昭和8−11年(1933−1936年)日中戦争突入前年まで

昭和8年(1933年)

中国に関する軍事的動向

 1932年(昭和7年)11月、国際連盟において、10月のリットン報告書の公表を受けて、満州問題に関する討議が再開された。その間、1933年(昭和8年)1月、山海関での日中両軍の衝突を機に山海関を占領、2月、熱河作戦を開始した。その結果1933年(昭和8年)2月の国連総会で中国の満州統治権の承認、日本の撤兵を求める勧告が採択されるや、日本は3月に国際連盟を脱退し、国際的孤立化の道を進んでいった。その間も日本軍は10万人単位の軍勢で戦闘を展開し両軍に多大な犠牲者を出しながら、4月には長城を越えて侵攻するに至った。5月、日中両軍の間に停戦協定が成立し、長城線以南に非武装地帯を設定した。しかしこの停戦協定以降も数々の戦闘が展開される。

1933年の出来事(中国側から)

 以下は主に『中国抗日戦争大事記』(斉福霖編:1995年、北京出版社)からの抜き書きである。日本軍の満州地区占領拡大作戦による攻撃と日本軍への抗戦による中国内の対立の経緯がよくわかる。(訳文は筆者。▷印は日本側の記録から適宜拾い出したもの)

 1月1日、日本軍が「山海関事件」を起こす。(下記の項参照)

 1月3日、山海関が陥落。馬占山の残部隊2万人余りは、黒竜江から熱河まで撤退した。

 1月4日、吉林抗日救国軍団は柞木台子で東北抗日救国遊撃軍と改名され、李延禄が総司令官となった。

 1月5日、日本政府は国際連盟に「山海関事件」の声明書を出し、原因は中国側の挑発にあるとした。

 1月8日、日本の関東軍と支那駐屯軍は「山海関事件処理方針及び要綱」を制定し、また日本の参謀本部は軍事会議を開き、熱河侵略の軍事計画を立案した。

 1月9日、日本軍重装備部隊は黒竜江省牡丹江市東寧を包囲攻撃、吉林抗日救国軍は奮戦したが、13日に東寧を退去し、ソ連領内に退いた。

 1月10日、日本軍が長城九門口要塞を占拠。

 1月11日、日本陸軍省は「熱河は満州国の一部」と宣言した。

 1月15日、アメリカ大統領ルーズベルトは「満州国」を認めないと各国に通告し、日本に警告を与えた。

 同日、日本軍は河北省臨楡県石門寨に侵入した。

 ▷ 1月15-16日、日本機は開魯城(内モンゴル自治区通遼市)に爆撃を行った

 1月16日、東北抗日義勇軍馮占海部隊が吉林から熱網開魯に退却。 1月19日、北平(北京)人民自衛会は蔣介石に即日北上するように電報で促し、また全国に抗日将兵の救援を要請した。21日から24日にかけて、北平工連会、上海総工会、首都工界抗日会、漢口市労働組合と商工会議所などの団体及び国民党の上海、江蘇、湖北などの省・市の党本部は、いずれも蔣介石に北上抗日を要請した。

 1月21日、内田康哉外相が貴族院で外交方針演説を行い、「熱河省は満州の一部なり」と強調する。

 1月23日、日本機は前日から熱河の通遼市開魯を爆撃し、一日で数十発の爆弾を投下。24日、開魯は関東軍によって占拠された。

 1月28日、上海各界で「一・二八」(第一次上海事変)記念大会が行われ、また全国一致して抗日運動が行われた。

 1933年2月7日、日本軍は熱河阜新城に侵攻した。

 2月13日、日本関東軍司令部は板垣征四郎を天津に派遣して特務机関を設立させ、北平(北京)でクーデターを起こすことを画策した。

 ▷ 2月中旬、飛行第六連隊が吉林省付近の抗日軍攻撃のために、朝鮮の平壌から中国との国境付近の江界飛行場に集結した。

 2月17日、関東軍司令官武藤信義は第6、第8師団に熱河進攻を命じた。同日、駐中日本大使館は、北平、天津、張家口などの在留邦人に対し、二週間以内に帰国するよう通告した。

 2月21日、日本軍10数万人が、錦州から三路に分かれて熱河に向かって進軍した。

 同日、熱河省主席湯玉麟は、全国の援助を望むと電告した。

 ▷ 2月21日、飛行第12大隊全隊が熱河作戦に参加、錦州飛行場へと集結し、熱河への空爆を開始した。

 2月22日、日本軍は熱河の南嶺、北栗を侵犯。翌24日には開魯、25日には朝陽、28日には凌南、そして3月2日には凌源を占領した。

 2月23日、南京駐在の上村日本領事は日本軍の熱河侵略事件について、国民政府の羅文干外相に「日本政府覚書」を手渡し、日本軍の侵攻は「張軍などが省内に駐留しているため、最後の手段であった」と妄言し、張学良などの部隊が依然として武力抵抗する場合、「戦局が華北方面に及ばないとは限らない」と主張した。その夜、中国外交部は『日本政府への覚書』を上村に渡し、「熱河は中国の領土である」、「熱河への侵攻は中国の領土主権の破壊であり、日本政府はこの軍事攻撃の全責任を負うべきである」、「日本が華北を侵略した場合、中国軍は必ず国土の自衛権を行使する」とした。翌日、覚書を国際連盟に電送し、日本を制裁するよう要求した。

 2月24日、国際連盟総会はリットン調査団報告書に基づき、「日中争議に関する国際連盟特別総会報告書」を承認し採択した。(下記参照)

 2月26日、蔣介石は第25、第2、第83師団に第10軍として北上を命じた。

 2月、日本軍500人余りが吉林和竜県漁浪村を包囲攻撃したが、抗日遊撃隊は奮戦して迎撃し、住民を援護して移動させ、日本軍60人余りを銃殺した。

 ▷ 1933年3月2日、日本の関東軍は熱河省赤峰を占領。

 3月3日、張学良は全軍の反攻を命じ、凌源、凌甫一帯(遼寧省朝陽市)は激戦となった。

 同日、日本軍が平泉、建平(河北省承徳市)を占領。

 3月4日、日本軍は承徳を陥落させた。

 同日、日本軍は長城冷口を占領。6日、第32軍が冷口を奪還した。

 3月5日、張学良は長城古北口の駐屯軍に逃亡兵の入国を厳重に阻止させること、戦わずして退却した承徳の湯玉麟を指名手配し処罰するよう命じた。張学良は7日、責任をとって辞任した。

 3月8日、上海で国民御侮自救会が結成され、宋慶齢が出席して演説し、国民政府に共産党討伐の中止を求め、全国の80%以上の軍隊を北上させて抗日に向かわせるよう要求した。

 同日、日本軍は全寧(現・内蒙古唐沁旗)を占領。

 3月9日、日本軍の先頭部隊は喜峰口を侵犯し、中国守備軍は増援を得て激戦を繰り広げたが、翌日、日本軍は火力の優位によって喜峰口を陥落させた。

 3月11日、早朝から日本軍は長城喜峰口から中国守備軍陣地全線に砲撃した。中国第29軍と義勇軍は来襲する日本軍を撃退し、長城各口の戦局を安定させた。この日の夜、中国軍各部隊は、潘家口、鉄門関を迂回して、大規模な夜襲作戦を行った。翌日の早暁、戦闘が開始され、第29軍はまず敵の砲兵陣地を占領し、日本の砲兵部隊五、六百名及び銃撃隊数十名をことごとく斃し、野砲18門を完全に破壊し、輜重弾薬を焼き払った。老婆山に駐屯していた日本軍は救援に駆けつけたが、双方は各峠と村々で混戦し、白刃戦となり、血肉が飛び交い、夕刻になってようやくそれぞれ撤退した。この戦闘で29軍の将兵は日本軍の戦力に深刻な打撃を与えた。

 同日、日本軍の別部隊は民城古北口一帯に侵入し、守備軍第17軍第25師団は日本軍と三昼夜激戦し、日本軍2000余人を殺害したが、守備軍4000余人が死傷した。13日、守備隊は古北口を放棄して南天門まで後退した。

 ▷ 3月15−16日、日本関東軍は河北省抬頭営界北東の嶺口付近に総攻撃を仕掛け、飛行隊の爆撃支援もあって、界嶺口関門を占領した。

 3月16日−18日、日本軍は新たに長城方面の進攻を発動した。守備軍第29軍劉明師は、遵化北部の羅文峪地区で連続して日本軍を攻撃し撃退した。

 3月18日、青海省の馬麟主席らは辺疆各族の勇士を率いて国難に赴くことを表明。

 ▷ 3月23日、日本軍は遼寧省葫芦島市の建昌営を爆撃、50kg弾9発、15kg弾12発。

 3月27日、関東軍は長城線を越えて灤(らん)県(河北省唐山市)東方面に進撃するよう命令した。(下記「灤東作戦」参照)

 同日、日本政府は正式に国際連盟脱退を通告した。

 ▷ 3月、日本軍は熱河省全域を占領し同省を満州国に統合、関東軍による内蒙古工作を開始。関東軍はまもなく察哈爾(チャハル)省を攻撃、東北辺防軍旅団の李守信は降伏し、関東軍は李を熱河遊撃軍師司令に任命した。

 ▷ この熱河作戦で日本機は延べ133機が33.2トンの爆弾を投下した。

 ▷ 日本軍当局の発表によると、九・一八事変から本年3月末までに、東北抗日武装隊による鉄道破壊は1605回、うち南満鉄道襲撃は394回であった。

 1933年4月1日、日本軍は前日、傀儡靖安軍の協力のもと、長城九門口、義院口から長城以南の石門寨に進軍し、この日、石門寨を占領。中国守備軍の何柱国は海陽、秦皇島に退いた。4日、日本軍は海陽を占領するが、7日、何柱国の部隊は悔陽を奪回した。

 1933年4月2日、吉林省義勇軍回霖・英若愚両部は連合して熱河阜新城を攻撃、12日、両部隊は阜新を攻略した。

 4月5日、方振武救国軍部隊は北上して抗日に向かい、翌日河北省北部に到着し北に進軍した。

 4月6日、日本はチャハル省(現在の河北省西北部及び内蒙古の一部)で策動し、熱河の赤峰市で内蒙王族大会を開き、中国からの離脱と傀儡満州への合流を宣言した。

 ▷ 4月10日、日本軍は新たに灤東作戦による攻勢を開始、37機を出撃させて偵察行動としながら爆撃を繰り返した。

 4月11日、日本軍は9日から長城の冷口に侵犯し、冷口は陥落した。また唐山市遷安も陥落。

 4月14日、軍政部長何応欽は第57軍、第53軍の主力に灤(らん)河以西へ撤退するように電令した。翌日、秦皇島の守備軍は撤退し、日本海軍陸戦隊は秦皇島を占領した。

 4月16日、日本軍は昌黎(河北省秦皇島市)を占領した。

 4月19日、関東軍司令官の武藤は、日本の天皇が日本軍が長城を越えて河北省に侵入して国際紛争を引き起こしたことを問い詰めることを恐れ、軍部に長城線に戻るよう命令した。翌日、日本陸軍省は灤東撤退のための談話を発表した。

 4月20日夜、日本軍は長城南天門の左側制高点八道楼子を攻略、また23日から25日まで、陸空協同で南天門陣地中央拠点421高地に数回猛攻を仕掛けたが、第2師団に撃退された。

 4月23日、灤河西岸の中国守備軍は全線で反攻し、河北の盧竜、遷安などを奪回した。

 ▷ 同日、日本機は長城の古北口西側の陣地に対して次々と爆撃、密雲への爆撃は高度2千mから15kg爆弾54発を連続投下するという全くの無差別攻撃であった。

 4月27日、何柱国部隊の騎兵3師団、67軍はそれぞれ河北の昌黎、撫寧を奪還した。

 4月28日、日本軍は勢いに乗って長城の南天門の右側の高地に侵攻し、第83師団は激戦のあと新開嶺に後退し、南天門は日本軍に完全に占領された。

 ▷ 4月28日、傀儡の李守信軍は熱河省に隣接する察哈爾(チャハル)省に攻め入り、4月29日に多倫を占領した。(7月12日、察哈爾民衆抗日同盟軍の吉鴻昌らは多倫を攻略したが、8月に李守信は多倫を再び占領した)

 1933年5月2日、ソビエト連邦の外交官が日本の駐ソ大使に満州の中東鉄道の譲渡を申し入れた。これに対し国民政府外交部はソ連が一方的に売却したことに抗議した。

 5月3日、関東軍司令官武藤は、灤東作戦に続いて関内作戦を命令し、中国守備軍に致命的な打撃を与えるとした。(下記参照)

 5月6日、日本軍参謀本部は「華北方面緊急処理方案」を下し、引き続き華北当局を屈服させるか華北軍の分裂を引き起こすことを提案した。

 5月9日、日本軍は優勢な火力で、河北省秦皇島市撫寧、遷安、盧竜などを改めて占領、さらに灤河の西を渡り、中国守備軍何柱国・王以哲部隊は西に退却、灤東は再び陥落した。

 5月10日、日本軍は吉林省新開嶺地区の中国守備軍第17軍を攻撃。13日までに第17軍は北京の密雲を経て懐柔と順義に退却し、日本軍は19日に密雲城を占領。

 ▷ 5月11日、日本軍は河北省承徳市隆化新開嶺の中国軍陣地を攻撃、その際に重爆隊も参加、250kg爆弾(当時としては最大)も使い、夜までに攻略した。

 5月12日、日本軍は灤河を渡って北省唐山市豊潤を追撃、一部の5千人で灤県を攻めた。15日、日本軍第6師団は豊潤を占領した。

 ▷ 5月13日、日本機は河北省秦皇島市や唐山市を爆撃、投下爆弾は440発におよんだ。

 5月15日、関東軍司令官武藤は中国軍に対し抵抗を放棄し、灤河の西に撤退するよう要求した。

 5月17日、広東に各界の数万人が集まり、広東・浙江・福建省三省の抗日軍の北上を歓送した。

 5月18日、武藤は日本軍第8師団を密雲に進軍させ、また第6師団一部を薊運河線に追撃させ、22日までに相次いで河北省の海県、遵化、玉田、平谷、薊県、三河などの県城を占領した。

 同日、日本の参謀本部は関東軍に「華北停戦指導要領」を発し、22日には武藤に停戦交渉を行うように電令した。

 5月19日、米中両国は「ルーズベルト宋子文共同声明」を発表し、日本の中国侵略に対する米国の不安と不満を表明した。

 同日、日本軍第8師団は密雲を占領し、牛欄山に進出した。

 5月22日、汪精衛(汪兆銘)は行政院長黄郛に電報を送り、「満州国を承認し、四省を割譲する条約に調印する以外の条件はすべて承諾する」と、日本との停戦を指示した。黄郛はこの夜、日本側の中山、永津、藤原と会談し、日本側の停戦条件を受け入れた。

 5月23日、国民政府は国防会議を開き、停戦交渉について翌日まで協議した。一方で日本軍はこの日から翌日にかけて、三河、寧河の防衛線を突破し、香河、懐柔、寧河を陥した後、通県、順義に迫り、北京に対して三方包囲の勢を形成した。

 5月24日、宋慶齢(故・孫文の夫人)はニューヨークの『民族』誌に「中国の労働者たち、団結せよ!」という檄文を発表し、日本帝国主義の侵略と国民党政府の妥協投降を糾弾し、労働者、農民、学生、義勇軍が団結し、中国の解放と統一の完遂のために闘争するよう呼びかけた。

 5月25日、【停戦協定へ】北京軍分会特使徐祖治と日本大使永津が停戦覚書に調印。北京軍分会は前方各部に「覚書」の要求に基づき、延慶、昌平、高麗営、順義、通県、香河、宝当、林亭口、寧河の線以南以西に撤退するように電令した。同日、日本関東軍司令官武藤は各軍に戦闘行動の停止を命じた。

 5月26日、馮玉祥は張家口で察哈爾(チャハル)民衆抗日同盟軍を成立させた。遼寧・吉林・黒竜江・熱河省に退却した抗日義勇軍の部隊も決死の抗日救国を表明した。

 5月27日、張家口で労働者、農民、兵士、学生3000人余りが集団救国大会を開き、大会後デモを行い、国民党チャハル省の党本部を破壊した。

 同日、日本陸軍省は声明を発表し、「日本軍は戦争と平和の両方の準備をしている」とした。同じ日、日本軍は通県の東15kmに撤退、北京軍分会も通県西15kmまで撤退させた。

 5月29日、何応欽、黄郛は蔣介石に電報を送り、日本側と意見交換し、協定内容には満州国の承認、東四省の放棄は盛り込まれていないと伝え、蔣は「喜んでいる」と回答した。

 同日、中米が「綿麦借款協定」に調印し、米国が中国に5千万ドルを貸与した。

 5月30-31日、中日双方の代表が塘沽で停戦交渉を行う。日本代表岡村寧次関東軍副参謀長は停戦協定草案を提出すると、これが最終案で変更は許されないと言った。31日、中国代表熊斌参謀本部長熊斌は正式に「塘沽協定」に調印した。

 その主な内容:(一)中国軍は延慶、昌平、高麗営、順義、通州、香河、宝坻、林亭口、寧河、芦台の結ぶ線以西以南に撤退する/(二)日本軍は第一項施行の状況を確認するため、飛行機又はその他の方法で視察する/(三)日本軍は、中国軍が第一協定の線まで撤退したことを確認したとき、長城の線まで自発的に帰還する/(四)長城線以南、第一項協定の線以北及び以東地域内の治安維持は、中国警察機関がこれに任ずる。

 これによって日本軍は熱河を占領し、冀東地区(きとう:冀は河北省の別称でその東部)を「特殊化」させ、華北侵入に有利な条件を作り出した。

 5月31日、羅文幹外交部長は何応欽、黄郛に電報を送り、国連代表にも日本との屈辱停戦条項の調印に反対する意見を伝え、6月5日、羅は外相を辞任した。

 1933年6月5日、武藤は日本軍を停戦区から撤退させたが、依然として比較的強い兵力を残して密雲、石匣鎮、建昌営、玉田などに分駐して中国軍を監視した。

 6月9日、国際連盟顧問委員会が「満州国不承認法」を採択し、国際条約や国際機関への加盟拒否など七項目を包括した。

 6月15日、抗日同盟軍第一回軍民代表大会が張家口で5日間にわたって開かれ、抗日同盟軍綱領などの決議案を採択した。

 6月22日、抗日同盟軍はチャハル省康保県を回復し、満州軍は宝昌に向かって退却した。

 6月24日、日本海軍当局は、「広東を中心とした排日運働」と「第19路軍によるアメリカの機関銃、航空機などの武器購入」を理由に、軍艦を閩・粤海上に派遣し、駆逐艦3隻を待機させた。

 6月、新京(現・吉林省長春)では日系の51のレンガ工場で6000人余りの労働者が同盟ストライキを行ったほか、11の油工場で3000人余りが未払い賃金の支払いを求めてストライキを行い、いずれも勝利した。

 1933年7月1日、吉鴻昌は抗日同盟軍を率いて宝昌・沽源両県城を奪回した。

 7月5日、日本軍桑原部隊は傀儡軍を糾合して梨樹県小城子で遼東抗日義勇軍を攻撃したが、途中義勇軍に包囲され、桑原中尉など30余人が銃殺された。

 7月7日、吉鴻昌は抗日同盟軍を率いて内蒙古の多倫を攻囲し、5昼夜の激戦を経て12日、多倫を奪還した。

 7月11日、黄郛、宋哲元は馮玉祥に書簡を送り、速やかに抗日同盟軍を解散するよう要求した。

 7月12日、馮玉祥は蔣介石、汪精衛、何応欽、黄郛らに多倫奪還を報告し、蔣介石らに「停戦協定の約を廃し、東四省の師団を興すように」と要求した。

 7月14日、日本大使館武官柴山が何応欽を訪れ、抗日同盟軍の多倫奪回は、塘沽停戦協定に違反していると抗議した。

 7月20日、抗日同盟軍の将校たちは、馮玉祥に従って抗日の断固たる態度を表明した。

 同日、日本の武装移民(開拓団)第2陣493人は黒竜江省ハルビン市依蘭県七虎力に到着し、その地を「千振郷」と改名したが、この日、抗日武装団の襲撃を受け、移民本部を湖南営に移した。(武装移民については1932年の「満州第一次武装開拓団」を参照)

 7月27日、武藤信義関東軍司令官が長春で病死。日本政府は武藤の後任に菱刈隆を任命した。

 7月28日、蔣介石、汪精衛は「共産党討伐」を表明し、馮玉祥の察省における抗日行動が国家に危害を及ぼすと非難した。

 同日、何応琴は、抗日連合軍に参加するために、5個師団を追加した。 これで、察哈爾(チャハル)の国民党軍隊は16個師団、15万人余りに達した。

 同日、日本軍は撫寧、楽亭両県の接収完了、翌日臨楡県接収完了、30日懐柔、密雲両県接収完了した。

 7月31日、馮玉祥は蔣、汪に反論し、最後まで抗日を通し、銃口は決して内に向けないと言明した。

 1933年8月3日、馮玉祥は「本日をもって軍事を終了し、すべてのチャハル省の軍事政権は、中央軍に接収される」と表明した。これにより宋哲元がチャハル省軍政府主席に戻った。その後馮玉祥は張家口を離れて泰安に赴き、隠遁した。中旬、方振武、吉鴻昌は抗日同盟軍の解散に反対し、決死抗戦を表明した。

 ▷ 8月7ー8日、日本軍機はチャハル省の沽源(現・河北省張家口市)の共産党抗日同盟軍(吉鴻昌部隊)を爆撃、多大な損害を与えた。

 8月8日、日本陸軍省は、日本軍の長城線撤退が7日に完了したことを発表した。

 8月13日、楊靖宇は吉林省の磐石遊撃隊を指揮し、抗日義勇軍と合わせて1600余人で磐石東部呼蘭鎮を攻囲したが、日本軍の援兵が駆けつけ、結果的に撤退した。

 8月17日、遼寧民衆自衛軍第6路軍、国民義勇軍遼東部隊は、遼東塔溝にて日本軍と激戦、日本軍小彬少将以下将兵50余人を撃殺。

 1933年9月1日、何応欽、宋哲元は国民政府にチャハル民衆対日同盟軍の縮小状況を報告した。

 9月5日、蒋介石は特嶺で談話会を開き、東4省の割譲及び傀儡国の承認を絶対に許さないことを除き、その他の副次的な問題に対して、日本側の感情を刺激するすべての行動及び言論を極力避けるように申し渡した。

 9月6日、吉林救国軍呉義成部隊は汪清、渾春反日遊撃隊などと合わせて3千人余りをもって東寧県城を包囲攻撃した。

 9月14日、日本機は張家口に「警告書」を投げ、趙登禹部隊に沽源から張北、竜関以西に撤退するよう要求した。

 9月20日、熱河義軍隊百余人が開魯を攻め、日本軍守備小隊長山本を銃殺。

 9月22日、日本大使館柴山武官は、抗日軍方振武に26日の晩までに非武装地区の外に撤退せよ、さもなければ討伐するとの警告を出した。

 同日、関東軍の特務機関は多倫に察東特別自治区行政長官室を設置し、傀儡蒙古軍の司令官である李守信を行政長官に任命した。

 9月26日、柴山武官は何応欽を訪れ、日本軍は27日より抗日の吉鴻昌・方振武部隊に対する行動を開始すると述べた。日本軍第8師団第5連隊は密雲から懐柔と牛欄山に赴き、日本機4機がハルビン市高麗の抗日軍吉鴻昌部隊を爆撃、27日も関東軍飛行部隊は高麗営を偵察し、停戦協定内にいる中国守備軍を爆撃した。

 9月27日、方・吉部隊は、大・小湯山へ移動。同盟軍は昌平西北部の山中に退却した。10月3日、方・吉部隊は昌平を占領、4日には湯山および高麗営一帯で万福麟部隊と激突するが、12日、方・吉部隊は国民党軍と日本軍の迎撃を受け撤退を余儀なくされた。

 9月30日、世界反帝国主義戦争委員会極東反戦大会が上海で開催され、宋慶齢は会議で「中国の自由と反戦闘争」の報告を行った。

 9月、蔣介石は100万人の兵力を集めて江西省の共産党中央革命根拠地を包囲討伐する大規模な第5次軍事作戦を開始した。

 1933年10月5日、関東軍司令部は1931年(昭和6年)九・一八事変以来の中国における日本軍は死者1845人、負傷者4968人と発表した。このうち本年3月から5月にかけての長城・灤東作戦では、死者500人、負傷者2125人であった。

 10月9日、内蒙古(モンゴル)郡王の徳穆楚克棟魯普(デムチュクドンロブ:徳王)は日本からの使節を受け、綏遠(すいえん:内蒙古中部)百霊廟において「内蒙古自治政府」を設立した。

 10月16日、方振武、吉鴻昌が率いた抗日同盟軍は連日国民党軍及び日本軍の包囲攻撃と飛行機の爆撃を受け、おびただしい死傷者を出した。この日、北京分会派は4人を戦地に派遣して、罷兵を促した。午後、方・吉は北平(北京)に護送されたが、途中二人は脱走した。部隊の6千人余りは武装解除された。抗日同盟軍はこれで完全に敗北した。

 10月16日、内閣は「帝国外交政策」を制定、中国では開放政策を尊重し、中国と満洲間の調和関系を樹立して中国の不買運動を根絶するとした。

 10月26日、中華ソビエト共和国臨時中央政府及び紅軍代表と国民党福建省政府及び第19路軍代表は瑞金で「反日反蔣の初歩協定」に署名した。

 10月30日、日本関東軍は東北各地に抗日義勇軍9万7000人が残っていると発表した。

 ▷ 1933年11月3日、日本の爆撃機がソ連(ロシア)の上空に侵入した事実に対し、ソ連当局は日本総領事に対し、再度同様な行為があれば直ちに射撃すると通告。(この頃の日本軍にとって最大の仮想敵国はソ連であり、そのための航空作戦は毎年のように練り上げられていたが、飛行機の保有ではソ連の方が数倍先を行っていた)

 11月8日、土肥原賢二が奉天日本軍特務機関長に再任。

 11月9日、日中双方は6回の会談を経て、北京で「停戦協定善後処理に関する会談」に合意し、日本側の原案を若干修正した。

 11月11日、中華ソビエト臨時中央政府・中央革命軍事委員会は、日中直接交渉は「南京政府のさらなる売国行為である」と指摘し、中華民族の解放のために血戦するよう全国民衆に呼びかけた。

 11月15日、台湾花蓮港庁里畝支庁大竹区の少数民族40人余りが日本の圧政に抵抗し、日本人警察官を殺害し、銃弾を奪って深山に逃走した。日本の警察は大隊を「討伐」に派遣し、18人を逮捕した。

 11月20日、国民党第19路軍の蔡廷錯、陳銘枢、蔣光擁と国民党内の李済深など一部の反蔣勢力は、福建事変を起こし、抗日反蔣の「中華共和国人民革命政府」を成立させ、蔣介石との決別を公表した。福建人民政府は22日、福州で発足し、23日、蔣介石政権の打倒は中国の独立と救済のために必要だと宣言した。

 11月、日本軍は吉林省磐石県に「集団部落」計画を推し進め、県公署に集団部落建設委員会を設置し、分散して住んでいた農民を強制的に指定場所に移住させる方針でその家屋を焼き、抵抗する者は銃殺などの手段を用いて、大村部落を形成した。これは日本軍が農民を管理しやすくするための方策で、その自由を奪うことであった。(昭和10年の「帰屯並戸:集団部落」の項参照)

 1933年12月12日、関東軍参謀長の小磯と満鉄副総裁の八田は長春で満鉄再編案を協議し、満鉄所属の鉄道、炭鉱、石油、採金などの重要産業を子会社とし、拓務省の監督を離れ、陸軍大臣または内務大臣が直接監督し、満鉄経済調査会を関東軍特務部に統合し、監督機関の中枢とした。

 12月23日、楊靖宇は第1軍独立師団の主力を率いて老常青などの抗日軍と連合し、傀儡軍邵本良兵站基地の北京涼水河子を襲撃した。

 12月、日本軍と傀儡軍は兵力を集結して王鳳閲抗日義勇軍の白頭山を包囲討伐した。玉鳳閲は各部隊を指揮して大二道溝などに伏兵を置き奇襲に成功、日本側に多くの死傷者を出した。王鳳閣はまた精鋭部隊を率いて敵包囲圏から飛び出し、通化城の郊外に入ったが、日本軍は通化に戻り、義勇軍は無事に陣営に戻った。

〇 この年、関東軍はハルビン南岡宣化街に石井四郎を首班とする細菌研究所を設立し、五常県背蔭河に細菌工場を設立、「加茂部隊」(後の満州「731部隊」の前身)と称した。

 日本の満州への投資総額は1億3700万円で、日本の海外投資総額の63%を占めた。

〇 翌年1月23日付けの奉天の新聞「盛京時報」によると、この一年間に日本の奉天警備司令部は「匪賊」討伐に485回出動し、特に8月は84回出動、1743人を殺害し、二千人以上を負傷させてたとしている。

山海関事件

 交通の要所であり軍事的要衝でもある山海関(河北省秦皇島市の最北東端、万里の長城の端に位置し、渤海湾に面する)は、満州事変以降は満洲国と中華民国の国境となっていた。1933年(昭和8年)1月1日夜11時、日本軍の計略によって中国軍守備隊の衝突が起きる。翌日夜、関東軍第8師団が出動、さらに海軍が航空一中隊と軍艦「平戸」と第16駆逐艦隊を急行させる。3日早朝、山海関沖にある駆逐艦からの艦砲射撃と飛行隊7機の支援下で、河北省秦皇島市の山海関南門の中国軍を撃退して牛後2時、山海関を完全占領した。4日、日本軍は山海関付近五里の台中国軍陣地を攻撃し、その支援で日本機が石河一帯を爆撃した。これらにより日本軍は北京への東部回廊を確保した。

 山海関には1900年(明治33年)の北京議定書に基づいて支那駐屯軍守備隊50人の駐屯が認められていた(関東軍とは別)。1月1日、山海関守備隊長(支那駐屯軍天津派遣軍)落合甚九郎少佐の命令で、国境警備隊山海関派遣隊特務警士4名が、日本側の山海関憲兵分遣隊の裏庭と日本守備隊派出所前の鉄道線路上に手榴弾2発ずつを投擲、爆発したが損害はなかった。しかし落合少佐はすぐにこれを中国第九旅団何柱国軍の仕業として抗議し、中国側に南関駐屯軍の撤退と日本軍による山海関南門警備を要求した。翌日午前10時、日本軍は楡県城を砲撃し、歩兵隊が続いた。同時に日本軍3000余が石河鉄橋、南関、二里店、五眼城、呉家嶺の線で攻撃を開始した。中国守備軍は応戦し、17時頃までにいったん日本軍は立ち去った。

 実は相手側指揮官の何柱国は北京に行っていて留守中であった。つまりこの手法は満州事変となる柳条湖事件とほぼ同じで、敵方の主要人物が不在の時に起こされている。何柱国が2日夜、北京からの帰路、電話で落合隊長と交渉している間に、日本側は関東軍第8師団の支援を得て攻撃兵力を整え、3日の総攻撃となった。占領後、関東軍司令部へ指示を求めると、事態拡大は目下の情勢上(リットン調査団報告があった後で)不得策であり、みだりに渦中に投じないようにとの回答あり、それでも何柱国軍を追撃し、4日、石河の線で停止、何柱国の軍と対峙しつつ、後の熱河作戦開始まで一服の状態となる。しかし6日には飛行隊の支援下、石河陣地を攻撃し、秦皇島近くの村々を爆撃した。この山海関での衝突は前年秋から三度目であり、すでに満州にとどまらず中国北部(北京を中心にした華北)を占領しようとする日本軍の意図が見えている。

 事実、1月11日、「事態拡大」を抑える方向にいたはずの関東軍司令官武藤信義は、熱河省の国民革命軍を含む抗日勢力を一掃して完全平定する作戦を決定し(1月13日の閣議において、日本軍政府は関東軍に「長城(満洲国の国境とする線)を越えないように」という条件で、作戦を許可した)、1月28日に熱河作戦の発動準備を命令した。満州国としては熱河省を版図に組み込まなければ完成しないとの企図があった。

これに関し、2月4日、閑院宮参謀長からの熱河作戦裁可上奏に対して、天皇は「関内(満州を超えた長城の南側)に進出せざること、関内を爆撃せざること」の二条件のもとにこれを裁可した。しかし天皇の裁可を素直に聞き入れる関東軍ではなかった。それでも自軍を「皇軍」と称して自分たちの作戦をすべて天皇の御意にかなうものとして1945年(昭和20年)の敗戦まで、日本軍は好き勝手にアジア各地に侵攻していくわけである。

熱河作戦

 1933年(昭和8年)2月23日、関東軍が山海関事件後から準備していた作戦を開始する。このために日本からも増援を受けていて、戦車隊や装甲車隊も用意した(この時期の戦車はフランス製であり、それは国内の愛国者団体などからの寄贈であった)。柳条湖事件(満洲事変)で満州から追い出された張学良は、熱河省(満州の南部にあり、現在の河北省の北部から遼寧省西南、内モンゴルの一部まで)で義勇軍を作り、抗日戦に動き出していた。また、満州事変が勃発すると熱河省主席であった湯玉麟は関東軍に投降、満洲国建国宣言に署名したものの、張学良と内通し、約3万にのぼる反満抗日の軍隊を育成していた。これに対し満州国政府(関東軍)は対熱河総司令部を設け、2月18日、熱河討伐の声明を出し、22日、熱河省内の中国軍に対して24時間以内に撤退することを要求した。中国側は23日に要求を拒絶、関東軍と「満州国軍」は連合して熱河進攻作戦を開始した。飛行隊も2月20日に占領した錦州飛行場へと集結し、熱河への空爆を開始した。そして3月2日に凌源を、3日に平泉、4日に承徳を陥落させ、3月中旬までに古北口、喜峰口付近の長城線を占領した。日本政府部内にはこれに反対する動きもあったが、関東軍は顧みずに攻略して行った。

 この時期の問題は、2月24日に国際連盟でリットン調査団報告書に関する審議が控えていたことであった。日本側は「熱河は(日本側が考える)満洲国の一部だから、国際問題にはならないだろう」と、状況を甘く見ていた。しかし、国際連盟の加盟国は、まだ満洲事変や満洲国の問題をどう処理するかの話もついていないのに、日本の関東軍が「占領地」で新たな軍事行動を始めたことは、国際連盟に対する挑戦であると捉えた。2月初頭、国際連盟は日本に対する新たな勧告案を作成し始め、その内容を察知した日本の外務省は慌てた。もし勧告案が満洲国の正当性を否定し、日本がそれを受け入れない場合、連盟規約に従って日本に対する諸外国からの経済制裁が課される可能性があった。

 この前に、2月17日の国際連盟の日本軍満州撤退勧告案に対して、軍の圧力もあって日本政府は拒否、熱河省侵攻を決定し、23日、関東軍は熱河へ侵攻を開始したという経緯になっている。この動きがもともと日本政府内や国際連盟にもあった宥和的な解決策を無に帰し、さらに4年後に日中戦争に突入して占領地域を拡大していくという流れを生み、それに対して米欧等の列国が強硬な経済制裁を次々と課し、また中国から撤退するようにとの勧告を再三行うが、日本は中国で占領した土地や獲得した権益を手放すことを惜しんで反発、1941年(昭和16年)、米英等に対して宣戦布告し太平洋戦争へ突入、戦線を中国以外に一挙に拡大させ、国民を泥沼的状況に引き摺り込んで行った。

 筆者注:ただしこうした流れの元は、日本が富国強兵を掲げた明治時代になってから、最初に朝鮮に対してちょっかいを出すことから生じたのであり、それが朝鮮の宗主国であった清国との日清戦争となり、その結果得たのが台湾と遼東半島の割譲であったが、ロシアを含む三国干渉により遼東半島は手放すことになった。その後ロシアの南下政策により逆に遼東半島にロシアが進出し、朝鮮半島も脅かされることになって、その支配権を争うことで日露戦争となり、その勝利で遼東半島と満州の鉄道などの租借権をロシアから獲得した。その後日本は遼東半島先端部の関東州に関東総督府を設置し、その守備軍が母体となって関東軍が設立された。そしてその関東軍が1931年(昭和6年)に満州事変を起こし、その後関東軍は増強され、上記などの事件を連続して起こして行ったという経緯がある。

 この他、満州事変までに第一次世界大戦への連合国側として参戦し、ドイツの中国における租借地である山東半島の青島(膠州湾)を獲得し、次にロシア革命に対する連合国による干渉戦争としてのシベリア出兵にも日本は参戦し、しかも連合国が1、2年で撤退後も日本だけが4年にわたってシベリアの奥地まで侵攻を続けた。日清戦争(1894年:明治27年)から太平洋戦争終焉(1945年:昭和20年)までの50年間、占領しあるいは台湾や朝鮮のように植民地にした各地において続蹴られる反乱などに対する軍による鎮圧行動を含めて、日本は常に戦争状態にあったと言ってよい。

【蒋介石の苦戦】

 この日本軍の熱河作戦への対応で、蒋介石は共産党に対する第四次囲剿戦中止を余儀なくされる。もともと日本軍は蒋介石を支援(利用)する作戦でやって来ていて、共産党軍に対しても蒋介石と同様に殲滅したい意図を持っていたが、中国内の領地を増やす欲のほうが強く、結果的に蒋介石の計画を邪魔することが多くなった。この先もそのような動きで蒋介石の邪魔をして彼を苛立たせ、日本軍の飽くことのない侵略戦争に対するために、第二次国共合作(国民党と共産党軍の合体)を形成させることになる。この「合作」は日本が敗戦するまで続いたが、蒋介石は1941年(昭和16年)12月に日本が米英に対して開戦(太平洋戦争)すると狂喜したという。

リットン調査団報告書と国際連盟総会の議決と日本の連盟脱退

 1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟総会で、満州事変についてのリットン調査団報告書に基づき、「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が討議された。そして満州の法的帰属については争う余地がなく中華民国にあり、日本が軍事行動をとったことを自衛とは言えないとしたうえで、法律論及び事実の両面から満州国の分離独立を承認すべきではなく、日本軍が満州鉄道の鉄道地区(事変以前の日本の租借地)まで撤退すべきであるとした。また日本の特殊権益を確認したうえで、九カ国条約(1922年:大正11年のワシントン会議に出席した9カ国で締結され、中国に関しての門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、日本の中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図ったもの)の原則を維持することを勧告した。この総会報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)、投票不参加1国であり、国際連盟規約の条件において可決成立した。その内容は前年10月2日の発表より厳しいものであった。

 松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場し、日本政府は3月8日に常任理事国であった連盟の脱退を決定(27日に連盟に通告)し、これを日本国内世論は拍手喝采をもって迎えた。42対1は当時日本で流行語になり語呂合わせで「向こうは死に体でこっちは一番なんだ」等と一部で評されたという。この国際連盟の脱退という決断は、連盟を脱退してしまえば連盟規約に基づく経済制裁は発動できなくなるだろうという日本の外務省による甘い判断だったとされている。なお日本の脱退に続いてヒットラーのドイツ、ムッソリーニのイタリアが脱退してこの3国は後に同盟国となって第二次世界大戦に臨むことになる。

第二次熱河作戦

 1933年(昭和8年)3月2日、関東軍司令官武藤信義は、熱河作戦の続行として「関作命第四九一号」を発し、「熱河省内東南部に作戦し、所在の敵を撃破して清川沿(含む)以東における長城の重要関門を確保」するように命じた。約10万の兵を擁する日本軍は戦車隊を前面に展開し、約20万名とされる張学良軍等を相手に、2日に凌源を、翌日に平泉、翌々日に承徳の重要関門を陥落させ、熱河省の重要拠点を占領した。この2日から4日にかけて、陸軍飛行隊は承徳方面に退却する中国軍を爆撃、4日の投弾量は1675kgにおよんだ。また10-12日、万里の長城の各関門(特に北京北方の古北口)での戦闘となり、飛行隊は占領した承徳と錦州から攻撃に協力した。次に関東軍は3月15-16日、万里の長城の関門のひとつである河北省の抬頭営界北東の喜峰口付近に総攻撃をしかけ、それを飛行隊が喜峰口西方望楼、羅文峪などを爆撃支援、その勢いで関東軍は界嶺口関門を占領し、長城線の要所を抑えて一応作戦は終結した。しかし関内に退却していた中国軍(東北軍)が反撃を始め、日本軍は新たな作戦を打ち出すことになる。

 なお、この熱河作戦では陸軍飛行隊は延べ133機が33.2トンの爆弾を投下した。陸軍飛行隊はすでに満州事変による占領の1931年(昭和6年)末に静岡県浜松の飛行爆撃部隊が公主嶺(長春の西側)に派兵されていて、既述のようにすぐに満州(中国東北部)各地の抗日部隊がいる土地に空爆を繰り返し、この後も頻繁に爆撃を行う。

灤東作戦・関内作戦

 1933年(昭和8年)3月27日、武藤信義関東軍司令官は灤東(らんとう=河北省灤河の北東側地区)作戦を開始した。作戦の目的は満州国の国境としての長城を確保することにあった。実際には、長城から大砲の射程範囲内にある(日本側の主張する)中国領内の中国軍(東北軍)を掃蕩することが求められていた。これに対し何応欽が中央軍5万を北平(北京)・天津地域に集結させると、関東軍は武藤司令官の「長城を隔てる河北省は中華民国の領土である」として長城を越えて行動しないようにと一応自制する姿勢をとった。中国軍は3月末までに部隊を増やして体制を整えた。

 4月10日、関東軍は司令部から越境を禁じられていた長城線を越えて河北省に占領を拡大すべく攻勢を開始、12日には秦皇島を占領した。それに呼応して長城のすぐ外側に航空基地を設け、37機を擁して爆撃と偵察行動のために使用した。19日には司令部から前進部隊へ帰投命令が出されたが、22日、熱河省の南側国境から中国側の圧力を除き、目的(長城から大砲の射程範囲内にある中国軍の排除)をすべて達成した上で、23日に撤収を開始した。ここで中国軍が灤東から完全に排除されたこと、以後中国軍が新たな攻撃を行わないことを確認後、日本軍は直ちに撤退する予定であることを発表した。しかしここまでの侵攻は、日本軍司令部の方針と天皇への約束が破られたことを意味し、この中断は長城以南への侵攻を憂慮した天皇の指示によるものであった。

 その後も4月に国民党軍を率いる蒋介石は、本来、対共産党軍排除を優先し、対日妥協政策の考えを持っていた。実際に日本軍の1月の山海関事件から2月の熱河作戦に至って、蒋介石は第4次共産軍掃討作戦の中止を余儀なくされていた。続けて南昌で第5次共産党掃討戦を計画していたが、日本軍が灤東作戦を終えて長城線に戻ると、現地の中国軍(東北軍)は再び灤東地区に兵を進め反攻にでた。

 そこで関東軍は5月3日、改めて「関内作戦」(関内=長城の内側)を発令し、灤東に進出した中国軍に対して反転して攻勢、7日、一斉に長城線を越えて華北一帯(北京近辺)に侵攻し、15日には中国軍が撤兵条件を受諾した場合として、関東軍が長城線まで退がる意図を示したが、これに対する返答はなく、20日に密雲・豊潤まで侵攻、21日に通州を占領し、23日には灤河を渡って北平(北京)-天津を結ぶ線のすぐ手前まで迫った。ここで中国側は停戦を求めたため、関東軍は戦闘行動を停止し、25日に停戦覚書の調印が交わされ、関内作戦は終了した。

日本軍優位の理由

 およそ満州事変以降の日本軍の侵攻作戦において(特に上記山海関事件から関内作戦まで)、たとえ中国軍の兵力が勝るとしても(地元であるから大体においてそうである)ほぼ日本軍が優位に立って攻略できている大きな要因は、中国軍に大きく勝る飛行機による空爆の力が大きいことによる。4月では、10日、11日、13日、18日、23日、27日、そして続く関内作戦に応じて5月9日、10日、11日-13日、19日、20日と激しい爆撃が継続された。「満州事変」から熱河作戦が終わるまでの日本の陸軍航空隊の戦死者は25人とされるが(そのうち新京での着陸時の残弾爆発事故死が6人)、ほぼ一方的な爆撃なので戦死者は中国人の犠牲者に比して極めて少ない。ただし、この時期はこのようにその爆撃の日付をいくつか上げるだけで済むが、4年後の日中戦争以降は天候不良の日以外は日本軍の爆撃は休むことなく、しかも1日のうち少なくても数回、また数カ所以上、日によっては10回を超える時もある。その実態は筆者の『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』に記している通りである。

塘沽停戦協定

 1933年(昭和8年)5月25日、ここで国民党政府は日本との停戦を求め、31日に塘沽協定を結んで日本側の条件を受け入れ、日本軍は長城以北にとどまることで合意、関内作戦は終了して事実上国民政府は満州国の国境を承認したことになる。そして6月5日、日本軍は長城線に撤退したが、北京の密雲、河北省の石匣鎮・玉田、遼寧省葫芦島市の建昌営に兵力を残しての撤退であった。これによって、東西200km・南北100kmという、ほぼ九州に匹敵する地域を非武装化し、日本は熱河省を平定し、満州国としては南側国境の安全を確保した。以上の三ヶ月の熱河作戦・灤東作戦・‎関内作戦を中国では「長城抗戦」と呼んでいる。

 ここにおいて1931年(昭和6年)の柳条湖事件に始まる満州事変が一応収束したことになる。ただし中国側はあくまで満洲国を正式承認せず、満洲の帰属は両国間の懸案事項として残されたままであった。中華民国政府としては国際連盟によって、日本の民族自決への干渉を弾劾する外交政策を押し通していた。ちなみに満洲国承認についてはドイツ、イタリア、スペインなど、当時の独裁政権の国々が承認している。この後、両国間で「親善工作」は着々と進み、中国は、1934年(昭和9年)末から翌年にかけて満州両国相互間の列車の乗り入れ・郵便・通電・通航などの問題を解決した。しかしこのことが日本軍の中国内への進出をさらに容易にする。

抗日運動と国民党の共産党との抗争

 1933年(昭和8年)3月、宋慶令(故孫文の妻)らが、40余りの抗日団体を結集して上海で国民禦侮自救会(禦侮は侮りを防ぐと言う意味)を結成。ただ、目下の敵は共産党軍とする蒋介石国民政府は、5月に同会に解散命令を出す。ちなみに宋慶令は国民党側から「国共合作」の実現を推進し、戦後共産党政権が実現すると、要職を歩み、最後には「中華人民共和国名誉主席」の称号を授与された。

 この間蒋介石は、中断していた共産党軍への包囲殲滅作戦に全力を傾けたが、蒋介石にとってはこれまでの日本軍の動きは、共産党軍を利するもので、日本軍がその共産党の策動に乗って華北に進出してきたものと映っていた。そのような推移で見ると、最終的に戦後の中国共産党国家の成立については、日本軍は大いに貢献していると言えるだろう。

 7月1日、瑞金(江西省)の中華ソビエト共和国政府(当時は最初の共産主義革命を成し遂げたソビエト共産党が手本とされ、中国共産党もその指導に従っていた関係による)は、毛沢東に代わってソビエト留学帰りの王明が主導していて、反日・反帝・反国民党を宣言する。

 10月:蒋介石は改めて第5次共産分子囲剿戦を開始。これまでの第1次 – 第4次の失敗は、兵力の分散と不慣れなゲリラ戦に対応できなかったこと、さらには紅軍の軍隊としての能力が低いであろうと見くびっていたことにあると判断し、これまで最大の陸軍100万人以上、空軍200機を投入する。さらにそこに経済封鎖も合わせて行った。しかしここでもまた、11月23日、国民党軍に逆らって反蒋抗日を掲げて19路軍を中心に福建人民革命政府(中華共和国)が樹立されたが、蒋介石は素早く動き、2ヶ月で鎮圧した。

 蒋介石の囲剿戦に対して、ソビエトコミテルンから派遣された軍事顧問リトロフ(オットー・ブラウン)の指導で、正規軍による短期正面対決路線をとり、塹壕戦を展開した。これに対し毛沢東・周恩来・鄧小平らは無謀であると反対したが、党中央の決定は覆らず、翌年にかけて共産党軍は国民党軍により各個で撃破され、紅軍(共産党軍)の拠点は次々と陥落、ほとんど壊滅状態となった。その結果、国民党軍に敗れた紅軍は、中華ソビエト共和国の中心地であった江西省瑞金を放棄し、1934年から1936年(昭和9-11年)にかけて国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で移動し続けた。これを「長征」というが、「西遷」、「大西遷」ともいう。

継続される陸軍飛行隊による空爆

 1932年(昭和7年)に続き、日本軍による空爆状況を見ていく(前年と同じ資料から)。

 1933年(昭和8年)に入り、日本の関東軍は熱河省の占領をねらって攻撃をすすめた。1月3日には日本軍機の支援下で山海関を占領、6日には軍機の支援下、石河陣地を攻撃し、秦皇島近くの村々を爆撃した。通遼方面の抗日軍への攻撃も進められ、1月22日には開魯城内の鄧文の宿舎を狙っての空爆がおこなわれ、連日の爆撃によって開魯は24日、関東軍によって占領された。

 日本軍は熱河省占領を目的に長城をこえて河北省へと侵入する。この熱河作戦には飛行第一二大隊全隊が参加した。2月20日には占領した錦州飛行場へと集結、主な攻撃は25日の朝陽西方の大営子・大平房付近の歩騎兵、26日の約1500の兵、3月2日、4日の承徳方面に退却する兵への爆撃がある。4日の投弾量は1675kgにおよんだ。3月5日には長城近くの界嶺口まで兵を追い、大杖子付近を爆撃した。3月10日からは長城線での戦闘となり、第一二大隊は3月12日に古北口、3月13日に抬頭営、建昌営など、16日に喜峰口西方望楼、羅文峪など、23日に建昌営、30日に冷口付近八道河など東地区へ爆撃を続けた。

 4月に入ると古北口、南大門、興隆などへの攻撃に加わり、4月11日に永平西方、13日に抬頭営市街、18日に密雲市街、23日からは南天門付近の陣地に対して次々と爆撃した。密雲への爆撃は高度2千mから15kg爆弾54発を連続投下するというもので、無差別攻撃となる。

 5月9日、第一二大隊第二中隊の軽爆隊は承徳飛行場に進んで第八師団を支援、第一二大隊主力は建昌営飛行場に進んで第六師団を支援、重爆隊は綏中飛行場から戦闘を支援した。第八師団は5月11日、新開嶺付近の兵団を攻撃したが、その攻撃に重爆隊も参加、250kg爆弾も使われた。250kg爆弾とは当時としては最大の爆弾であろう。13日に永平西方三家唐付近、遵化城壁などを爆撃した。第八師団は三日間の戦闘で石匣鎮を占領、投下爆弾は440発におよんだ。一方、第六師団は5月12日武烈河を渡り、第一二大隊は対岸陣地を空爆し、陸軍の渡河を支援した。こうして5月19日、日本軍は密雲を占領、20日には第八師団が密雲、第六師団が玉田一帯に集結、同日、日軍機11機が北平(北京)上空を威嚇飛行した。5月25日には第一二大隊はさらに前進して玉田飛行場に展開していた。このような形で北京占領への威嚇がおこなわれ、31日に塘沽での停戦協定が成立する。6月5日、日本軍の撤収とあるが、日本軍は密雲、石匣鎮、建昌営、玉田に兵力を残しての撤退であった。第一二大隊は「新京」へと撤退した。

 「満州事変」から熱河作戦が終わるまでの日本の空中勤務者の戦死者は25人、そのなかには「新京」での着陸時の残弾爆発事故死が6人いる。他方、これらの空爆によって当然の成り行きとして多くの中国人が生命・家族・財産を失い、負傷者も数多く出た。

(竹内 康人「戦争の拠点・浜松:満州侵略と陸軍飛行第一二大隊」より要約)

日本軍の占領とその後の惨劇

 前年に続き、『侵華日軍暴行総録』からである。(訳文は筆者。▷印は日本側の記録から適宜拾い出したもの)

【開魯占領】

 前年1932年(昭和7年)10月半ばよりモンゴル自治区への空爆が少なくとも8回行われているが、主には抗日軍への攻撃であり、占領地区の拡大の意図によるものである。1月15-16日、張学良の別働隊司令部が置かれたモンゴルの通遼市開魯城に爆撃が行われた。この時開魯では同士打ちによる市街戦が行われている最中でもあり、死傷者は数百名に及んだ。1月22-23日には通遼市開魯城内の鄧文の営舎を狙っての空爆がおこなわれ、連日の爆撃によって24日、開魯は関東軍によって占領された。

【駝腰子金鉱の略奪と搾取】

 駝腰子金鉱は黒竜江省の比較的大きな金鉱の一つである。1933年(昭和8年)2月に日本軍はこの金鉱を占領し、東北各地から貧民を騙して労工として集め、最大で2万人以上を働かせた。日本軍はこれらの「採金労工」に対して極めて過酷であくどい労働を強いた。葦簀張りの小屋に住まわせ、粗食を与え、井戸を使わせず水を高く買わせた。金鉱の各場所に吃煙館(アヘン吸引所)、賭博場、妓楼を開いて労工の骨の髄まで吸い取った。鉱山では衛生施設がなくて多くの人が病死した。1938年(昭和13年)、鉱山では疫病が流行し、採金工とその家族が大量に死亡し、一日に7、80人もの死人が運び出された。採金所ごとに日本兵と監督がいて、千人単位の労工の行動を厳密に監視した。そのころはすべて手作業で、一日14、5時間も働かされて途中で道具を置いて休む者がいたら、労工たちは日本兵に暴行を受けた。すべての坑道には安全施設がなく、崩壊での圧死などの事故が多発した。日本軍は死傷した労働者に対して慰謝料も治療も与えず、労工はたくさんいるから、死んでも構わないと放言した。日本軍は1933年から1942年(昭和8-17年)までの9年間、計25万両の金を採掘し、そのほとんどは東京に運ばれた。

 なお1933年(昭和8年)6月22日、奴隷と搾取に対して祁宝堂を首領とした蜂起があり、7人の日本軍看守を撃ち殺し、機銃1丁、小銃6丁、ピストル2丁、弾丸700発余りを分捕った事件があった。蜂起が成功した後、20人以上の鉱山労働者が抗日隊に参加し、8月には日本軍が金鉱から佳木斯に金を運んでいる途中の範家店で待ち伏せして襲撃、日軍20人余りを銃殺し、日本軍が輸送したすべての金と3台の大型車を分捕り、銃20丁、弾丸1000発余りを分捕った。

【囲場県津生泰惨事】

 1933年(昭和8年)3月4日、下記の熱河作戦とは別に、モンゴル自治区赤峰を侵略した関東軍は津生泰営子で中国軍第41軍孫殿英部隊と激戦を繰り広げた。孫部隊が撤退すると日本軍は津生泰に侵入し、人を見ると発砲しその場で6人を殺害した。津生泰二番頭の張西庚は10数人を率いて出撃したが、日本軍に短機関銃の乱射をうけて殺された。その後日本軍は捕らえた30人余りを煉瓦の家の大炉坑に追い込み、10数丁の銃を炉坑に向けて銃撃した後、手榴弾数個を炉坑に投げ込んだ結果、罪のない住民が血肉を吹き飛ばされた。その後火を放ち、津生泰を焼き払った。この惨事で、日本軍は民間人33人を殺害し、数十軒の部屋を燃やし、財産の損失は約5000銀元(一円銀貨5000枚:円は旧字の圓で、元はその簡略字)となった。

【延吉県老頭溝惨事】

 1932年(昭和7年)の夏から、傀儡の傀儡軍警と自衛団は東満州地区に対して残酷な掃蕩を行い、吉林省の老頭溝一帯は最も被害のひどい地区であった。1933年(昭和8年)3月ごろ、日本軍第十師団歩兵第十連隊隊長人見大佐は、部下に「この作戦では、婦女、児童、老人を発見すれば皆殺しにする」と命じた。第十連隊第六中隊の本行武夫が率いる第一小隊が小さな村を捜索したところ、藁積みの中から11歳ぐらいの朝鮮族の子供を見つけ、原野軍曹に渡し、軍曹は家の手前30mの窪地で斬りつけた。同日11時、本行ら20余名の日本軍は第一気小隊長市川少尉指揮の下、老頭溝から1kmの山中まで進み、30歳ぐらいの女性を発見し逮捕、安藤一等兵は剣先をその陰部に刺し、小銃で撲殺した後、遺体を岩上から林の中に蹴り落とした。同14時、中隊長の山本大尉が第六中隊を指揮し、老頭溝から北へ4kmの某村付近、市川少尉および本行らが、18歳前後の男女四人を捕らえ、中隊長の命により山崎上等兵が軽機関銃で全員を殺害した。以上は 今日では統計をとりづらいが、1954年(昭和29年)の本行武夫の証言(於:撫順戦犯管理所)の一部であり、老爺溝事件全体の被害者は少なくなかったことが想像される。

【喀左県東赤里赤の惨事】

 東赤里赤村は遼寧省喀喇沁(カラチン)左翼蒙古族自治県の蒙漢両族の雑居村である。1933年(昭和8年)7月28日午前、日本軍は朝陽の警備隊と傀儡保安隊300名余りの将兵を集め、東赤里赤村の南に侵入して勝手に作物を踏みにじり、家畜を奪い、村民を殴打した。これに対し連荘青少年保護委員会の鄒立田らが抵抗し、そこで日本軍はすぐに東赤里赤村を包囲した。まず迫撃砲、機関銃、小銃が一斉に村中に発射され、石が飛び散り、硝煙があがった。続いて東赤里赤村に突入し、物を見れば奪い、人を見れば殺した。村の南のとっかかりの家の張玉徳は、家を出たところで日本将校に刀で首を切り落とされた。夫の悲鳴を聞いて妻が家を出たところ、一人の日本兵に銃剣で突き倒され、八カ月の嬰児を抉り出された。張郭の三人の子供はオンドルの上に座って恐怖に震えていた。日本兵は部屋に入って三人の子供を引っ張り出し、女の子を玄関の外に蹴り出し、二人の男の子を日本兵は鋤で殴った。子供は痛みに耐えられず泣きながら庭を走り回り、日本兵はそれを見て笑っていた。その後銃で二人の子供を殺害した。南関帝廟の泥像に逃げ込んだ四人の物乞いが、日本の将兵に銃殺されたり刀で斬られたりした。韓二粉屋の妻は妊娠していて2歳の子を抱き4歳の女の子を連れて、戸口の麻畑に隠れた。飼い犬も一緒に麻畑に逃げ込んだため、日本軍将兵は麻畑に入って銃で犬を撲殺し、一刀で韓の妻を斬り殺した。二人の子が母親に飛びついて泣き叫び、日本兵に銃殺された。このほか、2時間足らずで、日本軍は東赤里赤村で無辜の村民32人を銃殺、斬殺し、5人を負傷させ、民家59戸を焼いた。その惨状は目に余った。

【日本軍の村落放火】

 于家溝は遼寧省撫順清原の西南10数km外にある敖家下郷に属する偏辟農村である。1933年(昭和8年)旧暦の師走13日(1/27)に清原を占拠した日本守備隊は突然于家溝に侵入し、外から中へと家を燃やしていった。大多数の農民は畑で働いていたが、煙が出ているのを見て、続々と駆けつけてきて火を消そうとしたが、日本兵は銃剣で近づくことを許さなかった。こうして、于家溝では数十軒の家々が全焼し、食糧、衣服、布団、箱、家具などがすべて焼失した。病気で家にいた于占水は焼死した。高家の夫人は、出産して7日目だったが家が焼けて赤ん坊を連れて山小屋に入り一夜を明かした。しかし真冬の寒さは出産後の女性の体力を奪い、翌日親族の家に担ぎ込まれたが数日後に亡くなった。当時7、8歳の邵宝林は両親がいず、80歳の祖父と生活していたが、家が焼かれて関帝廟の中に移って暮らし、寒さと食べものもない中、物乞いをしていたが、祖父は寒さと空腹で死んだ。老呂家の6人家族の父は餓死し、下の5歳と3歳の子は樹皮を食べ砕いた米の芯を食べたため、大便が乾燥して1ヶ月足らずで死んでしまった。趙の2人の子供は食べるものがなく、山菜で飢えをしのいだが、飢餓で全身が腫れ上がり、数日で死んでしまった。冬は地面が凍って家を建てることもできず、村人たちはこの何軒か焼け残った家に集まって、窮屈に過ごしたが、すると疫病が蔓延して、病死者は50人余りになった。

【秋皮溝における日本軍守備隊による強制移住の罪行】

 1933年(昭和8年)、撫順の日本軍守備隊長山上大尉は「並屯集家」(あるいは集家並屯)という「特別指令」を発し、郊外の小さな村を廃して、大きな村に強制移住させるという暴挙に出た。同年8月4日午後4時、日本守備隊の将兵を満載したトラックが、撫順近郊の秋皮溝(遼寧省瀋陽市法庫県)にやって来て村を襲撃した。日本軍は車からとびおりてきて松明の束に火をつけ、秋皮溝を火の海にした。彼らは秋皮溝を焼き尽くし、大東溝、小房身溝、西溝、北溝……至る所で煙が立ち上り、空の半分を赤く焼いた。家、衣服、食糧を失った老若男女の悲鳴が天と地を震わせた。日本守備隊は撫順に侵攻して一ヶ月もしないうちに、新賓県城を占拠し、新賓周辺の小村の家屋千余間を焼いた。日本軍の住民殺戮は最大で4日で500−600人に及んだ。新賓北山では抗日志士と無辜の村民1万人以上が埋葬され、万人坑を築いた。(「並屯集家」は別の地区では「帰屯並戸」とも言い、抗日ゲリラを村の中に散在させないための「無人区」政策の一つである)

 1933年(昭和8年)10月、日本軍守備隊は遼寧省清原県崔荘子に侵入し、抗日自衛軍大刀隊戦士29人を捕らえ、全員、機関銃の下で惨殺した。

 1935年(昭和10年)3月24日の午後、日本軍守備隊は武装した小隊を派兵して清原県王小堡村を急襲し、人を見ては殺し、家を見ては燃やして無垢の住民9人を殺害した。4月18日、日本軍は上煙溝村でまたも残虐な殺戮を行い、無垢の村民16人を殺し、さらに100間の家屋が全焼した。

 1935年(昭和10年)8月22日、日本軍は清原県南山城、湾甸子、草市、英額門等の村を襲い、合わせて150人余りを捕らえて、3台の大型トラックに積んで、清原県西街の芝生地まで連行し、4挺の機関銃を同時に発砲し、無垢の村民150人余りを惨殺した。この150体余りの遺体は、清原県南八家稗子溝の万人坑に埋葬された。(清原県については下記にも多くある)

 1936年(昭和11年)、日本軍は馬架子溝の山地で畑仕事をしていた農民20人余りを追い出し、無差別に殺した。また匪賊共謀の罪をもって楊景新、楊徳清、徐長忠など20余人を新賓北山で虐殺し、万人坑に投げ捨てた。

 1937年(昭和12年)3月14日、守備隊長が率いる30人を超える重武装の日本軍が新濱県の関家堡子に侵入、36人の農民を捕縛し、全員を殺害した。

【新賓北山万人坑】

 上記の新賓北山についてである。新賓(興京)は清王朝発祥の地であった。1931年(昭和6年)の統計によると、新賓全県の人口は31万人だったが、1945年(昭和20年)には11万人に激減している。日本が新賓を侵略占領した10余年にわたる間に減少した20万人のうちの相当数が県外に脱出し、少なくとも1万人以上が虐殺され、万人坑(人捨て場)に投げ捨てられた。万人坑は県城と比較的大きい何カ所かの郷・鎮の付近に多く分布し、その中で規模が最も大きいのは、当時の県公署と県警察局に近い北山の麓の窪地にある北山万人坑である。北山万人坑は、同時に抗日の軍民を虐殺した処刑場でもあった。この山麓の処刑場にある楡の大木に、処刑した人々の首(頭)を吊り下げて見せしめとし、新賓の人々を脅かし服従させるのに利用した。その楡の大木には、犠牲者の首を吊り下げた鉄の輪と鉄クギが幹に突き刺さったまま残っていて、2000年(平成12年)初頭に撮影された写真もあるが、今は枯れて幹の下部だけが残っている。1964年(昭和49年)の発掘調査で、200柱余の遺骨がこの一角で発掘され、記念館が建てられた。この辺りはかつては窪地だったが、それを利用して日本軍は人捨て場とした。時には数十人、時には数百人という虐殺が10年近くにわたって行われ、万人坑が形成された。北山の山頂には抗日英烈記念碑が建立されていて、その後方に、日本軍に抵抗して殺された抗日烈士二人の胸像がある。(この項は『万人坑を知る旅』青木茂のサイトより)

【清原崔荘子の惨事】

 1933年(昭和8年)10月、秋の収穫期にあたり、日本軍はこれが抗日武装を討伐する最良の時機だと考えた。清原県を占拠していた日本守備隊は四方から出撃し崔荘子村付近まで侵入したとき、山から作物を背負っている農民たちを見て、彼らが武器のような物を持っているとみて包囲した。それは武器ではなかったが、農民に付いて崔荘子に入ると家々を捜索した。当時抗日自衛軍大刀隊兵士40人余りがこの村に仮住して、村民と一緒に食事をしたり労働をしたりして時機を伺っていた。そこで自衛軍の長い槍や太刀などが日本軍に発見されたが、村長の董玉珠等は、自衛軍はここで改心し、畑を耕していると話した。すると日本軍将校は、彼らをすべて集めて皇軍から訓話をしなければならないと言った。村長が24名の大刀隊員をすべて探して来ると、日本軍は一言もいわずに彼らを縛り上げ、村の大廟の庭に連行し村長も縛った。この時、村民の二人も大廟の前を通りかかって、同じく縛られた。日本軍将校の命令で、二挺の機関銃が一斉に掃射され、29人が全員殺害された。日本軍は殺戮した後、村人を捕まえてきて薪を持たせ、大廟と西街の2カ所で火をつけ、村の50戸余り100間余りの家が全焼した。

【延吉三道葳惨事】

 1933年(昭和8年)10月、日本軍第十師団第33旅団歩兵第10連隊第一大隊中村正名は第一大隊を率いて吉林省三道葳の抗日遊撃隊を襲撃しようとしたが、遊撃隊を見つけることができず、三道葳住民も村を脱出していて、中村は宣撫班を利用して住民を騙して村に戻し、老若男女を問わずすべて手榴弾と銃剣で殺した。日本軍はまた、三道威の民家約16軒、張子営の民家78軒、屯田営の民家17、8軒を焼き払い、65人以上の無辜の人々を殺害した。

【肇東県監獄惨事】

 1933年(昭和8年)11月4日午後5時頃、黒竜江省綏(すい)化市肇(ちょう)東県傀儡政府所在地の昌五鎮内の監獄で爆発事件が発生し、収監されていた20数名の重罪犯が逃走し、約30名の軽罪犯が残った。この事件で日本軍は怒りを爆発させ、残った囚人たちを車で昌五西門の大坑に沿って一列に並ばせ、銃剣を囚人の胸に突き刺して背中まで刃先を突き出すなどして30人ほどを殺害した。

【北安市張景芳屯惨事】

 1933年(昭和8年)12月3日午前、8台の大型トラックが日本兵を満載し、日本軍将校黒田の指揮の下、張景芳屯(現・黒竜江省北安市石華郷)を襲撃した。屯中の男たちは全員逮捕され、両手をしばられて張景芳(地主)の庭に押しこめられた。それから一人一人の村民に、鳳好と六合(土匪の名前)は誰だと問い、返事がないまま村民に対する大虐殺が始まった。重武装した10数人の日本兵が銃剣を持って村人の群れに向かって行き、突き刺した。途端に死体が散乱しあたりは血に染まった。黒田はさらに兵に命じて、豆や麻の藁を死体にかぶせ、風上に火をつけて焼き払った。体に一発の弾丸と、四つの刀傷を受け、生き残った唯一の証人である時煥によると、張景芳屯の惨事で無辜の民間人100人余りが惨殺され、その中にはこの屯(村)にたまたま訪れた近隣の人や行商人がいた。

【投降抗日部隊虐殺事件】

 1933年(昭和8年)秋、黒竜江省チャハル通河県の抗日部隊吉星隊150人余りが日本軍に投降したが、志士20人余りが山に逃げて抗日活動をした。これに怒った日本軍は、匪賊を討つと称して、投降していた40余人を祥順郷向陽川侯家の庭に連れて行き、5人一列に縛って院裏の柳条通に連れて行き、集団で銃殺した(一人が生き残った)。さらに年の暮れ、日本軍は投降隊の残り80余人を、針金で一つにして、バッチに分けて通河県城東南東沙溝子の入江まで引っ張り上げ、集団で銃殺した後、死体をすでに掘っておいた氷槽の中に引きずり、松花江の中に押し込んだ。

北票炭鉱と「万人坑」

 1933年(昭和8年)3月、日本は熱河省を占領し、6月、北票炭鉱(遼寧省朝陽市)も接収した。清代以前から民間が手掘りで採掘していたが、日本の占領前の北票炭鉱は、官民による北票炭鉱株式会社として良質な石炭が採れ、当時は熱河境内で最大の炭鉱だった。日本の占領によって満鉄の経営に変わり、1945年(昭和20年)8月まで12年間の占領期間中に、63平方kmの区域で石炭842万トンを収奪し(つまり軍によって相手国が運営していた炭鉱を丸ごと強奪するわけで、戦争とは基本的に無法下で行われ、普段の取引的慣習などもすべて無視される)、過重労働により3万1200人が死亡した。そして、冠山・北大壁外・三宝・城子地・台吉南山の五ヶ所の万人坑(千人から万人単位で死体が埋められた場所:死体の捨て場)が作られた。1967年(昭和42年)に北票工務局は台吉南山の万人坑を大規模に発掘し、2.5平方kmの山腹で6500体の遺骨を発見し、そのままの状態で保存し、その中心に北票鉱工記念館が造られた(詳しくは下記)。台吉南山だけで一万体以上の遺骨があると推定されている。なお、北票炭鉱占有後の翌1934年(昭和9年)12月25日、この炭鉱でガス爆発が発生、労働者52人が死亡、37人が負傷する事故が発生している。当時は安全対策が不十分なため、このような事故はその後も各地で多発するが、犠牲者たちが丁重に葬られた可能性は、とりわけ占領時代の後半においてはあまりないと思われる。

 以下は北票炭鉱の中の坑道に造られた万人坑である。

【冠山東山斜面の万人坑】

 冠山竪坑の東山の斜面には近隣の農民の墓地があった。はじめのうちは労工たちが死んだ場合、古い坑木で作った棺桶を東山の斜面に丁寧に埋葬していたが、やがて死者が多くなり炭鉱長が命じてござを使って埋めさせた。まず北側の斜面に埋め、それがいっぱいになると中央の大溝を越えて、南側の斜面に埋めた。1937年(昭和12年)初頭までの4年間、東山の斜面は北から南にかけて一つ一つの墳丘となっていた。それ以前は冠山には一つの村があるだけだったが1937年(昭和12年)の春には北票炭鉱労働者の数は5400人余りに増加し、炭鉱は最初に死者を埋めた東の山の斜面に労働者の家を建てることにし、東山斜面の万人坑の骨の多くは北大壁外に移転された。それでも東の斜面には少なくとも2000人あまりの労働者の死体が埋められているという。

【北大城壁外にある万人坑】

 北大壁外の万人坑は、上記のように1937年(昭和12年)春に東の斜面から移された遺骨から始まった。その特徴は大きな溝で、溝の長さは1700m、幅は43m、深さは30m、総面積は109.5畝である。この大溝は冠山竪坑から1.5km、北大壁から500m離れているので、北大壁外と呼ばれた。過労死、病死、坑内でのガス死、事故死、虐待死、あるいは首を吊っての自死などで死んだ者たちは、死体処理専門の車夫が一年中車に死体を積み、大溝に運んでその底に転がして落とした。その後は長年の山崩れで、犠牲になった死体の一部は土砂で溝の底に押しつぶされ、一部は西河に流された。大雨の後、両岸には多くの白骨が堆積した。当時の鉱山の技術労働者の楊暁鋒によると、4年もたたないうちに(1937年3月から1940年6月まで:昭和12-15年)、北大壁外の大溝に投げ込まれた労工の死体は少なくとも3500体あったという。

 冠山竪坑での増産が計られ、鉱山側は冠山第二坑(当時は南山坑と呼ばれ1938年:昭和13年2月に開始された)の建設を急いだ。労働者はそれに伴い増やされ、死亡率も高くなった。死体運びは窯営や達子営など、住み込み労働者の多い村を通らなければならないため、その後北大壁外の万人坑は城子地に移された。

【城子地の万人坑】

 城子地は1940年(昭和15年)から形成され、北票炭鉱の北西2.5kmの郊外に位置し、もとは20畝の規模を持つ平坦な肥沃な良田であった。北票炭鉱の5カ所の万人坑の中で、城子地の万人坑が最も大きく、穴が数も多く深く掘られた。北票炭鉱で通訳をしていた張鳳祥によると、毎年秋になると土が凍らないうちに農家を雇って穴を掘った。北票炭鉱の老人蔣化民は、かつて冠山採炭所「協和寮」事務所で働いていた。協和寮は北票炭鉱最大の独身寮で、87棟の建物いっぱい詰め込まれて住んでいた。先に来た者から死に、次々に補充して、いったいどれだけ死んだのかその数は計り知れない。協和寮の総監督は日本人の佐々木で、この男は荒っぽく生きた閻魔と言われ、労働者を撲殺し、感電死させ、はんだごてで焼き殺し、麻袋に入れて転がせて死なせるなど、彼の暴力で死んだ人は数知れない。冠山採炭所の労働者は何度かストライキをしたが、逃走して捕まえられた者は、10人中9人が殺された。城子地の万人坑は解放後(戦後)間もなく耕地となり、今は建物が点在している。しかし多くの調査と多くの目撃者の証言により、城子地の万人坑で埋葬された労働者の死体は万体以上であることが明らかになっている。

【三宝万人坑】

 三宝は通称尖山子と呼ばれ、北票から9km離れている。鉱山が開かれる前は辺鄙な山あいで、人家は少なかった。この万人坑は前後して3カ所あり全体で90畝の敷地を占めている。この地の特徴は穴を掘らずに楊樹林の中に撒かれたことで、1936年から1945年(昭和11-20年)まで、ここに労工の遺骨が撒き散らされた。三宝一坑の北西約1kmには20畝のポプラなどの楊樹林があり、元は農家のまばらな墓地であったが、農家の墓は他に移されて、林を遺体の捨て場にし、その遺体は野良犬の群れを招き、食い荒らされた。やがて楊樹林は労工の死体の骨でいっぱいになり、三宝採炭所は姚溝に遺体を運ぶように指示した。姚溝は三宝一坑北2kmにあり、もとは農家が牛や羊を放牧していた牧場であったが、その山の斜面にもまた死体があふれ、三宝採炭所はまた新しい場所を探した。…… 目撃者の老人によると、三宝採炭所では10年近くの間、惨死して捨てられた労工は8000人に達したという。

【台吉南山万人坑】

 北票炭鉱の中の台吉南山万人坑の面積は25.48畝、元は山の斜面地であった。1938年(昭和13年)から日本人は台吉炭鉱を狂ったように拡大し、1939年(昭和14年)には一坑から120385トンの石炭が生産され、1940年と1941年(昭和15年、16年)には二坑、三坑が相次いで建設され、数年の間に労働者の数が大幅に増加した。それに従って労工たちの死者数は大幅に増加した。当時「報国寮」には死体回収専門の人がいて、人が死んだらまず「死人庫」に置いて、それから死体を運ぶ専門の荷車で万人坑に運んだ。その回収人だった鄧樹芳は、南山の万人坑では1日に2回運ぶことがあったと証言した。「報国寮」の東寮の向かい側には40人以上が住んでいたが、ある冬、30人以上が餓死・凍死した。別の部屋では、前の晩に病死者を一人引っ張り出したが、翌朝、27人全員が煤煙でガス死しているのを発見し、荷車を三回引いて万人坑に投げ捨てたという。

 台吉第一坑では当初の2年間、死亡した労工は今の台吉六工村の近くに埋められた。そこは荒れ地で、その辺りの住民の墓があったが、労工の死体が埋められたため、地元の人々は悲鳴を上げた。1938年(昭和13年)4月、台吉第二坑の建設が開始されたが、墓地が坑口に近すぎたため、この墓地を台吉南山に移転し、最初の墓地は労工たちの住宅とされた。

 毎年秋になると、台吉採炭所は人を雇って事前に穴を掘って、冬に死人を埋める準備をしていた。およそ二、三百個掘っていたが、春にならないうちに埋まった。「報国寮」内には、重病人が死なないうちに「死人庫」に運ばれた人もいれば、死んでもいないのに万人坑に引きずり込まれた人もいる。1943年(昭和18年)秋のある夕方、李が牛追いをして山を下りると、突然山の窪地から助けを呼ぶ声が聞こえてきた。胸をむき出しにした青年のまわりに、数匹の野良犬が吠えていて、その青年は手に石を握って野良犬を殴っていた。李は牛追いのむちで野良犬を追い払い、青年の命を救った。その青年は病気で万人坑に連れて行かれたのであった。

【大量の遺骨発掘と記念館】

 1967年(昭和42年)5月、中国北票鉱務局は北票炭鉱の万人坑のうち、台吉南山地区を発掘、整理した。山の斜面からは労働者の遺骨6500柱あまりが発掘され、その作業は発掘時の状態を保つように心掛けられ、遺骨の中には、ハンマーのような鉄器に打たれて頭に穴があったり、脚や腕がないもの、刃物で切断されたり、骨折したもの、あるいは腰に二本の針金を巻きつけられたり、足枷をつけられたり、下肢のあちこちが折れていたりしていて、労工たちがどれほど悲惨な死を遂げたのかを示している。死体の中には、おばあさんの遺骨があり、彼女の息子は労工として連行され、間もなく死んだ。おばあさんは息子を探しに来たが会えないまま、行く先々で周囲に拉致された息子のことを訴えながら道端で凍死した。(以上は中国の「百度百科」より)

 記念館の門を入ると、40m四方の中央広場があり、広場の奥の方に「日偽統治時期北票煤鉱死難鉱工墓」と刻まれた高さ10mくらいの大きな記念碑が建ち(1967年:昭和42年 建造)、記念碑の右手に細長い造りの資料館がある。最初の展示館では、頭から足先まできちんと整った遺骨が頭の位置を互いにそろえ、同じ向きに碁盤の目のように整然と並べられている。これは最初のころの遺体の埋め方で、丁寧に埋葬されている。犠牲者が多くなると、穴を掘って埋葬することもできなくなり、周辺の谷に次々と遺体を放り込むようになる。それは「配列型遺骨房」で確認できるように、4体ほどの遺体をまとめて縛り、そのまま谷に捨てることが行なわれた。埋葬場所がいよいよなくなると、煉人坑という焼却炉が作られて遺体を焼却するようになる。この煉人坑跡を包むように展示館が建てられ保存されている。 さらに万人坑遺跡の谷の右岸にある遺骨館の中に、生き埋めにされた労工の遺骨が保存されている。またこの展示館の周囲の土地一帯に土饅頭が残されていて、これらは発掘されないままとなっている。展示品の中には日本人現場監督が使用した刑具の一部があり、その刑具には「打ち殺してもかまわない」という文字が刻まれている。つまり労工を打ち殺しても一切罪には問わないということである。北票鉱工記念館は、現在(2017年:平成29年)大規模な拡張・増設・改装工事が進められていて、2年後には北票炭鉱万人坑の新記念館として竣工・開館する予定である。 (青木茂の「万人坑を知る旅」より)

鶏西炭鉱万人坑

 鶏西は黒龍江省南東部の中心都市である牡丹江市から北東方向に直線距離で130km程のソ連(ロシア)との国境に近いところにある。鶏西地区は石炭資源が豊富で、1916年(大正5年)に最初の炭鉱が開発され、1932年(昭和7年)に満州国を成立させた日本がこの石炭資源に注目し、1933年(昭和8年)に支配下においた。その後、満州炭鉱株式会社の傘下の密山炭鉱株式会社が鶏西炭鉱を支配下におく。そこから採炭規模を順次拡大し、穆稜・滴道・恒山・麻山・城子河などに採炭所を拡げ、林口から鶏西を経て密山に至る鉄道が整備された。

【中国人労工の徴用】

 鶏西炭鉱での労働力を確保するため、「満州国」内の炭鉱周辺の各県に「報国隊」や「勤労奉仕隊」(この二種の隊は日本国内でも展開されている)を割り当て、中国人を労働力として強制的に徴用した。また良い就労条件だと宣伝し、あるいは占領地の住民を強制連行して、満州以南の各地から中国人を集めた。さらに侵攻作戦によって捕らえた捕虜を「特殊労働者」として徴用したり、炭鉱の近くの農民を強制的に連行することも行なわれた。こうして集めた中国人を管理するためにいろいろな仕組みが作られた。1941年(昭和16年)に城子河で労働者の「訓練所」を設置し、500人余の中国人をそこに収容し、炭鉱の警察組織の監視下で石炭採掘作業に従事させた。1942年(昭和17年)には城子河・滴道などで「特殊労働者訓練所」を開設し、華北地区から送られてくる捕虜を収容し、労工として徴用した。さらに1944年(昭和19年)に城子河で「鶏寧司法矯正輔導院」を作り、東北(満州)各地から連行してきた浮浪者など500人余の人々を監禁し、強制的に炭鉱で働かせた。こうして炭鉱に集められた中国人労工は自由を奪われ、監獄の囚人と変わりはなかった。

【石炭採掘の奴隷労働】

 日本人炭鉱経営者の関心事は石炭生産量の確保だけであり、労工たちの健康や命は無視され、炭鉱の警察組織や日本軍の監視下で、労工たちは衣食住とも劣悪な条件の中で長時間の過酷な労働を強制された。そうして厳しい寒さや飢餓・過労・衰弱・病気など、あるいは事故により労工たちは次々に命を落としていった。その中でも滴道炭鉱では、1937年(昭和12年)4月に62人、同年6月に176人、1942年(昭和17年)にも140人、1943年(昭和18年)に140人、1943年(昭和18年)にも146人がガス爆発事故で死亡した。このうち1943年(昭和18年)の老二炭鉱でのガス爆発事故では、ガスと炭の粉塵の量が多く爆発の危険が高いため作業を中止する必要があると、副炭鉱長の徐成山が日本人責任者の顔川に事前に報告していた。しかし顔川は作業を続けさせ、間もなくガス爆発が発生し146人が死亡した。徐成山は日本人の顔川に逆らうことはできず、自分一人は逃げ出していたので難を逃れることができた。これらの重大事故の他に、一度に20人や30人が死亡する事故はよく発生し、数人が死亡するような小さな事故は頻発していた。こうして中国人労工が次々に死亡しても強制連行などで絶えず補充し、常に6万人の労工が鶏西炭鉱で確保されていた。

 この状況から逃れるため逃走を試みる者もいたが、逃走に失敗し捕まえられると、他の労工への見せしめのため日本人責任者は厳しく処罰した。1940年(昭和15年)の冬に逃走に失敗し捕まえられた恒山の労工はシェパード小屋に放り込まれ、シェパードに噛み殺された。1941年(昭和16年)の冬に城子河労働者訓練所の7人が逃走に失敗し捕まえられると、警備隊は零下20度の屋外にある電柱に7人を縛り付け、全身に水をかけ凍死させた。1942年(昭和17年)にも城子河鉱山警備隊は、逃走した6人の労工を捕まえ犬小屋に放り込み、6名を犬に食い殺させた。このようにして日本人は、鶏西炭鉱を支配した13年間で1600万トンの石炭を収奪し、数万人の中国人労工を死亡させた。

【鶏西炭鉱万人坑記念館】

 鶏西炭鉱の強制労働で死亡した中国人労工の遺体を焼いた死体焼却炉を保存するため、焼却炉を現場にそのまま残し、それをそっくり覆うように1966年(昭和41年)に記念館(展示館)が建てられた。記念館は鶏西市郊外のなだらかな山中にある。ガス爆発事故などにより鶏西炭鉱で死亡した労工の遺体を焼くため、死体焼却炉が5基作られたが、現在も残っているのは記念館内に残された1941年(昭和16年)に建てられた1基だけで、中にはに焼かれた遺骨の一部が保存・展示されている。1941年からの3年間で4千体以上の労工の遺体が焼却された。しかし、焼却が追い付かず、そのまま万人坑に捨てられた遺体も多い。遺体焼却が1944年(昭和19年)で終わった理由は分かっていないというが、他の各地の万人坑において、ナチスのように焼却炉が作られたのはこの鶏西だけと思われる。

 記念館の近くにある滴道炭鉱万人坑で収集された中国人労工の遺骨が、記念館に保存・展示されている。保管されている遺骨の中に、頭蓋骨に釘を打ち込まれた遺骨も含まれている。城子河炭鉱では、「特殊労働者訓練所」などにある3ヶ所の死体倉庫に中国人労工の遺体が毎日のように運び込まれた。1942年(昭和17年)に日本人責任者から遺体処理を命じられた張生は、人捨て場に遺体を馬車で運ぶ作業を繰り返した。一回に運ぶ遺体は15体くらいで、人捨て場である二太堡万人坑に遺体を運び、ガソリンをかけて焼いた。こうして、1942年から45年(昭和17-20年)までに、城子河炭鉱の3ヶ所の死体倉庫から二太堡万人坑に運ばれた中国人労工の遺体は約5千体になった。他にも7ヶ所の主要な人捨て場・万人坑が鶏西炭鉱に形成された。

 1960年(昭和35年)代になると、朝鮮戦争後の混乱と共産党による統治も落ち着いてくる中で、滴道炭鉱の北側にある万人坑の一部を鶏西鉱務局が発掘、調査した。このとき、約4千平方mの範囲で、遺体を埋めた穴を12ヶ所発掘し、地表に近い三層の遺骨だけで約350体あるのを確認した。また深い溝(谷)になっている土地には遺体が大量に投げ込まれたが、その地面を掘れば、今でも遺骨が出てくるといい、そのあたりに高さ2mくらいの記念碑が建てられている。これらを含め、滴道炭鉱の万人坑には一万体以上の遺体が埋められたと推定されている。滴道炭鉱万人坑遺跡の一番高いところに1970年(昭和45年)代に建てられた遺骨保存館がある。

 1983年(1958年)3月、黒龍江省省政府は鶏西の「万人坑」を省重点文化財保護単位に正式に定め、2004年(平成16年)3月、市政府は「万人坑」遺跡を接収し、展示館の再整備を行った。2019年(令和元年)10月、鶏西万人坑遺跡は第8陣の全国重点文物保護部門リストに選ばれた。

日本国内の動向と世相(昭和8年:1933年)

出来事

 1月:河上肇ほか、大学の著名教授二人が思想問題で検挙される。同様にこの年、10名程度の教授が検挙か罷免、停職となっている。

 2月:二・四事件(教員赤化事件)。 長野県下で共産党シンパとされた教員の一斉検挙開始。4月までに65校138名が検挙された。

 2月20日:作家の小林多喜二が治安維持法違反容疑で特別高等警察(特高)に逮捕され、東京築地署での半日の徹底した拷問により虐殺された。(下に別記)

 2月24日:国際連盟総会で、日本軍の中国からの撤退を求める報告案に対して賛成42、反対1、棄権1という形で評決され、反対票を投じた日本代表は議場から退場、3月27日に国際連盟脱退を通告した。

 3月3日:三陸沖地震発生。津波と火災で死者3021、不明43、負傷968名。

 3月4日:フランクリン・ルーズベルト、米大統領に就任

 3月23日:ドイツ国会、ヒトラーに全権委任法可決、独裁政権が生まれる。

 4月:新「小学国語読本」が作成され、使用開始。国家主義・軍国主義の色彩を強化する。

 大日本国防婦人会、5万人の労働婦人の参加申込みを得る。

 4月22日:鳩山一郎文相が滝川幸辰京大教授の罷免を小西重直総長に要求(滝川事件)、その学説が自由主義的な内容であったとされ、言論弾圧の対象が共産主義や自由主義、民主主義も含めて大学の自治にまで及ぶことになった。

 4月27日:国際連盟脱退を宣言して帰国した松岡洋右全権大使を新聞各紙と国民は「英雄」のように出迎えた。自国の名誉が守られたのだから国際社会で孤立しても構わないという威勢のいい言説が国内で主流となっていた。 4月28日:陸軍飛行学校生徒教育令公布(少年航空兵制度始まる。

 4月28日:陸軍飛行学校生徒教育令公布(少年航空兵制度始まる。

 文部省、盛岡・三重・宮崎の各高等農林学校に拓殖訓練所を設置。満蒙や南米への農業移住者の訓練を進める。

 4月29日:天長節(昭和天皇誕生日)の日、学生2万人も参加して日比谷公園で国際連盟脱退詔書奉戴式が挙行される。

 6月5日:聖路加国際病院(アメリカの援助によるもの)開院式(東京都中央区参照)

 6月:丹那トンネル完成。全長約7804m、工事中の犠牲者67人。翌年12月に開通。

 7月:文部省、『非常時と国民の覚悟』を外務、陸軍、海軍各省と共同編纂して、学校などに配布

 7月:ドイツでナチス一党独裁成立

 7月20日:陸軍省、満州事変勃発以来の戦死・負傷者を発表(戦死2,530人、負傷6,896人)

 8月9日:第1回関東地方防空大演習

 8月23日:採用を開始した陸軍少年航空兵の倍率が57倍 (定員170名に9731名が応募)

 9月2日:伊ソ不可侵友好条約調印。

 9月30日:極東反帝反戦反ファシズム大会、上海で開催。日本代表も参加。

 10月14日:ドイツがジュネーブ軍縮会議から脱退、また国際連盟脱退を表明。

 11月28日:共産党委員長、野呂栄太郎が検挙され、翌年2月19日獄死。

 12月8日:松岡洋右、党争を捨て一国一党になり国難に当たるべきだと代議士辞任、12月23日に政党解消連盟結成。これが後の大政翼賛会につながっていく。

 12月23日:皇太子明仁(平成天皇)誕生。電光ニュースや花電車で祝賀気分高まり、昼は旗行列、夜は提灯行列が行われる。

小林多喜二虐殺事件

 警察当局は翌2月21日に心臓麻痩による死と発表するが、遺族に返された多喜二の遺体は全身が拷問(寒中丸裸にして数人でステッキなどで殴りかかるなど)によって何十カ所に傷があり、異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。しかし、どこの病院も特高警察を恐れて多喜二の遺体の解剖を断った。小林多喜二は、この4年前に発表した低賃金長時間労働を暴いた小説『蟹工船』が有名となり、共産主義者として当局に目をつけられていて、これまでも何度も逮捕されていた。それでも「活動」をやめないとして特高警察は目を付け、スパイの通報により待ち伏せして彼を逮捕した。『蟹工船』は今でも評価が高く、彼の人物像も含めて何度か映画にもなっている。

【権力について】

 それにしても一度権力の側に立った者たち(例えば成り行きで仕事として選んだ警察官としての立場)がこのような絶対者的態度を持って残虐行為をしても何のとがめも受けないとは、権力とは何と都合のよいことであろうか(この虐殺に関わった特高たちは戦後も順調に出世し要職に就いている)。これは軍国主義体制下だからではなく、(小林の立場の)共産主義体制でも民主主義体制の下でもまったく同様であって、仮にもかって非合法とされ弾圧される立場にあった共産党が一転して政権を握れば、現在のロシアや中国、北朝鮮のように最大の権力体制を築き上げることになるのは皮肉な事実である(ちなみに宗教国家も実態は同じである)。われわれ民主主義体制下でも、敷居の向こうの「公」の側に立つとその手前勝手な横暴さを容易に発揮できるし、為政者的な立場にいる者たち、つまり政治家や官僚・役人や警察あるいは裁判官なども含めた者たちは、自分たちが不都合なことをして仮にその犠牲者が出ても(このようなあからさまな残虐非道な行為でないにしても)、罰せられることもなく、影で知らんぷりを決め込んで済ませることができる。時々警察などでもみ消し事件が発生し新聞沙汰になることがあるが、それは比較的小さなことであるとしても、被疑者を強制的に自白させるでっち上げ事件もしばしば起こっていて、警察はその権力を持って仮に冤罪でも事件を無理やり成立させてしまう。そこには自分たちの体面がかかっているという側面もあるだろう。公権力という言葉が示す通り、つまり体制側にいるという彼らの立場それ自体が権力の発現に関わっているということであって、政権に関わる者たちだけが権力を持っているわけでは決してない。

 簡単に言えば、一人の人間がたまたま仕事として選んだ警察官の立場になると、それが国家権力の中に組み入れられることであると判断しても間違いはない。大きく言えば、全体主義(上記の軍国主義や共産主義、宗教主義)の国家というのは(国民に少しでも疑いを抱けば即座に検挙できる)警察が主権の警察国家といっても間違いはなく、民主主義国家の中にもそれは多少隠された形で常に存在していることは、日々のメディアの報道を分析していれば明らかである。さらに言えば、普通に官公庁あるいは地方の役所の公務員であるとしても、決まっている事柄、あるいは慣習的に行われていることを国民や住民に押し付けるだけ、あるいはまた判断や処理に困れば受け付けないか放置するなどは、いずれも何かで困っている住民や国民に対して聞く耳を持たないという権力側としての態度であると、筆者は認識している。

昭和9年(1934年)

中国における軍事的動向

 中ソ両国の共同経営であった東支(東清)鉄道は、1932年(昭和7年)に満洲国が成立すると(ソ連は満洲国を承認しなかったものの)、事実上の満洲国とソ連の合弁となっていたが、1934年(昭和9年)に日本がソ連から買収して北満鉄道となる。その他の全ての鉄道は無償または無償に近い額で日本の経営する満鉄に吸収され、中国農民を沿線の土地から追い出して代わりに朝鮮人や日本人の集団移民が入植し、鉱山や大工場も日本が接収した。さらに日本の関東軍は中国農民を強制徴用し、すると満州の農産物収穫量が激減したが、そのことで一層行政側は強制出荷を強め(つまり凶作時の年貢米の強制徴収にあたる)、農民は圧迫された。また中国人労工たちの給料は日本人の30%以下で、労働環境は過酷であり、そうした中で労農たちの抗日運動も激化した。しかしそれに対する日本側の相次ぐ討伐によって1932年(昭和7年)に36万人と言われた各地の抵抗部隊は急速に勢力を落とした。代わって1933年(昭和8年)には東北人民革命軍、1935年(昭和10年)には東北抗日連合軍が編成された。東満州には金日成による朝鮮人民解放運動の拠点も作られ、1934年(昭和9年)には朝鮮人民革命軍、36年(昭和11年)には祖国光復会が結成された。こう見るとどうやら中国と朝鮮の共産党活動は、日本軍に対する抵抗運動から膨らんできたことがわかる。つまり日本軍の侵略・弾圧行為が、後に形成される中国共産党国家と北朝鮮共産党国家を醸成するきっかけを作ったという見方をしても間違いではないだろう。ただ、国民党主席の蔣介石は共産党を日本軍以上に敵視していて、その蔣介石の掃討作戦を日本軍はしばしば邪魔立てする。

1934年(昭和9年)の出来事(中国側から):激化する抗日運動と日本軍の武力弾圧

 以下は主に『中国抗日戦争大事記』(斉福霖編:1995年、北京出版社)からの抜き書きである。(訳文は筆者。▷印は日本側の記録から適宜拾い出したもの)

 1月1日、蔣介石は福建人民革命軍に総攻撃を命じる(第5次共産軍掃討作戦)。1月末までに革命軍を制圧、蔡延錯らは香港への脱出を余儀なくされ、福建人民政府は失敗した。

 1月2日、日本機はチャハル省赤城、永寧、河南省洛陽の龍門所地区を爆撃した。

 1月5日、上海駐在の日本人水兵及び陸戦隊2500人が虹口で閲兵し作戦演習を行った。参加者は在郷軍人や少年兵800人余り。

 1月16日、日本軍は察東(チャハル東部)を「非武装地帯」とすることを画策し、趙家営、郭家窯子から竜門所を攻撃。守備軍は応戦したが撤退した。

 1月22日、毛沢東は東北人民革命軍と抗日義勇軍に電報を送り、日本軍と国民党に反対する作戦協定を締結することを提案した。

 ▷ 1934年(昭和9年)2月、第5次共産軍掃討作戦にほぼ成功した蒋介石は、日本の武力侵略との全面対決を避けつつ経済建設に力点を置いた。蒋介石はその資金を米欧帝国主義列強からの借款と公債発行でまかなうが、列強の銀行団は額面の3-5割引で引き受けできたから、彼らの利益は莫大となった。列強従属の体制は一層固められ、列強は政治・軍事的にも蒋介石政権を支持し、日本軍との戦闘に対しても軍事支援を行うことになる。

 2月3日、毛沢東は中華ソビエト共和国中央執行委員会主席に再任された。

 2月10日、山海関が正式に日本軍に接収された。

 2月15日、饒河遊撃隊は饒河十八響地で日本軍200余名を待ち伏せ攻撃し、30余名を殲滅した。

 2月26日、黒竜江省勃利県連珠崗一帯の民衆が日本軍の土地接収と銃器設置に反対するために暴動を起こし、敵の自働車3台を破壊し、日本軍3人を射殺。しかし日本軍の武装鎮圧で60余人が殺害された。

 1934年(昭和9年)3月1日、日本の満洲国は「帝政」を施行し、執政の溥儀が皇帝に即位、「大満洲帝国」と改称、年号を「康徳」と改めた。満州国は皇帝即位を71カ国に通告した。日本の新聞の一面には、「満州国第一世皇帝」、「世界史に輝く一頁」、「東洋平和の礎石」という言葉が並んだ。この後も日本軍は東洋平和との言葉を掲げて、侵略戦争を拡大していく。

 3月1日、日本軍千人余りが天津から津浦路に沿って3日まで大規模な合同軍事演習を行った。河北省政府は厳重抗議した。

 3月8日、黒竜江省江依蘭県土竜山の農民は日本軍の統治に反抗して武装暴動を起こし、翌日太平鎮警察署を占拠した。(この土地に日本の第二次武装移民団が入植していた)

 3月12日、土竜山の農民たちは「東北民衆救国軍」を結成し、謝文東を総司令官にして銃、槍、刀などで武装した7千人の抗日部隊が生まれた。これに対し日本軍は、土竜山農民軍に対する報復を開始し、民衆440人余りを殺害し、家屋200軒余りを焼いた。

 3月15、19日、日本軍は二度にわたって土竜山の村々を血で染め、農民たち千余人を殺害した。

 4月4日、日本軍は「討伐」戦況を発表、自軍の死亡498名とした。(土竜山事件の詳細は下記参照)

 3月19日、民衆救国軍は依蘭県東部九里六屯に陣地を構え「討伐」に来た日本軍を阻止し、日本軍100人近くを死傷させた。

 3月20日、黒竜江密山遊撃隊が結成され、まもなく同隊は東北人民抗日革命軍に編入された。

 3月25日、孫永勤は抗日民衆軍を率いて月初めに熱河興隆県東河口の敵拠点を襲撃した後、この日再び敵拠点を襲撃し、偽警官(日本軍に雇用された)100人余りを殲滅し、さらに姦臣二人を処断した。

 3月、趙尚志は黒竜江珠河県道北で東北反日連合軍総司令部を設立。中国共産党は吉林省延吉県で人民革命軍第2軍独立師団を編成。一方で蒋介石国民政府は、ドイツ陸軍の元総司令官であるセクト大将を軍事顧問として招聘した。

 1934年(昭和9年)4月1日、日本軍は3日間、河北省唐山沿線で野戦演習を行い、19日にも再び唐山で攻守演習を行った。

 4月3日、日本軍「討伐隊」は黒竜江省綏寧の反日同盟軍駐屯地平日坡に進攻した。抗日軍は決起して抵抗し、偽警察署長ら30余人を銃殺した。

 4月13日、日本軍は北寧路沿線の各駅に増兵し、車両の通行と郵便に対する通関の撤廃を揚言し、華北の情勢は緊迫した。

 4月17日、日本外務省の天羽英二情報部長は、対中政策に関する声明を発表(天羽声明)、日本は「中国が他国を利用して日本を排することに断固反対する」、また「列国が共同で中国を援助することに反対する」と表明した。これに対し4月19日、中国外交部は、中国と他国との協力は「国防上の必要であり、自国の秩序と安全を維持するため」と述べ、さらに25日、中国外交部は改めて極東における日本の特別な地位を認めないとした。

 4月20日、中国共産党は「中国人民対日作戦基本綱領」を提示し、その主な内容は、全陸海空軍総動員対日作戦、全人民総動員、全人民総武装、日本帝国主義の中国における財産を没収であるとし、5月、抗日救国六大綱領が、宋慶齢(故孫文の夫人)などの愛国人士1779人の署名で発表され、すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴えた。

 4月23日、イギリス政府は駐日大使に、日本が九カ国条約を遵守するよう要請した。

 同日、民衆救国軍は吉林省依樺勃地区の駝腰子金鉱を攻略し、敵60余名を殲滅した。救国軍は駝腰子を臨時基地として50日間守り抜いた。(1933年の「駝腰子金鉱の略奪と搾取」参照)

 4月29日、米国ルーズベルト大統領は、4・17の天羽声明に対し、米国の対中関係には条約規定があり、合法的な手続きを経なければ修正も廃止もできないと述べた。

 1934年(昭和9年)6月3日、張文は饒河遊撃隊を率いて黒竜江小佳河爆頂子に居座っていた日本軍を撃破し、この地を遊撃隊根拠地とした。

 6月7日、日本大使有吉明は上海から北京の汪精衛を訪問し、いわゆる「中日経済提携」で日中の一切の懸案及び華北の諸問題の解決、旧債の整理、中日商約の締結などを要求した。汪精衛は一切の懸案を解決することに同意した。(汪精衛の正式名は汪兆銘で、彼は辛亥革命以来の中国国民党の重鎮で、国民党左派の中心人物として蒋介石と対抗、1940年:昭和15年、反共と対日和平をかかげ、日本軍の傀儡政権南京国民政府を樹立したが、44年:昭和19年、名古屋で病死した)

 同日、張学良は武昌で漢口の英文紙『民声報』に談話を発表し、「中国人民に属し、それが共産党、国民党、第三党であろうと、中国を救うために命をかけている者は一致団結すべきであり、これが救国の唯一の道である」と述べた。

 6月15日、黒竜江省湯原県の遊撃隊が太平川の日本の警備隊を包囲し、太平川に根拠地を作った。

 6月17日、日本東亜興業公司は熱河開魯・アルホルチン旗一帯で大量の武装移民(満州開拓団の先兵)の入植を開始した。

 6月20日、山海関税関が設置され、中国旅行社と日本観光局が東方旅行社を組織し、遼寧省瀋陽と北平(北京)間の直行バス、列車等の車両は一律に山海関で税関検査などを受けるという開通案を発表し、7月1日の開通を予定した。

 6月26日、東北人民軍第二軍独立師団と綏寧県反日軍、連合救国軍などが、吉林省汪請大匐子(羅子溝)において11昼夜連続して戦闘し、この町を占領した。

 1934年(昭和9年)8月13日、日本軍は山海関、秦皇島両地で大規模な演習を行い、農地が破壊された。

 8月15日、東北人民革命軍第二軍独立師第2団などが吉林安図県城を攻撃し、安図車廠子、大甸子、太平溝などの遊撃区を設けた。

 8月26日、渤海湾で日本艦隊が演習、6海里内は航行禁止となった。

 8月27日、駐日公使蔣作賓が広田外相を訪れ、秋田県、山形県及び広島県などで華僑を日本が無理やりに大量追放している問題について交渉を申し入れた。8月30日には在日華僑72人が日本から追放され帰国した。

 同日、趙尚志は哈東支隊の一部を率いて中東路南銭双城と五家子駅の間で敵列車1両を襲撃し、敵軍20名を銃殺し、5名を捕虜とした。

 8月、満州黒竜江第三軍管区司令部の調査によると、8月に義勇軍は斉斉哈爾(チチハル)、安達、泰来、克山、拝泉、黒河などの区で活発に活動し、その延べ総数は3万5500人で7月に比べて2060人増加した。

 1934年(昭和9年)10月3日、日本軍は満洲を東北四省の興安を除いて十省、すなわち奉天、安東、間島、吉林、浜江、竜江、三江、黒河、錦州、熱河省とすることを決定した。

 10月7日、日軍は東満、南溝、哈東、吉東地区の東北人民革命軍に対し、第2期の大掃討を発動した。下旬、人民革命軍は迂回して転戦し、日本の偽軍を遊撃した。

 10月10日、中国共産党中央、中央革命軍事委員会は、紅一、紅三、紅五、紅八、紅九軍団及び中央、軍事委の機関と直属部隊の計86000人余りを率いて江西省贛州市瑞金などから湖南省の湘西に向かい、戦略的大移働を実行、「長征」(大西遷)を開始した。これは共産党を敵視する蒋介石国民党軍の攻撃によるもので、この年から翌々年にかけて共産党軍は国民党軍と交戦しながら、1万2500kmを徒歩で移動を続けた。残り約3万人は陳毅・項英の指導の下、山岳地帯のゲリラ戦に入る。

 10月12日、東北反日民衆自衛軍は黒竜江樺木崗付近で突然日本軍の襲撃と包囲を受けて死傷者多数。14日にも日本軍の追撃を受け、依蘭県吉興河の山奥に逃げ込み、土竜山農民暴動は頓挫した。

 10月18日、日本軍は大連に特務機関を設置、特務機関長に土肥原を派遣した。

 10月19日、日本軍満州専売公署は1935年(昭和10年)に阿片栽培を許可した地区及び面積を公表した。熱河省の各地区の栽培面積は33.5万畝になり、興安西分省では1万畝、遼寧省は2.5万畝、吉林省の各県は31万5千畝で、計68万5千畝になった。

 10月21日、第三次武装移民団259人は、綏(すい)稜県北大溝に移住し、同地を瑞穂村と改称した。

 11月、日本軍は東満州において「集団部落」を作るため、農民2700戸を強制収容し、東北各地でその計画を推進する。(筆者注:「集団部落」とは日本軍のゲリラ対策の一つで、散在している村々を一つの地区に集めて管理し反乱が起きないようにするためで、収容所のように周囲に塀を作って村民を苦しめた。中国では「帰屯並戸」、「並屯集家」とも言うが、一方でその間に「無人区」という空白地帯を作って村々を孤立させた。なおこの日本軍の方策は、数年後の日中戦争開始からも、占領する各地において展開され、それまでの農地を奪われた住民は困窮し、従わない者は殺され、病気も蔓延し多大な死者を出すもとにもなった。このような事実はわれわれ日本人はほぼ知らず、もはや南京事件ばかり語らずに、こうした側面も見ていかねばならない)

 1934年(昭和9年)12月1日、満州国は興安省を興安東、興安南、興安西、興安北の4省に分割した。

 12月3日、満洲民政部は「集団部落建設文告」を発表し、農村に「集団部落」政策を推進した(上記参照)。抗日武装群に対する包囲と経済的封鎖を行うためである。この月、吉林省延辺(朝鮮族)地区に設置した「集団部落」は61箇所に達した。

 12月7日、日本軍千人余りが抗日軍王老鑿の住む熱河朝陽県石明信溝に対して7日間に及ぶ血生臭い「包囲討伐」を行い、34人を殺し、200軒余りの家屋を焼いた。

 12月8日、日本の密輸船が貨物を積んで大連から秦皇島に到着、中国側の税関検査に抵抗し、税関員を銃撃し、2人を負傷させ、1人を死亡させた。税務司阿克特は、北平政整会や日本大使館に厳重抗議したが、無視された。

 12月14日、関東軍司令官南次郎は「日満経済協力」を提唱し、内閣は一致してこれに賛同した。

 12月25日、日本占領の遼寧省北票炭鉱でガス爆発が発生、労働者52人が死亡、37人が負傷。(北票炭鉱については前年の「北票炭鉱と万人坑」参照)

 12月、東北人民革命軍第一軍第一師団李紅光部は軽騎百余人で日本軍の防衛線を破り、鴨緑江を渡って朝鮮東興城を攻略し、大量の軍用品を奪った。日本軍は「国境警備史上空前の事件」と呼んだ。偽満州側の統計によると、本年すでに民間の各種銃器64万3293丁、銃弾860万発余りが押収された。

土竜山事件(樺南北半截河子の惨事)

 土竜山事件は日本側でも取り上げられる事件であるが、以下の大半は中国側の記述による。

 黒竜江省佳木斯(ジャムス)市の依蘭・樺川・樺南県などの一帯は、農耕に適した地域であった。1934年(昭和9年)1月、関東軍はこの一帯に日本人武装移民開拓団を入植させるため、その地区6県で、大規模な強制買収を行なっていた。武装移民団は本格的な開拓団の先遣隊として1932年(昭和7年)後半より開始されていた(昭和7年の「満州第一次武装開拓団」参照)。関東軍は移民開拓団の土地の確保のために、中国農民に土地をあけ渡すよう強制し、その提示された土地の購入代は相場の数十分の一で、農民には受け入れられるものではなく、関東軍はそれによる地券の明け渡しとさらに農民の自衛のための銃器類を没収しようとした。依蘭土竜山を中心とした農民たちはこの暴行に憤慨し、3月8日、土竜山の大地主であり自衛団の団長でもあった謝文東を総司令として、「東北民衆救国軍」を結成し、銃、槍、刀などで武装した6700人で蜂起した。3月9日、東北民衆軍の農民たちは日本人移民団を包囲し、太平鎮警察署を占拠して武装解除させた。翌3月10日、依蘭県駐屯の日本軍歩兵第63連隊が駆け付けたが、飯塚朝吉連隊長以下19名が戦死する結果に終わった。

 飯塚大佐の仇を討つとして、佳木斯占領軍の広瀬師団は、吉川増木騎兵隊を弥栄(現・孟家崗で日本の武装移民団が早い時期に入植してつけた村名)に派遣し、そこの武装移民「吉林屯墾第一大隊」の警備隊を糾合して討伐隊を結成、3月12日夜明け、弥栄から出発し、討伐隊は2台のトラックが前に、騎兵隊を後ろにし、火焼溝を経て樺南県六保六甲に侵入し、まず紀原屯(現樺南八憲力多中平村)を襲い、朝食時の村人たちを狂ったように襲撃し、人を見れば殺し、家に入るたびに放火した。村人はパニックの中逃げ隠れしたが、討伐隊は逃げようとする者に機関銃を乱射し、40世帯200人余りの村はたちまち烈火に包まれ、叫び声が天をついた。逃げた男たちを除いて、残りの老人、子供、女性は、焼死するか殺された。討伐隊は紀原屯を血洗した後、張二不愚、馬青山、崔和、秦奎武の四つの北半截河に属する村屯を進犯し、同様の手段で血洗を行い、ここでも100人以上の村民が殺害され、家屋はすべて焼失した。

 討伐隊は前の5つの村屯を血で染めた後、すぐ韓国文の家を襲撃した。六保六甲の甲長韓国文の家は、四方に高い塀と砲楼を備えた大きな庭で、四つの砲楼の中にそれぞれ四、五本の土銃と土砲があった。日本軍の焼き討ちを見ていた近くの村屯の60世帯余りの村民が馬車などを使って次々と韓国文の大庭に逃げ込んだ。日本軍が来ると庭の中に避難した60世帯の人々は大慌てで逃げたが、韓国文は十数人の青年を連れて砲楼に上がって日本軍と戦った。30分もしないうちに、討伐隊の砲弾で砲楼が次々と崩れ、韓国文は殺され、村人たちは討伐隊に機関銃を乱射され、避難者全員と韓国文一家216人は皆殺しにされ、家屋は全焼した。日本軍討伐隊は弥栄に戻る際に王徳華屯(現・団結村)と蘭四先生屯(現・一分村)を通り、まだ逃げ遅れている村人を銃剣で刺し殺し、屯中の家屋を全焼させた。王徳華屯では足を病んで逃げなかった80歳の老人が、討伐隊によって火の中に投げ込まれて焼死した。

 これを知り、近隣県の農民一万人が「日本人移民団撃滅」をスロー ガンに立ち上がった。関東軍はこれに対して空爆したが、現地農民は分散化しながら執拗に日本の第一次、第二次武装移民団を攻撃し続けた。

 3月15、19日、日本軍は二度にわたって土竜山の村々を血で染め、農民たち千余人を殺害した。4月4日、日本軍は「討伐」の戦況を発表、自軍の死亡498名とした。3月末、土竜山地区から撤兵した関東軍は、政治的には威嚇と利益誘導、軍事的には大群で包囲攻撃をするという二面作戦を採用し、民衆軍を孤立、分散させ、7月下旬には、民衆軍は800人ばかりとなり、10月初め、樺木崗にて関東軍の襲撃にあった民衆軍は大きな損害を受け、瓦解した。

(以上は主に『侵華日軍暴行総録:黒竜江省編』と日本側資料を混成)

 筆者注:この土竜山事件は、住民の反乱が先にあっての日本軍の虐殺であり、このパターンの事件は歴史家は好んで取り上げるが、ここまでも触れてきたように、満州事変以来続く、日本軍による隠された暴虐(虐殺)事件が取り上げられることがないのはなぜなのか。相手方の特に反乱したわけでもない場合の集団殺戮については、事件として取り上げるに値しないということなのかどうなのか。仮に日本が侵略された側にあってこうした一方的な事件が起こっていたなら、歴史家でなくても否応なく取り上げるであろう。

 重ねて言うが、筆者自身も先に日中戦争突入後の南京事件を双方の角度から調べているうちに、果たして南京だけが特別なのかという疑問を抱き、日中戦争以前(満州事変以降)にさかのぼり見直しているうちに、すでにして南京と何も変わらない虐殺事件が連綿と展開されていたことがわかり、わかったからには同等に書かねばならなかった。それが以下のような強制労働を含めた例であり、その多さには驚くしかない。

日本軍の占領とその後に展開された惨劇

(以下は『侵華日軍暴行総録』より。訳文は筆者、以下同)

【樺南下九里六屯惨事】

 1934年(昭和9年)3月、上記黒竜江省土竜山の武装暴動後、抗日民衆救国軍の別部隊は下九里六屯で滞留中に日本軍に察知された。千人余りの平崗部隊は完全武装し、50台余りの自動車に乗って佳木斯を出発し、九里六屯に侵攻した。3月19日午後4時ごろから、双方は暗くなるまで激戦し(日本軍は100人近くが死傷)、防衛隊が地形にそって撤退した後、日本軍は屯内外で罪のない村人を虐殺した。12人の梁俊峰一家の20代の女性2人は日本軍に強姦された後、銃剣で突き刺されて死亡し、残りはすべて軍刀で切り殺された。13人の余永禄一家は隠れていたところを日本軍に機関銃で全員殺された。北山根の麻家では、長男が留守だったほか、7人全員が軍刀で切り殺された。老米家の10人は、老人はオンドルの上で刺し殺され、女と子供はオンドルの下で刺し殺された。南山根に逃げた村民28人は、日本軍にロープで縛られ、機銃で全員殺害された。東山の王家の四つの邸に逃げた80人の村民は、日本軍に囲まれて機銃掃射された上、放火されて屋内の人々は焼死した。今回日本軍に殺害された村民は400人余りで、村の中で一家全員が殺されたのは1/3近くの世帯、家族が1、2人しか残っていないのは40世帯ほどだった。このかなり栄えた村は、一夜にして廃墟となった。

【朝陽南営子村の惨事】

 1934年(昭和9年)5月、日本軍騎兵隊30人余りが瀋陽市朝陽県羊山以西で抗日武装隊に迎撃され、日本軍は潰走して朝陽南営子に逃げようとしたが、抗日武装隊に阻止された。5月中旬、また別の日本軍が同県黒牛営子付近まで行ったが、抗日義勇軍と連荘会の武装勢力に迎撃された。日本軍は2度の迎撃を南営子村民の仕業と勘違いし、南営子村民の殲滅を企んだ。1934年(昭和9年)5月19日午後、朝陽城から完全武装した日本軍がやって来て、大砲で南営子村に猛烈な砲撃を加え、村民たちは西山と東問套の方向に逃げた。そこへ一機の日本機が飛来し、逃げていく村人たちを見つけると、すぐに機銃掃射した。そうして日本軍は村に押し入り、戸別に村人を引き出して捕らえた。飛行機はさらに偵察して西山方向に逃げる村人を追い、日本軍は溝や洞窟に逃げ込み、森や岩の後ろに隠れたりした人々を捜索して殺した。西山に逃げた謝雲奎の家族9人のうち一番早く山頂に駆け上がった息子が振り返ると日本軍が両親を惨殺している光景が見えた。彼はまた山を駆け下り、石を持ち上げて敵に投げつけた。謝一家は七人殺されたが、逃げたのは兄弟二人だけだった。3時間もしないうちに、南営子村の住民は70歳の老人から5歳の子供まで、計27人が殺され、400軒余りの民家が焼かれ、避難した村人は丘の上から沈痛な思いで見ていて、火が消えた後やっと村に帰ったが、家は瓦礫のようになっていた。

【撫順台溝・安家峪惨事】

 遼寧省撫順県安家峪の朱海楽は1934年(昭和9年)に農民武装抗日隊を組織し、瀋陽、撫順両県の境で抗日ゲリラ活動を行った。まもなく瀋陽の姚千戸屯を占拠する日本軍守備隊はこの情況を知り、10月18日前後、漢奸と特務偵察に命令して、策略で周玉金を捕縛して拷問、朱海楽抗日組織の場所を自白させた。23日正午、周玉金はトラックに乗せられ台溝安家峪に向かった。日本軍守備隊は台溝に入ると(村に入る前に畑にいた農民の李徳発が逃げたので追いかけてその首を切り落とし)一軒一軒の家から住民を追い出し、街の中心部に集め、そこに機関銃を据え銃口を人々に向けた。周玉金は車の上で顔を布で隠していたが、日本兵たちは外に集めた住民を一人ずつ車の前に押し出して、周玉金に仲間を確認させ、11人をトラックに乗せて安家峪に向かった。安家峪村の朱士元は車の音を聞いて、走りながらみんな逃げろと叫んだ。朱士元はすぐに捕まり、日本守備隊は安家峪村の中心に入ると、同じように周玉金に確認させ、7人を捕らえた。両村合わせて19人が連れ出されて海浪の方に向かった。約20分後、村の南側で銃声が聞こえた。「虎口」から生還した通訳の辛赫軒は、車は斑毛嶺で止まり、日本兵たちは捕らえたものたちを車から降ろして溝沿いに追い詰め、機関銃で殺戮したという。朱士元は老年のため本渓県監獄に送られ、数ヶ月後に獄死した。(このように村の住民が巻き添えで虐殺されず、また放火されなかったケースはむしろ珍しい)

【建昌薬王廟惨事】

 1934年(昭和9年)11月のある日、日本の関東軍大隊長の佐藤は、遼寧省建昌県嶺下一帯の抗日勢力を消滅させるため、200人余りの日本軍騎兵と20数台のトラックを率いて、朝陽に沿って建昌県薬王廟に向かった。一人の漢奸の密告があって、抗日義勇軍の首領と志士の名簿を手に入れ、佐藤は薬王廟、鶏冠山、施杖子、響水甸子、錘子山などの村に侵入し、七日間連続で放火、略奪をし、抗日義勇軍の17人を逮捕した。日本軍は彼らに拷問を加えたが、死んでも話さない覚悟を示した。怒った佐藤は彼らを刑場に連行し、この17人を銃殺した後、彼らの首を斬り、スローガンを叫んだ志士の心臓をえぐり出した。その後佐藤はすぐに全警察署管轄の各村から一万以上の村民を集め、殺害された志士の首を会場の高いテーブルに並べた。このあと佐藤は薬王廟一帯で武器の没収を名目にあちこちで村人をつかまえ、その多くが日本軍の銃口の下で死んだ。

【王砬溝村民の虐殺】

 遼寧省建昌県谷杖子郷王砬溝村は、約3kmの長さの深い山の三面に囲まれた溝のようで、水路は一つだけである。村には20数世帯、100人以上の人が住んでいたが、交通が不便で外の者の往来は少なかった。抗日義勇軍や民衆救国軍などがしばしばここから出没し日本侵略軍を待ち受けていたため、日本軍は王砬溝村を敵視していた。1934年(昭和9年)5月19日、日本軍大隊長林木は300人余りの部隊と機関銃、大砲、7台のトラックを備えて、飛行機の偵察と援護の下で、王砬溝村を襲撃した。しかしこの時抗日軍はとっくに移動していた。日本軍は村に入ってから一軒一軒を捜索し、老若男女を村の真ん中にある大きな井戸のそばの広場に追いやり、周囲に大砲と機関銃を架設した。大隊長林木は軍刀を挙げて、村人たちに「土匪」の行方を自白するように迫った。村人たちは口を開かず、怒って林木は発砲を命じた。その時通訳は、もしここで百姓を皆殺しにしたら、「土匪」は戻ってこないから捕まえられないと隊長を説得し、機関銃は発砲されなかった。日本軍が去った後、村人たちは13人の肉親が敵に銃殺されているのを見た。日本軍は村に侵入するときに、朝食を終えて畑で作業していた農民たちを銃剣で刺し殺したり銃殺したり、抵抗して両目を抉られた後に殺されたり、なかには12歳の立冬が父の季学用について畑で遊んでいて、父子は並んで殺されていた。翌年の春、傀儡軍警察が再びここにやってきて、家に放火し、2棟の家のほか、100軒余りの住居と衣類、食糧がすべて焼かれてしまった。

【白子峰生埋め事件】

 漢奸により遼寧抗日救国軍副司令官の白子峰は1934(昭和9年)年9月、開原八道崗子で捕虜になった。日本軍は彼に自白させようと10種類の過酷な拷問を課した。五日間の拷問で白子峰は完膚なきまでに苦しめられ、頭は腫れ上がり、両目は潰れ、何度も気絶したが、屈することはなかった。9月27日、日本軍は57歳の白子峰を開原駅北の日本軍兵営内で生き埋めにしたが、残忍にも彼の頭を穴の底に向け、スコップで埋めた。

東寧要塞建設と中国人強制連行と万人坑

【中ソ国境要塞建設】

 東寧は黒竜江省の最南端に位置しロシア極東地区に隣接する丹江市にある。1932年(昭和7年)3月、日本軍は満州国を成立させたのち、想定されるソ連との戦争に備えて、1933年(昭和8年)に中ソ国境線上の戦略的要地東寧に要塞を構築することを決定、そして翌1934年(昭和9年)にまず東寧から大規模な要塞群の建設を開始する。

 そのうち第一期工程は、東寧・綏芬河・半截河・虎頭・璦琿・黒河・ハイラルなどで進められ、1937年(昭和12年)末に第一期予定分の大半が完成する。ひき続き、第二期工程・第三期工程へと要塞構築が進められ、1945年(昭和20年)の日本敗戦まで、要塞建設に関わる工事が東北の各地で続いた。要塞群は東は吉林省の琿春から黒龍江省を経て、内モンゴルのハイラル・アルタイなど西方の戦略要地まで数千kmにおよぶ。

 この長大な中ソ国境沿いの軍事要塞群の構築に連動し、空港・鉄道・道路・橋・トンネル・倉庫・兵営・病院などの関連施設も同時に建設された。このうち鉄道は、満鉄が満州東部および北部の中ソ国境沿いに、1933年(昭和8年)末から1937年(昭和12年)までの間、総延長3600kmの線路を建設する。また軍用飛行場だけでも400ヶ所以上が造られ、すべての国境要塞地区など主要地区に空港機能が備えられた。そしてこれらの建設工事を遂行するため、日本軍は320万人余の中国人を強制連行などで徴用し、劣悪な衣食住の条件の下で過酷な労働を強い、100万人余を死亡させたとされる。

【東寧要塞】

 東寧での要塞建設は1934年(昭和9年)6月に始まり、永久性陣地7ヶ所、強固な野戦陣地45ヶ所、一般的な野戦陣地3ヶ所、軍用空港10ヶ所、地下弾薬庫84ヶ所、兵営や大型倉庫などが建設されると共に、飛行場・道路・鉄道などの交通網も整備された。さらに第二期工事が1940年から44年(昭和15-19年)にかけて進められ、それ以降も日本の敗戦まで続く東寧要塞に関わる土木建設工事の範囲は、南から北まで中ソ国境沿いに50kmにおよぶ。地上陣地には、口径300mmあるいは240mmの大砲も設置され、四方八方に塹壕が張りめぐらされ、陣地の前面には、深さ3m・幅5mの対戦車用塹壕が延々と構築された。

 東寧要塞の特徴はアジア最大と言われる大規模な地下要塞が構築されたことで、その範囲は、中ソ国境沿いの南北方向に20km、東西方向に9kmにおよぶ。これらの地下要塞内に大砲の射撃口や弾薬庫、司令部・監視所・航空無線電信室・兵舎・医務室・食堂・浴室・貯水池・発電所などが造られた。さらにこの地下要塞には小銃や拳銃などを製造できるだけでなく、排撃砲に使われる砲弾を製造できる兵器工場もあった。地下要塞の主要部位は厚さ3mのコンクリートで固め、口径300mmの大砲の攻撃にも耐えるようにされている。主要な地下要塞の一つである勝哄山陣地の地下道総延長は6000mにもなり、外部との連絡が絶たれても千人の兵隊を一年間は守ることができるとされた。現在一般に公開されていて誰でも入場できる勲山陣地の地下要塞の地下道総延長は3000mになる。このほか地下要塞には朝日山、麻達山、409高地、三角山などがある。

 この東寧要塞に第一国境守備隊を中心に10万人余の関東軍部隊が配置される。そのため東寧県には、東寧要塞周辺の20ヶ村に「慰安所」が設けられ、1000人以上の朝鮮人と日本人の慰安婦が徴用された。また、東寧要塞には細菌弾と毒ガス弾も配備されていた。

【中国人強制連行】

 東寧要塞と関連施設の土木建設工事は巨大な規模になり、満州地区以外の中国各地から多数の中国人が労工として集められた。「一儲けしたいなら満州へ」などの宣伝文句にだまされた労働者もいるが、日本軍の占領地区で捕虜となったり、適当な罪名で捕まえられた者たちもいる。徴用あるいは強制連行された中国人は労工専用列車などで東寧に移送され、途中で逃げ出そうとする者はその場で銃殺されたり軍刀で斬首されたりした。とりわけ1937年(昭和12年)の日中戦争(支那事変)以降は日本軍の占領地が華中まで広がり、各地の村人たちが数百人単位で連行されたが、その多くは戦後になっても故郷に戻ることはなかった。

 東寧要塞に関わる一連の土木建設工事は、1945年(昭和20年)の日本敗戦まで中断することなく延々と続けられた。要塞建設は秘密工事なので、中国人労工に対する関東軍の監視は厳しく、過酷な作業と劣悪な衣食住環境の中で生死の境をさまよう厳しい状況に中国人労工はおかれた。これらの大工事に関わる資料は敗戦時に関東軍が処分してしまい(この焼却処分は日本国内から中国以外の海外の戦地においても軍政府の指示によって行われた)、徴用された中国人の正確な人数は分かっていない。ただ、この長期間にわたる東寧要塞に関わる一連の建設工事に17万人余の中国人が徴用されたと中国側では推定しているが、そのうち数万人の中国人労工が死亡したと考えられている。

【東寧要塞万人坑(労工墳)】

 長期間の工事中に死亡した中国人労工の遺体のほとんどは荒野に捨てられ、数多くの人捨て場・万人坑が形成された。その多くは長い間そのまま放置され、遺骨の行方も分からなくなっている。近年になり遺骨の調査が実施されるようになったが、詳しくは分かっておらず、大規模な万人坑は発見されていない。この中でも現在の東寧の市街地に近いところにある大肚川鎮老城子溝村の北東部山麓には、千人近くが埋められた万人坑が存在していて、ほぼ完全な状態で現在も残されている。

 その老城子溝は、綏(すい)寧鉄道と興寧鉄道の合流地点にあり、東寧の関東軍にとって物流と物資貯蔵の重要拠点であった。このためこの地域の鉄道敷設や物流倉庫の建設工事あるいは物流荷役作業に数万人の中国人が労工として徴用され、劣悪な生活環境の下で過酷な労働を強いられ、とりわけ冬季の極寒の中で多数の中国人労工が死亡した。冬期に死亡する労工は現場近くにひとまず集めておき、気候が暖かくなるとまとめて運び出され、現場から離れた適当な場所に埋められた。

 その老城子溝の万人坑・東寧労工墳には、遺体を埋めた千基近くの土饅頭が1m程の間隔で整然と並んでいる。遺体処理を命じられた中国人労工が同朋の遺体を丁寧に埋葬したと思われる。

 1994年(平成6年)11月に東寧県文物管理所などが実施した調査では、千基近くの土饅頭のうち、18ヵ所を発掘し、18体の遺骨を確認した。そのうち一体は棺桶に入れて埋められていたが、他は地中に直接埋められていた。また、18体の遺骨のうち4体は、すねから下が両足とも切断されていた。これは、脱走に失敗するなどした労工が、見せしめのため両足を切断されたものだと考えられている。さらに、遺骨の歯を調べた結果、死亡したのは全てが30歳以下の若い人であることが分かった。

 この後、1999年(平成11年)と2000年(平成12年)の二回にわたり老城子溝万人坑の発掘調査が実施され、遺体を埋めた穴は浅く、手間をかけず簡単に埋められていることがわかった。ただし、他の炭鉱や鉱山の万人坑に比べると、これでもほとんどまともな埋葬のされかたで、おそらくこれらは初期のものであろうと思われる。

 現在、公開されている地下要塞のある勲山陣地の裏手に、鉄条網に囲まれた中国人労工を収容した宿舎と高い監視塔が復元されていて、勲山の直下に東寧要塞資料館(陳列館)が開設されている。また東寧労工墳には新旧二つの記念碑が建立されている。また、中国愛国主義教育基地として勲山陣地・朝日山陣地・勝鬨山陣地などが保存されている。

(以上は主に青木茂の『万人坑を知る旅』より)

【東寧要塞へのソ連軍急襲】

 1945年(昭和20年)8月9日(長崎に原爆が投下された日)、ソ連赤軍は日本との不戦条約を破棄し、戦車と航空機の支援を受けて東寧要塞を攻撃し始めた。日本軍は急な攻撃を受けて、地下壕に隠れながら頑強に抵抗するしかなかった。ソ連は重砲を東寧要塞に向けて間断なく爆撃したが、厚いコンクリート壁は重砲の爆撃に耐えた。国境要塞は基本的に関東軍が想定していた効果を発揮できなかった。その理由は太平洋戦争により、南方に戦力が投入され、満州での戦力が奪われていたことによる。そのため他の要塞はいち早く陥落したが、東寧要塞はよくもちこたえた。

 8月15日、日本の天皇による降伏の詔書が出された。それを受けてソ連側は将校を派遣して日本の東寧要塞側と交渉し降伏を求めたが、日本の駐留軍はソ連人の悪巧みだと信じ、決してだまされてはならずとこのソ連伝令兵を殺害した。これにより、ソ連は東寧要塞への爆撃をさらに加速させ、要塞は崩壊し始めた。その後ソ連軍兵士は要塞に入り、日本軍と過酷な肉弾作戦を展開した。しかし巨大な地下壕の様子はソ連軍も把握できず、多くの戦死者を出した。ソ連の爆破手は地下壕を爆破し続け、多くの壕が破壊され、瓦礫があちこちに飛び散った。しかしそれでも日本人は降伏しない。そこでソ連は牡丹江の捕虜キャンプから日本軍第三軍後方参謀の河村中佐を連れてきて、白旗を掲げて東寧要塞に入り、日本軍兵士に天皇降伏の詔書を読み上げる手段に出た。それを聞いた後、日本兵はほぼ全面的に抵抗をやめ、8月28日、901人の日本兵士が白旗を掲げて要塞を出て、東寧要塞の主基地はソ連人の手に落ちた。

 ところが東寧要塞の一つ、勲山要塞の地下壕にはまだ多くの日本兵が隠れていた。それまでの作戦で日本軍は勲山要塞を戦闘に投入していず、この時たまたま通りかかった住民がこの要塞の残存日本兵を発見したため、ソ連軍は再び出動し、この要塞を包囲攻撃した。ソ連軍は同じ方法で日本軍将校を派遣して降伏の詔書を読み上げようとしたが、それを残存日本兵はソ連軍の策略とみて、断固として抗戦したので、ソ連軍は彼らを全滅させなければならなかった。2日後、ソ連軍は大量の戦車を集めて交互に爆撃し、ついに勲山に居残っていた日本軍はすべて討滅された。この時はすでに8月30日で、日本が降伏してから15日も経っていた。ちなみに勝鬨山陣地も第三軍から停戦が下令される8月26日まで抵抗をつづけた。

(この項は中日のサイトより混成。訳文は筆者)

ハイラル要塞建設と強制労働と万人坑

 上記東寧要塞と同じ1934年(昭和9年)の6月、日本軍は内モンゴル(蒙古)のハイラル(海拉爾)市に要塞建設を着工し、1944年(昭和19年)8月までにほぼ完成した。ハイラル要塞は要塞群の西端に位置する重要拠点で、ハイラル市街を取り囲むように構築された。ここに日本軍第8国境守備隊を中心とする3万人が駐屯した。司令部が置かれたハイラル河南台陣地には、地下10数mから20mの位置に坑道が造られ、その総延長は5千mにもなる。また地下には60余の部屋が備えられ、医務室などもあり総面積1万平方mになる。

【万人坑】

 要塞は中国人労工の血肉で築かれたが、労働者は日本軍の甘い言葉で集められ、過酷な強制労働により過労や病気、飢餓、凍死、虐待などで2万人以上が死亡した。死体はハイラル北山、敖包山の下、伊敏河北岩あたりに車で運ばれて捨てられた。その辺りは一面砂地の丘陵地帯で、その一帯に犠牲者の遺骨が今も風に吹きさらされている。一時、地下要塞の一部に写真や資料を集めた展示施設が公開されていたが、2008年(平成20年)、地上に「世界反ファシズム戦争ハイラル記念館」が設置され、それに続いて「愛国主義教育基地・万人坑遺跡」と刻まれた高さ10mもある記念碑が作られた。この記念館には他の「万人坑」のように掘り出された被害者の骨を収集していないが、記念碑付近一帯は周囲に柵が設置され、万人坑保護区域とされている。「万人坑の砂地で一尺足らずの厚さの砂をシャベルで掘ると、いろいろな形にねじれて絞結した白骨の層が現れた。その白骨の一部が、太い針金で肩甲骨をすり抜け、五、六人の人間がくっついて、顔を地面につけ、頭を白骨の中に突っこんでいるのが見えた。頭蓋骨に銃弾の穴があり、あるものは針金で縛られ、頭が折れ、棍棒の銃床で殴られたようだった。手足が欠けていたり、口が開いていたり、生き埋めにされて叫んでいるような……」という様子も資料に書かれている。

 このほか、ハイラル市街にある西山広場(公園)に、ハイラル神社の手水鉢の置かれた比較的大きな手水舎が残されている。神社の本殿は残っていないが、この手水舎からすると大きな神社であったと想像される。日本が中国への侵略の途上で居留民を送り込み、その各地で神社仏閣を作っている一つの痕跡である。

【ソ連軍侵攻】

 1945年(昭和20年)8月9日に参戦したソ連軍がハイラルに侵攻するのを阻止するため、当時、伊敏河を越えハイラルの東西をつなぐ唯一の鉄橋であった伊敏橋を日本軍が自ら爆破した。その結果、日本人居留民は日本に向かって逃避する手立てがなくなり、悲惨な状況に陥った。その当時の取り残された居留民の姿を現すために、伊敏橋の傍らに、爆破された伊敏橋の先のはるか東方を見つめる母と子の等身大の像が建てられている。右手に子供、左にトランクを置いて遠くを眺めているこの像には「望郷」の文字が記されている。なお、ハイラル要塞でのソ連軍との戦闘では、日本軍は独立混成第80旅団が防戦し敖包山地下壕によって善戦したが、千人近くが戦死した。

(以上は主に青木茂の『万人坑を知る旅』と中国側資料より)

【要塞建設労工生存者の証言】

 ハイラル要塞の地上の一角に長さ30m・幅14m・深さ3mの窪地に、ハイラル要塞建設工事で強制労働を強いられた中国人労工の宿舎(小屋)の跡がある。小屋は中央に通路があり、通路の両側に上下2段の寝床が備えられ、一棟に200人余の労工が収容されたという。(以下はまるでナチスのアウシュビッツなどの強制収容所とほぼ同じか、それ以上にひどい光景が見られ、またロシアによるシベリア収容所のほうがずっとましのように思われる)

 張玉甫は河北省漆県出身で、鄭家屯で「労働者募集」にだまされて「虎口」に入った。この時集められた労働者400人は、ハイラルの北山に送られた。丘の上には小屋が延々と並び、無数の金網や見張り所があった。張たちは毎日軍事用の坑道を築くために過酷な重労働を強いられ、シャベル一本で土を上に投げていると両腕は一日で持ち上がらなくなった。しかし休むと革鞭と棍棒が待っていた。一人の若者が何日もセメントを打ち続けて(この仕事が最も重い)、この時彼は汗を拭き、息を整えるために体を起こそうとしたとき、監督がそれを見て怒り、シャベルをもぎとって彼の首に打ちかけた。名前も知らないこの若者は何度か体を揺すって再び起きあがることはなかった。その監督はまばたきもせず「彼を引きずり出せ」と言った。この監督は別の場所でまた一人の労工を撲殺した。労工たちは朝食には高粱粥、昼食には酸っぱくて硬い混合麺を食べ、毎日三度の塩漬け豆と飲んだのは生水で、多くの人は腹を壊し、三日も続くと人間の感情がなくなった。

 一つの小屋には約400人が収容されていたが、向かい合わせの二段敷きで横になると寝返りができない。小屋は暗く湿っていて、見張りの便宜と逃走防止のため、中央に小さな扉だけが設けられていた。夜、誰かが便所に行く時、四人揃って一緒に出て行き、また一緒に帰ってくる。一人逃げたら三人が責任をとる。張は北山に着いてから一着も服を配られたことがない。冬の零下40℃の寒さには耐えられない。仕方がないので、灰の袋を体と足に紐でくくりつけた。毎年冬に凍死する人は数えることができなかった。最後に逃れる道はただ一つ、死であった。まもなく彼は病気になった。最初、張の左目は急に赤くなりぼやけていった。治療は行われず、数日後には左目が見えなくなった。日本軍の看守は彼が目が見えず病気になるのを見て、彼を「病人小屋」に送った。小屋には500人以上の病人が住んでいて、悲鳴やうめき声が絶え間なく聞こえ、胸が潰れそうであった。 みんな寝たきりで、シャベルさえ持つことができれば、誰もここへ来て死を待つ気にはなれない。ここでは一日に一度の汁粉しか出ない。毎朝看守は「病棟」を見回り、一人一人を足で蹴り、硬直した死体を発見すると、引きずり出すように命じた。一日に少なくとも三、四体、多くは七、八体。これらの死体を一つの大きい棚の中に積み上げて、三、四日に一度トラックで運び、伊敏川の北岸の「万人坑」の中に投げた。張玉甫はここから逃げることを考えた。小屋は作業場から離れていて看守の目もゆるんでいたが、捕まることを怖れた。張が病人小屋に入る前のこと、名も知らない労工が真夜中に逃げ出し、有刺鉄線を越える前に狼犬に捕まって引きずり戻された。翌朝、張たちが仕事の列に並んでいたとき、近くの電柱に、血まみれの労工が裸で高くぶら下げられ、体から血が滴り落ちているのを見た。日本の将校は、大声で「逃げるものは誰でも彼のようになる!」と言った。張は生きる道を考え続け、1936年(昭和11年)7月のある日、看守が眠りにつくと、裸でそっと床を這い、慎重に戸を開けて看守の前を通り抜け、力を振り絞って走り出した。彼は七重の金網と深い溝を次々と這い進み脱出することができ、死を免れ解放された。後年、日本軍は軍事機密を守るため、要塞が完成したあとにハイラルの西山と方宝山からの何万人もの労働者をすべて万人坑に埋葬した。

(以上は『侵華日軍暴行総録』より。訳文は筆者)

西安(遼源)炭鉱における暴虐と万人坑

 1934年(昭和9年)5月7日、日満共同法人として満州炭鉱株式会社が正式に設立され、河本大作(河本は1928年に起きた張作霖爆殺事件の首謀者であり、当時関東軍高級参謀であった)が理事長を務めた。その傘下の西安鉱業所も西安炭鉱株式会社とされ、警察隊、炭鉱警備隊、労務系など多くの特務組織を設立し、鉱山労働者に対して植民地支配を行い、鉱山労働者はさまざまな刑罰に苦しめられた。ベテラン労働者の回想によると、鉱業所の刑罰には無数の種類があり、例えば煉瓦積み、上から吊るす、棍棒打ち、過電刑、氷漬け、熱湯を注ぐ、焼きごて、狼犬の檻、穴掘り、生き埋め等々である。

 1934年(昭和9年)、日本軍警察は「西安鉱業所」の事務棟に入り、率先して給料を要求したとして6人を逮捕した。彼らは「抗日」の部員だと言われ、警備隊が太平荘近くのコーリャン畑に押し込んで生き埋めにされた。警備隊は彼らが生き残るのを恐れて、引き上げる時にまた銃剣を使って、一刀一刀を穴の中にむやみに突き刺した。

 1934年から1935年(昭和9-10年)にかけて、鉱山病院事務長の日本人蓬田だけで四回にわたって呉金鋒(鉱山病院満人病棟外科責任者)を訪ねて6人の労働者の心臓を抉り、2人の肝臓を西安鉱業研究所警備主任の竹内(名前は秘す)に食べさせた。史料によると竹内は 30-40人の中国人を殺害し、胸と腹を開き、心臓と肝臓を抉り出した。

 1939年(昭和14年)に富国四坑道の一褚という労工は、日本兵に冤罪で逮捕され、彼の体に犬の皮を被らせて狼犬の檻に投げ込まれ、狼犬に胸の腹を引き裂かれ、心肝の五臓を食べられ、血にまみれた残骸が残った。労工の韓志林は日偽統治に不満を言ったところ、狼犬の檻に投げ込まれ、四分五裂に引き裂かれ、脳みそと五臓がいっぱいに引き出され、見るに忍びない惨状であった。

 1940年(昭和15年)のある朝、富国採炭所で図面の一部が失われ、日本人所長は中国人作業員30人余りを県公署監獄に縛り付けるよう命じた。その中の16歳の譚喜林は、電気椅子で電気刑を受け、最後には舌先が歯に咬まれて落ちるほどになり、一死を免れたが、一生不具となった。高という労工は家族に病気があって、町へ薬を買いに行ったが、逃げるとみられて犬に追われて捕まえられ、街から坑口に戻され、警備班に20分ほど電気を流された後、水瓶に入れられた。家族は彼を背負って帰ったが、数日もしないうちに死んでしまった。

 1941年(昭和16年)に鉱山の労工2人が、拷問に耐えられずに逃走して捕まり、特務に”鋪把燉肉”の刑罰(筆者注:翻訳不能であったが、中国人に調べてもらった結果、「脱走した老工によれば、逃げる者の両足をつるはしで潰して移動能力を喪失させるという空恐ろし刑罰)で凶打され、その中の一人は両足の肉が全部打ち飛ばされて、出血多量で死んだ。さらに1942年(昭和17年)7月の日曜日の夜、労工の曹広太、牛漢元ら12人が逃走して逮捕され、拷問で皮が裂け肉は飛び散り、死んでしまった。

 1942年(昭和17年)10月、「方家櫃」の劉という20代の青年鉱夫は、下痢をして2日間休暇を取ったところ、赤く焼けたシャベルで尻を焼かれて骨が露出し、無残に焼かれて死んだ。

 1943年(昭和18年)の師走、富国二坑道の青年鉱夫は、手配師(労工を代行して雇用する人間)が食事を削減したことに抗議したが、労務係に連行され、服を脱がされ庭に縛り付けられ、バケツの冷たい水を何度も裸体に浴びせられた。この青年鉱夫は凍死した。(この季節は中国東北地方は極寒の中で、外に水をまけばすぐに凍ってしまうほどの温度)

 こうして1945年(昭和20年)までに8万人以上の中国人労工が過労や病死、刑罰で死亡し、その遺体は西安炭鉱周辺の各地に分散して埋められ、六つの主要な万人坑が形成された。ここに遼源鉱工墓・鉱工記念館が設営され、丘の上には「日偽統治時期遼源炭鉱死難鉱工墓」と刻まれた黒い大きな記念碑が建てられた。また2005年(平成17年)には新しい資料館・陳列館が開館した。

(以上は中国の『侵華日軍暴行総録:吉林省編』より)

日本国内の動向と世相(昭和9年:1934年)

日本の出来事

 1月:東京日比谷に地上6階、地下1階、収容人員2810名という東京宝塚劇場が開場、こけら落としのレビューは「花詩集」で、公演は大成功を収める。

 2月:有楽町に日比谷映画劇場がオープン。

 3月1日:前年にオープンした日本劇場で、アメリカから初来日したマーカス・ショー劇団の公演が行われ、警視庁の検閲によって胸やへそなど隠されるが、予想以上の大入りとなった。この日劇、帝劇、宝塚劇場が並ぶ日比谷界隈は、新しい時代の娯楽地帯へ変わっていった。

 3月21日:函館市で大火が起こり、死者行方不明者2716名、焼失家屋24186戸、市街地の三分の一が焼失するという被害をもたらした。翌日には救援物資が上野駅から貨車で青森まで、青森港からは駆逐艦などで届けられた。

 5月:近衛文麿貴族院議長、親善大使として訪米。6月8日ルーズベルト大統領、ハル国務次官と会談。

 同月:出版法改正が公布される(8/1施行)。これによってレコードも出版物とみなされ、言論統制の対象となり、レコード会社は発売前に内務省に提出し、検閲を受ける事になった。

 5月以後 – 東北地方を中心に冷害と不漁が相次ぎ、深刻な凶作となって飢饉が発生する(後述)。

 7月:逓信局ではNHKラジオが放送予定の、小唄勝太郎が歌う『島の娘』の歌詞で、「恋ごころ」と「主と一夜の仇情」が好ましくないとの事で削除命令を出す。(「日本の軍歌とその時代背景」参照)

 6月:文部省、 学生部を拡充して思想局 (思想課・調査課) を設置

 8月:石川島飛行機製作所で、純国産飛行機の第1号となる95式1型練習機が完成する。別名「赤とんぼ」と言われ、1943年(昭和18年)まで2398機が製造される。後の神風特攻隊の多くがこの赤とんぼで練習する。

 9月:室戸台風が四国から京阪神にかけて上陸し、死者行方不明者3246人、4万戸が全壊する被害となる。

 10月:警視庁は学生・生徒・未成年のカフェー出入り禁止を学校当局などに通達する。それに対し店側では「制服を着ぬ客はこの限りにあらず」という貼り紙を出して対応する。

 10月:陸軍省がパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を60万部配布した。陸軍は次の戦争は国家総力戦体制で戦わねばならないと考え、永田鉄山軍務局長の承認、林銑十郎陸軍大臣の決裁を得て発行、その目的は陸軍改革にあったが、内容は陸軍主導による社会主義的計画経済採用の提唱であり、しかし基本は軍国主義体制の確立であった。書き出しは「戦いは創造の父、文化の母である」で始まり、「国防は国家生成発展の基本的活力の作用なり。国民は必勝の信念と国家主義精神を養い、それには国民生活の安定を図ることを要する」とあり、そのためには天皇制国家にしなければならない、資本主義を見直し統制経済にしなければならない等の今後の方針が具体的に示されていた。

 陸軍では1932年(昭和7年)に永田グループ(統制派)と小畑グループ(皇道派)に分かれていて、作成に関与したのは統制派に属する将校たちだったが、「軍の刷新、国家総力戦体制を形成」 という点では一致しているので、当時皇道派も表立っては反対しなかった。しかし11月の特別議会で民政党や政友会からは陸軍の公然たる政治介入であるとの批判的な質問に、陸軍大臣の林が「これは軍の一つの意見ではあるが、必ずしも実行しようというものではない」 と弁明した。これに怒りをあらわにしたのが皇道派の青年将校達で、統制派のエリート達は信用できない、彼らに任せておいては近代戦を戦える国防国家は出来ないと裏側で動き始める。これにより、統制派の永田は翌年暗殺される。

 永田暗殺によって統制派と皇道派の派閥抗争は一層激化し、皇道派の青年将校たちは、後に二・二六事件を起こすに至る。その後統制派は、東條英機が継承し、やがて太平洋戦争(大東亜戦争)に至るが、そこで「陸軍パンフレット」は、陸軍の国民教育の基本テキストとなり復活する。

 11月2日:米大リーグ選抜チームが来日し、日本のチームと親善試合を各地で行う。 ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックスの三大本塁打王を伴い、対する日本は初めてプロのチーム「全日本軍」で挑むも、16戦全敗に終わった。MLB選抜は全16試合で47本塁打(119打点)を記録したが、この一連の試合の中で唯一相手打線を1点に抑えたのが、当時17歳の沢村栄治投手であり、今でも語り草となっている。この年の日米野球をきっかけとして、12月に日本初の職業野球チームである「大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)」が結成された。

 なお沢村は、プロ野球リーグが始まる前の1935年(昭和10年)、第一次アメリカ遠征に参加、21勝8敗1分けの戦績を残し、同じ年の国内での巡業では22勝1敗。その後も戦績を残したが、徴兵によって現役兵として帝国陸軍に入営、1938年(昭和13年)から満期除隊の1940年(昭和15年)途中まで軍隊生活を送り日中戦争(支那事変)に従軍。投手の腕を買われて前線で手榴弾を多投させられたことから生命線である右肩を痛め、また戦闘では左手を銃弾貫通で負傷、さらにマラリアに感染、体調を壊した。その後再度の応召により予備役の兵として軍隊に戻るなどで活躍の場を失い、現役引退後の1944年(昭和19年)10月に2度目の応召(現役兵時代を含め3度目の軍隊生活)となり、同年12月2日、太平洋戦争でフィリピン防衛戦に向かうため乗船していた軍隊輸送船が、屋久島沖西方の東シナ海でアメリカ海軍潜水艦により撃沈され、屋久島沖西方にて戦死、27歳没。プロ野球通算63勝22敗、防御率1.74で、戦後の1947年(昭和22年)には沢村の功績と栄誉を称えて「沢村栄治賞」が設立され、プロ野球のその年度の最優秀投手に贈られることとなった。

 11月1日:満鉄が大連・新京間に特急「あじあ」を運転開始(約701km、8時間30分)。最高速度は130 km/hで、当時日本の鉄道省で最速の特急列車だった。

 11月20日:陸軍青年将校のクーデター事件発覚(士官学校事件)。日本陸軍の陸軍士官学校を舞台として発生したクーデター未遂事件。磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校と陸軍士官学校生徒らが重臣、元老を襲撃する計画だったが、情報漏洩により主なメンバーが憲兵に逮捕され未遂に終わった。関与した青年将校たちは2年後の二・二六事件で中心メンバーとなった。

 12月3日:日本はワシントン海軍軍縮会議条約(1922年:大正11年2月にアメリカのワシントンD.C.で開催された会議で取り決められた、米英日仏伊の戦艦・等の保有の制限)の単独破棄通告を決定(12月29日に破棄をアメリカに通告)。 続く12月19日、ロンドン軍縮会議(1930年:昭和5年に締結されたロンドン海軍軍縮条約の改正を目的としたが、1934年:昭和9年に行われた予備交渉)でも決裂、ロンドン条約の軍縮協定を一方的に破棄する。続いてイタリアも脱退したことで、1938年(昭和13年)に残った米英仏の三国は諸々の制限を緩和し、世界的に軍拡の道に突入、これにより航空母艦や潜水艦が各国で次々に建造されていくことになる。

東北地方の冷害凶作被害

 三年前に昭和恐慌の影響と凶作で東北の農民が大きな被害を受けたばかりであったが、この年も冷害で凶作となった。東北の冷害、西日本の旱害(干ばつ)、室戸台風の水害で全国的に凶作となり、米は1910年(明治43年)以来の少ない収穫量となった。11月7日、東北地方の冷害凶作被害に対して、昭和天皇と香淳皇后から50万円(約15-20億円)の救恤金が下賜される。一方で軍需景気で工場増築が盛んとなっていた。

 東北の村の実態を「凶作地帯をゆく」(昭和9年(1934)10月26日付:秋田魁新聞)と題する現地レポートには次のように記されている。

 —— 秋晴れの鳥海は清らかな山姿を、紺碧の空にクッキリ浮かせている。しかし、山裾にある町村は、未曾有の凶作に悩み、木の実・草の根、人間の食べられるものは全部刈り取り掘り尽くし、米の一粒だに咽喉を通すことのできぬ飢餓地獄にのたうつ惨状。

 秋田県由利郡直根村百宅部落のごときは、空飛ぶ鳥類さえ斃死したかと思われ、400名の部落民からは生色がほとんど奪われ、天に号泣し地に哀訴の術も空しく、飢え迫る日を待つのみの状態である。同部落は戸数100戸、作付け反別80町歩、これは冷害のためほとんど全滅だ。同分教場には90名の児童を収容しているが、欠食児童は3割に当たる30名、欠席者は非常に多く、1日平均20名、また早引きするものもかなり多い。これは家人の働きに出た後の留守居や、でなければ山に入って栗・トチ・山ぶどうなどの木の実、山ゆり・山ごぼう・フキなどの草の根・木の葉を集めるために欠席する

 垢に汚れたヨレヨレのボロ着にまとった赤児をおんぶして、授業を受ける児童の多いこと、一人泣き出せば又一人、背の赤児はまだしも自分でも末に負えなくなって泣き叫ぶ子守りもいる。

 こうした名目ばかりの義務教育を終えて、やっと15、6になると、雀の涙ほどの前借金で丁稚とか、酌婦に売り出される。生まれ落ちて布団もろくろくないワラの中に育ち、食うや食わずにやっと6年を終えたら、知らぬ他国に涙の生活、彼ら山間奥地の住民は、永劫に光を持たぬ運命を約束されてきた。

売られゆく娘たち

 1931年(昭和6年)に続き、凶作が決定的となったこの1934年(昭和9年)、娘の身売り、欠食児童、行き倒れ、自殺などが激増する。 例えば、青森県下から芸娼妓に売られていった10代の娘たちは7,083人とされる。「身売り」というのは、この時期の日本ではまだ人身売買が行われていたということで、昭和20年の敗戦による連合進駐軍(主として米国)の民主化政策でやっとこの種の人身売買は禁止される。

 また秋田県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると、「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」の数は、1万1182人で、前年の4417人に比べて2.7倍になっている。とりわけ秋田の米どころと言われる雄勝・平鹿・仙北三郡が多かった。娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。しかし、小作農民(地主から田畑を借り受けて農業をする民)の根本的解決がない限り、娘の身売りの根絶は困難であった。

 娘の身売りや母子心中などが社会問題化している中、この対策としてこの年、東京本所の愛国婦人会隣保館に農村子女の保護救済の一環として「女中養成所」、別名「女中さん学校」が開設された。1日30銭の宿泊費のみで、一週間無料で炊事洗濯掃除などの家事一般から学科や社会見学なども含まれ、確実な家庭に斡旋する目的を持っていた。女中というのは比較的裕福な家庭に入って住み込みとなり、朝から寝るまで丸一日家事や子供の世話をする立場で、休日などなかったが、芸娼妓になるよりずっとましで、時期が来れば奉公先から結婚の話も持ち込まれたりした。この風習は1955年(昭和30年)代まで残っていた。

昭和10年(1935年)

中国における軍事的動向

 日本軍による満州国設立から数年経っても政治的状況は安定せず、とりわけ日本軍占領に反発する抗日軍が満州を中心とした各地に根を張り、日本軍を悩ませていく。日本軍は満州以外にも支配地区を南方面、つまり北京と天津を含めた河北省地区まで支配を及ぼそうとしていた。そのために日本軍は裏工作や軍事的挑発を仕掛けつつ、脅しと懐柔を兼ねた政策を重ねて行き、日本との戦争を避けたい国民政府蒋介石たちの優柔不断の隙をついて傀儡の冀東防共自治政府を設立させる。そうした動きに並行して、若い学生たちの抗日運動も高まり、その中で後年に中国国歌となる歌も生まれる。ただその表側の衝突事件の裏では、日本軍はゲリラ部隊を根絶するとして、町村の住民を抗日の協力者として極めて安易に大量虐殺していく姿がある。

1935年の出来事(中国側から)

 以下は『中国抗日戦争大事記』からの抜き書きである。(訳文は筆者。▷印は日本側の記録から適宜拾い出したもの)

 1月1日、上海に駐留する陸海軍数千人が閲兵式を行い、在留邦人一万人以上が参加した。

 1月8日、東北人民革命軍の第一軍は吉林省通化から山城鎮に向かう3台の日本軍車両を待ち伏せし、7人を殺害し、18人を負傷させた。同日、同軍第一師団は通化市付近で日本軍を待ち伏せ、11人を銃殺し9人を負傷させた。

 1月11日、革命軍の第一軍楊青宇は軍を率いて、日本軍混成第5旅団第5騎兵連隊を吉林省臨江県紅土崖 (現・渾江市)で待ち伏せし、19人を殺害、中隊長以下30名以上を捕虜にした。

 1月15日、国民政府第29軍宋哲元部隊はチャハル省(現・河北省)沽源県の長梁などで、日本の満州国自衛団と衝突し、対日協力した中国軍約40人に武器を放棄させた。関東軍は満州国侵犯を口実に、谷寿夫第七師団に承徳から熱察へ侵攻させた。

 1月16日、察(チャハル)東情勢が緊迫。日本軍の内蒙古赤峰駐屯部隊は多倫への進軍を開始し、日本機6機が承徳から多倫に飛来。同時に日本軍の主力は熱河境豊寧県に集結した。

 同日、撫順炭鉱労働者2300人が過酷な労働と虐待に抗議する。

 1月18日、関東軍司令部は、察省沽源県烏泥河一帯を満州国領土と宣言し、関東軍は同地に駐屯する宋哲元軍を攻撃すると発表し、独石口から沽源にかけて宋軍の速やかな撤退を求めた。

 1月19日、日本大使館の高橋武官は、宋軍が烏泥河で「満州国」自衛団を襲撃したと何応敏氏に通知し、「関東軍はこのような暴挙を座視することはできず、満州国に属するこの場所を徹底的に粛清するために派兵することにした」と述べた。何応欽は宋哲元を「譲歩」させ、万里の長城以外の衝突を回避させた。

 1月22日、熱河西の傀儡軍千人が装甲車10数台と飛行機4機の支援を得て二路に分かれて内蒙古察東に大挙して侵入、沽源県城方面と独石口方面で激しい戦闘になった。

 1月23日午前10時、関東軍飛行隊は内蒙古察東の東柵に爆弾7発を投下した。11時、関東軍第7師団谷寿夫旅団は東柵子に40発余りの大砲を放ち、防衛団と住民の40余人が死傷した。12時、日本軍は河北省独石口東北の長城線に侵入、24日、日本軍永見部隊は東棚子を占領し、沽源方面にも増兵した。同日、日本機は独石口に爆弾を投下、軍民20人余りが死傷し、民家50軒余りを破壊した。25日または26日、東柵子を爆撃、兵士・民間人30人以上が死傷。(察東事件:下記参照)

 1月25日、日本軍はまた一個連隊を沽源東方の南北石柱一帯に増援、これで察東前線の日本軍は約3千人、偽(傀儡)軍は約2千人になった。河北省承徳、大灘間の日本軍は5千人余りになる。

 1月27日、日本軍は東柵子を占領、日本軍300余人は沽源城東より約8kmの吉林省喬家囲子及び義合の二村を占拠した。

 1月28日、日本機3機が熱河省豊寧県大灘の西20kmの断木梁に2発を投下し、村民30人余りを死傷させた。

 1月29日、黒竜江省饒河遊撃隊は大旺険子で日本軍を待ち伏せ攻撃し、100人余りの日本軍を銃殺した。

 1月31日、日本に居留していた中国人の帰国者は、この日までに30陣239人に達した。

 同日、南次郎関東軍司令官は大連で談話を発表、「日本は満州国設立を極東平和の初歩と信じている」とし、「日中友誼の根拠は中国における共産党追放と抗日気運の撤廃」と述べた。

 同日、満洲軍政部は日本人警察官950人余りを各県に派遣し、抗日軍民の鎮圧を急いだ。

 ▷ 1月、蔣介石は『外交評論』に「日本人は我々を敵とすることはできず、一方、中国人も日本人と手を携えなければならない」とし、経済提携などを図るべきと論じ、対日関係打開を探った。

 1935年(昭和10年)3月5日、日本の警察はこの日から24日まで、8回にわたって吉海鉄道の共産党員や労働組合員109人を逮捕した。

 3月9日、この月初に趙尚志率いる人民革命軍第3軍は、方正県大羅勒密で謝文東、李華堂両部隊と東北反日連合軍と組んでいたが、この日、日本軍駐留の方正県城を攻略した。

 3月10日、日本軍は日露戦争30周年記念の名目で、平津及び北寧鉄道沿線の山海関、秦皇島、昌黎、海県、唐山、塘沽などの地で市街戦、野戦演習をした。

 3月16日、東北反日連合軍第5軍第一師団の部隊が寧安県東南山石門子で傀儡靖安軍を伏撃し、20余名を銃殺。

 3月23日、満州とソ連が東京で中東鉄道売却の合意に調印。日本は全長1700kmの中東鉄道とその付属財産を獲得した。後に北満鉄道と改称した。

 3月30日、日本関東軍は対中政策を制定、「一、中国政府の親日政策に対して静観主義を取る。二、華北に対しては、実際の経済力の拡張に応じて、不可分の関係を強化する。三、西南派に対しては親日的政権とみなし、存続させる」とした。日本側の資料では、関東軍は「北支那政権を絶対服従に導くと確認した」とある。

 3月、人民革命軍第2軍独立師団が吉林省安図大旬子を攻略。

 3月、宋慶令(孫文の妻)らが、40余りの抗日団体を結集して国民禦侮自救会を結成。

 4月3日、河北省遷西県喜峰口外姥姥山の民衆は日本軍の弾圧に堪えかね、数百人が反乱を起こし警察署を打ち壊し、署長を銃殺した。その日、日本軍一隊が駆けつけ、さらに馬蘭峪から飛行機での爆撃を行った。

 4月上旬、杭州拱宸橋の日本への借地期間が満了し、国民政府は日本に30年間の継続を許可した。
 4月中旬、上海工部局の格致公学校は英語版世界地図を採用したところ、内アジア全図の中に「満州国」の文字があり、中国の辺境線を万里の長城一帯までと定め、チベット、モンゴルも中国の所有とされていなかった。これに対し租界に住む中国人学生たちが抗議集会を開き、教科書の廃棄を求めた。

 4月23日、関東軍の運営する熱河省阿片専署は長城近くの各村にアヘン栽培を強要し、高い税収を課していた。遵化北撤河橋など30余村の農民千余人が過酷さに反対し、阿片専署を包囲した。これを凌源駐屯の騎兵一隊が鎮圧した。­

 4月下旬、日本は朝鮮江原道の飢饉で朝鮮住民を中国東北に移民させ、吉林省延辺琿春などの県に382世帯2697人が移住した。

 1935年(昭和10年)6月4日、酒井、高橋は再び何応欽を訪れ、日本側が求めている執行状況を尋ねた。何は、姜孝先ら3人の罷免、憲兵第3連隊特務処の解散など7項目を処理したと答えた。しかし、酒井らはさらに于学忠らの罷免、天津からの国民党河北省党部の撤退、北京への憲兵第3団の異動、抗日団体の解散など、より厳しい要求を出した。何は「中日親善協力は中央の既定の方針であり、本方針が努力して行われるべきである」と答えるにとどめた。

 6月5日、【張北事件】: 関東軍の特務機関員山本ら4人は、多倫から張家口に向かって河北省張北県北門まで行ったところで、第29軍132師団の哨兵によって身柄を拘束され、師団軍法処で尋問を受け8時間拘束された後、翌日釈放された。日本軍はこの処置に抗議し、チャハル省の国境に軍を派遣し、飛行機で北平上空から威嚇した。これにより国民政府は6月19日、宋哲元チャハル省主席を解任し、秦徳純を主席代理に任命した。

 6月7日、関東軍は歩兵1個大隊及び騎兵旅団1部を山海関に派遣し、独立第11旅団主力を古北口に混成させ、航空機2個中隊を錦州に派遣して待機、いつでも停戦区に入る体制を作った。華北(支那)駐屯軍も天津・唐山の駐屯軍にそれぞれ1個中隊ずつを派遣して北京に進駐するよう命じた。9日には駆逐艦二隻が旅順から大沽口に入港した。

 6月8日、何応欽は、平津の軍・政・憲・警の機関に対し、中日国交を害する秘密の結社及び団体を取り締まるよう厳令した。蔣介石は、「日中国交に差し障りのある事柄は改善し、日中親善提携の実現を図らねばならない」と主張した。

 6月9日、酒井参謀長、高橋武官は何応欽に3度目の訪問をし、「日本は各要求事項が完全に達成されることを望んでいる」、「中日は親善提携してこそ東アジアの平和を維持することができる」と述べた。酒井らはさらに「河北省内において党本部を完全に廃止すること/第51軍の撤退/中央軍第2師団、第25師団も同様/排日の行為の禁止」の4項を要求、6月12日午前中の回答を求めた。同日、何応欽は蔣介石、汪精衛に電文で指示を仰いだ。

 6月10日、汪精衛は何応欽に電報を送り、中央臨時緊急会議は痛みに耐えて平和を維持する方針に基づき、戦争回避のために日本側の要求を受け入れることを決定したと伝えた。何応欽は高橋武官に会い、国民党中央の訓令に従い、口頭で日本側の要求をすべて承諾した。高橋は何の返事に満足したといって去った。

 ▷ 10日、国民党は第51軍を保定に移駐したのに続き、9日、北平の憲兵第3団を南京に移駐、この日に第2師団と第25師団を河南省新郷に、旧東北軍を保定に移駐開始した。

 同日、国民政府は『善隣外交令』を公布、また国民党中央軍は、北京から兵力を撤退させつつ、共産党紅軍に向けて配置させた。

 6月上旬、黒河地区駐屯の傀儡騎兵第22連隊機関銃中隊の孫徳勝ら12人は、反乱を起こし、日本軍将校を銃殺し、ラジオ局を焼き払った。

 6月11日、日本関東軍は瀋陽特務機関長土肥原に対し、宋哲元軍を黄河以南に撤退させるよう指示した。

 同日、高橋武官は自ら作成した「覚書」の草稿を携えて、北平軍事分会を通じて何応欽に渡し、捺印して日本側に送るよう求めた。これはさらに付帯事項で省市の役員を任命する時には日本側の許可を得るという約束も求める内容であった。これに対し何応欽はこれを拒否する意向を蔣介石と行政院に電報で伝え、蔣介石は同意した。

 同日、日本側は北平市政府に、中国軍の移動状況を偵察するために飛行機12 −17機を上空に飛ばすと通知した。13日、軍用機14機が平・津を通過し、第51軍の行動を監視した。

 6月14日、日本の航空機は津浦・平漢両線に沿って偵察した。北平(北京)の日本軍は2400人に増え、関東軍の一部が山海関に到着した。

 6月18日、日本の華北(支那)駐屯軍は、天津で昼の市街戦を演習し、夜9時、日本租界に戒厳令を敷いて演習した。

 6月20日、宋哲元は張家口から天津に到着して記者に「中央の命令には絶対に従わない、29軍は師団長張自忠に任せ、外交は秦徳純が処理する」と述べた。

 6月中旬、東北人民革命軍第2軍第3、4師団の一隊は東寧県老頭溝で偽軍(傀儡軍)を待ち伏せ攻撃し、偽軍1個中隊を殲滅、100余の銃を手に入れた。

 6月24日、関東軍司令部は春季「討伐」抗日軍報告を発表、最近6ヶ月の間に、東北抗日連合軍は2万8千人に増えたと推定され、東北北部の活働区域は40カ所余りになり、関東軍は抗日連合軍と195回交戦し、関東軍の死者25人、負傷者75人となった。

 6月28日、北平(北京)で「豊台事件」が発生。呉佩孚の旧軍部隊幹部であった白堅武は、天津日本特務機関長の大迫通貞らに買収され、「正義自治軍」を組織し、27日夜、300人余りを率いて豊台駅を襲撃し、装甲車に乗り込んだ。この日早朝、北平永定門に近づき、城内で多数発砲し、「華北国」を組織しようと主張したが、万福麟などの部隊が迎撃して潰走、通県の南方一帯に逃げた。(下記参照)

 6月、日本は内蒙古多倫一帯で土地24.4万畝を収用し、大規模な開墾と牧場造成を行い、名称を「安全農村」とした。

 1935年(昭和10年)8月4日、冀東(河北省東)灤榆(らんゆ)区保安第3総隊長劉佐周が灤県駅で梅津司令官を迎えた時に暴漢に刺され絶命。翌日、日華北駐留軍参謀長酒井は、政整会委員長代の王克敏及び河北省府に抗議した。

 8月5日、張家口日特務機関長松井源之助とチャハル省保安処長張允栄は、張家口で「秦土協定」(後述の土肥原・秦徳純協定)により、モンゴル保安隊による居住区の治安維持を規定、それによりモンゴル保安隊は沽源、宝昌、張北地区に進出した。

 8月6日、熱河抗日軍劉振東らの部隊は朝陽県二十家子鎮を攻略し、偽警察署長馬蘭延を処刑した。

 8月7日、蔣作賓は成都から南京に戻り、蔣介石とともに対日交渉の提案を行い、「中国は東北問題を問うことを断念する/日中関係は平等を基礎とし、一切の不平等条約を破棄する/日中は平等互恵を原則とし、さらに軍事協定を締結する」とした。

 同日、河北省政府は4日の劉佐周事件の善後処置方法2項を公布した。同日、河北省主席の商震は天津に赴いて梅津を訪れ、劉佐周事件に対して謝罪の意を表明した。

 同日、藍天林は抗日軍を率いて朝陽蒙古営子で傀儡軍を待ち伏せ攻撃し、150余人を撃ち殺し、銃100余丁を奪った。翌日また遼寧省北票を包囲し、傀儡軍と3昼夜の激戦の後、二軍を退却させた。(下記「北票長溝惨事」参照)

 同日、『大同報』発表によると、1932年(昭和7年)9月、反満抗日武装隊は計10万人、共産党部隊不詳、1933年(昭和8年)9月、非共産党抗日武装1.25万人、共産党部隊3600人、1934年(昭和9年)9月、非共産党抗日武装5000人、共産党部隊3300人、1935年(昭和10年)7月、非共産党抗日武装6000人、共産党部隊7300人となっている。

 同日、湯原遊撃隊は黒竜江湯原県太平川傀儡警察署の全警察官を武装解除させ、署長以下30余人を捕虜とし、銃30丁を捕獲した。

 8月19日、東北人民革命軍第2軍第1団は抗日義勇軍海竜部と連合し、長図線の南溝・亮兵台間で朝鮮行き国際列車を転覆させ、日本軍5人を射殺した。翌日には明月溝から増援された敵装甲車1列を転覆させた。

 ▷ 同日、日本陸軍機5機が遼寧省盤山に大量の爆弾投下と機銃掃射をおこない、50人余が死亡した。

 8月21日、劉佐周を刺殺した犯人の李振華が灤県柏各荘で逮捕された。彼は劉に免職されて恨みを抱いていたという。

 8月28日、東北人民革命軍第2軍第1団主力は抗日軍と連合し、5昼夜の包囲攻撃を経て吉林省安図県城を占領した。

 8月30日、新任の満鉄総裁松岡は長春に到着し、関東軍司令官南次郎を訪問して、対満国策を相談し、東北の経済文化事業に全力を傾けるとした。

 同日、本渓湖炭鉱鉄公司を満洲国と日本の大倉組の出資4対6とした。同社は低燐鉄と特殊鋼の生産を独占する。

 1935年(昭和10年)10月4日、内閣は対外・陸海空三相の「対中政策案について」を決定、「帝国を中心とした日・満・華三国の協力により、東アジアの安定と発展を図る」という内容で、中国に対し排日言動の徹底的取締りと対日親善政策の採用、満州国の承認、共同防共、この三つの要求を「広田三原則」とした。

 10月10日、日本の華北(支那)駐屯軍200余人は郭黄荘などで実弾演習を行い、村人の陳双林を射殺したが、日本側は20元の賠償で済ませた。同日、津郊灰堆子でも演習を行い、手榴弾で農民一人を爆死させた。

 筆者注:たまたまの演習で誤って射殺した村人に対し賠償するとは、これまでの数々の事件を見てきている中で異例に思えるが、建前上の取り繕いであろう。しかし双方の戦闘上において、日本軍が仮に中国軍やゲリラ隊によって数10人や100人単位で殺されても抗議はしないが、上記(8月4日)のように公の場で、日本軍に属する中国人の隊長一人が暴漢に刺殺されると中国側に厳重に抗議し謝罪を求める。また時折生じているように、街中で日本の兵士や民間人が単に一人のテロリストに殺された場合には(下記11月9日、あるいは11月11日のように襲撃された場合)、大いに抗議し、それがむしろ戦闘のきっかけになったりする。そしてその結果の戦闘の中で多数の死者が出ても抗議の対象にはならない。戦闘あるいは戦争という名の下では、殺戮は許容範囲の中ということになるわけだが、仮にゲリラ隊が潜んでいるようだという理由付で、村人を殺戮し、家々を焼き尽くすという残忍な行為をも「賠償」の対象外とし、むしろその事実を隠してしまうはどういうことなのか。本来やってはいけないことと暗黙に認識されているからであろうが、いずれにしろ歴史家の多くが、上記のような表に出された単純な事件のみを拾ってその経緯を記述するだけで済ませていることに、筆者は疑念を抱くようになっている。

 10月16日、日本の第4回国勢調査の結果、上海在住の邦人は2万6000人余りだった。また平津(北京と天津)の邦人は7400人余りに増えた。

 10月21日、蔣作賓は中国政府の三原則に対する回答を広田に伝えた。「中国は夷を以て夷を制す意なし、諸外国との関系において日本を排除、妨害しない。満州国問題において政府間の交渉はできないが、現状に対して平和以外の方法で問題を起さない。もし日本が中国側の提案した三原則を完全に実行することができれば、中国は主権独立を妨げない」という原則のもと、北方国境の「赤の防衛」について日本側と有効な方法を協議した。

 10月22日、中国経済視察団と日本実業界のリーダーは東京で「中日貿易協会」を設立することを申し合わせた。

 10月25日、河北省主席の商震は保安部隊の各長を呼んで治安方法を協議し、早期に軍警取締所を設置して警察力の不足を補うことにした。

 同日、日本は台湾侵略40周年の祝賀会を台北で開催。

 同日、日本の華北における投資総額はすでに3億元近くに達し、そのうち天津では紡績、たばこ、マッチ、屠畜、冷蔵、骨粉、肥料、製革などの業に3600万元を投資した。北京にも700万元を投資、青島紡績業に約5千万元、マッチ、製粉、倉庫、油搾り、缶詰など、また採炭業などに約1万4000元を投資、満鉄理事会もさらに2億元の増資を決定。

 10月24日、天津の日本軍は流民五、六百名を雇い集め、「民衆自治請願団」と称して中国側の保安司令部、市府公安局に圧力をかけようとした。

 1935年(昭和10年)11月1日、国民党第4期中央委員会第6回全体会議が開幕し、汪精衛(汪兆銘)中華民国行政院長が開会の辞を述べた後、刺客に狙撃され怪我を負った。刺客は共産党19路軍の元小隊長とされるがその場で逮捕され、翌日病院で死亡した。

 11月2日、東北反日連合軍第5軍と人民革命軍などからなる西部遠征軍は、吉林市額穆県で日本軍を全滅させた。

 11月6日、奉天特務機関長の土肥原は瀋陽から天津に到着し、宋哲元らが華北5省と連携して南京中央政府から離脱するよう策動した。翌日、華北(支那)駐屯軍司令官の多田駿は土肥原、高橋氏らと「華北自治」問題を協議した。

 ▷11月9日、海軍陸戦隊一等水兵が上海共同租界を通行中に中国人に射殺された。(後述)

 11月11日、特務機関長土肥原は北京に赴き、宋哲元に「華北高度自治方案」を提示、宋に11月20日までに自治宣言を発するよう、さもなくば日本軍は河北と山東を取ると伝えた。

 同日、関東軍司令官南次郎は、華北自治を強制するための軍事的後方支援として、歩兵一個連隊及び戦車砲兵等を13日に山海関、古北口付近に集中させる作戦を発令した。また旅順口、青島の巡洋艦、駆逐艦を大沽に向かわせた。

 同日、宋哲元は土肥原の通告を受けて、国民党中央に対処方針の指示を仰いだ。

 同日、上海南京路の日比野洋行の店舗が襲撃、破壊された。翌日、駐上海総領事の石射は市府を訪れ、反日団体の取り締まりを求めた。(後述)

 11月12日、河北省慶雲県で暴動が発生し、漢奸や日本の浪人数百人が県府を占拠し、県政府の重要職員が拘束され、各種機関が監視下に置かれた。

 11月13日、中国共産党中央は『日本帝国主義のために華北と中国を売り渡す蔣介石を糾弾する宜言』を発表した。

 同日、関東軍司令官南次郎は外相広田に「華北分離の促進について」を提案、関東軍は華北支配のために「一部の兵力を国境に集結した」と述べた。錦州の松井旅団先頭部隊は山海関に到着し、15日現在、山海関の日本軍は2500人に達した。

 11月15日、東北人民革命軍第3軍第2師団は黒竜江省春秋嶺で日本軍とその傀儡軍に包囲され、激戦を経て敗残し、師団長の王恵同は銃殺された。

 11月16日、蒋介石は華北情勢の緊張を踏まえ、派兵して備えた。

 同日、関東軍は国民党中央軍の北上に備え、山東省の日本人居留民保護を口実に、空軍6中隊を11月20日までに山海関、錦州地区に集結して待機するよう命じた。同日、山海関の日本軍は約1万2000人を突破した。

 同日、錦州西駐屯守備隊は、朝陽五家子村の無辜の民378人を殺害したのち死体を積み上げてガソリンを撒いて燃やし、百戸余りの村が廃墟になった。(下記「朝陽五家子村惨事」参照)

 11月18日、土肥原は、宋哲元が11月20日までに自治を宣言しなければ、「日本軍5個師団を河北に、6個師団を山東に派遣する」と宣告した。

 11月19日、宋哲元、秦徳純、蕭振瀛は北京教育界から50余人を招き、時局に対する意見を求め、蕭が華北自治政府運動の状況を説明すると、出席者は一致して反対を表明し、国家の領土主権が侵されることのないように求めた。

 同日、日本軍策動のもと、「河北各県代表連席会議」、「中華民主同盟会」、「国民自救総会」、「山東人民自治協会」、「綏遠軍政自治協会」、「河南全省人民自救会」、「察綏商民連合会」、「天津商工業連合会」などを自称する団体が、宋哲元、商震、韓復捷らの主要高官に連名で書簡を送り、「華北自治運動」に対応するよう求めた。

 11月20日、中国駐在日本大使有吉は、「広田三原則」、中日関係の調整、華北問題を提起、「中国政府はが華北情勢に即応する態度を迅速に取らなければ、事態は日増しに悪化する危険性がある」とし、「人民の自治運動に武力を行使してはならない。そうしないと関東軍は黙視できない」と述べた。(この時期の日本の軍政府の横暴さ加減は笑止ですらある)

 同日、宋哲元は蕭振瀛に「20日に自治を宣言することはできない」と土肥原に通知させた。同日午後、土肥原は英租界の宋哲元を訪れ、自治宣言を強要した。

 同日、錦州駐留日本軍歩兵400余名が山海関から天津に到着し、海光寺に駐留した。午後、日本駆逐艦2隻は旅順から塘沽に到着した。

 11月21日、ジュネーブの華僑の抗日救国会は電文で汪精衛と蔣介石に、日本が華北独立を強要することに反対し、決死の覚悟で抵抗するよう要求した。

 同日、日本当局は佳木斯、同江、撫遠、富錦、饒河、宝清、虎林など7県1500人余りの傀儡軍を動員し、東北人民革命軍第4軍第4連隊を「討伐」した。

 11月22日、在外国大使館は華北の真相を質問したが、中国外交部は、独立のような自治運動に対しては決して許可しないと述べた。

 11月23日、日本軍4千名余りが山海関に到着。また日本軍2百余名承徳から古北口に到着し、古北口日軍は千名に増えた。

 同日、河北省灤榆・薊密区行政専員の殷汝耕は、天津で停戦区の各特警総隊長を召集して演説し、停戦区の自治実施を宣言した。

 11月24日、【冀東防共自治委員会設立】(冀東とは河北省の東の意味):殷汝耕は天津から通県に到着し、停戦区の特警隊などを召集して臨時会議を開き、灤榆・薊密区両区を合併して灤薊(らんけい)区とし、昌平・宝当・香河・寧河の4県を管轄とすることを宣言した。その夜、国民党中央から離脱し、傀儡の「冀東防共自治委員会」を設立すると宣言した。

 11月25日、傀儡「冀東防共自治委員会」が通県で発足し、殷汝耕が委員長に就任した。同日、殷汝耕は停戦区の各県長に、省財務から徴収された公税と雑税を3日以内に「自治委員会」に納めるよう命じた。

 同日、天津日本租界で「華北民衆自衛団決死隊」と名乗る200人余りの日本人がデモ行進し、天津市府前で「自治」、「政治を人民に返す」ことを要求した。これは日本軍による扇動工作の一つである。

 11月26日、国民政府は北平軍事委員会分会の廃止を表明し、同時に殷汝耕を売国奴として指名手配、灤榆・薊密区両区行政専員公署を廃止した。

 同日、河北省の各大学の教職員全員が緊急宣言を発表し、殷汝耕の反乱は国家の領土保全を破壊すると断罪し、同日、上海商工会議所、中等学校協進会、中華婦人運動同盟会などの団体は、中央政府に殷汝耕を討伐し、国家の領土主権保全を守ることを要請した。

 11月27日、冀東臨楡(現・秦皇島市と撫寧県に属する)、昌黎、楽亭、盧龍、遷安の5県の県長は偽自治政府への参加を拒否した。

 同日、日本軍90人余りが北京の豊台駅を占拠し、列車の南下を禁止した。また天津日本軍は総駅と西駅に進駐し、列車の南下を阻止した。

 11月28日、中国外交部は日本軍の華北自治運動策動と豊台強制占領について、駐中国日本大使に厳重に抗議した。

 同日、北京と南京の各大学の学生は逆賊殷汝耕の討伐を求めて運動した。

 1935年(昭和10年)12月1日、大亜細亜(アジア)協会天津支会が日本租界で設立され、日本の在野軍幹部、政治家から構成され、李盛鋒を総裁とし、「大亜細亜主義」を広め、日本の中国侵略を推進した。

 12月2日、山海関の日本軍約千人が万里の長城に沿って古北口、密雲、懐柔に移動し、また日本機10機余りが秦皇島、山海関を偵察した。

 12月5日、軍政部長の何応欽は秦徳純、蕭振瀛らと密議して日本軍が工作する華北時局に対処し、「冀察政務委員会」(冀は河北省、察はチャハル省の略)設置案を提出した。翌日、蕭振瀛らは「冀察政務委員会」設置案を携えて天津に赴き、土肥原、多田駿、酒井と意見を交換した。日本側は同委員会の委員に親日派の王揖唐、王克敏らを推薦した。7日、日本の外、陸、海の3省が「冀察政務委員会」案を承認した。

 同日、日本機多数が北平上空で「自治」を促すビラを散布。

 12月6日、北京学連は日本帝国主義が華北を併合することに反対すると宣言した。翌日、第1女子高等学校で30校以上が参加する代表者大会を開き、9日には華北自治に反対する学生大請願を行うことを決定した。

 同日、アメリカのハル国務長官は、アメリカは華北自治運動を無視することはできない、各国は『九か国条約』を尊重するようにとの声明を発表した。

 12月7日、国民党中央は「冀察政務委員会」案を承認した。

 同日、河北省邢台、高邑など10数県で、「防共自治」を装って集団で擾乱を起こしているのが見られた。この日、劉万鵬らは再び2000人余りを集め、「自治」を要求すると称して、武力で県城を占拠し、李天民を拘留した。第32軍唐国良団が鎮圧するために芝巴県と雄県に急行した。これも日本軍の扇動工作によるものである。

 12月9日、北京の大・高の学生2、3千人が抗日救国デモを行った。学生は新華門の前に集まって請願し、軍政部長の何応欽氏に会うことを要求。また学生たちは行列を作って行進し、沿道で「華北自治に反対する」、「日本帝国主義を打倒する」、「内戦をやめ、対外的に一致団結する」などのスローガンを叫んだ。デモ隊が王府井南口に到着すると、軍警に攻撃され、約40人が負傷した。

 12月11日、北京学連は「北平市各大中学校の合同休校宣言」を発表し、この日から休校を開始した。

 12月12日、広州中山大学の学生は一週間授業を中止し、救国を宣伝することを決め、沿道で「日帝打倒」、「華北自治政府反対」などのスローガンを叫んだ。同日、広東省駐在の日本領事の河相は広州市政府に対し学生の反日デモを厳しく取り締まるよう求めた。

 12月15日、上海中等学校教職員連合会及び80余中等学校は華北問題に対して宣言を発表し、政府に華北分離運動の断固とした解消を要求した。

 同日、河北省房山県の馬宝栄らは「自治」を提唱し、600人余りを集めて県城に侵入し、県長を拘禁した。

 12月16日、北京学生は2回目の大規模デモを行った。学生と市民1万人以上が歩道橋で市民大会を開き、日本帝国主義の中国侵略に反対した。デモによる闘争で、逮捕された学生は数十人、負傷者は400人近くに達した。

 12月17日、宋哲元は「告学生書」を発表し、学生に「自覚し、安心して勉学に励み、これ以上無益な運動をするな」と警告、そうでなければ断固として「制止」するとした。

 同日、傀儡蒙古軍の司令官李守信部隊はチャハル宝昌を陥し、22日に沽源を占領した。

 12月18日、冀察政務委員会が北京で正式に発足、宋哲元が委員長となり冀察両省の政務を総括した。

 同日、中華全国総工会は「北京学生救国運働を援助するための告工友書」を発表し、逮捕されたすべての愛国志士を直ちに釈放し、武力で反逆者を討伐し、一致団結して抗日救国することを要求した。

 同日、この日から翌日にかけて、上海、天津、南京、広州、青島、南寧、長沙、安慶、厦門などの中学校(高校)の学生が、北平の学生運動を支援するデモや集会を行った。

 12月19日、天津で「華北自治」反対として各校学生総ストライキがある。同日、王世傑教育部長は記者に談話を発表し、学生のデモ、請願、ストライキを禁止し、各地の教育行政機関に執行を促した。

 12月22日、冀察政務委員会の宋哲元委員長は河北省の省立各校に同日から冬休みを繰り上げるよう指示した。

 12月24日、上海の学生が大規模なデモを行い、英国の巡警隊に襲われ、5 人の学生が負傷し、数人が逮捕された。同日、3千人の学生が列車で南京に陳情に行き、青陽港駅に到着した際に軍警に阻まれた。上海市府は学生運動の拡大を食い止めるため、戒厳令を宣言し、各校を休みにした。

 12月25日、漢奸の殷放耕は「冀東防共自治委員会」を「冀東防共自治政府」に改めると宣言した。

 12月27日、毛沢東は活動分子会議で『日本帝国主義に反対する策略』の報告を行い、党の基本策略は「千万人の民衆を組織し、大規模な革命軍を動かす」ことであり、広範な抗日民族統一戦線を構築しなければならないと指摘した。

 同日、上海文化界救国会が正式に設立され、第二次「民族解放運動」宣言を発表し、内戦の中止、武装民衆など八つの救国案を提示した。

 同日、沽源の李守信部隊は蒙綏国境に侵入し、29日にチャハル省張北県を陥落させた。

 12月、内蒙古蒙政会首席デムチュクドンロブ(徳王)らは長春に行き、関東軍司令官の南次郎と参謀長の西尾を訪問し、副参謀長の板垣、参謀田中らと会談した。内蒙古西部地域での「独立」を日本が支援し、「モンゴル国」の再建と資金と銃器の支援の約束を取り付けた。

 同月、関東軍が発表した数字によると、「九・一八」事変以来今月までに、抗日武装による南満鉄道運行列車襲撃は38回、駅襲撃は584回、「満鉄付属地」襲撃は141回だった。

察東事件

 1935年(昭和10年)1月4-5日、日本軍の「対支蒙諜報関係者」が大連に会同した(大連会議)。席上、関東軍代表は、「満洲国境外にして停戦協定線の延長部分間に在る」(国民党革命軍)第29軍の「配置は黙認する」としながら、「明かに満洲国内に在り若くは国境線上に在るものに対しては常に之が撤退を要求」し、「熱河省西南部国境問題」については「満洲国」と察哈爾(チャハル)省との境界を明確化する必要はない、つまり国境線を決めるのは日本側であるとした。当時の察東地域における軍事的緊張の主要因は、長城線東側に位置する察哈爾省沽源県の管轄域一帯を、日本が満洲国の熱河省豊寧県の管轄域であると主張し始めたことにあった。

 この間、日本軍側は着々と臨戦態勢を整えて、1月17日、熱河省承徳駐屯の第7師団は、歩兵第25連隊のうち約1個大隊600人の討伐隊を編成して出動、20日、同師団は、飛行第8大隊第4中隊および野砲1個中隊を、翌21日には第13旅団の全兵力を出動させ、豊寧、大灘経由で沽源に向かい、さらに重爆撃機3機を新京(長春)から錦州に移動、待機させるなど、本格的な軍事行動を準備し、察東地域に対する軍事的圧力を強めた。1月23日、日本軍は東柵子への爆撃を開始するとともに、独石口東北の長城線に進駐、東柵子一帯の保衛団・民間人40人余が死傷した。一方で同日、国境防衛及び撤退状況監視に出動した日本軍部隊に対し、宋哲元軍が発砲する「暴挙」に出た。それに対し24日、日本軍機は独石口への爆撃を実施し、中国側兵士15人、民間人13人が死傷、民家50軒が破壊され、26日の東溝子への爆撃では兵士・民間人30人以上が死傷し、中国側の被害が拡大していった。

 2月2日、中日代表は熱河省豊寧県大灘で察東事件「和平」会議を開催した。4日、北平軍分会は「大灘口約」を、日本関東軍司令部は「大灘協定」を発表したが、二つの文書は内容の違いが大きく、日本側は国民政府に日本側の文書に従って履行するよう要求し、中国の主権は大きな損害を受けた。これにより察省長城の城外350km余りは非武装地帯となった。

(以上は同志社大学、内田尚孝論文より)

梅津・何応欽協定

 1935年(昭和10年)5月2日の親日側の天津地元新聞社主、胡と白の二人が日本租界で銃殺された事件に関し、日本の支那駐屯軍は河北省主席の于学忠に犯人逮捕を要求していた。さらに駐屯軍参謀長酒井隆、駐中大使館武官高橋坦らは北平軍分会委員長代何応欽を訪れ、国民党当局に于学忠、張廷諤らの罷免、中央軍の天津からの異動、排日書籍の取り締まり、抗日団体の解散などを次々と要求した。何は「中日親善協力は中央の既定の方針であり、本方針が努力して行われるべきである」と答えるにとどめた。その間に関東軍内で上記の張北事件(6月5日)も起き、国民政府は宋哲元チャハル省主席を解任する事態となった。6月7日、日本支那駐屯軍司令部で拡大会議が開かれ、司令官梅津は「駐屯軍は断固たる処置をとり必要な準備を講ずるべきである」という陸軍省訓令を読み上げた。会議では平津(北京と天津)占領などについての決議がなされた。8日、何応欽は、平津の軍・政・憲・警の機関に対し、中日国交を害する秘密の結社及び団体を取り締まるよう厳令した。9日、酒井参謀長、高橋武官は何応欽に3度目の訪問をし、「日本は各要求事項が完全に達成されることを望んでいる」、「中日は親善提携してこそ東アジアの平和を維持することができる」と述べた。酒井らはさらに「河北省内において党本部を完全に廃止すること」などの4項目を要求、6月12日午前中の回答を求めた。

 6月10日、汪精衛(汪兆銘)は何応欽に中央政府は戦争回避のために日本側の要求を受け入れることを決定したと伝え、何応欽は高橋武官に口頭で日本側の要求をすべて承諾したと話し、高橋武官はそれに満足した。国民党は第51軍を保定に移駐したのに続き、他の師団も各地に移駐させた。11日、高橋武官は自ら作成した「覚書」の草稿を携えて、北平軍事分会を通じて何応欽に渡し、捺印して日本側に送るよう求めた。これはさらに付帯事項で省市の役員を任命する時には日本側の許可を得るという約束も求める内容であった。何応欽はこれを拒否する意向を蔣介石に伝えた。高橋は何応欽と直接面会することができないままで、汪精衛も「これは内政干渉に屈したとの印象を与え、文書化は容認できない」との考えを示し、12日の回答期限を過ぎても署名は行わないことを決定した。7月1日、度重なる日本側の圧力を経て、何応欽は汪精衛と討議の上で、司令官梅津に対し、「希望事項について承諾し、並びにこれを自発的に実行することを通知する」との通信文を送った。実際の調印は行われず、中国側はすでに日本側の要求を自発的に実行していたため、日本側は抗議するにとどまった。中国側は現在でもこの時の協定は行われていないと主張、この協定自体は歴史上存在していない。(以上は日本側と中国側の記述を混成した)

土肥原・秦徳純協定(秦土協定)

 1935年(昭和10年)6月5日に起きた張北事件に関し、関東軍は満州に対して排日的であった宋哲元チャハル省主席をこの機会をとらえて糾弾することにし、国民政府に対し、宋哲元は満州国辺境の治安を乱す匪賊以外の何者ではない、関東軍は再度宋哲元の処罰を強硬に求めるとし、その結果国民政府は19日、宋哲元を解任し、秦徳純を主席代理に任命した。チャハル省主席代理秦徳純は23日から日本側代表の奉天特務機関長土肥原らと交渉を始め、27日に協定を締結。その主な内容は「チャハル省内からの国民党軍の撤退 / 排日機構の解散 / 張北事件責任者の処罰 / 日本から軍事及び政治顧問の招聘 / 日本特務機関の活動及び軍事施設の設立等を支援」などであった。蒋介石国民政府は(抗日よりもむしろ長征中の共産党軍殲滅に力を注いでいたため)これに応じ、さらに河北省政府主席于学忠を罷免した。

豊台事変

 国民党・国民政府に反発し「華北自治政府」設立に活動していた白堅武は、満州事変後の1933年(昭和8年)に関東軍司令部の板垣征四郎と接触を持った。そこから中国に「親満親日政権」 の樹立を目指す日本軍と「華北国」の実現を志す白堅武は急接近していった。1934年(昭和9年)5月、白堅武は「華北新政権樹立意見書」を作成して板垣に送付したのに続き、奉天特務機関長土肥原賢二とも接近、資金援助を得ながら日本軍の華北分離工作に協力していく。白は板垣らに武装蜂起を訴え続け、この1935年(昭和10年)6月半ばに同意を得るも、ちょうど天津日本租界銃撃事件などで日中の交渉が進んでいて「時期尚早」とされた。しかし白堅武は中央軍と第51軍が撤退したこの機を逃すまいと軍事行動に踏み切った。6月27日夜、天津からの列車が豊台に到着、日本人を含む便衣隊(軍服を着ない部隊)3、40人が下車して装甲車隊第六中隊に向かい、買収済みの第六中隊の段春沢と結託して豊台に停車してあった装甲車一輌を奪い取り、北平永定門に向かった。白堅武側の動きを早くから察知していた国民党の王樹常(平津衛戌司令)は直ちに萬福麟軍第116師団を派遣して永定門を封鎖した。28日午前1時頃、白堅武の指揮する装甲車は城内に入ることはできず、砲弾6発を放った。城内には石友三が送り込んだ便衣隊三千が東交民巷に潜伏して白堅武と呼応する予定であったが、東交民巷は中国側軍警察によってすでに封鎖され,身動きの取れない情況となっていた。永定門附近で交戦があったものの、便衣隊は午前中に敗走して通州、香河に逃げ込み、白堅武は日本憲兵によって警護されながら、29日午後、奉天の自宅に逃れた。こうして白堅武の「華北自治」計画はあっけなく終った。 翌年7月、白堅武は大連を逃れ、日本の庇護を受ける。(「1935年、北平政務整理委員会廃止時期の日中関係 」現代中国研究 第14・15号 :同志社大学:内田尚孝論文より要約)上記6月28日の中国側の記述も参照。

中山水兵射殺事件

 1935年(昭和10年)11月9日、海軍陸戦隊一等水兵中山秀雄が上海共同租界北四川路の竇楽安路(租界と中国人街の境界道路)を通行中に中国人に射殺された。犯行は秘密結社同義協会の会員で、事件を受け、日本の上海総領事は直ちに中国側に犯人捜査を要請し、上海市府は犯人に千元の懸賞金をかけたが、犯人の行方は不明だった。事件後、上海在留日本人が経営する商店が中国人暴徒によって襲撃される事件が発生した。これらの事件を重視した日本は、中国政府に排日活動の取締を要請した。翌年4月に犯人と目される人物が青島で逮捕された。

日比野洋行襲撃事件

 上記9日の水兵射殺事件が解決しない中、上海南京路で日本商店襲撃事件が発生した、11月11日、夜7時ごろ十数名の中国人が南京路の福建路角にある日比野洋行(陶器輸出入商)を突如襲撃、ショーウィンドウは一大音響と共に破壊された、店主の日比野は二階にいて、階下の店には日本人店員二名、中国人店員八名がいたがその音響を爆弾と思い、一同店内奥に逃げ込んだので犯人の像は不明であった。その伝単ビラには「打倒日本帝国主義、連サ容共、対日開戦、中国を救え」などの文句があり、上海抗日救国会の署名があった。

華北分離工作:冀東防共自治政府の成立

(以下は、上記中国側の「1935年の出来事」も合わせて参照されたい)

 1935年(昭和10年)11月、10月半ばより、旧河北省では自治独立を求める民衆運動が発生した。この中に日本人の「大陸浪人」が参加していたため、日本の憲兵隊がその中の6人を逮捕して取調べを行い、天津に移送した。この民衆運動の背後に日本人がいるとする報告が河北省主席・商震から南京政府に提出されたが、当時の日本側は関与を否定した。後年になって政権の成立や自治運動は日本側の「華北分離工作」(華北5省:察哈爾、綏遠、河北、山東、山西を国民政府の支配から切り離す計略で、この中には北京も入っていた)による特務機関の成果だとされている。特務機関はこのような工作を専門とする。この自治運動が塘沽停戦協定(1933年:昭和8年)で決められた非武装地帯内で発生したことから、国民政府側もうかつに武力鎮圧をおこなうことはできなかった。

 いずれにしろ、非武装地帯が反満抗日ゲリラの拠点となったことから、日本の関東軍は華北5省を支配下に置くべきだと考えるようになっていた。関東軍の奉天特務機関長の土肥原賢二の計画は、まず華北に自治運動を起こし、その声を受けた形にして華北5省の実力者らが連合して自治政権を樹立する、というものであった。土肥原は自治政権の指導者として、非武装地帯の行政監督を務めていた殷汝耕に目をつけた。殷は日本への留学経験があり、日本人女性と結婚していて、交渉しやすい相手であった。続いて土肥原は、国民政府第29軍軍長の宋哲元を説得しようとした。宋は、熱河作戦において喜峰口で関東軍を撃退した人物で、この年8月には、北平(北京)市長と平津衛戌(えいじゅつ)司令という首都防衛の要職についていた。土肥原の求めに対して殷汝耕は協力的だったが、宋哲元は応じなかった。

 10月、まず土肥原は特務機関員を使って、非武装地帯に隣接する香河県で自治を求める民衆運動を発生させた。この運動によって10月23日には香河県城を占拠し、「中国国民党打倒」「官吏の罷免」「孫文の建国大綱に基づく地方自治と農民救済を要求する宣言」を発表した。宣言の内容には自治を原則とし、土地の公有反対、農村救済、減税を挙げていたが、この時期当然のように掲げられる抗日の言葉がないのは不自然であった。同日、河北省各県代表連席会は緊急会議を開催し、重税に反対する運動を支援する方針を決議した。これに連動して、自治を求めて他地域でも次々と蜂起が続いた。ただ表向きでは、河北省主席・商震と日本軍司令官・多田駿少将の和平工作により自治運動の過激化は抑えられた(11月19日参照)。

 土肥原は関東軍司令部から11月中に華北分離工作を終えるよう命令されていたが、宋哲元以外の有力者も自治委員会設立に加わらなかった。計画では、この「民意」を受けて華北防共自治委員会を設立、華北自治を宣言させようと、まず協力的な殷汝耕に自治委員会を作らせることから始めた。土肥原の要求と関東軍の軍事的圧力を受けた宋哲元は、蒋介石に助言を求めたが、蒋介石は、土肥原を相手にしないよう命じた。

 11月25日、土肥原の要請に応じて殷汝耕は「冀東防共自治委員会」を通州に設立した(冀東=きとう:冀は河北省の別名でその東部)。なお、殷汝耕は、宋哲元らが自治政権を作り次第、冀東政権はそれに合流すると宣言している。これは抗日運動を抑え込むためでもあったが、満州国と同様な傀儡政権であり、最終的には南京の国民政府から離脱することを目的とし、また「防共」は共産党の浸透を防止した上で日本軍の進出を容易にする目的であった。

 この後も土肥原は宋哲元に自治政権の設立を迫ったが、蒋介石は華北分離工作を進展させないよう、12月11日に対抗措置として、冀察(きさつ)政務委員会を設立し、宋哲元を委員長に任命、国民政府の承認の下である程度の自治権を与えた。宋哲元の立場が明確になると、冀東防共自治委員会は「冀東防共自治政府」に改組し、殷汝耕が政務長官に就任し、自治政権としての体制を強化した。結局、華北5省の分離独立工作は華北の一部(非武装地帯)に冀東・冀察という性格の異なる自治政権を誕生させるという中途半端な結果となった。

(以上は主に『傀儡政権—日中戦争、対日協力政権史』広中一成:角川新書から)

 筆者注:以上の表面的な出来事は、詳細は別にして日本側でも歴史的側面として一般的に書かれているものであるが、こうした政治的出来事の背後には、日本軍がすでに占領した各地において為した惨劇が数多く繰り返されていることを知っておかなくてはならない。そうは言ってもそうした(日本軍が加害者として行なった)事実が取り上げられ、語られることはまずない。繰り返すが、前年までも含めて信じ難い内容が大半で、筆者は先に1937年(昭和12年)の南京関係の数多くの事件の詳細を調べながら記述している中で、南京以前はどうだったのだろうという疑問をもち、すでに大雑把に記述していた南京以前、そしてほぼ一年ごとに遡って、中国側の資料を中心にして調べ直してみて、まったく同じような暴虐行為以上の虐殺が展開されていることがわかった。書き写すに忍びない内容が多く、最初の頃はひどい場面を省略していたこともあるが、さすがに次第に慣れてきている(人間はどんなことにも慣れる動物である)。いずれにしろ、表通りで日本人一人が殺されたとして政治的に騒ぎ立てる日本の軍政府の裏で、日本軍自身が比較にもならない虐殺を、占領という無法下で行っている事実を、この後の南京事件云々を語る前に見直して行かなければならない。そして当然南京以降も、世界からの非難を物ともせず、空からの無差別爆撃とともに南京をはるかに超える虐殺を、敗戦の前後まで繰り返していた。その犠牲者数の総数は、日本が日中・太平洋戦争で失った命の総数の何倍にもなるというと、信じられるであろうか。筆者にとっても信じられないことばかりであるが、下記に取り上げるこの時期の事件類も、中国各地の全体からすれば僅かに過ぎない。

日本軍の満州占領下における数々の暴虐・虐殺行為

 以下は『侵華日軍暴行総録』河北人民出版社より、訳文は筆者。

【四道河子惨事】

 四道河子は吉林省延辺朝鮮族自治州汪清県の羅子溝という山間地帯にあり、朝鮮族と漢族の住民が28世帯しか住んでいない。羅子溝周辺の山岳地帯は、東北人民革命軍の第2軍と第5軍の活動地域で、四道河子村にも革命軍が出入りしていた。そこに日本軍のスパイだった徐が一度革命軍に捕まり放免されたが、羅子溝の日本の討伐隊に四道河子村全体は共産党の巣窟であると密告した。1935年(昭和10年)2月18日未明、足の不自由な連隊長が100人以上の部隊を率いて、四道河子村を取り囲んだ。夜が明け、虐殺は村の東の端から始まった。呉禹俊、金群三などの家族がまず殺され、盲目の老婆は中庭で孫娘二人の手を取り、一緒に銃剣で刺されて死んだ。彼女の19歳の三男の息子と運転手の老鄒頭は一緒に縛られ、頭に3発ずつの弾丸を受け、独身の老殷頭はギョーザを煮ていて、日本軍に鍋台の辺で刺されて死んだ。さらに残った村人を藁の山のそばに追いやり、機関銃を乱射して虐殺を行った。その後家は放火され、一時間あまりで村の家屋はすべて灰になった。日本軍が撤収した後、三道河子の村人たちは四道河子に駆けつけ、麦藁のそばから生き残った朝鮮族の赤ん坊や子供8人を救出した。この虐殺劇で、日本軍は計57人の罪のない村民を殺害したが、そのうち16人は銃剣で刺されて死んだ。家族全員が助かったのは、村の中心部から最も北にある李永徳、薛徳有、老定の3家族だけで、銃声を聞いて夜明けの闇の中で村を飛び出し、川沿いの柳の茂みに隠れて幸運にも虐殺を免れた。(吉林省編)

【朝陽下五家子村惨事】

 1935年(昭和10年)3月15日、遼寧省錦西県(当時)の日本軍守備隊副隊長井上は、討伐隊隊長曹栄軒など100人余りを率いて下五家子村を脅したが、村の有志たちが彼らを待ち伏せ攻撃し、平間は馬を捨てて逃げ、討伐隊は17人が負傷し、5人が捕えられた。9月、平間はまた3回目に五家に侵入したが、いずれも撃退された。平間は下五家子村の抵抗に恨みを持ち、報復を決意、そこで11月16日の夜明け前、村民が油断している隙を狙って、大隊を使って村を包囲した。まず先に捕えていた張臣、姜佐州、楊樹禎の三名を大木にしばって銃剣で刺し殺し、村のすべての入り口、要路、高地に見張りを配置して村を封鎖した。続いて通訳が口軍を率いて家ごとに眠っている群衆を起こし、100人以上の青壮年男子を西河套に追いやった。西河套では、四方に機関銃を据えられ、すぐに凄惨な大虐殺が始まり、次々と人々が倒れていった。村の中では人々は互いに身を寄せ合い、抱き合い肉親をかばった。日本軍は彼らをロープで縛って火を放って殺し、また殺害したのち死体を積み上げてガソリンを撒いて燃やした。家の中に残っていたある女性は撲殺されたがまだしっかりと自分の子供を抱いていて、ある高齢者は歩くのが遅く、ある病人は歩くことができなくて、家の中や路上で殺され、劉昌の妻は赤ん坊が生まれたばかりだったが、日本軍は部屋に押し入って彼女を刺し殺した上、赤ん坊を投げ殺し、その時いた産婆も一緒に刺殺された。さらに日本軍は下五家子村を3時間にわたって燃やし、64棟、400戸余りが焼失し、全村の84世帯およそ400人のうち378人が殺害され、11人が外出していたか現場からなんとか逃げきって無事だった。村には血まみれの遺体が散乱し、下五家子村は廃墟と化した。11人の中の劉国珍(女性)は小さな廟に潜り込み、日本兵は銃剣で突き刺すことができず、干し草に火をつけて廟の中に投げ込まれたが劉は煙に耐え、家に戻ってみると、一家18人全員が殺されていた。また劉治中は当時13歳で、日本軍は彼ら6人の子供を木に縛り付け、火をつけたが、日本軍が現場を離れた隙に縄をを振り切って逃げ、その数人の子供は遠くまで行かないうちに日本軍に射殺され、彼だけが逃げのびた。劉明善の家族7人は部屋に隠れていたが、6人は日本軍に銃剣で刺されて死んだが、彼は全身に七ヶ所を刺され、いずれも致命的ではなかった。焼殺は3時間続き、余火は1、2日続いた。(遼寧省編)

【梨樹県張酒局子屯惨事】

 1935年(昭和10年)4月中旬、吉林省四平を占領した日本守備隊は、一中尉の引率で野外行軍し、梨樹県八区智球村張酒局子屯に行った時、ちょうど抗日隊の一隊がこの屯中田家の大庭で食事をしていた。見張りの者は日本軍が来たのを見て、引率していた日本人中尉を一発で射殺して落馬させ、続いて通訳を負傷させた。日本守備隊は自分たちの人数が少ないことを恐れ応戦せずに退却し、この抗日武装隊もすぐに走り去った。翌日、四平から日本の守備隊と保安隊150人余りが、トラックと機砲を携えて張酒局子屯に向かった。日本守備隊は武器で全屯の老若男女を追いつめ、村の南にある大坑に集まるように強制した。その中には乳飲み子を抱えた母親もいて、村に遊びに来ていた親戚の子供もいた。日本軍は大坑の周囲に見張りを配置し、集まった村民に対し機関銃を乱射し始めた。全屯の48人全員が大坑の中で虐殺され、家も火を放たれた。たまたま村の田家に遊びに来た子供が、その家に向かっていたところ、銃声が聞こえ、日本兵がいるのを見てすぐに逃げ、この子供だけが生き残った。(吉林省編)

【舒蘭県楊家屯惨事】

 1935年(昭和10年)、春の耕作前の頃、日本軍38連隊の一部が吉林省舒蘭県平安村楊家屯に侵入し、屯西の2つの土塀大院の駐屯地を占領した。その後、彼らはあちこちで討伐や略奪を繰り返した。牛心頂屯に討伐に行った時、孫姓の孤老人の家で壊れたピストルを見つけ、孫老人を楊家屯に連れて拷問にかけ、「通匪」の罪を認めるように強要し、最後に孫老人を木に縛って銃剣で殺した。またこの秋のある日、日本軍はまた「通匪」の罪で平安村三屯の屯長の孫と馬の姓二人の屯長を「通匪の共謀」の容疑で逮捕し、楊家屯で拷問を加えた後、平安村村長で自衛団長を楊家屯に連れて行き、彼らを屯西の河辺に掘られた土坑のそばまで連行し、さらに拳銃を自衛団長に無理やり押しつけ、この二人を銃殺させた。(吉林省編)

【清原馬架子惨事】

 1935年(昭和10年)4月のある日の午前、抗日山林隊「海林」部隊が遼寧省清原県湾甸子大廟北山から大蘇河に向かい、馬架村を通過した時、東嶺上に分散して討伐に出た日本守備隊と湾旬子区の偽警察隊に発見された。馬架西嶺まで追ったところで、日本隊は海林部隊に包囲され、激戦の中で日本兵二人が討死した。戦闘が終わった後、日本軍は二体の死体を担いで馬架村に行き、死骸を叶永富家の庭の中に置いて、直ちに街に出て戸別に大捜索した。彼らは男を見ると捕まえ、19人を捕まえて、叶家の庭の二人の死体の前に連れ出し、まず殴りつけて二人一緒に縛って並ばせ、村の外に引っ張って行き、途中で乞食老人の蘇宝貴も捕えた。彼らは村の北に追い込まれて膝まずかされて、日本守備隊のリーダーが機銃掃射を命じ、17人が死亡し、3人が重傷を負ったが数日後には死亡した。今回の惨事の犠牲者は、叶永富一家兄三人、劉老”坦児”家の男二人、馮貴家三人、穆家二人、何家一人、老鄔家一人、老干家の三人、そして車老三、車老六、蘇宝貴などである。虐殺の後、日本軍はまた放火して全村の民家を焼いた。(遼寧省編)

【舒蘭県老黒溝惨事】(千余人の犠牲者)

 日本軍が東北地方(満州)を占領したのち、宋徳林や周太平をはじめとする東北反満抗日救国義勇軍大隊は、吉林省舒蘭県老黒溝を根拠地とし、日本軍に大きな損害を与え続けた。この抗日武装軍を撲滅するため、1935年(昭和10年)春、日本軍はチチハルから第十六師団38連隊第3大隊(奈良連隊とも呼ばれ、連隊長は田路大佐)を動員して吉林省に派遣して大討伐を行った。5月29日-6月6日の八日間、日本軍は老黒溝の老杉松、樺曲柳頂子、青頂子、柳樹河子、楡樹溝、胡家店、八台などの村を攻撃し、殺戮、焼却、略奪するという暴挙に出た。虐殺の方法は主に機関銃掃射、一列に並ばせて銃剣で突き、生き埋めにしたりなどで、日本軍の多くは小隊やグループに分かれて捜索と殺戮を繰り返した。千余軒の家屋を焼き、無辜の民間人を1017人殺害した。この老黒溝の惨劇は東北人民のより強烈な抗日への怒りを引き起こした。

 まず5月29日に日本軍600余人が中国人の荷役600余人を引き連れ、退摶から出発し、三路に分けて老黒溝を侵した。道に迷って老黒溝にたどり着けなかったのを除いて、残りの2つの道、呼蘭嶺と石門子から300世帯の住民が住む老黒溝に入った。通訳の朱子岐は、密偵の陳生から、老黒溝にはまともな人間はいないと報告を受けた。そこで日本軍は老黒溝に侵入するとすぐ人々を捕らえて、遠い者は銃で撃ち、近い者は軍刀で斬った。以下は判明している詳細である。

 日本軍は樺曲柳頂子村で多くの村人を部屋に閉じ込めて殺した。李顕廷は外で物音がするのを聞いて、出た時に日本兵に殺された。そして日本兵は李の家に侵入し、まず李の妻をオンドルの上で殺し、さらに銃剣で2、3歳の子供の背中から刺して、子供が刃先でもがくのを見ていた。日本軍はまた、捕まえた村人たちを村の外の林のそばに追い払い、まず村人に穴を掘らせ、そうして穴の中に押し込み、土を体の半分ほど埋めて銃剣で胸や首を突き刺し、たちまち鮮血が飛び、黒土が赤く染まった。ここだけで7つの穴があり、一つの穴に10人ほど埋まっていた。李奎江の家は11人のうち9人が殺され、一つの穴に埋められた。

 柳樹河村の胡家店は大きな筒状の家で、殺人場になった。5月31日午前、日本軍は捕まえた72人の村人を縛って、顔を南に向けてひざまずくように命令した。日が西に傾いたとき、日本軍は彼らを次々と胡家の客屋に連れて行き、村人一人が部屋に入るたびに、「ぎゃあ」と悲鳴が聞こえた。日本軍はみんなを殺し終わってから家を燃やし、廃墟になった中の黒焦げの死体は全く見分けがつかなかった。

 青頂子村の外の月牙泡は老黒溝の最大の殺人場である。1935年5月31日から6月2日まで、日本軍はここで300人以上を虐殺し、毎日100人ほどがここで死亡した。日本軍は捕えた村人をひざまずかせて顔を月牙泡の湖に押し込み、機銃で掃射、死体を湖の中に落とし、鮮血が湖面を赤く染めた。6月1日午後、また一部の捕まえた村人を月牙泡から100m離れた東山の林に押し込んで、一本の木で一人を縛って、上着を外して胸を露出させて刺殺した。月牙泡の南200mでは、日本軍は村人たちの手を背にして針金で締めて、両腕の間から水曲柳の木の棒を1本差し込み、20人ぐらいを2列に並ばせて、機銃で掃射した。殺人場には楡樹溝の北小屯大泡子と東山頭、柳樹河屯西、山東会墳などがある。

 こうした大虐殺の日には、日本陸軍の航空隊が協力して飛行機が上空からビラを撒いたりしたが、地上軍は様々な軽・重兵器を使って無辜の人々を惨殺した。虐殺ルートは基本的に溝(山間)の上部から下へ進んだが、石門から老黒溝に侵入した日本軍は、楡樹溝を通ったとき、村人たちの大部分が山林へ逃げていると聞いて、逃げ遅れた老人や子供たちに声をかけ、「苦力(クーリー)が必要だ、殺しはしない」などと言い、それを信じて山を下りて家に帰る者も少なくなかった。そして、翌朝になって突然、日本軍の一部が桂家街から戻ってきて、彼らは妊婦も見逃さず、楡樹溝屯曹邦の二男嫁は出産する間近だったが、日本軍は彼女の服をはぎ取り、銃剣で腹部を切り開き、胎児をえぐり出して楽しんだ。血で染まった老黒溝はその後長い間誰も住んでいなかった。埋葬されていない死体が腐敗し、疫病が舒蘭一帯で流行し、多くの人の命を飲み込んだ。(吉林省編)

【清原県清原鎮惨事】

 1935年(昭和10年)秋、日本軍は大勢の日本の傀儡軍(傭兵)を集めて遼寧省清原県南山城の抗日遊撃地区に侵入した時、黒石頭で打撃を受けた。まもなく日本軍は報復のために、この一帯の山間部で罪のない農民40人余りを逮捕し、二道河子村民の孫徳茂、孫徳会兄弟も一緒に連行した。さらに湾甸子、草市、英額門などから抗日山林隊員100人余りを脅し、すべて清原県留置場内に拘禁した。ある朝の9時ちょうど、収容されていた150名が守備隊院内の運動場に整列させられ、厳重な警備の中、守備隊長の忽路大尉が訓話を始めた。「良民になりたい者には金を与えて帰し、偽軍(傀儡軍)、偽警察になりたい者には銃、服装、給料などを与えてもよいと」語り、過去の責任はない、皇軍を信頼してよいと繰り返した。みんなはお金をもらって家に帰ることを希望し、その150人は日本兵にトラック2台に乗せられ、清原鎮西街の渾河橋の南岸に着いた。自動車が着いた時、日本軍守備隊は東、西、北側を囲み、西南側の通路だけを残し、前には50数mの幅で腰の深さまである渾河が横たわっていた。この時日本軍は軍刀と剣先のある三八銃を持って、「急げ!急げ!」と叫んでトラックからみんなを降ろして列に並ばせた。まだ整列しないうちに、一人が突然、「だまされた!日本軍は我々を殺すつもりだ」と叫んだ。すぐに人々は乱れ、走って逃げ始めた。一人の将校がまず人の群れに銃を放ち、すぐに軽機関銃が乱射され1時間以上続いた。こうして150人余りは残酷に虐殺され全員血の海に倒れた。銃声が止むと、日本隊は銃剣を持って倒れた死体に近づき生きているものを刺し殺した。正午になって、日本軍は守備隊の構内にもどったが、その日の午後、日本軍は一部の住民を捕らえ、偽警察の監督の下、死者の死体をすべて南八家子碑子溝万人坑に運び入れた。

【舒蘭県十五方屯惨事】

 1935年(昭和10年)の晩秋のある日、日本の騎兵隊が吉林省子安駅から十五方屯一帯に侵入して「匪賊討伐」した。当時、各村屯の庶民は盗賊の防犯のために自発的に武装組織である大牌会を結成し、使用する武器はすべて狩猟用の土薬銃だった。この日本軍は十五方屯に着くと、各屯の大牌会に西南崗に集合するように通告した。大牌会は「皇軍」による何かの訓話や何か活動があると思い、約20人のメンバーが土銃を肩にして続々と西南崗に駆けつけて整列した。この時の日本軍の機関銃は据え付けられていて、彼らはまだ何が起こっているのか分からないうちに、機関銃の音とともに一瞬にして倒れ、死体の横に血が流れ、脳が飛び散り、その姿は凄惨を極めた。この虐殺では、李雲漢が死体の下に隠れて難を免れたが、残りの20人余りが全員殺害された。

【北票長条溝惨事】

 遼寧省北票の長条溝は王増店村にあり、溝の長さは4km、溝の両側は高い峻嶺の地形で、抗日救国軍の首領蘭天林の独立団がよく出没した。1935年(昭和10年)11月15日夜半、蘭天林の部下張宝三たち12人がこの溝に転戦した。食後、彼らは寝ようとしたところ、日本軍の分隊がトラック4台に乗って、長条溝に押し入った。この溝には9世帯、46人が住んでいた。溝の先端に住む李占昕は車の音がすると、すぐに家族に避難を知らせた。74歳の老母は体が弱く歩けず、軍刀で切り殺された。日本軍のトラックは村に入ると飛び降りて村の入り口で機関銃を据えた。李孔生の老母は車の音を聞いて、すぐに救国軍に知らせた。張宝三は形勢を見て死戦を決意した。張は救国軍の小分隊を率い、夜明けから日没まで戦い、ついには張宝三ら15人が戦死した。戦闘が終わった後、日本軍はまた村に入って各家屋をくまなく捜索し、村の家屋42間すべてに放火し、笑いながら車に乗って立ち去った。村人たちは村に戻った後、焼け焦げた死体と家々の灰を目にして泣き崩れた。

【新賓響水河子惨事】

 1935年(昭和10年)、日本の侵略軍は梁司令官(朝鮮独立軍司令官)を捕まえ、さらに「匪賊」を消滅させるという名目で、遼寧省新賓県響水河子郷で参謀長朴成植と宝林、富貴、尹斗七など130人余りを捕まえた。朴は「撃つな。彼らには罪はない。何事も私がやったのだから撃つな」と叫んだ。日本軍はすぐに発砲し、その場で朴を射殺した後、漢族、朝鮮族の同胞70人余りを殺害した。残りの50数名は殺されなかったが、手首に日本兵に銃剣で「X」字の刀痕をつけられ、黒炭で印をつけられ、これからは「良民になる」、また捕まえたら殺すと言った。現在も尹斗七たちの手首には「X」字の傷が残っている。

十二・九運動と「義勇軍行進曲」

 1935年(昭和10年)12月:関東軍の和平工作の一端であった非武装地帯に生じた冀東防共自治政府に対して、9日、北京の学生5千人が「日本帝国主義打倒」「華北自治政府反対」、さらに内戦の停止、言論の自由等を叫んでデモ行進、一週間後に1万人がデモをしたが、軍隊・警察と衝突し、やがて鎮圧された。しかしこの学生運動は中国全土に波及した。(ここまでは上記1935年の出来事を参照)こうした流れを受け、翌1936年(昭和11年)の西安事件、第二次国共合作へと進展していく。 またこのような中国の抗日運動の高まりに対し、日本国内では「驕慢な中国」から「膺懲」(こらしめること)が必要だという世論が強まった。このような(作られた)世論に応えるという口実で、日本の関東軍、および中国本土に駐留する支那派遣軍は軍事行動のチャンスをうかがっていた。

 この時に二人の若者が作って歌った「起て!奴隷となることを望まぬ人々よ/我らの血と肉で新しい長城を築こう」という『義勇軍行進曲』が、現在の中華人民共和国国歌となった。作詞は共産党活動で獄中にいた田漢、作曲者は聶耳(じょうじ)といい、昆明出身の少数民族の若者で、やはり共産党員だったが、追われて日本に逃れ、そこで詩に合わせて曲を作り、この年に抗日映画『風雲児女』の主題歌として採用された。映画と歌は大ヒットしたが、聶耳はその完成前の7月、藤沢の鵠沼海岸で遊泳中に24歳で事故死した。1937年(昭和12年)に始まった日中戦争中も、抗日歌として広く歌われ、人々の間に浸透していった。戦後の国共内戦後の1949年(昭和24年)、中華人民共和国が設立された時に暫定国歌として採用され、2004年(平成16年)に正式な国歌となった。この背景は中国人は小学校で教えられてみんな知っているが、われわれ日本人はほとんどそのことを知らない。なお聶耳が事故死した湘南海岸公園(県立公園)の東端に彼の記念広場があり、ここに藤沢市民により聶耳記念碑が建てられている。(歌詞は筆者の「日本の軍歌とその時代背景」昭和10年を参照)。

 筆者私見:いずれにしてもこの歌が象徴するように、現在の中国共産党国家は、日本軍の長期にわたる侵略があって生まれた、あるいは日本軍がそのために大いに貢献したと言っていい(実際に戦後、毛沢東は日本のジャーナリストに同様なことを語っている)。それが良かったのかどうかは現在の中国の共産党独裁政権の実情を見れば判断できるであろう。ちなみに作詞の田漢も映画監督の許幸之も日本への留学経験があった。その前にも孫文や蒋介石、周恩来も留学していたが、まだ日本の政治・文化への信頼があったわけであり、まさかその後ここまで日本軍が中国へ侵略し、暴虐行為を行うとは思ってもいなかったであろう。ただ、周恩来などは本来の日本国民はそこまで残虐な国民ではない、悪いのはその軍国主義であるという信念を抱いていたことは、戦後の彼の行動(日本軍戦犯に対する恩赦:筆者の「昭和12年:撫順戦犯管理所」参照)を見ていると明らかである。

日本軍のアヘン政策

 冀東防共自治政府は2年数ヶ月後に解消されたが、この地域(河北省東部)はアヘン(阿片)の生産地でもあり、日本軍もこの生産に関わっていた。満州国はアヘンに対して漸次減少させていくという建前でいたが、逆にこれを専売制として国家収入にあてようとした。日本軍がこの自治政府を樹立したのも、そのアヘンによって大きな利益を得られるからという見方も強い。このアヘンを精製して造ったヘロインなどの麻薬は天津や上海などで広く販売され、多くの中毒患者を出した。満州国のこのようなアヘン政策は、敗戦後の東京裁判でも国家犯罪の一つとして裁かれることとなる。

 当初は製薬会社が日本国内でアヘンやヘロインを製造し中国に運んでいたが、大正末期になるとヘロインの製造を日本の薬業者が中国現地で行い始め、現地生産をする際には日本軍駐屯地域内で日本軍を隠れ蓑にして密造するという方法が取られた。満州でヘロインを製造した製薬会社の社長であった山内三郎は「冀東地区から、ヘロインを中心とする種々の麻薬が、奔流のように北支那五省に流れ出していった」と記し、また中国の作家である林語堂は「冀東政権は日本人や朝鮮人の密輸業者、麻薬業者、浪人などにとって天国であった」と書いている。特に毒性の強いヘロイン等の密造・密売は通州において顕著だった。通州郊外では日本軍特務機関の暗黙の了解のもとに麻薬製造が公然と行なわれており、中国政府は国民の士気に関わるから、当然ヘロインを目の仇にしていた。しかし中国の警備当局が商店や飲食店に偽装された密造工場に踏みこんでみると、すでに日本軍の憲兵の手がまわっていて、たとえ証拠物件のヘロイン粉を押収したりしても、必ずあとから特務機関本部に呼び出しがあって、却って家屋侵入罪として追求されることになった(『麻薬と戦争』山内三郎)。一般に「旅の恥はかき捨て」というが、侵略国において軍人はやりたい放題であったということがよくわかる。

 遼寧省丹東市安東県の東側にある鳳城では1932年(昭和7年)1月以降、喫煙所は6軒から76軒に増え、中毒者も急増した。5万3000人のうち少なくとも7500人が中毒になった。その後、黄龍廟や黄土坎などの村にも阿片(アヘン)喫煙所ができています。鳳城全体では25万人のうち約6%が中毒にかかった。遼寧省鞍山市岫巖は満州事変前は、アヘンの消費量はあまりなかったが、日本人とアヘン商人が石橋から移住し、アヘンの吸煙屋と小売店を経営した。その後日本側の奨励政策により岫巖の農民は多く芥子を栽培した。岫巖は1932年(昭和7年)秋、義勇軍が接収したが、翌年1月に岫巖は再び日本人の手に落ちて、その阿片政策の影響下で、全市の15万人の中で10%以上がアヘンを販売したり吸ったりする状態になった。遼寧省大連市荘河荘河は比較的裕福な土地であったが、アヘンの中心地である大連や肱子窩に隣接していたため、満州事変以来、荘河には計40軒のアヘン喫煙所が開設され、また小城市の大孤山には150軒の喫煙所があった。荘河の総人口27万人のうち3万人以上が麻薬中毒になった。(中国のサイトより)

日本国内の動向と世相(昭和10年:1935年)

 1935年(昭和10年)1月、衆議院で「ジャパン」という呼称は「我ガ帝国ノ威信ヲ損スル」ものであり、世界各国に対して日本の国号の表記を「大日本帝国」とするよう求める建議がなされ、これを受けて外務省は、国号の標記を、「大日本帝国」とすると決定したが、英語標記(The Empire of Japan)については結局、海外で認められることはなかった。

 1月8日、東京檜原村の女子青年部では女性の「もんぺ」を常服と決定しこの日から実施する。もともと田舎等で農作業用の服装として、袴の裾を絞ったもので、これを鐘紡兵庫工場で加工し新型の作業ズボンとして発表したのがはじまりと言われる。これ以降「もんぺ」は国民服となり、戦時下の女性の服装の標準として急速に普及した。

 2月14日、前年発足した大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)が、横浜港から秩父丸に乗ってアメリカ遠征に出発する。75勝34敗1引き分けの成績を残して7月に帰国するが、主な相手のメンバーはマイナーリーグ以下であったからこの成績で収まった。ちなみに前年に来日したアメリカの遠征軍には全敗していた。

2月18日、貴族院本会議で、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授)の「天皇機関説」の論説を天皇への不敬であるとして、糾弾した。(後述)

 2月、物理学者湯川秀樹が「中間子論」を発表し、後に日本人初のノーベル賞を受賞する。

 3月4日、共産党中央委員の袴田里見が特高に検挙され、これにより共産党は壊滅するが、この後日本の共産党が復活するのは戦後となる。

 3月27日、1933年(昭和8年)の国連脱退通告から二年経ち、この日正式に国連を脱退する。

 4月6日、満州国皇帝の溥儀が軍艦比叡にて来日する。東京駅では天皇陛下が出迎え、街では提灯行列や花電車がお目見えする。

 5月1日、第16回にして戦前最後のメーデーが行われる。

 5月22日、日本陸軍拓務省は15年以内に東北満州へ10万世帯50万人の移民計画を発表した。

 6月1日、NHKが米国西海岸やハワイ向けの海外放送を開始する。

 8月10日、第一回芥川賞と直木賞が決定。芥川賞は石川達三著の『蒼氓』に決まる。

 8月12日、陸軍内部の対立により陸軍省軍務局長の永田鉄山少将が相沢三郎中佐に『天誅』と日本刀で斬殺される(前年参照)。

 8月、前年改定された出版法により、『のぞかれた花嫁』(同名映画の主題曲)の歌詞に問題があるとして歌謡曲の発売禁止処分第一号となる。その後歌詞を変えて再販売することになるが、この時B面だった『二人は若い』の曲が大ヒットとなる。

 12月8日、警視庁は550人体制で京都綾部の大本教本部を治安維持法違反で急襲し、出口王仁三郎や幹部らを逮捕した。神殿はダイナマイトなどで破壊され、大本教は解体される。

《第二次大本教事件》

 12月9日、日英米仏伊による第二次ロンドン海軍軍縮会議開催

 この年、前年に学生がカフェに出入りすることが禁止されたこともあって喫茶店が大流行し、東京の喫茶店数は10500店となる。

天皇機関説

 1935年(昭和10年)、貴族院本会議で、菊池武夫議員(陸軍中将)が、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授)の「天皇機関説」(大日本帝国憲法下の憲法学説として、 統治権は法人たる国家にあり、国家の最高機関は天皇である、統治権を行う最高決定権たる主権は、天皇に属するとの説)を天皇への不敬であるとして糾弾した。これはその趣旨を曲解したもので、学会ではすでに認められている説であったが、その後右翼も美濃部の批判運動を展開することになり、美濃部は貴族院で不敬罪の疑いにより告発され(起訴猶予)、9月に貴族院議員を辞職した。美濃部の著書の3冊は出版法違反として発禁処分となった。翌年、美濃部は右翼暴漢に銃撃され重傷を負う。これは典型的な言論弾圧であり、うかつに本も書けない時代であった。

 なお、一方の統治権の主体が天皇に存するという天皇主権説では、天皇は現人神として国家を超えた存在で、その権限は、いわば皇祖神から受け継いだ本然的な権利(神権)であるとしている。いずれにしろ美濃部の学説は天皇の存在を否定するものではまったくなく、美濃部は貴族院で「片言隻句を捉えて反逆者とは何事」と反論しているが、時代の流れに沿って思考力を失っている者たちは聞く耳を持たなかった。当の昭和天皇自身は機関説には賛成で、美濃部の排撃で学問の自由が侵害されることを憂いていた。昭和天皇は「主權が君主にあるか国家にあるかといふことを論ずるならばまだ判るけれども、ただ機關説がよいとか悪いとかいう論議をすることは頗る無茶な話である。君主主権説は、自分からいえば寧ろそれよりも国家主権の方がよいと思うが、一体日本のやうな君国同一の国ならばどうでもよいじゃないか。……美濃部は決して不忠なのでない、今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか」と本庄繁武官長に話したという(『西園寺公と政局』ウィキペディアより転用)。

 筆者注:この種の、表向き天皇を第一に崇め奉る言動をする者たちというのは、むしろ天皇への崇敬の念はほぼなく、裏では天皇を利用することを考えつつ動いていて、その結果天皇の名において(しかも昭和天皇の意思に反し)日中戦争、太平洋戦争(大東亜戦争)を次々と仕掛け、国民を巻き込んで悲惨な結果をもたらしてしまう。しかも国民だけならまだしも、中国や東南アジアの多くの人々を死に至らしめ、その数はわれわれ日本人自身の犠牲者をはるかに上回るが、今のわれわれはそのことすら自覚されていないという反省のない国になっている。ひょっとしたらその自覚をされていたのは昭和天皇であったかもしれないし、平成天皇ご夫妻も密かに持たれていたことが各所にうかがえる。それでも平成天皇ご夫妻が率直にそのことを海外に向けて語られなかったのは、日本の政官人の無言の圧力があったからではなかろうか。

日本の移民政策

 第一回芥川賞の石川達三の『蒼氓』は、この時代に疲弊した農民や失業者をブラジルに移民させる政策の下に(この小説の時期は1930年だが、移民政策は明治末の1908年から始まっていて、筆者の明治時代末期の「ブラジル移民」参照)、全国から神戸に集められた農民たちをブラジルまで送り届ける監督の役割をした石川達三が、その様子を描いたものである。石川は「日本の政治と経済とのあらゆる『手落ち』が、彼らをして郷土を捨てさせ、異国へ流れて行かせるのだった。移民とは口実で、本当は『棄民だ』と言われていた」と記す。この後、この時期(1935年:昭和10年)は満州への移民政策が始まって三年目であるが(1932年の「満蒙開拓団事業開始」参照)、一方でブラジル行きは満州移民への重点政策で1934年(昭和9年)から制限されていた上に、1941年(昭和16年)の太平洋戦争開始で中断された。満州では敗戦の年の1945年(昭和20年)になっても移民団が送り込まれ、ソ連軍の侵攻で移民たちは悲惨な結末を迎えるが、軍政府は避難民へ適切な対策を指令するどころか、満州国の官僚や軍の将校たちは先に飛行機や列車で逃げる有様であった。それでも日本政府は戦後の復興前の経済的に苦しい時期にも懲りずに移民政策を再開、1952年(昭和27年)にブラジル移民が募集され、その後パラグアイ、アルゼンチン、ボリビア、ドミニカなど中南米諸国への移民が続けられたが、彼らの入植地は、宣伝や条件と全く違う、受け入れ準備も何もない荒れ果てた地ばかりで(つまり政府は事前に十分な現地調査も行なっていない)、疫病などで多くの人が夢を果たせず死亡している。まさに棄民政策であるが、それでも移民の人たちは、「だまされた自分が悪い」と言う。これが日本人の気質であって、それを逆に政府は利用したし、この満州事変から日中戦争に至る戦争自体も同様で、我々の先輩たちは軍政府の愚策にも黙々と従って、正義の「聖戦」と信じて戦場に行った。

昭和11年(1936年)

中国における軍事的動向

 ここまで日本軍は満州国から隣接する河北省東部への支配を目指し、様々な画策をしてきた。この翌年8月に日中戦争が始まるが、この1936年(昭和11年)では満州国内でも関東軍に対して各地方に結成された抗日軍の襲撃も絶えず起こっている。関東軍とは別に北京・天津周辺に配置されていた日本の支那駐屯軍も河北省への勢力の拡大を目指していて、その軋轢の中で事あるごとに日本軍は理由をつけて兵力を日本から増派し、それが翌年の日中戦争へのきっかけを生む。

 この時期、中国には政権を担う国民党政府軍と、それに対抗する中国共産党軍、そして満州を占領する日本の関東軍と華北の北京・天津地区を占領する支那駐屯軍(特に関東軍には日本軍に付いた中国の傀儡軍がいた)、さらに日本軍を標的とする抗日連合軍の四つの軍隊が存在していたと言ってよく、その中でも国民党の蒋介石は日本軍よりも共産党の伸長を目の敵にしていて、それに対して抗日軍から激しい批判があり、それに合わせて共産党の毛沢東と周恩来は日本軍の侵攻に対して、三者の共同戦線を張って一体となって戦うように蒋介石に何度も呼びかけていく。この流れの中で、日本の支配に不満を持つ学生たちが何度もデモ活動を行い、また個人や小さなグループが日本人を狙うテロ事件を起こし、その都度日本側は各種の事件を問題として中国側に圧力をかけていくが、こうした表向きの出来事の裏で、日本軍は占領軍として相変わらず大小の虐殺事件を平然と重ねていく。

1936年(昭和11年)の出来事(中国側から)

 以下は主に中国側の資料、『中国抗日戦争大事記』より抜き書き。(訳文は筆者。▷印は日本側の記録から適宜拾い出したもの)

 1月2日、承徳特務機関長田中隆吉は、宋哲元に対し察北(チャハル省北部)沽源6県をモンゴルの治安部隊に移管し、権力を引き渡すよう求めた。3日、蔣介石は宋哲元に電報を送り、領土保全の原則を貫き、慎重に処理するよう指示した。宋はしぶしぶチャハル省主席張自忠に、日本軍の要求を受け入れるよう指示した。

 同日、北京と天津の学生たちは「平津学生連合南下拡大宣伝団」を結成。翌日、第1、2連隊は出発し、平漢線に沿って南に向かった。4日には第3連隊が農村で抗日宣伝を展開するために出発した。一月下旬、平津にもどった。この月、蒋介石は「学生運動禁止令」を公布した。

 1月3日、東北人民革命軍第4軍第1師第2連隊と第3軍第1師団は、黒竜江省方正県で日本軍輸送部隊を待ち伏せし、80以上を殲滅した。

 1月5日、演習から市内に戻った30人以上の日本兵が、中国の門番が城門の扉を開けるのが遅かったため、朝陽門を警備していた張宇廷警士らを銃撃した。翌日、日本軍は中国兵が日本軍に発砲したとの濡れ衣を着せ、宋哲元に対して厳重な抗議を行った。 17日、宋哲元は日本側への謝罪を余儀なくされ、日本側の要求に応じて石友三を北京保安司令官に任命して、「朝陽門事件」はようやく終結した。

 1月7日、東北人民革命軍第2、5軍西部派遣隊が吉林市額穆県黒石鎮と沙河沿を攻略。9日には同市索鎮を攻め落とした。

 1月13日、日本政府は第一次「華北(北支)処理要綱」を制定し、華北五省の「自治」実現と「日満両国との関系調整」に努めることをうたった。

 1月15日、蔣介石は南京で各地の中等以上学校の教員代表360人を集めて3日間の談話会を開き、「中国の領土主権を損なういかなる条約も締結せず、秘密協定も結ばない」と述べた。

 1月19日、東北人民革命軍第2軍の一部が吉林安図県の両江口偽警察隊を攻撃し、4人を銃殺し、22人を捕虜とした。

 1月21日、広東汕頭日領署署員角田進が重い肺病を患い路上で倒れた。日本領事は中国人に銃殺されたという理由をもって、中国当局に処理を求めた。翌日、日本第3艦隊司令官は軍艦に厦門から汕頭に到着するよう命令、威嚇した。2月11日、汕頭市長李源和は日本領事原田と相談し、現地公安責任者を更迭した。その後も日本軍は圧力をかけ、汕頭市政府は慰労金などを支給すると約束した。

 1月22日、中国外交部は「広田三原則」(そのうちの一つに満州国の承認がある)の受け入れを否定する声明を発表し、「中国がすでに三原則に同意したという広田外相の演説は事実ではない」と述べた。

 1月25日、毛沢東、周恩来、彭徳懐ら紅軍将校20人は連名で「紅軍が東北軍と連合して抗日を行うことを望む書」を発布し、連合して「全国人民の抗日の先鋒となる」ための具体策を提案した。

 1月28日、東北人民革命軍第3軍、抗日同盟軍第4軍、湯原遊撃総隊などが黒竜江湯原県吉興溝で東北民衆反日連合軍を創設した。

 1月29日、ソ連国境の傀儡駐留軍一部隊108人が、連隊長の周定薩率いる下で暴動を起こし、日本軍将校3人を射殺した後、ソ連のグロドコフ地区に入り、ソ連軍に武器を引き渡し収容された。

 1月、関東軍が『対モンゴル措置実施要綱』を制定し、中国政府の法令が内蒙古地区に及ばない、満州国を基準にした「モンゴル人によるモンゴル建設」を根本とするように企図した。

 1936年(昭和11年)2月5日、上海日商大康紡績工場の労働者梅世均が日本人監督に殴打され死亡した。同日、工場労働者4000人がストライキを行った。7日、上海楊樹浦、閘北、兆豊公園などの労働者が抗議デモを行い、大康紡績工場の労働者を支援した。

 2月8日、関東軍は、昨年秋の「討伐」戦で合計934人の日本軍将兵が死亡したと発表した。

 2月21日、傀儡蒙古徳王守備隊将兵1000余人が、日本軍支配に反抗する武装蜂起を行い、政治犯を釈放し、自治機関を破壊した。蜂起軍は武川に向かう途中で綏(すい)遠国民党軍に包囲され武装解除され、蒙旗独立旅団に改編した。

 2月27日、楊靖宇は抗日連合第1軍教導団を率いて吉林通化県熱水河子の傀儡軍団部隊を襲撃し、副団長以下60余人を生捕した。

 2月28日、抗日連合第5軍の一部は黒竜江寧安県蓮華泡で「討伐」に来た日本軍と激戦し、日本軍72名を銃殺し、20名余りを負傷させた。敵はなんと毒ガスを用いて抗連合軍の兵士100人余りを死傷させた。

 2月:日本軍は抗日武装勢力を制圧するため、この月8、11、19日に遼寧省四道河で3度の大掃蕩を行い、村長馬玉珍、屯長の姜春波ら50人以上を逮捕し拷問をしつつ、15日に5人を二道河小北溝で射殺、20日に佟家保子村役場で26人を殺害した。(前年の吉林省四道河子の事件とは別)

 2月:中国共産党が中国人民紅軍抗日先鋒軍を組織、山西省西部を占領。

 1936年(昭和11年)3月3日、関東軍と華北(支那)駐屯軍代表は、天津で労農紅軍の東進阻止措置を協議し、山西省の反共に関する軍事情報を収集する専門員を派遣すると決定した。

 3月5日、新任の有田大使が南京に到着し、7日、中央社記者に「華北と満州国問題については、広田三原則に従って解決しなければならない」と述べた。

 3月9日、広田弘毅内閣が発足し、広田は「今後の新内閣は陸軍国策を誠心誠意実行することとする」と声明した。

 3月10日、日本の華北駐屯軍は「日露戦勝記念」大会を開催した。翌日、日本の砲兵、機甲車列隊500人余りが日本租界で市街戦を演習した。

 3月12日、日本陸軍省は「山西赤化防止について」文書を起草し、日本軍が冀察、山西両政権を内部から指導し、共産軍の「掃討」に協力すると主張した。

 3月16日、張群外相と有田駐中日本大使による初の外交交渉が4日間にわたって行われた。張群は会見で、「国民政府は広田三原則(そのうちの一つに満州国の承認がある)を中日国交調整の基礎とすることに賛成しない」とし、「華北問題も中日関系の一部とみなすべきであり、華北、東北問題を置き去りにして中日関系の話はできない」と述べた。

 3月17日、日本外務省は広田内閣の外交方針を発表し、「日満関系の不可分をはかり、満洲兵力を充実させ、ソ連(ロシア)に対しては満州のロシア国境の兵力の撤退を促す。対中融和親善を目的として、中国の猛省を促進し、「三原則」の実現を期する」とした。

 3月19日、張寿と豊蓋率いる東北人民革命軍第6軍の一隊が黒竜江湯旺河溝の敵拠点老銭櫃を急襲し、偽警官数十人を銃殺または捕虜とし、銃100余丁を捕獲した。

 3月20日、満鉄の駐天津理事石本は多倫、綏遠、張垣、太原、青島、済南、鄭州などの駐在員30人余りを招集し、華北の鉱産開発、鉄路の建設、農家に綿花栽培を誘導する等を決めた。

 3月28日、日本の有田大使は、関東軍はこれまで南京だけを相手にしていた外交方針を改め、華北、西南の各(傀儡)新政権を交渉相手にして、発展させるべきだと主張した。

 3月29日、毛沢東、周恩来、彭徳懐は「一致抗日告全国民衆書」を発表し、一切の内戦を中止し、紅軍、白軍を区別せず、共に一致し抗日で連合することを要求した。しかし蔣介石は紅軍の抗日を許さず、六個師団で抗日紅軍の前進を阻止した。

 3月31日、『申報』によると、日本の会社大倉洋行は河北省保定、正定一帯で労工2万人を募集した。

 同日、国民政府はドイツとの信用借款を締結して、軍の武器及び重工業設備の購入に当てるとした。

 同日、日商が華北最大の工場の一つである天津裕元紡績工場を買収。

 1936年(昭和11年)4月3日、有田八郎外相は東京で、対中政策はいわゆる「三原則」にこだわらず、時勢に応じて適切に国交を漸進的に調整し、中日共同での赤防止を先行して実現すると述べた。

 同日、天津税関は、満州旗を掲げたレーヨンと砂糖900トン余りの密輸船「海昌号」を大沽口で拿捕し、罰金10万元を命じた。駐天津日本総領事川越が抗議したが、協議を経て罰金5000元で決着した。

 4月9日、周恩来と張学良は延安で秘密会談を行い、抗日救国の大計を討議し、紅軍と東北軍の不可侵、相互援助、代表の相互派遣などを協議した。

 4月12日、日本軍当局は傀儡興安北省の凌昇省長と同省第1警備区の長福齢参謀などを逮捕、20日、凌昇、福齢らは「通ソ連罪」「満洲国転覆謀議罪」の罪で死刑判決を受け、23日に処刑された。

 4月15日、楊靖宇は抗日連合第1軍の部隊を率いて吉林省輯安県台上偽警察署を襲撃し、30余人を捕虜とした。また30日、楊靖宇は抗日連合軍を率いて、遼寧省本渓競馬集山区で日本軍1個営隊を殲滅し、敵80名を殺傷した。

 4月17日、広田弘毅内閣は「共産匪軍の北支侵入」と邦人保護を名目に、支那駐屯軍増強を閣議決定した。(この邦人保護のためという言い訳は明治時代から常に利用される)

 4月24日、モンゴル会議で、「モンゴル軍事政府組織要綱」が採択され、デムチュクトンルプ(徳王)を総裁に任命し、徳王は軍政の全権を掌握した。

 4月28日、日本の内閣は、華北(支那)駐屯軍司令官を軍部任命から天皇委任の親補職に改め、兵力を3倍に増やし、一年交代制から永駐制に改めた。

 1936年(昭和11年)5月2日、偽奉天省公署警務庁は、全省で民間から40万7851丁の銃が回収され、翌3日には96万4272発の実弾が回収されたと発表した。

 5月5日、蒋介石は10個師団を投入し人民紅軍(共産党軍)に対抗、人民紅軍は戦闘を避け撤退するも、「抗日のための休戦と団結」を発表し、現在の国家の危機に、どちらが勝っても中国国防の喪失であり、日本帝国主義者から歓迎されるだろう、まず内戦を中止するために協議をしようと抗日参加を呼びかける。

 5月6日、華北(支那)駐屯軍参謀長永見が蕭振飽を訪れ、日中共同防共協定の締結を提案した。

 同日、日本陸軍省は「支那駐屯軍司令官の任務に関する命令」と「関東軍と支那駐屯軍の配置及び兵力使用に関する指示」を出し、「支那駐屯軍の地域は、おおむね渤海湾から北京までの鉄道沿線に限られるが、「停戦協定地域内の治安維持のため、必要な場合には武力行使を許可する」とした。

 同日、日本の国会議員三上参次は貴族院で、「皇室の尊厳は国内のみならず、国外においても絶対に保持されるべきである。中国は尊大で”中華”民国と称する。これはわが国体の尊厳を冒し凌ぐことであり、今から”支那”と改称して、その名を正すべきである」と中国を侮蔑する演説をした。これを聞いた中国人留学生たちは激怒し、華僑も含めて一斉に抗議した。(筆者私見:あまりにも愚鈍な発言である。今に至るまで日本の政治家は似たような尊大な発言をすることがある。他でも時折触れるが、こうした偉ぶった政治家が天皇の名を利用して国威発揚などと言って集団で戦争への道を切り拓いていくのである)

 5月9日、日本は「満州農業移民百万世帯移住計画」を策定し、20年間で100万世帯、500万人の移住を計画するとした。

 5月12日、傀儡モンゴル政府が化徳県に成立し、青地赤黄白条旗が軍政府の旗として掲げられた。

 5月15日、日本は華北への大挙増派を開始し、第一陣として1800名の日本兵が秦皇島から天津に到着し、一部は通県(通州)、北京に駐屯した。日本陸軍省は、この増兵の目的は、防共・邦人保護にあるとする談話を発表した。16日、米国政府は日本の増兵について九か国の条約を遵守し、中国の独立及び領土主権を尊重するよう声明を発表した。

 5月18日、中国外交部は、日本駐屯軍を増強することは明らかに条約に反し、中止するようにと許世英駐日大使を通じて、有田外務大臣に強く抗議した。

 5月26日、東北抗日連合第5軍一部隊は黒竜江省穆稜の北2km地点で、第12号列車を攻撃し、日本軍11名を殺害。

 5月27日、天津税関塘沽では日本汽船で密輸された銀8500元、銀地金2900元を押収した。翌日、永井日本代表は許礼亜を訪問して口頭で抗議し、その返還を要求した。

 5月28日、天津市民と学生1万人余りが街頭に出て、「日本の華北増兵に反対する」の旗を高く掲げた。日本側は河北省当局に制止を求めたが、宋哲元はその要求を拒否した。

 5月29日、新たに日本軍第3陣が塘沽に到着し、1500名余りが加わり、山海関、天津、通県の各地に派遣された。天津では日本の在郷軍人、居留民ら数百人が旗を持って駅で歓迎した。

 5月31日、満鉄鉄道総局の統計によると、東北の抗日武装勢力は今月、全満鉄沿線で786回、延べ4万4000人が出撃した。

 ▷ 5月、支那駐屯軍は一挙に3倍以上の約5700人に増兵され(1771人から5774人に増大)、北京近郊の豊台に多く配置された。

 1936年(昭和11年)6月1日、半独立政権であった広東省と広西省の行政府は、南京国民党政府に対日徹底抗戦を要請した。4日、両広は抗日救国軍を結成した。(六一事変:下記参照)

 同日、許駐日大使は、有田外務大臣を往訪し、日本軍の増兵に強く抗議した。これに対し有田は、共産系の暗躍は軽視することができず、また日本居留民の数からして現在の駐屯軍は少数であり(筆者注:実際にはそんなことはなく、すでに駐屯軍の範囲を超えている)、これは条約に許された範囲内であるとして、増兵を正当化した。

 6月7日、中国文芸家協会は上海で設立総会を開き、郭沫若氏ら111人が、国民政府に対し一致団結して侵略に抵抗し、内戦を中止する要求をした。

 6月13日、北京の各大学中学校の学生は抗日救国大デモを行い、日本の華北増兵と武装密輸に抗議した。同日、広州市民も反日デモを行った。

 6月15日、広州の日本領事・河相向は13日の広州反日デモは中日関系に大きな影響を与えると広東省当局に抗議し、当局は省内での抗日活動の抑制を拒否した。

 同日、日本の華北駐屯軍は幹部会議を開き、河北省の冀察・冀東の合併問題は協議せず、両政権は現状を維持すること、広東・広西省の南西連合軍の北進は厳重に監視し、日本にとってその動きを利用する機会であるとした。

 6月20日、日本の「大栄丸」が密輸品300トン余りを載せ、煙台で拿(だ)捕され塘沽まで曳航された。 21日、日本と韓国の浪人たちが塘沽税関に侵入し、「大栄丸」の返還を要求した。26日、日本の外相と陸・海相が問題を討議し、必要ならば軍事行動をとるとした。同日、日本の海軍巡洋艦二隻が旅順より青島、大沽へ向けて航行した。その夜、青島在住の日本人らが税関を取り囲み、扉と窓を打ち砕いた。

 6月27日、北京の豊台駐留の国民党軍の軍馬の暴走により日本軍と小競り合いが生じた。(第一次豊台事件:下記参照)

 6月、広州の租界地沙面島に日本の特務機関が設立された。

 1936年(昭和11年)7月1日、傀儡満州国教育部は教育規定を制定した。「一、日満親善を実現するため、小中学校は日本人教師を主体とする。二、大学及び専門の学校は設けず、中学校を卒業してから日本に進学することができ、日満一体となることを目指す。三、中華民国留学生又は中華民国思想を有する者は、満州国官吏になることはできない」。

 ▷ 7月10日、上海の三菱洋行社員、宜生鉱作が射殺された。11日、上海駐在の杉原総領事代理は上海市政府に犯人の逮捕を要請した。(上海邦人商人射殺事件:下記参照)

 同日、日本軍30余人が天津から大沽まで行ったが、第29軍は事前に通知がなかったとして、発砲して牽制した。日本軍もそれに対して発砲した。宋哲元は11日、29軍将兵を招集し、解決策を話し合い、13日、陳中孚を通じて司令官田代に謝罪した。

 7月13日、蔣介石は国民党第五期二中全会で「傀儡国家の承認などできない」と述べた。

 7月15日、毛沢東は陝西省北部の宝安で米国のエドガー・スノー記者(後の歴史学者)と会見し、「今日の中国人民の根本問題は日本帝国主義に抵抗することだ」と述べ、抗日戦争は持久戦であり、中国は全国人民が団結し、日本は必ず敗北すると指摘した。

 同日、日本軍は吉林省通化県で白家堡惨事を起こし、住民370人余りを殺害し、家屋60棟余りを焼却した。(下記「通化白家堡子惨事」参照)

 7月22日、日本の陸海外三相は対中政策について「全力を挙げて河北省及び冀東政権を援助し、中日経済協力を促進する/文化外交を積極的に推進し、青年の反日思想を消滅させる/中日関税新協定の締結を要求する」と決議した。

 7月25日、満州国協和会は「満州帝国協和会」と改称し、張景恵が会長に就任した。

 7月27日、外務省は中国政府の同意を得ず、成都に領事館を設置し、岩井英一を領事とすることを決定した。

 7月、1月から7月まで、計76の日本の視察団、3600人のメンバーが華北を訪問し、そのほとんどが経済、産業、水利、鉱業、軍事を視察し、次いで教育を視察し、その数は昨年と比べて20倍以上に増加した。

 7月、日本の第5次満州移民は集団移民と改称し、1093人が東北に到着し、それぞれ密山県の永安、朝陽、黒台などの村に移住した。

 1936年(昭和11年)8月1日、東北人民革命軍第3軍は正式に東北抗日連合軍第3軍に改編され、全軍6千人余りとなった。

 8月3日、この日から8日まで、天津と豊台駐留日本軍は頻繁に軍事演習を行い、天津の日本租界内でも攻守戦、野戦、市街戦などを演習した。

 8月4日、楊靖宇は抗日軍第一軍の部隊を率いて、通化県四道江大坡湾子で傀儡軍邵本良部隊を待ち伏せし、30人以上を殺害し、20人以上を捕虜にした。

 8月5日、海軍の高橋三吉司令長官は76隻の軍艦と2万7千の将兵を率い、厦門沖で演習を行った。

 8月7日、綏遠(すいえん)抗戦が始まる。傀儡蒙古軍の李守信部は約2万人を率いて綏東(綏遠の東)陶林に侵入。綏遠省政府主席兼第35軍軍長博作義部隊(国民政府派)は抗戦し、傀儡軍の攻撃を撃退した。

 8月9日、内蒙古商都県の傀儡軍王英部隊数千人が、いくつかの縦隊を編成して南西に移動し、多くの日本軍も商都に進出した。

 8月12日、傀儡満州国軍は綏遠に積極的に侵攻する準備をし、綏遠省政府傅作義主席は防御を強化するよう命じた。

 8月15日、傀儡蒙古軍は商都県一帯から綏東の集寧(平地泉)に侵攻し、傅作義軍と激戦した。

 8月17日、抗日連合第2軍第6師団は抗日義勇軍と連合して吉林撫松県城を包囲攻撃し、3日の戦闘を経て、数十人の敵を銃殺した。

 8月23日、関東軍参謀長の板垣は長春から百霊廟に赴いて内蒙古の徳王、李守信などと会議を行い、関東軍の綏東に対する意見を伝え、西侵(綏遠侵攻)をそそのかした。さらに板垣は25日、綏遠の傅作義に会い、「綏遠5県の前身は察北四旗で、察北6県と一致し、化徳が管轄すべきだ」と提案したが傅は拒否した。

 8月24日、成都の民衆1万人が反日暴動を起こし、日本人二人を射殺し、数人に暴行を加え、軍関係の将民は互いに死傷した。(下記「成都事件」参照)

 8月25日、日本支那駐屯軍の豊台日本軍3百人余が盧溝橋で野戦演習。27日も「午前7時、天津の日本軍は宮島街と須磨街で再び市街戦演習を実施し、銃声が鳴り響き、睡眠中の住民は驚いて目を覚まし、午前9時に終わった。この半月来、日本軍の市街戦演習は殊に頻繁で、一週間に四、五回行われるような状況であった。31日まで、平、津、塘、通や大沽口で日本軍3千人余りが演習を展開した。

 8月28日、抗日連合第3軍の義勇軍部隊が黒竜江省賓県虎頭山で日本軍と激戦を繰り広げ、50人余りの敵を殲滅した。

 同日、関東軍と華北(支那)駐屯軍の幹部は天津で合同会議を開き、両軍の権限を画定、万里の長城の外(北側)は関東軍に、内は華北駐屯軍に属するとした。

 8月29日、日本の支那駐屯軍司令部が南開市六里台の大消化学会社の敷地600畝600平方kmを強制的に占拠し、化学兵器の兵営を建設した。

 8月、黒竜江五常県の背蔭河に設置されている関東軍細菌研究所は規模を拡大し、関東軍防疫給水部に変更した。日本軍731部隊の前身である。(後述参照)

 1936年(昭和11年)9月1日、中国共産党中央は各級の党組織に「現在の中国の主要な敵は日本帝国主義であり、日本帝国主義を蔣介石と同等に見るのは誤りであり、「抗日反蔣」のスローガンも適切ではない」とし、この日、周恩来は国共両党の抗日協力を実現する誠意を重ねて表明した。

 9月2日、広東省北海で薬局を開いていた日本人の中野が刺殺された。広州駐在の日本領事は派兵して上陸調査を要求した。(北海事件:下記参照)

 9月4日、日本の内閣は成都事件の交渉条件を閣議決定し、謝罪、懲罰、損害賠償、成都での領有権設置を求めるほか、中国に反日運動の徹底的な取り締まりを求めた。

 9月12日、抗日連合第2軍第5師団と反日山林隊は黒竜江省穆稜県で日本軍用列車を攻撃し、130人余りを銃殺した。

 9月15日、日本海軍軍令部は「北海事件処理方針」を決定。

 同日、日本海軍は海南島と青島も『治安占拠を実施』する」とした。

 9月18日、「九・一八」事変5周年記念日に、西安各界で大規模な大衆大会が開催され、「内戦停止、一致抗日」とのスローガンで盛大なデモが行われた。北京、上海でも同様にデモが行われた。

 同日、「大同報」によると、日本陸軍省は本年7月、「九・一八」事変以来、日本軍が東北で17万人以上の死傷者を出し、計20億円余りの戦費を費やしたと発表した。

 同日、北京豊台で中日両軍が衝突し、日本軍は29軍兵営を包囲した。夜12時ごろ、日本の支那駐屯軍は宋哲元に派遣調査をするよう要請し、さらに張華亭部隊の豊台撤退などの追加条件を出した。19日朝、宋派の許長林副師団長と池田らが豊台日本軍兵営で協定し、午前9時、日本軍は包囲を解除し始め、昼、張部隊は屈辱に耐えて豊台から撤退した。21日、ついに豊台は日本軍に占領された。(下記「豊台事件」参照)

 9月19日、漢口の日本租界で日本の警察官が殺害され、日本側は陸戦隊を派遣して上陸、警戒した。22日、日本領事は湖北省の楊永泰主席に抗議して逮捕を求めた。(漢口邦人巡査射殺事件:下記参照)

 9月20日、日本外務省は対中具体策について、緩衝区域を創設し、南京政府は依然として華北5省に対する領土的主権を保留しているが、その他の権利と義務は地元自治政府に移管しなければならないとした。

 9月23日、張群外相と川越駐中国日本大使は南京で会談を続け、日本側は中日紛争の解決のかねてからの5条件を提案したが、張群はそれに対し、一、塘沽、上海両停戦協定及び「九・一八」以来締結を余儀なくされた条項を取り消し、二、冀東(河北省東部)の傀儡組織の解体、三、日本軍の航空機は勝手に飛行しない、四、察東及び綏東傀儡軍〈徳王のモンゴル軍〉を解散し、日本は援助などをしない、等を主張した。

 同日、上海の日本水兵が銃撃され、一人が死亡、二人が負傷したため、海軍は直ちに戒厳令を張り、国境を越えて警戒した。(下記「上海日本人水兵狙撃事件」参照)

 同日、日本軍参謀本部は「時局処理方針」を決定、その要点は「対中懲罰の国家決意を固める必要がある/連合艦隊は直ちに佐世保側から行動を開始する/中国側の態度によっては河北、山東及び青島港に対して占領する用意がある」とした。

 9月24日、上海市の呉鉄城市長は、市内に派遣された海軍陸戦隊の即時撤収を求める書簡を日本総領事に提出し抗議した。

 9月28日、有田外相は東京で新聞界に重要談話を発表した。「最近中国で発生している排日事件は、中国国民党政府の責任を無視することはできず、中国は排日運動をもっと強固に抑えるべきであり、日中関係は現在、重要な岐路に立っている」。

(筆者注:この有田の言う排日事件の中には、抗日ゲリラ軍の攻撃による多数の日本軍の犠牲者のことは入っていない。それは後述するが、日本軍にとって都合の悪いことで、当時の新聞などでもまったく報道されていない)

 9月30日、支那駐屯軍司令官田代と宋哲元は「華北開発計画」について協定した。その要点、「一、津石鉄道(石家荘と天津を結ぶ)の建設:二、龍煙鉄鉱の開発と石景山製鉄所の復興:三、日本に長芦塩を輸出すること、また華北の綿を改良すること:五、井陘(せいけい)炭鉱開発:六、塘沽堤を建設し、川の利水事業を興すこと」。

(筆者注:龍煙鉄鉱と石景山製鉄所は翌年の日中戦争開始から、日本軍が河北省占領後に接収し、津石鉄道はそれらの資源を日本に運ぶためのもので、後に徳石鉄道に変更され敷設されるが、途中で様々な妨害事件が生じる。これら炭鉱開発等における強制労働に関しては後述する)

 9月30日、親日傀儡の冀東防共自治政府は阿片専売を実行し、月に約700万両を売り上げた。

 ▷ 9月30日、極東反帝反戦反ファシズム大会、上海で開催。日本代表も参加。

 1936年(昭和11年)10月1日、関東軍参謀の田中隆吉は内蒙古の化徳に赴き、徳王らと複数回の軍事会議を行った後、日本の目的は綏遠省主席の傅作義を倒すことであるとし、その計画を伝えた。

 10月2日、全国各界救国連合会は上海で『団結のために全国同胞に訴える書』を発表し、国民政府に対して共に抗日するよう求めた。

 10月5日、毛沢東、周恩来は張学良に書簡を送り、国民党は依然として胡宗南軍を陝甘に深く入り込ませて内戦を拡大させ、私たちは自衛のために必要な反撃を加えただけだと述べた。張学良は直ちに西北各軍の紅軍への攻撃を停止するよう蔣介石に伝えた。

 10月6日、(水兵狙撃事件で)日本海軍が上海で緊張状態を作ったため、この日、フランス軍艦3隻が上海に到着、15日、英空母1隻が上海に到着し、16日には米艦20隻が青島から上海に入り、合わせて42隻余りが黄浦江に停泊した。

 10月7日、この日から15日まで、日本軍は北京、天津、豊台一帯で大規模な演習を行った。

 10月9日、日本の陸戦隊(米軍の海兵隊に相当する)は上海江湾路、虹口公園と六三花園の間で、国境を越えて市街戦を演習した。

 10月12日、北京各大学教授など66人が、『教育界の時局に対する意見書』を発表し、政府に「日中外交の開放」、「中国領土内で外部勢力による特別行政機関の設立への反対」、「密輸行為を直ちに武力で制止する」など8つの提案をした。続いて北京学連も「救国連合会の宣言」を決議、大学教授たちの宣言に対応した。

 同日、察北傀儡軍王英軍は綏東興和、陶林などの地を進犯した。また他の傀儡軍も商都県に集合し王英部隊と綏東に包囲態勢を取った。

 10月19日、張群外相と川越駐中国日本大使は第4回目の交渉を行い、成都、北海の各案件について、張群は期限付きで解決すると表明。21日に5回目の会談が行われ、張群は、日本側の華北5省の特別化に対し、中国側は許容できない、防共は中国の内政であり、日本側の代行は必要ないとした。

 10月23日、西安で蔣介石は晏道剛、張学良などと会見し、張学良は内戦を中止し、共同抗日することを提案したが、蔣は拒否した。

 10月26日、毛沢東、朱徳、張国焘、周恩来ら46人は蔣介石と国民革命軍西北の各将校に対し、共同で日本軍を追放し、失地を回復するための努力をするよう要請した。

 同日、日本の華北駐留軍約7千人は10日間、北京豊台近くの良郷、長辛店一帯で「秋季大演習」を行った。中国外交部は30日、日本大使館に抗議した。

 10月、関東軍は「華を以て華を制す」政策を推進し、通化、吉安、臨江、柳河など9県の傀儡軍にいわゆる「東辺道独立大討伐」を指示した。この「大討伐」は1939年(昭和14年)4月まで続いた。

 1936年(昭和11年)11月2日、長沙の日商金融組合店主の山岸賢蔵が刺された。3日、日本の艦艇は長沙に向かった。外交部は湘省府に詳細を報告させたが、5日、犯人は株州で逮捕され、理由は金銭トラブルによるものだった。

 11月5日、内蒙古の徳王は化徳で軍事会議を開き、綏遠省(現在の内モンゴル自治区フフホト市・包頭市・バヤンノール市・オルドス市・ウランチャブ市に相当)侵攻を決定した。同日、徳王はモンゴル軍総司令官の名義で綏遠省に宣戦布告し、5つの要求を突きつけた。8日、綏遠省主席の傅作義は徳王に反発し、蒋介石も徳王を非難、「即日軍事衝突を停止し中央の処理を待て」と命じた。(下記「綏遠事件」参照)

 11月7日、中国第29軍は紅山口(河北省赤城県)で対抗的軍事演習を行った。11日も29軍は北京で秋季大演習を行い、約3000人が参加した。

 11月9日、上海日商紡績工場の労働者は日本軍(傀儡軍)の綏遠などへの侵略に抗議してストライキを行った。ストの参加者は20日までに4万5千人に達した。

 11月12日、傀儡蒙古軍王英部隊が内蒙古陶林境紅格爾図に侵攻したが、13日夜、守備軍に撃退された。

 11月14日、徳王は日本軍の協力下で、李守信と王英の二軍(傀儡モンゴル軍と西北防共自治軍)をもって綏遠に大挙して侵攻、傅作義率いる軍は奮起して抵抗し、18日、紅格爾図で敵を撃破し、数百人を捕虜にし、その後百霊廟一帯で反撃した。

 11月16日、全国各界救国連合会は綏遠問題宣言を発表し、全国の実力派は一致して綏遠の抵抗軍を全力で援助するよう求めた。

 11月18日、中国外交部アジア局の高宗武が川越駐中国大使を訪問して綏遠事件を交渉したが、川越は日本軍の綏遠への関与を否定した(これについては10月1日を参照)。同日、日本外務省の天羽報道官は「綏東戦争は純粋に中国国内の事件であり、日本側とは関係がない。仮に日本人がモンゴル軍の作戦に参加したとしても、それは個人行動である」と述べた。

 11月22日、関東軍首脳は長春で綏遠情勢を連日討論し、綏遠攻撃を支援するとしたが、24日、関東軍参謀長の板垣は天津で、支那駐屯軍の場合は綏遠事件に対して「ほどほどに」行動すべきだと主張した。

 11月23日、各界の指導者である沈鉤儒、王是時、李公朴、沙千里、章乃器、鄒韜奮、史良ら7人は、上海市公安局に「国民危害」の罪で逮捕され投獄され、「七君子事件」と呼ばれた。(下記参照)

 11月24日、綏遠軍は傀儡軍の占拠する百霊廟への攻撃を始めた。日本特務機関長の勝島角芳は自ら刀を抜いて督戦し、娘山陣地に機銃を10丁余り増やし、猛火力で突撃部隊の前進を阻止した。0時、綏遠軍司令部は山砲大隊を前進させ、集中火力で娘山敵機銃陣地を破壊し、装甲車が歩兵部隊を援護して前進させ、敵陣地は間もなく破壊された。傀儡軍師団長は先に車で逃げたが、激戦は午前中まで続き、傀儡軍は敗走し百霊廟を奪回、傀儡軍の死傷者は千人余りに達した。ちなみに日本の飛行機4機が傀儡軍を支援、百霊廟を爆撃し、綏遠軍に3機撃墜された。(筆者注:18日の日本の報道官の「個人行動」とする発言によれば、この飛行機爆撃も個人行動となる。釈明にもほどがあると言うべきだろう)

 11月25日、日独両国はベルリンで「反共産国際協定」を締結した。

 11月27日、満州国は関東軍と共同で見解を発表し、綏遠情勢が「満州国」の安寧秩序を危うくするとし、日本と満州国当局は適切な方法を取らなければならないと語った。

 11月28日、国民政府外交部は、「今回の匪賊軍の綏遠侵犯を受け、政府は国境を警備して人民を保護する責任がある。領土主権が第一であり、第三者による侵害や干渉を許さない」と述べた。

 同日、11月9日に続いて上海の日商紡績工場26社の労働者4万人余りが反日ストライキを行い、あらゆる階層から支持を得た。

 11月、黒竜江省湯原県太平川では、東西幅600m、南北長660mの範囲を画定して「集団部落」を設立し、「圏屯」、「並戸」(帰屯並戸)を実行した。1936年(昭和11年)の冬の凍りついた時期、日本軍が駐屯し、村人30人余りを捕えて囲い込み、翌年旧暦正月には第二次圏屯で、108人を囲い込んで大きな災難をもたらした。(下記「湯原県姜家屯事件」および「湯原県太平川における<帰屯並戸>(集団部落)の策謀」を参照)

 1936年(昭和11年)12月1日、中国共産党中央は、全中国の主力紅(赤)軍の1、2、4方面軍はすでに集合を終え、自分たちに抗日の行動を与えさえすれば、すぐに綏遠の前線に赴き、一定の抗日戦線を担当する意思があると発表し、蔣介石に「敵を友とし、共に抗日する」よう呼びかけた。

 同日、抗日連合軍第3軍第5師団師団長景永安の部隊は黒竜江仏山県城(嘉蔭県)で傀儡軍20名を銃殺。

 同日、日本軍は熱河省で傀儡軍3千人余り、遼寧省西から傀儡軍2千人、綏東の商都県、綏北大廟子傀儡軍8千人余りを綏遠に向けて備えさせた。

 12月2日、関東軍特務機関長勝島と傀儡蒙古軍副司令官の雷中田は、傀儡軍4千人余りを率い、自動車約百台を伴い錫拉木楢廟から百霊廟に急進し、翌日の明け方に百霊廟守軍に対し反撃に出た。

 12月3日、晋綏軍は傀儡軍が百霊廟を攻撃したことを知り、直ちに部隊に命令し、敵の前進を阻止する作戦を命令、戦闘は明け方から午前9時まで、3時間の激戦で敵を撃破した。傀儡軍500人余りを撃ち殺し、200人余りを捕虜にし、副司令官をその場で射殺した。

 12月4−5日、傀儡軍は兵力を集めて反撃に出、関帝廟晋綏軍を包囲した。晋綏軍は迎撃するが戦況は激しく、5日午後、関東軍の飛行機8機が、百霊廟を爆撃、投下弾100発余りにより、晋綏軍は潰走した。

 12月7日、国民政府外交部は声明を発表し、綏遠事件が日中外交を妨げたと日本を非難し、正当なルートで、合理的な解決を行うべきと述べた。

 同日、張学良は蒋介石に会いに行き、外敵と戦うために、まず共産党と団結して対日抗戦を進言するが拒否された。夜、張(東北軍司令官)と楊虎城(西北軍司令官)は蔣を捕らえる密議をした。

 12月8日、傀儡軍の王英所属の旅団長の石玉山、金憲章らが反乱を起こし、日本人顧問小浜大佐ら20人余りを処刑、部隊を率いて第7師団を襲撃し、10日、二個旅団は再編成のために綏北烏蘭花一帯に向かった。

 12月9日、西北各界抗日救国会は西安で『一二・九宣言』を発表し、1万5千人余りの学生と市民デモ請願を組織し、張学良、楊虎城に内戦を停止し、一致抗日するよう要求した。これに対し憲兵が発砲し、それに憤慨した学生は徒歩で蔣介石のもとに行き請願した。蔣は張学良に武力阻止を命じたが、張は一週間以内に学生の抗日救国の要求に答えるとして学生を説得した。10日、張学良、楊虎城は蔣介石に再び諫言、もしこれ以上蒋が独裁を通すなら必ず袁世凱のように民族の罪人になると指摘した。

 同日、日本の外務省は中日交渉について、「日本政府は依然として中国と外交ルートで各問題を解決したいと考えている」、また「日本は中国が排日運動をどのように取り締まるかに注目している」と述べた。

 12月11日夜、張学良はまた蔣に対して苦言を呈したが、逆に蒋介石が張、楊の武装を解除しようとしていることを知り、当初の計画通りに軍事的行動を起こし、蔣に抗日を迫ることを決意した。真夜中、張、楊はそれぞれ西安にいる東北軍と第17路軍の将軍を呼び、計画を打ち明けた。(西安事件:下記参照)

 12月12日、西安事件:張学良と楊虎城は蔣介石を拉致する実行部隊を結成し、西安で「兵諫」(クーデター)を起こし、蔣介石を抑留し、全国に通電して8項目の主張を提言した(詳細は後述)。
 同日、国民政府は張学良の各職を剥奪し、軍事委員会で厳罰に処し、彼の指揮下にある軍隊は軍事委員会の指揮に任せることになった。

 12月15日、日本の南京総領事の須磨は中国外交部を訪れ、西安事件の状況を尋ね、南京政府がいわゆる8項目の主張を受け入れれば、日本は「断固たる手段をとる」と発言した。

 12月17日、周恩来らが西安に到着。夜、周恩来と張学良は西安事件を平和的に解決する方針で会談した。

 同日、日本外相は許世英駐日大使を呼び、南京が張、楊と妥協すれば、日本政府は座視できないと述べた。

 12月21日、抗日連合第一軍第2師団は吉林長白県七道溝付近で、傀儡靖安軍金洋遊撃隊と臨江県の傀儡治安隊と激戦し、20人余りの敵を殲滅した。

 12月23日、蒋介石の代表として宋子文、宋美齢(蔣介石の妻)は張学良、楊虎城と正式に交渉を開始し、周恩来は中国共産党全権代表として参加した。二日間の交渉を経て、24日に張学良の要求する8項目に概ね合意した。その結果蒋介石は行政院を辞任することになった。同日、蒋介石は西安で周恩来と会見し、周は中国共産党の抗日救国の政策意図を説明した。蔣は「共産党軍討伐」の中止、連合抗日などの条件に同意した。

 同日、広田首相は枢密院会議で西安事件を報告し、「国民政府と張学良が容共を妥協条件とすれば、日本は断固として非難する」とした。

 12月25日、張学良、楊虎城は蔣介石、宋子文、宋美齢などを密送して空港に直行し、張は自ら蔣に付き添い、洛陽を経て翌日南京に到着した。蔣の国民政府は信義に背くとして機を降りるとすぐに張を軟禁したが、楊虎城は軍法会議を経て処刑された。

 12月30日、成都、北海両事件は、中日双方の交渉で解決し、中国政府は地方当局と凶行犯を処分した。

 同日、日本の関東軍参謀部は、1936年(昭和11年)1月から12月にかけて、抗日軍に銃殺された日本軍将兵301人、負傷者769人、計1070人と発表し、傀儡軍の死傷者は974人、日本軍と傀儡軍の合計死傷者は2044人となるとした。

とまらないテロ事件と抗日事件

 何年も前から続く一連のテロ事件と駐留日本軍に対する抗日軍とゲリラ部隊の襲撃は、自国を侵略してきた日本に対する抵抗運動の流れの中のある意味自然発生的な現象であり、侵略された国の中ではどこにでも起こり得るし、現在でも世界の各地で似たような事件は起こっている。ただ、日本自身はこのような形で他国に侵略された経験はないし、アジアにおける優越国と自認する日本が、アジア諸国を統治するのは当然の行為と日本国民は信じていたので、時折表に出されるのテロ事件は、「皇国」日本に対する侮辱として日本国民を憤激させた。そして日本軍と日本政府はその都度中国政府に抗議し、犯人たちの逮捕と抗日運動の根絶を求めていくが、一方で各所で組織された抗日連合軍あるいはゲリラ隊などが駐留日本軍を襲撃し、何十人あるいは百人以上の単位で殺害されることに関して正式に抗議することはないのはなぜか。抗日軍は中国政府が関わっていない組織であることもあるだろうが、日本軍としては軍が襲撃され犠牲者を出したことにマイナスのイメージがあるから正式に発表などせず(後でまとめて発表することはある)、従って日本国内でそのまま報道されることもなかったし、今日の日本側の歴史でも取り上げられることはほぼない。しかし1931年(昭和6年)の満州事変以降から中国側が取り上げている出来事の中に記されているように、抗日軍の日本軍襲撃、そして日本軍が行ったゲリラ隊が潜むとされる村々における小規模あるいは集団虐殺事件は、とてもすべてを扱えないほど多々あり、今日まで下記のような瑣末とも言える事件が歴史的に取り上げられても、戦争による本当の被害記録は取り上げられることは少ないないままである。

【上海邦人商人射殺事件(萱生事件)】

 7月10日、上海日本人居留地の近くで上海在住の日本人海産物ブローカー(三菱洋行社員)が射殺された。この事件は上海特別市公安局と上海共同租界工部局警察が共同で捜査し、一名を逮捕、その供述により、12月、中国法院は事件の共同主犯とされた2名に死刑判決を下し、他5名に懲役刑(十三年から二年)を言い渡した。この事件は同じ上海で前年11月に起きた中山水兵射殺事件が未解決のうちに起きたものであった。

【成都事件】

 8月24日、日本の外務省が満州事変後に閉館中の四川省の成都総領事館を(中国政府の許可なく)再開すべく動き始め、岩井総領事代理を派遣したところ、中国側は8月初旬以来、開館絶対反対を表明し、四川省、殊に成都において「開館反対、岩井代理入川(四川省に入ること)阻止」の学生大会、市民大会などが相次いで開かれ、岩井代理は重慶に足止めされ、成都入りはできなくなった。そこに岩井代理と同行した記者や商社員ら4名が、単なる視察目的として成都に入り、24日、宿としていた日本旅館において抗日運動の中国人学生を含む暴徒によって襲撃され、大阪毎日新聞上海特派員と上海毎日新聞社員の二人が死亡、他二人が重傷を負った。

【北海事件】

 9月2日、広東省北海で日本人商店主の中野が中国人数人によって殺害された。事件発生は日本国民を憤激させ、広州駐在の日本領事は派兵して上陸調査を要求した。9日、2隻の日本艦が上海から広東省に進出、10日、日本海軍はさらに軍艦4隻を青島から南下させた。14日、北海第7路軍翁照垣は日本人の上陸調査を拒否した。15日、天津総領事川越は張群を訪問し北海事件を交渉、翌日も再訪し、なんとか日本人を調査に向かわせるよう求めた。張は翁照垣部隊の撤退を促し、現地調査の障害を解消すると表明、21日、翁部隊は北海を撤退した。

 9月14日、日本海軍軍令部は「北海事件処理方針」を決定。その要点は「成都事件とともに国民政府に対し排日全面禁止へと導き、この事件の解決を促進すること、次に調査現場はやむを得ず用兵が必要となった場合、当方の威信を保持する」程度にとどめることとした。23日、中日の調査チームが北海に到着して中野事件を調査したが、目撃者によると、「中野は人を馬鹿にし、通行人を怒らせて殴り殺された」という。現場調査が終了した4日、日本の艦船6隻は北海を撤退した。 12月30日、成都、北海両事件は、中日双方の交渉で解決し、中国政府は地方当局と凶行犯を処分した。

【漢口邦人巡査射殺事件】

 9月19日、漢口の日本租界河街大正街にある日本総領事館第9号見張所に立番中の吉岡巡査が、日本租界に隣接する場所の煙草屋で店主と談話していたところ、37、8歳の中国人が隠し持っていた拳銃で至近距離から巡査の左頚部を狙撃し、吉岡巡査は即死した。事件直後に日本総領事館から揚永泰州政府主席と呉市長に対して事件の犯人逮捕捜査の要請がなされた。22日に会談が行われ、三浦総領事からは中山水兵射殺事件を始めとする一連のテロ事件が本事件の導因となったことなどから中国側の責任が指摘されたが、揚永泰は犯人捜査には協力するが事件は日本租界内で起きたことであるとして中国側の責任はないと応じた。

【上海日本人水兵狙撃事件】

 9月23日、上海共同租界海寧路で上陸して散歩中の出雲乗組員の水兵(陸戦隊)4名が、停車中のバスに隠れた中国人4、5名によって後方から拳銃により銃撃され、二名が死亡し、二名が重傷を負った(一人死亡、二人負傷との記述も)。日本上海領事館は事件後直ちに上海工部局の警視総監及び上海市政府の秘書長に犯人の迅速逮捕と邦人保護を要請した。日本海軍第三艦隊は陸戦隊を居留民保護のために租界に緊急派遣した。翌日蒋介石は何応欽軍政部長に臨戦態勢を取るよう電令し、上海市長にも「積極戒備」を命令した。第三艦隊司令長官は、度重なる一連の事件に対して中央においてある程度の決意を固める必要があるとした意見具申をした。若杉総領事は上海市長や上海工部局に対して直ちに犯人逮捕と邦人保護を図るよう要請した。この事件の解決を見る前の10月に前年の中山水兵射殺事件の判決が下され、中国人二名が死刑となった。12月28日には先に起きた萱生事件の判決が中国法院で下され、中国人2名に死刑判決、5名に禁固刑が下されている。

 日本側はこれら一連の事件発生原因である排日運動の根絶を期し、川越駐中大使を通じて交渉を開始した。以来、4ヶ月にわたって交渉が継続されたが、その途中でも事件が続き遅々として進まなかった。幾多の紛糾を重ねて12月30日、国民政府の陳謝、成都事件も含めて責任者及び犯人の処罰、被害者の遺族に対し3万元を贈ることその他を決定し、一応解決された。

 筆者私見:「一連の事件発生の原因である排日運動の根絶」をと、その度に日本側が中国側に強く要求しても、その根本原因は日本軍の侵略にあるから、それを抑えられないことは今日の我々から見ればわかりきっていることであり、その要求自体が日本軍の傲慢な姿を表すが、この時代の軍政府の権力者たちは、そのことが客観的に理解できていない。相手方の抵抗運動をやめて欲しければ、自分達の侵略行為をやめれば済むことである。そのようなことに思いが至らない愚鈍というか、他国に対する征服欲に囚われて頭を使っているだけの軍の首脳部たちの駆け引きや、そこから打ち出される軍事作戦の良し悪しによって「戦果」の成否を問い、そこで判断を誤ったとか、もっといい方法を選んでいれば日本軍は勝っていたであろうなどと、あくまで首脳部(権力側)の視点でしかものを書いていない歴史とは何なのか。その背後には必ず何百、何千、何万の命が打ち捨てられていて、それについては単に「損失」という言葉で片付けられる。

 極端に言うなら、およそ軍事作戦において、敵味方の戦死を前提とする限り、正しい作戦などありえない。正しい作戦とはどこまでも戦争をしないように考えることであり、戦争をする、あるいは戦争が避けられないと決めるということは、考えることをやめるということである。考えることをやめるということは、自国と他国の多くの人の命を無条件に奪うということである。そのことに思いが至らないから戦争をすることを躊躇せず、考えることもせず、そしてそのような人間が軍部の首脳に登りつめ、力(戦争することを決める力)を持つ。つまり軍人とは思考力を持たない人間のことを言う。つまり力を持つ人間というのは考える力を持たない人間のことである。そのような人間たちの行動を後世の歴史家が逐一取り上げ、それ自体は避けられないとしても、そこまでの記述で終わっていたら、歴史の記述というものに何の意味があるのだろう。

国境紛争

 国境といっても、日本軍が支配する満州国とソビエトの支配下にある外蒙古の間で起きた軍事紛争である。

【オラホドガ事件】

 1935年(昭和10年)12月19日、ボイル湖西方の国境付近を警備中の満州軍は、外蒙古軍から攻撃を受け、満州軍は敵兵10名を捕虜にして撃退した。その5日後に、外蒙軍はトラック60台の増援部隊を派遣して再び攻撃してきたが、満軍は3名が戦死する損害を受けながらも国境を守った。1936年(昭和11年)1月7日、外蒙古は軽爆撃機を飛ばして偵察するとともに、騎兵などの小部隊を越境させて地雷敷設など挑発行為を繰り返した。22日には、日本の関東軍と満軍の共同警備部隊がトラック3台で行動中、外蒙軍と交戦した。2月8日、関東軍の杉本支隊は、騎兵第14連隊と軽装甲車で進軍、12日にオラホドガに到着し、約2時間の激戦の末、外蒙軍を撃退した。杉本支隊の損害は戦死8名、負傷4名であった。任務を終えて帰還しようとする杉本支隊に対し、外蒙軍は装甲車部隊で追撃し、爆撃も行った。杉本支隊の将兵は勇戦し、外蒙軍の装甲車を鹵獲した。 

【タウラン事件】

 3月上旬、関東軍渋谷支隊はアッスル廟に進出すると、拉致された満州国の警察官を救助しようとして外蒙軍と小さな衝突が起きた。29日、関東軍と満州軍協同偵察部隊が自動車で行動していたところ、外蒙軍機2機から機銃掃射を受けた。トラックは全車が破損し、1台が鹵獲された。外蒙軍は、本軍が国境に50km侵入して国境監視所を攻撃したと言い張った。3月31日、渋谷支隊は、自動車部隊と装甲車数両をタウラン地区の偵察に出動させた。すると、外蒙軍機12機が飛来して70発の爆弾を投下し、機銃掃射を繰り返した。爆弾の多くは不発で損害はなく、対空砲火で3機を撃墜、3機を不時着させ、2機を損傷させた。空襲に続いて、外蒙軍は機械化部隊を繰り出して渋谷支隊に接触した。外蒙軍の兵力は渋谷支隊より優勢だった。渋谷支隊は軽装甲車隊を偵察に出したが、湿地で行動不能になったところを外蒙軍装甲車隊に包囲攻撃された。軽装甲車2両が破壊され、平本少尉は戦死、残骸と遺体は持ち去られた。日本側の歩兵・輜重兵が肉薄攻撃で応戦し、支隊主力も助けに駆け付けて山砲で砲撃、外蒙軍を撃退した。4月1日、日本の関東軍は航空隊を出撃させ、タウランに向けて移動中の外蒙軍車列60両(装甲車20両を含む)を発見し、襲撃を敢行した。5月下旬、タウラン事件についての捕虜交換が行われ、負傷して拉致された日本兵・満軍兵12名と、外蒙軍兵12名が交換され、平本少尉らの遺体11体も返還された。兵器と人命を消耗した責任を問われ、渋谷大佐は予備役に編入された。

六一事変

 独自の軍閥によって国民政府に抵抗し、半独立政権となっていた広東省と広西省の南西行政府と南西政務委員会は合同会議を開き、南京国民党政府と国民党中央委員会に対日徹底抗戦を指揮するよう要請した。その内容は「日本軍の侵攻は治らず、一方では大規模な密輸を行い、他方では兵力を増強して天津を抑圧し、経済侵略と武力侵略が同時に進行しており、今後の情勢が非常に危惧される。今や国の生死の分かれ目であり、国全体が立ち上がって敵と戦う以外に出口はない」とし、同時に山東省、山西省、陝西省、四川省、雲南省、貴州省およびその他の省に代表が派遣され、日本と蒋介石の政策に抵抗することを要請した。4日、両広の陳済棠、李宗仁らは抗日救国を宣言し、軍事委員会を構成し、両広軍を抗日救国軍と改称し、続いて両広軍は湖南省に進出した。蔣介石は2つの軍を急派してこれを阻止し、内戦は一触即発になった。その後、蔣介石は両広省討伐の大軍を派遣し、武力統一をはかり、各方面の調停を経て事変は一応終わった。

チチハル「六・一三」事件(日本軍の言論弾圧)

 黒竜江省斉斉哈爾(チチハル)において民報社の王到海社長と副編集者である金剣嘯らに代表される共産党員が、日本軍の統治に抵抗する各界の人々と団結し、『黒竜江民報』を利用して言論闘争を繰り広げた。日本軍当局は1936年(昭和11年)6月13日から、黒竜江省民報社で王到海社長、編集の閻達生、通訳の劉大川ら6人を逮捕し、教育庁の王賓章庁長、姜庚年、励通維の3人を逮捕、各学校で麻秉偽、王柱華らの教師と鉄道職員の鞠興任ら多数を逮捕した。ハルビンに避難した金剣啸も逮捕された。この事件では172人が逮捕され、それぞれ憲兵隊、警務庁、龍江公署、日本領事館、鉄道警務部などの刑務所や拘置所に収監され、極めて残忍な拷問を受けた。その手段は、電気を流す、肋骨削り、爪刺し、レンガで膝を圧迫する、冬は水がめにしゃがませ、体に冷たい水をかけ、冷水を肩に担がせ、指を挟むなどであった。民報の王到海社長は逮捕されてから2カ月以上、昼夜を問わず苦しめられ、立てずに食事をする能力を失った。鞠興任と劉大川の親戚は拷問を受けたが貞節を守り、最後に日本軍の重刑の下で惨死した。ある30代の教員は拷問を受けて精神的に異常をきたし大便を自分の頭に塗るなどした。そこで憲兵は彼を浴槽の後ろの汚い水槽に投入し、木の棒で頭と体を殴った。日本憲兵隊に軟禁されていた王賓章教育監は、日本軍の暴行の前で自殺した。1936年(昭和11年)8月15日、「第三軍管区」からなる一般軍事裁判所は、王到海社長、編集者の金剣嘯と閻達生、師範学校の王柱華、日本語専修学校の麻秉鈞に死刑判決を下した。姜庚年、劉大川は無期懲役に処せられ、張永、勁通維ら8人に懲役15年、梁端勲、劉松山ら4人に懲役13年6カ月、黄潤森、閻伝成ら4人に懲役10年、関鐘琦ら8人に懲役7年以下の判決が下った。(『侵華日軍暴行総録』黒竜江省編より)

豊台事件

 日本の支那駐屯軍増強による日中軍事的緊張の増幅

【第一次豊台事件】

 前年1935年(昭和10年)から支那駐屯軍の活動は活発化し、地元紙には連日のように日本軍の演習の様子が報じられるようになる。しかも、規模は拡大し、実弾を 用いた市街戦演習も日常的に行われるようになっていった。1936年(昭和11年)6月27日、北京の豊台駐留の国民党第29軍38師団の軍馬5頭が、列車の警笛に驚いて近くの日本兵営区域内に駆け込み、馬丁が馬を捕まえに兵営に行ったところ、日本軍将校は馬を抑留して馬丁を殴った。そこで第29軍は一小隊を派遣して馬を取り戻した。29日、日本武官今井は冀察当局に厳重抗議した。7月3日、冀察(河北チャハル省)政委員会代理陳覚生は日本武官今井を訪問し、豊台事件に対する日本側の要求をすべて受けて、第29軍駐留軍営長崔蘊秋を解任し、交代させた。陳は4日、宋哲元の代理として参謀長永見を訪れ、謝罪した。しかし支那駐屯軍司令官田代は国民党第29軍の豊台駐屯からの完全撤退を要求した。

 こうした流れの中で7月8日、豊台の日本駐屯軍の将校20人余が自動車3台に乗り、大型戦車7輌を率い、軍用大型車6台が日本兵百余人を乗せ、午後、豊台を出発、広安門を入り南に向かい、天橋の南広場に到着して休憩、 天壇を遊覧した後、永定門を出てデモ行進し、広安門大街を経て広安門の外の豊台の兵営に戻った。続く翌9日も同様に武装した日本軍70人余が堂々の示威行進し、しかも一カ所で射撃演習を行なった。7月22日、豊台に駐屯している将兵百人余は、機関銃や野砲等を持って蘆溝橋・長辛店一帯に向かい、実弾を使う演習を行なったが、演習時には、現地附近の数里内は、臨時に交通が遮断され、砲声のとどろきや断続的な射撃音は、北京市西南地域の全住民に聞こえるほどのものであったという。翌23日早朝も、豊台駐屯の日本兵90人余が完全武装し、小型砲4門を運び、蘆溝橋一帯に赴いて演習を実施した。こうして盧溝橋における演習は常態化し、早朝演習や夜間演習も行われるようになる。このように増兵後、支那駐屯軍の演習は、北京や天津の市街地、大沽・塘沽などの海浜や港湾、豊台や盧溝橋といった陸上交通の要衝、唐山や古北口といった戦区内の要衝など、広範囲の地点で同時並行的に挙行されるようになった。

【第二次豊台事件】

 1936年(昭和11年)9月18日夕刻、突然、またもや両軍の演習による衝突が発生した。演習を終えて帰営の途にあった中国軍張営第五連隊と夜間演習に向かう日本軍が、豊台の狭い道ですれ違い、双方譲らずそこで小競り合いが生じたということであった。その時、小隊長小岩井が機に乗じて、馬に鞭打って中国軍孫連隊長の前に突っ込み、その隊伍を乱し、争いの発端を作った。日本側は、戦闘隊形を取って孫を包囲し、武装解除させようとしたので、孫は日本軍の前に出て交渉し、人質として陣内に入り、そのまま解放されなかった。孫の兵士たちは憤慨し、日本軍と対峙した。この時、日本軍大隊長が知らせを聞き、兵士を率いて張営の前に突然現れ、機関銃4丁を据え、さらに盧溝橋附近で演習していた日本軍部隊も駆けつけ対峙し形勢は重大となった。 その後双方の応援部隊が近くの大井村で接触し、発砲するに至り中国人民兵3人が負傷した。細かい経緯は日中双方の意見が食い違うが、宋哲元は天津で情報を得、ただちに日本の今井武官や河辺旅団長と協議し、それぞれ要員を現場に向かわせた。19日早朝、双方の要員が豊台駅に会し、協議の結果和解した。ただし、中国側は日本側要求「謝罪すること/事件を起こした部隊は鉄道線路南側に撤退する/豊台駐屯部隊は他の地点に移駐する」を受諾したとされる 。 結果的に第29軍は豊台から六百mの趙家荘一帯に移駐するだけに終わった。この後、支那駐屯軍の演習はさらに激しさを増し、10月下旬には秋季大演習を行うが、第29軍も翌月秋季大演習を行う。

 このように支那駐屯軍の増強は華北における日中間の軍事的緊張を一方的に高めた。連日のように繰り返される演習は、平津地域の住民に強い危機感を抱かせ、当地の学生や民衆が抗日意識を高めるのは至極当然のことであって、増兵によって中国民を威圧しようという当初のねらいとは正反対の結果を招いた。翌年の日中全面戦争のきっかけを作った盧溝橋事件は、二度の豊台事件に象徴される日中両軍の摩擦、衝突の延長線上に位置している。その盧溝橋事件の発生は、この豊台事件から10カ月を要さなかった。(『支那駐屯軍増強と豊台事件』内田尚孝の論考より要約)

綏遠事件(綏東事件)

 まず、「11月、中国綏遠省 (すいえん:内蒙古中部地区) 東部で起った日本の関東軍指導下の内モンゴル軍と国民政府軍との武力衝突事件である」と日本側の記述にあるが、片方の国民政府軍は誤りで、綏遠省は中央政府の管理下にあるが独立軍を持っていて、政府軍は直接関与していない(上記綏遠に関わる1936年:昭和11年の出来事を参照)。元来、中国の東北地区(長城以北)は軍閥が割拠し、それが逆に日本軍に突き入る隙を与え、満州を占領することができた経緯があり、次いで内蒙古も日本軍の戦略上にあった。

 1932年(昭和7年)の日本の満州国設立に刺激され、隣の内モンゴル(蒙古)地区でも自治政府への志向が高まり、1933年(昭和8年)10月9日、内蒙古(モンゴル)郡王であったデムチュクドンロブ(徳王)は日本からの支援を受け、綏遠百霊廟において「内蒙古自治政府」を設立し、内蒙古主席となった。1935年(昭和10年)12月、徳王は日本軍の武器と資金の支援を取り付けた。一方で日本軍は翌年1月に綏遠省主席の傅作義と交渉したが、傅は応じなかった。1936年(昭和11年)4月、モンゴル会議で徳王は総裁となり軍政の全権を掌握し、その結果、徳王の内モンゴル軍は綏遠省への侵攻を決定、11月5日、綏遠省に宣戦布告し、5つの要求を突きつけた。そして24日、日本の関東軍飛行隊の支援のもとに進撃した内蒙古軍は、綏遠軍と衝突したが、逆に百霊廟を占領され敗北した。この戦闘については日本の外務省は本件は中国内政問題であり、帝国は関知せずとの非公式宣言をした。つまり知らんぷりを決め込んだ(出来事の10月1日参照)。しかし11月27日、満州国は関東軍と共同で見解を発表し、綏遠情勢が「満州国」の安寧秩序を危うくすると述べた。

 12月1日、中国共産党中央は、自分たちに抗日の機会を与えさえすれば、すぐに綏遠の前線に赴き、抗日戦線の一部を担当する意思があると発表し、蔣介石に「敵を友とし、共に抗日する」よう呼びかけた。これに危機感を抱いた日本軍は熱河省で傀儡軍3千人余り、遼寧省西から傀儡軍2千人、綏東の商都県、綏北大廟子傀儡軍8千人余りを綏遠に向けて備えさせ、2日、関東軍特務機関長勝島と傀儡蒙古軍副司令官の雷中田は、傀儡軍4千人余りを率い、自動車約百台を伴い錫拉木楢廟から百霊廟に急進し、翌日の明け方に百霊廟守軍に対し反撃に出た。戦闘は明け方から午前9時まで続き、綏遠軍は傀儡蒙古軍500人余りを撃ち殺し、200人余りを捕虜にし、副司令官をその場で射殺した。12月4-5日、傀儡軍は兵力を集めて反撃に出、関帝廟の綏遠軍を包囲し、5日午後、関東軍の飛行機8機が百霊廟を爆撃、投下弾100発余りにより、綏遠軍は潰走した。12月7日、国民政府外交部は声明を発表し、綏遠事件が日中外交を妨げたと日本を非難した。8日、傀儡蒙古軍の王英所属の旅団長の石玉山、金憲章らが反乱を起こし、日本軍軍事顧問の小浜大佐ら20人余りを処刑、部隊を率いて第7師団を襲撃し、傀儡蒙古軍に壊滅的打撃を与えた。

 この間の11月以来、全国各界救国連合会、全国学生救国連合会の指導のもとに広範な援綏運動が展開され、上海、青島、天津などでも労働者のストライキが相次いつぎ、抗日運動を一層高揚させることになった。しかし翌年の支那事変(日中戦争)後、百霊廟は内蒙古軍に奪還され、親日防共蒙疆地区が新しく誕生することになる。

七君子事件

 1936年(昭和11年)5月31日、全国20以上の省と市の60以上の救国団体の70人以上の代表が上海に集まり、「全国各界救国連合会」を設立した。この連合会の指導者の沈鉤儒、王是時、李公朴、沙千里、章乃器、鄒韜奮、史良、王造時ら7人は、7月15日、連名で国民政府に対し共産党への攻撃(内戦)の停止と抗日民族統一戦線の結成を要求した。11月23日(あるいは22日深夜)、蒋介石国民政府は党の方針に逆らうとして、上海市公安局が7人を逮捕し投獄した。7人とも社会的な知名度も高かったことから、全国のあらゆる階層の人々に衝撃と憤りを与え、24日、北京文教界の李達、許寿裳、許徳珩ら109人は連名で国民政府に電話し、「七君子」の釈放を要求した。26日、宋慶齢(孫文の妻)は救国会執行委員の名義で声明を発表し、救国会の指導者7人の逮捕に抗議、10万人規模の署名イベントを開催し、7人の即時釈放を要求した。国民党中央委員会の委員20名以上も連名で蒋介石に抗議し、また北京の主要大学生らは2日間のストライキを呼びかけ、請願のため代表者5人を南京に送った。その他海外の華僑からも国民政府に「七君子」の即時釈放を要求し、著名なロマン・ロラン、アインシュタイン、ラッセル、デューイらが抗議した。これは国民党政府にとって予想外のことであった。

 そこに下記の西安事件が起こり(張学良ら率いる東北軍によって蒋介石が監禁された)、内戦の停止と抗日団結の情勢に傾き始め、翌年1月6日に、十年間続いた国共内戦は事実上停止された。しかし国民党政府は依然としてすべての愛国運動を「中華民国を危険にさらすもの」とみなし、七君子を拘留し続けた。1937年(昭和12年)4月3日、国民党政府はそのうち7人の正式訴追を発表し、その後、6月11日と25日に蘇州で2回の法廷を開き「七君子」を尋問した。それに合わせて宋慶齢、何香寧、胡玉志を含む16人が「国を救うための刑務所」キャンペーンを立ち上げ、「七君子」とともに自分達も「愛国的犯罪人」として服役すること(自らの拘留請求)を提案し、「救国入獄運動」を展開した。7月5日、宋慶齢は体調が悪いなか、他の同志とともに荷物を持って蘇州高等法院に行き、自分達を投獄するよう求めた。裁判では七人に死刑が求刑されるが、 宋慶齢らの活動により、国民党当局は7人の活動は「救国が目的であるから無罪」(愛国無罪)と認め、無罪判決が出され、盧溝橋事件後の7月31日に、他の政治犯三百人余りとともに釈放された。そして起訴は1939年(昭和14年)2月に最終的に取り下げられた。

(中国側の数種の資料より混成)

西安事件

 以下は日本側のいくつかの資料からまとめたものであるが、この事件に至るまでの詳しい経緯は、上記の12月7日からの張学良が関わる出来事を参照。

 12月12日、西安において国民政府主席の蒋介石が、部下の張学良ら率いる東北軍によって監禁された。当時「安内攘外」(国内を安定させてから外国勢力を追い払う)政策を採って共産党と抗日運動を弾圧していた蒋介石に対し、内戦を止め、挙国一致で抗日運動に立ち上がるべきと主張する張学良(日本軍に暗殺された張作霖の息子)が行動に移したものであった。張学良の要求は8項目あり、「一、南京政府を改組し、各党各派を一つにまとめ救国を実行、二、すべての内戦の停止、三、上海で逮捕された愛国指導者(抗日7君子)を直ちに釈放、四、全国のすべての政治犯の釈放、五、民衆愛国運動の開放、六、人民集会結社のすべての政治的自由を保障、七、孫文総理の遺言を確実に遵守、八、直ちに救国会議を開催する」という極めてまともなものであった。

 これらの要求(張学良だけではないが)になかなか応じない蒋介石に対し、17日、張学良は共産党の周恩来を西安に呼んだ。蒋と周は孫文の設立した黄埔軍官学校(士官養成学校)の校長と教務主任の立場であって、周は開口一番「お久しぶりです、校長」と呼び掛け、誠心誠意、蒋介石に一致抗日を説いた。そうして南京政府代表の宋子文、宋美齢(蔣介石の妻)らと協議を重ねて、8項目にほぼ合意する形となり、25日に蒋介石は解放され、内戦は停止されることになった。

 この時点では周辺国にはこの張学良の反乱は理解されず、ソ連の新聞は「親日分子の陰謀」「反日勢力の団結を破壊する動き」と報じ、日本の新聞は「張学良独立政府とソ連が協定を結んだ」と報じた。日本では朝日新聞において尾崎秀実一人が「抗日民族統一戦線結成」と鋭く予見した。一方で日本政府はこの事件の動向を過小評価し、蒋介石後の南京政府を親日派が掌握するよう画策しようと、親日派の何応鈞が「張学良を討伐すべし」と応じた。

 翌1937年(昭和12年)の盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争の開始を受けて、9月、国民党軍は共産党軍と第二次国共合作を成立させ、抗日民族統一戦線を結成し、共産党指揮下の紅軍は国民党軍に編入されて八路軍と称し、抗日戦の主力となった。この八路軍は日本の太平洋戦争終了(1945年:昭和20年)まで長期にわたって日本軍と対峙することになる。

 ちなみに張学良は25日に蔣介石を南京まで送り届けたものの、国民党政府により反逆罪として逮捕され宋子文公館に幽閉された。蔣介石暗殺の危険性があったから極刑に処すべしとの主張もあったが、張は蒋介石を師と仰ぐ気持ちは堅持していて、その意図はまったくなかったものの、12月31日、軍事委員会高等軍法会議により懲役10年の刑を受け、1月4日に特赦を受けた。そしてそのまま日中戦争期間を通じて軟禁状態に置かれ続けた。しかし同じく監禁された楊虎城将軍はのちに銃殺された。(あくまで筆者の私見であるが、張学良は才覚に優れたものがあり、彼をこの後も表に出していれば、その後の日中戦争の歴史は多少変わっていたと思われる。ただ、この後国共合作は実現するが、両者の間の溝はあまりにも深すぎた)

関東軍の暴虐と中国側の被害記録

 以下は特に満州事変以降から絶えることなく続く、当時も今も日本のわれわれがまったく知ることのない惨劇である。これらは満州の関東軍によるものであり、ここでも翌年に発生する南京同様の殺戮が行われているが、抗日軍が逃げ込んでいると疑われた村では400人のほぼすべてが殺戮された例もあり、信じがたいものがある。(『侵華日軍暴行総録』河北人民出版社より。訳文は筆者)

【通化小廟溝小街惨事】

 1936年(昭和11年)6月29日午前、通化を占領した日本の関東軍の守備隊200人余りが、6台の大きな自動車に乗って小廟溝の小さな街に侵入した。彼らは人を見ると捕まえ、家を見ると燃やし、反抗者を見ると殺した。日本軍は上車路嶺から下車路嶺まで家を焼いて殺したが、行く先々で炎が燃え上がり、死体が街頭に横たわった。荷馬車に乗っていた男が馬と一緒に撲殺された。日本軍はまた老道洞に登り、陳道士ら5人を捕まえ、2人が抵抗して殺された。守備隊は10人の庶民を縛って憲兵隊に送ったが、川を渡る時、何人かの若者が飛び込んで逃げたが、賀大嘴(名前)が日本兵に撃たれて殺された。憲兵隊に着くと、捕縛された村人が次々と裁判を受けた。憲兵は一人の首を机の上に持ってきて、被審者に確認させ、知っていると言えば、同罪で殺す、知らないと言えば嘘だと言ってひどい目に遭わせた。趙殿福は言葉を間違えて殺された。今回は多くの死傷者が出たが、生存者はみな上囲子里に収容された。(吉林省編)

【五常県張万富虐殺事件】

 張万富は五常県沙河子郷石頭河子村で家族23人。1936年(昭和11年)5月のある日、彼は放宝局の周の家にきたところ、ちょうど日本軍の通訳をしていた金が、部屋の中で少女を脅し、暴行して強姦しようとしていた。張万富は怒って、すぐに金翻訳官の顔を何度か殴った。金は吐き捨てるように張を指して「このクソ野郎待っていろ!この恨みは必ずはらす」と言った。張万富は豪快な気性で友達も多く、時には3、5人の抗日戦士が彼の家に食べに行ったことを金は知っていた。6月10日、日本軍と金は石頭河の張万富の家に行き、彼を鬧藤屯の日本兵営に連れて行って狂犬に噛みつかせ、夜は服を旗竿に結び付けて蚊に刺させ、最後に彼は犬に噛れて死んだ。日本軍はさらに数十匹の軍犬を放出し、張万富の死体の肉を全部食べさせた。

 6月19日昼、日本軍は張万富家の21人を日本兵営に連行した。日没後、日本兵は張家21人を一列にして、日本兵営から500m離れた林の中(今の小さな駅の近く)に連れて行き、彼らに自分で穴を掘らせた。掘り終わった後、張家のすべてを跪かせ、日本兵は銃剣で一人一人を刺し、少なくとも二、三度刺して殺し、最後に4歳の男の子を二人の日本兵が片足を引っ張って半分に切り落とした。翌日、日本兵は再確認に行き、18、9歳の娘2人が死んでいないことを発見し、刺し殺した。日本兵は数を調べると、死体が一人少なかった。張の長男は刺し殺されなかった。夜中に呂大耳の船(今の小駅河橋下)に乗っていたところを呂大耳に発見され、家に運ばれて救助された後、五常橋に逃げて隠れ住んだが、体は不自由になった。一家には張万富の三弟の娘、張雅芹(当時10歳)だけが祖父の家に遊びに行っていて難を免れた。(黒竜江省編)

【通化白家堡子惨事】

 1936年(昭和11年)7月8日、吉林省通化市から140里(約70km)余り離れた興華郷の白家堡子(大荒溝)では、楊靖宇将軍が指導した抗日連合軍が活動していた。日本軍はこの村の人々を敵視し、何度も討伐したことがあった。日本の朝陽鎮独立守備隊第五大隊第一中隊中隊長の中山八郎大尉は、部下の八島曹長に白家堡子近くの雷家溝を襲撃する小隊(11人)を率いるよう命じたところ、左右両側の高地に待ち伏せしていた抗日戦士によって一挙に殲滅された。守備隊中隊本部はこの知らせを受け、三源浦、山城鎮と朝陽鎮から100人余りの日本軍と傀儡軍一大隊を集め、中山自らが率いて18台の自動車に乗って大荒溝に到着した。数日間、抗日戦士の跡が見つからなかったので、7月14日に30人以上の屈強な村人を大荒溝警察署に連行して自白を迫った。最後には彼らを警察署の庭の前の大木に縛り付け、守備隊の兵士が銃剣で刺したり、狼犬で噛ませたりした。15日夜明け前、日本軍は大荒溝の各村で捜索し、見つかった村人を連れ出し、歩けない老人や病人はナイフで刺した。李忠昌の家では、彼と一緒に姉や甥など10人以上が縄に縛られて群れの中に追いやられた。30代の刁(ちょう)大姉が5歳の子供を連れて2歳になったばかりの子供を抱いて歩くのが少し遅くなったため、日本兵は5歳の子を銃剣で刺し殺した。それを見て刁大姉は泣き叫んで日本兵に飛びかかったが、兵は大姉が抱いていた子供も奪って地面に叩きつけ、もう一人の兵が銃剣を持って怒り狂った大姉の腹を何度も刺し、大姉の腸は外に飛び出てしまった。そこから2人の兵は彼女を持ち上げて川に投げ込んだ上、刺し殺された子供と泣き叫んでいる2歳の子供も川に投げ込んだ。小蚊溝門に住んでいた楊家の6人は4人の日本兵に縛られ、オンドルの上に横たわっていた子供を産んだばかりの女性は日本兵に銃剣で刺され、鮮血が赤ん坊の顔に飛び散った。…… このように暴力をふるいながら農民たちを縄で縛り、銃剣で脅して老若男女すべてを大荒溝に追いやった。昼までに日本軍は大荒溝付近の各溝に居住していた400余人の農民をすべて大荒溝偽警察署の庭に集めた。屋根の上には日本軍が機関銃を構え、境内には日本軍が銃剣を持って、捕えられた村人を厳重に包囲した。日本軍は上屋の右門から10数人の屈強な農民を引き出し、拷問するが少しの自白も得られなかった。まもなく左門から10人余りの血肉にまみれた死体を引きずり出した。日本の通訳李大男が王万山、大老徐、老胡を尋問し、抗日隊はどこにいるかと尋ねた。王万山は憤慨して「あちこちにいる。君たちは殺しきれない」と言うと、中山八郎は「みんな殺せ!」と叫んだ。そして3人を杭につるし、首を絞めた。一人の日本兵が人の群れに入り、結婚して1ヶ月も経たない黄家の嫁を引っ張り出し、脅して抗日隊の状況を聞いた。黄家の嫁は「知らない」と言ったかと思うと、中山八郎に蹴られた上、胸を刺された。彼女が悲鳴を上げるや、血まみれの心臓が取り出された。その場の誰もがパニックに陥ったが、偽警察や偽自衛軍(つまり日本側についた中国人)の中から捕縛された村民の中に親族がいたとして、20人以上を救出した。日が沈むと日本軍は銃剣で村民たちを隅の門から大荒溝の外の東山根に行くように迫った。この時22歳の趙文華は縄を振り切って森へ走って行こうとしたが日本兵に撃たれて殺害された。妊娠中の陳徳華の嫁は縄を振り切って日本兵に抗ったが、兵は銃剣で妊婦の腹を突き、胎児を刃先に突き立てた。日本軍は庶民を東山のふもとに追いやると、血生臭い虐殺を始めた。前の列が刺されて倒れると、機関銃が火を吹いた。瞬く間に罪のない人々が血の海に倒れた。虐殺の後、日本軍は虐殺を隠蔽するために、民夫をを捕まえて9つの大きな穴を掘らせて死体を埋めた。こうして371人が殺害された。(吉林省編)

【湯原県姜家屯事件】

 1936年(昭和11年)、日本軍が黒竜江省湯原県を侵略してから4年が経っていた。日本軍は東北抗日連合軍と現地民衆とのつながりを断ち切るために強制的に「帰屯並戸」(村々を管理しやすいように集合させ一つの部落にまとめること、下記の太平川集団部落参照)させ、残酷な焼き討ち、殺戮、略奪する政策を推し進め、抗日の火を消そうとした。湯原県の姜家屯(現・栄春村)は抗日連合軍が比較的活発な地域である。7月末のある日、姜家屯の村人たちは豊作の小麦を刈り取る準備をしていた。突然村の西から火が出てきて、銃声が犬の鳴き声に交って聞こえて、また誰かが叫んで、「大変だ!逃げろ!」と言った。日本の憲兵5、60人がたいまつを持って家を焼きに来たのが見えた。すぐに姜家屯は火の海になった。村の東の滕の家に火が放たれた時、70歳近くの滕は怒りに駆られて、日本兵を突き飛ばした。日本兵は怒って武器を持たない滕を銃剣で突き刺して殺した。姜家屯の劉未亡人は家が焼け落ちて住むところがなくなったのを見て、その夜首を吊った。日本軍は民家50軒以上を全焼させ、200人あまりの村人に家を失わせた。(黒竜江省編)

 この「帰屯並戸」については下記が具体的な記述となっている。

【湯原県太平川における<帰屯並戸>(集団部落)の策謀】

 太平川村は湯原県城から35華里(約18km)離れており、抗日遊撃隊の本拠地である。日本の侵略者はその植民地支配を強化し、太平川の民衆と抗日連合軍とのつながりを断ち切るために、まず太平川に「集団部落」を作り、周辺村を太平に併合した。1936年(昭和11年)11月、太平川を占領した日本軍守備隊長の山本大尉は村民を率いて移転させたが、通匪、反満、抗日などの罪で抗日志士と罪のない村民30人余りを逮捕し、10人余りが殺害された。

 1937年(昭和12年)の元日、日本偽軍警(日本軍に協力した軍警)は再度太平川周辺の村を包囲し、日本軍は家々から村民を追い払い、放火して家を燃やすとともに、108人の村民を逮捕し、さらに漢奸の地主の耿子修が「反満抗日分子」68人を告発し、県城の日本軍憲兵隊に護送した。逮捕された抗日志士は憲兵隊に敷地内の小さな青楼に押し込まれ、拷問を受けた後、多くは湯旺河氷窟に詰め込まれた。死者は康正発、劉福君、曲稽察などで、37人が惨死した。王愚子、劉才、劉海楼など6人だけが戻され、残りは生きて出れなかった。その後の併戸を含めて110人が殺害され、4400軒以上の家屋が破壊され、4000平方m近くの耕地が荒廃した。太平川大屯に斉家屯、姜家屯、温家屯など12の村屯の370世帯が合併した後、日本軍は南北660m、東西600mの範囲を画定し、高さ3mの塀を築き、外に幅1m、深さ1.5mの境界を掘り、壕外に5尺の高速鉄刺網、周囲に大小9つの砲台を設置し、村人たちはその中に囲まれ、まるで牢獄に入れられたような過酷な生活を強いられた。(黒竜江省編)

【賓県葦塘溝惨事】

 1936年(昭和11年)10月5日、ハルビン市賓県葦塘溝屯の東側から日本の騎兵隊約20人が突然やってきて、屯子から少し離れたところまで行ったところで、山を占領していた匪賊から銃撃を受け、日本兵の一人が太腿を撃たれた。翌朝早くこの騎兵隊は、一挺の軽機関銃と一門の迫撃砲を持って戻ってきた。百姓たちはこれはまずいとあわてて身をかくした。日本軍は入ってくると、「家を焼くから戻ってきて荷物を運べ」と叫び、林の中に隠れていた村人たちはそれを信じで屯所に戻って荷物を運んでいる間に、次々と日本兵につかまった。日本兵はつかまえた者を一列に並べてから機関銃を構え、丸腰の老若男女に向けて発砲した。凄まじい叫び声とともに、何の罪もない村人たちが、血の海に倒れ伏した。葦塘溝屯は全部で9世帯、22人家族である。この日、4人を除く18人が外に出て16人が死亡した。16歳の女の子は手首を打ち抜かれて痛みで気を失い、日本軍が去ったあと意識を取り戻し、片輪になった。もう一人は7歳の男の子だったが、彼は銃で尻を撃たれて草の中に這い込んで一夜を過ごし、難を逃れた。(黒竜江省編)

【扶余大獲子洞惨事】

 1936年(昭和11年)11月7日19時30分ごろ、日本軍独立守備歩兵第18大隊第1中隊村上特務曹長ら48人が吉林省扶余県大獲子洞に到着したが、匪賊に遭遇し、2名の日本軍斥候が射殺された。交戦中匪賊の首領は射殺されたが、匪賊は塀を飛び越えて逃げ去った。翌日、村上は日本軍と偽自衛軍100余名を集め、一斉に大獲子洞に侵入し、村の15、6歳から60歳までの男性50人を縛り、村の裏手にある深さ3尺余りの大壕溝に連行し、同時に放火して家を焼き始め、母子を大屋敷に追い込み、周囲に谷草を積み、荷車で門をふさいで焼き殺す準備をした。しかし傀儡軍中隊長鄂德升等らが阻止したため、母子たちは救われた。19時30分ごろ、まず村民の傅有才ら3人の首を切り「霊を祭る」とし、続いて機関銃を溝の中に押し込まれた村民に向け乱射を始めた。そのあと生存者がいることを恐れて、日本軍はまた溝の中に飛び込んで血まみれの死体を踏んで、まだ生きている人を銃剣で刺した。最後に藁を死体の上に積んで火をつけた。村民の林希恩は身に7発の銃弾を受けたが、日本軍が撤収した後、折れた左腕を抱えてもがいて溝によじ登り、崔善江と一緒に一命を取りとめた。村全体で40戸余りの家屋が焼失し、48人が殉死した。(吉林省編)

【安東・通化教育界の惨事】

 1936年(昭和11年)冬、日本軍は現在の遼寧省丹東市安東、鳳城、寛甸、鞍山市岫岩、本渓市桓仁、大連市荘河、吉林省通化市などの地(以上は当時の満州国の中で安東省として存在した)でいわゆる思想大討伐を展開した。安東は当時の安東省都であり、被害者も教育界の関係者が多かったため、安東教育界の惨事と称された。日本軍の満州占領以来、「東北民衆抗日救国会」が各地で組織されていたが、安東省でも1935年(昭和10年)12月、各県の教育界が中心となり「救国会」が設立され、工商界にも波及しつつあった。これを「日偽」当局が嗅ぎつけ、彼らは秘密裏にスパイを派遣して少しの「罪状」を口実に残酷な弾圧を計画した。

 11月12日夜から、安東日偽当局は憲兵、警察を大々的に出動させ、安東教育局長、学務系長、礼教系長、校長および幹部ら30−40人を逮捕した。まもなく逮捕範囲は商工会に拡大し、20人余りが逮捕され、12月までに百人近くが逮捕された。一方、日偽当局は安東省各県でも救国会メンバーを一斉に逮捕し、翌年1月11日に逮捕中止命令が出されたが、中央警務統治委員会編「安東省内における秘密結社組織反満抗日救国会の検挙状況」によると、この事件の検挙者は311人で、安東97人、桓仁115人、通化26人、寛甸21人、鳳城19人、岫岩14人、荘河14人、輯安3人、臨江、長白各1人とされている。その中の教育関係者は184名で、他に県知事、慈善団体会長や病院長など各地の有力者もいた。彼らは日偽当局によって「思想犯」と「国事犯」とされ、次々に安東憲兵隊に連行された。また逮捕時の即死3人、自殺1人であった。

 日偽当局の憲兵隊は教育局長の鄧士仁を尋問し、彼に仲間を自白すように威圧し、吊り上げて皮のむちで打ち、冷たい水や石油をかけ、手の爪はすべて抜かれ、何回も気絶しながら一言も供述しなかった。そして死に至り、死体は山に捨てられ狼犬の餌にされた。また安東林中校長秦有徳は、当時彼がいなかったため、一家の90歳近くの老母、彼の妻、8歳の娘が連れ去られ、老母は日本憲兵が孫娘に唐辛子水を飲ませるのを見ていなければならず、さらに娘は殴られて失明寸前までいった。秦有徳はその後銃殺された。関英華女子中学校長は、憲兵の拷問の隙をついてナイフで切りつけ、その場で壮烈な最期を遂げた。岫巖県農会会長于瑞庭は尋問された時、日本の侵略者を「口で王道を説くのは邪道だ」と怒鳴り、撲殺された。寛甸県の万字会会長王冠五は拷問を受けても意志は堅く、一言も吐かないまま苦しめられて死に、狼犬の餌にされた。

 桓仁県教育界の王貢生を尋問する時、日本憲兵は自白を拒んでいる様子を見て、彼の子供を前にして鞭打ちにし、子供が父に白状するよう願ったが、王は声を荒らげて「”大丈夫”は死ぬことなど恐れない」と言い凜として死んで行った。

 このほか、左秀海、関子栄、李雲霖、劉国安などの愛国志士7人はみな拷問で死亡した。

 中央銀行寛甸支店長の李介夫が逮捕された後、日本憲兵は尋問の際にまず「なぜ逮捕されたか知っているか」と尋ねた。李介夫はもちろん知らないと言った。そこで憲兵4人で彼を縛り上げ、拳足棒で吊り上げ、蹴っては殴り、息も絶え絶えになったところで彼を降ろし、しばらくしてからまた引きずり上げて打つことを繰り返した。翌日彼らはまたトウガラシの水に浸けた。後で彼が心臓病を持っていることを見て、恐喝の方法を変え、彼に他の人間が拷問を受けるところを見に行かせた。

 1937年(昭和12年)1月、日偽当局は拷問と初審を経て、彼らを両手錠で奉天(瀋陽)陸軍監獄に移送して「再審」を行い、彼らに「反満抗日」、「反逆犯」、「国事犯」などの罪名をかけた。その結果、省教育庁長孫文敷、秦有徳、職業中学校校長左秀海、中学校校長李雲霖、教育局学務係長劉国安、任袁慶、鳳城県教育局長何泮林、姜黎、従樹春、通化県教育局教育系長馬清川、第六師範前校長馬驥北、当時校長の佟儒、農中校長の楊培伍ら38人の死刑が強行された。病気などで一時的に53人が釈放されたが、そのうち于松濤、鳳城第一小学校校長関子栄は釈放前に毒薬を投与され、二人とも釈放後間もなく死亡した。鳳城第四小学校の馬慶貴校長も出所後すぐに死亡した。残りの200人余りはそれぞれ無期、有期懲役、無罪の判決を受けた。

 1937年(昭和12年)2月8日、孫文敷、秦有徳、左秀海、劉国安など11人が瀋陽渾河沿岸で銃殺された。実際に射殺された人数はもっと多い。王奉璋の回想によると、「捕らえられた五六百人余りのうち、200人余りが氷の穴の中に投げられ、また十数人が本渓棘溝連山関に連行されて、狼犬に生きたまま食い殺された。一緒にいた約200人が沈陽の小南関軍警執法処に連行され、このうち20人余りが首を切られた(筆者注:首を切られたというのは日本刀による斬首であろう)。これらの事実は1960年(昭和35年)代になって明らかにされた。

(以上は吉林省編とウェブの百度百科などからの混成)

【チチハル市脱獄事件】

 12月31日夜、黒竜江省チチハル陸軍監獄に収容されていた中国人囚人は、日本軍の暴行と劣悪な生活待遇に耐えられず、115人が行動を共にし看守を殺し、銃を奪い、脱獄逃走した。日本の憲兵隊は夜通しの追跡の中で、20人余りを銃殺して、2、3人が逃走したが、92人を逮捕して連れ帰った。憲兵隊は逮捕した者全員をチチハル郊外の北の草原で銃殺した。(黒竜江省編)

【日本軍(関東軍)の弾圧の実態】

 以上で見たように、関東軍の暴虐行為は空恐ろしいものがあるが、満州を支配した関東軍は遼寧省奉天(現・瀋陽)に司令部を置き、警察・憲兵・特務機関を設置し、市内24区に警察が作られ、138カ所の町村に派出所が置かれた。奉天警務庁が出した1936年(昭和11年)の報告によれば、この一年だけで1万9千人の中国人が殺害されたとする。当時の警察特務課長だった筑古章造の戦後の供述によると、自分の手で逮捕した中国人は530人、そのうち殺したのは99人としている。

 監獄は第一と第二、さらに陸軍の監獄があり、地下監獄というべきものは50ヶ所以上に達した。罪状としては思想犯・国事犯・スパイ犯・経済犯・政治犯等、日本軍の統治に邪魔とみなされる者はことごとく検挙された。拷問は過酷で、石油を胃に流し込む、ホースで水を腹に流し込む、ローソクで皮膚を焼く、アイロンを体にかける、熱湯をかける、釘の出た針の山の箱の中に裸にしていれる ……。最後に殺す段になると、銃殺や銃剣による刺殺は普通として、日本刀による試し斬り、地中への生き埋め、軍用犬に噛み殺させ食わせる、生体解剖や細菌の実験材料、石油をかけて焼き殺すなどが日常的に行われた。

 筆者注:以上はジャーナリストの本多勝一が早い時期に『中国の旅』(1972年:昭和47年出版)で記した内容からであるが、ここまで筆者が引用した悲惨な記録は、本多の取材した時期には中国内でもほとんど表に出されていなかった。だから本多の本は当時の日本国内では「日本軍がそんなことをするわけがない」と多くの批判を受けた。しかし本多勝一自身も(南京事件以前にも)これほどのことがあったとは知らずに取材の旅を続けたわけである。これまでにも筆者が取り上げ、以下にも触れる「万人坑」という言葉も、本多勝一はまったく知らずにいたが、おそらくそれを知り、そのまま書いたのは本多が初めてであった。かつての日本軍を美化したい者たちにとって、まったく余計な取材であり、本多はマスメディアの中で攻撃の対象とさえなった。

 一方で中国から戻ってきていたほとんどすべての元軍人たちは戦地の出来事に対して口を閉ざし、家族にも語ることはなかった。徴兵された元兵士の遺族の子や孫が、戦争に行った親や祖父が戦地のことを死ぬまで話してくれなかった、聞いておけばよかったと言うのを目にすることは多いが、話せるわけがないのである。話すどころか元軍人の中には精神的に荒れ果て、酒乱、暴力などでその家族をも不幸に陥れる人もいた。筆者の遠い親戚筋の中にも元特攻隊員がおり、戦後まもなく結婚したが、酒と賭け事に溺れ、家族の生活は困窮を極めていたという話も聞いた。おそらく軍人恩給も自分で使ってしまったのであろう。常に自分の命をさらし、正常な精神状態を保てない戦闘の中で、目の前の「敵」を(兵だけでなく民をも)無造作に殺してしまう過酷な戦地にあっては、「旅の恥はかき捨て」どころではなく、話せないのも当然で、精神的に均衡を保ち続けた人たちも誰にも語ることができず、死ぬまで一人夢の中で戦地での罪に苦しみ続けたに違いない。もちろん中には平気の平左衛門で、何事もなかったように戦後も暮らし続けた人もいたであろうし、逆に自身の犯した罪業を打ち消すべく、戦争を美化する者たちと一緒になって虐殺はなかったと言い切る元軍人たちもいたであろう。

 これに対し、戦時下の中国で自分たちが行なった犯罪的行為を反省しつつ明らかにしようとする団体も現れた。中国の撫順戦犯管理所(筆者の「昭和12年」の稿参照)に戦争犯罪人として抑留され、1956年(昭和31年)に恩赦(起訴免除、即時釈放)を受けて帰国した旧日本軍の将兵たちが、帰国後の1957年(昭和32年)9月24日に「中国帰還者連絡会」(略称:中帰連)を結成し、自分たちが戦地で行ってきた罪業を証言し、反戦平和を訴えることをその運動の核心とした。そのために雑誌や数々の本も刊行したが、彼らも本多勝一以上に戦争を美化するものたちから非難攻撃の対象となり、中国共産党に洗脳された者たちとして排斥され、就職もままならず社会生活に支障をきたすほどになった。日本の社会はなんと狭量なのであろうか。こうした傾向はいまだに続き、証言者がメディアの中でも「偏向者」として排斥される場合が多々あるが、筆者はこのようにメディアを使って自分の信条にそぐわない人たちを排斥し、バッシングを続ける人間たちこそ(自分たちを安全な場所において犬の遠吠えのように吠え立てる)思慮のない「偏向者」であると断罪したい。

関東軍防疫給水部発足

満州事変が起きた翌年の1932年(昭和7年)、戦疫予防に関する研究の必要性が増したとされ、関東軍防疫班が設置された。これに連動する形でまず陸軍軍医学校防疫部とその下に石井四郎を首班とする軍医5人が属する防疫研究室が設立された。その翌1933年(昭和8年)には近衛騎兵連隊の敷地(現在の東京都新宿区戸山)を譲り受けて研究施設が完成した。もともとこれは、1930年(昭和5年)に2年間の欧米出張から帰った石井四郎軍医が、細菌戦を準備する機関を設立するよう、陸軍省の幹部に説いて回った結果であり、欧米でもすでに細菌兵器が研究されていることから、これに対応する必要があるとされたことによる。

 1936年(昭和11年)8月、関東軍参謀長板垣征四郎中将の要望で、「急性伝染病の防疫対策実施及流行する不明疾患その他特種の調査研究並びに細菌戦争準備の為」として関東軍防疫班は関東軍防疫給水部として格上げ再編成された。そこに元から防疫班に関わっていた石井四郎軍医が関東軍防疫部長に任命された。防疫とは文字通り疫病などを防御することであるが、それはあくまで名目上であり、逆に疫病の元となる細菌を培養してそれを兵器として開発するための本格的な実験・製造施設が作られることになった。関東軍参謀は12月5日までに陸軍軍医学校より二度にわたって人員を送り込むように要請し、とりあえず88名でハルピン(哈爾浜)で部隊を編成した。「同機関は内地防疫研究室と相呼応して皇軍防疫の中枢となるは勿論、防疫に関し駐屯地作戦上重要なる使命を達せん事に邁進しつつあり」(『陸軍軍医学校五十年史:序』陸軍軍医学校発行、1936 年)
とある。

 この2年後の1938年(昭和13年)に満州の平房に、村の住民を強制的に立ち退かせ広大な敷地を接収、特別軍事地域に設定し、8km四方の広大な土地に、巨大な建物が次々と作られることになる。これには1700戸の建物が接収され、600世帯以上が家を失ったといわれる。当然この労役には地元の中国人を使い、多くの死者が出たとされる。この壮大な軍事基地は建物だけでも76棟あり、飛行場、鉄道、学校、神社、農園、プール等の娯楽施設まであり、死体を焼く焼却炉は3つあった。関東軍はここを「特別軍事地域」として特別許可なしには日本人でさえも立入禁止とし、警備は厳重をきわめ、警察、軍隊、憲兵隊が担当し、空域の40kmの境界線に入った民間機は警告なしに砲撃され、平房を通過する列車はカ-テンで窓を遮断する事を義務付けられた。まるでナチスの強制収容所を思わせる。

 そしてこれが1941年(昭和19年)に悪名高い「731部隊」として改変され、中国人相手に各種の残虐な実験を行うことになる。また石井は第731部隊を中心にして中国から東南アジアにかけて、最終的に20以上の同じような部隊や支部を作った。

 この件に関してはまず天皇が上奏文を受け、それを裁可して天皇の命令として「軍令陸甲第7号」によって防疫部が正式発足したことになっているが、まさか後にこの施設を舞台にして数々の残虐行為が行われるとは、昭和天皇も知る由もなかったであろうし、実際に戦後もしばらくの間、天皇はおろか、一般国民も知らなかった。

阜新炭鉱と万人坑

 遼寧省の阜新炭鉱は中国でも大型炭鉱の一つである。1936年(昭和11年)10月1日、日本の満州炭鉱株式会社は阜新鉱業所を設立し、阜新石炭の全面採掘を始め、河北や山東省などから大量に労働者を募集した。この阜新炭田は1897年(明治30年)、日本の財閥大倉喜八郎が最初に中国東北部で炭鉱の合弁事業の権利を得たものである。1916年(大正5年)7月、日本の満州鉄道が大倉名義の6つの鉱区のすべての権利を購入した。1917年(大正6年)10月、満鉄は開所式の「祝辞」で、「10月31日の天長佳節、皇国の南満の領有は十年余りになり、……この地が東モンゴルの経営の源となり、皇帝の威信がモンゴルの内陸へと広がること朝日のようになることを願って……」のように述べた。ただしこの炭鉱の石炭は良質ではなく、日本は良質な撫順炭鉱のほうに力を注いだ。阜新炭鉱も1936年から1945年(昭和11年~20年)8月までに2528万トンの石炭を採掘したが、その間日本帝国主義は「人肉採掘」政策を実行し、鉱山労働者の安全を意に介さず、出水、天井崩落、ガス爆発が絶えず発生し、衛生条件が悪いことに加え疫病が流行し、多くの鉱員が若死し、おびただしい中国人が無残に死亡した。これらの人々の死骸は最終的には「万人坑」となり、それぞれの坑区のそばに光岠新邱・興隆溝・城南・五龍南溝・孫家湾などに「万人坑」が作られた。

 これらの万人坑は主に1939年から1940年(昭和14ー15年)にかけて造成され、その総敷地面積は50万平方m以上に達し、埋葬された犠牲者は少なくとも7万人に達している。その中で孫家湾万人坑は早いうちに保存されてきた墓地で、周りには「満炭墓地」と刻字された石杭が四つ立っている。満炭墓地は初期のもので、丘陵の草原の中に適当に間隔をあけた土饅頭が延々と続いていて、当初は遺体を一体一体埋葬していたことを表している。

 1968年(昭和43年)、中国政府の阜新鉱務局は孫家湾南山万人坑に「教育展覧館」を建設する計画を立て、一部の墓と遺骨を整理する中で、3つの群葬大坑を発掘し、元の場所で埋葬形態を保存しながら、一つは「死難鉱員遺骨館」(西館)、もう一つは「抗暴青工遺骨館」(東館)として建設した。東西2館は約1.5km離れている。東館墓坑は北と南、東の山の斜面に沿って掘られ、長さは16m、幅は2m、底の深さは1m未満で137体の遺骨が並んでいて、5組に分かれて埋められた死体は単層に配置されているものもあれば、5層に配置されているものもあり、発掘後に死体の骨が露出しているものや頭骨だけが露出しているものが83体ある。西館は南北に22mあり、その南坑の高低差は約1mで南北の長さ11m、幅3.5m、深さは1mになる。穴には52体の死体が埋められ、2列に分かれて死体の下肢を交差させ重ねている。北坑は平らで低く、南北の長さは13m、幅は3.5m、深さは約1mで58体の死体が埋葬されている。その中には、両腕で地面を支え、両足を後ろに蹴って、上体を起こして頭を持ち上げて、別の死体の上に斜めになって、前にはい出す形になっていて、生き埋めにされた様子がうかがえる。

 阜新煤炭博物館の正門から構内に入ると50m四方の広場があり、新しい石碑が広場中央に設置してある。石碑には、「全国重点文物保護単位/阜新万人坑/2006年5月15日/遼寧省人民政府立」と刻まれている。広場をはさんで正面に小高い丘があり、丘の頂上に高さが10mくらいの大きな記念碑が建っていて、「日偽蒋匪統治時期死難鉱工記念碑」(占領日本軍とその後の蒋介石の統治時代)と刻まれている。東館にある「抗暴青工遺骨館」(暴力に抵抗した青年工の遺骨館)の遺骨は、大部分が抗日軍の捕虜として強制的につれてきたもので「特殊労働者」と呼ばれた。「特殊労働者」は1941年(昭和16年)初めから始まり、1943年(昭和18年)5月にかけて、相次いで10回にわたり9300人余が阜新炭鉱に連行された。そのうち1942年(昭和17年)8月25日に連行されてきた捕虜300人以上が、その扱いに耐えかねて9月早々に集団で脱走を試み、一部は逃げ出すことができたが多くが射殺され、200名余が捕まえられた。そして酷い拷問を受け、死んだ人も生きたままの人もまとめてここに埋められた。その現場を、幅10m・奥行き20m程度の平屋の建物で覆って保存している。これらは発掘できたほんの一部であり、大半は埋められたままになっていて、全体が無名坑夫の墓地となっている。

 1941年(昭和16年)9月、日本の満州国は特殊労働者を拘禁するための「海州労働者指導所」を設立し、これは日本憲兵隊が管理し、そのため「指導労働者」とも呼ばれた。この特殊労働者は大きな家に詰め込まれて一般労働者の寮から隔離され、周囲に外壁や電力網が設置され、通勤は鉱山警察が護送し、さらに少数の班組に分けられて、連座制すなわち一人でも逃げると組全員が刑罰を受けるとされた。1943年(昭和18年)以降、指導所の上にまた「矯正補習院」が作られ、司法矯正総局の指導と監督を受けた。主な収監対象は「重大な政治犯」、「逃走疑惑」、「逃走扇動疑惑」などであり、日本人所長と指導官、そして中国人警備たちが銃と軍刀を身につけて管理した。1941年(昭和16年)には20数回、約1500人ほどが収監された。暴動に失敗した中で生き残った労工によると、「指導所では(凍死や病死で)一日に十数人死んだ場合もあれば、二十数人死んだ場合もあった。死んだ後、服をかき取られて、死人倉庫に捨てられて、しばらく貯めた後、車で孫家湾の万人坑に連れて行って一緒に埋めた。埋めたのは1942年(昭和17年)の冬で、極寒の中、犠牲になった200人以上はすべて若かった」と話した。指導所の別の「偽警備隊長」だった李根賢は、同じ冬に石炭を積んで行き、そこで凍土を溶かして穴を掘り死体を埋めたと語った。

 2015年(平成27年)、阜新炭鉱博物館は、万人坑遺跡陳列館(資料館)が新設されるなど大規模な拡張・整備が行なわれ、阜新万人坑死難鉱工記念館として新たに竣工・開館された。

 ちなみに「阜新鉱業所の歌」というのがあり、その歌詞である。

 ——1)王道照らす遼西に 楽土の栄光輝きて 興亜の意気も溌剌と 鉱業年を築きゆく われらぞ阜新工業所、2)胡沙吹く丘陵も広原も 無限の宝庫花ひらく 雄大見よや露天掘り 伸び行く事業その成果 我らのホープ黒ダイヤ …… 4)出炭報国躍進の 鉄腕強く協力し 精励克己身を鍛え 日満親和永遠に 亜細亜の資源打ち建てん。

 詩の内容は占領した日本の傲慢さを反映するものであろうが、この「胡沙吹く丘陵も広原も」の風景の中に無数の中国人労工の骨が埋められてきたわけである。こうした歌は軍政府に奨励され、各地で作られていた。

(以上は中国のサイト百度百科の記事と青木繁の「万人坑を知る旅」を混成)

日本国内の動向と世相(昭和11年:1936年)

日本の出来事

 1月、日本が第二次ロンドン海軍軍縮会議から脱退。1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約の改正を目的としたが、1934年(昭和9年)に行われた予備交渉が不調に終わった為、日本は軍縮条約からの脱退を決意、同年12月、ワシントン海軍軍縮条約の条約破棄を通告(破棄通告後二年間は有効)していた。イタリアもエチオピア侵略の為脱退し、最終的に英・米・仏の三国のみで3月25日に第二次ロンドン海軍軍縮条約が締結された。

 2月26日、二・二六事件発生。(下記参照)

 1936年(昭和11年)3月24日、内務省がメーデー禁止を通達。

 4月、外務省は国号を「大日本帝国」に統一すると内外に発表するが、欧米諸国は取り上げなかった。

 5月、思想犯保護観察法が公布され、 思想犯検挙者5万9千に上る。うち投獄された者519人。

 同月、満州農業移民百万戸移住計画が策定される。すでにその前より新天地として自発的に移住する人たちが多くいたが、これにより貧しい青年たちや、貧村などが村ごと半強制的に移住させられ、最終的には悲劇的結末を迎えることになる(多摩市の<満蒙開拓団慰霊碑>参照)。

 6月、3月に発売した渡辺はま子が歌う『忘れちゃいやヨ』が、官能的な歌唱であるという理由で内務省から上演禁止とレコード発売禁止の統制指令が下される。

 同月、丹那トンネル完成。全長約7804m、工事中の犠牲者67人。翌年12月に開通。

 7月、国際オリンピック委員会(IOC)は、第12回大会を東京で開催すると決定、しかしこの翌年日本は日中戦争に突入し、国際的非難も高まりボイコットする国も出てきそうな情勢であったこと、軍事的展開に資材等の不足が見込まれたことにより、2年後に返上する。この時のアジア初のIOC委員が講道館柔道創始者の嘉納治五郎であった。

 同月、文部省思想局、大学、専門学校に「日本文化講義」の実施を通達、さらに文部省は『非常時と国民の覚悟』を外務、陸軍、海軍各省と共同編纂して、学校などに配布

(7月、ドイツでナチス一党独裁成立)

 7月20日、陸軍省、満州事変勃発以来の戦死・負傷者を発表(戦死2530人、負傷6896人)

 8月、首相、外務、大蔵、陸軍、海軍の5人の大臣による「五相会議」が行われ、『国策の基準』が決定された。中国進出、対ソ連、南方進出や、軍需予算などが協議され、戦艦大和、武蔵などの建造計画も入っていた。

 8月9日、第1回関東地方防空大演習

 8月23日、採用を開始した陸軍少年航空兵の倍率が57倍 (定員170名に9731名が応募)

 9月、ひとのみち教団(現PL教団)幹部が検挙される。この他 新興仏教団も検挙され、翌年4月、このような結社が禁止。

 同月、満州開拓移民の花嫁候補30余人が出発する。先に渡満して落ち着いた若い男性に花嫁をと、役所が候補者を選び、集団で行かせたが、その後も「大陸の花嫁」として、例えば写真だけが送られてきて、結婚を決め、極端な場合は一人でその写真を持って満州まで行って、そこで初めて結婚相手と顔をあわせるという場合もあった。

(9月2日、伊ソ不可侵友好条約調印)

 9月30日、極東反帝反戦反ファシズム大会、上海で開催。日本代表も参加。

(10月14日、ドイツがジュネーブ軍縮会議から脱退、また国際連盟脱退を表明)

 10月、東京で中学生1万人が参加しての「東京府下中学連合演習」という大軍事演習が行われた。一度兵役を終えて地元に帰っていた将校たちが学校の配属将校となって軍事教練を担当した。

 同月、31日、東京王子駅前で千人針を求める若い女性が立った。3尺程(1m弱)の布に、女性が一針結び目を縫い、これを千人が縫うというもので、「千里を行き、千里を帰る」とのことから、日露戦争の頃に兵士に持たせ、無事帰ることを祈った事に由来するが、この後、女学生も学校でこのような作業(慰問袋など)に従事することになる。

 11月、帝国在郷軍人会令が公布され、一度兵役を終えていた陸海軍軍人の300万人が(戦火の拡大に向けて)必要に応じて再召集される事になった。

 同月、満州に対するソ連(ロシア)赤軍の脅威に対して、ドイツと日独防共協定を締結

 11月28日、共産党委員長、野呂栄太郎が検挙され、翌年2月19日獄死。

 12月5日、関西の共産党「中央再建準備委員会」の一斉検挙があり、組織は壊滅する。

 12月8日、松岡洋右、党争を捨て一国一党になり国難に当たるべきだと代議士辞任、12月23日に政党解消連盟結成。これが後の大政翼賛会につながっていく。

 12月23日、皇太子明仁(平成天皇)誕生。電光ニュースや花電車で祝賀気分高まり、昼は旗行列、夜は提灯行列が行われる。

二・二六事件

 1936年(昭和11年)2月26日から29日にかけて、「昭和維新」を掲げた皇道派の影響を受けた21人の陸軍青年将校らが、1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件で、目的は宮城占拠であったが失敗し、三宅坂から永田町一帯を占拠し、首相官邸をはじめ、内大臣や大蔵大臣私邸等を襲撃、高橋是清大蔵大臣その他が暗殺された。殺害対象であった岡田首相は別人が誤認殺害されて難を逃れた。以降反乱軍は4日間にわたって首都機能を占領し、東京では全ての興行が3日間にわたって休演となった。結果岡田内閣が総辞職し、広田内閣が後継となった。後に17名に死刑判決が下り、その他民間側の首謀者として北一輝ほか2名も死刑、関連した自決者は7名いた。

 なおこの事件の際、関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件・満州事変を起こした首謀者の石原莞爾は、当時参謀本部作戦課長だったが、東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立った。 この時の石原の態度について、昭和天皇は「一体石原という人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。いずれにしろ「皇道派」の意思は天皇に届くことはなかったが、届く届かずに関わらず、軍人たちは常に天皇を敬う形を装いながら、裏では常に天皇を利用して動くことを考えていた。そのことがまた軍人自身が責任を負わず、戦争を深みに追いやる元ともなった。

打ち続く東北地方の困窮

 日本が戦争(中国への侵略戦争)に邁進して国庫を浪費している裏には以下のような実態があった。

 ——「貧しき東北から身売り小隊入京、哀れ少年少女十一人、上野署で発見。直ちに保護」(読売新聞:1936年:昭和11年10月24日夕刊から要約)

 …… 23日朝7時青森から着いた列車に、修学旅行にしては様子の可怪しい11名の少年少女の一団がいた。東北線各駅で張り込みの警察署員の知らせで上野署保安課の刑事が先生格の中年男を調べると、少年6名、少女5名の印鑑証明、契約承諾書、白紙委任状をもっているので直ちに上野署に連行し、この男(40)を紹介営業法違反、児童虐待防止法違反および誘拐の嫌疑で取り調べている。
何れも山形県尾花澤町の貧農の子弟子女であった。この男は先月23日に村を訪れ、今年は豊穣の秋というのに小作米に追われてもう家には飯米もなく安い日給で日雇人夫に出ている親達の生活につけ込んだ。何れも100円から150円で東京で小僧、女中、娼妓等に売られる契約を結び、5円から10円の支度金を貰い、22日夜6時に山形県尾花澤駅を出発したもので、被害者11名の年齢は9歳から18歳までであった。事件の背景には都会による農村の搾取、地主による小作農の搾取の構造がうかがえる。

 …… だが、これまでの為政者をはじめとする世論の多くは、この原因を一様に気候や、凶作、水害等自然現象に責任を帰し、結局は宿命論が抑えとなっている。「いくら働いても小作米を納めてしまえば食べる米がない。米がほしい。田がほしい」と素朴な小作人のおかみさんが訴えている。(なお、この小作人制度、あるいは人身売買がなくなるには、日本の敗戦後、連合占領軍GHQの民主化政策実施を待たねばならなかった)

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