戦時下の青山学院と収容所生活:ローランド・ハーカー

 以下は戦後50年を期した『青山学院大学プロジェクト95』によって、戦時下の証言など多数集められ掲載された中で、学院で英語教師として奉職していた一アメリカ人の「日本日記」からの転載で、筆者が多少の要約しながらまとめたものである。なお、この中に「捕虜」という言葉が使われているが、正確には捕虜は軍の将兵に対するもので扱い方が異なり、一般の「敵性外国人」に対しては「抑留」となる。

 —— この日記は、まだ私の記憶も新鮮であった1943年に書いた記録に基づいている。その年の終わりに、私は捕虜交換船に乗船してアメリカに向かった。船に乗っていたのは11週間と2日であったが、他にすることもなく、記録を執筆する十分な時間があったのだ。

……

 1939年3月。私は東京のミッションスクールである青山学院に英語の教師として招かれ、カリフォルニアの我が家を離れ、二年間の英語教師の任務を果たすため日本に向かった。初めて来日したときに見た日本は軍国主義の国で、軍備を拡大していた。太平洋戦争が勃発してからの二年間は、収容所の中から戦争の推移を見守ることとなった。そして戦後の1946年に再度来日してからは、完全な廃墟の中から驚異的なエネルギーで立ち直る日本を目撃した。それから日本は経済大国へと発展したが、その発展過程においては、1939年当時の日本と似た雰囲気が漂っているという感じを受けた。

 横浜に着くと、入国管理官は温かく迎えてくれた。だが税関では二人の男性が私の荷物を調べ、中でも彼らは数冊の本に目をつけ、その中で日本に関する二冊の本は取り上げられた。何の問題もない本であるが、当時日本に関して国外で書かれたものは疑われたのだろう。またカリフォルニアから持ってきたオレンジは全て没収された。港には英国で知り合った財閥の子息(スミ)が迎えにきてくれていた。それからタクシーで横浜駅まで行き、電車で東京へ向かった。彼はガソリンの配給制限のため自分の車で来ることができなくなったという。

 横浜駅の人ごみには驚いた。坊主頭の黒い学生服を着た男の子がいたる所にいて、下駄を履いていた。中には青っぽい簡素な着物を着ている人もいた。駅や汽車の中にはだぶだぶのカーキ色の制服姿の兵隊たちも大勢いた。東京駅でタクシーを拾いスミの家へ向かう途中、皇居を通りかかった時、驚いたことにスミは帽子を取りタクシーの中からお辞儀をした。やがて広大な庭のある大きな英国調のスミの屋敷の前に到着した。玄関でスミと私は靴を脱ぎスリッパに履き替えて、この素敵な家に入った。ここには私の住居が決まるまで滞在することになっていた。

 四月上旬に青山学院の新学期が始まった。受け持ちの学部では集会が聞かれた。そこで初めて公衆の前で読まれる教育勅語を聞いた。全員が朗読中は深々と頭を下げていた。とても奇妙な経験であった。後に聞いた話では他校の学部長が教育勅語を一語読み違えたために解任させられたということだった。青山学院の多くの先生方は英語を話すことができた。一人の教授が各教室に案内してくれ、教室に入ると一人の生徒が何やら叫んだが、実は後になって「気をつけ」であることを知った。学部長に、授業で何をすべきか尋ねたが、彼はただ「やりたいようにやりなさい」と言い、素晴らしい助言だった。だが幸運にも各クラスに一人か二人は日系二世の生徒がいて、なにか必要あれば、彼らの助けをかりることができた。

 まもなく二階建てのアパートの一室(寝室二部屋と、キッチン付きのダイニングルーム、小さなリビングルームがあった)を借りることに決めて落ちついた。何日か経って、スミが皇族を迎えた晩餐会をするというので家に呼んでくれた。私は用意していたタキシードを持参して行った。料理の一つで印象に残ったのは、お湯が入った漆塗りの碗の底に、死んだ小魚が三匹沈んでいたことだった。それからだいぶ経った4月のある夜、私は何人かの生徒たちをアパートに招いた。私は彼らのために用意したお茶とケーキを運び、生徒に配り始めた。しかし全員揃ってお腹が空いていないという。私はとてもがっかりして、すべてをキッチンへ戻した。かなり後になってわかったが、日本人は礼儀として、最初の申し出を断るようにしつけられているのだった。したがって私は繰り返し勧めるべきだったのだ。

 春の後半になると私の教えている中学部の二年生の遠足があった。総勢で数百人の生徒と教師が一緒だった。まず電車で池袋から吾野へ行き、そこからハイキングをした。歩いている間中、私はできるだけ生徒たちに話しかけで、彼らから日本語を学び取ろうとした。だが後になって、生徒と一緒にいる時は常に英語を教えるべきではないかと思い始めた。多分これは良い考えに違いなかったが、その結果として私自身は日本語をうまく喋れるようにはならなかった。無事に東京に戻り、駅前広場に集合し、天皇のために万歳三唱をして散会した。

 ある日、靖国神社に一万五千人の兵士の御霊が祭られたと発表された。中国での戦いはずっと続いていた。駅で兵役につく若い男が、時々家族や友人に見送られているのを見た。また、中国で戦死した兵士の遺骨を出迎える集団を見かけることもあった。時折兵士の一団が、かん高い音の横笛で軍歌を演奏しながら通りを行進していた。学校では、毎週全生徒の軍事教練が行われていた。そして時々将校が思いきり学生を殴りつけていた。聞くところによると、このような仕打ちで顎を壊されたりした学生もいたらしい。日本が私の好まない方向に向かっているのがひしひしと感じられた。

 1940年、私の存在がすでに余計な負担を掛けているのがはっきりしてきたので、青山学院の外人教師の古顔のアンクル・エドと呼ばれる先生の招待を受けて、彼の家に引越した。彼の家族全員がアメリカに行ってしまい、一人で住んでいた。アメリカの宣教師たちによって始められた青山学院では、まだ多くの宣教師が教えており、普通の教師は私だけであった。1941年の初め、これらの宣教師たちのアメリカ本部が日米間に何が起こるかを心配し始め、宣教師たち全てをアメリカに戻すという話があった。宣教師たちは戻りたくはなかったのだが、日米関係が悪化していることは事実だった。ついに本部から二人の男性がやって来て、全ての宣教師が去ることになった。

 この年の青山学院中学部の遠足は、東京湾外側に位置する大島だった。私はとても行きたかったが、帝国海軍が東京湾にいるので、私は参加できないといわれた。生徒たちの中には少なくとも一、二人位のアメリカ国籍の子供たちがいて、彼らは日本人である前にアメリカ人だったので、これはおかしなことだった。問題点は、私の外見が明らかに外国人であるということのようだつた。

 私が世話になっていた家のアンクル・エドもアメリカに帰る用意をしていた。彼は成人になってからずうっと日本で続けていた仕事を辞めるのを非常に残念がっていた。彼が去る前に、中学部の教師の一人がエドと私を夕食に招いてくれた。その人の家は東京の外れにあった。この時、大変に楽しいひとときを過ごせて、この教師ともっと親しくなりたいと思ったが、戦争が始まり、彼は戦争に行ったまま帰らぬ人となった。そしてアンクル・エドの帰国する日が来た。彼の永年の功績への謝意を表すため、学校側は生徒たちを彼の家から校門まで整列させた。エドはこの儀伎兵たちの聞を通り抜けでから車にのり、横浜に去った。エドがいなくなった広い家に住むのは私一人となり、私は太郎に一緒に住まないかと勧めた。このころ、アメリカ大使館の領事部に用事があって出かけたが、そこで副領事は、教師は大切な仕事なので、日本を離れたほうがよいという警告には従わなくてもよいと、大使がいっていると伝えてくれた。

 1941年の夏が来たとき、外国人の銀行口座が凍結された。私はさほどの持ち合わせもなかったので、直接的影響は全くなかったが、事態がますます悪化しているという印象は受けた。秋の学期が始まり、業務は以前どうり続けられた。青山学院はキリスト教の学校なので、外国教師の特別扱いはしない強い方針を保っていた。一方、一高(旧制第一高等学校で現・東京大学の教養学部にあたる)の場合は教師に好きなことをさせる方針を取っていた。これは生徒に対しても同じで、ここの生徒は軍事教練に草駐を履いてきても何もいわれず、注意もされていなかった。

 11月3日は明治節(現在は文化の日)であった。この日、私と生徒の一人は日光に行くことにした。だが、警察に東京を離れるという連絡をするのを忘れて(逐一、旅行許可証が必要であった)電車で出かけてしまった。しかし運よく警察には捕まらなかった。しかし同僚の一人もやはり日光に出かけ、登山電車の中で刑事に許可証を見せるようにいわれ、そのまま警察に連れていかれ、一日中、コンクリートの床の上に正座させられたという。またあるとき私はある生徒と二人で明治神宮のそばを歩いていた。この生徒が英語を忘れぬようにというので家庭教師を頼まれていた関係だった。そのとき警察官がやってきて生徒に「外国人と歩いたりしてはいけない」と注意をした。散歩は続けたが、私は内心動揺した。

 1941年12月8日、朝の6時頃、私の家に住んでいた学生の太郎が私の部屋のドアをノックして、日本とアメリカの間で戦争が始まったとラジオがアナウンスしたといった。私は前の晩から気分がすぐれず、学校へ行くのはよそうと思っていた。けれども、私の欠勤が誤解されるかもしれないと思った。それで起き上がり、支度を始め、いつもの時間に朝食をとった。太郎は日本が真珠湾攻撃にかなりの成功をおさめ、フィリピンとマレーシアも攻撃したといった。官憲がちょっと寄ったが何もいわなかった。私はいつもの時間に学校へ行き、どうにかして朝の授業を終え、自宅に戻って少し横になり、少し食物を胃に入れた。午後のクラスは教えなくてもよいと連絡があり、私はほっとして床に入り眠った。

 翌朝の7時頃まだ私が床にいた時、太郎がまたドアをノックして、警官たちが来て私に会いたいといっているといった。二人の私服警官が入ってきた。彼らは突然の訪問を詫びながら私に一枚の紙を見せた。そこには私が敵国の外国人なので強制収容すると、タイプされてあった。そして私個人の所有物全てを密閉してトランクに入れるようにという指示があった。収容所で必要な服をスーツケースに入れ三日分の食料も用意して警官について行くようにといった。紙にはさらに後でトラックが私のベッドを取りに来るという説明もあった。私は家には三日間分の食料などないので、家政婦が買いに行かなくてはならないというと彼らは承知してくれ、私はその問、持ち物を整理することができた。警官たちは「敵性外国人」と書かれた細長い紙を使って、私の持ち物を入れた全てのタンスやトランクに封をした。私が来て以来、何かと面倒を見てくれた同僚が来て見送ってくれた。早い昼食をとってから、私は皆に別れを告げ、警官二人とタクシーに乗り込んだ。それは私の青山学院での二年九ヶ月の仕事への悲しい別れだった。

 まず初めにタクシーは地元の警察署へと向かった。そこでもう一人のアメリカ人を拾った。それからタクシーは目黒の方に向かって西へと走っていき、多摩川辺りまで来て、学校の校庭に入り込んだ。そこは昨日まで、スミレという女子寄宿学校だった。私たちは二階にある大きな畳の部屋へと連れていかれた。そこには他にもアメリカ人が何人かいたが、中には私のよく知っている人もいた。やがてトラックが着いて、私たちのベッドやスーツケースを降ろしていった。夕暮れにはこの36畳もある部屋に13人が収容され、私たちのベッドが部屋一杯に置かれた。隣の部屋には二人のベルギー人、ホンジュラス(中央アメリカ共和国)の一人、そして5人のドイツ人が収容されていた。別の部屋には10人のイギリス人(その中に私の同僚がいた)、廊下の向こうの部屋には5人のカナダ人がいた。彼らはフランシスコ修道会神父たちであろう。アメリカ人は先生もいれば宣教師もいたしビジネスマンもいた。お互いに情報交換したり、また面識の無かった人とは互いに挨拶しあったりしている内に時間は瞬く間に過ぎていった。夕食の時間になると、ベッドとベッドの聞に座り込んで、互いに食べ物を分け合って夕食をすませた。

 ポール・ラッシュもいた。彼は昔、山の中にある彼の家に私を招待してくれたこともあるし、つい二日前にはスミの家で夕食を共にした仲であった。彼は我々のよきリーダーとなり、皆を上手に統制したので、私たちは満足に夕食を食べられた。夜9時には消灯となり、ドアの鍵はロックされた。私たちは東京警視庁の手の中にあるようだった。彼らはとても厳しく、冗談も通用しないと見受けられたが、私たちに話かける時は決して乱暴ではなかった。彼らはみんな私服警官であった。私たちが収容された建物は、昨日まではカトリックの女子校だったから、すべて清潔で整然としていた。ほとんどの部屋は畳の部屋であったが、礼拝室が一部屋あった。私たちのグループにはフランシスコ修道会のカナダ人修道士やイエズス会の神父であるベルギー人がいて、彼らはこの礼拝室を見てホッとしたようだった。私たちアメリカ人とカナダ人修道士を除いては、それぞれの国籍によって部屋に収容されていた。

 その二日後の12月10日、私は激しい痛みに苦しんだ。なんとか当局に連絡をとり、聖路加病院の医者を呼んでもらうことができた。この病院はアメリカ人宣教師によって設立された病院であった(筆者の中央区参照)。そこは私が知っている外国人のほとんどが行ったところでもあった。やがてドクターが救急車でやってきて、化膿性炎症があって手術が必要とのこと、私を聖路加病院に連れて行ってくれた。痛みはさらにひどくなっていたが、私はそこへ行けることで精神的な安らぎさえ感じた。次の日、手術が施され50ccの膿がとられ、痛みが全く消え去り、ただ傷が癒えるのを待つだけであった。私は10日も病院に居れば、すんだところを、二週間も入れておいてくれ、したがって居心地良い所でクリスマスを過ごすことができた。私が入院したことが友人たちに伝わり、収容所で別れてきた友人の奥さんがクリスマスにロースト・ターキーを差し入れしてくれたし、他の友人や生徒からも色々なプレゼントが送られてきた。そして私は非常に残念な思いで病院を去り、収容所へと戻った。

 スミレの収容所に戻った日、私はアメリカ人13人が収容されていた部屋が変わっているのに驚いた。床にはなんとカーペットが敷かれていて、それも36枚の畳をほぼ覆うことができるような大きなカーペットであった。部屋の真ん中には石炭の燃えているストーブがあり、廊下の向こうにはドアがあり、キッチンもあったし、そこに食料のストックさえあった。さらに驚いたことに、数台の折り畳み式テーブルやレコードプレーヤーまで置かれていた。これらの設備や食料品は収容された仲間の一人の銀行家の要請で、彼の家から警察官の手によって運び込まれたものであった。また収容所仲間の妻たちはあらゆる種類の差し入れを許可されており、きれいに飾られたクリスマスツリーまであった。したがって、収容所は病院に運ばれた頃よりも大変に住み心地がよくなっていた。聞いたところ、クリスマスの日には、男たちは一階のキッチンを使用することが許されたそうで、あらゆる設備を使うことができ、彼らは盛大なクリスマスディナーをしたそうである。

 夕食は例のポール・ラッシュの監督の元で二階で用意された。ポールは料理が大変に上手で、さらに警察官から必要な物を買うことに関しては素晴らしい手腕を発揮した。12月31日、私たちの部屋では盛大なパーティーが行なわれた。お酒もあって飲みたい者はおおいに飲んだ。もちろん夜中過ぎまで楽しんだ。1942年1月1日、コックに来なくてもよいと告げ、収容所の様々の国籍をもつ男たちが、自分たちでディナーを用意した。食べきれないほどの食事が用意され、またどれもが実においしかった。冬が終わるころ、妻たちによるストロベリーの差し入れが始まった。そこでポールは大きなボールを手に入れ、毎週、生クリームを貰えるよう手配した。生クリームをたっぷり載せた大きなストロベリーショートケーキが食べられるようになった。

 日曜日には礼拝室がよく利用された。カトリック教徒は早朝にミサを行なった。その時はプロテスタント信者たちが賛美歌を歌ってあげるのである。そのミサが終わると次にはプロテスタントの宣教師が礼拝を行なうという具合であった。数週間後のこと、それまでは夜になると部屋に鍵がかけられていたが、それがなくなり、一階の大きな部屋には卓球台が備え付けられた。卓球はとても人気があってトーナメントまで行なわれるようになった。ついには警備の警察官がトーナメントのことを聞いて、自分たちも入れて欲しいと申しでてきた。トーナメントの日、最後まで勝ち進んだのは、茶色の修道服に身を包んだプランシスコ修道士と警察服を着た警察官であった。誰もが最終戦を観に来たが、応援あり叫びありのそれはすごい盛り上がりだった。捕虜の身である私たちには大変嬉しいことに優勝者は修道士であった。

 また数人集まって、私たちは合唱団を結成した。練習もして、コンサートも準備した。幸運にもオーストラリア国籍のロシア人が作曲家だったので、彼が特別に収容所の歌を作ってくれた。その歌というのは、—— 「生きようが死のうがあの門をくぐってみよう/そこには牢獄への門と書いてある」と続くのであるが、警察官がどんな歌なのかと尋ねてきた。審査の結果、この最初の二行は問題だがあとはよろしいということだった。「お前達はここで死ぬのではない。ここは牢獄ではない」と彼らはいうのだ。そこで私たちは最初の二行を次のように変更して歌った。—— 「生きて生きて、あの門をくぐろう/そこには僕らの現世への門と書いてある」ともかくコンサートは成功に終わった。それは収容所での退屈な生活に変化を与えた。

 ある日、家に手紙を出すことが(おそらく赤十字を通して)許可されるかもしれないといわれた。私たちはまず手紙の下書きを提出してから、そのコピーを送るのである。私が手紙に「収容所の窓からは、富士山が見える」と書いたら、それは却下された。そのようなことを書いたら、収容所の場所がわかるからだそうだ。しかし実際には富士山は遠く60マイル離れた所からでも見えるのであった。

 捕虜となって六週間が過ぎたある日、スイス大使館の代表が収容所に来た。彼は神父でヒルデブランドという名前だった。大使館の方は様々な国との外交に忙しく、よって神父がこの仕事を手伝っていたのだ。「視察のためにやってきたので、何か問題があればいってほしい」と彼はいった。その後神父は定期的に訪問するようになり、外の世界ともつながりがあるのだという感じを得ることができた。さらに月に一度の面会が許された。私は最初の面会人としてアメリカ人の妻を持つ友人をお願いした。このような面会は私が交換船にのって日本を発つまで約二年間続けられた。

 1942年4月18日の朝早く、空襲警報がなった。そして私たちが昼食に降りようとした時、今度は攻撃の警報が鳴り響いた。昼食後突然、対空砲撃をする音がパチパチとなって、そして爆発音がした。窓の外にはアメリカ軍の飛行機が見えた。その後飛行機は富士山の方向へ向かって見えなくなるまで飛んでいった。この日アメリカ軍によって、かなりの被害があったということを、面会者から知らされた。

 春になって、捕虜を交換する船(交換船:戦時下で帰国ができない人たちに、お互いの国から船を出し、南アフリカのケープタウンなどの地で自国から来た船に乗り換える方法)の話があった。だが学校の幹部であった友人が面会に来て、先生の職業にあって、今回の交換船に乗らない者は捕虜の身を解かれ、再び教鞭を取れるという話をしてくれた。そこで私は留まる決心をした。後でその情報は間違いであることがわかった。船の件については、その後何度も延期され、実現など決してしないのではないかと思われた。そんなある日アメリカ人の新聞特派員が5名ほど監獄から収容所へと送られてきた。彼らは日本に敵対する情報をアメリカへ流したとして逮捕された。彼らは半年もの間、訊問される時以外はたった一人で監禁されたという。話すことに飢えていた彼らは、一晩中話し続けた。虐待などは受けなかったようだが、しかし彼らは憤慨していた。ここへ来る前に特別な昼食に接待され、監獄では良い待遇を受けたと記事に書くよう強要されたそうである。

 数日後、最初の交換船のことを知らされた。それはアメリカ人はじめ他の敵国人を母国に戻し、そのかわりにアメリカで収容されている日本人を日本に送るというものだった。6月17日にやっと第一船が出港した(注:英仏人などは前年に交換船が出ている)。私たちの収容所からは15名のアメリカ人と数名の外国人が去って行った。後に残ったのは私を含めてわずかだった。後日、その夜を共にしたアメリカ人記者が書いた雑誌を読む機会があったが、記事には収容所では飢えていたと書いてあった。後目、アメリカでたまたま彼に会う機会があったのでその雑誌の件を話してみたら、「編集者というのは奇妙なことを要求するんだよ」と言った。嘘を書いて記事を売った言い訳としか、聞こえなかった。彼らの船が出港して後に、今度は二人の船長を含む、7人のギリシャ人船員が私たちの仲間となった。そしてもっと多くの外国人が収容されてくるという噂が立った。8月29日、収容所に二度目の交換船の知らせが届いた。リストには名前が書かれてあり、その船は9月2日に出発とのことだった。その中になんと私の名前があった。私は急いで自分の持ち物の荷作りをした。しかしなんと延期という知らせが入ってきた。

 9月28日、数人の年老いたアメリカ人男性と女性たちが収容所にやってきた。彼らは今まで収容されていなかったのである。そこで私たち男どもはみな一階の部屋に押し込められ、女性たちはみな二階の部屋に収容された。そして一階と二階との階段には柵がたてられた。私たちは二階にいる女性たちと話すことは一切許されなかった。たとえ奥さんが二階にいても会話ができなかったのだ。彼らは交換船が一年後に出港する時までお互い話もできなかった。

 私たちのグループにいる数人のカトリック神父だけは二階の礼拝室でミサを行うことが許されていた。しかし女性たちの部屋のドアには鍵が掛けられており、礼拝室に入ることは許されなかった。でも彼女たちはドアの外からでもミサが聞こえるのに気づきミサに参加した。

 だが、このような収容所での状態は数週間しか続かなかった。10月5日、男たちはみんな東京の北にある北浦和へと移された。そこはフランシスコ修道会の修練院であった。自由に歩き回れる大きな庭があり、今までいた所に比べると環境はずっと良かった。しかしながらそこの警察官の態度は警視庁の警察官とはかなり違っていた。警視庁の方は、国際的な収容キャンプに関する条約に関する知識があったので、私たちも不当な扱いを受けなかった。北浦和では彼らは私たちを犯罪人として扱った。彼らは毎日のように怒鳴り、いつもわめき立てていた。そして修道会が育てていたさつまいもを掘り起こすことが私たちの日課とされ、そのさつまいもは警察官たちが持って行った。また汚物のタンクを運ぶのも仕事の一つだった。そしてその汚物は畑に撒かれた。スイス大使館のヒルデブランド神父が訪れてくれる時に、自分たちの気持ちを訴えてみることにした。外務省から英語のわかる男性が一人、神父と共にやってきていた。何が起こるかわからなかったが、数日後、神父と話をした修道士が収容所の幹部に呼び出された。収容所のことを悪くいったというので、彼はその警察官の前に座らされてひどく責められた。とうとう警察官は怒り狂い、かんしゃくを起こして、テーブルの下からその修道士のすねを蹴った。まもなくその幹部はどこかへいなくなってしまった。代わりにすでに退職した年配の警察官がやってきた。彼は昔風の紳士だった。そしてさつまいもを掘る替わりに、畑仕事の色々な道具や野菜の種などが与えられた。そしてバレーボールもできるようにもなり、収容所での雰囲気はがらっと変わった。

 12月20日、仙台方面から男たちが収容されてきた。そして全員で63人も収容されることになった。そのうち36人はカトリック神父たちであった。この収容所はもともとカトリック修練院であったため、礼拝堂があったので、神父たちは毎日ミサを行なうことができた。1942年のクリスマスは荒涼としたものだった。でも私たちはささやかなクリスマスパーティーを開いた。簡単なサンドイッチでも作るようにと責任者の警察官がパンを持ってきてくれた。そのパーティーではクリスマスキャロルを歌っただけで、みんな部屋へと解散した。

 戦争は時と共に悪化していった。日本の新聞が手に入っていたので、読める者は読んでいたし、またラジオで情報を得ることもできたが、日本軍優勢の虚報の中に真実が見える時もあった。長い冬がすぎて、春も過ぎて1943年の夏になった。8月の末にはヒルデブランド神父がやってきて、交換船が出ることを教えてくれた。そのリストの中に私の名前があった。日本に残ることが天命と信じる数人の神父と日本人を妻に持った数人以外は、ほとんど全員が帰国することになった。荷物といってもたいした物は何もなかった。9月13日、私たちは荷物を抱えて駅まで歩き、そこから横浜行きの電車に乗った。横浜につくと今度は警察の護衛車に乗せられて港まで出た。待っていたのはフランスから捕獲した船で、その船の船首には東亜丸(注:帝亜丸が正しい)という新しい名前がついていた。

 この航海の経由である。—— 9月14日の真夜中過ぎに出港した船は、神戸、上海、香港、サンフェルナンド(フィリピン)、サイゴン、ゴア(今のインド)、ポートエリザベス(南アフリカ)、リオデジャネイロを経由して、1943年12月1日にニューヨークに到着した。

<追想>

 日本に滞在した間、多くの素晴らしい人々に出会った。毎日の経験はきわめて興味深く、満足できるものだったが、それは非常に異なった文化を学ぶ喜びのせいであった。だが同時に、いつまで経つでもこの国の一面にしか触れていないのではないかという危倶を感じていた。ときどき日本にはおぼろげにしか知ることのできない側面があることを感じさせられた。一番、心にひっかかったのは、日本を動かす真の力は表面にはでておらず、裏の世界にあることに気づいたことだった。この裏の力は見ることができず、ただ憶測するほかなかった。……

 当時の明治憲法によると、陸軍も海軍も国民によって選ばれた議会の支配下にはなかった。天皇の直接指揮下に置かれていた。したがって陸海軍が満足しないと、内閣が組閣できない状態だった。……戦時下で現実に起こっている事件を見ると、日本は独裁者のいない独裁国のように動いていると感じた。

 50年経った時点で昔を振り返ってみると、一人の人物が糸を操っていたのではなく、一つの思想が人々の心に浸透し、この思想に心酔した多くの個人が色々な場面で日本を戦争に追いやったように思われる。日本には強烈な中央集権的な指導者がおらず、一方、普通の日本人は独自の深い信念といったものを持っていない。そのためその後はクーデターを起こさなくても、この思想が完全に日本を支配することが可能だったように思える。

 戦前に物事がこのように起こるのを目撃したが、戦後の日本社会の機構も基本的にはまったく変わっていないことを感じる。したがってこの日記の最初に、戦前に感じたのと同じような、不安な雰囲気を感じると述べた。1931年頃から日本の帝国陸軍は、中国で独自の行動を取っていた。満州は併合され、中国の他の地方も徐々に支配下に置かれ始めた。当時の日本の言い分は、日本を共産主義から守るということであった。だが郵便切手に大日本帝国と印刷されていたのと同じ思想で、軍部は大帝国を創ろうとしていたように思われる。

 当時、私は中国からアメリカに引き上げるアメリカ人と、ときどき接触する機会があった。彼らは帰国の途中に日本に立ち寄ったのだ。彼らは中国において日本の陸軍が何をやっているかを観察して、その話を聞かせてくれた。その話を聞くと、私が毎日会って、一緒に働いていた愛すべき日本人たちには、全く別の一面があることを悟らざるを得なかった。そして、その別の顔は、引き続いて発生した全面戦争でベールを脱ぐこととなった。そこから強制収容所に収監されている間も、もしも日本の状態が徹底的に悪化したら、我々はどう扱われるのだろうか、と考えたものだった。したがって交換船に乗り込んだときは、心底から安堵した。

 それではなぜ、戦後に日本に戻り、長い年月、日本に滞在したのだろうか?第一に、長いこと日本に住むあいだに多くの素晴らしい日本人にめぐり会えたことがある。第二に、どこの国にも色々な側面があり、色々な奔流が流れていることを理解したのだ。その辺りの事情に関しては、日本の他の国々もあまり変わらないことに気づいた。日本も他の国と同様に徐々に変化している。もしも私の影響がわずかでもあり、日本が個人の確信と責任を基礎とした真の民主主義に少しでも近づくことになったなら、私がこの国に長く滞在した年月にも意味があったことになるだろう。