上海制圧から南京攻略への転換と進軍途上の数々の蛮行
── 南京以前・以外の都市における数々の惨劇:その二 ──
第二次上海事変開始から南京攻略に至るまでに並行して上記のような中国各地での戦いや事件があったことは、なぜか通常ほとんど語られることがない。それらの戦いは、すでに満州事変以来常駐していた関東軍とは別に、北京を中心にした支那駐屯軍が日本から第五・第六・第十師団の増援を得て行ったものであり、盧溝橋事件を好都合にして、華北における支配地拡大のため上記のような侵攻作戦が展開されて行った。この後支那駐屯軍は北支那方面軍として編成され、一方で上海事変勃発後、主に戦っていたのは既述のように海軍陸戦隊であって、上海の在留邦人保護のためという理由で陸軍は上海派遣軍を編成し、8月23日に上海北部の揚子江岸に上陸した。上海派遣軍はこの後に加えられる第十軍とともに中支那方面軍として編成される。
上海派遣軍による上陸地点での惨劇
日本陸軍の大きな損失とその隠蔽
8月23日未明、陸軍はまず上海派遣軍の第三師団と第十一師団を上海の揚子江岸に強行上陸させた。ところが待ち受けた中国軍の頑強な抵抗に遭い大きな被害を被った。まず第十一師団が宝山区川沙鎮に上陸、第三師団はその手前の呉淞に上陸した。新聞報道では、「帝国陸軍は海軍と緊密なる協力の下に(先に海軍が砲撃を行い威嚇した)23日早朝某方面の上陸に成功し所在の敵を掃蕩しつつ○○方面に進出中なり」としている。陸軍の作戦報告においても、「優勢な中国軍は連日逆襲を実施したが、師団はよくこれを撃退して陣地を確保した」とある。ところがこの10日後の9月3日、遅れて呉淞に上陸した第十一師団の天谷支隊の下士官の目撃がある。
── 「呉淞の岸壁にはいあがった私の目を射た風景はまさに地獄で、修羅の巷もこんなにひどくないであろうと思われるほど残酷なものであった。岸壁上一面が見わたすかぎり死体の山で、土も見えないほど折り重なっていた。まるで市場に積まれたマグロのように、数千の兵の屍が雑然ところがっている。それと同時にヘドの出そうないやな死臭が私の鼻をついた。 これは十日前に敵前上陸した名古屋第三師団の将兵の変りはてた姿であった。彼らはこの地に中国軍の大部隊が待ち構えていると知ってか知らずか、上陸するやいなや次々になぎ倒されていったにちがいない。そして兵たちは何が何やらわからないまま死んでいったのだ。…… その上それらの死体はみな内蔵腐乱のため丸くふくれあがり、その圧力で眼球や身体の柔らかい部分が外に吹き出していた。中にはウジ虫の固まりと成りはてて、幾万もの虫の上に無数のハエが黒々とたかっていた。私は脳貧血を起こして倒れそうになった。23日に川沙口に上陸した第十一師団長山室中将が戦後語っていたところによると、この呉淞上陸戦の日本軍犠牲者は一万人にも上っていたということである(その後に出会った部隊は200人のうち10人しか生き残っていなかったと記している)」
(『上海敵前上陸』三好捷三:図書出版社 1979年)
ちなみに第三師団衛生隊員の回顧録によると、23日の午前10時ごろにはすでに負傷者が病院船当陽丸に収容できぬほどになり、それも重傷者ばかりで、近くの包帯所には戦死者の遺体が山となっていたという。日本軍のこの上陸作戦の敗北の理由は、蒋介石指揮下の中国国民党が日中戦争が勃発する前から(共産党軍を根絶させるために)ドイツの軍事顧問団を招聘、その指導のもとに国民党軍を鍛え、さらにド イツ製の最新武器で装備していて、盧溝橋事件以来、上海から南京にいたる揚子江下流地域にはドイツ式の防衛陣地が構築され、ドイツ軍事顧問たちが作戦に加わっていたという事実が大きかったという。いずれにしろ日本軍には油断があったが、この初戦敗北の事実は国内では隠され、正式な記録にも残されなかったということがあり、この隠蔽体質は大正時代のシベリア出兵の頃から生じた日本軍の悪しき習性で、日本軍のみならず国民の思考力をも歪め、抑圧していく。
中国軍の頑強な抵抗に加えて日本軍を苦しめたものは雨と泥と飢えであった。道路はことごとく泥濘と化し、銃器も泥土にまみれ頻繁に故障した。兵士たちは数日間塹壕内の水たまりの中で過ごさざるを得ず、被服も乾かせず、そのうち下痢(コレラ)患者も多発するという悲惨な状況を生んだ。一番深刻なのは食料の問題で、前線への補給は中国軍の砲火に妨げられ、食事は一日に一度取れればよいほうであった。
日本軍の高まらない士気
もとよりこの戦争はその理由や目的(大義名分)が明確ではなく、ある意味、1931年(昭和6年)の満州事変以来、日本は占領した満州に対して経済的な支援を重ね産業的基盤を作っている、そうした日本に対して中国は敬意がなく、反日や抗日に明け暮れていてけしからん、いつか鉄槌を下さねばというのが日本政府の姿勢としてあり(それが近衛首相の「暴支膺懲」発言につながるが)、7月7日の盧溝橋事件を好機と捉え、即座に召集令状発布へと移行し、国内の徴兵経験のある予備・後備役を召集し、宣戦布告なしの戦争突入となっていた。この時期急遽召集されたほとんどがまともな訓練を受けず、心身の準備もない男性たちであった。最初に編成された上海派遣軍は、7月12日に召集を受け、8月23日には船で上海に上陸しているが、将兵にとって唯一具体的な目的は、上海の日本人居留民保護ということであった。ところが上記のように上陸直後からの大苦戦が待っていた。
しかしこうした前線の実態は日本国内には知らされず、むしろ国内では戦意高揚の機運が醸成され、出征兵士は全国の各町村において、在郷軍人会、国防婦人会、青年団などにより次々と万歳三唱で送り出されていた。それに加えて女学校を含めた学校の生徒たちが駅や沿道で日の丸の小旗を振って英雄のように送り出してくれた。すると否応なくお国のため、天皇のために頑張ろうという士気が湧いてきた。それでも出発前に集められた兵営では乱雑と混乱にまみれ、軍紀も風紀もなかったという証言が多い。どうして自分はここにいて、何のために戦い、場合によっては死んでいかなければならないのかという疑問であろうか。この時代の日本の世の中は間違いなく戦争を呼び込んで行く流れが醸成されていたが、国民一人一人の心のうちは戦争を厭う気分もあったように思われる。しかし個々人としては時代の大きな潮流に抗うことはできなかったということであろう。
このように裏の面では陸軍の兵士たちの気分が弛緩していたとしても、この後上海を平定し、南京攻略を成功させた大きな要因は海軍の航空部隊の活躍によるところが大きい。その圧倒的な破壊力はすでに「世界戦争史上前例のない戦略爆撃」等の項目で記述しているが、陸軍の侵攻予定の都市にはまず海軍航空隊が重ねて爆撃を加え、中国軍をほぼ撤退させた上で陸軍が容易に占領していくというパターンを踏襲、南京はもちろん、南京に至る進軍の途中の都市も同様に攻略していった。ただ、弛緩した兵士たちの軍紀はそのまま続いていて、占領地で想像を超えた蛮行を重ねていくことになる。なお、海軍の爆撃は陸軍航空隊も合わせて筆者の『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』に記述しているが、その量は「世界戦争史上」屈指であろう。
上陸地点から始まっていた蛮行中国
第十一師団が上陸した宝山区川沙鎮には第三師団の呉淞ほどの中国軍の反撃はさほどなかったように見える。以下は川沙鎮を含む羅涇地区で起こった出来事の一つである。
── 9月4日午前中、双草郷に侵入した日本軍は見晴らしをよくするため周辺の家に片端から放火した。ほとんどの村人たちは逃亡していたが、顧(当時12歳)の一家三人は家財道具が気になって残っていた。住民約300人のうち残っていたのは30人であった。やがて日本兵8人が現れてその辺りの家も焼き払った。村人たちは実りかけた稲の中に隠れていた。ところが自分の家が燃やされるのを見て、隣家の銀坤が稲田から飛び出し、すぐに日本兵に銃撃され倒れた。それを見た息子の銀生宝が救いに行き、背負って隠れた。昼頃に日本兵が引き上げ、それぞれ焼け残った家に戻り、近所の11人が銀坤の様子を見に行った。そこにまた日本兵8人が戻ってきて13人が囲まれることになった。…… (それぞれ必死に物陰に隠れたが)次々に刺し殺され、顧少年の上に覆いかぶさった父母も刺し殺され、少年もはみ出ていた頭部や右肩を刺された。そのまま顧は気絶し、気づいた時は深夜だった。日本兵が去るのを待って血まみれの父母の死体を抜け出し、かまどの灰をを傷口に塗って出血を抑えた。明るくなって周りを見ると、12人すべて死んでいた。外に出ると川のそば、立木のそば、肥溜めのそばなどに死体が散らばり、家の中で焼け死んでいるのもいた。その後兄が避難している家に身を寄せ、ひと月あまりしてから兄や同村の人たちと現場を見に行った。30人の死体はすっかり腐っていた。みんなは泣きながら親兄弟の死体を片付けた。棺桶もなく、藁で父母の死体をくるんで家の焼け跡近くに埋めた。
(『南京への道』本多勝一:朝日新聞社 1987年:昭和62年)
筆者注:実はこの日本軍の上陸作戦の中で、既述の呉淞における日本軍の1万人に上る損害の場合、まともな資料はほとんど見当たらない。上記の新聞報道や陸軍の戦闘報告では日本軍の劣勢が記述されていないし、陸軍は報道統制をし、自身の都合の悪い事例は記録さえ残していないからである。実際に多くの歴史家は第二次上海事変をざっと記述し、そこから南京戦とその虐殺関連に興味が移っていて、その間のことにはほとんど触れていない。筆者も同様で、南京関係を大体書き終えて、何かが足りないと上海戦から南京までの侵攻途上の日本軍の蛮行を調べてこの「南京以前の数々の惨劇」を書くに至っている。その中でも上海戦に関してはほとんど戦闘行為で、多数の戦死者が出ているとしても現地の人の被害は取り上げるほどではないだろうと(資料もあまりないので)思い込んでいた。ところが本多勝一の『南京への道』を遅ればせに読んでみて、上陸作戦直後から小さくない虐殺(その例の一つが前記で、下記の宝山の例も参照)が多々あったことに改めて気がついた。本多はその15年以上前に中国を取材旅行し、それは東北地方、元満州から南の広州までに及び、それをまとめたのが『中国の旅』(1972年)であった。『南京への道』ではそれこそ南京に至るまでの各地の出来事を足で取材している。これは今となってはその視点において貴重な内容となっているが、この時期の中国本土でのジャーナリストの取材は先駆けといってもいい。学者などによる南京での調査が始まって間もないころである。
しかしその本多の先駆的な取材は、「(皇軍としての)日本軍がそのような悪行をするわけがない」として、各方面から多くの批判を浴び、中傷された。それは激しいもので、筆者も若い頃からなんとなく見聞きしていた。それもあって、筆者はむしろ本多の本に目を通すことは後回しにしていた。結果的に本多の取材の内容は、中国の住民が日本軍から受けた悲惨な体験を引き出す端緒となっていることがわかった。蛮行を重ねた日本軍がその恥ずべき行為を(年月が経っても)自ら語るわけがなく、日本の中では押し殺すようにそれらの事実は隠されていて、その流れで(太平洋戦争に比して)日中戦争のこと自体も語られることが少ない状態であった。そしてこの本多の取材記事をきっかけにして、1990年(平成2年)前後から学者や民間人による調査が進んでいったわけである。それでも調査は南京事件を主体にして行われ、その前後の出来事はなおざりにされてきていると筆者は思う。そのことは筆者の、とりわけ昭和12年の記述全体をざっと見ていただければ明らかである。
住民の80%を失った宝山羅涇の村々
以下は同じ宝山における中国側の記録の要約である。
── 1937年(昭和12年)8月23日未明、中国侵略日本軍は宝山羅涇川沙河口に上陸した後、沿道で放火・略奪・陵辱を行い、100日足らずの間に、民間人2244人を殺害、1万948戸(集合住宅の中の戸数を指す)を焼失し、婦女数百人を凌辱した。この郷での民間人虐殺犠牲者の2244人は郷民総数の80%を占め、その割合は全国的にも異様に高い。
8月23日未明、日本軍は宝山の南北2カ所に強行上陸した。第三師団は張華浜埠頭で、上陸の銃声を放った。第十一師団は石澗口付近の黄窯湾、小川沙口、北面の薛敬塘の三箇所から上陸を図った。日本の軍艦からサーチライトで照らし、上陸作戦は着々と進行していた。1時頃、日本の軍艦から連続して砲撃があり、川沙郷に着弾し、炎が上がった。黄密湾に上陸した日本軍は、陳家、三王宅、厳家を経て羅店方面に進んだ。小川沙口を主な上陸点にした日本軍は北川沙鎮を過ぎ、七房、徐家を経て、羅店に向かい、一度はこの町を占領したが、中国守備軍に奪還されて、激しい羅店争奪戦が始まった。薛敬塘から上陸した日本軍は滬太路を襲い、中国軍と交戦し、制圧権を争った。しかし日本軍は羅店、滬太路で激しい反撃に遭い、一時鋭気を失った。双方とも後方部隊がつぎつぎと投入されたが、日本の援軍は一カ月余りの間に羅涇のいくつかの上陸地点に潮のように押し寄せ優位に立った。そこから虐殺が始まって、羅涇はこの世の地獄になった。
小川沙河のそばに代々の農家の趙志沖の家があって、妻は間もなく臨月で、二人の子供は幼く、妻と子を連れて家を出て避難することは難しかった。やってきた日本軍は有無を言わせず趙志沖夫婦に発砲し、趙志沖は即死した。趙の妻は痛くて転げ周り、そこを日本兵はその腹の上を一刀で切って、臨月の赤ん坊を抜き出して、さらに一刀で赤ん坊を刺して殺した。2人の幼い子供は墓のあたりに縮こまっていたが、その子供すら刺し殺した。一家5人が惨殺された。
高椿樹村には逃げ遅れた村民が何十人も残っていた。日本軍は村に入って彼らを捕縛したが、58歳の張洪岐はいち早く稲田の中に隠れた。彼は狂気の日本軍がその目で32人の村民が連れて行き、一本の太い縄で彼らを一緒に繋ぎ、銃剣の威嚇の下で石家屋敷の東側にある大きな墓所に駆り出して彼らにガソリンをかけ、火をつけるのを見た。日本軍は高笑いしながら銃を撃ち、銃剣で刺し、32人全員が死亡した。その後生存者が遺体を収容したが、あるものはすでに一塊の炭になっていたり、あるものはわずかに肢体が残っていたりして、顔は全く判然とせず、ただ涙をこらえてその場に埋めた。
9月10日、日本軍は海星村の周厳薄の家に入り、鶏を捕まえ豚を引き出して一々銃殺した。村の若者はみんな逃げていて、残ったのは年寄りや子供たちだけで、ある老人はしきりに哀願したが日本軍はためらわず虐殺した。一人の老人は素手で殴りかかったが、例外なく殺された。40歳の女性は天秤棒で抵抗したが銃剣で殺され、60代の厳錫民と厳錫堂は家の裏で死んだ後も手で日本軍の袖をつかんで放さないでいた。朱永堂は自宅の裏の田の溝の中に隠れ、3人の日本兵が中年の女性を引きずるのを見ていたが、竹林の中で輪奸し、女性は反抗してもがいてののしったが、その後腹を切り裂かれて殺された。
宝豊村の今年81歳の張小妹の母親は、一人の生き証人で、残酷非道な日本軍の血に塗れた罪行を訴えた。古い家屋30数棟100数間の家を日本軍によって焼かれ、14人の村人は惨殺され、一番小さいのは7歳の子供だった。身に障害のある人も例外ではなく、残忍な日本軍は、これらの哀れな人さえ見逃さなかった。高椿樹の新金屋敷では唖の金相林夫妻3人が老父と一緒に殺害された。潘橋村徐家閣では36人が家の南東隅の柏の墓のそばで集団虐殺され、そのうちの一人は徐忠興の18歳の息子で、体の麻痺でベッドにいたが日本軍は無理に彼をベッドから引き下ろし、歩けない彼をかごに入れて墓のそばまで引きずって、一緒に殺戮した。
最も我々を戦慄させたのは、日本軍が子供たちに犯した罪だ。沈月珍の2人の弟、9歳と6歳は川のほとりで殺されて、二つの首のない死体になっていた。3か月後、村人たちは故郷に帰って、やっと川から2つの子供の頭を引き上げた。両親は何度も泣いて気絶した。花紅村の沈顯奎の家は焼かれて灰になった。門のそばの灰の中から、二つの遺骨が掘り出された。これは閉ざされた部屋の中で、日本軍に生きたまま焼かれて死んだ50歳の祖母沈斉と7歳の妹阿敏だった。等々 ……
羅涇の住民の帰還と受難
11月中旬、戦線は西に移動した。百日近くも避難生活をしていた村人たちは前後して自分の郷里に帰り、先に帰った者は様子を見て村人たちをまた呼んで帰った。疲弊して帰郷する道々、日本軍を見るとお辞儀をし旭日旗に敬礼して通行しなければならない屈辱を受けた。少しでも不注意があると殴られ、撃たれた者もいた。
それでも村人たちは帰ってくる。寒くなり衣服も食料もなくては生きていけないから、物乞いをして暮らす者もいれば、危険を冒して火線の縁まで行って稲穂を奪い取ってしのぐ者もいれば、小物を売ったりする者もいた。避難していた土地では慈善救済的な難民所が設けられる場合もあったが、環境が粗末な中で衛生や医療が行き届いていなかったり、疫病が発生したりして、多くの難民の命を奪った。花紅村の老沈家宅沈生度一家がその例で、避難所で病死した老父と兄弟など3人がいる。
ある者は帰る途中で撃たれて死に、ある者は行方不明になり、ある者は離れ離れになった肉親を思い、心が壊れた。嘉定の方泰で避難していた一人の女性は、村人たちと一緒に日本軍を避けていたが、抱いていた赤ん坊が泣き出した。そこで乳首を赤ん坊の口に当てて押し、子供はもがき、母親が乳房で押して、しばらくすると赤ん坊は胸の中で窒息死した。実の子を自分の手で死なせてしまった母はショックのあまり気が狂ってしまった。
郷里に帰って、至る所で壊れ焼かれた家や壁を見、また至る所で肉親の死体の骨を見、破れた衣服の下の枯れた骨、燃えた家の中でも骨を見た。被害者の家族は懸命に遺体の確認に努めた。正確な死期がわからないため、羅涇一帯では多くの村人が日本人が上陸した8月23日を命日として供養している。
滬太路の両側ではかつて中日双方の必死の攻防戦があって、洋橋村南樊一帯や潘橋一帯でも、多くの中国軍兵の死体が発見された。村人たちも悲しみをこらえて兵士の亡骸をその場で埋葬した。悲哀を抱えながらも、人々は残壁を利用して、簡易なわらぶきの家を建てて身を寄せ、燃えかけのガラクタの中から使える生活用品を取り出し、修理し、道具や家具にした。畑に行って完全に腐っていない稲穂を見つけ、米粒を拾い、野生の野菜や果物を混ぜて、三度の食事をした。村塘湾の8歳の女の子王佩英は独りで野外を放浪していて、村人たちが家に帰ってから彼女を発見した時、100日間の過酷な放浪生活で、もとは活発でかわいい王佩英は「白毛の女」になっていた。
羅涇地区を陥落させて占領した日本軍はしばしば農村に行って「花娘」を探しにきた。日本軍に辱めを受けた女性は数知れない。若い女性たちは辱めを免れるために、老婆に扮し、顔に鍋の灰を塗り丸刈りにして男の子のふりをしたり、身を隠したりした。大災難を生き延びた村人たちの残りの人生も苦しみと屈辱、無力感の中にあった。
(以上は上海市の『侵華日軍在羅涇区罪行実録』2017年より)
なお、日本軍の上陸地点の川沙口の堤防の内側に高さ2m半ほどの記念碑が1973年(昭和48年)8月に建てられている。その石碑の裏には、「血海深仇、永志不忘」とあり、日本軍上陸の経緯と上陸後に2244人が虐殺され、1万908戸の家が焼かれたことなどが記されていると現地を訪れた本多が書いているが、案内人の徐福根は、「この一帯は幅3km、長さ10余kmわたってすべての民家が焼き払われ、日本軍の住む家のほか馬小屋と尋問用の家だけが残され、逃げ遅れた住民が皆殺しにされた」と語ったという。
新たな第十軍の投入による大兵力の集結から戦線の拡大へ
上海南からの上陸作戦
第二次上海事変(淞滬会戦)において中国軍の兵力はますます増強していて、日本軍は防衛線を正面から突破することができず、上海派遣軍(第三、第十一師団の第一軍)は戦闘一ヶ月にもならない段階で非常な損害を被った。作戦部長の石原莞爾は苦戦が展開されても増兵は「焼け石に水である」として同意しなかった。しかし9月11日には上海派遣軍に第九、第十三、第百一師団、野戦重砲兵一個旅団等を追加派遣することになり、この時点で日本軍の総兵力は19万人に達した。これにより「満州国の育成に専念し、対ソ国防力充実に備えなければならない」としていた不拡大主義の石原作戦部長は辞任させられ、下村定少将に交代した。しかし9月末から10月初旬にかけての上海派遣軍増援三個師団の投入にもかかわらず、上海攻略戦は戦況打開の見通しが立たなかった。そこで下村作戦部長は、10月20日、新たに内地で召集・動員した第十八・第百十四両師団と北支那方面軍の第六師団を転属させた第十軍(司令官柳川平助中将)を編成、投入した。
第十軍は、側面攻撃として防衛の脆弱な上海の南、杭州湾の金山衛を上陸地点とし、11月5日夜明け5時頃、三個師団計11万人をもって満潮時を狙い、濃霧の援護を受けて、輸送船155隻に分乗して金山衛の東、また戚家墩の西から白沙湾一帯の灘頭陣地を奇襲上陸した。7時頃、大部隊は火砲と飛行機爆撃の援護の下、金山衛に大挙して侵攻した。沿海一帯にはわずか300人余りの中国軍兵士しか残っていなかった。中国守備軍は必死に防戦したが、40人余りが突破して逃げただけで、残りは戦死した。一方で上海派遣軍には北支那方面軍の第十六師団が加えられ、13日未明に上海の白茆口に上陸、両軍に南北から囲まれた中国防衛軍に動揺が走り、やがて総崩れとなって一斉に退却し始め、上海はほぼ日本軍の制圧下になった。
以下は北支の方での戦闘から第十軍の隷下に入り、一旦天津の塘沽から黄海を回って杭州湾の北から上陸した第六師団の兵士が見た光景である。ちなみに塘沽から船に乗った第六師団は行先を知らされていず、てっきり内地に凱旋するのだろうと思っていた。しかも杭州湾に着くまで二十日間かかり、軍馬も含めて疲れ切っていたという。
—— 上陸して間もなくの行軍中に我々は異様な光景にぶつかった。直径50mほどの池を埋め尽くした中国兵の死体の山があった。池いっぱいに積み上げられていて、数千人に上るのではないかと思えた。池の水も、そこから流れ出ている水も地で赤く染まっていて鼻を突く死臭と、まだ死に切れずにいた人のうめき声が聞こえているようであった。我々は「どぎゃんして、こぎゃん死体ば山んごつ積み上げたっただろうか」と皆で話しながらも足早に通り過ぎた。
(『揚子江が哭いている』創価学会青年部編)
中支那方面軍の設立から南京追撃戦へ
この時点で上海戦線には主に九個師団という大兵力が投入されたことになり(関東軍と第五・第十師団を含めた支那駐屯軍は別)、内地に残された常設師団は、近衛・第七の二個師団のみという様相で、この段階で、戦争の規模は日露戦争をはるかに超えていた。しかし中国は降伏もしくは協定を結ぶ様子はさらさらなく、11月9日、蒋介石国民政府軍は上海から撤退を決定、ただし中国の広大な土地の中に後退しただけで、石原莞爾の「焼け石に水」は現実になりつつあった。
11月7日、新たに投入された第十軍とこれまでの上海派遣軍との統一を図るために、中支那方面軍司令部が設けられ(支那駐屯軍は北支那方面軍となる)、その司令官は上海派遣軍司令官松井石根大将とし、その任務としては、北支那方面軍の場合と同様に、「敵の戦争意志を挫折せしめ、戦局終結の動機を獲得する」という目的が掲げられ、まずは「上海周辺の敵を掃滅」することとし、作戦地域は、太湖の東側(湖東)、浙江省の常熟・蘇州・嘉興を南北につらねる線以東と指定した。そしてほぼ11月19日に北側の常熟は第十六師団、蘇州は第九師団が制圧し、南側の嘉興は第十軍の第百十四師団が制圧した。ここで今回の戦闘の第二次の目的が達成された。
この上海戦の戦闘勢力では日本軍は約25万人、航空機500機、戦車300両、軍艦130隻となっているが、中国軍は60万人、航空機200機だけであり、比べると兵員数よりも飛行機や戦車などの兵器力の差が大きい。また日本軍艦は沿岸からも街中に照準を当てて相当数砲撃した。8月下旬の上陸から11月10日までの日本軍の戦死者は1万76名、負傷3万1866名、合計4万1942名となり、中国側の死傷者は25万人とされる。またそれ以降19日までの陸軍大本営の発表では「敵の遺棄死体は五万に達し、俘虜は一万を下らず、(当初よりここまで)敵に与えたる損害は少なくとも15万を下らざること確実なり」としている。別の記録では中国軍は投入された兵力延べ70万人のうち、19万人が戦死したとされ、日本軍は戦死傷全体で10万人を超えるとされるが、いずれにしろ相当な激戦である。それにしても何のためのこれほどの犠牲者であろうか。
ここで作戦の本来の目的である「上海の日本人居留民保護」は達成されたはずであった。実際に陸軍大本営は同じ20日の発表の中で、「太湖東方における会戦はここにその目的を達せり」としている。そこで急遽日本から召集された上海派遣軍の兵士たちは、これで日本に帰れると心待ちにしていた。しかしそこからすぐに南京へ転戦という辛い現実が待っていた。つまり中支那方面軍司令部としては、中国軍が全兵力を使い切らないうちにあっさり上海戦線から撤退してしまい、相応の犠牲はあったにせよ、全軍の総力戦には至らず、(日本兵の気持ちは別として)余力を持て余す状態であったから(日本国内の参謀本部の意図に反して、せっかくここまで攻め入ったのだから)南京への転戦を決めたという判断もあったとされる。
最初の戦場となった上海の人々の苦境
8月中旬の戦闘開始以来、上海の住民はまず安全と思われるフランス租界や共同租界に逃げ込んだ。しかしフランス租界の当局は秩序を維持するためとして租界の門すべてを閉ざした。そのため数十万人の人々が路頭に迷い、飢えと寒さに苦しんだ。これが第一波で、第二波は11月に入ってから、つまり日本の第十軍が新たに上陸して戦場となった近郊農村地域から街中に逃げ込んできた難民であった。救済事業は上海慈善団体連合救済会や国際救済会(これは南京でも欧米人によって行われる)上海市救済委員会などが数十万人の難民に食住を提供する活動を行なった。その費用は国民政府や国際的な寄付によってまかなわれた。
それでも11月26日の朝日新聞では、戦闘中、上海の住民は包囲されていた状態であり、市内に物資が届かず、食糧危機に陥って物価は高騰して庶民は困窮し、犯罪も多発、子供の売買まで復活し、多くの市民は戦闘が避けられる共同租界やフランス租界に逃げ込んでいたが、飢餓と迫り来る寒さのために一日に約二百人が路傍で死んでいると報じている。さらにはここまで慈善団体が市内で埋葬した死体は18000、そのうち12000が子供の死体であり、今もその数が増加しているとしている。この時期中国に対するこのような客観的な報道は珍しいが、まだ戦争の初期段階であったこともあるであろう。そしてこの上海での犠牲者は、これ以降の中国各地で生じる多大な犠牲者を考えると、ほんの前触れに過ぎなかった。
上海事変前の上海の人口は163万人であったが、前戦となった周辺の都市からのこうした避難民が加わって一時400万人に膨張したという。それでも逆に上海から中国奥地へと避難する人々も少なくなく(農民よりも多少お金のある人々)、そのため列車で避難しようと駅に集まった人々を日本軍は何度も空爆し、殺戮していることはこれまでの記述で明らかである。
以下、上海近郊で日本軍の被害を受けた一例である。主に南京で取り上げられる虐殺や蛮行は日本軍が侵攻したどこでも普通に行われていたという例でもある。
—— この年の11月末のある日、上海郊外虹橋鎮にあった金月妹(当時他家に嫁修行の立場でいた)の実家に10数人の日本兵がやってきた。村の一部の人々はすでに逃げていたが、棟続きの中庭のある共同住宅に住む金の一族と実家も逃げ支度をしているところだった。踏み込んできた日本兵は母に姑娘(クーニャン:若い女性)はいないかと聞いてきた。否定すると母はいきなり張り飛ばされた。次に上の弟(16歳)を見て、中国兵ではないかと疑い、やはり母が否定すると二人を庭に連れ出し暴行した。そこから日本兵は分散して各家の部屋を捜索し、従兄の嫁(26歳)と隣家の16歳の娘を探し出し、二人を実家の客間に連れ込み交互に強姦した。日本兵はその日はそれで引き上げたが、隣家の娘の家族はその日の夜に逃亡し、翌日またやってきた日本兵たちは隣家の娘がいないことを知ると金の一族全員を外庭に連れ出し、17人を一列に並べた。日本兵は銃剣を持ち、弾丸を装着した。下の弟(11歳)が怖がって母に話しかけると日本兵は弟を殴り倒した。一部の兵たちが他の部屋を調べたりしている間に、母の側で一番外の端にいた弟を母は隙を見て逃がし、弟は川の手前の池の草むらに隠れ、様子を見守った。用意を終えた日本兵たちは16人に襲いかかり、上の弟を含めた男たちは、銃で撃たれ、女子供のほとんどは銃剣で突き殺された。特に前日強姦された従兄の嫁は衣服を剥ぎ取られ、腹をたち割られていた。そうして皆殺しが終わると日本兵は家に放火した。引き上げる前に一人の兵は死体を調べ、生後四ヶ月の赤子がまだ生きていて、蹴飛ばすと泣き出した。その兵は片手でつかみ上げ、泣き叫ぶ子を地面に叩きつけ、銃剣で突き刺した。その赤子を突き刺したまま肩に担ぎ、日本兵の一隊は軍歌を歌いながら去っていった。
草むらから這い出した弟が駆けつけると母は大きな目を開いて死んでいた。大声を上げて泣きながら母にすがりつき、どれほど泣いて過ごしたか、立ち上がって歩き出した時には家は焼け落ちてまだ燃えていた。歩いて行く途中、一人のおばあさんに出会った。おばあさんに事情を話すと難民収容所に連れていってくれた。一ヶ月ほど経って、おばあさんが弟を金月妹のところに連れていってくれ、そこで金は涙ながらに実家の悲劇を詳しく聞いた。夜明け近くまで二人で泣き通し、金の舅と一緒にそのまま実家まで歩いて行った。現場では冬なので死体はあまり腐っていなかったが、野犬が食い荒らしていて、誰がどれだかわからなかった。8歳の妹の死体はそのズボンでわかったが、持ち上げると骨が転がり落ちた。なんとかわかった遺体だけ板に乗せ、現場を離れた。帰る途中、道端に老人が殺され、目玉がくりぬかれていた。日本兵の仕業だと思いつつ歩いていくと舅の家の隣のおじさんに会った。金月妹を見ると、「お父さんと会わなかったか?」と聞いてきた。父は国民党の労工として不在だったが、脱走して自宅に帰ってみると家は焼かれ家族の死体があった。そこで金の舅の家に訪ねてきたが、すれ違いで金が出かけたあとで、父は後を追って引き返したという。よもやと思って引き返し、さっき道端で見かけた死体を確認すると金の父だった。死体は後ろ手に縛られ、首に三ヶ所弾丸のあとがあった。重なる不幸に姉弟は泣きに泣いた。金の一族17人が日本軍の犠牲となり、弟は金の舅の家の養子になった。
次に難民収容所に避難した人の被害例である。
—— 11月5日、張鴻舟(当時9歳)の一家は戦禍により家も焼かれて上海のフランス租界へ避難し、バラック小屋に住んだ。やがて食料も尽き、2月25日、張の父は借金をして元の住まいの虹橋に買い出しに行き、40kg近くの米を買い、そのほかを天秤棒を担いで帰途についた。しかし日本軍は米を勝手に市内に持ち込むことを禁じていたから夜になって市内に入り、鉄条網をくぐり抜けようとした時に日本の巡邏兵に見つかって逮捕された。翌日になっても父が帰らないので姉たちと一緒に探しに出かけた。踏切のそばに検問所があり、日本兵が通行人を調べていたが、みるとその鉄条網の杭の一つに父が縛り付けられ、重い米は父の首にかけられ見せしめになっていた。なんとか助けたいと思ったが、完全武装した日本兵が警備していて近づけなかった。その後父は検問所から500mほど離れた何家角の日本軍司令部に連れて行かれ、その後ろ姿が生きた父を見る最後となった。後日、司令部の雑用労工をしていた中国人から聞いた話では、日本兵は焼いた鉄板の上に父と他の捕虜と一緒に歩かせたりし足が焼けて歩けなくなり、耐えかねて鉄板を降りると日本刀で斬り殺されたという。それを聞いて父の遺体を引き取りに行くと、手数料が必要だと言い、それは父の買った米が三倍買える金額で、その後借金などで工面して再び司令部に行き、埋められた遺体を掘り出すと首が切られ胴体は両手を後ろ手に縛られていた(おそらく「試し斬り」にされた形である)。遺体とともに一家は元の村に帰り、小屋を建てた。すでに大きな危険は薄らいでいたが、村は117軒のうち111軒が焼かれていた。
(以上は本多勝一『中国の旅』からであるが、この戦争の発端となった上海地区から南京に進軍する過程における被害記録・証言が滅多に見られない中で、本多の取材・調査はまず南京以前・以外から行っていて、貴重である)
中支那方面軍司令官、松井石根の野心
11月の時点では日本の参謀本部においては、駐中国ドイツ大使トラウトマンによる和平工作が進行中であり、これ以上の戦線拡大は回避する方針であった。またこの勝利により、上海派遣軍の将兵はこの戦争はすぐに終わると信じ込んでいた。初期の目的は達成していたからである。しかし中支那方面軍の司令官に就いたばかりの松井にはここで戦闘を終えるつもりはなく、せっかく大きな戦力を得たからにはと、このまま首都南京攻略に転じる構想を頭に描いていた。そこに11月15日、第十軍柳川平助司令官が先に「独断追撃」として南京追撃戦を開始し、これに松井司令官が同調した。第十軍としても11月初旬に参戦したばかりであり、何もしないうちに引き上げるという選択肢はなかった。すぐに全軍南京攻略に転戦することになった。11月19日、中支那方面軍は進出制令線の蘇州を突破し、 西へ総退却する中国軍を追う形で南京への進撃を開始した。
この転戦にあたって兵士達の士気低下に輪をかけたのが、新たな戦闘への事前の準備がなされなかったことである。戦争にあたっては前線部隊と後方部隊(兵站部隊)があり、前線部隊は兵站部からの食糧や軍事物資の補給を受けながら前進していくが、もともと上海地域だけの戦闘を前提とした部隊であったから、兵站部はまともになく、食糧は現地調達が原則とされた。遅れがちな兵站部も食糧確保どころではなく、軍事物資や砲弾や銃器等の兵器の搬送がせいぜいであった。これにより日本軍の進軍各地での蛮行(虐殺・略奪・放火・強姦)への下地が出来上がっていく。しかも上陸作戦の前日、第十軍柳川兵団は特別命令を下達し、中国側は抗日思想が徹底し、軍民一体の抗戦を続けているとして、「民家を発見したら全て焼却すること」、「老若男女を問わず人間を見たら射殺せよ」とした。
日本の国民も一体となって突き進んだ戦争
上記のように、無謀な転戦が日本兵の暴虐行為を呼び込んだというのが識者の中で近年の定説になっているが、どうもそうではなさそうだと筆者が思ったのが、中支那方面軍の上海ー南京戦と並行して行われていた北支那方面軍の華北での戦闘で、その裏側の内容を遡って調べ直した結果、すでにして同様な暴虐行為が当然のごとく行われていたのを知ったことによる(その内容は既述)。それは皇軍と名付けられた将兵たちの奢りと中国人を下等民族と見なす日本軍の精神状態が基本にあるように思われたが、それにしてもあまりにも酷いというのが実感であり、その本当の背景は何かということを考えさせられた。
例えば既述したように、この時期近衛文麿首相の発した暴支膺懲(ようちょう:支那=中国の横暴を懲らしめる)という発言がある。つまり、かねてより中国に進出してその発展に貢献している日本軍の言うことをきかない支那=中国軍は横柄であり、もはや交渉の余地はなく懲らしめなければならないというものであり、まず9月4日の帝国議会において、日本の軍政府は昭和天皇に、「中華民国深く帝国の真意を解せず、ついに今次の事変を見るにいたる。…… これ一に中華民国の反省を促して速やかに東亜の平和を確立せんとするにほかならず」との勅語を発せさせ、次に「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の三つのスローガンを掲げた「国民精神総動員実施要綱」の内閣訓令を出した。これがそのまま日本国民の戦争推進への気分に反映されていく。
南京は12月13日未明に陥落するが、その二日前に日本の新聞は「首都南京占領」を早々と報じる。誤報であったがそれを受けて12日夜、大田区の松井司令官の留守宅に数百人が手に手に提灯をかざして門前に祝いに集い、夫人たち一家は玄関でこの祝いに応えた。14日には全国で南京陥落の祝賀提灯行列が行われ、東京では銀座を中心にして40万人の「祝賀パレード」が行われ、中学生や高校生も動員されて提灯行列に加わった。この光景をまた新聞が報じ、さらに「暴支膺懲」の輪が広がっていく。また国内の小学生から松井のもとに、「一人でも多くのチャンコロをやっつけてください」とか、「支那人を皆殺しにしてください」とかの激励の手紙が続々と届けられたという。この時点で松井は英雄であった。
例えばこの後南京を攻略し山田支隊の両角部隊が多数の捕虜を得た時に、新聞の福島版で、「おゝでかした両角部隊、捕虜一万五千とは何と凄い武勲だ / 県下に又々歓喜爆発」と報じられ、17日の新聞では「全県下ははち切れれんばかりの爆発的歓喜に包まれ、「でかしたでかした」と出征家族の門前には感謝感激の日の丸が躍り出で、町といわず村といわず、この日の丸の下で譬へようのない喜びの挨拶が交はされ、学校では早速教室で教材に取り上げられ、生徒児童の万歳の爆発となり … [白旗を立てゝ降参するに至れり]とは痛快だ、思ひ切って一人残らず屠殺してやればよいのに、と老若男女一様に南京陥落の祝賀の興奮消えやりぬ胸を再び沸き立たせた」と報じられた。「一人残らず屠殺してやれ」との言葉を新聞がそのまま載せるということは、そうした気分を全面的に支持する論調が新聞にあったということで、崇高な天皇を擁する優秀な日本人には中国を支配する権利・義務があり、それに反抗する支那(中国)人はこの世から消し去ってもよいという思考回路が国内に蔓延していたということになる。そしてこの気分を前線の兵士が侵攻各地でそのまま体現、実践していったのであった。
南京への進軍途上の各地で展開された惨劇
以下上海から南京へ進軍途上の背景と各地での日本軍の主な残虐行為を取り上げていくが、これらは数多くの例の中の一部に過ぎない。その内容も中国側の資料から引用する場合、書き写すだけで躊躇する内容も多く、しかし日本側の記述からでは決して描かれない被害者の受けた現実は尊重しなければならないとの考えでできるだけそのまま記述する。
なお、 第十軍田辺盛武参謀長は杭洲湾上陸に際して、10月21日、 「支那住民に対する注意」を各部隊に与えている。
—— 「上海方面の戦場に於ては、一般の支那住民は老人、女、子供といえども間諜(スパイ)をつとめ、あるいは日本軍の位置を敵に知らしめ、 あるいは敵を誘導して日本軍を襲撃せしめ、 あるいは日本軍の単独兵に危害を加えるなど、 まことに油断なり難き実例多きをもって特に注意を必要とす。…… かくのごとき行為を認めし場合においては、 いささかも仮借することなく断固たる処置をとるべし」とある。油断がならないというのは侵略側の一方的な理屈であるが、とにかく少しでも疑わしい者は躊躇なく殺すようにということである。住民に対してこうであるから、捕虜に対する「処置」は推して知るべしである。
この南京への追撃戦では日本軍の戦死傷者2万4748名 、合計6万8420名の「人的損害」となった(続く南京戦では6177名)。そしてこの戦争自体は1945年(昭和20年)の日本の敗戦まで、8年間続く。それは中国という国の広大さを甘く見た結果であったろう。
南京攻略までの進軍の背景と経過
*11月5日未明 — 上海南方の杭州湾の金山衛に、第十軍(三個師団のうち第十八、第百十四)が上陸。
*11月7日 — 上海派遣軍と第十軍を統合させ、中支那方面軍とする(北支那方面軍は別途存在し、北京以北満州まで統括する)。その任務は「海軍と協力して敵の戦争意志を挫折せしめ戦局終結の動機を獲得する目的をもって上海付近の敵を掃滅」とした。
*11月11日 — 上海派遣軍、上海の中国軍最後の拠点南市(当時)を占領する。
*11月11−14日 — 上海派遣軍は江蘇省蘇州の各地に侵攻、攻略。
*11月13日 — 第十六師団が揚子江白茆口に上陸。これにより中国軍上海守備隊は囲い込まれ、上海から撤退開始する。
*11月14−19日 — 中支那方面軍が蘇州(上海の西に接する町)を追撃し全面的に攻略。日本の参謀本部としては、今回の戦闘はここまでの予定であった。
*11月15日 — 第十軍が幕僚会議を行い、独断で(本国参謀本部の了解を得ずに)追撃戦(南京攻略)を行うことを決定。
*11月16日 — 蘇州市昆山県城陥落。日本軍の別働隊は無錫に向かった。
*11月19日 — 南京在住の欧米人たちにより日本軍の南京への侵攻に備えて、南京安全区国際委員会が結成されることになり、22日、その設立を宣言、民間人を守るための安全区の確保の準備にかかる。委員長にドイツ人商社員ジョン・H・D・ラーベが就く。同時に南京安全区国際委員会は声明を発表し、アメリカ大使館を通してこの地域での戦闘を避けるようにと日本軍に通告したが、日本軍は国際委員会を認めないとした。(この活動の詳細については、後述の「南京にとどまっていた欧米人の難民のための奮闘とその記録」参照)
*同日 — 第九師団が蘇州全市を占領、敗残兵1000人を殲滅(「第九師団作戦経過の概要」から)。
*11月20日 — 中支那方面軍の第十軍(司令官柳川平助中将)は南京追撃を独断専行で開始することを参謀本部に通達、参謀本部は驚き、参謀次長多田中将は、戦面の拡大、南京攻略を強く反対したが、当時参謀本部から派遣されて中支那方面軍参謀副長となっていた武藤章がこの反対意見を無視させたとされる。またこの日に大本営(開戦となった時に陸軍と海軍を一元的に戦略を統治する最高機関。平時には陸軍参謀本部と海軍軍令部が別個に統治する)が設置されるという錯綜した状況になっていた。
*同日 — 中国軍は南京防衛軍司令長官部を組織し、南京防衛軍を編成する。そしてこの日、蒋介石国民政府は重慶への遷都を宣布、それまでの暫定首都である武漢に向けて続々と移転を開始した。
*11月21日 — ソ連軍飛行隊が南京で対日戦に参加。12月末までに南京のソ連義勇兵は3665人となる。
*11月22日 — 日本軍は内蒙古に蒙疆連合委員会を樹立させる(後に蒙古連合自治政府となる)。
*11月24日 — 中支那方面軍として参謀本部に南京攻略の意見書が届けられたが、参謀本部としてはあくまで南京進撃を許可しなかった。しかし連日の新聞の報道合戦によって、世の中の情勢は「次は南京攻略」に傾いていて、参謀本部の中にも積極攻略派の意見が強くなった。
*11月25−26日 — 無錫を攻略、占領(無錫は大きくは上海戦の範囲であり、日本軍兵士の多くは無錫を陥れれば「任務は終わり、大体戦争も終わる」と信じていた)。
*11月27日 — 日本軍(第十六師団)はさらに常州(無錫の西の都市)に侵攻、南京侵攻への足がかりとする。
*11月28日 — 日本軍は上海の電信、無線局、中国政府機関を押えた。参謀本部は中支那方面軍の南京攻略に同意する。そして後方部隊の増強案を提示したが、参謀本部副官武藤章大佐は、「内地からの新たな増員の部隊を待っていては戦機を逸する」として方面軍だけで南京攻略はできるとした。しかしこれは兵站部隊(食糧を含む軍需物資を補給するための部隊)は必要ないとするもので、しかも兵站機関の一部として法務部も切り捨てていた。法務部は軍隊の軍紀・風紀を取り締まる機関であった。この二つがこの後日本軍が大きな暴虐行為を起こす元ともなる。その上で武藤章大佐は、中支那方面軍の上海派遣軍と第十軍を、どちらが南京攻略の先陣を切るかを競わせることにした。この中で特に本来の北支那方面軍から上海派遣軍に属し、転戦続きだった第十六師団が一番疲弊度が強く、南京陥落後(それ以前も含めて)暴虐行為の一番の立役者となった。
*11月28日 — 第十軍第百十四師団が江蘇省宜興を占領。
*11月29日 — 第十六師団が常州を占領。占領後、数千人以上の大虐殺が展開される。
*同日 — 海軍航空隊が江蘇省常州市溧水県を爆撃、一日に1200人が犠牲となる(後述)。
*11月30日 — 第十八師団が安徽省広徳を占領。なお広徳はこの後も三度にわたって占領され、軍民で合計2万4000人の犠牲者を出した。(第十八師団の項で後述)
*12月1日 — 大本営(11月20日に設置された)は「中支那方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」との南京攻略を正式に下命、これは随分遅い後付けであり、すでに中支那方面軍(松井司令官)の独断専行で南京攻略に向かい、途上の各都市を攻略しつつ蛮行を働いていた。しかも主に三方向から師団毎に南京到着を競合させ、食料の後方支援もなく進軍途上の現地で自給自足させるというまるで無統制の状態であった。南京ではこうした背景の中で、捕虜に対する万単位の虐殺が加わる。
*同日 — 蒋介石からの参戦の催促に対してソ連のスターリンは、日本の挑戦もなく参戦すると侵略行動とみなされ、すると国際世論で日本が有利になると答え、単独参戦を拒否した。
*同日 — 第十三師団山田支隊が堅固な要塞を持つ江蘇省江陰を攻略
*12月2日 — 第百十四師団が溧陽を占領、1600人余りが殺戮される(後述)。
(12月2日から12日まで、それまでほぼ海軍の飛行隊のみの爆撃であった南京に対し、陸軍飛行隊も南京への侵攻作戦に連動して連日の爆撃を開始)
*12月5日 — 第十六師団が南京の手前の句容(鎮江市西南)を攻略、占領。ここから上海派遣軍はさらに三つのルートに別れて南京を包囲、攻略に向かう。
*12月7−8日 — 第十三師団山田支隊が鎮江市を占領(鎮江は前月下旬に海軍により連日の猛爆撃を受け、住民約1200人が死亡しているが、その後の陸軍の占領である)。
*12月7−8日 — 蒋介石と中国政府首脳をはじめ、南京市長など市首脳、ドイツ人の軍顧問や軍の首脳もすべて南京を脱出した。南京防衛司令官として唐生智が残った。
*12月8日 — 南京安全区国際委員会は『告南京市民書』を配布し、安全区への市民の避難を呼びかける。20万人近くの市民が13日までに押しかける。
*12月9日 — 中支那方面軍松井司令官は中国軍に対して南京城の開城、投降勧告をするビラを飛行機から投下した。回答期限は10日の正午だったが、回答はなく、日本軍は総攻撃を決める。ただこれは中国軍が投降すると予想してのものではなかった。また、日本軍はすべての外国人は南京から退去せよとの要求を各大使館に届けた。
*同日 — 第五師団の国崎支隊は南方から攻め上がり。南京南方の揚子江上流にある太平を攻略、そこから北上して揚子江を渡り、南京の対岸浦口まで攻め上がり13日夕刻には浦口を平定し、ここで南京から揚子江を渡って逃れてくる中国兵を待ち伏せ、殲滅する作戦をとった。
*12月10日 — 日本軍は北、東、南から南京総攻撃開始。
*同日 — 第十八師団が南京から南方の蕪湖を攻略し占領。南京からの敗残兵の退路を閉ざす。
*12月12日 — 南京防衛司令官の唐生智大将が防衛隊を残して南京から逃走(挹江門から下関埠頭へ行き長江を渡ったとされるが、この夜から挹江門において続いて逃亡する中国軍の間で惨事が起きる=後述)。
*12月13日早朝、南京陥落。
《江蘇省における日本軍の蛮行》
蘇州の惨劇
【呉江県での殺戮と放火】
上海が陥落した後、上海派遣軍は11月11日、蘇州呉江地区を占拠し、さらに平望鎮に向かった。平望鎮は呉江県の中部にあり、江蘇省と浙江省に隣接していて、北は蘇州、南は嘉興に通じる蘇嘉鉄道(京滬、滬杭鉄道の支線)があった。陥落前、日本機は日夜鉄道と町に爆撃を繰り返し、11月14日、平望鎮は陥落した。日本軍が町に侵入したあと、特に東溪河石灰窯、北河西街羅家弄堂口、南大街呉会花園、石家港水瓶庵のそば、北大橋弥陀殿の後ろなどに死体が山のように積まれ、町で合わせて400人余りが殺された。鎮北の腰橋一帯では数里にわたり、鎮と鶯湖橋から南へ1km、鎮西から六里橋までの二本の道路に挟まれた河には、次々と死体が積まれ、無残な光景が広がっていた。日軍が町を離れる時、全鎮に火が放たれ、大火は三日三晩続き、西塘街山門口扇街の家屋から義升桐柏油店など一部の店が残っただけで、町は全焼した。北大街吐鶏弄から二条大街まで、また吐鶏弄から北木橋通りまで全店舗が全焼した。町全体で七百軒以上の家屋が焼失した。
【太倉城を三日三晩焼き尽くす】
江蘇省蘇州市太倉城はまず8月24日に日本機の爆撃を受け、その後9月1日、そして9月中旬以降、連続して猛烈な爆撃を受け、住宅、商店、駅舎、病院、電力会社など家屋400余の家々が爆破された。日を追うごとに人心が乱れ、住民は城を出て避難し、市中は閑散として11月の初めまでには、ほとんどが空城になっていた。
11月14日、嘉定区から錫滬公路に沿って太城を占領した日本軍は、まず装甲車を先導として、城内に砲撃を加え、飛行機が低空から掃射し、応射が見られないと風船を上げて合図し、後続の騎兵が続々と城内に侵入した。日本軍は入城すると、住民が逃げ出した後の家々を回り、金銀宝石、書画骨董などを略奪した。それから二日後には、四郷の農民に命じて衣類家具を運ばせ、城門の前で写真を撮らせて、略奪の罪を隠そうとした。それから十日ほどして、家々への放火がはじまり、因果橋(現在の人民銀行)から西門の城門まで、大街の両側にある民家はことごとく焼け落ち、三日三晩炎は天を焦がし、城外10数kmはなれたところからも火の手が見えていた。商店街もすっかり焼け、因果橋の上に立つと西城門まで一望に見渡せた。日本軍は、城を焼くと同時に、近郊の農村に次々と行って姦淫と略奪を行い、牛を引っ立て、食料用に豚や羊、家禽類を捕らえ、少しでもうまくいかないと家を焼き、逃げる人々を銃殺した。こうした被害の大きさ(全体で数千人の犠牲者)には身の毛がよだつものがある。
日本軍占領後、太倉市の城門や舟橋などの交通の要所を出入りする時は、日本軍の歩哨に向かって脱帽し、90度のお辞儀をしなければならない。下手をすると、殴られ蹴られ、平手打ちを受けるので立ったまま通行できなかった。
【昆山県の虐殺】
8月18日、蘇州昆山県城、青陽港、真義などが爆撃を受けた。県城内の170軒余りの商店は、南北両端の数軒が生存している以外は、すべて爆破され廃墟となった。11月16日、昆山陥落後まもなく、中国ゲリラ隊の田部隊が陳墓一帯に進入し、周荘の白艦江で日本軍の輸送船数隻を襲い、日本兵約10人を射殺した。青浦区の日本軍は捜索隊を出して淀山湖で田部と戦闘を繰り広げたが、火力不足で田部は北へ退却した。12月25日、日本軍は18艘の船に分乗して淀山湖の西北岸の陳墓馬援庄村に入り、半日内で民家204間、稲36万斤、小型船を焼いて、耕牛7頭を殺し、村民108人を殺害した。陶小弟の家族5人のうち4人が殺され、妻のお腹の胎児も日本兵に銃剣で抜き取られた。陶再連祖孫三代のすべてが受難し、家系が絶えた。日本軍は虐殺を実行した後、角直、陳墓、周庄、茜墩に侵入した。陳墓に駐留した日本軍は毎日周辺の村々を捜索し、焼かれて略奪された村は10余りに達した。
(筆者注:日本機は8月16日から10月末までに約130機で蘇州に爆撃を行なったとあるが、その後も特に11月13日以降、地上部隊の侵攻予定に合わせて爆撃を重ねている)
この翌年からも日本軍の暴虐は続き、昆山県の犠牲者は2382人に上った。
蘇州占領とその後の蛮行
【狂乱的爆撃】
8月16日、日本機は二度にわたって蘇州の各地を爆撃、多数の死傷者を出した。さらに9月19日、平門駅の駅舎や難民列車を爆撃し四、五百人の死傷者を出した。続いて10月6日、再び平門駅を爆撃し、27発の爆弾を投下、機関銃で掃射し、駅舎と弾車を爆破し、旅客ら70人余りを死傷させた。10月14日、蘇州の斉門通りへ爆弾10数発を投下、多くの家屋が爆破され、住民が死傷した。爆死した婦人はその腕の中に一緒に死亡した子供を抱いたままだった。11月上旬には蘇州は各地で爆撃を受けたが、渭塘鎮北の冶長園では、避難民を満載した難民船4隻が爆撃を受け沈没、300人あまりが死亡した。 11月12日から15日までの間、日本陸軍の総攻撃に合わせて海軍航空隊が江蘇省常熱を含め、蘇州各地を3日連続で700発以上の爆弾を投下するという大爆撃を実施、多数の商店、民家、工場や駅、埠頭、鉄道、車両、船舶などを爆破し、赤十字病院も爆撃された。また数えきれない住民、難民(上海からの)、兵士が爆撃にさらされ死亡し、市街はさらに家を失った難民で溢れた。以下は蘇州に住んでいた米国人の記録である。(『外国人の見た日本軍の暴行』ティンパーリー著より)
—— 11月9日、日本機は空からチラシを撒き、三日後に蘇州に対し総攻撃を行うと予告した。多くの老若男女がわずかな荷物を持って群れをなして故郷から逃れていた。12日、私はその避難民の手助けをして同僚と民間船2隻で(注:多分太湖を渡り)安徽省広徳に運び、二度目の難民を運んだところで夜になった。その夜、日本機が蘇州に大挙来襲し、まず城内に照明弾を投下して目標を見定め、爆弾を雨のように降らせ、現在の姑蘇区を中心として何時間も爆撃を続けた。夜が明けて我々は蘇州に戻り城内に入ると、その破壊の惨状はとても表現できない。一人の中国人牧師が一千人の難民を広場に連れて行くのを見た。砲弾と爆撃で片端になった者たちがよろめきつつ牧師の後に続いた。二日間に五千人の難民が広徳に避難し私たちも同行した。(なお、広徳は11月25日に日本軍が侵攻し、戦闘の末30日に陥落する)
(『外国人の見た日本軍の暴行』ティンパーリー著より)
21日に蘇州に帰ったが、道々死体を踏まぬように歩く必要があった。すでに日本兵の掠奪は白熱化していたが我々の教会はまだ無事だった。銀行、商店、住宅等の門が開かれ、日本兵が蟻のように家具や品物を運び出していた。そしてついに我々の教会も掠奪にあった。正門も脇門も後門も開かれ、中の扉は明らかに斧や銃剣で破壊されていた。私や友の家も同然だった。ある日晏成中学(現第三中学)を見に行くと、彼らは金庫を開けようとしていたり、教務長室のテーブルを運んでいた。私が叱ると彼らは恐縮して立ち去った。しかし翌日の朝には学校の金庫は開かれ、400ドルばかり盗まれていて、他の銀行や商店の金庫も壊されて中のものは盗まれた。日本軍のいう軍紀粛正の言葉とは滑稽なものであった。これは日本兵個々人の問題ではなく、掠奪品は軍の自動車に積まれ、紫檀の家具を満載した自動車が日本軍司令部の門前にあるのも見たから、日本軍全体の問題であった。
街頭に累々としていた死体は10日以上も放置され、建築物の破壊は甚だしかった。さらに悲しむべきは日本軍は中国の婦女を凌辱したことである。その強姦事件の統計を取ることは難しいが、そんな数字を挙げたところで何の解決にもならない。ある日の朝、私は東呉大学の学生の一人に会ったが、彼は涙を流しながら日本兵が彼の姉妹を強姦したことを語った。また私は村人たちが路傍で震えているのを見たが、日本兵がその妻子を拉致して行ったということであった。
中国の最も繁栄し美しかった地方の一つの城市と郷村は灰燼に帰し、荒れ果てた田畑には少数の老人が寂しく耕している姿があるのみで、家畜も殺されるか掠奪されてしまった。田園を棄てた百姓たちは今どこにいるのであろうか。こうした事実にもかかわらず日本軍は世界に向かって今や中国人はその居に帰り、平和と豊かな生活を送っていると宣伝した。これほど厚顔無恥の至りはない。
【血まみれとなった街(1000人以上の捕虜全員を殺害)】
11月19日、蘇州の全城が陥落し、城中の国民党部隊2000人(日本側の記録は1000人)が捕虜となり、日本軍によって全員殺害された。…… 日本軍は沿道の蘇昆・京滬公路、蘇嘉鉄道一帯を通って、中国人を見かけると殺し、被害者の死体が山積みになった。崑山市や陸墓につながる川や都市を取り囲む川には死体が浮かび、翌年の春まで、水面に浮かんでいた。
平門に侵入した日本軍は、避難船七、八隻を機銃で撃沈させ、列車や駅の倉庫の屋根に機銃を据え、人を見れば掃射し、多くの死者を出した。斉門に侵入した日本軍は、北の道路で青壮年八人を防空壕に押しこみ、機銃掃射をした。雲、錦公所棺では、通りがかりの避難民100人余りが日本軍に捕まり、機関銃で集団射殺された。斉門外の大街や洋遊河には、老若男女を含めた死体が四、五十体あった。薊門に侵入した日本軍は、城門の前で住民5、60人と負傷兵7人を銃剣で殺した。万年橋通りでは防衛隊員3、40人、金門、東門の南新橋、大馬路、石路、上塘街などでは銃剣で住民5、60人と負傷兵7人、永福橋から東呉の芝居小屋までは、路上に被害者の死体が2、30体、南新橋の橋上にも10数人の死体が転がっていた。さらに北寺塔の前の橋の上で10数人の死体、北界芩大唯宝殿のそばには捕虜になった中国兵50人、60人は縛られて銃剣で刺された。黄鵬坊橋では防衛隊員10数人が銃殺され、西北街100号の入り口の石灰潭の中は死体でいっぱいだった。天妃宮橋の近くの河原では死体の山が見られ、望星橋付近では7、8人の中国兵、盛家帯徐家祠堂の中には7、80人の重傷の兵士がすべて銃殺されていた。
県郊の洋涇角村では罪のない村民140-150人が虐殺され、その虐殺で一命をとりとめた王木根の回想によると、一隊の日本軍が村に駐屯し、付近に歩哨を設け、人が通りかかると捕まえ、捕まえられないものは射殺した。日本軍は捕らえた者を村の東の陶小坊主の家に閉じ込めて、その後分散して虐殺した。2、3日で計100人余りが殺害された。日本軍はこの村を撤収する前に8人の村民を引き連れ、彼らに命じてこの100体余りの死体を陶家から引きずり出し、その門前に掘られた泥の中に埋めさせた。これは後に百人坑と呼ばれる。日本軍はまた村の近くの田の畔、道端、川のほとりで、村民3、40人を撲殺、ある子供を抱いた女性は子供と一緒に道端で撲殺された(筆者注:おそらく強姦目的の日本兵に反抗したからであろう)。呉県城郷における日本軍の大虐殺は、陥落後一週間が最もひどかった。当時、蘇城の内外、街、路地、屋敷の外、田頭の場末、河洪の溝、いたるところに血溜まりの屍の山があった。
【掠奪・放火・強姦】
日本軍は、蘇州城に侵入した翌日、家々を回って金目のものはもちろん、金や宝石、書画骨董品、衣類などを盗んだ。明代の東林党周順昌の墨蹟と肖像画まで奪った。観前街の商店はほとんど日本軍に掠奪され、民家も例外ではなかった。
陥落後、日本軍はあちこちに放火した。見村は焼け、渭、塘、鎮西の道路に近い集落では、約100戸の民家が全焼した。楓、橋肖家湾村では、農民が日本軍の婦女暴行によって一人の日本兵を殺したが、日軍の一隊が報復に来て、村中の家を焼いた。当時を知るある老教師の回想によると、日本軍は大門大通り、石道一帯に火を投じ、三昼夜にわたって大火災を起こし、蘇州の商業地区の石道地区を焦土と化し、東は石仏弄、小菜場から西の小鴨橋の東側まで、南の石道の北側にあるイエス教会から、恵中寺の東、ホテルの南側にかけて焼き尽くした。民家は五、六百戸あり、そのほか盤門外の吉祥里の民家十軒、斉門外の深楼、巷の百軒近い家屋はことごとく焼かれた。城内の呉県の新聞社や公園図書館なども日本軍の放火によって焼失した。
日本軍が女性を強姦すること、まるでけだもののようである。平橋直街の女曹XXは日軍3人に輪姦致死、野塘洪婦女王XXは、日軍に犯された上銃殺された。前衛街では顧という女性が日本軍に抵抗したが強姦され、3回刺されて命を落とし、3歳の子供も刺されて死んだ。南浩街の女性は暴行を受けた後、日本軍が銃剣で下半身を刺して死亡した。学士街関姓家では、日本軍が祖母を強姦したのを見た幼い子供が泣き、その場で射殺され、祖母も殺された。日本軍は場所を問わず、老幼を問わず、十代から七、八十代の老人まで、すべてを見逃さなかった。強姦されたあと、裸にさせられて恥をかかされた女性もいる。
【事後による集計等】
呉県(現・蘇州市呉中区)の街と農村が陥落する前後に、日本軍は何千人もの民家を破壊し、住民は無数の財産を失った。1939年(昭和14年)3月の呉県公署「事変被害、統計」資料によると、県全体の被害家屋は8407軒、死者は7296人、財産被害は1143万元。このうち、都市部では全半壊家屋は4739軒、死者は3738人、被害額は約910万元。この資料の数字は被害に遭った避難民と中国軍の兵士、負傷兵を統計に含めていない。蘇州城内では捕虜となった中国兵約2000人が、日本軍の先頭部隊による大掃討で殺害された(「朝日新聞」夕刊1937年:昭和12年11月21日付)。蘇城で日本軍によって爆殺された難民も数千人いる。さまざまな方面から統計をとると、陥落の前後、呉県では日本軍によって爆殺され、虐殺された総数は1万人以上となる。
日本軍がどれほど残虐で、無辜の民がどれほど悲痛し絶望していたか、言葉で表現することは難しい。抗戦史全体を通じてみると、日本軍はわが国の領土を占領するたびに、 大量殺戮を行なった。老若男女を問わず、男は虐殺され、女は強姦され、日本軍には人間性のかけらもない。
日中両国の歴史は深く、それなのに日本軍はなぜこのように中国人民を憎み、捕虜であれ、民間人であれ、容赦なく殺害したのか。…… その歴史を改めて思い出すとき、私たちは心の中の憎しみを燃やすわけではない。わが国民族のかつての苦難に直面する勇気を持って、なぜわれわれが侵略されたかを考えるべきである。日本という島国が侵略してきて、「三ヶ月で中国を滅ぼす」という妄言を吐く(実際に日本の軍部が語ったこと)など、なんと傲慢なのだろう。日本の侵略者の鉄蹄はわが国において焼殺、強姦、略奪の悲劇を導き、その残虐の程度は、古今東西聞いたことがない。…… これこそわが民族が経験した苦難であり、われわれの永遠の前進の原動力である。…… 同じ敗戦国なのに、ドイツは深く戦争を反省しているのに、日本はなぜ ……?(以上は『日軍侵華暴実録』第3巻)
筆者私見:この「なぜ」という問いは今もって中国の人々に根強くある。被害者としては当然であろう。しかしこうした中国における残虐な行いが「なぜか」われわれ日本人の中には知らされていない。ただ、今のわれわれ日本人にとって、太平洋戦争による自分たち国民の被害(米軍の空爆による被害を含めて)を知ることについては近年のメディアによって浸透しつつあるから、「なぜ」戦争をしたのかという問いかけは広がってきている。しかしその前の日中戦争に対して問いかけることは皆無と言ってよい。しかも日本がここから続く太平洋戦争によって、中国を含めた東南アジアの人々に与えた犠牲者の数は甚大で、日本人自身の犠牲者は310万人とされるなか、その10倍になると言えば、驚く人は多いのではなかろうか。ちょうど同じ時代にドイツが日本と同様に軍国主義的全体主義国家として周辺の国々に戦争を仕掛け(第二次世界大戦)、多大な犠牲者を生じさせた。どちらも国民自身が熱狂的に自国の戦争を支持した結果であるが、一般的にナチスドイツが与えた被害の方が圧倒的に大きいと思われているが、それは正しくない、ということも我々は知らない(実は筆者もかつてはそうであった)。とりあえず、「太平洋戦争における日本人の犠牲者は310万人であった」という、日本に限った考え方は捨て、それでは日本が戦争を仕掛けた相手国の人たちの犠牲はどこまであったのかという考え方に切り替えて行くことが必要である。その客観的な見方を持たない限り、日本軍の虐殺はなかった、皇軍がそんなことをするはずがないと無思考に否定し、戦争を美化する人たちが生じる結果となり、日本は反省しない国と海外から評されることになる。これに対し少なくともドイツは客観的に反省し、その周辺国に対し謝罪をし、その教育も徹底している。
一つの提言である。毎年8月15日の終戦記念日は「全国戦没者追悼式」として開催されているが、亡くなった同胞310万人の犠牲者への黙祷だけに終わらず、わが国の起こした戦争によって犠牲になった海外の数知れない人たちにも黙祷を捧げるべきである。まずそこからこの昭和の戦争に向き合っていくことが必要なのではなかろうか。
現今の世界にも局地的に戦争は生じ、その度になぜかが問われている。戦争とそれが生む数々の悲劇は人間の世の思考停止の結果であり、この「なぜ」という問いを国家が抑圧してきた結果である。だからこの問いを持ち続けることは大事であるが、筆者がこれを書いているのも単純に「なぜ」から来て、最初は「310万人」の犠牲、その中でも太平洋戦争末期の日本国内の空爆被害から調べ始めたところから始まっていて、結果的に筆者自身のこれまでの思考も、日本の中の単一的な見方に収まっていた、あるいは閉ざされていたことを理解した。つまり今の日本は世界の中でも一歩進んで自由な国であるように自他共に感受している雰囲気があるが、その「なぜ」を問いかける思考力の低さからすれば、まだわれわれ日本人は戦時中から抜け出せていないと思わざるをえない。
常熟への無差別爆撃と焼き討ち
8月からの日本軍機による爆撃と川沿いの艦砲による県境砲撃もあって、11月19日に常熟県城が陥落し、その後8年間、日本軍は常熟で暴虐を繰り返しすことになる。
<無差別爆撃>
常熟には8月16日、長江の野猫口に停泊していた日本の軍艦が、大砲、機関銃を用いて、滸浦鎮を20分間にわたって砲撃した。8月23日には日本機8機が県城を爆撃し、城内8ヶ所が被爆し、死傷者数十人となった。10月12日、2機が市街区の上空に進入し、20数分にわたって、民間人100人余りを死傷させ、家屋100軒余りを破壊した。11月13日早朝、9機の日本機が梅李、謝橋、支塘、古里及び常熟城内を爆撃した。梅李は300発以上の銃弾を受け、町全体の5分の3の家屋が破壊された。13日以後の数日間、日本機は終日上空を往来しつつ爆撃し、多くの村や町は焦土と化し、多くの民が路傍で惨殺された。据邑人の記録によると、「謝橋下で70余弾で民家の半分が破壊され、死者は300余人に達した。福山以東は死屍累々」、「港口、大義橋の家屋の大部分が破壊され、死者は千人近くになった」、「二ヶ月後になっても回収されていない死体、川に浮遊している死体があった」、「収容された死体は三百余名」とある。
ついでに言えば、現今の主要な共産主義国家が初期の共産主義の理念から大きく外れて、この「なぜ」という問いを逆に抑圧し、全体主義に走っているのはなぜであろうか。しかもナチスドイツと日本から重大な被害を受けたロシアと中国がまさにそうした国になっているのはなぜであろうか。
<焼殺と強姦>
11月13日、北支戦線で活躍していた第十六師団と台湾守備隊の重藤支隊が揚子江岸の白茆(ぼう)口に上陸した後、15日に常熟県城に侵入した。先頭部隊は沿道で民家を焼き、略奪を行い、被害者は約3000人に上った。呉市一帯だけで、日本軍に571人殺害され、犯された婦女は374人、1511人が殴打され拘束され、1090軒の家屋が焼失した。11月19日、日本軍が虞山祖師山を占領した時、報恩寺の普同塔にいた戒非老僧と避難していた山の住民30人余りが日本軍によって殺害された。日本軍はあらゆる悪行を行った。放火により町の3分の1の家屋が破壊され焼失した。入城前後に罪のない民衆を約1500人殺害した。石梅の菜園の中で一人の婦人が裸で四肢は大木に釘づけにされていた。家族で東西湖に避難していた農民たちも日本機の機銃掃射で多くの死者と負傷者を出した。
日本軍は一軒一軒家を捜索し、若い婦女子を見れば強姦し、あるいは見山病院に連れて行って従わなければ殺された。報本街の蔡姓の母は重い病気にかかり、娘は家で母を看病していたが、ある夕方、日本軍が門を締める音を聞き、辱めを受けないために、母と娘は井戸に身を投げた。
<略奪と労役>
日本軍はその行くところ、金銀の装身具、毛皮の材料、骨董品、時計やラジオ、家畜、南貨糖酒などありとあらゆるものを略奪、鍋釜を見れば叩きつぶし、布団を見れば銃剣で切り裂き、寝台や戸棚を見れば薪にして調理や暖を取るのに使い、住民は財や物資に甚大な被害を受けた。また日本軍はあちこちで民間人を強制的に引っ張り出し、荷物を運ばせたり、苦役を強いた。その中には銃殺されたり、拉致されてから生死不明になった者も少なくなかった。
<集団虐殺>
軍隊が入城した数日後、商店が休業し、塩が供給され南門の住民たちが洪塩公堂に集まって、食塩を運ぼうとした。日本軍はこれを見ると機銃掃射をし、その場で約300人を射殺した。
<李家庄>
日本軍が白茆口に上陸してから常熟に侵攻する途上、大通橋を渡って西岸に達したところに李家庄があったため、村の農民の大部分は避難し、田圃に作られた防空壕に入ったが、一部の老人はまだ家に残っていた。そこに日本軍が侵入し、村の後方で残虐な虐殺が行われた。14人が李富泉の家の柴間の部屋に引きずり込まれ、ひざまずいた後、機関銃で順番に掃射されたが、李根泉は一緒に倒れ、撃たれなかった。日本軍は皆殺しにしたのを見ると、小屋の戸を閉め、火を放った。李家庄は火の海となり、53棟300室が焼かれ、わずか7軒の下岸の荒廃した薪小屋が残った。11月16日の午前、日本軍は李家庄を退却した。
無錫における残虐行為
【事前爆撃】
陸軍が一つの都市に侵攻していく前にはほぼ飛行隊が爆撃を重ねていて、無錫も同様であった。無錫は上海に近く、事変の初期から爆撃を受け、とりわけ11月に入ってからは25日の占領前まで、連日に近い爆撃が行われた。その中で米国人医師が記録した日々を記す。
—— 11月10日深夜、水西門外工業区と恵山傷兵医院に一度に140発余りの爆弾を投下し、多くの死傷者を出した。「病院に送られてきた負傷者は身体の完全なものはなく、見るに耐えなかった」
—— 11月11日、江蘇省無錫を爆撃、アメリカ系宣教団の聖アンドリュー病院のそばに爆弾が落ち、病院は激しく揺れた。「間もなく四人の負傷者が病院に送られてきたが、一人は四肢はぶらぶらしていて、二人掛かりで手術し、脚部を切断した。残りの人たちの手術は夜間と明朝に回した」
—— 11月12日、連日で無錫を爆撃。今度は聖アンドリュー病院が爆破される。「今日は悪魔の日だった。一人の鉄帽を被った中国兵が病院の玄関にいた時日本機が来襲し、彼は病院に飛び込み、その瞬間爆弾が病院の近くに落下、次々と破裂音がした。私は恐怖に陥ったが、幸いにけがはなく、這い出てみると看護婦の姿もなかった。すぐに負傷者が運ばれてきたが、多くの命が絶望的だった。一人の父親が男子と女子を連れてきて、男子は片目を失い、女子は両腿が粉砕されていた。……一部の人は日本機が目標を間違えたのだと言ったが、私はこれは故意の仕業だと信じる。病院の屋上には米国機がひるがえっていたし、屋上一杯に米国旗がペンキで書かれていたから、低空でやってきた飛行機がこれを誤認するはずはなかった。病院構内の損害も大きく、近隣の住民は逃げる支度を始めていた。病院の中国人職員も職場を放棄して逃亡した。(実際に翌日は中国医が一人も出勤してこなかった)。私個人は熟考して仕事を継続することに決めた」(医師はその後無錫が戦場となると見て上海に避難した)
(『外国人の見た日本軍の暴行』ティンパーリー:評伝社)
【村々での集団虐殺】
—— 11月23日、日本軍が無錫地区に侵攻し、要路の東亭郷を陥落させた。またこの日、日本軍の第一陣が鴨城橋を渡ったところにある全180戸の村は、民家三戸を除いて日本軍に焼き尽くされた。その場で殺されたのは老若男女47人。無錫の馬路上の精肉店の店主朱金宝は、9月28日の無錫城爆撃後、妻、息子とその嫁とともに鴨城橋の実家に避難していたが、この23日、家族7人全員が日本軍に惨殺され、子孫を絶った。
『日軍侵華暴行実録』第3巻
11月24日午後四時頃、日本侵略軍は実弾を持って席祁(春雷村)許巷に突入した。63戸、230余人の村は四方が水に囲まれていて、侵略軍は村に入ってから、許勝先ら40人余りを縛り付け、強制的に整列させて、一人一人銃剣で刺し殺した。許勝先の1歳にも満たない孫の一人が、銃殺はされなかったが、血の中で溺れて死んだ。また日寇(日本侵略軍)は許玄祖の家に侵入し、まず許玄祖の父と伯母を射殺した。銃声を聞いた許玄祖の母親は、乳を飲んでいた玄祖を抱きかかえ、奥の部屋から飛び出してきたが、日本鬼子に7、8回突かれ、その場で惨殺された。そして玄祖は母の血の海の中に横たわり、口と肩に銃剣を突き立てられたが、その肩には今も傷跡が残っている。さらに日本鬼子は許泉初の家に侵入して、彼の家に隠れていた7人の村民を追い出し、その中の許耀庭、銭阿狗の2人は隙を見て臨難に逃げたが、残りの5人は1人の日本将校に刀で一人ずつ首を切り落とされた。続いて、14名が同じように木の下で、無残に殺された。虐殺は三時間余り続き、村全体で80代の老人から新生児まで、許巷に避難してきていた親類129人を含む223人が惨殺された。
この村の全63戸のうち、57戸の家族が殺され、うち4戸の家族が全員殺され、10戸の父子と7戸の夫婦がが同時に惨殺され、13戸の妻が殺され、22戸の夫が殺され、6人の子供が両親を失った。同時に19人の婦女が鬼子に犯され、そのうちの4人が殺害された。婦人の謝仁梅は部屋の中で子供に乳を飲ませていて、鬼子に姦汚された後で、銃剣で陰部からずっと喉まで突いた。日本軍はなんと残忍なことか。李紀泉の一家と村上の隣人は合わせて9人で、村の後ろの古墳の中で隠れていたが、彼の3歳の男の子が驚いて泣き声を上げ、李紀泉の妻は鬼子に発見されないよう、子供を無理やり綿入れの中に子供をくるんだ。その子はそのまま窒息死した。村全体で家屋は90間焼かれ、損害は計り知れない。稲山34個、計150畝の稲が焼かれた。
この後を含め、この東亭郷全体での殺害は1821人、家屋焼失は13340室、稲の焼失は約1000ha、強姦された女性は504人、このうち、強姦されてから銃刀で殺害された女性21人、殴られて傷ついた者は数知れない。
(以上は『日軍侵華暴行実録』第3巻からであるが、以下も同巻の別人の記述である)
【占領後も続く蛮行】
11月24日だけでも、日本軍は無錫東亭徐巷(許巷)一ヵ所で民間人223人を虐殺し(上記の数とほぼ一致)、家屋93軒を焼いた。
—— 11月26日、無錫陥落。無錫城内には日本軍の羽田、武市などの部隊約1万5千人が押し寄せ、無慈悲な虐殺と略奪が行われた。無錫城外は三里橋から北塘を経て北門、駅から労働運動路に至り、城内は北門から三鳳橋に至るまで、日寇(元寇、倭寇に由来する日本軍を表す言葉)の放火によって10昼夜にわたって焼き尽くされ、主要工場、街路、商店と建物、校舎、銀行、病院、劇場などが焼け落ちた。日本軍は城内の老弱者に対し、使えないものは殺害し、自分たちで塹壕を掘らせて生き埋めにした例もあった。日本の騎兵隊が馬を駆り、刀を振り回し、武器を捨てた中国兵を取り囲んで殺人レースを繰り広げ、さらに道端の難民を切り刻み、女性の腕に抱かれた赤ん坊まで切り刻んだ。無錫城内では若い女を探し出して強姦した。東門進士坊横丁の赤十字社では、20人余りの避難した女性に対して集団暴行を加えた。無錫で(その後を通じて)日本軍が暴行した女性は1万人以上。城内では千余の市民が銃殺された。中には殺害された後、十字架につるされた抗日志士がいた。その両手には「日本軍に立ち向かう者は、これが見本だ」という罪状板が掲げられていた。無錫の街全体には死体の腐敗臭と火で焦げる臭いが充満し、城内の河道には死体が山積みになっていて、まさにこの世の地獄だった。
以下は当時15歳で母子二人だけの李慎之の証言である。
—— 一人で郊外に疎開していたが、日本軍が無錫を占領したと聞いて城内に帰ってみた。母親たち女性は顔に炭を塗ったりして汚し、老婆に見せようとしていた。12月2日ごろ、近くに住む上の従兄、袁錫根の家のあたりに女を探しに来ていた日本兵が袁の姉(22歳)を見つけ、追いかける日本兵を従兄が遮ったが直ちに射殺された。袁の姉はなんとか逃げた。
その後、往来に出ていた李少年は二人の日本兵に住宅地に連行され、一軒の家の戸を壊し、無人かどうか探らせた。そうして日本兵は家の中に入り、めぼしいものを略奪した。持ち切れぬものは少年にもたせ、日本軍の司令部がある社橋まで運ばせた。途中、局部を銃剣で刺された全裸の女性の死体が転がっていた。
李少年の隣家に19歳の張二媛という病弱の娘がいた。日本兵約20人が現れた時、近所の人々と一緒に大型防空壕に隠れたが、見つかりそうになり、壕の裏口から逃げた。走れない張二媛は捕まり、壕の中でその日本兵たちに次々に強姦された。獣兵たちが去った後、近所の人たちが救出に行くと、娘は動けないでいた。彼女は一週間ほどで死んだ。
—— 当時21歳の張仲栄によると城内の人口は約10万人で繁華街には約1.5kmほど商店が並んでここだけで二万人が住み、約三千の食料運搬船が集散していた。この商店街は日本軍の略奪と放火で五日間燃え続け、壊滅した。市内は火災の後の様々な焦げた臭いと死体の腐臭が入り混じり、運河にも死体がたくさん浮き、そこに新しい死体も投げ込まれ、翌年2月ごろまで見られた。
(以上は『本多勝一集:第23巻』より)
常州占領後の相次ぐ放火と大虐殺
—— 1937年(昭和12年)11月5日、日本軍は金山衛などから上陸した後、11月19日に常熟、11月25日には無錫を陥落させた。11月27日、前哨部隊は戚墅堰に到着、機関車工場と発電所を占領し、そして高空に船の形の大きい風船を放って、占領軍の到着地点を知らせ、同時に飛行機の爆撃目標を示して西に向かって進軍した。常州城区に大量の爆弾が落とされ、住民たちは次々と城区を脱出し、ある者は国軍の西への撤退とともに内陸へ、ある者は交通の不便な衣村へと逃げ去った。常州はほとんど空城になっていた。
これより先、常州は10月12日に初爆撃を受けていて、その被害は大きく、横林駅、曹橋、寨橋、奔牛駅、揚州市戚墅堰区車両工場、戚墅堰区発電所、常州市駅、武進電気公社、大成一二三工場、新豊街、北大街、県直街などが破壊され、南大街、西大街は廃墟と化し、血まみれの肉片が飛び散り、靴下を履いた脛部分が電柱にぶら下がり、吹き飛ばされた肉片が壁の高さに飛び散り、手足がなくなり、腕が折れ、胴体がばらばらになった死体があちこちに転がった。120人余りが死亡したが、豆市河では、船上にいた避難民20人余りが爆撃で死亡した。この常州への爆撃は11月29日の陥落まで続いた。
—— 11月28日、日本軍は政成橋(白家橋)方面から城区を砲撃し、文筆塔頂の銅瓢箪を落とし、塔身は弾を受けて出火、塔内階段、柱梁及び庇が全焼、天寧寺の大台所と観音殿は、二発の砲弾で破壊された。29日午前、何の抵抗もないまま、日本軍の各隊は、それぞれ戚墅堰と武宜公路(今の常漕公路)から市街に入り、常州城を占領した。
日本軍は街に入った後、「三光」政策を実行した。彼らに見つかった人々は殺され、家々は相次いで放火され、城中は三昼夜、大火に包まれた。夜、遠くから見ると満天が赤くなって、千年の古都が灰と化した。大火災の煙は60km離れた槽橋に達し、30km離れた鳴凰にまで灰が落ちた。当時最も繁華だった南大街の166軒の店舗のうち、略奪と火災の後に残ったのは孫府弄口の板鼓店と青雲坊口の錫笛店だけで、合わせて4軒に過ぎなかった。北の通りには時計台がぽつんと、その下にいくつかの店があるだけだった。県直街に残るのは徳泰恒のホテルだけで長い一華里半の戚墅堰街は全焼し、3軒半の家しか残っていない。東門の水門橋、東倉橋、牌楼弄一帯は、家屋1470余軒、商店200余軒が焼失し、焼け野原となった。臼家橋南の新街と東倉橋下塘の黄泥街では、140軒余りの家屋が焼かれた。華昌染織工場(常州色織工場)の建物が破壊された。常州城には、昼は一人もおらず、夜は真っ暗であった。確かな統計はないが、市街区の被爆、焼失、損壊された民家、店舗、廟と工場の建物は合わせて約9000軒余り、工場の建物と機材の損失総額は戦前の貨幣価値によって計算して514万元に達する。
—— 日本軍は常州を占領したとき、市街を破壊しただけでなく、近郊の町や村をも破壊した。その先遣部隊は戚墅堰から城区に進む過程で、丁堰鎮を通り、全鎮の400軒余りの家屋をガソリンで燃やし尽くし、一部の住民は生きたまま焼かれ、生存者は他郷に逃げた。現在の丁堰郷の範囲内で集計された焼失家屋は1774軒、米穀34万kg。町に近い数十の自然村も同じように遭難し、あるものは村全体が焼け野原になった。このほか永紅郷の村々では家屋552軒が焼かれ、日本軍の屠刀の下で死亡したのは75人に達した。この年の冬、日本軍が現在の五星郷の湯家大隊蔣家村呉仁坤の家に侵入し、一本の無用な大刀を発見した。これを日本軍は中国軍のものだと主張し、家に火をつけ、この村に9軒しかなかった瓦の家を7軒燃やした。もう一隊の日本軍は、明時代に建てられた通乙観(小茅山)内の三茅殿、霊宮殿など10棟と東岳殿以南の家を焼き捨てた。五星郷地区では、全体で709軒の家屋を焼き、305の稲山、薪山を焼き、96軒の家屋を破壊した。城から10数華里離れた現新閘郷でさえ、家屋640軒余り、食糧1万9000斤余りが焼失し、家畜、家禽類が数えきれないほど奪われた。
—— 常州が陥落した。日本軍は町に入ってから城内のいたるところで「抗日分子」を捕らえ、好き勝手に焼き殺し、また略奪した。銭叔陵は国民政府の公職を務めた後に帰省し、常州に住んでいた。日本軍の黒野部隊が銭家に来ると、銭叔陵は正座して、家の中の若い婦人や母親を後ろに隠した。言葉が通じないので、銭叔陵は「私の家に侵入するな」と書いた。日本軍は怒り、まず銭叔陵の甥である銭榕榕の新妻を地面に押し倒して、強姦しようとした。銭叔陵はこれを見て激怒し、毒づいた。日本軍はさらに激怒して直ちに銭家の人々を文廟前(今市文化宮)に連行し、その周囲の住民とともに、新西門外の盛家湾地方に連行し、氷窯付近に小隊を配置して、その夜機銃掃射を行った。百余の罪のない人々が命を落とした。銭叔陵一家は老人から産衣の中の赤ん坊までの26人が、日本軍の機銃を受けて全員死亡した。
筆者注:これらの記述の内容は信じ難いであろうが、この陸軍の南京への侵攻途上での暴虐行為がそのまま12月13日からの南京占領事件に直結していて、とりわけこの常州を攻略した部隊は中島今朝吾率いる第十六師団で、南京での虐殺にもっとも多く関与している。さらにその後翌年からも日本軍の進撃により他の町々に同様の暴虐行為が繰り返されて行くから、1945年(昭和20年)までの8年間に渡る中国における犠牲者の数、その度合いは我々が思う以上のはるか先にあると推察してもよい。ついでに今一つの記述がある。
【千人坑:4千体の埋葬】
—— 常州西門盛家湾の「千人坑」は、数千人の無辜の民間人が銃殺され、あるいは生き埋めにされたその地である。1980年(昭和55年)代に証言された盛家湾付近の盛鰲泉、丁宝林などの老人の記憶によると、当時日本軍が二人を墓場に連れてきて、まず自分たちで穴を掘らせた後、二人の目を布で覆い、穴の縁に向かってひざまずかせ、日本軍は狙いをつけて発砲し、二人は穴の中に転がり込んだ。あるときは日本軍が刀で後頭部に当てて首を落とし、穴の底に転がった。低い池には妊娠した女の死体があり、腹を銃剣で突き破られ、胎児が腹の外に引きずり出されている惨状だった。西瀛里万豊泰烟店主一家23人は自宅の穴蔵に隠れていたが、日本軍に発見された。祖母と孫娘を除いては全員日本軍に殺され、煙草店も全焼した。八角井西側の防空壕には13人の老人が隠れていたが、日本軍が発見し、火槍爆弾を噴射して12人を焼死させた。西瀛里(ソヨンリ)に住むある若い女性が日本軍に陵辱されると、父親が止めに入ったが、家族10人あまりが日本軍に殺害された。(以下多くの事例あり) … 日本軍は占領政策として偽自治会を現地の中国人を立てて作らせたが(これは南京陥落後の南京政府を始めとして各地に作られた)その秘書だった董剣庵によると、常州が陥落して一ヵ月後、遺体の収容と処理のために埋葬隊が作られ、この隊によって埋葬された遺体だけで4千体余り、他の住民によって埋められた遺体も数多いという。常州を攻略した日本軍第十六師団第20連隊第3大隊第3機関銃中隊のある伍長(後述する牧原信夫のこと)の日記には、「常州は抗日排日の根拠地であったので、街中を掃討し、老若男女を問わず銃殺した」と記されている。
常州ではその後の占領期間中も日本軍の太平洋戦争における敗戦までの約8年間、焼失家屋3万6580軒あまり、殺害された住民は8790人あまり、強姦された女性は2570人あまりに達した。
(以上は『日軍侵華暴行実録』第3巻と「薔薇看中国」呉歓を混成)
溧陽占領と住民の反撃
—— 11月27日9時、日本機6機が飛来して溧陽県城を爆撃。11月29日午前10時、12機が溧陽を爆撃、民家数十間を爆破し、死傷10数人。12月1日、日本軍第百十四師団(末松茂治中将)は京杭国道に沿って長興、無錫、宜興から溧陽に侵入し、2日、溧陽は陥落した。宜興から侵入する時、日本軍は沿道の民家や村を全焼させ、道路沿いの住民は日本軍の銃撃などにより1600人余りが非業の死を遂げた。日本軍は、「生きたまま人の皮を剝く」ような極端に残忍な手段で住民を虐殺した。
1937年(昭和12年)に日本軍が初めて溧陽を爆撃してから1945年(昭和20年)に溧陽が回復するまでの間、日本軍は3回溧陽城を占領し、6回城内に侵入し、行く先々で悪事を行った。家屋だけでも1089軒が焼却、破壊され、多くの罪のない住民が死傷した。昔にぎやかだった南大街や西大街は爆破されて一面の廃墟となった。日本軍は溧陽城、新昌、蔣店、道人渡、旧県、前馬、別橋、平橋などの地で盛んに暴威をふるい、放火して家を破壊し、殺人を犯した。1938年(昭和13年)3月21日、日本軍は各郷を「掃討」し、平橋で罪のない群衆100人余りを捕縛し、そのうち20人余りが闇夜に脱出したのを除いて残りの80人余りはすべて虐殺された。4月18日、日本軍は蔣店で50人余りの民間人を虐殺した後、高家橋に向かい、途中の家を放火し、村東の陳氏公祠内の20人余りの難民を焼き殺した。殺害された者は約120人、焼失家屋は約1000軒にのぼる。別橋を占領した時、日本軍は集鎮や馬家、諸里などの村に一斉に火を放って一面火の海となり、民家2000室余りを焼いた。日本軍は人を見れば殺し、婦女を見れば姦淫した。義畝頭威では銃剣で7人の老人を刺し殺した。日本軍の暴行は、実に筆舌に尽くしがたい!
調査によると、8年間で溧陽県全体の死者6044人、負傷者13658人、焼失家屋3万4876戸で11万565室に至る。損失財物の価値は合計2265億元余りである。
(以下は珍しい記録である)
日本軍が溧陽を占領した後、溧陽の人民は次々と身を挺して自発的に抵抗闘争を展開した。1938年(昭和13年)5月14日、三人の日本軍は前馬村付近で婦女を姦淫しようとし、前馬郷抗日自衛団員に殺され、そして小銃2丁、拳銃1丁が捕獲された。日本軍は3度にわたって兵士を集めて報復に向かい、最大で160人を動員した。抗日自衛団はこれに抵抗し、日本兵数人を射殺し、自衛団副団長陳敬生、分隊長陳水清など3人が血戦の中で犠牲になった。民団黄山郷は1938年(昭和13年)3月から4月にかけ二度にわたって日本軍の下郷攪乱を阻止した。5月、日本軍は兵力を集中し、3路に分けて勝笪、滕村などを襲撃した。前史村民団の陳厚芝団長は160人以上の勇士を率いて大刀、槍を掲げ、日本軍を迎えた。塹口郷里渓橋民団の夏善章団長は500人余りを率いて支援に駆けつけた。この時、険しい入り口に駐屯していたある国軍偵察隊は、現地の大衆の抗日情熱に感動し参戦、日本軍の攻撃を退けた。この戦いは日本軍数名を殺し、抗日民団も重大な代価を払った。死傷者は38人、陳厚芝一家は5人を犠牲にした。前馬、黄山などの抗日団体の激励の下で、全県各地の多くの民衆は自発的に日本軍に抵抗した。
(以上は「溧陽史志」より)
溧水大空襲による1200人の死者
溧水県は江蘇省南西部に位置する要衝で、南京の防壁となっていた。溧水県城は蘇南の比較的にぎやかな街で、当時約4000人の住民がいた。県城内には図書館、公共体育場、公園、学校の文化施設があり、銀行、質屋、塩倉、材木などの店が集まっていて、酒造所、砂糖坊、味噌坊、肉屋、料理屋、旅館、浴場などがそろっていた。上海が戦場になったことにより、県城にも前線から退却した部隊、負傷兵、そして避難民が流入していた。空襲警報は日増しに頻繁になり、日常生活の活気も失われ、伝統行事も中止されていた。そして一日だけの日本軍の爆撃により、およそ1200人の住民が惨死することになる。
まず、海軍による渡洋爆撃が始まってまもない8月19日、海軍鹿屋航空隊は午前9時25分-30分に台北を出発し、12:15−12:35に上海甲基地上空に達して上海派遣第二航空隊と合流、午後14:00に溧水城区中央を空爆した。
11月29日、日本海軍飛行隊は37機を出撃させ、そのうち三隊合わせて28機が爆撃に参加した。午前9時ごろ、日本軍の偵察機が東南方向から溧水上空に飛び込み、2回旋回して立ち去った。そして午後二時から三隊が3波にわたって爆撃を行い、一時間半ほど続いた。日本側の記録によると、日本軍の第一航空上海派遣隊と鹿屋航空隊が投下した爆弾は計118発だったが、このうち第一航空隊は二機が60kg爆弾12発で合計24発、三機が250kg爆弾6発、60kg爆弾40発を、単弾連続投下方式ですべて投下、鹿屋航空隊は三個小隊で、第一小隊が60kg爆弾36発を市街地中央部に東から西へ、第六小隊が250kg爆弾6発のうち5発を市街地中央部より北へ投下、第七小隊は6発の250kg爆弾をのうち5発は市街中央より南の地区に、一発は市街北部に投下した。そのほか焼夷弾も多投しているが、第二航空隊の記録はない。これも含めると爆弾の総数は150発以上になるだろう。
こうした爆弾投下以外に(いつもながらの非道であるが)日本軍機は逃げ惑う群衆を発見すると低空で機銃掃射し、多くの人を殺した。爆弾が最も集中していた場所は南門の小街頭(東、南門通りの交差点)で、燃焼弾はまず状元坊馬老三板鴨店、犁頭尖豆腐店に当たった。次いで三眼井翟家碗店、孫家、紀家院外、程家材木および小西門公共体育場、程四興大門口、南中街、小街頭、魯家碗店、大新旅館、三聖廟、楊鰲家後院防空洞と一部の住民区に当たった。溧水城は急に硝煙が立ちこめ、住民の娘を呼ぶ声、悲痛なうめき声、爆発音、家屋の倒壊音が響き渡って惨劇となった。溧水県城は火の海となり、至る所に血肉が飛び交い、焦げて生臭く、まるで地獄のようだった。爆撃の間、爆発音が数十里先にも聞こえ、爆発音は140回と数えられている。
こうした爆撃に備えて街の各箇所には防空壕が作られていて、楊鰲家の裏庭にも防空壕があった。当時子供だった韓慶連は、「街の住民は次々と老人を助け幼児を連れて防空壕に入り、私と母が防空壕の入り口に着いた時には壕の中は人がいっぱいで、入り口にいた警察官は、もう一杯で入ることができないといい、私は階段の上に立ったまま泣き出して、母は外にいた。日本機は大型爆弾を次から次へ投下し、近くに落ちた爆弾の影響で防空壕が崩れ、続いてまた爆弾一個がすぐそばで落ちて防空壕が破壊され、私も土の中に埋められた。私は入り口の倒れた板の下になったが頭は上にあり、息はできたが動けなかった。穴の中では「助けて、助けて」という声が聞こえていた。午後4時過ぎ、敵機が去ったので近隣の人が防空壕に家族を探しに来た。まず3、4人が壕の入り口で土をかき出して家族を探していた。そこに帰ってきた父も土をかき分けて、板を除いて私を発見して助け出した。外にいた母は機銃掃射で5発撃たれて死に、私の家の隣の夏小五という同じ10歳の子供は、私より先に防空壕に入って死んでしまった」と語っている。防空壕では100人余りが死亡し、入り口にいた韓慶連ら4人だけが生き残った。
その後、郷紳は義勇埋葬隊を組織し、引き取り手のない死体を埋め、埋葬場所は美人山、廟地溝、荷包袋などであった。埋葬に参加した芦長根の話によると、「楊鰲の家の裏庭で爆破された防空壕の中で、100余りの死体を片付けて、数十人の人に引き取られても、まだ百十人が引き取られていなかった。南門の東側の城壁の外に、大きな穴を掘って、夫子廟、大東門街から片付けた死体を埋めた」という。このほかも合わせて、引き取り手のない遺体786体(約900体ともある)を埋葬し、引き取られた遺体は約200体で、そのほか廃墟の中に埋没したり、爆弾で飛び散って形のなくなった人々、焼失した遺体は数えられていない。なお、引き取り手のいない遺体の多くは一家ごと全滅した場合で、住民4000人のうち死者1200人だとその割合が高くなる。その他外から入ってきていた商人や、上記のように避難民も含まれているだろう。
(以上は抗日戦争記念網『侵華日軍爆撃溧水事件』/百度百科『侵華日軍爆撃溧水事件』を混成)
【一日の爆撃で千人以上の死者を出した他都市の例】
この年ではまず7月29−30日、天津作戦において陸軍航空隊により、天津市内の北駅、東駅、市政府、警察署、裁判所、造幣廠、津浦電台(電話局)などに対して爆撃を行い、北京鉄路管理総局ビルは廃墟と化し、南開大学構内の秀山堂、図書館、文法学院、教室、宿舎などが破壊された。天津で市民2000人以上の死傷者がでたというもの。
次に9月23日、広東省広州を3回爆撃、死傷者数千人は下らないだろうとされた。「政府官舎、軍事機関は全部無事であった。故に我々外国人には日本機の爆撃目標がどこにあったのか、皆目見当がつかない。その大部分は草葺の貧民区に集中していた。…… 東山付近の小学校も全焼したが、幸いに休暇であった」というもの。
またこれは爆撃によるものだけではないが、11月13日、山東省済南市済陽を爆撃、そののち関東軍は済陽城を猛攻した。午後4時、城内の中国守備軍は三方に敵を受け孤立無援となり総崩れとなって西門に集結した。城門が開くと、軍民が押し合いへしあい出てきた。100メートルも走らないうちに、両側の日本軍が一斉に発砲し狂ったように銃を乱射、また砲撃した。30分しないうちに死体は山となり、血は川となり、100余の守備軍、1900余りの住民と壮丁、併せて2000人以上が一瞬にして死体の海と化した。銃声が止んだ後、残った鬼兵は一つ一つの死体を調べ、死んでいないものへは銃剣を突き、とどめをさした。 生き残ったものは一人もいないとしたもの。
上記の溧水県と、その6日後の12月5日、蕪湖の市街地を連続爆撃し、990名以上の死傷者を出した上に、さらに重爆撃機二機が蕪湖川岸(揚子江)の太古埠頭に停泊していた旅客船「徳和号」と「大通号」に爆弾12発を投下、このため徳和は炎上し、大通は多数の穴を開けられ、さらに隣に停泊していたイギリス軍砲艦にも被害が及んだ。この徳和には武漢を目指した避難民(庶民は避難するお金はなく、裕福な人たち)六千人(三千人との説も)が乗っていて、船は約7時間燃え続けて沈没、この惨事で死者が約千人(二千人との証言もあるが、状況的には二千人が正しいかも知れない)とされている。徳和号は1978年(昭和53年)に引き上げられ、大量の人骨のほか、お金もかなり見つかったという。なお、さらにこのこの7日後の12月12日、日本機はやはり長江に停泊する米国の軍艦「パナイ号」を爆破して沈没させ、26人が死亡、この時は相手がアメリカで大きく問題にされ、今も取り上げられるが、それに比して一千人以上の犠牲者を出した徳和号事件が日本で語られることはまずない。
この他特に千人以上の死者(死傷者ではない)に関して翌年以降も上げてみる。(詳細は筆者の『中国における日本軍の年月日別空爆記全録』参照)
1938年(昭和13年)2月15日、河南省鄭州の大同路、徳化街、駅などの繁華街を爆撃。街中には血まみれで肉片が飛び散った死体が横たわり、特に焼夷弾によって駅や大型の建物やホテルなどは火の海となり、火事は丸3日3晩燃えつづけ、千人以上の人がその建物の中で焼死、圧死した。爆死、爆傷は数千人に上った。
同年6月6日、広東省広州を40機余りが三回に分けて爆撃、100発余りの爆弾を投下し、2千人以上の死傷者を出した。
続く6月8日、同じ広州において50数機が数波に分かれ、広州を一日中爆撃して死傷者が数千人に及んだ。
同年8月29日、湖北省荊門市京山県を初空襲、夜明けから11時ごろまで57機が3回に分けて爆撃を行い、爆弾と焼夷弾約2000発を投下、爆弾と火災で死者総数は2000人以上とされ、負傷者は3000人余りにのぼった。これは翌年の重慶に続く被害数と思われる。
同年11月5日、湖北省荊門市沙洋鎮において数十機が朝から晩まで一日中交代で休みなく爆撃と機銃掃射を繰り返し、沙洋で破壊された家屋は30%を超え、被害者も住民の30%以上となり死者は2千人を超えた。
11月14−16日、江蘇省蘇州各地を3日連続で700発以上の爆弾を投下するという大爆撃が行われ、多数の商店、民家、工場や駅、埠頭、鉄道、車両、船舶などを爆破し、赤十字病院も爆撃された。数えきれない住民、難民(上海からの)、兵士が爆撃にさらされ死亡し、死者は千人近くになり、二ヶ月後になってもまだ回収されていない死体、川で死んで浮いている者もいた。
12月2日、桂林の南門や倉庫、市街地を19機が爆撃、火は延焼して甚大な被害となり、民間人死傷数千人とされる。(これに対して日本側の記録は「桂林市街南方地区一帯を猛爆、数カ所より大火災を起こさしめ軍事施設を壊滅した」とあるのみ)
1939年(昭和14年)5月24日、陝西省西安の空爆において、大きな防空壕に爆弾が次々と命中し住民1000人以上が生き埋めになり圧死、窒息死した。
そして比較的知られている重慶爆撃の中で、1939年(昭和14年)5月3-4日の重慶大空襲で死傷者5千人以上出ている記録があり、これはそれまでの世界戦史上最も多い空襲犠牲者である。
1941年(昭和16年)8月中旬、86機が湖南省衡陽上空に侵入、城内各所に分散して爆弾を投下、全城で数千人を爆死させた。
1942年(昭和17年)5月4日、(これは死者千人に達していないかもしれないが、無差別爆撃というより庶民そのものを狙った例としてあげる) 雲南省保山をビルマ(ミャンマー)からの27機が「狂ったように」爆撃した。二千人もの死傷者を出し、数千軒の家屋が破壊された。当時、保山市内には日本軍による占領から逃れて中国各地や隣のビルマから逃れてきた難民も含め、たくさんの人々がいた。当日、市場に人びとが集まり、中学生たちは運動会を開催していた。そこに日本軍機があらわれ、はじめに城南地域を爆撃し、つぎに城北地域を爆撃した。雲南省立保山中学の校舎は破壊され、校長の段宝光をはじめ生徒30人ほどが死亡した。保山県立中学も爆撃され、男子中学生34人が死亡した。馬里街にあった女子部の校舎には焼夷弾が投下され、すべてが焼失し、女子第五班の生徒30人余は焼夷弾の直撃を受け全員が焼け死んだ。学校前の広場では50人ほどが爆死した。華僑中学も爆撃され、多くの教師・学生が死傷した。運動会会場の公園も爆撃され、生徒100人余、観衆300人余が死傷した。一方で、上巷街の孔憲章の一家は燃焼弾により12人中10人が死亡、鉄楼街の李尚武の一家は14人中13人が死亡した。旧県街の店で子どもに乳を飲ませていた女性は顔を吹き飛ばされ、座ったまま鮮血を流していた。ビルマから逃れてきていた三家の華僑の父母6人が手や頭を吹き飛ばされて死亡し、花摘みに行っていて難を免れた子どもたちは血と肉にまみれた父母を見て泣き叫んだという。(『侵華日軍暴行総録』より)
筆者注:この他、千人前後の死傷者でみるとこの何倍ではきかず、数百人以上の死者になると数知れずあって、それは筆者の作成した空爆記録に明らかだが、ただそれは逐一読んで認識していただくことがほぼ不可能なほどに大量の記録になっている。
江陰要塞攻防戦に伴う蛮行
江陰には揚子江から遡上してくる敵軍に対しての堅固な要塞が築かれていた。これはまた日本軍にとっても南京攻略への過程でどうしても陥さなければならない要所であった。またこの要塞にはドイツ製などの最新式の砲門が並べられていて、日本軍はその砲撃で後退を繰り返しつつ、12月1日にやっと江陰を陥落させたが、中国軍は撤退の前に江陰の新式の砲門を破壊した。江陰要塞陥落で日本軍は南京攻略に専心できることになった。以下はやはり中国側の記述からである。すでに中国防衛軍は鎮江や南京へ退避していた。なお、江陰の攻防戦に関しては、日本軍は多くの犠牲を出しているが、そのために日本側の記録は少ない。日本軍は負け戦はまともに書かないのである。だから反省することなく同じ過ちを繰り返す。
—— 11月21日、日本軍第十三師団は江陰攻防戦途上のこの日、江陰の顧山鎮紅豆村に入った。村では福妹という女の子が家を出たところで、日本軍に見つかった。福妹は悲鳴を上げつつ、裏門から逃げた。日本軍は家に入って福妹を見つけることができず、病床に横たわっていた祖母を殴り殺した。村の他の2人の女の子は一緒に一つの部屋の中に隠れたが日本軍に見つかり、強姦された。日本軍が去った後に2人は地面に横たわって身動きできなかった。
紅豆村のほかにも、日本軍は陸家堂、趙家堂などで女性3人を殺し、また古塘から顧山までの道で14人の少女を強姦した。古塘巷の少女が日本軍に犯されることを恐れて彼女の祖母と一緒に川に身を投げて自殺した。顧山鎮では章という女性が日本軍に犯された後、竹竿を体に突き刺されて死んだ。18歳の少女胡某は、日本軍に抵抗し、もがく中で、川に飛び降りて自死した。日本軍は27人のわが同胞を殺し、13人の女性を犯した。顧山での日本軍のこの暴行は22日まで続き、その日の早朝、周東荘に婦女探しに走った。ある老人は、孫娘が助けを求めてきて、日本軍に自分の孫娘を許してほしいと懇願したが、逆にまず自分が日本軍に刺されて死んだ(この種の光景はいたるところで生じている)。
—— 同じ顧山鎮で、ある老兵が思い出すのも苦しげに重い口を開いてくれた。東巷門で仕立屋をしていた陳根福の家には8人の家族がいたが、11月21日、押し入った日本軍が陳陳家で一枚の写真を見た。陳氏には抗日軍隊の副軍長と結婚した娘がおり、娘は結婚後、夫の軍服写真を送ってきた。陳氏は自慢のために写真を拡大して額縁にし、家の居間に飾った。陳氏は日本軍が顧山に入った後もあまり気にせず家の門を閉めて自分の家にいた。ところが、日本軍が彼の家で中国軍人の写真を見つけ、陳根福に家族全員を呼んで話を聞かせてほしいと頼んだ。陳根福は深く考えず、息子、嫁、娘、孫娘、生後二カ月足らずの子供を含めて、家族全員を家に集めた。全員が家に集まると、日本の将校たちは一声で、七人の大人たちをすべて縛り上げ、有無を言わさず、町外れの四街汽船の船着場に連行し、川に向かってひざまずくように命じた,さらに軍刀で陳根福とその家族を次々と川に切り落とした。 この事件では、生後二カ月足らずの赤ん坊まで八人が、日本軍によって川に投げ込まれた。この虐殺のさなか、犠牲者の悲鳴に、日本兵たちは拍手喝採していた。
—— 江陰陥落前の11月27日夕方、日本軍が青陽鎮を攻略、鉄蹄の至るところ、焼殺淫掠、残虐極まりなく、全鎮は家屋200軒余りを焼却され、中心橋の繁華街、東街から石皮弄、南街から洪家弄が灰になった。日本軍は男を見れば殺戮し、女を見れば蹂躙し、被害者は数知れず、工場の留守番人員17人は、日本軍に一本の縄で縛られ、機関銃で掃射され、ある学徒は音を聞いただけで倒れてしまった。町に駐屯した日本軍は、住民の家具を略奪し、食料を奪って炊事をし、あるいは家を焼き払った。市街地を流れる大堰川には常に死体が浮かび、水が汚染されて臭くなり、飲むことができなかった。
—— 日本軍は江陰県城を占拠した後、城中を捜索した。世界赤十字会江陰支会が杜康巷(征存路)会所に設立した難民収容所を探し当て、難民は100人近く、そのうち男性は52人で、日本軍は会場に彼らを並べ、ロープで結び、その中には江陰地方で人望のある収容所責任者の章星白(寿楡)もいた。日本軍は他の占領地域と同じように治安維持会を組織させようとしたが、章がこれを拒否したため、日本軍は章ら12名を投獄し、残り40名を銃殺した。翌日2日、12名は方橋北首陸家派新聞社に収容され、組織作りを強要されたが、彼らは拒否した。その翌日、彼らは川に連行され機銃掃射されてその死体は遺棄された。ただ、12人のうち阿虎だけが銃声を聞いて倒伏し、死んだふりをして生き延びた。
12月3日、午後3時か4時ごろ、日本軍は江陰の花山付近の40戸余りの曹鮑村に押し入り戸別に侵入し、家に隠れていた老若男女を曹士雲の家に閉じ込めた。翌日の朝早く、44人の男たちを玄関に呼び出し、後ろ手にさせ、縄で縛って次々に押出し、周林根の家の2つの小屋に閉じ込めた後、火をつけて燃やした。44人のうち当時15歳の湯芸宝と10歳の周阿興だけが入る前に逃げた。焼死した42人のうち6人の身元が確認できたが、残りの36人は焼け焦げて見分けがつかず、村の東の墓に合葬された。そのうちの年長者は80代、下はまだ16歳だった。この後日本軍は曹鮑村で略奪した後、花山近くの陸家村で、100人以上の村人を一括りに縛って、盧家村の裏の大池のそばまで連行し、銃剣で突き刺すなどして殺し、ある者は半殺しのまま池に突き落とされて溺死し、鮮血が池全体を赤く染めた。(以上は中国のサイト、「寒剣看歴史」より。筆者注:むやみやたらに男性を殺すのは、村に抗日ゲリラが潜んでいることを疑ってのことである。これはナチスドイツのポーランドやソ連(ロシア)への侵攻途上のやり方とまったく同じである)。
鎮江市各地域における集団虐殺
【丹陽県】
—— 1937年(昭和12年)11月27日から29日にかけて、日本機は鎮江市丹陽県城廂区を三日間にわたって濫爆、爆弾約140発を投下し、340人以上の住民が死亡、156人余りが負傷した。 「江恒石炭駅内の油に弾が命中し、煙が空を衝き、… 翌28日、一夜の狂風を経て炎が舞いあがり、夜を昼のように照らし、洪楊革命後に建てられた四牌楼から賢橋までの新市場すべての精華を破壊した。…… さらに翌29日、偵察爆撃により、南門大街、東門大街はいずれも破戒され一面瓦礫と化し、路地裏のビル住宅のごく一部のみが免れた。町は家屋9006間、複層建物1038軒、学校舎310軒を焼失し、商工業者は約2000万銀元の財産が破壊された。
空爆後の12月1日、日本軍は三路に分かれて丹陽に侵入した。日本軍は常州から武公路に沿って張堰、皇塘地区に至り、太平山から青墩一帯で110戸を焼却し、計平屋202軒、草屋161軒を焼却し、村民76人を惨殺した。12月2日、大車庄に至り、村全体で111軒の家屋のうち107軒を焼き、さらに稲山二百余畝を焼き、大火となって三日も消えなかった。
別の一路からの日本軍は呂城から丹陽に侵攻、途中で折柳橋を渡ろうとしたが、橋が壊されているのを見て報復するために、逃走した一世帯を除く五世帯16人を殺し、そのうちの1人は妊婦だった。さらに付近一帯の村、東野田村の家屋53軒、前王村の家屋60軒、鄭店村30軒、折柳橋村37軒を焼き、罪のない住民8人を殺害した。
12月初め、日本軍は丹陽県井巷村に侵入し、村民13人を射殺した。そのため9人の女性が未亡人となり、20人以上の子供が孤児となった。
12月2日、日本軍の別部隊は丹陽に侵入する途中、鳳凰山一帯で国軍兵士の抵抗に遭遇し、付近の姜家、肖家などの村に走って報復、罪のない村人200人余りを殺害し、家屋数百軒を焼いた。
12月3日早朝、ある日本軍は二手に分かれて魏家村に侵入したが、東路の日本軍は村民80人余りを広場に押し込み、機銃を掃射し殺戮、別の道からは窯の中に隠れていた40人余りを徹底的に刺し殺し、最後には同村の家屋200軒余りを焼失させた。
12月8日、ある日本軍が丹陽の高橋、尭巷、埤城などで家屋100軒余りを燃やし、数人の女性に性的暴行を加えて殺害した。
この後も続くが、上記の光景は、日本軍部隊が次々と丹陽を通過するときにその都度起こった事件と見るべきである。その後も丹陽は日本軍に占領されて迫害を受け続け、1945年(昭和20年)までの抗日戦争期間、丹陽の死傷者は5491人、財産の損失は人民元に換算すると約5億5200万元に上る。(以上は中国のサイト『丹陽日報』2007-07より)
【句容県】
—— 倪(げい)塘村の惨事:句容は南京外囲防御陣地としてあり、トーチカで防御を固め、砲兵学校もあった。12月4日、丹陽を攻略した日本軍は丹句、溧武、滬寧の三路から句容に侵入したが、その中で第十六師団は4日夕方、句容手前の倪(げい)塘村(現在の属行香郷)に宿営することにした。村では日本軍の侵入に気がついてすぐに逃げる人もいたが、多くは逃げ遅れ、近辺に隠れた村人も多くいた。日本軍は倪塘村の丹句道路の沿道で逃げる途中の住民と他所から避難してきてさらに逃げようとしていた民間人40人あまりを倪安仁の家に閉じ込め、火をつけて焼死させた。その夜、日本軍は倪塘村の青年倪才東を木に吊るして裸にし、肉を切り取って軍犬にやった。倪才東は悲鳴をあげて死んだ。
5日午前8時から9時頃、日本軍の一隊が西荊村の男たち80人余りを連れ出し、後ろ手に縛って数珠つなぎにしている彼らを倪塘村のあぜ道に並ばせたところで機関銃を乱射し全員を殺害した。その上8人の日本軍が若い女性を輪姦し、女性は精神異常を起こし、間もなく死亡した。日本軍による集団銃殺の暴行を目撃した倪塘村の当時9歳の倪連科は、父親が銃殺され、兄は日本軍に連行されて拷問の末に殺された。日本軍は村を出る直前に放火、倪塘村の86戸が焼失し、一戸の三間だけが残った。
—— 12月5日朝、日本軍の一部隊が句容県城の北にある光里郷の後本湖村に食糧の徴発と部落の掃蕩にやってきた。遠くから見ていた村人はてっきり国民党軍と思い込み、自衛団約30人を招集し槍や刀を持って歓迎しようとしたところ、全員が捕縛されてしまった。付近で捕まえられた男性も加えて40余名が村の酒醸造の藁葺き小屋に押し込められて火をつけられた。逃げ出そうとした者は射殺されたが、当時16歳だった万仁勝がただ一人小屋から逃げ垣根の中に隠れ、火傷を負いながらも生き延びた。
(この節は『南京事件』笠原十九司:岩波書店から転用)
—— 羅家荘事件:12月14日、後続の日本軍が句容黄梅郷羅家荘を侵犯した。村人の孔凡伯の家には老若男女13人が隠れていたが、日本軍に発見され、全員部屋に閉じ込められて焼き殺された。日本軍の暴行を目撃した羅大興(当時7歳)は、家族8人のうち兄2人が行方不明になり、父親は日本軍に銃剣で刺し殺され、母親と兄嫁は銃殺され、満1歳の妹は母親の胸に抱かれたまま餓死、すぐ下の4歳の妹と二人だけが生き残った。埋葬隊の報告では村では55人が死亡、そのうち19人は一つの家の部屋に閉じ込められ、焼き殺されていた。
—— 5日に占領された句容は同県政府の調査によると、抗日戦争中(筆者注:つまり終戦までの8年間で、占領した地域は駐留軍を置き、日本軍が統治する)、県内で日本軍に殺された民間人は3000人余り、負傷者は1000人余り。強姦された婦女は数知れず。また日本軍は23万3500部屋、衣服46万1000点余り、農具、家具110万2000点を焼却し、耕作牛などの家畜1000余頭を焼き殺した。さらに食糧66万2500余荷、金具200余両、銀装飾品900余両を奪い、5万8000人が家を失い、1万5000人が外地に逃亡することを余儀なくされた。
(以上は『日軍侵華暴行実録』第3巻より)
【鎮江市街】
(上記丹陽と句容は第十六師団によるものであるが、鎮江市街は第十一師団天谷直次郎支隊によるものである)
句容が占領された後の12月8日昼、天谷支隊の第12連隊と22連隊は、南門から日章旗を掲げた戦車を駆って鎮江城に突入し、現在の解放路に沿って南から北へと向い北固山気象台で日章旗を掲揚した。古い文化都市である鎮江が占領され、大惨事が展開された。
—— [虐殺]:すでに鎮江城の中国軍はすべて撤収していたが、日本軍は城に入ってから、中国兵を捜索するという名目で、あちこちで虐殺を始めた。東門外の36標は中国軍の駐屯地で、日本軍は現地住民100人余りを一室に監禁した後、火をつけて焼いた。焼死せずにもがいて出てきた者はすべて日本軍に斬られて死んだ。宝蓋山の東側に防空壕があり、その中に大勢の住民が隠れていた。日本軍は中国軍が隠れているのを防ぐためとして、なんと機関銃を洞窟に向けて乱射し、死者は300人を超えた。節孝祠巷のそばの火星廟は米国の牧師が運営する難民収容所としていたが、その難民200人余りを皆殺しにした。市街区の各所にいた民間人も日本軍の魔の手から逃れることはできなかった。張伯の『鎮江落城記』によると、余福里内で行軍を見ていた4人に対し、日本軍は門を開け、その後4人全員を射殺した。またある住民は裏屋から一人の女性の写真を拾って燃やそうとしたが、たまたま一人の日本兵に目撃され、その写真を指さして「紹介してくれ」と言い、断るとと一発で射殺された。……わずか数日の間に、鎮江城の巷には日本軍に殺された老若男女の死体が散乱した。鎮江紅卍字会埋葬隊長楊仏生によると、彼らが埋葬した死体は1400人に近い。広東山荘、陽彭山と宝蓋路小学校の向かいの大きな空き地には、大量の死体が埋められていた。特に宝蓋路小学校の埋葬地は、死体が積み重なり、埋葬の深さが浅いため、長い間、鼻を覆うような死体の腐臭が漂っていた。この戦争が終わった8年後の鎮江商会の調査によると、鎮江で日本軍に虐殺された者は1万人以上である。
—— [強姦]:鎮江に入城した初日から、日本軍は昼も夜も群れをなして銃剣を携え、婦女子を探して住民の家を走り回った。彼らはどこへ行っても「花姑娘」(クーニャン)を捜していた。中国の婦女を姦淫することは、日本鬼子の暴行に欠かせない事柄となっていた。鎮江の女性たちの人生は悲惨を極めた。日本軍の婦女強姦は悪質で、婦女たちの一部は死を選んであらがい、服毒、首縊りなどの方法で自死した。鎮江仁章路のある家では女性3人が一緒に井戸に身を投げ、死で陵辱を逃れた。賀家のある家では、十代の娘二人が日本兵に輪姦され、屈辱に打ちひしがれた母親は二人の娘に火油と焼酎を飲ませ、娘たちが地面に倒れて苦しさのあまり転び回っているところを自分の手で二人の娘を絞殺した。日本軍は強姦した後に殺したので、ある者は頭を切られ、ある者は腹を切られ、その惨状は言葉にできない。
—— [掠奪]: 鎮江の各銀行、銭荘抵当倉庫に各種物資が保管されており、その半数は略奪され、半数は焼かれた。貴顕の邸宅も一般庶民の漆喰や藁葺きの家も例外ではなかった。普通の家の物件は限られていたが、略奪に来る日本軍は困窮していた。多い時は一軒が一日に10回以上も略奪された。五万トンの石炭が蓄えられていたが、すべて日本軍に掠奪され、砂糖約3万個、胡麻30万斤、金針菜10万斤、食用油80万斤余り、小麦百余万包、米穀百余万担、大量の木材等は、日本軍の戦利品となった。公私の財産損失は1億元に達すると集計された。
—— [放火]:日本軍は鎮江に入ると、あちこちに火を放った。商店、街、学校も焼け、鎮江師範と千秋、敏成、穆源などの小学校は灰燼に帰した。仏門浄地も凶焔を免れず、甘露寺、竹林寺、鶴林寺、招隠寺は瓦礫となった。焦山の古寺ではガソリンで6人を焼き殺して、12人を斬首し、山上に隠した書画を掠奪し、仏堂の中に隠れていた婦人を輪奸し、さらに法堂に火を放ち、方丈楼、石堂、蔵などを焼き払った。鎮江の当時の五家の当典もみな火の中に消えた。火は三日間におよび、昼は煙が空をさえぎり、夜は満天が火に照らされ、あちこちの爆音の中に、住民の凄惨な声と敵の哄笑とが飛び交っていた。鬼子(日本軍兵士)は火をつけては喜び、火を消した者は殺し、驚いて誰も火を消す者はなく、瓦ぶきの家は焼かれ、草ぶきの家は数えきれないほど焼かれた。全39鎮(一級行政区画)のうち3鎮(三太和、黄華、鉄道)を除く36鎮が炎上した。大火は五条街、東塢街、西塢街、日新街、大市口、中華路、二馬路、南馬路、魚巷、山巷、薪炭巷、太保巷、江辺、盆湯巷、姚一湾、小営盤などに及び、瓦屋根の家1281軒、草ぶき屋根の家1,159軒が焼かれ、とりわけ商店が林立する大西路の西段と城内の南門大街を焦土に変えた。町全体で全焼した家屋は1万2000軒以上。避難民が町に帰って、家の門がどこにあるかわからないだけでなく、経路の東西も分からなかった。損失は当時の金額で387億元に相当する。
(以上は『日軍侵華暴行実録』第3巻その他との混成)
以下は当時江辺公園近くに住む17歳の唐栄発の体験である。
12月9日朝、防空壕から出てみると、すでに近くに駐屯し始めた日本兵が次々にやってきて、守ろうとしていた豚16頭はすべて略奪された。住んでいた200世帯の村の大半は避難していず、その不在となった家屋を日本軍は放火し始め、残っていた十数世帯の人々は日本兵を拝んで家を焼かないように必死に頼んだ。中には燃やされた自宅を消火しようとして射殺された老人もいた。家屋は4棟のみ残り、その4棟に十数世帯20数人が一緒に住むことになった。その中に10歳を超えたばかりの二人の少女がいた。12月10日朝、二人の日本兵が来てその少女二人を捕まえ、空いている家に連れて行って強姦した。少女たちは大声で泣きさけび、そのうち二人は下半身裸のまま飛び出してきた。午後になってまた同じ日本兵が現れて同じ少女二人を連行し、続いて別の二人の日本兵が現れ、さらに一人の母親も連行され強姦された。一人の少女の家族はその夜に避難し、今一人の子の親は頭を丸坊主にして隠したが、翌朝また現れた日本兵は残っている全家族を外に引き出し、全員を手や棒で殴って去って行った。
次にやってきた日本兵三人は人夫の徴発が目的で、唐も連れて行かれた。十数人の人夫の一人となって郊外の王家門に来た時、畑にいる老人を見て日本兵は何かを話し、一人が銃を持って地面に伏せ、老人を狙って撃った。弾は当たらなかったが気づいた老人は逃げ、そこを別の日本兵が同じ銃を受け取って撃ち、老人は仰向けに倒れた。三人は笑いながら倒れた老人を確認しに行った。次に馬家山まで行った時、三人が向こうからやってきて、一人は荷を担ぎ、一人は荷車を引き、一人は後ろから押していた。30mほど近づいた時、日本兵がそのうちの二人を撃ち一人は腹を撃たれて死に一人は腿を撃たれた。さらに別の方向から現れた通行人二人を日本兵は撃ち、一人は即死、もう一人はもがいているところを日本兵は近づいてとどめの一発で殺した。この三人の日本兵は射撃比べで殺人競争をしていた。(その他日本兵はいくつかの蛮行を重ねながら)荘泉村に着き、村にあった稲わらの束を騎兵の駐屯所まで運ばせ、それで唐たちを家に帰えらせた。(筆者注:この場合幸運というしかなく、人夫として連行されて用が済むと殺されるとか、遠くに連れて行かれ、強制労働でそのまま帰ってこないケースは多かった:以上は『南京への道』本多勝一より)
筆者注:中国侵略戦争で中国側のよく言う日本軍の「三光作戦」、これは「殺し尽くす・焼き尽くす・奪い尽くす」のことだが、もう一つ必ず付きまとっているのが女性を「犯し尽くす」である。つまり三光ではなく四光であろう。とりわけ強姦殺人の場合は、そのまま書き写せないものが多く、その詳しい様子は当時子供であった「息子として耐え難く、とても説明できない」という人も当然いる。
鎮江はもともと21万人の人口があったが、日本軍のもたらした厄災によって、鎮江の民は死ぬものは死に、逃げるものは逃げ、その結果、翌1938年(昭和13年)1月16日、偽鎮江自治委員会(占領する日本軍が設置させた)による市街区戸籍調査は3月末までに終了し、市街区(旧省都範囲)の人口はわずか3万5418人しか残っていなかった。なお、「鎮江が日本軍によって陥落して以来、現地の民衆を何万人も虐殺し、家屋1万6700軒余りを焼却し、現地の女性数千人を強姦した」ともある。いずれにしろこうした常軌を逸した状況が南京へとそのまま展開されていく。
江寧県湯山鎮の惨劇
—— 江寧県(南京の東端)の北端の湯山鎮は上海から南京への幹線道路沿いにあり、その中の許巷村は200戸程度の部落であった。12月10日、明け方に日本軍の先頭部隊が村にあらわれ、通信兵らしい日本兵が、農作業をしていた陳光秀(女性)の父親に近づいて何かを日本語で話しかけたが、わからないので黙っていると、いきなりピストルで撃たれた。そしてそのまま日本兵は行ってしまった。そこで村の若い女性たちだけでも避難することになり、光秀は姉妹と兄嫁と一緒に山中に隠れ、14日に村に戻ってみると兄は日本兵に連行されていなかった。残った村人と相談すると「歓迎大日本」と書いた旗を立てて迎えれば家も焼かれないし虐殺もされないという噂があって、その準備をした。
16日の午後(後述するが、この日は南京陥落三日後で、入城式前の残敵掃蕩作戦が行われていて、城外においても日本軍が徘徊した)、親戚の叔父が「日本軍が来た!」と知らせ、打ち合わせの通り旗を何本も立てかけ、村の入り口の両側に並んで出迎えた(この方法も各地で行われていたが、日本軍は相手にしなかった)。光秀たち女性は家の中に隠れ、本人は寝台の下に隠れた。外は騒然となっていたが何が起きているかわからない。近所の四十代の蘇おばさんが自分は年寄り(当時の感覚ではそうであった)だから大丈夫だろうと玄関先に座っていると一人の日本兵につかまって光秀の寝台に連れ込まれて強姦された。蘇おばさんは恐怖のあまり声も出なかった。さらに蘇おばさんが息子の許嫁として育てていた15歳の娘が三、四人の日本兵に見つかって別の家に引っ張っていかれ輪姦され、局部が腫れ上がって出血が止まらず、歩くのも困難だった。
後で聞くと日本兵たちは旗を奪って、並んでいた男たちを敗残兵ではないかと調べ始め、頭に帽子の跡があるか(つまり軍帽だが、農夫の日よけ帽子にも同じ跡が付く)、手に銃器をもっていたタコがあるか(これも農具を使っていれば指にタコができるが、この二つの方法は南京城内での探索にも使われた)などで判断し、結局100人の若者が選ばれ、その中に光秀の16歳の弟もいた。この100人を日本軍は道路沿いの田んぼに連行し、心配して老人たちも付いていったが、豚や鶏を用意するようにと追い返した。その後100人は田んぼに向き合って二列にひざまずかされ、それを日本軍は取り囲んで銃剣で一斉に刺殺した。死に切れず何度も刺された青年もいた。この集団虐殺が行われたのは午後四時ごろだった。心配になった女性の一人が五時ごろになって外に出てみたが、その惨劇(夫と弟が殺された)を知らされ、泣き叫んでいると残っている日本兵に池のそばに連れて行かれ、強姦された挙句殺された。光秀の母は五人の男の子のうち四人を失っていた上、残った男の子(兄)も夫も殺されたため、悲しみのあまり塞ぎ込み、頭に腫れ物ができ、翌年の春に死んだ。
(本多勝一『南京への道』より要約)
筆者注:なお陳光秀の証言は後述の『この事実を…』<南京大虐殺生存者証言集:南京大学出版社>にもあり、四人の息子を殺されたのは近所の艾氏の家で、陳の場合、犠牲は父と弟で、三人姉妹が生き残った。上記は通訳を交えての聞き違いと思われる。
筆者注:大半の方がこんなことがあり得るのかと読んで思われるかもしれないが、似たような事件は広大な中国で日本軍が侵攻した各地で数えきれないほど起きており、既述の暴虐行為はそのごく一部であって、筆者自身、これは書き写せないと何度も逡巡した描写も少なくない。しかもこの年ばかりでなく、日本軍が中国で戦争を継続していた8年間も続くのである。戦争がなせる産物、つまり中国人蔑視と自分たちは選ばれた「皇軍」だから(本当は清く正しくしなければならないところを逆に)何をしても構わないという発想に取り憑かれていた側面がある。その根本は、大多数は急に徴兵された寄せ集めの軍隊であって、軍律などの教育がほとんどおろそかになっていた面が大きいと言われている。それにしても古代から日本が文化的に大きな恩恵を受けてきた中国人に対する態度とは思えないが、すでに明治時代よりその萌芽はあった。
69年後の江寧県における虐殺被害調査
—— 2006年(平成18年)09月03日、南京師範大学歴史学科の大学院生11名が夏期2ヶ月間の調査を終了した。元江蘇省の管轄であった江寧県(現在南京市江寧区)の各村落を踏破し、1038名の老人を探し出し、1937年(昭和12年)末の日本軍の城攻めから1945年(昭和20年)の日本軍の降伏までの7年余りの間に、日本軍が江寧地区で大虐殺を行った蛮行の証言、5万12547字の口述原稿を作成した。老人たちの証言によると、現地の氏名判明の死者は1343人、氏名不詳は6018人で、総数は7361人となる。負傷者は395人、焼失家屋は1万460軒だった。女性の性的暴行被害者のうち、名前が分かっている女性は505人、名前が不明の女性は735人で、合わせて1240人。日本軍に捕縛された労働者は、氏名判明の者228人、不明の者4009人の計4237人。それら以外の行方不明者は、氏名が確認された者が96人、不明者が22人の計118人だった。
筆者注:捕縛されて行方不明となった者の数は異様に多いが、「労働者」とされているように日本軍が占領した中国の各地から満州の炭鉱や製鉄所などに連行、強制労働させられた。そしてその大半が故郷に帰ってくることはなかった。
【江寧地区虐殺実録】
—— 江寧湯山街道東流村後倉の孫永平は、「日本軍が私たちの村にやって来たのは、たぶん12月14日で、若者の頭や手を検査した。後倉の人々は商売人が多く、手にタコがなく、顔がよく、それがスパイと疑われ、一度に13人が逮捕され、村の外の牌坊に連れて行かれ機関銃で撃たれた。私の大きい兄はその年は28歳で、病気で家にいたが同じく引きずられていき、胸に一発、後頭部に二発目の銃弾を受けて死んだ。呉延心も当時20代で、銃弾を口に受けたが死ななかった。李興懐は腰を打たれ、人ごみの中に倒れて気絶した。孫家和は銃声が鳴ると同時に地面に腹ばいになり、難を逃れた。13人の中でただこの3人が生き残ったが、当時30代の李牛子は、最初の鬼子(日本軍)が去ると、大丈夫、鬼子は行ってしまったと叫んだところを後続の鬼たちに一発で仕留められた」と語った。
江寧区殷巷の新しいマンション棟に住む朱錫吾、李広臻、李業秀、梅定海は、地下室で調査を受け、「鬼子が来た年,彼らは殷巷に来た最初の日に、60余人の住民を殺したが、その大部分は若者だった」という。
江寧区淳化県街の王志貴は、「人が殺された例はたくさんある。父も鬼に銃剣で刺されて死んだ。確か趙という名前の50代の人と一緒に死んだ人は31、2人いた。鬼たちに池の中に放り込まれ、岸に上がったところを銃剣で突き殺された。張徳才という人も、鬼子が軍刀を抜いて首を切り落として池に捨てたのも見た。その母親は息子の死体を探しに池まで行ったところをやはり鬼に刺されて池で死んでしまった」と話した。
【江寧地区女性受難録】
—— 江寧区湯山街道麒麟鋪社区東林村の陳光義は、「翌年、二人の女性が日本人鬼子に栖霞山の防空壕に連れ込まれた。一人は王金貴の娘で、もう一人は外地の人だった。朝の八時か九時に連れ込まれ、ずっと日が沈むころまでいて、20人の鬼子はやっと離れた。次の日、王金貴が娘を訪ねたところ、和尚に昨日日本兵に防空壕に連れて行かれたと言われ、王金貴が彼女たちを発見した時、まるで死人のように、わずかな息しかなく、目を開けていなかった。二日後に目を覚ましたが、その後は子供の産めない体になった」と話した。
また同区の陶永福は「ある女性が、3人の日本鬼子部屋に連れ込まれて輪姦され、夫が外で泣いていたがどうすることもできなかった。ある老婆の嫁は鬼子に部屋に閉じこめられて強姦され、老婆は必死になって日本人に土下座して頼んだが、逆にひどい目にあわされた。私の母も五、六人の鬼に部屋に閉じ込められて輪姦され、家族は外で号泣していたけど、どうにもならなかった」と語った。
【二つの慰霊碑(記念碑)】
—— 江寧区湯山鎮で犠牲になった村の一つ湖山村では、2003年(平成15年)から南京農業大学の学生、呉佳莉、羅豪、李川の3人が夏休みのとき、湖を渡って調査を行った。80歳の蘇国宝老人は43人の犠牲者の名前を提供し、その後も学生たちは村を数回訪れて1937年(昭和12年)12月6日から13日の間に生じた64人の犠牲者リストを明らかにした。2005年(平成17年)8月15日、蘇国宝と同じく生き残りの戴袁支は慰霊碑を建て、彼らの名前を刻んだ。蘇国宝は碑の上の名前の一つ一つを指し、「私の弟の蘇国久は3歳で、日本鬼子は彼を手に抱いたが弟は鬼子を一口噛んでしまい、鬼子は怒って彼を川に投げ捨て、溺れて死んだ。それを見た王立栄は突き進んで鬼子を地面に倒したが、他の鬼子たちが彼を木に縛って首を切って殺した。鬼子はさらに銃剣で戴昌遺、陳開栄、戴興釧、戴大銀、戴興正、戴大鈞を突き殺した。私は戴昌遺の死体の下になり、鬼子が去った後に死人の遺体の山の中から這い出して助かった」と語る。犠牲者64人のうち一家全滅が15軒あり、200軒余りの家屋が焼失した。この碑を建立する過程で、湖山村の証言者の3分の1が老齢で死亡した。
さらに西崗頭村でも、2006年(平成18年)4月5日、村民全員の自発的な寄付で犠牲になった37人の名前を刻んだ慰霊碑が村公墓のそばに建てられた。この碑は1938年(昭和13年)2月8日から数日の間に、42世帯しかない西崗頭村で37人が日本軍の銃刀の下で死んだと記録している。日本人女性教師で記録作家の松岡環(『南京 引き裂かれた記憶 -元兵士と被害者の証言』などの著者:後述)は「第21回「銘心会・南京」訪中団」と「第4回「日中友好・希望の翼」訪中団」のメンバー19人を連れて、湖山村と西岡頭村の記念碑の前に花を捧げた。
(以上は「南京晨報」2006年、朱暁燕 記、その他より)
《浙江省における日本軍の蛮行》
第十軍上陸による嘉興と平湖における惨事
第十軍が11月5日に上陸してまず侵攻した地域が嘉興市、平湖・嘉善県である。その侵攻に対する支援爆撃として11月6日、海軍機数機が平湖城関に20数発の爆弾を投下し、城廂内外の多くが被爆して一面の廃墟となり、死亡は176人に達した。続いて午後、嘉興市桐郷県の石門鎮を7機で約2時間にわたり乱爆、約150人余りの住民が爆死、爆傷した。
—— 11月8日朝から三日間、嘉善は日本機の爆撃を受け、11日、撤退した中国軍の後に嘉善西塘鎮に日本軍が入ってきた。住民のほとんどは逃げ、老人や病人など100人ほどが残っていたが、56人が殺され、爆撃で破壊されなかった家々は掠奪にあった。一ヶ月ほどで住民は戻ってきたが、死体は北門外の柳洲亭に埋葬された。日本軍は占領を始めるに当たって住民に維持会を作らせた。
—— 嘉興市南湖区新豊鎮は平嘉道路交通の要衝に位置し、平湖県城から約9km離れている。11月17日未明、海軍機三機が新塍鎮付近を偵察爆撃、続いて陸軍が新豊鎮に侵入した。新豊鎮は嘉興中心街攻略への途上にあり、そこで住民への数々の虐殺が行われた。17日夕方、登雲橋近くの石炭店の金炳賢の子供3人を含めた一家6人が惨殺された。北荘橋村や園堂里村でも農作業をしていた農民たちが逃げようとして次々に射殺され、避難せずに街中で店を守っていた王金観や湯六椒も店で殺され、知恵遅れの史関昌も殺された。ともかく日本軍に見つかったものは片端から殺された。何家橋村の曹とその娘二人(桂英と天宝)の三人も殺され、桂英は強姦された上で腹を割かれ、川に投げ捨てられた。なかには日本兵に追われ凌辱を恐れて川に身を投げて自殺した10代の少女、数人の兵に強姦された後で平湖の塘河の中で身投げした唐家の若い女性もいた。また塘河橋の傍にある唐家の一人の若妻が突然二名の獣兵につかまれ、力を尽くして抵抗したが、ついに敵わず、凌辱された上に後平湖塘河の中に投げ出されて死んだ。一人の壮年の大工、呉炳南と陳家で肉屋の番をしていた若い職工阿昌者も日本軍によって惨殺された。こうして新豊全鎮で老若男女147人が虐殺された。
新豊鎮は400世帯1800人が住んでいて、3000室あった家のうち1018室が日本軍に焼かれ、壊されて薪にされたのが100余間、まったく無事に残った家は八世帯23間にすぎなかった。別途、同じ17日、日本軍第十八師団の一部は、嘉興市秀洲区王江涇鎮に侵入、三日三晩で民家1300室余りを焼き、民間人20人が殺害された。
18日の夜、日本軍は街道の東塔寺、南堰、真如塔の三方面から侵攻し嘉興を陥落させ、19日午前に大隊が入城した。日本軍は東門駅付近から中山路街と北門塘湾街に至るまで民家をすべて焼きながら侵入し、真夜中過ぎには市街地や北門街(現建国路)、中街(現中基路)、南門街などの家屋を焼き払い、それは嘉興市の約10分の4の家屋にわたり、大火は26日にやっと鎮火した。
—— 18日午後、日本軍200人余りが平湖県城を占領した。2015年(平成27年)現在87歳の傅衛生(女性)は、日本軍が来た時、家族10人は家の裏の竹園に散らばって避難した。80歳の祖母、48歳の父、2人の幼い弟と40歳の職工の阿大は日本軍に発見されて引きずり出され、銃撃で死んだ。彼女と3人の姉妹は暗くなるまで家に閉じこもり翌朝、姉と一緒に北へ避難した。再び家に帰ると、自分の家は焼かれ、家畜もすべて死んでいた。村の家屋は半分焼かれ、あちこちに村民の遺体が転がり、薛の家の中では一本のひもで括られた24人の死体を見た。
日本軍は平湖に空前の大災害をもたらし、その中の大規模な虐殺は前後するが、石橋惨事、庄家浜惨事、清司郷の虐殺、寂照庵の血染、石牆惨事、南柵塘血案、磨子橋「百人坑坑」事件、庫浜惨事などがある。統計によると、抗戦期間8年間の平湖の死傷者は7292人に達し、7125人が死亡。また日本軍による強制徴用者は3万5419人で、建設工事、物資輸送などの労務に従事し、そのうち5人が死亡、7人が負傷、9人が行方不明となった。蔣蒼蒼は「戦前、新倉鎮には3里(1.5km)の長街があり、家屋が並び、商店が林立し、商業が盛んで、平湖県全域の郷鎮の冠となっていた。日本軍は上陸した日に新倉を攻略したが、町の所々で火が燃え、延焼は4昼夜に及んだ。火が消えた後、町全体で6軒の家屋が幸いにも破壊されなかっただけで、その後長い間、町全体にまともな商店はなかった。全公亭、衙前は平湖沿海の比較的大きな町で、日本軍に蹂躙されたのち、風雨を遮る藁葺の家が数軒あった以外、町全体に完全な家屋は一つもなかった」と語った。
(以上は『本多勝一集:23巻』、『日軍侵華暴行実録』第3巻と「浙江オンライン2015年」を混成)
第十軍の湖州攻略と中国軍民に対する虐殺
11月5日に第十軍が上海南側の杭州湾から上陸して嘉興などを攻略しつつ進撃、第十軍の三個師団が前後して浙江省湖州に侵入した。中支那方面軍は南京進軍を決定し、即座に11月19日、日本軍第十軍の第六師団は江蘇省震沢から出発して、水陸両路に分かれて湖州の南潯区に侵入、占領する。その後部隊は三路に分かれて呉興に猛攻をかけ、24日に呉興は陥落、続いて25日、長興が陥落し、翌日日本軍は湖州をほぼ占領した。以下は第六師団のほかほぼ同時期に湖州に合流した第十軍の十八師団と百十四師団も合わせての行いである。
なお9月19日から、日本軍海軍機は浙江省湖州の長興飛行場、太湖沿岸、および長興県城などへの爆撃を続けていたが、その侵攻を支援するためその途上の都市への爆撃を重ねた。
【南潯での殺戮】
—— 11月18日夕方、日本軍の進撃に対して中国軍は湖州の南潯から撤退、夜になって第六師団は南潯区に攻め入ると、焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くしの「三光」作戦を実行した。最初に火が出たのは崔氏木作で、新橋北、東大街中段と新橋南馬家巷一帯に延びていった。さらに西大街、西木巷のあたりから火が出て、翌日の昼まで炎上した。その後も火災は断続的に10日以上続き、町全体の約半分が焼失した。さらに日本軍は沿道で人を見るとすぐに殺し、逃げ遅れて殺された民間人は非常に多く、沿道には死体が散らばり、電柱には血まみれの人の首がぶら下がっていた。死体が最も多いのは百間階下と西柵市梢永安橋からバス停西一帯であった。百間階下では捕虜となった国民政府軍約30人が銃殺され、東柵外絹糸場では民間人30人余りが殺害された。
—— 上海から南潯に避難していた地元民の周世業はこの後12月末までかかって死者数を調べ、その数を約400人とした。また張和孚の調べではこのうち逃げ遅れた中国兵が100人、市街地の住民が80人、農民が200人で、農民は日本兵に農村から連行されたもの、疎開した町民の親戚でに運びをしたものたちであった。おそらく用済みとなった農民11人を日本兵が運河のそばで殺害する様子を沈宝文の義兄が見ていた。そのうちの二人を除いて9人が銃剣で刺し殺されあるいは首を切り落とされた。この光景を目の当たりにした伯父の沈金宝は精神異常をきたし半年後に首吊り自殺した。
—— 避難する余裕のない村人や老人は家に残ることが多かった。18日の夜、一人残っていた55歳男性の沈麻子は、そこに泊まった日本兵に炊事を手伝わされた後に大鍋の湯の中に手を縛って放り込まれて死んでいた。19日、朱従亮の従兄の朱雲裳は避難先から三人で運河を舟で家に帰るとき日本軍に捕まり、一人は川に飛び込んで逃げたが、従兄たち二人は岸に上げられ射殺され、死体は肥溜めの中から見つかった。21日、一人で家に残っていた55歳の陳家冬のところに日本兵が現れ、陳に「花娘」を探すように命じられ、家々を回ったがどこにも見つからず、日本兵は腹いせに陳を運河の岸で殺した。
日本軍は南潯区を占領している間、婦女を捕まえては強姦し、その後に殺す場合もあり、老婦人や幼女さえも見逃さなかった。町および四郷で姦淫され殺害された婦女子は数百人である。その後日本軍は南潯区義倉橋西に「慰問所」を設け、中には中国人女性10人余りが日本軍の相手をさせられた。
【呉興への大爆撃と虐殺】
呉興は湖州市の中心地で、中国軍は頑強な抵抗を続けていた。
—— 11月20日、日本軍は呉興県馬腰鎮の沿道で民間人を200人余り殺害し、呉興県東遷町の東林、祜村で民間人59人を殺害した。さらに21日、日本軍は航空隊の援護を受けながら呉興県織里鎮の大港、雲村、河西、朱湾などの村に侵入し、137人の村民を殺害し、27人が行方不明になった。同日、東林に侵入した日本軍が民間人約100人を殺害した。22日、日本軍は呉興県八里店鎮升山、紫金橋、移沿山、陸家壩などの村に侵入し、318人を殺害した。
翌23日も呉興における戦闘は続き、11月24日早朝、日本軍は30機余りの航空機を集中させて呉興県城を乱爆した。城の中の主要な通り、城東の東園、天后宮、潜園、呉興県政府、地方裁判所と駐屯軍司令部、城南の四面庁、学宮兜、館駅河、国産品会社、城北の壇前街玄壇廟、北門の石工場、塔下街、城西の省立湖州中学師範部、鉄仏寺など、爆撃はすべての街区が免れなかった。一時城内の街道は死体が積み重なり、川面には多くの死体が浮き、城東二里橋のあたりは死体だらけであった。城西横渚塘橋の橋脚には人の頭がいっぱいにならんでいて、橋上は血で覆われ、橋の下に浮かんだ死体が流水を赤く染めていた。夕刻に呉興は陥落した。
—— 呉興の南にある倉前に四人家族で住む当時9歳の柏登高がちょうど昼食の時に日本軍が現れ、近所の家の戸を激しく叩く音が聞こえ、外に出てみると日本軍がいてこちらにやってきて家に入った。父を見てすぐに頭に軍帽の跡があるかどうかを調べ、中国兵でないことがわかると父を連れて行き、湖州の拠点とした丁家花園で水担ぎの仕事をさせられた。この日、逃げ遅れた中国兵がまだ隠れているとして中国兵を探していて、捕まった兵の多くはまだ軍服のままだった。柏少年の家の側の5m幅の運河の対岸には無人の祠堂があって、その隣の空き地に捕虜たちは集められ、日本軍は捕虜を運河の岸に並べ、まず丸裸にさせ、次に銃剣で脅して運河に飛び込ませた。運河は浅く溺死はしなかったが、次に運河から空き地に上がらせた。三、四人の日本兵が軍刀を持って待っていて、そこに別の日本兵が裸の捕虜を連れて行き、座らせた捕虜の後ろから軍刀で首を切っていった。こうして5、60人の捕虜が皆殺しにされた。柏少年は自宅の隙間からその光景を見ていた。その三日後に、隣の一歳上の少年が運河沿いに走って遊んでいた時に日本兵の標的にされて射殺された。それを知って父親の陳が飛び出して駆け寄ったが、寸前に陳も射殺された。連行された柏の父は一週間ほどで帰されたが、二年後(1939年:昭和14年)にまた連行され、今度は二年間の強制労働で衰弱し切って帰ってきて、その11日後に死亡した。
—— 大工の7人家族で当時25歳の呉生根は呉興城南門のすぐ外側に住んでいて、母と息子は親戚の家に避難していた。日本軍の侵入で妻と2歳の娘は1km離れた池の草陰に隠れた。夜7時ごろ、隣の家が燃え始め、それを見にいった父親が日本兵に見つかり腹を撃たれた。隣家の阿四がそれを見て父を自宅に担ぎ込んだが、日本兵が追いかけてきて阿四の家に放火し、阿四の一家は逃げ出し、そのまま父は焼け死んだ。あくる日兄が父の死体を探しに行くと、日本兵に見つかり連行されて、そのまま兄は帰ってこなかった。池のそばに隠れた妻子は知人がかくまってくれ無事だった。呉生根は翌年3月にも集団虐殺に巻き込まれたが、住民を生き埋めにする穴を掘らされた。
—— このように日本軍は呉興城を占領後、やりたい放題に振る舞い、あちこちで「花娘」を探し、老若を問わず捕まえ、拒む女性は殺された。日本軍はまた湖州館の宿場、欽古巷、愛山街などの地に「慰安所」を設置、強制的に女性を娼婦として囲い、日本軍の軍妓に充てた。これらの女性は日本の憲兵に徴用された後、まず病院で厳重に身体検査を受けなければならなかった。その後も厳しく管理され、何ら身体の自由がなく奴隷のように生活させられた。日本軍人の目から見れば、「慰安婦」はそもそも人間ではなく、一種の「軍用物資」であった。
【長興における捕虜と民間人虐殺、放火・略奪・強姦】
—— 長興は9月19日から、日本軍機に飛行場、太湖沿岸、および長興県城への爆撃を受け、機銃掃射のたびに死傷者を出した。9月29日には日本軍機は飛行場の石油タンクを爆破し、長興飛行場は破壊された。長興の多くの名勝古跡、例えば長興古城壁、城隍廟、いくつもの寺、学校などをことごとく壊した。日本軍第十八師団56連隊と第六師団は続々と長興方面に進軍し、11月22日、日本軍は逃げ遅れた中国軍捕虜400人を長興城外に集めて虐殺した。11月25日には長興県城を占領した。26日朝、日本軍機は長興駅の反対側を爆撃、城皇廟に大型爆弾を投じて十数人が死亡。日本軍は市街地に入るとまず怡和當という大きな質屋から放火した。異様なこととして、日本軍は平湖、嘉興から民夫として連行してきた大勢の民間人を質屋「広生」に閉じ込め、硫黄を入れて火を放ち、生きたまま焼き殺し、後日、自治維持会が質屋の瓦礫を整理すると、焼けて変形した500体余りの骨が運び出された。
—— 日本軍は長興県城内では200人余りの女性を捕らえて小東門の外に集めたが、纏(てん)足の女性が花柄の靴を履いているのを見て、集団でその女たちを強姦し、さらに軍刀でその足を切断し、他の後続部隊が見物して楽しんでいたという。別途長興城の西梅家橋のある林の中で12人の女性を順番に凌辱し、近くの別の森では若い女性5人を強姦、村人や被害者の親族を慨歎させた。信じがたいことだが、日本軍は女性に暴行を加えた後、被害者の両足を縛り木の間に逆さ吊りにした上で敏感なところに旗を立て、どちらかの旗が先に倒れたら、軍刀で真っ二つにしてしまうという残忍極まりない獣性を発揮した。
—— 市街地から避難していた葉銀天はある時、「金蓮橋に纏足の足がたくさん切断されて積まれている」という噂を聞き、朝早く4人で見にいった。長興駅から北側700mの場所にある金蓮橋は大きな橋であるがその支流にある小金蓮橋のすぐ横の路上に切り取られた纏足が円錐状に積み上げられていた。靴を履いたままの足やはだしの足、靴の刺繍も一緒に血だらけになっていて、葉は恐怖で身を震わせた。数年後、葉は党員として訓練に行った先で、捕虜となった日本兵がいた。彼はすでに中国語が話せたのでその時の話をして聞いてみると、日本人には珍しい足なので切ってみたと言い、他でも日本兵はやっていたと語った。市内の老人の話では、両足を切断された女性の多くは出血多量で死んだという。
—— 当時19歳だった馬巧林は自分の辛い体験を語ることは避けていた。日本人の取材ということで重い口を開いてくれた。家は長興から西10kmの蒋家村の四人家族の農家であったが、日本軍の侵入してくる三日前、避難するため迎えにきた従兄の舟で両親より先に3km先の長抖村に避難した。両親は日本軍の侵入に間に合わず、家から200m離れた墓地に隠れたが、村のあちこちが放火されて煙が上がり、母は気になって家が見える位置まで出ていった時に日本兵に捕まり、家の付近の畑で強姦された。その後見つかった死体は下半身を裸にされ局部が斧で割られていた。その母が戻らず心配で出ていった父は遠くで母が日本兵に捕まっている様子を見て動転し、泣きながら西のほう、おそらく自分たちの避難先に歩いていった。しかしそこから2km離れた姚家橋で日本兵に捕まり、首を切られて死んでいた。
—— 当時11歳の周樹金の家は長興から4km離れた橋西村の農家であったが、日本軍が去ったというので村に戻ったあくる日にまた日本兵が現れ、周少年は近くの方家村の小さな沼の深い草の中に隠れた。その村にいた馮毛頭という若い農民は妻と娘がいたが、逃げ遅れて妻が日本兵に捕まった。夕方になって馮が戻ると家は焼かれ、妻は強姦された後腹部を銃剣で突き刺され、その死体の上に3歳の娘が心臓をひと突きで刺されて死んでいた。絶望した馮は方家村の沼に飛び込んで自殺した。
—— 11月28日、日本軍は長興泗安鎮に侵入し、同鎮の全長2華里の街道を全焼させ、大量の米穀を在庫していた倉庫と一緒に焼き払った。その後日本軍は長興を出て行く時、街の各所に火を放ち、火は七日七晩にわたって燃え続け、県政府、中山公園、城隍廟と日本軍が自ら駐屯した少数の民家を除いて大部分が焼失した。泗安、李家巷、夾浦、呂山、和平などの郷鎮もすべて焼失した。また長興が所蔵していた漢玉鴛、漢玉指、周爵杯、秦銅鼎、漢銅器、白瑪瑙船など貴重な文化財316点が日本軍に略奪された。(こうした文化財はトラックなどに積み込み、日本に送った)
この後も日本軍は駐屯地から近隣の村々を荒らし回り、食料や女性をあさった。
—— 翌年の3月、長興から4km東北の洪橋という村に30人ほどの日本軍が現れ、「花娘」を求めて家々を探し回った。13歳の程関法の隣の家の17歳の娘が引きずり出され、どこかに連行されて輪姦された。その夕方娘は川に飛び込んで自殺したが、引き上げられるところを程は見ていた。さらに6月になって、程が徐連法の家にいた時、酒に酔った四人の日本兵が女性を探して現れ、ちょうど留守をしていた30歳の徐の妻が捕まり、「助けて!」という叫び声が聞こえてきた。しかしそのまま自分の部屋で輪姦され、彼女は何日も起きてこなかった。
湖州攻略後、日本軍は二路に分かれ、第十八師団は長宣道路と水路泗安渓に沿って南京南方の蕪湖攻略を独自に目指した。第六、第百十四師団は京杭国道に沿って宜興、溧陽を経て南京城を正面攻撃することになる。これに対し上海戦の主力であった上海派遣軍(全5個師団と2支隊)は太湖の北側から並行して南京を攻めていく。なお第十八師団は蕪湖攻略後の12月21日、再び湖州に戻り、住民に大被害を与えた(後述)。
(以上は中国のサイト「捜狐」・「湖州方志」などと、『本多勝一集:23巻』から混成して作成)
《安徽省における日本軍の蛮行》
広徳の44日
—— 8月14日、日本海軍の9機は、250kg爆弾二つを積んで、台北基地から安徽広徳飛行場を爆撃し、飛行場の空軍格納庫、工場、弾薬庫、航空機は甚大な被害を受け、死傷者は40数名であった。そこから広徳は20数回、城内と飛行場が爆撃され、11月25日に開始された攻防戦を支援するため、日本海軍航空隊が主に26日と28日、27機が順に広徳県城、誓節渡などを爆撃した。住民の死傷者は三百数十名にのぼった。目撃者の王世盛によると、一人の妊婦の腹が破裂し、赤ん坊と腸がすべて出てきて、溝の中にはちぎれて血まみれの人の足があった。北門大橋近くの落魂橋では10人余りが爆死し、誓節渡は300棟余り、約500室の家屋がある小さな町で、敵機によって400室余りが破壊され、住民100人余りと中国の兵士200人余りが死亡した。この町の近くの朱家荘、賽里村、牌坊村なども爆撃を受けた。30日、日本軍は広徳県城を占領、中国軍師団長の饒国華は配下の逃走により陣地を失い一営の兵士しか残っておらず、捕虜となることを拒否し自決した。
—— 広徳城内にはもともと2千6、7百戸の人家があり人口は合わせて8千ほどであった。そこに第十八師の一個連隊合わせて約2千人余りの兵が湖州の長興と泗安から来た。住民の多くは逃げたが、北郷邱家村の逃げなかった3、40人の場合、一人の日本兵が戻って来ず行方不明になったといって(ちなみに他所でも同じように日本兵が一人で女性を求めて村を徘徊するときに村人に殺される例が時折あった)100人余りの日本兵がやってきて、みんなを大きな家の中に閉じ込め、外から木の棒で閉じ込め、酒やガソリンを吹きかけて焼き殺した。ただ79歳のおばあさんだけが歩くことができなくて残っていて、敵の銃剣を受けたが死んだふりをしてやっと生き残った。後に城を脱出した者の話によると、日本兵が城に入るとすぐ戸別に捜索し、4、50歳以下の男はみな縄でしばられ、物を運ばされ、死体を埋めさせられ、家の掃除をさせられ、婦女は、老いも若きも凌辱され輪姦され、少しでも抵抗した者はすぐに銃剣で殺された。また日本軍の司令部が北門内の孫正と北号に入ったとき、長興や呉興から連れてきた若く見栄えのいい女性が何十人もいて、日本軍に弄ばれた。
—— 当時25歳だった王士盛は広徳の小東門で雑貨店を開いていた。11月26日の爆撃で王の家族は一時避難し、一週間ほどして街に戻る途中、県城西門の大橋の下に100人ほどの死体が折り重なっていたのを見た。死体は農民の服装ばかりで、老人や子供もあり、射殺されたということだった。自宅は焼かれていた。知人の張志力の60歳の妻が日本兵に強姦された後射殺されていた。天主堂の前の家では70歳になる女性が丸裸にされて強姦されて射殺されていた。李定遠の一家は子供を含めた7人が皆殺しにされた。
—— 日本軍は翌1938年(昭和13年)1月13日に広徳から撤退するが、城内を占領した44日間、毎日手分けして郊外の村々に壮丁や婦女を捜索した。壮丁を捕まえるのは彼らのために働くのであって、婦女は当然陵辱のためである。最も残酷なのは、彼らの意のままにならない女性を凌辱した後、椿や青菜大根を下半身に挿し込んで裸で街頭に晒すことであった。多くの壮丁に対してもガラス瓶を肛門に差し込んで処刑した。日本軍の撤退後、我々遊撃隊が入城したときの光景は見るに絶えなかった。しかも日本軍は米などを持ち去り、食べるものは何も見つからず、残り物は堀や溝に捨てられたりし、貯蔵していた味噌の甕などには子供の死体や女の人の足を埋めたり、酒の甕にも彼らの排泄物、井戸の中に死骸が放り込まれ、我々住民の生活にも支障があった。また日本軍は撤退するとき、四郊で40数人の婦女を捜索し連行した。統計によると、1937年(昭和12年)11月から1938年(昭和13年)1月までの3カ月間、広徳は1400軒余りの商家を焼かれ、また広徳一県において日本軍が女性を強姦した事件は数千件に達し、10代の女子から60、70歳のおばあさんまで、魔の手から逃れられなかった。
広徳の惨事の詳細を検証するため、宣城市党委員会党史研究室と広徳党史弁公室は2008年から2014年(平成20~26年)にかけて、広徳惨事特別調査チームを設置し、市・県の党史部門の幹部を調査チームのメンバーに派遣し、全県9郷・鎮の6コミュニティと127行政村を調査した。広徳惨事を経験した75歳以上の生存者400人を訪問し、610件の口述資料を作成した。このうち、姜正栄(女性)は当時104歳(1904年:明治37年生まれ)、張海山(90歳、1919年:大正8年4月生まれ)、家族11人が死亡した周和成(74歳、1935年:昭和10年生まれ)は日本軍の銃弾で腹を貫かれ、当時3歳だった。調査証拠の真実性を保証するために、研究チームは檔案資料と口述史料を繰り返し比較、論証、補足し、時系列が一致するようにした。広徳の惨事は様々な理由によりリアルタイムの記録が保存されておらず、地方誌の中に記載された2万4000人の犠牲者数は最終的には確認が困難である。正確性を保つため研究チームは、一部の体験者の回想や文献資料に記載された数字に基づいて、広徳惨事の犠牲者数を少なくとも960人以上とするに至った。
(以上は百度百科:「広徳惨案」「広徳保衛戦」「清心愛歴史」/新浪新聞「歴史観点」などより混成)
郎渓の度重なる惨劇
日本機は11月26日から27日にかけて安徽省宣城市郎渓を連日で爆撃、さらに29−30日にも郎渓城に襲来、爆弾と焼夷弾多数を投下した。城内の何氏宗祠、一品香菜館及び下街の皖北会館の建物はすべて爆破され、多くの死傷者が出て惨状が目にあまった。
この二日後、日本軍(第十軍国埼支隊)は十字鋪から郎渓を攻撃して、終日銃砲を放ち続け12月3日に郎渓を陥落させた。道路の両側の集落は2400余室焼かれ、沿道の村は瓦礫にされた。日本軍は町に入ってから、虐殺、掠奪、強姦、放火を繰り返した。郎渓城に放たれた火は天を衝き、煙は渦巻き、深夜になっても火は天を焦がすほどで、翌々日になっても火は燃えつづけ、城内は東から東門畦、西から西門畦、南から夫子廟、北からカトリック教会、郊外交通要路の両側の村の家屋がほとんど廃墟となった。…… 日本軍は一ヶ月近く経ってやっと退却したが、郎渓県商会が善後委員会を組織して死体を埋葬した。婦人が裸で死んでいるもの、首が木にかかっているもの、死骸が陳千巷の中にあるものなど死体が城を縦横に覆い、無惨な光景であった。当時の統計によると埋葬された遺体は600余体にのぼる。家屋は街の10カ所余りをを除き、潘氏祠の後進、城隍廟、観音庵、東岳廟、火神廟、関帝廟、財神廟、天主堂、宋氏宗祠と東、西街の店など、すべて焼失し、城内の義大、天隆など八軒の穀物店の食糧数十万斤も灰となった。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
郎渓はこの後爆撃と占領を繰り返して受け、翌1938年(昭和13年)以後も日本軍は六回郎渓城を侵略し、その度に多くの犠牲者が生じ、六回は特別としても、日本軍によりこうした状態が8年間、中国全域に繰り返されていた。その例として以下、郎渓の被害を年月日順に羅列する。(『宣城歴史文化研究』2015年、「日本軍禍宣城」陳虎山 記より抽出するが、筆者の別個の調査によるものも付加している)
【繰り返された郎渓への爆撃と侵攻の記録】
この稿の記述は南京事件のあった昭和12年のものであり、この郎渓へ攻略は12月3日、南京攻略は12月13日である。一般的に日本では南京事件のことばかりが取り上げられるが、8月の開戦からここまでの4ヶ月間だけでも、郎渓を含めた日本軍が侵攻作戦で重ねた蛮行を流し読みしていただくだけでも驚かれるであろう。そして日本軍はこれ以降も南京を含め、8年間中国各地に侵攻し、占領や撤退を繰り返しつつ蛮行を重ねていくのであり、以下はそのほんの一例である。
*1938年(昭和13年)
1月13日、日本軍、安徽省宣城市郎渓県城撤退。
3月19日、日本軍飛行機は宣城市郎渓梅渚を爆撃し、2人が死亡、10人以上が負傷した。
3月22日、日本軍第六師団の一部は郎渓城を再び侵犯し、梅渚、東夏などで民家210間余りを焼き、食糧13万斤余りを燃やした。
3月25日、日本軍は郎渓を撤退したが、この時殺害されて残された住民の遺体は470余体にのぼった。県長の曹樹均は民夫を派遣して街を整理し、その死体を埋葬した。
12月22日、郎渓県に侵入した日本軍は、殺人、放火を行い、食糧なども掠奪した。県政府は八尾村に移転。
*1939年(昭和14年)
1月3日、日本軍は郎渓県境に侵入、飛鲤、十字鋪の民家が30数軒焼かれた。
3月3日、日本機6機が郎渓県城を爆撃、51人が死亡、45人が負傷した。
3月4日、日本軍は郎渓に侵攻し(大きくは3回目)、住民10人余りを銃殺し、1日後に撤退。
4月5日、日本機が郎渓県定埠を爆撃、死傷者6人。
6月9日、日本機2機が郎渓、梅渚を爆撃、10数発の爆弾を投下し、66人が死亡、13人が負傷。
7月4日午後、日本機は梅渚、定埠及び付近の村を空襲し、爆死1名、負傷数名。
*1940年(昭和15年)
2月20日午前10時、4機が郎渓県城を爆撃し、東南門で爆弾10数発を投下、死傷者36人。
2月21日、日本軍は水陽から郎渓に侵入し、午後に陥落した。23日、梅渚と定埠が陥ち、東夏の民家は半分以上焼失した。日本軍は24日に県境から撤収するが、食料などの物資が掠奪されて空になった。
2月25日、日本機2機が郎渓県梅渚を爆撃、死者3人、負傷者11人、民家15棟を破壊した。さらに26日から27日にかけて、日本軍機は県城や湯橋などを爆撃。29日には大雪となり難民は困窮した。
3月3日、日本軍池田部隊は県境を越え、耕牛数十頭、米4000荷余りを奪い、子供30人余りを拉致した。また天主堂の避難民100人余りを西門の外に追い出し、各自に風呂敷包みを背負わせ、写真を撮って通した。
3月24日、日本機6機が郎渓天主堂を爆撃し、50人余りが死傷した。
4月10日、2機が郎渓の定埠を爆撃し、爆死8人、負傷9人。
4月15日、郎渓県城を爆撃し、商店の多くが破壊された。
4月22日、午前9時、2機が郎渓の梅渚を爆撃、爆弾6発を投下、11人が爆死、3人が負傷、家屋40数軒が破壊。
6月23日、6機が郎渓を爆撃、30数発の爆弾を投下、56人が死亡し36人が負傷、50数軒の民家が爆破された。
8月22日、日本軍が「掃討」として郎渓を攻撃、国民軍と攻防戦となるも県城は陥落。その後、西街の某鍛冶屋の屋根に隠れていた3人と孫恒源の屋根にいた6人が同時に日本軍に逮捕され、いずれも惨殺された。
10月13日、日本軍700人余りが洪林橋、朱堂鋪、十字鋪から郎渓を侵犯した(4回目)。14日にはまた兵を分けて十字鋪を通って楊棹から涛城まで迂回して県城に侵入した。別の300人余りは船20余艘で東夏に上陸して県城と郊外に迫り、西門に火をつけて城を陥し、住民数十人を銃殺した。15日には梅渚に進軍し、定埠の家屋80余軒を焼失させた。
12月24日、日本軍はまた郎渓県城に侵犯し、80人余りの同胞が殺され、家屋100軒余りが焼失した。
*1941年(昭和16年)
1月24日、日本軍は郎渓を侵犯し、陥落させた。(こうした不意の侵入は食糧などの掠奪が目的)
2月13日、2機が郎渓県梅渚を爆撃、3人が死亡、7人が負傷し、民家15軒を破壊。
3月24日午前8時から9時まで、日本軍機9機が蕪湖方面から飛来し、県城を爆撃、爆弾数十発を投下、また機銃掃射を繰り返し、死者67名、負傷42名、家屋134軒を破壊、北門一帯は廃墟と化した。
同日午前、9機が湯橋を爆破し、死者4人、負傷者8人、家屋57棟を爆破した。
3月26日9時から17時まで、16機が郎渓県城を爆撃。県城の市街地や天主堂に計40発余りの爆弾を投下、200人以上が死亡、数十人が負傷、数百軒の家屋が破壊された。なおも凌笪、湯橋、東夏などの村を順に爆撃。その後日本陸軍は道を分けて県城に侵入した。
4月21日から27日にかけて、日本機は県城、韋家村、湯橋、凌笪などを絶え間なく爆撃し、甚大な被害を生じた。
4月22日、日本軍は「掃討」の目的で、郎渓県境に入った。
11月21日午前10時、日本機はしばらく上空を旋回した後、郎渓県東夏を爆撃。午後2時、再度県城を爆撃し、機銃掃射を近隣の村に浴びせた。占領地溧陽から出発した日本軍は北から定埠に侵入し、梅渚に迫った。西からの軍は22日午前8時、東夏県城に侵入した。もう一方の軍は21日午前10時、桠溪港を占領した後、梅渚、定埠へ進撃を続け、三路の日本軍合わせて4000人余りが県城に向って進撃、城を守っていた国民党軍は反撃した。23日朝、日本軍砲兵隊は西門から県城を砲撃し郎川河を奪取し、城南の七里店山頭を占領した。
11月23日、午後1時30分、日本機一機が西から郎渓県城上空に飛来し爆撃、爆弾4発を投下し、また機銃掃射した。日本軍は西北二方面から県城を猛攻し、中国守備軍の大部分が戦死、県城は陥落した。東西の通りが焼け一面の瓦礫になった。日本の爆撃機一機が守備隊の被弾を受け広徳県泉口付近で墜落した。
11月24日、日本軍は涛城に侵攻し涛城東5里の李村が全焼。午後日本軍は涛城から山雅橋(現在平橋郷)に進軍し、溧陽に戻った。
12月20日、郎渓県城への5回目の侵略。住民は教会の地下室に隠れていたが、日本軍はそれを見つけて教会の地下室の入り口に機関銃を構えて掃射し、洞窟内に手榴弾を投げた。スペイン籍の費神甫は穴から這い出して何かを叫んだ時、7発撃たれて死んだ。この惨事で250人以上の住民が殺害された。
*1943年(昭和18年)
10月15日、第4連隊阿部正雄部隊が郎渓に侵略(6回目)。今回は陣地構築のため郎渓城の南門村に拠点を置き、南門の村全体300世帯余りを追い出し、30人余りを殺害した。そこから梅渚、定埠、十字、涛城、東夏、長楽などにも陣地を設置した。
10月28日、日本軍は汪肇庭らに郎渓県自治委員会を組織させた。(これは日本軍が占領地の統治に用いる方法である)
*1945年(昭和20年)
8月15日、日本政府は無条件降伏を受け入れ、24日8時頃、すべて郎渓県境から宣城に向かって撤退した。
宣城市各県への爆撃と占領
【宣城県】
日本軍(第十軍第十八師団)は11月30日、宣城市広徳を攻略し、12月3日、宣城市郎渓を侵略、12月6日には宣城市宣城県を占領した。侵攻前の12月2、4、5日の連日、日本軍の飛行機は宣城県を爆撃し、商店街の約300軒が爆破された。12月6日未明、日本軍は宣城県城の東門から侵入し、すぐに家々に放火し、蕪屯道路の両側の東から双橋町、西から八里岡まで、ほとんど完全に家が失われた。
—— 宣城県から一時避難していた当時18歳の程永樹は7日朝、湾沚鎮の家に戻ってみると自分の家も含めてかなりの家が焼き払われ、家の周りに五、六人の死体があった。李徳丈という老人の話によると、八甲街にある質屋の大きな邸宅が虐殺の現場になったと言い、質屋に日本軍は数百人の中国人を閉じ込め、建物に灯油などをかけて放火し、逃げるものがいると機関銃で射殺した。程はその質屋の焼け跡を見にいった。後門のところに両足が焦げて丸裸になった女性がいた。老人の話ではこれは近所の杜という男性の30歳くらいの妻で、日本兵に強姦されて殺された上に火の中に放り込まれ、だから足だけが焼けているのだという。湾沚鎮は人口3万人余りいたが、日本人占領後はさびれて、1945年(昭和20年)には6千人ほどに減っていた。
以下は翌年以降の宣城における被害であるが、中国内では1945年(昭和20年)に日本が連合国に敗戦するまでの約八年間、中国各地でこうした状態が続けられていたその一例として掲げておく。
1938年(昭和13年)1月、日本軍は何度も狸橋を侵犯して村人を虐殺、被害人口は6218人に達した。同じ1月、水陽鎮が占拠された後、日本軍は捕まえた30人余りの抗日軍兵士を針金でつなぎ、彼らの体に油を注ぎ、生きたまま焼死させた。水陽の河東での大火は10時間以上延焼し、500世帯余りのうち400世帯余りが焼失した。さらに狸橋周辺の数十里の大小の村は、日本軍に4夜4日も焼かれた。不完全な統計によると、狸橋一町だけで8年間に日本軍に焼かれた家屋は6978戸で、現地の総戸数の80%を占めている。
日本軍が宣城県に侵入した時、城内の住民の多くは北郊の敬亭山南麓に避難していたが、その後日本軍に発見され、北郊では1938年(昭和13年)2月に2回にわたり、100人以上の人々を殺害した。この時の日本軍は、労働者高某の妻を捕まえベンチに縛って輪姦を行い、銃剣で下部を突き刺し、ベンチごと火を投じて焼死させた。続いて3月、日本軍は孫埠鎮を占領し、その大部分が焼き払われ、殺された軍民は千人以上に達し、孫埠の人口は1/3に激減した。
1939年(昭和14年)3月、日本軍は宣城県西河町に侵入し、この町の商民財貨を略奪し、民船8隻に分載して運んだ。1939年(昭和14年)、20代の薛某は、宣城県新河荘で日本軍に十字架に縛られ、まず軍刀で …… (書き写すに忍びず省略)残忍に殺された。同年、宣城南門の潘という娘は、5人の日本軍に輪姦されたうえ殺された。
アメリカのジャーナリストSmedleyは1939年(昭和14年)6月下旬に宣城県を取材した。その記録の中には、「日本の飛行機はこの街に沿って、ほとんどすべての家を平地にした。大きな地面には直立した壁さえなかった」、「ある家で十数人の中国人女性の裸の死体が発見された。教会と通りを隔てた正面に古い井戸があり、その中は他の井戸のように中国の兵士や庶民の死体が埋め尽くされていた。…… この4万人余りの県城は、日本軍によって焼き殺され、すでに1万人に満たない」、更に例えば広徳では「日本軍が占拠している期間、下郷の「掃討」の時、婦女をさらって蹂躙して殺し、その死体を城の郊外に捨て、東門の外では20数体の強姦のうえ殺された女性が裸で残され、見るも無残だった」とある。
1944年(昭和19年)10月、占領されていた宣城県では日本軍は商民に150万元を要求し、それを月末までに引き渡すこと、またその統制している郷保に、毎日豚4頭、牛2頭、多数の鶏と鴨を強制的に処分させ、また交綿軍服60着を割り当て、古い私服20着を徴発した。さらには資源の収奪を行い、例えば日本の会社は宣城水東炭鉱を採掘し、鉱物資源を略奪するが、そのために陥落地区で労働者を強制徴用し、人的資源の略奪として宣、郎、広の3県は強制的に大量の労働者が動員され、虐待される中で死傷者数は深刻なほど増え続け、宣城市の労働者は大きく失った。一方で日本軍は1943年(昭和18年)9月、宣城、郎渓、広徳の3県を完全占領した後、「慰安所」を開設した。「慰安婦」はいずれも連行してきた地元の女性で、非人間的な扱いを受け続けた。
戦後、行政院善後救済総署安徽分署の調査では、宣城市全体の被災人口は73万6000人に達し、そのうち家を失った住民は約21万人、宣城県は10万8000人で、全県の人口の21%、郎渓は4万2000人で全県の人口の33%、広徳県は5万4000人で全県の人口の29%、涇県は6000人で全県の人口の3%を占めた。このうち郎渓、広徳は被害程度(被害面)が100%に達した15県のうち2県である。また宣城市全体で日本軍に虐殺された民間人は2万9122人に達した。
この他、日本軍の占領を受けなかったが、空爆などで多大な被害を受けた宣城市の他の県として、寧国、涇県、績渓、旌徳などがある。この年の後では触れる機会がないのでここに記述するが、この程度の中国側の被害は逐一個別に取り上げるのはまず困難なほど各都市で起こっており、以下ごく一部の参考例として掲げる。
【寧国】
寧国は宣城市の南側にある山間の町であり、同時に交通の要衝であり、中国守備軍が雲集していた。また寧国人民は自発的に抗日戦地奉仕団を設立し、抗日軍隊の武装物資、傷病員などの激務な軍運夫役を担った。そのため日本軍の侵攻は難しく、その代わりに重慶と同様、日本軍飛行隊は多大な爆撃を加えた。記録では1937年から1945年(昭和12-20年)の間に、日本軍は宣城、寧国及び周囲の都市と農村を計60回余り爆撃した。爆撃の主な目標は都市区、駅、道路と港で、直接の死傷者は960人余り、家屋2300室余りを損壊させた。日本機が寧国県城を初めて爆撃したのは1937年(昭和12年)11月8日で、場所は寧国駅だった。以来1945年(昭和20年)1月26日まで寧国は計約50回爆撃を受け、その主な目標は市街地、河の港湾、鉄道、橋、主要路などで、度重なる爆撃による直接的な人命被害は約620人、財産被害が約1340万元であった。道路や鉄道が破壊されたため、輸送物資はすべて人手に頼り、8年間の労働者数は、県全体で9万3600人に達した。以下は日付順の大雑把な被害記録である。
1937年(昭和12年)11月29日、広徳と寧国が爆撃を受ける。
1938年(昭和13年)2月、日本軍は安徽省南東部の宣城(当時は第9区)、寧国県(現在は宣城傘下の県級市)を侵略し始めた。
1938年(昭和13年)3月21日、日本軍は安徽省宣城市寧国城東の丘の間に鉄筋コンクリートで築かれた大きな砦が隠されているのを発見、爆撃機はここに大型爆弾を三つ投下、命中はしなかったが付近に巨大な穴を空けた。砦は外から見ればそれほどの損傷ではなかったが、中にいた人間がみな鼻と口から血を流して死んでいた。
1939年(昭和14年)7月16日、日本の爆撃機3機は寧国に爆弾10数発を投下、8名が爆死、重軽傷13人、重傷のうち4人が絶命。
1940年(昭和15年)2月18日午後二時、寧国に5機が飛来、港町一帯に爆弾6発投下。民家7棟損壊、死者10人、負傷者5人。
同年2月20日、寧国に7機が突然爆爆し、死者20余人、負傷者10余人、店舗40余間を破壊した。
1941年(昭和16年)2月21日正午、4機が寧国県河瀝渓鎮に14発の爆弾を投下、民家38軒を爆破・倒壊させ、死者2人、負傷者5人。
同年3月25日8時、6機が寧国県河瀝渓で22発の爆弾を投下し、30軒の家屋を爆破し、2人が死亡、2人が負傷した。
同年5月1日午前、30機が寧国に出動し県内各地を交互に爆撃、同時に機関銃を乱射、約3時間ほど続けた。このうち県城駐屯軍は20数人、住民は10数人が爆死。また県政府庁舎及び多数の民家が爆破された。河瀝渓の被害も甚大で、死者も多く、そのうちの一発が石橋のそばの川に落ち、船大工7人が血みどろになって即死した。
同年5月22日、30機が寧国県城を急襲、県城の西街、河瀝渓の3カ所を順に爆撃し、100発近くの爆弾を投下、住民に機銃掃射を浴びせた。3時間にわたって民家155軒を爆破し、民間人22人が死亡、重傷4人、軽傷1人であった。
1942年(昭和17年)5月22日6時25分、寧国県城門の外、甲路、周湾、塵岭脚、蜀洪などで日本機は10発の爆弾を投下し、13人が死亡、4人が負傷。
1945年(昭和20年)1月26日、8機が寧国港鎮に対して2時間にわたって爆爆を行い、焼夷弾も投下した。街中から下町まで店舗256軒を焼き、死傷者20余人、あるものは四肢が横に飛び、腹が木の枝に引っかかって、無残な姿になっていた。
【涇県】
安徽省宣城市涇県雲嶺は新四軍の軍部の所在地であり、また、涇県には国民党軍の幾つかの師団が駐屯していたため、日本軍の航空機による爆撃の重点となった。
1938年(昭和13年)11月14日午後3時、日本機は涇県城に爆弾2発を投下し、家屋11軒を爆破、2人が死亡、5人が負傷した。
同年11月19日9時、日本機は涇県城に爆弾2発を投下し、55軒の家屋を爆破し、8人が死亡、3人が負傷した。
1940年(昭和15年)2月18日午前9時、そして午後3時に相次いで7機が涇県城に爆撃を行い家屋30余間を爆破、軍民15人が死亡、負傷33人。
同年4月25日午後、日本機2機が涇県城を爆撃、県府の周囲に6発の爆弾を投下し、民家4軒を破壊、また城南に焼夷弾5発を投下して茅屋31戸を炎上させ、7人が死亡した。
同年5月、涇県は日本機による3回の空襲を受け、計6機が焼夷弾22発を含む爆弾33発を投下、111軒の家屋が破壊され、死者8人、負傷者3人となった。
同年10月6日、日本軍は涇県汀潭に攻め込み、汀潭鎮の300戸以上のうち200室以上が破壊され、放火により民家217軒が焼失した。7日、日本軍は小嶺村に侵入し、大小の紙工場数十社と南壇殿と民家138軒を焼失した。8日、日本軍はまた県城に攻め込み、多くの場所で放火した。南門外諫議第から南門口一帯の家屋、東門王氏大宗祠、左姓八甲祠、旧県役所一帯の沿街市房まで約200軒が焼失し、幕山庵忠烈祠も焼失した。日本軍の涇県に対する2回の「掃討」で71人が死亡し、15人が負傷した。
同年10月10日、39機が涇県に移転した安徽省第六督察専員公署を爆撃し、付近の家屋はすべて破壊された。大火は午前0時までに消火したが、死者12名、負傷者20名を出した。
同年11月1日8時40分、爆撃機5機が涇県震央郷に爆弾2発を投下し、家屋3軒を倒壊させ、4人を負傷させた。
1941年(昭和16年)7月11日6時30分、日本軍水上爆撃機4機は涇県西郷章渡鎮、雲嶺、董村一帯を旋回爆撃し、宗祠一基、民家一棟を爆破、死傷者は計7人になった。その後街中に2発の爆弾を投下、1つは東街に落ち、1つは北街后の稲田内に落ちて、民家5間を爆破し、女性一人が死んだ。
工業面では、涇県の小嶺は有名な宣紙の主な産地だったが、日本軍の妨害と飛行機の爆撃で大部分が生産停止を余儀なくされた。1940年(昭和15年)10月、日本軍は小嶺に侵入し、数十社の紙工場を焼失させた。宣城県、郎渓、広徳においても、1920、30年代から発展した工場の多くは閉鎖された。
【績渓・旌徳県】
上記の安徽省宣城市各県のほか、宣城市南部の山奥に位置する績渓、旌徳も被害を免れなかった。
1940年(昭和15年)7月29日8時、6機が旌徳上空から11発の爆弾を投下し、男女28名が死亡、41名が負傷し、家屋90軒余りを爆破した。また県府の背後及び付近の塔の足もとに各1発を投下し、計3人が負傷、家屋1軒が倒壊した。
同年11月5日8時15分、敵水上爆撃機8機が績渓上空に突進してきて、約40分間にわたって爆弾19発、焼夷弾2発を投下し、機銃掃射を浴びせて民家45軒を破壊、2棟を焼き、爆死25人、負傷18人を出した。
1942年(昭和17年)5月22日11時頃、日本機6機が歙県から績渓県臨渓鎮の上空に侵入し、焼夷弾2箇、爆弾5個を投下し、店房2棟を破壊、爆死3人、負傷2人。
同年6月2日10時5分、5機が歙県から績渓県の上空に侵入して盛んに爆撃して、約30分計13発を投下して、民家35間を破壊し、1人が死亡、2人が負傷。
(以上は『宣城歴史文化研究』第314期、陳虎山より)
南京戦に関わらなかった師団による蛮行
—— 南京以前・以外の都市における数々の惨劇:その三 ——
南京攻略作戦と並行して行われた師団による他都市の惨禍
第十八師団(牛島貞雄中将)は上海派遣軍の増援軍として日本国内で編成されたのち、第六師団(谷寿夫中将)・第百十四師団(末松茂治中将)とともに第十軍(司令官:柳川平助中将)に編入され、11月5日深夜から6日にかけて杭州湾(上海南側)に上陸し、上海派遣軍との戦闘に集中する中国軍の背後から攻撃する役割を担った。上海戦を経て第十軍は太湖の南側から南京を攻めて行くべく(上海派遣軍はその北側から南京へ進軍)浙江省湖州まで他師団と一体で侵攻し、第十八師団は11月25日に湖州攻略後、単独で蕪湖攻略に向かい、その途次に11月30日に安徽省宣城市広徳県を攻略、そのまま進軍して12月7日に宣城市宣城県を、そして12月10日(南京攻略の三日前)に蕪湖を攻略、そこから踵を返して浙江省杭州に向かい、再び湖州を通過して12月24日に杭州を占領するというハードな侵攻作戦を担った。しかし第十八師団は南京攻略に関わっていないこともあって、中国での戦闘は日本ではほとんど触れられていないが、第十八師団は太平洋戦争開始前から開戦に向けてマレー作戦に転じ、その後悲劇的な結末に至っているから、そちらのほうが語られる。
この理由により、以下の多くは中国側の資料を寄せ集めて構成している。つまり日本ではほぼ取り上げられない多くの被害記録が中国側には残されているということである。なお第十八師団の広徳・宣城県攻略と11月下旬の湖州ついては、既述で触れている。
蕪湖への侵攻と惨劇(第十八師団)
【海軍飛行隊の爆撃と旅客船の沈没と多大な犠牲者】
安徽省蕪湖は上海の西方、南京の南西に位置するが、海軍飛行隊が8月中旬から主に上海と首都の南京に本格的爆撃を開始、9月28日に蕪湖を初爆撃し、その後不定期ながら蕪湖を爆撃し続けた。12月4日、前日に南京の東方約140kmの常州に日本海軍の航空基地が新たに設置され、そこを拠点に南京とその100km南方の蕪湖攻撃に向けて戦闘・爆撃機計19機が出動、これは国民党軍の蕪湖方面への撤退作戦を阻止するためで、橋と運河を破壊する目的があった。続けて12月5日、日本海軍は蕪湖近郊の湾里飛行場を爆撃し、さらに蕪湖の市街地を連続爆撃、市街地、駅、埠頭で煙が立ち上り、少なくとも990名以上の死傷者を出した。
一方でこの時、重爆撃機二機が蕪湖川岸(揚子江)の太古埠頭に停泊していた武漢行き旅客船「徳和号」と「大通号」に爆弾12発を投下、このため徳和号は炎上し、大通号は多数の穴を開けられ、さらに隣に停泊していたイギリス軍砲艦にも被害が及んだ。この徳和号には六千人乗っていて、イギリス軍艦も救助に尽力したが、この惨事で死者は溺死を含め千人以上とされる。8日、英国は日本に抗議したが、日本は謝罪だけで済ませ、この後蕪湖を5日連続で爆撃した。徳和号は1978年(昭和53年)に引き上げられ、大量の人骨のほか、お金もかなり見つかったという。
さらに7日には、蕪湖に午前と午後二度に分けて各6機が爆弾30個と10数個を投弾、80数人が死傷した。この5日から蕪湖への爆撃は爆撃機延べ60機余りを駆動して五日連続で行われるが、湾里空港から駅、埠頭、商業中心地の十里長街、吉和街などの繁華街、道路がすべて廃墟と化し、民間人が多数死亡、負傷した。海軍の爆撃は陸軍の侵攻作戦を支援するというのが常套手段であり、爆撃で街を破壊して中国防衛軍が逃走した後に陸軍部隊が攻め入るという方法をとっていた。
【蕪湖占領とその後の暴虐による惨禍】
南京進撃軍とは別の作戦を展開していた陸軍第十八師団は12月10日、すなわち南京陥落の3日前、すでに大半の中国軍が敗走していた蕪湖を容易に占領した。進入途上において、第十八師団は沿道で住民を殺しては火を放ち、近くにいた者は刀で刺し、遠くの者は銃で撃ち、人が多ければ機関銃で掃射した。その後市街地で捕らえた2000人余りの軍民を川辺に追い出し、機関銃で射殺した。
イギリスの新聞社から派遣されたオーストラリア人ジャーナリストのティンパーリーは翌年3月に上海で、外国人たちの南京を含めた各地からの体験報告をまとめた著作『外国人の見た日本軍の暴行』を公表した。その中で、「日本軍は蕪湖を占領した最初の週に民間人を虐殺し、住宅を略奪・破壊した。私が中国に滞在していた20年間に経験したどんなことよりも大きな事件だった。日本軍は蕪湖市を占領した当初、城内だけで1000人余りの非武装の市民を虐殺し、僧尼さえ免れなかった」としている。本来、南京以前の日本軍の暴虐行為は既述のようにこれ以前にも多々あるが、彼が収集した記録にはまだそこまでの報告が届いていなかったように思われる。
次に、このティンパーリーの記録の中にあるもので、当時蕪湖にいた米国人牧師の手紙が写されていて、上記の客船の大惨事が記録されている。
—— 蕪湖は揚子江流域の繁華な商港で、数年来、蕪湖は我々の重要な教会の中心となっていた。12月5日の日曜日、私たちが教会で礼拝をしていた時、突然飛行機の爆音が聞こえ、すぐに恐ろしい爆発音が続いた。みんなが一斉に立ったが恐れることはないと思って礼拝を続けたが、十分ほどしてさらに猛烈な爆発音がした。外に出てみると怡和洋行の客船(徳和号)が一隻燃えていて、駅一帯から煙が上がっていた。数分後、飛行機は去ったので、運転手を探したがいなくて同僚に運転してもらい、江岸の道路に駆けつけると、負傷した民間人が続々と病院に送られていて、いたるところに死体が転がり負傷者が呻吟していた。英国艦に行ってみると、多くの爆弾が艦に命中し、艦長は軽傷だったが、水兵たちは水中に落ちた人たちの救出に忙しく、軍医は応急手当に追われていた。英国艦の一隻が客船徳和号の客を救出、太古公司の大型汽船(大通号)は被弾したが、幸いにも火事は起きず、すぐに対岸に避難した。夕方まで病院に運ばれた負傷者は100人あまりで、うち80人が入院治療が必要で、医師は30人を手術した。12月5日以降も爆撃は続き、あちこちの道には朝から晩まで避難する人々があふれ、我々の門の前を悲惨な姿が流れ去り、家族は被服を携えて、大人は子供を背負って泣き顔で列をなして歩いて行った。
(以降はまたティンパーリーの記録で、後述する南京においての外国人の奮闘する姿と同じ光景が展開される)
日本軍は、12月10日に蕪湖を占領したが、ますますその数を増し、鉄道や江岸や太古公司の埠頭などに砲兵陣地を築いた。日本兵は、逃げ遅れた少数の中国兵には凶暴にふるまい、怪しいと睨んだ民間人に対しても暴虐行為を繰り返した。対岸に向かう民間船や伝馬船を見ては機銃で乱射した。我々の病院には安全と見た難民が1400人逃れてきた。そこに日本兵がしばしば壁を乗り越えて入ってきた。占領後一週間の時点ですでに戦闘はなかったが、日本兵は民間人を虐殺し、その住宅に入り込んで略奪した上で破壊した。我々外国人も家も略奪を免れず、看守を置いていた家のみ無事だった。
我々の最も困難で主な役目は、婦女子を日本兵の陵辱行為から守ることであった。婦女子が危ないと聞けば直ちに車を走らせて救出に行き、ある日など4回も若い女性を連れて帰った。そのために他の仕事に支障が出たが、これが一番大事な仕事となった。このために仲間が自動車を提供してくれたが、これがなかったら我々の救出活動や食料などの必需品を運ぶのも困難だったろう。
私は日本軍当局や蕪湖にやってきた日本領事館になんとか接触し、日本軍の虐待行為を訴えて将校や館員にやめさせるように約束させた。しかしそれでも安全とはならず、試しに病院の使用人を外に出したところ、所持金を巻き上げられ、苦力にされてしまった。直ちに指揮官に抗議すると金と本人たちを返してきたが、病院の使用人でなかったら絶対に救出できなかったであろう。病院内の死体置き場には死体が積まれたままになっていて、使用人は外に出るのを恐れて埋葬もできず、棺桶の木材も使い切っていたのでやむ得ず病院内に大きな穴を掘り、20名の死体を埋葬した。(1937年:昭和12年12月30日、記)
一方でキリスト教アメリカ会宣教師兼蕪湖萃文中学校校長のワルトン(アイルランド系アメリカ人)の記録によれば、蕪湖の市街で殺害され、血の海の中に倒れていた死体は2500体以上にのぼるという。
さらに当時の中国人の証言である。
—— 蕪湖市郊外の方村はわずか20戸ほどの小さな村で、日本軍が侵入する前に村人は避難したが、二戸ほどが村の財産や牛を見守るために残った。13歳の孫紹詳と父親も残っていた。日本軍は村に夕方やってきて、村の空き家に泊まり込んだ。翌朝になり孫の家に現れた日本兵は、村の近くを流れる清弋川を縄を持って泳いで渡るように孫少年に命じた。川の橋は中国軍が撤退するときに爆破していた。川には五、六百人ほどの大量の死体があって、中国兵と民間人が混じっているようであった(筆者注:これは上記の「2000人余りの軍民を川辺に追い出し、機関銃で射殺した」に相応するものかもしれない)。孫少年が川を渡って縄を張ると日本兵は農家の桶を使って筏を作り、対岸の船を何隻か往復させて渡って行った。ところがその二三日後、逃走する中国軍を追って日本軍がやってきて、孫少年の家を含む八戸を焼き、牛も射殺され豚も火事で死んだ。さらに二三日後、日本兵二人がやってきて、もう一戸に残っていた許喜方を捕まえて何か言っていて、戸惑っていた許を日本兵は射殺してしまった。その後日本兵は孫親子のもとにやってきて銃剣で殺しかかり、父親が止めようと必死で拝んでいるとその父を銃の台尻で殴り、孫少年を蹴飛ばして去った。この日本兵がやってきた理由は女性探しであったらしく、そのとき運悪く村に戻ってきた14歳の少女が見つかって許の家で二人に強姦された。
—— 蕪湖市内の西花園の河岸に住んでいた食用アヒル処理を職業とする28歳の甘老三は日本軍が侵入してきたとき、川岸に突き出した床下に妻と一緒に隠れていたが日本兵に見つかり、彼らは甘を外に追いやり妻を次々と輪姦し、実に8時間ほど強姦が続けられた。日本兵が去ると甘は妻を病院に担ぎ込んだが、まもなく死んだ。
—— 蕪湖の北側、南京方向にある馬鞍山西の揚子江岸の采石磯の村に九華廟という大きな寺があった。そこには数十人の僧がいた。その隣の村にいた孫子朋(当時13歳)は夜の8時か9時ごろに九華廟の方から激しい銃声が聞こえるのを耳にし、家を出てみると寺が燃えていて大きな火勢になっていた。孫一家は家を出て防空壕用の横穴に隠れて避難し、朝になって家に戻った。そこに母の従兄弟の陶老四が現れ、彼は九華廟の使用人であったが服を泥だらけにして戻ってきた。彼の話によると、前夜日本兵2、30人ほどが寺に侵入し、そのとき僧侶たちはみんなで祈祷していた。そばには仏灯が燃えていて、この火は昼夜消さずに信徒の村人の寄進で大きな壺に油が入れられ、特別に守られたものであった。軍刀を持った日本兵がその火を指差し、何か言った。消せということのようであったが、僧侶たちは顧みずに祈り続けた。すると日本兵たちは僧侶たちを片端から軍刀で切り殺し、その後仏灯の大きな油壺に木片などを投げ込み、さらに壺を壊して火を大きくして寺を焼き尽くしてしまった。陶老四は炎が大きくなったところで地下排水溝づたいに逃げたが、寺で生き残ったのは彼一人だった。
(以上は『本多勝一集』第23巻より)
なお、この馬鞍山(安徽省の同名市ではない)の事件は地理的にみると第十八師団ではなく、同じ第十軍の国崎支隊が12月9日に通過した時の行動と思われ、この後国崎支隊は揚子江を渡り、南京の対岸浦口で、南京市内から逃避して渡ってくる敗残兵や避難民を待ち構えて虐殺している。
ここから8年間、蕪湖の人々は日本軍の「銃剣と鉄蹄の下で」苦しみ続けた。蕪湖市街、南陵県、繁昌県だけで8年間で死亡した民間人は6万4459人に達し、財産の損失は19億1313万元、このうち市街地社会の財産の直接損失は16億6594万元、間接財産の損失は1億7405万元、住民の財産被害は4億4131万元である。蕪湖の民衆が受けたさまざまな陵辱は、長期にわたって癒えなかった。さらにその占領期間、揚子江岸の臨河区の交通の便を利用して、日本軍は農民に田畑を強制的にケシの栽培に切り替えさせ、蕪湖市は大々的に麻薬(アヘン)の生産地となった。このため住民にも中毒患者が続出した。なおアヘンは満州、山西省、海南島でも日本軍は栽培政策を展開した。(中国版サイト「蕪湖共青団」小鏡只より)
江蘇省揚州の惨事(第十一師団天谷支隊)
第十一師団の天谷支隊は鎮江攻略(既述)して蛮行を重ねた後、北へ向かい揚子江を渡って12月14日(南京陥落の翌日)江蘇省揚州を攻略した。
【万福橋の虐殺】
その夜、城東5kmの位置にある長さ約400mの万福橋の両端に日本軍は陣取り主要な交通線を制御した。15日朝早から、万福村の鶏や鴨を捕り、豚や牛を殺し、逃げようとした住民は殺され、罪もない百数十人が虐殺され、四百軒以上の家が焼き払われた。なかでもひどいのは、張貴喜ら三人の通りがかりの青年が、万福橋に連れて行かれ、橋の欄干に伏して下を見るように言われ、すると日本兵はすぐうしろから彼らの両足をつかんで、いっせいに川に投げ込んだ。冬の凍てついた水の中でもがいている間に、鬼たちは橋の上に立って槍を構えて彼らを狙い、何発かの銃声が鳴り響き、鮮血が綿衣を透かして水面に広がった。鬼どもは急流にさらわれた死体を見てげらげら笑っていた。こうした例は数え上げればきりがない。
17日、まだ夜が明けないうちに、日本軍は揚州から仙女廟に向かった。出発する前に揚州城で二、三百人の青年・壮年を捕らえ、彼らに銃器・弾薬や奪った財物を運搬させ、その途中で万福村、陳全荘などで一群あわせて四百余人を捕らえた。仙女廟に着いて、日本軍は彼らに元の道から帰るように言い道標を渡した。この400人余りの民衆は道標をもらってすっかり安心した。しかし道の途中には日本軍がいるから、裏道を歩いて帰ろうという提案があった。しかし大多数の人は、日本軍が道標を発行した以上、何の事故もないだろうと思って、皆は女仙廟に沿って揚州への道を走って帰った。女仙廟を出て数百m歩いたところに汀家橋があった。その時橋のたもとには槍と刀を待つ鬼のような日本兵が一隊立っていて、みんなを二人一列に並べてまた歩いて行かせた。1kmばかり行って頭道橋に着くと、橋上の鬼兵たちが「わあわあ」とひどく騒いで道標を取り上げて粉々にした。二つ橋を渡ると万福橋になる。前に行く者は橋の真ん中で太刀を持った鬼たちに止められ、後ろの者は橋の上にどっと押しあげられた。全員が橋の上に集められた時、橋の両端に二挺の機関銃が据えられ、突然機関銃が鳴り響き、人々は何が起こったのか考える間もなく悲鳴をあげて列をなして倒れ、周辺の家に潜んでいた人々は驚いて立ち上がった。日本軍は橋の上で激しく撃ち続け、血が川に流れ、川の水が赤く染まった。さらに川に飛び込んで逃げる者に向けて前後約30分銃を撃ち、吉家荘の卞長福が一人、混乱に乗じて川に飛び込み、水の中に逃げて一命をとりとめたが、その他の400人余りの青壮年はすべて死亡した。
1995年(平成7年)8月、「抗日戦争勝利50周年を記念するため、万福閘西首に『侵華日軍万福橋大虐殺遭難同胞記念碑』が建立され、翌年江蘇省愛国主義教育基地に指定された。毎年追悼行事が行われている。
【天寧寺の惨事】
天寧寺は1600年余りの歴史がある。揚州が陥落した後、一部の中国軍負傷兵は臨時に抗戦傷兵病院にされた天寧寺の境内に残された。彼らは重傷を負い、寺内の僧たちに生活の世話をしてもらっていた。27日早く、日本軍捜索隊は天寧寺に入り、寺内に負傷兵がいることを発見し、直ちに日本軍の将校に報告した。しばらくすると重武装した三十数人の日本軍がやってきて、手には銃剣をもち、天寧寺に入るとすぐに門を閉め、裏門を塞いで、一軒一軒宿坊を捜索した。地蔵殿や観音殿を捜索すると、大部分の傷病者は布団の中に横たわっていて、抵抗する力がなかったが、日本軍はこれらの負傷兵を一人一人銃剣で刺し殺した。40数人の負傷兵はすべて殺され、日本軍は残った者たちに、死んだ者や息のあるような重傷兵を、天寧寺の防空壕に埋めさせた。
日本軍は寺内の僧や道人をも見逃さなかった。火を焚いていた小坊主の李は負傷兵をを台所に隠していたが、日本軍に松の木の下に引っぱられて的になり、頭を粉々に打ち砕かれ、そばにいた日本軍はなんと手を叩いて喜んだ。線香師の王は方丈で銃殺された。鐘を撞いた老僧悟民は日本軍に大刀で首を切断されて死んだ。弘元和尚は裏天井で喉を刺され、敷居の上に遺体となって倒れていた。線香道人老丁は大雄宝殿の西で銃で撃たれて死んだ。南禅和尚は蔵経楼から出てきたところで、日本軍に一発で撃たれて死んだ。70歳以上の線香道人陳文華さえもこの難を免れることができなくて、凶暴な日本軍によって軍刀で斬り殺された。
(『日軍侵華暴行実録』第3巻その他より構成)
湖州再侵攻と占領後の惨劇(第十八師団と百一師団)
既述のように浙江省湖州は11月下旬に第十軍(師団三つと一支隊)によって一度攻略・占領されたがその後日本軍は南京攻略に向かって行った。そして南京戦後、12月21日から24日まで、再度日本軍に侵攻されている。しかしこれに関しては日本軍側の記録は皆無といってよく、それに対して中国側では詳しい被害記録がある。それらによると第十八師団と第百一師団(上海派遣軍所属)が関わっていると記されている。第十八師団は12月10日に蕪湖攻略後、引き返して南下し、杭州攻略に向かった。そしてこの12月22日から杭州攻略を開始、杭州に近くほぼ進軍の途上にあるとはいえ湖州を再侵攻する余裕はないように思われた。もちろん師団の各連隊が分かれて関わっている可能性も大いにあるが、当時の新聞報道には師団の(野戦重砲部隊以外の)四つの連隊が一体となって杭州攻略に関わっているとされている。ただし同じ湖州でも11月下旬は南潯・呉興・長興への侵攻であり、12月下旬の侵攻は武康、徳清、安吉、孝豊鎮となっているから事実としては動かないであろう。また湖州は杭州から40-70kmの距離であり、トラック輸送も含めれば、杭州攻略戦が22日からとされていても矛盾はない。なお百一師団は南京攻略戦には関わっていず、上海戦後は上海地区の平定に当たっていたようで、百一師団としては不満があった。
『第百一師団長(伊東政喜)日誌』(中央公論新社 2007年)には12月14日に第十軍の司令として第十八師団とともに杭州攻略が命ぜられたとあり、翌日より進軍を開始している。その途次、18日に李家村で小戦闘があったこと(ちなみに李家村は検索すると湖州のかなり西方にあり、百一師団の攻略ルートとは異なる)、さらに19日にやはり第十軍の司令で第十八師団は安吉、余坑道方面から、第百一師団は(湖州の)武康、徳清方面から、第一後備兵団は嘉興、杭州道から杭州に向かい攻撃せよとの下達があったとしている(百一師団は19日に湖州付近に集結との記述もある)。つまり目標はあくまで杭州で、通過途中での中国防衛軍との戦闘は杭州攻防戦の一部とされているようである。場所などは不明であるが(上記のように当時の小さな地名は記してあっても誤字、誤認などもあって特定できない場合が多い)、23日の日誌には「加うるに部落の火災多く、兵卒の不軍紀甚だしきを痛感す」、「途中にて民家の焼けるもの多く之等は不良の輩にして甚だ遺憾に堪えざる」と記していて、師団長が配下の各連隊に対して全く統率ができていない事実を示している。実際に筆者がこの日誌をざっと読んでいても、師団長自身が各部隊の行軍に任せたまま、具体的な指揮をとっている気配がない(奪い取った宿泊施設の良し悪しなど記しているが、師団長とは結構気楽な立場と思われる)。そうした結果が以下の蛮行につながっている。
以下中国側の被害記録を混成しながら記述する。
—— 日本軍は12月21日、22日には武康(現在の徳清県武康鎮)、徳清県を侵略し、12月23日に安吉県、24日に孝豊鎮を陥落させた。わずか一カ月余りの間に(つまり11月下旬から)、湖州の各県は日本軍の鉄蹄の下に落ちた。(これらの日付には記録によりずれがある)
徳清県では続いて上海派遣軍の第百一師団が呉興から東菩渓を経て県城に侵入し、清渓発電所と近隣の住宅を放火、京杭国道沿いの三橋埠、武康県城、上柏なども焼け出され廃墟となり、さらに村民585人が虐殺された。
12月22日(上記と日付がずれるが)、日本軍の第十八師団は安吉県の領内に侵入して、放火、殺人、姦淫、略奪などの悪事を行なった。日本軍は安吉城鎮を焼却したほか、安吉全県縦横の郷村に及び、すべての民家が焼却されたが、南湖区一帯だけ、丘陵が多いため免れた。安吉が最初に陥落した期間だけでも、殺傷された住民は400人余りに達し、あるいは斬首され、あるいはバラバラにされ、あるいは生き埋めにされ、あるいは腹を切られ、あるいは釘で打ち殺され、惨憺たる有様であった。安吉県洛四房諸姓大広間では一度に民間人20人が集団虐殺された。日本軍の淫魔の手は強姦の後、ある者は木製の棒で下半身を塞がれ、ある者は腹を裂かれ、ある者は乳房を切り取られ、ある者は裸で木につながれ、ある者は輪姦されて死んだ。残虐非道な日本軍の桁外れの蛮行は禽獣にも比べられない。
統計によると、安吉県ではまず日本軍飛行機の爆撃による爆死が298人、負傷2840人、さらに占領された8年の間に(駐留日本軍の交代はあったにしろ)銃殺された者998人、連行されて行方不明は500人余り(おそらく強制労働に刈り出された)、強姦された女性270人(そのうち死亡14人、負傷45人)であった。家屋が焼かれたのは2万2850室、農機具35万2225点、食糧33万86510斤、衣服3万6387点が奪われ、耕牛786頭、豚2894匹、その他の家禽8万8811匹が奪われた。
一方で同じころ、第十八師団は再び長興県泗安鎮に侵攻し、仙山、長豊、白蓮、新豊、長平平村などで民家4767室を焼失させた。その他、虹星橋、林城、夾浦、水口、和平、胥倉橋、李家巷、太平橋などの大小の集鎮及び数多くの道路沿いの農村は、一面焦土となり、廃墟と化した。
日本軍は長興を占領した8年間で、民間人1008人を殺害、家屋3万4279室を焼き、食糧13万9100斤、家畜9万200頭、家禽55万7000匹を奪い、樹木584万株、毛竹219万本を伐採した。
抗日戦争時(つまりこの後の8年近くの間)の湖州市全体の死傷者は1万7654人(うち直接死傷者1万3778人、間接死傷者3876人)で、全市のほぼすべての郷鎮に及び、交通要路の郷村で特に多かった。日本軍によって焼かれたり略奪されたりした食糧は27万1千559斤、生活用品61万3967点、衣類103万26725点、生産道具45万74285点、家畜135万125頭、繭1136担、家禽6万3927匹、アクセサリー434点に達した。伐採や焼かれた樹木1385万6664本、孟宗竹400万2469本であり、この莫大な損失は湖州の経済と社会の発展を深刻に妨げ、あらゆる産業が疲弊し、未曽有の凋落となった。
(『日軍侵華暴行実録』第3巻と「湖州市史」、百度百科「寒剣看歴史」、その他から)
第百一師団の杭州への侵攻と占領後の蛮行
第十八師団は12月10日に蕪湖を攻略した後、反転して杭州攻略に向けて進軍、その途上で再び湖州を侵攻したのち、間髪をおかず12月22日から杭州攻略を開始、24日には杭州を陥落させた。一方、上海方面から進軍してきた第百一師団は杭州を攻め、続いて入城した。ここまでで日本軍は江蘇・浙江・安徽野三省を制圧することとなった(華北地区除く)。
そして杭州占領後わずか一週間で住民4千人余りを虐殺し、家屋3千戸余りを焼き尽くした。50−60万人いた住民の多くはよその土地に避難するなどでおよそ10数万人程度に減った。家を失って避難するあてのない難民に対しては後述する欧米人の教会や学校、奉仕団体の紅卍字会、あるいは日華仏教会などによる難民収容所が約30カ所設けられ、占領1ヶ月後には最高3万5千人が収容された。
この後も日本軍の暴虐は続き、最終的に日本軍占領下において(1945年:昭和20年まで)杭州市民の死傷者は5万5千人余りにのぼり、日本軍は杭州全体に13ヶ所の慰安所を設け、多くの女性が日本軍によって慰安所内に連行された。
【富陽県の焼き討ちと千人坑】
攻略後の12月25日、日本軍は繁華な延齢路(現・延安路)、聯橋大街及び電所一帯に放火し、火は三昼夜にわたって延焼し、多くの建物が破壊され、甚大な損害が生じた。中でも富陽県の被害は大きかった。日本軍の暴行は都市と農村に広がり、8年も蹂躙された。富陽県城では店舗や民家の90%が焼失し、計16082室が焼失し、1200人以上の住民が惨殺された。日本軍はまた、城の中心部の廟にいわゆる「慰安所」を設立し、拉致された数百人の女性は、老若を問わず日本軍に凌辱され、その後に死亡した人は9人いた。全県では日本軍に虐殺(日本機の爆弾投下による爆死を含む)が2431人、重軽傷1928人、家屋54240室が破壊され、強姦された女性の数は計り知れない。
富陽県城の宋殿村(現・受降鎮)は日本軍駐屯の主要拠点となった。兵営は村の後ろの宋法師廟(通称”宋殿”)にあって、木籠、水牢、沸騰湯鍋などの各種の刑具の施設があった。水牢は2つあって、一つは道路の下端、高さ1.5m、深さ70cmで、人間はまっすぐ立っているしかない。もう一つは、営門の前の物陰にあり、木籠は高さ4mで、地下に杭を打ち込んで作られ、周囲に針金が張られており、約10平方mの大きさだった。沸騰鍋は平らな場所に置かれ鍋の直径は1.5m。その他種々の刑具は大隊部の裏の小屋に設置されていた。この村の入り口のそばの刑場には白果(銀杏)樹があり、今でも宋殿の道路のそばにそびえ立っている。そこから50m余りしか離れていない場所の瓦窯のある山番里に千人坑があり、これは数0平方mの土坑で、この中に日本軍が虐殺した死体を投げ込んだ。占領された8年間に千人余りがここに放り込まれ、宋殿村の被害者だけでも331人であった。
例えば1940年(昭和15年)6月17日、日本軍は宋殿村陳春家に乱入して、彼を「中国兵」だと言い張って、その家族13人をすべて「千人坑」のそばに縛って、機銃掃射で殺して穴坑の中に捨てた。隣村の現・新連郷の陳一家10人は老母を除いて9人が日本軍に捕らえられて宋殿の白果(銀杏)樹の下で子供も含めて銃剣で刺し殺され、「千人坑」に投げ込まれた。1941年(昭和16年)1 月下旬、日本軍が外から連れてきた48人の難民は全員ここで殺された。一度、宋殿村の宋維銀は日本軍に食事を届けに行って、木籠を通る時、日本軍が木籠の中から18人の難民を引っ張り出し、白果樹の下で殺害したのを見た。またある時、彼は廟の背後の山のふもとで、一群の難民が針金で縛られ、日本兵に銃剣で刺されて「千人杭」に突き落されるのを見た。十月村の馬関林は日本軍に捕まった後、軍犬に噛まれて死んだ。また日本軍は宋殿村の宋玉香に土坑を掘らせ、掘り終わった後、彼に土坑の中で横になるように命じ生き埋めにした。坑西郷から捕らえられて来た唐元亮は、生き埋めにされて土が首まで埋まった時、両目が突然飛び出し、そこで日本軍は刺刀で彼の頭をナイフを突き刺すとすぐに血が上へ噴き出し、そばに立っている日本軍は手を叩いて凶悪に笑った。大庄の巴学仁は捕らえられた後、水を鼻の穴に入れられ腹が膨らむのを待って、彼の体に石板を置いて、何人かの日本軍が石板の上で跳んで苦しめて殺した上で死体を「千人坑」に投げ込んだ。1940年(昭和15年)8月、日本軍は凌家橋から捕まえて来た難民を沸騰した鍋に投げ込み、彼らは全身の皮膚が剥がれて死んだ。1938年(昭和13年)2月16日、日本軍が2度目に東塢山村の焼屋に入った時、阿年、阿潮、春才、鄭喜など11人の青壮年の村人を捕まえ、豚5頭と鶏一荷を担がせて朱墓山砲台に運ばせ、しかしこの11人の青年は宋殿の「千人坑」で全員殺害された。
【その他の村々での虐殺】
東塢山村は200世帯余りで人口600人余りだった。1937年(昭和12年)12月28日、日本軍の宋殿駐屯の一個大隊が近くの祝家村に小隊を駐屯させた。付近一帯で日本軍は人を見れば殺し、家を見れば燃やした。閑林埠頭から施家園に至るまで火は激しく燃え上がり悲鳴が絶えず、1000人以上の住民が東塢山村に逃げた。1938年(昭和13年)1月29日、日本軍は東塢山に侵入し、豚、羊、鶏、鴨を無数に掠奪し、村人を銃剣で約10km離れた双流砲台に追いやった。日本軍が東塢山村に火をつけたのは前後して三回あった。第一回は1937年(昭和12年)の大晦日の日が暮れたばかりで、各世帯は新年の夜ご飯を食べようとしていた。そこに日本軍が通りかかり、道端にあった10軒余りの家屋を焼いた。第二回は1938年(昭和13年)2月16日で、日本軍は村に入って「掃討」して、まず人を捕まえ、鶏を捕まえ、牛を引っ張り、豚を縛り、その上で家を焼き、全村の3分の1の家が焼かれた。三度目は1938年(昭和13年)3月21日で、日本軍が村に入った時、村人の多くは山に逃げていた。日本軍の得たものは多くなかったので、家屋に火をつけ残りの3分の2の750室余りの家屋が焦土と化した。
1937年(昭和12年)12月28日朝、日本軍は臨安溪口に侵入した。村民の兪阿四は日本軍が追いかけて来るのを見て、すぐ山の中に逃げたが日本軍に発見され銃で殺された。午後、日本軍は衆社嶺のふもとまで侵入し、銃で黄賢倍、黄厚仁の二人を殺した。その後峠を越えたとき、城内から金峭に帰ってきた飯焚きを銃剣で刺し殺した。次の日、日本軍は臨安県城に侵入して食糧を略奪し、退却途中に五柳橋で民1人を殺害した。2006年(平成18年)に行った臨安市の調査によると、臨安は占領を免れたが、この後8年間の間に日本軍は(占領地余杭、富陽から)臨安に18回侵入し、爆弾1697発を投下し、市民1309人を殺害、330人を負傷させ家屋9267室を焼き払った。婦女30人が凌辱され、うち4人は輪姦されて死亡した。
日本侵略軍が洋尾郷を占領した50日余りの間に、殺害された民間人は、徐子奎、徐戴氏、傅宝彩、胡文貴、何徳栄、許早春、何立英、洪冬青、謝老猿などの人だが、何人かの知らない通行人もいた。ある日、日本軍が「掃蕩」して童家橋の近くまで来た時、一人の通行人がちょうど日本軍と出会った。この人は足に力士の靴を履いていたため、「ゲリラ」と見られ、銃剣で10数回突かれて、路上で殺された。また、日本軍は水破の裏山で捕まえた徐子奎と彼の叔母の徐戴氏を洋尾埠へ連れて行き、さらに洋尾村に残っていた老人胡文貴、伝宝彩、潘春福、謝老猿などを埠頭に連れて行き、四方を囲んで彼らをロープで縛るなどして次々と川に投げこんだが、60代の老人だけがロープが緩んで助かった。
なお、占領された杭州では、翌1938年(昭和13年)の2月、杭州余杭区喬司鎮において、日本軍により1300人余りの大虐殺が行われ、家屋7000戸余りが焼かれ破壊された。
以上は杭州の郷村部で起こった出来事であるが、以下は杭州市街地で起こった出来事である。
【外国人医師たちの奮戦】
以下、第十八師団が侵攻してきた時に杭州にいた米国人医師(広済病院)が友人に当てた手紙を兼ねた報告書からの要約である。(同時期に南京で起きたことと同様なことが展開され、また上記の、蕪湖にいた米国人牧師の手紙と共通するものがある)
—— 12月19日、杭州浦南の中国軍が撤退するとの情報が入り、20日過ぎ、杭州付近の鉄橋が爆破され、省市の要職も杭州から逃避した。撤退にあたり22日午後、銭塘江の大鉄橋と最新式の発電施設も爆破され、水道施設も破壊された(注:これは侵略してくる日本軍に設備を使わせないためである)。23日には杭州は無防備の街になっていた。当時の我々は新式装備の規律ある軍隊(日本軍のこと)が統治するから、その占領下にあっても一切は平常通り円滑に行くであろうと考えていた。(筆者注:実は南京でも他の地区でも同様で、日本軍は中国軍より紳士的であろうから無茶なことはしないだろうと思われていた)
24日、日本軍はすでに抵抗勢力がいないことを確認して隊列を組まずに杭州に侵入してきた。早速日本軍は所々徘徊しては食物をあさった。連隊長が到着したのを見計らって我々は挨拶に行き協力を願った。彼は杭州の長老に糧食の徴発を命じたがすでにこの二日間に掠奪事件が発生していた。私が連隊長と話している時、日本兵が二人の平民を銃殺したとの報告があった。原因は日本兵の言葉もわからず、逃げ出したためであったという。我々はこれが単なる偶発的な事件であることを願った。クリスマスの朝は我々の希望はまだ消えていなかった。病院内で聖餐式を挙げ、亜細亜石油に勤めている英国人の患者たちと慶祝を行なった。教会でも朝から慶祝と礼拝を行った。
しかし私は教会から病院に帰る時になって初めてその希望を懐疑し始めた。街中は日本兵で溢れ、大多数は銃を肩にして歩いていた。彼らはおそらく10日以上の行軍で疲労しきった顔をしていた。病院への道を曲がったところで一人の恐ろしい顔をした兵隊が道具屋の店をこじ開けようとしていて、その前でも他の兵隊が家の中に闖入していた。掠奪行為が始まった。昨日まで我々の設立した収容所は無用かもしれないと仲間と話し合っていたが、目の前には恐怖に襲われた婦女子が収容所に殺到していた。
26日より本格的な救済工作が始まった。病院にも助けを求める婦女がやってきて、40人ばかりを恵蘭中学にある赤十字の収容所に連れて行くとすでに百人ほどの難民が門の前に押し寄せ、一杯だと看守は言う。そこで米国人宣教師クレイトン(後述)を呼ぶとすでに八百人前後を収容しているが婦女と子供に限って入れてもらうことができた。その後も数日間病院などに来る難民を収容所に連れて行った。病院は外の大門を閉ざし我々外国人が交代で看守に当たり、ハドウ医師やガーネット女史も助けてくれた。当時の状況は凄惨そのもので、母親は幾人かの子供の手を引き、あるいは抱き、あるいは着物の端につかまらせ、つまずきながら歩を運び、老婆は布団や衣服や身の回りの物を入れた風呂敷や小袋を手に持っていた。彼らが収容所まで歩いて行く間、多くの日本兵にあったが、彼女らは日本兵の顔を見ただけで怯えていた。
収容所に保護を求める婦女子は日を追うごとに増え、想像できないほどの混雑となった。弘道女学校の収容所はすでに身体を伸ばす余地もなく、それでも何人もの母子が次々と押しかけ、三階建ての宿舎は廊下や軒下、ベランダ、階段にまで溢れ、セメントの床の体操場も一分の隙もなくなった。彼女たちは一日中そこに座り、そこで食い、そこで寝た。こうした戦争が人類に与えた苦痛を見たならば誰でも戦争に反対するであろう。しかし収容所内の人たちはまだ幸運なほうであった。一日に一食だけでも大変な努力が必要だった。
我々は日常の分担を決め、スタートン院長は病院内の業務から離れ、難民救済事業に打ち込み、病院の自動車や救護者の管理をした。例えば彼は12月27日午前9時に城隍女子修道院に日本兵が闖入して婦女子を脅迫していると聞き、ちょうど日本の一将校が病院に来たので彼はその将校と一緒に救急車で現場に行きその日本兵を追い出し、女性たちを少し離れた仁愛病院に送り届けた。またその午後には天主堂教会から救助依頼が来て、日本軍の軍医と一緒に行くと、酔っ払った日本兵が主教を擲打し銃剣で脅迫していて、追い払った。そこからスタートン医師は他から燃料を運んだり別な収容所に米を届けるなどして忙しく立ち回った。(筆者注:これらは上記の蕪湖における米国人牧師の活動や南京におけるマッカラムの活動に通じる)
これに対してハドウ医師は病院の仕事に追われ、カーティス夫人は収容所から移されてきた赤ん坊の世話に忙しく、ガーネット女史は門番から離れられず、そこに看護班の学生たちが学業の傍ら救護に活躍した。
病院外での日本兵による放火も散発して脅かされることもあったが、病院内は外の混乱に対して天国と言えた。収容所の世話をしていたウッド女史は善良な日本兵と親しくしていたが、時々邪鬼となった日本兵に脅された婦女を助けることもあった。日本兵は全杭州の掠奪を行ったほか、各地で婦女子に暴行を働いた。我々の病院にも幾多の被害者がやってきた。その一人は日本兵に追いかけられ、二階から飛び降りたため背骨を折り、他の一人は大腿骨を折った。掠奪、放火、虐殺、傷害、強姦は増えても減らなかった。全杭州は恐怖の街となった。
日本の憲兵は優秀ではあったが人数が少なかった。憲兵は確かに我々外国人に対して保護に尽力した。しかし日本兵の暴力の下に呻吟していた中国民は(我々の保護以外は)何の保護も受けられなかった。我々は時々日本軍当局に抗議したが、彼らは「信じられない」として常に重視しなかった。たまたま暴力の現場にいた時には憲兵の力を借りたが。杭州のこの有り様からすれば他の都市の情況を想像するとまことに恐ろしい。
中国民の日本軍恐怖症は各地に弥漫しているが、日本軍の杭州占領前まではその暴行が色々と伝わってきても我々は中国人の友人には信ずるに足りないと答えていた。今では進んで認めるばかりか、むしろ噂の方が事実よりもその恐怖の度合いにおいてよほど割引されていると思っている。杭州を占領した日本軍は無防備都市占領を立派に完了して軍紀粛正なる軍隊としての証明を受けるべき最も良い機会を自ら放棄した。日本軍の占領以来すでに五週間になるが、どこでも日本兵が公然と掠奪を行うのを見た。日本軍当局は住民を日常の生活に戻らせることを未だに約束していない。我々外国人は多少の侮蔑を受け、我々の家に日本兵が闖入し銃剣やピストルで脅かされることもあったが、特に不幸を招く結果にはならなかった。ただし外国の国旗や領事館の布告、教会の布告などで日本兵の侵入掠奪は阻止できなかった。憲兵司令部の布告でさえ無視され、憲兵もついには日本兵の自由な出入りを禁じることを諦めた。
(『外国人の見た日本軍の暴行』ティンパーリー著より)
なお広済病院のスタートン院長が記録を残していて、12月初め、上海戦線と杭州筧橋空戦で負傷した中国軍将兵103人がそこに入院し治療受けていた。日本軍は占領後、この103人を強制連行した。その負傷捕虜たちの行方は確かではないが(いったん刑務所に入れられ、それをスタートンが治療に行ったともあるが)、現在の植物園付近の位置に当時玉泉馬嶺山刑場と呼ばれていた竪穴があり、それは日本軍が捕虜を殺害する前に掘って作った竪穴で、その中に並ぶ捕虜の「記念写真」があって、それが『今村写真帖』(日本軍の今村守之が撮ったもの)として現在松江区史志弁に所蔵され、彼らは最終的にここで殺されたのではないかとされている。
ちなみに広済病院は1941年(昭和16年)末の太平洋戦争開戦後、日本軍によって強制的に接収された。スタートンは他のイギリス人職員とともに日本軍に拘束されて(つまり開戦により米英は敵国となり敵国人は強制排除できるという理屈による)上海の海防路強制収容所に送られ、さらに北京に送られた。帰国の機会があったが、彼はそれをせず、日本が敗戦した後、香港に渡り、1970年(昭和45年)に死亡した。
【米国人学校長 —— 杭州のシンドラーの奮戦】
もう一人の米国人の話である。
杭州が陥落した時、アメリカ人のクレイトンとイギリス人のスタートンが街にいた。クレイトン(Edward H. Clayton:1889-1946:明治22-昭和21年)は上記の恵蘭中学(19世紀末に米国人創設)の元校長で、当時は校長を現地人に任せていた。スタートン(S.D.Sturton)は広済病院の院長であった。二人は学校と病院を杭州の難民たちの避難所とし、杭州が占領されている間、延べ約2万6000人の難民を救済した。のちに帰国したクレイトンは1944年(昭和19年)に回顧録を執筆し、その中で彼が目撃した日本軍の杭州での蛮行を『天国の下』(Heaven Below)という本にまとめた。クレイトンは1912年(明治45年)に中国に渡り、湖州で教育と医療を行い、1923年(大正12年)に杭州に派遣されて恵蘭中学(現・杭州第二中学)の校長を務めた。恵蘭中学は当時杭州最大の難民収容所となった。1937年から1941年(昭和12-16年)までの4年間、ここで1万人余りの女性を保護し、2000人余りの戦争孤児を食べさせた。1941年(昭和16年)末の太平洋戦争開戦により、クレイトンは敵国人となって日本軍の占領する杭州から排除され、翌年帰国することになる。
以下は『天国の下』に合わせて中国側のサイトから拾ったいくつかと、そこから入手できたクレイトンの米国の知人に宛てた手紙の内容をまとめ直して構成し、クレイトンの活動を追ったものである。
—— 杭州は開戦当初の8月半ばから日本の海軍航空隊による爆撃を受けていて、特に10月は10数日爆撃があり、そのうちの13日、「爆弾は杭州城駅の前の線路を直接破裂させ、まっすぐな線路は歪んだリボンとなり、駅のプラットホームに直径12m、深さ6mの大きな穴ができた」、そして10月15日、「6発の爆弾が投下され、一分もしないうちに駅全体が燃え、火は三時間続いた」ような状態となっていた。さらにこの二日後、「我々は恵蘭中学校の入学試験を行い、千人以上の男の子が試験を受けに来ていたが、その時に学校の頭上を戦闘機が旋回し、校庭に機関銃の弾丸が落ちた。その後も日本軍の杭州空襲は日ごとに頻繁になり、一日に一度以上、ときには6度にも及んだ。空襲に邪魔されて、同じ授業を二つの時間帯に分けなければならなかった。空襲する飛行機は少なくても3機、多くは39機、毎日一編隊の飛行機が頭上を通過し、近くのどこかで爆弾を落としていた」。これにより杭州市に机を置くことはできず、11月16日、恵蘭中学校全校が40km離れた富陽場口に移転した。それにもかかわらず、日本軍の戦闘機はこの僻地を爆撃しに来た。やむを得ず学校はそこからも移転し、最終的には上海の共同租界に移った。しかしクレイトンと数人の同僚は杭州から移らず、学校に残ることを選んだ。そして日本軍の占領から難民救助に挺身することになる。
日本軍侵攻の前に、杭州市の各界に含まれる外国僑民、宗教界、ビジネス界の関係者は杭州紅楽会と赤十字会の基礎の上に「国際救難会」を設立し、26人のメンバーを集め、之江大学学長代理のマクミュラン(R. McMullen:米国籍)が主席に選出された。広済病院のスタートン院長は事務総長を務め、クレイトンもその一人で恵蘭中学校を難民収容所の一つにした。
クレイトンは記す。「恵蘭中学に救護所を設置し、避難所として主に女性と子供を収容した。日本軍が占領する前の日からすでに300人の婦女子がいて、さらに深夜には学校の門に3、40人の婦人が押しかけて、彼女らは日本軍の先頭部隊に凌辱されたようであった。クレイトンはすでに移転していた外国人教師たちの寮からベッドを運び出すよう命じ、そのほかマットやベッドになるものや毛布をできるだけ集めて彼らに提供した。「朝から夕方まで、ほぼ一時間ごとにこのシーンが繰り返されていた。中学校にはすでに約3000人の難民が収容されている。…… 街に出ると、ほとんど毎回、女性たちが慌てて日本兵から逃れているのを目にし、多くの場所で女性が日本兵に直接引きずられるのを目にした。一晩中女性が日本兵に追われ、抵抗すれば残忍に殺される。男たちは日本軍兵士に妻と娘の返還を乞う…… 最初の一日、杭州市の各町では女性が次々と避難所を訪れ、彼女たちが語るのは殺戮と強姦の話ばかりだった。強姦された女性は11歳から78歳までいた。我々は日本軍の指揮官のところに行って、日本軍兵士の婦女暴行に抗議した。彼はおかしそうに笑って、“あなた達はどうしてこんな小さい事に関わるのですか?”と返してきた」。しかも日本軍兵士は恵蘭中学が大量に避難した女性を収容していることを知ると、毎日壁をよじ登ってきて女性を要求し、強制的に捕まえようとしたから、夜、私たち外国人が起きて対応に追われた。それでも多くの人が殺されてた。その後、泗水新村に日本軍慰安所が作られ、いくらか落ち着いてきたが、暴行が終わるわけではなかった」。
このほか日本軍の占領後の蛮行の例として、「ある将校が二匹の凶暴な警察犬を街に連れ出し、通行人に飛びつかせて楽しんでいた。咬まれた店主は一カ月入院しなければならなかった。日本の憲兵に抗議した結果、この将校の処罰は異動だけに終わった。通りでは誰でも労役を強いられ、日本軍の荷物を抱えての長旅を強いられ、路上で死んだり、目的地点で殺された者も少なくなかった。何千何万という人が、日本軍の迫害のために無残に殺された。日本軍は杭州で焼き討ちや略奪を行い、悪行は限りなく、恐怖はいたるところにあり、住民は生活を維持することができず、毎日拷問や恐喝などの状況に直面していた。飢餓が広がり、杭州の住民は野良犬や猫のほとんどを食べ尽くさざるを得なかった」とクレイトンは記している。
難民保護の次の大きな問題は食料の確保であったが、日本軍は町に入るとすぐに食料供給の統制を始めたので、最初の日は粥しか食べられなかった。しかしすぐに誰かが救いの手を差し伸べて、学校の隣の家に醬油工場があって、その主人は原料の大豆をすべて学校の難民所に提供してくれ、石炭商の一人は、暖房用の炭をこっそり運んできた。さらに難民の妻の一人が二里(約1km)離れたところに米が秘密に貯蔵されていることを知らせ、難点は日本軍の目の前でどうやって運ぶかであった。夜間の輸送は人目を避けやすいが、夜間外出禁止令が施行され、日本軍の通行証が必要だった。幸運にもクレイトンが行って通行証明書を申請すると、日本軍はあまり尋問せずに発給した。クレイトンたちは監視の門兵の目を潜りながら25人で裏門から米を運び込んだ。
さらにクレイトンはカナダ人のビジネスマンのブラウンを上海に派遣し、国際救援機関に援助を申請した。ブラウンが飛び立った11日目に、上海のラジオ局からクレイトンに呼びかけているのを聞いた。「杭州を呼んでください。Mr.クレイトンに聞いてほしい。今日の午後、中国キリスト教協進会はあなたの口座に500元を預けました。国際ロータリークラブは1500元を入金しました。米国赤十字社は12000元です!」、「同時に、在上海アメリカ領事館が日本当局に正式に交渉を申し入れました」。こうして難民収容所はようやく軌道に乗った。
当初、クレイトンは壮年の男性を受け入れるかどうか迷っていた。(南京で起きたように)日本軍が男性たちの正体が兵士である可能性を理由に避難所に押し入ってくるのではないかと恐れていた。…… ある夜、私たちは近くの家に住んでいた男の悲鳴で目を覚ました。行ってみると銃剣が彼の身体に突き刺さっていて、まもなく息を引き取った。翌朝、私たちはその隣人が私たちが妻と娘を保護したために日本軍によって殺されたことを理解した。
クレイトンはついに門戸を開いて難民男性を受け入れ、その人数は一万人に達した。1940年(昭和15年)秋には二千人人以上の難民が残っていて、クレイトンは近くの農村で綿花を仕入れて自分たちで紡いで生計を立てていくことにしたが、日本軍は綿花も戦略統制物品に入れて許可しなかった。そこでクレイトンは思い切って危険を犯し、密輸に頼った。日本軍は表面的には厳しく統制していたが、実際には都市全体で密輸が横行し、その結果クレイトンは冬着の布地である綿2170着をさまざまなルートから密輸することに成功した。
日本軍の残酷な統治が続く中で、難民だけでなく、多くの市民が食べられなくなった。そこでクレイトンは学校の体育館を炊き出し食堂とし、毎日800人の昼食を無料で提供した。そこには戦前は何不自由なく暮らしていた人たちも訪れていた。実は最初から難民所の中には両親や家族が死亡したりした戦争孤児がいて、ある人は街から彼らを「拾って」来、ある人は警察が送って来て、更には日本兵が彼らを連れて来ていた。1939年(昭和14年)にはクレイトン夫妻がアメリカに帰国して資金集めをすると、この事業は大規模に展開され、総勢250名の孤児学生を収容し、彼らに寝食を提供したほか、午前には文化を、午後には技能教育を実施した。
日本軍は恵蘭中学校に収容されていたこの250人の孤児を追放するよう要求したが、クレイトンは日本軍憲兵に抗議し、孤児を守った。また彼はあらゆる手を尽くして孤児たちの世話をし、そのうちの210人を家に帰したり、店で働かせたりして、少なくとも食べるものに困らないようにした。数千の家庭は飢えと寒さの中で学校の入り口で震えて小麦の支援を待っていた。クレイトンは、自分が日本軍に監視されている状況をあまり気にせずにいたが、「この二週間、この家では朝から晩まで私たちはどこに行っても一緒に四人の日本人に付けられ、一人は私に、一人は妻に、一人はコックにつき、四人目の日本人は客の世話までした」という有様であった。
恵蘭学校は杭州最大の児童福祉センターとなり、生徒数は1000人を超え、通学する生徒は学校で食事や医療を担当した。栄養失調を防ぐために、クレイトンは上海で日本産の肝油を購入し、グレーテン夫人はそのうちの貧弱な子供250人を選んで服用させた。夫婦を驚かせたのは、子どもたちが日本のものだと言って拒否したことだった。これはアメリカから来た魚だと言われて、子どもたちは安心した。さらにクレイトンが感動したのは、一部の子供たちが肉食を省き、母親に食べさせると言っているのを見たことだ。ある時、彼はある家庭で一人の母親が四人の子供を連れているのを見た。一番大きいのは三歳で、しかも6kgしかない。彼は最も弱くて最も助けを必要とする赤ん坊を見落としていた。彼は帰って妻とすぐ豆乳工房を始めた。毎朝、近所から150人の母親が赤ん坊を連れてきて、おなかいっぱい食べた後、豆乳の入った一本の瓶を持っていくようになった。
クレイトンは赤十字社を通じてアメリカ政府から毎月3千−5千袋の小麦粉を援助され、申請と視察を通じて、必要とする杭州市民に再配布した。ある時食糧配給が終わった後、教会の後ろで一人の少女が泣いているのを見つけた。どうして泣いているのかと聞くと、彼女はすすり泣きながら、「一週間前、母は運河に飛び込んで自殺した。私たち三人の子供のために、それ以上の食べ物を見つけることができなかったから」という。「父が病気でお金が稼げなくて、今朝も運河に跳びこむって言ってた。教会で米を分けていると聞いて、米を少しでも分けてくれれば、パパは自殺しなかったのにと、ポケットを持って、必死で走ってきた。でも着いた時にはもう米は分けられていなかった」。「歓楽」という名前のこの11歳の少女は、その後、夜は家に泊まり、家庭の世話をし、昼は恵蘭学校で食事と授業を受けた。クレイトンは、周辺の住民数百人が腸チフスで死亡したが、学校や避難所では一度も発生しておらず、周辺住民たちは恵蘭を「子供の天国」と呼んでいると誇っている。
クレイトンは、最終的に彼が子供たちに作った天国を守ることができなかった。1941年(昭和16年)末の日本軍の真珠湾攻撃の後、軍は強制的に恵蘭のすべての物資の備蓄を徴収して、彼自身の身も危なくなった(上記スタートン院長に対する同じ理由)。半年間の監視を経て、クレイトン夫妻は上海から本国に送還された。クレイトンは二度と中国に戻ることはできず、1944年(昭和19年)に回想録を本にした後、1946年(昭和21年)にアメリカで病死した。このクレイトンの『天国の下』(Heaven Below)は、アメリカで埋もれたままになっていて、2015年(平成28年)、米国を訪問した杭州第二中学の1986年(昭和61年)度卒業生の葉鐘、謝蘇楊氏夫妻がオリジナルの「Heaven Below」を購入し、母校に送った。これを受けて2017年(平成29年)、学校はこの本の翻訳作業を開始した。数十人の青年教師からなる翻訳チームにより、約二年半かけて2018年(平成30年)、『人間世』のタイトルで本が完成、浙江古籍出版社から出版された。現在の第二中学校には難民収容所跡地として記念碑が建てられている。
(以上は具体的に銭江晩報の『人間世』に関する概説と新華社杭州版の概説と『天国の下』に関するテンセント・ニュース:騰訊新聞の概説より混成)
筆者私見:彼らはクレイトンを「杭州のシンドラー」と呼ぶが、実は杭州の状況の十倍以上の規模で、その10日ほど前に占領された南京においても欧米人が難民救済に立ち上がって安全区を作り、「国際安全区委員会」を結成してその委員長となって「南京のシンドラー」と呼ばれたドイツ人のラーベという人物がいる。ただこの二人ともシンドラーよりも救った難民の数はずっと多く、比較される対象ではないとも思われる。また「国際安全区委員会」の構成員の中にミニー・ヴォートリンというキリスト教女学校の米国人教師がいて、主導的に特に難民女性の救済に全精力を傾けて活動している。それについてはこの後、彼女の日記を中心としてラーベその他外国人たちの日記も織り交ぜながら取り上げ、この時期の南京の空の下で起きたことを詳述する。
ちなみに杭州と南京の違いは、その規模だけでなく、杭州においては中国軍がすでに撤退していて、捕虜に対する虐殺という人道上の大きな問題は、多少の例外を除いて(おそらく上記広済病院から強制連行された負傷兵103人以外に)ほとんどなかったことである。その意味において、つまり杭州における罪のない住民に対する虐殺という問題のほうが根は深い。そもそも戦争というものは殺し合いを前提とした無法状態の下に入るということであり、その中では人を殺しても何の罪に問われることはなく、そのために人をさらに異常な精神状態に追い込んでしまい、人道的な思考力など戦場では邪魔でしかなく、何をしたとしてもその後にそれが表に出されることは決してない。だから捕虜どころか民間人に対する(大量)虐殺は戦場ではどこでも普通に発生していて、その意味では戦争自体を止むを得ず起こりうるものとし、その戦争を前提とした中で戦争犯罪を区別して規定する国際法は、筆者には基本的に違和感がある。戦争をするということ自体が目の前に敵方として現れた人を殺すことが前提となっているのであって、戦争犯罪を深く内包し、裏表の関係になっているからである。
それにしても欧米人のキリスト教精神を根底とする救済活動はなんと力強いものであることか。この後の太平洋戦争において日本を徹底的に叩きながら、戦後すぐに日本への最大の援助国になるアメリカの救済活動も同様であるが(その両極の対比が興味深いが)、それに比して日本軍が、自身が占領して生じさせた難民に対する救済活動を禁止するとは、なんと浅はかな軍隊を持つ国であるのだろう。事実、後に詳しく紹介する南京におけるヴォートリンの必死な救済活動に対し日本軍は次々と立ち塞がり、最後にはヴォートリンの心を壊し、自殺へと追い込んだ。こうした日本軍の側面が、中国(だけではないが)における自身の残虐行為が戦後しばらく経って次々と明らかになっても、認めようとせず、しかもそれを「反日」活動と決めつける輩を今に至るまで生じさせる流れにつながっていく。
仏教にはキリスト教の愛と同様な慈悲という言葉があるが、日本における仏教は明治以来ほぼ形式的なものになっている影響が大きいのかどうか、筆者の知見の及ぶところではないが、本来、人に対して普通に何の偏見を持たずに社会の中に生きていれば、慈悲は自然に生じる心であろう。それは単に自分が人にされたくないことを人にはしない、人が困ったり苦しい立場になっていれば少しでも支えになろうとする同じ人間としての心を持つだけのことである。そうした他者を思いやる心を現今の日本の社会がどこかで押しとどめている、あるいは日本の社会の根底に歪みがあってそうさせていると考えるしかないのかもしれない。まず何よりも大事なのは、自分たちが過去に犯した罪と向き合うことである。ただし日本人の場合、個々の篤志家が海外に出向いて困窮した地域の救済活動を行う例は多い。そしてまた、かつての日本軍が犯罪を行った海外の地に出向いてその調査活動を地道に行い、それに並行して国に代わって謝罪を行う人も少なくはない。ある意味そうした名もない人々によって、今の日本はなんとか信用を保っていると言えなくはない。
次元は違うが、人間一人ひとり、その人生のどこかで人を傷つけたりという過ちは誰にでもある。それは一つの国の歴史の中でも同じであろう。自分だけは清廉潔白と断言できる人などいるのかどうか、ましてや戦争を引き起こした自国の軍隊は皇軍として聖戦を行ったのであり、虐殺などの行為に及ぶことなどありえないと考える人は、そもそも自分一人の清濁併せ持った心を正直に見つめることのできない人に違いない。自分に信じるものがない人が、そのような仮想の観念を自分の支えにしているのではないのか。
もとよりイギリスは特に19世紀より大英帝国として植民地拡大政策を取り、戦争を仕掛けることの多かった国であり、欧州各国も負けじとそれに続き、植民地として征服した住民に対する虐待を行い、イギリスから独立して大国となったアメリカも続いた。その一方で欧米諸国はキリスト教を植民地に布教し、自軍によって虐待された現地住民を精神的に救おうとする矛盾した活動を行ってきた。その役割は主にキリスト教を主体とした民間の組織やキリスト教精神で慈善活動を志す人々が担ってきた。そうした中で中国の各地にも欧米人によるキリスト教の布教活動や教育活動が行われていて、そこに遅ればせに大日本帝国として領地拡大を目指す日本軍が侵攻して行き、住民に対する暴虐行為に及び、その被害者を救うために欧米人たちが立ち上がったという図式が上記に掲げる事例である。当時の日本が掲げた大東亜共栄圏構想というのは満州事変という侵略行為が先にあっての後付けにすぎない。ましてやアジアの平和のための戦争であるということはあり得ないし欺瞞的言葉であろう。
南京攻略へ
トラウトマン(和平)工作の頓挫
第二次上海事変から南京攻略に至る日本軍の攻勢が始まる以前の1937年(昭和12年)10月1日、首相の近衛文麿は主な大臣と相談して、中国側に提示する「和平の条件」(内容は、中国が満州国を承認する/日本は華北における国民政府の行政権を認める/華北の一部と上海周辺に非武装地帯を設定する/中国は抗日政策を解消する、など)を策定し、10月27日、広田弘毅外相は第三国による日中両国の和平への橋渡しを受諾する用意があることを表明した。そこで駐日ドイツ大使が駐中国ドイツ大使トラウトマンに伝え、トラウトマンは11月6日に日本の条件を伝えた。蔣介石は最初は和平提案を拒絶したものの、日本軍が南京へと迫りつつある中で、もし日本側が中国の領土保全を約束するなら、和平を受け入れてもいいと12月2日にトラウトマンに回答した。しかし日本側では南京攻略を目前にした状況で、ここまで多くの犠牲者を出した以上、安易な妥協はできないとして国民政府の受諾案を拒否し、逆に「十月に策定したような和平条件では軍や国民が納得しない」と考えて、賠償金の要求や日本軍部隊の駐留範囲の拡大など、中国側が受け入れるはずもない強硬な要求を上乗せした。その十倍以上に及ぶ中国人の犠牲のことなど、考慮に入れるはずもなかった。南京陥落後の12月26日、トラウトマンは日本講和四条件を孔祥煕(財政部長)に送った。この四条は、「一)中国政府は反日、反満政策を放棄する、二)必要な地域に非軍事区と特殊政権を樹立する、三)日、満、中と経済協力協定を締結する、四)中国は日本の賠償金に対応する」とあり、蒋介石は今は降伏をしなければ平和がなく、抗戦を捨てれば生存がないと表明し、応じることはなかった。
ともあれ日本の軍政府は首都を失った中国の降伏を認めてやるという「譲歩」の姿勢をとったが、国共合作をしていた中国政府は降伏する様子を見せなかった。それに対して「誠意がない」、「敗者としての言辞無礼なり」とした近衛内閣は、この際徹底的に敵を壊滅させたほうがよいとし、翌年の1月中旬になって改めてドイツの仲介する中国との和平交渉打ち切りの声明を発表した。声明の中で近衛は「暴支膺懲」を貫徹することを決め、「国民政府を対手(相手)とせず」と宣言し、同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発し、国民政府側も許世英駐日大使の本国召還を決定した。これにより両国間の外交関係は断絶、日本政府は国民政府との話し合いを自ら放棄し、戦争終結の手がかりを自ら失なうことになった。いずれにしろすでに日本国内では下記のようにマスメディアを巻き込んだ戦争推進への大きなうねりが起こっていて、今さら「軍や国民が納得しない」状況下で、政府も抗い難く、戦争拡大に邁進するほかなかった。しかも軍政府はまだ中国を簡単に屈服できるとあなどっていたのだが、日本軍はここから出口を失い、戦争の泥沼にはまりこんでいく。
ちなみに、近衛首相は上述のように(皇族系のお人好しな面もあって)周囲の意見に乗せられやすく、そのため客観的な分析力に乏しく、このような人物がこの時期に首相であったことは日本にとって不幸であったと思われるが、この後の太平洋戦争開戦前にも復帰して首相を務め、世界情勢が煮詰まった中で、打開策を持ち得ないまま東條英機に引き継ぎ、東條は米国との開戦に日本を導いた。
筆者私見:日本はヒトラーのような独裁者を持たなかったが、一見民主的な合議制の中で、結果的にはヒトラーと同様な侵略戦争に突き進んだ。これはこの時代独特の(ヒトラーという象徴を生み出したような)世界を汚染していた他民族廃絶のような一種の伝染病的な空気のようなものがあって、日本の軍と政府の指導者たちもそれに侵されて、その空気に乗って強い発言をするものたちが戦争への流れを作ったとしか思えない。この流れの中では文民(シビリアン)政治家は無力というより、むしろ軍人たちよりも好戦的な発言をする。近衛の「暴支膺懲」発言がそのいい例である。その意味でもシビリアンコントロール(文民統制)は幻想であると筆者は断言する。近年にあっては、アメリカのブッシュ大統領(二世)が、イラクは国連決議違反の大量破壊兵器を所持するという虚偽の理由を盾にして、イラクに戦争を仕掛けたのも、文民政治家が戦争を導いたいい例である。
ただ見方によっては、当時の日本にとっては昭和天皇という存在が、独裁者ヒトラーの代わりのように、それこそ象徴として軍政府に利用されてきたということは言えるだろう。現に、ドイツ軍は「ヒトラー万歳!」と言って戦場に行き、日本軍は「天皇陛下万歳!」と言って戦場に散った。ただ、ヒトラーは自らそれを望んでいたが、昭和天皇はそんなことはまったく望んでいなかった。
南京占領までの海軍航空隊による先陣爆撃
ウィルソン医師の日記より
南京の大学病院に勤務していたロバート・ウィルソン医師(外科医)の日記の中の南京空爆中のものである。
10月12日:56回目の空襲で日本軍機が4機撃墜されるが、 市内南部の住宅密集地にも爆弾が投下される。現在、大学病院に50人の負傷兵が収容されている。上海戦から送られてきた負傷兵の中に毒ガス・イペリット(皮膚をただれさせ、目や呼吸器官も冒される)の負傷者を初めて見る。
19日:未明に70回目の空襲があり、昼食時には長江の埠頭とその対岸の浦口が爆撃され、約20人の死者と同数の負傷者が出る。これは上記の避難民に対するものである。下関にあるジョン・マギーのアメリカ聖公会は、 負傷者を収容して臨時の治療をおこなう。
26日:午後に80回目の空襲。市内の飛行場に多量の爆弾が投下され、まるで月面のクレーターのようだ。上海戦域から一日に千人規模で護送されてくる負傷兵の問題が深刻化、大学病院では4、50人の負傷兵を収容、治療するのが精一杯となる。
28日:二ヶ月前に爆撃された中央大学の建物を利用して 赤十字病院が開設された。図書館の閲覧室や体育館にベットが並べられて病室に早変わり、1200人の傷病兵が収容されていた。 同病院は急増する負傷兵のために四千のベットを準備中である。
こうして12月の南京陥落の日まで日本軍による南京への空爆は渡洋爆撃の8月14日からまる4ヶ月にわたって続いた。医師ウィルソンの日記には12月9日までに115回の南京空襲が記録されている。ただしウィルソンは12月9日で記録をやめてしまったが、実際には南京陥落前日の12日まで続いていて、おなじく空襲を記録していた金陵神学院のヒューバート・ソーン牧師の日記帳には120回を超える日本軍機の襲来が記されている。
海軍航空本部の大西大佐は11月15日の国内の講演において、南京空襲の「戦果」として、延べ600機で空襲回数36回、投下爆弾は300トンとしているが、実際にはもっと多いものとなっている(これとは別に12月13日の南京占領までの空襲回数は50数回、延べ機数900機、投下爆弾は数百トンに及んでいるとの記述もあるが、50数回というのは一日単位ということかもしれない。受ける側の記録としては1日数回というのが何度もあったのである)。その後も南京に続いて翌年から国民党が首都を移転した重慶への爆撃も5年近く218回に渡って行われた。
(以上は主に『南京難民区の百日』笠原十九司)
南京初爆撃から占領までの主な爆撃記録
これ以外に筆者の作成した『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』から適当にピックアップしたものを列記する。(南京事件のことはあれやこれやと取り上げられるが、空爆に関してはほとんど触れられないのは何故なのか、識者には猛省していただきたい)
- 8月15日、南京への初爆撃。これは主として飛行場が目標であったが、上記「海軍の渡洋爆撃」参照。
- 8月16日、早朝から午後にかけて二度爆撃。
- 8月22日、夜間、7度目の爆撃。
- 8月26日、渡洋爆撃で南京を夜明け前の1:30、2:30、4:00の三回攻撃し、九度目の爆撃となった。日本側の記録では「憲兵団、兵工廠などを爆撃して数カ所に火災を起こした」としているが、実際には南京中央大学、中央大学付属高等学校、革命遺族学校及び志成病院を爆撃した。
- 8月27日、南京の貧民街が爆撃され、約100人が死亡、そのうち50人が焼夷弾による焼死であった。
- 8月29日、首都南京に大使館を持つ米英独仏伊の五カ国代表は8月26日の南京への爆撃に対し、明らかに自分たち外国人と現地住民を含めた無差別爆撃であるから即刻中止するようにとの要求を駐日アメリカ大使館を通して日本政府に提出した。宣戦布告をしていない相手国の首都への爆撃は、その目的を外れて教育施設や財産の無差別の破壊、民間人の死傷、生活の破壊につながっているとした。しかしこれに関して、日本政府は具体的な回答をしていない。
- 8月30日、15日から8回目の爆撃。
- 9月19日、海軍航空隊は設置した上海公大飛行場から朝の8時に45機からなる第一次南京空爆部隊を出撃させた。南京上空で中国軍機数十機と交戦となり、中国軍機25機以上を撃墜させ、日本軍機の喪失は4機であった。そこでまだ中国軍機が10機以上残っていると見て、午後に第二次空爆として32機が出撃、中国機を7機撃墜、日本機の被害はなく、日本軍は南京での制空権をほぼ手に入れたとする。
付記:なおこの日、主要五カ国の停止要求に答えず、海軍の第三艦隊司令長官は、「わが海軍航空隊は9月21日正午、南京市および付近における支那軍と軍事行動作戦に関わる一切の施設に対し、爆弾その他の加害手段を加えることがある」から「自発的に安全地域に避難の措置をとられんことを強調せざるを得ず」との通告文を発しながら、その21日ではなく19日の朝から空爆部隊を出撃させている。よく陸軍の暴発のことが語られるが、海軍の横暴はそれに負けず劣らずである。 - 9月19−25日、連日で25日の第11次爆撃まで延べ291機が出撃し、投下爆弾は355個、中国軍機40数機を撃墜、日本側の損失は10数機、戦死者は18名であった。この間、飛行場や数々の政府機関、軍の基地、砲台等を破壊し、この後の南京への空爆はほぼ自由になった。
またこの25日一日だけで第9次から第11次まで、午前11時から午後5時過ぎまで4回(午前9時30分から午後4時30分にかけて5回との記述もある)、94機(もしくは96機)が出撃し、合計約500個の爆弾が投下された。それは、市街、産業設備、鉄道、橋などを攻撃対象とし、飛行場、政府の建物、中央大学、中央病院、国立衛生署と付属中央看護学校、放送局、中央通信社、鉄道駅、水道局、 電力発電所、さらには新街口の人口密集地域(軍事施設は一つもない)を爆撃する無差別爆撃であった。南京城内の住宅地にも150kg爆弾を投下し、市民の死者数百人(事後の調査では約600人とされた)、 負傷者は数千人という大被害をもたらした。この中では長江の埠頭の下関の難民収容所(戦場の上海から鉄道で逃れてきた避難民)にも爆弾が投下され100名以上の死者がでた。 しかも国立中央病院は屋上に大きな赤十字マークと「中央病院」と漢字で書かれていて、約20個の爆弾が投下され、職員数名が死傷、病院の施設は使用不能になったが、その入院患者の中に、その前の空爆で撃墜されて救出された日本人飛行士もいた。爆弾20個とは明らかに誤爆ではない。またこの時にフランス領事館の100m近くに250kg爆弾4個が投下され、大穴が開いたと領事館の報告にある。(10月2日付、チャイナ・ウィークリー・レビュー紙:『南京大虐殺資料集・第2巻』洞富雄編より) ちなみに250kg爆弾とはこの時期では大型爆弾と言え、その大穴は20m前後と推測され、その範囲に居た人間は形を残さない。この7年後に米軍が日本本土に対し多用した爆弾の大きさは主に250kgと500kgであって、すでに日本軍はと驚くものがある。 - 10月6日、南京に近い江蘇省の揚州・鎮江を爆撃。鎮江は南京の東の都市で、上海から南京へ陸軍が進軍する途上にあり、その支援作戦である。
- 10月12日、南京を40数機が3回に分けて56回目の爆撃をしたが、4機が中国軍に撃墜された。この日、南京の米国人医師(ウィルソン)が毒ガス・イペリットによる負傷者を初めて見たと日記に記す。
- 10月19日、南京で午前2時15分から4時20分、そして5時に70回目の空爆がある。 昼食時にも大きな空襲があり、長江の埠頭と対岸の浦口駅が爆撃され、 約20人の死者と同数の負傷者が出る。下関にあるアメリカ聖公会が負傷者を収容して臨時の治療を行なった。 市内の飛行場付近に20発以上の爆弾が投下され、数人ずつの負傷が出た。(『南京難民区の百日―虐殺を見た外国人』より)
- 10月26日、午後、南京で80回目の空爆。
- 11月24日、南京を20機が爆撃、中央市場やフランス・カトリック宣教団施設、また混雑した街路に爆弾が落とされ、約40人が爆死した。
- 11月29日、海軍航空隊は南京の隣の溧水に中国軍総司令部があるという情報を得て、戦闘機・爆撃機36機を出撃させ爆撃、ちょうど昼時だったこともあって多くの火災が発生し、往来に逃げ出した住民の群れにさらに爆弾が落とされ、その上低空による機銃掃射が加えられ、1200人が犠牲となった。その中でもある家の裏庭に作った防空壕に爆弾が命中し、一度に100人が亡くなった。家の被害は数千戸という。これはこの年の中で一番大きな犠牲者数であろう。
- 12月2日、南京を3度爆撃、中国軍機30数機と空中戦となり、日本は13機を撃墜、(そして日本側の記録にはないが)日本機は4機が撃墜された。
- 12月3日、111機が南京を2度爆撃し、対空放射で2機が撃墜された。
- 12月4日、南京とその南方の安徽省蕪湖を爆撃。戦闘・爆撃機計19機が出動、国民党軍の蕪湖方面への撤退を阻止するために、前線の基地である宣城を反復爆撃、さらに橋と運河を破壊する目的で南京の高淳の県城と東項の町の大通りに集中的に爆弾が投下され、投弾80発以上により死体が沿道に散乱、血の海となり中心街の家屋700軒以上が破壊炎上し、住民100余人が死亡した。この他南京の故宮飛行場を爆撃、格納庫を炎上させ、さらに南京城の南門を爆撃。
- 12月5日、南京の明朝故宮が爆撃された。その時、ある一家の母親と娘が即死、父親は赤ん坊を抱いていたが、その子の頭部は吹き飛ばされていた。(こうした光景は後に米軍による日本本土爆撃で再現されることになる)
- 12月7日、陸海軍の航空隊が協力して南京を空爆、海軍としては115回目の爆撃であった。
- 12月8日、南京城内の中国軍陣地、市街地を爆撃。
- 12月9日、陸海軍の航空隊が協力して南京を襲撃、中華門等の城壁・城門を250kg爆弾で爆撃して破壊した。
- 12月10日、南京の紫金山砲台を爆撃。(陸軍の南京総攻撃開始)
- 12月11日、陸海軍の航空隊が協力して南京を空爆、富貴山砲台や鎮江対岸の都天廟要塞を爆撃。
- 12月12日、続けて南京総攻撃を支援して陸海軍の航空隊が協力して爆撃、城内の中国軍部隊や長山砲台、長江(揚子江)対岸の浦口関の陣地などを爆撃したが、この時、長江上に停泊していたアメリカの砲艦パナイ号を撃沈させた(下記参照)。
パナイ号爆撃事件
12月12日午後、南京の揚子江上流約20kmに停泊していたアメリカの砲艦パナイ号とパナイ号が護衛していた商船三隻を日本の海軍機が攻撃し、パナイ号は沈没した。パナイ号にはアメリカ軍将兵、大使館員やジャーナリスト、商社員、イタリア人など74人が乗船していたが、パナイ号の3人と商船の1人が死亡、重軽傷48人となっている。アメリカ側は猛烈に抗議したが、当時、揚子江は南京から脱出する中国人が外国船を借用したり、外国船を偽装したりしており、海軍はそれらと誤認して攻撃したと主張したが、「上空から見えるように国籍を表示していたし、日本機は爆撃後(低空による)機銃掃射も行っており(しかも負傷者を乗せて艦から岸へ行く途中のポートめがけて機銃掃射したともあるから見境がない攻撃と言える)明確な攻撃の意図があった」とアメリカは反論した。
この爆撃に関しては、陸軍から「南京方面の支那兵が船舶により上流方面に逃走しつつあり」 それらに対する攻撃を海軍航空隊に要請していた事実があり、さらに中国軍は外国旗を掲揚して偽装しているという情報もあったというから、国旗が見えていたとしても偽装とみなして爆撃したことはありうる。またこの日の午前中には別途、同じ揚子江上流で南京南方の蕪湖付近に係留されていた英砲艦レディバード他2隻及び商船一隻に対し、二日前に蕪湖を占領したばかりの陸軍第十八師団の砲兵隊が砲撃し、死傷2名を生じさせていて、これも船舶を見れば敗残兵が乗っていると勝手にみなした攻撃であろう。結局、日本海軍は第二連合航空隊司令官を更迭するなどで米国に謝罪し、また政府として賠償金を支払うことで決着をみた。
なお笠原十九司の『日中戦争全史:上』によると以下のようになる。この時パナイ号に直接爆弾を命中させたのはこの航空隊を指揮していた村田重治大尉であり、その航空隊を発進させた常州の基地にいて現場処理に当たったのが源田実中佐であった。源田は9月19日からの南京空襲作戦に参加していた。また村田はこの事件により謹慎処分を受けたが、翌1938年(昭和13年)には分隊長の立場で漢口大空襲作戦に功績を挙げて勲章を授与され、その翌年も海南島空爆隊の指揮官として活躍した。そして1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾奇襲攻撃に際し、計画を任されていた源田は空母赤城の臨時飛行隊長として村田を指名し、村田は思惑通りの戦果を挙げた。つまりそれほどに有能な村田はパナイ号を誤爆したのではないという見方ができるとしている。
ちなみにこの事件について、日本政府は東京の女学校生徒を使って、米国大使館に謝罪に行かせたという事実がある。この時期は日本は皇軍による正義の戦争「聖戦」を行なっているという教育が徹底してなされていたから、女子生徒たちも真剣に受け取って行動したのである。その一週間前に以下の事件が起こっているとは知る由もなかった。
【パナイ号よりも甚大な事件:客船「徳和号」爆撃よる千人以上の死者】
この7日前の12月5日、南京の約100km南方、蕪湖の市街地を連続爆撃し、990名以上の死傷者を出した上に、さらに重爆撃機二機が蕪湖川岸(揚子江)の太古埠頭に停泊していた旅客船「徳和号」と「大通号」に爆弾12発を投下、このため徳和は炎上し、大通号は多数の穴を開けられ(幸いに火事が起きず対岸に避難した)、さらに隣に停泊していたイギリス軍砲艦にも被害が及んだ。この徳和には武漢を目指した避難民(お金のない庶民は乗っていないが)六千人(三千人との説も)が乗っていて、この惨事で死者が約千人とされている。 死者は徳和・大通を合わせての説もあるが、現場を目撃した当時14歳の周永松によると徳和号のみの話となっている。またこの周の話では、船は出航したばかりで岸壁から200mほどの場所で激しく燃え、岸壁にいた人も木材を川に投げ込んで船から飛び込んだ人を救おうとしたが(英国艦も徳和号の客を救出した)、およそ7時間ほどして船は沈没した。周によれば犠牲者は少なくとも二千人としているが、状況的には二千人が正しいかも知れない(この周の話は『本多勝一集:第23巻』より)。
いずれにしろこの大きな犠牲者を生じた事件が日本で取り上げられることはまずなく、今もってパナイ号のみが政治的な事件として常に一つのタイトルをもって取り上げられる。それに対してどうしてこちらの千人以上の犠牲者が無視されるのか、これは戦争というものを歴史家などが政争的な観点から描く場合が多く、戦争の被害者の立場になって描くことが少ないという証左に他ならない。筆者は別途、『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』を日中の資料を精査して作成している過程で、最初にこの徳和号事件を拾い出したが、そうでなければ知り得なかった事実である。なおこの徳和号事件は後述する蕪湖の項でも取り上げている。
南京攻略までの兵士たちの私記・日記より
南京侵攻作戦時の準備不足と通達の内容
中支那方面軍(上海派遣軍と第十軍)は上海戦から撤退してゆく中国軍への追撃殲滅戦という名目的戦法で南京攻略に転じていく。その場合、一旦そのための物資・食料の補給を図るのが通常であるが、松井司令官を筆頭にして進軍を焦り、この後方部隊(食料や弾薬等の兵站部隊)が用意されるのを断わり、「兵馬の給養は現地物資で充たす方針(現地食糧徴発=略奪)」として、主に三つのルートに師団を分けておよそ300kmに渡る進軍を開始する。その間、上海派遣軍と第十軍とが先陣争いをしながらその途上において、多くの部隊によって一般住民への略奪・放火・暴行が行われた。こうして約20万の大集団で「徴発」という名の略奪をしていく日本の軍隊を、中国民衆は「蝗軍」と呼んだ。 つまり皇軍と蝗軍の発音が同じに発音であって、そのため中国民衆は天皇の軍隊-皇軍を蝗軍と書き、 大量に襲来し、去った後に農作物を何も残さないイナゴのような軍隊と恐れたのであった。 そして農作物だけでなく村人の生活の糧である牛や豚、鶏などの家畜まで奪い去り、女性は強姦され、スパイとみなされた男性は殺され、さらにその後に村を焼き払うなどして方々の中国住民に膨大な被害を生んだ。
後述する第十三師団が山田栴二支隊を編成する際、萩洲立兵師団長、畑俊六参謀長を招いて9月21日に団隊長会議が開かれた時の畑参謀長口演で、「捕虜:現地処理を本則とす」としている。このように捕虜の現地処分は早いうちに暗黙の了解となっていた。また既述のように第十軍田辺盛武参謀長は杭洲湾上陸に際して、 「支那住民に対する注意」を各部隊に与え、「上海方面の戦場に於ては、一般の支那住民は老人、女、子供といえども間諜をつとめ、…… まことに油断なり難き実例多きをもって特に注意を必要とす。…… かくのごとき行為を認めし場合においては、 いささかも仮借することなく断固たる処置をとるべし」と事前に通達している。それに加えて「現地物資の利用を徹底的にせられたし」とあって、既にして住民に対する虐殺、略奪を奨励しているかのような内容となっている。何よりも食糧を後方から補給する余裕もないということ、したがって敵軍捕虜も養う余裕などさらさらないからその地で「処理」するしかないということである。
一兵士の私記より
当時の兵士側の士気として、少なくとも上海派遣軍は上海戦が終わればこの戦争は区切りがつき、国に帰れるという認識があり、そのまま南京戦に転じるということは、進軍直前まで知らされていなかった。その間の兵士達の心情の変遷とそこからくる自身の犯罪を曽根一夫(第三師団歩兵34連隊:静岡部隊)は以下のように記している。
—— (日本の権益擁護、日本人居留民保護の目的があった)上海戦では取り上げるほどの非行はなかったのに、同じ将兵が南京攻略戦では後世に残るまでの残虐事件をおこした。上海戦に区切りがつくと下級将兵は、これで生きて内地に帰れると喜んだ。その上、「政府内では事変不拡大を基本方針として、政治家、穏健派軍人が早期収拾に勤めているから、間もなく事変は解決する」と将兵の有識者が論評したから内地帰還は決定的となった(ように思えた)。妻子のある召集兵たちは「順調にいけば年内に帰還、そうなると来年の正月はコタツの中で子供を膝に乗せて母ちゃんのお酌でのんびりとやれる」と喜んだ。
(筆者注:実際に政府の方針はその通りであったが、中国内の松井司令官および参謀達が国内の軍政府の思惑を無視し、強引に南京攻略に転じたのである。少なくとも満州事変から、遠くはシベリア出兵から日本軍は現地でなぜか常にこのような先走った行動に出る。これがこの戦争の泥沼化と、そのまま太平洋戦争まで繋がっていくとは誰にも思いもよらなかったであろう)
しかし11月下旬になると、「上海派遣軍は近々のうちに新たなる作戦行動をおこす」と内示を受けた。そのころから兵隊はめっきりと荒れだした。その作戦行動が始まると何パーセントかが生命を失い傷つくのは必定である。戦況次第ではそれが何十パーセントになるかわからない。兵隊たちは「どうして上海派遣軍が南京くんだりまで行くのか /やっと女房子供の許に帰してくれると思ったのに、また危ない橋を渡らせるのか /お偉方は兵隊の生命を虫ケラほどにも思っとらん。まるで消耗品だ。白木の箱に入らんことには内地へ帰れんのか」等とこぼした。
それからは毎日のように徴発に出歩き、徴発したチャン酎を飲んで騒いだ。兵隊は一様に荒れ模様だったが、特に目についたのはN一等兵だった。彼は中隊内で最年長兵で妻と子供五人を残して応召した気の毒な境遇であった。内地帰還の風評で勢いづいたところが裏目に出て見るも気の毒なくらいしょげ込み、そこから急に人が変わったように派手に暴れ始め、これからは「仕放題をしてやる」と毒づいた。これは大小ほかの兵隊も同じだった。この荒れ模様に煽りをかけたのが「徴発自活命令」だった。「徴発」は敵の糧を利用する日本軍の戦法であった。住民が備蓄している穀物、家畜は長い冬を越す命の糧であった。作戦戦闘の間の戦闘部隊はそれを買い取る金銭を持っていなかった。そもそも兵站部隊ははるか後方にあり、追いついてこなかった。最初のうちは徴発によい気はしなかったが、回を重ねるにつれ罪の意識がなくなった。しかし途中から(部隊によっては)徴発が禁じられ、それによって証拠を隠滅するために殺消するという残酷なことが始まった。
私はこれまでの戦闘で幾人かの人を殺してきたが、民衆に刃を向けたことがなかったし、それだけはせずに来た。そんな人間が南京の近く、句蓉、溧水あたりで民間人を殺消することになった。…… ちょうど自分の隊は第一線から予備隊に転じていて、時間を余していた時に分隊員たちが徴発の誘いに来た。しかし戦線が狭まり戦況が膠着していたからどこに行っても日本兵ばかりで行く先々の集落は徴発し尽くして鶏一羽見つからなかった。なおも先に行き、小さな無人の集落で鶏を数羽やっと手に入れた。帰ろうとした時外れの畑中の窪地に若い男女が二人身を伏せていた。二人は見つかると畑土で土下座し、見逃してくれというように見えた。よく見ると女性は20代半ばで美しく、男は30前後で気品のある若夫婦であった。兵隊たちの眼が妖しく輝きだした。そこで夫と見える男は芝居っ気たっぷりとわざとらしい泣き声で哀願した。なぜか私は無性に腹が立ってきた。「やってしまおうか」と分隊員たちに誘いかけた。(後で反省してみるに、分隊員の手前、このままでは収まらないし、わざと悪ぶって見せようとしたことあろうし、美しい女性を見逃すのが惜しかったのも確かで、それらがごっちゃになっていた)
いつにない私の態度に分隊員は一瞬怪訝な表情をしたが、誰も異論は唱えなかった。…… 事を済ませてから多くの男に輪姦されてクタクタに弱った女性を見て急に可哀想になり後悔の念が湧いた。そこに分隊員たちが「始末をどうつけるか、情をかけるとこっちがとんでもないことになるぞ」と、最近憲兵が入り込んで厳しくなっていることを念頭に言った。このままにはしておけないとの気分が分隊全員の意思となった。しかし私は自分で手を下す勇気も指示することもできず、一人の上等兵が指示して二人を立木に縛り付けて始末にかかった。私は見るのが怖くて顔を伏せ目を閉じた。「やあー、!とうー!」の気合が聞こえ、「ギャー、ゲー!」と絶叫がした。どす赤い血がほとばしっていたのが見えた。私は卑怯にも「俺のせいじゃあない。戦争のせいだ」と心の中で弁解してその場から逃げ出した。
(『私記 南京虐殺』彩流社 1984年)
これは著者の曽根が70歳近くになって書いたものであるが、曽根のようにここまで具体的に自分の犯罪を記したものはそう多くない(後述する東史郎ですらその日記に肝心の数日の出来事を書いていない)。とりわけ「殺人」のことは話しても「強姦」のことをそのまま語る人あるいは語れる人は少ない。なぜかといえば、殺人はそれが捕虜に対するものであっても大きくは戦争の流れの中のことと済ませるが、強姦は私的欲情からくるもので書きづらく話しづらいのである。
さらに曽根はこの7年後、『戦史にない戦争の話』(恒友出版 1991年)を上梓し、内容は一転して客観的な記述となり、同じ戦争仲間と連絡を取り合い、曽根のように実名で証言する勇気など個人的に持てない仲間たちから聞き出した本当にあったこと、その本音を含めた直接的な話を散りばめて(言わば男の仲間内でしかできない話)、筆者も読んでいて目を背けることがしばしばあった。これは『戦史にない』というタイトルそのままの内容であり、お勧めの本である。
第十六師団兵士の南京侵攻途上の日記・証言
以下改めて、南京へ進軍していく途中の第十六師団=京都師団の兵士たちの南京陥落直前の12月12-13日までの日記の抜書から掲げる。(『南京事件・京都師団関係資料集』青木書店:1989年より)
【北山与(あとう)】第十六師団福知山第20連隊第3機関銃中隊弾薬小隊分隊長
筆者注:この隊は先遣隊の進軍した後を追って行った様子であるが、主として進軍先の部隊の後方支援=弾薬の準備と食事の支度や設営に関っていて戦闘の前線には立たない。
9月14日 — 塘沽(天津)沖に停泊、愈々上陸だ。沢山の船がどちらを向いても一杯だ。
9月16日 — (天津の)日本租界へ来る。巨大な建物が並んでいる。天津国防婦人会の人々が茶菓を接待してくださる。戦友たちも大喜びである。…… 愈々明日はあの砲声のする方へ向かって出発だろう。
9月19日 — 午前二時半出発の強行軍。…… 夜が明けてみると道辺にゴロゴロと敵兵の死体が転がっている。戦場の物凄さを感じる。
9月20日 — 終日強行軍。輜重(しちょう=物資や弾薬を運ぶ)部隊が泥にまみれて薄汚れた顔をして次々と引き上げてくる。 …… 戦の後も村は物凄い火に包まれている。村では女子供の泣き叫ぶ声が哀れである。腕や首のない你公(中国人男性)の死骸がそこら中に転がっている。鶏がいたので初めて「かしわ」料理をやる。…… 支那人は一人残さず殺してしまえとの命令である。十二中隊が二十人程你公を今河原で殺しているというのでみんな面白そうに見に行く。。嫌なことである。日本の兵隊の中にもなかなか残忍なのがいる。殺すのもよい。だが一思いに殺してやるのが日本の武士道であり軍人の情けではないだろうか。帰って話す戦友の話を聞きつつそう思う(注:ここに、一応捕虜の取り扱いに関する国際法が日本軍の中には全く教育されていないことがわかる)。不寝番に着くが、飢えた野良犬が幾匹もやってきてバリバリと近くの死骸を食べていた。
9月21日 — 戦死者を焼いているから見に行こうと誘われるままに行く。3尺ほど掘り下げた穴に付近の民家から集めたらしい家の扉や柱など敷き詰め、その上に(戦友の)死体が四つ並べてある。尊い犠牲者(筆者注:「敵側」の命を同様に尊いと思わないのが戦場の感覚である)、焼けていく死骸に思わず一同敬礼をする。明日は愈々大城(河北省廊坊市大城県の城=市街)攻撃である。
9月22日 — 大城攻撃でまず連隊砲が打ち込まれ、次に機関銃隊が進む。敵の反撃があり、一時前進を中止、第九中隊を城内に残して退却する。その後大城内へ友軍の重爆機が爆撃、しかしそれによって第九中隊が全滅した。
9月29日 — 大城県姚馬渡で徴発班長として兵十名と町を廻る。豚五頭、砂糖十斤、マッチ、ローソク、酒、菓子、豊富な収穫に皆が喜んでくれるだろう。
10月11日 — 子牙河(河北省)を渡って左岸に出る。郊外に飛行場があって物凄い爆音を立てて次々に離陸している。長い橋が落とされて支那の自動車が50台余り放ってある。道辺に你公の死体、馬の死骸がゴロゴロ転がっている。
10月13日 — 豊かな村に入ると(手書きの)日の丸を戸ごとに出し、道々酒、茶、梨なぞを出して歓迎してくれる(注:これは当時の中国住民に多く見られた自衛手段である)。次々に通るだろう戦友達、手荒なことはしてくれるなよ。(注:しかし部隊によっては虐待行為に走り住民は犠牲となった)
10月16日 — (マラリアに罹り)病人というので特別寝台に寝る。点呼の際、小隊長から「徴発強姦一切の不徳行為絶対罷り成らぬ」との命令が達せられる。
11月7日 — 昼前石家荘(河北省)の町が見え出す。太原(山西省省都)陥落のアドバルーンがよく晴れた青空に高く上がっている。高射砲の兵隊が「もう帰還ですよ!」と言っている。仲間も大喜び。(筆者注:この時点ではまだ一般兵は南京攻略のことを知らされていないことがわかるが、この三日後に満州奉天に着いた時、新聞の張り出しを見ると、「我有力部隊 杭州敵前上陸」と書いてあり、内地帰還説が吹っ飛んだ)
11月20日 — 徴発に行くと台湾軍(植民地の日本軍として召集された)が負傷して大勢船で帰ってくる。大分激戦をやっているらしい
11月23日 — 皆んな徴発に行って誰もいない。今日もまた、台湾軍の負傷者が船で50隻ほど下った。徴発隊が鶏を百羽近く持ち帰る。
11月29日 — 船に弾薬と材料を全部搭載する。 …… 町中(常熟)、火災を起こしている。前線から負傷者が十数名下ってくる。百姓屋に入り茶を飲む。城壁の外は你公の死体が幾十となく転がっている。戦友たちが惨酷なことをした話をしている。敵国の人間でも余りなことは可哀そうだ。そんな話なんか聞くのも嫌である。
11月30日 — 7時出発。道辺に捨てられた支那兵が自動車、戦車、車両に轢かれて潰れているのは、死人に馴れた目でも惨たらしく思える。午後4時宿舎につく。小隊長が地図を落とされたので拾いに行くとどの家も你公が殺されている。爆撃の音がガラス戸にビリビリと響いて物凄い。
12月1日 — 誰が火をつけたのか、昨日の宿舎が黒々と煙を出している。もったいないことをするものだと思う。三機五機友軍の爆撃機が西へ飛んでいく。棒切れでこしらえた墓標が道辺に次々並んで立っている。
12月2日 — 昨夜来、焼け続けていた火事が今朝方から烈風にあおられてもう宿舎に迫っている。…… どの村もこの町もみんな朦々と黒煙を吐いている。農家の軒に積まれた稲が火をつけられてほとんど灰になっている。たとえ敵国のものとはいえ、一年間粒々辛苦して収穫した農民の気持ちになると可哀想である。質の悪い分子が少しでも我々の戦友の中にいることは悲しいことである。
12月3日 — 今日は敵兵の死体も少ない。誰がつけたか昨晩の宿舎が燃えている。武進(江蘇省常州市)に着く。途中毛布工場があり毛布を次から次へ部隊皆んなが徴発する。
12月5日 — 昼食の時、8歳から12歳までの子供三人がやって来た。聞くと両親は日本軍に使役として連行され、毎日(連行された)河辺まで会えないかと来ているらしい。家はどうしたと聞くと日本の飛行機の爆撃で壊されたという。これからこの子らはどうして暮らして行くのだろう。どんな運命が待っているのか、恐ろしいことだ。
(筆者注:北山は6年前の満州事変の時に応召してしばらくいたので中国語ができた。この時、郷里にいる自分の子供のことも思い合せ、分隊の昼食を子供達に分けた。翌々年の戦闘時、逃げ遅れた三人の子連れの婦人を日本軍兵士の暴虐から助けたこともあるという。ただし北山は「多くの兵は似たような経験を持っている。少年や老人を助けたとか …… けど、全部戦争の中の話で、美談で侵略戦争の惨さを隠すことはできない」と語っている:下里正樹『続・隠された連隊史』から)
12月7日 — 昨晩の宿舎、また誰かが火をつけたらしい。戦車が幾十台となく前進していき、物凄い轟音で圧倒される。晩になって宿営しようと思うが、どの村も家が一軒も余っていない(先遣隊に燃やされたためである)。野営となるが焚き火をして暖をとる。
12月8日 — 日は暮れるが宿舎はなし。各部隊とも南京へと競い合って大変な混雑である。いよいよ食べる米がなくなってしまった。
12月9日 — 今日も戦車隊、自動車隊、衛生隊と自分たちが道一杯になって前進だ。…… 前線から戦傷患者が担架に乗せてもらって後送されて来る。日が暮れるが一人の兵も容れる家がない。逃げ残った敗残兵が薄闇の中を山へ逃げて行くのが見える。敵兵の死体益々多し。(この後戦闘の日が続く)
12月10日 — 午後愈々第一線である。砲声銃声が鼓膜を破らんばかりである。爆音を響かせながら活躍する友軍の飛行機に敵の高射砲が一斉に向けられている。…… 目の前で射撃陣地が爆煙に包まれている。砲兵は一個分隊全滅。
12月11日 — 朝早く目がさめる。服が霜で真っ白である。…… 弾薬補充に行く。途中野砲が人馬諸共全滅、辺り一面血の海である。…… 敵の弾丸は益々きつくなる。一つ弾が当たれば立派な戦死だ。「陛下の御為め」そんな考えが湧く。出征の時の人々の歓呼の声が耳元でする。子供達の「万歳!万歳!」の声が思い出される。
12月12日 — 朝から使役兵を使って戦死者を焼く。穴を掘り付近の民家から薪を集め、その上に死骸を並べる。嫌な気持ちである。その間も砲弾はドンドン落ちてくる。牛を一頭殺し、戦銃隊へ送ってやる。
(13日以降は南京占領後の欄に記載、以下同じ)
【東史郎】第十六師団第20連隊第3中隊上等兵
9月21日 — 60歳を越えたとおもわれる爺が二人連れてこられて来た。通訳が色々と尋問した。誰かが蹴っては殴った。…… ある下士が軍刀を抜き、…… (一人を)斬った。一回目は駄目で二回目は完全に殺した。他の爺はブルブル震えながら地面に伏せた。…… ピストルが鳴った。
10月1−2日 — 朝、献県城(河北省滄州市)の石畳を踏んだ。…… 城外で早々と宿営と聞いて疲労も眠気も忘れて食料探しに飛び歩き、まず甘藷を掘り出し、次の部落で豚を射殺した。甘藷、豚油の天ぷら、焼き豚、岩塩でもんだ手製の漬物、こうしたものを滅茶苦茶にぎゅうぎゅうと腹のなかに詰め込んだ。翌日も同様に豚を殺し甘藷を掘り我が身を満たした。…… 午後七時突如出発命令が下った。…… 工兵隊が用意した船で河を移動した。夜が明けて朝霧の中に見た衡水(河北省)の眺めは絶景で、素晴らしく美しいものであった。そこに大発艇に備えられた歩兵砲が火を吐き城壁に炸裂した。驚愕した住民達が即製の日の丸の旗を振りながら城壁の上へずらりと並んで恭順の意を表した。
10月3日 — (前進を待っている間、食事の支度となって)近くを通った住民に金を持たせて砂糖を買いにやらせたが、ほんの僅かしか持って帰らなかったので、その店に一緒に談判に行った。ところがその店はすでに多くの兵隊達が商品を引っかき廻して略奪していた。店の者達は呆然と隅に立って悲痛な面持ちであった。もう談判の必要を思わず、「戦勝国側の権利だ」と、私も何から奪おうと飢えた狼のように見廻した。…… 私が持ち切れぬほど沢山の物品を抱えて出ようとすると大隊本部の経理部の下士官がやって来て、「誰が許可して持ち出すのかア」と怒鳴られた。私はぐずぐずし過ぎていた。僅かな金を渡そうとしたが、店員は腹立ち紛れにそれを突き返してきた。河原には分隊の戦友達がサンタクロースの私を待っていた。あちこちにも他の戦友達が持ち帰った略奪品の処分に大童の歓声をあげている。食べきることができないことはわかっていて、それでも我々は反吐つく程腹に詰めてみたかったのだ。…… 帯革とバンドを緩めて腹を揺すぶり、我々はこう言った。「略奪ではない、徴発だ。戦勝兵当然の必要な徴発だ」。徴発という言葉を使うと罪悪を感じないのだ。(筆者注:東はその時前線の部隊に属し、進軍中はあまり物も食べられない様子が記してあって、上記の後方支援の北山のほうが活動に余裕があり徴発も含めた糧食に恵まれて、途中で髭を剃るときに太ってきたと記しているほどである)
10月4日 — 団子に徴発のジャムをつけて食い、煙草を吸い、絶佳な風景を讃えたり、さながら遊覧船にでも乗っているような気分で、夕刻新河の手前のとある所に到着した。そこには敵の糧秣倉庫があり、倉庫番であろう敵兵が二名昼寝をしていた。一人は巨漢であり一人は学生軍のような若い青年であった。通訳が調べ、二人共相当な額の紙幣を所持していた。兵隊達は煙草の火を彼等の顔ににじくりつけたり帯剣で傷つけたりしたが梅原少尉が軍刀で袈裟がけに一人を斬ったが軍刀が曲がって絶命させるには至らなかった。この少尉は殺人に非常な興味を持っていたようで、今日までにも無辜の土民を試し斬りだと言っては斬り殺した。他の一人は通訳が拳銃で射殺した。糧秣倉庫には米と菓子があり、菓子はとてもうまいものであった。(筆者注:このように人を殺した後に食べ物をうまそうに口にする様子は戦場ならではである。人間はどんな状況の中でも慣れてしまうという一例である)
10月11日 — 昼前に小さな部落にいる敵と交戦し簡単に退散させた。この部落には住民がうち震えながら家々の隅にちぢこまっていた。(中島)師団長は女、子供に至るまで殺してしまえと言ってるという。我々は片端から住民をつまみ出してきた。連隊長大野大佐はその住民を殺せと命令した。敵のいた部落であるがゆえに住民は抗日に燃えているものと断定されたのだ。広場に30数名の住民が集められた。彼らは完全に観念していた。…… ヤア、という突刺しの気合いと、血潮を噴き出すうめきと断末魔の低い地獄の悲鳴とが交錯した。突き刺された住民達の目玉が鋭く光って地獄図絵を現出した。…… 一人の老人と子供が連れてこられた。子供は刺し殺された彼の一族の痛烈な呻きを聞き、惨酷な血を見て恐怖におののいた。老人はおろおろと子供を守るように、身代わりになるように、ひしとかき抱いた。…… ヤア、鋭い気合いと共に子供と老人は倒れた。おおなんたることだ!老人は言い知れぬ表情で最愛の孫の胸から溢れ出る血をすすっているではないか!子どもの命を老人の命の中に生かそうとするが如くに。ヤア、老人が刺された。…… 30数名の死骸が無惨に重なっている。人間屠殺工業!我らは忠実なる職工だ。
(筆者注:この後多少の戦闘があったが、東の中隊は小心な指揮官のせいもあって、予備隊として扱われ、前線のやや後方での進軍が続き、歩くばかりの日々であった。戦争とは歩くことなりとの皮肉が書かれている。しかし常に先を急がされているので「徴発」する時間もあまりなく食事もままならない。14日、
10月15日 — ぜんざいの町を出発、雨が降ってきた。雨と泥濘、それは兵隊の空腹のように親密で仲良しだ。明けても暮れても歩くばかりである。誰も彼も長い空腹と食べ過ぎで胃腸を壊していた。かくも食料品の欠乏を来すものとは思っていなかった。後方部隊はあり余る糧食があり、火線のある兵隊には常に空腹がある。直継は血便を出しながら歩いている。空腹と下痢と疲労、それは肉体をミイラにする。彼は言う。「俺がもし生きて帰ったら言いたいことがある。戦場では負傷する者だけが病人ではない。戦場の不潔と不規則と最大の無理の中では内臓を壊すのも当然だ。しかるに薬さえくれない。無茶というより他はない」。(注:別記するように、上海戦後のこの進軍の辛苦は、ついでに南京を占領してしまおうという方面軍の予定外の行動によるもので、兵站部隊の用意を待たずに無理に動いた結果である)
11月6日 — 貨車の中に落ち着いた我々は、さてこの汽車に何日乗るのか、果たして何処に行くのか、北満か上海かに多大の興味をかけて語り合った。…… 今度の戦は北支事変と呼ばれ、上海に向かってもそこで終わりと思われた。(筆者注:つまり兵士たちには何も知らされず、将棋盤の駒に過ぎない状態である。本人のこの後の感想である。 —— 昭和16年3月の現在に至っても南京、漢口、広東等々の重要地域の大部を占領してもまだ戦争が終わらず続行されようとは当時夢想もできなかった。北支事変の名称は今や日支事変となり足掛け五年に及んでまだ終わりを告げない)隆平県城で砂糖などを手に入れぜんざいを作り、腹いっぱいに詰め込んだ)
11月7日 — 漸く汽車は四時半ごろ発車した。牧歌的な平和な大陸の風景が展開していく。…… 平和と幸福そのものだ。戦争とは遠い国のものであり、かつて民族同士が血を流して戦った痕跡だに見受けられない。なぜにこの地上には絶対的に偉大な平和が到来しないかと思われる。
(この後列車は奉天経由大連に行き、大連から船に乗る)
11月13日 — 午後四時、6千トン級の新興丸に乗船する。船は深夜になって出航、我々の話題は次はどこへ上陸するのか、山東省か、杭州だろうかで持ちきりであった。
11月15日 — 船は揚子江に入った。両岸が見えないその広大さに驚く。兵隊が満載された軍用戦ばかりが目につく。
11月17−18日 — 朝、水上輸送隊の工兵船で上陸(注:場所は滸浦鎮で、上記北山が二日後に同地に上陸)。この部落は家屋がほとんど破壊され、住民は誰もいない。進軍に際して中隊から50余人残留する(後方勤務)ことになり私もその中に入ったが二日遅れで追陣することになった。…… 私は今度の戦こそ命はないものと思い込み、父母に手紙を出した。
11月22日 — 火線へ急追したが道は泥濘だった。砲兵が泥を蹴飛ばし呻吟していた。「泥まみれになって一日中かかって漸く50米の前進だ」。これでは南京攻略には間に合わないだろう。…… 夕暮れて小さな部落で露営した。住民は逃げて一人もいなかったが、何石という籾が綺麗に掃き清められた庭の所々にうず高く積まれていた。善良な農民たちの辛苦の米である。彼らはその労苦を金に変えることもできずに逃げまわらねばならなかったのだ。
11月23日 — 道路は全く泥濘で歩行困難であった。むくれた敵兵の死体がアン餅のように泥にまみれて目をむいている。その上を次々に輜重兵が踏み、輜重車が轢いて通る。…… 上流から五、六艘の屋形船が負傷者を乗せて下っていた。その後も続々と下ってくる。
11月24日 — 常熟に向かって(注:北山と牧原も書いている街)出発。常熟は立派な町であったが、至る所の壁に抗日宣伝文が貼られている。私たちは北支と違って中支は徹底した抗日思想を持っているから如何なる者も殺すべし、略奪は思いのまま行うべしと言い合った。すでにあらゆる商店が荒らされていた。
11月25日 — 火線に近いところで幾人かの戦友や小隊長が戦死したことを聞かされた。とりわけ小隊長は、他の者が死んでも俺は絶対に死なないと口癖のように言っていた。…… そうだ、私達は彼等の仇を討たねばならない。私達は身震いして奮起した。
ある部落に入っていくと女子供が慄き震えていた。ある農家では女ばかり七人隅っこに小さくなっていた。男達はすでに縛られて死を待っている(すぐに銃剣で突かれて血を吹いて死んだ)。17、8歳の娘は顔に墨を塗りその母や祖母の背後に縮こまっていた。私は安心しろと言おうとしたが言葉がわからず笑顔で示した。そして彼女達に籾を持って来させて米をつかせた。そこに梅原少尉が入ってきて、女性達を見回して顔を黒くしている娘を見ると、「この野郎、何のために殊更汚くしているんだ」と言い、出て行きがけに「この部落民も隣村のように皆殺しにするんだ。隣村では三歳の童児も殺した。明日は全部息の根を止める」と言い捨てて出て行った。何のために女子供を殺すのか。乳飲み子を抱き震える女達を殺して何の得があるのだ。…… 敵国の兵に憎悪を感じるのは自然の情だ。…… 私は彼女達を逃がしてやろう。私は手帳に「汝等逃十二時」と書いて見せたが理解できなかったようだ。あれこれ動作も使っていると、自分たちが明日殺される運命にあると知り、裏口に連れて行き、腕時計で十二時を示すと地面に坐し、三拝九拝して感謝の意を表した。…… 私は二升ばかりの米を持って分隊に帰った。宿舎前の広場には三名の支那人が血を吹いて死んでいた。数分前に殺したのだという。……その後、先ほどの彼女達を見に行ったが十二時が待ちきれず一人もいなかった。安心したような気持ちで第二分隊の宿舎の前を通ると中から淫らな騒がしい声がしたので入ってみると例の逃げろと言った娘がおどおどして座っていて、六人が焚き火を囲んで酒を飲んでいた。四方伍長が「東さん、酒はあるし、姑娘(クーニャン)はいるし、サイコサイコ(セックスのこと)ホウホウデーですわ」と言いつつ杯を空けた。「どこで捕まえたのだ?」と聞くと、「さっき裏の方へ逃げようとしたやつを捕まえた。このまま殺すには惜しいから思う存分満足させてから殺そうと思っている」と答えてニヤニヤ笑っている。「思う存分満足させるって?」 — 「この姑娘にだよ」。それから次々と娘を奥の闇に連れて行った。
11月26−27日 — 午前八時、麦わらのように部落を焼き捨てて出発した。南京へ通じる大通りは車輌と馬と人が前線へ前線へと流れていた。…… やがて汗と泥にまみれ、喜びと安息に輝いている夥しい兵隊達にあった。無錫への攻撃を終え体制を整え、入城するのだという。ここで漸く中隊に合流することができた。
無錫は大きな町だった。宿舎に着く
と私達は早速徴発に出かけた。倉庫にはメリケン粉が沢山あり、商店には兵隊が黒山になっていた。砂糖、果実、缶詰が豊富にあった。まっ先にぜんざいを作って腹一杯胸一杯に詰め込んだ。中隊長は徴発について喧しく叱った。米以外の食料の徴発(今回のメリケン粉や砂糖)は罪悪であるのだ。しかも中隊長は「他の小隊や分隊はうどんやぜんざいなどご馳走をしている。わが指揮班の兵は怠けているのか」というのだった。…… 我々は仇討ちでもするように食いまくって胸苦しい思いをして寝た。
11月28日 — 我々は背嚢を食料で一杯にし、人力車にも出来るだけ積んで出発した。火災があちこちで起こっていた。老婆が腹わたを絞るようにして慟哭し、恨み呪っていた。彼女の涙も声も私達には鳥が鳴いたほどにも気にかかるものではなかった。
12月2日 — 正午過ぎ丹陽(江蘇省鎮江市)付近に到着した。私の分隊は戦列に加わった。梅原少尉は(久しぶりの第一線で)張り切っていた。「前進!攻撃!」。少尉は先頭に立ち気負い立って考えもなく高い姿勢をし、誠に勇敢に立ち働いた。しかし敵の弾は容赦せず、少尉の腹をえぐり、即座にぶっ倒れた。…… 激しい銃撃戦の上、敵陣は退散した。
(ここで中国側の記録を挿入する:この時期、日本軍が駐屯した丹陽での暴虐行為の例 である—— 既述の丹陽とは別件)
*12月1日、日本軍は丹陽の皇塘鎮に到着した。その結果、皇塘鎮で焼かれた建物は平屋356軒、複層の建物で21棟。このうち店舗は31軒、平屋124軒、建物で7棟;一寺院の中の9戸;公家祠堂(儒家が先祖や先賢を祀る場所)の荊大宗祠、元五公、十三公、啓佑祠の4棟で平屋134部屋、複層建物11棟で正面の大広間の5間を除いて全焼した。荊大宗祠だけで平屋97軒、複層建物で11棟、その数は民家35軒、平屋89軒、複層建物3棟。太平山から青墩までの道路沿いの村では、平屋202軒、草葺161軒が焼かれた。日本軍によって56人が殺された閘頭村は、26軒の家屋はすべて焼かれて灰になり、干し草の山も一つも残されていなかった。
*1937年(昭和12年)12月2日から16日までの15日間、(丹陽)県城に駐屯していた日本軍は絶えず横塘地区を破壊した。胡家橋、有甲村で焼かれた家屋百40数軒、大尹甲、黄連荘、蘇巷で焼かれた家屋103軒、殺されたのは51人。最も悲惨なのは中官村の胡裕生、胡書錦、胡栄生が縛り付けられ、生きたまま火の中に押し込められ焼死したことだ。大尹甲の厳明東、尹瑞林、尹明中、尹知など九人は丹陽で捕えられ、一人一人が針金で縛られ、屋根から吊るされ、灯油に火をかけられ焼死した。また唐甲村の陸坤鎖の70代の祖母は、日軍に試験品とされ、刀で刺されて死んだ。死後、全身に十七、八カ所の刀傷があることがわかった。日本軍はこうして多くの中国人民を惨殺した。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
12月4日 — 午後、白兎鎮(鎮江市)に到着すると素晴らしい命令を受け取った。ここに一週間駐屯する予定という。その気で宿泊の準備と豚を殺し食事の準備に取り掛かっていたら「直ちに出発用意」との命令が伝達された。不平と憤慨の声が上がった。…… 夕方、南京の手前15里の部落に到着した。ここで炊さんをしたら夜九時に出発となった。寒い夜だった。途中で敵の銃撃があったが迂回して進軍した。途中の休憩では仮眠もできない寒さであった。
12月5日 — 夜が明けて、中隊は最初に入った村を直ちに掃蕩した。一軒の家に残っていた中国人たちの部屋には無線機が二台あった。スパイ行為を疑って五人の男を木に縛り、一人の女は解放した。しかし女は26、7歳の男から離れなかった。誰かが彼女を引き離そうとしたが彼女は頑としてきかなかった。この男はどんな問いかけをしても日本語で「ありがとう」と言うだけで、我々には腹立たしく思えた。中隊長が女を引き離せと言い、無理に引き離し、一人の兵士がエイ!と男の胸を突いた。女は叫びながら走り寄って男をかき抱き、号泣した。女は涙に濡れた顔を我々に向け、憎悪の言葉を発しながら自分の胸を指した。自分も刺せと命令しているようであった。そして刺され、胸から血を流しながら男の胸の上に重なった。…… それから直ちに部落に火を放って次の部落へ出発した。放火する — ということはこの頃の我々にはなんでもないことであって、子供が火遊びをするより面白がってやるのである。 — 「今日は寒いね」 — 「じゃあ一軒燃やしてあたろうか」、これが今日の私達で、私達は殺人鬼であり放火魔である。
12月6日 — 極端に寒い中の夜行軍で、深夜、ある部落で宿営することになった。まず住民の家々から布団を取り上げた。私達は宿営するにあたって先ず部落を掃討し、農民を殺して寝た。農民の死が私達の睡眠の安全を守ってくれるのだ。夜の明けるまでの三時間程の安眠の為に多数の農民の血が犠牲にされる。
12月7日 — この部落から1500米ほど前進した時、敵の頑強な抵抗にあって前線では激しい戦闘がなされていたが、予備隊である我々は気楽な悠長な時間を過した。…… 私達は中支へ上陸以来、輜重兵から食料の補給を受けたことは一度もなく、食料はすべて徴発に依った。(前線の戦闘を待つ間)大きな沼に百羽ほどのアヒルを発見した。前線からわずか二百米後方で我々は喜んでアヒルを追いかけ、25羽の獲物を得た。これを岩塩と砂糖で汁を作って食い、たとえようもなくうまい。
12月8日 — 前線で四、五名戦死したと言って担架を取りに来る。南京に近づくにつれ熾烈を極めていく。生も死も天の司るところである。命はないものと思っている。充分な働きをして死にたい。…… 突撃の度に多くの命が失われる。突撃こそ我々の最大の武器で、それは砲撃や飛行機などよりも偉大なる武器である。私の生もこれで終わりであるだろう。愛国の死の前にはすべての私的欲望、事情は消滅する。…… 私は母への、兄妹への遺言を書いた。
12月9日 — 午前7時、払暁攻撃によって敵陣地一つを占領。…… 我々の血は燃え上がり気力は満ち溢れ、如何なる苦痛も苦痛ではなく、希望に燃えて張り切って前進した。…… 山々を越えて前進中、右手の山から機銃掃討を受け私の前を進んでいた兵士は即死、三名が重傷を負った。…… 山を降りる途中で出会った敗残兵数名を射殺、戦友の数名はその敗残兵の死体から煙草を探し出し、うまそうに吸った。卑しむべきことに、金さえ奪った者があった。…… 二里ばかり前進した時、「南京市」と刻まれた境界線を示す道路表示を見て我々は異常な感激と狂喜にあった。
12月10−12日 — (この後、東の部隊も戦闘の第一線に立ち、激戦の中を射撃しながら進むが、上官が相次いで戦死し、分隊長となる)
—— 私は三合の米を徴発して次の家に行った。その家の庭には女子供が十数人集まり縮こまっていて、その腕の中には子や孫をしっかり抱きしめていた。…… この子供達が成人した時には今日の痛ましい記憶はどのように呼び起こされるだろう。…… 戦友の一人は彼女達がひた隠しにしていた残り少ない僅かな米を、ピシリとびんたで断ち切るように、「蒋介石を怨め!」と言って奪った。
—— 敵兵は五間幅ほどの道路を右往左往して逃げ出した。一人また一人と敵兵が飛び出すのを私たちは落ち着いて狙撃した。逃げる敵を狙撃するのは全く興味深い面白さである。
—— (張学良の家とされる中の応接間に座り、久しぶりの煙草を吸いながらの仲間の雑談で)、「上陸以来ただの一度も兵站部の糧秣補給を受けたことはない。我々は戦いつつ食料の心配までしなければならない」/「心配せんでも南京へ入れば無錫のように何でもあるよ」/「女もいるかもしれないな」/「骨董品も楽しみだ」/「南京に入ったらまず菓子屋に飛び込む」/「俺は写真屋と時計屋だ」/「南京さえ取れば凱旋だし食べ物はたっぷりあるし、もう一息だ」/「そうは言っても今日うちにこの中の誰かが死ぬかもしれない」などと話しているうち、「大槻がやられたぞ」と叫ぶ声がした。
—— 負傷者が運ばれてきた。腹をやられていたが、腹をやられて助かった者はほとんどいない。彼は苦痛にもがき苦しんで、「殺してくれ!頼む、殺してくれ。…… 何で殺さぬのだ。それでも戦友か」、彼の悲鳴は恐ろしく我々の心を揺り動かす。突然、迫撃砲の炸裂があり、彼の悲鳴はかき消された。…… その後両足を砲弾で飛ばされた兵士が運ばれてきた。しかし彼は頗る元気で。「ナニ、大丈夫です。少しも痛くはありません。血さえ止めてもらえば。ナーニ、まだ死ぬもんか。これからまた戦うんだ」と言いながら、遂に出血多量で死んだが、最後の血が流れるまで笑って元気であったという。
—— 十日から三日間に渡って昼夜を分かたぬ激烈を極めた砲声と爆撃と叫喚の大演奏もぴたりと止んだ。…… 嘘かと思われる程の静寂だ。月が冴え、寂寥とした夜だ。私たちは城内(南京郊外四方城=明孝陵)に入った。…… 死は日常であったが私はまだ呼吸して生きている。南京は近い。私は生きて帰れるだろう。
【牧原信夫】第十六師団第三大隊第20連隊第3機関銃中隊伍長
筆者注:『続・隠された連隊史』において下里正樹がM・N伍長の日記として発表しているが、その後にまとめられた『南京事件・京都師団関係資料集』では本名で記載されている。
11月18日 — ある中隊の上等兵が老人に荷物を持たせようとしたが、老人が持たないからと言って橋から蹴倒して小銃で射殺して居るのを目前で見て可哀想だった。
11月19日 — 7時半小雨降る中を出発。出発と同時に附近の家全部に火をつけたからたまらない。逆風にあおられて煙に包まれまるで瓦斯攻撃を受けた様なもので全く困った。
11月20日 — 常熟の町は立派だが、友軍及び支那軍のためひどく破壊されている。常熟に向かう道路には敵の遺棄死体が無数にあった。雨にたたかれ見るも無残な姿である。
11月22日 — 道路上には支那兵の死体、民衆及婦人の死体が見づらい様子でのびていたのも可哀想である。橋の附近に5 、6個の支那軍の死体が焼かれたり或は首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切をやったそうである。
11月26日 — 午前四時、第二大隊は喚声を上げ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失心状態で右往左往しているのもまったく可哀想だがしかたがない。午後六時、完全に占領する。七時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃蕩が行われた。自分たちが休憩している場所に四名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃がし、後三名は捕らえた。兵隊たちは早速二名をエンピ(小型シャベル)や十字鍬でたたき殺し、一名は本部連行、通訳が調べた後銃殺した。八時半、宿舎に着く。三小隊はさっそく豚を殺していた。
11月27日 — 支那人のメリケン粉を焼いて食う。休憩中に家にかくれていた敗残兵をなぐり殺す。…… 休憩中に5、6軒の藁ぶきの家を焼いた。炎は天高くもえあがり気持ちがせいせいした。
11月28日 — 午前11時大隊長の命令により下野班長以下6名は小銃を持ち残敵の掃蕩に行く。或る橋梁に来た時橋本与一は船で逃げる5、6人を発見。照準をつけ1名射殺。掃蕩はこの時から始まったのである。自分達が前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く。何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。部落の12、3(軒の)家に付火するとたちまち火は全村を包み全くの火の海である。老人が2、3人居て可哀想だったが命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。その上5、6名を射殺する。意気揚々とあがる。
11月29日 — 武進(常州市内の区)は抗日、排日の根拠地であるため全町掃蕩し、老若男女をとわず全員銃殺す。この街は今まで見たことがなかったような立派な町だった。……3時過12中隊は5、6人の支那人を集め手榴弾を投げて殺していた。壕にはまった奴は中々死ななかった。(注:この常州についての暴虐行為は上に既述)
11月30日 — 武進に引き返し食料の徴発に行く。昨日殺した支那人がまだ橋の下に浮いていた。…… 本道路上の休息中ちょっと見ると焼け跡に双児の死体が土に埋もれて全く可哀想である。町の至る所に抗日ビラが貼られていた。
12月1日 — 途中の部落を全部掃討し、また舟にて逃げる2名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけて部落を焼き払って前進す。…… 呂城の部落に入った折すぐ徴発に一家屋に入った所、3名の義勇兵らしきものを発見。2名はクリークに蹴落とし射殺する。1名は大隊本部に連行し手渡す。
12月3日 — 仮眠した部落を出発する時に家に火をつけたのが大火事になった。
12月4日 — 徴発隊が鶏や白菜を持ってきて、家の豚も殺して昼食は肉汁である。午後二時、命令があり連隊は南京街道を南京に向かって進撃することになった。苦力も重い荷物を背負ってよくついてきたものだと感心した。
12月5日 — 午前八時、準備万端終わり、同部落を出発する。出発する時はもはや全村火の海である。南京は近いのだろう。一軒屋に干しいもが目についた。吾先にとまたたくまに取り尽くした。
12月7日 — 9時頃から敵か友軍かわからないが重火器の音が激しく聞こえる。何番目かの丘を越え凹地に侵入した時、12名の敗残兵が敵方の交通壕にうろうろしていた。早速とらえて銃殺。彼らも最早かんねんしてすなおに指示にしたがった。敵ながらあっぱれだ。
12月10日 — 午前4時起床。朝食を終え、二食分を携行し部落を出発。…… 今夜はこの土手で夜を明かし、明日早朝には総攻撃が行われる。(寒いので)支那軍の襦袢、袴下を拾って身に着け、毛布も拾う。
12月11日 — この付近(西山高地)の家屋は友軍の野砲の集中攻撃を受け殆ど原型が認められず、焼け跡にはあつい灰が重なりくすぶっている。…… いよいよ最後の攻撃開始。…… 敵の頑強な抵抗には恐れ入った。…… 一服している時、敵砲弾の集中射撃を受け不幸にして三人が戦死し、十名余りの負傷者を出す。特に田中は天皇陛下万歳を三唱して憤死した。…… 紫金山も半分は我が軍の占領する所となりあちこちに火の手が上がっている。
12月12日 — 夜中は寒くて何度も目が覚め、あるいは敵の射撃に応戦する友軍の射撃の音に目が覚め、殆ど夜通し眠れなかった。三、四回砲弾もやってきた。…… 九時半から友軍の攻城砲は南京の城壁に攻撃を開始した。九中隊の一名は下の部落に炊事に行く途中やられた。
【上羽武一郎】第十六師団衛生隊第2分隊衛生兵
10月29日 — 中隊長朝礼の時報告。第十六師団死者350名、敵、死者2200名、傷9千名。
11月13日 — 我巡洋艦、駆逐艦が一斉に火蓋を切って河岸に向かって集中射撃。30機の飛行機が爆撃し物凄し、敵前上陸らしい。……
顔をやられて血みどろになった学生軍がにげおくれて引っぱられて来て、通訳が弁じた後ピストルでうち殺した。血を吐いてうなって居た。愈々戦争気分がする。……水洗場にばあさんがにげおくれ水に浸って居るやつを引上げてくる。腰ぬけしてふるえている。火にあたらす。朝出がけに誰かが家に放火して、とうとうばあさんも焼けてしまった。
14日 — 台湾の民夫が働いている。日給1円60銭。民夫は戦争に来るのを大変喜んでいるそうな。台湾兵が人を切るのを見る。おやじを切る、子供を次々に切る。母がすすきのかげからおずおずして子供の死を見て居る。一寸涙なくしては見られるものか。(自分は)娘を引っぱって、一晩泊めては返す。
24日 — 悪路四粁前進す。南京路まで出る。…… クリークを渡り民家に宿る。住民が手を合わせてセッサンセッサン(日本の兵隊さん)とおがんでいる。
26、27日 — 南京道、前進前進。道傍に死体るいるい。はらわたの出たやつ、頭の平たくなったやつ、木枝に刺しし首等、自動車に轢かれて粉々になった体。(日本軍の)重爆撃機が万雷の如く、頭上をかすめていく。
28日 — 無錫、午後四時着。大きな町であり、ひどい事に荒らしてある。激戦の跡がうかがわれる。……家屋に命中せる弾痕、半分屋根のけし飛んだ家々、大震災さながらである。同郷の戦死がないのにほっとする(上羽は衛生兵なので戦闘の前線には出ず傷病兵の手当や後方移送を担当)。
12月1日 — (日本軍が)放火したる為火事多く、消防に出動する。何をしに来とるか分けが分からず。…… 夜またもや今度は自分等の宿舎の横から火事が起こり、荷物を持って避難に忙殺される。
12月2日 — 八時、無錫出発。常州に向かう。途中道傍に女子供が一かたまりになっている避難民に出会う。一かたまりになっていると殺されないことを知っているらしい。
12月5日 — 河岸の道を前進す。中隊長より放火、不意の発砲を堅く禁じられる。
12月10日 — 土民百人ほど狩集めて(20連隊の負傷兵を)担架を担がす。彼らの気持ちはどんなであろうか。…… 夫が引っぱられて嫁が土手に隠れて殺されはせぬかと見送る目と目と、生き別れ生き別れ。
12月11日 — 四里前進、初めて第一線に出る。大砲、機関銃、豆をいるような小銃、飛行機が天地を轟くばかり。ビュンビュンと弾が空をかすめる。
12月12日 — 殷々たる重砲のうなりを立てて飛んでいく。新聞社の自動車がうようよ。無電で第一線の記者よりの連絡等物々しい。
【小林太郎】第十六師団歩兵第9連隊(奈良県)第9中隊 第一小隊瓦斯兵(毒ガス訓練を受けた兵士)
筆者注:以下は戦後75年後に新たに出版された『ある日本人兵士の日記』(新日本出版社:2020年)からの抜き書きで、日記は従軍した1937年(昭和12年)8月下旬より始まるが、戦後本人が撮った写真とともにきちんと整理されていたものを遺族である娘さんが、二度と戦争のない世の中へ役に立つならと公開されたものである。このように隠された記録は数知れずあるものと推測され(長く表に出せない年月があった)、そのまま遺族により捨てられたものもあるだろう。ちなみに小林はガス兵ということで、日中戦争では当初から毒ガス戦が作戦のうちに入っていることが立証されている(上海戦では10月6日から毒ガスが使われていると中国側の記録にある)。
12年9月8日 — 午後五時乗船開始。雨降る中を銃後の方々の力強い万歳の声に送られ、その期待に沿うように勇ましく戦わねばならない。
9月17日 — 軍糧城の駅より天津駅まで国際列車に便乗。駅頭にて天津の(日本の)国防婦人会のサービスで昼食を済ます。異国の地でこんな歓迎を受けるとは夢のようである。…… 駅前には友軍の瓦斯(ガス)器材が山と積んであり、支那の苦力がその梱包をトラックに積む。(注:小林はなぜ敵国の資材を中国人が運んでいるのか不思議に思ったと記しているが、すでに日本軍が長年占領している土地の実態に慣れていない感想である)
9月25日 — 行軍中、イモを畑から掘ってきて、焼イモとして持っていく。
9月30日 — 沙河橋を渡って2km前進すると道の両方がずっと「千本」梨の木であった。皆んなが取って食い、実に美味しい。その梨をかじりながらの行軍となった。しかし皆梨を食べ過ぎて腹を下した。(注:この梨の話は十六師団の各連隊が書いていて、同じように食べ過ぎて腹を下している)
10月2日 — 小隊は昨夜の犠牲者の運搬に残る。戦闘による死傷70名。
10月8日 — 今日右岸で捕まえた敗残兵二名銃剣にて大隅、佐々木君が殺す。(筆者注:この後も小林はさりげなく書いているが、敵は皆殺せという師団の指示が兵士たちに行き届いているように思われる。本来敗残兵は国際法に則り捕虜として遇さなければならないが、相手国の中に侵攻途中の日本軍にとっては、足手まといになるからという理由もあって、兵士たちには最初からその認識がなかった。そしてこのやり方は南京を占領してからも継続された)
10月9日 — 王口(天津市静海県)に着き、丁家庄という部落に車輪と馬、牛を徴発に三人でいく。帰りに鶏を沢山おみやげに。
10月21日 — 北隆村(河北省寧晋)に滞在。第一回書簡来る。(筆者注:兵士達にはかなりの頻度で内地からの手紙・葉書や慰問袋等が届けられ、また兵士も積極的に投函している。つまり日本軍は軍事郵便に力を入れ、兵士の精神を安定させ、士気を高めようとしていることがわかる。なおこの後小林の部隊は列車で大連まで行き、大連から船で揚子江に入り、 江蘇省蘇州市常熟の滸浦鎮で降りて南京攻略に向かう)
11月20日 — (常熟城を陥落させ、周辺の中国軍のトーチカを攻撃)、一個のトーチカに三人ずつ、その他指揮官を含め計16名、土民の男13、女7名を捕え、兵は刀にて頭を切り、土民は銃殺、女は逃す。昼食をすませて前進 ……本道の両側には正規兵や使役達の死体がゴロゴロしている。
11月21日 — 無名部落にて泊まる。敗残兵を5名殺す。
11月23日 — 敵の左翼を攻撃、5人の敗残兵を殺す。重爆(重爆撃機)の無錫爆撃を眺める。少しも(対空)砲撃がない。
11月26日 — (無錫陥落)追撃隊の護衛となり無錫停車場に突入す。市内の掃討をすませ南京へ至る鉄道線路上を急追す。クリークを逃げる敵の負傷者輸送の船群を発見、5名の連長、将校を補す。調べても何も言わぬので殺す。
11月30日 — 2、3日滞在とあったので豚君を二匹(徴発)、その上山本が朝から大隊の徴発に行き色々うまいものを持ってきた。しかし昼食時に急に前進命令が来て、すべて夢の様に飛んでしまった。
12月4日 — 出発直前に昨日捕えた4人を殺す。将校の一名は「中国兵万歳」と言って殺された。敵ながら立派である。
12月9日 — 山岳行軍をなす。山を降りて道をまちがえ逃走する敵にぶつかる。昼、山へ火をつけたのがまるで大文字山の如く燃えて夜は砲声が絶えない。
12月11日 — 午後、旅団の護衛を解かれ大隊に帰る。本日の攻撃は奥村隊第一線、紫金山攻撃前進。
12月12日 — 移動中、戦友2名戦死、2名負傷。その後前の稜線に突入、敵は逃げたが犠牲的行動で悩ませた支那兵5名は銃剣のサビとなる。その後2名戦死、負傷5名。
【佐々木支隊第33連隊】(『南京戦元兵士102人の証言』松岡環:社会評論社—2002年)
<町田義成>第33連隊第3大隊
—— 「(この33連隊は華北から南京に向けて転戦の途中、韓家頭で中国軍の奇襲攻撃にあい仲間に死傷者を出していたから)部隊本部から「韓家頭(無錫)の部落を攻撃する。部落に入ったら、猫の子でもいいから生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」と命令が出た。…… 50戸位の部落が見え攻撃をかけたけど猫の子一匹いない。粗末な一軒の農家の中のアンペラ(茅の筵など)がこそこそ動くのでめくり上げると、40歳位の妊婦が2人の幼児を両脇にだきしめて隠れていた。コノ-と引きずり出すと、子どもは泣き叫び母親の後ろにしがみついている。母親はもう一人の子をクリ-クの中につっこんだ。××伍長がこれこそ戦友の仇と、即座に銃で3人を撃ち殺してしまった。そのときは気が立っていたというか、女子どもなのにひどいことをした」
—— 「その後は(一度日本兵の同士撃ちもあったが)敵にも会わず連日の行軍ばかりで本当につらかった。私の分隊は軽機関銃を持たなくてはならず、余計に重かった。食事も現地調達が多く、部落に入っても村人は逃げていず、畑の作物や家の中の物を盗って食べた。何しろ後方から食料は来ないから」
—— 「南京へは急迫撃だった。南京に近い紫金山は国民党にとって重要な拠点で、要塞があり険しい山に砲台が据え付けられ、精鋭部隊が布陣していた。紫金山攻略は三日ぐらいかかった」
注:同じ松岡環の後年の著書『戦場の街 南京 — 松村伍長の手紙と程瑞芳日記』(社会評論社:2009年)に同じ文面があることに筆者は気がつき、町田義成は実名が松村芳治であることがわかった。当然松岡が何度も直接取材をして得た話であり、本人は本名を出しても良いとのことであったが、松岡自身がこれまで数々の例で、実名を出すと同じ戦場の仲間や上官からの非難と、ある種の「偏向論者=なかった派」たちからの攻撃があるのを知っているので(後述の名誉毀損裁判の項の「東史郎の戦後の闘い」参照)、配慮して他の証言者と共に仮名にしたとのことであった。すでに時代的には戦後50年過ぎ、実際にこの頃から多くの人があえて自分の名前を出して語り難い体験を語るようになっていて、その必要はなかったであろう。むしろ仮名にすることによって(例えば東中野修道などの)偏向論者=なかった派たちはそこを突いて「架空のでっち上げ話」としてくるからである(後述の名誉毀損裁判の項の「夏淑琴(新路口事件)」参照)。なお後述する「南京以降」の章、つまり12月13日の南京攻略以降にも改めて松村のその他の証言を取り上げる。(松村は1934年=昭和12年に満州へ派兵され、二年後に除隊となるが、翌年この日中戦争開戦に従って8月に再度召集され、それまで実際の戦闘経験はなかった)
<佐藤睦郎>第33連隊第1機関銃中隊の体験
—— 「南京の手前で、母親が逃げるのにじゃまになったんか、親がどっかへ連れて行かれたんか、捨て子の赤ちゃんが田んぼの中でおぎゃーおぎゃーといていました。日本兵が赤ちゃんの口の中へ小便をかけててね。ひどいことする。戦争に行って人を殺すのがいやでね。そんなひどいことをするのを見ていても、「そんなことするなや」と言うのが精一杯でな。絶対止めることはできなかったですな。地獄とは地獄、本当に無体なことやった。兵隊やったからな。笑われて馬鹿にされるから何も言えなかった」
<大沢一男>同連隊第二大隊の証言
—— 「今夜はここで一泊すると命令が出ますやろ、そしたら、みんな散らばって徴発に出かけて、家をバーと開けて、鶏盗ったり、卵盗ったり鍋やら釜、野菜を盗ったり、そういうことをするんですわ。どこの部隊もやります。略奪やわな。出せへんかったら殺してしまう。ほとんどの人は逃げてますわな。怖がってわらの中でごそごそ隠れてるのもいます。娘さんなんかは墨で顔を真っ黒に塗ってな。だれも鍋の墨塗って化けとるねん。若い女ってすぐわかるから捕まえて悪いことする兵隊はほとんどや。支那事変ではほとんどやっていた。風紀を乱したらあかんと言うのは、南京を出発する前のころはありましたで。それまでは(戦闘状態で)こちらの兵隊が倒れたりやられたりすると、お互いワーとケンが立ってきますやろ。それでやられるとやりますがな。中国人だから殺す。酷いことしまし た」
第十三師団山田支隊の日記・証言(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』小野賢二他編集:1996年、大月書店)
(13日以降は南京占領後に記載、以下同じ)
【黒須忠信】山砲兵第19連隊第三大隊段列(後方支援)
(10月3日上海上陸)
10月14日 — 午後、李家綱に移動するが(日本軍の)方々の空襲は物凄く、家屋の燃え上がるのも相当多い。
10月15日 — 未だ夏の事とて付近には豚や支那兵の死体から蛆が湧き蝿は山の如く水は汚れて飯を炊くにも閉口す。殊に生水は全然飲めず、コレラにかかりて死亡する兵士も数多いとの事。
10月25日 — 銃砲声も遠ざかって敵も退却を続行しているらしい。大場鎮(上海市のうち)も陥落したとの事。
11月1日 — 昨日の雨にて道路には水が溜まり、弾薬の運搬は相当難儀する、しかし歩兵の一線部隊は寝るも寝ずに戦闘を続けられている時、何のこの位の事に声をあげていられようか。
11月19日 — 今日に至るも雨は止まず戦闘は益々猛烈を極めて来た。我が段列でも弾薬の補充に忙しい。食料の徴発は各隊共に非常に盛ん、負傷兵も相当多きに上り、煙草を恵んでやると涙を流して喜んだ。重症の兵士は夕方に至り二名戦死を遂げた。謝家鎮橋の戦いも敵は総退却し、追撃前進を行う。
11月25日 — 夕刻祝塘鎮(江蘇省無錫)に着いて宿営。我等五分隊24名は宿舎に着く毎、大きな豚二頭位殺して食っている、酒も好きなもの思う存分呑む。実に戦争なんて面白い。
11月27日 — 十三師団は殆ど同じ箇所に集結して前進している。途中家という家は全部焼き払われているので百姓も見るからに可哀想である。泗河村(江蘇省無錫)に宿営、学生軍二名を逮捕し斬殺す。
11月28日 — 学生軍らしきもの五名、宿舎の前にて突刺す。自分もこの際と思い二回ばかり銃剣にて突き刺す。豚二匹並に鶏三十以上徴発、おかずにしてご馳走この上もなし。
11月30日 — 未明に起床、厩当番に勤務。我が重砲隊は一昨日より射撃を続行している。
12月2日 — (昨日陥落した)江陰城(江蘇省無錫)に向かって進軍す。我が友軍は堂々と江陰城を占領して万歳の声高く挙げたのであった。
12月5日 — 我等は南京攻略の準備中であり、…… 皇国のために働くのが我等の重大責務である。故郷の皆様も無事に国家のために尽くされる様毎日神に祈っている事でしょう。…… 恥じざる様働かねばならぬ。
12月7日 — 早朝に出発し南京に向かったが、途中江陰城の城壁は驚くほどのものであった。付近には支那兵の死体が数限りなく散らばっている。砲声は物凄く戦いは開始されていた。
12月10日 — (鎮江手前の町では)支那人家では我が帝国の国旗を掲げて歓迎大日本などと書いてある。(鎮江は)大きな文化的都市である。一泊だけが惜しいほどである。
*黒須が日記とは別に語っている行軍中のことである。 —— 「ある部落に泊まる場合は男という男は全部家の裏に連れて行って拳銃や小銃で殺した。女子供は家の中に入れて夜は強姦した。そして翌日の朝たつ時にはその女子供を全部殺して、最後には家まで焼いてしまった。なぜこんなことをするのかと聞いたら、この地区は抗日思想が相当激しいので全部殺してしまえという命令だから全部殺す他ないというわけだった」
【堀越文雄】歩兵第65連隊通信班歩兵伍長(前線で電話の架設=仮設や補修で忙しく駆け回る立場にあった)
(10月3日上海上陸)
10月6日 — 帰家宅東方にいたる。支那人女子供のとりこ(虜)あり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり。(堀越は文学の素養があるようで、仮名が多く、以下、分かりづらい場合は漢字に置き換える等している)
10月8日 — 米をとぐその川を流れる支那人の女の屍あり、戦争これなるかな。午後二時より徴発に出る、部落をめぐり家内を物色、(村人)わずかにとどまるのみ。鍋三つを得て帰る。綿畑、綿はうれはてて綿白く地に落つ。稲田はすがれはてて刈る人なく腐りゆくを待つのみ。
10月16日 — 本日より郵便取り扱い開始さる。
10月20日 — 戦友死す。戦闘未だその機に至らず、中途虚しく倒れたる彼の悲憤やるかたなからん。
10月22日 — 第一大隊残余人員わずかに60余人なりと。
10月29日 — 今日ぞ連隊は全滅を期しての総攻撃の日なり。
11月1日 — 戦友二名の屍焼かれる。
11月3日 — 今日ぞ明治節の佳日なり、連隊長の音頭によりはるか東方に向って万歳を三唱す。
11月6日 — 昨夜第三大隊に夜襲あり、それを撃退、二百名をやっつけ七名捕虜とか、油座一等兵一人を切る、渡部軍曹も切る、まさにすっぱりと首を切り落とされた。
11月9日 — 捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人、子供一人、これも突かれたり。夜食後、灯を囲みて久しぶりにXX一等兵の買い來る羊羹とサイダーに舌鼓をうち、話はずみて大いに笑う。戦地の夜また楽しからずや。
11月16日 — 午後六時頃一部落を見つけて泊す。高橋少尉殿と藤井上等兵と自分と三人して徴発せし鴨と鶏、全部で八羽を持って夕食うまし。外に豚一匹は油と砂糖、塩とで炒め、昼食の副食物にす。
11月20日 — 午前三時、沙河長鎮(沙河鎮?=江蘇省連雲港市)を出発、その西方二里半のとある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを切る。全く作法どおりの切れ工合いなり。刀少し刃こぼれせり。惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながらおどろかれる心の落ちつきなり、西徐野に一泊す。敵はほとんど退却す、残れるものは使役に服せしめ、または銃殺、断首等をなす。怒りの心わかず、心気負うことなし。血潮を見ても心平生を失うことなし、これすなわち戦場心理ならんか。
11月22日 — 鶏の徴発に出かける。クリークを通る支那人の船を全部止めて方っぱしより調べそれに乗り対岸にいたり、チャンチウ(中国酒)壺を得てかえる。にわとり凡そ十羽もあるべし。中食うまし。
11月26日 — 夜、刀手入れす、日本刀よきかな日本刀!人を切りたるあと歴然たり、心すむ如し。
12月1日 — 午後、両角部隊の江陰城(江蘇省無錫)一番乗りは見事に達せられ、城頭西門高く日章旗は翻り、何たる感激のひとときぞ、涙は頰を伝わって下る。(翌日)感激の万歳三唱を新聞写真班カメラにおさむ。
12月10日 — (7日に陥落させた)鎮江(江蘇省)へ向う。相当の市街なり、宿舎よし、二階の洋館蓄音機あり、オルガンあり、美衣あり、酒、みそ、漬物あり、しかも電灯皎々と明るし、上陸後はじめての宿舎なり。
【遠藤高明】歩兵第65連隊第八中隊・第三次補充(前線での戦死や負傷、病気等による欠員補充である)
10月11日 — 夜10時30分就寝後、動員下令の電報を受け、14日より入隊となる。(その後数々の訓練を受けた後、24日夜、九州門司港を出発、27日揚子江に入り、29日上海に上陸)
11月30日 — 独力をもって江陰攻撃中の本隊に追求すべき命を受け、荷車等の徴発のため呉淞(すでに日本軍が占領)に行く。
12月2日 — 汽船によって常熟市の滸浦鎮に上陸。翌日常熟に向かい、途中支那への死骸多数ありて気持ち悪し。
12月4日 — 常熟発、無錫へ向う。落伍するもの多数あり。
12月5日 — 江陰まで強行軍し、疲労困憊して江陰本部に到着。(翌日第八中隊の小隊長となる)
12月7日 — 鎮江要塞攻撃を命ぜられ、三泊四日の予定で進軍す。
12月10日 — (前日第十一師団の天谷支隊に攻略された)鎮江市街に入る。よき民家を占領し、砂糖、サイダー、栗などを徴発。
12月12日 — 午後、新任務により南京攻略を命ぜられたり。明日未明出発の予定が夕刻六時に突然出発を命ぜられ夜行軍三里、倉頭鎮に大休止、装具も解かず、藁を被り仮眠。
【目黒福治】山砲兵第19連隊第三大隊段列(後方支援)
10月7日 — (上海北部揚子江近くの月浦鎮にて) 我軍飛行機爆破開始、数十町歩の綿畑は皆我軍の幕舎又は飛行場となる。幕舎付近敵死体無数あり。
10月8日 — 歩兵二名戦死せり、戦線より毎日トラックに数台戦傷兵の運搬せらる。
10月11日 — 便衣隊(平服隊)一人捕わる、又首切らるるが哀れと思う気持ちだんだんなくなる。
10月12日 — 又今日も一人支那人捕えらる、兵士多数にて打ちける。一人銃剣にて目玉を突く。
10月15日 — 第一線部隊は毎日酒あるも我等第二線の兵には酒の支給はなきものなるが、特に本日は特志支給、実に名状しがたき味なり。
10月18日 — 午前中前進準備、目的地不明。午後前進、途上敵死体無数ある場所を通過、皇軍苦戦の味わい得たり。
10月22日 — 昨夜敵砲弾のため被害多数、4名即死、馬6頭犠牲。…… 敵捕虜二十名程來る、若きは16、7才より45才位まで、はだし又はワラジを履き、被覆は夏服にして半袴なり。(注:彼らをどう処置したかは記載なし)
10月24日 — 腹を痛めて朝から休養。(途中で腹痛を得る将兵は多かった)
10月25日 — 腹痛相変わらず、大場鎮落ちたるとの報來る。予定の如く月末に上海へ帰れるかもしれず、今日一日断食。(注:つまり一般兵たちは上海戦のために来たと思っていて、上海の大場鎮陥落でこの戦争は終わり、この後南京に転戦するということは誰も知らなかった)
10月31日 — 雨の中、弾丸受領を命ぜられ約三千米後方へ行く、泥の中に膝まで没し、馬の飛沫で上着まで泥まみれになった。
11月9日 — 戦局も終局迫る。
11月11日 — 後方勤務も余り楽すぎて困る位だ。12月中に凱旋(つまり日本に帰還)の話出て、班内和気に満つ。
11月14日 — 起床後豚一頭に鶏三羽徴発、久振りにて満腹になる。今日も又追撃、途中農家に日章旗散見さる。支那人らしく眺む。水牛を徴発し一頭は食し一頭は馬の代用とす。大きな水牛一頭二十銭とは安きもの。(注:さすがに大きな動物ゆえに代金を払ったようである)
11月15日 — 敗残兵九名を銃殺、小生内二名を殺す。気持ちよし。
(筆者私見:「気持ちよし」のような言葉が出るのは「敵」を人間として扱う心が片鱗もないことが伺え、これが戦場における精神状態であろうが、必ずしも日本軍ばかりが残虐性を持つというわけではなく、例えば第二次世界大戦後の20世紀終盤の欧州においても民族紛争で虐殺が各地で生じているし、21世紀になって、国際的に報道がなされる中でも(ロケットやミサイルによるものも含め)平然と殺戮行為は継続されている。大体において一つの人種が別の人種を排除あるいは制圧しようとするときに戦争が起きるのであって、その根本は変わらない)
11月16日 — 休止中、敵三名を銃殺す。…… (直前に逃げた様子の)支那人家屋に宿営す。敗残兵三名を見付け又打ち殺す。鶏六羽徴発。行軍以来五日、軍隊の給養(支給食)なし、全部徴発にて食事す。
11月21日 — (泥濘の悪路を行軍の後)午後五時無名部落に着し村の青年五名を打殺す、中に夫を失う婦人あり。夫を失いながらその夫人、支那が悪いから私達まで苦労すると言うておりました。実に気の毒なり。
11月22日 — 数万の大部隊が皆徴発するから食糧等たちまち食い尽くしてしまう。
11月23日 — 無錫という町に達すれば任務は終わり、大体戦争も終わるものならんから今少々なれば緊張して軍務に服する様達せられる、嬉しき事限りなし、明年一月、凱旋夢想に終わる事なき様感ぜられる。
11月27日 — 途中各部落は火災のため盛に燃える。午後四時老劉玉村に宿営す。午後七時頃敗残兵三名発見、内一名逃走、二名を成敗、内一名を小生銃剣にて刺殺す、計本日まで六名の支那軍を殺す。我師団は大体無錫の付近に達す、任務を終わったものの如し。
11月28日 — 午前6時起床、敗残兵五名発見銃殺す。午前十一時前進、南京道路に出る。
11月29日 — 起床後病死者大里上等兵の慰霊式あり、戦地にありて病死せるものは実に哀れなり。(注:敵を殺し「気持ちよし」とする心と真逆である)
12月1日 — 江陰城総攻撃。(その後陥落)
12月5日 — 休養、午後より徴発に行く。支那人家屋17戸を焼払い、土民(農民)を銃殺す、哀れなるもの敗戦国人。
12月7日 — 勇躍首都南京を指して前進開始す。
12月9日 — 行軍途中、中央軍敗残兵十数名一刀両断に首打ちたるる者を見る。
12月11日 — 鎮江市の小学校に宿す。教育方針は全部抗日教育に始終せる様、教室を見て分明す。
第九師団歩兵第36連隊第五中隊輜重隊伍長の従軍記録
(『一兵士の従軍記録——つづりおく、わたしの鯖江三十六聯隊』山本武著 ; しんふくい出版 2001年)
山本はこの年の11月に結婚予定であったが9月に召集令状が来て結婚を延期、16日に「万歳の声に送られて」入営、23日に福井県鯖江駅を出発、大阪で休息し26日に大阪港を出発、30日に上海に上陸、そこから呉淞に向かうまで路上には中国人の死骸累々であったという。10月1日から南京に向けて過酷な行軍が始まった。この山本の日記の特徴は、当初の上海戦は前線で戦う歩兵隊のものということである。全体的に日記を残しているのは余裕のある後方部隊(運搬が大変な兵站部隊ではなく予備隊など)のほうが多い。それに前衛部隊は後方部隊のように「徴発」する余裕もなかったから食事が極めて乏しく、また捕虜は別として住民への残虐行為も多くなかったこともわかる。後方部隊の日記などでは自分たちが優先で現地の徴発物を食べていて、前衛にそれを届ける様子はほぼ見られない(予備部隊の中には進軍中に現地徴発で太ってしまった将兵もいた)。ただし山本の部隊は上海戦を終えて南京攻略に向かう時には予備隊となって余裕が出てくる。山本は1939年(昭和14年)7月に除隊となって帰国したが、この元となった日記帳は、広島宇品沖の似島で検疫を受ける際、没収されそうになったというが、一切公表しないことを約束し持ち帰ることを許されたという。なにしろ軍政府自身が敗戦時に国内外すべての戦時記録を焼却する指示を出し、国内の女学生が周囲の空気を感じ取って、自分の日記を焼いてしまって後悔したという記録も残っているほどであった。
10月3日 — 我々の居る前、2、30mのところへドカンと(砲弾が)落つ。輜重隊にて数名の負傷あり。片手を取られた者、足をやられた者等可哀想なり。…… 米もなく、塩気もなし。汚いクリークの水を汲み、食水となす。
10月4日 — 敵の榴弾の乱射を受け恐ろしき思いをなす。はじめての第一線、皆々恐ろしさに体を伏せ恐怖にふるう。
10月9日 — (上海市宝山区孟家宅孟家宅=淞沪会战攻撃戦) 稲の中へ躍り出てちゅうちゅう(ママ)砲火の中を前進、隣の戦友が敵情を見るべく頭を出した瞬間、血を吹いて即死、ああなんたる悲惨なことぞ。午後一時の砲兵・飛行機の集中射撃とともに突撃するとのことなるも、果たして皆飛び出て突き進む気力の有りや無しや。… (戦線は進まず)午後六時ごろに夕食が来る。泥の手で貪り食う。生煮えの飯なれど美味しかった。…… 深夜、重症の上等兵を担架で本部に担ぎ込む。戦線に戻るべきが疲れて眠ってしまう。
10月25日 — 午前六時突撃命令。敵も突撃と知るや猛然火蓋を切り、ここに壮烈なる攻防戦は開始された。我々は猶予を待たず突撃を敢行、有無を言わせず敵陣を奪取せり。然れども敵もチャンコロながら正規兵の精鋭、数十発の手榴弾を投げつつ退却、危険この上なし。…… 分隊全員一斉射撃を浴びせかければ、逃げる奴、傷つく奴、面白き程なり。(注:「面白き程なり」とは自軍が優位にあって、一種の興奮状態にあるのであろうが、戦闘状態の中では相手の命が虫けらほどにしか見えていないことがわかる。この戦闘は27日まで続く。なお将校たちの死傷がはなはだしいのは軍服が敵の狙撃目標になりやすいということで、以後は一般の平服を着用することになったという)
10月28日 — 中隊の整列時、(昨日到着した補充兵も含めて)64名であった。出発時は194名であったが。…… 上海戦も近く終わるのではないかと感じ、重い背嚢が気にかからず心は浮き、足取りも軽く弾む。(注:軍の上層部はこの後南京に転進することを考えていたはずだが、一般兵たちには全く知らされていないことがわかる)
11月2日 — 夜半、中国軍正規兵一名を捕えた。朝、小隊長伊藤少尉が、軍刀の試し切りをすると斬首する。竹藪の中に連れて行き、白刃一閃ひらめき、敵の首は斬り落ちるかと見ていたのに、手許が狂ったのか腕がまずいのか、気遅れがしたのか、刀は敵兵の頭に当たり、倒れて血が出ただけで首は飛ばない。あわてた少尉殿は、刀を振るってめった打ちに首を叩いた。首は落ちないがやっと殺すことができ、見ていたわれわれもホッとする。
11月3日 — 菊薫る明治節の佳き日なり。内地はさぞかし戦勝祝賀にて賑やかなる事ならん。我々はろくろく飯にも当らず、雨と弾に淋しい日。
11月4日 — ああいつになったら飯が食えるやら。…… 戦争はいつまで続くことか。今日は全く戦いが嫌になってしまった。…… 友軍の飛行機は銀翼を輝かし、砲兵の集中射撃は物凄く前の部落に落下する。しかしなぜか俺の心は朗らかになりきれない。こんなことでは駄目だと思いながら。…… 敵の大逆襲があり食事ができない。ようやく夕方になっておにぎりが後方から届く。一人二個。しかししかし最右翼にいる分隊には届かない。怒鳴りつけて各班から出させるが、ようやく食べてみると腐っていた。
11月6日 — 久しぶりに米一合ほど給与さる。芋もあり、おいしかった。
(10月1日から11月9日までの戦闘で36連隊は死者695人、負傷1788人で、その後の死者はが少くなる)
11月13日 — 雨の中を行軍開始、午後三時前、黄渡鎮(上海西北)に到着する。黄渡鎮では、舟艇で対岸に渡り昆山方面に向かうとか、たくさんの将兵が渡河地帯で待機するうち捕えた中国兵を、試し斬りするとかで河岸に連れて来る。命令は大隊長か中隊長(六中隊長)かわからぬが、第六中隊の脇本少尉が指名され、 衆人見守る中で軍刀を抜きはなち、一呼吸の後サッと切り下ろす。首は体を離れて前に飛び、体はあおむけにのけぞった。あまりの鮮かさに、一同が拍手かっさいする。脇本少尉は隊長からも賞められ、面目をほどこしたが、哀れなのは中国兵、捕えられた以上は死は覚悟しただろうが、まさか見せ物にされるとは思いもかけぬことであろう。
(注:上海戦に区切りがついた山本の部隊は南京への進軍にあたって前衛から後方部隊=予備隊となって余裕が出てくる)
11月14日 — 支那兵の逃亡せる跡にして、米・酒・醤油をはじめあらゆる糧秣あり、食事には不足せず。立派な家に一個分隊入り二階の寝台上にゆっくり休む。
11月16−17日 — ここ数日、皆支那人の徴発米、鶏を殺し、味噌を取り飢えをしのぐ。(翌日)午後崑山に入城、大きな家に宿泊し徴発を行う。家の立派、大きなのに驚けり(注:他にもこうした感想は多く、広大な大地に根ざすがゆえの建物であろう)。
11月29−30日 — 午後三時常州に入る。食料いろいろあり、楽しく休む。(翌30日)30貫程もある豚を殺し、すき焼きにて一杯飲むやらぜんざい・ぼた餅等好物揃う。
12月11日 — 朝早く、砂原君の遺体を、道路前の畑で薪を集めて火葬にする。前方や右方の敵の火器は依然衰えず、くわえて敵の十五榴、追撃砲弾が絶え間なく飛来する。飛行場には友軍の十cm加農(キャノン)砲が進出、敵陣を砲撃しはじめ、天地を揺がすようだ。正午頃、一昨夜掃討した司令部後方の一軒家が怪しいとの情報があり、ふたたび掃討に行ったところ、地下室に八名の敵兵が武装した姿で集まっており、われわれの姿を見、銃剣をむけられるや、「曖」と言いながらなんら抵抗せず、両手をあげて降伏する。縄で数珠繋ぎにして、連れ帰る。言葉は通じないが、片言の中国語と手振りで調べてみると、この兵たちが一昨夜田中分隊長らを狙撃したやつとわかる。
第二分隊の者も来て相談の結果、ただちに殺すことを決め、田中や砂原の墓標の前に連れて行き、刺殺する。老兵たちは、人殺しはと尻込みするし、あまり無理に命ずるのも可愛そうなので、結局私と土本が主になって死刑執行する。やれやれ、これで田中松男や砂原善作の霊も、仇を討ち取ってもらって喜んでくれているだろうと、胸がスーとして気持ちがよい。
夕食の時、みんなに話した。「おれは元来きわめて内気で小心者だ。子どもの時から蛙や蛇一匹も殺すことはしなかった。 戦争とはいいながら、直接人を殺すなどとは想像もしなかった。 それがまことに平気にできるし、これで亡き戦友も浮かぱれるに違いないと思うと、後味が悪いどころか、かえって気持ちがよく、飯もおいしくいただけるんだから、戦争とはどんな者をも悪魔にしてしまうもんだナ」と。中国兵を殺すことは、敵であっても捕虜は捕虜取扱いの国際法があり、不可であることは、教育を受けた兵ならばみんな承知していることである。しかし現実には、自分たちの食事も足りなくて困っており、また、かれらを本部へ連行しても、結局は試し斬りとか、戦争のみやげ話にしたいなどの好奇心から殺してしまうのが当然となっていた。とくに後方の非戦斗員の兵(将校をふくむ)ほど、無尽な殺傷、破壊、火つけなどの非行を平然と行なうのが実情であった。
(注:この「とくに後方の非戦斗員の兵ほど」という傾向は、あれこれの資料に目を通していると理解できる。前線の兵士はその戦闘の中で殺し合いをしているからそれ以上の余裕はない。後方の予備部隊は弾薬などを前線に補給する以外は暇なので、食糧その他を付近の村から「徴発」したり、前線からの逃亡兵を捕まえると遊び半分に殺したりしている)
12月12日 — 午後、第6中隊(第7連隊)の兵隊が捕虜にした敵兵30名を前の畑に連行し、全員殺して穴を掘り埋める。残酷と思っていたら我々(36連隊)中隊も飛行場方面の残敵掃討に行き、26名の敵兵を捕らえて来て、これは後続部隊の砲兵や輜重隊に分配して処置を委ねる。当然彼らの試し斬りにされたものと思う。……この世の地獄とはどこにもなく、ここ戦場こそが地獄の修羅場であることを痛感する。
農村部に対する容赦ない蛮行
総勢20万近い日本軍が南京へ進軍していくにあたり、その各経路にある街や農村部には、日本軍来襲の正確な情報は伝わらなかった。何よりも農民たちには守るべき田畑や家畜があった。日本軍は各連隊が波状的に街々、村々にやってきた。第十六師団の12月24日の状況報告には、「今次作戦間、兵馬の給養は現地物資をもってこれに充つるの主義を採り(つまり現地調達=徴発・略奪)、…… 幸いに富裕なる資源により、おおむね良好なる給養を実施しえたり」と作戦が正当であったかのように記している。日本軍は(既述の兵士たちの日記でもわかるように)農村の家畜や畑作物、貯蔵穀物を奪って食糧とし、怯えて逃げる農民の多くを殺戮し、女性を見れば強姦した。暴虐の限りをし尽くしたあと、出発するにあたってその家々を焼き払い住民たちを路頭の迷わせた。その後に到着した連隊は、それらの村が焼き尽くされているのを見て、自分たちの食糧を求めて別の村に行き、同様な残虐行為を行なった。あるいは難民として村の周辺で生活していた農民も日本軍に発見されると掃蕩作戦として捕縛され、集団虐殺されることも多々あった。
—— 「背後から撃たれて倒れている者は、逃げる途中で難にあったもの、横臥した形で刀で突かれて血を流している者は生きているうちにやられたもの、口や鼻から血を出し、顔面が青くなり、足が折れているのは大勢から殴られたり蹴られたりしたもの、婦人で髪が顔にかかり、胸を刺されて乳房が割れ、ズボンを着けていない者は生前辱めを受けて殺されたもの、頭をもたげ、目をむき、口を開けて歯を食いしばり、手足を突っ張り、ズボンの破れている者は乱暴されるのを拒んだものである。毎日夜になると集団をなして遠方に逃げ、声が聞こえると草むらや田の畔に隠れる。一番危険なのは夜が明けて敵が高所から遠くを見渡すときで、逃げるところを見つかると弾丸が飛んでくる。中に婦人がいると止まれと合図して、野獣の仕業をなす。言うことを聞かないと殺されるし、言うことを聞いても輪姦されて殺される。それゆえ、農村部の遭難者は都市部よりも多い」(翌年から近郊で死体の埋葬作業をした慈善団体崇善堂の活動報告から)
ただし、これまでにも触れたが、同じ侵攻部隊でも前線の部隊は中国軍守備隊あるいは撤退軍との交戦に忙しく、問題は主に後方の予備部隊であり(時々交代したが)、後方部隊は暇なのでそれを利用して略奪など重ねることが多かった。農村で殺戮や放火を行う場合、敗残兵や抗日の人間が一人でもいるとみなせば(実際にそうでなかったとしても)、村人全員が虐殺の対象となり、女性は強姦の対象となった。
(以上は『南京事件』(笠原十九司)からも含む)
百人斬り競争
【「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校と新聞報道】
戦争が普段の人間の感覚を狂わせてしまい虐殺が平然と行われたことを裏付ける今一つの例としては、百人斬り競争という当時の新聞記事がある。これは上海の制圧を終えて南京に進軍する途上で各都市や町を攻略していく中における第十六師団配下の出来事で、各新聞の従軍記者もその進軍に合わせて競って報道していた。その中で東京日日新聞(現在の毎日新聞:1937年:昭和12年11月30日付)に[第一報]として、「百人斬り競争!両少尉、早くも80人」と題して日本軍将校二人が、どちらが先に日本刀(軍刀)で敵を100人斬れるか、その達成を競い合っている二人の写真と名前を入れた記事が載せられた。「常熱、無錫間の40キロを6日間で踏破した○○部隊の快速は、これと同一の距離の無錫、常州をたつた3日間で突破 した、まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた2名の青年将校が、無錫出発後早くも一人は56人斬り、一人は25人 斬りを果たしたという。一人は富山部隊向井敏明少尉(26)、一人は同じ部隊野田毅少尉(25)。…… その後野田少尉は(三地区で)合計25名を斬り、向井少尉は4名斬り、記者が駅に行った時この2人が駅頭で会見している光景にぶつかった。……
[第二報](12月4日付):「急ピッチに躍進 百人斬り競争の経過既報、南京までに「百人斬り競争」を開始した二青年将校、向井、野田両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を 重ね、二日午後六時丹陽入城までに、M少尉は八十六人斬、N少尉六十五人斬、互いに鎬(しのぎ)を削る大接戦となつた。…… 今回は両勇士とも京滬鉄道に沿う(三つの)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬った。中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負うなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある。
[第三報](12月6日付):”百人斬り”大接戦、…… 向井89─野田78、勇壮!
[第四報]「東京日日新聞」(12月13日付):「百人斬り”超記録”向井106─野田105、両少尉さらに延長戦。[紫金山麓にて12日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで”百人斬り競争” という珍競争をはじめた向井、野田両少尉は10日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五というレコードを作つて、さすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した」と、その達成を誇っている二人の写真と名前が改めて載せられた。
仮に(?)これが事実だとして、銃撃戦が主体の戦闘の中ではなし得ることではなく、捕虜を縛るか部下がが押さえつけて捕虜の首を切っていく以外にはできない。実際に今まさに軍刀によって中国人の首を切ろうとする写真は、南京ばかりでなく意外に多く残っている。その行為を誇るためにわざわざ撮らせたのであろう。事実、南京以降、8年続いた中国の戦場においても各地で「首切り実験」あるいは「試し斬り」は行われている。
その翌年1月25日の大阪毎日新聞の記事の後半に、「その後両部隊長は若き生命に誓つてさらに一挙千人斬をめざし、野田部隊長は○○の敗残兵掃蕩に253人を斬つた」と載せられている。そうだとすればこの数は13日以降に南京の城外において捕らえられた大量の捕虜を前にして加速したのであろう。その大量の捕虜を殺戮するため、ほとんどが機関銃などでの銃殺となるが(途中で銃弾がもったいないから銃剣で突き刺したとの証言もある)、中にはその合間を縫って捕虜を適当に引き出し、「斬殺」したのであろう。実際に南京城外揚子江付近の下関などでの大量虐殺の現場で、「試し斬り」を志願する(自分もやってみたいとする)将兵は多かったし、海軍の将兵も含めた部外の将兵が「自分にも試し斬りをさせてくれ」と言って、軍刀で中国人の首を切り落とす試みをやっていた話もいくつか残っている。
この話はその二人を戦場の武勇伝として扱っているのであるが(記事の中の「赫々たる成果」という言葉がそれを示す)、つまり当時の新聞社にあっても国際法違反の認識が欠如していたということだが、決して知らないわけではなく、そんなことは関係ないとばかりの時代の雰囲気(自分たち自身がそれに加担していた結果)にのまれていたのであろう。いずれにしろ例の南京虐殺はなかったとする人たちによってこの東京日日新聞の記事は捏造記事とされているが、これらの「第三報12月6日」の記事までは南京以前、つまりそこに至る前までの行いであることに留意すべきである。この野田部隊長が地元の鹿児島の友人に宛てた手紙が大阪毎日新聞の鹿児島版に取り上げられている。
「目下中支にいます …… 約五十里の敵、金城鐵壁を木ツ葉微塵に粉砕して敵首都南京を一呑みにのんでしまつた …… 敵も頑強でなかなか逃げずだから大毎で御承知のように百人斬り競争なんてスポーツ的なことが出來たわけです、小銃とか機関銃なんて子守歌ですね、迫撃砲や地雷といふ奴はジヤズにひとしいです、南京入城まで105人斬つたですが、その後目茶苦茶に斬りまくつて253人叩き斬つたです、おかげでさすがの波平も無茶苦茶です、百や二百はめんどうだから千人斬をやらうと相手の向井部隊長と約束したです、支那四百余州は小生の天地にはせますぎる、戦友の六車部隊長が百人斬りの歌をつくつてくれました。まだ極楽や靖国神社にもゆけず、253人も斬ったからぼつぼつ地獄落ちでしょう …… 最後に大元帥陛下万々歳」。
つまり降伏して抵抗のできない敗残兵253人を斬殺したことを公言するとは、本人に罪の意識も何もなく、ただ「勝利」とされた侵略戦争の延長上の英雄的行為として自他共に認められる出来事であった。これがいわゆる南京虐殺の一端であり、もとより本人も周囲にも犯罪の自覚がまったくないから、虐殺などなかったと言われる理由にもなっている。そもそも戦国時代の戦いのように白兵戦つまり敵と逐一向き合う形で百人、二百人斬ったというなら英雄に等しい武勇伝とされてもよいかもしれないが、この野田の場合、江戸時代の首切り人のように相手の体から首を突き出させての首切りであり、ある意味軍人としてはなんの値打ちもない。しかも野田少尉自身が帰国後の地元の小学校の講演で(!)「白兵戦で斬ったのは4、5人しかいない …(普段では)並ばせておいて片っぱしから斬る……」と語ったとある。これが本当のところであろう。すでに銃で撃ち合う時代の中、刀を振り回す余裕などなく、「白兵戦で斬ったのは4、5人」というのも怪しいと思える。
今ひとつ、上記両名の行為がこの戦場にあって大小にかかわらず普通になされていたことを裏付ける記述がある。二人の属する第十六師団長の中島今朝吾中将の南京陥落の日の日記に、「本日正午高山剣士来着す。捕虜7名あり、直に試斬を為さしむ。時恰(あたか)も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頸二つを見事斬りたり」とあって、師団長自身がこれが「虐殺」であって戦争犯罪であるという認識のかけらもないことがよくわかる。現に南京において大虐殺を行った一番の師団が第十六師団であった。
(なお野田少尉の「武勇伝」に対して軍友=六車政次郎少尉が送った詩(歌)は、筆者のサイトの中の『日本の軍歌とその時代背景』の昭和12年に『豪傑節』(百人斬—日本刀切味の歌)として載せている)
【「悲願三百人斬り」の隊長】
今一人、第六師団の歩兵45連隊中隊長田中軍吉大尉は上記向井、野田とは異なる師団であったが、1940年(昭和15年)の『皇兵』(山中峯太郎編:同盟出版社)に掲載された(138篇のうちの一人として)日本刀の写真と説明文「悲願三百人斬りの隊長 愛刀助廣」が証拠とされ、上記二人の少尉とともに1947年(昭和22年)に日本から召喚され、南京戦犯法廷で死刑判決が下され、翌年1月下旬に三名一緒に南京南側中華門外の雨花台で公開銃殺刑とされた。ただこの田中大尉に関しては冤罪であるとし、その理由の一つに歩兵45連隊は南京城内に入っていないとしているが、そのこと自体はおそらく事実で、後述するように実際に第六師団は基本的に城内に留まっていない。ただし裁判上も世間的な目も南京大虐殺と関連して報じられているが、実際にその多くは(少なくとも上記の野田、向井の二人は)南京に至るまでの進軍中に行われたものであって、南京の捕虜虐殺現場でその数を多少増したという側面があるだけで、その事実へに認識が抜けている。
大虐殺のほとんどは12月13日前後の城外での戦闘で捕虜になった何万以上の中国兵たちと、その後に城内から敗残兵として連れ出され、翌年まで続けられた数万ではきかない捕虜と避難民を含めて行われたもので、裁判記録も含めて、そもそもこの区別を理解していない人が多く、南京城外の下関などでは日々数百、数千、あるいは万単位の虐殺であったから、(誤解を恐れずに言えば)それに比べれば百人斬り、三百人斬りなどある意味でわずかなことである。しかも第六師団の南京の滞在は一週間にも満たず、その短い間に一人で斬首を300人も行ったとは(現実的にも状況的にも)考えられず、そんなことを個人が勝手にやっていれば、むしろ大量虐殺の邪魔になるわけで(つまり検察側論告にある「南京攻略の際、田中軍吉は南京西南郊外一帯において軍刀『助広』をもって、捕虜及び非戦闘員三百人を連続して殺し、向井敏明と野田毅は紫金山麓において殺人の多寡の競争を娯楽にした」というのはどちらも事実ではなく)、やるなら向井、野田と同様、田中についてもその行為の大部分は南京に到着するまでの進軍途上で捕らえた捕虜を斬殺することで積み重ねたことであって(南京においてはその数が相応に加算されたであろうが)、実際に第六師団は当初北支那方面軍に属し、その早い時期から南京に至るまで三ヶ月以上各所の侵攻作戦に関わり、中国兵や捕虜、兵士らしい住民、反抗する村人などへの虐殺(斬首も含め)は既述のように早くから始まっているから、時間的余裕を見ても向井、野田よりも田中の300人という数字はあり得るし可能である。結論として裁判はその過程において誤認識をしていると指摘できるものの、筆者は田中を冤罪とは見ない。むしろ彼らより先に南京裁判で銃殺刑にされた第六師団長谷寿夫は、逆に冤罪であると筆者は判断している(後述)。
田中に関しては向井、野田のような明確な傍証記録は見出せていないが、裁判上では、田中の斬首時の写真が提示され、それが自分であると認めている。これに対し、日中戦争に関する著作で計り知れない貢献をされている笠原十九司は、『百人斬り競争と南京事件』において、この写真に関し、裸足と下着姿で夏のものであり南京戦とは関係ないとし、その他も含めて冤罪の可能性を指摘されているが、筆者の見方では(上記の新聞報道にもあるように)すでに8月の上海戦から、つまり南京への追撃戦に移行するときから日本軍の中国軍捕虜への殺戮行為は始まっていて(この三人だけでなく、既述の兵士の日記などからも捕虜の首切りは散見される)、その写真が夏の姿であっても不自然ではなく、それが田中の冤罪の証拠とはならない。繰り返すがその時期からの約4ヶ月の進軍期間での三百人斬りは十分にありうる。とは言え、これが死刑の対象になるなら(なって当たり前としても)、中国内に限らず、その後の太平洋戦争を通じても戦犯として処刑されるべきは日本軍将兵は何百人ではきかず、中国内にいた将兵だけでも少なくとも数千人単位、あるいはそれ以上ではなかろうか。何しろ日本の将兵は敵兵(のみならず反抗する市民、それ以外の無言の市民)に対する「試し斬り」が好きであったことは(資料を渉猟していると中国側からもその瞬間の写真が多く残されているから)確かである。これは江戸時代に続けられた罪人に対する日本刀による斬首の影響が大きいだろう。
ただ田中についての記録は、当時の新聞記事の一部と本人の手記、それらをまとめた本などは残っていて、しかしこれらはある面、戦闘場面も含めて綺麗事にしか書かれていない。ただ一点、田中は「こちらに来て『解決』という新述語を知った。それこそ本当の解決なのだ」(昭和12年8月記、『軍旗を奉じて — 田中軍吉隊長の生涯』奈良部光孝著 2014年)という、意味深な文面を残している。この戦場での解決とは明らかに敵を抹殺するということであるが、同様な意味でドイツのナチスはユダヤ人に対し「最終的解決」という言葉を使って彼らをアウシュビッツ等に送り込み、ガス室で大量殺戮という「解決」をした。なお田中は、「1948年(事実は47年)、中国側から訴追された時、自ら名乗り出たという」(同上)潔い面があった。なお、この田中軍吉は処刑の前に遺書を残しているが、それは戦犯で処刑になった人たちの遺書を集めた『世紀の遺書』に収められている(こちら参照)。
いずれにしても南京以前(そしてその後)のことがどうしても言論上では見落とされ、軽視されているから、筆者はここまでを日記等においても区切りとして前中後に分けているし、その材料を出来るだけ拾い出すなかで、南京より先に行われた「百人斬り」を含めて、その全体を把握しようと努めている。この三人の為した出来事は、時代的状況を含め、戦争がいかに人を異常な心理状態に陥れるかを物語っている。戦時下の犯罪の温床は個々の人の心にあるのではなく、その異常な心理状態に人を陥れる戦争というものを生み出したその時代の雰囲気と社会背景(征服欲と排他的差別主義)にある。
