(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)
学習院大学
江戸時代後期の1847年に京都御所で開講された学習所(京都学習院)を起源とする。明治10年(1877)に皇族・華族の為の教育機関として学習院が神田錦町に開設された。17年(1884)宮内省立の官立学校となる。制度としては初等科(小学校)、中等科(五年制の中学校・高等女学校)、高等科(大学予科に相当で三年制)からなる。翌年華族女学校(中等科)を創設(四谷区尾張町)。明治41年(1908)現在の目白に移設。戦後の昭和22年(1947)華族のための教育を削除して私立学校とし、24年に新制学習院大学が開学した。以下は『学習院大学五十年史』および『学習院百年史』からである。特に百年史における記述は他になく詳細であり、中・高等科、大学別に書かれているが、混成している。
<戦時体制へ>
昭和6年(1931)日本は満州事変を起こし、7年の五・一五事件、11年の二・二六事件などを通じて軍国主義体制を強化していき、12年(1937)3月には、高等科の修身国語及漢文・歴史・地理・哲学概説-法制及経済の教授要目が 時代状況を反映して 「皇国の道」や「国民精神」を強調した内容に改正された。そして日本は12年7月より日中戦争(支那事変)に突入、学習院の教育内容や学生生活も戦時体制の影響が色濃くなっていった。同年、国民精神総動員運動が開始され、13年春に国家総動員法が公布され、労務・物資・事業・価格・出版など、国民生活の広い範囲にわたって統制が加えられるようになった。さらに同年、 文部省は中等学校以上の各学校に対して、夏休みなどを使って勤労作業に従事するように指示した。当初その目的は実践的な精神教育にあるとされたものの、次第に戦争による労働力不足の補填の性格を強めていき、14年以降は文部省は夏休み以外にも随時これを行うように通達した。同じ14年、一般国民には国家総動員法に基づく「国民徴用令」が発せられ、徴用令書によって軍需的な生産に従事させることが出来るようになった。たとえば建築技術者が満州に徴用されることもあった。
昭和13年(1938)には日中戦争で戦死した卒業生3名の慰霊祭が行われ、毎年行われるようになったが、一方で戦死者の慰霊を行う靖国神社への参拝は8年以降大祭のあるたびに参拝し、太平洋戦争以降は戦勝祈願も含めて何度も参拝した。15年には8名の慰霊祭を行った。これとは別に明治神宮奉拝式もあり、また日中戦争拡大に伴い、毎月1日を興亜奉公日と定められ、宮城遥拝、戦没者への黙祷などの行事が行われたが、それに加え、学習院関係者の出征壮行会、防空演習、野外演習、陸海軍将校の講演会、往復20km以上の武装鍛錬行軍などが行われ、学生たちはこうした各種の行事に追われた。太平洋戦争開始以降は宣戦布告の8日を大詔奉戴日として興亜奉公日に代えられた。
日中戦争が本格化して以降、各学校の自治的な校友会(輔仁会)活動は戦時体制に組み込まれていった。15年9月、文部省は「現下の校友会其の他の校内団体を再組織し、一意報国精神に基く心身一体の修練施設として新しき校内団体たらしむること」を指示し、翌年から各高等学校等の校友会は報国団・護国会などに再編成され、会の目的は、従来の「会員互いに相続和し高尚なる智徳を涵養し」から「心身の鍛錬学徳の並進を図ると共に高邁なる気節を養い」に改められた。各部はそれぞれ総務部・鍛錬部・文化部・国防部・生活部の下に置かれ、ラグビーやホッケー、スケートといった名称は闘球や杖球、氷滑というように変更された。
女子学習院においては他の女子校と同様、陸海軍の兵士への慰問袋や慰問文の作成、傷病兵用の白衣の縫製などに授業時間を割いて従事した。
<太平洋戦争へ>
16年(1941)夏、文部省は学校報国隊の編成を命じ、学習院報国隊が結成され、これは軍隊の組織に倣い、大隊・中隊・小隊とし、当初は軍事教練の成果を目的としていたが、勤労動員のための組織となった。この作業の中には中等・高等科による世田谷区喜多見町の中等学校の移転予定地の3000本の樹木伐採と撤去、開墾作業もあり、これは長期に渡ったが、その後は校内その他の防空壕造成もあった。なお大学・専門学校等は卒業を三ヶ月繰り上げられ、12月となった。さらに翌年は半年短縮され、高等学校も同様となったが、18年以後の高等学校の修業年限を3年から2年に短縮する決定が行われた。こうした下準備を行なって昭和16年12月8日、日本軍は太平洋戦争に突入した。
昭和18年9月、政府は徴兵猶予の停止の方針を発表、10月には在学徴集延期臨時特例が公布され、学生の徴兵猶予が停止、文科系学生が徴兵されることとなり、10月21日の明治神宮外苑競技場における出陣学徒壮行会を経て、それぞれが戦地に向かった。学習院高等科からは、第二学年10名と第一学年5名の学生が応召した(ただし大学生を含めていない)。翌年には、徴兵年齢が一年引き下げられ満19歳となり41名が応召した。以下はこの徴兵猶予の停止の放送を聞いた当時の高等科一年の学生の感想で激烈である。
—— 自分の中からこみ上げてくる熱いものに耐えかねて身内が打ち震えるのを感じた。何と清々しい気持ちだったろうか。あの日以来我々分科の学生は国の直接の守護たるべき日の近き喜びに固い決意のもと、今まで以上の輝きある日々を送っており、又理科の人々は我々の決意を彼らの心に注いで更に一層の努力と精進を以てひたすらに彼等の道を歩み来たっている。すでに醜の御盾たる以上は我々は最早生命はなきものと思っている。そしてこの大東亜戦争が耀かしき栄光の日へと指標を与えられる為には我々今日の時代の若者すべてが死ななければならぬということも、今では常識以上に平凡な真理となっている。
国全体の出陣学徒壮行会とは別に11月22日に学習院校庭で壮行式が行われた。まず出陣学徒を先頭に高等科・中等科の学生が「武装して」明治神宮へ戦勝祈願の行軍を行い、すでに繰り上げで9月に卒業して大学に入った形で入隊する卒業生や学生の父兄なども参集した。高等科二年の出陣学生は翌年9月卒業予定であったが、仮卒業の証書が授与された。その式次第は主に次のとおりである。
宮城遥拝/君が代奉唱/宣戦の詔書奉読/祈念/院長・学生代表壮行の辞/出陣学徒答辞/「海ゆかば」斉唱 ……
答辞の中で学生代表は「生等初等科以来十有余年、皇室の御殊遇に浴し諸先生の御指導御鞭撻により今日あるを得たり。今や優渥なる聖旨を奉戴し愈々直接に陛下の御盾となりて出陣し、一切を大君の御為に捧げ奉り以て悠久の大義に生きんとす」と述べた。送る側の高等科長は「大君の御盾」となる決意を持って「生還を期すなかれ」とも述べたが「武運長久」を祈ること人後に落ちるものではない、復学については最善の処置をするとしている。式後、全学生・教職員は正門前に整列し「神州男児」を歌って出陣学生を送った。
<勤労動員>
18年(1943)に入り、報国団(輔仁会)は改組され、初等科も加えて全学的な組織となった。それまでの限定された勤労奉仕が勤労動員と代えられ、秋の学徒出陣以降は長期動員が示されるが、 19年3月、政府は「決戦非常措置要項に基く学徒動員実施要項」を発し、中等学校以上は年間を通じて随時動員を実施することを原則とした。学習院報国隊は、軍需工場や農村に動員され、また校内の施設を転用した院内工場で作業を行い、授業は平常時の半分もできなくなった。中等科の上級生と高等科は下丸子の東京無線電機の工場に通うとともに雨天体操場を東京無線の工場に転用した。文部省はこれを「教育の種類程度に適応せる作業を選び、学校と職場生活と修練とを相即一体たらしむる」という理屈で訓令した。この他三年生以上は東京陸軍兵器補給廠田奈分廠、一年生は小田原湯浅蓄電池工場、二、三年は茨城県内原訓練所(基本は満州開拓団の訓練所)などに出かけた。これらに軍事教練なども加え、成績評価の基準にするようにとした。
これに伴い各部も改変され、文化部は生活部に吸収(生活部の任務は「戦時学生生活に適切なる事業を行う」こと)、鍛錬部と国防部は合併して鍛錬部となり、その所属の競技部は戦技部とされ、野球部、闘球、杖球、氷滑などは活動停止となった。また秋の運動会(秋季錬成大会)も18年から中止となり、輔仁会の「輔仁会雑誌」は紙不足で発行中止となった。一方で前線の卒業生や出陣学生に向けて、在学生の勤労動員、初等科の疎開の様子などを報告する小冊子「輔仁会報」が18年末から19年まで発行されたが、その後の大空襲の影響で休止された。この会報に書かれた中等科五年生の報告である。
—— …… かつては春爛漫の桜花の下に青春の歌を歌い、秋玲瓏に浸った校庭の一角では今、(学校工場の)機械が轟々と唸り続け、そしてホッケーグラウンドでは麦や甘薯が植えられ、院内のどこを見ても戦の真最中にある学園の姿が映し出されている。…… 我々は常に確と学習院精神を抱いて倒れても倒れてもこの皇国三千年の輝く歴史を護持していくべく、やがては先輩諸兄の後を追って皇国のために仕えまつらんと誓いつつ、己に与えられた道を精進しつつあります。
次に内原訓練所における三年生の報告である。
—— (ここでは農事と錬成に明け暮れた。宿舎は「日輪兵舎」と呼ばれる円形の建物で中央が土間になっており、…… いわば丸太と板の掘立小屋であった)。我々二、三年生の宿舎では毎朝5時半に「起床」の合図で起き、30分で洗面、舎内の整頓、清掃を行って広場に集合、朝礼の後1時間半の朝間作業(農作・駆足・軍歌演習)に従事、次に朝食、4時間の学課、昼食、午睡、午後の農作業と続いた。稔りの秋を迎えた農場では、…… 収穫と冬作の準備に目の廻る様な忙しさである。…… 午後の農作の時間、舎内当番は糞尿を汲取り、便所を掃除して任務を励行、… 皆辛いが一つとして皇国臣民の修養の材料とならないものはない。… 長い修練の間には苦楽あるが、時折催される武道・野球・闘球等の試合や懇親会は我々に休息と明日への推進力を与えてくれる。
19年9月から小田原の湯浅蓄電池工場(海軍の潜水艦用の蓄電池製造)へ動員された中等科一年生の事例では、学習院には皇族の親王・内親王もいて、一般生徒と同様に動員されているが、この一年生では3人の親王が小田原に同行していて、特別に宿舎が工場内に建てられた。午前中は授業3時間と1時間の自習、午後が工場の作業であったが、内原訓練所と違って小田原では食糧不足が深刻であった。またこの年の11月下旬から米軍の東京への空襲が本格化し、大田原上空を頻繁に通過し、しばしば授業や作業が中断された。年が明け、父兄の要望もあり、1月まででこの動員は終わった。
上記の学年のいずれも他校に比べて学習院は、特殊な位置のゆえであろう、動員の中でも授業時間が確保されていた様子がうかがえる。
20年(1945)3月、政府は「決戦教育措置要綱」を発し、全学徒を食糧増産・軍需生産・防空防衛その他の緊要業務に総動員するため、小学生を除く授業を一年間停止するとした。中等科の二年生以上は目白に残っていたが、4月13日の城北大空襲により、目白の主な校舎が焼失した。そこで山形県鶴岡市に疎開が検討され、そこで勤労動員も兼ねることにし「農耕勤労隊」が結成された。7月に移動し、宿舎は旅館であった。やはり午前中は授業が実施され、勤労は午後であったが、本格的に体制が整ったのは8月に入ってからであった。作業は松根油(松の根を掘り起こしてその油を石油の代わりとする)、工場で航空機関係の部品作り、味噌・醤油作り、農作業などであった。ここでも食糧事情は逼迫し、生徒の中には病気になれば家に帰れるとそれを願うものもいた。そして15日に敗戦の報があった。生徒たちは頭をうなだれ、涙を流しながらしばらく身動きもしなかった。その後も作業は続けられたが、生徒の放心状態は続いた。東京への引き上げは、列車の運行が混乱している中、比較的早めに8月末に行われた。その際、銃や剣、背嚢は焼却処分された。
高等科は文科と理科に分かれていたが、文科の勤労動員は中等科と重なる部分が多い。理科の学生はほぼ陸軍の糧秣廠に動員されたが、他には東亜農業研究所での薩摩芋の品種改良についての研究のほか理化学研究所、東大航空研究所、船舶試験所、海軍技術研究所、横須賀砲術学校などに小数が分散して派遣された。
女子学習院においても開戦後直ちに勤労報国隊が結成された。その主旨は「我等は深く時局を認識し、進んで国家の要望に応じ、同心協力、以て勤労報国の誠を致さんことを期す」とした。報国隊としての第一回の作業は負傷兵用のガーゼを巻くことで、翌年1月半ばまでのほぼ一ヶ月で19日間が作業日となった。その後は夏以降に二回同じ作業があり、翌18年には9月から陸軍の防寒外套仕上げ作業が行われた。またこの年、女子高等科の学生は、夏季錬成を兼ねて、下総御料牧場での勤労作業を交代で行うが、蔬菜園で鎌を使っての除草、牧場での鶏・羊・豚の飼育、清掃、炊事などに従事、それらは普段経験したことのない作業であったが、むしろ労働に対する清々しい思いが残った。
一方で9月の次官会議で「女子勤労動員の促進に関する件」として「女子勤労挺身隊」の結成を促されるようになった。これは14歳以上25歳未満の未婚者で就業していない女性を動員の対象とし、まだ強制ではなかったが、女子学習院でも早々に検討し、この10月中旬、女子学習院同窓生が「常盤会勤労挺身隊」として女子勤労挺身隊を結成した。これについては学習院が第一号とされる。またこれは女学校の卒業生をそのまま勤労動員先の軍需工場等に継続勤務させる意図があった。
この後、食糧不足による自主生産が必要となり、女子学習院の場合は宮内省から白金御料地(現・国立自然教育園)があてられ、各学年が交代で開墾した。しかし地質は粘度質で一面に笹が茂っていて開墾作業は重労働であった。それでも何とか各種の野菜は採れるようになった。19年(1944)に入り、教室を作業上とした台紙張り合わせ作業や航空隊員用の徽章の製作、包帯の包装作業などが行われた。次に秋口より学校を工場とした真空管(通信機や電波探知機に使われるもので東芝製)組立作業が行われた。これには中等科の上級生と高等科があったが、授業の継続はできなくなった。土曜日は東芝の川崎工場が休電日の都合で休みだったが、代わりに日曜日も出勤した。
20年(1945)3月、卒業式が行われるが、19年度はほとんど授業がなく、成績表には作業時の成績だけが記されていた。その中でも一人の女学生の回想では、「(中途半端に打ち切られた)斎藤先生の講義をどうしても最後までうかがいたく、7、8名でお宅に休電日ごとに伺い、講義を続けていただいた。先生は本当に喜んで私共を迎えてくださった」とある。
20年4月半ば、京浜工業地帯への空襲で川崎工場が焼失したため、学校工場の継続は困難となったが、不合格品からの再生部品で作業を続けた。今度は5月25日の空襲で女子学習院の校舎が焼失、学校工場は中断した。しかしこの真空管は重要部品とされ、移動した仮校舎で7月から作業を再開した。
<学童集団疎開>
昭和19年(1944)5月から学童集団疎開が開始された。学習院初等科は沼津や日光、修善寺などに疎開し、疎開学園が開校された。沼津には当時五年生の皇太子明仁親王(平成天皇)が近くの御用邸から参加されていた。ここでの食料事情は悪くなかったが、ちょうどマリアナ諸島のサイパンやグアムが陥落した時期で、空襲が予測されるため、7月半ばで切り上げた。女子学習院では19年8月、初等科四年から中等科二年までの212人が栃木県塩原町の大きな旅館を貸り切って疎開し、学園生活が始められた。ここでは敵国語として排斥されていた英語や西洋史の授業も行われた。しかし食糧事情は悪く、大抵一汁一菜でみんなは腹をすかせていて、いろんなものを食材にした。他の学校の疎開先と同様に、ノミ・シラミに子供たちは悩まされた。
20年春、中等科の新一年生は、翌年に皇太子が進学予定ということもあって初等科の疎開先の日光に合流し、寮舎は金谷ホテルで、学習院日光学寮と称された。「僕達は疎開ではなく錬成のためなのだ。普通ならば一年間授業中止なのだが、日光のように良い所で勉強が出来る僕達の幸福を心から有難く思っている」と生徒の一人が文集に書いているように、ここは特別であった。ただ勤労動員という名の農耕作業なども取り入れられている。それでも食糧不足は避けることができず、主食は米飯は少なく、大豆・麦混ぜ飯、千切り大根、わかめの味噌汁、たくあんなどのメニューが並んでいる。「あのころは寒いとか苦しいとかは非常事態だから我慢するのは当然という感じだったが、日光では腹が減り、当然どころではなくなった」との生徒の回想もある。それよりも3月に硫黄島、6月に沖縄が陥落し、米軍の本土上陸の危険に備えて疎開先を福島県へ移す計画もあったが、8月15日、日本は敗戦となり、計画はなくなった。
<校舎焼失と敗戦まで>
昭和20年に入ると、東京は激しい空襲を受けるようになった。3月10日の大空襲により、東京東部の地域は一夜にして死者8−9万人という未曾有の被害を受けた。4月13日の夜半から翌未明にかけて豊島区を中心に広範な地域が空襲を受け、目白校地にあった木造建築物の大部分が焼失した。これは目白校地の総建坪の約半分に相当する。ただし図書館は危うく焼失を免れた。翌日から教職員と学生が焼け跡の整理に励み、200本の焼夷弾も処理したが、不発弾の一つを学生一人が持ち帰り、誤って全身火傷を負い、死亡する事故もあった。
さらに5月25日夜から翌日にかけての空襲で、四谷の初等科の木造校舎と青山の女子学習院の校舎の大部分が焼失した。女子校舎の場合、コンクリート造りであった書庫・薬品庫・体操教室と校舎から離れていた植物園は焼け残ったが、書庫は窓の鉄枠から火が入り、多くの図書を焼失した。また教職員と生徒の家も多数被災し、2名の生徒が焼死した。校舎の焼失を知らない教職員と生徒は交通機関が止まっている中、徒歩で登校したが、学校が瓦礫の山になっている光景に呆然とした。ちなみに当時の女子学習院の校舎の俯瞰図を見ると、敷地は広大で校庭が二つあり、校舎は二階建てで幼・小・中高別に区分けされ、その中には中庭もあり、現代では考えられないゆったりとした配置である。この戦災の結果、当時の東京に残っていた女子学習院の学生は、目白の徳川侯爵邸や音羽の護国寺を仮校舎として授業を続けた。戦後、女子学習院は青山牛込区戸山町の近衛騎兵連隊跡に移転、現在、青山の旧校地は秩父宮ラグビー場となっている。
空襲を受けた目白の学習院は、6月で授業を打ち切った。中・高等科の学生は疎開を兼ねて地方へ勤労動員されることになり、7月、中・高等科の学生と教職員からなる学習院国民義勇隊が結成され、高等科を第一戦隊、中等科を第二戦隊とした。中等科の2−4年は山形県鶴岡市へ農耕勤労隊として動員され、午前中は体操や授業を行い、午後は勤労作業に従事した。高等科は岩手県胆沢郡相去村六原道場・山形県南村山郡堀田村高湯・長野県北佐久郡軽井沢町などへ動員された。岩手県の六原道場へ行く班は途中仙台地方が空襲を受け、到着まで時間がかかった。六原は茨城県の内原と同様な農民道場であったが、そこで訓練を経た後、近郊の草原地の開墾を請け負うことになった。近隣の農兵隊の助けも受けて草を刈り、耕作して馬鈴薯を植え、大根や白菜の種を蒔いた。作業中に米軍機の機銃掃射を受けることもあった(この時期は日本の制空権は失われ、各地に米軍機が飛来した)。山形県堀田村高湯では蔵王に近い山地の雑木林を開墾することになり、これも現地の青年隊の助けを借りて開墾したが、開墾作業が終わったのは8月に入ってからであり、それから蕎麦・大根・蕪などの種を蒔いた。軽井沢へは比較的体の弱い高等科の学生が動員され、あまりまとまった仕事はなかった。ただ、元首相であった近衛文麿がこの地に滞在していて、その農園でも作業したが、最も重労働であったのが松根掘りであった。その油をガソリンの代用としようとするものであった。いずれの動員場所も食糧が不足し、栄養不良で下痢するものが増えたほどで、引率した教職員は調達に奔走し、学生たちも作業の合間に山菜採りなどに励んだ。
日本は7月26日に連合国は無条件降伏を要求するポツダム宣言を受け、それに対する返答を無視しているうちに8月6・9日に原爆が投下され、15日の正午、いわゆる玉音放送によって戦争が敗北に終わったことを知らされた。翌日文部省は学徒動員解除を通達した。六原道場班はしばらく作業を続け、全員の引揚げが終わったのは9月上旬で、収穫期を控えていた馬鈴薯などの農作物は現地の農兵隊に譲った。山形県の高湯班は携行していた武器の処理に困り、土地の人々に隠れて開墾地に行って銃を地中深く埋め、剣は池の中に投じた。ここにひと月残留しているうちに収穫できた作物は東京まで貨車で運び、教職員にも配分して喜ばれた。軽井沢では8月10日ごろに越冬の話で近衛元首相にたまたま相談したら「大丈夫、冬を越すことはない」という返事で、何か異変を感じていたが、その5日後に終戦となった。実は10日に政府はポツダム宣言受諾の通知を連合国に伝えていたので、近衛は知り得ていたわけであった。軽井沢班も銃剣を現地で処分し、9月5日に解散式を行い、その後に帰郷した。中等科と女子学習院は10月10日、高等科は10月19日、初等科は11月14日から授業を再開したとあるが、授業がまともな形になったのは翌年からである。
<占領政策と学習院>
日本はアメリカを中心とした連合国軍GHQの占領下に置かれることになる。GHQの対日管理の重点は、日本の非軍国主義化と民主化である。10月には 、GHQから日本政府に対していわゆる「人権指令」が発せられ「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」として治安維持法・治安警察法などの撤廃や政治犯の即時釈放などがあった。続いて「人権確保の五大改革」—— ①婦人解放、②労働総合結成奨励、③学校教育民主化、④秘密審問司法制度撤廃、⑤経済機構民主化—— が指示され、さらに軍国主義教員の教職からの即時追放が発せられた。 そして財閥の解体と財産凍結、続いて皇室財産凍結が指令され、12月には農地改革、国家と神道の分離が指令された。これらの戦後の矢継ぎ早の指令は、アメリカが早くから占領後の施策の研究をしていたからに他ならない。
民主化政策により皇家のあり方や華族制度も問題とされた。「人権指令」の冒頭には「天皇、皇室及帝国政府に関する自由なる討議を含む思想、宗教、集会及言論の自由に対する制限」の撤廃が示されていた。これにともなって、宮内省でも議論が重ねられたが、最終的に新憲法第一四条に「華族その他の貴族の制度は、これを認めない」との条文によって華族制度が消滅する。元の学習院学制第一条が記す建学の趣旨には「学習院は両陛下の優旨を体し華族の男子を教育するを以て目的」としていた。しかも所管は宮内省で、その経費は管内省の皇室経費に依存していた。女子学習院もこれとほぼ同様であった。こうした性格から両学習院は特権階級の学校と目され、その廃止の可能性を含め学校の将来は極めて不透明な状態となった。これに対し、当時の校長などがGHQと度重なる交渉を経て、学習院は宮内省から下賜され、私学として存続することになった。
立教大学
明治7年(1874)、米国聖公会の宣教師が聖書と英学の教育を目的として東京・築地に私塾として立教学校を開いた。明治29年(1996)立教中学(5年制)と立教専修学校(3年制)に分け、40年(1907)に専門学校としての大学を設立。大正7年(1918)に池袋の新校舎に移設、大正11年に大学令による大学となる。以下は学院の各種関連資料より。
<戦時体制下の学院>
1925(大正14)年には、学生の思想対策と学校における軍事教育の振興を意図した陸軍現役将校学校配属令が公布され、立教においても配属将校が常駐し軍事教練が行なわれるようになった。一部学生が軍事教練に反対する動きなどを見せたが、昭和6年(1929)の満州事変勃発よりさらに軍事的統制が強まり、昭和10年(1935)以降には、各学校は昭和天皇の御真影や明治天皇時代の教育勅語を奉戴し、行事のあるときに奉読するようになった。この時代、すべては天皇の詔(みことのり)によって、あるいはそれを利用して物事が進められるようになって行った。学校においての行事も皇国民としての訓育が目的である。15年(1940)には教育勅語渙発50年記念式典が行われている。
このような背景の中で、昭和11年(1936)、天長節(天皇誕生日)祝賀式において木村学長の勅語奉読に不敬があったとの理由で、学生側から学長の辞任を求める騒動が起こった(チャペル事件)。これは例年教室で行なわれていた祝賀式をチャペルにおいて行なったこと、勅語の奉読を祭壇や説教台よりも一段低いところで行なったことなどが問題とされたという。しかしチャペルに御真影の奉安所を設置した例は他のキリスト教系学校でも多かった(本来学校としてもそうしたくはなかったはず)。これにより木村学長は建前上辞任を余儀なくされた。これは背景に人事的な派閥問題があったともされるが、この時代、学生のこうした時流に乗った教師に対する告発は各所にあり、女学校ですら「アメリカと仲良く」と発言した女教師が生徒に追及され辞職となったケースがあった。小学校の頃よりの軍国主義教育によって、みんなが愛国心と正義感に燃えていた結果である。
昭和12年(1937)の日中戦争(支那事変)突入から日本に対する国際的非難が高まり、米欧との関係も悪化し、15年(1940)頃より駐在する宣教師を含めた米英人に対する排斥運動が起こり、長年立教に多大な貢献をしたライフスナイダー理事長・総長が辞任した。この年から多くの宣教師が帰国の途に着いた。ただひとり留まっていた教師ポール・ラッシュも、翌16年12月の日米開戦(真珠湾奇襲攻撃)直後に拘留され、翌年6月には強制送還された。ライフスナイダー師は帰国後在米日系人のために尽力したとあるが、日米開戦後に日系人はやはり収容所に抑留されたから、おそらくその彼らのためであったろう。こうした動きの中で今ひとつの問題は、米国聖公会からの経済的援助が望めなくなったことで、これは他のミッションスクールも同様であった。これに対しては学生・生徒の定員を増やすことと父兄からの支援に頼るほかなかった。
こうして昭和16年(1941)12月8日、日本は太平洋戦争(軍政府は大東亜戦争と称した)に突入した。翌日大学では天皇の開戦の詔勅の奉読式を全生徒を集めて校庭で行った。翌17年9月、立教はその学則を文部省の通告で、基本精神である「基督教主義ニヨル教育ヲ行フ」を「皇国ノ道ニヨル教育ヲ行フ」に変更され、立教学院の象徴であったチャペルも閉鎖され「修養堂」と改称された。この基督教主義については他校も同様であったが、チャペルまで閉鎖された例は多くなく「学内の反キリスト教運動に屈し」とあるように、学内に求心力のある指導者がいなかったことが大きいと思われる。しかし同じ聖公会系の品川区の香蘭女学校はもっと大きな迫害を受けている(参照)。その理由は軍事政権がこの戦時下に求めたプロテスタント系の大同団結(青山学院参照)に従わず独自の道を歩もうとしたことに端を発し、やはり内部告発から憲兵の査察が入ったことで、礼拝の禁止どころか聖書まで没収され焼却されることになった。
このあたりは明治学院と対照的で、この戦時下でも明治学院はチャペルの継続どころか、礼拝もずっと毎日行っていた。しかも配属将校が常時監督している中であることも同じである。ただ明治学院では配属将校の人選にキリスト教に理解のある人物をと、事前に理事が根回ししたとあるからその違いかもしれない。太平洋戦争以前の昭和12年の日中戦争から立教の教職員や卒業生に戦死者が目立つようになり、14年から慰霊祭が行われ、名誉の戦死者として記念碑にその名を刻むことになった。しかしチャペルが閉鎖されてから慰霊祭は神道式で行われるようになった。
<勤労動員>
昭和12年(1937)の日中戦争開始後には国民精神総動員運動、13年には国家総動員法が発令され、集団勤労作業(勤労奉仕)がまず夏休みを利用して課されるようになった。この中には男子が徴兵されて手が足りない農家の手伝いもあったが、赤羽被服本廠(軍服工場)にも動員された。14年になると文部省は大陸派遣事業として興亜学生勤労報国隊を各大学に結成させ、「東亜新秩序の建設」という目的で満州と北支(中国北部)へ16年までひと月単位で学生を送った。主に道路や建物の建設であったが、占領軍の後方支援の意味合いが強かったという。これに連携して学生国防研究会連盟や大日本機械化義勇団という団体に加わって満州に渡った例もあった。
16年(1941)に入って文部省は各学校に報国団を結成させ、それまでの学友会の組織をその中に組み込み、鍛錬部などを作らせた。心身の修練がその目的とされ、運動部は国防運動、団体競技は国防競技という名前で、またこの中で勤労作業や防空演習も行われた。これは午後の授業時間を削って行われ、それにより本来課外活動であったものが、成績評価の対象になった。これは立教独自のやり方であったとされるが、他校もほぼ同様で、それまでの軍事教練も必須科目として継続され、なお野外で何泊も野営しながらの実地教練も増やされ、本来の授業時間は一層削られていった。その上講義の内容は「戦時経済論」 「民族政策」 「大東亜経済論」(「欧州経済」に代えて) 「国防及戦史」 「防空科学」 「国史概説」(文部省編纂) 「東亜民族誌」など時流に合わせたものが多くなった(教科の内容も文部省の教学局に逐一チェックされた)。
報国団の形作りが落ち着くと、同16年に文部省は軍隊式の報国隊を組織させ、この報国隊をもって勤労奉仕的作業は軍需工場などへの本格的な勤労動員(原則として有給)となる。立教ではこの報国隊を尽忠隊と名付けたが(この特別な名前をみても愛国主義的な職員の先走りが感じ取れる)、翌年には他校同様報国隊と改められた。まず短期間で陸軍兵器補給廠に予科(教養課程)の800人が動員され、その際「半島人(朝鮮人の留学生)は遠慮」とされたが、そのうちそのような区別ができるような状況ではなくなる。兵器補給廠にはその後も交代で勤務し、12月8日の日米開戦の日にはそこで300人が勤労中であった。この12月に大学は三ヶ月の繰上げ卒業とされ、これは徴兵年齢に達したものを早めに戦地に送ると同時に人手の足りない軍需工場への就業を促す意味もあった。さらに翌17年は9月に半年の繰上げ卒業が実施された。
17年(1942)早々に「国民勤労協力令」が発布され、14歳以上は女子を含め、年30日までの勤労動員が義務付けられた。このころの動員先は陸軍関係施設、豊島区役所、日本通運での荷役作業などである。さらに翌18年半ばには60日に増やされ、夏休みも利用され、予科では中島飛行機武蔵野工場に行き、その後は学部が同工場に動員された(中島飛行機には近隣の女学校の生徒も多く動員されている)。その秋には期間が4ヶ月となり、翌19年3月には「決戦非常措置要綱」により、中等学校以上はほぼ通年動員となった。さらにこの8月には学徒勤労令を発し、「勤労即教育」という捏造とも言える用語の下に、学生の勤労を常態化して行き、この年の11月下旬に上記の中島飛行機工場から始まった米軍の本格的空爆開始により、翌20年3月10日に下町三区が壊滅的な大空襲を受け、その一週後に「決戦非常措置要綱」により、文部省は中学校以上の授業の一年間停止を決定した。
動員先は板橋の陸軍第二造兵廠もあり、ここには溶鉱炉があり、その中の鋳造と圧延の工程を担当させられ、ケガ人が続出したという。19年12月にはここも空襲を受けたが、中島飛行機は度重なる空爆で壊滅的な被害があって、浅川地下工場(八王子参照)に転勤したが、資材などの不足であまり仕事はなかったという。
ちなみにこの勤労動員の動向を筆者が参照した立教大学のある調査論文には「勤労動員に関する『出動令書』などまとまった形でその実態を解明できる文書は残されておらず」とあるが、これは各大学・女学校も同様であり、その理由はこの稿のトップにある「戦時下の大学・女学校の概説」の中の「戦後の調査とその障害と背景」の項を参照されたいが、敗戦と決まった時に軍部だけではなく戦時関連記録や書類は全て焼却されたためである。今一つ、中島飛行機武蔵野工場は空爆で動員学徒を含めて相当数の死傷者が出ていて、立教の犠牲者もいたかもしれず、しかし同じ理由でわからない。ほぼわかっている場合は、のちに同窓生などから聞き書きして調査した結果である。
<徴兵と学徒出陣>
昭和16年(1941)12月の日米開戦時に、徴兵が猶予されていた大学生たちに対して三ヶ月の繰上げ卒業を実施し(この時273名)、さらにその翌年は9月に繰上げ、早めに戦線に送り込む手段を取っていた。それでも戦線を広範囲に拡大していた上に戦局は悪化し、増える戦死者と不足する兵士を補いつつ、下士官級の人材を戦地に送るための措置として18年(1943)に徴兵猶予が撤廃され、20歳に達した学生を戦地に送るいわゆる学徒出陣が実施される。そして10月21日に文部省主催の「出陣学徒壮行会」が明治神宮外苑競技場で盛大に行われ(詳しくは上記の「概説」参照)、立教大学でも独自に11月に大学主催の壮行会が行われた。ただこれはあくまで文系の学部に対してであって、理工系は対象外とされた。実際に文部省は戦時に有用とされない文科系の大学に対して理工系への転換と新たな設置を求め、立教でもそれに応じることになり18年に理科専門学校が設立され、同時に文学部の募集は停止された。
その後も順次学徒の出征は行われ、17年(1942)からの入学者の在学中の出征者総数は1247名を数え、全入学者の約半数を占めた(当時の文学・経済の学部生総数は2500名程度)。特に17年入学以降はそのうち1225名で、それ以前の20数名は在学中の自発的志願であろう。また17年からは入学が(9月の卒業式に合わせ)10月となっていて、そのうちの出征者は85%を超える。一方で入学するとすぐに勤労動員に駆り出され、さらに19年(1944)より徴兵年齢が19歳と下げられたため、ほとんど机の上で勉強する時間もなく、勤労動員に続いて徴兵され戦地に行ったということになる。恐ろしい時代というほかない。
戦後、校友有志が中心となった調査(主に当時の学籍簿)により判明した卒業生、退学生、在学生の戦死者は375名にのぼるとされるが、一方で上に記した14年(1939)年より行われた慰霊祭は19年9月に追加された32名(前年まで38名で計70名)で終わっていて、その後は慰霊祭どころではなくなったということであり、残りの一年で300名が戦死していることになる。判明している戦没者名簿は池袋キャンパスのチャペル入口回廊に設置された「平和祈念の碑」のもとに納められている。(この数字は2007年版の立教大学の歴史からである。他校でも調査を継続し、戦後70年前後でもその数は増え続けている)
立教にも植民地の台湾、朝鮮からの留学生がいて、彼らもまた特別志願を強要され、朝鮮人22名、台湾人2名が志願し、志願しないものは休学もしくは退学させられた(その詳細の報告を文部省は求めた)。このうち判明している戦死者は1名とされるが、日本人学徒出征者の行方すら不明が多く、それ以上いるものと思われる。(下記の余話参照)
<戦時下の学院の荒廃と戦後>
米軍による空襲は19年(1944)11月下旬から翌年8月の終戦までの約9ヶ月弱である。その間で日本の主だった都市は焼き尽くされた。小学校を含めて多くの学校も容赦無く攻撃の対象となった。実は立教大学はもともと米国系のミッション・スクールで、明治学院なども含めて空爆の対象から外されていたことはあまり知られていない。それでも延焼で焼けた学校はあった。
それとは別に、物資や材料不足で兵器に欠かせない金属回収令が16年に発令され、学校の門扉やその他の金属類は撤収され(他校の例では暖房器具や銅像も)次に校舎の二棟が陸軍に摂取され病院と築城本部となり、立教中学校は豊島区役所仮業務所と食糧倉庫、陸軍の宿舎とされ、チャペルも閉鎖されたあと軍の非常用食料庫となり、さらに陸軍自身も空襲に備えて校庭に防空壕を掘る時に、その覆いをチャペルの椅子を使い、スクリーンもその材料とされた。
敗戦後早々、占領軍GHQに随行して学院に来たのは、強制送還されたポール・ラッシュで、すぐに学院の視察に訪れ、立教大学が依然として天皇の御真影を「奉安」していること、チャペルの荒れ果てた様子をみて、信教の自由に対する侵害として指摘し、幹部の追放と学院の再建を求めた。この結果、大学総長や中学校長など11名の職が解かれた。しかしおよそミッション系は同様な状況下にあったわけで(御真影も戦後すぐに撤去された学校はなく翌年半ばであるし、チャペルの閉鎖も前総長の時のことである)、自身が強制送還にあった時代状況を考慮に入れない頑迷な宣教師に思われる(実際にGHQに随行して来た他校の同じように帰国させられていた4人の宣教師は、自校のことより日本の惨状を視察して、全体の復興支援に手を尽くした。例:東洋英和女学院参照)。当時はミッション系学校にも複数の陸軍の将校が常時駐在・監視していたし、他のキリスト教系学校で、戦後ここまでその教職員に対して報復がなされた例は見当たらない。学院の記述では一応GHQの司令としているが、戦時にGHQの名を借りたラッシュ個人の裁量が大きく働いていたと見るべきである。その決定は10月末であり、実情としてはこのころから軍国主義に協力、鼓舞した教職員(実際には政治家から実業家まで広範囲)の調査、リストアップが始まって、キリスト教系学校を含めて公職追放令がGHQにより出されたのは翌年からである。
ちなみにこの全職域に渡ってなされた調査追求が正しかったかどうかというのは、多少の例を見ても、あやしいものと言える。要は調査する側の人間が本当に公正な目を持って決定しているかどうかという問題もあるし、その彼らが本当に正しく選任されているかどうかも疑わなければならない。讒言や中傷による犠牲者はいつの時代も絶えない。
<余話:朝鮮留学生の獄死>
尹東柱(ユン・ドンジュ)は中国吉林省延辺朝鮮族自治州出身で、家族でキリスト教を信仰し、京城(現ソウル)の延禧専門学校の文科で朝鮮語を学んだ後、昭和17年(1942)に24歳で東京の立教大学文学部に入学した。朝鮮は日本の植民地としてあったので、大学や専門学校への朝鮮人留学生は比較的多かった。半年後に京都の同志社大学に編入した。すでに10代より詩作に励み、詩人として生きる道を選んでいたが、翌18年7月、治安維持法違反で朝鮮独立活動をしていた同じ朝鮮の友人と逮捕された。ちょうど帰国を決め、友人たちと送別会をした直後であったという。当時は送別会のような集まりでも非合法とされ、日本人でも簡単に検挙された。彼は翌年起訴され、懲役2年の刑が言い渡され、そして福岡刑務所に収監されたが、その翌20年2月に福岡刑務所内で獄死した。27歳であった。どのような拷問があったか、獄死の直接の死因はわからないが、真冬である。この時期日本人思想家なども多く捕らえられ、獄死していて、一番高名なのは哲学者の三木清である。自由という言葉一つで検挙され、朝鮮の独立という言葉など、とんでもないことであった。
ちなみに、逮捕された18年というのは、上記のように秋に学徒出陣がなされ、その流れで朝鮮や台湾の植民地からの留学生たちに対しても、日本兵として応召するように圧力があって、彼が帰国していたとしてもその後朝鮮にも徴兵が適用されていたから、それによって戦死していたかもしれない。
昭和23年(1948)に友人たちの活動により韓国で詩集が刊行され、抒情詩人・抵抗詩人として評判となり、今や国民的詩人となっている。ただ、筆者も訳詩にいくつか触れてみたが、抵抗詩人というものではなく、平明で理屈抜きで読め、そのまま人の心を打つ詩である。国内外を問わず、このような心優しき人間が、得てして非道な目に遭い、犠牲になる。たとえ戦線に駆り出されなくとも、戦争はあちこちの目立たないところで多くの犠牲者を生む。平成20年(2008)より、立教大学では毎年彼を記念する会を命日に近い日に開催している。
なお青山学院にも同様な犠牲者があり、筆者の「各種参考資料:証言・記録」の「戦時下の朝鮮人・台湾人の留学生」を参照されたい。
大正大学
明治18年(1885)天台宗の大学として設立、大正14年(1925)に真言宗と浄土宗の三宗の大学が統合され、翌年大正大学が設立された。
昭和6年(1931)の満州事変に始まり、12年(1937)の日中戦争(支那事変)突入により日本は軍事体制下に入った。13年には文部省により夏季休暇を心身鍛錬として集団勤労作業に従事するようにとの通達があった。そして翌14年には軍事教練が必須とされ、当大学は他より遅く16年になって陸軍の将校が配属され、日常の学校生活もその監視下に置かれた。
14年(1939)に戦時体制に合わせて学内に「皇道仏教研究所」が設立され、その趣旨は「皇道翼賛の仏教の理論及び実際を研究し皇道仏教の進展に資する目的とす」とし、必須科目として皇道学の講座が設けられた。仏教よりも皇道が最優先であった。またこの年に「興亜学生勤労報国隊」が結成され、各大学から、当学では満州と中国北部へ10名ずつが選抜され、現地で軍の指示のもと奉仕活動を16年まで交代で行った。
15年(1940)には文部省の指示により各学校に報国団が結成され、教職員、学生生徒全員がこの団に入り、それまでの体育・文化活動もその中に組み込まれた。報国団は「戦時体制下における国防国家建設に順応するものであり、学校教練・体育訓練・食料増産作業その他の団体訓練を掌握するものであった」。またこの団の中に報国隊を組織し、学部・専門部・予科の三つがそれぞれ大隊となりその下に中隊・小隊がおかれ、軍と同様な組織体制となった。一方で不足する食料増産のために集団勤労作業による実施計画が文部省より通達され、一年を通じて30日以内の勤労が要求された。
16年(1941)には防空訓練も活発に行われるが、特に報国隊の中に特設防護団が組織されて国防事業協力体制が築かれた。「報国隊の実践活動は教育の一環であり、単なる労力不足を補うものではないことを強調し、また学校体育についても単に身体を強健にするのではなくすべて国防国家建設に適応させるもの」とした。このような理由付けは終戦まで続けられた。教練は野外演習も行われ、富士裾野と習志野の演習場で交互に実践され、その他に代々木練兵場で教練査閲が行われ、日々の訓練の成果が試された。この中には射撃以外に銃剣術、さらには手榴弾投擲検査もあり、20km近くの行軍訓練もあった。また勤労動員としては10月、当学より300名が板橋兵器廠に一週間ほど動員されたが、ほんの小手調べのようなものであった。この時期、大学・専門学校は、三か月短縮して12月に卒業させることが決定され、同様な措置はその後繰り返されていく。これは学生に対する徴兵猶予制度がある中で、少しでも早く徴兵させるための政府の策であった。
このような周到な準備をして、日本の軍政府は12月8日に米英に宣戦布告し太平洋戦争に突入した。
この開戦によって17年に入ると学徒動員令が発せられ、それまでの勤労奉仕的な動員は主に軍需産業への動員に切り替えられた。この年の後半からは兵器廠志村支廠、板橋兵器廠、立川航空隊、赤羽陸軍被服本廠、亀戸分廠、朝霞分廠などに教師も含めて交代で動員された。教学については従来の仏教学科・史学科・文学科に加えて東亜学科が加えられ、これは「東亜共栄圏指導者養成」のためであり、その中に仏教学、宗教民俗学、経済学などが含まれた。この後、東亜学研究所が新設された。
18年には軍政府は戦時下の命令系統を単純にする目的もあって、仏教各宗派の統合合併を推し進め、その一環として昭和元年(1926)に設立されていた真言派の智山専門学校が大正大学に吸収合併された。これはキリスト教も同様で、各派の統合団体として16年に日本基督教団が設立され、また学校も例えば青山学院の専門部は明治学院に統合された。
18年4月には学生数は約1200名になっていて、これに智山校が加わるが、この年の秋に戦線の拡大による兵士不足の解決策として学生への徴兵猶予制度が撤廃され、さらに半年の繰上げ卒業が実施された。また徴兵年齢に達している者は休学して徴兵されることになり、10月21日に関東の学生を集めた学徒出陣式が神宮外苑競技場で挙行され(当学の壮行式は25日)、結果として学生数は激減した。卒業年度まで未修の学生には仮卒業証書が渡された。上記1200名とは矛盾するが(9月に卒業した学生を含まないからであろうか)、この学徒出陣によって全学生928名のうち378名が応召し入営したとある。一方で残った学生に対しては長期間の交代による勤労動員が課され、大正大学生は赤羽陸軍被覆本廠、日本精工(大崎)、日本鋼管(川崎)、日本ドラム缶(錦糸町)、鐘ガ淵ディーゼル(足立区)などに通った。
19年(1944)に入ると勤労動員体制は一層強化されるが、軍需工場だけでなく食料不足による増産のために農村にも出動、例えば長野県の農場に約50名が派遣された。この年の軍需工場への勤労動員先としては、日立製作所深川工場、石井鉄工所(月島)、古河鋳造、日本特殊鋼蒲田工場、中島飛行機(東松山)などがあったが、工場の寮に宿泊するなど学生の負担が大きく、低学年制に多少でも勉学の時間を割くため、軍の提案もあって校舎の一部を明け渡し、工場にすることになった。これにより東京光学の分工場が学内に設置され、専門部学生約100名がレンズの研磨作業に従事した。政府は「勤労即教育」とのスローガンを掲げ、成績査定も勉学より勤労における出席状況や軍事教練の出来などで評価されることになった。学内には工場だけでなく、陸軍の部隊にも学生ホールや校舎が接収され、百数十名が駐留した。このような現状の中で軍事教練、防空訓練も行われ、授業が行われる余地はなくなった。
19年半ばより都内の小学生の集団疎開が始まり、11月下旬より米軍の本格的空襲が開始された。20年に入ると学校の授業は小学校除き、「決戦教育措置要綱」により全面休止とされ、実質的に勤労動員のみとなった。20年3月10日のいわゆる東京大空襲の後の4月13日夜間に豊島、新宿、北、文京区などを襲った城北大空襲があり、当大学は宿直員や寮生、軍の駐留部隊の消火活動で弓道場以外なんとか焼失を免れた。そこで焼け出された近隣住民を受け入れ、その数は5千人にのぼり、駐留部隊の医局も含めて救護活動に当たった。
終戦の翌9月、豊島区より大学は占領軍GHQの病院として校舎が接収される旨の通達があり、とりあえず学校の物品の片付けに追われたが、その後関係者の尽力で取り消された。翌21年5月の在学生は400名弱であったが、96名が戦地から戻ってきていなかった。このうち何人が戦死したかは不明である。この年新たな入学試験が実施されたが、皇道仏教学と東亜学は廃止され、英文学が復活した。
豊島岡学園(牛込高等女学校)
明治25年(1892)、河村ツネが東京市牛込区(現・新宿区)に東京女子裁縫専門学校を創設。明治37年、東京家政女学校に校名変更。大正13年(1924)牛込高等女学校を併設して開校。昭和11年(1936)東京家政女学校を廃止。昭和20年(1945)5月の空襲により校舎が全焼。昭和22−23年に豊島区日出町(現・東池袋)に女子中学校・女子高校を設置し、校名を豊島岡女子学園中学校・高等学校に改称。
当校の『八十年史』には戦時下の詳細な記述がなく、わずかな事例のみ以下に記す。
昭和18年(1943)には在校生が1200人の規模になっていたが、太平洋戦争は熾烈となり、かつ敗色が濃くなっていた。この年後半からは学徒勤労動員が始まり、19年後半からは一年生以外はほぼ通年動員となり、その主な動員先は、陸軍恤兵部、印刷局、被服廠、滝野川印刷局、凸版印刷、大日本印刷、第一製薬、藤倉電線、日立航空機立川製作所、関東軍事管理部、大正海上火災、東京航空計器川崎工場、簡易保健局などであったが、日立航空機では20年(1945)2月16日の空襲により、5人の当校の女子生徒が爆撃で死亡した。なお、19年1月15日付の新聞夕刊に、牛込高女の3月卒業予定者の「女子挺身隊」結成の記事がある。挺身隊とは卒業生も含めた若い女性に勤労動員を強いるもので、この場合、卒業の二ヶ月前から授業もせずに動員していた事実が見てとれる。実際に卒業生の41名が警視庁の保安部に配置され、15日朝に入所式があったとあり、また同日52名が沖電気に入所したとある。
そして5月25日の東京への最後の大空襲で、学校の校舎が全焼した。それにより一年生は池袋農場の小屋を仮教室とした。8月15日に終戦となるが、校舎が焼失し学校の授業再開は遅れた。当学園の一理事の紹介により、共立学園の校舎の4階5教室を借用することができ、11月から授業が再開された。翌年3月に共立で卒業式を行ったが、五年制が復活したにもかかわらず、施設不足の関係で四年で卒業させた。さらにその翌年、共立学園も復興し生徒も戻り増えてきたので、その講堂を六教室に区切って授業を行った。実は新校舎の用地は昭和18年に購入済みであったが、戦後の物資不足や資金の不足で建設の着手が遅れていて、しかもその用地の一部が戦犯を収容した巣鴨の刑務所として接収されていた。何とか22年(1947)9月に第一期棟上式を挙行したが、その後の台風で一時中断した。さらに校地の一部を売却して資金を作り、23年6月に第一期工事を終えた。第二学期から待望の自前の校舎での授業が始まった。
十文字学園(十文字高等女学校)
大正11年(1922)十文字ことにより文華高等女学校設立。昭和12年(1937) 十文字高等女学校と改称。戦後に十文字中学校・高等学校を開校。以下は『十文字学園五十年/七十年史』より。
昭和11年(1931)末、十文字高女は鉄筋コンクリートのモダンな新校舎を完成させ、隆盛にあった。その翌年、日本は日中戦争に突入した。それに伴い近衛内閣は戦争遂行に協力させる目的で、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」のスローガンを掲げた「国民精神総動員実施要綱」を閣議決定し、翌13年には「国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる」とした国家総動員法を発令した。国民精神総動員に関わる学校への要請は、国民精神の統一、体位向上、銃後(前戦に対する国内の体制)の支援であり、教科に関しては修身や公民、歴史、地理などの内容を限定、生活に関しては小遣い節約献納・献金、傷病兵士や遺族慰問などを義務付け、さらに時局の認識と精神の鍛錬を要求した。
こうした国家の要請に従って、授業以外に応召遺家族への農作業、その家事手伝い、神社の清掃、軍用衣料(軍服の襟章、肩章、傷病者の白衣)の縫製、戦線兵士への慰問袋作りなどの勤労奉仕などに追われることとなった。 これらの奉仕作業は当局に報告義務があった。これらに加えて学校行事として、紀元節(現・建国記念日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(明治天皇誕生日)、興亜奉公日(毎月1日、国民精神総動員運動の一環として、戦場の兵士の労苦を偲び、日常生活の節約に努めることを目的:太平洋戦争後は開戦日の毎月8日に開戦の詔書奉読式に替えられる)教育勅語奉読式、陸海軍将校の講演、各種神社参拝、防空演習、軍事教練、そして食糧不足による学校農園での耕作などで生徒は忙しかった。
そうした中でも女学生の最大の楽しみである修学旅行は行われ、15年には5年生が関西旅行をしたが、その際、往路は横浜から神戸まで、当時豪華客船であった鎌倉丸に乗船してであった。この客船を使う旅行は他の女学校でも見かけるが、翌年も同様に行われている。しかしその後太平洋戦争に突入し、修学旅行はほぼ廃止され、近郊への鍛錬旅行などの名目で短期間で行われるようになる。ちなみにこの鎌倉丸は(年史にもその写真があるが)太平洋戦争開戦後、海軍に徴用され、昭和18年4月28日、フィリピン・マニラからインドネシアに向けて航行中、米潜水艦から の魚雷攻撃を受けて沈没。船には陸海軍軍人・軍属(設営隊工員)・民間技術者・女性・報道関係者 約2500名が乗船し、護衛なしの単独航行のため、救助が遅れ多くの犠牲者を出した。死者約2000名、船員201名中176名戦死となっている。この数年前に旅行で乗船した女学生にとって想像すらできなかったであろう。ただしその後も2年以上の間、多くの艦船が撃沈され、海に沈んだ日本人軍民の犠牲者は6万人以上となっている。
昭和16年(1941)12月に日本は米英に宣戦布告し太平洋戦争に突入、政府は国民勤労報国協力令を公布し勤労奉仕を義務化した。それに伴い十文字高等女学校報国団が結成され、全校生徒を防空訓練班、軍事後援班、配給班などに分けて戦時体制を作ったが、一方で十文字では施設の整備拡充に努めていた。18年後半からは都市部の小学生の学童疎開が奨励され、秋には大学生・専門学校生の徴兵猶予制度が廃止されて「学徒出陣」が行われた。それと同時に中等学校は兵器産業への勤労動員が強化され、19年夏ごろからはほぼ通年となって行き、また校舎の一部は学校工場とされておそらく下級生が動員された。そして11月下旬から米軍による本格的爆撃が始まった。
(一生徒の回想)—— 私たちの学生時代後半はまさに太平洋戦争と共にあったと言って過言ではない。16年の開戦当時は二年生、卒業が20年3月で戦争の落とし子のような世代です。日本の敗戦が色濃くなった頃も『必ず勝つ』と信じて兵器の生産に励み、歴史のおじいちゃん先生に言われた「そんなことでは神風は吹きません」との言葉が耳を離れず、まことに人間性を根底から抹殺された世代であったと言える。
(一教師の回想)—— 学徒動員で生徒を連れて危険な工場地帯へ毎日通い、何度かやってくる敵機の来襲のたびに防空壕に飛び込んだこと、ある時はその時間さえなく逃げる生徒の上空を敵機が悠々と通り過ぎるなど、身の縮まる思いをした。今でもはっきり覚えているが、色白で甘えん坊の可愛い生徒が、体育の時間を楽しみにしていたが、ある日の放課後、教室から飛び出して「先生、お元気で、さようなら」とポンと肩を叩いて私を追い越して行ったその後ろ姿を見えなくなるまで見送っていたのに、それが(空襲で)永久の別れになろうとは、悲しい出来事として忘れられない。
昭和20年(1945)4月13日深夜から翌未明にかけての豊島区を中心とした大空襲で当校の三階建鉄筋校舎も外壁は残されたが焼け落ちた。残ったのはバケツで水をかけ続けて守った地下室の重要な品物と書類だけだった(筆者注:この時は多数の焼夷弾が学校に直接落とされ、屋上を貫通した結果と思われる)。これにより学校は疎開せずに残っている生徒のために、本郷にある東京女子師範学校(現・お茶の水女子大)附属高等女学校の教室を週2回借り受け、一部工場となっていた校舎も使えず、他の日は新しい動員先として第一陸軍造兵廠(北区)に通った。
8月15日に敗戦となり、教師と生徒は焼け落ちた校舎の瓦礫の整理を始めた。10月半ばから聖学院(男子校)の旧校舎を借りて授業を始めた。資材と資金の不足で、復旧工事が始まったのは翌年の11月からで、一年で第一期工事が終わるが、全工事が終わるのは30年代に入る頃であった。教育内容は占領軍GHQの指導により「軍国主義的・超国家主義的」要素は徹底的に排除され、特に修身や公民、歴史、地理は一時的に停止され、他の教科書も軍国主義的内容は墨で塗り潰された。21年には新憲法が発布、22年の教育基本法でそれまでの男女別教育を廃し、共学を基本としたが十文字は女子校で中・高校として存続した。
川村学園(川村女学院高等女学校)
大正13年(1924)川村文子が女学院設立。昭和4年(1929)高等専攻科(国文科・家政科)開設。7年(1932)小学部開設・高等専攻科拡張と家庭科を設置。18年(1943)川村女学院高等女学校と改称、また専攻科を置く。戦後、新制中学校・高等学校開設。昭和63年(1988) 川村学園女子大学開設。以下は『川村学園六十年史/七十年史』からである。
日本は昭和12年(1937)に日中戦争(支那事変)突入、中国の大地は広大で、戦況は混迷状態を続けていたが、それに対して国際社会から非難を浴び、14年、アメリカは日米通商航海条約破棄を通告、15年早々に実施され、その後も対 日経済制裁を続け、16年(1941)には在米の日本資産を凍結、ほぼ同時に日本が8割を米国から輸入していた石油を禁輸した。また日本は15年に 日独伊三国軍事同盟を締結するが、その前年にドイツは第二次世界大戦に突入し、形の上でも米英を敵国とするようになっていた。日本は米英からの圧力を受けても中国から撤退する考えを示さず、日米決戦は避けられないという雰囲気が支配的になり、政府は国内はもとより学校にも戦時体制の強化を図っていく。
15年(1940)学校は勤労奉仕や防空演習が強化され、5月、東京市主催の学生勤労奉仕、9月、防空演習、10月、奉祝体育大会・教育勅語記念式、11月、紀元2600年記念式典(神話上の神武天皇が即位されたとする年を紀元とする)などあるが、日常的に女学校は前線兵士への慰問袋作成や軍服関係の縫製に追われていた。
この年、川村学院は川村文子の夫の竹治によって男子中学校(当時は女学校とともに五年制)を設立した。この稿は男子校は扱っていないが、例外として、その設立主旨は当時の時勢を現しているので引用する。ここには当時の戦時下に使われた言葉が散りばめられている。
「今や東亜の新天地ならんとする多忙多難の非常時局に直面し、国家の将来を思う時、憂国の至情禁じ得ざるものあり、ここに敢えて微力を顧みず、川村学院中学校を創設し、青年求道の心を満足せしめ、洋々たる希望の海に新たなる航路を見出さしめ、時代の趨勢に鑑み、日本精神の高揚に努め、社会の実生活に即応して錬磨の功積ましめ、勤労愛国の精神を錬成し、現代青年としての識見を高め、信念を深らしめ責任感に終始する正しく強き有意の人物を養成し、以て教育報国の誠をいたさんとす」。
昭和16年(1941)に入ると小学校はドイツに習って国民学校と改称され(私学校の場合「初等部」とされた)、中等学校以上の学校には報国団が設置され、軍隊の組織に近いものが作られていく。こうした背景により16年12月8日に日本は米英に宣戦布告、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。この時に川村院長が校内誌に載せた文がある。これも時局柄そのままの文面である。
「家庭戦線の守備に任ずる女子は真に何事を為すにも決死の覚悟を以てその持場を固めなければなりません。日頃訓練を重ねておりますと、防火、避難、救護等の事もいわゆる演習に終わってはなりません。万一の空襲時には一家の防火を引き受ける覚悟は勿論、日常生活切下げによる貯蓄、献納、積極的生産への協力等、此の世界平和を念願する大東亜戦争の要求に応じて家を護り、如何なる事態が参りましょうとも常に最善の努力と工夫をなし、微動だにもせぬ女子としての底力を養い皇国民たる本分を完うせねばなりません」。
一方でこの年の秋、5年生では関西の伊勢神宮参拝を含めた「参宮旅行」が行われるが、これは当校独自の言葉で、それまでの修学旅行の名前では長期の旅行ができなくなり、他校では鍛錬旅行の名前などでやはり伊勢神宮参拝を含めて行われたが、当校では18年まで行われ、それ以降は旅行自体が禁止される。そのほか低学年では「修養会」の名目で箱根や軽井沢へ数日単位の旅行が行われている。
開戦直後は、真珠湾奇襲攻撃やマレー半島上陸を含め、日本軍は相手の隙を狙って破竹の勢いで進撃したが、次第に劣勢に立たされるようになる。国内では資材・食糧が不足し、街や学校では金属の供出が強制され、中等学校以上の生徒や学生は畑の開墾にも従事した。
昭和18年(1943)6月、学徒戦時動員体制がしかれ、夏休みにも動員があったが9月から本格的に勤労動員が行われた。また秋には男子大学生の徴兵年齢が引き下げられ、卒業は半年の繰上げとなり、学徒出陣式が盛大に行われた。学内でも特設防護団が結成され、防護、警備、消防、救護班などで編成された。空襲に備えて子供を縁故疎開させることが奨励され、幼稚園の多くが休園となった。学校の教員にも召集令状が届くようになり、当校では院長の子息副院長も召集された。資材不足は紙にまで及び、校内誌なども休刊となり、これにより戦時下の様子が残されなくなったことは間違いなくあるだろう。
19年(1944)春以降は勤労動員が強化され、三学年以上は工場に動員されたが行先不明、二年生は学校内に工場が設置され、包帯の製造会社と名電工業の仕事に従事した。8月、学院の初等部で縁故のない子供達を長野県に集団疎開させるが、11月下旬より米軍の本格的空爆が始まった。
20年(1945)に入ると校舎の一部が陸軍兵器行政本部に接収された。それでも春の新規入学者は300名に上ったが、戦況の悪化により政府は中学校以上の授業停止を発表、勤労動員を推進した。4月13日、豊島区を含めた城北地区に大空襲があり、本校舎は一部の焼失に終わり、講堂に近隣の被災者を収容した。ただ長崎の男子校舎が全焼し、本校舎に収容した。生徒の中にも家を焼失したものが増え、地方に疎開していくものが増えた。5月半ばから古河電気や中央工業の工場に動員されたが工場は6月に焼失、それにより第一造兵廠尾久工場などへの組み替えがあった。以下は勤労動員についての女生徒の回想である。
—— 当時三年生、明けても暮れても繃帯工場の薄暗い綿埃の中でお婆さんの班長に怒鳴られながらガーゼを日に何百枚もたたんだこと、凍てつく冬、火の気のないコンクリートの床でベルトの回る音とヤスリの音の騒音に頭が痛く、鉄屑の埃で目を悪くしたこと、朝の出がけに救急袋だけで出て、慌てて鉄カブトと防空頭巾を取りに家に戻り、工場に遅刻して守衛さんに怒鳴られて泣きべそをかいたりしたこと。学校への往復の途中で空襲に遭い、はじめて降りた駅で防空壕に飛び込み、高射砲や敵機の爆音を聞いて震えたりしたが、こうした苦しみを苦しみと思わなかった時代であった。
—— 入学した年の12月、宣戦の詔勅を聞き、三年生になったころには勤労奉仕に方々へ赴き、四年生になると皆軍需工場へ派遣されて慣れない仕事に精を出した。卒業も繰り上げられ、四年で卒業となった。 …… 学問など全然する暇もなくなってくると、勉強したい気持ちが猛然と頭をもたげ、工場の仕事の合間に教科書を広げたりして先生に叱られたこともあった。(当時は勤労中は暇な時でも本を読むことは禁じられていた)
—— 一年生時代は学生としての生活を送ることができたが、二年になると地下室は陸軍で使用するようになり、私たちも授業の他に揚げ大豆の計量と包装作業をした。服装もスカートからズボン(モンペ)に変わり名札には血液型や住所を書いた。19年より幼稚園は閉鎖、初等部は集団疎開、私たちは軍需工場へ、学業は全く閉鎖となった。空襲が始まるとクラスの中には家を焼かれて疎開する生徒が日に日に増えた。当時は極度の物資不足で、革靴も手に入らず、配給の男物の編上靴に防空頭巾、防毒マスクを肩に下げ、満員電車で通勤した。工場時代、担当の谷先生のお宅が焼失し、先生は生徒に支給されるお金を預かっていて、それだけ持って逃げ、防火用水に一晩中浸かりながら、煤で真っ黒になった姿で工場に来られた姿は忘れることができない。
20年6月23日、本土決戦の前哨戦とされた沖縄戦が敗北に終わり、軍政府は次は本土決戦のための国民義勇戦闘隊の設置と動員を決定、それに合わせて学徒隊の編成も各学校に通達、それについて各学校で検討しているうちに広島・長崎に原爆が落とされ、8月15日に天皇の終戦の詔勅により敗戦となった。9月1日、新学期が始まった。臨時授業として一日3時間で、在籍者はかつての半分以下、家を失うなどの戦災を受けた生徒は155人であった。連合国軍GHQにより軍国主義教育は排除され、民主主義的学制改革が行われた。
豊島高等学校(都立第十高等女学校)
昭和11年(1936)東京府立(後に都立)第十高等女学校設立。戦後21年(1946)東京府立第二十二高等女学校を併合。23年(1948)学制改革により都立第十女子高等学校と改称。翌年高等女学校及び旧制中学校を廃止、男女共学を実施。25年(1950)都立豊島高等学校と改称。なお当時は男子の中学校も女子の女学校も五年制が基本であった。
当校の設立は日中戦争(支那事変)開始の前年である。またこの時期、日本の人口は増えつつあり、私立の女学校も定員を増やしていたから、新設の公立として志願者が殺到し、1118名のうち合格者は250名であった。まだ新校舎はできていず、赤坂の青山師範学校の校舎を借りて開始した。以下は『五十年史』に従って年月日順に戦時下関係の出来事を追いつつ合間に説明を加える。
〇昭和11年(1936)4月15日:入学式後、明治神宮参拝(その後定期的に行われる)/29日:天長節(昭和天皇誕生日)式典/5月:兵営生活見学/9月:乃木神社参拝/10月:神嘗祭(宮中祭祀のひとつ)の訓話、校外授業として横須賀軍港見学、教育勅語下賜記念日式典/11月:国民精神作興詔書奉読式
〇12年2月11日:紀元節(建国記念日)式典(毎年)/3月3日:全校で雛祭りの行事/4月:靖国神社臨時大祭により休校(その後も同様にしばしば休校となるが、戦死者への追悼のためと思われる)/5月:海軍記念日の訓話(これも定例)。
7月7日:盧溝橋事件、これをきっかけに8月14日、上海事件により日中戦争(支那事変)に突入。
8月27日:応召兵のために体操場、講堂その他数教室が使用され、在郷軍人、愛国・国防婦人会などが手伝う。これは開戦により召集された兵士が出発準備のために学校を使ったということである。
9月15日現在で学校の父兄の応召者は13名(父7名、兄6名)。校長はその家族を訪問し激励した。13年には41名、14年に60名程度、15年の半ばには70名に増加していった。
9月18日:防空演習(注:この時期に早くも防空演習が行われることは違和感があるが、日本はすでに海軍飛行隊を中心にして日中戦争開戦と同時に中国の都市への爆撃を開始し、悪天候以外、連日続けた。筆者の「中国における日本軍の爆撃全記録」参照)/24日:海軍の大尉による「支那事変と帝国海軍について」の講演あり。
10月12日:愛国第二女学生号・報国第二女学生号(飛行機)のための献金、慰問文を陸軍省へ。(当時、女学校の間で戦闘機への献金が流行っていた)/18日:「銃後における生徒十箴」を作成し配布/30日:教育勅語奉読式。
11月3日:9時、全国一斉に宮城遥拝/16日:防空訓練。最初の灯火管制。12月13日:皇軍に送る餅つき。
12月15日:南京陥落奉祝旗行列に参加/23日:学芸会、ニュース映画、騎兵将校の講演。
〇13年2月15日:戦死者の遺骨奉迎。/16日:音楽会/18日:軍事教練、愛国行進曲ダンス実施。
3月10日:陸軍記念日講話/26日:新校舎への移転/27日:飛行機献金。
4月:靖国神社大祭訓話/5月:校外授業で横須賀港見学/6月:愛国貯金始める。
7月7日:支那事変勃発記念日で国旗掲揚式ののち代表が明治神宮・皇居・靖国神社参拝/13日:慰問文687通を陸軍省へ(その後も陸海軍へ継続される)。
8月:教員の初めての応召で歓送式を行う。その式の内容には、宮城等への遥拝、校長と生徒代表の祝辞、当人挨拶、万歳三唱、軍歌斉唱などがあり、その後教員と生徒代表が上野駅で見送った。
10月28日:中国の武漢陥落祝賀式。
11月:国民精神作興週間/26−27日:防空防火演習・空襲演習/12月:祈武運長久の餅つき。
〇14年4月:校長が北支(満洲を含む中国北部)視察(これは軍の要請で私学も含め、多くの学校長が参加し、その中でこの戦争はおかしいと考え方を変えた私学の校長もいる)。
5月:軍事教練15周年記念の訓話、「青少年学徒に賜りたる勅語」奉読。
7月7日:昭和12年には七夕祭が行われていたが、この年は支那事変二周年の勅語奉読式で、国旗掲揚の後、国歌斉唱、宮城遥拝、陸軍少将の講話、万歳三唱が行われた。
8月:夏休みは登校して体練実施。教員の応召の歓送式。物資愛護作業、集団勤労作業等で生徒は忙しかった。
9月:始業式で興亜奉公日の訓話/以降は各種の決まった式が繰り返される。
〇昭和15年(1940)7−8月:兵器補給廠等の勤労奉仕(5年生)、宮城外苑勤労奉仕、学校での集団勤労作業。
9月:空襲退避場探査、空襲避難訓練、特設防護団の結成と防空訓練。
10月:食糧不足となりつつあり、校長は「節米運動」として代用食の作り方などを各家庭に配布した。
11月:紀元2600年(神話上の神武天皇が即位されたとする年を紀元とする)奉祝式。ちなみにこの年、東京オリンピックと万国博覧会が開催予定であったが、日中戦争に対する国際世論の非難と、物資不足により、2年前に開催を返上していた。
12月:防火訓練で焼夷弾二発使用。この焼夷弾はすでに日本が中国で使用していたもの。
〇16年5月:学校報国団結成/6月:5年生は聖地参拝旅行。これはいわゆる修学旅行が表向きできなくなったためで(前年に開校以来初めて関西に修学旅行を行っていた)、関西の伊勢神宮などを含めた旅行となり、翌年にも行われた。
8月:夏休みに勤労作業などが組み込まれる。
9月:夏休みだけでなく、兵器補給廠での勤労作業が数日ずつ組み込まれるようになる。
10月:映画「銃後の女性」上映会。防空訓練が10日以上かけて行われる。
12月8日:日本は米英に宣戦布告し、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入/11日:戦勝祈願式、代表が明治神宮・靖国神社・東郷神社などに参拝。
〇17年2月:文部省主催、帝都学生大行進に参加/昭南島(シンガポール)陥落祝賀式/国民勤労報国隊出動令。
4月18日:米軍機による日本への初空襲、在校生の家に被害。
5月:校外授業で茨城県の内原訓練所へ。これは満洲開拓団の訓練所である。
8月:挺身隊演習。挺身隊は卒業生を組織したものである。
9月:満洲国建国10周年祝賀式。教員応召の歓送式。10日間の勤労奉仕。
10月:挺身隊と共に防空演習が行われるが、7日、朝から深夜過ぎまで5度の空襲警報があり、その度に挺身隊と生徒の防護団が出動。これは偵察機によるものと思われる/音楽コンクールで最優秀賞獲得。
12月8日:宣戦一周年記念式典、この日は大東亜戦争開戦記念の大詔奉戴日とし、この年より毎月8日に開戦の詔書奉読式が行われていた。その後神社参拝。
〇18年1月:精神修養のための寒稽古を二週間早朝に行う。
2月:鍛錬遠足として各学年ごと30−50kmを歩く。
4月:5年生は10日間の勤労作業。この後各学年が夏休みも含めて勤労作業に従事する。
5月:校内に防火用水を6カ所に設置。防空演習は定期的に行われる。
7月:夏休みに入り、防空壕掘りが進められ、約30個が作られる。
11月:防空訓練が朝5時から夜8時半まで二度行われたとある。
(以後一年以上の教務日誌が焼失)
〇19年1月:学校内に保育所を設置。これは工場への動員や農作業に追われる婦女を支えるためであり、他の女学校でも行われた。
4月:この年の入学生より五年制を四年制に短縮されたとあるが、この制度は16年より始まっている。戦時体制で少しでも早く卒業させて労働させたいためである。
6月:5年生より順次軍需工場への通年動員開始。二週間に一度が登校日で、学年全員が講堂で授業を受けた。
8月:空襲が予想される都市部から縁故疎開が奨励され、当校でも数十名が地方に転居した。
11月24日:米軍が本格的空襲開始。
(時期は不明であるが、この年学校校舎を軍需品工場に提供した)
〇20年(1945)3月:政府は小学生以外の一年間の授業停止を発表。
4月14日:城北大空襲により豊島区はほぼ焼き尽くされた。ただし当校は被害小により近隣の被災者400人を受け入れる。
5月:3、4年生、工場休止のため授業を行う/6月:ミシンなどの重要物資、図書などが分散疎開された/月末、学徒隊結成式。これは「本土決戦」の準備としてである/7月:麦刈作業ほか農耕作業強化。
8月:4日、陸軍航空隊員が体育館を使用する/15日、終戦の詔勅を聞く。「痛憤云うところを知らず」/25日、校内防空施設片付け作業/30日、食糧難により中央大学練馬グラウンドの一部を借り受けて開墾作業。
9月15日:終戦大詔奉読式/10月:11日、全校バレーリーグ戦/13日、遠足/14日、進駐軍巡察/16日、体育大会/30日、教育勅語奉読式。(当校は他校よりも早く正常に復帰していることがわかるが、この教育勅語奉読式は最後であったろう)
11月3日:当校設立十周年記念祝賀式/12月16−17日:進駐軍検察官来校。
以下は『回想 都立第十高女勤労動員のころ』(1993年)から一部の抜書きである。
—— 女学生の5年生(16−17歳)といえば学窓での楽しい語らいや歌声などが思い出されるであろうが、その時期勤労動員が決まると、私達は出征兵士よろしく壮行式があり「勝ってくるぞと勇ましく」と全校生の前を勇ましく行進して校門を出たその行手には小菅の刑務所を思わせる塀のそそり立つ造兵廠の尾久工場があった。一年間旋盤を使っての砲弾作りで、陽だまりの学窓など夢の彼方であった。人間は慣れてしまうと案外平気になるもので、それが当たり前の生活になったが、物わかりの悪い将校や田舎者の下士官に小言を言われたりすると悲しくなった。
ある時期中学生が同じ職場に動員されてきた。(当時の中学は男子のみで男女が親しく話をすることはなかったが)仕事の都合で話などすると職工達がうるさく言い始め、交渉のないように組み替えされた。空襲は工場にもあり、警報が鳴るとその都度防空壕に入り、時にうたたねして寝過ごして怒鳴られたこともあった。工場は交代制で夜勤がつらかった。夜の7時から勤務で夜中の12時に食事をして休息する時にみんなで集まってレコードを聴いた。「未完成」のメロディが心に響き、讃美歌も歌い若い心が慰められた。凍てつく冬の夜、あえて外に出て歌を歌い、外の空気と星はわずかの夢を描かせてくれた。……戦争は負け、私達の労働は無になった。だが私達はこれらから強く生きることを学んだ。そして再びあんな思いが人々の上に来ないようにはっきり物事を見る力を得た。学窓に学ぶよりも私達は多く社会を知った。……(間野景子)
—— (同じ尾久工場に勤務)朝礼では「一つ軍人は忠節を盡すを本分とすべし」「一つ軍人は質素を旨とすべし」と軍人精神で一日が始まる。……昼も夜も一週間交代で油まみれになり働く。お正月もない工場で一日生活し、空襲警報で防空壕に入って休めた。昼食12時、夜食24時には食堂で工場食を食べ、人参の葉、大根の葉、大豆等入ったご飯であった。時々パン、キャラメル、お饅頭が配給になり、喜んだ。休み時間にいろいろ歌ったのも何よりの楽しみだった。仕事の中でも旋盤は花形なので、友達と愛国に情熱を燃やし「撃ちてし止まん」で頑張り、第十魂を充分発揮した。銃後を私達が守るのは当然の事と何の疑いも持たず、額に汗して働いた。工場から支給された上着の油だらけを家に持って帰り、母がこんなにまで働いてと泣いていたが、あの頃は毎日が充実していた。一度衝撃子の屑が目に入り、失明するかと心配したが大事にならずほっとした。工場で仕事を教えていただいた男子工員の二人に召集令状が来て、並んだ私達の前で敬礼して出征された。
我が国は神国日本であることを学校で教わり、何かあれば必ず神風が吹き、日本は勝つと信じていた。もんぺ姿に防空頭巾と救急袋を肩から下げ、左胸に住所、名前、血液型を書いた白い布を縫い付けていた。工場に入る時、隊列を組み、先頭の人が門の歩哨に「かしら右」と言って通る。まるで軍隊だ。今でもミシン油を使う時、私は苦しかった生活の中で、勝たねばならない一念で自分が今国の為に何かしている事に一種の満足感すら感じていたことを思い出すことがある。(山辺周子)
戦時下で女学校から陸海軍の前線兵士へ多くの慰問文が絶え間なく送られていたが「届かなかった慰問文」があった。その中で戦局が悪化していた19年6月、その慰問文が外地に送られず、内地に回されたが、それが皇居に本隊のあった近衛第一連隊に届けられていた。終戦の前日8月14日、日本軍内ではすでに敗戦が決まったとして「機密書類」の焼却を始めていた。その中に女学生の慰問の葉書(手書きの絵入)が混じっていて、当時その連隊に勤務していた山中という女性がそれを見つけ、厚紙にくるんで隠し、翌日終戦となって自分のリュックに入れて郷里の静岡に帰った。そのまま36年間持っていて、何とか当時の女学生に返したいと新聞社に連絡した。その慰問文は、北野高女、日本女子大、第七高女、第十高女らの生徒のもので、各学校の同窓会を通じて返却が始まった。もう亡くなった人、住所が分からず戻された人などもいた。その中の一人が上記の山辺である。
別の一人がインタビューの時、「私達は女学生でなく軍人だった。熱が出ても『軍人は熱が出た位で休むな』と言われた。丈夫な者でもあの時の労働は過酷だった。あの時は男の人ばかりが大変だったのではない。育ち盛りの少女時代にあんな経験までしたのに、今の考え方からすれば怒らなくてはいけないのに悔いていないのが不思議だ」と語った。この慰問葉書はちょうど勤労動員が決まって、その前に書かれ、送られたものだった。なお、過酷な三交代の労働で体を壊し、短命に終わった人、病気を抱えたままの人も少なくないという。(1981年8月の朝日新聞の連載記事より)
続いて『清き流れに——都立第十高女七回生の記録』(1996年)からの抜書きである。
上記は5年生であるが、こちらは当時3年生のもので主にアンケートから成り立っている。3年生の場合、勤労動員先は日本化工十条工場、中外製薬高田工場、日本マグネシウム学校工場に分かれた。また5年生の工場と違って、三交代制は行われなかった。
日本化工では防毒マスクが作られていた。入所式の日、社長が挨拶で「毒ガスは日本軍が中国で使う。中国の街は高い城壁で囲まれていて、突入するのに難儀をする。そこで毒ガスを投げ込むと城門を開けて逃げ出してくる。そこで我々はマスクをつけて突入する」と言った。(注:毒ガスの使用は国際法で禁止されているが、当時の国内ではその認識が普及していなかったということがわかる。また戦時下で女学校でも頻繁に行われていた防空訓練の中に、マスクを使う毒ガス対策訓練もあった。なお中国の街は日本の城郭と違い、街全体が城壁で囲まれていて、毒ガスでその外に追い出すのは無理である)。工場では「神風」と染めた鉢巻をしてその防毒マスク作りとガス漏れチェックなどの作業に従事した。動員されてまもなく、サイパン島で日本軍が玉砕したとの報道を聞いた時、「私たちにも残業させてください」と訴えた女学生たちもいた。
中外製薬は海軍の指定工場で、注射用アンプル作製、錠剤の包装などで、軽作業の職場では軍歌や愛唱歌集などの歌を歌いながらできた。時々工員が出征となり、歌を歌って送り出した。20年5月25日の空襲で工場が焼け、学校工場に移った。
学校の校舎も日本マグネシウムの工場とされ、空襲後中外製薬や日本化工も合流した。弾丸入れやそのベルトの仕上げ作業を行い、すでに皮が手に入らず、ゴムをブラシで毛羽だてて皮のように見せた。グラインダーも使ってその粉が飛び散り、悩まされた。それにより呼吸器系の病気になり、このクラスは死亡率が高い(この記録集の時点で前後の学年と比べて約2倍近く)という。学校では暖房がなく(資源不足)、昼休みは卓球やバレーボール、合唱などをして過ごした。
以下はこの記録集の動員に関する感想の中からである。
—— 鬼畜米英と思い込まされ、お国のため兵隊さんのためにと頑張ったけど、洗脳教育の恐ろしさを感じた。動員で勉強もせず、振り返れば無駄な努力だった。/その頃、私の思考は停止し何も考えないよう自ら心をロックしていて、これは国家によるマインドコントロールであったと今は思う。/深く考えずに言われる通り、勉強もせず、それが当然のように思っていて、今考えると恐ろしい。大切な勉強の時間を奪われて取り返しのつかない思いがある。/その後師範学校に進学しても、その分の学力は取り戻せなかった。/客観的に戦争を見つめるということの許されない時代だった。/当時は百年戦争を信じ、自分の一生は戦争で終わるのだと思っていた。私たち少女は聖戦を信じて疑わなかった。9歳の孫に学校工場の話をした時、「えっ!学校で勉強しなかったの?」と言われてショックだった。/その時作っているものが粗末なものだったので、こんなもので戦争に勝てるのかと思っていた。/当時兄は出征し、私達にできることはやってきた。そして兄はフィリピンで戦死、今では軍部の専横が憎くて、東京裁判の東條被告の死刑も当然と考え、この怒りは一生続く。
