(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)
女子聖学院(女子聖学院中学校・高等学校)
明治38年(1905) アメリカのプロテスタント教派ディサイプルス・オブ・クライスト派から日本に派遣されていた女性宣教師、バーサ・F・クローソンにより女子聖学院神学部として東京築地で設立される。39年、 米国の篤志家からの寄付により現立地場所に用地を取得、校舎建設に着手した。39年、聖学院中学校を設立。41年、 普通部本科を設立。大正2年(1912)家政学部を設立。昭和13年(1938)、女子聖学院本科を高等女学科に改称。昭和22年(1947)学制改革により女子聖学院中等部、翌年、女子聖学院高等部設立。のちに大学を設立。以下は『女子聖学院五十年史』からである。
昭和6年(1931)9月、満州に駐留していた日本の関東軍は満州事変を起こすが、まだ国内の生活にさほどの影響はなかった。ただ出征兵士が少しずつ増え、学校でも出征兵士への慰問活動をするようになった。またこの事変に対しては欧米列強国からの非難が高まり、昭和7年には国際連盟による満州への調査団の視察が始まった。その結果8年、国際連盟により日本は満州からの撤退を求められるが、それを不服として日本は国際連盟を脱退してしまった。ほぼここから日本は孤立化し、戦争への傾斜が強まっていく。そうした情勢もあってか、当学院は米国からの援助から脱し、自立への道を歩むようになる。
昭和7年2月11日、紀元節(現・建国記念日)祝賀式後、校内音楽会が開催とあるが、紀元節祝賀式は終戦まで続けられている。こうした行事を含めて聖学院は他のキリスト教系学校に比べ、国粋主義つまり天皇至上主義の流れをほぼ抵抗なく受け入れている傾向がある。ある意味それは学校の生き残りのためであった。
昭和9年(1934)9月、満州国新京で開かれた全国中等学校長会議出席のために当時の平井院長が出席した。わざわざ満州でということであるが、会議後、朝鮮・満州・北支(中国北部)の教育視察旅行も行った。この視察旅行は6年後にも行われている。日本の国力、覇権がアジアに広がろうとしていることを教師たちは実感したのであろうか。またこの年の秋、全校の女学生たちは時局認識ということで、所沢の飛行学校を見学、格納庫にある戦闘機、愛国〇〇号も見せられた。この愛国号というのは満州事変前後から女学校の献金によって献納されたもので、一機だけではなく、この種の献金は以後も各界からも行われた。当学院も献金に関わっていたから見学に行ったのであろう。
いずれにしろ戦争というものがこの時代、国民の身近にあって、いわゆる戦争反対の声が表に出ることはほぼ全くなかった。ちなみに明治時代以来、日本は数々の戦争をしてきたが、常に中国を含めた他国に侵攻をすることによってであって、日本が他国に侵攻を受けて国民自身が被害を受けることはなかった。
昭和12年(1937)7月、北京近郊で盧溝橋事件が起き、それを理由に日本が日中戦争(支那事変)に突入するのは必然であった。日本軍が中国の都市を攻略するたびに国民は歓喜に沸き、12月、中国の首都南京を攻略すると日本全国で祝勝の提灯行列も行われた。一方で生徒の父兄にも召集がかかり、応召は名誉とされ、万歳三唱で戦地に送り出された。学校では防空演習が始まり、春夏の休みには勤労奉仕が奨励された。政策的には国民精神総動員運動が始まり、戦時体制が強化された。とりわけ女子生徒たちには出征兵士遺族への慰問や、傷病兵への慰問が課された。12月発行の校友誌は国民精神総動員号とされ、平井院長は巻頭言でその意義を説き、生徒の作文にも非常時の言葉が多く使われた。
13年2月11日、紀元節後の音楽会は近年になく盛大に行われた。5月の海軍記念日には海軍中佐による特別記念講演が行われた。7月7日、日中戦争一周年記念日として文部省の通達により、護国の英霊への感謝と皇軍の武運長久を祈るため、学院の代表が靖国神社と陸軍墓地に参拝、また金属の献納が指示された。
14年4月、初めて全校挙げて靖国神社に参拝した。5月、宮城前広場に全国学生生徒と教職員の代表が集められ、天皇による「青少年学徒に賜りたる詔書」が下賜され、その後各学校で奉読式が行われた。この頃から全国的に女学校において兵士への慰問袋作成が行われ、その中には絵入の慰問文や手作りの人形、雑誌、飴、下帯などが入れられた。この慰問袋はその後も続けられる。10月に入ると朝の礼拝に先立ち、宮城(皇居)遥拝が始められた。またその月に中国の武漢が陥落したことを受け、礼拝後祝賀式を挙げ、そして4、5年生は二重橋での祝賀式に参列したが、11月には千葉の陸軍病院への慰問、そのほかにいろんな行事が差し込まれ、生徒にとっては忙しい時代が続いた。7月、米国より日米通商条約廃棄の通告を受け、国民は米国を敵国として認識させられていく。9月、ドイツのポーランド侵攻により第二次大戦が勃発した。第一次大戦と異なり、航空機による空爆が優先的に行われるようになり、国内でも防空演習が盛んに行われ、学院でもこの9月に校庭で訓練を行った。12月、平井院長は職員会議で「国家観念と皇室中心主義の涵養に勉むると共に『青少年学徒に賜りたる詔書』を暗誦せしめ、英語礼拝は今後中止したい」と述べた。
昭和15年(1940)は皇紀2600年(神話上の神武天皇が即位したとされる年からのこと)の記念行事が学内や全国でも行われたが、1月の新年の祝賀式で、その奉祝歌を歌った。4月、「建国史蹟めぐり」として5年生が九州へ修学旅行、これは11日間の日程で(従来は関西旅行で、3、4年生は箱根や日光への一泊旅行)、この時代、女学校では普通に行われたが、長期の旅行はほぼこの年が最後となる。6月、5年生が赤羽陸軍兵器廠に勤労作業、その後全校生が宮城外苑の勤労作業に従事した。同月、青山学院においてキリスト教各学校の校長会議が開かれ、新体制下における進むべき道を協議、わが国キリスト教主義学校の校長、学部長、そして理事長には日本人を当て、外国教会より経済的独立を期し、興亜教育に具体的方策を樹立する等を申し合わせた。9月、二日続けて防空演習があり、その中で防毒(毒ガス)訓練もあった。すでに日本軍は中国で使っていたからである。10月17日の神嘗祭(皇室の重要行事)の日に、「奉祝基督教信徒大会」が全会派の信徒2万人を集めて青山学院で挙行された。11月10日、全国で皇紀2600年祝賀式が行われた。
国際情勢としては9月、日本は日独伊三国同盟という軍事同盟を締結、また日本軍は中国から南下政策を行い、フランス領インドシナ(現在のベトナム、カンボジア付近)に進駐し(仏印進駐)、この頃から米英等による対日経済制裁が強まる。
一方で平井院長は「北支教育視察団」の校長の一員に選ばれて4月末、中国満州地区に旅立った。帰国後の視察談で「支那を見て我国民に警告することは、誤れる優越感を一日も早く捨てなければならぬということである。東洋の新秩序の建設は、その指導者たるべき日本国民の自粛自戒から出発せられねばならぬ。… 支那人は一般に平和の愛好者である。……万里の長城を見た者は支那人の辛抱強さと従順さに驚嘆するであろう。……(満洲国の教育については)日満不可分関係の建国精神の徹底である。教育は国家を鞏固に健全にするために施される。いわゆる個人主義や自由主義は許されない。……最後に一言したいことは、大日本帝国の国民として生まれ合わせた幸福である。それを思う時、誰も感謝の涙の溢れ出るを禁ずることが出来ぬ。… 教育報国の誠を致し、聖戦の目的達成のために邁進するよう祈って止まぬ」と語った。聖戦とは言え、おそらく平井はその前線に立って見てはいないであろう。
16年3月、食糧不足により、構内の空き地を開墾することに決定、週に2回、その作業にあてた。それも勤労作業の一環であった。4月、文部省の指示でこの年の入学者から5年制は4年制となったが、これには女学生を早く卒業させ、軍需産業への勤労動員をさせる目的があった(男子中学生は2年後から)。5月、遠足は年2回ほど実施されているようであるが、この年は大宮公園まで28kmの強歩を敢行した。また5年生の修学旅行は時局に鑑み、東北への旅行となり、3泊4日に短縮された。同月、それまでの校友会を解散し、女子聖学院報国団が結成される。その体制で勤労動員が始まり、この年は内閣印刷局などへ一定期間通った。それとは別にこの頃いろんな団体から皇軍慰問の作業(上記の慰問文や慰問袋など)要請があり「女学校はよく利用された」と年史の筆者はぼやいている。
7月、日本軍はさらに南部仏印に進駐し、米国は海外資産の凍結、石油の禁輸などさらなる経済制裁を行い、英国やオランダも従った。そして12月8日、日本は太平洋戦争に突入。緒戦は奇襲攻撃だったので各地で成功の報道を受け、生徒達も学校で歓声をあげ、国民も欣喜雀躍し、各家庭には日の丸の国旗が掲げられた。翌7年から国はこの8日を「大詔奉戴日」と定め、学校でも興亜献金を大詔奉戴献金と改め終戦まで続けた。年史によると、戦時下では何かにつけ献金や貯蓄の義務があり、当時の女学校はおよそ中流家庭以上の生徒しか通えなかったのでできたのであろう。
17年、2月8日の大詔奉戴日には明治神宮外苑競技場で学校報国隊連合大会が開かれ、東京の大学・専門学校・中学校・女学校から5万人が集められ、学院生も参加した。その後のシンガポール陥落の戦勝祝賀行進には全校生徒が参加した。4月には一定期間、軍需工場に通った(東洋乾電池・河端製作所・昭和ゴム)。また近隣の生徒・教師による特設防護団が設置され空襲に備えることになったが、4月18日、米国による初爆撃があり、その夜から教員の宿直が始まった。その後、防空訓練は授業を削って強化された。秋には北浦和に農場を借り、錬成道場とし、これにより不足する食糧に対応することになったが、空襲時に対応するためにここにも生徒の手で待避壕(防空壕)を作った。10月には10日間、4年生が凸版印刷と陸軍兵器補給廠に勤労動員した。
18年、4月より軍隊式に二列登校が励行され駅で整列して登校することになった。また男子同様の教練として授業の時間を割いて分列行進の訓練があった。学校にも対空監視哨を置くことになり、第一校舎の屋根上に監視所が設けられ、例えば「敵機XX機〇〇方面より飛来」と下の本部に伝えたと言う。夏休みに入り、急に勤労動員の指示があり、4年生を8月2日から14日まで東洋乾電池と河端製作所に通わせた。それとは別に臨時に生徒たちを出校させ、防空訓練を行ったり、待避壕が不足しているとの判断で毎日30人を動員して11ヶ所作った。9月にはプールの起工式が行われたが、これは先に大きな防火用水(貯水槽)を作るようにとに都の要請があり、ついでに生徒の健康増進のためとしてプールを計画したが、この後資材不足のため、翌年に工事半ばで中止となった。
体力作りが奨励されるなか、11月、東京から大宮まで24kmの競歩を5時間で歩くことを目標とし、ほぼ全員が踏破した(前年には17kmを歩いている)。12月より生徒は防空服の着用をすることとなった。
9月の次官会議で「女子勤労動員の促進に関する件」において「女子勤労挺身隊」の結成を促すことになった。これは14−25歳未満の未婚者で就業していない女性を勤労動員の対象とし、女学校においては卒業生に女子勤労挺身隊を結成させることになり、日本基督教団挺身隊に参加、早速海軍被服修理工場に動員された。それに伴い、翌年からの卒業生も挺身隊としてそのまま勤労動員された。
かねてより天皇の御真影を学校内に掲げることが奨励されていたが、学院は他校より遅れてこの年に御真影を安置する奉安殿が出来上がり、御真影は12月に下賜された。これには学院を挙げて校門前に整列して出迎え(奉迎)、その後奉戴式が行われ、奉安殿に奉遷された。これにより日直当番の教師の責務はいよいよ重要となった。
12月24日のクリスマスには献金が行われ、1230円(現在の3、40万円か)そのうち1000円がキリスト教同盟本部を通じて飛行機(戦闘機)献納となった。
19年、2月下旬、卒業予定者に対し挺身隊結成式が行われ、その後在校生による送別壮行会が行われた。ただし上級校への進学者は別であるが、この年より勤労動員は強化され、その学校でも勤労動員は免れなかった。この年後半から在校生の勤労動員が本格化していく(内閣印刷局や王子兵器千住工場)。動員の前には壮行会、現地工場では入所式が行われた。11月にはそれまで動員されなかった2年生(13−14歳)が陸軍造兵廠に出動となった。こうして学校は動員と地方への疎開者によって閑散となるが、それを狙って陸軍の防衛隊が空き教室を占有するようになった。11月3日、明治節の休日があり、全校生徒が登校して祝賀式があったが、久しぶりに級友と会えた生徒達は笑顔に溢れた。しかし12月に入り、王子兵器工場では交代制の夜勤が開始された。この夜勤に抵抗して通常勤務を曲げなかった学校もあったが、それは稀であり、その校長の強固な信念がなければできなかた。
6−7月に日本の占領するサイパン・グアム島の日本軍がほぼ全滅して陥落し、米軍はそこを爆撃機B29の基地にして11月下旬、日本への本格的空爆を開始した。その前に偵察機がたびたび侵入してくるようになり、その都度空襲警報が出され、学校の防護団は振り回された。
20年(1945)、1月に入り教員の宿直は強化されたが、空襲警報は頻繁となり、2月に空襲警報のない日は7日間のみとなった。教師も含めて都民はほとんど安眠できない状態となった。北区への大きな空襲は2月19日であったが、3月10日の下町三区を中心とした東京大空襲では10万人近くの犠牲者を生じた、その後の3月の入学試験では、焼失を免れた学校に対し、無試験で入学許可を与えるようにとの都の指示があった。またこの年の卒業生は16年からの制度により、4、5年生が同時となった。しかし送る側の在校生の出席者は動員のために限られ、保護者の出席もほとんどなく、寂しいものであった。
北区では4月13日に大規模な空襲があった。学院は危うく焼失を免れたが、近隣の被災者数百名を収容した。その中には焼け出された卒業生、在校生、教師もいた。なお、米軍は米国系の学校への空爆を避けていたふしがある。立教や明治学院のような米国系キリスト教学校も空爆から外されたが、青山学院は延焼で大半が焼けた。この日を境に多くの在校生も疎開したが、その生徒も疎開先で勤労動員が義務付けられた。その後、東洋乾電池の工場が学院に設置され、低学年生は学校で勤労動員することになった。
当時の小田教頭は当然キリスト教の熱心な信者であったが、聖学院が米国教会と繋がりがあり、また小田が9年間の在米歴があることとの理由で、憲兵隊によりスパイの嫌疑がかけられた。4月20日、小田が家族を疎開させてから帰京した直後に憲兵隊に拘束された。留置されている間、「キリスト教徒と大東亜戦争」「キリスト教と日本の国体」「米国事情」などについてどう考えているかの質問を受け、また聖書の授業の時に「汝の敵を愛せ」と教えなかったか、毎朝の礼拝時に戦争の終わることを祈っていると言わなかったかなどが糺された。憲兵隊ではかなり前から小田教頭に目をつけ、女子聖学院の生徒の一人の家に下宿させてその生徒のノートを点検したり、また生徒5、6人を憲兵隊出張所に呼び、教頭の言動を尋ね、その後は脅して口外を禁じた。憲兵は小田が留置場にいる間は家と教頭室を綿密に調べ上げ、10年間書き溜めていた日記も押収した。留置場内は不潔で、小田はシラミに悩まされ睡眠もまともに取れなかった。留置されて5日後に平井院長が日用品を持って訪れ、その後食べ物など多少の差入れをした。4月末、憲兵隊が来校し、女子生徒5名を指名して憲兵隊に出頭させた。付添いの学年主任も一緒であったが、すでに密かに調べを受けていた生徒のほうが教師よりも落ち着いていた。一人ひとり別室に呼び出されて尋問を受けたが、生徒たちは決して小田が不利になるような証言はしなかった。その結果、とりわけ問題になる事実がないとされ、5月7日、17日後に小田は釈放された。その後小田は学校に迷惑をかけたとして教頭の辞任届を出したが保留された。しかし没収された日記が戻されることはなかった。
5月25日の大空襲をもって、米軍は地方都市への空襲に転じたが、空襲警報は相変わらず続いた。6月23日、本土決戦の前哨戦とされた沖縄戦が、敵味方と住民合わせて20万人の犠牲者をだして終結、いよいよ日本は追い込まれた。7月9日、政府は学生生徒に学徒隊、国民に義勇隊の結成を促し、学院もそれに応じた。この日、前年より教員生徒で貯蓄していた「大詔奉戴献金」4166円(現在の1000万円以上)を二分して陸・海軍に献納したという。すでにあまり意味をなさないものであったが、この中には生徒達の勤労動員による給与から天引きされた金額も含まれていたはずである。
7月26日、連合国より降伏を求めるポツダム宣言を突きつけられ、そのビラが都内にも散布された。軍政府は無視を決め込んだが、そして広島・長崎への原爆が投下された。8月10日にも北区に爆撃があり、大きな被害を生じたが、8月15日、この日は生徒達は動員先の工場から学校に集まり、正午、天皇の詔勅の放送があり、終戦となる。18日、学校工場の閉鎖式があった。9月時点での在校生は半分以下に減っていた。その後戦災で死亡した7名の慰霊祭が行われ、11月1日には創立四十周年記念式が挙行された。この時はまだ宮城遥拝や勅語奉読が行われているが、逆に多彩な内容の学芸会も続いて行われ、生徒達の立ち直りの速さを示している。
東京成徳学園(東京成徳高等女学校)
大正15年(昭和元年)王子高等女学校(4年制)を王子に創立。昭和2年に王子家政女学校(二年制)を併設。昭和6年(1931)東京成徳高等女学校に改称。7年、王子家政女学校を成徳実践女学校とする。14年、成徳実践女学校を東京商業女学校とする。22年(1947)戦後の学制改革により東京成徳中学校(現東京成徳大学中学校)開校、翌年、高等学校を開校し東京成徳学園と改称。以下は『東京成徳学園60年史』からの抜書きである。
昭和6年(1931)に日本は満州事変を起こし、その延長で昭和12年(1937)には日中戦争(支那事変)に突入する。当校の昭和10年からの記録では、他の高等女学校(当時は今の中学校を含めた五年制だが、成徳は当初四年制)と同様、関西への修学旅行が毎年行われているが、それも昭和15年(1940)までで、太平洋戦争に突入する16年からは中止されている。生徒たちにとっては最大の楽しみが奪われているが、戦時下の旅行に対し制限が加えられた結果である。ただし他校では17年まで修練旅行や参拝旅行などの名目で伊勢神宮参拝も組み込んで続けたという記録もある。その代わりに修練遠足の名目で箱根や伊豆大島などへの旅行が行われている。 文部省の通達には「修練の実施においては学徒の心機一転を図ると共に、いよいよ規律を厳正にし皇国護持の新たなる気力と体力を涵養し、有事即応の態勢を強化すること」とある。これにともない、普通の遠足も「耐久遠足」として、しばしば長距離行軍を行い、昭和18年には24kmの行軍が実施され、あるいは10時間の夜間行軍(夜9時に出発し、靖国神社、皇居、明治神宮を経て朝8時に飛鳥山着)も行われている。
日中戦争開始後、徴兵や徴用により農村の労働力が不足、食糧生産は低下し、さらに14年には西日本と朝鮮(当時は日本の植民地)が凶作となり、政府は食糧増産に努めるように指示を出した。当校でも15年、足立区堀の内に学校農園を設置し、一年を通して教員・生徒が交代で出勤し、さつまいも、じゃがいも、とうもろこしなど食糧増産に励み、さらに校庭も掘り返されて畑となった。
16年(1941)には学校に報国隊が結成され、校長が報告隊長、その下に大隊、中隊、小隊が軍隊のように組織された。その勤労報国隊として上級生は陸軍兵器廠、東京電力、昭和ゴムなどへ勤労動員することになった。当初は夏休みなどの一定期間であったが、戦争の深化にともない、次第に勤労日数は増えていく。そしてこの年の12月、日本は日中戦争が解決しないまま太平洋戦争に突入する。
17年4月18日、開戦後の米軍による日本への初空襲があり北区も重症1人を出したが、これにより「戦争を意識して学校の空気も一変した。英語の学科が廃止され、体育の時間が勤労奉仕作業と変わり、作業の時間は救護の時間となり、裁縫の時間にはモンペや防空頭巾を縫うようになり、食糧増産のために農場にもよく通った。百姓仕事を知らない先生と生徒が開墾するので、大変な重労働だった」と当時の女生徒が語っている。
18年の夏以降、女学校の卒業生を含めて14−25歳の女子に対して女子挺身隊の結成が促された。当時の若い女性は家事手伝いが多かったが、裕福な家庭を含めてそれは許されない状況になった。その年の12月以降、挺身隊結成のため、多くの卒業生が学校にやってきて、軍需工場に配属された。戦況が厳しくなった19年3月、政府は「決戦非常措置要綱」を発し、学徒勤労動員はほぼ通年となり、高学年生の授業はなくなるが、この年の4年生の卒業生はそのまま女子挺身隊となり、陸軍被服本厰(軍服の縫製作業)に勤労動員することになった。このほか生徒は千代田化学工場、続いて陸軍第一造兵廠(旋盤を使い機関銃の弾を作る作業)に動員されるが、残った生徒は特設防護団として防空・防護訓練が行われ、校庭に防空壕の構築作業も課された。学校も工場化され、体育館と理科教室などが理研の工場とされ、これは航空機の部品作りで、これには低学年生が当てられた。翌20年1月、工場となっていた理科室から出火し、割烹室とともに焼失した。6月には1、2年生が大東亜化学に動員された。
すでに19年11月下旬より、米軍による東京への本格的空襲が連日のように展開されていたが、それにより職員の宿直が始まった。2月19日、北区では最初の大規模な空襲を旧王子区に受け、豊島町の工場地帯に爆弾と焼夷弾が投下され、死者29人となった。4月に入って職員の他に高女生7人が交代で宿直についた。4月13日深夜、北区に最大の空襲があり、学校に隣接するフェルト工場が被害を受け死者1名となったが、当校は焼夷弾を受けず焼失を免れ、それにより近隣の罹災者約100人を教室に収容した。生徒の家々も死者はなかったようだが、多くが焼け出され、次々と地方に疎開した。
以下は当時生徒を工場へ引率していた若い教師の話である。
—— あの日からもう40年の月日が経った。当時私は赤羽の理研工場へ2年生(13−14歳)と学徒動員していた。飛行機の部品だという長さ10cm幅5cmの鉄棒の傷の有無を調べ、無傷のものは砂で磨き、傷のあるものはヤスリで丹念に削り取る作業だった。指揮する軍人からは「1mmの傷も見逃すな。兵隊一人の命と引き換えになるのだぞ」と叱咤されながら作業していた。それでも直接指導する班長は優しい人で作業がなく空襲のない時を見ては広場でバレーボールを一緒に楽しんだ。B29が来襲すると大急ぎで防空壕に飛び込み、肩を寄せ合って震えて過ごした。
昭和20年8月15日、いつものように工場へ行くと、「今日は天皇陛下の大事なラジオ放送があるから至急学校に行くように」という指示があり、久しぶりに学校へ行けるのが嬉しくて大急ぎで学校に向かった。校内には他工場への動員組も帰ってきていて、遠足のような賑わいだった。講堂に集合し、現人神(天皇)の放送ということで皆頭を下げて敬虔な態度で聞いた。勅語の言葉が難しく内容が理解できずにいたが、しばらく呆然とした状態が続き、そのうち生徒たちの泣き声が高くなった。私たち職員も涙を抑えられなく手放しで声さえあげて泣いた。早く帰宅せよとのことで生徒たちは泣きながら帰って行った。
「欲しがりません勝つまでは」の精神で青春を忘れ、自分たちの幸福を国家に託したすべてのことは無駄になった。日がたつにつれ気分も静まり、終戦をほっとした気分で考えることができた。(本橋美江子)
この重大放送については、8月9日のソ連(ロシア)の対日参戦に対する宣戦布告を予想した者、広島・長崎に投下された「新型爆弾」にもめげず徹底抗戦を命じられると思った者も少なくなかった。「神風」と「神州不滅」を信じ「一億総特攻」のかけ声のもとに食糧をはじめとするすべての生活必需品の不足に悩まされながら、空襲下の危険な工場に動員された生徒と教師にとって、この敗戦の宣言は非常にショックであった。勤労動員は解除され、その後再び全校生徒と職員が集められ、「軽挙妄動してはいけない」「流言飛語に惑わされないように」「連合軍から我が身を守るように」などの注意があった。当校は空襲被害を免れたので、他校よりも早く、9月4日に授業が再開された。しかしまだ疎開先から戻れない生徒も多くいた。
戦後の食糧事情は一層ひどくなり、学校農場での農作業は交代で毎日続けられた。収穫物(さつまいも、人参、落花生など)は全職員と生徒に分けられ、各家庭に喜ばれた。食糧不足は翌年も続き、その調達のために臨時休校する日もあり、各家庭では食糧の買い出しに出かけた。
授業の内容は占領軍GHQの民主化政策によって大きく変えられ、歴史や地理や修身の教科書も使えなくなった。校内に残っていた弓道場も軍国主義教育の一環と見られるとして、GHQの視察の前に取り壊された。またそれまで登下校の際に生徒が立ち止まって礼をしていたが、その先にある天皇の御真影を納める奉安殿も年末に取り壊された。
18年より途絶えていた校外学習や研修旅行は22年より一泊から復活するが、関西への修学旅行が復活するのは25年であった。その間、日本は強烈なインフレに襲われ、20年から25年までの物価の上昇率は100倍前後になっている。これにより戦後の個人の食糧調達も物々交換が多かったが、家を焼き出され、交換する物品も失った被災者が生き延びるのはさぞ大変であったろう。
