明治から昭和まで 50年戦争の概要

明治から昭和まで 50年戦争の概要

大陸進出から日清戦争へ

 19世紀後半から、西欧列強の植民地政策に苦しめられていた地域の人々の中から、帝国主義支配に抵抗する運動が芽生えて来ていたが、日本はむしろその頃から帝国主義としての動きを強めていった。

 明治維新を経て国の体制が落ち着くと、日本は西洋の文明・文化を積極的に取り入れようとするとともに(文明開化)、その欧米の列強がアジア諸国を植民地としながら覇権を争っている事実に危機感を持ち、追いつけ追い越せと、自らを大日本帝国と称し、「富国強兵」と「殖産興業」とのスローガンを掲げ、徴兵制を取り入れて軍事力の強化と急速な産業の近代化を図り、生活様式も変えていった。また日本は資源小国でもあり資源を海外に求める必要もあった一方で、日本よりも近代化が遅れていた中国などは資源が豊富であり、明治政府は列強諸国に伍して近隣国に覇権を握っていこうとした。

 日本と同様に隣の朝鮮王朝(李朝)は鎖国政策を守っていて、日本は朝鮮に開国を求めていたが、王朝は拒否していた。明治8年(1875)、日本は朝鮮近海を測量していた軍艦が江華島付近で砲撃されたことを理由にして、上陸して砲台を占領、守備兵を殺害し武器を略奪した。日本はそれを理由に朝鮮側の責任を問いつつ開国を迫り、翌年に日朝修好条規が締結され、朝鮮は開国した。しかしこれは不平等条約であった。それによって日本は朝鮮への内政・軍事干渉を行い、朝鮮の宗主国であった中国(清国)と対立して日清戦争(明治27-28年:1894-1895)を起こし、その勝利とそれに伴う下関条約では、朝鮮の独立、台湾と澎湖諸島・遼東半島の日本への割譲、さらに清から日本への賠償金支払いが締結された。この日清戦争が50年戦争の起点であり、台湾領有も太平洋戦争による敗戦まで50年間続く。

 この日清戦争の戦死者は日本軍1万3800人(うち病死者1万1900人)、中国側は3万5000人とされている。病死者が圧倒的に多いのは、栄養不良による脚気(白米偏重でビタミン不足)で、日本軍はこの後の日露戦争までこの病気の理由をわからずに引きずった。

 この日清戦争の結果に対し、中国北東部の利権を狙っていたロシア政府は、旅順の要衝を含む遼東半島の日本への割譲は東アジアの脅威となるとして、ドイツとフランスと連携して遼東半島を清国に返還することを要求した(三国干渉)。清国もこれに同調し、講和条約の批准を拒否を匂わせ、その結果日本は譲歩して遼東半島領有を放棄、その上で批准書の交換がなされ、講和条約が発効した(1895年)。ロシアはこれにより遼東半島南端の旅順・大連の租借権、東清鉄道の敷設権を獲得、独仏も周辺地区に租借権を獲るが、先に阿片戦争で香港を得た英国のように、列強は中国を分割支配することを目論んだ。例えば列強は、清国に対して対日賠償金への借款供与を申し出て、その見返りに次々と権益を獲得していくという手段を使った。このように当時の清国は身ぐるみを剥がされる状況となっていた。またこの三国干渉は日露戦争のきっかけを生むことにもなった。

 なお、この日清戦争の旅順攻略戦の際、日本軍が清国軍敗残兵掃討中に、中国人兵士と民間人が万人単位で虐殺される事件があった。この詳細は当時の外国人従軍記者3人によって欧米に報道された事実があり、日本は外交的に苦境に陥ったが、今では歴史的にも取り上げられることはあまりない(これは筆者の『50年戦争の偏年別記録』の「明治時代:旅順虐殺事件」を参照)。

 一方この日清戦争の裏で(1894年)、朝鮮では数百万人に及ぶ「東学党の乱(甲午農民戦争)」が各地で続いて起こり、その後半の乱で日本軍は朝鮮に派兵して反乱軍の殲滅作戦を行い、農民軍の竹槍や火縄銃に対して日本軍は優れた銃器で圧倒、捕えた者たちを銃殺、刺殺、焼殺などで次々と処刑、朝鮮人全体の死者は30万人、戦闘での死者は3-5万人とされるが、日本軍の死者はわずかであった。

 続いて中国の清朝末期、欧米列強諸国の圧力に反発する義和団の乱(明治33年:1900)が勃発、これに清朝政府が同調し、それに対して中国に権益を持つ列強七カ国が軍事介入を行った。日本も英国に請われて参戦し、最大の兵力を投入した。そして連合軍は北京を攻略し、翌1901年、清朝政府と八カ国連合軍が調印した北京議定書が締結されたが、それは中国側が巨額の賠償金を支払うことに加え(支払いは利息付きで1940年まで続いた)、外国軍隊の駐留を認めことになる不平等条約であった。日清戦争から続く不平等条約で清朝は困窮し、その後の辛亥革命(1911-1912)によって滅亡する要因の一つともなった。これにより列強国は北京と天津に駐留軍を置くことになり、各国はその後ほぼ撤退したが、日本は邦人保護を名目に清国駐屯軍(その後支那駐屯軍とする)を天津において駐留を続け、実はこの支那駐屯軍が昭和12年(1937)7月、盧溝橋で中国軍と衝突事件を起こし、日中戦争(支那事変)の端緒となる。

 なお義和団の鎮圧の際、紫禁城の秘宝の多くが連合軍により略奪され、これがきっかけで中国外に多く流出するようになった。また王侯貴族の邸宅や頤和園などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となり、奪った宝物を換金するための泥棒市が立つほどであったという。日本軍は他国軍に先駆けて戦利品確保に動き出し、そのため列国中戦利品が最も多かった。

植民地台湾で起きた数々の事件

 植民地とした台湾では武装蜂起による抵抗運動が各地でおこり(1895年)、日本軍は一応半年で平定したとするが(乙未戦争)日本は約7万6千人(軍人約5万、軍夫2万6千人)の兵力を投入、死傷者5320人(戦死者164人、病死者4642人、あるいは戦死者333人、戦病死が6903人とも)、さらに軍夫で7千人の死者を出した。平定作戦の犠牲者にしては多いが、病死者が圧倒的に多いのは、日清戦争中の同じ脚気による病気と、台湾ではマラリアに感染して死亡する場合が多かったからである。台湾の抵抗勢力は義勇兵あわせて1万4千人の戦死者と戦傷者約2万1千人を出したとされる。平定したとされる後も一般台湾人の武装蜂起や抵抗運動による事件は多く、日本人も台湾各地に移住し始め、企業は密林の資源を求めて工場を作るなどで原住民の住む地区まで進出していき、原住民との軋轢が生じた。

 平定作戦の時期を含む占領後の台湾で起きた数々の事件には「桃園大虐殺」「嘉義大莆林大虐殺」「蕭壠大虐殺」「宜蘭元旦事件」「芝山巌事件(日本側でしばしば取り上げられる日本人教師殺害事件)」「雲林大虐殺」「阿公店大虐殺」「雲林帰順大誘殺」「北埔事件」などがあり、この中には虐殺を含むまさかの事件がいくつもあり、日中戦争開始後の南京を含む数々の事件を想起させる。上記の台湾の抵抗勢力は義勇兵あわせて1万4千人の戦死者以外に、日本軍の掃蕩作戦による村々の焼き払いなどで住民の犠牲者は少なくとも1万5千人以上生じている。

 日本の統治政策は強圧的で、「皇民化政策」として教育による同化が進められ、原住民の伝統的な文化・習俗も禁じられるようになった。こうした中で原住民の抵抗は続き、全域の原住民を支配するには1915年までかかった。占領から10年経たない1903年、台湾中央部の山地の霧社地区で起きたセデック族(霧社蕃)に対する姉妹ヶ原事件などその後もくすぶり続けた。原住民の中で起きた事件としては「新城(タロコ)事件」「宜蘭襲撃事件」「南庄事件」「ウィリー社事件」「姉妹ヶ原事件」「チカソワン事件」「五カ年理蕃計画」「サラマオ事件」などがあげられるが、昭和に入って起きた1930年の「霧社事件」は比較的知られている。いずれにしろ日本軍の統治により、原住民の数は減り続けた。
(平定作戦を含めて、上記の事件の詳細は『50年戦争の編年別記録』の中の「明治時代」を参照)

 なお、1917年(大正6)、第一次世界大戦下で、日本軍は台湾の先住民の居住する山岳地帯に、偵察機から爆弾を11回も投下しているが、これは下記に述べる青島で使った飛行機を台湾に移動させたのかもしれない。また1930年(昭和5)の霧社事件では、爆弾とガス弾(青酸及び催涙弾)を投下し、この時が日本軍が毒ガスを使った先例であると思われるが、翌年の満州事変から毒ガスが実戦として投入され始めた。

日露戦争と韓国併合

 この後清国は弱体化していき、中国東北部の満州と朝鮮半島にロシアが進出を図ってくる中(南下政策)、日本はロシアの東アジア侵出を危惧するイギリスとの間で1902年、日英同盟を締結した。日清戦争に勝利して朝鮮半島への影響力を排除したものの、次はロシアが朝鮮の利権を獲得しつつあった(当時の朝鮮は大韓帝国と称し、王朝系の内政が分裂していた隙を狙った)。さらにロシアは日本が手放した遼東半島の南端を租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を作るなど、満州への進出を押し進めていた。これらに危機感を持った明治政府は、反対論のある中、ロシアに宣戦布告、日露戦争(明治37年:1904-1905)となった。ロシアの軍事力は強大で、日本が勝てる勝算はなかったが、引き分けに持ち込んだ上での交渉に賭けた。また日本は日本は財政危機にもあったが、なんとか外貨調達をした。世界が注視する中、ロシア軍に対して辛くもロシアに勝利したが、特に有名な日本海海戦による勝利が大勢を決した。戦死者は日本軍8.8万人以上、ロシア軍8.2万人以上、このうち日本軍の病死は2.7万人というやはり異例な数字となっている(その大半の原因は上記と同様、脚気という栄養不良とされる。

 日露戦争の結果、アメリカの仲介でポーツマス条約(講和条約)が締結され、日本は大韓帝国への保護権をロシアに認めさせた。その次に「第2次日韓協約」を結ばせて、大韓帝国の外交権を奪った。そして大韓帝国に「韓国統監府」を設置し、伊藤博文が初代統監に就任した。明治42年(1909)伊藤博文が満州で暗殺されたのち、翌43年(1910)8月に日本は「韓国併合に関する条約」に基づいて韓国併合を行い、植民地として韓国を支配することになり、台湾と同様に朝鮮総督府を設置した。

 また日本は満州の南満洲鉄道のロシアの利権と遼東半島大連関東州(現在の中国遼寧省大連市及び旅順を含む地域)に租借権を得た他に、ロシア領であった樺太の南半分が日本に割譲された。しかし勝利した側に付き物の賠償金を獲得するには至らず、国内では不満が高まった。明治38年(1905)9月、関東州に日本軍の関東都総督府が設置され翌年には民政の関東都督府となり、その中に陸軍部が置かれ、南満洲鉄道の保護、警備も行い、関東州駐屯軍司令部も置かれた。大正8年(1919)、関東都督府は廃止され、都督府と南満州鉄道の守備隊は合わせて関東軍司令部の関東軍に、民政部門は関東庁とに分離された。 これによって関東軍は台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍と並ぶ独立軍となるがこの関東軍によって後年(昭和6年:1931)の満州事変が起こされる。

 韓国併合以降、朝鮮全土にわたって独立運動が展開されるが、日本による統治に反発した農民達は国境付近の満州の間島やロシアの沿海州に大挙移住し、朝鮮人村落が形成されていった。一方、抗日運動に対する朝鮮総督府の厳しい取り締まりにより、半島内での民族解放運動が困難なものになると、独立運動家達は半島外で民族解放運動の拠点とするようになった。この両者の動きが合わさり、満州やロシアが朝鮮半島外における独立運動基地の基礎となったし、朝鮮半島内では秘密結社の形で抗日運動が展開された。

第一次世界大戦とシベリア出兵

 大正3年(1914)、第一次世界大戦(ドイツ・オーストリアを中心とした同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とした連合国との戦争)が起こると、日本はイギリスの要請もあって、これを中国における守備軍が手薄になったドイツの権益を奪う好機ととらえ、連合国側として途中から参戦し、ドイツが山東半島膠州湾(現在の青島市の一部)に所有していた租借地に侵攻して陥落させた。なお青島攻略に際し、日本軍は陸海軍の飛行機(フランスで製造されたファルマン複葉機などで、まだ木製の骨組に羽布張りというもの)が出動、偵察目的もあったがドイツ軍の飛行機と交戦しながら青島守備部隊やドイツ軍艦、青島市街地も爆撃、これは日本軍としての初爆撃であるが、爆弾は手投げであり、命中率は低かった。陸海軍合わせて50回以上出動し、軍用機時代の幕開けを告げた(これらの飛行機は第一次大戦前の世界各国で広く導入されていた。実はまだ、中国まで渡洋する能力はなく、前後で解体して船で運んだ)。同時に海軍は南洋のドイツ領地である南洋諸島にも進撃して占領、そして連合軍の戦勝後、日本は山東半島と南洋諸島のサイパン・グアムやマーシャル諸島の権益を得た(この南洋諸島は後に米軍との激戦の地となる)。これをきっかけにして日本は国際連盟の常任理事国となった。

 この第一次世界大戦後にはベルサイユ条約が締結され、全体の死者数は推計で軍民合わせて2000万人以上とされているが(兵士だけで1000万人近く、巻き込まれた民間人が1300万人とされる数字が示されている。この大戦から民間人の死者が圧倒的に多くなっている(戦死者1600万人、戦傷者2000万人以上との記録もある)。それに対し日本軍は主に中国の山東半島と南洋諸島における手薄なドイツ軍との戦闘で、犠牲者は300人程度であった。これは日本にとって棚ボタ的な勝利であり、軍政府を喜ばせた。

 続いて大正7年(1918)、赤軍による革命運動(ロシア革命)で動乱に揺れるロシアへの列強諸国の干渉(共産主義を阻止するため)で日本は連合軍としてシベリア出兵(1918-1922年)を行い、各国の派遣が数千から最大8千人に対し、日本だけが7万3千人という協定をはるかに超える大軍を派遣した。出兵の目的は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」であったが、1年半後にチェコ軍は引揚げを終え、連合軍も2年で撤退した。しかし日本軍はその後もシベリア奥地まで侵攻し続け、そのために日本軍はしばしばパルチザンに襲われ、その報復と称してパルチザンの潜むと思われる村々を襲撃し、火を放って村を焼き、村人を殺害、ロシア住民と自国軍に無益な犠牲者を生じさせた(イワノフカ事件など複数の事件と、逆に日本軍の守備隊と居留民がパルチザンに襲わて殺害された尼港=ニコライエフスク事件などがある)。この出兵による陸海軍人、軍属の戦死者は2643人、病死690人、計3333人となっている(尼港事件の民間人犠牲者は含まれていない)。これに比し、ロシア側の戦病死者は軽く数万人を超えていて、ロシア人に日本人に対する怨恨を残し、日ソ国交回復の妨げにもなった。このシベリア出兵は日本の戦史上では軽く扱われているが、太平洋戦争の最後に満州にソ連軍が不可侵条約を破って急襲してきたことの遠因になっているようにも思われる。

 なおこの時(大正9年:1920)、ロシア革命や内戦の影響で多数のポーランド人孤児がシベリアに残されていて、日本軍はその約800人を救済して日本に引き取り、その後全員を帰還させたという美談が残る。ただその後、この出兵は日本の軍民に3500人以上の死傷者を出し、10億円(当時)に上る戦費を消費したうえ「なに一つ国家に利益をもたらすことのなかった外交上まれにみる失政の歴史である」と評された。また日清・日露戦争では日本軍は(大日本帝国の地位を固めるために)比較的国際法を遵守していたが、このシベリア出兵の時代から軍紀が崩れたという評価がなされている。それは日清・日露戦争の時より、目的も何も兵士たちには理解されなかったことが大きいとされている。つまり国内でもその4年間は、メディアでもあまり取り上げられなかったこともあるようである。

朝鮮・中国における反乱と鎮圧

 この第一次世界大戦とシベリア出兵の裏では、日露戦争後に日本の植民地となった朝鮮における独立を求める三・一運動(1919年)、中国における五・四運動(同年)、間島出兵(1920年)、五・三〇事件(1925年)などがあり、その都度日本軍は弾圧に走り、現地の犠牲者が出ている。

<三・一運動>

 日本は日露戦争後の明治43年(1910)に韓国併合を行い植民地としたが、 その前の 1894年の日清戦争時からの東学農民軍を中心とした生き残りが姿を変えて反日義兵闘争や愛国啓蒙運動の中核となっていた。1919年(大正8)、韓国・朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の各宗教指導者らが、京城(現・ソウル)において「宣言書」を読み上げ、万歳三唱をした。これ機に独立運動は市民や学生だけではなく労働者や農民も含んだ広範囲な民族運動となって全国的に広がり、200万人以上が参加し、各地で日本人襲撃事件が起きた。日本の朝鮮総督府は軍隊と警察を総動員して弾圧し、日本本土からも鎮圧のため軍隊と警察を動員した。それにより朝鮮側の記録では死者7509名、負傷者1万5849名、逮捕された者4万6303名、焼かれた家屋715戸、教会47、学校2に上るという。このことは日本では詳細は報道されず、日本国民もほとんど知ることはなかった。この中で暴徒鎮圧の命令を受けた一人の中尉が指揮する歩兵が20数名のキリスト教徒を教会に閉じ込め射殺した上で焼き払った堤岩里事件というのがある。しかしこの事件は軍法会議では、過失による犯罪として無罪の判決となった。

 この三・一独立運動によって司直の手を免れた活動家たちは外国、特に隣の中国の吉林省などへ亡命し、共産主義活動の拠点となり、北朝鮮共産主義政権樹立の基となった。なおこの大きな事件により、日本の朝鮮総督府の武断統治は改められ、憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、文治的なものへと方針転換される契機となったという。

<中国の五・四運動>

 中国の軍閥と日本との利権の癒着は、清王朝が崩壊後の中国の人々の抗日感情を一層高めていた。1919年(大正8)、第一次世界大戦の戦後処理のためにパリ講和会議が開かれ、それに向けて中国の代表団は不平等条約の撤廃、山東省の旧ドイツ権益の返還などを訴えた。しかし、英・仏・米・日の四ヶ国会議で中国の主張は退けられ、中国に不利なままのベルサイユ条約が締結された。その2ヶ月前に朝鮮で起きた三・一独立運動の影響もあって、5月4日、北京の学生数千人がベルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求して天安門広場からデモ行進をした。これに対し北京の軍閥政権は学生を多数逮捕したが、これが全国的な民族独立・抗日・反帝運動に発展した。上海でも学生の大量逮捕に抗議し、労働者たちも支援しストライキが続いた。最終的に中国政府は逮捕した学生を釈放せざるをえなくなった。むしろこの影響もあって、中国政府は6月にベルサイユ条約調印を最終的に拒否した。この運動は日貨排斥運動へと性質を変え、日本製品ボイコットは1年以上続いた。後に共産党の中心となる毛沢東や周恩来なども、この五・四運動の頃から表に出てきたが、この後も中国国民党と中国共産党の両者からこの運動は高く評価されている。

<間島出兵>

 植民地朝鮮における三・一独立運動では、日本軍は武力で鎮圧したが、その後多くの朝鮮人活動家が弾圧を避けて朝鮮との国境にある中国吉林省にある間島地方に流れ込み、独立運動家の一大拠点となっていた。この地では日本人居留民もいたが、1920年に入ると抗日勢力の間で紛争が頻発していたうえ、抗日勢力が朝鮮に国境を越えて攻撃をしかける事件も起きていた。10月、間島地方の琿春で、日本領事館が襲撃されて炎上し、日本人女性や子供を含む13人が殺害される事件が起きた(琿春事件)。これを受けて当時の原内閣は、居留民保護と「不逞鮮人の禍根を一掃するため」と、日本軍指揮下の朝鮮軍の出兵を閣議決定した。またシベリア出兵より帰還途上の第14師団をハバロフスクから撤退させてて間島に派兵することも決定した。派兵軍は総勢1万5千人となったが、日本軍は間島で375名を射殺し、民家、学校、教会など300余棟を焼いた(日本側の別資料では500名以上ともあるが、朝鮮側の資料では2万6265人が虐殺(独立軍の根拠地を掃討するために朝鮮人を無差別に虐殺し、集落ごと焼き払った)、71人が強姦され、民家3208軒、学校39校、教会15ヶ所、穀物5万3265石が焼却されたとある)。この事件はカナダ人宣教師や奉天駐在のアメリカ総領事の目撃情報によって世界に広まり、日本は国際的な非難を浴びた。
(以上の詳細は筆者の『50年戦争の偏年別記録』の「大正時代」参照)

満州事変に至るまで

 日本が租借権を得た中国の土地には日本の資本が進出し、昭和に入る頃には日本人居留民が各地に住むようになっていた。それに伴い排日・抗日運動が各地で起きるようになっていた。昭和2年(1927)5月、中国北部山東州に増え続けている日本人居留民を、蒋介石の内戦(北伐作戦)から守るという名目で、日本は山東州に陸軍部隊を出兵、それに対して南京政府の抗議や、中国民の反対運動、国際的な反発が強まった(第一次山東出兵)。さらに翌年4月、蒋介石国民党軍の張作霖軍閥政権への攻撃により、日本は権益と居留民保護を目的として、日本国内と遼東半島の関東州に駐屯する部隊、合わせて6千人が山東省に派兵した(第二次山東出兵)。これに対抗して国民党北伐軍の一部が済南で暴徒化して日本軍と衝突する事件が起きた(済南事件)。そこで日本では緊急閣議を開いて陸軍の増派を決定、日本軍は市内に2千人いる日本人保護のためとして11日に済南城を占領した(第三次山東出兵)。それに対して5月10日、中国国民政府は日本の山東出兵を国際連盟に提訴した。その後日本側は蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、それ以上の日本軍の侵攻を控えたが、これを機に中国各地に日貨排斥・排日運動が起こり、その後も続いていく。

 続いて6月、国民党軍に敗れた張作霖は3日に北京を脱出したが、日本の関東軍は、それまで支援していた張作霖をすでに邪魔者として、彼の乗っていた列車を爆破、張作霖はその後死亡した。その後、関東軍はゲリラの仕業と偽装工作をし、この謀略の手がかりを一切消した。しかし張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明、さらに翌4年、国民党政府は日本の権益を否定する法令を次々と制定、重ねて民間人の日本製品非買運動により、日本からの輸出は半減し、また日本が運営する東満州鉄道の経営は赤字続きとなっていた。これは日本軍政府にとって誤算であった。

 一方で張学良の打ち出した抗日運動を背景とした排日政策で満鉄の経営は不振に陥り、満鉄は社員解雇や事業縮小計画を迫られ、すでに20万人もいる在満州日本人に大きな不安を与えることになった。前年から多くの日本人が満州を去って本国 へ帰り始めていた。こうした中で昭和4年(1929)、関東軍の中で満蒙(満州と内蒙古)領有計画が立案されていた。これは対ソ連作戦計画の一環であったが、さらに6年(1931)6月、陸軍参謀本部も満州の一部の租借権を越えて支配しようと、「満蒙問題解決方策大綱」を作成、満州地区を領有することを目論んだ。

 満州事変勃発の年、2カ月前の7月に、学生が中心に編集する東京帝国大学新聞が東大生を対象に実施したアンケートによれば、「外交上の努力をした後で」という留保を付したもの含め、ほぼ90%の学生が日本の満蒙における権益保全のための武力行使を認め、そのうち52%の学生が即座の武力行使を容認していたという。当時の軍政府による新聞・ラジオへの報道統制や意図的な宣伝活動の積み重ねが、学生たちの思考範囲を狭めていたのであろうが(当時の外務大臣松岡洋右が「満蒙は日本の生命線である」と語るなど)、ここまでで満州事変への準備は出来上がっていた。

満州事変と植民地化

 昭和4年(1929)、前年からの不況で国内では失業者が溢れ、大学卒業者の就職難も深刻(東大卒の就職率30%)となった。さらにこの年の10月、アメリカ合衆国で起きた金融恐慌が世界中を巻き込み世界恐慌となって翌5年(1930)に日本にもおよび、昭和恐慌となった。これに加え、東北・北海道地方では冷害が襲って凶作となり、農家の困窮は一層深刻化し(飢餓地獄とも言われた)、生活苦にたえかねた農家は娘を子守女・女中・紡績女工・醜業婦(都市の芸娼妓、酌婦、女給などへ)などに奉公させて前借りをするという、いわゆる「身売り」が多発した。また農家の次男、三男は安定した軍隊に入るものが増え、軍事増強の時代には好都合であった。こうした中で満州事変は、国民に苦難を強いる長期の戦争への始まりであったが、当時の国民にとっては日本という国が世界に躍進していくように見える大きな出来事であり、国民の不満のはけ口ともなった。なお昭和9年(1934)にも東北の冷害、西日本の干ばつなどで全国的に凶作となり、再び東北では娘の身売り、欠食児童、行き倒れなどが激増した。例えば青森県下から芸娼妓に売られていった10代の娘たちは7083人とされる。

 昭和6年(1931)9月18日、関東軍はそれまでに準備した謀略によって柳条湖事件を起こし(南満洲鉄道の線路の一部を爆破)、これは中国軍の犯行によるものであると即座に発表、それによって国内では中国を討伐すべきとの世論が高まり、そして翌日には満鉄沿線に立地する満洲南部の主要都市のほとんどを占領するという機敏な行動に出た。これが満州事変の発端で、昭和20年までの「15年戦争」の始まりとなった。それ以降も新聞各紙による報道操作によってこの爆破事件は張学良ら東北軍の犯行と信じられ、関東軍の謀略によるものと明らかにされたのは戦後である。

 そして翌7年(1932)1月、上海の共同租界で日本人の僧侶が中国人に襲撃されて死亡する事件が起こったことを機に、1月下旬に上海に駐留する日本海軍の陸戦隊が出動し、中国国民政府軍と衝突、さらに日本側は陸軍部隊を増強し、3月に中国軍を上海を占領したが、5月に停戦協定が成立した(第一次上海事変)。

 その間の3月、日本は清国(1912年までの中国の帝政)の最後の皇帝溥儀を擁立して満洲国の建国を宣言した。首都は長春を新京と変え、周辺民族の「五族協和」による「王道楽土」建設をスローガンとした。しかしこの日本の軍事的行動に対して米英等からの非難が高まり、国際連盟による満州への調査団の視察が始まった。その結果翌8年、国際連盟の決議により日本は満州からの撤退を求められるが、それを不服として日本は国際連盟を脱退してしまった。その後ドイツも脱退する。ほぼここから日本は孤立化し、新たな戦争への傾斜が強まっていく。

 満州国を新たな植民地としたが、満州全域を平定したわけではなく、この後、熱河作戦・灤東作戦・‎関内作戦などが行われている。その裏で既述の台湾植民地化での抗日運動と同じく数々の事件が多発し、日本軍はそれを鎮圧するためとして大小の虐殺を行っている。また日本が接収した炭鉱や鉱山において労働者が強制徴用され、過酷な条件で働かされた中で、ゲリラ活動に対する掃蕩で周囲の村全体が虐殺されるという事件も起きている(1932年:平頂山事件)。

 一方で関東軍政府は満州地元の農民をその土地から追い出すか安く買い叩いて接収、その土地に植民地の朝鮮人や日本人開拓団を入植させる方針で、それに対する反発による事件も起きていた(1934年:土竜山事件など)。また接収した鉱山やそれに伴う工場に、追い出した中国農民を労働力として強制徴用した。すると満州の農産物収穫量が激減し、中国東北部の農業経済は不振に陥った。このような日本軍の横暴により、昭和8年(1933)以降、中国では東北人民革命軍、東北抗日連合軍が結成され、日本が植民地とする朝鮮と隣接する東満州には、朝鮮人民革命軍、祖国光復会が結成され、日本の支配への抵抗運動が激しくなった。特に10年(1935)からは学生を含めた抗日運動が盛んになり、11年には中国各地で日本人襲撃事件が続いて起き、中国全土に抗日運動が広がっていった。

日中戦争へ

 昭和12年(1937)7月7日、北京近郊の盧溝橋で日本の支那駐屯軍(既述の1900年の義和団の乱から続く駐屯軍で関東軍ではない)と中国守備軍との小競り合いの中で発砲事件が起きた。ひとまず現地サイドでは11日に停戦協定が結ばれたが、それに反し、日本政府は早くも12日から(徴兵制によって一定期間訓練を受けていた者たちに対して)全国に召集令状を発し、支那駐屯軍の増兵と新たに上海派遣軍を編成して中国への派兵を準備した。続いて支那駐屯軍は7月下旬に北京と天津を総攻撃、30日には天津に飛行機による空爆を仕掛け、占領に成功した。その間、29日には中国軍が北京の近くの通州を急襲して日本人居留民を二百数十人を殺害する通州事件が起きた。日本の近衛文麿政府は一応不拡大方針を表明し、裏で和平への工作も進めながら、「暴支膺懲(ぼうしようちょう:暴慢な支那を懲らしめる)」というスローガンを発し、新聞各社も扇動して支那軍の挑発行為と騒ぎ立て、それが国内の世論となった。

 この後の8月9日、日本海軍陸戦隊中隊長が視察中に中国保安隊に射殺されるという大山事件が起こり、両軍は一触即発の状態となった。これは日本海軍の謀略によるものであり、陸軍はおよそ20万人派遣軍が到着しつつあった。ただ7月28日、日本政府は前もって揚子江沿岸に在留していた日本人の引き揚げを訓令し、8月9日までに日本人居留民を帰還船に乗せたり艦船などに一時避難させた。そこから居留民約3万名のうち婦女子約2万名を8月13日から19日頃までに帰国させた。

 そうした臨戦態勢の中で8月13日、朝から中国軍と日本の海軍陸戦隊(海軍の駐留軍)が小競り合いの後、本格的戦闘が開始され、第二次上海事変となった。これをもって日中戦争(支那事変)の開始となるが、日本は正式な宣戦布告を行わなかった。海軍は翌日から満を持して飛行隊による爆撃(九州や台湾からの渡洋爆撃)を連日行い、爆撃後に陸軍部隊が各都市を攻略する作戦で、その後の陸軍の占領地区では数多くの虐殺事件が生じた。日本軍は11月12日、上海を占領し、そこから三方に分かれて南京に向けて転戦、その途上でも途中の都市を攻略して事件を起こし、その間、海軍の飛行隊が110回以上南京を爆撃した。その後、陸軍は12月13日に南京を攻略、南京城内外で多くの虐殺事件(いわゆる南京事件)を生じさせた。その後も8年間、中国各地に侵攻作戦を続けて行き、その都度虐殺事件を起こしているが、そのことはその後の太平洋戦争の影に隠されて日本国内ではあまり認識されていない。(上海戦から南京事件に至る惨禍の詳細は、筆者の『50年戦争の編年別記録』の「昭和12年」参照)

 実は蒋介石が率いる中国国民党は、満州事変以降もあまり日本軍を相手にせず、中国共産党や北洋軍閥と内戦を続けていて、やっとこの年の9月に第二次国共合作で合意し、国民党軍と共産党軍は日本軍と戦うために抗日民族統一戦線を結成した。共産党軍は八路軍としてゲリラ的戦法で日本軍と戦うことになる。

 一方で当時の近衛内閣は「国民精神総動員運動」を提起し「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」のスローガンを掲げ、国家総動員法を成立させて国内は軍事一色となった。そして翌13年1月16日、近衛首相は「国民政府を対手とせず」の声明を出し、和平工作が打ち切られた。続いて2月、ソ連(ロシア) は前年8月の中ソ不可侵条約に続いて中ソ航空協定締結し、4年間に飛行機924機、戦車82両のほか、数々の武器を供与するとし、さらにソ連航空志願隊が参戦した。日本軍部は当初、一年もかからずにこの戦争を終結させると言っていたが、中国の国土は広大であり、国民党政府はそれまでの首都である南京から撤退し、自然の要塞に囲まれた奥地の都市重慶に首都を移した。日本の軍部は南京を落とせば戦争は終わると簡単に見ていた面もあり、最初に上海派遣軍として徴兵された兵士たちも南京までと思い込んでいた。

 例えば翌13年の4月からの二ヶ月間、徐州会戦が行われたが、日本軍21万6千人に対して中国軍50万人以上、日本の戦死者約1万人、中国の戦死者5、6万人とされている。このような戦闘がこの後も各地で行われ、中国軍は敗勢になると撤退し、逃げれる場所は広大な国土ゆえに多く、日本軍は追跡できず、ある意味その繰り返しで、そこから敗残兵狩りとして近くにある街を襲撃して殲滅作戦を行い、その上で食糧を奪った。食糧に関しては兵站部隊による後方支援を行わず「現地調達」が原則であり、しかも南京攻略前から「捕虜は取らぬ方針」と各軍は司令官から伝達されていた。「捕虜は取らぬ」という意味は、各所で万人単位の捕虜を管理し、その捕虜を養う食糧を確保と管理が難しいから抹殺せよということであった。仮にも捕虜を解放すると、また敵軍に戻ってその勢力を減じることができないからである。

 ちなみに日清・日露戦争の時は捕虜を収容し、基本的に日本に送り、国内の収容所に収監し、比較的好待遇で捕虜たちを生活させ、講和条約締結後に本国に帰還させている。つまり第一次大戦までは、できるだけ国際法を遵守していた。また例えば日露戦争においてはその両国の戦場に派遣された中立国の「観戦武官」がいて、日露双方の権益を保護すべく国際監視団の役割を果たしていた。この時代の戦争は国際的にも宣戦布告して堂々と為されていたということで、捕虜の虐待は事実上できなかった。 それがシベリア出兵あたりから日本軍は変化し、満州事変でも捕虜をきちんと収容したという記述は見当たらない。あえて言えば、太平洋戦争開戦を主導した東條英機は、満州事変の時に一部隊を率いたが、捕虜は残さなかったという発言があり、これは捕虜を殺したということである。そして南京においてもその方針は貫かれた。

 日本軍は南京制圧以降、黄河中流域の武漢三鎮のほか広東・香港などを制圧したが、首都重慶は陸軍による攻略は極めて困難で、空爆を行うしかなく、それは昭和13年(1938)12月から始められ、5年近く218回に及ぶ。ただ重慶の国民党政府は物資の確保に難渋し、そこでソ連からの援助の他に、アメリカ・イギリスによるビルマ方面からの「援蔣ルート」での支援を受けた。

 南京以降でも海軍と陸軍による空爆は続けられていて、それは南京攻略と同じく主に陸軍の侵攻前に爆撃を行うやり方と反日軍が集結する土地への爆撃、そして住民が多く集う街の市場などへの無差別爆撃で、8年間続けられ、中国側の記録では約1万2600回となっていて、米軍の日本への爆撃記録を遥かに凌ぐ。ここでは逐一記さないが、中国人犠牲者は約33.6万人とされていて、米軍の2度の原爆を含めた日本人の死者は約50万人で、その密度が違うが。なお東京都への空襲被害の実態は『わが町の戦争』の中で、また日本軍の中国に対する空爆は『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』で記している。

 日本軍が占領した中国北部の地域では共産党八路軍の抗日ゲリラ活動が激しく、その根拠地とみなした地域に対して、日本軍は燼滅掃蕩(じんめつそうとう)作戦を行うようになった。15年(1940)8月、参謀長の通告が「敵根拠地を燼滅掃蕩し敵をして将来生存する能わざる至らしむ」とあった。これは日本軍はゲリラの出没する地帯を無人化する計画で、そのために住民を強制移動させて抵抗するものは虐殺し、多くの村を焼き払い、空白地帯を作り、村人を「集団部落」に移住させた。この作戦は41年から本格化し、41-43年頃にピ-クをむかえた。その中では毒ガスも使われたが、どれほどの住民が犠牲になったか、計り知れない。その中から男性は日本軍が占領した鉱山や工場に連行して強制労働させたが、日本に強制連行した場合もある。

 日中戦争が長期化する中、軍は中国軍との講和の模索をするが、近衛首相が「国民政府を相手とせず」と表明してしまったために正面から講和を持ちかけることが出来ず、謀略によって親日勢力と接触し、反蔣介石派の汪兆銘を利用し、1940年3月、親日(傀儡)政権として南京国民政府を樹立させて中国分断を図った。しかし国際的にも認められず、中国側の抵抗はさらに強まった。

太平洋戦争へ

 アメリカは中国への侵攻作戦をやめない日本に対し昭和14年(1939)1月、日米通商航海条約破棄を通告、イギリスも含めて経済制裁を強めていく。一方ヨーロッパでは日本の軍国主義が支配的になっている時期に、ファシズム国家ナチス・ドイツとムッソリーニ・イタリアの軍国主義国家も台頭していて、1939年9月、ドイツ軍が突然隣国ポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった。ドイツ軍はその軍事力によって翌1940年5月にフランスを降伏させた。その情勢の中で日本は米英を牽制するため、その年の9月に日独伊三国の軍事同盟を締結した。同時に日本は資源の豊富なフランス領インドシナ(現在のベトナム・ラオス・カンボジア地域で仏印とも言う)に注目し、ドイツの侵攻によってフランス軍が手薄になっているのを好機として同1940年9月、中国南部からのルートを使って強行進撃し、仏印北部に進駐、それは日独伊三国同盟の数日前であった。さらに日本は同年11月30日、占領した南京に傀儡政権を樹立し、日満華共同宣言を発表するが、米英はその政権を否認するとともに、米国は中国政府への支援物資や武器(爆撃機などを含む)輸出を増やしていった。

 さらに日本は満州に接する北方のソ連の不安を取り除く必要から、1941年4月にはソ連と日ソ不可侵条約を締結した。その後6月、ドイツがソ連に侵攻し、ソ連が米英と結んで連合国を形成するという動きがあったが、これは日本軍にとって好機と捉えられ、またドイツの勝利を疑わず、7月、裏で日米交渉が続けられる中、御前会議において、北部仏印進駐に続いて南部仏印進駐を決定、日本軍は南部仏印進駐を実行した。それを察知した米国は日本に警告、25日、在米日本資産を凍結、続いて28日、英国が在英日本資産凍結とともに日英通商条約廃棄を通告した。日本は苦境に陥るとともに国内の世論は反米英の言葉が喧伝されるようになる。

 8月1日、米国は日本に対して石油輸出の全面禁止という経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調、そこでオランダ領東インド(蘭印=主にインドネシアだが、大きな石油基地を有していた)との日本の石油交渉も決裂した。 対米英戦争を回避したい近衛首相は中国撤兵による対米交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、近衛に退陣を要求、10月に近衛内閣は総辞職し、東條内閣が成立する。交渉における米国の要求はあくまで中国や仏印からの撤退であり、東條内閣は、これまでの日中戦争4年間で日本軍の死者18万人とその間の国費を惜しみ、それは受け入れられないと、12月1日の御前会議において開戦を決定、昭和天皇はあくまで戦争を避けるように望んだが(天皇は命令はできない立場であった)、軍政府の「開戦やむなし」の判断の前に屈した形となった。

 1941年12月8日、米英蘭豪に宣戦布告して開戦に踏み切ったが(東條内閣はこれを「大東亜戦争」と称した)、この日は真珠湾奇襲攻撃(日本軍戦死64人、米軍死者2334人)の他にフィリピンやイギリス領マレー半島や香港にも侵攻し、この同時の展開は周到に準備してのことであったし、奇襲作戦のゆえに成功した。例えば開戦3ヶ月前の9月、連日のように中国で空爆を続けていた海軍飛行隊は、中国から撤退して開戦に備えて太平洋戦線に配備され、その後の中国内への空爆は陸軍が続けた。翌17年(1942)1月、日本軍は蘭印(オランダ領インドネシア)にも上陸し、フィリピン・マニラの占領にも成功、2月15日に英国領シンガポールを陥落させ、続いて計画通りにインドネシアの東洋最大の石油基地の占領に成功した。また2月にはオーストラリアのダーウィン港を爆撃、3月、ジャワ島に上陸しジャカルタを占領し、3月から4月にかけて北部ビルマへの進撃を開始、イギリス軍と中国軍を退却させてビルマ全土を制圧した。こうした同時多方面作戦は成功し、日本の国民はその快進撃に狂喜し、シンガポール陥落では日本中で祝賀行事が行われた。ここまでで日本軍は計画していた東南アジア全域制覇したことになる。しかし日本軍の快進撃もほぼこのあたりまでであった。(なお東南アジア諸国はほぼ米英仏蘭豪の植民地であり、欧米諸国の重圧下にあった国の中には大東亜共栄圏を打ち立てるという大義を掲げた日本軍の占領を一時的に喜ぶ国もあったが、その後は日本軍による重圧のほうがずっと大きくなり、反乱軍も増えていった)

 ただ、快進撃と言っても、犠牲者はばかにならない。日本軍は9600人の犠牲を払ってマレー半島を占領し、英軍14万人を死傷させた。マレー半島に暮らす人々にも悪夢が訪れた。2月18日から3月2日にかけて、日本軍はシンガポールで大粛清を行なったが、そのうち華僑の人口は6、7万人で、日本軍は抗日の疑いをかけ(日中戦争を行っていたことによる)粛清として、2万5千人以上を銃殺または生き埋めにした。フィリピン侵攻作戦では日本軍4400人余りが戦死、アメリカ・フィリピン軍が約2万5千人、別に投降した捕虜が8万3631人となり、そのうちバターン半島で投降した捕虜が7万人以上となった。日本軍は(日中戦争下の中国内のように)捕虜を虐殺するわけにはいかず、大きな収容所に移すためにトラックなども足りず「バターン死の行進」事件を引き起こす。4月、その捕虜たちを約83kmの距離を3日間、歩かせた。収容所にたどり着いたのは、約7万6千人のうち約5万4千人で、約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労などで死亡したものとされて、フィリピン兵は土地柄脱走した者も多くいた。このほかの戦地における犠牲者は後述する。

連合国軍の反転攻勢

 開戦翌昭和17年(1942)6月、日本海軍は米軍とのミッドウェー島沖海戦で航空母艦4隻全てと戦闘機289機を失い敗北したが、この海戦について大本営発表では「我が方の損害として空母一隻喪失、同一隻大破」という内容で、あたかも勝利したように伝えられ、その実態については海軍内はもとより全軍にわたって情報統制がなされた。しかもこの戦闘で生き残った飛行士や兵士たちは本国に戻るといったん病棟へ監禁され、その後東南アジアの激戦地に送られ、その多くが戦死ではなく、補給も行われずに餓死した。

 その少し前の6月初旬、アメリカ領アリューシャン列島のアッツ島、キスカ島両島をアメリカ軍の隙を見て占領したが、翌18年5月12日、アメリカ軍がアッツ島に上陸開始、アッツ島日本軍守備隊は17日間におよぶ激しい戦闘の末、29日にその2371名が玉砕した。太平洋戦争において初めて日本国民に日本軍の敗北が発表されたが、玉砕という美名でその死が讃えられた。キスカ島は司令官の的確な判断で米軍の上陸直前の深夜に全軍撤退が行われた。

 このほかこの昭和18年(1943)2月、ソロモン諸島ガダルカナル撤退(戦死2万人以上)、3月ビスマルク海海戦の敗北(戦死3000人以上)、連合艦隊司令長官山本五十六大将が太平洋上空で米軍の攻撃をうけ、撃墜されて戦死(4月)、ブーゲンビル島の陥落(11月:戦死2万人以上)、マキン・タラワ島の全滅(11月:戦死5000人以上)等により、日本軍の劣勢は明らかであった。こうした島々での戦いの中で、ビスマルク海海戦における兵士輸送作戦では、8隻の全輸送船と護衛駆逐艦4隻計12隻が撃沈され、5000人以上の命が海に消えた。これは全体の一部であり、この昭和18年(1943)だけで爆撃機や魚雷によって沈没した日本の主な船は440隻に上る。中には連合軍の捕虜を日本に送る際、連合軍に攻撃されて沈没、犠牲になった捕虜たちもいる。

 連合国軍の反転攻撃が激しくなると、日本軍は中国での戦力を大幅に転用する方針を打ち出したが、いったん占領した都市を放棄しなければならず、この方針はほぼ中止された。そこで兵力不足を補うために、18年(1943)9月、国内では学生の兵役猶予制度が解除され、大学や専門学校では半年の繰り上げ卒業が実施された。そして20歳以上となった学生は、在学のまま召集され、10月21日に関東圏の学生を集めた明治神宮競技場で学徒出陣壮行会が行われ、続いて植民地である台湾や朝鮮でも同じように学生が徴兵された。翌年にはさらに徴兵年齢が下げられるが、この学生たちの多くは一定の訓練期間を経て戦争終盤のフィリピンや沖縄などの激戦地に送られ、その中には特攻隊員となった者も少なくなく、20歳前後にして無残に戦死した(これも「散華」という美名で語られる)。なお高等女学校(五年制)なども繰り上げ卒業が実施されたが、これは不足する男手の代わりに女子を早く就労させようとするものであり、また同時に昭和19年半ばより、14歳以上の男女学校の生徒に軍需工場への勤労動員が課され、特に20年の春から政府は「勤労即教育」という標語を掲げ、中学生以上の授業を一年間停止した。(『戦時下の大学・女学校』を参照)

 昭和19年(1944)1月30日、米軍は日本軍占領のマーシャル諸島の中枢基地クェゼリン・ルオット島へ艦載機で爆撃開始、その後上陸し、2月6日に日本軍6800人が玉砕。17ー18日、米機動部隊が日本海軍最大の前進基地トラック島を空襲、致命的打撃を与えた。3月、ビルマの日本軍はイギリスが支配していたインド北東部の攻略を目指して山脈越えの過酷なインパール作戦を強行。7月に全員撤退命令が下るも戦傷病死者を合わせて約6-7万人、この戦死の大半が餓死・病死で、この作戦を強行した司令官の責任は大きいとされる。

 一方で6月11日、米機動部隊は日本が統治していたマリアナ諸島のサイパン島を空襲し日本軍の航空部隊は壊滅。その後米軍はサイパンに上陸、島の日本軍守備隊約3万人が玉砕(うち日本人居留民約5000人が自決)、この時は居留民を含めた兵士がバンザイ突撃(敵に向かって突っ込むことで自決に近い)を行って約1万人死亡、奥地に逃げた民間人も家族ぐるみで集団自決した。これは陸軍大臣東条英機が全陸軍に発した戦陣訓での心得で「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」という文言が軍民に行き渡っていたことと、追い詰められた日本軍が住民にも自決を強制したことによる。そしてこの住民の集団自決の悲劇は、翌年の沖縄戦でも繰り返された。

 7月21日、米軍はグァム島に上陸し8月10日、日本軍2万2554人のうち戦死1万8500人(捕虜1250人)であった。続いてテニアン島も陥落、ほぼ玉砕で、戦死8010人。民間人は1万5700人(うち朝鮮人2700人)だったが、角田司令官はサイパン島の二の舞を避け、男子3500人を除いた老人や婦女子や朝鮮人1万2200名をジャングルや洞窟など身を隠す場所に避難させ、その結果、民間人1万3000人がアメリカ軍に収容された。11月にはペリリュー島の日本軍がほぼ全滅、約1万人が戦死した。こうして米軍はサイパン、テニアン、グァム島を日本本土攻撃の基地とし、最新の超大型爆撃機B29を大量に配置、そしてこの年の11月24日、ここから東京を中心とした都市への本格的空爆を開始する。

 サイパン島などマリアナ諸島の攻略の後、米軍の次の狙いはフィリピン奪還作戦であった。10月20日、米豪の連合軍はレイテ島の上陸作戦から始めたが、25日、日本軍はレイテ沖海戦において零戦などによる神風特別攻撃隊を初めて投入、米軍艦船に対して体当たり攻撃し護送用航空母艦一隻を撃沈、その他五隻を爆破して17機18名が突撃死した。その前日の海戦で日本の誇る戦艦武蔵が米軍機による集中爆撃を受け続けて沈没していた。この後30日まで連日で特攻隊の出撃を行い、62名が突撃死した。しかしこれらは連合軍の多数の戦艦に対して大きな打撃を与えるものではなかった。その後米軍はミンダナオ島、ルソン島と進撃を続け、 フィリピンの首都マニラでは激しい市街戦が展開され、多数のフィリピン市民が巻き添えとなった。日本軍の戦死・戦病死は約43万人( 80%以上)、米軍は2万数千人で、特に市街戦などでの戦闘は終戦まで続き、フィリピン民間人の死者は100万人を超えた。

 続いて米軍は1945年2月から硫黄島を攻撃、日本軍はこの島から米軍に攻略されてB29の日本への空爆の基地となっていたサイパン島などを攻撃していたから、米軍は計画を早めて攻撃した。一ヶ月以上の激戦で日本軍はほぼ全滅、兵士約2万1000人のうち捕虜として生き残ったのは約千人だけであった。米軍の戦死約7千、戦傷者は約9千人。なおこの戦闘においても特攻隊が出撃し、一定の戦果をあげていた。

 硫黄島は3月26日に陥落し、同じこの日に米英連合軍は沖縄上陸作戦を開始した。この戦闘は「本土決戦」の前哨戦とされたが、そのぶん沖縄県民に多大な犠牲をもたらせた。日本軍は戦力不足を補うために住民を根こそぎ動員し、沖縄県民の17歳以上45歳未満の男子が補助兵力に編入された。しかし沖縄では既に約3万人が召集されて太平洋戦線に従軍していて、合計6万5千人が兵士として召集されることとなった。しかも実際の戦闘で陸軍は地元の少年を集めて「護郷隊」を組織し、その中心は召集年齢以下の15-17歳の少年たちであり、第一・第二護郷隊では1000人中160人が犠牲になった。これとは別に陸軍は中学生(当時は5年制)の14-17歳を学校別にまとめて鉄血勤皇隊なるものを作らせ、子どもたちは自分の身長を上回る銃や陸軍登戸研究所で開発された特殊爆弾で米軍基地の倉庫を爆破するとか、戦車に向かってその身に爆弾を抱えて投爆するなどをさせ、米兵たちを驚かせた。この暴挙は陸軍中野学校の出身者によって行われたが、この勤皇隊で約900名の犠牲者を出した。また同じ年頃の女学生をひめゆり部隊として陸軍病院の介護の任務に当たらせながら、軍隊が南に逃走する時に解散させ、彼女たちは戦火の中に放り出され、教師・学徒240人のうち136人が死亡。そのうちの10人が集団自決している話が残る。

 なお海軍は、沖縄戦でも特攻隊作戦を実行したが、それは菊水作戦と呼ばれ、355機の特攻機を出撃させ、米軍艦隊に甚大な被害を与えた。それに連動させる形で戦艦「大和」を出撃させたが、途中で米軍の集中爆撃を受けて撃沈した。

 6月23日に軍の司令官が自決して悲惨な沖縄戦が終わるが、日本側の陸上兵力は招集された沖縄県民を含めて11万6400人とされ、そのうち戦死者・行方不明者 9万4136人(うち沖縄県民召集者2万8228人)、民間人死者 9万4000人で、これは沖縄県民の四人に一人の死亡率であった。またサイパン島の場合と同様、「米軍が上陸してきたら男は殺され、女は強姦される」との話が広まり、県民の自決者が続出し、その数は1000人以上とされる。米軍の戦死者は2万195人であった。

 沖縄陥落後、政府は「本土決戦」として一億総玉砕を訴えて国民を鼓舞しつつ6月23日、沖縄陥落の日と同時に義勇兵役法を公布、続いて国民義勇戦闘隊の結成を促し、連合軍の本土上陸に備えるように訴えた。原則として、15-60歳の男子および、17-40歳の女子に義勇兵役を課した。しかしすでに東京は米軍の激しい空襲によって壊滅し、地方の都市も爆撃にさらされていた。

太平洋戦争中の日中戦争

 太平洋戦争開戦から敗戦に至る昭和20年(1945)までのことは一般的に日中戦争について語られることはないが、日本の米英への開戦に対して一番喜んだのが、中国国民党政府の蒋介石であった。その翌日の12月9日、蒋介石政府は日独伊に宣戦布告し、正式に米英側の連合国となった。その後も日本軍としては占領した諸都市を中国軍に奪還されることを恐れ、ほぼ同じレベルの兵力(約40万)維持した。

 これを後期日中戦争ともいうが、日本軍は1941年9月より第一・第二次長沙作戦(戦死者:日本軍3千数百人、中国軍8万人)、翌年4月から数ヶ月の浙贛作戦(この時、細菌兵器が使われた)、1943年2月-3月には江北殲滅作戦、4月-6月の江南殲滅作戦と廠窖虐殺事件、続いて常徳殲滅作戦(この時、毒ガスが使われた)などが行われた。これらの殲滅作戦や虐殺事件では国側の犠牲者は数万単位で生じているが、これらは日本サイドの取り上げ方であり、これらの背後に多くの虐殺事件がある。

 昭和19年(1944)4月から年末にかけて、日本軍は中国内陸部の連合国軍に提供された航空基地を占領することと、日本の勢力下にある仏領インドシナへの陸路を開く目的で、兵力50万人による総力戦(中国兵100万人)「大陸打通作戦」を展開、これにより日本軍は大陸打通作戦により米軍基地のある広西省桂林と柳州を占領。12月、日本軍は仏印ルートの打通を達成したが、日本軍の戦死者10万人(そのうち病死が75%)、中国軍の戦死・戦傷75万人であった。ただし米軍は日本軍とはまともに戦わず、飛行機基地はすぐに別な土地に移しつつ日本軍の占領地区を爆撃した。

 例えば米軍は重慶に近い奥地の成都に航空基地を作り、この年の6月15日、最新鋭大型爆撃機B29を投入、75機を北九州の八幡製鉄所へ出撃させ、続いて長崎、佐世保、大村、八幡などを爆撃し、7月に入ると日本の占領する満州鞍山の昭和製鋼所、天津、大連、塘沽及び河南省鄭州などの日本の軍事施設や工場を爆撃した。この結果、中国における日本陸軍の飛行機は200機弱程度に減少した。さらに10月10日、米軍は中国軍との連合作戦を行い、延べ400機をもって日本の南西諸島(沖縄、宮古島、奄美大島等)を空爆、しかし日本側の発表は「我が方、船舶及び地上施設に若干の損害を受く」とだけであった。続いて12-14日、米軍は日本が占領する台湾への大規模な空爆を開始(延べ千百機)、この空中戦で日本軍は航空機650機を失った。そして米軍は占領したサイパン島などから11月24日、東京への本格的空爆を開始した。また米軍は12月18日、日本軍が占領する漢口へ大爆撃を行い、漢口の市街地では焼夷弾による大火災が発生、長江岸から5km以内の範囲は3日間にわたって燃え続けた。これにより日本人居留地を含む市街地全体の50%が焼失した。

 昭和20年(1945)日中戦争は8年目に入り、まだ日本軍は出口が見えない中で中国の各地で占領作戦を続けていた。この最後の年の日本軍の空・陸による攻撃は、陝西省、江西省、広東省、安徽省、福建省、河南省、広西省にわたっていた。しかし航空機の戦力も不足し、6月あたりから中国戦線で大きな攻勢を行うことはなくなった。 また米中軍の強まる攻撃で鉄道や揚子江の船舶輸送も途絶され、移動は極度に制約されて、困難な状態に置かれた。こうして日本軍が大陸打通作戦で手に入れたはずの中南部地方を実質上ほぼ手放すことになった。何よりも日本軍は最初から中国の国土の広大さを甘く見ていた。

特攻隊作戦と特別年少兵

 日本軍は近代戦に不可欠な航空機活用の流れを受けて、航空兵力の増強策を打ち出し、満州事変あたりから海陸軍とも14歳程度の年少から飛行兵を養成してきた。飛行兵は少年たちの憧れの的であり、その一つが海軍の予科練習生つまり「予科練」であった。その後の戦争拡大によって海陸軍の少年飛行兵の採用人数は大幅に増えていった。海軍では昭和20年(1945)の終戦までの15年間で14歳以上で約24万人の若者が入校し(これは飛行士だけでなく整備士も入る)、うち約2万4千人が戦地へ赴き、太平洋戦争終盤には多くの若者が戦闘機で出撃、戦死者は8割の1万9千人にのぼった。一方陸軍では11年半の間に約4万5千人が入校、戦死者はおよそ4500人であった。このうち1割は特攻隊で死亡した。日中戦争開始時には、海軍で養成した予科練の若者が育っていて、上海への爆撃に続いて南京その他の都市へも連日爆撃を行った。その後既述のように昭和16年(1941)12月の太平洋戦争開戦前の9月、海軍飛行隊はその開戦に備えてほぼ中国より撤退し、真珠湾などの奇襲攻撃作戦に備え、その後の中国内の爆撃は主に陸軍だけで行った。

 太平洋戦争における連合軍との激戦で、日本軍は戦闘機と爆撃機の多くを失い、昭和19年(1944)に入ると起死回生を狙って特攻隊作戦が計画された。ここまで戦闘機が決定的に不足し、少ない機でどのように効率的に敵に攻撃を与えるかということで考えられ、これは10月下旬からのフィリピン海戦や翌年の沖縄戦などにおいて神風特攻隊によって実行された。このほか人一人しか入れない特殊潜航艇、人間魚雷「回天」、ベニヤ板で作ったボート水上特攻艇「震洋」、航空機に搭載してロケット噴射で高速滑空し爆弾と操縦者が一体となって突入する「桜花」などでも特攻作戦が行われた。なおこの回天というのは出発時に一度ハッチを閉じられると、中からは開けられない仕組みであったというから恐ろしい。また戦闘機が不足したことで、本来の特攻兵が回天や震洋などに回されていたという。

 「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、特攻隊員の戦死者は海軍が4146人、陸軍が2225人の計6371人に上るとされるが、実際に特攻で成功した者はこれよりずっと少なく、突撃前に連合国軍により撃墜されたり、回天や震洋などでは前戦に運ぶ途中に艦船が撃沈されたりして死んだ者のほうが多い。大本営はこの体当たり攻撃の効果を「9機に1機の命中率」と試算していながら、それでも特攻隊員たちを続けて突撃させた。終盤になると使える飛行機がなくなり、練習機も特攻機として使うようになったが、待機しているうちに終戦となったと語る人も少なくない。なお十分に訓練を受けた予科練の若者たちと違って、昭和18年(1943)秋以降の学徒出陣によって特攻隊となって死んだ19歳以上学生たちの場合、即成訓練によるものであり、その彼らの多くを特攻隊員として投入した理由は、予科練と違って安上がりの訓練ですむという理由であった。

 一方で15歳から17歳までの少年も特攻隊員などに付き添って戦死した。17年(1942)9月、学徒出陣の前年、海軍は特別年少兵 (特年兵)を募集した。これは高等小学校卒業程度の14歳から16歳までの少年を対象とするもので、世間的には極秘で進められ、学校で教師たちの口から伝達された。海軍では予科練が人気だったため、それに準じる枠として応募は多く、この年3500名が入隊し、約10ヶ月の実地での練習兵教程を経て技術学校で学び、一年後に第一戦艦隊や航空隊・陸戦隊などに配属された。その後も毎年募集され、昭和18年(1943)7月が3900名、昭和19年(1944)7月が5400名、昭和20年(1945)5月が5360名であった。これは親にも内緒であり、合格して初めて聞いた母親は泣いて止めたが、志願をした以上、覆せるような世情ではなかった。そして主に17-18年の合格者が激戦地の硫黄島・沖縄の守備や戦艦内の仕事に従事し、その多くが戦地で死亡した。第一期生の3500名に限って言えば、戦死者は2500名で、72%である。彼らは表向きは教習生で、正規の兵士ではなかったが、そのまま戦場に連れて行かれた。19年(1944)までに入隊した1万2800名のうち、戦死者は5000名であった。彼らの多くが戦艦武蔵・大和などにも乗艦していて、15-16歳の少年盛りでその命を散らした。陸軍も負けじと後に同様な募集をしていて、やはり過酷な戦場に送った。20歳前後の学徒特攻隊員などと違い、まだ自分のことを語る言葉もしっかり持てず、従って遺書もまともに書けないまま戦闘に巻き込まれて死んでいった少年たちの犠牲をこそ、もっと日に当てるべきであろう。

ソ連軍の満州への侵攻と開拓団の惨禍

 太平洋戦争における日本の敗勢が濃くなった昭和20年(1945)7月26日、連合軍は日本に対し無条件降伏を求めるポツダム宣言を発し、日本はそれに応じなかったが、8月6日、広島に原爆が落とされ、そして長崎への原爆投下直前の8月8日、ソ連は日ソ中立条約(不可侵条約)を破棄して日本に宣戦を布告、翌9日未明に国境で接する日本の植民地である満洲北部の東西、朝鮮半島などに侵攻を開始した。

 この当時、満州には関東軍の他、農民を中心とする開拓団が27万人、またソ連との国境を守りつつ開拓をする目的で8万6千人の青少年が送り出されていて、さらに鉄道建設や資源獲得のための鉱山開発、関連する工場建設、そして商業施設などが急速に作られ、開拓団を含めて日本人約155万人が満州地区に居住していた。ただ16年(1941)末に太平洋戦争が始まると、満州を統治する関東軍の多くが南方戦線に移動させられ、それを補うために満州居住者の青壮年男子約20万人が関東軍に召集され、戦局の悪化により、この20年(1945)には根こそぎ動員として開拓団からも約4万7000人が召集された。そのため開拓団には主に老人と婦女子が残され、満州での農業経営も苦しくなっていた。

 ここに至るまでの経緯である。昭和4年(1929)6月、拓務省が新設され、台湾・朝鮮・樺太・南洋の植民地政策に合わせて移民政策を推進した。明治以来日本の農村は貧しく、国策としての移民は明治41年(1908)ブラジル移民から始まり(筆者の『50年戦争の偏年別記録』の明治時代参照)、昭和時代まで続いていたが、日本が満州事変によって満州を占領したことで、昭和9年(1934)、ブラジルは日本に対し、日本人の移民枠を大幅に制限した。そこで拓務省は大陸政策の要として、満州、内蒙古、華北に、農村更生策の一つとして農民や青年たちを送りこむことを計画、昭和11年(1936)までの5年間に2万人を送り出した。同年末には満洲農業移民二十カ年百万戸(500万人)送出計画を策定する。そしてソ連との国境地帯の防衛を兼ねるためとして昭和12年(1937)には、15−18歳の少年で組織する満蒙開拓青少年義勇軍を発足させ、訓練所を経て翌年にはまず5000人を送り込んだ。13年には農林省と拓務省による分村移民(疲弊した村を分け、日本に残る区域を母村、渡満する集団を分村とするが、長野県を中心として広がった)を開始、12月には「満州開拓政策基本要綱」が策定され、その中では満州移民政策を「東亜新秩序建設」の軸とし、また満州を全アジア・全中国 支配の前進基地とするとし、軍部の中国侵略作戦に組み込んでいった。

 日本の農民たちが入植した土地の大部分は、中国人や朝鮮人が耕作していた土地を安い値段で買い上げたものだった。しかし土地を失った地元農民の中には行き場がない人たちが多く、小作人として雇う形も取られた。開拓地では出身の村や郡単位でまとまって新たな村(本来の中国の土地とは別な名前をつける)を組織し、共同で農業に取り組んで軍への食糧も提供していく。やがて農地が不足してくると、防衛も兼ねてソ連との国境に近い冬は極寒となる土地にも開拓を広げた。なお、義勇軍は武器を持っていたが、想定するソ連軍よりも地元民の反乱に対して使われることが多かった。

 日中戦争から昭和16年(1941)までの5年間の満州への年平均送出数は3万5千人、入植者数は16万5070人(4万2635戸)にのぼるが、16年末には太平洋戦争に突入し、そこから国内の農村各地にも徴兵の増員が発せられ、百万戸計画の実現は困難となったため、失業した都市勤労者からも開拓団を編成した。失業した都市勤労者とはすでに若者ではなく、物不足による配給制などで仕事が亡くなった中年の商工業従事者たちで、主に18年以降の開拓団はその人たちの家族で占められた。

 8月9日のソ連軍の侵攻に対して関東軍はしばらく応戦したが、各地で玉砕同様となった。軍司令部はすでに朝鮮国境近くに移転していて、連絡網が断たれたこともあり、その間に関東軍の将校たちは前線の将兵たちを放置して逃げた。その将校たちと一緒に満州国の政官人、満鉄の高級職員たちは鉄道を使って先を争って逃げていった。そして残った日本軍将兵や一般人男性がソ連軍に捕らえられてシベリアに抑留された。一方で放置された日本人居留民・開拓団たちには、すでに列車やトラックなどはなく、ソ連軍による女性暴行事件も多発したが、さらに現地で恨みをかっていた中国人の襲撃と略奪もあって家財産を放棄して逃げ延びようとした。

 8月14日、満洲国興安総省の葛根廟付近において避難民千数百人がソ連軍の襲撃を受け、1000名以上が虐殺されつつ自決者も出た。葛根廟事件というが、避難民の約9割以上が女性や子供であった。その後の避難の途上でも受難、確認された生存者は後に発見された残留孤児を含めて百数十名であった。その後も東京荏原開拓団や仁義仏立開拓団の悲劇(『わが町の戦争』の「品川区」と「港区」参照)などがある。8月15日の終戦宣言があった後も一部地域ではそれを知らされずに戦闘が継続された。

 開拓団の過酷な逃避行は統率する男性陣がいない中、老人女子子供だけで日本へ向けて徒歩によるものであった。その中で子供を餓死させたり、行き詰まった居留民の中には子供を含めた集団自決するという悲劇が各地で生じた。それを恐れて途中で子供を中国人農民に預けたり(中国の農民は善意もあるが労働の手助けとして子供を欲しがり、それによって多くの中国残留孤児が生まれる)、あるいは若い女性は帰国を諦めて現地の人と結婚することもあった。政官軍人の「理想郷建設」という言葉に踊らされて、大きな夢を抱いてやって来た日本国民にもたらされた一つの大きな悲劇であった。

 そうして残された約22万人中、日本に帰れずに死亡、行方不明となったのは自決を含めて約8万2千人にのぼる。また満州で残された将兵と一般男性たちを含め朝鮮や樺太からソ連のシベリアに抑留されたのは約57万5千人、そのうち極寒の収容所における強制労働でその一割が命を落とし、帰還できなかった者は約5万8千人とされている。満州においては特に戦後の死亡者のほうが多く、死者は戦闘関係で6万人、終戦後に18万5千人で、総数は約24万5千人という厚生省の記録もある。

戦時下の国内の動向

 日本は当時、大日本帝国と名乗っていたが、基本的に貧乏国であった。明治以来の軍事優先国家で、国家予算野中の軍事費の割合は突出していて、一部の富豪以外はある意味みんな貧乏人であった。小学校の教科書では天皇が讃えられ、日本の歴史は天照大神の神話の時代から教えられ、歴代天皇の名前が教科書に並んでいて、それを覚えるのに子供たちは苦労した。次に大事なのは修身(道徳)で、忠君愛国の思想を基本に、天皇を宗主とした国家への奉仕、天皇の臣民としての家族主義が教えられた。仮にみんなが貧乏であっても、親を敬い、家族が支え合って国のために努力していくことが美徳であるという思想の中に子供たちは育った。ちなみにこの思想教育は「教育勅語」を発した明治天皇の意図ということではなく、当時の政治家や軍人たちが強固な軍事国家を作り上げるために、天皇を至高の存在(神格化)に祀りあげ、そしてその存在を利用したことによる。そしてこの体制は昭和時代の過酷な戦争が終わるまで継続された。

 大正末年に制定された治安維持法を根幹にして、昭和に入ってからは思想統制も厳しく、少しでも反戦あるいは反皇国的な言動は取締りの対象であった。仮にメディアが戦争遂行に逆らうような報道をすれば、即座に発行停止の処分を受けたから、報道の自由などなかった。特に日中戦争からは、当時の主要な新聞・通信・出版社の代表が内閣情報部の参与として協力体制に組み込まれていたから、軍政府の意向にそったものしか掲載されなかった。またこの時期から軍歌が新聞社などを通じて懸賞金付きで募集され、大量生産された(『日本の軍歌とその時代背景』参照)。一般の人々に対しては、街角に憲兵が見張って目を光らせていたし、各学校にも配属将校が派遣され、将校は校長よりも権限を持っていた。また各町の住民は隣組によって組織され、少しでも戦時体制に逆らう動きをする者は「非国民」として周囲の非難の対象となった。

 昭和6年(1931)に東北地方では凶作となり、その前の昭和恐慌の影響もあって、農家の困窮は深刻化し、欠食児童や女子の身売りが大きな社会問題になった。この頃は女子の身売りを規制する法律もなく、その意味では日本は後進国であった。またこの困窮により農家の次男、三男は安定した軍隊に入るものが増えた。9年にも東北地方がまた凶作となり、青森県下から芸娼妓に売られていった10代の娘たちは7083人とされる。山形県では役場にそのための相談所が設置されていた。

 この6年9月、日本軍は満州事変を起こし、中国北東部の満州を占領した。これは日露戦争勝利によって日本は満州の一部(遼東半島の先端部)を租借地にして関東軍を置いていたが、その関東軍の策略によるものであった。翌7年、傀儡政権の満州国を設立させて植民地とした。その主な目的は満州にある豊富な鉱山資源であり、日本軍はその各地の鉱山や工場を接収していった。それに対し国際的な非難が高まり、国際連盟で満州国を不承認とされ、日本は常任理事国であったが連盟を脱退した。これは一面、国際的な縛りから日本が解放されたということであり、戦争拡大への傾斜が強まった。

 満州へは新天地として自発的に移住する人たちがすでに多くいたが、11年(1936)には満州農業移民百万戸移住計画が策定され、これにより都会の貧しい青年たちや、貧村などが村ごと半強制的に移住させられ、最終的には悲劇的結末を迎えることになる。12年(1937)7月、北京近郊に駐留していた日本軍と中国軍との衝突で盧溝橋事件が発生、それを機に当時の近衛内閣は即座に全国に召集をかけて戦争の準備をし、翌8月に海軍が起こした上海事変をきっかけにして日中戦争(政府の呼称は支那事変:支那とは中国の蔑称)に突入した。この頃から国民の戦意高揚のため、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」の三つの標語と「銃執れ 鍬執れ ハンマー執れ」ようなスローガンが掲げられた。ここで政府は国民精神総動員要綱を決定、翌13年には国家総動員法を発令し、国内は全面的に戦時体制一色となった。

 日中戦争開始によって、戦地へ召集される男性は格段に増えたが、召集は名誉なこととされ、「祝〇〇君出征」と幟を立て、万歳三唱して送り出す光景が各所で見られた。しかし仮に駅頭などの見送りで母親が出征する息子に「生きて帰ってこい」と言葉を発すると、監視していた憲兵に「この非国民が」と殴り倒された例もある。戦死者が出始めると、その遺骨の出迎えと村葬が丁重に行われ、遺された家族の農作業などを勤労奉仕班が手伝った。しかし16年の太平洋戦争以降は出征兵士の盛大な見送りの光景は次第に見られなくなり、遺骨もまともに返されなくなる。また終盤には徴兵年齢の拡大によって高齢者が召集され、夜間に密かに家を出て行ったという。

 国内の生産は軍需に向けられ、物資不足が表面化し、14年(1939)になると不要不急の金属類の回収を国民に呼びかけられ、マンホールの蓋・ベンチ・鉄柵・灰皿・火鉢等の鉄製品回収が役所や職場、愛国婦人会や女子青年団の手で実施された。この年には「遂げよ聖戦 興せよ東亜」「聖戦だ 己殺して国生かせ」のスローガンが街角に掲げられる。こうした中で「銃後」の町内会や学校では防火・防災訓練が定期的に行われた。それは「敵軍」からの空襲に備えるためであったが、意外にも12年(1937)頃から行われていた。それは日中戦争開始の時から日本軍は中国の各都市に対し、海軍飛行隊を主力にして毎日のように空襲を行っていたから、日本も遠からず空襲を受けることを想定したことによる。またこの訓練には防毒ガス訓練もあり、日本軍はやはり中国において毒ガス投下も散発的に行っていた。

 昭和15年(1940)、全国で皇紀2600年(神話上の神武天皇の即位を紀元とする)の祝賀行事が行われた。実はこの年にはアジア初の東京オリンピックと万国博覧会が同時開催される予定であったが(その4年前の1935年にはナチス政権下でベルリンオリンピックが開催されていた)、日中戦争に対する国際的な非難と、戦争のための物資不足を懸念した政府は、13年に開催を返上してしまっていた。

 またこの年は国会で与野党が大団結して戦争拡大に向けた大政翼賛会が結成される。これに従って隣組という制度が町内会の内部に形成され、5軒から10軒の世帯を一組とし、戦時下の住民動員や物資の供出、統制物の配給、空襲を想定した防空活動などを行い、それは一方で思想統制や住民同士の相互監視の役目も担った。出征者の増大で農村の男手が戦地に行って少なくなり、食糧不足が深刻になり、政府は各学校に集団的勤労作業を打ち出し、実践的精神教育実施として 中学生以上に勤労奉仕を奨励して農村に駆り出すこともあった。またこの時期から米欧からの経済制裁を受け始めた。

 この頃にはスローガンが採用されている ——「屠れ米英 われらの敵だ」「笑顔で受け取る召集令」「りっぱな戦死と 笑顔の老母」。とりわけ最後の言葉は呆れるものがある。

 16年(1941)、治安維持法が全面改定され、市民活動や町の小さな集会など全ての活動が禁止され、言論出版への検閲も厳しくなり、社会・共産主義だけでなく、自由・個人主義、民主主義的な思想は「国体」(天皇を宗主とする国家体制)を害するとして徹底的に排斥された。とりわけ新聞は軍政府の御用新聞となっていく。

 米欧の経済制裁により物資不足が一層深刻になり、食料と生活必需品が配給制となり、改めて金属回収令が公布され、家庭も含めて根こそぎ回収が進められる。また政府はこの春には小学校を「国民学校」に改め、「皇国民の錬成」を教育目標とした。そこでは「聖戦完遂」が強調され、修身の教科書では「国体の精華」、「皇国の使命」を自覚させるための祖国意識に訴える文章をかかげた。そして「忠君愛国」による天皇への「臣民の道」を叩き込む教化指導が行なわれた。この結果、小学生にも軍人志望がふえ、海軍の予科練などへのあこがれが強まった。また中学校以上の各学校に報国団を設立させ、その中に報国隊として軍隊式組織を作らせ、中学以上では軍事教練が必須となった。

 一方で中国の日本軍は石油等の物資を求めて東南アジアにも侵攻、それに対する米欧の経済制裁強化の措置に対抗して12月8日、米英蘭豪を相手として太平洋戦争に突入、真珠湾攻撃やマレー上陸作戦などの奇襲作戦を行った。4日後の閣議で、日中戦争を含めて大東亜戦争と称すると決定した。そしてこの戦争を「皇国による聖戦」とし、「八紘一宇」(アジア圏の統一)の思想から「大東亜共栄圏」を作る聖戦とされた。そこから英国の占領するシンガポールを陥落させるなど日本軍は快進撃が続くが、それも短かった。この時期、国民の戦意高揚のために街角に貼られたり家々に配られた標語が「進め一億火の玉だ」などであり、生活面でも「贅沢は敵だ!」「欲しがりません、勝つまでは」として、目立った服装や髪型も禁止される中、衣料品までも配給制となる。また報国隊による学生・生徒の勤労動員体制が作られた。

 この時期のスローガンは「生めよ殖やせよ国のため」「石油の一滴、血の一滴」「進め一億火の玉だ」「一億抜刀 米英打倒」などがある。この一億とは、当時植民地であった台湾や朝鮮半島の人口を含めた数である。

 18年(1943)、東京都で金属非常回収工作隊が結成され、全ての役所と学校の暖房器機から二宮尊徳像まで回収対象となり、家庭の鍋釜・箪笥の取手・蚊張の釣手・店の看板なども回収された。さらに「まだ出し足らぬ家庭鉱」として火箸・花器・仏具・窓格子・金銀杯・ 時計側鎖・煙・置物・指輪・ネクタイピン・ベルトのバックルに至るまで根こそぎ回収された。宗教施設も例外では無く寺院の梵鐘も数多く供出された。これほどに国民に耐乏生活を強いながら、戦争は継続された。

 10月、戦線の拡大で兵士が不足し、学生に対する徴兵猶予制度を撤廃、20歳以上は徴兵の対象となり(翌年は19歳以上)、秋に学徒出陣式が盛大に行われ、同時に女学校を含めて繰上げ卒業が実施された。これは労働力を少しでも早く確保するためであった。東京をはじめとする都市への空襲が予想され、子供の縁故疎開が奨励される。 主食の米の配給も減り、イモや雑穀類に変えられた。この年には「一億抜刀 米英打倒」「血の犠牲 汗で応えて頑張ろう」などの言葉が出回る。

 19年(1944)8月、「学徒勤労令」が施行され、それまで学生・生徒の勤労動員は期間限定で交代で行われていたが、一年生以外の授業はほぼなくなり、日曜日あるいは電休日(電力節約で工場が交代で休む日)以外は軍需工場へ動員された。それは「勤労即教育」という間に合わせの理屈によるものであった。同じ8月より都市の小学生の集団学童疎開が始まる。宿泊先は寺院や旅館であったが、田舎でも食糧は軍へ優先的に供出されていたから食糧不足は変わらず、子供たちは家を離れた淋しさとひもじい思いの中で生活した。その中には環境の悪化で病死する子供もいて、何のためにと親は悲嘆にくれた。

 この頃、米軍は日本の占領するサイパン島などマリアナ諸島を陥落させ、最新鋭大型爆撃機B29の基地として日本への空爆態勢を作り、11月24日、日本本土への本格的空襲を開始、まずは武蔵野の中島飛行機工場から始めた。以後9ヶ月でB29の延べ出撃数は3万3000機、原爆死を含め、国内で約50万人が犠牲となる。

 またこの年、「神州(天皇の在する国の意)不滅」「最後には神風が吹いて日本は必ず勝つ」などの言葉が生まれ、小中学生たちはそのまま信じた。勤労動員された女学生たちは、軍需工場で日の丸に神風や必勝の文字を染めた鉢巻を頭に絞め、本当に神風が吹くと信じて「お国のため」と懸命に働いた。さらに翌20年3月には、中学生以上の授業は全面撤廃され、勤労動員が義務化された。だが軍需工場への爆撃もしばしばあり、終戦までに空襲などによって死亡した動員学徒は約1万1千人、傷病者は9800人となっている。なお終戦時に動員先にいた学生・生徒は340万人という。

 これとは別に女子挺身隊が政府の指示で結成されていて、それは在学していない14歳から25歳未満の未婚女性が対象で、女学校の卒業生も含まれ、やはり軍需工場や農業などに動員された。これも19年8月の法令で12歳以上40歳までに拡大され、東北地方からも東京近郊の工場に強制的に動員され、朝鮮からも動員されていた。もっとも朝鮮からは女子ばかりでなく、一般男性も強制連行によって多く日本の工場にいたことは女学生の記録にしばしば出てくる。この女子挺身隊の死者数は不明だが、いずれの女性たちも深夜労働は普通で、二、三交代制もあったから、空爆死でなくても成長盛りの身に過酷な労働で体を壊し、寿命を縮めた女性たちもいたし、重傷を負ってカタワになったまま一生日陰で暮らした女性もいた。そうした人たちに対して政府が戦後、軍人のように補償したケースはまずない。

 20年(1945)3月10日の東京大空襲では、一夜にして10万人近くの人が地獄とも思える劫火で焼死したが、一家全滅した家族も少なくなく、その中で集団疎開中に一家全滅で孤児になった子供も少なくなかった。さらに4月と5月に3回続いた大空襲(城北・山の手・城南)により東京はほぼ廃墟になり、その後米軍は横浜や地方の都市への空襲に転じていった。このため、東京を脱出して地方に疎開した人や子供の集団疎開先でも空襲にあうことがあった。

 6月23日、「本土決戦」の前哨戦とされた沖縄が過酷な戦闘により20万人という多大な犠牲者を出して陥落し、それを受けて軍政府が本土決戦の上で一億総玉砕と国民の覚悟を煽る中の7月26日、連合国軍が日本に全面降伏を求めるポツダム宣言を発した。当時の軍政府だけでなく、主要メディアも「笑止!」などと報じて降伏を拒否した。ところがその10日ほど前の17日、米国は原子爆弾を開発し、実験に成功させたばかりだった。その最新の超大型破壊兵器を後ろ手にして米軍が日本に降伏を迫っていたことなど、それが開発中であることを知る人はいたが(日本でも研究されていた)、それを実際に使用されることは日本の誰もが想定していなかった。しかし米軍にとって日本の降伏拒否は想定内のことであり、実践的に原爆の効果を試せるチャンスで、そのため広島と長崎で原爆の型を使い分けた。

 広島には8月6日、続いて9日に長崎への原爆投下があり、合わせて20万人以上の犠牲者をだした翌日の10日、軍政府は御前会議でポツダム宣言受諾を決定、連合軍に通告したが、まだ正式な発表がないため、なおも米軍は各地に空爆を続行した。8月15日正午、ラジオで天皇より終戦の詔勅(玉音放送)があるが、戦争継続派の若手将校たちは、この放送を止めようと前日深夜からこの録音版を奪うため、皇居内で反乱を起こす事件(宮城事件)があったが、数人の死者と自決者を出して朝までに終結した(『わが町の戦争』「千代田区」の「宮城事件:クーデター未遂事件」参照)。

 8月10日の受諾決定は一部の将校たちの知るところであったが、これにより軍政府の中枢部で戦時の機密文書の焼却が始まった。これはやがてやってくる連合軍による調査に対して戦争遂行に関わる証拠を隠滅しようとするものであった。「掘った穴に書類を投げ込み、何日も焼いていた」との目撃者が各所にいて、その証言も残っている。さらに正式に終戦が伝えられた15日、軍政府は密かに日本国内と海外の占領地区に、戦時下の記録・文書を焼却するように指示、各地で焼却作戦が行われた。例えばこれは学校などにも軍は駐屯軍を置いていたが、そこでも行われ、また学生・生徒の勤労動員の日誌や記録もほぼ焼かれた。それを見聞きしていた女学生が自分の日記を焼いてしまったとの話も残る。あきれるのは、各市町村の兵事係が出征や戦死の記録をつけていたが、それさえも焼却し、したがってほとんどの市町村が戦死者の数を正確に把握できていない。

 海外の戦地でも同様で、各部隊が「陣中日記」などをつけるが、それも一部を除いて残されていず、したがって南京その他の虐殺事件や731部隊の人体実験や細菌作戦などの記録もほぼない。あるのは、個々人が密かに持ち帰った日記などであるが、それも帰還時の検閲で多くが没収されている。後年、政府がそれらの事件を追及され、その答弁に「そうした記録はございません」と言って逃げるのは、実際に残っていないからである。

アジア・太平洋戦争の犠牲者数

 改めてであるが、このアジア・太平洋戦争による日本人の戦死・戦災死者310万人の内訳は軍人・軍属は約230万人(うち海外が210万人)、民間人の死者は二度の原爆を含めた戦災死者50万人、海外で30万人、合わせて、約80万人となっている。実は最後の一年間だけで軍民合わせた死者はその3分の2、つまり200万人以上になる。空襲による死者は最後の9ヶ月であり、フィリピン戦、沖縄戦など、また終戦後の満州とシベリアなどで生じた犠牲者もそうである。どれほど無謀な戦争を日本の軍政府が国民に強い、悪あがきをしたかがこれだけでもわかる。

 8年にわたる日中戦争では日本軍の戦死者は41万人、民間人5.6人、戦傷病者は92万人とされている(これに満州の24.5万人が加わる)。しかし中国の受けた被害ははるかに甚大で、戦後昭和21年(1946)の国民政府の発表では軍人の死者130余万、戦傷病者約300万人とし、これには共闘した共産党軍の戦死者は含まれていず、その後1947年の発表では軍人死傷者365万、一般人死傷者913万とされた。その数はこの後の調査で発表毎に増えていき、昭和60年(1985)年の「抗日勝利40周年」における発表では、軍民合わせての死亡は2100万とされた(重軽傷者約1500万、戦闘上だけで国民党軍と共産党軍の戦死者は7、800万人)。その後の発表では2000万人ともあるが、これは8年間だけではなく昭和6年(1931)の満州事変より14年間に日本軍が中国各地で戦闘というより反乱軍の潜む村々への殲滅作戦を繰り返した結果であり、日中戦争開始から四ヶ月後の南京事件(犠牲者30万人以上)だけを主に取り上げて云々する日本国内の傾向は、この戦争全体の中国での被害内容を歪めるか覆い隠すことにもつながっている。そして途中から並行して行われた太平洋戦争開戦による東南アジアへの戦線の拡大により、その中国を含めて犠牲になった東アジアの人々の犠牲者の数はどれほどになるか、それは我々一般の日本人には想像をはるかに超えている。

 日中戦争を除いた太平洋戦争の主な犠牲者数は以下の通りである。

 インドネシア(オランダ領):300-400万人(30万のインドネシア人が収容所で死んだとされ、日本軍による殺害、病気、餓死などによってジャワ島だけで300万、他の島では100万人が犠牲となった)/べトナム・インドシナ(フランス領):150万人(日本軍占領下の飢饉もあり100万人が餓死)/フィリピン:111万1938人/インド:260万人(当時の飢饉に加え、日本軍のカルカッタ港湾などへの爆撃によって食料の運送手段がほぼ壊滅状態になり、ベンガルだけで150万人が飢餓死)/ビルマ(ミャンマー):27万2000人(戦死者のうちビルマ人5万、インド人10万、中国系が4万)/マレーシア・シンガポール:28万3000人/タイ:約8000人(ビルマ戦線と連合国軍の空襲による)/朝鮮:50万人(日本軍としての戦死、満州や日本での強制労働死や日本国内での空爆死者約1万人含む)、台湾:(日本軍として)3万306人/太平洋諸島:5万7000人(主に住民)などである。これに泰緬(たいめん)鉄道建設に投入された労働者の各国死者7万4025人(英国調査)があるが、この中には捕虜が多く、以下の欧米軍と重複するかもしれない。

 日本軍と戦った欧米軍については、アメリカ軍:10万1000人(第二次大戦全体で41万8500人のうち)/イギリスと英連邦軍:約8万3000人(捕虜死含む)/オランダ軍:2万5000人(多くは捕虜死)/フランス軍:1万4000人(多くは捕虜死)/オーストラリア軍:2万3365人/ニュージーランド軍:1万1625人/ソ連(ロシア)軍:約2万人(日中戦争時のノモンハン事件と満州侵攻によるもの各1万)となっている。

 これら太平洋戦争による東南アジア諸国での死者の累計は概算で1000万人を超えている。これに1937年からの日中戦争、細かくは1931年からの満州事変も含め、「15年戦争」による中国での2000-2100万人を加えると3000万人を超えることになる。このうち3分の2以上が民間人と見てよい。ドイツ軍による第二次世界大戦は1939年からであるが、それによる犠牲者は5千数百万-5千5百万人、それに日本側の日中・太平洋戦争による犠牲者を含めると、第二次世界大戦とアジア・太平洋戦争全体の死者数は8500万人と算出される。この8500万人のうち3100万人が日本軍が関わった戦争によるものであり、その割合は3分の1を超える。つまりこの3100万人の死者数とは、日本人の死者数310万人のまさに10倍となる。これは今のわれわれ日本人がまったく認識していないことである。ちなみにナチス・ドイツによる第二次世界大戦の犠牲者5千数百万のうち、ソ連(ロシア)への侵攻で、ロシア人の軍民犠牲者は2600万人となっていて、これはユダヤ人の犠牲者600万人を遥かに超える(ドイツの軍民犠牲者は1075万8000人)。日本軍の中国への侵攻による犠牲者2100万人はこれに次ぐものである

 毎年8月15日の終戦記念日には、日本側の310万人の犠牲者の数が挙げられるが、どうして日本が被害を与えた国々の犠牲者数が取り上げられることがないのか。あまりにもその数が多すぎて、メディアも怯んでしまっているのではないか。現今の我々は、戦争自体の反省は良いが、自分たちの被害面ばかり語る傾向にあり(筆者も当初はそうであった)、それは片手落ちであると思われる。我々が受けた米軍による空襲被害と同様なことは、既述のように日本軍も中国を中心としてそれ以上に行なっている。いずれにしろ310万人の背後には数千万人の犠牲者がいるということであり、仮にも8月の終戦記念日の式典において、アジア諸国の犠牲者の慰霊も兼ねて行われるなら、アジアの人々から歓迎され、日本人の評価が上がるに違いない。

敗戦後の流れ

 昭和20年(1945)9月2日、日本政府代表は米戦艦ミズーリの船上で戦争相手の連合国との間で降伏文書に正式に調印、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ) の占領下に入った。降伏文書の調印に先立ち、連合国軍は8月28日に日本本土(北海道・本州・四国・九州)へ進駐した。

 10月、GHQが五大改革を指令(婦人の解放/労働組合結成の奨励/教育の自由化/秘密警察(特高警察)等の廃止/経済の民主化)。その後年末までに治安維持法の廃止、陸軍・海軍省の廃止、財閥の解体、婦人の参政権を認めた選挙法改正等がなされる。

 この年また大凶作となり(米に限って言えば、18年の62%の収穫量であった)、戦前から続く食糧危機に追い打ちがかかる。海外からの兵士の復員や難民の引き揚げにより、それは加速された。そこで米国からの救援物資が徐々に届き始め、学校への給食が優先される。

 21年、GHQは戦犯・軍人・軍国主義者などが要職に就くことを禁止する公職追放令を打ち出し、農地改革として地主制を廃止、小作地を小作人へ安価で引き渡しさせた。衆議院議員総選挙で初の女性議員が登場する。

 11月3日、明治以来の大日本帝国憲法を廃止、新日本国憲法が発布される(天皇は象徴制となり国民主権、基本的人権、戦争放棄を含む平和主義、三権分立などが打ち出される)。

 11月18日の朝日新聞で「上野駅(多くは地下道)で処理された浮浪児の餓死体は10月の平均で1日2.5人」とある。浮浪児とは(この名付け方がさらに差別を生む)戦争で親兄弟を亡くし、行き場のない子供たちである。ひと月で75人、その後冬になるから死者はもっと加速された(『わが町の戦争』「台東区」参照)。しかもGHQの指示によって、街にうろつく浮浪児狩りが行われ、子供達はお台場(同、「東京湾:お台場」参照)などに閉じ込められたが、山にトラックで捨てられるというひどい場合もあった。

 この秋には米作は一転して豊作となる。

 22年3月、教育基本法が成立し、義務教育を小中学校の9年とする。5月3日、日本国憲法施行。

 23年11月、東京裁判の判決で東条英機ら7名がA級戦犯として死刑となる。しかしこの背後にはBC級戦犯として、将校たちが先に逃げた後に現地に拘留され、多くの下級将兵や軍属が処刑になった姿が隠されている。(『各種テーマ別の記録・証言』の「世紀の遺書(戦犯刑死者の遺稿集)」参照)

 24年、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞し国民を勇気づける。

 25年(1950)6月、北朝鮮共産党軍の南進によりこれを防ぐため米国軍支援の朝鮮戦争がはじまる。28年に休戦となるが、この戦争特需により日本経済は景気が回復に向かう。8月、警察予備隊(現自衛隊)が設置される。

 26年(1951)9月8日、日本政府は連合国とサンフランシスコ講和条約(正式名:日本国との平和条約)に調印。翌27年4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。

敗戦後も放置された日本の兵民

 敗戦時、海外にいた日本人は629万702人とされる(659万人との記録もある)。上記の満州やシベリアのほか、植民地である台湾・朝鮮には民間人居留民が多くいた。戦闘を続けていた中国本土、東南アジア各国では降伏後、速やかに復員(帰国)できた兵士は限定的で、多くの部隊が現地に取り残された。満州では既述のようにソ連侵攻後、関東軍将校や高級官僚たちは自分と家族を優先して帰国しまい、一般兵士と民間人を見捨てたが、同様なことは植民地や東南アジア各国でも生じた。

 また満州と同様、終戦の詔勅により日本が降伏したことを伝達されずにいた兵士や民間人が多くいて(軍を統率する将校たちが先に逃げたことも大きい)、特にフィリピンなどでは戦闘で密林の奥に逃げ込んで終戦を知らずに潜伏し続けた日本兵も多数いた。その例が小野田寛郎(フィリピン・ルバング島で29年)や横井庄一(グアム島で28年)であるが、発見された時にはそれまで一緒に潜伏していた仲間は途中で(銃撃戦の末に射殺されたりして)死んでいた。

 この二人は特殊な例であるが、終戦前後のフィリピンやニューギニア、ビルマ(現ミャンマー)などの南方戦線では、戦闘による死者よりも、食糧不足からの飢餓による病死や餓死の方が圧倒的に多く、全戦没者約230万人のうち、約6割にあたる140万人前後がそうであったことはほぼ定説となっている。

 戦地における食糧不足の一因は補給の断絶で、戦争終盤ではアメリカ軍の制海・制空権下で輸送船の大半が撃沈され、前線へ食糧が届かなくなったこともあり、またもとより日本軍の上層部は、戦闘能力(弾薬・作戦)を優先し、兵士への補給を軽視した「精神論」で戦わせたことも大きいという。さらには戦地で降伏を呼びかける連合軍の声に対しても、降伏を恥とする「戦陣訓」により、捕虜になる選択肢が閉ざされていたこともあった。ただし中国で戦闘を続けていた日本軍に餓死はまずなかった。それは既述のように、食糧は現地調達を基本としたからで、その調達の大半は徴発という名の略奪であり、そのために住民の虐殺事件が多発した。

 いずれにしても戦地や植民地で多くの日本人が放置され、積極的に日本政府が現地に人を派遣して、終戦を周知して引き揚げさせる積極的な対策を取った形跡はない。それは例えば満州の避難民が過酷な逃避行で彷徨いつつ、帰還船の発着する港へ自力で辿り着くまで、何の支援もなかったこと、また海外戦没者約230万人のうち、いまだ約112万柱の遺骨が収容されておらず、その多くが餓死した場所などに眠ったままとなっていることでもわかる。

 これとは違い、米軍は終戦後すぐに調査隊を日本の各地に送り、その目的はB29などによる空爆時に日本軍に撃墜されたか墜落した飛行士たちの行方を探すことと、捕虜収容所の連合国軍兵士を解放することで、その中で落下傘で降下した兵士が惨殺されていた場合、あるいは捕虜収容所で虐待を受けていた場合は、それに関わった日本人をBC級戦犯として処刑にした例もあるほどで、自軍兵士の遺骨の収集や捕虜解放には徹底していた。

 一方で敗戦後の日本の政府は、すぐにやってくる連合国軍による占領対策に追われていて、最初に実施したのが連合国軍の兵士相手の慰安所を作ることであった(『わが町の戦争』の「品川区」参照)。もちろん極度の食糧危機の中で戦災の復興対策もあり、復員兵士や民間人の引揚げ対策も必須であったが、そこに至るまでの海外に残る日本人へは無策であった。仮にもっと真剣に海外に残された日本人の救出策を強く打ち出していたなら、10万人単位の人々が命を失わずに済んだのではなかろうか。

 また一方で、国内では戦災で多数生じた孤児への対策もしなかった。行き場もない孤児こそ十分な対策で救うべきであったが、空襲による戦災者も含めて、結果的に孤児に対して国は一円の補償もしていない。それに比して先に逃げ帰った軍の将校には、手厚い恩給や年金が湿球され続けている。少なくとも一流と言われる国の中で、こんな国は例がない。

 ちなみに終戦後に日本の軍民の帰還に使われた輸送船も無事ではなかった。一週間後の8月22日、北海道 留萌沖で泰東丸・能登呂丸・小笠原丸の3隻がソ連潜水艦から魚雷攻撃をうけて撃沈、樺太からの引き揚げ者の1700人以上が犠牲となった。その後24日、陸奥湾から朝鮮に向かっていた大阪商船浮島丸が舞鶴に寄港した時に機雷に接触して沈没、この船には強制連行で下北半島で鉄道建設などで働いていた朝鮮人ら約4000人を朝鮮半島に帰国させるべく航行していたが、日本人乗組員25人を含めて549人が亡くなった(280体の遺骨が帰郷できないまま目黒区の祐天寺に安置されている:目黒区の「祐天寺の遺骨」参照)。その後、戦時中に米軍が投下していた機雷の掃海作業が行われていたが、それでも各所で機雷による沈没で2千人近くが犠牲となった。なお終戦前の太平洋で撃沈された艦船・輸送船は数知れない。

付記

大量虐殺の時代

 戦争の本質というのはお互いの殺し合いであり、戦場で敵である人間を殺すことは罪にはならず、むしろ一つの功績であるが、敵として相手を殺す場合、その時の相手の人間性や背負っている家族の存在など考えもしない。殺すか殺されるかの非日常の世界では人間は本来の社会的感性を捨てなければならず、そして生き残って戦後になって日常の生活に戻ると、心に深い傷(PTSD)を負ってしまうことは内外の数々の証言と調査で明らかである。

 近代の戦争は、単にそうした前線の兵士同士の戦いだけではなく、飛行機の登場によってその戦地となった街の破壊はもちろん、周辺の数多くの住民の犠牲と惨劇を生む。とりわけ第一次世界大戦より飛行機以外に機関銃や戦車やが登場、そこから兵器は急速に発展し、第二次世界大戦からはミサイルが登場、これら近代兵器(毒ガス類も含む)は、それによって敵方の顔を見ずに攻撃でき、その地上の惨状も見ずにすむから、攻撃側には精神的負担がなく、さほど良心の呵責を感じないですむという「利点」がある。この近代科学兵器の開発の流れからして、第二次世界大戦において原爆が開発され、広島・長崎に投下されたのはある意味必然であった。

 その原爆を投下した米軍の飛行機(B29爆撃機)は高度1万mを飛び、その飛行士たちは、はるか下方に街の建物が見えるだけの高さから投下のボタンを押すという、自分に与えられた任務を遂行したにすぎなかった。そのボタンを押す瞬間には、そこに何十万の人々の暮らしがあるとは考えもしなかったであろうし、考えないようにしたであろう。ただ、その投下後に大きな閃光が走り、街が巨大な火に包まれた光景には恐怖を感じずにはいられなかったと言う搭乗員もいる。またその任務を負った飛行士たちに、罪の意識は感じなかったのかという問いかけが事後になされるが、その問いかけ自体に無理がある。もちろん彼らが後にフィルムなどで見ることがあって、その惨状に驚くことはあったとしても「この戦争を終わらせるためにはやむえなかった」と答えるしかない。事実、その原爆投下の命令を下したトルーマン大統領は「双方に50万人ずつの死者を出さずに戦争を終わらせるためには必要なことであった」という姿勢を最後まで崩さなかった。もちろん日本に全面降伏を求めるポツダム宣言を発した時、開発したばかりの原爆の投下を予告して警告する方途はあったと思われるが、米国はそれはせず、日本が降伏を拒否することを見越し、その準備を進め、そして日本は降伏を拒否して原爆は投下され、日本は降伏した。ただ、仮に原爆の脅しを受けて降伏したとしても、日本国内では大きな反対論が渦を巻いたであろう。何しろ当時は軍国主義による洗脳で「本土決戦・一億総玉砕」という言葉が日本の隅々に浸透していた。実際に原爆による惨禍は経験してみないとわからないし、開発した米国の研究者たちがその惨状に驚き、その後使用に反対するようになった。

 この原爆以外に同程度の犠牲者を出したのが米軍による東京大空襲であった。強い北風が吹くなか、米軍のB29数百機が大量の焼夷弾を落とし、街々は地獄の劫火に包まれ、一夜にしておよそ10万人が焼死した。これに二つの原爆を含めて約30数万人、全体でおよそ50万人が空爆の犠牲となった。ただし日中戦争の8年間において、日本軍は中国の各都市への空爆を続けていて、その空爆による死者は約33万人以上とされるが、この事実も日本国内ではなぜか表に出されない(『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』参照)。ちなみに第二次大戦下の欧州でもドイツと米英連合軍で激しい空爆合戦が行われたが、その犠牲者は合わせて40-60万人とされている。すでにピカソのゲルニカの空爆の絵などの比ではない。

 現今の日本では原爆を含んだ米軍による空爆の犠牲者50万人のことばかりが云々されるが、その中国側の30数万人と日本側の50万人の住民の犠牲者たち、とりわけ体に大きな傷害を負った人も含め、残された親や妻や子供たち、そしてその友人や恋人たちに、ただひたすら悲しみと苦しみを生むという状況は両者において変わるわけがない。それまで何気なく多少の夢や希望を持ちながら地道に生きていた個々の人々の日常生活が、ある日突然断たれてしまう、その断たれた人々のその後に送ったであろう長い人生、そしてその彼らを突然失った家族なども含めれば、その影響は何倍にも及ぶが、その現実も彼我において変わらない。

 こうした近代兵器により20世紀は大量虐殺の時代と呼ばれ、軍人が戦場で戦死する数以上に、その前線の向こう側、あるいはこちら側での一般市民の死者のほうがはるかに多いケースがほとんどとなった。20世紀に続いた世界の戦争で殺された1億6千万人の8割は民間人とされている。

 当時の日本の戦争における作戦の当否などを論じたりその意義を得意然と説く人もいる。しかし太平洋戦争を含めて日本が起こした戦争が、東南アジアを含めた様々な国の人々の人生を突然にして断ち切り、その多大な犠牲者の無念の思いと残された家族を含む人々の受けた心の深い傷と長年の苦難に想いを致すなら、その種の理屈をもって肯定的に語る人は、すでに戦争の加担者であると言わざるを得ない。

 空襲被害者の言葉である。——「戦争は、武器を持つ兵士同士の戦いの場ではなかったのでしょうか。罪もない母や弟まで爆撃を受けて殉難し、一片の遺骨も残ってはいないのです。…(戦争の)戦果として、まるで戦場以上に無残で、常識のない戦いをしたのです」(『東京大空襲戦災誌』第2巻:体験記録集より)

虐殺の連鎖

 戦争における虐殺は、他国に侵攻、侵略する側が行うものであるだろう。1939年、第二次世界大戦を仕掛けたナチス・ドイツがその一番の例としてメディアではよく取り上げられる。ドイツ軍は隣国のポーランドを手始めとして、侵略した東西の国の村や町を手当たり次第に破壊し焼き尽くし、反撃するレジスタンスが一人二人でもいると、その住民のほとんどを虐殺していった。またドイツ軍はその後に侵攻したソ連(ロシア)軍の捕虜数百万人を虐殺したとの記録も残る(最終的にソ連の軍民の犠牲者は2600万人ともされ、ユダヤ人約600万人の犠牲者より遥かに多い)。そしてナチス・ドイツはそれらの戦果を誇るべきものとして、フィルムなどに虐殺の記録に残した(街中で住民の首を吊るした姿や虐殺した死体を穴に放り込む姿が知られる)。それは自分たち優越人種(選民)が行った正義の戦争と定義してのことであったが、最終的に勝利した連合軍がそれらを押収してその残虐行為が明らかになった。なおソ連も連合軍としてドイツに反撃し、反撃の途上、それまでに自分たちが受けた被害への憎しみもあって、ソ連軍はドイツ人に対し数々の残虐行為に及んだ。(日本軍が外地で行った虐殺などのフィルムや記録などがドイツのように掘り起こされていないのは、敗戦が決まった時に日本の軍政府が内外の拠点に戦争の証拠資料をすべて焼却せよとの通達を行ったからである。残っているのは当時のニュース映画だけで、そこに残虐なものは撮られていない)

 そのドイツ侵攻の2年前の1937年、日本はアジア圏の中で「皇国日本が東アジアを統治するための正義の戦争」(日本が欧米によるアジアの植民地を解放し、共存共栄の世界を築くことを目的とするもの)との大義を掲げて、日中戦争(支那事変)を行った。日中戦争のことはその後の太平洋戦争の影になってあまり取り上げられないが、ナチス・ドイツと同様に進撃先の街々で虐殺を重ねていった。それは既述のように北支那方面軍司令官が「捕虜は取らぬ方針」とし、食糧は「徴発」による現地調達を基本としたことが虐殺の度合いを増した。さらに日本軍に進軍の途中で、抵抗する現地住民がいれば(それは自国を侵されているから当たり前なのであるが)皇軍にあらがう「匪賊(ひぞく)を討伐する」として殲滅作戦を行い、日本軍はドイツ軍と同様にその村を砲撃しつつ焼き払い、住民を虐殺した。捕虜を残さないということがどういう結果になるのか、少し考えてみればわかるであろう(『50年戦争の編年別記録』の「昭和12年」参照)。そうした裏側の事実が報道されることはなく、表向きの進撃の結果のみを国内の新聞各紙は皇軍の戦果として囃し立て、国民もその報道に逐一沸いた。その後の1941年末、大東亜戦争と称する太平洋戦争に突入し、そこから東南アジアに戦線をむやみに拡大し、犠牲者を増やしていった。

 ちなみに、日本が外国から国内に仕掛けられた戦争、つまり自国防衛のために行った戦争は(幕末の三日間の薩英戦争などを除き)明治以来存在しないこと、そして近代の日本の戦争はすべて日本側が他国の土地で行った戦争であり、日清戦争は半ば朝鮮を舞台とし、日露戦争は中国を舞台とした。それでも日本軍は正義の防衛戦争と呼んだ。ナチス・ドイツと同様に、つまり侵略する側が必然的に行う虐殺を、日本軍は相手国の中で行ってきたし、アメリカもベトナム戦争(1955-1975:米軍の介入は1961から)では北ベトナムにおいて無数の空爆と村々を焼き払うという「焦土作戦」で数々の虐殺を行った。その米軍のベトナム戦の基地になったのは、米軍との戦争で20万人の犠牲者をだした沖縄であった(ただしこの沖縄戦では米軍は基本的に戦闘以外の虐殺を行なっていない。むしろ日本軍が県民に集団自決などを強いた)。

 現在に至ってもアメリカのみならずソビエト連邦崩壊後のロシアも、「大国」としての威信をかけて他国への介入戦争を各地で続け、近代兵器によって民間人を殺戮し続けている(これは2018年時点での筆者の記述であるが、この4年後にロシアのウクライナ侵攻が始まった。その侵攻のやり方がその85年前に中国へ侵攻した日本軍と酷似していて、筆者は唖然とした。強権を発動する指導者というものは、歴史から決して何も学ばないことがわかる)。

 あえて日本側が侵略された例として言えば、終戦(敗戦)直前、日本が植民地とする満州に対し、ソ連=ロシア軍が日ソ不可侵条約を破棄して侵攻を行ったことで、その結果満州の日本人居留民が虐殺や収奪を受け、その逃避行で集団自決を含む多くの死者を生じたことがあげられるが、これとて日本軍の中国の占領地のことである。また今もよく取り上げられる日本人が多数殺戮された事件で、シベリア出兵時に起こった尼港事件(1920年)、日中戦争開始後に起こった通州事件(1937年)は、どちらも日本軍の侵攻に対しての反撃であり、それ以前の日本軍の侵攻がなければ起きなかった事件である。

 こうしたこと以外に、20世紀は内戦による虐殺事件は多くある。その大半が民族差別によるものであり、虐殺の世紀と言ってもいい。文明は大いに発達してきているとはいえ、人類はまだ子供の喧嘩レベルの思考を抜けていないように思われる。

国際法の矛盾

 改めて、米軍の無差別爆撃は国際法違反であるとはよく言われることである。目を転じればソ連(ロシア)が敗戦間際の瀕死の状態にある日本の隙をついて宣戦布告、日本の軍民150万が居留する満州や朝鮮に攻め込んで、とりわけ民間人に対して殺戮、強姦、暴行、強奪を行ったこと、そこから多くの難民を生じさせ、日本への逃避行中に死亡・行方不明となった者が約8万人を超えたこと、さらにソ連軍は男性(だけではなく看護婦などもいたが)および軍人60万人をシベリアへ連行して抑留し、強制労働を課すなどして、その抑留中の死者は約5万5000人となり、合わせて14万人近くが8月15日以降の死者となっていることなど、これも国際法違反であろう。当初筆者はこのソ連軍の卑怯なやり方に怒りを覚えたが、これも米英を含む連合軍が半年前に承認済みのことであった。ナチス・ドイツもやはり独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、既述のように大量虐殺をロシア人に行っていた。またそれ以前のこととして目を向けなければならないことは、その7、8年前、日本は中国へ宣戦布告をせずに、まず飛行機による無差別爆撃を上海・南京に仕掛け、それに続いて陸軍が各地に侵攻して民間人の殺戮を含む犯罪を行なった。このようにどの国の軍隊も国際法違反の戦争犯罪を行なっている事実は否定できない。戦争状態の中では、優勢にある兵士は敵方に対して「何をやっても構わない」という妙な精神状態にあり、その個々の兵士の行動を抑止できる軍隊があるのかどうかも疑わしい。

 戦争の現場は常に敵の動きを想定して、自己防衛的に先んじて危害を加える行為が基本であり、戦争犯罪というのは、かつてそれをジュネーブ条約で国際法として定義したことが無意味で愚かしいほどに、あらゆる国の戦争の現場で国際法は無視され、安易に「犯罪」が行われ続けている。戦争が必然的に犯罪を生むのである。そもそもその国際法は、戦争が行われることを前提としているという矛盾がある。人間というのは、戦争も含めて、理性を保てない状況下に追い込まれれば、思わず悪行・非道を為してしまう存在であり、そうした状況下では普段生活をしていた社会の中ではとてもできなかったことを為してしまう可能性を持っている。それはその人がそのような状況下に追い込まれてしまうかどうかの違いだけであって、自分だけは、あるいは日本軍だけはそんなことはしていないと言い切ることは決してできない。戦争は、人間を非道な行いに走らせる状況をただひたすら作るのみである。

 ただ、例外的に現場の指揮官が人格者で、現地の人々に被害が及ばないように、むしろ彼らを守るべく努めたという数少ない例も南京や他の各地にある。そしてある種の人たちはその例外的な例をもってして、日本軍の正当性を言う。それを言うならナチス・ドイツの中でも個々の現場で指揮官が兵士の暴発を抑え、密かに住民を守った例もなくはないのである。それはあくまでその指揮官個人の理性を保った判断によるものであって、それで軍政全体の流れと行為を善しとするものにはならない。逆に多くの将校は現場で非道な行いを部下に命令し、その結果、戦後、現地に残された下級将兵や軍属(朝鮮・台湾兵が主)たちが、連合国によりBC級戦犯として多く摘発され、処刑された。その数は千人近くに上る。そして非道な行いを命令した将校たちは敗戦とともに、その立場を利用して先に日本へ逃げ帰っていたのである。

戦争責任について
<戦時文書焼却作戦の意味>

 既述のように、日本の敗戦時、日本の軍政府が行った見逃せない大きな愚行がある。それまでの戦時関係記録(内外の軍の記録や写真やフィルムまで)が、軍政府の指示によって8月15日の天皇の「終戦の詔勅」の直後に(あるいは連合国にポツダム宣言受諾の通知を先んじて行った10日から、それを知るものによって)すべて焼却された(フィルムなどで残っていて我々が目にするのは、主に日本兵が進軍する時のニュース映画である)。それは米英等の連合国占領軍を受け入れた。この行為はしかし、「皇国の正義の戦争」というものをみずからが否定するものであった。なぜなら仮にも聖戦と信じていたのであれば、その証拠となるべきものを焼却するわけがない。つまりはつい直近までに特攻死した若者たちの「英霊」もいなかったことにされたわけで(記録が廃棄されたから、その英霊とされる若き特攻隊員たちの正確な数も把握されていない)、この戦争自体がなかったことにされようとした。それはあれほど国家統制により「欲しがりません 勝つまでは」と、辛抱を強いつつ戦争協力へと駆り立てた子供を含む全国民をも裏切る行為であった。また戦時下で街角の至るところに貼られ、各種のスローガンを掲げたポスターも焼却された。仮に残っているのは個人が密かに取り置きしていたものである。極め付けは各市町村役所の兵事係の記録、つまり出征記録まで焼却されたことである。あり得ない愚行の極みで、その結果、東京を含めた全国の市町村では戦死者の正確な数が把握されていないという事実がある。

 こうした事実を認識もせずに、ある種の論陣を張る人たちは、日本軍が外地において迫害や虐殺などの蛮行をしたという「証拠はない」と主張する(その証言者に対しては「捏造」とし、その報道を偏向と決めつける。なぜわざわざ捏造する必要があるのか、なら自分で捏造の例を見せる必要がある)。そして大東亜共栄圏でアジアの平和を構築するという大義に燃える「皇軍」が、悪行をするわけがないとする。しかし大義と戦争の実態は別物であり、ましてや日本軍だけが清く正しくあったとはとても思えない。そもそも清く正しい戦争などあるのであろうか。確かに日本では証拠となるものは焼却されたから残されていない。ところがアメリカという国はどんな記録でもきちんと残す精神があって、日本人研究者やジャーナリストがアメリカ国立(議会)図書館などに行って詳しく調査して当時の日本の事実を掘り起こす作業を地道に行い、その事実は数々の書籍になっている。サイパン島や沖縄における惨禍の写真や映像はすべてアメリカのものである。

 それはおくとしても、日本軍兵士であって帰還できた人たちが加害者としても書き残した証言や記録が少しずつ出て来て(昭和55年:1980以降)、今はある程度の量になっている。ただ、かつて自分が行った罪(それは個人の問題ではないが)を思い出すのも辛く、家族にも何も語らずに死んでしまった人たちのほうがはるかに多い。しかもその戦争の渦中にあっては、それを罪悪だと認識していなかったという証言も見られる。あるいは戦闘中にそばにいた戦友が殺されたからその復讐としてという場合もあるであろう。

 つまりこの戦争は「皇軍」が行う「聖戦」あるいは「正義の戦争」(昔からどの国も、ほぼ全て自国の戦争は正義として遂行しているとする)と定義され、将兵にはある種の使命感が植え付けられていて、自分たちの残虐行為を当たり前のことと思わせていたのであろう。ナチス・ドイツと同じで、相手を同等の人間だと見なしていなかったから家畜を殺すように平気でできた面もある。そして戦争が終わって自身に正常な感覚が戻ってから、「おれは何ということを…」と密かに悔いたのであり、そこから沈黙を保ち続け、そのトラウマに終生苦しめられ、家庭崩壊に至った人たちもいる。あるいは戦友たちを失い自分一人が生き残って申し訳ないと重荷を背負い続ける人もいる。それに対し戦時中当時の自分の立場を後生大事に守り続ける元将校たちもいて、とりわけ部下に命令するだけで、自身で手を下さなかった上層部の将校たちはそうであり、彼らはその戦争下での出来事はやむ得ないことだったと言う。心に深い傷を負い、悔恨の気持ちと苦しみを背負い続けるのは、前線に立たされた個々の兵士たちなのである。そうした現実の中で、この戦争を煽った日本政府が(ドイツと違って)正式に内外に反省、謝罪することが今に至るまでないのはなぜなのか。仮に謝れば、なかったことにしようとしたこの無謀な戦争を認めることになるからなのであろうか。

 なぜ日本の政・官・軍人は自分たちが行なった戦争に対して平然と無責任なことを為し、戦後は知らんぷりを決め込んでいるのか。例えばナチス・ドイツはヒトラーという独裁者が戦争を率いたが、日本ではそういう独裁者はいなかった。したがって海外から見ると、それは天皇がそうであろうという見方があるが、我々日本人は天皇を独裁者であるとは誰も思っていない。一方で昭和時代の終戦までの20年間(実質19年間)では日本の首相は16代、そのうち3代は近衛文麿が担っているが、その平均在位は1年1ヶ月である。激動の時代にこれほどコロコロと首相が変わって大丈夫なのかという疑問がまず浮かぶ。実際にちょっと困難な状況になってくると、その時の首相は簡単に辞職してしまう姿がある。太平洋戦争開戦の直前、近衛は日米交渉に行き詰まって東條英機に後を預けた。その後敗勢が強くなると東條も辞職して責任を逃れようとした。そして敗戦直後に首相となった東久邇宮は、一億総懺悔、つまり国民も一緒に反省しましょうと言った。一理はあるとしても、自分たち政権側の責任を自覚していない。これを見ると日本の政治は誰も責任を取らない集団無責任体制というものが見えてくる。つまり誰も自分に責任があると思っていないから、反省や謝罪などできないのである。

 戦後ドイツは、ヒトラーという独裁者にその責任と罪を負わせることができたからかどうか、近隣諸国にきちんと正式に謝罪し、国民にも補償を行った。それに対して、同様に近隣諸国に多大な被害を与えた日本は、これまで国として正式に謝罪したことはなく、それは一部の首相などの「談話」のレベルにとどまっている。そして今はかつて最大の敵として戦って血を流した相手国、米国の属国のようになっていて、経済的なレベルは別にして、政治的には戦後70年以上経った今も、一流国になれていない。

<天皇の責任と御心>

 今ひとつ、いわゆる戦争責任については過去に昭和天皇のことがよく論じられてきた。戦時下ではすべては天皇の名で行われ、皇軍や聖戦という言葉も天皇の存在があって使われたものであり、軍隊では上官の命令は天皇の命令であると心得よ、との考えが浸透し、軍隊内では上官の暴力がはびこり、とても皇軍とされる規律正しい軍隊ではなかったことは誰もが証言している。つまりこの戦争では天皇の名は都合よく使われ、端的に言えば昭和天皇は当時の軍政府にうまく利用される立場であったことは事実である。

 満州事変あるいは日中戦争以降、天皇ご自身にはまともな情報は与えられず、新聞・ラジオなどのメディアも軍政府の統制下にあり、戦争拡大に都合のよい情報しかなかった。太平洋戦争開戦に当たっても、首相兼陸軍大臣の東條英機が、天皇に涙を見せながら開戦のやむ得ない事情を語った。そうして開戦の詔勅を天皇の意思として発せさせて(恐れ多くも天皇のお言葉であるとして)国民を長い戦争に導いた。そこには本来の天皇の意思はなかった。もとより天皇の使命というのは国民の安寧を願うということであり、戦争は可能な限り忌避する立場であったが、軍政府はただひたすら天皇と国民に危機を煽り、戦争を起こした。

 昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲があった時、さすがにその大空襲のただならぬ雰囲気を感じた天皇は、実際の状況をすぐに視察したいとの意志を示されたが、軍部はあれこれ理屈をつけて一週間引き伸ばし、その間に兵隊や学生、民間人や囚人も駆り出して墨田区の一部地域(深川富岡八幡周辺)の焼死体等を片付け、そして18日になって天皇には家々の焼け跡だけを見せ(そこを大股で歩く天皇の写真が残っている。道はきれいに片付けられ、焼け残った木々の下に多少の瓦礫が寄せ集められているだけである)、そうして軍は、住民は普段の防空訓練でほぼ避難していて無事であるように「捏造」した。実際に死体の片付けに動員された人の中には、これでは天皇陛下にこの惨状は伝わらないと噂をしあった。仮にも天皇がそのままの惨状を目にしていたなら、これ以上国民を犠牲にするのは忍びない、もうやめたらどうかと(天皇にはやめろという命令はできない)軍部に伝えたのではと思われる。そしてその時にやめていれば、戦死者と戦災死者の少なくとも半分以上は犠牲にならずに済んだはずであった。

 戦時下、少なくとも満州事変以来、一般国民には戦争関係のすべてが神としての天皇のご意志によるものと信じ込まされていた。そして国民が召集されて出征する時には「天皇のために死ぬ」ことを意識付けられ、前線で突撃する時は「天皇陛下万歳」と叫ぶようにと教育された。「銃後」の国内でも「お国のため」は「天皇のため」であった。天皇の存在は国民にとって神域にあり、その神域を作ってきたのは政・官・軍人であり、彼らは情報操作(統制)によって国民のみならず天皇をも利用した。戦争終盤、今はどんなに困難な状況にあっても、日本は天皇の在する神の国であるから、最後には神風が吹いて勝つとという教育をし、子供はみんなそれを信じて軍国少年・少女になっていた。自分たちが信じてもいない「神の国」を白々しく流布してしまう政・官・軍人たちというのは、天皇を形の上では崇敬しながら、神域に囲い込んでその姿を隠し、その名を利用しながら国民を騙し、同時に自分たちをも騙しながら安易に戦争を拡大、継続していったわけである。実際の権力は天皇にはなく、まさに天皇は我々一般国民と同様、弱者の立場にあるという構図がここに見える。

 こうした昭和天皇の置かれた状況については米国・米軍は事前に調査済みで、GHQによる日本占領後も天皇に戦争責任を問うことはなかった。そして戦後になり、戦時下のさまざまな実情が天皇に届くようになり、おそらく天皇ご自身は軍政府の謀略に怒りを覚えることも多かったであろうし、多大な国民の犠牲に心が引き裂かれる思いもされたであろうし、実際に時折側近の前で涙を流されていたと聞く。本来、臣民(国民)の安寧を祈る立場である天皇が、自分のために国民に戦争をしてこいと言うはずもないのだが、敗戦の玉音放送を聞いた人々の中には、皇居前に正座して深々と頭を下げながら「私たちの力が足りずに日本が負けてしまい、申し訳ありません」と謝った人が多くいた。そこからも、当時の軍政府がどれだけ天皇を利用して国民を騙しながら戦争を継続していったかがわかる。

 ただそのこと自体に天皇ご自身は責任を感じられ、自分が第一級の戦犯として処刑されることを望まれる覚悟も持たれていた。戦後、最も大きな悔恨をもって苦しまれたのは昭和天皇であろうと思われる。また戦後、戦死者を祀る靖国神社にも、天皇は数年に一度参拝されていたが、A級戦犯として処刑された東條英機たちが靖国に合祀されるに及んで、それ以降参拝されることはなかった。それが昭和天皇の良心であろう。この御心は平成天皇にも引き継がれ、平成天皇は美智子皇后と共に海外の各地の戦場に何度も慰霊の旅に出かけられている。そうした天皇の御心を顧みず、平然と靖国神社に参拝し、世界からの非難を浴びている今時の政治家はどういう存在なのであろう。

 ちなみに日本の首相たちがアメリカを始めとする主要国に訪問する時、例えばアメリカでは戦死者が祀られるアーリントン墓地に行き献花をするが、日本の靖国神社には各国の要人の誰も訪れないのはなぜなのか、それを指摘する人は稀である。

戦後補償の歪み

 東京などへの大空襲によって一家が全滅したケースも少なくなく、それにより学童集団疎開中に家族を失って孤児となった子供たちも多くいた。孤児はそのほか、広島や長崎、戦場となった沖縄と満州、その他日本が占領していた戦地でも(現地の人々も含めて)多く生じた。その何万人以上の寄る辺ない戦争孤児に対し、戦後、国はきちんと保護する政策すら立てずに見捨てた。東京都の記録に残っているのは計画だけであって、一部を除いて実施された様子がない。同様に空襲で親や子を失い、重傷を負った被災者に対しても何の補償もせずに捨て置いた。国が起こした戦争の犠牲者であるにもかかわらずである。戦時関係資料をすべて焼却し、この大戦争をなかったことにしようとした政府だからこその態度であろう。ただし、原爆は世界的に大きな事件であったので、その被災者には12年後に医療関係費を無料にするなど手当は十分ではないにしろ(机上の地図で適当に線引きされた区域によって認定の差別は残った)行なわれたが、被爆者たちへの救済を求めた昭和43年(1963)の「原爆裁判」において訴えは棄却され、基本的な救済・補償はされないままである。ただし判決文には政府に対し「十分な救済策」を求めたていたが、政府がこの勧告によって動くことはなかった。当然一般の被災者にはその傷病手当すらないということである。

 この孤児を含めた空襲犠牲者は現在に至るまで何度も国を提訴しているが、その度に却下されている。それに対し、元軍人関係の人々に対しては、いまだに年に一兆円単位の恩給や遺族年金が支給され続けていることには驚ろかざるをえない。仮にそうした被災者も補償金を支給すれば、際限がなく国庫が持たないと国として考えたようであるが(当時の政府の諮問委員会の意見)、それまでの長年の戦争で国庫を際限なく費やしてきたことを思えば、知れているのではないか。しかも裁判上で国は「戦争被害は国民が等しく受忍(我慢)しなければならない」という受忍論を展開し、最高裁もそれに同調し、責任を逃れた。それなら元軍人たちにも受忍してもらわなければならないが、その差別の理由は「国との雇用関係がない」というものであった。つまり軍人は国が雇用している立場であるという。ならそのための税金を払っている我々国民はどういう立場なのであろう。

 しかも戦時下では前線の兵隊に負けじと「銃後」の国民が総出で物資の乏しいなか、空きっ腹を抱えて頑張り抜いた。その中でも中学生以上の授業は全面停止され、女子生徒も「お国のために」と軍需工場で慣れない旋盤を扱いながら頑張り、時には工場への爆撃で死亡し、また空襲で自宅が焼かれ、友人が焼死しても翌日には決死の覚悟で軍需工場に出勤したのである。この女生徒たちには下手な兵隊よりも軍人精神があった。一方で満州や朝鮮や樺太(サハリン)で難民となり同様な被害を受けた人々とその遺族、日本の統治領であった南洋諸島に居留していて、激戦下で自決も含めて命を落とした家族とその遺族、このような人たちもまともな補償を受けていないし(満州やシベリアの抑留者には多少の手当があったようであるが)、何よりも国から謝罪もされていない。第二次世界大戦に関わって、戦後にこのような放置政策を取った国は日本だけで、ほぼ同じ立場のドイツは被害を受けた国民にきちんと補償し、なおかつ近隣諸国にも謝罪をしている。この姿勢の差は何なのであろうか。

 ここで改めて、いまだにほとんど表に出されない(なぜか政治家やメディアも触れたがらない)具体例を挙げる。総務省の資料によると、戦後の軍人恩給に関し、ピーク時の昭和45年度(1970)の元軍人の受給者数は125万6409人で、53年後の2023年3月末現在で普通の恩給を受けている元軍人の生存者の数は1881人となっていて、恩給対象者は激減している。それでもなぜ上記のように恩給を含む遺族年金の総額が増えることはあっても減らないのか。これは元軍人たちが亡くなると、その家族や親族まで次々と遺族年金の形で支給対象が広げられているという国の手厚い配慮による。なぜここまで日本政府は元軍人関係を際限なく優遇し続けるのか。もとはと言えば、敗戦で軍隊がなくなったため、軍の将校の多くは厚生省をはじめとした官僚の中にうまく入り込み、その立場をもってして自分たちを含めた元軍人たちを過度な恩給や年金で守り、逆に戦争孤児や被災者たちには知らんぷりを決め込んできたという経緯がある。ちなみに占領軍GHQが日本の元軍人の俸給を調べたところ、その高額に驚いたという話も残る。

 こうして軍人と同様に国のために犠牲となりながら補償の対象から外されてきた戦争犠牲者との差は歴然で、これが日本の政府のやっていることである。明治以来の軍国主義は、敗戦によって即座に崩壊し、戦争放棄という平和憲法も作ったが、その軍国主義の影はここに根強く残っているように思われる。なお、植民地であった朝鮮・台湾人にも日本軍兵士としての徴兵が行われ、進んで特攻隊となって突撃死した若者もいたが、彼らに対しても日本は、一時金を支払っただけで、軍属やその他の犠牲者に対しては、すでに国籍が違うという理由で何の補償もしていないし、提訴されても裁判ではことごとく却下されている。

 そもそも国民の税金によって職を得ている政官人の人々が、その税金の使い方として、自分たちの狭い視野で(つまり国民の生活の現場に出てその声をを聞くこともせずに、エリート用の官舎の閉ざされた空間の中で)政治家の都合や自分たちに聞こえのいいものには税金を使い、自分たちの見えないところで困苦に陥っている人たちには税金を還元することを惜しんで無視を決め込んでしまっているということがありはしないか。なお言えば、もともとそういう傾向のある人たちが概して政治家や官僚つまり役人(軍人も同様)になってしまうわけで、その彼らは、自分たち本来の役目としての社会の中・底辺にありつつ律儀に税金を払い、それを彼ら自身の給与として支えている国民の声を聞くことをしない。ここには基本的に税金を使う立場の人間たちが物事を決めることのできる優位な権力側にあり、税金を納める一般大衆の人々が弱者であるという妙な構図がある。そしてその弱者の側にいる国民は、戦争が起こると必ず先頭に立たされて犠牲になることは決まっているわけで、問題はその政官人たちが権力側にいて、場合によっては戦争を起こしてしまう立場にいながら、自分たちはむしろその戦争の犠牲を免れる職域(安全地帯)にいるということである。そのような政官人に、どのようにその国民の立場から遊離した意識を改革し、本来の「公僕」としての使命を自覚ていただくか、それが日本(だけではないが)の一番の課題であると筆者には思えてならない。

メディアと我々の課題

 なお近年は、特に8月になるとTVや新聞で戦争の特集が組まれ、いろんな事実や証言が次々と出てきているが、およそにおいて我々国民が過去の戦争でどれだけ悲惨な目にあったかという側面、つまり日本が起こした戦争によるわが国民の被害者としての側面から語られ、二度と戦争は起こしてはならないとする。これは当然のことであるとして、一方で、戦争の加害者側の代表としてTVなどで映像と共に取り上げられるのが、第二次大戦を起こしたナチス・ドイツのことであり、それが大半である。実はこの傾向は、戦後ドイツ自身が加害国としての反省を国民にも徹底し、その記録やフィルムを隠さずに表に出していることも影響している。これに対して日本は、先に触れたように敗戦時に内外の戦時関連資料をほぼすべて焼却し、この長期にわたる戦争をなかったことにしようとした。その影響であるのかどうか、この8月の時期にもメディアでは日本の加害国としての側面が報道されることはまずないし、代わりに加害国の象徴としてはドイツ軍の侵略と虐殺行為が、日本にとって一種の隠れ蓑のような形で取り上げられる。繰り返すが、この戦争によるわが国の犠牲者がおよそ310万人であることは何度も語られるが、日中戦争以降の日本が起こした戦争の結果、既述のように、どんなに少なくみても2千万人を超える犠牲者を海外の国々に生じさせていることを(知識としてわかっていても)まともに報じるメディアがまずいないのはなぜなのか。我々310万人の死者とその遺族、さらには傷病者や孤児となって一生困難な道を歩んで行かざるを得なかった人たちの話は、当然犠牲となった海外の人たちにもそのまま、その数以上に存在する。そのことを少なくとも平等に取り上げるのが我々の義務であり、今後の我々の課題であると思われる。

参考

戦時下の国内の出来事(年次別)

 以下は各種資料からの抽出によるが、ウェブサイト『昭和からの贈り物』(鞠村奈緒)の記述は克明で、そこから借用している事例も少なくない。

昭和2年(1927)

 3月:元巡洋戦艦の赤城が航空母艦に改造されて完成(その後昭和17:1942年6月のミッドウェー海戦で雷撃を受け沈没)。
 5月:江東区亀戸の東洋モスリンの工場で、女子工員の自由外出を求めた争議が起こり、会社側は認め、解決した。
 7月:日本航空輸送旅客機が初飛行。
 8月:広島県の大久野島に、陸軍造兵廠火工廠派出所が設置され、毒ガス製造へ(昭和6:1931年に起こる満州事変から使われる)。この工場は日中・太平洋戦争下でも継続され、終戦の前年(昭和19年)まで毒ガスは製造された。
 9月:富士裾野で特殊弾効力試験(毒ガス演習)が行われた。
 9月:宝塚少女歌劇団でレビューショー「モン・パリ」が上演され、大好評となる。
 12月:日本で初めての地下鉄、浅草−上野間(後の銀座線)が開通する。

*この年までに陸軍では軍用飛行機のライセンス生産を含め600機が作られていた。これに加え海軍では約500機、民間で100機があり、合計約1200機とされていた。それに対し列強諸国はフランスで3000機、アメリカで2600機、ソ連1600機、イギリス1500機、イタリア1400機(いずれも軍用機のみ)で、日本はまだ見劣りしていた。

昭和3年(1928)

 2月:初の普通選挙による総選挙実施、ただし男性の25歳以上のみ。
 3月:航空母艦に改造された加賀が竣工。
 4月:政府は労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟を共産党の外郭団体として治安警察法により解散命令を発令。また東京・京都・九州・東北各帝大の学内の思想研究会も解散させる。
 6月:大正14年(1925)に施行された治安維持法が改正公布され、「国体」(天皇を宗主とする日本国の体制)の変革を目的とした結社を組織した者あるいはその指導者として活動した者は、それまでの最高刑の無期懲役から死刑とした。
 7月:全府県の警察署に特別高等課が設けられ、治安維持法施行の実践部隊として取り締まっていく。
 同月:オランダで開催されたアムステルダムオリンピックの日本選手団54人が参加し、6人が金メダルを初めて獲得した。
 9月:内務省、鉱夫労役扶助規則改正を公布し、婦人・年少者の深夜業と坑内作業を禁止。しかし、太平洋戦争が始まる頃には軍需産業への労働者が足りず、撤廃されることになる。
 10月:西の宝塚少女歌劇団を意識して「東京松竹楽劇部」が発足(後のSSK=松竹少女歌劇団、戦後にSKD)。
 11月:陸軍観兵式において重爆・軽爆・偵察の各機91機、戦闘機69機、計160機が大編隊を組んで帝都の空を覆った。

昭和4年(1929)

 1-3月:街には失業者が溢れ、抗議活動が行われ、大学卒業者の就職難も深刻(東大卒の就職率30%)、その後映画『大学は出たけれど』の封切で流行り言葉となる。
 5月:日本で初めてのトーキー(音声付き)映画『進軍』、『南海の唄』(いずれもアメリカ作品)が上映される。
 6月:拓務省が新設され、それまでのブラジル移民に加えて台湾・朝鮮・樺太・南洋の植民地政策と満州事変後に行われる満蒙開拓団などの集団移民政策を統治する。
 7月:文部省は学生の思想対策強化のため、社会教育局設置、学生課を部に昇格する。
 8月:ドイツの大型飛行船「ツェッペリン伯号」が世界一周の途中、霞ヶ浦海軍飛行隊施設に降り立ち、これを見ようと上野から土浦まで臨時列車が出て、30万もの人々が出迎えた。
 9月: 小林多喜二の『蟹工船』が出版され、反響を呼ぶが、後に発売禁止となり、4年後小林は逮捕され、拷問死する。
 同月:全国反戦同盟員が銀座で戦争反対デモを行い検挙者が多数出る。
 10月:9月に竣工した豪華客船浅間丸が横浜からサンフランシスコに向けて出航し、太平洋横断の速度記録を作った。その後太平洋戦争により浅間丸は軍の徴用船として運用され、昭和19年(1944)10月、アメリカの潜水艦の発射した魚雷が命中して沈没した。1000人以上が護衛艦などに救出されたものの、500人以上が海に沈んだ。
 10月24日:ニューヨークの株式市場が大暴落、米国内の銀行が破綻し、世界恐慌となる。生糸価格も崩壊し、輸出に依存していた日本の農家にも大打撃を与える。

昭和5年(1930)

 4月:海軍は航空兵力の増強策の一つとして、小学校高等科卒業生(14歳以上)を対象に、飛行搭乗員を養成する飛行予科練習生を募集、80名の募集に対して100倍近くの応募があった。これを少年飛行兵と呼ぶが、のちに予科練習生つまり「予科練」として少年の憧れの的となる。終戦までの15年間で14歳以上約24万人の若者が入隊し(つまりこの後の戦争拡大によって大幅に採用人数は増えていった)、うち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴き、太平洋戦争終盤には特別攻撃隊として多くの若者が出撃、戦死者は8割の1万9千人にのぼった。
 5月:日本の飛行機「青年」号が立川発、モスクワ、ベルリン、ブリュッセル、ロンドン、パリ、マルセーユ、ローマまでの飛行に成功(1万3900km)。
 7月:海軍技術研究所が神奈川県平塚に化学兵器(毒ガスや細菌兵器)研究室出張所を設立。
 8月:逓信省が東京・大阪間で写真電送を開始、これで戦地からの新聞報道が迅速になされるようになる。
 9月:関東大震災から7年後に「震災記念堂」が墨田区に完成し、納骨堂に3万人が合祀され、追悼・落成式が行われる。後の東京大空襲による行方不明の遺骨も合祀されることになり、東京都慰霊堂となる。
 10月:東海道線の東京-神戸間に特急つばめが運行開始、最高時速96kmで、8時間55分で結ばれる。
 11月:浜口雄幸首相が、東京駅ホームでロンドン海軍軍縮条約批准に反発した愛国社員に狙撃され死亡。

昭和6年(1931)

 1月:全国の学校に天皇皇后両陛下の「御真影」配布が始まる。この御真影は雑誌の付録にも登場し、各家庭に掲げられることもあった。その後御真影は特別の建物に収められることになり、生徒は登下校時に立ち止まり敬礼することが義務となる。
 2月:婦人公民権案を衆議院で可決するが、3月に貴族院で否決される。婦人の参政権は戦後まで実施されることはなかった。
 3月:大日本連合婦人会結成、婦人報国運動のための組織として全国の主婦の動員を目的とする。
 6月:上野駅前に地上9階地下2階の地下鉄ストアビルが完成、上野駅に直結する地下道も併設した。これらの地下道が、敗戦後、戦争と戦災で親と家を失った孤児たちの溜まり場となり、国の助けもなく、その多くが餓死や病死することになる。
 8月:米国のリンドバーグ夫妻が水上飛行機で霞ヶ浦に着水。リンドバーグはこの4年前にニューヨーク— パリ間の単独無着陸横断に成功し、日本でも大歓迎を受けた。
 9月18日:満州で柳条湖事件が発生し、満州事変となる。翌日第一報が初のラジオ臨時ニュースとして流され、その影響で株式や商品相場が暴落する。
 9月:上越線の清水トンネル(9702mで当時世界最長)、10年の工期をかけて開通(犠牲者49人)。
 10月:政府の満州事変「不拡大方針」に反対する軍部のクーデター計画が発覚、未遂に終わる。

昭和7年(1932)

 1月18日:天皇による「満州事変に際し関東軍に賜りたる勅語」渙発。
 1月28日:満州事変による排日機運の中で第一次上海事変発生。戦死者約770名、負傷者2300名以上であるが、中国側の戦死傷者は2万人以上。
 2月:政財界の要人が多数狙われる血盟団事件発生。
 2月末:第一次上海事変の最中、満州事変に関する国際連盟派遣のリットン調査団が来日。その後調査団は上海、南京、北京の視察を行い、視察は昭和7年(1932)6月に完了。
 3月1日:関東軍により満州国建国が宣言された。これにより日本は台湾、朝鮮に続き三国を植民地にしたことになる。
 3月:犬養内閣は「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次国家としての実質が備わるよう誘導する」と閣議決定した。
 同月:大阪で「国防婦人会」が結成される。その後9年に「大日本国防婦人会」に発展し、1000万人を超える会員となる。
 4月:陸軍軍医学校に防疫研究室が設立される。のちに日本の支配する満州への出先機関として関東軍防疫班が組織され、これが細菌兵器研究として捉えた捕虜に対して人体実験などを行う通称731部隊となる。昭和12年(1937)の日中戦争の拡大により、日本軍の進軍・攻撃に合わせて細菌作戦を展開し、毒ガス作戦とともに大きな厄災を生じさせた。
 5月15日:武装した海軍の青年将校たちが陸軍士官学校の生徒たちを動員してクーデターを起こそうとし、首相官邸、内大臣官邸、政友会本部、日本銀行、警視庁などを襲撃し、結果的に首相の犬養毅を殺害した。(五・一五事件)
 6月:警視庁、特別高等警察部(特高警察部)設置の勅令を公布。国民の言動への監視が強まる。
 6月14日:衆議院本会議において、満洲国承認決議案が全会一致で可決される。
 7月:ロサンゼルスオリンピックが開催され、男子競泳は、日本勢が400m自由形をのぞく5種目の金メダルを獲得した。その他合計18個のメダルを獲得、まだ競技数が少ない中での快挙であった。
 8月:海軍に続き、陸軍飛行学校で年少の飛行兵を養成することになり、応募者は海軍の予科練と同様、操縦生徒が70名定員の約50倍、技術生徒が100名定員の約64倍にもなり、合格者は翌年2月に埼玉県の所沢陸軍飛行学校に入校、後に少年飛行学校となる。
 10月:東京市が府下5郡82町村を合併し、東京市は15区から35区になり、府としての人口は約500万人でニューヨークに続く世界第二位の都市となる。
 同月:満州第一次武装開拓団(移民団)416名が出発。満州の開拓にあたって、先に訓練で武装した若い団員を結成して「匪賊」(現地の抵抗組織)に備えたものである。

昭和8年(1933)

 1月:河上肇など著名教授二人が思想問題で検挙される。同様にこの年、10名程度の教授が検挙か罷免、停職となった。言論弾圧の対象が共産主義以外の自由主義、民主主義の思想も含めて大学にまで及ぶことになった。
 2月:二・四事件(教員赤化事件)。 長野県下で共産党シンパとされた教員の一斉検挙開始。4月までに65校138名が検挙された。
 2月20日:作家の小林多喜二が治安維持法違反容疑で特別高等警察(特高)に逮捕され、東京築地署での半日の徹底した拷問により虐殺された。
 2月24日:国際連盟総会で、日本軍の中国からの撤退を求める報告案に対して賛成42、反対1、棄権1という形で評決され、反対票を投じた日本代表は議場から退場、3月27日に国際連盟脱退を通告した。
 3月3日:三陸沖地震発生。津波と火災で死者3021、不明43、負傷968名。
 3月23日:ドイツ国会でヒトラーに全権委任法可決、独裁政権が生まれる。
 4月:新「小学国語読本」が作成され、国家主義・軍国主義の色彩を強化する。
 同月:大日本国防婦人会が5万人の労働婦人の参加申込みを得る。
 同月:文部省、盛岡・三重・宮崎の各高等農林学校に拓殖訓練所を設置。満蒙や南米への農業移住者の訓練を進める。
 同月:国際連盟脱退を宣言して帰国した松岡洋右全権大使を新聞各紙と国民は「英雄」のように出迎えた。
 4月29日:天長節(昭和天皇誕生日)の日、学生2万人も参加して日比谷公園で国際連盟脱退詔書奉戴式が挙行される。
 6月:丹那トンネル完成。全長約7804mで翌年12月に開通。
 7月:文部省、『非常時と国民の覚悟』を外務、陸軍、海軍各省と共同編纂して、学校などに配布。
 7月20日:陸軍省、満州事変勃発以来の戦死・負傷者を発表(戦死2530人、負傷6896人)
 8月9日:第1回関東地方防空大演習が行われる。
 8月23日:採用を開始した陸軍少年航空兵の倍率が57倍 (定員170名に9731名が応募)
 9月30日:極東反帝反戦反ファシズム大会が上海で開催され、日本代表も参加。
 10月14日:ドイツがジュネーブ軍縮会議から脱退、同時に国際連盟脱退を表明。
 11月28日:共産党委員長、野呂栄太郎が検挙され、翌年2月19日獄死。
 12月23日:皇太子明仁(平成天皇)誕生。電光ニュースや花電車で祝賀気分が高まり、昼は旗行列、夜は提灯行列が行われる。

昭和9年(1934)

 1月:東京日比谷に地上6階、地下1階、収容人員2810名という東京宝塚劇場が開場、公演は大成功。
 2月:有楽町に日比谷映画劇場がオープン。
 3月21日:函館市で大火が起こり、死者行方不明者2716名、焼失家屋24186戸、市街地の三分の一が焼失。
 5月:近衛文麿貴族院議長が親善大使として訪米。6月8日ルーズベルト大統領、ハル国務次官と会談。
 同月:出版法改正が公布され、これによってレコードも出版物とみなされ、言論統制の対象となり、レコード会社は発売前に内務省に提出し、検閲を受けることになった。
 5月以後:東北地方を中心に冷害と不漁が相次ぎ、深刻な凶作となって飢饉が発生、娘の身売りが広がり社会問題となる。
 6月:文部省、 学生部を拡充して思想局 (思想課・調査課) を設置。
 8月:石川島飛行機製作所で、純国産飛行機の第1号となる95式1型練習機が完成する。別名「赤とんぼ」と言われ、昭和18年(1943)まで2398機が製造される。戦争終盤には飛行機不足となり、この練習機が特攻にも使われた。
 9月:室戸台風が四国から京阪神にかけて上陸し、死者行方不明者3246人、4万戸が全壊する被害となる。
 10月:警視庁は学生・生徒・未成年のカフェ出入り禁止を通達する。
 同月:陸軍省がパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を60万部配布した。書き出しは「戦いは創造の父、文化の母である」という非創造・文化的な表現で始まる。
 11月2日:米大リーグ選抜チーム(ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス等)が来日し、日本のチームと親善試合を各地で行う。日本は16戦全敗に終わった。
 12月3日:日本はワシントン海軍軍縮会議条約の単独破棄通告を決定。 続く19日、ロンドン軍縮会議でも決裂、軍縮協定を一方的に破棄する。続いてイタリアも脱退したことで、3年後の1938年に残った米英仏の三国は諸々の制限を緩和し、世界的に軍拡の道に突入することになる。

昭和10年(1935)

 1月:衆議院で「ジャパン」という呼称は「我が帝国の威信を損する」ものとし、国号の標記を「大日本帝国」(The Empire of Japan)とすると決定したが、海外で認められることはなかった。
 2月:物理学者湯川秀樹が「中間子論」を発表し、戦後の昭和24年(1949)、日本人初のノーベル賞を受賞する。
 3月4日:共産党中央委員の袴田里見が特高に検挙され、共産党は壊滅する。
 4月6日:傀儡の満州国皇帝の溥儀が軍艦比叡にて来日、東京駅では天皇陛下が出迎え、街では提灯行列や花電車が出た。
 5月1日:第16回目のメーデーが行われるが戦前最後となる。
 5月22日:日本陸軍拓務省は15年以内に東北満州へ10万世帯50万人の移民計画を発表。
 6月1日:NHKが米国西海岸やハワイ向けの海外放送を開始する。
 8月:前年改定された出版法により『のぞかれた花嫁』(同名映画の主題曲)の歌詞に問題があるとして歌謡曲の発売禁止処分第一号となる。
 12月9日:日英米仏伊による第二次ロンドン海軍軍縮会議が開催されたが、翌月日本は脱退を表明。

昭和11年(1936)

 1月:有楽町の日本劇場でラインダンスが初披露され、ラインダンスは日劇ダンシングチームの代名詞となった。
 同月:政府の石油代用燃料奨励により、木炭自動車の製造が開始される。
 2月26日:「昭和維新」を掲げた皇道派の21人の急進的な青年将校が1438名の兵を率いてクーデターを起こした。高橋是清蔵相、斎藤実内大臣他一名を殺害し、目的は宮城占拠であったが失敗し、一時東京・永田町一帯を占拠した。7月に首謀者17人に死刑が言い渡された。(二・二六事件)
 3月:国際オリンピック委員会(IOC)総会で、昭和15年(1940)開催の第5回冬季オリンピックを札幌で開催することが決定、続いて4月、第12回オリンピック大会を東京で開催すると決定するが、日中戦争の拡大と国際的非難により2年後に返上する。
 5月:「満州農業移民百万戸移住計画」が策定される。すでにその前より新天地として自発的に移住する人たちが多くいたが、これにより貧しい青年たちや貧村などが村ごと半強制的に移住させられ、最終的には悲劇的結末を迎えることになる。
 8月:首相、外務、大蔵、陸軍、海軍の5人の大臣による「五相会議」が行われ、『国策の基準』が決定される。中国進出、対ソ連、南方進出や、軍需予算などが協議され、戦艦大和、武蔵などの建造計画も入っていた。
 同月:ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎで前畑秀子が優勝。
 9月:満州開拓移民の花嫁候補30余人が出発する。先に渡満して落ち着いた若い男性に花嫁をと役所が候補者を選び、集団で行かせた。その後も「大陸の花嫁」として、例えば写真だけが送られてきて結婚を決め、極端な場合は女性一人で満州まで行って、そこで初めて結婚相手と顔をあわせるという場合もあった。
 同月:わが国初の海底トンネルの関門トンネルの着工式が門司市で挙行され、6年後の昭和17年に貫通した。
 10月:東京で中学生1万人が参加しての「東京府下中学連合演習」という大軍事演習が行われた。一度兵役を終えて地元に帰っていた在郷軍人の将校たちが、学校の配属将校となって軍事教練を担当した。この配属将校制度は敗戦まで続けられた。
 11月:帝国在郷軍人会令が公布され、一度兵役を終えていた陸海軍軍人の300万人が必要に応じて再召集されることになった。
 同月:帝国議会新議事堂(国会議事堂)が竣工 。
 同月:大日本傷痍軍人会が発足し、九段の軍人会館にて発会式が行われた。この頃の傷痍軍人は全国で43万人で、後々まで厚遇される。
 同月:日本野球連盟(プロ野球)が発足。

昭和12年(1937)

 2月:敵性表記廃止の方針で、駅名からローマ字表記が消された。
 同月:衆議院本会議で、無所属の尾崎行雄が国防費激増の原因を問い、軍部の政治関与を批判する大演説を行った。
 同月:兵役法施行令が改正され、徴兵検査の身長が5cm引き下げられた。
 3月:戦闘機神風号が福岡・立川間で試験飛行をする。
 同月:日本の中国侵攻作戦を受けて、アメリカが日米通商条約の破棄を通告する。
 4月:朝日新聞社の純国産機「神風号」が、東京ロンドン間1万5千kmを94時間18分で達成。これは欧亜連絡飛行の世界記録であった。
 同月:文部省は『国体の本義』を作成、全国の学校や公的機関に配布した。国体とは天皇を宗主とする国の体制をいうが、共産主義や無政府主義を否定するだけでなく、民主主義や自由主義、個人主義をも国体にそぐわないものとした。民主とか自由という言葉を発すること自体、特攻警察の取締りの対象となっていく。
 同月:「防空法」が公布され、予測される空爆に対して灯火制限、防毒、消毒、避難、救護などの訓練実施と、これらの監視、通信、警報が定められた。また木造家屋では焼夷弾による火災は防げないとして、学校などは鉄筋コンクリートの建造物が増加していく。
 同月:「奇跡の人」ヘレンケラーが浅間丸にて来日。
 6月:NHKのラジオ聴取者数が300万を突破 。この後の日中戦争でラジオを持つ世帯がますます増えていく。
 7月:7日、中国において中国軍と日本の支那駐屯軍が衝突した盧溝橋事件が発生。政府は盧溝橋事件を受けて臨時閣議を開き、事件の不拡大方針を決定するが、その一方で政府は戦闘拡大に備えて中国へ向けて増派を決定、12日には全国に召集令状を発し、上海派遣軍を組織した。
 同月:これを機に政府は報道統制を強め、軍隊の行動を含め、写真や記事などは検閲され、写真掲載の際は「陸軍省許可済」の証が必要となった。
 同月:浅草に東洋一の国際劇場が開場する。定員は3993名で、こけら落としは松竹少女歌劇団(SKD)の『東京踊り』であった。
 同月:政府は映画の出だしに『挙国一致』『銃後を護れ』などのスローガンを入れることを義務付ける。その後『贅沢は敵だ!』『進め一億火の玉だ』『欲しがりません勝つまでは』などの標語も生まれた。
 同月:海軍飛行予科練習生に甲種として16歳からの短期修行期間の別枠を設け、募集すると応募が殺到、第一期の採用は250名、その後ほぼ年に2回募集する。なおこの予科練出身者2万4000人のうち、8年後の敗戦まで、1万9000人が戦死した。またそのうち特攻隊として出撃した練習生も多く、死者数は2600人にのぼる。
 8月13日:海軍により第二次上海事変が起こり日中戦争(支那事変)に突入、そしてそのまま8年間、つまり昭和20年(1945)の日本の敗戦まで続く。政府はこの戦争をきっかけに「国民精神総動員要綱」を決定、その運動を推進する団体の設立を各道府県と市町村に指示した。
 9月:後楽園球場が開場する。
 同月:国際連盟が、日本の中国都市爆撃に対する非難決議を採択する(海軍の飛行隊は上海事変と同時に、中国の都市への空爆を連日行っていた)。
 10月:国民歌唱のラジオ放送が開始される。第1回は「海ゆかば」となる。
 同月:宝塚少女歌劇のレビューは『皇国のために』という軍歌調となった。これ以降、『南京爆撃隊』や『軍国女学生』などが演目となるが、宝塚の観客動員数は激減する。
 同月:商工省は物資統制となる『臨時輸出入許可規則』を公布。これによって綿花、化粧品、オレンジなどの果物、紅茶などをぜいたく品として輸入禁止にした。
 同月:日本橋高島屋で愛国国民服展覧会が開かれた。ここから国民服が普及していく。
 同月:愛知県は県下三十余校の女学校に愛国子女団を結成し、軍事教練を実施すると決定。この動きは全国に波及する。
 11月:イタリアローマにて『日独伊三国防共協定』の調印が行われる。
 同月:日独伊防共協定成立祝賀記念国民大会が5万5000人を集めて後楽園球場で行われた。
 同月:日本赤十字本社は全国33の病院の中、17病院を日中戦争傷病者収容にあて、一般の入院を中止する。
 12月:武蔵村山市に少年飛行兵用の東京陸軍航空学校を開校し、募集を年二回とする。年齢は満年齢で15歳以上17歳未満であった。
 同月13日:日本軍の南京占領を受け、東京では南京陥落祝賀の提灯行列が行われた。翌日、全国でも南京陥落の祝賀提灯行列が行われる。(いわゆる南京事件はこの後一週間の出来事である。ただし日中戦争は8年間続き、暴虐事件は数知れず起きている)

昭和13年(1938)

 1月16日:近衛内閣は「帝国政府は爾後(蒋介石)国民政府を対手とせず」との声明を発表した。これは国民政府以外の親日を掲げる地方政権だけを相手にするということで、これにより対中国関係は混迷の度を増し、日中戦争は泥沼にはまっていく。
 1月:満蒙開拓青少年義勇軍募集。政府は日本各地の農村貧困層を中心に満蒙開拓団を送り込んだ。二年前、政府は満州農業移民百万戸移住計画を作成したが、多くの壮青年層が徴兵されて計画通りに進んでいず、満蒙開拓青少年義勇軍を募集することになった。年齢層は当時の高等小学校卒業程度の14、15歳から18歳までの青少年を対象とし、当局から各都道府県を通じて各学校への割り当て数が決められた。それに応じて各高等小学校の担当教師が卒業生に自発的に応募するように働きかけ、選抜された青少年は茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所で3か月の学習、武道及び体育と農作業の基礎訓練を受けた後に、満州国の現地訓練所にて3ヵ年の訓練を経て、義勇隊開拓団として入植することになる。この昭和13年から20年(1938-1945)の敗戦までの8カ年の間に8万6千人の青少年が送りだされた。これは満州開拓民送出事業総体の人員の3割を占めたが、必然的に満州を統治する日本の関東軍の下働きも多く、そして終戦直前にソ連(ロシア)の侵攻もあって彼らは満州で悲惨な体験をすることになる。
 同月:東京市バスに、不足するガソリンに代わる燃料として木炭自動車が初登場し、順次全国に広がっていく。
 2月:警視庁は東京市内の銀座、新宿、浅草などの盛り場でサボ学生(遊んでいる学生)狩りを実施し、3日間で3486人を検挙した。改悛誓約書を提出し、宮城(皇居)遥拝ののち釈放された。
 同月:従軍作家として南京攻略に派遣され、見たとおりを書いた石川達三著の「生きている兵隊」を掲載した「中央公論」が発禁となった。内容に戦争の残虐さが描写されているからということ。
 4月:近衛内閣で国家総動員法公布。これにより政府はあらゆる方面で戦時統制を強化する。
 同月:「支那事変特別税」及び「臨時租税措置法」が公布される。
 同月:1月に募集した満蒙開拓青少年義勇軍5000人の第一次壮行会が挙行され、翌月にはその少年たちは満州の地を踏む。
 同月:(早くも)燈火管制規則が実施される。(筆者注:すでに日本軍自身が中国で夜間空襲を行っていたから、それに対応するものであったろう)
 5月:国家総動員法を朝鮮、台湾及樺太にも適用、施行する。
 同月: ガソリンが切符制となる。
 同月: 満州移住教育協会は、全国から2400人の大陸の花嫁を募集する。
 6月:世界最大級のタンカー「日章丸」が進水式を行う。総トン数10500で、出光商会と大同海運が共同出資の上、当時の造船技術としては最高水準の船舶。昭和17年(1942)には海軍に徴用され、19年(1944)2月にダバオ諸島沖で魚雷によって沈没した。(注:日章丸は戦後に復活し、中東からの石油輸入の先駆けとなる)
 同月:貨物船「金華丸」がニューヨーク—横浜間の太平洋横断を10日12時間29分の新記録で帰港した。後に太平洋戦争の輸送船として使用され、昭和19年(1944)にマニラ湾にて米軍機の攻撃で沈没する。
 同月:東京市の人口調査で、昭和10年(1935)の東京人口は約585万人であった。
 同月:支那事変(日中戦争)による物資不足から「物資総動員計画」が打ち出され、使用制限33品目(重油、金属類、布、紙、皮、木材、生ゴムなど)が発表されるが、その後も規制が強まる。
 7月:両国の花火大会が、時局を鑑み中止となる。
 同月:日中戦争に対する世界的な非難の中、英国IOC委員は「戦争が継続する限り東京に選手は送れない」と発言するなどあり、その一方で戦費がかさみ、物資制限がされる中、駒沢に建設予定だったオリンピックのメインスタジアムの高額な建設費用も軍艦一隻に回したほうがよいと、昭和15年(1940)のオリンピックの開催返上が決められた。同時開催の万国博覧会も中止された。
 同月:内閣情報部が武漢攻略に当たって従軍作家を組織し「ペン部隊」として従軍することになった。菊地寛が中心になって人選したが、陸軍班=久米正雄、尾崎士郎、片岡鉄兵、岸田国士、瀧井孝作、丹羽文雄、川口松太郎、中谷孝雄、林芙美子ら、海軍班=菊地寛、小島政二郎、佐藤春夫、杉山平助、吉川英治、白井喬二、吉屋信子等という戦後にも名を残す錚々たるメンバーで、9月に出発して中国の前線に行き、従軍記などを発表する。さらに少し遅れて佐藤惣之助、西條八十、古関裕而らの従軍詩曲部隊が出発し、軍歌作成の材料とした。彼らは無理やり行かされたわけではなく、むしろ大いに興味を持って勇躍参加した。
 8月から11月にかけてヒトラーユーゲント(ヒトラー青年団)が訪日した。滞在中は、明治神宮及び靖国神社を参拝した他、東京陸軍幼年学校も訪問、また朝日新聞社の依頼により、北原白秋作詞、高階哲夫作曲、藤原義江歌唱による歓迎歌『萬歳ヒットラー・ユウゲント』が作られ、ヒトラーユーゲントは日本国民を挙げての大歓迎を受けた。同時期に日本からは各地の学生、青少年団体職員、若手公務員から成る「大日本連合青年団」の訪独団がドイツに派遣され、ナチス党大会を参観、ヒトラーと会見して同盟国のドイツの見聞を広めた。
 9月:紙不足のため、新聞雑誌のページ制限が行われる。
 10月:満洲国赤十字社が設立される。
 同月:少年少女雑誌に「児童読物改ニ関スル指示要綱」が通達され、国策に沿った規制がされてゆき、それらの雑誌は軍事色が強くなって娯楽性が失われ、廃刊誌も出てくる。
 同月:宝塚少女歌劇46名が、日独伊親善芸術使節団としてドイツとイタリアに向けて神戸港から出発する。
 11月:内閣情報委員会が、東亜新秩序建設という長期的課題に処するために精神総動員を強化する計画を提出。

昭和14年(1939)

 2月:臨時閣議で「国民精神総動員強化方策」を決定、金属回収などの強化を行う。「敵機を受けるか、鋼鉄出すか」という標語のもと、ポスト、ベンチ、広告塔、電灯、マンホール蓋、灰皿、火鉢、痰壷、柵、茶箱、履板(建設機械などの部品の一つ)、鉄製看板、表示塔、ガス燈など15品目が指定され回収される。また「金製品回収・強制買い上げ」が実施される。役所や職場、町内では隣組制度、その他愛国婦人会や女子青年団の手で実施された。
 3月:この頃から演劇に対する取締が多くなり、歌舞伎座やオペラ館、新派でも上演禁止が相次ぐ。4月には「映画法」が公布され、10月1日に施行、ナチスドイツの映画検閲法を模倣したもので、娯楽映画を禁じ、国策に沿ったものを製作しなくてはならなくなる。
 3-4月:文部省は大学でも軍事教練を必修とすると通達。また大学予科、高校の教科書許可制を強化、24冊を却下。さらに教学局は大学生や専門学校生に興亜青年勤労報国隊(北支および蒙彊満洲への派遣隊)へ参加するように通達し、各学校は7-8月の間に交代で満州や中国東北地区に派遣することになった。一般の青年隊も含むが、翌年からは満州建設勤労奉仕隊に統一された。これは前年の満蒙開拓青少年義勇軍募集に続くものであるが、先行の一般開拓団の労働力不足を補うものでもあった。一般の青年隊は一年とされ、学生や女子青年団員は短期で、内容は農耕特に除草開墾作業、建設作業(飛行場整備国防道路の建設作業等)、技術奉仕作業、特務奉仕作業として医科学生を開拓地及勤労奉仕地において医療並に保健衛生指導に勤労奉仕、また獣医斑も開拓地の役畜の医療並に保健指導に勤労奉仕する等があった。その趣旨は例によって「東亜新秩序の建設は青年の指針となる奉公の精神と大陸に対する深き認識とに侠つこと大なるもあるに鑑み」ともっともらしいもので、このやり方が戦争終盤になって学生・女学生たちを通年勤労動員させるにあたり「勤労即教育」という欺瞞的な言葉を打ち出すまでになる。
 4月1日:三菱重工名古屋飛行機製作所が堀越二郎設計の戦闘機(ゼロ戦こと零式艦上戦闘機)の初の試験飛行をする。その性能は最高速度533km、航続3500kmという当時の世界中の航空機の中でも群を抜く性能であった。実際に投入されるのは翌年夏以降で、日中戦争においてである。
 5月:警視庁が、事変が起こると自殺者が激減するという統計を発表。つまり戦争は精神的鍛錬にも有用であるということである。(しかし自殺者よりはるかに多い戦死者をどう考えるのか)
 6月7日:明治神宮外苑競技場で満蒙開拓青少年義勇軍(前年既述)2500人の二度目の壮行会・大行進が挙行される。
 6月:文部省は男子学生に対し、緊褌(ふんどしを締める)一番、長髪禁止、禁酒禁煙を、女子学生には口紅、白粉、頬紅、パーマネントの禁止を通達する。
 7月、文部省は中等学校以上の生徒学生を勤労奉仕させることを正課の授業の一環として組み込んだ。
 同月:徴兵年齢前の15-18歳の若者に対して、陸軍少年兵(戦車兵)が募集され、応募者が殺到、一期生は150名募集のところに8229名の応募があった。当然多くの親は志願に反対したが、それでも押し切って志願する少年たちは多かった。その後延べ4000余名の少年兵のうち600名余が戦死した。戦車特攻として戦死した少年もいる。
 同月:米国は日本の中国侵攻作戦の拡大に対し、日米通商航海条約の破棄を通告、半年後に発効した。
 7月1日:政府は国民の持っている金の強制申告制度を設け、指輪、首飾り、カフス、ネクタイピンなど装飾品から、時計、眼鏡、杯、スプーン、ライターなどありとあらゆる金製品を申告させることとした。
 7月8日:国家総動員法による「国民徴用令」が公布・施行される。兵役の召集令状は「赤紙」だったのに対し、徴用令書は白色で「しろがみ」の召集令状と呼ばれた。この白紙一枚で国民を軍需工場などに動員することができるようになった。徴用はこの年850人、翌年5万人、16年25万人、17年31万人と飛躍的に伸び、中国各地の建設現場にも送られた。
 8月:厚生省が主催する「国民心身鍛錬運動」が20日までの日程で行われた。
 同月:飛行機「ニッポン号」が世界一周の為羽田空港を飛び立つ。これは毎日新聞が企画し、前年の朝日新聞による神風号の東京−ロンドン飛行に対抗するもので、延べ飛行距離5万2860km、実飛行194時間で周航し10月20日に帰還した。
 9月:ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦勃発。
 同月:興亜奉公日設定。国民精神総動員運動の一環としてこの14年9月から、毎月1日を興亜奉公日とし、国旗掲揚・宮城遥拝・神社参拝・勤労奉仕などが行われた。
 同月:厚生省が「結婚十訓」を発表、「産めよ殖やせよ国のため」の標語を掲げる。次々と戦死者が増えて、将来的な戦争も見据えてのことである。
 10月:石油配給制実施/物価・運賃・賃金を凍結し物価統制を実施。
 11月:陸軍予科士官学校採用で2000人が発表される。競争率は過去最高の12倍であった。
 同月:「白米禁止令」が公布される。
 12月:植民地朝鮮人の氏名を日本式に創氏改名することを強制法令化した。
 同月:15年度の予算概算が決定され、総額は103億6千万円、そのうち軍事費66億円で64%となった。
 12月22日:近衛首相は日中戦争の解決を目指す近衛三原則を発表、3つの方針「善隣友好、共同防共、経済提携」が示されたが、中国各地に侵攻作戦を続けている中で、ほとんど意味のないものであった。

*この年には「遂げよ聖戦 興せよ東亜」/「聖戦だ 己殺して国生かせ」のスローガンが街角に出される。

昭和15年(1940)

 1月:調理用及び医療用以外の暖房電熱器、家庭用電気冷蔵庫、電気風呂などの電気器具の使用が禁止される。  
 同月:後楽園球場が炭焼き場に、甲子園球場が木炭倉庫になる。
 2月:戦時体制下による挙国一致内閣の中で、立憲民政党の斉藤隆夫代議士は衆議院で「反軍演説」(支那事変処理に関する質問演説)を行った。しかしこの演説の内容が戦争遂行を阻害する言動として、斉藤は議員除名処分とされた。これに弾みがついて、3月、衆議院では「聖戦貫徹決議案」が可決された。(「反軍演説」については後述と「各種テーマ別の記録・証言」参照)
 筆者注:聖戦という言葉は日中戦争に突入した頃から使われているが、天皇のご威光を他の国々にも行き渡らせるための戦争であるという意味づけがあった。そして一度掲げられた「聖戦」という言葉の観念に呪縛され、議論の余地なしとして異論を排除していく姿というのは、それが破滅への道であっても、行くところまで行くしかないという当時日本が置かれていた時代状況を表している。
 3月:日本は制圧した中国南京に対華工作として蔣介石の重慶政権に対抗するものとして、南京政府を樹立させる。
 4月:政府は米、みそ、醤油、塩、マッチ、木炭、砂糖などの日用品切符制を決定、6大都市で実施。
 同月:陸軍の少年飛行兵の制度が改めて作られ、相応の教育期間を経れば下士官候補になることができるとした。この年、各地に陸軍飛行学校が増設されて一挙に10倍もの採用者を増やすが、応募者もそれ以上あった。この出身者が陸軍飛行隊の中核となっていく。
 5月:修学旅行が禁止されるが、学校によっては修練旅行などの名前に変えて行われる場合があった。
 7月:「ぜいたく禁止令」(奢侈品等製造販売制限規則)が発令。西陣織などの豪華な着物地や羽織地や、首飾りや耳飾り、ダイヤやルビー、金銀品や象牙製品の製造が禁止される。高級果物などもぜいたく品とされた。続いて「贅沢は敵だ!」の立て看板が東京の各地に出され、ぜいたく監視隊なども登場する。
 7月:政府は大東亜共栄圏構想(日本を盟主とするアジアの経済圏建設)を打ち出した。この裏には日本軍の暴走に対して欧米諸国からの経済制裁が始まったことがあり、実質はその資源を中国と東南アジアに求め、供給地域にするという対応策としてであった。 また基本国策要綱で「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国(建国)の大精神」と唱えた。これはかつて神武天皇が八紘を統一して日本の国をつくったという神話にちなんだ言葉で、中国(満州や蒙古も含む)や東南アジアをも八紘の範囲に組み込んで一つの宇(家)とするという構想であった。そうして「聖戦」「大東亜共栄圏」「八紘一宇」という一連の理念的な言葉が、軍政府自身と国民の思考力・判断力を奪っていき、文化人たちが一致協力して作った軍歌もその結果である。(筆者の「日本の軍歌とその時代背景」参照)
 8月:中高生男女に夏休みに勤労奉仕が義務付けられた。
 9月:講談落語協会の艶笑、博徒、毒婦、白波物(盗賊を主人公とした一連の世話物の通称)が公演禁止となる。
 同月:敵性語追放の流れで、野球などのスポーツにも英語の使用禁止が適用され、ストライク→よし、ボール→だめ、アウト→ひけ、セーフ→よし、などとされた。当時日本で活躍していたスタルヒン投手は須田博と改名された。また戦時下に合わせて野球の監督を「教士」、選手を「戦士」とした。他に音楽のドレミファソラシドは、ハニホヘトイロハとされた。
 同月:宝塚の雑誌『歌劇』が「不要不急」雑誌として217号をもって廃刊。宝塚唱舞奉仕隊が結成され、宝塚移動音楽慰問隊として慰問活動に動員される。
 同月、日独伊三国同盟が締結される。この同盟が米英の心象をさらに悪くし、30日、米国は鉄鋼・屑鉄の対日輸出を禁止する法令を発布。
 10月、国会内に与野党が大団結した「大政翼賛会」が結成され、与野党の政党が消失する。これにより戦争に対する異論(反対論)が完全に封じられてしまった。翼賛会は地方の組織と産業界や青年団も巻き込み、町内では隣組という制度が形成され、10軒程度を一組とし、戦時下の住民動員や、統制物の配給、空襲を想定して防空活動などを行う傍ら、住民同士の思想統制や相互監視の役目も担った。
 同月:東京でダンスホール完全閉鎖。
 11月10日:この年は日本書紀の神話にある神武天皇が即位してから2600年と銘打ち、日本全国でその奉祝行事がなされた。宮城前広場では昭和天皇・皇后出席のもとに約5万人が集まり2600年奉祝式典が行われた。一連の行事終了後に一斉に貼られた大政翼賛会のポスターは「祝い終つた さあ働こう!」であり、これを境に政府は再び引き締めに転じ、戦時下の国民生活はますます厳しさを増していく。なおこの奉祝行事は植民地台湾や朝鮮、満州でも行われている。この年にはこの2600年にこそ格好の国威発揚の場として東京オリンピックを招致、万国博覧会も予定されていたが、日中戦争に対する国際的な非難と戦争による物資不足を理由に、日本はその「平和の祭典」の開催を返上した。ちなみにこの戦争の結果、日本は戦後すぐにはオリンピックには参加できず、参加できたのは7年後の昭和27年(1952)であった。
 付記:このころは食糧も軍隊優先で、巷では食糧不足が深刻になり、農村の増産体制が敷かれるが、一方で男手を戦地に送っているから、その代わりに学生や中学生以上を農村に駆り出すことになった。またその影響で満州に主に貧しい農村から集団移住が始まっていて、この年満州への移住者が約86万人に上った。
 付記2:日中戦争開戦以降、中国の戦闘で多くの戦死者が出ていて、徴兵が強化されていたが、この頃に無神経きわまるスローガンが採用されている —— 「笑顔で受け取る 召集令」/「りっぱな戦死と えがおの老母」そして「初湯(うぶゆ)から御楯(みたて)と願う国の母」(御楯=天皇の盾となる皇軍兵士)とは、子を国に捧げるつもりで産めということである。(人はなんのために子を産むのか)

昭和16年(1941)

 1月:食糧不足に備えて国鉄の線路脇では食糧増産の為にトウモロコシが栽培され、東京市内の公園には麦やキャベツなどが植えられ、日比谷公園も農園化され、目黒競馬場も広大な芋畑となる。
 同月:大日本青少年団結成(大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会の4つを統合)。その主旨は「皇国の道に則って確固不抜の国民的性格を錬成し、戦争遂行の国策に協力することを目的」とした。
 2月:文部省は「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」において、この運動を「国策に協カせしむる実践的教育」であるとし「一年を通じ三十日以内の日数は授業を廃し」て作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認めるとした。
 同月:一般車のガソリン使用が禁止された。
 3月:治安維持法が全面改正され、市民運動など全ての活動は禁止、言論出版への検閲も厳しくなり、とりわけ新聞は軍政府の御用新聞となっていく。集会の準備行為や宣伝も処罰対象となり、特別高等警察(特高)による監視と弾圧を強化される。
 同月:国民学校令が公布され、尋常小学校が国民学校となって「皇国の道に則って初等普通教育を施し国民の基礎的錬成を為すことを目的」とする。これに伴い、日本は植民地である朝鮮にも国民学校規定を公布し、朝鮮語の学習を禁止した。
 同月:戦中において最後の全国選抜中等学校(現・高等学校)野球大会が開催。
 4月:中等学校の新入学生の制服も男子は国民服に戦闘帽となる。女子の場合は国防目的として高学年の体練科に弓道や薙刀(なぎなた)が導入される。
 5月:酒類も切符制となる。
 8月:文部省は「学校報国団体制確立方」を訓令、これは従来の生徒会や校友会などにかわって「学校報国隊」を結成せよというもので、それにより各クラスが小隊、一学年が中隊、数学年が大隊として編成された。特に大学生の報国隊を満洲、北支(中国北部)、蒙疆(もうきょう:内モンゴルのうち旧察哈爾省・綏遠省一帯を指す)各地に交代で派遣した。
 同月:情報局が軍需に必要なフィルムは民間に回せないとして映画を国家管理するとし、これによって10社あった映画会社が3社となり、映画制作数もこれまで30本ほどあったものが3社で6本に制限された。
 同月:衣料品から木炭や食用油、みそ醤油などの家庭用品までさまざまなものが配給制度となる。
 9月1日:武器生産に必要な金属資源の不足を補うため、国家総動員法に基づいて「金属回収令」が公布される。職場や家庭から不要な金属製品は供出せよというものであった。
 9月:新たに定められた9月20日の「航空の日」にちなんで、宝塚歌劇のレビューで『大空の母』が公開される。空を守るために出征する夫や子供を送り出す母を描いたもので、これ以外にも『進め軍艦旗』『海の日本』などが宝塚で歌われる。
 10月:大学や専門学校などの修業期間を3ヶ月繰上げて卒業することが発表される。これは長引く戦局の中、兵員不足を補う目的で、徴兵猶予のある学生たちを早めに戦場に送るためのものであった。翌昭和17年(1942)には半年の繰り上げとなり、さらに18年は学生の徴兵猶予が解除され、さらに徴兵年齢が20歳に下げられる。
 同月:臨時郵便取締令を公布し、外国郵便を開封検閲することになった。
 11月:国民勤労報国協力令を公布し、14-40歳の男子と14-25歳の未婚女子の年30日以内の勤労奉仕を義務化。
 12月8日:米英蘭に宣戦布告、海軍はアメリカハワイの真珠湾を奇襲攻撃、同日、陸軍はイギリス領香港やマレー半島に攻め込んだ。開戦と同時に防空対策上から天候が機密扱いとなり、新聞やラジオでの天気予報が禁止となる。
 12月:米英映画の上映が中止され、昭和2年(1937)から友好の目的でアメリカから送られてきた青い眼の人形も、各地の小学校で焼かれたりした。
 同月:世界最大級の戦艦大和が竣工する。

昭和17年(1942)

 この年、官斡旋で朝鮮人労働者の日本本土への送り出しが始まる。次々と徴兵されて国内に男手が足りなくなったからである。

 1月2日:それまでの興亜奉公日を廃止し、毎月8日(太平洋戦争=大東亜戦争開戦の日)を大詔奉戴日とすることになり、学校や職場で詔書奉読式、必勝祈願、各戸の国旗掲揚、職域奉公が義務づけられた。
 1月16日、戦争完遂目的で大増税が行われた。
 2月15日:英国の占領地シンガポールが陥落し、日本では祝勝記念として各地で提灯行列が催された。特配として砂糖や小豆、清酒が家庭や市民に配られるケースもあった。この後もしばらく日本軍の躍進が続くが、当時米英軍などはドイツ軍との戦闘に比重をおいていたこともあった。
 同月:愛国婦人会、国防婦人会、連合婦人会が大日本婦人会に統合発足。衣料品の点数切符制が実施された。
 4月18日:太平洋上の米空母艦から、B25爆撃機16機が東京、名古屋、神戸などを初空襲。東京では荒川区や葛飾、品川、渋谷などが被害を受けた。国内の死者87人、重軽傷460名(ドーリットル空襲)。これに対し新聞は『バケツ、火叩きの殊勲、我家まもる女子、街々に健気な隣組』『初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散。”必消”の民防空に凱歌』等と報じた。
 4-5月:総選挙が行われ、大政翼賛会所属議員が圧勝(翼賛選挙と言われる)
 5月:企業整備令が公布され、軍需物資の不足から、重要産業に人と資源を集中させるべく、不要不急の中小企業を廃業させて軍需工場の工員にさせた。
 同月:金属の強制回収が決まる。
 同月:日本文芸家協会が解散し、日本文学報国会が結成される。国会の大政翼賛会の文芸家版である。
 同月:文部省は各学校の報国団に並行して報国隊を組織させ、学生・生徒の勤労動員体制を作る。
 6月:日本のプロテスタント系のホーリネス教会の聖職者96名が逮捕。(ホーリネス弾圧事件)翌年も逮捕者が出た。
 7月:朝日新聞社がこの年の全国中等学校野球大会(現:全国高校野球選手権大会)の中止を発表。すでに各地で予選も始まり、甲子園の指定席券の前売りもされていたところに、文部省は「新体制」(9月に「大日本学徒体育振興会」が発足)で総力大会を開催するとして、主催の朝日新聞社に通告した。朝日新聞は主催権は譲るとして、大会回数と優勝旗の継承を望んだが拒否された。この後再開されたのは敗戦の翌年からである。
 8月:上記の大会中止の代わりに、文部省主催による全国中等学校野球大会が出場校を絞って甲子園球場で開幕。軍人が進行の大半を担っていたため、スコアボードには「勝って兜の緒を締めよ  戦い抜こう大東亜戦」という軍事スローガンが掲げられ、試合開催時サイレンは鳴らされず、進軍ラッパが代用された。
 9月:海軍特別年少兵 (特年兵)が募集される。これは高等小学校(小学校の上の任意の二年制の学校で中学校とは別)卒業程度の14歳から16歳までの少年を特に対象とするもので、その結果下げられた徴兵年齢19歳にも達しない15-17歳の少年たちの多くが戦死した。
 9月:在日宣教師(特に米英人)を抑留所に強制収容する。
 10月:召集対象に新たに「防衛召集」が新設された。空襲などの際の国土防衛のため、予備役・補充兵役・国民兵役(在郷軍人)を短期間召集することであり、いわゆる赤紙に対して青紙で召集され、これが昭和20年(1945)の本土決戦の準備に効力を持った。
 同月:この月を最後に東京六大学野球が文部省により中止とされる。
 11月:大東亜省開庁。拓務省、興亜院など29局13部を廃止、官吏17万人を削減、そして削減された彼らを戦線へ送った。
 同月:日本文学報国会が「愛国百人一首」を発表。これは新しいものではなく、万葉集時代からの歌をこの時代に即して編集したものである。

*この年のスローガンは「欲しがりません、勝つまでは」/「”足らぬ足らぬ”は工夫が足らぬ」/「働いて 耐えて笑つて 御奉公」などであった。これに対して 、厳しい言論統制が敷かれた戦時下にも庶民は密かに風刺言葉を流す心があった。 例えば「米機英機を葬れ」 のポスターが銀座に掲げられたが、当時の東条英機首相への揶揄として「米機逃して英機に叱られ…」(4月18日の空襲のこと)とか、軍人たちの横暴を引っかけて「乱暴、無謀、参謀」、「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」(軍人勅喩)を「軍人は要領を本分すべし」と言い換えたり、「徴用は懲用だ」、「皇軍は蝗(いなご)軍」等あった。(主に静岡県立大学教授 前坂俊之監修『保存版傑作国策標語大全』より)

昭和18年(1943)

 1月:内務省情報局は英米曲約1000種のレコードの発売と演奏を禁止。
 2月:陸軍省は「撃ちてし止まむ」の標語ポスター5万枚を配布。
 3月:大日本言論報国会創立。「日本世界観の確立と国内思想戦の遂行」のため国粋思想を宣伝する。
 同月:兵役法が一部改正され、植民地朝鮮にも徴兵制を敷き、8月から施行される。つまり彼らを日本兵として徴兵した。
 同月:東京と大阪の過密地帯で、空襲時の延焼防止のため空地帯を指定、その地域の住宅などが強制的に撤去されることになる(建物疎開)。この建物解体作業は町内の防火隊や、中高大学生の勤労隊が行うことになる。
 3月28日:米国で日系人の大学生志願兵部隊が第442連隊戦闘部隊に入隊、その442部隊志願兵1686名の壮行会をホノルル商工会議所が開いた。彼らは欧州戦線に向かい、ドイツ軍と勇敢に戦うことになる。
 4月:中等学校の5年の修業年限を1年短縮し4年制となる。戦時体制強化のためである。
 同月:銀座の街路灯が、金属回収で撤去される。
 同月:文化学院校長の西村伊作が自由主義思想による不敬罪で検挙、続いて8月、文化学院は強制閉鎖となる。
 同月:東京六大学野球連盟解散。
 5月:陸軍少年兵の志願年齢、14歳に引き下げる。
 同月:前年の朝鮮人労働者に続き、中国人(主に満州)労働者の日本への強制連行開始。
 5月27日:キリスト教社会運動家賀川豊彦が神戸市における伝道集会の講演が反戦思想、社会主義思想として神戸の警察署で取調べられ、また11月にも反戦的行為があったとして東京憲兵隊本部の取調べをうけた。
 6月:政府は「食糧増産応急対策要綱」を決定。休閑地の徹底利用で雑穀類の増産などを掲げる。東京・昭和通りの植樹帯が菜園に、神奈川県の各ゴルフ場も農園に変わる。
 同月:工業就業時間制限令廃止。婦人や年少労働者の労働時間制限を撤廃し、坑内労働禁止を解除。
 6月8日:日本海軍の戦艦「陸奥」が、瀬戸内海岩国市の柱島泊地で原因不明の火薬爆発で爆沈し、乗員 1121人中771人が死亡した。生存者350人は大本営にこの事故を一切口外しないとの血判誓約書を書かされた上、南洋の戦地に送られ、その多くが戦死した。
 6月25日:政府は「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定。学校報国隊を強化し、勤労動員命令により、学徒は一定期間学業を休止して軍需生産に従事することを規定した(これにより敗戦まで約300万人の学徒を動員)。さらに本土防衛のため軍事訓練・防空訓練を図り、女子は救護訓練を行う。
 7月:国民徴用令改正公布。軍需に必要な技術者を政府が重要産業と指定する仕事に徴用するためで、昭和18年(1943)度中に約70万人が徴用される。
 8月:甲子園球場で金属回収のために鉄傘の解体工事開始 。
 9月:閣議で、国内必勝勤労対策を決定、14歳から25歳の未婚女子を勤労挺身隊に動員する。
 10月2日:学生・生徒の徴兵猶予を停止、また卒業が半年繰り上げされ、一部の学生は9月に卒業式を終えた。
 10月12日:「教育に関する戦時非常措置方策」が閣議決定され、理工科系と教員養成系以外の文科系および専門学校については徴兵猶予を停止、20歳以上の学生は在学のままでも徴兵されることになる。さらに文科系大学の理科系への転換を促し、年間3分の1の勤労働員を義務付ける。また女子専門学校の教育内容については男子の職場に代わるべき職業教育を施すために必要な改正を行う。これらは「施策の目標を悠久なる国運の発展を考えつつ、当面の戦争遂行力の増強を図ることのみに集中するものとする」とある。
 10月16日:戸塚球場で、慶大と早大の野球部が出陣学徒壮行試合を開催(戦中における最後の早慶戦:慶應大学参照)。
 10月21日:12日の「戦時非常措置方策」により、学徒兵入隊を前にしたこの日、文部省学校報国団本部の主催で明治神宮外苑陸上競技場で出陣学徒壮行会が開催された。東條英機首相らの出席のもと関東地方の入隊学生が行進を行い、雨の中、観客席では女学生らが見守った。この壮行会は、各地方でも開かれた。
 10月31日:後楽園球場で金属製取付椅子1万8千個を供出。
 10月:日本統治の朝鮮において学徒志願兵制度を実施。
 11月1日:兵役法改正公布、国民兵役を45歳まで延長。
これは住宅密集地や主要工場に対して空襲による災害の拡大を防ぐ目的で立案、実施された。まずは防火帯造成事業で空地帯を作り
 11月13日:建物疎開(空襲に備えて密集地の延焼を防ぐため、その地帯の建物を解体し、空き地を作る措置)として、東京都は帝都重要地帯疎開計画を発表。防火地帯の設置重要工場付近の建物疎開、駅前広場の造成などを行う。
 11月22日:風船爆弾の打上げ開始。これは気球に爆弾を搭載した爆撃兵器で、偏西風にのせてアメリカ本土まで運び、落下させるというもので、この製作に多くの女学生が関わった。その中のごく一部がアメリカに着地して、不発弾の爆発により6人の犠牲者が出た。
 12月10日:文部省が学童の縁故疎開促進を発表する。都市への空襲を予想して、地方に縁故のある学童を疎開させるように奨励した。
 12月24日:徴兵適齢臨時特例が公布施行され、徴兵の適齢が1年下げられて19歳となる。つまり10月に20歳で出征した若者に続いて、すぐに19歳の学徒が応召されることになった。

昭和19年(1944)

 この年、「神州(天皇の在する国)不滅」/「最後には神風が吹いて日本は必ず勝つ」などのスローガンが流され、小中学生たちはそのまま信じた。他に「鬼畜米英をうて」/「本土決戦」/「一億玉砕」のような言葉もあり、政府は国民への覚悟を迫った。「アメリカ人をぶち殺せ!」と婦人雑誌にも載った。

 1月:第一次建物疎開が決まり、指定密集地の住宅の強制取壊しが始まる。
 同月11日:直接税大増税案(税率50%引き上げ)を閣議で決定。2月16日、物品税も増税。
 2月:「決戦非常措置要綱」決定。空襲対策、学徒勤労動員の強化、旅行の制限、高級娯楽の停止(待合、カフェー、遊郭、劇場などの休業)、官庁の休日削減などが実施された。
 同月:首相の東条英機は、陸軍大臣、参謀総長の三職を兼任した。これには反発もあったが、前首相の近衛文麿は「せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になっているのだから、彼に全責任を負わしめる方がよいと思う」と語ったという。(筆者私見:これはこの前首相の思考力というものが、国民を戦争に巻き込んだ責任というものにまったく及んでいないということを表している。またこれが日本の集団指導体制の無責任さでもある)
 同月:東京都はビアホール・百貨店・喫茶店などを利用して雑炊食堂を開設、大人気となる。
 2月23日:毎日新聞が「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た」とし「竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」と東条首相の政策を真っ向から批判した。これに東条は激怒し、記事を書いた記者は懲罰として戦地に徴兵された。
 2月25日:文部省は食糧増産に学徒(中学生から大学生まで)500万人を動員すると決定。
 2月29日:高級劇場(歌舞伎座、東劇、京都南座など)が閉鎖される。個人演奏会も禁止。
 3月3日:国民学校(小学校)で食糧増産のため運動場を畑として使用。栄養状態の悪い児童に学校給食を推進。
 3月6日:紙不足もあって新聞各社、夕刊を廃止する。
 3月:日本海軍の軍令部は、戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定、これにより神風特別攻撃隊、人間魚雷「回天」、人間爆弾「桜花」、特攻艇「震洋」が計画され、のちのフィリピン戦線や沖縄戦で実行される。
 同月:松竹少女歌劇団を解散し、「松竹芸能本部女子挺身隊」に改められ、内外の軍隊への慰問興行に回ることになった。同時に宝塚大劇場と東京宝塚劇場に閉鎖命令、それに伴い「宝塚音楽舞踊学校女子挺身隊」、翌月 「宝塚歌劇団勤労報国隊」を結成。
 3月29日:中学生勤労動員大綱決定。
 同月:徴兵年齢をさらに18歳に下げる。
 同月:プロテスタント系キリスト教会が軍政府に弾圧される。なおカトリック系の日本基督教団は「大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を発表し「聖戦」に協力していき、また仏教界においても多くの仏教者がこの戦争を聖戦として肯定した。
 4月:海軍予科練甲種の受験資格を15歳に下げるが、続けて14歳に下げる。
 同月:日本統治の台湾において学徒動員実施要綱を発表。
 4月22日:日本軍は中国在住の日本人2万人の徴兵を決定。
 5月:文部省、学校工場化実施要綱を発表、これにより女学校の下級生も学校内で勤労動員されることになる。
 同月:日本統治の朝鮮で徴兵制を実施、朝鮮人の徴兵検査開始。翌年まで徴兵制で動員された朝鮮人は21万人となった。  
 6月:政府は学童疎開促進要綱を発表し、8月から学童(小学3-6年生)の地方への集団疎開を推進する。
 6月10日:大日本言論報告会は言論人総決起大会を開催し、ヒットラーに激励電報を送った。
 6月11日:米軍大型爆撃機B29が初めて日本本土(九州八幡)を爆撃。これは中国の成都から出撃したもので死傷者数百名を出した。
 7月:日本軍が占領していたマリアナ諸島のサイパン・テニアン・グアム島が米軍により次々と陥落、米軍はそこを最新鋭大型爆撃機B29の基地として整備、日本本土への爆撃の準備をする。これらの守備隊が玉砕した責任をとって東条英機内閣が総辞職。
 7月11日:これまで対象外であった国民学校高等科、中等学校低学年(いずれも13-14歳)も学徒勤労動員の対象に決定。
 7月20日:陸軍参謀総長は『本土沿岸築城実施要綱』を示し、連合国軍の日本上陸に備え、九十九里浜や鹿島灘、八戸に陣地構築を命じた。
 8月22日:沖縄からの学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦により雷撃沈没、学童の犠牲者1484名。
 同日:改めて女子挺身勤労令が発せられ、それまでの14-25歳から12-40歳までの未婚の女性が挺身隊の対象となった(当時、中学校は義務教育ではなかった)。
 8月23日:「学徒勤労令」公布・施行。この時期から学生・生徒の勤労動員が常態化し「勤労即教育」という戦争に都合の良いスローガンが打ち出された。特に上級生の授業はなくなる。この結果、敗戦時での動員学徒数は340万人を超えたといわれ、その中で空襲等による死亡者は1万966人、傷病者は9789人に及ぶことになる。
 9月:朝鮮において日本への労働力動員のため国民徴用令を適用、これは翌年8月の終戦までの11ヶ月間続けられるが、実際には3月に下関−釜山間の連絡船の運航が困難になるまでの7ヵ月間であった。いわゆる「朝鮮人強制連行」は主としてこの徴用令に基づく内地等への労働力移入を指す。考え方としては国内の学生や女学生の勤労動員、未婚の女性に対する女子挺身隊も「強制労働」の一つであり、どちらにも賃金は支払われているが、特に朝鮮人に対しては敗戦の混乱で支払いが放置されたケースが多々あり、いまだに問題となっている。
 10月、不足する石油の代替として松の根から油を抽出する政策が打ち出され、翌年から本格的に学生・生徒(小学生も含む)や老人を動員し松根掘りが行われた。そして全国的に松林が伐採されたが、多大な労力の割には収率も悪く製品は粗悪であったため実用化には至らなかった。
 10月:海軍第一航空艦隊の志願者24人が神風特別攻撃隊として編成される。前年末に改定された兵役法で大学生の徴兵年齢が下げられ、19歳以上の大学生は戦地へ駆り出され、その多くが特攻隊などでフィリピンや沖縄などの激戦地に送られる。一般の徴兵年齢も下げられて17歳から、上は45歳までとされた。
 10月25日:海軍の「神風特別攻撃隊」がフィリピン沖海戦で米海軍艦艇に初めて突入した。その後特攻隊は沖縄戦まで継続される。
 11月3日:鹿島灘より和紙で作った直径10mの巨大な風船に15キロ爆弾1個と焼夷弾2個を吊して、ジェット気流にまかせてアメリカ本土を爆撃する作戦を展開。これを風船爆弾というが、この製造は主に女学校の生徒の勤労動員などにより作られた。そのいくつかは米国の西側に落下し、負傷者も出た。これにペスト菌やコレラ菌を乗せてばら撒こうという計画もあったという。
 11月24日:米軍は占領したマリアナ基地から111機のB29により、東京近郊(武蔵野市の飛行機工場)から空爆を開始した。
 12月7日:東南海大地震が生じ、最大震度6という揺れと津波によって三重県、愛知県、静岡県を中心に死亡・不明は1223名、負傷者2864人、全半壊家屋5万6千戸、堤防決壊155個所、津波による流失3千戸にのぼったが、軍政府は厳重な報道管制を敷き全く公表しなかった。

昭和20年(1945)

 1月13日:1ヶ月前に発生した東南海地震に続き、三河地震発生。死者1961人、全半壊1万7千戸におよぶが、同様に戦時下による報道管制が敷かれ救援活動もなかった。
 2月4日:この日から11日まで米・英・ソ連の三国首脳(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)がソ連クリミア半島のヤルタ近郊に集い、「ヤルタ会談」が開かれ、すでにドイツを含めた戦後処理についての話し合いがなされ、この中でソ連の対日参戦が認められた。それが実行されるのは、長崎への原爆が投下される直前、満州においてである。
 3月6日:「国民勤労動員令」公布。本土決戦に備えた「国民皆働」「総員勤労配置」の実現を目標とし、文科系の大学および高等専門学校の閉鎖を実施、病人も動員の対象とした。軍需工場と食糧生産への根こそぎ動員である。
 3月:小磯内閣は「 一億玉砕」のスローガンを掲げる。
 3月10日:未明、東京大空襲があり、墨田、江東、台東の下町三区が無数の焼夷弾によって大火災に包まれ、一夜にして10万人近くの死者が出た。この日までに集団疎開の6年生が卒業式と進学準備とし帰京したが、親と再会した喜びの中で一緒に焼死した子もいて、疎開先にいたまま家族を失って孤児になった子供もいた。なおこの大災害で春からは一年生から地方に疎開させた。
 3月12日未明:名古屋大空襲。この日以来何度も爆撃され、死者は約8000人。
 3月13-14日:大阪大空襲。この日以降の爆撃により死者は1万人以上。
 3月17日:神戸大空襲。この日前後での死者は約8500人。
 3月18日:米軍の沖縄攻撃に備えて、人間魚雷回天特攻隊が沖縄に向かい、基地要員120名、輸送艦乗組員225名を載せた第18号輸送艦は、到着を目前にしたこの日の未明、米国潜水艦と遭遇し、粟国島近海で沈没し、ほぼ全員が戦死した。この後も沖縄戦で各隊が進撃したが戦果なく、被害の方が大きい。
 3月23日:「国民義勇隊」創設、本土決戦に向けた国民の組織化・民間防衛が目的。
 3月26日:米軍が沖縄に上陸。本土決戦の前哨戦となる。
 3月27日:米軍は日本軍の海上輸送ルートを遮断すべく「飢餓作戦」を計画。日本の近海に機雷をばらまくもので、B29爆撃機により日本海や関門海峡周辺、瀬戸内海への機雷投下が開始され、のべ246機により総計2030個の機雷が敷設された。これにより、戦後に至るまで多数の輸送船が機雷に触れて沈没、戦後も数年にわたり沈没事故が続いた。
 3月28日:「軍事特別措置法」制定。本土決戦に備えて、私有財産も含め、国民の一切の権利を制限するとした。
 4月7日:沖縄戦に向かう戦艦大和が米軍機の波状攻撃により鹿児島坊ノ岬沖で沈没。死者3063名、生存者269名。
 4月8日:大本営は『決号作戦準備要綱』を示達し、連合軍上陸の際には各方面軍が独立して最期まで戦闘にあたること、部隊の後退を認めない旨を各部隊に通達し、一億玉砕の精神を促す。
 4月13日:城北大空襲。
 5月24・25日:城南大空襲と山の手大空襲。これで東京の主要な街はほぼ壊滅した。
 6月:大政翼賛会・大日本翼賛壮年団・大日本婦人会などを国民義勇隊に吸収・統合。
 6月19-20日:福岡大空襲。1000人以上が死亡。
 6月23日:沖縄戦が激戦の末、多大な犠牲者を出して終結。死者は沖縄住民9万4000人(当時の沖縄県民の4人に1人)、日本軍約9万4136人(うち沖縄県の現地召集者2万8228人)、米軍1万2520人、負傷者は7万人以上とされている。
 同日:政府は義勇兵役法(新たな兵役義務を課す)を公布、即日施行。続いて「国民義勇戦闘隊」が編成され、15歳-60歳の男子および17歳-40歳以下の女子に義勇兵役を課し「真に一億国民を挙げて光栄ある天皇親率の軍隊に編入」するとした。
 6月30日:秋田県花岡鉱山で強制労働中の中国人986人が一斉蜂起、逃亡した。事件後の拷問も含め、中国人労働者のうち、昭和20年(1945)12月までに400人以上が死亡した。
 7月10日:在郷軍人(戦役を終えて国内にいる元軍人)25万名、満州開拓団を中心とした居留邦人15万名が「根こそぎ動員」によって招集される。
 7月10日:仙台大空襲。1064人以上が死亡。
 7月16日:米国が原子爆弾の実験に成功。
 7月26日:米国を中心とした連合国軍はポツダム宣言を発し、日本に全面降伏を求めた。日本の軍政府はすぐに対応を決められず、メディアも「笑止!」として嘲笑い、結果的に拒否した。これによって米国は原爆の使用を正当化し、その準備に入った。
 8月1-2日:新潟大空襲。市街地の約8割が焼失、1480人以上が死亡。
 8月2日:八王子大空襲により市街地の8割が焼失し、約450名が死亡した。
 8月6日: アメリカ軍が広島へ原子爆弾を投下。約14万人の死者。
 8月7日:愛知県の豊川海軍工廠へ大空襲があり壊滅。犠牲者は2667名。勤労動員されていた中学生、女学生、高等科生徒にも多数の犠牲者が出て、男193名、女259名、計452名にのぼった。
 8月8日:ソ連が日ソ中立条約を破棄し、対日参戦を表明。9日、満洲国と朝鮮半島に侵攻。
 同日:輸送船羅津丸は富山県伏木港を出港し、連隊約1000名と便乗者約200名を乗せて北鮮の羅津へ航行中、米潜水艦の魚雷を受けて沈没、1151名と船員35名が死亡した。
 8月9日:長崎への原爆投下。約7万人の死者。
 8月10日:前日のソ連の満州への侵攻と長崎への原爆投下を受けて、政府はポツダム宣言を受諾する方向で連合軍に通達。
 8月11日:ソ連軍が南樺太へ侵攻。
 8月14日:御前会議においてポツダム宣言の受諾(無条件降伏)を正式に決めた。
 同日:日本政府が10日にポツダム宣言受諾検討を連合国に通知しながら正式決定をしないことに対し(日本側は条件として天皇制維持にこだわっていた)、米軍はB29約1000機を日本各地(大阪、埼玉県熊谷、群馬県高崎・伊勢崎、山口県岩国・光、秋田県土崎の石油基地、神奈川県小田原など)に出撃させて爆撃、山口県では1千数百人の犠牲者を生じ、全体で2300人以上が犠牲となった。

*前年昭和19年(1944)11月下旬に始まった米軍による空爆は全国206都市のうち98市におよび、死傷者約66万5千人、焼失家屋約236万戸に至った。
 8月15日正午:昭和天皇による「終戦の詔勅」(玉音放送)発布。それを防ごうと、未明、陸軍一部がクーデターを起こすが未遂(宮城事件)。なお、米軍の爆撃はこの正午まで散発的に行われた。

 8月18日:内務省は占領軍向け特殊慰安施設を設置するよう地方長官に通達。
 8月18日:連合国軍最高司令官としてアメリカ陸軍のマッカーサー元帥が厚木飛行場に到着。
 9月2日:日本は連合国と米戦艦ミズーリ号にて降伏文書に調印。
 9月9日:連合国主催の下、中国南京にて降伏文書に調印。
 9月22日:ソ連のスターリンは中国東北(満州)全域を解放し、日本軍51万人を捕虜としたと発表(シベリア抑留)。

*昭和21年(1946)1月1日:天皇が現人神(あらひとがみ)を否定する「人間宣言」の詔書を発する。



 

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