BC級戦犯とその裁判について

 BC級戦犯裁判とは、「通例の戦争犯罪」を犯した者に対し、連合国各国が行った軍事裁判である。裁判は連合軍による日本国内の裁判だけでなく日本軍の戦争被害にあった中国と東南アジアなど49ヵ所で行われ、また8年にわたり、その間の世界情勢の激しい変化が裁判に反映した。この裁判に対して、日本では「報復裁判」という論調が多いが、事実はどうなのか。一口に(戦勝国による)裁判は不当、復讐といって済ますにはあまりにも個々の事件の内容も裁判も多様である。またBC級戦犯の問題は、これまで日本では裁かれた側からばかり論じることが多く、告発した側(被害を受けた側)の視点で語られることが少なかった。すなわち、裁判の不当性に焦点をあてることで、加害者としての日本及び日本軍のアジアの国々への侵略、そしてそこでの残虐行為という事実をなかったことのようにするという面もあった。一方で戦犯裁判は、侵略を受けたアジア民衆や捕虜が抱く日本軍に対する憎悪の念、復讐を抑制するものとなり、その意味で彼らは国の犠牲となった。そしてその後の世界情勢の変化により、再軍備化を進める日本外交においては、戦犯釈放運動などを名目に彼ら戦犯は再度、国によって利用された人々であるとも言える。多くの国で裁判記録が公開されている中で、BC級戦犯問題を裁いた側と告発した側、両方の視点から研究がなされている。戦犯裁判で、なにがどのように問われたのか、以下は主に林博史著『BC級戦犯裁判』(2005年、岩波新書)からの抜粋である。

 1945年8月8日(日本の敗戦一週間前)に英米仏ソの四カ国により調印されたのがロンドン協定ならびに国際軍事裁判所条例で、その第6条で戦争犯罪について3つの類型化がなされている。

a)平和に対する罪:侵略戦争もしくは国際条約、協定もしくは誓約に違反する戦争の計画、準備、開始もしくは遂行またはこれらの各行為のいずれかの達成を目的とする共同謀議への参加。

b) 戦争犯罪、すなわち、戦争の放棄または慣例の違反。この違反は、占領地所属もしくは占領地内の一般人民の殺人、虐待、もしくは奴隷労働もしくはその他の目的のための追放、俘虜もしくは海上における人民の殺人もしくは虐待、人質の殺害、公私の財産の略奪、都市町村の恣意的な破壊または軍事的必要により正当化されない荒廃化を包合する。ただし、これらに限定されない。

c)人道に対する罪、すなわち、戦前もしくは戦時中にすべての一般人民に対しておこなわれた殺人、殲滅、奴隷化、追放及びその他の非人道的行為又は犯行地の国内法の違反であると否を問わず、本裁判所の管轄に属する犯罪の遂行として、もしくはこれに関連して行われた政治的、人種的もしくは宗教的理由に基づく迫害行為。

 上記それぞれを、A級戦犯、B級戦犯、C級戦犯と呼ぶ。戦後(一部は戦中)それぞれに対して裁判が行われた。なお、A級戦犯裁判については処罰の手続きなどが1945年8月に決まったため、事後法と批判されるが、BC級戦犯裁判については第二次世界大戦より前から国際法上、犯罪者を被害国が裁くことが認められていた。

 B級戦犯の法的根拠となるのは、非人道的兵器の禁止や捕虜・傷病者の保護などを取り決めた1899年と1907年の「陸戦の法規慣例に関する条約」とその付属書である「陸戦の法規慣例に関する規則」(通称「ハーグ陸戦法規」)、捕虜の人道的扱いをさだめた1929年のジュネーブ条約などである。これら条約には、第一次世界大戦中、相互に戦時国際法違反を牽制し抑制する意図があったが、第一次大戦後、戦争犯罪人を戦勝国に引き渡し軍事裁判所で処罰する方式が初めて国際的に認められた。日本はこのとき、戦勝国としてこの条約を承認している。

 その後、第二次世界大戦の最中、1942年1月13日セント・ジェームズ宮殿にヨーロッパの9カ国が集まり、ドイツによっておこなわれている市民に対する暴力を非難し、裁判によってこれらの犯罪の命令者や実行者を「処罰することを主要な戦争目的の中に入れる」ことを決議した。オブザーバーとして出席していた中国代表もこの宣言に同意し、日本に対しても同じ原則を適用する意思を表明した。これが戦犯処罰についての公式宣言となる。この宣言に沿って、連合軍は戦中から戦争犯罪の情報をさまざまなルートで収集し、日本敗戦後ただちに戦犯容疑者をリストアップすることになる。

 第二次世界大戦の戦犯裁判は、大きくはA級戦犯裁判(ニュルンベルグ裁判と東京裁判)とBC級戦犯裁判に分けられる。「平和に対する罪」を問うA級戦犯裁判では、主に政府や軍の指導者が裁かれた。一方のBC級戦犯裁判は、個々の残虐行為に関わった者(命令者から実行者まで)を裁いた(実際には日本に対してはC級戦犯は裁かれておらず、BC級戦犯裁判と呼ぶのは正確さに欠ける)。A級戦犯裁判が各国から裁判官がでる国際法廷であるのに対し、BC級戦犯裁判は個々の国が行った裁判である。日本に対しては連合国中8か国(アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、オーストラリア、中国、フィリピン、旧ソ連)がそれぞれ裁判を行い、現地で刑が執行された。なお、横浜裁判はアメリカが行ったBC級戦犯裁判である。

 A級戦犯裁判としての東京裁判(極東国際軍事裁判)の被告が28人であったのに対し、BC級戦犯では5700人が起訴された(但し、旧ソ連と中華人民共和国を除く)。そのうち、最終的に死刑が確認された人数は前者が7人、後者は934人である。

 なお、東京裁判と違って、BC級戦犯裁判は8か国がそれぞれ裁判を行ったために裁判資料はそれぞれの国がもっており、アメリカ、イギリス、オーストラリア以外の国々は資料が公開されていなかったり、整理状況が悪く、また日本政府が収集している裁判資料は公開されつつあるが、プライバシー保護を理由に非公開のものが多い。近年になって漸く文献が出はじめているが、それらは2千件を超える戦犯裁判のなかのほんの一部に過ぎない。

 BC級戦犯裁判には多くの問題点があると言われる。例えば、被告の選定が恣意的、人違いにより罰せられたものが少なくなかった、通訳の不適切さ、検察側の証言が一方的に採用された、弁護の機会が十分に与えられなかった、日本軍の捕虜になった者が裁判官や検察になった(不公平)、反対尋問なしに宣誓供述書が証拠として採用され、被告に著しく不利になった、上官の命令に従っただけの下級兵士まで裁かれた、部下の犯した犯罪について何も知らない上官が責任を取らされた、など。このような問題点から、戦犯裁判について日本ではもっぱら否定的な評価がなされてきた。しかし、戦犯裁判に問題があるからといって、日本軍による侵略戦争とそのなかでの行われた残虐行為という事実を否定することはできない。

 また、当時の日本は大日本帝国であり、日本植民地下にあった朝鮮や台湾の人々は日本国民であり、戦犯として裁かれる対象になった。さらに日本国民ではなかったが、日本に保護された地域、サイパン、テニアンなどの南洋諸島の地域住民も戦犯裁判にかけられた。日本領であった南樺太(サハリン)のウィルタやニブヒの人たちが日本軍に徴用され戦犯になったケースもある。日本によって侵略され併合された地域の人々が日本の戦争に動員され、そこでの行為が戦争犯罪として裁かれたケースが少なくなかった。ところが戦後の日本社会は、そうした日本領の人々が戦犯に問われたことを無視し放置してきた。

 BC級戦犯裁判は1945年10月、フィリピンで行われた山下泰文裁判が最初とされるが(1946年2月に死刑執行)、正確にはそれ以前の1945年2月26日、前年に米軍が奪還したグアム島において、サイパン出身の警察官が殺人罪で起訴され、重労働の判決が下された(最終的に10年から9年に減刑)のが最初の対日戦犯裁判である。当初、短期間で終了する予定であった戦犯裁判は予想外に長引き、1950年オーストラリア、マヌス島で実施、1951年4月に終了した裁判が最終となった。(但し、1956年中華人民共和国で行われたものを除く)裁判が長引いた理由は国ごとに違うが、共通しているのは、戦争終了後、軍隊の復員が進むなかでの捜査や裁判のスタッフ(弁護士、通訳など)確保が難しかったことがある。また、日本軍による残虐行為は実にたくさん報告されているが、訴追できるまでに証拠を固めることは困難な作業だった。特に日本軍が移動した場合、部隊や実行者の特定は困難を極めた。一方、捕虜収容所のスタッフや長期間同じ場所に駐留した憲兵の場合は、比較的容疑者の特定がやりやすかった。

 一般にBC級戦犯裁判では捕虜に対する犯罪が裁かれたという理解があるが、これはアメリカの裁判、なかでも特に横浜裁判に当てはまる特徴である(横浜裁判の97%が捕虜に対する犯罪容疑を扱った)BC級戦犯裁判全体でいえば、捕虜に対する犯罪と同様、あるいはそれ以上にアジア太平洋地域の民間人に対する犯罪が裁かれた。その主なものとして殺人、虐待致死、虐待、死体遺棄、人肉食、強姦など人に対する犯罪容疑、財物略奪や破壊、焼却、強制挑発など財産に関わる犯罪容疑などがある。

 また一般には、命令に従っただけの下級兵士まで厳しく裁かれたと言われるが、起訴された下級の兵の割合は極めて低く、起訴されたとしても死刑になる率はかなり低い。最下級の兵である二等兵の場合、死刑判決が下されたケースはあるが、すべて後に減刑されており死刑が執行された者はいない。ただ朝鮮人の捕虜収容所監視員のように、軍属で死刑になった者は少なくない。軍属といっても立場は様々であるが、朝鮮人軍属のように二等兵以下の扱いを受けている場合もあり、下級の身分の者が厳しく裁かれたが、これは常時監視員として捕虜の前面に立っていたためと思われる。

 戦犯裁判は、勝者による敗者の裁きというような単純な構図で捕らえることはできない。「西欧の宗主国ー植民地民衆ー日本」という三者の絡み合い、国共内戦と冷戦のなかにあった中国など、国際情勢や地域の状況などさまざまな要素が裁判の在り方に影響を及ぼしている。

 イギリスによる裁判では、マレー半島やシンガポール、ビルマ、香港などでの日本軍による大規模な住民虐殺事件を裁いたケースがいくつもあり、現地のアジア系住民に対する犯罪をかなり高い割合で裁いている。連合国、特にアメリカ・オランダ・オーストラリアは現地の民衆の被害はあまり取り上げず、自国捕虜への犯罪ばかりを取り上げたかのような認識があるが、イギリスの裁判には当てはまらない。イギリスの場合、その植民地が日本軍によって占領され、その住民が残虐行為の対象にされたことを重要視した。大英帝国の復活、植民地の再建を目指すイギリスにとって、植民地住民に対する犯罪者を厳しく処罰し植民地、宗主国としての威信と信頼を回復する必要があった。マレー半島やシンガポールの中国系住民に対する残虐行為の捜査にあたっては、地元の中国系団体も協力し、証拠や証人が集められた。中国系住民からは犯罪者を処罰せよとの要求が強く、イギリスもそれに応えざるをえなかった。

 オランダによる裁判の場合、主にオランダ領東インド(蘭印)、現在のインドネシアでの犯罪であり、裁判のほとんどがインドネシアの領域(パプアニューギニアのホーランディアも含めて12か所)で実施された。オランダ裁判全体としてアジア太平洋地域の民間人への犯罪が約半数を占めている。ついでオランダ人居留民、すなわち日本軍に抑留された民間人への犯罪が、捕虜に対する犯罪を上回り、三分の一に及んでいる。ジャワ島(バタビア)、スマトラ島(メダン)での裁判が民間抑留者への犯罪を扱ったのに対し、ジャワ以外の東部の島々での裁判においては、主に現地の民間人への犯罪が扱われている。インドネシアの領域外で唯一おこなわれたホーランディア裁判では、インドネシア人の兵補(日本軍が雇用した軍属)に対する犯罪が裁かれている。日本軍の兵力不足を補うためにインドネシアで招集された兵補がニューギニアに送り込まれた。かれらは飛行場や陣地の構築、物資の運搬など労務者として使われた。しかし連合軍の反撃の前に孤立し食糧もなくなった日本軍は、飢えとマラリアなどでバタバタと倒れたが、そうしたなかで備蓄していた食糧を窃盗したり、逃げようとした兵補たちが銃殺された。終戦後のある部隊の記録では、1717人の兵補のうち死亡者1248人、行方不明者288人、現存180人とされている。日本側は、兵補は日本軍の構成員であるからかれらを処分したことは戦争犯罪にはあたらないと弁明したが、認められなかった。

 フィリピンにおける裁判では日本軍の非戦闘員への犯罪が9割以上であり、強姦など性暴力も多く扱われている。フィリピンでは民衆の日本軍に対する反感が強く、それに加え、米軍が上陸してからゲリラ活動も強力に展開された。日本軍は住民を敵視し、村民の皆殺しが相次いだ。さらに米軍の進攻によって山岳地帯を敗走する日本軍将兵が食糧を略奪し、その際に住民への残虐行為に及んだことも多かった。フィリピンで日本軍は50万人近い戦死者を出し、生き残ったのは10万人にすぎなかった。責任者の多くも戦死した。日本軍の移動が激しかったため、責任者の特定が難しく、そのため事件と直接関係のないものが被告として裁かれたと思われるケースもある。戦犯となった169人の被告のうち死刑判決が79人と半数近くを占めているが、執行されたのは17人。このフィリピンの戦犯の中にも、被害を受けたフィリピンの人々の激しい怒りに直面して、「加害の罪」を真摯に受け止めようとする人たちもいた(永井均「獄窓からの反戦思想」)。1953年7月のフィリピン共和国独立7周年記念日にキリノ大統領が大規模な恩赦を行い、死刑をすべて終身刑に減刑、その後105人が釈放され日本に帰国した。その背景には、この時期に日本との間で進められていた賠償交渉があるともされるが、キリノ大統領自身、妻と次男、長女、三女の家族4人、さらに5人の親族をを日本軍に殺されているから、よほどに私情を捨てた人道的決断と日本との友好関係を保つという長期的視野を持っていないとできなかったことであろう。

 フランスによる裁判は、フランス領インドシナ(仏印)のサイゴン(現ホーチミン)で行われた。戦時中、インドシナは日仏の共同支配下に置かれていたが、日本とドイツの敗勢が続き、仏印当局が連合国側に寝返ることを恐れた日本は、1945年3月仏印武力処理を行い、仏印当局を解体した。ベトナムとカンボジアを形の上で独立させたが、実質的には日本軍の直接統治下におく。その際、仏印当局のフランス人関係者や軍人、民間人などを抑留し、虐待したことが戦犯裁判で取り上げられた。そのなかの大きな事件としてランソンでの捕虜約300人虐殺事件がある。しかし、現地住民に対する犯罪はフランス人への犯罪とセットで起訴されたものがいくつかあるのみで、日本軍がインドシナ民衆に対しておこなったことは全く裁かれないままに終った。フランスは日本と共同の加害者であったという事情もあり、植民地民衆への残虐行為を裁こうとしなかった。

 戦犯の対象者としては中国におけるケースが半数以上を占める。1945年12月、戦犯処理委員会が設置され捜査と戦犯の処理が進む中、1946年10月までに17万件あまりの日本の戦争犯罪の事件が受理された。各国から提出された名簿を基に日本人戦犯リストを作成、計3147人を戦犯として指名したが、そのうち中国が提出したものは2523人にのぼる。中国の場合、満州事変が開始された1931年9月18日からの犯罪が対象となっている。日本軍による虐殺や家屋破壊、財産破壊など民衆からの告発は厖大な数にのぼるが、犯人を特定し逮捕することは極めて困難であった。長年の日本による侵略と占領によって、戦犯捜査や裁判を行うための人員、機構、予算、能力が不足しており、そのため容疑者の逃亡を許すと同時に誤認逮捕などの問題もあった。特に日本軍の侵攻作戦中の残虐行為は犯人の氏名がわからないことが少なくなく、被害の告発をうけても容疑者を特定できないことが多かった。また国民政府内部の腐敗により、容疑者が賄賂で戦犯追及を逃れたケースもあった。中国の裁判で裁かれたケースは基本的にすべて中国人に対する犯罪であり、殆どは民間人への犯罪である。起訴対象となった犯罪行為は、殺人、虐待など人に対する行為が圧倒的多数であるが、他国と違うのは、財物の略取や破壊・焼却・強制徴発、労務強制、民衆追放、思想麻痺、奴隷化、アヘン販売などが扱われていることである。

 1946年の中国外交部による調査では、上海方面で家屋破壊13万400件、財産破壊2万7054件の告発があった。衡陽方面では家屋破壊約4万5000件、人的被害は14万人余、農耕牛被害は6万頭という。中国裁判の特徴は無罪の多さで、無罪判決は40%を占めている。背景には、国共内戦で国民政府が旧日本軍を利用したこと、また国民政府の内戦での敗北が続き、裁判を中途半端に打ち切ったことがある。日本軍による燼滅作戦、いわゆる三光作戦とも呼ばれる村落の破壊、殺戮、略奪作戦が展開されたのは華北の共産党地区であり、そこでの被害は甚大だったが、この地区の残虐行為は国民政府による戦犯裁判では裁かれなかった。また中国人の強制労働についても扱われなかった。その一因として中国側が、連行された者たちは八路軍関係者であると見ていた可能性がある。また毒ガス戦もほとんど裁かれなかった。国民政府の裁判では台湾人も戦犯として裁かれた。合計58人が有罪となりうち5人が死刑となった。かれらは憲兵隊通訳や警察官、俘虜収容所監視員などであった。一方で台湾人に対して行われた残虐行為については、台湾人は当時日本国民であったので扱わないと連合国戦争犯罪委員会で確認されている。

 まず国民政府は南京軍事法廷により裁判を行なったが、その主な死刑の対象は、捕虜を含めて住民30万人を殺戮したとされる南京事件に関わるものであった。ただその南京事件の中で虐殺に大きく関わった一人の師団長は戦争終結前にすでに病死していた。その後国民政府は共産党軍との内戦で敗北していくなか、1949年1月、すべての戦犯裁判を終了し、翌月には刑に服していた戦犯全員を日本に送還、国民政府軍は台湾に逃れた。同年10月に中華人民共和国が成立した時には、日本人戦犯は一部を除きほとんどいなかったが、ソ連が満州に侵攻した際に捕えられたシベリア地区への抑留者のなかで、中国での戦争犯罪の疑いのあるもの969人が中国共産党の新政権に引き渡された。それ以外に山西省などに残留して閻錫山軍として共産軍と戦い逮捕、抑留されたものが140人いた。かれらはそれぞれ撫順と太原の戦犯管理所に収容された。そこでは戦犯として虐待されるどころか、かえって人道的な扱いをうけた。その上で自己の行為を徹底的に告白し反省し罪を認めるように「認罪学習」がおこなわれた。その間、中国側も事実を調査して被害者や関係者の証拠を収集し、戦犯に事実を認めさせる努力をおこなった。当初は事実を認めると命がないと考えて嘘をついたり、命令だから仕方がなかったなどと自己弁護に終始していた戦犯たちも、その人道的な扱いに驚き、また被害者の痛みを感じる人間性を取り戻していった。

 こうした経緯をへて1956年4月、全国人民代表大会常務委員会は、多数が「改悛の情」を示していることを考慮して「寛大政策に基づいて処理する」ことを決定、起訴された45人と途中で死亡したものを除く1017人は起訴免除となって6月−9月にかけて帰国した。起訴された45人は、満洲国関係者28人、閻錫山軍ら国民党協力者9人その他軍8人であるが、概して将官や佐官クラスが多く下士官や兵はいない。上級将校あるいは幹部に限定して起訴している。裁かれた犯罪は、軍人では捕虜や住民の虐殺、毒ガス使用、人体実験、住民の放遂、公共物の破壊、財物の略奪など、細菌戦準備活動で731部隊の少佐が責任を問われたケースもある。満洲国関係者では殺害、拷問などの具体的残虐行為とともに、治安・経済・侵略・労務・文化侵略・アヘン製造販売など各政策が訴追内容に含まれており、日本の侵略によって作られた満洲国そのものが裁かれたといってよい内容になっている。閻錫山軍関係は日本軍国主義を復活させる目的で残留し、解放戦争に敵対したことが裁かれている。1956年6月、7月に開廷した最高人民法院特別軍事法廷において45人全員、有罪判決を受けたが、刑は禁固20年から11年の範囲内で死刑はなかった。しかも拘留日数が刑期に算入され、また殆どが減刑され1964年4月までの全員帰国した。しかし釈放されて帰国した日本で彼らを待っていたのは、中国共産党の思想に染まったアカとしての偏見と差別であった。それでも彼らは中国帰還者連絡会を結成し、自らの加害体験を証言し日中の和解に努力し続けてきた。

 付記:こうした処置は「撫順の奇蹟」と称ばれたが、共産主義による理想の国家を作るという、初期の中国共産党政府の目論見もあったであろう。実際にこれは撫順戦犯管理所の所長してあった周恩来の徹底した方針で、管理所では食事の面でも戦犯を厚遇する中、日本軍から肉親を殺されたりして大きな被害を受けた所員も多く、所員の中にはその厚遇に対して大きな不満を持ち、辞めていったものもいる。しかし周恩来の考え方は、悪いのは日本の軍国主義であって、日本人ではないというものであり、実はその精神は今でも中国人の心の中に残っている。

 ソ連は連合国戦争犯罪委員会に参加しなかったので、連合国相互の情報交換にも加わらず、ソ連裁判の実態はわからない。ソ連は旧満州などで抑留した日本軍将兵のなかから戦犯を摘発し裁いた。戦犯受刑者として釈放され日本に帰還した者は2689名とされている。1947年から50年にかけて国内で死刑を廃止していたので、その間は死刑判決はなかったようである。そのため重労働の判決が多かったが、シベリアの厳寒の中の重労働で死亡者も少なくなかった。日本で内容がわかっている戦犯裁判はハバロフスク裁判で731部隊関係者を裁いている。細菌兵器の準備、遂行、謀略、非人道的実験などで12名が起訴され、判決は25年から2年の強制労働であった。この裁判にあたってソ連は、731部隊長であった石井四郎中将らの尋問をアメリカに要求したが、アメリカは拒否し、731部隊の機密情報を独占した。ちなみに石井はアメリカとの情報交換で罪を赦免されている。

 BC級戦犯裁判のなかで最も多く裁かれたケースが、アジア太平洋地域の民衆に対する残虐行為であった。そうしたケースは大きく二つのタイプに分けられる。一つは歩兵部隊などによる組織的集団的な住民虐殺である。こうした場合は、その命令を下した指揮官やその下で兵を指揮した下士官などが起訴された。もう一つは、抗日などの容疑で逮捕したものに拷問を加えたケースで、虐待あるいは虐待致死、時には殺人として起訴された。こちらは憲兵や下士官クラスが起訴されることが多かった。組織的住民虐殺は中国や東南アジア各地でおこなわれたが、代表的なものが中国では南京事件、またシンガポールにおける華僑粛清事件である。南京事件(犠牲者約30万人)は比較的知られているが、華僑粛清事件は、シンガポールの華僑を反日とみなした日本軍による虐殺で、虐殺された人の数は日本軍が認めただけでも5千人、地元では4万−5万人といわれている。シンガポールに住む8割は華僑であり、彼等は日本の中国侵略に対して祖国支援運動を行っていた。1942年2月、第25軍(山下奉文中将)はシンガポールを占領後、抗日分子を一掃すべく華僑の「掃蕩作戦命令」を下し、華僑男子を処刑した。命令を企画立案したのは第25軍参謀、辻政信中佐。これとは別に1942年2月末、近衛師団(師団長、西村琢磨中将)が同じく粛清目的でシンガポール市街の多くの住民を虐殺した。

 これに引き続いてマレー半島各地でも大量の華僑虐殺が行われた。イロンイロン村では一千人近くの村民が殺され、村は焼かれた。この虐殺の指揮にあたった2名はすでに戦死していたため、住民監視にあたった別中隊の中尉だけが起訴された。判決は12年の禁固刑であった。大虐殺にしては軽い刑であった理由として、被告の中隊が補助的な任務についていて殺害そのものにはかかわっていなかったこと、さらに戦犯裁判ではめずらしいことであるが、地元の中国系女性と警察官が証言に立って被告を弁護したことがある。被告がその担当地域において憲兵隊から人々を守ったことが証言された。法廷において被告は、自分の妹と同じくらいの少女が殺されるために連れ出されるのを見て、かわいそうだったという思いを告白しており、そうした被告の人柄が、地元の人々に確実に伝わっていたのであろう。

 集団虐殺のケースでは、現場の下級将校が起訴されることが多く、起訴されるのはせいぜい下士官までで、兵長以下の兵が起訴されることは殆どなかった。命令に基づいて部隊として行動しているときの兵については裁かれることはほとんどなく、一方で、兵個人の責任が問題となる暴行や強姦などについてが裁かれた。

 日本軍によるこうした住民への大量虐殺事件は、中国やフィリピンでも数限りなく起こり、多くの民衆が犠牲になった。殺された以外にも多くが傷つき、家を失った。しかし責任者が特定・逮捕され裁かれたケースはそのなかの一握りにすぎない。

 戦犯裁判では多くの憲兵が裁かれた。戦時下、日本国内でも特高警察は、軍部や政府を批判したり戦争を批判する人々を捕らえて徹底的に拷問を加え、たくさんの人々を殺した。そうした体質が一層極端化したのが憲兵の拷問だった。多くの場合、拷問を実行するのは下士官や兵のクラスの憲兵である。また憲兵は一定期間駐留し、かつ多くのものを逮捕、拷問するので顔や名前を覚えられやすい。当然、戦犯になる確率も高くなる。個々の拷問は将校たちの黙認の下におこなわれていたが、明確な命令があるわけでなく、結果として拷問を行った憲兵個人の責任とみなされた。憲兵の場合、将校の数がそもそもすくないということはあるが、部隊による集団虐殺以上に下士官クラスが裁かれるケースが多かった。

 捕虜虐待の情報は、戦争中から連合国にさまざまなルートで伝えられ、連合国はくりかえし日本に抗議をおこなっていた。ポツダム宣言において「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加へらるべし」と捕虜虐待を明示してその責任者の処罰を宣言している。捕虜を移動させる際に1万数千人が死亡したフィリピンの「バターン死の行進」は、計7万6千人に100キロ以上を炎天下、徒歩で行進させ、数カ月に及ぶ戦闘での疲弊に加え、飢餓や病気、日本兵による暴行によって多数の犠牲をだした。

 捕虜に対する虐待は収容所内のみならず、強制労働に伴うものが多数裁かれた。よく知られたものとして泰緬鉄道に関連した強制労働がある。泰緬鉄道とは、タイとビルマを結ぶ415キロの鉄道で大本営の命令により1年足らずの突貫工事で完成した。熱帯の山岳地帯ジャングルでの作業は困難を極めたが、加えて劣悪な宿舎や貧困な食糧・医薬品などの状況下での過酷な強制労働、日本兵による度重なる暴行により多くの犠牲をだした。連合軍捕虜約6万1800人のうち約1万2300人、アジア人労働者約20万人中4万2000人(日本側推定)、あるいは7万4000人(イギリス側推定)が死亡した。各国の資料によると、イギリス裁判で24件67人、オーストラリア裁判で26件62人が起訴された(両者の数字は一部重複していると思われる)日本側資料では120人が起訴され、111人が有罪判決、32人が死刑になっている。このなかには朝鮮人軍属の有罪33人、死刑9人が含まれる。当然のことながら、捕虜たちの恨みは直接の暴行者に向けられ収容所長や分所長以下のスタッフが起訴されたが、泰緬鉄道建設を決め、そこに捕虜を投入すること命令、さらに完成を急がせたのは大本営や南方総軍司令部である。しかし、彼ら責任のある上級者たちはほとんど裁かれずに終った。

 捕虜虐待は、捕虜を労働力として利用していた企業(鉱山、軍需工場、運輸関係)の関係者も裁かれた。しかし、ここでも起訴されたのは末端管理職と現場職員ばかりであり、軍と結びつき、捕虜を受け入れ、強制労働させることを決定した企業経営陣の責任は問われなかった。さらに朝鮮人に対する強制労働についてはまったく裁かれなかった。なお、企業責任が本格的に追究されるようになるのは1990年代になってからであり、2000年11月にようやく花岡事件(中国から秋田県花岡町(現・大館市)へ強制連行され労働者に関する事件)において被害者と鹿島建設との間で和解が成立し、その後中国人強制労働については企業の責任を認める判決が続いて出されている。しかし、それ以外の(朝鮮や満州における)強制労働についてはいまだに企業の責任が問われないままになっている。

 1942年4月に東京が米軍機による空襲を受けたのをきっかけに、日本軍は無差別爆撃をおこなった者を処罰するための空襲軍律モデル案を作成、各作戦軍に制定を指示した。また戦時国際法に違反した空襲をおこなった搭乗員を裁くよう通達した。これを受けて支那派遣軍や本土の防衛司令部などが空襲軍律を制定していった。軍律会議(軍律法廷)とは、軍が軍律という法律を制定して敵国民や占領地住民の「戦時重罪」を裁くための軍事裁判で、占領地住民の敵対行為や、敵国による戦争犯罪を軍律会議で裁くことができた。すなわち日本軍の軍人、軍属を裁く軍法会議とは別物である。戦犯裁判では、軍律会議にかけて爆撃機搭乗員を処刑したケースと、軍律会議にかけることなく処刑したケースが扱われた。いずれにおいても、命令により処刑を実行した者たちは不起訴あるいは無罪となっている。但し殺害方法が残忍(斬首するなど)であったり、証拠隠滅のために処刑したケースでは、命令に従ったものにも厳しい判決がくだされた。

 米軍による日本の都市への無差別爆撃は戦争犯罪である。したがって、日本軍が軍律会議で裁いたこと自体をアメリカが戦犯裁判で裁くことは不当と言わなければならない。米軍もそれをわかっていたのか、軍律会議そのものを問題にするよりは、証拠の捏造や不正な手続きを問題にし、さらに日本軍の軍律会議は、弁護人がつかないなど国際法に照らして妥当性が問われた。いずれにしろ終戦後、米軍は日本各地を空爆した爆撃機が撃墜されたり不時着して搭乗員が行方不明となった場所を徹底的に調べ上げ、その生死を確認し、殺されていれば日本側の実行者を摘発し、逐一BC級戦犯として捕えていった。

 例えばその中で、1945年5月半ばの名古屋への大空襲でB29が一機、対空砲火で撃墜され搭乗員11人が脱出し日本軍に捕えられた。1ヶ月半後、11人は捕虜として処遇されず、略式手続きにより処刑された。さらにその後の爆撃において搭乗員16人が捕えられ、同様に日本軍に処刑された。その時に処刑に関わった将兵20人と、最高責任者として東海軍管区司令官岡田資もBC級戦犯として合わせて起訴された。その裁判で岡田は責任はあくまで司令官としての自分にあり、部下たちは赦免するようにと訴え、結果自分一人が死刑となるという映画にもなる美談を残した。また岡田は、米軍の無差別爆撃を国際法違反として法廷で批判することも忘れなかった。ただし彼は1938年、歩兵旅団長時代に中国で毒ガス戦を実行し、その効果を評価する報告をしている事実があったが、それが指摘されることはない。

 なお中国は、1937年から38年にかけて国際連盟において、日本軍による南京への無差別爆撃に対する非難を続けていた。その後も日本軍は比較的知られる重慶などへの爆撃を重ね、さらに中国各地において毒ガス弾や細菌弾も多用するが、連合軍を問わず、そうした無差別爆撃に関しては裁かれずに終わってしまった。(注:実は日本軍の主に8年間にわたる中国への爆撃の量は凄まじく、南京や重慶爆撃どころではない。そのことは今でもあまり取り上げられないが、このサイトの中の「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」を参照。)

 戦犯裁判で裁かれた朝鮮人は148人(死刑23人)、台湾人は173人(同21人)で、これは全戦犯の5.6パーセント、有罪判決を受けた戦犯のなかでは7.2パーセントにあたる。彼らのうち軍人(3人)、通訳(16人)以外はすべて俘虜収容所の監視員として収容所に配属された軍属である。日本植民地下にあった朝鮮人、台湾人は軍人精神を叩き込まれ、日本軍のなかで常態化していた暴力を受けながら、収容所では捕虜に対して暴力性を発揮した。そうした朝鮮人と台湾人が多数裁かれたことは、日本の戦争責任を肩代わりさせられたとも言える。問題は、1952年に日本が独立を回復した時、日本政府は朝鮮人らから一方的に日本国籍を剥奪したが、朝鮮人ら戦犯は刑が課せられた時には日本人であったということで、刑の執行はそのまま継続された。他方、もはや日本人ではないとして軍人恩給などの援護の対象から外された。(戦犯でなくとも朝鮮人や台湾人の軍人軍属は自国内で日本軍の協力者として差別された)

 アメリカ海軍によるグアム裁判ではサイパン人12人、ロタ人2人が裁かれた。彼らは日本軍がグアムを占領した際に、同じ先住民族として言葉も通じるので警察官や通訳などとしてグアムにきて軍政をになった。容疑は、殺人や暴行、殴打などである。14人全員が起訴され、有罪判決(うち4人は死刑判決)が下されたが、後に減刑となり死刑執行はなかった。日本は、サイパンやロタでも皇民化教育を推し進め、日本国籍はなかったにもかかわらず「日本人」として戦争に動員した。しかしこの戦犯裁判について、日本側の記録から一切が抹殺されている。

 1952年4月28日 サンフランシスコ平和条約発効(調印は1951年9月)とともにスガモプリズンは日本に移管され、巣鴨刑務所となる。

 平和条約第11条により、日本政府はすべての戦犯裁判の判決を承認し、刑の執行の義務を負うことになった。ただ赦免、減刑、仮出所について、裁判当該国に対して「勧告」をおこなえることになった。なお、朝鮮人と台湾人は日本国民ではなくなったとして援護の対象から外しながら、刑の執行だけはおこなうという差別扱いをした。

 1952年8月、中央更生保護審査会が当該国政府に個々の戦犯の赦免、減刑、仮出所を勧告、BC級戦犯の全面赦免を求めた。6月には衆参両院が戦犯釈放を求める決議をおこなう(共産党だけは、”アジア諸国人民に対して犯した重大なる犯罪に対する真剣な反省心を鈍らせ、復活しつつある軍国主義的支配者への憎悪信を麻痺させる”として釈放決議に反対した)戦犯釈放運動も広く展開され、1952年5月には戦争中の政財界や軍の指導者たちを幹部とする戦争受刑者世話人会が設立され、戦犯は「等しく国家の為め戦争に従事し、戦敗という現実によって生じた一種の犠牲者」であるとして、戦犯釈放やその家族支援を目的として活動を開始した。巣鴨法務委員会が編纂した『戦犯裁判の実相』という謄写版の大著が1952年3月に刊行され、この中でBC級戦犯裁判が不公平でひどい裁判であったことが受刑者たちによって強調された。

 戦犯を戦争犠牲者とする見方は国民のなかにも広がり、さまざまな宗教団体や赤十字社、日本弁護士連合会、青年団体などによって戦犯釈放運動がおこなわれた。1953年11月には巣鴨遺書編纂会によって『世紀の遺書』(その抜粋文は別稿参照)がまとめられた。こうした戦犯釈放運動は、戦犯を戦争被害者と見ることによって、あたかも日本人全体(国家や軍の指導者も含めて)が戦争被害者であるかのように扱い、日本のおこなった戦争によって被害を受けたアジアの人々を視野の外に置くものであった。そこでは戦犯の釈放を通じて、一握りの戦犯に押し付けていた日本人全体の戦争責任、特に免罪された上級指導者の責任を問い直そうとする志向はきわめて弱かった。

 戦犯釈放運動の展開は、同時に朝鮮戦争への日本の加担や朝鮮特需による経済の再生、日米安保条約による米軍駐留の継続、警察予備隊から保安隊、自衛隊へという再軍備の進展と平行していた。冷戦の下での日本の役割りと戦犯釈放を結びつける議論は、再軍備と引き替えに戦犯を釈放しようとするものであるという危惧を生み出した。そうした中で戦争責任に正面から向きあった反省的営みが巣鴨刑務所の中でおこなわれたのだった。

 日本がGHQの占領から解かれ、独立を回復してまもなく、雑誌『世界』1952年10月号に掲載された「私達は再軍備の引換え切符では無い——戦犯釈放運動の意味について」は大きな反響を巻き起こした。これは巣鴨刑務所のなかのある戦犯が投稿したものだった(のちにこの筆者は、死刑判決をうけながらも裁判がやり直しになり30年の刑になった加藤哲太郎とわかった)。釈放運動について「一部の人々」が戦犯を「利用」していると批判し、再軍備や憲法「改正」のために「死の商人達のおかげて釈放されること」は望まないと主張した。

 戦犯たちによる手記が次々に刊行されていくが、そのなかでも『壁あつき部屋ー巣鴨BC級戦犯の人生記』(1953年)は、日本がおこなった戦争犯罪をきちんと見据えた手記集だった。処刑命令を出したことを否定して部下に責任を押し付けた大隊長や、占領地で略奪を行った者で連合軍将校に取り入って不起訴になった上級将校のこと、敗戦後、住民から日本兵が罵倒された経験を通じて聖戦の名の下に侵略と略奪をおこなったことを反省するようになったことなどが語られている。命令により搭乗員を処刑したある戦犯は「なぜあの時、その命令に従順でありすぎたのかという反省にせめられるのです。そしてこの独房では「命令されたからだ」といういいわけが、かりそめのなぐさめごとであり、苦しみの逃避にしか役立たないことも知るのです」と記している。命令だったから仕方がなかったのだとそこで思考停止するのではなく、深く自省し、そのうえで彼はさらに下級の者を裁いて終わりにしてしまう戦犯裁判が「戦争そのものの残虐さをくらまし、本当の戦争犯罪人の所在をくらますためだった」と記している。BC級戦犯裁判が「ほんとうの戦争犯罪人」を隠してしまったという論理である。

 この本以外にも『われ死ぬべしや』『あれから七年』(以上は獄中三部作)『私は貝になりたい』(加藤哲太郎)など、戦犯裁判の問題点を批判しながらも、日本軍による加害の事実を見つめ、同時に再軍備に反対する思想的傾向も生まれた。戦犯裁判を批判しながらも、侵略戦争が残虐行為と戦犯を生じさせるのであって、その責任を追及し、二度とあのような戦争を繰り返さないという方向に発展させようとする努力が、スガモプリズンのなかでおこなわれていた。そのうえで今後、「戦争だから、戦争の要求にしたがって行動したという自己弁護はなりたたない。その戦争に参加し協力したという根本的な事由によって、道徳的責任そのものが追及されるかもしれない」(加藤)との言及もなされた。(内海愛子『スガモプリズン』)

 日本政府は冷戦状況を利用して赦免・釈放を求めた。たとえば1953年10月に当時の吉田内閣の与党自由党の政務調査会長池田勇人が、首相の特使としてロバートソン米国務次官補と会談した。そこでアメリカ政府が30数万人の軍隊を求めたのに対し、結局18万人の陸軍創設で合意するなど、この会議は日本の最軍備にとって重要なものとなった。この協議のなかで池田は、「防衛問題の解決もこの問題の解決がないとむつかしい」と述べて、再軍備のためには戦犯釈放が必要であることを示唆した。また外務省もアメリカへの働きかけのなかで、「ソ連が平和攻勢の一環として日本人戦犯を帰国」させると「日本人の一部がこれに眩惑」され、「米国が不利な立場に立たされることを憂慮」すると半ば脅すようなことを述べて釈放を促した(外務省文書)。

 吉田首相自身もアメリカ政府に対して「戦犯の拘禁を継続することは社会的政治的であるとともに日本の公衆にとって高度に感情的な問題である」として早期釈放を訴えたが、それに対してアメリカ政府内でも「日本人戦犯の拘禁を続けることは日米間の政治的心理的摩擦の重要な源泉になっており、日本と政治上軍事上で緊密な同盟を発展させるアメリカの政策と合致しない」という意見も出された(1954年11月−12月、米外交文書)。

 アメリカは日本が中立主義に傾くことを恐れており、日本を西側陣営に引き付けておくために戦犯問題での譲歩を迫られた。英米など連合国は、戦犯裁判そのものを否認しかねない日本政府や国民の動向に苛立ちを示しながら、また戦犯釈放への国内の反発を考慮しながらも譲歩を重ね、順次、戦犯の赦免、釈放をおこなっていった。戦犯釈放は再軍備の引換え切符であるという批判はまさにその通りであったが、戦犯釈放にあたってあらためて日本の戦争責任を自省しようとするような姿勢は日本側では見られなかった。巣鴨その他の地で捕えられ、この戦争を自省しようとした戦犯たちは、侵略戦争に駆り出されて戦争責任を押し付けられ、さらには再軍備の取引材料にされ、二度にわたって日本の支配者に利用され裏切られたのである。

 こうして巣鴨刑務所の服役者は1956年に入ると急激に減り、58年5月には全員が仮出所して巣鴨刑務所には戦犯がいなくなり、同年12月29日、アメリカが仮出所中の者を完全釈放、ここにすべての戦犯者がいなくなった。それを待っていたかのように、59年4月、刑死者346人の靖国神社への合祀がおこなわれ、その後、同年10月と66年10月にBC級戦犯の刑死者全員が合祀されることになった。さらにA級戦犯の合祀は78年に秘密裏に行われたが、そのことにより昭和天皇は靖国神社への参拝を取りやめた。

(この項のまとめは高橋淑子による)

 参考文献:林博史『BC級戦犯裁判』2005年6月、岩波新書/井上ひさし、林博史、内海愛子、大沼保昭「連続討論 第2回 BC級戦犯裁判」『世界』2003年2月/一戦犯者「私達は再軍備の引換え切符ではない」『世界』1952年10月/吉見義明『毒ガスと日本軍』2004年、岩波書店/大岡昇平『ながい旅』1982年、新潮社