昭和12年(1937年)前編:南京以前(その一)

中国における軍事的動向

日中戦争(支那事変)に至るまでの概略

 日本は、15年戦争(アジア・太平洋戦争)の発端とされる満州事変を1931年(昭和6年)に起こし、日本の関東軍が満州を支配するに至って、翌年に満州国を傀儡政権として成立させた。中国国民党政府はこの日本の侵略行為を国際連盟に提訴、リットン調査団が派遣されたが、その間にも日本軍は上海事変(第一次)などを続けて軍事行動をやめなかった。それに対し国際的非難が強まり、国際連盟で満州国の否認が決議されると、日本は国際連盟を脱退、それによってむしろ身軽になり中国における軍事展開を進めるようになった。

 日本軍は満州国の治安を安定させようとするが、各地に抗日軍が勃興し、それに合わせて共産党軍もソ連(ロシア)の協力を得て勢力を増していった。一方で日露戦争によりロシアから鉄道を獲得し設立した半官半民の南満洲鉄道(満鉄)を土台として鉄道を拡張し、その沿線に付随して豊富な地下資源などを新たに開発、あるいは現存する中国の鉱山を買収するか奪い取ることも行われ、それに伴い日本から大企業も進出していった。そして各種鉱山では満州とその周辺から労工が大量に集められ、強制労働による死者が多発する。またこの時期、日本では満州開拓団が募集され、順次満州北部のロシア国境近くを手始めにして送り出された。これは仮想敵国ソ連に対する国防を兼ねていた。日本では満州は楽土として移民を奨励し、困窮する農民や小作農、農家の次男三男などが満州に渡り、続いて花嫁が募集され、写真一枚で若い女性も海を渡ったが、最終的に開拓団は悲劇の民となる。また植民地朝鮮からも農民が移住させられているが、いずれも中国農民との土地の対立を生み、抵抗するゲリラ活動に悩むことになる。

 関東軍は、さらに領土の拡張を狙い、内蒙古東部と熱河省を攻略、これに対し国民党政府の蔣介石は、中国内での共産党勢力の撃滅を重視し、日本軍との妥協を図り、1933年(昭和8年)に塘沽停戦協定の締結に応じた。しかし中国内の抗日運動は激しく、それに対する日本軍の武力弾圧は続いた。さらに日本軍は華北一帯を実効支配することを策し、華北分離工作を進め、1935年(昭和10年)に華北一帯の中国軍を撤退させ、同年、冀東防共自治政府を傀儡政権として成立させた。それに応じて全国的に抗日運動は高まった。この抗日運動の高揚に対して、危機感を抱いた日本の軍政府はさらなる軍事行動の機会を狙っていた。1936年(昭和11年)は日本人に対する小さなテロ事件が続き、日本側はむしろこれを利用して優位な立場を得ようとした。その陰では抗日軍との戦闘で100人単位の死傷者が続いていたがそれが問題にされることはなかった。それにも増して、関東軍による中国民間人に対する暴虐行為(蛮行)は絶えず行われていて、この翌年の南京事件が何も特別ではないことがわかる(筆者の1932年から1936年:昭和7~11年までの同項を参照)。

 各地の抗日運動(抗日軍)と共産党は連携を強め、蒋介石の南京国民政府に重ねて日本軍に対する共同戦線を張ることを要請したが、共産党を目の仇にする蒋介石は動こうとしなかった。業を煮やした東北軍の張学良は、12月に蒋介石を拉致して軟禁し(西安事件)、共産党との共同戦線(国共合作)を認めさせたが、自身は反逆罪により逮捕され、幽閉された。しかしこれがその後の国共合作につながっていく。その間にも各地の抗日連合軍は駐留日本軍に対する襲撃を重ね、中国共産党の周恩来は蒋介石との合意を進めていく。

 日本軍(注:満州の関東軍ではなく北京付近の支那駐屯軍のことで、中国側では華北駐屯軍と称するが、これは明治期の清国駐屯軍から続いている)は前年の豊台事件が示すように徐々に駐留地の拡大を図り、軍事演習の名目で挑発するなど一触即発の緊張状態が続いていたが、海軍も上海沿岸の艦隊と上海駐留特別陸戦隊によって中国軍に示威的な軍事活動を行なっていた。結局、一年前に北京の豊台に強引に進駐した支那駐屯軍が、7月、豊台近くの盧溝橋で起こした駐留軍の衝突事件によって緊張の糸が切れ、日本の陸海軍は早々に臨戦態勢を敷いていく。とりわけ海軍はうずうずしながら自分たちの出番を待っていた節がある。それが大山事件であり、それを理由にして7月13日、海軍の特別陸戦隊が上海租界で全面攻撃を開始、その前に中国防衛軍が発砲したことがきっかけとされるが、それに続いて海軍航空隊(当時は空軍はなく、海軍と陸軍でそれぞれ航空隊を所持していたが、艦載機空母を持つ海軍のほうが強大であった)は万全の準備していた渡洋爆撃を開始、それを受けて日本陸軍は日本から上海派遣軍の派兵を決定し、さらにそこから海軍は上海だけでなく15日から南京などの各都市に空爆を急拡大し、それがまた次々と上陸する陸軍の各地への侵攻を容易にしていった。

 この一方で、上海戦を利用して満州の関東軍はその支配圏拡大を狙って周辺を攻略し、同時に補強された支那駐屯軍は満州南側の北京・天津を含めた華北地方(河北省・山西省・山東省)の制圧に乗り出していく。そして上海派遣軍は上海を三ヶ月かけて制圧しつつ、その上海派遣軍はすぐに南京に転戦されることになり、当初の目的は破棄され、一層の戦線拡大となった。そこから日本軍は新たな第十軍を加えて南北の三方に分けて南京へ進撃して行くが、その間、勢いに乗って途中の各都市を次々と攻略、制圧して行く。その陸軍の攻略に先駆けて海軍航空隊はその都度大爆撃を加え、その爆撃による犠牲者も、多い街は千人を超える場合もあった。その後に陸軍が侵攻し、数多くの残虐行為が街中で行われた。南京に至るまでの中国側の軍民を含めた犠牲者は10万人を軽く超えるであろう。それは南京以降も加速される。実はこの1937年(昭和12年)の南京事件ばかりに目を向けていては、この戦争の全体像を見失うことになると筆者は強く断じる。

1937年(昭和12年)の出来事(中国側から)

 以下は主に中国側の資料、『中国抗日戦争大事記』より抜き書き。(訳文は筆者。▷印は日本側の記述から)

 1月4日、日本海軍の長谷川艦隊司令官が上海の虹口公園で1500人を集めて閲兵式を行った。

 同日、国民政府は張学良を特赦、懲役刑を免除し、軍事委員会に厳重に管理(自宅軟禁)するよう命じた。

 1月7日、日本の憲兵隊が熱河で張営堂ら6人を生き埋めにする惨事を起こす。

 1月11日、周恩来は蔣介石に書簡を送り、張学良の釈放、平和統一、団結と相互尊重の方針の実現を求めた。

 1月21日、日本の華北駐屯軍(日本では支那駐屯軍)は、前日から豊台、盧溝橋、通県などで、盛んに演習をはじめた。

 1月22日、昨年、日本軍が豊台を占領してから、兵力はすでに七百人ぐらいに達し、兵営が足りないとして我が国の関係者に土地を買って兵営を増築するように要求した。

 1月23日、日本の広田弘毅内閣が総辞職。

 1月、抗日連合軍第9軍が正式に設立された。

 1937年(昭和12年)2月2日、広田首相の辞任を受けて日本の林銑十郎内閣が発足。

 ▷ 新任の佐藤尚武外相は、平和協調外交、平等の立場を前提とした話し合いによる中国との紛争解決、対ソ平和の維持、対英米関係の改善の4つを提示、しかし軍部や右翼から「軟弱外交」と非難を浴びることになった。それでも関東軍が推し進めた華北分離工作に反対し、中国との親善の具体策として3月に経済使節団を中国に派遣したが、四ヶ月後の林内閣の総辞職とともに退任した。

 2月5日、蔣介石が当面の五方針を決定し、内戦を回避し、排日ではなく抗日戦のために軍隊を強化、各省から優秀な人材を集める等述べた。

 2月10日、中国共産党中央は国共両党の再実現のため、「すべての内戦を停止する、一致して国力を集中し、対日抗戦のためにすべての準備を迅速に完了する」と国民党に提案した。

 2月11日、中共代表周恩来と国民党代表張沖、顧祝同は西安で国共合作の具体的な問題について交渉を開始、12日、国共協力の原則に合意した。

 2月15日、国民党第5期三中全会が南京で開催され、蔣介石は西安事変の経過を報告し、国共両党の第二次合作、抗日連合が主要なテーマとなったが、汪兆銘は「剿共」(反共産党)堅持を主張した。

 2月20日、日本の外務省は「第三次華北処理要綱」を制定し、「華北を処理する要点は当地区を強固な防共・親日満地帯にすることにある」とした。

 2月22日、抗日連合第2軍第6師の主力200人余りが、吉林省撫松県城南で親日偽靖安軍の一部と激戦し、34人の日本偽軍を射殺、あるいは負傷させた。さらに26日、同第6師と第1軍第2師の300人余りが親日偽軍一部と長白県八道溝で交戦し、日本軍11人を射殺し、数十人を負傷させた。

 2月26日、抗日連合第2軍と第1軍の一部計300人余りと傀儡軍の一部が長白県八道溝で交戦し、日本軍11人を銃殺し、数十人を負傷させた。

 1937年(昭和12年)3月5日、抗日連合第7軍陳栄久の部隊が黒竜江省饒河県の大頂山で日本偽軍と激戦し、敵数十人を殺傷したが、陳は戦死した。

 3月7日、抗日連合第3軍は黒竜江省海倫県氷踵子で日本の偽軍と交戦し、敵300人近くを殲滅した。

 同日、関東軍司令部は「治安粛正計画」として「討伐の重点地区は浜江省、間島省、安東省及び東部奉天省」と定めた。

 3月10日、日本の満州文教部は日本語を満州国の「国語」として普及させる訓令を出し、中国学生に日本語学習を強制した。

 3月16日、蔣介石は南京で茶会を開き、訪中の日本経済視察団を招待した。そして「親しきは宝なり」という言葉で日本経済視察団員をもてなした。行政院副院長兼財政部長の孔祥熙は、日本経済視察団のメンバーである大日本製糖社長の藤山愛一郎と会見し、日本政府が軍を徹底的に抑制し、華北の様々な違法事実を排除し、日中双方が相互扶助の精神で関係改善に向けて努力するように表明した。

 3月19日、700人余りの抗日連合軍が黒竜江省依蘭県城を攻撃し、翌日まで敵の城防建築を破壊して撤退、日本軍20数人を銃殺し、偽軍数十人を負傷させ、25人を捕虜にした。

 3月20日、宋慶齢(孫文の妻)が「中国不亡論」を発表し、国民党が孫文の遺教に背き「莫大な生命と莫大な物質と精力と金銭を費やして」共産党と内戦を行い、「日本の侵略から中国を守ることを忘れた」と批判した。

 3月24日、日本海軍連合艦隊70隻が青島で大演習を行なった。

 3月26日、日本経済視察団団長の児玉謙次が中国を出国する際、乗っていた「上海丸」から、日本の浪人が密輸した銅貨50万枚余りが税関に摘発され、中国外交部は日本に抗議した。

 3月28日、黒竜江省当局の統計によると、同省のアヘン中毒者は6万4600人で、全省人口の30分の1を占めた。チチハルの麻薬中毒者は1万200人で、全市の人口と比較すると、9人に1人が麻薬中毒者となっている。

 3月下旬、周恩来は西安から上海に行き宋美齢と会談、国民党と共同綱領を作ることが最善の方法だと伝え、蒋介石への交渉条件書を渡した。その後、杭州へ移り蔣介石と交渉、蔣介石は中国共産党に恒久的な協力方法を提案してもらいたいと述べた。周恩来は共同綱領を制定することを最善の方法とすると表明した。

 1937年(昭和12年)4月1日、上海に駐屯する日本海軍陸戦隊が滬東、滬西及び北四川路の3カ所で大演習を行い、合計1200人余りが参加した。

 4月4日、全国各界救国連合会の指導者の7人が、国民政府に対する危害事件で公訴され、周恩来はその7人の釈放を蔣介石に要求した。(前年の「七君子事件」参照)

 4月10日、許世英駐日大使は日本の記者と会見し、「中日両国の関係改善のために、互恵、信頼、互助の3つの精神が必要だ」と述べた。

 4月15日、満州国は東北の各都市と浜綏・浜北線沿線で中国共産党系委員会などを大粛清、逮捕した。10月末までに逮捕されたのは480人余りで、うち80人余りが処刑された。

 4月16日、日本の外・陸・海・蔵四相会議で、『対支実行策』と『北支指導方針』を決定。北支分治(華北分離政策)や中国内政を乱す政治工作は行わないとし、日中防共軍事同盟の項目も削除されたが、これはあくまで表向きであって、「昭和十二年度帝国陸軍作戦計画訓令」に記された「帝国陸軍作戦計画要領」によれば、新しい「華北の作戦・用兵計画」として、南部河北省方面の敵を撃破して黄河以北の諸要地を占領すること等とあった。

 4月23日、抗日連合第7軍の部隊は黒竜江饒河県第1区西林子偽警察署を襲撃し、敵20余人を銃殺した。

 4月24日、日本の華北(支那)駐屯軍7、8千人が、天津、山海関から安次、通県一帯へ演習行軍し、26日に天津へ帰った。

 4月、抗日連合第10軍は黒竜江五常県四平山付近で日本軍と交戦し、100人余りの敵を銃殺し、20人余りを捕虜にした。

 1937年(昭和12年)5月4日、関東軍司令官の植田謙吉は承徳で会議を開き、綏遠侵攻を画策した。そして6日にモンゴル軍の徳王と軍事的密議をし8日、熱河において関東軍を増兵した。

 5月7日、天津梅河において6、70体の浮遊死体事件があり、冀察政務委員会の宋哲元は凡ての市民、公務員に浮遊死体の出所を知る者に奨励金を与え、事件の早期解決を図った。14日、調査の結果として、これは日本が華北、冀東一帯で密かに発掘工事のために中国人労働者を雇っていたもので、工事が完成した後、惨殺されて口を封じられ、川に投げ込まれたものと判明した。(このような事件は占領地で散発していた)

 5月8日、関東軍司令官の植田と内蒙古の徳王が密議した後、熱河への増派が始まり、綏東情勢は緊迫してきた。

 5月11日、日本軍200人余りと偽軍200人余りは、遼寧省喀左旗羊角溝で抗日義勇軍李天徳部隊を包囲討伐したが、2日の激戦で義勇軍が包囲を突破した。

 5月15日、抗日連合第7軍第2師の部隊300余人は、黒竜江二竜山第三牌で日本軍と遭遇し、5、6時間の激戦の末、敵50余人を銃殺した。

 5月18日、抗日連合第6軍参謀長馮治綱は部隊を率いて黒竜江湯原県城を夜襲し、敵9人を射殺し、監獄を開けて拘束されていた共産党員と人民70人余りを救出した。(注:この救出対象は4月15日の逮捕者と思われる)

 5月21日、日本軍部は平等互恵の原則による日中関係の再調整に極力反対し、大陸政策を堅持し、中国侵攻の準備をすると主張した。

 5月27日、傀儡軍の一部が日本指導官を殺して蜂起し、漢奸を殺して銃器を押収、日本の特務機関を破壊する活動を展開した。

 5月31日、林銑十郎内閣が4ヶ月で総辞職する。

 1937年(昭和12年)6月1日、日本軍は予定通り、まず華北駐屯軍(支那駐屯軍)2個団以上の兵力を北京郊外の豊台一帯(盧溝橋近く)に集めた。

 6月4日、上海駐屯の海軍陸戦隊は上海市内で武装訓練を行い、わが国の主権を軽蔑、外交部は直ちに日本大使館に抗議した。

 同日、近衛文磨内閣が成立し、広田弘毅が外相に就任。(筆者注:近衛文磨は7月からの日中戦争を推進する立場になるが、4年後にも首相となり、日本を太平洋戦争に導く役割をする)

 6月8日、この日から15日まで、蔣介石と周恩来は廬山で何度も会談した。周恩来は蔣介石に「民族統一綱領草案」を提出し、紅軍を3個師団、4万5千人余りに編成することで合意した。

 6月9日、関東軍参謀長の東條英機は『対ソ対中戦略に関する意見書』を提出し、まず南京政権を一撃することが最も得策だとした。

 6月12日、抗日連合軍第3軍第4師団の200人余りが黒竜江勃利県一帯で、日本軍に襲撃された。

 6月19日、日本の関東軍とソ連軍が黒竜江省乾岔子(かんちゃず)島で武力衝突した。30日、ソ連軍の砲艦3隻が干支島南側の水路に進入し、日本軍が砲撃し、1隻を撃沈し、1隻が損傷した。重光葵駐ソ日本大使がソ連側に厳重抗議し、7月5日、ソ連は乾岔子島から部隊と砲艦を撤退させ、一応紛争は解決された。

 6月20日、近衛内閣が川越駐中大使に訓令を出し、広田三原則(筆者注:1935年=昭和10年10月に広田が外相の時に提示した、排日言動の徹底的取締りと対日親善政策、満州国の承認、共同防共)を対中政策の基本とするが、当面は中国に三原則を強制せず、現在の関係を維持するとした。

 6月25日、日本軍は盧溝橋一帯で夜間演習を繰り返した。

 6月28日、関東軍司令部、朝鮮総督府、華北(支那)駐屯軍司令部、満鉄総裁らは、大連で「帝国経済会議」を開き、中国侵略を策動した。

 6月30日、抗日連合第2軍と第1軍の一部は吉林省長白県の十三道溝間峰で、朝鮮から来た日本軍を待ち伏せし、敵50人余りを射殺した。別途、抗日連合軍第2軍の一部は吉林撫松県廟嶺の傀儡軍拠点を襲撃した。

 1937年(昭和12年)7月7日、【盧溝橋事件勃発】午後7時30分、豊台に駐屯していた日本の駐屯軍1個中隊が盧溝橋付近で夜間演習を行った。夜11時、日本軍は行方不明の1名の兵士を口実にして、宛平県城に入って捜索することを要求し、中国守備軍に拒絶された。日本軍は直ちに兵力を動員して宛平城を包囲し、そして翌日未明から砲撃を開始し、中国守備軍第29軍37師110旅団吉星文部隊が反撃した。この時から日本帝国主義は中国に対して全面的な侵略戦争を始めることになる。(筆者注:その不明者は近くに立ち小便をしに行っていてすでに戻っていた。当の兵隊も自分のこととは知らず、一緒になって不明者を探したと、日本側の記述にある)

 7月8日、蔣介石は冀察当局の宋哲元に盧溝橋の固守を命じ、軍政部長の何応欽に応戦の準備をさせた。

 同日、中国は日本軍が盧溝橋から撤退することを要求、これは拒否され、11時頃戦闘は再開され、日本軍は続々と天津から豊台に軍を送り、ついに豊台を占領した。

 同日、日本武官今井武夫少佐は北京市長秦徳純に、宛平に駐屯する中国軍の完全撤退を要求したが、秦徳純は日本軍こそ元の駐屯地に後退すべきだと主張した。

 同日、日本の閣議では「事件は拡大せず現地解決」という方針が出されたが、実際には増兵という措置がとられた。

 ▷ 同日、日本海軍航空隊の木更津基地と鹿屋基地では早くも出撃準備命令が出された。

 7月9日、中国と日本は同時に盧溝橋から軍隊を撤退させることに合意し、宛平は石友三の北平(北京)保安隊に引き継がれたが、日本軍は約束を破って、保安隊を攻撃して後退させた。

 同日、外交部長の王寵恵は廬山から南京に帰り、日本の臨時代理大使に盧溝橋事件の解決を交渉したが、日本側は提案を受け入れなかった。

 7月10日、蔣介石は宋哲元に「予定の国の防衛線工事を早急に構築し、昼夜休まず急いで建設し、完成するように」と指示した。

 同日、日本側が盧溝橋撤退の約束を反故にしたため、中国側は北京一帯で防衛を強化した。盧溝橋では午後6時から二時間戦闘があったが、同時に日本軍の大隊は列車を使って天津に到着しつつあった。

 同日、日本の華北(支那)駐屯軍は冀察当局に撤兵など四つの条件を提示し、同時に陸軍省は華北への兵力増派を決定した。

 7月11日、軍政部長何応欽は各主管部を召集し、すべての軍事を臨戦体制においた。

 同日、日本軍は盧溝橋で再び挑発し、午前4時から戦闘となり、夕刻双方が同時撤退し休戦となった。

 同日、日本の閣議で、関東軍と朝鮮軍を華北に増援し、日本国内の三個師団も華北に派兵し、その上で中国に対して日本に謝罪を求めると決定、「華北への派兵に関する政府声明」を発し、「華北の治安維持」を宣言した。(筆者注:この謝罪を求めるための増援軍は規模的にも異様である)

 同日、イギリスの外務大臣イーデンは「日本その他各国の政府は、華北の数カ所に軍隊を駐屯させる権利がある」と述べた。(筆者注:これは同じく中国に進駐している国の立場からの物言いである)

 7月12日、上海商工界のリーダーは「上海市抗敵後援会」を設立し、抗戦を支援した。

 同日、新任の華北(支那)駐屯軍司令官香月清司が天津に着任し、日本軍は和平交渉のためとして大軍を集めて関内に入った。

 同日、アメリカのハル国務長官は駐米中国大使に書簡を送り、「平和と世界の進歩に重大な打撃を与えた」ことに対して「同等の責任」を負うよう中国に求め、中国の抗戦を非難した。

 ▷ 同日、日本海軍軍令部は「対支作戦計画内案」を策定。これには「自衛権の発動を名分として」「対支全力作戦に備う」とした。そこからさらに中国沿岸海上封鎖、杭州・南昌・南京への渡洋爆撃、上海陸戦隊の増派を検討し、全面的な戦争への作戦準備となっている。これに伴い、中国に配備されていた第三艦隊の司令長官長谷川清中将は、「開戦当初の空襲作戦においては、使用可能の全航空勢力をもってする」必要性を海軍中央に具申し、19日に第三艦隊作戦計画を内示した。

 ▷ 同日、日本の陸軍と海軍陸戦隊は早くも召集令状を発布。

 7月13日、駐英、仏の中国大使はそれぞれ、日中の紛争を仲裁し、日中問題を国際連盟に訴えるよう英仏政府に要請した。

 7月14日、天津で日本軍6、700人が豊台に応援に行き、途中の平津線落臺駅で中国軍と衝突した。

 7月15日、日本の陸軍省は、日本国内から華北に10万軍を派遣することを決定したと発表。

 7月16日、国民政府外交部は、英、米、仏、伊、独、ソ連、ポルトガル、オランダ、比各国政府に覚書を提出し、日本が「9カ国条約」に違反したと非難した。

 同日、日本の陸軍省は日本海軍艦隊の長谷川司令長官に、海軍が上海で戦闘を準備するよう促した。(筆者注:これが海軍陸戦隊による8月13日の第二次上海事変につながり、本格的な戦争状態に入る)

 7月17日、蔣介石は廬山談話会で盧溝橋事件を報告し、「最後の関頭」演説を行った。(下記参照)

 同日、中国の駐各国大使は各国に「日本は『九カ国条約』に違反し、平和を破壊している」と声明した。

 同日、何応琴は宋哲元らに電報を送り、「日本は北京攻略のために大規模な軍隊を派遣している。政治交渉に惑わされず軍事的な準備を整えるべきである」と伝えた。

 同日、中国共産党代表の周恩来、秦邦憲、林伯渠は国民党代表の蒋介石、張沖、邵力子と廬山で国共合作の会談を続けた。

 同日、日本の5相会合は対中最終要求の期限を19日とすることを決定した。支那駐屯軍司令官香月清司と日高大使はそれぞれ冀察当局と中国外交部に最後通牒式の覚書を提出した。

 7月18日、日本軍機は3度にわたって中国列車を爆撃し、死傷者が出た。また日本軍は天津に飛行場を建設し、外交部は日本大使館に厳重抗議した。

 同日、宋哲元は香月清司と面会し、盧溝橋事件に遺憾の意を表明し、書面による事件解決の合意書の署名を拒否した。日本側は事件の解決には中国政府が直ちに抗日姿勢を改める必要があると主張、さもなければ日本軍は断固たる措置を講じると言明した。

 7月19日、外交部は川越駐中国大使を表敬訪問し、わが国は『国際公法』または『国際条約』の下で、日本との紛争解決のために交渉できることを願っていると表明した。

 同日、日本軍政部は中国の撤退提案を拒否し、翌日、閣議で『動員計画』を採択し、対中武力攻撃に備えるとした。

 7月20日、盧溝橋で再び軍事衝突が起こり、両軍は2度の激戦を繰り広げ、日本軍は塘沽の埠頭設備を強奪した。天津の市民は租界に避難した。

 同日、日本大使館の日高臨時代理大使は王寵恵外交部長に、中国政府に華北地域協定を承認し、中国軍の北上を停止するよう求めた。

 同日、日本陸軍は中国第29軍への攻撃を決定し、豊台に第3師団を増派して長辛店、宛平を砲撃し、多くの死傷者を出した。

 7月21日、盧溝橋では第29軍第37師団が撤退し、石友三の保安隊が守備を引き継ぎ、和平への足がかりとした。

 7月22日、蔣介石は宋哲元が19日に北京城内の防御工事を撤去したことを批判、翌日宋哲元は日本側との交渉を中止し、戦闘に必要な準備を開始した。

 7月23日、上海在住の多くの日本人が帰国し始めた。

 7月24日、外交部は日本軍が華北の塘沽埠頭を強制占領し、唐山などの電報局を不法占拠したことに対し日本大使館に厳重に抗議した。

 同日、北京大学の全教授は「盧溝橋事変に対する宣言」を発表し、「われわれは人道的正義、自由、平和のために犠牲を惜しまない」と述べた。

 7月25日、蔣介石はジェイソン米大使と面会し、米国に日本の侵略行為を制止するよう懇請した。

 同日、日本軍の一個中隊は、軍用電話回線の修理という名目で廊坊を占拠した。 中国守備隊は撤退を求めたが、日本側が拒否したため、双方の衝突となった。 翌日、日本軍は陸と空から廊坊を襲撃し、激戦の末、廊坊は陥落した。(廊坊事件)

 7月26日、日本軍は北京広安門で挑発に出たが、中国の守備部隊劉放珍団による待ち伏せ攻撃を受け、失敗した。(広安門事件)

 同日、蔣介石はドイツとフランスの大使と会談し、日本軍が北京の廊坊と広安門に侵攻し、平和は絶望的で戦争が始まると語り、両大使は日本政府は軍人の支配下にあるようだと語った。

 同日、日本の華北(支那)駐屯軍司令官香月は宋哲元に最後通牒を送り、盧溝橋、八宝山及び北京西苑に駐留する37師団を期限付きで撤退させるよう要求、宋哲元は拒否し、29軍に抗戦の用意をさせた。

 7月27日、宋哲元は蔣介石の徹底抗戦の要請に対し、北京、保定、宛平の死守を約束した。

 同日、蔣介石はドイツ、イタリア、フランスの3カ国の大使と会見し、自衛と生存のために日本と戦うことを宣言し、国際的な協力を要請した。

 同日、中国外交部はこの20日間、中国は平和のために最善を尽くしてきたが、その後のすべての事態の責任は、完全に日本側が負うべきであると声明を発し、宋哲元軍長は全線で日本軍を痛撃するよう命じた。

 同日、日本の内閣は緊急会議を開き、既定の方針に沿った戦線拡大を決定した。近衛首相はアジアの「新秩序」構築に向けた決意を表明した。

 ▷ この日の早朝、北京の日本大使館は在留邦人4千人に引き揚げを命じた。

 ▷ 同日、海軍軍令部と海軍省は「時局処理および準備に関する省部協議覚書」を決定、その方針は、「事態不拡大、局地解決の方針は依然堅持するも、海軍としては対支全面作戦の準備を行うこととす」とした。また陸軍参謀本部は第5、第6、第10師団を動員して華北に派遣すると決定した。

 7月28日、日本の侵略軍は北京の南苑、宛平各地を全面攻撃し、第29軍副軍長の佟麟閣及び132師団師団長の趙登禹は壮烈に殉国した。

 同日、英駐日大使は日本政府に、北京での開戦に反対を表明した。

 ▷ 同日、香月司令官は、広安門事件を受けて最後通牒の28日正午までというのを覆し、朝8時に北京・天津一帯の総攻撃を開始、海軍艦隊の砲撃と航空隊の空爆支援により、翌日までにこの地区を日本軍が占領した。

 ▷ 同日、日本政府は8月9日までに揚子江沿岸の邦人を上海に引き揚げさせるように指示した。

 7月29日、蔣介石は北京・天津の戦局に関して、これは日本軍の中国侵略戦だと述べ、全国民に奮起し、共に困難に立ち向かうよう呼びかけた。

 同日、天津駐屯29軍第38師団は、日本軍が占拠していた天津総駅、飛行場、日本租界、華北駐留軍司令部などを襲撃した。

 同日、通県(通州)の傀儡冀東保安隊第1総隊張慶余部及び第2総隊張硯田部は寝返って日本軍260人余りを殲滅した。(筆者注:これはいわゆる「通州事件」のこと。「日本軍260人余り」の中には多くの日本人居留民がいて犠牲になったが、この書き方は日本軍側でも同じになる。後述参照)

 同日、第29軍は激戦の後、天津、塘沽、宛平、盧溝橋などの地を撤退した。翌日、宋哲元は保定から任丘に赴き、撤退部隊を再編した。

 同日、傀儡の北京市治安維持会が設立され、江朝宗が会長を務めた。

 7月30日、日本軍は前日から天津を爆撃し、この日占領した。

 同日、国民党は上海愛国運動の7人の指導者(抗日7君子)をやっと釈放した。(7君子については既述)

 7月31日、蔣介石は『抗日戦全軍将士に告ぐ書』を発表し、「日本の侵略者を追放し、国家を復興させる」ようと激励した。

 ▷ 7月31日、日本の支那駐屯軍は北京・天津地区を制圧した。(8月3日、宋哲元は北京・天津陥落の責任を取り辞任)

 ▷ 7月、満州国協和会は日本の国家総動員体制に倣って協和会青年訓練所を創設、8月に協和義勇奉公隊を、1938年(昭和13年)6月に協和青少年団を創設した。

 1937年(昭和12年)8月1日、中国共産党中央は南部の赤軍と遊撃部隊に抗日民族統一戦線の構築を急ぐよう求めた。

 同日、中国第29軍は平漢線良郷東駅(北京西南の房山区)を制圧したしたが、日本機は平綏線南口駅(北京の北方)を爆撃した。

 同日、宋美齢らが発起した中国女性自衛抗日軍人会が南京で成立した。

 8月3日、日本軍傀儡組織「平津治安維持会」が設立され、会長に高凌霹が就任。

 8月5日、日本機が張家口駅を爆撃。

 ▷ 同日、日本陸軍省の発表では、7月7日から8月3日正午までのわが軍の戦死傷者は、戦死364名、戦傷869名、合計1233名であったとした。一方中国側の死傷者は不明ながら、日本軍の死体確認数では、およそ1万950名としている。

 8月6日、漢口に駐在していた日本人と海軍陸戦隊は日本政府の命令に従って退去、撤退を開始した。

 8月8日、日本軍は平綏線を侵犯し、北京長城南口付近で激戦となった。その後日本軍は北京に入城。

 同日、山西省、浙江省、江蘇省、蕪湖市などにいた日本人はここ数日で相次いで退去した。

 8月9日、海軍の大山勇夫中尉ら2人が、軍用車で虹橋中国軍用空港に突入して挑発し、空港保安隊に射殺された(大山事件/虹橋空港事件:下記参照)。同日、日本海軍陸戦隊は上海に上陸を強行し、中国側に上海保安隊の撤退を要求したが、拒否された。

 8月10日、日本軍は長城南口に侵入し、中国軍は南口を退守した。

 同日、日本の憲兵隊は天津の新聞「益世報」の記者4人を惨殺した。

 8月11日、何応欽が主宰して国民政府軍政部は会議を開き、唐生智、白崇禧、黄紹集、および共産党の周恩来、朱徳、葉剣英などが参加し、全国抗戦の戦略方針制定を協議した。

 8月12日、蒋介石軍事委員会委員長は中央常任委員会において、日本側の要求事項に対し「承認することは不可能」として戦闘準備の命令を下した。

 同日、日本海軍第三艦隊司令長官は南京等への空襲命令を発令し、海軍航空隊は出撃態勢を整えた。

 同日、日本の内閣四相会議で、上海出兵が決定された。

 ▷ 陸軍省と参謀本部は、30万人の兵力と8万7千の馬を動員し、上海と青島に二個師団ずつ派遣する計画を立案、同日、陸海軍の共同作戦の協定が成立した。

  8月13日、【上海事変:日中戦争開始】上海抗戦が勃発した(八・一三事変/淞滬会戦)。上海駐留の海軍陸戦隊は、租界を根拠地として第3艦隊司令官の長谷川清の指揮の下、北四川路と中央路に沿って攻撃を開始、長谷川は上海の市街地を艦砲で砲撃し、3か月以内に中国を破壊すると脅した。上海駐留第9軍司令官の張治中が部隊を率いて抗戦が始まった。空軍司令部は第1号作戦命令を発し、上海侵攻日本軍を痛撃する準備をし、海軍は長江鎮江以下と南黄浦江面を封鎖した。(筆者注:この日、長谷川は海軍航空隊を九州と台湾から出撃させる命令を発していたが、台風のために延期された)

 同日、外交部長の王寵恵は日高参事と会見し、上海中日衝突の解決方法を協議した。上海市長の兪鴻鈞は、日本軍の挑発行為を厳重に抗議し、抗議文書を各国の駐上海総領事に送った。

 同日、北京の長城南口陣地は日本軍によって破壊され、国軍は両側の高地から退守して抵抗を続けた。

 8月14日、国民党国防最高会議は対日抗戦に宣戦・断交方式を取らないことを決定した。そして京滬、滬杭(北京−上海− 杭州)両鉄道沿線各地の戒厳令を宣言し、鎮江下流の川面を封鎖した。

 ▷ 同日、日本海軍が渡洋爆撃(台湾や九州の基地から)を開始。

 同日、中日初の空中戦があり、中国空軍は寛橋上空で日本軍機3機を撃墜、午後にはまた日本軍艦を急襲した。

 同日、日本軍艦が上海市街地を砲撃し、南京路華雄、匯中二飯店を直撃、国内外の市民百余人を死傷させた。午後4時ごろ、中国空軍の1機が砲撃され、制御できず、大世界付近に爆弾2個が落下し、800人以上が爆死、600人以上が負傷した。

 同日、中国守備軍と日本軍は長城南口の両側の山の端で肉弾戦を展開し、戦況は惨憺たるものだった。

 同日、日本は二個師団を編成し「上海派遣軍」とした。

 8月15日、日本機は南京、南昌、杭州などを初爆撃し、中国空軍は迎撃し、敵機20機を撃墜した。

 同日、日本の近衛内閣は『帝国政府声明』を発表し、「出兵の目的は中国軍の暴戻を罰し(膺懲暴戻)、南京政府の覚醒を促すためだ」と主張した。

 8月17日、日本の閣議は戦線不拡大の方針を放棄し、必要な諸対策を計画した。

 8月18日、蔣介石は南京の陳誠ら上級将軍に対し「敵の戦略と政治戦略の実情と抗戦におけるわが軍勝利の要道」を述べ、持久戦と消耗戦で短期決戦を目論む日本軍を打ち砕くとした。

 8月19日、上海虹口区では終日激戦があり、国軍は間もなく戦略的に撤退した。

 同日、日本は英国が提案した中日軍の上海周辺地帯からの撤退提案を拒否した。

 8月20日、中国空軍は上海日本軍司令部と日本総領事館に爆弾を投下した。

 同日、日本機は武漢を初爆撃した。

 同日、日本の居留民は威海衛から撤退した。

 8月21日、「中ソ不可侵条約」が南京で調印された。同時にソビエト連邦は、中国に軍事物資を提供し、軍事顧問と有志の航空団を派遣して、抗日戦争で中国を支援することを約束した。

 同日、日本軍は津浦線(天津−南京)、平漢線(北京−広州)の北段に侵犯し、第26路軍は良郷、房山で戦闘に敗れた。

 同日、日本軍機は上海の呉淞に大挙して侵攻し、上海南駅での避難民の列車を乱爆撃、千人以上の死傷者を出した。

 8月22日、国民政府軍事委員会は中国工農紅軍(共産党軍)の主力部隊を国民革命軍第八路軍に改編すると発表した。

 同日、中国共産党中央は政治局拡大会議を開き、中国共産党の抗戦時期の路線、方針、政策を制定し、毛沢東が主席、朱徳、周恩来が副主席となること、また朱徳を書記、彭徳懐を副書記とすることを決定した。

 同日、日本軍第3師団は上海の川沙、獅子林、宝山に同時に上陸し、羅店瀏河一線を侵犯した。

 8月23日、長城南口の右翼陣地鎮の辺城が陥落し、関東軍が張垣に侵犯した。

 8月24日、呉淞では連日猛烈な血戦を繰り広げ、羅店、砲台湾の日本軍は壊滅した。(筆者注:この最初の上陸部隊の「壊滅」は事実で、中国軍の待ち伏せ攻撃にあい、約1万人が戦死、日本では報道されず、正式記録にもない)

 8月25日、中国共産党中央は『抗日救国十大綱領』を発表した。

 同日、中国工農紅軍を国民革命軍第八路軍に改編し、八路軍第115師団1万5500人が決起大会を行い、抗日前線に向かった。120、129師団が同時に設立された。

 同日、日本軍は懐来、居庸関、横嶺城などを包囲攻撃し、第13軍は孤立無援で撤退した。

 8月26日、日本機は南京に9度目の爆撃。また北京から上海への無錫の道路上で英大使の車(英国国旗を掲げていた)を襲撃し、ヒューギスン英大使が負傷した。29日、英国は日本に抗議した。

 同日、日本機は再び避難民で混雑する上海南駅を爆撃し、上海で700人余りを死傷させた。一方で南京を未明に三回爆撃した。

 8月30日、国民政府は、日本の全面侵攻を国際連盟に訴え、日本が「9カ国条約」「パリ条約」「国際同盟」に違反していることを重ねて表明した。

 同日、日本軍の砲撃が黄浦江に停泊中の米艦「オーガスタ号」に命中し、米国は抗議した。

 8月31日、日本軍は上陸した呉淞鎮を陥落させた。

 同日、ソ連国境からトラック1000台が物資を積んで入国した。

 同日、日本軍は寺内寿一大将を司令官として華北(北支那)方面軍を編成した。

 下旬:8月下旬、江西省紅軍遊撃隊を「江西抗日義勇軍」に改編した。

 1937年(昭和12年)9月1日、日本は第5次動員を下し、上海派遣軍を増援した。

 9月2日、国民政府教育部は沿海各省の公私立学校を内陸部に移転させて授業を続けた。

 同日、八路軍第120師団1万4000人は陝西富平で決起大会を行い、翌日北上した。

 9月3日、日本海軍は東沙諸島を侵略占領し、水上飛行機基地を設置した。

 9月4日、日本は第72回帝国臨時議会を開き、戦時体制を確立し、全国民総動員を実行するとした。

 同日、華北の日本軍は大挙して南攻し、天津市静海で激戦となった。

 同日、日本軍は「察南自治政府」を張家口で成立させた。

 9月5日、四川省成都から第14師団が東、北、南の3路に分かれて出征した。

 同日、日本海軍は中国沿岸の封鎖区域を拡大し、北は秦皇島、南は広西北诲に至った。

 9月5日、日本機が上海の北新涇住宅を爆撃、また周家橋地区の工場などを爆撃し、死傷者300人余りを出し、さらに江蘇省蘇州へ向かう河上の難民船を爆撃し、400人余りを殺傷した。

 9月6日、国共両党の合意に基づき、中国共産党は陝西甘寧辺区に政府を置き、陝西、甘粛、寧夏の23県を管轄、その首府は延安とした。同日、八路軍第129師団1000人が決起大会を行った。

 9月7日、日本軍大隊は宝山に上陸して陥落させ、国民軍600人の将兵が殉国した。

 同日、上海侵攻日本軍は総攻撃を展開した。

 9月8日、上海から北京行きの満員の難民列車が、松江駅で爆撃され、300人以上が死亡した。

 9月11日、日本軍は上海戦の隙をついて河北省張家口市蔚県に侵攻し、チャハル全省が陥落した。

 9月11日夜、蒋介石夫人宋美齢は南京から流暢な英語で対米放送を行った。NBCの短波ラジオで放送された演説は、欧州を中心に全世界へ向けて発信され、米国内ではCBSの放送ネットワークを通じて全米に中継された。さらに翌日、演説の全文が新聞各紙に掲載され、NBC放送を聞き逃した人々に文字として届けられた(翌朝のニューヨークタイムズでも全二欄を費やしてNBCの録音による放送のテキストを掲載した)。宋美齢はまず、日本の攻撃による被害を受けた米国人と外国人居住者に対して哀悼の意を表し、日本の非道を強く非難した。さらに、米国が投資して作ったミッション系の病院や学校などの文化施設や機関が大損害を受け、キリスト教会の慈善活動にも支障が出ていることを強調して、米国人の慈悲深い心がないがしろにされているのだと、聴衆の心情に強く訴えかけた。この報道を受け日本側は「支那事変に関する国際放送は我が国からも再三行われたが、未だ曽て斯くの如き待遇を受けたことはない」として米国の対日感情の悪化を懸念している。(米国在住ノンフィクション作家の譚璐美の『宋美齢秘録』より:NEWSポストセブンより転載)

 それでも日本は中国への侵攻作戦を緩めることなく、この後南京を陥落させ、戦線拡大に邁進して行くが、それに対して宋美齢は米国からの支援を得る活動を積極的に続けていった。

 9月12日、国際連盟の中国代表、顧維溝は日中紛争に関する公式声明を発表し、国際連盟に対し日本の中国侵略を制裁する規約を発動するよう求めた。21日、国際連盟極東諮問委員会が会議を開き、日中戦争を協議した。

 同日、日本海軍は広東省大鵬湾に上陸した。

 9月13日、日本軍は山西省大同を陥落させせ、そこから2日間にわたって大虐殺を行った。(後述の「大同攻略戦」参照)

 同日、日本機は上海虞姫墩路の呉淞江の上空で爆弾4発を投下し、三隻の難民船を爆破、死傷者300人余りを出した。

 9月16日、日本軍は上海劉行羅店を突破し、第1軍と第18軍の損失は甚大だった。

 9月18日、日本軍は北京と天津間の都市保定を攻略、まず数十機の爆撃機で市街と中国守備軍陣地を空爆した。この爆撃で停車場が爆撃され、駅の防空壕に避難していた住民約200人が出口をふさがれ窒息死した。

 9月20日、日本軍は晋北(山西省)霊邱を攻略し、23日から600人余りを惨殺した。(「大同攻略戦:霊邱県」参照)

 9月22日、日本海軍数十機が上海と空母加賀を離陸し、江陰封鎖線上の中国艦艇「平海」「寧海」「応瑞」に攻撃をかけ、これに対し中国艦は6時間の激戦の末、日機4機を撃墜したが、「平海」「寧海」艦が爆傷した。この江陰抗戦はしばらく続き、中国艦艇の主力はほとんど失われた。

 同日、英、米、仏などが南京非武装地帯への日本の爆撃に抗議した。

 9月22−23日、日本機22機が広州の東部郊外を襲撃(渡洋爆撃)、死者約300人を出し、翌23日には三度にわたって爆撃し、数千人の死傷者を出した。

 9月23日、国共両党の協力、「国共合作」が正式に確立された。

 9月24日、河北省保定が陥落、翌日同省滄県が陥落。(筆者注:後述の「保定占領とその後の暴虐」を参照)

 9月25日、共産党八路軍の115師団が平型関で日本軍1000人余りを殲滅、勝利した。

 同日、日本機96機が南京を爆撃し、死者600人、 負傷者は数千人で、屋上に大きな赤十字マークのある国立中央病院にも20個の爆弾が落とされた。

 同日、日本軍は内モンゴルの綏遠と集寧を陥落させた。

 9月27日、国際連盟極東諮問委員会は、日本機の中国での無差別爆撃を非難し、翌日、「日本空軍の残虐行為の非難」を満場一致で採択。 

 9月28日−30日、日本軍により山西省朔県で4千人以上の人々が虐殺された。(筆者注:後述の「山西省・河北省・山東省の人々の受難」参照)

 9月30日、綏遠省会帰綏(現・フフホト市)が陥落した。

 1937年(昭和12年)10月1日、日本の4相会議は「日中事変処理要綱」を決定し、国連による日中戦争の調停を拒否した。

 10月4日、八路軍第129師団の一部が山西省平魯を奪還した。

 10月5日、国連諮問委員会は、日本が「九カ国条約」に違反するとの決議を採択した。

 10月6日、日本軍は上海八字橋に侵攻し、羅店南西で激戦、この時日本軍は毒ガスを使った。 

 同日、米国務省は日本軍の「九カ国条約」と「不戦条約」 違反を正式に非難した。

 同日、日本軍(北支那方面軍)は河北省石家荘正定に侵攻し、6日から10日まで、抗日部隊と住民1500人以上を惨殺した。(筆者の「山西省・河北省・山東省の人々の受難」参照)

 10月7日、日本軍はすでに20万人以上を増援し、上海では激戦が続いた。

 10月8日、日本軍は山西省崞県(原平県)を陥落させ、また10日に石家荘を陥落させた。

 10月11日、上海の全線で激戦が続く中、日本軍は毒ガスを使った。

 10月12日、河北省石家荘梅花鎮を板垣師団(北支那方面軍)5千名余りが包囲攻撃し、4日にわたる大虐殺が開始された。(筆者後述の「山西省・河北省・山東省の人々の受難」参照)

 同日、日本軍は山東省徳洲市平原城を襲撃し、四日間、虐殺、放火、略奪を繰り返した。(同上参照)

 同日、日本機は広東省広州市内外を爆撃し、およそ800名が死亡。

 10月13日、山西省忻口会戦(太原防衛戦)で八路軍は日本軍の交通線を遮断した。

 10月14日、山西省娘子関で日本軍を迎撃したが、激戦は続いた。

 10月15日、平漢線の順徳(現・邢台市)が陥落した。

 同日、日本軍は傀儡の「晋北自治政府」を大同に設立した。

 同日、日本機は広西省桂林、梧州を爆撃、民間人700人余りが死傷した。

 10月17日、日本軍は河北省邯鄲と内蒙古の綏遠包頭を陥落させた。(筆者の後述の「内モンゴル包頭に侵攻途中の二つの虐殺事件」参照)。

 10月18日、八路軍120師団は雁門関伏撃戦を行い、日本軍約300人を殲滅した。

 同日、河北省磁県が陥落した。

 10月19日、八路軍129師団769連隊は代県西南陽明堡の日本軍空港を夜襲し、日本軍百人余りを殲滅し、飛行機24機を破壊し、忻口作戦を支援した。(筆者後述の「山西省:忻口鎮と娘子関の苦戦」参照)

 10月21日、日本の外、陸、海の3省はドイツが中日和平交渉の仲裁に乗り出すことで合意し、広田外相は日本側の意向を正式に述べ、ディクソン駐日ドイツ大使に伝えた。

 10月22日、娘子関の戦は悲惨な状態となり、増援を要請した。

 10月23日、中国軍は上海線で敗退を重ねた。

 10月25日、毛沢東は英国記者と会見し「中国の抗戦は全世界の反ファシズム戦線でその偉大な責任を果たしている」と主張した。

 同日、北京大学、清華大学、南開大学は連合大学として湖南省長沙に移転し、この日開学、11月1日に正式に授業を開始、1938年(昭和13年)には昆明に移った。

 ▷ 10月25−27日、850機が上海地区及び後方地域を総攻撃し、合計2526発の爆弾を投下した。(筆者注:11月2日、日本の海軍省が発表)

 10月26日、上海大場鎮が陥落、また山西省の娘子関が陥落した。

 同日、日本は九カ国条約会議への参加を正式に拒否した。

 同日、徳王を首班とする傀儡「モンゴル連盟自治政府」が帰綏に設立された。

 10月29日、蒋介石は内外に対して、上海戦の敗北は局所的な損得であり、妥協の余地はなく、国際調停は可、直接交渉は不可と宣言した。

 同日、ドイツのトラウトマン駐中国大使は外交部の陳介次長と会談し、ドイツが中日戦争を調停する意を伝えた。

 10月30日、日本軍は山西省陽泉を陥落させた。

 10月31日、国民政府は重慶に遷都することを決定し、最後の勝利を勝ち取るために抗戦を続けると宣言した。

 1937年(昭和12年)11月2日、八路軍129師団は山西省昔陽以東で日本軍を待ち伏せ攻撃し、敵300人余りを射殺した。

 同日、広田外相は、平和条件をディクソン駐日独大使に提案した。1)内モンゴルに独立した自治政府を建設する、2)平津地を非武装地帯にする、3)上海の非武装地帯を拡大する、4)中国の抗日政策を停止する、5)共同で防共を行う、6)日本製品の関税を下げる、7)外国人の権利を尊重する。

 11月4日、日本軍は河南省安陽を陥落させた。

 同日、八路軍115師団343旅団は山西省広陽地区で日本軍を待ち伏せ攻撃し、千人近くの敵を殲滅した。

 11月5日、日本の第10軍は未明に杭州湾金山衛と全公亭から大挙上陸し、西線から上海守備軍の側背に戻り、松江に侵犯し、上海を包囲した。ここから3日間で金山衛鎮の住民1366人を殺害し、3059軒の家屋を焼き払い、多数の女性を強姦した。

 同日、日本軍は山西省陽曲を陥しいれ、太原に迫った。

 同日、ドイツ大使トラウトマンは、日本の和平交渉の条件を蔣介石に伝えたが、蒋介石は、まず七七事変前の状態に回復しなければならないと述べ、翌日、ドイツは中国と交渉の条件を日本に伝えた。蒋介石は、日本と直接交渉せず、九カ国条約やすべての国際条約を尊重すると表明した。

 11月6日、イタリアはドイツ、日本が締結した「反共産国際協定」に加盟し、三国による軸が形成された。

 11月7日、日本の参謀本部は華中(中支那)方面軍の編成を決定し、松井石根が司令官となった。

 11月8日、太原が陥落した。

 11月9日、国民党軍は上海の全線撤退を命じた。中共中央軍事委員会は八路軍に指示を出し、華北では遊撃戦争(ゲリラ戦)が主要な任務になるとした。

 11月10日、河北省慶雲〈現・山東省)が陥落、翌日、平漢線の大名が陥落した。

 11月12日、日本軍が上海を占領、日本軍が投入した兵力は28万余人、戦車、装甲車は300余台、作戦艦艇は130余隻、航空機は500余機、死傷者は4万余人である。中国軍は兵力70余師団を投入し、25万人以上の死傷者を出した。

 11月13日、九カ国条約会議は日本を非難する宣言書を採択し、必要な時に共同姿勢をとるべきだと声明した。22日、顧維均は九カ国条約会議の宣言が空疎で、実質的な提案がないと厳重に抗議した。

 同日、日本機は初めて西安を爆撃。西安・蘭州間の民間航空の空輸が停止した。

11月13−14日、日本軍は山東省済南市済陽への爆撃と侵略40日間で犠牲者2400余人を生じさせた。(後述の「山西省・河北省・山東省の人々の受難」参照)

 11月14日、日本軍は河北省邯郸市邱城を砲撃したが29軍は前後から挟み撃ちにして、日本軍に500余りの戦死者を出した。翌日、日本軍は重砲の砲火力でもって集中砲火を浴びせ、邱城を攻略、第29軍は退却したが、日本軍は城に入ってすぐに虐殺を展開、800人余りが殺され、焼失された民家は300余戸、数千頭の家畜家禽が略奪された。(同上参照)

 11月16日、日本軍は江蘇常熟、蘇州、嘉興、無錫などを攻撃した。

 ▷ 11月16日、日本機はこの日まで上海を13日間爆撃、上海は制圧され爆撃は終了した。

 11月19日、日本軍は常熟、蘇州、嘉興を占領した。

 11月22日、日本機は江蘇省鎮江を爆撃、500人以上の住民が死亡した。

 11月23日、蒋介石は南京を固守すると声明し、翌日、国民政府は唐生智を南京衛戍司令宮に任命した。

 同日、日本機は連日南京を襲った。

 11月23−26日、日本軍は江蘇省無錫に侵攻、陥落させるまで殺戮、放火を繰り返し、2千人以上が虐殺され、500人以上の女性が陵辱された。(後述の「無錫における残虐行為」参照)

 11月25日、日本軍は無錫、長興を占領した。

 11月28日、蒋介石は南京を2週間以上固守するよう指示、唐生智は南京と共に生死を共にすることを決意した。

 同日、日本軍は宜興を占領し、続いて広徳、漂陽に侵攻した。さらに広東省台山川島を占領した。

 11月29日、日本軍は江蘇省武進を占領し、続いて丹陽に侵攻した。

 同日、ドイツ大使のトラウトマンは孔祥熙、王寵恵を訪れ、日本の講和条件を伝えた。

 同日、日本海軍航空隊は南京に接する溧水に中国軍総司令部があるという情報を得て、36機を出撃させ爆撃、多くの火災が発生し、1200人が犠牲となった。これはこの年一度で最大の犠牲者数である。

 11月30日、日本軍は安徽広徳を占領。

  11月、北京大学、北京師範大学、北洋工学院、北京研究院などは西安に移転し、西安臨時大学として統合して開校し、翌年4月3日に国立西北連合大学、8月に国立西北大学と改名した。

 1937年(昭和12年)12月1日、江陰要塞が陥落した。

 同日、日本の大本営は南京に侵攻する軍事命令を下した。

 12月2日、蒋介石は高級将校らに対し、ドイツトラウトマン大使の調停は拒否すべきではないが、亡国の条件にしてはならないと述べた。(筆者注:そして蒋介石はもし日本側が中国の領土保全を約束するなら、和平を受け入れてもいいとしたが、南京を目前にした日本軍にはその条件を飲むという考えはいささかも持たなかった)

 12月3日、「中ソ相互不可侵条約」が締結され、ソ連のスターリンは蒋介石に電話をかけ、必要ならすぐに出兵して抗日を助け、民間形式で中国に技術援助を提供したいと表明した。

 12月5日、日本機が蕪湖を爆破し、英艦の「徳和」「大通」(中国呼称)の2艦が破壊された。8日、英国が日本に抗議し、日本は謝罪だけで済ませた。(筆者後述)

 12月6日、日本軍兵は4路に分かれて南京を攻撃し、その先頭部隊は南京に迫った。南京から40km離れた句容が陥落した。

 12月7日、駐日ドイツ大使のディクソンは、日中和平交渉を仲介するドイツの覚書を広田外務大臣に手渡したが、広田は状況は変化していると考えていた。

 12月8日、南京外郭陣地の板橋、牛首山、淳化鎮、湯水、龍潭などが陥落した。

 12月9日、日本軍が南京光化門に侵攻し、司令官の松井石根は唐生智に南京からの撤退を勧告した。

 12月10日、日本軍は南京を総攻撃し、雨花台、光化門、紫金山などで戦闘が激化した。

 同日、傀儡の「山西省自治政府」が太原に設立された。

 12月12日、南京の雨花台、紫金山などの要地が陥落し、日本軍は中華門を突破し、唐生智は蔣介石の命令に従って国軍に南京城から撤退するよう指示した。この南京防衛戦で、国軍の死傷者は5万人に達した。

 同日、日本機は西安、洛陽を爆撃した。

 同日、日本機は安徽省和県の長江上で、モービル石油船など商船3隻を護衛していた米艦「パナイ号」を撃沈させ、4人が死亡、重軽傷48人となった。(筆者後述)

  12月13日、日本軍は南京を占領した。蔣介石は抗戦継続の決意を重ねて表明したが、南京はここからほぼ二週間で30万人を超える軍民が虐殺された。

 同日、米哲学者デューイ、科学者アインシュタイン、英哲学者ラッセル、仏作家ロマン・ローランが連名で日本の中国侵略を非難した。

 12月14日に日本は北京に偽「中華民国臨時政府」を設立した。

 12月15日、国民政府は8月から11月末までの間に日本機300機を撃墜したと発表した。

 同日、日本軍は揚州、当塩、蕪湖を占領した。

 12月16日、日本軍は南京を占領した後、さらに3路に分かれて侵攻した。一路は長江対岸の浦口から津浦路で北に向かい、二路は鎮江から渡河して揚州を経由して江蘇省淮陰へ、三路は安徽省和県で川を渡り、合肥へ侵攻した。

 12月17日、日本軍は南京入城式を行い、松井石根と長谷川が行進を率いた。翌日、松井石根は日本軍将校に訓示し、南京での日本軍の蛮行が皇軍の面目を潰したと述べた。

 12月18日、国民党軍は青島撤退を前に、日本人紡績工場を爆破し、第3艦隊所属の軍艦と汽船10隻余りをすべて青島大港湾道に自沈させた。

   ▷ 12月21日、日本軍は浙江省西孝豊を占領、さらに翌日浙江北部莫干山、武康、双渓を陥落させ、23日に安吉県、24日に孝豊鎮を陥落させ、湖州市の各県は日本軍の手に落ちた。

 同日、広田外相はディクソン駐日独大使に「日中和平交渉の基本条件」を渡したが、条件は厳しかった。

 12月23日、日本軍は浙江省長安、瓶窯、余抗を陥れ、3路に分けて杭州に侵攻した。

 同日、偽「南京自治委員会」が設立され、陶錫山が委員長となった。

 12月24日、杭州が陥落し、国軍は銭塘江鉄橋を爆破し、江を隔てて日本軍と対峙した。(筆者後述の「第百一師団の杭州への侵攻と占領後の蛮行」参照)

 同日、北京に傀儡「新民会」が設立され、王克敏が会長となった。

 12月25日、日本軍は浙江省富陽、山東省周村を占領した。

 12月26日、ドイツ大使のトラウトマンは日本講和四条件を孔祥煕に送った。この四条は、一)中国政府は反日、反満政策を放棄する、二)必要な地域に非軍事区と特殊政権を樹立する、三)日、満、中と経済協力協定を締結する、四)中国は日本の賠償金に対応する。12月27日、蒋介石は国防最高会議を主宰し、今は降伏以外に平和はなく、抗戦を捨てれば生き残れないと述べた。

 12月27日、日本軍は済南を占領、29日には偽「済南治安維持会」が設立された。

 12月28日、山東省黒鉄山で抗日武装蜂起が行われ、山東人民抗日救国軍第5軍が成立した。

 12月29日、浙江第三戦区の一部が富陽を取り戻した。

 12月30日、日本機40機が広州を襲い、学校数校を破壊し、数十人が死傷した。

 12月31日、蔣介石は戦地難民救済方法を公布し、船と車両の交通機関を可能な限り配置して支援するよう命じた。

 12月、東北抗日ゲリラ戦はクライマックスに達した。吉林省南部と遼寧省東部で活動している抗日連合軍第1路軍は、廟嶺、老嶺、本渓、長岡などの戦闘の勝利を収め、吉林省北部と黒竜江省北東部及び松花江下流地域で活動している抗日連合軍第3−11軍も、相前後して土龍山、青龍山、聚宝山及び通北、徳都などの戦闘の勝利を収め、これらの地域の日偽統治に大きな脅威を与えた。 1938年(昭和13年)1月1日、日本軍は泰安を占領し、4日、曲阜と燕州を占領、 8日、済寧を占領した。

満州地区での関東軍の蛮行

 筆者注:日本の歴史資料には、この年の7月の盧溝橋事件に至るまでの日本の関東軍が起こした事件や小衝突などの記載がほとんどない。前年の12月までも既述のように関東軍による満州占領下の抗日組織による事件は継続的に起こり、その拡大政策による軍事衝突も同様であり、この年に入ってはなお増えていて(上記の「出来事」参照)、それがスルーされるのはおそらく歴史家の人々にとっても、この1937年(昭和12年)は(それまでの延長上に過ぎない)盧溝橋事件に一気に目が移ってしまうからではないのかと思われる。筆者の場合、この半年間が何もないはずはないと中国側の資料を調べるに至った。以下は盧溝橋事件までに関東軍の起こした事件の被害側の記録である。(『侵華日軍暴行総録』河北人民出版社、その他より)

【新賓紅廟子大虐殺】

 1937年(昭和12年)1月、新賓県紅廟子の地主崔振海は偽県警務科特務股日本指導官と死刑執行人「金大刀」に密告し、紅廟子村民は「紅軍」(すなわち抗日軍)とつながりがあると伝えた。28日、崔振海は日本守備隊と捜査班を連れて自動車に乗って紅廟子を襲撃し、「配給品を出す」と称して、村民に受け取りに来るように通知した。村民が紅廟子郷警察署分駐所の門前に集まると、日本守備隊、捜査班などの軍警が村民を包囲し、王育臣ら8人を逮捕、県城に連行して殺害した。その後、崔振海は東金溝の楊秀峰らが楊靖宇(東北抗聯第一軍司令、政務委)が開いた会議に参加したことがあると密告した。日本軍はすぐに東金溝を包囲し、その場で6人を射殺し、500人余りを逮捕し、自動車で分けて県城に護送、疑いのない200人余りを解放したが、残りの300人はすべて県街北山で日本軍に殺害された。(遼寧省編)

【新賓県の村にて】

 春頃、関東軍三人の日本兵が新賓県岔路子付近の干溝子で山林隊「平東洋」部隊に射殺された。関東軍は報復としてまず干溝子屯を飛行機で爆撃し、そこから関東軍が村に入って人を見ると殺し、家を見ると焼き、屯内の26戸と近くの住民の老若男女は1人の子供を除いてすべて殺された。赤ん坊は投げ出されて死に、女性は腹部を切り裂かれた。家畜や家禽類も例外ではなかった。(遼寧省編)

【清原県夏家堡子区の惨事】

 3月7日、商家堡子村民は竜抬頭という伝統的な祭りを楽しむために、朝食を食べようと準備していたところ、突然土匪(ゲリラ)の一団が村に入り、一部の村民を捕まえて彼らのために朝食を準備させた。清原の日本守備隊が夏家堡子に駐留していたが、土匪が蔭家堡子にいるとの情報を得て、直ちに出動し商家堡子を襲ったが、山頂で土匪と撃ち合い、日本軍は二名射殺された。日本守備隊は2つの自軍の死体を担いで村に入り、青壮年12名の民を捕まえて、日本兵の死体を担がせ、村を出ると守備隊長の忽路大尉は、村中の男を捕まえろと命じ、家々を捜して男を見つけて連れ出した。捕縛者が村の中心に集まったとき、住民は大惨事を予感した。老住民の申慶豊は自分の安危を顧みず、日本軍守備隊長の忽路大尉に、「我々村民は皆この堡子人で、自分の分を守って生活する良い農民だ」と言ったが、一人の日本兵が足で申のあごを蹴飛ばした。忽路大尉は連行された36名の農民を井戸台の上にひざまずかせ、日本軍はその東側に機関銃2挺を構えた。忽路が手を振ると、機関銃が猛烈に掃射し、全員が倒れ、血の海となった。銃声が止んだ後、日本軍は無惨にも被害者を一人一人調べ、死んでいない者を発見すれば銃剣で刺した。70歳を過ぎた尚徳恩老爺は日本軍に足で蹴られ、「ふん」と鼻を鳴らしたが、胸にまた銃剣で刺された。36人の被害者のうち、辛玉山だけが生き残った。孟老爺は家の中に隠れていたが日本軍に発見されて、その場で銃剣で殺された。(遼寧省編)

【吉林省柳河県での集団虐殺】

 関東軍長島玉次郎工作班は1936年(昭和11年)8月25日、抗日義勇軍の趙明思を誘降させ、趙を通じて抗日武装の四海山部隊を相次いで瓦解させ、次に抗日義勇軍第3軍司令官老常青を誘捕し、その部隊を吸収・編成した。しかし、日軍当局は降参した趙明思を信頼せず、元四海山と老常青の部隊も安心できないとし、11月、長島が献策し、柳河県孤山子に居座っていた関東軍顧問駒井中佐が150人を率いて、三つの部隊70人余りを武装解除し、彼らを孤山子鎮に拘禁した。

 1937年(昭和12年)3月、長島玉次郎は軍に命じてこの70人余りを柳河県山城鎮交に同地を占領していた日本軍独立守備隊歩兵第5大隊に連行し拘禁し続けた。4月、山城鎮警務統治委員会が山城鎮で開かれ、拘禁されている中共党員、旧部隊と抗日活動に参加した農民146人をそれぞれ集団殺害したと明らかにした。人数が多いため、老常青などの元の三隊は独立守備隊歩兵第五大隊長鈴木大佐が担当し、特別に護送して清原県飛行場で集団殺害した。中共軍の幹部18名、抗聯戦士及び抗日組織に参加した農民34名は、山城鎮警務統治委員会によって虐殺された。(遼寧省編)

【愛国志士の惨殺】

 4月24日、日本軍守備隊200人余りと30人余りの警察が出動して、将賽馬集付近村屯と抗日軍に連携のある民衆(一部村長、屯長を含む)を捕まえた。彼らのうち、競馬集と草河掌村の村長である曹学蘇、陳文涛、幸福屯の張鍛冶屋、草河口の商人の鞠など計32人は、有賽馬集の偽警察署の監獄に収監された。5月10日午前、日本軍守備隊は愛国者32人を北山の下の老爷廟前の刑場に連行した。日本軍は愛国志士に跪くように命じたが、志士たちは毅然と屹立して不屈を示し、日本軍の小島隊長と通訳の金大牙を怒らせた。金大牙は大刀を振り、二人を先に斬り殺した。志士たちは怒りの炎を噴いて、一斉に人斬り役人に迫った。小島隊長はあわてて機銃掃射を命じ、銃声とともに志士たちは血溜まりに倒れた。凶暴な日本軍はまた銃剣で犠牲者の胴体を激しく刺し、最後にはガソリンを志士たちの上にまき、焼いて罪状を隠そうとした。(遼寧省編)

【伊通県列車転覆事件】

 1936年(昭和11年)冬(12月)、張学良将軍の内従兄銭輔廷は銭富徳と接触し、日本軍の運輸線を破壊する命令を伝えた。1937年(昭和12年)7月18日、銭富徳は20日夜に日本軍の特急列車が通過するという情報に基づき計画を練った。20日午後10時、満井河(今沙河子)鉄橋の北端に到着し、銭富徳が指揮し、銭富厚と現場の南北両端で警戒に立ち、銭富恩、郭孝田、蒙氏兄弟と王氏兄弟がレールをはぎ取り、撤去した。21日午前0時30分、ハルビン発大連行きの軍用特急列車が転覆した。敵の日報によれば、死者5人、負傷者64人。日軍当局は直ちに四平の日本憲兵隊、警察署を動員して、捜索を開始した。派遣された営城子警察署長陳久香は蒙氏兄弟を探し出し、続いて郭孝田、銭富徳らを逮捕し、銭家の12歳から72歳までの男と銭家の親友、満井鉄道の従業員22人を連行して、四平市で拘禁し、終日毒をもって自白させた。7月24日午後、大型トラックで22人を第八師範学校西塀外に掘られた大きな穴の前に護送し、22人を穴の前にひざまずかせ、目隠しをさせた。そして日本兵と警察が刀で被害者を一人一人切り倒し、穴の中に蹴り入れ、直ちに埋めた。(吉林省編)

【蕪湖市無為県への爆撃】

 5月31日、東北の方向から飛んできた日本軍の18機が3つの編隊に分かれて、安徽省蕪湖市無為県に飛来、順に機銃掃射し、さらに焼夷弾を投下、無城精華の草市街、鵞鳥市街と米市街を爆破して、古くて綺麗で雄大な壮観の濡江楼(鼓楼)は壊され、倉埠門から大東門までの川沿いの船着き場の船民と避難民は、日本機によって織布のように掃射され、無数の死傷者を出した。続いて6月2日、日本機は蕪湖市無城十字街を爆撃し、復勝祥雑貨店、永興隆雑貨店、中孚灯油スタックなどの屋号が爆破された。日本軍は何度も無城外を爆撃したほか、また村を爆撃し、多数の民衆を爆死させた。

 筆者注:日中戦争開始以前の1936年において、このような本格的爆撃をしたのは何のためかは不明で、他に例がない。場所的にも規模からしても関東軍の飛行隊とは考えられず、ひょっとしたら二ヶ月半後から展開される攻撃を想定した海軍の実地演習かもしれない。ただこのような日本軍の爆撃は、8月中旬以降連日、また1日に何度も中国各地に分散して行われ、その無差別爆撃の実態については筆者の『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』を参照されたい。

 またこの無為県において、翌1938年(昭和13年)8月14日、日本軍は無城、黄雒、倉頭、虹橋、襄安などを占領した。無城を侵犯する時、商民郭子儒、画家王鶴など8人を殺して、そしてガソリンを撒いて繁華な米市街及び十字街を燃やし尽くした。襄安に侵入したときは、三日間で町の民家の80%を焼き、無辜の民82人を虐殺した。さらには1940年(昭和15年)10月27日午後、日軍警備隊長滕本は軍200人余りを率いて無城、黄雒から倉頭に行き、付近の村を包囲し、倉頭西街塘場基上に住民130人余りを集め、銃殺、刀刺や逃走時に水浸しになって死亡した者は80−90人に達し、多くの婦女が強姦され、行く先々で食糧や家畜が略奪された。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

日中戦争に至るまで

蘆溝橋事件

 7月7日、北京西南方向の盧溝橋付近において日本軍駐留部隊の夜間演習中に中国国民革命軍との間で発砲事件があり、その発砲をきっかけに交戦状態となったが、真相不明のままの偶発的な衝突であったとされる。この時の日本軍は支那駐屯軍といい、義和団事件(北清事変)後の1901年(明治34年)に締結された北京議定書で、清が外国軍の北京や天津への駐屯を認めたときに設置された軍隊である。その後列強諸国はほとんど撤兵したが、日本はこの時の駐屯権を邦人保護を理由に継続して北京と天津に支那駐屯軍を置き、演習などをつづけていた。日本の天津駐屯軍は二千人規模であったが、前年の1936年(昭和11年)5月に五千人へ増強されることになった。その理由は中国共産党軍が、北京や天津のある河北省の西隣である山西省に突如姿を現したため、これに対抗すること、急増する日本居留民を保護することなどであった。そして一年後のこの頃には居留民は六、七千人になっていたとされる。この増派軍を中国軍も駐屯している北京からわずか4kmの豊台という場所に駐留させ、それによりたびたび双方の兵による小競り合いが起きていた。またこの増派軍により、中国側の抗日運動はよりいっそう激しさを増していた。

 筆者私見:もとはといえば盧溝橋事件はこの駐留していた日本軍守備隊が誘導したと言えるが、このような日本軍のけじめのない行動は、1918年(大正7年)に始まるシベリア出兵(筆者の『日本の戦争:大正時代(1912年−1926年)』参照)も同様で、その時も列強諸国が役目を終えたとしてシベリアから撤退したにもかかわらず、日本軍は残留し、そればかりかさらに奥地へと侵攻し、ロシア側に多くの禍根を残した。これが後の太平洋戦争敗戦間際の満州へのロシアの突然の侵攻作戦につながっていないとは言えない。

 以下は『昭和史』(半藤一利:平凡社 2009年)からの要約である。

 7月7日夜、天津駐屯の第一旅団第一連隊第三大隊が演習をしていたところに、北京の方向で同じく夜間演習をしていた中国軍側から数発の実弾が打ち込まれてきた(あるいはその後も打ち込まれた)。その時、日本側の中隊の一人の兵士が見当たらず、「一人行方不明」として探していたが、その不明者は近くに立ち小便をしに行っていてすでに戻っていた。当の兵隊も自分のこととは知らず、一緒になって不明者を探した。そこへ日が変わった未明の三時半頃、西の方からまた銃弾が飛んできた。その報を受けた連隊長の牟田口廉也大佐は、「敵に撃たれたら撃ち返せ」という命令を発し、それによって中国軍も後退し、日本軍も同様に後退して本格的な衝突は避けられた。そこから9日未明になって停戦協定が結ばれた。(この事件は中国では一般的に「七七事変」と呼ばれる)

 ところが連隊長の牟田口は、「中国側が協定を守るはずがない。その時に遅れをとってはならない」として、10日朝、第三大隊に第一大隊も加え、中国軍主力が配置されていると思われる宛平県城に向かって前進をさせた。そして午後四時頃、進軍してきた日本軍に数発の小銃弾が打ち込まれた。指揮所で報告を受けた牟田口連隊長は「やっぱり敵は協定を守るつもりはない」と、強引に第一・第三大隊に攻撃命令を出した。結果的に日本軍は宛平県城を攻略し、中国軍を撃破した。

 ちなみに半藤氏の見るところでは、「牟田口は二・二六事件で中国に左遷され、それが不満でここで殊勲を上げて無念を晴らしたい思いがあったのではないか、日本にとっては不運なことであったが」ということである。さらにはこの牟田口は太平洋戦争で東南アジア戦線に転じ、1944年(昭和19年)3月、山岳地帯を行軍させるという無謀なインパール作戦を強行し、日本軍に戦死よりも餓死・病死で多大な犠牲を強いたことで知られる人物である。

北支事変:不拡大方針から派兵増員決定

 そこから再度日中双方の交渉が行われ、日本側は「謝罪/責任者の処罰/盧溝橋付近からの撤退/抗日団体の取締」を骨子とする要求を出し、現地では7月11日夜に停戦の合意が成立した。しかし軍内部にもこの際一気に華北を占領しようとする拡大派と、事態の収束を図ろうとする慎重派に分かれていて、この拡大派の中に陸軍参謀本部作戦課長として対中国強硬政策を主張する武藤章がいた。実は6年前の満州事変を主導した石原莞爾は今回は不拡大方針を採り、増兵に反対し、その頃の部下である武藤章や当時の関東軍参謀長東條英機らと対立したが、この拡大方針の流れを止めることはできなかった。また石原は当面の脅威はソ連であり、遠くは日米決戦を見据えていて、そのために力を温存しておくべきとの考えであったとされる。ともあれすでに現地作戦を担う武藤らは7月8日の時点で内地から三個師団と航空隊十八個中隊を派遣する案を策動し、10日には陸軍省と参謀本部の間で関東軍と朝鮮軍(いずれも占領地区の守備部隊)、さらに内地軍と航空部隊の華北への派兵案がまとめられ、翌11日に近衛文麿内閣の閣議において陸軍の提案が承認され、「(北支)派兵に関する政府声明」が発表された。以下はその内容である。

 —— 「相つぐ支那側の侮日行為に対し支那駐屯軍は隠忍静観中の処、従来我と提携して北支の治安に任じありし第二十九軍の、七月七日夜年蘆溝橋附近に於ける不法射撃に瑞を発し、該軍と衝突の已むなきに至れり。為に平津方面の情勢逼迫し、我在留民は正に危殆に瀕するに至りしも、我方は和平解決の望を棄てず事件不拡大の方針に基き局地的解決に努力し、一旦第二十九軍側に於て和平的解決を承諾したるに不拘、突如七月十日夜に至り、彼は不法にも更に我を攻撃し再び我軍に相当の死傷を生ずるに至らしめ、而も頻りに第一線の兵力を増加し更に西苑の部隊を南進せしめ、中央軍に出動を命ずる等武力的準備を進むると共に平和的交渉に応ずるの誠意なく、遂に北平に於ける交渉を全面的に拒否するに至れり。以上の事実に鑑み今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし。…… (筆者注:この経緯については上記の中国側の「1937年の出来事」の記述も参照されたい)

 よって政府は本日の閣議に於て重大決意を為し、北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり。然れども東亜平和の維持は帝国の常に顧念する所なるを以て、政府は今後共局面不拡大の為平和的折衝の望を捨てず、支那側の速なる反省によりて事態の円満なる解決を希望す」

 合わせてこの日の閣議では現地解決、不拡大方針を決定するという矛盾した発表がなされている。この結果、政府は建前上では7月17日に中国に不拡大方針を通告しつつ、8月15日には上海事変勃発によりそれを放棄するが、すでにこの7月10日には開戦を意識していたことがわかる。その証拠は一日おいた12日早朝に全国に発布された召集令状である(次項参照)。

  この11日の「政府声明」において、この事件を「北支事変」と名付け、今回の事件は中国側の計画的武力行使であり、大日本帝国はこれに対して自衛権(これも明治以来のいつもながらの理由、つまりこの場合北京・天津地区の日本人居留民を保護するため)を行使するとして五個師団の派兵(増員)が妥当とし、20日、日本国内から三個師団(第五・第六・第十)、満州から二個旅団、朝鮮(当時は日本の植民地)から一個師団の約21万人の軍隊を派兵することに決定し、天皇に上奏された。それにしてもそれまでの6、7千人の駐留軍から一挙に21万人とは、この機会に中国軍(少なくとも華北)を一気に叩いて占領してしまおうという日本軍の下心があったとしか思えない。

 日本軍の出兵には天皇の承認が必要となるが、杉山元陸軍大臣が出兵許可を請うたとき、昭和天皇に解決の見込みを問われ、派兵目的は「威力誇示」であり、「事変は一か月くらいで片付きます」と安易に答え、相手が簡単に屈服するという印象を天皇に持たせたが、これには満州以南の華北全体を日本軍の支配下に置く狙いが根底にあり、杉山の天皇への返答はその場のごまかしに過ぎない。

異様に早い召集令状発布

 陸軍の対応は驚くほど早く、陸軍参謀本部は「政府声明」の翌日7月12日早朝に、全国の軍区別にそれぞれの司令官から各市町村長宛に緊急電報を発し、「一触即発の危機まさに爆発し、政府は重大決意を声明せり。各位は率先決起、国論の統一強化に任じ、国策の遂行に邁進せらるること」として動員令を発し、これにより各警察署が住民の中から徴兵資格のあるものを任意に選択し、各市町村に「召集令状」を届け、役所の兵事係員がそれを受領し、そこから係員が(駐在所巡査が付き添って)本人あるいは家族に直接配達する。令状は仮に深夜でも即時に配達される。召集令状はその色から赤紙と呼ばれた。当初は真っ赤だったが、戦時の物資不足による染料の節約で次第に地色が薄くなり、その後の太平洋戦争ではピンク色であった。

 筆者注:この時期の召集は大変名誉なことであり、その町村で壮行式が行われ、万歳三唱で送り出される。仮に召集に応じないとするなら、天皇の命に従わないことになり、大罪に等しく、逃亡などすれば家族にまで累が及びいわゆる村八分となる。またこの召集は本人の置かれた状況による配慮はなく、結婚式を挙げたばかりの男性や、親が病床に伏せり介護をしなければならない男性も否応無しであった。

 明治以来この時期に至るまで、20歳に達した成人男子は全員徴兵検査を受けることが義務付けられていて、あらかじめ健康状態や体力により甲乙丙種に分類され、その優先順で召集された。ただ太平洋戦争開始後は、戦線拡大と戦死者が増えるとともに兵員不足となり、丙種も動員されるばかりか、次第に年齢が下げられ、学徒動員につながっていく。逆に年齢の上限も上げられ、45歳までの中年男性も召集の対象になって行くが、若者は東南アジアなどの激戦地、高年齢の場合、中国の守備部隊への動員が多かったようである。高年齢者の行軍はその姿に覇気が見られなかったというが(それは容易に想像できるとして)、筆者があれこれ調べていった中での私見では、高年齢の兵士ほど虐殺や暴虐行為に関わる可能性が高かったように思われる。

メディアの煽動

 この時代、新聞各紙は日本軍の駐留地に特派員を送っていて、ちょうど前年より開発された携帯用無線電話機と携帯用電送写真機により前線から記事と写真を電送することができるようになり、日本への速報が可能になっていた。例えば朝日新聞は、日中戦争の端緒となった7月7日の盧溝橋事件に際しても翌日8日発で「硝煙の戦線を行く」として扇動的な記事を送ってきた。また東京日日新聞(現・毎日新聞)は9日号外で中国軍部隊が日本部隊に不法発砲したと報じた。このような報道が早くも国内には臨戦体制に突入との話になったのかどうか、11日に銀座で女子店員15人が昼休みを利用して出征兵士のお守りとしての千人針を町行く人に依頼、翌日の新聞には「千人針に示す銃後の赤誠」と報道され、以降千人針が全国的に広がった。12日の新聞は、現地の停戦協定成立など無視して、政府が重大決意し派兵を決定したことについて大々的に報じた。

 そこに内務省警保局は13日、「時局に関する記事取扱に関する件」として、「反戦または反軍事的言説/我が国民を好戦的国民なりと印象せしむるが如き記事/殊更に我が国を誹謗しまたは不利なる記事を転載する」こと等を禁止すると各社に通達した。これは自分たちの現在の行為が侵略主義的で好戦的であることをむしろ表しているようであったが、このような軍政府の危惧は無用の心配事で、新聞各社は競って日本軍の侵略行動を加勢するように報道した。その翌月上海事変に至ると、新聞社は進化した報道機器を使い、8月14日の航空戦による上海市街地の惨劇を、その日の夕方には上海の支社から飛行機で福岡にデータを届け、福岡から東京や大阪の本社に電送するというやり方で、即座に号外を印刷して街中に配布した。こうした報道体制とともに日本国内は日本軍の活躍に湧き立ち、それに相応して新聞の売り上げは急速に伸びていった。さらには軍歌も量産され始め、これに新聞社も加わって軍歌も公募され、それも一層国民の戦争熱を煽った(軍歌については筆者の『日本の軍歌とその時代背景』参照)。

 7月12日、評論家・朝日新聞記者・近衛ブレーンである尾崎秀実が雑誌『改造』に「北支問題の新段階」と題する論文を掲載した。その論旨は「対中国戦争拡大を危惧する。出兵によってますます日中関係が悪化する。政府は中国を蒋介石の軍閥政府と見ているが、それは違う。全中国人民を相手にすることになる」という極めて正確な指摘であり、そしてこの戦争は尾崎の指摘通りの展開となる。後に彼はゾルゲ諜報団に連座してスパイ罪で逮捕・処刑されたが、実際には彼の分析力が優れていただけのことで、それが当時の軍政府を怒らせたわけである。(RO通信 2013/10/28:ライフビジョン 奥井禮喜コメントより)この日中戦争はこの後8年間、太平洋戦争敗戦まで続いていく。

 今ひとつ、半藤一利の『昭和史』から引用する。戦後も活躍した作家の野上弥生子が、1937年(昭和12年)の年頭(つまり盧溝橋事件の半年以上前)の新聞に書いたものである。

 「…… たった一つのお願いごとをしたい。今年は豊年でございましょうか、凶作でございましょうか。いいえどちらでもよろしゅうございます。洪水があっても大地震があっても、暴風雨があっても、…… コレラとペストが一緒にはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように」。

 これほど心に響く訴えはない。しかしこれが当時の軍政府にはまったく届かないのは普通のこととしても、国民のどの程度の人々に響いたであろうか。前年から国内全体の雰囲気が戦争へと向かっていたことを表す憂慮の言葉であろうが、すでに国民の大半も戦争へ向かう雰囲気に飲み込まれていたことは確かである。そもそも、これを載せた当時の新聞社が、本当に野上の真意を汲み取って載せたのかどうか、怪しいものがある。この後日中戦争が実際に始まって世間をさらなる戦争拡大へと扇動したのは新聞社であった。いずれにしろこの野上の訴えは、この後の太平洋戦争を含めた8年間の戦争によって、内外に数千万人の犠牲を出していくことを予感させ、その悲惨さを思うと涙が滲むものがある。

蒋介石の「最後の関頭」演説と日本政府の対応

 一方、 同じ月の7月12日に蒋介石は前線の第29軍軍長の宋哲元に対し、「不屈服不拡大」方針によって、現地で日本軍に抵抗するよう指示する。日本側は中国側司令官(宋哲元)らの陳謝などの条件を示したが、17日、蒋介石は日本側の要求を拒絶して廬山談話を発表。そこで「満州が占領されてすでに六年、それに続いて塘沽停戦協定を強制され今や敵は北京の入り口である盧溝橋にまで迫っている。もし盧溝橋が占領されれば北京は第二の瀋陽(奉天)になってしまい、そうなれば河北省、察哈爾(チャハル)省も東北四省(満州)になるであろう。さらに南京が北京の二の舞を演じないわけがあろうか」と正当な見解を述べ、「地は南北を問わず、年は老幼を問わず、何人も皆守土抗戦の責任を有する」、「最後の関頭に立ち至れば徹底的犠牲、徹底的抗戦により全民族の生命を賭して国家の存続を求むべき」(関頭=物事の大きな分かれ目・瀬戸際)と述べて、『抗日全軍将兵に告ぐ!』としていわゆる「最後の関頭」演説を行ない、最後には「万悪の日本軍を駆逐し、以て我が中華民族の復興を図ろうではないか」と結んでいる。そうして蒋介石は中国共産党と協議し、一緒に抗日統一戦線を組むことになった。以下は『中国抗日戦争大事記』からの談話の内容である。

 「平和が絶望する1秒前に、私たちはやはり平和的な外交方法によって、盧件の解決を求めたい」と提案し、中国政府の立場は、「一、いかなる解決も中国の主権と領土の保全を侵害してはならない。二、冀察の行政組織は、いかなる非合法な改変も許さない。三、中央政府が派遣した地方官吏、例えば冀察政務委員会委員長の宋哲元などは、誰も更迭を要求することはできない。四、第29軍が現在駐留している地域は、いかなる制約も受けてはならない」とし、最後に「われわれは平和を望んでいるが、いい加減な安定を求めず、応戦を準備しているが、決して戦争を求めない」と述べ、「もし戦争が始まったら、地は南北、年は老若を問わず、誰しもが土地を守って抗戦する責任があり、すべてを犠牲にする覚悟を持つべきである」とした。

 7月29日、昭和天皇から近衛文麿首相に、「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」との言葉があったというが、近衛という人物は皇族系で穏健派に見えながら時勢に流されやすい優柔不断な面を持っていて、結局は軍に逆らうような態度は持ち得なかった。むしろ下手な(つまり客観性のない)正義感で動くような面があったから、翌月に「暴支膺懲」(横暴な支那=中国を懲らしめる)のような宣言を発表し、本格的な戦争に突入、その後さらに「国民政府を相手とせず」と宣言し外交関係を遮断し、交渉の糸口を自ら絶ってしまった。こうして宣戦布告は行われないまま事実上の戦争となったが、戦闘が上海に拡大した後の9月に北支事変を支那事変とした。本来北支=華北、つまり北京以北に対する戦略をそれ以南に拡大するものとなり、日本軍にとって盧溝橋事件は結果的に中国に対する全面戦争に突入する口実となり、またこれがその後8年も続き、中国国民に膨大な犠牲を生じさせることになったし、さらに4年後の米英を相手とする太平洋戦争の引き金ともなって(その直前まで近衛は三度目の首相となっていた)、米国だけでなく東南アジアの人々をも数々の戦火の中に引き込むことになった。

平津作戦(北京・天津占領)

  盧溝橋事件の4日後の7月11日、日本軍は植民地朝鮮軍所属第20師団を異動させ、山海関から入り、北平南側地区及び天津一帯に至った。7月25日、第20師団が中国軍と廊坊で衝突(廊坊事件)、26日夜、中国軍は廊坊西北地区に退却し、日本軍は廊坊を占領した。同日、北平(北京)居留民の生命財産と安全を図るとの名目で日本軍の大隊が26台のトラックで北京城内の日本兵営に向かった。それに対し中国軍は手榴弾と機関銃の猛射による攻撃を加え、日本軍の隊列は広安門で分断された(広安門事件:この広安門事件と先の廊坊事件を日本側では日中戦争拡大に関わる事件としてタイトルをつけて扱うが、筆者の見解では一連の流れの中の小さな衝突事件で、日本軍が難癖を付けた材料に過ぎないし、日本の軍政府はすでに11日の朝鮮軍第20師団の動員に見るように国内からの増派を決めていた)。そこで支那駐屯軍司令官香月清司は中国軍に、「27日正午までに八宝山・盧溝橋付近の中国軍を長辛店に撤退させ、28日正午までに、北平(北京)市内および西苑の中国軍は永定河以西に撤退させよ」との最後通牒を発した。しかし日本軍は中国側の返答を待たず、27日に団河、通州(通県)、小湯山を攻略し、南苑、北苑、黄寺、沙河などに進撃し、大紅門地区に出て南苑から城内への道路を遮断し、中国軍の撤退を阻止した。さらに28日、支那駐屯軍は派遣部隊の増援(第六師団など)と航空機、砲兵の支援を受け、北平南苑の中国軍に猛攻撃を加え、国民党守備軍は5000人以上が戦死し、南苑兵営で軍事教練をしていた学生の大部分も殉国し、中国軍は保定に撤退、北京は陥落した。

 この時、天津の日本軍は手薄になっていて、7月28日夜半から中国軍の反撃が開始され、天津の日本軍司令部や飛行場に攻撃があり市街戦が生じた。これに対して日本軍は29日に大反撃を開始、陸軍航空隊が、天津市内の北駅、東駅、市政府、警察署、裁判所、造幣廠、津浦電台(電話局)などに対して爆撃を行った。その結果、北京鉄路管理総局ビルは廃墟と化し、南開大学構内の秀山堂、図書館、文法学院、教室、宿舎などが破壊された。中国側は 「日本軍の残忍な爆撃により、天津で市民2000人以上の死傷者がでた」としている。これに加えて日本軍艦船5隻が大沽口岸を砲撃、中国軍は反撃するが、午後、海軍陸戦隊は上陸を強行し、飛行機の支援爆撃の下、中国守備軍を撃退、翌日日本軍は天津市街を占領した。(筆者注:南開大学図書館にあった20万冊に及ぶ書籍は日本軍に略奪され、戦後に返還された本はその一部の450冊余りだったという。おそらくその多くは日本の大学などに残っているであろう)

 北平(北京)・天津を平定した8月1日、日本軍は平津(北京と天津)治安維持委員会を設置し占領統治を開始した。なお当時の北京市民によれば、北京入りした日本軍の規律は悪くなく、殺人もせず、店は閉められていたが店に押し入るようなこともなく、日本兵は外で弁当箱を持参して食べていたという。これは従前から現地に駐留していた支那駐屯軍の行動であろうと思われ、この後急遽日本全国から新たに召集され投入された将兵による侵攻作戦にあっては日本軍の「軍紀」のあり様はガラリと変わっていく。(以上は各種資料を混成)

 実際に七月末に新たな派遣部隊として山海関から天津に入って警備を担当した第六師団の兵士の証言がある。

 —— この警備に就いている時に、敵の敗残兵が民間人の中に紛れ込んだ便衣隊との戦いがあった。いきなり攻撃され多くの戦友が血を流した。この時から中国人を敵として憎むことを知り、殺すことを意識した。でなければいつ自分が殺されるかわからない恐怖があった。そうして多くの捕虜を殺した。上官からの命令で「肝試しにやってみろ」と言われて、手足を縛り身動きのできない捕虜を皆が銃剣で突き刺し、腹わたの奥を抉るのだ。断末魔の叫びをあげてのたうち回る者、流れる血、噴き出る贓物、うめき声に満ちた処刑現場はまさに地獄絵図であった。

(『揚子江が哭いている —— 熊本第六師団出兵の記録』創価学会青年部編:第三文明社、1984年)

居留民の引き揚げ

 日中両軍の小規模の戦闘状態が続く中、各地で日本の居留民に対する抑圧が高まり、日本政府は7月28日、8月9日までに揚子江沿岸の邦人を上海に引き揚げさせるように指示した。まず漢口(武漢)の居留民一千人は8月5日の夜から揚子江上の日本船二隻に乗って引き上げることになり、それに下流の九江、南京、蘇州、蕪湖の居留民も乗り込み、その後も上流にある重慶、宜昌、長沙の居留民と漢口の総領事館員たちも9日までに輸送船で引き上げた。これに関し当時の記事は、「かくの如く、長江沿岸の邦人を全部引き揚げることは、多年培養した権益を一朝にして放棄せざるを得なくなったわが方の犠牲は極めて莫大である」としているが、日本軍が侵攻作戦を優先させ、戦火の拡大を狙った結果である。ともあれまだ残留日本人はいたが、中国軍は日本海軍が上海から南京に砲艦を向かわせるのを防ぐべく、南京下流約100kmの江陰に船を沈めて航路を塞いだ。そのため南京大使館員や多少の居留民が残された。そして中国国民党正規軍が上海を囲む動きを見せると、上海の租界以外に住む日本人も租界に避難するようになったが、日本陸軍の上海派兵が決定されると、事前に日本人居留民2万9千余人を帰国させるべく、まず艦船などに避難させた(それでも約1万名が残留した)。また8月16日までに南京に残された145名の日本人は鉄路などで脱出、青島に着き、そこから帰国の途についた

通州事件

 7月29日未明、北京の東方向にある通州において多くの在留日本人が、日本軍の傀儡政権である「冀東防共自治政府」の保安隊に虐殺される事件が起きた。これは、冀東保安隊が国民政府革命軍に買収され、あるいはそそのかされ、上記の平津作戦のために日本の支那駐屯軍部隊が動員されて手薄になった時を狙って、日本軍守備隊を含む居留民を急襲して二百数十人が殺害された。

 これは冀東保安第一総隊(2000名)、第二総隊(2000名)、教導総隊(1300名)及び警衛大隊(500名)からなる5800名による反乱であった。警衛大隊の隊長は反乱に反対したため、第一総隊隊長張慶余に銃撃されたが、一命はとりとめた。反乱した保安隊はまず冀東防共自治政府を襲撃して日本人顧問を殺害、殷汝耕長官を拉致し、他の一隊は通州城内の日本守備隊、特務機関、領事館、警察署を襲撃し、特務機関は細木機関長以下殆ど殉職、領警署員全滅、城内の日本人居留民は守備隊に避難収容された135名以外の250名余りの老若男女が虐殺された。30日午後通州に急行した支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、「飲食店の旭軒では40から17 、8歳までの女7、8名が強姦後、裸体で射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものであった」とある。さらに暴徒となった保安隊は日本関連施設のみならず冀東政府、冀東銀行などから掠奪を行った。

 事件の翌30日、日本軍が通州に向かっている知らせを聞いた主犯の保安隊員たちは即座に逃亡を開始した。日本軍到着時にはすでに保安隊員たちの姿はなかった(この事件の主犯であった張慶餘は、通州事件後は中国国民党軍に属し、最終的に中将まで昇格している)。日本軍は30日午前、北京西北地区で逃走中の冀東政府保安隊約300人を攻撃し、さらに8月2日午前、日本陸軍飛行隊が通州より東方約8kmの燕郊鎮に集結していた冀東政府保安隊および29軍敗残兵約200人を爆撃した。これらの報道を受けて(例えば東京日日新聞は7月31日付号外で、「惨たる通州叛乱の真相  鬼畜も及ばぬ残虐」との見出しで報道、他紙もこれに続いた)、日本国内の対中感情は当然悪化した。

 この事件の残虐性は今もなお日本国内で語られ、何冊かの本にもなっているが、この五年前の9月に日本軍が行なった残虐行為として満州事変後の平頂山事件1932年:昭和12年参照)を対比してみることも必要である。これは前日深夜に中国のゲリラ隊に日本の経営する撫順炭鉱が襲撃され、それに対する日本軍の報復による村単位の集団虐殺事件であるが、この事件は日本ではまともに報道されることもなく、戦後かなり経って日本人ジャーナリストの取材などによって調査され、明らかになったことである。だからそのきっかけになった撫順炭鉱襲撃事件が取り上げられることも日本ではほぼない。それは連鎖的に平頂山事件を取り上げることになるからで、われわれ日本人にとって都合が悪いからであろう。

 満州事変後の日本軍(特に関東軍)が平頂山事件も含めて行ってきた数々の虐殺も含めた事件は、筆者のこれまでの記述を流し読みしていただければわかるが、実際にここから日中戦争開始以降の日本軍の起こした惨劇はもっと数が増し、その度合いも深くなっていく。いわゆる南京事件はそうした中での大きめの事件に過ぎないし、それだけを取り上げて論じていてはわれわれは大局を見失うことになる。ともかくどちらが残虐かというより、相手国への侵略行為が敵対的感情を生み、双方でこうした残虐行為はある意味必然的に生じ、そして戦時下にある限り日常的に繰り返されるということを理解すべきで、そのためにも自国に都合の悪い事実こそ教訓として表に留めておかないと、日本の教育的レベルが世界に疑われるだけである。

 筆者注:通州事件と似たように日本人居留民の多くが犠牲となったニコライエフスク(尼港)事件(1920年:大正9年)というものがある。これは日本軍がシベリアに出兵していた時に起きた事件で、その背景には日本軍の一方的な侵攻で、ロシア側に対して多くの犠牲者を出した結果という面がある。これも通州事件と同様に日本側が受けた悲劇として今でも取り上げられ、両方ともに一冊の本にもなっているが、その背景にある様々な日本軍の蛮行は、国内では誰も教えることがないからその実態は知られていない(筆者の大正時代の「シベリア出兵」の項を参照)。このシベリア出兵の時期に、ロシア、少なくともシベリアの人々は日本人に大きな恨みを抱いたと思われる。

 またこの通州事件がこの後の日本軍の南京虐殺につながるという説もあるが、それは詳しく調べない人たちの安易な連想であって、逆に中国側の立場からすれば通州事件のような反日的な事件はもっと多発していてもいいはずである。戦争というものは殺人を前提とする徹底的な無法状態の中で行われるわけで、戦闘中は相手を殺すか自分が殺させるかが全てであり、一つの町を占領してしまえば、その途中の戦闘で殺された戦友の仇を打つとして殺戮に及ぶことはあっても、通州事件を思い起こすようなことはあり得ないし、ずっと後年の兵士たちの証言からも聞いたことがない。あったのは占領地では何をしても許されるという無思考の精神状態であって、これは国際法云々という論議以前の問題である。実は国際法は戦争自体をやむ得ないものと許容しているので、何の役にも立たない。

 付記:8月5日の陸軍省の発表では、7月7日から8月3日正午までのわが軍の戦死傷者は、戦死364名、戦傷869名、合計1233名であった。一方中国側の死傷者は不明ながらも、日本側のおよその死体確認数では、1万950名となっている。ただ、これ以降が本格的戦闘に入るわけで、日本軍の早期終結との目論見は大きく外れ、太平洋戦争終焉までのほぼ8年間続く。これによって両軍の死者は膨大となり、日本側は総計44万6500人(陸軍38万4900人、海軍7600人、終戦後の死亡5万4000人=これはソ連軍の満州への急襲とシベリア抑留などによる)であるが、中国側はこの10倍ではきかず、民間人の犠牲が少なくとも一千万人単位であり、これに軍人の戦死者が加わる。

日本海軍の策謀

 8月に入ると上海では抗日運動がさらに激化していくが、もともと満州事変(1931年:昭和6年)から翌年の第一次上海事変を経てその抗日の根は深くなり、そこから日本人に対するテロ事件が増えていった。第一次上海事変は日本側の謀略によるものであったが、今回はこれまでに累積した日本軍の横暴に対する中国軍の抑えきれない反日感情からくる側面が大きかった。以下に述べる海軍の動きは、1932年(昭和7年)の第一次上海事変が起こされるに至った海軍の先走った動きとほぼ相似していて、第二次上海事変もあくまで海軍が主導し、陸軍は督促されて動いた経緯がある。

(以下は主に『日中戦争全史:上』笠原十九司:高文研、2017年より)

【海軍の早期臨戦態勢】

 この時期から遡ってほぼ一年前の1936年(昭和11年)9月3日、広西省北海で日本人商人が中国人数人によって殺害される事件が発生した(北海事件:前年参照)。その10日ほど前に起きた成都事件もあって、日本海軍は軍艦を派遣、また調査員を送った。ここには抗日の気運の強い軍閥の一つ翁照垣軍がいた。海軍は砲艦や駆逐艦を海南島の海口に集結させ、また航空隊も台湾などに新鋭機を待機させ武力行使の構えをとった。そうして海軍は国民政府に抗日運動の禁止を要求、それが実現されないと、北海、海南島を占領するとした。やがて翁照垣軍は撤退し、陸軍の抑制もあって海軍の気勢は削がれた。ところが9月23日、上海において日本人水兵狙撃事件が発生、租界を散歩中の出雲乗組員の水兵(陸戦隊)4名が、中国人4、5名によって銃撃され、二名が死亡し、二名が重傷を負った。海軍軍令部はこれを機に強硬方針を決め、上海方面への出動を指令、第11航空隊を台北に集中させた。9月26日、海軍は首脳会議を開き、「対支時局処理方針」を策定して陸軍にも共同歩調を求めた。10月半ば、海軍省は閣議において「国家的決意」を要求したが、陸軍は軍備の現状から慎重論を主張、海軍の主張は通らなかった。それでも翌年つまり1937年(昭和12年)1月8日、改めて「対支時局処理方針」を決定し、臨戦態勢を作った。これにより鹿児島の鹿屋基地において2月から昼夜を分かたず渡洋爆撃に備えて猛特訓を行い、台湾の屏東飛行場や満州の大連飛行場に長距離飛行を行いながら調査研究を重ねた。つまり海軍は一触即発に備えて、周到に出撃の準備と訓練を行なっていた。ここには新鋭の九六式戦闘機などの投入もあって、実戦で使いたくて仕方がない海軍の心理がうかがえる。

【海軍の全面作戦】

 1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件の翌日、海軍の航空隊の木更津基地と鹿屋基地では早くも出撃準備命令が出された。そして陸軍が一時的に停戦協定した7月11日には第一、第二特設連合航空隊が編成され、翌12日、軍令部(陸軍の参謀本部に当たる)は「対支作戦計画内案」を策定する。これには「自衛権の発動を名分として」と始まり、陸軍と協力するのはもとより、「対支全力作戦に備う」としている。そこからさらに中支那方面の航空勢力の掃蕩、中国沿岸海上封鎖、杭州・南昌・南京への渡洋爆撃、上海陸戦隊(海軍の地上部隊)は二個大隊を増派し、青島にも特別陸戦隊二個大隊を派遣と記され、全面的な戦争への作戦準備となっている。実際に「内案」が策定された当日、軍令部は海軍横須賀鎮守府に陸戦隊員の召集を命令し、その召集令状は即日当該将兵に届けられている。ちなみに既述のように、陸軍もこの日、全国に召集令状を発しているから、陸海軍は相呼応して動いていると思われる。

 またこれに伴い、中国に配備されていた第三艦隊の司令長官長谷川清中将は、「日中関係の現状を打開するには、現中国の中央勢力を屈服させる以外に道なく、…… その死命を制するには上海、南京を制するを最重要とし(そのための必要な兵力の確保を要し)、開戦当初の空襲作戦においては、使用可能の全航空勢力をもって」する必要性を海軍中央に具申し、19日に第三艦隊作戦計画を内示した。これに次いで7月27日に軍令部と海軍省は「時局処理および準備に関する省部協議覚書」を決定、その方針は、「事態不拡大、局地解決の方針は依然堅持するも、今後の情勢は対支全面作戦に導入の機会大なるをもって、海軍としては対支全面作戦の準備を行うこととす」とされた。陸軍が表向きは局地戦解決に苦慮していた時期に、海軍は全面戦争への準備をしていたということである。

【大山事件】

 この事件は上記日本海軍の作戦の流れの中で中心的な役割を果たした事件であり、日中戦争開戦へと仕掛けるきっかけを海軍が作ったと言えるものである。

 盧溝橋事件の翌日に出撃準備命令を受けていた海軍の木更津航空隊は、爆撃・射撃訓練の後、8月8日には長崎の大村基地で、同じ日に鹿屋航空隊も台湾の基地に移動し渡洋爆撃の態勢を整えた。その一方で7月12日に召集された海軍陸戦隊は29日に横須賀発、8月2日には旅順に着いて臨戦態勢を敷いた。海軍軍令部は前年の二の舞(「国家的決意」としての行動が果たせなかったこと)はどうしても避けたかった。そのための新たなきっかけ、口実が必要であった。

 海軍はこれまで1931年(昭和6年)の第一次上海事変以降、第三艦隊所属下に上海の虹口に兵営を構築して上海特別陸戦隊総勢二千名を擁していた。その日常の役割は共同租界の警備であった。ちょうど外務省東亜局の秘密裏の和平工作で船津が交渉を開始した8月9日の前日か前々日のこと、特別陸戦隊司令官大川内伝七少将が、西部派遣隊長の大山勇夫中尉を呼んで口頭で命令を与えた。それは「お国のために死んでくれ、家族のことは面倒を見る」というものであった。密命は第三艦隊司令長官長谷川清中将から大川に伝えられ、大川内は大山が独身で大山家の三男であり、父はすでに死去し、さらに「愛国壮士」であることで適任として彼を選んだ。

 大山勇夫が残した日記があり(1983年:昭和58年刊)、大山は8月8日、身辺整理をして書類を焼却、日記とともに遺髪などの遺品を家族宛に送った。その中に挟まれた絵葉書の中には「任務は力なり」との言葉もあった。9日朝、冷水で身を清め、中隊全員を集めて訓示をした。「皆は今、戦死をしても何の心残りのない者は手を挙げ」と言い、一人残らず全員が思い切りよく手を挙げたのを見て、「感謝に耐えない」としてしばらく言葉もなく、目は異様に光っていたと、当時の小隊長が語っている。

 早めに夕食を済ませた大山は、夕方五時ごろ上海特別陸戦隊の西部派遣本部を出たが、拳銃も携帯せず(普段ではありえない)どこへ行くかも告げず、斎藤与蔵一等兵が運転する車で出かけた。そこから虹橋路に出て上海西郊外にある中国空軍が配置された虹橋飛行場に向かった。飛行場に通じる虹橋路には検問所があったが、大山の車は強行突破し、飛行場へ直進、その正面ゲートに向かった。そこでゲートの歩哨たちが車を銃撃、内側の保安隊員も銃撃を加え、運転していた斎藤水兵は負傷して道路に沿った豆畑に車は突っ込んだ。大山は車の中で即死、斎藤は逃げようとして射殺された。この経緯の詳細は笠原十九司が『海軍の日中戦争』(平凡社:2015年)によって初めて明らかにした。「大山中尉が自動車で虹橋飛行場付近を視察中」というこれまでの大山事件の書き方では伺えなかったことである。

 翌日、この事件は日本の新聞紙上では「帝国海軍中尉、上海で射殺さる/暴戻!鬼畜の保安隊、大挙包囲して乱射」、「支那の不誠意度し難し、戦時的配置を強化」「共同租界のテロ」「海軍容赦せず」「停戦協定無視の暴挙」等と書き立てて、軍令部の思う壺となり、世論は憤激の坩堝となり、報復・制裁が声高に叫ばれるようになった。一方で大山中尉は大尉に昇級し、海軍大臣米内光政から直に弔電が家族(母親と長兄とその妻子)に送られ、その後職務特別手当、天皇による祭祀料、死亡賜金、埋葬料、遺族扶助料等々次々と支給され、軍神なみの破格の待遇がなされた。その破格ぶりは母親の「武功のなかった者へ深くご同情してくださいます皆様へ暑くお礼申します」という言葉にも表れている。

【陸軍の秘密裏の和平工作】

 近衛文麿首相はもとより戦争拡大を望んでいなかったはずだが、参謀本部の不拡大派の中の河辺虎四郎や石原莞爾らが近衛首相に献言を行い、それを受けて近衛は不拡大方針を天皇に具申した。天皇もそれに応じ、8月に入り軍令部総長と参謀総長に対して外交解決による時局収拾策を望む意向を伝えた。そして和平工作が進められるが、強硬派に漏れないように民間人を派遣する形で絶対秘密とされた。これを中心となって推進したのが石射猪太郎外務省東亜局長であった。

 8月6日に「日支国交全般的調整案要綱」が作成され、翌日には外務省東亜局が起案した「日華停戦条件」が多少の修正の上決定された。この案は盧溝橋事件以前の状態にほぼ戻って、満州国の維持を最重要条件とする譲歩内容で、およそ石原作戦部長の事態収拾案と重なるものであった。石射は元外交官で中国にある民間会社に在籍していた船津振一郎をこの使者とし、託した。石射東亜局長はこの工作に期待を抱いた。蒋介石も抗日戦争を覚悟して軍備を増強していたが、一方では全面戦争への突入は回避したいと考えていた。

 8月7日に船津は上海に入り、駐華大使や上海総領事らと打ち合わせをしたのち、9日、南京から上海に来た国民政府外交部亜州司長高宗武を船津の自宅に招き、和平交渉を開始した。交渉は順調に進むかに見えた。そこに海軍が策謀した大山事件が発生した。

【海軍の強引な要求】

 大山事件の翌日の8月10日午後、上海駐在の海軍と領事館の責任者、共同租界の工部局警察の総監ならびに中国側から上海市政府と警備司令部の責任者が集まって銃殺現場の実地検証が行われた。しかし海軍軍令部は電光石火、その日のうちに事件対処方針と時局処理方策を決定した。その要求事項として、「1. 事件責任者の陳謝及処刑/ 2. 将来に対する保障(上海保安隊の撤退、防御陣地の撤去等)」を通告、この解決実行に誠意を示さなければ実力をもって強制するもあえて辞さずとした。軍令部は同時に陸軍二個師団の上海派遣を提案し、11日、「治安維持を図る」ためとして陸軍の派遣を内閣に督促した。同じ11日、国民政府軍政部と共産党の首脳が合同会議を開き、全国抗戦の戦略方針を協議した。

 蒋介石南京政府は海軍の要求事項を受けて、12日、「承認することは不可能である」と拒否、同時に「戦争の準備を命令した」。満州事変以降、蒋介石は日本軍と宥和政策をとっていたが(対日本軍より、国内の共産党の撲滅を優先したため)、その後ドイツや米英などの援助を受けて国防軍の強化を図っていて、まだ日本軍に勝利はできないとしても、その侵略に対して欧米による制裁、さらにはソ連からの対日参戦を引き出そうとの目論見を持っていた。しかしこうした日本海軍の一方的な要求には情勢の変化を待つ余裕はなく、「受けて立つ」以外の道はなかった。そして同日、日本の内閣四相会議は上海出兵を決定した。

日中戦争へ

第二次上海事変(中国呼称:八・一三事変)

 8月12日、中国軍の一個師団が上海北停車場附近と呉淞方面に進出しているとの情報を得て、第三艦隊司令長官の長谷川は陸軍を派遣するように緊急要請しつつ、海軍第一、第二連合航空隊に翌13日の空襲命令を発した。ただ、折から強力な台風が東シナ海を北上中で、13日の出撃(日本からの渡洋爆撃)は中止となった。改めて命令を発し、翌日の目標は首都南京・広徳・杭州・南昌・上海虹橋とされた。12日夜、日本の四相会議で陸軍の派兵を承認、海軍陸戦隊は本格的には陸軍の派兵を待つものの、13日の午前10時ごろ、日本海軍の航空母艦も爆撃機の出撃に備えて揚子江を上る艦隊が中国軍を刺激していたこともあって、中国軍88師団の一部隊と上海特別陸戦隊が日本人租界との境界の虹口付近で衝突し、夜には戦闘となった。これが日中戦争の幕開けとなる。なお既述したように、満州事変翌年、1932年(昭和7年)の第一次上海事変も海軍の策動によるものであった。

 14日、台風はまだ停滞し、海軍航空隊出撃は天候回復待ちとなった。ところが地の利のある中国空軍機約40機が昼前に上海黄浦江に停泊中の日本艦隊と上海特別陸戦隊本部などに爆撃を行った。これに対して日本艦隊は中国軍陣地に砲撃を加えたが、激昂した第三艦隊長谷川長官はすぐに可動航空隊の出撃を命じた。台北基地の鹿屋航空部隊は18機を二隊に分け、広徳と杭州に向けて出撃したが天候の影響で低空飛行を余儀なくされ、分散してそれぞれの飛行場を爆撃し帰投した。しかし二機が消息不明、一機が地上砲火を受けて不時着、三機を失った。翌15日、南昌及び南京の飛行場爆撃を行った。

開戦と近衛文麿内閣の「暴支膺懲」声明

 大山事件が発生すると、事態は急転し、仲介役の船津は各方面を奔走し、平和的解決に向けて中国側の説得に努めたが、8月13日には海軍陸戦隊が先走って上海で交戦が始まり、14日には全面衝突へと発展した。それまで日高信六郎参事官と和平交渉をおこなうなど対日宥和政策を奉じていた国民政府外交部長の王寵恵も、従来の政策を放棄して、8月14日、抗日に転じる旨の声明を発表した。船津の和平に向けた努力は海軍の策謀によって水泡に帰してしまった。日中戦争は7月7日の盧溝橋事件をきっかけにして陸軍が暴走したことで始まったということが定説となっているが、実際には海軍が盧溝橋事件を好機と捉え、さらに開戦を避けられないものとすべく8月9日、大山事件を画策し、13日に上海事件を起こし、開戦に至り、前年以来計画をしていたことを陸軍に先駆けて実行したということになる。

 8月14日の夜、日本政府は閣議を開き、日が変わって午前一時半に、近衛文麿内閣はいわゆる暴支膺懲声明を発表する。

 [帝国政府声明] —— 事変発生いらいしばしば声明したるごとく、帝国は隠忍に重ね事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的かつ局地的に処理せんと企図するも……(南京政府は)兵を集めていよいよ挑発的態度を露骨にし、上海においてはついに、我に向って砲火を開き、帝国軍艦に対して爆撃を加わうるにいたれり。かくのごとく支那(中国)側が帝国を侮辱して不法暴虐いたらざるなく、全支にわたる我が居留民の生命財産危殆に陥るにおよんでは帝国としてはもはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻(ぼうれい=横暴)を膺懲(ようちょう=こらしめる)し、もって南京政府の反省を促すため、今や断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり」。

(筆者私見:そもそも他国へ侵略している側が、相手国から反抗的な態度を取られていると言って、それを横暴的態度とし、反省を求めて懲らしめるべきとすること自体が歪んだ思考回路の中にあると言うしかない)

 これに対し蒋介石は、米英仏の列強諸国が交戦の回避を提案するも、今回ばかりは回避策を取らず、日本軍との本格的戦闘を意識して中国全土に対日抗戦総動員令を発令、自ら陸海空軍の総司令に就任し、戦時体制を整えた。

 そこから日本は、本土から松井石根大将を司令官とする二個師団の上海派遣軍を決定し、その後、三個師団も追加、8月23日にその日本軍増援部隊が上海に上陸した。この短期間での増援軍派遣は、すでに7月7日の盧溝橋事件を契機(好機)にして準備されていたとしか思えない。事実、近衛首相は既述のように7月12日早朝には全国に動員令を発し、召集令状を即座に各戸に配達している。こうして日中ともに宣戦布告しないまま、全面的な日中戦争へと突入していった。

 ちなみにこの近衛の暴支膺懲という言葉に乗って、「暴支膺懲国民大会」が日本国内で数多く開催された。「抗日絶滅」や「共匪(共産党匪賊)追討」がスローガンとなり、政財界・言論界の人物が登壇した。そして国民の世相は対中戦争必須へと向かっていく。その後対米英開戦(太平洋戦争)へとつながり、「鬼畜米英」が前置されるようになり、合わせて「鬼畜米英、暴支膺懲」ともなった。

陸軍による上海派遣軍の派兵と苦戦

 8月15日、近衛内閣の暴支膺懲声明を受けて、陸軍も前月より召集して準備していた上海派遣軍の「編組」を発表した。編成でなく編組とは一時的派兵という意味であり、陸軍にはまだ躊躇があったということである。この上海派遣軍司令官に任命されたのは予備役であり陸軍最長老大将の松井石根であった。その任務は「海軍と協力して上海付近の敵を掃滅し、上海ならびに北方地区の要線を占領し、帝国臣民を保護すべし」という限定されたものであった。しかし大将の中でも職位的に恵まれなかった松井には、軍功を挙げて爵位を獲得する最後のチャンスと映ったようである。8月18日の参謀本部首脳との会合において松井は、国民政府を没落させるべく南京を短時間に攻略し蒋介石を下野させることを目標とすると述べた。

 こうして上海派遣軍は第三師団と第十一師団の二個師団をもって8月23日から上海北部へ上陸を敢行し戦闘を開始したが、中国軍の激しい抵抗を受け、戦闘は苦戦、長期化する見通しとなった。これに対し参謀本部では兵力増強が検討され、不拡大派の参謀本部部長石原莞爾は抵抗したが、武藤章作戦課長らの強硬派によって増派が決定された。これにより石原は満州に更迭された。

 9月9日、台湾守備隊、第九師団、第十三師団、第百一師団に動員命令が下された(9月末までで第十一師団は戦死者1560名、戦傷者3980名、第三師団は戦死者1080名、戦傷者3589名となった)。さらに10月9日、三個師団を第十軍として杭州湾から上陸させることを決定した。ここで上海派遣軍は大苦戦し、日本軍の損害は上陸から11月8日までで戦死9115名、負傷3万1257名に達した。

 ちなみにこの陸軍より先に、日本海軍はすでに旅順や青島などに待機させていた横須賀と呉の海軍陸戦隊1400名が8月18日朝、佐世保の陸戦隊2個大隊1000名が19日夜に上海に到着し、駐留していた上海特別陸戦隊と合わせて約6300名が上海市街で戦闘を行った。中国軍の激しい攻撃は続いたが、陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも租界の日本側の拠点を死守した。

第二次国共合作の成立とソ連の支援

 前年末の西安事件で旧東北軍閥の張学良が国民党の蔣介石を軟禁し、中国共産党との内戦停止と国共合作を強く迫り、蒋介石がようやく同意し、共産軍討伐の停止と一致抗日を約束させられ、十年間続いた国共内戦は事実上終息した。そして1月6日、共産党中央は国民党・南京政府に対して、即時停戦と親日派の罷免を要求し、親日派の中心人物である外交部長(外務大臣)が罷免され、反日・欧米派が就任した。2月から3月にかけては、共産党が国民党と国民政府の指導権を認め、その代わりに抗日のために第二次国共合作を要求した。そして国民党が内戦停止の上、言論・集会・結社の自由、政治犯の釈放、共同して救国にあたることを決定、共産党は武装暴動方針停止、紅軍を国民革命軍に改称、抗日民族統一戦線の共同綱領実施を保証するなどが約束された。

 共産党は4月、「これまでの一切の土地改革規定を全面的に放棄する」宣言をして、国民党に大きな譲歩を示し、「全党同志に告ぐる書」を発表して、今後の任務はすでに獲得した国内平和を強固なものにし、対日抗戦を実現することにあると言及した。7月7日、盧溝橋事件が起こると、共産党は局地解決反対(その事件だけの解決に終わらせてはならない)を全国に呼びかけ、11日、周恩来が抗日全面戦争の必要を蒋介石に強調するなど、共産党は国民党に対日共同抗戦を迫った。日中全面戦争に極めて慎重であった蒋介石は、17日、「最後の関頭」演説を公表して抗日の決意を表明した。7月28日、天津と北京において日中両軍の全面衝突が起こると、蒋介石は最後まで抗戦する決意を再び表明、さらに8月8日、「全将兵に告ぐ」と題する演説を行い、抗戦の決意を三度表明して南京政府の抗日体制は強固になった。

 8月13日、海軍陸戦隊による第二次上海事変が勃発すると、国共合作と抗日民族統一戦線に向けて、8月22日、中国共産党は陝西省洛川で中央政治局拡大会議を行い(洛川会議)、「抗日救国十大綱領」を発表した。一方で国民政府は同日、国共両党合同で軍の改編を行い、紅軍を国民革命軍第八路軍とすることを正式に公布し、国民政府からは武器、弾薬、資金が共産党軍に補給されることになった。紅軍3万は国民革命軍第八路軍三個師団に編成(総司令朱徳、副司令彭徳懐)し、華中・華南の紅軍1万は新四軍に改編、9月9日、南京国民政府の国防最高会議の主席に蒋介石、副主席に汪兆銘が就任し、周恩来、朱徳らも参加した。

 9月22日、中国共産党中央委員会が「国共合作宣言」を発表し、正式に第二次国共合作が成立、翌日蒋介石の「国共両党の第二次合作に関する談話」が発表された。9月27日、毛沢東は「国共合作成立後のさし迫った任務」と題する声明を発表し、国共合作が成立したことの意義を確認した。南京陥落後の12月25日、共産党は「時局に対する宣言」を発表して国共両党の提携と徹底抗戦を改めて声明した。蒋介石政府は中国奥地の重慶に遷都し、共産党はやはり奥地の延安に本拠を置き、日本軍に長期戦を強いて頑強に抵抗していく。

 その前の8月21日、中ソ不可侵条約が締結され、ソ連は5年間は日本と不可侵条約を締結せず、また中国は第三国と協定を締結しないという約束がなされ、まずソ連から戦闘機50機の空輸が上申された。以後4年間、ソ連から中国へ航空機千機、戦車、大砲などの武器が売却された。さらにソ連政府はおよそ300人の軍事顧問団を中国に派遣した。これは国共合作の成果であった。

 日本は満州事変で中国北東部を制覇し、傀儡政権満州国をつくったところから中国の政治体制を見くびっていて、例えば日本陸軍省が1933年(昭和8年)に発行した「中国国民党の輪郭」において、「国民党は堕落し党員は腐敗、中国は四分五裂し、国家の体をなしていない」として、この二度目の国共合作による統一戦線も重要視していなかった。しかしこの統一戦線は日本軍の執拗な侵攻作戦もあってより強固になり日本の敗戦まで維持された。またこの開戦から、特に海軍は多くの戦闘・爆撃機をフルに使って各地を連続爆撃し、早期解決(中国の降伏)を目指したが、中国の大地の日本とは比較にならない広大さと奥深さを考慮に入れていなかった。(以上の項は各種資料からの混成)

昭和天皇の勅語と国民精神総動員運動

 既述のように昭和天皇は、7月20日の増派決定の上奏の時に不拡大を勧め、また29日にも近衛首相に対し、引き際を考えるようにと説得されていたが、その後近衛は暴支膺懲声明を発し、9月4日の帝国議会において天皇は「対支那宣戦布告」に代わる勅語を発した。

—— 「中華民国深く帝国の真意を解せず、ついに今次の事変を見るにいたる。朕これを憾みとす。今や朕が軍人は百難を排してその忠勇をいたしつつあり。これ、一に中華民国の反省を促して速やかに東亜の平和を確立せんとするにほかならず」。

 これが当時の天皇の考えと思うのは間違いである。当時の天皇には直接世界の情報が届く通信手段などはなく、周囲の軍政府要人の意見を聞くほかなく、新聞等も軍政府の統制下にあったから、なるほど中国政府はけしからん存在であると思うほかなかった。しかもこのような勅語というのは周囲の取り巻きが書いて、天皇の承認を得て玉璽を押してもらうという流れであった。だからこの内容は前月の政府の「暴支膺懲声明」にほぼ沿ったものになっている。

 これに対してずっと和平工作に奔走していた外務省東亜局長の石射猪太郎は、「暴支膺懲大会、支那講演にあり。あべこべの世の中である」と9月2日の日記に記し、日本の軍政府の言う、この侵略作戦は東亜の平和を確立するためであって、それに対して抗日の戦を仕掛けてくる暴虐なる中国は膺懲すべきであるという論理は逆であろうと言っている。正論である。

 このように天皇を使ってでも軍政府は反中国の世論を形成して行き、この9月に国民精神総動員が提起され、尽忠報国(国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神)と挙国一致の精神で聖戦に立ち向かおうという大きな運動が作られていく。そうした雰囲気にさらに乗せられた近衛文麿首相は、 「広くは正義人道のため、特に東洋百年の大計のために、これに一大鉄槌を加えて直ちに抗日勢力のよってもって立つ根源を破壊し、……東洋平和の恒久的組織を確立するの必要」という演説をおこなったが、自分たちが侵略戦争を仕掛け、相手国の人々を傷つけつつ、それが正義と平和のためとは、どれほどに当時の日本の軍政府の要人たちが傲岸不遜、思考力欠乏の状態であったかが、呆れるほどよくわかる。

(要旨は『日中戦争全史:上』笠原十九司より) 

上海から南京、諸都市への海軍航空隊の過激な空爆の展開
——世界戦争史上前例のない戦略爆撃——

 第二次上海事変から同時に始まった日本軍(海軍)の九州や植民地台湾からの渡洋爆撃は、戦場となった上海だけでなく中国の当時の首都である南京も対象であって、二日目の8月15日から爆撃を開始している。中国軍も(ソ連機の応援も加わり)それを迎え撃つなどするが、住民に多くの犠牲者を出した。これに対し国民政府は9月13日に国際連盟に訴えたが、日本は無視し、9月14日、日本海軍は占領した上海公大飛行場の整備を終えると、南京を含めた他の都市への空爆に取りかかった。当時の指揮官はそれについて「有史以来いまだかつて見ざる敵首都上空における航空決戦の壮挙を決行せらるる事となり」と、興奮気味に語っているが、実際にそれまでの世界戦争史上前例のない諸都市同時爆撃という大掛かりな戦略爆撃の実施例となった。

渡洋爆撃と無差別爆撃

 8月15日、近衛文麿内閣はいわゆる暴支膺懲声明を発表した一方、 蒋介石は中国全土に対日抗戦総動員令を発令し、戦時体制を整えた。日中双方の声明の前日の14日、日本海軍の鹿屋航空隊は植民地台湾の新竹基地から最新式の九六式陸上攻撃機(爆撃機)9機を杭州に、別の9機を広徳に向けて爆撃、さらに15日には、台湾から16機と長崎の大村基地から20機(木更津航空隊の九六式爆撃機が大村基地に移動した)がそれぞれ南昌(江西省)と南京を爆撃した。南京まで960kmを4時間で飛行、500mの低高度から60kg陸用爆弾を南京市内各所に投下した。16日、南京から50km東方の句容に台湾から6機を向かわせ、別の7機は揚州に向かい爆撃した。一方、木更津航空隊は朝鮮の済州島から9機を出撃させ、日暮れ時に蘇州を爆撃した。海軍は「世界航空戦史上未曾有の大空襲」と宣伝し、国内の各メディアも「世界戦史空前の渡洋爆撃」と讃えてその戦果を大々的に報道し、「無敵海の荒鷲」などと美談にして持ち上げた。しかし実行部隊側では爆撃の効果は大きかったものの、悪天候下と(多くは中国内の飛行場を狙ったことで)中国軍機の迎撃もあって被害が予想以上に大きく、三日間の攻撃で飛行隊長機を含む9機が未帰還、3機が不時着・大破、搭乗員の損失(死亡)は65名に達した。作戦可能機は鹿屋航空隊の18機が10機に、木更津航空隊の20機が8機へと激減した。

 そのため旧式の軍用機の補充と、近海の海軍航空母艦からの艦上戦闘機・爆撃機による空爆も加わえて、8月20日からも爆撃が続けられ、漢口(武漢)、上海、南京、江西省南昌、江蘇省揚州・徐州、江西省九江、湖北省考感、広東省広州などに対して、大陸側に基地が確保されるまで渡洋爆撃は続けられた。

 中国軍側は、航空機の導入に関しては遅れていた。国民政府はアメリカ、ドイツ、イタリア製などを導入していたが、訓練された飛行士も少なかったので、義勇兵の名目で派遣されたソ連空軍志願隊とも共同作戦を行なって応戦し、それが日本軍機に与える影響は結構大きかった。その結果、自軍機の被害を少なくするため途中から高度を高くし、夜間に行われることが多くなり、いわゆる「誤爆」が多くなった、というより無差別爆撃となるのを厭わずに空爆を続けた。

 6年前の満州事変時の日本軍の錦州への空爆は世界を驚かせたが、今回の長距離爆撃も、渡洋爆撃の名でセンセーショナルに世界に報道され、90年を過ぎた現今においても本格的空爆の世界的先駆けとされている。8月13日に始まった上海戦を契機として、日本軍機が合わせて数千人の難民の群衆に爆弾を投下し、砲弾や銃撃の犠牲にされた民間人の惨状が、報道写真やニュース映画、さらには雑誌類を通じてアメリカ国民に知られるようになり、日本軍の蛮行に対する非難の声があがり始めた。もちろん日本国民にはその戦果だけが大々的に報道され、世界からの非難があることを認識しないままでいた。このような都市に対する無差別爆撃が、 日本も加入していたハーグ陸戦法規に違反する行為であるとして、9月28日、国際連盟は総会で「都市爆撃にたいする国際連盟の対日非難決議」を全会一致で採択したが、すでに連盟を脱退していたこともあって日本はそれらを問題にしなかった。

 以下の上海における11月半ばまでの爆撃記録を見て、驚く方の方が多いであろうが、しかしこれだけでなく、この間に休む日もなく、しかも一日に南京等も含めて5、6カ所以上、10ヶ所前後の爆撃を各地に分散して行っているから、同期間にこの上海地区の10倍以上は爆撃を行っているのは間違いなく、大半の方が驚く以上に唖然とするはずである。

上海方面における海軍の三ヶ月にわたる連続爆撃

 8月14日、海軍の18機(艦上機)が上海の凌橋丁家洪、三岔港、石家洪沿江一帯に爆弾投下また機銃掃射を行い、それにより民家10数軒が爆破され、10人余りが死亡した。(筆者注:このような死者数は中国側の資料による。以下同) 午後、再び上海を爆撃し、爆弾が南京路外灘(黄浦江西岸)に落ち、 華恋(キャセイ)ホテル及びパレスホテルが爆撃で焼失した。上海の中心街南京路一帯は混乱を極め、爆撃で崩れ落ちた建物の残骸の中で、人々が下敷きになった。他にも建物の多くと路上に停まっていた20余台の自動車も全部燃え上がり、電信ケーブルが地面に垂れ落ち、大火事となって被害を拡大させた。この日の爆撃により民間人1742人が死亡、1873人が重軽傷を負った。

 ただし、この14日の爆撃による死傷は中国空軍重爆隊10数機によるものが多いとされる。午後4時過ぎ、中国機は黄浦江上の日本の軍艦を狙って爆撃するが、前日からの台風の影響による悪天候の雲によって照準が定まらずに軍艦には命中せず、爆弾のほとんどはフランス租界や共同租界の繁華街に落ち、外国人をふくむ千数百人の民間人死者が出たと当時の報道の中にある。したがって上記の「民間人1742人が死亡、1873人が重傷」というのは、中国軍機の爆撃によるものが大半であるとされている。中国側の「出来事」(『中国抗日戦争大事記』)でも「午後4時ごろ、中国空軍の1機が日本の砲撃により損傷を受け、制御不能となり、大石街付近に2発の爆弾が落下し、800人以上が死亡、600人以上が負傷した」としている。ちなみに当時の上海はフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に分かれていた。上海事変発生により、自国民を守るためとして、米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、仏軍2050人、伊軍770人が租界にいた。この日の多数の空爆被害は、中国軍の非道として日本国内に大々的に報道された。

 以下、日本軍による上海の主な空爆被害について日付順に記す。なおこの内容は筆者の別稿「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」からの抽出で、日本軍が主語の場合は省略。付記はその他各種資料から。

*8月21日、上海発、南京行きの避難民列車を爆撃し、千人以上の民間人を死傷させた。

(23日未明、陸軍が上海の揚子江岸の上下流二ヶ所から上陸に成功。これには海軍の軍艦と飛行隊が砲撃支援した)

*8月23日正午、上海南京路の繁華街と淅江路を爆撃し、215人が死亡、570人が負傷した。

*8月26日、再び避難民で混雑する上海南駅を爆撃し、700人余りを死傷させた。

*8月28日、12機がまたも上海南駅を襲撃し、避難民200人余りを爆殺し、500人余りを負傷させた(難民の死者7、8百人、負傷者は数知れず、との記述もある)。当日、上海では戦闘から逃れるために1800人以上が奥地や杭州方面に避難しようとしており、その中の多くは女性と子供であった。上海には南北二つの駅があったが、北駅が戦闘地域になったため、南駅が陸路交通の唯一の出口となった。日本機は焼夷弾も投下し、駅構内及び構外がたちまち火事になって煙が漂い、至る所で泣き声が聞こえ、その惨状は見るに堪えないものであった。上海南駅は交戦地域から遠く離れており、軍事施設もなかったから日本軍の南駅に対する爆撃は完全に無差別爆撃であり、海外メディアの避難するところとなった。日本側は「南駅は南方からの軍隊輸送のために利用されている」と言い訳をしたが、日本軍がこの後も人の集まる街中を好んで爆撃していくことは、この後の記録でも多く出てくる。さらにこの日は別途上海市街地も爆撃し、市民700人の命を奪った。

 この日に関しては、上海ノース・チャイナ・デイリーニュースが以下のように報じた。

 —— 二週間前、上海方面に戦争勃発以来、南砧(上海南側の駅)は汽車に乗って奥地に避難する千人以上の難民で一杯であった。…… 午後1時45分、日本機12機が南砧上空に来襲して爆弾8発を投下した。その大多数は婦女子であったから被害は悲惨であった。…… 日本機の去った後も濃煙高く昇り、プラットホームや軌道の上に黒焦げとなって見分けもつかぬ死体がいくつも転がっていた。内輪に見積もっても死者は200名以上に達し、…… 大同大学の数十人の学生が停車場に駆けつけ、救護活動に挺身した。その勇気や賞賛すべきである。…… 負傷者は南市の各病院に送られ、本誌の記者約100名が収容されたレスター病院を訪問したところ、臨時のベッドが増設されていた。…… すでに事切れた母親の懐より拾われてきた赤ん坊の傷は重かった。二人の13歳くらいの子供がその父母を失っていた。…… 生き残った難民たちは慈善団体の車で租界に送り込まれた。…… 中国側の軍事代弁者は外国人記者会見で猛烈に抗議したが、日本側は『中国軍が南砧を利用して軍隊を輸送した』と(滑稽にも)主張した。中国側代弁者は、南市には一兵も存在せず、軍事施設も皆無であると言明した。…… しかも日本側はこの爆撃の警告もしていなかった。…… 外国人記者も会議の席上、南市の街道には一人の中国兵も見なかったと証言した。…… 

(『─実録・南京大虐殺─外国人の見た日本軍の暴行』(ティンパーリー著:評伝社—1982年より)

*8月31日、上海大場鎮のバス停を襲撃し、民間人200人余りを機銃掃射で射殺した。(上海は15日からこの日まで11日間連続で爆撃された)

*9月4日、上海北新涇駅を爆撃し、上海から逃れようとする避難民約千人が死傷した。(筆者注:こうした例は何度も見かけるが、日本軍は上空から群衆を見ると爆弾を落とす性癖があるとしか思えない。翌日も難民船を爆撃している)

*9月5日、朝7時に16機が上海の北新涇住宅を爆撃、10時に2機が周家橋地区の木工場や石粉工場などを爆撃し、死傷者300人余りを出し、さらに江蘇省蘇州へ向かう河上の難民船を爆撃し、民間人400人余りを殺傷した。

*9月8日、正午過ぎ、上海から北京行きの満員の難民列車が、松江駅で爆撃され、300人以上が死亡した。

(翌日のNorth China Dailynews社は、「昨日、またも上海の難民に災難がふりかかった。日本軍爆撃機が上海から嘉興行きの列車を松江に停車中に爆撃し、死者300名を出したが、その大部分は婦女子で、負傷者はさらに多数にのぼる。客車五輌が完全に破壊され、死傷者の中には中国兵は一人もいなかった。…… 上海市長は“松江においてきわめて非人道的な爆撃にあった列車が交戦地帯から避難する難民を輸送中であったことは否定できず、攻撃は計画的で全く許せないことである”と非難した」と報道した)

* 9月9日、上海付近の京滬(こ)線(北京と上海を結ぶ)と滬杭線沿線の松江、閔行、蘇州市崑山を爆撃、路線を分断した。

(9月10日、海軍航空隊は上海に公大飛行場を造成、開設した。日本海軍は海外からの非難に対して聞く耳を持たず、この公大飛行場からも虹橋飛行場など各地に攻撃を加えて飛行基地を増やし、その他の都市への空爆を拡大していく)

*9月10日、午前9時30分、5機が上海の龍華鎮を爆撃、爆弾30数発を投下し、家屋80余間を爆撃し、龍華寺内の羅漢像500体が溶解し、死傷者560(即死8人)を出した。その後、北橋鎮を爆撃し北橋小学校は3人の子供を失った。

*9月13日午後4時頃、上海虞姫墩路の呉淞江の上空で爆弾4発を投下し、嘉興市に向かっていた三隻の難民船を爆破し、死傷者300人余りを出した。

*9月18日、上海東区楊樹浦等の地域を爆撃し 焼夷弾数発を投下したため、この一帯の工場と住民居住地域が大火事になり大きな被害が出た。またこの日の午前8時、怡和紡績工場に爆弾が命中、続いて東百老滙路、公平路の8カ所の住宅が爆撃され,大火事がすぐに発生した。その他、兆豊路倉庫、百老滙路東一帯の住宅、培林洋行卵工場と住民居住区が火事で燃え尽き、焦土となった。

9月28日、国際連盟第18回総会において「かかる爆撃の結果として多数の子女を含む無辜の人民に与えた生命の損失に対し深甚なる弔意を表し、世界を通じて恐怖と義憤の念を生じさせたかかる行動に対しては何ら弁明の余地なく、厳粛に非難する」とした上で、「都市爆撃に対する対日非難決議」を全会一致で可決、さらに10月6日、日本の軍事行動が九カ国条約(1922年:大正11年2月、ワシントン会議によって成立した中国に関する条約で、中国の主権尊重・領土保全と、門戸開放・機会均等を確認し、日本が第一次大戦で得た山東省の旧ドイツ権益の返還などを決めた)と不戦条約に違反していると判定し、「中国を道義的に支援する」ことを採択した。

 こうした非難決議は、とりわけ上海が国際都市であり、欧米の新聞社等多くの駐在員が在留していた結果、その爆撃によって庶民の受けた惨状を撮った写真やフィルムが次々に配信され、各国の新聞や雑誌に載せられ、ニュース映画にも取り上げられたことによる。ただし、8月14日の中国軍機による誤爆も日本軍のせいにされることもあったようだが、当初はむしろそのことで日本擁護論もあったわけで、その後の日本軍の絶え間ない空爆によって擁護論はかき消された。それが以下の記事のようになる。

 9月9日のデイリー・ニュース社より

  —— 「9月8日昼、上海から南西方向約50kmにある松江の停車場(駅)で、上海発の難民車が日本機による爆撃を受け、客車5両が破壊され、死者300人を出した。鉄道当局の報告によると、停車場内の光景は見るも無残でちぎれた手や足、一面の鮮血だった。…… 上海市長は『日本軍が完全に人類の尊厳を無視し、後方における中国の人民を虐殺せる一証拠なり。……この列車の乗客が(上海の)戦地より奥地に避難する難民であることは争う余地がない。列車が嘉興に向けて走り始めていたことは、上海への増援部隊輸送でないことは明らかで、日本機のこの襲撃は故意以外に認めることができない』と言明した。これでもまだ南京、広州、漢口等の大都市の被害には遠く及ばない」と報じている。(既述のようにこの五日後に嘉興に向かっていた三隻の難民船を爆破し、死傷者300人余りを出した)

 また10月8日のデイリー・ニュース社より

  —— 「10月6日の朝、上海の共同租界から車で一時間足らずの滬西(こせい)の町に数回の日本機の偵察があった後、爆撃機9機が突然上空に現れ、いくつかの爆弾を投下、これにより数十人が負傷し、老婆と息婦、男女の子供三人が死亡、二人が行方不明となった。(筆者注:行方不明とは日本でも米軍による爆弾でも生じているが、ほぼ爆弾の直下にいて体ごと散り散りに吹き飛ばされたと考えられる。一発が100−150kgの爆弾で、直径が10m前後の穴があき、深さは5-6mほどになり、250kg爆弾では20m前後の穴があき、その分の土砂が周囲にいる人々を生き埋めにする)その後間もなく爆撃機10機が再び来襲して機銃掃射と爆弾投下を行った。これによりまた10人の死者と30人の負傷者を出した」。同様に当時の上海の英字新聞にはこれらを目撃した外国人の抗議と報告で一杯となり、これらの記事を見て日本の外務省東亜局長が10月4日の日記に、何も報じない「日本の新聞はもうだめだ」と書いたほどであった。

*9月30日、上海の南翔その他浙江省の杭州、寧波、紹興市の諸曁(しょき)を爆撃。上海は9月の一ヶ月間、この日まで19日にわたって爆撃された(19回ではなく一日に数度もある)。

*10月6日、四日連続で上海を爆撃、この日は虹橋・嘉定などを爆撃、特に粤漢線・隴海線(江蘇省連雲港市と甘粛省蘭州市を結ぶ路線)の沿線に爆撃を重ねた。また「上海の共同租界から車で一時間足らずのところにあるルビコン鎮の村に午前10時ごろに日本機9機が来襲、数個の爆弾を投下した後、再び来襲、今度は低空で機銃掃射した。これにより村人17名が死亡、数十人が負傷した。母親と妻を亡くした人、二人の娘を亡くした人、赤ん坊を亡くした人…… この村には中国兵など一人もいず、なぜ爆撃を受けたか誰も説明できなかった」。

*10月15日、上海、南京、蘇州、杭州、安徽省の蚌埠・滁県などを爆撃、さらに広九・呉輿・新寧鉄道を爆撃。

(筆者注:ここまで特に記していないが、一日にこれだけの地区を分散して爆撃するのは、天候の障害がない限りザラにあった。また10月1日から15日までに平漢線や津浦線その他の鉄道沿線に爆撃を加えた要地は49カ所に至った)

*10月17日、台湾経由で派遣された陸軍の軽・重爆飛行隊が、上海市宝山区の大場鎮の中国軍陣地をこの日から数日間、50kgから250kg爆弾をもって爆撃し、地上部隊の進撃を支援した。

*10月18日、上海の虹橋鎮を爆撃し、虹橋橋梁と30軒余りの民家を爆撃し、死傷者は100人余りとなった。

*10月19日、午前9時45分、上海の七宝鎮を爆撃し、家屋を破壊。10時30分、華漕鎮を爆撃し、死傷23人、家屋7軒を破壊。11時、北新涇鎮を爆撃し、民家21軒、橋梁を破壊した。

*10月23日、上海莘庄を二度爆撃し、19人が死亡した。 

*10月25−27日、850機が上海地区及び後方地域を総攻撃し、合計2526発、164トンの爆弾を投下した。(11月2日、日本の海軍省発表によるが、「故に中国側の損害は甚大の見込みなり」として戦果を誇っていて、上記の中国側の数々の被害の一部の裏付けとなっている)

 付記:10月14日から26日まで、日本軍機は中国守備軍のいる上海の旧閘北区をを98回爆撃し、その支援によって日本陸軍は上海近郊の要衝で難関の大場鎮を攻略し、27日、陸軍は「日軍占領大場鎮」というアドバルーンを上海の日本人街に上げた。

*10月29日、江蘇省松江(現・上海市)を爆撃、メソジスト系宣教団施設と女学校その他が爆撃される。ここには星条旗が掲げられ、中国軍もいなかった。

(10月14日より31日まで上海は18日連続で爆撃された。10月では23日間、また8月14日の渡洋爆撃から10月末まで、海軍飛行隊が空爆を休んだ日は一日もない)

 筆者注:これらの非武装都市(町村)への爆撃は、1912年(明治45年・大正元年)に日本も批准していた「陸戦の法規慣例に関する条約」 に違反する行為であった。ただし、このような条約が、この後の第二次世界大戦も含めて守られた戦争など皆無である。そもそも戦争とは、殺人、略奪を正当化するもので、基本が無法下で行われるから何かを遵守することなどできない。繰り返すが飛行機からの空爆というものは相手の顔が見えないから、攻撃する側からは原爆を含めて地上の惨禍の程度が分からず、痛痒という気持ちも生じない。

 付記:10月27日の陸軍省発表。—7月7日の盧溝橋事件より、満州を含めた北支(中国北部)と上海戦線における10月20−23日あたりまでの日中両軍の「損害」について、日本軍の戦死者9640人、中国軍の戦死者10万5970人とある。ちなみに中国軍の重軽傷者は約30万人で、合わせて40万人超である。とりわけ8月中旬から本格的に戦闘が始まったが、約2ヶ月半でこれだけの戦死者とは凄まじい。この数字を見ると、12月に起こったいわゆる南京事件の犠牲者が30万人というのも全体の中では特異な現象ではないことが理解できる。

 さらに10月28日、陸軍省は上海戦を制したときには軍事行動を停止し、停戦・和平を目指すとする声明案を作成。しかしこれが公けにされることはなかった。

*11月5日、午後4時ごろ雨の中、2機の日本機は上海の龔路鎮上空から爆弾2発を投下、一発が万寿橋東に落ち、家屋3軒と船一隻が爆破し、船上の36人が死亡した。もう一発は奚家橋(蘇州)付近に落ち、老婆1人が死亡、1人が腕を骨折した。さらに2発を万寿橋北側に投下、農民教育館の家屋が崩壊し、多数の負傷者が出た。また同日、上海南匯(わい)区(当時は江蘇省で現在は上海市浦東新区)の恵南鎮、周浦鎮が爆撃され、恵南鎮への4発で8人が死亡、周浦鎮では2発が投下された。周浦では小学校が65棟、楊潔女校が35棟、中学校1棟のほか、民間の建物14棟、上南交通公司車庫が一棟破壊された。

*11月11日、上海の孫小橋地区に投下した数発の爆弾は新織物工場の西浜に落ち、民家2軒が崩壊した。同日2時、川沙城を空襲、爆弾2発を投下、一つは湖浜公園に落ち2人が負傷、一つは南通り鍛冶屋横に落ち1人が死亡し7人が負傷した。同3時頃、2機が新陸上空侵入、視界にはいった難民船に爆弾4発を投下し一発が命中、さらに機銃掃射をし、多数が死傷した。 

*11月12日、上海の羅店鎮で、進軍中であった日本軍を友軍機が誤爆、死者4名重軽傷多数、馬4頭も犠牲。

*11月16日、上海は11月、この日まで13日間爆撃され、上海は制圧され爆撃は終了した。

南京への爆撃

 各国代表からの抗議文に対して日本の海軍司令部は動ずることなく、9月19日、南京の列国外交機関と居留民に対し、安全な地区に避難するようにとの通告文と、南京市民に対しては中国軍とその軍事行動に関係するすべての施設に対し、爆撃をすることがあるから自分で身を守るように、我が軍は一切その責任を負わないとの警告文を発した。しかもその当日から上海に設置した基地からの空爆を開始、25日までの7日間に11回、 延べ289機が出撃した。

 南京の金陵大学(現・南京大学)付属病院(鼓楼病院)医師ロバート・ウィルソンの日記には、「8月の上海事変直後から始まった南京空爆は31日までに23回行われ、その多くが夜間空襲であった。19日の深夜の空襲では12人が死亡、多数の負傷者がでる。26日昼には大規模な爆撃が行われ、(特に貧民街に集中し)市内3ヶ所で火災が発生し、およそ100人の住民が死亡する(その半分は焼死)」とある。それに対し南京に大使館のある米英独仏伊の代表は抗議をして爆撃行為の停止を求めた。

 —— 「8月26日夜、南京市の地域に行われた大規模な爆撃は、明らかに非戦闘員である外国人および中国人の生命や財産に対する危険を無視したものであった。当外交代表は、いかなる国の政治的首都、とりわけ戦争状態にない国の首都に対する爆撃に対して、人間性と国際的礼儀について日本側に適切な配慮を促すものである。…… 五カ国代表は爆撃行為の停止を要求する」としている。(この中の「とりわけ戦争状態にない国」というのは、日本がいまだに正式に宣戦布告していない戦争だったからである。なお、ウィルソン医師その他欧米人の南京における献身的な活動については、この昭和12年の「後編」の中で詳しく取り上げる)

 前半でもっとも被害が大きかったのは9月25日で、この日は南京に朝から夕刻にかけて編隊による5回の爆撃があり、 爆弾約500個が投下され、南京の 飛行場、政府の建物、中央大学、中央病院、放送局、鉄道駅、水道局、電力発電所、さらには新街口の人口密集地域も爆撃する。中央病院は最新の医療設備を持った新しい大病院で、屋上には赤十字のマークと漢字で中央病院の名が書かれていたが、20個近くの爆弾が投下され、職員にも死傷者を出し機能停止となった。その入院患者の中に、その前に撃墜された飛行機から救出された日本人飛行士もいた。南京城内の住宅地にも150kg爆弾を投下し、市民の死者は数百人(後に600人とされた)、負傷者は数千人という被害をもたらす。この時にフランス領事館の100m近くに250kg爆弾4個が投下され、大穴が開いたと領事館の報告にある。ちなみに日本軍はすでに250kgと500kg爆弾も使っていて、この7年後に米軍が日本本土に対し多用した爆弾の大きさは主に250kgと500kgであって(当然爆撃機は大型になって積載量は違うが)、すでに日本軍はこれほどのものをと驚くものがある。

 また下関(南京城外の揚子江岸の地域)の難民収容所にも爆弾が投下され100名以上の死者がでた。この難民とは戦場となった上海から南京へ逃れてきて、この南京への攻略戦でさらにここまで逃れて来ていた人々であった。一日に千人単位の人々がここに避難し、ここからさらに長江(揚子江)を渡ってもっと安全な地に移動しようとしていたわけであった。実はこの後さらに日本機10機が来襲し、その長江の対岸の浦口上空にやってきて、浦口から延びる津浦鉄道を爆撃した。つまりこれは長江を渡って逃れようとする軍民の退路を絶とうとする戦略によるもので、数ヶ月先の南京攻略戦を見据えてのことであったかと思われる。実際に日本軍はその時にこの浦口に一支隊を配置して、敗残兵と難民の虐殺が行われることになる。

 その下関の惨状を南京にいたロイター通信のスミス記者は次のように伝えている。——「爆撃後に下関の難民収容所に行ってみたところ、その光景は目を覆うばかりで、 現場には犠牲者のばらばらになった遺体がからみあったまま、かなり広範囲にわったて散乱していた。多数の難民の住んでいた莚がけの小屋は爆撃で火がつき、なお延焼中である。その炎から出る煙は大きな柱となって空に立ち昇り、そのあたりの何マイルも離れたところからも目にすることができた」。

 付記:当時の南京市長馬超俊が国民政府に報告した「日本軍機の空襲による損害状況」によると、8月15日から10月15日までの二ヶ月間に65回の空襲があり、被害は軍人を含まない市民392人が死亡、438人が負傷、破壊された家屋は約1949軒に達したとある。ちなみに日本軍は南京へ12月12日まで120回を超える爆撃を行なった。

 翌年末からの日本軍の首都重慶への爆撃は、何らかの形で耳目に触れた方はいると思われるが、それ以前のこの時期から以下の中国各所への数多の爆撃の実態に触れた方はほとんどいないと思われる。

上海作戦に並行して行われた海軍の諸都市への爆撃の数々とその事例

【他の都市への同時無差別爆撃】

 日本はすでに国際連盟を脱退していたが、中国国民党の訴えもあり、連盟で無差別爆撃の問題が取り上げられ、9月28日の総会で以下のような対日非難決議案が全会一致で採択された。

 —— 「日本の航空機による中国の無防備都市への空爆の結果、多数の子女を含む無辜の人民に与えた生命の損害に対し、深甚な弔意を表し、…… ここにその行動を厳粛に非難す」。しかし日本軍政府は、「日本の海軍の空爆は的確に軍事施設を狙い …… 」として無差別爆撃をあくまで否認したが、まだ正確な照準器などない時代で(後の米軍による日本への空爆においても、B29は最新の照準器を装備したが、天候や上空の気流の加減で正確にはいかなかった)、この言い訳は無理があるし、世界の報道機関の写真やニュースフィルムがその事実を示している。

 他の都市の例として、華南の上海と言われ、香港の近くに位置する広東省広州は人口が100万以上であったが、9月23日に大空襲に見舞われた。それに関して翌日デイリー・ニュース社はロイター通信記者による以下の内容を載せた。

 —— 「東山付近の貧民住宅街は爆撃でほとんど粉砕されていた。ある所では死体が蠅取紙の蠅のように並べてあり、腕や肢ない死体は見るに絶えなかった。幾百もの婦女が悲嘆に暮れ、廃墟の中を肉親の死体を求めて歩き回っていた。…… 正確な統計にはまだ日数を要するが、本社の予測では死傷者数千人は下らないだろう。今日の空襲の損害は上海南砧の惨劇を超えているが、今回は政府官舎、軍事機関は全部無事であった。故に我々外国人には日本機の爆撃目標がどこにあったのか、皆目見当がつかない。その大部分は草葺の貧民区に集中していた。一人の上流の出らしい男がむしろを取り、潰された死体を指して、これは自分の妻であると暗然として語った。…… 東山付近の小学校も全焼したが、幸いに休暇であった。今日も二度爆撃があった」。

 この前日9月22日にも日本機が広州東郊に22機来襲し、死者約300人を出し、米国教会の医師バーテス博士は爆撃後直ちに車で現場に駆けつけ、重傷者の救護に当たった。博士は書き残している。

 —— 「人類の中で最も憐れむべき受難者たちは、救護隊到着と聞いて廃墟のあちこちから続々と出てきた。…… あるものは顔中血だらけにして廃墟の上を這い回り大声で行方不明の肉親を呼んでいた。80代の老婦人が頭に血を流しながら私に子供と孫娘を救ってくれるように頼んだ。困惑した子供たちが永久に見つけられないかもしれない母親を探して彷徨していた。一人の男が倒れた家の中から這い出てきて、腕の中の10歳前後の少女は頭部や目に重傷を負っていて、先に病院に送ってくれと懇願した。彼の母親、妻、他の子供二人もすべて家の下敷きになってしまっていたから、この娘は最後の希望であった。…… 病院に戻ってみると聞こえるものは嗚咽と呻吟と、肉親を失った慟哭であり、あるものは言葉を失って泣いていた。病院を出たならば、彼らはどこに行って住み、食べればよいのか。…… 罹災者たちが住んでいた地区は兵舎、兵器工場、重要鉄道、防衛施設等も何も近くになく、広州で繁華な一角であった。これは残虐無情な破壊行為と恐怖行為の一種であった」。

 この広州に関しては10月30日のウィークリー・レビュー紙が広州電として日本軍爆撃の様子を述べている。

 —— 「広州の各町村は、漁船、商船、鉄道、工場の内容や防備の有無を問わず、すべて日本の爆撃機の目標となった。広州およびその近郊における爆撃の犠牲者(死者)は少なくとも800人に達し、すべて一般人であった。日本機は住宅地区のみならず、中山大学、中山記念堂などの重要施設を破壊しようとしたが、幸いにも爆弾は外れて無事だった。9月11日現在(筆者注:これは10月11日かそれ以降と思われる)、広州は56回の空襲を受け、現に今でも記者の頭上には日本機が旋回している。過去一ヶ月以内に広州は一日二回の空襲を受けた」。

(以上は主に『日中戦争全史:上』のほか、『南京難民区の百日―虐殺を見た外国人―』岩波書店:1995年、および『海軍の日中戦争』平凡社:2015年、いずれも笠原十九司著からの混成である) 

(以下は『外国人の見た日本軍の暴行』ティンパーリー著より)

 上海から約1100kmの所で揚子江の中流に位置する東洋のシカゴと称される武昌、漢口、漢陽の三鎮(今は合わせて武漢となっている)は、重要な工業の中心地で、人口は100万人前後であった。9月26日、この武漢への爆撃についてデイリー・ニュース社は、やはりロイター通信記者による25日付の記事を載せている。

 —— 「昨日午後の爆撃に引き続き、夜間も日本機の来襲あり。第二回目の空襲は時間的にはわずか10分程度であったが、被害は恐るべきものとなった。中国人の医療関係者はすべて動員され、中国赤十字会および普愛医院も積極的に救護工作に従事した。電力不足のため、多くの手術は灯火の下で行われ、重傷患者に対してはモルヒネが投与された。今朝見たところによると、漢口の武聖廟一帯の貧民区で縦60m、横45mの場所に3発の爆弾が投下され、完全な屠殺場と変わっていた。瓦礫の中の死体捜査が始まったが、この地区の道幅は2mもなく、鳥の巣のような小屋が立ち並んでいたが、跡形もなく、住民も通行人もすべて爆死し、死体が点々と横たわっていた。救護隊はそれらを一ヶ所に集積した。死んだ者も、まだかすかに生きている者も一緒にされ、多くは手当てもされずにいた。子供の死者は極めて多数に上っていて、死体は成人の者より多かった。警察、学生および有志の人々は熱心に作業を続け、負傷者の運搬や死体の処理に尽力した。武聖廟一帯の住民は約1万人で、兵器工場とは約6km離れていた(筆者注:上記3発の爆弾が仮に250kg爆弾であるとすれば、その一個の爆弾の空ける穴は20mにはなり、「縦60m、横45m」の中に3発落ちたとすれば、その範囲の人たちはほぼ全滅に間違いなく、その周辺の人々も一挙に吐き出される土砂によって生き埋めになる。これは日本が7年後に米軍の数々の爆弾によって受けた被害の様相と全く同じである)。武昌、漢陽も爆撃され、その一つは漢陽の難民収容所に当たり、60人の死者を出した。……

 昨日被爆した武聖廟一帯は今日もまた爆撃された。幾多の憔悴した罹災者は街頭にさまよい、疲れ切った救護班員は生き埋めになった人たちを発掘していた。中には全身に深手を負って死んだほうが楽だろうと思われる悲惨な状態の人もいた。記者は10歳くらいの男の子が、肩に血だらけの母親の死体を背負ってきて病院の看守人の前に置き、その埋葬を頼んで、兄弟姉妹を探しに戻る健気な姿を見た。また家の中で三人の男がまるで死んだように生気なく座っていて、その中の一人は死んだ赤ん坊を抱いていた。またある家では隣の部屋に死体が山ほど積まれているのに、一人の女性が飯炊きに専念している姿もあった。

 日本機の来襲は約600mの高度であったから、武聖廟一帯の人口密度や軍事的施設の有無は十分に判断できたはずであると外国人識者たちは語っている」。

 筆者注:つまりここまでの空襲被害のどれを取っても、日本海軍はわざわざ住民の多い場所を狙い、その結果中国に日本軍の威力を知らしめ、恐怖を与えようとする意図があったとしか思えないし、事実そのような発言を海軍はしている。それを「戦略爆撃」と呼ぶが、これは無差別爆撃を前提としている。実は筆者は本稿全体(『日本の戦争』)の端緒に、太平洋戦争末期(1944年:昭和19年11月下旬から)の米軍による東京への空襲被害から調べて書き始めたのだが、その時は、このすでに7年以上前に、日本軍が米軍の日本への空爆に勝るとも劣らない惨禍を中国へもたらしていたなどと、(長年日本に生きてきて)知らなかったし思いもよらなかった。しかも米軍による日本への重量爆撃は8ヶ月後の二つの原爆によってほぼ終わるが、日本軍の中国に対する空襲はここから約8年もの長期にわたって広範囲に続けられた。それにその長期間、中国の空の下にいた大勢の人々の恐怖に怯える心は上記のような体験側の記録を読むまでわからない。これは後述する南京で救済活動を続けたミニー・ヴォートリンが、その日記に、他の都市への空爆の話を聞くたびにその下で逃げ惑う人々のことを思って心を痛めていたことに通じるが、実際に戦闘機や爆撃機に乗って空爆する側の人間にはまったく想像できない地上の実態なのであって(ましてや机上で爆撃を命令する人間には)、仮にそれが想像してその被害の実態が目に浮かぶことができるなら、どんな人間も原爆など落とせないはずである。(もっとも、後述する陸軍の虐殺の仔細をみると、それも一概には言えない。戦争状態にあっては人間の心は簡単に変質してしまうし、残虐行為にも慣れてしまうということがある)

【二ヶ月間に60ヶ所以上の都市を爆撃】

 10月15日の大阪毎日新聞の英語版に、8月15日に日本軍が初めて南京を爆撃してから二ヶ月間に60ヶ所以上の「主要軍事地点」を爆撃したと記している。それによれば以下の通りである。

 山東省:韓荘・棗(そう)荘・兗(えん)州・済寧 

 江蘇省:上海・南京・浦口・句容・無錫・江陰・蘇州・崑山・嘉定・太倉・松江・宿州・揚州・南通・海州・連雲・淮(わい)陰・南翔 

 浙江省:杭州・寧波・海寧・筧橋・嘉興・諸暨(き)・金華・衢(く)県・紹興

 福建省:厦門(あもい)・龍渓・建甌 

 広東省:広州・石龍・虎門・恵陽・英徳・曲江・楽昌・安陽・潮汕・汕頭・黄浦

 安徽省:蕪湖・広徳・慶安・滁州・蚌埠(ほうふ)・寿陽

 江西省:南昌・上饒・余江・清江・九江

 湖北/湖南省:漢口・武昌・漢陽・孝感・株州

 以上61地区であるが、つまりこれは日本海軍が戦果として発表したもので、陸軍によるものは含まれていない。この期間、筆者のピックアップできた地区でこの中にないもの、 逆にこの中にあって筆者の中にないものもあるが、いずれにしろすべてを把握できないほどに毎日何ヶ所にも分散して、しかも一日に同じ箇所に何度も精力的に爆撃を続けていたことがわかる。

 この報道に対して「チャイナ・ウィークリー・レビュー」紙の主筆パウエル氏は11月30日付の社説で述べている。—— 「これらの諸都市のうち軍事的価値を持つものはほとんどない。ことに日本機の猛爆にあった上海付近の多くの村落を含めれば、その数は現在までにはおそらく2倍になっているであろう。10月24日午後、記者は単翼双発機10機を含む24機が、各機6個の爆弾を装填して蘇州河の北部に広がる農耕地に散在する部落を爆撃しているのを目撃した。午前の爆撃を目撃した外国人の話では18機が早朝から昼までおよそ200個の爆弾を蘇州河沿いに投下し、その大半は約100kgの爆弾であった。午後に投下された爆弾はおよそ150個を超えるであろう。日本軍飛行士はまさに破壊のための野外演習を繰り広げたのであろう、数機の編隊で高空から急降下して村舎を標準に巨弾の雨を降らせていた。幸いにもこの地の農民のほとんどは(それ以前の爆撃によって)疎開したか逃げていた。ある地点では爆弾でできた穴の中に五人を埋葬する農民の姿があった。それでも残った農民たちは普段のように畑を耕し、たとえ爆弾が数百ヤード離れたところに落ちても仕事を休まなかった」(以上は『南京大虐殺資料集:第2巻』より)

【主な爆撃例と驚異の爆撃量】

 以下、少なくとも第二次上海事変以降に始まっているこの1937年(昭和12年)の年末までの上海、南京以外の各都市への、主に海軍の爆撃を、大雑把に目に触れたものだけでも羅列してみる。

*広徳(安徽省宣城市):8月16日(渡洋爆撃)、最初の対象は飛行場であるが、この後11月まで10数回爆撃される。

*南通、崑山(江蘇省蘇州市):8月18日(渡洋爆撃)、他に湖南省衡陽、江西省吉安を爆撃。さらに南通では8月24日、キリスト教の病院が爆破され、患者30数人と数人の職員が死亡。

*江陰(江蘇省無錫):8月20日(陸軍飛行隊)、江陰要塞に毒ガス弾を投下、24日にも再び投下した。(この時期、毒ガス弾を使用するのは主に陸軍である)

*徐州(江蘇省):8月30日(渡洋爆撃)、徐州は交通の要衝であり、軍の主要な町として、日本の空襲の重要な標的となった。この日以降、9月27日から29日まで、3日間連続で爆撃された。11月12日も再度爆撃されたが、翌年明けに徐州の戦いが始まった後、1938年(昭和13年)1月から6月にかけて、徐州は頻繁に空爆されることになる。

*広州(広東省):8月31日(渡洋爆撃)、白雲・天河飛行場を7機で初爆撃。さらに9月22日、広州の東部郊外に22機来襲し、死者約300人を出し、翌23日には三度にわたって爆撃し、数千人の死傷者を出した。次に10月12日、「広東省の村々、広州市内の漁船・商船・鉄道・工場は市内の無防備地域も含めて日本軍爆撃機の攻撃目標となった。…… 死傷者の正確な数はまだ不明であるが、広州市内外で800名が死亡、その全員が一般市民と婦女子であった。その他、中山大学、中山記念堂を破壊しようとしたが命中しなかった」(10月30日付、チャイナ・ウィークリー・レビュー紙:『南京大虐殺資料集・第2巻』より)ちなみに10月11日までに広州は延べ56回の空襲があったが、翌1938年(昭和13年)10月20日に占領されるまでの14か月間、日本軍機は広州に対し述べ800機以上の出撃で1万発以上の爆弾を投下、死者は7000余人におよんだ。

*漳州市(福建省):8月26−30日(渡洋爆撃)、日本軍機出動40機、連日漳州飛行場を爆撃、投下爆弾60余個。その後1944年(昭和19年)5月まで100回以上、日本軍機延べ181機来襲、投下爆弾346個、死者189人、負傷者217人、家屋数百間破壊焼失。

*建瓯県(福建省):8月30日(渡洋爆撃)、この後1945年(昭和20年)3月29日 までに日本軍機のべ761機、投下爆弾2581個、死傷者約千人、破壊焼失家屋650戸。

(8月15−30日、南昌・南京・広徳・杭州に対して台湾の新竹基地と長崎大村基地から、九六式陸攻38機が渡洋爆撃を行い、また延べ147機が済州島・台北から出撃、広徳、南昌、南京などを連続して空襲する)

*恵州(広東省):9月12日(渡洋爆撃)、アメリカ伝道団の病院が日本機3機によって爆破され、重傷者が出た。施設には大きなアメリカ国旗が二本掲げられ、周囲に高射砲はなく、中国陣地から3km離れていた。

*内モンゴル自治区:9月21日、ウランチャブ市の集寧から帰綏(今の呼和浩特)方面に避難民を満載した旅客列車が午前10時頃出た。列車が油葫芦湾一帯に到着した時、4機の日本機が列車の上空から列車に向かって爆撃、機銃掃射を繰り返した。列車が止まった時、西南から集寧に向かっていた日本陸軍は、列車から低い河原に逃げた避難民を機関銃や小銃で一斉に銃撃した。これにより300余の民が次々と銃弾に当たって倒れた。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

*献県(河北省):9月23日、フランスのカトリック伝道団の施設に30発の爆弾投下。施設はフランス国旗を掲げ、日本軍の前線からも60km以上離れていた。

*南昌(広西省):9月24日、メソジスト米国伝道団の女性教会に属する女子病院の施設内に4発の爆弾が落とされ、病院は壊された。また26日には農業大学などが爆撃を受けた。10月1日、再び爆撃され、翌年は南昌の2つの空港と航空機製造工場が度々狙われた。

*武漢(武昌、漢口、漢陽の三鎮=湖北省):9月24日、25日は上記のように漢口武聖廟と周辺家屋爆撃、死傷者200余人(とあるが上記のロイター通信の被害の様相からするとこの数倍ではなかろうか)。この後翌年10月25日の国民党軍の武漢撤退時、つまり占領まで、日本軍機の武漢爆撃は61回、延べ964機、投下爆弾4500余個、4000人近い死者、負傷者5000余人、破壊焼失家屋4900余棟となった。

*蕪湖(安徽省):まず10月5日、日本軍は蕪湖近郊の湾里飛行場を爆撃し、飛行場に駐機していた航空機十数機、倉庫一基を破壊した。飛行場は全面的に麻痺し、中国軍は上海会戦に対する航空支援能力を失った。12月4日、前日に日本海軍は南京の東方約140kmの常州に航空基地を新たに設置、そこを拠点に南京とその100km南方の蕪湖攻撃に向けて戦闘・爆撃機計19機を出動させた。これは国民党軍の蕪湖方面への撤退を阻止するため、橋と運河を破壊する目的であった。続けて12月5日、蕪湖駅の埠頭や市街地を中心に爆撃し、990人以上の死傷者をだした。さらに12月7日、蕪湖に午前と午後二度に分けて各6機が爆弾30個と10数個を投弾、80数人が死傷した。12月10日、蕪湖は日本軍に占領された。

*鎮江(江蘇省):10月6日に初爆撃を受け、 11月22日の爆撃で500人以上の住民が死亡した。 鎮江は南京の東の都市で、上海から南京へ陸軍が進軍する途上にあり、その支援作戦である。

*常州(江蘇省):10月12-13日、蘇州の常熟、常州市を爆撃、とりわけ常州は大きな被害があり、交通の要所と繁華街を爆撃し、40人余りが死亡、その後も約一ヶ月爆撃が続く。地上部隊が侵攻するにあたっての先行爆撃である。

*安陽(河南省):10月13日、重爆撃機5機で二度目の爆撃をし、さらに地上近くで機銃掃射した。11日と合わせて家屋2000近くを爆破し、被害者は千人以上となった。その後、日本軍は安陽県城を占領し、1945年(昭和20年)までの8年間、住民への虐殺、女性への強姦・輪姦などは数知れず、ある街では屈辱に耐えかねて自殺した女性が11人(首吊り7人、井戸に身投げ4人)いた。安陽市の西門の外、水治鎮の南西の角には専用の処刑場もあった。安陽城西だけで2341人が日本軍の銃弾と屠殺刀の下で惨殺され、家屋約2000棟が焼かれた。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

*蚌埠(安徽省):10月14日、駅と市場と居住区が二編隊の爆撃機に襲われ、市民88人死亡、72人が負傷。スタンダード石油は三万元の損害を受けた。

*桂林(広西省):10月15日、この日から1944年(昭和19年)11月8日までの7年間、51回空爆され、690人が死亡し、1056人が負傷、3000戸以上の家屋が被害を受けた。

*10月22日だけで蘇州を13回、杭州を6回、太原5回、嘉興3回、広九路(香港までを結ぶ広州の鉄道)に2回の爆撃。

*松江(江蘇省=現・上海市):10月29日、メソジスト系宣教団施設と女学校その他が爆撃される。ここには星条旗が掲げられ、中国軍もいなかった。なお11月2日にも同様な施設が爆撃された。

*蘇州(江蘇省):8月16日から10月末まで、蘇州は130回以上爆撃されたが、10月28−30日の三日間、多量の焼夷爆弾も投下され、その結果市内の繁華街で四つの大火が発生し、それが三日三晩続き、商店、旅館、芝居小屋、茶館、浴場、ホテルなど二百軒、民家六、七百軒が焼失した。

*蘭州(甘粛省):11月5日、1941年(昭和16年)8月30日まで、中国北西部の主要都市である蘭州は20回以上の爆撃を受け、2千数百発以上の爆弾が投下され、130人が犠牲になり、7千戸が破壊され、2千人近くが家を失った。

*無錫(江蘇省):11月10日深夜、水西門外工業区と恵山傷兵医院に一度に140発余りの爆弾が投下され、多大な死傷者を出した。「病院に送られてきた負傷者は身体の完全なものはなく、見るに耐えなかった」(上記米国人医師)。11月12日、やはりアメリカ系宣教団の聖アンドリュウ病院が爆破された。陸軍の南京侵攻への支援作戦であった。

*蘇州(江蘇省):11月13-14日、2日連続で700発以上の爆弾を投下するという大爆撃があり、市街は難民で溢れた。これも陸軍の南京侵攻作戦への海軍航空隊の支援爆撃であった。15日も蘇州港の洋関(税関)地区への爆撃があり、蘇州への連続爆撃で犠牲となった死傷者は数えきれず、地元民、上海地区からの避難民、上海の前線から退却していた兵士などの死体であふれた周辺の川や岸は血で染まった。県内の交通沿線上の集落や農村も爆撃された。

*西安(陝西省):11月13日、西安の飛行場を初爆撃。西安は北西部の重要な軍事都市であるが、1944年(昭和19年)12月4日までの日本爆撃の主要な標的の一つであって、145回の空爆を受け、1106機が出撃、3,440発の爆弾により、1244人が犠牲、1245人が負傷し、6783戸の家が破壊された。

*長沙(湖南省):11月24日、この日から119回爆撃され、4000を超える爆弾と焼夷弾を投下され、3000を超える家屋が破壊、5300を超える民間人が殺害された。

*丹陽(江蘇省鎮江市):11月27日、日本機は爆弾約140発を投下し、340人以上の住民が死亡、156人余りが負傷した。 「江恒石炭駅内の油に弾が命中し、煙が空を衝き、…… 翌28日、一夜の狂風を経て炎が舞いあがり、夜を昼のように照らし、洪楊革命後に建てられた四牌楼から賢橋までの新市場すべての精華を破壊した。…… さらに翌29日、偵察爆撃により、南門大街、東門大街はいずれも破戒され一面瓦礫と化し、路地裏のビル住宅のごく一部のみが免れた。初期統計からの推定では、町は平屋9006戸、ビル1030棟、学校の校舎310棟、合計1万346軒を焼失した。……当時丹陽城内で災禍を受けなかったのは西門街、城東燕子巷、東河路一帯だけで、その他の各街はいずれも多かれ少なかれ破壊を受けた。……戦火で死んだ者72人、工・商・民の財産は約2千万銀元」(『日軍侵華暴行実録』第3巻)。この後丹陽は日本軍に占領され、住民にはさらなる悲劇が待っていた。

*合肥(安徽省):12月14日、翌年5月までの半年間で爆撃40数回、死者300人以上、負傷者100人以上。

*襄陽県(湖北省):12月28日、1940年(昭和15年)5月26日までの間に爆撃120回、投下爆弾4097個、死者2460人、負傷者3548人、破壊焼失家屋6463間、破壊船舶46隻、破壊機関車14両。

 以上は第二次上海事変から年末までの空爆の一部の例である。こうした爆撃は主に陸軍の侵攻作戦に先んじて必ずと言っていいほど行われ、陸軍の侵攻と占領を容易にした。中国への爆撃は一般的に重慶への爆撃が主に取り上げられるが、218回とされる爆撃数は全体の爆撃のうちのわずかに過ぎない。しかも国民党が南京から遷都した重慶は、陸軍の地上部隊が容易に攻撃できない中国奥地の要地にあったから、脅しとしての爆撃に頼るしかなかった。

 この後日本軍はさらに戦線を拡大し、それに伴って新たな空爆地区とその回数が増え続けていく。例えば『海軍の日中戦争』(笠原十九司:平凡社、2015年)の巻末に「主要爆撃箇所一覧」として日付順にリストアップされていて、この年の8月14日から12月31日まで見ると、11月と12月のそれぞれ三日を除いて毎日欠かさず、平均4、5箇所に対して実践されていることがわかる。ざっと計算すると通算132日、約500-600箇所への出撃となっていて、これが一箇所に一日一回ではないので、おそらく千数百回以上の爆撃を約4ヶ月半の間に行なっていることになる(これに上記のように陸軍が華北を中心として行った爆撃も加わる)。これだけでも凄まじい回数であり、ある意味日本人の勤勉さを裏付けるものとも取れるし、後の米軍の日本本土空襲の頻度など、足下にも及ばない。この頻度は1938−40年(昭和13-15年)が最も多く(年間平均約2300回=一日約20回)、1941年(昭和16年)末に太平洋戦争に突入する準備作戦が9月から行われ、まず海軍の飛行隊が中国から撤退し、その分中国内への爆撃回数はもっと減るが、それでも陸軍飛行隊の活動は絶えることなく継続されて行く。『海軍の日中戦争』の爆撃記録も全てではないとわかり、果たしてそれがどの程度の回数でどのような内容なのかが気になり、筆者はこの昭和12年の稿を中断して集められる資料を集めながら『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』として、日中戦争以前からの事例(第一次世界大戦時のドイツ領青島攻撃まで遡る)を書き出してみることにした。しかしこれは爆撃地区の省市を特定するための困難な作業を伴い、当時の国内の新聞記事からも確認するなど想定以上に時間もかかり、その量も笠原氏の「主要爆撃箇所一覧」をはるかに上回るものとなった。それはまた太平洋戦争終盤に日本が米軍から受けた爆撃の期間、量(重量的には原爆などを含めると及ばないが)、回数をはるかに上回るもので、ざっと目を通されるだけでも、おそらく今の日本のほとんどの方がその総量に喫驚されるに違いない。上記の爆撃例も「全記録」から逆に拾い出したものである。

【陸軍飛行隊の無差別爆撃】

 およそ日中戦争に関する専門家による記述の中で、大きく抜け落ちているのは陸海軍航空隊による大量爆撃の事実であるが、以上までは主に海軍飛行隊の爆撃であり、その中では陸軍の侵攻作戦を支援するものも多くあった。これに対してこの時期の陸軍は満州の関東軍と北京近郊の支那駐屯軍、あるいは植民地の朝鮮駐屯軍に属する飛行隊などがあるのみであってその規模は艦隊の艦載機を持つ海軍よりずっと少ない。

 1931年(昭和6年)の満州事変により日本軍が満州を占領してから、関東軍(陸軍)が満州内に飛行機基地を各地に造成していた。これに連動して満州事変後に公主嶺(長春の西)に基地を作っていた陸軍の飛行第七連隊が、1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件後の11日に天津に拠点を移し、7月13日には北京の南原地域を爆撃し始め、20日、北京市外の西苑、北苑の空港を爆撃、26日に廊坊を爆撃し、その後張家口、太原などの各地を爆撃して陸軍の侵攻を支援した。これに並行して第七連隊の重爆大隊が、28日に40機を用いて北京の南苑飛行場や兵舎を爆撃、29日と30日には天津の市街地に向かい、北駅、東駅、商業センター、市政府、警察署、裁判所、造幣局、金浦無線局等を爆撃、そして南開大学の秀山館、図書館、文法学校、教室、寮はすべて破壊された(その前日に同じ連隊の軽爆隊が天津の復旦大学を爆撃)。これにより天津では2千人以上が死亡した。

 この南開大学への爆撃については、「抗日共産党の拠点」を潰すとの名目があったというが、この空爆に伴って地上の陸軍は大砲で大学の建物をさらに破壊、焼失させている。この攻撃により南開大学は火の海となり、人々はイギリスの租界地へと逃れ、涙を流して燃える天津の街を見たという。そして大学の図書館にあった20万冊に及ぶ書籍は日本軍に略奪された。戦後に返還された本はその一部の450冊足らずだったという。1931年(昭和6年)、柳条湖で、日本の関東軍が南満州鉄道の線路を爆破して起こした満州事変のとき、南開大の創始者張伯岺は東北地方へ調査団を派遣する活動をしたが、日本軍はその行動を憎んでいたのではないかという。この南開大学への攻撃は(8月15日の海軍の南京大学とも含めて)中国側の大きな怒りを生んだ。実は米軍は日本への空爆計画において、知日派の識者に相談して爆撃を避ける場所・建物を決めていた。ただし当然誤爆もあり、大量の焼夷弾による延焼もあったが、日本軍の対中国空爆作戦においては、そのような話は聞かないし、この後も多くの中国の文化財を焼失させている。

 8月に入って陸軍の重爆大隊は河北省・山西省の南口・張家口・大同・馬廠・柴溝堡・王口鎮・小王庄・滄州などを爆撃した。さらに9月には河北省への侵攻作戦において、保定・石家荘・満城・涿県・定興などを爆撃した。9月中旬の保定への爆撃は250kg爆弾を使った市街中枢への攻撃だった。ちなみに250kg爆弾は直径15−20m程度の大穴を空ける威力をもち、直撃されると人の肉体は残らず、周囲の人々はその土砂で生き埋めになる。

 9月下旬からは上記のように山西省の太原占領に向けての攻撃をはじめ、10月には順徳・楡次・忻口鎮・葦沢関・汾陽・平定などを爆撃し(軽爆隊は太原の飛行場や源平鎮・沂口鎮を爆撃)、別途、石家荘、束鹿県(辛集市)、趙県なども爆撃した。11月8日には山西省太原北城門に500kg爆弾(この時期に500kg爆弾はおそらく最大のもの)を投下するなどの空爆をおこなって太原への地上からの侵攻を容易にした。

 さらに太原の後の11月には洛陽・西安・蘭州の飛行場その他を攻撃、12月には河北や河南などの市街地を爆撃した。12月中旬には陸軍の済南への侵攻作戦支援のために出撃、12月末からは山東省での侵攻作戦に投入され、旧軍鎮・刀家荘・炒米店の鉄道橋脚、東平・泰安の駅や列車などを爆撃した。これらに海軍の爆撃を加えれば、この3ヶ月半の間に凄まじい回数の爆撃と言える。(以上は主に浜松市のサイトの「戦争の拠点・浜松/中国侵略戦争と浜松陸軍航空爆撃隊」と中国側の資料より混成。)

【外国人のみた爆撃の様子】

 以下は『ドイツ外交官の見た南京事件』(大月書店:石田勇治編集翻訳、2001年)からの抜き書きである。

 —— 中国の華北の住民の意識に深く刻み込まれたのは、近代戦争の避けがたい残虐さである。例えば空襲によって一般市民に言語に絶する苦しみを強いた。だがそれ以上に日本軍の予防措置というものは山西省北部と河南省南部において、拭いがたい恐怖心と激しい復讐の念をかき立てている。私は信頼すべきヨーロッパ人たちから「村や集落を占領した日本軍が便衣隊(平服の兵隊)の捜索を口実に、まず戦闘能力のある男たち全員を刈り集めて射殺し、女たちは兵士たちが暴行するに任せている」と聞いた。……

 これらの報告の内容は中国側の残虐宣伝の要素を割り引いても、疑う余地がない。同様の報告がなんども繰り返し寄せられている。こうした残虐行為のせいで地域の人口が激減していることは、それ以外に説明がつかない。つまり日本軍占領の恐怖に駆られて住民はいち早く逃亡する。この現象は河南省南部、特に平漢(京漢)鉄道沿いの保定府南部から頻繁に報告されており、かつて12万人を数えた保定府には、現在日本軍の統計では6、7千人の住民しか残っていない。……

 そして今や憂うべき果実として抗日運動が組織されつつある。それがゲリラ戦法を生み、保定府や北京市の門前まで及び、日本軍の小規模部隊や歩哨に加えられる攻撃によって甚大な損失を出している。三ヶ月前には存在しなかった“日本軍を徹底的に打ちのめせ”という彼らのスローガンは北京の街角でも聞かれる。……

 中国の抗日の気運と運動の高まりは、軍事的に華々しい成果を見通すことはできない。しかし見過ごせないのは抗日運動とその精神が日本軍の圧迫下で息を吹き込まれていることで、それらは統一的な民族国家を目指して苦悩する中国の自然な道のりの一歩を表しているのである。

(駐華ドイツ大使北京分館、ビダー書記官のドイツ大使館への12月5日付報告より)

 —— (青島での略奪行為)昨晩、当地の中国人官吏、警察、監視兵が市長とともに退去した結果、青島には目下あらゆる庇護と統治が存在しない。住民抑圧を目的とした日本軍の略奪行為に対して、非武装の国際救済警察が投入された。……各国領事は本国大使館宛に、青島が一連の日本軍の報道に反して無防備都市であることを知らせるとともに、日本政府に爆撃を行わないよう通告することを要請している。

(駐華ドイツ青島総領事ブラクロより、12/31付、ドイツ外務省宛)

 —— 北京分館からの打電によると、喜多陸軍少将はこの一週間、日本軍と憲兵隊を動員し、反共産主義的措置と称して、多数の政治犯の逮捕と家宅捜査を残忍な手法で実行している。この大半は北京新政府(日本軍の傀儡政権)への協力を拒否した中国人指導者に対するもので、彼らが見つからない場合、その妻たちまでに及んでいる。

(駐華ドイツ大使トラウトマンより、12月31日付、ドイツ外務省宛)

 筆者私見:ここでは日本軍が抗日運動対策を一括りに「反共産主義的措置」としている様子があるが、この時期の共産主義者による反日抗争はまださほど大きくない。抗日運動は特に1931年の満州事変以降中国の各地方で組織されていて、その多くは自然発生的なもので、必ずしも共産党勢力によるものではない。ただこの日中戦争以降は共産党の勢力が拡大し、各地の抗日組織を糾合していくことになる。もとより日本軍はこの戦争の初期から「東洋平和」という戦争の名目を掲げて正義の戦争として爆撃と侵略作戦を行なったが、その建前は初っ端から見る影もなく、中国の人々がこうした日本軍に従うわけもなく、「抗日運動とその精神が日本軍の圧迫下で息を吹き込まれている」だけのことであった。つまり共産主義勢力の増大を日本軍が推奨しているようなものであったと言わざるを得ない。筆者の持論は、日本軍自身が今の中国共産党政権を打ち立てるのに多大な貢献をしたということであり、戦後、毛沢東もそのことを認め、感謝すらしている。

【アメリカの日本脅威論】

 元は親日派であったアメリカのルーズベルト大統領は、こうした執拗な日本軍の中国への攻撃を報告され、この時期から日本脅威論者へと変わっていき、実際に日本軍が真珠湾攻撃を仕掛けて太平洋戦争に入ると、日本が中国に対して行った無差別空襲と同様に、日本を焦土にすべきと、超大型爆撃機B29開発し大量に生産、日本中の都市への大空襲を決断させることになる。現今、アメリカの無差別空襲による甚大な被害(原爆被害を含めて約50万人の死者)ばかりが国内では強調されるが、それは片手落ちと言ってもよく、日本人自身がすでに忘れている(教育現場でも語られないから知らない)中国に対して始めたこの年からの無差別空襲がその要因を作っているのである。例えばこの日中戦争の時期と太平洋戦争終盤における米軍のB29爆撃機のような破壊・殺傷力は格段に違うから、都市単位の爆撃被害の規模(原爆は例外としても)は違うが、その日数と回数において日本が米軍から受けた被害以上の暴挙をすでに行なっていたことになる。まさかである。

 実は筆者は最初に戦時下の国内(東京)の様相を調べながら記述していて、この日中戦争の開始された1937年(昭和12年)あたりから学校や町内で防空訓練(防毒ガス訓練も含め)が盛んに行われていることを知り、実際に米軍から初めて空母の艦載機から空襲を受けたのは5年後(本格的空襲はさらにその2年半後)であるから、どうしてこんな早い時期から防空訓練をしていたのかいぶかしく思っていた。つまり自国がすでに中国に対して無差別空爆をし、ガス弾も投下していたから、その逆を想定して早々と国内で訓練していたわけであった。いずれにしろ、この日本の加害の面と被害の面、その両方を知っておくことは歴史の理解のためには欠かせないことである。

 20世紀初頭に飛行機が発明され、本来は人類の平和交流のために使われるはずであったが、以上のようにまず戦争の強力な武器として威力を発するようになった。何よりも飛行機は敵方の顔を見ずに空から「気楽に」攻撃できることになり、飛行機からの空爆は必然的に無差別爆撃を生み、いわゆる戦闘員よりも一般人の犠牲者が多くなるという事態が生じた。例えば浜松陸軍飛行学校で爆撃技術教育を受け、中隊長として中国で空爆をおこなった山崎武治は「軍事拠点といってもひっきょう民衆の町 …… 巻き添えになる婦女子・子どもも多かろう。…… 一投ごとに念仏唱えたい心境 …… 幸いな事に爆撃だけで悲惨な修羅場が眼に映らないのが救いであった」(浜松市のサイトの「戦争の拠点・浜松/中国侵略戦争と浜松陸軍航空爆撃隊」)と語っているが、爆撃する側としては正直な感想であろう。しかもこの攻撃手段を世界に先駆けて本格的に使用し(第二次大世界大戦でドイツ軍が大量爆撃を始めたのはこの2年後)、中国国内に多くの犠牲者を生じさせたのが日本軍であるということは、今のわれわれ日本人自身にはほとんど自覚がない。自国に都合の悪い歴史教育を日本という国がしないからである。

【ドイツ軍によるゲルニカ爆撃との比較】

 ピカソの絵によって、日本人にとってもゲルニカ爆撃のほうがずっとよく知られている。この日中戦争の年に数ヶ月先んじる1937年(昭和12年)4月26日、スペインで内乱中のフランコ反乱軍と手を組んだドイツのコンドル軍団が、バスク自治政府内のゲルニカに対して「世界戦史上最初の無差別爆撃」(後述参照)を行なった。ゲルニカは共和国としての自由と独立の象徴的な町だった。この作戦は第一に爆撃機が高威力の爆弾を投下して建物を破壊し、第二に戦闘機が機銃掃射を行って住民を射撃し、第三に爆撃機が焼夷弾を瓦礫の上に投下して大規模な火災を発生させるというもので、ドイツ軍の資料によれば使用されたのは250kg爆弾54発、50kg爆弾158発、焼夷弾5948発であり、焼夷弾が本格的に使用されたことでも世界初であった。その後ヒトラーは「ゲルニカに対する国際的調査は阻止しなくてはならない」と部下に厳命した。ゲルニカは3日後の4月29日にフランコ軍に占拠されたため、バスク自治政府が被害状況を調査する時間的余裕がなく、フランコ本人はこれは住民が自分たちで焼き払ったもので、バスク自治政府の声明が嘘であるとして非難した(後に日本軍もしばしば同じような声明を出すが、侵略側あるいは征服者というものは手前勝手な言動をする)。さらに言論統制が行われたため、長年スペイン国内では実体が知られていなかった。ただ、ゲルニカの人口は6千人前後であり、犠牲者は後年の自治州政府の調査で1654人とされる。その意味ではこの年の日本軍の上海・南京から各都市へと展開される空爆のほうがはるかに規模は大きく、はるかに長期間にわたる。それまでの空軍は陸海軍に分かれて属し、地上戦闘の補助的役割にとどまっていたが、この時期から早くも日本軍にとって空爆が主体的役割を担っていき、全世界ではこの後、第二次世界大戦による欧州戦線と太平洋戦線、そして日本国内で多大な犠牲者を生じることになる。まず日本軍がその手本を見せた形となっている。

【日本軍が行なった世界戦史上最初の都市爆撃】

 実は世界戦史上最初の都市爆撃(無差別爆撃)はこのゲルニカではなく、日本軍によるものである。日本は第一次世界大戦に連合国側として加わり、1914年(大正3年)、欧州の戦線で手一杯だったドイツに宣戦布告、そこでドイツの中国における租借地であった青島を攻略することにした。まず海軍航空隊が、水上機母艦に改造した若宮に、水上航空機計4機を搭載し、横須賀を出航して青島まで輸送、9月5日から青島市街上空を飛行して青島港内のドイツ軍の無線電信信号所と兵営に日本軍としての初爆撃を行なった。並行して陸軍航空隊は飛行機を一旦解体して所沢から広島の宇品港まで鉄道で陸上輸送、そこから山東省龍口まで海上輸送し9月2日着、他の機材も待って現地で組み立てが完了するのに二週間をかけ、9月21日から5機で青島の偵察飛行を開始した。海軍機は10月6日までに49回出撃し200発の爆弾を投下(飛行機から爆弾を手投げするやり方であった)、陸軍機は5機が11月7日までに86回偵察飛行し、そのうち爆撃回数は15回で爆弾投下は15kgのものが44個であった。12月に入り、陸軍航空隊は必要とされず、飛行機は解体梱包され、人員機材ともに年末までに横浜に帰港、正月に所沢に凱旋した。

 この時代に飛行機からこれほどの回数で爆弾投下した国も世界で初めてであった。この空爆と地上戦で、日露戦争で得ていた中国の租借地関東州に加えて日本軍はこの青島にも租借地を得て、同時に海軍はドイツが統治していた南洋諸島にも侵攻し、日本の統治下とした。これが太平洋戦争における日本軍の前線基地として悲劇の地にもなっていく。

 次に、まだ大げさに取り上げるほどの無差別爆撃に当たらないとしても、1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件に端を発した満州事変において、10月8日、小規模ではあるが錦州に無差別といえる空爆を行い、世界を驚かせた。ゲルニカの5年半前である。この前日、日本の関東軍司令官は錦州爆撃を命じ、この日午後、11機で錦州を空爆。錦州は日本の航空機による本格的空襲に遭った最初の都市となり、また世界的にも第一次世界大戦後に爆撃された最初の都市ともなった。

 これには6機の偵察機と奉天で押収したフランス機10数機のうち5機で編隊を組み、奉天の基地から錦州に向かい、市内の政府建物や兵営等の主要目標に対して攻撃を行った。25kg爆弾を各機に四発ずつ搭載し、それぞれテープで巻き、爆弾を真田紐で吊るすようにして目標を確認して真田紐を切って爆弾を投下した。この日は合計75発を投下し、低空から機関銃による機銃掃射も行った。 張学良の司令部を置いた交通大学に10発の爆弾、兵営の東大営に23発の爆弾が命中したことが確認されたが、その他の半分以上の爆弾は目標を外し、錦州駅や病院,市街地のいたるところに落とされ、爆弾が直撃した人の身体の一部が木の枝、電信柱、屋上等に引っ掛かった。市民14人、兵士1人、ロシア人教授1人が死亡、20人以上が負傷した(翌年国際連盟より派遣されたリットン調査団記録)。当然この空爆という暴力を駐日英米大使は侵略行為の一環とみなし、日本の首相に抗議した。 この後も爆撃は進化していく飛行機を使って日中戦争まで続けられ、日中戦争開始後はそれこそ爆発的にその回数と規模は増やされていく。

【弁明のできない日本軍の無差別爆撃】

 1937年(昭和12年)、日中戦争の開始を告げる8月中旬からの日本軍機による上海、南京、広東、杭州などへの空爆(渡洋爆撃)は、弁明のできない無差別爆撃とみなされ、国際連盟は非難決議を9月28日に採択した。そして1938年(昭和13年)9月30日に国際連盟加盟国が日本への各国の経済制裁可能の決定を行ったとき、同時に国際連盟総会は「戦時における空爆からの文民の保護」を決議し、「一般住民を故意に攻撃することは違法である/空爆の標的は合法的な軍事目標でなければならない/化学ないし細菌戦術は国際法に違反する」等の勧告を行った。しかしその後も日本軍は中国の大小都市への無差別空爆を続け、しかも空からの細菌・ガス投下作戦も行い、国際法違反を平然と続けていく。

 その結果、戦後に作成された中国国民政府の統計では、1937年から1945年(昭和12~20年)まで8年間に中国各地に展開された空爆回数は1万2592回、死者33万6千人、負傷者42万6千人とある。相対的に見て負傷者の数が少ないが(一般的には負傷者は死者の2倍以上)、数字に多少の前後があるとしても、われわれ戦後の日本人が知らされていなかった事実としてはあまりにも大きい。比較的取り上げられる重慶(当時の首都)空爆も、この爆撃のごく一部(218回)に過ぎない。また1944年11月24日から太平洋戦争における米軍の8ヶ月間の日本への爆撃は死者は約50万人、そのうち広島・長崎の原爆による犠牲者は15万人以上、また翌年3月10の東京大空襲による大火災での死者は10万人以上、その他では25万人弱となるが、B29などの超大型爆撃機によるによる爆撃規模の大きさと比較すれば、それ以前の時代の爆撃機による日本軍のそれはその継続年月、回数、範囲においてはるかに凌駕する。つまりゲルニカは(その知名度とは逆に)どのように見ても日本軍のそれとは比較の対象にもならない。

【健忘症の日本】

 ちなみにゲルニカでは毎年4月26日に記念行事が行われており、1987年(昭和62年)の50周年式典には広島市の荒木武市長が参列し、60周年式典では在スペイン・ドイツ大使が連邦大統領による謝罪文を代読した。また1997年(平成9年)4月、ドイツのヘルツォーク大統領はゲルニカで行われた60周年記念式典に書簡を送り、ナチス・ドイツによる空爆の罪を認め、生存者や犠牲者の遺族に和解を請うた。「ドイツ兵士の罪ある関与をはっきり認める。過去の罪になお耐えている皆さんに、和解を請う手を差し伸べたい」と書簡にはあり、これを受けてパレオ・ゲルニカ町長は「ヘルツォーク大統領による告白は長らく待ち望まれていたもの」と答えた。さらに1998年(平成10年)にはドイツ国会がゲルニカ爆撃の謝罪を全会一致で決議し、国会代表がゲルニカを訪問した。

 それに比べて日本政府は、中国に対する謝罪どころか、事実確認さえしていない。むろん、戦後になってもわれわれがこうした事実を学校で教えられることも皆無であった。これはこの後の太平洋戦争で日本が起こしたことに関しても全く同じで、実は敗戦時に軍政府は国内外の軍事関連資料をすべて焼却する指令を出している。その時、なんと各役所の出征記録までも焼却された。まるで(聖戦と称して最後には特攻隊まで組織して多くの若者を死地に向かせ、「英霊」として祀り上げた)戦争自体をなかったことにしようとしたのである。だから南京に関する戦闘の記録も基本的にない(その記録のないことを理由として虐殺などなかったとする言論人もいるが)。残っている記録は当時の新聞などに掲載された日々の戦闘詳報と個々人が意図的に隠して残した記録だけである。日本という国はどうして自分が行ったことを客観的に見据えて率直に受け止め、反省すべきは反省するという心、ではなく気概を持てないのか。個々人のレベルにおいては日本人はそうした事実を知ると、謝罪の心を持って相手国の人々と親睦を重ねる努力をする民間人は少なくない。それがどうして国や公のレベルになると、知らぬ存ぜぬとなるのか、その乖離を埋めることがわれわれ日本人の大きな課題であり、そうしないと日本という国はいつまでも国際的に信用される国にはならない。

上海戦に乗じた関東軍と支那駐屯軍の侵攻作戦
 —— 南京以前・以外の都市における数々の惨劇:その一 ——

関東軍の満州領土拡大作戦による数々の事件

 ここまでの海軍の爆撃を中心とする作戦は第二次上海事変(実質上の日中戦争開戦)から始まり、そこに陸軍の上海派遣軍が投入されて南京攻略作戦につながり、日本は日中戦争を本格化していく。そこに至るまでの流れとして、北京と近くの天津に駐留していた日本の支那駐屯軍は、日本の関東軍が支配する満州国に隣接する華北5省の河北省・察哈爾(チャハル)省・綏遠省・山西省・山東省を関東軍とともに中国国民政府から分離させて傀儡政権を作り、日本が実質支配するという満州国の拡大版を作る「華北分離工作」を1935年(昭和10年)頃より企図し、翌1936年(昭和11年)4月には華北情勢の悪化(数々の反日・抗日運動)に備え、支那駐屯歩兵旅団を新設し、それまで駐屯軍全体で歩兵10個中隊程度の規模であったのを混成旅団規模に強化していた。そこに「都合よく」支那駐屯軍が関わった盧溝橋事件が起き、これを機にまず植民地朝鮮の第二十師団と関東軍の独立混成第一・第十一旅団を支那駐屯軍の隷下に入れ、さらに7月27日に内地から出兵された第五・第六・第十師団も隷下に入れ、そして8月1日までに支那駐屯軍は北京と天津を攻略し、そこから新たな華北に対する侵攻作戦を展開していった。そして8月半ばの第二次上海事変を挟み、8月末に支那駐屯軍は北支那方面軍として編成され、司令部を北京に置いた。一方で上海の在留邦人保護のためという名目で、8月に編成され投入された上海派遣軍は、10月に加えられる第十軍(三個師団から構成)とともに中支那方面軍として組織されるが(第六師団も中支那方面軍に合流)、上海戦に目処がついたところで南京攻略作戦を実施した。戦史で書かれるのはこちらの上海戦と南京戦ばかりで、この北支那方面軍と満州の関東軍との連携による領地拡大作戦が、上海から南京に至る表側の軍事作戦と数々の事件とは別に、日本軍のもう一方の隠れた軍事作戦とそれに伴う暴虐事件の数々を生み出している。

 実は、筆者は南京以前の進軍途上の日本軍の所業が気になり、調べるとあれやこれやと唖然とすべき「事件」が次々と出てきた。つまり中支那方面軍の南京侵攻作戦に並行して行われていた関東軍の満州地域への侵攻と、支那駐屯軍(後に北支那方面軍)が侵攻した華北地区の中国側の被害資料に目を通してみると、まずこれまでの一般的な歴史資料の中では取り上げられていない大きな事件がこれでもかというほどに出てきた。そしていわゆる南京事件に限られた論争が愚かしいものであること、つまり南京事件以前と以後の8年間に及ぶ数々の暴虐事件の集成のほうがはるかに大きいことがわかった。

 日中戦争(支那事変)は歴史的にはまず上海戦があって、そこから南京への侵攻作戦に転じた。しかし兵士たちにとって、本来上海戦のために来ただけであって(「上海派遣軍」の名がそれを示す)、それが終われば国に帰れるとみんなが思っていた。それがそのまま南京へと転身することになって、兵士たちはある意味やけくそになって暴虐行為に輪をかけ、それが南京において増幅されたということであった。しかしそうではなく、最初から当時の日本軍の軍紀は無きに等しく、占領した土地で捕虜はおろか住民に対する虐殺、女性への暴行、放火等やりたい放題であったということである。筆者としてはこの日本軍の信じがたい暴力行為以上の振る舞いの実態はどこから来ているのか、当時の国内の時代背景も含めて見直していかねばならないと思った。さらに日中戦争以前はどうだったのかも気になり、主に満州事変(1931年:昭和6年)まで遡って、その時期の関東軍の所業を(日本側の資料だけでは知ることができないので)中国の資料を使って調べ直し、それがこれまで記述してきた内容である。以下はこの時期以降の事件の数々をたどる。

関東軍の察哈爾作戦

【張家口制圧】

 盧溝橋事件後、満州を支配する日本の関東軍は待っていたかのように独自の軍事展開を行なった。もとより関東軍は満州国の安定化を計るため西側で国境を接する察哈爾(チャハル)省を自己の勢力下に置くことを狙っていた。国民党軍が前年締結した土肥原・秦徳純協定を破ったとして、速攻的に関東軍と支那駐屯軍は7月末には北平(北京)・天津地方を制圧し(上記平津作戦参照)、さらに河北省保定以北を制圧しようとしたが、河北省南部に集結しつつある中国軍(独立した軍閥)と衝突する恐れがあったため準備期間が必要となり、その代わりに8月9日から10月17日にかけて行われたのが察哈爾省・綏遠省(現在の内モンゴル自治区で、前年、内蒙古の自治独立を目指すモンゴル族の一派が日本の関東軍の支援を受けて綏遠省を占拠すべく武装蜂起を起こすが鎮圧されるという擾乱が起きている)への侵攻作戦である。8月8日、日本の参謀本部は察哈爾作戦を容認、板垣征四郎の後任で関東軍参謀長となった東條英機中将(後の太平洋戦争開戦時の陸軍大将で首相)を指揮官とする察哈爾派遣兵団が編成され、作戦地域は張家口(当時の察哈爾省の省都)以東とされ、関東軍は三個旅団で察哈爾省に侵攻し、8月14日、張家口に侵入した(ここには日中協定のため中国軍は配備されていなかったが、その隙を突いた形となった)。その後、日本から派遣された別軍(第五師団:師団長板垣征四郎)が8月23日、北京の長城要塞居庸関を落とし、さらに張家口で察哈爾派遣兵団が合流し、8月25日(あるいは26日)、国民党第13軍は孤立して撤退し、張家口を制圧し作戦は一応終了した。

 察哈爾作戦を終えた両軍(察哈爾派遣兵団と第五師団)は、一方の上海事変に世界の目が注目される中、日本の参謀本部の意向を無視して独断で作戦地域を張家口以西に拡大、まず綏遠省と山西省の省境にある大同に向かい、9月13日に占領、10月14日には綏遠を、10月17日に包頭(両地とも現在の内モンゴル自治区)を占領した。この際、傀儡の蒙古自治政府軍も察哈爾派遣兵団に随行して綏遠省の各機関を統合し、10月27日に蒙古連盟自治政府を樹立した。その後、自治政府の防衛のためとして、張家口には日本の駐蒙軍が置かれた。以下はそれまでの出来事である。

【内モンゴル包頭に侵攻途中の二つの虐殺事件】

 10月14日に関東軍察哈爾(チャハル)派遣兵団(団長:東條英機中将)は綏遠省帰綏を占領し、16日には帰綏を出発、平包鉄道に沿って西の包頭に進軍する途中、サラチ県城と公積板村で2件の大惨事を引き起こした。16日午前、日本軍はサラチ県城に侵入すると青壮年男性を捕まえ、無差別に虐殺を繰り広げ、2時間足らずの間に70人の住民が殺害された。生存者の楊存虎、樊検女、李愛魚らによると、一人の日本軍が侯掌才院内に侵入し、10人の男を捕えた。彼はその人たちを並ばせ、近くの張双小の腹を何度も刺した。人々は驚いて逃げたところ、日本軍は銃で撃ち、四毛が腹を撃たれて腸が流れ出て、巴長命は脚を折られ、杜遠心は胸を刺された。その場で死者1人、重傷者3人。ある店の閻全中と義弟は街で泣き叫ぶ声を聞いて、ドアを開けて覗き込んだところ日本軍に発見され、2人はその場で射殺された。日本軍は青壮年を捜索し、樊栓女院内から4人、李愛魚院内から13人、焦喜院内から8人、四馬駒院内から3人、肖存才院内から2人、大腕院内から7人、街道から10人あまりを捕まえ、いずれも県城の玉皇廟の後ろの大水坑に集められ、銃剣を突きつけられて惨殺された。午後、日本軍が出て行くと、城内の住民たちが大水坑に行って47人の死体を引き揚げた。

 その日の午後、西進した日本軍は包頭市郡東方のある小さな村を一つ一つ包囲し、まず砲撃を加えた後、村内に侵入した。サラチ県城でのやり方と同じように、日本軍は青壮年を捜し出し、捕まえて銃殺するか、刺殺するなどした。1時間足らずで、罪のない村民41人を殺害し、狼犬を使って遺体を食べさせる惨状だった。その夜、村中の青少年女性約50人が、日本軍に陵辱され、輪姦された後に殺害された。

(『侵華日軍暴行総録』内蒙古編より)

【宣化城への爆撃と占領】

 上記の作戦には隠れているが、8月23日、当時の察哈爾省宣化城、現在の河北省張家口市宣化区は初めて日本の陸軍機の爆撃を受け、鐘楼南街の王麻子の鉄工炉で労働者が即死した。そして南関観音裏通りの若い母親と満1歳未満の子供が爆死。東草市街では、張文煥一家5人が死亡した。最も悲惨なのは、敵機が東馬道の南の城壁を爆撃した時、防空壕が爆破されて崩落し、無辜の避難民20数人が死亡したことであった。

 この爆撃後に日本陸軍は宣化を攻略・占領し、4つの城門を閉鎖して、住民の出入りを禁止、その後、中国の第29軍の残党を捜索するという名目を掲げて、あちこち走り回り、箱をひっくり返すようにして財産を略奪し、さらに女性を強姦するなどの暴虐を行った。こうした宣化の血にまみれた支配を維持するために、翌1938年(昭和13年)明けに日本軍は城内にいわゆる治安維持会と呼ばれるものを作った。その後、満州憲兵隊に委託され、小山内という日本人が隊長となった。この人物は残忍で凶暴な悪事をはたらき、部下の兵士たちも彼に従い、一般の人々を苦しめた。大隊ほどの日本軍が守備隊に変わり、日本憲兵隊、警察署、スパイ機関などを新たに設け、すべて日本人の組織となった。1938年(昭和13年)の初めには、日本人が参政官、指導官として権力を一手に握って、住民に対する苛酷な統治を行なった。12歳から55歳までの人はすべて写真を撮り、「良民証」を発行し、用事があって城外に出る場合、必ず許可証を取らなければならなかった。この良民証のやり方はこの後の南京でも実施される。

 ここからの日本の植民地時代(約8年間)には、どれだけの民間人が惨殺されたかわからないが、いわゆる不審な者とみなせば、いくらでも処刑できた。宣化南門外甘荘子の李明成や陽原県銭家沙窪村の宋元などが不審「容疑」によって生き埋めにされた。経済的にも、日本軍は宣化の住民に対して人の骨までしゃぶるごとく取り立てをし、いろんな名目での苛酷な税金のほかに、住民にアヘンの栽培を強要し、「アヘン組合」という役所を設立して専門化し、宣化の人々に深刻な害を与えた。また、日本軍は市街にも名目を立て、クラブや賭博場などを設けて民財を吸い上げ、多くの人々を破産させ、窮地に追い込んだ。

 筆者注:以上は筆者が別稿で作成した『中国における日本軍の年月日別空爆全記録』から抜き書きしたものであり、これは日本軍の侵攻作戦の場合、ほぼ事前に航空隊による爆撃が行われ、その後地上部隊が占領するという形のほんの一例で、実は日本側の大半の歴史的記述において、この爆撃のことはほとんど無視されているが、およそ中国における日本軍の侵攻作戦が成功した大きな要因は、航空隊の爆撃によるところが大きい。南京攻略も実際の地上戦は数日に満たず、それまでに四ヶ月に渡り110回以上の爆撃を繰り返し、中国守備軍を疲弊させている。このやり方は他の大小の都市に対しても同様であり、これ以降もその視点で可能な限り記述して行く。

 ついでに、上記宣化城の占領は、戦史の片隅に出てくるかもしれないが、以下は決して出てこないであろう日本軍の攻撃地の例である。9月26日、河北省景県(現在の滄州市)に対して爆撃が行われたが、景県は河北から山東省済南に向かう交通の要衝にあった。この日は爆撃機3機が襲い、110人以上が死亡し、190人以上が重軽傷を負った。(このような事例は『全記録』の中で枚挙にいとまがないほどある)

 —— 「日本軍機は市場の群集に向かって機銃掃射を浴びせた。食糧・布・果物などが散乱し、逃げようとする人々の喚声、傷ついた人々の呻き声が一帯を覆った。また日本軍機は南関・南城門・南門大街・文廟・教会を爆撃した。爆撃によって、死体が街にころがり、目や手足に傷を負って助けを求める人々の声が街に響いた。観音廟付近での爆発では70人以上が死亡した。死体が積み重なって血が満ち、人肉や脳髄があたり一面に飛び散った。南門里の王洪魁(18歳)や老庄の農民王風祥の場合、頭骨が裂けて脳漿が流れでた。南関の李小多の場合、腹が裂け、腸が外に出た。そのためかれは両手で腹を押さえ、悶えて転がり、苦しんで死亡した。被爆によって南門里の染物屋では張麻子をはじめ計7人が死亡した」。

 この後景県は占領され、翌年に住民たちは景県抗日義勇軍を結成し、周辺の村々で活動するが、日本軍との抗争で住民を含めて多くの犠牲者を出した。(『日軍侵華暴行実録:第二巻』)

大同攻略戦

【陽高事件】(東條英機兵団による捕虜虐殺の先例)

 山西省大同市街攻略前の9月8日夜、大同の東北にある陽高県で、関東軍の東條英機兵団長の指揮の下、本多旅団が南城門から、篠原旅団が陽高県城の北城門から城内へ突入した。この際、中国側守備兵の激しい抵抗により、日本側に約140人の死傷者が出た。そのことに激高した日本軍は、夜が明けて占領が終わると、城内の男という男を狩り出してしばりあげ、機関銃の集中砲火を浴びせて殺害した。その当初の人数は350人とも500人ともいわれているが、「9月11日までに千人を超えた」(『日軍侵華暴行実録』第一巻)。ちなみに東條英機は首相時代の1943年(昭和18年)2月に、秘書官との雑談で当時を回顧して、「不穏な支那人等は全部首をはねた。一人しか捕虜は居なかった。斯くの如く日本の威力を知らせておいて…… 米とか何とかを施してやった。恩威が並び行われたわけだ」と平然と語っている(最初にこの虐殺事件を明らかにした歴史学者の秦郁彦による)。何のことはない、東條自身が最初ともいうべき(大量)捕虜虐殺を指揮していたのであり、その後太平洋戦争にあたり、「生きて虜囚の辱を受けず」と訓示して多くの兵士や民間人を無駄死に追いやったのである。

 筆者注:この陽高事件については真相を疑う人もいると言うが(自分で調べもしないでそう語る人は常にいる)、近年(特に1990年以降)次々と明らかにされている第二次上海戦から南京へ向かう途上と南京攻略後に発生した各種の虐殺事件を見ると十分にありうるというか、実際にはこの陽高事件後にも同様な「事件」は連綿と続いていて、しかも東條が早々と先陣を切って実行したことは明示すべきである。なお東條の「一人しか捕虜はいなかった」というのは、とりわけ日中戦争からは日本軍は基本的に捕虜を別にして収容する決まりを持たず、むしろ捕虜は厄介者として(多くの捕虜に食事を与えること自体、他国の中での攻撃軍にとって大きな負担となる)処刑することが原則であったから、何らかの理由で一人だけ残して使役にしたということであろう。実際に将校たちは捕虜にすべき兵たちを並べて日本刀による試し切りとして斬首の数を競ったりしたことは、これ以降の記述の中にも数え切れないほど出てくる(例として後述の「百人斬り競争」参照)。いずれにしてもこの関東軍時代の東條英機が後に陸軍大臣となり、首相となって太平洋戦争開戦に導いたわけであるから、当初より聖戦とはほど遠い恣意的で歪んだ戦争であったことは間違いない。それが内外に数知れずの無残な犠牲者を生じさせるのである。そして日本の敗戦後、彼はA級戦犯として米国占領軍GHQに召喚され、その前に擬似自決事件を起こし、敵の米軍の病院で治療を受けるという恥をさらした。

 ちなみにこの事件の中国側の記述をあげておく。

 —— 9月9日午前、日本軍はこの城壁の口から陽高城に攻め入った。これに先立ち、閻錫山の第61軍414師団600人の兵士たちは、前夜の戦闘で城を捨てて逃げていた。さらに悲しいことに、孫存仁が街に出て、大声で叫びながら旗を掲げ、日本兵を歓迎した。彼は集まった人々を引き連れて交差点に向かった。そこに来た日本軍は銃を向け、身動きすることを許さなかった。午後4時になると、日本軍は女性や老幼を除き、青壮年男性を南甕城に連行し機関銃による虐殺を始めた。機銃掃射の後、日本軍はまた一人一人確認を行い、死んでいないものは銃剣で刺した。さらに勒馬関帝廟の水井と山芋窯の中に手榴弾を数個投げた。生き残った14人を除く600人近い民間人が虐殺された。9月12日、日本軍は次から次へと城内を大捜索し、戸別の捜索を行い、青壮年を捕まえて関帝廟、眼光廟と南金道で虐殺を行った。この3ヵ所だけで虐殺された住民は300人に達し、増盛源雑貨店一家10人が殺され、南街の小さな本屋の青年は日本軍に首を切られてご飯の鍋の中に投げ込まれた。さらに日本軍は女性をレイプし蹂躙したが、東街享の天福一家の婦女子は生きる道がないと感じて、13日の晩、集団馬家園まで走って井戸に身を投げ自殺した。

 9月9日から12日にかけて陽高に到着した日本軍部隊は、長谷川、大泉、辻村、佐々木らであったが、二度の虐殺は彼らが指揮し主導した。虐殺から一週間ほどたったころ、旧政権下の県庁に東條兵団航空司令部が据えられ、その下に山本部隊、坂倉部隊、三輪部隊、長谷川部隊などがいた。この司令部においてある時期に、罪のない同胞1000人あまりが虐殺された。これは日本軍が黄土高原に足を踏み入れて山西省の人民に背負った最初の血債(中国の用語)である。1997年(平成9年)南甕城の惨事から60周年を迎え、陽高県と県庁はこの惨事の跡地に「国の恥を忘れるな」の碑を建て、徳育教育基地に指定した。(中国版「百度百科」より)

 以下、この時期の大同攻略に関わる陽高事件に続く数々の「事件」に触れていくが、内容は南京事件同様、まさかと思うものが多く、まともに書き写せるものではないが、出来るだけ簡略に記す。(以下は『日軍侵華暴行実録』第2巻より)

【天鎮県】

 8月31日、日本軍は陽高に続き、山西省大同の天鎮県に侵攻した。9月12日、日本軍は大砲火で城の東北角を崩し、天鎮県を陥落させ、そこから2日間にわたって大虐殺を行った。

北門月城の寺院:9月12日朝6時頃、日本軍は崩壊した城の東北の角から侵入し三股に分かれ、歩きながら射撃した。さらに日本軍は戦車、自動車を駆って城内になだれ込んで来た。民衆の一団をを北門の月城寺院に追い込み、僧侶を刺し殺し、その後三百余人の民衆を皆殺しにした。

南街馬王廟:日本軍は南街まで門に沿って家々から成人の男たちを追い出し馬王廟の前に集めた。日本軍は閻毅、張発祥ら五名を廟内に入れておいて、即座に刺して里院の便所の中で殺した。民衆は次々に呼び入れられて虐殺され、服を着たままでは刺しにくいと上着を脱がせた。中庭には屍体が山積みになり、他の人間に無理やり部屋に運び死体を積み上げさせ、死体が三つの空き部屋にいっぱいになるまで殺し続けた。馬王廟の被害者は約300人。

西門南:日本軍は西街で、雲金屋の前に大人の男たちを集めた。店の前に空き地があり、東西北三方が民家になっている。日本軍は一段高い階段に機関銃を据え、機関銃や小銃で撃ち殺した民衆は約200人。 張月鮮の家は西門の南側にあり、一家は9人殺された。張月鮮の夫の呉唐は車屋を営んでいた。彼は門のすきまから岳父の家の惨殺を見ていたが、彼は車の鋳造物で日本軍4人を次々と打ち殺し、彼自身も殺された。そのほか周炳ら約40人は西城門の壺囲いに追い出されて銃殺された。西門の南側と甕圏では約100人、雲金店前では約300人が殺害された。

狐神廟の側:東街、北街で、日本軍は成年の男を旧政府院の庭に追いやり、張模と彼の妻の首を切って机の上に置いてみんなを脅した。午後、日本軍は500人余りの民衆を北門の外まで護送したが、途中で70歳くらいの李嘉禾老漢が歩くのが遅かったため、彼は射殺された。狐神廟の後の崩楼の坂の下に、大きい溝があって、日本軍はいくつかに人々を分けて溝の中で銃剣で刺し、その上に土をかぶせた。

大グランド:9月12日、日本軍は入城した後、北街実業銀行及び世和生、慶福元、慶福永商店、西街の徳慶隆及び張義清、鄧寛合の店、また西門の近くで張成院、郭四院に放火した。午後、日本軍は多くの住民に水を担がせて消火を強要し、他の住民には晋軍の駐屯地と城壁の窯内に捨てられた弾薬箱を運び込ませ、天鎮高小と大徳店の境内に運ばせた。翌日、日本軍は人々の中から40人を選び出し、腕章をつけてあちこちに埋められた死骸を片付けさせ、残りの者は大グランド(現在の天鎮一中)近くの庭に連行し、掘ってあった塹壕のそばに10人ずつ立たせ、機銃掃射した。午前中、機関銃が鳴り響き、500人以上が殺された。日本軍はここで記念の写真を撮っている。

その他の各所:西北街の賀賢一家の14人は7人の日本軍に追い込まれて銃撃を加えられたが、賀賢の一人は9発撃たれても死ななかった。馬家大院の十数人は院内に引き出され虐殺されたが、8歳の幼女一人だけが生き残った。オンドルの端に座って赤ん坊に乳を飲ませていた若い母親が、日本軍に撃たれて死んだ。張永勝親子4人は全員刺されて死亡した。東北街で劉四義の家族5人が殺害された。その他各所で約100人が虐殺された。

 日本軍が婦女子を犯す蛮行は更にぞっとさせる。張という15歳の少女は、日本軍に輪姦された後、両脚を二つに引き裂かれて惨殺された。西街の劉銀蘭、劉玉蘭の2人の女学生は日本兵に強姦された後、一緒に首をつって自殺した。

 戦後、人民政府は戸別に殺害された人の名前を調査し、1946年(昭和21年)に「天鎮県蒙難同胞記念碑」を建立し、犠牲になった同胞の名前を銘記した。殺害された人は西南街332人、東南街368人、東北街258人、西北街290人の計1248人である。また、外部からの商売人たち訪問者の現地での被害者が700人余りと推定され、受難者は約2000人となる。

【左雲県】

 9月18日午前11時、日本軍板垣師団の羽田部隊は再び左雲城を攻め、南城門が砲弾で炸裂し、どっと押し入った。日本軍が入城してから3時間余りにわたって南門街の東と西の二つの街付近だけで、60人余りが殺害された。… (趙家の家族と親戚が撃たれて)9人が死亡し、1人が致命傷に当らず生き残った。… 趙家の向かいの劉家院は、境内に四世帯が暮らしていて、そこに日本軍が乱入し、5人の男を殴りつけたあと、さらに別のところからつかまえてきた十数人を蔵に押し入れた。そして薪を入れて、ガソリンをまき、火をつけて、蔵の中の人間を生きたまま焼き殺した。(中略)… 9月19日未明、日本軍はまた左雲城で更に大規模な虐殺を開始した。この日、南関寺だけで60余人、城内では100余人が殺され、二日間で270人余りが殺害された。

【霊邱県】

 9月20日午後、日本軍板垣師団が霊邱城を占領した。9月23日、日本軍は城内の大捜索を戸別に開始した。男は子供まで追い出し、東北角の大雲寺側後の大馬場、北城壁下の奶奶廟前の大菜園、西北角の財神廟、老君廟後の空地に集めて機銃掃射し、600人余りが惨殺された。… 9月23日からは、日本軍は毎日人を捕まえては殺人の競技を行った。… (中略)城内で生きている婦人は、日本軍の日々の暴行に堪えきれず、多くの人が首を吊って自殺した。… 城壁から城をよじのぼって逃げようとしたところを、城壁上の敵哨兵に発見されて撃たれて死んだ婦人もいた。このようにして、日本軍はさらに霊邱400人余りの人々を惨殺した。

 10月23日、楊成武独立団が日本軍を霊邱城から追い出し(筆者注:日本軍が占領を放棄したのかもしれない)、戻ってきた住民は、城内の北東部にある大雲寺裏(現県機械工場)で、肉親の死体を次々と発見した。大雲寺西面の奶奶廟の大菜園(現県病院)でもいくつかの穴で死体を見つけた。西北角の財政神廟、老君廟の后(現県招待所)の数坑にも死体があった。東城門の外の樹上、沙坡、城道坡、北城壁の外の西関南河辺にも、肉親の死体がいたるところにあった。人々は約千の死体の中から自分の親族を探し求め、悲しみに暮れた。(これは筆者には東京大空襲後の親兄弟子供の遺体を探し求める親族の姿を思い起こさせる)

 以下は同県内の郊外三つの村についてである。

東河南村

 霊邱県城西約20kmに位置し、当時村全体に500余世帯、人口は2000人近くであった。9月21日、日本の侵略軍は村に侵入したが、青年と壮年の大部分は早々に外村の親戚などの家に逃げ、そこで日本軍は村に残っている老弱な婦人と子供に対して毒手を伸ばした(筆者注:当初、中国のどこでもそうであったが日本軍は老人と子供には手を出さないだろうとの判断で残っていたが、日本軍は無差別であった)。23日、日本軍は通りにいる人をつかまえ、つかまえた後に村の西の五道廟巷に追いやって殺した。中年の劉大成は、二人の敵に腕を組まれ、その一人が劉の後頭部から頸部に沿って、炉の棒で、生きたまま釘づけにした。23日の一日だけで、30人以上が殺された。

 24日にはさらに大規模な虐殺が始まった。目撃者の老人劉継昌は、避難するために南梁に登り、その上壁の穴の中から鬼子(日本兵のこと)の五道廟巷の殺人の惨状を見た。彼は「二日間、鬼子は少なくとも100人余りを殺害して、50軒余りの家屋を燃やした。犠牲者には高齢者や子供が多く、学生服を着た外地人も一人いた」と話した。馬家河付近で稲刈りをしていた7人が射殺された。段玉泉は段荘から村に漬物を取りに戻り、村の入り口で殺された。古路河で薪を売っている老人は、手に豆の乾燥食糧を手にしていたが、日本兵は先に銃剣で乾食袋を突き破り、笑いながら老人を銃剣で突き殺した。

小寨村

 日本軍の偵察部隊が村に入った時、畑に行った村人以外は家の中にいた。偵察隊の一隊は戸別に家に侵入し虐殺を始めた。李夢壁と妻、20歳の息子三人は、銃剣を持った日本兵に刺され、刺し殺されるまで抱き合っていた。3人の下肢はすべて切り裂かれていた。日本軍が村で狩り殺している時に、別の偵察隊が村の外で四方山の斜面に散らばって銃殺した。鄧家嶺楊樹湾で作物を収穫していた章江林母子3人、木瓜溝で作物を刈り取っていた孫正老夫婦、孫金貴父子二人、そして丹家嶺で収獲していた楊子栄父子たちが刺殺、あるいは銃殺された。この日、日本軍によって村で惨殺されたのは10人余りで、村外の田畑や村の周辺で惨殺されたのは11人だった。

 翌日、日本の斥候兵は再び村に入って来たが、村の大多数の人はすべて村外れの溝の中に隠れ、李石頭の娘たちは家の麦藁の中に隠れた。侵略者は村中を捜索して一人も見つからなくて、残忍にも火を放って来て、200軒余りの家すべてに火がつけられ、庭の作物も火がつけられて、村全体が炎に包まれた。李石頭の娘2人は生きたまま焼かれた。小寨村では2日間で30人あまりが虐殺され、焼失した家屋は200軒あまりで、その他の財物の損失は集計できない。

東福田

 9月20日、日本軍は霊邱県城に侵入した。東福田村は県城の西南方向にあり、城からわずか1.5kmしか離れていない。城内からこの村に避難してきた民衆は少なくなかった。10月14日の午後、敵は民衆の一部を追って村の西南約1kmの姚澗溝に入った。敵は姚澗の溝の両側から、溝の中の群衆に発砲し、溝口から溝の底まで、約二時間余りかけて、東福田の惨事を引き起こした。敵はまた村にもどって、いくつかの家や畑で刈った作物に火をつけた。夕方になるまで東福田村では17人が死亡したほか、城内と外村からの避難者の36人が殺された。死者の中には家族全員が死亡した例もあった。ある若い女性は撲殺され、生後数ヶ月の子供はまだ母親の腕の中で泣き叫んでいた。

 付記:10月5日、 国際連盟の諮問委員会で日本の中国における軍事行動を九カ国条約・不戦条約(1922年:大正11年のワシントン会議に出席した9か国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・ フランス・ベルギー・ポルトガル・日本・中華民国間で締結された条約で、中国に関し、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、日本の中国進出を抑制するとともに中国権益の保護を図ったもの)違反とする決議が採択された。

北支那方面軍の保定攻略から山西・太原作戦へ

 北支那方面軍が編成され、河北省保定市は、日本軍にとって最初の戦略目標となっていた。保定市は河北省中部、太行山脈東麓に位置し、京津(北京と天津)地域の中心都市の一つである。

廊坊市固安県における虐殺の連鎖

 保定への進軍途上の北支那方面軍第一軍第14師団(師団長:土肥原賢二)は、二千余の兵力をもって9月14日早朝、廊坊市西南の固安県境に到着、それに対し国民党中央軍第53軍8連隊はひとしきり迎撃したが、東紅寺にむかって牛駝方面に退却した。砲声が止むと、数十台の鉄甲車が河原から堤坂を駆け上がり、あとからついてきた千余名の日本軍が東西十里の堤いっぱいに立った。その後日本軍は西玉村等の村々に分散して侵入した。村々の外は河岸、土手、路傍、野原で惨殺された民夫と国民党兵士の死体は数えきれないほどで、まるで血で洗うようだった。

西玉村は約50世帯、360人の村であった。西玉村に日本軍が獣の群れのようにやってきた。趙庭友、李立山、劉鳳海の一家が死に絶え、劉桐、李友、張懐辰、張振海、張振明の家には小さな子だけが残り、張張氏、張大恒、張振邦、郭連路の四家は、孤児と母だけが残った。14、15日の2日間で48人が殺害され、村の家屋38軒が破壊され、300余の家畜が掠奪され、各家の財物が奪い取られて空になった。

わずか20余戸の辛倉村では、日本軍は曹玉琪、高占興など16人の青年を縛った後、高珍の家の芋蔵に押し込めて銃殺した。さらに戸別に押し入って人を見ると斬り、郭振清の家の裏の防空壕に人を発見すると射殺した。双徳と双貴兄の二人は銃剣で突き刺し倒されたが、まだ少し息をしているのを見て日本兵はまた続けざまに発砲した。銃弾はすべて双貴に当たり死亡、双徳は命をとりとめた。曹芝の三歳の孫娘は、日本兵に銃剣で下から突き刺され、空中に担ぎ上げられ、地面に叩きつけられ死亡した(筆者注:信じがたく酷い行為であるが、南京方面の記録の中にも同様な場面は多く見られる)。辛倉村の全ての家が被害にあい67人が死亡、男はほとんど皆殺しにされ、寡婦の村となった。

東楊村は40世帯で、日本軍が去った後、呉家の穴倉の前で青年范玉生が血溜まりの中で横たわり、背後には銃弾で撃たれた龐建増がいた。穴倉の中に22人の村人が隠れていたが、死体が散り散りに横たわっていて、それぞれ無数の弾痕があった。劉家道口の洞窟に隠れていた32人と馮家道口の洞窟にいた18人も虐殺された。七日後に村人が戻って探したが、三つの洞にあった72の死体は、いずれも腐敗してその衣服からしか判然としなかったが、一家ごと死んだ者たちは引き取り手がなかった。

北流邵村は29世帯しかなく、二日間で33人が殺害され、鞄家の一世帯を除いて28世帯に犠牲者が出た。また全村の鶏、豚、牛などはほとんど皆殺しにされて食べられ、戸窓の90%以上が壊され、新婦の嫁入り道具の木箱まで薪がわりに燃やされ日本軍の炊事に使われた。(これは大変書き写しづらいが)一台の弾薬車が北流邵村東の渠溝にはまり、本村周徳など五人が連れ出された。溝が深く、泥水で滑りやすいために、車を押し上げることができず、野蛮な日本兵はこの五人の体を車輪の下に敷き、五人は車に轢かれて腹は破れ骨折し、血まみれになって惨殺された。

辛立村は20数戸の小村であった。9月16日、隣の馬申村で一人の将校が村の王首文の二人の娘に目を付け、自分に娘を預けるように申し出た。そこで王は二人の娘にこっそり隣の辛立村に隠れるように伝えた。それを知った将校が腹を立てて、「辛立村中の老若男女を問わず、一人残らず捕まえろ」と命じた。百人の日本兵が50数人の村人を辛立村の南西、辛倉村の東に追い込み、そこに7、8の穴杭があり、その50数人を分けて穴に入れ、それぞれ銃殺や刺殺、あるいは生埋めにした。その将校はまた馬申荘へ戻り、王首文と弟の王首庫ともう一人の三人を捉えて辛倉村の東に連れて行き、生埋めにした。辛立村(村民はおそらく100−120人)では63人が殺された。

辛務村では78世帯のうち44軒の家屋が破壊された。村民270人のうち、115人が日本軍の銃刀で死んだ。村の至る所で泣き叫ぶ声が上がった。

このほか馬申村では83人、中公由村では23人が殺された。

(以上は『日軍侵華暴行実録』第2巻および中国のサイト「百度百科」<固安大屠殺>から混成)

付記:固安県では9月14日から18日までの五日間で計443人が殺害された(村の中では隠れた国民党軍も殺害されているが、この数字は村人だけの数である)。

保定占領とその後の暴虐

【最も偉大な爆撃効果】

 一度攻略を保留にされた保定市に対し、日本軍(第六師団)は9月14日、永定河を渡河し保定に向けて進軍し、9月18日、まず保定の涿県を攻略した。同日、日本軍は数十機の爆撃機で保定城と周辺の中国守備軍陣地を空爆した。保定を始め、京漢線の于家荘・方順橋・望都の駅を順に爆撃し中国軍の退路を断ち、午後には地上軍の保定総攻撃の前哨戦として槽河鎮、大夫庄、楊家屯に集結していた中国軍に爆撃と機銃掃射を加え、さらに京漢線正定北方の新県とその付近の鉄橋を爆破して退路を絶った。

 日本機による爆撃で保定市の家々は炎上した。爆撃で最も被害がひどかったのは保定市駅で、ホームだけでなく停車場が爆撃され、駅の防空壕に避難していた民間人約200人が出口をふさがれ窒息死した。また自宅に避難していた住民ら約30人が低空の機銃掃射で殺された。日本軍は同日夜再び保定市上空を飛行し、重要な軍政部隊を再び爆撃した。「保定市大爆撃」は多くの保定市民の心の傷となった。

 さらに9月19日、保定市満城と徐水を爆撃、日本軍は「これがため同市の敵軍営は全滅し、事変以来最も偉大な爆撃効果を収めた」と記している。20日まで連日で地上部隊の攻撃を支援し爆撃を加えながら19日に同市の定興を占領し、9月20日に徐水を占領、21日に満城大冊の北岸地域に入った。翌22日、日本軍は河北の滄州興済鎮・季家楼を通り、戦車、火砲、航空機の援護を受けて中国軍陣地に進撃、激しい勢いの日本軍に対して、国民党も保定城の守りを固めようとした。しかし中国軍の配置が完了しないうちに、23日、日本軍は三方から保定城を攻撃し、中国守備軍は城壁を背にして反撃に出たが、日本軍は絶対的な重火力と空中からの優位を利用、重砲で保定市の城壁を爆撃する一方、数十機の飛行機が城壁上の中国守軍に向かって投弾した。保定市の西、北両側の城壁にはいくつもの穴が開けられ、中国守備軍は必死の防戦をして日本軍はいったん撤退した。

 翌9月24日払暁、中国の守備軍が息をつく間もなく、日本軍は再び保定城攻撃を開始、西門と北門が相次いで陥落し、保定を陥落させた。この戦闘による日本軍の死者1047人、負傷者4000人余りであったが中国軍の被害は甚大であった。ここから保定は河北省を支配する日本軍の戦略の中枢となった。

【占領後の暴虐行為】

 —— 9月24日に保定は日本軍に占領され、その後日本軍に2000人余りの罪のない民間人が虐殺され、何百人もの婦女が強姦され、大量の家屋が焼かれ、街はいたるところ死体であふれた。日本軍はまず捕えた百余名を街中に集め、銃で人々を一列に跪かせ、その周囲に機銃を構えた後、馬に乗った日本軍将校が人々の上を踏み越え、ある者は頭を踏み割られ、血の海に倒れた。ある者は腕や脚を踏みにじられ、悲鳴をあげたが、それを見て日本軍は獣のように狂暴に笑った。翌日、日本兵は城内で(残兵の)燼滅作戦を行い、城内の老人や女性、子供たちに、後続の日本軍の入城を歓迎するように迫り、住民に日の丸の旗を掲げさせて「歓迎」をアピールさせた。少しでも反抗すると家族や子供を皆殺しにし、家屋ごと焼き払って数え切れないほどの惨事を引き起こした。さらに城内の若い婦女子を強奪して日本軍の司令部に連れ込み、将校に獣性を発散させた。河北省保定陸軍軍官学校では(軍関係と言う理由で)学生を包囲し銃剣で皆殺しにし、遺体は火葬された。1945年(昭和20年)8月に日本が降伏するまでの8年間、保定市の人々は生きる希望を見ることができずに苦しんで過ごした。

(中国のサイト「平凡之路一過客」他より)

 —— 占領後、日本軍は市の内外で狂ったように罪のない民間人を虐殺し始め、家屋に火を放ち、姦淫、略奪など、あらゆる悪事を行なった。記録によると保定の商人、住民の犠牲者は3000人余りという。日本軍は自動車に分乗して商店や民家に侵入し、家々を荒らし、金銀宝飾、文物、衣服、絹織物を略奪していき、商店主は空前の損失を被った。特に薬局の被害は大きかった。また日本軍は毎日苦力(クーリー:労働者)を求め、それが八年間途絶えることなく、一日に80人から100人、ときには200人以上の男や職人が連れて行かれ、保定住民の生活をさらに苦しくさせた。憲兵隊による拷問や尋問を受け死亡した者も多く、特に戦争後半は日本国内に労働者として連行されたり、北京に連行されて労役に服した場合もあった。

(『日軍侵華暴行実録』第二巻)

 上記は中国側の二人の証言者によるものだが、以下は保定を占領した第六師団の歩兵13連隊の一兵士の証言である。

 —— 保定城を攻略し、わが中隊は逃げ遅れた160人ぐらいの敵兵を捕虜にした。間もなく小隊長から「捕虜全員を三八式歩兵銃で殺せ」との命令が下った。そこでみんな「いっちょやってやるか」という気持ちになった。円陣を作り、その中で捕虜同士背中と胸をくっつけて15、6人並ばせて、一番前の捕虜の胸に銃口を当てて撃つのである。銃声とともに七、八人の捕虜が撃ち抜かれてバタバタと倒れた。そして誰彼となく「今度は俺がやる」と言って三八式の試し撃ちが始まった。約十人の戦友が「俺の番だ」と言って自分の銃の威力を試した。残った捕虜の顔は青ざめ、完全に諦めきった様子だった。この命令は師団司令部から出て、大隊、中隊と伝わってきたと聞いた。保定城の中にどのくらいの敵兵が捕虜になったかわからないが、わが中隊だけでも160人だから、師団全体では大変な人数の捕虜が殺されたのではないか。

(『揚子江が哭いている』創価学会青年部編)
【その他保定地区の被害】

 9月16日、日本軍は河北省保定の涞源を占領し、罪のない民衆50人余りを虐殺した。9月18日、定興を攻略、21日、徐水を陥落させ保定方面に進撃を続けた。さらに日本軍は徐水を占領した後、相次いで南関血事件、于坊の惨事、小公村の惨事、興隆荘の惨事、王官営の惨事、高各荘の惨事、陳梁荘の惨事、胡家営の惨事、陳荘の惨事をと言われる暴虐事件を繰り広げた。この中の一つ、于坊の例を上げる。

 —— 于坊は河北省保定市徐水県の漕(タオ)河北岸にある村で、1937年(昭和12年)には全村210世帯、1000人余りが暮らしていた。1937年(昭和12年)9月17日、中国守備軍第29軍某部隊の一個小隊がこの村に進駐し、南侵する日本軍を防ぐ準備をした。9月21日、日本軍二千余人は大隊長宮崎の指揮の下、徐水より于坊に向って進軍し、午後3時頃于坊に到着、双方は激戦を展開した。22日午前7時頃、日本軍3000余人は50数門の大砲と3機の飛行機の援護の下、于坊を大攻撃、29軍は人数の差のため撤収した。

 日本軍は村に入った後、村民に対して残酷な報復を行なった。80歳の張志林は村民7人を率いて一日中軍の小隊長の前にひざまずいて、村人を殺さないように乞うたが、結局皆殺しにされた。続いて日本軍は100人余りの村人を大通りに追いやり、銃で人々をひざまずかせ、機関銃で取り囲んだ。そして将校が馬に乗って街の東の端から人込みに駆け込み、ひざまずく村人たちの上を馬が踏み越えたが、多くは馬に蹴られて踏まれ、人々の悲鳴を聞いて、日本兵は鬼のように笑っていた。さらに踏み殺されていない百姓をいくつかの場所に追い払ってすべて殺害した。その後日本軍は群衆を4つに分け、東大橋と里街橋のたもと、東南角の小石庄と張洛賢の家の胡同にそれぞれ連行して虐殺した。張洛賢の家の庭の東南角に芋蔵があった。日本軍は易老勤、易新貴、易老興を芋蔵まで連れ出し易老興を軍刀で首を切り、易新貴を銃剣で刺し、易老勤は蔵から飛び降り、日本軍は蔵の中に何発か発砲したが易老勤は幸いにも難を逃れた。張老興とその息子は太っていて、日本兵がその臀部と太ももの肉をナイフで切り取り、鍋で煮て食べた。その後、張老進等の10人の老人が皆殺しにされた。新婚間もない張大頭夫婦は十七、八人の鬼子に囲まれ、鬼子はまず張大頭を殺し、それから新妻を輪姦した。張老情家の二十歳の娘は何人かの鬼子に強姦された後に川に身を投げて自殺した。… 惨事後の統計によると、于坊で殺された村民は330余人で、うち本村280人、外村50余人、受難世帯120戸、焼失家屋300余軒、家畜70余頭、豚130頭、鶏と鴨はすべて屠殺され日本軍の食料となった。

 惨事の2日前、17歳の任貴清は母親に何度も促されて家を出て、20数人の同じ年齢の子供たちと一緒に南に避難し、生き残った。彼らが故郷に帰った時、殺された肉親と村人たちの死体はまだ埋葬されていず、同郷の人たちと肉親の死体を埋めた。彼らのうち何人かが肉親に別れを告げ、この後も続く抗日戦争に身を投じた。

(以上は中国のサイト「百度百科」より)
【日本軍の宣撫工作と欧米人の救済】

 日本軍は攻略した街に宣撫班を送り込み、治安維持会なるものを作り、その責任者には地元の有志をあてるようにしていた。これは満州地区を統治していた関東軍のやり方に倣ったものであった。ただし戦闘により大半の住民は難民となって街や村を出て行き、残っていた住民は数少く、十分の一にも満たない地区もあった。占領後に多くの地域で虐殺などがあったからなおさらである。日本軍が24日に保定城に入った時には城内の残留者は4千人程度であったが(元の人口は9万3千人)、10月3日に宣撫班が治安維持会を発足させたのち、ひと月余りで5万人近くが戻ってきた。占領軍としての一隊長は、「彼らの多くは遠方へ長期間避難する余力がないものたちで、その中でも帰還したくても家が(爆撃や放火などで)なくなっているのも相当あって、それらは保定城内外の難民収容所に収容されていた。その数だけでも5、6千人いるという。難民収容所で一番大きなのは米国系教会経営の米華中学校と福音病院であった」と記している。(以上は『難民たちの日中戦争』芳井研一:吉川弘文館 2020年)

 筆者注:つまりこの保定に限らないが、日本軍の宣撫班は治安維持会を作ったとしても、具体的に住民を救済する難民収容所などにはほぼ関わっていない。この2ヶ月後の南京占領でも同様であるが、難民たちを守ったのは欧米人たちで、日本の占領軍はむしろ食糧の収奪やその収容所から元兵士と見えるものを引っ張り出して殺害したり、女性を漁ることなどであった。

 付記:日本の参謀本部は、北支那方面軍の作戦区域を河北省石家荘・徳州を連ねる線以北と拡大し、10月10日石家荘を、10月13日、徳州を占領してさらに南下して太原に侵攻することになる。この段階ですでに戦線は、最初に日本側で予定されていたよりも、はるかに拡大していた。

太原攻略戦

 上記察哈爾(チャハル)作戦の後の9月19日、板垣中将は「北支においてはおおむね綏遠―太原―石家荘―済南―青島の線を占め、ここに包合する資源を獲得し、そこに住む一億民衆を同僚として新北支政権を結成するを可とす」という山西作戦(山西省=満州の南西方面)を周囲に発し、この作戦に賛同した武藤章作戦課長が不拡大派を説得し、板垣の意見した山西省地域を占領、確保する考えに流れが固まっていく。それに並行して上海戦線へ大規模な増援を派遣する事態となって、不拡大派の石原莞爾作戦部長は辞表を提出した(筆者私見:満州事変を起こした石原のイメージからすると意外な行動であるが、石原は満州統治を固めて北方のソ連の攻撃に備えるべきとし、対中国に戦線を拡大すると泥沼化するとみていた。この石原の判断は結果的に正しかった)。石原が辞任した3日後の10月1日、太原(山西省の省都)攻略の大命が参謀本部から下されることとなった。この太原攻略作戦はすでに長城平型関を突破していた第五師団が命じられ、11月初旬まで各地で激戦の末、11月8日、日本軍は太原を占領し、華北全体の鉄道地域を支配下に置くことになる。

【平型関の戦い】

 9月21日、第五師団長板垣中将は歩兵第21旅団(三浦支隊)に対して、山西省の霊邱から大営鎮へ向かって追撃するよう命令した。22日、行軍する三浦支隊は、平型関を前にして中国軍第6集団の激しい抵抗に遭遇した。25日、そこに共産党八路軍の第115師(師長:林彪)も加わり、三浦支隊は包囲され、支隊の兵站自動車中隊や連隊の補給部隊が襲撃され、山間隘路の中でほぼ全滅状態となった。この時の日本軍の死者は約150人、負傷者は約40人とするが、中国側は千人余りを殲滅したと発表し、これが抗日戦争で初めての勝利であると宣伝した。

 補給部隊が全滅したこともあり、残った三浦支隊では弾薬が底を突いていた。そこに歩兵第21連隊の主力と関東軍の支隊が合流し、29日から一斉に攻撃を開始、堅陣を突破して繁峙を占領したが、中国軍は迂回して撤退し、打撃を与えることはできなかった。この戦いで第五師団の損害は戦死270余人、戦傷800余人となった。

【山西省忻口鎮と娘子関の日本軍の苦戦】

 関東軍の独立混成第一旅団所属の戦車隊は原平鎮への侵攻を命じられ、まず10月2日に長城を突破し寧武を占領した。10月4日、関東軍の諸部隊が第五師団の指揮下に入り、混成第2旅団は崞(こう)県を、混成第15旅団は原平鎮を攻撃し、8日と10日にそれぞれを占領した。中国軍は、太原防衛のため約8万人の兵力を忻口鎮に集結させた。忻口鎮は太原の北の門戸として、険しい地形を利用し堅固な防御陣地が設けられていた。13日、日本軍は、右翼と左翼に隊を配して忻口鎮陣地への攻撃を開始したが戦況は進展せず、ついに膠着状態に陥った。そこで二つの支隊が加わり、24日から攻撃を再開したが、第一線陣地を若干突破したのみで再び膠着状態となった。北支那方面軍はさらに兵力を第五師団方面へ差し向け、激戦が続いた。

 娘子関周辺には、山西省東部の防衛線として、太行山脈の険しい地形を利用した半永久洞窟陣地が幾重にも構築されていた。平漢線に沿って南下してきた第二十師団(植民地朝鮮駐留軍)は娘子関を攻撃したが、正面の抵抗は頑強で一部を手薄な左側から迂回させ、娘子関の背後に進出させた。このため中国軍は全面的に後退を開始し、追撃をおこなう第20師団はそのまま10月30日に陽泉を、11月2日に寿陽を占領した。寿陽は太原の東方約50キロの地点で、日本軍が東から太原へ迫ったことで忻口鎮陣地の中国軍は動揺し始め、11月3日夕刻、総退却した。総じて中国軍は簡単に撤退するが、土地が広大であるから奥へ逃げやすく、そこでしばらく力を温存することができる。

 この忻口鎮・娘子関の戦いでの日本軍の戦死者は1651人、負傷者4594人で、損害も甚大であった。この苦戦を知った北支那方面軍司令官・寺内寿一大将は、「元来、山西に進入したことが大なる誤算であって、東條と板垣の合作によって無謀に前進し、ついにかくの如き失態をかもした」と語った。東條という人間はどこにあっても評判はよくないが、それをかいくぐって陸軍大将となり、首相にもなってしまうというのはよほどに厚顔無恥な人物であって、まさにこの戦争の時代の日本がそうであったからであろうが、そして彼は太平洋戦争突入を決定づけた。

【太原陥落】

 忻口鎮の中国軍の退却を知った第五師団は、一挙太原までの追撃を開始した。これに呼応して陸軍の飛行隊は10月4日、24機で太原を爆撃し、100発以上の爆弾を投下した。16日、太原を3回爆撃、続いて17日、4回爆撃した。第五師団は11月4日に開城鎮の陣地線を突破、翌5日には太原周辺の第一線陣地を突破して太原の北に進出し、第二十師団も太原の南東から接近した。中国軍の主力の太原以南への撤退、傅作義が指揮する第35軍が太原を守備した。第五師団は山西作戦失敗の名誉のためとして太原の正面攻略が命じられ、11月6日、太原城の攻撃を準備すると共に、軍使を派遣して開城・降伏を勧告した。しかし城内の守備軍は降伏を拒絶したため、8日午前、まず陸軍飛行隊が、爆撃機11機を使って太原を爆撃、市街地を炎上させ、第五師団は総攻撃を開始し城内に突入した。守備軍は頑強に抵抗し激しい市街戦が展開された。傅作義はわずかに残った守備軍2000人を率いて包囲を突破して撤退、翌11月9日、太原は陥落した。これによる第5、第二十師団の戦死889名、戦傷2827名だった。太原攻略後、第五師団は石家荘への転進を命じられ、関東軍の派遣部隊も帰還、第二十師団が山西省に残ることになった。この山西作戦全体で日本軍の死傷1万1000人以上、中国軍の死傷約10万人とされる。

  以上はおよその戦闘の流れで、一般的に調べられる内容であるが、以下、その裏でどんなことが起こっていたかを(陽高事件から連綿として続く事件として)中国側の資料で見ていく。

山西省・河北省・山東省の人々の受難

 北支那方面軍の華北における作戦行動は、華中の上海事変から南京への中支那方面軍の攻略作戦に並行してその裏で行われたと言えるが、北支那方面軍自体の表の攻略作戦からはまったく見えない裏側では、信じがたい出来事が続いていた。 以下はほとんど中国側の調査記録によるが、その内容は要約しても書くにはあまりに重く辛いものがある。

【山西省朔県の被害記録】(丸3日間で殺害された住民は約4千人)

 朔県は現・朔州市である。9月28日、前日からの攻防戦で日本軍は午前十時ごろ朔県城に侵入した。城内に残った住民はそれぞれの家に隠れていたが、敵はすぐに地下室を発見、中にいた男たちは棒で殴られ、一人ずつ縛りあげられて土下座させられ、女も子供も大きな家に追いこまれた。家の戸口には日本兵が庭に機関銃を据えていた。私と叔父、兄、弟、甥、姪婿、そして尉家の四人の息子と一人の婿が、日本軍によって縄につながれ、二道巷に連行された。この路地はすでに何百人もの人が追い込まれくくられていた。鬼子(日本兵のこと)たちは銃剣を持って両端を行き来して、時々足を蹴り、あるいは銃剣を突き、あるいは小刀を持って人々の顔をむちゃに引っ搔いた。ある者は隙を見て逃走したが、すぐにその場で銃殺された。その後鬼子は多くの細い針金を持ってきて、すべての人の首の上に輪を巻いてつなぎ、あるいは鼻に小さい穴を開けて通して、人々が逃げられないようにし、この路地から南門の外へと連行された。歩き出すと首の針金がひっぱられて息もできず、途中で首が絞められて死んだ者も少なくなかった。連行された空き地では機関銃が我々に向けられていた。

 虐殺が始まった。人々は一群ずつ南城門の近くまで引き立てられ、続いて銃声、悲鳴が混じり合った。夕方に私も連れて行かれた。殺した死体を放り込んだのは、昔の濠で、長さは百数十m、幅も深さも十mほどある。横倒しの死体はすでに城の壕を埋めていた。その下にはまだ死んでいない者も少なくなく、呻いたり、悲鳴を上げたりしていた。十数人で塹壕の縁に跪き、背後には銃剣を持った鬼子が立っていた。鬼子たちはわっと叫んで、銃剣を私達の背に突き刺し、連続して3回も刺した。縛られている時間が長かったのか、全身がしびれていたので、三度刺されても痛みはなく、意識ははっきりしていて、すべてが見えた。私の甥は私のそばで、鬼子に続けざまに8回刺された。私は流血過多のため、ぼうっとしていた。上から投げ込まれた死体は、私の体の上に高く積まれ、下の幾人かはまだうごめいていた。

 しばらくして私の甥は長い昏睡から目を覚ました。私も動こうとした。二人はなんとか死人の下から出て来て、日が暮れるのを待って、一番下の壕の根までころがって行って、互いの縄を嚙み砕いて、濠の曲がり角からゆっくり這い出した。病院に行くと11人の男が、命からがら逃げてきていた。甥と寧武山区に避難して二ヶ月ほど経ったが、家に帰ってみると、街にはまだ死体が散乱していて、城壁沿いの街には石よりも多くの腐った死者がいて、野犬の群れが縁日のように死体を齧っていた。このとき初めて知ったのだが、日本軍の大虐殺は三日間にわたって行われた。南城での集団虐殺のほか、自宅や路上で殺害されたケースも多くあった。鬼子に襲われるのが怖くて自殺する女性も少なくなく、私の姪も1歳半の実の娘を抱いて井戸に身を投げた。(この証言者以外の一人の証言では、南街の呂耀先の結婚したばかりの兄嫁は、日本兵に夫の面前で強姦され、その後銃剣で下半身からずっと腹部まで切り裂かれた。夫は素手で日本兵と格闘し、銃剣で刺されて死亡したとある:似たような例はこの後も各地で数多く繰り返されている)。

 9月28日から30日までの丸3日間で殺害された住民は約4000人に上り(4800人との説もある)、家族全員が殺されたのは100軒以上にのぼる。また別の証言では日本軍は最後に戦車に乗ってきて、死体を落とし込んだ壕の死体の山の上を何度も轢いたという。10月1日未明、日本軍が寧武県城攻撃に転じると、城内の生き残った人々はようやく家族を探しに出たが、ガソリンで焼かれ、戦車の下敷きになったり、その無惨な光景は見る者の涙を誘った。この時期の朔県の人口は1万人に足らず、日本軍はその半数近くを殺害した。つまりその中で青壮年の男子はほとんど皆殺しにされたということである。

(以上は『日軍侵華暴行実録』第一巻)

 筆者注:この日本軍の朔県における虐殺は、前日からの攻防戦で(小さな街で住民の結束も強かったせいか)防御する中国兵と共に住民も混じって日本軍に反撃し、日本軍に相応の犠牲者を出したから、その報復措置ということであった。ともかく「皇軍」に反抗する者は許さないということと、中国人を下等民族とみなしている証左である。いずれにしてもこれは、この後のナチスドイツ軍のやり方と全く変わらない。

【朔県周辺の被害記録】

*懐仁の惨事

 11月3日午後二時ごろ、岱岳鎮に駐屯していた日本軍工兵隊の一部約三百人が劉晏荘(山西省朔州市懐仁県)に侵入した。若い袁三女(名前)は、四歳の子供を抱いて妻と共に村外れに逃げようとしていたところ、日本軍が家に押し入り、袁三女を射殺し、妻を強姦して殺し、四歳の子供を銃剣で担ぎ上げて路上に投げ捨てた。歩行が不自由で自宅にいた60代の王照仁夫妻は、裏門に火をつけられ、二人は焼き殺された。袁の母親は、銃声を聞いて逃げたが日本軍は追いついて袁の母を刺し倒し、数十回刺し、最後には首を切り落とし溝に捨てた。60歳を越えた黄喜常も、日本軍に捕えられると、手足を縛られて、廟の大きな鐘につながれ、周囲に乾いた薪を積んで火をつけ、生きたまま焼き殺された。統計によると、日本軍は劉晏荘で108人を殺害し、庭先を焼き、三百余戸を焼き、金品を奪った。(周子君 記)

*楡次区・張慶事件

 11月7日、日本兵約300人が楡次区(山西省晋中市)城北の鳴謙鎮から徐溝方面に向かった。張慶村の東七里の南谷村の外れで、張慶村の住民を捕えて許其五と郭二貨に案内させた。張慶村の東南まで行くと、日本の少佐が刀を抜いて、二人の首を刎ねた。このとき、南に敗走してきた四川省の兵20余名が、嵩荒灘に隠れていたが、日本兵が察知して包囲し、一斉に乱射し、20余名全員が死亡した。その後日本兵は四方に分かれて張慶村を包囲した。村の東端で晋華紡績工場に避難した工員十数人を捕まえると、日本軍は労働者を一列に立たせ、一人一人を標的として銃殺した。さらに日本兵は村に入ると、一軒一軒、調べはじめ、男たちをつかまえて一人一人、兵隊かどうか確かめ、疑いのある者は皆殺し、少しでも従順でない者は生かしておかなかった。若い女性を捕まえると輪姦した。日本軍は張慶村に三日間滞在して117人を殺し、婦女子数十人を犯した。耕畜三十余頭を殺し、鶏、豚はほとんど殺された。二十歳の青年羅狗大は頭にタオルを巻いていたので日本軍は彼を八路軍と疑い、そのまま谷間に引きずり込んで銃で撃ち殺した。(趙有勳 記)

*楡次北田村を血で染めた

 11月6日、数十人の日本軍騎兵が村に乱入した。村に入るやいなや、村の雑貨屋万昌店に殺到し、食料品を強奪した。店で買い物をしていた王蛮吉は、逃げ遅れて日本軍の一人に刺されて庭で死んだ。この時、北田街には前線から退いた四川省青年訓練師団の将兵40名以上が雌子関から潼関まで集合する間、 村でしばらく休んでいたが、ほとんどが日本軍に射殺された。

 それから十数日後、日本軍将校と配下3名が馬に乗り、この村で八路軍を捜索した。しかしゲリラ隊に3人が殺され、1人だけが逃げ帰った。するとその日の午後、日本軍の小野が率いる7、80人が出動して北田村を包囲し、村内で無残な焼討ち、殺戮、略奪を行なった。…… 一カ月のうちに、日本軍は三度にわたって北田を掃討し、村人、職工、将兵40余名を惨殺した。(郭思俊 記)

*太原晋陽堡を血で染めた

 11月8日、太原が陥落する前日の午前、太汾道路の東側、太原から十数キロ離れた晋陽堡村で、砲声が轟き、煙が渦巻いた。晋綏軍は6、70人が日本軍と遭遇し、村西渠の河口に登って応戦し、そのまま村の西北にある竜天廟に退いたが、日本軍に囲まれ、機関銃で撃ち殺された。その午後、日本軍は晋陽堡を包囲し、大捜索を行なった。日本兵はまず村の東の脱穀場に入り、武器を持たない農民の宋富魁、洪変喜、宋四魁、郭二貨など7人を銃殺した。このうち宋四魁は死んでいなかったが、さらに銃剣を胸に突き立てられて死んた。それから村中を一軒ずつ捜索し、男を見かけたら捕まえ、抗日部隊をかくまった罪で村中の家にいた男たち26人を捕まえ、村の西の頭場院の近くに連行し、まず宋満匹と金全を殺害した。農民の張石錠は「逃げろ! 」と叫んで、水路に飛び込んだ。そして人々は逃げ惑い、日本兵はわめきながら、機関銃を一斉に群衆に向けて撃ちまくった。宋存智は包囲から飛び出し、右手の指を四本打ち落とされ、宋喜全は足に銃弾を受けて死んでいた。張三三も負傷したが脱出し、残りの22人は全員死亡した。また夕方になると、日本兵は村に大きな火を放ち、村の戸や床几、調度品などを焼き尽くした。大虐殺の後、村中の男子労力は残り少なくなり、寡婦家族は絶家となり、宋玉祥一家は3代にわたる12人のうち7人が殺害され、宋映武一家は家族5人のうち父親と2人の兄が殺害され、幸いに死ななかった者は生涯障害者となった。(張其昌 記)

(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

【山西省寧武の日本軍撤退後の無惨な光景】(6千人の犠牲者)

 寧武は忻州市にあるが、10月2日、朔県方面から来た日本軍は寧武県城に対し大砲による砲撃を開始し、続いて航空機による機銃掃射を行い、夜8時頃、寧武県城は陥落した。三日後の夜(4日)、国民政府軍は八路軍に協力して日本軍を夜襲した。市街戦を一時間ほど行い、双方とも死傷者を出した。この時、延慶寺の僧が鐘を鳴らして念仏読経をした。日本軍は和尚が八路軍に密かに通じているのではないかと疑い、夜明けを待って、寺院に乱入し、方丈仁助と七人の僧侶と住民を境内で皆殺しにした。そこから町中を一軒一軒捜索して、青年と壮年の男をつかまえ、肩の骨に銃剣を突き刺し、麻縄で縛り上げ、街の頂上まで引き上げて塹壕で一人ずつ刺殺した。

 11日払暁、中国軍は兵力を集中して再び県城を攻撃した。日本軍は撤退を決めたが、撤退後、避難していた農民が続々と城に戻ってきた。西門から東門まで石畳の大通りは日本軍に銃殺されたり刀で切られた死体がいっぱいに散らばっていて500体余りあった。路地の至る所にも死体があり、裏通りの庭へ行くと、青い上着を着た婦人の死体が、腹から血を流してうつ伏せになっていて、その横に母胎から掻き出された赤ん坊の死体が横たわっていた。塹壕の西は西門の楼底まで、東は水口門の上下まで、老若男女の死体で埋まっていた。足があって腕がない、頭があって体がない、老いも若きもわからない。人々は慟哭し、親を求める者、兄弟姉妹を求める者がさまよっていた。最も凄惨なのは西関の唐興丑家で、一家8人のうち、7人は皆殺しにされ長男の唐金娃一人だけが残った。また南門街辛留宝の一家の5人のうち4人が殺され、嫁一人が残った。

 閻錫山本堂の階段には男女20人余りの遺体が上下に横たわっていた。庭は死体だらけで、池には40体以上の男女の死体があった。中にはガソリンで燃やされ四肢が不完全な者、皮膚が黒焦げになった者もいた。寧武北城角に大廟があり、その境内にはおびただしい死体があった。ただ200余りの首のない男女の死体が城壁の上で倒れているのを見て、城壁の下を見下ろすと堀の中には人の首がいっぱいあって、これは日本兵が刀で首を切ったものと思われた。10月13日の朝、日本軍は撤退する前に、捕まえて苦力をさせていた男40数人を機関銃射撃と手榴弾で殺戮した。

 日本軍が最初に寧武県城を占拠してからわずか10日余りの間で、なんと2600間余りの家屋を焼き、寧武市全体では6000人余りを殺害したと推計されている。

(『日軍侵華暴行実録』第2巻より二人の証言を簡略にまとめた)

【山西省原平県における殺戮と破壊】(5000余人の犠牲者)

 現在の原平県は当時の忻州市崞(こう)県も含めている。1937年(昭和12年)10月6日、日本軍は大砲で原平城南西角を爆破して城壁に穴を空けて街に入り、天地廟、解放街一帯の街院を相次いで制圧した。10月8日、日本軍は忻州市崞県城を猛攻撃すると同時に、先遣部隊を派遣して原平を偵察、10日、大攻撃を行い中国軍守備隊の晋綏軍は撤退し、原平は敵手に転落した。その夜、日本軍は川村司令官の指揮の下、通りに沿って家ごとに捜査を行った。最初は敗残兵の負傷者を探していたが、そのうち人を見たら殺し、鶏、犬、豚も一匹も見逃さなかった。一群の出稼ぎ労働者や旅館にいた数百人の行商人、逃げ遅れた宿泊客など300人以上が殺害された。住民院では、遺体は井戸に捨てられたり、柱に縛られたりした。小北関の路地内では40人の倒れた遺体があり、南関の街では70人以上が首を切られていた。30世帯以上の家族がほぼ全滅したが、高田瑞一家の3代24人の場合、男は全員銃で撃たれ、女も子供も井戸に捨てられ、最後に井戸に投げられた母親と天姉だけは人がいっぱい重なって、溺死を免れた。安補紅一家13人は針金で縛られて一人一人が銃剣で刺され、10代の安補紅だけが3刀で刺された後に死んだふりをして逃れた。同時に日本軍はあちこちに放火し、民家や店舗を焼いた。郭長寿、宋巨扣などは当時の状況について、「この大火は忻口の戦いが終わってから10日余り、前後40日近く燃えていた」と話した。1938年(昭和13年)の統計によると、日本軍の「原平屠城」では、3000軒以上の家屋が焼失し、当初にぎやかだった原平の町が廃墟になった。住民1800人余り、商人300人近くが殺害され、晋綏軍将兵2800人が戦死した。このほか数千人の民間人、通りすがりの旅客、難民、近隣の村の住民で、合計の死者は5千人近くになった。

*原平南懐化で1266人を惨殺

 南懐化は金山の麓に位置する。1937年(昭和12年)10月13日未明、何万人もの日本兵鬼子が悪狼のように南懐化村に飛び込んだ。鬼子たちは村に入ると、村の南の山の端を占領し、また機銃で村の北の川を封鎖して村を囲い込んだ。当時村の人々は洞穴に隠れたり、境内に集まったりしていた。日本軍は村で戸口に沿って捜索し、罪のない住民たちを殺戮した。村人の柏潤海院内の洞穴には52人の住民が隠れていた。日本軍は彼らを発見すると銃で追い出し、男と女に分けて両側に列を作らせた。そして男たちを機関銃で射殺し、女性たちには服を脱ぐよう強制した。 女性たちは怯えて恥ずかしがり、洞穴に逃げ帰ったが、日本軍は彼女たちを次々と引きずり出し、銃剣で刺し殺した。生存者は4人で残りの48人は殺害された。同時に、村の趙喜全院内の洞穴に隠れていた40人以上も発見され、鬼子兵は洞穴の口に向かい、機関銃を構えて掃射した。その入り口は死体に遮られ、穴の奥の子供は驚いて泣き叫んだが、さらに鬼子兵は穴の口に薪を積み上げ、ガソリンを注いで火をつけ、ついに洞穴の中の40人余りはすべて殺された。日本軍が去った後、帰ってきた住民が洞穴の中で見たのは骨と灰だけで、穴の奥では大人や母親が子供の上に横たわっている惨状がぼんやりと見えた。

 別の庭の三孔洞穴には100人以上の住民が隠れており、日本軍は彼らを洞の外に追い出し、頭を切り落として木の股にかけたり、柱に縛って標的にして刺したりした。妊娠している女性の中には腹を切り裂かれ、胎児を取り出され、腹を踏まれたり、服をはがされて輪姦される女性もいた。その後日本軍は洞窟に住民を強制的に押し込み、薪を積み、ガソリンを注いで火をつけようとしたが、住民が抵抗したため日本軍は激怒し、ただちに機関銃と小銃で発砲し、境内は黒煙がもうもうと立ち上って鮮血が飛び散った。その惨状は見るに忍びなかった。さらに日本軍は境内で倒れた死体を火を付けた洞穴の中に次々と投げ込み、100人以上の住民が灰になった。このように10月13日から11月8日まで、日本軍は南懐化村の罪のない住民を各所で焼き殺した。その結果、元々204世帯あったこの村には104世帯のみが残り、100世帯がほぼ全滅した。死者が出なかったのは24世帯だけで、そのうち14世帯が家を焼かれた。一人世帯となったのは70歳以上の高齢者がいる8世帯、18歳以下の子どもがいる14世帯を含めて40世帯以上に増えた。当初の村民1024人のうち766人が殺害され、他の村から避難してきていた500人以上も犠牲になった。村に残ったのは海外から戻っていない17人、散発的に避難していた93人を含む254人のみで、生き残った人はごくわずかだった。また大型家畜は200頭以上が殺され、豚200匹と羊600匹も一匹も残らず日本軍に奪われ食料にされた。 村には鶏と犬が一匹だけ残っていた。 村では1000軒以上の家が焼かれ、貴重品はすべて奪われ、薪や草はすべて燃やされ衣類、寝具などは通りや中庭に散乱した。

*原平における婦女子への陵辱と殺戮

 南懐化村では、日本軍は50人以上の女性を陵辱した上で殺戮した(筆者注:その詳細は書くに忍びずカットする。以下もひどいが続ける)。崞(こう)陽南街では、日本軍が住宅に侵入し、男性3人と子供2人を機関銃で射殺し、若い女性2人だけが残され、女性1人は十数人に輪姦された後、…(中略)… また河南村の3つの洞窟内には、数十人の村人が隠れていたが、日本軍は男を全員殺害し、村の100人以上の女性を集め、3つの洞窟内で強姦した。1937年(昭和12年)10月13日から11月2日までの20 日間、毎日日本軍の群れがここに来て女性を陵辱した。日本軍が撤退する時、この悪狼たちはその100人以上の女性を殺害した。…… 日本軍はまた後池村を占領した後、村の住民を殺し、十数人の若い娘だけを残し、一つの中庭に閉じ込め、娘たちに洗濯をさせながら獣性を発散し、撤退する時にまた十数人の娘を全部殺戮した。日本軍は南懐化の女性を虐待していた時、王粉粉という嫁に服を縫わせたが、王粉粉は縫う勇気がなく、すると一人の鬼兵士が王の腰を抑えて両手をもう一人の鬼兵に伸ばさせ、軍刀で切り落とさせた。王粉粉は痛みで一日中叫び続け、3、4日後に死んでしまった。……

 日本侵略軍はわが県で女性をレイプし殺すだけでなく、さまざまな残酷な手段で多くの子供を殺した。1937年(昭和12年)10月、崞(こう)県城から西へ向かう途中、妊娠中の女性が手に子供を引き、胸には小さな子供を抱いていたが、日本軍は銃で手を引いていた子供を射殺、女性は銃声を聞いて、振り返ったかと思うとまた銃弾が飛んできて、懐の子供と彼女は一緒に殺された。この悪狼の群れはさらに飛びかかって、銃剣でその女性の腹を切り裂いて胎児を取り出して、道に投げた。南懐化村では、日本軍は趙拴拴の6歳と3歳の娘を、先に殺された祖母の足に縄で縛りつけ、餓死させた。南池村では、日本兵が趙成成の2歳の子どもを母親の腕から奪い、片足を引っ張って真っ二つに引き裂き、4、5歳の子どもを転がる板の上に乗せ圧死させた。永興村では、村民陳吉官の7歳の息子が母親が餅を焼いている鍋に押し込まれて火傷で殺された。少年の李補龍は何度も熱湯をかけられて死亡した。

 池上村の申元懐ら10人余りが穴蔵に隠れたが、5歳の子供が泣いていた。申元懐はみんなを巻き込むのを恐れて、子供を布団で覆い殺した。申西楼は妻と2人の子供を連れて、みんなに従って深夜に脱出したが、2歳の子供が泣きやまなかった。申西楼は周囲の人を巻き込むのを恐れて、妻に子供を井戸に投げさせた。河南村の王喜魚は十数人の村人と同じ穴に隠れていたが、日本軍が外で叫んでいた。王喜魚の4歳の子供は誰かが叫んでいるのを聞いて答えようとした。そこで母親は心を鬼にしてロープで自分の子供を絞め殺した。(筆者注:太平洋戦争終盤、米軍に追い詰められたサイパン島や沖縄の防空壕や洞窟で日本の住民においても同じ光景が展開されたことは国内でも知られているが、その7年前に日本軍が中国民に対しこのような惨劇を生じさせたことはまず知られていない)

*原平王董堡村の惨事

 日本軍の大部隊が原平県に侵入した後、最初に大きな被害を受けた村は王董堡だった。村内には150世帯、650人がいた。街には酒屋、麺屋、質屋、ラバ馬店、荷運び屋などがある。ここには東西南北からの商人、顧客がここに商売に来て「小包頭」と呼ばれていた。1937年(昭和12年)12月21日午前、日本軍は大量の軍隊を出動させ、王董堡とその近くの小営、川頭、丁家寨、王董、北部、茹岳、大芳など8村に対して大規模に火をつけ村民を焼き殺した。この日、崞県城以北に日本軍が至る所にいて、銃砲が絶えず、黒煙が日光を覆い、泣き声が天を驚かし、侵略軍は計700軒以上の家屋を焼失させ、住民130人を殺戮した。その中で王董堡は200軒以上が焼かれ、村人40人以上が死傷した。その後、日本軍はまた村に入り、焼殺を行った。この時はドラム缶を担いで村に入り、部屋を見ると油を注ぎ、火をつけた。近くにいる住民を刺殺し、遠くから銃で撃った。村人は涙を浮かべながら逃げ、数ヶ月は村に帰ることができず、この当時のにぎやかで美しい小さな村の町は廃墟になった。戦後になって村人は新しい土地を得て、今日の王董堡里と王董堡外の2つの村を再建した。当時の王董堡では今も壁が倒れており、土を焦がした枯れ木があり、侵略者の暴行を無言で訴えている。

*生産物と文化財の破壊

 原平県の上陽武、大牛店、神由、陽武、施家野荘などの陽武河上流のいくつかの村は、有名な食油の産地だった。川に沿って60歩ごとに水車があり、合計120以上の水車が並び、合計200軒以上の油屋、380本の搾油機があった。梁1本につき1日に搾油量は80斤余り、日産は全体で3万斤余りであった。1937年(昭和12年)9月以降、日本軍は何度もこのいくつかの村に侵入し、トラックで油を奪い、火をつけて油坊を燃やし、飛行機で爆撃し、ついにはこの搾油工場を徹底的に破壊した。全損失は20万元近くになった。当時の目撃者段玉堂らは、「日本軍は村に火をつけ、空から飛行機で爆撃し、油甕が割られ、焼かれて破裂したりした。オレンジ色の胡麻油は家から庭に流れ、庭から街に流れ、街から村の外まで流れた」と回想している。

 さらに日本軍は文化財旧跡を爆破し、焼き尽くした。その中には宋代に建てられた茹岳関帝廟があり、唐、宋、明代にそれぞれ建てられた崞陽貞武廟、呂祖廟、弥陀寺、西関廟、玉皇廟、白衣庵、牛市閣、牌楼、殿様廟など10余りの寺がある。残念ながら、これらの中国人民が汗を流して築き上げた古代建築芸術は、数日で日本軍が破壊し、灰になった。1937年(昭和12年)10月だけで、日本軍は原平県で1000余軒の廟を破壊、焼失させた。

(以上は『日軍侵華暴行実録』第2巻より)

【河北省石家荘正定県の惨事】

 保定占領後、日本軍は太原への南進途上に河北省石家荘の正定県に侵攻した。10月6日、日本軍は正定新安駅一帯に進駐し、直ちに正定に向かって攻撃を仕掛けてきた。国民党の第3旅団、第4旅団と民衆の抗日組織がこれに頑強に対抗したが、6日から10日まで、2千人以上の日本軍は城北郊外の岸下、永安、北関から城内の北門里、焦安角、小十字街、付壁東街、南倉街、東門里、城東北の西上沢、城東の朱河、里屯、小林済などの村まで1506人余りを惨殺、家屋106戸を焼却し、牛馬80余頭を奪い去った。 

*岸下村惨事

 10月6日夜、日本軍は約10門の砲を持って侵攻したが国民党守備隊は大刀を持って岸下村の日本軍を襲撃し、敵砲二門を破壊し、日本軍の一部を爆殺、斬殺した。怒り狂った日本軍は10月8日早朝、岸下村を包囲し押し入って、ロープで村人を縛り上げて串刺しにし、村外に引きずり出して銃撃、火炙り、刀剣などで虐殺した。村北口の張居亭家墓地では、日本軍は機関銃で一度に155人を射殺し、農民26人を白菜畑で殺害した。さらに地下室や家に隠れていた人々を撲殺、焼殺し、同時に至るところで女性を強姦しその後裸にして晒し、殺した。ただ村人の中には日本兵の隙を見て馬刀で斬り殺した者もいたが結局銃殺された。また嫁が犯される現場をみて姑が日本兵の軍刀で後ろから斬り殺した場合もあった。約250世帯の岸下村では、55世帯が被害に遭い350人が死亡し、負傷者は18人、つまりほとんどの村民が殺された。

*北蘭村惨事

 10月9日未明、銃声で目を覚ました村人たちは、日本軍が村に入ってきたことを知った。村人は霧にまぎれて村の外に避難したが、間に合わなかった者は村の中に身を隠した。日本軍は家々を捜し、南街でまず張洛万と呂洛旦を捕らえ、その場で殺害して道路に投げ出し、自動車に轢かせてからガソリンをかけて火をつけた。崔雲鶴の家の地下室では一度に18人が殺された。崔洛合は、三人の子供を背負って村西の綿畑へ逃げて行ったが、日本軍に発見されて三発撃たれ、二人の子供が殺され、もう一人の子供は溝に落ちて溺れ死んだ。崔福堂が捕えられると、日本軍は彼にひざまずけと言って、片手で顎を押さえ、片手に短刀を持って、彼の首を切り落とした。日本軍は捕えた村人を陳洛開家の庭に追いやり、機銃掃射を行い、80人余りの同胞の血が流された。約170世帯の北蘭村は、145人が殺害され、11人が傷を負った。11月14日になって生き残った人々が遺体を埋葬した。日本軍は中国の王道楽土建設を助けると言いながら殺人鬼であった。

*朱河村惨事

 10月9日に日本軍が朱河を攻撃した時、国民党軍の2個中隊はそれぞれ村の東口と北口で守備していた。守備軍は弾が尽きて孤立状態になったので、朱河村民は死を覚悟して奮戦したが守備隊は全員戦死した。村民の張双慶、馬計鹸、趙満圏、馬阿呆ら18勇士は戦死した兵士の銃を拾って戦闘に投入したが、寡勢では敵わず、全員捕虜になった。張双慶を除いて17人が日本軍に殺害された。日本軍は朱河村に入った後、人を見たら殺し、物を見たら奪い、奪った後は家屋を燃やした。特に朱河村の付家角は凄惨で、百余戸が非道な日本軍によって破壊され、この街の成人男子はほとんど皆殺しにされた。侵略者の虐殺に直面して、勇気ある若者の張雨子と張三月は日本軍と決死の格闘を行った。幾人かの日本兵を殺したが、最後は命を絶たれた。日本軍は一日で朱河村で住民283人を殺害し、20人を負傷させた。

(以上は中国のサイト「個人図書館:正定惨案」より)

【河北省石家荘藁城県梅花鎮の大虐殺】

 10月11日夜から日本軍が藁城に攻めてきて城外で中国軍守備隊と戦闘となったが、日本軍の攻撃は激しく、守備隊は総崩れとなった。この戦闘で日本軍800人余りが死傷した。一部の守備隊の奔走で街の東部の大部分の住民は東門から安全に撤退した。

 10月12日早朝、板垣師団5000名余りが梅花鎮を包囲し、西南から寨壁を越えて鎮内に入った。日本兵は門を壊し、家を燃やし、瞬く間に梅花鎮の上空には烟がもうもうと立ち上り、銃声、門を壊す音、大人と子供の泣き声が一面に響き、四日にわたる大虐殺が開始された。

<大虐殺>

 数人の日本軍が王淘気の家に押し入って王の母親を射殺、父の王保云は悲憤のあまり、日本軍に突進して一人を殺したが、銃弾を受けて死亡した。怒った日本軍は二人の小さな子供を淘気の妻の腕に縛りつけ、まず妻の腹を銃剣で切り裂き、次に二人の子供を母親のそばで殺した。

  さらに日本軍の一群は魯全成家の正門を壊し、魯全成を縛って連れ去った。一家は懸命に助けを求めたが、日本軍は銃で魯の10歳未満の息子2人を射殺し、5歳の娘梅珍を地面に蹴り倒した。70代の祖母は、日本軍に蹴り倒され、両足を切り落とされて殺害された。続いて鲁全成の母、妻と乳飲み子一人が境内の井戸の中に落とされ、滑車とレンガが井戸の中にたたきつけられた。日本軍が去った後、小梅珍は昏睡の中から目を覚まし、肉親の死体の側で泣き叫んで、這いながらおとうさんを呼び、その凄惨で悲しい場面は人々に何十年後も思い出させ心を震わせた。当時鲁全一家は6戸の集合住宅に20人住んでいたが、日本軍に15人が殺され、2人が負傷、うち3戸は全滅だった。住民の虐殺は一日中行われ、部屋の内外、大通り、便所、井戸の周りは至る所すべて血まみれの死体があり、梅花の街は生臭い血で満たされ、まるで地獄のようだった。

 これらの他、日本軍は青年と壮年男子を捕まえて、大通りで一緒に縛り真武廟の前といくつかの大きい庭の中に次々に引っ張り出しひざまずかせて虐殺した。殺人現場となった鎮西頭の水場、地主尚五子家長工業院、鎮東頭の水場、白片坑、血井、鎮南頭の36の墓場、そして街内の染物屋の庭と地主楊老風の粉房の庭など8カ所だけで1200人以上が惨殺された。 

<想像を絶する人間の行為>

 10月12日、日本軍は各戸から連行してきた100人余りの女性を地主楊老風の粉屋の庭に強制的に連れて行き、野蛮で侮蔑的な殺害を行った。その中で11名の妊娠した女性が日本軍に腹を切られ、さらに胎児が木にぶら下げられ、射撃の的にされた。孟小慶の妻は裸にされ、門の梁に吊るされた上、銃剣で腹を切り裂かれて血だらけになった胎児が抜き取られた。鄭は裸にされ、乳房を切り取られ、2人の子供は彼女の体によじ登って泣き叫び、日本軍にその場で刺されて死亡した。染物屋の庭に追いやられた100人以上の女性は、同じように日本軍の暴虐を受けた。十数名の日本軍は次々に蔣王、魏武、張鄧などの若い嫁を輪姦し、痛めつけた後、銃剣で彼女らを全員刺し殺した。夜になると日本軍の一群は懐中電灯を持って中に入り、若い女性を捕まえて外に出して、強姦して殺害した。

 10月13日、14日、農民の張二黒など62人が手に棍棒を持って、封鎖線を飛び越えて逃げる時、日本軍に見つかり縛られ、腰と膝を折られ、穴の中に押し込まれ、集団で生き埋めにされた。同時に、日本軍はまた200人余りの青壮年を東門外の空地に縛り、毒を盛って拷問した後、次々に銃剣で刺し殺した。樊金保ら63名の住民は、東門外の臭苛水坑のそばに縛りつけられ、まず目をえぐられ、手足を切り落とされ、その首を刎ねられ、残骸を臭苛水坑内に投げこまれた。14日の午後、45人の青壮年が拉致されて桃の木のある庭の井戸のそばに縛りつけられ、日本軍は彼らにひざまずくよう強要し狂ったように叫びながら軍刀を振り上げ、首を刎ねた。その首を桃の木にぶら下げ、死体は井戸に投げ込まれた。このような血の井戸は、23ほどあった。

<南門外の虐殺>

 10月13日、 女性や子どもたち約200人が南門の塀の下に拘束された。日本軍は戦闘相手の中国軍呂正操部隊の所在を突き止めようと、女性や子どもたちから聞き出そうとしたが、彼女たちは黙っていた。日本軍は腹を立てて10歳未満の女の子4人を引きずり出し、真っ二つにした。それを見た住民は怒りの声をあげたが、日本軍は逆に狂ったように彼らを虐殺した。ある者は首を切られ、ある者は腕を切断され、ある者は乳房を切り取られ、ある者は腹を裂かれて胎児を取り出され、最終的には200人以上の女性や子供が殺され、死体は掘割に捨てられた。惨事の後、趙二満と数人の老農民は涙を流しながら溝から遺体を3日間引き上げたが、そのうち36体が引き取りがなく一緒に埋葬され、地元では「三十六人墓」と呼ばれた。

<結果>

 梅花鎮は当時550世帯、人口2500人だった。10月15日に日本軍は立ち去ったが、4日間で1547人が殺され(軍人など部外者は含まない)、46戸の家族が絶やされ、600軒以上の家屋、店舗が破壊・焼失し、多量の食糧や財物が強奪された。

 戦後の1946年(昭和21年)、藁城市梅花鎮は「殉国烈士亭」を建立し、また1958年(昭和33年)、党と政府はここに梅花惨事記念館を建てた。

(以上は中国版「百度百科」の[梅花惨案]より)

【山東省徳洲市平原城への爆撃と蛮行】

 10月13日、昼、日本機一機が徳洲市平原城上空に来襲、干東関塩店、電燈会社に五発の爆弾を投下し、家屋十数軒を爆破し、民間人二人が負傷。夕刻、日本軍は一個大隊三百余名で機関銃、小砲をもって平原を攻略し、県城に侵入後、商店や住民から掠奪を始めた。翌14日も三機が山東省徳洲市平原の恩県上空に来襲、西門里処で十数個の爆弾を連投して、民家40数間を爆破、死傷50数人。住民の宋XX一家の老幼13人が全員爆死。午後、また別の一機が来て、恩県城内で爆弾2個を投下、児童—名が爆死。さらに翌日、日寇(日本侵略軍:以下略)の一中隊150余人が德州から直接恩県城に行き、殺人、放火、婦女を強姦し、勝手に百姓の牛や羊を奪って屠殺して食用とし、失った鶏や鴨は数え切れない。 

*張吉野村

 10月17日、李家橋に拠点を設置した日本軍小隊は、夜間、張希昌がタバコを吸ために火を点けたのを発見し、「皇軍を冒す」と言って「軍事偵察」を行い、日本軍小隊長瓦本が20余人を率いて村に突入し、村人12人を殺害、その後も放火して村を焼き、家屋307間、荷馬車11台、各種農機具200余点、各種家具1500余点、食糧、落花生、鴨梨、家禽類、衣類など数知れずが焼失した。

*梅家口、曲陸店、官道孫荘の惨劇

 10月26日、李家橋拠点の日寇4人は、官道孫荘西で綿花摘みをしていた若い女性陳XXを強姦し、また梅家口村東綿田で王振貴の嫁と娘を追いかけ輪姦した。そこで梅家口村の馮懐文などが日本兵3名を射殺した。逃げ帰った一人の日本兵が、徳州、黄河涯に駐屯していた日本軍二百余人を呼び、梅家口、官道孫荘、曲陸店の三村に対し、報復として村民90余人を殺し、300余軒を焼いた。

(『日軍侵華暴行実録』第3巻) 

【河北省邯郸市丘県(邱城)の惨禍】

 邱城は現在の邱県城から約10km南に位置する。11月12日(太原占領後)の戦闘で中国軍29軍は邱城に退却し、邱城外に防衛線を構築した。11月14日午後、日本軍は邱城を砲撃した。しかし29軍は一発も発砲しない作戦で日本軍を誘い込み日本軍の側面を攻撃、前後から挟み撃ちにして、日本軍に500余りの戦死者を出させた。11月15日午前、日本軍は重砲の砲火力でもって集中砲火を浴びせ、城の一角を崩し、邱城の南門と東門を破った。第29軍は東北の玄帝廟から退却した。邱城は日本軍の手に落ちたが、一部の住民は勇敢に反撃し、幾人かの日本兵を殺したが力尽きた。

 日本軍は城に入ってすぐに虐殺を展開、家々の門を破って中に入って罪のない民間人を殺した。邱城の大通りや路地、家の中には、殺害された死体がいたるところにあった。東南城角の住人趙志好は日本軍に捕らえられ首を一刀で切り落とされ、東街の五小了は「九宮道」で、日本軍が城に入ったと聞いて、家でひざまずいて祈っていたが、一人の日本軍兵士は門を蹴って入って、銃で彼の胸を撃ち抜いた。南街には一つの井戸があったが、事後にこの井戸の中からなんと40体余りの死体が引き揚げられた。あるものは日本軍に銃殺された後井戸に投げ込まれ、あるものは日本兵に陵辱されて井戸に身を投げ、唐姓の五人家族は日本鬼子に虐殺されるくらいなら自分で死んだ方がましと全員で井戸に身を投げた。

 西街の石富春は銃で撃ち殺され、妻は妊娠8、9ヵ月だったが、日本軍は銃剣で腹を切り裂き、血まみれの赤ん坊を引きずり出し、それを見た3人の子どもたちは泣き出し、日本軍はその子たちを無残にも銃剣で殺した。東街の趙英賢の母は生後5ヶ月の子供を抱いて小屋の中に隠れたが、日本軍に発見されて銃殺された。子供はまだ死体の上で乳を求めていた。このようにして日本軍に惨殺された大衆の死体は、西街の井筒と東街の大きな穴に埋められた。邱城城壁の下には24個の防空洞があり、日本の侵略軍の砲撃を避けるために城壁の防空壕に隠れていた。これらの防空壕は日本軍に発見された後、まず機銃掃射してから、穴倉に手榴弾が投げ込まれた。ある防空壕では牛を殺して穴の口を塞いで、毒ガスを入れた。防空壕では200人以上が殺された。

 大虐殺が終わった後、彼らは捕まえた民衆を北街黄占一の大庭に押し込め、いわゆる「感化」教育を行った。中国人を亡国の奴隷にして、彼らのために仕事をさせる。さもなくば、縄でつるして打ち、飲み食いをさせないなど、残酷な拷問が行った。ここでもまた多くの住民が何の罪もなく死んだ。夜になると日本軍は残酷な獣性を発揮した。彼らは捕まえた数十人の女性を一か所に集め、…… 誰も日本軍の残虐行為を止めることはできなかった。

 日本侵略軍が今回邱城に対して実施した大虐殺は、邱城という古い県都に深刻な破壊を与え、人民の生命財産は悲惨な惨禍を被った。虐殺された住民は800人余りに達し、焼失した民家は300余戸、全城の数千頭の家畜家禽は略奪され、その他の財物の損失は計り知れない。これは日本の侵略者が中国人民に背負った血の負債である。

(以上は中国版「百度百科」の[日軍在古老邱城制造的血腥惨案]より)

【山東省済南市済陽への爆撃と侵略で犠牲者2400余人】

 10月31日、済南市済陽に大きな集まりがあったが、9時ごろ日本軍機2機が低空で旋回し、そこに爆弾8個を投下した。爆音、爆煙、叫び声とともに血肉が飛び散った。その多くは高家の祠(現在の河務局南庭)一帯に落ち、男5人、女6人が爆死、4人が重傷、軽傷は数えきれず、家屋21軒が破壊された。路上には血があふれ、死者の手足はばらばらになり、負傷者は悲鳴をあげ見るも無惨であった。5世帯の家族が犠牲となり、趙洪道の母親と2人の妹、1人の弟が亡くなった。新妻の張楽芝は腕を痛め、神経に異常をきたした。趙光岱の2人の娘も爆死、郭慶祥の家にも爆弾が落ちて3人が死んだ。

 11月13日、10月に続いて済南市済陽城への爆撃ののち、日本の関東軍は済陽城を猛攻した。午後4時、城内の中国守備軍は3方に敵を受け孤立無援となり総崩れとなって西門に集結した。城門が開くと、軍民が押し合いへしあい出てきた。100mも走らないうちに、両側の日本軍が一斉に発砲し狂ったように銃を乱射、また砲撃した。30分しないうちに死体は山となり、血は川となり、100余の守備軍、1900余りの住民と壮丁、併せて2000人以上が一瞬にして死体の海と化した。銃声が止んだ後、残った鬼兵は一つ一つの死体を調べ、死んでいないものに銃剣を突き、とどめをさした。 生き残ったものは一人もいない。さらに、狂気の日本の鬼子たちは死体を収容することを許さず、人を見ると発砲した。

 11月14日、日本兵はいくつかの小隊に分かれ、狂ったように家を焼き、人を殺し、物を略奪する。午前中、文廟の裏通りに侵入し、二人の女性を捕まえた後、蹂躙して服をぬがせ、西門の外の木の上に縛って軍刀で乳房を切り、その悲鳴の中で鬼子たちは狂笑し、その裸の死体を木に掛け7日間さらした。

 同日10時過ぎ、鬼子は六十代の病弱な老人4、50人を連れ出し、彼らを一カ所に集め、死体を運ばせ街や鬼子の宿舎を掃除させた。二人の老人は鬼子たちの言葉がわからず、一人は銃剣で刺され、一人は首を切られて死んだ。夕方になると老人たちを縄で縛って南門の外に連れ出し、機銃掃射して殺した。老人たちの血は砂地を染めたが、ただ一人の劉善遠は銃の音で倒れ、死体の山の中で死んだふりをして、やっと難を免れた。

 午後2時、鬼子たちは西門の陸可譲の家の地下室から2人の息子を連れ出した。子供の服を剥いで裸にし門前のナツメの木に縛りつけ、狼犬に順番に噛ませた。子供たちの悲鳴と鬼たちの笑い声の中で、狼犬は子供たちの血肉と内臓を一塊ずつ食いちぎって、地面いっぱいにまき散らした。こうして一時間余りの間に、二人の子供は惨死し、そのまま7日間放置された。

 またこの日、将校の高森は、兵士に命令して南関の堤防の下で無辜の住民13人を一度に殺害させ、城内の馬家湾の南崖でも無辜の住民30人余りを生き埋めにした。別に東関に入ってきた鬼たちは、魯遵森、魯小旦、温連福夫妻、陳京智、張茂堂、王栄節、魯善明、楊承倫、王思節、韓淑雲、董春和、陳明新、張兆松、張合長、張其山、郭其太、郭水禎、王延禄、孫廷貴ら47人を様々な方法で殺害した。最も惨めなのは鄧奎潔で、鬼子に捕らえられて木の上で縛られ、刀で一枚一枚肉を切り裂かれた。その凄絶な悲鳴の中で80歳の鄧学和が杖を持って駆けつけ、怒りのあまり鬼子に飛びかかったが殺された。もう一人の無辜の住人周景遠は鬼子に生きたまま骨を剃られた。日軍は済陽城でこのほかに、いろんなおぞましい方法で無辜の民を虐殺した。七日間で住民の402人が惨殺された。この他婦女の百余名が強姦され、焼失家屋550余軒。この後も含めて2400余の同胞が日本軍の刀の下に犠牲となった。

 日本軍は40日間滞在後に撤収した。戻ってきた避難民たちは自発的に協力して肉親を埋めた。これらの死体はすでに風化し日に焼け、獣に食われ、耐えがたい腐臭を残し一面の残骸となっていて、もはや身元も分からず、集団で埋葬された。

(以上は『日軍侵華暴行実録』第3巻より)

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