中国における刑死者
—— 漢口における米軍捕虜虐殺事件 ——
まず昭和19年11月25日ごろ、日本軍占領下の漢口(武漢)に対する米軍による爆撃時、日本軍に撃墜された米軍飛行士3名が戦闘機から脱出し、日本軍に捕えられた。12月16日、漢口の日本の第34軍司令部参謀部の命令で、憲兵隊は捕虜となっていた3名を街中に連れ出し、江戸時代のいわゆる「市中引き回し」を行った。途中、激昂した漢口市民らによっても飛行士は暴行を受け、夜になって郊外の火葬場近くに到着、命令により憲兵隊は捕虜3名を絞殺後、遺体を火葬場で焼いた。これを「漢口米軍飛行士虐殺事件」という。戦後になって米軍は実行した憲兵たちを戦犯として捕らえ、1946年4月、上海における裁判で5人が死刑に処された。ただし命令した上官のうち一名はうまく言い逃れて軽い罪で済み、そのほかはシベリア抑留中で逮捕できなかった等であったが、処刑された者のうち以下は藤井、鏑木、増井の3名の遺書である。
なお、筆者が「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」で調べ、記述した範囲では、日本機が撃墜されて飛行士が脱出し、中国側に捕らえられた場合、このような日本兵に対する虐殺事件はほぼ見当たらない。ただし中国では戦犯裁判で死刑になった者に対し、市中引き回しを行なった例はあるようである。また米軍による爆撃を受けた日本の各地でも脱出した飛行士が捕らえられた中で、処刑・虐殺され例は少なくはないが、「市中引き回し」のような例は見当たらない。いずれにしろ米軍は日本占領後、日本で不明となった飛行士の行方を徹底的に調べ、それに関わった日本軍関係者はBC級戦犯としてGHQ占領軍による裁判を受け、その多くが処刑されている。
藤井 力
徳島県出身。元農業、元憲兵准尉。昭和21年4月22日、上海に於て刑死。41歳。
<訣別の辞>(祖国よ栄あれ)
皇国に生を享け縁ありて主従となり、同僚となりて相識りたる上官及諸賢各位に対し目前に死を控えたる我が心境を述べ、又祖国前途多難なる秋、諸賢に寄する我が願望を書き遺し以て訣別の辞となさん。
漢口事件の内容概要及び当時の状態は諸賢已に承知のことならんを以て詳述を要せざるべし。然れども我等個人の意志を以て事を処したるに非らず。各々其の職掌に従い、命を畏み平常の如く任務を相果したるものにして唯々奉公の一念より他なし。「勝たば官軍敗れば賊」とは軍門の慣い、其の真相知る人ぞ知る。況や神明の照覧し給うあり。我今死に臨みて更に何をか云わんや。之天命の命のしからしむる所なり。然れども本事件の聖戦の真姿に印したる汚点を如何にせん。誰か之を償い清めざるベからざるなり。畏れ多くも聖慮を悩ましたる罪万死を以て謝せんのみ。我命を捧げ罪を謝し我赤血を以て汚点を雪ぐ、光栄武人の誉之に過ぎたるものなし。我賤しきを以て股肱となり、奉公十有三年戦場に相果つべかりしを武運拙きと云わんか、今日斯る最後を以て了らんとす。感懐なき能わずと臨も安んぜよ。今心己に澄みて鏡の如く生に対する執着なく現在の悲運を託し妄念更になし。
……
惟うに祖国の前途幾多の苦難去来すべしと雖も、此の異変は神が祖国に対し反省せしめ民族及び世界の状態を熟慮再考せしめ、真に理想の世界の実現に新発足せしめんとする神機を与へ給いしにやあらん。復員し或は復員を前にする諸賢の任務や実に重且つ大なり。宜しく諸賢は眼前の小事悲境に意気消沈すること勿れ。或は茫然自失、心気転倒して節を失うこと勿れ。飽くまでも皇国民たるの自覚を根基とし深く世界の推移を達観し、修養以て自己完成に精進し、万民協力心魂を上に帰し奉り祖国の再挙に奮起せよ。
然らば祖神の加護もあらむ。禍を転じて福となる可し。我等不幸にして罪を受け汚名に死せんも祖国を愛し、民族の幸福を願望する誠、信念に変りなし。身亡びて何をかなすべき。されば祖国の再興は諸賢に嘆願委嘱せんことあるのみ。夫れ国家の興隆は惟うに国民の心構えに存す。皇国民の踏む可き道は三千年来炳として明かなり。重ねて絶叫す。諸賢此の道を誤らず、一切を上に帰一し奉り臣道の大本を忘れず勇奮せられんことを。
拙き筆紙我が心を現し得ざるを遺憾とするも、敢えて我が心境及び祖国再建に対する願を述べ諸賢の否同胞総ての健闘を祈り訣別の辞となす。
昭和二十一年四月二十日 於上海 藤井 力
鏑木正隆
広島市出身。陸軍大学校卒業、元陸軍少将。昭和21年4月22日、上海に於て刑死。49歳。
<手紙>
2月28日、上海米軍公判に於て死刑の宣告を受く。意件は予が呂武集団参謀長として漢口在任中に起りし米軍俘虜に対する惨虐行為に関し責任を問われたものにして、事件の真相は茲に詳記せざるも、予個人としては俯仰天地に恥づる点なきを以って安心せられよ。本事件により聖戦の其意義に汚点を印し又多数将兵が重き処刑を受くるに至りしは断腸の至りにして、当時軍参謀長たりし予としては此の惨虐行為を未然に予防し得ざりし不明に対し責任の重大なるを痛感しあり。軍人生活二十数年戦場にて散るべかりし身を比の如き最後に終らんとは残念至極たり。然し総べて運命と諦めあり。
みつ子には長い年月苦労のみさせ最後に比の憂き目を見せし事、真に申訳なし。特に多く子供を抱え、今後の苦労一入ならんと思えば感慨無量なり。然し其許にも覚悟はかねて出来て居るはず。比の期に及んで新たに申し残すことなし。健康に注意し悲境に屈せず、子供の養育に家運の隆興に健闘せよ。(以下は子供たちに残す言葉で略)
昭和21年2月28日認 於上海監獄
<友宛て>
冠省 昨年12月23日夕刻、突然巣鴨刑務所より上海監獄に護送せられ、君に通信することも出来ず今日に至る。本年2月11日より公判を上海監獄内にて開かれ2月28日死刑の宣告を受く。
被告十八名中死刑は小生を合し五名、無期一名、二十年一名十五年と十二年各三名、他四名、無罪一名の極めて峻烈なるものなり。特に上官の命令により行動せし下士官兵多数重き処刑を受くるに至りしは気の毒至極にて断腸の思いあり。
当時事件の中心人物たる泉中尉は満州にありて不参、憲兵分隊長服部中佐は自殺しあり、其他下士官中当時の状況を最もよく承知しある者一名は既に死亡しあり、一名は所在不明にて不参の状況下に公判は行わる。
泉中尉不参の為小生の立場を立証し呉れる者なく為に検事は小生が本事件を計画し泉中尉に指示せるが如く誤断想像し求刑せらるる結果となれり。泉中尉の不参は残念至極なるも致し方なし。之も運命と諦めあり。特に多数の下士官兵が重き処刑受けたる事を思えば自分の罪など軽かれとも思われず、寧ろ当時の参謀長としての重責を痛感致し此の事件の惨虐性を未然に防ぎ得ざりし不明を歎するの外なし。
本公判により敗戦の苦味を満喫せり。今は心静かに刑の執行の日を待ちつつあり。小生個人としての気分は極めて平静なり。御安心を乞う。
茲に旧来の友情を衷心より深謝し君の御健昌を祈る。
<絶筆>
愈々近く現世に別れを告げむとするに方り、皆様に対し本事件に就て御迷惑をお掛けせし事をお詫びし又従来の御懇情を衷心より御礼申上候。
皆様の前途には幾多の苦難が横はる事と存じ忍苦御敢闘の程祈り上げ候、小生は贖罪自決の心算りにて最後の場に臨むべく、見苦しからぬ最後を遂げたく念願致居候、他の四名何れも立派な覚悟の様お見受け小生感激致居候。
四月十九日 記鏑木正隆
福本大佐殴/外御一同様
<遺詠>公判に臨むにあたり心境を述ぷ(一部)
み戦の真(まこと)の姿汚したるしみ清めなん我が血潮もて
我が責めは血もて償い今日よりはあまかけりづつ御国護らむ
増井昌三
静岡県出身。静岡工業学校卒業。元憲兵曹長。昭和21年4月22日、上海に於て刑死.。29歳。
<遺書>
御高恩を謝す御両親様江
御両親様には老いたる身を以て異郷の地に在りし為、終戦後引揚其の他の苦労で相当御心配なされました事と案じます。昨今では内地に落着き、苦労の中にも壮健にて一日を楽しくお暮しの御事と存じます、と共にお悦び申上げます。さて就きましては昌三の身の上で御座いますが実に終戦に基く悲哀な運命が宿り驚くべき悲報を最横一筆として申上げます。
……
私は飽くまで良心の牢獄と良心の罪は絶対負いません。昌三の行為は総て上司の命令に因る実行行為であります。軍隊統帥権に基く命令行為は事の良否を私達下級者が問う処ででなく、又否認する事も出来ず只服従以て絶対とするものでありますが、比の点国が異なる為了解出来ないのが何と申しても残念です。早や審判に因り事滋に至っては如何ともしがたく悔ゆる事はありませんが、家系の名が惜まれてなりません。最後にどうか昌三の死刑の罪状は自己白欲に困る犯罪とは全く違い総て軍隊に於ける命令行為なれば決して御両親様は世間に肩身を狭くする事はありません。国と国との事の端片が皮肉にも比の身にかったのであります。
……
最後に昌三は正義に華々しく清く散り国の為、米軍飛行士三名の英霊に冥福を捧げると共に米軍当局に対し清く謝罪致します。尚申上げます。本事件に関係せる者の内、今華と散りゆく国家の犠牲者は鏑木少将閣下外四名のつわものです。一人逝く旅路でなく非常に賑やかな境遇です。私達は閣下を親として揃い勇んで居ります。あっぱれ武士道の錦を飾りますよ。(後略)
(筆者注:ここには珍しく「謝罪」という言葉が使われている)
—— 南京において ——
戦後、中国では二段階に分かれて戦犯に対する裁判が行われている。最初は蒋介石が率いる国民党政府による裁判で、南京、北京、上海、広州などにおいて行われた。しかしこの裁判の途中から国民党政府は中国共産党と内戦状態に入り、時間的余裕を持たず、昭和23年(1948)までで一通り終えているが、以下の遺書はそこまでである。しかしこの時点ではソ連が日本軍の多くをシベリアに抑留していて、捕えるべき日本軍将兵をそこから引き出すことができなかった。1949年、内戦で共産党が勝利し、1950年から共産党政府による裁判が始まり、その際、シベリアの抑留者から日本軍将兵の引き渡しを受け、その多くを遼寧省の撫順戦犯管理所に収容した。この中には戦後も中国に残り、国民政府軍に加担して共産党軍と戦った将兵もいたし、技術を請われて残った医者や民間人もいた。いずれにしてもこの撫順における裁判(調査)は数年以上かけて入念に行われ、事実上戦犯としての罪を問われても、それを率直に認め謝罪するという行いによって、ほぼすべての日本軍将兵が釈放され、帰国することができた。これは当時その所長であった周恩来の「悪いのは日本の軍国主義であって日本人ではない」という考え方に基づくもので、「撫順の奇蹟」と呼ばれた(筆者の「昭和12年:補遺」参照)。したがって『世紀の遺書』には撫順の戦犯裁判による死刑囚の遺書はない。
谷 寿夫
東京都。隊軍大学卒業、元陸軍中将。昭和22年4月26日、南京(雨花台)に於て銃殺到。65歳。
<遺言状>
今昭和二十二年四月二十六日死刑の執行を行われることと相成り茲に愈永遠の訣別と相成申侯。永年の間梅子は私に内助のカを尽し呉れ、誠に難有全幅の感謝を捧げ申上候。
中国側の誤まれる認定の下に只今死刑執行せらるるは誠に遺憾に有之、将来私の無実の罪に死することが必ず判明することと確信候。
然し私只一人のみが茲に訊問せられ遂に雨花台に刑死する最後の御奉公を完うせりと思われ、落胆せざる様祈り申侯。私のなき後はあなたは谷家一統の大黒柱となりて私の代りに長寿を完うせられんことを是れ祈り侯。何卒克己、廸孝の両君も梅子を助けられ度願上候。……
只今四月二十六日正午を以て永遠に御別れ致して行きます。何卒皆様の幸福を是れ析る。
今迄私が正義に立脚して最後迄私の身体を保持して皆様と再開を楽しみにしていたが遂に中国側の了解する所ならずして滋に倒ることは誠に不本意千万なれども只運命です。何卒皆様は私が立派に日本男子として御国の為に最後を遂げたことに満足して下さい。……
何事も運命です。六十六歳を最後として最後迄努めて誤まれる疑いを晴らさんことを之れ努力せしも遂に中国側に通ぜざるか残念此上なし。只一人最後の最後迄努力して来た甲斐もなく銃殺せらるること返す返すも残念に存侯。最愛の梅子よ、それでは永遠に左様なら!……
筆者注:谷寿夫は、筆者が南京事件関係の資料を渉猟し調べた中で知り得た事実において、冤罪と断定でき、上記で谷が訴えている通りである。日中戦争開戦から南京事件に至るまで、松井石根が上海派遣軍司令官から転じて中支那方面軍司令官として侵攻作戦を指揮し、戦後A級戦犯として巣鴨で死刑となった。谷はその中で第六師団長であったが、攻略戦では主に南京城外の南方から西方で戦闘を繰り広げ、南京占領には関わらず、間もなく蕪湖に転戦している。実際に南京事件に深く関わっていたのは第十六師団長の中島今朝吾であるが、彼は終戦から数ヶ月で国内で病死していて、そのほかに虐殺に関わった首謀者もシベリアに抑留されるなどしていて、共産党との内戦を始めていた蒋介石国民党としては、早く誰かを血祭りに上げて決着させる必要があって、日本にいた谷を召喚して南京で裁いたのである。ただし、その後の日本において、谷寿夫を冤罪だとする論説は見当たらないが、逆にこの谷の戦歴だけを分析して「事件はなかった」として『南京事件の真実』という本にしている御用学者がいるから厄介である。それらの経緯は、筆者の「昭和12年」の稿の中の「虐殺に関わっていなかった第六師団」を参照されたい。あえて言えば「南京事件」は南京だけでなく、日本が侵略した中国全土で、しかも8年という長期の戦争期間の中で行われていることで、今の日本のわれわれは(ごく一部の研究者を除いて)その実態をほぼ知らないと言ってよく、「南京事件」だけに捉われて、あったのなかったのと言っていると、その全体の実態を矮小化することにほかならないことは知っておくべきである。
田中軍吉
東京都。陸軍士官学校卒業。陸軍少佐(予備役として)終戦まで産業報国会青年部長。昭和23年1月28日、南京(雨花台)に於て刑死(銃殺刑)、42歳。
<遺書>
昭和二十二年十二月二十二日
田中輝昭殿
君が代は千代に八千代にさざれいしのいはをとなりて苔のむすまで
是れが我が熱祷にして同時に信仰且絶対の賛歌なり。我身を以て之を祈り、信じ、且歌えり。一世を通じ之を行ぜんが為に学び、鍛へ、研み、戦えり。斯くて生き斯くて死せんとす。而して君が代と共に永世に生き永遠に亡びざるものなり。
「さざれ石の巌となりて」
とは自然現象上無理なる願いなり。されどこれを祈り、これを不動の信仰とするところに民族の希求と日本の悲願を見る。苦の苦行の真因を探し書を閉じ、学を超え、知に依らず、赤裸無心天地に対し、直指悟入せよ。星は教へ、月は語り、花は笑い、烏は讃えるであろう。これは奇蹟実現の待望であり、希求であり、気附かずして身に附くる日木の絶対不動の信仰である。……
身の幸を思い、身の責めに慎め。我確信す。大君の「いはを」たりますを。
筆者注:この遺書の内容からはまるで想像がつかないが、田中軍吉の罪の内容は南京における「300人斬り」である。南京では300人も殺していないとして彼の冤罪を言う人もいるが、ただ田中は南京事件に関わったというより、筆者の調べでは上海から南京へ転戦する過程で、逐一捉えた捕虜を試し斬りして行き、南京では多少その数が増えて「悲願三百人斬り」を達成したということで、本人も認めている事実である。ちなみに捕虜を試し斬りにした例が多かったのは、この日中戦争の当初から、捕虜は進軍の邪魔だとして内々に「捕虜はせぬ方針」が取られていた。つまり処分する、殺せということである。その流れの中で田中の行為も黙認されたのであろう。また別に「百人斬り競争」をした隊長二人も田中と一緒に銃殺刑になっている。これらについては筆者の「昭和12年」の稿の中の「百人斬り競争」を参照。
酒井 隆
東京都。陸軍大学卒業、元陸軍中将。昭和21年9月13日、南京に於て銃殺刑、59歳。
(注:酒井は1934年=昭和9年から中国を転戦、1935年、支那駐屯軍参謀長、1937年、歩兵第23連隊長として南京攻略戦などに参加、1941年の太平洋戦争開戦時には香港攻略を指揮し英軍を降伏させた。南京軍事法廷で俘虜及び民間人の殺害・強姦の罪により死刑判決、南京雨花台で銃殺刑に処された)
<酒井菊枝殿>
五月三十一日朝
…… これによって中日がまことの道を歩くこととなり、日本を侵略と言われない道に出れば私の本願です。好ぎな中国で死んで私はよろこんで逝きます。…… 科学日本、復興日本の建設を祈ります。近隣と争わず人を傷めず温和に我も人も楽
しく生きる文化とそ日本の道であるべきです。……今は世界が皆苦んで困っており、日本だけが苦しいのではありません。……
精神的にも平静です。心臓も今は好調で弾雨のうちに死ななかったのが、これも致し方なし。軍人らしく誤解のうちに死にます。私はここの所長さん陳閣下も好きです。日本人がみんなこんな人だったら、こんな今までのような間違もなかったろうといつも思います。次の時代の人々、若い人々によって、ほんとに私の羨むような日本と中国との親善のできる日を祈っています。……
—— その他中国各地において ——
相川清七
青森県出身。青森県師範学校卒業、元海軍嘱託。昭和21年7月27日、広東(広州市)に於て病死、34歳。
<伝言>
これまで八年間、国の為に一生けんめい尽して来たのに敗戦のためにこんな目に遇い、死んで行くのは遺憾だ。
宮地春吉
静岡県出身。元憲兵軍曹。昭和21年10月21日、漢口に於て刑死。25歳。
<訣別の辞>
現世に生を享け選ばれて国家の鋒となり中国の戦野に転戦すること数年、縁ありて憲兵となり漢陽憲兵分隊に職を奉じ、只管上司の命を謹み渾身以て戦務遂行につくしたるも戦我に利あらず大勅渙発せられて終戦の止むなきに至る。固より君国に身を捧ぐ。御馬前に死するは欲する処なるも国敗れて山河変じ、〇(一字不明)敗れて武夫の道絶ゆ、天何をか以て吾身を全うせしめんとす。
吾人の泰斗は既に没せり。
昭和20年11月29日、武漢地方法院にて拘留せられて以来、数次の訊問を受け同21年6月28日、軍事法廷に於て最後の弁論を為したり。然れども終に刀折れ矢弾は尽き果て、同年9月28日死刑の宣告を受くるに至る。軍人として戦場に桜花と散るは望む処なるも、終戦後の犠牲として、獄窓に消ゆるも又狂い桜の美あらん。
遡りて本件は素より小生個人の意志に依り敢行したるものに非ず、大命を忖度して職責を完遂、国体を護持し東亜永遠の平和を確立併せて中国民衆の安居楽業と福祉増進並に治安確保の為、小を抹し大乗に基きたるものなるも之が戦争犯罪者として処理せらるとは。
「人の将に死せんとするや謂う事やよし、鳥の将に死せんとするや鳴く声や悲し」とは古語に見えたり。極力之が実情を披瀝したるも及ばず。〇(不明)く我に不利となるに至る。然るに小生の弁論に対し審判機関の調査力徹底しありや否やは扨て置き、同僚中に於いて一、二の齟齬を見たるは実に遺憾に堪えず。一層片片たる身を狂い桜として散らん。 死刑の宣告を受け独房に繋がるに至りて更に心は平静を極め明鏡止水渺渺たる大洋に等し。
雲もなき池に遊ぶか秋の月
何の死を虞れん。花は散れども又開くの時あり。月は欠くるも又満つるの日あらん。正なる者は神明の照覧し給う所に依り再び蘇るの時あらん。我一度逝きて帰らざるも霊魂は必ず祖国再興の礎とならん。
獄窓のわくらば故にちる人の誠の心知る人ぞなし
ちる我はわらつてすめど故里のおいたる父母のすがたいたまし
最後に自治会各位に対し被拘置以来の御洪恩を深謝すると共に一日も早く自由を回復せられ荒廃日本再建に御努力あらんことを願い訣別の辞とす。
昭和21年10月20日 宮地春吉
木下尊祐
東京都。南支憲兵隊所属、元憲兵大尉。昭和22年1月10日、広東に於て刑死。
<最後の手紙>
本月五日死刑の判決を受く。
裁判に非ず復讐なり。既に覚悟しありたる所なれば何等動ずる所なし。…… 身は監獄に在れど再審大赦等のこともあれば…… 悠々自適求道に邁進しつつ再起の日を期しあり。而も遂に生を完うするを得ざらんか之天命なり。……
田中政雄
山口県出身。元憲兵准尉。昭和22年1月13日、中国済南に於て刑死。35歳。
<遺書>
私は中国民衆に対しては民国三十一年(1942年)渡支以来同情と慈愛とを持って接して来た筈である。…… 然るに戦争と云う惨劇は相互間に多くの犠牲と誤解を招来した。我々は不幸軍門に降り日本は一切の発言権を失うに至った。慌しい終戦処理に希望を失いつつも大命を奉じて只管(ひたすら)恭順を披瀝した。殊に民衆と多分の関係を持つ憲兵は中国人より兎角の非難を受け一部の者は動揺した。かかる雰囲気裡に私が今日迄平然と済南に止まり、そして獄舎生活を送り得た根拠は私は中国民衆に怨恨関係がなかったからと云う一事であった。
然るに戦犯として私と共に多くの憲兵が検挙せられた。誰もかれも何が戦犯に該当するのであろうかと中国側の措置を疑わざるを得なかった。其処で我々は憲兵に対する悪評が巷間に流布せられたる為民衆に対する手前上なされたる非常措置ならむと判断せり。…… 然し乍ら私は公務上派生したる傷害致死及傷害の故を以て起訴せられ更に予審に於て中国民一名を検挙農殺ぜりと追加せられたり。之が運命の裁か、そして又公正なる裁判制度?前後六回に亘る取調に当り私は日木軍人として誠意ある陳述を為す誓いをして法廷に立ったのである。…… 身は拘束せられ我々の上官が証人として採用されない現況に於て陳述の正当性を表現するものは却ち私の選んだコースではあるまいか、死は至誠の最高峰的表現である。之に代るべき何ものもないではないか。……
高橋久雄
北海道出身。札幌工業学校常気科夜学部卒業。華北電信電話株式会社職員。
元陸軍軍属。昭和22年1月15日、北京において刑死。38歳。
<遺書>
故国の皆様御元気ですか。老いたる父母の身を想う時、今でも飛んで参り度き想いです。……
勝てば官軍負ければ賊軍の習い此の結末は誰かが責任を担はわばならないのです。幸か不幸か此の責任を担う一人として華北電信電話株式会社社員数万の中より只一人中国第十一戦区戦犯拘置所に監禁せられる身となり去る四月二十日法廷にて裁きを受け二十七日には死刑の言い渡しがあるととに成ります。過去に於て只の四年仕事の為、民衆の為に私利私欲を離れ、献身的に昼夜の別なく誠意をもって働いた。勿論身の危険は申す迄もなく、私に協力してくれた中国の青年数名が斃れたる事を想う時、斯くあるべぎが当然とも考へ何事も諦めて居ります。事実なき事も良民殺害の罪名のもとに裁かれるのです。今となって何をか言はんやです。中国としても満洲事変以来私の如き境遇にあり泣いて死んで行った人達も大勢あったことでしょう。皆様何事も運命と思召しあきらめて下さい。他にまだまだ不幸な方々のあるを想い出して元気を出して下さい。……
中国人にして日本に協力せる為漢奸として裁かれる人達もあります。私の大陸に於ける足跡は必ず遠からず中日親善となり表現せられる時の来るを望みます。中国とは今日迄不幸な関係にありましたが国民全部が民族愛に真心を以て第一歩より踏み出し交わられん事を願う。
勝った時なれば死して靖国神社で面会も出来るのですが、もはや靖国の社は満員で戸締りの形でしょう。同じ運命にある三人秋田県人高見准尉、長野県人黒沢曹長と諮り乍ら花札をやっております。私達よりも先に既に四名死刑に処せられたる人もあります。
…… 私の真意の程又聞く機会のある事を祈り皆様の長命を祈り先立つ前の遺書の筆を止めます。後は死して皆様のおそばへ参ります。……
昭和二十一年四月二十二日 北京西単石碑胡同二号に於て
辞世 —— 悠久の大義に生くる道にして我は逝くなり物思いもせず
山田通尉
埼玉県出身。東京満蒙学校卒業、一等通訳。昭和22年7月22日、北京に於て刑死。26歳
<遺言>
戦犯に問われたるも仰天天地に恥づる事無し。唯々国力の及ばざる所、千歳の痛恨事たり。今異域に刑場の露と消ゆるとも是れ天の命ずる所、父上始め家族一同御健在に。遥尉より
父山田花祐様
田中勇高
北海道出身。元農業。元陸軍伍長。昭和22年7月26日、広東に於て刑死。31歳。
<遺書>
…… 小生も戦犯にて終戦後泰(タイ)国に於て拘禁され泰国よりシンガポールを経て昨年十一月十五日に中国広東省戦犯拘留所に送還されて来ております。其の後は本年四月一二十二日初めて訊問を受け五月十六日、中国の告訴による事件で私にとっては事実無根の事であるが一方的に審判されました。小生も最善を尽して戦いしが何分一方的審判で死刑の判決を受け同日広東の第一監獄に収容、罪人とじて取扱われています。無根の罪により死刑の宣告を受け残念ですが運命と思っています。……
昭和二十二年六月十二日
父上様
石上 保
北海道出身。元農業。元憲兵軍曹。昭和22年3月21日、北平(北京)に於て刑死。32歳。
<遺書>
暫く御無沙汰して居りました。御家内一同御無事で御健闘のことと思って居ります。扨て保は終戦と共に戦犯者として北京に拘留されましたが、今度不幸にして山西省当時の公務(現地部隊に於て為されたもの)の責任を負わされ今日7月8日起訴書を受けましたが、おそらくは此の責任の下に死刑の宣告を受けて逝くかも知れません。顧みれば11年間遂に父母兄弟姉妹妻の顔も見ず逝くことは誠に残念です。これ程不幸なるものが世の中にありましょうか。毎日拘留所の中で親を思う心のみです。
日本軍隊の最後も実にみじめなものでした。吾等の上級者として今日迄指揮して来た連中も終戦と共に責任を免れる為逃走したり或は部下たる兵卒、下級士官にその責任を負わしめ己は平然として帰国して行った。また帰国に際しては凡て虚偽の口説を残してその場をつくろって行った。こんな矛盾な指揮者は他にあろうか。日本精神の教育をして軍隊解散の最後の振舞はこんなことで終るのだろうか。このような軍隊の幹部の行動は死んでも忘れることの出来ないものとなって来ます。今どんな生活をして生きて居るやら、また生を世にする価値あるでしょうか。
今北京の拘留所に戦犯として人質となって残って居る数百名は食糧、衣類に苦しんで毎日毎夜家畜的生活を過している。日本の侵略行為に対する中国の仇は今此の吾々数百名に肉体的苦痛となって遺憾なく示されているのです。己の一身は今此の地に散って行くのはいとわないが、来たるべき日本建設には嘗ての軍国主義者の策動は断じて許すべきものにあらざるを宣言したいのです。
もしかするとこれが別れの言葉となるかも知れませんが保が不孝な子であったことに対しまして幾重にも御詫び申し上げます。何卒御許し下さい。幸にこの手紙も同郷のもので吉野君が居りましたから御依頼して置きました。吉野君から種々な話を聞いて下さい。若し保が再度内地の地に帰れる時があれば断然この残された人々の救済を最後の事業として遂行します。必ずやります。あまりにも無関心な政府の行為。上級者の行為は目に余ります。しかし駄目かも知れません。保は只一度親の顔を見たかった。親孝行をしたかった。ひたすら親から習った神仏への祈りを致して天命を待って居ります。故郷の山川が新にまぶたの裏を焼きます。妻貞子とも遂に華燭の典を挙げず申上げる言葉もありません。しかし彼女も不幸な女性だったことと彼女のあふるる厚意に只々感謝して居ります。最後に僕の比の意志を故郷の将来に充分活かして行くことを念願して置きます。
では御両親様、兄弟姉妹、妻よさらば、永久にさらばかも知れません。
昭和21年7月26日、於北京拘留所内 保より
故郷のご両親様/兄弟/姉妹/妻
中村三郎
和歌山県出身。県立商業学校卒業。元厚生公司支配人。昭和22年4月21日、広東に於て刑死。36歳。
<遺書>
母上様
三郎生を受けてより三十有六年、孝ならんと欲しては不孝、不孝の連続、誠に申訳なし。此の度は又御心配をかけて言葉もなし。
祖国敗戦の犠牲たれば御寛恕被下度(くだされたく)。三郎としては恥ずべき事をした事もなければ、祖国を敗戦に導く様な事をした事もなし。只戦争完遂に’勝利へに全力を傾注せるのみ。日本人として、陛下の赤子として、中村家の一人として立派に堂々とやって来た事は万人の認めるところたり。今日戦犯なる罪名を冠せられている事はとるに足らず。
母上様、三郎は二十余才より君に忠、国に忠家を外に東奔西走せるも比の度血を以て尽す事となりました。御心配下さいますな。日本男子です。堂々と立派に死にます。
母上様御安心被下度。三郎は法悦の境地で刑を受けます。戦犯として起訴されてよりの和歌、俳句は左に記しておきましたから御覧下さい。
3月13日死刑の判決を受けて入獄2月22日、田中曹長死刑を執行され、3月28日、田中南支派遣軍司令官執行さる。4月4日には隣房の我が歌の師堀本大尉刑を執行さる。
只願うらくは別便にて御願いせし小生「あとめ」の件をお願い致します。
母上様の御健康を造かに祈りつつ
4月11日 第一監獄 中村三郎
(以下は歌の一部)
ひたすらに唯ひたすらに祈るのみ 天皇(すめらみこと)の無窮の弥栄(さかえ)を
民草に大御心を垂れ給ふ かたじけなさに涙こぼるる
高谷巌水
大阪府出身。元憲兵軍曹。昭和22年4月21日、広東に於て刑死。28歳。
<遺書>
御両親様お許へ
巌水は求刑の如き刑を執行される事は絶対に有り得ぬと確信はしあるも最悪の場合を考慮し茲に巌水の言葉を書き遺します。
抑々事件は巌水が関知せるものですが、取り調べ後に関しては全然関与してなく、然るに告訴人等は自分に復讐せんが為諸々と事件を捏造して巌水に其の刑責を問わんとしたのです。第一次判決に於いて身に覚えなき殺人罪を以て死刑を宣せられたのですが南京政府より再審の通知を受け審判を受けましたが亦々前後矛盾せる告訴人の言を其儘採用され原判決と同様の刑を宣せられました。(中略)
何れ判決書内容を御知りになると思いますが何れも事実無根なのです。巌水は高谷家よりの初の軍人として決して家名を汚したる如き行為毫もなし。然し軍人として戦さの庭に死にたかったのです。平和の今日唯国基の護持に専念せし事が反対に罪となり冤罪に因り死ぬ事は残念なのです。(中略)
(筆者注:憲兵は占領地の監視役で、住民に対する様々な抑圧的行為の現場にいたから、憲兵というだけで冤罪は受けやすかった)
辞世 —— われもまた醜のみ盾とかえりさく時機(とき)来りなば美事さかなん
沢 栄作
東京都。陸軍士官学校卒業。元陸軍大佐。昭和22年6月25日、広東に於て銃殺刑。54歳。
<戦犯の歌>
……
大御心を只管(ひたすら)に/神慮と仰ぎ畏みて/一時の恥を忍びつつ
無念の局を結びけり/ここに憐れを止めしは/国敗れたる悲しみの
深き憂のその中に/凡有(あらゆる)自由奪われて/独り異域に残されて
獄舎に深く繋がれし/戦犯の様秦(かな)でんに/聞く人誰か泣かざらん
……
思えば永き戦場を/東に奔り西に行き/昼夜寒暑も何のその
唯只管に戦ひて/樹てし功の数々も/今は果敢なき夢と化し
独り獄舎に端座して/偲ぶ故国は三千里
……
月日変りて遂の日は/街の角々引き廻し
鬼畜の如き群集の/喚呼の中に鬼と化す
君のため/国の為にと戦いし/いくさ人らに/など科やある
……
心あるもの忘るなよ/戦敗れし其の陰に/無念の涙しのびつつ
祖国の万を伏拝み/国に殉ぜし戦犯を
吉田保男
島根県出身、大社中学校卒業。元憲兵曹長。昭和22年11月14日、済南に於て刑死。28歳。
<中国兵の涙ー日誌の中より>
七月二十三日火濯日曇一時小雨
「もうこれで済南の市街も見納めだな」と無理に意識してみてもどうもピンと来ないのが不思議でした。何か知ら他人事の様で夢の様でした。たった今戦犯軍事法廷に呼び出されて死刑と有期徒刑八年を言い渡された時も何の「ショック」も受けなかったし、審判長の言い誤りか、自分で聞き間違えたのかと凝った程でした。……
拘置所へ帰って足枷を嵌められた瞬間、之迄時々抱いた小さな不平不満がすっかり吹っ飛んで一寸した人の好意までが無性に有難く感ぜられるのも不思議です。広岡隊長が自分で白布を持って来て「君の様な立派な男をどうしてこんな目に会はせなきゃならんのかなあ、済まない済まない」とオロオロ声で言いながら足枷の金具に布地を巻いて貰った時は「こんなに優しい隊長がどうして憎まれようか」と思い有難く済まなさに声をあげて男泣きに泣きました。気がついたら剣著鉄砲で監視をしていた周囲の四五人の兵隊もみんなホロホロ涙を落して貰い泣きをして居りました。兵隊遠の親切も身に泌みます。……
張と言う二十才になる学兵の如きは夜中にそっとやって来て「貴兄は立派な人だから逃がして上げ度い」と言うのでこちらが驚いて「有難う。有難う。逃げ度いとは思はないのだ。それに足枷を嵌めていては逃げられないよ」と笑って答えると「そんなもの釘一本で外せます。若し逃げたければ、そっと準備をして置きなさい。私が夜間立哨して居る時なら何時でも鍵を開けて上げます。貴兄の様な支那語の上手な人は一歩拘留所から出たら絶対に捕る事はありません」と言って泣き出しました。
お父さん、お母さん、こんな学兵にどうして迷惑を掛けることが出来ましょう。此の事だけでも僕は支那人を憎まず、怨む事も出来ません。……
八月二十五日 月隠日
朝、笠原少佐の部屋で河村准尉の話が出た時、笠原少佐が「河村も足枷生活の間は悟りの境地に入って居たげど、やはり凡人だから其後はすっかり油断と安心してしまって本人にとっては不幸だった」……「あの悟り切った心境のままで置いてやり度かった。まあ君も気の毒だけど犠牲になって呉れ」と言われた。嫌な気持だった。諦めと云うものは他から強いられてするものではない。自分自身でいざという時の覚悟はして居る心算だのに、他から引導を渡すような事は言ってもらいたくない。… 冷いものしか受取れなかった。
九月二十九日 月曜日 曇
今日は月見の節句、中国流に言えば中秋節だ。以前此所に勤務したことのある陳という兵隊が派遣された先から帰されて来て房に遊びに来て面白いととを言った。「中国に没法子と云う言葉があるが素直に之を聞けば方法がない、仕方がないという意だけれども此の法子(方法)というのはお金の事である。方法即ちお金である。金さえあれば出来ないという事はないのだ。拘留された戦犯もお金を使った人達は皆無罪や不起訴になって帰国したではないか。鈴木、笠原、米倉をはじめ山岸、妹尾、芳川等みな死刑になるべき者が金のカで無罪となり不起訴になったではないか」と。…… だけど俺は悔いない。正しい道を進み堂々と戦ったのだ。「我神と共に在り」神は御存知なのだ。強い信念で最後まで頑張ろう。
十月二日木曜日 晴
角さん、園田さんの奥様、病院の桑原先生が朝面会に来られた。「此の度はおめでとうございます」と言うのが此人達の口から出た僕への挨拶であった。何のことか一寸僕には分らなかったが話の中で、僕に対する再審命令が国防部から出されたとか。何と言う幸運。夢のような話。若し再審がして貰えれば必ず何とかなるのだ。助かった。感慨無量。
お父様 お母様
今日の夢のような喜び … 助かったら… 必ず孝行します。一度死んだものですもの。死んだ気持でやれば何だって出来ます。……
万一僕が数年の徒刑を言い渡されましたら仮令それが無期であろうと二十年であろうと必ず来年頃には帰国出来ます。何卒其の時まで元気でお待ちになって下さい。きっときっと此の不孝のつぐないを致します。万一無罪になった場合には此の一、二年現地に残り度いと思います。残って共に難を受けた諸先輩達、広田隊長等現地で服役される人遠の御世話をさせて頂きます。恵まれた僕、幸福な此の僕を祝福して下さい。神様にも厚く御礼を申し上げます。
十月二日 保男
(注:この後、無残にも死刑が確定したようで、日誌は途絶えている)
大場金次
静岡県出身。東京電機学校卒業。元憲兵大尉。昭和23年6月24日、上海に於て刑死、39歳。
<遺書>
我が独子憲次に贈る遺書(独子:孤児となってしまうわが子)
此の遺書が無事東の海を越えて我子の許に到り其目的を達する事が出来ます様中国官憲の方々、同胞の皆様に御尽力を御願いします。私にとって霊魂であり我子にとっては光であり道であり生命の糧であります。
此書は幸福に生れ不幸に育つ汝の身に幸多からん事を念じつゝ、中華民霞上海提藍橋監獄死刑囚監房内に在って数回に亘り分綴せる遺書なり。……
十九年八月汝等を岩国に残したる儘、命を得て中国に派遣せられ古来日本と縁故深き浙江省寧波憲兵分隊長として一歳、此の間祖国戦災の報頻々たり。父は岩国市の安全を深く信じ日夜汝等の平和を祈りしに図らずも終戦の前日一家悲運に見舞わるとは(注:8月14日の岩国空襲による)。…… ああ何たる事ぞ、然れども天佑なる哉、汝一人微傷だも無く生き残るとは、…… 真に九死一生とは汝の事ならん。父は悲報に接しひたすら亡き五名の霊を弔い汝の孤独を医さんと早期帰国を日夜中国の俘虜集中営に祈りし に、第二の不運は之を許さず。…… 汝や故郷の事を案じつゝ罪科の晴るゝを待つ事一年有半、…… 四月十九日極刑の判決を宣せらる。第三最後の不幸父と汝とに下れり。……
父が不幸にも処刑されるに至った根本原因は「敗戦」の二学に尽きる。事案の内容は関係記録を閲読せば略々判明せん。但し部下の言を飽迄も深く信ずる父には其真相は不明なり。…… 希くば吾等の如く数多の犠牲死が将来人類の平和の為、役立つ事を祈るのみである。汝安心せよ、父は苦しくもなく残念でもない。忠節の人道を守り人事を尽して天命に従った迄である。
思えば昭和十九年八月二日岩国駅より征途に就く日、汝は隣家の嬬人に抱かれてニコニコ笑い乍ら大勢の見送人に和して両手を振って送って呉れた。あれが最後であった。父の性絡は軍人殊に殺伐たる戦場に在っても個人としては勇敢尽忠の精神を発揮し得たが、部下に対しては其の善を信じ寛に失した憾あり。然し其の反面部下を一人も傷つけることなく無事復員せしめ得た事は満足であり最後の奉公であり使命を完遂し得たと確信する。
—— 英国領香港において ——
中島徳造
長野県出身。青年学校本科卒業、憲兵軍曹。昭和23年3月9目、香港に於て刑死。30歳。
<遺書>
御両親様、悲観しないで下さい。悲は軍人として幾度か死地を越えて来ました。八年余りの軍人生活は死生を超越せる道義に立脚した真の人間性の修養をして来ました。生あるものは総べて死すべき時期が来ます。私も華々しい散り方を希んで来ましたが遂にその時期に恵まれず現在に到りました。徳造は人間として浩然の気に生き正義心に強く感情にもろい男でありました。今刑死するは人類最大の破廉恥を犯した如く田舎の御両親を始め思われるかも知れませんが、払は俯仰天地に愧じるが如き行為は絶対に有りませんから信じて御安心下さい。……
私が判決後最も苦しんだのは此の状態を家族に何んと云って知らせようかと云うことでした。勿論怠自身と致しましては死は少しも恐しく思つては居りません。「生ある者は死す」これは只諺ではなく現実なです。然し乍ら最後に脳裏に浮んだものが閉治維新の志士、吉田松陰が最後に詠んだ歌です。
親思ふ心に勝る親心今日のおとずれ何と聞くらむ
…… 子思う親心程苦しいものはない事を私は痛感致し苦しんだのです。人間と云うものは死期が迫ると幼き頃の童心に帰ります。純真の精神になります。……
(以下略)
<日記> 2月11日
今日は紀元節である。ありし日の今日を憶えば懐かしい。敗れし今日は又悲しい。… 昨日は又旧暦の正月であった。南支方面に於ては正月行事は旧暦を以て行っている。昭和十四年以降八回の正月を此の地南支に於て自分は迎えた。深い思い出である。昭和十三年の正月を家で迎えたのみ、後は殆んど異国の正月であった。昭和二十二年には久し振りで故郷の正月を味った。又二十三年には獄舎の正月と人生の凡有る正月を迎えて来た。両親や弟妹の事が思い出されて我が胸中は苦しい。(注:一度昭和22年には故郷で正月をというのは、一旦日本に帰還していたが、戦犯として英国軍により香港に召喚されたということである)
松本長三郎
東京都出身。早稲田大学卒業、陸軍中尉。昭和21年7月30日、香港に於て刑死。27歳。
<最後の別離に際して部下に残した教訓>
一、責任有る立場に立つ時はよくよく考慮して物事に当り処置せよ。
二、自己の生命財産を尊重すると共に他人の生命財産を尊重せよ。
最後に部下一同も不幸であった。一日も早く刑を終りて帰国せられん事を祈る。
<伝言> 母を忍びて
戦犯の汚名をきて死するのであったら過ぐる戦闘に戦死していたらどんなに母が喜んで呉れたろう。誠に申し訳ない、不幸をして済まなかった。
岩崎吉穂
島根県出身。鳥取高等農林学校卒業。元教職員。陸軍大尉。昭和23年10月1日、香港に於て刑死。29歳。
<日記より抜粋 >
4月27日
うまくやって戦犯を逃れた者の話。内地での沢山の逃亡者の話が出た。「何故に君は逃げなかったか?」と問われて返答の仕方がない。私の不注意だったのだろうか現実に此処に居る事は神に導かれて此処にきたのではないか。妙に悲しく淋しい日。故郷への追憶と親しい人達への慕わしさ。慾念と生への執着。清算しきれない人の醜い姿は之だ。
神の認識と呂田仰の確立の為め設けられた神の愛む場所であり、時である……と悟れないのか。
…… 過去の私の仕事は決して私自身の理性に忠実ではなかった。自由の意志と選択性を与えられ、而ものうのうと其の機を過した愚かな自分が恥しい。自ら求めた運命でもあろう。然し神を識る機会を与えられた此の最後の好機は絶対に遁し得ない。却ってよい過程にあるのではなかろうか。……
5月10日
弁護士二回目の面会、K、Oの意見対立。共に言い分はあろう。だが然し当時絶対の権威者たりしKが単なる司令部勤務令や通牒の文句を引用して責任を逃れていることは明白。K、Oのいきり立つ論争を独りで静かにきく。其処に敗戦の悲愁が滲み出て来る。…… 日本人同士はまた互に自己の弁明のため他を非難し合う。同胞相食む悲しい明暮、人々は節操も道義もかつての誇りも何者をも掲げうって恥とせずも自己のためには僅かな有利の点をも求め日夜汲々たる様相は正に餓鬼道であ
ろうか。……
5月12日
第三回目、弁護士面会。弁護士より K参謀に重大決意を促し部下の全責任を負うべくすすめたるところ、氏は自分に責任なき事及馬淵参謀長に責任あり馬淵氏を証人として喚問する如く極力主張す。全く責任を逃るる事に汲々とす。而も私に対しては昔と同様威圧的なり。O氏は私に対して割合理解ある態度を示し現場に於ける責任を凡て私に転嫁せるは唯部下を助ける為めなる事を名言し私との協調を約す。然し彼も狸、すべては天なる神の知らるる所なり。加納君と小浜氏の激励と愛とが唯一の温さなり。誠意敢闘せん。……
5月21日
祖国の人よきけ!
この様なことが南方の地で行われつつあるとは祖国で知る人はあるまい。同じ目的で戦って来た日本人であるのに。
5月21日
K、O、私、三人の公判今日開始さる。形式的な人の世の審き、何ぞ怖るるに足らんや。運命は只天主の知り給う所。与へらるる理性と力とを以て雄々しく闘うのみ。小浜君等三名共に死刑の悲報を受け、誠に気の毒に耐えず。
6月14日
早く死刑にしてほしいと言う話、何を食って死にたいと言う話、…… 戦争が起らんかと願う人達。……
6月30日
生きる望みのはてしない夢を追う。生きたい、再び祖国へ帰りたい、そうしたはかない望みを捨て去ることは最後までできないであろうか。…… それは私達の希望とか予想とかに関係なく導かれつつあるのであるけれども運命というものは凡ゆるものを超越して私達を其処へ引きずり込むのだ。
7月14日
判決言渡の日とて緊張して出廷する。O氏無罪を判決され呆然たり。首が危いと心配していたのに妙なことである。Kと私は有罪、判決は明日に延期。O氏が無罪なら我々二人は当然絞首刑と相場が定っている。遺書をO氏に託す。(翌日絞首刑の判決)
8月17日
一入尽忠報国の念をもやし只管(ひたすら)祖国のよき楯たらんとし上官の命に服せし者が死刑となる。神として身を捧げた我一等の天皇陛下は結局我等を足台として生命を全うせられた。死を賭して守らんとした祖国は吾々を裏切った。そうであるにしても今以て天皇陛下を尊敬し祖国を愛し続けている日本人たる血と自愛との矛盾交々至る。然し此処に一線を劃されるのはキリストへの信仰である。……私を死に導いた諸々の事、生きたい欲望と人への愛。主への信仰、憎悪と悪慾と信仰、それは夫々の強さを以て私に迫る「何故に生きたいのか」と反問する。……「永遠の生命」への希求は結局自分への言い分ではないか。……
9月2日
(刑務所の一階は死刑の判決を受けた者や所内で罰を受けた者、二階は死刑確定者であった)二階の支那人二人は次週火曜に執行と知る。やがて我々も同じ麻縄で人生を終るのだ。支那人の中でも珍しく可愛らしい「タンジヤイ」と呼ぶ少年がいた。筆談をしたいと身体をすり寄せて来た人なつこい子、其の子が来週はもう此の世から消える。死の家に居る者達が去って行くのは淋しい事だ。其の子は無実の罪だと言っていた。可哀想な子よ。安らかに行けと祈る。俺も近く行くのだ。
9月3日
加納君と談笑していたら「嬉しそうな顔はよせ」と看守に叱られた。笑っちやいかんそうだ。
9月7日
支那人囚二名死刑執行。偉そうな白人が視察に来る。我々を動物のようにじろじろ見乍ら … 吾等四名最後迄日本人として堂々たる態度を示そうと申合す。但しK氏は別だった。…… 加納氏の死も近い。然し平然と談笑して居る。……
私達の裁判は正義の名の下に行われた。係官は聖書に誓って神聖なる裁判を宣告した。しかしそれは正しい裁きであった
か。自から基督者を以て任じ神の前に正義を誓った彼等こそ最も神を冒瀆するものであることを身を以て知らさた。其は唯日本人に対する報復手段である外何物でもない。私は上官の命令で瓦斯実験を行った。しかも其人は死んでいない。憲兵隊に依り殺されたものである。それにも不拘命令者と私は死刑、憲兵隊長は無罪、妙な具合だと思った。然しその理由は分った。憲兵隊長は帰国の時、呉で和蘭(オランダ)軍に拘引された。即ち殺人当事者の憲兵隊長は和蘭軍で身柄が入用なのだった。私は彼の罪をも負はされて濠軍の方針である二人の死刑者に充当された。この裁判では何名死刑者を取ろうとの方針通り退屈極まる時間潰しの裁判を行った。最大の流血鬼彼等への審判は神によって行われる。…… その終りの時一日も早く彼等の手を脱して神の前に出たい。日本国民には自らの楯として戦場に送った人達が今自ら降伏した国民に見放され乍ら獄死する我々の苦悩が分るかしら。我等の犠牲の上に生命を全うしている天皇及全ての国民はその家族以外戦犯者なるものを忘れているのであろうか。
9月20日
本日死刑確定。愈々死の道行き定まり却って平静となる。判決後六十五日予定よりは二十五日許の早し、然しそれもよからん、三十一年の生活を罪人として閉づるは断腸の思いなるも今は只何事も言わず只管(ひたすら)主の御胸にすべてを委すのみ。「アジア」同胞の日本人に対する友情を謝す。我生命は残り一週間。
9月21日
人は死に臨んで凡てのものが愛されてならぬ。この絶対の愛を裁きを受けずして持ち得たならばと残念なり。誰も怨むことなく後事は兄にまかせて心軽く勇んで主の招きに応ぜん。そはキリストの約束を固く信ずるが故に。……
祖国日本!その思いは絶えず去来しありて脳裏をはなれず、禁絶の筆を秘かに借りて認め残す。絞首刑室は隣りにあり。三十一年の生活を思えば涙をもよおすも凡ては信仰に捧げん。祖国よ栄えあれ。
9月24日
午前三時過ぎ馴染の看守が起す。最後の日だから起きて話せと云う。近藤氏も起上って扉越しに会話を始む。香港はもう秋だ。周囲はしーんと静まり秋の早朝は淋しさを誘う。あと一時間、二時間半と生涯の残りの時を測りつつ静かに待つ。六時朝食、ミルクの上等だ。周囲は逐次騒しくなる。時は次第に近づいて来たのだ。自動車が来て止ったのは七時二十分前、最後の祈りを済ませて準備を整へる。ズボンのずり落ちぬようにシャツをとって帯にする。処刑室は多くの人の出入りで騒々しい。七時所長以下臨席者が来たのであろうか、多勢の足音がする。ついで近藤氏の室の前で止った。「迎へに来たよ!一足お先へ」と彼は言う。重々しい鍵の音、私の室の木の麗がとじられた「最後に言い残すことはないか」と所長が問う。近藤氏は「色々世話になった事を感謝する」と言った。直ちに扉から出されて処刑室に行く。二分も置かずして「ガチャーン」という鈍い重い音がする。近藤氏が昇天したのだ。
臨席者の立退る音、次は俺だ、又坐り直して聖書を開く。あと廿分を経ずして人生を終ると思えば万感満ちて苦悩と淋しさと言い知れぬ恐怖を感ずる。之はどうした事であらう。主に凡てを委ねて「永遠の生命」を喜んで待ち受ける身ではなかったか。吾が心を励まし主の祈りを繰返す。…… もう来る筈だ。然し間もなく周囲は静かになる。八時十分階下が騒々しい。其の内に白人看守が上って来た。「俺は今日ではないのか」ときくと「違う」との答に意外の感がする。……「主の御意は私に今少しの信仰の時を与えられた」……
9月25日
昨夜は快適に熟睡をとる事が出来た。心は静かに返る。来週火曜処刑されるのであろう。
(註:この日の手記を最後に昭和23年10月1日、処刑された)
