東京都足立区

足立区の空爆被害

〇 空爆日:19年(1944)12月27日、20年(1945)2月19日・25日・26日、3月4日・10日、4月13−14日、5月7日・12日・25日、8月8日・10日(全12回)

〇 被害状況:死者333人、負傷者485人、被災者6万3523人、焼失等家屋2万423戸

〇 出征者と戦死者:出征した兵士の数およびその中の戦死者の実態は不明である。

<空爆被害の詳細>

 都区内では足立区は葛飾区に次いで空襲の被害は少ない。(正確に言えば、戦後板橋区から分離した練馬区が最も少ない)戦前はまだ農地が多かったためである。

 19年(1944)12月27日:主に武蔵野の中島飛行機工場を中心にB29が52機来襲、足立区では南鹿浜の工場に爆弾一個が投下されたが被害者なし。

 20年(1945)2月19日:B29約130機が都区内東部方面に来襲、全体で死者163人、負傷者223人、被災者3800人、全半焼家屋1020戸。足立区は宮城町のセメント工場その他で死者が約30名となった。

 2月25日:B29約200機が都区内南西部を除き来襲してきたが、集中的な空爆ではなかったため死者約140人、負傷者約400人程度。足立区は工場や周辺住宅がやられ、死者1人、負傷者77人(ただしこれは直後の調査によるもので、下記の証言によると死者はもっと多い)。

 2月26日未明:B29・1機のみが偵察を兼ねてであろうか、足立区と荒川区のみに爆弾9個を投下、両区で死者22人、負傷者40人、家屋全半壊67戸、被災者187人。爆弾の投下数から見て死傷者が多いのは500kgの大型爆弾で、直径30m前後の穴を空ける能力をもち、しかもB29はこれを9個搭載可能であった。

 3月4日:武蔵野地区から都区北部にかけてB29・177機が来襲、全体の死傷者1003人、被災者1万4千人以上で、足立区の死者120人、重軽傷101人。

 3月10日:いわゆる東京大空襲の日。B29約300機が3月9日の深夜から約2時間半の間に荒川と隅田川に挟まれた江東、台東、墨田区の住宅が密集した下町を中心として大量の焼夷弾を投下し、折からの強風も加わって大火災が生じた。焼死者は8万人以上。足立区は下町の猛火を見て逃げる時間があったため、死者5人、負傷者50人と少ないが、延焼で1100戸以上が焼失、被災者約4640人である。この日、戦火から逃れようと下町から足立区を目指し、荒川で力尽きた人々の遺体があふれていたという。また朝になって旧日光街道まで逃げてきた人々に、通り沿いの人たちは水を出したり、炊き出しのおにぎりを出して助けた光景もあった。避難してくる人たちは皆、着の身着のままで、裸足の人もいた。同様な光景は、江東区の東側、つまり千葉街道でも見られた。

 4月13−14日:都区の北東部全域にB29約330機が来襲、死傷者約6800人、被災者約71万人を生じた城北大空襲の日。足立区は死者80人、全焼家屋約1万8600戸、被災者約9万6000人。千寿、千寿第二、千寿第六、千寿第七小学校、寺地、栗原、江北小学校、足立区役所などが焼失した。一方B29一機が花畑町に墜落、搭乗員11人全員死亡。戦後地元民によって北加平公園にB29無名戦士の墓が作られたが、現在はその銘碑のみが足立区郷土博物館に保管されている(おそらく遺骨は米軍により回収された)。

 5月7日昼:B29一機が本木町と王子区に爆弾を投下、被害は軽微。

 5月12日:B29が一機で足立区のみに来襲(7日とともに偵察と思われる)、爆弾12個を投下、死者6人、不明4人(爆弾による埋没ではなく、その中心にいて身体が飛散し残らなかったものと思われる)、負傷者20人。

 5月25日夜間:都区南西部、新宿、渋谷、港、中野、杉並区などがB29約470機により大空襲を受けた。足立区の被害は死者6人、負傷者28人、家屋全半焼276戸、被災者1361人。都全体の死者3596人、重軽症者1万7899人、全半焼16万5442戸、被災者62万人に及んだ。この日を山の手大空襲と呼ぶ。この日B29一機がおそらく日本軍の高射砲に撃墜され、途中で爆発して入谷の水田に落下、これについては下記「戦後」の上野憲兵隊事件参照。またこの前日にはB29約525機が南部地区に来襲、城南大空襲と呼ぶが、実は両日共にB29の来襲機数と投下爆弾量は3月10日の大空襲よりもはるかに多い。

 8月8日(長崎への原爆投下の前日):主に武蔵野市の中島飛行機を攻撃した流れの爆弾投下であるが、柳原町で死者3人、負傷者30人、家屋全半壊70戸。

 8月10日:すでに日本は全く制空権を失っており、この日は板橋、北区への空爆が主で死者232人、負傷者約300人、足立区は加賀皿沼町で爆弾9個が落とされ、死者2人。

<焼失した小学校など>

江北小学校/同新田分校/梅島第二小学校/栗原小学校/寺地/千寿小学校/千寿(第二)小学校(千寿小学校と統合。)/千寿第六/千寿第七小学校/千寿桜小学校(千寿第七小学校と統合)/千寿桜小学校(千寿第六小学校と統合)/新田学園(新田国民学校)

戦時下の出来事

戦時下の教育

 日本は明治時代の日清・日露戦争を経て、大正時代には第一次世界大戦に連合国側として参戦、世界の強国の一つとなっていた。しかし相対的には国家予算に軍事費の占める割合の非常に高い貧乏国であり、昭和初期には世界恐慌の影響や凶作もあり、東北の農村地帯では娘の身売りが出るほどの状態であり、そうした中で昭和6年(1931)日本は中国の東北部で満州事変を起こした。これは一方で困窮した農村の青年にとっては軍隊が就職口となる一種の好機であった。そして次第に軍部の力が台頭するとともに労働・社会主義運動も拡大し、それに対して政府の弾圧も強化され、軍国主義体制が築かれていった。その弾圧の原点は大正14年(1925)に制定された治安維持法であり、小さな集会も監視の対象となった。

 それにともない教育の分野でも常時戦時体制ともいうべき内容が教科書にも反映され、昭和8年(1933)には国定教科書が全面的に改定された。これは通称『サクラ読本』(正式書名は『小学国語読本』)と言われ、小学校一年生の教科書では「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」から始まっている。そのしばらく後のページには「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」とあって、鉄砲をかついだ兵隊四人が行進している絵が描かれている。このほか「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」ともある。そして小学校三年生の教科書からは『古事記』から引用された日本の神話が登場し、神武天皇や日本武尊の事蹟が語られ、1200年代の元寇の襲来(蒙古襲来)に対して神風(実際には台風)によって救われるという事例まで真実らしく載せられた。これに加えて『修身』といわれる道徳も学校では大事な教科書であった。その内容は忠義・孝行・天皇陛下・忠君愛国・靖国神社・皇大神宮・挙国一致などの言葉が並ぶ。

 実はこの前年、つまり満州事変の翌年、第一次上海事変において、敵陣へ突入するために鉄条網を破壊する作戦で選ばれた3名が、点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破したが、3人も戦死した。この行為は新聞等で称賛され、3人は「肉弾三勇士」として英雄となった。これはしばらく語られ続け、競作で歌にもなり何度も映画になり、その後教科書にも取り上げられた。これらが当時の子供たちにも大いに影響を与え、大きくなったら戦争に行って国のために死ぬ、という観念が植え付けられた。

 こうして子供を「神国(皇国)日本」という思想に染め上げて昭和12年(1937)、日本は日中戦争(支那事変)に突入、直ちに政府は「国民精神総動員運動」を提起し、翌年には国家総動員法を制定し、物資や言論を国の統制化に置いた。学校では勤労奉仕が勧められ、防空訓練すらこの年あたりから始まっている。この時期はまだ「敵」の飛行機の片鱗も国内では見受けられなかったが、すでに日本軍は中国に対して活発に(毎日のように)空爆を行っていた。

 徴兵された男性は名誉の出征とされ、万歳斉唱で戦地に送り出され、また出征する兵士には、彼らの生還を祈って「千人針」として女性たちが縫い上げたお守り袋が贈られた。兵士たちはそれを腹に巻いたり、帽子に縫い付けたりして戦地での弾除けのお守りにした。仮にも戦争反対という態度を示せば、非国民とされ、場合によっては特高警察に拘束された時代であった。そのうち戦死者の遺骨が戻されてくるようになり、これも町や村で丁重に迎え入れられた。しかしこの後の太平洋戦争中盤以降は、拡大する戦地でその遺骨を回収する余裕もなくなり、通知の入った箱だけが親族に手渡された。

 昭和14年(1939)、天皇による「青少年学徒に賜りたる勅語」が発せられ、この頃より学校では天皇に関わる行事が多くなる。また物資の欠乏が厳しくなり、食糧や生活用品が配給制となってきた。昭和15年(1940)には食糧不足により供出米強制措置が決定。足立区でもわずかな保有米のほかはすべて供出の対象となった。その供出量も戦争の激化とともに拡大し(最優先供出先は軍隊であった)、農家も食料の余裕がなくなった。

 この15年(1940)は皇紀2600年(神話上の神武天皇即位の年から)にあたるとして、早くから各地で国威発揚の祝賀行事が行われ、11月10日の記念式は皇居で天皇が臨席して行われた。「当日は記念式のあと旗行列で学区域を行進した。氏神様では小学生の舞が奉納され、市電は花電車に飾られ、その中で小学生が舞を踊った。夜は町会で賑やかに提灯行列が行われた」。(なおこの年、東京オリンピックが予定されていたが、日本が日中戦争を起こした関係で中止となっていた)

 また同年、国会では各政党が大道団結する大政翼賛会が結成され、一方で日本は、第二次大戦を起こしていたドイツとイタリアとの日独伊三国同盟を締結、次なる戦争拡大に向けて日本は準備していた。翌年、政府は(ドイツにならって)小学校を国民学校とし、その目的は「国民学校は皇国の道󠄁に則りて初等普通󠄁敎育を施し国民の基礎的󠄁鍊成を為す」ということで、皇国民の錬成を主眼とした。これにより学校では宮城遥拝、神社参拝、教育勅語の奉読などが義務化され、校内には天皇の写真を奉戴する奉安殿が設置され、生徒は登下校時に一度立ち止まって最敬礼をすることが義務付けられた。また中学校以上には軍事教練が課され、女学校も例外ではなかった。

 こうした準備を経て日本は昭和16年(1941)12月、太平洋戦争に突入した。教育内容も戦時色に染められ、習字の見本も「帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」(当時の報道言葉)「皇国に生まれた喜びを新たにし一丸となって大御心にこたえ奉らんことを誓います」「撃ちてし止まん」という言葉であった。18年(1943)には『愛国百人一首』が発刊され、これは子供たちの間にも普及した。その中で有名なのは「今日よりは かへりみなくて 大君のしこの御楯と 出で立つ吾は」がある。この戦争は皇軍が行っている正義の戦争であり、最後には神風が吹いて日本は必ず勝つと子供たちは信じていた。

 戦争が拡大し、国内の労働力不足は深刻となり、そのため中学生以上(なお当時の小学校には12歳以上の二年制の高等科も併設されていて、これは中学生と同様の扱いであった)には勤労動員が課され、太平洋戦争後半には夏休みはなくなり、さらに多くの授業時間を削って軍需工場へ動員された。女学生も、学校に在籍していない若い女性も女子挺身隊として動員され、工場では15歳前後の少女が重い旋盤を扱って兵器を作った。その工場へも米軍の空爆は容赦なく行われ、爆撃で死亡する中学生や女学生も少なくなかった。

 戦争終盤の20年(1945)4月からは小学生以外は授業の全面停止となり、8月15日の敗戦を迎え、それぞれの勤労動員先で終戦の詔勅を聞いた。子供たちが信じた、あるいは信じさせられた皇国(神国)の神風は吹かなかった。それまでに何人の子供たちが空襲の惨禍の中で死んで行ったであろうか(注:一方で日本軍が侵攻した国々でもそれ以上に多くの子供たちが戦禍の中で死んでいることも事実であり、知っておく必要があるだろう)。

 ちなみに昭和8年(1933)の国定教科書から一年生となった子供たちは、終戦時には18歳であり、教え込まれた皇国教育によって特攻隊などに志願してその命を散らしている。
(以上は『足立区教育百年のあゆみ』その他より)

学童集団疎開

 すでに第二次大戦下の欧州では、相互の都市への激しい空爆戦が展開されていた。太平洋戦争の戦局が悪化し本土への空襲が予想される昭和18年(1943)後半から、特に学童に対して縁故疎開が奨励され、19年(1944)4月の時点で足立区は約1900名が疎開していた。縁故疎開の場合、田舎に縁故のある場合のほか、比較的余裕のある家庭が多かった。そして19年(1944)夏から縁故のない学童の3年生から6年生に対し集団疎開が決定され、東京都の長官はこれを「帝都学童の戦闘配置」と意味づけた。その教育方針は「戦意を昂揚し聖戦必勝の信念を涵養すること」であった。

 足立区の疎開先は長野県に割り当てられ、約3700人が8月に長野県各地(長野市・下高井郡・豊郷村)へ疎開した。これには付き添いの教師の他、寮母も募集して同行した。宿は長野駅周辺の旅館や温泉の旅館、善光寺前の宿坊などだった。授業は現地の学校だけでは収容できず、午前と午後の二部授業もあり、宿坊での座学もあった。

 課外授業での遠足に行く場所には事欠くことはなく、冬のスキーも東京の生徒には楽しいものであったが、当時は田舎でも農家の作物の大半は軍に供出させられ食べるものも少なく、衛生状態も悪かったため、子どもたちは空腹を抱え苛酷な環境で生活した。食べ物は主にサツマイモなどのイモ類で、育ち盛りの子どもたちには当然足りず、下級生から奪い取る上級生もいた。男子の中には、木に登って蜂に刺されながら巣から蜂の子をとって食べるのもいた。授業時間を削ってイナゴやタニシ取りをする場合もあった。また春には畑に行って野菜の種を蒔いた。

 児童たちは親から離れた寂しさに耐えかね、密かに寮を抜け出して列車に乗り、東京へ帰るものもいた。その中で、東京の空襲に出あい、また長野に戻った子もいた。子供の失踪の捜索は教師にとって大変であった。しかしその後、長野市の上空にもB29が通るようになり、さらに周辺の寺や公会堂へ移ることとなった。

 6年生は卒業式と入学準備ということで疎開先からほぼ3月9日までを目安に東京に帰って来ることになっていた。西新井小の生徒の場合、長野からの帰京中の深夜過ぎ列車の中で、車窓にぼーっと赤い空が映り始めた。あれはなんだろうと言いながら、夜明けには赤羽駅に着いた。赤羽まで被害は及んでいなかったが、子供たちが汽車の中から見たのは、大空襲で真っ赤に染まった東京の空だった。そこからの電車は止まり、いくつか乗り継いで王子からは歩いた。そして学校に着くや否や警戒警報が発令され、すぐに解散となった(ただ、それから一ヶ月後の4月13日、西新井の地区は大空襲を受けた)。柳原小学校は3月9日の一足前に帰京し、生徒が一人死亡、同様に梅島小の生徒二人が焼夷弾の直撃で死亡した。

 なお、9日までに帰っていた江東、墨田、台東区を中心とした子供たちは、親と再会した喜びも束の間で、猛火の中に巻き込まれ、その多くが親と一緒に死んだ。「死ぬために帰ってきたようなものだった」が、それでも親と一緒に死んでしまった子供たちはまだ救われたのかもしれない。疎開先に残ったまま孤児になった子供も多くいて、戦後になって行き場もなく焼け跡に放り出され、非道な差別と孤独の中で生きた。それを思うと疎開中に「別れ別れで死ぬより一緒の方がよい」と親が途中で迎えにきた場合や、同じ理由を言って最初から疎開させなかった親は正しい決断をしたのかどうなのか。(台東区、東京湾・お台場参照)

 疎開せずに学校に残った生徒たちもいた。そのために教室も維持されていたが、次第にその数も減っていった。そこに残って残留生徒の世話をしていた教師たちにも冷酷に召集令状が届き、若くして残ったのは女性教師ばかりとなる場合もあった。そうした中で4月13日の空襲で千寿小学校も焼け、その整理などで休む間もなく忙しく立ち働いていた一教師にも召集令状が届き、疎開していた校長にも連絡の取れないまま出征した。「その時の後ろ髪を引かれる思いを忘れることができない」という。当時の召集はほとんどリストにより事務的に行われ、否応なしであった。

 空襲の激化により、東京では20年(1945)4月より追加疎開が行われることになり、新三年生と一、二年生が加わった。その後多くの小学校が空襲で焼失し、疎開希望者は増えた。しかし戦争終盤、長野にも空襲警報が出るようになり、各村へ分散して再疎開が行われるようになった(注:長野市は敗戦の2日前、8月13日に空爆を受けた)。再疎開地は8ヶ所に広がり、食糧探しはいっそう大変になり、同じ学校でも寮同士の連絡も取れなくなった。

 20年(1945)8月15日、天皇の玉音放送により疎開地の生徒たちは終戦と知らされた。戦争に負けたとは信じられない思いであったが、先生から家へ帰れると言われた時には飛び上がる思いであった。しかし鉄道の輸送計画と各学校の受け入れ準備もあって、すぐには帰れず、帰京は11月から始まり、最後は翌年3月となった。ただ、親たちが先に子供を迎えにきて、集団での帰京の際は少ない人数であったという。またその中には(足立区は少ないながら)孤児となった子供もいた。

 帰京に際して足立区が問題としたのは生徒の健康状態であった。疎開先での耐乏生活で心身ともに疲労していることを想定し、身体検査も行った(その内容は書かれていないが、他区では体重が一年前とほとんど変わっていない、つまり成長期の子供の体重が増えていないという結果になっている)。焼失した学校も多く、残った学校は物資の貯蔵庫や臨時の兵舎となり、また校庭は耕作され芋や野菜畑になっていた。食糧事情はますます悪化し、校庭の野菜畑はしばらく維持された。校舎が全焼した小学校の場合、他校の教室を借りたり、分散して授業が行われた。
(以上は主に『足立区教育百年のあゆみ』より)

戦時下の小学生の生活

 私が国民学校(小学校)の3年生のときに太平洋戦争がはじまり、ラジオでは「真珠湾攻撃大成功」「アメリカをやっつけた」など、良いことばかりが盛んに流れていた。それでもだんだん食料がなくなってきて、生活が不自由になってきて初めて戦争って大変なんだと思うようになった。学校の男性の先生は皆出征してしまい、残っているのは年配の先生や女性の先生だけ。出産後間もなかった担任の音楽の先生は、休み時間になると教室に赤ちゃんを連れてきて授乳していたということもあった。教師が足りないので、お寺のお坊さんや女学校を卒業したばかりの人など、教員資格を持たない方が代用教員として授業をしていた。

 長姉は高齢の父や出征中の義兄に代わり、朝早くから市場で働いていたので、私が産まれたばかりの姪をおんぶして学校に行くこともあった。これは私だけではなかった。物がない時代で冬になっても靴下などはなく、古い着物や浴衣をほどいて足袋を縫ってもらった。また板に穴を空けて、古布を鼻緒にした下駄も履いていた。当時はそれが当たり前で、みんなが大変な時代だった。このような状態で、空襲もあり学校での授業はほとんど行われなかった。(戦後になってからは学ぶべき教科書も今のような物ではなく、先生から「教科書の何ページ目の何行目は消すように」と言われると黒塗りしなければならず、結局は読むところがなくなってしまうくらいだった。童謡なども戦時中は改変されていた)。

 勤労奉仕のような形で農家へ手伝いに行った(注:時系列から見るとおそらく当人が小学校6年生か卒業したころ)。仕事は田んぼの中の草取りや稲を叩く作業。ご褒美に白米のおにぎりを2個いただき、これが本当に美味しくて私はその場で食べてしまったが、なかにはお弁当箱を持ってきて、家族のために持って帰る子もいた。当時はご飯を普通に食べられることが一番の喜びだった。戦争が始まる前は餅つきなどもあり、戦争が始まると全く無くなってしまったので、農家でお餅などをいただくと、本当にうれしかった。一番記憶に残っているのは、次姉と一緒に道端の草をむしってきて、父に食べられる草を選んでもらっていたこと。食べられる草を貴重な一合のお米と一緒にお粥にして、4、5人で食べたことを覚えている。

 私とは2歳違いの次姉は、学校へは行かず、軍需工場へ働きに行って軍服の仕立てなどをしていて、自転車で大谷田にある工場まで通っていた。当時はそれが当たり前のことだった。食べ物がなくて不自由な生活の中でも朗らかな女性が多かった。井戸端会議のようにみんなが集まると「今日は食べるものが何もないので食事はなしにする」といった話を笑ってしていた。また例えば何か頂き物をしたら自分の家だけで食べるのではなく近所の家にもお裾分けをしたり、買い出しに行くにも近所で声を掛け合ったりしていた。婦人会会長の号令の下で竹槍を持った訓練や焼夷弾が落ちてきたときに消火するためのバケツリレー訓練などをした。今考えると竹槍で敵をやっつけたり、バケツリレーで焼夷弾の消火をするのは無理だったと思う。それでも男性たちが留守の間の国は自分たちが守るという使命感にあふれていた。

 そうした生活でも辛いと思ったことはない。「戦争をしているので仕方がない」という気持ちで、戦争に勝てば食べられると信じていたし、まさか戦争に負けるとは思っていなかった。天皇陛下から何かお話があるということで、負けたという話を聞いてショックだった。「これからどうなるんだろうか」「ちゃんと学校にいけるんだろうか」という不安がいっぱいで、戦争が終わってよかったという気持ちはなかった。食糧の買い出しも大変で、長姉らはカボチャをお腹に入れて、妊婦を装ったとも話していた(注:配給以外の食べ物を闇で買うのは違法だった)。帰る途中で空襲に遇い、隠れるところがなくて川に入ったという話も聞いた。

 3月10日の東京大空襲では、子どもだった私もあまり寝られなかった。明け方になって、神明町の実家近くにもリヤカーに荷物を積んだ人や大きな荷物を背負った人が顔を真っ黒にして逃げてきた。上野や浅草から千住新橋を渡って逃げてきたのだと思う。(後に結婚した)夫の実家のある千住地域は焼夷弾がたくさん落とされて、辺り一帯が焼け野原になり、父の親戚は深川に住んでいて、連絡が取れないと見に行ったら、防空壕の中で亡くなっていたという。姉の知り合いはB29を砲撃する高射砲の破片にあたって亡くなった。

 4月13日の空襲は近くだったから鮮明に覚えている。空襲を受けた千住地域の空一面が夕焼けのように真っ赤に染まっていた。このときB29が自宅近くに墜落し、近所のみんなが自分の家に落ちると思って逃げていった。赤い火の玉がどんどん迫ってきて、最後は現在の第十三中学校の先あたりの畑(現北加平町の農地)に墜落した。翌日に見に行ったら大きな穴が開いていて、油がいっぱいだったのを覚えている。

 長姉は義兄が出征することを承知の上で結婚し、姪は出征中に産まれた。戦争に送り出すときにはみんなで旗を振って千人針などもしたが、戦争が終わっても義兄は3年くらい帰ってこなかった。終戦間近になると手紙のやりとりもできず、義兄が生きているのかどうかも分からなかった。長姉は京都府の舞鶴(帰還船が着く場所)まで度々足を運び、義兄の帰りを待っていた。義兄が神明町の我が家に帰ってきたときは突然だったのでびっくりした。幸いにして義兄は帰ってきて、姪の顔を見ることができたが、子どもの顔を見られずに戦争で命を落とした人も大勢いたと思う。

 私の夫の家族は、千住に戻ってくるまで知り合いの家に間借りして暮らしていた。夫と結婚してここで暮らし始めたときはバラックで、ご近所もバラックの家ばかりだった。戦争の話はやっぱり辛いから、できるだけ思い出したくない。今が幸せだから過去のことは考えないようにしようと思うけど、ほかの国で戦争が起きると思い出してしまう。
(「語り継ぐ—あだちの戦争—戦争体験者のインタビュー」より要約、鈴木博子:昭和7年生まれ)

空襲下の様相

 —— 昭和20年(1945)2月25日、日曜日の朝、夫と私はそれぞれの勤務校の防衛にあたるべく身支度をしていた。やがて空襲警報、そのサイレンも終わらぬうちに、ドーンという大音響、夫はあわてて外を見て「落ちたっ」と叫んだ。私は夢中で姑と生後二ヶ月の乳児を押し入れに押し込み、自分も入ろうとしたがすでに遅く、ザザザザーと、夕立雨のような音とともに家が揺れ、押し入れの前にうずくまった私の背中にガラスの破片がとんできた。夫によると50mほど先に爆弾が落ちたという。8歳と4歳の子を千葉に疎開させていたことがせめてもの慰みだった。

 空襲警報が解除され、押し入れから出てみると、家の中はメチャメチャになっていて、窓のガラスが部屋いっぱいに散乱していて、玄関も吹っ飛んで、爆破された舗装道路の片割れの1m四方もあるコンクリートの塊が瓦屋根をぶち抜き、床板を押し潰していた。

 家の前の道路には血だらけになった女性や、血の滲み出た手拭いを頭に巻いた男たちが、ただもうひしめいていた。重症者を乗せた戸板がいくつか走り抜け、その中に血の気を全く失った小さな手だけを見せていた戸板があった。私はそのとたん、憤りで身体がワナワナふるえた。あのような可憐な手に何の恨みがあるというのだろう。夫は家族が無事であることを認めると、家の後始末を私に託して職場に走った。

 翌朝私も早めに出勤した。80歳近い姑と乳児を残して出ることは心配であったが、こんな理由で欠勤することは許されなかった。勤務校へ急ぐ途中の道路には50mおきに直径7、8mほどの爆弾のえぐった大穴が空いていた。きのうまで出勤途上の朝夕、挨拶を交わしていた人たちの長屋は影も形もなく、そのかたわらにつっ立っているケヤキのてっぺんには、見覚えのある赤いモンペの切れはしが、冷たい風にひらひらしていた。毎日道に出て「チェンチェ(先生)おはよう、チェンチェ、チャヨナラ」と手を振ってくれた幼女のものだった……。あのキャベツきざみのうまかったコロッケ屋の若者は……。用事で帰りが遅くなると、家の近くまで送ってくれたおかみさんは……。私は胸が引き裂かれる思いだった。

 焼夷弾を落とされた一帯は、まだ焼けぼっくいがくすぶっており、電柱の上部はメラメラと燃えていた。水道も各所で水をふいていた。ドロドロした油脂に汚れて転がっている焼夷弾の空筒に、「こいつめ、こいつめ」と怒りつつ、私は学校に走った。
(阿久津きい、当時30歳で千住高砂町に在住。『東京大空襲戦災誌』第2巻より)

 —— 私は足立区梅田町にあった梅島第二国民学校の教員であった。昭和20年(1945)3月4日(日)、日直で午前8時10分頃に家を出て、20分過ぎに学校に着いた。宿直だった教頭さんと話をする間もなく警戒警報で、教頭さんは「今日はデカいのがくるから早く逃げたほうがよい」と言って防空頭巾をかぶりズック靴をはいていた。まもなく空襲警報なしにドカンドカンと雷の落ちるようなものすごい音が聞こえ、私はすぐその場に伏せた。教頭さんはすでに防空壕に逃げたらしい。約10分ぐらいの時間を一時間ぐらいにおびえながら思い、小やみになった音にホッとして立ち上がった。

 初めて遭った空襲であるが、全く驚いた。あたり一面は全く一変して、壁は落ち、ガラス戸は飛び、残ったものは柱だけという物凄さ。校舎は直撃こそ受けないが、水道管は破裂して水浸しであった。すぐ前の農家の藁屋根は半分崩れ落ち、そこから娘さんが警防団の担架に乗せられて出てきた。右目は飛び出し、青白く苦悶していた。学校のすぐ北の工場には直撃弾が当たり、地下の防空壕の工員さんが13人ほど死亡したと聞いた。

 校庭の前の池には直撃が当たったらしく、コイ、フナなどはみんな白い腹を見せて浮かんでいた。哀れなのは池の南の農家の二年生の男の子の右手が池に浮いていたことだった。昼近くからポツポツ職員も出勤してきて一緒に後片付けをやり、夕方家に帰れたが、道路は電柱、電線、家屋の破片でどこをどうして帰ったか。付近の天理教の講堂には300数体の遺体が集められたと聞いた。

 それから五日後の3月10日未明、この辺りは大空襲で学校も焼かれてしまった。義姉と小さな甥は東北へ疎開するために旅支度をしていた。私はその時はもう生命は少しも惜しくなくなっていた。……川向こうはもう真っ赤に燃えている。火の手がすぐ側で上がるまでどこへ逃げてよいかわからぬ。しかし我が家は火災を免れた。義兄と二人残され、主人は8ヶ月前に召集されてどこへ行ったかわからない。私は急に父母が恋しくなり、山梨に帰ったが、ここもまた毎日機銃掃射と空襲のため、落ち着いて生活することもできず、果樹は熟れても出荷できず、どこの畑もすもも桃などが樹からポタポタ落ちていた。

 5月には妹も病気で死亡してしまった。薬はすべて働ける人のみにしか与えられず、妹はただ見込みのないということで、死を待つのみであった。
(吉田雪江、当時26歳、同上より)

舎人大緑地

 昭和14年(1939)、当時の東京府は東京緑地計画を発表、翌年3月「皇紀2600年記念事業」の一環の都市計画として「防災緑地」と「市民の保健、休養に利用して体位の向上」を図る観点から、都市から20km圏内で、周囲の環境や交通の便などを考慮して、6か所が選定された。そのうちの一つが足立の舎人大緑地で、戦時下であったので「帝都防衛」の面からも進められ、計画内の田畑が強制的に買収された。

 計画区域は100万㎡であった。翌年から造成されたが、有事には軍事利用が、平時においても青少年の訓練等の利用が想定され、学徒動員された「勤労報国隊」により整地作業が行われた。その後戦況の悪化で食料が不足してくるとさらに学生たちは勤労動員されて畑に整地し直し、近在農家の助けも借りて食糧増産に励んだ。

 戦後この地は改めて整備され、昭和56年(1981)に約63万㎡の舎人公園として開園した。この他に砧・神代・小金井・水元・篠崎の5か所があって、同様に公園として残されている。本来、この緑地を一大グリーンベルトで結ぶ計画であったというが、拡大する戦局がそれを許さなかった。

戦後の出来事

黒塗りの教科書

 敗戦となり、連合軍が進駐してくる事態となって、文部省は「時局の急転に伴う学校教育に関する件」としての通達で、「終戦の詔勅の趣旨に反する教科内容の省略」という指示を学校に出した。つまり戦争に関わる内容を教科書から削除せよということであった。これはGHQ占領軍が指示する前のことで、事実、それ以前の敗戦直後に軍事関連資料のほとんどは軍部の指示で焼却されていた。ただこの場合、軍部が戦争責任を逃れるためであったが、この大きな丸14年にわたる戦争の事跡を消してしまおうなどと、軍の上層部はそれまで「聖戦」と唱え、特攻隊を作り若い命をむやみに奪いながらながら、どういう精神で戦争に臨んでいたのか、大いに疑われる。

 いずれにしろ教科書に関しては、「国防軍備等を強調せる教材」「戦意高揚に関する教材」「国際の和親を妨ぐるおそれある教材」「戦争終結に伴う現実の事態と著しく遊離し」ている教材などを削除するようにとのことであった。その指示を受けて学校の現場では、生徒たちにその部分に墨を塗って読めないようにさせた。そしてその後、連合国司令部(GHQ)は、「軍国主義的なイデオロギーを執拗に織り込んだ」修身、日本歴史、地理の教科書と教師用参考書の回収を命じた。国語もそうであったが、それは墨塗りにした。その中の言葉としては「軍艦」「潜水艦」「神の剣」「軍旗」「観艦式」「明治神宮」「敵前上陸」「ハワイ海戦」「広瀬中佐」「もののふの情」「部隊長」などがあった。図画の教科書の飛行機や戦車の絵も消された。また国家神道・神社神道を教えることも禁止された。文部省も混乱の中にあったが、現場の教師も混乱した。校内にあった訓練用の木銃や薙刀も燃やされた。天皇の御真影も廃され、教育勅語の奉読もなくなった。

 そうした出来事よりも、何よりも必要なのは食糧であり、学校に弁当を持って来れない生徒も多くいた。学校では学用品もまともになく、紙も極端に不足していた。焼け残った校舎も窓ガラスや必要器材が盗難にあったりした。教師たちもその日暮らしの生活で、食糧の買い出しに行く必要もあり、午後は休校とする場合もあった。そうした事情により、夏休みも繰り上げられた。そうした中、GHQは米国その他から食糧などの支援物資を調達し、戦後の日本の苦境を支えることになった。
(以上は『足立区教育百年のあゆみ』より)

戦災孤児と「少年ハウス」

 戦前足立区に住んでいて戦後の混乱の中、まだ焼け跡の残る東京の真ん中の数寄屋橋あたりに居を移し、露店などを夫婦で営んでいた河村契全という方がいた。寝る場所も持たず、空腹を抱えながら汚い姿で街を徘徊する孤児たちを見るに忍びず、数寄屋橋の堀沿いにバラック小屋を建て、彼らを収容し面倒を見た。しかし昭和28年(1953)秋、この堀の埋め立てと高速道路建設のために撤去を強いられた。孤児たち約40人を連れて足立の本木町に戻ってきた。そしてこの地で85歳で亡くなるまで身寄りのない子供たちの育成に身を捧げた。79歳の時に国から黄綬褒章を受けているが、おそらくこのような勲章を受けた時には戸惑ったのではなかろうか。名誉欲のある人ができることではない。(中央区でも記述)

東京上野憲兵隊事件

 昭和20年(1945)5月25日夜の山の手大空襲時、1機のB29が足立区入谷町に墜落。搭乗員11人のうち2人は墜落死、8人がパラシュートで降下し捕虜になったが、残る1人の少尉は逃亡し、荒川放水路の支流付近で捜索中の警防団員にピストルを発射し、2人を殺害(1人は後日死亡)した。

 その2日後、彼は西新井駅の貨車の中に隠れているところを発見され、警官に捕らえられて東京上野憲兵分隊に引き渡された。分隊長のH少佐は、東京憲兵隊長のO大佐から「殺人を犯した米兵を捕虜として扱う必要なし」との指示を受けたために、部下のN曹長に命じて千住新橋付近の河原で米兵を処刑させた。

 終戦後、占領軍GHQはこの種の「戦犯」を探し出し、裁判にかけた。裁判の結果の前にH少佐は自決。N憲兵曹長は懲役12年、東京憲兵隊長のO大佐は懲役10年となった。敗戦国としては抗いようがない結果である。
(POW研究会資料より)

戦没者慰霊碑

 柳原稲荷神社の大鳥居の脇に昭和27年(1952)に建立された戦没者慰霊碑がある。柳原より出征して戦没した158柱の氏名・階級が記され、毎年6月15日に慰霊祭が行われている。この地区で158名の戦死者とは少ないとは言えないが、足立区全体の戦死者の数は不明となっている。これは各所で取り上げているが、敗戦が決まると日本の軍政府が戦時下の記録・資料を焼却するようにと国の内外に指示したことにより、各役所の出征記録まで焼却されたからである。

 実は東京都には戦災の大きな被害に比して、本格的な慰霊碑が極めて少ない。占領軍GHQ、とりわけ米軍が、戦争を思い出させる慰霊碑の建造を控えるように通達したことで、区が都に申請しても許可されず、都自体も米軍の意向を尊重した。米軍としては自分たちの無差別爆撃を日本人の記憶から消したかったのである。ただ、広島・長崎の原爆については世界的に知られた惨劇でもあり、米国も地元の願いを抑圧することができなかった。(墨田区参照)

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