荒川区の女学校

(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)

北豊島学園(北豊島高等女学校)

 大正15年(1926)「女性の地位向上」「社会で活躍できる女性の育成」を目標に掲げ、秋上ハル、林政穂が北豊島郡尾久町(現在地)に北豊島女学校を創立。秋上は小学校教諭を経験した後、大正デモクラシーの潮流の中で、女性の地位向上のための社会活動に参加していて、女子の自立に向けた教育の必要性を感じたためという。翌昭和2年に寄宿舎を設ける。18年(1943)、女学校令により北豊島高等女学校となった。戦後の23年(1948)学制改革により、北豊島学園北豊島高等学校となり、25年に北豊島中学校、北豊島幼稚園を設置する。

 北豊島学園には五十年史と創立六十年記念誌があるが、詳しい記述がまったくない。以下はその中から拾えるものだけである。戦時下の具体的背景についてはトップにある「戦時下の大学・女学校の概説」と他区の女学校を参照。

  昭和7年(1932)鼓笛隊を結成。この鼓笛隊は都内でも有名となり、その後戦時体制が強化されていくにつれ、太平洋戦争の始まる16年(1941)以降は士気を鼓舞するためとして、都下の公式行事やあちこちに引っ張りだことなる。出征兵士の壮行会や、陸軍病院への慰問もあった。総勢160人の隊というから都内随一であったろう。

 昭和18年(1943)、戦況の悪化に伴い、「教育に関する戦時非常措置」が発動され、生徒の勤労動員が強化され、卒業生に対しても北豊島高女挺身隊が結成される。すべては男性が戦地に召集され(学校の教師もその対象であった)、男手が極端に少なくなったためである。動員先は専売局、税務署や郵便局、日立製作所亀有工場、飛行機部品会社、日本鉄建兵器工場、日本皮革、海軍省、軍事保護院(長期療養保護の必要な戦傷病者のための施設)、警視庁、銀行などであった。当初は一定期間の交代制であったが、19年半ば以降には通年動員となり、学校での授業はできなくなった。

 19年11月下旬以降の米軍の空襲では多くの学校が焼失したが、当校は免れたようである。ただ建物の損傷が激しく、戦災復興資金を活用したとある。

竹台高等学校(都立第四高等女学校)

 昭和10年(1935)第四東京市立高等女学校として下谷区上野公園凌雲院内に設立。深川・忍岡・目黒に次ぐ4校目の市立高女。17年、仮校舎狭隘のため仮校舎(もと自治会館)に移転。18年、東京都制施行により東京都立竹台高等女学校と変更。また荒川区日暮里に学校敷地を取得。昭和23年(1948)学制改革に伴い東京都立竹台女子新制高等学校となる。25年、東京都立竹台高等学校として男女共学となる。29年、現在の地に新校舎移転。

 竹台高校も年史が見当たらないが、同窓会の70周年記念誌に当時を語るインタビューがあり、以下はその中にある昭和21年卒業で、その年に作られた同窓会のさつき会会長を後年務めた永井幸子の話が主である。(戦時下の具体的背景についてはトップにある「戦時下の大学・女学校の概説」と他区の女学校を参照)

 昭和18年(1943)後半には勤労動員があり、王子の第二造兵廠(兵器工場)に通った。私は事務であったのでそれほど仕事は多くなかった。一番記憶にあるのは、お茶の時間などに栗饅頭の配給があって、こうした菓子は当時の食糧不足とすべてが配給制の世間には出回っていず、さすがに軍関係は違うと感じた。

 この造兵廠への動員の半年くらい前に、学校に造兵廠からミシンが持ち込まれ、教室の机を全部片付けて、そこで薬莢(弾丸に発射薬を詰める円筒形の容器)を包む布の袋を作らされた。したがって授業はなかった。その後、造兵廠に通うことになった。この造兵廠には日本女子大や現在のお茶の水女子大、東京女子大の女学生も通っていた。主に女学生は主に事務局の仕事をしていたが、私はそこに伝令に行かされた。そこに座っているのはサーベルをつけた軍の将校であった。

 みんなは日の丸がついた鉢巻をしめ、学徒と書いた腕章と胸には造兵廠のマークと名前も書いていた。これをつけていないと門を通過できず、門の前で何人か集まって隊列を作り、その中の一人が「歩調とれ」と言って、足を高く上げて行進し、「かしら、右(左)」と言って挨拶し、帰りも同様であった。他の生徒(2回生)は旋盤を使って弾丸を作っていたから、弾丸工場とも呼んでいた。

 竹台の勤労動員の生徒は500−600人はいたが、造兵廠の工場には若い男性は召集されていず、残っているのはみんな4、50代の男性であった。またその工場の工員と同様、女子生徒にも夜勤があった。私は3月10日のすぐ後に富山へ疎開したが、その後4/13日深夜に北区に大きな空襲があり、夜勤中の同級生たちは先生と一緒に逃げたという。

 8月15日の終戦の日、天皇の詔勅の放送は富山の学校の校庭で聞いた。ガアガア言ってよくわからなかったが、そのうち勤労動員で紡績工場に通っていた生徒たちも帰ってきた。10月10日過ぎに母と東京に戻ってきた。ところが汽車は窓ガラスもなく、母は生後3ヶ月の弟を抱いていたが、弟はまもなく風邪で亡くなった。帰ってみると昨日まで一緒だった友達が空襲で焼け死んだのか、もういなくなっていて、いまだに消息がわからない。家族全滅だったようだ。

 戦後、校舎は上野の自治会館(注:写真が残されているが、文化財級の立派な建物である)だったから、勉強していると浮浪者になった孤児たちが登ってきて窓をのぞいてきたり、朝になると椅子がなくなったりしていた。校庭がない学校だったので、運動場は上野の山の野球場を使っていた。みんな下駄ばきで靴の人はあまりいなかった。花見?なにしろ終戦後は食糧難で、生きるために食糧の確保が大変で、花見なんていうのどかなことは覚えがない。

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