昭和2−7年(1927−1932年)満州事変へ

昭和以前の概略(詳しくは「明治時代」「大正時代」参照)

清国(中国)との関わり

 1871年(明治4年)9月、明治新政府は清国(中国)と日清修好条規を交わした。10月、台湾に漂着した宮古島の島民54人が先住民に殺害される「琉球御用船台湾漂着事件」が発生、明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めたが、清政府は「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件」とし、これに反発して軍による討伐をすべきとの声が上がった。反対論の中、1874年(明治7年)征討軍約3千名を出動させ、5月に台湾南部に上陸、6月には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であったが、多くがマラリアに感染し、561名が病死した。清国もイギリスもこの日本の軍事行動に激しく反発したが、交渉の結果、10月末、「日清両国互換条款」が調印され、12月までに征討軍を撤退させることに合意した。

沖縄との関わり

 琉球(沖縄)は江戸時代前から独立した王国であり、日本と清国(中国)に対して一応同等の距離を置いて貿易も行なっていた。江戸時代では同時に薩摩藩の属国の立場でもあったが、幕府は琉球に限って対英仏通商を許可していた。1872年(明治5年)、明治政府は強制的に琉球藩を設置し、1875年(明治8年)5月、前年の清国との和議によって、清国に対する朝貢体制の停止を命じた。しかし琉球藩は同意せず、清国も反発した。これに対して政府は1879年(明治12年)、軍隊・警察を動員して城の明け渡しを布告、王の尚泰は首里城を退去させられ、東京に連行されて沖縄県が誕生した。こ れらの一連の政策を琉球処分という。清はこの動きに反発し、翌1880年(明治13年)、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに交渉を進めたが、帰属問題は棚上げ状態になった。最終的な領有権問題の解決は1894年(明治27年)の日清戦争後で、戦争に敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。

朝鮮との関わり

 江戸時代まで、朝鮮との交易は対馬藩を通して行なわれていた。当時の朝鮮は宗主国である清国以外との鎖国政策を取っていて、明治新政府を警戒する朝鮮は日本からの何度かの国書の受け取りを拒否していた。交渉が暗礁に乗り上げると、朝鮮出兵を求める征韓論などが浮上した。1875年(明治8年)、朝鮮に軍事的威圧を加える案が出て、5−6月にかけて軍艦が釜山草梁へと入港すると訓練を名目に、空砲による砲撃・射撃演習などの威圧行為を行った。9月に入って再度日本は内密に清国や朝鮮沿岸の測量を目的として出航、ボートを下ろして江華島に接近したところ、島に設置されていた砲台から砲撃を受けた。軍艦はただちに反撃砲撃を開始し、数日の応戦で江華島砲台を破壊、城を焼き払い、捕獲品を積み込んで長崎に帰還した。翌1876年(明治9年)1月、日本は交渉団を送り、賠償の代わりに日朝修好条規という不平等条約を締結した。これがまた清国と日本の対立を深め、日清戦争へつながっていく。

朝鮮王国への干渉(1882−1885年:明治15−18年)

 1882年(明治15年)、日本は朝鮮の近代的軍隊を創設するという名目で、朝鮮の政権争いの中、開化派と連携してその改革に介入し、日本は軍隊の派遣を決めるが、先に清国が派兵し、清国側の政権となった。しかしこれを機に日本は公使館付近に警備兵を常駐させ、干渉の機会を伺った。1884年(明治17年)、改革派の開化党によるクーデターが起こり、それを日本の警備兵が支援するが3日で失敗した。 この翌年、日清両政府は天津条約を結び、お互いの軍を朝鮮から撤兵することになった。またこれとは別に、1885年(明治18年)、朝鮮の反改革派はロシアに接近して、朝露密約を結んだが、そのことを察したイギリスがロシアの狙う朝鮮の巨文島を占領し、清国はこれを承認した。

軍人勅諭(1882年:明治15年)

 1882年(明治15年)1月、明治天皇が「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」を下賜した。これは側近によって作成されたもので、この中でいちばんの問題は「下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」と述べ、続けて「軍人は忠節を尽すを本分とすべし」とある部分である。これにより軍隊は天皇の直属として特権的地位を占めることになり、昭和の戦争による敗戦までその地位は保たれた。特に太平洋戦争開戦で戦線が拡大激化して、新しく徴兵された下級兵士が増えると、粗野な上官が多くなり、そのまま若い下級兵士への暴言と暴行がひどくなっていく。この傾向を一層推し進めたのが、太平洋戦争開戦前に軍の教育総監部が作成した『戦陣訓』であった。これはとても覚えられないような長いものであったが、その中に有名な「恥を知る者は強し。… 生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」という訓示があり、これによって軍人の玉砕戦法や民間人の集団自決(沖縄や海外の居留民地区)などの数々の悲劇を生じさせた。また天皇を戴く皇軍とされた日本軍は、他国と比べて精神論が優先され、心を病む兵士が多かった。

大日本帝国憲法

 1889年(明治22年)大日本帝国憲法が公布、翌1890年(明治23年)に施行され、日本は大日本帝国と名乗った。内容は、まず第一条に「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」として天皇主権を定め、三条では「天皇は神聖にして侵すべからず」、四条では「天皇は国の元首にして統治権を総覧し」と定め、官制・統帥・外交・戒厳・非常大権などの天皇の大権を規定した。またこの憲法では国民は臣民と書かれ、つまり天皇の臣下であると規定されている。ただし軍部は、天皇の軍隊として政府や議会が関与できない独立した地位を与えられ、戦争を前提とした憲法であったとも言える。実際に「臣民権利義務」の章の第32条において、国民の権利義務は「陸海軍の法令又は紀律に抵触せざるものに限り軍人に準行す」とある。ただ意外にも言論・出版・集会・結社の自由がうたわれていて、「日本臣民は法律の範囲内に於て言論著作印行集会及結社の自由を有す」とある。しかし戦争が拡大される中、明治憲法はまったく空文化された。

教育勅語(教育ニ関スル勅語)発布

 1890年(明治23年)近代日本の教育の基本方針として明治天皇の勅語として発布された。その趣旨は、「皇祖皇宗の子孫たる」天皇を臣民(国民)の精神的支柱とする忠君愛国主義であった。発布後、文部省がこの勅語の謄本を作り、全国の学校に配布、丁重に取り扱う旨の訓令が発せられた。これが学校の儀式などで奉読され、この後に植民地となる台湾や朝鮮の学校でも同様になされ、特に昭和の戦時下ではキリスト教系学校でもその奉読が義務付けられた。その場合、天皇・皇后の御真影を掲げて行われ、普段は特別に作った奉安殿に御真影と一緒に納められ、唯一無二の神聖なものとして扱われた。全体でも短いものであるが、軍人勅諭と同様に、例えば「朕に対して忠良な臣民」という言い回しは明治天皇自身が書いたものではないことを示している。しかし、国民は天皇みずからのありがたいお言葉と受け取っていた。

朝鮮農民の反乱から日清戦争へ(50年戦争の始まり)

 1894年(明治27年)5月、朝鮮王朝の政権争いの中で圧政に苦しむ朝鮮の農民たちが反乱を起こし(東学農民軍の乱)、朝鮮政権は、宗主国である清国の来援を求め、それに対し日本政府も日本人居留民保護を名目にして6月に兵力派遣、日清両軍が対峙した。清国政府は双方の同時撤兵を提案するが日本政府は拒否、日本はあくまで朝鮮を清国から独立させるとして追加部隊を派遣、7月に入り清国側との会談は決裂した。朝鮮政府も両軍の撤兵を求めたが、逆に日本軍は進軍を開始、朝鮮王宮を攻撃し占領した上で傀儡政権を樹立、清との関係解消を宣言させた後、8月に改めて日本は清国に宣戦布告をした。

 9月に入ると清国軍を朝鮮から駆逐、黄海海戦で清国の北洋艦隊を破って制海権を握り、その後清国領内に進攻開始、それを見てアメリカは仲介を提案するが日本は拒否し、山東半島にある威海衛を制圧、11月には旅順半島を攻略、旅順要塞を占領した。そしてその占領の過程において、追い詰められた兵士と住民に対する大きな虐殺事件が起こり、その内実が欧米の新聞特派員によって詳しく欧米に報じられ、衝撃を与えた。これは旅順虐殺事件と言われているが、単なる虐殺事件としては看過できない大きな事件であり、この後の南京事件を代表とする日本軍の数々の虐殺事件の発端とも言えるが、詳しくは筆者の「明治時代」の同項を参照されたい。

 日清戦争に勝利後の明治28年(1895)4月に調印された日清講和条約において、台湾、澎湖諸島、遼東半島を清国から割譲させるとしたが、露仏独三国の圧力により(三国干渉)、日本は遼東半島領有を断念し、台湾の領有は守った。当時の台湾は列強諸国にとってさほどの値打ちはなかったのであろうが、この後台湾は50年間日本の植民地として統治され、抑圧を受け続けた。台湾が解放されたのは、日本が太平洋戦争で敗戦となった年であり、ちょうどこの50年間は日本が大小の戦争を海外各地で続けた時代であり、筆者は調べていく中で50年戦争と名付けるに至った(一般的には1931年の満州事変から1945年の敗戦までが15年戦争とされている)。そのことは筆者が明治・大正編であれこれ記してきた各種の出来事からみても、平和が続いた時代は少しもなかったと思えたところから来ている。

中国農民の反乱から日露戦争へ

 1899年(明治32年)、中国山東省で生活に苦しむ農民を集めた義和団が結成され、反政府、排外国運動を起こした。清王朝の西太后はこの義和団の乱を利用して列国に宣戦布告、しかし日本を含めた列強8ヶ国連合軍は義和団を鎮圧し北京を占領した。これにより清国はさらに多額の賠償金を背負った上に、列強国の軍隊の駐屯を認めることになり、日本は北京と天津に清国駐屯軍 (後の支那駐屯軍)を設置、この部隊が昭和の戦争を起こす要因になる。この義和団の乱の出兵に乗じて、ロシアは中国の東北満州に大兵力を送り、全土を占領下に置いた。日英米はこれに抗議しロシアは撤兵を約束したが、逆に朝鮮にも食指を伸ばそうとした。

 1902年(明治35年)4月、ロシアは朝鮮側に軍事拠点を築きはじめ、日本はロシアの撤兵を求めたが、何度かの協議の末、1903年(明治36年)2月、ロシアに宣戦布告した。戦争は激戦を極め双方に多大な戦死傷者を出したが、日本海海戦における日本の勝利の結果、1905年(明治38年)、アメリカの仲介によるポーツマス条約で、ロシアは満州および朝鮮から撤兵し、日本に樺太の南部を割譲することになった。同時に日本はロシアが満州に建設した南満州鉄道及び遼東半島にある関東州の租借権をロシアから得、その後数度にわたる日露協約を結んで満蒙(満州と蒙古)における両国の権益・勢力範囲を分割した。

 ロシア帝国から譲り受けた遼東半島南部の租借地、関東州(旅順・大連を含む)に、1905年(明治38年)9月、日本軍の関東都総督府が設置された。1906年(明治39年)には民政の関東都督府となり、その中に陸軍部が置かれ、南満洲鉄道の保護、警備も行い、関東州駐屯軍司令部も置かれた。1919年(大正8年)、関東都督府は廃止され、都督府と南満州鉄道の守備隊は合わせて関東軍司令部の関東軍に、民政部門は関東庁とに分離された。 これによって関東軍は台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍と並ぶ独立軍となり、ここから昭和に入って関東軍の暴走が始まる。なお1910年(明治43年)日本は朝鮮を併合するに至り、朝鮮総督府を設置、台湾に加え朝鮮を植民地にした。

第一次世界大戦参戦による幸運な権益獲得

 第一次世界大戦(1914年−1918年:大正3-7年)はヨーロッパの中で計25か国が参戦した最初の世界戦争であるが、大日本帝国軍は、日英同盟もあってイギリスを含む連合国軍に味方して参戦、敵となるドイツ帝国に対し、ドイツが権益を有していた中国の山東省と青島(膠州湾租借地)を中国に返還するよう最後通牒を発した。その最終期限の8月23日、日本はドイツに宣戦布告した。10月31日から青島総攻撃を開始した。なお青島攻略に際し、日本軍は陸海軍の飛行隊を出動、偵察目的もあったがドイツの青島守備部隊やドイツ軍艦、青島市街地も爆撃した。これは日本軍としての初爆撃であり、合わせて50回以上の爆撃は軍用機時代の幕開けとなった。一方で海軍の艦隊はイギリスの協力を得てドイツの東洋艦隊を抑えて膠州湾を占領し、ドイツ軍は降伏、16日に日本軍は青島に入城した。しかも日本海軍は並行して太平洋のドイツ領南洋諸島に侵攻し、10月にはマーシャル諸島などの島々を占領、いわば漁夫の利を得た。第一次大戦終焉後の1918年(大正7年)、日本は戦勝国となり、青島を含む山東半島および南洋諸島のドイツ権益を引き継ぐことが、ベルサイユ条約で認められた。そして、日本は国際連盟の常任理事国となった。これが太平洋戦争において戦線のむやみな拡大につながっていく。ヨーロッパはこの世界大戦で大きな痛手を負い、「平和への志向」に向かうのに対し、日本は「軍備増強・権益拡大志向」を目指すという潮流の違いを産むことになった。

中国山東省と満州鉄道の租借権

 大戦後の講和会議に先駆け、青島攻略後の1915年(大正4年)1月18日、日本は大隈重信内閣により中華民国(1911年:明治44年末の辛亥革命後の中国)の袁世凱政権に「対華二十一カ条要求 」を突きつけた。これは山東省のドイツ権益を丸ごと日本に譲渡することなどを記載したもので、もともと日本がドイツに要求していた「山東省と青島の膠洲湾租借地を中国に返還するよう」にという最後通告に反したことで、これに対して当然中国国内では反対運動が起こった。しかし袁政権は5月9日に要求を受け入れ、5月25日、最終的に十六ヶ条が認められ、山東省に関する条約や膠洲湾租借地が承認された。これにより中国国民は通告の5月7日と、受諾した9日を国恥記念日と呼び、国内の反日感情が高まった。1918年(大正7年)9月には、満蒙四鉄道および山東省の鉄道の借款仮契約が締結された。これに加え、1919年(大正8年)のパリ講和会議のべルサイユ条約で日本の要求が認められた結果、中国国内では学生デモを発端に、全国各地でストライキが起こり、それが五・四運動と言われる反日・反帝国主義運動に繋がっていく。この影響で中国はべルサイユ条約の調印を拒絶した。

 こうした日本軍の占有地定着に対する反日運動(英仏米露などの列強諸国に対する反感も相まって)は長く続き、状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、1922年(大正11年)の日中山東条約及び日中山東還付条約が締結され、青島を含んだ山東省を中国に還付することとなった。ただ、膠済鉄道は日本の借款鉄道とされ、同鉄道沿線の鉱山は日中合弁会社の経営となるなど、日本は山東省に一定の権益を確保した。そしてこの山東省と満州の鉄道の敷地周辺を背骨のようにして日本軍は満州地区への占領に動いていく。実際に最初の青島占領以来8年後の1927年(昭和2年)末の外務省調査によれば、山東省における日本人居留民数は、総計約1万6940人に達し、各種産業と諸工業が勃興した。そしてこれらの日本人居留民を保護するという名目で、日本軍は山東省から中国侵略への足がかりを作っていく。

 南洋諸島に関しては、当初の占領後に臨時南洋群島防備隊による軍政が敷かれていたが、1922年(大正11年)には民政部としての南洋庁が設置され、これらの島々を産業振興の地として政府は推奨し、会社や産業組合が設立されて民間人が移住し始め、その数は合わせて10万人に上り、日本人の子供たちのために学校が開かれ、現地人の子供にも日本語による初等教育を行った。そして1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争勃発により、これらの島々で米軍との激戦が繰り広げられ、日本軍兵士の玉砕の島々と化し、新天地として居留した人々は集団自決などの悲劇を生むことになる。

シベリア出兵

 この間の1918年(大正7年)、社会主義革命が起こっていたロシア(後のソ連)に対して、日本はイギリス・アメリカ・フランス・イタリアなどと組んでシベリアに出兵した。各国が1万人に満たない兵力の中で、日本軍は協定を破り3万7千の大軍を送り込んだ。2年後に他国は撤退したが、ロシア帝国の消滅を受けてロシア勢力圏の北満州(外満州)・沿海州へと勢力を広げる野心をもっていた日本は、居残ってさらに侵攻、シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大、延べ7万3千の兵を送り込んで、数々の問題や事件を起こし、双方に多くの犠牲者を生んだ。その後国内でもこのシベリア出兵は愚行として批判された。1922年(大正11年)にソビエト連邦が建国され、同年、日本はようやくシベリアから完全撤兵するが、列強国の一部がソビエト連邦の承認、国交樹立に動く中で、関係回復は進展しなかった。また、シベリア撤兵後も石油・石炭資源の埋蔵が期待されていた北樺太に1925年(大正14年)まで駐留を維持していた。しかし、隣国であるソ連との関係断絶は日本経済への打撃も強く、日ソ国交正常化を行ってこそ大陸での日本の権益を守れるとの考えで国交正常化に前向きとならざるを得なくなり、1925年(大正14年)1月20日に北京で日ソ基本条約を締結した。太平洋戦争敗戦前にソ連が突然日本の植民地下にある満州へ侵攻してきて惨劇が生じたのも、このあたりに遠因があるように思われる。

 実は明治から大正にかけての日本の軍事行動というのは(シベリア出兵を除き)すべて中国と朝鮮に関わるもので、日露戦争も中国・朝鮮への利権争いの結果、中国本土で行われたもので、1894年(明治27年)から1945年(昭和20年)の太平洋戦争(これも中国への占領政策に対する欧米の強固な制裁に対する日本軍政府の反発から生じた)敗戦まで実に51年間も中国に軍事的に関わってきたことになる。これによって中国が日本から受けた人的・経済的な損害は計り知れない。

 この後昭和時代に入り、資源の少ない「大日本帝国」としての日本は、領地の拡大に躍起になっていて、中国の山東省から東北部満州に目を向ける。そして満州事変など数々の事件・戦争を起こしながら中国各地に侵攻し占領を重ねていく。比較的大人しく一つのことに集団で動く日本人の勤勉な性格が、帝国主義の軍政府の戦線拡大の方針にマッチして、破綻にまで突き進むことになる。しかし「大人しく勤勉な性格」というものが、戦争という名の無法状態の中で大きく変質し、ナチスドイツに比べても「遜色のない」暴虐行為・愚行を重ねていくことになるから人間というものはわからない。昭和以降はその実態を中国側の資料を含めて記述していくが、これに重ねて普段まず触れられることのない青島爆撃を初めとする日本の陸海軍飛行隊による連綿と続く爆撃については、筆者が別途作成した『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』を参照されたい。その実態は筆者自身が驚くほどの量であり、太平洋戦争終盤期における米軍の日本に対する8ヶ月間の空爆被害ばかり取り上げるのは片手落ちというほかないが、筆者は先にその東京都に関する空爆状況を区市町村別に詳細に記述しているから言えることである(「東京都と戦争の概要」参照)。

昭和2年(1927年:昭和元年は前年末の一週間のみ)

中国における軍事的動向

1927年の出来事

 1月、国民党左派と共産派は、広東省広州から湖北省武漢(前年10月に軍閥から蔣介石国民党革命軍が武力接収)への遷都を決定、新政府の要職は左派で占められ、蔣介石を排除しようとした。

 同月、イギリス租界事件:武漢・漢口のイギリス租界で民衆の不満が爆発、イギリスは租界から撤退する。(下記参照)

 3月、南京事件:反帝国主義を叫ぶ民衆が、日本を含めた欧米列強国の外国領事館・住宅・教会などを襲撃。(下記参照)

 同月、共産党が上海で臨時市民政府を設立。

 4月、漢口事件:日本租界の中で子供の投石事件から暴動が起こり、多数の日本人居留民が引き揚げる。(下記参照)

 同月6日、北方の張作霖はソ連大使館を目的とした各国公使館区域の捜索を行い、ソ連との国交を断絶 。

 同月12日、上海クーデター:蒋介石が北洋軍閥討伐を行っていた間の3月に、共産党が上海で工作して成立させた上海市民政府に対し、列強国の支持を受けた蒋介石がクーデターを起こし、多数の共産党幹部を処刑した。(下記参照)

 同月18日、蒋介石は南京に国民政府を樹立、共産党と連携した国共合作の武漢政府と決別した。

 同月、第一次山東出兵:山東省に増え続けている日本人居留民を、蒋介石の北伐軍から守るという名目で、日本は山東州に陸軍部隊を出兵、それに対して南京政府の抗議や、国民の反対運動、国際的な反発が強まった。(下記参照)

 6月、日・英・米の3か国海軍軍縮会議をジュネーブで開催、当時は第一次世界大戦の反省で軍縮が協議された。

 同月、在中国の奉天・漢口・上海の各総領事、満州の関東庁長官、朝鮮総督府警務局長らと陸海軍要人、外務省と大蔵省の要人が出席する「東方会議」が開催され、満州の権益擁護を目的とした軍事干渉政策と満蒙分離政策を骨子とする政策を決定。

 7月、「東方会議」の協議を受けて田中首相が「対支(対中国)政策綱領」を発表、中国南北の各政権に対して平等に応じる政策と満蒙の特殊地位の尊重と治安を最重視する権益自衛の方針を打ち出す。

 8月、国民党の反共政策により、それまで「国共合作」として国民党左派として革命軍の中で活動していた毛沢東の共産党が江西省南昌で武装蜂起、分離独立した。

 9月、「反共産党」の立場で汪と蔣の意見が一致したことから、武漢政府と南京政府の再統一が検討され、蔣介石が一時的に下野することを条件に両政府は合体することとなった。こうしたなか、故孫文の妻の宋慶齢は国民党のなかにあって容共路線の継続を主張し、ソビエト連邦に亡命した。

 10-11月:下野した蒋介石は、来日した東京で「日本国民に告げる書」 を発表、そして日本の田中首相と会談した。それは日本の中国への野心を改めて確認するものであったが、反共産主義では一致していた。帰国した蔣介石は翌年1月に、 国民革命軍総司令に復職する。

 12月: 中国国民政府は共産党政権のソ連に対して断交する。

イギリス租界事件

 1927年(昭和2年)1月、国民党革命軍の蒋介石北伐軍は前年から快進撃し、北洋軍閥から武漢(武昌、漢陽、漢口)を武力接収するが、国民党左派(共産党を含む)を中心とする勢力は、国民党政府を広東(広州)から武漢に移設することにした。武漢の漢口は長江(揚子江)沿いにあるが、1858年(安政5年)に結ばれた天津条約により開港し、イギリスがまず1861年(万延2年)に租界を作り、日清戦争(1894-1895年:明治27-28年)を機に、ドイツ・フランス・ロシア、少し遅れて日本(1898年:明治31年)の5カ国の租界が開かれ、経済的に発展し「東方のシカゴ」とも呼ばれていた。

 1月5日、そうした背景の中、何かの事件をきっかけに、帝国主義の国々の支配に不満を持った民衆が暴徒と化して租界になだれこみ、双方に流血事件が起きた(詳しい経緯は諸説あり不明)。被害は日本租界にも及んだ。その翌6日に、九江のイギリス租界(漢口と同年に開かれた)にも暴動が連鎖し、イギリスは軍隊を動員したが、武漢国民政府との外交交渉で、翌月、イギリス政府は国民政府の治外法権撤廃要求を受け入れ、漢口と九江の租界を廃止することに同意し、中国に返還した。

南京事件(10年後の日中戦争で日本軍が起こした虐殺事件とは異なる)

 蒋介石の国民革命軍(北伐軍)は3月21日、上海を占領した後南京に向かったが、24日早朝、すでに北洋連合軍は退却していて、平穏裏に占拠した。そこから反帝国主義を叫ぶ北伐軍の一部軍人と民衆が、日本を含めた欧米列強国の外国領事館・住宅・教会などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、少数ながら英・仏・米・日本人(一名)を含めた死者が出た。これに対して25日午後、米英軍艦が城内に艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。砲弾は1時間余りで約200発が撃ち込まれ、日本領事館近傍にも着弾し、中国の軍民2000名が砲撃で死傷したとされる。この時日本は幣原喜重郎外務大臣の方針で、海軍陸戦隊を上陸させ、領事館や居留民を守る行動をするにとどめ、艦砲射撃には加わらなかった。なお当時の南京における日本人居留民は男女154人と少なく、25日に全員日本の艦船で上海に引き上げた。

 この租界襲撃事件を受けイギリスを中心として、日英米仏伊五カ国の公使がさらなる厳罰と謝罪、外国人の生命財産に対する保障、人的物的被害の賠償を共同で要求し、日本にも共同出兵を求めたが、幣原外相は、武力干渉は事態を紛糾させるだけであり、「蒋介石のような人物を押し立てて時局を収拾させ」解決すべしとして応じなかった。蒋介石は、暴行兵を処罰すること、上海と南京の治安を確保すること、排外主義を目的としないことなどを声明で発表して一応収まった。しかしこの幣原の姿勢は日本国内では軟弱外交と非難される。

上海クーデター:国共合作崩壊へ

 3月21日、蒋介石の動きの一方で密かに上海に入っていた周恩来率いる共産党に指導された労働者(上海工人)が、北伐軍に呼応するとの名目で武装蜂起し、22日にかけて軍閥部隊を撃退し、23日、上海市民大会を開き、上海市民政府を樹立した。これを聞いて共産党の力を恐れた蔣介石は、国民革命軍(北伐軍)を率いて上海に向かい、4月12日、市内に突入させ、多数の共産党員、労働者、市民を弾圧、さらに共産党幹部を処刑した。周恩来は捕まる寸前で辛くも脱出したが、共産党は上海から排除された。この蔣介石の行動は列強国の支持を受けたものであり、これにより蒋介石は上海の資本家浙江財閥との結びつきを強めた。

 ほぼ同時に広東、北京でも共産党員に対する弾圧がひろがり、多数が殺害された。北京では張作霖がその役目を担った。そこで国民党武漢政府は蒋介石の党籍を剥奪、逮捕令を出した。これに対抗して4月18日、蒋介石は、南京に独自政府を樹立、共産党分子の粛清を宣言する。こうして1924年(大正13年)に孫文が国民党と中国共産党との連繋に踏み切って成立させた中国の統一と独立を図るために形成された国共合作は崩壊することになる。もとは北京の軍閥政権を打倒、列強の植民地支配に対し中国の統一と独立を図るために形成された合作であった。

漢口事件

 1927年(昭和2年)4月3日、年初の漢口の暴動によって、イギリスが長年維持した租界を撤退した後のこと、残っている日本租界などに地元の労働者・農民の不満が溜まっている時期に、日本人水兵2名が通行中、中国人の子供から投石され、口論中に30人ぐらいの中国人が食って掛かってき、車夫の一団が水兵を取り囲み殴り始めたことから、たちまち野次馬も加わって、水兵が逃げ込んだ近くの日本料理店などが跡形もなく破壊された。さらに、「日本水兵が中国人を殺した」「車夫がナイフで刺された」といったデマが喧伝され、中国人たちが暴徒になって日本租界に殺到し、日本人を見れば取り囲んで殴打し、日本人商店は軒並み襲撃された。これにより、産後間もない身を病床に横たえていた女性が、暴徒によって足蹴にされ、その遺骸は放置され、別の妊娠五ヶ月の女性が二階から引きずり降ろされ、殴られて血まみれになった。駆けつけた海軍陸戦隊120人が空砲や数発の実弾を放ちつつ暴徒を退けたが、租界を追われた群衆は、他国の租界にある日本人商店を襲撃し、放火もした。夜には日本人25名がイギリス艦に避難し保護された。

 この当時の漢口はすでに日本にとっても重要な貿易の要衝となっていて、この年初の時点で2317人の日本人がいたが、翌日、日本総領事は在留日本人の引揚げを告示、6日には日本人婦女子1320名が船に乗って引き揚げ、上海に退避した。その後も数回に分けて引き揚げ、在留邦人は一ヶ月後には444人となった。また日本の同仁病院も漢口から引き上げた。ちなみに漢口には日本の本願寺もあり、そこに幼稚園や小学校が併設されていて、寺と学校は残され、その後の日中戦争中には改めて日本軍がこの地を占領して日本人が住み始め、敗戦まで継続された。

 これらはソ連と手を結ぶ共産党が裏で煽ったとされるが、それよりも、自分たちの土地を長年他国に占領されている現地の人たちの、普段からの鬱積による爆発が結びついたと見るのが正しいであろう。それを限界と見て、イギリスは2月に撤退していたが、まだ残っている日本人租界に不満が向けられたようにも思われる。ただ蒋介石はその理由で共産党弾圧に乗り出し、上記の上海事件で共産党関係者を掃討した。

日本軍の第一次山東出兵

 1927年(昭和2年)5月:日本の第一次世界大戦への参戦によるドイツからの山東半島青島権益獲得以来、6年後の1920年(大正9年)には日本の軍政統治の下、日本資本が積極的に進出し、塩業、漁業、農業や製粉、製糸、精油、燐寸などの諸工業が勃興し、青島の繁栄と貿易の振興がもたらされ、3万人近くの日本人が居住するに至っていた。ただ1921-1922年(大正10-11年)のワシントン会議(同項参照)における「山東省懸案解決に関する条約」によって青島を含んだ山東省、山東鉄道の権益を中華民国に返還し、膠済鉄道は日本の借款鉄道とされることで日本は山東省に一定の権益を確保したが、これにより日本の経済圏は縮小し、この1927年(昭和2年)末の外務省調査では、山東省における日本人居留民数は、総計約1万6940人に縮小し、そのうち青島付近に約1万3640人、済南に約2160人となっていた(他に天津に6750名、北京に1590名など)。これらの日本人居留民の存在というより、経済的な権益の死守が、蒋介石の北伐軍(国民党革命軍)を警戒する山東出兵につながっていく。

 中国の徐州へ向けて北上する蒋介石率いる国民革命軍に対して、新たに就任した田中義一内閣は、日本人居留民保護を名目として(これはいつも使われる建前である)、中国北部満州地区を地盤とし北京制圧への野心を持つ張作霖政権(この時期は日本の関東軍と親密関係があった)を守るため、山東州に日本国内と関東州の大連・天津から陸軍部隊約2千人を出兵、北伐軍を牽制した。この日本の出兵による圧力と軍閥の反攻もあって、北伐軍が一旦北上を中断し、日本軍は9月に撤兵した。

6月、漢口事件に続く日本軍の山東出兵に対して中国各地(済南・青島・蘇州・天津・上海等)に排日運動が高まってくる。新聞は連日のように報道し、国民党中央部も各支部に檄を発し、各都市も続々これに呼応した。

国共合作解消と蒋介石の下野

 1927年(昭和2年)6月、在中国各総領事と陸海軍、大蔵省、満州の関東庁、朝鮮総督府の各代表(すべて日本の軍政府人)が出席する東方会議が日本で開催され、満州の権益擁護を目的とした軍事干渉政策と、中国内地の問題と切り離す満蒙分離政策を骨子とする政策を決定。続いて田中首相が対支(対中国)政策綱領を発表、中国南北の各政権に対して、平等に応じる政策と満蒙の特殊利益と治安を最重視する権益自衛の方針を打ち出す。

 7月:武漢国民政府の汪兆銘は「国共合作の解消」を実施し、共産党員を追放した。これにより8月、それまで国民党左派として革命軍の中で活動していた毛沢東の共産党が江西省南昌で武装蜂起し、分離独立した。これで武漢国民政府が南京国民政府に合流する形になったが、それぞれの軍を背景とした分派が牽制し合い、新たな内部抗争が始まり、その結果蒋介石は一旦下野し、続いて汪兆銘も下野した。

 10 −11月:下野して日本に来ていた蒋介石(日本に留学経験あり)は、神戸での同胞への講演などを経て、東京で「日本国民に告げる書」 を発表、中国の国情を理解し、国民革命を妨害せず、日本が援助してくれることを切望していると訴えた。そして日本の有力者との会談ののち、田中首相と会談した。蔣介石は北伐が中国の民族解放と国家統一にとって重大な意義をもつこと、そのために北伐は継続すること、日本政府がそれに干渉しないように求め、さらに満州に関しては日本の経済発展の寄与に期待していること語ったが、田中首相の回答は満足できるものではなく、日本の中国への野心を改めて確認するものであったという。ただ、反共産主義では一致していて、日本は客観的には蒋介石を支援する道しかなかったはずだが、この後も目先の利益で迷走する。帰国した蔣介石は翌年1月に、 国民革命軍総司令に復職する。

日本国内の動向と世相(1927年:昭和2年)

日本の出来事

 3月、昭和金融恐慌:第1次世界大戦時の好況から一転して1920年(大正9年)には不況に落ち入り、さらに1923年(大正12年)の関東大震災の処理のための震災手形が1927年(昭和2年)には膨大な不良債権と化し、社会全般に金融不安が生じていた。そこに日本統治下の台湾銀行において、中国南部と南洋諸島方面に手広く営業を行なっていた鈴木商店が破綻し、巨額の不良貸出しをしていることが明るみに出たことで、銀行に対する不安が急速に広がり、金融機関の取付けや休業が続出した。金融界のパニック状態は3-4月の2ヵ月続いたが、政府は4月末にモラトリアム (支払猶予) と日本銀行による特別救済融資の実施により、5月にはようやく沈静化した。

 しかし翌1929年(昭和4年)に勃発した世界恐慌が日本にも波及し、金解禁によるデフレーション政策と重なって日本経済は深刻な不況に見舞われ、銀行や企業の休業や倒産が続出し、失業者が急激に増大した。その最中の1931年(昭和6年)に満州事変が起こり、その戦時経済体制によって翌1932年(昭和7年)には恐慌を脱出することになる。

 3月、元巡洋戦艦の赤城が航空母艦に改造されて完成(その後、1942年:昭和17年6月のミッドウェー海戦で雷撃を受け沈没)。

 4月、若槻内閣総辞職、田中義一内閣成立

 5月、内閣に資源局を設置。これは国家総動員を目的とする人的、物的資源の統制・運用計画を担当するものであった。

 同月:江東区亀戸の東洋モスリンの工場で、女子工員の自由外出を求めた争議が起こり、会社側は認め、解決した。ほとんどは田舎から働きに出てきた若い女性たちで、休みの日も外出が認められていなかった。

 6月:日・英・米の3か国海軍軍縮会議をジュネーブで開催、当時は第一次世界大戦の反省で軍縮が協議された。

 7月、日本航空輸送旅客機が初飛行。

 8月、警視庁がカフェの手入れを行い、モダンボーイやモダンガールなどの服装を理由に、150人を風紀違反で検挙する。

 同月、甲子園球場での第13回全国中等(現高校)野球大会において、初のラジオ中継が行われる。その後他のスポーツでも中継は定着する。

 8月、広島県の大久野島に、陸軍造兵廠火工廠派出所が設立され、毒ガス製造へ(1931年:昭和6年に起こる満州事変から使われる)。この工場は日中・太平洋戦争下でも継続され、ほぼ終戦の前年(1944年:昭和19年)まで毒ガスは製造された。

 9月、富士裾野で特殊弾効力試験(毒ガス演習)が行われた。

 9月、宝塚少女歌劇団でレビューショー「モン・パリ」(ラインダンスとフィナーレの階段レビュー)が上演され、大好評となる。

 12月、日本で初めての地下鉄、浅草−上野間(後の銀座線)が開通する。

〇 この年までに陸軍では軍用飛行機のライセンス生産を含め600機が作られていた。これに加え海軍では約500機、民間で100機があり、合計約1200機とされていた。それに対し列強諸国はフランスで3000機、アメリカで2600機、ソ連1600機、イギリス1500機、イタリア1400機(いずれも軍用機のみ)で、日本はまだ見劣りしていた。日本陸軍としてはまだ航空兵力の増強にはさほど関心がなく、逆に海軍はここから増強に力を注ぎ、その航空兵力は逆転していく。

日米友好運動と青い目の人形

 次第に高まってくる日米の対立を懸念し、その緊張を文化的にやわらげようと、1888年(明治21年)に日本を訪れて以来、布教や教育活動を行っていたアメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士が、「世界の平和は子供から」をスローガンとして掲げ、人形を通じての日本との親善活動に役立てようと、全米に人形を送る運動を呼び掛け、手作りのものを含めて、1万2739体の「青い目の人形」が集められ、この年の3月3日に間に合うようにニューヨークやサンフランシスコから船で送られ、横浜や神戸港に着いた。その人形は各地で歓迎式で迎えられ、その後全国の小学校や幼稚園に配られた。

 これに対する答礼として日本人形が送られることになったが、日本側は、これは日本人の気張った性格によるものであろうか、募金も含めてのお金で職人に依頼し、100体以上の人形の中からコンテストで51体を選出、その他の7体を含めて58体を送ることになった。その人形一体が今の金で2百万円ほどにもなり、これでは限られた場所にしか置けず、親善にならない。もっとシンプルなものを数多く送れなかったのか、日本の官僚たちの発想が貧困と言わざるを得ない。

 いずれにしても、この14年後に太平洋戦争に突入して、米国は「憎き敵」となり、その青い目の人形は目の敵になって、これらの人形の大半は焼かれたり、竹槍訓練の標的にされたりなどして失った。しかし中には先に隠されたりして残された人形も各地にあり、戦後時折新聞紙上などで話題になった。

兵役法改正

 この年、明治以来の徴兵令は「兵役法」に全面改正、4月1日に公布され、12月1日に施行された。原則として帝国臣民(日本国民)の全ての満20歳以上(40歳まで)の男子に兵役の義務を課すものであり、これは大量の兵力獲得を目指し、より多くのものに軍事訓練を施し、有事において動員数の増大を図ったものであった。現役志願兵(将校を希望する者など)については兵役法の対象外で、17歳から可能とされた。満20歳に達したものは徴兵検査を受検し、志願兵は検査内容は身体検査のみで、その結果(体格順)によって甲・乙・丙・丁・戊の各種に区別され、甲種・乙種は常備兵役(現役と予備役)、すなわち即時入営に適したものとされ、それ以下は後備兵役、補充兵役、国民兵役であった。これは実際に後の日中戦争や太平洋戦争に突入する時に有用なものとなった。そして当初は徴兵検査での甲種・乙種合格者は、抽選にて一部が常備兵役の現役兵に充てられ、即時入営となっていたが、日中戦争期の1939年(昭和14年)11月には抽選を廃止、甲種および第一乙種はほぼ全員を現役兵に割り当てられるようになった。補充兵役はすぐには入営しないものの必要に応じて召集され、これは現役の欠員補充、戦時の損失(つまり死傷者が出て兵員減の場合)補填を目的とした。残る国民兵役は、普段は民間人として生活し、必要に応じて軍から召集された。この召集にはいくつかの種類があり、戦時編制への移行にあたり行なわれる充員召集、戦時または事変の際に必要に応じて行なわれる臨時召集、他に技量維持や教育目的の演習召集、教育召集などがあった。これらの召集令状は濃い目のピンク色で、これがいわゆる「赤紙」として、予告なく突然郵送されてくるから人々に恐れられた。

 なお、日中戦争突入の1937年(昭和12年)における陸軍総兵力は現役兵33万6千人、召集兵59万4千人であったが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)では、現役兵224万4千人、召集兵350万6000人に膨れ上がっていた。この中から230万人もの戦死者が出たが(空襲その他による民間人の犠牲者は80万人で合わせて310万人)、その数をはるかに上回る犠牲者を日本軍はアジア諸国にもたらしていく。

昭和3年(1928年)

中国における軍事的動向

—— 蒋介石の北伐再開と日本軍の侵攻——

1928年の出来事

 4-5月、第二次山東出兵と済南事件:蒋介石は国民革命軍を改編し、欧米の支持を得て再び北伐を開始、張作霖軍閥政権を追い詰めていった。これに対し日本は権益と居留民保護を目的として、日本国内と遼東半島の関東州に駐屯する部隊、合わせて6千人を山東省に派兵した。これに対抗して蒋介石は北伐作戦を敢行するが、蒋介石の意図に反して済南で北伐軍の一部が暴走する事件が起きた。

 5月4日、第二次山東出兵に合わせて、朝鮮の飛行部隊から飛行中隊が派遣された。主に偵察が目的である。

 5月8日、第三次山東出兵:済南での軍事衝突により日本では緊急閣議を開いて陸軍の増派を決定した。蔣介石はそれ以上の衝突を回避しようとするが、日本側は行動を開始、市内に2千人いる日本人保護のためとして11日に済南城を占領した。

 5月10日、中国国民政府は日本の山東出兵を国際連盟に提訴した。またこれを機に中国各地に排日貨排斥運動が起こり、その後も続いていく。一方日本側は蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、それ以上の日本軍の侵攻を控えた。

 5月中旬、蒋介石は日本軍との対立の裏で、北京の張作霖軍を攻撃して追い詰め、張作霖は停戦を求めたが蒋介石は北京からの撤退を求め、張作霖は従うことになる。

 5月、日系紙の「大連新聞」主催で第一回満州青年議会が開かれ、民族協和を基本とする満蒙自治制案などが打ち出される。大連は日本の租借地として旅順に並び、日本がロシアから権益を得た南満洲鉄道(満鉄)を基盤にして多くの日本人が移住してきていた。大連にはもう一つ満鉄の機関誌として「満州日日新聞」があった。

 6月4日、張作霖爆殺事件:蒋介石国民革命軍との戦いに敗れた張作霖は3日に北京を脱出したが、日本の関東軍は張が奉天駅に着く前に彼の乗っていた列車を爆破し謀殺した。

 6月9日、蒋介石率いる北伐軍は、北京を陥落させ入城、北伐は完了した。

 7月1日、張作霖の息子である張学良は、遠征先から東北(満州地域)に帰還すると同時に、蔣介石国民政府要人らに対し、「統一を妨害する意は全くない」 と打電し停戦を宣言した。

 7月7日、中国国民政府は不平等条約改正を宣言、米国はこれに応じ、中国の関税自主権を承認し、他国もこれに続いたが、日本だけは承認を渋った。

 7月19日、国民政府は日清通商航海条約(清は以前の国名)の破棄を一方的に宣言し、これに対して日本政府はその宣言の無効を主張した。

 7月、奉天(現・瀋陽市)に朝鮮平城から陸軍軍用機三機が移動し、北洋軍閥の空軍の指導に当たる。

 8月、パリ不戦条約:フランスとアメリカが中心となって、ドイツ、ソ連、日本も含む15ヶ国が参加してパリで調印し成立した。後に63ヶ国が参加し全世界的な国際条約となった。

 9月25-27日、陸軍航空隊の「特別航空兵演習」が静岡県浜松から愛知県矢作川あたりまでの区域を使い、航空機98機、騎兵・歩兵・高射砲兵を動員して行われ、毒ガスの演習も行われた。

 10月、日本航空輸送(株)が東京ー大連(中国遼東半島南端で日露戦争後の1905年:明治38年に日本に割譲)間の往復運航を開始。

 同月10日、蒋介石が全国統一を受けて国民政府主席に就任、首都を南京と正式に決め た。欧米列強もこの南京政府をすぐに承認した。そこから満洲の外交権と外交事務は南京政府外交部の管轄となった。

 10月10日、蒋介石が全国統一を受けて国民政府主席に就任、首都を南京と正式に決め た。翌月米国はこの国民政府を承認し、翌々月、英国と仏国も正式に承認した。そこから満洲の外交権と外交事務は南京政府外交部の管轄となった。これらを背景にして、外交部長王正延は、日本軍の山東撤兵を強硬に主張した。

 11月、南満洲鉄道(満鉄)の社員を中心として「満州青年連盟」が結成された(参加者約3千名)。これは5月の満州青年議会からの流れであるが、満州における日本の権益を擁護することを目的にした。

 12月、易幟事件:張学良は改めて「国民政府に服従する」という電報を送り、東北三省の五色旗に替えて国民政府の国旗である青天白日旗をかかげた。蒋介石は満州における全ての旗が換わったことを宣言した。二日後、国民政府は張学良を中国陸軍司令官とした。これに対し、満州独立を計画する日本側は危機感を募らせた。

第二次山東出兵と済南事件(五・三惨案)

(今日あまり顧みられていないが、この事件は後の満州事変、日中戦争につながる侵略への相似形の動きがあると言ってよい)

 蒋介石は再び権力を掌握すると、国民革命軍を改編し、欧米の支持を得て再び北伐を開始、1928年(昭和3年)4月8日から徐州その他の地を攻め落とし、さらに北進し北京の張作霖軍閥政権を追い詰めていった。これに対し日本 (田中義一内閣)は一年前の南京事件と漢口事件のような暴動に対処するため、4月19日の閣議で既得権益と居留民の治安の維持を目的とするという建前で、日本内地より臨時派遣隊5千名の兵士を山東に出兵することを決め、1928年(昭和3年)4月25日、日本軍第6師団5000名が青島に上陸し、26日、第11旅団が済南に侵攻した。さらに遼東半島の関東州に駐屯する部隊千人を、北伐隊の通過地である済南に送り、合わせて6千人が山東省に軍事展開した。これに対し国民政府外交部は内政干渉としての抗議書を日本の南京総領事に渡しつつ、蒋介石はまず北伐を成功させることにより,全国を統一することが先であるとの方針で、日本人の妨害を無視する形で北伐作戦を24日に敢行した。同時に、日本の第六師団も26日に青島を経て済南に到着し、守備区域の布陣を敷いた。(第二次山東出兵)

 5月1日、北伐軍は兵力約5万人で済南に入り、翌日総司令蔣介石は入城したが、日本軍は道路上に砂袋と鉄条網などを配置し、北伐軍が通過することを許さない態勢をとっていた。これに対し蒋介石は「これ程に横暴な国は必ず亡びる。我らは忍辱するのみで、憤慨するわが軍民を諫め止めるしかない。… 慎め」として忍従することを伝えた。これに先だち、蔣介石は日本の出兵をやめさせようと田中首相のもとに使いを派遣、撤兵を要請し、日本が北伐を妨害しない限り、見返りとして既得権利を保護するとした。そして2日午前、蒋介石は斎藤瀏警備司令官に治安は中国軍によって保障するので日本軍は撤去して欲しいと要望し、斎藤は防御設備をすべて撤去させ、「済南における治安維持は南軍総司令官蒋介石に一任す」とした。しかし翌3日、前年の南京事件にも関わったとされる第40軍と41軍がこれに付け込み、日本人居留区に乱入し、残っていた日本軍の間で相互射撃事件が勃発した。蒋介石は正午に停戦命令を出したが、その命令は南軍に行きわたらず市街戦は続けられた。

 この出来事の具体的内容は(諸説あるが)、日本人の店舗略奪、暴行、殺害(惨殺)事件が発生し、12人の死者を出し、掠奪被害戸数136戸、暴行を受けたもの30数人、婦女に対する陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400とされている(当時の新聞は「邦人虐殺数二百八十」と報じたが、虚報とされる)。それに対して残った日本軍が追撃して16人の中国人死者が出た。別途、日本軍の損害は、死者26名、負傷者157名、被害者の治療は日系の同仁会済南病院にて行われ、また軍、警察、中国側の立会いの下に同病院内で検死が行われた。一説には日本人居留民の多くは先に避難していたが、残された植民地朝鮮から来ていた人々の被害が多かったという。

 ただし、この事件の死傷者は表面的なもので、次の日本の第三次山東出兵の衝突までに隠された日本軍の死傷者は約500人、中国側は死者3600人、負傷1400人(中国側の発表)という大きな数に達している。これを見ずに日本の民間人の死者だけを見るのは片手落ちではないか、元々は日本軍の侵攻作戦から生じたことである。

 この済南事件を中国側では「五・三惨案」と称する。事件を聞いた蔣介石は、外交部長の黄郛に交渉に臨むことを命じる一方で、日本側の北伐軍随軍観察員の佐々木到一(後年の南京占領時に捕虜虐殺に深く関わった人物)に調査を依頼、しかし午後になっても日本軍との銃撃が続いていて、黄が交渉に失敗したこと、山東省特派交渉公署交渉員が日本軍により耳を切り落とされ、銃殺されたなどの情報が次々と蔣介石のもとに伝わってきた。蔣介石は、さらなる衝突を避けるために、その夜、高級参謀の熊式輝に出向かせ、日本との交渉を再開しようとした。現地では第六師団長福田彦助が中国側の熊に対し三つの条件を出した。この三条件を読んだ蔣介石は、日本側の侮辱的態度と敵意に憤慨しつつも、あくまで北伐を最優先とし、全国の統一を達成してから日本との外交交渉をする考えを貫き、「各軍に翌朝までに済南から撤退すべし」と命じた。さらに国民政府中央での決定も、前線の部隊と民衆に「鎮静」を命じた。

 いずれにしろこの事件の背景は「我国の行動が北伐軍の行動を阻害し、かつ又張作霖を援助しているという印象を、北伐軍の将士に強く与へていた点にある。而も田中内閣のあま りにも露骨なる行動は、さなきだに打倒帝国主義の精神に燃えていた北伐軍中堅幹部を強く刺激した処に、済南事件の必然性があったといえよう。我国においても相当反対のあったにもかかわらず、…… その結果は、巨額の軍費の濫費と日支関係の著しき悪化(それは今日に至る迄悪影響をのこしている)が齎らされたのみ」と、すでに1937年(昭和12年)に刊行された『東洋歴史大辭典』(平凡社)に記述されている(「日中間のコミュニケーション・ギャップ 4」:山本忠士の論文より転載)。この時期にこのような客観的分析がなされているにも関わらず、この年に陸軍の工作により日中戦争に突入している。時代の悪しき流れというものは止められないのであろう。

(以上と以下は主に「済南事件と蒋介石」左春梅の論文とその他の資料を混成)

第三次山東出兵と北伐軍に敵対する日本軍の済南城占拠と多大な死者

 5月4日午前、済南事件を受けて日本は緊急閣議を開き、関東軍と植民地朝鮮に駐留させている部隊からの増派を決定、5月7日夜、現地の第六師団長の福田は中国側に先の三条件に加えて8日零時までの時限つきで五項目からなる要求を出した。

 蔣介石は事件を起こした部隊の責任者を罷免し、「済南撤退以外に関しては辱を忍んで承認する」と伝えたが、時間切れとなった8日午前4時に、日本側は軍事行動を開始、市内に2千人いる日本人保護のためとして済南城を攻撃、同日午後の閣議において、第一師団の山東派遣および北京・天津方面への兵力増派を承認し、5月9日、国内の第三師団の増派及び軍艦の増派という拡大路線を発表し、第三次山東出兵を決定した。済南に入城していたばかりの蔣介石北伐軍は城外へ撤退、11日、日本軍は済南城ならびに済南全域を占領した。

【蔣介石の苦闘】

  蔣介石は日本側が新たな要求として中国軍の30支里(約15km)までの撤退を求めていると聞き、「国恥、軍恥、民恥」と日記に書くほどの恥を忍んで、日本側から次々と出される強硬な条件に譲歩しつつ、その過程で日本軍の基本は侵略であり、国家の敵であるという認識を持つに至った。またその日記には日本軍を「倭軍」、日本を「倭寇」(わこう=13世紀から16世紀にかけて、対馬や壱岐・五島列島を拠点として朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や東アジア諸地域において活動した、中世日本の浪人武士を中心とした海賊で、時には密貿易を行う集団に対して中国・朝鮮側が名付けた)という呼称に変え、日本が中国の大敵であり、近い将来,西洋の列強、共産主義、および反乱する北洋軍閥よりも、中国にとってより大きな脅威となることを確認し(その予感はこの3年後の満州事変、9年後の日中戦争で現実となったが)、当面は日本軍に対しては「不抵抗主義をとることを決す」とした。その理由は「倭寇に目標を転じたら、敵が一つ増えてしまう」ということであった。福田が提示した五項目の要求を南京外交部に委ねつつ、蒋介石は日本が警戒する北京と天津の攻略に専心することにし、日本側は蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、それ以上の日本軍の侵攻を控えた。そして蒋介石は北伐の主要目的である「京津」(北京と天津)を6月9日に平定し、以後も 国家統一を行う目標を最優先した。

 山東出兵で派兵された日本軍は最終的には約10万にふくれあがり、この済南事件による市街戦と翌年までの日本軍占領によって、中国側では軍民6123人が殺害され、1700人余りが負傷したとされている(この一年間での死者の多さは、特に満州事変以降で筆者が記す日本軍占領地で殺害された中国人死者の多さに相応していると思われるが、数としてはこれは序の口であった)。この山東出兵によって(それまではイギリス等の列強諸国に対してであったが)中国では特に日本人に対する憎悪、反日感情が強まり、居留民保護どころか、在留邦人がしばしば襲撃され、それを受けて日本軍が増強されるという悪循環を重ねた。翌1929年(昭和4年)3月末、和平交渉がようやく成立、日本軍は5月に済南城から撤退するが、これはその後の日中戦争から大戦争へ至る序章に過ぎなかった。

蔣介石の北伐完了と中国統一

 こうして蔣介石の国民革命軍は日本との衝突を避けつつ閻錫山、馮玉祥らの軍閥を傘下に加え、北方に進撃した。日本軍が済南城内を攻撃しつつあった中、蒋介石は密かに国民革命軍に黄河を渡らせ、北京の張作霖軍に攻撃を仕掛けた。日本軍がそれを知った時はすでに遅く、張作霖に撤退を勧告したが、彼はこれを拒否、それに対し日本側は武力行使も辞さないとしたが、かえって南北両軍の反発を買った。その後張作霖は北伐軍の攻勢を止めることができず、停戦の電報を国民革命軍に送った。蔣介石は、張作霖ら奉天軍の停戦の意向に対し、5月12日、最低条件として関外(万里の長城以北つまり満州地域)に撤退することを要求した。これに対し日本側は5月18日、閣議で満州の治安を維持するためとして、張作霖 と南京外交部に「適当にしてかつ有効なる措置を執る」として、両方にその覚書を通告をした。そこで蒋介石は、日本側が満州を保護領とするだけでなく北京と天津をもその勢力範囲に入れようとする意図を見て警戒心を高めた。そして日本側を刺激しないように、蔣介石は平和的手段で張作霖の北京からの追い出しを図った。6月4日、張作霖は北京を撤退し、8日、北伐軍は北京を占領した(その直後、日本軍による張作霖爆殺事件が起こった)。15日に蒋介石は(国民政府による)全国統一の宣言を出し、日本はそれを受けて、軍事干渉をやめ外交交渉を始めることにした。

 蔣介石としてはこの時点で、日本側の北伐妨害、中国全土の統一阻止の意図と済南侵攻を見て、日本に華北(中国北部)侵略の野心があるということをはっきり認識することとなった。当時の日本の田中義一首相は、なおも張作霖の利用価値を認め、東三省(満州地域)で再起させることを考えていたが、既に満州国の建国計画を進めていた日本の関東軍は張の東三省復帰を望まず、つまり彼を邪魔者として爆殺するという信じがたい暴挙に出た。

日貨排斥・排日運動

 別途、1928年(昭和3年)5月10日に日本の山東出兵を国際連盟に提訴(これにより19日、アメリカの国務長官が日本を批難する)、これを機に、前年末には収束していた排日運動が再燃し、とりわけ日本軍の済南占領からは南京・上海・広東・武漢などの都市で排日排貨運動(一連の日本の政治・軍事干渉に反対し、日本商品の不買と日本との経済的絶交も訴える)が起こり、特に上海で組織された「反日会」は各地に広まり、対日経済断行を決議していく。これに対し上海日本商工会議所などが中心となり「金曜会」が組織されて対応策を練り、各領事館を通じて反日団体の解散と運動の取り締まりを要求するが、効果はなかった。むしろこの対日経済絶交運動は全国的国民運動として根を張って行き、日本に経済的打撃を与え、中国内の日本の産業にも影響し、各地の日本人居留民をも苦しめることになった。これはシベリア出兵(同項参照)の時と同様、居留民保護の名目による出兵が裏目に出たと言っていい。元々は日本の一方的な侵攻政策によるものであり、その相手国民の立場を考えない政策の失敗である。

 これに関し、野党民政党の議員6名が済南と青島の現地視察に行き、「現地保護」の政策が破綻していること、「あまりに愚かなやり方であり、… 士気を阻喪し、軍紀を弛廃し、更に国家財政を紊乱し、対外貿易と地方の産業を阻害し、在外同胞とその将来の活動に大障害を与える」と田中内閣を糾弾した。実際にこれらの出兵によって、居留民への弁済金も含めて軍事費総額は約6830万円、現今の金額にして約3000億円の支出が昭和金融恐慌により、失業者が激増している最中に行われたのである。

 そうした結果、軍政府の発表通りの新聞等の報道が国民を煽り、そこで積極的(つまり攻撃的)な政策を取らないと国民は弱腰と責め、それに乗じて軍政府はこのような出兵を重ね、そして相手国の排斥運動を呼び込み、逆に居留民の窮地と経済的打撃を引き起こしてしまうという悪循環となった。

張作霖爆殺事件(皇姑屯事件)

 1928年(昭和3年)6月4日:国民革命軍との戦争に敗れた張作霖は3日に北京を脱出したが、午前5時30分、日本の関東軍は張が奉天駅に着く前、三洞橋を通過した際に、彼の乗っていた列車を爆破、張作霖は重傷を負い、瀋陽に送り返された後死亡した。張が邪魔になってきた関東軍は、司令官の村岡長太郎と参謀の河本大作大佐が立案し、この謀略の手がかりを一切消した。つまり中国人たちに機密費を渡し、アヘン中毒患者が列車を爆破したように装うという工作を依頼、そしてアヘン患者二人(あるいは三人)が現場近くに連れ出されて留め置かれ、列車が爆破された後に日本兵二人によって銃殺され(あるいは刺殺とされ、三人のうち一人は死んだふりをして後に張学良のところに駆け込み事情を話したとの説もあって、その場合、他の事例からして銃殺が正しいであろう。なぜなら近接する刺殺の場合、何度も刺され、特に腹を刺されると動けないしまず助からない)、実際に爆破した実行犯の中国人二人は陸軍大臣が調達した3000円(今の1500万円程度)を逃亡費して受取り姿を隠した。さらに関東軍はこの事件を国民革命軍のゲリラの仕業と言い立てた。実際には関東軍だけでなく、陸軍全体の計画だった。事件は皇姑屯駅の東で起こされ、中国では皇姑屯事件と呼ぶ。

 それにしても軍人は明らかな犯罪も平気で実行してしまうという体質を持つことがこの事件に示されている。軍隊は「非常時」という名の下であれば(関東大震災の時も非常時として軍隊が朝鮮人や中国人の殺戮を行った)、何をやっても犯罪にならないのである。だから戦争犯罪の追求は極めて難しく、戦争自体が必然的に犯罪を生むと定義するのが自然であろう。

 実はこの後、関東軍は張作霖の息子で後継者である若い張学良を取り込み、意のままに操り、蒋介石の国民政府と対立させて満州を中国から分離させることまで考えていた。しかし張学良は前線から6月18日に瀋陽に戻り、21日に父親の職務を引き継いだとして、正式に喪を公表した。この後張学良は父親への日本軍の謀略を知りつつ、それを胸に秘め、日本軍に対立する道を選び、父親を超える大きな役割を担っていく。

日本軍政府の誤算(張学良の台頭)

 1928年(昭和3年)7月1日、日本軍に殺された東北政権の張作霖の息子の張学良は、満州遼寧省の瀋陽に引き返すと同時に蔣介石国民政府要人らに対し、「統一を妨害する意は全くない」 と打電し停戦を宣言した。父親を殺した日本に対する憎しみを表には出さず、日本軍には反撃せず、「本日より三民主義を遵守し国民政府に服従する」と発表した。日本は張学良の動きに対して満足せず、田中首相兼外相は林権助を派遣し(驚くことに張作霖の葬儀に列席するためであった)、張学良に対し南京国民政府に従属すべきではないと翻意を迫ったが、張学良は祖国の統一が第一であるとして拒絶した。

 7月3日、蒋介石は北京に到着し、平和裏に中国統一を行うために派遣された張学良を代表とする奉天派と会談した。蒋介石が満州を統合することをアメリカやイギリスなどは支持していたため、日本を大きく牽制するものとなった。蒋介石は張学良の東北(満州)政権の保持を認めつつ、形式上、中華民国の統一を成し遂げることになった。これにより日本軍の張作霖暗殺は完全に裏目に出た。

 それでも田中首相は、あくまで東北における利権の確保と継続を念頭に、蔣介石らによる全国統一を阻止する考えでいた。しかし中国駐在の外交官の芳沢謙吉は、「学良の政府に対して成るべく好意的態度を示して実利の獲得に努める事が上策」と進言し、さらに中国南北両方の妥協を日本が邪魔して、それを破壊することになれば南方の反感を一層激しくし、ましてや我国の政策で支那の統一を防げる様子が列国からの非難を益々呼び起こすことになると説明した。つまり芳沢は、中国の統一運動を妨害しないように政府に建言した。これは極めてまともな判断といえるが、この建言は田中の耳に入らなかった。田中としては、あくまで満州地区が独立を堅持しつつ、これまでの日本の権益を守る姿勢を崩さなかった。

 7月下旬より日本は済南事件解決に向けて、上海総領事矢田七太郎を国民政府の外交部長王正延と交渉に当たらせるが、事件の謝罪と賠償を求める日本と、山東地区から撤退を求める国民政府との交渉は何度も決裂し、一旦10月に打ち切られた。結局翌年になって政府は吉沢を特命公使として交渉を委ね、解決に向かうことになる。

 つまり日本は他国への侵攻で得た利権にこだわり続けた。この時の田中首相の狭量は、後の東條英機に似ていて、米国から強く中国撤退を迫られた東條は、それまでに中国で得たものを失うことを恐れて拒否し、米英を敵として1941年(昭和16年)太平洋戦争に突入し、その結果、それら全てを失うばかりか、多くの国民の命(310万人以上)と、相手国の人たちの命(1000万人単位)をも奪うことになる。一人の政治家の狭量が、かくも無残な結果を招くのであるが、その時代の流れの中にいる国民の大半は、軍政府からの情報統制と一方的なプロパガンダによって新聞に発表される日本軍の動向に一喜一憂して、その政府の愚行に気がつかないというか、世界からの情報も届かず、そのような客観的視野を持てない時代であった。

関東軍の満蒙領有計画

 1928年(昭和3年)10月、陸軍大学校教官であり陸軍歩兵中佐であった石原莞爾が関東軍の作戦主任参謀として満州に赴任する。その前にドイツに官費留学し軍事を勉強していた彼は、前年に『現在及び将来に於ける日本の国防』という論文を書き、ここで既に満蒙(満州と内蒙古)領有論を構想した。この計画は、帝国陸軍による満蒙の占領によりその豊かな資源を開発して相互の経済発展を促し、日本の国力と軍事力を支える基盤とし、疲弊する国内問題をも解決するという内容であった。またこれにはその計画を妨害するアメリカとの戦争の覚悟が必要などとした。これを基に翌年7月に、対ソ作戦計画研究のための関東軍参謀旅行が行われ、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐らと満蒙領有計画が立案された。ここから二年後の1931年(昭和6年)、石原の考えに沿って柳条湖事件が画策され、この事件を中国軍による攻撃として関東軍を出動させ、満州事変が引き起こされる。しかしその後、石原完爾は「満蒙領有論」から「満蒙独立論」(関東軍から満州国を自立させる)へと主張を変えていき、関東軍の戦線拡大方針にも反対する。1937年(昭和12年)、またも日本の支那駐屯軍(関東軍ではない)によって衝突事件が引き起こされ、戦線が拡大の様相を見せていく中、それが泥沼化することを予見して(予見は正しかった)石原は不拡大方針を唱えたが、拡大派によって左遷された。(支那について:中国では王朝が変わると国号も変わったが、インドなどから古来より「シナ」に近い発音で中国を呼び、支那は当て字の一つで、英語のChinaはこれに由来する。日本人は終戦までこれを使い続けて、次第に蔑称となっていった)

易幟事件

 日本軍に爆殺された張作霖の息子で北洋軍閥の一翼を担っていた張学良は、すでに蒋介石に停戦を宣言し、国民革命軍に合流することを表明していたが、12月29日、改めて「国民政府に服従する」という電報を送り、東北三省(吉林・遼寧・黒竜江省)に北洋時代の五色旗に替えて国民政府の国旗である青天白日旗をかかげた。蒋介石は満州において全ての旗が換わったことを宣言した。二日後、国民政府は、張学良を中国陸軍司令官とした。これに対し、満州独立を計画する日本側は危機感を募らせた。ただし蔣介石の南京国民政府はこれで安泰になったわけではなく、この後の1930年代は国民政府と各地に勢力を拡大させていた共産党との内戦が始まるとともに、日本軍の大陸侵攻への脅威が強まってくる。

パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)

 1928年(昭和3年)8月:フランスの外相ブリアンがアメリカに対し戦争放棄を目的とした仏米協定締結を提案、それを受けたアメリカ国務大臣ケロッグが、多角的な国際条約にする必要があると各国に働きかけ、ドイツ、日本も含む15ヶ国が参加してパリで調印し成立した。後に63ヶ国が参加し全世界的な国際条約となった。特に国際連盟には不参加だったアメリカとソ連も参加したので、平和維持に大きな期待が寄せられた。その内容は3ヵ条からなり、「締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する」/「締約国は、相互間に発生する紛争又は衝突の処理又は解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する」と記載された。これは第一次世界大戦までの近代主権国家が、「戦争に訴えるのは国家の自由である」という立場をとっていたのに対し、第一次世界大戦の悲惨な体験を経て、世界が戦争そのものを否定して「戦争の違法化」を合意したという点で、画期的なものであった。

 しかしアメリカは条約締結に当たり、この条約は「いかなる点においても自衛権の制限もしくは毀損を意味してはいない。この権利は、各主権国家に固有のものであり、あらゆる条約に事実上含まれている」と表明した。また不戦条約には「侵略」をどこが認定するのか規定が無く、「違反に対する制裁」についても触れられていなかった。また日本は、条約第1条に「人民の名において」とあることを、「国体に反する」として保守派の枢密院が反対したので、田中内閣はこの一句は日本には適用されないと言う留保条件を付けて、翌年ようやく批准した。しかしこの条約に拘束されないように、中国侵略を自衛のための行動であるとして、「満州事変」や「支那事変」(日中戦争)というように戦争行為を「事変」と強弁することになった。一方で、天皇の詔勅を経ない場合は事変としか言えない事実があって、これ以降しばらくの間、陸軍=関東軍は、(張作霖爆殺事件のように)日本政府と天皇の意向を伺うこともせず、各種の事件や事変を起こす。いずれにしろそれぞれの国家の欲には勝てず、ドイツや日本の帝国主義的謀略が、第一次世界大戦の犠牲者をはるかに超える大規模な第二次世界大戦をここから10年後に引き起こし、この条約を全く無意味なものにしてしまった。

 ちなみに戦後、日本国憲法を制定するに当たって、第9条で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とされたのは、この不戦条約を生かした条項であったし、国際連合憲章の前文の「共同の利益の場合を除く外は武力を用いない」という文言や、第2条第4項で「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を……慎まなければならない」という規定につながっている。それでもやはりこの条約を先導して作った「大国」が、その都度勝手な理由をかざして介入戦争を引き起こすような事態が今も続いていて、この憲章とて早くから形骸化していったと言ってよく、国家の形を持った人間のわがまま(我欲)というのは度し難いものがある。

日本国内の動向と世相(1928年:昭和3年)

日本の出来事

 1月、台湾の新竹で毒ガス(イペリット)の投下演習が行われた。

 2月、初の普通選挙による総選挙実施、ただし男性の25歳以上のみ。(それまでは一定以上の納税額の者にしか資格がなかった)

 同月、スイスで第二回冬季オリンピックが開催され、日本人選手が初参加

 同月、前年から隅田川に駒形橋、蔵前橋、千住大橋が次々と完成、この月に言問橋、翌月に清洲橋が完成する。この中でとりわけ言問橋は1945年(昭和20年)の東京大空襲により、惨劇の場所となる。

 3月15日、前月の普通選挙に伴い、政府は初めて治安維持法(1925年:大正14年に施行)を適用し、全国で共産党関係者1568人を一斉検挙、起訴が483名で、その中に徳田球一らがいた(三・一五事件)。

 同月、高島屋呉服店で初めて「マネキンガール」が登場し話題となる。モデルの前身である。

 3月、航空母艦に改造された加賀が竣工。

 4月、海軍は航空母艦・鳳翔と赤城の2隻に駆逐艦一隊を付けて、第一航空戦隊を編成した。

 4月10日、政府は労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟を共産党の外郭団体として治安警察法により解散命令を発令。また東京帝国大学、新人会に解散命令。以後、京都・九州・東北各帝大の学内の社会科学研究会も解散させる。さらに東大は経済学部教授大森義太郎を、京大は経済学部教授河上肇を、九大は経済学部教授向坂逸郎を順次追放させる。

 5月、関東学生自由擁護同盟が初の学生自治協議会を開催、学内闘争を協議。以後、大学・高専で学内闘争が激化、1931年(昭和6年)頃まで続く。

 6月、1925年(大正14年)に施行された治安維持法が改正公布され、「国体」(天皇を宗主とする日本国の体制)の変革を目的とした結社を組織した者あるいはその指導者として活動した者は、それまでの最高刑の無期懲役から死刑とした。この国体に反するものとしては、共産主義や無政府主義ばかりでなく、民主主義や自由主義も対象となった。また「結社を組織した者」だけでなく、「結社の目的遂行のためにする行為」自体も最高禁固刑となった。本来これは議会で可決すべきものが審議未了となり、先に勅令で発し、翌年3月5日に衆議院で事後可決された。(治安維持法の内容についてはこちら参照)

 7月、一方で全府県の警察署に特別高等課が設けられ、全国的な組織網が確立された。これが治安維持法施行の実践部隊として、後に戦時下に特高警察として国民の思想活動(著作も含めて反戦的なもの)の取り締まりや集会にも潜入捜査をし、疑いがあるとされる人々を次々と摘発、拷問まで加えるような恐れられる存在になる。

同月、各地方裁判所に思想を取り締まる思想検事を設置。

同月、関東大震災復興三大公園の一つとして錦糸公園が開園、この後浜町公園と隅田公園が開園されるが、いずれも1945年(昭和20年)の米軍による東京大空襲による膨大な焼死者の仮埋葬の地になる。

同月、オランダで開催されたアムステルダムオリンピックに日本選手団54人が参加し、初めて金メダルを獲得した。金メダルは陸上競技三段跳で織田幹雄、競泳男子200m平泳ぎで鶴田義行、銀メダルは競泳800mリレーで米山弘、佐田徳平、新井信男、高石勝男の4選手、そして初めて女性が参加して陸上競技女子800メートル競走で人見絹枝が銀メダルに輝いて話題となった。他に競泳男子100m自由形で高石勝男が銅メダルであった。ただ、これらメダルの獲得は関係者に予測されていず、国旗の用意もなかったという。

 9月、内務省、鉱夫労役扶助規則改正を公布し、婦人・年少者の深夜業と坑内作業を禁止。しかし、太平洋戦争が始まる頃には軍需産業への労働者が足りず、撤廃されることになる。

 10月、文部省に学生課設置、学生の思想問題を取り締まる。

 同月、西の宝塚少女歌劇団を意識して「東京松竹楽劇部」が発足し、浅草松竹座を本拠とする。これが後にSSK(松竹少女歌劇団)、戦後にSKD(松竹歌劇団)と発展して隆盛を極める。

 同月、日本航空輸送株式会社(後の日本航空)が創立され、日本で初めての定期旅客輸送が始められる。

 11月、陸軍観兵式において重爆・軽爆・偵察の各機91機、戦闘機69機、計160機が大編隊を組んで帝都の空を覆った。

 11月、NHKでラジオ体操が初めて全国中継される。またラジオの全国中継網が完成する。

 12月、銀座の店でクリスマスの飾りやケーキなどの販売が始まる。

昭和4年(1929年)

中国における軍事的動向

1929年の出来事

 2月、国民党政府は日本の権益を全面的に否定する法令を次々と制定、この月には「土地盗売厳禁条例」を出し、これは、満州で日本人に土地を売ってはならない、日本人に土地を売ることは「盗人」だという条例であった。

 3月28日、前年からの懸案であった済南事件の解決について、特命全権公使吉沢謙吉と国民政府外交部長王正廷との間で解決に関する文書が交わされた。その内容は、「濟南事件の発生に依り日支両国の受けたる損害問題に関しては双方に於て各同数の委員を任命し日支共同調査委員会を設置し実地調査を為し之を決定す」という基本のもとに、日本軍は山東から二カ月以內に全部撤去し、その後国民政府は全責任を以て在支日本国民の生命及財產の安全を保障するというもので、一応日本側が譲歩する内容であった。5月までに日本軍は占領していた済南城と山東全域から撤退した。これによって、日本商品の対中輸出が再び活況を取り戻すかに見えたが、2年後の9月18日の柳条湖事件を端に発する満州事変で、済南事件以上の戦闘が繰り広げられ、両国にとって悪夢の時代が続く。

 6月:済南事件の交渉妥結によって、日本は他の列強国に遅れて蒋介石の国民政府を正式に承認したが、関税自主権を認めるには翌年までかかった。日本にとって不平等条約の撤廃は、明治時代初期に西欧列強に対して自身が辿った道であったが、自国の権益と支配を守りたいがために、同じ不平等の立場の他国に対しては容認できない国となっていた。

 6月、前年に結成された満州青年連盟の第一回議会が三日間に渡り、大連の満鉄協和会館 において開催された。11月にも二回目が開かれ 、「日華青年和合」「満蒙自治制確立」「日華青年 協和連盟組職」「在満蒙 鮮人援助機関設置」などが協議された。

 7月:山東省青島の大康紗廠(大日本紡績工場=現ユニチカ:1919年建設)の労働者同盟ストライキ争議が発生し、4ヶ月操業を停止、当時すでに16万人の従業員がいたという。

 同月:捕虜に対する扱いを人道的にする必要があるとするジュネーブ条約成立。

 10月下旬、陸軍は植民地朝鮮において、南部を担当する第20師団が「秋季演習」を行い、飛行隊も含めて南北軍に分かれて実践練習をした。

 11月3日:【光州学生事件】日本の植民地朝鮮の全羅南道光州の学生が、植民地差別に抗議デモを行い、全土に波及する。これは10月30日、全羅南道の羅州行きの列車で、日本人中学生の福田らが朝鮮人女子生徒の朴己玉らをからかったとして、朴己玉の従兄弟の朴準埰が福田を殴り、日本人生徒と朝鮮人生徒の間に乱闘が始まったことによる。この際、警察が朴準埰と朝鮮人生徒だけを逮捕したので、朝鮮人生徒の不満が高まった。3日、彼らは日本の警察や日本学生寄りの報道をした光州日報に抗議をし、そこでまた双方の衝突が発生し、警察が朝鮮人生徒を検挙した。このことがさらに光州高等普通学校生を激昂させ、検挙者の釈放を求めて日本による統治政策を批判して抗議運動を展開した。その中の250人の朝鮮人が逮捕され、朝鮮人生徒らは同盟休学を結成して抗議した。この運動は朝鮮各地で翌年まで続き、合計4万人以上の学生が参加したとされる。1953年(昭和28年)に大韓民国はこの日を記念するため、11月3日を「学生の日」とした。

張学良と中ソ紛争

 この年、父親の張作霖を日本軍に殺害されたのち「国民政府に服従する」とした張学良は、蒋介石の一翼として北満州のソ連権益にも矛先を向けた。前年末、ソ連と北京政府(張作霖が主導していた)の共同管理下にあった中東鉄道(東支鉄道)と電話局を占拠し社旗を国民政府の青天白日旗に取り替えた。ソ連政府は協定違反であるとして非難したが、張学良は交渉を拒絶、中国側は中東鉄道の排他的支配を回復するとの声明を発表した。5月27日、張学良軍はソ連共産党の陰謀の拠点としてハルビンのソ連領事館の一斉手入れを実施し、中国とソ連の共産党員39人を逮捕した。7月に入り、蔣介石は中東鉄道を実質回収するためソ連人と共産主義者を追放することを決定し、直ちに幹部職員ら59人を免職させ、強制送還を命じ、ソ連の商業機関にも解散を命令した。7月13日、ソ連政府は処分の取消しを要求する最後通牒を国民政府へ提示したが、国民政府は治安事件の防止のための措置として要求を拒絶した。18日、ソ連は国交断絶を通告、中国・ソ連間の鉄道全てを閉鎖し国境へ軍隊を集結させ、7月下旬には、国境地帯に双方の軍隊が対峙した。すでに本格的な侵攻計画を立てていたソ連側が警戒していたのは日本の関東軍の介入であったが、日本側は中立の立場をとった。

 ソ連軍の本格的な攻撃は黒龍江・松花江合流地点からが始まり、10月末までに松花江沿いの約50kmにわたってソ連艦隊が航空機の援護も受けて侵攻し、中国艦隊も応戦した。さらにソ連軍は11月下旬から大規模な進撃を開始し、国境要地である内モンゴルの満洲里とダライノール、ハイラルを攻略した。一連の戦闘での中国軍の損害は大きく、中国兵約1500人(あるいは1690人)が戦死、戦傷約2210人、捕虜約6900人、行方不明約1800人に上った。これに対しソ連軍の損害は少なかった。一説によるとソ連軍は、捕虜にした中国兵のうち数百−数千人を河川へ投げ込んで処分したとする説もあり、行方不明とはその結果かもしれない。

 軍事的敗北と国内情勢の悪化から、中国は停戦を模索し始めた。国民政府の訴えにより12月1日、アメリカを中心に米・英・仏の3カ国共同声明を発表、ソ連の行為を不戦条約違反であると非難した。しかし3日、ソ連は、これは自衛戦争であって不戦条約違反ではなく共同声明は不当な干渉だと回答した(こうした理屈は日本軍も同様に使う)。12月16日からハバロフスクにおいて、中国とソ連の直接交渉が行われ、22日にいわゆるハバロフスク議定書が調印された。これを受けて25日にはソ連は軍を撤収するが、中東鉄道の利権を回復した。ところが国民政府は、ハバロフスク議定書はソ連側の主張を一方的に認めたものとして批准せず、改めて交渉の再開を求めたが進展はしなかった。その翌1931年(昭和6年)の満洲事変の勃発により、日本軍によって満州国が設立され、中東鉄道はその後ソ連より日本に売却される。

天皇の怒りと田中首相の辞職

 日本政府は前年の張作霖爆殺事件責任者を処分すると発表するが、陸軍の抵抗で日本側は事件に無関係とし、守備上の責任のみを間う行政処分(事件を首謀した河本大佐を停職とし予備役に回す軽い処分)にとどめる。その責任を取って田中内閣が総辞職するが、その理由は、田中首相は前月の関東軍参謀・河本大作による張作霖爆殺事件について、関与の軍人は軍法会議で厳罰に処したいと天皇に上奏したにもかかわらず、陸軍の強硬姿勢と閣僚の意向で河本を軽処分にしたことで天皇は立腹し、「それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうか」と強い語気で叱責したことにある、と言われる。翌日、田中内閣は総辞職し、田中本人も3ヵ月後に亡くなる。しかしここに至るまで天皇の側近の意見や報告がコロコロと変わり、それに翻弄される天皇自身が反省し、「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」と言われ、その後、 昭和天皇は内閣や軍部が一致して決めたことにノーを言わない、余計なことを発言しないという立場を守り抜いたといわれる。これがいい結果につながったとは、この後の戦争拡大への流れを見ると、思えない。

日本国内の動向と世相(1929年:昭和4年)

日本の出来事

 1月:横浜市で失業者1200人が市役所を占拠。

 25日:中野正剛(民政党代議士)、衆議院予算総会で満州某重大事件(張作霖爆殺事件)について田中首相を追及。

 3月、治安維持法改正事後承諾案(与党政友会の動議により強行採決)に反対した山本宣治代議士が、その夜、右翼団体に襲われ刺殺された。

 同月:大学卒業者の就職難深刻(東大卒の就職率30%)、その後9月、映画『大学は出たけれど』封切で流行り言葉となる。 

 4月、事前に検挙した一人の共産党員が持っていた党員名簿により、16日に全国1道3府24県にわたる一斉検挙が行われた。その後も検挙は続けられ、この年で4942人が治安維持法違反で逮捕された。(四・一六事件)

 同月、震災で焼けた上野松坂屋が8階建てのビルを新装し、初めて「エレベーターガール」が登場する。

 5月、日本で初めてのトーキー(音声付き)映画『進軍』、『南海の唄』(いずれもアメリカ作品)が上映される。翌月にマキノプロが国産初のトーキー『戻り橋』を公開する。

 同月、歌『東京行進曲』のレコードが発売され、同名の映画とともに大ヒットする。

 6月、拓務省が新設され、朝鮮総督府・台湾総督府・樺太庁・南洋庁の統治事務の監督、および満州を主とする海外移住の募集や指導を行うことになった。特に2年後の満州事変以降の1932年(昭和7年)から、この拓務省が大陸政策の要として、満州、内蒙古、華北に、昭和恐慌下の農村更生策の一つとして農民や青年たちを送りこむ役割を担う。満蒙開拓団とも呼ばれた集団移民政策で、敗戦によって大きな禍根を残すことになる。

 7月、文部省は思想対策強化のため、社会教育局設置、学生課を部に昇格する。

 7月1日、日本政府は張作霖爆殺事件責任者処分を発表。主謀者河本大作大佐停職。昭和天皇、河本処分を不十分とし、田中首相を叱責。

 同月、捕虜の待遇に関するジュネーブ条約が成立し、日本は署名を行ったが軍部、枢密院の反対により批准しなかった。

 8月、ドイツの大型飛行船「ツェッペリン伯号」が世界一周の途中、霞ヶ浦海軍飛行隊施設に降り立ち、これを見ようと上野から土浦まで臨時列車が出て、30万もの人々が出迎えた。その後太平洋を横断してロスアンゼルスに向かう。

 9月、カフェへの取り締まりが厳しくなり、「学生お断り」の看板が立つようになる。

 同月、 小林多喜二の『蟹工船』が出版され、反響を呼び、プロレタリア文学の代表作となるが、後に発売禁止となり、4年後小林は逮捕され、拷問死する。

 同月、文部省、国体(天皇を宗主とする国の体制)観念明徴・国民精神作興のため、教化動員の実施を各学校に要請。それに合わせて、中央教化団体連合会が設立される。

 同月、全国反戦同盟員が銀座で戦争反対デモを行い検挙者が多数出る。

 10月、9月に竣工した豪華客船浅間丸が横浜からサンフランシスコに向けて出航し、太平洋横断の速度記録を作った。豪華客船時代の幕開けとなり、その後も太平洋航路で活躍するが、太平洋戦争開戦前から海軍の徴用船となる。(翌年の「次々と就航する大型船とその後」参照)

 同月、英国が日・米・仏・伊をロンドン海軍軍縮会議に招請、補助艦の保有量削減の討議に入る。

 同月、戦艦として建造されていた「加賀」が、途中から航空母艦として改造されほぼ完成。

 10月下旬、陸軍は植民地朝鮮において、南部を担当する第20師団が「秋季演習」を行い、飛行隊も含めて南北軍に分かれて実践練習をした。

 同月、日比谷公会堂が竣工する。関東大震災の教訓から、地盤は2000本を越す松材で固められた。しばらくの間、東京では唯一のコンサートホールとしてオーケストラの演奏会やリサイタルなども多く開かれたが、他に専用の施設が増えるにつれ、講演会、イベントなど音楽会以外の利用が増えていく。1944年(昭和19年)末からの大空襲にも焼けずに残ったが、これはそばの皇居が空襲の対象から外されていたことと、大きな公園の中ということもあった。

 10月24日、世界恐慌発生:ニューヨークの株式市場が大暴落、米国内の銀行が破綻し、世界恐慌となる。生糸価格も崩壊し、輸出に依存していた農家にも大打撃を与える。

 11月、内務省、失業者30万人と発表。また日本政府は金解禁を発表するが、これが翌年の不況に輪をかける。

 12月26日、陸軍の憲兵司令部が思想対策強化のため思想研究班を編成する。憲兵は本来軍隊内の警察をつかさどっており、特高警察は一般国民を対象とする。そこから憲兵は司法警察官の身分も有し、次第に国民の思想弾圧にまで及んで、例えば関東大震災後にその混乱に乗じて東京憲兵隊分隊長の甘粕正彦は大杉栄を殺害するという事件を起こした(同時に朝鮮人や中国人も弾圧・虐殺された)。そのうち帝国議会の開会中は10名ほどの特務憲兵が詰め、議員の発言を確認して、政府や軍部に批判的な政党・議員の攻撃材料を入手することも憲兵の任務になった。さらに憲兵は占領地治安維持の任務を負い、海外、特に満州においては逮捕した容疑者を裁判に付さず憲兵隊が独断で処刑する「厳重処分」が横行した。その結果、戦後にBC級戦犯(主に海外の占領地にいた将兵たち)として死刑になった約1000名近くのうち、憲兵は約3割とされる。

 12月、海軍省令により予科練習生の制度が設けられた。「将来、航空特務士官たるべき素地を与ふるを主眼」とされ、応募資格は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満で、教育期間は3年(のちに短縮)、その後1年間の飛行戦技教育が行われた。

昭和5年(1930年)

中国における軍事的動向

1930年の出来事

 5月、前年の対日本人への居住制限に続き、国民党政府(蒋介石)は、日本人の土地利用を禁止して、鉱山経営も厳禁にするという「鉱業法」を制定する。さらに100万近い朝鮮人(当時の朝鮮は日本の植民地であったが、朝鮮と接する中国吉林省などへ、元からの入植者に加え、日本は朝鮮人を労働力として「出稼ぎ」や入植させていた)農民や労働者を全部満州から追い出そうという動きまで出た。さらには、中国に進出している日本企業が営業できないようにする政策もとられた。

 同月、蒋介石国民政府に対する反蒋同盟(広西軍・山西軍・西北軍)の侵攻作戦に対し蒋介石が攻勢に出て中原会戦が起きる。

 5月6日、日華関税協定調印

 5月30日、[間島暴動]:満州吉林省において朝鮮の国境地帯にある間島で、朝鮮人たちが「全満の民族解放運動のため、日本帝国主義と中国国民党の赤色(共産党)虐殺に抗議する」として武装蜂起した。(後述)

 7月27−30日、中国共産党軍が3都市で蜂起し、2都市が失敗に終わるが、長沙の占領に成功。 28日、長沙の日本領事館が中国共産党軍に焼かれた。29日、長沙ソビエト政府樹立が宣言される。こうした動きに対し30日、日本や欧米の艦隊が中国共産党軍を艦砲射撃し、国民党軍を援護する。

 8月4日、国民政府軍は長沙を奪回し長沙ソビエト政府が崩壊。

 9月、張学良は中立を破棄して蒋介石支持を宣言、その数日後、張の東北軍は山海関を通過して中原に入り、その2日後に反蒋同盟の北京を占領した。

 10月、[霧社事件]:27日、日本統治下の台湾の原住民セデック族約300人が、台中州霧社で日本人居留民を襲う抗日暴動を起こすが、逆に日本軍の討伐によりセデック族の大半が死亡する。(後述)

 10月29日、支那との外交文書における名称を支那共和国から中華民国に変更する旨、閣議決定。日本国内では従来どおり支那が用いられ続ける。

 10月:英国が日・米・仏・伊をロンドン海軍軍縮会議に招請、補助艦の保有量削減の討議に入る。

〇 抗日パルチザン(主に共産党系非正規軍)による日本運営の満鉄(南満州鉄道)に対する鉄道運行妨害が、主にこの年から翌年の2年間で410件あった。信号所を襲撃して列車の運行を妨害、そして貨物盗難被害や貨物3千両が破壊されるなどの甚大な被害が発生した。これらに重ねて日本製品非買運動により、日本からの輸出は1926年から1931年(昭和元年~5年)までに半減していく。

〇 この時期、満州への定住者が19万人となる。

反蒋同盟と中原大戦

 蒋介石が長期で1928年(昭和3年)に成し遂げていたはずの北伐(北方軍閥の平定)の成果は、まだ基盤が弱く、1929年(昭和4年)には反蒋同盟ができ、蒋介石の南京政府に対して閻錫山・馮玉祥・李宗仁らが北京政府を打ち立てた。そして反蒋同盟(広西軍・山西軍・西北軍)は、複数のルートから南京政府へ進攻することを計画したが、1930年(昭和5年)5月、蒋介石が率いる中央軍も攻勢を開始した。その後各地で多大な犠牲者を出しつつ一進一退を繰り返したが、そのうち反蒋同盟の各軍同士の連携不足により、形勢が南京政府側の有利に変わりはじめた。9月に入って張学良率いる東北軍(奉天派)は中立を破棄して、蒋介石を支持することを宣言、その数日後、東北軍は山海関を通過して中原に入り、その2日後に北京を占領した。山西軍は黄河の北へ退却し、西北軍も崩壊、両軍合計100万の軍勢で30万の死傷者を出して大きな内乱は終息した。10月、閻錫山と馮玉祥は共に全ての公職の辞任を発表し、それによって南京政府蒋介石の軍事指揮権集中が強化された。

共産党の武装蜂起

 5月、中国共産党が上海に全国ソビエト区域代表者会議を招集、「革命農村をもって都市を包囲する」戦略を打ち立てる。当時、李立三が指導する中国共産党は、中原会戦に忙殺される蒋介石政権の隙を狙って、6月に各都市武装蜂起を計画、7月27−30日、ソ連のコミンテルンの指示に従って、朱徳・毛沢東の第1集団軍は南昌、賀竜らの第2集団軍、彭徳懐の第3集団軍が武漢で蜂起した。この蜂起は失敗に終わるが、第3集団軍だけが長沙を占領し、湖南省労農兵ソビエト政府の成立を宣言する(長沙ソビエト政府)。しかし蒋介石を支援する日本・アメリカなどの艦隊からの艦砲射撃に援護された国民党軍の反撃にあってわずか9日間で長沙を撤退した。

間島暴動

 1930年(昭和5年)5月30日、満州吉林省において朝鮮の国境地帯にある間島で、朝鮮人たちが「全満の民族解放運動のため、日本帝国主義と中国国民党の赤色(共産党)虐殺に反対する」として武装蜂起した。これは1910年(明治43年)の日韓併合に反対した元義兵などの朝鮮人亡命者が、間島を拠点として独立運動を展開していたことから、1920年(大正9年)にはゲリラ事件が相次いで起こり、日本軍による間島出兵が行われていた。一方、中国側ではナショナリズムの高まりによって1920年代後半以後、間島の朝鮮人に対する弾圧が行われ、さらに1929年(昭和4年)には朝鮮人農地の没収が開始されるなど、抗日独立運動勢力を含めた全ての朝鮮人を弾圧・排除する動きに転じていた。

 この日、朝鮮人たちは延吉・竜井など間島の主要都市や鉄道沿線で一斉に蜂起し、日本領事館などの官公庁や鉄道施設・電灯会社などを襲撃した。日本の軍部・警察は直ちに間島に入って鎮圧を開始、奉天の張学良東北軍も鎮圧に動いた。その結果、日本側によって7000名が検挙されて700名余りが起訴、うち22名が治安維持法や刑法などによって死刑とされた。

 これら暴動と関係がない、いわゆる一般の朝鮮人はこの暴動により間島の住居を追われ、日本の保護の下に満州の地域へ入植を強要された。この独立運動勢力はソ連および中国共産党と連携してこの間島朝鮮人武装蜂起を引き起こしたと言われ、以後一年以上にわたって断続的な暴動が間島各地で繰り広げられた。これが翌年の万宝山事件につながっていく。

張学良の排日政策

 この年、張学良は日本の旅順、大連租借地の返還、満鉄の回収、関東軍の撤退を公言し、日本人および朝鮮人に対する居住権、営業権の圧迫、排日運動と排日教育を推進した。さらに日本の満鉄(正式には南満州鉄道で、関東州に租借権を得た時に、ロシアから譲渡された大連から新京=長春までの鉄道)と競合する新しい鉄道路線を欧州列強の支援でなどで建設する計画を立てた。それまで東北地方への物資輸送は日本が租借権を持つ大連港から日本の経営する満鉄を経由するしかなかったから、日本政府は日本の事業を排斥するものだと抗議したが、計画は進められ、この新鉄道は安価な輸送単価で満鉄との経営競争をしかけ、その結果満鉄は11月以降、赤字続きとなり、社員3000人の解雇などをした。また林業、鉱業、商業などの日本企業は、満鉄付属地外でも営業できることになっていたが、1930-31年(昭和5-6年)には、一方的な許可取り消しや警察による事業妨害のために、経営不振が続出した。満州には関東軍の政策もあって植民地朝鮮の人々が多く移住していて、張学良は日本人や朝鮮人に土地を貸した者を処罰する法律を制定し、各地で吉林省などの朝鮮人農民が迫害された。合わせてソ連による共産党工作活動もあって、朝鮮人は満洲から追放されることになる。こうした事態に危機感を抱いた関東軍は、本国に諮ることなく、満洲の地域自決・民族自決に基づくとの理由で分離独立を計画した。

蒋介石の共産党との戦い(囲剿作戦)

 1927年(昭和2年)、蔣介石は上海クーデターによって、国共合作を崩壊させたが、共産勢力の伸張を脅威に感じ、抗日政策より中国共産党との戦いを優先した。共産党を「共匪」と呼び、この1930年(昭和5年)の12月、第一次囲剿(いそう)作戦(第一次国共内戦)を計画、動員兵力10万人で掃討包囲作戦を、江西省南部の根拠地に対して行う。この囲剿戦は、第1次が翌31年(昭和6年)1月まで、第2次が3-5月、第3次が7-9月の三回にわたって展開された。毛沢東はそれに対して「深く敵を誘い込む」戦術で応戦、劣勢をはね返した。ただしこの30年は上記の反蒋同盟との戦いもあり、蔣介石にとって日本軍も含めて三つの敵がいたことになる。ただ、こうした国民党政府軍と共産党軍の激しい内戦は日本軍に付け入る隙を与え、その31年(昭和6年)9月には満州事変が起きた。

ロンドン海軍軍縮会議と日本海軍の反発

 1930年(昭和5年)1-4月、当初、イギリス、日本、アメリカ、フランス、イタリアの第一次世界大戦の戦勝国である五大国、かつ五大海軍国により会議がもたれたが、仏・伊は潜水艦の保有量制限などに反発し、部分的な参加にとどまった。8年前のワシントン軍縮会議では主力戦艦の保有割合を英米5に対して日本は3で調印され、海軍は不満を持っていた。会議における主席代表は財部彪海軍大臣、全権は元総理大臣若槻礼次郎で、 今回は補助戦艦についての軍縮会議で、この会議の前 に、補助艦は対英米7割、潜水艦は現状を維持すると決めていた。しかし結果は重巡洋艦は6割、補助艦は総括総トン数70%弱という交渉結果となったが調印した。これに関し幣原外相は当日の談話で、「各自の安全感を高め、国民の負担を軽減することに成功した」と成果を評価した。しかしこれに対し海軍の軍令部が反発した。軍令部は陸軍の参謀本部にあたり、それぞれ海軍省と陸軍省の上部に位置していた。この理由で天皇の統帥権に対して軍令部に上奏権がある、それを上奏なし、つまり天皇の裁可なしに勝手に決めた、これは統帥権干犯であるとし、海軍省にこんなことを許せば将来の日本の軍備が危うくなる、軍備は実際の指揮権をもっている軍令部のものであって、海軍省などという事務官が持つべきものではないなどと、野党政友会の犬養毅・鳩山一郎らも含めて浜口内閣を攻撃し始めた。

 すでに軍縮会議の結果は帰国後に若槻と海軍大臣が天皇に「上奏」していた後である。つまり内閣でさえ軍令部を通して上奏しなければならないという意見であった。それにしても後からこのような歪んだ理屈を言ってきては、海外諸国との交渉も何もできないし、この歪んだ軍の支配構造が、統帥権を持つ天皇を傀儡とし、ぞの統帥権をも自分たちこそ利用できるという認識があって、こうした権力構造がむやみな戦争に突き進む原因となったのであろうが、この翌年の満州事変、その6年後の日中戦争(支那事変)においてもきっかけは陸軍としても、戦争を抜け出せない深みに追いやったのは海軍であった。

 さまざまな曲折を経て、1930年(昭和5年)10月1日の枢密院本会議は、満場一致で条約を可決し、翌日正式に条約が批准された。しかし海軍内部ではこの過程において条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」という対立構造が生まれた。またこれにより濱口内閣の蔵相、井上準之助が緊縮財政を進め、海軍の予算を大幅に削減したことも艦隊派の不満を高めた。

台湾霧社事件

 台湾は日清戦争後の1895年(明治28年)から日本が植民地とし、台湾総督府が統治していく。占領後すぐに日本は台湾の資源に目をつけ、その一つが台湾に多く自生するクスノキで、これは樟脳(殺虫剤や医薬品として使われる)やセルロイド(今のプラスチックにあたる)の材料としての需要が多く、各地で原住民を使って伐採し、生産するようになり、その当初から原住民との軋轢が生じていた。またこうした産業に合わせて日本人も台湾各地に移住し始めた。こうした中で原住民の抵抗は続き、全域の原住民を支配するには1915年(大正4年)までかかった。日本の統治は強圧的で、「皇民化政策」として教育による同化が進められ、原住民の伝統的な文化・習俗も禁じられるようになった。その間、数々の抗日暴動があり、日本軍や警察は鎮圧に追われ、時には「蕃を以って蕃を制す」 (策略によって原住民同士を戦わせる)形での虐殺も多々あった。1903年(明治36年)に台湾中央部の山地の霧社地区で起きたセデック族(霧社蕃)に対する姉妹ヶ原事件(およそ100人が殺害され、既述の「台湾で打ち続く原住民の反乱」参照)はその後もくすぶり続け、日本当局は監視の目を強くしていた。

 以下は主に、国立情報学研究所による「学会企画シンポジウム報告」のうち、2022年(令和4年)の『ガヤと霧社事件』(タクン・ワリス :邱建堂)からの要約で、多少他の資料から混成している。

【経緯】

 1920年(大正9年)、セデック族の反抗の企てが発覚し、日本当局は反抗しようと秘かに企てた部落の頭目と勢力者を拘留した。ところがこのとき、北のタイヤル族のサラマオ地区で日本人警察官殺害事件がおこった。日本当局はその地域のいくつかの部落の人々を使嗾して、日本人警察官が指揮する鎮圧行動に動員した。5回にわたる凄惨な戦いが繰り広げられたが、制圧はできず、ついにはマシトバオンの頭目が戦死したため、部落の人々は出動を拒否した。そこで日本当局は、拘留していたセデック族部落の人々を脅迫し、征伐に動員した。 その後も大規模な土木工事のための奴隷のような使役は増える一方だった。1928年(昭和3年)、さらに埔里の武徳殿を建てる大工事のために、セデック族のすべての労働力を動員し、守城大山で木を伐採し、20km余り離れた埔里へ運ばせた。使役は何年も続き、日本人は部落の人たちを牛馬のように働かせた。

1930年(昭和5年)、霧社の寄宿学校を建てる工事のために、10km離れたマヘボ社(社は村)の奥山から霧社まで、建築用の木材を担いで運ぶことになった。マヘボ社の頭目はモーナ・ルーダオで、人々はいつもモーナの家へ寄って、20年以上に及ぶ労役の苦しみを訴え、一日も早くのさばりかえっている日本人を滅ぼして、伝統の生活を取りもどそうと持ちかけた。おりしも、モーナ・ルーダオの長男タダオ・モーナと次男のバッサオ・モーナとが、横暴でいばり散らしていた吉村巡査とのあいだで、殴打事件を起こした。きっかけはセデック族の結婚式で、吉村巡査が通りかかり、その祝いの酒をタダオが勧めると、「こんな汚い酒を飲めるか」といってタダオの手を棒で叩き、怒ったタダオが吉村を殴打したことによる。事件後、頭目のモーナが息子を連れて吉村巡査に謝罪に赴いたが、吉村はこれを受け入れず、厳しく処罰すると言った。タダオはかってから「日本人警察官に捕まるくらいなら、 先に殺してしまおう」と言っていたほどで、この事件で日本人絶滅計画は、あっという間に各部落に伝わった。そこには27年にわたる恨みと憤りがあり、 頭目は自分の息子を含めた青年たちの必死の決心を抑えこむことができなかった。

【日本人襲撃事件と鎮圧戦】

 10月27日、霧社セデック族マヘボ社のタダオ・モーナを中心とした壮丁300人ほどが、まず駐在所・警察分署を襲撃し、警察官を殺害して武器を奪い、その後、霧社公学校の運動会に集っていた日本人約200人を襲撃し、そのうち132名と和装の台湾人2名を殺害した。当時の公学校には日本人居留民と漢人の家族子弟が集まっており、犠牲者は無残にも首を切り落とされた(首狩りは当時の原住民の習性)。この襲撃計画に際し、参加したのはセデック族の6つの社であったが、持ちかけられても参加しなかった社の中から密告しようとする族の人間は、一人もいなかった。(参加しなかった社の中で、例えばパーラン社は、1903年:明治36年の姉妹ヶ原事件で、多くの男子を失っていて、できなかったという)
 この事件を受けて、駐留日本軍や警察が鎮圧を開始、日本側は2日後の29日には早くも霧社を制圧したが、セデック族側は山にこもり、襲撃の際に警察から奪った武器弾薬を使って抵抗した。最初に日本軍を迎え撃ったのは、ホーゴー社の頭目のタダオ・ノーカンで、日本軍の高性能の武器や大砲の前で、ノーカンは壮烈な戦死をとげた。しかし一文字高地の戦いではリーダーのタダオ・モーナが率いる勇士たちが日本軍をほぼ全滅させたが、弟のバッサオは日本軍の銃撃を下あごに受けて負傷した。バッサオは仲間に迷惑になるからと、自分の首を打ってくれるように頼み、その場で兄のタダオが弟の首をはねた。セデックの人々の重傷者の多くは、味方の戦力を削がないようにと、このように自ら生命を絶った。タダオ・モーナも12月8日に自害した。この蜂起に参加した現地人の中には、「花岡一郎」と「花岡二郎」という日本人名を持ち巡査やその助手に採用されていた者も加わっていた(ただし花岡一郎は教師ともされているが、二人の血縁関係はない)。彼らは現地人であったが教育を受ける機会を与えられ、巡査に登用された。現地人と日本人の間に立って悩んだ彼らは、セデック族の立場で、共に自殺したとも言われている。

 日本軍は、セデック族と対立関係にあったタウツア族などに賞金を与え、また禁止していた首狩りを許して戦わせた。取ってきた首に応じて、頭目・勢力者は200円、男性100円、女性30円、子ども20円とした。こうして同じ原住民同士が戦わされ、追撃隊の一人が打ち倒した男の首を取ろうとしたら、自分の弟であったという話、また崖に追い詰めた相手側に弟がいるのを見て、撃たないでくれと止めようとした兄の話も残されている。日本軍は森林に入り込んだセデック族に対し飛行機も使って爆撃した。そのため女性と子どもたちはマヘボ渓上流の谷にある岩窟へ避難した。飢えと寒さが迫る冬で、老人や少年が外へ出て食べ物を探す人たちも追撃隊の首狩の対象となった。追撃隊に対する反撃によって倒した中で、頭目のタイモ・ワリスをはじめ、10人以上がその場で戦死したが、その頭目は、人々に尊敬されてよく知られた人で、彼らは言葉もなく、「どうして日本人じゃないんだ」と天に問いかけるだけだった。やがて、勝って帰ってきた戦士が自殺する銃声が響いた。首つり自殺をした者もあった。 岩窟で女性たちや子どもたちを護っていたパワン・ナウイは、「ポホクの12人の男たちが岩窟から出て行ったあと、彼らの部落の女たちは、岩窟の林で、集団で首吊り自殺をした。あまりの重さに、枝が折れてしまった木もあった」と悲しい思いで語っている。これは出草した男たちが後顧の憂いなく戦えるようにと、民族の伝統的に選ぶ方法 であった。こうして11月末までに日本側は延約2000人を動員、それによって700人ほどのセデック族が死亡もしくは自殺(自殺者は296人とされる)、500人ほどが投降した。12月中に鎮圧軍は現地の治安をほぼ回復し、戦闘は終結した。日本軍兵士の死者は22人、警察官6人、味方蕃族21人であった。しかしこの後も残されたセデック族はその数を減らしていくことになる。

【報復事件とその後の一民族の運命】

 この翌1931年(昭和6年)の4月25日、最後に投降した霧社のセデック族の生存者(保護蕃と呼ばれた)を再びタウツア族が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった(この時に殺されたセデック族はやはり首を落とされ、実際にその写真も残され、ウィキペディアにも載せられていて、その中に日本の警察官の姿がある)。これには当時の日本の警察官が、タウツア族にセデック族への襲撃を唆したとの証言がなされている。したがってタウツア族への処罰はなされず、逆にセデック族の土地を与えられることとなった。5月6日、最終的に生存したセデック族保護蕃282人は、北港渓中流域の川中島(現在の清流部落)と呼ばれる地域に強制移住させられた。さらに日本警察の長期にわたる極秘調査の後、10月15日、埔里の能高郡役所で帰順式をすると言ってトラックに乗せられ、帰順式の場で部落の15歳から55歳までの男子23人が逮捕された。そして彼らは郡役所の留置場で残虐な刑を受け、その後、1932年(昭和7年)3月17日、埔里郊外の荒野で生き埋めにされた。その後も川中島で生存者ら家族は警察からの指導のもとに生活したが、弾圧は続き、移住から一年で住民は210人まで減り、2年後にはその3分の2まで減ったというが、その後は持ち直した。

 タダオ・モーナの父で、マヘボ社の頭目であったモーナ・ルーダオ(名前が親子あべこべだが、これで正しい)は蜂起に反対していたが、蜂起の日、ロードフ社の人に「今日は日本人を殺す日だ。あなたは頭目なんだから、外へ出て様子を見てはどうですか」と言われ、外に出て途中まで来ると、タダオ・モーナの戦闘隊が、ホーゴー社から出てくるのに出会った。手には日本人警察官の首を下げていたので、ルーダオは「どうしてこんなことをしたんだ」と尋ねた。しかしその後、ルーダオは行方不明になった。実はルーダオは、深山で自殺していて、1934年(昭和9年)に遺体が発見された。日本当局はしばらく埔里能高神社(今の埔里仁愛幼稚園)に収容して、台湾大学人類学科の考古館に移し、研究資料として提供していた。1973年(昭和48年)10月、その遺体は川中島に住むセデックの老人たちによって霧社に運ばれ埋葬された。台湾内のニュースメディアはルーダオの遺体の霧社への帰還と埋葬について、広く報道した。その時、中国語を話せない老人たちとの間で通訳として立ち会っていたのが、ルーダオの外戚の子孫で、強制移住させられた川中島に生まれ、ここに主に流用した記録を著した邱建堂(タクン・ワリス)である。

 邱が育った川中島の部落で祝宴がある時、いつもはじめは楽しそうだった女性たちが、悲しい歌を歌うのを耳にし、また酒を飲んだ男たちが言い争うのを聞いて、いつとも知れず、祖父の年代の人たちにはそれぞれ、自分の生まれた部落があったのに、ともに悲惨な事件を経験したことを知るようになった。しかし老人たちは、自分たちを悲しませた思い出を話すことを望んでおらず、また、後代の子孫に新しい未来があることを願って、年配の人たちは霧社事件について話さないようにしていた。それで私たちは、事件があったことを知ってはいたが、その内容については知らなかった。祖父母の世代の人たちが、孫の世代に、 事件のあとに残った恨みについて教えるようなことは全くなかった。彼らはただ、「日本人はや りすぎた」と言うだけだった。そこでルーダオの埋葬を機会に、祖父たちや老人たちに、霧社事件についての記憶をたずねて、セデック族の歴史を記録しようと邱は決意した。

 なお、これらの事件を聞き及んだ昭和天皇は、「事件の根本には原住民に対する侮蔑がある」と漏らしたという。つまりこのような見方ができる天皇であったことは知っておかねばならない。

【台湾人に記憶される事件】

 事件後、日本人は台湾の統治の方法を改め、原住民族を一括して「高砂族」と呼ぶようになった。それにあわせてより徹底した植民地統治方針、つまり皇民化政策(ただし天皇の意には沿わないもの)を導入することとなる。この事件の1930年(昭和5年)の頃は、日本は前年の世界恐慌の影響もあって不況が深刻になっており、それを打開するとして翌1931年(昭和6年)には満州事変を起こし、37年(昭和12年)には日中戦争へと突入していく。そのまま41年(昭和16年)に太平洋戦争に至り、戦争末期には、原住民つまり高砂族は密林に慣れているとして日本軍に徴兵され、「高砂義勇兵」としてフィリピン戦線やガダルカナルなどに送られた。高砂族ではないが、日本の教育により、特攻隊に志願して戦死した若い台湾兵もいた。こうして台湾の原住民は日本によって何重にも犠牲となった。

 日本の敗戦後、蜂起のセデック指導者たちは台湾で「抗日英雄」と称されるようになる。事件の二周年記念日に完成した日本人の殉難慰霊碑は破壊され、蜂起の参加者らを讃える石碑が建てられた。1953年(昭和28年)、防空壕建設が行われた際に、旧駐在所霧社分室の跡地から30数体の白骨死体が発見された。この死体は投降して収容された者たちが拷問のすえ処刑されたものだとされ、国民政府は「無名英雄之墓」に遺骨を合葬した。これが契機の一つとなり、「霧社山胞抗日起義紀念碑」が設立され、蜂起の際の群像も建造され、現在も10月27日に記念行事が行われている。

【日本軍飛行機による爆弾と最初の毒ガス弾の投下】

 1917年(大正6年)8月、先住民に対する鎮圧の中で、その居住する山岳地帯に、日本軍は偵察機から爆弾を11回も投下した記録もある。この霧社事件でも、反乱したセデック族が森林の中で抵抗したという理由もあって、日本軍は飛行機(当時はまだ機動力の劣る複葉機が主流)による爆弾とガス弾(青酸及び催涙弾)を投下し、この時が日本軍が毒ガスを使った先例であると思われる。

 「日本軍の飛行機がはじめてマヘボの上空を飛んだとき、部落の人たちはもの珍しそうに空を「飛ぶ家」を眺めていた。飛行機が再び空に現れたとき、突然誰かが「あいつの『子ども』が落ちてくるぞ」と叫んだ。たちまちゴーッという音が響き、人々は粉々に吹き飛ばされた。「子ども」は爆弾だったのだ。こうして人々は、日本軍の新しい武器の殺傷力を認識したのだった 」。

 筆者注:他の記述では毒ガス使用の有無についてははっきりしないとされているが、筆者が先に調べて記した『中国における日本軍の年月日別全空爆記録』において、日本軍は1919年(大正8年)という早い時期から毒ガス研究を始め、1926年(昭和元年)に陸軍第七連隊が浜松に移駐した直後に、焼夷弾のほかにガス弾や細菌弾の使用についての講演が行われ、翌1927年(昭和2年)に広島県の大久野島で毒ガスの製造を開始、同じ年に富士裾野の演習では特殊弾効力試験として毒ガス演習を行ったという事実がわかっている。さらにこの翌1928年(昭和3年)、台湾の新竹で毒ガス(イペリット)の飛行機からの投下演習が行われている(つまり、同じ台湾の事件制圧の中で、しかも蛮族に対して日本軍としては毒ガスを使わない手はない)。これに伴い『陸軍科学研究所化学兵器講義抄録』が発行され、そこには航空機による毒ガスの用法が記されている。そして少なくともこの事件の翌1931年(昭和6年)の満州事変から毒ガスが実戦として投入され始め、日中戦争では毒ガスだけでなく、ペスト菌などを含んだ細菌弾も多数投下された。

日本国内の動向と世相(1930年:昭和5年)

 前年の世界恐慌の影響がこの年、日本にも及び昭和恐慌となった。それにより当時の農家の主力産業で米国向けの輸出が好調であった生糸の価格が暴落し、ついでに米の価格が暴落し、農家の生活を直撃した。前年の金解禁後、わずか5ヶ月間で2億2000万円(現在の価値で6000億円以上)の金が海外へ流失し、株も急落、物価も下落し、特に農産物は3割以上急落した。多くの中小企業が倒産に追い込まれ、大企業も賃金の引き下げと新規不採用で合理化をはかり、街には失業者があふれた。

日本の出来事

 2月、昨年に続き警察は国内の共産党関係者約1500人を摘発、7月までに461人検挙し起訴。

 3月、横浜に初の臨海公園として山下公園が開園、関東大震災の瓦礫を用いて埋め立てられ、造成されたという。

 4月、ローマで日本美術展開催。

 4月、海軍は航空兵力の増強策の一つとして、小学校高等科卒業生(14歳以上)を対象に、3年の課程で飛行搭乗員を養成する飛行予科練習生を募集、80名の募集に対して100倍近くの応募があった。これを少年飛行兵と呼ぶが、のちに予科練習生つまり「予科練」として少年の憧れの的となる。

 5月、日本の飛行機「青年」号が立川発、モスクワ、ベルリン、ブリュッセル、ロンドン、パリ、マルセーユ、ローマまでの飛行に成功(1万3900km)。

 6月、海軍の予科練に全国からの志願者5807名のうち79名が合格し、第一期生として横須賀海軍航空隊へ入隊した。1939年(昭和14年)に予科練は茨城県霞ヶ浦飛行場に移されるが、予科練制度が始まって終戦までの15年間で14歳以上約24万人の若者が入隊し(つまりこの後の戦争拡大によって大幅に採用人数は増えていった)、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴き、太平洋戦争終盤には特別攻撃隊として多くの若者が出撃、戦死者は8割の1万9千人にのぼった。 ちなみにこの年の軍縮会議では艦船等の保有に制限を受けるが、当時は別働隊として独立していなかった戦闘機等の航空兵力(空軍)は対象外であった。その増強策の一つとして海軍は飛行予科練習生を募集した。

 7月、海軍技術研究所が神奈川県平塚に化学兵器研究室出張所を設立。

 8月、日本政府は恐慌による農村救済のため7000万円(現在の価値で数千億円程度)を融資
 同月:宝塚歌劇団の新作品が話題となり、本格的な男装が登場、今も歌い継がれる主題歌『すみれの花咲く頃』が初めて歌われる。

 同月:東芝から初の電気冷蔵庫と洗濯機が発売されるが、今の価値で数百万円するものであった。

 8月21日、逓信省が東京・大阪間で写真電送を開始、これで戦地からの新聞報道が迅速になされるようになる。
 9月:関東大震災から7年後に「震災記念堂」が墨田区に完成し、納骨堂に3万人が合祀され、追悼・落成式が行われる。後の東京大空襲による行方不明の遺骨も合祀されることになり、東京都慰霊堂となるが、この合祀は東京都が空襲被害の慰霊碑の建立を嫌う占領国(米国)に配慮して、独立した慰霊堂が建てられなかったためである。

同月:コメが大豊作となり、結果的に米価が急落し、不況に拍車がかかった。

10月:東海道線の東京ー神戸間に特急つばめが運行開始、8時間55分で結ばれる(現在の新幹線では約2時間30分)。最高時速96kmで、運賃は往復で当時の大卒初任給ほどもした。

 11月14日、浜口雄幸首相が東京駅ホームで、ロンドン海軍軍縮条約批准に反発した愛国社員に狙撃され重傷(のちに死亡)。翌日、外相幣原喜重郎が首相臨時代理に就任。

 同月:講談社の雑誌「少年倶楽部」の新年号に漫画「のらくろ」の連載が始まり、人気となり、太平洋戦争開戦の年まで続く。

次々と就航する大型船とその後

【浅間丸】

 前年の1929年(昭和4年)9月に竣工し、10月に豪華客船として横浜からサンフランシスコに向けて出航し、太平洋横断の速度記録を作った。豪華客船時代の幕開けとなり、その後も太平洋航路で活躍するが、太平洋戦争開戦前から海軍の徴用船となり、兵隊を東南アジアに運ぶなどに従事する。開戦後、交戦国や断交国に残された外交官や民間人を帰国させるための交換船として3回、1942年(昭和17年)から43年(昭和18年)まで交換地となる中立国(東アフリカなど)へ向けて運航され(主に日米、日英との交換であるが、太平洋戦争で太平洋は運航できなかった)、そこで日本からの英米人等と、相手国側から来た日本人と「交換」して乗船させ、日本に戻す役割を担った。その後浅間丸は再び徴用船として高角砲や各種の機銃、水中聴音機爆雷を装備して軍用船として運用され、1944年(昭和19年)2月には台湾近海を北上中、アメリカの潜水艦の魚雷で損傷したが、沈没は免れた。その後修理を受けて任務に復帰し、10月にはレイテ島戦用の増援部隊をマニラまで送り届ける任務に成功したが、その帰路に台湾へ向けて北上中、浅間丸はアメリカの潜水艦の発射した魚雷が命中して沈没した。1000人以上が護衛艦などに救出されたものの、500人以上が海に沈んだ。

【日本丸】

 大型帆船練習船日本丸が1月に竣工。その後、太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、大阪湾、瀬戸内海で石炭などの輸送任務に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として2万5428人の引揚者を輸送し、遺骨収集にも携わった。1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争では米軍人や韓国人避難民の輸送任務に従事、1952年(昭和27年)、帆装の再設置がなされ訓練航海に復帰し、翌年春にはハワイに向け、戦後初の遠洋航海を行った。現在は横浜市の所有となり、みなとみらいの「日本丸メモリアルパーク」内で展示・公開されている。

【氷川丸】

日本郵船の大型貨客船氷川丸が4月に竣工。前年の浅間丸と同様、太平洋でシアトル航路の客船として活躍するが、太平洋戦争開戦時からは海軍に徴用され、戦時中は病院船として利用された。国際法により病院船であることを示すため、船体は白色に塗装、緑色の帯を引き、赤十字が描かれ、夜間はイルミネーションのような電飾を実施したため、「白鳥」という愛称があった。何度か機雷による損傷を受けたが、無事に乗り切った。1945年(昭和20年)5月には佐世保からジャワへ暗号書を輸送し、その後はシンガポールから重油を運んでいる。氷川丸は28回出動し、3万名以上の傷病兵を運んだ。

 氷川丸は敗戦後は帰国者の引き揚げ任務に従事、45000人を日本へ運んだ。続いて国内航路に就役し、1953年(昭和28年)、11年ぶりにシアトル航路に復帰した。最終航海は、1960年(昭和35年)に横浜からシアトルへ出港後、太平洋横断238回をもって航海を終えた。のべ25000人余りの乗客を運んだという。解体予定もあったが、市民の保存を望む声によって同年12月に「宿泊施設を兼ねた観光船」に転用される。その後1961年(昭和36年)、横浜の山下公園に係留され、各種イベントが実施された。2003年(平成15年)、氷川丸は横浜市指定有形文化財に指定されて一般公開され、2016年(平成28年)、戦前に作られた貨客船として、国の重要文化財(歴史資料)に指定された。

【日枝丸・平安丸】

 その氷川丸と同年に姉妹船「日枝丸」と「平安丸」も北米航路の貨客船として同年に竣工したが、太平洋戦争に入ると北米航路は閉鎖され、両船とも海軍に徴用されて大砲などの艤装工事を受けて海軍の特設潜水母艦(潜水艦用の補給用魚雷や弾薬、重油などを運ぶ)となった。日枝丸は1943年(昭和18年)11月17日昼前、ラバウルからトラック島に向かっていた時にアメリカ海軍の潜水艦に発見され、魚雷を受けて沈没したが、乗員・便乗者は全員救助された。ところが救助されて乗り込んだ航空母艦冲鷹(旧新田丸で母艦に改造)が、やはり米軍の魚雷を受けて12月4日に沈没、乗員・便乗者約3500名以上のうち生存者は170名という。一方の平安丸も任務についていたトラック島で、1944年(昭和19年)2月18日、米軍の空襲により沈没した。

【龍田丸】

 浅間丸に続いて竣工された同型の龍田丸(3月に竣工)も浅間丸と同じ役割を担い、香港・上海・神戸・横浜・ホノルル・ロサンゼルスおよびサンフランシスコなどの航路を往復していた。太平洋戦争突入後、浅間丸と同様、交換船として活動したが、1943年(昭和18年)2月8日夜、駆逐艦に護衛され横須賀からトラック泊地へ進出中、米潜水艦の雷撃により御蔵島(伊豆諸島)東方海域で撃沈された。乗組員198名・乗船員1283名全員が死亡した。

【秩父丸】

 龍田丸と同じ3月に竣工した秩父丸(のちに鎌倉丸と改名)は浅間丸を含めて大型姉妹客船と呼ばれたが、やはり日本海軍に徴用され、軍用輸送船のほか戦時交換船としても活動したが、1943年(昭和18年)4月28日、フィリピン方面でアメリカ海軍潜水艦の魚雷攻撃により沈没した。佐世保出港時の乗客は2234名と兵員約500名、物資3000トンを積載というが、すでに護衛船と別れて単独航行していて救助が遅れ、生存者は海面に残った救命艇2隻と伝馬船1隻、筏などを頼って漂流した。遅ればせに救助活動が行われたが、マニラ出港時の乗船者約2500名(主に海軍の軍人・軍属。女性150名を含む)のうち収容された生存者は465名だけであった。

◯ ちなみにこのような船による戦時下の撃沈死のことは(生存者が少ないため)あまり語られないが、隠れた犠牲者たちを以て瞑すべし、である。ついでに、1941年(昭和16年)12月(太平洋戦争勃発時)、日本は数百トン以上の商船を2445隻、639万総トンも保有していた。この数は当時イギリス、アメリカに次いで世界第三位であった。そして戦時中の船舶の大消耗を補うために、1942年から1945年(昭和17-20年)までに戦時急増の各種の戦時標準設計型船(戦標船)が多数建造され、その数は1340隻、338万総トンという膨大なものであった。しかし3年9ヶ月にわたる太平洋戦争が終結したとき、日本商船隊は2568隻、843万総トンの商船を失い、終戦時に残っていた商船はわずかに1217隻、134万総トンに激減、その中でも運航が可能な船はわずか80万総トンに過ぎなかった。これだけでどれだけの犠牲者が海に散って行ったか、想像するだけでも悲痛この上ない。

 『太平洋戦争沈没艦船遺体調査大鑑』によれば、海没死者の概数は、海軍軍人・軍属では18万2000人、陸軍軍人・軍属では17万6000人、合計で35万8000人に達するという(日露戦争における日本陸海軍の総戦没者数、8万8133人)。ただしこれには船員や民間人などが含まれていず(どうして「大鑑」という名において見落とされているのかわからないが)、その数は4万5000人から7万1400人、軍民合わせて約40万人から43万人が戦没したとされている。

昭和6年(1931年)

中国における軍事的動向

1931年前半の出来事(満州事変まで)

 1931年(昭和6年)1月、前年から中国共産党内で路線対立があり、それまでの李立三の路線に対し、ソビエト・コミンテルンはその右翼的路線が誤りだとしてモスクワ留学から帰国した王明(陳紹禹)を総書記に就任させ、その結果ソ連留学生出身者が中国共産党中央を掌握した。しかし党内闘争はむしろ高まることになる。

 3月、蒋介石は共産党勢力に対する第二次囲剿(いそう)作戦を行う。動員兵力20万人。

 5月、前年の中原会戦によって敗れた軍閥連合勢力はまだ根強く残っていて、国民党南京政府の蒋介石に反発していた。そこに汪精衛(正式名は汪兆銘)が軍閥勢力に担ぎ上げられ、広東に臨時国民政府を樹立した。しかし9月18日の柳条湖事件を契機として満洲事変が起こると、蒋介石は急遽南昌から南京に帰り、汪兆銘らの広東臨時国民政府に対し、一致して国難に対処することを提唱し、妥協を申し入れた。その結果、9月28日から29日にかけて、南京政府と広東政府は香港で会議を開き、蒋介石が下野を声明すると同時に、広東政府も独立を取り消すと発表し、そのうえで新たに統一政府を組織することで合意する。

 6月、陸軍参謀本部は、「満蒙問題解決方策大綱」を作成。

 6月27日、[中村大尉殺害事件]:参謀本部から派遣され、北満の調査をしていた中村震太郎大尉一行が、スパイとみなされ中国守備隊に射殺された。

 7月1日、[万宝山事件]:吉林省長春の万宝山付近で朝鮮人農民と中国農民数百名が水路の工事で衝突する事件が起き、その後の新聞の誤報で朝鮮国内で中国人の排斥運動が起こり、多数の中国人が殺害された。

 7月、蒋介石は動員兵力30万人で共産党勢力に対する第三次囲剿を行う。しかしこの囲剿戦は満州事変の勃発により中断する。

 8月20日、関東軍司令官に本庄繁中将が新たに任命され、着任した。本庄は9月1日、第一声として「本職深く期するところあり。精鋭なる我が将卒に信頼し、…… 以ってこの変局に処し、相ともに国運伸展の大業に寄与せんことを乞い願う」と訓示を与えた。さらに各地の守備隊を巡視し、長春では「近時匪賊の跳梁甚だしく、鉄道の運行を妨害し、……誠に寒心に耐えざる所なり。我が威武を軽視する是等不逞の徒輩に対しては、断固たる処置をとり、… 帝国在留民の不安を一掃することを務むべし」と訓示した。これは満鉄附属地から軍事行動を起こす可能性が示されたものとして、関東軍の兵士たちに緊張が走ったという。

 8月下旬、日本陸軍は国内から30機余りの軍用飛行機を奉天の蘇家屯まで運び、駐留させた。(臨戦体勢)

満州青年連盟の活動

 満州地区の東北軍を率いる張学良の排日政策によって満鉄の経営は不振に陥り(上記「張学良の排日政策」参照)、満鉄は社員解雇や事業縮小計画を迫られ、その一つとして1月、満州教育専門学校の生徒募集も中止し、在満州日本人に大きな不安を与えることになった。満州青年連盟は1928年(昭和3年)11月に結成されたが(その年の出来事の5月11月を参照)、新天地を求めて満州に移住した自分たちの存在意義と将来にわたる安全と保証を求めてのことであったろう。その後満州内で抗日運動が繰り返され、さらに張学良の排日政策が加わり、すでに20万人もいる在満日本人全体に不安感は高まっていた。特に前年から多くの日本人が満州を去って本国へ帰り始め、青年 連盟の理事長をはじめとして有力会員さえもが次々と引揚げて行き、残された者たちの焦燥感はつのっていた。日本に帰るあてのない者たちも多くいて、このままでは国家に見棄てられるのかという怒りの声も交わされるようになった。

 そうした中で満州青年連盟本部は大連新聞社と提携し、啓蒙運動として「新満蒙政策確立運動」と称して、5月に『満蒙問題と其真相』、7月に『満蒙三題』、11月に『国家興亡 の岐路に立ちて九千万同胞に悪ふ」(九千万というのは当時の植民地朝鮮と台湾を合わせた人口)などの小冊子を発行、それに並行して「難局打開時局問題大会」と題する演説会を、6月から大連を皮切りに各地で開催した。その次に日本内地を遊説する第一回母国遊説隊を7月13日に送り出した。しかし内地の反応は冷ややかであった。遊説隊と会見した幣原外相も満蒙における既得権益の確保の意欲は示したが、世評に惑わされないようにと諭しただけであった。その陰で幣原は貴族院で「在満同胞は徒らに支那人に優越観を以て臨み、且つ政府に対し依頼心を有する事が満蒙不振の原因である」と述べたと伝えられ、青年たちの憤 りは高まり、自分たちの手で日本から満州の独立を図る可能性を探っていくようになった。

 もともと満州青年連盟は成立当初の理念として「民族協和」を掲げ、それは大雑把に「日華協和」のことであったが、6月の大連演説会では「満蒙に於ける現住諸民族の協和」が宣言された。諸民族とは満州族、蒙古族、漢族、朝鮮族そして日本人の五族であり、ここにきて民族協和は、迫いつめられた在満日本人の生存を確立するための構想として出された。これは内部分裂をしつつあった在満日本人社会に向って打ち出された面もあった。満州において日本の特殊権益を維持すること、日本による文化的統治の成果を挙げることなどの当初の理念は二の次となり、民族協和が在満日本人の生き延びる道と示された。それは満蒙諸民族の独立、つまり満蒙諸民族の新国家を建設するという構想にもつながり、反張学良派の中国人にも賛同者、もしくは提案者がいた。しかし何よりも当面の問題は張学良の排日政策と高まりつつある抗日運動であった。

 6月22日に大連で行なわれた青年連盟幹部と在郷軍人会との座談会において、連盟幹部の「戦を避けたる日支の提携協調を如何にせば円満に行われるか」という問いかけに対し、岩井少将は「余地更になし…… 一戦を交へざれば解決せず」と回答した。ここにおいて在満日本人の行き詰まった空気と、関東軍の満州全域を本格的に領地として獲得するという野心が重なり、民族協和の理念は変質し、それを関東軍が積極的に利用していくことになる。9月の満州事変により張学良を排除した後、民族協和は「五族協和」とのスローガンとして満州の国策のように唱えられていく。また事変後の10月23日、満州青年連盟は関東軍に「満蒙自由国建設綱領」を建白書として提出し、関東軍の統治に一定の関与をしていくようになる。

(J-STAGEの論文「満州事変前における在満日本人の動向 」平野健二郎より要約)

満蒙問題と日本の世論

 1931年(昭和6年)5月、満州関東軍参謀の石原莞爾は、「満蒙問題私見」を発表し、日本が東洋のリーダーとしての資格を獲得するために早く満州を領有すべきであるという論を展開した。6月、その石原の「私見」に呼応するように、陸軍参謀本部は、「満蒙問題解決方策大綱」を作成、その内容はまず満州に親日の政権を樹立し、一応独立国の形にして、その後に領有するというものであった。それをスムーズに推進するためには新聞・ラジオへの対策が重要であるとの認識が共有された。しかもすでに、2年前に満鉄(南満州鉄道)副総裁であり後に外務大臣となる松岡洋右が、まだ協調外交路線をとっていた内閣を批判して、「満蒙は日本の生命線である」と語ったことにより、新聞や雑誌でもしきりに取り上げ、国民が受け入れる下地は作られていた。

 満州事変勃発の2カ月前、すなわちこの年7月に、学生が中心に編集する東京帝国大学新聞が東大生を対象に実施したアンケートによれば、「外交上の努力をした後で」という留保を付したものも含め、ほぼ90%の学生が日本の満蒙における権益保全のための武力行使を認め、調査の対象となった52%の学生が即座の武力行使を容認していたという。報道統制や言論出版への弾圧を前提とした軍政府の意図的な宣伝活動(現在のように海外現地からのジャーナリストによる報告などほぼ皆無であったから、現地の実態はわからないし、ましてや現地での軍の謀略などわかりようもない)による積み重ねが、学生たちの思考範囲を狭め、大きな戦争につながっていく流れに彼らをも飲み込んで行ったのであろう。ちなみに、文部省は前年に学生の思想管理を目的とした学生課を設置したが、この7月に学生部とし、その中に学生思想問題調査会を設置し、抑圧を強化している。

万宝山事件と朝鮮排華事件

 1931年(昭和6年)7月1日、朝鮮人農民400名(本国で日本の東洋拓殖会社に土地を奪われた貧農民と、前年に間島暴動で追われた人たち)を関東軍が長春の万宝山付近の開墾地に送り込んだ。そこで中国人農民の土地を横断して勝手に水路を作ってしまい、中国農民数百名が工事中止を求めて水路の破壊を行う中でにらみ合いとなり、翌2日も中国農民の一部は銃を持って実力行使に出た。武装した日本の警官50人が対峙したが、中国警察の呼びかけでその場は収まった。この騒動は双方の努力で事件にはならず、死者も出なかった。もともとは1909年(明治42年)に締結された条約により、日本人と朝鮮人は万宝山の土地を賃借し農業を行う権利を保障されていたが、中国人地主の一人が中国政府の許可なしで朝鮮人に賃借し、朝鮮人が用水路を作ったことで、当地の中国人農民の生産に影響したたことが原因であった。(その後、日本の警察が警備に当たり7月11日に水路は完成した )

 翌3日、朝鮮本国の新聞が、この衝突で多数の朝鮮人が亡くなったと大袈裟に報じたため、この記事をきっかけに朝鮮半島での中国人への感情が悪化し、平壌などの各都市部で中国人排斥運動が起こった。朝鮮半島のみならず、日本でも在日朝鮮人が在日中国人を襲撃する事件が相次ぎ、この排斥運動による中国人の死者は127人、負傷者は160人以上(主に朝鮮内)であった。事件のきっかけとなった記事は関東軍の指示とも言われるが(日本の統治下にあったからありうることであるが)、これを書いた朝鮮日報満洲長春支局長は14日の朝鮮日報に、「日本の情報に基づいて記事を書いたが誤報だった」とする謝罪文を掲載した。しかし彼は翌日同じ朝鮮人によって銃で殺害された。日本側はこの暴動をあえて傍観したが、目的は次の作戦で朝鮮軍の中国軍に対する戦闘志気を高めることにあったという。このような誤報や勝手な憶測による報道や恣意的な宣伝活動による積み重ねが大きな戦争にもつながっていくという道筋がここに見える。

中村大尉殺害事件

1931年(昭和6年)6月27日、対ソ連戦に備える地図作成のために参謀本部から派遣された中村震太郎大尉一行は、農業技師と身分を偽って北満(興安嶺)の外国人立入り禁止区域に潜入したところを東北軍の屯墾軍に拘束され、一行が多額の旅費を持ち、所持していた測量機・地図・日記帳などからスパイとみなされ、射殺された。関東軍は調査を開始したが、真相が明らかにならず、中国側は調査を約束したが、日本による陰謀であるなどと主張したことにより(このような弁明は日本軍もよく使っているが)、関東軍関係者は態度を硬化させ、またその新聞報道を見て日本の世論は沸騰し中国の非道を糾弾するようになった。こうした日本の世論も相互にからまって、関東軍は武力行使の機会をうかがうようになる。中国国民政府が調査の結果として中村大尉事件の真相を認めたのが9月16日であり、18日に柳条湖事件が起こる。

天皇の重なる陸軍への忠告

 1931年(昭和6年)6月4日、天皇は陸軍大臣南次郎大将を呼んで、 「軍は軍規をもって成り立っている。軍規が緩むと大事を引き起こす恐れがある。軍記を厳正せよ」と訓令した。さらに当時の若槻首相に対しても、「満蒙問題については不穏な言動が盛んだが、日中親善を基調にすることを忘れないように」と語っている。この頃から天皇は戦争への警戒を抱いていることがわかるが、この後の展開で、軍政府が天皇の忠告を謙虚に受け止めて行っているようにはまったく見えない。そしてこの3ヶ月後には満州事変が勃発する。

 9月、陸軍参謀の石原莞爾の満州領有計画によって関東軍と日本の陸軍が連携しあって、一つの事件を起こす作戦が練られていたが、一方で11日、天皇は陸軍の動きの様子が相変わらずなのを見て、南陸軍大臣を呼び 、「万宝山事件といい中村大尉事件といい、まことに困ったことであるが、 複雑な事情もあろう、よくそれを究明しなければならない。すべて非は向こうにあるという態度で臨んでいては円満な解決はできない。とに かく軍規を厳重に守るように、明治天皇のつくった軍隊に間違いが起こってしまっては申し訳ない」 、それに対し南陸軍大臣は「もっともです」と答え、 元老としての西園寺公望も「満蒙といえども支那の領土である以上、こと外交に関してはすべて外務大臣に任すべきであって、軍が先走ってとやかく言うのは甚だけしからん」 と念を押した。しかし、もともと爆破事件に至る作戦を温めていた陸軍は、天皇を含めたそれらの忠告は上の空で、計画が止められることはなかった。

満州事変

(中国では九・一八事変と呼ぶ)

 以下、柳条湖爆破事件までは主に『昭和史』半藤一利:平凡社、『それでも日本人は戦争を選んだ』加藤陽子:新潮文庫その他より混成して要約した。

陸軍の計略と暴走

 天皇と西園寺に叱られた南陸軍大臣が「このまま突っ走ると大変な事になるのではないか、計画は延期したほうがいいのではないか」と考え、 9月14日、建川美次作戦部長を満州へ派遣することを決めた。しかし建川は関東軍の板垣と十分に相談済みで、内心は「俺が行っても関東軍の計画は変わらない」ということであったが、 命令には従うしかなく、飛行機ではなく、汽車に乗ってゆっくりと、時間稼ぎをした。一方で建川が奉天に行くことが分かった瞬間に、 橋本欣五郎中佐が関東軍司令部に電報を打った—— 「事暴かれたり。直ちに決行すべし」と、18日の柳条湖付近の爆破の早期決行を促している。明らかな統帥権干犯を承知の上のことで、橋本欣五郎中佐と関東軍参謀の板垣征四郎とは繋がっていた。

 15日、電報を受け取ったのは奉天にいた板垣征四郎、石原完爾、花谷正少佐(特務機関)、三谷清少佐(憲兵分隊長)、今田新太郎(駐在分隊長) たちで、そこから密談を始める。 関東軍司令官本庄繁大将は旅順(司令部がある)にいるから電報は知らない。「建川が来る前にやろう」—「いや、話しを聞いてから決めよう」 など、話は決着せず、翌日に持ち越した。

 16日夜、再度集まって、酒を飲みながらの論議が延々と続き、酔いも回って日付が変わる17日午前3時ごろ、 板垣が「こうなったら運を天にまかせて割り箸を立てて決めようじゃないか」などと言って一旦中止に決まった。しかし今田が口を開いて 「やはり、ここまで来たらやってしまおうじゃないか」 、三谷「そうだ、そうだ、やっちゃおう」と大きな声で石原に投げかける。 板垣「やるか」と話は一転した。 今田「よし、準備に着手するぞ」と言って爆薬を仕掛けに出かけた。こうなると一種のゲーム感覚である。

 そして石原は旅順の関東軍司令部に向かい、三宅参謀長と一緒に本庄司令官を囲んで、「奉天作戦の後はハルピン(黒竜江省にあり、共産党人民政府があった)まで進撃しましょう。ついては、関東軍は全力を挙げても一万余しかない。張学良軍は奉天付近だけでも2万、満州全土では25万の大軍。これでは抑えきれないので、朝鮮にいる日本兵の越境による援軍を願いたい」 と説き伏せる。本庄は黙して聞くのみであったというが、この越境軍についても石原が朝鮮軍の作戦参謀神田正種少佐と打ち合わせ済みであった。午後7時、建川が奉天駅に到着すると板垣と花谷が迎え、料亭へ連れて行き、たっぷりと酒を飲ませながら話し込んだ。

柳条湖爆破事件

 中村大尉殺害事件は中国国民政府が真相を認めたのが9月16日であり、 顛末報告期限が18日と定められていた。中国側はその日の午後、外交交渉による解決を申し出をしたが、関東軍はそれを拒否し、その夜午後10時半、奉天(当時は瀋陽で、この後占領して奉天になる)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発事故が起きた。爆発自体は小規模で、直後も急行列車が何事もなく通過していたが、 これが事変始まりの合図であった。(これは奉天事件とも言われる)

 1931年(昭和6年)9月18日午後11時過ぎ、板垣は建川を料亭に残したまま飛び出し、第29連隊長と独立守備歩兵第2大隊長を呼びつけ、「張学良軍の攻撃である。奉天城、北大営(国民革命軍の兵営)を攻撃せよ」と命令し、爆音に驚いて出てきた北大営の中国兵を射殺し、北大営を占拠した。同時に関東軍は中国人の仕業であり、犯人を射殺した等々と発表した。そして日付が変わり、19日午前1時07分、深夜の奉天から東京陸軍中央へ「…暴戻なる支那軍隊は満鉄線を破壊し、わが守備隊を襲い…」と電報が送られ、直ちに新聞社などに流された(暴戻とは、暴力的で、道理に背いて人間が行うべき道徳上の義務を果たさないことを意味するとあるが、そもそもの自分たちの暴戻な行為をそのまま他人に転化するのが軍人のやり方であり、その性質上「事」を起こさずにはすまない集団であるのだろう)。午後6時、本庄繁関東軍司令官が奉天に到着したとき、東京参謀本部金谷総長から「不拡大方針に確定した。軍の行動は必要度を越えることなかれ」との電報が入った。本庄司令官は、本部の方針に従い「速やかに停戦する。ハルピン進攻はもってのほか」と指示を出した。すでにこの日は奉天、長春、営口の各都市も占領し、奉天占領後すぐに、奉天特務機関長土肥原賢二大佐が臨時市長となった。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行ったが、陸軍中央は認めず、断念した。

 そこで石原が「ああ、わがことならず」と嘆息したというが、 板垣が「おい、石原!ハルピンが駄目なら隣の吉林省への進軍はどうか?」と言われ石原は、「そうか、吉林省は奉天を守るためには確保する必要がある」と元気を取り戻す。ここにも板垣の冷静な戦略があった。 板垣は「吉林省は満鉄から離れすぎていて駐留権はない。しかし、そこで暴動が起これば、在留邦人の安全確保のために出兵できる。奉天から出兵すると奉天の防備が手薄になる。よって朝鮮軍(日本の支配下にあった)の越境増援を要請できる」 と話し、三宅参謀長が「それは良い考えである」と賛成し、早速この計画を持って建川を口説いた。建川は自分の役割(戦わないように説得のために派遣された)を忘れて賛成する。

ちなみに、この爆破事件を起こすにあたって、満州東三省の実権を握っていた張学良(三年前に日本軍に爆殺された張作霖の息子)は、やはり石原の指示による特務(諜報)機関の策略で、北京に反乱が起こり、その鎮圧のために軍の精鋭11万を率いて奉天を留守にしていた。実は満州の日本軍は一万余りしかいず、張学良軍にすぐに動かれては困るという理由があった。しかもこの日は本庄繁関東軍司令官が奉天を離れて旅順に行って不在であった。参謀たちはそれも計算の上で事件を起こした。つまり9/28に起こすはずだったこの計画を、この両者の不在を見越して10日も前倒しして実行した。直属の司令官をも欺くほどの魂胆を軍の参謀達は持っていたということである。一方で国民政府(南京)の蒋介石はこの時期、共産党軍との戦いに集中するべく、徹底した不抵抗主義を貫いていたため、関東軍はとにかく中国に強烈な攻撃さえ加えれば、容易に屈服させることができると考えるようになっていた。

 9月20日、本庄司令官と建川の会談となり、 本来、軍の暴発を抑える役で東京から派遣されていた建川は、「停戦するわけにはいかない。攻撃を仕掛けた以上は反撃もあるから、奉天を守るくらいのことはしないといけない」 と話すが、本庄は首を縦に振らなかった。建川はあきらめて帰ったが、幕僚全員が夕方、本庄に談判にやってきた。それでも本庄は首を縦には振らな かった。 夜中の12時頃皆帰され、板垣だけが残って本庄に対する説得を続けた。そしてついに 「OKと言わせた」と 板垣は喜んで戻ってきて石原に「おい、すんだぞ」と告げた。 21日未明、関東軍は攻撃準備を整えて進撃を再開した。

 軍隊を国境を越えて動かすには奉勅命令が必要であるから、本庄は東京の金谷参謀総長に報告した。金谷は天皇にお願いに再三行くも拡大反対の天皇は「まかりならん」と面会を拒絶した。 朝鮮軍は神田正種作戦参謀に導かれて国境線の鴨緑湖まできて待機していた。東京からの許可は出ないが、朝鮮軍司令官林銑十郎がここでも独断で越境命令を出した。 21日、混成第39旅団の兵隊1万人以上が一気に鴨緑湖を越えて満州に入っ た。

 9月22日、これを知った東京の陸軍は、「大変なことになった。どうしよう」 
— 「そうだ、閣議で決めてもらおう」 ということになり、午前10時から閣議が開かれた。しかし午前9時半、若槻が参内した際、天皇より、政府の事変不拡大方針は至極妥当と思うので、その趣旨を徹底するよう努力せよとの言葉をかけられていた。若槻は宮中で金谷参謀総長から、独断派兵について閣議の決定を経なければ天皇の裁可を仰げないので閣議の決定を経たかたちで上奏してもらいたい旨を依頼されたが、若槻はこれを断った。閣議の前に若槻首相は南陸相に確認した。 
— 「関東軍の今度の行動は支那軍の暴戻に対し真に軍の自衛のための行動か?このように信じてよいか?」 
— 南陸相は「そうだ」と答えた。閣議が始まると幣原外相が、 「事件は全く日本陸軍の計画的行動によるものと奉天総領事から電報が入っているが、どうなっているのか」 と南陸軍大臣をつるし上げた。更に外相は 「はたして原因は、支那兵がレールを破壊し、これを防御せんとした守備に対して攻撃してきたから起こったのであるか。すなわち、正当防衛であるか。もし然らずして、日本軍の陰謀的行為としたならば、我が国の世界における立場をどうするか。… この上はどうかこれを拡大しないよう努力したい。即刻、関東軍司令官に対して、この事件を拡大せぬよう訓令する」と南陸軍大臣に告げた。南陸軍大臣 「そうは申しても … 実は朝鮮軍は国境を越えて満州に入ってしまいました」と返答すると、若槻総理は 「なにぃ!すでに入ってしまったのか。それならば仕方ないじゃないか」 となり、この総理の一言が閣議決定となった。さらに「朝鮮軍を放っておくわけにはいかない、予算として特別軍事費を出す必要がある」と、若槻首相は「閣議が全員一致で決定し、越境した朝鮮軍に特別軍事予算をつけた」と天皇に上奏した。

 天皇は参謀総長に「戦争の拡大はまかりならん。朝鮮の越境は認めない」とは言っていたが、内閣が一致して決定したことに「ノー」とは言わないと決めていたのであった(昭和4年7月参照)。その後改め て天皇を訪れた金谷参謀総長に天皇は、「今回のことは非常にけしからんことではあるが、閣議が一致して決めたことはやむを得ない。しかし、 私はあくまで拡大に反対であるから、戦争をはやく終わらせるように」 と命じられた。それでも軍は天皇の希望通りに動かなかった。のちに若槻首相は、「こういう情勢になってみると自分の力で軍部をおさえることはできない」と語ったといわれる。

 本来、陸軍刑法により、兵力を国外に出す場合には、閣議決定した上で大元帥である天皇への輔弼(進言)、そして天皇の奉勅命令と許可が必要であり、これに違反するものには厳罰(死刑あるいは無期禁固刑)が課せられることになっていた。ところが事件を先導した重罪人であるべき彼らには、結局とがめはなく(事後承認して、正式派兵となったから)、むしろ出世の道を歩んだ。後の太平洋戦争においても同様なことが繰り返された。

 ちなみに本庄繁関東軍司令官は、日本に戻ってから侍従武官などを歴任したが、名分のない日中戦争の成り行きを憂え、太平洋戦争突入時には「バカな奴らだ」と怒声を発したという。本庄は1945年(昭和20年)5月には枢密顧問官となったが、敗戦三カ月後に自決した。遺書に「満州事変は関東軍として自衛上やむを得なかった。当時の司令官である自分一人の責任」とあるが、その時代の大きな流れには司令官の立場でも抗えなかったということであろう。

日本の軍政府の体質(筆者私見)

 筆者はこのような日本の軍政府の有りようを集団無責任体制とみなす。こうした集団での愚鈍なやりとりがそのまま太平洋戦争まで続き、最終的に連合国からポツダム宣言によって降伏を求められてもその判断ができず、そのために原爆投下の悲劇を呼び込み、日本は無残な敗戦を迎える。同じような帝国・軍国主義で他国に侵略して行き、同じように残虐行為を重ねたナチスドイツは、ヒトラーの独裁体制によるものであるが、体制は正反対でも同時代に両者が世界に多大な惨劇を招き、内外に数え切れないほどの犠牲者(およそ8000万人以上、そのうち中国では少なくとも2000万人以上)を生じさせた。これは日本とドイツがそれぞれ東西できっかけを作ったものであり、その影響は甚大であるが、日本側では上記のような軍政府内のボールのやりとりで戦争が際限なく拡大していったと思えば、慄然とする。思考力のない者たちが指導者となり、一度戦争を始めれば、マスメディアも国民も瞬時に思考力を失い、いかにもその戦争が大義のあるかのような言葉で飾り立てられ、戦争は国の威信をかけるから引っ込みがつかなくなり加速していく。敗戦が必須になるとヒトラーは自決するが、集団無責任体制の中の政治家は特に東条英機のように、疑似自殺未遂をし、捕虜となる辱めを受けるなと広めた張本人が米軍病院で手当てを受け、最終的にA級戦犯として死刑となる。戦後、戦犯とされながら刑を減免された者たちは次々と政治の世界に復活し、集団無責任体制というより互助会のような体制を作り上げ、お互いの地位を守りながら交互に権力の座に着いていった。そこには慚愧の念を持って戦後自決した上記の本庄繁のような反省をする心は微塵も見られない。その上、元軍人関係者は恩給や年金を国から手厚く支給され(今の時代も)、無残に犠牲になった国民、例えば米軍の空爆による犠牲者たち、それによって国内で孤児になった人たち、海外の戦地で犠牲になった居留者たち、沖縄やサイパンなどでの民間の自決者たち、終戦後日本への帰還途中の惨禍で命を落とした人たち、その中でも満州・中国の残留孤児たち、彼らへの賠償金は今に至るまで、例外を除いて1円も支給されていないとはどういうことなのか。一方でドイツではその国の義務は果たされている。なお言えば、毎年8月15日の終戦記念日、これは太平洋戦争の軍民犠牲者約310万人を追悼する行事とされるが、この時に合わせて日本軍の侵攻によってその数倍ではきかない海外の犠牲者たちを追悼しないのはなぜなのか。これでは日本は反省をしない国と言われても無理はないのである。

1931年後半の出来事(事変以降の中国側から見た「史実」)

 中国側から見た「史実」も必要と思われ、以下は『中国抗日戦争大事記』(斉福霖編:北京出版社、1995年)からの抜き書きである。(訳文は筆者。▷印は日本側の記録から適宜拾い出したもの)

 9月18日午後10時20分、日本関東軍独立守備隊第2大隊の7人の兵士が予定通り南満鉄道瀋陽北郊柳条湖のレールを爆破し、「柳条湖事件」を捏造した。そこから午後11時ごろ、日本の守備隊は第二師団第16、29、30連隊で瀋陽城の北大営中国守備軍を包囲攻撃した。北大営の東北軍第7旅団の将兵7千人余りは、反撃を余儀なくされ、以来14年にわたる抗日戦争の幕が開いた。9月19日午前2時ごろ、関東軍司令官の本庄繁は満鉄沿線の日本軍に瀋陽に集中して侵攻するよう命じ、朝6時30分ごろ、日本軍は瀋陽城を占領した。東北軍第7旅団は撤退し、同日、関東軍司令部は旅順から瀋陽に移った。同時に、関東軍司令部は瀋陽に布告を掲示し、中国側が戦争を挑発したと中傷し「わが軍の行動を妨害する者がいれば、本軍は必ず断固処置する」と威嚇した。

 一方で19日夜明け、長春駐屯日本軍は長春市に攻撃をかけ、中国守備軍は奮戦したが、夜には日本軍はすべて長春を占領した。日本軍は南満、安奉両鉄道の附線の重要な都市営口、蓋平、復県、大石橋、海城、遼陽、鞍山、鉄嶺、開原、昌図、四平街、公主嶺、安東、鳳凰城、本渓湖、撫順、溝幇子などを攻略した。同日、これに合わせて植民地朝鮮に駐留する日本軍も飛行大隊と混成第39旅団を中国東北に侵入させ、関東軍を支援した。

 国民政府外交部は日本軍の瀋陽占拠事件について、重光葵駐中日本公使に緊急厳重抗議を提出し、日本の関東軍に一切の軍事行働を停止し、元の防衛線に戻るよう要求した。さらに国連総会において施肇基代表が日本軍の瀋陽占拠の真相を連盟に報告し、国際連盟が正義の審判を行使することを要求した。

 中国共産党満洲省委員会は「日本帝国主義満洲武装占領に対する宣言」を発表し、労農民衆に直ちに武装し、日本の侵略者を追放するよう呼びかけた。中国各地の大学、高等学校生たちは日本帝国主義の武力占拠の罪行に大きな憤りを表し、集会とデモ行進し、抗日宣言を行うとともに、国民政府に(共産党との)内戦を中止し、対外的に一致団結して抗日武装することを要求した。

 9月20日、国民党外交部は日本軍の瀋陽侵略について日本政府に厳重抗議し、日本軍の占領区域からの即時脱退と原状回復、さらに正当な権利の留保を要求した。中国共産党中央は宣言を発表し、日本帝国主義の侵略行為と国民党の無抵抗主義を糾弾し、人民に一致して武装を働きかけ、日本の略奪とすべての帝国主義に深刻な反撃を与えるよう呼びかけた。

 一方で国民政府第29軍の全将兵は全国に通電して、全国の意志を統一し抗日に一致団結するように表明、第32軍もそれぞれ張学良、蔣介石に電報を送り、抗日を望んだ。

 同日、関東軍司令官の本庄繁は瀋陽で軍政、市政両公所を組織し、特務機関長土肥原賢二を市長に任命し、瀋陽市を奉天市に改めた(瀋陽は1929年:昭和4年)まで奉天市であった)。

 9月22日、国際連盟は満洲事件案を討議し、両国に撤兵協議を勧告することを決議し、委員会を満洲に派遣して調査することを決定した。

▷ 9月22日、関東軍参謀長三宅光治や板垣大佐、土肥原大佐、石原中佐、片倉大尉らが集まって「満蒙問題解決策案」を策定した。その内容は東北四省(満州)と蒙古(正確には内蒙古東側)を領域とする新国家を樹立するというもので、清朝最後の皇帝、溥儀を首領とするとした。そしてこの日に日本の南陸相や金谷参謀総長にこの案が打電され、さらに天津の香椎駐屯軍司令官宛に日本租界にいる溥儀を保護下に置くように打電された。

 9月23日、国民政府は九・一八事変について「告全国民書」を発表し、日本軍の東北侵入は我が国の存亡にかかわるとし、「政府は現在、この事件を国際連盟に訴え、公理の解決を待っている。故に、全国の軍隊に日本軍に対する衝突を避け、国民に対しても一致して戒め、厳粛な態度を維持することを求める」と述べた。同時に国民政府外交部は日本政府に対して三度目の厳重抗議を行い、日本軍の即時撤退と占領各地の完全返還を要求した。

 同日、日本軍はさらに長図鉄道沿線の妓河、放化などの町を占領し、日本海軍は秦皇島を占領した。

 9月24日、上海で3万5千人の埠頭労働者が反日スト、日本人経営の23の紡績工場で2万人が同盟ストを準備。上海で学生10万人が授業ボイコットと反日デモを行う。26日には市民20万人が参加して抗日大集会が開かれ、対日経済断交、日本商品ボイコットが決議された。

 同日、日本政府は「満州事変に関する第一次声明」を発表し、その侵略行為を極力弁明し、中国軍が南満州鉄道の線路を破壊したというのが原因であり、「帝国政府は満州においていかなる領土要求もしていない」として、事件の現地解決を主張した。

 9月25日、日本軍が吉林省白城市桃南を占領。

 9月26日、偽(傀儡)吉林省臨時政府が成立し、熙治が長官、日本軍の坪井大佐が警備司令となる。28日、偽吉林省長官公署が「独立」を宣言した。

 9月27日、東三省特別行政区の張景恵長官は「東省特別区治安維持委員会」を設立し、自ら会長に就任し、「東三省の一切の政務及び治安を統轄する」と独立を宣言した。

 9月28日、北平(北京)で20万人が抗日救国大会を開き、対日宣戦と国の失地回復を要求した。同日、上海復旦大学の学生800人余りが上海から南京に到着し、中央大学、金陵大学などと合わせて5千人余りが、雨の中、国民政府に出向いて事態を打開するように請願した。蔣介石はやむなく学生たちに会い、「大志を持ち続け、暴力を振るわない」ようにと諭し、学校に戻って安心して授業を受けることを求めた。

 9月29日、ソ連政府は声明を発表して,「満州事変」に対して「不干渉主義」をを表明した。

 ▷ 9月30日、国際連盟第一次理事会で10月14日までに日本軍を南満鉄道区域内に迅速に撤退させることを要求すると決議した。日本代表は了承し実施すると形式だけの声明をした。

 1931年10月2日、9月18日夜、北大営の役を攻撃し、7時間にわたる戦闘で中国兵300人が死亡、日本軍2人が死亡、32人が負傷したと伝えた。

 ▷ 10月2日、関東軍は「満蒙を独立国とし、これを我が保護の下に置き、在満蒙各民族の平等なる発展を期す」という方針を決定、4日に関東軍司令部の声明文として発表した。

 ▷ 10月4日、関東軍はまた参謀の石原の発議により、張学良軍を徹底的に膺懲すべしとの声明を出した。

 ▷ 10月5日、蒋介石は張学良に不抵抗主義を貫くことを命じる一方で、日本政府に9/30の連盟理事会決議通りに、日本軍は満鉄附属地帯に撤兵すること、占拠地を9/18以前の状態に回復することを要求した。これに対し日本政府は、「9/30の決議は了承したが、決議は第二次理事会前に撤兵すべしと定めていない。これは日本人居留民の生命財産の安全の確保を前提としているから、現状では撤兵できない」と回答した。(筆者注:この居留民の安全確保との理屈は日清・日露戦争から用いたいつもながらの建前論で、この六年後の第二次上海事変においても用いられた)

 10月6日、日本海軍は上海民衆の抗日気運の高揚を理由に、佐世保軍港に多数の軍艦を集結させ、艦船4隻が黄浦江に入港した。

 ▷ 10月8日、【錦州爆撃】午後、11機で錦州を空爆。中国において日本の航空機による本格的空襲に遭った最初の都市で、また世界的にも第一次世界大戦後に爆撃された最初の都市ともなった。(後述)

 同日、この日から12日にかけて、英米伊西の駐日大使が日本政府に錦州爆撃を抗議した。翌日、国民政府は錦州爆撃を直ちに連盟に提訴し、緊急の第2回理事会が開催された。

 10月13日、国民政府外交部は、日本政府が撤兵の約束を履行せず、侵略を拡大し続け、もし不幸な結果が発生した場合、日本政府は完全な責任を負うべきだと指摘した。

 同日、(日本軍に寝返った)漢奸張海鵬は日本軍の指示の下で、第一支隊長徐景隆に命じて三個団を率いて黒竜江省城斉斉哈爾(チチハル)に侵攻、16日に嫩江橋を猛攻した。守備軍は頑強に抵抗し、偽軍(傀儡軍:傭兵)を撃破、そして偽軍の再侵攻を阻止するため、嫩江橋を爆破した。

 10月20日、偽(傀儡)奉天市地方維持会長趙欣伯が土肥原の奉天市長を継ぎ、土肥原が偽市政公署顧問となる。

 10月21日、国民政府外交部長兼駐国連代表の施肇基は、「満州紛争解決のための交渉は、一、日本軍の即時撤退を基本としなければならない。二、日本軍の撤退時及び撤退後、中立委員会の視察がなければならない。三、中国が日本軍の満州侵犯によって受けた損害を賠償する権利を認めなければならない。四、中日間に常設の調停・仲裁機関を設置しなければならない」と四つの基本条項を訴えた。

 10月22日、黒竜江省の馬占山代理主席は対日抵抗宣言を発表し、「爾後、わが江省の境に侵入した者は、必ず死をもって戦う」と宣言した。

 10月24日、国際連盟理事会は、中国の白里安代表代行が提出した日中満州問題解決決議で日本軍撤兵案を採決し、賛成13票、反対1票(日本)となった。そして連盟は次の開催日である11月16日までを撤兵の期限とした。

 10月27日、奉天特務機関長土肥原賢二は瀋陽から天津に赴き、溥儀(清朝最後の皇帝で1925年:昭和元年から天津の外国租界に住んでいた)を強引に連れ出して東北に赴き、満州の執政に充てようとした。

 11月3日、土肥原は天津静園で溥儀と秘密会見し、土肥原は溥儀に東北(満州)で「新国家」建設に協力するよう働きかけた。溥儀は「帝政ならば(皇帝として)行くが、そうでなければ行かない」と述べた。

 1931年(昭和6年)11月4日、江橋抗戦が勃発。4日未明、日本軍歩兵6、7百人が嫩(のん)江橋の黒竜江省軍に猛烈な攻撃を加え、それに対し馬占山軍は反撃し侵略者に大きな損害を与えた。5日、日本軍の兵力は8千人余りに増加し、飛行機、大砲の援護の下、再び江橋北岸黒竜江守備軍陣地に攻撃を開始し、馬軍の損失は深刻となった。6日、日本軍一万人が馬軍の大興陣地に侵攻、激戦は午後6時まで続き、馬占山は部隊を大興駅以北の三間房に撤退させた。(この戦闘は10月13日の戦闘で爆破された嫩江鉄橋の修理のための派兵とされた)

 11月8日、土肥原は天津で「天津事件」を企て、外国租界の中で便衣(平服)隊の李継春と張飛を扇動して天津市政府に対し暴動を起こさせ、それを中国側の保安隊と警察が鎮圧しようとしたが、そこに日本の支那派遣軍が加わり、銃撃戦となり、その混乱の中で、10日、溥儀を租界から脱出させることに成功した。

 11月11日、フィリピン華僑救国会は馬占山に電報を打ち「我々の血戦、その光栄は長く語られよう」と伝え、送金支援を表明した。

 11月12日、日本の軍艦9隻が長江を遡って湖北省漢口に至り、海軍陸戦隊は漢口で市街戦を演習した。

 11月14日、国民党第四回全国代表大会は「対外宣言」を発表し、国際連盟及びパリ不戦条約(1928年:昭和3年、戦争を否定する初の国際条約でソ連、ドイツ、日本も含む15カ国が調印)、九カ国条約(1922年:大正11年に九カ国で締結され、中国に関して門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、中国権益の保護を図ったもの)の署名各国は、ただちに日本に制裁を加えるべきだと主張し、また必ず実力で東北地方の失地を回復すると表明した。

 11月16日、国際連盟は四週間に渡る第三次理事会を開催、満州問題調査委員会を設置し、今度は英米仏伊日の5カ国で解決を図ろうとした。

 11月17日、中国外交部は日本が溥儀を拉致して東北で復権させることについて、その主権の侵害を国際連盟に訴えた。

 ▷ 同日、関東軍は黒竜江省チチハルに向けて進軍開始。

 11月18日、日本軍は三路に分かれて三間房陣地に総進攻を発動し、馬占山が指揮する軍は死傷者が多く、弾薬も尽きて撤退し、日本軍は三間房を占拠した。翌19日、日本軍は(張学良から離反した張海鵬軍を進撃させて)黒竜江省城チチハルを陥落させ、馬占山は軍の両部隊を率いて海倫に退き、21日、海倫に黒竜江省政府を設置した。

 ▷ 11月18日早朝、日本軍飛行隊は黒竜江省泰来の飛行場から出撃し、同県の小興屯陣地を爆撃、また遼寧省錦州県の新立屯、遼陽市の大興など、さらに黒龍江省黒河地区の五家子の200人の集団を爆撃、別途チチハルの昂昂渓や吉林省長春の楡樹屯、頭砧等へ退却する東北軍を爆弾や機関銃で攻撃、その他目につく鉄道や列車を破壊した。

 ▷ 11月19日、日本軍飛行隊はチチハル付近を7機により爆弾84発、機関銃弾280発で爆撃、そののちに陸軍師団がチチハルに入城し、市街地を占領した。

 11月21日、国連は満州事変について、満州問題調査団を中国東北部に派遣することを決議した。

 ▷ 11月24日、関東軍の各飛行場に駐留する飛行隊を合わせた延べ33機が、太子河(遼寧省を流れる河)を渡河する中国部隊ならびに付近の縦隊を爆撃。

 11月26日、南京各学校抗日救国会が運動場で一万余人をもって蔣介石の北上討日歓送大会を行った。

 ▷ 26日、土肥原は再び天津の租界で便衣(平服)隊を組織して暴動を起こさせ、それを鎮圧すべく支那派遣軍が動き、日本人居留民が組織した義勇隊も参加したが、中国側が保安隊を撤退させ、収まった。(8日に続く、第二次天津事件)

 11月27日、日本軍は3つのルートに分かれて瀋陽、通遼、営口から錦州に侵攻したが、義勇軍と東北軍の直撃を受け、翌日引き揚げた。

 11月29日、日本代表芳沢はブライアン米国大使に書簡を送り、中国軍を山海関より西に撤退させ、華北の邦人と日本兵の安全を保証すれば、日本軍は中立地帯に二度と入らないことを約束した。(公使などの約束が軍に影響することはまずない)

 ▷ 11月末、日本の関東軍の中国への爆撃に対して米国は激怒し、当時の幣原外相の国際協調主義外交はほぼ立ち行かなくなり、その後、金谷陸軍参謀総長が「錦州への進撃は禁止する」と断固たる命令を下したが、現地の日本軍が侵攻を控えたのは一時の間だけだった。

 1931年(昭和6年)12月5日、北京大学から南下した学生デモ隊300人余りが南京で政府に抗日を要求するデモを行ったが、国民政府の警察により鎮圧され、その衝突で流血事件が発生した。同じ日、国民政府は学生の結団入京請願を禁じた。

 12月10日、国際連盟理事会は「満州問題解決に関する決議案」を正式に採択し、代表団を派遣して東北事件を調査することを決定、これに対し日本代表は、決議案は日本軍の満州における「討匪行動」を阻止するものではないと声明した。

 ▷ この調査団の結成は、英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる六ヵ国、事実上四ヵ国による調査団となり、イギリスのリットン伯爵を委員長とした。日本は正当性を訴える自信があったのであろう、翌日午後の日本の新聞にはやや勘違いの「日本外交大勝利」の文字が躍り、世論は湧きかえった。

 ▷ 同日、関東軍の北満進出と錦州攻略、満洲国建国工作にも反対していた若槻首相は、統制の取れない内閣を前にこの日総辞職し、13日、犬養毅内閣が成立した。犬養は大陸進出を容認するものの、中国の主権を尊重し、日中関係改善に腐心した。

 12月15日、蔣介石は下野し、国民政府主席などの各職を辞任した。同日、張学良も陸海空軍副総司令職を辞した。

 同日、北京各学校の南下抗日救国デモ団500人余りが南京外交部、国民党中央党本部にデモに赴いた。さらに17日、各地から抗日救国団の学生1万人余りが南京に集まってデモを行い、それに対し多数の軍警が鎮圧のために出動し、珍珠橋付近で学生30人余りを射殺、100人余りを負傷させた。(一二・一七珍珠橋惨事)

 ▷ 12月17日、日本軍は三つの鉄道から西進を開始、再度錦州に迫った。これに投入した兵力は4万人というから、およそ3ヶ月程度で、日本から3万人の兵力を送ったことになる。

 12月19日、宋慶齢(故・孫文の夫人)は「申報」で宣言を発表し、「今日は権力を持つ反動勢力がテロ活働を行っているが、中国の何千何百万という真の革命家は絶対に自分の責任を放棄しない」と、真の革命家に闘争を呼びかけた。

 12月21日、関東軍司令官本庄繁は日本軍第2、第20師団、第38、第39と第8の混成旅団の4万人を動員し、営溝、北寧、大通の3つの鉄道線に沿って錦州及び遼西(遼寧省西部地域)の中国東北軍に同時に総攻撃をかけさせた。23−24日、抗日義勇軍は善戦したが、激戦の末日本軍は田庄台を占領した。

 12月23日午前9時、双翼の日本軍機一機が黒竜江省竜江県李三店区許家村上空を旋回、1時間後、3機の日本機が相次いで飛来、すぐに爆撃を開始し、村はたちまちの内に火に包まれ、血肉が飛び散って、逃げ遅れた村民30人以上が爆殺された。(この爆撃は、この村に「匪賊」が立てこもっているとの情報によるものだろうが、この後も一つの村に対し殲滅作戦を行う例は極めて多い)

 12月24日、英米仏三国の駐日大使は日本政府に「錦州で中国軍と衝突しないように」と警告した。翌日、日本政府は英米仏三国大使に、日本は錦州を攻める意思がない、中国軍の撤退を望む、と通知した。(しかし日本軍は4日後に錦州攻略に向かう)

 12月26日、東北民衆自衛軍は遼寧省丹東市の鳳城に攻め入り、偽(傀儡)県衛、公安局を打ち壊し、監獄を解放し、逮捕された愛国民衆を釈放した。

 12月28日、日本軍は田荘台から遼西に進撃し、三路に分かれて錦州に迫った。東北軍第19旅団劉漢山の鉄甲車隊と張毎天部隊千余人は侵入する日本軍を阻止し、一昼夜激戦したが、翌日盤山県城は陥落した。

 ▷ 同日、新任の犬養毅首相が張学良に錦州からの撤兵を勧告、張学良は受け入れ、翌日から撤退を開始した。翌1932年(昭和7年)1月3日、日本軍は錦州を占領した。

 12月29日、東北辺防公署隊は兵力の損失が多く、錦州付近の駐屯軍を山海関に撤退させた。続く31日も東北軍と義勇軍は日本軍と激戦したが、山海関に後退した。

 ▷ 12月30日、日本の関東軍は12月下旬に寒冷地訓練の名目で浜松から遼寧省大連の周水子に飛来していた重爆機4機を投入して、再び錦州に「匪賊討伐」を口実として爆撃機を向け、遼寧省盤山市街に続けて大虎山も空爆し、抗日部隊の拠点に打撃を与えた。(この日、盤山を占領)

満州事変後の政府の不拡大方針と関東軍の対応

 満州事変は、上記の9月18日の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上の小さな爆破事件を始まりとするが、実はこのような鉄道上の小さな事件は、1929年(昭和4年)以降にも記すように、これまでの反日・抗日運動の中で数知れずあった。今回は自らが仕掛けたこの爆破を日本の関東軍は張学良の軍による破壊工作と発表し、(そもそも張学良軍はその日は日本側の反乱工作で北京に遠征して不在であった)、それを口実として直ちに軍事行動に移った。翌日、日本政府は緊急閣議を開き、陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調、それに対し幣原喜重郎外務大臣等は関東軍の謀略ではないかと断じ、国際的な立場が不利となり外交活動にも支障がでるからこれ以上の拡大は控えるように主張した。しかし関東軍側は逆に南陸軍相を通じて日本の指揮下にある朝鮮軍を動員することを求め、これも幣原外相や井上蔵相が反対するが、朝鮮軍を率いる林銑十郎中将が21日午後、独断で国境である鴨緑湖を超えて中国国内へ進軍させ、満洲に侵攻してしまった。

 これに対する9月22日の閣議では国際関係あるいは国際連盟との関係上、朝鮮からの出兵は認めない、しかし出兵してしまったからにはその費用は必要であるとの結論を出し、予算は承認された。そして24日の閣議では、天皇の不拡大との言葉もあって、これ以上の拡大は避け、局地的解決を目指す方針が決定されたが、陸軍としては大きな不満を残した。しかし事変後の関東軍の行動は迅速で、奉天を陥落させた後、21日、土肥原を市長とする臨時政府を置き、次に吉林省(首都長春は占領済み)を無血で占領した。こうして関東軍は南満州の各地を占領しつつ、かねてからの方針による自治(傀儡)政府の形をとる中で、北満州の黒竜江省ハルピンでやはり爆破事件などがあり、中国側は日本軍の策動とするが、日本のハルピン総領事は在留日本人(約四千人)の安全確保のために軍隊の派遣を何度も要請してきた。これに応じて関東軍は政府に北満への出兵を懇請した。

 9月24日、吉林省占領を終えた関東軍に対して日本の参謀本部は、事変不拡大の命令を与えた。その内容は、ハルピンと間島への出兵は事態が急変しても行ってはならない/吉林の部隊も情況が許せばなるべく速やかに撤退すること/軍の主力は満鉄線上に配置して動かないようにすることなどであった。関東軍はこの命令に対して表向きは反対はせず、実際はすでに22日、「満蒙問題解決策案」を陸相や参謀総長に通知していた。この計画には不拡大方針を堅持する当時の若槻内閣は反対で、陸相も立場上これに同調して関東軍司令官に「此の種運動に干与することは厳に之を禁止」するとの電報を打った。しかしこの電報は2日間ほど関東軍参謀の片倉大尉が握りつぶしていたという。

 関東軍の満蒙問題解決策案は、本来の構想であった満州領有論ではなく、「在満蒙各民族の楽土たらしむ」ための親日政権の樹立を目的とし、そのために表向きは各省地に中国人を立てて自治政府を設立させることであった。そしてその実現に向けては軍事的行動ではなく、謀略活動を優先した。中国人有力者とは基本的には反張学良で、主に文治派と言われる地元の有力者などであり、場合によって関東軍は強要して彼らを委員長の座に据えた。9月25日、遼寧地方治安維持委員会が組織され、衰金鎧を委員長とし、11月7日に遼寧省政府としての布告を発し、張政権および国民政府との絶縁の意志を表明した。9月26日に吉林省の独立宣言をおこなったのは煕洽(きこう)で、日本の陸軍士官学校に留学経験があった。黒竜江省は抵抗軍が強く、二度の「江橋抗戦」ののち、チチハル特務機関長林義秀は馬占山と交渉し、馬軍の撤退を要求したが拒否され、関東軍は11月17日に北進を開始、二日後にはチチハルを占領した。しかし日本の参謀本部はチチハルより撤退を指令、関東軍はやむなく一部を除いて撤兵した。そこで関東軍は東三省特別行政区で自治政府宣言した張景恵に資金を与え、馬占山と改めて交渉させ、彼と軍事協定を結び、翌年に入って張は黒竜江省の独立を宣言した。

(『満州事変と政策の形成過程』緒方貞子:1966年、原書房/(J-STAGEの論文「 満州国協和会の政治的展開」平野健二郎その他より混成)

在満日本人の活動

 この年前半の「満州青年連盟の活動」で記したように、満州青年連盟はすでに関東軍の軍事行動を容認する考えに傾いていたから、この事変勃発を支持し、また在満日本人の多くもそうであった。一方で9月21日、全満日本人大会が奉天(瀋陽)において開催され、全満州の軍事占拠を支持する旨を決議した。次に奉天居留民会は29日、陸軍大臣宛に嘆願書を送り、張学良を排除し、親日的満蒙政権の確立を主張した。11月には各地区の日本人会を糾合して全満日本人連合会を設立して新政権の樹立を訴え、遊説隊を日本に派遣した。

 10月、満州青年連盟は「満蒙自由国建設綱領」を関東軍に提出し、それは「民族協和」に基づいて日本人が国家の構成分子として参与し、新国家の建設を目指すべしとするもので、この後の関東軍の政策にも影響を与えた。関東軍にとって自治政府独立宣言後の問題は自治の体制作りであったが、これにはやはり地元の文治派を立てた上で青年連盟を中心とした在満日本人を多く登用し、独立機関の形で自治指導部を組織して管理することであった。自治指導部長には文治派の長老干冲漢が就いたが、この流れは事変前から満州青年連盟が作った感があり、関東軍は満蒙問題解決策案にもその「在満蒙各民族の楽土たらしむ」(民族協和)の思想をそのまま取り込み、文治派の登用も青年連盟の人脈によるところも大きく、また干冲漢らの行政思想も大いに取り入れた。

 この後自治指導部には在満の比較的エリート層の大雄峰会も参画していき、こちらが主導権を握っていくが、特に青年連盟は五人単位で組織された武装団体を関東軍に差し出し、関東軍 の「討匪」(ゲリラ討伐)作戦の前線において宣撫活動に活躍した。 関東軍が馬占山に手こずったチチハルにおける彼らの活動はめざましいものがあった。青年連盟はまた旧東北政権の諸施設の事業再開に従事し、経済生活の切断を最小限に食いとめるのに貢献した。

 自治指導部は翌1932年(昭和7年)3月の満州国の設立まで継続していくが、その後青年連盟は4月に「協和党」を結成、それは7月の満州国協和会に糾合され、協和会が新たな役割を担っていく。(翌年参照)

(引用は上に同じ)

日本国内の反応

 満州事変勃発後の9月20日朝から新聞(号外)とラジオによって「暴戻なる支那軍が満鉄戦を爆破し、鉄道守備隊を襲撃したが、我が軍はこれに応戦し、…目下激戦中」との事実とは異なる報道が繰り広げられ、国民は中国軍討伐に沸き返り、そこでまた軍がその雰囲気に押されるという流れが形成されて行った。

 20日付の神戸新聞には、事件に対する市民の声が掲載されている。それによれば、車夫 — 「向うから仕掛けたんやから満州全体、いや支那全体占領したらええ。そしたら日本も金持になって俺らも助かるんや」/ 市電車掌 — 「やっつけりゃいいんです。大体支那の兵隊といへば卑怯なやり方ですからね。… うんと仇討、賛成ですね」/ 料理屋女房 — 「これで景気がよくなりますと何よりです」/ 商店主 — 「ともかく、いままで(日本が)培って来た満州のことです。捨てて堪りますか。私はこれでも日露戦争に出たんですから」というもので、一般の日本国民は、満州事変における関東軍の行動を熱狂的に支持した。

 当時は中国側の蒋介石や張学良の無抵抗方針や現地の奉天総領事の判断や見解は一切報道されておらず、しかし少数ながら事件に対し批判的な論調もあった。『東洋経済新報』は、中国国民の覚醒と統一国家建設の要求はやみがたいものであり、力でそれを屈服させることは不可能だと客観的に論じた。事変当初の関東軍の動きに対してまだ批判的論調があったが、これ以降、日本の新聞等のメディアは、軍の行動を全面バックアップし、国際的にどのような非難を浴びようとも、国民を戦争に向けて煽って行く機関に成り下がっていく。事実、この時期から報道合戦が始まり、新聞は部数を増やして利益をあげ、ラジオも加速度的に普及して行った。それもあって軍とメディアが料亭で会うなどの癒着も見られるようになった。

 ちなみに中国では満州事変の日を「九・一八事変」という。そして柳条湖近くに大きな「九一八記念博物館」をつくり、毎年9月18日にその広場で式典を行う。この後も日本軍は、14年間、南京のみならず、中国各地に対してこのような記念日と記念館をたくさん作ることになり、中国の人々の記憶に刻まれることになる。しかもそれを知らないのは今や日本人のみという状態になっているが、一応中国のどこかに行く機会があれば、その地にその種の記念碑があるかないか調べておく必要はある。そうでないと、いきなり巡り合った時に、知らないでは恥ずかしい思いをする。

中国の国際連盟への提訴

 この時の蒋介石の実情としては、共産党の紅軍(共産党軍)が本拠地としていた江西省の南昌へ討伐に、30万の国民党軍を動員して出かけている間の事件であり(張学良も自軍に撤退・不抵抗を指示している)、関東軍参謀の石原はそれも計算していたと思われた。この9月には、ジュネーブで第12回国際連盟総会が開催されていた。蒋介石は関東軍に停戦と占領地域からの撤兵を要求したが無視されたので、9/21、紛争の平和的解決を望み国際連盟に提訴した。下手に日本側と妥協するより、国際連盟に訴えることにより、国際世論を味方につけて日本軍を牽制する、その上で日本と交渉するという方策であった。

 この時に述べられた中国米国公使ジョンソンの分析である。 ━━ 「これは日本の侵略行為であって、長い時間をかけて計画されたものであり、それを注意深く且つ組織的に実行に移したことが明瞭である。この攻撃が偶発事件の結果であるとか、或いは責任の地位にない下級の官吏の行為であるという証拠は発見されない。満州における日本の軍事行動は“戦争に関するいかなる定義にもあてはまる”と確信する。従って1928年のケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)の義務を無視して 故意に遂行したものである」と適確な見方を示した(まさにパリ不戦条約締結の数年後に日本は早くも破ってしまうことになった)。 これが国際社会の見解となって、世界の各地で日本品不買運動が起きる。そして軍の勢いとは逆に日本の経済に次第に悪影響をもたらすことになる。三年前の山東出兵への反省が何も生かされていない、というか日本人(日本軍)にはそもそも反省して次に活かすという精神が欠如しているのではないかと、明治以来の軍の動きを見て思う。

抗日大集会と対日経済断交

 1931年(昭和6年)9月24日、日本の軍事侵略と国民政府の不抵抗方針に対して、中国大衆による空前の抗日運動が発生。運動は広範囲に広がり、上海では学生10万人、港湾労働者3.5万人がストライキに入り、20万人の抗日救国大会が開催され、対日経済断交が決議された。一方で28日、北平(北京)でも20万人の抗日救国大会で政府に対日戦争を要求、市民による抗日義勇軍が結成された。この抗日救国運動はたちまち中国全土に拡がり、「停止内争、一致対外」をスローガンに政府に対日徹底抗戦を要求するとともに、排日ボイコットを推進し、民衆は蒋介石の北上抗日を迫った。国際連盟は日本に有効な制裁措置をとることができず、蒋介石の不抵抗方針はまったく説得力を持たなくなった。この頃から抗日救国運動は蒋介石国民党への反政府運動の様相を帯びることになった。またとりわけ満州地域においては各階層の抵抗組織や秘密結社、義勇軍が多く生まれた。そして翌年1−3月の第一次上海事変ではより大きな抗日運動が展開された。日本ではこうした運動を反日として非難する傾向があるが、仮に日本が中国のような立場に置かれたら、同じように各地で抵抗運動は起こったであろう。そういう見方は必要である。

 実際に9月以降、抗日運動は日本の対中国輸出を激減させ、満州を除く中国全土の日本商品輸入は前年対比1/3、12月には1/5にまで低下、上海では対日輸入がほとんど途絶、日本商船を利用する中国人の積荷は皆無となった。ただし日本の対中国輸出が激減と言っても、その後の占領による各種鉱山の奪取や開発により日本は大きな利益を得ることになる。

世界を震撼させた日本の錦州爆撃

 1931年(昭和6年)10月8日、国際連盟の会議中にも関東軍は進攻し、またもや石原完爾の立案で、奉天を放棄した張学良が拠点を移していた遼寧省錦州への空爆を行った。石原は偵察目的であったとしているが、これは八八式偵察機6機、ポテー25型(フランス機=この年に、日本陸軍が奉天に進駐した際に奉天飛行場に放置されていた十数機のポテーを奪い取り、「保貞号」と称して偵察爆撃機として運用したうちの)5機による空爆で、25kg爆弾を各機に四発ずつ搭載し、合計75発を投下し、低空から機関銃による機銃掃射も行った。爆弾は市内のいたるところにに落下し目標の多くは外れたが、辺防軍司令部が置かれていた交通大学や東大営、駅、市街地に命中し、市民14人、兵士1人、ロシア人1人が死亡、20人以上が負傷した(リットン調査団記録)。

 中国側の記録では、「爆弾は鋭い音を出しながら下に落ちていった。連なっている建物の間からたちまち強烈な光が発し、大きな煙が巻き上がった。数秒後、地面から雷が静かに落ちるような爆発音が伝わってきた。大きな恐怖が錦州を包んだ。街では火が燃え上がり、煙が覆い、至る所に崩れ落ちた建物が見えた。被爆した人の身体の一部が血まみれになり、木の枝、電信柱、屋上等に引っ掛かっていた。錦州市民は空から落ちた突然の災難に驚き、どうすることもできなかった」となる。

 ちなみにこの飛行隊の基地は(現在の北朝鮮の)平壌にあり、この頃の飛行機はまだ複葉機(上下2枚羽根)で、機動性はあまりなく、爆弾投下も手作業(爆弾をさなだ紐で吊し目標を狙って紐を切断するという方法)で、石原自身も乗り込んで自らが行い、 またその切断の失敗で火傷を負った。

 これは日本政府にも衝撃を与えるが、南陸軍大臣は、若槻首相にまたも「中国軍の対空砲火を受けたため、やむを得ず取った自衛行為」と虚偽報告した。いつもこのような言い訳がなされるが、では侵攻されている国側の自衛のための攻撃はどうして認めないのか、その自分本位の思考回路を不思議に思う。そもそもこの時期、中国軍は高射砲など持っていなかった。

 この前に、アメリカのスティムソン国務長官は幣原外務大臣に戦線不拡大を要求し、9月24日に若槻内閣は不拡大声明を出していたが、幣原は戦線を奉天で止めるべきことを伝え、金谷陸軍参謀総長はそれを承認し、しかし金谷の抑制命令が届く前日に、石原莞爾ら関東軍は錦州攻撃を開始してしまい、スティムソンはこれに激怒した。これによって幣原の国際協調主義外交は、ほぼ立ち行かなくなっていた。その後、金谷が「錦州への進撃は禁止する」と断固たる命令を下したため、11月29日に関東軍はやっと錦州攻略を中止した。

 なお「錦州は中国の中で日本の航空機による空襲に遭った最初の都市となり、第一次世界大戦後爆撃された最初の都市ともなった.」という記述が一般的であるが、正確には日本軍による最初の空襲は、1914年(大正3年)、第一次大戦に参戦した時にドイツ軍の租借地である青島に対する爆撃が最初である。(既述参照)

 実際に爆撃はこれで終わったわけではなく、この間にも11月16日に日本の浜松(陸軍航空としては浜松に唯一の爆撃部隊がおかれていた)から軽爆撃中隊が編成され、八七式軽爆機9機が奉天まで送り込まれ(途中三機が故障)、11月18-19日には戦闘の続く遼陽市大興やチチハルを連日爆撃、11月24日に太子河(遼寧省を流れる河)を渡河する中国部隊を空爆し、27日、北寧鉄道と大虎山(中国軍の拠点)にも投爆した。さらに29日の中止命令にも逆らって、関東軍は12月下旬に寒冷地訓練の名目で浜松から遼寧省大連の周水子に飛来していた重爆機4機を投入して、12月末より再び錦州に「匪賊討伐」を口実として爆撃機を向け、北寧鉄道支線の装甲列車を爆撃、盤山市街に続けて大虎山も空爆し、抗日部隊の拠点に打撃を与えた。このように日本陸軍はしばしば中央の参謀本部の意向や決定を無視して行動し、自律的に戦火を拡大していくことに邁進する。こうした軍の手前勝手な行動の積み重ねが次第に大戦争につながっていき、内外に多大な犠牲者を生むことになる。

【戦略爆撃の始まり】

 この錦州爆撃は、それまでの飛行機による偵察や地上作戦の砲兵支援、地上隊進撃前の威嚇行為という方法の終わりを告げるものであった。これに関し、作戦主任参謀石原完爾は満州に赴任前、陸軍の中堅幕僚層と次の戦争に関する勉強会で、「我が国防方針」という報告を行い、最終的に日米が航空機をもって勝敗を一挙に決する時がが来る、一方で対ロシアとの戦争のためには全中国を利用して長期の戦争に備える必要がある、そのためにもまず満蒙を取らねばならないとの説を展開していた。つまり航空戦と満州占領の両方の目的を兼ねて、石原には錦州爆撃の意味があるとした。

 ただし、すでに第一次世界大戦においてドイツは1914年(大正3年)8月末、単葉機でパリを爆撃した。日本の青島爆撃は9月5日であるから一週間の差もない(ただし日本はこの後11月初旬まで数十回以上の爆撃を行っている)。続いてドイツは1915年(大正4年)に飛行船ツェッペリン号による英本土爆撃、1917年(大正6年)にも飛行機で英本土爆撃を行い、それに対し、イギリス、フランスも報復爆撃を行っているが、戦闘機はやっと自動機銃掃射機能が開発されつつある時期であった。有人飛行機を最初に成功させたのは1903年(明治36年)末、アメリカのライト兄弟によってであり、木製の骨組に羽布張りが主体の機体で、その方法がまだ続いていて、「戦闘機」を作るまでに至っていず、爆弾は手落としであった。日本軍がドイツの青島租借地に対して行った青島攻撃は、ドイツ軍との双方の飛行機の交戦もあったが、基本は手作業で爆弾を落とし、機関銃はまだ使えなかった。

 いずれにしろ第一次大戦はまだ塹壕戦によって、戦車と砲撃による地上戦が主な戦闘の方法であり、戦場の範囲が国際法で決められていたので非戦闘員が死の恐怖に日常的に直面することはなかっ た(ヨーロッパでの民間人の死者は1000人を超えた程度)。そこから航空機の性能と機能は飛躍的に進化していき、これによって空爆による前線後方の一般市民を巻き込んだ大量虐殺の時代になっていく。そしてこの錦州爆撃は日本軍が戦略爆撃を行う端緒となり、他国の戦略にも刺激を与えた。その意味でも近年ではほとんど忘れ去られたこの日本の爆撃は、もっと表に出され、知らされるべきである。

 ちなみに、世界ではこの4年後の1936年(昭和11年)3月、ムッソリーニのイタリア軍がエチオピア東部の都市ハラールで試験的な戦略爆撃を行い、1937年(昭和12年)4月には、ピカソの絵で有名なスペインのゲルニカにおいてドイツ空軍が焼夷弾を使った無差別爆撃を行うが(死者数は250人から1654人までの幅がある)、今やこちらの方が有名であって、日本においてもこの爆撃に関する注釈には「“史上初の都市無差別爆撃”や“史上初の無差別空爆”とされることもあり、敵国民の戦意をそぐために行われる戦略爆撃の先駆けと考えられており、云々」と評される記述があるが、その6年前に日本軍が中国において先例を作っていたことがまったく忘れられている。日本軍だけでなく、日本人が自身に都合の悪い歴史認識をいかに避けてきたかという事実がここに見て取れる。

 しかも、このゲルニカ事件の数ヶ月後に日中戦争(支那事変)は起こっていて、8月半ばに起こされた第二次上海事変と同時に、海軍飛行隊は待っていたかのように上海だけでなく南京および主要都市に対する爆撃を一日にほぼ十回平均で開始、ここからほぼ八年間、信じられないほどの数の爆撃を行った。今の日本では南京爆撃や重慶(中国奥地にあって当時臨時首都として各国の武官が駐在していた)爆撃が多少知られている程度であるが、例えば重慶に対する爆撃は218回、投下爆弾数21593発、焼失家屋17608棟、死者11889人、負傷者14100人との記録があるが、戦争期間全体からすれば多少大きめな爆撃に過ぎない。ちなみに南京に対しては攻略を目的にして軍人と市民を疲弊させるための事前爆撃で、四ヶ月で110回程度であり、実は全体では1万2千回以上であることは、われわれ日本人はほとんど知らない。

 太平洋戦争終盤の1944年(昭和19年)11月末から九ヶ月間の米軍の日本国内への無差別空爆は、日本軍が中国に対して行なったその経緯をなぞるような、あるいは真似をするような形で、もっと規模を大きく集中して実施され、夜間空爆も防空壕の中での死者も圧倒的に多かったが、それ以前に先陣を切って空襲被害を受け続けた中国の人たちにとって、その米軍の日本に対する大空襲は、さぞ胸のすく思いではなかったろうか。それが人間の普通の心理である。ただし、中には自分たちの受けた悲惨な実態から、日本での同様な悲惨さを思い、胸を痛めた人もいたことは事実である。

 またアメリカのルーズベルト大統領は重慶爆撃の写真を見て、「東京を重慶のようにしてやろう」と叫んだという。日本国内の空爆による戦禍は原爆も含めて悲惨の極みであったが、それまでに日本の国(軍政府)が中国に対して行った数多の空爆を考慮すると、国としてはある意味自業自得といえ、これはハンブルク、ドレスデン、フランクフルトなどにもイギリス等連合国から大空襲を受けたナチスドイツも事情は同じである。

 なおこの後、筆者は1937年(昭和12年)の日中戦争開始からの日本軍の爆撃の実態を知るにおよび(『海軍の日中戦争』笠原十九司:平凡社の爆撃一覧表より)、逐一日本と中国の資料をあたり、これ以前の爆撃史も含めて『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』をまとめた。その量は想像をはるかに超え、驚くほどである。

国際連盟による評決と最終処置

 1931年(昭和6年)10月13日:国際連盟は錦州爆撃による中華民国(中国国民政府)の提訴を受け、予定を繰り上げて緊急の第二次理事会をした。 日本軍が錦州で用いた空爆という事件は「あたかも雷が落ちてきたかの如く、殆ど連盟全体 が振動した」との日本外交官の報告がある。この中に非加盟であった米国をオブザーバーとして招き、日本への圧力を加えようとした。さらには三年前のパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)の主導国であったフランスを議長国とした。それでも日本代表は、日本の権益を侵害する中国の排日ナショナリズムを強く非難し、日本の武力行使の正当性を訴えた。錦州爆撃に関しても中国代表は「中国兵が日本の飛行機に対して射撃したというが、錦州には高射砲はない」と事実を述べた。理事会議長はできる限り日本を信頼する形で紛争の平和的解決、日本軍の撤兵を促したが、日本は応じなかった。

 10月24日、国際連盟理事会は満州からの期限付き日本軍撤兵案を票決。賛成13・反対1(日本)だったが、日本の単独拒否権行使で、全会一致の規約上不成立となる(この方式は現在の国際連合でも同様で、しばしば障害となっている)。しかもこの理事会の間にも日本は進軍を続けていた。 日本への非難の声が一層高まると同時に、不拡大方針をとる政府が関東軍を制御できないことへの不信感が強まった。

 さらに11月16日、国際連盟は四週間に亘る第三次理事会を開催、日本の満州問題調査委員会を設置し、今度は英米仏伊日の5カ国で解決を図ろうとした。12月10日、まず日本の提案により、満州での事態を調査するための調査団の結成が審議され、英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる六ヵ国、事実上四ヵ国の調査団の結成が可決された。イギリスのリットン伯爵を委員長とし、これをリットン調査団という。日本は正当性を訴える自信があったのか、翌11日の新聞にはやや勘違いの「日本外交大勝利」の文字が躍り、世論は湧きかえった。

天津事件と日本軍の謀略

 1931年(昭和6年)11月10日:清朝の宣統帝、溥儀が特務機関長土肥原賢二らの画策により天津を脱出、関東州大連に向かう(第一次天津事件)。この画策の内容は、金で買収された中国人便衣隊約千人が日本軍が提供した銃やピストルで市街地を襲撃し、中国軍はただちに応戦、それに対して日本軍も出動する市街戦によるという騒ぎになった。溥儀はその混乱に乗じて日本租界を脱出し、船によって旅順のホテルに入った。こうして関東軍は、天津を自発的に脱出した溥儀が保護を求めたので保護するという名目で、溥儀の身柄を手中にする。これは関東軍の画策していた満州に独立国家を作ろうとするための布石であり、溥儀をその象徴のために担ぎ出そうとするものであった。

 経緯:溥儀は密かに柳行李の中に身を隠し、自動車に乗って邸の門を抜け、日本租界内の料亭敷島に運ばれ、そこで陸軍少佐の軍服に着換えて、日本租界の岸に待機中の軍用汽艇に乗り込み、軍の通訳と若い将校が護衛して太沽まで下航し、太沽から11日未明に大連汽船会社の淡路丸に乗り替え、渤海湾を横断して満洲の営口に上陸。12日、営口から満鉄の列車で、湯崗子温泉に落ちつき、数日間滞在して旅順に移り大和旅館に身を投じた。そうして翌年3月、旅順を出て新京(吉林省長春市)に入り執政に就任した。その後溥儀は満洲国皇帝となり、日本の敗戦まで12年間在位した。

 11月19日:日本軍(関東軍)は満州北部の要衝で旧ロシアの管理下にあったチチハルを占領した。1911年(明治44年)の辛亥革命により清王朝が崩壊した後、旧ロシア(ソ連)は満州北部、日本はその南部内蒙古の東半分の権益をを分担する取り決めをしていたが、この時、共産主義革命後のソ連は不干渉主義をとっていて、日本側が想定した介入はしてこなかった。そこから翌年2月までにハルピンも占領することになる。

 11月26日:関東軍の天津軍兵営が中国軍から攻撃を受け、ただちに応戦したが、翌日朝には錦州へ向けて北寧鉄道に沿って前進を始めた。錦州には張学良軍がいて、関東軍の本当の狙いはその衝突にあった。この天津での軍事衝突(第2次天津事件)は、やはり中国人便衣隊を使った土肥原賢二大佐のしかけた謀略であったと言われる。これに対し参謀本部は、遼河以東に引き返せ、という同じ内容の命令を27日中に4回も打電して、ようやく前進をストップさせた。この背景には、南京政府外交部長の顧維鈞が「錦州からの中国軍の自発的撤退をする条件に、日本はこの地域に対する日本軍の不侵入・中国行政に対する不干渉を英・米・仏三国に誓約する」といった提案をしたことがある。この提案は11月24日、顧維鈞から南京駐在の英・米・仏各公使に行われ、26日、マルテル駐日大使から幣原外相に伝えられた。しかしその日の夜、中国軍から攻撃を受けたとして、関東軍は翌朝、錦州へ向けて進撃を開始したということになっている。ここには関東軍の行動をそのまま容認すれば、間接的ながらも英・米・仏に対して宣戦布告を行うようなものであるという認識が政府にあった。

中国共産党の台頭

 1931年(昭和6年)11月7日、日本軍の進軍による混乱の中、全中国の共産主義勢力が江西省瑞金に結集し、中華ソビエト共和国臨時政府を設立、主席は毛沢東であった。

 蒋介石の三次にわたる共産分子囲剿(いそう:包囲討伐)作戦は、軍事的には毛沢東の「深く敵を誘い込む」作戦にはまり、失敗であった。ただし蒋介石の共産党に対する軍事作戦は、既述するようにしばしば日本軍の侵攻によって邪魔された。そのために日本軍に譲歩することも再三生じる。そうした結果、共産軍の根拠地は拡大し、湖南省境から江西南部、福建西部がひとつの赤色地域となり国民政府の勢力は、ここから一掃された。「紅軍」の勢力も4万人から、第三次囲剿戦が終わる頃には30万人と拡大した。それでも蒋介石の共産党を排除する執念は根強く、この後も囲剿戦を続けるが、その度に日本軍が邪魔をする光景が多くみられる。

「15年戦争」の始まり

 この満州事変の1931年(昭和6年)から1945年(昭和20年)の敗戦まで、14年間の長期にわたって戦争状態が続く。これを全体として昭和の15年戦争とも、アジア太平洋戦争とも呼ぶ。近年、昭和16年(1941)12月からの太平洋戦争ばかりが強調されるのは片手落ちであり、その太平洋戦争に突入するに至った直接の要因はこの満州事変にあるし、この満州事変に至る直接の要因は3年前の山東出兵と張作霖爆殺事件にあり、さらには明治時代の日清・日露戦争に流れをたどることができ、そこに至る日本の帝国主義政策にその源流がある。ただし筆者の見解は、日本の戦争は、日清・日露・日中・太平洋戦争と個別に行われたわけではなく、事実、1894年(明治27年)の日清戦争から50年間、一貫して戦場となっていたのは中国であり、それぞれの表向きの戦争と戦争の間にも中国あるいは朝鮮(朝鮮も日韓併合以前の1894年から)において、日本軍の介入による大小の戦闘は続けられていた。むしろ15年戦争と区切るのは、日本の長きにわたる侵略戦争を矮小化するものに思われる。

 それはともかく、日露戦争でロシアから中国の遼東半島に租借権を得て、さらに南満州鉄道の経営権を獲得し、次に第一次世界大戦でドイツの敗戦間際に参戦してドイツ領だった山東半島と膠洲湾(青島)の租借権を得、その地に関連する膠済鉄道(青島—済南)その他の関連借款契約をして、着々と大きな投資していたから、それらの権益を守ることが第一優先という事情があった。ところがこれらの権益は国際的には認められていなかったから(ドイツの領有地に関しては、米欧に対して、仮に日本が預かって、その後時期を見て中国に返還するとの言い訳をし、それを実行しないままであった)、日本は既成事実を作る必要もあった。一方で日本国内では、中国は「対華二十一ヶ条 」(日本が過去に押し付けたもの)等の条件を守らないとして、陸軍関係者(上記の建川作戦部長など)が講演会などで国民の意識を中国敵対視に向けさせていた。

 戦後のGHQの調査では、この柳条湖爆破事件は張作霖爆殺事件の計画立案者であった河本大作大佐の後任として赴任した関東軍高級参謀板垣征四郎大佐と、関東軍作戦参謀石原莞爾中佐が首謀し、軍事行動の口火とするため自ら行った陰謀であったことが判明しているし、石原莞爾自身も認めている。こうした軍内の策略家達の言動が、以後14年間続く戦争により、日本人三百数十万人を犠牲にするきっかけを作るばかりか、その侵略国の人々を合わせると日本の数倍ではきかない犠牲者を生じるに至ることを思えば恐ろしいが、何よりも信じがたいことは、この首謀者達が、そのような自覚のかけらも持たず、戦後にあっても反省する心さえ持たず、のうのうと生きて行ったということである。そして自分たちが生じさせた多大な犠牲者を悼むことなく、聞かれれば、「当時はあれでやむ得なく、最善の策であった」と言ってのける。一方で徴兵され戦線に送られて、戦後何とか帰還できた人たちは、「自分だけ生き残って、死んだ戦友たちには申し訳ない」という思いを抱えて生きていった。この同じ人間の、立場によって与えられる大きな違いは何なのであろうか。基本的には戦争を企図して国民を戦線に送る側の人間と、その戦線に義務としてやむ得ず行かされる人間の立場の違いである。もともとは野心を持って国家側に入りこむ人間と、普通の仕事について普通に暮らしていこうとする人間の違いがあって、後者がこのような世になると、死と背中合わせの世界に突き落とされ、死ねばその家族をも不幸にしてしまうのである。「お国のために」とは、その前者のような、けっして国のために自分を犠牲にすることのない立場の人間たちのためであって、しかしこの時代は天皇という存在があって、その存在をうまく利用した軍政府の思想的締め付けによって、一般の人々はそのような客観的な思考を持つことができなかった。

【シビリアンコントロールという空論】

 私見を述べるが、このような典型としての軍の暴走を抑えるために、シビリアンコントロール(文民統制)の必要性がよく言われる。しかし筆者はまったくこれを信用していない。そもそも、客観的に取材して報道すべきメディアの実態が上記の通りであり、この時期の内閣も主に陸・海軍大臣以外は多く「文民」から構成されていた(文民といっても官僚や華族出身が多い)。しかもある意味、天皇が(臣民=国民の安寧を祈る立場として)その文民の代表である。しかし天皇は最終的に軍政府に利用されるだけであったから、それは置くとして、この満州事変時の閣議のやり取りを見ても、幣原外務大臣が堂々と反対の意見を述べても、若槻首相が 「なにぃ!すでに(朝鮮軍が)入ってしまったのか。それならば仕方ないじゃない か」と思わず反応したように、(自分たちが作り出した)危機的時代状況の中で客観的判断力を失い、閣僚たちも簡単に軍の動きに同調してしまう。

 この10年後、陸軍大臣であった東條英機が首相となり太平洋戦争開戦を決定するが、すでに「文民」も思考力を失った状況の中で、どれだけ多くの学者や民間の識者つまり文化人たち、あるいは良識派と思われている人たちが、その開戦を興奮もしくは歓呼して迎え入れ、そこから若者を戦場に送るべく、教師たちも含めて戦意高揚のための手助けをしていったか、その実態には呆れるというより、その時代的空気の感染力の大きさがうかがわれる。

 しかも「文民」ほど戦場の怖さを知らないから、観念で考えやすく、例えば21世紀に入ってもシビリアンの代表である米国のブッシュ大統領が、大量破壊兵器を保持していると仮想して(あるいは決めつけて)イラクに戦争を仕掛けたのが良い例である。自国が一番多く大量破壊兵器を保持しているにもかかわらず、正確な調査もせずに机上で戦争を仕掛けたのである。その結果、自国の兵士たちを4500人以上殺したのはまだよいとして(?)、イラクの多くの民間人や子供を含めてその100倍、つまり45万人以上をミサイルなどの近代兵器つまり大量破壊兵器を多用して犠牲にしている。この数は太平洋戦争において日本の人々が絶え間ない大空襲と原爆により犠牲になった数に近い。その結果の責任を何も取らず、何の痛痒も自責の念も感じることなく、この大統領は引退後も平穏に悠々自適に暮らしている。これが民主主義国家の代表である米国の、建前上のシビリアンコントロール制度が産んだ、自国本位の戦争がもたらした実態なのである。

 ちなみに張作霖爆殺事件にしろ、柳条湖爆破事件にしろ、その他のことにしろ、軍政府内で日本軍の起こしたことが共通認識とされていても、各新聞は軍や政府の発表通りに中国側の責任であるとしか報道しなかった。これは後の日中戦争も同様であり、だから国民は戦後になるまでこれらの実態を知らされることはなかった。太平洋戦争が近づくと、ますます軍の御用新聞となり、この頃はすでに事実に即した報道をすると、戦時下の翼賛体制で、即時に発行停止にされる状況になっていたが、そうなった要因もこの時期、つまり軍とメディア(新聞社)が急接近した満州事変の時期にあったといってよいだろう。

 「戦争をする」と決めた人間たち(文民政治家も含むが、そのほうが多いであろう)と、その決められた戦争に有無を言えず従わされた人たちとは、その立場に天地ほどの違いがある。つまり、「戦争をする」と決めた人間たちは常に安全な場所にいて戦争を指揮し、有無を言えず徴兵され従わされた人たちは、常に命のかかった危険な戦場に立たされているという違いである。銃後と言われた国内でも、大空襲下、前者は立派で安全な防空壕に守られ、後者の家族は自宅の庭などの簡易防空壕で蒸し焼きにされ、そこから逃れた人たちも猛火の中から逃げられずに無残に焼死した。それだけ多数の犠牲者を出しながらも、「戦争をする」と決めた人間たちは、なおも「本土決戦」、「一億総玉砕」を唱え、最後の一人まで戦えと国民を鼓舞し、その結果、広島と長崎への原爆を呼び込み、やっと無条件降伏し、その上敗戦時に、自分たちの戦争責任を逃れようと、戦時下の記録・資料関係すべての焼却を指示し、この戦争をなかったことにしようとしたのである。

侵略地における日本軍の蛮行

【延吉海蘭江大虐殺事件】

 1931年(昭和6年)10月から1933年(昭和8年)2月にかけて、日本軍の警察及び自衛団は吉林省の朝鮮族自治州にある延吉県海蘭区花蓮里一帯に対し、大小94回にわたって「討伐」を行い、朝鮮族革命家と罪のない村民1700人余りを虐殺する血なまぐさい惨事を引き起こした。花蓮里は延吉市の東18kmに位置し、海蘭江下流10km余りの狭き谷に位置し、北端はチャハル通河の合流地点にあたる。12の自然村と約200世帯の朝鮮族の家がある。

 1931年(昭和6年)10月初めに成立した中国共産党海蘭区委員会は、その機関を花蓮里柳亭村に設置し、同時に遊撃隊を組織し、日本の侵略者とその走狗に打撃を与え、海蘭抗日遊撃区を開拓した。花蓮は日本の侵略者の悩みの種になっていて、日本軍は「100人の朝鮮人を殺せば、必ず1、2人の共産党がいる」と断定した。竜井日本総領事は大勢の日本軍警と自衛団を糾合し、花蓮里を中心とした海蘭遊撃区に「討伐」を発動した。10月30日、河東、小営子、五岩洞を占拠する傀儡自衛団が日本総領事館警察と保安隊に協力し、突如花蓮里を襲撃した。残忍な日本軍は、7歳の金石松を銃剣で刺し、妊娠していた金学善の妻と義理の弟3人を焼き殺し、金明浩、金学善、朴得男など抗日幹部27人と罪のない村人を殺害した。日本総領事館は偽自衛団の「功績」をたたえ、小銃10数丁を与えた。

 1932年(昭和7年)5月3日、日本守備隊50人余りは、南花蓮里、中村、学校村と柳亭村を急襲し、焼き殺して略奪した。南花蓮里の金龍誅、中村の金道済、柳亭村の李東根、学校村の金某、そして石建坪に向かう道行く人々の合わせて18人が虐殺された。9月6日、中共海蘭区委員会抗日遊撃隊の幹部が作戦会議をしていたところ、敵に投降した元延吉県組織部長の密告を受け、日本軍守備隊70人余りが、7日午前3時、わずか9世帯の柳亭村を襲撃し、機関銃3挺と迫撃砲1門で突然発砲して襲撃した。区の幹部や遊撃隊は抵抗したが、多勢に敵わず、犠牲者は遊撃隊28人、住民20人の53人で、李の家族だけで11人が死亡した。さらに11月16日、日本軍守備隊と河東、小営子偽自衛団が再び花蓮里を襲い、その中で洞窟に逃げ込んだ3人は薪を積んだ上で焼き殺された。12月12日、延吉に日本軍守備隊、偽警察と偽自衛団の混成「討伐隊」が花蓮里に侵入し、金貴松は銃剣で刺されて火の中に投げ込まれ、朴元石は手足を切り落されて沸騰した鍋に投げ込まれ、金奎植は目を潰されて殴り殺され、金雇農は縛られて研磨盤の上で首を刺され、兪一男はの研磨盤の上に乗せて轢死した。その弟は切り殺され、4歳の息子は刺殺され、妻は裸にされて陵辱を受けた後、山奥に引きずりこまれて殺害された。続いて、敵は数十名の抗日軍人と村民を生き埋めにした。

(『侵華日軍暴行総録:吉林省編』より。訳文は筆者、以下同)

【懐徳県惨事】

 1931年(昭和6年)12月5日、日本の指揮官大塚は、懐徳城内で18人の住民を逮捕し、懐徳役所の庭で住民を縛って一列に並ばせた。そして大塚は軍刀を抜き、彼らの首に向かって刀を振りかざして切り落とした。18人の中国人が日本軍の屠殺刀の下で惨死した。その後、大塚は警察に命じて通り沿いにベンチを並べ、人の頭を上に置いて見せしめにした。1934年(昭和9年)、懐徳鎮にまた小野田指揮官が来た。10月20日、小野田は警察官を指揮して、いわゆる非行村人として19人を逮捕し、警察署の裏庭に拘留した。ある日、小野田は警察署の裏口を開け、留置されていた人々を釈放し、逃走させた。彼らが走ると、警察の練習として銃が一斉に掃射され、19人の罪のない住民が殺された。

(『侵華日軍暴行総録:吉林省編』より)

【遼源(西安)炭鉱と万人坑】

 1931年(昭和6年)の満州事変を経て吉林省遼源市の西安炭鉱(現・遼源炭鉱)を占領支配した。この炭鉱は1911年(明治44年)に一人の農民によって発見され、日本はかねてから狙っていたが、張作霖・張学良の軍閥が阻止していた。占領によって日本は、華北地方や東北地方(満州)から中国人を徴用し、西安炭鉱の各採炭所に送り込み、劣悪な環境の下で強制労働させた。そして1945年(昭和20年)までの14年間に石炭1581万トンを収奪し、8万人以上の中国人労工を死亡させた。その遺体は西安炭鉱周辺の各地に分散して埋められ、六つの主要な万人坑(千人から万人単位で死体が埋められた場所:死体の捨て場)が遼源(西安)に形成された。そのうち一万人余が方家墳に埋められていた。そこを万人坑として遼源鉱工墓・鉱工記念館が設営され、丘の上には「日偽統治時期遼源炭鉱死難鉱工墓」と刻まれた黒い大きな記念碑が建てられた。この記念碑のある小高い丘と周辺の丘陵が方家墳万人坑であり、この辺り一帯の20万平方mの範囲に一万余の遺体が埋められ、ほとんどの遺骨は今もそのまま残されている。2005年(平成17年)に、新しい資料館として遼源鉱工墓陳列館が開館し、発掘現場をそのまま保存するように柱のない巨大な体育館のような建物をその真上に建てている。館内に入ると、この光景が目の前に広がる。遺骨が整然と並んで埋葬されているのは、遺体処理を命じられた中国人労工が同朋の中国人の遺体を丁寧に埋葬したからだという。また冬は地面が凍りつき穴を掘れないので、遺体を埋葬する穴を夏のうちに掘って準備していたとのことである。火葬された死者の骨灰が万人坑の中に大量に残されている。この遺骨保存館の外の谷側にも山側一帯にも遺体が同じようにびっしり埋められているという。これは表土を取り除いてないだけで、この方家墳の山肌全体に遺体が埋められている。

(以上は青木茂の『万人坑を知る旅』より)

日本国内の動向と世相(昭和6年:1931年)

日本の出来事

 1月:全国の学校に天皇皇后両陛下の「御真影」配布が始まる。この御真影は雑誌の付録にも登場し、各家庭に掲げられることもあった。その後御真影は特別の建物に収められることになり、生徒は登下校時に立ち止まり敬礼することが義務となる。この御真影を火事で焼失し責任を負って自殺した校長もいたが、1944年(昭和19年)米軍からの空襲が始まると、校長は真っ先に御真影と教育勅語の謄本を守ることとされ、そのために焼死した校長もいた。

 同月:警視庁は映画館での男女別席の撤廃を決定、それまでは男女は席を別にして鑑賞していた。

 同月:文部省、中学校令施行規則改正(法制・経済を公民科に、柔・剣道を必修にする)。

 2月:婦人公民権案を衆議院で可決するが、3月24日に貴族院で否決される。婦人の参政権は戦後まで実施されることはなかった。

 3月:文部省の肝入りで「大日本連合婦人会」結成、婦人報国運動のための組織として全国の主婦の動員を目的とする。この婦人組織が特に太平洋戦争下において「銃後の守り」の要として活躍する。

 4月:海軍省、ロンドン軍縮条約実施に伴い、工廠と工作部の職工8200人の整理を発表。

 同月:3年前に設立された東京航空輸送社が水上機(脚にフロートの艤装を付けて、水上にて離着水できる航空機で、この頃はまだ飛行場が十分になかった)を用いて、東京−下田間の定期航空営業を開始、初のエア・ガールを募集し、応募140人のうち3人の女性を採用し話題となるが、危険度と給料の安さ(バスガールの1/3)ですぐに辞めてしまった。この飛行機は乗員を含めて6人乗りの複葉機で、この程度の飛行機に爆弾を積み込んで日本は上記の「錦州爆撃」を行ったのである。

 5月:米国で地上381m、102階建のエンパイヤステートビルが完成。

 6月:上野駅前に地下鉄ストアビルが完成、地上9階地下2階の直営百貨店で、上野駅に直結する地下道も併設した。これらの地下道が、敗戦後、戦争と戦災で親と家を失った孤児たちの溜まり場となり、国の助けもなく、その多くがここで餓死や病死することになる。

 6月:4日、天皇は陸軍大臣南次郎大将を呼んで 「軍は軍規をもって成り立っている。軍規が緩むと大事を引き起こす恐れがある。軍記を厳正せよ」と訓令した。さらに当時の若槻首相に対しても、「満蒙問題については不穏な言動が盛んだが、日中親善を基調にすることを忘れないように」と語っている。

 7月:労農党・全国大衆党・社会民衆党が合同して中間派無産政党の全国労農大衆党を結成。

 同月:内務省社会局、5月の全国失業者総数40万人突破を発表。失業調査開始以来最高となる。

 7月:文部省は前年に学生の思想管理を目的とした学生課を学生部とし、省内に学生思想問題調査会を設置。

 8月:第1回日米対抗水泳競技会、神宮プールで挙行。 40対23で日本が勝利する。

 8月:日本初の本格的トーキー(音声入り)映画『マダムと女房』が封切られ、話題となる。

 同月:ダット自動車(現日産自動車)が初の小型自動車ダットサンを、米国の自動車の半額以下で発売する。

 同月:滑走路一本の羽田空港が開港、一番機が大阪に向けて飛び立つ。この時の運賃は30円で、現在の15万円程度。

 同月:米国のリンドバーグ夫妻が水上飛行機で霞ヶ浦に着水。リンドバーグはこの4年前にニューヨーク ー パリ間の単独無着陸横断に成功し、世界的にも大きな話題となっていて、日本でも大歓迎を受けた。ニューヨークを出発した後、アラスカ、アリューシャン群島、千島列島を経て、8月24日に根室に、26日に霞ヶ浦に到着した 。 その後大阪、福岡に立ち寄り、9月19日、日本が満州事変を起こしている中華民国へと向かった。

 ちなみにリンドバーグは、飛行機で世界を結ぶという理想を掲げていて、その後第二次世界大戦が起こり、米国の中立を訴え戦争反対の立場にいた。しかし日本軍に真珠湾攻撃されると自国は守るべきと飛行士指導官として自らも戦闘機に乗り参戦した。そして対日本軍のラバウル戦で爆撃した後に地上に降りてみて、死体等の散乱する実際の惨劇に慄然とし、文明の利器に疑いを持つようになる。戦後すぐに任務も兼ねてドイツ訪れ、大空襲を受けた都市の焼け跡も見たが、ユダヤ人強制収容所の虐殺現場も見るに至り、人間のおぞましい残虐性に対する嫌悪と怒りを抱き、広島にも三年後に空から訪れ、惨状を目にした。余生は自然保護活動に捧げ、飛行機と鳥のどちらを選ぶかと聞かれれば鳥を選ぶというほどに、絶滅の危機にある動物などを保護する活動に世界各地を回って精力を傾けた。晩年はハワイの簡素な家に移住し、生涯を終えた。

 同月:満州事変の第一報が初のラジオ臨時ニュースとして流される。その影響で、株式や商品相場が暴落する。 不況により、給料も下がり、物価も下がり続けた。

 9月:上越線の清水トンネル、10年の工期をかけ、49人の犠牲者を出して開通(9702mで当時世界最長)。

 同月:政府の満州事変「不拡大方針」覆す軍部のクーデター計画が発覚、未遂に終わる。

 同月:冷害のため、東北や北海道で大凶作となり、飢餓難民は35万人とされた。前年の大恐慌と豊作不況に続くもので、下記のように農家の娘の身売りも多発した。

 同月:鉄人ゲーリッグら米大リーグ選抜チームが来日、日本は初の大学選抜オールスターチームを結成して挑むも、17戦全敗に終わった。

 10月:陸海軍のクーデター計画が発覚。(十月事件:下記)

 11月:昭和初期から百貨店の開業や新築が続き、浅草松屋が東武鉄道雷門駅の地上7階地下一階建のターミナルビルとして開業。

 同月:大阪城天守閣が、大阪市民の寄付などによって260年ぶりに復活し、竣工式が盛大に行われる。

十月事件

 半年前の3月に一度クーデターを企てて頓挫した橋本欣五郎中佐は、再びクーデターを企てる。 橋本は満州事変が起きると関東軍の行動を煽る電報を再三打電し、政府の「不拡大方針」を覆す計画を立てた。決起は10月24日とされ、「昭和維新」と称した。結果は途中で計画が漏れて未遂になったが、その規模は後の2・26事件をはるかに上回る規模であった。まず宮城を制圧して、若槻首相、幣原外相などの重鎮、財界の巨頭を殺害する計画で、その規模は将校120名、近衛師団の各歩兵連隊から歩兵10個中隊、陸軍爆撃機3-4機、海軍からは将校の抜刀隊10名、霞ヶ浦航空隊の爆撃機などが参加予定であった。計画は軍人内の秘密結社桜会の中で練られたが、無謀であると考える桜会のメンバーが軍の幹部に相談して発覚した。計画の首謀者、橋本ら13名は拘束されたが、逮捕ではなく、彼らは2、3人ずつ、 いくつかの旅館に軟禁され、外出はできなかったが、酒も料理も飲み食べ放題という賓客扱いだった。処分は最も重い橋本が謹慎20日という形式的なもので、それは陸軍内の馴れ合いの結果であることは、その後、日中戦争の勃発に伴い、連隊長として再び召集され、数々の問題を起こしながら、1942年(昭和17年)の翼賛選挙で衆議院議員に当選したことでもわかる。またこの甘い処分は事後に起きる大きなクーデター(2・26事件)の呼び水となって、桜会と別の道を行く青年将校たちが関わることになる。

政治の弱体化

 このクーデター未遂事件がきっかけとなり、若槻禮次郎内閣はまとまりを欠くようになり、閣内不一致として12月に総辞職したとされるが、その根本では満州問題の解決が政治的に見通せないことが閣内不一致につながったと言えるようである。その後犬養毅内閣へと変わるが、協調外交を貫こうとした幣原喜重郎外相もいなくなり、犬養内閣も閣僚の人選に成功したとは言えず、むしろ軍部と協力して影で動く人物を入閣させた。そうした政治の弱体化を利用して軍部の力が一層強くなって行く。実際、犬養内閣発足の4日後(12月17日)、関東軍は政府の不拡大方針を無視し、兵力4万人を投入して再度錦州に迫り、1月3日に錦州を占領した。この兵力4万人のうち3万人は、事変後の3ヶ月程度で日本から増援したものであった。政府の不拡大方針など、はなから無視されていた。こうした動きは4年後の日中戦争が開始される以前も同様であった。こうして協調外交を重視しようとする犬養内閣も、軍部(関東軍)と中国政府と国際連盟の狭間で優柔不断の状態を続けた。犬養は中国政府を無視する意図は持たず、基本的には満州国独立には反対であったが、結果的に関東軍の動きを追認することになる。

不況と凶作による農村の飢餓と娘の身売り

 日本が中国への介入戦争を仕掛けて多大な戦費(国費)を浪費していたこの年(1931年:昭和6年)、世界恐慌の影響で生糸の原料となるまゆの価格は下落し続け、台湾米流入によりコメの価格も暴落していた上に、東北・北海道地方では冷害が襲って凶作となり、農家の困窮は一層深刻化し(飢餓地獄とも言われた)、欠食児童(学校給食がない時代で、弁当が持ってこれない)が増えたばかりか、生活苦にたえかねた農家は、娘を子守女・女中・紡績女工・醜業婦(都市の芸娼妓、酌婦、女給などへ)などに奉公させて前借りをし、いわゆる「身売り」が多発した。ある村では四人に一人の娘が売られたと言い、秋田県では約一万人の15歳未満の離村女子が出た。そのうちかなりの数が「苦界」に流れていった。翌1932年(昭和7年)の東京日日の記事によると、7000人の娼妓のうち、876人の山形を筆頭に、東北六県と北海道をあわせると娼妓全体の4割6分、つまり3200人以上をその地域が占めていた。しかも次第にあっせん業者の買い手市場になり、前借の額もガタ落ちしてしまった。当然大きな社会問題になったが、農村の入り口あたりには「娘の身売り、ご相談ください」という手書きの看板が村役場によって立てられている写真が残っている。村の役所としてはなんとか救いたかったのであろうか。ちなみにこの時代の農家は地主から農地を借りて農作物を作る小作人制度の下で働いていたから、普段から苦しい生活が強いられていたが、戦後に占領軍の政策によって解放された。

 この三年後にも大凶作があり、影響は1935年(昭和10年)ごろまで続いた。またこれにより農家の次男、三男は安定した軍隊に入るものが増え、軍事増強の時代には好都合であったが、このような農村から入隊した青少年に同情した青年将校達の中に国家改造の思想が生まれてきた。国民にこのような苦しみを与えたのは、政治家や資本家が悪いという怨嗟の声があがり、労働争議が多発、ストライキの件数が激増した。そこで共産党の活動が増え、それを政府がさらに弾圧するという悪循環の構図も生まれた。

昭和7年(1932年)

中国における軍事的動向

1932年の出来事(中国側から)

 以下は主に中国側の資料、『中国抗日戦争大事記』(斉福霖編:1995年、北京出版社)より抜き書き。(訳文は筆者。▷印は日本側の記録から適宜拾い出したもの)

 1月1日、漢奸(売国奴)の張景恵はハルビン市で黒竜江省の「独立」を宣言し、偽(傀儡)省政府を組織し、自ら偽省長に就任した。

 1月3日、日本軍は12月末攻撃を再開した錦州を占領し、これにより東北3省の大部分が陥落した。翌日、国民政府は国際連盟理事会に電報を送り、日本軍の侵略を阻止するための会議を直ちに招集するよう求めた。

 1月4日、東北民衆義勇軍第4路軍司令耿継周は500人余りを率いて瀋陽の新民県城を夜襲し、一時は日本領事館、電話局、監獄などを攻め落とした。

 1月6日、関東軍高級参謀板垣征四郎の東京における報告をもとに、陸軍、海軍、外務の三省は、いわゆる「中国問題処理方針要綱」を作成し、板垣は13日、この要綱をもって瀋陽に帰り、偽満州国をつくるための陰謀活動を進めた。

 1月8日、アメリカ政府は日中両国政府に覚書を送り、アメリカは九カ国条約、不戦条約の権利を擁護し、満州の現在の状態を認めることはできないと声明した。(満州国不承認宣言)

 1月9日、抗日武装劉純啓部は遼寧省錦西県竜王廟、西園子などで日本軍を待ち伏せ攻撃し、日本軍指揮官古賀以下将兵40余人を銃殺し、20余人に重傷を負わせた。

 ▷ 1月12日、青島の約200人の日本人居留民が、天皇に対する不敬記事を掲載したとして、地元新聞社を焼打ちし、焼失させた。

 1月17日、東北義勇軍活士賢、蘇振声部隊が錦州市打虎山の日本軍を襲撃し、日本軍指揮官波藤雅雄以下百余人を銃殺。

 1月18日、日本人僧侶たちが日本の特務川島芳子の指示により(もとは板垣征四郎の策謀)、上海馬玉山路の三友実業社の工場の前で襲われる事件があり、騒動が広がった(下記の「日本人僧侶襲撃事件」参照)。

 1月21日、国際連合調査団が正式に発足。調査団はイギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアの五カ国の代表からなり、団長はイギリス人リットン卿。陪審員には国民政府の顧維鈍と日本の吉田茂がいた。

 同日、日本海軍は呉港から巡洋艦大井号と第15駆逐艦隊を派遣して450人余りの陸戦隊と大量の兵器を運び、27日上海に到着した。(これは予期される事変に備えたものであるが、28日、計算したように上海事変が勃発)

 ▷ 同日、村井倉松上海総領事は呉鉄城上海市長に対し僧侶襲撃事件の責任を取るよう、四項目を要求し、28日午後6時までに回答せよと通告した。

 1月22日、関東軍参謀長三宅光治が「建国幕僚会議」を召集し、偽(傀儡)満州政権の立ち上げに乗り出した。27日、関東軍は「満蒙自由国建設順序」を制定。

 1月28日、「一・二八事変」(第一次上海事変)勃発。上海市政府は午後4時、日本総領事に最後通牒を返し、日本側の要求を受け入れるとした。しかし午後11時30分、上海駐留海軍陸戦隊は予定された作戦計画によって、上海閘(こう)北中国駐屯軍陣地に猛烈な攻撃を開始、それに対し中国軍第19路軍は決起して抗戦を開始した。それと同時に日本海軍は日本から急派した第1水雷戦隊第2特別陸戦隊460人余りを上海に投入した。こうして日本海軍は上海に軍艦23隻、航空機40機余り、陸戦隊1830人余り、武装邦人(居留民)3、4千人を集結し、租界と黄浦江に配置した。

 筆者注:つまりこの第一次上海事変は、東北部の関東軍などの動きとは別に、日本海軍によって引き起こされたことがわかる。下記に詳述するが、1937年(昭和12年)の第二次上海事変も同様に海軍が仕掛け、日中戦争が始まった。

 ▷ 同日、第一次上海事変に連動して、日本の関東軍は飛行隊による空爆支援のもと北満(黒竜江省)ハルビンへ出動した。

 ▷ 1月28-29日、海軍の陸戦隊が上陸、「能登呂」に続き、海軍は航空母艦「加賀」、「鳳翔」の艦載機を上海に送り、閘北地区と呉淞砲台に対して爆撃を行った。

 1月29日、日本軍は上海閘北を続攻したが、中国第19路軍は日本軍の装甲車5両を撃破し、敵軍300人余りを銃殺した。午後、日本機は閘北を爆撃し、商務印書館及び付設東方図書館は悉く焼失した。

 同日、駐上海の英米総領事は呉鉄城上海市長の意向により、上海戦の調停にあたり、午後8時に射撃を中止した。

 1月30日、国民政府は河南省洛陽に遷都を発表し、「世界諸国も世界平和と国際的義務を維持するためには、座視できないものと信じる」と述べた。

 同日、国際連盟理事会は中国の申請を受け入れることを決定し、上海の各国領事に調査団を派遣して現地調査を行い、国際連盟に報告するとした。

 同日、南京中央大学の学生500人が行政院に質問書を提出し、呉鉄城上海市長が日本の無理な要求を受け入れたことなどを政府に質問し、第19路軍への援助を要請した。

 1月31日、駐上海イギリス総領事は中日代表を招き、イギリス総領事宿舎で上海戦の調停を行い、双方は3日間の停戦を決定した。またイギリス外務省は、日本が共同租界を上海侵攻の根拠地としていることに抗議し、日本政府に上海での平穏な状態を早期に回復するよう促した。

 1932年(昭和7年)2月1日、上海各大学義勇軍500余人及び救助隊300余人は第19路軍156旅団長翁照垣の命令により、閘北太陽廟に集結し、前線に向かった。

 同日、上海市民連合会義勇軍200人が前線に赴き、第19路軍に加わった。

 同日、在中国日本大使重光葵は日本から上海に戻り、邦人1万8千人の撤退を命じた。次の日、邦人は続々と帰国した。

 同日、日本の艦隊が南京の下関を砲撃。中国外交部は翌日、この砲撃について日本側に厳重抗議した。

 2月3日、上海文化界の茅盾、魯迅などが連名で「上海文化界告世界書」を発表し、日本の侵略を非難し、国民党の無抵抗主義に反対した。

 同日、日本海軍の飛行隊は上海北方揚子江の呉淞(現・宝山)砲台を攻撃し、砲台は反撃し、日本艦一隻を撃沈、2隻を損傷、そして一機を撃墜した。

 2月4日、日本軍は閘北を総攻撃、激戦は何日も続き、百人以上が戦死、中国守備軍にも大きな死傷者が出た。日本艦船13隻の猛攻で呉淞砲台が破壊された。

 同日、日本の関東軍はハルビンに進撃し、吉林自衛軍と郊外で激戦を繰り広げた。(上海事変は、それによって世界の目を満州からそらせ、その間に満州の占領地区を拡大するという作戦に基づいていた)

 2月5日、日本陸軍は第12師団混成24旅団を上海に派遣した。その第一陣4000人が上海に到着し、6日には4000人が張華浜に上陸、7日には24旅団すべてが上海に到着、総数約1万人を超えた。

 ▷ 同日、日本の飛行隊は地上軍の払暁からの猛攻撃に合わせハルビン南側陣地および密集部隊を反復爆撃、午後、地上軍はハルビンを占領、飛行隊は退却する抗日部隊をさらに追撃した。この日の延べ出撃は20回、出動機数は67機、使用爆弾は170発であった。こうして関東軍は満洲の東三省全土の主要都市をほぼその支配下に置くようになる。

 2月6日、国民政府軍事委員会が発足。蔣介石、馮玉祥、閻錫山、張学良が委員となった。

 2月7日、上海駐在米海軍司令官は、日本軍は「一・二八」(上海事変)以前の防衛線に撤退し、中国軍は相当な限界まで撤退し、撤退地域は第三国軍が守備するという上海案調停方法を提出した。

 同日、日本軍は八字橋を猛攻し、激戦の末第19路軍が撃退され600人余りが戦死した。呉淞方面では、日本の海陸空軍が総攻撃をしかけ、甚大な損害が生じた。

 2月11日、日本軍は閘北、八字橋、江湾を猛攻し、また世界条約で禁止されているダムダム弾(鉛弾)を使用、死傷者はいずれも甚大だった。翌日、日本軍は再び猛攻し、中国軍は約二時間で撃退された。

 2月12日、宋慶齢は呉淞に行って前線の将兵を慰労し、引き続き奮戦して、わが中国が敵の手に入らないようと訴えた。

 2月13日、蔣介石は浦口に陳銘枢、何応欽、羅文幹を呼び、19路軍が10余日で勝利するよう指示し、それを機に手を引いて再決戦を回避し、撤退する方法を示した。

 同日、東北馮庸大学義勇軍は学長馮庸が率いて北平(北京)から南下して上海に到着し、第19路軍の抗戦を助勢した。

 同日、日本軍二、三千人が紀家橋から密かに呉淞に侵攻し、北岸曹家橋国軍陣地を強襲突破した。第122旅団は反撃し夜10時まで血戦を重ね、川を渡った千余の敵を撃滅するが、国軍の700余人が死傷した。

 2月16日、関東軍司令部は張景恵、臧式毅、熙治、馬占山を瀋陽の大和旅館での「四巨頭」会議に招集し、翌日、偽東北行政委員会が設立され、張景恵が委員長に就任した。

 ▷ 2月18日、上海沖30kmの海上に進出した日本海軍の空母2隻の艦載機は地上軍の作戦に策応して市街地に対して無差別爆撃を行った。両艦搭載の艦上攻撃機・戦闘機の数はそれぞれ41機と26機であった。

 ▷ 2月19日、関東軍に所属する陸軍飛行隊は占領したハルビンの飛行場から13機が出動し、巴彦県の抗日司令部を爆撃。

 2月20日、日本軍は総攻撃令を下し、呉淞の全線で激戦となり、翌日まで続いた。

 2月22−23日、日本軍は宝山区の廟行鎮や金穆宅を猛攻し、第87、88師団と激戦した。中国軍は一時的に日本軍数千人を包囲したが、日本軍は包囲網を崩し、中国軍は廟行の西地区に撤退した。

 2月23日、日本機が上海虹橋空港を爆撃、26日には杭州空港を爆撃した。

 2月25日、偽(傀儡)東北行政委員会は『新国家組織大綱』を公布し、国名を満州国、国家元首としての執政を溥儀、年号を「大同」、首都を長春とし、また赤青白地黄の国旗を定めた。

 2月28日、外交部長顧維鈞は上海駐留海軍の野村吉三郎司令官と英海軍グロリア司令官の要請に応じ、英艦上で会談し、停戦方法を協議した。

 同日、日本は第11、14両師団を上海に派遣し、第11師団先遣隊が上海に到着した。

 2月29日、日本軍の砲艦が呉淞要塞を爆撃、歩兵隊が大挙して閘北八字橋の右翼軍を攻撃し、中国軍は退却した。

 同日、国際連盟リットン調査団が東京に到着。

 2月、海外の華僑が第19路軍の抗日戦に救済金を送金。フィリピン華僑救済会などが44万元余り、サンフランシスコ華僑が100万元、熊希齢が主催する香山国難救済会が10万元を送金した。

 1932年(昭和7年)3月1日、日本軍は上海の全線に総攻撃を開始した。日本の艦船は呉淞銃砲台を砲撃し、中国軍も砲撃して反撃。さらに日本軍は瀏河方面の楊林口、七女口に強行上陸し、88師団、87師団陣地が突破され、中国軍は撤退。

 同日、東北行政委員会が「満州国建国宣言」を発表し、満州国成立を宣言した。

 3月3日、日本軍は瀏河から婁塘鎮、朱家橋を攻撃し、嘉定、太倉の中間地区を襲撃し、19路軍の帰路を断った。これは上海抗戦の最後の熾烈な戦いとなり、第87師団の将兵は1000人以上の死傷者を出した。

 同日、日本軍司令部は、日本が指定した区域外に中国軍が撤退したため、戦闘を停止させたと発表した。(上海派遣軍に停戦命令。これ以降の日本軍の攻撃対象は主に抗日軍となるが、それは停戦の対象に入らないという理由である)

 3月4日、国際連盟は決議案を採択し、中日両国が敵対行為の停止と日本軍の撤退を協議することを提案した。

 3月8日、中日双方で、3月4日の国連決議に基づき、交渉する用意があると表明した。

 3月11日、国際連盟総会は、中国と日本の間で三つの休戦協定を可決した。

 3月12日、国民政府は満州国不承認宣言を発表した。

 同日、日本の内閣は「満蒙問題処理方針要綱」と「満蒙国家成立後対外関係処理要綱」を採択し、満蒙は「中国本部政権から独立する」、満蒙の治安は「帝国が担当する」、「満蒙地域を帝国の対露対華国防の第一線とする」と宣言した。

 3月14日、中日停戦撤兵会議予備会議が駐上海英領事館で開催され、中日双方の代表郭泰棋、重光葵らが出席し、基本原則を確認した。

 同日、リットン調査団は東京から上海に到着し、中国側代表顧維鈞が加わった。

 3月18日、国民救国軍李延禄部隊は額穆県東部一帯で日本軍を待ち伏せ攻撃し、小川上尉以下120名を銃撃死させ、車両7、軽重装甲車25を捕獲した。

 同日、国民政府は蔣介石を軍事委員会委員長兼参謀本部参謀総長に任命した。

 3月19日、日中停戦撤兵会議が開催され、停戦撤兵方法を討議した。

 3月20日、上海『時事新報』は、国民党中央党本部の初期調査結果として、上海戦争による損害額を公表、全市の財産損失額は15億6千万元。被害者は81万4084人、死者6080人、負傷者2000人、行方不明者1万400人とした。

 同日、国民救国軍孔憲栄部隊は寧安県南湖頭で日本軍を待ち伏せ攻撃し、山谷支隊兵130人を銃撃死させた。

 3月21日、日中停戦撤兵会議は引き続き非公式会議を開き、基本原則の3項目を正式に決定した。(一)中国軍は現在の駐屯地に暫定的に残留する。(二)日本軍は1月28日以前の防衛地に撤退する。(三)中立国の代表が共同委員会を組織し、一、二の任務の実行を証明する。

 3月24日、日中休戦撤兵会議は、中日の首席代表、英米仏の三公使が出席し、休戦撤兵の三原則を初の公式会議で協議した。翌日、日本軍の撤退を証明する共同委員会を設置することで合意した。

 同日、ソ連は満州国の中東ルートの主権を認めた。これに先立ち、中東鉄道には「満洲国」の国旗が掲げられた。

 1932年(昭和7年)4月2日未明、遼寧省遼陽を侵略した日本傀儡軍警察司令部は千人の兵力を集め、飛行機、大砲の支援の下、3路に分かれて沙嶺に向かい抗日救国鉄血軍の討伐を開始した。また日本機は先に沙嶺において無差別爆撃を行った。

 4月3日、吉林省の自衛軍と国民救国軍が寧安市で会議を開き、吉林抗日連合軍を結成する。

 同日、上海の各救国連合会は緊急代表大会を開き、上海の300万人の市民は日本による条件付き撤兵に断固として反対し、いかなる外交当局も中華民国の主権と領土を裏切る行為は許されないと宣言した。

 4月6日、朝鮮駐在の第19師団は「間島派遣軍」(1930年の「間島暴動」参照)を編成し、東北東部地域に侵入して抗日隊を攻撃した。

 4月6−7日、日本機はハルビン市依蘭の抗日司令部、主要施設、兵集団に対し、72発の爆弾を投下。引き続き占領した方正飛行場から依蘭の司令部などを偵察部隊と共に攻撃した。

 4月7日、馬占山は黒竜江省抗日救国軍総司令部を設立し、黒竜江省軍と民衆抗日義勇軍を統一した。

 4月15日、瑞金の中華ソビエト共和国臨時中央政府は「対日戦争宣言」を発表した。

 4月25日、吉林自衛軍が方正県城を攻略し、遼寧自衛軍が通化県城を占領した。

 4月29日、上海の日系人は天長節祝賀会を行い、虹口公園で閲兵した。その時、韓国愛国志士の尹奉吉が爆弾を投げ、日本側要人の白川、重光葵、野村、植田、河端などが負傷した。後河端、白川は重傷を負って死んだ。(下記「上海天長節爆弾事件」参照)

 4月30日、国際連盟総会は19カ国特別委員会が提出した中日停戦決議案を採択した。

 1932年(昭和7年)5月2日、上海の救国連合の各団体は、国民党の上海に対する裏切り(休戦協定)に反対するために全国に電報を送り、翌日、代表者が派遣され、国民党の郭泰旗に会い、郭が協定文を読み上げたとき、人々は郭の頭を殴り、協定の書類を引き裂いた。

 5月4日、吉林自衛軍はハルビン郊外の三棵樹を攻撃し、100人以上の日本軍と傀儡軍を激闘で戦死させた。

 5月5日、上海で日中上海停戦協定と撤退協定が国民政府代表の郭泰旗と日本代表の重光葵によって調印された。中国は上海を非武装地帯と認め、軍は上海から蘇州と昆山以外の地域に撤退した。

 5月7日、中国、日本、英米仏の総領事、イタリアの代理大使からなる上海停戦合同委員会が設立された。

 5月8日、救世軍旅団長の姚振山が部隊を率いて敦化を攻撃し、50人以上の日本兵を殺害し30丁のライフルを押収した。

 5 月16日、東北工農民志願軍の江北騎兵独立師団が正式に設立された。

 5月19日、中華全国国難救済会などが上海停戦協定を否定する電報を全国に送った。

 5月23日、国民政府軍事委員会は、共産党を鎮圧するために第19路軍を福建省に派遣するよう命じた。

 ▷ 5月下旬、日本軍飛行隊は馬占山らの中国抗日救国軍との戦闘を支援するために再びハルビンヘと空爆を展開、東支鉄道沿線、松花江、呼海鉄道沿線などの抗日部隊のいる場所を爆撃、さらに山東省泰安の基地からハルビンの呼蘭方面へと爆撃を進めた。

 1932年(昭和7年)6月1日、東北義勇軍馮占海部隊がハルビン南の重鎮阿城に攻め込んだ。

 6月3日、国連調査団は柳条湖鉄道の爆破現場を調査した。

 6月7日、日本の朝鮮駐留軍第19、20師団の一部が鴨緑江を渡って唐聚五民衆自衛軍を襲撃した。

 同日、日本陸軍省は「9・18」事件から1932年(昭和7年)6月6日までに、在中日本軍が4163人の死傷者を出したと発表した。

 6月9日、蔣介石は廬山に赴き、「匪賊討伐」会議を招集し、改めて「攘外必先安内」(まず内なる共産軍を掃討したあと外敵の日本軍にあたる)政策を宣言した。

 6月10日、李海青らは黒竜江省抗日救国軍千人余りを率いて慶城〈現・慶安〉を攻略した。

 6月14日、日本の衆議院で(傀儡)満州国承認決議案が可決された。

 6月23日、日本の関東軍は占領した錦州からの飛行隊の偵察と爆撃の支援を得て遼寧省朝陽県二車戸溝に侵攻。

 1932年(昭和7年)7月1日、鄧鉄梅は東北人民自衛軍を率いて鳳城の龍王廟を占領し、傀儡軍600人以上を殺害、大量の軍事物資を押収した。

 7月7日、リットン国連調査団長は日本の内田外相に国民政府が作成した東北問題解決案を伝えた。「一、満州自治を認めるが、中国は主権を保有する/二、満州における日本の権益を認める/三、日本は満州から軍を撤退させ、軍政状態を廃止し、純粋な文治制度を実行する」(この内容自体は現実的な案である)。しかし内田は受け取りを拒否した。

 7月13日、馮占海の義勇軍は舒蘭県城を奪還した。

 7月22日、遼南抗日義勇軍が瀋陽北大営ラジオ局を襲撃。また鄧鉄梅東北民衆自衛軍千人余りが鳳城駅を襲撃した。

 7月23日、日本軍は熱河(現・承徳)城内に航空機を侵入させ爆撃。

 7月24日、東北郵政社員の大撤退が始まり、関内北平、天津、上海、青島などの各指定場所に次々と撤退した。翌日、交通部は満州に対する郵便事務の受理停止を発表し、偽満に二重課税法を施行することを決定した。

 7月25日、関東軍主導による満州国協和会が設立され、溥儀は名誉総裁、司令官本庄繁が名誉顧問、張燕卿が理事長に就任。(協和会は民族協和と王道楽土の実現を目指すとし、関東軍による宣撫工作と青少年教育が主な目的で、さらには諜報活動も課せられた)

 7月26日、日本政府は武藤信義を駐満全権大使、林博太郎を満鉄総裁に任命。

 ▷ 7月28日、関東軍前線部隊への糧秣補給を輸送機三機で行ない、翌29日、馬占山軍主力を「壊滅」させた。

 7月30日、国民政府の宋子文財務相は、日本が国際協定に違反し、東北の税収を略奪したため、日本への庚子賠償金(1900年の義和団事件で当時の清国と国際列強との間に交わされ中国に課された多額の賠償金)の支払いを一時停止することを決定したと発表した。

 7月、蒋介石は50万人の軍隊を集め、湖北省、河南省、安徽省、湖南西部地域の共産軍陣地への第四次剿の囲剿(いそう:包囲討伐)作戦を開始した。(日本軍も共産軍を最大の敵としていたが、結果的に蒋介石の邪魔をし続けた)

 1932年(昭和7年)8月7日、傀儡満州の鄭小高首相と関東軍の本庄茂司令官は「満洲国鉄道・港湾・航空路・航空・新線建設管理協定」に調印し、これらの輸送施設を関東省に委託するとした。

 1932年(昭和7年)8月7日、海龍県山城市に駐屯していた日本守備隊50人余りが海龍県四合壁村陳家街屯小西溝(現在は四八石郷劉大村)に侵入し、当時、村の大部分の人が祝い事をする張振料の庭に集まっていたが、日本軍は狂ったようにこの集団に向かって射撃した。「匪賊討伐」という名目だが、罪のない庶民を見ても1人も見逃さず、128人の住民が惨殺された。

 8月8日、日本は武藤信義を関東軍司令官に任命し、駐満州国全権大使と関東庁長官を兼務させた。同時に、関東軍参謀長に小磯国昭を任命した。

 8月21日、日本軍は熱河に大挙侵攻し、南嶺で中国軍と激戦した。

 8月27日、日本政府は「九・一八事件」以降に世界から孤立した状況を変えるため、「国際関係の観点からの現況対処指針」を策定し、日本の関東軍は一時的に活動を停止した。

 8月28日、抗日義勇軍の第21・第24路軍が奉天=現・瀋陽を三方向から攻撃し、東塔空港を占領、日本軍の戦闘・爆撃機14機を破壊、焼却し、ガソリン貯蔵庫、格納庫、通信局も焼却、破壊した。 31日、抗日義勇軍は瀋陽工廠を再び攻撃した。 

 1932年(昭和7年)9月5日、国際連盟の調査団リットンとその一行は上海を離れてヨーロッパに戻った。

 9月7日、吉林駐屯軍第5旅団第13連隊第1大隊司令官の宋國栄が日本軍に反旗を翻し、10日、近くの反日軍と共に盤石県に侵攻した。

 同日、延吉県小盤嶺に駐留する日本軍守備隊は、花蓮流亭村の反日ゲリラ基地を襲い、53名を虐殺した。(花蓮は前年にも襲撃された)

 9月8日、 遼寧省撫順市大東洲村の抗日救国軍の根拠地に対し、日本軍守備隊が襲撃して、住民13人が殺され、520軒余りの家が焼かれた。(下記「大東洲村焼討ち」参照)

 9月9日、関東軍司令官の武藤信義と傀儡首相の郑孝胥が東北の鉱業資源を収奪するための鉱業権協定を締結した。

 9月15日頃まで、日本軍は満州南部の抗日軍への攻撃を強化し、遼寧省の遼東、東辺道の抗日軍を攻撃、山城鎮飛行場や鳳凰城飛行場を爆撃した。

 9月15日、日本政府は満州国を正式に承認すると発表した。

 9月16日、日本軍は「平頂山虐殺」を行った。平頂山炭鉱で遼寧人民自衛軍が日本兵3人を殺害したことを理由に、日本軍は200人余りの日本兵を平頂山村に派遣し、2700人以上の地元民を機関銃で虐殺した。(下記「平頂山事件」参照)

 9月、日本の臨時国会で「満州移民」の決定と第一次移民500人の予算を可決し、これ以降、満州への武装移民活動が始まった。(下記「満州第一次武装開拓団」参照)

 1932年(昭和7年)10月2日、国際連盟でリットン調査団の調査報告書が発表された。 報告書は「9・18」が日本の「事前に決定された綿密な計画」によって引き起こされたことを認めているが、満州問題の解決は「既存の多面的な条約を遵守」し、「満州における日本の利益を認め」、東洋の国際共同管理、と自治政府の設立という内容で、中国国際連盟代表団は6日、国際連盟調査団の報告に対し、遺憾の意を表明する声明を出した。(後述参照)

 10月9日、500人以上の日本軍が朝陽の三宝子義勇軍を包囲して攻撃、義勇軍は撤退したが、日本軍は村に侵入し、放火や略奪を行い、100人以上の住民を殺害、100軒以上の家屋を焼き払った。(下記「三宝営子の惨事」参照)

 10月14日、423人の日本人武装移民団の第一陣が佳木斯(ジャムス)に到着した。

 10月16日、日本機はハイラル扎蘭(じゃらん)の東清鉄道沿線を爆撃した。(この時、毒ガスが使用された)

 10月30日、日本関東軍の司令部が瀋陽から「新京」に移った。

 1932年(昭和7年)11月18日、日本の外務省はリットン調査報告書に対する意見書を発表し、日本の「満州国」に対する態度は国際条約に違反しないと主張し、満州を国際的に管理することに反対した。

 11月26日、朝鮮の平壌からの飛行部隊(第六連隊)は平壌に引き上げた。なお10/11から11/26までの間に第六連隊は約15kgの爆弾140発と700発近い機銃掃射を行った。

 11月22日、東北義勇軍の将軍蘇炳文、馬占山、丁超、李杜、王徳林、李海青らは連名で国際連盟に電報を送り、東北民衆自衛軍は必ず日本軍に抵抗し、決して屈服しないと声明した。東北三千万の人民を殺し尽しない限り、組織は存在し続け、人民は日本軍を追い払い、わが山河を取り戻すとした。

 同日、日本軍騎兵50余人は突然黒竜江省拝泉県高家屯を包囲し、村民18人を殺害、4人を負傷させ、民家に放火した。(下記「チチハル高家屯惨事」参照)

 11月28−30日、日本の重爆撃隊が内モンゴル扎蘭屯付近を爆撃、100・200kgの爆弾を用いて鉄道を爆破。

 11月29日、日本軍は飛行隊の援護の下、満洲里、ハイラルに進攻し、蘇炳文民衆救国軍を「討伐」した。

 11月30日、傀儡満州国は「阿片法」を公布し、阿片専売公署の設立を決定した。日本軍の統計によると、1932年(昭和7年)の阿片専売の純収入だけで2500万元に達した。

 1932年(昭和7年)12月1日、東北民衆救国軍は日本軍と碾子山で激戦して後退、日本軍は碾子山を占領した。さらに3日、日本軍は扎篤屯を占領し、李杜の部隊はハイラルから満州里に撤退した。

 12月4−7日、東北民衆救国軍は激戦の上、相次いで撤退し、日本軍はハイラル、満州里を占領した。

 12月11日、中国駐英大使館は声明を発表し、「九・一八」以来、日本軍による我が同胞の虐殺は5万8248人に達し、上海における「一・二八」の損害はまだ計算に含まれていないとした。

 12月13日、日本軍は遼東三角地抗日義勇軍を攻撃、苗可秀部隊は反撃して14日に竜王廟一帯で待ち伏せ攻撃し、日軍100余人を銃殺した。

 12月15日、遼寧省鞍山市岫巖に侵入した日本軍憲兵隊長板桓は30数名の村人を銃殺し、遺体は岫巖城北の壁際の下に捨てられた。

 12月17日、抗日義勇軍第56路司令劉景文率部は、哨子河、関門山付近で待ち伏せ攻撃を行い、日本軍150余人を殲滅し、遼陽参事官成沢直亮など100余人を捕虜にした。

 12月25日、熱河地区が急を告げ、各界から抗日を訴える電文が届いた。上海市の160を超える貿易協会会長の湯玉麟は大軍を迅速に整え、決死の抵抗を誓うとした。全国各界救国団体連合会も全国の軍人に自発的に出兵して国土を回復するように呼びかけた。

 12月31日、中国共産党臨時中央政府は、日本帝国主義の熱河平津(北京と天津)進攻による掠奪行為を非難し、省委員会に武装民衆による民族革命戦争を展開するよう指示した。

満州占領から建国へ

 前年12月23日、満蒙独立国家の建設を目指す「支那問題処理要綱案」が陸軍によって策定され、本土と朝鮮から満州に兵力を増派する。28日、犬養毅首相はその方策に基づいて張学良に錦州からの撤兵を勧告、それに対し張学良が了承し、翌日から撤退を開始した。それにより1月3日、日本軍は遼寧省錦州を占領し、さらに関東軍は参謀本部の承認のもとに28日、北満ハルピンへ出動、2月5日、ハルピンを占領、そうして日本軍は満洲の東三省全土の主要都市をほとんどその支配下に置いた。実は1月28日は第一次上海事変(後述)が起こされた日で、満州全域を占領するにあたって、世界の批判的な目をそらすために上海に事件を起こすべく工作がなされ、それがはまって事変の戦闘に並行して関東軍はハルピンに侵攻、北満の要衝チチハルも長期占領の態勢となっていて、前年の満州事変から約四ヶ月半で、関東軍は満洲全土をほぼ占領し、3月1日、世界の承認なしに独立国家としての満州国を建国するに至る。

 その前の1月14日、国際連盟理事会は、前年に日本の提案した満州問題を調査するために、イギリスのリットン卿を団長とする調査団派遣を正式に決定した。委員は欧米の要人5名と、紛争当事国の日本と中華民国から2名の外交官がオブザーバーとして参加することになった。この動きに並行して関東軍は満州への国際社会の目をそらせるために、戦闘地域を南に移して抗日・排日運動の激しい上海で戦闘を起こす戦略を立てた。そしてリットン調査団が到着する 前に既成事実として満州国を建国させることを急いだ。

アメリカの満州不承認宣言

 アメリカのスティムソン国務長官は、1月7日、日本の満洲全土の軍事制圧を中華民国の領土・行政の侵害とし、日本の侵略による現状変更を認めないとする不承認宣言を日中両国に覚書として示した。パリ不戦条約に違反する一切の軍事行動を認めないとするものであった。またアメリカの中国における条約上の権利・権益を侵害するような取り決めも認めず、中国政策における「門戸開放政策」の方針を確認するものでもあった。ただしアメリカは不戦条約批准の際、自衛戦争は禁止されていないとの解釈を打ち出し、また国境の外であっても、自国の利益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの留保を行い、さらに自国の勢力圏とみなす中南米に関しては、この条約が適用されないと宣言していたという弱さもあったという。それに対してイギリスは、「この文書にイギリスが連名して日本に共同通牒する必要はない」とアメリカに通告した。イギリスはすでに香港を領地としており、その権益問題もあって、東北の満州への興味がなかったためであった。日本の外務大臣芳澤謙吉もこれに同調し、「支那不統一の現状を酌量されたし」との文書を送った。日本政府は逆になぜアメリカがこの戦いを支援しないのか、理解できなかったという。名目的には中国で勢力を増す共産主義に対して日本はその防衛の最前線に立っているということであった。

日本人僧侶襲撃事件

 1931年(昭和6年)の満州事変から、中国全土に抗日運動が広がり、特に国際都市上海は貿易の中心であり、日本製品ボイコット運動などにより情勢は急速に悪化していた。この排日・抗日運動の激化を利用して陸軍少佐田中隆吉(参謀で裏の任務は諜報工作を専門とする特務機関員)は、1932年(昭和7年)1月10日に関東軍の板垣征四郎大佐(満州事変のきっかけとなった柳条湖事件の首謀者)に頼まれた謀略を実行した。その内容は「満州事変は当初予期せる如く進展しつつあるが、 世界列強の反対を考慮し、… 貴官(田中)におかれては上海における日支間の険悪なる情勢を利用し、上海において事件を起こし、世界列強の目を上海に集中させ、満州国独立の早期実現容易ならしむべし」というもので、板垣は工作資金2万円(現在価値約6千万円以上)を田中の口座に振り込んだ。田中は愛人の川島芳子(男装の麗人として有名)に1万円を渡し、中国人による日本人襲撃の裏工作を指示した(田中は1956年になって板垣に依頼されたと証言した)。

 1月18日午後4時頃、上海の馬玉山路を団扇太鼓を打ち鳴らし南無妙法蓮華経を唱えながら行進していた日蓮宗日本山妙法寺の僧侶2名と信徒3名が、抗日運動の活動拠点と見なされていた三友実業公司のタオル製造工場前で、突如中国人と見られる数十人の集団に襲撃された。その結果、僧侶の水上秀雄が死亡し、上海布教主任天崎啓昇ら2名が重傷を負った。襲撃したのは三友実業社の抗日運動員たちで川島に買収されていた。ところが川島は、現地の日本青年同志会(義勇団)にも金を渡し、三友実業社への報復を依頼していて、その32人が翌日19日から20日にかけての深夜、三友実業社に押しかけて暴力沙汰の後に放火した。群衆に混じってこれを指揮したのは憲兵大尉重藤憲文であった。

 その帰路、20日未明、東華紡績付近で共同租界工部局警察の中国人巡警2名の誰何を受けると、青年同志会は巡警2名を威嚇して交番まで追跡し、臨青路付近で応援の中国人巡警2名と乱闘になった。その結果、柳瀬松十郎が銃撃され即死し、北辻卓爾と森正信が重傷を負い、巡警1名が斬殺され、1名が重傷を負った。(これについては「事件の現場になった「反日」の三友實業公司に日本人30人が乱入し工場を放火、中国人と乱闘になり中国人2人を斬殺する一方で、日本人1人も射殺され多数が負傷する」という簡単な記述もある)

 1月20日、現地の『民国日報』は、三友実業社工場襲撃を日本海軍陸戦隊が支援したという報道をした。これに対し第一遣外艦隊司令官塩沢幸一少将が『民国日報』に抗議し、共同租界工部局は「1月9日の民国日報の不敬記事(後述の「桜田門事件」参照)及同月18日の日蓮宗僧侶等に対する抗日会の暴行事件に付いても、工部局は、民国日報の閉鎖、抗日会の解散を決議」し、26日に『民国日報』は自発的閉鎖を決定した。また上海の日本人居留民も20日に会合を開き、中国の排日運動殲滅すべしとの決議を行い、日本領事館や海軍陸戦隊までデモ行進し、強硬措置を取るように訴えた。

 1月21日、村井倉松上海総領事は呉鉄城上海市長に対し、1. 市長による公式謝罪、2. 襲撃者の逮捕と処罰、3. 負傷者と死亡した僧侶の家族に対する治療費の保障と賠償、4. 全ての反日組織の即時解散、の四項目を要求した。22日、日本海軍は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、925名の陸戦隊員を上海に派遣して、村井総領事と呉市長の交渉を有利にすすめようとした。情勢は極度に緊迫し、この時政権を担っていた孫科内閣はこれを処理し切れずに1月25日に辞職、 28日には汪兆銘が行政院長となり、蒋介石も軍事責任者に復活した。

 1月27日、呉市長は最初の三項目を受諾したが、第四項に関しては政府と相談するため30日までの公式回答の猶予を要請した。村井総領事は海軍に押され、28日午後6時までに満足のいく回答が得られない場合、必要と考えられる手段を行使すると最後通牒した。中国民の反日気運は一層高まり、これを受けて27日、日本を含む列国は協議を行い、共同租界内を列国で分担して警備することを決めた。それに伴い上海市参事会による非常事態宣言(戒厳令)が敷かれた。28日午後3時、呉市長は全ての要求を受諾したが、「呉市長が日本の要求を容れたることを聞くや、これを憤慨したる多数の学生等は大挙して市役所を襲いて暴行し、公安隊の巡警は逃亡する有様にて、支那の避難民は続々として我居留地に入り来り、物情騒然たる」という状況に至った。この緊張状態を受けて列国の軍隊は28日午後5時より各自の担当警備区域に着いた。日本軍は、最も利害関係のある北四川路及び虹江方面の警備に当ることとなったが、日本の「陸戦隊は当時1000人に過ぎざりしを以て、9時半頃更に軍艦より1700名(1820名ともされる)を上陸せしめ、合計2700名」とした。

(以上はウィキペディアその他の記述を混成)

第一次上海事変(1932年1月28日—3月3日)

【海軍による開戦と陸軍の派兵】

 1932年(昭和7年)1月28日、上記のように上海市政府は日本海軍の要求事項を全面的に受諾したが、それにもかかわらず海軍陸戦隊は (陸戦隊の増員も得て)その夜半に上海閘北一帯の警備区域を中国側に無断で拡大し、中国軍と衝突した。 これが上海事変(中国では一・二八事変と呼ぶ)の発端となった。以下はおおよそのあらましである。

 この戦闘では日本海軍の戦闘機を搭載する航空母艦2隻(加賀・鳳翔)が初めて実戦に参加した。飛行隊は公大基地に進出し、開戦の翌29日、市街地に空爆を加え(重点は北駅付近の宝山路一帯と宋公園路(現在の和田路)以東地区に置かれ)、その中で東洋(東方)図書館が爆撃され、図書館が収集した数万冊の貴重な古書が灰になった。上海はパニック状態となり市街戦へ発展し、 日本の海軍陸戦隊の2700名に対し中国国民党19路軍には35000人の大軍が投入され、苦戦となった 日本海軍は第3艦隊の巡洋艦7隻、駆逐艦20隻、航空母艦2隻(加賀・鳳翔)及び陸戦隊約7000人を上海に追加派遣することにし、これが1月31日に到着する。2月1日、中国側は上海各大学の義勇軍500人余りと救助隊300人余り、上海市民連合会義勇軍200人も19路軍に合流し前線に向かった(このほか、中国側の資料には大学義勇軍を総長が率いて参戦するという例がある)。同日、駐中日本公使重光葵は1万8千人の邦人の退去を命じ、翌日、邦人は続々と帰国の途に着いた。ただし居留民の多くは自警団として残った。一方で英国総領事が停戦の調停を行なっているが不調に終わる。

 2月2日、日本政府(犬養毅内閣)は陸軍の金沢第九師団及び混成第24旅団の派遣を決定した。2月5日、第一陣4000人が上海に到着し、7日までに24旅団が、13日には第九師団が上海に到着、陸軍の総数は約1万数千人、海軍と合わせて2万人となった(ただし、石川県の『日支事変録』には2月8日、金沢第九師団8866名出陣、14日上陸とある)。一方で7日、上海駐在のアメリカ海軍司令官が調停に入り、両軍が限界線まで撤退し、撤退地域は第三国軍が守備するという案を提案したが、両軍の動きは止まらなかった。 11日、海軍航空隊は上海の各所を爆撃し、永安第三製糸工場と吴凇大学が損傷し、持志大学は完全に破壊された。2月16日、国民党軍は4師団を増強して上海戦に投入した。18日、上海沖30kmの海上に進出した空母2隻の艦載機は地上軍の作戦に策応して市街地に対して(無差別)猛爆撃を行った。その威圧をもって同日、19路軍に対し列国の租界から20km撤退すべきことを要求した。しかし19路軍を率いる蔡廷鍇がこの要求を拒否、20日に日本軍は総攻撃を展開し、航空隊も上海の長江南岸呉淞(現・宝山)地区の中国陣地に爆撃を加え、中国機も反撃した。 23日、陸軍はさらに香川第11師団及び宇都宮第14師団の派遣を決定、上海派遣軍を編成する。同日、航空隊は上海虹橋空港を爆撃し、26日には杭州空港も爆撃、また29日に艦船から呉淞要塞を砲撃する。

 こうして日中両軍の戦闘は激烈を極め、ほぼ全面戦争の観を呈した。28日にも英海軍カーライル司令官の要請で、英艦上で両軍が会合し、停戦方法を協議するが不調に終わる。3月1日、陸軍第11師団が国民党軍の背後に上陸作戦を展開した結果、中国19路軍は退却を開始し、日本軍は中国軍が指定した地域の外に撤退したことを確認し、3月3日に戦闘の中止を宣言した。

 この戦闘の結果、日本軍は3月上旬には中国軍を租界境界線から20km外に撤退させた。この一方で、上海事変に世界の耳目が集まっている間に満州の関東軍は計画通り新国家樹立へ向けて迅速に行動し、上海事件の解決のために開かれる国際連盟臨時総会開催の二日前の3月1日、満州国建国の宣言をするという作戦を一応成功させた。 (この関東軍の作戦遂行過程については後述)

これに対し、米国務長官ヘンリー・スティムソンはこの事件は九カ国条約(1922年:大正11年のワシントン会議において九カ国で締結され、日本の中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図ったもの)とパリ不戦条約(1928年:昭和3年、フランスのブリアンとアメリカのケロッグの二人が提唱して実現した戦争を否定する初の国際条約でソ連、ドイツ、日本も含む15カ国が調印)に違反する、よって日中間のいかなる条約・合意も承認しない、中国の領土的・統治的一体性を損なういかなる既成事実も承認しないと声明した。上海戦に対する米欧など列強の反応は、前年の満州事変に比べてはるかに強硬であった。これは上海をはじめとする地域における列国の利権が脅かされたためである。そして日本軍は5月に入って上海事変に関して上海停戦協定を調印し、6月、衆議院本会議において、満洲国承認決議案が全会一致で可決される。

(以上はウィキペディアその他や中国の『抗日戦争大事記』などから混成)

 なお、石川県の第九師団が出征した記録のある『日支事変録』(1933年:昭和8年)には、「1月以降我が居留民の保護並び租界防衛に関し、支那側の国際義務不履行のため上海事変の勃発となり、ここに突如として我が第九師団に動員命令が発せられ、…… 正義に立脚する権益保護と同胞保護のために皇軍は陸海軍協力、一挙支那軍を膺懲(ようちょう)し、皇国日本の光輝を世界に宣揚し、さらに進みて国際正義に対する帝国の公正なる態度を開明して国威を発揚するを得たり」とあり、このような国内の精神的気分は次の第二次上海事変から日中戦争、そして太平洋戦争まで継続され、日本は敗戦まで十何年も目が覚めないことになる。この「皇国の正義の戦争」という観念は、その出征に際し、「第九師団に出兵の白羽の矢が立ったという喜び」で、出兵する駅には「見送り人の群衆で軍隊の乗車が出来ないほど」であったという記述に表されている。ただ、1930年(昭和5年)からの昭和恐慌で地方も疲弊し失業者も多く出ていた暗い世の中で、この戦争が当時の人々の気持ちをむしろ解放させる力があったかもしれない。

【戦死者と多くの住民の犠牲】

 一連の戦闘を通じて、上海事変における日本側の戦死者は769名、負傷2322名、それに対して中国軍の戦死者4086名、負傷9484名、行方不明756名であったが、上海市社会局は3月6日に中国側住民の死者は6080人、負傷2000人、行方不明1万4000人と発表した。 この中国側住民の死者が異様に多いが、その理由は以下である。

 戦闘が開始されてのち、日本人居留民の間で自警団が組織され、 銃や日本刀・棍棒などで武装して検問を実施し、便衣隊(平服で民衆の中にまぎれ込んでいる兵士)狩りをおこなったという。陸戦隊側も便衣隊を銃殺する旨の布告を出しており、自警団が便衣隊の名目で中国人住人を捕まえて陸戦隊(海軍)に引き渡したり、自ら監禁・処刑するなどの行動に出て、多数の中国人を虐殺した。これが中国側住民の死者が多かった理由とされ、重光葵公使は、2月2日付の報告で芳沢謙吉外相に宛て、「これら自警団の行動は、便衣隊に対する恐怖と共にあたかも(関東)大地震当時の自警団の朝鮮人に対する態度と同様なるものがあり(筆者の大正12年の項参照)、支那人に対して便衣隊の嫌疑をもって処刑せられたるもの数百に達するもののごとく、中には外国人も混入し居り将来の面倒なる事態を予想せしむ、ために支那人外国人は恐怖状態にあり」と述べている。さらに海軍軍令部はその状況を、「長期の排日・抗日に因りて激昂動揺せる在留邦人は、更に便衣隊に対する不安の為に益々平静を失い、遂に恐慌状態となり、流言頻々として底止する処を知らず、初め自警団を組織して便衣隊に備えたりしたが、其の行為常軌を失し、便衣隊以外の支那人をも之を惨殺するの傾向を現出し、かつ陸戦隊にありても、居留民の言を信じて過てる処分を行う者を生じたる」と記録している。

【海軍の謀略と空爆】

 海軍は陸戦隊による地上戦に加えて、航空隊による空爆・爆撃を続けて繰り返し行い、地上戦を優位に導くが、以下はその一部、1932年(昭和7年)2月18日の戦闘状況である。

 上海沖30kmの海上に進出した空母2隻の艦載機は地上軍の作戦に策応して市街地に対して無差別爆撃を行った。両艦搭載の艦上攻撃機・戦闘機の数はそれぞれ41機と26機であった。アメリカ人記者エドガー・スノー(後の歴史学者)の『極東戦線』 の記載によれば、「空襲は1時間半近くつづき,水上機はそれぞれ4、5発の爆弾を落とすと、また新たに積み込むために基地へ帰って行った。高性能の空中魚雷とともに、50ないし100 ポンドの硫黄を詰めた焼夷弾が投下され、中国市民が密集して住んでいる地区を爆破した。この空襲は何の予告もなく、住民は避難する間もなかったので、何十人が粉々に吹き飛ばされ、あるいはたちまち燃え広がる炎の中で焼き殺された」とある。また28日間に及ぶ一連の爆撃の結果、103の街路、数万軒の家屋が破壊されたと中国側の記述にある。

 ちなみに、2月22日、アメリカ人義勇兵の乗った中国空軍戦闘機ボーイングP218が、日本の空母「加賀」の艦上攻撃機1機を撃墜した。それに対して日本の艦上戦闘機3機がボーイング機に反撃、蘇州上空において撃墜した。これは最初の空中戦による戦果であるとして日本国内で大きく報道された。

 この上海事変について、日本の海軍省は、日本側からの先制攻撃ではなく正当な行動であったことを強調している。攻撃を仕掛ける側の言い分はこのように常に相手の責任とするが、今回は既述のように、上海市政府が日本海軍の要求事項を全面的に受諾した直後に上海駐留海軍陸戦隊の攻撃が「予定された作戦計画によって」行われている。基本的に抗日運動は「敵対行為」であり、それを武力で鎮圧するのが「正当な行動」とするのであろうが、そもそも自国を占領された側が敵対して抵抗運動をするのは当たり前である。実はこの五年半後の日中戦争(支那事変)を具体的に仕掛けたのも海軍であり、その陸戦隊が攻撃の端緒を開き、すぐ翌日に海軍航空隊が上海や南京に空爆を開始、戦線を急拡大させている(後述「昭和12年」の第二次上海事変参照)。最初のきっかけ(騒動)はどちらも陸軍の関東軍が起こしているが(日中戦争も陸軍の盧溝橋事件)この展開はこの第一次上海事変とそっくりであり、ただ第二次以降は陸軍の上海派遣軍が上海制圧後に政府の宣戦不拡大方針にも関わらず欲を出して南京攻略に暴走し、それを海軍航空隊が同時に支援した。すでに海軍飛行隊は新鋭機を大量に投入していて、すぐに中国各地への無差別空爆の主役となり、そこからほぼ8年間爆撃は絶えることなく継続され(その後半海軍は太平洋戦争に主体を置く)、その回数としては太平洋戦争における米軍の日本本土への空爆をはるかに上回り、多大な犠牲者を出していく。

第一次上海事変を利用した関東軍の謀略と空爆

 前年末から陸軍の飛行隊は占領した満州の反乱地域に爆撃を続け、この1932年(昭和7年)1月1日にも遼寧省錦州を10機で空爆、3日に関東軍は錦州を占領した。その後静岡県浜松からの重爆隊はいったん日本に戻るが軽爆隊は残り、1月下旬には再び大虎山やその北方の梨樹県、本渓湖や鳳城市東側山地などを爆撃し、満州の抗日部隊根拠地を威圧する作戦をおこなった。もともとこの上海事変は、陸軍(関東軍)が満州の占領を安定化させるために満州国なるものを設立しようと企だて、その動きを国際社会の目からそらすために一つの事件(日本人僧侶襲撃)を生じさせ、日中が一触即発状態になったところで海軍陸戦隊が攻撃を仕掛け、端緒を作ったもので、その開戦の日に合わせて関東軍が満州地区の占領拡大へと走り、その侵攻作戦に合わせて陸軍航空隊が爆撃を重ねた。

 以下、筆者自身がまとめた「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」からの抜き書きで、上記の第一次上海事変(1/28—3/3)に行われた海軍の航空隊による爆撃の裏で、それに劣らない爆撃が陸軍飛行隊によって行われている。なお、筆者のこの時期の記録は、主に一つの資料(「戦争の拠点・浜松(1)-「満州」侵略と陸軍飛行第一二大隊-竹内康人」)によっている。

*1932年(昭和7年)1月28日(上海事変開戦の日)、関東軍は飛行隊による空爆支援のもと北満(黒竜江省)ハルビンへ出動した。

*1月30日、奉天の飛行場から出撃、錦州の大凌河付近の抗日軍を爆撃。

*1月31日、黒竜江省哈爾濱(ハルピン)市双城への地上軍の攻撃に呼応して、延べ8機が退却する中国軍を追撃した。この双城に飛行場を造成。

*2月4日、地上部隊の攻撃に合わせて双城の飛行場から述べ8機がハルピン南側陣地を爆撃。また吉林自衛軍と市郊外で激戦を繰り広げた。

*2月5日、地上軍の払暁からの猛攻撃に合わせハルピン南側陣地および密集部隊を反復爆撃、午後、地上軍はハルピンを占領、飛行隊は退却する抗日部隊をさらに追撃した。

*2月6-8日、ハルビン退却中の抗日部隊を攻撃、続けて7、8日も車両と騎兵、歩兵部隊を追撃する。

*2月11日(以降の日)、満州東部吉林省の朝鮮との国境に接する延辺間島地区において朝鮮族の抗日組織を「討伐」すべく、爆撃を行う。さらにその北方の黒龍江省寧安東京城の抗日組織に対して吉林省敦化より爆撃、「粛清」した。

*2月19−20日、陸軍飛行隊は占領したハルピンの飛行場から13機が出動、ハルピン内の巴彦県の抗日司令部を攻撃、爆弾20数発を投下、翌日、11機が枷板帖(現・賓安鎮)の中国軍部隊を爆撃した。

 こうして3月1日、中国の東北部に満州国を建国し、3月3日、陸軍は上海派遣軍に停戦命令を発する。ただし関東軍による爆撃はここで終わらず、こうした日本軍の占領政策に対し、前年から満州各地で抗日義勇軍が結成されていて、それらは民衆自衛義勇軍、救国軍、民衆自衛軍、国民(民衆)救国軍などの名前で次々と結成された。そして陸軍飛行部隊はこれらの抗日軍への弾圧用に使われていく。

 この後、年末までおよそ百数十回ほどの満州の抗日軍居留地区への爆撃があり、それは翌年も長く繰り返されるが、下記はその中で中国側が記している空爆被害の詳しいものから拾い出した。(主に『侵華日軍暴行総録』河北人民出版社より)

*4月2日未明、遼寧省遼陽を侵略した日本偽軍(中国で日本軍に加担した中国人軍隊:傭兵)警察司令部は1000人の兵力を集め、飛行機、大砲の支援の下、三路に分かれて沙嶺に向かい抗日軍への討伐を開始した。日本の飛行機は先に沙嶺において無差別爆撃を行い、蒋六子と金朝喜の娘を爆殺、金朝喜は腕を吹き飛ばされた。抗日救国鉄血軍は民間人の犠牲者を減らすため分散して移動した。日本侵略軍に協力した中国人巡査は、司法警察と共同して沙岭で大捜索を行い、鉄血軍の炊事係王明石を東崗子に連行して殺害した。その翌日からも匪賊討伐として遼陽各地で抗日軍が捕縛され、また一般の町村民も抗日軍の疑いで殺された。(日本軍の侵略に抵抗する集団を「匪賊」と称しているが、侵略相手が自国を守るのは当然の行為で、しかしこの呼び方は1945年:昭和20年の日本の敗戦まで続く)

*4月6−7日、日本機はハルビン市依蘭の抗日司令部、主要施設、兵集団に対し72発の爆弾を投下。引き続き占領した方正飛行場から依蘭の抗日司令部などを偵察部隊と共に攻撃し、50kg爆弾96発や重爆弾、焼夷弾など計144発を投下した。(この11年9ヶ月後に日本が米軍の焼夷弾によって東京などが焼き尽くされる方法をすでに使っている)

*4月某日、日本の航空機3機が黒竜江省綏化(すいか)地区双河鎮西街路の南北7カ所に爆弾21発を投下、民家10数軒を爆破、住民14人を爆殺、10人が重軽傷、牛3頭が殺戮された。なおこの後の5月27日、綏化に関東軍がやってきて、「赤色分子」として多くの住民を捕らえ、そのうちの何人かが殺され、さらに6月には匪賊抗日軍討伐として民家40軒余りに火を放ち、村人60人を殺害した。

(関東軍は、5月中旬より満州各地で蜂起する反日軍に対処するために上海で活動していた航空隊もハルピンに集結させ、「匪賊討伐作戦」として北満=黒龍江省や吉林省において地上軍の支援のため6月まで毎日のように空爆させたが、具体的な日付は抜け落ちているものが多い。ただこの時期は雨季のため、この地の飛行場はまだきちんと舗装されていないこともあって、毎日は出動できなかったとの記述もある)

*6月23日、日本の関東軍は20日に遼寧省朝陽県二車戸溝を攻撃するが、 現地の義勇軍の反撃に遭い一旦退却、再び23日に占領した錦州からの飛行隊の偵察と爆撃の支援を得て侵攻、義勇軍は頑強に抵抗しつつ撤退した。しかしこの後の秋、関東軍は報復攻撃をしかけた。(下記の「朝陽二車戸溝惨事」参照)

*6月24日、早朝、遼寧省朝陽県南広富営子村に迫撃砲や機関銃の射撃があり、また数機の飛行機が旋回しつつ村に銃撃をし、ある家には火がついた。その後日本軍は村に入り、匪賊(抗日救国軍)を出せと言い張り、その結果、27人の村民が殺された。

*8月19日、日本陸軍機5機が遼寧省盤山の高昇鎮上空から大量の爆弾投下と機銃掃射をおこない50人余が死亡した。(下記、「盤山高昇鎮爆撃」参照)

*9月27日、抗日義勇軍が遼寧省錦州の日本軍を攻撃したことへの「報復」攻撃として、錦州老城区の大雷溝(小さな村)への爆撃を含めた攻撃がおこなわれた。日本の関東軍は民衆を広場に集めて抗日軍の居場所を問いつめ、民家に火を放った。

*10月9日、関東軍は遼寧省朝陽県三宝営子にいる抗日義勇軍を攻撃、飛行機からも爆撃し、機銃掃射した。(下記の「三宝営子の惨事」参照)

 この後もチチハルやハイラルなどの抗日軍への爆撃が続くが、満州各地の抗日義勇軍の主力はこうした日本軍の攻撃によって1933年(昭和8年)1月には後退を余儀なくされた。しかし侵略された側の民衆は抗日遊撃隊(ゲリラ)となって「偽満州国」の統治に対し抵抗しつづけていく。このように満州事変後からの陸軍は各地の抗日軍制圧として絶え間なく飛行機を活用していることが見て取れるが、こうした空からの爆撃の下に、どれだけの一般人が悲惨な目にあっているか、当の爆弾を落とす兵士たちはほぼその惨状を目にすることはなく、単に目に見えない「敵」を攻撃するという平常心で行うことができる。これがさらなる航空機の進化によって世界的に非戦闘員(庶民)を数多の惨劇に巻き込んでいくのが20世紀の戦争であって、すでにこの時代にこれほどの空爆を繰り返していた国はないし、日本軍が先陣を切って行っていたことがよくわかる。この後も海軍が航空母艦や戦闘機と爆撃機を増強して力を蓄え、日中戦争(支那事変)開戦後に、中国の都市という都市を破壊し、多大な住民の命を奪っていくことになる。こうした中国への爆撃の事実は日本ではほとんど知られていないが、後年、日本が米軍から受けた空襲の記録は各地で調査され尽くして知られているという矛盾がある。

上海事変余話:肉弾三勇士

 第一次上海事変中の2月22日、蔡廷鍇率いる国民革命軍が上海の呉淞(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いたトーチカと鉄条網で守られた敵陣へ突入するため、事前に鉄条網を破壊する作戦が決定される。この作戦に約36名が志願し、3名が選ばれ、突撃路を築くため点火した破壊筒を持って敵陣に突入爆破、自らも爆発に巻き込まれて3人は戦死した。当時陸軍大臣の荒木貞夫がこの件を、爆弾三勇士(あるいは肉弾三勇士)と命名し激賞、3名(江下・北川・作江)は戦死後それぞれ二階級特進して、陸軍伍長となる。

 新聞各社は、「帝国万歳と叫んで吾身は木っ端微塵、ああこの犠牲行為」/ 「忠烈まさに粉骨砕身」/「葉隠れ主義の露堂々」/「壮烈無比の勇士」等々と、これを美談として大々的に取り上げ、全国的に反響を呼び起こした。 軍国熱も高まっていた中で、英雄として映画や歌にもなり、陸軍始まって以来ともいわれる弔慰金が集まって、東京の青松寺と郷里に像が建立され、その絵葉書も作られた。歌は新聞社によって懸賞募集された(筆者の「日本の軍歌とその時代背景:昭和7年」参照)。 ちなみに爆弾三勇士の像は敗戦後のGHQの占領政策で、軍国主義に結びつく像や碑を撤去する「通牒」が出され、それによって撤去された。

 しかし、3名の死は技術的失敗によるものという説もある。それに同時に攻撃に参加した別の班(総勢35人)や、同じ敵陣地の別方面を担当した工兵部隊も同様の攻撃を行い、この中にも戦死者は出ているが、この影に隠された。一方でこの三勇士は小学校の教科書にも載せられ、運動会の種目なったり、子どもたちも爆弾三勇士ごっこに興じたりするほどに、子供達を洗脳する格好の材料となって、「自分も大きくなったら兵隊になり、勇敢に死のう」のように考える土台となる。

 そうした世間的状況と、実際に関わった将兵の心の内実との乖離を表す記事がある。—— この時の突入を命じた上官(内田徳次郎)も英雄としてもてはやされたが、戦後70年の2015年(平成27年)に佐賀市内の遺族宅の仏壇から彼の小さな日記が見つかり、その中には「自分が破壊筒に点火を命じた」とあって、「兵は一目散に駆けて後退したと思いきや爆音天地を動かし約十米を破壊」して、成功だと思って万歳を唱えたが、二人が爆死し、残り一人は間もなく死亡した。翌朝、「目を覚ますや自分の分隊の者を一夜露天に残したかと思えば涙を止め得なかった」と、その死を悔やみ、「泣いてむせぶ」。その3月に帰国し、実家の仏壇の前で「俺が殺した、悪かった。すまない」と繰り返していたと兄が語っていたという。内田はその後再び召集され、4年後に満州で戦死した。遺族宅には遺影とともに当時の工兵連隊長が贈った「肉弾三勇士の指揮官としてその勇名を世界に轟かせり」という書面もあった。(2021年:令和3年2月18日、朝日新聞)

リットン調査団の視察

1932年(昭和7年)1月に結成されたリットン調査団が、2月29日に来日、その翌日に傀 儡国家、満州国の建国が長春で発表された(既成事実を作っていこうとするものであった)。日本では荒木陸相と会い、中華民国では上海、南京、北京と渡って蒋介石、汪兆銘、張学良と会って、満州の調査に入ったのが4/21であっ た。そして当時「執政」の座にあった溥儀とも会談した。さらに満洲で抗日活動を続ける馬占山将軍との会見も試みたが、日本側の反対に会い実現できなかった。調査団の視察は6月に完了したが、関東軍は調査団の報告書が提出される前にできるだけ多くの既成事実を作る当初の作戦を完遂するため、東京の参謀本部の「不拡大」の指示を無視して戦火の拡大をつづけた。

 年初の満州占領を受けて、1932年(昭和7年)3月1日、関東軍主導のもと前黒竜江省長張景恵を委員長とする東北行政委員会によって満州国建国が宣言された。これは誰が見ても明らかに日本軍が主導する傀儡国家であったが、国家元首として清朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀を関東軍は擁立した。首都は新京(長春)、元号は大同とされ、3月9日、溥儀の執政就任式が新京で行なわれた。国際的に満州は国家として承認されることはなかったが、これにより日本は台湾、朝鮮に続いて三国を植民地にしたことになる。その後熱河省都承徳を占領し、4月には長城線を確保し、万里の長城が満州国と中華民国の境界線になった。満洲国発足にあたっては、日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人の「五族協和」をうたい、「王道楽土」を実現すると称したが、その実態は関東軍による軍事国家としての支配であった。これによって反満抗日武装闘争は加速し、その数は1932年(昭和7年)春に30万人を越えていたと言われる。

 犬養毅内閣は3月12日、「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定し、満州の租借権の設定は日本が満洲国から受けている形に改定された。あくまで形式上日本は直接の関与をしていないというやり方であった。実質上満洲全土が日本の勢力下に入ると、鉄道付属地(鉄道とその周辺の土地で当然沿線の駅周辺も含み、そこから植民地としての基盤が形成されつつあった)は必要なくなり、1937年(昭和12年=日中戦争開始)に満洲国に「返還」された。これに伴い、地方部の行なっていた付属地行政(土木・衛生・教育)も満洲国政府に移管され、満鉄地方部は廃止された。大量の満鉄職員(鉄道関連だけではなく学校教員を始めとする社会的運用に必要な職員)が満鉄から満州国へ移籍した。

 以下は執政溥儀が就任式の翌10日、関東軍司令官中将本庄繁にあてた書簡である。

一、弊国(満州国)は今後国防及び治安維持を貴国(日本)に委託しその所要経費はすべて弊国に於いて之を負担す。
二、弊国は貴国軍隊が国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空等の管理ならびに新路の敷設はすべて之を貴国または貴国指定の機関に委託すべきことを承認す。(以下略)

 当然これは溥儀自身が書いたものではないはずだが(そもそも日本の天皇の詔勅なども天皇自身が書いたものではない)、出来レースと言ってよい。ただ、あまり知られていない事実として、この満州国には国籍法がなく、従って法的な意味での満州国民はいなかった。つまり仮想の国であった。

 なお、この時に公布された『満州国人権保障法』は、「全人民に対して誓約す」と前文に書き、「第一条、満州国民は身体の自由を侵害せられることなし、公の権力に拠る制限は法律の定むるところに拠る」と規定している。しかし満州を属国として統治する日本は、これらが存在しないものとして圧政を重ねていく。圧政だけであればまだよいが、多くの人々が横暴な軍政下に文字通り圧殺されていく。

上海天長節爆弾事件

 欧米4ヶ国が調停に入って上海事変の停戦交渉がほぼまとまりかけていた1932年(昭和7年)4月29日、日本の上海派遣軍と在上海日本人居留民は虹口公園(現在の魯迅公園)で天長節(昭和天皇誕生日)の祝賀式典を開催した。そこに朝鮮人尹奉吉が爆弾を投げ込み、白川義則上海派遣軍司令官、河端貞次上海日本人居留民団行政委員長が死亡し、重光葵公使は右脚を失い、野村吉三郎中将、植田謙吉中将、村井倉松総領事らが重傷を負った。白川義則も重光葵も国際協調派の要人であった。

 この事件(テロ)は、1919年(大正8年)に日本の統治下にあった朝鮮で起こった独立を目指す三・一運動後に、その活動家らによって中華民国の上海で大韓民国臨時政府(亡命政権)が結成され、この組織は中国国民党支援を受け、ほぼ国民党傘下に属していたが、その首班金九が尹奉吉をテロの実行犯として差し向けたことによるという。当日の祝賀会場への入場を中国人は一切禁止されていたため、組織は日本語が上手で日本人に見える尹奉吉を使うことにした。また先の1月に、同じ大韓民国臨時政府傘下の愛国団の一員であった李奉昌が東京で昭和天皇を暗殺しようとしたが(桜田門事件を参照)、手榴弾の威力が弱く失敗していた。その教訓から今回はより威力ある爆弾を使うことにした。そして尹は弁当箱に擬装した爆弾を持って入場することに成功した。式典の中で海軍軍楽隊の演奏で一同君が代を斉唱していた時に尹は爆弾を投げ込んだ。尹はその場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後に自殺を図ろうとしたところを捕えられた。

 尹は検挙されて上海派遣軍憲兵隊で取り調べを受け、軍法会議を経て12月19日に金沢刑務所で銃殺刑となった。24歳であった。事件の首謀者であった金九は、犯行声明をロイター通信に伝えたうえで上海を脱出し、日本軍は金九に60万元の賞金を懸けた。また上海の日本総領事館警察はフランス租界警察の了解を得て捜索し、安昌浩ら大韓民国臨時政府のメンバー17名を逮捕した。

 一方で一時は朝鮮排華事件(1931年:昭和6年7月3日に発生した朝鮮半島における朝鮮人による中華街襲撃事件と中国人殺傷事件)で険悪だった中国人の対朝鮮人感情は好転し、臨時政府には中国各地から献金が集まった。ただ、臨時政府は独立運動の拠点であった上海を失い、1937年(昭和12年)の日中戦争勃発まで杭州を拠点としたが、その後は国民政府と共に重慶に移り、国民党の中国軍事委員会の下部組織として存在した。事件が発生した魯迅公園北側には、中韓国交正常化以後に現場を示す石碑と尹を記念する建物があり、資料館となっていて、現在では韓国人観光客の上海観光スポットの一つとなっている。

(以上はネット上の各種資料を混成)

満州国協和会の役割

 前年の「在満日本人の活動」で満州国青年連盟が満州事変後の治世に果たしていく役割を記したが、3月の建国宣言によってその自治指導部は解消され、青年連盟は新たな役割を担うべく4月に「協和党」を結成、 その主旨は「本党は国家構成の中枢となるべき満蒙諸民族の青年を以て組織し」とあり、これまでと同様、民族協和主義を唱えた。しかし「党」の名が関東軍に受け入れられず、7月に満州国協和会として発足した。その間、青年連盟は5月に二度ほど『満州評論』に満州協和会の名で「全満の愛国者よ手を握れ」という呼ぴかげの 投書を掲載し、6月には協和会代表と国際連盟(リットン)調査団との会見、日本への使節の派遣などの活動をおこなった。また先にハルビンとチチハル方面へ派遣していた宣撫工作員50名、さらに約20の都市に派遣していた工作員36名をして、協和会分会の結成を準備させた。7月18日、満州国協和会設立委員会が首都となった新京国務院で開催され、25日、その設立が決定された。名誉総裁は溥儀、名誉顧問は関東軍司令官本庄繁、名誉理事に板垣などで、その他会長や理事長に中国人、事務局は日本人が担うことになり、その中心は青年連盟の主要メンバーの山口重次であった。

 この協和会は軍政下の満州国の中では思想的にも施策的にも重要な役割を担い、「王道楽土」 「民族協和」「共存共栄」を掲げ、関東軍の打ち出す施策の一翼を担った。仮にも分裂的な団体が結成されると、関東軍はその活動を禁じ、協和会に吸収させた。それは中国人団体に対しても同様であった。会員数は、もとの青年連盟が約3千人であったものが、1934年(昭和9年)には30万人に達し、1936年(昭和11年)に規約が改正され、翌年には80万人、日中戦争突入後の1938年(昭和13年)には(国家総動員法発令後)110万人を超えている。しかも民族別でいうと、満州および蒙古人96万人、日本人13万人弱、朝鮮人4万人強、ロシア人3千人弱の構成となっている。この時期、満州の総人口は約4千万人であった。

 1934年(昭和9年)、溥儀を満州国の元首から皇帝に推戴し帝国制を敷くことになったが、これを推進したのも協和会であった。これにより 協和会は組織的に安定し、満州国唯の政治団体となった。しかしこの年、協和会が政府 に対立的な存在となる可能性をつみと るために、日系官吏と協和会幹部の入れ替えをおこなうことになり、協和会創設以来の中心メンバー山口などは辞任した。 こうして協和会を国家動員体制へ組み込むための準備がなされ、会は全国民の組織体として運営すべきこと、あらゆる民族、職業、階層にわたって広い組織網を展開することが課された。1936年(昭和11年)には二度目の改組がなされ、政府と協和会の表裏一体関係が築かれ、 国家動員体制を推進していく。

 1937年(昭和12年)初頭、青年訓練実施のため、協和会は青年訓練所 、青年訓練指導員講習所を創設、1938年(昭和13年)6月 には青少年組織大綱が発布され、満州国の青少年は、民族、性別、職場の差を問わず、すべて協和青年団、協和少年団に「統合一元化」 され、協和会の指導をうけることとなった。さらに7月、国務院訓令によって、協和義勇奉公隊が結成された。 これは重点地域において 国民的防衛および警備の訓練をおこなう民間警護組織であり、日本国内の軍事的施策に先んじるものであった。 1937年(昭和12年)の日中戦争開始後、吉林省東辺道において朝鮮共産党系の「共匪 」の活動が活発となり、また熱河省では1938年(昭和13年)から中国共産党八路軍の頻繁な侵入に悩まされ、関東軍は国境警備と討伐の特別工作を両地方に実施、そこで協和会は協和青年行動隊を結成し、情報蒐集、収穫援護、輸送援護、宣撫宣伝工作に従事した。1941年(昭和16年)からは日本国内と同様な隣組制度を設置するなど、大政翼賛会的な活動組織となっていく。

(J-STAGEの論文「 満州国協和会の政治的展開」平野健二郎より略記)

歴史上隠された中国における数々の事件と惨劇

 筆者は1937年(昭和12年)の日中戦争(支那事変)開始まで、つまり1936年(昭和11年)までは主に日本側の資料を参考にしながら記述していたが、そもそもこの稿全体の主旨は戦争の被害者側に特化した記録をまとめることであり、その面では日本側の資料だけでは物足りないものがあった。特に日中戦争時の南京事件にいたるまでに、その6年前の満州事変からも被害者側の数知れない隠された惨事があることを認識するようになり、これはまた別稿の「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」で克明に示しているように、我々日本人にはほとんど知られていない。その理由は昭和の初期の戦争は、メディアには表向きの勝利的戦闘しか伝えられていず、また軍の将兵たちが日本に帰還してからもその実態を個々の人たちが語ることはまずなかったからで、とりわけ太平洋戦争突入後からは中国に対する戦闘および占領下の出来事は二の次として軽視されてきたことが大きい。また中国側も日本軍による長い占領を終えても、国民政府軍と共産党軍の熾烈な内戦があり、共産党が勝利したのちも、大きな国を安定させるまでに数十年という長い年月が必要であった。そうして中国国民の生活が落ち着き、過去の調査が始まり、いろいろな証言が出てくるのが1990年(平成2年)前後からである。またこの傾向は日本側も同様で、数々の証言が表に出てきたのはやはり1990年(平成2年)前後からである。

 以下に記す多数の「事件と惨劇」は、1937年(昭和12年)後半の日中戦争開始後の南京虐殺というテーマの中でしばしば問題にされることであるが、すでにその6年前の満州事変から前触れのように行われていたことを明らかにするものである。その内容は南京事件同様、信じがたいものが多く、そのまま書き写すこともためらわれるが、戦争とその後の占領という「無法の状況下」になると、人間がどれだけ想像を超える残虐行為に(罪の意識もなく)導かれていくかということを表している。

(以下は『侵華日軍暴行総録』河北人民出版社:1994年より)

【ホルチン左翼後旗吉爾嘎朗惨事】

 1931年(昭和11年)の九・一八事変の後、日本軍は中国の東北及び東部内蒙古の広大な地域を占領した。当時、ホルチン左翼前旗(現・遼寧省彰武県一帯)及びホルチン左翼後旗(現・内モンゴル自治区哲里木盟)の国境地帯では、民衆が自発的に結成した100人余りの「紅槍会」が武装していた。彼らのスローガンは「満州国打倒、日本人追放」だったが、この抗日武装が失敗した後、日本軍は抗日活動地域の民衆に対して狂ったような報復を行った。1932年(昭和7年)1月、日本軍はホルチン左翼後旗南部辺境地区から、民間人60人余りを逮捕し、康平県、ホルチン左翼および前旗の監獄にそれぞれ投獄した。このうち吉爾嘎朗(ジルガロン)監獄に収監されたのはホルチン左翼後旗双廟子村、劉大工窩舗、四喇嘛窩舗と黄花子一帯から逮捕された15人で、日本軍はこれらの逮捕された中国人に対して多種の残酷な拷問を加え、罪を認めさせた(その拷問の内容はとても書けない)。…… 尋問中に拷問されて死んだ者もおり、残りは一晩中ジルガロン南西の砂場に引き込まれて生き埋めになった。生き埋めになった時、彼らは抵抗したが、日本軍は刀で切ったり刺したりして、彼らを穴の中に押し込んだ。2年後に13体の死体がここで発見された。

【通河県城惨事】

 1932年(昭和7年)2月5日、日本の関東軍多門師団は黒竜江省チャハルを占領した後、天野旅団に中東路に沿って東に進軍することを命令し、そして江沿いの各県に対して武装占領を行った。4月30日、日本軍61連隊が通河県城に侵攻、日本軍は県城を占領してから人を見ては殺して、人に会っては斬り、城内の路面は血で染まり、木の枝の上には血まみれの首が掛けられた。この惨事で抗日将兵と無辜の人々300余人が犠牲になった。街の商店街は日本軍に爆破されて廃墟になり、乾余間の民家は瓦礫になった。

【庄河寇半溝の惨劇】

 1932年(昭和7年)4月初め、日本傀儡軍安東(現・丹東)地区警備隊は司令官李寿山の指揮の下、奉天の大東溝竜王廟に陣取っていた。ある日、日本軍は同隊に命令し、遼寧省大連市庄河の寇半溝を襲撃させ、庄河抗日独立団を包囲討伐させた。そこで「通匪」「匪属」と称して62人を逮捕、縄で縛って護送し4月7日、庄河の高嶺曲木房に到着。この時、寇半溝の抗日独立団は劉同先と王宝緒の指揮下で、双塔嶺の前坡で日本守備隊と戦った。抗日軍は優勢な地形によって日本軍を撃退し、日本軍は死傷者を車に積んで逃げようとしたが、李寿山は千人以上の傀儡軍を指揮して双塔嶺の後斜面から独立団に向かって猛攻し、抗日軍は後方に敵を受け、撤退を余儀なくされ、200人以上が捕虜になった。4月8日、傀儡軍は捕虜を寇半溝に連れて行き、小学校の教室に収容し、李寿山はその場に「裁判所」を設け、一人一人尋問した。そこで地元の名士の李徳賢、寇永忱などが自分の身を担保にして、200人余りを保釈した。残りの60人余りに対し李寿山は日本軍の信用を得るため、その中から32人を選び、英那河のほとりに引っ張って行き、首を切り落とした。残り30人余りは行方不明になった。

 同じ日、日本軍庄河守備隊は前日に双塔嶺で敗北したため、庄河の支配を守るため一小隊を派兵し、トラックに乗って寇半溝まで行き、傀儡軍司令官李寿山が捕らえた捕虜の中から抗日軍10名を連れ出し、彼らを縛って自動車で連行した。双塔嶺を過ぎたころ、二人の住民が山道から降りてきて、日本軍は驚いて抗日本軍だと思い、取り囲んで身捜しをすると二人が赤い帯を締めていることを見て(二人は新婚間もない)、彼らは大刀だと言い、強引に二人を車に押し込めた。4月9日の夕、日本軍はこの12名の無辜の民を小河東村の林の中で銃殺し、首を切り落として道端の電柱にぶら下げて見せしめにした。

【抗日救国鉄血軍捕虜虐殺事件】

 1932年(昭和7年)4月2日未明、遼寧省遼陽を侵略した日本の傀儡軍警察司令部は千人の兵力を集め、飛行機、大砲の支援の下、3路に分かれて沙嶺に向かい抗日救国鉄血軍の討伐を開始した。日本の飛行機は先に沙嶺において無差別爆撃を行い、蒋六子と金朝喜の娘を爆殺、金朝喜は腕を吹き飛ばされた。抗日軍は民間人の犠牲者を減らすため、分散して移動した。日本侵略軍に協力した中国人警察官は、司法警察と共同で沙嶺の大捜索を行い、その翌日からも匪賊討伐として遼陽各地で抗日軍を捕縛し、町村民も抗日軍の疑いで次々と殺害した。4月3日深夜から4日にかけ、奉天の日本傀儡軍警察部隊は遼陽で抗日救国鉄血軍のいる村々を包囲討伐した。鉄血軍の25人の兵士が犠牲となり、40人余りが捕虜となったが、二日目午前7時、22人が遼陽西関外大壕溝で殺され、4月10日午前5時、16名の捕虜が殺された。さらに沙嶺地区に対して精査を行い、村長など9人を連行、彼らを抗日救国鉄血軍だと決めつけて鞍山八掛溝に移送して惨死させた。

【海倫県海北鎮惨事】

 1932年(昭和7年)6月11日夜明け、黒竜江省海倫県の日本軍第19連隊300人余りが海倫県城から出発して、40kmの海北鎮を急襲した。午前6時頃、住民たちは朝食を作っていたが、着の身着のままで逃げた。ある人は城外に飛び出し、ある人はジャガイモの中に隠れ、薪の中や倉の中に隠れた。日本軍は各家に侵入して捜索を行い、大人、子供と女性100人余りを捕まえ、北城壕の中に囲み、銃殺を行った。

 カトリック教徒のト懐才は、甥3人を自宅のジャガイモ窯に隠したが、上の22歳、下の18歳が日本軍に発見され、町の電柱に縛り付けられ、銃剣で刺し殺された。今回の惨事で海北鎮の住民は108人が殺害された。

【朝陽二車戸溝惨事】

 1932年(昭和7年)6月20日、関東軍の一武装部隊は朝陽県羊山一帯に侵入、二車戸溝と竜潭溝の境界に侵入した時、現地の義勇軍に正面から痛撃された。これに対し6月23日、関東軍は報復のため錦州から武装部隊を二車戸溝に派遣した。空からは飛行機の爆撃があり、地上では軽重の機関銃の掃射があったが、義勇軍の反撃に遭い一旦退却、再び23日に錦州からの飛行隊の爆撃の支援を得て侵攻、再び頑強な抵抗で撤退した。しかしこの後の秋、関東軍は報復攻撃をし、まず200軒余りの村の家々に火をつけ、さらに11月9日、義勇軍が退却した二車戸溝村に侵入し、畑にいた村民二人を殺したが、日本軍は逃げた村人たちをあちこちから呼び戻し、みんなを集めて、「良民は逃げるな、逃げるのはゲリラだから殺す」と言って、その後は誰も殺さずにトラックで村を出た。そして11月15日未明、日本軍のトラック3台で60人以上の将兵が二車戸溝村に入り、村の家々を捜索し、15歳以上の男たちを見つけて、一人一人を殺していった。首を切り、銃剣で刺し殺し、射殺した。三時間もたたないうちに、二車戸溝村の男57人が殺害された。日本軍が撤退してから数日後、隣村の人が埋葬を助けに来た。惨事の後、二車戸溝村は寡婦と子供だけの困窮した村となった。

【南広富営子惨事】

 1932年(昭和7年)6月23日、日本軍熱東司令官伊藤は、精鋭の騎兵隊を率いて、遼寧省朝陽県羊山一帯に侵入し、錦朝、朝建などの要路を通り、全熱河地区を占拠しようと企てた。朝陽県の二車戸溝、寵潭溝の間に日本軍が侵入すると、王震率いる抗日救国軍と地元自衛団に包囲された。一日の激戦の末、日本軍23名を銃殺し、日本軍司令官伊藤を生け捕りにし、抗日救国軍は羊山に戻った。6月24日早朝、迫撃砲、機関銃が南広富営子村に轟いた。空には何機かの飛行機が旋回しながら村に機銃掃射し、火事も起きた。漢奸蘇振鳳は日本軍の騎兵を連れて村に押し入ったが、彼らを待っていたのは空っぽの家屋だった。彼らは怒って豚や犬にも一斉射撃し、そして「みんな燃やせ!」と叫び、南広富営子全体が火の海となり、244軒の半分の家はすべて灰になった。その後、漢奸の蘇振鳳は日本軍を率いて「西山」に向かい、抗日部隊を探しながら見つけた者を殺し始めた。村人たちは怒りを抑えきれず、鎌、石、棍棒を持って押し出し、日本軍の小隊長と漢奸の蘇振鳳に向かって激しい戦いを繰り広げた。機関銃が残酷に鳴り響き、27人の無辜の村人が次々と倒れ、西山の斜面を血で染めた。

【通河県蘭家大院惨事】

 1932年(昭和7年)7月2日未明、黒竜江省チャハルの日本軍通河派遣隊の騎兵小隊が蘭家の大庭を包囲した。彼らは蘭家の老若男女を庭の南場院に追い出し、蘭守富、蘭守恩、蘭守栄、蘭忠孝と蘭家に避難していた他の23人の男たちを銃剣で庭の東下屋の前に追いやり、ズボンを足首まで脱がせ、顔を西に向けさせた後、機関銃で彼らに猛烈な掃射を浴びせた。銃声と悲鳴、女子供たちの叫び声が天地を揺るがした。日本軍は25人を銃殺した後、家に放火して死体と蘭家の東棟を焼いた。

【朝陽寺事件】

 1932年(昭和7年)7月17日:関東軍特務機関工作員の石本権四郎が、張学良の指示で熱河省の朝陽寺(現・上園駅)と南嶺駅の間で抗日義勇軍に襲撃され拉致される事件が発生した。石本は熱河省で情報活動を展開し、軍事機密を収集する任務を担っているだけでなく、熱河省の軍区高官に対して降伏を含めた籠絡活動を展開し、日本の熱河省侵略の先行官としても存在していた。石本はそれらの情報を持って北票県から瀋陽に戻る途中、南嶺駅の東約5km離れた破廟周辺で抗日義勇軍李海峰部隊に拘束され、その後陣地の三宝営子に連行して監禁された。

 この事件は、日本の関東軍の熱河侵攻作戦を混乱させ、すぐに熱河省の軍事制圧を検討したが、リットン調査団が調査中であったので、政府は慎重な行動をするように勧告した。熱河省はアヘンの生産地で、重要な資金源として日中両方から目をつけられていて、そのアヘンについて石本は熱河当局と交渉を行っていたともされ、日本側は「アヘンからの収入を失うことを恐れた張学良が朝陽寺事件を起こした」と判断した。日本側は何とかして彼を救出することを考え、抗日義勇軍に対して威嚇や金による買収工作を展開したが、いずれも拒否された。8月23日、南京政府軍事委員会は北京分会に「日本軍よりの石本引渡し要求を拒絶すべし」と電令した。この緊張状態の中、10月には中国軍が熱河へ集結を開始、さらに日本側も12月に第六師団の増派を得て、熱河作戦の実施が迫りつつあった。その後石本は翌年の3月に朝陽東方4kmの地点で遺体となって発見され、12月20日に殺害されていたことが判明した。

(ウィキペディアと中国の百度百科の記事を混成)

【慶安県関家窩堡惨事】

 1932年(昭和7年)8月5日午後、黒竜江省綏化市の日本軍歩兵20余人は、慶安県関家窩堡に向かって進軍した。関家の巣堡に近づくと、この屯里に向かって銃を撃ち、その動向を探った。当時、この屯には散兵100余人がおり、日本側に与する漢奸隊(住民は彼らを随日隊と呼んだ)であった。その中の一人が銃声の方へ一発返した。そこに日本軍を見て、まずいとわかって、漢奸隊を脱出させた。日本軍は銃声を聞きつけて屯に乱入し、武器を持たない村人を虐殺した。まず于徳林を突き刺してから梁菜籽の家に押し入ってその弟と二人を撃ち、任福才の家では任を撃ち殺して任の妻は3歳の娘を抱いて逃げたが銃殺し、抱いていた娘も銃剣で刺し殺した。このほか趙興太、王徳貴、張盲子などの村民も合わせて12人が死亡した。野蛮な殺人のあと、屯の西から東に放火し、120軒余りを焼き、200人余りが家を失った。

【三宝営子の惨事】

 遼寧省錦州・義県に陣地を作っていた日本関東軍第八師団は、熱河攻略のために特務工作員の石本権四郎を朝陽市北票城内に侵入させて暗躍させていた。この石本の活動を阻止すべく、抗日義勇軍首領李海峰は数十人の兵士をつれて、1932年(昭和7年)7月17日、列車で移動していた石本を捕縛し、その後三宝営子に連行して監禁した(上記「朝陽寺事件」)。この石本の逮捕は日本政府を驚かせた。錦州を占領していた日本軍は何度も錦承線に沿って進軍したが、抗日義勇軍に撃退された。その後人を派遣して李海峰を探し、大金を利用して李海峰に石本権四郎を釈放させようと企てたが、李海峰に拒絶された。10月9日、関東軍は義県から兵500余人をもって三宝営子に進撃した。日本軍は三路に分かれて進み、三宝営子を包囲した。空からは飛行機で爆弾を投下、機銃掃射し、地上からは大砲・機関銃で砲撃した。日本軍の攻撃が熾烈なため、義勇軍李海峰部隊は石本を護送して、南梁に沿って巴図営子に撤退した。その後なだれ込んだ日本軍は空振りとなった。怒った彼らは罪のない民衆に報復を加え、家々に侵入して焼き討ちと略奪を行った。三宝営子村は死体であふれ、家屋、食糧、家畜、柴草、財物はすべて灰になってしまった。全部で百人もの住民が虐殺された。10月15日の朝陽県の報告では、「一日に住民男女百数十人が銃殺され、家屋100軒余りが爆破された」とある。日本軍の暴虐は義勇軍を怒らせ、12月15日午前9時、石本権四郎は川套の砂浜に護送され、李海峰は写真技師に石本の写真を撮らせた後、処刑した。

(以上は『侵華日軍暴行総録』と中国の百度百科の記事を混成。なおそこに捕縛された石本の写真が載せられている)

【輯安・臨江における大虐殺】

 1932年(昭和7年)6月から12月まで、日本帝国主義による東北地区侵略に協力するため、朝鮮国境守備軍隊長吉江協一中佐をはじめとする日本軍第77連隊700名、朝鮮国境守備隊憲兵長吉房虎雄をはじめとする8名が朝鮮の満浦から鴨緑江を渡り、吉林省通化市の輯安に侵入した。6月9日午前2時、日本軍は鴨緑江対岸から輔安城を砲撃し、住民約10名を殺害、家屋約20軒を爆破した。そこから日本軍は輯安城東門外、西門外、北面山地で抗日義勇軍を攻撃し、義勇軍兵士150人が壮烈に犠死する。さらに日本軍は住民125人を殺害し、50人を逮捕し拷問した。4日後、義勇軍は反撃したが輯安城の東2kmの村で約350人が犠牲となった。日本軍は抗日軍に通じたという罪で、民間人約40人を逮捕し、輯安城の西門外の川辺で虐殺した。6月中旬、輯安北面の山上や城東、城西などでも義勇軍約200人が激戦中に殉死し、日本軍は抗日軍通の罪で住民20人を逮捕、拷問の後、輯安西門の外江で殺害した。

 一方で6月8日夜半、日本軍別働隊は渾江の臨江に向かって砲撃を開始し、9日朝、550名の日本軍と5名の日本軍憲兵は城内に侵入し、南囲子を占領した後、各所に放火、3日間で民家約700軒を全焼させた。6月23日前後、臨江城内に攻め入った抗日義勇軍約200人が戦闘で殉死した。南囲子を占領した日本の憲兵下渡は、8月15日には、城内に攻め入った抗日義勇軍の滕大隊長ら70余人が戦死した。この年、輯安・臨江に侵入した日本軍は半年余りの間に、13回の作戦を行い、民家800軒余りを焼き、抗日義勇軍1790人余りが死亡し、罪のない民間人155人が殺され、前後して逮捕・処刑された中国人は約350人に達した。このほか抗日軍に通じた罪で日本軍に虐殺された者は約170人余り、捕虜3人を斬殺した。9月下旬、日本軍の吉房虎雄大尉は、日本軍中隊一個中隊と憲兵二名を率いて通化市に向かう途中、通化から約45kmの地点で、さらに民間人10人を銃殺した。

余話:その後憲兵隊隊長でもあった吉房虎雄は敗戦後の1945年(昭和20年)9月に朝鮮の平壌で捕虜になった。吉房は撫順戦犯管理所に収容中、1954年(昭和29年)7月から8月に以下の事実を供述書した。

—— 1932年(昭和7年)6月初旬に輯安(注:現在の吉林省集安市)を侵略した際に、砲兵が西門外に避難する民間人に対して銃撃 / 同月上旬には、輯安で所属の憲兵が城内民間人約40人を抗日軍に通報したとの理由で逮捕し拷問の上、西門外川岸に於て虐殺 / 同月中旬と下旬にもそれぞれ城内民間人民約20人を抗日軍に通報したとの理由で逮捕拷問した後、西門外川岸において虐殺 / 同月上旬には、臨江で所属の憲兵が城内民間人50人以上を抗日軍に通報したとの理由で逮捕拷問した後、臨江西南端附近鴨緑江岸に於いて虐殺 / 下旬にも同じ理由で臨江の民間人40以上を虐殺 / 同年9月下旬、輯安と通化の間の村落で、所属の歩兵が、民間人であることを知りながら、機関銃約30発で約10人を射殺 / 同年10月中旬、守備隊が輯安西方村落より強制連行した民間人二人を拷問したのち、抗日軍に通報したとの理由で守備隊下士官が斬殺。

(「人民網日本語版」2014年8月7日)
【毎竜県小西溝惨事】

 1932年(昭和7年)8月6日、吉林省通化市海竜県(現・梅河口市)山城鎮を占領した日本軍守備隊は、小西溝地主張振魁家の結婚式を聞いて、8月7日早朝、50数名の日本軍を派兵し、小西溝の西岡に来て機関銃と”60″砲を構えた。この時、人々の声はにぎやかで楽器の演奏もあり、近くの親戚親友がお祝いに来て張家の大きい庭に集っていた。朝の会席で、若い劉が角皿を持って料理を運んでいた時、突然銃声がして、彼はその場に倒れ、数人が血を流した。会は大騒ぎになり人々は四方に逃げ惑った。日本軍は岡の上で人々に向かって銃を乱射し、人々は次々と撃たれて死んでいった。山奥に逃げた村人も小川のほとりで数十人が殺された。村人の一部は小さな橋の下や柳の茂みの中に身を隠した。日本軍は”60″砲で張家の大庭を猛撃し、孟の12、3歳の少女は爆弾で体がすべて飛び散り、乳飲み子を抱いていた胡の嫁も爆死した。砲撃の後、日本軍は銃剣を構え、植え込みの捜索を始めた。小橋の下に隠れていた10人ほどの人は、日本軍に発見され、全員機関銃で銃殺された。その後もあちこちで隠れて見つかった村民は殺され、日本軍は逃げ遅れた村民約30人を張家の庭に集め、彼らを地面にひざまずかせ、上着を脱がせ、一人一人拷問した。張紙坊の番頭張慶山は、土匪がどこにいるかと尋問され、彼は「知らない」と言うと日本軍は木の棒で彼を殴り、さらに拷問を加え、午後になってようやく山城町に引き揚げた。今回の惨事で、日本軍は小西溝に118人の遺体を残し、100戸余りの村民を犠牲にした。日本軍によって無残に殺害された遺体が埋葬されたのは丸三日後のことで、その悲惨な状況は目に余るものがあった。

【大東洲村焼討ち】

 日本軍が撫順を占領した時期、大東洲(大東河)は130-140戸があって、人口800人余り、300畝余りの土地で撫順市街までは数kmであった。1932年(昭和7年)夏、抗日救国軍の三部隊は大東洲村を根拠地として活動した。そのうちの鳳久の部隊、60人余りは小東洲で活動していた。9月8日正午、日本警備隊の13騎兵隊は唐少屯から大東洲に侵入して偵察したとき、小東洲から来た那鳳久部隊に襲われた。同日午後3時、撫順市内に居た日本守備隊はトラック3、4台で大東洲村に向かった。村に入るやいなや数人を斬り殺したが、大東洲の村民の大部分は村を脱出していて日本軍は家に火をつけた。3日目の9月10日、日本軍は500人余りを出動させ、大東洲村全体を包囲して侵入し、戸別に火を放って家を焼いた。逃げ遅れた村人の13人が刀で殺されるか焼き殺された。140戸520軒余りの家屋が焼かれ、ほとんどの家畜が焼死するか略奪された。

【通河県鮑船口惨事】

 通河が陥落した後、各地で多くの抗日部隊が現れた。分岐林で活動している一隊の名は「迎風隊」で、100人余りいて、日本軍を苦しめた。1932年(昭和7年)の中秋節の日、日本軍は迎風隊が鮑船口に駐屯していることを知って、トラックに乗って鮑船口に駆けつけたが迎隊に痛撃され、日本軍将一人と14人の兵士がその場で銃殺された。日本軍は激怒して村に突入し、逃げ遅れた老人、女性、子供15人を全員銃剣で刺し殺した。

【盤山県双台子大虐殺】

 1932年(昭和7年)、日本軍が遼寧省盤山を占領した後、地元の大勢の人々は自発的に抗日義勇軍を組織した。それに対し日本軍は、義勇軍になったことのある者は、磐山に行って降伏し、銃をすぐに引き渡すよう布告を出した。また日本軍に協力する兵隊になる者、国に帰りたい者は許すが、義勇軍になってはならない、降伏しなければ首を斬り、密告するものには報償を出すとした。布告が張り出されると日本軍は毎日人を銃殺し始めた。11月12日の朝、盤山県沙嶺郷西灰村の傅万令と傅万栄、また同村の林秀閣、林秀喜、林秀平は村人を巻き込まないようにと、思い切って馬に乗って銃を背にして、盤山に行って投降した。日本軍は投降した傅たち4、5百人を河南の老鉄路の両側に案内し、列に並べてから点呼を始めた。橋の南の方には装甲車が二台停まっていて、何10mも離れていた。査閲の前に傀儡軍の裴東閣司令官が演説した。話している内容ははっきり聞こえなかったが、傅は早く家に帰りたいと思っていた。4時過ぎごろ、突然銃声が轟いて、前の人々が倒れ、傅は日本軍の謀略を理解した。逃げようとしたら、太ももに一発撃たれて、血がズボンに溢れ出た。傅は溝の中へ転げ落ちたが、やがて日本兵は装甲車から出てきて、生死を確かめながら銃剣で何度か刺した。傅は体を三回刺されたが、そのときは気絶していて何もわからなかった。日本軍が帰ってから夜の8時か9時ごろ、傅はすでに目が覚めていたが、何人かの人が助けに来て、命が救われた。残りの4、5百人は、日本鬼子の銃剣で惨殺された。

【樺川県馬忠顕大橋惨事】

 1932年(昭和7年)11月17日未明、黒竜江省佳木斯(ジャムス)を占領した日本関東軍司令部は1000余人の傀儡軍を集結させ、樺川県西宝宝屯に駐留する抗日組織黄槍会を襲撃した。11月17日から19日にかけ、日本軍少佐の指揮の下、西宝宝屯から陳花先生屯、洪家囲子、姜家屯の馬忠顕大橋一帯で、村ごとに逃げた黄銃会の人々を捜索して追跡し、黄銃会の呉国文、張起、紀世恩、羅勝雲など1900人余りを殺害した。馬忠顕大橋の近くでは玲擋麦河の両岸は地肌が赤くなり、血流が川になった。また火砲で近隣の道徳屯、楊殿烽屯、公合屯を爆撃し、罪のない村民多数を殺傷した。

【チチハル高家屯惨事】

 1932年(昭和7年)11月22日、黒竜江省の日本騎兵一隊約50余名が東南から高家屯を目指して侵攻した。日本兵は高家屯の東頭に着くと、二挺の機関銃を構えて屯里に住む五軒の家に向かって銃を乱射、続いて高家の庭を包囲して庭で銃を乱射した上、柴草を持ち込んですべての家に火をつけた。高英さんの家族は22人で、やけどを負ったのが9人(うち子供2人)、日本兵の機関銃で撃たれ死亡したのが8人(うち2歳の子供が1人)であった。そのほか、李家の6番目の息子は村の北部で頭を切り落とされ、周の家の山東人3人も日本兵に軍刀で斬られ、別の周家の男は機関銃で撃たれ、その老婦人と嫁は部屋の中で焼かれた。この惨事で村民18人が殺害された。

【盤山高昇鎮爆撃】

 1932年(昭和7年)8月19日、午前11時、日本陸軍機5機が遼寧省盤山の高昇鎮上空から大量の爆弾投下と機銃掃射をおこない50人余が死亡、重軽傷者は100余人の被害となった。当日は高昇鎮の市の立つ日で、近隣からの来訪者数が非常に多く、避難する間もなく多くの人が爆死、或は爆傷を負った。東大通り、南北に連なる数百軒の家屋が悉く弾痕を浴び、30軒の家屋が破壊された。北街で妊婦の王馮が子供と一緒に庭で瓜を取っていたが、そこに爆弾が落ち、母子3人が死亡、東街では蘇永才の母、妻、妹と弟など一家7人の内4人が爆死した。高風岐は部屋に入る暇もなく、爆弾が落ち、体の大半が吹き飛び、片方の腕が屋根の上に落ちた。その後趙永吉の孫2人が同時に爆死し、田玉金、蘇永柱の弟、蘇憲章の妹などが爆殺された。

【日本軍の女性への陵辱と殺戮】

 1932年(昭和7年)冬(12月ごろ)、日本の関東軍第八師団第十六旅団の早川部隊は、遼寧省北票県朝陽寺一帯の農村を占領した後、舶来品と珍しい物資の配布を餌に、女性たちを日本軍の兵営に拉致し、強奸または輪奸を行った。その後多くの日本軍が昼夜を問わず民家に侵入し、家々で婦女を蹂躙し姦淫した。その後も日本軍の将兵は獣性を発揮して、数千人の農村の婦女が大きな被害を受けた。特に1934年(昭和9年)以降、日本軍は大黒山地区の蘭天林の抗日勢力に対して「掃討」を行い、この地区の女性を更に悲惨な形で蹂躙した。「掃討」するたびに、逃げ遅れて避難した婦女は、日本軍に姦淫された上虐殺された。例えば1935年(昭和10年)の秋のある日、100人余りの日本軍が突然この地区の村に乱入して、先に機関銃で村民に向かって掃射して、それから男女の村民を大きい庭に囲い込んだ。日本軍将校の一人が村人たちの前に立ち、その一声で、日本軍は狂犬のように群衆の中に飛び込み、ある者は娘の髪を引っ張り、ある者は少女の短い髪をつかみ、ある者は女性の腕を引っ張り、ある者は女の頭を抱き……村の婦人たちを一人一人を連れ出した。日本軍は狂喜し、酒を飲み、醜態をさらして女性をもてあそんだ。ある結婚して一年で妊娠六ヶ月の女性は、幾人かの日本軍に弄ばれた後、全身の衣服を剝がされ、その体を仰向けに机の上に縛られて村人に見せた。日本軍は、写真を撮ったりいたずらをしたりして、最後に銃剣で妊婦の腹を切り、赤ん坊を取り出して刃先に晒した。また日本軍は北塔郷のある村で纏足の女性をつかまえ、からかって楽しみ、その靴を脱がせ、纏足の布を取り払わせ、その足の指をいじって遊んだあと、彼女を輪姦した。その場にいた実の娘はまだ8歳で、驚いて悲鳴を上げると即座に日本軍に刀を抜かれて首を刎ねられた。

 筆者注:こうした女性を陵辱するばかりでなく殺戮するという場面は誰もが信じ難いであろうが、筆者はこの後も無数に同様な場面を目にしていて、実は書き写しづらい時は書いていない。戦場において征服者の立場がどういうものであるか、我々には想像すらできないが、戦争自体が(殺し合いという)無法の下に行われることは認識すべきで、兵士たちには勝っている側は何をしても許されると思っていて、よく言われる国際法などは通用しない。よほどに軍事教育が徹底され、軍人精神なるものが叩き込まれている本来の職業軍人ではない限り、そうではない急遽召集された現場の兵士たちには国際法など通用しないのである。この5年後の日中戦争になると、その傾向はさらに強くなり、一般の兵士どころか、将校や師団長までも虐殺や掠奪、女性への暴行に関わっていく事実がある。(「昭和12年」参照)

関東軍防疫班設置

 1932年(昭和7年)8月:陸軍軍医学校防疫部の下に防疫研究室(別名「三研」)が開設された。これは1930年(昭和5年)に2年間の欧米出張から帰り、細菌戦を準備する機関を設立するよう、陸軍省の幹部に説いていた石井四郎軍医(細菌研究で医学博士取得)を中心とするもので、またその出先機関として関東軍防疫班が組織され(石井の変名である「東郷部隊」と通称された)、翌1933年(昭和8年)秋からハルピン東南70kmの背陰河において研究が開始された。これは1936年(昭和11年)に正式に「関東軍防疫部」として再編成され、さらに後の1941年(昭和16年)に731部隊として改変され、中国および中国人相手に悪名高い各種の残虐な実験を行うことになる。

日満議定書

 1932年(昭和7年)9月15日、3月に独立国家とされた満洲国(鄭孝胥国務総理)と大日本帝国(特命全権大使武藤信義)との間で日満議定書が締結され、満州国における日本軍(関東軍)の駐屯が明記され、国防に関して関東軍・日本軍への委任が取り決められた。その中には「お互いにその領土権を尊重し、東洋の平和を確保するため、次のように協定する」とある。これは一種の茶番劇であるが、リットン調査団の報告書の発表(10月2日)約2週間前である。

 この日の新聞には、「今日は帝国政府が列国にさきがけて満州国を承認する日。極東平和のため記念すべき意義深き日」、また「この歓喜、この感激、世界的この喜びを満喫する満州国民」、「全満州は歓喜の渦」などと報じている。

リットン調査団の調査報告書

 1932年(昭和7年)リットン調査団は8月より北京で調査報告書の作成を開始していたが、10月1日、連盟理事会に報告書が提出され、10月2日に世界に公表された。

 報告書では、柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は自衛的行為とは言い難く、(日本が作った)満洲国は地元住民の自発的な意志による独立とは言い難い」とするが、「満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきで、国際社会や日本は中国政府の近代化に貢献でき、(日本人)居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよい。一方が武力を、他方が不買運動という経済的武力や挑発を行使している限り、平和は訪れない」としている。

 さらに紛争解決に向けた提言としては、「柳条湖事件以前への回復(支那側の主張)と「満洲国の承認(日本側の主張)は、いずれも問題解決とはならない。満洲には中国の主権下に自治政府を樹立し、この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下で充分な行政権を持つものとする。さらに満洲は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担い、日中両国は『不可侵条約』『通商条約』を結ぶことを勧告する」としている。

 またリットン報告書は「事変前の状態に戻ることは現実的でない」として内容的には日本にとって「名を捨て実を取る」ことを公的に許す報告書であったが、すでに満洲国の国際的な承認を得ることを念頭に置いた日本はこれに反発した。また中国も、遺憾の意を表明した。翌33年(昭和5年)2月、国際連盟総会でリットン調査団報告書に基づき、「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が討議されたが、法的帰属については満州は中華民国にあり、満州国の分離独立を承認すべきではないとし、賛成多数で可決成立した。これに対し日本はこれを不服としてその場で退場、日本政府は常任理事国であった連盟の脱退を決定し、これである意味日本は怖いものがなくなり、戦争拡大に突き進んでいく。

撫順炭鉱襲撃事件

 これは下記の平頂山事件に直結する事件である。

 撫順炭鉱は現在の遼寧省北部の当時の満州の範囲にあり、もともと1901年(明治34年)に中国人により開発され、 「世界無比の厚層」とされていた。1903年(明治36年)、ロシア軍に占領されたが、翌年からの日露戦争で日本が勝利し、1905年(明治38年)に日露講和条約(ポーツマス条約)に基づき、ロシアが有していた大連と旅順の租借権と東清鉄道の旅順—長春間の南満洲支線の租借権を日本が獲得した。その延長上で日本は撫順炭鉱の権利を要求、清国(中国)側は日本に引き継がれることに反対したが、最終的に撫順・煙台両炭鉱の日本への受け渡しを承諾し、日本は清国の主権を認めて採炭に対し納税することなどが協定された。こうした租借地の防衛のために1906年(明治39年)、関東総督府が設置され(この守備隊がのちに関東軍となる)、それに伴い鉄道と付属地の管理運営のために南満洲鉄道株式会社(満鉄)を設立、撫順炭鉱の経営に当たった。日本は「鞍山の鉄や撫順の石炭などは現在のわが重工業の基礎を確立するのに必要である」としてこの炭鉱を重要視していた。そしてこの1932年(昭和7年)ごろには三万人程度の中国人労働者が従事し、厳しい環境の中で過酷な労働を強いられていた。そもそも日本軍は欧米の抑圧からアジアを解放するための戦争としていたが、現実は日本に乏しい資源獲得のための戦争であって、その地に侵略して奪い取り、労働力を含めて搾取する目的をもった戦争であった。

 9月15日に日満議定書が締結され、日本政府は形式的に満州国を承認することにした。前年の日本軍による満州占領以来、反満抗日運動が盛んになり、満州事変以前には満州の匪賊(ゲリラ隊)の総数は数万人から5、6万人であったが、この年には30万人となっていた。これは事変に敗れた兵士たちが、そのまま抗日ゲリラ隊として組織されたからという。この撫順でも遼寧民衆自衛軍が組織されていて、この自衛軍は毎日各地に出没し、撫順炭鉱でも警戒を強めていた。炭鉱にも軍の守備隊(関東軍独立守備隊第二大隊)があり、炭鉱管理側にも防備隊があって防衛にあたっていたが、満州事変のおきた9月18日を一番の警戒日とし、15日は中秋節でこの日の襲撃はないと判断され、久保孚炭鉱次長は早めに切り上げて帰宅していた。ところが遼寧自衛軍は日満議定書締結の15日を攻撃の日とし、この日の深夜から16日未明にかけて銃、槍、太刀で武装した約二千人の部隊をもって、炭鉱の楊柏堡、東郷、東ヶ丘などの採炭所を分かれて襲撃、炭鉱事務所や施設、工場などを焼き払った。

 炭鉱を含めた撫順一帯の警備は、関東軍の独立守備隊第二大隊第二中隊の約200名があたっていたが、 当夜は部隊の過半数が他所に出動していて、留守部隊約80名の兵が炭坑周辺の広い範囲に分散配置されていた。自衛軍(匪賊)の襲撃を迎え撃ったのは、この留守部隊と警官、炭坑の職員で組織した自警団であった。また守備隊長の川上大尉はこの日の夜は出動部隊を率いていて不在であった。しかし遼寧自衛軍の連携が悪く、数時間で撤退し、日本軍守備隊と炭鉱職員5人が殺害され、重傷6名であり、一方で自衛軍の遺棄死体50、捕虜は3—9人であった。この破壊行為により、五つの坑道がしばらく操業停止などに追い込まれた。この炭鉱襲撃事件は、日本が満州占領によってその資源獲得のために鉱山などを接収し、中国民への過酷な労働を強いていた状況の中で日本への報復の意味合いが強かった。

 以下は1971年(昭和46年)という早い時期に(まだ後の南京事件の実情も噂程度にしかわかっていないころ)日本のジャーナリスト本多勝一が、一連の中国内の取材旅行の中で、この事件のことを現地で知り、関係者たちから聞いた話をまとめたものである。(『中国の旅』1972年より)

 —— この炭鉱での開発方法は実に野蛮で、いわば「人肉開発」ともいうべき手段をとっていた。安全対策などはゼロに等しく、「人肉開発」とは、中国人の生命と石炭を交換するということであった。この撫順炭鉱は大きく、幾つもの坑道と露天掘りとで成り立っていた。1916年には「大山坑」で200人余りの労働者が炭鉱火災で死に、1917年にはガス爆発で917人、1928年には水害で480人が死んだ。日本人支配者の中国人労働者の生命に対する態度は、人間扱いではなく、大事故があっても気にもとめず、事故が起きてもその坑道の中に労働者が生きていようがいまいが、すぐに出口をふさいでしまう。重要なのは石炭であって、人の命ではなかった。

 坑道の拡張以外にも多数の労働者が次々と犠牲になっていくから、その労働力を補うために日本人は各地から人集めを次々に行った。年間二万五千人くらい集めることもあった。その多くは騙して連れてくる場合で、山東省や河南省など、東北地方の食うや食わずの貧農たちに「撫順へ行けばいい仕事がある」とふれ回り、貨物列車に詰め込んで運んだ。運ばれる貨車はぎゅうぎゅう詰めで不衛生なこともあって、死者が続出した。現地に着くと大きなバラックに入れられ、木の板の床に百人から数百人がごろ寝だった。食事も貧しく重労働で、巨大なタコ部屋ができていた。残された家族が、夫からの送金もなく、撫順へ探しに来た例もよくあったが、ほぼ門前払いされた。しかもこの人たちは故郷へ帰る金もなく、浮浪者になった。もう一つの形は、特に日中戦争後に日本軍が占領した村々から強制連行する方法で、奴隷狩りと言ってもよかった。集団脱走や、坑内で雇われた残忍な頭目を殺して埋めたり、ストライキも行われたが、いずれも故郷に帰れた人は少なく、本多が直接取材した労働者の一人は、一緒に来た同郷の40人のうち、生き残ったのは6人だけだったという。

 筆者注:「日本占領の40年間(1906-1945:明治39年-昭和20年)に撫順だけで死亡した中国人は25-30万人と推定されている」との中国側の示す数字を当時の本多はそのまま記しているが、下記で利用する小林実の調査(『リポート「撫順」1932』1987年、都立書房)によれば、その数字は死者としては過大であり、怪我や病気などにより炭鉱から外れた人数も含めたものに近いとする。つまりそれは「死傷病者」全体の数字であろうと。そして様々な角度からの検証により、小林は5万4千人から7万6千人までの犠牲者だったのではないかとしている。また本多はこの時の取材で初めて「万人坑」(千人から万人単位で死体が埋められた場所:死体の捨て場)という言葉を聞いたが、撫順だけで炭鉱の周囲に約30カ所にできていたという。なお小林が引用している溥儀(満州国の皇帝)の『わが半生』には、「1916年から1944年まで撫順炭鉱での死傷者数合計は25万1999名であった。… 坑夫のうち、爆死、焼死、凍死、餓死、病死した者は、坑内で石炭の山の中や土砂の中に埋もれてしまった者を除いて、すべて南花園という場所の北側の谷間に捨てられた。この谷は … 『万人坑』と名付けられた」とある。

 小林の推定する5万4千人から7万6千人については、仮に年間で(少なくとも)千人から数千人の死者が出たとして(下記統計年報からすると特に最後の10年間は数千人はゆうに超えると思われる)、毎日数人から10人以上の死者であり、当然この中から引き取り手のあった場合は遺体を返すのが普通で(と小林は記す)、しかし地方から単身で来ていた者は約6割はいて、その多くは引き取り手がなく、数日置いたのちに死体置き場(溥儀の言う谷間など)に放り込まれたようで、それが万人坑となった。この万人坑は、この後、日本が各地を占領していくにつれて別な炭鉱や鉱山、ダム、さらに要塞や飛行場の建設で増えていく。

 なお、1945年(昭和20年)刊行の『昭和18年度撫順炭鉱統計年報』からすると、1925年から34年(大正13年~昭和9年)までの中国人労工の数は2万5千から3万人であったが、35年(昭和10年)から増え始め、37年(昭和12年)には5万人、39年(昭和14年)には8万人、42年(昭和17年)には9万人を超えている。ただしこれには「籍外者」が含まれていないとされ、それを含めると37年(昭和12年)は6.3万人、39年(昭和14年)は10.7万人、42年(昭和17年)は13.6万人となり、「籍外者」つまり日中戦争突入による占領地区からの強制連行が増えている様子が伺え、その間にも多数の過労死、病死、虐待死者が出ていてそれ以上の労働者が毎年補充されているということになる。(『15年戦争期における撫順炭鉱の労働史』慶應義塾経済学会、松村高夫の論文より)

平頂山事件

【中国における初期の大量虐殺】

 上記の撫順炭鉱襲撃に対し、9月16日早朝から、炭鉱側では緊急会議が開かれた。その中で守備隊(独立守備隊第二大隊)隊長の川上精一大尉は、「沿道の各村には匪賊(大刀匪)の不穏な動きがあったら知らせよと通告していたのに、知らせないばかりか手助けしている。こうした村は皆殺しにし、見せしめにする」と語った。これに対し炭鉱側の久保孚次長は、「全員を殺害すべきではない。そうすれば他村の住民はもちろん、炭鉱労働者にも動揺を与え、炭鉱の生産にも影響が出る」と反対した。しかし川上大尉は、「撫順の治安は自分が責任を負っている」として集団虐殺を強行することに決め、「村民の銃殺は守備隊および憲兵隊が担当する」、「後始末には防備隊も応援する」、「平頂山村は焼き払う」とした。なお第二大隊第二中隊の井上誠一中尉は、襲撃の知らせを聞いてすぐに平頂山に駆けつけ、探索を行なった結果、昨夜の盗品と思われるものが多く出てきて、匿っている匪賊を出すように言い、応じない村人を殺したとするが、それもあってか上記の会議は途中から参加している。(以上はこの会議に出席していた撫順県外事秘書兼通訳の干慶級の供述証言)

 この決定により、まず井上中尉隊が守備隊員に「村民を皆殺しにする」と伝えて出動、次に憲兵隊(隊長小川准尉)が出動、合わせて約230人であった。憲兵隊の出動前に、村民をどのように一カ所に集めるかを打ち合わせた。その結果、「大刀匪の襲撃で幸いに平頂山の住民は被害を受けずにすんだ。みんなの無事を祝って記念写真を撮る」という理由で集合させようということになった。こうして憲兵隊と私服組と守備隊の一部私服数名が先発し、武装兵も後に続いた。村ではまず私服組が一軒一軒「写真をとるから外に出ろ」と告げて回ったが、思うようにいかず、すぐに武装兵が強制的に家から追い出しにかかった。昼過ぎ、村の西側は崖がありその崖に沿った空き地に村民を追い立てて集め、それに対し守備隊が東側から包囲した。喧騒の中、集められた村人は、守備隊が黒と赤の布地で覆われた足のついた物を設置するのを見て、あれが写真機で本当に写真を撮るのだと話し始めた。そうして布が取り払われたのを見て、「大変だ!機関銃だ、逃げろ!」と誰かが叫んだ。間をおかず、日本軍将校の手がさっと振り下ろされたのが見え、機銃が火を吹いた。(以上は当時憲兵隊の通訳をしていた王長春の証言)

 それから機関銃の狂ったような轟音と人々の叫び声が混じり合い、大きな爆発でもあったような戦場のようになった。しばらく機銃掃射は続けられ、一度機銃の音が止み静かになると、あちこちからうめき声が湧き上がった。少しすると日本軍が引き上げて行くらしい車の音がした。すると生き残っていた者たちが逃げ出そうと動き始めた。そこに再び機銃が唸り出し、残った人々は殺された。その音が止んだ時、動くものは誰もいなかった。しかしその後、日本兵はうめき声のするところに行って息のある者を銃剣や日本刀で刺し殺し始め、あちこちから、ぎゃー!と叫び声が上がった。夜になって日本兵は去っていったが、村は放火され燃え続けていた。この深夜から翌朝にかけて生き残った人々が大怪我を負いながらでも抜け出て、後に証言に立つことになる。生き残った人は四十人前後ともされるが、正確にはわかっていない。後年の元兵士の証言では、住民を包囲した真ん中に重機関銃、南北に軽機関銃を据え、その間に小銃(銃剣)を持った兵士が隙間なく並んで構えたという。この銃剣隊が機銃掃射によってもまだ生き残っている人々を、死体を踏み越えながら刺し殺したのである。

 なおも翌日、日本軍(守備隊)は現地に三台のトラックにドラム罐を積んで乗り付け、死体を集めてガソリンをかけて燃やすという行為に出た。その火煙は夜まで消えなかった。この中には重症で動けず逃げることのできなかった人たちがまだいた。さらに五、六日後(三、四日後ともされる)、また警備兵たちがトラックでやってきて、今度は崖に穴をあけ、そこにダイナマイトを仕掛け、崖を壊して虐殺死体を埋めてしまった。その後周囲に鉄条網を張って立ち入り禁止にした。虐殺された住民は、そこに朝まで普通に生活していた人々であり(交代で勤務していた夜勤明けの工員も500人程度いたとされる)、当時の中国は少なくとも五、六人の一家から、一族二十人前後の家族で長屋に住んでいたから、生後間もない乳幼児を含めた老若男女すべてで構成されていた。

 その後も川上大尉は近隣の村も焼き尽くすと主張したが、炭鉱側の久保孚次長が、そんなことをすると炭鉱の人手がいなくなり困ると主張し、一応この範囲でおさまったという。そして事件後、撫順周辺の中国人労働者に動揺が走り、撫順を離れるものが大量に出た。撫順の街は混乱に陥り、物が投げ売りされ、撫順駅には逃げようとする人々が押し寄せ、その金のないものは徒歩で逃げ出した。炭鉱当局は事態収拾に走り、「今回は匪賊討伐のやむ得ない措置であり、今後は居住民の安全は守る」との布告を出し、平頂山生き残りの住民に対し、見舞金の配布を公示した。しかし誰も受け取りに来るものはいなかった。当時の撫順の中国人人口約四万数千人のうち、1/3が撫順を離れたと、満鉄総務部の記録にある。この事件の関東軍への報告は久保が書いたが、軍からは「撫順炭鉱をつぶす気か」として、川上大尉を日本に転属させ、井上中尉はこの後、奉天の第四中隊に転属された。

 中国国内では約二カ月後(11月3日)、「上海新聞報」でこの事件が初めて報道され、同年11月24日、国民政府の顧維鈞首席代表が国際連盟でこの事件を取り上げて日本を非難した。これについて11月28日、在満州国武藤大使(関東軍司令官)から内田外務大臣に宛てた言い訳の電報がある。—— 「ここまで村落の略奪などで良民を苦しめていた匪賊が、9月15日夜、二千人の兵と不良民をもって撫順市外を襲撃し各所に放火、さらに我が独立守備隊を襲った。これらの兵匪および不良の徒は千金堡及び栗家溝を根拠とし、井上中尉率いる隊が16日午後一時、千金堡の部落を探索したところ、逆に匪賊の発砲を受け、我軍は自衛上迫撃砲をもって応戦した。交戦約30分後、村落の掃討を終えたが、交戦中の発火により村落の大半が焼失し、匪賊と不良民約350名が死亡した」としているが、16日午後一時とは、村民を一カ所に集め、井上中尉の指揮で機関銃で殺戮を始めた時間である。

 こうして日本は一貫して虐殺を否定し続け、これは自衛のための戦闘行為であって住民虐殺ではないと言い張った。海外の新聞社もなぜか表立って取り上げなかった。これには事件自体は信じがたいものがあり、日本はまだ国際連盟の常任理事国として比較的信用があり、中国政府の発信を大げさとしてまともに取り上げなかった様子がある(ただ翌年、国際連盟総会において日本軍は中国からの撤退を求められ、それに反発して連盟を脱退してしまう)。もちろん日本国内でもこの事件が取りざたされることはなく、奉天駐在領事であった森島守人は、「なるべくこの種の事柄は、闇から闇へ葬ろうと考えていた当時の心境は慚愧に堪えない。こんな考え方が結局日本を毒し」と記し、この五年後の日中戦争へとつながったのであった。そうして太平洋戦争を経て1945年(昭和20年)に戦争が終わり(日中戦争もその年まで続いた)、戦後も長い間この事件は問題にされることはなかった。

 以上の全体は主に小林実の『「平頂山事件」考』(「中国研究月報」vol.39、社団法人中国研究所 1985年9月号)と上記の『リポート「撫順」1932』、一部はその他からの要約であるが、以下も小林の調査やその他各種資料から混成している。

 被害者の人数については諸説があり、守備隊の隊長であった川上大尉の親族である田辺敏雄は、自著の中で、虐殺に参加した兵士の証言などをもとに犠牲者を400-800人と推定している。また当時、平頂山集落の人口は約1400人で、犠牲者数600人前後とする記述もあり、上記「上海新聞報」では犠牲者2700人と当初から報じている。またジュネーヴでの国際連盟理事会では、中国側の被害者は死者700、重傷60-70、軽傷者約130名と報告されている。ただしこれらは早いうちの情報による推定であり正確とはいえない。今ひとつ、事件後現場に入った炭鉱職員の山下貞はその様子を手記にしている。—— 「三、四日後私は総括駅長佐藤隆二と僚友藤沢一雄の三人で線路巡視のかたがた平頂山の虐殺現場を見にいった。… 焼けた平頂山部落は例外なしに焼き尽くされていた。… N中尉が大量虐殺し埋めた所へ行くと人の焼けたにおいと重油のにおいが鼻をつく。埋めた死体の上を歩くと、何段か積み重なっているので、ブカブカと足が浮き上がるように感じた。あちこちに硬直した脚や腕が土の上に突き出ていた。その埋めた広さと積み重なった厚さで死体の数を概算すると750人から千人であろうと計算した。何れも非戦闘員である。この崖下の惨状を見てとんでもない虐殺をしたものだと唖然として現場を去った」とある。

 その後中国側は、発掘した死体の数(800体)などを根拠にしたとして3千人を主張しているが(本多も初めて取材した関係上その人数を記している)、平頂山村の人口が1400人とすると合わない。これについては、村は正規の人口以外にこの炭鉱への流入が多くスラム街もできていたから数千人だっただろうという説もあり、また平頂山村以外の隣接した村(千金堡や楊柏堡)も入るともされる(「上海新聞報」では三つの村落とする)。さらに炭鉱を襲ったゲリラは炭鉱の東方にある新賓鎮から来たとの情報で、そのため日本軍は新賓鎮も襲撃し、そこの里家口村など合わせて周囲十数か村を含めた家々を放火、住民を見つけ次第そのほとんどを片端から殺害したとされる。ただ、これは別の虐殺になるのかどうか不明である。また発掘した死体800体については、もともと遺体は石油をかけて焼かれ、その後ダイナマイトで崖を崩して埋められたため、炭化して原形を留めない死体が多くあり、下の方には遺骨がまだ多く埋まっていて、全部発掘できたわけではないとしている。さらに本多が現地での取材時に、生き残りの人が少し掘っただけで骨がぱらぱらと出てきたとあり、その写真も載せられている。

 いずれにしろ3千人のうちの3分の2が女性と子供で、400以上の家族がほぼ全滅し(一家が5-8人平均とすると約二千から三千人)、800軒以上の家が焼かれ、100人程度が生きていたが、その多くが重症で死に、45人が生き残ったとされる。

 筆者注:当初この事件について一度記述した後で、小林実の書いたものを知り、その内容を主にして全面的に書き換えた。小林はこの事件の年に満鉄に勤める中産階級の子として撫順で生まれ、そのまま撫順で育ち、終戦時には中学一年生であった。その後日本に戻り、成長後、当時撫順に居留していた様々な立場の人が集った親睦会である「撫順会」に所属していた。戦後27年後(1972年:昭和47年)のある日、本多勝一の『中国の旅』を読んで衝撃を受けた。同じ撫順に住んでいて虐殺のあったことはまるで聞かされていず、他の人々もほぼ同様であり、多くの人は「そんなバカなことがあるか」と本多に抗議する動きもあった。小林は自営業を営んでいたが、その後心のしこりが抜けず、それから約十年経って自分で調べようと決意し、中国にも自費で通い政府機関や図書館の資料にもあたって調べを続けた。同じ撫順会に属し、元満鉄調査部などに所属したのち戦後は学者として活動していた野間清にも後押しされ、上記のような調査結果を発表した。しかし撫順会の中では依然として小林の調査活動に対する反発は根強く、とりわけ彼の『リポート「撫順」1932』を読むと、各所で遠慮がちに(あるいは反対意見に配慮しながら)記述を進めている傾向があり、この冊子が上梓される前に小林は退会を余儀なくされた。これと似た話はよくあり、筆者も資料にあたっていると、元将兵が証言活動をする中で、戦友会などから排除されてしまう例に接することがいくつかある(そのうちの一人が「昭和12年:補遺」で触れる東史郎で、1987年(昭和62年)、日中戦争中の自分の日記を公開、そして多くのバッシングを受け、戦友会からも外され、裁判に持ち込まれて闘うことになった)。そうした理由で、証言者はほぼ老年になって、つまり同郷の戦友たちや上官が亡くなってから出てくる場合が多く、本多が取材活動した時代はもっと厳しい反発を受け、十年後の小林の時代(1982年:昭和57年)もまだそうであった。戦時中に自分たちが行なったことから逆に受けた心の傷(呵責)を周りに知られたくない、ましてや公にすることなどとんでもないということであった。つまりそれは心の弱い人たちで、逆に言えばその種の人たちが無法下の戦争の中で極めて安易に虐殺を行ってしまうということになる。

 また小林は、この事件は「誰もが否定し得ない事実なのだが、発生直後に事件そのものを抹殺するような隠蔽が日本側の手で行われたから、真相の解明は非常にむずかしい。また日本側の事件資料がほとんど全く公開されていないので、事件については推論を含めた部分が各所にみられる」としている。これは軍や警察の直接の記録が残されていないということだが、それは敗戦が決まった1945年8月15日、日本の軍政府が国内はもちろん海外の軍事的記録や書類を焼却処分するように指示を出した結果であろう。つまり満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争に至るまでの日本軍の長年の「正義の戦い」(天皇の統帥する皇軍の行う聖戦)は、この一日でなかったことにされたのである。

 いずれにしろ平頂山における日本軍の住民に対する機関銃掃射、続けて生き残りに対する銃剣での刺殺、さらにガソリンによる焼殺、最後に村の家々への放火など、まるで信じがたい行為であるが、実はこの五年後の日中戦争(支那事変)開始から南京への進軍途中の各都市攻略と南京占領、その後の各都市への侵攻作戦の過程において、まったく同じ光景(集団虐殺)が展開されていて(「昭和12年」参照)、とりわけ南京の下関地区における捕虜と民間人に対する集団虐殺を見ると、この平頂山事件はその端緒に過ぎないと言える。他国へ侵攻し、征服した他民族を同じ人間とみなさず、禽獣もここまで残虐なことはしないが、戦争がまったくの無法地帯の中で行われ、その結果の占領地においてもその状態は継続され、無法というだけで、つまり何をしても罰せられないとすると、人間はここまで残虐・酷薄になれるということを現している。ただその根本には、その占領地に子供の時代に住んでいた小林自身の言うように、中国人(あるいはアジア人)への蔑視(差別)、優越意識があったことは間違いない。

 特に小林が引用している松本重治の『上海時代(中)』の中で、松本が1936年(昭和11年)に関東軍の田中隆吉参謀(既述の第一次上海事変に至る日本人襲撃工作の裏で活動した人物)へインタビューした時、田中が「君と僕は中国人をみる観方が根本的に違う。君は中国人を人間として扱っているようだが、僕は中国人を豚だと思っている。なんでもやっちまえばいいんだ」と語ったと記している。すでにこの時期から日本軍(大日本帝国陸軍)将校の頭の中が腐りかけていることがうかがえる。仮にも中国人を豚だと思いなすとして、その中国人から約1300年に渡って文字や文化の恩恵を受けてきた日本人とは一体何なのであろうか?

 重ねて言えば、日本という天皇を戴く皇国・皇軍にとって中国人は劣等人種であり、その皇軍に抵抗することは許されず、その彼らを虐殺することなど当然のこととして、罪の意識はまったく持たなかった。実際に戦後、太平洋戦争を含めた各地の戦犯裁判所に収監された時、ほとんどの将兵には罪の意識がなく、具体的に罪状を告げられた時、「あれがか?!」という反応であったという。それほどに当時の日本人は皇国による正義の戦争という軍国主義的観念に取り憑かれ、優越人種としての征服者は何をしても許されるという思い込みがあったということである。果たして皇国の御柱としての天皇ご自身が、そのように隣国の人間を貶め、蹂躙し、虐殺することを許されたのかどうか、少しでも考えてみればわかる。そのように軍人たちに利用されてきた天皇こそ大きな迷惑であったろうし、戦後、天皇は(戦中のいろいろな事実が明らかになるにつれ)慚愧の思いにとらわれていたことが、折々の発言によってもわかるであろう。

【生存者の証言】

 楊宝山(男性、当時9歳)は、9月15日、中秋節の夜、外で「殺せ、殺せ、殺せ」という叫び声を聞いた。翌日聞いたところによると、日本人が開いていた店を焼いたという。この店は日本人が中国人を搾取していたところで、鉱夫はこの店でしか物を買うことができず、人々はこの知らせを聞いてよく燃えたと拍手した。翌日日本軍が大規模な報復にやってきた。機銃による虐殺の後、地面にうめき声が残っていると日本兵は行って撃ち殺し、さらに銃剣で刺していった。 楊は「日本軍は北の端から南の端まで行って、一人一人を銃剣を突き刺し、私のところに来た時に、母の背中を銃剣で刺したが、私は頭を踏まれても動かなかった」という。

 莫徳勝は語る —— その年、私は8歳で、家は平頂山村にあり、父は鉱員で、祖父は知られた漢方医だった。中秋節の翌日の午前9時過ぎ、私達子供は走って平頂山西坎まで行って、道に何台もの自動車があって、乗っているのはすべて日本兵で、鉄帽をかぶって、きらきらした剣のついた銃を持っていた。私は急いで家に帰り、姉に、大変だ、鬼の兵隊が来たぞ、と言った。母は、外に出るなと言った。正午過ぎ、3人の鬼兵が私達の家に押し入り、ドアを蹴飛ばした。「あなた達を保護するから家を出るように」と半分通じない中国語で私達の家族を追い出そうとした。父は「ここは私の家だから出て行かない」と言ったが、鬼兵は銃を持って父の顔を殴りつけた。母は3歳の妹を抱き、父は私の手を引いて、そのまま家を追い出された。街中は村人でいっぱいで、泣きながら乳牛の家(日本人が経営)の南側の草地の中に追いやられた。

 午後一時すぎ、人々はほとんど虐殺場に追いこまれ、日本の守備隊は四方八方から懸命に人々を押し込めた。そのとき、鬼子の将校が銃剣を突き上げたとたん、周囲の機銃が鳴り、群衆は銃声とともに地面に倒れた。…… 二度の機銃掃射の後、日本軍は生きている人間がいるのではないかと恐れて、三度目に銃剣を使って検査した。日本軍が去って、私は母の上に掛けていた布団をはねのけてみたが、母と妹は血まみれになって、叫んでも起きないし、押しても起きない。祖父も祖母も死んでしまって、私はどうしたらいいのかわからない。早く逃げろ、日本人が帰ってくるぞ、という声が聞こえた。私は最後に家族の顔を見て、コーリャン畑にもぐりこんだ。

 楊占山の回想 —— 9月16日午前11時、日本軍は自動車に乗って平頂山に到着し、住民に写真を撮るから家を出るように強要し、出て行かなければその場で射殺した。人々が丘に追いやられた後、日本鬼子は、「写真を撮るからちゃんと立って」と言って銃撃した。この時私は4歳の女の子楊玉英を抱いていて、弾丸は私の左の腕を貫き、倒れた。妻も子供も兄嫁も殺され、その死体が私の上にのしかかってきたので、死んだふりをした。虐殺は継続して約一時間余り行われ、その後鬼子は死体の上を歩きまわり、まだ死んでいないのを見ると銃剣で刺し殺した。私も腰を刺されたが、幸い急所を外れた。暗くなって鬼子たちがいなくなった時には霧のような雨が降っていた。私は死体の中から起き上がって、二人の娘を抱き起こした。見ると、私の妻と、顧の妻の腹が切り裂かれ、七、八ヵ月の赤ん坊と大腸が地面に流れ落ちていた,私は四歳の娘玉英を背負い、七歳の娘玉鳳の手をとったが、私の顔からは血が流れ、目から涙が流れた。二人の娘も泣きながら、「お母さん、お母さん」と叫んでいた。この惨事で24人いた家族のうち18人が殺され、わずか6人が残った。

 以上は中国のウェブサイト百度百科の「平頂山惨案」からであるが、こうした被害者の証言は事件後のほぼ50年前後(戦後40年前後)あたりから表に出てきている。これに対し、上記のように事件から39年後(1971年)に日本のジャーナリスト、本多勝一が、一連の中国内の取材旅行の中でこの事件のことを知り、体験者(生き残り)からの取材を行った。それが翌年出版された『中国の旅』に記載されるが(基本的には朝日新聞の連載のまとめ)、以下はその生き残った被害者三人の証言を要約したものである。上記の証言よりも状況が客観的なのは、本多が何度も本人たちから聞き直して惨劇の様子を詳しく記しているからで、取材の持つ力である。当時の状況を思い出し、話そうとすると何度も耐えかねてすすり泣き、嗚咽する姿があったという。

 なお、平頂山村は『中国の旅』にある略図からすると、南北300mで東西200m、その西側が崖になり窪地もあってその向こうは丘になっている。

 —— 9月16日、日本軍の第一陣として三台のトラックが兵隊を満載してやって来て、三方向から村を囲んだ。夏廷沢(当時27歳)は実兄の家族三人と同居し、朝食を取ろうとしていたが、自動車の音を聞き外に出てみると、銃剣を持った日本兵たちがトラックからばらばらと飛び降りて家々に飛び込んで村人たちを追い出そうとしていた。慌てて兄夫妻は三歳(これは昔の数え年で満一歳半である)の赤ん坊を抱えて先に逃げ、自分も(なぜか布団を持って)逃げ、南西の方向に走った。まもなく父方の従姉に会ったが彼女は12歳以下4歳までの子供を連れていて、先に逃げろという。押し問答の末先に先に逃げたが、南西の崖ぎわの低地に逃げ込む予定がそこまで行かないうちに日本兵の包囲にあった。彼らは手真似で地面に座るように命じた。小さな子を抱いた兄が座り、兄嫁もその後ろに座った。夏もその横で中腰でしゃがんだ。あたりは泣き叫ぶ村人たちの声で充満していた。多くは子供の泣き声と、子を呼ぶ母の悲鳴のような声だった。この時代のおばあさんたちは纏足がまだ多く、よたよたして早く歩けない。それを日本兵たちは蹴飛ばした。おばあさんは絶叫して倒れるが、うずくまったままの彼女たちを日本兵は銃剣で刺し殺した。ここで夏は皆殺しにされると悟った。

 夏が中腰のまま様子をうかがっていると、日本軍の第二陣のトラック六台がやって来て、トラックには布のカバーがかけられた何かがあった。日本兵たちはそれらをトラックから降ろして、地面に並べて据え付けた。上官の命令でカバーが外されると、機関銃であった。夏は機関銃を見るのは初めてだったが、恐ろしい武器であることはわかった。すぐに兄に逃げてと言ったが、その瞬間、日本兵の上官が軍刀を抜いて声をあげた。そこで機関銃が一斉に火を吹いた。絶叫が湧き上がり、人がバタバタと倒れた。夏が兄にこっちへと言い、兄が少し頭を上げた時、眼前で兄が銃弾で頭をぶち抜かれ、血しぶきと脳漿が吹き出した。兄が抱いていた赤ん坊は投げ出され、義姉に早く逃げるように言ったが、呆然として「私も死ぬからあなたは逃げて!」と答えた。そうしている間に周囲の人はどんどん倒れ、悲鳴と叫び声は巨大な束となって銃声を消さんばかりだった。夏は銃撃の切れ目に放り出された赤ん坊を左手でつかみ、持ち上げた瞬間、その二の腕を撃ち抜かれたが、そのまま子供を右手に抱いた。そして南にある窪地を目指して走った。夏の前を走っていた30歳くらいの婦人が弾に当たって倒れた。たじろいだ時、上着の胸の部分を銃弾が貫通して二つ穴を空けた。構わずに子供を抱いたまま、他の五、六人と必死で走った。気付いた日本兵がこの窪地めがけて銃撃したが、なんとか窪地を走り抜けて大豆畑に出た。そこまで逃れた人の中で命に別状のない怪我ですんだのは他に一人いるだけだった。あとの四、五人は致命傷を負い、あるものは腸が飛び出し、あるものは胸に穴が空いていた。赤ん坊を抱き、伏せたまま動かずに夜を待った。

 夜を明かした夏は、赤ん坊を抱いて南の方に歩きだした。150kmもある実家へ向かった。26日間歩き通し、靴の底が抜け、裸足で歩き続けた。途中の畑にはナスが多く、子供にはナス汁を与え、自分はナスを生でかじって歩いた。日本軍のいる表通りは歩かないように注意した。実家には母と長兄がいた。殺された兄は次男だったが、一家の無残な死を聞くと、母は卒倒し、そのまま床につき、三ヶ月後に死んでしまった。夏は半月ほど休養し、左腕の銃創は骨を外れていたのでまもなく癒えた。しかし実家も貧しくいつまでもいることはできず、他に仕事もなく、子供を預けてまた撫順炭鉱に戻った。平頂山の村民であることは隠して職についた。

 —— 韓樹林は当時12歳で、両親のほか、長兄夫婦と三ヶ月の幼児、15歳の次兄の七人家族だった。自動車の音がして隣の子と一緒に見に出た。母が呼び戻したので門のところまで戻ったが、すでに日本兵たちは家々から追い出しにかかっていた。

 一方で当時11歳の趙樹林の場合、父親は病気で失業し、母親が炭鉱の寮で洗濯と服の繕いで生活していた。17歳の姉と7歳の妹の五人家族であり、生活は貧乏を極めていた。日本軍がやって来たとき、朝食はすんでいたが、母親は炭鉱に出かける前だった。やって来た日本兵は通訳を連れ、「大刀会(前日のゲリラグループのこと)がまた来るかもしれんからすぐ家を出て逃げろ」と言った。

 こうして韓と趙の家族は銃剣に追われて家を出た。村全体が喧騒に包まれ、子供の二人は何が起きているかわからなかった。そのうち日本兵の包囲によって西側の崖のほうまでぎっしり追い込まれ、そこで座るように命令された。もう立錐の余地もなく人々で地面は覆われた。趙はこのとき崖ぎわの一番奥にいた。この時、機関銃のカバーが外されていた。中国人の通訳が、「怖がることはない。すわれ、すわれ」と叫んだが、すぐに機関銃の一斉射撃が始まった。言いようのない地獄絵になった。韓は頭を持ち上げることができなかったが、周りは血にまみれ、上向き、下向きで死んだ人、割れた頭、痙攣する足、死に切れない重症者のうめき声がたくさん聞こえた。

 どれだけ時間が過ぎたか、機関銃の音がぴたりと止んだ。韓のそばにいた父親はまだ生きていた。後で知ったがやや離れていた母と長兄夫妻と赤ん坊は死んでいた。まもなく呼び笛の音がした。そっと顔を上げると日本兵たちは引き上げるような気配を見せた。すると生きている者たちが立ち上がって逃げようとした。とたんに呼び笛が鳴り、機銃掃射が繰り返された。二度目の掃射が終わると日本兵たちは銃剣を持って死体の山に近づき、その上を歩いて生存者と見ると銃剣で刺した。このとき韓は上半身が上で下半身は死体の下にあった。「動くな」と、頭が上にあった父親が小声で言った。日本兵が近づき薄眼を開けると、生きている女子供が次々と刺され、銃口をあてて撃たれたりしていた。数m先で赤ん坊が死んだ母親の乳房に抱きついて泣いていた。兵士はこの子を突き刺すと、空中に放り投げた。さらにその近くの妊婦を見て、別の兵士が銃剣で腹を切り裂き、胎児を取り出したようで、他の兵士たちの笑い声が聞こえた。その後韓親子のところにやってきたが、二人は死んだふりをしていた。兵は父の上の死体を銃剣で突き刺すと、剣先は貫通して父の大腿部まで入ったが、父は耐えて黙っていたので兵は通り過ぎた。ところが次兄もまだ生きていて、兵士が彼の足を突き刺すと「助けて!」と悲鳴をあげたあと、絶叫が聞こえ、殺されたとわかった。

 深夜になって韓は父親の呼ぶ声を聞いた。返事をすると、「早く逃げろ、みんな逃げている」という。韓は大腿部の傷で動けなかった父をなんとか引き出し、父は這いながら一緒に歩き始めた。朝まで歩き続け、大官町というところまで来ると太陽は上りきっていた。そこに父の同僚の劉振発が住んでいてしばらく匿ってもらったが、劉も貧乏で大変であったから、乞食になった。銃剣で刺された父の傷は悪化し、医者にもかかれず八ヶ月後父は死んだ。14歳になって少年工として炭鉱に入った。一度落盤があり、一週間閉ざされたが生き延びた。

 一方で趙は母親の腿にすがりついていて、機関銃の音がすると母も趙を上からかばって伏せた。すると母は「あっ」と声をあげ、趙の首の上に血が流れ落ちてきた。趙がわっと泣くと、「泣かないで!声を出すと殺されちゃうよ!」と母は言い、趙も息を殺した。機銃掃射が終わって日本兵の検査が始まった。母が生きているのに気づかれ、背中から二度も銃剣で刺され、悲鳴を残して母は死んだ。趙は必死に黙って耐えた。深夜になって重症を負ったおじいさんが、「おい、生きているか」と声をかけてきた。返事をすると、「早く逃げろ、鬼どもはまた来るから」と言ってくれた。走り出そうとすると自分の名前を呼ぶ声がし、見ると隣家の昌おばさんだった。両手が銃弾で貫かれ、横にはその息子がいて生きていて、おばさんは「お願いだからこの子を助けて一緒に逃げて」と言った。しかし腰を弾丸で砕かれて動けず、趙の力ではどうにもできなかった。するとその息子は「ぼくはいいから早く逃げて」と言い、おばさんは砕かれた両手をぶら下げて倒れている息子に寄り添い、嗚咽の声をあげた。泣きながら、おばさんは息子をあきらめ、一緒に逃げようと言ったが、母が本当に死んだか信じられず、一人で確かめに行った。村の家々は焼き尽くされ、まだ焔が上がっていて明かりがあった。母は確かに死んでいて、その近くで姉も妹も死んでいた。母の死体に取りすがって泣いているうちに眠り込んでしまった。

 夜が明け、炭鉱の出勤を知らせるサイレンの音で趙は目が覚めた。頭をあげると重症のおじいさんが、「まだいたのか!」と声をかけてきた。「早く逃げろ、殺されるぞ」と叱られたが、自分の家が気になり行ってみると、焼けて壁だけが残っていた。家は少し高いところにあり、あきらめて坂を降りようとしたら、かなり先の炭鉱労働者用の寮の前で数人の労働者が手を振り、気をつけろという動作をしていた。よくわからず下って行こうとしたら日本の警備兵の姿が見えた。あわてて焼け跡の壁に身を隠した。警備兵には気付かれず、頭を出すと労働者たちは趙を懸命に手招きしたので、彼らのいる有刺鉄線まで行くと、手を伸ばして引き上げて中に入れてくれた。

 まもなく趙は寮の中から三台のトラックが虐殺の現場に来るのを見た。トラックにはドラム罐が積んであり、警備兵たちは死体を集め直して積み上げ、さらにドラム罐から石油をぶちまけ、点火した。黒煙が上がり、人肉の焼ける臭いがして、火は夜まで消えなかった。重症のおじいさんも昌おばさんの息子も焼き殺されてしまった。その五、六日後、また警備兵たちがトラックでやってきて、今度は崖に穴をあけ、そこにダイナマイトを仕掛け、崖を壊して虐殺死体を埋めてしまった。趙は寮に隠れているままではいられず、ある労働者一家が引っ越す時に、大きな甕に隠れて一緒に外に出た。その後しばらく、路上で乞食をし、飢えをしのいだ。

【戦後の戦犯裁判と処刑】

 この事件は、終戦二年後の1947年(昭和22年)、遼寧省瀋陽(旧奉天)で開かれた国民政府の東北行轅審判戦犯軍事法廷で裁かれた。しかし直接の実行者であり、平頂山村民の虐殺を決定した川上大尉と、現場で軍刀を振り上げて機関銃一斉射撃を指示した井上中尉の二名は、先述するようにその後他所へ転属された。その転属先については、川上は北海道へという説は小林実の調査では間違いで、東京の近衛歩兵第二連隊へ、まもなく中国へ戻され熱河省へ、そして日中戦争開始の年に第百一連隊大隊長、その後満州北部、太平洋戦争開始にともなってフィリピンへ、二年後日本に戻り終戦時は中佐として東部軍司令部付、そして翌年1月、中国政府から戦犯として手配され、その6月(アメリカ兵が逮捕しに来たと言われる)疎開先で服毒自殺したという経緯となる。一方井上中尉はその後奉天の第四中隊に転属され、満州内で中隊長を勤めながら、1940年(昭和15年)に日本に戻り陸軍士官学校教官、中佐まで上り、終戦時は参謀の地位にあった。しかし井上は訴追を逃れ、1969年(昭和44年)に大阪で病死した。なお井上には出征前に夫人が「後顧の憂い」がないように自決したという「美談」があるが、ここでは触れない。

 中国国民政府は、直接この事件を引き起こした軍人を捕らえられず、代わりに現地に留まっていた炭鉱関係の管理人で、事件当時撫順炭鉱次長であった久保孚ら11人を逮捕した。日本人の本国送還が始まろうとしていた1947年(昭和22年)7月のことであった。12月26日、軍事法廷で判決が下され、久保以下7名(他に炭鉱職員だった山下、金山、満多野、藤沢、西山と警察官だった坂本)が死刑、4名が無罪となり、無罪の4名は釈放される。久保は申弁書(弁明書)を国防部に提出したが認められず、1月3日、死刑判決が確定し、同年4月19日に銃殺刑が執行された。しかし後年、この7人も無罪であったとされた。

 筆者注:このように戦後も現地に残って敗戦国の罪人として捕縛された兵士や現場の管理人が戦犯として処刑された例は、この後の太平洋戦争においても数多い(BC級戦犯=千代田区の「処刑された戦犯たち…」を参照)。その理由の一つは、現場で指揮し管理していた人間は、周囲に顔と名前を覚えられていたことが大きい。その中には虐待の現場で通訳をしていた人たちの多くも暴虐行為に加担した責任があるとして裁判の被告となり処刑されたのである。

 特に中国では満州だけでなく日本軍の支配の行き届いた山西省などでも将校たちが先に逃げ帰り、一般の兵士や様々な階層の民間人は日本国内の混乱もあって、日本へ帰還する施策も具体的に打ち出されず、しばらく中国内に残留していた。その裏で国民政府は日本軍戦犯の処理を急いでいて(日本の敗戦後、共産党革命軍と主導権を握る争いが迫っていたし、国民にもこの「血債」を返させるまでは日本人を本国に帰すことを許すなという世情が強くあった)、その中でも残酷な現場の表にいた軍民が、仮に直接手を下していないとしても、顔を覚えられていた住民などに指弾され捕らえられることがあった。久保孚らはその犠牲となったと言える。その一方で民間の技術者などは中国側に頼まれて中国に残って仕事を継続していた場合もあったし、兵士の中には国共の内戦に加わった者もいるし、戦後の中国内の情勢は複雑である。

 なお、当時の国民政府はこの裁判の他に南京軍事法廷でも特に南京事件を主にして裁判を行ない、やはり久保のような冤罪を含めて早々に処刑しているが、国共内戦後(共産党が1949年=昭和24年に政権を握ってから二年後)改めて日本軍の戦犯に対する裁判が設けられ、その対象者、つまり中国内にまだ残っている元兵士や仕事を残した居留民、あるいはシベリアに抑留されていた元兵士の中から呼び寄せたものたちも含めて、彼らを撫順戦犯管理所に収監した。実はそれら中国に残留していた者たちのほとんどは、自身が「戦争犯罪」を犯していたことを自覚していなかった。そして撫順戦犯管理所では国民政府のやり方は取らず、年月をかけてその罪を思い出させ、あるいは中国側の証人を目の前に置き、自覚させ反省させながら特別軍事法廷で裁き、さらに年月をかけて収監し、およそ10年後に特別に罪のある将校を除き(最大の罪は日本の軍国主義にあるとして)ほぼすべての日本人を恩赦し、帰国させた。(この件については筆者の「昭和12年:三つの軍事法廷」参照)

【平頂山惨案遺跡記念館】

 1951年(昭和26年)4月5日、撫順市は平頂山事件の地で公祭を行い、公墓を築き、惨事の史実を銘記した「平頂山殉難同胞記念碑」を建てた。1970年(昭和45年)になって遺跡の発掘作業が行われ、わずか400m2の範囲で老若男女、子供などの遺骨800体余り、遺物2000点近くが発掘された。その現場は記念碑が建立されている丘の上から崖を下りたところにあり、1971年(昭和46年)にその場所の遺骨をそのまま覆うように平頂山殉国同胞遺骨館を作り、惨事に関する遺物、資料、写真などを展示した。展示室の中央には長さ80m、幅5mの殉難同胞遺骨坑がある。坑内の800体余りの遺骨は、発掘当時のまま、仰向けになったり、伏せたり、曲がったり、伸びたり、縦横に重なり合って無残な姿を見せ、老人、障害者、女性、児童、乳児、妊婦の遺骨がある。坑の周辺には、殉難した同胞の吸殻、ハサミ、櫛、腕輪、長命錠、炭化した果物の殻、月餅と鉱夫用の食事券、虐殺するために使った弾丸、薬きょう、死体を燃やして罪証を隠滅するために使った石油缶などが陳列されている。平頂山惨案遺跡記念館は1972年(昭和47年)に開設された。

 70年後の2002年(平成14年)9月16日、遼寧省撫順市平頂山惨事同胞殉難70周年公祭が記念館で開催され、省市の指導者、生存者の代表及び各界の民間人5000人余りと400人余りの日本の民間団体(平頂山事件日本弁護団、日本中小企業連合代表団、中国人戦争被害者支援訪中団など10近くの民間団体)もこの行事に参加した。そして半月にわたって『日本の中国侵略罪証史実展』を共同で開催した。さらに記念館は、平頂山事件から75年の節目に向けて大々的に改修され、2007年(平成19年)9月16日(事件の日)に竣工・開館した。丘の上に建つ平頂山殉難同胞記念碑は、高さは19.32mあり、碑の台座は66.6m2である。

(以上は中国側のいくつかの記述をまとめて要約した)

 ちなみに中国ではこうした日本軍の虐殺事件は決して忘れないという教育が徹底していて、この後の日中戦争においても次々と発生した事件の記念碑が各地にあり、我々日本人は、事前の下調べなしに行くと(特にその場所に行かずとも)、恥ずかしい思いをするかもしれない。ただ、筆者が中国の人たちの証言を渉猟した限り、謝罪と慰霊の意を表せば、ほぼ間違いなく歓迎してくれるはずである(上記の70周年記念に日本の民間団体が参加しているのもその意味がある)。周恩来の指導は、憎むべきは日本の戦前の軍国主義であって、日本国民ではないとし、その思想は中国国民の中に浸透している。それに対し、いつまでも反省と謝罪をしないのは日本政府の指導者であって、それこそが、戦後の日本の民間人は信用されても、国としてはあまり信用されていないイメージの元になっていると言える。

【平頂山事件の損害賠償請求訴訟】

 事件当時4-9歳だった生存者の中国人男女三名(楊宝山、莫德勝、方素栄)は1996年(平成8年)8月、日本政府に各2000万円の国家賠償を求めた訴訟を起こし、2002年(平成14年)6月、一審(東京地裁)では「平頂山の惨劇」の事実を認定したが、原告が日本政府に求めた謝罪と賠償請求を棄却した。次に2005年(平成17年)5月、二審の東京高等裁判所は第一審判決をそのまま支持し、「本件各控訴をいずれも棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。以上です」と裁判長はこれだけ言うと、すぐに法廷を後にした。理由が全く述べられず、開廷から閉廷まで十数秒だったため、弁護団も傍聴人も、皆あっけにとられたという。ただ、平頂山事件の経緯と被害者の被害事実は東京高裁で認定され、確定した。さらに2006年(平成18年)5月16日、最高裁も「戦前の国の違法な公権力行使は責任を問うことができない」という国家無答責の原則(後述参照)により、原告側の上告を棄却する決定を出し、原告敗訴が確定して結審した。

 この裁判に関しては日本でも弁護団が結成され、弁護団は何度も中国の現地に足を運び、原告の家族、その他の生存者とも会い、交流を続けながら支援活動を行なった。国内でも支援団体が作られ、原告が来日するたび、証言集会を各地で開いた。裁判は敗訴したが、判決において平頂山事件の事実が認定されたことは一応の成果であった。そして平頂山事件の被害者らは、裁判終了後も引き続き日本政府に対して、次のことを求めた。

(1)平頂山事件の事実と責任を認め、幸存者(中国の言い方で生存者)及びその遺族に対して、公式に謝罪を行うこと

(2)謝罪の証しとして、—— 日本政府の費用で、謝罪の碑を建てること / 同じく、平頂山事件被害者の供養のための陵苑を設置・整備すること

(3)平頂山事件の悲劇を再び繰り返さないために、事実を究明しその教訓を後世に伝えること

 ここでは金銭的賠償に関してはすでに触れていないが、この三項目はいずれも実現は不可能であろう。先述するように、敗戦が決まった時に日本の軍政府は、自分たちが行なった戦争に関する記録や資料をすべて焼却するように海外も含めて通達し、その意図はこの戦争がなかったことにしようとするものであった。つまり、満州事変からの14年に亘る侵略戦争をなかったことにしようとした政府が、「事実と責任を認め、公式に謝罪を行う」ことをするわけがなく、その精神的「伝統」は現今の国にも根強く引き継がれている。裁判における「国家無答責」の理屈もまさにその流れである。代わって謝罪するのは常に日本の民間人であり(後年の南京事件などにおいても同様で、それによって日本人の信用はつながっている)、その行動にも政官人は常に知らん顔をしている。また「事実を究明」するのも既述の小林実などの民間人(学者も含め)が黙々と取り組み、記念碑・記念館に関しては、この裁判の期間の前後に中国側自身が整備して立派な建築物とし、後世に向けてアピールしている。

 筆者注:上記の「国家無答責」に関し、筆者は法律には不明なのでネットで調べると、「国の権力行使により個人が損害を受けた場合でも、1947年(昭和22年)国家賠償法施行以前の行為であれば、国は賠償責任を負わないとする原則」とある。さらに見ると、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による」とあり、この従前の例とはつまり、戦前の国民の損害に関しては戦前の明治憲法下の判例(法令ではない)によるということで、実はその判例が「国家無答責の法理」であって、新しい日本国憲法以降の法律には、戦前の個人の損害・被害を救済する法律は存在しないということになる(以上はあくまで筆者の理解)。これに重ねて、「明治憲法時代、公務員が国家の権力的作用に基づいて第三者に損害を与えた場合、国家は責任を負わないという<法理>が確立されていた、と言われていた(戦後の国の主張)」という記述もあり、その解釈に則って戦後の裁判の基準とされたという。それにしてもなんという無責任な国であるのか、なんのために新憲法を作り、その精神に従って新たに法を整備しなかったのか。もともと国家が戦争を起こしていて、その国家が、終わった戦争中のことは責任が負えないとして「無答責」にするとはどういうことであろうか。裁判所も基本的に判決の前から国の意向に忖度する傾向は拭い難いが、その延長上で言えば、国内での空襲の犠牲者(孤児も含め)も同様で、何度提訴しても(国会議員もほぼ協力しているが)裁判では同様な理由で退けられ、いまだに一円たりとも補償されていない。裁判の中では国がそのための法を作らなければできないという判断もあるが、国は決して動こうとしない。もちろん国内のその他の戦争被害者に対してもそうであり、沖縄戦による住民被害(十万人以上)も同様である。そうした被害者をいちいち救済していては国家の財政がもたないという考えであるという(しかしこれが戦争なら金を際限なく出す)。その中で、原爆による被害者に対しては、これは大きな惨劇として世界的に知られているがゆえ、例外である。その一方で元軍人に対してはいまだに手厚い恩給や遺族年金が支給され、その予算は毎年1兆円を下らない。これを与野党も含め、マスメディアも一切追求しない。関連団体の潜在的な圧力が大きいからである。

鶴岡炭鉱と万人坑

 黒龍江省は中国東北三省の一番北側に位置し、その黒龍江省の省都のハルピンから北東方向に約300km、北方のロシア(ソ連)国境までは約100kmという位置に鶴岡市はあり、その北東部に鶴岡炭鉱万人坑がある。1914年(大正3年)に鶴岡で石炭が発見され、それから三年後の1917年(大正6年)に、黒龍江省湯原県興華炭鉱有限公司が石炭採掘を始める。鶴岡の石炭資源は豊富で、1926年(昭和元年)には鉄道が開通し鶴岡炭鉱は発展する。しかし1931年(昭和6年)の満州事変からの日本軍の侵攻により、翌1932年(昭和7年)8月に鶴岡炭鉱は占領される。1937年(昭和7年)には「偽満州国」の産業五ヶ年計画が開始され、石炭増産要請を背景に東北地方全体で日本による石炭略奪規模が拡大する。鶴岡炭鉱でも規模拡大が進み、興山・東山・南岡の三つの採炭所が稼働する。さらに1941年(昭和16年)に日本がアジア太平洋戦争に突入し広大な戦線を抱え込むと、石炭需要は一層増大する。鶴岡炭鉱でも採炭作業所を次々に増設し、立坑と露天掘りを併せ500ヶ所の作業所が設けられる。

 一方、膨大な増産に対応する労働力・労工を確保するため、東北各地に徴用人数を強制的に割り当て、「報国隊」「勤労奉仕隊」「義勇奉仕隊」などとして中国人を徴用した。そのうち周辺の各県から鶴岡炭鉱に徴用された人数は3万6950人になる。小さい坑口から石炭を掘り出すため子どもも童工として徴用された。採炭現場では、安全を無視した生産優先の石炭採掘が強行され、事故が頻発した。たとえば1943年(昭和18年)1月6日に南山の三つの炭鉱で発生したガス爆発事故では、炭鉱設備を火災から守るため労工が坑内から脱出する前に出口を閉鎖し消火した。このため94人が死亡したが、閉鎖された出口の手前に多数の遺体が折り重なっていた。

 中国人労工は、衣食住全てが劣悪な生活環境の下で長時間の重労働を強いられ、飢え・過労・病気などで多数が次々に死亡した。たとえば1942年(昭和17年)に黄河近辺で募集された400人は過労や飢えで次々に死亡し、1945年(昭和20年)の解放時には30人になっていた。1942年(昭和17年)に華北地区で募集し興山二号炭鉱に配置された18歳から30歳までの1千人は、最後は90人しか残らなかった。1943年(昭和18年)末には矯正輔導院と刑務所を鶴岡に設置し、無辜の人を捕まえ収監して強制労働に徴用した。こうして、鶴岡炭鉱株式会社は大型の強制収容所と化した。この状況は「人を石炭に換える」(以人換煤)と言われた。1932年(昭和7年)8月の日本による鶴岡占領から1945年(昭和20年)8月の日本敗戦までの13年間に、日本は鶴岡炭鉱で石炭1300万トンを収奪し6万人の中国人労工を死亡させた。

 日本敗戦後の1946年(昭和21年)8月20日に発足した採炭所の一つ東山労働組合の最初の仕事は遺骨収集だった。東山のいたるところに大量の遺骨が散乱しているので、木の箱を作って遺骨を集め、七ヶ所の溝(墓地)に埋葬した。1968年(昭和43年)10月に鶴岡市が東山万人坑をようやく発掘調査し、長さ10m・幅8m・深さ5mの範囲で千体余の遺骨を確認した。7体がまとめて針金で縛られている遺骨もあった。元の人捨て場は、長さ40m・幅30m・深さ7m程度の範囲が確認されていて、この発掘現場を保護するため1981年(昭和56年)に鶴岡東山万人坑として省級文物保護単位に指定され、記念碑と保存館が建てられ、万人坑の発掘現場がそっくり保存されている。保存館の中央部には、縦十数m・横十数m程の、植物園の温室のようにガラス張りで囲われる区画があって、その囲いの中に、数mくらい掘り下げられた穴があり、その穴の中に膨大な数の遺骨が横たわっている。保存館入口の門の前にある記念碑の裏面には、「突き刺され穴をあけられた頭蓋骨、へし折られた足の骨、縛り上げられた両手、針金で貫通された目 …、その惨状は見るに忍びない」とある。保存館に隣接して鉱史館が2003年(平成15年)に建てられた。鶴岡炭鉱では6万人の中国人労工が死亡し、周辺のいたるところに遺体が捨てられたが、統計によるとそのうち1万体が東山に埋められている。東山万人坑以外にもいたるところに遺骨は散在しているが、新たな発掘の計画はない。

(以上は青木茂の『万人坑を知る旅』より)

 なお、『侵華日軍暴行総録』には下記のように書かれている。

 —— 鶴岡東山万人坑と大陸万人坑は1931年から1945年までの日本侵略期に、日本軍が鶴岡で鉱山労働者を野蛮に殺害し、築いた2つの大きな万人坑である。…… 当時、ここに捨て置かれた死没鉱夫の詳細な数字は調査できなかったが、古い鉱夫たちの記憶によると、日本軍にここに捨てられた鉱夫は6、7千人いた。大陸万人坑は現在の鶴岡鉱務局大陸鉱の東の斜面に位置し、3本の数百mの長坑と約1200平方mの大深坑があり、ここに埋められた死没鉱員の死体は3万体近くに達した。日軍が鶴岡を占領している間、「人を石炭に換える」政策を推進し、坑内の安全を顧みず、事故を続発させ鉱山労働者の大量死を招いた。労働力の不足を補うため、1943年(昭和18年)に日本軍はまた鶴岡に2つの矯正院と刑務署を建設し、東北各地と山東、河北一帯から逮捕された大量の労働者をこの炭鉱に送り込み毎日12-14時間の重労働を強い、貧しい食事しか与えなかった。飢餓、過労、栄養不良、疾病の流行としばしば拷問を受け、労働者の大量死をもたらした。この3つの殺人魔窟には毎日多くの労働者が捕らえられ、毎日多くの死体が運び出され、これらの犠牲者の死体はこの2つの大きな万人穴に集中して捨てられている。…… 坑内には鉱山労働者を縛るための太い針金、死体を運ぶための鉄のフック、死体に掛けられた木の札などがたくさんある。これらはすべて日本帝国主義が我が国の東北を占領した時期に、血なまぐさい統治と狂気の略奪を行った歴史的証人である。

満蒙開拓団事業開始

 満州国が成立したことによって、昭和恐慌と東北地方を中心にした大凶作によって疲弊する日本の農民(特に農村の二・三男 )を、満州への移民により救済すると唱える加藤完治らと、満州に隣接するソ連に対する兵站地を形成するための屯田兵移民の必要を訴える関東軍の考えによって、反対が強い中、満蒙(満州と内蒙古)開拓団の事業が打ち出され、日本政府は試験的に移民を募集、この1932年(昭和7年)に1700余名を送り出した。その結果、大量移民の送出が可能とし、満州集団移された重要国策として取りあげてこの後も継続、四年後の1936年(昭和11年)までの5年間では年平均3千人(全2万人)の移民が送り出された。もともと日本の移民は1908年(明治41年)ブラジル移民から始まったが、ブラジルでは1934年(昭和9年)に日本人の移民枠が大幅に制限され、移民の流れがブラジルから満州移民へと変化したことも満州移民を後ろ押ししたとされている。ただしこの解釈には誤りがあり、その実態は、日本軍の満州占領と満州移民政策に対するブラジル内の親日派と排日派両方からの反感の結果の制限法制定によるもので、ブラジルが満洲化される危険性があることもその理由に挙げられた。(筆者の「ブラジル移民」の項参照)

 1936年(昭和11年)、関東軍は「満州農業移民百万戸移住計画」を作成し、政府は以後20年間で500万人の移民計画を発表する。しかし翌1937年(昭和12年)に日中戦争が始まって計画の達成が難しくなり、1938年(昭和13年)には農林省と拓務省による分村移民(特に村の貧困層を移住させる)が開始、12月には「満州開拓政策基本要綱」が策定された。 その中では満州移民政策を「東亜新秩序建設」の軸とし、また満州を全アジア・全中国支配の前進基地とし、軍部の侵略作戦に組み込んでいる。1939年(昭和14年)には日本と満州両政府による「満洲開拓政策基本要綱」が策定される。1937年から41年(昭和12-16年)までの5年間の年平均送出数は3万5千人、入植者数は16万5070人(4万2635戸)にのぼるが、41年(昭和16年)末には太平洋戦争に突入し、さらに国内の農村各地にも徴兵の増員が発せられ、計画の実現はますます困難となる。1940年(昭和15年)には、差別(同和)地区からも開拓団が編成され、1941年(昭和16年)からは失業した都市勤労者からも開拓団を編成した。1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦までに開拓民として27万人が移住した。

 日本の農民たちが入植した土地の大部分は、中国人や朝鮮人が耕作していた土地を安い値段で買い上げたものだった。しかし土地を失った地元農民の中には行き場がない人たちもいて、小作人として雇うこともあった。開拓地では出身の村や郡単位でまとまって新たな村(本来の中国の土地とは別な名前をつける)を組織し、共同で農業に取り組んで軍への食糧も提供していく。開墾が進んで多少治安も安定すると、既婚者は家族を呼び寄せ、独身男性に花嫁部隊が送り込まれた。中には相手の写真一枚を持って来た女性もいて、無事に出会うと新しい村の神社(寺や神社も追って作られた)で集団結婚式が挙げられた。その他、一時的に団員が日本の故郷に帰り、そこで見合いをしてすぐに挙式し、その花嫁を連れて満洲に戻るというやり方も行われた。彼女たちは「大陸の花嫁」と呼ばれた。やがて農地が不足してくると、防衛も兼ねてソ連との国境に近い冬は極寒となる土地にも開拓を広げた。

 1937年(昭和12年)から日中戦争に突入し、泥沼的に戦線が広がり、さらに1941年(昭和16年)末に太平洋戦争が始まると、満州を統治する関東軍の多くが南方戦線に移動させられ、それを補うために開拓団の男性にも召集令状が来て、戦線に駆り出されるようになった。そのため開拓団には女性や子ども老人が多くなり、満州での農業経営も苦しくなっていく。1945年(昭和20年)8月9日未明(この日11時、6日の広島に続き、長崎にも米軍により原爆が投下される)、日本軍が弱体化していること狙ってソ連が日ソ不可侵条約を破棄し、満州北部の東西から一斉に侵攻を開始した。関東軍はしばらく応戦したが、各地で玉砕となった。軍司令部はすでに朝鮮国境近くに移転していて、連絡網が断たれたこともあって、この戦闘は8月15日の終戦宣言があった後も一週間程度続けられ、その間に関東軍の将校たちは前線の将兵たちを放置して逃げた。

 満州国は消滅し、残された開拓民はじめ満州の多くの居留民も放置された。日本軍の将校たち以外にも満鉄の高級職員たちは先に列車を確保して逃げたが、残された一般兵や居留民や開拓員のうち、男性の多くはソ連軍に捕らえられてシベリアに抑留され、極寒の収容所における労役で多くが命を落とした(シベ リアへ強制収容された者は日本軍人・軍属・民間人も合わせて57万人とされ、そのうち一割がその地で命を落とした)。一方で婦女子と老人は、ソ連軍と恨みをかっていた中国人の襲撃と略奪から家財産を放棄して逃れる以外になく、そこから日本への過酷な逃避行が始まった。逃げ遅れた村の女性たちは、ソ連兵の暴行から逃れるために集団自決する場合もあったし、隠れるために泣き叫ぶ赤子を殺してしまう場合もあった(その前のサイパンなどや沖縄の決戦でも追い詰められた居留民・住民の集団自決は多々あった)。逃避行では(すでに日本人のための列車などは運行していず、ほとんどが徒歩で)、子供を餓死させたり、それを恐れて途中で子供を中国人に預けたり(中国の農民は善意というより労働の手助けとして子供を欲しがった面もあるが、それによって多くの中国残留孤児が生まれる)、あるいは若い女性は帰国を諦めて現地の人と結婚するなど、数多くの悲劇が生じた。政官軍人の「理想郷建設」という言葉に踊らされて、大きな夢を抱いてやって来た日本国民にもたらされたいくつもの大きな悲劇の中の一つであった。そうして日本に帰れずに死亡した日本人は(戦闘以外で)8万人にのぼった。

 一方で1938年(昭和13年)から15-18歳の少年で組織する満蒙開拓青少年義勇軍を発足させ、12万人の送出が計画されたが、1945年(昭和20年)まで約8万6000人の農業青年が送り込まれた。なお、青少年義勇軍への志願は、教師による指導などもあり、貧しい農家の二・三男が多かった。青少年義勇軍を含めると約32万人が移住したという説もある。

満州第一次武装開拓団

 上記は満蒙開拓団に関する一般的記述であるが、政府は屯田移民政策として屯墾義勇組織の必要を考え、一般の移民団の前に(あるいは並行して)1932年(昭和7年)8月に武装開拓団を募集した。これは満州を開拓するにあたって、もとの満州地元農民の反抗を抑えて入植者の治安維持に当たらせるもので、拓務省によって先遣隊として軍隊経験がある若者(30歳未満で徴兵検査により合格し、定められた兵役期間を経ていた者たち)が東北と長野・ 新潟を含む11県から500名募集され、志願してきた者たちから選抜し、最終的に416名が残った。募集要項の中には「志操堅固、困苦欠乏に耐え、理想郷建設に邁進し、北満洲に骨を埋める確固不動の精神を持つ者」とあった。

 1932年(昭和7年)10月、神戸港から出発。武装開拓団(別名屯懇第一大隊)は、あらかじめ関東軍が指定した土地に分散して着任するが、現地では「匪賊」(ゲリラ)との戦いがしばしばあった。その前提で小銃や機関銃も用意されていた。匪賊といっても、もともとは自分たちの土地を日本軍に奪われた上での恨みによるレジスタンスであるから、彼らの戦闘活動は自然の成り行きであろうし、どの国でも同じ状況に置かれた住民が反抗する話は普通にある。それをあえて匪賊と呼ぶのは、日本側の傲慢である。ただしこの時期はまだ地元の地主と交渉して土地を買い取ってからの村づくりであったというが、そのうち強引に明け渡しを求め、元の農民たちを村ごと追い出した例も多く出てくる(昭和10年の「帰屯並戸:集団部落」の項参照)。先遣隊としての武装開拓団はゲリラの襲撃にしばしば悩まされ、死者も出た。その中でまずは共同住宅を作り、また日本から寺僧なども後から送られてきて、新しい建設村には寺院と神社も作られた。つまり建築技術を持った兵士もいたわけだが、労働者としては地元満州人や朝鮮人が多く使われた。なお第1次試験移民は3年間で162名、第2次も約500名のうち2年間で161名の退団者を出した。

【一武装開拓団員の歩み】

 以下、武装開拓団の団員であった長野県の小倉幸男の回想からであるが、彼はシベリア抑留まで経験していて、戦後の帰国までの経緯を要約する。(「平和祈念展示資料館」のサイトの記録によるが、この資料館は主として満州引揚者やシベリア抑留者を対象とし、国の総務省が支援している)

 —— 小倉は自作農の四男として生まれ、農業学校を卒業したが、徴兵検査では甲種合格となり幹部候補生として訓練を受けたのち見習士官となり、いったん現役満期除隊となっていた。そこに1932年(昭和7年)8月に武装開拓団の募集を知り、志願して採用された。長野県では42人が採用された。まず9月に茨城県で農業と開墾作業や土木工事などの短期訓練が行われ、10月3日に東京明治神宮外苑に集合、正式に大隊編成を行い、明治神宮を参拝後、拓務省を表敬訪問、 東京駅より臨時列車で神戸へ向かい翌日昼、神戸港着。7日朝、中国大連着。そこから満鉄に乗り9日朝奉天着。兵舎へ入ると関東軍によってあらかじめ準備されていた武器弾薬、軍服及び防寒具の支給を受ける。12日ハルビン着、さらに松花江の貨物船に乗船し、14日夕、佳木斯港へ到着したが、佳木斯が匪賊の襲撃を受け、しばらく船内に待機、翌日早朝上陸、 関東軍の準備した仮兵舎に入った。開拓地への入植は匪賊の横行による治安問題と寒さのため来春までできず、それまで諸準備を行った。翌1933年(昭和8年)2月11日から150人の先遣隊が早期に出発、永豊鎮(孟家崗)へ入植し、厳寒の零下30度の中で本隊受け入れの準備作業に着手した。2月15日、物資収集班が匪賊と交戦、団員の一人が戦死する。更に3月20日、伐採班警備隊が匪賊と交戦の末、三人が戦死した。3月28日、関東軍東宮大尉の立会いのもと市川隊長、山崎団長と満州樺川県長と地方民代表との間に土地協定が行われ、弥栄村(新しい村の名)の地域境界が明確化された。

 4月1日、本隊が佳木斯より現地へ入植を完了したので鍬入式を挙行、農耕にかかり、農作物としては玉蜀黍・粟・大麦・ 小麦などがあり、それらの播種を行う。4月21日各小隊(部落)長会を開き弥栄村部落用地に関する議定書を作成し、12部落の区域用地が決まり、一斉に共同家屋(満州式長屋)三棟あての建築にかかる。8月15日東本願寺高橋麗真師着任、弥栄本願寺を開設。また村の中心の丘に弥栄神社を建立し、南山に忠魂碑を建立した。

 弥栄村の本部とした建物は、永豊鎮にある元紅槍会匪賊の本拠地で、満州国軍(関東軍)が接収し、土壁に囲まれたものであった。本部には購買部・木工班・農産加工・製材・鍛工・自動車輸送班・医務室などが配置され、ほかに一部の警備要員を含め、計12人が分担して夜遅くまで仕事に精を出していた。 五族協和を旗印に満鮮人の出入りは自由に行われ、夜間の警備態勢も手薄であった。1934年(昭和9年)2月16日、零下20数度の寒い夜中の一時ごろ、宿舎の外で急に怒号が聞こえ、窓から爆音と同時に小銃弾が連続で飛び込んできた。一同飛び起きて直ちに反撃し、手榴弾などで必死の応戦を続け、外からの救援隊を待った。交戦すること約四、五十分、宿舎の東端より火の手が上がったが、救援隊が到着し、その猛攻により土塀内に侵入していた百数十人の紅槍会匪賊は、死体二体を残し退散した。夜明け後、宿舎内は弾痕で蜂の巣のように穴が空いていた。やがてお互い抱き合って無事を喜んだが、隣の宿舎では敵匪賊の侵入で獣医や指導員三人が瀕死の重傷を負っていた。幸いにその後の処置も良く回復した。本部を襲撃したのは紅槍会匪賊(大刀会:先述の平頂山事件にも関わっている)で、 彼らは元の本拠を奪取せんとする意図であったろう。

 その後治安状態も次第によくなり、個人住宅の建設も進み、既婚者の家族を召致することに決定した。次に1935年(昭和10年)になって花嫁部隊を9月に召致した。これにより婦人や子供のいなかった殺風景な開拓地も各施設の完備と共に一段と和やかになり、農作業も前進し、 大きな成果をあげた。1936年(昭和11年)度は住宅も完成し、農耕地も個人別に配分可能な段階まで進めることになったとし、未婚者全員の花嫁召致が計画され、3月中旬に小倉を団長として青森をはじめ各部落の代表8人の団員と共に弥栄村を出発し、それぞれの出身県に帰り嫁探し、結婚・渡満準備をすることになった。朝鮮経由で帰国し、スケジュールにより県内団員の家を巡回し、花嫁の決定や渡満準備などを行うほか、出身農業校・小学校その他の集まりで満州事情について講演会・座談会を行った。4月に入って自身の結婚式も済ませ、次の巡回は花嫁だけで仮祝言・結婚披露宴などを行い、それぞれの荷造りを完了し、4月22日に各県の代表に新潟に集合するように打電し、新潟で各県からの花嫁の到着を待った。付添人も多く大変な混雑であったが、幸いにも65人が遅刻者もなく集まった。正午新潟県庁で簡単な壮行会が行われた。夕方新潟港着、二千五百トンの月山丸に乗船して出港、23日朝、朝鮮の清津港へ入港し上陸した。鉄道で24日朝ハルビン着。 松花江を船で下り、翌25日朝、佳木斯港へ上陸、港には団長諸氏が出迎えて旧知の者もあれば写真婚で初めて会う者もあり、引き合わせが済むと出迎えの貨物自動車に分乗して昼過ぎには弥栄村本部へ無事到着した。翌日、弥栄神社で関係者の出席を得て集団結婚式が行われた。

 弥栄村では後続開拓団先遣隊の現地訓練を行うため、1936年(昭和11年)より永豊鎮の本部地区内に訓練所施設を建設し、その後満州政府の所管の弥栄基幹開拓農民訓練所となったが、訓練科目は開拓精神・五族協和・村造り設計・農業技術・農機具・畜産・中国語・気候風土と生活・軍事訓練などであり、終戦前まで継続した。これに並行して茨城県の内原青少年義勇隊訓練所の加藤完治校長の協力要請により、小倉は1937年(昭和12年)5月より10月まで、教官として義勇隊訓練所に出向勤務した。その後も弥栄村において基幹訓練所の職員が近隣開拓団の子弟等を集め、訓練業務を続けたが、戦局悪化により小倉をはじめ職員の応召が次々と始まり、1945年(昭和20年)8月初めに訓練所は閉鎖された。

 1941年(昭和16年)7月、小倉は弥栄村では第一号の召集となり関東軍野戦鉄道司令部要員として牡丹江独立守備歩兵第二大隊に入隊、すぐに関東軍第三停車場司令部に編入され、部下数人と共に列車による兵員、武器弾薬、資材などの軍需輸送を担当した。それは一年三カ月で召集解除されたが、1945年(昭和20年)3月、第二回目の臨時召集により歩兵連隊へ応召、第一中隊第一小隊長から連隊本部付、次に連隊の留守部隊長として牡丹江の奥地鏡泊湖陣地へ転進、7月には第11中隊長に任命されるという優秀な軍人であった。
 しかし8月9日にソ連が対日不戦条約を破棄し、満州へ全面侵攻、応戦するが関東軍の精鋭部隊は南方作戦に転進し、残った補充部隊は経験が少なく弱体化していた。8月15日正午、終戦の詔勅をラジオで聴き呆然。遅れて17日の停戦命令で砲火はやんだ(別の前線では司令部との連絡が途絶えていて戦闘が続けられていたが、小倉の牡丹江付近は犠牲の少ない地区でありまた小倉は留守部隊のため前線には出ていなかった)。18日、中隊長以上が集合し、連隊の象徴である軍旗を焼却。20日、武装解除してソ連軍の指揮下に入る(その時「これで日本へ帰れるぞ」と胸をおどらせたが、その行く先はシベリアであった)。9月10日、 所属する第四師団が牡丹江の掖河へ集結され、シベリア転送の部隊編成が行われ、9月15日昼、牡丹江掖河駅より貨物列車でシベリアへ向かう。 翌々日、広い原野の小さな駅に到着、徒歩で約30分ぐらい離れた収容所(ラーゲリ)に収容される。小倉が収容されたラーゲリは、シベリア第一地区308収容所で、山の中で、五百人ぐらいは収容できる規模で鉄条網が幾重にも張りめぐらされ、作業は主として森林伐採と鉄道工事・丸太建築・ 道路工事などの作業が多かった。シベリアの寒さは零下52度の時もあったほどで、寒さと飢えで死亡するという事態が多く発生し、初年度で8%近い犠牲者を出した。兵舎はバラック建てで、二段式のベッドの板敷きに毛布、暖房は薪ペチカ、窓は小さく日照不足、夜の照 明は石油ランプ、建物は炊事場・風呂場・ 集会室・医務室などに区分されていた。病弱の者は病人として、ほかの収容所へ転属し、その分労働過重となり多数の死亡者が出て、中隊の人員は当初の八割近くに減った。

 小倉は農業出身者で、善良な将校として、 帰国の第一選抜に選ばれ思わず万歳を叫んだ。 帰国予定者は特別に赤化教育を受けて、2年10カ月を経て、 1948年(昭和23年)6月1日、収容所を出発。貨物列車でナホトカ港へ到着。ここで新たに帰国集団が編成され、帰国船を待つこと一週間、6月19日に「明優丸」に乗船し、21日の朝、舞鶴港へ上陸した。この地の復員事務所で妻からの手紙を受け取るが、その内容には、妻はその妹と一緒に子供三人を連れて1946年(昭和21年)12月に帰郷したが、途中で下の子2歳は死 亡、また妻の兄は、弥栄小学校西弥栄分校の主任教師をやっていたが、引揚げ団引率中に病死、子供一人も失ったとあった。小倉はわずかの旅費、小遣いの支給を受け、6月23日夕、無事に故郷へ帰還した。

日本国内の動向と世相(昭和7年:1932年)

日本の出来事

 1月8日、桜田門事件発生(後述)

 1月18日、天皇による「満州事変に際し関東軍に賜りたる勅語」渙発 (既述)

 2月9日、血盟団事件発生(後述)

 2月29日、上海事変の最中、リットン調査団が来日。その後調査団は上海、南京、北京の視察を行い、各要人と会い、視察は1932年(昭和7年)6月に完了。

 2月、NHKラジオの聴取契約数が100万を突破。

 同月、 関東大震災で焼けてなくなっていた銀座の柳が再び植えられることになり植樹祭が行われる。しかしこれもまた12年後の大空襲により、焼けてしまう。

 3月1日、関東軍により満州国建国が宣言された。これにより日本は台湾、朝鮮に続き三国を植民地にしたことになる。

 3月12日、犬養内閣は「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域である」と閣議決定した。

 同月、映画がトーキー(音声付き)化され、浅草で弁士や楽士170人のストライキが起きる。

 同月、ダイヤル式公衆電話が都内に初登場、このころは東京の電話普及はまだ1700件程度だった。

 同月、警視庁で初めての婦人警官採用、主に家出人の保護を担当。

 同月、目黒競馬場で初めての日本ダービーが開催される。

 「肉弾三勇士」に関するものが次々と登場、ビールの広告にもなる。

 4月、陸軍軍医学校に防疫研究室が設立される。のちに731部隊を率いる石井四郎 (京都帝国大学医学部出身)は1930年(昭和5年)、細菌兵器の研究・開発のための欧米視察から帰国すると、陸軍中央の医学関係者要人に細菌戦のための研究の必要性を説得し、その支持を得て石井を含めた軍医5人防疫研究室を設置させ、自らが研究室の主幹となった。同時に、日本の支配する満州への出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において関東軍防疫給水部本部を設立、建前はその名が表すように日本軍の衛生管理を守ることであったが、細菌兵器の研究ばかりでなく、次第に捉えた捕虜を人体実験の材料として使うようになる。通称731部隊と呼ばれ、1937年(昭和12年)の日中戦争の拡大により、中国各所に支部が作られていく。そして日本軍の進軍・攻撃に合わせて細菌作戦を展開し、毒ガス作戦とともに大きな禍根を残していくことになる。

 5月15日、五・十五事件発生(後述)

 5月、神奈川県大磯坂田山で慶應大学生と資産家令嬢の心中事件があり(親に結婚を反対され)、翌月には「天国に結ぶ恋」とのタイトルで映画も封切られ、この後、20組の後追い心中が起こった 。

 6月、警視庁、特別高等警察部(特高警察部)設置の勅令を公布。特高警察が課から部に昇格し、国民監視の目が強まる。

 6月14日、衆議院本会議において、満洲国承認決議案が全会一致で可決される。

 7月、ロサンゼルスオリンピックが開催され、男子競泳は、日本勢が400メートル自由形をのぞく5種目の金メダルを獲得した。他に金は三段跳の南部忠平、馬術の西竹一で合計7個、銀メダルは水泳で5種目、うち女子200m平泳ぎで前畑秀子、男子棒高跳びで西田修平、男子ホッケー、銅メダルは水泳2、陸上2(うち南部忠平が走幅跳)で合計18個のメダル数であり、まだ競技数が少ない中での快挙であった。

 8月、陸軍飛行学校で年少の飛行兵を養成することになり、操縦生徒は満17から19歳まで、技術生徒は満15から18歳までとして募集され、応募者は海軍の予科練と同様、操縦生徒が70名定員の約50倍、技術生徒が100名定員の約64倍という応募があり、軍国主義教育下の当時の少年の「夢」を表している。合格者は翌年2月に埼玉県の所沢陸軍飛行学校に入校した。後に少年飛行学校となる。

 同月、大阪千日前に3000人収容の歌舞伎座が竣工

 10月、東京市が府下5郡82町村を合併し、東京市は15区から35区になり、府としての人口は約500万人でニューヨークに続く世界第2位の都市となる。

 10月、満州第一次武装開拓団(移民団)416名が出発。満州へ本格的開拓団を送るににあたり、先に訓練で武装した若い団員を結成して「匪賊」に備え用としたものである。(この年、軍歌『討匪行』(匪賊を討つ行軍の意味)が発表される)

 12月、日本橋の百貨店白木屋で火災が発生、従業員14名が死亡、初めての高層ビル火災であった。

 1月8日:恒例の陸軍事始めの観兵が昭和天皇隣席のもとに東京代々木の練兵場で行われた。

桜田門事件

 観兵式から皇居に戻られる途中で、天皇の馬車に手榴弾が投げつけられた。犯人の李奉昌は朝鮮独立運動の抗日武装組織韓人愛国団の一員で、馬車は軽い損傷を受けただけであったが、その後大逆罪で死刑となった。この事件は国内外にも報道され、1月9日、上海の国民党機関誌『民国日報』は「不幸にして僅かに副車を炸く」と報道した。この内容に日本人居留民は「不敬である」といって集団で上海市長に抗議、改めて上海総領事村井倉松が上海市長呉鉄城に抗議した。これとは別に、青島でも1月12日、約200人の日本人居留民が天皇に対する不敬記事を掲載したとして、 新聞社を焼打ちし、焼失させるという事件がおこっている。

 上海では前年の満州事変から抗日救国連合会が組織され、80万人の労働者が結集するほどに反日・抗日運動が激化し、日本商品の不買運動は主婦層をも巻き込んで空前の広がりをみせていた。 当時上海には約2万3千の日本人が住んでいたが、彼らも愛国心からその動きに対抗していた。こうした両国の不穏な空気が、この月末の上海事変につながり、多大な死傷者を出すことになる(既述)。

天皇による「満州事変に際し関東軍に賜りたる勅語」渙発

 1932年(昭和7年)1月18日、天皇は今回の満州事変に関し、その功績を称えるとして勅語を発した。その言葉には「朕(天皇自身)、深く其忠烈を嘉す。汝将兵、益々堅忍自重、以て東洋平和の基礎を確立し、朕が信倚(信頼)に対(応)えんことを期せよ」とある。それまでの天皇の戦線不拡大への意志と違って、驚きの褒め言葉である。同じく拡大政策に反対していた若槻首相や幣原外相がいなくなったところに1月初旬、関東軍参謀の板垣征四郎が上京して本庄司令官の満州国建国構想(これには石原完爾の考えが基本的に採用されている)の経過報告と内閣の内諾を得るために来たことも裏付けとしてあるだろうが、それまでの関東軍の暴走を言葉たくみに正当化して、よってたかって天皇を説得した成果であろう。前年の9月、天皇自身が「すべて非は向こうにある、という態度で臨んでいては円満な解決はできない。とにかく軍規を厳重に守るように」との注意をしたにもかかわらず、軍人たちの面従腹背もいいところである。この「東洋平和のため」のような建前が、正義という言葉とともに戦争を仕掛けた側がいつもその理由として掲げられるが、それが最終的に太平洋戦争を呼び込み、日本を破滅に導いて行く。

 このことは昭和天皇が現代社会から見れば想像以上に情報から閉ざされた権力構造の中で、軍政府の重鎮たちが彼らなりの「信念」を持っていかに天皇を説得していったか、つまりそれまでの経緯を言葉たくみにごまかした上で、「今、天皇陛下からのお褒めの言葉をいただければ、どれだけ関東軍の兵士たちが満州国を善い国にしていくために邁進していくことか、そのためも是非に陛下よりお言葉を賜りたい」とでも“意を尽くして”説得した結果であろう。いずれにしても、戦前の戦争を遂行する立場にいた軍政府の為政者には、いかにして天皇を利用するかということが考える中での要であり、一般世間から隔絶された皇室の中で育った天皇を丸め込むことなど簡単であったろう。こうして勅語を賜った関東軍にもう怖いものはなくなった。

血盟団事件

1932年(昭和7年)2月:日蓮宗の僧侶で国粋主義者である井上日召が血盟団を組織し、国家改造を目指し、政界・財界の反軍的大物(当時の首相犬養毅を含めた10名)の暗殺を決定し、「一人一殺」という手段で団員に命令した。2月9日、前大蔵大臣・井上準之助(金解禁論で経済政策に失敗と判断された)、続いて3月5日、三井財閥の総帥琢磨を(ドル買いに走り、莫大な富を得た財閥の代表)を射殺した。他の暗殺対象は西園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・鈴木喜三郎らであった。この事件は政治家だけでなく経済界にも国粋主義者の恐怖を抱かせることとなった。裁判では井上日召ら三名が無期懲役判決を受けたが、1940年(昭和15年) 特赦を受けて出獄、近衛文麿邸に寄食した。今の時代からすれば異様なことであるが、日米交渉の進展によっては起こりえるテロを恐れた近衛が用心棒として雇っていたものであったという。またこの事件は数か月後に起こる五・一五事件の前触れでもあった。

五・一五事件

 1932年(昭和7年)5月15日、昭和維新を唱える武装した海軍の青年将校たちが、総理大臣官邸に乱入し、犬養毅を殺害した。この首謀者は海軍中尉古賀清志、海軍士官三上卓で、陸軍士官学校の生徒たちを動員してクーデターを起こそうとした。狙いは政治家 の腐敗の代表として犬養毅首相と、天皇を思うがままに動かすことに邪魔な元老西園寺公望、内大臣牧野伸顕、侍従長の鈴木貫太郎ら「君側の奸」であった。これらの名前は上記の血盟団事件と重なる。

 終息後、将校たちは憲兵隊に自首し、軍法会議において海軍は首謀者二人には禁固15年、その他10年、陸軍は全員禁錮4年とされた。他は無罪となり、10月事件や血盟団と同様に軽い処分であった。この事件に対し、国民は新聞の論調に誘導され同情的であったとされ、海軍内部での発言も不思議なほど同情的であった。

 例えば東郷平八郎元帥は、「この士官たちの志は十分にわかっているから、彼らの志を国民に知らせると同時に、足りないところはお前達が援助してやってほしい」と海軍軍人に述べ、加藤寛海軍大将は「君たちはじつに気の毒だった。僕がやらねばならないことを君たちがやってくれた。ほんとうに相すまない」とあって、この時代の軍人の精神状態はどのようなものなのか、想像がしづらい。この段階で西園寺公望も牧野伸顕も引退をほのめかすが、侍従長の鈴木貫太郎は堂々と事件を批判し、将来を危うがった。数年後に全員が恩赦で釈放され、満州や中国北部で枢要な地位に就いた。現職総理を殺したテロリストに死刑も適用しなかったことが、その後の二・二六事件となったとも言われる。そしてこの事件後、テロを恐れるあまり政治家たちが反軍的な言動を差し控える風潮が広がった。

この事件の影響 で犬養内閣は潰れ、斎藤実海軍大将が総理大臣になる。これまでの政党政治内閣が終わり、「挙国一致内閣」が始まり、軍国主義時代の色合いが明確になっ た。またテロへの恐怖から軍部に迎合する政治家が増え、軍部が言論統制への権限を強めていく。

 犬養はこの二週間前の5月1日、「内憂外患の対策」と題する最後の演説を行っている。経済政策などの「内憂」について述べたあと、「外患」に話が移ると、軍部を刺激するような言葉を発した。——「侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことである。どこまでも私は平和ということをもって進んでいきたい。政友会の内閣である以上は、決して外国に向かって侵略をしようなどという考えは毛頭もっていないのである」。はたしてこの発言をもって青年将校たちが決起したのかどうかわからない。犬養はやってきた将校たちに「話せばわかる」と、彼らの話を聞こうとしたが、問答無用として殺害された。

余話:この事件前日の14日、チャップリンが神戸港に上陸し初来日、そしてこの15日、当時の犬養首相と歓談する予定だったが、急遽キャンセルして相撲の観覧に切り替えたため、この事件を免れた。実はチャップリンには高野虎市という運転手兼付き人から秘書になった日本人がアメリカから同行していて、高野は事前に青年将校たちの反乱の情報を得ていた。そして14日夜、帝国ホテルに向かう車の中で、高野は後ろに不審な車が付いてきているのに気づいて、一旦皇居の前で車を止め、外に出てチャップリンに皇居に向かって礼拝をさせて(この光景は翌日新聞にも取り上げられた)とりあえずの難を免れた。そして当日の午後、高野の機転でチャップリンは犬養首相との歓談予定をキャンセルした。青年将校たちも事前にチャップリンが来日して犬養首相と会うことを知り、一緒に殺害して米国を挑発するという意図があった。チャップリンは6月2日まで日本に滞在、その後も戦後も含めて4度来日した。ちなみに高野はその後辞職して一時日本に帰郷するが、米国に戻って日米開戦(太平洋戦争)によってスパイ容疑で逮捕されて強制収容所に収容され、7年後に釈放、その後大戦中にアメリカ市民権を失った日系人の権利回復運動や日本人移民のアメリカ永住権や国籍取得の支援を行った。彼は晩年に故郷の広島に戻り、1971年、86歳で死去した。

献金による「愛国一号・二号機」の命名披露式と飛行機の献納ブーム

 満州事変は、今の時代から見ると国民に苦難を強いる長期の戦争への始まりであったが、当時の国民にとっては日本という国が世界に躍進していくように見える出来事であった。それによって軍への献金ムードが高まり(新聞社がそれを推進したが)、前年から目黒駒場青年団の献金運動によるものと、別にプールされていた寄付金から、陸軍用に飛行機二機が購入され、愛国一号(スウェーデン製双発の爆撃機)と二号機(ドイツ製の患者輸送機)の披露と命名式が1932年(昭和7年)1月10日、代々木練兵場で盛大に行われた。練兵場にはこの日7万人、場外にも観衆3万人が集まり、大臣の祝辞もあり、ラジオ中継もされ、お祝いとして所沢と下志津の陸軍飛行学校からの40数機が上空に舞い、アクロバット飛行も行われた。この一号機は当時で10万円、二号機は12万円とされ、現在の金額で1.5億-2億円であろうか。これは絵葉書にもされ、少年雑誌に紙クラフトの付録もついた。

 両機はこの後任地の満州に赴くが、その前に国内の各地に立ち寄り、市民や子供達の歓迎を受けつつ、最後に九州の太刀洗から朝鮮の京城(ソウル)、平壌を経て、満州の奉天に着任した。こうした報道により献納ブームが起こり、小・中学校や女学校、大学、さらに新聞社を通じての献金が次々と行われ、中には私学校1校での献納もあり、ほぼ1944年(昭和19年)、つまり終戦の前年まで続けられるが、そのうち区市町村では割り当てによる半強制になったという。女学校の資料にもこうした献金活動は出てくるが、全体で判明している愛国号は1752機存在していたが資料で確認できないもの843機、合わせておよそ1900機、それとは別に海軍では「報国号」と名付けられて献納され、総数が6000機弱(未確認はあるが番号だけで追った数字)というから驚く。まとまった記録(つまり陸海軍独自で記録していたはずのもの)が残っていないのは、敗戦直後の全軍事資料焼却指令によって一緒に燃やされたからであろう。なお献納は飛行機以外にも、鉄カブトから鉄砲、機関銃や高射砲、軍用自動車・装甲車、患者輸送車、はては艦船まで、様々な献納が行われている。(以上の数字は横川裕一の「陸軍愛国号献納機調査報告」のサイトによる)

純国産飛行機への流れ

 ライト兄弟が1903年(明治36年)に世界初の有人動力飛行に成功したが、初の日本製軍用機制作は1911年(明治44年)で、これはフランス式の複製であり、戦闘機(まだ複葉機で機体は木製)は1916年(大正5年)6月に陸軍航空部が開発、完成したが正式採用とならず、海軍軍人であった中島知久平が中島飛行機製作所を設立し、試行錯誤の末、1919年(大正8年)に陸軍に練習機として100機が採用されるも、しばらく軍用機は主にフランス製のものが使われ、国産としては川崎航空機や三菱航空機、石川島飛行機とともに中島もライセンス生産を続けた。陸軍が偵察機を各飛行機会社に競争試作をさせた中で、ドイツ人設計の川崎航空機のものが1928年(昭和3年)2月に八八式偵察機として制式採用された。これは主翼や胴体の骨格が金属製の複葉単発機で、それまでの機体に比べ近代的な構造になっていた。これが満州事変、第一次上海事変から日中戦争の初期に至るまで前線で使用された。また、爆装をして爆撃機としても利用され、後に爆撃専用の機体が開発され、八八式軽爆撃機となり(前記の錦州爆撃でも使われた)、1940年(昭和15年)頃までは、偵察部隊に配備されていた。その後中島飛行機がフランスから招聘した技師を中心に設計した九一式単葉戦闘機が1931年(昭和6年)に正式採用され、その後は川崎や三菱、石川島の国産機も次々と採用されていくが、1937年(昭和12年)に中島の九七式単葉戦闘機が採用されると、これが量産され、この年から開始された日中戦争に投入される。さらに性能を上げた中島の一式戦闘機が1941年(昭和16年)に採用され、これが「隼」と呼ばれ、太平洋戦争で活躍する。この両機の開発に関わったのが、戦後、ロケットの父と呼ばれる糸川英夫であった。また1944年(昭和19年)11月下旬から始まった日本本土への本格的空襲の最初の攻撃目標が、武蔵野にある中島飛行機の工場であった。

 一方で海軍で1929年(昭和4年)に制式採用されたのが中島の三式艦上戦闘機で1930年から1932年(昭和5-7年)にかけて量産され、第一次上海事変に参戦し、米国のボーイング218戦闘機を撃墜、日本航空隊初の撃墜戦果をあげた。続けて中島の九〇式艦上戦闘機が後継機として投入され、性能は三式艦戦を遥かに凌ぎ、これは日本人が初めて設計、製造した戦闘機で、1932年(昭和7年)後半から就役し、空母、陸上部隊の両方で幅広く使用された。この機は国民の義捐金によって報国号として献納された例が多く、横須賀海軍航空隊では日本各地で行われた献納式で編隊アクロバット飛行を行った。これも日中戦争に投入され、1937年(昭和12年)8月、九〇式艦上戦闘機10機が、上海北方の江湾上空で敵戦闘機群と交戦してコルセア機やダグラス機計5機を撃墜報告している。その後初の全金属単葉戦闘機である九六式艦上戦闘機(三菱重工)が採用され(1936年:昭和11年)、主に中国戦線に投入されたが、愛知航空機による九六式艦上爆撃機が別途採用され、これが1937年(昭和12年)の日中戦争から上海やその近郊、そして南京空爆を手始めとして陸軍の侵攻に合わせて長期、広範囲にわたって大量の爆弾を投下する。日本が米軍によって大量の爆弾による空爆を受け始める7年も前のことである。この機も報国号として献納されたケースが多かった。さらに1940年(昭和15年)に、2200 kmの航続距離と20mm機関砲2門の重武装で優れた運動性能を持つ零式艦上戦闘機(ゼロ戦)が同じ三菱によって開発され、約1万機量産され、当初は米軍戦闘機よりも優位にあったが、そのうち米軍の新鋭戦闘機の大量投入で劣勢となり、最後には特攻機としても使われ、多くの若き命を散らすことになった。なおこの三菱の二機の設計主任は堀越二郎である。

目次

目次を開く