(筆者私論)
小泉信三は昭和8年(1933)から21年まで慶應義塾塾長を務め、戦後の昭和24年(1949)には東宮御教育常時参与に就任、皇太子明仁親王(後の平成天皇)の教育掛として身を置き、また皇太子を初の民間人美智子妃とのご成婚に導くなど、皇室の近代化に尽くした。元は経済学者で、戦後も日本の言論界に影響を与えた。昭和34年(1959)、文化勲章を受章。しかし筆者は戦時下の大学の状況を調べて行くうちに、小泉の言辞に違和感を持った。上記に掲げる同時期の東京大学総長の式辞なども、表向きは小泉と違わない言葉を並べているが、東大総長の場合、形式的であり、それに対し小泉の言葉は熱量があり、人を説得せんとするものがある。
昭和12年(1937)7月に日中戦争(支那事変)が勃発すると小泉信三は「忠烈なる我が将兵ー慶應義塾塾生諸君に告ぐ」を学内誌三田新聞(10月5日号)に掲載した。以下はその抜き書きである。
「…… 戦いは盛夏に起こり、今は秋すでに長けた。此間に報道せられた我が将士勇戦の記録を今一々ここにくり返すことはできぬ。試みに記憶に銘じて忘れ難き一、二の例を言わんか、…… これらの勇士の平常はと問へば、多くは父母を愛し妻子を愛し、ただ日々の業務を励むの外に余念なき温良平凡の一市民に過ぎぬ。而も此等の平凡の日本人が、一たび事に会い、危きに臨めば、忽然として別人の如く、崇高壮烈、殆ど言語に絶する道義的行為を敢えてするに至る。人心の不思議、伝統の不思議、私はこれを評せんと欲して言葉を知らず、声を呑んで黙して巳んだことも既に幾十度なるを覚えない。… 如何にして忠列なる将兵に報ずべきか。他なし、将兵の労苦と犠牲とを我々は決して無駄にはさせぬという覚悟ただこの一つのみ。
日支(日中)両国は遂に戦った。人誰か平和を愛せざらん、誰か隣国との親交を稀はざらん。…… 一切の努力は無効に終わり、矢は既に弦をはなれて、戦局は日支両国の全面に拡大した。…… 戦は戦の論理をたどる。戦はただ戦によって解決しなければならぬ。吾々の残されたる途はただ一つ。徹底的戦勝に依って敵の意力をくじき、然る後に於て新たに平和の道を講ずること是のみである。吾々は平生(平時)支那(中国)の文化を尊重し、近年支那人中に多くの親しい友人を持っている。…… しかし此等の事は今は一切忍ばなければならぬ。… 吾々は吾々の手に取れる鉄槌に力を込めて打たねばならぬ。……
而も戦局の前途は恐らくは尚ほ遼遠であろう。我々は支那軍が容易に我に屈服するものと予期してはならぬ。国際情勢もまた決して楽観すべからざること、既に我々の十分知悉している通りである。併しながら困難犠牲は我々の覚悟するところである。その覚悟ある者にとっては、困難犠牲は論ずるに足らぬ。
塾生諸君、諸君は若しも戦局拡大して国家が諸君を戦場に要するに至らば直ちに起って弾丸の下に進み、諸君の忠列決して今の将兵の忠列に遜らざるべきは、もとより諸君の期するところであろう。ただ今は諸君はこの学窓に在って思を潜めて書を読み、理を講ぜよ。ただその間一瞬時も忘るべからざるは、君国の大事と前線将兵の犠牲と労苦を思う事である。…… 」
ここにはすでに終戦まで8年間の戦時下における小泉の言動の基本がある。ただ、実際にはこの日中戦争(支那事変)開戦時の政府と陸軍は、中国に多少の打撃を与えて収束させる腹積りであり、だから宣戦布告はしていない。しかし小泉はこの時に「戦局の前途は恐らくは尚ほ遼遠であろう」と見抜いている。6年前の満州事変からの大局的な流れにおいて全面戦争になることは必然であると小泉は予測していたのであろう。
(注:この開戦の具体的な展開としては、陸軍は単に盧溝橋事件できっかけを作っただけで、それを利用して海軍が上海事変を仕掛けて開戦となり、さらに陸軍が後追いした形である)
次は昭和16年(1941)12月8日、日本軍が真珠湾への奇襲攻撃により米英に対する開戦(太平洋戦争)をしかけ、天皇の開戦の詔勅が放送された時の塾長訓示である。
「雲破れて天日を仰ぐの感、大詔を拝して、ただ晴れ晴れしい」。これについては、同様に感じていたいわゆる文化人は少なくない。米英に対する普段のコンプレックスがそうさせたのであろう。
この後、3ヶ月の繰り上げ卒業の時の式辞である。卒業式は二日にわたって行われたが、まず、開戦と同時に日本軍はイギリス領香港にも侵攻していた。
「…… 今日は、即ち香港陥落の捷報の新聞によって伝えられた朝である。…… 今を去る八十年、…… 福沢先生は… 香港に寄港した。ここで支那人に対する英人圧制の状を見て、憤然として、いつかは彼に取って代わるべしとひそかに心に約した。…… 今日の吾々もまた先生をして… 」(12月26日)
「国家は今諸君を求めること急である。アジアの海陸到るところにおいて、諸君は武器を執って君国を護らなければならぬ。…… 東はハワイから西はマレエまで、北はソ満国境から南は遠い南の島々に至るまで、国家は切に人を求め … 国家は実に諸君を待っている。… そうして私は思う、諸君は充分待たれる資格のある人々である」。(12月27日)
普通に考えてもこの年、4年も続く中国戦線から一挙に太平洋諸島から東南アジアに拡大し、無謀な戦争と思う識者は多かった。欧州数カ国への留学や米国にも研修で行っている小泉も、米英を合わせた国力の日本との大きな差はわかっていたはずである。何よりも小泉の言う東西南北への物資・食料の補給を考えれば(すでにこの年の春に国内の食料も配給制になっていた)、この戦争は最初から無理があった。
この2年後の昭和18年(1943)3月の三田新聞での「新入生諸君へ」の記事である。
「私は塾生に対して『塾生生活の道徳化及び肉体的精神的武装の準備』を提唱し、文と武とは二つの別のものではない …ことを以前から繰り返し力説した。諸君は学問が本務であるという口実を以って明日の軍人たるに必要な強度の訓練をズルけることは許されない」
そしてこの年、兵力不足を補うために大学生の徴集猶予を撤廃し、半年の繰り上げによる卒業式が9月に行われた。(三田新聞)
「私は諸君が我が君国のために最も劇烈にして困難多きところに挺身してもらいたいと祈るものであります。…… 劇烈困難且つ危険にして最も信頼すべき人物を必要とする場処があったら其処には慶應義塾の者を当たらせてもらいたい。…… 大学、専門学校の学生、卒業生が今日この危急の日に国家を守ることが出来なければ、斯かる大学はある甲斐なき存在である」。
ここまで来ると、軍人も見劣りするほどの説得力に富んだ訓示である。
続いて10月21日の、出陣学徒壮行式にあたり、三田新聞11月10日号に「征け、諸君」と題する檄文を掲載した。
「遂に諸君の征く日が来た。今まで幾度となく私は諸君に向かって、此日の為めにという事を言った。その日が遂に来たのである。 今、別れに臨んで、特に言うべき事は何もない。私は諸君を知っているつもりである。諸君も亦私の言わんと欲することを知っているであろう。ただ言う。『征け、諸君。君国の為に。父母の墳墓の地を護らん為に』
…… 戦局は一日の座視を許さない。国家の存亡というが如きは決してみだりに口にすべきことではないが、しかし、事実存亡の危機は目前に在る。開戦以来、…… 様々なる職業、境遇、年齢の国民は、既に召されて前線に赴いた。……
私は日々登塾して、朝夕塾生諸君の敬礼を受け、そうして遥かに遠き東西南北の戦況の愈々重大深刻となり行くを想い、今は諸君の起つべき秋(とき)ではなからうかと、ひそかに心に問うたことも幾たびなるを覚えない。しかして遂に政府の一弾となり、適齢学生皆な筆を投じて一時に起つに至ったのである。…… 既に学識あり、気力あり、体力あり、ただ報国の一念の外、疑惧を知らず、顧念を知らず、固より恐怖の何たるを知らぬ幾十万の猛訓練を受けた学生が、第一線に立ったその結果は果たして何であろうか。…… 而してその事実を、単に一個の報道としてでなく、痛刻酷烈惨憺たる体験として身を以て知るものは、我同胞にはあらずして、反って米英兵士幾十百万の将兵であろう。私は今心に其日の事を想い、指を屈して其日を待っている。
殊に感ずべきは、出陣決定の後に於ける塾生諸君の態度であった。…… これは深く心を定め、ひそかに期するところある人にして始めて能くするところである。諸君、果たして如何なる修練によって能くこの境地に達するを得たか。 思うに後世の史家の光輝ある大東亜戦争を叙するに方っては、学生皆な起つ今日の事を、必ず筆を新たにして記すであろう。……
国家の危急を前にして一学塾の栄辱の如きは論ずるに足らぬと謂うかも知れぬ。しかし、小事は決して小事でない。父母を思うこと篤き者は国を思うこと篤き者である。母校を愛する人はまた国を愛する人である。諸君在学の日に於いて、私は諸君を塾生として有することを慶應義塾の為めに喜び且つ誇りとした。今同じ喜びと誇りとを以て諸君を護国の大任に送る。諸君も恐らく私の心を諒とするであろう。思郷の情は人の心を浄くする。諸君の出でて前線に在る日の夕べ、時に心に家郷を望むこともあるであろう。…… そうして諸君の健康を我が健康と感じ、偏へに諸君の責務に忠ならんことを願ひ、常に諸君の武運の為めに祈って已まない者に、諸君の父母と姉妹との外に尚お一の慶応義塾のあることを記憶せよ。
名残はいかに惜しんでも尽きないが、今は諸君と別れなければならぬ。幸いに任務の重きを思って自愛せよ。諸君が固より弾丸矢石を恐れる者でないことは、私は承知している。… 嘗て年少の友の出征に際し、私は書いて贈ったことがある。”大君の御為めに敵弾を冒せ/大君の御為めに朝夕を厭へ”」
果たして小泉の想念は、学生はこういうものである、こうでなければならぬというような固定観念に満ち満ちていると思われる。それでもって、こういう一方的な言辞を弄されて戦場に送られては、学生もたまらないであろう。それに自分の父母への情と母校と国への情を同一に論じられても困るであろう。特攻兵たちの遺書の冒頭は、ほとんど「お父様、… お母様 」で始まっている。
この前後にも小泉は一般紙にもいくつか寄稿している。10月の学徒出陣の4ヶ月前の毎日新聞に『決戦下の学徒に与う』として記している。
「いまや国家は国民の総力を戦争遂行に集中せんことを求め、…… 若き精鋭の一部分である学徒に国家がいま何を望んでいるか …… 学生諸君、われわれ教育に当たるものは、やはり恃むべきは諸君である。…… 前線に出たい心を押えて学窓に学ぶ諸君の心はわれわれが身近に了解している。嬉々としてはじめて羽搏く若き鷲のように、海軍予備学生に志願して行く学生の多いのもその現れである。…… 先輩知人の死の報知が諸君を萎縮させるどころか却ってますます諸君を奮起させ … つつある事実、…… これはいまだ世界の如何なる大学の教壇からも、如何なる碩学の唇からもかつて教えられなかった哲学であり宗教である。…… よく訓練された学生、よき知識を習得したものが危きに臨んでよき判断、強き行動をなし得ることは明白である」とし、今は焦らずに勉学に励めと語っている。
次に文科系学生の徴兵猶予が撤廃されたことに対して、『戦時下文政の確立望む』として、「今日の学徒はここ数年来俟つあるを期して真にその身心を錬磨し、戦場に赴くの日の一日も早からんことを念願し来ったのだ。…… この際政府はいささかの遠慮も要らない。断じて学徒を徴集されたい。学徒は決然ペンを銃に代えて戦場に赴き御民われの熾烈な尽忠精神をもって国家の柱石としてその身を鴻毛の軽きに置くであろう。学徒は国家のため大いなる命の下るのを待っていたのだ」と語っている。後半の文は政府に対するものであって、学生に向けたものとは趣が異なる。あえて客観的な立場から新聞紙上に寄稿したその真意は何であろうか。それは小泉が当時の内閣の顧問の立場にあったことからして、軍政府への後押しにも思える。
同じく10月6日の読売新聞で、前日に学生を大講堂に集めて語ったこととして、「私は諸君の忠節勇武の精神には全幅の信頼を置く、… いま私の眼前にいる諸君が … この私達のために起ってくれると思うと絶大なる安心感を抱く、… そこへ政府の英断で学徒出陣の命は下り、大なる安心感と一種の爽快さを感じたのだ、諸君とても同様であろう、諸君の高い識見と深い洞察力を以って自信を以って征けと敢えて申し上げる」と載せられている。
凄まじく、度を超えているのではと思えるほどの檄文である。小泉のように知性と「高い識見と深い洞察力」があると思われる人物が、場当たり的と言っていい軍政府の方針に従順、協力的であって、それをそのまま学生に押し付けようとしたのはなぜなのか。ひとつは彼の言葉にしばしば見られる「国家」のためにという実態のない観念(当時は日常的に使われていたが)に囚われた面もあるように思われる。国家とは(この時代の国家は、天皇の国つまり皇国としてある)本来、国民生活の安寧を図る機関という裏付けがあってこそ成り立つものであるのだが、そうした客観的な思考力を欠くと、実態のない国家という観念だけが威力を持ち、その観念に導かれて無思考な状態、つまり戦争という無思考でしかなし得ない次元に安易に飛び込んでいく。ちなみに戦争を始める時に(どの国でも)よく使われる正義という言葉もその無思考状態を助長する。しかもその無思考状態を小泉は「如何なる碩学の唇からもかつて教えられなかった哲学であり宗教である」とする。
19年(1944)の秋の三田文学への寄稿では、『アメリカ人と残忍性』とのタイトルで、その無神経な残忍性として、「ガダルカナルその他で我が負傷兵に対して米兵が言語に絶する残虐行為を敢えてしたり、死体を侮辱したりした …… 加うるに他人種に対する場合には抜き難い人種的優越感と… 驕慢心とをもってこれに臨む。万一にも吾々がこの敵に負けるようなことがあったら彼等は何をするか、想像もできぬ …… (従って)これに処すべき途は一つしかない。徹底的武力打撃によってその驕慢心を挫くことである」と述べる。
確かに一般的に米国人の黒人蔑視は世界の知るところであるが(それでも米国人にはそうでない人も多いことは、研修で米国に行っている小泉は知っているはずであるし、恩ある人もいるはずである)、ここにはそもそも日本人自身が自らの人種的優位を誇り、朝鮮人や中国人を蔑視して戦争を行なっているという視点が欠けている(ただこの戦争は大東亜共栄圏建設というアジア統一の平和のための正義の戦争であるとされていたが、その”理念”を前面に押し出すあまり、人種差別の自覚すらなかったのであろうが)。また日本人兵士の中国などでの残虐行為は当時は決して国内で報道されていないから、そのようなことを「皇軍兵士」がするわけがないと小泉は思い込んでいたであろうし、しかも実際に自分で戦争の現場に行ってその実態を見て来ることはなかった。どこまでも小泉は「善」の観念の中に生き、自分がその立場の代表的人間であると信じ込んでいる種の人である。
そもそも戦争という無法下の状況が人間の残忍性を引き出すのであり、どの人種が残忍などと言う人は偏見の持ち主である。戦争をやっている限り、その状況の中ではどの国の兵士も大小の残虐行為をやっていることは、少しでも歴史的資料を見比べてみればわかることである。
さらに小泉は、ひと月後の11月に日本読書新聞に『特攻隊の精神』として、「陸海軍神風特別攻撃隊の偉勲と死は続々として報ぜられ、…… ああ、何と感謝すべき言葉もない。”忠烈万世に燦たり” 一語の付け加うべきものもない。…… 新聞記事によると、特別攻撃隊の出発に先立ち、所属長官は勇士等に向い、お前達の功績は必ず見届けて、大元帥陛下に申し上げるという意味のことを言われたそうである …… 勇士等の神のような心については拙い言葉では何も言えぬ。ただこの非常絶対の攻撃法を立案計画し、これを実行しつつある帝国陸海軍について一言する。…… 長官としてこれを実行することは、即ち部下将兵に向ってただ、命は貰う、と申し渡すことに外ならぬ。世界の如何なる国の陸海軍に、部下を信じてかく申し渡し得る上官があるか。ここに私は上下親子の如き我が将兵の相互信頼と帝国陸海軍の史上無前の決意とを見る」と語っている。
しかし、当時の新聞は着飾った戦意高揚の言葉の羅列で今では読むに耐えず、実際の特攻兵士となってたまたま生き残った者達の証言を各種読めばわかるが、現場はそんなものではなく、横暴な上官の仕打ちによって心が荒みつつ、それでも最後には自分のために気持ちを立て直して特攻に出撃して行った若者は多い。ここに来て小泉は戦争の実態を見ようとしない精神論者になっている。というより冒頭に掲げた『忠烈なる我が将兵』を見直せば、すでにその傾向が見て取れる。自分の頭の中の観念だけで物事を論じることは非常に無益で、その影響は危険であるが、これは当時の世論と相似形にある。ひょっとして小泉は戦死した自分の息子に、他の若者も続くべきと思っていたのかどうか。
事実、精神論者としての傾向は強まり、翌20年3月10日の大空襲の惨事の後、読売報知新聞に『わが軍、わが国民』として、「敵の盲爆はかねて覚悟の上であるが、… 対抗上遺憾なことが多かった。…… ために宸襟(天皇の寝所)を悩まし奉ったのは何とも申し訳ない次第であった。…… 深くその苦衷を推察すると共にここに猛然奮起して防空上に一新紀元を開かんことを祈って已まぬ。…… 被災罹災の人々に対しては実に何とも同情の表しようがない。しかし吾々はいまだこの人々の不幸を共に悲しんでばかりはいられない。この人々には直ぐに立ち上がって貰わなければならぬ。兵器も食物も不足のものはいま数えるにいとまがない。…… 傷をつつんで直ちに戦う、この一事が吾々の相共に覚悟すべきところであって、この事によってのみ報復は遂げられる。…… (それを)実行せしめるには我が国民に剛強不屈の気力がなくてはならぬ。…… 繰り返していうが、この戦争に妥協的、中間的終末はあり得ない。…… 万一にも敗れ、もしくは屈服することがあったなら、我々自身、我々の子女は永劫の苦痛と屈辱の淵に沈まなければならぬ。…… 今は小才覚をめぐらすときではない。”決心第一、智術第二” ただ戦うときである。それによって必ず路は開かれる」と。大惨事にあった多くの人々の心に寄り添うことなく、いよいよ語る内容は空論に近くなって来ている。
次に20年4月の週刊朝日への『神潮特攻隊(人間魚雷回天の別呼称)に応える途』として、「神潮特別攻撃隊の偉大な勲功と壮烈な戦死の発表を承り、…… ただ有難いことであると申すより他にない。… 特別攻撃隊の攻撃法は如何に兵器が足らず物量が不十分であっても、敵に打ち勝つ途は必ずあるということを教えている。……(その一人の)平生は決して英雄豪傑という型の人ではなく、…… まことに温良誠実な青年であった。その青年がひとたび国家存亡の危きに臨めば、かくも鬼神を嘆かしめると申してもなお足らぬほどの勲功を立て… これがわが日本の青年であり、…… これを思うて国運の前途に対し限りなき自信を新たにした次第である」と。
そして3週後の4月の週刊朝日に『戦勝と道義精神』として、いきなり、「戦勝は結局国民の道義的精神力による、… しかしこれが真実である」と書き、「これは智愚の問題で、如何なる戦闘でも全員逃げ回って勝つという手はない。…… 竹槍で戦車を破壊することは出来ぬなどと、… なるほど竹槍で戦車は防げぬであろう。しかし一人の生命とXXキロの爆弾とをもって数万トンの巨艦と千人、二千人の乗員を海底に沈め得ることは、特別攻撃隊の勇士等が事実によって証明した」とは当時軍政府の御用新聞の報道をそのまま鵜呑みにしているとしか思えない。そしてこの特攻隊の攻撃方法を「忠烈悲壮の極致であると共に、最も冷徹精密なる智謀と計策の結実である」とし、「特攻兵器による攻撃は死を軽んずる攻撃法ではない。それは反面において最も人命を重んじた攻撃法である。ただそのためには選ばれたる勇士等は絶対的に死ななければならぬ。それが特別攻撃の真正の意義である」と。
ここまでくるとあの知性のある小泉の正常な言論とは思えない。そしてこのような論陣を張っている間に、とりわけこの時期には加速度的に国内外に戦死者や犠牲者が増えて行っているのであり、小泉にはそういう人々の姿が見えていないし、全く軍政府の司令部と同じ観念(どんなに犠牲者を出してもこの戦争に負けるわけにはいかないという単細胞的なプライド)に取り憑かれていると言うしかない。
さらにこれ以上書くことが憚られる言及が同じ稿のその後に展開されている。この4月12日に米国大統領ルーズベルトが脳溢血で突然死去した。その原因をこう述べる。3月26日に日本軍が玉砕、終結した硫黄島の戦いに触れて、日本人の想像を上回る抵抗の結果、自国の兵士にも多大な戦死者を出し(結果的には日本兵死者1.7万人、米兵7千人弱で、しかしこの時点では正確な数は出ているはずもなく、新聞の適当な報道に、負けたけどよくやったとする)、ルーズベルトの死はその心労に依るものではないかとし、「忠烈なるわが将兵の戦闘が遠く数千理をへだてた敵大統領の心身に深刻なる打撃を与えたと見ること必ずしも放恣なる想像ではないと思う。然らば我が将兵の戦功は遥かに戦場の彼方に及んでいるのである」とした。
ひょっとして小泉は、戦死した自分の息子を敗戦という形で無駄死させたくなかった気持ちが強かったのではないかとも思えてくる。実際にこの稿の中で、「戦没将兵の英霊に感謝の黙祷を捧げて来た身であることも忘れて、ひたすら遁走を事とするというような混乱を万一にも演出することがあったら、それは敵にとっては思う壺なる戦果であろう」と記している。
そして20年5月9日の大阪毎日新聞に小泉はドイツのヒットラーが自決しその降伏を受けて、『決戦外交への覚悟』として、「私としてはヒットラー総統の統率の下に今日までよく頑張ったとその善闘を讃えてやりたい。…… これからは結局日本人自身の強さが何事も決定する。…… いまこそ米英に日本人の本当の強さを思い知らせてやる時が来たのだ。… (高い山も)一歩一歩踏みしめて登ると案外楽に征服できる。…… いま日本人の足元に沖縄の戦いがある。……(ドイツの降伏のことは考えずに)ただひたすら沖縄の敵に突撃すべきだ、そこに勝利の道がある」と。
ここに言う「一歩一歩」が、どうして真逆の特別攻撃に結びつくのか。小泉も沖縄の住民を巻き込んだ悲惨な戦いの結果を戦後になって聞いたであろうが、それをどう受け取ったのか。沖縄戦全体の死者20万人以上のうち、米兵の戦死者約2万人という数を見て、よくやったと思ったのであろうか。
実は昭和12年(1937)の日中戦争開戦前の4月、高等部の卒業式の訓示で、福沢諭吉の論の一説「学問教育の社会と政治社会とは全く別物なり。学問に縁なき政治家と学事に伍を成す、既に間違なり。況んや学者にして政治家に尾するが如き、老生抔の思い寄らぬ所に御座候」を取り上げ、「先生が学者としては如何なる場合にも政治家の下位に就くことを肯んじなかった」と、その精神性を讃えている。
しかし日中戦争突入後の翌年、同じ高等部の訓示の中で「この事変(昭和6年の満州事変)は他の事変を生み、因果の必然的連鎖によって日支両国の全面戦争となり … わが日本国民の大陸経営の責任を負わねばならぬことが厳然たる事実として確定した。…… 私はもとより国に事なきを願うものでありまして … しかし既に国に事があったとしますれば、 … その時こそ慶應義塾の教育がその真価を発揮すべき時であります。…… 我々は新しい時世と状況とに処して義塾の名に恥じぬだけの貢献を為さねばならぬ。…… 我々は難を避け、易きを偸(ぬす)むことを許されない」と述べ、「非常時」としきりに言われていたこの時期、国家に積極的に貢献するように説いている。また小泉はその後戦時下の内閣の顧問をしていたわけで、果たして「政治家の下位に就くことを肯んじなかった」福沢の精神を堅持していたのであろうか。小泉はむしろ積極的に政治家と軍人の下位に就いてしまっていたのではないか。実際に昭和15年(1940)2月に帝国議会衆議院本会議において立憲民政党の斎藤隆夫が行った鬼気迫る「反軍演説」(この資料内参照)と比べてみればその立場の違いは明らかであり、この斎藤の姿勢こそ「難を避け、易きを偸(ぬす)むことを許さ」ない堂々としたものではないのか。
小泉は当初、開戦に反対であったと語る人もいるが、ここまで見るとどうもそうではない。というのも、冒頭の昭和12年の日中戦争勃発時の訓示の内容もそうであるが、18年10月21日の学徒出陣式の後の11月8日の大詔奉戴日(16年12月8日の日米開戦の日に天皇の開戦の詔勅があり、その8日を毎月大詔奉戴日として奉拝の儀式を行った)に、日吉校舎に約5千名の学生を集めた時の訓示で、「東亜の平和を確立することを国是としている我が国が、米英二大強国を相手に戦うまでになったのはもとより万全の策より出たものであるが、詔勅を拝読するだに感慨無量である、いよいよ戦うに至ったのは誠に已むを得ざるものであった」(三田新聞12月10日)とあって、この戦争は「万全の策」より出たもので「已むを得ざるもの」としている言葉の中に、反対する様子がいささかも見えないからである。「事」すなわち国家の危機と言っても、もともと満州事変、そして日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)に至るまで、日本が相手国から侵略を受けて「事」が生じての結果では全くないのである。いずれにしても小泉は「事」が好きな体質、情念的ないわゆる「大義」に燃える性質ではないかと思われる。
20年5月25日の大空襲で、小泉は学校もろとも自宅も焼かれて大火傷を負い入院、8月の終戦を経て12月1日、退院時の訓示「塾生諸君に告ぐ」の中で次のように語った。
「戦い敗れて今は平和国家建設の難路を喘ぎつつ歩んでいます。しかしこの間において学生諸君が寸毫の遺憾なく国民の義務を尽くされたことについては、誰一人これを争うものはありません。…… 戦は敗れましたが、そうして今吾々は戦うべからざるに戦ったという悔恨に心を噛まれておりますが、… しかし国家のために身を捧げた人々の ー 殊に若い人々の ー 忠誠は忘れてはなりません。…… 戦時において国民の本分に忠なる人は、即ち平和国家の建設においてもまたその責務に忠なる人でなければならぬ。…… 吾々は学ばざるがために敗れ、学ばざるがために戦うべからざるに戦いました。国民は肝に銘じてこの事を記憶しなければなりません。…… 戦い敗れたりと雖も気品を失わず、常に信ずるところを言い、言うところを必ず行う信義の国民であることを世界に示してこそ、初めて吾々は新しい出発をなし得る。…… 民主主義の根基は各人の自尊自重の念にあることを、諸君は寸時も忘れてはなりません」。
この訓示の中で、戦地に赴かせた学生たちに謝罪する言葉はまったく見当たらない。その戦時下の流れの中では、自分は最大限の努力をしたという思いがあったのではなかろうか。
ただ、謝罪の言葉がないことは別として、それまでの小泉の言辞からしてどこか得心がいかない。つまり戦前は今こそ戦うべきとしていたが、敗戦後は「戦うべからざるに戦ったという悔恨」を抱き、また戦前は出征前の学生に向かって、すでに十分に学んでいるから「諸君の高い識見と深い洞察力を以って自信を以って征け」と鼓舞した。そして敗戦後は「吾々は学ばざるがために敗れ、学ばざるがために戦うべからざるに戦いました」と悔悟している。ともあれ「戦うべからざる」とは欧米への留学や視察を重ねている小泉の知的経験的レベルからすれば、当初から理解できていたはずであり(同様な経歴の人はほぼ皆そうである、つまり米国との戦争は負けると見ていた)、学んでいることも人より多かったはずであるが、その自分の知見を踏み潰して戦争遂行に走らせたものは何であったのか。単に保身のためとは思えない。しかも大学を繰り上げ卒業とされ、その学びを中断して学徒兵となり、さらに特攻隊員として覚悟を決めざるを得なかった自分の教え子たちも鼓舞して敵の艦船へ突撃させ、その行為を賞賛し、そのわずかな戦果を誇りとしている。すでにして敗戦が濃厚となっている時状況の中で学徒兵たちは否応なく心を決め、「国家のために」すなわち「悠久の大義」という虚妄の観念のために身を犠牲にする他になかったのであり、その時の精神性は少なくとも小泉よりもずっと高いところにあったであろう。そしてその「国体」(天皇を宗主とする国の体制)という言葉で表された国家は、守られるどころか、敗戦とともに消えてなくなった。
学徒出陣の2年前に子息を太平洋上の戦闘で亡くした小泉は、自身の立場からおそらく親としての深い悲しみを封印した。ただその翌18年、秘した想いを『海軍主計大尉 小泉信吉』として一年がかりで書き留め、学徒出陣前に終えていた。そして戦後に私家版として知友に配った。それは小泉の死後に出版され、ベストセラーとなったが、賛否両論あった。しかし、そもそも親として子を戦争で失った悲しみを封印したことが、小泉を戦争遂行の「大義」に走らせた面もあったのではなかろうか。同様に子を戦争で失った一般の親たちの深い悲しみを共有するところまでその心は行っていなかったのではないかと筆者には思われる。小泉はその悲しみを封印して戦争の「大義」に走り、その大義に縛られて自分が送り出す学徒兵たちの親の悲しむ姿を想起することもなく、ひたすら敗戦まで学生たちを自分の息子に続けと言わんばかりに「忠節勇武の精神」を持てと言って送り出した。
戦後、占領軍GHQの指導により、日本は軍国主義から民主主義国家に大転換させられた。小泉も国民も敗戦国としてそのまま受け入れた。軍国主義時代の敵は共産主義と民主主義・自由主義であった。その民主主義先進国として米国の敵は共産主義であり、昭和25年(1950)に朝鮮において北から共産党軍が侵攻してくると、米国が主導して朝鮮戦争が勃発し、米国は占領下の日本を軍事基地としてこの戦争に突入した。小泉は反共産主義者として「結局アメリカに頼るほかはない」とし、ほぼ完全な親米主義者として生きていった。戦前の反米思想とどのように自分の中で辻褄を合わせたのであろうか。
これは小泉に限らず、軍国主義下の軍政府内にいた要人たち、つまり鬼畜米英と唱えてアメリカを最大の敵として戦った(正確にはこの戦争を主導した)彼らはほぼ全て親米路線に変わっている。この変節はなんであろうか。戦争が終結して仲直りするというのは良いことであるが、では何のための戦争であったのかという基本的な反省がない。現実の日本はGHQの占領が解けて今に至るまで米国の従属国家のままである。少なくとも対等な関係ではないことは沖縄をはじめとした多くの米軍基地が示している。特攻死した学徒兵たちは米国を憎き敵として戦い、「散華」した英霊として称揚されたが、これではその英霊が浮かばれる道筋が見えない。国際的な政治的方針にしろ基地の問題にしろ、いまだに米国の意向を伺わなければ日本は何も決められない。仮にも英霊の目が覚めて、経済の繁栄は別にして、米国の従属国家となっている日本の姿を見れば何と思うであろうか。しかも戦時関係書類を敗戦が決まってすべて焼却したということは、自らが聖戦を否定し、単に天皇を利用して国民を惑わし、その多くをむやみに死に至らしめた戦争をなかったことにしたということである。この焼却の事実を小泉は戦後に知り得ていたのであろうか。仮に知り得ていても、黙して語らずで、その事実への批判はできなかったであろう。
戦争放棄という日本の平和憲法も、日本に軍隊を持たせたらろくなことはないという米国の意図を反映したものであろうが、米国の政策に従順な戦後の政治家たちが、逆に現憲法は米国に押し付けられたものだから、自主憲法をというのも矛盾した話である。そういう理屈を言うなら、それ以前に押し付けられた民主主義体制から返上してやり直すべきである。改憲の問題は、今や自衛隊を正式な軍隊にして日本も相応な分担をしてくれという米国の意向が裏で働いていることもあるだろう。
総じて小泉信三はどこまでも情念に縛られた人であり、決して知性の人ではなかった。もとより彼は勉強家で、博識で知られていたが、博識であることがそのまま知性があることにはならない。知性とは人間の内面に渦巻く様々な情念を葛藤させながらそれらを超えて生じるものであり、俯瞰的視野を持つことの言いである。小泉は人の情念に訴える言葉を持つが、情念だけで思考を進めると戦時下の彼のように妄想的世界に入るものと筆者は考える。妄想の世界は排他的な世界に道を開く。それがそのまま戦争への道となり、その意味でも戦時の軍国主義時代は知性のまったく欠けた時代であり、小泉もその時代の中で慶應義塾大学塾長としての地位にありながら(あるいはその地位を利用して)、学生たちを戦争へと扇動していた。小泉は戦後も知識人の代表的な存在として活動し、戦後生まれの筆者の世代にも広く知られていたが、では戦後になって小泉は知性を取り戻していたのかというと、否定せざるを得ない。ただ彼の情念から発する論理には説得力があり、その論理に共感した人が多かったのも確かであろう。つまり彼の文言には個々の感情に訴えるモラリスト的な言葉が散りばめられている。例えば彼のエッセイの中で『善を行うに勇なれ』というタイトルなどでそれはうかがい知れる。その一方で彼の戦時下における言動に対する批判は極めて聞くことが少ない。戦後、彼は戦争協力者として一度GHQの公職追放者のリストに入り、取り調べを受けたが、それに対し、自分を嵐の中に出港した船長の立場になぞらえて弁明し、追放を免れたとされる。そのことよりおそらくそれまでの反共産主義的著作などがGHQには有効だったのであろう。なお片方の私学の雄、早稲田大学の総長はその学生への扇動により(「生きて帰ってくると思うな」との言葉で学徒兵を送った)公職を追放されている(早稲田大学の項参照)。その後、小泉は皇太子の教育掛として任じられ、批判は封じられることになった。
(単純な比較として、終戦翌年、東京大学南原繁総長が示した後述の告文「戦没学徒を弔う」を参照)
なお世に言う「シビリアンコントロール(文民統制)」の理念は筆者は全く信用していない。およそ軍人が先に暴発してしまうという考えがそこにあるが、日中戦争も太平洋戦争も、その開戦の時に深く関わっていたのは当時首相であった近衛文麿であり、彼は文民側の代表である。本来の軍人は開戦によって当然勝ち負けあるいは損得を計算して動こうとするが、文民的政治家はそうではなく、曖昧な「正義」で動こうとする。近衛は小泉的情念の動きによって開戦への流れを作り、陸海軍はそれに従った。あるいは裏での陸海軍の扇動を近衛はコントロールできず、むしろ彼らに乗せられ、開戦の流れを作ったという見方もできる。また第二次大戦後、民主主義つまりシビリアンコントロールの代表的国家であるアメリカが、これまでどれだけ戦争を仕掛けてきたか、それを見れば明らかで、そのあとは小泉のような情念に訴える知的文化人が、その戦争の流れをさらに推進してくれる。強いて言えば、その時代、小泉という人物は、その発する言葉が影響力を持つという意味で、極めて危険な存在であったろう。国のためという空疎な言葉が、小泉によって重い実像を持つかのように振る舞った。
以下、改めて小泉の戦時下の言葉の一部を抽出して並べてみる。
1937年:(日中戦争開始後)如何にして忠列なる将兵に報ずべきか。… 戦はただ戦によって解決しなければならぬ。
1941年:国家は切に人を求め … 国家は実に諸君を待っている。
1943年:(繰り上げ卒業による学徒出陣式にあたり)遂に諸君の征く日が来た。征け、諸君。君国の為に。父母の墳墓の地を護らん為に。
同年:父母を思うこと篤き者は国を思うこと篤き者である。名残はいかに惜しんでも尽きないが、今は諸君と別れなければならぬ。… この際政府はいささかの遠慮も要らない。断じて学徒を徴集されたい。学徒は国家のため大いなる命の下るのを待っていたのだ。
同年:(学徒出陣式後の大詔奉戴日に、日吉校舎に約5千名の学生を集めた時の訓示)東亜の平和を確立することを国是としている我が国が、米英二大強国を相手に戦うまでになったのはもとより万全の策より出たものであるが、詔勅を拝読するだに感慨無量である、いよいよ戦うに至ったのは誠に已むを得ざるものであった。
1944年:万一にも吾々がこの敵(アメリカ)に負けるようなことがあったら彼等は何をするか、想像もできぬ … これに処すべき途は一つしかない。徹底的武力打撃によってその驕慢心を挫くことである。
1945年:繰り返していうが、この戦争に妥協的、中間的終末はあり得ない。… 万一にも敗れ、もしくは屈服することがあったなら、我々自身、我々の子女は永劫の苦痛と屈辱の淵に沈まなければならぬ。
同年:神潮特別攻撃隊の偉大な勲功と壮烈な戦死の発表を承り、… ただ有難いことであると申すより他にない。… 特別攻撃隊の攻撃法は如何に兵器が足らず物量が不十分であっても、敵に打ち勝つ途は必ずあるということを教えている。… 特攻兵器による攻撃は死を軽んずる攻撃法ではない。それは反面において最も人命を重んじた攻撃法である。ただそのためには選ばれたる勇士等は絶対的に死ななければならぬ。それが特別攻撃の真正の意義である。
同年:(ドイツの降伏のあと)私はヒットラー総統の統率の下に今日までよく頑張ったとその善闘を讃えてやりたい。… いまこそ米英に日本人の本当の強さを思い知らせてやる時が来たのだ。… いま日本人の足元に沖縄の戦いがある。… ただひたすら沖縄の敵に突撃すべきだ、そこに勝利の道がある。
同年(敗戦後の12月):今吾々は戦うべからざるに戦ったという悔恨に心を噛まれております、… 吾々は学ばざるがために敗れ、学ばざるがために戦うべからざるに戦いました。
