東京満蒙開拓団
満蒙開拓団は比較的知られているが、長野県など貧しい農村の集団移民以外に、東京の各地からも開拓団は募集されていた。昭和初期には不況と冷害による凶作で農村からの人々が流入していた。東京都では当初この人々を対象にして開拓団として送り込んだ。昭和7年(1932)6月10日、当時の深川区塩崎町(現・江東区塩浜)に無料宿泊所としてあった天照園で、満州農業移民を送り出すための送別会が約300人によって催された。全員この園の収容者で、この2週後に横浜港を出港して大連に向かった。拓務省による試験移民の4ヶ月前である。
昭和5年(1930)失業者対策として大田区に多摩川農民訓練所が設立された。これが後に東京府拓務訓練所となり、昭和10年から14年(1935-39)までの間に434名を送り出した。拓務訓練所はこの年から南多摩郡七生村(現・日野市)に移され、ここから第六期まで458名を満州に入植させた。このほか14年(1939)に板橋区の大泉に、翌15年(1940)に三鷹に東京の訓練所が設置された。満州での開拓が進むにつれ、独身男性から伴侶としての「花嫁」が求められ、多摩川訓練所とともに大泉の訓練所は「女子拓務訓練所」に切り替えられた。そして訓練を終えた花嫁候補者は満州から一時帰国した男性たちと見合いをし、合同結婚式を挙げ、一緒に渡満した。あるいは相手方男性の写真だけ渡されて渡満し、現地で結婚するという極端な例もあった。
全国的には地方の貧しい農村から開拓団として多くの農民が家族で満州に渡ったが、東京では昭和15年(1940)から小さな伊豆諸島の新島からも開拓団が分村として名乗りを上げ、式根島、三宅島、神津島合わせて220戸644名が渡満した。一方で都内では戦時下の軍需産業へのシフトで失業した中小商工業者やその従業員が多く、その転廃業対策として満州へ送り出す訓練所もできた。特に昭和17年(1942)から東京商工会議所が積極的にこの施策を進めた。そして18年(1943)から品川区の武蔵小山商店街を中心とした転業者1039名が荏原郷開拓団として一年がかりで送り出された。ほぼ家族ぐるみでそのうち4割は子供であった。このほか開拓団は東京からは20年(1945)半ばまでの開拓団(9116人)と満蒙開拓青少年義勇軍(1995人)、合わせて約1万1111人が中国東北部に送り出された。
相応の試験期間を昭和10年(1935)ごろに終え、この満洲への開拓団募集にあたっては「新天地」における理想郷建設として政府は大々的に募集した。入植地は現地農民の耕作地を強制的に安値で買い取るか未開拓地を占領することで行われた。中には現地農民をそのまま小作人のように使役する場合もあり、当然自分の土地を奪われた農民たちに禍根を残すことになった。また陸軍部研究班がまとめた昭和15年(1940)の報告書の中には「中国人に対する優越感から生じる差別、蔑視、蛮行、紛議は日本人の老若男女を問わない」「開拓民が中国人に対し殴打暴行は甚だしきは殺害するに至っており、反省を要する」などとあるから、抑圧された現地住民によるゲリラ的組織も生じさせ、開拓団は時折襲撃を受けるようになった。このような武装集団を日本側は匪賊と呼んでいる。それを予測してであろうが、政府は入植者集団を送る前に満州武装開拓団を早くから送り込んでいる。また武装開拓団はソ連との国境地帯を防衛する役目も兼ねていた。いずれにしろこの国境付近は、冬は零下30度にもなる寒冷地で、その土地の開拓は困難を極めた。
一方、荏原郷開拓団(戦時下の配給制で商業地区の商店主には仕事がなくなり、街をあげて開拓団が組まれた:品川区参照)が入植した興安(現・内モンゴル自治区)の場合、入植から一、二年後の昭和20年(1945)8月9日未明(長崎への原爆の直前)、ソ連軍の突然の満州侵攻により惨劇が生じた。興安は8月10-11日にソ連軍の爆撃を受け、約3千人いた興安の居留民は避難することになり、東西の二班に分かれ、西の班は先に貨物列車に乗って脱出したが、東半分の住民は集合に手間取り、すでに列車はなく、馬車や自動車も含めて、住民を守るはずの関東軍や諸官庁の職員が先に使って逃げていた。そこで葛根廟駅への列車の到着を待って南下するという計画にし、12日から移動を開始、14日に葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車部隊と歩兵部隊に遭遇した。ソ連軍は丘の上から避難民に対し戦車と機関銃で攻撃を加え、時には人々を轢き殺しを何度も繰り返し、最後には銃剣で止めを刺していった。その多くは女性子供であり、1000人以上が犠牲となり、残った人々の多くは自決し、生存者は百数十名とされている。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった(注:葛根廟事件。なんと残酷なと思われるが、同様なことは特に日中戦争突入以降、日本軍も中国で行っていた)。
また同じ興安の居留民の中に約3割を占める荏原郷開拓団の人々もいた。彼らも脱出を試みたが追い詰められ、8月17日(つまり降伏した二日後でその情報は届いていなかった)に一部の人々は集団自決し、残った大半の人々は、逃避行中、飢えと病のために力尽き、800人余りの人々が無残に死亡した(品川区参照)。さらにこの興安の荏原郷の人たちの近くには港区麻布材木町にあった乗泉寺の信徒が仁義仏立講開拓団として入植していて、その彼らも680名中、戦死・自決469名、生還はわずか20名だけだった。(荏原郷開拓団の逃避行で残留孤児となり、その後も過酷な体験をした人の語りは、筆者の『各種テーマ別の記録・証言』の「満洲開拓団の死の逃避行—— 須田初枝のライフヒストリー」参照)。
こうした開拓団の流れとは別に、昭和17年(1942)農林省により食糧増産対策の一環として満洲国報国農場が企画され、翌18年(1943)、閣議決定し推進された。それを受けて東京都では新京特別市(現・長春)と吉林省扶余県の二ヶ所に報国農場を設置した。これは満州開拓団とは別に青年男女を募って6ヶ月間、勤労奉仕隊員として農場の仕事に従事させた。その中には戦時下で転廃業を余儀なくされた商工業者(上記荏原郷のような)の若者も含まれていた。3月に先遣隊が渡満し、その一年目は準備を行い、秋の収穫を得て厳しい冬を越して昭和19年(1944)には農場の施設を充実させた。三年目は農場の基礎も固まり、この年の隊員は特に日野市七生村と青梅市霞村の出身者が多かった。新京では3月から6月までに第3隊まで(男性27名、女性37名)が送りこまれ、充実した農民生活を送り始めた。そしてこの年の実りを迎えることなく、農場はあっけなく崩壊した。8月9日午前1時ごろ、新京市街方面に照明弾の明かりが見え、爆発音が聞こえた。……(この後の経過のついては筆者の『各種テーマ別の記録・証言』の「新京報国農場からの脱出状況」参照)
また東京農業大学の学生たちも報国農場に参加し、満州北部のソ連との国境近くに農場を設立した(その悲惨な結末は筆者の「世田谷区の大学・女学校」の東京農業大学を参照)。
(以上は主に『渡満とは何だったのか:―東京都満州開拓民の記録―』高橋健男編著:ゆまに書房、2013年より)
この他にも鶏寧県麻生区における哈達河(ハタホ)開拓団の421名に及ぶ集団自決事件(麻山事件)、高社郷開拓団の514人に及ぶ集団自決、東安駅で列車で避難しようとしていた黒咀子開拓団851人が出発間際に日本軍の仕掛けた爆破に遭い、死者557人(死者526ともあり、行方不明236ともあるが、これはその後の逃避行における不明者か)を出すなどがあり、このほか100人から数百人単位の各開拓団の犠牲者は数知れない。その後生き残った人たちの日本への逃避行(数ヶ月かかっての徒歩による)における苦難は比較的多く語られているが、途中で赤ん坊が餓死したり、あるいは足手まといになるとしてやむをえず殺してしまったり、子供を生かすために途中の村の中国人に預けたり(中国残留孤児)などの話は尽きない(ただしほとんどが死亡した開拓団もあり、その場合、語られる悲劇すら聞くことはできない)。また朝鮮半島経由で帰国しようとした人たちの中には、すでに南北分断の38度線が築かれていて超えることができず、そこで死亡した人たちもいる。
実は生き延びて帰還した人々の証言は数多くあるが、開拓団を送り出した側の東京都などの資料は全くと言っていいほど残されていない。これは敗戦時に軍政府が軍事関係の記録や資料をすべて焼却処分させたことによるものと思われるが(実際に日本各地の役所においても出征記録すら焼却されている)、その中で有志の方々が協力して生存者などから証言を集め、各地に残された資料を精査して『東京満蒙開拓団』を書き上げ、上梓した。戦後60年以上経っての調査であり、さぞ困難を極めたであろう。(筆者私見:日本の民間人のこうした地道な努力にはしばしば頭が下がるが、一方で施政側の役人というのはどうして常に無策というか、むしろマイナスになるようなことしかしないのはなぜなのか)。なお、10数年間で満州への送出移民総数は約27万人、それ以外に青少年義勇軍は約8万6000人であったが、終戦時の在満日本人約22万人中、死亡・行方不明約8万2000人、ソ連に抑留された者約3万6000人(軍人とは別)とされている。
なお、『東京満蒙開拓団』では、「在長春地方日本人救済総会の記録によれば、戦後の昭和21年(1946)1月末における長春(当時は新京)在留邦人は19万7800人(内男9万3200人、女14万1400人:これは計算ミスで、在留邦人数は13万4600となる)であるが、終戦より翌年3月にいたる8ヶ月間の死亡者は実に2万5400人もの多数となり、その死亡率は33%(これも計算が合わないが、33%を基準にすると約7万7000人で、長春地区に限定すれば相応な数になる)に達する。長春は既往者と流人避難民が相折半されているので、これを全満法邦人の死亡率として認め得るとすれば、終戦後8ヶ月間の全満死亡累計は16万に上る計算になる」とある。この数字の正確さは別として、ここで注目すべきは「(戦後の)8ヶ月間の死亡者は実に2万5400人」ということである。満州だけでなく東南アジアの戦線においても軍の主な将校たちは敗戦となって占領地の居留民や兵士たちを置いて先に逃げ、さらに日本政府は、相手国政府と何の交渉もせず、彼らを救済する具体的処置を取らなかった。
昭和16年(1941)に16歳の時に一家6人で荏原郷開拓団に合流して渡満し、終戦後の逃避行中、家族5人が殺され、8年後に日本に一人で帰国できた富満貞子は言う。「私は叫びたい、国家とは何だったのか。国策によって私たちの開拓団は結成され、入植した。…… 大東亜共栄圏を叫んで国民を誘導したが、満州は共栄圏ではなかった。五族協和を唱えて独立した満州は、13年経ても協和が成り立っていなかった。王道楽土の旗印は単なるお題目でしかなかった。侵略政策を拡大するための開拓団だったのか。……国家は国のために尽くせと言ったが、国家は民にどれだけのことをしただろうか?」(上記『渡満とは何だったのか』より)
