(当時の背景はトップの「戦時下の大学・女学校の概説」参照)
井草高等学校(井草高等女学校/府立十八高等女学校)
(当校には当時を語る年史がなく、以下は同窓会誌『井草高校20周年記念誌』より)
昭和16年(1941)1月、東京府立十八高等女学校として設立が認可された。五年制(12歳から17歳までで、仮に14歳までの2年制の高等小学校を卒業すると3年生から編入する)で定員1250名の高等女学校とされ、仮事務所を府立高等家政学校内に設け、3月、中野区鷺宮の仮校舎に移転。実はここには二つの男子中学(後の大泉高校と武蔵丘高校)と第五商業高等学校が同居し、すべてそれぞれの校舎が完成するまでの暫定措置であり、当時は都心周辺に人口が流れ込み、住宅地が急速に増えていたので、各地で他校に間借りしながらの新設校が多かった。4月5日、教職員校長以下9名が着任し、第一学年生徒252名が入学許可されて開校のはこびに至った。
当時は昭和6年(1931)に満州事変、その延長で12年(1937)に日中戦争(支那事変)が開始され、日独伊三国防共協定が成立し、日本はアジアに覇権を得るための動きの最中にあった。また12年は国民精神総動員運動が起こされ、翌13年には国家総動員法が発令され、すべては戦時体制が優先されるという軍国主義が常態化していく。15年(1940)には皇紀2600年(神話上の神武天皇が即位されたとされる年を紀元とする)の祝典が各地で行われたが、実はそれに合わせて国威発揚のためとして東京オリンピックと万国博覧会が予定されていたが、日中戦争への国際的な非難が高まって日本は孤立化しつつあり、経済制裁も受けていて物資不足も懸念されて13年に返上された。ちなみに4年後にはロンドンオリンピックの予定であったが、これも19年(1944)は第二次世界大戦の最中で中止された。
15年にはいよいよ米国からの制裁として鉄や石油の供給が止められ(当時はまだ中東の石油はあまり開発されていず、交易もなかった)、日本はインドシナ半島に石油等の権益を求めて侵攻し、それがさらに米英等の反発を受け、16年には日本の海外資産も凍結されるようになった。こうして米英と敵対するようになり、戦争への機運が増してきた年に井草高校は開校した。
すでに他の女子校は勤労奉仕で軍隊への慰問袋を作ったり日中戦争による傷病兵のための白衣などの作成に励んでいた。学校の戦時体制が作られたのもこの年で、まず学校報国団が組織され、さらに9月には勤労動員にための学校報国隊が結成された。本来あるはずの夏季行事一切が中止され、女性徒の楽しみも少なくなっていた。修学旅行もなくなっていて、その代わり「修練」の名のもとに目的地まで14kmの行軍などが行われた。その後、蓼科や八ヶ岳に行くこともあった。
16年10月に現校舎のある上石神井に校地が決定、その2ヶ月後の12月8日に日本は真珠湾奇襲攻撃とともに東南アジアに侵攻し、太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼ぶ)に突入した。その日、全生徒が校庭に集められ、政府声明の発表について、校長はこの重大な時局についての訓話をした。
翌17年(1942)、早々に学徒動員令が発動され、この時期はまだ春休みや夏休みが利用される程度であった。第二回生が入学した4月に、「米機本土初空襲、本校上空に飛来。依って遅組(1年)は授業中止、帰宅」とあるが、これは米軍にとって小手調べ的な行為であって、太平洋上の空母から発進させた爆撃機を東京だけではなく名古屋や神戸などに向かわせた。この時の日本の被害は死者88名、重軽傷者482名以上であった。東京では葛飾区の高等小学校の男の子が機銃掃射で初の被害者となった。この最初の空襲の翌5月、「新校地に甘藷の挿植及び陸稲播種のための整地開始」とある。まだ新校舎が完成していない中での食料増産のための勤労作業であった。そして10月、「新校地農園で全員芋堀作業」をして収穫した。
昭和18年1月20日、本校舎が第一期工事として竣工。2月2日、練馬区上石神井の本校舎に移転。このころはよく見られた光景であるが、引越しにあたっては重いものをトラックで運ぶ以外は(ガソリンも貴重であったから)女生徒二人で机を運び、椅子やそれぞれの校具、用具の一切を仮校舎の鷺宮から徒歩でアリの行列のようにして二日がかりで運んだという。やっと仮校舎と別れて待望の本校舎での授業が開始された。そして4月に3回生253名が入学して、校庭も賑々しくなった。7月には都制実施に伴い、都立井草高等女学校となった。また書かれていないが18年には年間30日の勤労動員が課されていたはずで、ただ半年もしないうちにその日数は倍以上に増やされた。それでも新しい校舎は生徒たちには嬉しく、自分たちで廊下もピカピカに磨き上げ、校庭も自分たちでローラーを引いて平らにし、食糧不足で農地にした土地以外の空いた所に花や木を植え、自分たちの学校という意識が高まった。
翌19年に入る頃から戦況はますます不利となり、国民生活の全分野に及んで耐乏の度合いが増した。一教諭に本校最初の徴用令が届き、引きつづいて何人かの応召者が先生の中にみえ始めた。4月には247名の入学者が許可されて、四学年が顔を揃えたことになる。実はもともと五年制であったが、16年に学校がスタートする時に、高等女学校は四年制に改められた。これは戦時下において、男性が戦地に赴いて人手不足となり、若い女性も労働力として少しでも早く確保するためであった。
18年(1943)4月には「学徒勤労動員の件」につき文部省により学校長が招集され、その結果6月から4年生の95名は保谷の朝比鉄工所へ、105名は田無の中島航空金属製作所へ勤労動員することになった。一ヶ月後に3年生も、113名が中島へ、111名が朝比奈へ動員され、正常な学校教育は崩壊した。会社、工場での入所式に際し、広瀬校長が、「みなさんが学業を一時放棄して、工場で兵器製造に動員され、額に汗するのは、国家の危急を救う為である。決して資本家の利益を助長するものではない。云々」と熱涙込めた訓話は大半の生徒に感銘を与えたという。生徒たちも小学生の頃からお国と天皇のために命を捧げるものと教育されていて、戦争の前線で活躍する兵士のためにも「銃後」の自分たちが頑張るのは当たり前の気持ちを持っていた。ただ、田無も保谷の工場では少女の身で旋盤を操作する仕事であった。残業は当たり前で、三交代制もあった。それほどに男性のほとんどが外地の戦場に赴いていた。この勤労動員は以前の勤労奉仕と違って、相応の給金は支払われたが、その中から学校への授業料が差し引かれた。こうした勤労動員は「勤労即教育」という理屈のもとで行われたが、B29が近づくたびに工場の防空壕の中で怯え、実際に工場が爆撃され死者も出た(生徒以外)。
全校生徒の半数が軍需工場動員され、その監督指導に教員も行するため、学校も人影が少なくなっていた。週一回の出校日ともなると、生徒増に伴う校舎の少なさと教室の不足が正常運営を阻害した。実は第一期工事の後に予定されていた校舎の増設は戦時下の資材不足と都の予算不足で取りかかれずにいた。そのため各学年五学級のところを三学級に編成し直した。
新しい校舎で勉強し始めて一年ちょっとで工場に動員された生徒たちは、電車の窓から自分の学校を眺めながら工場へ通う日々が一年以上も続いた。学校に残った低学年生は校庭のあちこちに防空壕掘りに励み、空襲警報が鳴るとその防空壕に飛び込み、時々米軍の爆撃機B29が遥か上空を通り過ぎるのを眺めたりもした。
19年の後半から学校の教師も次々と戦地に向けて召集されて行った。戦争終盤はすでに若くない教師にも召集令がきて、戦局の悪化を思わせた。生徒たちはその都度送別会を開き、忠君愛国物の演劇を披露するグループもあったが、先生をみんなで見送りに行った帰りに、泣きながら食べた芋がしょっぱかったという。この頃は週一回の出校日も月一回程度になっていた。
米軍の本格的空襲は最初の空襲から約二年半の準備期間を置き、新たな大型爆撃機B29を開発して、日本の木造家屋に効果的な焼夷弾なども大量に用意、19年6月から日本軍の占領するサイパンやグアム島を奪い返し、そこをB29の基地として整備し、11月24日から日本各所に大空襲を展開した。特に翌20年3月10日のいわゆる東京大空襲を受けた地区では多くの学校も焼失し、生徒の死亡と行方不明者も多くいたりで(墨田・江東・台東区の下町三区とその学校を参照)、募集を中止した学校もあった。そうした中で当校は3月28日、空襲警報が鳴る中で第一回卒業式をあげた。新学期では192名の入学生がいたが、これはこの時期には異例の多さで、当校でも地方への疎開に伴う転学者が続いていたが、戦災を受けた志望校に行けない子達が当校に来たのであろう。ちなみにこの時期、都内の女学校は無試験であった。しかしこの年は中等学校以上は4月より一年間授業停止で勤労動員に専心するとの措置で、学校の意味をなさなくなり、その後生徒は減っていく一方となった。
4月13日深夜から翌未明にかけて城北大空襲があり、日誌に「昨夜B29・170機(実際は190機)空襲のため、山手線、西武線、中央線、武蔵野線その他の交通機関、事故多く不通。生徒の登校少なく、罹災者も相当ある見込み。臨時休校とす。学校長も登校されず」とある。この後も東京は5月に2度の大空襲を受けて、都区内の主な地区は焦土となった。その後空襲は地方都市に向かっていく。そして8月6・日9の広島・長崎への原爆投下により日本は全面降伏を受け入れ、一週間後の15日に天皇の詔勅により終戦となった。生徒たちはその放送を動員先の工場で聞き、涙を流しながら炎天下の道をとぼとぼと学校へ引き上げていくその自分たちに、工場内の隠匿物資(缶詰など)を満載して逃げるトラックが轟々と埃を浴びせて行くのを見て、一人の教師は痛憤を覚えたと語る。実際に軍関係の施設には、国民の耐乏生活をよそにして多くの食糧が隠されていたことは、あちこちの証言にある。
敗戦が決まり、生徒にはすべてを投げ打って働いた甲斐もなかった悲しさもあったが、家に帰って大事にしまっていた紺の制服を着て見て、学校に戻れる喜びは大きかった。「私は真っ先に井草に戻った。荒廃の中に自然だけは元通りではないか…足が地につかぬ嬉しさで校庭を走った…一人二人と友人や先生が戻ってくる度に校庭で抱き合って再会を喜んだ」。それからは生徒たちは食糧不足の中でも水を得た魚のように張りのある学校生活を送った。一方で社会的混乱の中で食糧危機は増し、一人の教師も腹が減って困ったと言い、「ある日職員会議で生徒の弁当箱を調べることになり、自分のクラスをこっそり見ると、中にはふかし芋がたった一本という生徒がいて、胸がつかえた記憶がある」と語っている。
戦後の昭和22年(1947)に校舎は増築され、翌年新学制により中学校と高等学校に分離され、中学校は別に吸収され、25年に男女共学の高等学校となった。
以下は杉並区のウェブサイトにある戦争体験の中の「ある女学生の戦時下の普通の日々」からである。
—— 私は昭和6年(1931)、中野区で生まれ、6才離れた弟もいた。父は東京電力の新井薬師支所に勤めていたが、昭和16年(1941)、国策の南方作戦の足掛かりの電気工事のために出征した。まだ宣戦布告前だったので家族以外には極秘で、見送りも禁止された。その時は父はそのうち帰ってくるだろうと思っていた。妹が生まれて3カ月の頃で、その年12月8日に太平洋戦争が開戦した。
私の家の裏路地の突き当たりのお宅のおいっ子のお兄さんは長剣を差して軍隊式の足音を立て路地に入り、木戸の前でざっざっと靴を鳴らし「○○、ただいま戻りました!」と敬礼して名乗っていた。やがてそのかっこよいお兄さんが出征することになり、高円寺駅まで見送りに行くと、皆が旗を持って万歳をして送り出していた。私は子供の直感で、もう二度と会えないと感じ、わんわん泣き出してしまった。お兄さんはフィリピンのレイテ島で戦死し、二度と戻ることはなかった。
戦地で頑張っている兵隊さんたちを励ますため、学校で慰問袋を送った。袋の一つ一つに生徒が書いた手紙が入れられ、後日兵隊さんからの返事が学校に届いた。皆がそれぞれの返事を読んでいると、同級生が私に「みどりちゃんのお父さんって絵が上手なんだね」と絵葉書を見せてくれた。父はアンナン(当時のフランス領インドシナ)にいるようだった。
昭和19年(1944)に小学校を卒業した私は、井草高等女学校に進学した。入れ違いで小学校に上がった弟は、入学と同時に学童疎開で福島に行った。私も新潟の親戚宅に疎開できるか打診したが、5人兄弟がいて受け入れは難しいと言われた。ならば幼子を抱えている母と「死なば諸共だね」と東京に残ることにした。女学校では3年生以上は学徒動員で、2年生までは授業が行われていた。敵国の言葉を知るためにと敵性語として敬遠されていた英語の授業もあった。制服は紺の襟なしの上着に白い丸襟のブラウスで、、配給切符を持って学校指定の仕立て屋で作ってもらったが、半年ですぐに小さくなって着られなくなり、母の着物を紺に染め直して代わりの服を作った。生地の配給がないので、制服が着られなくなった生徒は私服で通うしかなく、運動靴も手に入らないので皆下駄を履いて登校した。お昼はふかし芋があれば良いほうで、弁当箱に野菜だけ入れてきている先生もいた。
昭和20年(1945)、2年生の頃には米軍機が本土にひんぱんに飛来するようになった。生徒たちで防空壕を校庭に掘ったが、地面は砂利を混ぜて固めてあったため溝を掘るのが精いっぱいで、結局、空襲警報が鳴ったら校舎に避難した。新宿の空襲で焼け出された大家さん一家が転がり込み、自宅が窮屈になった。母が父(出征中)の会社に直談判すると、阿佐谷の馬橋稲荷神社近くにあった空き家を借り上げ、独身社員用の下宿の寮母の仕事をあっせんしてくれた。家は広くなったが女学校への通学は遠くなった。
女学校にいる時に空襲警報が鳴り、上空を見るとすでに米軍機が近づいて来ていた。みんなで校舎の北側に避難し、校庭側の窓から様子をうかがうと、東の空からワーンと音を立てて偵察機が、その後にB29の大群が飛んで来るのが見え、井草の上空辺りで南へ進路を変えて荻窪方面に飛んで行った。地上から機銃掃射で応戦していたが、成層圏を飛んでいるB29までは届かず、小さな花火が打ち上がっているだけのように見えた。私は子供ながらに「これじゃ日本は米国に勝てないよなあ」と思った。空襲警報が解除され、帰宅することになったが、先ほどの爆撃で電線がやられ、電車は通らず、私は都立家政駅まで線路の上を歩いて、馬橋まで帰宅した。学校は空襲を免れたが、自宅を焼け出された先生方4家族が用務員室などに間借りした。
夏休みは空腹を紛らわすためにずっと本を読んで過ごした。裏庭に植えたカボチャは、トイレのくみ取り用の塀の隙間から侵入され収穫直前に盗まれた。8月15日は全員登校するように連絡があったが、学校まで歩く気力がわかず、さぼってしまい、玉音放送は聞けなかった。
終戦直後のある日、私は八王子の親戚の家へ食料を分けてもらうために朝6時半ごろ阿佐ケ谷駅から電車に乗った。8時前に八王子駅に着き、9時過ぎにおじさんの家に到着すると「この辺りは進駐軍がうろついているので、危ないから早く帰ったほうがいい。今は野菜はこれしかないけど持っていきなさい」と小さなナスを3、4本持たせてくれ、リヤカーで日野駅の手前まで送ってくれた。駅に着くと、電車は8時から進駐軍の専用車両になっており、一般人は乗れず、困った私は近くにいた人に「この道を真っ直ぐ行けば新宿に着けますか?」と尋ねた。「行けるけど新宿まで歩くの?」と驚かれたが、新宿に戻れば都電のレールをたどって家に帰れると考えた。私は白い日傘を差して甲州街道を東に歩いた。道端の茂みに入り用を足し、夕立にあうと木の下で雨宿りをした。やがて電車が動いているのが見え、京王線東府中駅にたどり着いた。そこから新宿まで電車に乗り、都電のレールを歩き、日が暮れる頃、家に帰ることができた。母は心配しており、この時ばかりは抱き合って喜んだ。
弟が疎開先から戻って来た。シャツの縫い目にびっしりシラミが付いており、煮沸消毒した。女学校では進駐軍への敵対行為と思われないよう木刀やなぎなたを農家の納屋に隠した。母は生活費の足しに隣の大きなお屋敷でお手伝いの仕事を始め、毎朝新聞の 「今日の帰国船」の欄で外地からの引揚げ船の到着日時と寄港地を調べていたが、ビルマにいる父の帰還がいつになるかわからないままだった。昭和22年(1947)の秋、父が突然帰ってきた。父の顔を知らずに育った妹はなかなか懐かなかった。
東京女子学院(芙蓉高等女学校)
資料求む。
