東京都と戦争の概要
戦時下の出来事
出征者と戦死者数
【判然としないその数】
都内で出征した男性のうち、戦死者は16万人以上とされている。しかし当時の人口比(全国の人口が約7千数百万人のうち戦死者は230万人、都の人口は735万で換算すると全国平均から30%以上少ないことに疑問が残る。少なくとも20万人以上ではないだろうか。このように日中戦争から太平洋戦争へと戦線をむやみに拡大し、後始末が悪い結果、戦死者も曖昧なままにされている場合が多い。また敗戦時の全国出征者数は700万人以上とされるが、都の出征者数はやはり不明である。
それでも何とか東京と地方ごとの出征者を知りたく、筆者が調査を依頼したスタッフがまず国会図書館で『支那事変・大東亜戦争間動員概史』その他いろんな本に当たったが、具体的な出征者数は出てこなかった。さらに昭和館(国の後援する戦中戦後の資料館)にもなく、昭和館から厚生労働省に問い合わせしてもらったが、そのようなデータはないとのこと、そこで防衛省に行って聞くと、地域別の出征者数は各市町村に問い合わせるようにと言われ、ここで堂々巡りとなった。つまり(繰り返すが)敗戦時に出征記録を含めた戦時中の記録がほぼ全て焼却されたことによる。なんというずさんさであろうか。日本の戦後は、このように戦争の責任を国が放棄するところから始まっている。こうした背景は各地で触れることになる。
全国の例では、『昭和国勢総覧 第三巻』(1991年 東洋経済新報社)の中に昭和39年(1964)の厚生省援護局のまとめた「地域別の兵員と死没者」の表があり(ただしこれは国内の地域ではなく海外の戦闘地域のこと)、日中戦争開始の昭和12年(1937)以降からの兵員数として、終戦の昭和20年(1945)8月15日の現存兵員数が、788万9100人とある。その中の死没者が212万1000人とされていて、さらに終戦の日以降の死者が18万900人と区別されている。終戦後の戦死者としては異様に多いが、この中に突出しているのは、中国とシベリアがそれぞれ5万人以上であって、半数以上を占めている。シベリアは終戦直前のソ連(ロシア)の参戦により満州から60万人以上の軍人そのほか(看護婦などの女性も含め)が連行され、長年極寒の強制収容所で過酷な労働による結果であり、中国各地では残留兵や一部の民間居留人が残されて内乱に巻き込まれて犠牲になったケースもあり、東南アジアや南方諸島では多くの兵士が置き去りにされ(将校たちの多くは敗戦の報とともに先に日本に逃げた)、逃げ隠れしながら大半が餓死している。
またこの『総覧』の中には、別に厚生省引揚援護局の数字として、終戦時の兵員数は826万3000人とあり、もう一つアメリカ合衆国戦略調査団の数字として719万3223人とした表が併記されている。この二者の差は、昭和19年(1944)における全体兵士数は大差ないが、20年(1945)になって前者は287万増加、後者は183万増加で104万人の差がある。この前者の287万人の増加は20年(1945)の1−8月までの期間を考えると、多過ぎるように思われる。前者の18年から19年(1943−44)への増加は182万、後者が154万であって、この戦争の流れからして、実質はこの19年(1944)が一番徴兵数が多かったはずである。上記の厚生省援護局の788万9100人は、前年からすると249万人増となっていて、これもいささか多い数字に見え、客観的な流れからすると少ない方のアメリカの調査の数値が正しいように思われる。しかしこの最終年の20年(1945)の日本側の大きな増員は、軍政府が「本土決戦」に備えるために、春先から「根こそぎ動員」と言われる方法で、若年者と高齢者に枠を広げて徴兵し、さらに在郷軍人や予備役と言われる一般の職業に就いている待機軍人たちを残らず招集した結果、軍人・軍属合わせて国内に陸軍225万人、海軍130万人(もっと多い説もある)が増やされている。これを勘案すると、19年(1944)からの戦死者も多くいたであろうし、300万人近い兵員数の増加は不自然ではないと思われる。
これとは別に、民間人の特に男子の中学生からと女子も今の高校生に当たる年齢(15歳)以上から、国は彼らを終戦前の6月ごろから義勇隊として手当たり次第に徴用し、軍隊の補助作業や各地に地下壕などの建設その他に従事させている(後述の戦後の「本土決戦に向けて」の項参照)。なおこの軍属や義勇隊は、戦後、軍人に準じる扱いで補償を受けることになるが、空襲の犠牲者や孤児は捨て置かれる。またこの兵員数の中には、朝鮮人や台湾人が日本兵士として入っているが(『総覧』の中では陸軍だけで合わせて5.3万人とあるが、他の資料では全体で約45万人とあり、やはり軍属等を入れたものであろう。そのうちの戦死者は5万数千人となっている)、彼ら植民地から徴兵された人間も、戦後はもはや日本人ではないとして、すべて補償の対象から外されている。 BC級戦犯として死刑になった人たちも同様である。ちなみに彼らは本国では日本軍協力者として迫害され、行き場がなくなった。日本という国は、国として「隠されるべき」被害者を見捨てるという意味において、どのような先進国の中でも頭抜けて劣った地位にあると言っていい。
【日本軍の広大な戦線の範囲】
例として日本軍の戦死した主な地域を上げるが、どれほど欲を張った無理な戦争であったかがわかる。カッコ内は昭和39年(1964)時点の記録にある昭和12年(1937)以降の軍人に限った戦死者数であるが、これ以降も集計され、もっと増えている。
中国本土(46万人)/ 満州=現中国東北部と蒙古の一部(4.7万人:別に日本人居留民は14万人)/ 台湾(4万人)/ 南北朝鮮(2.7万人)/ 沖縄(9.5万人=内沖縄人3万人弱)/ 小笠原諸島(1.5万人)/ 硫黄島(2万人)/ フィリピン(50万人)/ ビルマ:現ミャンマー(インド含む:16.5万人)/ マレー・シンガポール(1.2万人)/ 仏領インドシナ=ベトナム・ラオス・カンボジア(1.3万人)/ タイ(7千人)/ 中部太平洋諸島=サイパン・テニアンを含むマリアナ諸島・パラオ・トラック・タラワ方面(25万人:別に居留民は1万人以上)/ ニューギニア・ビスマルク諸島(16万人)/ スマトラ・ジャワ・小スンダ=インドネシア(6.5万人)/ セレベス・モルッカ=インドネシア(1万人)/ ボルネオ(戦後、インドネシア・マレーシア・ブルネイに分割:1.8万人)/ ソロモン諸島・ガダルカナル(8.9万人)/ アンダマン・ニコバル諸島=インド洋(2.5千人)/ 千島・樺太列島(1.2万人:別に居留住民1.4万人)/ シベリア(戦後:5.3万人、民間人2千人)/ 国内(軍人のみ:10.4万人)
以上で戦死者約212万人(現在は230万人)とされ、民間人の死者は海外で30万人とされるが、留意すべきは、これら戦闘地域の現地住民が、日本軍の戦死者数をはるかに上回る犠牲になっていることである。なにしろ日本軍は全ての記録資料を敗戦が決まった直後に焼却し、自分の起こした戦争の証拠隠滅を図ったから、軍人に限った戦死者数もはっきりしていない。
東京都の空襲被害
【概要】
多摩地区も含めた全域から見て、空爆などを一度も受けなかった地区は現在の全53区市郡のうち西多摩郡の檜原村だけである。また有人の伊豆諸島のうちでは3島のみである(各島参照)。
昭和17年(1942)4月の本土への初空襲を手始めに、周到な準備を経て本格的空襲が始まった昭和19年(1944)11月下旬から20年(1945)8月の終戦の日までの間に、東京は通算122回、延べ4870余機の空襲を受けて、市街地の大半はがれきの街となり、都全体で焼死等の戦災死は約11万5千人以上(この詳細は後半に述べる)、負傷者約15万人、損害家屋85万戸、310万人が家を失った。なお、全国206都市のうち空爆は98市におよび、死傷者約66万5千人、焼失家屋約236万戸であった。
東京都の人口は昭和16年(1941)の太平洋戦争開戦時には都735万人だったが、19年(1944)2月現在では約655万人、11月には540万人、翌年の3、4月の大空襲を受けて5月には328万人、そして5月下旬の2度の大空襲を経て、6月には253万人となった。住宅は都区内の56%が消滅した。病院の全焼等は257ヶ所、診療所は歯科も含めて7155戸であり、このため空襲で大火傷や大怪我を負いながら治療が行き届かず、薬もなく死亡した人も多い。
以下、都内各地の戦災記録は主に『東京大空襲・戦災誌 第3巻』(昭和50年:東京空襲を記録する会:早乙女勝元主宰)と『東京都戦災誌』(昭和28年:東京都編集)から縦横に合わせて集計し直したものである。ちなみに後者はあくまで日本国内の記録からであり、前者は米軍側の記録も合わせて載せていて、B29の来襲機数は米軍側の記録を優先した。
【都内の主な空爆】
昭和17年(1942)4月18日 午後:前年12月8日の日本軍の真珠湾奇襲攻撃からほぼ4ヶ月後、本土への初空爆があり、東京から1200kmの太平洋上の米軍の空母からの発進によるB25爆撃機16機が東京、川崎、横須賀を始め、名古屋、大阪、神戸などを攻撃したもので、東京へは6機が来襲、都内の葛飾、荒川、品川などで計39人が死亡、重軽症307、全焼全壊家屋121、半焼半壊等家屋130であった。全国では太平洋上の船舶への攻撃を含めて87人が犠牲、重軽傷者466、損失家屋262の被害が出た。B25は欧州の第二次世界大戦後半で多く使用されていた。当時はまだ日本周辺の制海空権は保たれていたはずであったが、不意を突かれた形となった。
これをドーリットル空襲というが、米軍の実際の話としては、16日早朝、日本海軍の監視船に空母が発見されたため、当初の計画よりも320キロも手前で日を繰り上げたという。そのためパイロットの後日談では、空爆後中国の支配地域の飛行場に到着予定が燃料がすれすれで、そこまでたどり着けずパラシュートで降下した隊もいたし、数機は中国内の日本軍占領地に不時着しその際3人が死亡、8人が日本軍の捕虜となり、うち3人が民間人銃撃の罪で処刑されたという。またロシア領に不時着し捕らえられた兵士もいた。
いずれにしろ日本の飛行隊はまともな応戦ができず(飛行機の大半は中国をはじめとする太平洋戦線に投入されていた)、記録では迎撃する自軍の対空高射砲からの破片による被害も各地であり、犠牲者は9名。しかし大本営は「敵機9機を撃墜。損害軽微」「わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり」と発表し、また新聞は「初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散」「われに必勝不敗の国土防衛陣あり」等と報じた。しかし都民の間では誰も敵機が追撃されるのを見ず、一方で軍は被害地の住民にこの空爆被害の口外を禁じた。
なお米軍による日本国土への初空爆は、その前月3月4日、すでに日本の軍事基地としてあった小笠原の南鳥島(東京都)に対してであるが、本格的空襲は二年半後の19年(1944)11月24日から始まる。その間米軍は、太平洋の制圧と日本軍占領のマリアナ諸島などを奪還することに専心し、そしてサイパン島、続いてグアム島、テニアン島等を順次陥落させた。これにより日本本土への直接の空爆が射程圏内に入り、これらの島を基地とし、対日本用に開発した最新鋭長距離大型爆撃機B29を大量にサイパンに配備、近辺のグアム島などにも戦闘機P51などを配備し、上空でB29と合流して日本に向かった。
そしてこのB29から大量に投下され日本の都市を焼き尽くした焼夷弾は、米軍が日本の木造家屋向けにその模型を作り研究して開発したものである。このような周到な事前準備の余裕の違いは大きく、すでにこの時点で日本は勝ち目はなかったであろう。
ちなみにB29は超空の要塞と呼ばれるほど大きく、かつ1万mの高度を航行できるが、日本の戦闘機はその低酸素の高度まで上昇できるエンジンの能力を持っていず、その能力は6000m程度で、B29が高度を下げて来ないと迎撃できなかった。それでもB29を日本の戦闘機の銃撃で撃ち落すのは難しく、体当たり的に突っ込んで破壊し、自身は落下傘で降下する方法も取られたし、そのまま自爆する場合も少なくなかった。また地上からの高射砲も同程度の高度までしか届かず、それが可能な高射砲が開発されたのは終戦近くなってからである。
それに加えてB29は日本軍爆撃機の約10倍(9t)の爆弾を搭載することができ、これにより各種の大型爆弾10−30個、焼夷弾38発の入った束40個、つまり1520発を積み込むことができた。B29の搭乗定員は12人で(通常は11人)それぞれが分担して投爆を行った。
昭和19年(1944)11月24日:サイパン島から初めて発進したB29が111機、東京に来襲、武蔵野町の中島飛行機武蔵製作所その他7区を目標とした爆撃が行われた。この日の高高度からの爆撃は米軍によると正確に行われたとはいえなかったが(下記「3・10、大空襲に至る背景」参照)、死者224人。以後敗戦までの9ヶ月間、連日のように日本の都市への空爆が続けられる。
昭和20年(1945)1月27日 昼:B29・62機が主に有楽町・銀座地区を爆撃、低空での機銃掃射もあって有楽町駅周辺は遺体であふれた。死者は周辺区も含めて545人、負傷者910人、被災者5920人、焼失等家屋1610戸。
2月25日:吹雪の悪天候の早朝に第一次としてB29・10機と艦載機(空母からの戦闘機)56機が来襲、下谷近辺で大量の焼夷弾が落とされ、3716棟が焼失、死者3名。午後、第二次としてB29・201機が来襲、やはり悪天候のため、ピンポイントで工場などを狙う計画ではなく、高高度から市街地への絨毯爆撃であった。それは都内の17区に渡り、死者195人、全焼等被害家屋2万681戸。皇居も主馬寮厩仕合宿所が焼夷弾によって焼失し、大宮御所、秩父宮御殿などが被害にあった。皇居は米軍の爆撃の対象から外されていたが、このような天候下での高高度からの爆撃によって外れたものであろう。おそらくこの日と3月4日は3月10日に向けての予行演習でもあったかと思われる。
3月4日 朝と夜の二度:177機のB29が都内北部(豊島、北、江東、墨田区、葛飾等)を中心として焼夷弾と爆弾で曇天下に高度から空爆、死者650人、負傷者350人以上、被災者1万4200人、焼失等家屋4035戸以上。
3月10日 未明:(東京大空襲の日)301機のB29が来襲、江東、台東、墨田区の住宅の密集した下町地区を中心に、今度は低空飛行で空襲警報解除までの約2時間半の間に、晩冬特有の強い北々西風も(風速30mとされる)利用して(事前に天気予報で確認していたと言われる)大量の焼夷弾を落とし、この空襲を受けた地域の約4割が一夜にして焼失した。当時の警視庁の調査での被害数は、死者8万3793人、負傷者4万918人、被災者100万8005人、焼失等家屋26万8358戸。空襲としては世界史上最大規模の犠牲者を出した無差別空爆である。負傷者が死者の半分程度というのは普通は逆であり、どれだけ焼夷弾による大火災が激しいものであったかがうかがい知れる。この日、B29の損失は14機であるが、日本軍が撃墜できたのは5機だけである(POW研究会資料より)。
3月9日の深夜10:30に発せられた空襲警報は一旦解除され(ラジオは「敵機は遁走せり」という情報を流した)、日が変わって改めて警報が鳴った時にはすでにB29の軍団は上空に来ていた。これは米軍の作戦で、先に二機だけ来て、すぐに退去したと見せかけ、人々が安心したところに大量のB29が押し寄せた。空襲は風下の荒川西岸から西に向かってなされた。煙で街が覆われるのを避け大量の焼夷弾を正確に一定の間隔で投下しやすくするためである。そのためまだ火のない西側に逃げようとすると、それを塞ぐように前方に焼夷弾が拡がって落とされ、人々は燃え盛る火で囲われた。空襲の標的となった下町地区は、隅田川を中心として無数の運河が走る地域で、そのため猛烈な火勢から逃れようとして、身を焼かれながら多くの人が水の中へ飛び込んでいった。橋の上も両側から来る人々で逃げ場がなく、そこに荷物や服に火が移り、河に飛び込む人も多くいた。しかし、川はまだ氷が張るほど冷たく、冬の厚い服装は水中では身動きを封じた。しかも猛火は風によって川面をも覆い、溺死、窒息死、燃焼によって発生する一酸化炭素での中毒死、あらゆる原因で人々は息絶えていった。人々は自宅の小さな庭あるいは床下に簡易な防空壕を作っていたが、その上に猛火が襲い、そこから逃げ遅れた人たちは窒息し蒸し焼きのようになった。逃げる途中で失神して倒れ、その上に何人もの人が折り重なって倒れこみ、その人たちは焼け死んだが、最初に倒れて下にいた自分だけが助かったという人もいる。路上の多くの焼死体とは、このように途中で力尽きた人たちなのであろう。
この日の火災を表現するのに「炎の坩堝」「地獄の劫火」「火葬場」「火の海の沸騰」等がある。「空気が燃える」という表現もあり、焼夷弾の炎や物が燃える温度を通り越して、白熱状態になり、その中で火が移るのではなく、物が突然燃え始めるという。これは炎自体よりも周囲の温度の方が高いという現象と同じである。この日の火力に関して、あまり見かけない証言がある。——「道路のアスファルトが燃えて、死体のあるところだけが燃えないので高くなっていた。死体の下には燃え残った衣服の重なった色の布が見え、その周りに身体の油が染み出して、アスファルトが濡れて黒く見えた。… 都電の通る線路の間とその外側には花崗岩の敷石が敷かれていたが、その外側にあったアスファルトが燃えて全く無く、まるで工事前の状態であった」という。つまり猛火から逃げつつ、耐えきれずに地面にうつ伏せになっても、この火力から逃れることはできなかったということである。普通の火事では考えられない。
最終的に鎮火したのは午前8時過ぎだった。路上には丸太、あるいはマネキン人形が焼け焦げたような姿で無数に横たわる人々、母親の黒い焼死体のそばに、背中におんぶしていたはずの子が焼け転がっている姿(その背中だけが白く残っている写真がある)、あちこちの橋の上には山のように折り重なった焼死体、助けを求めて両手を空に向けたまま焼かれた人々、あるいは防火用水に頭から突っ込んで息絶えた人々、赤ちゃんを抱いてうつ伏せになったまま死んだ母親の姿、等々があった。
市川市に住んでいた人は、「東京方面から橋を渡ってくる大勢の人々の行列を見て驚いた。誰もが髪が焼け、やけどを負った肌をさらしていた。背負った子供が亡くなったことに気付いていない母親もいた。その中には首や腕、足がなくなった子供を背負っている母親もいた」と証言している。このような例は他の各地でも目にするが、周囲の人たちは背中の子供が亡くなっていることを気の毒で声をかけられないのだという。西側から家族を探しに来た人は、「両国橋に差し掛かると、向こうからぞろぞろ、ぞろぞろと、一晩中、炎の中を逃げ惑ったのだろう、衣服は焦げ、煤けて顔や手も真っ黒、ほとんど何も持たないで、ぼろをまとったようになった人たちが、4、5人幅の縦隊で、よろけたりしながら、ずうっと続いて無言で歩いてくる」という光景を目にしている。広島における原爆の惨状とよく似ている。
4月13−14日:都の西寄りから南の区域が狙われ、13日はB29・330機、14日は200機により、死者は合わせて2545人、負傷者6437人、焼失等家屋23万1086戸、被災者95万696人。城北大空襲と呼ぶ(豊島・北・荒川区参照)。
4月15日:京浜大空襲、B29約310機により都内は大田区が主で死者約841人。
5月24、25日:24日は区内中心にB29・525機により、死者762人、負傷者4000人、焼失等家屋6万5000戸、被災者23万8000人。25日は特に西域を中心に470機が来襲、死者3648人、負傷者は1万7899人、焼失等家屋16万5454戸、被災者62万125人。両日合わせて4410人の死者、負傷者約2万2000人、被災者約86万人となり、前日を城南大空襲(品川・大田区参照)、後日を山の手大空襲(渋谷・新宿・港・中野区参照)と呼ぶ。これが東京への大空襲の最後で、「そして東京は焼夷弾攻撃のリストから消された」と米軍の記録にある。
5月29日:横浜大空襲。B29爆撃機517機・P-51戦闘機101機により死者約1万名。これ以降、米軍は地方都市の空爆に向かう。
8月1−2日:八王子大空襲。B29約310機の大編隊が関東近郊から北陸まで爆撃、とりわけ八王子に大量の焼夷弾が投下され、大半の民家が焼失したが、米軍による予告のチラシが投下されたこともあり、死者225と少ない。(八王子参照)
【多くの小学校の焼失】
空襲で多くの小学校が焼失した。『東京都戦災誌』では都内の小学校の全半焼被害は367校となっている(ちなみに中学校=女子は高等女学校や職業学校で大小合わせて236校とある)。筆者側で23区に限って調べた結果、237校が全焼、26校が半焼等で計263校であった。漏れもあると思われるが、この中には全半焼が明確でない場合もあり半焼はもっと多いと思われる。その明細は各区に記す。とりわけ下町三区の場合、鉄筋コンクリートの小学校(関東大震災の大火災の後に、多くの学校が鉄筋造に新築されていた)は避難場所に指定され、そこに逃げ込んだ住民の大半が悲惨な死を遂げた。鉄筋でも、大量の焼夷弾は斜めから窓ガラスを突き破って内部を燃やし尽くした場合もあり、強風に煽られた火勢自体が強く、その高熱と火力が窓ガラスを割って中に入ったわけである(墨田区と江東区参照)。なお一番多く焼失したのは江東区で、次は品川区であり、被害をほとんど受けなかったのは葛飾区のみである。
被災した地区の中でも、小学校の多くは爆撃の対象となった。学校は工場とは違い上空からでも識別は可能なはずだが、無差別空爆に切り替えてからは、狙いやすい対象であったのだろう。さらにはB29が終戦まで地方都市への空爆を繰り返している時に、P51などの戦闘機が機銃掃射で学校を狙うばかりでなく、その校庭や外にいる子供たちをも超低空で(そのパイロットの笑っている顔が見えるほどに)脅し、時には機銃掃射で殺した。このころはすでに日本の戦闘機も尽きて、米軍は自由に飛び回ることができ、飛行士は遊戯感覚で殺傷したものと思われる。
惨禍に至るまで
【焼夷弾の威力】
米軍はとりわけ燃えやすい日本の木造家屋の仕組みを研究し、実際の日本家屋の模型を作り、実験を繰り返して火災誘発効果の高い焼夷弾を開発し、それを日本全国に大量に投下した。一応、工場などへは大型爆弾、住宅地へは焼夷弾と分けて使われた。この焼夷弾は、油脂(ナパーム)、テルミット、マグネシウム、黄燐、白燐など、つまり可燃性素材を組み合わせてできていた。これは直径8cm・全長50cm・重量2.4kgの六角形の金属筒のM69焼夷弾を子弾として38発内蔵するクラスター爆弾で、E46収束焼夷弾と呼ばれた。この収束焼夷弾が上空約700mで分離し、38発の子爆弾となって着弾し、目標(木造家屋の瓦屋根など)への貫通力を高めるため、姿勢を垂直に保つ目的のリボン(青く細長い布)が取り付けられていた。上空での分離時に使用されている火薬によって、このリボンに着火し、それがあたかも火の帯のようになり一斉に降り注ぎ、火の雨が降るように見えたという。B29一機には計算上3000発以上の子焼夷弾が積めたが、時間的にもそこまでは搭載しなかったようである。
外に逃げて避難する人の荷物に当たればそのまま燃えたが、分散された焼夷弾の細長い筒が、背中や首に当たると即死であり、腕がもがれたり、また背中におんぶした赤ちゃんに当たり、赤ちゃんの首がないままそれと知らずに必死に逃げ惑う母親の姿もあったと証言にある。また、鉄筋コンクリートの建物でも、屋上は守れたが、その慣性や風もあって斜めから降り注ぐため、ガラス窓を突き破り、内部が焼き尽くされたが、付近の木造建物からの火力自体が強く、その熱で針金入りのガラスも割れて火が中に入ってきたとの証言もある。3月10日は38万1300発のM69焼夷弾が東京に放たれたという。B29一機あたりで1300発以上の焼夷弾を落とした計算になる。
【3・10大空襲に至る背景:米軍の戦略】
昭和19年(1944)11月24日からの中島飛行機を中心とした爆撃は当初の計画通りに進んではいなかった。B29は高度1万mからも正確に爆撃できる照準器も備えていたが、この1万mの高さでは日本の上空はいわゆる偏西風(ジェット気流)が常時流れていて、しかも冬場はより強くなり、しばしば爆撃目標地を外れて爆弾は投下された。しかも天候に恵まれず、111機のB29のうち中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃できたのは24機のみであった。続く11月27日の爆撃では天候上、中島への爆撃が困難となり、低空で都心を狙った。名古屋の三菱重工業発動機製作所への空爆結果も似たようなもので、その確率の悪い成果に業を煮やした責任者のヘンリー・アーノルド大将は、当初の爆撃実行司令官のハンセル准将を外し、翌年1月20日、後任としてドイツ戦線での爆撃で成果を上げ、さらに中国の成都の基地へ移ってB29を使い、九州への爆撃を成功させていたカーチス・ルメイ少将をサイパン・グアム島を含むマリアナ諸島の基地の司令官に任命した。ルメイは日本軍の高射砲がドイツよりもはるかに劣ることを見て取り、これまでの昼間でも命中率の低い高高度からの爆撃をやめ、夜間での低空飛行からの焼夷弾投下を中心とすることに切り替えた。こうして3月10日の大空襲は、深夜に大量の焼夷弾を使用する東京焦土作戦としてなされた。
この大空襲については、目標周辺の外側から投爆して都民の退路をふさぎ、その内側を無差別爆撃したという被災者の証言もあるが、米軍の作戦報告書によれば、強風の中、空爆の目標が大量の煙で見えなくなるのを避けるため、風下の東南側から(荒川の西岸から西へ)攻撃する作戦が取られた。とりわけ江東、墨田、台東の下町を集中的に狙った大きな名目は、この下町にある中小の下請けの工場群が、軍需産業機器の部品の一大生産拠点と見なしたからとのカーチス・ルメイによる証言がある(下記)。この日以降、時計の針の逆まわりに、北部・西部・南部をしらみ潰しに焼夷弾攻撃を加えた。 米軍の報告書では、東京への爆撃機の実数は1669機(上記の4870余機の数字は延べ)である。このうち米軍機の損失は70機にすぎない。また、爆弾投下の総重量は1万1472トン、これに対して大阪は1627機で1万417トン、名古屋は1647機で1万144トンであり、ほぼ近い量ながら、東京との犠牲者の比率では格段に少ない。これは特に3月10日が北からの強風の吹く日であったことが大きく、米軍が気象予報から、その日を選んで人口密集地に大量の焼夷弾を投下し大火災を呼び起こしたからとされる。
ルメイ将軍は、明らかに無差別空爆を実行したとする批判に対して、戦後の回想記のなかで「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか …」と。勝利者としての指揮官は、事後にどのようにでも理由づけできる。戦争は常にこうした建前でなされ、大きな犠牲を生む。結果として一夜で民間人8万数千人を殺すことになった。さすがにルメイ将軍は大量の焼夷弾による地獄の劫火のような下で、丸太のようになって焼け焦げた人々の姿までは想像できなかったであろう。
この後ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令官として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係った。そして戦後、日本政府の要請で航空自衛隊の育成に協力し、その結果、昭和39年(1964)、時の日本政府はルメイ将軍(当時米空軍参謀総長)に対し、その貢献を理由にして勲一等旭日大綬章を贈った。当時の総理大臣は、後に沖縄返還に尽力したとしてノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作だった。いずれにしろ、日本の指導者のこのけじめも誇りも持たない、無神経で負け犬的根性的で、国民の心に寄り添う配慮も持たないこの感覚は何なのであろう。対米追従にもほどがある。筆者がこの勲章の話をヨーロッパ人にすると、口を空けて言葉を失ってしまう姿が見られた。
【防空法の弊害】
昭和12年(1937)に日中戦争に突入する数ヶ月前の4月に防空法が公布され、10月1日より施行された。この中に「航空機の来襲により生ずべき危害を防止し、又は之に因る被害を軽減する」とあり、防空訓練への参加、灯火管制への協力が示され、退去の禁止、応急消火義務が定められ、違反者には一年以上の懲役もしくは千円(現在の数百万円)以下の罰金を科すとされた。つまり日本の軍政府はこの時期から敵の爆撃機による空爆を想定していたことになる。実際にこの防空法によって全国的に町内会から学校も含めて防火訓練が繰り返し行われた。日本軍はこの4年後の太平洋戦争突入以前の日中戦争開戦と同時に上海を中心に爆撃を行い、そこから中国へ毎日のように(悪天候の日以外)、それ以前の満州事変以降から「敵」の陣地に対し、爆撃を行っていた。このことは(いわゆる識者の誰も取り上げないから)我々日本人はほとんど知らないが事実である(筆者がほぼ二年かけて記した「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」を参照)。とりわけ筆者自身が最初に戦時下の国内のことから調べ始めていた中で、早くもこの12年の頃から防空訓練が行われていたことに違和感を持ったが、すでに日本軍自身が中国へ間断なく爆撃を行っていたことを知って納得した。
昭和19年(1944)の11月下旬から本格的に始まった米軍の空襲に際して、政府は(防空法に従い)まず消火に努めよと強調した。このため最初の大空襲の際には落とされた焼夷弾を消し止めるなどで逃げ遅れ、犠牲になった人が大勢いた。それにもかかわらずこの大空襲の翌朝、政府は「空襲を恐れるな」とラジオ放送で伝えた。自分たちはその時、堅固で安全な地下防空壕にいたはずで、まだ現場の実態を見ずに言うのである。記録作家早乙女勝元の父親は、この大空襲時、鉄兜をかぶり、防火責任者として特に支給された1m近い竹製の大きな水鉄砲を背負って消火に当たろうとしていたという。これは本土決戦に備えて女性子供に竹槍を持たせて訓練していたことと同じで、江戸時代的な光景である。
さらに『東京都長官(知事)と警視総監の連名による告諭』というものがあり、「罹災者の救護には万全を期している」、「都民は空襲を恐れることなく、ますます一致団結して奮って皇都庇護の大任を全うせよ」という。この大空襲による悲惨な被害の実態はラジオや新聞で報道されず、「被害は僅少」という大本営発表が報じられたので、それを信じる国民も多かったのである。
さらに、この3月10日の午後7時20分、小磯國昭首相はラジオ演説で次のように国民へ呼びかけた。——「敵は、今後ますます空襲を激化してくると考えます。敢然として空襲に耐えることこそ勝利の近道であります」、そして「断じて一時の不幸に屈することなく、国民が征戦目的の達成に邁進することを切望する」というもので、国民を案じる言葉などどこにもない。ただこの後、惨状は都民に伝わって、人々はまず先に逃げるようになった。
膨大な遺体の処理と天皇の巡行
【その惨状と遺体の処理作業】
(以下は主に記録作家、金田茉莉編集のサイト「戦争孤児」より転載:引用箇所も含める)
3月10日の昼すぎより遺体処理作業がはじまった。軍隊、都職員、町内会の警防団、消防隊、警察、博徒や囚人部隊にいたるまで、近隣から遺体処理をする人が狩り出された。
*軍人の証言:関口宏陸軍大尉 (岡田孝一著「東京大空襲の私」より)
「10日午前2時(注:計算上大空襲がまだ終わりきっていない時間で、まだ市民が逃げ回っていると思われるが)『死体を早く処理せよ』と軍命令が下った。千葉街道を一直線に車で走った。市民の焼けぼっくいの死体を踏んで走ることの罪悪感にさいなまされた。炎と煙、目をおおう死骸の折り重なる死の街をぬけ、朝5時すぎ司令部に到着する。『貴下は特設自動車隊長として、本所、深川地区の死体処理に任ずべし。陛下が御視察遊ばされるを以て、日の出前に目にふれる死体を処理清掃せよ』と。午前10時、総数700余名、自動貨車40数台、命令に従い死体の処理につとめた」とある。(注:この日時が本当なら、あまりにも迅速な指示である。仮にそうだとしたら、空襲の様相から多数の死者が予測されるとして、いつもの隠蔽工作の一環であるかもしれないが、想定を超える死者であったろう。民間の各処理部隊の動員は11日からが主で、その後天皇が視察されるからとさらに多くの動員がなされるが、この大空襲の被害を聞いて天皇がその様子を見たいと思われたとして、早くて10日の昼前後ではなかろうか。朝のうちは臣下から空襲の様子を聞かれるだけだったのではないか)
*囚人部隊の証言:三浦貞雄(「週刊読売」1975年3月22日)
「我々は囚人約140人、引率者20人で錦糸公園に出役することになった。公園内はつくだ煮のごとくなった死体の山がいくつもあった。思わず目を覆わざるをえなかった。こんな状況がこの世の中にあるものであろうか。地獄とはこのことをいうのであろう。そしてトラックで死体を運んでくる兵隊、警官、消防官ー、どの人も焼死者の脂でドロドロになりながら、トラックから死体を降ろしていた。そしてわれわれ囚人部隊が、土に穴を掘り、埋めた。30人ほどの東京の博徒だという部隊もやってきた。武蔵挺身隊という。また、横浜の博徒たちは大和挺身隊と言った。死体処理は、錦糸公園、猿江公園とつづけられた。私は死臭にはまったく弱った。(錦糸、猿江公園では、大きな穴を掘り、各穴に300人ぐらい入れたという)
*東京都公園課職員証言:野三千寿(『戦災殃死者改葬事業始末記』より)
猿江公園へ行った。軍隊は朝の5時ごろにきて、6尺の穴をほり、そこへ死体を合葬する。都からは「死体数をキチンと数え、名前のわかるものは控えて別に埋葬しろ」と厳しくいわれていた。窒息死などで焼けずに氏名判明者もあったが(当時は名札を上着に縫い付けていた)、軍隊がどんどん埋めてしまうので取り出すことができない。そして軍隊は11時には帰ってしまう。12時すぎになると警察学校と監獄の人が死体を運んだ。死体の山で体数を調べよといわれても調べようがない。トラックで死体を運んできて、何体あるかと聞いてもいい加減な答えしか返ってこない。
(筆者注:隅田公園浅草側の仮埋葬地には、名前が判明している場合には30cm程度の高さの白い板の墓標が立てられていたという例があり、4日後に様子を見に来た一人の方が、たまたまそこに会社の同僚と家族の名前を見つけたその後に、また偶然に疎開先から戻っていたその同僚の妹さんと出会い、墓標のある埋葬地に案内したとある=『大空襲戦災誌』第2巻)。
*瑞江火葬場の証言:山中政一証言(同「改葬始末記」より)
空襲直後は死体をトラックで運んできて、渡り廊下から車庫近くに積んだ。すると毎日毎日、遺族が探しにくる、山に積んである死体を大勢の人たちが、あっちだ、こっちだ、と動かすものだから、朝のうちの山が、夕方にはこっちの方へ移ってしまうという騒ぎだった。とにかく氏名の判明した人から先に焼いた。火葬できずに瑞江構内に埋めた死体は165体ある。
*勤労奉仕隊中山末吉の証言
「われわれ勤労奉仕隊は江東区の牡丹橋に到着した。橋の両側は折り重なった死体の山だった。橋の上で焼かれた人は、この狭い小さな橋の上で6−700人。これらは人の形はなく、白骨の山だった。大小、男女の区別も判らぬ白骨の山を、都の職員がスコップで砂利を運ぶようにトラックに投げ込んでいた。シャキシャキと音をたてて車上になげこまれると、骨煙が舞い上がり、痛ましいかぎりであった」
灰やガレキのようになった遺体はシャベルですくって軍用トラックに載せ、東京湾へ棄てた、という証言もある。
*救護隊長の証言:久保田重則(「東京大空襲の記憶」より)
街のいたるところで、材木でも放り込むように、トラックの荷台に死体が投げこまれていく。これらの死体は公園や空き地に仮埋葬されるか、あるいは(その場で)火葬された。上野西郷さんの銅像の横にも臨時の火葬場が設けられ、ここで何日も火葬がつづいた。そのうち天皇が視察されると知らされ、昼夜兼行で巡行路付近の死体片づけが続いた。いちばん関係者の頭を悩ませたのは、竪川、大横川など多数の掘り割りに浮く死体であった。おびただしい数の死体が、海に流れていったはずなのに、まだたくさん浮いている。消防隊がトビ口で引っかけて引き寄せておいて、ロープをかけて橋の上に引き揚げるが、一遺体だけでも大変な手間がかかった。川いっぱいの死体をやっと引きあげると、翌日の満潮時には、また川いっぱいに死体が浮かぶ。作業員たちはくたくたになってやっても、その翌日にはまた川いっぱいの死体で、一体どこからくるのかわからない死体の攻撃には悪戦苦闘をつづけた。このように隅田川や多くの掘り割りから、東京湾へと流れていったおびただしい死体は、どのような運命を辿ったのであろうか(東京湾・お台場の項参照)。
【戦災殃死者改葬事業始末記】
上記と同じく記録作家、金田茉莉が取り上げた冊子であるが、遺体処理にあたった人々による関係者座談会が『戦災殃死者改葬事業始末記』(東京都慰霊協会:1985年、非売品)に掲載されており、その内容は一般では語られない壮絶なものがある(殃死=横死:十分余命があるのに殺されたり、不慮の災難で死ぬこと)。
「昭和60年改葬着手(1985)、戦後40年もすぎてから、都公園課の死体処理に直接かかわった人たちの証言集が、はじめて出版された。都民は軍がトラックで死体を運び、公園などに埋められたことは知っていた。しかしその死体がどのような経過で、処理が行われたのかを知らなかった。遺体発掘も遺族に知らされなかった。それが40年すぎてから明らかにされた。私(金田茉莉)がこの冊子を知ったのは、戦後50年近く過ぎてからだった」。この冊子は座談なので、話の内容が入り乱れ、話があちこちに飛びわかりにくいが、それでも遺体処理にかかわった生証言であり、その抜粋、要約である。
—— 公園緑地課霊園係が墓地、火葬場等の葬祭施設を直轄していた関係上、死体処理は祭務事業の一環として、この大悲惨の処理を引き受けることになりました。
井下課長が東京での空襲犠牲者はどのくらいの予想かと軍に聞くと、およそ1万人ぐらいということだったのです。それで棺桶1万個を用意して保管していました。3月4日までの空襲死者は、全部納棺して火葬にし、遺族に渡すという順序でやってきました。一部遺体で、遺族に引き渡したのもあります。3月10日以前の空襲死体数1万695体は、すべて氏名が判明しています。全部遺族に引き渡しました。
<仮埋葬>
最初は仮埋葬など考えずにいたのです。全部正規のとおり、火葬による死体処理をやるのが原則でした。ところが3月10日は死体の数えようがなかった。3月10日以降は、規模が大きすぎて結局、71ヶ所に仮埋葬しました。主として公園や空き地、民有の墓地などです。
3月13日、錦糸公園へいってみると驚いた。焼けぼっくいが積んである。これがみな死骸なのです。積んであるのを勘定するのですが、頭や足が入れ違いになって、首があるわけでなく、勘定する方法でまず困った。
猿江公園も死体の山でした。「体数を調べよ」といわれても調べようがない。軍隊がドンドン埋めてしまうので、名前の判明者もありましたが、取り出すこともできない。死体のヒザやカカトの骨が残ってしまい、歩くとコツン、コツンと音がするありさまでした。
菊川橋を渡るまで気がつかなかったのですが、たくさんの死体の上に木場の焼け残った材木を敷き、道にしているのを知らずに渡り、あとで気がついて驚きました。
まったく東京下町一帯が火葬場の焼却炉のようになってしまったのです。この大量の遺体片付けに、軍隊、消防隊、警防団、挺身隊、囚人部隊、品川や大田区の大工や左官の奉仕隊など総動員されました。
川の中の死体は生きているようにずらりと並んでいました。軍隊や消防隊が鳶(トビ)口を使って引き揚げていました。それを調査にいったら、「何しにきた」っておこられましたよ。(そのまま海へ流失した遺体もかなりあった)
<戦後の改葬>
公園課が埋めた仮埋葬地は 死体埋葬配置図を作成、公園緑地課の南、北、西の公園事務所が管理していました。埋葬したところへ墓標をたてておいたのだが、薪にするため持っていかれ、その被害にも困ったものです。
軍隊や警防団などが、空き地だからと無断で埋葬したのがずいぶんありました。戦争中ではあり、予想をはるかに超えた発生件数と、人員不足、資材不足、通信、交通手段の衰退等で困難をきわめました。
改葬着手前までの集計は、総計8万9430人と公園課へ報告があったものでしたが、その後、頭蓋骨から数えたので、一番正確に近いものです。
戦後、この仮埋葬地に本格的な墓石が建ちはじめたのです。住職は他人の土地に勝手に埋めてと大変な怒りようで、2分1の国庫補助を申請して「公共空地整備事業」という名目で、すなわち、戦災死体の片付けが趣旨で、公園緑地課霊園係により、まず寺院などの民有地から着手しました。
改葬は昭和23年(1948)12月末からはじまり、約3カ年かけ、失業対策の日雇い人夫を雇い、冬の間、12月から翌年の3月までやりました。戦争中は現地焼却をしましたが、戦後は許されませんので、必ず正規の火葬にしました。
個別死体はよかったのですが、合葬は大きな穴を掘ってパァーと入れたので、掘り起こすと腐って湯気がでる。腐って死体が一緒になっているし、何体あるかわからない。肉がコンビーフのようになり、骨からパラッと落ちる。何体あるかわからないわけです。その異臭に倒れそうになる。凄惨至極でした。
<堀り残した遺体>
3月10日以降はメチャクチャになり、総体の犠牲者数もつかめなかった。 私たちは塚のあるところを掘るので、盛り土がなくなり平らになったところは、堀り残した場所もある。江東区、本所、深川あたりでは、かなり残っているのではないでしょうか。改葬後も、防空壕や地下室など掘ると出てくる。道路の端はみな簡易防空壕がつくってありましたから。電柱を建てようとしたら遺骨がでてきました。「小屋の下に頭の骨が見えている。早くとってくれ」といわれ、その小屋を壊して骨を取り出したこともあります。
錦糸公園ですが、造成工事をするためのローラが動かなくなった。そこを掘ったら遺体がでてきました。改葬が終わったあとに出てくるんですね。堀り残してしまうと、問題になるので、何となく処理しました。昭和30年(1955−64)代には遺骨がアチコチから出ました。
なお、こうした遺体処理を東京都の公園緑地課が担当したのは、課の中に霊園係があり、墓地や火葬場などの葬祭施設を直轄していたからであった。それでもその公園緑地課だけで手に負える量の処理ではなかったことは、誰が想像しても明らかである。
【天皇の巡行】
この空襲はただならないと思った昭和天皇は、すぐに被害の視察に行きたいと臣下に伝えたが、側近たちはそのまま惨状を見せるわけにはいかないと、あれこれの理由を言って引き伸ばしたのであろう、上記のようにそこから軍隊や消防・警察隊を始め、都内から各町の勤労奉仕隊や警防団が召集され、大量の死体の片付けが始められた。およそ片付いた3月18日になって、死体のない整理された焼け跡の区域のみを天皇は巡行された。そしておそらく側近たちは天皇の問いかけに対して、都民の大半は日頃の訓練で避難準備をしていたから、なんとか逃げることができたと(防空法のことなど触れずに)答えていたのではなかろうか。ちなみに一人の男性は、ほぼ瀕死の妻と赤子を警察署の前まで運んできて、その死を見てそのまま気絶し、救護所に運ばれてしばらく療養した後にその警察署に行って遺体の確認をしたが、警官は多分東陽公園に埋葬されただろうと素っ気なく答え、それに続いて天皇の巡行のことを言い、「お目障りになっては事だから」と告げた。戦争のすべてがこのような隠し事の下で行われたといっていいのだが、都の『戦災誌』には「天皇戦災跡巡幸」として、「天皇陛下にはこの大災害に心痛され、空襲の危険あるにもかかわらず、江東地区の戦災跡地を巡幸された。この事は当時の罹災者に大きな元気付けとなった」とあり、いかにも役人らしい、市民の被災の実態をどのようにも直視しようとしない空疎な言葉がある。(墨田区参照)
「この日より8日後の3月18日、天皇はこの富岡八幡宮付近を巡行している。恐れ多く感激の極み、と報道されたが、もしその時、私が今こうして見ているそのままを見ていたなら、そして私が死体を避け避け歩いたように歩いたなら、勝敗などとは別に、戦争を続けるということの罪悪を、天皇は痛切に感じたに違いない。そして原爆ができれば、いともたやすく実験的に投下されるであろうことも予知できたはずである」(『東京大空襲・戦災誌』第2巻の体験記より)
【遺体の仮埋葬と身元不明者と死者の累計など】
上記のように、3月10以前の空襲犠牲は1万695人であり、そのすべて氏名が判明し、ほぼきちんと火葬場で荼毘に付され、遺族に引き渡された。これは都建設局公園課霊園係の仕事であり、この係は都内の墓地や火葬場施設などを管理し、火葬証明書を発行する課であるから、正確な記録である。
しかし3月10日の大空襲からはそれどころではなく、犠牲となったおびただしい死体の処理は軍が出動し、天皇の行幸という名目の下に、激しく焼かれて身元不明となった人たちは別として、この時期は空襲を予測して全員が服の上に名札を縫い付けていたから、うつ伏せで焼け死んだ人や煙などで中毒死した人たちの名前は確認できたはずだが、そうした確認作業をせずに、その多くを適当に処理して公園や寺院や空き地に埋めてしまった。それでも公園課の人たちはその及ぶ範囲で、必死にその数を把握しようとした。その結果、3月15日の時点でそれら各所に仮埋葬された遺体の数を6万2343体としたが、そのおびただしい死体のうち、公園課が確認した氏名判明者は7157体にすぎず、その判明率はなんと11.5%である。実際には下記や他所でも触れるが、目の前で肉親や知り合いを強引にトラックに乗せられ、持ち去られたという証言も多いし、処理させられた人たちもためらいながら軍の命令に従ったのである。一応上記3月10日以前の犠牲者を含めた昭和21年(1946)9月31日付けの死者は8万7983人とあり、そのうち身元判明者は1万7018人となっていて、当初の空襲からの全体の割合は19.3%となる。
なお、昭和28年(1953)発行の『東京都戦災誌』に、仮埋葬した各地の遺体数と、23年(1948)12月から26年(1951)8月までにそれらの遺体を掘り起こし、火葬、改葬した時の遺体数がそれぞれ具体的に載せられていて、さらにのちに東京都慰霊協会が昭和60年(1985)に発行した上記の『戦災殃死者改葬事業始末記』(公園課によるもの)の数字が最終的なものと思われたが、比較検討すると(いずれも公園課の調査に基づくものであろうが)それぞれに増減があるのはやむ得ないとして、相互に抜け落ちている場所や『始末記』にも大雑把な数字で済まされている場合もあり、筆者の判断に基づいて整理し直し、主要な被災地三区の遺体数を以下に記す。いずれにしろこの混乱の中では正確な数は得られていないし、記録された場所以外にも公園課が把握できず表に出されなかった仮埋葬の場所が多くあったと言われる。( )内は氏名判明者である。
江東区では猿江公園に1万2764体(1662)/東陽町3丁目空地に3686体/北砂町の妙久寺に2516体/同警防訓練所に2062体/亀戸町の普門院に1334体/自性院に1262体/その他公園や寺院、空き地を合わせて合計3万6662体(1677)が仮埋葬された。(より詳しくは江東区参照)
墨田区では錦糸公園に1万3263体(729)/小さな菊川公園と菊川小学校校庭に4515体/中和公園(菊川1丁目)に3850体/墨田公園(向島側)に3682体(464)/緑町3丁目空地に942体、その他5カ所の公園や空地に約1000体以上、計2万7402体(1193)以上が仮埋葬された。
台東区では上野公園に約8386体(1128)/墨田公園浅草側に1152体(429)/東本願寺に738体/その他の寺院や空地を含めて約1万3375体(1718)が仮埋葬された。
この三区だけですでに7万6100体である。それ以外の地域と、その後の大空襲のたびに、他区でも仮埋葬は行われ、主に青山墓地の1652体(712)、日本橋の十思公園の808体、本郷六義園の606体(359)、池上本門寺公園の612体(572)などがあるが、『戦災誌』では昭和20年(1945)9月10日付で確認された3月10日以降の仮埋葬者は7万7435体(仮埋葬地は68ヶ所=『改葬事業始末記』ではプラス4ヶ所)となっていて、事後の調査よりまだかなり少ない。
そもそも3月10日に関わる仮埋葬は警察や消防、軍隊がそれぞれ独自に行って全体の管理がされていず、町会でも独自に行われ、実際の仮埋葬地は小さな土地も合わせるとこの百数十ヶ所と言われている。そして仮埋葬された遺体の他に、家族などが焼け跡を必死に探しまわり、なんとか見つけた親や兄弟、子供を、自分たちで家の焼け跡などで火葬したケースも多く、現場で直接遺族に引き渡しされた数は仮埋葬には入っていず、それらを合わせると、都が確認した死者は昭和21年(1946)3月9日付で8万9430人となっている。ただ、江東区は一家全滅が多く、この場合は身元不明で仮埋葬されただろう。
上項に記すように軍隊は氏名判明者も考慮せず、遺体を次々にトラックに乗せて、公園などに運んで大きな穴を並べて作り、その中に次々と放りこんだために、完全に焼けた死体は別にして、判明できたはずの遺体にも遺族は永遠に出会うことができなくなった。
「あった!父ちゃんに間違いない」と、遺体を確認してすぐに他の家族の遺体を捜しているうちに、ようやく探しだした遺体を軍のトラックで運ばれ、どこへ持って行かれたかもわからなくなったケースも証言の中にいくつかある。自分の子の遺体がある場所に「近づくな!」と軍に威喝されたと涙ながらに語る人もいた。遺族は家族の遺体を見つけながら自分の手で埋葬できなかったことを一生悔やむことになる。またある女学生が、一家全滅した友達の遺体を見つけ、「それ、私の友達です!」と言っても、軍人に「あっちへ行け!」と怒鳴られてそのまま引き下がるしかなかった例もある。だから、遺体を持ち去られないため母親の遺体を三日間も引きずり持ち歩いた、という証言もある。こうして身元不明者はむざむざと増やされていった。それは天皇の視察のために軍隊が死体の処理を焦ったということもあるだろうが、全体の指揮官がいず、統率が取れていなかったことも大きいだろう。隅田川などではひと月ぐらい後に体内のガスで浮き上がって発見された遺体もある。その氏名は服装や上着に縫い込んだ名札でわかるのである。戦争はあちこちでこのようなやりきれない話を無数に生じさせる。
注:上記の( )内の身元判明者の遺体は、その公園などの大穴とは別に、横にしてずらっと並べられ、それぞれ高さ30cmほどの長方形の小さな白木の墓標に名前が書かれ、それを残された家族が見つけたり(孤児になった人の場合もあるが)、近隣の人が見つけて家族に知らせてくれたような話が残っている。名前がはっきりわからない場合は「男・何歳位」「女・〇〇(姓のみ)」と書かれていたという。実はこれはある期間、土が被せられずにいて、その間に見つけることができた人は、なんとか遺体を引き取ることができたが、土が被せられた後は動かせないルールがあって、改葬、火葬後に骨を引き取ることができたという。いずれにしても大混乱の中、軍の横暴から守って、片隅でこれをやり遂げた責任者の方々には敬意を払わなければならない。
【戦後の埋葬と犠牲者数】
繰り返すが、上記のように戦後4、5年経って昭和24、25年(1949、50)を中心に、これらの仮埋葬された遺体は順次掘り返され、改めて火葬された。そしてこの作業の時に、管理外の他所からも出て来た遺体(例えば墨田区の中和公園以外にその近辺の9ヶ所から6811体が出て来た)を合わせると、昭和27年(1952)3月末現在で9万6829の死者を数えるに至ったと『戦災誌』にある。またこの時点での身元判明者は1万54人となっている(10.4%)。ということは3月10日以降のものの集計であろう。最終的に改葬する際に、当時公園課霊園係は頭蓋骨によって数え上げたという。バラバラになっている遺体(骨)も多かったから、それが一番の方法であったという。
一方でその公園課では27年の時点で10万4908体あったとする数字もあり、3月10日以前の1万695体とその後の9万6829体を加えると10万7524体となり、合わないからこの10万4908体はその10日以降の数字であろう。そしてその昭和27年(1952)の後に発掘された数字を合わせて約10万5400人というのが今は定説とされている。そしてこれに3月10日以前の空襲犠牲1万695人を加える必要があり、合計すると約11万6100人の犠牲者となる。合計の定説は約11万5000人であるから、上記の判明者1万7018人に多少加算するとして、全体での身元判明者は15%程度である。それにしても無残極まりない話である。
ともあれ公園課霊園係の手の届く範囲を超えた、軍当局の独善的で行き当たりばったりの処理によって、大多数の人たちが身元不明として処理されたことは間違いない。証言などに多くあるが、焼けずに窒息死(二酸化炭素中毒など)していた人たちが少なくなかった。軍のこうした住民や国民に配慮のない行いは(本来、国民を守るための軍であるのに)、終戦時の軍事関係書類の焼却という、自己保身優先の背信的な行為である。
しかしそれでもこれらの数字は確認できたものにすぎない。3月10日の劫火の中で、鉄筋の倉庫の中に避難した人々が、まるで焼却炉の中のように焼き尽くされ、ほとんど灰になった例もあるし、隅田川から東京湾に流出した死者は算入されていない(東京湾:お台場の項参照)。さらには戦後の復興で、とりわけ江東区などでビルを建てるための基礎工事をする時に、土中から遺骨が出てきた話は多く、工事人たちが閉口したという。また昭和53年(1978)12月、墨田区の菊川公園で配水管埋設工事の時に人骨が見つかった例などは、仮埋葬地での発掘作業が十分でなかったことを示す。これらからおよそ13万人程度の犠牲者がいたと見ていいだろう。一般的に考えると各自治体の住民票と付け合わせれば死者の数はほぼわかるはずであるが(ただし墨田区は本籍簿も焼失した)、実はこの時代、特に下町では住民票を出身地の地方から移す習慣があまりなかったという。しかも多くの都民が空襲を逃れるために地方に居を移し、終戦時には都の人口は3分の1になっていたから、戸籍上で数を割り出すことは難しかったであろう。
ちなみに3月10日を中心とした空襲で、当時東京に居住する朝鮮人の9万7632人中被災者は4万1300人、死者は被害の一番大きかった江東区が中心で、1万人を越すとされている。
その朝鮮人(だけでなく関東大震災の例からしても中国人もいたであろう)も含む膨大な身元不明者の火葬された遺骨は、墨田区横綱町の東京都慰霊堂(元は関東大震災で身元不明となった遺骨を納めた慰霊堂だが、当時の都合もあって戦災犠牲者の遺骨も納めるため改装された)に安置された。(下記「戦後の出来事」の<東京都平和祈念館建設計画と東京都慰霊堂>の項参照)
筆者私見:この戦争を「正義の戦争」もしくは「聖戦」と呼び、「皇軍」と呼ばれた軍隊が、この戦争に丸ごと国民を巻き込み、その結果犠牲になった国民の一人一人の命を、まるで虫けら、あるいは魚の大量死のように扱っているわけで、そのような軍隊が戦争に勝てるわけがなかったであろう。他の例では、空襲から逃れようと工場の防空壕に避難しようとした女学生の勤労動員隊を、「あっちに行け!」と、国防のための、つまり国民の命を守るための軍人たちが追い出して自分たちが優先して防空壕に入ってしまう光景は、筆者が調べた各地の女学生の証言に散見されるし、小学生の子供も追い出した例もある。しかもそういう愚かな軍人には戦後国から恩給や遺族年金が現在に至るまで手厚く支給され、戦災で悲惨な目に遭った人たち、つまり家を失うばかりでなく、家族の多くを失い自分も重傷を負い身体が不自由になって生き残った人たち、そして働き手の夫を失い、子供と残されて困窮した母親たち、さらには家族すべてを失い孤児になった子供たちには一円も支給されていない(下記の戦後の出来事の項参照)。例外は初期(3月10日以前)の空襲被害者に対しては被災手当が支給されたことであり、大空襲以降は「国からもらったのはその時支給された毛布一枚だけ」と語る人もいる。仮にそうした被災者も補償金を支給すれば、際限がなく国庫が持たないと国が考えたからであるが、それまでの長年の戦争で国庫を際限なく費やしてきたことを思えば、知れているのではないか。その後に賠償金を求めて平成の時代にわたって幾度となく提訴した人々に対して、すべて裁判上では却下されている。しかも元軍人関係の人々に対しては、その親族にまで、いまだに恩給や遺族年金が支給され続けているのはどういうことであろうか。同様に内外で犠牲者を出したドイツはきちんと国民を補償し、加害国に対して平成11年(1990年代)まで賠償金を支払っている。なお日本の近隣諸国への賠償金は、米国の判断によって免れている。
戦時下の学校に対する軍政府の数々の施策
【実践的教育という名の労働と軍事訓練】
<勤労奉仕>
昭和12年(1937)の日中戦争突入後、「国防国家体制」が進められていく過程で、文部省は13年(1938)6月「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通達した。中学校(当時は5年制)以上は夏季休暇の始期終期の適当な時期に、低学年は3日、その他は5日を標準とし「農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡易な作業」の勤労奉仕を実施させた。これは「実践的な勤労教育」とされ、翌14年(1939)3月、文部省は中等学校以上に対し「集団勤労作業を漸次恒久化し、学校の休業時だけでなく随時これを行ない、正課に準じて取り扱うこと」を指示した。この時期における勤労作業の対象は主として木炭増産、飼料資源の開発、食糧増産等であった。16年(1941)2月の「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」において、文部省はこの運動をさらに「国策に協カせしむる実践的教育」であるとし、「一年を通じ30日以内の日数は授業を廃し」て作業に当てることができ、その日数・時数は授業を受けたものとした。
<軍事教練>
この昭和16年(1941)に政府は別途、中学校以上に報国団を創設させ、小隊、中隊、大隊と区分けした軍隊式組織を作らせた。校長が大隊長で、学年が中隊、クラスが小隊で、級長は小隊長である。これは学校でも「有事即応の態勢」を図るものとした。そして中学校からは在郷軍人などの配属将校による軍事教練があり、学校によっては三八式歩兵銃という本物の銃で歩兵訓練をやらされた。しかし低学年生はまだ背が低いからひっくり返って行進できない。そうすると軍事教官からサーベル(軍刀)でぶん殴られ、またその銃を落としてバタンと倒そうものなら「天皇陛下の御武器に泥をつけるとは何ごとか!」と死ぬほどぶん殴られたりした。天皇の名前はこのように利用され、もちろん上級の学校でも同じであり、軍隊の中でも同様であった。この配属将校は校長よりも力を持ち(現に学校の集合写真では配属将校がど真ん中に座っている)、学校は軍の出先機関のようになった。
<学校報国隊>
このように子供に対してまで国内的な体制を万全にして、この年の12月8日に日本は太平洋戦争に突入した。そして翌年春に卒業予定の大学・専門学校生を三ヶ月短縮し、この年末に卒業させた。少しでも早く軍隊への応召や軍需産業へ就業させようとする意図があった。さらに翌17年(1942)には学校報国隊が併設され、これは一種の機動部隊であり、戦技訓練・防空訓練の徹底を図ること、女子については戦時救護の訓練を実施することであった。そしてこの報国隊がいわゆる学徒勤労動員の運営組織になっていく。
昭和18年(1943)の春から入学する中学生と高等女学生は、本来の五年制を四年制に切り替えられた。同時に大学の下に位置する予科や高等部も一年短縮されることになった。そして6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、これにより学徒の戦時動員体制を確立し、成人男性が次々と出征して不足する軍需工場への学生の勤労動員を強化することになった。すでに学生の勤労動員は、最低30日という一定期間の交代制で行われていたが、これにより「一年の三分の一相当期間」とされた。
<常時勤労体制>
昭和19年(1944)月、戦局の悪化を受けて、政府は閣議において「決戦非常措置要綱」を決定し、国民生活の各分野にわたって当面の非常措置を定めた。これによって中等学校程度以上の学徒は、常時勤労の組織体制に入ることになった。そして「1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導と教職員による勤労管理」などが通達された。全国の学生・生徒は4月半ばころから、自分の学校に通わず軍需工場へ動員されていった。4月、文部省は「学徒勤労動員実施要領に関する件」として、作業場を「行学一体の道場」たらしめ、学徒の「奉公精神、教養規律により、作業揚を純真且明朗ならしむること」を教職員に要請した。言葉は使いようで、どのようにも理屈はつけられるという例である。そしてきわめつけは「勤労即教育」という言葉であった。つくづく国家というのは無責任でご都合主義であることがわかる。
さらに事態は切迫し、次々と動員強化のための決定事項を増やし、中等学校低学年生(1−2年生及び国民学校高等科の12−14歳)の常時動員と中等学校3年以上の男子だけでなく女子にも深夜業を課することにした。また夜間学校や身体虚弱者にも動員がかかった。この時代、小学校を卒業するだけで家業を手伝ったり奉公に行く女性は多かったが、14歳以上の就業していない女子、また高等女学校を卒業して家事手伝いなどをしている女子も含んで、それに対し「女子挺身隊勤労令」が19年(1944)8月、新たな「学徒勤労令」とともに発令された。
【学生の徴兵猶予解除と出陣学徒壮行会】
さらにこの18年(1943)秋には大学生・専門学生の徴兵猶予が解除され、20歳以上の学生も徴兵されることになった。しかも翌年春卒業予定の学生が半年間繰り上げて9月の卒業となり、10月21日、関東の学生たちを明治神宮に集めて「出陣学徒壮行会」が行われた(新宿区参照)。この時、主に高等女学校の生徒たちが見送りとして観客席に動員された。そしてこの翌19年(1944)には徴兵年齢がさらに一年繰り下げられた。軍政府の焦りがうかがえるが、この結果、戦争の終盤で学生たちの多くが特攻兵として零戦などの戦闘機や人間魚雷回天に乗り、戦争終盤のフィリピンや沖縄の海上の米国軍艦への体当たり(自爆攻撃)を目指し、その多くは途中で撃墜され、海の中に消えていった。
【決戦教育措置要綱】
<全面授業停止と学徒隊>
19年(1944)11月下旬から米軍の本格的空襲が東京都から始まり、20年(1945)、戦局はいよいよ追い込まれ、3月に政府は「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、小学校を除き、学校における授業を原則停止するとした。そして5月、「戦時教育令」が公布された。その中には天皇のお言葉として「今や戦局の危急に臨み、朕は忠誠純真なる青少年学徒の奮起を嘉し」とあり、全学徒を直接決戦に必要な業務に総動員するものであった。つまり学生、生徒を本土の防衛と生産の増強にあたらせ、「学徒隊」なるものを組織させ(一般の若者には「義勇隊」を組織させ)、連合軍が上陸してきた際の「本土決戦」に備えるようにということであった。しかしすでに20年(1945)3月下旬から沖縄で本土決戦の代理戦をやっていて、6月23日、敵味方と住民合わせて20万人以上の犠牲者を出して勝敗は決していた。この戦闘では15歳前後の少年たちも戦闘に駆り出され、高等女学校の生徒たち(ひめゆり部隊など)も集団自決に追い込まれた。その結果を経ても、軍政府はなおも「本土決戦!」を唱えていた。
<吹かなかった神風>
そして二つの原爆投下を経て、8月15日、連合国の発したポツダム宣言に対して無条件降伏ということになり、多くの学生・生徒たちは虚脱状態に陥った。「日本は神国であり、最後は神風が吹いて日本は勝つ」と多くの生徒たちが信じ込まされ、そのために空腹を我慢しながら「お国のために」と、日の丸に必勝とか神風と書いた鉢巻を頭に締め、軍需工場での生産に励んでいたのである。最後はその「お国」が、彼らを裏切った形となった。
「それぞれの職場において終戦の詔勅を聞いた動員学徒の数は340万人をこえたといわれる。そして学徒動員による死亡者は1万966人、傷病者は9789人であった」(文部科学省:学制百年史編集委員会資料より)。
*学校関係については別稿の「戦時下の大学・女学校」を参照。
天皇の名の下で
【教育勅語と軍人敕諭】
日清・日露戦争の明治時代から、日本では軍事教育が盛んになされていたと言っていい。小学校の教科書に出てくる「兵隊さん」はお国を守る偉い存在であった。お国とはまた、神話上の神武天皇の即位から2600年(昭和15年:1940年がそれに当たり数々の行事が行われた)、歴代の天皇の統治する神国であり、天皇は現人神(あらひとがみ)として崇敬され、国民は天皇の臣民とされた。当然国の主権は天皇にあり、帝国議会も軍隊も天皇の大権に属していた。
明治23年(1890)に明治天皇のもとで発布された教育勅語は、日本の教育の基本方針となった。勅語とは天皇が臣民に賜わる言葉の意味であるが、その一部に「一旦国に危急の事態が生じたら、義勇󠄁を持って公のために奉仕し、それによって天壌無窮の皇運を助け守るべきである」とある。しかしこれ自体は天皇自身が書かれた内容ではなく当時の側近が書いたものである。でなければ普通、「それによって天壌無窮の皇運を助け守るべきである」という言葉は使わない。
明治時代からこの教育勅語の謄本と天皇の御真影(肖像写真)が特に学校に掲げられるようになり、御真影は家庭では普通に梁の上などに掛けられるが、大正時代半ばから学校では奉安庫あるいは奉安殿に厳重に保管されるようになった。特に昭和に入ってからは御真影と教育勅語謄本が宮内省から文部省を通じて全国の小中学校に貸与品として下賜され、その際は伝達式が行われた。そして仮にこれを火事で失うことがあれば、校長の重大責任となり、実際にそのことで責任を負って自殺した校長もいた。したがって空襲で火災が生じた際、まず校長がそれを大事にカバンに入れ、背負って退避する姿が見られた。なお教育勅語は戦時中には学校で定期的に斉唱されたが、戦後には占領軍GHQによって廃棄の方針が打ち出され、各所で焼却された。
一方で明治15年(1882)に発せられた軍人敕諭もあるがこちらは長く、その中にはまず「朕は汝(なんじ)ら軍人の大元帥である」とあり、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし/軍人は礼儀を正しくすべし/軍人は武勇を尊ぶべし…」等と続くが、「下級の者が上官の命令を受ける時には、実は朕から直接の命令を受けると同義と心得よ。…また上級の者は下級のものに向かい、いささかも軽侮し傲慢な振るまいがあってはならぬ」されている。この上官の命令は「朕から直接の命令を受けると同義」という文言、さらにその上で部下を「軽侮し傲慢な振るまい」をしてはならぬという文言が、とりわけ太平洋戦争の軍隊の中では猛威を振るい、上官による暴力の蔓延を引き起こした。この勅諭の起草も明治天皇自身ではない。(全文は「各種参考資料」参照)
このように明治以来の天皇の存在というのは、他国の王と違い神格化され、特に昭和に入ると、この神格化された天皇制が軍政府に利用されて、国民の思考力は奪われ、長い戦争の時代を招来する。それが教育にもそのまま反映された時代であった。
ちなみに司馬遼太郎の天皇制に関する一説を紹介する。
日本人というのは明治以前には「国民」であったことはなく、国家という観念をほとんどもっていなかった。…… 明治政府は日本人に国家とか国民という観念を持たせることにひどく苦慮した。そこで、「天子さまの臣民」という思想を植え付けようとした。忠義の観念は、封建時代の大名とその家来において濃厚な伝統がある。これを教えることのほうが、国家と国民の関係を道徳において説くよりもわかりやすかった。……(そこに日清戦争が起こり、アジアの大国に対し、思わぬ)勝利を続けている。この国民的昂奮が、はじめて日本人に国家と国民がどういうものであるかを一挙に実物教育してしまった。(『坂の上の雲』より)
つまりこの日清戦争は、明治天皇による「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」の「朕茲(ここ)に清国に対して戦を宣す」によって始められたことに意味があったわけで、それが戦勝となり、自分たちが掲げる天皇と強う国家を作っていこうとなったのかもしれない。
【天皇の御真影】
教育勅語の発布の時代に、小学校に天皇の御真影(肖像写真)と教育勅語の謄本が下賜(かし=下げ与えること)されるようになり、御真影と教育勅語は学校内に設置された奉安所、あるいは校門の近くに堅固に作られた奉安殿に納められ、国家的祝賀式典(四大節といい、1月1日の正月を含んだ2月11日の紀元節=建国記念日、4月29日の天長節=昭和天皇誕生日、11月3日の明治節=明治天皇の誕生日)の際は、職員生徒全員で御真影に対しての最敬礼を奉じるとともに教育勅語の奉読が行われた。教育勅語は修身の教科書にも載り、卒業式や始業式など学校行事にも奉読は行われた。大正12年(1923)の関東大震災による大火災時に、御真影を守ろうとして殉職した校長もいて(それ以前の明治時代に学校の火事で御真影を焼失し、責任を感じて自殺した校長もいる)、このため多くの学校では独立したコンクリート造りの奉安殿の建築が進められた。そこから登下校時や単に前を通過する際にも、職員生徒全てが襟を正してから最敬礼するように定められた。中学校以上は主に昭和に入ってから御真影を下賜される場合が多かったが、その多くは校長室のそばに奉安所が作られ、その中に掲げられた。これはキリスト教系学校に対しても同じである。そして空襲下の学校では、まず何よりも先に御真影と教育勅語を入れたカバンを背中に担いで校長などが避難した。空襲が激しくなると、区内の学校でまとめて安全な奥多摩などの学校に疎開となった。しかし敗戦後、占領軍GHQの指令もあって文部省は学校からの御真影回収を指示し、これに応じて御真影は都道府県単位で回収され焼却処分(奉焼)された。奉安殿の多くも解体された。
【尋常小学校から国民学校へ】
昭和16年(1941)、太平洋戦争に突入する年の春、小学校(当時は尋常小学校)は国民学校令により国民学校と名前を変えられた。まず「皇国民の錬成」という最高目標があって、「国民学校は皇国の道に則りて初等普通敎育を施し国民の基礎的錬成を為すを以て目的とす」ということであった。これは当時のナチスドイツのやり方を手本にしたと言われる。その施行規則第一条には、「教育に関する勅語の旨趣を奉体して教育の全般に亘り皇国の道を修練せしめ… 東亜及世界の大勢に付て知らしめ皇国の地位と使命との自覚に基き大国民たるの資質を啓培するに努むべし」とあり、第三条では「… 国民科修身は皇国の道義的使命を自覚せしむる」とした。第十条では「… 強靱なる体力と旺盛なる精神力とが、国力発展の根基にして特に国防に必要なるゆえんを自覚せしむべし」などと規定した。ただ、この中には未就学児童を減らして行き、それまでの義務教育6年を8年にする計画もあったが、その後の非常措置が優先となり後回しにされた。また、私立の小学校は国民学校とはされず、多くは初等科とされ、その呼称は現在にも残っている。
4年生から習う国史の教科書には 神話の「天孫降臨のみことのり」が第一頁にあって、次ぎの頁には初代の神武天皇から、当時の今上(昭和)天皇までの名が表にしてあった。これにより多くの小学生は神武から昭和の歴代124の天皇の名前をそらんじることができた。また軍人勅諭も暗礁すべきことであったが、時には警察官に「交番に引っ張り込まれて“軍人勅諭を言え”といわれて、言えなければ殴られた」。
小学校にも軍人が常駐し、例えば学校の廊下で、常駐する将校とすれ違う際、右手ではなく左手で敬礼してしまった2年生の児童に対し、「貴様は陛下を侮辱するのかあっ!」と怒号が聞こえた瞬間、往復ビンタが飛んできた。後ろの壁に頭を打ちつけ、しばらく気を失ったという。つまり軍人たる自分にきちんと敬礼しないとは、天皇陛下を侮辱するに等しいということで、これが軍人勅諭の効果であるし、尊敬すべしとされた軍人の勝手な横暴である。
【宮城遙拝】
学校では毎朝の朝礼の際に宮城(皇居)遙拝が行われるようになった。全校生徒が宮城の方角に向かい、「天皇陛下に対し奉り、最敬礼」という号令で、両手が膝頭に触れるまで、角度にして45度背を傾けるお辞儀をした。ある時全校生徒が学校近くの道端に整列して、皇族の通行を見送りした。皇族の乗った車が近づくと号令に合わせて最敬礼をするので、その方の様子を見ることもできなかったという。大人たち一般市民も、例えば都電に乗って宮城の二重橋前や靖国神社前を通過するたびに、車掌が 「ただいま宮城前を通過/ 靖国神社前を通過」と乗客に知らせると、そのたびに乗客は立ってその方向に向かい、深いお辞儀をした。仮に同じようにしなければ非国民と言われる時代だった。
世の中全体が思考停止状態になり、その中ではとりわけ自分の考えを持てない大人たちが教師も含めて横暴になった。そうして敗戦となり、米軍が駐留してくるとその大人たちはコロッと米国を礼賛し、米国式の民主主義を唱えるようになり、その後子供たちは大人を信用できなくなったと、自分たちが大人になって語る人が大半であった。
【少国民】
国民学校となって小学生たちは「少国民」と呼ばれた。その少国民のために作られた歌がいくつもあるが、その一つである。——「勝ち抜く僕ら少国民/ 天皇陛下の御為に/ 死ねと教えた父母の/ 赤い心を受け継いで/ 心に決死の白襷(たすき)/ 掛けて勇んで突撃だ …… 」(筆者の「日本の軍歌とその時代背景」の昭和20年参照)。この一方で明治時代の戯れ唄の替え歌も子供たちの間で流行った。——「もしも日本が負けたなら 電信柱に花が咲く 焼いた魚が泳ぎだす 絵に描いたダルマが踊り出す」。これは、それほど絶対に日本が負けることはないと信じさせるものであった。
これらを男の子たちは暗唱して勇んで歌ったのである。大正末期から昭和に入って生まれた子供たちは、小学校からそのように教育され「大きくなったらお国のために立派に死ぬんだ」と、本気で思っていたと口々に語っている。戦争終盤になって召集された20歳前後の若者たちは、学業途中で応召した学生たちも含めて、いっそ死ぬなら潔くと特攻隊員を選び、フィリピンや沖縄戦で敵米軍の戦艦などに体当たり攻撃し、あたら国の将来に役に立っていたであろう命を散らしていった。彼らは「英霊」と呼ばれているが、そのように祀り上げられて本人たちは満足しているであろうか。単に国のために「散華」した英霊と客観的に讃えるのではなく、当時の彼らの置かれた心の状態に寄り添って考えてみることは必要である。彼らの遺書に見るその志を、そのまま美しいとか立派だと讃えるのではなく、「至高至上の栄誉たる神州不滅を確信しつつ、悠久の大義に生きる」のように書いて自分の死にゆく運命を納得させざるを得なかった、その心の奥を読み取る必要があるし、神州は不滅とはなり得ず、憎き敵米国の従属国となった結果において、彼らの死は何だったのかを率直に問い直すべきだろう。ちなみに筆者は、よく慰め的に言われる「彼ら英霊たちの犠牲があって、戦後の日本の繁栄がある」ということはまったく信じていない。失われた多くの若き命が、そのいろんな才能が失われずに生きて、その後に社会の中で活躍していたであろう姿を想像してみればよい。そのほうがもっとより良く日本を繁栄させていたのではないか。
【開戦の詔勅】
昭和16年(1941)12月8日、アメリカのハワイ真珠湾に奇襲攻撃をして(実際にはイギリスの占領するマレー半島上陸や香港などへの奇襲作戦も同じ日に展開された)米英に宣戦布告したとき、昭和天皇の「開戦の詔勅」(宣戦ノ詔書)が発せられた。天皇自身は(臣民を苦しめる)開戦に反対する気持ちがあったとされるが、当時の首相東條英機を始めとする軍政府の取り巻きが決戦はやむ得ないと重ねて論を展開した。何しろ、当時の天皇に与えられる情報は、現在と違って、彼ら取り巻きからしかもたらされなかった。しかもラジオや新聞は軍事統制下にあり、軍政府の方針にそぐわない内容は検閲によって簡単に削除されたから、天皇はそうした情報操作の中にいたことは間違いない。もちろん最終的に天皇の臨席する御前会議なるものがあって、天皇がそこで開戦を裁可したことは事実である。
開戦の詔勅は、奇襲攻撃の日も含めて周到に準備されていたので、攻撃開始と同時に発せられた。この「開戦の詔勅」を受けて夕刻、東條英機首相は「大詔を拝し奉りて」と題した演説をラジオで放送した。ある意味、茶番劇である。軍政府が「御前会議」においてそのような流れを生み出し、天皇から詔勅を出さしめたわけである。(「大詔を拝し奉りて」の内容は「各種参考資料」参照)
この開戦もしくは宣戦の詔勅は明治の日清・日露戦争の時も発せられたが、昭和6年(1931)の満州事変も昭和12年(1937)の日中戦争(支那事変)も「開戦の詔勅」なしに、先に軍の暴走があってなし崩し的に戦争に突入したから詔勅は発せられず、公式には「事変」とされている。太平洋戦争突入前の近衛文麿内閣にあっては、すでに4年以上経過している日中戦争に対する米国の非難と圧力が極まり、その具体的要求は日本軍の中国からの撤退であり、しかしその条件を軍部が受け入れるわけもなく、和睦の交渉が難航し、近衛内閣は辞職した。そこで代わって棚ぼた式に首相になった東條英機は、もとは満州事変後に陸軍の憲兵隊司令官を務め、日中戦争開始後には一部の作戦を指揮し、その後近衛内閣の陸軍大臣になっていた。またそれまで東條は「撤兵問題は心臓だ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果が壊滅する。満州国をも危うくし、朝鮮統治も危うくなる」として対米強硬路線を主張していたが、天皇の忠実な臣下と自認していた東條は、天皇が和睦を望んでいると知り、翻ってそれに向けて努力しようとした。そしてある程度の譲歩を含んだ甲乙二案を米国に提出、しかしルーズベルト大統領率いるアメリカ政府は、日本側の新規提案は甲案・乙案ともに問題外であるとして退け、東條はこれを最後通牒として、9月より準備していた開戦に踏み切った。そしてその決定を天皇に上奏した際に、天皇の意思を実現できなかった申し訳なさから上奏中に幾度も涙声になったといわれる。天皇の忠臣としての態度から天皇は、そこまで努力した結果ならやむなしと思われたのであろうか、結果は「開戦の詔勅」の内容になる。(「宣戦の詔書」(開戦の詔勅)は内容は「各種参考資料」参照)
こうして翌17年(1942)明けより毎月8日を「大詔奉戴日」と定めて、国民学校だけではなく中学校(女子は高等女学校)以上も、全校生徒を集めてまず宮城に向かって拝礼し、校長が宣戦の勅語を読み、講話が行われるようになった。この時期の学生・生徒には精神訓話が多く、別途陸海軍の記念日にはしばしば軍人が来て訓話が行われた。
この日米開戦後、3年8ヶ月の間に多大なという言葉以上の犠牲者を内外に生じ、数々の悲劇を生んだ。それまでの中国戦線の犠牲と、それによって得た中国での権益を惜しんで米国の撤退要求を受け入れなかったわけだが、逆に長年統治していた台湾と朝鮮、そして満州、さらに最後の土壇場でソ連(ロシア)に侵攻され、樺太や北方領土まで全てを失うことになった。
<詔勅に至る経緯>
ちなみにこれら開戦の詔勅も終戦の詔勅も天皇自身の筆によるものではない。内閣の上級役人や学者やマスメディアから内閣嘱託の地位にいた人物たちが案を起草し、それに対して意見を出し合い、それによって文言は訂正を加えられた。ただし天皇の発したいくつかの御言葉も使われているという。
そうして出来上がった決定案が閣議の認可を経て内閣総理大臣から天皇に上奏し、御裁可を仰ぐという手順を踏む。その御裁可後、上質和紙に墨で浄書した詔書原本を作成し、御署名が済むと、内大臣府に廻され、内大臣秘書官が御璽(ぎょじ=天皇の 公印)を押し(つまり天皇自身が押したのではない)、閣議の席に提出され関係大臣(終戦の詔書の場合は全 大臣)が副署して成立する。(国立国会図書館月報 /平成22年8月20日発行より)
【君臨すれども統治せず】
昭和天皇は近代の英国流の「君臨すれども統治せず」を範としていたともいわれる。おそらく律儀にその旨を守り通そうとされていたのではないか。結果的にそれが凶となった。実際に天皇は、満州事変の数年前の張作霖爆殺事件に関連し、当初田中は軍法会議によって関東軍の容疑者を厳罰に処すべきと天皇にもその旨を奏上していたが、軍の抵抗もあって事件から一年後になって田中は最終報告として「関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった」旨を天皇に奏上した。この報告に天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中首相の矛盾した発言に怒り、辞表出せと言って辞職、内閣が総辞職したことがあった。田中はその3ヶ月後狭心症で急死した。「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものはたとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した」と側近に語ったことがある。
戦闘の前線では「天皇陛下万歳!」と言って敵に突撃するのだと兵士は訓練中に教官に指導されていた(実際には「お母さん!」と叫んで死ぬ者が多かった)。しかし天皇自身がそんなことを望んでいたわけがない。仮にそれを知れば、やめるようにと諭したのではないか。天皇の名の下にどれだけの非常識な言動が軍隊の中にまかり通っていたか、ましてや満州や沖縄やサイパンで集団で自決するなどと、戦後になって天皇が知って、どんなに苦しい思いを抱かれたか、広島や長崎の原爆投下の前に、どうして決断できなかったのかと、どれだけ後悔されていたか、お察しするに余りある。平成天皇・皇后はその昭和天皇の意を汲まれて、国内の被害地はもちろん、海外の戦地に、わが国の戦死者だけでなく、その相手国の犠牲者も含めた慰霊の旅に積極的に行かれている。
【敗戦の日】
敗戦(ポツダム宣言無条件受諾)は20年(1945)全部私にください”8月10日に決まり、連合国に通知されていたが、軍政府内部の意見の統一ができず、最終的に天皇自身が決め、実際の宣言(終戦の詔勅)は15日正午となった。その15日にも正午直前まで米国は空爆を続けた。
終戦の詔勅は初めて天皇の肉声でラジオから流され、玉音放送と呼ばれた。子供達は疎開先の学校や宿泊所でラジオを聞いたが、当時のラジオの音質が悪いのと、あらかじめ録音されたレコード盤の音質が悪いことが重なって、誰もよく聞き取れなかったという。(「終戦の詔勅」は「各種参考資料」参照)
この無条件降伏も天皇の御聖断と言われるが、当初から正しい情報を天皇が得ていたなら(例えば3月10日の大惨事を天皇が自ら見に行くと伝えても、軍は大量の焼死体を片付けた上で、その8日後にきれいに整理された焼け跡を天皇に見せただけだった)、御聖断はもっともっと早く行われていただろうし、そもそも太平洋戦争への突入も避けられていただろう。少なくとも開戦の詔勅は、天皇の御意であると国民には受け取られて、国民も子供も識者も含めて(その頃の識者は欧米への劣等感があったから)大興奮して戦争遂行に邁進したのである。もちろん、欧米の事情などよく知る識者は、これは無謀な戦争で勝てるわけがないと思っていたが、それを公にすることはできなかった。
当時軍事工場への勤労動員に励んでいた女学生の一人は「負けると思っていなかったから、負けたと聞いたときは悔しかった。兄もフィリピ ンのレイテ島で戦死したし(天皇に)申し訳ないと。 あのときは気持ちが高ぶって、下駄履きで宮城 (皇居)に行った。砂利道で土下座して謝りました。まわりもみんな土下座していました」と。もちろんそんな気持ちにはならず、戦争が終わったということで、やっと普通の生活ができると安堵した人たちは多くいた。
玉音放送が正午にあると言われて学校に向かう日、子供同士で「天皇陛下はきっと“お前たちの命を全部私にください”とか“一億一心火の玉だ。 玉砕する”ということをおっしゃるに違いない」/「そうしたらどうする?」「そのときはそのときだ」などと言いながら学校に行ったという。本来、臣民の安寧を祈る立場の昭和天皇がそのような考えを持つはずもないのだが、軍隊や学校ではそのように教育されていたということである。この時代、教育の力を十二分に軍政府は利用していたということがわかる。
(天皇については下記の「戦後」の項も参照)
各種疎開政策
(以下は主に『東京都戦災誌』より)
【疎開という名の破壊】
防空法の改正により、建物疎開、生産疎開、人口疎開など、疎開に関する条文が追加された。迫り来る空襲に備えて被害の拡大を防ごうとするものである。
昭和19年から20年(1944−45)にかけて建物疎開が実施された。18年(1943)12月の「都市疎開実施要綱」によるもので、これは住宅密集地や主要工場に対して空襲による災害の拡大を防ぐ目的で立案、実施された。まずは防火帯造成事業で空地帯を作り、防火帯も兼ねた道路、貯水池や広場、そこに待避壕も計画され、総計56ヶ所、総延長100km、次に重要工場付近疎開事業で戦争遂行上不可欠な重要工場28ヶ所を直接防護する空地帯を作るため、その周辺の住宅を撤去させ、貯水池や防護施設を造成する、さらに主要駅付近疎開事業として混雑する14の駅付近21ヶ所の建物を疎開して広場及び道路を造成するというものであった。また主要な沿線の両側もその対象となった。この作業は町内の防火隊や、中高大学生の勤労隊が行うことになった。これらが第一次から第三次まで計画され、第四次には小空地として消防用に消防車が入りにくい箇所を広げること、避難救護の場所の確保等のため、26区(当時は35区)252箇所を指定した。20年(1945)3月10日の大空襲の後に都区の西域に第六次がなされ、東京都では十数万戸の建物が強制疎開させられたが、その地区も5月24、25日の大空襲ではほとんど効果がなく建物は焼き尽くされた。ただ、住民の逃げ場として多少役に立ったという話はある。
指定疎開地区内の一般居住者は5万8500世帯に達し、帰る田舎があるものは帰り、退去先が困難な人達には、その地区外で個別に疎開していた住宅が2万9000戸も提供された。そして軍や専門の労働者、警防団、町会の人々の他に、中学校以上の学徒の勤労動員としての参加も多く、延べ66万5000人が動員され、そのうち学徒は38.4万人で半数以上を占めている。該当する建物を壊し、計画の多くが達成された。しかしその後の米軍による大空爆による破壊力は「想像を超絶する甚大なもの」で、徒労であったといっても過言ではないが、造成された防空空地は戦後に広い道路として活用されたり公園や緑地になっているケースが多い。
【工場疎開と人口疎開】
生産疎開は工場疎開とも言い、主に軍需工場の生産を守るためであったが、生産施設や事業者の疎開については実際に19年(1945)11月下旬に空襲が開始されるまでは捗らず、20年(1945)2月閣議による工場緊急疎開要綱でようやく民間の軍需産業各社に対し疎開命令が逐次下された。東京周辺の県への工場疎開が主であったが、長野県や群馬県などもあり、しかしそこの町も戦争終盤には空爆を受けるケースが多かった。工場には勤労動員で女学生も多く勤務したが、工場の地方への疎開により、そのまま一緒に移動を求められた女学生も少なくなかった。ただその中には空襲で家を焼かれてむしろ好都合となった生徒たちもいた。
人口疎開については「都市疎開実施要綱」にて四都市区部(京浜、阪神、名古屋、北九州)からの転出に限られたが、18年(1943)から縁故疎開が奨励された。強制ではなかったのでさほどの効果はなかったが、空襲の激化により住民の疎開は激増し、19年(1944)2月を基準とした東京都の人口は11月にはその81%、20年(1945)2月には75%、5月には49%、6月には38%まで減少した。8月には人口は三分の一になっていたのではないか。
その他物資疎開も検討され、密集指定地域の家具や持ち物、衣類、食料、生活用品まで対象となり、都が一定の条件で買い取ったり、保管場所を指定したり(主に多摩地域)、物によって運賃も一定の金額に決められたりする措置も取られた。
一方で重要文化財や美術品、絵画、図書・文書等も順次安全な地方に疎開されたが、それが終わらないうちに空襲が開始された。またその疎開先が空爆に晒され、さらに別な疎開先に運ばれた例もあった。
さらに臨時措置として、3月10日に焼け出されて縁故のない人たちに対し、都は長野県と新潟県に疎開させることとし、順次送り出したが、その後も大空襲が続き、間に合わなくなって、山形県、福島県、岩手県にも送り込んだ。全部で5039人とされる。しかしその中には、疎開先の新潟でもまた空襲にあった人もいた。それとは別に縁故疎開した人々は、約193万人とされているが、それ以上にいたことは都の人口がおよそ三分の一になっていることでわかる。
それでも東京に住み続けることを選び、自宅の焼け跡に、大空襲では役に立たなかった防空壕を利用して、焼け残った木材やトタン板で、半地下の小屋を作って住み続ける人たちも多くいた。これを壕舎と言った。そしてその空き地を畑にし、食糧不足の中、自給自足のような生活が繰り広げられた。
学童集団疎開
【集団疎開に至るまで】
戦況の悪化とともに、第二次大戦下の欧州での都市への空爆の激しさが知られるようになると、児童を疎開させるべきとの施策が打ち出され、まずは昭和18年(1943)より縁故疎開を奨励、促進した。対象は当時の国民学校の初等科から高等科の7−14歳で、19年(1944)4月の時点での縁故疎開は7万7213人に達した。
その後、縁故疎開の限界をみて、政府は都市の防空体制を強化するため、足手まといをなくすこと、将来戦力となる若い生命を護り「次代の戦力を温存すること」を目的として(あくまで「戦力」であった)都市から地方へ学童の集団疎開を計画、6月末に学童疎開促進要綱を閣議決定し、7月に「帝都学童集団疎開実施要領」とその細目を発表した。対象は小学校(当時は国民学校と変えられていた)3−6年生とし、19年(1944)8月より実施されることになった。東京は都の三多摩地区を含めた地方各県(13地区)の協力を得て、主に9月24日までに、学童20万3420人の疎開を達成した。しかし病弱児や障害児は残された(世田谷区の光明学校参照)。このことから、これは子供の戦闘配置の一つであったと指摘する人もいる。
【集団疎開教育要綱の無意味】
さらにこの実施に伴い、文部省は「学童集団疎開に於ける教育要綱」を作成し、各学校とその引率の教師を含めて関係地方長官に対し、これを配布した。その冒頭には「学童集団疎開は重要都市の防衛力を強化すると共に、次代を担なう皇国民の基礎的錬成を完うし、聖戦目的の完遂に寄与するを以って趣旨となす」として、まず戦意を昂揚し聖戦必勝の信念を涵養すること/強健なる心身を育成すること/集団生活における躾(しつけ)訓練を徹底すること/行学を一体として教科教育の実を挙げること/地方の風土伝統に即して皇民を錬成することなどが挙げられ、感傷的退避的気分の一掃と、進んで戸外での体育運動農耕その他の勤労を通じて心身を鍛錬し強健にして元気溌剌たる少国民を育成することに努め、班組織等を活用して規律節制ある団体生活に慣れさせて、如何なる事態に当面しても毫も動ずることのない強靭な意志と、困苦欠乏に耐えて喜んで勤労に従事する習慣を育成すべきとしている。
疎開先での出来事は各区市において触れているが、それにしても疎開先の食糧事情はひどいものであったと大半の人が語っている。その理由は想定に反して農村の食糧も軍部に優先的に供出されたからであり、付き添いの先生たちも食糧確保に苦労した。慣れないなか、子供達は付近の土地を耕して野菜づくりも行ったが、農家の手伝いをし、野菜などを分けてもらう場合もあった。中にはナチスドイツやソ連(ロシア)の強制収容所の食事内容を思わせるケースもある。実際に栄養失調で死んだ児童もいたし、疎開から帰って来た子供を見てその痩せた姿に親は驚き、その子は一番楽しみにしていた母親が作った食事を胃が受け付けず、体が回復するのにひと月もかかった例もある。学童集団疎開はその費用を親が負担していたが(今の金額で月々2−3万円で、貧乏でできない家もあった)、中身の合わない負担であった。
この時代は常に皇国民や聖戦、皇軍、必勝という言葉が散りばめられ、一般国民も子供も次第に慣らされて思考力を失わされていたと言っていい。しかし、疎開先での実態は食料欠乏の中、空腹に苦しみ、シラミやノミに悩まされ、それら故の病気、空腹が故のいじめや盗みや物隠し、近隣農家に干してある柿や芋を盗むこともあった。それでも子供たちはお国のために辛抱しなければと教育され、必ず(神風が吹いて)日本が勝つ、それまではと信じながら、ただひたすら家が恋しいとの「感傷的退避的気分」の中、「困苦欠乏に耐えて」生きた。しかし敗戦となって、先生すら話すことが変わってしまい、信じるものがなくなってしまった。
【集団疎開から帰京した日の惨劇】
当面、疎開期限は20年(1945)3月までとされたが、前年11月下旬より空襲が開始されて、1月にはその延長を決定、新3年生を追加疎開させる予定であった。その上で6年生は卒業と進学の準備で3月10日までに帰京するようにと都は指示を出し、約6万人近くが9日の深夜までに各地から列車で都内に戻ってきた。その直後の10日に日付が変わるころに大空襲が襲った。その結果、特に下町三区の子供たちは、やっと親と会えた嬉しさも束の間、大空襲が引き起こした大火災により、その多くが親とともに焼死した。中には出発や列車が遅れて、その帰途の途中、深夜に東京方面が燃え上がっている光景を見た子供たちもいた。そしてこの子たちの中には何とか焼けただれた地元の駅にたどり着いても、親も誰も迎えに来ず、多くがそのまま孤児になった。
この大空襲を受けて、当局は新1−2年生も4月から追加疎開させることにし、希望を募った結果、5万5835人となった。その後の追加等もあったであろうが、20年(1945)6月末まで順次地方に疎開させ、疎開児童は14万2155人と都の戦災誌に記録されている。これは前年の8月時点の疎開人数より減っているが、この3月に6年生が帰京した他に、親たちが東京を離れて地方に疎開する際に、子供の集団疎開先に迎えに行きそのまま連れて行ったり、戦災で孤児になった子を親戚が引き取りにきた結果であろう。ただ、6月から米軍は地方都市に集中して爆撃するようになり、静岡や千葉などに疎開していた子供達は東北などに再疎開することになる。
【疎開先で孤児になる】
8月15日、終戦となったが、各地に分散された子供達はすぐに帰れるわけではなかった。交通網も空爆で寸断されていたが、とりわけ列車の確保が大変であった。都は10月17日から11月13日までに約60本の臨時列車を編成して帰京させたとする。この前後の関係はわからないが、集団疎開からの帰京数、縁故疎開からの帰京数、疎開していなかった子供の在京数は10月10日付の調査で、それぞれ10万人前後となっている(同じ戦災誌の中で、帰京させるべき疎開児童は38万9420人とあり、これは60本の臨時列車では不可能であったろう。ただ、帰京列車だけでなく一般車もどの列車もいつも満杯であった)。疎開先にいた時に焼かれた東京の子供たちの多くは、帰京して近隣の駅に降り立って、街が焼け跡になっていることに呆然とした。
一方でこの時期に友達と一緒に帰れない子供達がいた。親兄弟が戦災で焼死していたのである。その中には疎開先の孤児院に預けられた場合もあり、一応一緒に帰っても、そのまま都の養護施設に収容された子供達もいた。ただ都の「復帰学童調査」資料には一通り帰京させた後に現地残留の児童が1万7051人いたある(記録作家金田茉莉の調査)。つまりこの児童たちは引き取り手がなくて残されたのである。そして先に親戚などに引き取られた孤児を合わせるとおよそ3万4000人、さらに18年(1943)からの縁故疎開で孤児になった子供も合わせると6万人以上になるのではと金田は言う。そして彼らに対してどういう措置を取ったか、公の記録はなぜか途切れている。
『東京都戦災誌』の中では、疎開中に両親を失い孤児となったもの1169名、そのうち縁戚の引き取り手のない孤児は345名とあって、多摩地区の寺院などに設置された「学寮」に収容されたとある。ただ筆者が他の資料を付け合わせてみると、この345名は主に3月10日に大空襲に遭った下町三区の児童に限られている数字であり、しかもこの三区だけでも潜在的には一桁は多いはずである。また都の対策の中には疎開先で「戦災遺児」となった子供の調査と援護を十分にするようにとの記述はあるが、戦災誌発行の昭和28年(1953)の時点でもその後どのように対策されたかは記されてない。これは『戦災誌』の中でしばしば見られる書き方で、つまり当初の通達や計画だけを記すだけに終わっている。しかも疎開せずに家族と一緒にいて、空襲の中で一人残された孤児に対する記述すらない。あるのは家と家族を戦災で失って街中に浮浪する「浮浪児」対策だけである。
【学童疎開の記録も焼却処分】
どうしてこの戦時下のにおいて、一番の弱者となった孤児たちの記録がまともにないのか、それはこの孤児たちに対するまともな施策が取られなかったことが一番大きいであろうが、それに加えて、すでに述べているように敗戦直後に軍関係の書類や徴兵し、出征した記録の兵事関連資料も全て焼却された影響も大きい。これはこの戦争を推進した軍政府が自分たちに不都合な事実を抹消しようとした結果である。軍需工場への学徒勤労動員の記録も含めて(これは各女学校の記録を筆者が調べて見出した)、この集団疎開の記録についても「3月10日以降に被災した学童疎開の記録は、8月15日の敗戦から数日かけてすべて焼却処分にした。我々若輩者は上の命令に従い、校庭で毎日、書類の束を燃やした。そして箝口令が敷かれた」と元教師から聞いたと金田は述べている。驚き、呆れた話である。残されているのは上記のように疎開先に児童を送り込んだ記録だけである。大量の戦災孤児を隠したかったのかどうなのか。なぜ秘匿しなければならなかったのか。そのために行き場のなくなった孤児たちを日本政府は打ち捨てた。この戦争の全体が実に無責任な軍と政府によってなされていたことがこのことだけでもわかる。敗戦となったこの戦争自体をなかったことにしたかったのであろう。それなのに「聖戦」とか「正義の戦争」と子供たちに教え、煽っていたのである。しかし時々学校によって、その疎開中に孤児となった子供や、戦災死した子の数がまとめられているのは、その学校の教師の日誌が個人的に持ち帰られ残された事例とか、個々の教師の使命感で調べ直されて、きちんと記録が残された事例によるものである。
これら学童集団疎開と孤児については各区で別記しているが、後述の「戦後」の項でも触れる。
本土決戦に向けて
【戦況】
昭和19年(1944)6月のマリアナ沖海戦は日本の敗北に終わり、7月9日には日本軍は占領地サイパン島を失陥、4万数千人のうちそのほとんどが戦死、さらに民間の居留民約1万人が追い詰められ、自決等で死亡。続いてグアム島(日本軍約2万2500人のうち2万人前後が戦死)、テニアン島(約8500人のうち8000人以上が戦死)などが陥落し、サイパン島を中心に米軍は超大型爆撃機B29や戦闘機を大量に配備し、日本本土への空爆を準備、11月24日より東京を中心に連続爆撃を開始した。フィリピンでは10月から米軍の奪還作戦が始まり、日本軍の50数万人に対して米軍100数十万人との大戦闘が終戦まで続き、この間にフィリピンの住民100万人以上が犠牲となった。3月下旬、日本の生命線とされる硫黄島が陥落、日本軍守備隊2万1千人近くのうちほぼ2万人が戦死。これに続いて同じ3月下旬、米軍は沖縄への上陸作戦を開始、激戦は3ヶ月続き、結果的に両軍合わせて20万人以上が戦死、そのうち県民の死者が半数であり、その中で少年も兵として徴集され、戦車に爆弾を持って突撃させられた例もあり、また女学生部隊も追い詰められ自決、住民も多くが隠れた洞窟などで自決した。これはサイパンの場合も同様であるが、米軍に降伏したら女性は凌辱される、たとえ捕虜となっても殺されるなど酷い目にあうからと洗脳していたことによる。しかも戦陣訓の「生きて虜囚の辱め受けず」との言葉が広まっていて、しかし実際に米軍は中国における日本軍と違い、国際法を遵守しており、捕虜を虐待・虐殺したりすることはなく、むしろ自決した人たちの姿に衝撃を受けていた。結果的にこの沖縄が本土決戦の身代わりとなった。
【決戦の準備と根こそぎ動員】
太平洋上の防衛要所が次々と米軍に陥落させられ、軍政府(大本営)は本土での地上戦を想定せざるを得ない状況となった。戦況が悪化していた昭和19年(1944)1月ごろから中枢機能としての大本営を、長野の松代町に移転する計画が秘密裏に進められていた。昭和19年(1944)7月、参謀総長は『本土沿岸築城実施要綱』を示し、連合国軍の上陸に備え、九十九里浜や鹿島灘、八戸に陣地構築を命じると同時に、松代へ皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための地下壕の施設工事に取り掛かることを正式に決めた。 松代町の舞鶴山を中心として象山、皆神山を貫いて、碁盤の目のように掘り抜き、その中に大本営、政府各省、日本放送協会、中央電話局、舞鶴山の地上付近には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省が予定され、その延長は約10km余りに及んだ。関連施設は善光寺平一帯に造られる一大遷都計画であった。また長野市松岡にあった長野飛行場が陸軍により拡張工事が行われた。昭和19年(1944)下旬より米軍による本土への本格的空襲が始まったが、その二週前から翌20年(1945)8月15日の終戦の日まで、およそ9カ月の突貫工事をもって、全工程の約8割が完成するに至る。この建設には、今でいう中高生の勤労動員生(学徒隊)や朝鮮から集められた労働者その他土地の臨時要員が従事している。これは八王子での中島飛行機の地下疎開工場を建設する時の動員のやり方と同様である(八王子参照)。しかも長野市のサイトでは当時の関係資料が残されていないとあり、ここでも終戦時に軍事資料の焼却がなされていることがわかる。
なお、海軍はやはり本土決戦に向けて昭和20年(1945)4月、横浜港区の慶應大学日吉校舎に連合艦隊司令部の地下壕を作り、また東京港区にも東京湾防衛用の地下壕を作っていた。(港区参照)
軍は当時の敵情分析をして、連合国軍が本土に侵攻してくる時期を昭和20年(1945)秋と予測していた。前年にマリアナ諸島を喪失した頃、日本陸軍の総兵力はおよそ400万人であったが、そのうち日本本土にいたのは約45万6千人で、本土防衛戦を行うには兵力が決定的に不足していた。そこで大本営は本土決戦用に徴兵の枠を広げて臨時動員を計画し、まず2月末には沿岸配備のために第一次兵備が発令され、総人員32万、馬匹6万が動員された。続く4月には第二次兵備が発令され、これを補充するのに満州などの部隊の内地転用命令も出された。この時は現役が多く、装備ともに良好の精鋭揃いだった。第三次兵備は「根こそぎ動員』と言われ、5月下旬に発令され、その中には朝鮮人の傭兵も含まれていて、第一次兵備のと較べても、兵数・火力とも劣り、まともな銃剣や弾薬も持たされず、「かかし兵団」といわれた。これら三度にわたる根こそぎ動員は一度ならず兵役を終えて帰還していた在郷軍人や予備役と言われる一般の職業に就いている待機軍人たちを残らず招集するものであり、軍属としての臨時雇用もあった。その人員は軍人・軍属合わせて陸軍225万人、海軍130万人に達した(陸軍315万人、海軍150万人という説もある)。以上のほか、本土の軍部隊の増加に応じた軍民関係調整を図ることなどを目的に、憲兵の大幅な増強も行われた。正規憲兵だけで1万4203人に及び、さらに補助憲兵9222人も増加配属され、国内憲兵は一挙に3倍となった。
3月10日の大空襲を受けるに及び、事態は一層逼迫してきた。4月、大本営は連合軍上陸の際には各方面軍が独立して最期まで戦闘にあたることと『決号作戦(本土決戦)準備要綱』を通達した。しかし6月下旬、前哨戦としてあった沖縄は三ヶ月の激しい攻防の末、多大な軍民の犠牲者を出して陥落した。その敗北した戦闘をも分析、学習しようとせず、軍政府は日本軍の面目をかけて本土決戦に執着していたことがわかる。つまりその面目のためには国民をいくら犠牲にしてもよいということである。
【義勇兵役法】
この沖縄戦の敗北がほぼ決まった6月22日、義勇兵役法が公布され、即日に施行された。「本土決戦」に備えて、決定的に不足する戦闘要員確保の目的で、兵役法の徴兵対象を拡大し「真に一億国民を挙げて光栄ある天皇親率の軍隊に編入」するという建前でもって、兵役法対象外である若年者・高齢者・女性も対象に取り込まれ、男子15歳−60歳、女子17歳−40歳を対象とし、全国民を軍事組織化することを意図して制定された。
翌23日、「国民義勇隊法」が成立。大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会、自主防衛隊などを国民義勇隊に吸収・統合し、対象年齢は、小学校卒業の12歳からの男子65歳まで、女子45歳以下とされた。任務としては、上記義勇兵を支援するもので、防空、食糧増産、空襲被害の復旧、工場の疎開工事、陸海軍の陣地構築などの補助などに出動させるものであった。小磯内閣の掲げた「一億玉砕」の精神を形にするもので、もはや戦争末期の悪あがきの施策であり、沖縄の悲劇を懲りることなく本土でも再現しようとしている。この義勇隊は学校内でも組織され、男子65歳とは当時の会社の定年は50歳であり、まさしく「根こそぎ動員」であった。上記の国内軍人の大幅増員に加えて、国民義勇戦闘隊は2600万人とされ、玉砕戦法により本土を死守すると定められた。これはいわゆる民兵組織であった。しかし兵器の材料は何年も前からの金属供出令によって使い尽くし、材料も設備も不足し、熟練工員も戦地に行って足りず、正規陸軍部隊でも新設部隊の多くには小銃すらわたらず、国民義勇戦闘隊に至っては農具や竹槍で武装するしかなかった。こうした状況の中の起死回生策として、残り少ない戦闘機を使っての(神風)特攻隊は生まれたのである。
またこの時期、米軍は地方の小都市にも爆弾を落とし、集団疎開していた小学生の疎開先のそこかしこで防空壕も掘られていた。子供たちは本土決戦となったら自分たちも戦うのだと信じていた。単に竹槍などではなく「場合によっては私たち子供でも爆弾を背負って敵の戦車の下に飛び込む気概でいました」と語っているのは、当時小学四年生だった方である。満州事変当初ではこれと似たような手柄話が教科書に載せられていたこともあり(1932年の第一次上海事変で敵陣を突破して自爆した爆弾三勇士の話)、実際に3−6月にかけての沖縄決戦では地元の中学生が軍の部隊(陸軍中野学校出身の特殊部隊:中野区参照)によって、そのような突撃をさせられたという実話が残っている。この時代の教育の成果である。
ちなみにアメリカ軍はこの年の春頃より日本周辺の海上封鎖を着々と行い、南方や満州から本土への食料移入、さらに北海道からのジャガイモの輸送などもできなくなったこと、そして燃料欠乏と漁船すら攻撃されることから漁業も難しくなったことなどで、国民の食糧事情は悪化する一方であり、食糧配給量の切り下げが相次いでいた。こうした窮乏の中で本土決戦が叫ばれていたわけである。ましてや東南アジアなどの外地の前線の兵士たちにも食料の補給ができるわけもなかった。そのため、230万人とされる戦死者の約6割が餓死となった。ただし中国戦線は別で、国土の広い中国の中で日本軍は8年に渡り各地で戦闘を続けていて、自由自在に農村に押し込んでは食料などの「略奪」を重ねていた(略奪だけではないことは、筆者の「昭和12年」など参照)。
東京満蒙開拓団
満蒙開拓団(冒頭の概略のなかの「ソ連軍の満州への侵攻と惨禍」参照)として比較的知られ、悲惨な体験をした長野県などの農村の集団移民以外に、東京の各地からも開拓団は募集されていた。昭和初期には不況と冷害による凶作で農村からの人々が流入していた。東京都では当初この人々を対象にして開拓団として送り込んだ。昭和7年(1932)6月10日、当時の深川区塩崎町(現・江東区塩浜)に無料宿泊所としてあった天照園で、満州農業移民を送り出すための送別会が約300人によって催された。全員この園の収容者で、この2週後に横浜港を出港して大連に向かった。拓務省による試験移民の4ヶ月前である。
昭和5年(1930)失業者対策として大田区に多摩川農民訓練所が設立された。これが後に東京府拓務訓練所となり、昭和10年から14年(1939)までの間に434名を送り出した。拓務訓練所はこの年から南多摩郡七生村(現・日野市)に移され、ここから第六期まで458名を満州に入植させた。このほか14年に板橋区の大泉に、翌15年に三鷹に東京の訓練所が設置された。満州での開拓が進むにつれ、独身男性から伴侶としての「花嫁」が求められ、多摩川訓練所とともに大泉の訓練所は「女子拓務訓練所」に切り替えられた。そして訓練を終えた花嫁候補者は満州から一時帰国した男性たちと見合いをし、合同結婚式を挙げ、一緒に渡満した。あるいは相手方男性の写真だけ渡されて渡満し、現地で結婚するという極端な例もあった。
全国的には地方の貧しい農村から開拓団として多くの農民が家族で満州に渡ったが、東京では昭和15年から小さな伊豆諸島の新島からも開拓団が分村として名乗りを上げ、式根島、三宅島、神津島合わせて220戸644名が渡満した。一方で都内では戦時下の軍需産業へのシフトで失業した中小商工業者やその従業員が多く、その転廃業対策として満州へ送り出す訓練所もできた。特に昭和17年(1942)から東京商工会議所が積極的にこの施策を進めた。そして18年から品川区の武蔵小山商店街を中心とした転業者1039名が荏原郷開拓団として一年がかりで送り出された。ほぼ家族ぐるみでそのうち4割は子供であった。このほか開拓団は東京からは20年(1945)半ばまでの開拓団(9116人)と満蒙開拓青少年義勇軍(1995人)、合わせて約1万1111人が中国東北部に送り出された。
相応の試験期間を昭和10年(1935)ごろに終え、この満洲への開拓団募集にあたっては「新天地」における理想郷建設として政府は大々的に募集した。入植地は現地農民の耕作地を強制的に安値で買い取るか未開拓地を占領することで行われた。中には現地農民をそのまま小作人のように使役する場合もあり、当然自分の土地を奪われた農民たちに禍根を残すことになった。また陸軍部研究班がまとめた昭和15年(1940)の報告書の中には「中国人に対する優越感から生じる差別、蔑視、蛮行、紛議は日本人の老若男女を問わない」「開拓民が中国人に対し殴打暴行は甚だしきは殺害するに至っており、反省を要する」などとあるから、抑圧された現地住民によるゲリラ的組織も生じさせ、開拓団は時折襲撃を受けるようになった。このような武装集団を日本側は匪賊と呼んでいる。それを予測してであろうが、政府は入植者集団を送る前に満州武装開拓団を早くから送り込んでいる。また武装開拓団はソ連との国境地帯を防衛する役目も兼ねていた。いずれにしろこの国境付近は、冬は零下30度にもなる寒冷地で、その土地の開拓は困難を極めた。
一方、荏原郷開拓団が入植した興安(現・内モンゴル自治区)の場合、入植から一、二年後の昭和20年(1945)8月9日未明(長崎への原爆の直前)、ソ連軍の突然の満州侵攻により惨劇が生じた。興安は8月10−11日にソ連軍の爆撃を受け、約3千人いた興安の居留民は避難することになり、東西の二班に分かれ、西の班は先に貨物列車に乗って脱出したが、東半分の住民は集合に手間取り、すでに列車はなく、馬車や自動車も含めて、住民を守るはずの関東軍や諸官庁の職員が先に使って逃げていた。そこで葛根廟駅への列車の到着を待って南下するという計画にし、12日から移動を開始、14日に葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車部隊と歩兵部隊に遭遇した。ソ連軍は丘の上から避難民に対し戦車と機関銃で攻撃を加え、時には人々を轢き殺しを何度も繰り返し、最後には銃剣で止めを刺していった。その多くは女性子供であり、1000人以上が犠牲となり、残った人々の多くは自決し、生存者は百数十名とされている。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった(注:葛根廟事件。なんと残酷なと思われるが、同様なことは特に日中戦争突入以降、日本軍も中国で行っていた。筆者の「日本の戦争:昭和12年」参照)。
また同じ興安の居留民の中に約3割を占める荏原郷開拓団の人々もいた。彼らも脱出を試みたが追い詰められ、8月17日(つまり降伏した二日後でその情報は届いていなかった)に一部の人々は集団自決し、残った大半の人々は、逃避行中、飢えと病のために力尽き、800人余りの人々が無残に死亡した(品川区参照)。さらにこの興安の荏原郷の人たちの近くには港区麻布材木町にあった乗泉寺の信徒が仁義仏立講開拓団として入植していて、その彼らも680名中、戦死・自決469名、生還はわずか20名だけだった。(荏原郷開拓団の逃避行で残留孤児となり、その後も過酷な体験をした人の語りは、筆者の「各種参考資料」の中の「満洲開拓団の死の逃避行—— 須田初枝のライフヒストリー」参照)。
こうした開拓団の流れとは別に、昭和17年(1942)農林省により食糧増産対策の一環として満洲国報国農場が企画され、翌18年、閣議決定し推進された。それを受けて東京都では新京特別市(現・長春)と吉林省扶余県の二ヶ所に報国農場を設置した。これは満州開拓団とは別に青年男女を募って6ヶ月間、勤労奉仕隊員として農場の仕事に従事させた。その中には戦時下で転廃業を余儀なくされた商工業者(上記荏原郷のような)の若者も含まれていた。3月に先遣隊が渡満し、その一年目は準備を行い、秋の収穫を得て厳しい冬を越して昭和19年(1944)には農場の施設を充実させた。三年目は農場の基礎も固まり、この年の隊員は特に日野市七生村と青梅市霞村の出身者が多かった。新京では3月から6月までに第3隊まで(男性27名、女性37名)が送りこまれ、充実した農民生活を送り始めた。そしてこの年の実りを迎えることなく、農場はあっけなく崩壊した。8月9日午前1時ごろ、新京市街方面に照明弾の明かりが見え、爆発音が聞こえた。……(この後の経過のついては筆者の「各種参考資料」の中の「新京報国農場からの脱出状況」参照)
また東京農業大学の学生たちも報国農場に参加し、満州北部のソ連との国境近くに農場を設立した(その悲惨な結末は筆者の「東京都の大学・女学校」の中の同大学を参照)。
(以上は主に『東京満蒙開拓団』高橋健男編著:ゆまに書房、2012年より)
この他にも鶏寧県麻生区における哈達河(ハタホ)開拓団の421名に及ぶ集団自決事件(麻山事件)、高社郷開拓団の514人に及ぶ集団自決、東安駅で列車で避難しようとしていた黒咀子開拓団851人が出発間際に日本軍の仕掛けた爆破に遭い、死者557人(死者526ともあり、行方不明236ともあるが、これはその後の逃避行における不明者か)を出すなどがあり、このほか100人から数百人単位の各開拓団の犠牲者は数知れない。その後生き残った人たちの日本への逃避行(数ヶ月かかっての徒歩による)における苦難は比較的多く語られているが、途中で赤ん坊が餓死したり、あるいは足手まといになるとしてやむをえず殺してしまったり、子供を生かすために途中の村の中国人に預けたり(中国残留孤児)などの話は尽きない(ただしほとんどが死亡した開拓団もあり、その場合、語られる悲劇すら聞くことはできない)。また朝鮮半島経由で帰国しようとした人たちの中には、すでに南北分断の38度線が築かれていて超えることができず、そこで死亡した人たちもいる。
実は生き延びて帰還した人々の証言は数多くあるが、開拓団を送り出した側の東京都などの資料は全くと言っていいほど残されていない。これは敗戦時に軍政府が軍事関係の記録や資料をすべて焼却処分させたことによるものと思われるが(実際に日本各地の役所においても出征記録すら焼却されている)、その中で有志の方々が協力して生存者などから証言を集め、各地に残された資料を精査して『東京満蒙開拓団』を書き上げ、上梓した。戦後60年以上経っての調査であり、さぞ困難を極めたであろう。(筆者私見:日本の民間人のこうした地道な努力にはしばしば頭が下がるが、一方で施政側の役人というのはどうして常に無策というか、むしろマイナスになるようなことしかしないのはなぜなのか)。なお、10数年間で満州への送出移民総数は約27万人、それ以外に青少年義勇軍は約8万6000人であったが、終戦時の在満日本人約22万人中、死亡・行方不明約8万2000人、ソ連に抑留された者約3万6000人とされている。
なお、『東京満蒙開拓団』では、「在長春地方日本人救済総会の記録によれば、昭和21年1月末における長春(当時は新京)在留邦人は19万7800人(内男9万3200人、女14万1400人:計算ミスで、在留邦人数は13万4600となる)であるが、終戦より翌年3月にいたる8ヶ月間の死亡者は実に2万5400人の多数を集し、その死亡率は33%(これも計算が合わないが、33%を基準にすると約7万7000人で、長春地区に限定すれば相応な数になる)に達する。長春は既往者と流人避難民が相折半されているので、これを全満法邦人の死亡率として認め得るとすれば、終戦後8ヶ月間の全満死亡累計は16万に上る計算になる」とある。この数字の正確さは別として、ここで注目すべきは「(戦後の)8ヶ月間の死亡者は実に2万5400人」ということである。満州だけでなく東南アジアの戦線においても軍の主な将校たちは敗戦となって占領地の居留民や兵士たちを置いて先に逃げ、さらに日本政府は、相手国政府と何の交渉もせず、彼らを救済する具体的処置を取らなかった。(それはそうであろう、敗戦とともに、政府は国内外のすべての記録・資料の焼却を命じ、この戦争をなかったことにしようとしたのである)
戦後の出来事
戦後処理
【降伏文書調印】
昭和20年(1945)9月2日:東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリの甲板上において、ポツダム宣言受諾による降伏文書が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)との間で調印された。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は8月30日に神奈川県厚木飛行場に着任していて、その先遣隊は26日に到着し、28日には海兵隊を横須賀周辺に上陸させていた。
このGHQはアメリカ以外にイギリス、中華民国(後の台湾政権で、現在の共産党政権はまだ国として存在しなかった)、ソビエト連邦(ロシア)、カナダ、イギリス領インド、オーストラリア、ニュージーランド、フランス、オランダ、アメリカ領フィリピンの11カ国で構成されていた。つまりこれらの国々は日本軍によって侵攻された国々(主に植民地として支配していた国々で、実際にはイギリス領であった現在のシンガポール・マレーシア・ビルマ=ミャンマー、オランダ領であったインドネシア、フランス領であったベトナム等がある)であり、その陣容はアメリカ軍が約75%、その他で約25%あった。
GHQは、まず日本の軍隊を解体し、思想、信仰、集会及び言論の自由を制限していたあらゆる法令の廃止、特別高等警察の廃止、政治犯の即時釈放などと、政治の民主化や政教分離などを徹底するために大日本帝国憲法の改正、財閥解体、農地解放などを指示した。ただしGHQ、特に米軍側からの言論統制は存在した。とりわけ無差別空爆や原爆のことに触れることはしばらく禁じられた。この占領方式は、GHQの指令を日本政府が実施する間接統治で、GHQが日本国政府へ関与し、その指示や命令を日本政府が政策として実施した。そして新たな日本国憲法が昭和21年(1946)11月3日に公布され、翌年22年(1947)5月3日に施行された。昭和27年(1952)4月のサンフランシスコ講和条約発効とともに連合国軍最高司令官総司令部は活動を停止し、日本は一応独立国として歩みを始めた。
【ソ連(ロシア)への抑留】
一方で、終戦の土壇場になり日本へ侵略したソ連軍は、国力の問題や英米の反対により部隊を置かず、東京など日本国内数か所に駐在武官のみを送るに止めた。その代わりソ連は満州の日本軍を捕虜とし、軍人以外の男性も含めて当初の記録では57.5万(65万人との説もあるが、2014年のNHKの調査でロシア国立軍事公文書館で70万人の名簿が確認された)の人々を極寒のシベリア等の70ヶ所を超える地に連行し、強制労働させた。その結果5.5万人が死亡したとされる(確認されただけで、もっと多いとの説もある)。また女性も数百人捕虜にされていて、軍や特務機関にいた看護婦や電話交換手、タイピストであり、通訳らはスパイ容疑をかけられ、「戦犯」にされたという。そして抑留中に死亡したり、ソ連に残留して帰国できなかったりした女性もいた。
昭和22年(1947)から日ソが国交回復する昭和31年(1956)にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われたとあり、現地で結婚等し、多少残留した人たちもいたらしいが、数が合わない。一説には数十万人が死亡したともあり、70万人と差し引きすると20数万人となり、合ってくる。満州難民にしても、南洋諸島の戦死者とその遺骨収集にしても同様であるが、このシベリアに関しても、日本の政府の対応というのは行き当たりばったりで、国民を巻き込んだ戦争責任をきちんと果たしていく姿が見えない。例えばどうしてNHKの調査で分かることが国でできないのか、同様な事例はあちこちにあり、日本人は勤勉であると筆者も思うが、官僚・役人のレベルになるとなぜか不勤勉さが極まる。
(下記の<平和祈念事業特別基金と平和祈念展示資料館>参照)
【食糧危機と米国の援助】
8月下旬には米軍を中心とした連合軍が日本本土に上陸してきて、9月8日に東京に進駐した。しかし戦時中からの食糧不足は相変わらずで、さらに戦地からの引き揚げ者が増えてきて、深刻化してきた上に、この年の秋は凶作となった。都内でも自宅の庭や空き地に野菜作りに励む人が多かったが、食料を手に入れるため、ちょうどインフレも重なってお金の価値がなくなり、人々は物々交換で衣類や貴重品を持って近郊の農家や田舎に行き、食料を手に入れてくるケースも増えた。戦前に続いてまだ物資は統制下にあり、配給品でまかなうのが原則で、それでは足りないからであったが、闇取引は取締りの対象であった。せっかく田舎から手に入れた米も、帰りの列車の中で警察に没収されるケースもあり、当然食にまつわる犯罪も増えてきた。新宿や池袋、上野などの主要駅には闇市が急速に増えてきた。東京へ流入する人々も増え続け、翌21年(1946)3月、政府は都会地転入抑制緊急措置令を発し、転入制限を行った。
それらを見て占領軍は支援を検討し、とりわけ戦時中に追放された米欧のキリスト教系学校の宣教師たちが日本に帰ってきて、LARA物資(アジア救援公認団体)を中心として食料その他を大量に緊急輸入するために動き、これが学校の給食などに回され、日本の子供たちは救われた。米国は日本の破壊と救済を合わせて行ったことになる。ただこの裏で、米国は戦後の生活不安と食糧危機の混乱の中、日本に社会・共産主義が台頭してきていることを恐れて、積極的に支援を拡大したという側面もある。
昭和25年(1950)に朝鮮戦争が勃発、北からの共産主義政権の侵攻に対して米国が全面的に関わり、基地としての日本は軍需景気が起こり、それが日本の経済復興と発展のもとになった。昭和27年(1952)に日米講和条約が発効され、形式上は日本の主権が回復されたが、基地の問題を見ても従属関係はいまだに健在で、米国の意向を忖度した上で物事を決めるから、日本の国際的な発言は弱いままである。
【被災者対策】(『東京都戦災誌』より)
戦災によって都内の住宅の喪失は88万3497戸、それにより縁故疎開などで人口は半分以下に減り、約400万人の人々が流出していた。しかし自宅の焼け跡や防空壕跡にバラック小屋、つまり仮小屋を作って住んでいる人たちが、敗戦の翌月現在で約31万人、翌年1月の統計ではやや増えている。住宅の確保は喫緊の課題であったが、とても間に合わず、焼け残った小学校の教室や、元軍事施設や工場の宿舎、寺院などを住まいにあてた。それに並行して都は迫り来る冬に備えて毛布や布団を地方から仕入れて配給も行なったが、それも足りているわけではなく、都は戦時下にみんなが使っていた防空頭巾を回収し、布団に作り直す手配も行なった。臨時の防寒用であろうが布が足りず「紙チョッキ(ベスト)」も作られている記録がある。
とりわけ生活困窮者に対しては各種の法令による生活扶助費の補助、臨時救済事業として無料医療券の発行、給食、宿泊施設の供与、生産資金の供与、その他軍用衣料の返還物資を無償供与することなどの対応をした。さらに空襲死亡者に対して陛下より御下賜金(現在の金額で数万円)があると発表され、同時に「東京都戦時災害見舞金支給要綱」に基づいて支給されることになったが、いずれも混乱の中、調査も伝達も十分でなく、1、2年で終了となった。実際に家を焼かれたが、国から支給されたのは毛布一枚だけという証言が多い。
総じて政府は従来の母子保護法、軍事扶助法、医療保護法、戦時災害保護法等をまとめて「生活保護法」を21年(1946)9月に成立させ、一世帯あたり平均500円前後(現在の価値で20−30万円)支給し、約8万世帯、28万人が受給した。しかしこれはその告知を知って自身が届け出をするわけで、しかもまだ都内に戻れない人も多くいたはずで、十分に行き渡っていたとは言えない。ましてや自分で訴える手段を何も持たない戦争孤児が救済されるわけがなかった。
【引揚者対策】(同上より)
上記のような対策で、東京都の民政局は相当忙しかったのではないかと思われる。その上に戦地からの復員軍人や外地居留民の引き揚げなどへの対処が重なった。引き揚げは主に中国、満州、朝鮮、台湾に居住していた人たちで、何しろ彼らの住居がすでに日本にないから、その手当が必要であった。そのためにそれまでの(恩賜財団)戦災援護会を新たに同胞援護会と改称し、昭和21年(1946)3月より戦災と引揚の両者を合わせて一本とした援護機関にしたとある。そしてこれに海外の戦地からの復員軍人が加わる。これが正しい方策であったかどうか、その後戦災被害者と孤児が打ち捨てられていく経緯を見ると、疑念が残る。
この21年(1946)3月の時点で援護の対象となったものは、「戦災者:約162万人/ 外地引揚者:約5.5万人/ 復員軍人:25.5万人/ 軍人遺族:8万人/ 傷痍軍人:7千人/ 戦災孤児:1.8千人」であるが、6月時点で特に生活困窮者に対し、金銭扶助、医療援護、生業扶助、物資支給したとあるその割合は平均的に10%以下である。また戦災孤児に関してはその対象数が極めて少なく、正確な調査すらされていない(筆者が調べた範囲では限られた区の、集団疎開中に孤児になった数のようだが、それでも少ない)ことがわかる。これについては下記に述べる。また満州は約150万人の日本人が居留していた地区であり、終戦間近にソ連(ロシア)の急襲を受け、ほとんどの人が難民となり、この時期にまだ帰れない人たちが多くいて、その他の国々からの引き揚げも考慮に入れると、都内に限っても引揚者が10万人以下ということはあり得ない。実は3月10日の大空襲を受けて住まいを失った多くの人たちの中に、そこから満州に渡り、半年経たないうちに終戦となり、行き場を失った人たちもいたのである。
特に外地引揚者については都区外の三多摩地区を中心として、母子寮も含めて引揚者のための長短期収容所が30数カ所用意されているが、十分であったかどうかは記されていない。記録された概数は約6千人に過ぎない。またこの記載の中に、傷痍軍人援護に関しては十分な援護ができなかったとあるが、戦災孤児に関しては万全な援護を期しているとあって、何をもとにそう書いているのか、様々な孤児の証言を読んでいて、国や都の施策に助けられたという記述は実際には一編もない。
しかもこの『東京都戦災誌』は昭和28年(1953)発行であり、どうしてその後にも次々と生じているはずの引揚者たちに対する各種の新たな施策が書かれていないのか、例えば膨大な戦災死者を公園などに仮埋葬した遺体を、昭和23末から26年(1948末~1951)にかけて改葬(火葬)したこととその明細や、その頃までの新しい慰霊の施設、設備などは意味のないほどに細かく書かれているが、生きている人に対する手当が抜け落ちているのはなぜなのか。いずれにしても、自分で声を上げられない孤児に対する施策は、目の前に押し寄せる具体的に声を持つ大人の引揚者などへの対応に追われ、ほぼ忘れ去られたように思われる。
軍の将校たちの自決と戦犯としての裁判による処刑
【次々と自決した将校たち】
敗戦に絡んで自決した軍人関係者は、神風特攻隊を創設した大西瀧治郎海軍中将/当時の陸軍大臣の阿南惟幾陸軍大将/太平洋戦争開戦時の参謀総長で元帥、第一総軍司令官であった杉山元/敗戦時に東日本の本土防衛を担う第12方面軍司令官であった田中静壱陸軍大将らのほか、合計で自決将兵527人の名前、階級などがあげられている。大将、中将クラスの自決としては内外合わせて陸軍30名、海軍5名の計35名である(「自決―終戦殉国者の記録」永松浅造著:自由アジア社、1962年による)。
阿南は8月15日、終戦の詔勅が発せられる日の未明、それを阻止しようとする「宮城事件」(千代田区参照)の計画を受け、早朝に割腹自決。大西は詔勅の翌日に割腹自決。杉山は陸軍大将の阿南が先に自決したため、陸軍の長老として敗戦に伴う混乱の収拾に当たる必要から延期した後、9月12日に拳銃四発をもって自決した。その後夫人が後を追って短刀で自決した。杉山のもとで副司令官をつとめていた吉本貞一大将は杉山夫妻の葬儀をすました二日後、司令部の自室で割腹のうえ心臓を拳銃で撃ち自決した。田中は宮城事件鎮圧に貢献したが8月24日に拳銃で自決。異質なのは開戦時に連合艦隊参謀長で終戦時は第五航空艦隊司令長官であった宇垣纏海軍中将で、正午に発された終戦の詔勅後の夕刻、停戦命令を無視して沖縄へ最後の特攻に出撃し、自爆した。ただし部下22名が艦爆機11機で追随し、4機が突入電を発信し、残り4機は連絡のないまま消息を絶った。どうしてここで部下を引き連れて犠牲にしたのか、他の自決した重鎮たちは「お前たちは生き残って戦後の日本の役に立て」と言い残している。
その他自決した主な人物は、本庄繁大将(満州事変勃発時の関東軍司令官)/安藤利吉大将(台湾総督、司令官)/安達二十三中将(ラバウルの第十八軍司令官)/浜田平中将(タイの第十八方面軍参謀副長)/上村幹男中将(関東軍第四軍司令官)/隈部正美少将(元第四航空軍参謀長) /納見敏郎中将(先島群島=沖縄から奄美群島の司令官)/小泉親彦(陸軍軍医:厚生大臣)/橋田邦彦(文部大臣、大日本産業報国会顧問)等である。
このうち本庄はすでに退役していたが、終戦時は枢密院顧問官の地位にあり、A級戦犯に指定されたことでその翌日(20年:1945年11月20日)、腹と心臓と頚動脈を掻っ切った。安達、安藤、上村はそれぞれの戦地で戦犯として囚われの身となり、獄中で自決した。安達は20年(1945)9月13日、ニェーギニアにおいてオーストラリア軍に降伏調印したが、その後戦犯として百数十名の部下とラバウルに送られた。そして一年後、果物ナイフで割腹したうえ、自分で自分の首を締めた。安藤は上海の監獄の中で、21年(1946)4月19日、服に縫いつけていた青酸カリによって自決。上村は戦後シベリアに抑留されハバロフスク収容所にいたが、21年(1946)3月23日、自決した。納見はこの戦争で最大の悲劇を産んだ沖縄の戦闘に関わり、20年(1945)9月7日に米国陸軍大将との降伏文書に調印し、これにより沖縄戦が公式に終了となったが、12月2日、連合国はA級戦犯として納見の逮捕命令を出すも、納見は宮古島に渡り12月13日に自決した。
【極東国際軍事裁判=東京裁判により処刑された将校たち】
太平洋戦争開始前に首相であった近衛文麿は、戦犯とされることを「堪え難い」として、GHQに召喚される前日(20年:1945年12月16日)に服毒自殺した。しかし近衛の後に首相となり、太平洋戦争を積極的に推し進め、自分が発した『戦陣訓』(内容は「各種参考資料」参照) の中に、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」との訓言を掲げた東條英機は、それによってサイパンや沖縄で追い詰められた住民に多くの自決者を出しながら、連合軍GHQによってA級戦犯として捕らえるという「虜囚の辱を受け」、東京軍事裁判でA級戦犯として処刑された。ただ東條は、GHQから召喚のあった9月11日、短刀と拳銃を用意して一度自決を図った。しかし彼は、その拳銃の一発が急所を外れてそのまま生き残り、そして米国の陸軍病院に移されて治療されるという「辱め」を受けたから、狂言自殺をしたとの噂も立った。「自室で割腹のうえ心臓を拳銃で撃ち」自決した軍人とは大違いで、少なくとも切腹する勇気もなく、拳銃の一発で止めてしまったからそう思われても仕方がない。どうして自分が(陸軍大臣として)軍人に求めたように潔ぎよく自決できなかったのか、この戦陣訓で内外の戦地で軍人や住民に多くの自決者を出した責任をどうして自覚できないのか、そのような自分が恥ずかしいと思わなかったのか。世間は東條が真っ先に自決するだろうという期待も裏切り、自認する天皇の一番の忠臣としても責任をも果たさなかったと見た。そのような腹も据わっていない一人の、言葉だけの愚昧な男が、この大規模な悲劇を内外に引き起こした戦争を指揮していたと考えると気が遠くなる。それによって息子たちを戦場で失った親たち、空爆で両親兄弟姉妹を失った孤児たちのことを対比して考えてみればよい。そうした事実にも思いを致して責任を感じることのできない人物なのである。東條の信奉したあのヒトラーですら、最後は自殺している。
東京裁判でA級戦犯容疑として起訴された者は120名、そのうち不起訴になった者は78名(うち自殺6名、病気等による者5名)で、最終的にA級戦犯として裁判に持ち込まれた者28名、結果として死刑は東條を含めて7名、終身刑16名、5名は病死等で免責された。東條以外に死刑となったのは以下である。
板垣征四郎:昭和6年(1931)の満州事変と満州国建国に関わり、関東軍参謀長として活動、日中戦争中に陸軍大臣、支那派遣軍総参謀長として戦争を推進した。
土肥原賢二:板垣と同様に満州事変と満州国建国に関わり、日中戦争では師団長を経て第5軍司令官。その後陸軍大将となり、シンガポール第7方面軍司令官を務めた。
松井石根:日中戦争開戦時に上海派遣軍司令官として参戦、上海戦を経て中支那方面軍司令官として南京戦を主導、南京事件等によりその監督責任を負った。
広田弘毅:外交官を経て満州事変後に外務大臣となり、中国との交渉で「広田三原則」を提示、それが交渉の桎梏となり日中戦争に至った。開戦前に一時首相を務め、本人は戦線の不拡大方針であったが日中戦争期の外務大臣としての責任が追及され「彼の不作為は、犯罪的な過失」とされ、一票差で死刑となった。
木村兵太郎:昭和15年(1940)に関東軍参謀長、その後太平洋戦争開戦時の陸軍次官を経て19年(1944)8月、ビルマ方面軍司令官。しかし翌年に英軍の進撃を受け、戦線を放棄して逃避し大混乱を生じさせた。またビルマ方面軍管下の捕虜・一般人の虐待に関与したとされた。
武藤章:日中戦争以前から関東軍の工作に関わり、その開戦にあたって参謀副長として中国侵攻作戦の一翼を担い、開戦後は中支那方面軍参謀副長、その後の太平洋戦争では山下奉文大将の参謀長として活動した。
東京裁判ではないが、この山下奉文は太平洋戦争開始時のマレー作戦の最高司令官であり、のちに米軍に対するフィリピン防衛戦を指揮して戦闘は苛烈を極めて軍民に多大な犠牲者を出し、終戦時は第十四方面軍の司令官としてフィリピン・バギオの山中にいた。周囲は山下の自決を心配したが、下山して正式に降伏、マニラの法廷に立たされ、翌年絞首刑となった。このフィリピンでは日本の多くの将兵が餓死などで無名戦士となって、骨すら帰還できないままとなっている。
上記の東京裁判においてA級戦犯として死刑となった東條を含めた7名のうち、木村を除いた6名は満州における関東軍の侵攻作戦から日中戦争に至る動きに深く関わっている。東條の場合、あまり知られていないが、昭和10年(1935)より関東憲兵隊司令官、12年(1937)から板垣の後任として関東軍参謀長として活動し、表の日中戦争(上海戦から南京戦)に並行して行われた満蒙地区の侵攻作戦の中で、おそらく最初とも思われる大量の捕虜の虐殺に関わっている。(筆者の「昭和12年」参照)
なお不起訴になった者たちの中には、戦後の日本の政界に復帰した者も多く(首相になった岸信介など)、その黒幕的活動をしたり、法曹界や実業界で一定の地位を築いたりした者たちもいる。これには占領軍GHQが親米路線の協力者として判断して起訴猶予とした場合も多くあったとされる。極端な例として、中国での人体実験や細菌兵器開発で知られる日本軍の731部隊を作った石井四郎は、その機密資料を米軍に引き渡すという条件で放免されている。石井は間違いなくA級戦犯として起訴される立場であったが、米軍も狡猾な取引を行い、決して東京裁判は公平な裁判ではなかったということである。
これとは別に、日中戦争は昭和12年(1937)から8年間継続されていて(太平洋戦争突入は昭和16年:1941年12月からである)中国戦線を転戦していた将校たちに対しては戦後、中国国民党政府によって独自に裁判が行われ、南京事件を主にした裁判で第六師団の谷師団長が死刑となった。しかしこれは筆者の調べでは本命の第十六師団の中島師団長が敗戦後すぐに病死していたための身代わりとして死刑としているように思われた。その後内戦で共産党体制となり、改めて969人の日本人が撫順戦犯管理所に戦犯として捕らえられて収容されたが、長い年月の審査を経て、重犯罪と見なされた少数の将校を除き、昭和31年(1956)、ほぼすべてが釈放された。これは所長であった周恩来の決断によるもので「撫順の奇蹟」と呼ばれた。(この二件については筆者の「昭和12年」参照)。同様な釈放がフィリピンでも行われ、昭和28年(1953)、キリノ大統領の恩赦により、モンテンルパ刑務所に収容されていた日本人戦犯105名(うち56名が死刑囚)は減刑・釈放となり日本に送還され た。ちなみに キリノ大統領は日本兵により家族7人のうち4人を失っていた。
余話として、戦後60年を期して編集、刊行された『台東区戦争体験記録集』から拾った話である。
敗戦となってまもなくのこと、「この神社から何百人って戦地に送り出し、申し訳ない。みんな戦死してしまって、こういうふうに負けたというのは自分の責任だ」と言って、台東区の鳥越神社の神主が蔵前橋の真ん中で割腹自殺をした。町の人たちみんなが尊敬している立派な神主さんだったという。東條の場合と比較すれば、もって瞑すべしである。
戦時中は出征時には、みんな神社に行って戦勝祈願をして出て行った。この方は出征者たちが無事に帰ってくることを本当に心から祈って送り出したのであろう。当時は大学長ですら、生きて帰ってくると思うな、立派に戦って英霊となって帰って来いなどと言って(新宿区:早稲田大学等参照)学生たちを送り出したのである。頭で考えることしかできない大学の指導者の無自覚、自分の身に置き変えて考えることにできない無責任さがでている。軍の高級将校たちも同様である。頭の中で戦争を考えて、その浮ついた次元で国民を扇動し、現実に数百万人の国民(だけでなく海外の戦地でその何倍以上の現地の人たち)を犠牲にした。それでもって、この実直な神主のように責任を取らない軍人とはいかなる人種であろうか。
【BC級裁判】
同じ戦犯に対する裁判の中で、下士官を中心とするBC級裁判では937人にものぼる死刑判決が出され、圧倒的に下級の者への重罰の裁判となった。これらは中国を始めとして日本軍が占領した海外の地でも並行して行われた裁判で、当地における日本軍の行状に対して、地元民から直接指弾された結果である。東南アジアでは捕虜虐待あるいは殺害に対する裁判が多いが、中には殺された住民の母親などからの訴えも大きく作用している。しかし実際に手を下したBC級戦犯将兵のうち、上官からの否応のない命令で実行した場合も多くあり、日本軍の軍属として戦地に出征していた朝鮮人「日本軍兵士」も捕虜収容所における直接の責任ということで死刑に処された。国内のBC級裁判は横浜の法廷において行われ、処刑の場合は巣鴨で行われた。
国内のBC級裁判の主な対象は捕虜の扱いであったが、米軍が空爆時に追撃などされて乗員が落下傘で緊急着陸して日本の守備軍に逮捕され、そのまま略式裁判などで殺害された場合も少なくなく、戦後に米軍はそれを追跡して該当者を逮捕して行き、戦犯として裁判を行なった。しかしこれはそもそも戦争を仕掛けて内外において多数の兵民を死に追いやったA級戦犯の者たちの死刑に比べれば、BC級に対する死刑は過重であろうが、捕虜虐殺を禁じる国際法違反を徹底させるためであったであろう。そもそも戦争自体が国際法違反を内包しており、仮にも逐一の事例を追ってそれを表に出すことができるなら、米軍の爆撃もその一回一回が無差別爆撃の違反であり(必ず民間人の死者がある)、逮捕者は数えきれなくなり、あえていうなら有罪となった者たちは運が悪かったと思うほかない。
(東京裁判に関しては豊島区も参照、また処刑されたBC級戦犯に関しては、千代田区の「愛の像」参照。また戦犯者に関わる遺稿集『世紀の遺書』の一部は「各種参考資料」に掲げる)
【撃墜された米軍機の捕虜とその扱い】
日本本土への爆撃に際し、大型爆撃機B29の損失は400機以上、搭乗員の死亡・行方不明は3千人以上とされるが、主には日本軍の戦闘機の体当たり的な攻撃と、高射砲に撃墜された例もあり、故障や事故で墜落した場合もある。その中で、乗員11−12人の全員がパラシュートで助かった例もあり、全員が墜落死した例、数人が助かった例などあり、助かった場合は日本軍に捉えられ、捕虜となった。しかし、軍や憲兵に陰で殺された例、あるいはその場で村人に殺された例もある。一方で全員が墜落死した例では、その村人やお寺に手厚く埋葬され、石碑が建てられた場合もある。
終戦後、占領米軍は直ちにB29が撃墜された地区を特定して調査に向かった(その米軍が事前に掴んでいた情報には驚くものがある)。そこでパラシュートで助かった米軍兵士がどういう扱いを受けたか、墜落死した兵士がどこに埋葬されているかなどを徹底的に調べ上げた。その結果、殺された場合は聞き込みにより摘発され、軍事裁判にかけられるが、中にはその前に自殺した軍の将校もいた。一方で手厚く埋葬された村などでは米軍関係者と家族も来日して村人が合同法要を行ったりした場合もある(青梅市や東村山市など参照)。
捕虜は一般的に都内の数カ所に収容されていたが、特にB29の搭乗員62名は渋谷区の陸軍刑務所に入れられていた。ところが5月25日の山の手大空襲により刑務所は全焼し、400人の日本人囚人は解放され逃げられたが、米兵士たちは錠が開けられず焼死した。これにより所長や看守たちがBC級戦犯として軍事裁判にかけられ、全員が死刑判決を受け、その後再審により懲役刑に減刑された(渋谷区参照、また千代田区と足立区の「憲兵隊事件」参照)。なお、空襲で犠牲となった連合国軍兵士の捕虜は全国で179人とされる(POW研究会)。
その他、主に太平洋戦争初期に東南アジア戦によって日本軍が捕虜にし、日本に連れてきた欧米人の捕虜たちの都内の収容所に関しては大田区、品川区、荒川区参照。
天皇の責任と軍政府の責任回避
【GHQと昭和天皇の覚悟】
戦後、昭和天皇は占領軍GHQ(連合国最高司令官総司令部)によって第一級戦犯で処刑される可能性があった(9月10日、アメリカ議会では昭和天皇を戦犯として裁く決議案が提出されていた)。ただ基本的には、それを実行すれば日本の国民がどのように受け止めるか、そもそも日本人にとって天皇の存在とは何か、という問題から米国は戦争の終結前から検討していた。
例えばすでに日本の敗戦を前提とした昭和20年(1945)6月の米国での世論調査では、天皇の処刑もしくは追放とした意見は70%であったが、開戦まで駐日大使としてあり、昭和19年(1944)に国務次官となっていたジョセフ・グルーは、できるだけ穏やかに戦争を終結させるためには天皇制を維持すべきとした。しかしルーズベルト大統領が急死し、強硬派のトルーマンとなって、その意見はほぼ無視された(ルーズベルトが生きていれば原爆使用もなかったであろうとする説もある)。ただ最終的な米国の見解は、天皇は軍政府に利用されているに過ぎないということであった。その見解を持って、GHQマッカーサー最高司令長官の副官として来日した知日派陸軍准将ボナー・フェラーズが幾人かの日本人に問いかけ、その中でもキリスト教系恵泉学園の創立者河井道から「天皇をお救いください」との意見を得て、最終的に天皇は不起訴とされ、その数日後の9月27日、マッカーサーと天皇の会見が実現した。(世田谷区の恵泉学園参照)
この時に同行していた通訳がまとめた天皇の発言のメモに目を通していた当時の藤田侍従長が回想録に「… 陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている」として記している。——「敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と。
これに対してマッカーサーはその回顧録で「私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私はすぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」とその感動を率直に記している。
筆者私見:マッカーサーはおそらく、天皇がこれまでの戦争は軍政府が私を騙して起こしたものであると発言するのではないかと想定していたのではなかろうか。仮に天皇がそうした発言をしても、すでにその背景を理解していたマッカーサーは同意したであろう。ひるがえって我々にとっても、このような真摯な発言を率直にできる昭和天皇が、日中戦争や太平洋戦争を率先して引き起こしたと思えるであろうか。「詔勅」が天皇自身の起草によるものでないことも、それまでの軍政府がどれだけ天皇を利用して来ていたかがこれによってわかる。
【天皇の御心】
昭和天皇の老年期に仕えた元侍従小林忍の日記を共同通信が入手し、平成30年(2018)8月23日に公開された。その中に逝去の1年9ヶ月前(昭和62年:1987年)の天皇の発言として「仕事を楽にして細く長く生きても仕方ない。辛いことを見たり聞いたりすることが多くなるばかり。近親者の不幸にあい、戦争責任のことを言われる」とある。この他に昭和55年(1980)5月27日の発言として、(中国の)華国鋒首相の引見にあたり、陛下は日中戦争は遺憾であった旨おっしゃりたいが、宮内庁長官、式部官長は反対の意向とか。「右翼が反対しているからやめたほうがよいというのではあまりになさけない。かまわず御発言なさったらいい。大変よいことではないか」と小林侍従は助言したという。さらにさかのぼって昭和50年(1975)5月13日付で小林侍従は「『天皇の外交』という著作につき、戦争のつぐないとして平和外交を推進しているかのごとく広告しているが、その内容はおかしい。戦前も平和を念願しての外交だったのだからと仰せあり」と記している。続いてその年の秋に米国を初訪問した後の11月24日付の侍従長の話では「訪米、帰国後の記者会見等に対する世評を気になさっており、自信を失っておられる。天皇の素朴な御行動が却ってアメリカの世論を驚異的にもりあげたことなど申し上げ、自信を持って行動なさるべきことを申し上げたところ、涙をお流しになっておききになっていた」とある。
この中で注目すべきは「戦前も平和を念願しての外交だった」という部分であろうが、確かにそのお気持ちは本心であったろうと思われる。しかし別記しているように、その時代の天皇にはまったく情報が遮断され、ラジオも新聞も軍政府の統制下にあって、客観的な情報が天皇の耳に届くはずもなかった。ただひたすら時代状況と取り巻きの連中が悪かったというしかない。その意味ではお気の毒ですらある。その分、戦後になって戦時下のいろんな実情がわかり、大変後悔され、苦痛に打ちひしがれる場面も多々あったように思われる。でなければ側近の前で涙など流されない。
少なくとも筆者が若い頃より見聞きしてきた昭和天皇の印象は純朴な方であり、戦前にあっても権力をかざして振舞うことはなかったであろうし、むしろこの日記にもしるされているように、できるだけ周囲の意見に耳を傾ける方であった。戦時下ではかえってその姿勢が災いしたのであろう。
【日本の軍政府の管理体制と証拠隠滅という無恥】
記録作家早乙女勝元の『東京大空襲』(1971年、岩波書店)にある話で、アメリカは(広島・長崎への原子爆弾投下を含めた)戦略爆撃の効果を知るため、米国戦略爆撃調査団が昭和20年(1945)10月から、米軍人850人と日本側から300人を動員し、数ヶ月かけて調査活動を行った。その報告の中で「爆撃による人的な被害に関する日本の知識は非常に乏しく(情報が)極めて得にくかった。科学的な調査というものが全く欠けていることは信じがたいことで、ドイツがドイツ人によってその空襲の全期間を通じて集めた膨大な資料を見たことのあるものにとっては、非常に驚くべきことである」と述べている。一方で、(筆者自身がいろいろ調べているうちに)まずこの米国自身の、占領開始からの迅速で同時平行的に多岐にわたる機能的調査活動にも驚くべきものがある。さすがに大国である。
ともあれ、われわれは次々と畳みかけらるように行われた大空襲による戦災死者のほとんどが焼死と思い込んでいるが、必ずしもそうではないことがドイツの調査記録にはあって、火災の中では一酸化中毒死が多く、日本の検査記録の中にはそのような科学的項目がなく、圧潰及び窒息とされているという。また火傷を負った人々も多くいたが、医師も薬品も不足していて(医師の多くは軍隊に同行していた)まともな治療ができずに死亡したケースも多かったと米国の調査団から報告されている。いずれにしても日本軍が行った大空襲後の死体処理の現場の実態からすると死因どころではない。とりわけ先に記すように3月10日後の遺体の処理のずさんな実態を知れば、調査団はもっと信じられないと驚いたことだろう。
戦時関係の記録が外地の前線も含めて、8月15日の敗戦直後に(先に敗戦の情報を得た軍の部署によっては直前あるいは前日から)すべて焼却されてしまったことは、軍政府関係者が、間近に迫る占領軍からの戦争責任の追求を恐れて証拠を隠滅しようとしたものであることを示す。つまりは軍自身が標榜していた「聖戦」を、まるでなかったことにしようとしたのである。この大きな戦争で証拠隠滅も何もないはずだが、米軍の「信じることができない」というのは、われわれ国民にとってもそうであろう。 国民を聖戦あるいは正義の戦いと鼓舞し、その戦争のために長年国民に忍耐を強い、小さな子供達をも小国民としてお国のために尽くすようにと教育し(だから男の子は大きくなったらお国のために戦って名誉の戦死を遂げるものだと思い込んでいた)、その結果、戦地において敵味方に多大な犠牲者を出し、子息を戦地で失った多くの母親に、悔やみきれない断腸の思いを抱かせ続け、それらをまるでなかったことにし、自分たちの戦争責任を免れようとする、この厚顔無恥な指導者を持ったことを、われわれは日本人として恥じねばならない。
ちなみにこの証拠書類焼却作戦は「大日本帝国」に対して発せられた13か条から成る降伏勧告「ポツダム宣言」の第10項の中に「我らの俘虜(捕虜)を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰が加えられるであろう」とあり、そのことを恐れてのことだったかもしれない。
しかも敗戦二日後の8月17日に責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣に就任した東久邇稔彦内閣は、「一億総懺悔(ざんげ)」を唱え、国民みんなでこの戦争を反省して天皇に謝りましょうのような言葉を発した。まず何よりも自分たちがこの大戦争に国民を巻き込んで多大な犠牲者を出したことを国民に謝るべきであろうが、そのような発想も、国民に寄り添う気持ちもなかったということである。そしてその裏で加害に関わる戦時関連書類をすべて焼いてしまって、なんの痛痒も感じていない。東久邇内閣は一応「新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待する」と述べたが、何も果たすことなく、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。無責任にもほどがある。
【残された記録】
ただ、空襲の被害者としての記録は、被害者の立場であるがゆえに警視庁や消防署や帝都防空本部などにほぼきちんと残され(被災数などはそれぞれ異なる)、『東京大空襲・戦災誌 第3巻』や『東京都戦災誌』に分厚い記録としてまとめられていて、それによって筆者のこの稿では各市区別の冒頭に掲げる戦災記録を詳細に分類することができた。逆に、他国への侵略と加害に及ぶ資料は、陸海軍と政府内全体で焼却されたわけである。米国はどんな場合も記録は残していて、近年における戦時下のいろんな記録や写真などのほとんどは、日本の研究者などの志を持つ人やメディアの取材者が米国まで行って、戦略爆撃調査団の持ち帰った資料も含めて収納されている国立公文書館の資料から見つけられたものである。もちろん米国自身の無差別爆撃の記録も、爆撃後や原爆後の惨状の写真もそこにある。
また、3月10日の大空襲時に焼き殺されて路上に転がる遺体の写真を見たことのある人はいると思われるが、これは当時の警視庁の専属カメラマンであった31歳の石井光陽が、記録写真を残す使命を帯びて、都内を駆け回って撮ったもので、その時も猛火の中で危ない目に逢いながら撮影を続けた。3月18日の焼け跡の天皇巡行時の写真も氏の手による。占領軍GHQにその写真の提出を要求されたが、これは個人のものとして断り、一時隠されていたという。むしろ見せていたほうがその惨状が彼らには伝わったかもしれない。
一方で日本自身による前線での記録や撮影班に撮られていたはずの写真やフィルムも残っていないため、加害者としての記録はなく、その結果いまだに日本政府は他国からの戦時中の非難に対して知らんぷりを決め込んでいる。これでは被害国、とりわけ中国が1000万から2000万人の大きな犠牲者の数を示しても、それを中国側の捏造で勝手な主張だと証拠を持って反論することもできないし、アジアのみならず欧米からも日本は反省のない国と言われ続けていることも致し方ない。その点は第二次世界大戦で同じ加害的立場にあって、きちんと相手諸国に謝罪したドイツと大きく違う。むしろ、そうした記録はない(確かに焼却されて残っていない)と厚かましくも言い切ってしまう政治家も日本にはいるからやっかいである。
以下は首相経験者の率直な意見である。
—— 終戦時に陸軍省(だけではないが)が都合の悪い資料を燃やした過去もある。記録さえ残っていれば …(それがないために)わずか70−80年前の戦前戦中の記憶や出来事をめぐって様々な解釈が生まれ、その挙げ句、ヘイトスピーチなどの問題も生じる。きちんとした記録さえあれば歴史の一部の拡大解釈や過小評価は起きにくくなる。…… 外交にだって影響します。尖閣諸島や竹島などの領土をめぐる対立を見ても記録の重要性がわかる。「日本の国立公文書館に行けば正確な記録がある」と世界が考えるようになり、誠実に事実を積み重ねてきた国となれば、日本は信用される国になる。…… 過去にも年金記録の紛失や薬害エイズ問題で厚生省のロッカーに資料が隠されていたこともあった。森友学園や加計学園をめぐっては政権への配慮、忖度などと言われ、つい最近の資料も廃棄されたとし、隠せないものは改竄(ざん)すらされた。官邸の力があまりに強すぎ、政官のバランスが悪くなっているのではないか。…… 政府自身はむしろ都合の悪いことはあまり残したくないという意識がずっと働いていた。…… 国民のためを考えるのではなく、行政が自分たちに都合のいいように記録を扱ってきた。……
(元首相、福田康夫談:2018年6月9日、朝日新聞より。なお福田は首相の時に公文書管理法の法案整備を進めた)。戦時の統制下からの政官の体質はいまだに変わっていないということである。
【集団無責任体制】(筆者私論)
日本とドイツは20世紀の世界大戦の潮流の中で、同質な軍国主義をもって他国に侵攻し、無謀な戦線拡大に挑んだが、大きな違いはナチスドイツはヒットラーの独裁であり、日本の軍政府はいわゆる集団指導体制によるもので独裁者がいなかった。その基本的な違いにかかわらず、両者が同じ時代に他国への侵略を行ったのはなぜなのか。日本はその集団指導体制の中でなぜ戦争に突き進むようになったのか、軍の暴走によるとよく言われるが、どうしてその時々の政府は軍の暴走を抑制できなかったのか。昭和6年(1931)の満州事変と6年後の日中戦争(支那事変)は日本軍の暴走から始まったとの定説があるが、それを抑制できず追認したのはその時の政府であり、その内閣も次々と政権交代を重ねるから(昭和6年から20年:1931−1945年までの15年間に首相の座は14代、ほぼ一年に一代で交代し、首相は自分の都合が悪くなれば辞めるという習性があり、まともに政策が実行できる体制ではなかった)その流れを止めることはできず、特に日中戦争は泥沼に陥って8年間続き、その間に欧米からの圧力が強まり、それを跳ね除けるべく日本は太平洋戦争に突入した(識者は満州事変より太平洋戦争敗戦までを含めて15年戦争と呼ぶ)。そして特に日中戦争から日本軍が中国で行った各地への侵略に伴う暴虐行為の実態は、ヒトラーのナチスドイツのそれに勝るとも劣らない。そのことは現今の日本では表に出されなくなっているから一般的には知られていないが、よく言われる南京事件などは、その全体からすればごく一部に過ぎないとだけここでは触れておく(詳しくは筆者の「昭和12年」を参照)。天皇自身もその暗黒の実態はまったく把握していなかったが、この戦争はその天皇の名の下で行われた。
筆者はこれを集団無責任体制と呼ぶが、ここに一つの分析がある。
「戦時または事変における日本国家の運営は、内閣、陸軍、海軍の三極構造、または内閣総理大臣(外務大臣)、陸軍大臣、参謀総長、海軍大臣、軍令部総長の五(六)極構造を以って行なわれた。そこにはいわゆる独裁の危険は皆無であると共に、決断と事務の停滞、時間と勢力の浪費、妥協に伴う矛盾と不統一、無原則、無目的の弊風を免れなかった」。そして「(天皇の)統帥権または行政権の執行を輔佐する機構として、陸海軍統帥部長または各国務大臣が置かれたが、これら輔佐者全員が各個に天皇に直接隷属し、統帥権または行政権を一括して統制輔佐するような機構が存在しなかった」。ゆえに天皇は「行政と統合事項に関しては大本営政府連絡会議の決定を、陸海軍の統帥、軍政両面の対立に対しては、両者の妥協合意が成立するまで(執行命令を)発動されることはなかった」から、天皇の執行命令までには「統帥部と政府の不調和、計画の一貫性の欠如、権力の分散に伴う責任所在の不明確があった」ということである。(『大東亜戦争の実相』PHP研究所:瀬島龍三=元大本営陸軍参謀)このような政権構造により、現地軍の暴走を止めるのにも時間がかかり「やってしまったものは仕方がない」と政府は後追いし、軍備増強に走るのである。
いずれにしても第一次世界大戦から第二次に及ぶ20世紀前半の世界的大戦争の潮流というものは、独裁者の有無を問わず、あえて大きな見方で言えば、人類の歴史の中で避けることのできなかったことなのかもしれない。そしてそれは近代兵器の出現によって戦争の前線ばかりでなく、その後方の民間人の大量殺戮を招く結果となり、世界的には軍人の死傷者より、民間人の死傷者のほうがはるかに多い。ただ日本の場合、軍人・兵隊のほうが多い理由は(内外を含めて軍人230万人、民間人80万人)、日本が米軍の空襲を除いて戦場にならなかったからであり、日本軍が侵攻した中国では、民間人の犠牲者のほうがずっと多いことは、われわれ日本人自身が今に至るまで知らないという歪んだ認識の中にある。一方でドイツでは、ナチス時代の残虐行為が細かく明らかにされ、自国の教育の中でも徹底されていて、周辺諸国にも加害者としてきちんと謝罪している。この違いは何なのか、あえて言えばドイツはその残虐性はヒトラーという独裁者一人にその責任を負わせることができるが、日本は集団指導体制の中で、その対象となる独裁者はいない。太平洋戦争開戦を決定した東條英機は、ヒトラーを信奉していたと言われるが、独裁者ではなく、その終盤に戦局が悪くなると首相を辞職するという軟弱さである。こうした政治体制の違いで日本は加害国として正式に周辺諸国に謝罪できないのかどうなのか。
ただ日本の場合、少しでも戦時下の日本軍の加害に触れると、自虐史観とか反日主義という言葉を投げかけてくる一部の輩の言動が目立つ。しかし例えば一人の人間の人生において、誰にも恥じることなく、表裏なく清く正しく生きてきた人間がいるのかどうか、そしてそのことを自分自身の心の中に問いかけてみてもらいたい。そして一度開戦となると相手を殺すか自分が殺されるかという戦場という無法地帯(殺人は罪とならない)の中において、それでも清く正しく生きることが可能なのかどうか、上官から捕虜を殺せと言われるまでもなく、戦友を敵に殺されたという恨みを抱いた中で、そこに傷ついた敵兵士がいても友愛の精神で手厚く救うことができるのかどうか等々、考えてみることも必要である。さらには戦後になって戦線から帰還してきた兵士の大半が、残りの人生のなかで家族にも何も語らずに亡くなっていっている事実をどう見るか、その中でもあえて戦場での自分の罪を語ろうとした人たちが、かっての軍人仲間から排斥される事例も少なくないのである。これが日本の国民性なのかどうなのか、その一方で日本軍の被害にあった近隣国の現地にわざわざ出向いて調査をし、その記録を集め、書籍にした上で逆にわれわれ日本人に訴える活動をしている日本の民間人も少なからずいるが、日本の政官人の中では、友好を謳いながらそうした具体的な努力をしている様子は見受けられない。
【反軍演説】(とめられなかった戦争)
昭和12年(1937)に日中戦争が始まって2年半後、その行方が見えず欧米諸国から非難が高まっている中の昭和15年(1940)1月14日、阿部信行内閣が総辞職し、16日、ドイツに接近する軍部と異なり、親英米派である米内光政内閣が成立、その後召集された2月2日、帝国議会の中で注目すべき演説が行われた。
帝国議会衆議院本会議において立憲民政党の当時71歳の斎藤隆夫が「支那事変処理に関する質問演説」として1時間半に及ぶ大演説を行った。これは「反軍演説」と称されているが、斎藤は昭和11年(1936)にも「粛軍演説」、さらに昭和13年(1938)第一次近衛内閣によって提出された「国家総動員法」にも質問演説を行い、その危険性を指摘した。そのことにより斎藤は警察や軍部から普段も監視を受けていて、議会でもこの演説を阻止しようとする動きもあった。演説は賛同の拍手と反対のヤジに包まれた。当時の衆議院議長は斎藤の演説の中で使った「聖戦の美名」「戦争の目的を一人も知るものなし」などの言葉に反応し、軍部批判にあたるとして演説全体の3分の2程度を記録から削除させた。しかし削除の手続きが遅れたため、翌日の地方紙には(地方紙は新聞の早刷り版が送られる)、その演説の内容全文を掲載した場合もあった。更に外電で配信され、交戦国の中華民国で大きく報道され、アメリカでも報道された。
この反軍演説の直後から陸軍や時局同志会や社会大衆党が、斎藤の演説は「聖戦の目的を冒涜するもの」であると攻撃を始め、海軍もこれに加わった。立憲民政党幹部は斎藤への攻撃が始まると慌て、陸軍へ工作する一方、斎藤の演説内容の速記録からの削除で事態を収拾しようとした。しかし反軍演説に対し、国民からの批判はなく、逆に斎藤への感謝や激励の電報や手紙が多数送られた。それでも民政党幹部は、軍部その他による斎藤への攻撃の手が緩まないのを見て、斎藤に離党勧告を出すことで事態収拾を図り、斉藤も受諾したが、議員辞職までを促す動きに対し、斎藤は断固拒否した。そこで衆議院議長の権限で斎藤を懲罰委員会にかけることが決定された。3月6日、懲罰委員会は全会一致で斎藤の除名処分を決定、翌7日に衆議院本会議で、斎藤の除名の可否が記名投票にかけられ、投票結果は棄権144名で、総投票数303票、白票296票、青票7票により除名が確定した。
政府や軍部は斎藤除名後も反軍演説が国民の間に及ぼす影響を大いに恐れ、政府(内務省)は各報道機関に次の通達を出した。「一、斎藤の演説は国民の問はんと欲する所を問ふためであると云ふが如き記事を禁ず/二、斎藤の演説を賞揚するが如き記事を禁ず/三、除名処分を批判するが如き記事を禁ず/四、斎藤を賞揚し、同情を寄するが如き記事を禁ず」。こうして日本はここから一挙に戦争拡大への道へ突き進み、10月12日、各政党は解散し「大政翼賛会」として大同団結、軍部の方針を支える体制を翼賛体制が作られ、この翌年の昭和16年(1941)12月8日、日本は米英等に宣戦布告、太平洋戦争に突入する。ただし斎藤は昭和17年(1942)の総選挙で、すでに各党が大同団結した大政翼賛会に属さず、非推薦で選挙区の兵庫県5区(但馬選挙区)から改めて立候補、期間中軍部や翼壮を始めとする選挙妨害や内務省の選挙文書の差押を受けつつも有権者の多大な支持を得て、その結果最高点で2位と大差をつけ再当選を果たした。
(以上はウィキペディアなどより要約。「反軍演説」の詳しい内容については「各種参考資料:公的文書・資料」参照。この中に筆者の言う「集団無責任体制」の様子が描かれている。このような気骨のある人物は政界では疎んじられ、政権の中枢には入れず、戦争への流れを止めることはできない例である)
戦争孤児
【孤児の実態】
度重なる空襲下の悲惨な状況の中で突然家族を失った孤児や、地方に学童疎開をしたまま家族の死で帰る先を失った孤児が多く出た。
昭和23年(1948)2月、当時の厚生省が行った調査によると、全国の戦災孤児は12万3511人(この数値の明細を足算すると計算ミスがある)となっているが、終戦後2年半経過後の統計であり、その間の死者(餓死や凍死、病死、食中毒死、衰弱死、虐待死、自殺等による)は無視されている。しかも直接の戦闘で10万人という最大の民間人犠牲者を出した沖縄の孤児たち、また養子になった孤児たちは集計されていないという。さらに21年(1946)11月18日の朝日新聞で「上野駅で処理された浮浪児の餓死体は10月の平均で1日2.5人」とある。つまり一つの駅でひと月に75人の孤児が死んでいたことになる。その他の新宿や池袋などではどうだったのだろう。それに敗戦から1年以上の月数を掛けると、上野駅でのその月までの孤児の死は、軽く千人を超える。別途、昭和21年(1946)春まで、つまり終戦後ほぼ半年間で京浜地区のみで1300人以上が餓死し、その大半が戦災孤児であったとの記録があり、大阪や京都や福岡の駅でも多くの孤児が報告されていて、餓死以外の多くの死因と集計漏れ等を考慮すると、終戦直後には孤児の数は15万人を軽く超えていたのではないか。
事実、孤児達の多くは国や都から放置されていたことは、まともな救済施設すら作られなかったことでわかる。文部省も「集団合宿訓練所を新設する」と発表したが、国が具体的に実施することはなかった。一応都がそれを受けた形で『東京都戦災誌』に記載しているのは、三多摩地区に八ヶ所孤児を委託する施設を儲けたことになっているが、あくまで下町三区の疎開児童が孤児になったものたちを対象としたものであって、戦火の中で親兄弟が焼死して自分だけもしくは兄弟姉妹だけで残された孤児たちのことは全く無視されている。その他は単に「浮浪児対策」としての項目の中に出てくるだけである。このように計画だけ打ち出されて実施されなかったケースは多く、記録には東京都のようにその一部の計画だけが残るから、後世からは実施されたように見えてしまう。
その後、米占領軍は街に溢れる「浮浪児」を一掃しろと命じ、国や都政もその意向に従って「浮浪児狩り」をして隔離等の措置に出た。メディアの扱いも浮浪児としてであり、この無神経な名付けで余計に世間の差別の目は厳しくなり、自分で生きるすべを持たない放置された子供達の多くは上記の餓死や衰弱死、あるいは精神的に追い詰められて自殺等の理由で死んで行った。そしてなんとか生き延びたとしても、世間の迫害と差別を受け続けた。仮に運良く施設に救われて学校に行けても、そこで同じ子供達からも孤児としていじめられた。やっと成人してからも自殺に追い込まれた孤児も少なくない。被害者が逆に差別されてしまうというこの社会の有り様は何なのであろうか。
なお戦争孤児は、国内だけではなく、特に日本軍占領地の満州(中国)に住んでいた多くの日本人居留民が、終戦直前にソ連(ロシア)軍に侵攻され、そこで多くの悲劇が生まれたが、逃げる途中で親兄弟を失ってなんとか周囲の助けを得て帰国した孤児もいるし、中国人に引き取られ「残留孤児」となった子供たちも多くいる。中国の場合、農民の労働力として引き取られた面はあるが、その分愛情は注がれた様子がある。
【戦後に孤児が生きるということ】
以下は自身が戦争孤児であった記録作家、金田茉莉の平成29年(2017)8月の朝日新聞のインタビュー記事その他からである。
—— 私が通っていた台東区の富士小学校では、宮城県に集団疎開中の66人が、空襲で孤児になった(先に3月10の大空襲前に帰京した6年生は42人で合わせると108人)。私の家族は最初は行方不明とされ「私の手足がなくなってもいいから生きていて」と毎日必死に祈った。しかし4カ月後、母と姉の遺体が隅田川で見つかったと知らされて。妹の遺体は見つからぬままとなった。父は早くに病死していて、親戚宅を転々とした。全国の疎開孤児は、膨大な数だったと思う。孤児施設も極度に不足しており、引き取る親戚がなければ、(働き手が欲しい)農家などへ養子に出された。里親のもとで愛情深く育てられた子もいるが、戦後の混乱期と食糧不足で人心はすさんでいて、親戚でも邪魔者扱いされた。
当時5年生だった男性は、集団疎開から戻った上野駅で迎えがなくパニック状態になり、焼け跡で家族を捜しても見つからず、日が暮れて駅に戻った。「生きていないと親に会えない」と思い、盗みを始めた。同じ境遇で一緒に地下道にいた3年生の男の子は、何日間も何も口にできず、“お母さん、どこにいるの”と言った翌日、隣で冷たくなっていたと。いったん親戚や里親に引き取られても、重労働や虐待に耐えかねて家出をして「浮浪児」になった子も数多くいた。 そしてだれも食べさせてくれないから、盗みを働くほかなかった。不潔だ、不良だと白い目でみられ、「浮浪児に食べ物をやらないで」という貼り紙まで街頭にあった。
浮浪児とされた路上の孤児たちは取り締まりの対象となり「狩り込み」と呼ばれた行政による強制的な保護収容では、1匹、2匹と動物のように数えられた。当時10歳で浮浪児となり、上野駅で狩り込みに捕まった女性の証言では、30人ほどの子どもがトラックの荷台にのせられ、そのまま夜の山奥に捨てられたという。信じがたい話である。
少ない孤児施設も多くが食糧不足で劣悪な環境で、当時6歳だった女性からは「死体の横に寝かされた」と聞いた。さらにこの女性は、心に異変をきたしていた何人もの子が施設の柱に何度も自分で頭を打ちつける姿を目にした。いくらか元気な子どもは、施設から逃げて行った。なんとか安心できる施設に預けられ、検査を受けると、13歳の女の子が梅毒の性病にかかっていたという話もある。
親戚の家や養子先で成長した子どもも、心を殺して生きなければならなかった。当時小5で11歳だった女性は親戚宅を転々と回された。学校も行かずに働き、仕事先も次々に変わった。ある女中(他人の家や旅館で雑用をする女性)先で性的虐待を受けそうになった。やっと美容院の住み込みになり、苦しい修業をへて美容師の資格をとろうとしたら、中学を卒業していないから資格が取れないといわれた。
—— 私自身は親戚から「野良犬、出て行け」とののしられ、「親と一緒に死んでくれたら」との陰口も耳にした。刃物が胸に刺さる思いで、心も死んでいた。18歳のとき無一文で東京へ出てきた。家がないので住み込み先を捜したが、親も家もないので断られ、やっと見つけた店員も夜具一式持ってくるようにいわれ、ふとんを買うお金がなかったのであきらめた。ふとんなしで働ける所は飲み屋の女中しかなかった。飲み屋で働いていたとき女将から養女になれといわれ断ったら、夜に追い出された。泊まるところがない。浅草寺の脇でしゃがみこんでいたらヤクザに追いかけられた。私の持ち物は少しの下着の入ったバッグ一つ、それが私の全財産だった。… お金のない惨めさは、親の援助のもとで学校へ通っている人には想像もできないだろう。孤児たちはお金がないため、どれほど苦労してきたか、どん底の生活を余儀なくされた。——
数々の辛苦の体験を経て成人した金田は結婚し、子も生まれたが、子が大きくなって生活が安定してからも、時折「お母さんと一緒に死にたかった」とつぶやき、大人になった子息に叱られたという。同じ境遇だった多くの人たちが同じような気持ちを吐露していて、自分の身に突然降りかかった「原体験」というのは消えることがないのである。
【語ることのできない孤児たち】
金田を含めて元孤児たちは、あまりにも辛い経験を、世間に対してはもちろん、家族にも長年語ることはなかった。その理由などは以下で、金田の記述の続きである。
—— 語るには過去が重すぎた。世間の目も怖い。親戚や里親との関係を語れば、そんなことあるわけがない、お世話になったのにと批判される。私自身、思い出すのも嫌で、夫や子どもにも長く話せなかった。
大病をしていつ死ぬかわからないと痛感し、50代になって命あるうちに記録を残さねばと思い、疎開関係の資料や新聞記事などを手がかりに連絡先を調べ、一人一人に手紙を出した。しかし何人もの人に「話したくない」と断られ、聞き取り中に当時を思い出し、手足が震えだした人もいる。1990年代初めにアンケートをとった22人のうち18人が自殺を考えたと答えている。弟が自殺し、自分も青酸カリを持ち歩いていたという男性もいた。私もそうだが、親と一緒に死んだほうがよかったという思いが消えない。
別の男性は「長い間、妻にも元浮浪児だったことを伝えなかった。言ってもよかったが、なんとなく恥ずかしいという気持ちがあった。だからついつい言い損なった。職場で言っても、信用されなかった」と言い、つまり一緒に仕事をしている職場の仲間が、目の前でまともに働いている男が、元浮浪孤児であるなどと本人が語っても冗談だろうと思われたのである(注:この事実自体が世の中の根強い偏見というものを示している)。
なぜ孤児が浮浪児になったのか、国の責任もうやむやにされている。戦後、戦争孤児の保護対策要綱を決め、集団合宿教育所を全国につくる方針を示したが、予算も規模もまったく不十分だった。戦争孤児は、国に棄てられたと私(金田)は思っている。20代のころに、生活苦で、わらにもすがる思いで当時の厚生省(現厚生労働省)に戦没者遺族への補償(次項参照)を受けられないか、問い合わせたが、軍人・軍属の遺族ではないので、対象ではないと言われた。(注:民間の空襲被害者も孤児と同様に差別されている。学童疎開は国策として実施されたのに、戦争に負けると孤児たちは放り出された)
政府は昭和21年(1946)の国会で、戦争孤児の総数を3千名前後と答弁した。混乱期とはいえ、あまりの過小評価で、23年(1948)にようやく厚生省が全国一斉調査をして、孤児は12万人以上いたことがわかった(注:しかしこの国の資料は公にされず、金田自身が横浜の図書館で見つけた)。病死などとされたその他8万人余りも内訳は不明で、実質的には大半が戦争孤児だと私は考えている。——
筆者注:しかしながら「当時の」とは言い難い、この社会の根深い差別意識を見ると、仮に補償を得たとしても、そのことでまた孤児のくせにと揶揄され、妬みを受けたであろうことは、日本人社会の体質からも想像される。もちろん手当がずっと早ければ、親戚に無下にされることはなく、その分いくらかは大事に扱われたであろう。為政者が少しでも保護者のいない彼らの心や置かれた立場に寄り添う情があれば、かなりの孤児たちが救われたであろうに。
被害者が逆に差別されてしまうというのは、後にも触れるが、空爆被害者も、広島・長崎の原爆被爆者も、戦後の高度成長期の水俣病などの公害被害者も全く同様に世間的に疎んじられて差別された。仮にこれが日本の社会的体質だとしても、なおかつその差別から被害者を守るべき国が、逆に追い討ちをかけるように被害者を窮地に追い込んでしまうとは、何のために国があるのか、政官人の自覚のなさは驚くばかりである。
(戦争孤児に関しては他に台東区や墨田区(特に集団疎開関係)、東京湾お台場、八丈島の項参照。また金田と同様に戦争孤児であった海老名香葉子の体験談は「各種参考資料」参照)
【孤児に対する国政の無策】
この問題は終戦後に持ち上がったのではなく、空襲の始まった前年からの犠牲者を見て、昭和20年(1945)の年初から東京都では「疎開学童援護会」を発足させ、戦災遺児援護に向けて対策が検討されている。特に3月10日の大空襲で多大な犠牲者が出たため、各小学校長や文部省の担当官も含めて「戦災孤児救済運動」が立ち上がり、そこでは既存の孤児院に収容せず、大規模な「国児院」を設立すべきと提案されたが、予算の関係として没にされた。一方で都の疎開学童援護会は若干の養護施設に依頼する活動で終わった。国レベルでは再び6月になって戦災遺児援護対策懇談会が持たれ、改めて国児院が提唱されたが、その意見を踏まえ、厚生省、文部省等9の機関が戦災遺児保護対策要綱案の検討に入った。その案の方針は孤児に対し国家での「保護育成の方途を講じ、殉国者の遺児たるの矜持を永遠に保持せしむると共に、宿敵撃滅への旺盛なる闘魂を涵養し、… 本土決戦に敢闘せしめんとす」と、戦争終盤の背景をそのまま表す内容であった。その他「遺児に対する社会的処遇の確保」として「一般国民が単なる憐憫の情ではなく、殉国者に対する敬虔なる感謝と温情溢るる慈愛心をもって処遇するように … 孤児等の名称を廃し、国児と呼称すること」とある。その保護育成については、各市町村で「国児台帳」に登録し、養子縁組や適当な施設に収容させ、慈善・教育・宗教団体に全面的に協力させ、財政措置も恩賜財団戦災援護会を通して特別の措置を講じるとある。しかしこれらの対策は、決定されるに至らず、敗戦によってゼロになった。
敗戦からひと月後になって文部省は上記のように「集団合宿教育所」を設置する計画を打ち出したが、それは各自治体に任せる形に終わり(ただ広島で二ヶ所実際に運営されたようである)、別途、厚生省が「戦災孤児等保護対策要綱」を打ち出したが、その中で戦災孤児は1169名としていて、まったく桁が違うもので、どのような調査と数字合わせをしたのか不明である。しかも「国児台帳」どころか、学童疎開中の各学校の記録や資料は上記のように、どのような意図か、軍事関係書類と一緒に文部省が焼却させてしまったから、実態がつかめるはずもなかった。その後の都の「復帰学童調査」では引き取り手がなく帰京できない学童は1万7051人いたとある。
ただ孤児には、戦災で両親を同時に失った子だけではなく、戦災で母親をなくしたうえに父親を戦死で亡くした子も大勢いて、しかも父親の戦死も戦後しばらく不明の場合も多かった。その子たちはどのように身を処せばよいのか、子供にわかるはずもない。どちらかの親が残っていれば、その親が手続きして国が用意した共同施設や焼け跡のバラックで身を寄せ合うことができた。しかし、そうではない孤児たちにはその手段もなにもわかるわけもなく、放置されたのである。(遅れて帰還してきた父親が、自分の子を探し回り、その子が亡くなった少し後に、わが子の孤児友達に死を知らされた例もある)
敗戦一年以上経ってから(昭和21年:1946)、上野など街中に浮浪する孤児たちが目立ち始め、さすがに国会でも取り上げられた。当時の日本民主党議員の布利秋がその実態を調べて、抜本的な救護を求めて建議案を提出した。街角で日々餓死などで死ぬ者、縁戚に引き取られ、あるいは養子になっても逃げ出す者、施設に配給品が回っていても子供には渡されず、闇に流されたりしていて、施設からも逃げ出す者が多くいることなどを切々と語り、国の施策が不十分であることを訴えた。しかしいつの時代でも日本の国会はそうであるが、「善処したい」という曖昧な言葉の答弁で終わってしまう。建議案は一応通されたが、翌22年(1947)にも志のある議員たちが改めて各地の実態を視察し、第一次大戦後の欧州各国の十分な施策と比べても、児童福祉施設が場当たり的で無計画なやり方に始終し、子供を養育するという姿が見られない、篤志家の慈善事業ばかりに任せていてよいのか、国がきちんと経費を使って施設を充実し、増設していくべきではないのか等々と訴えたが、当時の大臣は「… ご意見には同感である。施設の不完全な点については国家財政の許す範囲において拡大強化していきたい」と述べるも、その後の進展はなかった。国会内で一応議論されていてさえ、この有様である。ただこの年に児童福祉法が制定され、翌年施行された。これによって個人の奉仕家によって運営されていた施設にも多少の援助が出るようになったが、根本的な解決には至っていない。
(以上は主に『戦争孤児と戦後児童保護の歴史』藤井常文:明石書店から)
この時代、外地からの大勢の帰還者に加えて凶作による食糧危機等の問題、占領軍GHQから次々に出される指令による対応で官僚・役人は忙しく「声なき孤児たち」への対応まで頭が回らなかったとの元官僚の証言も筆者は読んだことがある。それにしても多くの子供の命に関わる問題であり、将来の国の宝となりうる子たちである。本来、市民や住民の立場になってより良い施策を考えることが為政者と役人の努めであるのだが、いつも上層部からの指示をこなすことに明け暮れ、形式的な処理に終わってしまう日本の施政構造はどういうものなのであろうか。厚生省は「保護委託、養子縁組の斡旋などの対策を講じた」というが、掛け声だけで自治体に任せ、その自治体も戦後の混乱に紛れて、自分たちの声を届ける手段を持たない孤児たちは放置された。実際には養子縁組という名の下に、農村地帯で孤児の人身売買が多発し、社会問題になった。大卒の初任給が約3000円だった時代、子供たちが一人3000−5000円で売られていたのである。それは八丈島にまで及んでいる(同島参照)。
戦後の慰霊・平和施設
【東京都戦没者霊苑】
この霊苑は昭和6年(1931)の満州事変から12年(1937)の日中戦争を経て、20年(1945)8月の太平洋戦争終結までの東京都関係戦没者約16万人の霊をまつるもので(ただしこの数字は実際より少ないものと思われる)、文京区春日1丁目(礫川公園の西)に昭和35年(1960)6月に建立された。敷地は、小石川台地にあり、古くは水戸藩上屋敷の一部で、その後陸軍砲兵工廠・諸工伝習所、小石川陸軍工科学校となり、日中戦争の戦没者を慰霊するためであろうか、昭和15年(1940)に忠霊塔建設予定地に選ばれ、戦後は財団法人東京都慰霊協会が戦没者・戦災者慰霊施設として管理され、昭和28年(1953)に戦没者慰霊施設用地として東京都に寄付された。昭和62年(1987)に、ほぼ全面改修することが決まり、翌年に外溝整備・植栽を行って全体工事が完了し現在に至っている。
霊苑内には太平洋戦争における地域別戦没者数一覧図が設置されている。各戦線で少なくない犠牲者が出ているが、特に多いのが中国大陸とフィリピンである。太平洋戦争に突入する4年以上前から戦闘状態にあった中国大陸を除けば、短期間に51万8000人の戦死者をだしたフィリピンが突出している。戦争末期、南方の資源地帯と本土の中間にあるフィリピンを失うことはほぼ敗戦を意味していたため、日本軍はアメリカ軍が攻め寄せるフィリピンに徴兵猶予を解除した学徒兵を含む多数の兵を送り込んだ。しかしレイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅したため補給が途絶え、取り残された兵士達は飢餓地獄に苦しみ、多数の餓死者をだす結果になった。ただしフィリピンでは日本人の倍以上の犠牲者が出ていることを見逃してはならない。他の地域、とりわけ中国では既述のように桁が違う数字が示されている。
一般的に戦争のことが語られる時には、日本人の戦死者230万人と戦災死者80万人(うち海外30万人)のことが取り上げられるだけであるが、そもそもこれら満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続けられた戦争は、すべて日本が外国に侵攻して起こしたものであって、それらの地において日本人の戦死者以外に現地で多くの住民の犠牲者を生んでいるのではないかとの想像力を持たねばならない。個人的な人生においても一般社会の中にあっても、さらには国際社会にあっても、まず相手の立場や置かれた状況を察することは、人間の社会に生きているわれわれの基本である。
【東京都平和祈念館建設計画と東京大空襲・戦災資料センター】
平成3年(1991)、東京都の生活文化局文化振興部により、平和の日記念行事企画検討委員会が発足し、それは当時の鈴木俊一東京都知事が委嘱する20人以内の委員をもって構成するものであった(これは大規模な空襲災害を受けた東京都民が早くから戦災記念施設の設置を要望していたことにもよるが、戦後の占領軍GHQはそうした施設を設置することを望まないと抑圧していたから、長年東京都もその動きを控えていた。ただし広島・長崎や沖縄の場合は抑圧のしようがなかった)。翌年早々に委員会は都の平和祈念館の設置を提言し、6月に基本構想懇談会が発足、一年後の報告書では「東京空襲の犠牲者を悼み、都民の戦争体験を継承する/平和を学び、考える場/平和のシンボル/平和に関する情報センター」との主旨を打ち出し、戦災を受けた都民の長年の念願がかなうこととなった。そして平成6年(1994)、建設予定地としては隅田川下流の大川端地区としたが、翌年、予算の都合で都有地で関東大震災の慰霊堂と復興記念館のある墨田区の横網町公園とし、その地で全面的に建て替えることになった。
そこから平成8年(1996)、次の青島幸男都知事の時代に平和記念館建設委員会が発足し、座長として元都立大学総長の下山が選出され、地上三階地下一階、延べ床面積4500平方mの計画案で、平成12年(2000)に開館予定とされた。しかしその計画の中に「東京空襲に至る道」と題した展示内容もあり、これは「空襲の惨禍がなぜ起きたのか」を問いかけるものであったが、そのことが「(この戦争の発端を作った)日本の加害者の面が強調されすぎているから不適切」と一部の都議たちから批判の対象とされ、財政難の問題も加わって都議会の承認が引き延ばされ、全体の計画が迷走している間の平成11年(1999)、都知事が石原慎太郎となり、すぐにこの計画は凍結されてしまった。長年地道に計画されたものが新しい首長の簡単な判断によって即座に中断されてしまうこのような例は、日本では稀な話ではない。都の戦死者16万人を祀る上記の「戦没者霊苑」はそれでよいとして、それに近い死者を出している東京の空襲犠牲者に対する相応の施設が作られず、長い間放置して顧みないとは、政官人の感性が疑われるが、これはそのまま、自分たちが主導した戦争を反省しない戦後の政官人の意識を表していると思って間違いないであろうし、この後にも触れるが、元軍人とその戦死者に対する手厚い補償と、戦災受難者や孤児に対する補償が今に至るまでゼロという極端な差にも為政者の姿勢が表れている。
この経緯の中で、展示品は多数用意されつつあって、被災した方々330人のビデオ証言記録も収録済みで、先の大戦でこれほどの多数の戦争体験者の証言を集めた資料は国内には他にないと言われる。平和祈念館での公開を目的に収集した展示品はその後、目黒区の都施設に保管したままである。また是非に祈念館で活用してもらおうと都民個人が用意していた物品もそのままとなっている。なお下記に触れる「平和祈念展示資料館」は全く別物である。
この東京都の計画が頓挫した後にやむなく民間によって計画され建てられたのが、ささやかな場所と言える「東京大空襲・戦災資料センター」である(江東区参照)。筆者もこの稿を進めるにあたって訪れたことがあるが、小さな一軒家を改築して資料センターとしたものであって、とても総合的に資料を展示できる場所ではなかった。
仮に「祈念館」の是非への議論があるとして、例えば現在でも米国人老夫婦が観光のついでに広島の記念資料館に訪れて、その惨劇の実態に驚き、そこを出た後に日本人は米国人に深い憎しみと恨みを抱いているのではないかという恐れを感じ、しかし実際には街中で笑顔で接してくれる日本人を改めてみて、やっと安堵したという話も残っている。少なくとも見ると聞くでは大違いで、東京が米軍の空襲下でどれほどの惨状にあったか、その惨状と現在の世界的大都市の姿を比べるだけでも、戦争への抑止的効果はあるのである。今の東京はその機会を全く失ってしまっている。
【東京の慰霊碑や記念碑建設への圧力と東京都慰霊堂】
いずれにしても、戦災による多大な犠牲者にもかかわらず、都内各地域に公的な慰霊碑や記念碑が他の地方に比べても異様に少ない。これはもともとアメリカ占領軍により「1) 日本国民に戦争を忘れさせたい。2)戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない」との通達が都の官房各課長や局長、区長など行政担当者になされているからで、他ならぬアメリカ軍による空爆の事実を隠したいという意図であった。そして例えば当時の遺族による隅田公園への戦災慰霊塔の建設計画に対しても許可されず、他所も同様であった。せめてもと地元の有志により近隣の寺院や要所の角などに供養の観音像や地蔵尊がひっそり建立されているだけである。
結局、戦災死した東京の犠牲者10万5400人については、東京都は上記に述べた関東大震災による犠牲者5万8000人を祀る横網町の関東大震の慰霊堂内の後室に「昭和大戦殉難者納骨堂」を設け、そこに仮埋葬地ごとの骨を470個の大壺にして収納し、東京都慰霊堂と名前を変えて、それによって関東大震災の犠牲者といわば合祀する(「間借り」という言葉もある:下記参照)ことで、正式の施設の設置はこれで終わったことにした。天災による死者と、国の方針で戦争に導かれ戦災死した人たちとが、同じ扱いとされたことになる。そう考えれば、自分たちの責任逃れをしたかった政府にとっては、望ましい処置であったのかもしれない。
その一方で、戦災死者として判明していた3万数百人の名簿が、この慰霊堂から消えていた事態があった。これは東京都がこの名簿を焼却処分しようとしていたことから、それを戦後からコツコツ作り上げてきた公園課の職員が家に持ち帰っていたことが後に判明した(墨田区の慰霊堂の項参照)。焼却処分とは呆れる話であるが、これは戦時における全国市町村の出征記録が、敗戦と決まったことによって当時の軍政府が(責任逃れのため)軍事関係書類を焼却せよとの指示を行い、その結果ほぼすべてが焼却された事実と、全国でわずか20余りの村で、やはり担当職員が密かに家に持ち帰ってその記録が残されたという事実と重なる。日本の政官の指導層というのはどうして本来の使命である国民の生活を守る義務を負わず、単なる自己保身のために無謀なことをしてしまうのか、一体何のためにそうするのか、今の時代になっても政官人の動きの中でこの種の話は尽きない。
この慰霊堂にまつわる話として、例えば新潟県に集団疎開していて9歳の時に戦災で孤児になった女性が、たまたまこの慰霊堂に公開されていたわずか3700名分(当初は約7000名であった)の名前の中に父親の名前を見つけて、71年ぶりに遺骨を引き取ることができたということがある(実はその20年前に見つかっていたが、名前の漢字が似た字に書き写されていたため引き取ることができなかったという)。この方は「関東大震災の犠牲者を祀る慰霊堂に空襲死者の遺骨がなぜ”間借り”しているんだろう。占領軍の妨害で専用施設ができなかったというが、もう60年も前のこと …… 私らは厄介者なんでしょうか」と語る。しかも母親と姉は行方不明のままである。家族が死んで帰るところがなくなり、学童疎開先では翌年3月まで留め置かれ、愛知県の祖父のところに引き取られたが、泥棒扱いされて飛び出し、兄を頼って金沢、東京を流浪し、神社の蔵で夜露をしのぎ、なんとか生き延びた。「国に一回謝ってほしい。外国向けじゃなくて、国民に詫びたことがあるんでしょうか」(下記「空襲被害者の生存権をかけて」に引用する朝日新聞の記事より)。この気持ちはほとんどの孤児たちに共通のものである。
また記録作家の金田茉莉があるとき、都の幹部に尋ねたという。「あの震災の場に空襲(の犠牲者)を(一緒に)入れるとは、それで空襲の歴史が遺るとお思いでしょうか」と。それまで饒舌であった都幹部は返事ができずに黙ってしまった。その顔を見て「都は空襲の歴史を消そうとしていると、私は直感した」とのことである。「空襲の歴史を消そうとしている」とは、その空襲を行った米国の意向であり、その意向に日本の政官人は何も考えずに従っているわけである。何のために米国に遠慮し続けているのであろうか。それこそそれは、ある種の人たちがよく言う「反日」行為なのではなかろうか。
【沖縄の平和祈念公園との比較】
この占領米軍の意向に配慮し遠慮する傾向は、戦後70年を超える今も、日本の政治家の米国に対する基本的な姿勢として未だに根強く血脈のように続いている。たださすがに広島・長崎への原爆の事実だけは消せようがなく、平和記念公園などの計画に対しては自粛を求めるわけにはいかず、そして国内唯一の決戦場となり敵味方と住民を合わせて20万人の犠牲者を出した沖縄に対しても同様で(多くの米軍基地の上に住民をさらに押さえつけるわけにはいかず)、沖縄県は沖縄戦終結50周年を記念して、それまでの慰霊碑公園を大改造して、摩文仁の丘平和祈念公園を作り、そこに20万人以上の全犠牲者名を刻んだ石碑「平和の礎(いしじ)」を放射状に並べて設置した。これほどの祈念碑は他にはない。今も年ごとに名前が追加されていて、とりわけ6月23日には県内だけでなく、全国から沖縄戦で死んだ人の遺族や縁者が訪れ、その刻まれた名を指でなぞりながら涙している姿がある。その名前だけが生きていた証しなのである。沖縄でできたことが、どうして沖縄より潤沢なお金のある都や国でできないのか、この戦争に国民を巻き込んだ国の義務ではないのか、普通に考えても理解に苦しむ。
【戦後政治の矛盾】
こうした平和への活動をなぜか嫌ったり排斥する人たちというのは、政治家も含めてほぼ親米派であって、ところがその人たちの元々の、つまり戦前からの血筋は反米であり、敗戦後にいきなり親米路線となるから奇妙である。例えば今も健在な国粋主義の人々は、天皇を尊ぶ気持ちは理解できるとして、またその天皇の名で米国を敵として戦い、そして多くの若者が特攻隊として米軍艦船等に突撃死し、それを散華という言葉を使って尊い犠牲、英霊とするまではよいとして、そこからどうして憎き敵であった米国に追従する政策等(沖縄を中心とした軍事基地の問題も含めて)を支持する考えにつながっていくのか、戦時下の思想を支持するなら、米国に対してどこまでも敵愾心を持たなければ不自然で、でなければ特攻死した英霊たちも浮かばれない。そもそも米国人の多くは、日本民族をはじめとしてアジア人を劣った人種とみなすような白人優位思想をいまだに持ち(その日本人に対する蔑視感がなければ、原爆など安易に投下しない)自分たちを優位人種として上に置く国であって、逆に日本がそのような国の従属化にあることは大和民族の誇りと伝統を守ることにならないし、それは保守主義や国粋主義と言えないのではないか、その矛盾した思考回路をまず見直してただく必要があるのではないか。
日本は米国の同盟国であるとは、形の上だけの詭弁であって、米国は本音では対等の同盟国だとは思っていないし、同盟国の名を借りて、いろんなことを日本に押し付けてきていて、日本はノーと言えずに(あえて言えば敗戦の負け犬根性が解消できずに)大きな予算(「思いやり予算」という奇妙な名の予算がある)を使って受け入れてきている。あの元アメリカの植民地であったフィリピンでさえ米軍基地の撤退を求め、完全ではないにしろ実現した(1992年)。
もちろん米国内では黒人などへの差別が徐々に解消されているが、いまだに差別上の殺人事件が絶えない。日本人はさすがに殺人に至る例は少ないが、やはり隣国の人たちを差別する思惑はどこかに根強くあるのではないか。戦争はナチスドイツのユダヤ人虐殺が際立っているように、しばしば人種差別から生まれている。また日本は中国人を差別することにより、中国を支配下に置こうと日中戦争を起こした。また日本はもともと米国からの差別的な圧力に耐えかねて、対米戦争に挑んだという側面もあった。それが今や日本政府は米国にどこまでも追従し、過去の近隣諸国に対する暴挙への謝罪も正式に行わず、その姿でアジア人に対して優越的立場を持とうとしても、その日本の側面は彼らに見透かされてしまっているから近隣諸国から尊重されるに至るには遠い状態にある。
戦後の補償
【軍人に対する戦後補償と戦争被災者と戦争孤児に対する極端な差別】
太平洋戦争突入の翌年、昭和17年(1942)2月25日に「戦時災害保護法」が公布された。これは予測される「空襲あるいは敵の攻撃を受け危害を被った罹災者に対し国家援護の手をさしのべるべくこの法律が制定された」と『東京都戦災誌』にある。その内容は、死亡した遺族に死亡給付金、傷害を負った者に生涯給与金、住宅家財を失ったり毀損された場合にはその「庶民階級」に応じてある程度の給付金を支給する/ 空襲等によって負傷、病気、死亡し生活困難に陥った本人やその家族、遺族に対して生活、療養、出産などの扶助を行う/ 戦時罹災者に対して、必要な応急救助を行う(明細略) … 等とあり、その主旨は「戦時災害により危害を受けた者並にその家族及遺族にして(天皇の)臣民たる者に対して、国費を以って保護を行わんとするものである」とされ、4月30日からの施行となった。運営方針も長々と記載されているが、その内容は周到で細部に渡り、いかにも万全に見える。そしてその実施は国の健民局から都の民生局に任される。
この補償対策に伴って「戦争死亡障害保険法」も制定され、保険会社も無条件に同意した。保険金の限度額は現在の千数百万円であろうか。これらの対策制定の直後の17年(1942)4月18日に初の空爆があった(上記の空襲の詳細参照)。しかしその後2年半空爆がなかったので(各種防空対策を続けていたとはいえ)その後の激しい空襲はおそらく想定外であった。そして19年(1944)11月24日から本格的に開始された空襲に対して、12月5日までの支援物資(食料、日用品、毛布など)の記録と、翌年3月9日までの3万6868の被災世帯と11万4991人の被災者に対する支援物資の記録も残されている。そして肝心の「戦時災害保護法」による給付金は2月に入って検討され、実施は3月以降になろうとするときに、3月10日の大空襲があり、それ以降は都の記録にはない(これは戦争孤児に対する救済計画が都の戦災誌に書かれているが、実際に対応した結果が何も書かれていないのと同様である)。
以上は、戦後の政府の対応と比較するためであるが、この法律は戦後も引き継いで生かされるべきであったが、そうはならなかった。政府の対応としては、臨時応急の措置として生活困窮者緊急生活援護要綱を決定し、翌21年(1946)から救済を行う一方、既存の救済諸法を整備統合した(と言えるのかどうか)生活保護法を制定、同年10月から実施した。これはしかし、本来の「戦時災害保護法」とはまったくかけ離れていた。ただこれは下に記す、占領軍GHQの戦前の軍人恩給の廃止の指示に伴う措置であったという。
【軍人恩給の復活と軍属関係者への手厚い手当て】
まず、昭和26年(1951)9月8日のサンフランシスコ講和会議において対日講和条約が49カ国の署名をもって成立、翌27年(1952)4月28日に講和条約が発効され、日本は正式に独立国家になった。その二日後に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定された。この講和条約発効の後というのがどうやら計画的に行われたようである。敗戦の年の11月24日、占領軍GHQは戦前の軍国主義を支えた軍人に対する「恩典・恵与」の基本である軍人恩給の廃止を求めた。その理由は「(終戦の年)昭和20年(1945)9月30日までに陸海軍の支払った退職手当は合わせて総額33億円に上っており、その後両者合わせて15億円の退職手当の支払が予定されていた。(この後に支給される)軍人恩給の廃止によって、復員終了後年額15億円の経費の節減が期待できる」というもので、ちなみにこの当時の33億円とは(翌年のインフレ前で)現在の3兆3千億円程度となる。これには国債での支給も含まれていたようだが、それにしても巨額である。しかも軍人恩給の基準は民間の教師や官公吏よりも数倍優遇されていた。これは「他の諸国に類をみない程大まかなものであって、この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る手段であり、その階級は日本の侵略政策の大きな源となった」とGHQは結論づけた。米国の軍人たちが驚くほどの厚遇だったのである。
日本側はこれに抵抗したというが、結局翌年2月1日付けで軍人恩給の停止・制限を含んだ勅令(法令)を公布した。しかし軍人恩給は廃止されたが、大正12年(1923)に制定された恩給法本体は生き残ったという。このため同法にあった「国籍条項」もそのまま存続し、それが援護法による補償にも影響し、同じ日本軍人として従軍した台湾・朝鮮人に対する国籍による差別をもたらした(下記に触れる)。そして廃止後6年を待って(元軍人たちが待ち望んでいた)講和条約発効直後に軍人恩給を復活させた。(2010年:林俊嶺のブログ記事、その他より混成)
こうして「戦傷病者及戦没者遺族等援護法」が65年以上経った今も、何度も改定を重ねながら継続されている。その主旨は「軍人軍属及び準軍属の公務上の傷病及び死亡等に関し、国家補償の精神に基づき、障害者本人には障害年金を、死亡者の遺族には遺族年金・遺族給与金及び弔慰金を支給し援護を行うこと」であり、「支給対象者は、国と雇用関係又は雇用類似の関係にあった軍人、軍属及び準軍属並びにその遺族」である。
少々細かくなるが、その軍人とは「陸海軍の現役、予備役、補充兵役、国民兵役にあった者/陸軍の見習士官、士官候補生、海軍候補生、見習尉官/陸海軍部内の警部、監獄看守長、高等文官、従軍文官等」であり、軍属とは「戦地勤務の陸海軍部内の雇員、庸人等/船舶運営会船員/満鉄職員等」であり、準軍属とは「国家総動員法関係者(被徴用者、動員学徒、女子挺身隊員)/戦闘参加者/国民義勇隊員/満洲開拓青年義勇隊員(満洲青年移民)、義勇隊開拓団員/特別未帰還者/内地等勤務の陸海軍部内の雇員、よう人等/防空従事者」である。これは平成30年(2018)現在の厚生労働省のサイトからである。
この内容を見て筆者はその行き届いた対象者の範囲に驚いた。例えば軍事工場への動員学徒や女子挺身隊員(14歳以上の就学していない女性)に給与が支払われていたことは知っていたが、国民義勇隊員(敗戦2ヶ月前に本土決戦要員として民間から応募)や防空従事者(おそらく町内の役員か)にも給与が払われていたとは知らなかった。ともあれ、いわゆる軍人・軍属関係は国との雇用関係にあったものとされ、その他明らかに軍属とは思えないが、何らかの形で戦時下に国が手当を支給していた人々はすべて援護の対象となるということである。
逆に戦前の「戦時災害保護法」に当たる空襲被災者は、そうした雇用関係にないからと、どのような訴えがあろうと、現在まで対象外として退けられてきた。しかし例えばこの中にある「国家総動員法関係者」とは、戦時下の国民全てがその関係の中にあったはずであり、その結果で被災を受けた人には補償しなければおかしい。かつ「防空従事者」も、空襲下にあった住民を上記のように「防空法」で縛っていたから、そのすべての住民がその防空従事の範囲の中にあったはずで、また空襲下の都市はまさに戦場の延長であり、補償を受ける権利がある。さらに言えば戦争終盤には「本土決戦」が叫ばれ、つまり国民は「戦闘参加者」の範囲に括られていたのではないか。それを雇用関係という区分で線引きするとは、明らかに矛盾した対処法である。援護法には「国家補償の精神に基づき」と記しながら、補償対象者の細やかな規定の中に、なぜ戦災被害者が入れられないのか、この政府役人の同じ国民を差別する感覚は何なのか。沖縄の問題から、広島・長崎、戦後では水俣のような公害被害者、近年では東日本大震災による原発事故被害者に対して、日本社会はしばしば被害者を逆差別するが、それがここにもくっきり表れている。
とはいえ、戦争終盤の昭和20年(1945)4月から敗戦の8月17日まで首相を務めた鈴木貫太郎は、最終的に主戦派を抑え、ポツダム宣言受諾に踏み切ったが、敗戦の放送の前日の14日に、この敗戦を受け止めるにあたり、官報号外を出し、以下のように告知した。
「告諭 内閣告諭号外 (前中略)…特に戦死者戦災者の遺族及傷痍軍人の援護に付いては国民悉く力を致すべし…後略」とあって、戦災者に対しても同等に配慮されている。しかし、この旨は次の政府から捨て置かれた。
この軍人・軍属関係への援護法による支給は痒い所に手が届くほど改定され続け、われわれが想定している以上に手厚い。例えば戦後71年後の平成28年(2016)の改正で「戦傷病者等の妻に対する特別給付金」というものがあり、その対象は「平成28年4月1日において初めて戦傷病者等の妻になられた方」というもので、ほぼ90歳前後の元軍人関係者に意味不明の支給がなされている。
ここに「私の夫の兄は中国から帰還した。仕事につき、その上に軍人恩給が支給されている。生活には困らないし、元の家族がそろった生活に戻れた」、そして「隣家の人は兄が戦死、弟がその兄の遺族年金を受給していた。弟が病死すると、その子(甥)に弔意金が支給されている。伯父(戦死)とは関係がうすく戦争を知らない世代だ。軍人、軍属の遺家族は、三親等(ひ孫、甥)まで支給されている」という事実があって、しかし援護法の中にはその対象は「配偶者、子、父母、孫、祖父母」とあるが、兄弟という言葉はない。甘い査定があったのであろう。それに比して「なんという軍と民の違いであろうか、戦災孤児たちは、親も、家も(土地も)、財産も、故郷も、学業もすべてを奪われ、明日は生きてないかもしれないという凄惨な人生を過ごしてきたのに」と、自身が孤児であり記録作家の金田茉莉(既述参照)は述べる。
しかも平成30年(2018)現在の援護給付対象の表を見ると、戦後の本人の死が戦時に傷病を受けた影響と認められるものや、それが明確に立証できない場合でもその影響により死亡したものと「推測される場合」にも遺族に特別支給されるとある。その金額はここに記すのを憚るほどに目を見張るものがある。そして戦後70年までに恩給や遺族年金等で支払われた金額は50兆円を超えるという。一方で唯一原爆被災者は一定の補償を受けているが、これは原爆という世界的に際立った事例によって世界中に注視されているが故であり、それでも本当に被曝に関係するかどうかという厳しい線引きがなされる。例えば長崎原爆で、政府の線引きした爆心地から南北12km、東西7kmの範囲以外の被爆者、つまり東西12km内の被爆者が、戦後70年前後の近年になって、その健康手帳の交付を求めた訴えに対し、地方裁判所の一審で認められても、最高裁などで次々と却下されている。実は最高裁というのは最も政府寄りの存在で、その政府の意向に斟酌(忖度)して、このような判決を下す例は枚挙にいとまがない。また例えば戦後の高度成長期に工場の公害で体を壊され、死亡した場合でもその審査は厳しく、やはり水俣病も長崎と同様な地域的な線引きがあって、「推測される場合」という甘い査定は一切ない。そもそものこうした線引きというのは、おそらく役人の机上でなされていて、その足で隅々まで歩いて現地調査した上のことではないであろう。いずれにしても、こうした軍人・軍属に対する手厚さにより、どこかの政党は軍人系の日本遺族会により選挙時の集票は保証されている。
要は、一度援護法に載せられた範囲の軍人関係者は、その後ますます国から行き届いた配慮がされて支援を受け続けているということである。そうした配慮がどうして同じ戦争で直接被害を受けた人々になされないのか、客観的に考えても不思議というか得心が行かない。少なくともそれには我々の税金が使われているはずで、それを国が明らかな差別政策として使っているということである。結局、この戦争をなかったことにしたかった日本政府が、日本人に無差別爆撃をしたことを忘れさせたかったGHQ米軍の思惑を過剰に受け取り、あるいは思惑が一致し、こうした弱い立場の戦争被害者を表に出さないようにと、あえて捨て置く方針にしたのかもしれないとは、上記の金田が指摘していることでもある。
(この問題は下記「生存権」も参照)
【空襲犠牲者の生存権をかけた裁判の絶望的な結果】
<受忍論という国の責任回避>
上記の戦後補償の項にあるような被災者が、国から救済をされないままずっと黙って我慢(受忍)していたわけではない。平成19年(2007)、原告として131名(内孤児50名)が「軍人やその遺族などには補償があるのに、空襲の被害者に援助がないのは不当だ」と主張して、国に謝罪と賠償(一人約1000万円)を求めて提訴して東京大空襲訴訟が起こされていたが、東京高裁(鈴木健太裁判長)は平成24年(2012)4月、請求を棄却した一審・東京地裁判決を支持し、そして翌25年(2013)5月9日、最高裁判所は原告の上告を認めない決定を出し(棄却)、被害者や遺族の訴えをすべて退けた判決が確定した。
この訴訟に関し、被告である国は「戦争被害は国民が等しく受忍(我慢)しなければならない」という受忍論を展開し、東京地裁第一審では「原告らの受けた苦痛は計り知れないものがある」としながら、「立法を通じて解決すべき問題」として、敗訴になった。高裁第二審では「戦地で実際に戦闘行為を行った軍人らの救済には合理的な根拠があり、民間被災者の差別ではない」、そして「被災者は数多く存在しており、どんな救済措置を講じるかについて国会には広い裁量が認められる」、さらに「原告らが旧軍人らとの間の不公平を感じることは心情的には理解できるが、戦争被害者にどのような援助をするかは立法を通じて解決すべきだ」などと指摘し、訴えをすべて退けた。つまり裁判所で扱う問題ではないと補償の是非の判決自体を回避した。そして原告は上告し、その上での最高裁の却下であった。国の主張する受忍論が勝ったのである。
しかし元々が「立法を通じて解決すべき問題」と被害者たちは考えて何度も国会に請願していて、それがかなわないから裁判に訴えでたのである。だからここでは最高裁が国会に立法を義務付ける判決を下すべきで、どうしてそこまで踏み込まないのか、やはりここにも裁判側の責任回避が見て取れる。
この原告の中に孤児の金田茉莉もいた。「国の代理人は無表情で、こちらの話は何も聞いていない。法廷では国からの返事は一言もない。訴訟側の弁護団が多角的に膨大な資料、文献を徹底的に調査、研究、考察して、何万ページに及ぶ準備書面などを作成し、口頭弁論において熱弁を振るったが、“事実認否をする必要がない。ただちに棄却せよ”とそれだけの答弁書だった。どんな事実があったかさえ認知しようともしないのだ」という。これにより日本の最高裁判所の隠された側面がどういうものか、理解できる。
ところで、原告として131名(内孤児50名)というのはなんとなく少ないように思えるし、筆者も戦後60年以上も経つとそんなものかと思っていたが、実情は違った。当然弁護士代は必要だし(ただこの訴訟に関しては多くの弁護士が義憤を感じて手弁当で支援してくれた)、地裁、高裁、最高裁とで、国に納める印紙代だけで一人約20万円かかるという。「他に原告団活動費用などもあり、高齢で年金生活であえぎながら、その日を暮らしてきた人たちは原告になれなかった。私たちは訴えられない人たちの分も代弁して訴えようと、約5年間、命がけで闘ってきました」と金田は言う。ただ、原告にはなれなかったが元孤児の一人、80代の老女性が、掃除のアルバイトを始め、その安い賃金をこの活動資金として寄付し続けた例もある。
にもかかわらず、もっと絶望的なことがあった。上告棄却とは「最高裁で審理しない」ということで、通常は5人全員の判事が意見を述べる。弁護士・原告はじめ、支援者も、その意見を聞きたいと思って待っていた。それが審査もせずに突っ返され、門前払いにされたあげく、汗と涙で集めた上告費用528万円も没収になった。
<有害とされる救済活動>
もとより国(政府)は「事実を認知する必要はない。早乙女勝元(東京大空襲被害に関する記録作家)の証言は有害である」としてきた。つまり事実を事実として調べて証言者の記録などを残すことが有害であると言う。国が決めた戦争による国民の犠牲者のことを語って何が有害なのか、二度とこのような戦争を繰り返さないようにと、辛く思い出したくもない気持ちを抑えて、あえて語ろうとした人々の心まで無視しようとするこの日本という国はどのような国なのか。実は「有害」とする側の人たちというのは、この種の本などをまともに読むことはない。だから無神経にこのような言葉を断定的に使って憚ることがない。そしてその国の意向に従って、最高裁も事実を審査しないという態度をとった。第一審の判決では「軍人・軍属と民間人の間に本質的に違いはない。心情的には理解できる」 「被害者の実態調査や埋葬、顕彰は、国家の道義的義務がある」と一応は筋の通ったあった判決があったが、筆者が他でも触れているように最高裁というのは国・政府に一番近い機関であり、これまでも国家的に重要な判決というのは、いくら地裁や高裁が多少の良識的判断を示しても、最高裁ではほぼ完全に国の立場で判決を下してきているという歴史があり、それがこの国の現実である。
われわれが教科書で習う民主主義の基本である三権分立など、この国にとっては制度上の建前に過ぎない。基本としては「最高裁判所長官は内閣の指名に基づき天皇が任命し、最高裁判事の任命は内閣が行い、天皇が認証する」となっている。つまり最高裁の人事は時の政府の意向に左右されるということである。そしてその政府の後ろには米国があり、その米国の意向に忖度するという一番ひどい例が、米軍基地問題の「砂川裁判」の時に、当時の最高裁判所長官の田中耕太郎が、判決の前にわざわざ米国にお伺いに行っているという呆れた事実である。日本が米国の属国であることを証明するいい例である。さすがに敵国として日本全国に無差別空襲を指揮したルメイ将軍その人に、勲一等旭日大綬章を与えた国だけのことはあり、これらは戦後から現今にも通底しているであろう。沖縄の基地問題もいくら裁判に訴えても、米国の意向が変わらぬ限り、政府はそれを受け、裁判官もその方針に従って判決を続けるだけである。刑事裁判と違って、深刻な被害の実態を訴えようと、無視を決め込み、最後には「却下」という手段をとる。(以下も参照)
<名古屋における訴訟>
この東京大空襲訴訟より先に、29歳で名古屋空襲の時に自宅防空壕にいて、そばに250kg爆弾が落ち、生き埋めになって大怪我を負い、左目の眼球を摘出、鼻の上部をえぐられた杉山千佐子が、昭和47年(1972)、国を相手に立ち上がった。その前年、50代の杉山は賄い婦をしていた大学の教員寮で、ある教授に新聞記事を見せられ、それは名古屋で悲惨な空襲の記録を集める会の発足準備の記事であった。その会は東京でその前年に始まった空襲の記録運動(その結果が『東京大空襲・戦災誌』に繋がる)に触発されたものだった。その教授に、あなたも声をあげたほうがいいと、戦時中の防空法の解説本を渡された。それを残った片方の視力の弱った目で、虫眼鏡で拡大して読んだ。そこには災害保護法(上記の<軍人に対する…>参照)もあり、「死者には傷痍扶助金を出す」、そして「遺族500円、障害350−700円」、さらに「外貌に醜痕を残したる」女子にも350円を給付するとあった(当時の500円は現在の150万円以上)。当然杉山は当時受給していないし、すでに同法は廃止されていた。それまで戦災で受けた醜い姿を蔑まれつつ、家政婦などしながら世間の片隅で黙々と働いてきた杉山に疑問と怒りが湧いてきた。実はこの昭和47年(1972)のたった一年間だけで、旧軍人・軍属への恩給とその遺族への年金等に、なんと3376億円(現今の金額で6000億円程度であろうか)もの金額が投入されていた(その翌年には4260億円となっている)。その事実を知り、自分たち戦災被害者には一円の援護もないという差別に怒り、声をあげたのである。
しかし「名古屋空襲を記録する会」はあくまで記録を掘り出すことが目的で、醜い姿で世間から冷たいあしらいを受けて来た杉山には違和感があって、並行して「全国戦災障害者連絡会」を立ち上げた。そこに集った人の中には幼稚園の時に爆弾で片足を無くし、いじめを受けて小中学校にまともに行けず(弱者を差別する日本人の陰湿さから)、自宅でできる洋裁をしてひっそり暮らしていた女性もいた。彼女は人前では怪我をしてと言いつくろったが、空襲でと言えば、「兵隊さんと同じように(支援を)もらえるんでしょ」と人に言われるのが惨めだったからという。つまり一般人の感覚でも、当然補償はもらえているのだろうということである。杉山はその後国会議員に働きかけをし、議員も同情し、動いてくれるようになり、新聞も取り上げてくれた。全野党共同提案も具体的になり、杉山は5、6年で救済議案が成立する期待を抱いた。
しかしそこから何度も「戦時災害援護法」は廃案となり、昭和56年(1981)、参議院の社会労働委員会の参考人では杉山は眼帯を外し、左目と欠けた鼻上部を晒して切々と訴えた。そしてその時の園田直厚生大臣は法の成立に前向きの発言をした。しかし厚生省の当局は財源の問題からこの法案に否定的だった。しかもこの年には軍人恩給関係は一兆円を軽く超え、2年後の昭和58年(1983)には1兆7千億円に膨らんだ。その援護法も、軍人・軍属から、準軍属、動員学徒、敗戦の二ヶ月前に「本土決戦」に向けて招集した義勇隊にまで支給範囲を広げた結果だった。園田はその後外務大臣に転じ、3年後に急死した。
<諮問機関による受忍論>
その一方で昭和55年(1980)、大臣の諮問機関「原爆被害者対策基本問題懇談会」によって、原爆を含めた戦争被害者に「戦争による“一般の犠牲”として、すべての国民が等しく受忍しなければならない」という我慢を強いる「受忍論」が報告書の中で展開された。これは原爆被害者の補償範囲を広げると他の空襲被害者にも影響が及ぶことを政府側が「心配して」のことであった。その諮問委員会の座長であった元東大総長茅誠司が、その前年のスタート時に「(被爆者は)37万人もおられ、これでぴんぴんして何でもない人も多いんでしょう」と発言し、「はい、その通りでございます」と厚生省の係官が答えている。何も実情を見ずしてひと括りにする、官庁によくある光景である。この中には空襲被害者と同様に家を失い、親兄弟や伴侶や子を失い、仮に元気な姿でも放射能を浴びて体調を崩し、まともに仕事ができないなどの苦境にあえいでいる人たちがたくさんいるのである。しかも座長の茅は、湯川秀樹とともに世界平和アピール七人委員会の結成に参加した経歴を持つ。有識者と言われる人たちが、普段いかに人々の生活から離れた観念の世界に囲まれて生きているかがこれでわかる。しかもこの時の厚生大臣で後に首相となった橋本龍太郎が「非常に厄介なのが名古屋を中心としたグループ、及び東京の下町を中心としたグループ … 国家補償という言葉をできるだけ使いたくない」と述べた。これは諮問委員会に対しての厚生大臣としての要請であり、諮問の前に委員会にこういう締め付けを行なっているということである。さらにそれを受けて「こちらが一歩前進しますと …… ハチの巣をつついたように、いろんな問題が飛び出してくる」という元最高裁判事の言葉がある。こうした連中は自分たちが何様だと思っているのであろう。諮問委員に選ばれたというだけで偉ぶり、「選民意識」にまみれた言い方で、国民のためにと言う意識がかけらもない。いずれにしろ政府と最高裁が裏で通じ合っていることがこれでよくわかる。
実際にこのように政府が必要に応じて設ける諮問機関は、政府の意向に沿った「識者」が選ばれ、そして選ばれた識者は政府の意向を忖度するので、ほとんどの場合政府の後押しをする結果しか生まない。これは硫黄島の元住民の帰還に関する措置でより明確である(同島参照)。
こうして原爆の被爆者援護法の制定過程でも厚生省は「一般戦災者との均衡上、被爆者をあまり特別扱いできない」という論理を生み出し、その結果、一時協力関係を持とうとした被爆者と空襲被災者は切り離された。つまり被爆者にとって空襲被災者は迷惑な存在となったのである(ただし、原爆についてはその非道は国際的に認知されているから、どのようにも政府が補償をしないという選択肢がなかったこともある)。同様な被災者の運動は各地で起きるが、このような政府(厚生省)の頑迷な壁は厚かった(実は当時の厚生省には職を失った元軍人の多くが入庁していたから、自分たちの恩給はいくらでも手厚くできたが、関わりのない被災者の訴えは厚生省にとって煩わしいものであった)。昭和の終わる63年(1989)、議員提案も途絶えた。「戦時災害援護法」は国会では14回も廃案となった。またその過程で政府からの謝罪すらなかった。それはそうであろう、終戦直後の内閣で「一億総懺悔」という言葉で、国民みんなで反省しましょうとあっけらかんと言える政権の首脳たちから血筋を引く現今の政府である。
<ドイツや欧米諸国との違い>
杉山は平成元年(1989)、TVのドキュメンタリー取材で西ドイツに行ったが、ドイツは最初から民間被災者を支援していて、想像以上の差があることを知った。逆になぜ日本は同じ爆弾で被害を受けた民間人を差別するのかと聞かれ、同行の記者は返事に窮した。同様に米英仏も同じ補償制度があった。杉山にとって日本はいかにも特別な国であった。戦時中もそうであったが、「受忍」しやすい国民性を利用する政府であるのではないか。
実際にこのような線引きをしているのは日本という国だけで、第二次世界大戦を引き起こしたドイツだけでなく、連合国のフランス、イギリス、イタリア、そしてアメリカも、軍と民を平等に補償援護していると記録作家の金田茉莉は指摘し、逆にその国の人々は、この日本の軍と民の差別が「どうしても理解できない、信じることができない」と言われるという。
杉山の活動とは別に、同じ連絡会の名古屋空襲で大怪我を負った人たちが少人数で昭和51年(1976)、補償を求めて名古屋地裁において国を提訴した。しかし地裁はこれまでと同様に国会で法案を作るべき問題として棄却した。そして最高裁まで行って11年後にいつもの「受忍論」との理由で訴えは却下された。さらに平成25年(2013)、最高裁は東京大空襲の被害者の訴えを最終的に退けたが、その二年後、国会議員の柿沢未途を中心とする45人の超党派で空襲議連が再立ち上げされた。その初代会長は元総務大臣鳩山邦夫であった。鳩山は杉山らの話に耳を傾け、「天災の被災者が救済されるのに(東日本大震災の4年後である)国家権力が発動した戦争の被害者が救済されないのは理に合わない」と率直に語り、一時金(35−150万円、一桁少ないのではないかと思われる)を支給する法案の検討に入った。しかしまたしてもその翌年、鳩山は急死し、その運動の軸を失った。
軍人・軍属その他に対する手当は、昭和27年(1952)から61年間(2013年まで)の総計で53兆円(そして2016年までに60兆円、つまりこの3年間で年平均2.3兆円)に上っている。その上、遺族年金は孫の代まで支給されるというから異様である。しかもこの大金が毎年の予算委員会で問題にされたことはない。
(以上の名古屋関連の引用は主に2016年、朝日新聞の連載「救われず71年 — 空襲、見捨てられた民 —」より)
【平和祈念事業特別基金と平和祈念展示資料館】
これは国の事業であり、一見良い名目の事業に見えるが、内実はかなり偏っている。
その目的は「今次の大戦における尊い戦争犠牲を銘記し、かつ、永遠の平和を祈念するため、いわゆる恩給欠格者、戦後強制抑留者、引揚者等の関係者の労苦について国民の理解を深めること等により関係者に対し、慰藉の念を示す事業を行うこと」というもので、昭和63年(1988)の法制化によって書状等の贈呈事業を行ってきたが、その期間を経て平成15年(2003)に政府が200億円を出資し独立行政法人が設立され、特別祈念事業として「特別慰労品を贈呈する」ということであった。その対象は、恩給欠格者(旧軍人軍属として在職期間によって恩給を受ける資格を有しない者=基金発足時174万人、推定現存者約70万人、平均82歳)、戦後強制抑留者(終戦後にソ連軍によってシベリアやモンゴルに抑留され、帰還した者=約57.5万人、推定現存者11万人、平均83歳)、引揚者(終戦に伴い本邦以外の地域から引き揚げた者=約319万人、推定現存者約125万人、平均72歳)等であり、特別慰労品とは、3−10万円の旅行券もしくは国債、その他置時計や万年筆、銀杯等のいずれか一品というものである。そして平成19年から22年(2007~2010)9月末までに事業として実施された。そして事業終了の証として平成22年(2010)に「戦後強制抑留・引揚死没者慰霊碑」が千鳥ヶ淵の片隅に建立された。しかしそれで終了の予定が、強制抑留者からの度重なる請願もあって、その年さらに「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法」が追加され、基金の最終事業として、戦後強制抑留者に特別給付金を支給する事業を改めて平成24年あ(2012)3月末まで実施し、平成25年(2013)4月1日に解散した。
ただ当初の200億円というのはそれに関わる事業全体の費用で、職員や理事(おそらく天下り)の高額の給与も含んでいて、22年(2010)までに実際に特別慰労品として支給されたのは30億円に満たないようであって、追加の強制抑留者に対してはその残預金から25−150万円が一時金として支払われたとされる。この予算が増額されたとしても軍人・軍属者に対する恩給等の予算からするとわずかなものである。
ここに至るまでシベリア抑留者から、その時代の未払い労働賃金を求める訴訟が起こされ(すでに日ソ共同宣言により互いの賠償請求権を放棄していたため)、それについては最高裁がやはりまずは受忍論として(平成6年:1994年)、次に立法府の問題として(平成10年:1998年)退けた。それに対してやはり平成16年(2004)より国会への請願がなされ、野党などからの議員立法が再三再四提案されたがことごとく廃案となった。この辺りは空襲被害者の経過と同様である。一旦平成17年(2005)に上記の申し訳程度の慰労品支給が可決されたが、その後も特別給付金を求めてさらに再三国会で提案され、廃案が繰り返され、やっと上記のように平成22年(2010)に特別給付金の支給が決まった。そしてこの時点でも空襲被害者や孤児たちは捨て置かれた。
この経過資料の中に注目すべき文言がある。「平和基金発足までの沿革」とあり、戦後処理問題として「先の大戦に関しては全ての国民が程度の差こそあれ、生命、身体、財産上の何らかの犠牲を余儀なくされ たところであり、全国民がその意味で戦争被害者といえる。その中で、戦後処理問題とは、戦争損害を国民の納得を得られる程度において公平化するために国がいかなる措置をとるかという問題」としている。そしてこの事業立ち上げ前の平成17年(2005)8月4日付けで「基金及び基金事業のあり方について政府と与党との間で」各種了解事項とした最後に「以上の措置により、戦後処理問題に関する措置はすべて確定・終了」と記されている。この大きな戦時の問題をこの時点で終結させるとはなんと自分勝手で傲慢なことであろうか。政府・官僚側として面倒な問題を早く終わらせたいという意図が見え見えである。ここには「戦後処理問題とは、戦争損害を国民の納得を得られる程度において公平化するために」としながら、やはり空襲被害者や孤児のことが抜け落ちたままである。別に戦後強制抑留者、引揚者等を慰労すること自体は問題なく、当然国が義務としてなすべきことであろう。だがこれでは「公平」とは言えない。しかも「引揚」にいたらず行方不明になって帰国できなかった人たちも数知れずいる。またこの抑留者の中にも徴兵されていた朝鮮人も多くいて、彼らは戦後の国籍が違うということで全くの対象外とされている。しかし戦前は彼らは日本の領地(植民地)として同じ日本国籍として扱われ、徴兵され戦役にも就かされた。だから補償対象は戦時下に対するものであって、戦後の国籍が違うからと対象外にされるのはおかしい。
このように、この事業内容の偏りにもかかわらず、大げさに平和祈念事業と名付ける官僚・為政者の無神経ぶりはなんなのであろう。それとも上記の東京都で凍結された平和祈念館の事業の代わりにやっているつもりなのであろうか。あるいは凍結された祈念館が仮に復活される動きがあるときに、この名で牽制する役割を担わせているのではないかと勘ぐりたくもなる。いずれにしても「祈念」(心を込めて祈るの意)という言葉を安易に利用し、きれい事に見せようとするお役人のその心根がおぞましい。
一方でこの特別基金の「労苦継承事業」として「平和祈念展示資料館」が平成12年(2000)に設置され、上記関連の資料の収集、調査、展示が行われることとなった。そして平成22年(2010)、特別祈念事業解散をもって、資料館は総務省に移管され、新宿の高層ビルの中で現在まで存在している。しかしこの資料館の内容も単にこの特別基金の主旨に沿ったものであり、体験談などはネット上にも積極的に掲載し、筆者も参考にしているが、その対象はほぼ満州・朝鮮とシベリア抑留からの引揚者に限ったものである。この名称に惹かれて戦災関連を含めた総合的な資料館として見に行く人がいるかもしれないが、限定されたものであることは知っておくべきである。
(以上の具体例は主に総務省資料より)
【中国に置き去りにされ、見捨てられた軍人】
今ひとつ、上記の平和祈念事業という名で戦後処理問題に関する措置を終了できない事実がある。同じ引揚者でも満州以外の中国本土で、戦時中からの内戦に巻き込まれて戦後も残留し、あるいは捕虜として何年も過ごし、遅れて帰還した兵士たちは軍籍を抹消され、そのために補償や恩給の対象から外された。この元兵士たちは、遅ればせに平成13年(2001)戦災被害者と同様に裁判所に提訴したが、16年(2004)に地裁で敗訴、すぐに控訴したが翌年高裁で敗訴、さらに上告したが最高裁は審理を一度も開くことなく半年後に上告を棄却した。当初、原告は13人であったが、高齢のために何人もが死亡するなどあって、最後は5人になっていた。その理由について日本政府は「残留兵はみずからの意志で(すなわち軍の命令でなく)残り、勝手に戦い続けた」と主張し、そしていつも通り最高裁は政府の見解を認めるにとどまった。
それにしても戦災被害者もそうであるが、一度も審理せずに棄却するとは何のための最高裁判所なのか。ある意味、制度上では最高裁が一番の権力を持っているのであるが、その彼らの任命権を持っているのは内閣であり、そのことによって裁判官が政権の意向に寄りそう姿がここには見て取れる。だとしたら、現状ではわれわれが教科書で習う三権分立が正しく機能していないことになり、この構造を変えなければ日本は良くならないということになる。客観的な視野を持って事実を見極めて審理し直し、その上で判決ができないような裁判所など必要ない、却って世を惑わす迷惑な存在であると言うべきである。自分たちは何のために存在しているのか、その問いかけの意識のかけらすら持っていないのである。
実際に敗戦という事実を突きつけられた時、上級将校たちの多くは一般兵士たちに適当な言葉を残して真っ先に日本に逃げ帰った。そして兵士たちは中国だけではなく、インドネシアや東南アジアや南洋諸島各地で放置され、そのために餓死した兵士たちが多くいたことは比較的知られているが、同じようにその現地で内戦に巻き込まれてその戦いに参加した人も多くいた。その中には時折日本の兵士の誇りとされる、現地の独立運動に従事した人もいたのである。しかしなぜ中国の残留兵だけが(例えば山西省に残された2600人もの将兵)差別されるのか。山西省の残留兵というのは、戦時中から継続して国民党軍に味方して共産党人民解放軍と戦い、それは撤退したそれまでの日本軍そのままの流れでもあり、先に逃げ帰った上級将校が命令したことでもあった。結果的に中国ではこの内戦の後に共産主義政権が樹立され、残された日本の将兵たちは降伏し、その技術を買われ、共産党軍に請われて仕事をした例もあるから(すぐに帰る手立てもなかった)、それでも米国の意向に合わせれば、共産主義政権に関わったものたちは軍人として認めがたいということなのであろう。同じ戦争に巻き込んで出兵させてどうしてこのような差別をするのか、御都合主義という言葉があるが、机上だけでこのような線引きをして平然としている政官人たちのために生まれた言葉であろう。ちなみに朝鮮人徴用兵士も対象外であったが、同じ植民地の台湾人は補償されている。これも矛盾している。
【その他の見捨てられた犠牲者】
さらに二つ、他にも差別されている人たちがいる。その一つが中国残留孤児と呼ばれる人々である。終戦間際にソ連軍が突然の宣戦布告をして満州に侵攻、その時大半の将校たちが戦わずに列車や車を使って先に逃げてしまい、現地に残されて難民となった日本人居留者(約150万人)が、日本への帰路(ほとんどが徒歩)、追い詰められての集団自決(子供も含め)もあった。それでも日本を目指した人々の中で、子連れの家族にとってはその行路の難しさ(しばしば「匪賊」と言われる集団に襲われて死者も出し、途中で飢えや病気で小さな子の多くが死んでしまった)から、やむをえず子供を中国人に預けたり、あるいは家族が殺されて孤児になった子を中国人夫妻が引き取って育てたりした様々なケースがあり、そこで多くの「中国残留孤児」(当時13歳以下をいう)が生まれた。その数万人ともいわれている残留孤児が、昭和47年(1972)の日中国交正常化により、希望があれば帰国できることになった。そのうち平成30年(2018)2月末時点で全国に2556人が永住帰国し、その家族と合わせると約9千人が暮らしている。
しかし帰国できたのはいいが(帰国費用は当然国が負担)、やはりその後の生活に対しての政府によるまともな施策がなされず、日本語の壁もあって苦難を強いられている。彼らは祖国に二度捨てられたと言われ、その彼らをなんとか支えているのは、国内の戦争孤児と同様に各地域のボランティアの方々である。なお孤児になった子の数は把握されていないが、帰国できず、現地で結婚等して「残留婦人」となった人も多くいて、そのうち3700人以上が帰国しているとされる。毎度のことながら、どうして日本という国はこうした国の施策による被害者をきちんと援助できないのか、政治家の問題というより(政治家は選挙によって変わる)、施政を支える官僚がまともに育っていないということであろう。官僚の多くは有名大卒のエリートであるが、その頭は偉ぶる政治家への追従に費やされ、国民への「公僕」としての役割を忘れているし、そもそもがそのような教育も指導もされていないからであろう。
今一つは、植民地であった台湾と朝鮮(今の韓国と北朝鮮)から日本軍あるいは軍属として徴兵されていた多くの人たちの問題がある。彼らは戦時下で、特に東南アジアの戦地まで従軍して戦死した例、あるいは軍属として日本軍のサポート、例えば捕虜収容所の監視員などもしていた。また若者以外は国内に徴用工として徴用され、各地の軍需工場で働き、そこで米軍の空襲にあい死亡した人たちも多くいる。ところが敗戦となって、台湾・朝鮮は日本から切り離され、つまり日本国籍ではないとして、すべて援護法の対象から外された。
そこでもっと見落とせないこととして、戦地で捕虜収容所の監視員などしていた朝鮮・台湾人たちは、いわば敵地で直接捕虜や現地の人に接していたから、敗戦とともに連合軍に逮捕され(ここでも日本軍将校たちは先に逃げ帰った)、戦争裁判にかけられ、321人がBC級戦犯として有罪となり、そのうち台湾人26人、朝鮮人23人が死刑になった。実にこの人たちをも日本政府は援護法の対象から外したままなのである。
そのうちの一人、死刑を減刑された李鶴来は日本の巣鴨で服役後、残された朝鮮人BC級戦犯を組織し、昭和30年(1955)から「刑死した友人と亡くなった友人の無念の思いに応えるため」と、日本に補償と謝罪を求めて活動してきた。しかしそこから63年後(平成30年:2018)の今に至るまで、日本政府は無視し続けている。この間、メディアも何度取り上げたかしれないし、一議員が国会で取り上げようとしたこともあるが、どこかからの圧力で途中でうっちゃられている。すでに氏は93歳である。
これが仮にアメリカであったなら、とっくに取り上げられ、名誉回復の議決までされていたであろう。実際に開戦後米国に移住していた日本人を強制収容所に入れて迫害したことに対し、米国政府(時の大統領)は正式に議会で謝罪している。アメリカでは人種差別はいまだに根強いとしても、こうした意味では民主国家である。日本はアメリカによって軍国主義から民主主義国家に転換させられたが、基本的なことは根付いていないというか、政府にとって都合の悪いことは無視し続ける傾向が根強くある。
【最後の訴え】
平成30年(2018)1月、サイパンやテニアン島などの南洋諸島やフィリピンで戦争被害を受けた沖縄県出身者(主に移住者や出稼ぎ者で当時約8万人に上る)や遺族らが、国に謝罪と損害賠償を求めた訴訟で、沖縄地裁は、戦時は旧憲法下で、国家賠償法施行前のため「国は不法行為責任は負わない」として原告側の訴えを全面的に退けた。国内のあれだけの賠償訴訟が却下され続けているから、ほぼ最初から可能性はなかったであろう。しかし、旧憲法下でその法がなかったというのは正しくは嘘で、戦前には「戦時災害保護法」というものがあり、それはまったく無視されている。仮に何もなかったとしても、終戦の7年後に復活、制定された軍人恩給のように、国に作る義務を課すくらいの裁定はできないのか、できなかったはずはない。
裁判官も仮に官僚の一員と見るなら、これまでの政府の基本政策の流れに逆らう判決は、よほど気骨のある人でないとできない。ただ、サイパンなどでは自分たちを守るべき日本軍人に追い詰められ、自決する住民も少なくなかったわけで、その追い詰めた側の軍人たちは上に記したように手厚い補償を受け続け、国はそのために毎年巨額の予算を計上し続け、(生存している元軍人は年々少なくなっているにかかわらず)いまだに減る気配がない。その一部をこのような犠牲者に回してもほとんど影響がないと思われるが、この沖縄の人たち(八丈島も同様の被害者がいる=同島参照)やその遺族には何の補償もなく放置し続けているという、この日本政府の弱者や被害者を守らない姿勢(つまり被害者を重ねて差別しておいて知らんぷりを決め込む、つまり二重に差別をする姿勢)をどうしたら改めさせることができるのか、それこそ気が遠くなる思いがする。
ここに来て、平成30年(2018)12月、またしても超党派の国会議員連盟が空襲被害者の救済法案を次年度の通常国会に提出する動きを見せた。これは比較的若い世代の議員が、それはおかしいと義憤を感じてのことであろうが、その案には身体障害のある人への一時金50万円の支給や追悼施設の設置、被害調査(戦後73年も経過した今頃!)を盛り込んだ素案をまとめたという。お手並み拝見だが、これまで14回以上国会では廃案や棚上げされて来て、しかも該当者が三分の二以上は死亡している現況において(上記の杉山は2016年、101歳で亡くなった)、今さら50万円というお茶を濁す程度の可決で済まされては、被害者たちは浮かばれない。それに被害者たちが本当に求める正式な謝罪というのももはや見込めないであろう。
謝罪とはいかなるものか、それは戦後の経済発展による公害がもたらした水俣病訴訟において、患者の代表が「銭は一銭もいらん。そのかわり会社のえらか衆の上から順々に有機水銀ば呑んでもらおう、(これまでの訴訟の間に次々と交代してきた会社の幹部)40何人に死んでもらおう、あと順々に生存患者になってもらおう」(石牟礼道子『流民の都』)と極言していることに表されているが、どこまでも被害者の立場になってものを考えてくれということである。そしてそのような本来の「公僕」(世のため、人のため)としての使命感を持ちうる人間が、現在の日本の政官僚(為政者)や大企業(社会の公器)の上層部の中にほとんど見当たらないということである。
「自然死ではない死を遂げる場合、下層民たちの大部分の死はなぶり殺しであって、『法の下に平等』どころか、法の見捨てるところにおいて平等であるという歴史的実感」(同『流民の都』)とは、けだし至言である。すべからく、為政者つまり政治家、官僚、役人は国民や住民の困りごとを他人事としてはならないし、「法の見捨てるところにおいて平等」にしてはならない。これは(仮にも「公僕」としての自覚があれば)為政者の当然の責任と義務であろう。そんなことが自覚されていないのは戦後の日本の教育の大きな欠陥であるかもしれないし、何よりも官僚や役人に対してそうした教育が施されていないことは明白で、少なくとも「選民」と自負だけはしているであろう彼らが、教育改革など語る資格はないのである。
【われわれに残された課題】
以上のような事実関係を踏まえて、この昭和の戦争が(一部の人たちが言うように)正しいものであったか、避けられないものであったのかを基本的に問い直すべきである。日本は日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)にかけて、欧米の植民地になっていたアジアの解放に貢献したのだという意見があるが(少なくとも中国では全くその意見は通らないし、筆者の私見では、日本軍は中国共産党の勢力拡大要因を作ったし、事実毛沢東は、共産党政権ができたのは日本軍のおかげと発言している)、その裏で現地の住民がどれだけ犠牲になったのかについてきちんと調べて思いを致すべきであるし(この稿の最初に掲げた「昭和の戦争の概略」の中の「全体の犠牲者」参照)、また国内で犠牲になって残された遺族や傷病を抱え続けた人たち、 そして生き残った孤児たちの寿命が尽きてほぼ死に絶えるまで捨て置き、国家としての責任を平然として取らない日本の為政者(政府と官僚)の、その責任を取らない根源の構図、もしくはそのような構図を持つ日本が、本当の意味での民主主義的仕組みの上に存在しているのかどうか、また強いて言えばわれわれ国民が、どうしてこのような政府や官僚を生み出してしまっているのかを、現今の日本の社会構造から見直さなければならないし、アメリカに敗戦後いきなり与えられた民主主義体制というものがどういうものであったのか、そしてそれが正しく機能しているのかどうなのかを、「自主憲法を」と言う前に問い直さなければならない。そもそも日本人自身が自発的に今の民主主義体制を作ったのではないのである。もっともあの敗戦で虚脱し混迷した時代に自主的にまともな民主主義体制が作り得たかどうかは別である。相応の人材はいたであろうが、そうした人材を生かせる体制が敗戦後すぐにできていたとは思えない。米国としてはこの民主主義の憲法を当時の日本人に押し付けるしかなかったのである。さらに米国は日本の長期にわたる軍国主義の弊害を見て、日本人に軍隊を持たせるとろくなことはないと判断し、戦争放棄の第九条の項を入れたのではないだろうか。
戦後、日本人の勤勉な性格が、一時は世界一と言われるまでの経済の発展を産んだ。決して政府や官僚の政策が好リードした結果ではない。民間の小企業にいて大手メーカーに出入りしながら高度成長期から仕事をしてきた筆者には間違いなくそう思えている。為政者はそれを後追いしてきたに過ぎない。仮に戦後の経済成長をリードした企業人たちと、政界の重鎮たちを比較して見て、どちらに人間的に優れた人物が多いかを比べてみればわかる。
もっとも、経済発展を極めたのちのバブル期が崩壊してから、そしてまた戦後の独創的な創業者たちが次々と引退してから、日本の大手企業も次第に官僚化していっている面が見られる。ただその高度成長の裏で、様々な公害の被害で見捨てられた人々が多くいたことも確かであり、そこを救い手当てすべきなのが役人(官僚)の役割であるはずが、「後追いして」きているだけの役人は、そのような人々の声は小さな雑音にしか聞こえていない。ある意味国民の命を預かる官僚あるいは役人は、人の命を預かる医者が、インターン期間を経て一人前の医者になるように、初期の数年間、一般企業の中で修行してもらったほうがよいと思われる。ただし決して彼らを特別扱いしないという条件において。
例えば郵便局とは別に宅配便の仕組みを産んだヤマト運輸の故小倉昌男会長は、その事業の立ち上げまでの何年にもわたる悪戦苦闘話から、「役人が規則を作って、自分たちの都合のいいように使っている。この現状を変えなければ日本は良くならない」と晩年に言い切っている。もちろん役人(官僚)の個々の人間すべてがそうだとは限らないのだが、組織体となるとその組織を相互に守ろうとするある種の自衛システムが働き、心ある個々の官僚は消されてしまう。そしてこのある種の組織的な自衛システムというのが、実は「誰も責任を持たない権力」(筆者の言う集団無責任体制)というものになっている。この誰も責任を持たない権力(つまり為政者=政府と官僚の相互の思惑によって作られる自衛システム)こそ、まさにこの昭和の戦争を起こし、戦況が悪化しても撤収を決められず、つまり国民の犠牲の拡大のことなどまったく念頭になく、原爆投下まで招いた元凶であるのかもしれない。それを表す事実として、太平洋戦争開戦を主導した首相の東條英機が戦局の悪化の責任を取って終戦一年前に辞任したにもかかわらず、そこから敗戦までの一年間に複数の首相の下で、この戦争に関わる死者は、特攻隊員や空襲、原爆犠牲者も含めて内外に200万人以上という実に全体の三分の二の国民を犠牲にしたことが挙げられる。
戦前にあっては、先にも触れた元大本営陸軍参謀として軍政権内部にいた瀬島龍三が分析するように、その構造には「統帥部と政府の不調和、計画の一貫性の欠如、権力の分散に伴う責任所在の不明確があった」ということであり、そういう組織体(「内閣、陸軍、海軍の三極構造」に各大臣と参謀総長、軍令部総長が加わったもの)の中ではそれぞれの思惑が飛び交い牽制される中で、ある種の雰囲気が増幅、醸成されて、そこには国民に及ぶ犠牲のことなどは配慮の対象外で、彼らにとってはただ単に日本国という抽象体の面子(体面)が重要視され、戦争突入に至った、つまり彼らの面子が天皇を利用してこの戦争を始め、「悠久の大義」という空疎な言葉を使って若者たちを無闇に死に追いやったのではないのか。そしてその誰も責任を持たない権力の構造が、民主主義に転換した現今にも続いているということではないか。むしろヒトラーのような独裁者がいなかったことで、かえってそのような曖昧な権力構造が残されているのではないだろうか。要は誰も責任を持たない政府だから、自分たちが起こした戦争に対して素直な反省もできず、国民にも国外にも率直な謝罪すらできないのである。