力もなかった。明け方になっていた。薄明りに見回す周囲は目の届く限り、一夜のうちに無惨な焼け野原に変わっていた。庭じゅうの二十数本の緑の松は、梢を全部焼き尽くして残骸となり、燃えた油脂の白いかすの広がった池一面には、ヒゴイもマゴイも残らず死んで浮かび上がっていた。悪魔の所業にも似たこの暴戻さに、つき上げる憤りをどうすることもできなかった。

 この二日間の空襲で、わが家に投下された焼夷弾は合計58本、六角柱60cmほどの長さの油脂焼夷弾である。女子大出たての私の奉職する都立大森高等女学校は焼失した。教え子のNさんは大田区上池上の自宅の防空壕内で、Kさんのお母さんは肩に直撃を受けて、四年生のKさんの警防団長であるお父さんは鉄かぶとの上から突き入った高射砲の破片の盲管により、それぞれいたましい最後を遂げられた。近所では、Mさん方の老婆が逃げきれず焼けて亡くなった。代田八幡、世田谷中原駅は全焼。近くの小田急線、井ノ頭線は架線、線路が随所で寸断されて不通。とりわけ井ノ頭線は永福町の唯一の車庫が全焼、車両は全滅であった。また、父の知人のUさん夫妻は、牛込余丁町で逃げる途中、はぐれたひとり息子を探し求めて、半狂乱のようにみずから火の海の中に消えたという。

 当時世田谷区代田に住む高等女学校一年13歳の竹内直子の手記。

 —— 私たち一向が集まると、話のついでに5月25日の時のことに触れることがあるが、その話が始まったとたん、それぞれあの地獄の姿を思い浮かべて泣いてしまうので、だんだんみんなこの話をしなくなってしまった。こうして当時のことをリアルに思い出すのは久しぶりのことである。火に追われて近くの根津山の壕をめざして走った。そのうち母が、背中の赤ん坊が生きているかどうか見てくれという。父も私も「生きている」といった。本当に生きているか確かめたわけでもないのに。しばらく行くとまた母が「私はこれ以上逃げられないから、皆先に逃げてくれ」といった。それまで母がケガをしていることを知らなかったが、左手がぶらぶらになっているので、右手で支えてここまで走ってきたという 。とにかく何とか励まして母を連れ、壕の中にもぐり込んだ。その間、B29は焼夷弾の雨を降らせ続けていた。火のため、すっかり明るくなった夜空に、あの巨大な機体からバラバラパバラッと燃えながら落ちてくる焼夷弾の列、自分の現状がどんなものか考える余裕もないのに、この光景を憎しみの気持で見つめるより前に、美しいと思った。

 ともかくこの壕の中にいた人びとにとっては、誰の生涯の中でも、一番長い一夜だったと思う。その夜が明けて、26日の朝になった。自宅のあとに行ってみた。火はまだくすぶっていた。焼跡特有のあのにおいが立ちこめている。みんなすすけた顔をして茫然と立っていた。すぐ近くでも、焼けずに残った家もある。すぐ裏の奥さんは外に出たとたん焼夷弾の直撃を受けて即死だという。百坪ほどの敷地に40何発か落ちていたあの日から一週間目に、私も背負えるだけの残った家財を分担して、親戚からもらったわらじをはいて、母は頭に樹帯、相変わらず赤ん坊を、おぶって、右手で左手を支え、逃げるように、山梨県の遠縁を頼って、東京を去った。しかしそこで待っていたのは、父の召集令状。そして赤ん坊をかかえ、ケガをした母親と、あと三人の小さい子供。頼りになる人は誰もいない田舎の生活。食糧難など相次ぐ困難が待っていた。一夜にして受けた戦災の傷あとが、それから十何年というもの、一家の生活を深くおびやかした。

 当時、世田谷区太子堂に住み中学校四年生で19歳の石井俊二の手記。

 —— 戦禍の影はようしゃなく迫り、昭和18年12月、長兄の中国への学徒出陣があたかも不幸へのさきがけであった。19年には、弟妹たちは幼きゆえに長野県に疎開していった。そのころから勉学は中断され、学生は工員として軍の物資を生産する工場に動員された。大崎の明電舎、蒲田の荏原製作所、などであった。級友のなかには、感電事故で重傷を負ったり、作業をぬけだして銀座に遊びにいき、たまたま空襲に遭遇して爆死したものもいた。その死体は、多くの他の死体とともに、日比谷公園に置かれであったと聞いた。

 5月25日は夕食後訪れた友人を加え、一家で談笑していた。おりしも米機襲来がラジオで告げられ、友人は去った。焼夷弾投下の際のザーという、夕立の音を思わせる響きが、暗黒のなかにいつになく身近に感じられた。たまらず壕のなかからとび出し、空を見あげると、すでに何箇所かにあがった火災の明るさが情況をあきらかにした 。焼夷弾が向いの家の窓下で炎を吹きあげている。夢中でわが家の門を走りでて、たたく。思ったより簡単に消えた。空を見あげると、超低空のB29が一機、巨体に高射砲弾を受け、爆発で真赤な炎となってすさまじい勢いで落下していく。思わず手をたたき、とぴあがる。しかし、他の米機は旋回しつつ、しつように焼夷弾を投下する。そのとき焼夷弾の一発目が、二階のベランダをっき破り、階下のガラス戸を粉砕するとともに、私のかかとに傷をつけた。息つく間もなく、二発めが私の部屋で炸裂し、一瞬にして火の海となった。

 かくて20年間住みなれたわが家は、信じられないくらい簡単に炎上した。それから26日の朝、わが家の焼跡にたたずむまでのことはよく覚えていない。見なれたものが一夜にして消えうせた光景は異様なものであった。虚脱感はおおうべくもなかった。それから数日間は、わが家の庭が野宿の場所となった。その数日後、太陽も暗くなるような黒煙が空をおおった。横浜方面の白昼の大空襲(5月29日)があったことを、後で知った。やがて召集令状が来て、乙種合格であった私は、父に送られ、20回目の誕生日をむかえる七月中旬、千葉県佐倉の陸軍部隊に入隊した。伯父たちが入隊する前夜、乏しい食糧や酒で祝ってくれた。そして房総半島の館山で、終戦をむかえた。米軍の本土上陸を想定し、敵戦車に爆薬を抱き体あたりの訓練中であった。

 当時世田谷区松原町三丁目に住み、小学校三年生で8歳の渡辺茂の手記。

 —— 私の父は昭和15年の春に死亡してすでに亡く、母は世田谷区の松沢国民学校の教員をしていた。一番上の兄は長男でもあり、兵役を免れたいということもあって、早稲田大学の理工科の学生であった。また次の兄は少年時代から病弱で静養していて、三番目の兄は学生で、四男の私は松沢国民学校の三年生、妹は一年生になったばかりであった。戦況が日を追う毎に日本に不利になっていた様子は当時の子供心には十分理解できなかったが、先ず食糧難、第二は建物強制疎開、第三は隣組、第四は物資不足からの廃物利用、第五は学童疎開などで戦時下の特別な事情は感じられた。私は昭和19年春から一年間をは山梨県で縁故疎開をしたが、20年の春、田舎の都合で戦況の悪化した東京へ戻ることとなった。東京に戻ってから空襲は日をおって激しくなった。しかし夜の空襲には、B29の編隊から無数の焼夷弾がはき出され、赤や青や黄と美しい色を呈しながら落とされてゆき、時には照明弾も加わり地上からの炎と三位一体の光の美しさに見とれたこともあった。

 5月25日夜の10時半頃、私はサイレンで目を覚まし、いそいで防空頭巾をかぶりリュックサックを背負い、母や兄達と逃げ、学校の正門を過ぎ、交番の前まできたときにヒューッという音が耳に入ると同時に、私は学校の垣根になっている小高い植込みの土手に吹き飛ばされ、そのまま道路にころげ落ちた。そして立ち上がってみるとズボンは下の方から火がついて燃え出していた。自分でその火を消す智恵もなかったが、警防団の人たちが私の頭からバケツの水を二、三杯かけてズボンの火は消しとめられた。つい今まで一緒に手をつ喝ないでいた母や妹の姿はなかった。どのくらい時聞がたったのであろうか、私が「渡辺先生の子供だ」とわかると、誰か知らない人から(後から松沢国民学校の先生達とわかった)「お母さんも見つかったからね。すぐ会えるからもうちょっと待っていなさい」と言われた。私を病院につれて行くんだと誰かが言い、病院へ運ばれた。待合室は騒々しくなり、しきりに院長や看護婦を呼ぶ声がした。やがて院長がローソクを手にした看護婦を伴って「重傷患者から診察します」と言って診察が開始され、私も重傷患者ということで早く診てもらったが、燃え残ったズボンをはさみで切りはがされて、黒く焼きふくれた大きな水疱をつぶして包帯をされて病院を出た。

 自宅は焼けてしまい、知り合いの家に世話になった。私と途中まで一緒だった母と妹はあの一瞬それぞれ吹き飛ぼされてしまい、母は腰をぬかして立ち上がれないままだったが、目の前を警防団員が小さな女の子を抱えて行く姿をみて呼びとめ、それが妹であった。妹と私は戸板にのせられ、病院に行ったが、妹の火傷は私よりもはるにひどかった。頭髪と腰部以外は全部焼けただれていた。手も足もそして胸も顔までも火傷を負っていた。「助かるかね」と誰かが言った。助からないとは誰も言わなかった。私は両手と両足に火傷を負っていた。特に両足の傷はひどく、包帯をとってみると皮が一緒に剥がれおち、真赤な肉が顔を出してヒリヒリと痛んだ 。この日、7、8歳の男の子が病院に来ていた。爆弾で足を吹き飛ばされ、母はそのとき死んでしまい、父は兵隊のため毎日子供を病院につれてこられないのだと話していたのが、心に残って離れない。

 その後病院までは目と鼻の先ほどの近さの家にお世話になり、そこから妹と私は毎日戸板にのせられ病院に通った。病院では包帯を交換するたびにあふれるばかりの膿が流れ落ちた。痛みは日毎にひどくなった。その反面、妹は殆ど痛いと言わなかった。言う元気すらもなくなっていたのだろう。その妹が一度だけ痛がって泣いたことがあった。私は妹と枕を並べて寝ていたが、その妹がある日しきりに蚊の鳴くような小さな声で私に話しかけたり、母を呼んだりしていた。神経質な私はそれがうるさくて、手近にあった本か何かをとって投げつけたところ、目を残して包帯だらけの顔に当たってしまった。「茂兄ちゃんは敏子にものを投げた。痛いよう」と言って泣き出してしまった。兄とは年齢が離れていた私は妹と遊ぶ機会が多かったし、自分に言いつけられた仕事はすぐ妹に再命令するほどいつも一緒だった。妹はそれを最後に6月17日他界した。

 何一つ、おいしいものも食べさせてもらえず、一年生になることを心待ちに待って、一年生になってみると殆ど学校へ行くこともなく死んでしまった妹。物心ついた頃から防空頭巾とかすりのモンペ姿にさせられてスカートをはくこともリボンを飾ることも遠い昔に忘れてしまった妹は、私達兄妹の中で一番下のそしてたった一人の女の子であった。その妹が死んでしまった。納棺にあたって身体を拭いてやろうにも、拭く部分は殆どなかった。化粧してあげるにも白粉もなければ仮にあったとしてもぬる場所がなかった。やっとどこから手に入れたのか口紅が小さな唇に点された。しかし棺は、なかなか手に入らなかった。

 いつまでも他人の世話になることもできないし、かねてから田舎では家を建築中で、7月下旬、私は母と三番目の兄に連れられて山梨へ行くこととなった。山梨の村では無医村で、傷の治療など不可能であった。しかし20数キロ離れた場所にある下部温泉の湯が火傷に効くということを聞いた母は、バスもない遠い道のりを湯を背負ってはせっせと運んでくれた。

 8月15目、「今日は重大放送が正午にある」と言って、私の上のラジオのある家に部落中の人が集まった。敗戦の玉音放送のあったことを知らされた。隣の娘が「戦争が終わったんだから電気を暗くしなくていいんだね」と言った言葉が印象に残っている。湯治を契機にして私は一年数ヵ月ぶりに立てることができた。左足の傷跡は著しいケロイドとなって残った。ちょっとした打撲にも傷がつき、出血してしまう恐ろしい状態となった。その10年後と今回の26年後に二度にわたって植皮手術を受けた。26年前の5月25日を病室で思い出させるとは、何と悪魔は悪戯好きなのだろうか。一体どれほどいじめればお前は気がすむのだろうか。

 お前がどんなに私をいじめても、軍人でもなかったし原爆被爆者でもない私には、国の手は何一つさしのべられないのだよ。戦争の後遺症患者に対しては、それなりの国の調査や施策が必要だとも思うのだが、そんなものは何もないのだ(注:それは事実で、筆者の「昭和の戦争と東京都の概要」の「戦後の補償」の項を参照)。悪魔よ、私は戦争のいきさつもその後の責任も何ら知らないのだよ。ただ、あの大空襲の中で生き残ってしまったし、これからも生きなければならないのだ。そのためにも君は踊らないでいてくれないか。そして静かな場所に眠っていてくれないだろうか。

砧大緑地:防災緑地帯の造営

 15年の秋、皇紀2600年記念都市計画事業として都市から20km圏内で防災緑地が6か所選定され、砧がその一つとなった。多くの農地を強制買収し、翌年「勤労報国隊」により整地作業する。「帝都防衛」と「市民の保健休養に利用する」との名目があった。18年には戦技訓練場の建設を開始、しかし食料不足もあって逆に約6割を農用地として再利用した。戦後の食糧難でも利用され、4割を農地に解放 。またゴルフ場も作られたが、数年で閉鎖し公園として整備、現在世田谷美術館を擁する都立公園となっている。近隣では、調布の神代植物公園と小金井公園が同じ経緯で造成された。

 これとは別に、昭和17年(1942)4月、東京は初めて米軍爆撃機の空襲を経験し、首都防衛強化のため防空用空地帯を指定。19年1月より東京の中心部などから強制的に「建物疎開」を行い、世田谷も非常時の空地の確保と重要施設を守るために道路も拡張した。さらに3/10の経験から第六次建物疎開が実施され、住宅密集地の建物や工場の移転を行ったが、5/24−25の大空襲の前には徒労であった。

学童集団疎開

 欧州の第二次世界大戦ではドイツと連合軍の間で激しい空爆が展開されていたから、日本の軍政府もそれを予測し、昭和18年(1943)には小学生の縁故疎開を奨励した。しかしさほどの成果がなかったので、19年に入り、軍政府は学童集団疎開を計画、夏より都市部の小学3-6年生を対象に一年間の予定で実施した。

 世田谷区の集団疎開は昭和19年(1944)8月より実施、北沢・太子堂の児童951名、教員22名を始め、代沢小学校の児童455名、二子玉川小学校の児童69名など7校で約3000人が長野県松本市の浅間温泉へ、その後9/28までの33校の児童8,332名、教員202名を長野県と新潟県の疎開させた。記録に見られる範囲では、奥沢小学校の92名は松本の和田村の寺院へ、多聞小学校の225名をはじめとして祖師谷・塚戸・砧の小学校300名の児童が長野県大町市の旧平村の木崎湖畔にある9つの各旅館に分宿させられた。駒沢小学校は新潟県長岡市古志上組村へ263名、松原小学校(人数不明)は新潟県古志郡栖吉村へ、八幡・旭小学校は長野の飯田市へ、宿泊先は寺院もしくは旅館である。当初子供達は半ば遠足気分であったが、親とすれば今生の別れになるかもしれないという気持ちで、出発駅で親たちはいつまでもわが子の名前を呼び続けたという。

 疎開先では、宿泊先からその近隣の小学校に通い、教室を借りて付き添いの先生が授業をし、あるいはその小学校の先生が地元の生徒と一緒に授業をしたこともあった。食事は田舎だからといっても食糧は軍隊に優先的に供出されていたから、旅館の場合でもほとんどが貧しい内容で、子供達はいつもお腹をすかして過ごした。これでも親はその費用を負担していたのである。

 その後19年11月下旬より米軍の本格的空襲が始まり、翌年3月10日の東京大空襲をみて、4月より新一年生から疎開させることにした。実は6年生は進学や試験のためとして前日の9日までを目安に各地から帰京していて、とりわけ下町三区(墨田・江東・台東)の子供達は久しぶりに親に会えた喜びもつかの間、一緒に焼死した子供も多くいたし、疎開先に残った生徒たちはそのまま孤児となった子たちも多くいた。

 4月から5月にかけてその三区以外の中心地区も焼き尽くされ、世田谷区では上記の六つの小学校が焼かれ、松原小学校もその一つである。その後の米軍の空爆は地方都市へと向かっていった。その結果、疎開していた街も脅かされ、例えば二子玉川小は伊那谷へ、太子堂小は安曇野などへ再疎開した。

 疎開児童たちはみんな家族にせっせと葉書で近況を書いた。代沢小学校の場合、宛名の下に「鉛筆部隊」と書かれた判が押してあった。これは他では聞かないのでこの学校の校長などの発案であろう。つまり戦争で戦っている兵隊さんと同じ気持ちで疎開生活でも頑張れということである。この葉書は2009年(終戦の64年後)に山梨県内で開催されていた骨董市で、 骨董品の商いをしている矢花という方が見つけたという。またこの消印は1945年の戦争末期であるところから、その混乱で配達されずにどこかに保存されていたものが出てきたものであった。その内容は、「お母様私は、毎日元気で暮らしています。… 米英げきめつ(のため)ですから、さびしくありません。お国のために疎開してきたのですもの。うんと体を鍛へて、見ちがへるようにします。さやうなら」とあり、当時の軍事教育の程度がしのばれる。ただ付き添いの教師の証言では、一年数ヶ月の疎開生活で、生徒たちの体重は変わらなかったという。つまり、成長期の子供たちが、食糧不足で一年以上も成長が止まってしまったということである。

特攻隊員と子どもたち

 この学校にはもう一つ逸話があって、疎開先の浅間温泉の旅館(六班に別れて分宿していた)の一つには、沖縄での特攻作戦を控えた飛行隊員が6人ほど来て、子供達と同じ旅館に宿泊した。通常の戦闘機から通信機などの重い機材を外して、爆弾を搭載する「爆装改修」をするために、この地の松本飛行場にやってきていた。彼らは片道分の燃料と爆弾を積め込んだ飛行機に乗り、自分の命と引き換えに敵の戦艦へ向かって体当たり攻撃を仕掛ける若い特別攻撃隊員であった。子供たちと、これから死地に向かう特攻隊員たちの交流が当地の旅館で生まれた。子供たちは手製の人形や紙飛行機などを贈り、隊員たちと交流し、共に歌い、楽しんだ。(フジテレビドキュメントサイトより)

 以下は『学童集団疎開―世田谷・代沢小の記録』(1983年、太平出版社:著者は実際に教師として付き添いをしていた浜館菊雄)からのあらすじである。

 すでに再疎開地は決定し、その日も間近に迫っていた2月の末のある日、千代の湯学寮へ6人の兵隊が宿泊した。一人は25、6歳であったが、ほかはいずれも20歳前後の若い航空下士官であった。子どもたちとこの航空兵と子どもたちは、その日のうちに仲よしになった。この下士官たちはまた特別物静かで、愛情もこまやかであった。外出することなどはほとんどなく、子どもたち相手に将棋をしたり、ゲーム遊びに興じたり、ときに手をつないで散歩したり、軍歌をいっしょに合唱したりして、兵隊たちも学寮の一員であるかのように親しんだ。しかし彼らが勤務もなく、毎日温泉の湯につかってのんびりしているのが、子ともたちには不思議でもあった。子どもたちは、「この兵隊さんたちは、きっと戦地から帰ったばかりで静養しているのかな」と想像していた。ある晩、松本市で疎開学童の慰問演芸会があったが、彼らは教師のように子どもたちの先頭に立って会場に入り、会が終わると帰路大声で特幹の歌や若鷲の歌の音頭をとって帰ってきた。その夜は子どもたちの室に入ってきて、元気な声をはりあげて、点呼をとったりして笑い興じた。一番年かさな出戸軍曹は、剽軽で、いつも子どもたちを笑わせてくれた。今西軍曹・島田軍曹・今野軍曹・時枝軍曹・大平伍長、これがほかの5人の兵隊の名前と階級であった。

 ある日の朝、突然時枝軍曹を除く5人が、日本刀を腰に、厳とした軍装で子どもたちの室に現われ、「みなさん、自分たちはこんど新しい任務につくために出発します」と、簡単に別れのあいさつをして出ていった。ところがその日の午後になって5人とも揃って千代の湯に帰ってきた。子どもたちは歓声をあげ、その夜は臨時の演芸会を開いて、壮行を祝福した。翌朝また5人はそろって出発したが、子どもたちはそこで「きっと特攻隊の勇士だよ」と気がついた。「そうだ。けさ、宿のおとよさんが『またもどっていらっしゃい』といったら、出戸さんが『そう幾度ももどってきていては、敵艦を逃がしてしまうよ』といったよ」と。「大東亜戦争に勝ったら、靖国神社へ知らせにきてれ、頼んだよ、と大平さんが敬礼したよ」と子どもたちは話し合い、その日の疎開日記に「飛行機の兵隊さんが出発された。もう帰ってはこない。兵隊さんたちは、日本のために死ぬと決心しながら、いつもと変わった緊張した顔もみせず、にこにこしていられた。おひるごろ、飛行磯が5機、低空で千代の湯の上を旋回して東の空へ消えていった」と書いた。

 ただ一人あとに残っていた時枝軍曹も2、3日して出発した。その日から子どもたちは、朝は新聞を、夜はラジオと戦況の報道に注意した。すでに米軍部隊は沖縄に迫り、3月23日には慶良問列島へ上陸を始めた。27日の大本営発表は、わが陸海軍の特攻隊はあいついで敵艦に突撃し、10機よく10艦船を屠り去ったと武剋特攻隊広森隊の武勲を語った。しかし武剋特攻隊広森隊だけではだれも気づかなかった。その日の夜、ラジオの「小国民の新聞」を聞きいていた子どもたちは「アッ」と思わず声をたてた。瞬間顔を見あわせて、ことばもなく、続いて響いてくるラジオの声を一言も聞きもらすまいと聞き入った。

 「沖縄の慶良間列島沖の敵機動部隊に突入し、10機で敵の大型艦船10隻を撃沈したわが特別攻撃隊の戦果については、3月27日に大本営から発表されましたが、これは陸軍特別攻撃隊武剋隊10勇士のお手柄で、勇士の名前は、広森達郎大尉、林一満小尉……」と、つぎつぎに読みあげられる勇士の名前のなかに、「出戸栄吉軍曹、今西修軍曹、島田貫三郎軍曹、今野勝郎軍曹、大平定雄伍長…」の五つの名まえをはっきり聞いた。「やった、やった」。あの兵隊さんたちだ」と子どもたちはだれもが興奮した。女児はもう感激に涙ぐんでいる。なにがなにやらわからない叫び声が室中に響いた。「先生!先生!あの兵隊さんたちが…」と、先生の部屋へ駆けこむ者もある。あの五勇士は、武剋特攻隊のなかにその名をつらね、うら若い生命を散らしたのであった。つぎの日、子どもたちは彼らが残していった記念の寄せ書きを神棚に供え、その面影をしのび、 ありし日の楽しい思い出をなつかしんだ。さらに不思議にも、出撃直前、前進基地から今野、今西の両軍曹が出した訣別の手紙がこの日、学寮に届いた。

*今野軍曹の手紙

 —— 鉛筆部隊の諸君、お元気にお暮らしのことでありましょう。兵隊さんも元気で、いよいよあす出撃であります。必ず敵艦を轟沈させますよ。みなさんがこのたよりをみているころは、兵隊さんはこの世の人ではありません。つぎの世を背負うみなさんがたがいるので、喜んで死んでいけます。浅間に在宿中は、ともに遊び、ともに学んだこともありましたね。ほんとにお世話になりました。厚くお礼申上げます。敵をやっつけるまでは「死すとも死せず」必勝を誓います。にっこり笑って散っていきますよ。ではお元気でつぎの世をお願いします。

*今西軍曹の手紙

 —— 戦局はまことに切迫してきました。敵はけさいよいよ沖縄の西にある小さな島に上陸をはじめました。われわれも命令により、ただいまより沖縄にむかって出撃します。〇〇(基地)では、道ばたにれんげや菫の花が美しく咲き、桜も咲いています。桜を一ひら同封しました。戦局に一喜一憂せずに、ひたすら学業にはげんでください。大日本帝国は必ず勝ちます。必勝疑いなし。ではお元気で。

 二通のたよりにつづいて、五来末義軍曹という未知の兵隊からもたよりがあった。

*五来革雷の手紙

 —— みなさまといっしょに山登りをし、お話して楽しく遊んだ出戸・今西・大平・島田・今野らは、すでに敵艦に体当りをして、勇ましく花と散っていきました。時枝軍曹も本日(4月3日)15時30分、にくい米英を撃たんがために勇ましく基地を飛びたちました。新聞をよくみていてください。必ずや大戦果をあげることでしょう。時枝は出発の際までみなさんと楽しく遊んだことを非常にうれしく、千代の湯の鉛筆部隊のみなさんに元気で行ったとお伝えしてくれとたのまれて、おたよりをさしあげたしだいです。自分は同じ任務についている武揚隊の五来軍曹です。富貴の湯(同じ浅間の旅館)にとまっていました。みなさんはいっしょに遊んだ兵隊さんたちの精神をうけついで、いよいよ元気にがんばってください。兵隊さんは散っても、魂はいつもみなさんの幸福を祈っています。さようなら。

 沖縄での戦闘は3月下旬から3ヶ月間の激しい地上戦で敵味方と住民合わせて約20万人の犠牲者を出した。いわゆる本土決戦前の前哨戦であったが、この沖縄での敗戦にもかかわらず、軍政府はこの後もせっせと本土決戦の準備をして行った。その後、広島・長崎に原爆が落とされ、8/15に終戦となり、しかしその後の混乱で子供達が疎開先から帰ったのは早くて10月下旬から、遅い場合は翌年になった例もあった。

外国人抑留施設(旧菫女学院とスミレキャンプ)

 明治5年(1872) 、フランスのサンモール修道会の5名が来日し、横浜に仁慈堂として貧困児童や孤児を収容し、布教を始めた。その後サンモールに入会した山上カクは献身的にそうした子供たちを支え、仁慈堂は無月謝の菫女学校(小学校)となったが、大正12年(1923)の関東大震災で学校が倒壊し、死者も出た。そこで山上たちは孤児たち20数名を連れて荻窪で仮住まいした後、昭和2年(1927)に高円寺へ移動、しかしこの場所も昭和6年に新設の光塩高等女学校へ譲渡され、修道院は高田馬場へ移転。そして新たな学校建設地として昭和8年(1933)世田谷区玉川の田園調布に菫女学院小学校を孤児3、40名を収容して設立した。そこに修道院も建てられたが、山上カクはやがて横浜に戻り、昭和14年(1939)、横浜市からその功績を顕彰され、間もなく亡くなった。

 一方で同じフランス系修道会により千代田区に設立されていた雙葉高等女学校が、この地に雙葉第二初等(小)学校を開校する予定で募集をしていた。しかし真珠湾奇襲攻撃で米英に宣戦布告し太平洋戦争に突入した昭和16年(1941)12月8日、ちょうど雙葉本校のフランス人院長のお祝い日で音楽会をしていた。そこに特高警察が来て、男性の副校長が呼ばれ、続いて院長が呼ばれて、その主旨は田園調布の場所を接収し、外国人の収容所として抑留場所にあてたいとのことであった。その結果、菫学院もよそに撤退するようにと告げられ、この時代は警察権力は絶対で抗いようがなく接収された。すでに開戦前に軍は外国人の収容所に適当な場所を事前に下調べしていたことになる。

 当初この外国人の収容ために接収された施設は、全国で27都道府県、34ヶ所、収容者は342名にのぼった(以下も含めて「お茶の水史学43号:小宮まゆみ」による)。その大半はキリスト教系施設・学校があてられた。東京はこの菫女学院に男性のみが7カ国37名収容され抑留された(女性は下記の関口教会のようであるが、その後女性も収容される)。翌年には各地の収容所は統合され6都県に絞られた。また日本軍が占領した外地の民間欧米人も日本に連れてこられ、各収容所に加えられた(敵国軍人は別途捕虜収容所へ)。

 17年(1942)6月ごろの菫女学院での抑留者は一時的に56名となったが、そのうち半数が日米、日英の交換船(戦時下、帰国がままならない人たちに、お互いの国から船を出し、南アフリカのケープタウンで自国から来た船に乗り換える方法)で帰国した。その後も断続的に抑留者は入れ替わったが、10月には菫学院のスミレキャンプ(と彼らに呼ばれた)は女性専用となり、男性は埼玉県浦和に行き、スミレには各地から87名が集められた。この中にはやはり宣教師や修道女が多くいた。

 米国プロテスタント系の牧師やシスターは米国の方針で16年までにほとんど帰国していたが、カトリック系の多くは自らの使命として残留した。雙葉学園のアイルランド人シスターは英国人と一緒にされてスミレキャンプに送られたが、学園の必死の要望で後に解放された。18年(1943)明けには抑留者は123名(全国では673名)となっていたが、9月の米国との第二次交換船で52名が帰国、そこでスミレキャンプは廃され、残った62名は文京区関口台の東京小神学校に移され、それが第二東京抑留所となった。ほぼ同時期、それまで同盟国であったイタリアが連合軍に無条件降伏したため敵国となり、抑留対象となったイタリア公館員と家族42名が大田区田園調布の聖フランシスコ修道院に収容された。それが第一東京抑留所となる。ちなみに英国との交換船は中止され、それをあてに中国などから一時的に日本に来ていた欧米人は非戦闘地域と指定された箱根や軽井沢に抑留された。

 外国人抑留者たちは比較的手厚くされ、自由もあったが、次第に食糧事情や環境が悪くなり、死者も出ているものの、スミレキャンプではない(このスミレキャンプでの外国人の体験としては、筆者の「各種参考資料」の中の「戦時下の青山学院と収容所生活」を参照)。ちなみに米国側では開戦後、移民していた日系人ほぼ全て(約12万人以上)がカリフォルニアを中心とした新たに造成した強制収容所に送られ、財産も没収、人種差別もあって、より過酷な生活を強いられた事実がある。

 なお、20年4月13日の城北大空襲で雙葉学園は全校舎が焼失し、そこで高等女学校は玉川田園調布の教室を使って授業を再開している。またこの校庭を食糧不足を補うために農園としても使った。昭和24年(1949)に雙葉第二中学校が開校し、昭和39年(1964)、正式に田園調布雙葉学園となった。

光明特別支援学校の苦難

 世田谷にある都立光明特別支援学校は日本で初めての肢体不自由児(脳性麻痺や小児麻痺、筋ジストロフィーなどによって手や足などに障害がある子供)の学校として昭和7年に開校した。しかし戦時、国は疎開の目的を「人的にも物的にも…国家戦略の増強に寄与せしめること」を狙っていると述べ、その方針の下で東京都の長官は「帝都の学童疎開は将来の国防力の培養でありまして学童の戦闘配置を示すものであります」と明言している。つまり国防に役立つ人間の養成のためとされ、虚弱児童を含む特殊学校の生徒は将来とも戦力にならないと対象外とされて世田谷では唯一光明学校だけが取り残された。(ちなみに、その都の措置に応ずるように、当時のこの学校の子供達は、勉強できた喜びとともに、将来は自分たちは兵隊にはなれないのだという一種諦めの気持ちがあったという。それほどに当時の軍国主義教育は徹底していた)

 そこで当時の松本保平校長が東京都に直接掛け合ったが受け入れられず、やむを得ず、まだ農地が広がっていた世田谷の校舎のほうがまだ安全との判断で、都心から通う子供たちと合宿生活をすることにした。これは「現地疎開」と呼ばれ、光明学校に通っていた115人のうち59人が親元を離れて学校に寝泊りした。校庭には防空壕を4つ作り子供たちと教職員を含めて150人がすぐに避難できるようにした。

 ところがその後、3/10の下町大空襲があり、光明学校の子供たちも世田谷の校庭から東の方に燃え盛る街を見ていた。危険を感じた松本校長は一人で疎開地を探しに出かけ、とりあえず空きがあるかもしれないと紹介された長野県の旧上山田村でした。しかし、訪ねた役場では村長が会ってくれず追い返されてしまった。そこで松本校長は諦めずに村中のホテルや旅館に直接お願いに回り理、温泉組合の役員たちは松本校長の様子をみかねて村長を説得、ついに村長との面会が実現し、その疎開には村長が経営する宿を貸してもらえることになった。

 次に校長は鉄道局に3日通い続け、客車1両を貸切りにしてもらったが、さらに子供たちの治療器具の輸送という課題も残った。そこで校長は学校近くの陸軍の部隊長に直訴、トラック10台で治療器具を運搬してもらった。そして20年5/15、光明学校の子供たち50人と教職員、付添いの親などを連れた列車が上野駅を出発した。なんとその10日後、山の手大空襲があり光明学校は焼け落ちた。

 終戦後、普通小学校の子供たちは次々と親の元へ戻ったが、焼失した光明学校の校舎の再建のめどは立たず、松本校長たちは上山田村で学校の運営を続け、50人の子供たちのほとんどが村に残った。しかし疎開期間が終了したことで国の補助金は打ち切られ、教職員たちは農家を回り、村人たちから食料を分けてもらってしのいだ。一方で松本校長は上京して文部省にかけあい、2ヵ月後再び補助金を出してもらえることになり、昭和24年5月、光明学校の新校舎が完成し、子供たちはやっと東京に戻ることができた。この松本校長がいなければこの子供たちはどうなっていただろうか。(同様な話は伊豆大島町の藤倉学園参照、こちらの話の方が悲惨である)

 松本校長の活動はここで終わらず、昭和22年(1947)、中学までの教育を義務化する新しい制度が始まったが、肢体不自由児の義務教育化は実施されないままで、松本校長は肢体不自由児たちの教育の充実を訴えて行った。 昭和29年、全国の教育研究者の大会に出席し、「肢体不自由児も教育を受けることで有能な社会人となる」、「各県に少なくとも1校の肢体不自由児の学校を」、「全国に300の特別学級を早急に設置して欲しい」と訴える活動を続けた。そして昭和31年に公立の養護学校の設置を促進する法律が制定され、肢体不自由児の学校は全国各地に作られていき、すべての肢体不自由児に学校教育を受ける権利が保障されたのは昭和54年(1979)であった。(以上は2014年、NHK ETV特集より)

松沢病院の苦難

 前身は明治5年(1872)に東京本郷に設置された養育院に始まるが、精神病院を併せ持つ小石川巣鴨病院に移り、そこから大正8年(1919)に精神科が分離して当時の松沢村に移転し、東京松沢病院になった。敷地面積は約20万㎡。今でも日本の精神科医療の中心的存在である。筆者の縁戚も一時ここに入院し、何度か通ったことがあるが、しかし当時は下記の出来事は知る由もなかった。

 戦時にあっては昭和13年(1938)ごろから死亡率が増大し始め、敗戦の20年には松沢病院ではなんと入院患者の4割、352人が餓死か栄養失調で病死した。つまり食糧難の中にあっては精神的肉体的障害を持つ人々は戦争に役に立たない者として、食料はほとんど回されなかったことも大きい。また昭和16年の全国の精神病院病床数は2万3958床だったが、戦争末期にはそれが3995床にまで激減している。これは戦時下で精神病院の維持が難しく解散したり、国内防衛軍の駐留場所として接収されたためという(ちなみに学校関係の多くがその一部を接収されたが、多摩美術のように全校が軍に接収された例もある。つまりこれも戦争の役に立たない学校という理由による)。

 そうして昭和15年から21年までの松沢病院での死亡数は2千人に及び、日本全体の記録は定かでないが、最低その5倍か10倍以上という。同様にというか、ヒットラー率いるドイツでは彼らの何割かは医者の人体実験材料として使われ、多くは安楽死の指令が出され、その抹殺された数はユダヤ人に対する虐殺と同様、恐ろしいほどで27.5万人とされる。ただ、ここでの大きな違いはドイツでは国が戦後正確にその数を調査したが、日本では曖昧に放置され、上記の松沢病院の数は病院関係者が後に調べ直したということ、これは軍事関連資料・記録が軍と民間含めてほとんど敗戦直後、つまり連合国の占領前に焼却されたことに通じる(冒頭の<出征者と戦死者数:不明>とはその事由による)。

 ただ、餓死はこの戦時中、各所で発生した。極端な場合、小学校の集団疎開先の農村でも食料はまともになく、栄養失調で亡くなるケースもあったし、戦災孤児の餓死もある。しかし一番の犠牲は外地の戦線での戦死者230万人のうち、その6割が補給を絶たれての餓死とされている。

 第二次大戦において、イギリスやフランスでは、空襲などでやむえず患者を解放したという。その結果、患者たちは自力で生きていった。それを教訓にして、戦後は入院させずに治療する地域活動や病院の開放化が進んだというが、松沢の中でも似たような傾向が見られる。

 なお、松沢病院は5/25の山の手大空襲で、二つの病棟と四つの倉庫を焼失したが、死亡は2名だけであった。この事実は医師や看護婦たちが献身的に患者を扱っていたことを示す。

 戦時下の精神病院の実態を調査した一つの本があって、『声なき虐殺—戦争は精神障害者に何をしたのか』(BOC出版:塚崎直樹)この中に松沢病院に関わる取材記録があり、筆者の「各種参考資料・戦時下の精神病院」を参照。なお上記の数字等も塚崎の調査記録による。

幻のオリンピック会場

 昭和15年(1940)に駒沢公園をメイン会場として東京オリンピックの開催が決まっていた。 この年は皇紀2600年(神話上の神武天皇の即位の年を紀元とする)として、オリンピックはそれとの相乗効果を狙うものでもあったが、関東大震災からの復興を果たし、世界有数の都市へと発展した東京の姿を国内外に示すためでもあった。しかし日中戦争の拡大と物資不足、さらにはその日中戦争に対する国際的な非難も高まり、ボイコットの懸念もあって政府は13年7月に大会返上を決めた。その代わりに皇紀2600年記念式典を大々的に行い、国民の戦意高揚を図るものとなり、16年末に米英を敵とする太平洋戦争突入につながって行く。24年後の昭和39年(1964)に改めて東京オリンピックが開催され、駒沢公園も会場の一つとなった。

 ちなみに万国博覧会も同じ年に中央区晴海で開催予定であったが、これも中止となった。

戦後の出来事

住宅不足と軍施設の転用

 敗戦の区内では満州など海外からの引揚者や軍人の復員者は総数6万人を超え、住宅不足への対応は急を要した。対策として被害家屋の復旧修復の他、住宅営団は中町住宅や深沢3丁目住宅を建設、その他世田谷郷 (現下馬アパート)などを建設したが、住宅不足解消にはほど遠く、23年(1948) 現在でもその復旧率は15%にとどまっていた。

 広大な陸軍練兵場の跡地利用として新制大学が設立された。昭和女子大学は太子堂の近衛野戦兵連隊営の跡地、東京農業大学は陸軍機甲整備学校の跡地であった。また池尻、下馬、太子堂など各地に分布していた軍病院、兵舎などの軍関連の施設跡地が、公私立の中学、高校や病院用地に転換された。他に陸上自衛隊三宿駐屯地や警視庁の第三機動隊、第三方面交通機動隊なども設置された。

GHQ用慰安所

 昭和20年11月(敗戦後3ヶ月)、進駐軍(GHQ)将校用接待施設「RAAクラブ」が若林に開設された実は8/15の敗戦の翌日に来たる進駐軍兵士用に慰安施設を用意することを閣議決定し、「RAA:特殊慰安施設協会」の設立を決定、一週間後には大田区の料亭に大工を差し向けて施設を用意させ、26日に正式にRAA:特殊慰安施設協会が設立され、28日より営業を開始した。国営売春施設の端緒であるが、裏でGHQの要請もあったであろう(大田区参照)。若林は将校用であって、さらに高級将校用には墨田区向島の迎賓館大蔵に設けられた。都内には25ヶ所の慰安所が開設され、進駐軍の駐留する全国の各地にも設置された。

 これらの設置理由は連合国軍兵士による強姦や性暴力を防ぐためとされたが、そのために都内の繁華街に「新日本の建設に挺身する女事務員募集」との看板を立て、あるいは新聞広告で「急告:特別女子従業員募集、衣食住及高給支給、前借ニモ応ズ、地方ヨリノ応募者ニハ旅費を支給ス」との募集広告を掲載し、それに惹かれて内実を知らない多くの女性が応募してきた。つまり一般婦女子から進駐軍兵士による性暴力を守るためと言いながら、一般女性を騙して利用したことになる。そのために自殺した女性もいる。

有隣少年療護院

 船橋にある社会福祉法人 東京有隣会/有隣病院は、大正14年(1925)、元は児童保護事業(私設託児所)として石井啓一郎が千葉県松戸市に房総有隣園を開設したのが始まりで、翌年に少年職業学院(司法少年保護事業)の事業も開設した。昭和14年(1939)に世田谷の現在地に移転、少年保護の有隣療護院、翌年に病院も設置した。

 この経緯から戦時に孤児となり「浮浪児」となった子供たちの中でも傷病を負った者たちが有隣療護院に回されて来た。以下『浮浪児 1945』(石井光太)からの抜き書きである。

 ある年長の孤児が、大空襲の後、多くの焼死体が折り重なっている中で、母親が穴を掘って赤ん坊をその中に入れて自分がフタになって焼け死んでいる姿があって、赤ん坊も死んでいたが綺麗な姿のままであった。不憫に思い、せめて埋葬してもらえないかと、抱えて児童相談所に行った。そこには孤児たちもいて、その一部が有隣に収容されていることを聞き、自分の相談も兼ねて訪ねて行ったら、せっかくだからここで働かないかと誘われて、住み込みで働くことになった。石井院長は自分が結核に侵されながら、子供たちのために食料確保で走り回っていた。戦後には常時80人くらいの心身に問題のある子供たちが収容されていた。進駐軍の黒人の兵士に強姦されて入水自殺をした姉を見て精神を病んだ少女、黒人の子を妊娠した少女、淋しくて自殺未遂を繰り返す少年、空襲で母親を目の前で亡くして精神を病み、放火癖のあった少女等々。

 この施設内では何人もの子供たちが死んで行った。死んでも引き取り手がなく、墓もないため、大学病院に検体として送ることが決まりのようになっていて、そうすると解剖が終わった後に大学病院で火葬して共同墓地に埋葬してくれた。有隣に雇われた年長の孤児が時折その遺体を大学病院まで運ぶ役目を負った。世田谷から新宿まで当時の甲州街道のでこぼこ道を通って大八車で遺体を揺らしながら、揺れるたびにごめんねと言いながら、時には転び落ちた遺体を、凍りつく周囲の人に頭を下げながら乗せ直し、約3時間かかって運んだという。

 昭和24年(1949)、法改正により有隣療護院は閉鎖された。

世田谷区立平和資料館

 平成7年(1995)8月に区立玉川小学校内に「せたがや平和資料室」を開設した。その後、移設案が出て別の場所に仮置きし、開設20周年で戦後70年でもあった平成27年(2015)8月15日 に、今ある池尻の世田谷公園(陸軍駒場練兵場跡地)内に「平和資料館」として新規開設した。この平和資料館は東京23区の中では初の公的施設である。

 ちなみに、平成3年(1991)、当時の鈴木俊一東京都知事のもとで平和の日記念行事企画検討委員会が発足し、翌年早々に委員会は都の平和祈念館の設置を提言、一年後の報告書で「東京空襲の犠牲者を悼み、都民の戦争体験を継承する/平和を学び、考える場/平和のシンボル/平和に関する情報センター」との主旨を打ち出し、戦災を受けた都民の長年の念願がかなうこととなった。そして平成6年(1994)、建設予定地としては都有地で関東大震災の慰霊堂と復興記念館のある墨田区の横網町公園で全面的に建て替えることになった。そして平成8年(1996)、次の青島幸男都知事の時代に平和記念館建設委員会が発足し、地上三階地下一階の計画案で、平成12年に開館予定とされた。しかしその計画の中に(この戦争を起こし海外に侵略した)日本の加害者の面が強調されているとの一部の都議たちから批判され、都議会の承認が引き延ばされている間の平成11年、都知事が石原慎太郎となり、すぐにこの計画は凍結されてしまった。この経緯の中で、展示品は多数用意されつつあって、被災した方々330人のビデオ証言記録も収録済みで、それらの展示品はその後、目黒区の都の施設に保管したままという。この東京都の計画が頓挫した後にやむなく民間によって計画され建てられたのが、ささやかな場所と言える江東区「東京大空襲・戦災資料センター」である(江東区参照)。

世田谷区の大学・女学校

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