台湾・朝鮮人軍属の刑死者
以下は日本語で書き遺したものに限られている。
—— 台湾人 ——
BC級戦犯裁判では台湾人173人が有罪となり、21人が死刑となった。そのほとんどが軍人ではなく、日本軍に雇用された軍属で、捕虜収容所などの監視員の立場であった。
安田宗治
台湾、台北州文山郡出身。陸軍軍属。昭和21年5月23日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(注:名前はおそらく日本名)
<遺言>
昭和十七年十二月に新嘉披(シンガポール)の富集団司令部勤務となり、スマトラ馬来(マレー)の各地に赴き昭和十九年五月にニコバル島(印度洋上の島)第三十六旅団(斉部隊〉司令部に転勤し、昭和二十年七月五日第一戦傭中にスパイ団を検挙し、命令に依り被疑者の取調を命ぜられました。
日本軍降伏後に連合軍より摘発(拷問の廉に依り)され、昭和二十年十一月四日収容されて取調を受け起訴されて、昭南チャンギ(刑務所)に送られ、連合軍軍事裁判に付されて、死刑を宣告されました(昭和二十一年三月二十六日)。同年五月十六日に死刑確定を言渡され二十三日午前死刑執行を宣告されました。
私が斯くの如き運命になりましたのも全く公務上に於ける責任の犠牲となったのです。母様や兄様や妻子を残して死んで行くのは止むを得ない。その点どうか理解して万事あきらめて下さい。…… 私の遺留品としては貯金通帳だけでありますが、連合軍の方で届けて送って下さるかどうか …… 左記の通帳番号及記号を書いて ……私が「ニコバル」へ赴任の途中遭難しましたから今迄の所持品は皆海没してしまったから(他には)何もありません。……
…… 死の前夜に際し右遺言して置きます。
林 金隆
台湾出身。陸軍軍属。昭和21年7月17日、マニラに於て刑死。
<遺言>
大君に生命捧ぐるは/もとより台湾青年の道なり/いやしくも屍を戦場に散らすは/台湾青年の常なり/我は大日本帝国の為に/犠牲となりて天国へ行く (判決直後、四月三十日)
第四キャンプ第一中隊通訳 中村様/台湾中隊 張楊栄様
戦友の皆々様御元気でいられるよう。事件に関しては種々お世話になり厚く御礼申し上げます。皆々様の御努力の甲斐もなく四月三十日午後一時半絞首刑の判決があり只今第一キャンプにいる。もう死を待つばかりだ。末広軍医様の証言は非常に良好だった。厚く感謝している次第である。高崎の爺さんは何処までも責任を逃れようとして此の件に関しては未だカバナツアン(フィリピン・ルソン島の都市)に赴任していないと(嘘を)証言した。さすがの弁護士(ゴートン中尉)を始め田口通訳も之には困った。でも高崎は検事から突込まれて罪にせられようとしている。ではご健康を祈る。
林 江山
台湾、台中州出身。元陸軍軍属。昭和21年8月30日、濠洲ラバウルに於て刑死。(日本名:林 義徳)
<絶筆>
A群諸兄へ
永い間御世話に預り誠に有難う御座居ました。感謝の言葉も御座居ません。只管(ひたすら)諸兄の御健康と減刑を祈って居りまずから。
皆様さようなら行って参ります。
御国に捧げまつらん若桜、ここラバウルに今ぞ散り行く
友より花を贈られて(漢詩、略)
王 壁山
台湾出身。ボルネオ捕虜収容所軍属。昭和21年10月18日、ラバウルに於て刑死。
<遺詠>
蓬莱の島の若草もラバウル島に散るが悲しき
友よ泣いてくれるな明日の光を心に秘めよ
今日の日を神様は何と母に知らせていよう
仇を友に頼みつつ我は散って行くなり
李 琳彩
台湾、新竹州出身。元陸軍軍属。昭和21年10月18日、ラバウルに於て刑死。27歳。(日本名:鈴木三郎)
<遺衣言>(襦袢の背に血書したもの)
母親大人尊前児大不孝平常膝下
(母上の御前、大不孝な子が膝下に跪いております)
蒋 清全
台湾、台南市出身。元陸軍軍属。昭和21年10月18日、ラバウルに於て刑死。(日本名:川上清)
<絶筆>
順逆不二 生死一如(敵も味方も生死一如です)
恩親平等 是信仰法悦(恩讐を越えて仏の教えに喜びがある)
「波羅蜜多恩愛越之涅槃像」(パーラミターにより恩愛を超える涅槃像に)
李 安
台湾、台南州嘉義市出身。元陸軍軍属。昭和22年4月18日、広東に於て刑死。
<遺書>
父宛
一、我誓って国法を犯さず/二、一妻一子あり/三、他人と金品の貸借なし/四、我処刑さるるも、何人と雖も之が報復を許さず
董 長雄
台湾、高雄県出身。元陸軍軍属。昭和23年6月22日、蘭印(ジャカルタ)、グロドッグに於て銃殺刑。(日本名:玉峰長雄)
<遺稿>
本職は台湾人である。あるが故に一身を捧げ妻子を犠牲にして法廷に於て最後の一線を守り、そして散るのである。日本のためを思って終始一貫の信念を守って戦ったのである。そして国家の所属が変わっても本職は日本軍人として死んで行きたいのである。
……
若し此の裁判は「正義の為」と言わずして報復と呼称せば本職は死刑に処されても何をか言わん。…… 何が正義だ!何が裁判だ!
最後の御願いに将来大日本帝国が復興せば、どうか本職の一子董英明を政府に於て日本教育を恵み給わらん事を御願い申しあげます。 昭和二十三年二月
黄 来金
台湾、台中州出身。元陸軍軍属。昭和23年8月16日、濠洲ラバウルに於て病死。25歳。日本名:横田金蔵。
<吾が父母上兄妹様へ>
遥かなる故国を出て千里波濤を乗り越えてボルネオで三年余も苦労艱難と戦って九死に一生を得、不幸にして今や上官の命によりまして、濠訓俘虜虐待事件で此の戦犯生活に落ち入り日々の汗水の流れを堪え忍んでも前途に希望を待って居たが昨年の十一月頃胸部疾患にかかり約八ヶ月の一長い月日を只無駄に費し、療養の甲斐もなく日を重ねるにつれて病の状態は益々悪くなり、甚だ大不孝者でありますが、母上様より生を貰って彼此二十五年になり、父母上に御心配許のお掛けし、孝の一分も尽し得なかった事は、不肖として実に最大の「なやみ」であり、先立って此の世を去る事は重大な不幸でありますけれ共、不肖の運命と諦める他どうする事も出来ません。万事謝罪をお願い申上ます。…… 不肖としても父母上兄妹を一目見て死に度いが現在の環境ではそれも出来ません。…… 吾が家の万事は懐しい兄上様に是非お願い申上げます。不宵は当地で永遠の眠りに就きますが、此の魂は皆々様を見守って行きます。……
では父母土兄妹様よ、これを以て永遠の別れといたします。呉々も御身体在御大切に。総て運命と御諦め下さい。さよなら。
—— 朝鮮人 ——
BC級戦犯裁判では朝鮮人148人が有罪となり、23人が死刑となった。そのほとんどが軍人ではなく、日本軍に雇用された軍属で、捕虜収容所などの監視員の立場であった。
金 栄柱
朝鮮、慶尚南道出身。陸軍軍属。昭和21年7月30日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名:金城健之)
<遺言>
大変動の悲運に遭遇して過去を顧み、立派な人聞になって最後の道に進みます。長い間色々お世話になりましたばかりで、親孝行一つぜず死んで参りますことを深くお詑ぴ致します。今後米国を頼りに立派な国を作って下さい。人間的に間違っていた私の行為に就て、私は責任を負って死んで行きます。唯々皆様の御健勝のみを祈って居ります。親戚の御一同様によろしくお伝え下さい。
妹宛
妹達よ、宰せに暮して下さい。未だ見ぬ妹婿に対しても会えないことが残念だが、どうか末長く妹を可愛がってやって下さい。
張 水業
朝鮮、平安南道出身。陸軍軍属。昭和21年11月22日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名:小林寅雄)
<遺言>
私は昭和十八年より二十年迄馬来(マレー)俘虜収容所職員としてスマトラ、 バンガランバイ等に勤務して居りましたが、終戦後此の間の俘虜の取扱に関し戦争法規違反として起訴せられ、昭和二十一年九月五日死刑を宣告せられました。何事も運命と思い諦めて下さい。
本当に長い間色々お世話になりました。只々皆様の幸福を祈って居ります。
正義 平和 親愛 希望 永遠に忘るベからず
姜 泰協
朝鮮、忠清南道出身。陸軍軍属。昭和21年11月22日、シンガポール・チャンギに於て刑死。27歳(日本名:岩谷泰協)
<遺言>
私は昭和十七年より二十年迄泰(タイ)俘虜収容所に勤務して居りました。終戦後俘虜の取扱に関し戦争法規違反として起訴せられ、昭和二十一年八月二十二日死刑を宣告せられました。何事も運命と思い諦めて下さい。
本当に長い間色々お世話になりました。只々皆様の幸福を祈って居ります。
永遠の東洋再起は東洋人の手に、肉体は死去するも霊魂は不滅なり
悲命二七青春
筆者注:上記の張水業と文面が同じで、死刑の日も同じ、遺言は日本人が関わっているのかもしれない。今一人、金貴好(朝鮮、済州島出身。陸軍軍属、日本名:金岡貴好)も同様の文で、彼はジャワ俘虜収容所職員でモルッカ諸島、アンボン島などで勤務していた。以下は金貴好の遺詠。
——「時知らず夜雨に眼を醒まし 明日より宿る床が気になる」(処刑前夜の断想)
——「文武 ぶんぶと 飛び交う蚊の声も 戦犯 せんぱんときこえて 心いたし」
千 光麟
朝鮮、京誠府出身。日本陸軍軍属。昭和22年1月21日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名「千葉光麟」)
<遺言>
私は昭和十八年六月頃、泰緬(鉄道)線トンチャンという処に於て英軍停虜約二百五十名を管理して居りました。終戦後この俘虜の取扱に関し(患者俘虜作業提出の件、糧秣不足の件、衛生設備不完全の件、一名病死の責任を問われ)戦争法規違犯者として起訴せられ、シシガポール英軍々事法廷に於て昭和二十一年七月二十三日死刑の宣告を受けました。
私の死に対して皆様悲しく思わないで下さい。私が愚な為に皆様を心配させました。私は皆様の幸福を祈って気持よく昇天し、再び現実界に生れ更って常に皆様のお傍におります。……
兄様、手助もせずに心配ばかりかけましたね。弟よも私の気持を察して元気でやって呉れ。何時でも私は守って居る。嫂様様、男の子が生れたら二世の私と思って下さい。幸福を祈ります。
父様、母様、自分の大好きな父母様、毎夜天地神明にお祈り下さいましたその御恩に報いもせずも死んで行く不孝の罪をお許し下さい。…… 皆様の幸福を祈りつつ、東洋平和の犠牲として潔く散って行きます。
趙 文相
朝鮮、開城府出身。陸軍軍属。昭和22年2月25日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名:平原守矩)
<遺書>
阿部中尉宛
阿部さん、色々有難う。満ち足りた気持ちで行きます。
「ガチャン」と共に開けるであろう豁然としたものを信じて私は行くのです。晩餐の後から台に昇るまでの迷いを少し書いてみましたから御笑覧の程を。先づP(死刑囚房)の原田閣下におあづけしますから末永く幸せに強く明るく生きて下さい。
二十五日午前六時三十分
若松大尉宛
しょげたら駄目だよ。待っています。元気でついて来て下さい。「余り大したもんぢゃないですよ」体は腐っても必ず魂塊は何とか在りつづけます。故国日本、朝鮮のいやさかを祈って行ったと言ってやって下さい。(二十五日)
胸中何の不安あるなし。
初めて識る大なる悲観は大なる楽観に一致するを
蓋し真実なり。悠々たる大自然に帰するのみ。
<壁に残した言葉>
よき哉 人生/吾事 了れり
(注:彼はクリスチャンの家系であり日本語も英語も達者で、泰緬鉄道の捕虜収容所の通訳であった。「手記」として『遺書』には刑務所内の様子を記した長文があり、性格は朗らかで常に周囲に気を遣って話しかけている様子がある。惜しまれた人物であったろう)
金 長録
朝鮮、全羅北道出身。日本陸軍軍属。昭和22年2月25日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名:金子長録)
原田閣下
閣下の言われた事をそのまま信じて行きます。お元気で。この気持を言い表すことが出来ません。うれしいような、よかったというような気持です。うそぢゃないです。
ほんとにお世話になりました。元気で行きます。
(注:上記の趙文相と同じ立場で、同じ日に処刑された。最後の晩餐では「あの世ではまさか朝鮮人とか、日本人とかいう区別はないでしょうね」とつぶやいたという)
朴 栄祖
朝鮮、慶尚南道出身。陸軍軍属。昭和22年2月25日、シンガポール・チャンギに於て刑死。(日本名:新井宏栄)
<落首>
生神と云える我輩も死ぬとなるとかなわん
「万歳」と昇る絞首台へ碁石を持ち行くらん
生ける屍数減りて、残る者の影淋し
降るなかれ雨様よ、俺の墓穴に水溜らん
死を待つ者にも、ねむりは襲う
最後の壮行会に臨む気持ちも爽かに
昨日より降り続く雨も吾去る朝に上らん
死を前にして爽やかな笑顔、東より昇る朝日の如し
(注:同上である。「碁石を持ち行く」というのは、死刑囚仲間で碁を打ち合って楽しんでいたことによる。また最後の晩餐会の前、のど自慢大会も開かれたという)