50年戦争の概要
<大量虐殺の時代>
戦争は、単に前線の兵士同士の戦いだけではなく、その戦地となった街の破壊はもちろん、周辺の数多くの住民の犠牲と惨劇を生む。いわゆる戦史などではそれらは取り上げられることはなく、裏側に隠されたままである。とりわけ第一次世界大戦より、戦車や飛行機が登場、第二次世界大戦からはミサイルが登場し、これら近代兵器(毒ガス類も含む)は敵方の顔を見ずに攻撃できるから、攻撃側がほぼ良心の呵責を感じないですむという「利点」がある。これが古代や中世戦国時代の戦争とは基本的に異なる面である。この近代科学兵器の開発の流れからして、第二次世界大戦(日本では太平洋戦争)において原爆が開発され、広島・長崎に投下されたのはある意味必然であった。ただこの場合、その10日余り前に連合国が敗勢にある日本に全面降伏を求めるポツダム宣言を発していて、当時の軍政府が降伏を潔しとせず、拒否した結果であるが、さらにその10日ほど前に米国は原爆実験を成功させたばかりという事実があって、その最新兵器を後ろ手にして日本に降伏を迫っていたわけである。
その原爆を投下した米軍の飛行機(B29爆撃機)は高度1万m近くを飛び、その飛行士たちは、はるか下方に街の建物が見えるだけの高さから投下のボタンを押すという、自分に与えられた任務を遂行したにすぎなかった。そのボタンを押す瞬間には、そこに何十万の人々の暮らしがあるとは考えもしなかったであろう。ただ、その投下後に大きな閃光が走り、街が巨大な火に包まれた光景には恐怖を感じずにはいられなかったとも言う。その任務を負った飛行士たちに、罪の意識は感じなかったのかという問いかけが事後になされるが、その問いかけ自体に無理がある。もちろん彼らが後にフィルムなどで見ることがあって、その惨状に驚くことはあったとしても「この戦争を終わらせるためにはやむえなかった」と答えるしかない。事実、その原爆投下の命令を下したトルーマン大統領は「双方に50万人ずつの死者を出さずに戦争を終わらせるためには必要なことであった」という姿勢を最後まで崩さなかった(もちろん日本に全面降伏を求める際に、開発したばかりの原爆の投下を予告する方途はあったと思われるが)。実際にその後日本は降伏し、戦争は終わった。しかし両都市で合わせて20万人以上の住民が犠牲になり、その大惨事とそこから生き残った人々の受けた長年の苦難は、どのように語っても語り尽くせるものではない。これは3月10日の東京大空襲(犠牲者約10万人以上)をはじめとする日本の各都市における空爆被害も同様で、原爆を合わせた全空爆では50万人近くの犠牲者が生じている。
空襲被害者の言葉である。——「戦争は、武器を持つ兵士同士の戦いの場ではなかったのでしょうか。罪もない母や弟まで爆撃を受けて殉難し、一片の遺骨も残ってはいないのです。…(敵軍の)戦果として、まるで戦場以上に無残で、常識のない戦いをしたのです」(『東京大空襲戦災誌』第2巻:体験記録集より)
実際に20世紀は大量虐殺の時代と呼ばれ、軍人が戦場で戦死する数以上に、その前線の向こう側の一般市民の死者のほうが多いケースがほとんどとなった。例えば20世紀に続いた世界の戦争で殺された1億6千万人の8割は民間人となっている。
<大陸進出から日清・日露戦争へ>
日本は明治維新により富国強兵を掲げ、軍隊の強化も含めて急速な近代化を図った。すでに欧米列強が次々と中国などの利用価値の高い地域を租借権という名で植民地化を推し進めている状況に、追いつけ追い越せと、自らを大日本帝国と称し、朝鮮と中国に利権を求めて進出を図った。日本政府は朝鮮王朝(李朝)に開国を求めたが、王朝は鎖国政策を守り、拒否していた。明治8年(1875)、日本は朝鮮近海を測量していた軍艦が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、上陸して砲台を占領、守備兵を殺害し武器を略奪した。日本は朝鮮側の責任を問いつつ開国を迫り、翌年に日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国した。これは一種の不平等条約であった。その結果日本は朝鮮への内政・軍事干渉を行い、朝鮮の宗主国であった中国(清国)と対立して日清戦争(明治27-28年:1894−1895)を起こし、その勝利によって台湾を植民地とした。
なお、この日清戦争の旅順攻略戦の際、日本軍が清国軍敗残兵掃討中に、中国人兵士と民間人が万人単位で虐殺される事件があった(旅順虐殺事件)。この詳細は当時の外国人従軍記者3人によって欧米に報道された事実があり、日本は外交的に苦境に陥ったが、今では歴史的にも取り上げられることはあまりない。この戦争の戦死者は日本軍1万3800人(うち病死者1万1900人)、中国側は3万5000人とされている。
一方この日清戦争の裏で、朝鮮では数百万人に及ぶ「東学党(農民軍)の乱」が各地で続いて起こり、その後半の乱で日本軍は朝鮮に派兵して反乱軍の殲滅作戦を行い、農民軍の竹槍や火縄銃に対して日本軍は優れた銃器で圧倒、捕えた者たちを銃殺、刺殺、焼殺などで次々と処刑、朝鮮人全体の死者は30万人、戦闘での死者は3−5万人とされるが、日本軍の死者はわずかであった。また植民地とした台湾では武装蜂起による抵抗運動が各地でおこり、半年の間、平定作戦が行われた(乙未戦争)。
続いて中国の支配権が弱くなった満洲(中国東北部)と朝鮮半島にロシアが進出を図ってきて、その対立で日露戦争(明治37年:1904)となったが、優勢とされたロシア軍に対して日本は薄氷の勝利を得た。戦死者は日本軍8.8万人以上、ロシア軍8.2万人以上、このうち日本軍の病死は2.7万人という異例な数字となっている(その大半の原因は脚気という栄養不良とされる)。そして日本は満州の南満洲鉄道と遼東半島大連関東州に租借権を得て、関東都督府を設置、その守備隊が関東軍となった。この関東軍によって後年の満州事変が起こされる。結果としてロシアは朝鮮半島への干渉から撤退、日本は韓国を保護国とし(明治38年:1905)、明治43年(1910)には日韓併合という名目で朝鮮を日本の植民地とした。しかし台湾と同様に、明治40年(1907)から5年間、朝鮮全土にわたって独立運動が展開され、それに対して日本の討伐軍が派兵され、やはり多数の犠牲者が生じた。
<第一次世界大戦とシベリア出兵>
大正時代には第一次世界大戦(大正3−7年:1914−1918)でドイツは劣勢に立たされ、中国の租借地ではドイツの守備軍が手薄になり、その隙を狙って日本は連合国側として参戦し、ドイツ領の南太平洋諸島(南洋諸島)と中国の山東半島に権益を得た。この南洋諸島は後に米軍との激戦の地となる。続けてロシアで起こった革命に対し、日本は米英仏伊等と共同で「シベリア出兵」を行ったが、各国の派遣が数千から最大8千人に対し、日本だけが7万3千人という協定をはるかに超える大軍を派遣した。出兵の目的は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」であったが、1年半後にチェコ軍は引揚げを終え、各国も撤兵、しかし日本軍はその後2年半もの間居続けてシベリア奥地まで侵攻し、ロシアと自国に無益な犠牲者を生じさせ(イワノフカ事件や尼港事件など様々な事件が発生)、その地のロシア住民に数多の危害を与えた(大正7−11年:1918−1922)。なおこの時(大正9年:1920)、革命や内戦の影響で多数のポーランド人孤児がシベリアに残されていて、日本軍はその約800人を救済して日本に引き取り、その後全員を帰還させたという美談が残る。ただその後、この出兵は「なに一つ国家に利益をもたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評された。
<満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へ>
昭和に入ると、日本軍は6年(1931)、満州の一部の租借権を越えて支配しようと、策略によって満州事変を起こして翌年満洲国を設立、それに対して国際的非難が高まり、8年(1933)、日本は国際連盟を脱退してしまった。その延長で12年(1937)には日中戦争(支那事変)に突入、当時の近衛文麿内閣は「国民精神総動員運動」を提起し「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」のスローガンを掲げ、国内は軍事一色となった。その日中戦争が泥沼化したまま16年(1941)には米英に宣戦布告して太平洋戦争に突入する。それは日中戦争に対する米英等からの非難が高まり、経済制裁が強められていたなかで、なおも15年(1940)、日本は中国のルートから仏印(フランス領インドシナ)へ進駐、その結果、米英はさらに日本への経済制裁を徹底し、それによって石油等の資源が輸入できなくなり、苦境に陥ったという状況に起因する。16年(1941)、日米交渉はギリギリまで続けられたが、米国の要求はあくまで中国や仏印からの撤退であり、日本の軍政府はそれは受け入れられないと16年(1941)12月8日、開戦に踏み切った。この日本の開戦は真珠湾奇襲攻撃によって始まったと一般的に報じられるが、同時にフィリピンやマレー半島、インドネシアにも侵攻し、その意図は石油等の資源を求めてのことであった。これにより日中戦争は縮小されたかと言えばそうではなく、占領した諸都市を中国軍に奪還されることを恐れてほぼ同じレベルで終戦の20年(1945)までの8年間、戦闘は継続された。ただし太平洋戦争開戦3ヶ月前の9月、海軍飛行隊は中国から撤退して開戦に備えて各地に配備され、その後の中国内への空爆は陸軍が続けた。
いずれにしろその8年間で中国民間人の犠牲者がどれほどの数に至っているかなどは、我々日本人にはあまり認識されていない。その全体の数からすれば、初期のいわゆる南京事件などの犠牲者は、多少目立った例に過ぎず、その後の8年間で何があったか、想像に難くない。さらに太平洋戦争開戦による東南アジアへの戦線の拡大により、その海外各地で中国を含めて犠牲になったアジアの人々の数は2000万人をはるかに超えるが、日本人の内外の軍民合わせた死者は、約310万人である。
<日本軍の空爆>
昭和6年(1931)の満州事変から20年(1945)の終戦(敗戦)までを15年戦争と呼ぶ。この15年間は世界的にも空爆の歴史と言ってもよいが、満州事変突入後に、日本は飛行機からの「手投げ投下」で錦州爆撃を行い、当時の世界を驚かしている。まだ本格的に戦闘機や爆撃機が開発されていない複葉機の時代で、偵察機を使って爆弾を落とした。その6年後、日中戦争へ突入すると、開始早々から新たに開発された戦闘機・爆撃機でまず上海や南京に対して空爆を開始(その後に南京へ侵攻)、それは戦略爆撃というものであったが、悪天候以外は連日複数の都市へ攻撃を仕掛け、その後に陸軍がその各都市へ侵攻していくものであった。そしてこの空爆は終戦までの8年間、中国全土にわたって行われ、中国政府の統計によると1万2千回を超え、空襲犠牲者は約30万人となっている。なお要塞都市と言われる首都重慶だけは空爆だけの攻撃で5年に渡って218回となっている。ちなみに米軍の東京への空爆は(数え方によるが)最大300回近く、全国では合わせてほぼ1200回とされ、広島・長崎への原爆などを合わせた犠牲者は約50万人近くである。なお第二次大戦下の欧州でもドイツと米英連合軍で激しい空爆合戦が行われていたが、その犠牲者は合わせて40−60万人とされている。
余計なことながら、太平洋戦争の終盤から8ヶ月に渡り、米軍の圧倒的な数の爆撃機による日本の都市への攻撃を聞いた中国の人々は、決して日本に同情のかけらも持たず、逆に胸のすく思いをしたであろうことは、その立場になってみるとわかることである。それはナチスドイツが最終的に連合国からの猛烈な反攻により焦土とされたことに対して、それまでにドイツに蹂躙されてきた周辺各国の人々が持った感情と同じであることは間違いない。今の時代、そのように相手の立場になって物事を見ることは欠かせないが、そんなことを顧みず、当時の日本の戦争の意義などを得意然と説く人もいる。しかし彼我において日本が起こした戦争が、上記のような多大の犠牲者を出したことを認識すれば、それは手前勝手な見方であると言わざるを得ない。
戦争の本質というのはお互いの殺し合いであり、戦場で敵である人間を殺すことは罪にはならず、むしろ一つの功績であるが、敵として相手を殺す場合、その時の相手の人間性や背負っている家族の存在など考えもしない。殺すか殺されるかの非日常の世界では人間は本来の社会的感性を捨てなければならず、そして生き残って戦後になって日常の生活に戻ると、心に深い傷(PTSD)を負ってしまうことは内外の数々の証言と調査で明らかである。
そして何よりも飛行機による空爆というやり方は、その爆撃による地上の人々の惨状を見ずにすむから、攻撃側に精神的負担はほとんどない。その結果、戦場ではない地上では「まるで戦場以上に無残」な状況が生じ、惨劇が繰り広げられた。戦争は数えきれない無惨な死者を生むということだけでなく、体に傷害を負った人も含め、残された遺族に、ただひたすら悲しみと苦しみを生む。それまで何気なく多少の夢や希望を持ちながら地道に生きていた個々の人々の日常生活が、ある日突然断たれてしまうのである。それは単にこうした戦争で何万人、何百万人が犠牲になったという問題ではない。突然断たれた人々のその後に送ったであろう人生、そしてその彼らを突然失った家族なども含めれば、その影響は数倍どころか10倍には及ぶであろう。しかし戦場の記録では、我が軍の損失何名あるいは何機、敵の損失何名あるいは何機という書き方で済まされる。
<虐殺の連鎖>
現今、内外のメディアで扱われる一般市民への大量虐殺は、ナチス・ドイツのユダヤ人に対するものがよく知られているが、ナチスはゲルマン民族を中心とする仮想のアーリア人種優越論によって他国を支配するためという大義を掲げて戦争をしかけ、同時にユダヤ人を劣る人種とみなして大量虐殺を行った。そればかりでなく、ナチス・ドイツは第二次世界大戦を仕掛けた当初から、侵略した東西の国の村や町を手当たり次第に破壊し焼き尽くし、反撃するレジスタンスが一人二人でもいると、その住民のほとんどを虐殺していった。またナチスは途中から侵攻したソ連(ロシア)軍の捕虜数百万人を虐殺したとの記録も残る(最終的にソ連の軍民の犠牲者は2700万人ともされ、ユダヤ人の犠牲者より遥かに多い)。そしてナチスはそれらの戦果を誇るべきものとして、フィルムなどの記録に残した(街中で住民の首を吊るした姿が知られる)。それは自分たち優越人種(選民)が行った正義の戦争と定義してのことであったが、最終的に勝利した連合軍がそれらを押収してその残虐行為が明らかになった。なおその後ソ連も連合軍としてドイツに反撃し、それまでに自分たちが受けた被害への憎しみもあって、ソ連軍はドイツ人に対し数々の残虐行為に及んだ。
ドイツと同じように日本はアジア圏の中で「皇国日本が東アジアを統治するための正義の戦争」(日本が欧米によるアジアの植民地を解放し、共存共栄の世界を築くことを目的とするもの)との大義を掲げて、日中戦争(支那事変)を継続しつつ、大東亜戦争と称する太平洋戦争に突入し、そこから東南アジアに戦線をむやみに拡大していった。それまでの日中戦争においても、日本軍に抵抗する現地住民がいれば(それは自国を侵されているから当たり前なのであるが)「匪賊(ひぞく)を討伐する」として日本軍はナチス軍と同様にその村を砲撃しつつ焼き払い、住民の虐殺もした。また何よりも日中戦争では当初より北支那方面軍司令官が「捕虜は取らぬ方針」と指示していた。捕虜を残さないということがどういう結果になるのか、少し考えてみればわかるであろう。そうした裏側の事実が報道されることはなく、表向きの進撃の結果のみを国内の新聞各紙は皇軍の戦果として囃し立て、国民もその報道に逐一沸いた。
<防衛戦争ということ>
ちなみに、日本が外国から国内に仕掛けられた戦争、つまり自国防衛のために行った戦争は(幕末の三日間の薩英戦争などを除き)明治以来存在しないこと、そして近代の日本の戦争はすべて日本側が他国の土地で行った戦争であり、日清戦争は半ば朝鮮を舞台とし、日露戦争は中国を舞台とした。それでも日本軍は正義の防衛戦争と呼んだ。ナチスドイツと同様に、つまり侵略する側が必然的に行う虐殺を、日本軍は相手国の中で行ってきたし、アメリカもベトナム戦争(1955−1975:米軍の介入は1961から)では北ベトナムにおいて無数の空爆と村々を焼き払うという「焦土作戦」で数々の虐殺を行った。現在に至ってもアメリカのみならずソビエト連邦崩壊後のロシアも、「大国」としての威信をかけて他国への介入戦争を各地で続け、近代兵器によって民間人を殺戮し続けている(これは2018年時点での筆者の記述であるが、この4年後にロシアのウクライナ侵攻が始まった。その侵攻のやり方がその85年前に中国へ侵攻した日本軍と酷似していて、筆者は唖然とした。強権を発動する指導者というものは、歴史から決して何も学ばないことがわかる)。あえて日本側が侵略された例として言えば、終戦(敗戦)直前、日本が植民地とする満州に対し、ソ連=ロシア軍が日ソ不可侵条約を破棄して侵攻を行ったことで、その結果満州の日本人居留民が虐殺や収奪を受け、その逃避行で集団自決を含む多くの死者を生じたことがあげられるが、これとて日本軍の中国の占領地のことである。
<銃後:国内の様相>
日本では国外の戦争の前線に対して、それを後方の国内で支える活動を「銃後」と呼び、日中戦争からは国家総動員法などによって人的、物的な資源を戦争に向け、銃後としての総動員体制が築かれた。生活のすべてが統制され、食糧も軍に優先的に供出され、衣料品まで配給制となった上、家庭内の鍋釜を含む金属類や、寺の梵鐘も供出の対象となった。そして国民は「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」という標語(スローガン)のもとで耐乏生活を強いられ、戦場に行った青壮年男子の労働力を補うために、女性や子供までが武器と食糧増産のために軍需工場や農場に通った。
小学生は迫り来る空襲に備えて地方に集団疎開となり、しかし地方も食糧は不足し、子供たちは家を離れた淋しさとひもじい思いの中で生活した。学生・生徒は当初は勤労奉仕の軽作業であったが、そのうち授業の何分の一かが勤労動員となって軍需工場などに行かされ、敗戦となる年の春からは小学生以外の授業は全面停止、12歳以上はすべて勤労動員とされた。
一方で思想統制も厳しく、大正末年に制定された治安維持法を根幹にして、少しでも反戦あるいは反皇国的な言動は取締りの対象であった。仮にメディアが戦争遂行に逆らうような報道をすれば、即座に発行停止の処分を受けたから、報道の自由などなかった。もとより特に日中戦争からは、当時の主要な新聞・通信・出版社の代表が内閣情報部の参与として協力体制に組み込まれていたから、軍の発表にそったものしか掲載されなかった。またこの時期から軍歌が新聞社などを通じて懸賞金付きで募集され、大量生産された。一般の人々に対しては、街角に憲兵が見張って目を光らせていたし、各学校にも配属将校が派遣され、将校は校長よりも権限を持っていた。各町の住民は隣組によって組織され、少しでも戦時体制に逆らう動きをする者は「非国民」として周囲の非難の対象となった。
戦地への召集は名誉なこととされ、召集兵は街角や駅のホームで万歳斉唱で送り出された。仮にそこで母親が出征する息子に「生きて帰ってこい」と言葉を発すると、憲兵に「この非国民が」と殴り倒された例もある。召集は学校の教員にも及び、不足する兵員を補うため、昭和18年(1943)には学生の徴兵猶予制度が解除され、20歳以上は徴兵の対象となり(翌年は19歳以上)、秋に学徒出陣式が盛大に行われ、同時に女学校を含めて繰上げ卒業が実施された。これは労働力を少しでも早く確保するためであった。
こうした中で、「銃後」の町内会や学校では防火・防災訓練が定期的に行われていた。それは「敵軍」からの空襲に備えるためであったが、意外にも昭和12年(1937)から行われていた。つまり日中戦争開始の時からであり、日本軍はそこから中国の各都市に対し、海軍飛行隊を主力にして荒天以外、毎日のように空襲を行っていた。そのことから、日本も遠からず空襲を受けることを想定したものと思われる。実はこの訓練には防毒ガス訓練もあり、日本軍はやはり中国において毒ガス投下も散発的に行っていた。
ちなみにこの時代のスローガンとしては他に「遂げよ聖戦 興せよ東亜」「立派な戦死と笑顔の老母」「生めよ殖やせよ国のため」「石油の一滴、血の一滴」「進め一億火の玉だ」「一億抜刀 米英打倒」などがある。この一億とは、当時植民地であった台湾や朝鮮半島の人口を含めた数である。
<集団自決と特攻作戦>
昭和19年(1944)半ば、南太平洋戦線で日本軍は生命線としていたサイパン・テニアン・グアム島を米軍に奪還された(前二島は第一次大戦で日本がドイツから奪った島で、それによって沖縄などから多くの人々が移住していた)。その一連の戦闘で、日本軍約5.5万人が戦死、とりわけサイパン島に住んでいた日本人居留民約1万人が追い詰められて死亡、その多くが集団自決という惨劇が生じた。その理由は日本軍の「戦陣訓」において「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」の影響が大きく、追い詰められた日本軍は、それを住民にも強制した。そしてこの住民の集団自決の悲劇は、翌年の沖縄戦でも繰り返された。
この敗北により太平洋戦争の勝敗はほぼ決していた。米軍はこれらの島に最新鋭大型爆撃機B29や戦闘機を大量に配置し、そこを基地として11月下旬から日本本土への本格的な空爆を開始(それ以前に米軍は6月中旬にB29によって中国から北九州の工場を爆撃、沖縄へは10月10日に空母から発進した艦載機による大空襲を行なった)、それは日本の敗戦の日まで続けられたが、テニアン島から発したB29が広島・長崎への原爆を投下した。
この時期までに日本軍は多くの戦艦や飛行機を失い、使用できる戦闘機や爆撃機は限られ、その結果、若者による各種の特攻隊が生み出されることになった。特攻隊は戦闘機ばかりでなく、人一人入れる潜水艦のような人間魚雷回天、あるいはベニヤ板で作ったボートなどもあった。それは11月からのフィリピン戦線や、翌20年3月からの沖縄戦で実施されたが、途中で撃墜されたりその前線に到着するまでに輸送船ごと撃沈され、目的を果たせないまま死亡した例が多かった。その特攻隊員の多くを占めたのが学徒兵で、その理由は軍にとって安上がりの訓練ですむという理由もあったという。「本土決戦」の前哨戦とされた沖縄が6月に陥落すると「一億玉砕」が唱えられた。なおこの沖縄戦では米軍の戦死者約2万人を含めて20万人以上が戦死、そのうち沖縄の民間人の死者は約10万人、兵士として召集された沖縄人の死者は2万人を超え、合わせて12万人以上となっている。
<犠牲者数など>
太平洋戦争開戦と同時に東南アジアに軍事進攻したのは、大東亜共栄圏を打ち立てるという大義は別にして、欧米からの経済制裁によって石油や鉱物資源を獲得(略奪)することが目的であったが、その東南アジア諸国は、ほぼ米英仏蘭豪の植民地であり、日本軍は事前に綿密に計画した速攻作戦により東南アジア諸国を次々と占領していった。欧米諸国の重圧化にあった国の中には一時的に日本軍の占領を喜ぶ国もあったが、その後は日本軍による重圧のほうがずっと大きくなり、反乱軍も増えていった。
日中戦争を含めてこれら全体を「アジア・太平洋戦争」と呼ぶが、その主な犠牲数は、フィリピン111万人(うち民間人100万人)、これ以外は概数で資料によって相違があるが、インドネシア400万人、ベトナム200万人(多くが餓死)、インド150万人(大飢饉と戦乱で食糧ルートが閉ざされたための餓死が主)、ビルマ(ミャンマー)15万人、マレーシア・シンガポール10万人、朝鮮20万人などを合わせて900万以上から1000万人となっている。これに中国の最低1000万以上から2000万人とされる犠牲者が追加される。またこれ以外に米軍の戦死者は推定20万人(欧州での戦死者を除く)、英国軍は約14万人(植民地のインド兵も含む)、その他の連合軍で7万人とされている。これらの犠牲者の大半は戦闘によるものではなく、捕虜となった兵士たちが、よく知られる泰緬鉄道建設などに投入され、過酷な労働による病死や虐待死などによるものである。
繰り返すが、これらに相対する日本側の死者は310万人である。毎年8月の終戦記念日には常にこの310万人の数が挙げられるが、どうして日本が被害を与えた国々の犠牲者数が取り上げられることがないのか。あまりにもその数が多すぎて、メディアも怯んでしまっているのではないか。現今の我々は、戦争自体の反省は良いが、自分たちの被害面ばかり語る傾向にあり(筆者も当初はそうであった)、それは片手落ちであると思われる。我々が受けた米軍による空襲被害と同様なことは、上記のように日本軍も中国を中心としてそれ以上に行なっている。いずれにしろ310万人の背後には数千万人の犠牲者がいるということを我々は知っておかねばならない。仮にも終戦記念日の式典において、そのアジア諸国の人々の慰霊もかねて行われるなら、アジアの人々から歓迎され、日本人の評価が上がるに違いない。
<国際法の無意味>
改めて、米軍の無差別爆撃は国際法違反であるとはよく言われることである。またソ連(ロシア)が敗戦間際の瀕死の状態にある日本の隙をついて宣戦布告、軍民150万もの日本人の居留する満州や朝鮮に攻め込んで、その居留民に対して殺戮、強姦、暴行、強奪を行い、そこから居留民が難民となって日本への逃避行中に死亡・行方不明となった者が約8万2000人を超えたこと、さらにソ連軍は男性(だけではなく看護婦などもいたが)および軍人60万人をシベリアへ連行して抑留し、強制労働を課すなどして、シベリア抑留中の死者は約5万5000人となり、合わせて14万人近くが8月15日以降の死者となっていることなどをどう見るか。当初筆者はこのソ連軍の卑怯なやり方に怒りを覚えたが、これも米英を含む連合軍が半年前に承認済みのことであった。ナチス・ドイツもやはり独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、既述のように大量虐殺をロシア人に行っていた。またそれ以前に日本は中国へ宣戦布告をせずに、まず飛行機による無差別爆撃を上海・南京に仕掛け、それに続いて陸軍が各地に侵攻して民間人の殺戮を含む犯罪を行なった。このようにどの国の軍隊も国際法違反の戦争犯罪を行なっている事実は否定できない。戦争状態の中では、優勢にある兵士は敵方に対して「何をやっても構わない」という妙な精神状態にあり、その個々の兵士の行動を抑止できる軍隊があるのかどうかも疑わしい。
戦争の現場は常に敵の動きを想定して、自己防衛的に先んじて危害を加える行為が基本であり、戦争犯罪というのは、かつてそれをジュネーブ条約で国際法として定義したことが無意味で愚かしいほどに、あらゆる国の戦争の現場で国際法は無視され、安易に「犯罪」が行われ続けている。戦争が必然的に犯罪を生むのである。そもそもその国際法は、戦争が行われることを前提としているという矛盾がある。人間というのは、ある状況下で思わず為してしまう悪行・非道は、誰もが同じことを為してしまう可能性を持っている。それはその人がそのような状況下に追い込まれてしまうかどうかの違いだけであって、自分だけは、あるいは日本軍だけはそんなことはしていないと言い切ることは決してできない。戦争は、人間を非道な行いに走らせる状況をただひたすら作るのみである。
ただ、例外的に現場の指揮官が人格者で、現地の人々に被害が及ばないように、むしろ彼らを守るべく努めたという数少ない例も南京や他の各地にある。そしてある種の人たちはその例外的な例を持ってして、日本軍の正当性を言う。それを言うならナチスドイツの中でも個々の現場で指揮官が兵士の暴発を抑え、密かに住民を守った例もなくはないのである。それはあくまでその指揮官個人の良心に従った判断によるものであって、それで軍政全体の流れと行為を善しとするものにはならない。逆に多くの将校は現場で非道な行いを部下に命令し、その結果、戦後、現地に残された下級将兵や軍属(朝鮮・台湾兵が主)たちが、連合国によりBC級戦犯として多く摘発され、処刑された。その数は千人近くに上る。そして非道な行いを命令した将校たちは敗戦とともに、その立場を利用して先に日本へ逃げ帰っていたのである。
<放置された日本の軍民>
このアジア・太平洋戦争による日本人の戦死・戦災死者310万人の内訳は、軍人・軍属は約230万人(うち海外が210万人で、そのうち餓死が6割、つまり餓死者はおよそ120万人以上という驚くべき数字がこの戦争の実態を物語る)、民間人約80万人(同30万人)である。実は最後の一年間だけで軍民合わせた死者はその3分の2、つまり200万人以上になる。どれほど無謀な戦争を日本の軍政府が国民に強い、悪あがきをしたかがこれだけでもわかるし、とりわけこの一年間は空襲被害を含めて日本の人々に悲惨な体験を生じさせ、一家全滅で子供も死ぬか、死ななければ孤児となった。また軍需工場への学徒勤労動員による中学生以上の戦災死者は約2万人で、これもほとんどが最後の年である。この軍需工場への動員は朝鮮から連れてこられた労働者もいて、当然彼らの中にも少なからず死者が出ている。そして終戦後に満州とシベリアなどで生じたおよそ14万人の死者、そして路上に放置されて餓死した孤児たち、また兵士の餓死者のうちの多くは終戦後に東南アジア地区に放置された兵士たちであり、彼らは密林の中に逃げていて、終戦自体知らされずにいた。またその大半は骨も回収されないままで、これが皇軍兵士の結末である。
このような戦争の実態の中で、戦死者をすぐに英霊という言葉で称えようとする人は今でも多いが(それも人の思考力を奪う言葉の一つである)、英霊と言われて本心から納得する遺族はまずいない。その大きな悲しみの持っていきようもなく、むりやりそれで納得させようとする遺族はいたであろうが。ただ、三人の息子を戦死させた母親は、一人目は英霊として納得しようとし、しかし三人目を失うと、三人とも犬死であり、国に殺されたと思うに至り、日本という国を全く信用しなくなった。当然であろう(個人的に筆者は19歳の妹を病気で失ったことがあるが、その時の両親の姿は見ていられなかった。それが三人だと親はどうなのだろう)。繰り返すが、太平洋戦争で海外の戦死者のうち6割は餓死者で、その餓死者も英霊のうちであり、一方で戦災死者は、英霊の片隅にも置かれず、何の補償もされていないのである。
<戦後の長い沈黙から>
いずれにしろ内外で戦争による悲しみと苦しみを背負わされて生きてきた人々が、戦後の長い沈黙を破って自発的に語り始めたのは、およそ50年後の平成6年(1995)前後からであり、ピークを迎えたのが戦後70年(平成27年:2015)前後である(これは中国の被害者においても事情は同じである)。つまり若年時に過酷な戦争を経験し、それはあまりにも辛く悪夢のような経験であったから、家族や周囲の人々に何も話すことなく死んでしまった人たちのほうが多いと思われるが、それでも寿命をもらった人々が老年期にきて、自分が死ぬ前の今のうちに語っておかねばとやっと積極的に語り始めたことによる。
ただそれでも早いうちからその体験を自費出版したり、出版社の企画に応じて回想録を書いたり、志のある方々が集って体験記録を本にしたりと、いわゆる戦記物も含めてその累積数も馬鹿にならず、日本ほど一つの時代の戦争を多方面で出版してきている国もないと思われる。それは当時の日本が収拾のつかないほどに戦線を拡大し、とても勝ち目のない戦争の継続に軍政府が固執した結果、多方面にむやみな犠牲者を出したからであり、この戦争が人々にもたらした傷は底が知れないほど深く、多様に拡がっているという他ない。
以上は明治以来の日本の戦争に関する筆者なりの概説であるが、この中に触れている事項についての詳細はこの「日本の戦争」の稿全体でほぼ記述している(ただし太平洋戦争関係は年史的にも未着手であるが、全体の構成については下記参照)。
<戦後の問題>
・戦争責任について
実は日本の敗戦時、日本の軍政府が行った見逃せない大きな愚行がある。それまでの戦時関係記録(内外の軍の記録や写真やフィルムまで)が、軍政府の指示によって8月15日の「終戦の詔勅」の直後(あるいは先に敗戦を知る軍関係者によっては数日前から)すべて焼却された。その上で米英等の連合国占領軍を受け入れた。この行為はしかし、「皇国の正義の戦争」というものをみずからが否定するものであった。なぜなら仮にも聖戦と信じていたのであれば、その証拠となるべきものを焼却するわけがない。つまりはつい数ヶ月前までに特攻死した「英霊」もいなかったことにされたわけで(記録が廃棄されたから、その英霊とされる若き特攻隊員たちの正確な数も把握されていない)、この戦争自体がなかったことにされようとした。それはあれほど国家統制により「欲しがりません 勝つまでは」と、辛抱を強いつつ戦争協力へと駆り立てた全国民をも裏切る行為であった。また戦時下で街角の至るところに貼られ、各種のスローガンを掲げたポスターも焼却された。仮に残っているのは個人が密かに取り置きしていたものである。極め付けは各市町村役所の兵事係の記録、つまり出征記録まで焼却されたことである。あり得ない愚行の極みで、その結果、東京を含めた全国の市町村では戦死者の正確な数が把握されていないという事実がある。
こうした事実を認識もせずに、ある種の論陣を張る人たちは、日本軍が外地において迫害や虐殺などの蛮行をしたという「証拠はない」と主張する(その証言者に対しては「捏造」とし、その報道を偏向と決めつける。なぜわざわざ捏造する必要があるのか、なら自分で捏造の例を見せる必要がある)。そして大東亜共栄圏でアジアの平和を構築するという大義に燃える「皇軍」が、悪行をするわけがないとする。しかし大義と戦争の実態は別物であり、ましてや日本軍だけが清く正しくあったとはとても思えない。そもそも清く正しい戦争などあるのであろうか。確かに日本では証拠となるものは焼却されたから残されていない。ところがアメリカという国はどんな記録でもきちんと残す精神があって、日本人研究者やジャーナリストがアメリカ国立(議会)図書館などに行って詳しく調査して当時の日本の事実を掘り起こす作業を地道に行っている。サイパン島や沖縄における惨禍の写真や映像はすべてアメリカのものである。
それはおくとしても、日本軍兵士であって帰還できた人たちが加害者としても書き残した証言や記録が少しずつ出て来て(昭和55年:1980以降、つまり戦後40年前後から)、今は相当な量になっている。ただ、かつて自分が行った罪(それは個人の問題ではないが)を思い出すのも辛く、家族にも何も語らずに死んでしまった人たちのほうがはるかに多い。しかもその戦争の渦中にあっては、それを罪悪だと認識していなかったという証言も見られる。あるいは戦闘中にそばにいた戦友が殺されたからその復讐としてという場合もあるであろう。
つまりこの戦争は「皇軍」が行う「聖戦」あるいは「正義の戦争」(昔からどの国も、ほぼ全て自国の戦争は正義として遂行しているとする)と定義され、将兵にはある種の使命感が植え付けられていて、自分たちの残虐行為を当たり前のことと思わせていたのであろう。ナチスドイツと同じで、相手を同等の人間だと見なしていなかったから家畜を殺すように平気でできた面もある。そして戦争が終わって自身に正常な感覚が戻ってから、「おれは何ということを…」と密かに悔いたのであり、そこから沈黙を保ち続け、そのトラウマに終生苦しめられ、家庭崩壊に至った人たちもいる。あるいは戦友たちを失い自分一人が生き残って申し訳ないと重荷を背負い続ける人もいる。それに対し戦時中当時の自分の立場を後生大事に守り続ける元将校たちもいて、とりわけ部下に命令するだけで、自身で手を下さなかった上層部の将校たちはそうであり、彼らはその戦争下での出来事はやむ得ないことだったと言う。心に深い傷を負い、悔恨の気持ちと苦しみを背負い続けるのは、前線に立たされた個々の兵士たちなのである。そうした現実の中で、この戦争を煽った日本政府が(ドイツと違って)正式に内外に反省、謝罪することが今に至るまでないのはなぜなのか。仮に謝れば、なかったことにしようとしたこの無謀な戦争を認めることになるからなのであろうか。
なぜ日本の政・官・軍人は自分たちが行なった戦争に対して平然と無責任なことを為し、戦後は知らんぷりを決め込んでいるのか。例えばナチス・ドイツはヒトラーという独裁者が戦争を率いたが、日本ではそういう独裁者はいなかった。したがって海外から見ると、それは天皇がそうであろうという見方があるが、我々日本人は天皇を独裁者であるとは誰も思っていない。一方で昭和時代の終戦までの20年間(実質19年間)では日本の首相は16代、そのうち3代は近衛文麿が担っているから実質14人が首相になっている。その平均在位は1年2ヶ月である。激動の時代にこれほどコロコロと首相が変わって大丈夫なのかという疑問がまず浮かぶ。実際にちょっと困難な状況になってくると、その時の首相は簡単に辞職している姿がある。太平洋戦争開戦の直前、近衛は日米交渉に行き詰まって東條英機に後を預けた。その後敗勢が強くなり東條も辞職した。これを見ると日本の政治は誰も責任を取らない集団無責任体制というものが見えてくる。つまり誰も自分に責任があると思っていないから、反省や謝罪などできないのである。
今ひとつ、いわゆる戦争責任については昭和天皇のことがよく論じられてきた。戦時下ではすべては天皇の名で行われ、皇軍や聖戦という言葉も天皇の存在があって使われたものであり、軍隊では上官の命令は天皇の命令であると心得よ、との考えが浸透し、軍隊内では上官の暴力がはびこり、とても皇軍とされる規律正しい軍隊ではなかったことは誰もが証言している。この戦争では天皇の名は都合よく使われ、端的に言えば昭和天皇は当時の軍政府にうまく利用される立場であった。
日中戦争以降、天皇ご自身にはまともな情報は与えられず、新聞・ラジオなどのメディアも軍政府の統制下にあり、戦争拡大に都合のよい情報しかなかった。太平洋戦争開戦に当たっても、首相兼陸軍大臣の東條英機が、天皇に涙を見せながら開戦のやむ得ない事情を語った。また昭和20年3月10日未明の東京大空襲があった時、さすがに天皇にもその情報は伝わり、実際の状況をすぐに視察したいとの意志を示されたが、軍部は一週間引き伸ばし、その間に民間人や囚人も駆り出して墨田区の一部地域の焼死体等を片付け、天皇には家々の焼け跡だけを見せ、住民は普段の防空訓練でほぼ避難していて無事であるように「捏造」した。実際に死体の片付けに動員された人の中には、これでは天皇陛下にこの惨状は伝わらないと噂をしあった。仮にも天皇がそのままの惨状を目にしていたなら、これ以上国民を犠牲にするのは忍びない、もうやめたらどうかと(天皇にはやめろという命令はできない)軍部に伝えたのではと思われる。そしてその時にやめていれば、戦死者と戦災死者の少なくとも半分は犠牲にならずに済んだはずであった。
こうした昭和天皇の置かれた状況については米軍は事前に調査済みで、GHQによる日本占領後も天皇に戦争責任を問うことはなかった。そして戦後になり、戦時下のさまざまな実情が天皇に届くようになり、おそらく天皇ご自身は軍政府の謀略に怒りを覚えることも多かったであろうし、多大な国民の犠牲に心が引き裂かれる思いもされたであろうし、実際に時折側近の前で涙を流されていたと聞く。もとより天皇というものは臣民(国民)の安寧を祈る立場であり、自分のために国民に戦争をしてこいと言うはずもないのである。そこから考えると、当時の軍政府がどれだけ天皇を言いくるめて戦争を始め、継続していったかがわかる。ただそのこと自体に天皇ご自身は責任を感じられ、自分が第一級の戦犯として処刑されることを望まれる覚悟も持たれていた。したがって戦後、最も大きな悔恨をもって苦しまれたのは昭和天皇であろうと筆者は思う。また戦後、戦死者を祀る靖国神社にも、天皇は数年に一度参拝されていたが、A級戦犯として処刑された東條たちが靖国に合祀されるに及んで、それ以降参拝されることはなかった。この御心は平成天皇にも引き継がれ、平成天皇は美智子皇后と共に海外の各地の戦場に何度も慰霊の旅に出かけられている。そうした天皇の御心を顧みず、平然と靖国神社に参拝し、世界からの非難を浴びている今時の政治家はどういう存在なのであろう。
戦前、一般国民には戦争関係のすべてが神としての天皇のご意志によるものと信じ込まされていた。そして国民が召集されて出征する時には「天皇のために死ぬ」ことを意識付けられ、前線で突撃する時は「天皇陛下万歳」と叫ぶようにと教育された。「銃後」の国内でも「お国のため」は「天皇のため」であった。天皇の存在は国民にとって神域にあり、その神域を作ってきたのは政・官・軍人であり、彼らは情報操作(統制)によって国民のみならず天皇をも利用した。戦争終盤、今はどんなに困難な状況にあっても、日本は天皇の在する神の国であるから、最後には神風が吹いて勝つとという教育をし、子供はみんなそれを信じていた。自分たちが信じていない「神の国」を白々しく流布してしまう政治家・官僚・役人たちというのは、天皇を形の上では崇敬しながら、神域に囲い込んで国民を騙し、安易に戦争拡大に加担していったわけである。実はここには天皇にはなく、まさに天皇は一般国民と同様、弱者の立場にあるという構図が見える。
・戦後補償について
東京などへの大空襲によって一家が全滅したケースも少なくなく、それにより学童集団疎開中に家族を失って孤児となった子供たちも多くいた。孤児は広島や長崎、戦場となった沖縄と満州、その他日本が占領していた戦地でも(現地の人々も含めて)多く生じた。その何万人以上の寄る辺ない戦争孤児に対し、戦後、国はきちんと保護する政策すら立てずに見捨てた。同様に空襲で親や子を失い、重傷を負った被災者に対しても何の補償もせずに捨て置いた。国が起こした戦争の犠牲者であるにもかかわらずである。戦時関係資料をすべて焼却し、この大戦争をなかったことにしようとした政府だからこその態度であろう。ただし、原爆は世界的に大きな事件であったので、その被災者には医療関係費を無料にするなど手当は比較的早くから行なっているが、戦争被災者としての基本的補償はない。逆に言えば一般の被災者にはその傷病手当すらないということである。
ただ、この孤児を含めた空襲犠牲者は現在に至るまで何度も国を提訴しているが、その度に却下されている。それに対し、元軍人関係の人々に対しては、いまだに年に一兆円単位の恩給や遺族年金が支給され続けていることには驚ろかざるをえない。仮にそうした被災者も補償金を支給すれば、際限がなく国庫が持たないと国として考えたようであるが(当時の政府の諮問委員会の意見)、それまでの長年の戦争で国庫を際限なく費やしてきたことを思えば、知れているのではないか。しかも裁判上で国は「戦争被害は国民が等しく受忍(我慢)しなければならない」という受忍論を展開し、最高裁もそれに同調し、責任を逃れた。それなら元軍人たちにも受忍してもらわなければならないが、その差別の理由は「国との雇用関係がない」というものであった。つまり軍人は国が雇用している立場であるという。ならそのための税金を払っている我々国民はどういう立場なのであろう。
しかも戦時下では前線の兵隊に負けじと「銃後」の国民が総出で物資の乏しいなか、空きっ腹を抱えて頑張り抜いた。その中でも中学生以上の授業は全面停止され、女子生徒も「お国のために」と軍需工場で慣れない旋盤を扱いながら頑張り、時には工場への爆撃で死亡し、また空襲で自宅が焼かれ、友人が焼死しても翌日には決死の覚悟で軍需工場に出勤したのである。この女生徒たちには下手な兵隊よりも軍人精神があった。一方で満州や朝鮮や樺太(サハリン)で難民となり同様な被害を受けた人々とその遺族、日本の統治領であった南洋諸島に居留していて、激戦下で自決も含めて命を落とした家族とその遺族、このような人たちもまともな補償を受けていないし(満州やシベリアの抑留者には多少の手当があったようであるが)、何よりも国から謝罪もされていない。同じ第二次世界大戦に関わって、戦後にこのような放置政策を取った国は日本だけで、ほぼ同じ立場のドイツは被害を受けた国民にきちんと補償し、なおかつ近隣諸国にも謝罪をしている。この差は何なのであろうか。
あえてここで、いまだにほとんど表に出されない(なぜか政治家やメディアも触れたがらない)具体例を挙げる。総務省の資料によると、戦後の軍人恩給に関し、ピーク時の1970年度の元軍人の受給者数は125万6409人で、53年後の2023年3月末現在で普通の恩給を受けている元軍人の生存者の数は1881人となっていて、恩給対象者は激減している。それでもなぜ上記のように恩給を含む遺族年金の総額が増えることはあっても減らないのか。これは元軍人たちが亡くなると、その家族や親族まで次々と遺族年金の形で支給対象が広げられているという国の手厚い配慮による。なぜここまで日本政府は元軍人関係を際限なく優遇し続けるのか。もとはと言えば、敗戦で軍隊がなくなったため、軍の将校の多くは官僚の中にうまく入り込み、その立場をもってして自分たちを含めた元軍人たちを過度な恩給や年金で守り、逆に戦争孤児や被災者たちには知らんぷりを決め込んできたという経緯がある。ちなみに占領軍GHQが日本の元軍人の俸給を調べたところ、その高額に驚いたという話も残る。
こうして軍人と同様に国のために犠牲となりながら補償の対象から外されてきた戦争犠牲者との差は歴然で、これが日本の政府のやっていることである。明治以来の軍国主義は、敗戦によって即座に崩壊し、戦争放棄という平和憲法も作ったが、その軍国主義の影はここに根強く残っているように思われる。なお、植民地であった朝鮮・台湾人にも日本軍兵士としての徴兵が行われ、進んで特攻隊となって突撃死した若者もいたが、彼らに対しても日本は、一時金を支払っただけで、軍属やその他の犠牲者に対しては、すでに国籍が違うという理由で何の補償もしていないし、提訴されても裁判ではことごとく却下されている。
そもそも国民の税金によって職を得ている政官人の人々が、その税金の使い方として、自分たちの狭い視野で(つまり国民の生活の現場に出てその声をを聞くこともせずに、エリート用の官舎の閉ざされた空間の中で)政治家の都合や自分たちに聞こえのいいものには税金を使い、自分たちの見えないところで困苦に陥っている人たちには税金を還元することを惜しんで無視を決め込んでしまっているということがありはしないか。なお言えば、もともとそういう傾向のある人たちが概して政治家や官僚つまり役人(軍人も同様)になってしまうわけで、その彼らは、自分たち本来の役目としての社会の中・底流にありつつ律儀に税金を払い、それを彼ら自身の給与として支えている国民の声を聞くことをしない。ここには税金を使う立場の人間たちが物事を決めることのできる優位な権力側にあり、税金を納める一般大衆の人々が弱者であるという妙な構図がある。そしてその弱者の側にいる国民は、戦争が起こると必ず先頭に立たされて犠牲になることは決まっているわけで、問題はその政官人たちが権力側にいて、場合によっては戦争を起こしてしまう立場にいながら、自分たちはむしろその戦争の犠牲を免れる職域にいるということである。そのような政官人に、どのようにその国民の立場から遊離した意識を改革し、本来の「公僕」としての使命を自覚ていただくか、それが日本(だけではないが)の一番の課題であると筆者には思えてならない。
・マスメディアの課題
なお近年は、特に8月になるとTVや新聞で戦争の特集が組まれ、隠されていた事実などが次々と掘り起こされているが、およそにおいて我々国民が過去の戦争でどれだけ悲惨な目にあったかという側面、つまりわが国民の被害者としての側面から語られ、二度と戦争は起こしてはならないとする。これは当然のことであるとして、一方で、戦争の加害者側の代表としてTVなどで映像と共に取り上げられるのが、ナチス・ドイツのことであり、それが大半である。実はこの傾向は、戦後ドイツ自身が加害国としての反省を国民にも徹底し、その記録やフィルムを隠さずに表に出していることも影響している。これに対して日本は上記のように敗戦時に内外の戦時関連資料をほぼすべて焼却し、この長期にわたる戦争をなかったことにしようとした。その結果であるのかどうか、この8月の時期にもメディアで日本の加害国としての側面が報道されることはまずないし、代わりに加害国の象徴としては第二次大戦を起こしたドイツ軍の侵略と虐殺行為が、日本にとって一種の盾のような形で取り上げられる。繰り返すようだが、この戦争によるわが国の犠牲者がおよそ310万人であることは何度も語られるが、日中戦争以降の日本が起こした戦争の結果、上述したように、どんなに少なくみても2千万人を超える犠牲者を海外の国々に生じさせていることを(知識としてわかっていても)まともに報じるメディアがまずいないのはなぜなのか。今後の我々の課題であるだろう。