中国の辛亥革命とその後の展開(1911年 − 1924年:明治44年 − 大正13年)
革命を主導した孫文と中華民国設立
辛亥革命は中国の革命であるが、当然日本にも大きな関わりがある。
1911年(明治44年)10月、孫文の思想の影響を受けた革命軍が武昌と漢陽(いずれも現在の武漢に含まれる)を武力制圧し、他の各省においても同じく蜂起軍が実権を握り、15省が次々と清朝からの独立を宣言した。孫文は欧州から帰国したのちの12月29日、上海で中華民国大総統に選出され、中華民国が成立した。これは形の上ではアジアにおいて史上初の共和制国家であった。この革命軍の武装蜂起に際して、先に清朝の不信を買い失脚していた袁世凱は、革命軍鎮圧のために呼び戻された。そこで袁世凱は革命軍に寝返り、翌1912年(明治45年)、革命軍と密約して最後の皇帝宣統帝溥儀を2月12日に退位させて清国は滅亡、2000年以上続いた中国における帝政は終焉を迎えた。しかし革命政府は独自で中国全土を統治する力はまだなく、野心家の袁世凱はこの皇帝退位を条件として孫文に臨時大総統の地位の移譲を迫り、孫文もやむを得ず3月に譲った。
孫文はあらためて革命運動の組織化に着手、1912年(明治45年)8月に、それまでの政治組織を統合して国民党を結成し、議会政治の実現に備えた。暫定憲法として臨時約法を制定、議会制度を実現するために、1913年(大正2年)3月に初めての選挙を実施、国民党は第一党となり、中華民国の議会政治が開始されることになった。しかし自身の権力の喪失を恐れた袁世凱は弾圧に乗り出し、国民党の指導者宋教仁を暗殺し、国民党も解散させた。この袁世凱の独裁に対し、黄興や李烈鈞らが挙兵し第二革命となった。しかしこの反独裁の動きはすぐに鎮圧され、弾圧を逃れた孫文はやむなく日本に亡命、改めて東京で秘密結社を結成した(この時期、孫文は日本人の知己から様々な援助を受けている)。袁世凱は10月、自ら初代の大総統に就任し、1914年(大正3年)3月には議会政治を否定、共和制は崩れ去った。
中国内の混沌と日本の介在
同1914年(大正3年)7月に第一次世界大戦が勃発すると(下記参照)、袁世凱は中華民国大総統として、中立を宣言した。この第一次大戦ではドイツとオーストリア・トルコなどが連合国相手に戦っていて、アジア統治に手が回らなくなっているのを日本は好機と見て、日英同盟を理由に対独宣戦布告をした。しかしこれもまた中国が舞台であった。まず日本軍はドイツが軍事基地を持つ青島を占領(膠州湾岸のドイツ領)、手薄なドイツ軍は成されるままだった。これに対し中華民国政府は日独英に交戦区域を山東半島に限定すると通告した。しかし日本側はそれに従う意思はなく、ドイツの租借地や管理する鉄道に侵攻、占領した。また辛亥革命の成立以降、日本政府は中華民国政府との正式な外交条約は締約しておらず、過去の日清間の諸条約の継承に固執し、とりわけロシアから奪った旅順・大連の租借権が1923年(大正12年)に期限を迎える前に手を打つ必要があった。袁世凱は日本が占領したドイツ領土の返還を求めるが、日本政府(大隈重信内閣)は受け入れないばかりか、1915年(大正4年)1月、さらにこれまでの日本の権益を保証継続し、なおかつ山東省の膠済鉄道(山東鉄道)などのドイツの利権や権益などの継承を求める「対華21カ条要求」(後述)を突きつけた。
このような状況の中、袁世凱は(強力な立憲君主制が必要と考えてのことと言われるが)この15年(大正2年)末に共和制を廃止、帝政を復活させて自らが中華帝国大皇帝に即位する。しかしたちまち帝政反対の声が巻き起こり、北京では学生らが批判のデモを行い、地方の軍閥や彼の足元の北洋軍閥の諸将までも次々と反旗を翻し、第三革命(護国戦争)の動きも始まり、日英露仏の列強も袁世凱の帝政に反対したため、袁世凱は1916年(大正5年)3月にやむなく退位したが、6月に失意のうちに病死した。
袁世凱が死ぬと、その後継の地位を巡り、安徽派の段祺瑞と直隷派(直隷とは河北省の勢力)の馮国璋・曹錕・呉佩孚に分裂、最初に北京政府の実権を握ったのは安徽派の段祺瑞だった。日本政府は袁世凱に続いて安徽派の段祺瑞を支援し、直隷派を応援したのがイギリス・アメリカであった。このように北京の軍閥政権は外国勢力と結んで抗争し合い、辛亥革命によって成立した中華民国は混乱を極めた。この中で1917年(大正6年)9月、孫文らが広州で護法軍政府を組織し、護法運動を開始した。段祺瑞は護法派の鎮圧を図るが、直隷派は段の独断専行的な態度への不満や英米の支援もあって、「和平統一」を唱えて反発し始める。結果段は国務総理の辞任に追い込まれたが、その後の画策により段は東三省の張作霖を関内に迎え入れ、間もなく復帰した。
この段祺瑞を日本は利用できると見て、1917年(大正6年)1月から彼を中心に西原借款(段祺瑞・曹汝霖と寺内正毅・西原亀三の間で取り決められた)とされる形で大金の融資を始め、翌年までに当時の金額で総額1億4500万円に上った(現今の金額では1兆円以上か)。西原借款の見返りは中国における様々な利権であった。1918年(大正7年)5月には「日支共同防敵軍事協定」が結ばれ、日本軍の中国内における行動を無制限とした。ちなみにこの時代の日本の国民の大半は貧窮していたが、国民の誰もこの無駄は知らなかったであろう。逆に段祺瑞らにとって、日本政府の意向に迎合すればいくらでも資金の提供を受けられたのである。そしてこの後も日本の軍政府は無駄を続ける。こうした施策により安徽派は日本への接近姿勢を他派から激しく非難されることになった。そうして1920年(大正9年)7月、安徽派と直隷派の安直戦争が勃発し、そこに北洋軍閥とは直接関係がない奉天派(遼寧省・吉林省・黒竜江省から成り、遼寧省の関東州も含む)の張作霖が直隷派に加担し、安徽派は敗れて勢力を失い、日本が投入した多額の資金は無駄となった。
なお段祺瑞は、日本が参戦していた第一次世界大戦に、日本の同意を得てその終盤(1917年:大正6年)に対ドイツ宣戦を行なった。1919年(大正8年)のパリ講和会議において、段はべルサイユ条約調印を図ったが、日本と欧米列国が主導する調印に反対する五・四運動を招き、安徽派の政治家たちが徹底的に攻撃された。それに対し直隷派や広東の護法軍政府が五・四運動を支持し、最後は代表団も北京政府の命令を蹴ってべルサイユ条約調印を拒否した。これによって安徽派は威信を完全に喪失し、その翌年の安直戦争であった。
この安直戦争の勝利で直隷派の曹錕と呉佩孚が北京で権力を掌握する。しかし直・奉の連合も長くは続かず、1922年(大正11年)に奉直戦争が勃発、張作霖が率いる奉天派は大敗して東北三省に帰った。その後奉天派は南の孫文の革命派と安徽派残党と軍事同盟を結び、1924年(大正13年)9月の第二次奉直戦争では、密かに孫文と接触していた直隷派の馮玉祥が反旗を翻し、10月に奉天派が勝利を収めた。この時、馮玉祥は辛亥革命で廃位した元皇帝の溥儀らの清室優待条件を破棄し、北京の紫禁城から追放した(北京政変)。その後馮玉祥は国民軍の結成を宣言し、孫文に対して北京への北上と今後の協議を呼びかけ、孫文もこれに応じた。同時に馮玉祥は奉天派の張作霖や失脚していた段祺瑞も招致し、11月、段祺瑞が臨時執政に就任、新政権が始動した。これにより張作霖は長江流域まで進出して北京政府に一定の支配権を得た。日本はこれらの政変に内政不干渉を表明していたが、日本陸軍は張作霖への支援を続けていた。
南方の革命派も内紛が絶えなかった。袁世凱の死後、孫文は支持基盤である広東省で統一を目指す新政府を立ち上げたがまもなく旧広西派軍閥に追い出された。それでも陳炯明率いる広東派が奪回し孫文たちを呼び戻し、そのまま広西省に攻め込み旧広西派を壊滅させた(1920年:大正9年、両広戦争)。しかし今度は新広西派と雲南派が連合して陳炯明を追いやり、雲南派が孫文を迎え入れ再び軍政府を立ち上げた。そうして新広西派は広東国民政府と共同して国民革命軍として組織された。
続く孫文の革命活動と死
辛亥革命(1911年:大正10年)以後の中国の内政は上記のように複雑に展開していくが、1917年(大正6年)9月、孫文は北京の軍閥政府(北洋軍閥)に対して、西南の軍閥の力を利用し、広東政府樹立を宣言し、中華民国軍政府陸海大元帥に選出された。しかし1918年(大正7年)、直接武力を持たない孫文の政府は失敗に終わる。1919年(大正8年)の五・四運動(後述)など民族の主権回復運動の盛り上がりを受けて、 孫文は中華革命党を大衆政党としての中国国民党に改組し結成した上で、1921年(大正10年)4月、第二次広東政府を組織する。さらに1923年(大正12年)1月には孫文はソビエト連邦との共同声明を発表し、ソ連との連帯を鮮明にした。
翌1924年(大正13年)1月、中国国民党第一回全国大会が開かれ、共産党と連携する国共合作(第一次)を成立させた。この合作の目的は、政権を争ってたらい回しにする北洋軍閥に対し、共同戦線を張るためであったが、その時決議された基本的な主旨は「帝国主義の侵略に対して民族解放と国内諸民族の平等(民族主義)、封建軍閥の専制に反対して民衆の自由と権利(民権主義)、土地集中と独占資本を制限して民衆の福利(民生主義)」という新三民主義を謳うものであった。この時の委員にすでに毛沢東や蒋介石、周恩来の名前が入っているが、共産党の場合、個人としての参加であった。また孫文は、軍閥に依存しない軍を要請するために黄埔軍官学校も設立、国民革命軍としての組織の強化を図った。その中で奉天派軍閥の張作霖が一定の勢力を保持していて、北京政府に対する野心を抱いていた。同年9月、孫文は譚延闓を北伐軍総司令に任命し、「北伐宣言」(北洋軍閥を討伐する)を発した。これに呼応して、10月、馮玉祥が北京政変を起こした(上述)。ただしここには張作霖も軍を出していた。こうして孫文は、馮玉祥、段祺瑞らによる北上の要請に応じ、全国的統一を図る国民会議の開催を条件に北京入りを決意した。
この1924年(大正13年)11月に孫文は一時日本を訪れた。孫文はかつて留学したのちに1913年(大正2年)に一度日本に亡命もし、知己も多かった。この時神戸で『大アジア主義』の講演を行い、「日本は功利と強権をほしいままとする『西洋覇道の犬』となるのか、それとも公理にかなった『東洋王道の牙城』となるのか」と問い、 「中国だけでなく全アジア被圧迫民族の解放に力を貸すことがアジアで最初に独立と富強を達成した日本の進路である」と語り、欧米の帝国主義に対し東洋の王道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。孫文を始めとして多くの知識人、革命運動家が明治時代に日本に留学している。それは明治維新によって強国となった日本を手本として学び、中国の革命に貢献していこうとする志を持った若者たちであった。だからできれば日本と連携して中国を改革していこうと、彼らの日本に対する期待は大きかったが、すでに日本が西欧列強と同じように覇権を求めて中国を荒らしつつある事態は、彼らを困惑させ、失望させつつあった。孫文はその危機感を抱いてこの講演をした。多くの日本の知識人や一部の政治家は孫文を支援しようとしたが、「覇権を求めて中国を荒らしつつある」日本の軍政府の動きは止められるものではなかった。
翌1925年(大正14年)には中国人革命家を育成する機関を求める孫文のために、モスクワに中山(孫文の号)大学が設立されたが、この年の3月に孫文は志半ばで北京で病死し(58歳)。彼の平和的全国統治への流れは、ここで頓挫した。
この孫文の遺志を直接継ぐ国民革命軍を率いていくのが蒋介石であり、彼は翌年から懸案の北洋軍討伐に力を注いでいくが、蒋介石は徹底的に反共産主義であって、1927年(昭和2年)4月、上海クーデター(後述)を起こして共産主義を弾圧し、国共合作は崩壊する。その蒋介石の北伐と共産党軍包囲作戦をしばしば日本軍が邪魔をしていき、1931年(昭和6年)の満州事変につながっていく。さらにその後の日中戦争(支那事変)に至り、再び対日本軍を目的として第二次国共合作が成立するが、第二次世界大戦(日本は太平洋戦争)終結後に日本軍が中国から去った後、国民党軍と共産党軍は激突する。国民党軍は毛沢東共産党軍に破れて台湾に撤退し、蒋介石は台湾を国民党の統治領とする。いずれにしても現在に至るまで、孫文は国民党と中国共産党の両方から崇敬される対象となっている。
植民地台湾で潜在する抗日事件
台湾統治開始から初期の現地住民の抗日武装蜂起(既述)が1902年に一応鎮圧された後も、大陸の辛亥革命(1911年)の影響ももあって、再び散発するようになった(これは明治後期の山岳地帯の原住民の反乱とは別)。
【苗栗事件】
苗栗(びょうりつ)事件は1912年(明治45年/大正元年)から1913年(大正2年)にかけて台湾各地で発生した5つの抗日事件で、台湾総督府がそのうちの羅福星が起こした事件を指し、総称して苗栗事件と呼ぶ。1912年(大正元年)に辛亥革命によって清朝が滅亡すると、台湾の苗栗牛稠荘にいた羅福星は1913年(大正2年)4月、革命組織の同盟会台湾支部を創設し、そこで「大革命宣言書」を発表、日本帝国主義が台湾を残虐な植民地支配した10余りの罪状を数え上げ、「日本の強権に押された台湾人民は、革命的な手段で日本帝国主義を覆す以外に自救の道はない」と公然と呼びかけ、約500人の同志たちは蜂起の準備に着手した。台北、彰化、桃園、基隆、宜蘭などに拠点を置き、一斉蜂起を狙ったが、途中で計画が露見し、日本側の捜査で各拠点の者が次々と逮捕され失敗した。羅福星は淡水で12月に逮捕され、翌年3月に処刑された。しかしなおも自由の望みを捨てない指導者達が、武装蜂起を行った。
「関帝廟事件」と呼ばれる李阿斉の台南進攻陰謀事件が関帝廟で摘発された。李阿斉は1895年(明治27年)に抗日の父が死んだ仇を討つため、宗教的な宣伝を利用して信者を募集したが、蜂起前に摘発された。「東勢角事件」では1913年(大正元年)12月、頼来が血盟の数人の仲間とともに東勢角支庁を攻撃したが、まもなく戦死、578人が逮捕された。「大湖事件」は羅福星の感化を受けた張火炉が、台中で同志を募り、大湖、南湖一帯で蜂起を図ったが事前に漏れ、同志たちと相次いで逮捕され投獄された。「南投事件」は東勢角支庁の偏勇沈阿栄が指導、「東勢角事件」は苗栗人頼来が率いたもので、いずれも失敗し、日本側は苗栗に臨時法廷を設け、計921人が集中裁判を受け、羅福星ら20人が死刑判決となった。1914年(大正3年)3月3日に絞首刑、羅福星は29歳の若さであった。1953年(昭和28年)に蔣介石総統は褒揚令を授与し、苗栗県大湖郷に昭忠塔を建て、羅福星らは円山忠烈祠に合祀された。
【西来庵事件】(噍吧哖大虐殺)
1915年(大正4年)に日本統治台湾の台南庁噍吧哖(タパニー、現・玉井)で発生した武装蜂起事件で、首謀者が余清芳であったことから「余清芳事件」ともいう。本島人による最後の抗日武装蜂起であった。 余清芳は、かつて台湾総督府警察の警察官であった。その後警察を退職し、職を転々と変えた後、宗教活動で最終的に西来庵に出入りするようになった。そして布教活動の傍ら、西来庵をアジトにして抗日武装蜂起を計画するようになった。1915年(大正4年)、基隆で同志が逮捕されたことから計画が発覚、余清芳一党は逸早く山間部に逃げ込み、ゲリラ戦を展開した。それにより日本人95人が殺された。そこで日本の軍警察は付近の後厝、竹囲、番仔厝、新化、内荘、左鎮、茶寮など20余りの集落を占領し、住民1万8000人余りのうち事件の嫌疑で逮捕検挙された者の総数は1957人を数え、死刑判決を受けた者は866人となった。しかし死刑囚866人はさすがに多すぎるため、被害者と同数の95人のみを執行し、その他は大正天皇の即位記念恩赦ということで減刑した。ただし、台湾側の記述では、住民を検挙する前に、降伏すれば許すと誘導し、住民3200人を老若男女を問わず殺害したという説も掲げている。現在、台南市政府は玉井製糖工場招待所などの木造建築を改修し、「タパニー事件紀念園区」として整備し公開している。
【二林事件】
日本統治時代の台湾彰化二林地区で発生した甘蔗(サトウキビ)農家らによる待遇改善を求める農民運動である。1923年(大正12年)から甘蔗農民たちは、林本源製糖株式会社の渓洲製糖工場に甘蔗の納入価格を引き上げるよう要求を続けていたが、工場からの回答は得られなかった。1925年(大正14年)1月1日、二林地区の医師である李応章らが中心となり、甘蔗農民らの力を結集すべく農民大会が開かれた。その後6月28日に「二林蔗農組合」が正式に組織され、李応章が総理となり、会員は400名余りだった。10月6日には、李らは会社に対し、以下のことを要求した。
台湾総督府機関による買付期日の決定/刈り取り前の買付価格を公示すること/肥料は甘蔗農民が自由に購入できるようにるすこと/双方の協議による買付価格の決定/刈り取った甘蔗の重量を検査する時は双方が一緒に監視すること
しかしこの要求は林本源製糖会社に拒絶された上、同社は日本の総督府管理下の警察に事件への介入を依頼した。10月22日、林本源製糖会社が甘蔗の刈り取りと強制買付けを実行しようとすると、甘蔗農家がこれに反発し、警察と衝突、警官9名が負傷する事件に発展した。23日朝、大勢の警察が李応章の診療所を包囲し李応章を逮捕、サトウキビ農業組合の関連文書を押収、他にも警察が各地で大規模な捜索を展開し合わせて93人を逮捕した。まず二林員警察分室に送って拷問し、その拷問は極めて残酷で、それによって不具になった人もいれば、耐えられずに自殺者も出た。その後も続々と捜索が行われ、逮捕者は計400人を超えたが事件当時現場にいなかった蔗農組合の幹部も含まれていた。
事件後日本労農党の布施辰治、麻生久の2名の弁護士が台中に駆けつけ応援した。また台湾文化協会の蔡式穀等も出廷して弁護したが、逮捕者400名中25名が有罪となった。事件の中心人物となった李応章は懲役8ヶ月の有罪判決を言い渡された。この事件はこの後の台湾の農民運動に影響を与え、全島的な「台湾農民組合」が結成された。実はこれら製糖会社は(既述の「南庄事件」の樟脳工場の場合と違い)日本人経営ではなく、台湾人財閥系であるが、日本の台湾総督府と友好関係にあり、警察を管理しているのは台湾総督府で、製糖会社が困ったときにはすぐにその警察に動員を求めることができた。
第一次世界大戦における日本の対ドイツ参戦と中国に対する戦略
(1914年7月−1918年11月:大正3−7年)
三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)との間の帝国主義的あるいは民族的対立などを背景として、計25か国が参加してヨーロッパを主戦場とした最初の世界戦争である。1914年(大正3年)6月28日のサラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件が発端となり、7月28日、オーストリアのセルビアへの宣戦、ドイツは8月に入りにロシア、フランスに宣戦、さらに翌日にはベルギーに侵攻、これに対しイギリスもドイツに宣戦し、世界的な大戦となった。その後イタリアが三国同盟を抜けて三国協商側に入り、ドイツ・オーストリア・トルコ・ブルガリアなどに対し、イギリス・フランス・ロシア・イタリアなどの連合国との戦争となった。日本とアメリカは遅れて参戦する。
参戦
日本参戦のきっかけは、当時日英同盟を結んでいたイギリス政府からの要請であった。1914年(大正3年)8月7日、イギリス政府は、中国沿岸でのドイツ(青島領有地区)からの攻撃に備える必要があるとして日本に協力を求めてきた。そこで大隈重信内閣が夜の臨時閣議で、「この機会にドイツの根拠地を東洋から一掃して、(大日本帝国として)国際上に一段と地位を高める」ために参戦すべきとし、決定した。そこから日本政府はドイツ帝国に対し、ドイツの権益のあった中国山東省と青島(膠州湾租借地)を中国に返還するよう15日に最後通牒を発した。その最終期限の8月23日、日本は対独宣戦布告する(日独戦争)。しかしイギリスにとっては日本の野心を承知の上で、日本をドイツの敵国にしておく必要があるとして、行動依頼は海上に限定し、ドイツの青島利権はイギリスかフランスが引き継ぎ、膠州湾も日本に奪取させない、日本の軍事的助力への返礼は財政援助で行う等の腹づもりでいたため、これは日本軍の想定外の早い動きであった。しかも日本はイギリスからの打診がある前に、ドイツのロシアへの宣戦布告の情報を得て、すぐに対独作戦計画を立案していたから、その動きを察したイギリス政府は8月9日、日本に対独宣戦をしばらく見合わせることを要望し、10日にはドイツ仮装巡洋艦撃破のための日本海軍出動要請を取り消すと申し出たが、すでに遅かった。おそらく日本はイギリスからの打診がなくても単独でも参戦していたと思われる。ただ、イギリスは日英同盟上、この戦闘に形式的に協力する。
青島攻略 (1914年:大正3年)
一方で中国の袁世凱政権は日本の青島・膠州湾への軍事行動は、租借地外の中国領土を巻き込まざるを得ないと見て、事前に中国領域内での交戦を禁止する中立宣言を各国公使に通告、日本政府にも協力を要請したが、大隈首相は同意しなかった。日本の対独最後通牒の2日後の17日に、中国の総統会議は日独間の戦闘の場合は、中立除外戦域を設定すると決議、同時にイギリスも、1898年(明治31年)の中独協定にある「租借地外50km以内の軍隊移動の自由」という規則に則って、日本もその範囲内で軍事行動を行うべきであると提案する。しかし加藤外相は、それでは敵前上陸とならざるを得ず、承服できないと繰り返しイギリスに伝え、イギリスは中国政府の対応に任せるとした。そこで日本政府は中国政府に対して、中立除外地域として「山東省中黄河以南の地」を指定するよう要請、しかしそれでは山東省全体を軍事行動の対象とすることになると中国は反対、日本は別案を再提起、もはや時間がないから仮に中国側がこれを受け入れなくても強行すると伝えた。先発隊が龍口沖合に到着する前日の8月31日に、仕方なく中国側はそれを受け入れた。
9月に入って日本はあえて遠回りとなる安全な山東半島の北側の龍口に第一混成旅団を上陸させ、様子を見つつ青島に向かって南進、その後南側で青島の東にある労山湾に第二混成旅団が上陸、イギリスの援護部隊も労山湾から合流し、共にドイツ軍の青島要塞に向けて進軍した。日本軍は2万9千人、合流するイギリス軍は1390人、対する青島要塞のドイツ軍は4920人(そのうちオーストリア・ハンガリー軍は681人)であり、要塞の陥落は時間の問題であった。これとは別に10月に入り、日本軍は鉄道部隊が山東半島からさらに交戦容認区域外である西の済南にまで侵攻し、占領する。これにより密かに狙っていた山東鉄道(ドイツが権益を得て敷設したもの)の最終駅である済南駅までを掌握した。さらに沿線の炭鉱も占領。これらに対して中国政府は厳重に抗議したが、すでに日本政府は(在中国の日置公使から、中国の反感を招くゆえにこれ以上の進軍はすべきではないという上申があったものの)定例閣議で、済南までの軍事占領策を決定していた。この西進への銃砲の輸送は、既存の軽便鉄道も使ったが、陣地線までの延べ18.4kmを9月20日から10月14日までに途中豪雨に悩まされながら、鉄道を敷設したとある。大した作業であり、近代戦争の進軍というのは(前線の塹壕掘りも含めて)これほどの重作業を伴う。艦船で大砲も運んだが、昭和に入ってからは、戦車の搬送も必要になってくる。また、戦闘開始前から龍口(山東半島の北側)から日本軍の司令部がある大連間に海底電線を敷設、20日ごろに南方の青島までつなぎ、前線間の連絡が取れるようにした。すでに戦争には通信技術が欠かせないものとなっていた。ちなみにラジオ放送が実用化されるのは1920年(大正9年)である。
日本軍の初空襲・爆撃(1914年:大正3年)
この頃の兵器は日露戦争当時より発達し、重・軽迫撃砲、擲弾銃、三年式機関銃、三八式歩兵銃などが実戦に投入され、ドイツの青島守備部隊は本国から遠隔にあったため旧式が多く、日本軍が優勢であり、海岸沿いは砲撃戦、山間部は銃撃戦という方法であった。しかも、1903年(明治36年)にライト兄弟が初めて開発に成功した飛行機は、瞬く間に普及し、10年後のこの第一次大戦の始まる時には軍用機として登場、まだ木製の骨組に羽布張りという複葉機の軽量構造で、飛行速度も100km/hを超える程度であったが、主に敵軍偵察用として威力を発揮する。さらに日本海軍も初の複葉水上機を保持し、水上機母艦も運用していた。爆撃は人力で爆弾を投下する方法で、まず9月5日、日本海軍の飛行隊3機が青島市街上空を飛行してドイツ軍の無線電信信号所と兵営に対しておこなったものが日本軍の初爆撃であった。この時ドイツ軍の飛行機と遭遇したが、交戦までいかなかった。
次に日本陸軍の飛行機3機が9月27日に膠(こう)州湾内のドイツ軍艦に空爆、ただし命中弾は一つもなかったという。この時はドイツ軍と空中戦も行われたが、双方に大きな被害はなかった。このころはまだ飛行機に備え付けの機銃はなく、爆弾を積むと機関銃を積めず、空中戦になると拳銃で応戦する以外になかった。この後、10月4日、5日、21日に偵察しつつドイツ艦艇やビスマルク山のドイツ軍施設、青島駅などを爆撃、10月29日には青島市街上空から昼間と初めての夜間出撃し、市街地に爆撃をした(小規模ながら夜間については「無差別爆撃」の端緒であろう)。それに伴い地上部隊が防御線に対する攻撃を開始した。30日、日本側4機がドイツ機1機と遭遇するが、高度の違いで(ドイツ機のほうが高い)射撃は届かず、追撃できなかった。その間、地上軍はドイツ軍の堡塁を砲撃し多大の損害を与えていった。この後31日から地上部隊による攻撃が始まった。11月に入り暴風雨が襲来し、飛行隊はしばらく身動きできなかったが、天候が落ち着くと青島市街に偵察爆撃を続行し、その間、地上軍は要塞の陥落まで追い込んでいて、11月7日にドイツ軍は降伏、16日に日本軍は青島に入城した。
海軍航空隊の活動は9月5日から10月6日まで飛行日数は27日で、49回出撃し、199発の爆弾を投下、陸軍機は5機が86回飛行し、爆撃回数は15回で爆弾投下は15kgのものが44個であった。この間海軍は一度の事故も起こさなかった。その後12月に入り、青島守備隊の中では陸軍航空隊は必要とされず、飛行機は解体梱包され、人員機材ともに年末までに横浜に帰港、正月に所沢に凱旋し、1月5日に陸軍航空隊は解散した。
実際のところドイツ軍は欧州の大戦のほうに集中し、そもそも日本の参戦を予想していず、来援の望みのない孤軍で、守備は手薄であり、攻撃よりも前線から撤収しつつ青島の堅固な要塞での籠城戦に持ち込み、名誉の立つところまで抵抗し、無用な死傷者の出ない段階で降伏する作戦を立てていた。それでも日本軍はその堅固な要塞を攻め落とすべく野戦築城中の死傷者414名を出すほど周到な準備をし、10月31日から総攻撃を開始、ドイツ軍はほぼ所有砲弾を撃ち尽くして降伏、こうして日本軍は青島と、日英の艦隊がドイツの東洋艦隊を抑えて膠州湾を占領した。しかもこの時日本海軍は後述するようにドイツの占領する南洋諸島も簡単に手に入れ、いわば漁夫の利を得て、これが太平洋戦争において戦線のむやみな拡大につながっていく。
第一次大戦はまだ塹壕戦によって、戦車と砲撃による地上戦が主な戦闘の方法であり、非戦闘員(民間人)が死の恐怖に日常的に直面することは少なかった(ヨーロッパでの民間人の死者は1000人を超えた程度)。そこから航空機の性能と機能は飛躍的に進化していき、この新兵器による空爆で前線からその向こう側の一般市民を巻き込んだ大量虐殺の時代になっていく。
(以上は筆者の「中国における日本軍の年月日別空爆記録」より)
軍紀の乱れ
この戦いでは補給路や装備の十分な確保をしながら、無謀な前進は一切せず、砲撃と塹壕開掘を徹底して行ったこと、また塹壕開掘用の道具もすべて適切に用意されていたことで、この神尾光臣師団長が率いた独立十八師団の作戦遂行は、見本とすべき戦争と言われるが、これに続くシベリア出兵以降は、なぜかその影もなくなってしまう。
ただし、日本軍による、現地中国人に対する殺人・強姦・掠奪・横暴行為が指摘されている。神尾司令官は、国際法規や赤十字規定の尊重、軍人の不正の防止にはかなり注意を払い、陥落直後にも略奪の防止について指示を出している。しかし、日本の憲兵隊の報告にも 「日本兵が支那商人より卵または饅頭を買求め代金の不払い、かっぱらい等の紛争頻々たり」とあり、また英語通訳の掛軸掠奪事件、軍医を含めての大規模な掠奪行為のほか、馬一頭に十銭しか支払わない、住民の家屋を破壊して採暖などしていたと報告、さらに青島陥落後は、「第一線部隊の一部が市内に侵入し、家屋を破壊し財産を掠奪、これに乗じて無頼の日本人たちの物品の掠奪、婦女への暴行などあり、市民は恐々として外出する者ほとんどなく」と伝えている。この時期から日本軍の規律、風紀が乱れ始めたことが伺える。青島攻略戦では、中国は敵国ではなく中立国で、戦闘終了後には利権交渉を行う相手であったから、その後の日中交渉では苦労することになった。なお青島占領後には、占領軍目当てに内地から一攫千金を夢見る商人が押しかけ、街の風紀が乱れる状況が生まれた。
海軍の南洋諸島占領(1914年:大正3年)
日本海軍は陸軍の青島攻略戦に対する支援の役割を担い、ドイツ東洋艦隊が占有する膠州湾封鎖と艦砲射撃については、イギリス海軍と協同で行った。一方で海軍独自の作戦として、やはりドイツ帝国が占領する赤道以北の南洋諸島への侵攻に踏み切った。イギリスは日本海軍の行動を中国沿岸に限るとしていたが、8月18日にイギリス支那艦隊司令長官から、ドイツ艦隊が膠州湾からマーシャル諸島のヤップ島に集中との通報を受け、海軍は英国が日本艦隊の行動区域制限の主張を撤廃したと判断し、並行して政府の「海軍の力を借りて南洋在住邦人の困窮を救済せん」との意向も受けて(この種の理由付けは、明治初期の西郷隆盛の「征韓論」から繰り返されている)、巡洋戦艦や駆逐隊の南遣支隊をもって9月10日から約20日間のマリアナ諸島、東西カロリン群島方面の捜索撃滅行動に入った。さらに海軍は、9月21日には第二南遣支隊を新編し、豪州航路の保安を図るためオーストラリア艦隊と協同作戦を行う。第一南遣支隊は9月29日朝、抵抗を受けることなくヤップ島に上陸し占領、公文書や武器などを押収処分して帰艦。10月1日にはオーストラリア艦隊がラバウルを発ち北上するとの情報を受け、海軍はニューギニアやサモア同様にオーストラリアやニュージーランド軍に占領されてしまうことを恐れ、即座に南洋諸島の一時占領を果たし、続けて海軍は3日、第一・第二南遣支隊に「群島の要地を占領し守備兵を置くべし」との占領命令を発し、10月14日までにマーシャル、カロリン、マリアナ諸島を、12月にサイパン、パオラ、トラック、ポナペ、ヤルートの島々を占領、それぞれに軍政府を設置した。イギリスは、他国の反発もあり、日本の戦域を制限したかったが、イギリス海軍は日本海軍の支援を必要としており、戦域制限を次第に解消し、日本海軍に念願の南洋諸島を入手させた。なお、1914年(大正3年)10月17日深夜に、膠州湾の封鎖を逃れたドイツ駆逐艦一隻が外海に出て、遭遇した海防艦高千穂を魚雷で撃沈する事件があり、高千穂は乗員284名中生存者13名の大きな犠牲があった。
こうして青島で日本陸軍が本格攻撃のために重砲の据付や塹壕掘りの真最中に、日本海軍は一挙に赤道以北の南洋諸島の島々を占領した。なお、同じドイツ領南洋諸島のうち、赤道以南のパプア・ニューギニアを含む島々はオーストラリアとニュージーランドが占領した。ただしこの時点では占領を行っただけであり、領有が国際的に認められるためには、講和会議での承認が必要であった。
これらの動きとは別に、イギリスは当初、海軍兵力不足の北米沿岸警備に巡洋艦を派遣するよう依頼、日本は最初は断ったが、南洋諸島攻略の目処がつくと、10月後半に遣米支隊を編成し、メキシコ(すでに9月から巡洋艦出雲が)とカナダを含む北米西岸の哨戒を行った。11月に入って、遣米支隊はイギリス他オーストラリア、カナダ軍と共にドイツ東洋艦隊の追跡を行った。
地中海遠征(1917年:大正6年)
その後、連合国から護衛作戦に参加するよう再三の要請が行われ、1917年(大正6年)に入り、日本海軍はインド洋に第一特務艦隊を派遣し、イギリスやフランスのアジアにおける植民地からヨーロッパへ向かう輸送船団を、ドイツの東洋艦隊から護衛する役割を受け持った。さらに8隻からなる第二特務艦隊をインド洋経由で地中海に派遣し、最終的に艦隊は合計18隻となった。地中海ではイギリスの輸送船が魚雷攻撃で沈没し、乗員3300名のうち、3000名を2隻の日本の駆逐艦で救助した。これにより艦長以下20数名は、英国王ジョージ5世より勲章が授与された。ところがその後航行中に2隻の駆逐艦のうち一隻の「榊」がマルタ島に帰還中、オーストリア(ドイツと同盟)の潜水艦Uボートに魚雷攻撃を受けて大破し、59名が戦死した。その救助には英国の駆逐艦が当たった。遺体は近くの島で火葬され、最終的にマルタの英海軍墓地に運ばれ、他の戦病死者を含めて73名がそこに埋葬されたが戦死者は78名である。この後も日本海軍の護衛艦隊は1000人以上を救助している。地中海では約1年半の間に第二特務艦隊が護衛した回数は348回、Uボートとの交戦は30回以上に及び、護送した軍艦、輸送艦は主に英国籍で延べ788隻、護送人員75万人に及んだ。
戦死者など
この戦闘の総員5万1700人。兵站部隊と鉄道警備部隊を除いた前線戦闘員は2万8943人、最前線の歩工兵数は約1万4400人で、イギリスの派遣部隊は北中国守備軍第2大隊とインド兵半個大隊合わせて1335名の編制であった。日本軍戦死者は273(要塞の陥落までの死者は183、負傷150)、負傷者972、イギリス軍は死者13(160との説も)、負傷者57、ドイツ軍側は戦死者210、負傷者550、病死者150で捕虜総数は4791名(その後の死者も含むが、南洋諸島の捕虜はわずか)であった。ただしこの日本の戦死者(ちなみに日清戦争では1.4万人弱、日露戦争では8万人超の死者)の中に少なくとも膠州湾外でドイツ駆逐艦に撃沈された海防艦高千穂の乗員271名の犠牲者数が入っていないようであり(もっとも、その戦死者は50数名としている記述もある)、地中海の78名も入っているのかどうか不明である。
ちなみに19世紀までは一度の戦争で死者が10万人出ることはあまりなかったが、それぞれの連合国の集結があった上に、近代兵器が登場したこの第一次大戦では、行方不明者を含めると2千万人以上の人々が犠牲となり、とりわけ民間人の犠牲の割合が三分の一以上に達した。これが第二次世界大戦ではこの数倍の大量虐殺を生じる。
またこの第一次大戦の2ヵ月間の青島戦争から、続いて次に述べるシベリア出兵(1918年−1925年:大正7-14年)にかかった臨時軍事費特別会計は、総額8億8千万円(現今の価値で約8兆円)以上という。22ヵ月間の日清戦争と台湾制圧戦が約2億円、日露戦争は20ヵ月で約15億円であった。人件費、運搬費、そして兵器費がかなりの出費であったことがわかる。
捕虜の扱い
第一次世界大戦のヨーロッパにおける戦死・犠牲者は一千万単位に上るが、それに伴った捕虜の数は、連合国と同盟国の両者を合わせて775万人とされ、未曾有の数であった。この数はいくら国際法遵守と言われても対応できない場面が多々あったことを意味する。収容所が不足し、病気が蔓延し、食料も不足した。大量の兵士が送り出されると国内の労働力が不足し、捕虜を労役につかせたり、あるいは前線での塹壕掘りに使役したりした。
それに比し、日本がこの大戦で担ったのは主に中国の一部分のドイツ領における戦闘であり、捕虜の数は上記のように限られ、その一部76人はイギリス軍に渡された。そのため日本軍には日露戦争の時より余裕があり、日本に移送された捕虜4697人は日清・日露戦争と同様、国際法に準じて扱われた。総じてドイツに対する敵愾心も薄く、好意を持って遇された。日本軍は1914年(大正3年)8月下旬にドイツに宣戦布告すると9月には「俘虜情報局」を設置し、これまでの慣例に従いその事務取扱規定を作成した。収容所は最初に久留米に設置され、続いて東京、名古屋、大阪、姫路、松山、丸亀、福岡、熊本、さらに静岡、徳島、大分に設置された。中には戦地で活躍する師団のある地元が引き受け、そのために嘆願書まで出される場合があった(徳島、静岡など)。これは地元の経済的効果を狙ったものでもあった。このうち半分は寺院があてられたが、収容の長期化に伴い、寺院は生活慣習上の違いで荒れることが多く、最終的に徳島県鳴門市の板東収容所、千葉県の習志野収容所、広島県の似島検疫所収容所などの六カ所に統合された。
特に徳島県の板東収容所の約1000名に対する扱いはきわめて丁寧で、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた。このときにドイツ料理やビールやパン作りをはじめとしたドイツ文化が日本に伝えられた。またベートーヴェンの「交響曲第9番」(第九)が、このときドイツ軍捕虜によって初めて演奏されたことも知られている。545名が移送された広島県の似島検疫所では、青島で捕虜となった菓子職人のカール・ユーハイムが日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げ、広島市の産業奨励館(現在の原爆ドーム)で実演販売も行い日本に広め、また捕虜のサッカーチームが地元の師範学校チームとの試合を通じてその技術を教えるということもあった。徳島では捕虜の描いた絵画、シャンデリアなどの工芸品、牧場の自営による乳製品やソーセージ、洋菓子作り、そうしたものを集めた展覧会では体操の実演などもあって、近畿や関東から5万人もの来訪者があった。さらに捕虜たちは近隣の企業にも勤務し、その技術を伝えることもあった。519人を収容した名古屋でも捕虜たちの活動は活発であった。運動は体操、テニス、サッカー、ボクシングなどで、音楽や演劇、さらに収容所外では園芸や家畜の育成にも勤しみ、食生活を助け、公園の整備もした。学術活動もあり、救援品の書籍で図書館も設置され、技術や語学の習得に励んだ。各種の技術者がいて、収容所内でも玩具や文房具、模型、家具、楽器、彫刻、機械、小型蒸気機関など様々なものを作り近隣の学校や企業などにも提供、販売もした。そうした物の展示会を開催すると大盛況で、延べ10万5千人の入場者があった。特に技術者は鉄道会社や陶器会社、自転車会社、紡績会社など相応の会社に派遣され、その技術で製粉会社もパンを製造するようになった。そして名古屋の新聞社が捕虜を講師として学術講演会まで開催した。もともとドイツ人は日本人と似て勤勉であり、相性が良かった。しかしその両国が洋の東西で第二次世界大戦を起こし、内外に大量の犠牲者を出し、そして敗北し、にも関わらず戦後は世界経済をリードしていくという同じような道を辿っていった。
ともあれこのように一般の兵士たちは祖国では様々な仕事に就き、趣味をたしなんでいたわけで、戦争で出兵した彼らがたまたま捕虜となってそのような文化の伝達人となりうるということである。つまり戦死した多くの兵士たちも様々な可能性を持っていて、もし戦場ではなく文化交流の場としてお互いが出会っていたら、新たな文化を創り出していたであろうということは容易に想像できる。戦争における兵士の何万何十万人の「損失」という単なる死者の数の中には、その一人ひとりがその人生を生きている途上で、不意に戦場に駆り出され、無闇にその命を断ち切られたという事実が隠されている。どれほど戦争というものが人類にとって無益以上の愚かな行いであるかがわかる。太平洋戦争末期には、20歳前後の多くの若者が特攻隊という名で、みすみすその命を散らしていった。それこそ将来の「お国」を築くべき若者が、それを成す前に「お国のため」と言って(言わされて)人に恋する時間も奪われたまま死んでいった。
1919年(大正8年)1月から開かれたパリ講和会議では様々な問題が討議され、条約調印までに半年かかった。それを踏まえて各国の捕虜が解放されることになるが、日本ではドイツ人たちの帰国は翌年明けまでかかった。捕虜の日本への移送は早いもので1914年(大正3年)10月から始まっていたが、都合4年から5年半収容されていたことになる。この間の死者は78名(86名とも)で、これは1918 – 1920年(大正7-9年)にかけて世界的に流行したスペイン風邪によるものも大きいという。なかには日本に愛着を持ち、仕事も得て残留を希望したものが171名、国内で解放されたものが約200名、正規の帰還船のルートで帰国したものが4220名であった。
(以上は筆者の見解以外は『近代日本における捕虜』森雄司/中京大学法学研究論集第25号より抽出)
残念ながら、日本が形の上で捕虜を丁重に扱ったのはこのころまでのことで(ただし日清戦争では既述のように捕虜にしたのは旅順以外だけで、旅順では万単位の人が虐殺された)、昭和の日中戦争以降、太平洋戦争においても残虐な行為が横行し、のちに国際的非難を浴びるようになる。例えば中国戦線では、多数生じる捕虜を扱いかね、まとめて機関銃で殺戮したり、将校が競って軍刀で試し斬りする例が多くなり(これは人種差別が根底にあるからできること)、太平洋戦争の東南アジアでは、不意打ち攻撃による数万から10万単位の捕虜(シンガポールなど)を扱いかねて、そのための食料も用意できず、飢餓状態に放置したり、狭い収容所に押し込めたりして多くの死者が出た。また日本に輸送した捕虜は(輸送中にも船が度々撃沈され、その都度千人単位の捕虜が海に沈んだ)軍需工場などの労役に使い、しばしば虐待もあった。時代を経るにつれて国際法が無視されていくという逆行現象は、航空機を含めた近代兵器の発達で大量虐殺の時代に入り、捕虜の扱いを考える余裕もなくなっていったことを示している。
パリ講和会議(べルサイユ条約)で締結された日本の戦果
1918年(大正7年)11月に第一次大戦が終わり、翌1919年(大正8年)1月から開かれたパリ講和会議では列強国の間で紆余曲折の駆け引きが行われた。そこで締結されたべルサイユ条約(対ドイツ平和条約)により、日本は山東半島および南洋諸島におけるドイツ権益をほぼすべて引き継ぐことが認められ(当事国の中国は反対し批准しなかった)、さらに翌年新設された国際連盟理事会において日本の委任統治が認められた。この結果、日本は国際連盟の常任理事国となり、参戦による国際的地位向上という、日本政府の当初の目論見は達成された。
この時に手に入れた南洋諸島は、占領後に臨時南洋群島防備隊による軍政が敷かれたが、1922年(大正11年)には民政部としての南洋庁が設置された。政府はこれらの島々を産業振興の地として推奨したため、会社や産業組合が設立されて、魚農民たちが移住し始め、その数は合わせて10万人に上り、日本人の子供たちのために学校が開かれ、また現地人の子供にも日本語による初等教育が行われた。そして1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争突入により、これらの島々は米軍との激戦の場となり、日本軍兵士の玉砕の島々と化した。新天地として居留した人々はそこで集団自決の悲劇を生むことになる。
この参戦については、日清・日露戦争と違ってなんの大義もない(ドイツとの直接の利害もなかった)もっとも戦争開始の大義などは戦争を仕掛ける側にとって重要ではなく、この大戦もわずかなきっかけで始まっている。例えばドイツ自身が1898年(明治31年)に青島・膠州湾を清国(中国)から租借した経緯も、ドイツは1897年(明治30年)11月、二人のドイツ人宣教師が山東省で殺された事件を盾にして、ドイツ海軍が膠州湾に侵入、直ちに上陸して港を占領、そして1898年(明治31年)3月から99年間の租借を中国から得て、その後ドイツが資本と人材を投入して青島と済南鉄道の開発・整備を行い、青島港が天津に次ぐ中国第二位の国際港となっていた。それをドイツが第一次大戦で欧州戦線に兵力を投入している間に、日本がその成果も含めて横から武力奪取したわけである。ドイツにしても日本にしても一種の強盗行為であるが、この帝国主義の時代には国際的に同様な行為が横行した。なお膠州湾は中国に還付すると同盟国イギリスに約束していたが、日本は口約束で済ませた。
いずれにしても日本は戦争の大きな痛みを経験せずして戦勝国となり、ドイツから中国の一部と南洋諸島の権益を手に入れた。政治家の中には「天佑」として喜んだ者もいた。しかも日本は影で各国に兵器を売り、大きな利益も得ていた。一方でヨーロッパはこの世界大戦で大きな痛手を負い、「平和への志向」へ向かうのに対し、日本は「軍備増強・権益拡大志向」を目指し、潮流の違いを産むことになった。なおこの講和会議においては国際連盟の設立が協議され、1920年(大正9年)1月10日に発足、人種差別撤廃と軍縮に向けての提案もなされた。国際連盟についてはアメリカの大統領ウィルソンが主導したが、肝心の自国の議会で加盟が拒否された。なお、人種差別撤廃案は日本が提案したもので、当時アメリカ・カナダ・オーストラリアなどにおいて日本人移民及び日系アメリカ人に対する排斥運動が起こっていたことに起因するが、一方で日本の対中国政策が平和的なものであるとする印象操作もあった。軍縮についてはその後のジュネーブ軍縮会議やワシントン会議といった、国際的軍縮の動きにつながることとなった。
日本の対中国政策:対華21カ条要求(1915年:大正4年)
第一次世界大戦勃発の翌1915年(大正4年)1月18日、つまりドイツの占領する青島・膠州湾を奪い取ってからのこと、日本は大隈重信内閣により中華民国(中国)の袁世凱政権に14カ条の要求と7カ条の希望条項「対華21カ条要求」(原文はこちら参照)を突きつけた。内容は5号21ヵ条から成り、「山東省のドイツ権益を丸ごと譲渡すること/日露戦争によって得た関東州の租借期限を延長すること/南満州鉄道の権益期限を延長すること/さらなる鉄道の敷設権を日本に許すこと/満州の日本利権の拡大延長/沿岸部を外国に割譲しないこと」等であった。もともとドイツに要求していた「山東省と青島の膠洲湾租借地を中国に返還するよう」にという最後通告を日本は覆したわけであった。日露戦争で獲得した満蒙=南満州と東部内蒙古の権益の大半は期限付きであり、たとえば遼東半島南端(関東州)の租借期限は25年間、南満州鉄道及びその付属地のそれは36年間であって、この中途半端な租借期間を99年間に延長することと各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること、自由に居住・往来したり、各種事業の業務に従事することを許可すること、指定する鉱山の採掘権を与えることなどを含めた日本に都合の良い各種の利権を要求するものであった。その中の第5号は、中国政府に日本人の政治、財政、軍事顧問をおくことがあった。これはまさに中国を保護国とし日本の植民地となるように要求しているようなものであったが、同時にこれを対外的に秘密にするよう求めた。しかし中国側はこの内容を公表し、内外世論の支持を背景に交渉に対処しようとした。
まずアメリカとイギリスはその取り下げを要求し、中国各地で日貨排斥運動が起り、列強国の非難も高まったため、日本政府はまず第5号を削除し、1915年(大正4年)5月7日、最後通牒を中国政府に通告し、9日に中国は受諾、25日に最終的に十六ヶ条が認められ、山東省に関する条約、都市開放、膠洲湾租借地(青島)に関する条約が調印され、交換公文が交わされた。この中で「南満州及び東部内蒙古に関する協定」が調印されたが、南満州については実質上中国は自治権を放棄するというものであり、以後中国では最後通牒受諾の5月9日(のち7日となる) は「国恥記念日」とされ、中国全土で激しい抗日、条約廃棄運動が展開された。これがのちに五・四運動(下記)に繋がっていく。これに加え、1919年(大正8年)第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本の中国に対する利権の要求が認められた結果、中国国内では学生デモを発端に、全国各地でストライキが起こり、五・四運動と言われる反日・反帝国主義運動が引き起こされた。この影響で中国はべルサイユ条約の調印を拒絶した。
ただこの日本の強引なやり方に対して、すでに中国に利権を持つ列強(米英仏露)は日本だけを責めるわけにはいかず、また日本が対ドイツ作戦に協力した見返りの意味もあって黙認、基本的には容認した。またアメリカは11月に、中国の領土保全と門戸開放を日本が認めるという協定を締結し、同時に日本はアメリカに山東省権益を認めさせた。
これとは別に日本と中国の間に1918年(大正7年)9月、満蒙の四鉄道および膠済鉄道(青島−済南)の延長線である済順鉄道(済南−順徳)、高徐鉄道(高密−徐州)の借款仮契約が締結されるとともに、山東問題処理に関する取り決めが交わされた。また満蒙に関する重要な取り決めには事前にロシアとの裏取引があって、満州を南北に内蒙古を東西に分けて両国の権益を確保するというものであった。この三年前の1912年(大正元年)、露蒙協定付属通商議定書において、ロシアが蒙古内において自由に居住、移転し、商工業その他の業務に従事できる等としていて、日本もこれを押し通したのであろう。一方で袁世凱軍閥政権(辛亥革命による中華民国が成立した時に中国の実権を握った軍事政権)は日本の経済的および軍事的援助を求めていたことも背景にある。実際に孫文は「21ヶ条要求は、袁世凱自身によって起草され、要求された策略であり、皇帝であることを認めてもらうために、袁が日本に支払った代償である」としている。さらにこの外交交渉により、南満洲及東部内蒙古に関する条約など満蒙問題に関する重要な取り決めがなされた。
これらに対する反日運動(のみならず英仏米露などの列強も天津はじめ中国各地に軍を駐留させ、租借地を有していて、これに対する反感も相まって)は長く続き(ある意味列強は寄ってたかって中国を食い物にしていたが、後発で近隣の日本の横暴が、中国人にとって一番許せないことであったのかもしれない)状況を打開すべく、日本政府は中国と交渉の末、1922年(大正11年)、ワシントン会議(後述)に並行して日中山東条約及び日中山東還付条約が締結され、青島を含んだ山東省を中国に還付することとなった。ただ、膠済鉄道は日本の借款鉄道とされ、同鉄道沿線の鉱山は日中合弁会社の経営となるなど、日本は山東省に一定の権益を確保した。そしてこの山東省と鉄道の敷地周辺を背骨のようにして日本軍は満州地区への占領拡大に動いていく。
(第一次大戦関連の具体的事例はウィキペディアやブログ「日本が戦った第一次世界大戦」、その他資料より混成)
朝鮮と中国における独立運動
朝鮮の三・一運動(1919年:大正8年)
19世紀後半から、西欧列強の植民地政策に苦しめられていた地域の人々の中から、帝国主義支配に抵抗する運動が芽生えて来ていたが、日本はむしろその頃から帝国主義としての動きを強めていった。日露戦争後の1910年(明治43年)8月、「韓国併合に関する条約」(条約文の内容は「韓国併合に関する条約」参照)に基づいて日本は大韓帝国(朝鮮)を併合して支配下に置いたが、 その前の 1894年(明治27年)の日清戦争時からの東学農民軍を中心とした生き残りが姿を変えて反日義兵闘争や愛国啓蒙運動の中核となり、各地に秘密組織として設けられていた。第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)1月、アメリカ合衆国大統領ウィルソンにより、「民族自決」の原則を含む「十四ケ条の平和原則」が発表された(といいながら米国はこの年ロシアの共産主義革命に介在する)。これもあってか、民族自決を求める反帝国主義の高まりが世界的に起こった。
1919年(大正8年)3月1日、日本の植民地支配を世界に訴え、独立宣言を発表してパリ講和会議に請願しようと、朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の各宗教指導者ら33名が、京城(現・ソウル)において「宣言書」を読み上げ、万歳三唱をした。これを見て日本の警察が彼らを逮捕したが、宣言書はあらかじめ印刷され配布されていて、彼らを支持した学生や民衆が数千名、公園に集まって同じ独立宣言を読み上げ、「朝鮮独立万歳」を叫んだ。。その後市内をデモ行進し、道々「独立万歳」と叫ぶデモ隊には、次々に市民が参加し、数万人規模となったという。
この運動は市民や学生だけではなく労働者や農民も含んだ広範囲な民族運動となって3月から5月にかけて都市から農村へと全国的に広がり、230の府と郡で1491件のデモが起こり、200万人以上が参加した。農村地域では日本の土地調査事業で土地を収奪されていた農民が先頭に立ち、また労働者はストライキで、商店主は休店するなどして抵抗運動に加わった。とりわけ農民は日本の統治に直接的な被害を受けていたから暴動の先頭に立ち、官公署、日本の土地会社、親日の地主を襲撃し、小作契約書を焼き捨て、税金の納付を拒否し、日本人官吏を追い出すこともあった。こうして運動は次第に過激になり、当初の宣言書の非暴力の意図を超え、日本人惨殺や放火などが相次いだ。
日本の朝鮮総督府は軍隊と警察を総動員して弾圧したが、日本本土からも鎮圧のため軍隊と警察を動員した。襲撃による日本側の被害は、官憲の死者8名、負傷者158名であり、物的には駐在所159(警官および憲兵関係)、軍事務所77、郵便局15、その他27で、朝鮮内のデモ回数は1500回、延べ参加人数は205万人に上ったと言われ、朝鮮側の記録では死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、教会47、学校2に上るという。このことは日本では単なる騒擾事件として扱われ、独立運動としての詳細は報道されず、日本国民もほとんど知ることはなかった。
またこの運動は、圧制によって朝鮮を離れ満州や沿海州にいた朝鮮人たちにも波及するが、上海にいた抗日活動家、金九・李承晩・呂運亨らによって4月13日に上海に大韓民国臨時政府が設立される。この臨時政府は蒋介石国民党の支援を受けるが、独立後李承晩が最初の大統領となる。ちなみに三・一独立運動の翌年、金日成は親に連れられて中国東北部(満洲吉林省)に移住し、青年となって共産主義学生運動に参加、その後1933年(昭和8年)、東北人民革命軍(東北抗日聯軍)に所属し、満州を支配する日本軍へのゲリラ活動を主導、1945年(昭和20年)の朝鮮解放後から南北朝鮮戦争を経て朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を建国した。同じ抗日活動をしながら朝鮮は二つの国に分断されたが、あえて言えば、中国と北朝鮮の共産主義政権の樹立というのは、皮肉なことに反共産主義日本の侵攻と植民地政策が大いに貢献したと言っていいだろう。
【宣言書】
この三・一宣言は、日本に留学している朝鮮人学生たちが2月に東京のYMCA会館に結集し、「独立宣言書」(二・八宣言)を採択したことが伏線となったとされる。それは2月8日に「朝鮮留学生学友会総会」が開催され、その時に「朝鮮青年独立団」を結成しようと緊急動議の声が挙がり、独立団代表11名の署名入り独立宣言文が満場一致で採択された。しかしそこに警察官たちが乱入し、指導メンバーたちの一斉検挙が始まり、宣言署名者のうち、使命を帯びてすでに日本から脱出していた2名を除く9名が逮捕された。逮捕された留学生たちのために、日本の弁護士たちが弁護を引き受け、内乱罪を適用しようとした検事に対し、結局出版法違反という微罪で終わらせた。
以下は三・一宣言書からの一部抜粋である。(全文は『3・1運動の「宣言書」』参照)
—— わたしたちは、わたしたちの国である朝鮮国が独立国であること、また朝鮮人が自由な民であることを宣言する。このことを世界の人びとに伝え、人類が平等であるということの大切さを明らかにし、後々までこのことを教え、(2000万の)民族が自分たちで自分のことを決めていくという当たり前の権利を持ち続けようとする。…… わたしたち朝鮮人は、もう時代遅れの思想のはずの侵略主義や強権主義の犠牲となって、初めて異民族の支配を受けることとなった。自由が認められない苦しみを味わい、10年が過ぎた。支配者たちはわたしたちの生きる権利をさまざまな形で奪った。そのことは、わたしたちのこころを苦しめ、文化や芸術の発展を大いに妨げた。…… 日本は、朝鮮との開国の条約を丙子年・1876年に結び、その後も(朝鮮を自主独立の国にするはずの)様々な条約を結んだが、そこに記された約束を破ってきた。……もともと日本と韓国(大韓帝国)との併合は、民族が望むものとして行なわれたわけではない。その結果、威圧的で差別的な不平等な政治が行なわれている。……(このままでは)東アジアの国々は共倒れとなり、滅亡してしまうという悲しい運命をたどることになろう。いま、わが朝鮮を独立させることは、朝鮮人が当然得られるはずの繁栄を得るというだけではなく、そうしてはならないはずの政治を行ない、道義を見失った日本を正しい道に戻して、東アジアをささえるために役割を果たさせようとするものである。……(そのために)ためらうことなく自由のための権利を守り、生きる楽しみを受け入れよう。そしてわれわれがすでにもっている知恵や工夫の力を発揮して、広い世界にわたしたちの優れた民族的な個性を花開かせよう。……わたしたちは、ただひたすら前に見える光に向かって、進むだけでよいのである。
(訳文は『週刊金曜日』第1221号より多少改変)
(この宣言を実行するための公約の一つとして)今日われわれのこの拳は、正義、人道、生存、身分が保障され、栄えていくための民族的要求、すなわち自由の精神を発揮するものであって、決して排他的感情にそれてはならない。
<1919年3月1日:33名の署名>
【堤岩里事件】
三・一独立運動の最中、4月上旬には京畿道でも暴動が発生し、憲兵駐在所・警察署のみならず民家に対しても破壊や放火が行われ、日本人も避難する事態となっていた。4月3日、2千余名の棍棒を携えた群衆は暴徒となり長安、雨汀の事務所を襲撃した。そのまま暴徒は花樹里駐在所を襲撃し、全焼させた。駐在していた川端豊太郎巡査は撲殺された後、死体を損壊された。その後、暴徒は発安里で日本人を殺戮して市場を壊滅させた。この事態に朝鮮人の警察官が続々と職を辞したため無政府状態となり、日本人男性9名が自警のために残留し、40名の老人・夫人は三渓里に避難させられた。4月13日に朝鮮駐留軍歩兵第40旅団から暴徒鎮圧の命令を受けた有田俊夫中尉が指揮する歩兵11人が発安(郷南面)に到着した。4月15日、有田中尉は提岩里の住民から暴動を起こしているのはキリスト教徒、天道教徒であるとして、その信者の18歳以上50歳以下の男性20余名と妻女1名を教会に集めて射殺あるいは刺殺し、さらに教会を焼き払った。この時、民家に延焼したことにより、28戸が焼失し、民間人女性1名が焼死した。これを堤岩里事件というが、この事件で有田は軍令違反で軍法会議に処されたが、過失による犯罪として無罪の判決となった。どうしてこれが過失になるのかわからないが、この種の軍法会議はほとんど建前上で行われ、有罪に処せられることはまずないと言っていい。
一方で暴動鎮圧の結果、司法的には、逮捕・送検された被疑者1万2668名、このうち3789名が不起訴により釈放、6417名が起訴され、有罪判決を受けたのは3967名。3年以上の懲役は80名で、死刑・無期懲役になった者、懲役15年以上の実刑になった者はいない。一方司直の手を免れた活動家たちは外国へ亡命した。
この事件により、日本の朝鮮総督府の武断統治は改められ、憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なもの、文化統治へと方針転換される契機となった。他にも、三・一運動で掲げられた要求を受け、総督武官制、軍隊統率権の廃止、地方制度の改正、結社の制限廃止などの法制度改革を一挙に進めていった。これ以降、朝鮮内では大きな騒動は起きていないが、この後の1925年、日本国内に治安維持法が制定され、同時に植民地である朝鮮と台湾にも導入され、主に共産主義的運動に対し、まだ日本では適用されなかった死刑も適用され、朝鮮では10年間で39名が処刑された。
【民度の高さと「官度」の低さ】
余話として、この時の独立宣言書は印刷されて各地に配布されたが、運動収束後、ほとんどが燃やされたりして廃棄され、現在はわずかしか残されていない。しかし当時朝鮮の平壌で商売を営んでいた日本人がその一枚を持ち帰り、保管していたものを、長崎に住んでいる孫の方が、1919年(大正8年)から100周年を迎えた2019年(令和元年)、ギクシャクしている日韓関係の改善を願って韓国に渡り、天安市にある独立記念館を訪れて宣言書を返還し、現地のテレビなどでも歓迎され報道された。
ところが一方で、日本の外務省が(自民党の外交部会の懸念を受けて)、3・1独立運動100周年を前にして、韓国各地で開かれる予定の集会を受けて、韓国への渡航者に対して異例の注意喚起を行い、「韓国で日本人がデモに巻き込まれたり、危害を加えられたりする恐れがある」とメディアは報道した。これはいかなる注意喚起なのであろうか、何よりも民間人の交流をも妨げようとするとは先入観的偏見も甚だしい。その程度はまったく違うが、下記に述べる関東大震災発生の時に、朝鮮人の暴動がありうるとの注意喚起を早々に発し、日本に仕事を求めて移住していた朝鮮人労働者への官民による大虐殺を促したわけで、当時の日本の軍政府の先入観念とほとんど同じ思考回路によるもののように思われるし、上記のような民間人レベルで努力している人々をまったく配慮していないと言える。現に日本軍はこの後中国においても侵略を繰り返し、おびただしい犠牲者を出すが、戦後の長い時を経て日本の有志の民間人が各種の記念日に謝罪の意を込めて出席するとき、大いに歓迎されることはあっても排除されることは決してない。このような政官側の先入観による排外的な単純思考の積み重ねが、無益な戦争につながって行ったのである。「民度」が低いという言い方があるが、日本の場合、民度よりも「官度」のほうがずっと低いのは、日本の戦争の歴史を眺めていても、また戦後の政官人の対応を見ていても間違いないことである。
中国の五・四運動(民族独立・抗日・反帝運動/1919年:大正8年)
袁世凱死去の後、後継争いで中国は軍閥割拠の時代に突入するが、自軍強化のために盛んに日本から借款を導入した。その代表例が西原借款で、その見返りは中国における日本の様々な利権であった。また1918年(大正7年)には「日支共同防敵軍事協定」が結ばれ、日本軍の中国内における行動を無制限とした。こうした軍閥と日本との癒着は、清王朝が崩壊後に自由と独立を意識し始めていた中国の人々の抗日感情を一層高める結果となった。これに加え、1919年(大正8年)、第一次世界大戦の戦後処理のためにパリ講和会議が開かれ、それに向けて中国の代表団は不平等条約の撤廃、山東省の旧ドイツ権益の返還、袁世凱が日本に対して受諾した二十一カ条の無効を訴えた。しかし、英・仏・米・日の四ヶ国会議で中国の主張は退けられ、べルサイユ条約は締結された。これは大戦末期にアメリカの大統領ウィルソンにより発表された「民族自決」の原則を含む「十四ケ条の平和原則」(秘密外交の廃止、公海航行の自由、平等な通商関係の樹立、軍備の縮小、植民地問題の公正な措置など)に反するものとして、学生たちが決起、2ヶ月前に朝鮮で起きた三・一独立運動の影響もあって、5月4日、北京の学生数千人がベルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求して天安門広場からデモ行進をした。デモ隊はさらにパリ講和会議で日本に譲歩した売国奴として曹汝霖宅を襲撃して放火したり、たまたま居合わせた駐日公使章宗祥に暴行して重傷を負わせるなどした。これに対し北京の軍閥政権は学生を多数逮捕したが、学生たちはゼネラル・ストライキを敢行、各地の学生もこれに呼応して全国的な民族独立・抗日・反帝運動に発展した。上海でも学生の大量逮捕に抗議し、その罷課(大学スト)に呼応して罷市(商店スト)、罷工(労働者スト)の三罷闘争が起こる。港湾労働者は日本船の荷揚げを拒否、交通・通信労働者ストも含めて上海が麻痺状態となる。この労働者によるストライキも全国的な広がりを見せ、一般市民がこれに呼応、逮捕された学生の釈放、売国賊の罷免、講和条約調印拒否などを要求した。最終的に6月10日には逮捕した学生を釈放せざるをえなくなった。この影響もあって、6月28日に中国政府はベルサイユ条約調印を最終的に拒否した。この運動は、その広がりの過程において日貨排斥運動へと性質を変え、日本製品ボイコットは1年以上続いた。アメリカ等でも華僑等の誘導による不買運動がみられた。
後に共産党の中心となる毛沢東や周恩来なども、この五・四運動の頃から表に出てくる。孫文の新たな中国国民党の組織化の弾みとなり、中国共産党の結成を支え、国民党は国民革命軍を結成し、そこから蒋介石が力を持ち軍閥政府の打倒へと展開していく。そうした経緯でこの五・四運動(と1925年;昭和元年の五・三〇事件)は、この後も中国国民党と中国共産党の両者から高く評価されていて、今現在も中国現代史の起点をここに置いているとされる。いずれにしても、その後の国民党にしろ共産党にしろ、一度政権を握ってしまえば、評価しているはずの五・四運動と同じ形態の運動が起きた場合(後述する「五・三〇事件」も含めて)、例えば1989年(平成元年)6月4日の天安門事件のように、民主化を求めて集結した学生と一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力で鎮圧して多数の死傷者を出したが、「抗日」かどうかの違いはあっても、いずれも「民権」が求められてというのが基本であることを思えば、その評価が今に生かされているとは思えず、手前勝手で空疎な評価であることがわかる。1921年(大正10年)、中国共産党がこの五・四運動の影響から誕生したと書かれていても、今現在、その共産党自身が「人民解放軍」によって、「解放」ではなく、大衆運動を弾圧する側になっていれば、なんの意味もなさない。
ロシア革命とシベリア出兵と数々の惨禍(1918−1922年:大正7−11年)
シベリア派兵の経緯(第二の日露戦争)
1896年(明治29年)にロシアは清国政府から、シベリア鉄道の短絡線として満州(現在の中国東北部)の北部を横断し、ハルビン(哈爾浜)などを経由する東清鉄道の敷設権を得た(露清密約)。東清鉄道は1903年(明治36年)に完成し、一時シベリア鉄道のルートだったが、日露戦争後の1908年(明治41年)、東清鉄道に対する日本の脅威を理由として、アムール川北岸(左岸)を通ってハバロフスク橋でハバロフスクを経由しウラジオストクに至る路線が着工された。この線は第一次世界大戦中の1916年(大正5年)に全通した。
第一次世界大戦が終結する前年の1917年(大正6年)、連合国の一員であったロシアで、レーニン率いる社会主義革命(10月革命)が起こり、そこでロシアは対戦相手のドイツとの即時講和を掲げて翌年3月に戦争から離脱した。それを見て連合国はロシアの反革命勢力を支援して革命政権の弱体化を図ろうと、1918年(大正7年)8月、シベリアで孤立したチェコ軍を救出することを口実に、連合国(イギリス・フランス・イタリアなど)はアメリカと日本に出兵を働きかけ、日本もそれに乗って多国籍軍としてシベリアに出兵、ロシア革命に対する干渉戦争として反革命軍(白軍)を支援することになった。
孤立したチェコ軍とは、第一次世界大戦でドイツと同盟国側のオーストリアに組み込まれていたチェコとスロバキアの一部の人々がロシアに逃れていて、ロシアの協力を得てチェコの独立を目指して三万人ほどの軍隊を形成し、連合国側にいたが、ロシアは(革命軍と戦うために)ドイツの次にオーストリアとも講和してしまい、チェコ軍はロシアに居場所を失ってしまう。そこでシベリア鉄道を経由して極東から太平洋を渡り、アメリカ経由で欧州の戦場に向かうという長大な計画であった。しかし途中で事件もあり、チェコ軍は分断され、ウラジオストクに到着しない軍も多く残った。そのチェコ軍を救出し、合わせてロシアの革命軍(すでにそのソビエト政権は樹立されていたが)を抑え込もうとする作戦であった。
しかし、まだ第一次大戦継続中で各国が兵力を割けず、数千人から一万人に満たない兵力の中で(その兵力も列国が植民地としている場所からの、つまり英国は香港にいるインド兵、フランスはベトナム兵、米国はフィリピン兵などが主力であり、また別途欧米軍は西側の北ロシアにも兵力を送った)、日本軍は協定を破り、ウラジオストクその他に3万7千の大軍を送り込み、最大時では7万3千人となった。つまり日本軍はシベリア幹線鉄道の沿線ばかりでなく、ニコラエフスク(尼港)、スーチャン、ポシェート地区にまで部隊を派遣、尼港への派兵はアムール下流域と北サハリンにおける利権の獲得、スーチャンの場合アメリカによる鉱山利権独占に対する牽制、ポシェート地区は朝鮮独立運動に対する抑圧が目的であった。
また日本にとっては日露戦争後の日露協約で、ロシア帝国と分割した満州の利権を守ること、同時にシベリアの極東に住んでいる日本人居留民の保護も独自の目的としたが、それよりもロシアの勢力圏であった北満州(外満州)・沿海州へと勢力を広げる機会でもあった。実際に日本は先んじて1918年(大正7年)1月にウラジオストックへ艦隊派遣しているから、ロシア革命の隙を狙っていたことがうかがえる。ただ表向きはあくまでアメリカの掲げる「チェコ軍の救援」と「ロシア国民の支援と救助」の大義に同調した形を取った。当時の後藤新平外相は、このシベリア出兵を「新しき救世軍」 と銘打ち、「ロシアへの内政不干渉・主権不侵害」そして「ロシア及びロシア国民との友好関係の維持」をうたうものとした。この日本国家が国際的に行う「善行」であるような表現に対し、国内の問題を放置して何の出兵かという国内メディアの意見もあった。実際に、この出兵には国家的偽善という姿が見える。偽善はいいとして、その結果国民の命が将棋の捨て駒のように、大小必ず犠牲になるのである。
ちなみに1916年(大正5年)の時点で、ウラジオストクを中心にハバロフスク、イルクーツク、ウスリースクなどを含めて、日本人居留民は4400人、そのうちウラジオストク には2700人近くが居留していたが、届出なしを含めると全体で6000−8000人と言われる(当時の日本の総人口は5400万人)。定住は1860年(万延元年)ごろより始まっていて、とりわけハバロフスクには中国人、朝鮮人、ユダヤ人、ポーランド人、ギリシャ人も隣り合わせて住んでいた。昔のほうが交通環境が乏しいなか、国境に関係なく自由に人々が移り住んでいた雰囲気がある。
1918年(大正7年)11月には第一次大戦においてドイツ軍が降伏したため、ドイツ軍との戦争を継続するためのチェコ兵捕虜の救出という干渉目的は意味がなくなり、反革命軍に協力していたチェコ軍も、チェコスロヴァキア共和国の独立によって1919年(大正8年)1月末までに早々に退却した。干渉軍は、ソビエト政権に敵対する反革命軍支援だけが目的となったが、日本軍もイギリスの支援による最大勢力であったオムスクのコルチャーク臨時政府軍に加勢した。しかし膨らみ続ける革命軍(赤軍)に押され、1920年(大正9年)1月に反革命軍は敗退した。そこで連合国は撤兵を決定、アメリカは4月に、フランスも8月をもって全部のシベリア撤兵を完了し、イタリア軍その他も1月から8月で撤兵した。しかし日本軍は事後処理のためとして駐留を続けた。しかも野心をもっていた日本軍は、残留してさらに侵攻、シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領した。この距離は3200km以上となり、北海道から沖縄までを遠征したことになる。最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大し、最大7万3千の兵を送り込んで、数々の事件(惨禍)を起こした。
日本軍のもたらした惨事
シベリアの冬季は零下30−40度に至る極寒の時期であり、慣れない日本軍のみならず南方のアジア地区から動員された欧米傘下の連合軍には過酷なものがあり、凍傷被害がきわめて多かった。それでも当初はチェコ軍をシベリアの数千km離れた東部に送るという、ウラジオストク経由で船により移送するための沿線の防御が目的であったので、革命軍(赤軍:パルチザンとも呼ばれ農民や労働者などによる武装組織)との戦闘はさほどなかった。しかし兵力の多い日本軍はなし崩し的に戦線を広域に展開し、しばしばパルチザンの反撃に遭うようになり苦戦が続いた。そこで日本軍はパルチザンが潜む可能性がある村落への「懲罰」攻撃を行うことになる。
【マザノヴォ村事件】
まず1919年(大正8年)1月、日本軍に苦しめられたアムール州マザノヴォ村の村民が、隣のソハチノ村のパルチザン部隊に救援を求め、千人以上が蜂起して日本の守備隊を襲撃、日本側は戦死6、負傷7、行方不明4、凍傷患者34だったという。それに対し一度撤兵した前田多仲大尉の率いる討伐隊が再度攻撃し、ゼーヤ川沿いに進撃、途中手当たり次第に村々を焼きながら侵攻、11日にマザノヴォ村を占領、13日未明にはソハチノ村を襲撃、「懲膺の為、過激派に関係せし同村の民家を焼夷」し、逃げ遅れた女子供を含む村民全てを銃殺し村を完全に焼き払った。
マザノヴォ村事件以降の1月下旬、日本政府の予備役・後備役の動員解除の方針を受けて日本軍兵力が減少した。その後アムール州のパルチザン会議において、農民代議員の圧倒的多数により即時蜂起が決定された。一方で日本軍守備隊はロシア白軍からの要請で、まず2月13日、「報復措置」として、インノケンチェフスカヤ村を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち、無抵抗の村民を手当たり次第に100名以上刺殺・銃殺した。同時に将校や下士官は日本刀による据え者切りなどを行った(こうした行為は日中戦争を経て太平洋戦争末期まで常に見られるが、日本刀というものがそうさせるように思われる)。その後、物品略奪・食糧徴発・家屋放火などの蛮行を行った。
マザノヴォ村の件で福田雅太郎参謀次長は、浦潮(ウラジオ)派遣軍参謀長に宛てて第十二師団が行き過ぎを戒める訓電(「日、露両国民間の感情を害するが如きことありては誠に遺憾なり」)を発していたが、大井成元師団長は事実上これを黙殺し、敵対する村落をロシア白軍と共に焼き討ちする方針を打ち出した。2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「師団長の指令に基き」次のような通告を発した。—— 「第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在せるが、彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て其実質を判別するに由なきに依り、今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するものあるときは日露軍は容赦なく該村人民の過激派軍に加担するものと認め其村落を焼棄すべし」。(この「判別するに由なきに依り」つまり村の中ではゲリラと住民の区別がつかない場合は全部やってしまえという日本軍の論法は、日清戦争における旅順虐殺の時から、日中戦争における南京を含めた各地の虐殺事件に至るまで使われた。しかも自分たちの侵攻に対して反撃する敵は報復するというのだから手前勝手な論法である。攻め込まれた側が反撃するのは、どこにあっても当然であり、しかもこの戦闘は、ロシア国内の革命軍と反革命軍の内戦に対する全く余計な軍事干渉である)。これに続いて参謀長から日本政府への報告である。—— 「最近州内各地に於いて過激派赤衛団(パルチザン)は現政府及日本軍に対し州民を煽動し向背常なく、其何れが過激派にして何れが非過激派なるかの識別に苦ましめ秩序回復を不可能ならしめつつあるが如き状態は、到底之を容すべからざるものと認め、全黒竜州人に対し左の通り通告す。一、各村落に於て過激派赤衛団を発見したる時は広狭と人口の多寡に拘らず之を焼打して殲滅すべし」。
【ユフタで全滅した日本軍】
次にパルチザンに対する掃討作戦をアムール州のユフタで開始した。2月24日、田中勝輔少佐率いる第十二師団歩兵第三大隊は、敵の背後を攻撃すべくユフタに到着、翌午前8時、田中少佐は一個小隊をスクラムレフスコエに偵察に送り出したが、パルチザンに包囲されて「全滅」し、負傷者4人(うち1人は途中で死亡)のみが戻って来た。25日夜、状況を知った田中少佐は攻撃のためスクラムレフスコエへと前進を始めたが、26日午前8時にチユデイノフカ西の森で敵と遭遇、ここでも日本軍は包囲されて「全大隊悉く戦死」した。またアレキセフスクにいた西川達次郎大尉の野砲兵第12連隊第5(1個小隊欠)は、ここに残されていた中隊と一個小隊が田中大隊の増援に向かったが、同じく包囲され負傷者5人を除いて全滅した。 このユフタの闘いで150人の第三大隊が全滅、後続部隊も奇襲を受けて107人が死亡するなど、パルチザン革命勢力による戦死が相次ぎ、日本側の兵力310人で負傷者9人の他は全滅した。負傷して動けなくなった者も極寒のためそのまま凍死したという。パルチザンの戦力は約2500人とされ、待ち伏せ包囲攻撃によるものであった。この後第十二師団の八中隊が、全滅した日本兵の死体を片付けに行ったが、武器は奪われ、衣服は剥ぎ取られ、無残な姿の死体は凍りついて重なっていた。処理部隊は薪を積んで死体をその中に入れ、次々と火葬をした。この事実に日本軍に深刻な衝撃が走り、「日清、日露、青島の戦(第一次大戦)にも未だかつて例を見ない一大珍事」とされたが、この全滅の事実の詳細は軍部によって伏せられた。
(以上は主にウィキペディアその他の資料から混成)
【イワノフカ村事件】
「村落焼棄」の方針が打ち出されるなかでの一部隊全滅という事実は、その後の日本軍進軍にこの方針を徹底させた。3月に入り、日本軍の侵攻を聞きつけると、各地の村人は次々と逃げ、それを追って日本軍はバーロフカ(パヴロフカ)村、ドジェフカ村など10カ村以上を次々と焼き払った。3月下旬、第12師団(師団長大井中将)は、革命派の勢力が強く武装解除要求にも従わなかったイワノフカ村に対する「過激派大討伐」を敢行するも当初は数度失敗し、自軍の損害を拡大させた。そこで「村落焼棄」へと作戦を変更、3月22日、やはり白軍(反革命)ロシア兵とともに村に約二百発の砲弾を撃ち込んだあと、枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始め、捕えた村民男子は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れ、女性や乳児ら257人を銃などで殺害、36人の村民を物置小屋に押し込め焼き殺した。死者総数は291名(内中国人6名を含む)となった。その中には1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていたとされる。
以下、広岩近広『シベリア出兵——住民虐殺戦争の真相』(花伝社:2019年)からの抜き書きで、話は飛んで、後年の太平洋戦争敗戦直前にソ連(ロシア)軍の満州への急襲によって、シベリアに抑留された人々への調査や慰霊の旅から引き出された話である。
斎藤六郎は戦時下、満州で関東軍事務官(高官ではない)として勤務し、1945年(昭和20年)8月に敗戦となってシベリアに四年間抑留され、シベリア鉄道建設の過酷な労働に従事させられた。帰国後は抑留者の補償要求や名誉回復に取り組み、「全国抑留者補償協議会」を設立、会長として活動した。そして民間の立場から(ということは特に強調すべきである)旧ソ連に続くロシア政府と精力的に交渉し、抑留者の名簿引き渡しや墓碑の建設などの実現にこぎつけた。その協議会に同じ抑留者であった横山周導も参加した。横山は僧侶の立場で満州に行き、満州ハルピンの布教者訓練所に入り、その後兵役義務を果たすため敗戦の一年前に現役入隊し、ソ連との国境の町琿春の駐留部隊に所属した。ソ連侵攻後、多少の戦闘となったが、日本の敗戦が知らされたのは11日後だった。部隊は解散し、逃避行の途中でソ連軍に捕まり、アムール河の強制収容所に入れられ、やはり鉄道建設に従事させられた。冬の労働は過酷で、気温が零下60度になることもあった。シベリアの抑留者約60万人のうち、その一割が帰国できずに死亡した。帰国後、横山は僧侶となり、中学校の教師も兼ねた。学校を定年退職したのを機に、横山は1983年(昭和58年)からシベリア墓参を始め、シベリアに眠る日本人墓地に赴き、読経し、慰霊の旅を重ねた。それは同時に未確認の抑留者の墓を探す旅でもあった。
1991年(平成3年)夏、協会長の斎藤は初めてイワノフカ村を訪れた。そして村長のゲオルギー・ウスに「このあたりに日本人の墓はないでしょうか」と尋ねた。村長は「日本人の墓など知らぬ。あなたはこの村のことを知ってきたのか、それとも知らずにきたのか」と怒気を含めて答えた。斎藤は「何も知らずに来ました。私は日本人抑留者の墓を探しています」と率直に答えた。するとウス村長は口ごもった後、斎藤をどこかに案内しようとし、斎藤が付いていくと、村に建立されている二つの碑があった。四角錐体の碑の一つは金色の星の造形が取り付けられ、もう一つは赤色の炎の造形であった。金色の星の造形の碑には「日本の干渉軍たちによる犠牲者を永遠に記念する。1919年(大正8年)3月22日、日本の干渉軍たちによって257名のイワノフカ住民が銃殺された」と書かれていて、一方の炎の造形の碑には「1919年(大正8年)3月22日、この地において日本人たちは36名のイワノフカ住民を生きながら焼殺した」と刻まれていた。村長はこの二つの碑を案内し事件の説明をし終えて、斎藤に改めて「日本人抑留者の墓など知りません」と言った。斎藤には返す言葉がなかった。その後斎藤は横山に、自分が知らなかったこととはいえ、日本政府がこの蛮行を国民に知らせることもなく、教育の場でも取り上げていず、ロシア人に対して恥かしい思いをし、同時に日本政府に対し怒りと不信を抱いたと語った。次にロシアを訪れた時、横山は村の歴史資料館を訪れて、村が焼き討ちにあって教会だけが残った絵や、事件を伝える新聞なども見て確認した。
この話を横山から聞いた著者の広岩近広は取材を進め、国立公文書館のアジア歴史資料センター所蔵の日本側の報告書を見出した。これはウラジオ派遣軍の依頼を受け、民間人(新聞記者)二名が事件の半年後に現地に入って調査したものであった。マル秘の報告書にはまず「イワノフカ村は黒龍州における過激派の本場として本年三月、わが十二師団にに掃蕩されたので有名なる村である」と記し、自分たちは日本の官憲ではないことと日本国民に村の実情を紹介する目的であるという主旨の紹介状をもって行き、1919年(大正8年)9月19日に村長や郵便局長ら11人から聞き取りをしたとあり、以下はその内容である。
—— 「この村が日本軍に包囲されたのは3月22日午前10時で、初め西北の方に銃声が聞こえ、次いで砲弾が村に落ち始めた。およそ二時間ほどの間に約200発の砲弾が飛来し、五、六軒の農家が焼けた。村人は四方に逃げ、あるいは地下室に隠れた。まもなく日本兵とコサック兵が現れ、枯れ草を軒下に積み、石油を注いで放火した。女子供は恐怖にかられて泣き叫んだ。男子の多くは殺され、捕らえられ、ある者らは一列に並べられて一斉射撃の元に倒れた。絶命しなかった者らは一々銃剣で刺し殺された。最も残酷なのは25名の村民が一棟の物置小屋に押し込まれ、外から火を放たれて焼き殺されたことである。殺された者で村に籍のある者は216名、籍のない者も多くいた。焼かれた家が130戸、穀物、農具、家財の消失は無数である。孤児が約500名、老人のみ生き残った家が八戸、現在も生活に窮している家族は多数である」(犠牲者数の違いは前記の後年のほうが正しいとされる)。このコサック兵とは16世紀から活動していた騎馬戦士集団で、ロシア政府に仕えて辺境の防備に当たっていた。二年前のロシア革命でロマノフ王朝が倒れてから、コサックは反革命軍の主力であった。日本軍はこの反革命軍を支える目的で派兵したが、それに対して抗日パルチザンが生まれていた。さらにそれに対して日本軍はパルチザン殲滅を図るという抜きがたい構図があった。そして村長は「村には一時、過激派の本部があったが、焼き討ち当時は過激派は全部逃げ去ってこの村にはいなかった。過激派がいたとしても村民は武力がないから抵抗できない。殺された者の中には反過激派の資産家も多くいたほどで、このことで逆に過激派に転じる者も少なくなかった」と語った。しかしこの報告書がその後、陽の目を見ることはなかったようである。
【謝罪と追悼への活動と民間交流】
全抑協の斎藤会長は、このイワノフカ村の事件を直接知るにおよび、翌年より日本人の抑留犠牲者への墓参に並行して、イワノフカ村のロシア人犠牲者に対しても慰霊の旅を始めた。斎藤は、70歳で刊行した『シベリアの挽歌』において、「シベリア出兵で日本軍がウラジオでアムールで何をしたのか、日本人がシベリア抑留の悲劇を強調するようにロシア人もまた心に宿しているのが戦争の傷痕である。…… 私は国家の始めた戦争の犠牲者が連帯し、平和共存をめざさずして国家間の懸案は解決しないと思う。…… 私は今年の願いとしてシベリア出兵の際、日本軍の焼き討ちにあって一村全滅したイワノフカ村に犠牲者を弔うマリア観音像の建立を思い立っている。この観音像はロシア正教のマリアと日本の観音像の異仏混合形態の像である」と記した。僧侶としてもイワノフカ村に「懺悔と追悼の旅」に参加していた横山は、ある折、この事件の時期に叔父が海軍兵として近くのブラゴベシチェンスクに駐留していたことを知った。叔父の孫から彼が日記を残していたと聞き、横山は見せてもらった。そこにはイワノフカ村から約30km離れた場所から、「黒煙漠々天を焦がして立ち上がる。…… 砲声を聞き双眼鏡を手にすれば現場ありありと見えた」と記されていて、横山は奇縁を感じた。
そして1995年(平成7年)7月に日露共同追悼碑「懺悔の碑」が建立された。斎藤会長とウス村長の共同事業であった。この碑はイワノフカ村の広い公園の中央に、高さ8mの白いタイルの塔柱で、その頂上部にはロシア正教の十字架が掲げられ、中央には観音像のレリーフが彫られている。追悼碑の除幕式には約1500人の村民をはじめ、近隣の村からも大勢が参加し、日本からは斎藤会長ら40人が列席、日本から持ってきた700本の菊の花も供えられた。横山は僧侶として法要を務め、ロシア側は牧師がミサを行った。斎藤会長は体調を崩し、車椅子で列席したが、改めて述べた。
—— 「1919年3月、ここイワノフカ村で日本軍は、非戦闘員たる村民に対し無差別に攻撃を加え、多くの犠牲を見るに至った。…… 1945年にはシベリア抑留があり、多くの日本人が犠牲になった。(1993年)わが国を訪れたエリツィン大統領は宮中晩餐会の席上この問題で謝罪し、天皇は「ただ今の大統領のお言葉を感動をもってお聞きしました」と答礼され、…… 今日、イワノフカ村に建立された追悼碑は、 エリツィン大統領の謝罪に応えるものです。…… ここに犠牲になられたイワノフカ村民の方々に心から謝罪し、ご冥福をお祈りする次第です」。
この除幕式後、ウス村長は「今は日本に対する恨みはありません」と明言した。この五ヶ月後斎藤は急逝した。この斎藤の活動をロシア側で補佐していたロシア人女性のエレーナは、その著書『シベリアに架ける橋』で「こうした会長の地道な努力が実り、村民たちの積年の恨みが氷解して、露日友好親善の機運が高まった。ロシア市民の一人として私はこんな嬉しい思いをしたことはかってなかった」と記した。その後も斎藤の妻が中心となって追悼のツアーを重ねてその都度歓迎され、2001年(平成13年)春、横山らはウス村長を日本に招いた。彼はその時の集会で、「この地球上で命あるものは皆同士です。皆が太陽の恵みを受け、同じ水と空気を共有しています。あなたが飲んだ水は巡り巡って私の飲む水となり、あなたが吸って吐いた空気は私が吸い、次の人に渡します。だからこそ戦争をしてはならないのです。…… 命あるものは皆同士なのです」と語った。なんという思慮深い言葉であろうか。国という大きな船の舵をあずかり、国民の命と生活を守ることを仕事とする政治家たちから、このような言葉が発せられることがないのはなぜであろうか。
この一方で、日本人抑留者の墓地の維持と管理に力を注いだロシア人がいて、それはこの除幕式にも参加したアムール州平和基金委員会のヴァシリー議長であった。彼とその事務所は州内の20カ所の墓地を管理していて、日本人の遺族たちの墓参の案内をし、事前に整備もしていた。それでもヴァシリー議長の管理する20カ所の墓地のうち7カ所が辺鄙な場所にあり、墓参者たちの旅行日程に合わず、訪問できないうちにヴァシリー議長は亡くなった。横山はその訪問を義務とした。それにしても民間人双方において、なんと厚い心で志の高く保った方がおられるのであろうか。政府筋の無関心な放置を思うにつけ、敬服するしかない。
横山も老齢となり、2007年(平成19年)には「ロシアとの友好・親善をすすめる会」を立ち上げ、活動を継続することとなった。20回目の墓参を迎えたとき、横山は追悼の言葉で「私たちはイワノフカ村の事情を知らない間は、当然のごとく被害者の立場でシベリアの日本人抑留者の墓地へお参りすることに没頭してきました。そして斎藤会長が、イワノフカ村の事件を知るにおよんで私のシベリア墓参は一変して加害者としての懺悔追悼の墓参となりました。これは他の団体にないことで、今後広く日本人に理解していただきたい点であります。…… この日露共同追悼碑建立の式の後、ウス村長から「日露平和条約早期締結百万人署名運動」の提案がなされ、大拍手のなかで決定されました。…… 一日も早く平和条約の締結を願うものであります」と述べた。日露平和条約とは、戦後の両国間の長い間の懸案事項で、北方領土返還と日本の米軍基地の問題等が関わっていて、解決は次第に困難な状況となっている。
さらにシベリア出兵から100周年の2018年(平成30年)7月、イワノフカ村の新村長をはじめとする少年少女合唱団やオペラ歌手たちがNPO法人の招きで来日、交流を深め、8月には日本からの交流ツアーで中学生を含む34人が参加した。ウス元村長は「この村のことをずっと忘れずにいてくれてありがとう」と感謝して迎えてくれた。白い衣装の村の女性が歌う —— 「(日本を)責めてはいない。だが忘れることは許されない。忘れて生きることはできない」。しかし、こうした民間人同士の地道な交流と平和への努力と希望は、時の政治権力者の横暴によって無残にも一瞬で砕かれることは、この後のロシアのプーチン政権がウクライナに戦争をしかけたことでも明らかである。そして日本もかってそうであった。平和条約を締結していようが、立派な国際法を批准していようが、権力者が破棄し無視すればそれで終わりである。事実、太平洋戦争敗戦間際、アメリカによる広島への原子爆弾投下の後、次の長崎への原爆投下の直前、ソ連は好機と見て、突然日ソ不可侵条約を破棄して日本の占領する満州に攻め込んだ。その前に日本も同様なことを中国に対し行い、ナチスドイツのヒトラーも同様にして近隣諸国に攻め込んだ。
<筆者私見>
ここでわれわれ日本人は大きな疑問を持たなければならない。エリツィン大統領の謝罪の言葉を平成天皇が感動をもってお聞きになったことは本意であることは間違いないが、そもそも日本政府関係者がこのシベリアにおける虐殺も含め、さかのぼれば日清戦争以前からの朝鮮と中国における蛮行を始めとして、昭和に入ってからの中国に対する侵攻と虐殺、そして太平洋戦争開戦からの東南アジア諸国に対する暴虐行為、これらに対する反省と謝罪を、日本政府がエリツィン大統領のようにまともに相手国に行ったことは寡聞にして聞かない。戦後、ドイツ政府はナチスドイツ時代の蛮行を近隣諸国に謝罪した上で友好関係を築き、国民に対しては教育やメディアの場でその非道な行いを検証し、二度と繰り返さないように徹底的に周知する努力をしていて、ドイツで生活する筆者の知人に言わせると、むしろうるさいほどだという。それに比して「日本政府がこの蛮行を国民に知らせることもなく、教育の場でも取り上げていず」むしろ隠し続けていて、もはや政官人自身がそうした自国の犯した罪の事実を知らないという状態にあると言え、われわれ国民が知る由もない。それに反して、日本の民間人が斎藤や横山のように、遅ればせにそれを知り、自国の犯した罪に対し、懺悔の念をもってわざわざ中国(なかでも南京においても)や東南アジアに出向いて相手国の人に謝罪し、平和的な交流を深めていく姿が各地で見られ、その地道な努力には頭が下がる。ただ、イワノフカ村に建立された追悼碑にしても、仮にも政府が聞きつければ、その費用をある程度負担すべきであるが、他の国々の同様な事例に関してもそのような話は見聞きすることはないし、そうした民間の人たちの活動自体に知らんぷりを決め込んでいる。おそらくそれは、そのようなことをすれば日本軍の蛮行を国が認めてしまうことになるという恐れを持ってのことかもしれない。おそらくそうなのであろう。むしろ事実は事実として認めることが、人間関係においてどれほど大事なことか、それは国同士でも同じである。1945年(昭和20年)8月15日、敗戦が決まると、軍と政府関係者は、内外にかかわらずすべての戦時関係書類の焼却処分を命じた。つまり自らが起こした戦争をなかったことにしようとしたのである。若い命を特攻隊として突撃させた上、彼らの命をも最初からなかったことにしようとしたのである。このような無責任な、反省という言葉を知らない国があるのであろうか。戦後の日本人が海外から比較的信用されるのは、ひとえに民間人の努力によるものであって、それを政府は後追いするだけであって、国際政治的には二流国のままでいる理由はそのあたりにあるだろう。
【一兵士の記録】
シベリア出兵に関わった兵士の個人的な記録は極めて少ない。戦史の中でもほとんど顧みられることが少ないからで、民間の中から拾い出される機会もないからであろう(その意味では「南京事件」についての記録は多い)。隠された戦争の証左でもある。その中で貴重と言えるものが第十二師団歩兵連隊に所属した松尾勝造上等兵が自分の日々の体験を克明に記録した『シベリア出征日記』(風媒社:1978年)がある。これは戦地で書いたものを機会があるたびに軍事郵便として日本の実家に送っていたものが、途中で失うこともなく、検閲で没収されることもなく、一日も欠けずに実家に届き、奇跡的に保管されていたと言い、それを聞きつけた作家の高橋治が出版を勧めて世に出た。これはとても要約などできないが、ほとんど隠し事のない書き方で、戦争の中の兵士の実態を描いているほんの一部を写す。
まず先述の「マザノヴォ村事件」に対して日本軍は2月13日早朝にパルチザンが潜むとしたインノケンチェフスカヤ村に報復攻撃を行うが、その日の描写である。この13日という日付も符合している。
—— 「かくて静かな払暁を破って野砲の第一弾が放たれた。天地を振動させる轟音とともに弾丸は村の中に落下、家は崩れて火を起こし、黒煙は天に柱した。出るは出るは、村の四方にかけて橇(そり)に乗った敵か土民(住民)か夥しき者が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。それ逃すなと村の左右前後に見舞った砲弾であちこちから火災が起こる。歩兵進めの号令一下、五中隊は村の右側を、八中隊(松尾所属)は村の中央目がけて突進した。……村からは逃げ遅れた破れかぶれの抵抗で盛んに発砲してくるが、身を隠す所なく右に左に戦友がばたりと倒れるが、戦友の負傷具合を確かめる暇はない。こうなれば一挙に突撃だと着剣してお互いに喊声を挙げて村に突入した。……家の中より物陰より盛んに発砲してくるが、もう身の危険等との考えは微塵も起こらない。一昨日の恨み、戦死者の弔い合戦だと脱兎のごとくに攻め入った。硝子を打ち破り、扉を破って家に侵入、敵か土民かの見境いはつかぬ。手当たり次第撃ち殺す、突き殺すの阿修羅となった。…… 片っ端から殺していく。敵の兵力は一千と聞いた。逃げたとしてもまだどこかに潜んでいようと、一軒ごと家探しをしたところ、作物を貯蔵している地下室に兵か住民か折り重なり息を殺して隠れている。奥の方は暗くて何人いるかわからない。一発ポーンと放っておいてイヂシュダー(こっちへ来い)と怒鳴ると、銃や剣は捨ててまず両手を上げて次に手を合わせ拝みながら上がってくる奴を戸外に連れ出し、撃つ、突くなどして死骸の山。かかる時、正規兵は橇や馬に乗って一番に逃げ、あとは住民に抗戦させるのが習い。正規兵が数名いて、引っ張って本部に連行、敵情について尋問した後は、腹を突く、胸を刺し、首を落とすなどして嬲り殺しをやった。もう人を殺すこと何とも思わない。大根か人参を切る位にしか思っていない。一人でも多く敵を殺すことに優越感を持っていた。…… さて次の家に向かいほかの兵はどうしているかと振り返ってみると、やはり同様に暴れている。…… 殺された男の妻が泣き叫ぶ。拝む奴を突き殺す。…… 悲惨な光景はこれ以上あるまい。しかし恨みをのんで戦死した我が将卒の仇に報いるにはこれが当然だと思った。これが戦場の習わしか、可哀相になどは思わなかった。こうした惨状がかえって面白く目に写り、一人でも多く殺してやれと次の家へと急いだ。…… 大きな家に突入して地下室の蓋を開くとごろごろと折り重なって隠れている。土下座して拝む奴を外に連れ出すと、外には木下少尉や特務曹長らが血刀を提げて待っている。道に座らせておいて一刀の下に首を斬り落とす。一打で首がころりと落ち血汐が噴き出た。こうして村中の敵らしき者は打ち据えた。…… 木下少尉にとってこんな愉快な戦はなかったであろう、ああ面白かったという。これで六中隊や機関銃隊の仇をとった。…… しかし時の過ぎるにつれて、思えば非道いことをしたものだ。妻や子もいよう、親兄弟もあるだろうという同情心の後には、したことに恐怖心が湧いてくる。これを敵方から見たらどうだったろう。……
(続いて14日の日記)…… 木下少尉に付いて村を巡視に出た。昨日の修羅場の生々しい死体が累々、零下何十度の寒気に凍結して恰も藁人形のようである。顔面の流血は凍って人相も定かではない。(これに見るようにこの時期のシベリア行軍の最大の敵は凍傷で、毎日のように脱落者が出て、最悪は手足を切り落とすことになる)…… ほとんどが木造家の部落、砲弾での火災はその隣へと火移りが早い。火は風を呼び、部落の裾を這うがために家は傾き焼け続ける。この焼かれた家の主全部が敵だっただろうか。避難より帰って全焼や骨だけの我が家を見た時の衝撃や如何にと同情の心が湧き出る。昨日のとは似ても似つかぬ今の心境である。…… 」
この後、松尾の支隊は上記のユフタに向かった田中支隊の後を追い、全滅したその場面に遭遇している。2月26日、列車で移動中、その田中支隊に追いつく前に敵(過激派パルチザン)に襲撃され、下車して敵を追跡した。雪の中の困難な追跡で撃ち合いをしながら敵は逃げてしまった。夕刻暗くなって静寂の中で助けを求める声が聞こえ、それが田中支隊で生き残った者であった。後で話を聞くと、支隊はユフタに着いた頃谷間に入り、そこで約二千以上の敵に包囲攻撃されて殲滅された。その後彼らは近づいてきて生きているものを剣で突き殺し、そうして日本兵の防寒用の靴や靴下、胴着や水筒、雑嚢などを奪い取っていった。この傷つきながら生き残った彼はその中で死んだふりをして何とか助かった。この翌日、松尾の八中隊は朝食を終えて田中支隊の死体の片付けに行った、ということで既述の光景につながる。
ちなみに松尾勝造は男兄弟の五人の四男として生まれ、上三人が徴兵不合格で父親は村の中で肩身の狭い思いをし、松尾が合格すると喜んだ。また松尾自身も四男だから自分一人が戦死したぐらいで家は困らないと、戦死覚悟であった。そういう時代であった。出征時には村総出で祝われ、小倉の兵営から出発する前夜には祝賀会が開かれ、当日は「只今よりシベリアへ出兵する。各員忠勇をもって君国に殉ぜよ」の訓示を受け、港へ行進中は沿道で万歳の声に包まれ、休息時には在郷軍人、青年団、婦人会、少女会などによる茶菓の接待を受け、そこからの沿道では小・中学生の生徒が並んで日の丸の旗を力一杯に振って万才万才と見送ってくれ、さらには筵や茣蓙を敷いて待っていた老人会の人々が「ご苦労様でございます、無事に帰ってきてください」とお辞儀をして手を握られ、門司港に到着するや親兄弟を含めて最後の見送りにと黒山の人だかりで、万才万才の熱狂の中、街には歓送のアーチや横断幕、祈武運長久等様々な旗幟が掲げられ、松尾たちは深く感激するほかになく、「心置きなく出征でき得し私は全く幸せ者だと自覚」した。いよいよ「乗船の位置に集合」すると、学生の音頭でもって楽隊が軍歌を演奏、「天に代わりて不義を撃つ 忠勇無双の我が兵は 歓呼の声に送られて 今ぞ出で立つ父母の国 勝たずば生きて還らじと 誓う心の勇ましさ」(『日本陸軍』の歌)と歌い、一般の人もこれに和した。船に乗っても万才の声は続き、こちらからも万才を返し、さらに船が港を離れると何隻もの見送り船が付いてきて万才を受ける。「ああ、見送る人よ、見送られる人よ、かくて首途(門出)につきし二千の健児が、果して再びこの港に凱旋の万才を予期せし者ありか、一度戦死の報来らんか、今日の首途の如何に思い出深き日となるべきかを、ただ一人知る由もない悲哀の日ともあり」
(松尾の部隊はシベリア出兵最初の出陣のようであり、こうした光景を見ると、この戦争がそもそも日本軍がロシア革命の内戦に介在し、その片方に味方して勝手に攻め入って殺し合いをするのはどうなのかというような疑問など、当時の社会にいる松尾たちには持ちようがなかったことがわかる。なお松尾はこの後一年で除隊となるが、この出征と言う名の戦争は「凱旋」はなく、7年も続く)
*今一人の兵士の経験
またここに、実際にシベリア出兵に召集された一人の兵士がその体験を小説の形として残した記述があり、為政者が参戦を決めた愚かな判断に対して松尾と違って疑問を持ちつつ戦っている。
一つの戦闘で、戦場から逃げるロシア人の父子が銃で殺され、そこに日本兵がやってきて、「これは俺が殺したのか?さっき二三発引き金を引いたんだ」と言い、「戦争とは無情なものだ、しかし戦争をやっているのは俺たちだ、俺たちに無理に戦争をやらせる奴がいるんだ、俺たちがやめればやまるんだ。…… 奴らは勲章をもらうためにどこまでも俺たちをこき使って殺してしまう。おい、やめよう、引き上げよう!」と一人の兵は激して言った。そこで動かずにいると中隊長がやってきて口論となり、それを見て大隊長がやってきて、「不軍紀だ!」として、反抗する隊員を一人、二人、三人と離れた場所にいる将校によって銃殺させてしまった。それを見ていたロシア人で、橇の運搬で雇われていた男は怖くなってその場から逃げてしまう。
「彼等(我等)はシベリアで何等恨みもないロシア人と殺し合いをしなければならないのだ!…… 食うものはなくなった。水筒の水は凍ってしまった。…… 彼等は自分の死を自覚した。…… どうして彼等は雪の上で死ななければならないのか。どうしてロシア人を殺しにこんな雪の曠野にまで乗り出して来なければならなかったか?ロシア人を撃退したところで自分達には何等の利益もありはしないのだ。彼等はたまらなく憂欝になった。彼等をシベリアへよこした者は、彼等がこういう風に雪の上で死ぬことを知りつつ見す見すよこしたのだ。今ごろは炬(こたつ)にぬくぬくと寝そべって、いい雪だなあ、と云っているだろう。彼等が死んだことを聞いたところで、“あ、そうか”と云うだけだ。そして、それっきりだ」
(黒島伝治「橇」1927年出版)
ニコライエフスク(尼港)事件(1920年:大正9年)
【第一次尼港事件】
ニコライエフスク(尼港)は樺太北部の間宮海峡の近く、ロシアのアムール川の河口付近の北洋漁業の基地であり、ウラジオストクに次ぐ沿海州の主要都市だった。当時約4千人の日本人が住んでいて、日本領事館もあった。また陸軍は約330人の守備隊を配置し、海軍も40人の無線電信隊が駐屯していた。上記の事件のほぼ一年後、つまりロシア革命に対する干渉(介入)戦争がひと段落して、他国軍が撤退し始めても日本軍だけが残留を決めていた。その日本軍に対して赤軍の抗日パルチザンは(日本軍に敵対意識を持つ)中国人や朝鮮人を含めて編成し勢力を拡大していた。1920年(大正9年)1月23日、パルチザンはニコライエフスクに駐屯する日本の守備隊を包囲した。24日にパルチザンが和平を提議したが、守備隊長は拒否、2月2日、第14師団長から日本軍局外中立方針の無線訓令もあったが、守備隊長は敵戦力を過小評価してやはり無視、5日、パルチザンは日本海軍の通信所に砲火を浴びせて襲撃、43名が戦死した。21日、パルチザン軍司令官はハバロフスクの日本軍司令官宛に、日本軍局外中立方針の尼港守備隊への徹底を提議、師団長の再度の訓令で日本軍守備隊は和平交渉に同意、28日、軍事行動を停止した。
そうして2月29日にパルチザンは市内へ入り、白軍(反革命側の軍隊)の将校、資本家らを逮捕、銃殺した(最初の数日間で400人以上逮捕、数十人が銃殺との説あり)。つまりパルチザンの停戦目的は日本軍ではなく、旧体制側ロシア人に対するものであった。ただしパルチザンは日本軍に武器の引き渡しを11日までに求めた。このままでは日本軍は抹殺されるという噂も流れ、圧倒的なパルチザン軍(約4千名)を前にして窮した。3月12日未明に、日本軍は隙を見てパルチザン本部を包囲し火を放ったが、間もなく反撃され、銃撃による狙い撃ちで守備隊は相次いで死傷した。そこにパルチザンに味方する中国艦隊が日本軍を砲撃し、さらに劣勢となった。日本領事館も襲われ、副領事は自刃し妻子を道連れにした。日本人居留民の多くも巻き添えを食って大多数が死亡、一部は捕虜となった。 この日の戦闘における日本軍兵力は非戦闘員・海軍無線電信隊を含めて363人、ほかに在留民自衛団・在郷軍人で、13日に残った兵力は100人(うち居留民13)、また陸軍病院分院に患者含め26人だけであった。17日に在ハバロフスク旅団長と領事からの戦闘中止勧告があり、18日朝、日本軍は降伏、残存する兵士と居留民は捕虜として収監された。これを第一次尼港事件というが、この「尼港の惨劇」はパルチザンの一方的な攻撃との報道で日本中が大騒ぎとなった。しかしこれは停戦中にあえて襲撃を指示した守備隊長の無謀な行動によるものであろう。
【第二次尼港事件】
この時期、アムール川が凍結しているため日本軍の救援隊が接近できず、その間の4月1日、米軍は撤兵を完了したが、残留日本軍は何を考えたか(敗北し処刑された反革命の指導者コルチャークに代わり、別な反革命の一派を立てようとしたという)、4月4日夜、ウスリー鉄道沿線を中心として州内すべての日本軍駐屯地点で、革命軍に対し総攻撃に出て、8日まで戦闘が続いた。日本軍側の戦死者約500、ロシア側の「死傷少なくも2450を下らざるべく」という。これを「4月惨変」というが、すでに各国がシベリアから撤退している中、日本軍は道義的な権威を失墜し、各国の領事団が介入、イギリスとフランスの領事が日本を激しく糾弾した。
それでも日本側は撤退を検討せず、約2千名の救援部隊をニコラエフスク(尼港)に派兵することになった。5月の解氷期を迎えると、日本軍の救援部隊が接近するとして、これに対しニコラエフスク(尼港)のパルチザンはロシア住民を疎開させ、自軍も退却させる方針を取った。5月24日、パルチザン部隊の司令官トリャピーツインと4000人近いその部下は、日本人捕虜の約130人と日本人居留民、そして残留反革命派ロシア人や中国人・朝鮮人をふくめた住民数千人を虐殺、そのうち先の捕虜を含めて日本兵351人、居留民384人の合わせて735人が虐殺された。6月2日までにニコラエフスク(尼港)の街全体が焼き払われた。救援軍の先発隊が到着したのは6月3日で、まだ黒煙が上がっていた。
これにより日本国内では革命派の残虐行為として大々的に報道されたが、そもそも無意味な出兵に対する野党や言論人からの非難もあり、また遺族からは無駄な死としての非難もあった。しかし新聞報道等ではこの事件を煽り、代償として沿海州や北樺太(サハリン)を占領するという政府の方針を支持した。そうしてニコラエフスク(尼港)への救援部隊を対岸の北樺太に派兵し、そのまま占領した(南樺太は日露戦争の勝利により獲得済み)。これについて日本政府はロシア革命の行く先を見据え、尼港事件の「賠償と謝罪」を保障するための占領、つまり「保障占領」という名目にした。これに対しアメリカは抗議し、その占領を認めなかった。もとより日本は北樺太の石油資源などを狙っていて、シベリア出兵もその好機と見ていたから、この尼港事件は格好の口実となった。失政による多大な犠牲者をも歓迎される事件として「その功績は実に偉大」と述べた大臣もいたが、さすがにこの発言は非難され撤回した。この後4600人の将兵が北樺太に駐留し、商売に機敏な民間人の移住も続いた。
この日本側の騒動に関し、欠落している視点は、一年前のイワノフカ村その他における日本軍による虐殺事件である。当然これはロシアのパルチザンには周知されていて、日本軍のいるニコラエフスク(尼港)襲撃の際には報復としての意識があったかと思われる。しかし日本側ではイワノフカ村の事実は隠されていて、国民はまったく知らず、かの大隈重信ですら尼港事件を一方的に非難し、北樺太の占領など当然の行為としていた。ただこの事件で気の毒であったのはニコラエフスク(尼港)に移住し商売などを営んでいた多くの民間人であった。その中には九州天草の貧しい土地から移住していた110人も犠牲となった。そしてこのとき北樺太に移住していった民間人は、1925年(昭和元年)、最終的に日ソ条約の締結で日本軍が撤退するとき南樺太に移住させられ(ただし石油採掘などの利権が残る会社関係を除く)、さらに1945年(昭和20年)、太平洋戦争終結間際に(満州と同様に)南樺太はソ連軍に侵攻され、悲劇を生んだ。
なお、この尼港虐殺事件に対し、7月3−4日にかけて、新ソビエト政府は暴走したトリャピーツインら7名を逮捕、この事件の責任追及を行い、公開人民裁判のうえ銃殺刑にした。ただし事件の原因は日本軍がロシア側の軍使を殺害したためとした。これはある意味異様なことで、戦時下で暴走して相手側に多大な犠牲者を出した指揮官を、責任追及するまではよいとして、死刑に処する例は、少なくとも日本軍の中で見聞きした例がない。おそらく初期のソビエト革命軍としては規律を守りたかったのであろうが、仮にその理由であるなら、この処置は(戦時下の軍の暴走に対して常に甘い処置しかとらない日本軍と比べるまでもなく)正当に思われる。
日本軍の場合、せいぜい左遷や謹慎程度であるが、実際にこの派兵軍を率いた将軍三人は、いずれも「功績」を認められて男爵に列せられ、参謀総長であった上原勇作は元帥の称号を与えられた。これでは日本の軍人は自分たちの作戦の失敗を(どんなに多数の犠牲者を出そうと)反省するとか検証する暇もない。そして次の戦争でまた指揮権を与えられ、同じ失敗を重ねる。なんと日本軍というのは甘い組織なのであろうか。その後の戦争で内外に多大な犠牲者を出すのは当然とも思える。
(以上は麻田雅文『シベリア出兵』中公新書、広岩近広『シベリア出兵』、その他より混成)
【遅かった撤兵と日本人居留民に残した禍根】
この第二次尼港事件以降、日本軍も少しずつ撤兵に傾いていき、何よりもロシア沿海州各地の日本人居留民は残れなくなり、次々と日本に引き揚げていった。ちなみに日本人のためにハバロフスクに開山していた仏教寺院も10月に引き払った。もともと彼らを守る目的もあって出兵したはずの日本軍は、その「残留」方針によってまったく逆の結果を生み、せっかく日本の人々が自然発生的に極東の地に築いた文化とその交流の場を、無残にも壊してしまった。しかもその後の日本の軍事的戦略にも不利な状況を作ってしまった。軍隊の暴走(軍隊とはそもそも暴走するものとみてよい)とそれに追随する政府の決定は常にこのような悲惨な結果を生む。
この後も日本軍はウラジオストクなどに駐留を続けたが、日本が干渉したロシア革命の内戦としては、1922年(大正11年)に入るとほぼ革命軍がシベリアも制圧し、日本の政府も撤退を視野に入れるようになり、紆余曲折を経て10月までにウラジオストクから撤退する。この時までにウラジオストクから引き揚げた日本の民間人は3386名で、日本政府はその旅費などを支給した。シベリア派兵の目的の一つ、日本人居留民の保護のためという名目はもろくも瓦解、むしろその犠牲者を増やす結果となった。引揚者には1万5千人の朝鮮人もいた。それは朝鮮を植民地にしていたからであるが、政府はその朝鮮人の引き揚げを支援しないことを閣議決定した。本来、日本人と同じ天皇の「臣民」扱いであったはずだが、これは太平洋戦争後においても同様で、日本の占領地などで軍属として使い、あるいは労役させていた朝鮮人を保護することなく放置した。
このシベリア出征の中身を検証すると、まったく同じようなことが昭和に入っても中国大陸で繰り返されている。つまり一度侵攻してしまうと、このシベリアのように(見返りなしに撤兵してはこれまでの戦費や犠牲が無駄になるという下手な考えで)日本軍はずるずると引き際を見極めることができずに深みにはまり、そこからさらに複数の大国相手に太平洋戦争に突入し、自国をも大空襲や原爆で破壊され、何百万という国民(侵攻した海外の地ではその何倍ではきかない当地の人々)を犠牲にするという結果を生んでしまう。この日本軍の見極めやけじめのなさ、また諦めの悪さというのはどこから来るのか、その国民性に根付いているものなのか、であるならこの後の昭和の「15年戦争」で散々懲りて、その悔恨がわれわれの心の中に残り、過去に繰り返した同じ過ちを、もうこれで繰り返すことはないと、遺伝子のようにわが国民性に根付いていてくれればよいと祈念するしかない。
間島派兵
既述の植民地朝鮮における三・一独立運動は前年1919年(大正8年)3月に起こった大規模な民族運動で、日本軍は武力で鎮圧した。その後多くの朝鮮人活動家が弾圧を避けて朝鮮との国境にある中国の間島地方に流れ込んだ。ここにロシア側でも活動していた朝鮮人も、日本軍のシベリア出兵を避けて移っていたため、独立運動家の一大拠点となっていた。またこの地では日本人居留民と抗日勢力の間で紛争が頻発していたうえ、抗日勢力が日本の支配する朝鮮に国境を越えて攻撃をしかける事件も起きていた。そこで朝鮮軍司令官の宇都宮太郎は、「自衛」の名のもとに追撃作戦を検討していたが、1920年(大正9年)10月、間島地方の琿春で、日本領事館が襲撃されて炎上し、日本人の死者が出た。これを受けて当時の原内閣は、居留民保護と「不逞鮮人の禍根を一掃するため」と、10月7日、日本軍指揮下の朝鮮軍の出兵を閣議決定した。またここで、シベリアのハバロフスクから一部を撤退させて帰還する部隊を間島に派兵することも決定した。そしてこの間島を理由に、日本政府はウラジオストクに派遣軍を駐留させておく必要があるとした。
派兵軍は総勢1万5千人となったが、日本軍は間島で375名を射殺し、民家、学校、教会など300余棟を焼いた。この事件はカナダ人宣教師や奉天駐在のアメリカ総領事の目撃情報によって世界に広まり、日本は国際的な非難を浴びた。この「討伐戦」は11月末まで続き、撤兵は翌年5月であった。当然中国政府は自国への派兵を非難し、関係は悪化するが、日本政府は裏で満州地区支配する軍閥の張作霖と結びつき、意に介さなかった。(以上は麻田雅文『シベリア出兵』より)
伏せられた残忍な軍事行動と軍紀の頽廃
これまで一般的にもシベリア出兵についてはほとんど(上記の日本人が虐殺されたニコラエフスク事件以外は)詳細が語られることがなく、筆者は日本軍のこうした残忍な行動は昭和に入ってからの日中戦争以降の話でしか知らなかった。もちろん当初から報道は規制されていて、このような事実は近年になって(ほぼ1970年:昭和45年以降)歴史学者などによる綿密な調査、あるいはそれらに基づいたジャーナリストなどによる報告、さらに当時の一兵卒が残した日記も1978年(昭和53年)に出版され、明らかにされたものである。
いずれにしろ、これらの事件の4年前、第一次世界大戦に乗じて青島でドイツ軍と戦ったときは、少ない犠牲で難なく勝利し、日本は漁夫の利を得たが、このシベリア出兵では、日本軍として初めてのゲリラ戦を仕掛けられた結果、自軍の損害ばかりか、それ以上に相手国内に多くの犠牲者を生じさせ、日本軍の信用を失墜させた。これは後々に尾を引くことになるが、一番の問題は日本軍はこの出兵の失敗にまったく学ぶ様子がなかったことである。そもそも出兵という名の下に実質的には一方的に侵攻を企てたものであって、いまだに歴史的には「出兵」というレベルで扱われていること自体が問題であろう。
もとよりこの出兵という名の侵攻、つまり戦争の目的があいまいで、軍の士気も上がらず、日本軍内部でも動員計画の粗漏、輸送計画の杜撰まではよいとして、士官・幹部の非常識な行動とあるのは、某参謀将校が毎日「裸踊り」の観覧にうつつを抜かしていた、某少壮将校は「酒楼に遊蕩」していた、一般兵士に至っては、村の民家から鵞鳥・鶏・豚・牛を盗んでは食べるなどで、ロシア側の資料にも日本軍兵士による不法行為についての報告がある。さらに脱営、上官への侮辱や告発など(昭和の戦争においては上官に抵抗できない仕組みが作られた)も発生し、それだけ軍紀の頽廃は将校団においていっそう激しかったと、現地に派遣されていた憲兵隊が記録を残している。軍の規律が「比較的」守られていたのは、日清・日露戦争までだったようである(日清戦争においては既述の旅順虐殺があるが)。本来、時代が進むごとに規律・規範が守られるはずであるが、第二次大戦におけるナチスドイツや日本軍を見ると、逆に規律という言葉も存在しないかのように、大虐殺が行われていく。
人的・経済的大損失
「シベリア出兵」における戦病死者について、1921年(大正10年)1月時点(約2年4ヶ月)での陸軍省統計による戦死1538人、病死591人とあり、さらにシベリア出兵の全期間にわたる陸海軍人、軍属の戦病死者数を合算した戦死者は2643人、病死690人、計3333人となっている。しかしこの中には尼港事件の民間人犠牲者は含まれていない。またこの戦死者には日清戦争と同様、戦地での戦病死者の割合のほうが多く、ちょうど世界的に流行したスペイン風邪による死者もあった。これに比し、ロシア側の戦病死者は軽く数万人を超えるとされるが、その中では既述のように民間人の犠牲者も多いと思われる。
無駄だったのはその労力や戦死者ばかりではなく、この出兵にかかった膨大な経費であった。1920年(大正9年)の日本の一般会計歳入は約20億円であったが、シベリア出兵に関わる経費は臨時軍事費により、陸軍は約5億8千万円、海軍は1億2千5百万円、合わせて約7億を超えた。その他の軍事費関連を含めると約9億円あまりを費やした。このように明治期から昭和20年(1945年)までの国家予算における軍事費の割合は異様に高く、一般国民、とりわけ農村は明治からの80年間、貧乏にあえいだが、日本政府は巧みなプロパガンダ(宣伝工作)によって、敗戦まで国民に「辛抱」を強いた。単に貧乏であるならまだしも、農村では不作の時など娘の身売りまで行われていた。
日本軍がウラジオストクからの撤兵を完了した1922年(大正11年)の年末にソビエト連邦が正式に成立した。しかしシベリア出兵により冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。敦賀港・舞鶴港を通して沿海州と貿易を行っていた関西財界は輸送網を遮断されてしまい、オホーツク海で漁業を行っていた漁師らは、ソ連の沿岸住民らの妨害にさらされた。このようにシベリア出兵は日本にとって不利益のみが残され、関係修復が急がれた。英仏が1924年(大正13年)にはソ連を承認したことに続き、日本は1925年(大正14年)1月20日に北京で日ソ基本条約を締結し、北樺太での日本軍の駐留は終えた。本来、日本の占領は北樺太に眠ると見られていた石油・石炭資源の利権を得ることが目的であったが、ソ連側は駐留日本軍の撤退と引き換えにその利権を日本側に与えることで決着した。ここで日本はシベリア出兵の代償をわずかに確保して面子を立てた。これは隠されているが第二次日露戦争だったと言ってもいい。ソ連としてはシベリア出兵で大被害を受けたはずだが、それを厳しく問わずに条約を結んだことにどういう意図があったのか。一方で共産主義国家の台頭を恐れていた米国がソ連を承認したのはずっと遅く、1933年(昭和8年)である。
失敗に学ばない日本
その後日本軍はチタとハバロフスクからの撤退、守備地域を中東鉄道沿線ではハルビン以東、沿海州ではウラジオストクとその周辺に縮小した。1921年(大正10年)5月、まだウラジオストクでは反革命の白軍が仮政権樹立するなど最後の砦として頑張っていたが、1922年(大正11年)日本がウラジオストクからの撤兵を完了する間際の10月に白軍は倒された。これにより白軍側のロシア軍人や元貴族や資本家、商売人などが国外に脱出、日本にも多く渡来した。北サハリンからの撤兵を完了するのは、さらに3年後の1925年(昭和元年)5月であった。
当然日本政府内部でも出兵当初から反対論も数々打ち出されていたが、覇権維持と体面に固執した軍と政府首脳は撤兵を常に先延ばしし、後の満州事変から始まる昭和の戦争でも同様な過ちは繰り返された。そして日本軍の、失敗から学ぼうとせず、逆に失敗にフタをしてしまうという傾向はこのころから顕著になった。仮にも日本陸軍がシベリア出兵失敗の教訓を共通認識としていたなら、その後の昭和の「15年戦争」を起こすことはなかったのではないかと言われる。 この撤兵に関わった当時の加藤友三郎首相は、「なに一つ国家に利益を齎すことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と述べているにもかかわらず、それが継承されていかなかったのはなぜなのか。おそらくこの直前の第一次大戦参加による漁夫の利的な占領地の収穫に目を奪われて、このシベリア出征のマイナス面は帳消しにされたのではないだろうか。そこからこの戦争については振り返ることをされず、したがって何の教訓も残されず、「知られざる戦争」となった。
日本軍(ばかりではないが)はロシア革命の内戦に乗じて、他国の領土に侵攻し、多くの被害を与えた。攻め込まれたロシアから見れば侵略に違いなく、日本は何をするか分からない恐ろしい国というイメージを残した。それでもこれらの出来事を日本は客観的に検証することもせず、単なる失敗として蓋をすることによって、やはり昭和に入って、清王朝崩壊後の内乱の続く中国大陸で、日本軍はまったく同じように他国内での干渉戦争を繰り返すことになる。もしこれがアメリカであったら、失敗の原因を徹底的に検証し、多少なりとも次の作戦に活かす資料を残すであろうが、どうして日本という国は、軍事的戦略をも情緒的に行き当たりばったりで決めて、悲惨な結果(例えば玉砕戦法や集団自決など)を招くようにしてしまうのか。敗戦後(1945年;昭和20年)直ちに日本の軍政府は(連合占領軍の追求を恐れて)軍事関連資料を全て焼却して、戦争の証拠隠滅(つまりこの大戦争をなかったことにする)を図ったが、いまだに官僚政治の中で、自分たちの立場にとってまずいと思われる文書廃棄が、陰で平然と行われている。
太平洋戦争も、欧米諸国が日本軍の中国への一方的な侵略を停止し、撤兵するように要求しつつ、厳しい経済制裁を加えたが、満州事変に始まり日中戦争を経て、当時の東条英機首相は、せっかくここまで多くの兵士を犠牲にし、多大な投資もして中国本土に利権を得てきているのに、今さら引くことはできないという思いにとらわれて、その要求を突っぱね、大東亜戦争と名付けて米英豪国との戦争に突入した。その1941年(昭和16年)までの日中戦争での日本軍の戦死者は20万人程度だと思われるが(敗戦までには約45万人)、それを惜しむ軍政指導者の心が、結果的に1945年(昭和20年)の敗戦まで、全体で(国内への空襲と原爆死も含めて)その10倍以上の310万人を超える国民の命を奪うことになる(ただし、同時に相手側つまり中国を含めた東アジアの人々の多大な犠牲と米英軍等の戦死者にも思いを致さなければならないが、とりわけ中国おける8年間の被害の総量は我々日本人の想像をはるかに超えていて、今の日本人はその想像すらできないという情報が閉ざされた中にある)。その上、第一次大戦で得た南洋諸島その他の利権も一切失ってしまうのである。適確な判断力と思考力を持たない指導者を我々国民が上に抱くと、どれだけ悲劇が拡散してしまうかの良い例である。もっとも良い例であると言って済む問題ではない。
なお、太平洋戦争敗戦直前に(最終的に米国から原爆を投下されて瀕死の状態にあった時期に)ソ連が突然不可侵条約を破棄して日本の植民地下にある満州に侵攻してきて日本人兵士と居留民の多くに惨劇を生じさせ、男性の多くがシベリアに連行され強制労働にまでつながったのも、このシベリア出兵でロシア側の一般住民も巻き込み、略奪や虐殺を行なっていたことなどに遠因があるかもしれないと筆者はチラと思う。尼港事件やロシアの満州侵攻を一方的に責められないものが日本にはある。
中国の内乱と収まらない抗日・反帝国主義運動
ワシントン軍縮会議(九カ国条約)と中国の抵抗運動(1921年11月 − 1922年2月;大正8-9年)
【列強による軍縮会議と日本の中国権益の行方】
日本は新たにドイツの占有地であった中国の山東半島の権益を獲得したが、第一次大戦後の日本の大陸進出に対して列強の警戒の強まったことと、大戦後の国際的な平和協調外交の高まりによって、アメリカ大統領ウォレン・ハーディングの提唱で、軍備制限と太平洋極東問題を協議する国際軍縮会議が開催された。日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加、ソビエト連邦(元・現ロシア)は会議に招かれなかったが(共産党政権になってまだ混乱が収まっていないという理由)、これは世界史上初の軍縮会議となった。
この中で米・英・仏・日による、太平洋における各国の領土(つまり占領地)の権益を保障し、太平洋諸島の新たな要塞化の禁止などを取り決めた四カ国条約が締結された。また、日英同盟は、イギリスにとり、ロシア帝国が消滅したため無用となり、英米関係も考慮して破棄された。さらに全参加国により、中華民国の領土保全、門戸開放、機会均等と新たな勢力範囲伸長を禁止する九カ国条約が締結され、また、石井・ランシング協定(中国内の特殊権益に関する日米間の協定)が破棄され、この趣旨が山東問題にも適用され、中国と「山東省懸案解決に関する条約」を締結、大日本帝国としては青島を含んだ山東省、山東鉄道の権益を中華民国に返還し、山東半島や漢口の駐屯兵も自主的に撤兵することになった。ただ膠済鉄道は日本の借款鉄道とされ、同鉄道沿線の鉱山は日中合弁会社の経営となるなど、日本は山東省に一定の権益を確保した。
これらと並行して、海軍の艦船保有に対し、海軍軍備制限条約が締結され米・英・仏・日にイタリアを加え、主力艦保有率を米英5、日本3、フランス、イタリア1.67とする海軍軍縮条約が締結された。日本は対米英の6割に抑えられ、不満が残る結果となった。ただ、日本は超大型戦艦陸奥を建造中で、それを認めさせるために米英にも新造船を認めるという歯止めの効かない内容もあった。これらにより、日本は全体的にみて後退を余儀なくされた。ただしそれはあくまで数年前の第一次世界大戦で得たばかりの権益をベースにしてのことで、イギリス側から見て日本は得をし、イギリスは損をしたという見方があった。一方で、唯一日本だけが撤退していなかったシベリア出兵についても、1922年(大正11年)10月までに撤兵を約束した。ただし北樺太ではなおも1925年(大正14年)まで駐留した。
このワシントン会議の、特に山東省の結果に関しては、大日本帝国議会内では与野党ともに不満が渦巻き、議会内でも論戦が続いたが、1923年(大正11年)1月、極東委員会よる調査報告書において、「ワシントン会議における九カ国条約の約定ならびにその精神は尊重されるべきであり、中国の主権及国権恢復の希望に対しては満腔の同情を有するが、帝国が満蒙に於て有する既得権利は合法合理の条約に依て得たる正当なる権利にして且つ帝国の国防並国民の経済的生存に絶対必要の事項なり。帝国は断じて之が毀損干犯を許さず」と、満蒙の権益が守られている範囲でのみ、ワシントン体制と大日本帝国との両立が可能であると結論し、賛同された。
これに先立つ1922年(大正11年)5月、原敬内閣はワシントン会議の規制の範囲外にあった「東三省(満州)の内政及び軍備を整理充実して牢固なる勢力をこの地方に確立する」と閣議決定する。しかし日本は山東半島に対する執着を捨てていなかったことは、昭和に入って早々に山東出兵を展開することでもわかる。
【中国の抵抗運動】
ワシントン会議(1921年;大正10年)で日本は山東省関連で大きく譲歩することになったが、それを機に北京政府(軍閥政府)は改めて1915年(大正4年)の「対華21カ条」は無効であると決議し、1923年(大正12年)3月、日本に通告するが、日本政府は許容できないとし、日本の新聞でも「乱暴な決議」 「我が国防上経済上死活の関係ありと信じて居る旅・大租借地までも無闇に退譲するやうな事に至りはせぬか」と批判し、与野党も一致して「対華21カ条」の有効性を唱え、むしろワシントン会議で日本が譲歩したことへの不満が渦巻いていた。それに対して中国内では上記の「五・四運動」以来くすぶり続けている不満が再度爆発し、この条約無効と旅順・大連で日本の権益回収運動、つまり中国にとっての国権回復運動への民衆運動がますます盛んになり、日本商品をボイコットするだけでなく,日本人が中国において営むすべての事業について日本人との関係を断つ経済絶交運動に発展した。袁世凱の後を継いだ大総統の黎元洪も日本人記者団との会見の席上、関東州(大連・旅順を含む)租借地問題に関連する質問に対し、日支は一家の間柄であるとしながら「人のものは人に返せ」と答えている。
中国側が「21カ条」を無効とする理由は、1919年(大正8年)のベルサイユ条約調印を最終的に拒否して承認していないこと、そもそもがこの条約は脅迫によって成るものであり国際法上無効であること、つまり国会(北京政府)の承認を得ていないから無効であるということであって、今だに中国はこれを認めていない。ただ日本は戦後、これらすべての権利事項はなくなり、忘れ去っている。
中国満州に対するソ連と日本の利権
1924年(大正13年)5月、ソ連は北京政府との間で中ソ国交回復協定・中国東省鉄道(東清鉄道で19世紀末に旧ロシアが満洲北部に敷設した鉄道路線)暫定管理協定を成立させた。この鉄道は日露戦争(1904−1905;明治37-38年)でロシアが敗北した後に長春以南の南満洲支線は日本に譲渡され南満州鉄道(満鉄)となっていて、その後1917年(大正6年)のロシア革命後のソ連は東清鉄道を放棄することを表明していて、この協定で東清鉄道の利権を回復した。しかしこの同協定に不満を持つ東三省の張作霖は北京政府とは別に、1924年(大正13年)9月奉ソ協定を結んだ。ただこの中ソ協定では日本に関東軍撤退を要求する条約上の権利を得たことになった。要するに中国の旅大(旅順・大連)権益回収運動から中ソ国交回復に至る事態は、日本の在満州権益の基盤を揺がすような意味を持っていた。
この動きを察した日本では1924年(大正13年)5月、外務・大蔵・陸軍・海軍4省間で「対支政策綱領」(支とは支那=中国)を作成、これまでの内政不干渉主義にこだわらず、鉄・石炭をはじめとする資源の確保のために最善の努力をなすこと、 北満はソ連の東支線に対抗して新たな進路を開拓すること、東三省の張作霖に対しては引続き好意的援助を与え、その地位を擁護することなど、陸軍側の主張が大幅にとり入れられた。とくに「満蒙に於ける秩序の維持はわが帝国における重大な利害関係、殊に朝鮮の統治上重要となるから、自衛上必要と認める場合には機宜の措置に出ること」とされた。
これに応じるかのように奉天派の張作霖は10月、馮玉祥の北京政変に乗じて北京に軍を出し、臨時政府設立に参画した。これを機に、広東にいる国民党の孫文を北京に呼び寄せる案が出され、10月、孫文は全国の統一を図る国民会議の招集を訴えて、北上(北洋軍閥討伐)宣言をする。
【日ソ基本条約】
日本の中国権益に対する執着は「対支政策綱領」で見られるように抜きがたく、1924年(大正13年)10月、幣原喜重郎外相は満蒙における日本の権益を尊重・保全することを求める覚え書きを関東軍、支那駐留軍に交付する。この辺りから関東軍は単なる鉄道守備隊から満蒙治安維持の主役に躍り出る。
1925年(大正14年)1月、日ソ基本条約が締結された。これはロシア革命による国交断絶によって影響を受けていた日本の経済界から、オホーツク海での漁業安定、満州で利権確保のためなどにソ連との貿易再開の要望も後推しし、また日本軍はシベリア出兵時の尼港事件をきっかけに北樺太に駐留し続けていて、ソ連側はその撤退と引き換えに北樺太の天然資源の利権を日本側に与えることで決着した。こうして日本側はシベリア出兵の代償をわずかに確保して面子を立て、日ソ基本条約に調印するに至った。
混沌が続く中国の政治情勢と日本の介在(1925年;大正14年以降)
1911年(明治44年)の辛亥革命により中華民国政府が北京に成立、袁世凱が自分の軍を背景に政権を(横から)奪取したが、その死亡後の1916年(大正5年)から軍閥同士の政権争いとなっていた。そこから1928年(昭和3年)にかけて各地の軍閥が集合離散を繰り返す軍閥割拠の時代となった。その中で1924年(大正13年)9月、張作霖率いる満州の奉天派は、直隷派の馮玉祥の国民軍の寝返りを受けて呉佩孚率いる直隷派に勝利して北京を制圧(第二次奉直戦争)、一度下野していた段祺瑞を総統(首相)として臨時執政を置く。同年10月、勢いに乗って華中まで南下していた張作霖に対し、浙江軍閥が反撃(反奉戦争)、これに一旦追放されていた直隷派の呉佩孚が呼応して張作霖軍を北方へ追いやる。11月、北京において張作霖奉天派と馮玉祥率いる軍との対立が発生し、呉は奉天派と和解、馮玉祥包囲網に加わり、馮を追い落とした。同月下旬、奉天派の最強部隊であった郭松齢が、突然張作霖の下野を要求して反旗を翻し、馮玉祥を巻き込んで山海関を攻略して翌月満州へ入り、錦州も占領した。郭松齢が奉天に迫ると日本側は郭を日本の長期計画への危険な存在として捉え、これにより張作霖は関東軍の協力を得て郭松齢軍を攻め落とし、彼とその夫人を銃殺した。実はその前の10月、郭松齢は日本を軍事視察のため訪問していて、この時、軍事的拡張を続ける張作霖の後ろ盾に日本があり、張作霖が日本に様々な便宜を図っていると知る。そのため郭は張作霖と日本への不信と反感を募らせていたことがあった。
1926年(昭和元年)初頭までには馮玉祥の国民軍側が不利となっていたが、隙をついて直隷省周辺に侵攻していた馮玉祥国民軍に対し、3月には奉天派を支援するために、日本軍軍艦が大沽砲台を砲撃し、港を護衛していた数名の国民軍兵士が死傷した。これに対する報復として国民軍は反撃し、軍艦を天津港の外に追い出した。この行動を日本側は、1900年(明治33年)に締結された北京議定書への違反行為とみなし、北京議定書に署名した8か国の大使が連名で通告書を北京政府に宛てて送った。その要求は、大沽砲台における防御機構をすべて破棄するというものだった。馮玉祥は下野したが、これら諸外国の抑圧とそれに支配される軍閥に対し、学生・労働者らによる反軍閥・反帝国主義運動(すべての不平等条約の撤廃)が北京の天安門で起こり、段祺瑞は武力弾圧を加えた(三・一八虐殺事件)。この弾圧で47名のデモ参加者が死亡し、200名以上が負傷、死者の中には、北京女子師範大学の学生も含まれていた。多くの民衆からの圧力に押されて、段政権は緊急閣議で事件の責任者の処罰を求める決議を可決したが、4月に段は国民軍に追放された。
中国内のこのような激しい権力争いが日本の介入を容易にしていたが、またその介入が中国の権力争いを過激にした。いずれにしろ日清・日露戦争から中国に駐留していた日本軍は、このように内乱などにも何かにつけちょっかいを出し続け、中国を撹乱していた。こうした日本軍の積み重ねが必然的に満州事変などを起こし、太平洋戦争にまでつながっていくのである。
五・三〇事件(1925年;大正14年)
当時、日本を含む帝国主義列強は中国に対する不平等条約を背景に、上海、天津など沿海諸都市に工場を経営し、多数の中国人労働者を使っていた。1925年(大正14年)2月、上海の日系資本の内外綿紡績工場における中国人女子工員虐待に端を発して、待遇改善のためのストライキが起こっており、この騒動で、5月15日、 工場側当事者(日本人監督)が発砲、争議の若いリーダーの一人が翌日死亡し、他に十数人の重軽傷者がでた。この射殺事件に憤激した上海の学生たちが中心となって労働者支援と犠牲者救済を訴えてビラ配布、演説等の抗議活動を行い、これに対し租界(外国人居留地)管理当局は「治安を乱した」という罪名で彼らを逮捕した。24日には亡くなった顧正紅を殉教者として大規模な葬儀が行われ、そこから抗議行動は上海の22工場から青島の10工場(いずれも日本資本)にまで拡がり、29日には青島において日本の紡績工場でストライキが起こったが、これに対し日本軍と奉天派軍閥の保安隊が導入され、大規模な弾圧を加え、8人の死者と数十名の負傷者、70数名の逮捕者を出した。
5月28日、中国国民党上海執行部は運動の代表者らに対し、30日に大規模なデモを決行するよう呼びかけた。これに呼応して朝から数千人の学生が上海の南京路で行なった抗議活動で、学生15人が租界の警察機関である上海公共租界巡捕房に連行された。それをきっかけに1万あるいは2万人とされる学生と労働者が街頭、つまり上海租界地区に集まって抗議運動を始め、「上海人の上海を」「租界回収(回復)」「逮捕学生釈放」を訴え、これに対して日本総領事の要請により、租界当局のイギリス警官隊(主にイギリス植民地のインド人で中国人も含む)が発砲して死者13人、負傷者40数人、53人が逮捕されるという事件となった。
これに連動して6月1日から上海の労働者20数万人がゼネラルストライキに入り、上海総工会、次いで工商学連合会が組織され、労働者は罷(ストライキの意味)工、商人は罷市、学生は罷課による三罷闘争が全上海に展開された。工商学連合会は「英日軍隊の永久撤退」「領事裁判権の廃止」を含む17項目の交渉条件を提出し、責任者の処罰、損害賠償、労働者の権利保障、領事裁判権の取消し、不平等条約廃棄などを要求、これに対して租界当局は、英・日・米・伊の陸戦隊を投入し、6月10日までの間に9回にわたる発砲で死者32人、負傷者57人に達した。上海のゼネストは8月末に終わったが、抗議運動は北京、南京、天津、武漢にまで波及し、とくに香港では6月19日に25万人がストに突入、続いて広州では23日、沙基事件(10万人の大規模な反帝国主義運動のデモ隊が沙基に集り、それに対して英仏両軍の兵隊が発砲、52人以上が死亡、170人あまりが負傷した)が発生し、激昂した市民・労働者が、対英経済絶交運動を実施、これに香港も連動し、省港大罷工(港湾ストライキ)が展開され、これにより1926年(昭和元年)10月までの16ヵ月にわたり、イギリスの東洋支配の根拠地である香港が封鎖されたため経済に大きな打撃を生じた。なお上海他数カ所にこの事件関連の記念碑が残され、中国の人々に記憶されている。
(筆者註:この五・三〇事件に関しては現今の日本で取り上げられることは滅多にないが、それは別として、各種資料を見比べてもこの事件の前後の時系列の記述が交錯していて、その把握が非常に難しかった。したがってこの記述にも多少の誤りがあるかもしれない)
【日本側の対応】
この五・三〇事件にしろ既述の五・四運動(1919年;大正8年、主に日本の「対華二十一カ条要求」に対するもの)にしろ、中国では屈辱的な事例として今でもしっかりと記憶されているが、それに加担した日本では、歴史家以外ではほぼ忘れ去られていると言っていい。明治維新により、文明国の仲間入りをしたと奢って、西洋諸国に伍して覇権を競った日本は、朝鮮や中国を劣等国とみなして軍事的圧力によって差別的危害を加え続けた。仮に個人的な人間関係においても差別・被害を受けた側は、その後も傷や怒りや悲しみを伴った屈辱の記憶を持ち続けることを思えば、国家間においても同様で、それを「シベリア出征」の自国の蛮行に対して蓋をしたように、中国への長年にわたる加害国としての蛮行にも蓋をして相手国の被害を忘れ去り、ときには何もなかったようにしてしまう日本の国民性、とりわけ国政に関わる政官人やそれに追従するマスメディアの人々の、その場限りで済ませてしまう安易な対応はどこから来るのか。これは昭和にまで続き、長い戦争と敗戦を経た今も続いているのではないのか。
例えば1989年(平成元年)6月4日に中華人民共和国・北京の天安門広場に民主化を求めて集結した学生を中心にした10万人のデモ隊に対し(この日までにも中国各地を合わせて100万人が集結した日もあった)、軍隊が武力行使し多数の死傷者を出した事件、これについては近年、その日が近づくと日本のメディアは大きく報道し、いまだに抑圧されたままの参加者たちと、中国当局の強圧な報道統制の現状を憂えるニュースを流す。しかしその64年前の近い日に日本軍が中国内において、学生や労働者に対し同様以上の弾圧事件を起こしたことを添えて語るニュースを見聞きしたことはない。自分たち日本人は安全安心な国の中にいるという前提でのこれらの取り上げ方に、遅ればせながらこの五・三〇事件や五・四運動のことを知った筆者から見ると、天安門事件も、わが国が中国で行った過去の弾圧への反省を踏まえた上で語るべきではないかと思われる。
筆者注:日本がいつから文明国を標榜していたとしても、昭和に入っての経済恐慌と農業凶作によって、困窮した農家はわが娘を売りに出し(後述)、その人身売買を禁止する法律すら戦後の占領軍GHQの政策を待つまで作られていなかった。それほどに野蛮というか後進国的悪習を日本は確かに内蔵していた。つまり逆にどれだけ日本が表向きに虚勢を張っていたか、その虚勢を維持するための戦費(軍閥の内乱に多額な資金を提供し、この五・三〇事件などを引き起こす元を作り、さらにこの事件を抑圧した軍もその戦費の中に入る)に膨大な税金を使いながら、多少なりともその税金を納めながら困窮した農家を救おうともしない時代であった。
広州国民政府設立と蒋介石の権力掌握
孫文亡き後の1925年(大正14年)7月、広州では広東軍政府が再編され、国民党による中華民国国民政府が正式に成立した。これは5・30運動による政治的統一の必要性も後ろ推しした。孫文の盟友であった汪兆銘(王精衛)が政府主席を務め、また工人部、農民部などの省庁も設けられ、その責任者には国民党籍も持つ共産党員が任命されたたが、政治顧問や軍事顧問にはソビエト連邦の要人が就き、その緊密な支援関係が構築されていた。ただ8月、国民党内で容共左派の路線をとる廖仲愷が暗殺されるなどして右派と左派の対立が続いた。同じ8月、国民党は国民革命軍を設立し、蔣介石が総司令として就任、前年に設立した黄埔軍官学校で(蔣介石が初代校長で、そこに周恩来も教官として在籍していた)養成した幹部を中心に組織された。翌年1月、国民党第2回全国代表大会で、汪兆銘は常務委員会委員長と軍事委員会主席に指名され、国民党の正式な指導者となった。この政府は前年からの国共合作が継続され、毛沢東ら中国共産党の党員も参加していて、広州国民政府が孫文の正統な後継であるという形が示された。
1926年(昭和元年)3月、国民党海軍局所轄の軍艦「中山」が突如として広州の黄埔軍官学校の沖合に現れた。これは国民党内左派の共産党が蔣介石をソ連に拉致しようとしたとされ、蔣介石はこれを中国共産党員による策謀(あるいはクーデタの準備)と断じ、3月20日、広州市内に戒厳令を布告し、共産党員の艦長をはじめ共産党・ソ連軍事顧問団関係者を次々に逮捕した。(中山艦事件)。この事件によって、蔣は国民政府連席会議において軍事委員会主席に選ばれ、党や軍における権勢を拡大させたため、党内の支持基盤が弱い汪は病気療養を名目に辞任してフランスに外遊した。これによって共産党側の活動は大きく制限された。
1926年(昭和元年)6月、国民革命軍総司令官として実権を握った蒋介石は、「今や北洋軍閥と帝国主義者(当時、中国の一部を占有していた日本や欧米のことで、張作霖を始めとして軍閥は日本や欧米から資金を得て勢力を保っていた)が我々を包囲している、国民革命は精神を集中し、総理(孫文)の遺志(人民の統一政府を建設する)を完成するときである」と演説して北伐(北洋軍閥討伐)を宣言した。反対していた中国共産党も蔣に譲歩してこれを支持し、7月には国民革命軍約10万を動員し、北伐を開始した。北伐戦争は順調に進み、7月に湖南の長沙、10月に湖北の武漢を占領、11月に江西省の南昌、続いて12月に福州を占領した。翌1927年(昭和2年)2月には杭州を占領、3月までに南京(軍閥孫伝芳の本拠地)を陥落させ、蒋介石北伐軍は長江一帯を制圧、こうして9省を支配下に収め、南昌に総司令部を構えた。
軍権を掌握した蔣介石は政権をも握ろうとして江西省南昌への遷都を図ったが、蔣介石の指導に党内で反蔣的な空気が醸成され、解放された武漢や上海では共産党、左派国民党員らが蔣介石から独立した動きを見せるようになり、南昌に本拠を移した蔣介石に対抗、1927年(昭和2年)1月、湖北省武漢への遷都を強行した。武漢遷都後の国民党大会において総司令職を廃して蔣介石を一軍事委員に格下げし、国民党と政府の大権を再び汪兆銘に託した。
1927年(昭和2年)3月、蔣介石の国民革命軍が南京に入城すると、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が日・英・米などの領事館を襲撃した(南京事件:後述)。英米の軍隊がこの行為に対して徹底的に反撃を加えたのに対し、日本は死者を出しながらも無抵抗を貫いた。この時、日本の海軍兵1名、イギリス人3名、フランス人宣教師が2名、アメリカ金陵大学副校長1名、イタリア人1名、デンマーク人1名の死者、他に2名の行方不明者が出た。翌月蒋は上海クーデターで中国共産党を弾圧し、党および政府の実権を掌握する。
【張作霖の台頭と日本の介入】
蒋介石軍の動きの一方で満州の実権を握っていた奉天派の張作霖は、1926年(大正15年)11月、日本の関東軍の支援を受け、馮玉祥の国民軍と組んで東北国民軍を組織して反旗を翻した郭松齢(上記)を逆に追い詰め、処刑した。12月、張作霖は北京で大元帥に就任し、自らが中華民国(北京政府)の主権者であることを宣言した。これによりいわゆる北洋軍閥政権の トップの座につき、逆に日本の政治、軍事からの直接介入を排除し、欧米と接近を図 るようになった。これに対して張作霖を通じて利権を獲得し、満鉄を通じて日本の利権を強め、 満蒙を中国から分離して日本の植民地として朝鮮半島と一体化しようとする日本側の目論見に陰りが見え始めてきた。1927年(昭和2年)4月、北京のソ連大使館官舎を張作霖の奉天軍が家宅捜索し、ロシア人・中国人80名以上を検挙、武器及び宣伝ビラ多数などを押収した。これは奉天にもソ連の影響を受けた共産主義者が浸透し、それに対処するためであったが、ソ連大使が本国に召還されソ連と中国の国交は断絶した。しかしこの翌年、張は蔣介石の国民革命軍に追い詰められ、北京を脱出するが、すでにご用済みで邪魔者と見た日本の関東軍に暗殺されることになる。
大正時代の日本の動向と世相
明治時代の早くから帝国主義政策をとり、日清・日露の二度の戦勝を経て、欧米列強と肩を並べ、国内での経済の自由化とともに工業化も進み、道路や鉄道網の敷設延長や汽船による水運が発達、流通や商業が飛躍的に発展する中で、第一次世界大戦でもいわば漁夫の利の勢いを得て、海外における利権の拡大によって経済力に弾みがつく中で、大正時代の日本は、明治40年代から続く好景気に湧いてきていた。自動車・乗り合いバスなどの都市内交通手段の発展により都市化が促進された。録音技術や電信技術の発達、活動写真(映画)の出現、そして大量印刷による大衆向け新聞・書籍・雑誌の普及などによって文化・情報の伝播も拡大的に飛躍した。
また事業や投機の成功で「成金」と呼ばれる人々も現れ、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などが流布して、都市を中心とする大衆文化が花開いた。思想的にも自由への気分が高まり、知識人においては個人主義・理想主義が掲げられるようになる。一方では、農村地帯は近代化に取り残されたままだったが、都市化と工業化は労働者階級を生み出し、共産主義・社会主義運動が大きなうねりとなってきた。これらの流れが絡み合い、「大正ロマン」あるいは「大正モダン」という言葉が生まれる独特の文化的時代が形成された。
この文化的潮流は昭和に入って昭和恐慌とそこから続く満州事変によって打ち消されるが、この大正文化のちょうど花盛りの頃の1918年(大正7年)に、既述のシベリア出兵という隠された5年に渡る介入戦争が引き起こされた。第一次世界大戦で楽な勝利を得たことによる、さらなる領土的野心を持った結果であろうが、これにより多大な戦費が使われ、数々の悲惨な結果も招いた。その一方、背後で大儲けをする民間企業も出てきた。上記の米騒動も、そのうちの小さな影響による。
女性の進出
明治維新によって徳川の封建制時代から形の上では脱したように見えた明治時代も、内実は封建時代と変わりなく、女性の社会進出は広岡浅子のようなごく一部の女性に限られ、それ以外の女性たちは重圧の下で黙々と働いていた。
1911年(明治44年)平塚らいてう25歳は「青鞜社」を設立、女性専門の文芸誌「青鞜」を創刊した。それまで女性に求められた「良妻賢母」という社会的規範からの脱却を促し、「元始、女性は太陽であった」という発刊宣言は女性本来の権利獲得の象徴的な言葉として有名である。そこから婦人の解放を目的として「女性の言論・思想の自由」を展開していく。1920年(大正9年)には市川房枝とともに「新婦人協会」を設立、婦人参政権獲得運動を行い、女性の自由な集会結社を禁じていた「治安警察法」の改正を求めた運動も展開する。市川房枝はその後平塚と運営方針、意見の対立から協会を離れ渡米(当時の女性の渡米は余程の勇気と覚悟が必要であった)、現地で婦人団体の活動を学び1924年(大正13年)に帰国、昭和に入り「第一回婦選大会」を開催し、婦人参政権獲得運動を継続して行く。戦後、参議院議員に立候補し、88歳の死去の時まで議員活動を続けた。近年まで国連で活躍した緒方貞子を送り出すきっかけも市川が作った。
実際に大正時代は女性が就く職業も教師(明治時代では女性が自立できる職業は学校の教師しかないと言われた)や薬剤師や事務員、エレベーターガールと多様になってくる。1920年(大正9年)に「東京市街自動車」(バス)で採用された初の女性車掌は、真紅の襟に黒のツーピースという「ハイカラ」な服装で、彼女たちは「バスガール」と呼ばれるようになり、当時としては破格の給料とともに、人気の職業となった。婦人雑誌でも「職業婦人」として取り上げられ、「良妻賢母」を求める世間の偏見を受けながらも「新時代の象徴」となっていく。それに伴い、化粧品も豊富になり、新しい髪型も流行し(「シャンプー」がこの頃初めて発売された)、服装が華やかになる中、男性の服装も和装から洋装に変化、仕事時には洋服とネクタイを着用する人が一般的になった。またこの時代に「サラリーマン」という言葉が定着した。外食では洋食がこの時代に広まっていった。
各種の文化運動
武者小路実篤、志賀直哉によって1910年(明治43年)に創刊された『白樺』は、「大正デモクラシー」の時代背景の中で人道主義・個人主義的な作品が尊ばれ、その作家たちは「白樺派」と呼ばれ、他に有島武郎、里見弴、柳宗悦などの他、画家では中川一政、梅原龍三郎、岸田劉生も参加し、大正文学の中心的存在となった。
画家、竹久夢二もこの時代に活躍した一人で、その抒情的で個性的な美人画は爆発的人気を得て、ポスターなどにも多用され、デザイナーの先駆者にもなっている。
1918年(大正7年)に創刊された雑誌『赤い鳥』は、小説家・児童文学家であった鈴木三重吉が政府の提唱する唱歌に異議を唱え、「芸術性豊かな童話・童謡の創出」を目指して創刊し、芥川龍之介や有島武郎、新美南吉、北原白秋、西條八十などが寄稿したが宮沢賢治は評価されなかったという。1936年(昭和11年)に鈴木が他界するまで続いた。いずれにしろ、雑誌『赤い鳥』が掲載した歌は、政府主導の唱歌よりはるかに多く、そして今に歌い続けられている。
「宝塚歌劇団」は大正時代(1923年:大正12年)の設立で、阪急電鉄の創始者小林一三が、沿線に住宅も造成し、その集客も兼ねて作ったものであるが、昭和に入り対抗して作られたのが東京の松竹歌劇団である。また1917年(大正6年)に「浅草オペラ」が誕生、オペレッタ(セリフと踊りを付けた歌劇)を上演し、人気を博した。ここから輸入物のヒット曲も数々生まれている。しかし関東大震災によって施設が壊滅的被害を受けて閉館の間に人気は衰退した。動く写真に場面の解説と字幕が加わる「キネマ」 (活動写真)が流行、そこからヨーロッパの映画、アメリカの短編喜劇なども公開され人気となった。しかしこのような自由な雰囲気の時代は長く続かなかった。この大正文化興隆時代の背景に隠されてきたシベリア出兵の黒い渦が、昭和の長い戦争の時代を予感させるものとなっていた。
第一次護憲運動(憲政擁護運動)と大正デモクラシー(1912−1913年:大正元−2年)
明治時代から、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。この元老は明治維新で功績を挙げ、その後の明治政府を指導してきた人物たちで、この大正時代初めに残っていたのは山縣有朋、井上馨、松方正義、大山巌、西園寺公望、桂太郎の6人であり、西園寺を除く5名は薩摩藩・長州藩の出身者で、いわゆる藩閥政治を形成し、彼らが首相や主要大臣を入れ替わりで務めていた。例えば1901年(明治34年)から1912年(大正元年)までは桂と西園寺が交代で第二次内閣まで四度に渡って交代していた(その二人の前は伊藤博文が四度、山縣有朋が二度など)。こうした藩閥による寡頭体制を批判し、明治憲法による立憲主義思想に基づく政治を望む動きがこの頃台頭していた。
第二次西園寺内閣は日露戦争後の財政難から緊縮財政の方針をとっていたが、陸海軍からの軍備拡張要求問題が起こり、それに対し西園寺はこれを拒否、そこで上原陸軍大臣が辞任し、陸軍省は次の大臣候補を出さず、陸軍大臣は陸軍省からという制度上の問題で、西園寺内閣は総辞職する(12月21日)。その後継として、元老たちは次の首相としてまたも三度目となる桂を推挙し、内閣を組閣するが、桂はこのとき内大臣兼侍従長として宮中人となっていて、明らかに宮中と行政府を切り離す制度に反していた。さらに留任した斎藤実海軍大臣もやはり海軍の軍備拡張を主張し、桂がそれに同調する側にあって、翌年1月、桂内閣に対する『閥族打破・憲政擁護』運動が巻き起こった。野党の国会議員や新聞記者、学者らが集まって憲政擁護運動を起こした。日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加、運動は全国的な拡がりをみせて一大国民運動となっていった。
1913年(大正2年)1月21日、この運動を鎮静化させようと桂内閣は議会の開会予定を15日間停会したが、かえって運動は加熱した。それに合わせて立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅らにより、2月5日、議会で桂内閣の不信任案を提案する。桂は不信任案を避けるため、議会を5日間停止するが、さらに天皇から詔勅を引き出して不信任案を撤回するように圧力を加え、尾崎はやむなく了承する。しかし2月9日の憲政擁護第3大会は2万の集会となり、翌10日に議会が開かれる日に、過激な憲政擁護派らが上野公園や神田などで桂内閣を批判する集会を開き、その集会での演説に興奮した群衆数万人が国会議事堂に押し寄せるという事件を起こした。
こうした動きの中で、桂は議会を解散して総選挙を行なうことで対応しようとしたが、衆議院議長の大岡育造が議会の解散に猛反対したために解散することができず、さらに怒った民衆は、御用新聞である国民新聞社や警察などを襲った。この憲政擁護運動は東京だけでは収まらず、大阪・神戸・広島・京都などの各市へも飛び火した。このような中で、衆議院議長の大岡が、「このまま放っておいたら内乱が起こる」といって、桂太郎に退陣するよう迫り、2月11日、桂内閣は総辞職を余儀なくされた。53日の短命内閣であった。大日本帝国憲法の下で、大衆運動で内閣が倒されたのはこのときだけで、これを「大正政変」といい、藩閥政治の行き詰まりを示すとともに普選運動など「大正デモクラシー」への流れが作られていった。
次に首相となったのは三度海軍大臣を務めた山本権兵衛で、立憲政友会を与党とし、原敬(内相)や高橋是清(蔵相)ら政友会の有力者を閣僚としてむかえた。山本は桂の二の舞を演じることを避け、政党員でも大臣になれるように規制を緩めて政党勢力に譲歩するなど、融和的な政治をとることで政局の安定化を図った。そして、翌1914年(大正3年)、シーメンス事件(ドイツのシーメンス社による日本海軍高官への、軍艦や武器輸出などについての贈賄事件)が発生、一気に海軍に対しての批判意識が高まり、山本首相は、責任をとって内閣総辞職をした。こののちに首相となったのは在野から政界に復帰した大隈重信で(一度下野して早稲田大学を創立)、ただこれも約16年ぶりの第二次である。
どうやらこのように政権をたらい回しにする悪習は、首相や内閣の責任を曖昧にしているように見え、「集団無責任体制」と言ってもよく、誰も責任を持たない形の中で昭和の長期の戦争に突入し、誰も責任を持たないから戦局の悪化の中でも引き際が判断できず、終盤に多大な犠牲者を生み出し、その結果敗戦と決まった日に内外の戦時下の資料・証拠をすべて焼却してしまうという、まるでこの戦争がなかったかのようにする無責任極まる行為を生んだのではないだろうか。
米騒動 (1918年:大正7年)
シベリア出兵にまつわる一つの事件である。第一次世界大戦への参戦以来、物価が高騰していた(一年前に1升約15−20銭であったものが、1918年;大正7年7月には30-35銭つまり2倍以上に)。その7月下旬から富山県の港で米を積み込んだ船に対して海運・荷役労働者の家族や漁民が押しかけて抗議する運動が起こり始めていた。そこに寺内内閣が8月2日、シベリア出兵を宣言し、それを見越した米商人・地主の投機的な買い占めのためにさらに米価が急騰し(1升が約40−50銭に)、それを見て売り惜しみを加速させていくという状況が発生ししつつあった。8月3日、同じ富山県で約200名の漁民や町民が決起し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、適正価格で販売するよう嘆願運動を起こした。数日のうちのこの運動は拡大し、人々は米の移出を実力行使で阻止し、さらに苦しい生活に喘ぐ一般庶民の怒りの矛先は、次第に高所得者、特に米問屋や商人に向けられるようになり、8月12日、鈴木商店が見せしめに焼き打ちにあい、全国的に米よこせ運動として広がり、参加者数百万人の全国規模の民衆暴動へ発展した。寺内正毅内閣は軍隊を出動させて鎮圧した。ちなみに、この騒動は神戸市にも及び、当時全国中等学校優勝野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)の会場だった鳴尾球場近くの鈴木商店が焼き打ちされ、周辺の治安の悪化を理由に、第4回大会は中止になった。
この運動の背景にはロシア革命の影響などで労働運動、普通選挙法運動などが高まっていたこともあげられるというが、米騒動は事前になんらの組織もなかった自然発生的な蜂起として、近代日本が経験した初めての大規模な大衆闘争であった。騒動は最終的に、1道3府37県の計369か所に上り、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された。呉市では、海軍陸戦隊が出動し、民衆と対峙する中、銃剣で刺されたことによる死者が少なくとも2名出た。検挙された人員は2万5000人を超え、8253名が検事処分を受け、7786名が起訴され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名、さらに一部民衆を扇動したとして和歌山県で2名が死刑の判決を受けた。
軍人内閣であった寺内内閣はこのため辞職し、日本最初の本格的な政党内閣である原敬内閣が成立する。ちなみに1925年(大正14年)には「普通選挙法」が成立して、成人男子すべてに選挙権が与えられたが、悪名高い「治安維持法」と抱き合わせの成立であった。
白虹事件(1918年:大正7年)
1918年(大正7)1月のウラジオストックへの艦隊派遣の頃から、シベリア出兵の噂によって米価が次第に高騰していて、上記の米騒動につながった。この頃は大正デモクラシーと言われ、メディアの批判精神は旺盛で、大阪朝日新聞は先頭に立って言論活動を展開し、特にシベリア出兵や米騒動に関連して寺内正毅内閣を激しく批判していた。これに対し、暴動の連鎖は新聞報道のせいだとして、寺内正毅内閣は「米騒動」の報道をいっさい禁止にした。
同年8月25日、米騒動問題に関して86社166人が出席する関西新聞社通信大会が開かれ、各社から寺内内閣への批判が巻き起こった。大会を報じた大阪朝日新聞の翌26日付夕刊の記事の一節に「…… 金甌無欠の誇りを持った我大日本帝国は今や恐ろしい最後の裁判の日に近づいているのではなかろうか。『白虹日を貫けり』と昔の人が呟いた不吉な兆が … 人々の頭に雷のように響く」とあり、文中の「白虹日を貫けり」という一句は、白い虹が太陽を貫くことで、中国で昔、秦の始皇帝に対する謀反の時の凶兆とされた故事成語であった。いつも原稿を点検していた社会部長・長谷川如是閑はたまたま所用で席を外していて、試し刷りを読んだ副部長が不穏当だと判断し、すぐさま新聞の刷り直しを命じたが、すでに刷り上がった3万部のうち1万部が出回った後だった。
それを見た大阪府警察部新聞検閲係は、君主(天皇)に対する乱を意味して社会不安をあおるとして新聞紙法41条の「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル事項ヲ新聞紙ニ掲載シタルトキ」に当たるとして、この記者と編集人兼発行人の2人を大阪区裁判所に告発し、検察当局は大阪朝日新聞の発行禁止処分を検討した。新聞社側も編集幹部が次々と退社に追い込まれた上に、社長も右翼に襲われ、10月に退陣した。
判決が出る3日前の12月1日、大阪朝日は「天壌無窮の皇基を護り」と、天皇への忠誠を誓う長文の宣言を発表。「我社起訴事件に関しては、只ひたすら謹慎しつつ天皇の御名に於いてせらるる公明の裁判を待つあるのみ」として、全面屈服、これが日本のマスメディアが天皇制下の軍国主義に追随してゆく大きな転機となり、昭和の戦争下ではすべての新聞が御用新聞となった。つまり正しい事実が報道されず、軍政府の都合に合わせた発表をそのまま報道し、国民を戦争に煽っていくだけの道具になった。米騒動を新聞の報道が煽り立てて拡散させたとして報道禁止の圧力をかけながら、戦争遂行に関しては、同様に国民を煽る記事を政府は歓迎し、ますます煽らせていったわけである。
現在のメディアも、政府や警察の発表を、裏付けも取らずに(つまり一方的に発表する官憲側は、自分たちに都合の悪い事実は隠しつつ発表するものであるから)そのまま載せる場合も多く、あるいはメディアによっては政府に都合の悪いニュースは載せないか小さな扱いをする大手メディアもあり、逆に政府に都合の悪いニュースを大きく載せると、政府はそのメディアを批判し、別の大手新聞を読めというような呆れる発言することがあるほどに、程度の差はあれ権力を持つ側の言論抑圧への基本構造は変わっていない。
ポーランド孤児の救済 (1920年:大正9年)
ロシア革命後の混乱の中、シベリアの地で苦境に陥っていたポーランド人の孤児たちがいた。その子供達765人を、シベリア出征の時期、1920年(大正9年)と、1922年(大正11年)の二度にわたって日本が救出した話で、シベリア出兵という愚行の中に隠された善行である。
ポーランドは、領土分割で国家を喪失して以来、ロシア領となった地域で独立のために立ち上がった志士たちやその家族が、政治犯としてシベリアに流刑にされていた。第一次世界大戦までにその数は5万人余りに上っていた。さらに第一次世界大戦ではポーランドはドイツ軍とロシア軍が戦う戦場となり、両軍に追い立てられて流民となった人々がシベリアに流れ込んで行き、シベリアにいるポーランド人の数は15万−20万人にまで膨れあがっていた。そこにロシア革命が起き、その後の内戦でシベリアのポーランド人たちの多くがシベリアの荒野をさまよい、餓死、病死、凍死に見舞われた。食べ物を先に子供たちに与えた親たちが力尽き、その胸にすがって涙を流しながら子供たちも死にかけた。そこで孤児を救うべく、1919年(大正8年)に「ポーランド救済委員会」が設立された。
当時、シベリアには欧米諸国軍が出兵していて、救済委員会は彼らに働きかけるが、よい返事が得られず(その欧米諸国軍の兵士たちの多くが各国の植民地人であったこともあるかもしれない)、最後の頼みの綱として日本軍にすがった。その訴えを聞き、日本政府は早々に救出の決断を下した。その中心を担ったのは日本赤十字社であり、1920年(大正9年)7月下旬には孤児たちの第一陣375人がロシアのウラジオストックから船で福井県敦賀にわたり、東京に到着した。1922年(大正11年)の第2回では、390名の孤児たちが敦賀経由で大阪に運ばれた。シベリアで死の淵を彷徨ってきた孤児たちは栄養失調で身体も弱り、腸チフスなどの病気が猛威を振るっていて、孤児たちを必死に看護していた看護婦の殉職も出た。東京でも大阪でも慰問品や寄贈金が次々と寄せられ、慰安会も何度も行なわれた。
その後元気を取り戻した孤児たちは、親身に世話をしてくれた日本人の看護婦や保母たちとの別れを悲しみながら、横浜港や神戸港から無事にポーランドに帰国して行った。当時シベリア出兵に従事していて孤児を救った51名の日本軍将校に対し、ポーランド政府は1925年(大正14年)にヴィルトゥティ・ミリターリ勲章を授与して、その功績に報いた。
2018年(平成30年)の夏、ポーランド人の23歳の若者が日本に研修に行くことになった。それを聞いた親戚の伯父から「日本に行くならシベリアにいた孤児に関わることを調べられないか」と伝えられ、9月、東京の赤十字本社を尋ねると当時の孤児たちの写真が保管されていて、翌月、敦賀市の資料館「人道の港 敦賀ムゼウム」に行くと、館長から資料を見せられ、そのリストの中に曽祖父と二人の兄弟の名前を見つけた。研修を終えて帰国後、他の孤児たちの子孫と知り合った。彼は自分も「この歴史を引き継いでいきたい」と思うようになった。(この文節は朝日新聞、2021年;令和3年2月20日より)
ついでながら1937年(昭和12年)からの日中戦争で日本軍は中国に多くの孤児を生じさせた。さらに太平洋戦争では、米軍の大空襲や激しい沖縄戦、そして敗戦間際のソ連(ロシア)軍の満州への侵攻などにより20万人以上が親を失い孤児となった。しかし政府は戦後なんの対策もせず放置し、孤児たち(空襲被害者も含め)は、餓死や病死そしても厳しい差別の中、苦難の道を歩んだ。一方で軍人関係には現在に至るまで手厚く対策がなされ、それは筆者の「東京都の概要」その他各地区の中で述べていく。
第二次護憲(憲政擁護)運動と普通選挙法成立(1923年:大正12年)
1912年から1913年(大正元年-2年)の第一次護憲運動を経て、平民宰相と言われる原敬によって、政党内閣による政治は落ち着いたかに見えたが、1921年(大正10年)11月、原は東京駅で暗殺され、それによって政局は再び不安定になっていく。1923年(大正12年)、帝国議会の開院式に臨んだ皇太子(後の昭和天皇)狙撃事件があって、当時の第二次山本権兵衛内閣は責任を取る形で総辞職し、代わって枢密院議長の清浦奎吾に内閣組閣の命が下ったが、それによりほとんどの閣僚が貴族院議員から選出されるという「超然内閣」となり、一般国民が関わる衆議院議員はいなかった。そうして政党内閣の復活や普通選挙要求などが日増しに高まっていき、再び憲政擁護を求める運動が発生した。ただし、第二次憲政擁護運動は第一次のように暴動が起こることもなく、憲政会の加藤高明と革新倶楽部の犬養毅が、清浦内閣の打倒を進めるという、第一次と比べると小規模な運動であった。
1924年(大正13年)1月、立憲政友会の高橋是清も、加藤や犬養に呼応して清浦内閣打倒を決断し、護憲三派が結成される。これに対して清浦内閣は、衆議院の任期満了を待たずに議会を解散して総選挙を行なうことで白黒をつけようとしたが、前年の関東大震災による選挙人名簿の損傷によって投票日が延期され、その間に清浦内閣が護憲三派の選挙運動の妨害を図ったことから、国民の怒りを招いた。5月の衆議院議員総選挙の結果、「普通選挙」の実現を公約に掲げた護憲三派が圧勝し、翌月、清浦内閣は倒れ、第一党の加藤高明が首相となり、加藤は護憲三派内閣を組閣する。加藤内閣では陸軍4個師団の廃止や予算一億円の削減、有爵議員のうち、伯・子・男の数を150名に減らすなどの貴族院改革、外相幣原喜重郎の協調外交によるソ連との国交樹立、普通選挙法および治安維持法の制定などが行なわれた。
普通選挙法では、それまで一定の納税額以上の人々のみを対象とする制限選挙から、その納税要件が撤廃され、日本国籍を持ち、かつ内地に居住する満25歳以上の全ての成年男子に選挙権が与えられることになった。これにより有権者数は、1920年(大正9年)5月現在において307万人程度(人口に対し約5.5%)であったものが、改正後の1928年(昭和3年)3月には1240万人(人口に対し20.1%)と、4倍になった(当時の平均寿命は短く、25歳以下の若年齢層の割合が多かったこともある)。ただし、成年女子は依然として対象外であった。またこの時同時に悪法で名高い治安維持法(下記参照)が同時に制定されるが、普通選挙法との抱き合わせで容易に成立されたと言われる。加藤は途中で病死するが、それ以後、1932年(昭和7年)まで相次いで政党内閣が成立し、この期間の政治は「憲政の常道」と呼ばれた。
治安維持法成立
1925年(大正14年)、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。そこで特定のイデオロギーを持つ「危険人物」を監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとした。1921年(大正10年)、司法省で、「治安維持ニ関スル件」の法案を作成し、緊急勅令での成立を企図した。しかし何度かの論議の後、共産主義革命運動の激化の懸念などをもって治安維持法の制定を推進し、3月に制定、4月22日に同法が公布された。(法の内容はこちら参照)
その第一条で「国体(天皇を宗主とする国の体制)を変革し又は私有財産制度を否認することを目的」として結社を組織したり、それに加入した者に10年以下の懲役・禁錮刑を科している。しかし三年後の1928年(昭和3年)に改正され、その第一条の最高刑は「死刑又は無期もしくは五年以上の懲役もしくは禁錮に処す」と厳しいものになった。さらに太平洋戦争を目前にした1941年(昭和16年)3月には、これまでの全7条のものを全65条とする全面改正が行われた。それには「国体の変革」を支援する結社はもとより、その種の結社「組織を準備することを目的」とする集会などを禁ずる規定を創設したことで、官憲によりそれらを行っていると判断されれば、何の物証がなくても(仮に一冊の本の所持だけでも)検挙可能であった。つまり現行でも「凶器準備集合罪」というものがあるが、凶器ではなく、結社につながるような組織を準備するためと推測される集まり自体を取締りの対象とした。さらにまた刑の執行を終えて釈放すべきときに、改めて罪を犯す恐れがあると判断された場合、新たに開設された予防拘禁所にその者を拘禁できる(期間2年、ただし更新可能)としたことなどを主な特徴とする。これでは怪しいと睨まれた人々は、いつまでたっても解放されないことになる。そうして戦時下では治安維持法は適用対象を拡大し、左翼活動、自由主義、市民運動、宗教団体・学術研究会・芸術団体などが次々と摘発されていった。 「戦争反対」という一語を発するだけでも、この法によって摘発されたのである。
なおこの治安維持法成立には、大逆事件 (1910年;明治43年=上記参照)で幸徳秋水ら10数名に死刑判決を下した当時検事の平沼騏一郎が中心になって関わった。平沼は「動機は信念なり」として、ある意味「疑い」だけでその大逆事件の判決を下したが、その極めて曖昧な基準を形にした法案であった。この法案により、戦時下では特高警察が独断で「疑い」のある人物を次々に検挙していった。平沼はのちに首相となるが、戦後にA級戦犯で処刑された。ただこの検察側から首相という横すべり人事は三権分立も何もない時代のことと思われそうだが、戦後の三権分立制度も実態は政官の癒着が(目に見えないところで)甚だしく、裁判も最高裁にまで行くと、政府側の意向を汲んでせっかくの民意が簡単に破棄されることがしばしばである。
1926年(大正15年)1月、京都帝大や同志社大学などで全国の社研学生が、治安維持法違犯で検挙され、4ヶ月間に38人起訴された(京都学連事件)。前年に施行された治安維持法が初めて適用された例である。
関東大震災の大混乱の中から生じた各種の悲惨な事件(1923年:大正12年)
これは戦争に関わることではないが、軍隊が絡み、まるで戦時下に起きた出来事のようであり、詳述する。
戒厳令発布と自警団
日本国内では、第一次世界大戦が終わった頃から増加した労働組合や、幸徳秋水事件後の「冬の時代」を経て復活しつつあった社会主義者に対して改めて弾圧・粛清がなされるようになった。1923年(大正12)9月1日、関東大震災が発生、大火災が生じて死者・行方不明 10万5千という大災害となった。この渦中で様々なデマが飛び交い、翌日戒厳令が施行される。戒厳令というのは戦争や内乱などの非常時に、必要とされる地域において通常の行政・司法体制を封じて軍部の権限にゆだねる非常措置である。それがなぜこの大震災の時に実行されたか。救援活動という名目だけでは無理がある。実際に9月3日には関東戒厳司令官命令には、戒厳令施行の目的として、「(震災に乗じた)不逞の挙に対して、罹災者の保護をすること」 を挙げ、戒厳司令部には押収、検問所の設置、出入りの禁止、立ち入り検察、地境内退去など、災害時における対処としては著しく過大な権限が与えられている。
しかしなぜ直ちに不法・犯罪行為を予測して超法規的な取り締まりを行う措置が取られたのか。この時代、一般的な意味で内乱や暴動が起きる世情ではなかった。おそらくその根は当時官憲が一番警戒して圧力をかけていた社会主義活動家たちの万一の蜂起を危惧してのことかと思われるが、同時に現実問題として、まずは過酷な労働条件で不満が溜まっていると思われる朝鮮人労働者が、社会運動家にそそのかされて暴動を起こさないかとの警戒があったのであろう。そこで警視総監が「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するためにと、政府内務省に戒厳令の発布を建言した。つまり災害救援より治安維持が重視され、これを受け、9月2日には、東京府下5郡に戒厳令を一部施行し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた。それにより陸軍は、騎兵を各地に派遣し軍隊の到着を人々に知らせたが、このことは人々にむしろ不安感を与え、内務省の通達「朝鮮人の放火、爆弾投てき、井戸への毒物混入により、不逞の目的を遂げようとしている」により流言しつつあるデマが本当であるとの印象を与え、それにより各町で住民の自警団が作られ(関東地域で約4000)、あるいは警察自身が自警団を作るように住民に指示し、その結果、主に朝鮮人に対する暴行どころか、虐殺が住民の集団によって行われた。
自警団の中心になるのは主に在郷軍人で、在郷軍人とは、一定期間の軍務を終え、来るべき戦時に備えてそれぞれの地域・故郷で予備役として待機しながら普通に仕事をしている人を言い、退役軍人も含まれる。つまりこうした非常時に周囲にすぐに指示を出して人々を取りまとめて動ける立場として重用されていた。在郷軍人は当然銃剣を持ち、一般の自警団は日本刀や竹槍、猟銃や鉄棒、鳶口などを持ち、朝鮮人を捉え、惨殺したのである。
ただ、これらの虐殺の拡大を危惧した第2次山本内閣は、9月5日、朝鮮人に不穏な動きがあれば軍隊および警察が取り締まるため、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発したが、すでにそれで収まるような世情ではなかった。まず軍隊自身が虐殺を率先して行なった事実があり、自警団の虐殺も正当化されていった。軍・警察が殺人をしているのだから、自警団の殺人も国家公認であると思わせたのである。しかも警察と軍の絡んだ虐殺は問題にされなかったが、10月以降、つまり政府が自重を促すようになってから暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴され、その数は362人(566人との説も)に及んだ。しかし「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。一方で殺人や放火の罪で起訴された朝鮮人は一人もいなかった。つまり朝鮮人が竹ヤリや何らかの道具を持って日本人を襲ったという事実や証言はなく、あったのは震災直後のデマによる新聞記事の中だけであった。
朝鮮人労働者虐殺事件
この時期、困窮していた朝鮮人労働者は仕事を求めて日本の各地に流入していた。この時代は日露戦争後の日韓併合(1910年)によって朝鮮は日本の植民地となっていたから、中には日本人に土地を奪われて、多くの労働者が日本に移住し、安い賃金で働いていた。その中で東京東部では荒川放水路の工事など様々な下層労働をして、散在して居住し、バラック小屋などの劣悪な環境に置かれていた。この大震災で彼らは家屋が燃やされるばかりか、場所柄から大火災で10人に一人は焼死したと思われるし、焼けなかった家も崩壊して行き場を失い、さぞ困惑していただろうと思われる。だから連携して暴動を起こすとか、そのような余裕など彼らにはとてもなかったはずである。ただ、デマが拡散した要因として、普段から彼らをこき使っている日本人たちにとっては、彼らにいつ反抗されるかわからないという潜在的な恐れがあったのではないか。それが大地震で破壊され焼き尽くされて戦場のようになった街の雰囲気が、その恐れを増幅させたのではないだろうか。例えば、戦争の前線ではまず自己防衛本能が働き、先んじて相手に危害を加えることが日常となり、平時の心を保てないことが、このことでもよくわかる。
当時の本所区(墨田区南部)と深川区(江東区西部)一帯はほとんど焼け、そこから逃げる場合、千葉もしくは茨城方面になる。その方面に行くには荒川(放水路)、中川、江戸川の橋を越えていくが、その荒川手前の要所にあるのが向島の寺島署と亀戸署であり、そこに戒厳令による軍隊が布陣していた。こうして四ツ木橋や小松川橋際で虐殺が起きることになった。四ツ木橋(墨田区と葛飾区の間)で、軍による大量の虐殺があったという証言を地元の老人の聞き取りで明らかにしたのは、1982年(昭和57年)、足立区立鹿浜第一小学校の教師の絹田幸恵だった。地元の教材を求めて、荒川放水路建設の話を聞いて回っていた時であった。
絹田はこの虐殺の話を放っておけなくなり、荒川の堤防内を発掘し遺骨を掘り出そうと考えた。そこで当時立教大学教授だった歴史学者の山田昭次に代表を依頼する。結局遺骨の発掘はならなかったが、そのグループで多くの聞き取りを行った。それが『風よ 鳳仙花の歌をはこべ — 関東大震災・朝鮮人虐殺から70年』(教育史料出版会:1992年)に結実し、別途絹田自身のまとめた本が『荒川放水路物語』(新草出版; 1990年)であり、2年後に新版を出した。結局、発掘で遺骨が見つからなかったのは、その後警察自身が掘り返して別な場所に移したということであった。
またこの書によると、9月1日当日の夜から、群集(自警団)による朝鮮人虐殺が始まったという事実、また寺島署もたくさんの朝鮮人を捕らえていたが、「三日に習志野から騎兵隊(戒厳軍)が来ました。兵隊は荒川駅の南、旧四ツ木橋の下手の土手に、あちこちから連れてきた朝鮮人を、川の方に向けて並ばせ、機関銃で打ちました。撃たれると土手を外野の方へ転がり落ちるんです。でも転がらない人もいて、何人殺したのでしょう。ずいぶん殺したんです。私は穴を掘る手伝いをさせられました。あとで石油をかけて焼いて埋めたんです。ほかから集めてきたのも一緒に埋めたんです」。あるいは別な人は、「旧四ツ木橋の下の土手に十人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺しました。まだ死に切っていない人も工事中のトロッコの線路の上に置いて、石油をかけて焼いたんです。そして土手の下に三ヶ所大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていました。ひどいことをしたもんです」と、ほぼ証言は一致する。また身体中に傷を負い、最後は両足に鳶口を打ち込まれて寺島署まで引きずって運ばれ、その死体置き場から一命をとりとめた一人の朝鮮人慎昌範の体験は書くに忍びないが、「自分たちが工事をして作った放水路で、多くの同胞が殺された」と語っている。
これを実行した軍隊は近衛師団習志野騎兵連隊の機関銃部隊である。つまり、まるで戦争で捕虜になった敵兵、あるいは制圧した村の人々を、向こう側に並べてまとめて掃射して虐殺するという、ナチスドイツの残した記録フィルムと同じ行為であった。というより、とりわけ日中戦争における日本軍はまさに同様な虐殺を繰り返している(筆者の「昭和12年」参照)。
この後、軍政府は朝鮮人、中国人をまとめて、習志野俘虜収容所へおくることに政策転換をした。そこはかつて日露戦争でロシア軍捕虜を収容するために各地に作られた場所の一つで、第一次大戦ではドイツ人捕虜を収容した施設であった。しかもそこに軍はスパイを入れ、朝鮮独立運動家らしき者を探り、怪しいと思われた者を虐殺した。また、軍が付近の村の自警団に「下げ渡し」、村で「処理」させたという。これはつまり軍が捕らえた朝鮮人を、村の自警団に取りに来いと伝えられて自警団が引き取りに行き、一つの村ではまず穴を掘り、座らせて日本刀で首を切って埋めたと、当時の村人に日記に書かれていたことである(このやり方は特に日中戦争下で現地において、日本軍がスパイと見られる住民に対して行った方法と同じであるが、1998年;平成10年の発掘で6体の遺骨が出てきたことにより、日記の内容は証明された)。これらの事実は千葉県で朝鮮人虐殺の調査と追悼を進める実行委員会(代表は船橋市の中学教師、高橋益雄)が1978年(昭和53年)に高津で埋もれた事実を発掘し、『いわれなく殺された人々』(青木書店:1983年)に収めて衝撃を与えた。(同委員会は下記に述べる福田村・田中村事件も発掘した。なお千葉県については同県で別記する)
新聞各紙(当時はテレビやラジオはない)でも混乱に乗じた朝鮮人(「不逞鮮人」と呼ばれた)による凶悪犯罪、暴動などが起こったと、ほぼ噂(虚報)だけで報じられ、そこからまた流言が広がり、その他の東京近郊の地域でも住民の自警団・警察・軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人および日本人(日本語の発音で民族を判別しようとしたから、聴覚障害者や吃音者、田舎から出てきて訛りのある人たちで、その中には沖縄県民もいる)が殺傷される被害が各地で発生した。しかし中には各警察署独自の判断で、自警団から守るために朝鮮人を相応の場所に隔離した例もあり(目黒区の当時あった競馬場を収容所にした写真も残っている)、横浜では鶴見警察署長大川常吉は、300人の朝鮮人を後ろにして、1000人の群衆から、「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升びんの水を飲み干して守り、海軍の横須賀鎮守府は朝鮮人避難所となり、朝鮮人が続々と避難した例もあり、千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結し、朝鮮人を多く雇用する埼玉県の町工場の経営者が朝鮮人を押し入れなどに隠し自警団から守ったという話も残っているし、逆に守っていたが防ぎきれずに自警団に虐殺された警察署もあったようで、一様ではない。
ただ、8日になって、東京地方裁判所検事正南谷智悌が「鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる」と、流言による誤解が多かったとのいささか苦しい見解を公表した。
実は横浜の方が東京より朝鮮人の犠牲者の数は多いが、横浜市は中心部が壊滅し、市内の95%が倒壊・焼失し、死者・行方不明者は2万6600人で、東京との人口比から言っても被害率は高かった。そして流言の元となる情報が同時に政府、警察関係から流された。横浜には当時の小学生の作文集が残っていて、大人たちに殺された朝鮮人も目にしているが、その中には朝鮮人を取り囲んだのはいいが、どう見ても反乱する姿には見えず、仕方なく警察署に引き渡したが、翌朝、その警察署で彼らが何本もの木に縛られて顔はめちゃめちゃにされて目や口もなく、胸のあたりがピクピク動いている姿があったというし、他の交番のそばの電柱に縛られているのを大人たちが竹の棒で打ち付けて、頭は割れて血みどろになっている姿もあったという。住民の自警団もほぼ警察が作らせたものだが、その警察が殺しをしてしまうのだから、大人たちにも罪の意識はなく、同じことをしたのである。まるで戦場の体験のようである。ただ、上記に触れているように、同じ横浜の中では逆に自警団から朝鮮人を守った警察署もあったのである。(横浜については神奈川県で別記する)
ちなみに作家の芥川龍之介はこの自警団に参加していたとされるが、「或自警団員の言葉」(『文藝春秋』1923年10月号)において、自警団の異常な殺戮行為に対して「我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは ― 尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判をし、「善良なる市民」が朝鮮人への虚偽の噂を信じて暴徒となることを戒めている。
亀戸事件(日本人活動家に対する虐殺事件)
大震災発生の3日後の9月4日、現・江東区亀戸で、平澤計七(純労働者組合)、川合義虎(南葛労働会、22歳)ら10名が、以前から労働争議で敵対関係にあった亀戸警察署に捕らえられ、近衛師団習志野騎兵第13連隊に引き渡され、彼らによって荒川放水路で斬殺された。当時の亀戸は東京府南葛飾郡だったが、大工場が多く、労働運動が活発で、この年のメーデーでは、南葛労働者と朝鮮人労働者との「連帯」も芽生えつつあって、労働運動の中心地となっていた。当時の署長の古森繁高は、社会主義者たちを抹殺することに「使命感すら感じていた」という。古森は、朝鮮人暴動説が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で1300余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」とされるが(この数などは他の事件と重なる面があるようなので置くとして)、社会主義者の検束に当たって古森がとびついたのは、3日午後4時、戒厳令の指令を出す一人、第一師団司令官石光真臣が発した訓令の中の、「鮮人は、必ずしも不逞者のみにあらず、之を悪用せんとする日本人あるを忘るべからず」という部分であった。つまり、社会主義者が朝鮮人の暴動を悪用する可能性があるから、注意しろという意味である。
この事件は発生から一ヶ月以上経過した10月10日になってようやく警察により認められ、翌日の新聞各紙に大きく報じられた。犠牲者の遺族や友人、自由法曹団の弁護士布施辰治・山崎今朝弥、南葛労働協会などが事件の真相を明らかにするため糾弾運動を行なったが、「戒厳令下の適正な軍の行動」であるとし、事件は不問に付された。ただ、警察が捕えた者たちをさらに軍隊に引き渡すということは、軍隊の下で行われる殺戮等は基本として戦争に準じる非常時下の出来事であって、いわば治外法権となるからである。だから軍人の虐殺行為に対しては、一人として軍法会議にかけられていない。これが軍隊の恐ろしさであり、戦場でなくても軍隊が出動すれば戦場と同様の無法状態となる。軍法会議にかけられる場合は、軍人が敵前逃亡したり、軍規違反をするときぐらいではないのか。
この他、ほぼ同時期に亀戸署に反抗的な自警団員4名が、やはり軍に引き渡され、リンチの上殺されたと言われる。亀戸警察署に関しては、この他数百人の朝鮮人の虐殺に関わったとされるが、1970年(昭和45年)9月、現場近くの浄心寺に「亀戸事件犠牲者之碑」が建立された。
総じて、この大震災の混乱に乗じて軍・警察が主導した事件でありながら、ごく一部の民間人が罰せられただけで、国側の人間はまったく責任を問われることはなかった。これが権力側にいる者とそうでない者の決定的な違いである。それにも増して、単なるデマをそのまま紙上で撒き散らした新聞などのマスメディアの責任も大きいが、責任を問われる、というより、自身の責任を問うことはなかったのではないか。そもそもメディアは警察や軍の発表をそのまま報道するのが仕事なら、これほど楽な仕事はない。
福田村・田中村事件(日本人への誤認虐殺事件)
こうした状況の中で各地で起きた事件は数々あるが、埼玉県の本庄市で、9月4日、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた(本庄事件)。また同日、熊谷市で、さらには5日に妻沼町でも同様の事件が発生している。 9月5日から6日にかけて、群馬県藤岡市では藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら17人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害された(藤岡事件)。
福田村・田中村事件(千葉県野田市と柏市)とは、60年後の1983年(昭和58年)に明らかになった日本人に対する虐殺事件である。千葉県で朝鮮人虐殺の調査を進める実行委員会(高橋益雄代表)が、野田で起きた事件の犠牲者はどうも香川県出身らしいという情報をつかみ、それを知った香川県の高校の日本史教師石井雍大が情報収集を始め、翌年犠牲者の親戚に出会い、位牌を見る事が出来た。驚くことに、位牌の裏には「千葉県ニ於テ震災に遭シ三堀渡船場ニテ惨亡ス」と書かれていた。また、なんと6、4、2歳という幼児の位牌もあった。当時、香川県の被差別部落から集団で薬売りの行商に来ていた人たちで、大震災で5日間足留めを食い、6日になって茨城方面に向かうことにし、利根川にある三堀の渡しへ向かった。渡しは交通の要所だから、自警団がいた。讃岐弁で渡し守と交渉する様子を聞いて「鮮人ではないか」と人が集まってきた。もちろん日本人だと抗議したが、次第に人が集まり、鉄砲を持ち出している人もいて、川に投げ込んでしまえということになり、川へ投げられた。対岸へ泳ぐ人がいたが船で追いかけて惨殺した。こうして幼児も川へ投げ込まれ、そのまま溺死して死体も上がらないという惨事が起こった。この追跡調査をすすめるうち、1986年(昭和61年)になり、からくも難を逃れた生存者(事件当時21歳)が存命であることがわかり、連絡がついた。そして、当時検事からの要請で書いた手記も出てきた。またその人から、もう一人当時14歳だった生存者がいることを知らされた。この二人の証言が隠されていた事実を明るみに出した。これにより、犠牲者9人、生存者6名、計15名(内4名が幼児)の全体像がわかった。生存者は渡しのそばの神社で待機していた人たちであったが、その後捕らえられ、体を針金でしばられ、朝鮮人ではないかを調べるため、「君が代」を歌ったりさせられた。急を聞いて駆けつけた巡査が止めて身柄を引き取り、6人は助かった。この真相が明かされたのち、野田に「福田村事件を心に刻む会」ができ、80周年の2003年(平成15年)に、追悼碑が建立された。(辻野弥生『福田村事件 ――関東大震災・知られざる悲劇』(崙書房:2013年)
朝鮮人と誤認された例は各所にあり、その場合国歌を歌わせたり、朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしているから、東北や沖縄の人たちも犠牲になっている。白い服装だから朝鮮人だろうという理由で、日本海軍の将校ですら疑われた。 当時早稲田大学在学中だったのちの大阪市長・中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中で群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」するほどの暴行を受けたという。映画監督黒澤明の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話もある。東京聾唖学校の生徒の約半数が生死がわからない状態になり、卒業生の一人が殺されている。
ただし福田村の事件は、現場に駆けつけた警察官がいたことによって、「騒擾殺人」で8名が起訴され、最長で懲役10年の判決となったが、大正から昭和への代替わりの恩赦で、1927年(昭和2年)2月には全員釈放釈されている。田中村では村で裁判費用を負担した。自警団という村のために行なったことで、やむ得なかったことにされ、そのまま忘れ去られたわけである。生き残りの人たちも、思い起こすのも辛いせいか、この惨劇を語り残すことはなかった。しかしこれはこの後の昭和の戦争下で悲惨な経験をした人々の状態に実によく似ている。やはり自分の戦場でした行いを誰にも話せない、あるいは自分が受けた悲惨な体験を思い出したくもないと、多くの人が心の奥に閉まっていたことを、戦後5、60年以降になってやっと積極的に証言する人が出てきてから実態が明らかになったことが多い。
中国人労働者虐殺事件:大島事件と王希天
この他に、まだ一般に知られていない例として(政府により隠蔽されたから)、上記のように中国人も朝鮮人と間違えられてではなく、中国人とわかっていた上で多くの人が殺されていた大きな事件があった。江東区大島(当時は南葛飾郡大島町)では、中国の主に浙江省温州から来た労働者が、働き場所を求めて移住し、運河の行き交う場にある工場で石炭の荷下ろしなどの肉体労働をしていた。しかし不況になると日本人労働者と競合し、衝突事件も多数起こっていて、政府はこの頃に、中国人労働者の制限をし、中国人に退去命令を出したり、「上陸時の見せ金制度」を作った(その時の退去労働者の名が記録に残っていた)。
突然退去命令が出された上に、賃金の不払いや雇い主の暴力問題が起こり、これを王希天という留学生が見かねて、大島の真ん中に、僑日共済会を1922年(大正11年)9月に設立していた。王は長春で生まれ、19歳の時、「対華21か条要求」(既述:原文は「対華21ヶ条要求」参照)が日本から中国に突きつけられた1915年(大正4年)に「虎穴に入らずんば虎児を得ず」と日本に留学した。その後学生運動のリーダーとなり、1919年(大正8年)の五四運動(上記参照)の時は東京で運動に参加、田中義一陸相に招待されて会ったが節を曲げず、以来警視庁の尾行がついていた。日本でキリスト教に入信し、留学生の間でも、また日本のキリスト教関係者(特に救世軍の山室軍平)や社会運動家に大きな信望があった。そして、共済会は中国人労働者の救済のため、多くの会社に掛け合い、そのため王希天は地元の労働ブローカーに憎まれ、亀戸署にも目を付けられていた。
9月1日当日、大島には60数軒の中国人宿舎があり、千数百人の中国人がいた。亀戸、大島は震災の大火災による全焼は免れていたが。焼け出された深川方面からの避難者が多数いて、中川の土手で野宿していた。2日、戒厳令が出て軍隊が出動してきた(総武線の北は近衛師団習志野騎兵連隊、南は第一師団野戦銃砲連隊であった)。3日、軍隊が大島を取り囲み、朝から虐殺を開始した。昼頃には国へ帰してやると言い174名を連れ出し、広場(現在の都営地下鉄新宿線東大島駅前付近)で軍を中心に警察と一般人が共に虐殺した。この一般人とは住民ではなく、薪割り、とび口、日本刀を持ってきていたから日本人労働ブローカー、すなわち「手配師」、その周辺にいる暴力組織員たちであったろうという。しかし生き残りが一人いた。黄子連という者である。
政府(実際には臨時震災救護事務局警備部で、その委員は内務省警保局長後藤文夫、陸軍省軍務局長畑英太郎、海軍省軍務局長大角岑生、外務省情報局長広田弘毅、陸軍少将阿部信行等)はこの事件の隠蔽を決め、刑事を派遣して住民を黙らせ、報道を規制した。朝鮮人の場合、自制せよとの通達後の「自警団の暴走」に対して、申し訳程度にいくつかの裁判を行なったが、中国人のこの事件は隠され続けた。
当時、王希天は神田に住んでいて、この大震災でまずは震災救済会を組織し同胞留学生の救援にあたっていた。江東地区での虐殺の噂を聞き、自転車で大島に入ったのは9日で、僑日共済会において調査を始めた。王はまだその辺りに放置されている遺体が同胞人かどうかを調べていたというが、その日の夕方に亀戸署に連行され、以後行方不明となった。震災直後の虐殺などが落ち着いた頃、朝鮮人・中国人は千葉県習志野の俘虜収容所に保護されることになり、王はその立場を利用されて他の中国人の護送の手伝いもさせられていたが(快活にその役目を果たしていたという)、12日に習志野へ行くといって軍人らに連れ出された彼は、逆井橋(中川にかかる橋で現在の首都高小松川線の下)付近で待ち構えていた野戦重砲兵第一連隊・垣内中尉(終戦時大佐)によって斬殺され、服は焼き捨て、死体は切り裂かれて中川に遺棄された。しかも彼の所持品であった10円70銭(現今の5、6万円程度か)と万年筆(それ以前に自転車も)は軍人たちに没収されたという。これは歩哨として現場にいた兵士の証言という。
王の殺害を知った陸軍中枢は、やはりこの事件を隠蔽した。しかし王が消息不明となった直後から彼を探し、大島事件も調査していた王の友人・王兆澄は警察から尾行をつけられるようになって、身の危険を感じて中国に帰国することにした。それに対し官憲は彼の帰国の阻止をしようとしたが、なんとかその網から逃れて帰国した。
王兆澄は王希天と第八高等学校(後の名古屋大学の前身)時代からの親友で、一緒に僑日共済会総幹事となったが、大震災前日に、アメリカ留学が決まっていた王希天と会長を交代すべく事務引継ぎをしていた。震災直後の9/2、王兆澄も小石川で暴漢におそわれ怪我をし外出できなかったので、王希天はなお会長として行動し、9月9日の受難となる。帰国した王兆澄は、王希天の殺害疑惑を公表する。
一方で生き残った黄子連(当時37歳)は、前年5月に来日して大島で働き、上記の虐殺事件後、10月12日に送還船で帰国、中国人虐殺が問題となってから、北京政府外交部の事情聴取を受けた。その内容は日本官憲の入手するところとなり、内務省発刊の『外字警察報』(部外秘・1924年9月号)に掲載されている。その大意は次の通りである。
「私は(大島)5丁目の林合記(宿)に同郷の300人とともに生活していた。9月1日に大地震で2日に同郷174人と共に林合吉宿に移転した。3日正午ごろ、突然日本人数百人が鉄棒、棍棒、斧、刀などをもって襲撃し、同郷者をことごとく野外荒地に追い出し、乱打乱殺した。私も右耳辺に刀傷を受け、倒れたので、死体の間で死んだふりをしていた。日本人は死体から金銭を奪い、(じっとしていなければ生きているとバレるから)私も所持していた30余円(現今の金額で15−20万円=多いように思われるが当時の彼らは貯金などできないから有り金を身につけていたと思われる)を奪われた。午後7時ころようやく人がいなくなったので、蓮田に潜伏していたが、5日午前7時ごろ、再び日本人に見つかり乱打された。しかし幸いに小松川警察署に保護され、約一か月抑留され、10月5日罹災同胞900余人とともに本国に送還された」(岩波現代文庫『関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する』田原洋:2014=原著は1982年。ちなみにこの田原が、王希天に手を下した垣内中尉に実際に取材したが、本人は誰を斬り殺したのか知らなかったという。「可哀そうなことをした」と本人は公開の言葉を発していたというが、軍上官の命令であったのだろう)
10月18日の中国紙『時報』『申報』『商報』は、右耳が断ち切られていた黄子連の写真を載せた。王兆澄の話とともにこれらが大々的に報道され外交問題化して、反日抗議運動が一層強まっていく。『九月、東京の路上で』(加藤直樹著)によると、郷里に帰った黄子連は、虐殺時に負傷した傷が化膿し、吐血するようになり、しだいに体を壊して2、3年後に亡くなったという。
同年11月、王正廷を団長に中国人虐殺に関する調査団が来日するが、調査団に対し日本政府外務省も隠し続け、わざわざ各道府県に「行方不明人調査」の通達を出し、真に受けて捜査して「該当人は立ち寄った形跡なし」と回答した県もあるという。そうして事件はうやむやにされた。その後の中国政府からの調査依頼にも、政府は一貫して行方不明で押し通した。実は当時の読売新聞の11/7付けで「支那人惨害事件」と題して社説および関連記事が載せられ、地方向けの早版(運送時間の問題で遠い地方から先に送られた)は、検閲で不許可、急遽発売禁止となり、各地で押収された。そして遅版ではその問題の記事の部分が削除されて印刷された。このような検閲による処置(一部記事が空白にされる)はこの後の戦時下でも少なくなかった。
実はこの記事は、帰国して虐殺の実態を明らかにした王兆澄の証言によって、上海の『中華新報』が10月17日付で報じ、それによって初めて国内の実態を知った中国通のジャーナリスト小村俊太郎が記事にしたものであった。中国では「反日」活動が続いていたが、この大震災の惨状を受けて新聞は排日的言論をやめて、募金を呼びかけ、救援体制を作り、小・中学生までもが小遣いを出し合って届け、食料を積んだ船も日本に向けて送り出すなどの活動をしていたところであった。しかも張作霖も巨額の寄付をしていた。そこで同胞の虐殺に関する『中華新報』その他の一斉報道があって、再び反日・排日運動が再び高揚してくる。
翌年5月、日本政府は王希天に対して1万円、その他の労働者に対して200円(56人分)を「慰藉金」として支払うことに決定した。当時の1円は現今の5000円以上と推察されるが、王希天の場合、富商の子息であった。
これらの真相が国内で解明された一つには、軍内部にもその方針に批判的だったものがいて、中国の要求など関連文書を、目立たぬように分散して保管した。そして60年以上後に、大分県の高校教師であった仁木ふみ子が、労働運動を調べる過程で上海でこの問題を知り、外交資料館をあたりながら、しかも現場の大島に移り住んで調査を続け、この分散された記録を見つけ、生き残った人からの証言も得た。
まず、王が虐殺される前に中国人と朝鮮人の護送に関わっていて、野戦重砲兵第一連隊大尉であり、第3旅団で事件の事後処理を行った遠藤三郎(終戦時、陸軍中将)が、王希天が軍によって殺害されたことを戦後に明らかにしたことによる。さらに当時この事件に関わった野戦重砲兵第3旅団の一等兵久保野茂次が、必死に守った日記(渋を塗って腹巻に隠して常時持ち歩き、没収と検閲を免れた)を、死ぬ前に王の遺族に伝えたいと半世紀を経て公開したことによる。
虐殺された人々の名前はわからないと思われたが、それは上記の退去労働者の記録に全員ではないが、残っていた。そして仁木は震災70周年の1993年に『震災下の中国人虐殺』(青木書店)を出版し、その中で中国人犠牲者総数758名(うち死者656名、行方不明者11名、負傷者91名)の名前を列挙している。これらは、仁木自身の調査に加え(仁木は1990−1992年にかけて黄子連の故郷温州その他に三度検証の旅に行き、合計24部落を訪ね、80数人の生存者や遺族から話を聞いた。会った家族はその何倍かに上る)、王兆澄が6回に分けて発表した調査結果、さらに駐日中国公使館、中国外交部、温州旅遍同郷会それぞれによる調査結果をもとにしている。
なお、事件から3年後の1926年(大正15年)1月に、「義士王希天」の記念石碑が、当時の留学生によって温州の小高い山頂に建てられた。後に三度侵攻してきた日本軍がそれを壊して打ち捨てた。その壊された石碑を46年ぶりに発見したのも仁木である。
それにしても、仁木ふみ子や絹田幸恵、高橋益雄たちは、いわゆる普通の学校教師であるが、ちらと隠された事実関係を垣間見て、「放って置けなくなって」からのその調査に向けて継続した努力には頭が下がる。政官の者たち(為政者)が自分達の立場に不利益なことを、お茶を濁しながら放置し、過去の噂話として追いやろうとした事実関係が明らかにされるのは、いつもこのような民間の志を持つ人たちの努力によってであり、他の様々な案件にしろ、仮にも政官内に調査委員会が作られて真相が明らかになった話など、筆者は寡聞にして聞いたことがない。民主主義の基本が打ち立てられているアメリカではしばしば聞く話であるが、残念ながらこのような日本の政官の、この頃からの隠蔽体質というのは、戦後になって米国占領軍GHQによって軍国主義体制から民主主義体制に転換させられ、そこからなお70年以上過ぎようとしている今になっても変わらないのはなぜなのか。押し付けられた民主主義が、いまだに根付いていないことを示している。本当にわれわれ日本人自身で築いた民主主義ではないからであろうか。
しかも、このように一般の人たちの努力によって隠された事実関係が明らかにされてもなお、政官の者たちは無視し続けるのだから呆れる他はなく、それに乗じて、ある種の人たちは、そんな事実はなかったという「偏向した」態度をとり続ける。なら問うが、日本人だけがそれほどに他国の人種と違って清廉潔白な民族であるのか、歴史を遡って(きちんと勉強して)実証してもらいたい。そもそもそのような事実に向き合おうとしない偏向した固定観念、あるいは我々以外の多様な民族の存在を、そのまま尊重する心を持たない偏狭な精神が、明治以来の日本の一方的に始めた数々の戦争を生じさせてきたのではないのか。逆にまた、このような人たちこそ非常時において、あるいは戦時下において、まずデマを流し、このような虐殺に参加しかねないのではないかと筆者は思う。
さらに言えば、例えば仁木ふみ子が、中国への被害者調査の旅の中で、どれだけ遺族たちに深く頭を下げつつ(つまり虐殺を行った同じ日本人として謝罪しつつ)、そして「あなたの責任ではないから」と、人々に寛容にまた暖かく受け入れてもらって話を聞くことができたか、その辺りのことまで思いを致して発言している人がどれだけいるのだろうか、はなはだ疑問である。当然仁木以外にも、この後の昭和の戦争の結果において、同様な調査と慰霊の旅をされた方は数多くいるが、これら一般の人々の努力と、上記の政官の者たちやそれに乗じたある種の偏向した人たちの軽々しい発言との、同じ日本人の中での乖離、落差は何なのであろうか。
なお、王の出身温州を調査した仁木によれば、今も王の活躍は語り伝えられ、生きていれば世界史的重要人物となったことは疑いないという。王は周恩来と同時期に日本に留学して交流があり、東京で一緒に撮った写真もある。その後パリに留学した周とも文通が続いていた。王希天はまだ27歳という若さだった。まことに惜しい人材を失ったと言うしかない。王は出身地の東北に妻子がおり、遺児は文化大革命中、周恩来の保護で生き延びた。また、同じ東北出身の張学良(満州事変直前に日本軍に爆殺された張作霖の息子で、日本軍への復讐心を抑え、親を継いで満州東北軍を率いて中国統一軍に協力した)と王は友人で、実はこの張も日本政府に問い合わせをしたという。王希天は現在の中国で「革命烈士」として語られている。
しかしながら、ここから26年後に、共産党による中華人民共和国を建国させてほぼ70年経過している現在の中国が、結果的に共産党一党独裁の弊害による圧政を敷いている現実の中にあって、仮に若き王希天が生きていれば、この独裁体制に反対する言動をして(現時点でもいくつもの抵抗と弾圧の事例があるように)政府から弾圧され拘束される立場になっていたのではないかと、容易に想像できる。弱い人々の立場に思いを馳せることのできる人間は、決して独裁政権の側につかないのである。
著名活動家の逮捕・虐殺
この震災当時、前年に日本共産党が秘密裏に結成され、発覚して堺利彦、徳田球一、野坂参三ら日本の社会主義、共産主義運動の著名人が、震災当時市ヶ谷刑務所に拘束されていた。ここに戒厳軍がやってきて、危険人物として身柄の引渡しを要求したが、刑務所長が要求に応じなかった。それによって彼らの生命が救われた。
9月16日、社会主義思想家でアナキストの大杉栄と作家で内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一(6歳)の3名が不意に憲兵隊に連行されて、憲兵隊司令部で憲兵によって扼殺され、遺体が井戸に遺棄された事件が起きた。これを指揮した憲兵大尉(分隊長)甘粕正彦と被害者の名前から甘粕事件あるいは大杉事件ともいう。
行方不明になった大杉を、その友人の新聞記者が探すが、見つからずに事件性を直観。家族が警察に捜索願を出した。警視庁は捜索願を受けて驚き、調べてみたところ、淀橋警察署が憲兵隊による検束を報告した。そこで警視庁が憲兵隊に問い合わせると、憲兵はすでに帰したと返答した。18日の夕刊に大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれ行方不明という記事が出て、警視総監が閣僚にも報告し、戒厳司令官を呼んで問いただしてみても関知していず、憲兵隊の捜査が開始された。すぐに内部の犯行が明らかになり、田中陸相が改めて憲兵司令官小泉を呼んで問いただすと、小泉は甘粕の犯行を認めた上で賛美した。田中は叱責して小泉に謹慎を命じ、9月19日には甘粕と憲兵隊曹長森慶次郎が衛戍監獄に収監され、古井戸から遺体が引き上げられた。同時にこの件に関する新聞記事を差し止める情報統制の決定がされたが、10月8日に記事差し止め処分が解除されると、新聞は競って報じ、大杉・伊藤の2人に加え、6歳の小児までも殺されたとあって世間は騒然となった。なお、甘粕らは投獄されていた堺利彦も抹殺の対象にしていたという。
軍法会議は事件の背後関係には立ち入らないまま、12月8日、殺害を実行および命令したとして甘粕大尉を首謀者と断じて懲役10年、森曹長には同3年、命令により殺害して遺体を遺棄した3名は、命令に従ったのみとして無罪となった。憲兵隊の組織的関与は否定されたが、これにより福田戒厳司令官は更迭、小泉憲兵司令官と小山東京憲兵隊長は停職処分とされた。ちなみに甘粕は短期の服役後、陸軍の予算でフランスに留学し(民間の犯罪者であった場合、ここまで優遇されることは考えられない。軍法会議自体が出来レースであっただろうし、最初から大杉の知人の新聞記者が関わって連日報道されていなかったら、王希天のような行方不明事件としてまともな捜査もされず、軍法会議にもかけられることもなかったのではないか)。甘粕は帰国後満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買ったが、敗戦直後、満州で服毒自殺した。
(以上の大震災の事例などはブログ「尾形修一の紫陽花通信」やウィキペディアその他多くの資料からの混成)
犠牲者数とその内実
1920年(大正9年)の国勢調査によると、日本にいた朝鮮人は男性3万6043名・女性4712名で、その内訳は東京男性2304名女性181名、神奈川男性725名女性57名、千葉県男性36名女性4名、埼玉県64名女性14名、愛知県男性522名女性143名、京都男性823名女性245名、大阪男性5445名女性845名、兵庫男性3059名女性711名、福岡男性7161名女性672名となっている。ただこれはいわゆる住民登録をしていた人たち、あるいは調査員が訪問して確認できた範囲であって、特に東京や横浜、大阪の大都市では住民登録をしないまま居住している人々のほうがずっと多く、実際には東京と横浜には3万人はいたとされる。また現に、太平洋戦争後半の大空襲で焼死した日本人の中にも、江東区などの下町地区に住んでいた人々の中には、家族で住んでいても地方の田舎に籍を置いたまま居住している人が多く(当時はそれが普通であったという)そのまま空襲被害にあった人もかなりいて、そのため、戦災犠牲者の正確な死者や行方不明者がわからないままになっている。そうした当時の状況からして、朝鮮人居住者数も日本に出稼ぎで来ていた人々も含め、この国勢調査の数は参考にならない。
(『関東大震災朝鮮人虐殺の記録: 東京地区別1100の証言』現代書館 西崎雅夫より)
当時東大教授であった吉野作造が、在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班(代表は崔承万)の協力を得て、大震災の2ヶ月後の10月末の時点で朝鮮人虐殺について調べた範囲では、被害のあった地区は東京で26件(被害者724名以上)、神奈川で22件(1130名以上)、千葉で12件(141名)、埼玉で9件(550名)、その他で6件(68名)、合計2613名以上となっている。ただ、この2ヶ月後の時点ではまだ表に出されなかったケースも多く、実際には下記のようにほぼこの二倍の犠牲者数とされる。
殺害された朝鮮人の数は複数の記録、報告書でも明確になっていないが、内閣府中央防災会議は虐殺による死者は震災による犠牲者の1から数パーセントに当たる(換算すると1000人から数千人)としている。ただ、上記の朝鮮同胞慰問班がその後も官憲の協力を得られないまま調査を進め、神奈川県で遺体を発見できなかった1795名と、第一次調査を終了した11月25日に各県から報告が来た追加分2256名を加算して、最終的に約6658名と報告した(12/5付大韓民国臨時政府機関紙『独立新聞』に掲載された「第一信」中の調査では合計6661名だが内訳を再計算すると6644名)。ただ崔承万はこれらは重複されている可能性を除くと、推定で5千名以上ではないかとしている。なお2013年;平成25年11月東京韓国大使館新築移転作業中、関東大震災韓国人犠牲者290名の名簿が初めて見つかったが、これも一部である。
この他、軍などによって虐殺された中国人は、東京都では上記で触れるように最低716名であり、横浜地区でも中国人が殺されている事実はあり、それ以上となるのは確かである。
この一方で、誤認されて殺された日本人が何人だったか、この全体数はよくつかめていない。はっきりしているのは相手が日本人だった故に刑事事件として扱われた日本人犠牲者は89人であり、それに加担した自警団等で起訴された者は187人になっている。加害者が多いのは時には数名を十数名で囲んで鳶口や棍棒や竹槍、鉄棒で惨殺しているからで、日本刀や銃の場合はほぼ一人の行為である。この中には警察が保護した日本人を無理矢理連れ出して惨殺した例もいくつかある(『関東大震災と朝鮮人:現在史資料6』1963年:みすず書房より)。ただしこれは自衛団つまり民間人の虐殺分で、この他に軍人による虐殺分が27人との記録も別にあって、軍人の場合は起訴されていない。軍人はあくまで「非常時」に殺人を犯しても罪には問われないのである。いずれにしろこれらは表にでた記録であって、地方からの出稼ぎ者だから隠されてこの大震災で行方不明とされたケースもあるであろうから、日本人が虐殺された数はもっと多いと思われる。ちなみに起訴された範囲の中で朝鮮人の死者は231人、中国人3人となっている。
しかし、ここでまたしても問題なのは、どうして日本の政官人(為政者)は同胞(同じ日本人)から虐殺された人たちの実態を調べて残そうとしなかったのか。朝鮮人も中国人自身も殺された同胞人のことを根気よく調べ、それは当然としても、その事実を放置できないと思った有志ある一般の日本人が、後にその実態の調査に身を捧げ、時にはその人たちの故郷にまで行って調査しつつ、国の代わりに謝罪をしている。このような不幸な境遇にいる人々のために影で捨て身で努力する日本人はあちこちに存在し、頭が下がる思いをしばしばするが、少なくとも形の上でも日本の政官人が、(後世のためにとの義務感を持って)国の責任として調査を行うことはまず聞くことがない。しかもそのような民間人が手弁当で長年調査してきたことに対して、尊重することなく、知らんぷりをする。むしろ自分たちの落ち度を表に出さないようにと、逆に事実を隠蔽しようとする。それが最も表された例が、太平洋戦争敗戦時に行った戦時関係資料の焼却であり、国民に大きな犠牲を強いたこの大戦争をなかったことにし、責任逃れをしようとした。この政官人の体質が今でも変わっていないことは、時々マスメディアを賑わすいろんな事例で明らかである。世の中にはまったく反省をしない、あるいは反省を知らない人間がいることは確かであるが、国民の命と生活を守る義務を負っている為政者が、まるでその自覚もなく、反省も知らない上に偉そうにすることのできる、今の日本の国とは何なのか。もっとも、反省することを知らない人種であるからこそ偉そうにできるのであろうが、その種の人間をそのまま許容し信用してしまう今の日本社会とは何なのかという問題が残る。
【慰霊堂と為政者の自覚について】
ちなみに、この大震災で犠牲になった人々を慰霊する堂が、1930年(昭和5年)に身元不明の遺骨を納めて祀る震災記念堂として墨田区横網の横網町公園内に創建された。この地は陸軍被服廠跡で震災時には公園予定地として更地になっていて、大震災が起きると、この場所が多くの罹災者の避難場所になった。しかし同時に多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もない時に、周囲の大火災による火災旋風によって家財道具に燃え移り、そこから一挙に人々をも業火で包み込み、この地だけで3万8000人もの人々が焼死した(これは後の大空襲による惨禍とよく似ている)。そしてこの地に慰霊堂が建設され、朝鮮人犠牲者追悼碑も併設された。
この地で毎年9月1日に遺族や都の関係者が集まり追悼の辞を述べる。同時に朝鮮人犠牲者追悼碑にも哀悼の辞が毎年都知事から送られる習慣であった。ところが2017年(平成29年)、小池百合子都知事はそれを取りやめた。メディアの記者からその理由を聞かれつつ、朝鮮人犠牲者の事実への認識を問われると、それは歴史が決めることと言い放った。震災から94年も経って、歴史的事実として多方面からこの事件は明らかにされているが、この知事は同じ都内のそうした歴史も勉強していないということを図らずも吐露していることになる。少なくともこれから東京都政の新たな歴史を作って行くべき都知事が、都の歴史も預かり知らないとは、その政治的志を疑うほかない。
ついでながら、2000年(平成11年)4月9日の陸上自衛隊記念行事で、当時の石原慎太郎都知事が、「不法入国した多くの“三国人”、外国人により、大きな災害が起きたときには大きな騒擾事件すら想定される」と述べ、大規模災害に際しての自衛隊による治安維持の必要性を強調した。石原はさらに、4月12日の都庁での会見で、阪神大震災では騒擾事件の事実はなかったと指摘する記者に対し、「東京の場合にはもっと凶悪な犯罪をたくさんしている不法入国、不法駐留の外国人がたくさんいる」と反論した。どうやら石原の頭の中は、関東大震災時に多くの朝鮮人が蜂起して擾乱事件を起こしているという軍政が発したデマ報道までの認識しかないようで、このそれぞれに置かれた人間の立場を汲み取ろうともしない不勉強さというのは、作家という名前が泣くのではないか。少なくとも犠牲になった人たちを悼むどころか、たまたまここかしこの場所や立場で生きている人間の心を洞察する作家的な心など微塵も感じられない。繰り返すようだが、当時の朝鮮人は不法入国ではなく、その主体は日本の植民地から連れてこられた底辺労働者であって、日々の過酷な労働に疲れて「反乱」を起こす余力などなく、しかも大火災から逃げるのが精一杯で、その逃れた先で虐殺されたのである。それに「凶悪な犯罪をしている不法入国、不法駐留の外国人がたくさんいる」と簡単に言って退けるが、仮にも都の長であるならそのデータの裏付けは開示するべきで(例えば不法入国者と日本人自身の犯罪率との比較検証も)、さらには不法入国者が増えないように管理体制を都が作って努力しているようなことにも言及はなく、都知事の立場というのは言いたい放題の気楽な立場であるとの印象は免れない。
いずれにしろ、ただ有名だからということで、この種の人間に安易に投票し、政治を委ねている我々国民や都民はもっと人間の資質(いわゆる世間の裏側に置かれた人々、被害者あるいは弱者の立場にいる人々に想いを致すことのできる感性を持っているかどうか、つまり世間の裏表に対する客観的な思考回路を持てている人かどうか)というものについて、見分ける目を普段から養っていかなければならない。あえて言えば、この種の差別的人間こそが戦争への道を簡単に開いていくと断言してもよいし、その種の人間を見分ける目を持てない人々の集合が、逆にその種の人間に戦争に駆り出されてしまうのである。単に「戦争反対」という言葉を掲げているだけでは世の中は済まないのである。
ちなみに筆者も三国人という“蔑称”は知っていて、実は朝鮮、中国、台湾人のことだと思っていたが、元は占領軍GHQが日本の植民地である朝鮮と台湾人を、すでに日本人ではないとして“第”三国人としたことから来ているという。この石原の三国人の話をきっかけにして、ジャーナリストの加藤直樹が『九月、東京の路上で——1923年関東大震災、ジェノサイドの残響』を書くに至るが、図書館などで世界の大地震の記事を調べまわったが、その時に外国人が暴動を起こしたことは一件もなく、災害を扱った社会学の本も読んでわかってきたのは、基本的にはみんなが助け合おうとしていたことであったという。現に、東日本大震災の時には、東北にも中国人の実習生などが多く働いていて、お互いに助け合った話をよく聞いたが、中には日本人雇用主が、実習生を先に逃がせて、自分は津波に巻き込まれて亡くなった話もある。しかしやはり、1906年(明治39年)のサンフランシスコ大地震では、「空き巣が横行している」という流言を真に受けて、当時の市長が軍に命じて鎮圧に当たらせ、発砲許可も与えたため、軍隊が発砲して多くの死者が出るという事件が起きたという事例があった。いわゆる官憲側の思考回路は、「治安」という観念から出てくるものであろうが、どの国でも似たり寄ったりということができるのかもしれない。
◯ 1926年(大正15年)12月25日:大正天皇崩御。この年が昭和元年となる。
