『世紀の遺書』(戦犯刑死者の遺稿集)
(昭和28年発行:巣鴨遺書編纂会)
戦後、占領軍GHQが日本人戦犯に対する裁判を主導し、国内では主に巣鴨プリズンにA級戦犯を収監して裁判を行う他、BC級戦犯は横浜で裁判を行い、両者の処刑は巣鴨で行なった。その死刑になった者たちに最後の日まで寄り添ったのは僧侶で教誨師としての田嶋隆純であった。そして田嶋が中心となり、巣鴨以外の世界各地で死刑に処された戦犯たちの遺書を集めて遺稿集として編纂したのが『世紀の遺書』である(701編)。
なお、BC級戦犯の判決については起訴が2244件、被告5700人、死刑984人、無期475人、有期2944人、無罪1018人となっている。
『世紀の遺書』序説
ここではいろんな人が冤罪を含めて死刑の判決を受け、最終的に死ぬ覚悟をもって従容とした心境で処刑されている様子が伺える。ただわれわれが持たなければならない視点は、この裏側には何十万、何百万、あるいは何千万という中国を含めた東アジアの人々の死が横たわっているということである。しかもその人々の死というものは、ここで記されているような、自分の心の整理をして死に臨んで行ったのではまったくない。ある日突然、むやみに、時には助けてくれと哀願しながら殺されていったのである。もちろん遺書など書く余裕も何もない。果たしてここに遺書を残すことのできた人たちは、日本軍にむやみに殺されたその人々の影を少しでも思い浮かべることがあったのかどうか、筆者が部分的にしろ、ざっと流し読みした範囲において、それはごく一部の人を除いてしか読み取ることができない。あるのは良くも悪くも自分とその家族のこと、あるいは上級将校にあっては体裁よく日本の今後のことばかりである。
例えばこの死刑囚の遺書の中には、これは報復裁判で不当であるのように書いている人も数多くいるが、何よりもここまで日本軍は、中国やフィリピンの戦場において、戦闘で戦友を殺されたからと言って問答無用として捕虜を虐殺したり、敵軍が逃げ込んでいる、あるいはスパイがいるとして一つの村を焼き払い何十人、何百人単位で村人を虐殺したりするという「報復」を各地でやっている事実があり、そうした自分たち日本軍としての行為に対する反省はないというか、(戦争という全体の行為の中で)忘れてしまっている様子がある。今ひとつ忘れられていることは、死刑囚たちの多くが、この結果は日本が戦争に負けたから自分たちは戦犯として犠牲になっていると語っていることで、しかし勝ち負け以前の問題として、そもそも満州事変から14年間の長期にわたる悲惨極まる戦争は、すべて日本が始め、その結果としてこうなったということである。誤解を恐れずに言うなら、ある意味「報復裁判」は、相手側からすれば当たり前のことなのである。
また例えば国内では、空爆時に日本軍が撃墜した爆撃機から落下傘で降下してきた飛行士たちを、日本の憲兵が略式裁判によってその場で処刑したことで、米軍に戦犯として裁かれたわけであるが、そもそもその飛行士たちを処刑する前に遺書を書かせる余裕を与えたのかどうか、筆者は一応POW(戦争捕虜研究会)の資料にも目を通しているが、その範囲においてもその様子はまったく見られなかった。もちろんこの米軍の爆撃によって命を奪われたわが国の民間人も何十万人といるし、どちらがどうだったということは結局は言えないが、少なくともこの大きな戦争における幾千万人単位の死者の中で、遺書を書き得た人は非常に稀で、遺して行く家族のことすら思う間もなく死んで行った人が大半である。極端な話、戦争終盤、東南アジアの密林に逃げ込んで餓死した日本軍兵士は多く、彼らは遺書を書く紙すらなかったことなど考えれば、この戦犯としての死刑囚は、冤罪であるかどうかは別として、ある意味幸運であったのではなかろうか。
ただ逆説的に言うなら、筆者がこれらを流し読みした範囲において感じたことは、少なくともここに遺書の載っているBC級戦犯たちのなかで、少将以上の上級将校を除いて一切の人を死刑に処する必要はなく、その代わりに「戦争をする」と決めた日本国内の政府の要人たち、あるいはその当時の(少なくとも日中戦争開始から)国会議員で戦争に賛同した者たち(大政翼賛会に参加した者たち)をすべて、そしてその周囲で策動した者たちも含者たちを含めて、BC級戦犯で処刑にされた人々と同数(900人以上)を死刑にすべきであったろう。その彼らは、国内でほとんど愚にもつかない議論をしながら、実際に戦場に行ったのは自分たちではなく、赤紙で召集された兵士たちであり、基本的にその兵士たちに責任などないのである。その意味ではA級戦犯で処刑された大将級の軍人や政治家たちだけではまったく済まされず、のちに減刑となった要人たちもすべて含めて処刑すべきであったと筆者は考える。そもそも戦争犯罪といっても(殺し合いという)戦争行為自体を許容し前提としている国際法などなんの意味もない。上の方で「戦争をする」と決め、その流れに加担し、策動した者たち全てを、もし仮にできるなら、国民の手で裁判を起こし、処刑しなければ世の中は変わらない。BC級戦犯で処刑にされた人々に対して同情して済ませている場合ではないのである。
ただし死刑囚への「同情」の問題以外に、日本固有の問題であるのかどうか断定できないが、死刑囚ばかりでなく、有罪となった家族に対するいわゆる村八分的な問題が生じることになる。それは遺書の中でも囚人たちが「汚名」を着せられる家族のことを一番心配していたことであった。
「戦争裁判によって家族の受けた精神的・肉体的の打撃は想像以上である。肉親が自殺した者、一家離散のやむなきに至った者等の家庭悲劇も惹った。又戦犯者の家族なるが故に就職を禁止された者、村八分の迫害を受けた者、結婚を拒否された者もある……殊に甚だしい打撃はその生活問題に就いてである。一家の支柱を奪われ、収入の途を断たれ路頭に迷へる家族を救済すべく現行の法制の適用範囲は余りにも狭い」(巣鴨法務委員会編『戦犯裁判の実相』 1952年) 。(なお、この時は戦犯者には補償金など対象外とされたが、翌年GHQの占領が解け、国会の決議でA級戦犯も含めて軍人恩給・軍人年金などは支払いの対象となった)
「離婚もあった。婚約解消もあった。就職、入学拒否もあった。国内外に住むその家族の周囲には冷たい風が渦を巻いて吹き続けた。そうした中で千葉県の中村勝五郎氏は巣鴨プリズンの花山信勝教誨師に相談し、(高名な仏師に制作を依頼し)死刑囚の遺族の元に蓮の花弁に抱かれた小さな観音像を遺族の元に届け続けることにした。…… ある日、観音像を手に元陸軍中将宅を予告なしに訪れた。その夫人に『実は思うところあって観音像を持参しました。どうぞ供養と思ってお受け取りください』と言うと夫人はその場に気を失って倒れた。やがて起き上がると『実は昨晩、親戚一同が参りまして、身内に戦犯がいると肩身が狭い、と絶縁を言い渡されたばかりで、あまりのことに呆然としていました。それほどに冷たい世の中で、見ず知らずの方が供養として観音様を持ってきていただいて嬉しさのあまり』ということであった。…… 中村氏は言う。『身内に戦犯が出たことは家系の名折れ。これからは身内と思ってくれるな。そうして親戚からも絶縁されていった人がたくさんいる』」(『BC級戦犯・下』読売新聞大阪本社編:新風書房、1994年)
これらの戦犯となった者たちは出征する時には近隣縁者に万歳三唱と小旗の波を受け、「勝って来るぞと勇ましく誓って国を出たからは手柄立てずに死なれよか」と見送られたはずである。そして戦地で手柄を立てたはずが、敗戦により敵方において目立った将兵が拘束された。時には日本に帰還していた将兵が現地に召喚されて裁判を受け、戦犯として有罪となった。この一方で、とりわけ学徒出陣で戦死、あるいは特攻隊員として自爆死した学徒兵たちは英雄として称揚され、英霊となった。そして彼らの遺稿集『はるかなる山河に』や『きけ わだつみのこえ』などが出版され、話題となった。その遺稿集とこの『世紀の遺書』とは何が違うのか。『世紀の遺書』を読むと死刑の期日までに覚悟して、これも運命と割り切り、従容として死に赴いて行った人が数多くいることは読めばわかる。しかし仮にその本人たちが立場として逆に特攻隊に編入されていたとしたらどうであろう。ここに取り上げた中に二人の学徒兵の死刑囚がいる(田口泰正と木村久夫)。それを読めば人間的本質は両者の立場でもほとんど変わらないことがわかるであろう。特に木村の場合、遺稿は「わだつみのこえ」にも取り上げられていることでそれは示されている。特攻兵たちの精神性が崇高であり、死刑囚たちのそれはそうではないとはまったく言えない。その「覚悟」においてはどちらも変わらない。
問題はそのような置かれた立場によって一方では英霊としてもてはやされ、片方では戦犯として世間に排除されている事実である。しかも戦犯とは、多くの受刑者たちが書き遺しているように、日本軍が負けたが故に起訴されたわけであり、不本意この上ない結果である。その上で遺された家族が貶められる。こうした世情を許容する日本の世間とはなんなのであろうか。そもそも排除する側の人間たちは、国が起こした戦争という政策に乗っかって、出征兵士を囲んで万歳三唱していた者たちであり、戦後になって戦犯となった家族を、そのまま汚物から避けるように敬遠したわけである。しかも彼らはあれほどに「憎き敵米英」としていたその連合軍に占領されると同時に、その占領軍に易々と従った。あえて言うが、この種の人たちが戦時下に軍やメディアのプロパガンダに煽られて戦争を下から支えていたのである。
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以下の『世紀の遺書』からの引用は先入観を持たないように『遺書』を流し読みしながら恣意的に目についた遺書だけを抽出し(主に処刑になった地区のバランスも考慮し)、その後多少の資料から気になったものを追加したものである。台湾・朝鮮人の死刑囚については掲載されているものはすべて取り上げたが、全体の数に比してそれほど多くはない。またこの書は、A級戦犯もBC級戦犯も特に区分けすることなく並列に編集されているところに配慮が見られるが、A級戦犯の遺書の内容は立場上、自分の体面を重んじる恰好つけ的な面があって意味がなく、取り上げていない。BC級戦犯に対する裁判の多くは日中・太平洋戦争において日本軍が占領していた東アジアの各地で行われ、死刑執行も主にその近隣の地で行われた。それは中国を始めとして、香港(中国の範囲に入れる)、インドネシア、マレーシア(シンガポール)、オーストラリア(当時の領地ラバウルなど)、仏印(ビルマ・ベトナム)、フィリピンなどにわたっている。
(以下の「……」は省略した部分)