空爆と東京湾上への米軍機墜落
昭和19年(1944)11月24日:第五、第六台場に被弾、建物二棟全半壊。
12月27日:B29が調布基地から発進した陸軍機飛燕の体当たり攻撃により品川の第三台場沖に墜落した。飛燕はそのまま垂直に落下した。東京港上の消防艇が「B29墜落せるため搭乗員の救助に出場す」とあるが9名死亡、残る3名が捕虜収所に送られた。このB29の機体はその後引き揚げられ、機体の損傷が軽く、日比谷公園公会堂前の広場に「これがB29だ」として展示される準備をしている最中の1月27日、日比谷付近への爆撃があり中止となったようである。
20年(1945)1月9日:十号と十一号埋立地の間の都橋付近に爆撃。作業中のポンプ船の側に爆弾投下あり、船の窓ガラスの大半が破壊。
1月11日:石川島造船所が狙われるも小被害。
2月19日:深川、京橋、江戸川付近で150トン級の船舶その他が8隻撃沈され、3隻破壊される。一部で死者3名負傷者1名その他不明。
4月4日:港湾局内で曳船2艘が襲われ1 艘が沈没、1 艘は半壊。
5月23−24日:B29・3機が対空砲火を受けて東京湾に墜落、30名が死亡、3名が捕虜となったが、戦後米国に帰還。
7月6日:所沢飛行場を攻撃中のP51艦載機が撃墜され、機は東京湾に墜落、飛行士は捕虜となったが、戦後米国に帰還。
7月18日:米軍の艦載機が横須賀沖に墜落、二名死亡。
8月6日:P51が横浜市沖に墜落、一名捕虜となり、戦後米国に帰還。
8月14日:艦載機が東京湾に不時着、二名が捕虜となり、戦後米国に帰還。
8月15日:艦載機が横浜市沖に墜落、二名が死亡。(この日正午、終戦となる)
※ 昭和20年(1945)9月2日、東京湾内の米戦艦ミズーリ号上で、日本軍政府は重光葵外相を日本全権代表として連合国に対して降伏文書に署名した。
お台場に漂着した多くの遺体
台場は幕末、ペリー来航を契機に、江戸とその周辺の防備のため砲台を据える場として湾上に5カ所造成された。品川台場と呼ばれ、その後不要の代物となったが、昭和初期に第三台場が「台場公園」として整備され、戦後にさらに周辺の埋立が進められ、今の海浜公園の先端に地続きとして残されている。その少し沖の品川寄りに位置する小島が第六台場で、共に国史跡に指定された。
3月10日の大空襲による大火災で逃げ場をなくした住民たちは強烈な炎に追われながら隅田川やその周辺の川に逃げ込み、さらにあちこちの橋の上では左右から逃げ惑う人々が集中して身動きでず、その上に強風に乗った火の手が人々の荷物に移り、そのまま焼かれるか、多くの人が川に飛び込んだ。その川の上にも炎は迫り、顔を上げることも難しく、そのまま冷たい水の中で溺死か意識を失って凍死した。
その後、川縁に折り重なって留まった遺体は引き揚げられて収容されたが、川に浮かぶ遺体は満潮の上げ潮に乗って戻されて浮遊しながら、いくつかの遺体はとび口などによって小船やいかだに引き上げられたが、他の多くの遺体は東京湾に流され、台場にも数えきれないほど流れ着いたという。それらの遺体は陸軍が引き上げて近辺各所に埋められた。その数は不明である。そして軍の機密として隠されたまま、戦後40年経って軍関係者の証言によりその事実が判明した。しかしすでに海浜公園として整地し、一時ゴルフ場として運営されたが、テニスコート場を含む有明の森公園となっていた後であり、そのままにされた。
それ以前からお台場に流れ着いた多くの無縁仏を弔うために、民間の有志により今のお台場海浜公園内の林の中に、高さ3mの角塔婆が建てられていた。その有志の「大黒講」が定期的に訪れ慰霊を続けてきたが、都から台場を整備して海浜公園を作るからと塔婆の撤去を求められ、関係者は抵抗したが結局受け入れざるを得ず、木製の塔婆は焼却された。
そして平成6年(1994)3月に都の港湾局によって別な場所に石碑が建立されたが、大正12年(1923)9月の関東大震災の時も大火災が生じ、同じように隅田川などからここに流れ着いた遺体が多くあって、合同慰霊碑とされた。ただこの慰霊碑の記述の中に「これを受け平成5年9月27日、当地での最後の慰霊祭が行われ」とあるが、何をもって最後と銘打ったのか。この関東大震災の犠牲者と一緒にするやり方は、都の慰霊堂と同じである(墨田区参照)。
当然、千葉や品川あたりの海岸へ打ち上げられた遺体も多くあったというが、東京湾の底に沈んだ遺体も数知れずあった。現にそれを知る人は、東京湾の海底に沈んだ遺体はシャコ、魚類、貝類の餌となり、そこで大きくなった魚介類を思うとどうしても食べられなかったという。また戦後しばらくのあいだ、東京湾の底は遺体からでた燐で青白く光っていたそうである。(以上は主に金田茉莉:戦争孤児のサイトより)
以下は当時お台場で高射砲陣地にいた人の話である。
—— 悪夢の一夜が明け、深川一面は煙と人の焼死したにおいで霧がかかったように薄暗く、20mくらい先からは何も目に映ってこず、むんむんと息を吸うことも困難な状態。焼け跡に残ったものは土台石、焼死者、ビル、コンクリートの電柱、電線は切れ、赤いトタン、黒い材木などが重なり、電車は赤く鉄の部分しか残っていない。逃げ場を失って川に飛び込んだものか、川の中で凍死した何千人もの人々、その苦しみは想像もできない。9歳と7歳くらいの幼い姉妹が、焼け焦げて性別不明の人に「お母さん」と叫んでいて、私が声をかけても返事はせず、ただ泣きすがっているだけだった。目は赤く髪を振り乱し素足で我が子を探し求め、泣きながら狂ったように名前を呼び続けてさまよっている人など。
台場の砂浜を見た時、誰も動けない。無数の焼死者、老人と若い女。波打ち際に横たわり、海にも限りない焼死者が浮いている。流木を流したようで、見ても涙も出てこない。次から次と流れ着く焼死者の群れ。(翌日の)岸壁には前日より増してきた焼死者、波の流れによって遠くに去ったかと思うとまた戻ってくる。…… 死骸は遠く湾外に流れたのか、魚に食われたのか、日が立つに従って少なくなり、砂浜に打ち上げられた者はバラバラになって波に洗われて白骨となり砂に埋まっていく。……
(注:当時の台場は江東区深川地区の埋立地に一部が繋がっていた)
戦争孤児と浮浪児狩りとお台場の「東水園」
終戦後、都内には親も家も失い寝る場所もない戦災孤児で溢れ、占領軍GHQは孤児となって街を徘徊する「浮浪児」に対して「治安対策」を名目にして都と警察に浮浪児の排除を命じ、警察は「狩り込み」と称して上野駅周辺などの孤児たちをトラックに乗せて施設に送り込んだ。しかしどこの収容施設も仮設も含めてすぐに一杯となり、請け負った業者は孤児たちの「処分」に困って、そのままトラックで山奥の中に行き、放置した例も多くあったという。(台東区参照)
現在のお台場は港区の行政下にあるが、その港区の東京水上警察署(現在は東京湾岸警察署として江東区に移転)の管轄下に当時のアメリカ占領軍が芝浦倉庫群を接収して設置した東京補給本廠があって、水上警察署はその警備も担当していた。これは米軍の食糧その他の物資倉庫であり、飢えた孤児たちは上野駅や新橋、赤羽などから集まって、大人の窃盗犯や浮浪者に混じってこの倉庫を狙い、暗闇に潜り込んで繰り返し食料その他を盗み出した。中には闇屋にそそのかされて高価な物品を盗む場合もあった。東京水上警察署は岸壁近くの第四台場に、捕まえた孤児たちを収容施設ならぬ、拘置所とも言えない動物園の檻のような鉄格子のついた大きな箱をいくつも並べてた中に、それぞれに何人もの孤児を入れて閉じ込めた。その様子が新聞記者が撮影した写真(昭和21年:1946年7月)で残っていて、子供たちは裸にされている。これは単なる留置では何度も脱走されるためであったようだが、この報道に世論の非難が高まり、都の民生局保護課と芝(港)区役所と水上警察と米軍駐屯部が対策を重ねて協議し、第五台場の水上警察署見張所を改造して浮浪児収容施設とし、とりあえず拘置所にいた15名を隔離することになり9月に開所した。
この時の文書の中では「芝浦地区の浮浪児は特に悪質不良性のもの多く」としている。戦前には普通に家族で暮らしていた子供から親を奪い、戦争で孤児にして放置し、さらに悪質不良性浮浪児にしたのは誰なのか、しかも檻に入れて閉じ込めるとはどっちが悪質なのか、仮に不良などせずにおとなしくしていれば、誰も助けてはくれず飢え死にするだけであった(鉄格子による閉じ込めは大阪でも行われている)。
この収容施設を東水園(東京水上署の名前から)と名付け、施設の管理は水上警察署があたり、署員が交代で船で通った。週に一度は婦人警官が通い、子供の衣類の洗濯や縫い物、本を持ってきてその読み聞かせをしたり与えたということであるが、正規の常駐所員はいず、養護施設としては異例であった。何よりも子供たちに学校に行く機会も与えられなかった。
そして翌22年(1947)夏、より大きい収容施設の必要もあって第五台場から第一台場の旧海軍兵舎を改修して移動、多い時は80名近くの孤児を収容した。計画では施設での訓育更正後、小学校修了者は東京補給本廠の雑役に雇用し、未修了者は然るべき施設に入所させる等とあったが、あくまで建前であり、まともに運用されたとはいえない。何よりもこれは都区の正式な施設ではなかったし、警察が都合よく孤児を隔離するための臨時の処置であった。ただ、ここではキャッチボールなどして遊ぶこともできたし、農作業で食物も育てたので、警察の善政としてメディアにアピールされ、メディアや文化人などが取材に訪れ、時には孤児の天国などと喧伝された。その中で作家の高見順は「他人の不幸に対して好奇心を抱くとはなんという下司な根性だろう。… この子供たちの悲劇は私たちの悲劇である。子供たちの悪は私たちの悪である。日本の悪であり、日本の恥である」と率直に語っている。
最初の第五台場の時に、おそらく冬が終ってからであろう、13歳の子供が台場にある雑木を拾い集め、針金と紐でイカダを組み、深夜の満潮時にそれに乗って逃走したが(対岸まで約500m)、湾内を流されて鮫洲の沖合で漁師に助けられたという。続いて当時の29名中18名が泳いで逃げ出し、そのうち何人が溺死したのかわからないと。それほどに当初の東水園の環境は子供たちの心を閉ざすものであった。ただその内の多くがまた捕まって園に戻された。取材したある記者が、この孤島を「何のことはない、上野動物園にある猿ヶ島そっくりだった」と述べている。女児が4名いたとの記録もあり、この中には13歳で性病にかかっていた子もいた。
食事は貧しいものであり、残されている食事時の写真には各自丼ひとつだけで、それも白いものしか見えない。服装は最低限のものを身につけているだけで、靴もなく、裸の児童もいた。床は板でその上にボロボロになったゴザが敷かれているだけであり(その後畳が敷かれたようである)、暖房機もなかった。お菓子やおもちゃを持って訪れた上野の少年補導婦人会の人たちが、その様子に驚いて、セーターや服などを持って再訪したともいう。いずれにしろ子供たちにとっては閉ざされた空間で、街(上野など)に戻りたいと話す子もいた。移された第一台場においても昭和23年(1948)には18人が流木などを抱いて逃走し(対岸まで300m)、職員は上野で刈り込みを行い、8人を連れ戻した。残りの一人が溺死体で漂着した。その他は不明のままである。
その後、このような警察が運営する方式は不適当として、都は23年(1948)9月に民間の「戦災者救援会深川寮」に運営を委託した。それによって正式に養護施設となった。さらにこれによって24年(1949)には東水園の中に港区の高輪台小学校の分校ができることになった。子供たちは喜んだ。しかしこの体制が整った矢先に25年(1950)早々、東水園は閉鎖が決められた。この理由は昭和24年(1949)8月末の「キティ台風」により、第一台場の収容施設が大きく壊され、その修理費用がかかることと、もともと水道や電気設備がないことが衛生上の問題として養護施設として不適当とされたようである。この時期に残っていた孤児たちはいくつかの施設に分散収容された。中には八丈島にも同様な施設が作られていて、そこに送られた孤児もいたという(同島参照)。閉鎖前の12月には米軍関係婦人によるクリスマスプレゼントが届けられた。
(以上は主に『戦争孤児と戦後児童保護の歴史』明石書店:藤井常文から)
ちなみに第五台場と第一台場は最終的には品川区の埋立地に取り入れられ現在の港南五丁目辺り(品川埠頭)、「牢屋」の置かれた第四台場は天王洲アイル辺りとなって、第二・第七台場は海上交通の障害とされ、浚渫撤去された。
この東水園に収容されていた一人の孤児(当時小学6年生)のいささか驚く証言がある。
「(戦災で)両親を失ったあと親戚へ預けられたが、嫌がらせを受け、いたたまれず家を出た。… 上野の地下道には自分と同じ孤児たちが大勢いて仲間になった。浮浪児と呼ばれ、”近づくな、目を合わせるな”と世間の人たちは汚物を見るような目で遠巻きにして眺めるだけ、食べ物を運んでくれる人はいなかった。10日も食べられない日もあって盗んで食べるより仕方なかった。盗むと大人から殴る蹴る、こん棒で叩かれた。それでも盗む。成功したら食いだめをし、腹をこわす。常に飢えていた。死んだ子は大勢いる。餓死や凍死、変死、そして自殺した子もいた。”刈り込み”で捕まり板橋養育園へ入れられた。子供の死体がごろごろ廊下にまで転がっているのを見て、… 鉄条網で張り巡らされていた塀を夢中で乗り越え逃げた。それから占領軍の食糧倉庫のあるお台場に行き盗みをした。そこで水上警察に捕まり東水園に入れられた。施設は水上警察が見るに見かねてつくったのではない。浮浪児を持てあましていたのだ。… 東水園で生活したのは22年(1947)9月ごろまで1年足らずだった。そこでの生活は海にもぐり、B29の残がいを引き揚げてくる作業だった。遺骨も海底のあちこちにあった(隅田川から流された空襲犠牲者の遺骨であろう)。大人でも大変苦しい仕事を子どもにやらせるのである。あまりにも苦しく辛い作業に隙をみて逃げたが、また捕まった。東水園では勉強はしなかった。警察署の職員は我々子どもに非常に冷たかった。殴る蹴るは日常茶飯事だった。その上子どもに配給される米を横取りしていた。その後キリスト教の”あいりん(愛隣)会”が運営する目黒若葉寮(目黒区参照)に入った。ここは軍隊の馬小屋を孤児施設にしていた。施設長がいい人だったので逃げなかった。中学、高校に通い、あいりん会の職員になって夜間大学に通った」(記録作家、金田茉莉の聞き書きより)
国や行政の無策というもの
この若葉寮には東水園から15名が送られたが、幸運というべきであったろう。何しろここで初めて人間扱いされたのである。しかも20円(このころはインフレ下であったが、今の500円くらいか)の小遣いがもらえたという。しかしそれ以外の救われなかった子供たちのほうが当然大多数であり、上記に語られている孤児たちの体験は共通しており、戦後の生活に余裕がなく食べ物に乏しい親戚に引き取られても、「穀潰し」として邪険に扱われ、耐えられずに街に出て飢えに苦しんだ孤児たちの話は枚挙にいとまがない。そして餓死や病死や凍死、最後には自殺して「お母さん」の待っているところに旅立って行った子供たちも少なくなかった。ヤクザや闇商人に利用された孤児たちもいたが、それでも食べられるだけで良いほうであった。そもそもが計画だけで実際にはまともな救済施設を作らず(計画だけは行政の記録に残されているから何らかの具体的な対策が取られていると思われるが、実際にはそうではない)、一警察署に任せている政府や都も問題であり、国が始めた戦争によって生まれた行き場のない孤児たちに支援物資を届ける配慮も発想もなく、金銭的な援助を一円もすることがなかった。政府は養子縁組を推奨したが、それに対して手当を支給するわけでもなく、仮にそうしていたら、親戚でも多少は大事にされたであろうに、その発想もなかった。むしろ「労働力」として農家や商家に引き取られ、朝早くから畑に出て労働をし、学校にも通わせてもらえなかった子供たちもいる。
一番の問題は彼らが子供のゆえ、自分たちが置かれた状態を客観的に考える頭も心のゆとりも全くなく、声を上げる手段も方法も持たず、ただうつむいて自分の境遇を黙って受け入れるしかなかったことである。そのような立場の子供たちを察する心も行政にはなく、そもそもが「浮浪児」という言葉を当てたことも孤児たちの差別を助長する原因になったし、「戦災孤児対策」ではなく「浮浪児対策」という観点からしか考えず、その子供達の将来を含めて救済するという発想ができる為政者はほぼ皆無であったということである。しかもその浮浪児という官製の言葉を、鵜呑みに使ってそのまま広めたマスメディアの責任も間違いなく大きい。
生き延びた孤児の証言にあるように、まさに「国に見捨てられた」のであり、外地の戦場から生きて還った兵士には、その後軍人恩給が支給され、戦死した兵士の家族には遺族年金が支給されたことを考えると、国内で激しい空爆に晒され突然家族を失った孤児たちには、何も支援されず、逆に世間に邪魔者扱いにされた。ある意味これは戦後の国の一番大きな過失であり、何もしないことが犯罪となるいい例と言ってもよい。国の将来のために一番大事にしなければならない生き残った子供たちを(そのための集団疎開であった)戦後さらに見殺しにしたのである。ただいつの世にもあるように、ごく一部の心ある人たちがそれぞれの場所で自費で施設を作り、周りにいた孤児たちを救うことは当然あった。
空襲で「戦死」し、わが子を孤児として残して逝った両親の、死に切れなかったであろう思いは察するに余りある。天国からわが子が追い詰められ、困窮した姿を見て、どうして道連れにして一緒に死んでしまわなかったかと、親の嗚咽の声が聞こえてくるほどである。現に残された孤児の多くが、あまりにも辛い境遇の中、「どうしてお母さんは自分も一緒に連れて行ってくれなかったの?」という思いを死ぬまで抱えて生きていった(しかも引き取った親戚に「親と一緒に死んでくれればよかったのに」という冷酷な言葉を浴びせられることさえあった)。実際に、上記で引用した元戦争孤児の記録作家、金田茉莉は、自分の子が大人になった後も、「お母さんと一緒に死にたかった」とつぶやくほどの辛い体験を背負っており、また高名な落語家の妻となった海老名香代子も、あの時お母さんと一緒に死んでいれば私は幸せだったと後年になっても(つまりすでに家庭を持って幸せな境遇にいたなかでも)語っている。どれほどに孤児として生きた時代が過酷なものであったか、彼らは本当の意味で一人で、つまり子供の時から孤立無縁の中で生きていかざるを得ず、何とか縁を得て結婚できても、自分が戦争孤児であったことを相方にも隠していた場合も少なくないのである。