明治時代(1868年−1911年)

大日本帝国としての覇権拡大へ

 産業革命によって物質文明の時代に入ったヨーロッパ諸国は、その軍事力を持って19世紀後半からアフリカやアジアを競って植民地化し、占領地の資源を収奪していった。それを帝国主義というが、その影響で江戸幕府は欧米に開国を迫られ、開国派と攘夷派の内紛を経て幕府は崩壊し、1868年 (明治元年)、明治維新による新政府が成立した。その後西欧文明を積極的に取り入れて急速に産業が発展し、富国強兵を押し進めて日本も植民地獲得競争に加わり、帝国主義列強の中に割り込んで行こうとする。明治政府は、まず近代的な国際関係を樹立すべく近隣国である朝鮮王国と清王国(中国)との国交締結の交渉をした。しかし朝鮮は清国を宗主国としていて西洋化を進める明治政府を警戒して受け入れない中、清国とは再三の協議を重ねた上、1871年(明治4年)9月、日清修好条規を交わした。これは相互に開港することなどを定めており、この条約と同時に、通商章程と海関税則も調印された。ただしこの基本は、平等条約ではあったものの、両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約を相互に排し、連携を深めるという特異な内容であった。日本国内ではもっと日本の優越的立場を盛り込むべきとの反対論があったが、2年後に批准された。

 この第1条では「いよいよ和誼を敦くし天地と共に窮まりなかるべし。又、両国に属したる邦󠄈土もおのおの礼を以て相まち、いささかも侵󠄃越する事なく永久安全を得せしむべし」として子々孫々までの日清友好が謳われた。しかしこの「いささかも侵󠄃越する事なく」という精神は、20数年後の1894年(明治27年)に破られてしまう。いつの時代もそうであるが、どのような立派な条約を交わそうと、国家の征服欲が勝り、それは簡単に覆されて戦争に突入し、そして多くの国民の命がむやみに犠牲となる。以下はそうした戦史を描くものではなく、国の戦争に安易に巻き込まれる国民や一般民衆の被害の面を主にして描いていくものである。

台湾出兵

 1871年(明治4年)、この日清修好条規締結直後の10月、台湾に漂着した宮古島の島民54人が殺害されるという「琉球御用船台湾漂着事件」が発生した。宮古島から琉球(沖縄)の首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風で遭難、乗組員は台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていて、溺死した3名を除いた66名は、先住民(パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落へ拉致された。言葉が通じない中、遭難者たちは集落から逃走、先住民は逃げた者を敵とみなし(台湾の先住民は首狩り族とも言われ、敵の首を獲ることを戦果とした)、54名を斬首した。12名の生存者は、漢人移民により救助され、台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。

 この事件に対して、明治政府は清国に対して事件の賠償などを求めたが、清政府が「台湾人は化外の民で清政府の責任範囲でない事件」としたことが責任回避であるとして、軍の派遣を検討すべきとの声が上がった。明治新政府軍としては初の海外派兵である。さらに1873年(明治6年)には現在の岡山県の船が台湾に漂着し、乗員4名が略奪を受ける事件が起こった。これにより、さらに政府内外で台湾征討の声が高まった。

 一方で清国(中国)を宗主国としていた朝鮮との国交締結の交渉は進展しなかった。その過程で征韓論が政府内で議論されるが、その対立の余波で西郷隆盛が1939年(明治6年)に下野した。さらに翌1874年(明治7年)1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が高まった。そこで大久保利通は国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、同年4月、軍事行動の準備に入った。

 台湾出兵に対しては、英米の公使などからは反対意見もあり、他にも参議木戸孝允らの長州系は、征韓論を否定しておきながら、台湾への派兵は矛盾であるとして反対し、1874年(明治7年)4月、木戸は下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定したが、西郷従道(隆盛の弟)は独断での出兵を強行し、長崎に待機していた征討軍約3000人を出動させた。5月に台湾南部に上陸すると、西郷の命令によって本格的な制圧を開始した。6月には原住民牡丹社(パイワン族)の2つの村と交戦し、牡丹社の首長父子ら多くの犠牲者を出し、村を焼き払い、半年間この地を占領した。これは2年半前の琉球漂流民殺害事件に対する一種の報復戦であり、戦死者は12名であったが、現地は劣悪な衛生状態のなか、熱帯地方の風土病であるマラリアに感染し、最終的に約6000人の軍人軍属の中で561名が病死した。

 そして全く同じというかそれ以上の失敗を、20年後の日清戦争による台湾割譲の平定時に10倍近くの死者(その大半が病死者)を出して繰り返すことになる。これはその後のシベリア出兵でも同様で、戦死者以外の死者を多く出す。事前の研究による準備もせずにというのは、最後の太平洋戦争時の東南アジアや南洋諸島への展開においても同じであった。それは日本の武士道的精神主義の弊害であろう。

 しかも明治政府は、この出兵の際に清国への通達をしておらず、また清国内に権益を持つ欧米列強に対しての通達・根回しを行なっていなかった。これは日本にまだ外交能力が備わっていなかったことを表している。清国もイギリスもこの日本の軍事行動に激しく反発した。ただその後、イギリス公使の斡旋で和議が進められ、8月、大久保利通自身が北京に赴いて清国政府と交渉、会談は難航したが、10月末、「日清両国互換条款」が調印され、清が日本軍の出兵を保民の義挙と認め、1874年(明治7年)12月までに征討軍を撤退させることに合意した。その他、清国は遭難民に対する見舞金を払い、台湾の諸設備費を負担するとした。この、清国が日本軍の行動を承認したことにより、それまで清国と日本に対し等距離外交をしていた琉球王国(沖縄)は、一応日本に帰属することが国際的に承認される形となった。

琉球処分

 琉球(沖縄)は江戸時代前から独立した王国であり、日本と清国(中国)に対して一応同等の距離を置いて貿易も行なっていた。ただ、江戸時代では同時に薩摩藩の属国の立場でもあった。幕末の頃から、琉球王国には欧米各国の船が来港して、航海の中継点として利用するため、開国の要求を行うようになった。薩摩藩は幕府に対応を求めたが、幕府は琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可し、1847年(弘化4年)に薩摩が琉球を英仏に開港した。1853年(嘉永6年)にはアメリカのペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸して首里城に入城し、国王に米大統領からの親書を渡すことに成功した。続いてペリーは江戸幕府との交渉を行った。1854年(嘉永7年)に日米和親条約を結び、その帰路に再び首里城を訪れたペリーは、同年7月に琉米修好条約を結んだ。

 1872年(明治5年)、明治政府は強制的に琉球藩を設置し、当時の国王・尚泰を藩王とすると同時に華族に列するとした。1875年(明治8年)5月、前年の清国との和議によって、政府は改めて琉球へ使者を送り、清国に対する冊封・朝貢体制の停止を命じた。琉球藩は清国との絶交命令に不服を訴えて同意せず、清国も反発した。これに対して明治政府は1879年(明治12年=この2年前に西南戦争が起きて西郷軍が敗れ、明治政府は国内の基礎固めを終えていた)、軍隊・警察を動員して城の明け渡しを布告、尚泰は首里城を退去させられ、東京に連行される。これにより本土に遅れて廃藩置県が強行され、沖縄県が誕生した。明治政府によるこれらの一連の政策を琉球処分という。これにより450年続いた琉球王国は消滅し、沖縄県として大日本帝国に併合された。

 しかし清はこの動きに反発し、翌1880年(明治13年)、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに、沖縄本島を日本領とし、先島諸島を清領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案した。清も一度は応じ仮調印したが、琉球と冊封関係(直接の貿易取引)を維持したまま琉球王国を再興させるという李鴻章の反対によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。

 最終的な領有権問題の解決は1894年(明治27年)の日清戦争後で、戦争に敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。 いずれにしろこのような沖縄の帰属問題が、太平洋戦争において「本土決戦」の代わりの戦場となって大きな犠牲を島民に強い、戦後は米軍に接収され、日本への返還後も基地問題で生活上の大きな犠牲を強いることにつながっている。

朝鮮・江華島事件と日朝修好条規(江華条約)

 江戸時代まで、朝鮮との交易は対馬藩を通して行なわれていた。新しい明治政府を警戒する朝鮮は日本からの何度かの国書(それには「皇」や「勅」の文字が入っていて、朝鮮は宗主国である清国にしかそれを認めなかった)の受け取りを拒否していた。そこで外務省が直接交渉に出向くことにしたが、朝鮮の大院君は、日本人官吏が洋装であるとか、蒸気船に乗ってきていることを問題にするなど、さらに排斥の対象となった。交渉が暗礁に乗り上げると、朝鮮出兵を求める征韓論争などが政治問題化するようになる。征韓論争は西郷隆盛の下野などの政変によって延期と決まり、その後の台湾出兵の発生と大院君失脚の報によってしばらく明治政府は相手の様子をみることにした。もともと当時の朝鮮は宗主国である清国以外との鎖国政策を取っていて、1871年(明治4年)にも通商を求める米国船が攻撃される事件があって、双方に死者を出している。

 1875年(明治8年)、膠着した協議を有利に進展させるため、軍事的威圧を加える案が出て、政府内にも反対論がある中で、朝鮮近海に軍艦2隻を朝鮮沿岸へと極秘裏に派遣することになった。5−6月にかけて軍艦が釜山草梁へ入港すると朝鮮側は突然の軍艦の来航に懸念を表明したが、日本側は軍艦での朝鮮側官吏の歓迎式典や事前通達をした上での訓練を名目に、空砲による砲撃・射撃演習などの威圧行為を行った。それでも交渉の進展に寄与することはなく、一旦打ち切られた。

 そこから9月に入って再度日本は内密に清国や朝鮮沿岸の測量を目的として出航、20日に首府漢城に近い月尾島沿いに投錨。端艇(ボート)を下ろして江華島に接近したところ、島に設置されていた砲台から砲撃を受け、ボートは急ぎ帰艦した。軍艦はただちに反撃砲撃を開始し、数日の応戦で江華島砲台を破壊、城を焼き払った。この戦闘で日本は2名の死者(のちに怪我の1名も死亡)を出したが、朝鮮側は死者35名、捕虜16名であった。また大砲36門と小銃・槍・楽器などを「戦利品」として軍艦に持ち帰った。翌日も上陸して前日運びきれなかった捕獲品を積み込み、28日に長崎に帰還したという。

 これは盗賊行為であるが、軍隊というのはこのような無法行為を平気で行う。これは戦争下にあってはどの国でもある行為と言え、戦争自体が無法状態に置かれることを意味する。つまり戦争というのはすなわち殺し合いだから、すでに無法下となる。その意味からするといわゆる国際法で決められている戦争犯罪というのは、戦争自体が殺人という犯罪を生む場としてあるから、取り決め自体が不自然である。いずれにしろこれはまだ戦争ではなくあくまで事件とされ、しかし日本側の挑発行為であることは確かである。この事件がこれ以降の日本の戦争の形をすでに決めているように思われる。

 翌1876年(明治9年) 1月、日本は改めて黒田清隆を特命全権大使とする交渉団を送り、賠償の代わりに日朝修好条規の締結をした。これは明らかに日本の交易に都合のよい不平等条約であり、朝鮮側の港湾の解放も伴った。ただ、この条約の第一条に、「朝鮮国は自主の邦として、日本国と平等の権を保有せり」との条文を入れた。その目的は朝鮮とその宗主国である清国との関係を断たせることにあった。これが清国と日本の対立を深め、日清戦争へつながっていく。

 またこの事件は朝鮮政府において、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて、変革を望む開国勢力が台頭するきっかけとなったが、その本格的な動きは1882年(明治15年)に清国の斡旋によって締結された米朝修好通商条約からとなる。

朝鮮王国への干渉(1882−1885年:明治15−18年)

 日朝条約締結後も、日本としては領土が近接しているロシア帝国を牽制するためにも朝鮮を属国としたいという野心を抱いていた。1882年(明治15年)、日本は朝鮮の近代的軍隊を創設するという名目で、朝鮮の政権争いの中、開化派と連携してその改革に介入した。またこの時期、若い国王高宗は執政に興味がなく、その父である大院君と国王の妃である明成皇后(閔妃=びんひ)との権力争いが続いていて、開化派は明成皇后に属していた。それに対し軍制改革に不満を持った旧軍隊と大院君側が反乱し、明成皇后派の高官や日本軍人教官を殺害し、日本公使館を焼き討ち、日本の居留民も襲った(すでに両者の権力闘争は敵対する側近を暗殺し合うなど熾烈なものとなっていた)。そして王宮を占拠して、隠居させられていた大院君が復帰した。これに対して日本は軍隊の派遣を決め、大院君と賠償交渉を始めようとするが、先に清国が派兵し、大院君を清国に隔離する措置に出て、明成皇后閔妃を復帰させた(壬午事変) 。これによって清国の仲介により「済物浦条約」が締結された。そしてこれを機に日本は公使館付近に警備兵を常駐させ、この王朝内の政権争いの隙を狙って朝鮮の内政に干渉しやすくなった。

 さらに1884年(明治17年)、朝鮮では改革派の開化党(朝鮮を日本のような近代立憲君主国にしようとの主旨)によって親清国勢力(事大党=大院君派)の一掃を図るクーデターが起こり、それを日本の警備兵が支援して王宮を占領し、新政権を樹立した。しかし閔妃からの救援依頼で袁世凱率いる清国軍がすぐに入り、3日で失敗した(甲申政変)。 この翌年、日清両政府は「天津条約」を結び、お互いの軍を朝鮮から撤兵することと両国が朝鮮に派兵する場合は共に事前通告をするという ことになったが、その後も朝鮮内部の抗争は続いた。

 これとは別に、1885年(明治18年)、朝鮮は清国の内政干渉を緩めるべく、閔妃はロシア に接近して、朝露密約を結んだ。ロシアは南下して不凍港を確保したいと巨文島(朝鮮半島南側)の 割譲を狙っていたが、そのことを察したイギリスが機先を制して巨文島を占領し、清国はこれを承認することになる。

軍人勅諭(1882年:明治15年)

 1882年(明治15年)1月4日、明治天皇が「陸海軍軍人に賜はりたる敕諭」を下賜した。これは西周(あまね=江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した日本の哲学者、教育家、啓蒙思想家である)が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正された。5年前の西南戦争当時はまだ設立間もない寄せ集めの軍で、その翌年竹橋事件という不満兵士の反乱もあって、軍部の精神的支柱を確立する意図で起草された。

 内容は、前文で「朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ」と天皇が統帥権を保持することを示し、「下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」と述べ、続けて、軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の5つの徳目を説いた主文( 軍人は忠節を尽すを本分とすべし/ 軍人は礼儀を正しくすべし/ 軍人は武勇を尊ぶべし/ 軍人は信義を重んすへし/ 軍人は質素を旨とすへし)、そしてこれらを誠心をもって遵守実行するよう命じた後文から成る。

 特に「忠節」の項において「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じ、軍人には選挙権を与えないこととした。つまり政治への不関与を命じたものであったが、暗殺テロや五・一五事件などの反乱もしばしば起こり、そのうち陸軍大臣や首相にまでなったりしたから、この主旨は生かされていない。ただこれにより軍隊は天皇の直属として特権的地位を占めることになり、軍人はこの軍人勅諭を精神的中核として信奉することが要求され、長文の全文を暗誦することが義務とされた。(口語の簡略文は別途記載)

 この「御文」の言わんとするところは別にして、言い回しは明らかに天皇の側近つまり別人が、天皇を崇め奉る存在として、代理として書いたものとなっている。以後の勅語や詔勅の御文はすべて、例えば宣戦の詔勅も同じである。この事実ひとつを取っても、天皇というのはその意思に従うふりをした側近たち(政治家や軍人など)によってその言動が束縛され、あるいは彼らの思う方向に誘導されていることがうかがえる。その視点を持てば、昭和の戦争に至るまで、天皇がどれだけ野心を持つ政治家や軍人たちに利用され、否応なく戦争に導かれてきたかが見えてくる。

 これらの文言の中で一番の問題は、「下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」という部分で、上意下達の規律をもって伝達するという意味では理解できるが、特に太平洋戦争開戦で戦線が拡大激化して、新しく徴兵された下級兵士が増えると、粗野な上官が多くなり、そのまま若い下級兵士への暴虐がひどくなっていく。少しでも上官に「ハイ!」以外の言葉を発しようとすると、あるいはその命令にすぐに従わないか、あるいは少しでも行動が遅いと、「貴様、天皇陛下の命令に従えないのか!」と激しく体罰が加えられ、失神してしばらく起き上がれなくなる兵士や骨折する兵士もいた。その上ときには敵方の捕虜や現地住民がスパイとして疑われた場合、上官の命令で相手を斬殺することになるが、それも究極は天皇陛下の命令であった。それらが日々繰り返されると、士気が下がるばかりか、戦場の死に向かう恐怖と相まって、精神に異常をきたす兵士たちが増えた。実際に、戦闘による怪我や病気のための陸海軍病院以外に、例えば日中戦争の一年後に千葉県市川市に作った国府台陸軍病院は精神障害専門の病院であった(千葉県で別途詳述)。

 この傾向を一層推し進めたのが、太平洋戦争開戦前に軍の教育総監部が作成した『戦陣訓』であった。これはとても覚えられないような長いものであったが、その中に有名な「恥を知る者は強し。…… 生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」という訓示があり、これによって軍人の玉砕戦法や民間人の集団自決(沖縄や海外の居留民地区)などの数々の悲劇を生じさせた。ただこれは1894年(明治27年)の日清戦争中に、第一軍司令官であった山縣有朋が、清国軍の捕虜の扱いの残虐さを問題にし(もっとも、そのころの中国は捕虜の扱いに関する国際法的な認知がほぼゼロの状態であった)、「敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒(せいきん=生け捕り)する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気性を示し、日本男児の名誉を全うせよ」と訓示していて、そういう精神風土がすでにあったという見方もある。それにしてもこのように訓示する側は気楽なもので、とりわけ戦国時代の大将と違って近代戦争では、自分が前線で先頭に立つことはないから、その精神論的指示指令が前線の兵士達にどれだけの苦痛や悲劇をもたらすかを知り得ない。(『戦陣訓』の簡略文は筆者の「各種テーマ別の記録・証言」参照)

 いずれにしても、天皇を戴く皇軍と呼ばれた日本軍は、『戦陣訓』に見られるように他国と比べて精神論が優先され、それが仇をなす場面が多くあって(例えば皇軍を持つ日本は他国に優越しており、劣等国に対しては多少の危害を加えてもやむ得ないという差別意識があって)、結果的に残虐な行為を戦地で多々行い、しかしそれが平気な兵士と、懺悔の念に囚われて精神を病む兵士とに分かれたと言っていい。『戦陣訓』に関わった教育総監部の今村均本部長が、のちに戦線の状況を見て、『戦陣訓』はむしろ「降伏してきた者はいつくしみ、無辜の住民を愛護し、略奪強姦のごとき、不法な行為を行わないことが軍人の義務であり、責任である」のように簡潔に書くべきであったと後悔したという。

大日本帝国憲法(明治憲法)制定

 1889年(明治22年):大日本帝国憲法が公布され、翌1890年(明治23年)に施行された。内容は、まず第一条に「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」として天皇主権を定め、三条では「天皇は神聖にして侵すべからず」、四条では「天皇は國の元首にして統治権を総覧し此の憲法の條規に依り之を行う」と定め、官制・統帥・外交・戒厳・非常大権などの天皇の大権を規定した。またこの憲法では国民は臣民と書かれ、つまり天皇の臣民、簡単には天皇の臣下であると規定されている。そのほか天皇に対する大臣助言制、司法権の独立などを定め、貴族院を衆議院に対等にし、立憲君主制としながらも全体では非立憲的側面も少くなかった。特に軍部は、天皇の軍隊として政府や議会が関与できない独立した地位を与えられ、大きな権力を保証されていたから、戦争を前提とした憲法であったとも言える。実際に「臣民権利義務」の章の第32条において、国民の権利義務は「陸海軍の法令又は紀律に抵触せざるものに限り軍人に準行す」とある。

 興味深いのは第29条に言論・出版・集会・結社の自由がうたわれていて、「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」とある。ただこの短い文言の中の「法律ノ範囲内ニ於テ」というのが肝であり、つまり国家の必要に応じて作られる法律によって具体的に規制されるということであった。結果的には出版法(1893年:明治26年)、治安警察法(1900年:明治33年)、新聞紙法(1909年:明治41年)、治安維持法(1925年:昭和元年)、不穏文書臨時取締法(1936年:昭和11年)、新聞紙等掲載制限令(1941年:昭和16年)、言論・出版・集会・結社等臨時取締法(1941年:昭和16年)などが次々と制定され、人々の自由な活動は次々と規制されていき、明治憲法はまったく空文化された。特に治安維持法制定以降、特定の思想や政治思想に基づく集会・結社などの組織的行為のほとんどが犯罪とされ、平和・反戦運動、労働運動、自由な文化運動等も含めて弾圧され、特に戦時下では嫌疑をかけられただけで特高警察が捉えて拷問し、時には死に至った。しかもこれらの処分には訴訟や不服申立ての手段が一切認められていなかった。

<筆者私見>

 筆者が思うに、どのような立派な憲法を作っても、時の為政者(政権、それが独裁者でなくても合議制の軍国主義的政府)によって無視されればそれで終わりであることは、日本も含めて他国の歴史が示している。ドイツが見本と言われる立派なワイマール憲法を制定していても、選挙を勝ち取ったヒトラー政権が何もなかったように無視してしまい、第二次世界大戦を引き起こした。明治憲法は戦争を前提としていたが、平和憲法とされる現在の日本国憲法下においても、自衛隊という名前の軍隊が作られたことも、その自衛隊を作ることを前提として憲法を拡大「解釈」した結果であったろう。しかもその憲法を遵守する司法権の独立といっても、その任命権が時の内閣にあれば司法も弱い立場になり、裁判においてしばしば憲法も政権の都合の良いように解釈され、普通の生活を守ろうとする民意が無視されてきていることは事実であろう。

 あるいはまた1928年(昭和3年)に締結された『パリ不戦条約』において、「締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する」そして「締約国は、相互間に発生する紛争又は衝突の処理又は解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する」と、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15か国が署名したが、これがどれだけ形式的なものであったかは、この後すぐに日本が中国に侵攻していき(満州事変)、そしてドイツやイタリアも全体主義国家となって近隣諸国に不意打ちのように戦争を仕掛けて第二次世界大戦が起きたことによって明らかである(そうでなくても欧米の主要国は、その陰で自国が支配する植民地において紛争を起こし、多くの住民を虐殺している)。文書上でどんな立派な言葉を費やしても、一人の独裁者、あるいは日本のように集団的独裁政権が現れれば、一瞬でひっくり返され、結局は無意味となる。それは現在の日本国憲法においても全く同じである。

教育勅語(教育ニ関スル勅語)発布(1890年:明治23年)

 近代日本の教育の基本方針として明治天皇の勅語として発布された。形式的には、1890年(明治23年)10月、明治天皇が宮中で山県有朋内閣総理大臣と芳川顕正文部大臣に対して与えた勅語の体裁をとるが、実際は山県の指示で井上毅(文部大臣も務め軍人勅諭にも関与した国学者で政治家)・元田永孚(儒学者)らが起草したものである。その趣旨は、「皇祖皇宗の子孫たる」天皇を臣民(国民)の精神的支柱とする忠君愛国主義であった。発布後、文部省がこの勅語の謄本を作り、全国の学校に配布され、丁重に取り扱う旨の訓令が発せられた。これが学校の儀式などで奉読され、この後に植民地となる台湾や朝鮮の学校でも同様になされ、特に昭和の戦時下ではキリスト教系学校でもその奉読が義務付けられた。その場合、天皇・皇后の御真影を掲げて行われ、普段は特別に作った奉安殿に御真影と一緒に納められ、唯一無二の神聖なものとして扱われた。

 この内容は、「… 我が臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一にして … 学問を修め業務を習って知識才能を養い、善良有為の人物となり … 万一危急の大事が起ったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家の為につくせ … 」とあり、全体でも短いものであるが、軍人勅諭と同様に、例えば「朕に対して忠良な臣民」という言い回しは明治天皇自身が書いたものではないことを示している。しかし、国民は天皇みずからのありがたいお言葉と受け取っていた。

 一方で、西園寺公望が文部大臣であった時、教育勅語があまりにも国家中心主義に偏り過ぎて、「国際社会における日本国民の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ、「第二教育勅語」を起草したが、この構想は西園寺の文部大臣退任により実現しなかった。その危惧の通り、1930年(昭和5年)代に入ると治安維持法体制の強化と、日中戦争以降は国家総動員法と合わせて軍国主義の教典として利用されるに至った。(教育勅語の内容は筆者の「各種テーマ別の記録・証言」参照)

<筆者私見>

 そもそもこの教育勅語に書かれていることは、天皇(朕)へ忠孝を尽くすことが教育の基本であり、万一の時は天皇と国に命を捧げなさい」という一方的な精神論だけであって、例えば「天皇が臣民の子すべてに教育の場を平等に与えるから、よく勉強して立派な日本国民になりなさい」のような書き方がされていない。どう見ても「取り巻き」が天皇を祀り上げて、上から目線で書いた「御文」であることは間違いない。このように天皇の存在をむしろ偏狭な偶像に仕立て上げている教育勅語なるものを、再び現今の国際化された時代に使おうとする人たちの頭の構造がわからない。

 その意味でも、平成天皇・皇后が、どこまでも国民の目線に立ち続け、昭和の不幸な戦争の内外の被害者への慰霊の旅を続けられ、戦後の平和を維持することに懸命に努力してこられたことに、われわれ国民の誰しもが心から敬意を払ってきている。そういう両陛下の努力を差し置いて、明治以来の数々の戦争を、ある意味において教導してきたこの教育勅語を、復活させたいなどと考える人々は、平成天皇・皇后の御心に対して恥ずかしいと思わねばならない。

朝鮮における清国との覇権争いから日清戦争へ

─50年戦争の始まり(1894年7月−翌年4月:明治27−28年)

 冒頭に記したように、明治初期からすでに日本が自身を帝国として近隣国へ覇権を求める傾向にあったことは、この時代、世界的に見ても強国が覇権を競ってアジアに次々と進出し、日本も負けじと軍備を増強して朝鮮に足がかりを得ようとしていたことでわかる。1891年(明治24年)、ロシア帝国はシベリア鉄道建設などで清国進出を開始し、朝鮮までの延伸を計画していて、そこで ロシアが南下して朝鮮半島の元山に港を造れば、ロシア艦隊の基地に なってしまうとの危機感が日本にあった。さらにロシアはウラジオストク基地保護のために朝鮮半島制圧を意図していて、これが日本に焦りをもたらした。その朝鮮に足がかりを得るためには、その宗主国であった清国(中国)が邪魔であり、日本は朝鮮から清国を撃退する隙を狙っていた。これが日清戦争の始まりとなる。

東学党の乱(甲午農民戦争)

 壬午事変や甲申政変(既述)のような朝鮮王朝の政変を経て、悪政と収奪を繰り返す政権争いの下で貧困にあえぐ民衆の不満は高まり、1883年(明治16年)から各地で農民の蜂起が続いていた。そのような中、1894年(明治27年)、民衆の労役によって復興した灌漑施設を全羅道古阜郡で、郡守が水税を課すなども含め横領を繰り返し、それに対して陳情を行った農民が逆に逮捕され、獄死する事件が起きた。2月、郡民はこれに憤怒し、騒動を起こした(古阜の民乱)。全羅道監察司はこれを聞き入れ一時収まったかに見えたが、再び郡内では弾圧が始まり、これをきっかけに東学党(「除暴救民」「輔国安民」などの思想を掲げる宗教的組織で、党は後付け)の二代目教主崔時亨の下で、全琫準がリーダーとなって武力蜂起し、全琫準が発した呼びかけに応じた農民で数万の軍勢が形成され、甲午(旧暦の干支による呼称)農民戦争に発展した。彼らは全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を破り、5月末には全羅道の道都全州を占領するまでに至った。これは後に東学農民革命と呼ばれる。

 自力での鎮圧が不可能となった明成皇后閔氏政権は、宗主国である清国の来援を求めた。清国側の派兵の動きを見た日本政府は天津条約を名目とし、同時に日本人居留民保護を目的にして(この建前はこの後も他国へ侵攻する際に常に掲げられ、都合のよい理由であった)6月2日に兵力派遣を決定し、4日に清国に対し即時撤兵を要求したが、拒否されると陸軍の参謀本部内に大本営を設置、戦時体制を作った。日清双方による部隊派遣による衝突を危惧した朝鮮の皇后政権は、急いで東学農民党と和睦し、6月10日、両者の間に「全州和約」が締結され、腐敗官僚の処断、身分制の否定、人材の登用、土地の均等な分配など、農民軍の改革要求が全面的に受け入れられた。そうして日清両軍の速やかな撤兵を求め、清国も反乱は治まったとして共同撤兵を提案したが、日本は朝鮮の内政改革を共同ですべしと要求して撤兵を拒否し、6月10日より両軍の対峙が続いた。

朝鮮への露骨な内政・軍事干渉

 その過程で伊藤博文内閣は、清が日本と共同での朝鮮の内政改革を拒否すれば、日本が単独で行うとの方針を閣議決定し、1894年(明治27年)6月15日に清国に伝えた。21日、清国政府は「事態が平静に帰した以上、あくまで撤兵が先決である。清国は朝鮮の内政に干渉する気はない。まして朝鮮を独立国と認めている日本に内政干渉の権利はない」という、もっともな意見で双方の同時撤兵を提案するが、日本はあくまで朝鮮の内政を改革し、清国から独立させるとして、その旨を宣言する。同時に日本は追加部隊を派遣、6月30日には清国兵2500名に対し日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。7月9日、清国側との再度の会談も決裂し、14日に日本政府は絶交書を清国側へ通達する。そして20日、日本は駐朝公使大鳥圭介を通して、朝鮮政府に対して「韓国の独立に反する清国との諸条約を廃棄すべし」「清国が属国の保護を理由に軍隊を出したのは朝鮮の独立を侵すものであり、速やかに清国軍を国境外に撃退せよ」と迫り、その回答期限を22日までとする最後通告を行なった。

 これに対し朝鮮政府も、「国内の改革は自主的に行う、乱は収まったので日清両軍は撤兵すること」を改めて要求するが、日本は回答期限が過ぎたとして7月23日、日本軍混成第九旅団が駐屯地龍山から漢城に向け進軍を開始、歩兵一箇大隊が朝鮮王宮である景福宮を破壊して侵入し、護衛の朝鮮兵を銃撃戦の上制圧し占拠した。これは周到に練られた作戦によるものであったが、軍の記録上では、たまたま近くを行軍していた日本軍に王宮から発砲があり、応戦して王宮に入り、国王を保護したという偶発事件に作り変えられ、そのように日本の外務省に打電した。これは大鳥公使も陸奥外相も承知の上の偽装工作であった(陸奥自身が回想録でこの時に「狡猾手段」を使ったと記している)。このような偽装工作は、のちの満州事変でも日中戦争(盧溝橋事件)でも行われるが、日本軍の常套手段となる。どうして日本はこれほどに好戦的なのであろうか。

 こうして日本軍は国王高宗を支配下に置き、大院君(高宗の父)を再び担ぎだして金弘集政権を誕生させた。2日後の7月23日、大院君に清との宗藩関係解消を宣言させ、25日に豊島沖海戦で清国軍を破り、29日に成歓(牙山)の戦いで清軍を撃退した後、8月1日に改めて日本は清国に宣戦布告をした。この間の27日、外務大臣陸奥宗光は「今日の形勢では開戦は避けられない。…… 如何なる手段にても開戦の口実を作るべき」と訓令している。なぜ開戦が避けられないのか意味不明だが、ともかく開戦の口実は日本人居留民保護から、朝鮮の内情不安を収め清国から独立させるという他国への内政干渉へと変わった。この後も似たような口実で日本は絶えず昭和の時代まで戦争を生み出していく。表面上はその後の戦争と戦争の間に空白はあるが、占領地や租借地に駐留軍を置く限りにおいて戦争は続いているとみてよいし、その駐留軍が攻撃されたという理由を種にして(あるいは偽造して)新たな戦争を生み出した。つまり日本はここから中国と朝鮮においてほぼ50年間も戦争を続けたのである。

日清戦争:明治天皇の開戦の詔勅

 明治からの日本の宣戦布告というのは、正式には天皇の開戦の「詔勅」によってなされるものとなっていた。これは昭和まで続き、満州事変や支那事変(日中戦争)というのは、軍が先走って戦争を事実化したため、開戦の詔勅が発せられなかったから「事変」という呼び方になっていて、現在、支那事変を日中戦争というのは、どう見ても戦争に違いないから後年に名付けられたのである。この日清開戦の詔勅は明治天皇から発せられたが、実はこの開戦に最も批判的であったのは明治天皇と言われて おり、「今度の戦争は大臣の戦争であって、余の戦争ではない」との発言の記録が残されている(これは昭和天皇にあっても同様であり、昭和天皇は常に戦線の拡大には反対であった)。

 大臣とは伊藤博文首相に対立していた外務大臣陸奥宗光のことで、主戦論の先鋒であった陸奥が、天皇の意向など御構いなしに、内閣をまとめて先んじて軍を動かし、戦争を中止できない状況を作り出して、明治天皇に「詔勅」を発するように仕向けた。実はのちの太平洋戦争(大東亜戦争)においても米英に対する宣戦布告の際、昭和天皇が発した「宣戦の詔勅」もまさに同様な経緯があった。結局政権というものは天皇をも形式的に利用してしまい、天皇自身も彼らが作った流れに抗えないように拘束されてしまうということを、この開戦の詔勅は物語っている。(開戦の詔勅の内容は筆者の「各種テーマ別の記録・証言」参照)

【挙国一致体制へ】

 まことに自国本位の理由ばかりが並べられているように思われるが、相手国の非を並べ立てないと、開戦の詔勅にはならないからであろう。ここに誇示する「帝国」というものが、平和を目指す国の体制でないことは、世界の歴史が証明していることである。ただこの時期は、軍隊がまだ主導的な力を持っていず、戦争を主導したのは、軍人ではなく、いわゆる文民的政治家であった。大正から昭和期には軍人が内閣の中に多く入り込み、軍人出身の東條英機のように陸軍大臣から首相にもなるが、日清戦争を主導した伊藤博文と陸奥宗光は明治維新期の志士であり、両者とも欧州に留学し、積極的にその地で政治や社会制度の知識を吸収した勉強家でもあった。つまり両者はシビリアン=文民側の代表的人物であり、日清戦争は軍の暴走により戦争が引き起こされた例に全く当たらない。同じく昭和期の軍人の暴走による戦争突入というイメージは、固定観念によるものであって、昭和の文民出身の政治家たちというのは(貴族系の近衛文麿首相も含めて)ほぼすべて自らの考えで(時代の流れに迎合する形で)主戦論に傾き、ごく一部の反戦論を説く議員は逆に弾劾裁判にかけられ、議員を辞職させられる有り様となった。

【文明国としての驕り】

 この日清戦争においても、政府提出の臨時軍事費予算案を満場一致で可決する等、伊藤内閣の戦争主導を帝国議会も反政府派の議員も含めて全面的に支援した。つまり開戦により、「挙国一致」体制が直ちに出来上がった姿は、そのまま昭和期の戦争の姿につながる。しかも知識人も清との戦争を支持、福沢諭吉は「文野(文明と野蛮)の戦争」と位置づけそのための犠牲はやむ得ないとし(後述)、キリスト教の内村鑑三は「義戦」と位置づけた。本来、戦争を仕掛けるほうが野蛮とされるべきであるが、すでに「文明国」の仲間入りをしていると自認する日本がその野蛮行為に加担するとはどういう思考法によるものか(一応、日本は新文明国で、中国は旧文明国であり、せっかく日本が朝鮮の開国と独立を進めようとしているのに清国はその邪魔立てをしているという歪んだ論理)、それは現代の我々から見れば単に驕りによるものというしかないが、そうした驕りにとらわれている限り文明的思考法ではないと言える。ただこの時代から続く20世紀の「文明国」による帝国主義による戦争は、まさにこの非文明国的思考法にとらわれた中で野蛮な戦争を続け、大量虐殺を招いた。福沢諭吉ですらその驕りによる野蛮な思考回路の中にいたということになる。

 事実、日本による朝鮮への介入の実態は、欧米諸国の介入に伍して覇権を東アジアに築くためであり、別記するように最初は朝鮮王朝内の権力争いと内乱を利用するものであった。そうした背景を見ずに、そこからむやみに展開される戦争に対する意味づけをし「挙国一致」体制を加速させていく当時の知識人の存在とはなんなのであろうか。昭和の戦争でも知識人の同様な現象があるが(特に真珠湾奇襲攻撃には興奮する姿がある)、この日清戦争に限っても後述するように、日本側の戦死者1万数千人のうち病死者が1万人を超えるという無駄な結果を生み、さらには旅順虐殺事件とそれに並行して行われた朝鮮における東学党農民の乱に対する殲滅作戦(いずれも後述)という野蛮極まる結果を生んだ。それでも日本国内では戦勝で「国威発揚」を成し遂げたということで喜びに沸き立ち、多大な犠牲者は仕方のないものとして影に追いやられた。残されたそれぞれの国の家族は当然悲しみにくれるが、その個々人の命の数は一般に「損失」として計上されるだけである。国の指導者の手前勝手な判断で、普通の人生の途中で突然命を絶たれた人々の思いは毫も考慮されることはない。

<筆者私見>

 いずれにしろ、ここから1945年の太平洋戦争敗戦に至るまでの50年間、日本は戦争を続けていく。世に「15年戦争」(満州事変から日中・太平洋戦争まで)という歴史的区分があるが、それをはるかに前倒しするもので、1894年からのこの50年戦争というのは、筆者が一通り明治から昭和までの戦争を見渡し検証したことによる実感であり、日本の戦争は、日清・日露・日中・太平洋戦争と個別に行われたわけではなく、事実、日清戦争から50年間、一貫して戦場となっていたのは朝鮮と中国であり、それぞれの表向きの戦争と戦争の間にも、特に中国においては日本軍の介入による大小の戦闘は続けられていて、この隠されて表に出されない事実はあまりにも大きく、日本という国が反省をしない国であるという国際的認知(日本人自身はその自覚がない)を裏付けるものとなっている。

朝鮮での開戦から清国侵攻へ

 日清戦争(中国側の呼称は「甲午戦争」、つまり既述の朝鮮における「甲午農民戦争」も同じ年で、旧暦の干支による60年に一度の年に当たる)に至る戦闘は宣戦布告前に始まっていたが、開戦に際し、外務大臣陸奥宗光は「外国からの干渉が面倒にならない以前に、どの地方でもいいから出来るだけ広範囲に占領するように」と命令している。改めて1894年(明治27年)9月15日に朝鮮の平壌に対し総攻撃を開始、清国の朝鮮駐屯軍を駆逐し、黄海海戦で清国の北洋艦隊を破って制海権を握った。黄海海戦では日本軍の死傷者298名、清国軍死傷者850名で、ここまでの日本軍の戦死者は180人、負傷者は506人、清軍の戦死者は2000人以上といわれている。その後第一軍が10月23日、朝鮮から清との国境である鴨緑江を渡河して清国領内(遼寧省)に進攻開始、九連城を制圧して内陸部へ進攻した。さらに大山巌大将率いる第二軍が遼東半島上陸を開始、途中の土城子という旅順近郊での戦闘で、日本軍は死者11名、負傷者37名を出すなど苦戦を強いられた。ところがこの少ない死者が、中国軍兵士に弄ばれた事件があった。数日後の11月21日、日本軍は遼東半島の先端に位置し中国の北洋艦隊の基地となっていて戦略上の重要拠点である遼寧省大連市旅順を攻略、清軍の士気などが低いこともあり、堅固な旅順要塞を比較的容易に占領した。旅順占領までの両軍の「損害」(人の命が損害と表される)は、日本軍が戦死40人、戦傷241人、行方不明7人に対し、清軍が戦死4500人(うち金州城から旅順攻略までが約2000人)、捕虜600人とされている。そして翌年まで続く全体の日本軍の戦死・戦傷死は1417人、病死1万1894人、戦傷病3758人となっている。中国軍の死傷者は約3万5千人で、捕虜については後述する。ただし旅順占領後に4日間にわたり「旅順虐殺事件」が発生し、この4日間で捕虜と多数の民間人が虐殺され、これも後述する。

 ここに来てアメリカ国務次官が駐米日本大使に調停の意思を表明するが、陸奥外務大臣から「(占領した旅順を含む)遼東半島の割譲を要求すべき」との内容を伝えられていたので日本軍は提案を拒否、その後二度の仲介の動きも拒否し、翌1895年(明治28年)2月には陸海共同作戦で山東半島の威海衛を攻略、陸軍はまず威海衛要塞を占領し、北洋艦隊を砲撃、一方海軍は水雷艇による夜襲攻撃をかけ残存する敵艦三隻を撃沈させた。しかし、夜襲の際の発射魚雷20本のうち、命中はその3本のみであったという。この結果、黄海と渤海の制海権を掌握した。この威海衛の戦いで日本側は死者29人、負傷者233人、清国軍の死者は約4000人。これにより3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まり、4月に講和条約(下関条約)が成立、日本は台湾・遼東半島・澎湖列島の割譲を勝ち取るが、その後台湾における平定時にも多大な犠牲者を出すことになる(後述)。

 日本は日清戦争に勝利したとはいえ、両軍の交戦地になったのは朝鮮半島と遼東半島と山東半島東端を含む黄海周辺のみで、広大な中国大陸の指先程度を制圧したにすぎない。なお筆者は戦闘の経緯(戦史)を詳しく記述する意図は持たず、戦争に至る理由やその結果による敵味方の被害の実態の記述にこだわっている。この日清戦争も、両国が中国の地で直接衝突したのではなく、朝鮮に対する覇権争いから生じていたことを自分で調べていて初めて知った次第である。

東学党農民の再度の反乱と隠された戦争

 この東学党の乱は、既述の初期に関しては日本の教科書では数行で終わっている程度で、記憶する日本人もいないだろうが、特にこの後期の乱は、韓国では誰もが知る出来事のようで、その記念碑は各地にある。以下は『東学農民戦争と日本(もう一つの日清戦争)』(中塚明、井上勝生、朴孟洙の共同執筆:高文研、2013年)からの抽出である。

【朝鮮農民の蜂起と日本軍の包囲作戦】

 この日清戦争の渦中に、一旦解散したと思われた朝鮮の東学党農民軍が1894年(明治27年)秋に再度反乱を起こした。既述のように最初の乱は、主として内政への反乱で、日本軍の介入と日清戦争に至るきっかけを作ったものであったが、これはその4ヶ月後で、侵攻してきた日本軍への反乱で、規模はずっと大きく展開された。8月、日本軍によるソウルの王宮(景福宮)占拠を知った全琫凖や東学教主の崔時亨は、再度の蜂起を日本軍に対して準備していく。すでに南東の釜山からソウルに向けて日本軍の武器弾薬が次々と運び込まれていて、それに対して崔時亨の農民軍はゲリラ的に日本軍の敷設した電信設備などの破壊活動をして抵抗を始めていた。10月12日に全琫凖が全羅道で蜂起を宣言、16日に崔時亨が忠清道の報恩で改めて蜂起を宣言した。日本の第一軍が23日に国境線鴨緑江を渡河して清国への侵攻を始めた二日後、忠清道の農民軍約4万が、可興と安保と忠州などの日本軍兵站司令部に対しそれぞれ一斉蜂起した。26日、広島に設置された大本営にいた兵站総監の川上操六は、この報告を受けて翌27日夜、朝鮮仁川の兵站監部に「東学党に対する処置は厳烈なるを要す、向後悉く殺戮すべし」との電報を発した。

 この指令を受けて翌10月28日、慶尚道洛東兵站部から仁川兵站監部に、昨日「首領と覚しき者二名」を捕縛したが白状せず、結果的に首領とも思われないが、「斬殺して然るべきや」との電報が届き、仁川からは「東学党斬殺の事、貴官の意見通り実行すべし」との返答があった。さらには洛東兵站部から、本拠である報恩付近の東学農民軍を「ことごとく殺戮の手段を実行いたしたく」という問いかけに対しても「厳酷の処置はもとより可なり」との承認が与えられた。このように、侵略した他国の反乱軍に対して、当初より「惨殺」の指令が打ち出されていたことがわかる。

 日本軍は清国への侵攻により朝鮮内の守備軍が手薄になりかけていたが、この反乱に対して当時の朝鮮公使の井上馨が首相伊藤博文に増派を要請、首相はソウル守備隊から三個中隊の派兵と、日本からも三個中隊の派兵を決定した。日本から派兵されたのは下関に駐屯していた第十九大隊であり(四国4県の混成部隊)、大隊長は南小四郎であった。三個中隊に与えられた任務は「党類を撃破し、その禍根を掃滅し、もって再興、後患を遺さず」というもので、東学農民軍の徹底殲滅であった。

 1894年(明治27年)11月12日、三個中隊はソウル近郊から東の大邱街道、中央の清州街道、西の公州街道に分けられ、南下して農民軍を全羅道西南に追い込む包囲作戦を行った。これに対し全琫凖の全羅道農民軍は北上し、前日から忠清道南の論山に陣を張り、そこに13日、忠清道報恩の農民軍の半数が合流した。そこから農民軍はさらに北上し、20日、忠清道公州の南方牛金峙に陣地を築いた日本軍(第二中隊)と激突した。11月20日から22日までと12月4日から7日までに激しい戦闘を展開したが、日本軍の圧倒的な火力の前に竹槍と火縄銃程度しか持たない農民軍は多くの犠牲者を出し撤退した。日本軍はスナイドル銃という弾丸を回転させて射程距離と命中率、殺傷力を持つ銃で、農民軍よりはるかに少ない兵力で農民軍を圧倒した。

 清州街道を南下していた南大隊長率いる第三中隊は、援軍の要請を受けて途中から公州へと山脈越えの道を進軍したが、途中で農民軍に挟撃されるのを避け、迂回しつつ悪路を抜けていく途中、12月10日、公州南方の連山で待ち受けた多数の農民軍と衝突した。そこで農民軍を退け、公州には11日に着いたが、激戦が終わった後であった。

【日本軍の殲滅作戦と虐殺の実態】

 これらの戦闘で東学党農民軍は全羅道南部へ後退したが、それを見て1894年(明治27年)12月11日、仁川兵站司令部は十九大隊三個中隊に対し、全羅道西南部に向けて農民軍を包囲して海岸線に押し込め、殲滅するようにと命令を下した。そこに東の釜山からの第十連隊の第一大隊も討伐戦に加えられた。この時点での日本軍は約4千名とされるが、それに加えて朝鮮政府軍が討伐隊に随行していた。さらに井上馨公使は二隻の軍艦を全羅道西の沿岸に出動させ、殲滅作戦を徹底させた。翌1895年(明治28年)の1月4日、第十九大隊は全羅道南部の羅州に東学農民軍殲滅作戦本部を置き、地方官も強引に味方に付けた。それに対して翌日、農民軍は霊巌、康津、長興、宝城、綾州など、羅州平野一帯で一斉に蜂起したが、日本軍の圧倒的な火力で撃退される。追い込まれた農民軍に対し1月6日、長興方面、同日、その海岸、11日、海南、13日から15日までも海南付近、19日、右水営、22日には珍島に逃げた残敵の殲滅が行われた。

 この殲滅作戦を指揮した南大隊長は、その後に発表した「東学党征討略記」において、「長興、康津付近の戦い以降は、多く匪徒を殺すの方針を取れり」、「真の東学党は、捕らえるにしたがってこれを殺したり」、「他日、再起のおそれを除くためには、多少殺伐の策を取るべしとは、公使(井上)ならびに指揮官(仁川の伊藤中佐)の命令なりしなり」と記している。次いで処刑された人数については、「海南付近250人、康津付近320人、長興付近300人、羅州付近230人」とし、その他、咸平、務安、霊巌、光州、綾州、潭陽、淳昌、雲峰、長城、霊光、茂長などでも、30人から50人の「残敵」を処刑し、「東学党は捕らえるにしたがってこれを殺したり」の結果、「もはや再興の患いなきものの如し」と記した。この他、珍島の記録では数百名とされる。また、農民軍の一部は本拠である忠清道の報恩に撤退したが、1月14日、報恩郡鐘谷で日本軍と戦い、390余名が戦死、翌日の掃討作戦で2200余名が殺戮されたと、後の朝鮮政府の調査で記されている。

 この著者の井上勝生は、第十九大隊の編成部隊である四国4県の記録を探して歩いた。その中で部隊の陣中日誌以外に、松山出身の第一中隊兵士の日誌にも巡り合った。羅州平野の南部海岸、長興での1月8日から10日までの戦いにおいてである。—— 「我が隊は、西南方に追適し、打殺せし者48名、負傷の生捕り十名、しかして日没にあいなり、両隊(第一、第二分隊)共凱旋す。帰舎後、生捕りは拷問の上、焼殺せり」。その後海南において1月31日、—— 「本日、東徒(農民軍)の残者7名を捕え来たり、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田一等軍曹の号令にて一斉の動作、これを突き殺せり、見物せし韓人及び統営兵等、驚愕最も甚だし」と記している。この殺戮のやり方は、後の日中戦争での南京事件などにおいても同様な光景があるが、その40数年前から日本軍が平気で無条件に相手兵を殺戮していたなどと、多少明治期の歴史を勉強した人にとっても認知外のことであろう。なお、ほぼ同時期に旅順でも追い込まれた兵民に対する虐殺が行われている(後述)。

 これ以前に、第十九大隊の本部が置かれた羅州でも農民軍に対して次々と処刑が行われていた。同じ人の日誌からである。—— 「当地(羅州)に着するや、(城)の南門より四丁ばかり去る所に小さき山有り、人骸累重、実に山を為せり。…… 彼の民兵、或は我が隊兵に捕獲せられ、責問の上重罪人を殺し、日々十二名以上、百三名に登り、依ってこの所に屍を捨てし者680名に達せり、近方臭気強く、土地は白銀の如く(農民軍は基本的に白衣をまとっていたから)、人油氷結せり(冬場の朝鮮は氷点下となっていた)……」。先に南小四郎大隊長の井上馨講師への報告では、羅州の処刑は230名とされていたが、実際に現場にいたこの兵士によれば680名となっている。実際に朝鮮側では羅州においてもっとも多くの農民軍が処刑されたとしている。この他、「獲え縛してこれを銃殺」、「大いに拷問」、「悉く銃殺」、「民家悉く焼き打ち」、「拷問の上銃殺し、死体は焼き払えり」などが日誌に記されている。

 次に当時の宇和島新聞において、第二中隊に配属され、忠清道洪州で戦闘した一等軍曹の兄への手紙が掲載された。—— 「敵の近接するのを待つ、敵は先を争い乱進、400mに来たれり。我隊、始めて狙撃をなし、百発百中、実に愉快を覚えたり。敵は烏合の土民なれば恐怖の念を起こして前進し来たるもの無きに至れり(この日、三千百余発を費消せり)……」。この「百発百中」と「愉快」の言葉の中に、日本軍が所持していたライフル銃(スナイドル銃)がいかに優れた銃であったかがわかるが、弾丸「三千百余発」でどれだけの農民軍を殺傷したのか、百発百中ではないにしても、相当数に上ると思われる。実は敵兵を思うように殺傷して「愉快」という表現は、この後の戦争においても、個人の日記の中に散見される。そこには自分が相手の立場だったらという思考はまったく見られない。ということは、相手を同じ人間と見ていないということになる。

 次々と無残に殺されながら最後に農民軍が逃げ込んだのが既述の珍島であった(日本でヒットした歌でも知られる)。1月24日、日本軍と朝鮮政府軍により、険峻な大芚山に逃げ込んでいた残った農民軍が急襲を受け、20数名が全員戦死した。日本側の特務曹長による戦闘詳報である。—— 「28、9歳ばかりの懐胎せし一婦人あり、弾丸に当たりて死す。また接主、金石醇は一歳ばかりの女児を抱き千尋の谷に飛び込み、ともに即死せり、その惨状いうべからず」とあり、まるで太平洋戦争終盤で、サイパン島で住民が米軍に追われ、高い崖から飛び込んで自決した光景を思い起こさせる。

 しかし日本軍はこういう非道に走る将兵ばかりではなかった。第十九大隊の包囲殲滅作戦を支援した第十連隊第一大隊で前線に立った二人の指揮官、一人は高知出身の福富孝元大尉と今一人は松山出身の遠田喜代大尉が自死する事件が起きた。福富大尉は殲滅作戦終了後の4月28日、軍刀で頸動脈を切って自害した。遠田大尉は、9月に大尉に昇進したばかりで帰国目前の10月2日、乗馬に出かけると言って行方不明となり、四日後、自害しているのが発見された。特に遠田大尉は、妻と二人の幼児がいた。この二人とも軍隊内で何も問題を起こしていず、自分たちが関わったこの大量虐殺で深い傷(自責の念)を負っていたことが考えられる。

 こうした二度に渡る戦闘と、この日清による朝鮮内の戦闘も加わり、朝鮮特に全羅道の穀倉地帯は荒廃を極めたという。12月末、日本軍はこの農民党のリーダーの全琫準を捕らえ、利用することを考えたが彼は受け入れず、翌年4月に朝鮮政府に処刑され、教主の崔時亨も後年処刑された。全琫準は捕らえられた時の尋問で、「なぜ日本軍に逆らったのか」と問われて、「日本は国際法に定められた手続きを取らずに不法にわが王宮を占領し、国王を虜にした。それでこの国難を救うために蜂起した。他の外国は国際法を守っている」と答えた。

【犠牲者たち】

 当時約1050万とされる朝鮮人口の3分の1以上の農民が、何らかの形でこの東学党の蜂起に関わったとされ、そのうち何らかの形で死んだ農民は約30万人、この戦闘に限れば死んだ農民たちは、3万から5万人に至った(あるいは3万6千人)。この数は日清戦争による中国側の死者とほぼ同等であるが、今は語られることは滅多にない。しかしこの農民軍の生き残りが朝鮮各地に潜伏し、日露戦争後の反日義兵闘争の中核となり、さらにそれ以降の日中戦争から太平洋戦争が終わるまで植民地化した日本軍を苦しめることになる。

 もとより竹槍と火縄銃の農民軍に勝ち目はなかったが、日本軍は新式のライフル銃で彼らを殺しまくった。それに比して日本軍の戦死者は数十人にも満たない僅少である(これは普通の戦闘ではあり得ないし、清軍との戦争においても、中国側は3万5千人程度とされ、日本側は1万数千人で、ただしこの大半は日本軍の管理不足による病死で)、純粋な戦死は約1500人とされる)。この理由は、東学の蜂起にあたって定めた規律があるように思われる。—— 「人をむやみに殺さない/忠孝を尽くして世間を助けて民を平安に/日本人を追い出し国の政治を正しくする/ソウルの権力者や貴族たちを一掃する/降伏するものは温かく迎える/貧困の人は助ける/貪欲で酷いことをするものは追放する」等の十二カ条であった。つまり東学農民軍は、日本軍を攻撃しても積極的に殺すことは避けているし、竹槍以上の武器もあえて持たなかった様子がある。また北上しての公州での激戦も、本来の目的は邪魔な日本軍を排除し、その先のソウルの政府を打倒することであった。おそらく全琫凖を始めとするリーダーたちは、日本軍がここまで残酷に攻撃してくるとは思ってもいなかったであろう。

 東学農民軍に対する殲滅作戦が行われている最中の12月、香川県の香川新報(現・四国新聞)がこの作戦についての論評を掲載した。—— 「…… 反面よりこれを観察するにおいて、東学党中の少なくともその領袖たる者共は、或いは朝鮮国民中の先覚者なりと言い得べしと信ずるなり。…… 東学党中の多くは真個の東学党に非ざるなり(つまり罪のない農民が多数である)。…… 悪人の討たるるは討たるべきの理ありて、しかして後に恨みなし。討たるべからざるの愚民(平民)、或いは討たれ、或いは害せらる、いずくんぞ恨みを後世に残さざるを得ん。100人死すれば千人恨み、千人斃るれば万人恨む」。…… 東学党、好し平定に帰するといえども、一般良民の帰服しがたきを如何にせん。井上伯(公使の井上馨)たる者、深く鑑みざるべからず、識者たる者、深く鑑みざるべからず」。つまり、この殲滅戦は殺された一族郎党の後世まで日本軍に恨みを残すであろうとし、平時に戻っても一般良民の心はいつまでも服従することはないだろう、井上伯よ、深く反省すべきではないかと論じている。これは極めてまっとうな意見であり、すでにこの時期から日本は朝鮮の人々に対して大きな禍根を残していたということである。

【この大きな戦闘の隠蔽工作】

 1995年(平成7年)7月、北海道大学文学部の一研究室で、新聞紙に包まれ、ダンボール箱に入れられたまま放置されていた人間の頭蓋骨六つが見つかった。その一つには、「韓国東学党首魁の首級なりという 佐藤政二郎より」と墨で書かれ、一枚の書付が添えられていた。—— 「髑髏(明治39年9月20日 珍島において)右は明治27年韓国東学党蜂起するあり、全羅道南道珍島は彼れが最も猖獗を極めた所なりしが、これが平定に帰するに際し、その首唱者数百名を殺し、死屍道に横たわるに至り、首魁者はこれを梟(さらし首)にせるが、右はその一つなりしが、該島視察に際し採集せるものなり」。

 これは一つの事件で、北海道大学では見つかった翌日、人骨問題調査委員会を設置して調査を始め、翌年には中間報告書を公表、さらに韓国からの求めに応じ、代表団を迎え入れ、奉還式を行い、その後調査委員が韓国に同行し、共同調査が行われた。佐藤政二郎は札幌農学校出身の農業技師で、1905年(明治38年)の日露戦争後の翌年、韓国統監府の木浦出張所に勤務し、珍島での農業儀式に出席した時に、近くの山裾にあった遺骨を「採取」したものとみられた。その頃まで、東学党の乱の詳しい内容は日本ではほぼ知られていず、『東学農民戦争と日本』の著者三人の共同研究が進められ、そこから民間交流も始まった。

 そうした活動から日本軍の一つの隠蔽工作が明らかになった。1894年(明治27年)12月10日の公州南方の連山の戦いで日本兵にただ一人の戦死者が出た。著者の井上勝生が四国4県の記録を探して歩いた中で、当時の『徳島日日新聞』が、市場町香美(かがみ)の杉野虎吉が戦死したことを報じていた。ところが『靖国神社忠魂史』(1935年編纂)にはこの連山の戦いの戦死者は記されていず、しかも杉野虎吉は、その前の日清戦争の「成歓の戦い」初日、7月29日の戦死者として記載されていた。日清戦争から10年後の1904年(明治37年)に刊行された正史である参謀本部編『明治二七、八年日清戦争史』(全八巻)の中でも東学党に対する掃蕩作戦の大筋は数ページで書かれていても三路包囲殲滅作戦の記述はないという。つまり農民軍殲滅作戦をもみ消した関係上、杉野虎吉の戦死もその月日と場所を建前上移さざるを得なかったということである。さらに著者の井上は、杉野虎吉の出身地の徳島県市場町香美を訪れ、その共同墓地で、翌年に杉野虎吉の兄が建てた虎吉の「忠魂碑」を見出した。その碑には、12月10日、虎吉が朝鮮忠清道連山で、四囲からの弾丸が顎に命中して戦死したと記されていて、日本軍の改竄の事実が証明された。一方で、既述している通り、南小四郎大隊長がこの連山の戦いの講話記録「東学党征討略記」を残していて、連山で戦闘があったことも揺るがない。

 また7月29日といえば、あらたに召集された杉野が徳島から集合地の松山にまだ向かっている時で、戦場にはいなかったという事実もある。そもそもこの戦いで日本軍の戦死者は杉野以外に具体的には挙げられていず、他の戦死者も病死者以外は隠されて、同様に清国軍との戦闘の犠牲者とされてしまったのかもしれない。このような改竄を前後の脈絡も考えずにやってしまうというのが、体面を優先する日本軍というもので、その愚にもつかない体面を保つために、最終的に太平洋戦争にも突入し、内外に多大な犠牲者を出したわけである。

 実はこの日清戦争の、後述する「旅順虐殺事件」についても、『明治二七、八年日清戦争史』ではまったく取り上げられていない。この事件は、旅順占領後に囲い込まれた清軍と住民約二万人弱を4日間をかけて(捕虜にせずに)虐殺していったという、この約40年後の南京における大量虐殺などに酷似する事件で、これは東学党の場合と違い、現場にいた欧米の特派員の報道によって世界に知られたが、それでも日本軍にとって不都合な事実は「正史」の上では隠された経緯がある。そして正史で隠されたことによって、次第に隠されたことは取り上げられずに忘れ去られることになり、国としてももはや隠していること自体も何の自覚もなしに忘れてしまう結果となっていて、それに従って歴史家たちも取り上げることがなく、およそ100年後に地道な研究者たちによって明らかにされたということである。その後の日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争も似たような経緯をたどり、今や国内では太平洋戦争で日本が受けた被害(国による特攻隊などの戦死者も含めてだが)ばかりが主に語られる時代となっている。そのことは日本軍によって大きな被害を受けた朝鮮も中国も同様であって、100年経った今でも(我々の知らないところで)記憶され語り継がれているということを、加害国としての我々は改めて認知すべきである。

旅順虐殺事件(旅順大虐殺)

【欧米と日本の報道と軍政府の対応】

 以下は長くなるが、『旅順虐殺事件』(井上晴樹:筑摩書房、1995年)からの要約である。

 1894年(明治27年)11月21日の遼寧省大連市の旅順陥落後、日本政府にとって大きな問題が生じた。このころはすでに世界各地に新聞社の特派員が活躍している時代であった。11月26日以降、日本軍の旅順占領が報じられるようになり、26日にイギリスの『タイムズ』で「旅順で大虐殺が起きたことが報告された」と一行のみが記され、28日の同紙では、イギリス極東艦隊に同行して旅順に上陸した将校の目撃談や、旅順を取材していたトーマス・コーウェン記者の記事を載せ「旅順陥落の翌日から四日間、幼児を含む非戦闘員などを日本軍が虐殺した」などと報じた。ちなみにこの時代の通信手段は手間がかかり、旅順を完全制圧した22日に現地軍から発した勝利の電信は複数の土地を経由し、日本の広島の大本営には夕刻に届き、そこから外務省に転電された。さらに外務省は主要各国にある日本の出先機関に日本の勝利を発信した。当時の国民にはニュースを知る手立ては新聞しかなく、翌23日に政府が旅順陥落を発表するが、新嘗祭の祝日にあたり、その翌日24日は休刊日となっていて、25日にやっと各社で一斉に報道された。国民は沸き立ち市中の家々には日章旗が掲げられ、翌日には各地で祝賀会が催され、東京の学生たちも夕刻から炬火行列して皇居の広場に集まって万歳三唱した。新聞では連日占領の詳報が繰り返し掲載され、その後帰国した従軍記者の見聞記も(当局の検閲を経て)掲載された。

 コーウェン記者はその後29日、日本船で大本営のある広島・宇品港に着き、翌30日、当地にいた外務大臣陸奥宗光と会見することができた。コーウェンから虐殺事件のあったことを耳にした陸奥は驚き、すぐに欧米各国の公使に宛て、当地の報道の詳細を知らせるように電文した。続けて外務省の事務官に至急電報で「タイムズ通信員によると日本軍は戦捷後生捕りを殺害し平民特に婦人まで殺したというが事実なのか、この事実は欧米各新聞社が目撃したのみならず各国艦隊の士官特に英国海軍中将なども見たと言い、日本政府が取るべき善後策を聞かれたが、事実であれば実に痛嘆すべきことで大山大将の報告があるまでは意見は言えないが、日本兵は常に規律を守るものと信じ、もし貴下通信員の言うことが不幸にして事実であるならその原因があるであろうし……」との内容を送り、さらに翌日、横浜の内外新聞が事件を報じた時にはすぐに知らせるようにと念押しした。コーウェンも会見の翌日発信し、それが12月3日のタイムズに報じられた。その内容は陸奥とのやり取りを書き、さらに具体的に「清国軍は最後まで抵抗した。私は清国兵が平服に武器を隠し持っているのを見た。民間人の家々から発砲し、それゆえ彼らを根絶やしする必要があると判断した旨を日本軍は報告している。日本人捕虜の死体のうちいくつかが生きたまま火焙りにされたり手足を切断されたりしたのを目にし、日本軍はより激昂した。次の四日間、日本軍は市街では抵抗のないのを知っていて全市街を掠奪し、ほとんど全ての人々を殺戮した。ごく少数ではあるが婦女子が誤って殺された。多数の清国人捕虜が両腕を縛られ、衣服を剥がされ、刃物で切り刻まれ、はらわたを取り出され、手足を切断され、多くの死体が部分的に焼かれたことを私はさらに陸奥子爵に伝えた」と記した。

 一応の実情としては、旅順攻略途上の11月18日、土城子での戦闘で、日本軍は死傷者50名を出すなど苦戦を強いられて撤退したが、その取り残した死者(11名)の中に、鼻や耳をそがれた生首が道路脇の柳や民家の軒先に吊されたり、内臓を取り出されたりしている遺骸を目撃したといい(土城子から旅順への転戦の途中の11月19日、一兵士が「我等はこれを見て実に堪へ兼ね、此の後敵と見たら皆殺しにせんと一同語り進む」と記しているが、それらの首は旅順への入り口に吊るされていたともされるが、清国軍では日本兵の首に懸賞金がかけられていたとされ、実際に金が受け渡されていたとの証言がある)、これによって日本軍側は復讐心を抱き、旅順において清国兵が軍服を捨てて逃げた敗残兵(便衣兵というが、もともとこの時代の清軍は一般兵に軍服を支給していなかったという説もある)の掃討作戦を行い、目に付く中国人を、便衣兵との区別がつかないとして片端から虐殺したということであった。

 一方で陸奥が11月30日に欧米各国の公使に宛て、当地の報道を知らせるように電文したのと交差するように、英国臨時公使内田康哉より、28日のタイムズの日本軍虐殺の報道に対して「中央通信社(セントラルニュース社)」が否定の報道(「戦時の正当な殺傷のほか清国人は一名も殺害されたことはない」との内容)をしたと陸奥に伝えてきた。これに続けて内田は上海発ロイター通信社からの虐殺報道を彼自身が差し止めた、それについては謝礼金を送っていただきたいと付記してきた。つまり日本は端から日本軍の戦況に対して有利な記事を書くようにセントラルニュース社に買収工作をしていて、今回のロイター通信社に対しても資金が必要ということである。陸奥は折り返し内田に必要な金額を送るよう外務省に指示した。ちなみにセントラルニュース社は上海に通信員を置き、その情報を日本の逓信省に雇われている英国人ウィリアム・ストーンに情報を流していた。ロイター通信については、横浜にある英字紙を発行するジャパン・メール社の社主フランシス・ブリンクリーがロイターの通信員を兼ねていて、陸奥は彼に目をつけ、10月末、日本政府が流す戦況報告をロンドンに打電するように内閣書記官を通じて伝え、その報酬を補助金として月々送る取り決めをした。ただしロイターには二系列あり、契約は一系列だけで、その後も日本に不利な情報は流れたが、戦後(1895年末)の論功行賞の時に政府はブリンクリーに勲章と現金を授与した。12月に入って数日の欧米での報道は、各国公使からの報告では、日清双方に残虐行為があり、「日本兵が受けた残虐行為を目にした日本兵が手当り次第清国人に対し少しも許すところなく皆を虐殺した」という主旨に落ち着いていて、詳細が報道されることはなく、騒ぎにまで至っていなかった。

 日本国内では早くから報道規制が敷かれ、8月から内務省による新聞雑誌への検閲が実施されて、事件がスクープされる心配はなかった。しかも軍政府は逐一の許可手続きの煩雑さを避けるため、途中から広島の大本営で発表して掲示する記事の写しのみを掲載できるとした。従軍記者に対しても厳しい制約があり、「心得」は十カ条にわたり、監視の将校がつき、その指示に従わなければならなかった。したがって戦地の実情を従軍記者が恣意的に書くことなどできなかった。そうした意味でも国内の新聞は政府にとって危険ではなかった。しかし外国人の発行する英字新聞は別で、それに備えて上記のように社主に買収工作を仕掛けていた。それでも全体にまで浸透していなかったようで、12月の頭、コーウェン記者と一緒に旅順の取材を終えて日本に入り、広島から横浜に来ていた「ニューヨーク・ワールド」(ピューリッツァー賞創設者が設立)の特派員ジェームズ・クリールマンとイギリスのスタンダード社のフレデリック・ヴィリアースが、横浜の英字新聞「ジャパン・ガゼット」の記者から取材を受け、二人は事件には触れずに談話的に戦闘の経緯を語り、その内容は12月3日付の同紙に掲載された。その翻訳文は翌日以降日本の各紙に掲載された。これに合わせて12月4日付の東京日日新聞はその特派員によって独自に、「先に清国軍は土城子で我が軍の死者及び重傷者の首や四肢を切り腹部を割き……この遺骸を目撃した我が兵は旅順の敵に対して少しでも抵抗する者はことごとく屠戮したのであって……」という記事を載せた。

 これに続いてジャパン・メール社の記者が横浜でクリールマンに取材を行い、虐殺の次第を聞き出した。その内容は12月7日に同紙に掲載されたが、翌日日本の読売新聞と自由新聞が、日本軍が無辜の民を殺戮するのはありえない、その相手は平服の清兵であり帰順の意を示した者は皆助けていると反論した。その後も日本側からはイギリスやフランスだっていくつかの戦において報復の虐殺をしているではないかとの論説も載せられ、またその間に政府側はロンドンのセントラル・ニュース社を通して大山大将が事前に第二軍に発していた「我が軍は仁義を以って動き文明によりて戦うものなり……」という訓示をあえて流し、沈静化しようとした。しかしその後の12月11日、クリールマンは横浜から「ニューヨーク・ワールド」に短文を打電し、12日の同紙に特電として「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を虐殺した。無防備な住人が自分の家で殺され、その惨状は言葉にできないほどで三日間で全市ことごとく日本軍の暴行に侵され、これは日本の文明を汚す血痕である。文明社会はこの事実にただ戦慄するのみ。我々通信者はこの惨状を見るに忍びず、一団となって辞去した」との記事が載せられた。翌日にもワールド紙は社説で「日本軍の残虐行為」とのタイトルで事件を記した。この記事は在米公使により日本に電送され、陸奥が恐れていたことが起こった。ちょうど日米新条約が米国で批准される時期で、日本政府は苦境に立たされることになる。

 このワールド社の記事に対し、日本でも日本軍の大勝を揶揄する外国人の流言として否定する論説などが各種載せられるが、広島にいた首相の伊藤博文も含めて善後策が協議され、とりあえずの弁明を文書にして日本側の御用新聞となっていたイギリスのセントラル・ニュースに流し、その要旨は旅順の住民は日本軍が包囲する前に逃げ出していて、残ったのは平服になって抗戦する兵士であって彼らを打ち倒したに過ぎない、その前に捕らえられた日本兵は中国兵に残虐な扱いを受けていたとする日本側の見解を示すが、それがタイムズにも掲載された。米国では日本の在米公使たちが何の情報もなく、米国側の取材に対して理解しがたい事件と述べるしかなく困り果てていたが、米国でも日本側に懐柔されていた新聞社はあり、弁護する記事もいくつかあった(ワシントン・ポストなど)。日本は ワールド紙に外務大臣陸奥宗光の名前で声明文を送り、12月18日付で掲載された。その内容は先のセントラルの文にいくつか説明を加えたものであるが、日本軍を貶めるような根拠のない報道は差し控えてもらいたいと最後にくくっている。しかし陸奥が自国の公使館を通さずに直接一新聞社に声明を送ったことで日本の公使たちはますます混乱し、この声明書が逆に虐殺の事実はあったと米国政府に認識されることになり、一方で日本側は事件を徹底的に調査すると約束するに至った。

 そこに12月20日付のニューヨーク・ワールドに一、二面を使ってクリールマンによる詳しい記事が挿絵付きで掲載された。これはクリールマンの原稿を彼が船便で送っていたものが19日にワールド社に届いたもので、その見出しは「旅順での大虐殺」「日本兵、少なくとも二千人の無力な人々を虐殺」「三日間にわたる殺戮」「市街、端から端まで掠奪さる」「街路は切り刻まれた男女子供の死体で埋め尽くさる」などであった。記事は「朝鮮解放のための苦しみは突如として征服のための野蛮な戦争と化し……」と始まっていた。その内容は事件を目にした者のみが語り得る迫力に満ちていた。この記事はそのまま公使によって外務省に送られ、日本の政府関係者はこの紙面によって初めて事件の具体的な真相を知った。それをロンドン紙の全てが転載、さらに世界に広がった。これに対し日本ではその一部を抜き出し「クリールマンの虚妄通信」という程度にとどまり、横浜などの英字紙も日本政府の意向を受けたものであった。日本の従軍記者の出番はなかった。むしろ日本の新聞では「外国従軍記者の取締を厳にせよ」とクリールマンを非難した。一方で広島から遅ればせに上京してきたタイムズのコーウェン記者はジャパン・メールの取材を受け、「陥落の初日は通常の戦闘上の出来事であり惨事というほどのことはなかったが、翌日から日本軍はなお清国人を殺戮するのを見て大いに驚き、さらに全市街を捜索して各戸に入って住民を追い出して殺し、あるいは屋内でも殺した」と証言、それを受けて日本の「二六新報」は二段階でその内容を掲載し、最初は初日の内容であったが、次の12月26日、全文を掲載し事件を正直に伝えることとなった。ただ、大手新聞は検閲があってか取り上げず、「我軍には規律があり決して無辜の人民を殺戮することはない、あっても平服に着替えて武器を持った抵抗する兵士に対してである」のような政府寄りの主張を繰り返した。

 日本政府は欧米諸国に公使を通じて事件の詳細を徹底的に調査すると約束したが、その間、クリールマンの記事は世界の主要都市(インドまで)に拡散していた。12月27日、政府は英独仏三ヶ国語で声明を発信したが、その弁明の主旨はこれまでと変わらず、ただ、ワールド紙の内容は誇張が過ぎ、粉飾されたものであるとし、旅順で捕らえられた355人の捕虜は厚遇されていて数日中に東京に連行されるとした(捕虜に関しては後述するが、この戦争全体で翌年3月までの捕虜は1790名程度であり、そのうち初期の朝鮮平壌での捕虜が616人で、この355名は『明治27、28年戦役統計表』によると、大連や金洲、威海衛その他の地区を含めた合計となっていて、旅順の捕虜は11名に過ぎず、陥落させた都市としては異様に少ない)。翌年になっても欧米での新聞報道は収まらず、1月5日、イギリスのタイムズ紙では特派員コーウェンの書いた記事を載せ、翌々日スタンダード紙ではその特派員ヴィリアースの書いた記事を載せた。その中でもコーウェンは11月21日から25日までの虐殺の様子を詳しく書き、同時に社説では、日本政府は国家の名誉を重んずるなら軍に厳重処分を施し、虐殺は不慮の過ちであることを明らかにすべきと論じた。さらに前月、現地の公使がコーウェンに会って買収しようとしたが、断ったという経緯まで明らかにされた。この事態に驚いた日本政府とくに陸奥は対応に苦慮したが、これ以上余計な弁明は火に油をそそぐとして米英の公使からも無視を決め込むほうが得策とされ、騒ぎの鎮火を待った。そうした中で陸奥の懸案の日米新条約は、陸奥のアメリカ上院議員への工作もあって、2月5日に無事議決された。
 一方で日本の新聞各社はクリールマンの記事は虚報として一斉に叩き始めていて、クリールマンは多少の身の危険を感じて1月8日、横浜の港から米国に向かった。それに合わせて彼は日本国民の怒りを恐れて逃げ帰ったなどとして、新聞各社の彼に対する攻撃が一層強まり、それは3月初旬まで続いた。その中でも社主が福沢諭吉の「時事新報」は、日清戦争が始まるとすぐに「日清の戦争は文野(文明と野蛮)の戦争なり」とし、「幾千の清兵は何れも無辜の人民にしてこれを皆殺しにするには憐れむべきが如くなれども世界の文明進歩のためにその妨害物を排除せんとするに多少の殺風景を演ずるは到底免れざる」と論じていたが、この時期(2月20日付)にはクリールマニズムなる言葉で「嘘八百を並べ立てて日本の名誉を毀損するをもって本願とする宗旨にしてその開祖はすなわちクリールマン」としてぼろくそに書きたてた。またスタンダード社のヴィリアースはクリールマンより少し前に日本を出て、カナダのバンクーバーに到着、そこでデイリー・ワールドの取材を受け、その記事は18日に掲載され、演説会も行った。ヴィリアースの本業は画家で、特派員として当時のはやりの幻燈写真(フィルムをスクリーンに投影するもの)を現地で撮っていて、その後サンフランシスコに行き、27日、クリールマンと共に幻燈付き演説会を開いた。この講演の記事を目にしたもう一つの中立系の「日本新聞」(陸羯南が社主)は、「その写すところの絵は彼らの勝手次第に作りたる旅順暴殺の有様」で「想像よりなる旅順逆殺を示し悪口罵詈至らざるところなくその傲慢無礼一々言語に尽されず、八裂きにするも倦き足らざる奴」とこき下ろしている。その中で徳富蘇峰が創刊した「国民新聞」では、この戦争に最も多く従軍記者を出していたから戦闘の詳報に力を注いだが、事件の実情は日本に伝わっていてもそれを検閲で報ずることはできない状況の中、2月26日付で「旅順における出来事の実相はすでに世上に明らかなりし所にして、今更外国新聞の記事につきて弁難するは要なき業」として、一連の騒動とは距離を保っていた。実情を知っていればこその姿勢であったろう。

 この国民新聞以外の日本のいずれの新聞も「そんなことはあり得ない」という前提でものを言っているに過ぎず、裏付けとなる事実を確認するために現地に見に行こうともせず、単に批判するだけなら誰でもでき、福沢諭吉の新聞までもと意外に思うが、ジャーナリストとしての存在価値がない。この傾向は昭和の戦争まで続くが、現在でもサンケイ新聞などがそのやり方を踏襲し、推論に過ぎない理屈を展開している(筆者の「昭和12年」参照)。いずれにしろこれらは実際に現地を取材した海外の特派員たちの記事に対して想像の範囲で反論するに過ぎなかった。ヴィリアースはこの後も幻燈演説会をアメリカの各地で開き、その会は日本旅行、平壌の戦闘、旅順と三部構成になっていて、彼は旅順での虐殺が四日間に及んだことを強調した。

【国際法遵守の方針と現地における軍の背反】

 旅順を攻略した第二軍を率いた大山巌司令官の国際法顧問として従軍し、直接見聞した有賀長雄は、民間人の巻き添えがあったことを示唆した。国際法顧問としての従軍とはほぼ耳目にすることはないが、当時ヨーロッパでは1864年(元治元年)に締結されたジュネーブ条約(赤十字国際委員会の主導のもと「戦争時の捕虜に対する人道的な扱い/傷病者の状態改善」との主旨であり、日本は1886年:明治19年に加入)が浸透していて、日本にとっても欧米との不平等条約解消に関わる問題で、具体的に改正日米通商航海条約がアメリカ上院の批准を待っている時期であった。この戦時下においても国際法遵守は欠かせないこととされ、現に上記の明治天皇の開戦の詔勅の中でも、「苟も国際法に戾らさる限リ=いやしくも国際法に反しない限度において(注意を漏らさず戦いにはげめ)」と真っ先に述べている。有賀を顧問として同行させたのは大山巌の意向であったとされるが、第一軍では参謀長の桂太郎がドイツ留学で国際法を身につけていたから特に顧問は置かなかった。実際に第一軍司令官の山縣有朋は、1894年(明治27年)9月、朝鮮の京城において隷下の部隊に対し、「敵となる者は敵軍であって、人民においては我が軍に妨害を加える者以外は敵視してはならない。また軍人といえども投降する者は殺してはならない」と訓告している。日本が国際法を遵守する文明国であることを欧米に示さなければならなかった。

 第二軍司令官大山巌もこの事件に関し弁明していて、「兵士と一般市民の判別が困難で、その理由は旅順口は軍港であるため、戦闘員と職工とが混ざり合っていること/敗残兵が敵兵の家屋より発砲してきたこと/各戸ごとに兵器弾薬が遺棄してあったこと/旅順への侵入は薄暮の中であったこと」などを挙げた。後世に名を残している大山巌にしてはやはりお粗末な言い訳で、単に軍の末端まで統制がとれていず、軍紀が浸透していなかっただけのことであろう。ただ、22日以降の捕虜の殺害については捕虜が抵抗し逃亡を図ったものがいたため、懲戒のためやむ得なかったとした。これについては朝鮮の平壌における戦闘でも脱走を図った捕虜38名を斬首したという記事が扶桑新聞(10/4)に載せられた。この詳細によると実際に斬首したのは従軍した東京の巡査の中で一刀流の達人某氏で「一喝の下に11人まで切り落とし、日本刀の鋭利なると同氏の腕前に観る人殊に歓呼した」とある。実はこうした日本刀による斬首の場面は、この後の日中戦争(支那事変)でも度々見られ、「百人斬り」競争まで報道されるようになる。いずれにしても日本国内でもこの旅順の事件は報道されるが、それを取り上げることは次第に歓迎されなくなり、公式の戦史である参謀本部編『明治二七、八年日清戦争史』では全く無視されている。日本のこの隠蔽体質は太平洋戦争まで続き、その戦後から今に至るまで政官人の体質として引き継がれている。

 こうした状況の中、有賀は戦地における住民保護がなされているかどうか、占領後、旅順村落の視察をした。その時一つの家屋に入ってみると家具類は破壊され、価値のある物品は土蔵などから持ち出されて狼藉を極めていたという状態で、当然清国軍の仕業と思って住民に聞くと、日本兵に掠奪を受けたと言い、しかし有賀はそれでは正規兵でなく、帯剣を許した従軍人夫の仕業だろうと推定した。その後有賀は、虐殺は必ずしも人夫の仕業ではなく、外国紙が指摘するように「人民と敵の兵士とを分別せず一棍してこれを襲撃したこと、すでに戦闘力を有しない敵兵士(捕虜)を殺戮したこと、市街の民家において財貨を略奪したこと」があったこと、しかし「敵の卑劣な所為に対し激昂した場合にあっては、常に起こりうるし止みがたきものとして咎めるにはあたらない」そして「文明国の軍隊が半開人民または野蛮なる種族に対して行った遠征においては同様な事実は多くあるであろう」とその著作の中で記している(この見解は上記の福沢諭吉の新聞「時事新報」の論と似ている)。ただこの最後の見解は、学者としてはお粗末というべきで、中国から漢字を含めた文化による恩恵を受け、古来よりその数々の書物から知見を得てきた日本が、明治維新後20数年で国力をつけたというだけで、逆に中国よりも文明国であるとするのはいかにも偏見甚だしい。

 ちなみに明治維新の幕府側の最大の功績者と言える勝海舟は、早くから隠居生活を送っていたが、その後の日清戦争などにおける日本政府の言動を見て、昔は中国や朝鮮から文明の種を輸入し、言わば日本の先生であった、それを今の自分のほうが強く正しいという日本はおかしいし、本当の文明国とは違うのではないか、野蛮なのはどちらなのかと批判していたが、自国を過信したままの状態でその奢りを持ってこの日清戦争から日露戦争、そして昭和の戦争(満州事変、日中戦争、太平洋戦争)へと突入し、1945年(昭和20年)、内外におびただしい犠牲者と焦土を生んで敗戦、その中でも中国への介在は1894年(明治27年)から1945年(昭和20年)までの51年にも及んでいる。

 こうした虐殺事件の一方で日本国内では旅順陥落は大々的に報じられ、国民は戦勝気分で祝っていたが、日本赤十字社がこの戦争を通じて1384人(1396とも)の救護員を戦地に送り、また船内や内地の病院勤務、内地各所に収容する清国の捕虜1484人を含む10万1768人(10万1675とも)の傷病者の救護に当たったことも報じられ、これが国際法に照らして讃えられたが、それは表の一面にすぎない。なお日本赤十字社は1886年(明治19年)に日本政府がジュネーブ条約(赤十字条約)に加入するとともに博愛社として設立し、翌年に日本赤十字社と改称したが、本格的に活動したのはこの戦争が初めてであった。救護事業は17ヶ月に及び、日清戦後の台湾討伐に際しての軍隊の救護も支えた。

(以上は主に『近代日本における捕虜』— 日清、日露戦争と第一次世界大戦における捕虜取扱いの比較研究 —:森雄司/中京大学法学研究論集第25号より抽出)

 これとは別に、一兵士関根房次郎の『征清従軍日記』の中に、「山地将軍(第一師団長)より左の命令あり。…… 今よりは土民といえども我軍に妨害する者は残らず殺すべしとの令あり」との記録があって、虐殺であったとする説は揺るがない。ただ、この「我軍に妨害する者は残らず殺すべし」という戦時下の将校の命令は、程度の差はあれ、どの戦争でも見聞きすることで、とりわけ40数年後の1937年(昭和12年)の日中戦争(支那事変)において、上海攻略戦から南京に転戦する途上の将校の発言の中にも同様な通告は重ねてあり、「皇軍」に逆らう可能性があれば殲滅してもいいという感覚で虐殺を重ねている。山地元治師団長の場合、女子供老人は除くとしていたが(それでも女子供老人の多くが惨殺された)、日中戦争では反抗する恐れがあるから区別せずという意識で行われている。その後の占領によってゲリラ兵が組まれ侵略軍を襲うことは、侵略される側としては当然生じる行為であるが、逆にその理由で侵略側はさらにゲリラの潜む町村の住民の虐殺に走ることになる。いずれにしろ民間人を巻き添えにした虐殺は、第一次世界大戦以前の世界ではかなり早い現象に思われる。またこうした虐殺は、第二次世界大戦では圧倒的に増え、ナチスドイツのユダヤ人虐殺やそれ以前からの侵略地での無差別虐殺がよく知られるが、筆者がこの後調べを進めていくうちに、1931年(昭和6年)の満州事変以降の日本軍が侵略地において数々の民間人虐殺を重ね、1937年(昭和12年)末の南京虐殺とそれ以降まで及んでいることが(特に中国側の資料を見ていくにつれ)具体的にわかってきた。その詳細、つまり少なくとも南京以外の数々の事件は、ナチスドイツの暴虐に対して国として内外に反省を示す現在のドイツの場合と違って、今の我々日本人はほぼ知らされないままである。

【中国側の記述から】

 以下は中国のサイト百度百科の「旅順大屠殺」からである。(訳文は筆者)

 1894年(明治27年)、日本軍の旅順攻略後、城内で4日間、虐殺を行い、犠牲者は軍民含めて2万人に達する可能性があり、生存者は800人余りだった。イギリス人で武器の密輸に関わっていたジェームズ・アランの『竜旗翻る下で』(1898年刊:副題「日清戦争体験記」)の記述:——「日本兵は避難民を追いかけ、銃と銃剣の先を使って人々を殺していった。転んだ人を突き刺し、街には足元に死体が転がっていた。日が暮れても虐殺は続き、銃声や叫び声や悲鳴やうめき声があちこちに響き、通りでは恐ろしい光景が広がった。地面は血を吸い、至る所で手足の欠けた死体が横たわっている。路地の中には死骸で塞がれたのもあった。死者のほとんどは街の人だった。日本軍は婦人の胸を銃剣で突き破り、幼児を銃剣で刺して、わざと高く掲げて見せた。……(ある銀行では)やっと数ヶ月になる嬰児の小さな死体が、一本の鋭い鉄のピックでカウンターの上に釘付けされていた。床には次第に凝固する血や死者の贓物が数インチの厚さになっていた。手や足、頭は切り落とされ至る所に放り投げられていた」。(ひどい、あり得ないと思われるであろうが、これに似た光景は、特に日中戦争に関わる証言でもいくつも出てくる。筆者の「昭和12年」の各種証言参照)

 米ニューヨーク・ワールドの特派員、クリールマンの記述:——「一人が兵士の前にひざまずいて命乞いをしているのを見た。日本兵はその頭に銃剣を差し込み、首を切った。一人は頭をうつぶして身を縮め、日本兵は銃弾で砕いた。街中でひざまずいた一人の老人を日本兵は二つに斬りさいた。一人の難民は屋根の上にいて銃弾で撃たれて死に、一人は屋根から落ち、それを日本兵は銃剣で10回以上刺した」。「戦後3日目の夜明け、私は銃弾の音に驚いて目を覚まし、日本人はまたやり放題に殺戮をしていた。外に出てみると日本兵の一隊が三人を追いかけているのを見た。一人は裸の赤ん坊を抱いていて、赤ん坊を落としてしまった。その後、この子は死んでいて、二人は銃弾で倒されていた。三人目の子供の父は足を滑らせ、日本兵がその背中をつかんだ。私は前に出て、赤十字の腕章を示して救おうとしたが、止められなかった。兵は刀を首に3、4回差し込んだ」。「翌日(11月24日)私はヴィリアースとある井戸のところに行くと、日本兵二人が死体のそばに屈み、死体の腹を切り裂き、心臓を取り出していた……」。

 イギリスのスタンダード社のヴィリアースは翌1895年(明治28年)3月の「旅順の真実」の記事で、「当時の日本兵の行動は確かに常軌を逸していた。今回の虐殺で、幸運にも難を免れた中国人は、全市に36人しか残っていない」としたが、この36人は同胞の死体を埋めるように日本兵に指示されて残されたもので、のちの調査で生存者は約800人であった。

 日本では旅順陥落のニュースが伝わり、全国各地で万歳を叫んで勝利を祝った。東京株式市場も反発した。その後、第二軍が旅順で略奪した大量の「戦利品」を国内に持ち帰り、東京の靖国神社に展示し、多くの人が見学に詰めかけた。1935年(昭和10年)5月、孫宝田は民族的義憤から、41年前の大虐殺犠牲者数の実地調査に着手した。彼はまだ日本軍の占領下にあった旅順に行き、危険を冒して鮑紹武から証言を得た。——「日本軍は旅順に入って、家々に入って捜索して殺し、婦人と赤ん坊も免れなかった。死体はどこにでも埋められた。翌春、遺体が腐敗しないうちに日本軍は死体を処理するチームを組織させて、掘った死体を陽花溝まで運んで燃やした」。犠牲者の遺骨は白玉山の東麓に埋葬されている。調査の結果、孫宝田は「当時、家族が遺体を引き取って埋葬した人が千人余りいたほか、焼かれた死体は実に1万8300人余りだった」と明らかにし、「私は鮑の言葉に基づいて、日本軍が旅順を虐殺した事実を詳しく顛末を記し、文献に載せてわが国の人々に知らせた」と伝えた。

 日本では、11月18日の土城子の戦いが「旅順虐殺の引き金」になったとする学者もいる。また、中万徳次中尉など11人が戦死し、それに対し清兵が日本軍の遺体を陵辱する事件が発生し、犠牲者の鼻と目、腹を裂くなどして日本軍が激怒するきっかけを作ったとしている。また旅順に攻め込んで中万中尉の首を見つけ、その凌辱に対する報復感情があったと、日本と外国の多くの文献が指摘している。「死体を凌辱する」とは、主に二つある。一つは敵の死体の首を切り落とすこと、一つは敵の死体を切り刻むことだ。第一については真実を語るべきで、梟首は古来の戦争が踏襲してきた野蛮な風習で、近代になっても完全に廃止されていない。一応清軍は「首を切るな」という命令を下したが、軍規を無視して中万徳次中尉以外の首11本を切った(筆者注:清国側では日本軍の首に懸賞金を懸けていたとの記述もある)。中万の戦死後、部下の兵士たちは「中尉の首級が敵軍の手に落ちるのを恐れ、涙を流して切断し、部隊に持ち帰って仮葬したのである。また清軍が敵の死体に対して「鼻を削ぎ、目を掘り、腹を割った」というのは、誰が見たのか、直接目撃者の記載はなかった(日本側では目撃者の証言として書かれているが、こうした証拠論は両者に見られる)。特に一夜にして地元の飢えた野良犬が群れをなし、血生臭いにおいを嗅ぎ、噛み砕いて食べる、これは西洋の従軍記者の筆の下で多く記述されていることである(これは飼い犬でなければ中国のどこにでも見られることである)。したがって山地元治中将が日本軍の士気を奮い立たせるために、わざわざ「死体いじめ」の件を扇動したのではないか。19日、土城子の戦いの翌日、山地は双台溝の近くで衛生兵が土城子で戦死した部下の死体を担いでいるのを見て、大声で叫んだようだ。

 虐殺発生後、日本政府は「旅順の清兵は制服を脱ぎ、住民の私服に着替え、居宅の空き家に隠れて抵抗した。一部の住民も武力で抵抗するよう命じられた」と発表した。日本軍が虐殺したのは抵抗を続ける私服清兵ではなく、作戦を命じられた住民だったという意味だ。ある日本人学者も「(旅順敗残兵は)軍服を脱いで、私服に着替えて、住民の家に潜伏している。日本軍は掃討中に敗兵と住民を区別するのは難しい。そこで壮丁であれば、おそらく兵士である可能性があり、容赦なく殺した。……捕虜の大量虐殺は国際法違反だが、(中国)正規兵の私服化も国際法違反だ」と主張している(筆者もその論は目を通している)。弁解者が日本軍の国際法違反を認める一方で、それを清軍の「正規兵の私服化」のせいにするのは、何の道理もない。清兵が撤退しなければならない時に、仕方なく平服を着て隠れる場合、国際法に違反するとは言えず、日本軍の「捕虜大量虐殺」や民間人大量虐殺の理由にはならないだろう。(筆者注:1937年(昭和12年)の南京攻略戦の際、負けを知った中国兵の多くが平服に着替えて欧米人の用意した「安全区」に逃れた。それを知った日本軍は「便衣兵」を探すとして、毎日数百人から千人単位の民間人男性を揚子江岸などに引っ張り出してことごとく銃殺した。これは南京進軍開始から、捕虜は残すなという方針が打ち出されていたことによる)

 山地元治師団長に従って旅順に入った軍事諜報員の向野堅一は、山地が「婦女老幼を除いて殲滅する命令を下したため、旅順は実に悲惨で、旅順港内はまるで血が流れて川になったような感覚をもたらした」と告白した。また向野は日記の中で、民間人を殺害した日本兵に「対外的に言うな」と頼んだと記している。日本軍第二連隊歩兵窪田忠蔵の記述:「中国兵を見ると殺し、旅順市内の人が一人も残らないのを見て、街には死体が山積みになっていて、歩くのも困難だった。一般の家では3人から5、6人が殺され、流れ出る血で吐き気を催した」。日本軍野戦砲兵第一連隊辘重兵小野六蔵の記述:「私たちの第一分隊は外出を許可されて、旅順市街を散歩すると、家では多いと10人余り、少ないと2、3人の「敵死体」を見た。白髪の老人と赤ん坊が一緒に殺されて、白髪の妻と嫁が手をつないで死体を埋葬していて、その惨めな相は名状できない」。これに対し、当時死体運搬に関与していた中国人の鮑紹武は、「私たちは死体を回収する時、同胞たちの被害の惨状を目にした。上溝のある店で、日本兵に刺されて死んだ房さんは帳場に伏せていた。さらにオンドルの上に母親と4、5人の子供の死体が横たわっていた。上の8、9歳、下のわずか数ヶ月の子が母親の懐で乳を飲んでいたが鬼子に刺されて死んだ。多くの人が自宅の前で死んでいるが、彼らはドアを開けた時に鬼子に殺された。死者の多くは家にいた高齢者と女性、子供だった。最も問題を説明できるのは、旅順虐殺の間、向野堅一は国際法顧問有賀長雄を欧米の新聞記者のもとに派遣し、日本軍の虐殺を報道しないように説得したことだ。

【証言記録から】

 再度『旅順虐殺事件』(井上晴樹)から、欧米の特派員たちや現地住民の証言などからの日付別の記録である。ちなみに井上晴樹はもとは出版社の編集者であり、その後独立して会社を立ち上げ、1993年(平成5年)、所用で大連を訪問した際、市街の露店で『旅順大屠殺』という本を目にした。旅順の名と乃木大将等の写真から、1904年(明治37年)の日露戦争における不祥事のことかと想像したが、購入してざっと目を通してみると、1894年(明治27年)の日清戦争時の話であることに驚いた。目次には「黄土の丘に一万八千人が埋葬された」とあり、この大規模な「未知」の事件に対し、編集者の習性もあって、帰国後調べを進めた。調査は困難を極めたが、およそ二年をかけて出版にこぎつけた。このまえがきには「史書を繙くと、虐殺事件の加害者側は必ず事実を隠蔽しようとするか異説を唱えてやまない。そうした努力の結果、時とともに人々の記憶から薄れ、世代は後退し、事件は過去の霧に包まれてしまう。本書は旅順の霧を吹き払い、全貌を明かすというわけには残念ながらとてもいかない」としているが、そこから2、30年後の現在、またこの本も埋もれてしまう運命にあるように思われる。この本の内容は当時の新聞資料を軸にしつつ中国側の資料を渉猟し詳細を極めていて、ある意味要約が難しいが、筆者と似たような立場にある井上の労作を、今一度ここで掘り起こす必要はあると思われる。筆者自身も旅順虐殺の言葉は散見してはいたが、まさか南京などと同レベルの虐殺が早くも展開されているとは想定していなかった。

<11月21日-25日の出来事>
◯ 11月21日

 クリールマン記者のワールド紙の12月20日付の記事である。—— 証人としての私は、旅順の人々は侵略者に対して如何なる抵抗も試みなかった。日本軍は家の窓や戸口から発砲されたと述べているが、それはまったくのでたらめである。捕虜にするということはなかった。兵士に跪き慈悲を乞うていた男が銃剣で刺され、刀で首を切られたのを私は見た。別の男性は隅で竦んでいたが兵士の一分隊が喜んで撃った。道に跪いていた老人は、ほぼ真っ二つに切られた。ちょうど私のそばには赤十字旗が翻る病院があったが、日本兵はその戸口から出てきた武器を持たない人たちに発砲した。……女性と子どもたちは庇ってくれる人とともに丘に逃げるときに追跡され、そして撃たれた。市街は端から端まで掠奪され、住民たちは自分の家で殺された。旅順の西側から逃げ出した人たちは、氷のように冷たい風の中で震え、よろけながら浅い入江を渡った。歩兵中隊が入江の先端に整列させられ、ずぶ濡れの犠牲者たちに絶え間なく銃撃を浴びせた。最後に入江を渡った二人の男と二人の子供が対岸に着くと、騎兵中隊が駆けつけて一人の男は切られ、もう一人の男と子供は海の方へ逃げる時に銃殺された。第二連隊の一隊が避難する人で一杯のジャンク船に発砲し一人残らず殺し、他のジャンク船十隻は海にいる水雷艇で沈められた。…… それはこの年の一番寒い夜で、温度計は零下20度まで下がった。女子どもが山中で凍えているとき、男を殺す作業は夜通し続いた。

 ヴィリアース記者は21日に目撃したことをスタンダード紙1月7日付で触れている。—— 山地中将の第二連隊は、切断され晒し首にされた戦友の生首に激怒し、市街地に入ると出会うところで命のあるものはなんでも射殺し、銃剣で突き殺し、動物も切り倒された。……民間人たち、老人や青年、壮年の男たちは、それぞれの家の戸口に立っていて斬り殺され、銃殺された。これに対する応射は市街のどこからもなかった。四人の英国人が市街を見渡せる丘から旅順への進撃と市街での残酷な所業を見ていた。

 コーウェン記者が12月3日に神戸で書き、タイムズ紙に1月8日付で掲載した記事である。—— 私は白玉山と呼ばれる険しい丘の崖っぷちに立っていた。西港が背後に、案子山砲台が左側に、黄金山砲台と海が右側に……足元に市街全体の光景を間近に見渡すことができた。私は日本軍が進撃し通りや家の中に繰り出し、進路を横切る全ての生きるものを追って殺害するのを見て、その理由を懸命に考えた。実際に発砲されるのを見ていたが、全ては日本兵からであったと誓って言える。多くの清国人が隠れた場所から狩り出され、撃ち倒され、切り刻まれるのを目にした。多くの者が跪き、叩頭して哀願していたが、そのままの姿で彼らは無慈悲に日本軍に虐殺された。…… 私は自分の目を信じることができなかった。私の知るあの称賛すべき温和な日本人の行動とは思えなかった。背後での射撃音で北の入江に目を向けた。そこではパニックになった人々を通常の二倍も乗せたボートの群れが西へと移動していたが、日本の騎兵部隊が入江の上手にいて海の方向に発砲し、ほぼ全ての者を殺戮した。年老いた男と10−12歳の二人の子供が入江を渡り始めていて、そこへ騎兵が水の中へ乗り入れ、刀で何十回となく滅多斬りにした。市街の方向に向き直ると、手に何も持たない農夫らしい男が干上がった川床に沿って逃げていくのを20、30発の銃弾が追った。男は一度倒れて起き上がってまた逃げたが、最終的には倒された。…… 私たちはこれら殺人者の手を止め得ないもまま、これらの哀れな死を気分が悪くなり悲しくなるまで目にしたが、それはほとんど拷問に近かった。

 外国人特派員たちは目の前に展開される残酷な光景が信じられず、驚きを越して呆然とした思いであった。その時はまだ山地師団長の「婦女老幼を除き」という命令は一切知らされていず、しかも「装丁の男子は大抵怪しき者なれば之を銃殺すべし」(東京朝日新聞12月2日付)という山地の命令に沿った別の命令が下されていたという事実もあった。

 鮑紹武は1963年(昭和38年)に行われた旅順博物館の聞き取り調査で証言している。—— 旅順の上溝一帯では至る所で驚き泣き、叫ぶ声が聞こえ、夜中になると日本兵は9人家族のわが家の戸を蹴り開けて押し入り、殺し始めた。私は天井に隠れたので免れたが、全員が殺された。家族の死体を埋める余裕もなく外に逃げ出したが、まもなく日本兵に捕まり、兵営に連れて行かれた。そこには十数名がいたが、水汲み、薪割り、皿洗い、掃除などの仕事をさせられた。翌年になって死体の処理に回され、その中には四、五人の子供の死体と乳飲み子を抱いた母親の死体もあった。多くの死体は自宅の入り口にあり、その大多数は老人と婦女子であった。

 鮑紹武の縁戚で1975年(昭和50年)の聞き取りで79歳で証言した袁明広は、黄金山付近に住んでいた伯母の家族10名のうち9名が殺害されたが、この伯母は窓の外の大きな甕に身を潜めて助かった。また王宏照は瓦職人の王志昌が堀った穴に隠れて難を逃れたが、兄たちが隠れた穴は日本兵に発見され、王志昌とともに水師営の正門付近で刺し殺され、死体は溝に捨てられた。また王宏照は、水師営に近い火石稜にいた趙永発の18歳になる娘は、逃げていった先の陳明義の同じ年の娘とともに、日本兵に乱暴されるのを恐れ、梁に縄をかけて縊死したと証言している。周囲にそのような事件が起きていたからであろう。この王宏照も鮑紹武も翌年に虐殺された死体の埋葬作業にあたっているが、鮑紹武は回想の中で、「全ての家々は戸が壊れ中には死体があちこちに倒れ、頭がない者、胸が大きく切り開かれた者、腸が外側に流れ出ている者などがいた。日本兵は焼殺したり虐殺したりしたほかにも、女性を強姦したりした上にさらに殺害した」と語っている。先に、日中戦争突入の1937年(昭和12年)の出来事(南京事件含む)を詳細に調べ、記述した筆者にとって、これは既視感を覚えるものであり、まさかその40年以上も前に日本軍による同様な無差別の虐殺が展開されているとはまったく知らず、この引用の元にしている井上と同様な驚きをもった。

 国際法顧問として従軍していた有賀長雄は、『日清戦役国際法論』の中で、「旅順市街は昨夜(21日夜)既に攻略し了り」と記しているが、「その後に於て戦闘力を有せざる敵の兵士を殺戮したること」、つまり戦闘の終了後に虐殺が続けられたことを認めている。外国人特派員の記事に対しても「21日において平和なる人民と敵の兵士を分別せず一混して之を襲撃したること」を認め、ただそれは土城子における清国兵による日本兵の死体損壊と旅順にあった生首を原因としていて、そのことをまた、日本の軍政府も追認し、第二軍の大山大将も認めたと有賀は同書に記している。ただしそれは21日に限ってのこととした。

 またここに一つ意外な出来事があり、この戦争にどういう立場か、従軍した代議士たちがいた。大山大将の第二軍に従軍した長谷塲、蒲生、柏田、折田の四人の帝国議会議員で、21日夜、旅順が陥落したと知り、長谷塲が先頭で松明を持ち、清国兵を捜索した。怪しい一棟を見つけ、長谷塲が戸を蹴破ると一人の男がいた。長谷塲は「尋常に降参すれば命は助けてやる」と言ったが、逃げ出したので一太刀浴びせ、男は裏口を出たところで柏田、折田に斬られた。これは相手は清国兵であったとのちに読売新聞の特派員に語られ、また蒲生は「蒲生代議士の戦地実況談」として同紙12月13日付に、「旅順口陥落して我軍の討入りしは暗夜にしてしかも暴風雨で一寸先も見分けぬ位なかりしかば、清兵と誤認せられて我兵の為に殺されたる土人(住民)もあらん」と語り、軍政府側の見解に立った発言をしている。それにしても軍に随行する代議士が刀を持参し、相手方を斬り捨てたとは異様な行為である。

◯ 11月22日

 一夜明け、午前7時の気温はまだ氷点下で、雲は低くたれ込み、風はまだ吹き荒れていた。何も知らぬ者たちが旅順市街に入ったとき、すさまじい光景が眼前に広がっていた。軍関係者や従軍記者はただただ息を呑んだ。

 大阪毎日新聞の12月1日付の特派員の記事。—— 22日早朝、寒風を侵して旅順に入る、敵兵の斃れる者その数を知らず、屍積んで山をなすとは此処なり。溝に呻く者、市街の真ん中に斃れる者、家に隠れて銃剣に刺された者、剣を握ったまま石段に拠る者、石段より垂れた者、箱に凭れた者、敷居に這う者、裏に死す者、表に斬られる者、実に惨憺たるパノラマにして醒風肌を襲い凄愴骨を寒からしむ。

 時事新報の12月2日付の特派員の記事。—— 敵兵の往々抵抗を試みて無残の最後を遂げたるもの多く、その屍は積んで山を為し血は流れて川となれり。市街道路行くところ敵の死体を認めざるはなく目下此地に生存する清人は極めて僅少 ……

 東京日日新聞(現・毎日新聞)の12月7日付の特派員の記事。—— 至る所に死体横たわる間々身首を異にせしものあり、半ば首の切れたるあり、脳味噌の溢出せしものあり、腸の露出せしものあり、眼球の飛出せしもの、その他手が切れ足砕け粘々たる血液の上に斃死せる様実に毛髪の悚立するを覚ゆ ……

 上等兵伊東連之助が翌年友人に宛てた手紙が国民新聞1月23日付にも転載された。—— 実際新聞紙上より敵兵の死人は多き様感ぜられ、野にも山にも海にも死人累々として腥風鼻を衝き22日頃には旅順市街の如きは一時敵兵の死者街区に填充して死人の上を通行致し …… 血が靴を滑らし、已むを得ず死人の上を歩めり、清兵の狼狽して海に投じ溺死するものその数を測るべからず ……

 高柳直は『従軍実記』で、22日昼ごろに市街に入った様子を記している。—— 市街には至る所に敵兵の死屍累々として横たわり屋内また二三の死屍あらざるはなく家具散乱民心疑懼その惨々光景 ……

 兵士の中には違った感想を持った者もいる。郵便報知新聞12月6日付に転載された二等軍曹の父親宛の手紙。—— 此地造船所の如き頗る立派なるものにて市街には敵の死屍山をなし居る様、痛快の極に御座候。

 既述の国際法学者で日本軍に帯同していた有賀長雄の『日清戦役国際法論』で記したこの日の様子。—— 市街の北の入り口よりその中央にある天后宮寺までの道の両側に民屋連列せり、その戸外と戸内にあるものは死体ならざるなく、特に横路の如きは累積する死体を踏み越えるに非ざれば通過し難かりき。天后宮より東に折れて進むときは …… 此等の諸街も皆死体を以って満たされたり。市街に在りし死体の総数は無慮二千にしてその中五百は非戦闘者なり。湾を渉りて西に逃れんとしたる者は陸より射撃せられたり、これ水中にも多く死体の存せし所以なり。

 ここまでは前日21日深夜までの戦闘による惨事の翌日見た光景である。日本軍は22日の午前八時から「第二の大掃蕩」を開始した。特派員コーウェンは早朝に銃声に目を覚まされ、クリールマンとともに市街に入った。そこには至る所に死体があり、商店の軒並みには店主たちの死体が道端に積み重ねられ、首を刎ねられている死体もあった。転がっている首を一匹の犬が齧り、その様を歩哨が見て笑っていた。歯のない白髪の老人が店の前で腹を切られ、腸を溢れさせて死んでいた。男たちの死体の山の下に女が死に、子供の死体もあった。婦女子の死体は道路上よりも(逃げ込んだ)海中に多くあった。日本兵の焚火により、犠牲者の服が燃え上がり死体を焦がしていた。

 特派員ヴィリアースはロイターの通信員で、一度日本兵に捕まり前夜に釈放されたハートと市街に出かけ、同様な光景を見、間断なく響く銃声を聞き、日本兵が新たに殺した男三人の弁髪や踵を持って引きずっているのを見た。ハートが前日まで滞在していたホテルに行こうと言い、二人で入り口まで行くと内部で騒がしい音がし、入ってみるとハートに食事を出していた料理人が床に倒れていて、三人のボーイも殺されていた。オンドルの上には少年が二人、抱き合いながら銃殺されていた。もう少し早く来ていれば彼らは死なずにすんだとハートは悔やんだ。ヴィリアースは記事で(スタンダード紙1月7日付)「私たちが見た全工程で、兵士とみなされる死体やいかなる武器も見かけることはなかった」と書いた。

 周祥令が聞き取りをまとめた「血濺三澗堡」(三澗堡は土城子一帯のこと)の中に、22日の証言があるが、これは11月18日に日本軍が土城子で一度敗退したことへの仕返しのようであった。—— 旅順口が陥落した後の22日の早朝、三澗堡の西北にある石灰窰屯に押し入ってきた。村はたちまち泣き声と鬼どもの叫び声が混然一体となり、銃声、犬の吠え声が辺り一面にこだまし、男女老幼はあちこちに身を隠した。逃げおおせなかった者は皆殺戮に遭い、その早朝のうちに30名が殺された。目撃者の徐長英は当時9歳で、オンドルの上で眠っていて、騒動を聞き、何が起こったかわからなかったが、日本兵が殺しに来たと聞きつけ、父親と一家は北山に走り、遠くへ逃げないうちに父親と三人が射殺された。徐は母親と外に隠れていたが、日本兵たちは村で鶏、羊を殺し、ひどいことをした。7、8日が過ぎたころ、何も食べていなかったが、海で転覆した船から流れてきた豆餅を拾って一家は命をつないだ。徐の兄嫁は産後9日目で驚きのあまり病気で死んだ。日本兵がいなくなったと聞いて家に駆け戻ったが、二頭の牛と一頭の豚もいなくなっていた。室内の家具などすべて壊されていた。母親は、野ざらしになっていた父親の硬直した死体を捜しあてたとき、身も世もなく泣いた。同じ日、馮伝聲の父親は西の海岸で日本兵に射殺され、その母親は2歳に満たない弟を抱き、18歳の姉を連れて父親を探しに行ったが途中で日本兵に見つけられ三人一緒に射殺され、馮と12歳の姉が残された。(このような虐殺の事例は、筆者の「昭和12年」の中で同様に展開されている)

◯ 11月23日

 歩兵中隊の一兵士佐川和輔は、旅順港で凄まじいものを見た。「敵死体は山の如く、旅順港中は多くの魚を見るが如し。思うに土人(地元民)の男女の死体なり。これ激戦の為家を逃げ出せし為弾丸を受けし負傷死体実に算するなし、又哀れなり」。これについては、海路で旅順を脱出しようとした兵士や住民の乗った船が、魚雷艇の追撃や海岸からの銃撃などで沈没、または座礁し、そこをさらに銃撃されたようであったこと、また船だけでなく市街の日本軍の掃蕩作戦により兵や住民が海に追い込まれ、狙撃の対象となり、「ことごとく屠戮す、その数何なるかを知らず」(東京日日新聞、12月7日付)ということからであった。

 23日は生存者や捕虜に対する虐殺が行われたようであった。クリールマンはワールド紙12月20日付で、日本兵たちが「恐怖に駆られた人々を家から引きずり出し、撃ったり、バラバラに切ったりし続けている。…… 一本の道路上だけで227の死体があった。少なくとも40名が手を後ろに縛られて射殺されていた」と記し、この縛られた40名は捕虜であろうし、コーウェンも、「後ろ手に縛られ数珠つなぎにされ、5分間にわたって銃弾で穴だらけにされたあと、ばらばらに切られた捕虜の集団を私は見た」(タイムズ紙1月8日付)と記している。

 周祥令が1977年(昭和50年)に聞き取りした中で、当時8歳の蘇万君の証言。—— 21、22日は伯母の家に隠れていたが、23日に日本兵に見つかり、伯父が縛られて日本兵に連行された。伯母は嘆いて蘇万君に見に行くように頼み、そこで付いて行き、小南山の草地に腹ばいになって見ると、大病院(現在の海軍後勤部)の前で日本兵が多くの人を縄で後ろ手に縛って十数人を数珠繋ぎにし、水のある窪地に引き立て、日本兵は刀で一人斬っては次の人を水辺に押し出して斬り、そのうち一群の人はいなくなった。(同様な光景はやはり南京の虐殺でもしばしば見られる)

 この日清戦争は、朝鮮において清軍との戦いから始まっていて、その朝鮮では一定程度の捕虜を捕えているが、それもあってこの旅順において「比較的捕虜の数少なきは何故ぞや」と国内の万朝報(12月4日付)は問いかけ、もしその気であれば捕虜を得ることは容易であろうが、多くの捕虜は手数を要するだけで面倒であり、故に敵とみなせる者は「ことごとく銃撃、斬殺せり、これ捕虜少なくして死者多き所以ならん」と結論している。これについては後述するが、40数年後の日中戦争では最初から「捕虜はとらず」の方針のもと、降伏した中国兵は、捕虜とされる前にことごとく虐殺の対象となった。

 友人宛に手紙を残した伊東連之助は、清兵5、60名を追い詰めた双台溝において、10名の仲間と「その過半」を斃したと書いた。—— 予は生来初めて斬り味を試みたることとて、初めの一回は気味悪しき様なりしも、両三回にて非常に上達し二回目の斬首の如きは秋水一下首身忽ち所を異にし、首三尺余の前方に飛び去り、間一髪鮮血店に向いて斜めに迸騰し …… 予はここに始めて実際的撃剣を試みしが、…… 斬るに従って益々巧妙となり胆力の動かざるに至るべし。

 みごとに首が飛ぶと、伊東の周囲から拍手喝采が湧いた。こうした光景にコーウェンはタイムズの1月8日付で記した。—— 何の罪もない人々が戦争中に殺されることは避け難いことで、私はそのことだけで日本兵を責めはしない。清国兵は農夫の身なりをし、武器を持って可能なときに攻撃した。それ故にすべての清国人を敵と見なすことはある程度許される。しかしそうだとしても彼らは生かして捕えられるべきである。数百名の人が捕えられ縛られたあと、殺されるのを私は見た。

 国際法学者の有賀長雄はその著作の中で、22日から24日の三日間は「稀に日本兵が縄をもって支那人を三々五々連縛して」市内を引いて行くのを目にし、これが日本軍に向かって反抗してきたことにより殺戮するためとした。有賀は当初、平民に対する虐殺を、(自らが国際法を教えた)正規の日本兵の所業と思えず、雑役を担う軍夫によるものと思ったが、実際に軍夫の一部にも武器を持たせていたため、正規の兵に追随して殺戮を行うこともあった。ただ、旅順での虐殺行為が国際問題となるに従い、軍政府は、「是は酒気に狂して暴行を働きたる人夫の所業にして、日本将校が斯かる所業ありしを遺憾に思える次第」として軍夫は自分たちの知らぬ間に全面的な責任を負わされることになっていった。

 掃蕩作戦が一段落すると、すぐに行われるのは掠奪(分捕り)である。一つの土地を占領すれば、その地の財物は占領した側のものになる。クリールマンは、「私は兵士たちが死体を踏みつけながら死者の家を掠奪するのを見た。恥というものが消え失せていた」(ワールド紙12月20日付)と23日のことを記し、コーウェンは、「市街の全ての建物が完全に掠奪された。全ての戸が開け放たれ、全ての家具の隅々まで漁り尽くされた」(タイムズ紙1月8日付)と記した。国家の財政に寄与すると思われるものも、当初の平壌の戦いの後から奪われ、金銀や穀物もその対象となっていた。画家として従軍した黒田清輝も12月に入って大連に着いた翌日、「憲兵の案内にて分捕品をもらいに行く」としている。珍しい動物もその対象で、発見した二頭のラクダを一兵士が23日に山地師団長に贈り、山地はこれに丹頂鶴を添えて天皇に献上することにし、それは11月29日に宇品港に陸揚げされたが、このラクダは翌年、皇太子からの下賜という形で上野動物園に寄贈された。

 11月23日は日本では新嘗祭の祝日であった。それを記念して大山巌の第二軍は、旅順造船所の船渠で祝宴を張った。将校以上の軍人と従軍代議士、内外の新聞記者が出席、酒や料理が並び、軍楽隊が音楽を演奏した。宴たけなわとなって、大山大将や山地師団長などが次々と胴上げされた。第一旅団の乃木希典はここにいなかった。この日の夜遅く、外国人記者たちが宿営先で石炭の火鉢を囲んで煙草を吸いながら談笑しているところへ、有賀長雄が入ってきた。そのやりとりをクリールマンはワールド紙12月20日付で書いている。

(有)今起こっていることをどう思われますか? —— (クリ)素晴らしく戦略的な行動でした。

(有)そうではなく、旅順の人々の殺害のことです。あれを虐殺と呼びますか。正直に言ってください。

 他の特派員たちは私が迂闊に言えば、清国を退去させられること、私たちに監視将校が付けられ、記事を書くことを抑えられることを恐れていて、私も質問をかわそうとしたがなおも有賀氏に迫られた。

(有)虐殺と呼びますか?あなたはあれを文明の戦争行為と呼びますか?あなた方がどう言おうとしているか、気がかりなのです。

 私は再度質問を避けた。有賀氏は今度はヴィリアースの方を向いた。

(有)ヴィリアースさん、何もためらうことなくおっしゃってください。この三日間のごたごたを虐殺と呼びますか?(ヴィリ)その言い方はぴったりしていません。第一日目は軍隊の振舞いに対する弁解で、それに続く二日間は別な言葉になるかもしれない。

 ヴィリアースはしばらく熟慮したのち、冷血な虐殺と呼ぶと伝えた。次に有賀氏はコーウェンに質問を向けた。コーウェンは戦闘当日の軍隊に関する全てと、それに続く日々で非武装民を殺害したのは虐殺に当たると述べた。有賀氏は考え込んだ後再び私に向いた。

(有)あなたもそう思われますか? —— (クリ)確かにそうです。捕虜にするのは文明国家の義務です。

(有)それは別の問題ですね。私どもが捕虜を殺すのを選んだとしたら、それは別の結果になりますよ。

— (クリ)しかしあなた方は捕虜を殺しているのではなく、つまりは無力な住民たちを捕虜にしようとせずに、無差別に殺しています。

(有)あ!(と自分の理屈を裏付けるように両の親指を合わせながら言った)それは同じことになります。私どもは平壌で数百名を捕虜にしましたが、彼らに食わせたり監視したりするのはとても高くつき、煩わしいとわかったのです。実際ここでは捕虜にしていません。(これは捕虜を確保せずに開放するという意味にも取れ、有賀の難しい立場を示している)

◯ 11月24日

 明け方、クリールマンは銃声で目を覚ました。外に出てみると日本兵の一群が三人の清国人を追っていた。そのうちに一人の男は赤ん坊を抱いていたが、途中で落としてしまった。クリールマンはヴィリアースを起こしに戻り、再び現場に行った。二人の男は射殺され、赤ん坊の父親は背中と首を銃剣で刺されて死んでいた。赤ん坊は生後二ヶ月くらいで、これも死んでいた。別の場所では老人が後ろ手に縛られ、そのそばでは三人の男が打たれてもがき苦しんでいた。そして兵士は老人を撃った。(ワールド紙12月20日付)

 ヴィリアースは午後、死体の少ない通りを歩いていた。そこで酒に酔った状態の日本兵三名と出会った。彼らは商店の中の清国人を射殺したばかりであった。兵士たちは隣の店の戸を壊し始めた。戸の隙間から母親が隅の方で二人の子供をかばっているのが見え、兵士の足元では老人が叩頭していた。ヴィリアースはこれを見て兵士の肩を叩き、笑いながら日本語を投げかけ、兵士の注意を自分に向けさせた。そして「とにかくその家族は次の射殺部隊がやってくるまで死刑執行が延期された」。(ノースアメリカンレビュー紙12月20日付)

 旅順郊外でも同様な情景があった。東京朝日新聞の特派員は、老鉄山東麓から市街へ戻る途中、銃声を聞き、兵士五、六人が何者かを追い、聞くと村落に潜んでいる怪しい者たちを探し、銃殺するという。「五、六人ずつ見つけ次第発砲銃殺しつつ行く様はあたかも兎狩りか狗狩りの如く、一村挙げて蜘蛛の子を散らすが如く山上に逃げ行く、これぞ実に天下の奇観なり」(同紙12月2日付)

 こうした状況を第二軍司令部も察し、この日以降、生き残っている清国人を取り調べた上で刃向かう心配のない者(もとより老人女子はその対象であっても殺しているが)には安全を保障するとして一枚の布や紙に文字を書いて検印を押すことにした。その言葉は、「順民を証す、第二軍司令部」「商人なり害すべからず、軍司令部」「此者殺すべからず」「大隊本部役夫」「良民」などであり、住民はこれらを胸に貼り、首にかけ、腕に巻いたりした。また家々には兵士が押し入らぬように門柱に貼り紙がなされ、「此の家人殺すべからず」「此の家の男子六人あるも殺すべからず」「家人の他入るべからず」など憲兵の手によってなされた。こうした処置(外国人特派員も見ている)にもかかわらず、相変わらず銃声があちこちで響いていたから、犠牲者は増えこそすれ減ることはなかった。生き残った清国人は24日あたりからこれら大量の死体の処理に使役され、この生々しい写真が民間人初の従軍カメラマンの手により残されている。

◯ 11月25日

 砲兵中隊の兵士小野六蔵は、この日外出を許され市街に出た。 —— 毎家、多きは十数名、少なきも数名の敵屍あり。白髯の老爺は嬰児と共に斃れ、白髪の老婆は嫁娘と共に手を連ねて横たわる、その惨状実に名状すべからず。…… 海岸に出れば我軍艦水雷艇数隻煙を上げて停泊せり波打ち際に死屍の漂着せるを散見せり。…… 帰途は他路を取るも途上死屍累々として冬日も尚生臭きを覚ゆ。(従軍日記)

 この日朝、クリールマンはヴィリアースとともにある建物の中庭に入った。そこは斬殺された死体だらけであった。二人の出現は二人の兵士を驚かせたが、そのうちの一人は刃物で死体を切り裂き、心臓を取り出そうとしていた。午後、ヴィリアースは前日に助けた老人と家族のいた通りに足を向けた。前日と様子が変わっていて、閉じていた店が開かれ、日本軍が宿泊していた。くだんの老人はまだ生きていて、兵士の給仕をしていた。ヴィリアースを見ると、足元に来てひれ伏した。一人の兵士がやってきて、握り飯を半分に割って片方を老人に与えた。

 連合艦隊の軍艦に乗り込んでいた従軍記者たちが許可を得て、この日遅ればせに昼までの期限で上陸した。その中に国民新聞の特派員である国木田独歩がいた。その記事は12月8日に掲載された。 —— 吾れ初めて「戦いに死したる人」を見たり。剣に倒れ、銃に死したる人を見たり。一人は海岸近くに倒れ、年は三十四五、鼻高く眉濃く体躯長大の偉丈夫なるかな、…… 従来素読したる軍記、歴史、小説、詩歌さえもこの惨たる荒野に倒る戦死者を見るに及びて、始めて更に生ける想像を吾に与え、……(ここではあえて市街の山となす死体のことに触れていない)

 中央新聞の特派員水田栄雄もこの日上陸し、12月7日から三日間連載している。 —— 戦後の旅順を紙上に活現せしめんには才筆縦横の士が観察に数日を過ごし執筆に数週を費やし日毎に幾段の紙面を割いて一ヶ月を経過すとも猶或いは足らざるを恐る。……(これだけでも彼が見聞した様子の凄さがわかる)…… 旅順市街人家およそ四五百軒坂に拠って其の両側に建ち並ぶ …… 今は家々門戸破壊し家内は総て襤褸と支那靴と陶器の破片を以て充満し、市内は我兵士と人夫の往来するのみ、一人の支那人らしき者を見ず、又家の内は戸障子悉く打ち壊され門より裏を見透かして其の隅々に襤褸と紙屑 …… 唯人夫が三人五人と家の隅々をあさり廻れる …… (ここには先の一兵士が後に日記に記したように「毎家、多きは十数名、少なきも数名の敵屍あり」のような様子が省かれていると思われる。ただ、海に浮かび沈んだ死体の様子が書かれているが、それは途中で検閲のため伏せ字にされている)。

 水田は二日後の午後にも上陸を許され、その時の様子の一部である。 —— (市街は別に三條の新市街がありその中新街に入って行くと)一つの民家を窺い、屋内に進み器物を見れば鮮血の滲み、古棉に皮肉の塗れ、藁筵など一見して執着の怨鬼猶屋内に啾々の声を放つ …… 道路を進み左右両側を見るに我が五人の兵士が家の中央に焚火をし互いに手柄話しを為すあり、其の門口には一人の兵士が斧を振りかざして此の家の門戸を打ち割りて焚火に代えんとす、筋向かいには一匹の驢馬首を切られて門口に横たわれり …… 家の奥には朧げなる支那人の痩せ衰えて蠢くあり、立ち留まれば胸の辺りに括り付けたる紙片を指し示しつつ伏し拝むをよく見れば「順民を証す第二軍司令部」と書して係官の検印あり、さては彼等は皆殺しにあらざりけり。(つまり住民は皆殺しにあっていたと思っていたが、生かされている者もいたということである)

 早くから従軍していた特派員たち、外国人も含めた彼らは25日夕、日本船長門丸に乗って広島の宇品港に向かった。クリールマンはその五日間の感想を12月20日付のワールド紙に記した。 —— (この虐殺は)自分たちの戦友の切り刻まれた死体を見た軍隊の怒りがもたらした報復と呼べるものかもしれないが、いかなる文明国家も私が旅順で目撃したような残虐行為をすることはできない。私が記した全ての光景は、米国と英国の公使館付き陸軍武官がいるところで、またコーウェンやヴィリアースと一緒の時に私が見たことである。これが戦争行為というものかもしれないが、それは野蛮人の行為だ。人々を文明化するには一世代以上の歳月を要する。(しかしこの予測も当たらず、100年以上経ってもなおも戦争が起こり、殺戮が止んでいない)

 コーウェンは翌1895年(明治28年)1月8日付のタイムズで記している。 —— 長門丸に乗り旅順を後にした時、信じ難い野蛮行為の流行病から私たち自身が生き延びてきたことに驚きさえ感じた。私たちが聞いた最後の音は戦闘後の五日目になっても止まない銃撃の音であり、つまりは理不尽な殺人の音であった。 …… 戦争の当日、困難な戦いの興奮も冷めやらぬ兵士たちは、おそらく血に飢えたようにならざるを得ない。普通はそうなるものであろうが、戦闘は21日を過ぎても大量虐殺は続けられた。日本人は恐ろしく興奮しやすいに違いない。 …… それは日本人の心が清国人のように野蛮であるからなのだろうか。もちろん彼らは「否」と言う。それなら日本人はそのことを証明しなければならないだろう。(いずれにしろ)戦闘後の四日間の野蛮な行為を、私たち白人が目にしていた事実が残っている。

【旅順とその他の犠牲者数】

 虐殺の犠牲者数についても井上晴樹は諸説を客観的に記述している。大山巌は旅順陥落の公報の中で「敵兵力は二万を下らざりしが如し」としている。さらに戦地や大本営の発表にを基にした新聞各紙は以下のようであった。 —— 「守兵一万五千余」(国民新聞1894年:明治27年10月21日付)、「旅順における敵兵は二万」(自由新聞11月25日付)、「旅順陥落後捕虜の言によれば清兵の同地にありしは二万」(東京朝日新聞12月1日付)、「清兵の同地にありしは二万と是れは事実ならん」(郵便報知新聞12月1日付)、「伊瀬知中佐の手に捕えたる洋人の話及びその他の状況に照すに敵兵の総数は二万五千を下らざるべし」(大阪毎日新聞12月1日付)、「軍司令部に於て捕虜を尋問したるに何れも皆二万五千内外なりと答えたり」(時事新報12月2日付)、「その筋の取調べたる処に因るに旅順に在りし敵兵力は……合計一万四千人」(大阪毎日新聞12月9日付)。

 これらの兵士の数に住民を加えなければならない。 —— 「房屋店舗約千戸に及び兵営基布、商買雲集し人口約六千に上り」(東京朝日新聞12月15日付)、「旅順の戸数四千余戸(余が実地に踏査せし所)人口は二万と称すれども、諸国より集合せし者なれば今にその明細を知る能わず(と町役人は言う)といえども余の逡巡する処に依れば二万五千はあるべし、その故は貧民に至っては一戸に二、三の竃を有し……」(万朝報12月20日付)、「旅順口の人家は凡そ二千戸位」(中央新聞12月27日付)等。この二千戸を取るとしても、当時は一戸に最低五、六人以上の家族がいたから(例えば先に触れたように「毎家、多きは十数名、少なきも数名の敵屍あり」と一兵士の日記にあるように)、少なく見ても一万数千人以上の住民がいたと思われる。

 そして11月21日の戦闘における清国側戦死者は少なくみて一千人以上、残りの将兵は逃げ隠れたが、山に囲まれた港町でほぼ包囲され、市街の建物や民家などに隠れるか、海に向かい、船があれば船を使って逃げるしかなかったようである。戦闘は21日だけで終わっていて、しかし日本軍は清兵が平服になって民家などに逃げ込んでいるという情報から、(山地師団長の「婦女老幼を除く外全部剪除せよ」との命令もあり)一戸一戸探し出して既述のように21日夜から25日まで掃蕩作戦を行なった。この流れの中で兵士だけでなく住民も殺戮の対象となり、婦女老幼も巻き込まれた。 —— 「旅順の市街死屍累々として足を入るるの地なく、為に街路行歩に難む計りなり、26日迄に計算し得たる死者の数三千と称す、清算し得ば尚之より多かるべし」(万朝報12月4日付)、「旅順に於る敵の死傷は未だ詳ならず、殺されたる者は総て五千人以上にて、内市中にて殺されたる者は千二百余人なりというもその後尚殺したる者ある故、分明なる報告を得ず」(読売新聞12月10日付)、「死傷捕虜総計二千百四十六名」(大阪毎日新聞12月12日付)、「尚海中に投じ射殺せられたる者その数を知らず、連隊長の言に依れば一万五千六百名なりと」(読売新聞12月12日付)、「総て今回の戦闘の旅順付近に於る敵を殺すこと実に六千に余ると」(第一連隊某中尉からの書簡)、「敵の死する者実に四千五百人、旅順の近傍はただ屍を以って充塞する有様なりしも一々之を片付け進軍の暇なければ余儀なく死屍の上に砲車を曳き去りたればその残酷は殆ど目も当られざりしと実見せし人の話」(万朝報翌年1月9日付)等とあり、検閲の目があっても、これらの中に時おり実態が記されていることがわかる。読売新聞の「海中に投じ射殺せられたる者、連隊長の言に依れば一万五千六百名なり」とはいかにも多いが、相当数が乗った船や海岸で追撃され死亡した事実も合わせると、中国側の言う一万八千名以上という数字は十分にあり得る。

 虐殺は旅順においてだけでなく、それ以前から行われた形跡がある(日中戦争開始の1937年:昭和12年の南京におけると同様、南京に至るまでに数多くの虐殺事件があって、南京虐殺はその勢いにのって行われた)。軍事諜報員兼通訳の向野堅一は、没後に編まれた『戦役夜話』(井上が大連図書館で閲覧した)において、余談として「旅順で山地将軍が非戦闘員をも捕らえて惨殺したと言うことが当時新聞でやかましく報じられたが、これは旅順戦の初め我が騎兵斥候隊約二十名が土城子で捕らえられ隊長以下首級を切り落とされ……言語に絶する惨殺の状を目撃したる山地将軍は大いに怒り此の如き非人道を敢えて行う、婦女老幼を除く外全部剪除せよとの命令が下り、旅順では実に惨又惨、旅順港内恰も血河の感」と記している。しかしやはり井上の調べで地元大連の各種証言資料の中で、11月18日の土城子での戦闘後、「その日の夜、日本軍の大部隊がやってきた。騎兵部隊と歩兵がいて、人に出会えばすぐに殺し、村にいた多くの住民は逃走した。私の祖父傅継有だけが家で見張りをしたが、日本兵は家に入るとすぐに祖父を殺害した。また韓玉祥の祖父も銃剣で刺し殺された」との証言があった。つまり18日の自軍の負け戦に山地は激怒し、すぐに先の命令を下したようであった。事実、同日山地は、「鼠賊の如き敵兵に向い今日の戦いを見るは遺憾なり、明日の戦いには余自ら之を指揮すべし」(中央新聞12月4日付)と語っている。

 また、旅順の戦闘以前のことで、東京朝日新聞10月28日付において、「旅順口近傍、海陸相応じて驚天動地の大惨劇を演じたる快報の来たりて吾耳朶を穿てるも近日にあるべし」とし、上陸直後に惨劇があったことを示唆している。さらにさかのぼって、この日清戦争は朝鮮の平壌付近から開始されたが、東京朝日新聞9月9日付で、「清軍の懸賞」と題する記事があり、清国兵が朝鮮の黄海道と平安道を通る日本人を捕らえてくれば馬蹄銀を懸賞として与える旨の告示を出しているその文の中に、「倭兵(日本兵)先に牙山に乱入し無辜の朝鮮人三千余人を虐殺せり、その残酷黙過するに忍びず、今天兵特に来たって被害三千韓人の為に倭兵を殲してその仇を報ぜんとす」とある。これが真実であるなら極めて大きい数であるが、多少誇張があるとしても千人はあったのかもしれない。またこの翌年1月下旬から山東省で威海衛の戦いが始まるが、『日本侵略山東史』において、「日清戦争の期間およびそのあと、山東半島沿岸の人民は直接に日本帝国主義の強盗どもの野蛮な蹂躙にあった」とし、「山東半島と威海衛において、日本軍がなした所業は、旅順口の行為に決して劣るものではない …… 日本軍は村に到着すると庶民の食料と家畜を奪い尽くし、威海衛の村々では食物が何もないという事態になった。…… 日本軍は至る所で放火して家々を焼き尽くした。亭子斉村では半世紀以上経った後でも当時の大火災の痕跡が残っていた。…… 山東半島においても日本軍は様々な手段で人々を惨殺し、例えば長峰村では17名、九家畽村では8名、海埠村では20数名と数え上げることができる。(この他、いつも付いて回るが婦女暴行も多く行われた)」と記している。こうした有り様は、繰り返すようだが日中戦争にそのまま引き継がれるが、日本が過去の行為を何も反省することなく、次の戦争に向かったということがうかがえる。今の我々日本人には、単純に、日清・日露戦争には勝ったが、その驕りで太平洋戦争に突入し無残に敗れたというような認識しかないが、明治の戦争初期からの負の遺産を見直す教育をし、歪みを正していかなければ本当の意味での国際交流はできないのではないかと思われてくる。

【旅順万忠墓】

 日本軍が旅順で捕虜とせずに虐殺した清国軍兵士と逃げ遅れた住民の大量の死体は、気候が暖かくなり遺体が腐乱する前の1895年(明治28年)初頭に、白玉山の東麓、順山街の溝里、黄金山の東麓の主に三カ所に大量の遺体を集めて焼却し、それぞれの「墓」に骨灰を埋葬した。埋葬作業は市街や水師営などから捕まえた中国人を3組の死体運搬隊に編成し、それぞれ死体を3カ所に運んだ。死体を担ぎ終えるのに一ヶ月かかった。死体を焼く材料は石炭と木造船の船板と木塊で、そこに灯油を蒔いた。焼却の過程で日本軍は鉄条、鉄パイプで支柱を作り、死体を浮かせて十分に燃焼させた。遺灰は4つの大きな石棺に集められ、白玉山東麓の埋葬場に埋葬された。墓前に木製の杭で碑を立て、「清国将士陣亡之墓(清国将士戦死者の墓)」と記され、老人や女性、子どもを含む一般住民に対する虐殺は隠蔽された。ただしその際、日清両国の僧侶を招いて供養を行った。

 ちなみにこの焼却埋葬作業にしろ多少の供養の行為にしろ、40年以上後の日中戦争では(南京事件を主として)まったく斟酌されず放置され、それは地元の慈善団体などや欧米の国際委員会が費用を出して手分けして行なったが、作業が追いつかず半年はかかった。また集団虐殺の場合、堀の淵や揚子江の河岸で行われ、背後に落とすか川に流して処理した。

 戦争終了後の同年、日本に対して行われた三国干渉(後述)により遼東半島が清国に返還されることになり、日本軍は旅順を撤退し、翌1896年(明治29年)11月21日(ちょうど旅順攻略から二年目)、清国政府は白玉山の埋葬地にあらためて石碑を建て、「万忠墓」の3つの大きな字を刻んだ。また石碑には「官兵商民男婦被難者計一万八百余名 忠骸火化骨灰叢葬于此」、つまり「将兵と一般人男女の犠牲者計1万800余名が火葬され遺灰をここに埋葬した」と、兵士だけではないことを示した。その後1922年(大正11年)と1948年(昭和23年)にも補修され新たな碑が建てられた。銘文には、日本軍の暴行と万忠墓の再建の経緯が記述されている。敷地は3600平方mで、1971年(昭和46年)に日中甲午戦争文物及び歴史写真展示室を増築した。大虐殺から100年後の1994年(平成6年)に万忠墓の4回目の修築が行なわれ、万忠墓記念館も新たに竣工し、11月に甲午(日清)戦争旅順殉難同胞百年忌が挙行された。その後、2006年(平成18年)に万忠墓は「全国重点文物保護単位」に登録される。全国重点文物保護単位とは、この後の1931年(昭和6年)の満州事変から14年間、つまり太平洋戦争が終わるまで続く中国で継続的に行われた戦乱下で発生した数々の残虐事件の結果、各地で記念碑・記念館が作られていて(昭和期で触れる各地の「〇〇万人坑」も入る)、それが「保護単位」として指定されていて、この旅順の場合(その後の膨大な犠牲者を思えば)そのほんの前触れのようなものとみてよい。

 なお、記念碑にある1万800余名については、まだ調査の行き届かない時期であり、今では2万人前後とされているが(海岸に逃げて日本軍に射殺されたり溺死して海に流されたものたちは埋葬の数に入っていない)、日本軍が先に焼却してしまったので、永遠にその数は不明である。兵士も中国の各地から集められていたし、住民も今のように正確に把握されていない時代のことである。極端に言えば、広島と長崎の原爆においても、あるいは東京大空襲においても正確な人数は把握されていない。

(この項は筆者の見解以外は中国のサイト百度百科の「旅順大屠殺」、「万人坑を知る旅:旅順万忠墓」青木茂などからである)

 この万忠墓の歴史に関しても井上晴樹は『旅順虐殺事件』において詳細に調べて以下のように記している。

 この後1904年(明治37年)にまたも朝鮮から日露戦争が始まり、主に清国を舞台にした。翌年日本が勝利して終結するが、旅順は再び日本の統治下に入り、これが40年も続く。旅順は日本化され、市街の名も日本名に変えられ、出雲町、名古屋町、松山町、高知町、善通寺町、博多町等々、連隊の所在地の地名を持ち込んだものや、乃木町、大島町のような軍人の名前から取ったものもあった。万忠墓は乃木町一丁目の街道右手の丘の上にあった。この万忠墓は統治する日本軍にとって邪魔であった。そしてある時、高さ1.4m、幅53cm、厚さ15cmの石碑が深夜に盗み出されてしまった。その後万忠墓は単なる塚となり、次第に荒廃していった。1922年(大正11年)、旅順華商公議会の会長陶旭亭らが中心となって万忠墓再建の募金活動を始め、ほぼ同じ大きさの石碑が新たに造られ、瓦葺きの拝殿が建設された。旅順警察署はこれに文句をつけ、横に「四明公所」と彫られた文字をセメントで塗りつぶした。ただこれにより人々がここに慰霊に訪れるようになり、春と秋には大祭が催された。その後満州事変を経て日本軍が満州一帯を占領すると、旅順民政署は万忠墓を邪魔者扱いし、この周辺の土地は果樹園を営んだ日本人の所有となり、万忠墓は有刺鉄線で囲まれ、墓所は隠された。旅順当局は遺族たちと旅順華商公議会に万忠墓を移転するように通告したが、華商公議会は強く抗議し撤回させた。さらに1937年(昭和12年)に日中戦争が始まり、万忠墓は荒廃した。

 1945年(昭和20年)、太平洋戦争における日本の敗戦により旅順も日本から解放され、市民政府は愛国主義の高揚のために万忠墓の歴史的事実に着目し、翌年から万忠墓の補修と周辺を整備し、10月、慰霊祭が開催された。二年後、さらに市の特別予算と義援金により用地拡大による大規模改修がなされ、周囲を塀で囲み、亨殿も建て直され、立派な正門の上には「万忠墓」の文字が掲げられ、墓にはより大きい第三の石碑が建てられた。実はこの墓の設計は、戦後も中国に残っていた日本人の建築家であった。また、最初の石碑は、1939年(昭和14年)に病院の敷地に旅順医科専門学校を建設するときに発見され、そのまま隅の塀に立てかけられていたが、それを回収し、第二の石碑とともに新たな石碑の左右に据えられた。そうして中華民国時代の1948年(昭和23年)12月、落成式典が盛大に執り行われた。

 1949年(昭和24年)、共産主義政権の成立後も万忠墓はナショナリズムを高揚する場となった。1950年(昭和25年)の朝鮮戦争勃発により日本も警察予備隊創設から、再軍備へ一歩進めるが、そのあたりから中国のメディアは旅順虐殺事件(ばかりではないと思われるが)を取り上げ始め、聞き取り調査なども行われるようになった。1960年(昭和35年)頃より事件をテーマにした演劇活動も行われ、その活動は次第に人々に浸透し、1971年(昭和46年)には墓の後方に数々の資料を置き、「日本帝国主義が中国を侵略した史実」を明らかにする展示室が建てられた。1994年(平成6年)の100周年を受けて全面改修が行われるが、墓の発掘調査が行われることになった。その作業は逐一記録され、写真やビデオにも撮られた。出土した骨灰や物品はふるいにかけられ、番号付をして箱に収められた。墓はのちの日中戦争による虐殺のように無造作に穴に放り込まれて土で覆われたものではなく、石で築かれた墓室があって、煉瓦も使われ、石蓋で覆われていた。人骨の多くは火葬されていて、焼却時に使われた鉄パイプ、焼却の燃料にした船板の鉄釘や銅鋲など、また装飾品や釦などが混じって出てきた。中には幼児の薄い頭蓋骨の断片も出てきて、兵士だけが虐殺されたのではないことが示された。

 100年後の1994年(平成6年)11月21日、新しい万忠墓の除幕式が大々的に行われ、共産党政府の要人も含めて参加した。新たな記念館も建てられたが、事前に義援金も集められ、日本の僧侶からも寄付があったという。この日の追悼式典は中国のメディアで大きく伝えられたが、知らぬは日本人ばかりなりという状況である。日中戦争における数々の事件に関しても、日本の有志の人たちが陰で地道に認知活動を行なってきているが、当今の日本のメディアの表に出ることはまずほとんどない。本当の日中友好を築くなら、こうした事実を我々日本人も共有しなければならないし、その活動は中国の人たちに歓迎されることは間違いないのである。

戦死者と捕虜

【戦死者と異様に多い病死者】

 この日清戦争全体では全動員兵力24万616人、うち17万4017人が派兵され、軍夫は14万9000人であった(軍夫も武装した輜重輸卒であったから日本軍の派兵動員は32万3000人であった)。そのうち日本軍全体の戦死・戦傷死は1417人(あるいは1567人)、病死1万1894人(あるいは1万2081人)、戦傷病3758人(あるいは3973人)、軍夫の死者数はおよそ7000人以上と推定されている。また中国側の死傷者は約3万5000とされる。この中で日本軍の病死が異様に多い。この頃は衛生への管理も悪く、赤痢、コレラ、腸チフス、胃腸病、あるいは凍死(この戦争はちょうど冬場で、中国東北部は北海道かそれ以上に寒い)などで死亡したが、一番罹患率が高いのが白米(玄米の胚芽を削ぎ落とした普通の米食)偏重による脚気(ビタミン不足で起きる)であり、当時は原因不明とされた。要は栄養不足と衛生への配慮不足で、いずれにしろ無駄な戦死者を多く出し、10年後の日露戦争でもむやみに戦争を仕掛け、同じように兵士の多くを病死させた。いずれの戦争も、当時の国内では「勝った、勝った」と浮かれ騒いでいたが、その裏ではこうした馬鹿げた犠牲があった。

【旅順以外の捕虜の扱い】

 「旅順以外の捕虜」というのは、旅順では捕虜を取らずに殺戮してしまったからであるが、この戦争は当初より対外的にも日本の威信を見せるために国際法遵守を重視するとしていて、天皇の宣戦の詔勅にもはっきり記されていた。実際に大山巌司令官の国際法顧問として有賀長雄が従軍し、軍紀違反がないか見回っていたはずだが、既述のように実際の戦闘後も特に旅順で捕虜にすべき将兵の大半を民間人も含めて虐殺してしまった。現今では日清戦争による捕虜は一応日本に護送され、各地で丁重に扱われたという記録が残っている。しかしそれは表向きのことであり、先にも触れたが、『明治27、28年戦役統計表』によると、この戦争全体で翌年3月までの捕虜は1790名で、そのうち初期の1895年(明治28年)8月に朝鮮平壌で捕虜にしたのが616名、10-11月の大連、金州では221名、戦争終盤の翌年3月あたりで牛荘城における捕虜が689名、それに比して大きな戦闘のあった11月下旬の旅順(双台溝含む)の捕虜は11名に過ぎない。つまり旅順で捕虜とすべき清国兵のほぼすべてが虐殺された証左となっている。このほか日本軍が清国軍を捕虜にした地域は20数ヶ所になっているが、既述のように旅順以外にも捕虜とすべき清国兵を殺害した例は少なくないと思われ、1790名というのはその何分の一ではなかろうか。

 実際に現地で軍刀で捕虜を「試し斬り」したという記録も見られる。1895年(明治28年)10月4日の『扶桑新聞』では、平壌で捕虜にした約500名のうち一部が反抗し、逃亡を図ったため、「死刑」を宣告し畑の中に引き出して「斬罪」に処したとある。しかもこの時、従軍の巡査の一人が一刀流の達人で、一喝の下に11人までその首を斬り落とし、周りで見る人が歓呼したと記されている(このような光景は1937年:昭和12年の日中戦争開始から以降も南京事件も含めて数多く見られる)。また上記「戦役統計表」では同じ平壌の捕虜について死亡者60名、そのうち47名を反抗のため銃殺したとあり、牛荘の戦闘では90名の死亡者のうち13名を射殺したとしている(これは前者が銃殺で後者が斬殺ではないかともされる。つまり牛荘からは689名が捕虜として日本に送られている事実があることによる)。このように旅順以外でも各地で虐殺された捕虜は多いと思われるが、国際法では逃走する捕虜を改めて捕えた場合でも刑罰を加えてはならないとしている。

 いずれにしても平壌での捕虜から翌年の6月までの捕虜は順次国内外に移送された。1790人のうち実際に移送されたのは1681人で、清国の盛京省(奉天)海城に677人、国内では東京・千葉県佐倉・群馬県高崎・愛知県豊橋・名古屋・滋賀県大津・大阪・広島・四国松山の9カ所に1004人が収容された。当時の収容所は基本的に寺院をあて、東京は浅草本願寺、名古屋は建長寺、大阪は難波別院などであった。捕虜は国際法のもとでは罪人ではなく、仇討ちの対象でもなく、博愛を持って扱うことが原則であった。今回の捕虜の待遇については特別に規則が作成され、服装はできれば清潔を保ちやすい小倉織がいい、冬は暖炉や火鉢を居室に支給する、室内・浴室・厠の掃除や水汲みや衣服の洗濯は自分でさせる、食料は現品を与え自炊とする、所持品は別途保管し退去の時に返す、仮に死亡した時には陸軍埋葬地に埋葬し墓標には官位姓名と捕虜になった日付と死亡の日付を書くように等々と細かく定められていた。

 清国の捕虜たちにとって問題は日本人の偏見や蔑視であった。名古屋などでは新聞報道により寺に見物人が多く押しかけ、動物園の熊や猿などを見るような観を呈し、中には「チャンチャン」や「豚尾」と軽視するものがいたため、これでは逆に日本人の品位を汚すものとされ、捕虜を慰問するものに対し、言葉で侮蔑や誹謗することを禁止するとの注意もされた。市民の篤志家から捕虜への物品の寄贈もあり、小学生の慰問による交流もあって、それに感激した捕虜が漢詩を送ったとの話もあった。このように国内では捕虜に対する配慮がなされたが、厚遇されている捕虜の様子に対してむしろ良い印象を持たず、地元の新聞では捕らわれる前に自決した清国人将校の話をあえて取り上げて「健児」として称え、日本人も勇敢に戦った上で自死すべしという論調もあった。この明治時代からの精神的傾向が昭和の戦争でも捕虜となることを恥として玉砕戦法を取らせることになるわけである。

 1895年(明治28年)5月に下関条約が成立すると、6月に清国から捕虜送還の要請が届き、8月に御用船が手配され、横浜、神戸、松山に捕虜を集めて船に乗せ、清国に送還した。それに合わせて清国の海城の捕虜も引き渡された。捕虜引き渡しの業務に従事した人物の復命書によると、捕虜たちは日本側の待遇に感謝したという。なおその間の死亡116人、逃走20人であったが、そのうち海城の死者90人、逃走19人であるから中国内の捕虜収容所の処し方に問題があったのであろう。捕虜の交換で清国から引き渡された日本の捕虜は11名、そのうち10名は軍の人夫だった。これは戦闘後は日本軍がほぼ占領したため、日本兵が捕虜に取られる余地がほぼなかったためであろう。

(以上は主に『近代日本における捕虜』森雄司/中京大学法学研究論集第25号より抽出)

日清戦争勝利後の出来事

 いわゆる戦史の記述において、講和条約などが結ばれるとその戦争が終わったことにされる。しかし決してそうではないことは以下の数々の事実において明らかであり、終戦後の他国の占領体制の軍隊の駐留とその抑圧のなかで、地元民のゲリラ的な活動とそれに対する武力による鎮圧や刑罰の執行なども含めて戦争の継続であると認識してよい。また次の戦争が勃発する前にも各種の挑発的な衝突事件が見られる。その意味で筆者は日清戦争開始から太平洋戦争までの間の51年間を50年戦争と見ているが、それも一つ一つを調べて繋いでいるうちに結果的にその認識に至った。また日本は基本的に他国に侵略されたことはないが、日本は日清戦争が終わっても中国や朝鮮から軍を撤退させないままで、それが日露戦争にもつながり、さらに満州事変、日中戦争にもつながるが、太平洋戦争の裏でも日中戦争は続いていて(筆者の「中国における日本軍の年月日別空爆記録」がそれを証明する)結果的に50年間も続けられていたことも一般的に認識されていない事実である。今ひとつは、大正時代の第一次世界大戦への参戦(これも主に中国が舞台)、次にロシア革命への干渉戦としての「シベリア出兵」があるが、これは日清・日露戦争の期間を合わせたよりも長い隠された戦争で、これもロシアと自国に多大な犠牲者を出した。筆者の役目はこれらすべてをできる限り表に出していくことである。

日清講和条約と台湾割譲

 日本はイギリスとの外交交渉を続けており、日清戦争開始前の1894年(明治27年)7月に日英通商航海条約を結ぶことに成功し、懸案だったイギリスの中立的立場を確保した。これについては外務大臣陸奥の功績が大きく、幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功、以後、アメリカ、ドイツ、イタリア、フランスなど、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正を成し遂げた。こうした意味では陸奥の実績は功罪半ばであるが(罪としては日清戦争を強力に推進した)、とりわけ明治時代の政治家はいずれも似たような側面を持つ。

 日本軍はさらに台湾を占領する意図で上陸しようとするが(すでに足がかりとする澎湖島を占領していた)、1895年(明治28年)3月に日本の勝利を前提に休戦が決まった。そこで3月30日、まず澎湖島、台湾を除外する日清休戦条約を調印、さらに広島で日清講和会議を行った。清国側の全権大使は李鴻章であったが、彼は首相の伊藤博文に覚書を送り、その中で「清国領土の割譲は清国民の対日復讐心を高め、将来の日清協力を困難にする。また日清両国の紛争は、列強の侵略を誘起するのみであり、日本は講和条件を緩和すべき」 と訴えた。これはきわめてまともな意見であろうが、日本は強硬に出て、日本が遼東半島・台湾・澎湖列島の割譲と賠償金支払いを受ける内容になり、4月に日清講和条約(下関条約)が調印された。台湾は翌1896年(明治29年)4月に日本の軍政から台湾総督府による民政に移行し、ここから1945年(昭和20年)の敗戦まで、50年間、台湾は日本の植民地となる。

三国干渉(1895年:明治28年)

 日清講和条約の内容が明らかになると、シベリア極東からの南下政策の最中にあったロシアは、朝鮮を半ば日本の支配下に置かれた上に遼東半島を日本に割譲されると海洋への出口を失ってしまうことで反発し、同じく中国のその地区の権益確保を狙っていたフランス・ドイツと共同して、4月23日、日本に対して清への遼東半島還付を要求した。これを三国干渉というが、すでに香港を領有していたイギリスはこれに干渉せず、アメリカも中立を保った。これに対し首相の伊藤博文は、列国会議を開催して遼東半島問題を処理する提案をしたが、陸奥外相は三国との交渉が長引けば他の諸国も干渉してくる可能性と、清が講和条約を批准しない可能性があるため、日本としてはやむなく勧告を受諾することにした。この結果に世論は激しく反発したが、政府は列強に負けない軍事力増強に励むとした。

 これを機に当の三国は、中国の分割支配に本格的に乗り出すことになった。清が背負った高額の対日賠償金への借款供与することで、その見返りに次々と租借地や鉄道敷設権などの権益を獲得し、さらに特定範囲を他国に租借・割譲しないなどの条件を付けていった。具体的にはロシアは遼東半島、ドイツは山東半島、フランスは広州湾一帯に租借権を得た。つまりこの日清戦争は、列強国に中国における権益確保のチャンスを逆に与えることになり、これらが後の日露戦争と、第一次世界大戦下の日本の対ドイツ参戦につながっていく。何のための戦争であったか、という疑問を持たせる戦争が、早くもここから始まっている。

乙未事件(朝鮮:閔妃暗殺事件)

 今ひとつの事件があった。上記「朝鮮王国への干渉」で経緯を述べたが、この日清戦争で日本としては朝鮮に関しては実質、親日派の大院君を復帰させたに過ぎなかった。また三国干渉によって日本の影響力が後退すると、政権を追われていた明成皇后(閔氏=閔妃:ビンヒ)とその一族は、朝露密約を背景として、1895年(明治28年)7月6日、ロシア軍の力を借りてクーデターを行い、大院君と親日派閣僚を追放した。これに危機感を持った日本の新任外交官である三浦梧楼公使と軍事顧問岡本柳之助は、館員と守備隊と大陸浪人、さらに朝鮮親衛隊や警務使らを伴って、10月8日未明、王宮に侵入し、明成皇后閔妃を斬殺させた上、遺体を焼却した。これを乙未(いつび=干支で60年に一回の年にちなむ名称)事件といい、朝鮮軍内部の紛争のように偽装工作をしようとしたが、宮中にいたロシア人政治顧問やアメリカ人軍事顧問に、日本人が血刀を下げて意気揚々と引き上げるところを目撃されてしまった。14日、アメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』は「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性三人を殺害した」という第一報を10日に漢城から発進したが、東京でさし止められていた、と報じた。

 日本領事館の一等書記官内田定槌は当日、東京の原敬外務次官に第一報を送り「王妃を殺害したのは守備隊のある陸軍少尉である」と伝え、その時の伊藤博文内閣の外相陸奥宗光は病気療養中で、西園寺外相臨時代理は小村寿太郎政務局長を現地に派遣した。小村が10月17日に西園寺に出した調査報告は、三浦公使の策略と断じ、また欧米諸国の日本への非難もあって同日、公使を召喚し、罷免した。そして三浦をはじめ事件に関与した容疑のある外交官、軍人らを日本に戻し、軍法会議にかけた。三浦ら48名は謀殺罪等で起訴され、広島監獄未決に収監されたが、翌年1月20日、首謀と殺害に関しては直接関与の証拠はないとして免訴となり、そのうち三浦を含む12人を放免した。その前の11月5日付の内田一等書記官による報告では「当領事館員および守備隊までを煽動して、歴史上古今未曾有の凶悪を行なうに至りたるは我が帝国の実に残念至極」としていたが、日本の軍政官人というのは今に至るまで面倒なことはなかったことにしたがる性癖があって、この免訴もその一つであろう。三浦はその後も長州閥の旧軍人として優遇され、晩年には枢密院顧問となっているが、こうした事件を起こした当人が一時謹慎処分とされながら、その後復権して昇進していく例も、この後も後を絶たない。官の世界というのは一種の互助会なのであろう。

 閔妃の死亡が一般に公表される前に大院君が閔妃の皇后の地位を剥奪する等の動きがあるが、朝鮮側でも裁判が行われ、自白した李周会(前軍部協弁=次官)をはじめ、他2名とその家族を12月29日に死刑とした。国王高宗は首相の金弘集その他を罷免し、その後事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめて発表した。その史料によると高宗は殺害現場近くにいたという。その後も高宗の元側近6名も事件に関与したとして処刑された。これらの背後には大院君がいたはずであるが、国王の父君という立場で追求は免れていた。

 まるで権力争いを重ねる王朝TVドラマのようであるが(具体的には国王の父君派が国王の王妃を殺した事件で、肝心の国王は当初から何もできずにこの争いの外側にいた)、いつの間にか日本がバックアップする対象が、閔妃側から大院君側へと入れ替わっている。いずれにしても、この種の謀略と偽装工作は、日本軍はこの後も中国がらみでその対象を入れ替えながら数々実行した(例:1928年:昭和3年の張作霖爆殺事件は、それまで日本軍は彼をバックアップしていたが、邪魔になって事故を装い殺したものである)。

 ここにおいて民衆の反日感情は強まり、まず金弘集政権がこの王妃殺害事件に対して無策であるとして、まず金弘集たちを殺害、1896年(明治29年)1月、「国母復讐」を掲げ、最初の反日武装の義兵闘争が起きる(乙未義兵といい、既述の前年の二度にわたる東学党農民軍の乱とは区別される)。忠清北道の儒学者柳麟錫や京畿道の李春永、元東学党であった慶尚北道の李康秊らが挙兵して各地で日本軍や親日派の政府軍などと戦った。3月頃には義兵闘争は朝鮮半島全域にまで拡大しようとするが、これに先立つ2月に、首都の防備が手薄になったすきに親露派が再度クーデタを起こし、高宗をひそかにロシア公使館に移して親露派政権を樹立、標的としていた親日派が失脚したために義兵は名分を失って瓦解、10月に最後まで抵抗していた柳麟錫・李康秊も満州に逃れた。その後ロシアはさらに朝鮮への影響力を強め、日本はロシアの朝鮮支配に対抗して日露戦争へ至るようになる。ちなみに朝鮮は、日清戦争を機に長年の清国の庇護下から脱したということで、1897年(明治30年)より大韓帝国と称し、日本に併合される1910年(明治43年)まで続いた。

(以上は筆者の私見以外はサイト「世界史の窓」その他より混成)

<余話>

 日本のある大学のゼミで韓国留学生が2名いる中で、講師が日韓の歴史認識の違いに関して、この閔妃暗殺事件のことを取り上げた。当然韓国留学生は知っていて、日本人学生は誰も知らずにただぽかんとしていた。韓国の高校の歴史教科書ではこれを教え、日本では一行も触れていないというだけのことであるが、筆者も知らなかったし、筆者の世代も他の世代も、誰も知らない。そもそもこの事件だけではなく、日本が加害国としてのもっと大きな歴史的事件など(上記の東学党の乱や旅順虐殺事件も含め)、よほどのことがなければ教科書で取り上げられることはなく、それは昭和に入ってからの日中戦争・太平洋戦争まで同様であり、その意味でも筆者はできる限り表面的な歴史記述より被害的立場から取り上げていくのを主旨としている。

台湾平定作戦(乙未戦争)と反乱による数々の事件

 1895年(明治28年)、日清戦争終結により下関条約が締結されたが、この戦争は終わったわけではなく、以下のように連綿と続く。少なくとも占領した国の中で反乱がありそれを鎮圧するための戦闘があれば、それは戦争のうちである。

【平定作戦とその戦死者】

 清王朝から日本に割譲された台湾に、日本は改めて近衛師団を派遣、5月29日、日本軍は東北角の三貂湾の澳底から上陸し、途中基隆などを陥落させ、大きな抵抗はなく6月7日台北城を占領した。6月17日に台北で台湾総督府始政式が行われた。その前の5月に日本の領有に反対する官僚と有力者による「台湾民主国」の独立宣言がなされ、台南を拠点とするが、あてにした列強の干渉の支援もなく、侵攻した日本軍の前にすぐに台湾民主国軍は瓦解し、民主国総統に続き、将軍も大陸に逃亡した。この後、台湾内を平定するため日本軍の台北からの南進が始まった(台湾側では乙未戦争と称する)。しかし台湾に残った清国兵(民主国軍も含む)と現地の武装住民(義勇兵)の抵抗が激しく、日本軍は増援部隊を要請し、台湾西部平原から台南を占領した。こうして全島平定するのに11月まで5ヶ月を要したが、台湾総督府は平定を宣言、11月に台湾民政支部を設置した。翌1896年(明治29年)4月に民政に移行するが、5月に日本軍は打狗(今の高雄市)に兵を進め、25日に卑南(今の台東県)に上陸した後、台東庁を設置、6月に日本軍は東部花蓮県方面に侵攻し、花蓮港に守備隊を設置した。こうして台湾全島、そして澎湖島が日本の支配下となった。

 この一連の平定作戦で日本は約7万6千人の兵力(軍人約5万、軍夫2万6千人)を投入、死傷者5320人(戦死者164人、病死者4642人、負傷者514人)、さらに軍夫7千人の死者を出した。病死者が圧倒的に多いのは、上記日清戦争中と同じ理由であるが、さらに台湾の熱帯地区ではマラリアに感染して死亡する場合が増えた。台湾の抵抗勢力は義勇兵あわせて1万4千人の戦死者と戦傷者約2万1千人を出したとされる。ただし後述するが、表に出てこない無抵抗の住民の死者はもっと多い。

 1895年(明治28年)11月18日、樺山総督は台湾の全島平定宣言を行なうが、その翌日、漢族の住民に対し、反乱した者も帰順して降伏すれば、希望するものは台湾から中国本土への退去を認めるとし(国籍の選択)、その期限を2年後の5月とした。しかしその後も年末には北部で、翌1896年(明治29年)春からは中南部の各所で義勇兵による蜂起が起こった。1897年(明治30年)に退去の期限が到来し0.2%程度の住民(約6万人)が去ったのを契機に、1898年(明治31年)、総督府は治安確立に向けて「保甲条例」(警察官の指揮命令を受ける下部組織として住民を戸数に分けて管理する制度)と「匪徒刑罰令(極刑の適用)」を公布、合わせて「招降政策」(降伏に対する表向きの寛大な処置)も同時に進めた。この刑罰令は全部で7つの条文からなっていて、賊徒の首謀者であろうと唆した者であろうと、すべて死刑に処するという厳罰を適用した。この令だけでも翌1899年(明治32年)の一年間に死刑に処された者は1023人にのぼった。1902年(明治35年)までゲリラ的な抵抗・襲撃運動は続いたが、軍警察の容赦のない討伐作戦と全島より私有武器を押収したことにより抗日ゲリラ活動は一応収まった。これ以降、太平洋戦争による日本の敗戦で日本が台湾から撤退するまでの50年間、日本の統治による台湾人の死者は40万人とされる。

◯ 以下は、日本側の資料だけでは見えない事件(既述の旅順虐殺事件と同様に)の数々である。ほぼ信じがたい事件の内容もあるが、先に昭和の日中戦争の初期までの日本軍の加害状況を精査し、次に明治にさかのぼってた調べてみた筆者にとって既視感のある出来事であると同時に、この日清戦争の時期からすでにと(上記の旅順虐殺を含めて)唖然とし驚く以外にない。以下は特記以外は台湾のサイトの各種資料からの抽出、混成したものであるが、後述の原住民の反乱に関しては、そのテーマの取り組みやすさにより日本側での研究や資料は多く、この漢民族の反乱(抗日活動)に関しては極めて少ないのが実情で、筆者はたまたま雲林虐殺(これは日本でも取り上げられる)が目に留まり、そこから直接台湾のサイトから調べを広げていった。(訳文筆者:筆者は中国語はできないが、近年の優れた翻訳ソフト数種に頼っている)

【桃園大虐殺】(桃園・三角湧・大嵙崁大燒殺)

 台北南方の桃園県の大嵙崁渓沿いには、大嵙崁の江国輝、三角湧(現・三峡)の樟脳製造業者蘇力、樹林地主の王振輝らがそれぞれ「住民自警団」(義軍)を率いて自衛していた。1895年(明治28年)7月12日、日本軍は三角湧街に侵攻したが、住民は親善を装い抵抗しなかった。翌日、そこから日本軍が南進し大嵙崁に向かって通る狭谷地帯で義軍は待ち伏せし、川を遡る食糧輸送船団を挟撃して日本軍の多くを死傷させて(13日、一個小隊の34名全員戦死)撃退した。その後も14−16日にわたり攻防は続き、この戦闘での日本軍の戦死者は200余人で、義軍の死傷者は10数人という。しかし7月20日、日本軍は旅順から援軍を得て優位な火力をもって巻き返し、大嵙崁の義軍を撃退した。その後数日間、樺山総督は「頑迷桀猾」な「土民」に「懲罰を加える」として、義軍の殲滅作戦を行い、大嵙崁の東から三角湧の間のすべての村に対し、焼却作戦を行った。そこは4万人ほどの街々で、7月22日から3日間燃え続け、炎は10km以上を覆い、住宅1500戸以上(あるいは数千戸)を焼失させ、民間人の死傷2万2260人とされる(この死傷の数字は相対的にみて過剰に思えるが、他と合わせた数字かもしれない)。この戦闘で台湾義軍の戦死者は800人以上、捕虜は150人、日本軍の戦死者は200人、負傷者は80人だった。汪国輝は日本軍に斬殺されたが、この後何年にもわたってこの義軍のゲリラ活動は続いた。

【嘉義大莆林大虐殺】

 1895年(明治28年)8月30日、日本軍(近衛師団:師団長は北白川宮能久親王)は台北から南進し雲林の彰化までを攻略し、9月2日に嘉義県大莆林(現・大林)に侵攻した。この地の大地主でリーダーである簡精華は、彰化の敗北を見て装備戦力が日本軍の敵ではないことをよく知っていて、霊に炭を塗ることに忍びず抵抗を放棄することを決め、住民に道路の清掃を命じ、食べ物を提供して日本軍を歓迎するよう命じた。しかし予想外に日本軍は簡に200人の女性の献身を要求してきた。簡は承知しなかったが、すると日本軍は当地の女性およそ120人を捕えて強姦したうえで60人以上を殺害した。複数の女性生殖器は削られた竹片に貫かれ、腸まで体外に引き出された。

 簡は怒りに震え、雲林の民衆を集め、9月3日から弓矢、棍棒、罠、土銃で日本軍を襲撃し、ついに清軍と協力して大莆林と雲林を奪回し、日本軍を濁水渓以北から追い出して彰化まで反攻した。当時の従軍記者は「日本軍がこれほど苦戦したことは日清開戦以来なかった」と記したほどだという。これに対して日本軍は増援軍を得て彰化から他里霧(現・雲林県斗南鎮)の城壁の下に迫り、9月5日の夜、夜襲をかけて翌朝他里霧を占領した。さらに大林に2ルートから侵入し、数日間対峙したが、食糧や武器の不足、あるいは漢奸の日本軍への協力などもあって、大林の抗日軍は敗退した。この戦闘で抗日軍(義軍)の戦死者は130人で、日本軍側の戦死者は10人だった。

【蕭壠大虐殺】

 1895年(明治28年)10月10日、嘉義布袋口から上陸した混成第4旅団(旅団長は伏見宮貞愛親王で日清の戦いを終え中国大連から来た)は、途上の義勇軍を撃退しながら沿道では民家を燃やしつつ、蕭壠(現・台南県佳里区)に到着した際、佳里には日本軍の侵攻から逃れて近隣地区から多くの住民が避難していて、村民を含めた1万人近くの人々が渓谷沿いの竹林が入り組んでいる天然溝に隠れていた。義勇軍はこの断絶した地形を利用して、塀や竹柵を築き、村を守っていた。10月20日、日本軍は義勇隊を撃破しつつ、人々の隠れた天然溝に至り、そこで赤ん坊の泣き声を聞きつけ、人々を囲い込み、2時間近く激しく機関銃を乱射した。凄惨な悲鳴が上がり、この世の地獄のようになった。この時、およそ2000人が殺戮されたとされる。

 この時期、近衛師団長の北白川宮能久親王が台南県塩水区(佳里区の北方にあり、師団は南進して佳里の第4旅団に合流前と思われる)で藪に隠れていた義兵によって暗殺されたとされ、それに激怒した日本軍がこの佳里区の虐殺を行ったとも言う。しかしその10月20日以前であったかどうか、親王は日本側の記録では10月28日にマラリア熱で斃れて死亡したとされている。ただ、台湾側ではどの記述を見ても義兵によって殺されたとあり、いまだに現地住民にもその口伝が残っているという。真相はわからないが、日本軍が都合の悪いことは隠し、後で修正して場所や日付を変えて発表する例は他にもあり、日本側の記録が正しいとは限らない。現にこの時、表向きには「(能久親王は)御病気にて御帰京遊ばさる」ということになっていて、遺体が日本到着後、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示され、国葬に付された。また台湾ではこの死は伏見宮貞愛親王とも書かれているのも見受けるが、貞愛親王は1923年(大正12年)まで生きているから、よく調べないで書かれている面もある。いずれにしろ、佳里大虐殺は、北白川宮能久親王の死に対する報復戦とあえて言わなくとも、前年の旅順大虐殺(参照)の例を見ても、さらにこの後の長い戦争においてもしばしば日本軍は中国各地で無情な虐殺を行なっているから、大いにありうることである。

 ちなみに、北白川宮能久親王の所持していた「宝剣」が日本に戻されていず、それを探しに植民地時代に皇室関係者が4度も台湾を訪れたというから、それが事実とするなら病死説はあやしい。また台湾の各所に能久親王を祀る神社が60社も作られたが、敗戦後にはすべて廃社となった。

 その後佳里区は衰退したが、1920年(大正9年)台南庁北門嶼支庁と蕭壠支庁が合併し北門郡が成立したとき、郡守となった酒井正之は、その地の耆老と保正に協力して、広安宮将軍府(古くは共亡廟と呼ばれ、忠烈祠とされていた)を設立、そこで掘り出された多くの遺骨を安置した。また残りの一部は廟から約2km離れた塚の中に埋葬された。地元では毎年10月20日(旧暦9月3日)、家々が番仔(日本軍のこと)のために犠牲になった祖先を祭っているという。また日本の植民地時代には、泣き止まない子どもをだますために、大人たちが「ばんこが来たぞ」と脅す習慣があったという。実はその裏には、日本軍に見つかって虐殺されるのを避けるために、泣く子供を生きたまま首を絞めて殺したということから来ているともいう。これは太平洋戦争終盤の、サイパンや沖縄で、米軍の上陸作戦で壕に隠れた住民が、米兵に見つからないようにと日本兵に脅されて、赤ん坊を殺してしまう例もあったが、近似しているのかどうか。

【宜蘭元旦事件】

 上記の桃園・嘉義・蕭壠などにおける漢民族の反乱はその後も続き、台北市東南に位置する宜蘭でも1895年(明治28年)の夏場から反撃計画が練られていた。この「義挙」の主導者は徐禄(徐天賜)で、主要な参加者は林李成、林維新、林大北、胡阿錦、陳秋菊、鄭文流、詹振などがいた。彼らは概ね地元の地主や事業主で、例えば林李成は砂金採掘業であった。しかし日本に占領されると自分たちの財産や土地が奪われることになり、すでにその弊害が見られ、それに抵抗しようというものであった。彼らはその知名度によって「台湾回復」と掲げて義軍を募り、日当を与えるとして人を集めた。年末には台湾は「倭奴」に数ヶ月のうちに占領されるから決起するようにとの檄文も配られた。

 元旦に日本人が酒に酔っている間に決起しようと、1896年(明治29年)1月1日、台北城と宜蘭城を同時に包囲攻撃し、1月7日と8日に再び宜蘭城を攻撃した。この台北城への攻撃には桃園県で反乱を起こした蘇力もいた。台北に対しては日本軍は2日と3日に援軍を向けて鎮圧したが、宜蘭は12、13日に鎮圧した。その後日本軍は大規模な「掃蕩」を開始(清郷の挙)、各所の匪徒と思われ抵抗するものは悉く殺し、家屋は焼かれ、宜蘭平原のの大半は灰燼に帰し、台北の錫口及び暗坑一帯も日本軍に市街を焼かれた。約1500人が殺され、家屋約一万戸が焼き払われたとされるが実態は不明であるものの、他の地区での被害と比較するとありうる話である。

 事件の後、胡阿錦、林李成、蘇力などは対岸の厦門に逃げたが、徐禄、詹振、陳秋菊、鄭文流、林大北などは身を隠した。しかし1897年(明治30年)5月、台北市大稲埕(現・大同区)において詹振、陳秋菊らが中心になって再び決起し、大規模な略奪を行い、日本軍に撃退され、襲撃に加わった600人のうち、少なくとも125人、加えても150−160人が殺されたとされる。攻撃地点は大稲で、覆審高等法院、租税検査所などで、民家の被害38戸であった。これは大稲埕事件と言われるが、元旦事件と違って掠奪が主目的であった。1898年(明治31年)になって後藤新平は、周囲の「今の土匪は清の時と違って純粋な盗賊ではなく、元は財産があって、日本人によって財産を失っている事情もあり、そこで政府がもし仁政を施し投降者に生業保証などの条件を与えれば」との助言によって、例えば土地、樟脳の開墾の権利を与え、あるいは道路の開発に参与させ、あるいは郵便配達の業務を担当させるなどして、反乱者を次々に降伏させた。それにより徐禄、鄭文流、陳秋菊、林大北、林維新らは投降し、詹振は蜂起時に射殺されていたが、それでも投降しないものはのちに処刑された。いずれにしろこうした事件に対する日本軍の報復により犠牲になった住民の人数のほうがはるかに多い。

(『邁向土匪之路:1895-1901年間北宜古道與「土匪」興起關係』陳怡宏より抽出)

【芝山巌事件】

 これは日本側でしばしば取り上げられる事件であり、筆者はもともと原住民による襲撃事件であると思い込んでいたが、実際には漢族によるものであった。

 1895年(明治28年)、日本の統治が始まると、教育の行き届いていないとされる台湾に国語伝習所として小学校が設立されることになり、米国留学も経験し音楽教育にも力を注いでいた伊沢修二が台湾総督府民政局学務部長心得に就任、台湾へ渡り、6月に台北市士林の芝山巌(しざんがん)に芝山巌学堂を設立し、早くも7月に授業を開始した。この時の日本人教師は7人で、その中に成績優秀で16歳で高等文官試験に合格した平井数馬がいた。また吉田松陰の甥の楫取道明もそのうちの一人であった。しかしまだ日本軍の台湾平定作戦は終わっていず、またそれぞれの町村において自分たちの土地に勝手に侵入してくる日本の軍民に対し、生活を脅かすものとして、日本人に対するゲリラ活動が頻発していた。「教員襲撃の噂がある」との懸念が伝わったが、それでも教師たちは「寸鉄(武器)を帯びずに住民の中に入らなければ、真の教育はできない」として教育活動に心血を注いでいた。そしてその翌1896年(明治29年)1月1日、伊沢と教師の山田耕造が新たに教員募集のため一時帰国中に、「匪賊」約100人が同校職員を襲撃し、日本人教員6名と用務員1名が殺害され、さらに芝山巌学堂の物品や運営資金も略奪される事件が発生した。この時何人かは首を獲られたと言い、すると首狩族とされる原住民の仕業にも思われるが、首謀は漢族で、原住民は彼らに金品で雇われたもののようであった。

 この事件が報じられた際、犠牲になった教師六名の死を悼む声は大きく、「六氏先生」と呼ばれた。同時に多くの日本の青年たちがその遺志を受け継ぎたいと願い出て、台湾を目指したという。教員の合格者45名からも辞退者は全く出なかった。そうして芝山巌学堂は3ヶ月間の授業停止の後に新たに教員を迎えて再開された。この時すでに平井数馬が作成していた台湾語の冊子が配られたという。彼らはまた殉教者的に扱われ、当地を訪れた伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」も7月に建てられた。その後も台湾各地で学校が作られ、日本の教師たちが次々と赴任し、彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ語り継がれるようになった。

 1905年(明治38年)には「台湾亡教育者招魂碑」「伊沢修二氏記念碑」「故教育者姓名碑」などを相次いで建立し、1930年(昭和5年)には「芝山巌神社」が創建され、境内には殉職教員顕彰碑も設置され、六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々は(マラリヤなどの風土病で病死する場合が多かったが)、1933年(昭和8年)までに330名が祀られ(そのうち台湾人教育者は24人)、1942年(昭和17年)には529名が合祀された。毎年2月1日には慰霊祭が執り行われ、芝山巌は「台湾教育の聖地」とされ、教員たちの参詣や学校の遠足・修学旅行のコースとなった。こうした教師たちの努力もあって台湾の学齢児童の就学率は大きく高まったという。

 しかし日本の敗戦後、蒋介石を総司とする中国国民党が本土での共産党との内戦に敗れ、1949年(昭和24年)、その将兵や支持者たちが台湾に逃れ、台湾を統治することになった。その後国民党は日本色を一掃するとして芝山巌神社を破壊し、学務官僚遭難之碑を倒し、故教育者姓名碑の一つをバラバラに砕いた。この時、神社の隣にあった恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。一方で台湾国民党は1958年(昭和33年)に「芝山巌事件碑記」という碑を設置し、その碑には、日本人は「芝山厳事件」を「土匪」によるものとしているが、これは植民地政府の統治の下で日本人教師による台湾人奴隷化教育に対し「不甘同化」(同化に従わず)「義民不謀而奮起」(義民が謀らずも蜂起した)事件であると記している。

 しかしこの後、李登輝総統の下で台湾民主化の動きが進むと、芝山巌学堂を創始とする付近の士林国民小校友会が、1996年(平成7年)に百周年事業の一環として「六氏先生の墓」を修復し、校庭には「国民教育発祥地」の石塔も建てた。100周年記念式には殉難教員の遺族たちが招待されたという。2000年(平成11年)には二つの碑も再建され、2月1日の慰霊祭も復活した。現在、芝山巌一帯は芝山公園として整備され、日本人が台湾を訪れる際の場所の一つとなっている。

(ウィキペディアその他各種から混成して要約)

 以上は普及している一般的な既述をまとめたものであるが、そののち(この前後の事件を調べているうち)、新たな記述が目についた。以下は『芝山巌の現状 : 日台関係史の解釈をめぐって』(竹内康浩:北海道教育大学釧路校研究紀要より)の論点からである。この事件が原住民によるものではなく、漢族によるものとわかったのもこの論からである。

 まずこの「匪賊(土匪)」の襲撃であるが、竹内の記述(注記)の中に当地の農民頼昌と士林保良局の局長であった潘光松が日本当局によって襲撃の嫌疑をかけられ、即座に処刑されたとある(潘光松は無罪であったとされる)。また1月1日には、「台北の陳秋菊、新竹の胡阿錦等、土匪を糾合して台北を襲う」というものがあり、これはまさに上記の「宜蘭元旦事件」に通じるもので(陳秋菊、胡阿錦の名による)、この1月1日の「日本人が酒に酔っている間に」台北一帯で、つまり表に出ている範囲で言えば台北城と宜蘭とこの芝山巌を同時に襲撃したものと思われる。そうだとすればわざわざ100人単位で芝山巌を襲撃したのも理解できる。つまりこれは単独の事件ではなく、一連の元旦事件とみてよいかもしれない。また「一方でこの1月に芝山巌も含めて20名余の日本人が死亡したのに対し、日本による 報復も酸鼻を極め、1500名ほどの台湾人が殺害されたという」、この1500名も「宜蘭元旦事件」で記される数と同じであり(その数の真偽は別として)、宜蘭を含めて台北一帯で日本軍警によって行われた報復戦と思われる。

 また1945年(昭和20年)に日本が太平洋戦争に敗戦し、日本の植民地から解放されたことを台湾では「光復」とするが、芝山巌神社が撤去されたのは蒋介石が台湾に来てからではなく、すでに半年後の1946年(昭和21年)3月7日に台湾省行政長官公署民政処訓令として「日偽及び漢奸建築碑塔等の記念物取壊し命令による処置」が出されていて、さらに1952年(昭和27年)には省政府令として「日拠(日本占領)時代に遺されたもので日本語題字の橋梁又は建築物及び年号は塗りつぶされるべきであり、日拠時代のいかなる文字も残されてはならない」とされた。その後も政治情勢によって「日本帝国主義の優越感を表現する植民地支配記念遺跡の一掃」などが掲げられた。要は日清戦争から50年に及ぶ日本の植民地支配が、台湾人にとっていかに屈辱的な時代であったかを物語っている。その中で日本の熱心な教師たちによる「徳行」が大きくあり、台湾の教育状況に大きな影響を与えたとしても、それはまた別な話なのである。

 1958年(昭和33年)に台湾政府は「芝山巌事件碑記」(内容は上記)を建て、芝山公園として整備、「学務官僚遭難之碑」も復元されたが、2006年(平成18年)、その公園の本殿があった場所に「雨農閲覧室」を設置した。これは台湾の立場から事件を示す記念館のようなもので、そこに「芝山巌事件始末」という金属プレートの説明文が付けられた。事件の経過から書かれ、これを『台湾国語読本』に編入するなど、台湾人を「忠君愛国」の精神教育に導き、絶え間ない参拝を行う日本を批判し、これは義民の蜂起であり、逆に芝山巌を反帝国主義の場として示しつつ、以下の最後の主旨になる。

 ——「芝山巌事件」は、台湾人が植民地統治に断固抵抗した気概を表わしたものであり、「学務官僚遭難之碑」は 植民地主義の統治思想と方策の証拠である。この事件を後世の人に参考としてもらうため、台北市政府は特に「芝山巌事件全経過特別展」を雨農閲覧室において長期にわ たって展示し、植民地主義者の史観から脱却し、台湾人の気骨を再び現わすことを期するものである。

<筆者私見>

 日本という国はどうやら二重構造を持っていて、一方的に武威をもって他国に侵略する国家的側面と、その統治開始後に民間人が進出して、その民間人はその地で生真面目に働く面がある。昭和に入っての満州移住政策に乗った農民を含めた民間人も同様な側面があって、しかもその中にはこの芝山巌における教師のように、その土地の人たちのために献身的活動をする日本人たちも常に存在する。これは欧米の植民地に置き換えてみると、宣教師たちの役割と似ている(日本も僧侶を送るケースはあるし後述する霧社にも送られている)。欧米が占領した国々には必ずと言っていいほど宣教師たちが地元民を平定する役割を担ってやってくる。そして時にはこの日本人教師たちのように虐殺の憂き目にも遭う。しかも芝山巌学堂は3ヶ月後に再開されたということは、虐殺事件があっても、志願して行く教師がいたということで、これも宣教師に似ている。日本人の信用というのはこうした民間人によって築かれるが、戦後の飛躍的な経済成長も政府の主導ではなく民間企業とその一般労働者の地道な努力によってであり、政府は後追いしているに過ぎない。

【雲林大虐殺】

 一連の平定作戦が終わった翌1896年(明治29年)4月、日本は台湾を軍政から台湾総督府による民政に移行するとし、特に雲林地区に出没する抗日軍(義軍)の掃蕩作戦を展開するために雲林の斗六街に進駐した。雲林では前年、嘉義大莆林(大林)で一度日本軍を撃退した簡精華が、柯鉄らと一緒に雲林の乃内山大坪頂を拠点にし、そこを鉄国山と呼び(水滸伝の故事のように)抗日の活動をしていた。4月12日、日本軍は雲林の横路荘に侵入し、捕えた義軍を斬殺した。それに対し鉄国山の簡精華と柯鉄らが率いる義軍は、600人余りを率いて斗六街に駐屯する日本軍を奇襲、多数の死傷者を出した。

 さらに6月13日、斗六街の日本の酒舗が「土匪」に襲われ商品が掠奪され、雲林支庁に向かって数発発砲して立ち去った。そこで雲林(新竹)支庁長の松村雄之進と憲兵隊、守備隊が土匪を追跡したところ、彼らが大坪頂に集結していることが分かった。そこで守備隊は14日、地元の呉明に案内させ、中村道明中尉以下20数名と憲兵、支庁員各2名で偵察に行ったが、途中の小坪頂で土匪(義軍)の待ち伏せ襲撃を受け、中村中尉以下5名が死亡、6名が負傷して退却した。中村の場合(台湾側の記述では)自決したという。報告を聞いた守備隊長の古市大尉は一個小隊を率いて現場に急行したが、兵力差を見ていったん引き、嘉義と彰化の守備隊を斗六に来援するよう要請し、16日から日本軍守備隊は攻撃を開始した。

 ところが17日、大坪頂の抗日軍は討伐隊が来る前に夜陰に乗じて四散し、付近の村落に潜伏してしまった。怒った日本の討伐隊(混成第二旅団)は18日より土匪の捜索を開始し、村中で土匪の疑いをかけた者を次々に殺害し、その家屋に火をつけた。総督府には「土匪35名を殺戮し諸村落を焼夷せり」と報告されたが、さらにこの討伐は22日あるいは23日まで続けられた。例えば大坪頂近くの古坑鄉では当時抗日に参加する青年が多かったため、日本軍は青年を集めて手を検査し、手の比較的柔らかいのは非農民とし、全身裸にして腰を油をかけた藁で縛って焼死させた。この間、55カ所の村が放火され、民家4925戸が焼失し、斗六街と石亀渓荘が最も深刻な被害を受けた。山間部では家を見ればその家を焼き、女性や幼児も殺害された。この結果の犠牲者数について、一応6000人が殺害されたとしているが、当時の雲林支庁主記の今村平蔵が翌年調べた『蛮煙瘴雨日誌』には1万人余りと記されており(焼失戸数も今村によるもの)、その後台湾側では約3万人余りと推定している。今村はその日誌の中で「雲林の東南一帯、すなわち斗六堡の東南半分、鯉堡と猫東堡の各地は五、六日の間、凡そ兵の放った煙の下で、肉山血河となり、良匪も区別も何もなく、数千軒の家屋はことごとく焼かれ、無数の生霊がたちまち斬首台の怨霊となった」と記している。

 ここで討伐隊が解散されたのを見て、6月28日、雲林の匪賊(義軍)約300人が南投県林杞埔(現・南投県竹山町)の憲兵隊駐屯所を襲撃、さらに29、30日も憲兵隊と守備隊が襲撃され、日本側で数十名の死傷者を出した。日本軍は救援隊を出すが、7月2、4日と連続して北斗などに数百人の襲撃を受け一時彰化に退却するが、6日から大隊が到着して反撃を開始、1ヶ月かけて雲林は奪還されたが、死傷者は115人となった。

 この一方で7月4日付の香港デイリープレスに、6月18日からの雲林虐殺と放火に関する記事が掲載された。この記事によってか、あるいはそれ以前に総督府からの報告を受けてか、日本にいた台湾総督の桂太郎は、混成第二旅団田村少将宛に「無辜良民を殺害するは本島後来の治民上甚だしき害を残すのみならず……我に抵抗せざるものは一人といえども殺戮するを厳禁し……」との訓令を発した。同紙の7月14日付では「日本人はすべての台湾人を殲滅する策略を講じている……台湾人の収穫を破壊、家の焼失、祖先の墓の発掘、女性の凌辱、怒りの極み……、日本の政略は、島全体の住民を追い出しているようだ」と報じた。続いてイギリスの新聞「タイムズ」に雲林事件が掲載され、7月23日、加藤高明駐英公使から外務大臣西園寺公望宛に電報が届いた。それは「日本人は台湾島南部に於て残虐を行い居り六十箇村を焼失し数千人を殺害せり ……」との記事に対し、反駁すべき材料はあるかと問うものであった。また7月24日付「ノース・チャイナ・ヘラルド」紙に「台湾の日本人」という題名で「台湾の住民に関する限り日本人は文字通り絶滅政策を実施しつつある。それが下関条約の狙いの一つではなかったと思いたくなるほどだ。作物が荒らされ、村を焼かれ、墓をあばかれ女性が陵辱されて島民は激怒に駆られている」と日本を非難する内容の記事が掲載された。この記事の中で、盗賊の本拠を攻撃すると思った日本軍が意外にも村々を焼き払い村民を殺害しているとし、家や食料を焼かれた村民は悲惨な状態にあり三日も四日も死体が放置されているなどの様子を伝える雲林の中国人の手紙が紹介された。これに関し、27日、桂台湾総督は西園寺外相に対し書翰を送り、総督府に事実取調べを命じたので改めて回答をおこなうが、記者が列記するような「残忍苛酷の事実は断じて無之は総督に於て保証致候」と、あくまであり得ないという建前論で返答した。

 こうした日本軍の大きな蛮行が海外に流されたケースはこれが初めてではなく、2年前の1894年(明治27年)11月の日清戦争開始による旅順虐殺事件(既述参照)も同様で、この時の外務大臣は陸奥宗光で、これ以降のやり取り(総督や外務大臣に対する現地軍の言い訳と外務大臣の対外的な否定論と駐欧米の日本公使の困惑した構図)は旅順虐殺事件当時とよく似ている。実際に旅順の時と同様に、関係機関を通じ、香港の新聞にそれを取り消すように要請したという。この後「タイムズ」では8月25日付で「中部台湾における反乱」、27日付では「台湾事情」との記事が載り、同じイギリスの「スコッツマン」紙には台南の宣教師ダンカン・ファーガソンの書簡で「台湾における日本人」という見出しの記事が掲載された。

 いずれにしろ、総督府民政局から桂総督に対する報告では、この「事件」を大筋で認めるものであり、しかし放火は「土匪」の家を焼き払ったものが類焼したとの言い訳がある。しかし例えば人家百戸の海豊崙は良民が多く日本軍を湯茶で接待して迎えたが、児玉市蔵中尉が指揮する討伐隊は「命令なり」として壮年の男子7、80名を「一斉射撃を以て之を銃殺し家屋はことごとく焼失」したこと、また児玉の討伐隊が九芎林でも約40名を殺害し家屋を焼き払い、柘榴班では約70名、渓辺暦では10数名が殺戮されたことなどが伝えられ、さらに埔里の奪回を命ぜられた松居少佐が途中の集々街で、警察署長のかざす総督の訓示を無視して焼き払い、またさらに埔里周辺の25の村落を焼き払った等々が報告され、こうした一部の事実だけでもある意味十分であろう。

 またここで雲林支庁長の松村雄之進は、自身が指揮して大平頂に攻め入る際に「雲林管下に良民なしと称し、順良なる村落を指定して土匪なりと断言してこれを焚焼せしめ」たとの報告も台湾総督府からなされ、1896年(明治29年)8月7日、桂総督は加害者の処分をできるだけ迅速に行うよう命じた。これにより9月2日、松村は拓殖務大臣から正式に解任され、懲戒免官位階勲等剥奪の処分が下された。これに合わせて当時の台湾総督府法院判官で高等法院長の高野孟矩は、中央政府高官に「台湾施政に関する意見書」を提出し、「雲林支庁の庁官と守備隊は、六日間で雲林から数km離れた三坪頂付近の村70余荘を焼き払い、その村の民の善悪曲直を問わず、三百余人を皆殺しにし、荘の女数人を強姦して殺し、民家に侵入して金品を奪ったりしました。その中には、荘中の67人を縛って結び、一斉に掃射して殺し、人の胆をとった者もいた」と報告した。こうした報告を受け、天皇・皇后より3000円、総督府より2万余円の救済金が雲林支庁に支給され、さらに雲林の3595戸に平均5円(現在の価値で2、3万円程度か)の見舞金が支給された。こうした例は先の旅順では聞かないし、この後の戦争でも聞かない。おそらく台湾はこれから長く植民地として統治していかなければならないという日本政府の思惑があってのことであろう。

 ところが、桂太郎総督はこの時点で退任し、1896年(明治29年)10月14日、乃木希典が第3代台湾総督に就任した。1ヶ月後、総督の乃木は「各混成旅団長、憲兵隊司令官」に訓令し、良民の家を焼くことを厳禁したが、「戦術的に必要であれば、理由を述べて報告すればよい」と述べた。それはよいとして翌1897年(明治30年)3月27日、乃木は拓殖務大臣に書簡を送り、松村雄之進の初期の治台の功績をもって、松村を従七位階とする手続きを取るように進言した。あの謹厳実直な乃木が、なんと甘いことであろうか。ただし、これは初代総督の樺山の力という説もあるが、いずれにしろこうした日本の軍政官人の内部での甘い処置は、戦前の軍人を含めて今に至るまで多くの例があり、最近でも不祥事で更迭された官僚が気がつくと別な重要な部署に任官されている事実は一つや二つではない。だから日本は反省しない国としていつまでも国際政治的信用が薄いのである(民間人レベルは別)。なお松村は明治維新の志士の一人で殺人を犯し7年間服役していたが、それは別として、この後1897年(明治30年)12月、北海道庁に転じ、宗谷支庁長などの官職を歴任、1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙で福岡県から出馬して当選したが、一期で終えた。その後は在野の活動家として満蒙問題、国体擁護運動などで活動した。このほか、多くの関係者が相応の処分を受けたが、免れた将校たちもいて、いずれもその後の日露戦争などを契機として立場を回復、あるいは出世していく。

 義軍のリーダー簡精華は、総督府の懐柔政策により、10月5日、一人で下山して「帰順」した。1897年(明治30年)に荘長に任ぜられたが、翌年6月に62歳で病死した。簡精華はその後簡義と呼ばれて民衆の間にその名を残した。一方で柯鉄は簡に代わって義軍の指導者として鉄国山に残り、その後も反乱を続け、12月にも日本軍の鉄国山への猛攻に対し、柯鉄らはゲリラ戦で抵抗を続けた。しかし1899年(明治32年)に柯鉄は日本側と「講和」したが、山を離れないまま翌年2月に急死した。この後も抗日の活動は続けられ、1902年(明治35年)にはほぼ終息したとされるが、各地で大小の攻防は続いていく。

(以上は『日清戦争後に於ける台湾の治安問題:雲林虐殺事件を中心に』法政大学学術機関リポジトリ:柏木一朗の論文及び台湾のサイトから『檔案•文獻與歷史記憶—— 雲林事件在古坑 』(張素玢) などの資料を混成して作成)

【阿公店大虐殺】

 1898年(明治31年)、第4代台湾総督として児玉源太郎が就任し(三年の間に四人目)、後藤新平を民政長官としたが、抗日ゲリラ活動は相変わらず続いていた。1898年(明治31年)3月21日未明、高雄県岡山の阿公店弁務署で大盗難事件が発生した。「匪賊」は銀貨や紙幣アヘン、時計や毛布などを奪った。これは首領の盧石頭らが率いる犯行であった。彼らはやはり雲林と同様、付近の山岳地帯を拠点としていた。5月にも数回事件を起こした後、24日、盧石頭、魏少開ら数百人が阿公店郵便局を襲撃、9月28日には200人余りが阿公店街へ侵入、10月13日、盧石頭や魏少開などが率いた300数名が阿公店街を襲撃したが日本の憲兵や警察隊に撃退された。11月18日にも衝突事件があったが、12月2日から3日にかけて、5、600人が阿公店を二手に分かれて襲撃し、憲兵と警察27名が憲警に殺害された。さらに12月11日、13日、魏少開と盧石頭は600名余りの匪賊を率いて阿蓮荘派出所を攻撃し、派出所10名の警官のうち9名が殺害された。14日、彼らは200人余りを率いて右沖荘(楠梓区右昌地区)を襲撃し、荘長と次男ら5人を拉致した。日本の憲兵や警官隊が彼らを追い詰め、舟筏に乗って逃走しようとする盧石頭等を乱射し、盧等30数人はその場で絶命した。

 日本の憲兵や警察は多くの死傷者と官財の損失を出し、このため総督が陸軍幕僚を派遣して掃討計画を開き、嘉義、台南、台中、雲林などの軍政単位を集めて討匪作戦を計画した。それにより11月25日から12月27日にかけて嘉義から屏東北部までの「南部一帯之討伐」を軍警合同で行った。一回目は11月25日から12月12日まで、嘉義から高雄県路竹以北を掃討し、二回目は12月20日から12月27日まで鳳山、岡山、旗山の匪賊を掃討したが、特に12月25日から阿公店区域に対する「大討伐」作戦を展開し、高雄県阿蓮、岡山、橋頭などで多数の犠牲者を出した。抗日隊と住民合わせて2053人を殺害し、民家2783戸を焼失させた。例えば12月25日、日本軍は燕巣郷滾水荘において、戸口調査の名目で荘民全員を観水宮廟前広場に集結させ、拷問の方式で義勇兵の行方を追及したが、何も知らない荘民はどう答えたらいいか分からず、日本軍はそこで16歳以上の男子を拘留し、当時漢人がまだ頭に残していた三つ編みを利用して3人ずつ一つに結んで、廟の前の陳家の小屋に入れて、ガソリンをかけて火をつけ、そこから逃げ出した者は皆殺しにした。この焼殺の犠牲者は100人余りで、その中で陳達は家の大きなかまどの中に身を隠したため、死を免れたという。

 日本統治時代の台湾総督府警務局が1938年(昭和13年)に刊行した『台湾総督府警察沿革誌』の第四章「台湾本島剿匪始末」には、「南部土匪の状況」として「その中には罪のない犠牲者も少なくないはず」、「処置が適切でなかったことは避けられない」、「阿公店の討伐は残忍な手段をとった」と控えめに書いている。総督府は住民の慰撫費として一万円の支出を許可した。この中には、第1次討伐による匪賊殺害は667人、第2次の安村隊による匪賊殺害は113人、湯浅隊は77人、鎌田隊46人、能美隊23人となっていて、匪賊殺害は計926人であったが、「殺された地元住民は2053人」とは別のようである。抗日義軍の武器は鳥銃、爆弾、曲刀、槍などであり、日本の武器には敵わなかった。大虐殺事件によって多数の男性を失い、滾水荘など老人や女性たちだけが残った多くの部落は衰退していった。頭領の盧石頭などは地元の烈士として記念碑が建てられている。

 実は討伐に先立っては、民家を焼かないこと、抗日軍の嫌疑がある場合、地方の有力者に真偽を確認すること、嫌疑者は臨時法院に送ってから断罪することなどが定められていたが、「警察沿革誌」によれば民家は焚焼され、戦闘後に憲兵に殺害されたものも多く、禁令はまったく守られなかった。総督府は自ら「其の気呵勢激の間、失宜の処置も亦免れざりしものの如く、久からずして怨声起り地方官を悩殺するに至れり」と描写するほどであった。最も被害のでた阿公店地方の実状を見聞した在留外国人やイギリス長老教会の牧師ファーガソン(上記雲林事件)が、香港デイリーニュースに人道問題として投書し国際世論に訴えた。この大討伐の際、一般の日本人は旅館に隠れさせていたという。

(以上は台湾のサイトの中の「阿公店大虐殺事件之研究」その他から混成して要約)

【雲林帰順大誘殺】(帰順式場誘殺惨事)

 度重なる「匪賊」の襲撃に対し、1902年(明治35年)、台湾総督府は特に中南部の抗日勢力に対して、軍や警察による大規模な「討伐」のほか、降伏を誘う策、「土匪招降策」を立案した。総督府の警視総長である大島久満次が指示し、斗六庁長荒賀直順と警務課長岩元知らが守備隊長や憲兵分隊長を含めて密議を重ねた。そして抗日勢力が帰順して抗日しない限り、無罪赦免ができることを説明した。そうして5月25日を帰順式と定め、斗六、林杞埔、崁頭厝、西螺、他里霧、内林の六ヶ所を式場とし、各支庁長に準備を命じた。25日、斗六式場に60余人、林杞埔に63人、嵌頭厝に38人、西螺に30人、他里霧に24人、林内に39人、合計265人の抗日分子がそれぞれの式場に集まったところを機関銃を使って皆殺しにした。この事実に対し、日本側は帰順式場で騒動を起こしたので一斉に銃殺したという口実を作った。

 さらに1896年(明治29年)より雲林を含めて鳳山、潮州一帯で抗日活動をしていた林少猫なる人物が残っていた。彼は「良民を害さず」として日本側の財物を略奪した後で住民に配るなどして人気があったが、多額の懸賞金をかけられ、1899年(明治32年)5月に部下30数名とともに帰順し、屏東県麟洛にこもって田畑の開墾などで生活していた。しかし時折抗日分子が出入りしているとの情報で警察側はこの時期に合わせて彼の抹殺を企てた。25日の帰順式後、警視総長の大島が直接出向き、警察隊と憲兵、守備隊が彼の住む後壁林を深夜のうちに包囲し、5月31日午前、林少猫を誘い出したが、彼は気づいて防備を固め、そこで午後になって守備隊が砲撃し、林少猫は苦力に変装して出て行ったところで射殺された。その他林少猫の妻ら12名も射殺された。その後、林少猫と親しい人物も捜索され、その多くは殺害された。

 民政長官後藤新平時代の資料によれば、この時期(1898−1902年:明治31-35年)の抗日側の死亡者数は1万1950人となっている。また1895年(明治28年)の統治開始からの8年間で、3万2000人が日本側によって殺害され(死刑も含む)、これは当時の台湾の総人口の1パーセントであった。こうして1902年(明治35年)には抗日義勇隊はほとんど姿を消したとされた。またこれに伴い、民間が所有する武器はすべて没収された。なお、1981年(昭和56年)に台北市文献委員会副主任委員の王国璠が編纂した『台湾抗日史』によると、日本の台湾統治時代に日本側に虐殺された台湾人は約40万人と記されている。

【北埔事件】

 この事件は他とは違って、漢民族(客家人)の蔡清琳が原住民であるサイシャット族の者たちを煽動して起こしたものである。1907年(明治40年)11月、蔡清琳は「清の大軍がまもなく新竹に上陸する」と騙し、新竹県北埔の山岳部にいる漢人とサイシャット族大隘社の頭目であった大打祿(漢名は趙明政)を誘い、日本人殺害に高額な報酬を示して人を集めた。その中には偏勇(日本人警察の補助的役割をする漢人で原住民との仲介役もしていた)もいて、14日夜、蔡清琳に煽られた彼らは抗日軍と名乗って北埔地区を襲撃し、日本人警察官や居留民など57人を殺害し、電話線を遮断し、銃器弾薬を奪って去った。事件を受けて台湾総督府の警察は北埔に向かい、100人あまりを逮捕、裁判の結果、事件の首謀者9人が死刑に処され、有期刑や行政処分にあった者は97人を数えた。さらに、多くの偏勇の漢人も秘密裏に処刑された。しかし、総督府の原住民に対する懐柔政策により、サイシャット族はわずかに銃などを没収されるだけにとどまった。大打祿は死んだと偽って隠居し、災禍を避けた。しかし蔡清琳は襲撃の時には表に出ることをしなかった。その後、サイシャット族の者たちは蔡清琳に騙されていたことを知り、彼を殺害した。

 この事件による日本人被害者の中には5人の子供もいた。のちに現地の日本人は「五子之碑」として碑文と共に名が刻まれた記念碑を建てた。しかし日本の植民地からの解放後(台湾光復後)、地元の人によって碑文は削られ、記念碑は壊された。ただし解放後のこのような日本人関係への破壊行為はここだけではないし、それは蒋介石政権のもとでも推奨された。1980年代(昭和55年代)、秀巒公園の山頂はスケートリンクに改築され、さらに2006年(平成18年)ごろ北埔郷公所は合抱樹広場に改築し、捨ててあった記念碑は再び広場の隅に建てられた(これはネット上にも写真が載っている)。また事件後100周年のこの年の10月、北埔郷外坪村の「深壢刑場」で初めて掘削作業が行われ、刑死された10体余りの遺体が出てきて、それは焼却され、頭蓋骨に鉄釘が打ち込まれ、腕の骨に切断痕が残っていた。

(以上は日本と台湾のサイトから混成)

【林杞埔事件】

 日本の三菱財閥の三菱製紙株式会社は台湾に豊富にある竹林に目をつけ、1908年(明治41年)2月、台湾の斗六庁の清水渓流域の労水坑(現・竹山鎮瑞竹)に「竹林事務所」を設置した。8月、三菱は台湾総督府に正式に申請した後、3カ月後に契約書を締結した。しかし台湾現地の竹林所有者は契約書の締結過程に関わっていないだけでなく、総督府から脅迫や暴力によって無理やり契約書の締結を強要され、竹林の主権を放棄させられた。そうして総督府は嘉義、林杞埔(現在の南投竹山)、斗六などの竹林に「台湾総督府模範竹林」の看板を設置し、「国有地」として強制的に収容したが、1910年(明治43年)に名称を「三菱台湾竹林事務所」に変更した時になって、竹林所有者たちはだまされた事実に気づいた。竹林には近隣住民が勝手に入ることを許さず、山林に頼って生活していた2万人余りの竹農と地主の生計が苦境に陥った。そこで廖振発、陳玉奎、張陳元らが代表として南投庁に竹林の返還を要求したが、受け入れられなかったばかりか、陳玉奎と張陳元は一時的に拘束されてしまった。これを不服として彼らは台湾総督府に直接陳情したが、これも失敗に終わった。総督府と三菱側は譲歩して若干の慰謝料を出したものの、とても満足できるものではなかった。

 1912年(明治45年)3月22日、南投庁羌仔寮荘(現・鹿谷)で、占いを業とし観音を篤信している劉乾がリーダーとなり、信者の林啓禎や住民ら12人を率いて林杞埔の頂林駐在所を襲撃し、日本の巡査2人と台湾の巡査補1人を殺害した。数日後に日本の警察に逮捕され、その場で臨時裁判所が開かれ、劉乾、林啓禎ら8人は死刑(即刻で焼殺)、1人は無期懲役、3人は有期懲役、1人は無罪判決を受けた。

(以上は台湾の維基百科の同項より要約)

台湾で打ち続く原住民の反乱

 ここまでは台湾に住む漢族(中国大陸系)の反乱であったが、台湾には太古より山地に原住民が暮らしていた。そこに主に17世紀ごろより中国本土から間断なく移住者があり、平地の大半が漢民族の居住地となっていたが、清政府は山地の原住民に対し理蕃政策を打ち出すも、統治に苦心していた。

 台湾の山野は照葉樹林に覆われ、西側一帯にはクスノキの大木が無尽蔵にあった。クスノキから採れる樟脳は殺虫剤、防虫剤、香料、薬品としての用途に加え、新素材としてもてはやされていたセルロイドの原材料としても注目されていた。セルロイドはまた写真フィルムの原材料として不可欠であり、欧米にも多量に輸出されていた。清政府も樟脳の製造を奨励していたが、ほぼ漢人の個人事業であった。そこに日本はこのクスノキの伐採と製造を基幹産業として位置付け、台湾総督府は日本の業者に開発許可を与えていくが、平定宣言を出す直前の1895年(明治28年)10月に「官有林野及樟脳製造取締規則」を発令し、所有権不明(無主地)の山林原野をすべて国有化するという条規を定めた。さらに 密造や密売を防ぐため、総督府は樟脳製造の取締りの施策を次々と打ち出していく。1896年(明治29年)には「蕃地出入取締」を制定し、許可を得た者のみが「蕃地」での営業に従事できるよう取り決めた。しかしこれは「蕃地」とされる山岳地帯において狩猟などで生活する原住民の高山族や比較的平野に住む平埔族たちにとって生存圏を脅かされる死活問題であった。また台湾の原住民は首狩族と言われ、敵方の首を獲る習慣があった。これは族同士でも行われ、日本の業者は台湾各地の山林に分け入るが、しばしば殺されてしまう。そこから日本側は原住民と衝突を繰り返し、原住民はしばしば日本人を襲撃するが、それに対する総督府の鎮圧政策は「生蕃討伐」と呼ばれ、漢民族に対する平定作戦よりずっと長く続く。

【新城(タロコ)事件】

 1896年(明治29年)12月、日本統治下の台湾東部、花蓮県新城郷で発生した、日本の官憲と台湾原住民タロコ(太魯閣)族との衝突事件である。漢民族の阿吉勇(あるいは李阿隆)はこの地に移住してタロコ族の女性を娶り、タロコ語にも通じ、村人から鹿茸を買い取る見返りとして塩や銃弾を提供するなどして良好な関係を築いていた。日本の領有化においてはいち早く日本に「恭順」し、日本側でも彼に架け橋としての役目を期待した。阿吉勇の弟の妻(タロコ族)が妹を訪ねた折に日本兵から不埒な行いをされた。これが日本兵の普段からの所業に不満を持つタロコ族らの怒りを買い、さらに弟は事の屈辱に耐えかねて自殺したことなどでタロコ族は激高し、12月23日、阿吉勇の協力の下で付近の四つの集落の男子約300名が結託して新城分遣隊監視哨を急襲し、日本の将兵13人を殺害した。将兵らはすべて頭部を切断され(台湾の原住民は首狩族と言われ、敵の首を獲る習慣があった)、兵舎は焼き払われ、さらに外出中の日本兵も発見されるや殺害された。こうして日本兵23人全員が殺害された。

 事件の知らせを受けて、花蓮港守備隊は二度に渡って偵察を差し向けたが、途中で「馘首」され生還しなかった。さらに差し向けた偵察兵も5人全員が行方不明になった。翌1897年(明治30年)1月10日、花蓮港守備隊は2個中隊を出動させるとともにアミ族南勢蕃600人を援軍とするが、タロコ族は頑強に抵抗した。2月6日、日本軍は作戦を変え、湯地連隊長の指揮のもと、参謀、大隊長、工兵小隊長、軍医、日本人軍夫200人、アミ族の青年らを従え総勢1737人の大部隊を結成、作戦を開始した。だが日本語の命令はアミ族には通じず、 対するタロコ族は密林の中で巧みに分散して林間を駆け、日本軍に射撃を浴びせ、伝令兵は負傷し、あるいは馘首され、死傷者が増えるばかりだった。

 業を煮やした日本軍は澎湖庁に停泊中の巡洋艦葛城を回航させ、艦砲射撃の挙に出た。だが村落は山中に分散して立地し、その効果は薄かった。戦闘の長期化で、日本側では傷病兵も含め損害が増える一方だった。それでも三桟から新城の兵舎跡に達し、最初の犠牲者の遺体収容には成功した。ここで一応の目的は達成されたため、同年6月をもって援軍は基隆に引き上げた。一連の戦闘で、日本軍は大量の傷病兵を出した。小城忠太郎の記録によれば、戦地ではマラリア、黒水病、腸チフスが猖獗をきわめ、戦病死者は500人以上、一個中隊の兵員が20名ほどにまで減少したという。

(以上はウィキペディアその他より)

【タイヤル族の反乱と鎮撫政策】

 以下は台湾統治後の各地における原住民反乱とその鎮圧に追われる日本当局の一例である。
 台湾総督府は殖産事業としてクスノキによる樟脳などの生産を計画し、1895年(明治28年)、その開発地の一つである北中部山岳地帯に宜蘭庁を設置した。しかしこの辺りには先住民タイヤル族が居住していて、日本の樟脳事業の拡張は原住民の 狩猟生活を脅かし、結果的にその反抗として襲撃事件を多発させた。それに対し1897年(明治30年)、総督府は内務および、殖産関係者からなる「生蕃取締調査委員会」を招集し、巡査の下に警丁という傭員枠を新 設し、先住民取締の強化を図り、優先的に宜蘭・新竹では警警備体制が強化され た。さらに総督府は警察官吏見張所や臨時出張所を山麓の要所に設置し、元軍役壮丁を雇用、銃器弾薬を支給し警備に当たらせた。この一方で総督府は1896年(明治29年)には交易商および交換所を指定し、それ以外の交易を禁止したが、それ以前にも清朝期よりタイヤル族と漢族との交易を規制、銃器弾薬と塩などの交易を許可制としていた。

 この措置は生業によって得た鹿角,鹿皮,麻布,篠細工等を、生活に必要な塩や銃器・弾薬、 色糸等を漢民族から得るための交易品としていたタイヤル族にとっては深刻な打撃となり、嘆願書も届くようになり、並行して襲撃事件が頻発することになった。これに対し宜蘭庁は、先住民の移住政策を打ち出し、平地への移住を奨励することにした。同時に先住民の「教化」 を計るため、1901年(明治34年)1月に「蕃人教育所」を開設した。ただ先住民教育を不要もしくは不可能とする見解も政府内には多く、当時台湾総督であった児玉源太郎も、新領土経営の前途の障碍を絶滅させるべく、先住民の殲滅をも辞さないとの意向を示したこともあった。しかしあくまで治安対策の一環として、宜蘭庁は事前にタイヤル族の各社に頭目の移住と子供と若者に対する教育所入所を説得して回った。しかし族の抵抗は強く、平地で暮らすことの危険性(熱病など)を訴え、それに対し教育所では衣食住を供給し充分に保護するとともに銃器も貸与するとして、もし同意しなければ討伐も辞さないと脅しをかけた。それでも各社の頭目はなかなか同意せず、最終的に7社が1月に青少年14人を送り出した。入所者には宿舎・食事・衣服のほか学習用具が支給された。しかしひと月も経たないうちに5名が退所、翌月は6名が退所、少しずつ追加入所があったが追いつかず、結局翌年3月には学校は閉鎖に至った。

 この間の7月9日、叭哩沙(現・三星郷)出張所で電話柱用材の切り出し作業中の日本人巡査1名が襲撃で殺害され、さらに8月23日、タイヤル族のヤブトライ社の頭目以下約70名が,阿里史警察派出所を襲撃し、附設の「蕃産物交換所」に勤務中の小野栄一を殺害するとともに、同所保管の銃器・弾薬のほか塩・木綿・針金等の交換品を奪取した。小野はヤブトライ社の女性を妻としたばかりであったが、当局がタイヤルの副頭目に事情聴取を行ったところ、殺害の目的は小野に対する怨念があったとされ、阿里史に樟脳製造の作 業小屋設置を承諾させるために「報酬として豚若干頭を給与することを南襖群各社の頭目に約束していたが、設置後は別の所員が報酬の約束を反故にしたこと、またヤブトライ社の女性を妻としたが、その妻に不親切であったことからという。

 この時期の宜蘭庁内の先住民の襲撃件数の記録がある。炭焼き・薪拾い・農作業等の生業に従事する山麓居住民(漢族と平埔族)への襲撃が多くの割合を占めるが、1896年(明治29年)には24件、殺傷者数74人、それが97年(明治30年)には35件92人、98年(明治31年)には74件117人、99年(明治32年)は83件126人、1900年(明治33年)は117件115人、01年(明治34年)からは減速に転じ、91件60人、02年(明治35年)は88件50人、03年(明治36年)は90件117人と推移している。 特に1900年(明治33年)以降は樟脳作業所への襲撃の割合が増えている。

(以上は『台湾植民地戦争下における先住民教化策』北海道大学大学院教育学研究科紀要:北村嘉恵の論文より抽出)

 タイヤル族の度重なる襲撃に手を焼いた日本軍当局は、タロコ族の勇猛な性質と巧みな戦闘能力を体験すると同時に、彼らがタイヤル族南澳蕃と敵対関係にあることを知る。ここに、台湾原住民同士の利害、敵対関係を利用して彼らを統制する「以蕃制蕃」(蕃を以て蕃を制す)を思いつき、タロコ族を利用してタイヤル族南澳群を平定する作戦が立ち上げられた。1903年(明治36年)11月11日、台東庁長・相良長綱は自ら花蓮に至り、頭目に率いられてタイヤル族南澳蕃へ出征する。12月1日、一団は一路1000人あまりの軍勢をもって山地への侵攻を開始、200戸あまりの集落を制圧して焼き払い,さらに大きな集落で2日間にわたる戦闘を繰り広げた末、その集落も焼き払い、また200人の別動隊は南澳蕃の別の集落を襲撃して制圧し、タロコ族は敵の首級を挙げて凱旋した。その結果、日本当局は漢人の有力者阿吉勇のタロコにおける地位を認め、タロコ族ホーホス社の頭目も厚遇した。(この節はウィキペディアの要約だが、資料元は主に山口政治 『知られざる東台湾—湾生が綴るもう一つの台湾史』)

【南庄事件】

 台湾北西部苗栗県の南庄地区は、やはりクスノキによる樟脳の有望な生産地であった。山地の原住民の居住地帯に多くの樟脳製造業者が進出するようになった。これら業者は土地使用料として「山工銀」を現地に支払うことで生産拠点を確保していた。それはまた原住民の「首狩」から身を守るための保証金でもあった。原住民の住む場所を「蕃界」といい、彼らに山工銀を払うかあるいは彼らを雇用して正当な賃金を払えば問題はないが、少しでも約束事が守られない場合は報復行為があり、それを「蕃害」と言った。山中には「脳寮」(隘寮)という作業小屋が設置されていて、その安全確保のため台湾総督府も清朝末期から作業に従事する漢族を保護する「隘勇」と呼ばれる警備担当者を継続して活用した。開発が奥地にまで及ぶにつれ、台湾山中には多くの隘寮が建設され、隘寮と隘寮を結ぶ「隘勇線」(一種の防衛境界線)が張り巡らされていった。

 1897年(明治30年)、五指山地方(現・新竹県竹東鎮)において、「山工銀」の未払いからタイヤル族の襲撃事件があった。また1899年(明治32年)1月、苗栗県の太湖地方でタイヤル族が隘寮を襲い、焼き払うという事件が発生した。隘丁(作業者)が無断で隘勇線を超えてタイヤル族の居住地区に侵入し、タイヤル族がそれに反撃した事件であった。1899年(明治32年)に製脳業は専売制から許可制になったが、密造で製脳する業者も多く、原住民を欺いての襲撃は各地で続き、隘寮が襲われるだけでなく、日本人官吏、警察官もしばしば殺害され、総督府を悩ませた。南庄でも日本の事業主はサイシャット族の頭領、日阿拐、糸太尾、張有准などと密接な関係を築き、一応安全を確保していた。

 製脳業者の松田時馬は1896年(明治29年)から樟脳生産に関わり、所属する会社が撤退した後、原住民サイシャット族居住地区の獅里與社(苗栗県竹南)に個人経営者として事業を立ち上げ、1899年(明治32年)には彼の製脳場の数は500にも及び、生産高は急拡大した。それにより製脳地はサイシャット族の居住地を超え、タイヤル族の鹿場社(村)にも及んでいた。1902年(明治35年)7月、松田の経営していた1500の従業員のいる製脳工場はサイシャット族とタイヤル族に共同で襲撃され、工場は壊滅的打撃を受けた。「此時までに(つまりそれ以前も含めて)使用人の馘首せられたるもの実に136人、内地人の墓標を建てること58柱に及べり」という状況になる(松田)。事件の主役はサイシャット族の頭目、日阿拐であった。彼自身も樟脳生産の利権を早くから持ち、生産に関わっていて、松田とも友好関係にあった。6月、製脳業者が「官有原野」の開墾願いを届け、南庄庁がその区画に「標木」を打ちこむ作業をしたところ、これが日阿拐の目に触れて自分たちの領域を侵されると激怒し、近隣のタイヤル族にも呼びかけ、「山工銀」の未払い(その延滞の代わりに「脳館票」と称する手形も乱発されていたという)などで不満を持った800人(一部漢族も参加)で7月5日松田の工場を襲撃した。そこからさらに日阿拐の一団は南庄街に出て南庄庁を襲った。

 これを受けて警察関係だけでは防御不能と考え、日本側は砲兵を中心とした軍隊の動員を要請した。7月7日には陸軍混成第一旅団の新竹守備隊が参戦し、9日には歩兵第二中隊と砲兵第一小隊からなる大隊規模の増援が行なわれた。しかし、軍事力では優位であっても、日本軍は地形に不慣れのため戦闘は長引き、ゲリラ隊に押されて苦戦したが、8月下旬までには武力をもって反乱軍を制圧した。日阿拐らは敗走し、タイヤル族居住地の鹿場社方面の山岳地帯に退却を余儀なくされた。10月21日には日本当局は降伏した原住民の「帰順式」を行なったが、日阿拐は参加せず、12月17日になってやっと説得に応じて日阿拐と鹿場社の頭目薛大老らは大勢を率いて番婆石で行われた帰順式に参加した。この式で日阿拐は隘寮の廃止を求めたが、日本側は応じず、それどころか(上記「雲林帰順大誘殺」で見るように)、会場に集まった彼らを銃撃し、39人を殺害した。日阿拐は負傷しながら逃げ延びた。

 この南庄事件の後、鎮圧に成功した総督府は地域の改革を試み、1903年(明治36年)にはそれまで「蕃界」として扱ってきたサイシャット居住地帯を「普通行政区域」に編入した。これは総督府による原住民の土地の略奪に等しいが、同様な事態は台湾各地で起こっている。もとより原住民は文字を持たず、土地の登記などとは無縁で、日本側が一方的に「無主地」とみなしても、そのこと自体が横暴極まる権力の乱用で、民族の生存権を否定される出来事であり、理解することすらできなかったであろう。ただし日阿拐は必要とされる地租を納めていた事実もあったというから、反乱はよほどの理不尽を感じてのことであったろう。その後、日阿拐の土地は公式に没収され、事件が起きた高山の原住民の土地は漢族に占拠され、タイヤル族やブヌン族などは低地帯に移住させられた。

 後年、南庄事件は苗栗県初の史跡に登録された。史跡として登録される場所は、犠牲者が埋葬された「万善諸君之義塚」と帰順式が行われた「南江水岸公園」であるが、1898年(明治31年)に建てられた南庄小学校の校庭にある唐楓の木の下に「南庄事件」に触れた立て札があり、その木は「義民樹」と名付けられ、事件の勇士達を讃えて植えられたものであった。

(以上は『南庄事件と〈先住民〉問題 : 植民地台湾と土地権の帰趨』山路勝彦:関西学院大学社会学部紀要、2010年より)

【ウィリー社事件】

 1901年(明治34年)7月、台湾東部のコロ社(現在の秀林郷秀林村=社は村の意)に日本語伝習所タロコ分教場が設置され、「帰順」したタロコ族子弟らに日本語教育が施された。日本語分教場設置の交換条件として、日本側はタロコ族に銃と弾薬を提供した。台湾総督府の指定商人・賀田組は社内に銃火器の販売場を設け、1人当たり月に弾薬10発分、火薬22発、雷管10発、火薬20個以下を販売した。

 1904年(明治37年)3月、台東庁長相良長綱の死去後、森尾茂助が後任となり、原住民に対して強硬的な統治に路線変更した。森尾は1905年(明治38年)8月からタロコとコロに警察官吏派出所を設置し、タロコ族の行動を見張った。一方で賀田組は樟脳製造事業を承認され、1906年(明治39年)初頭、賀田組がウイリー社(村)とコロ社の地域で樟脳の製造を開始した。その伐採作業のため山野に多くの労働者が分け入ったが、彼らがタロコ族の領域に出入りすることでの危険があった。そこで賀田組は内タロコからの襲撃に備え、帰順した外タロコ7カ村の原住民を警護役とし、その報酬として毎年の年末ごとに200円を支給するという契約をした。 だがタロコ族らは経済的な観念に乏しく、しきりに支払いを求める。そこで賀田組では一時的に「老蕃」に半額の100円を支給した。だが老蕃はそれを7カ村に分配せずに着服し、自身の親族らに分け与えてしまった。これを原因として部族内部で発砲騒ぎとなり、老蕃の親族が負傷した。 そんな折の7月30日、日本人の樟脳製造の労働者2名が首狩りに遭った。当時、シラガン社の者がウィリー社の耕作地を荒らし、頭目同士の調停が付かず、その解決のために出向いた日本人が巻き込まれたものである。そこで花蓮港支庁長・大山十郎は自ら実態調査と遺体収容に赴いた。

 この状況に危機感をもった現地の賀田組は女性と子供を前もって避難させ、続いて男性従業員の引き揚げを検討し、牛車6台を用意し、巡査2名を従え、引き揚げを開始した。だが日本人の撤収を察知したタロコ族の間に「日本人が引き揚げれば、給金が停止されるのではないか」との動揺が広がる。そこへ折悪しく、ウイリー社の村人が日本人の首級5個を挙げて持ち帰り、村人に誇示した。これが他の村人にも伝播して騒乱状態となり、老蕃に銃を突きつけ「汝は我らの手当てを着服した盗人なり」と罵るなどして乱闘騒ぎとなった。 賀田組職員らは手近の道具を武器として身を守ろうとしたが、口笛のひと吹きを合図として戸外のタロコ族らが一気に事務所になだれ込んだ。蕃刀が閃き絶叫がほとばしる中、職員らは次々と血の海に沈み、辛くも逃れ出た者も槍で刺殺された。花蓮港支庁・大山十郎、主任・喜多川貞次郎ら18人、先に首狩りに遭った7名も加えれば25人が死亡し、16名が負傷した。無傷で逃れ出た者は巡査1名、作業員1名、タロコ公学校の日本人教師1名のみだった。しかし事件の発生に対し、日本当局はタロコ族の反撃を恐れ厳罰を下せなかった。

 翌1907年(明治40年)5月16日、日本当局は山地の生蕃の襲撃から平地の住民の安全と財産を守る名目でウィリー社周辺に境界線(隘勇線)を設置した。この線上には隘勇(漢族から召集した兵士)の監督所を設け、さらにサパト渓流域に日本当局はアミ族らに開墾する許可を与え、タロコ族の南進を押さえることにした。こうしてタロコ族を一時的に封鎖した上で、日本海軍南清艦隊の「浪速」と「秋津洲」を台湾東海岸に回航させ、7月1日の早朝から外タロコのウィリー社方面に188発砲撃した。だが新城事件時の艦砲射撃同様、家屋に多少の損害を与えたのみだった。そこでアミ族南勢7社500人を加えた警察隊30数名と漢族の隘勇100人からなる陸上部隊で攻撃し、タロコ族の2社6集落を焼き払い、21名を死亡させた。対する討伐側は日本人の死者2名、負傷者2名、応援のアミ族は8名死亡、7名が負傷した。日本海軍の砲撃に遭ったタロコ族は海岸に住み続けることは危険とし、大挙してチカソワン社の近隣木瓜渓流域に移住し、アミ族の耕作地に隣接することになる。そのため双方でトラブルが頻発した。そこで1908年(明治41)5月、日本当局はタロコ族対策として、秀林郷文蘭集落に駐在所を設置し、さらに隘勇線を設置し、80人の隘勇でタロコ族の南下に対応した。

(以上はウィキペディアなどより混成)

【姉妹ヶ原事件】

 以下は、国立情報学研究所による「学会企画シンポジウム報告」のうち、『 ガヤと霧社事件』(タクン・ワリス=邱建堂:2022年)からの要約で、文中に「われわれ」や「私」とあるのは、邱がセデック族の子孫としての立場からである。

 「日本による統治以前は、われわれセデック族は国家による統治を受けたことはなかった。長い 間、四方を強敵に囲まれてはいたが(原住民のそれぞれの民族同士は部落単位で独立し、敵対関係にあった)、…… 日本に統治されるまでは、人々は広々として人もまばらな土地で、ガヤという規範に従い、伝統的な焼畑耕作と狩猟による自給自足の生活を送っていた。アワとサツマイモを主食とし、捕りつくせないほどの猟の獲物を楽しみ、大自然とともに生きていた」。 大日本帝国は、強力な政治的権力をもって、手に入れた戦利品つまり台湾のすべての土地を効果的に統治し、台湾の山林資源を利用しようと性急に動いた。狩猟時代の生活形態に あったセデック族にとって、強権の到来は、部落時代の終わりと、民族の運命が激変していく始まりであった。

 日本軍は埔里に進駐すると、霧社地区の各部落の状況と部落間の関係を把握し統治するために、清朝が平埔族(漢民族に同化した原住民)を統治した歴史の先例にのっとって、頭目の家族と婚姻する「和蕃政策」を進めた。そこに1896年(明治29年)、近藤勝三郎が台湾に来て、埔里に「近藤商店」を開店する。翌年にパーラン社(社は村)の頭目の娘と結婚し、霧社地区での交易を独占して行く。近藤の活動もあってその後、日本の軍隊と警察は少しずつ霧社地区への前進を始めた。1901年(明治34年)、日本軍は埔里社を前進基地として霧社地区への包囲討伐行動を開始、そして観音山一帯で、セデック族とはじめて交戦したが、日本側が敗れて撤退した。翌年の「人止関の役」でも日本側は再び惨敗して、人止関の外に退けられた。日本はこの事態に立腹し、霧社地区に対して経済大封鎖を行い、塩や鉄器などの生活物資が山地に入ることを厳しく禁じた。このためセデックの人々はひどく不便な生活を強いられた。

 一方、日本軍は霧社地区に進駐するための策をめぐらし、生活物資の交易を再開するという名目で、卓社大山の奥深くに住んでいたブヌン族を使嗾して、セデック族との境界に交易の場を設けさせ、異民族に嫁いだセデック族の女性を派遣して、交易に来るようセデック族を誘わせた。1903年(明治36年)10月、日本人がしかけたワナとは気づかず、セデックの百人あまりの勇士たちが約束どおりの物を持って、埔里にある霧社から15kmほど南下した濁水渓沿いの平原(姉妹ヶ原)に交易に出かけ、宴会に臨んだ。飲酒に慣れていない男たちは、ブヌン族が熱心に勧めるので、楽しく日本酒を飲んで酔ってしまった。そこへ周囲で様子をうかがっていたブヌンの勇士たちが、日本人警察官の指揮のもとになだれ込み、セデックの人たちを殺害した。当時の老人たちの話によれば、この場からなんとか逃れて部落に戻ったものは、5人もいなかったという。この罠を仕掛けたのが近藤勝三郎であったと部落の老人たちは誰もがいう。百人余のセデックの青年や壮年の男たちは、当時の原住民の首狩の習慣で、首を打たれ、武器をすべて奪われた。この男たちの90%以上が、パーラン社の男たちだった。悲しみの声に満ちたパーラン社の惨状に、セデック族の誰もが嘆き悲しんだ。この悲報が伝わると、夫を突然失って自殺する女性たちも多く出た。多くの家庭が依るべき男性を失い、とりわけ狩りに出る者がいなくなった家では、生活に困窮した。パーラン社の下部落は、この事件のせいで部落がなくなってしまうほどだった。この事件ののち、日本の軍隊と警察は一人の兵も失うことなく、順調に霧社を占拠した。「蕃日結婚」によって、狼を部屋に引き入れることになった。日本人はこの後も「蕃を以って蕃を制す」という作戦を展開していく。

 そうして日本の軍隊と警察は、近代的な武器と訓練された軍人や警察官によって、部落をひとつずつ征伐し、銃を根こそぎ没収していった。セデックの男にとって、銃は第二の生命で、簡単な点火式の火薬銃だが、主要な狩猟道具であり、異民族の侵略に遭ったときの武器でもあった。銃を没収する際に、日本側は、銃の提出を拒んだ人々をすべてその場で殺してしまった。例えば私の曽祖父はロードフ社の頭目だったが、その狩猟団での最もよい仲間は彼の岳父だった。しかし銃の提出を拒否したために、日本の警察は人々の目の前で彼を射殺してしまった。したがうものは良蕃として撫し、逆らうものは凶蕃として動物のように見て殺した。日本統治時代の人口統計によれば、霧社蕃の人口は3000人以上だったが、1912年(明治45年)には1600人余しか残っていなかった。さらに内山のタウツァ群やトロック群はもっと悲惨な状況に あった。霧社蕃の発祥の部落であるタロワン社は、もとは270人余りだった人口が、20余人に減ってしまった。パーラン社は780人余の人口が400人余になってしまい、タカナン社は400余人が50人余に、カッツク社は300余人が100人余になってしまった。セデックの人口が急激に減少したことからも、日本の軍隊と警察の残虐さは明らかだろう。これが1930年(昭和5年)に霧社事件が発生した遠因 のひとつである(後述)。なぜ日本の軍隊と警察は、村が滅びてしまうほど多くの人を殺すの か、人々には理解できなかった。破壊的な征伐をうけて、部落は次々に日本側に「帰順」し、一方近藤勝三郎はホーゴー社の頭目の妹と再婚し、弟の儀三郎もマヘボ社の頭目の妹と結婚、それぞれ「任務」を果たすと、霧社地区から姿を消してしまった。

【チカソワン事件】(七脚川事件)

 日本当局にとって山地のタロコ族をいかに少ない兵力で「帰順」させ、山地の豊富な林産資源を利用できるかが懸案となっていた。そこで当局は台湾東部の花蓮平原に居住するアミ族を親日化させ、タロコ族への備えとして隘勇線(一種の防衛境界線)の隘勇(ここでは警備隊の意)として配備させた。一番大きい村であるチカソワン社のアミ族がその任を請け負った。封鎖されたタロコ族は海へ出る道を失い、孤立化していった。だが、隘勇線に雇われたアミ族は、待遇への不満(報酬は少なく、勤務時間に縛られるなど)から、1908年(明治41年)12月、日本軍への反乱を起こした。

 12月13日、チカソワン社の隘勇伍長等18人が、「勤務地が村落から離れた海岸地帯」そして「薄給」を不満として現場から逃亡した。 さらに続いて、4名のチカソワン社隘勇が逃亡し、元来は敵対関係にあったタロコ族を抱き込んで逆に隘勇線を襲撃、さらに南勢アミ7社にタロコ族バトラン蕃含め、総勢2245名が連合する大暴動となった。この事態を受けた花蓮港支庁長の岩村慎吾は警察隊の派遣を試みるものの、支庁内のみでは鎮圧しきれないと判断し、花蓮港駐屯守備隊に支援を求めた。そこで綿貫歩兵中尉率いる一個小隊と警察隊が合流して現地に赴き、頭目と会見の上で説得を試みた。だが原住民の一団は15日には赤水の隘勇監督分遣場と銅門駐在所を焼討ちした上に、派出所間の電話線を切断し、翌16日には守備隊と支庁長以下の警察官らが包囲されるに至った。花蓮港一帯の日本人居留民約300人は、反乱軍に包囲されて全滅するとのデマが流れる中、守備隊は広歩兵大尉率いる一個中隊を出動させ、かろうじて包囲網を打破した。

 一方、花蓮港の暴動の知らせを受けた森尾台東庁長は台東から急遽北上して応援に駆け付け、警部以下235名の警察隊と隘勇149名、計384名の討伐隊を結成するものの、台湾東部のみでの警察、守備隊による鎮圧は不可能と判断して台湾総督府に救援を仰いだ。時の佐久間左馬太総督は請願を受けて池内陸軍幕僚参謀を指揮官に歩兵三個中隊、山砲一個小隊、砲兵一個小隊、機関銃一個分隊からなる討伐隊を結成して現地に派兵した。 また大津麟平警視総長も同日16日に基隆から奉天丸で花蓮港に上陸し、軍隊に合流した。この他台北庁、宜蘭庁、深坑庁、桃園庁からも警部と巡査ら90名の応援隊が駆けつけた。万全の体制を整えた当局は17日から小銃と山砲をもって木瓜山腹の木瓜社と湖南のバトラン社に砲撃を加えた。そしてウイリー事件後に敷設した隘勇線を26km延長し、総延長40kmに石油発動機を据える近代的な高圧電流鉄条網を配備し、警察関係86名、隘勇149名を配置して警備を固めた。こうして翌1909年(明治42年)初頭までに計1322人が降伏した。同年2月18日に花蓮港花崗山で除隊式、並びに戦死者の追悼式を行い、19日には佐久間総督が事件の決着を内務大臣に報告した。 この事件では、日本側の死者は計27名、負傷者は27名、対する原住民側の死者は30数名とも300名ともいう。

 事件後、日本当局は帰順した原住民らに日本人犠牲者の「首級」を提出させると同時に、各社の有力者を集めて銃器の提出を徹底させた。南勢七社のうちで最大のアミ族集落だったチカソワン社は、解体された。村人の今後の生活再建策として、近隣の集落に縁故先のある291戸、791人はそれぞれの集落に移住させ、縁者のない120戸394人は大埔尾に移住させ、ここを新チカソワン社と命名し、移住者には台東庁から食料や農機具が支給された。

 チカソワン社跡の880万坪の空き地には、1909年(明治42年)よりチカソワン社の隣村、タウラン社に移民指導所を設けて事業を立ち上げ、翌1910年(明治43年)、徳島県の吉野川流域からまず9戸10人が入植し、吉野村が設立された。台風やマラリア、毒蛇の害に苦しむ中でも開墾、整地に励み、台湾の気候下でも順調に発展し、昭和期には日本内地から皇族が視察に訪れるなど官営農村の成功例として評価された。1945年(昭和20年)の日本敗戦時、すでに2世の代となっていた村民らは引き揚げなど思いもよらず、中華民国政府の陳儀行政長官に在留嘆願書を提出したが、翌1946年(昭和21年)に引き揚げ命令により日本人村民はすべて日本本土に引き上げた。「吉野」の地名は「日本的」との理由で、1948年(昭和23年)に「吉安」と改められた。

(以上はウィキペディアその他より)

【五カ年理蕃計画】

 日本政府(台湾総督府)は1909年(明治42年)、佐久間左馬太総督による 「五箇年理蕃計画」(蕃地に住む蕃人に対する政策)を打ち立てた。それは蕃人に対し、命令に対し絶対遵守するよう帰順勧告を出し、従わない場合には「隘勇線」で塩や銃の流入を止め、先住民族を台湾中央山系に追いあげ、餓死か降伏かの択一を迫り、帰順後にはその銃器を押収、その後は軍隊が撤収し、道路を開き、警察が道路沿いに警察官吏駐在所、警戒所を設置するというものであった。この計画に従って大規模な対原住民討伐政策として28回に渡って軍事行動を起こした。そのなかでも1910年(明治43年)のガオガン蕃地帯での戦闘は激烈を極めた。ガオガン蕃 は17の村落から構成され、タイヤル族の中でも武勇を誇る部族の一つであった。もちろんこの一帯は樟脳の生産地で、多くの日本の事業者がこの地に群がり、利権を享受する一方でタイヤル族の首狩の被害にあっていた。『台湾日日新報』(1910年:明治43年1月)は「昨年の蕃害数」として、警察官36人、 隘勇(主に漢族の警備員)61人、脳丁(現地作業者)38人、その他55人、合計で190人の犠牲者数を発表している。2月にも「宜蘭の大蕃害」として、ガオガン蕃人の約30名が宜蘭九湖駐在所を襲い、日本人側に10人の死者が出た。こうした事態に危機感を抱いた総督府は、ガオガンの制圧を目指し警察、軍隊を動員し、一つは宜蘭方面、もう一つは新竹方面、さらには桃園方面と三方面から制圧に取りかかった。

 日本側は隘勇線を前進させながら、ガオガン地域の軍事的要衝地、ボンボン山を占領し、この山を拠点にして各村落に攻勢をかけた。5月にはシャカロー社、ブトノカン社を「帰順」させ、6月には南澳蕃コーゴツ社、 渓頭蕃シキクン社、ガオガン蕃の半分が帰順するが残りは激しく抵抗、7月は渓頭蕃のピヤナン社、ボンボン社、タポー社が帰順、8月はクル社、マリコワン蕃のウライ社、マメ社、ガオガンのタカサン社、バロン社が帰順、9月はガオガン全地が「帰順」、またタイヤル族のエヘン、ピヤワイ、テーリック、イバオ、カラ社なども帰順させつつ、総督府はさらなる戦闘をしかけ、タロコ族、セデック族の制圧に乗り出す。1911年(明治44年)には セデックの南投庁霧社、12年(明治45年)にはタイヤル族のマレッパ、13年(大正2年)には新竹庁マリコワン、その翌年2年にキナジー、そしてセデック族とタロコ族との戦闘(以下)は続いた。

(以上は主に既述の『南庄事件と〈先住民〉問題』山路勝彦より)

【タロコ征伐戦争】

 日本の台湾統治以来、原住民の中で、タロコ(太魯閣)族は最も長く日本の統治に対して抵抗を続けた。1914年(大正3年)5月、最も抵抗の強かったタロコ族に対し、日本は最後となる「太魯閣征伐軍事行動」を発動、軍と警察、役夫合計2万人を動員し、60日あまりの激戦の結果、タロコ族の集落は全て日本の勢力下に置かれた。

 日本の本来の目的は台湾の自然資源を開拓することであり、例えば既述の台湾に群生するクスノキの伐採もその一つであった。そのための探索中に、しばしば日本人は原住民に殺されていた。1906年(明治39年)、花蓮港支庁長警部大山十郎一行23名が殺害され、1910年(明治40年)以来、日本は太魯閣地区に対して何度も蕃地と蕃情の調査を行い、1913年(大正2年)9月から11月までの「太魯閣討伐の準備探査」が始まり、翌年、5回目の探査行動を展開し、毎回の探査行動の中で、探査隊は道路を掘削し、建設する使命を負っていた。これらの調査結果を総合し「太魯閣事情」という一冊を刊行し、「新城事件」(既述)の失敗した轍を踏まないようにした。その中で1913年(大正2年)3月に寒波の来襲で89人が凍死した事件もあった。また電信設備を架設し、新城から花蓮までの間に軽乗用車を設置して武器を輸送し、将来の負傷者に備えて臨時病院や救護班も設置された。そうした準備を経て、全台湾各州庁に支援を要請した。輸送路の長さと困難さから、必要な足夫は最も多い時に1万7600人に達し、多くの足夫が死亡したり逃亡したりした。合計3万人近くが霧社、立霧渓口、木瓜渓口から戦場に進出し、対するタロコ族の壮丁の総数が約3000人で、人数は比較にならず、相応の銃器、弾薬は所持していたが、近代的な武器も持っていなかった。

 1914年(大正3年)4月29日、太魯閣(タロコ)蕃討伐軍警察隊は新城北埔に司令部を設置し、5月14日、台湾総督佐久間左馬太は討伐軍司令官として太魯閣蕃討伐軍陸軍部隊司令部を南投埔里に設置し、17日、討伐行動開始を命じた。戦闘は5月30日に始まり、第一連隊はバトラン社に突入し、耕作中の先住民を襲撃、機関銃、山砲隊の援護射撃の下、バトラン社を焼き払い、焦土作戦を行った。31日、警察部隊は三桟渓、木瓜渓方面を攻撃し、佐久間総督率いる陸軍部隊は合歓山、奇萊主山に侵攻した。この作戦には6235人が動員され、雑役労働者も合わせて1万1075人に達し、わずか9千人余りの先住民部族の総人口を超え、その中で戦う能力のある男もわずか3千人程度だった。6月14日、三路を進軍する日本軍歩兵は砲兵と協力し、タロコ最大のポプラ社に侵入した。激しい激戦の末に陥落させ、タロコ族が耕地と家財を残して逃げた後、社中に入った軍隊は家々を燃やし始めた。21日、軍の砲兵は現在の天祥後方の山嶺のタロコ族を包囲、その後も陸軍部隊は、警察部隊と合流し破竹の勢いで侵攻した。

 7月3日、太魯閣蕃の総頭目である哈鹿閣那威(ハロク・ナウイ)は、一族がこれ以上殺されないようにするため武装解除したが、日本軍は南澳や道賽に逃げたタロコ族の壮丁を追撃し、第2次作戦を展開、7月19日に任務の完成を宣言し、8月10日に軍司令部でタロコ族の帰順式を行い、13日、討伐軍司令部を撤去、28日に台湾総督府が台湾神社で蕃地平定奉告祭を行い、勝利を宣言した。この戦いで日本の警察隊は138人、軍隊は226人が死傷したが、太魯閣族の死傷者数は記録に残っていない。

 戦争が終わった後、まず橋梁、道路及び警察の駐在所の整備、銃器の押収と逃亡原住民族の扶助などを行い、花蓮港庁の下に新城支庁、内太魯閣支庁を設置し、海鼠山に歩兵中隊を駐屯させ、山地深くまで原住民部族を徹底的に制圧した。河口付近のサカタン社とハロク社を残してタロコ族は平地に集団移住され、一部の族が漢人居住区域に移住された。そこで地元民との混在政策により、タロコ族の伝統文化は破壊された。また日本は各駐在所に教育所を設立し、皇民化教育を行った。さらに定耕農業を奨励し、農業講習所などを設置し、タロコ族本来の経済生活は失われた。この戦闘は人々に「抗日戦争」と呼ばれ、「太魯閣戦争」とも呼ばれた台湾本島最大の戦いであった。

(以上は主に台湾のサイト「太魯閣戦争」から要約)

【サラマオ事件】

 1920年(大正9年)、姉妹ヶ原事件(1903年:明治36年)で大きな被害を負ったセデック族マヘボ社の反抗の動きが未然に発覚し、日本当局は部落の頭目であるモーナ・ルーダオと要人たちを拘留した。ところがこのとき9月18日、台中県のタイヤル族サラマオ社で60人が武装蜂起し(本来セデック族と同時に蜂起しようとしていたが、セデック族の動きが先に発覚した)、日本人警察官と家族7人を含めて19人を殺害する事件がおこった。日本当局はその地域のホーゴー社、パーラン社その他7部落の人々を使嗾して、鎮圧に動員した。5回にわたる凄惨な戦いが繰り広げられたが、制圧はできず、ついにはマシトバオ ンの頭目が戦死したため、部落の人々は出動を拒否した。そこで日本当局は、拘留していたセデック族に罪を軽くすると交渉し、強制的に征伐に動員した。台中警部補の下山冶平は禁止していた首狩を特別許可し、モーナ・ルーダオたちは下山の指揮のもと、サラマオ社の25人の首を切り落とさせた。この時下山の息子は、父が5個の首を下げて帰ってきたのを見ているが、この制圧記念として、それらの首を前に並べ、そのすぐ後ろに首を狩り取ったセデック族が腰をかけて並び、その後ろに日本人警察官たちが軍刀をた携えて並んでいる写真がネット上に掲載されている。この種の写真は他にもあるが、当時の日本人たちが原住民を従えて誇っている姿がそこにある。これは日本の「蕃を以って蕃を制す」(策略によって原住民同士を戦わせる)のやり方を象徴する事件であった。

 この結果、タイヤル族サラマオ社は400人を超える人口であったが、(セデック族のパーラン社と同様)一挙に200人くらいに減り、以後回復することなくそのまま推移していく。また、この時のセデック族が10年後に霧社事件(後述)を起こすことになる。

義和団の乱(北清事変)と列強国の介入(1900年6月 −1901年9月:明治33年−明治34年)

 日清戦争で清国(中国)が弱体化するのを見て、欧米列国はその日本を押しのけて清国の権益確保に取りかかった。中国は多大な戦費調達で外債を抱えた上に、日本に対する巨額の賠償金の支払いが課せられた。そこでロシアとフランス、ドイツは、借款契約で中国に融資した上で、各地の租借権を得た。

 ロシアの場合、1898年(明治31年)、旅順に太平洋艦隊の基地を造り(露清以外の艦船は入港禁止)、さらに満州の鉄道施設権を得てシベリア鉄道が繋がるようにし、満州への進出への足がかりを作っていった。(遼東半島は、日清戦争講和条約時に日本が列国に反対されながら獲得したもので、絶好の港がある旅順と大連を含む)これは日本が一番危惧していたことであった。別途ドイツは膠州湾と山東半島を租借し、フランスは広州湾を租借、イギリスは威海衛と香港島の対岸の九龍の軍事拠点とその北側の深圳河以南の新界地域を租借、アメリカは租借権の代わりに清国の経済市場の門戸開放を約束させた。

 これら列強国の進出に対し、1899年(明治32年)、山東省で生活に苦しむ農民を集めた義和団が結成され、反政府、排外運動を起こし、「扶清滅洋」(清を扶け洋を滅すべし)のようなスローガンのもとにその運動が華北一帯に波及、1900年(明治33年)、各地で外国人やキリスト教会を襲った。清王朝政府の西太后は、当初義和団を鎮圧しようとしたが、それが難しいと見ると、もともと列強国の横暴を苦々しく思っていたこともあって方向を転換し、逆に義和団を支持し、列国に宣戦布告、北京の列国の公使館襲撃に向かった。これを見た列国はすぐに軍隊を動かせる日本とロシアに出動を依頼し、日本はこれに応じ八カ国連合軍の先陣を切って鎮圧に向かった。8月、天津を鎮圧し北京に入城する頃には連合軍は最大7万人となったが、北京とその周辺には20万人の義和団がいたという。しかし兵器で勝る連合軍は義和団を打ち破り、首都北京及び紫禁城を占領した。

 全期間にわたる連合国側の死者数は757名、負傷者数は2654名とされ、日本軍の死者は半分以上の349名、負傷者933名と多い。中国側の死傷者は数万人とされ、また清朝や義和団によって殺害された人々は宣教師や神父など教会関係者が241名、中国人クリスチャンの犠牲は甚大で2万3000人とされる。

 連合軍の勝利を受けた北京議定書によって、清国は日清戦争の賠償金の上にさらに多額の賠償金を各国に背負い、列国の軍隊の駐屯を認めることになった。ただ、賠償金の総額はあまりにも過酷となり、やがて国際的な批判と反省が起こり、賠償金を受け取った各国は様々な形で中国に還元することとなった。たとえばアメリカは、賠償金によって北京に清華大学を創設、日本も1922年(大正11年)に賠償金の一部を中国に対する東方文化事業に使用することを決定し、中国人留学生への援助も行い、現代まで続く学術研究機関も設置されている。それにしても自国の領地を侵された人々が列国に対して反乱を起こし、鎮圧された結果、賠償金を課された上、駐屯軍の拡大を受け入れざるを得なくなるとは、過酷以上のものであろう。日本軍も北京と天津に清国駐屯軍 (後に支那駐屯軍とされる)を設置したが、これが昭和の日中戦争初期の侵攻の主力部隊となる。

【連合国軍の紫禁城宝物略奪】

 なお、この列国の占領直後から、八カ国連合軍による略奪が開始され、有名な紫禁城の秘宝などはこれがきっかけで中国国外に多く流出した。他に王侯貴族の邸宅や頤和園などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となり、貴重な秘蔵文書も消失した。また奪った宝物を換金するための泥棒市が立つほどであったというが、日本経由で欧米へ流出した書画骨董・青銅器・磁器も多いとされる。そこで日本軍は他国軍に先駆けて戦利品確保に動き出し、まず総理衙門と戸部(財務担当官庁)を押さえて約291万4800両の馬蹄銀や32万石の玄米を接収した結果、列国中戦利品が最も多かった。ちなみにこの時の日本軍自体は他国軍より正しく規律を守っていたとの評判も残っているが、陰でのこの略奪行為は何なのであろうか。戦争というものが無法を前提とした行いであることを示していて、これ以降も日本軍には横暴を極めた話が多く残る。それにしても日本の場合、他国からこのような侵略を受けたことはないが、当の中国の人々からすると、どれほどの屈辱であろうか。そういう相手の立場を理解する心を、ほぼ侵略側にしか立たなかった我々日本人は、特に持たなければならない。

【義和団の乱以降】

 1895年(明治28年)、日清戦争に敗北した中国は清王朝の支配体制が弱まり、列強国による中国分割が進み危機に陥っていた。清朝末期の清国軍の主力を担ったのは李鴻章の北洋軍で、北洋艦隊もその支配下にあった。北洋軍は李鴻章の私兵という性格が強く、国軍としては弱体であったが、戦争後の講和交渉で全権を任されたのも李であった。その後政権内部でも改革派によって日本の明治維新に倣った立憲君主政への移行を模索する動きもあったが、実現できず、軍隊では新建陸軍(新軍)が編成され、その中心となったのは李鴻章の配下の袁世凱であった。そこに1900年の義和団の乱(北清事変)が起こり、それに対し日本を含む列強国が侵攻し、またも清王朝は敗れた。翌年の李鴻章の死後、軍の実験は袁世凱が握っていたが、義和団事変では清朝政府の要請にも拘わらず外国軍との戦闘に加わらずに勢力を温存した。1904年(明治37年)の日露戦争で清朝は中立を宣言したが、その主戦場は清国内であり、これに対し救国の声が高まり、清朝政権打倒は共通の流れとなっていった。そこから1911年(明治44年)にかけて複数の同盟組織による多くの武装蜂起と失敗が繰り返された。そうした革命の機運を広める役割を担ったのが、孫文を中心とした日本に留学した者たちであり、そこから様々な革命組織が各地に結成されていた。

朝鮮(韓国)におけるロシアとの利権争いから日露戦争へ
(1904年2月8日 − 1905年9月5日:明治37-38年)

日英同盟

 ロシアは中国の義和団の乱の出兵に乗じて、満州に大兵力を送り、全土を占領下に置いた。日英米はこれに抗議しロシアは撤兵を約束したが、すでに清国と駐兵権と鉱山採掘権を密約で手に入れていた。これによって(かって日本に三国干渉によって遼東半島から日本を撤退させた)ロシアは、履行期限の1902年(明治35年)を過ぎても撤退を行わず、駐留軍の増強を図り、さらに日本の保護下にある朝鮮(当時は大韓帝国)にも食指を伸ばそうとした(このロシアの行動は後の日本軍の満州侵攻と似ている)。

 他の地域での戦争で国力が低下していたイギリスは、ロシアの南下が中国での権益を脅かすとの危機感を募らせ、1902年(明治35年)に、日本との同盟に踏み切った。その内容は 「清国及び韓国(朝鮮)における日英両国の利益をお互いに守る/日本又は英国の一方が自衛のための戦争をするときには互いに厳正中立を守る/日本又は英国の一方が複数の国と戦争になった場合は援助して協同して戦闘する」というものであった。

 この日英同盟によってロシア帝国は満州から撤兵を開始したが、全兵力の撤兵は行わなかった。 日本政府内では1903年(明治36年)4月に主要な重臣たちが会議を重ね、「満洲問題に対しては、我に於て露国の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」/「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針に傾いた。

ロシアの朝鮮進出と日露開戦

 同1902年(明治35年)4月、ロシア系企業が朝鮮側に鴨緑江山林事業の開始を通告し、5月になってロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦 (竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめた。日本とロシアの緊張関係が高まる中、この時点では日本側の開戦論はまだ少数派で、その理由は現状の日本の経済事情や軍事力では戦うことができないという慎重論であった。8月、満韓両問題について協定を結ぶ目的でロシアに会談を持ちかけた。その協定案は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案で、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかしロシアは返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。強大国としてのロシアの重臣たちには日本と戦争になっても敗北は想定していなかったから、積極的な主戦論を主張するものが多かった。

 一方日本としては、これでは朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となりかねないと判断し、またシベリア鉄道が全線開通すると、ヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、そうなる以前の開戦へと国論が傾き、そして第三次撤兵期限をロシアが履行しなかった1903年(明治36年)10月8日を境に、日本の新聞各紙の論調は開戦論一辺倒となった。その中でもキリスト教の内村鑑三、社会主義の幸徳秋水、歌人の与謝野晶子等が戦争反対の声をあげた。翌1904年(明治37年)1月13日に日本政府が送った最後の交渉修正案をロシアが無視したとして、1904年(明治37年)2月4日の御前会議で対露開戦を決定、6日に外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。早くもその二日後に日本軍は朝鮮の仁川に上陸、仁川沖、旅順口でロシア艦を奇襲砲撃する。そして2月10日にロシアに宣戦布告し、翌日大本営を設置した。日清戦争からわずか10年後の開戦であった。

 日露戦争開戦の詔勅の内容は日清戦争の詔勅と同様、どこまでもロシアの非を並べ立て、韓国の安全と恒久平和を維持するためにやむなく開戦するものとしている。これもおそらく天皇の本来の意志ではなく、指導層が明治天皇にこの内容の「詔勅」を発するように仕向けたのであろう。すでにこの三年前から青木外相は対露開戦を明治天皇に上奏していたという。なお2022年(令和4年)7月、当時の桂太郎内閣で内閣書記官長や文相を務めた山口県出身の官僚・政治家柴田家門の長男宅に、日露戦争の宣戦布告の詔勅草案が発見された。戦争開始を宣言する内容はほぼ同じだが、「其責任挙て露国に在り」と強調する表現もあった。(「日露戦争開戦の詔勅」は筆者の「各種参考資料」参照)

日韓議定書による韓国支配

 この「宣戦の詔勅」の中で、ロシアによって大韓帝国(日清戦争後に中国から離脱して朝鮮は大韓帝国と称していた)の保全が脅かされたことが日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機に挙げている。しかし当の韓国は一応中立宣言をしていた。また日本はこの宣戦布告前から韓国内に日本軍を上陸させた圧力を持って、1904年(明治37年)2月23日、軍事的協定書とも言える日韓議定書を韓国に押し付けた。その内容は、韓国の独立と領土保全および王室の安全を保障するかわりに、韓国領土内における日本軍の行動の自由と軍略上必要な土地の収用を承認することであり、これで韓国全土は日本軍に制圧されることになった。この日本軍は韓国駐箚軍として組織された。また議定書は韓国の施政の改善に関しても日本の忠告をいれると定め、ほぼ植民地に等しい扱いで、この後の日韓併合に直結する。

 この日露戦争にあたって大清帝国(中国)も厳正中立を宣言していたが、北洋軍総督の袁世凱は事実上ロシアの植民地となっている東三省を回復すべく、暗に日本に協力し、諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣したとの説がある。一方大韓帝国(朝鮮)は中国から離脱したものの、ロシアは高宗(朝鮮王)を通じ売り払われた鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得していて、それに対しロシアの進める南下政策に危機感を持っていた日本が、これらを買い戻し回復させ、それもあって日韓議定書を強引に押し付けることができた。開戦後の8月には第一次日韓協約を締結、その財政顧問に日本人を、外交顧問にアメリカ人を置き、大韓帝国政府内への影響力を強めた。一方で、高宗などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していったが、日本側に漏れて失敗に終わる。

日本軍の勝利と犠牲者数

 日露戦争といっても、戦争の舞台は当初は朝鮮(韓国)、その後はほぼ中国(清国)領土内の攻防であり(日清戦争時にも半ば朝鮮が舞台となった)、中国の人々にとってはいい迷惑であったろうが、鴨緑江会戦、旅順港要塞攻囲戦、黄海海戦、遼陽会戦、旅順(203高地)攻略、奉天会戦と続いた。旅順は三国干渉で日本が清国に返還したが、その後ロシアが租借し堅固で難攻不落な要塞都市となっていたから、何度にも渡る陸海からの攻防戦の結果、日本軍が陥落させた(旅順は日清戦争でも主な戦場になっていて虐殺事件が起こっている:既述)。5月の最大の陸戦、奉天会戦では日本軍25万人、ロシア軍35万人という、 総力戦であったが、決着せず、参謀総長山県有朋は限界を予見し、これ以上の戦線の拡大と戦争の長期化は国力の限界を超えるおそれがあるとし「もう停戦せざるを得ず」と判断していた。 一方ロシアではこの間の1905年(明治38年)1月22日(旅順陥落直後)に血の日曜日事件を機に、第一次ロシア革命が起こっていて、戦争継続が困難な状況となっていた。そうして5月28日、ロシアのバルチック艦隊との戦いで有名な日本海海戦で勝利したことを契機として、6月1日、和平交渉を米国に依頼した。

 総戦力は日本が30万人、 ロシアが50万人。日本の戦没者は8万8429人、うち戦死戦傷死は5万5655人、病死2万7192人、負傷者15万3584人、捕虜1800人。 ロシアの戦死戦傷死は3万4000-5万2623人、病死9300-1万8830人、負傷14万6032人、捕虜7万9367人となっている。日本の戦死者のほうが、多いがそれほどに際どい戦いであった。また日清戦争に続いて戦病死が多いのが目立つ。これは当時白米(玄米にある胚芽を削ぎ落とした普通の米食)を主食とするようになってビタミン不足で起きる病気(脚気)で、当時は原因が解明されていなかったが、玄米や麦を食べれば発病しなかった。つまり削ぎ落とした米ぬかが大事だったのである。

 筆者注:この日露戦争で弟を戦場に送った高名な歌人、与謝野晶子が1904年(明治37年)に「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」との副題で、有名な五連詩『君死にたまふことなかれ』を発表している。この戦争の時代、内容が反国家的であると批判を受けたが、これが仮に昭和に入り、とりわけ約30年後の満州事変以降の発表なら、間違いなく発禁処分であったろうが、あるいは投獄されたかもしれない。

 ——「ああおとうとよ 君を泣く 君死にたまふことなかれ/末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりし/親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとをしえしや/人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや/…… 死ぬるを人のほまれとは 大みこころの深ければ/もとよりいかで思(おぼ)されむ ……/十月(とつき)も添はでわかれたる 少女ごころを思ひみよ/この世ひとりの君ならで ああまた誰をたのむべき/君死にたまふことなかれ」

 この中の「死ぬるを人のほまれとは 大みこころの深ければ」、つまり、大みこころ=天皇の御心が深ければいうのは、天皇は決してお前たちが戦争に行って敵を殺し、また自分が死んで国の誉れとなることを望んではいないだろうということで、本来天皇というのはあくまで国民の平和的生活つまり安寧を願う立場であって、結局は周囲の政治的指導層が「国家の威信」というものを掲げて戦争を生じさせ、そのために天皇を散々説得して「開戦の詔勅」を書かせるに至るのである。あえて言えば日本の天皇は、時の為政者に利用されるだけの国民と同じ弱者の立場にいると言える。そしてそれは昭和の戦争についても同じである。

常陸丸事件

 日露戦争中の1904年(明治37年)6月15日、将兵の運搬船つまり陸軍徴傭運送船3隻が、中国に向けて玄界灘を西航中、ロシア帝国海軍ウラジオ艦隊に所属する3隻の装甲巡洋艦によって相次いで攻撃され、降伏拒否などにより撃沈破された事件である。

 まずウラジオ艦隊は、中国遼東半島から日本に向かっていた輸送船の和泉丸を対馬海峡で発見し、停船させて乗船者に対し退去を勧告し、退去を確認後砲撃を加えて撃沈した。これにより陸海軍兵3名を含む112名のうち、戦死者7名、83名が捕虜として収容され、残る22名が生還した。常陸丸と佐渡丸はともに将兵を乗せて6月14日に宇品を出港してやはり遼東半島へと輸送中であった。常陸丸に対してはウラジオ艦隊ははじめ空砲を発射し、間もなく実弾発射に切り替え、常陸丸は全速力で後方へ逃げるが、一発が機関部に命中したのをはじめに、近接射撃によりおよそ100発もの射撃を受けて戦死者が続出して機関は破裂し、やがて甲板から出火、船内は血の海となり、さらに三度の一斉射撃を受けて沈没した。常陸丸には1238名が乗船していて、戦死者は1091名に達した。常陸丸の連隊長は砲弾に当たって負傷したのち切腹、残る将校も切腹や拳銃自殺、海中へ投身自殺した。この時イギリス人の船長や機関長ら3名も相次いで敵弾に倒れた。

 もう一つの輸送船佐渡丸には1258名が乗船していて、戦死者は236名であった。佐渡丸の場合はロシア艦隊から軍使が派遣されて非戦闘員の退去を促したが、応じなかったためロシア艦隊は砲撃を開始し、左右両舷に魚雷を命中させて退去した。魚雷は機関部に命中して浸水したが、ロシア艦隊はそのまま去っていき、30時間もの漂流ののち沖ノ島にたどり着き、戦死者は少なく済んだ。これに対して日本海海上警備を担当していた第二艦隊の艦長は国内で非難の的になったが、事件から2ヶ月後の8月に起こった蔚山沖海戦でウラジオ艦隊を事実上壊滅させ、結果的に日本軍が勝利したことにより尾を引くことはなかった。なお、その蔚山沖海戦や翌年の有名な日本海海戦についてはここでは取り上げない。ただ、ここに見られる、事前に非戦闘員への退去勧告を行うというのは、この後の戦争においても行われたのかどうか、少なくとも第二次大戦になると見られなかったことではないか。

捕虜の扱い

【ロシアの兵捕虜】

 ロシア軍の捕虜は7万9千人以上と異様に多いが、そのうち旅順が約4.4万人、奉天が2万人、日本海海戦で6千百人、樺太で4千7百人などである。捕虜は日本各地29都市に分散され、適当な施設がなければ新たに建造されて収容された。そのうち堺市浜寺が2万2376、習志野で1万4950、熊本で6002人、福岡で4049人、名古屋で3492人、金沢で3317人、松山、姫路、仙台、久留米などが2千人台であった。日清戦争の時も国際法遵守が意識されていたが、当時ロシアは戦時国際法の先進国であった。ジュネーブ条約に続く1874年(明治7年)のブリュッセル宣言(軍隊の権利と義務を定める)、1899年(明治32年)のハーグ条約(戦闘の非人道性を抑制することを目的とする)はロシアの先導のもとに制定された。したがってこのロシアとの開戦の初めより捕虜の取扱いには細心の注意を要した。日本にとっても戦費の調達を英米に依存し、戦争の終結の仲介をアメリカに頼っていたことも国際法の遵守は優先事項であった。捕虜は戦争の展開に連れて増え続け、順次日本国内に連れてこられたが、将校クラスの人間からはその扱いに対して抗議の声が上がり、順調にはいかなかった。なお開戦以前から日本に滞在していたロシア軍人も捕虜の対象になった。

 例外的な捕虜殺害の話もある。ロシアは満州の東清鉄道沿線、サハリン(樺太)、沿海州(ウラジオストクを州都とする極東地域)に国民軍自由隊を組織していた。1905年(明治38年)7月、アメリカが仲介する講和勧告後、日本は講和条件を有利に進めるためにロシア領の樺太に侵攻したが、日本軍は一つの村落内で土民や義勇兵の抵抗を受け、150-160人を捕えた。しかし彼らの服装は正規兵のものではなく、装備も雑多であり交戦者との区別も付けづらく、さらに反抗や逃走を企てる者が多く、取り調べの上つまり不法な交戦者として120名を処刑した。この話は東京のニコライ堂の大司教が日本に来た捕虜将兵から聞いた話として日記に書いている。

 この戦争の主な戦場は中立国としての中国の満州であったため、私有財産の保全について日本軍は配慮したが、満州には馬賊がいて、ロシア軍が彼らを利用する場合があり、またロシア軍の遺棄兵器も多量に出て、馬賊や地元民がそれらを収得した。それに対しては日本軍の戦利品の窃取として罰するとともに、自衛のためであるなら一定の条件をつけて貸与した。占領地の行政については清国行政官の権限を尊重し、満州住民の日本軍作戦への妨害の抑止、所用物資の調達促進などを要請した。

 ロシア人を捕虜にする際、言葉の問題で降伏の意思を確認することは困難であったため、無用な摩擦を避けるため、第三軍(司令官は乃木大将で旅順要塞攻囲戦指揮したことで有名)では「俘虜の心得」をロシア語にして捕虜に交付した。—— 「正義を重んずる日本軍隊は俘虜に対し博愛の心を以って取扱い、俘虜の身分階級に応じ相当な待遇を与え、決して侮辱、虐待を加うることなかるべし。故に各自安心して諸事に従順なるべし」と、そのほか10項目からなっていた。さらに第三軍では一度に大量の捕虜の収容事務を処理するために「俘虜整理委員」を設置、続いて奉天会戦でも第二軍や第四軍が中心となり各師団より要員を派遣して俘虜整理委員を構成し、戦地における収容所の取締り、捕虜の給養、医療、監視部隊の指揮、捕虜の後送などを統括した。特に傷病者の治療はロシア軍で捕虜となった衛生部隊(原則として衛生部員は捕虜にできない)と協力して行った。さらに戦死者に対しても規則が定められ、死体に対して尊敬の念を払うこと、その侮辱、物品の略奪を禁じた。また死者の識別、遺品の整理もなされ、俘虜情報局を通して戦死者の情報を通知した。

 これらに加えてというよりこれらに先立って、日清戦争時と同様に各軍に国際法顧問が就いた。日清戦争にも従軍した有賀長雄を含め、陸海軍合わせて10名を超える法学者が就いていた。しかも彼らの多くは戦後に著作を残し、いかに国際法を遵守したかを書いている。この事実は先に昭和の時代の中国に対する戦争の実情を見てきた筆者にとって驚くべき配慮であって、特に30数年後の日中戦争においては軍紀など無きに等しい状態で、日本軍は中国各地に捕虜や住民への虐殺事件を起こしている。そもそも「捕虜は取らない方針」のもと、捕虜は進軍の邪魔であるとして、抹殺して行った。この昭和期はナチスドイツと歩調を合わせた世界情勢下にあると言え、時代が逆転現象を起こしたかのようである。もちろん殺すか殺されるかという戦争状態の中、あまり表立たないところでの双方の殺戮や掠奪、捕虜への虐待はあって、中にはロシアの負傷兵4、50人を小屋に入れて火をつけて焼き殺したという話も残るが、この種の話が日中戦争下ではおおっぴらに展開されるのである。この時代、人間が劣化していたというほかないが、どうしてこうした逆転現象が起こるのか、ある意味、国際法遵守などの精神が無益になるほどの大量殺戮の時代に入っていたということかもしれない。

 ロシア軍の捕虜7万9千人以上のうち、国内に収容された者は約7万2400人であった。29カ所の収容所はできるだけ温暖な地域が選ばれ、日清戦争時のように寺院への収容もあったが、多人数に上る場合、立派なバラック(プレハブ)が何棟も建てられた地域もあり、基本的に厚遇された。なかには最初の収容所が設けられた松山に送られた将校の妻が、虐待されているものとして来日したが、待遇の良いのを見て(高級将校の中には収容所ではなく民家も選べた)ロシアやシベリアでは考えられないと満足した話もある。捕虜には食費など一定の給養費が支給され、それは洋食を基準としたので日本兵より高くついた。また被服費や消耗品などの名目で小遣いが与えられ、いずれも将校や下士官、兵卒の位に準じて差があった。散歩も自由とされ、将校たちは温泉も貸切にするなどして一般の療養者がはじき出される例もあった。一軍曹などは母国への手紙に「規律もなければ、教練もなく、何もすることがない」と書き、一般的に行われる労役義務もなかった。ただ、娯楽としては自転車、外食、ビリヤード、テニス、音楽、演劇のほか、各種の飲酒、カルタ遊びなどに興じたとあるが、それは貴族階級の将校以上のことであって、兵卒のほとんどは農民出身であまり自由ではなかったという。そのうち余裕のある捕虜は遊郭にも入っていくようになり、しかし日本では捕虜になることは恥とされる共通意識があって、彼らの自由な行動に対し次第に批判が高まっていく。それでも戦後にはロシア側からその待遇に感謝された。

 ポーツマス条約成立後、捕虜は解放されることになり、捕虜送還船で初期には神戸から帰国したが、神戸でペストが流行り、その後は名古屋に集められ、四日市から出国し、1906年(明治39年)2月に送還事業は終了した。いずれにしろ日本軍が捕らえた捕虜に関しての日本側の待遇で比較的良い話が聞けるのは、この後の第一次世界大戦によるドイツ兵捕虜の話までである。

(以上は筆者の見解以外は主に『近代日本における捕虜』森雄司/中京大学法学研究論集第25号より抽出)

【日本兵の捕虜】

 ロシアもこの戦争に当たって捕虜取扱いについての臨時条例を制定した。その内容はハーグ条約(ロシアが先導)に基づいているため日本とも共通していた。ところが日本政府は自国の兵士に対し、万一捕虜になっても人道的に扱われるということは一切伝えていないようであった。一人の兵士は捕虜になって斬首されると思い込んでいたし、別の兵士は捕虜になって「お恥しい話」と告白するような状況であった。 ただ軍医、将校には捕虜取扱規則のことが知らされていたようであったが、日本の軍部はこのような規則の存在を兵士に教えることは兵士の戦闘意欲を低下させるとでも考えたのであろう。いずれにしろ両国とも捕虜の取扱いには国際的な評価への注意が払われていた。

 日本兵捕虜は満州のハルピンに集結させられ、そこから東清鉄道、シベリア鉄道によりロシア西部へ送られていった。この時期、ヨーロッパ・ロシアから極東へ連日連夜、兵士を満載した軍用列車が送られてきていて、その帰りの空き列車を使っての行程であった。移送中は宿舎も食事も粗末であったが、途中、中国人農家から奪った牛一頭を与えられ、それを料理したこともあった。途中の各都市の壮大さには目を見張ったが、街や建物の中は不潔であった。当初はシベリア西部(モスクワまでの中間地点)のトムスク、ついでモスクワ附近に分散して収容されていたが、1904年(明治37年)末にモスクワの北西方向で当時の首都サンクトペテルブルクに近いノブゴロド州メドベーチ村の空兵舎内に統合して日本兵1500人、非戦闘員400人余計1900人が収容されることになった。到着した日に名前など必要事項を書き、それは日本政府に送付された。ここは旅順で壊滅したロシア師団の兵舎で、八十棟以上あって立派な建物が並んでいた。それまでは捕虜の取扱いもばらばらであったのが、一定の規則に従って行われることになった。捕虜は基本的には労働に使役されず、将校は野球や水泳も許されていた。戦の終りまで一年余の間ここで暮らし、毎日室内や便所の掃除、水と薪の運搬,炊事の当番、溝さらい、草取り等が仕事であった。日本人将校用は大きな二階建の煉瓦造りの住居が用意され、採光、換気良好であり、ロシア将校と同じ程度の支給金を政府から受取っていた。翌年1月にモスクワ駐在アメリカ副領事が日本兵の状態を調査するためにここを訪れ、その報告書では好印象が述べられていた。

 1905年(明治38年)9月5日、 ポーツマス条約が調印され、日本兵捕虜は帰国することになるが、時間的に速く、経済的でもあったシベリア鉄道を利用せず、 西欧経由で海路帰国することになった。当時のシベリア鉄道は、ロシア兵の復員中で混乱していることと、労働者の暴動による第一次ロシア革命(不調に終わる)による鉄道の運行が困難な地域があり、不測の事態を避けるため海路による帰国となった。ドイツの鉄道を経由する途上、各都市の駅で戦勝国として歓迎を受け、捕虜たちは満足な心地だったという。そしてドイツのハンブルグ港より二隻の船で帰路につき、翌年2月に神戸港に着いた。

 1905年(明治38年)12月に日本兵捕虜が去ってからメドベーチ村を訪れる人はいなかったが、1908年(明治41年)9月、ここへ大勢の人がやってきた。収容所で死亡しロシアに眠る日本兵の遺骨を日本に送還することになった。ギリシャ正教の国ロシアには、当時火葬の習慣がなく、ペテルブルグ附近の2体とモスクワ附近の2体、メドベーチの19体(墓は日本兵によって作られていた)を発掘し、あわせて汽車でドイツのハンブルグに送り、そこで火葬することになった。無事ハンブルグまで送り火葬をすませ日本へ送ったが、その間、日本の大使館員や武官とロシア側からの将校などと、ロシア側の歩兵中隊が儀伎として同行して支えた。

(以上は『日露戦争における日本兵捕虜についての一考察』広瀬健夫/信州大学人文科学論集より。なお広瀬氏は1987年(昭和62年)6月にモスクワで聞かれた学会に出席した帰途にメドベーチ村を訪れている)

日本赤十字社の活動

 日本赤十字社は1877年(明治10年)の西南戦争のさなかに設立された「博愛社」という救護団体が前身である。日本のジュネーブ条約(赤十字条約)加入翌年の1887年(明治20年)、博愛社は日本赤十字社に改称、世界で19番目の赤十字社として正式に認められた。本格的に活動したのは日清戦争が最初である。日清戦争では日本赤十字社がこの戦争を通じて1384人(1396とも)の救護員を戦地に送り(ただし前線ではない)、また船内や内地の病院勤務、内地各所に収容する清国の捕虜1484人を含む10万を超える傷病者の救護に当たったことも報じられ、これは日本が国際法を遵守する一等国であること

 日露戦争における負傷兵の救護は日本赤十字社創立以来、最も大規模に実施された。開戦にあたり臨時救護部を特設し、朝鮮および満州に看護人組織救護班32組、陸軍病院船10隻に看護婦組織救護班23組、看護人混成組織救護班15組、陸海軍病院には看護婦組織救護班78組を派遣した。日露戦争の救護業務にかかわった救護員の総数は4900名(5170名とも)であり、二年間にわたり救護した患者は延732万6366名(内、捕虜者数57万5691名)、占領地住民救護患者6万3246名であった(以上の人数は一日単位の延べ数であり個々の数ではない)。この日露戦争の救護に要した費用は巨額となり、日清戦争の12倍を支出するに至った。これには日清戦争時の旅順虐殺において国際法遵守という観点から評価を下げた日本が、名誉挽回の意図をもって力を入れた結果なのかもしれない。

 なお上記の看護人とは男性であり、看護婦は女性で、看護婦の場合、戦地に赴くことはなく、病院船や国内での治療にあたった。医者を含めた看護人・看護婦の犠牲者は日清戦争で27名とされるが、日露戦争では107名となっていて、死亡原因は、腸チフス、赤痢、肺結核、脚気などであった。またこの看護人たちの死者は日露戦争後から靖国神社に合祀されるようになったが、昭和に入って日清戦争もさかのぼって合祀され、赤十字社にとっても名誉なこととされた。(以上は山下麻衣の「日清戦争以降満州事変以前における日本赤十字社の救護の変遷」および河合利修の「日露戦争後の日本赤十字社殉職救護員の靖國神社合祀」より)

 ちなみにこの後も第一次世界大戦、満州事変でも赤十字社は相応に活躍したが、1937年(昭和12年)の日中戦争あたりからは戦争の規模が拡大し、各部隊に救護班が付き、太平洋戦争では従軍看護婦という名のように前線近くまで張り付いて行くようになり、次第に看護婦は不足し、経験不足の若い看護婦も次々に派遣され(徴兵と同じように看護婦も召集令状で応召され、つまり軍籍になることであって、これは本来の赤十字の中立性とは違うであろうが)延べにして3万5000名が従軍し、うち1120名が戦没した。すでに赤十字社に国際法的な活動の意味合いはなくなっていた。

日清・日露戦争と仏教

 以下は『仏教の大東亜戦争』(鵜飼秀徳:文春新書、2022年)からの抄出である。

 明治維新後、天皇制による国家神道を軸とした政府の神仏分離令によって、廃仏毀釈運動が起こり寺院は衰退した。この危機感から特に東西本願寺は朝廷への献金をしつつ、天皇制を軸とする道、つまり現世においては「皇国の忠良たれ」という思想を説くようになった。またこの時期、北海道開拓が打ち出され、それに伴って寺院も進出していったが、これは自然な流れであろう。

 明治27年(1894)の「日清戦争は日本仏教にとって、試金石となった。真宗の僧侶が大陸に初進出。上海や北京などに寺院が建立され、大陸布教の拠点となった。かの地における僧侶(従軍僧)の役割は軍隊慰問や戦死者の慰霊、捕虜の撫恤(ぶじゅつ:捕虜に対する慰問、説法)などであった。それに続く日露戦争では仏教教団はより一層、戦時加担を強めていく。学僧によって戦争を肯定する教義が打ち出されると堰を切ったように各教団は従軍僧を派遣した。軍部と宗門は強調しながら……寺院を続々と建立していく」。こうした日本仏教の動きは、19世紀半ば以降の西欧諸国はアジア等に対し植民地政策を打ち出し、軍部の占領後、キリスト教教団が民衆の鎮撫を兼ねて積極的に布教活動を行った経緯とよく似ている。戦死者がつきものの軍部は常に宗教を必要とする。

 もとより仏教は中国から伝来したものであるが、明治以来上海を中心として日本人居住者が徐々に増え、その慰撫のためと、中国仏教が衰退していたこともあって、布教を目的として上海に続いて北京に東本願寺の別院が設けられた。日清戦争が起こると直ちに東西本願寺は「一身を国家に投げうって忠勤を尽くすように」との号令をかけ、軍隊慰問使を派遣した。さらに軍と行動を共にする従軍布教を開始、従軍僧も加わった。従軍僧は各宗門から戦地に派遣され、戦死者や軍馬、軍用犬などの弔い、捕虜の撫恤が行われた。日清戦争では清国の捕虜が日本に連行され、国内の大寺院が収容所として使われた。

 日清戦争に勝利すると、台湾が日本に割譲されて植民地となり、台湾総督府が置かれると各宗派から従軍僧が派遣された。だが現地ではしばらく日本軍に対する武装蜂起による抵抗運動が各地でおこり、衛生状態も悪く、マラリアや疫病で死者も出て、布教には過酷な状態が続いた。その後台湾北部が平定されると、各宗派が台湾開教に乗り出した。台湾では曹洞宗が強く、そこで日本語学校も設けられた。

日露戦争(明治37年:1904)が間近になると、各仏教教団の動きが活発になった。多くの教団が従軍僧を派遣し、寺院や布教所を開設、積極的に戦時協力した。著名な仏教学者も戦争を正当化する論陣を張った。「宗教は国家を体として存すべく国家は宗教を精神として発達すべし」(鈴木大拙)、あるいは「仏教は慈悲教なり、活人教なり、故に活人の為に戦うは、その慈悲の本旨に適うものなり。今もし日露の間に干戈を見ることあらば、仏者は進んでこれと戦うべきは当然にして、仏恩に報ずる所以もこの外にあるべからず。…… 仏者は仏恩の為、皇恩の為に死を決して戦うは当然のことなり」(井上円了)などの言辞が残る。

 そして開戦となると各宗派で戦勝が祈願され、本願寺派では105名の僧侶を戦地に派遣し、他の宗派も続いた。さらに軍部からの圧力もあって神道やキリスト教関係者が共同で「大日本宗教家大会開催趣意書」がまとめられ、そこで「日露の戦は実に帝国の安全と東亜の平和とに関する一大事たり。この時にあたり我等は国力を挙げて平和の敵に当たると共に、又内に自ら大国民たる正大の雅量を養い之を外に向て発揚するを要す」と表明した。そして同様な共同宣言が発せられた。陸軍の師団ごとに従軍僧が随行し、僧侶の戦死者も出た。

 日本の勝利後、ロシアは中国満州と朝鮮半島への干渉から撤退、日本はロシアから満州の遼東半島南部の租借権と満州鉄道の利権を獲得、さらに日韓併合という名目で朝鮮を日本の植民地とした。朝鮮半島では台湾と同様に朝鮮総督府が置かれ、この総督府主導の宗教政策がとられた。その結果、朝鮮寺院の末寺化、天照大神を祀った朝鮮神社の建立、さらに朝鮮で暗殺された伊藤博文の菩提寺の創建まで行われた。朝鮮神社は各地に分社を建設し、そこでは日の丸が掲揚され、朝鮮人への皇民化が図られた。

 昭和時代に入って満州事変により日本は満州全土を掌握、日中戦争へと展開されるが、仏教界は日本の植民地政策と歩調を合わせて大陸に進出し、さらに軍部への協力の度合いを深めていく。(昭和時代は別記)

日露戦争勝利後の出来事

ポーツマス条約:日露講和条約

 日本海海戦における日本の勝利の結果、1905年(明治38年)9月5日、アメリカの仲介によるポーツマス条約が成立し、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し、日本に樺太の南部を割譲することになり(実は日本軍は和平交渉の進む中の7月に、樺太攻略作戦を実施し、全島を占領していた)、同時に日本は中国の満州南部の鉄道(東清鉄道の南満支線=長春・旅順間)及び遼東半島にある関東州(旅順や大連がある)の租借権(一定期間、他国に貸し与える領土のことで、貸した国には潜在的な主権が存在し、統治権は借りた国が持つ)を得て、その後数度にわたって内密に交渉し、1907年(明治40年)、日露協約を結んで満蒙(満州と中国に属する内蒙古)における両国の権益・勢力範囲を分割し、北満洲(主に黒竜江省と内蒙古の西北部)をロシア、南満州(遼寧省と吉林省の南部)と内蒙古の東部をそれぞれの管轄とした。またこの1907年(明治40年)に「日仏協約」で日本の満州・モンゴル・福建省での特殊利益とフラン スの広東・広西・雲南各省の特殊利益及びインドシナ支配を承認しあった。当の中国の同意など無視した勝手な協約である。なおこのインドシナは今のベトナム・カンボジア・ラオス地域で、太平洋戦争に突入後、日本は第二次大戦で余裕のないフランスの植民地に侵攻する。

遼東半島租借地獲得(関東都督府設置と関東軍誕生)

 日露戦争の勝利により(ポーツマス条約の結果)、ロシア帝国から譲り受けた遼東半島南部の租借地、関東州(旅順・大連を含む)に、1905年(明治38年)、天皇直属の関東総督府が設置され、軍政が敷かれた。当面は長春・旅順間の鉄道(南満州鉄道=満鉄)を防衛するためであり、関東総督は満州北部に依然として勢力を保持するロシアの脅威に備えるための軍政であった。そのことが市場の門戸開放を主張するイギリスやアメリカの対日感情を悪化させていた。ちなみにこの総督府が使った建物は1903年(明治36年)、ロシア帝国が極東総督府として利用していたものであり、現在も残っている。

 1906(明治39年)年5月に軍政から民政へ移行の方針が決定され、8月の関東都督府官制(勅令)によって関東都督府となり、その中に都督官房、民政部および陸軍部が置かれた。関東都督は、関東州の監督のみならず南満洲鉄道の業務監督や附属地(沿線周辺に付属する土地であり、これにより関東州内だけでなく、長春までの主要駅周辺の使用権を得ていて、重要な権益であった)の保護、警備、取締を行った。関東都督は親任であり、陸軍大将または中将が任じられ、軍隊指揮権を持ち、外務大臣の監督を受けながら諸般の政務を統理した。都督は外交に関する事項まで行い、文官に対する懲戒権も持っており、関東州駐屯軍司令官も兼ね強大な権限を持った。1910年(明治43年)6月の都督府官制改正により、外交に関する事項を除き、都督の指揮権は日本の内閣に移行した。さらに1917年(大正6年)7月、民政部警務課を廃して新たに警務部が設置され、警務総長には陸軍将校を充てた。1919年(大正8年)4月の勅令で関東都督府は廃止され、軍事と政治が分離されて都督府直属の守備隊と南満州鉄道の附属地を警備する守備隊は合わせて関東軍司令部の関東軍に、民政部門は関東庁とに分離された。 関東庁の長官には文官が就任できるようになったが、これによって関東軍は台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍と並ぶ独立軍となり、ここから昭和に入って独立軍としての関東軍の暴走が始まり、満州事変を起こして占領、その後の日中戦争にも繋がっていく。

南満洲鉄道(満鉄)獲得

【ロシアによる鉄道の敷設】

 ロシア帝国は1891年(明治24年)にシベリア鉄道(首都モスクワから、極東のウラジオストクまでを繋ぐ鉄道で9289km)建設を正式決定し、直ちに着工した。その後ロシアは、日清戦争(1894-1895年:明治27-28年)による日本の遼東半島の領有を三国干渉によって阻止し、その見返りとして清国の李鴻章より満洲北部の鉄道敷設権を得ることに成功していた(露清密約、1896年:明治29年)。そこでロシアは、満州との国境北側を迂回する建設困難なアムール川沿いの路線ではなく、短絡線としてチタから満洲北部を横断しウラジオストクに至る鉄道の敷設権を獲得し「大清東省鉄路」という鉄道会社を設立、表向きは露清合弁であったが、清朝は経営に直接関与できなかった。1897年(明治30年)にルートが選定され、東清鉄道本線は西の満洲里から東は綏芬河(すいふんが)の先のグロデコヴォ間の1510kmで、西側と東側を本来のシベリア鉄道に結ぶ計画であった。工事は翌年から開始され、さらに1898年(明治31年)3月、旅順大連租借条約が結ばれると、ハルビンから大連、旅順に至る南満洲支線の敷設権も獲得した。続く1898年(明治31年)には中部シベリア線、1900年(明治33年)にはザバイカル線もそれぞれ開通し、シベリア鉄道全線開通まで残るはアムール線およびバイカル湖周辺のみとなっていた。そのどちらも地勢が大変険しく建設が困難な状況であったが、南満洲支線の772kmは1903年(明治36年)1月に完成した。最後の大興安嶺山脈を貫くトンネルが完成し、シベリア鉄道と完全に連結したのは1904年(明治37年)2月、日露戦争勃発直前であった。そこから日露戦争が勃発し、ロシアが敗北して、ポーツマス条約により長春以南の南満洲支線は日本に譲渡され南満州鉄道(満鉄)となった。ただし1911年(明治44年)の辛亥革命によって中華民国が成立しても、ロシアによる従来の東清鉄道の利権は継承された。

【満鉄王国】

 日露戦争によりロシアから譲渡された東清鉄道の南満州支線で長春(現・新京)− 大連・旅順間(772km)の鉄道施設とその付属地(これが重要である)と、日露戦争中に物資輸送のため日本が建設した軽便鉄道の安奉線(安東:現・丹東)−奉天(現・瀋陽)間約260kmとその付属地の経営をするために、日本政府は1906年(明治39年)に半官半民の国策会社である南満洲鉄道(満鉄)株式会社を設立した。この時に政府から出された「命令書」には、「鉄道及び付帯事業の用地に於ける土木教育衛生等に関し必要なる施設を為すべし」と定められていて、その定款には、「鉱業、特に撫順及煙台の炭坑採掘・水運業・電気業・倉庫業・鉄道付属地に於ける土地及家屋の経営・其他、政府の認可を受けたる営業」とあり、これに基づき、満鉄は満鉄附属地内のインフラ整備をすすめた。これらの事業を進めるため、満鉄本社に「地方部」が設けられた。その行政活動を地方経営と称し、各種の施設作りとその運営など多岐にわたって進め、多額の資金をつぎ込んでいく。日本政府は、満鉄の設立について清国政府に一方的な説明をしただけで、同意を得ることなく満鉄を設立していた。そこで清国政府は、満鉄の設立を日清条約に違反しているとし、日本政府に抗議した。しかし、日本は、その抗議に耳を傾けることなく、既成事実を積み上げていった。

 初代総裁には台湾総督府元民政長官で実績を残した後藤新平が就任、後藤は満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することで当時の首相西園寺公望と合意した。また人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することが認められた。 後藤は「満鉄十年計画」を策定し、ロンドンでの社債の発行によって2億円(現在の金額で約1兆円を超える)を調達、これらの事業の原資とした。

 実は後藤は、満鉄は単なる鉄道会社にとどまらず、日露戦争中に児玉源太郎に献策した『満州経営梗概』に「戦後満洲経営唯一の要訣は、陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行するにあり」と書き出したように、それを具現するための設計図を事前に描いていた。 租借地の統治機関と、獲得した鉄道の経営機関とは全く別個のものとすること、そして鉄道の経営機関は鉄道以外は一切政治的、軍事的なことに関係しないように見せなければならないとしていた。

 その結果、満鉄は鉄道経営に加えて、大規模な近代的都市計画(大連、奉天、長春のちの新京など)を進め、上下水道や電力やガスの供給、さらには港湾、病院、大学以下の教育機関、図書館などの整備を進め、満洲経営の中心となった。事業としては炭鉱開発(撫順炭鉱など)、製鉄業(鞍山製鉄所)、農林牧畜、ホテル(ヤマトホテル)、独占的な商事部門、航空会社などの多様な事業を行ない、さらに後藤の発案で設けられた満鉄調査部は当時の日本が生み出した最高のシンクタンクの一つであった。

【その末路】

 なお、発足当時千百km強だった鉄道の営業路線は、満州事変、日中戦争(支那事変)を経て、1945年(昭和20年)の敗戦の時には十倍の1万1千kmにもなっていた。関連事業は多岐にわたり、あらゆる事業を一手に握って満州の経済を独占する文字通り一大コンツェルンを形成していた。しかも在留邦人のための教育、医療も委託されていて、学校も病院の先生も満鉄社員で、敗戦時の社員は総数40万人、そのうち日本人社員が約14万人だったといい、当時の社員たちは、暖房と水洗トイレなどの完備した住宅で東京よりも数段高い文化的生活をしていて、まさに「満鉄王国」となっていた。つまり満鉄は巨大な資産を満州に形成したが、日本は敗戦によりそれを失い、そのまま中国東北部にその産業基盤と施設、建物等の財産を譲ったことになる。ただ、それはもともと中国内で中国の人々を使って築き上げたものであるから差し引き勘定はよいとして、例えば元満鉄の社員だった方が、満鉄は満州の「産業発展と民生向上に大きく貢献していた。満鉄が同地域に残した有形無形のものは極めて大きく、戦後の新中国の発展にも大きく役に立っているはず」と語っているが、それはあくまで表の面の話である。

 それに対して裏側の面の話というのは、満州にはそうした満鉄や関連する都市に仕事を求めて居住した人々以外に、日本で困窮した農民が満蒙開拓団という名の下に、あるいは若者たちが青少年義勇軍という名の下に、合わせて約30万人近くが政府の施策で送られてきていた。彼らに割り当てられた耕作地は中国人農夫たちから奪った土地が半分以上で、そうでなければ未開墾の土地(これも奪った土地に変わりはない)で、北海道よりも寒い土地であり、日本から続いた苦労は絶えることはなく、当然都市に住む人たちの文化的生活とは程遠かった。

 そこから日本の敗戦直前に満州に侵攻してきたソ連軍によって、都市であれ農村であれ、満州に居住する日本人に対し、等しく惨劇が生じた。そして満鉄の幹部たちや関東軍の上級将校たちは、多くの一般居住民や農地開拓者や兵士たちを差し置いて、特権的に先に飛行機や列車などを使って逃げ帰ってしまった。残された兵士たちや男性の多くはソ連軍に捕らえられシベリアに抑留されたが、一般の人々はどのような経路で「引揚者」として日本に逃げ帰ったか、とりわけソ連との国境地帯に取り残され逃げられないと悟った開拓農民の中には(敵に殺されるよりはと)集団自決もあり、若い女性はソ連兵の性暴力の犠牲となり、あるいは自分の子供を殺されるよりはと中国の農民たちに引き取ってもらったり(中国残留孤児)、なんとか逃れて遥か先の港を目指して日本に帰ろうとする。その行路の中で、侵略によって土地を奪われて日本人に恨みを持つ中国人たちから持ち物の略奪や暴行を受ける場合もあり、あるいは疲労の果ての病気で命を落とす場合も多くあり、小さな子の多くは飢えや病気で途中で命を落とし、あるいはその前に中国人に止むを得ず子供を引き取ってもらう場合や、中には赤ん坊はうるさいから危険だとして殺してしまう場合もあり、朝鮮半島経由を選んだ人の多くは北緯38度線から越えられずに長く引き止められて飢えに苦しみ、その惨憺たる現場は見聞きするに耐えないが、この稿の全体の中で折に触れて書いて行く。同様な話は他のアジア諸国や南洋諸島の侵略地でも多く聞く。

 終戦時には満州在住の民間日本人は推定約155万人、うち帰国できたのは127万人、そのうち開拓移民の約27万人のうち帰国できたのは15万人あまりで、死者は6.5万人、帰国できなかった人々も2、3万人いた。別途ソ連軍にシベリアに抑留された日本軍兵士あるいは居留男性は70−100万人とされ、そこでの強制労働を経て帰国できた抑留者は1956年(昭和31年)の時点で47万3千人であり、死亡数はアメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みで25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、合計で約35万人の日本人が死亡したという。留意すべきはこれらはすべて敗戦後の出来事であって、日本政府が海外居留民のことに全く対応できていなかったことは(現地の責任者たちが先に逃亡したことでも)明らかで、それよりも日本の軍政府の要人たちは(すべての軍事関連資料の焼却指令を出したように)、敗戦による自分たちの責任逃れ対策に必死だったのである。多くの内外の人命を犠牲にした上で責任逃れする要人の精神性というのはどこから生まれてくるのであろうか。

朝鮮の抗日義兵闘争から日韓併合へ(1907 − 1910年:明治40-43年)

【朝鮮の保護国化】

 日露戦争開始後の日韓議定書(1904年:明治37年)は、韓国を日本の植民地とする第一歩となった。1905年(明治38年)にアメリカの仲介でロシアとポーツマス条約を締結する過程で、アメリカは朝鮮(大韓帝国)における日本の支配権を承認し、日本はアメリカの植民地であるフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わした。この協定は1902年(明治35年)の日英同盟をふまえたもので、「極東の平和は、大日本帝国、アメリカ合衆国、イギリス連合王国の3国による事実上の同盟によって守られるべきである」としている。この時点では、アメリカも日本の帝国主義的野心がフィリピンに向かわないようにするためであったとされる。そしてポーツマス条約によってロシアにも朝鮮に対する日本の支配権を認めさせた結果、英米露は事実上、朝鮮半島に対する日本の排他的指導権(朝鮮を日本の保護国的な立場にする)を認める結果となった。

 1905年(明治38年)11月、日本は第二次日韓協約(乙巳保護条約)を大韓帝国と締結する。この協約によって韓国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、12月には事実上の保護国として、統監府が設置される。この統監府の初代韓国統監に就任したのが、明治政府で初代から四度首相を務めた伊藤博文であった。1907年(明治40年)、皇帝の高宗は第二回万国平和会議に密使を派遣して外交権の回復を訴えたが、当時の列強国間で認められた合法な国際協約であったため、この訴えは却下された。これを機に伊藤博文は日本との関係を重視する李完用首相や官僚たちに圧力を加え、その要求により高宗は退位することになった。結果的に7月24日には第三次日韓協約を結んで日本は内政権をも掌握し、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させ、日本側の韓国駐箚軍が軍を全面掌握した。

【義兵による独立闘争】

 これは日本側ではあまり取り上げられることはないが、東学党の乱から十数年後、1907年(明治40年)から1912年(明治45年)まで続き、朝鮮全土にわたって展開された独立運動である。高宗皇帝の退位と韓国軍の解散をきっかけに、日本の保護国となって不満がくすぶっていた民衆と軍人の間に怒りが広がり、各地で小規模ながら武装蜂起が起き始めた。その動きに対して統監の伊藤博文は日本の陸軍に混成旅団の派遣を要請、ソウルや地方に守備隊が増員配置された。しかし1890年(明治23年)代から内政の混乱や日本軍の介入に対する東学農民党の反乱で根付いた民衆の不満はまだ深く残っていた。その民衆が新たな義兵を組織する動きに、解散させられた軍人が加わっていく。東学農民党の乱でリーダーとなった全琫準のように、ここでも旧軍人の閔肯鎬が総大将として立ち上がった。閔は日本側に暗殺された閔妃の家系に連なっていた。1907年(明治40年)8月、まず彼は日本側に渡った弾薬庫を破壊し、1600丁の小銃と4万個の弾薬を奪って民衆に配り、一千名の義兵集団を成して一斉蜂起、日本の支配からの独立に向けた抗日義兵闘争が始まった。閔は統率力と戦略に優れ、何よりも「義」を説いて民心をつかみ、兵には軍紀を守らせ、部隊を分散化するゲリラ戦法にも効果を発揮した。

 日本側の韓国駐箚軍は閔肯鎬の義兵部隊に対し鎮圧隊を派遣したが、苦戦を強いられた。そこで「膺懲的討伐」と称して大討伐作戦を展開することにした。長谷川駐箚軍司令官は「匪賊いたずらに興し或いは之を隠匿せしめ或いは凶器を蔵匿する者にては厳罪毫も仮す所なきのみならず責を現犯の村邑に負わしめその部落を挙げて厳重に処置」と全国に告示した。長谷川司令官は武断主義者であったとされる。討伐隊は何隊にも分かれ、できるだけ義兵との直接衝突を避け、村を奇襲し無差別に殺戮しては村を焼いた。以下はそうした例の一部である。

 8月23日、足達支隊は堤川の村において30名を殺害、「将来の禍根を艾除する為村落の大部を焼夷」した。ジャーナリストのF・A・マッケンジーは堤川を取材し、その村が他の街とは比較にならないほど破壊され、焦土となった姿を目撃している。以下では部隊名は割愛する。

 24日、驪州の村全体が暴徒に加担する傾向ありとして「部落を焼夷」。同日、別部隊が楊根付近で義兵と交戦後、龍門寺と上門寺を「将来の禍根を断つため焼夷」。25日、「怪しき韓人」を殺してその家を焼き、同日、利川付近の村を焼き払い、兵士による強姦もあり。26日、驪州方面で日本人居留民殺害事件につき「暴徒に関係ある韓人6名を捕え之を銃殺」。29日、山地洞付近で義兵約500名と衝突、約100名を死傷させ、約200名を捕虜としたが、「其大部分を殺し逃走したるは其一部に過ぎず」、楊根村から30里(約15km)内にある八洞のおよそ千戸の民家が焼き払われた。31日、槐山において輸送中の部隊が義兵に襲撃されて退却を余儀なくされ、それに対し奇襲して40名を殺害したのとは別として、その流れでその近隣の村で、39名を連れ去り19名を殺害。9月3日には寧越郡の「注文里及び蜜洞の人民は暴徒に加担せる形跡明らかなるを以て首謀者15名を殺し両村を焼夷」。8日、楊州では日本軍襲来の知らせを受けて山に避難し始めた男女の集団を義兵団と錯覚し銃を乱射(筆者はこれ以外の虐殺関係の資料を渉猟しているが、「錯覚」とは言い訳であろう)、その多くが死傷、家屋も焼かれた。同日、義兵の根拠地と見なされた城前村の100戸が焼き払われた。10日過ぎ、忠州では農民を捕らえて7名を殺し、同日、報恩で義兵と交戦の後、村民が多数死傷した上に104戸が焼かれた。17日、「暴徒捜索」として老陰面陰城に進攻、途中義兵と戦闘となった「院垈の巣窟を焼夷」。23日、横城郡甲川付近の義兵の根拠地とされる風腹寺を焼き払い、同日、京畿道鉄原で日本人郵便局員が殺された報を受け、翌日鉄原石橋村で「村民の全部賊徒に与するを知り該村落を焼夷」等々。

 この「膺懲的討伐」作戦は朝鮮人民をおとなしくさせるどころか、かえって抗日義兵闘争への参加層を増やす結果となり、日本軍への批判も高まった。そこで「暴徒の根拠地及び捕獲せる賊徒の処分に対し、最も慎重なる態度を取る」ように駐箚軍参謀長の名で、各軍に通知がなされた。それでも収まらず、長谷川軍司令官は10月に入ると、「言語相通ぜず人情風俗を異にする外邦に於いて慎重なる考慮を欠き一時の激昂に駆られ民家を焼却し無辜を殺害し以て快とするが如きは徒らに良民をして塗炭の苦を味わしめ窮困の余遂には奔て賊徒に投ずるに至らしむことあらん、若し財物を掠め婦女を辱かしむるに至りては瞬時たりとも黙過すべきにあらず、…… 我軍隊の威信を失墜するのみならず我対韓政策上に及ぼす不利の影響や実に …… 寒心に堪えざらんとす、団隊長は宜しく重ねて部下を戒防し厳に暴挙を禁止し …… 」と訓戒した。つまり、現地の日本軍将校たちの暴虐行為が、司令官の耳にも聞こえて来ていたということである。しかしこの訓示後も蛮行は繰り返された。11月には京畿道砥平郡で一個中隊が「暴徒の宿泊した家屋9戸を焼棄」し、江原道春川の大討伐では「賊の巣窟家屋66及び糧米貯蔵庫を焼却」するなどが記録されている。この後日本軍は、憲兵補助員という制度で、朝鮮人のとりわけ貧民層から「傭兵」を雇い入れ、同胞同士の殺し合いという新しい方策を取り入れて鎮圧する試みも行った。

 韓国駐箚軍による統計によれば、戦闘上で日本軍によって殺された義兵の数は1907年(明治40年)8月に198名、負傷89名、9月は死者639名、負傷70名とされた。ただしこれはあくまで戦闘においてであって、民間人は入っていない。また一般的には負傷者の数のほうが死者よりも1.5倍から2倍程度多いが、相対的に負傷者数が少ないのはなぜか。また韓国統監府の記録によれば、1907年(明治40年)7月から1908 年(明治41年)末までに義兵軍討伐に従事した日本側憲兵と警察の死傷者は、日本人韓国人合わせて456名(うち死亡179名、負傷237名)、一方義兵側の死者は1万4500名余とされるが、戦闘の巻き添えで死亡した一般人や家屋の焼失なども大きく、その死者1259名、日本人125名、焼失戸数6681戸とされる。1908年(明治41年)末に一旦鎮静化していた義兵も、翌1909 年(明治42年)春には再び数百人規模で各地にしばしば出没するようになり、1909年(明治42年)中では、討伐側は死亡11名、負傷 27名と少ないものの、義兵側は死亡3001名、負傷286名で、降伏した者2091名、逮捕者は2844名だった。さらにここから都合五年間義兵軍は出没し、1906年から1911年(明治39-44年)までの義兵側の戦死者は1万7779人、負傷者が3706人となっている。

 以上の内容は『戦争犯罪の構造』(共同執筆の中の愼蒼宇の執筆分:大月書店、2007年)からの抽出であり、この中に義兵と日本側の守備隊・憲兵隊・警察との地区別衝突回数の表が掲げられているが、1907年(明治40年)11月から(なぜか8月からではない)1909年(明治42年)末までの集計では、なんと2795回となっていて、どれほど根強い抗日運動であったかがわかる。

 この独立運動は、これよりよく取り上げられる12年後(1919年:大正8年)の三・一運動(後述)に比べても規模が大きく、どうして日本の研究者というよりメディアが取り上げないのかよくわからない。筆者も見直している時にたまたまこの件を見つけたが、これ以外に扱っている日清戦争における旅順虐殺事件や、同時期の東学党の乱、シベリア出兵における尼港事件につながるイワノフカ村事件も同様である。日本軍の軍紀を逸脱した暴虐行為は、この30年後の日中戦争(特に南京において)でも同様かそれ以上に繰り返されたから、戦争という名の何をしても罰せられることのない無法下では、普段社会的規範の中に生きている人間が、どれだけ変質していくかということを表している。特にこの時代は朝鮮人を日本人より下等に見ているという差別意識が基本にあったことは大きいだろう。

【伊藤博文暗殺と安重根】

 韓国を日本に併合するにあたり、日本の国論は併合賛成・反対に二分されていたが、1909年(明治42年)7月6日の閣議で併合方針はほぼ確定した。この年6月に伊藤博文は韓国の統監職を辞職していたが、個人の資格で旅行を企図し、10月26日、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れた満州ハルビン駅で、朝鮮人活動家の安重根に暗殺された。 安重根あるいは多くの韓国人にとって、伊藤は日本による韓国統治の元凶、象徴であった。伊藤はもともと韓国を保護国としたまま独立を維持させる方針をとっていたが、皮肉な結果となった。

 ちなみに安重根は単なる暴徒ではなく、資産家の生まれで知識欲が盛んで、キリスト教にも帰依していたが、自国の行く末を案じ、既述の義兵闘争にも参加していた。日露開戦の時、日本の天皇の宣戦布告の文書に「東洋の平和を維持し、韓国の安全を守る」(既述参照)と書かれてあって、安重根はそこに希望を見た。そして日本の戦勝に沸いたが、すぐに伊藤博文は第二次日韓協約締結を強要し、朝鮮統監となってから第三次日韓協約締結を行い、韓国への支配を強めたことに絶望した。そして日本が韓国皇帝の廃位、軍隊解散を実施し、鉄道、鉱山、森林、河川を掠奪したとして怒りを覚えるようになった。つまり安重根は親皇帝派でもあり、伊藤は韓国民は日本の保護を受けて平和であるとして「天皇を欺き、外国列強を欺き、その耳目を掩うて」奸計を弄しているとした。日本の天皇の「韓国の安全を守る」という布告文を裏切ったのも伊藤であるということだろう。そして国内外に同志を求め、ウラジオストクで仲間を得て、同じ韓国人に義兵運動の継続を訴えた。同志と伊藤暗殺の必要を論じ、「この賊を誅殺しなければ、韓国は必ず滅び、東洋もまさに亡びる」と訴えた。一度は300名の義兵を組織し、1908年(明治41年)6月、咸鏡北道に進入して日本軍と交戦したが続かず、翌1909年(明治42年)正月、今度は同志12名と共に「断指同盟」を結成して伊藤博文の暗殺を企てた。そこから国内外に同志を使って情勢を探り、同年9月頃、伊藤がハルビンに来ると知り、10月21日、数名の仲間とウラジオストクを出て翌日ハルビンに着いた。10月26日午前、その日安重根は仲間とは歩調が合わず、一人で駅で待ち、伊藤博文がハルビン駅に到着し列になってロシア要人らと握手を交わしていたところに、群衆を装って近づき拳銃を発砲した。その場でただちに逮捕されたが、伊藤は約30分後に死亡した。

 11月13日に安重根は旅順の関東都督府地方法院で予審を受け、11月16日に重罪公判に移された。連累者は8名だったが、3名以外は不起訴となった。第1回公判は1910年(明治43年)2月7日で、5回目の公判で最終弁論となり、公判開始から一週間後に判決が言い渡され、共犯者は殺人幇助と殺人予備罪により懲役刑、実行犯の安重根には死刑が宣告された。公判中、安は伊藤博文殺害は大なる目的である「東洋平和」のために行ったと堂々と述べた。実際に平石氏人都督府高等法院長による聴取書でも東洋平和のための具体策を述べ、検察官が「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声をあげたほどだったという。しかも公判中に許可を得て自伝である「獄中記」を書き進め、3月15日に脱稿した。彼はさらに「東洋平和論」を書き始め、担当検察官として次第に懇意となった溝渕に、書き終えるまでの時間的な猶予を願い出たが、それは却下され、序文程度で未完のまま、3月26日午前9時、伊藤の月命日とその時刻に合わせて死刑が執行された。

 安重根が韓国で抗日愛国志士の英雄と評価されるのは、正式な植民地であった35年間だけでなく、主に日清戦争の時から50年間以上、日本に振り回されてきた民族として自然の流れであろう。ただ、安の裁判での陳述や「東洋平和論」においては、安自身は反日を謳っているわけではなく、欧米の東洋支配に対する日朝中の共闘を呼びかけているだけである。これは獄中で日本人看守たちとの親しい交流ができたことでも明らかである。また安は、日韓の皇室に敬意を払い、自らを忠義の臣であるとし「王や皇帝に誤りはなく、悪い臣下が(皇室を利用して)政道を誤るという」考え方で、これが日本の看守たちの共感を得たという。これは筆者自身の見方と同じである。

 旅順監獄で安重根の監視の担当となった千葉十七は、当初は伊藤を暗殺した安を憎んでいた。ところが話を重ねるごとに千葉は安の発する熱情に共感を覚えるようになっていった。安は処刑の直前、千葉に「先日あなたに頼まれた一筆を書きます」と、「為国献身軍人本分」と書いて署名し、切断した左手の薬指の墨形で刻印した。そして彼は、「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしましょう」と語ったという。千葉は終生、安の供養を欠かさなかった。刑務所長であった栗原貞吉も、安に感化され、安に煙草などの差し入れをしたり、法院長や裁判長に掛け合い助命嘆願をするなどし、処刑前日には絹の白装束を安に贈った上、安のために厚い松板の特別な棺を用意した。安の主任弁護士で高知出身の水野吉太郎も手帳に安重根の親筆を得ていて、処刑前の朝の面会に同席したが、安からキリスト教に改宗するように勧められ、「天国で共に語り合いましょう」と言われている。別の看守の八木も安の墨書を記念に書いてもらって持ち帰り、2004年(平成16年)、孫の八木正澄が韓国に寄贈した。元看守の千葉十七の墓がある宮城県栗原市の大林寺には、1981年(昭和56年)に安重根の顕彰碑が建立された。これは千葉が安から贈られた墨書を、遺族が安重根の生誕100周年(1979年:昭和54年)に際して韓国に贈ったことへの返礼として、遺墨を刻んだ碑が立てられたものである。碑の裏には山本壮一郎県知事(当時)による「日韓両国永遠の友好を祈念」の文字が刻まれ、1992年(平成4年)9月6日からは日韓合同で毎年、安重根・千葉十七夫妻の合同供養が執り行われている。なお、旅順刑務所内の安の居た牢房の外壁には記念プレートが掲示されている。

 韓国では1970年(昭和45年)、ソウル市の南山公園に「安重根義士記念館」が設立され、安重根の銅像も設置された。2006年(平成18年)には韓国人によってハルビン市に安重根の銅像が建設されたが「外国人の銅像建設は認めない」として中国当局により撤去された。また伊藤暗殺から100年にあたる2009年(平成21年)10月26日には同市で記念式典が開かれることになったが、これもハルビン駅近くの公園広場での開催は許可されず、朝鮮民族民芸博物館での開催となった。しかし2013年(平成25年)、韓国大統領の朴槿恵の訪中時に、習近平主席に対して安重根の石碑建立を提案し、今度は許可されて翌年記念館がオープンした。ところがこれについて日本の政府関係者はいくつものルートで抗議し、それに対し韓国メディアは猛反発した。

 こうした三者三様の国の思惑は別として、1932年(昭和7年)10月、朝鮮総督府政務総監の働きかけによって、伊藤博文由来の博文寺(曹洞宗)が奨忠壇公園に建立された。安重根の三人の子供のうち次男と長女が、1939年(昭和14年)と1941年(昭和16年)、それぞれ別に辿った波乱の人生の途次に博文寺に訪れて伊藤博文を慰霊した。この行為に対し、特に次男の俊生に向けて「親日」であるとして命を狙われるほどになった。しかしこの慰霊の行為は(自分の父親が一人の人間を殺してしまったという事実において、その犠牲になった相手方を慰霊するという基本的な行為)、普通の人間にとって極めて自然なものであって、何を言っているのかと思われる。

 ただこのように「親日」「抗日(反日)」と通り一遍の見方で決めつける言動が(両者で)いまだに多いのには辟易するが、あえて言えばこれらの人は、普段から自分の心の奥と向き合うことのできない無思考の人と言ってよく、実は国も全く同じで、少なくとも日本が過去に行ってきた度重なる戦争について、これまで何の反省もしないというのはおかしなことで、何もなかったかのように無思考に対応する政官人が日本に多いのも困ったことである。もちろん現今の中国において、かっての日本の侵略に対する学生たちの五・四運動(およびその後の民衆による五・三〇事件)については中国政府は「解放」につながったとして最大限の評価をしつつ、同じ天安門で1989年(昭和64年)に起こされた学生たちの民主化運動に対しては過度の弾圧を加え、その後も何かにつけ圧制を加えていることを見れば、その発言は手前勝手で空疎であり、「人民共和国」の名が泣く。ただし、中国および韓国において、今も「反日」の言葉が折に触れて飛び交うのは、過去の50年にも渡る日本による圧政(という言葉だけでは済まされない)の歴史が潜在的にあるから、ある意味当たり前であることを我々日本人は認識しておくべきである。また中国と韓国にあっては、その時代の記念碑・記念館が各地に設置されているから、我々はそのつもりで心して行かねばならない。

(以上は筆者の私見以外は主にウィキペディアの数種の項より要約)

【日韓併合】

 安重根の死から更に5か月後の1910年(明治43年)8月、日韓併合条約が締結され、大韓帝国は消滅した。その第1条には「韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全且つ永久に日本国皇帝陛下に譲渡する」とある。このように譲渡という任意的併合の形式をとったのは、すでに保護国である韓国に対し強制的併合を行えないという、国際法上の制約によるものであった。これにより朝鮮総督府を設置、15年前の台湾に合わせて朝鮮を実質的に植民地にして日本は帝国主義政策を固めていった。欧米列強以外でアジア内に植民地を獲得したのは日本が最初であった。

 日本の韓国駐箚軍は併合後、朝鮮駐箚軍に改称され、また常駐師団計画によって1916年(大正5年)から第19師団、第20師団の編成がはじまり、1918年(大正7年)に朝鮮軍と改称された。また韓国駐箚憲兵隊は、1910年(明治43年)6月に韓国警察権が日本に移されると、警察と統合、憲兵警察制度が発足した。これは義兵残存勢力を鎮圧し、治安維持の目的もあり、 同年9月、憲兵が「治安維持に関する警察及び軍事警察を掌る」ことが定められた。こうして日本による朝鮮完全統治が始まった。なお、1919年(大正8年)に三・一運動発生後には、民衆の反感を抑えるため、憲兵警察制は普通警察制に転換された。

明治末期の日本国内の主な出来事

帝国軍人援護会設置

 明治天皇は、日露講和条約締結から約8か月後の1906年(明治39年)6月7日に、帝国軍人後援会に対し慰労の勅語を下した。 ——「明治三十七 八年の戦役に際し、時に及び財を募り、以て軍人、家族、遺族、廃兵救護の経営に資し、克く軍人援護の績を致せり。朕深く之を嘉す」とあるが、この帝国軍人援護会は日露戦争突入直後の3月15日に、元老の松方正義、井上馨らが結成したもので、当時の軍人優先の世相に合致していた。この軍人の特権的あり方が、太平洋戦争の敗戦まで、否、戦後の恩賞や年金を含めた優遇にまで繋がっていく(今でも一兆円単位の恩給や年金が元軍人の家族に陰で支払われ続けている)。その一方で、同じ戦争で内外で犠牲になった一般の被災者(空襲犠牲者とその孤児たち、そして敗戦と同時に植民地などに移住していた結果、悲惨な目に遭って日本に逃げ戻った海外居留民とその孤児たち)は、軍人ではない(つまり国との契約関係がない)という理由で捨て置かれ、戦後、苦難の道を歩んで行った。そして何度にも渡って彼らは国に訴え続けたが、救済措置が講じられることはなかった。この種の差別的政策を取ったのは、第二次大戦後では日本だけである。

ブラジル移民

(以下は『ブラジル移民の百年』国立国会図書館のサイトより要約)

【明治初期からの海外への移民】

 日本最初の集団での海外移民は、1868年(明治元年)に153人がハワイ、40人余がグアム島、翌年に40余人がカリフォルニアに渡航したのがはじまりである。この最初のハワイへの移民は、主にサトウキビ耕地の労働者としてであった。しかし労働は過酷で1/3がその後帰国した。1885年(明治18年)にハワイ移民は再開し、条約も結ばれ、それに基づく移民は計26回行われ、約3万人が渡航した。1894年(明治27年)日清戦争開戦により官約移民が廃止され、民間の移民会社がハワイへの移民を扱った。ハワイが米国に併合された後の1899年(明治32年)に米国本土での排日の動きを受けて、移民会社によるハワイへの移民取り扱いが一時的に禁止されたが、ハワイ側の事情もあり、1901年(明治34年)、自由移民という形で再開された。以後1907年(明治40年)までハワイ移民は全盛期を迎え、1年に約1万人から約2万5千人が渡航した。しかし五社の移民会社が巨利をむさぼっていたとして、外務省はその活動を制限、移民は一時停滞した。ハワイ以外にも、1887年(明治20年)代から米国本土、カナダ、オーストラリア、ニューカレドニア、フィジー、西インド諸島、1897年(明治30年)代からメキシコ、ペルー、フィリピンへ、それぞれ移民会社の手により日本移民が送り込まれた。

 ブラジルでは1888年(明治21年)5月に奴隷が解放され、労働力確保のため、ヨーロッパで移民誘致を行った。1892年(明治25年)10月には日本人、中国人の移民も可とされ、ブラジルから日本の移民会社に移民の誘致を申し入れた。だが当時はブラジルとの間に修好通商条約が未締結であり実現しなかった。1897年(明治30年)になり双方の民間移民会社の間で正式の契約が締結され、政府の許可も下りたが、第一回移民1500人を乗せた土佐丸が神戸港を出発する直前になり、財政破綻で契約を中止、移民は頓挫した(土佐丸事件)。その後も交渉されたが、外務省は許可しない方針をとった。1907年(明治40年)、政府は移民保護法を改正して移民会社が資本をもって海外に広大な土地を購入し農場を経営し、そこに移民を送り込み、何年か後には土地を分譲して定着させるという殖民事業を行うことができるようにした。

 この間、米国本土は賃金が高い上に労働条件もよく、出稼ぎ先としては最も人気が高かった。米国へは1887年(明治20年)以降、出稼ぎ目的での渡航が急激に増加し、1890年(明治23年)在留邦人は2千人を越え、1895年(明治28年)6千人、1899年(明治32年)には3万5千人に達していた。しかし低賃金の日本人労働者の流入による労賃の低下、黄色人種の台頭の脅威を強調する日露戦争後の黄禍論などが原因となり、米国内で日本人排斥の動きが強まった。政府は1900年(明治33年)、米国およびカナダ行移民を禁止し、この措置により排斥の動きも一時的に沈静化した。ところが日露戦争後、ハワイ、カナダ、メキシコからの転航者が急増したことにより、1907年(明治40年)、サンフランシスコでは転航者の本土への入国を禁止した。ハワイから米国への転航が禁止されると、今度はハワイからカナダへの転航が急増したため、日本政府は自主的にカナダ渡航を制限した。排斥はオーストラリアでも起こり、日本政府はクイーンズランド州などへの渡航をそれぞれ差し止めた。オーストラリアでも1902年(明治35年)から白豪主義に基づく各種ヨーロッパ言語の書き取りテストを義務づける移民制限法が施行され、移民はごく少数に制限された。このように各国から日本移民が締め出された結果、移民会社が取り扱う新たな送出先としてブラジルへの期待が高まった。

【ブラジルへの移民開始】

 1905年(明治38年)、ブラジルに赴任した杉村公使は、着任に際し謁見した大統領や大蔵大臣から相次いで移民の話を持ち出され、サンパウロ州でも日本移民への期待があった。杉村は急いでサンパウロ州が移民先として有望なことを書いて外務省に送付した。この復命書の反響は大きく、地方の市町村から外務省に問い合わせが殺到した。新興の移民会社である皇国殖民会社の担当が年末にはブラジルに向かい、翌年4月にサンパウロ市に到着したが、法律上の問題があって契約には至らなかった。その後、日本移民のための法改正がなされ、1907年(明治40年)、11月に正式契約調印に至った。向こう3年間にコーヒー農場の労働者として家族移民3千人の募集としたが、ブラジル側が求めていたのは出稼移民ではなく、定着率が高い家族移民であり多少困難が伴った。外務省は5月までに多数の家族を集めるのは到底不可能としたが、実際は偽装夫婦、偽装兄弟よりなる「構成家族」を集めた。応募者は府県別には沖縄県325人、鹿児島県172人、熊本県78人、福島県77人、広島県42人といった順序で、農民でない者が多数を占めていた。

 外務省は認可にあたり皇国殖民会社に追加の保証金納付を課したが、同社は約束日までに完納できず、出発予定日を延期しつつようやく4月28日に笠戸丸で神戸を出港することができた。シンガポール、喜望峰経由で、6月18日、サンパウロ州のサントス港に到着した。移民たちは、サントス港から汽車でサンパウロ市に移動し、6つの大農場に農業労働者として送り込まれた。耕地には、それぞれ通訳が付き添った。耕地であてがわれた家屋は掘っ立て小屋で、家具はもちろん、床板さえなく、移民たちは当分、土間に寝なければならなかった。コーヒー園での労働は監視付き、その上監督のなかには奴隷制時代のやり方を変えていない人もいた。不作の年にあたったことに加え、到着が遅れ収穫期の半ばを過ぎていたことなどでコーヒーの採取が少なく、収入も少なかった。耕地によっては、凶作の上に物価も高く、生活費を賄うこともできなかった。そのうち不満が爆発し、8月、皇国殖民会社が呼ばれ、「自分達は食って行くだけなら日本にいてもやって行ける。親を泣かせてまで伯国三界まで来はせぬ、奴隷同様に働いてこの賃金ではどうしても働けぬ」と言って詰め寄ったという。一応移民全員をサンパウロ市の移民収容所に引揚げ、さらに独身者は鉄道の建設工事に送り、家族持ちは他のコーヒー園に転耕させることに取り決めた。しかし他の耕地でも紛争が起こり、いずれの耕地でも夜逃げをする者が続出した。

 第1回の渡航者の耕地定着は散々なものとなり、最初の6耕地に残留したのはわずかに359人に過ぎず、1909年(明治42年)9月から10月にかけては、239人(転耕した他耕地を含める)となっていた。耕地を去った者はサンパウロ市内やサントス市内の他の様々な仕事に従事し、アルゼンチンへの転出者も160人いた。しかし3、4年もすると移民たちの生活は次第に安定してきた。コーヒー園からの収入が少ない場合でも、間作地やー園外の土地で作物の栽培や家畜の世話をして、副収入を得ることができた。こうして1911年(明治44年)あたりでは年収が上がり、日本に仕送りができるようになっていた。そのうち移民のなかには貯めた資金をもとにして、独立して土地を借りたり、あるいは土地を購入したりして、自営ではじめるものが出てきた。1915年(大正4年)末までサンパウロ州内だけでも自営農の数は400家族に達し、日本移民は誘い合ってコーヒー農園を出て同じ土地に入り開拓をはじめた。そこには後から日本人が続々と入ってきて日本人集団地(植民地)が形成されていき、日本人会が組織された。日本人会では、日本に帰っても困らないようにと移民の子弟を日本語で教育する学校を真っ先に設置した。ただ移民の大半が日本国籍を有していたままであり、在外公館は北米での失敗を教訓として、移民開始当初からブラジルにおける排日の動きに細心の注意を払い、それが大きくなることを未然に防ぐよう努めていた。それにもかかわらず、1923年(大正12年)10月、米国での日本移民禁止への動きに影響を受けて、ブラジル連邦議会下院では、黒人種の入国を禁止し、黄色人種の入国を国内現在者の百分の三に制限する法案が提出された。そこから日本移民の制限をめぐる賛否両論の意見が新聞紙上をにぎわし、日本大使館ではこの法案を廃案に追い込む努力を続けた。

 1922年(大正11年)8月、内務省は国内の人口問題、失業問題等の対策として、補助金を含めたサンパウロ州への移民奨励策案を打ち出したが、対外関係への悪影響による反対論もあった。ところが1923年(大正12年)に関東大震災が発生、翌年から、震災の罹災者の南米移住奨励の趣旨で政府が年齢12歳以上の補助を臨時的措置として行ったところ、多数の応募者があった。これで3000人分の渡航費の全額補助などを追加計上し、1925年(大正15年)度は5000人分、1927年(昭和2年)度7750人分が増額された。これによりブラジルへの渡航者数は急増したが、ブラジルでは1930年(昭和5年)ジェトゥリオ・ヴァルガスの革命により成立した新政府下、世界的大恐慌により失業者が増大する中、国民の間に外国人排斥運動が起こり、臨時政府は同年12月、農業移民を除く移民の入国を制限した。しかし日本移民はこの措置の適用を免れ、日本人のみが突出して多く、年に1万2千人から2万7千人が入国許可を得て渡航するようになった。そして日本人は何かと目につきやすい存在となっていた。

【移民の受け入れ制限へ】

 他方では1931年(昭和6年)9月の満洲事変以降、ブラジルにおいても日本の軍事行動に対する反感が生まれていた。特に1933年(昭和8年)4月、リオデジャネイロの新聞が日本の軍部がブラジル行移民を満洲行移民に振り替えようとしていると報ずると、親日家は満洲のためにブラジルを袖にしようとしていると不快感を覚え、排日家は日本がブラジルに多数の移民を送り込む背後に日本の侵略的意図を読みとり、警戒感を強めた。このような状況のなかで排日論が活発に議論されるようになっていった。1933年(昭和8年)11月30日以降、連邦新憲法案の審議がはじまると、人種による移民制限規定を挿入する修正案が提出された。その提案理由として、日本移民に同化性がないこと、アジアおよびアフリカ系の流入増が望ましくないこと、ブラジルの満洲化の危険性があることが挙げられた。結果的に翌年5月、各国移民の数を1933年(昭和8年)までの50年間の定着数の2%に制限するという修正条項が本会議で可決された。これにより日本移民の定着数14万2457人を基数として、法定入移民数はその2%の2849人に制限されることになった。ただし、実際にはこの措置は即時に実施されず、かつ14歳未満は割り当て数に加えないなどの措置が取られたため、1937年(昭和12年)まで5千人内外が入国した。この制限法の成立に対し、日本では文化、経済、スポーツ等を通じた民間外交がなかったという反省がなされ、1934年(昭和9年)日本綿織物振興会の代表が訪伯し、その後経済使節団の訪問により、日本移民の栽培・生産した綿花を買付・輸入する道が開かれた。この結果、1936年(昭和11年)以降、太平洋戦争勃発まで対日綿花輸出が急増した。

 ブラジルでは私立学校での10歳以下の児童への外国語教育が早くから禁止されていたが、その後も日本人集団地の小学校では、教育自体が日本語で行われていた。1928年(昭和3年)、ブラジル人の教師もおらず、10歳以下の児童に日本語を教授しているとして、サンパウロ州の学務当局により数十の小学校が閉鎖を命じられるという事件が発生した。その後、州当局からブラジルの小学校としての認可を得て、付属的に日本語教育も行うことができるよう手続をとる学校が出てきた。1936年(昭和11年)、サンパウロの新聞に日本人児童のポルトガル語習得状況がすこぶる不満足な旨の記事が掲載され、日本人の不同化を問題視した。これに対し、日本人教育普及会は10歳以下の児童への日本語教育を原則禁止することを申し合わせた。しかし1938年(昭和13年)には、農村地域の学校において14歳以下の学童への校内での外国語教育を禁じ、教師もブラジル生まれのブラジル人に限定する外国人入国法が制定され、同年12月から施行された。これにより、農村地帯での日本語学校は閉鎖を余儀なくされた。この結果ブラジルでの教育をあきらめ、子どもを日本に遣って教育を受けさせようとする人も出てきた。

【日本の戦争に振り回される移民たち】

 日本は1931年(昭和6年)9月に満洲事変を起こし中国の満州を占領、さらに1937年(昭和12年)日中戦争(支那事変)を開始し、上海から中国各地を侵攻した。この間、日本の移民はアマゾン地帯にも一定程度いたが、1936年(昭和11年)、排日団体が日本がパナマ運河をうかがい、アマゾンを海軍根拠地としようとするといった扇情的な排日記事が掲載され日本軍の動きが警戒されていた。一方で1939年(昭和14年)2月、日本海軍が中国海南島を占領すると、海南島への再移住論が唱えられるようになった。日本人への排斥が強くなり住みにくくなったブラジルを抜け出し、開拓の経験を生かそうという主張であった。1939年(昭和14年)の帰国者は2011人と、移住者の1546人を上回った。日本人をとり巻く環境はますます厳しくなっていき、1939年(昭和14年)には外国人登録が義務づけられ、太平洋戦争開始前の1941年(昭和16年)8月(すでに中国に対する侵略をやめない日本に対して欧米各国からの厳しい経済制裁が強くなっていたこともあって)、邦字紙の発行が禁止され、ポルトガル語が読めない日本人にとって、得られる情報はごく限られたものになった。そして同年8月13日にサントス港に入港した「ぶえのすあいれす丸」をもって日本からの移民船も途絶えた。

 日米開戦直後の12月9日、ヴァルガス大統領は、「米大陸が日本軍により攻撃を受けたことにかんがみ、米大陸共同防衛の見地からブラジルは米国に対し連帯責任を負う」旨を表明した。これによりそれまで日本に好意的であった枢軸系(日独伊)新聞も反日の論調に転じ、ブラジル人の対日本人感情は悪化の一途をたどった。翌1942年(昭和17年)1月、ブラジル政府は枢軸国との国交断絶を通告し、日本の在外公館は閉鎖され、在留民との接触を禁じられた。これ以降在留日本人の権益は、スペイン大使館、スペインの参戦後はスウェーデン公使館が代表することになった。さらにサンパウロ州保安局は、枢軸国民に対し、自国語文書の配布、国歌の歌唱、公共の場所での自国語の会話など、また私宅内での集合の禁止、移動の自由の制限などを規定した取締令を発した。ブラジル人からの事実無根の密告により、スパイ容疑や取締令違反での日本人の拘禁が相次いだ。3月には枢軸国財産凍結令が制定され、枢軸国による戦争被害の損害賠償に充当するため枢軸国民の銀行預金や債権の一部の強制的な供託、財産処分の禁止、公法人や在外居住者の財産の没収が行われた。7月3日、日本外交団らが交換船で日本に引き揚げていく中、移民たちは自分たちが棄民扱いされた気持ちになった。

 同年8月18日、アマゾン河口の都市ベレンでドイツの潜水艦によりブラジル客船が撃沈され、多くの死者が出た。これに怒って暴徒化したブラジル人が日独伊の枢軸国民を襲撃した。ベレンの日本人は、着の身着のままで官憲の保護の下に移民収容所に収容された。アマゾン上流地方の日本人もここに送られた。9月6日、サンパウロ市内で日本人が多く居住していたコンデ街界隈からの日本人の立退き命令が出された。翌1943年(昭和18年)7月8日、またもドイツの潜水艦がブラジル、アメリカの貨物船5隻を撃沈する事件が起き、同日、防諜上の理由から港湾都市サントス市から日本人を含む枢軸国民への24時間以内の立退き命令が出された。枢軸国民はサンパウロ市の移民収容所に一時的に収容されたが、ブラジルでは強制退去はあったが、他の中南米諸国のように日系人が米国の強制収容所に移送されるということはなかった。そして1945年(昭和20年)5月のドイツ降伏後の6月6日、ブラジルは対日本との戦いに参戦した。

【日本の敗戦による移民たちの混乱と対立】

 1941年(昭和16年)に日本語新聞が廃刊されて以降、日本人にとってポルトガル語の新聞を多少読むことはできても、その記事は連合国側のプロパガンダで信用できないとして、日本からの短波放送の情報のみが信用できる情報となっていた。日本の放送でも同様であるとは考えなかった。1945年(昭和20年)8月14日、日本のポツダム宣言受諾つまり敗戦を伝える放送に日本人たちは呆然とした。しかし少し時間がたつと、敗戦はデマであり、実は日本が勝ったのだと言い出す者が出てきて、敗戦を受け入れたくない多くの人たちもそう思った。同様な傾向はその他の在留邦人や外国で抑留されていた日本軍将兵の捕虜などのなかにもいた。ただ日系社会の中でも指導者層には敗戦を受け入れる人が多かった。このように多くの日本人が敗戦の事実を認めずに軽はずみな行動をとることによって、ブラジル社会から排斥されることを恐れた日系社会の指導者層の人たちが中心となり、敗戦の事実と日本の置かれている現状を戦勝派の人たちに納得させ、ブラジルの社会のなかでとるべき生活態度を皆で考えいくための時局認識運動を起した。同年10月、赤十字社ブラジル支部を通じて、終戦詔書と東郷外相の海外同胞に対するメッセージが届けられると、この文書を在留邦人の間に伝達したが、これは戦勝派の人たちをかえって憤激させることになり、「国賊」「非国民」として攻撃の対象となった。そのため、詔書と外務大臣メッセージの印刷物を地方に配布することに切り替えた。そして認識派の人たちは、サンパウロの米総領事に日本の新聞書籍、雑誌の取り寄せを依頼し、翌年3月、日本から新聞が到着し、直ちに各方面に配布された。

 しかし情勢はさらに悪化し、その3月以降、勝ち組の過激分子(特行隊と名乗った)による日系社会の認識派の人たちを狙ったテロが頻発し、何人かが殺害された。事態鎮静化のために、6月、吉田首相のメッセージを配布し、7月にはサンパウロ州に各地から集まった戦勝派の代表約600人と公邸で会い説得を試みたが、戦勝派の人たちは全く受け入れなかった。7月末にはオズワルド・ド・クルース市で日本人とブラジル市民との間で大乱闘・殺傷事件が発生した。ブラジル政府は、テロ行為の実行犯のみならず、戦勝派の組織である臣道連盟の会員ということだけで検挙し、そのうちの一部の人たちをサンパウロ州北東海岸沖の島の監獄へ送った。テロ事件は現地紙でも大きく取り上げられ、対日本人感情は著しく悪化した。認識派の人たちは、在サンパウロ米国総領事館に臣道連盟の人の日本の親類・友人の氏名と連絡先を掲載した名簿を提供して、日本の親類・友人から日本の状況を書いた私信を送ることを許可するよう求め、このリストによって日本からはがきが発送され、12月までに到着した。そのほか日本の新聞や日本の状況を撮影した映画フィルムがブラジルに送られ、GHQは日本と外国との間のはがき郵便の再開を急ぎ、9月に実施にこぎつけた。日本国内ではラジオを通じてブラジルに親類や友人のいる場合には連絡をとりあうよう促し、9月中だけでも572通のはがきがブラジルに向けて発送された。こうした各方面の努力により、日系社会の混乱は1947年(昭和22年)1月10日の暗殺事件を最後に沈静化に向った。同年3月、日本戦災同胞救援会を結成し、ブラジル赤十字社の認可を得て、義捐金を集めてサンフランシスコにある日本難民救済金または友愛奉仕団に送って救援物資を購入して、LARA(アジア救済公認団体)を介して日本へ送る運動を開始した。この運動には、戦勝派のなかからも賛同者が得られ、対立の緩和に役立った。しかし、日系社会の負った傷は深く、対立は1950年(昭和25年)代半ばまで解消しなかった。

日比谷焼打事件(1905年:明治38年)

 一方で、この日露戦争において戦争賠償金を獲得することができなかったため(日本が使った戦費は当時の国家予算の6倍程度というが、それを戦時公債の形で海外から資金を調達し大きな借金を抱えた)、講和条約締結直後には、兵役や臨時の高納税よる耐乏生活を強いられてきた一般の人々が、講和の不利な条件に反対するとして、日比谷公園での「国民大会」が呼びかけられ、抗議集会を開催、事前に700名の警官隊が6つの門を封鎖して警備していたが、群衆は公園内になだれ込み、そこから公園正門前の内相官邸を包囲、その後皇居まで行進し、そこで警官隊と乱闘になった。さらにそこから群衆は京橋、銀座などの街へ繰り出し、交番や十数台の路面電車を焼き払うなどの暴動になった。これによる死者は民間人17名、負傷者は民間人と警官、消防士、軍人を含めて約2千人に上った。日比谷焼打事件という。これは当時の新聞が、連戦連勝という戦況を号外で乱発し、国民の高揚感を煽った末、得たものがまったく期待はずれで屈辱講和であったと新聞が書きたてたことで、その失望感で起こった暴動であった。

 ちなみにこの日比谷公園は1903年(明治36年)に開園し、翌年から日露戦争における鴨緑江会戦や遼陽会戦、旅順攻略(203高地攻略)、奉天会戦、そして日本海海戦の勝利の度にこの公園で祝勝会が開かれ、当時の尾崎行雄市長が演壇で祝捷文を読み上げている。そしてこの事件に至る、講和反対国民運動もこの公園で開かれた。この後も電車賃値上げ反対運動や、大正デモクラシーの発端となる第一次護憲運動も日比谷公園が中心となった。

大逆事件(1910 − 1911年:明治43-44年)

 1900年(明治33年)制定の治安警察法により結社の自由が制限されるようになり、無政府主義者や社会主義者が弾圧・粛清され始めた。特に1908年(明治41年)に施行された刑法73条の規定には、天皇及び天皇制に危害を加えようとするものを重罪とし、死刑・極刑をもって臨んだ。

 1910年(明治43年)5月25日、信州の社会主義者、宮下太吉ら4名による明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕された(信州明科爆裂弾事件)。この事件を口実として、政府が幸徳秋水をはじめとする全ての社会主義者、アナキスト(無政府主義者)を根絶しようと、数百人の社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まり、検察は26人を明治天皇暗殺計画容疑として起訴した。異例の速さで公判と刑執行がはかられ、検挙されたひとりである大石誠之助の友人であった与謝野鉄幹も弁護士を立てて支援し、徳冨蘆花は秋水らの死刑を阻止するため、兄の徳富蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願したが、いずれも果たせずに終わった。幸徳秋水は審理終盤に「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と陳述した。

 翌年1月18日に死刑24名、有期刑2名の判決(鶴丈一郎裁判長)があり、24日に幸徳秋水ら11名が、25日に管野スガ(29歳)が処刑された。これとは別に拷問などで獄死したのは5名、仮出獄できた者は7名。この時期に別な集会で逮捕され有罪となって獄中にいた大杉栄、荒畑寒村、堺利彦、山川均は連座を免れた(大杉栄はこの後の関東大震災の擾乱で軍人に虐殺される)。この事件を検事として担当した平沼騏一郎は、幸徳秋水らに死刑を求刑したが、平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。つまり頭の中で考えているだけで、実行する動機を持つということである。平沼はその後、日本大学総長を務め、1925年(大正14年)には治安警察法よりも取り締まりの範囲を拡大された治安維持法制定にも関与し、枢密院議長を経て日中戦争時代に首相に就き、太平洋戦争敗戦によりA級戦犯として終身刑の判決を受けて投獄されている。その死後、なぜか軍人でもないのに靖国神社に祀られている。A級戦犯となったものはその資格があるということになる。日本の国の歪んだ精神が垣間見える。

【戦後も続く真相の隠蔽】

 大逆事件以後、社会主義運動は数多くの同志を失い、しばらくの期間運動が沈滞し、いわゆる冬の時代となった。またこの事件で一層取り締まりを強化しようとの意図があってか、この1911年(明治44年)に、内務省に特高警察が設置され、その特高が昭和に入り、あらゆるところで思想統制と弾圧に暗躍することになり、彼らの手で(裁判も経ず)影で殺された者も少なくなかった。たとえそれが誤認によるものであっても追及されることはまずない。それが「権力」というものの基本構造である。

 太平洋戦争後、関係資料が発見され、天皇暗殺計画にいくらかでも関与・同調したのは宮下太吉他の5名だけであったことが判明した。1960年(昭和35年)代より「大逆事件の真実をあきらかにする会」を中心に、再審請求の運動が推進されたが、これに対して最高裁判所は、「戦前の特殊な事例によって発生した事件であり、現在の法制度に照らし合わせることはできない」、「大逆罪が既に廃止されている」との意表を突く理由から、再審請求が事実上できないと却下した。これは明治憲法下の「国家無答責の原則」により、1947年(昭和22年)国家賠償法施行以前の行為であれば国は賠償責任を負わないとする原則の応用であった。つまり戦前の国の罪は、戦後の国は責任を負わないということで、なんとも国に都合の良い判決であった。このような判決はこの後他の案件でも踏襲されていくが、いろんなケースで見られる日本の政官人の責任逃れの判決(面倒なことはこのような理屈をつけて「却下」すればよいから最高裁とは楽な立場である)とも言え、仮にアメリカであればこうした場合、名誉回復のための判決がきちんとなされたであろうことは、いくつかの事例を見ていてわかる。その意味で日本は民主主義国家としてまだ未熟である。つまり、日本の民主主義というのは、それまでの軍国主義からなにも努力せずに当時の連合占領軍(主体はアメリカ)GHQによって、ポンと与えられたものであり、ある意味形だけで今だに我々の血肉となっていない。ただ、今の我々日本人は民主主義国家の中にいると何の疑いもなく信じているだけで、政官の内側では戦前の体質が今だに続いていることは理解していなければならない。実際に、戦前の軍国主義政策と戦争を遂行した政官人の多くが戦後も生き残って国を主導した。一度A級戦犯となりながら戦後に首相となった岸信介がいい例である。こうした人間が自分のかっての罪をも自分で「無答責」にしてしまうということである。

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