昭和12年(1937年)後編:南京以降(その一)

南京で展開された無数の虐殺事件
── 中国全土の中の目立った一例として ──

南京占領前後の状況

南京占領まで

 日本軍は上海戦で苦戦していた上海派遣軍を支援するために援軍(第十軍)約10万を、11月5日に上海南方の杭州湾に上陸させ、7日、上海派遣軍と第十軍を統合して中支那方面軍を編成し攻勢を強めた。これにより中国軍は敗色を強め撤退に転じて行った。もともと上海派遣軍は盧溝橋事件後、「日本人居留民を保護するため」という名目で7月12日を手始めとして8月にかけて日本各地から徴兵資格のある男性が急遽招集され編成されたものであった。そして本来の目的であった上海攻略が終わると「戦争は終わる」と兵士たちは思い込んでいたが、中支那方面軍が編成されたことは、現地の日本軍は次の目的を持ったということになる。そして中支那方面軍の司令官となった松井石根は、首都の南京攻略を(日本の参謀本部の意向を無視して独断で)決定する。余力を持った日本軍約20万をこのまま帰らせてはもったいないという思いもあり、首都南京を攻略して早々と中国を降伏させる野心を抱いた。それにも増して、連日の新聞の報道合戦によって、日本の国内の世情は「次は南京攻略」に傾いていた。そうして日本の参謀本部は南京攻略を追認する。

 南京における中国守備軍は約15万で、そのうち城外で5万、城内で10万とされているが、12月10−12日にかけて城外で激しい攻防戦が展開され、日本の海軍爆撃機も先行して城内外で空爆を行い援護した。南京防衛軍は司令官の唐生智が徹底抗戦を命令していたため(司令官本人は12日夕刻に先に逃げた)、12日夜は最も激しい戦闘が繰り広げられたが、ようやく撤退命令が出されて南京防衛軍は撤退に転じ、13日早朝南京城は陥落した。しかし南京城内に残された中国軍は四方からの日本軍に完全包囲されていた。 ただ、12日夜から先んじて城外西方の揚子江に逃れた中国兵士も多く、そこで岸にある小舟や、それがなければ筏を組んで、そして同じく城内から逃避した住民とともに逃げようとしたが、早朝から待ち構えていた日本陸軍の機関銃や揚子江上の海軍の艦船からの機銃掃射によってそのほとんどが虐殺される。すでに船も何も残されていない中で逃げ遅れた兵士と民間人は、揚子江岸で日本軍の追撃を受けて機関銃で撃ち殺され、あるいは筏を組んで逃げようとしていた人々は、やはり銃撃を受けて筏の上に死体として積み重なったまま支流から揚子江に流された。これら初期の出来事はなぜかあまり語られないが、その現場は主に揚子江岸の下関と言われる地区であり、南京における初期の大きな虐殺現場である。

 あらかじめ述べておく必要があるが、かつて「南京事件」と称されて論争が度々繰り広げられてきているが、これは実に大きい出来事にしても、事件という言葉で単眼的に捉えるのは間違いで、南京における出来事は無数の大小の事件が集合されたものであって、基本的にそれぞれの細部の記録などから相対的に捉えなおさなければ実態はわからない。しかも、この上海事変から南京攻略に至るまでの過程で、10個の師団と支隊の約20万人が、主に南北に分かれた三つの進軍ルートで先陣を競いつつ諸都市を攻略していく途上において、南京で生じた惨劇と同様な数多くの蛮行を平然と行なってきていることもわかってきた。そこで南京以前はどうだったのかという疑問が途中で生じ、改めてその進軍ルートを調べ直してみて、その実態に唖然としつつここまで記述してきた。つまり目標の南京を占領してからその暴虐行為が爆発したわけではなく、それまでの軍紀統制の全くとれていない流れが南京において多少加速されたに過ぎないし、南京占領以降の八年間も中国各地で大小の暴虐行為が続けられたのである。

 以下は南京以前でも取り上げてきた元日本軍兵士の加害証言や日記(将校級の日誌も含め)、またその時期に南京に滞在していた欧米人の日記や証言、それに相応する中国側の被害証言も合わせて(三者とも主に1990年前後から次々と発掘、もしくは証言集がまとめられてきたもので、それまで研究者やジャーナリストなどから数々提示されていた資料を裏付けるものとなている)織り交ぜながら記述して行く。

南京占領時の状況

 ちなみに南京の城壁の全長は東京の山手線のとほぼ同じ、 南京市全体は東京都より大きいが、中心となる市区部は東京の都区内の広さに相当する。かつて孫文は南京を中華民国臨時政府の首都に決め、 孫文の意志を引き継いだ蒋介石は、1927年(昭和2年)に南京に国民政府を樹立、この年は建国10年を迎え、人口は100万人を超えていた。既述の日本軍の激しい空爆と地上部隊侵攻の情報を受けて、ここまでにかなりの住民が郊外や地方に逃れていたが、陥落後取り残された中国軍兵士は武器を捨てて多数の住民とともに、在留欧米外国人が作った国際安全区(難民区)に避難した。城内を占領した日本軍将校は、それを便衣隊(住民服に着替えた兵士)として、少しでも怪しいそぶりであれば捕えて「処理」することを命じた。例えば上海派遣軍第九師団第6旅団長秋山義兌少将の指示によれば、「遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す」、「青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし」とある。そして14日から城内の「掃蕩作戦」を展開し、日本軍は遠慮なく難民区に入り込み、元兵士と思われた者、少しでも疑わしい者は次々と引っ張り出し、下関など城外に連行して「処理」した。この掃蕩作戦は翌年まで続く。

 またそれ以前の問題として、集団投降してきた中国軍兵士(城外近郊で戦っていた)に関しても、日本軍は場所ごとに何千から万単位の捕虜を得て、その扱いに困惑し(捕虜を後方に送る護送兵力も想定していなかったから用意していず、これは南京までの進軍途中でも同じ状況)、何よりも大量の捕虜に対しての食料もなく(食事はおろか「第一、茶碗を一万五千も集めることは到底不可能」という現場兵士の記録もある)、結果的にこの邪魔な捕虜を各所において「処分」することになった。そもそもこの南京攻めは事前の準備がまともになされず、従って武器弾薬以外はほとんど補給のない行軍で、例えば「日本から食料等を送ってくる間の時間が長いので、ほとんどは現地略奪やった。 …… 豚でも牛でも食料でもなんでも盗ってきた。反抗したら撃つので、村の人は反抗なんかできない」という元日本兵の証言もあり、その状況下では捕虜の食料の用意など問題外であった。「事件」ならぬ「大虐殺」は起こるべくして起きたのである。

南京占領後のあらまし

*12月13日 — 日本軍、早朝に南京を陥落させ占領。(早くもこの日午後より日本軍兵士たちの蛮行=略奪・放火・女性への強姦が始まる)

*12月14日 — 日本軍は各部隊で城内外の掃討(敗残兵狩り)を実施する。中国軍兵士が数千人から万の単位で次々と降伏、大量の捕虜を扱いかねた日本軍は虐殺へと傾く。

○この日、日本軍(北支那方面軍)は北京に中華民国臨時政府を樹立、華北四省(河北・山東・河南・山西)、北京市及び天津、青島市といった地区を統治した。1935年(昭和10年)に成立していた冀東防共自治政府もこの臨時政府に合流、さらに翌1938年(昭和13年)3月に南京において日本の傀儡政権である中華民国維新政府が成立し、江蘇・浙江・安徽省の三省と、南京及び上海の両直轄市を統括した。その後の1940年(昭和15年)に汪兆銘を首班とする南京国民政府が樹立すると維新政府を吸収合併、華北政務委員会へと改編され終戦まで統治を続けた。

*12月15日 — 引き続き城内外で多数の捕虜が出てくる。外国人の記者たちが通信の途絶えた南京から米国艦船によって脱出、その途次にも揚子江河岸などで虐殺の光景を目撃。その二日後、上海から欧米に南京の惨状が記事にされる。

*12月16日 — 翌日の入城式に備えて、城内において最大の大掃討作戦が行われる。多くの壮青年男性(隠れ兵士も含む)が城内から城外揚子江岸下関地区に連れ出され、虐殺される。同時に在留外国人の設置した安全区(難民収容所)にも入り込み、婦女子も連れ出し暴虐行為を行う。

*12月17日 — 松井中支那方面軍司令官と朝香宮中将が閲兵する南京入城式を行う。その後浮き立った日本兵は街中や周辺住宅地に繰り出し、略奪や女性への強姦を多発させる。

*12月18日 — 日本の陸海軍合同慰霊祭を南京故宮飛行場において挙行。

*12月19日 — 「昨日銃殺せる敵死体1万数千名を揚子江に捨てる」と第十三師団兵士の日記にある。

*12月20日 — この日付で、第十軍の参謀長の通達がある。—— 「掠奪婦女暴行放火等の厳禁に関しては屡次訓示したる所なるも、本次南京攻略の実績に徴するに婦女暴行のみにても百余件に上る忌むべき事態を発生せらるを以って、重複をも顧みず注意する所あらん」

*12月20-21日 — 主に第十六師団を残し、他の師団は南京を離れて転戦。

*12月22日 — 奉仕団体「南京紅卍字会」が遺体の収容作業を開始する。この作業は翌年秋までかかる(後述の「南京にとどまった欧米人の難民のための奮闘とその記録」でもその数が示されるが、これが虐殺数の大きな基本となる)。第十六師団佐々木支隊長が「城内粛清委員長」に就任。

*12月23日 — 日本軍管理下の南京市自治委員会が設置され、翌年1月より活動開始。

*12月24日 — 第十六師団は外国人の設置した難民区の住民の登記を始める。

(無害と認められた者のみに「良民証」が発行されるが、それ以外の怪しいとみられた壮青年男性は次々と駆り出され、揚子江岸地区に連行、虐殺される。ただし、どのような選別によるものかわからないが、「模範刑務所」に千人程度が収容されていたことも後述のミニー・ヴォートリンの日記でわかっている。難民区から連行された夫や息子を、ひょっとして殺されずにその刑務所にいないかと妻や母親が探してほしいとヴォートリンに頼みにくるのである)

○12月24日、閣議決定の「北支処理方針」に、「政治的には防共親日満政権の成立、経済的には日満支不可分関係の設定」(「支那事変対処要綱(甲)」)とうたわれた。「基本目標」としては全面戦争突入後に戦争指導部が決定した華北占領地を支配する方針があった。

初期の捕虜への扱い

 12月13日未明に南京を陥落させた第10軍司令官柳川兵助中将は、午前8時30分に集団命令(丁集作命甲号外)を発した。

一、〔丁〕集団は南京城内の敵を殲滅せんとす。

一、各兵団は城内に対し砲撃はもとより、あらゆる手段を尽くし敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、残敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す。

  これに重ねて上海派遣軍第九師団歩兵第6旅団長秋山善兌少将が「南京城内掃蕩要項」を打ち出した。

一、潰走せる敵は、大部分便衣に化せる者と判断させるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宣の位置に監禁す。

一、壮年は全て敗残兵又は便衣兵と見なし、全てこれを逮捕監禁すべし。

  「敵を殲滅すべし」とは、これまで通り、捕虜として保護する方針は取らないということであろう。また「逮捕監禁すべし」といっても何万にも及ぶ捕虜たちをどのように扱うかまでは触れていない。

 まず一番早い時期に捕虜を捉えた例として、この12日から13日にかけての陥落前後の記録がある(第114師団 第66連隊 第一大隊戦闘詳報)。第114師団は南京の南側から進軍し、南京城中華門外南方にある雨花台において攻防戦を繰り広げ、中国軍を城壁に追い込み、中華門の扉が先に逃げ込んだ中国兵に閉ざされ、退路を失った中国兵の多くを捕虜にしたものである。

   12月12日 —— 午後7時頃、手榴弾の爆音も断続的となり 、概ね掃蕩を終わり、我が損害極めて軽微なるに反し、敵700名を殪し、捕虜1500余名及び多数の兵器弾薬を鹵(ろ)獲し、該方面に遁入、南門(中華門)城扉を鎖され退路を失いし敵を城壁南側クリークの線に圧迫し、殆んど殲滅しその策動を封するを得たり。(筆者注:この文の時系列がわかりづらいが、まず戦闘で700名を倒し、その後約1500余名を捕虜としたが、その捕虜が逃げようとするので南門に追い込み、その城壁のクリークで銃撃等で始末したということであろうが、それは1500余のうちから「遁入」しようとした一部と思われる。なお先の700名は戦闘行為の流れの中と見ることができ、「虐殺」とはならない)

 (続き)最初の捕虜を得たるさい、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にして、その結果我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。一般に観念し監視役の言を厳守せり。(筆者注:鉄道線路上とは中華門東側の雨花門を南北に通っている線路であり、中華門で捉えた捕虜も雨花門に集めたことがわかる)

 12日夜 —— 捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二十名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後十時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。

 一兵士の証言:12日ごろ、城壁を前にしていたとき、くすんだ白旗を揚げた丸腰の中国兵が来た。線路上に腰をおろしていたのを覚えている。その日と翌日の二晩、近くの校舎のようなものに泊め、二回食事を与えた。城外の濠には相当死体があって、そこを超えて南京城に向かった。

 13日 —— 午前7時40分頃、日の出を見るや全軍一斉に立ち上り万歳を唱え、遥かに皇居を遥拝し感激にひたる。掃蕩いよいよ進捗するに伴い、投降するもの続出し、午前9時頃までに300余名を得。(この他掃蕩時に「(反撃する)約100名を殪す」とある)

  13日午後2時 —— (山田)連隊長より左の命令を受く。旅団(第127秋山充三郎少将)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。

  13日夕方 —— 各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より50名宛(ずつ)連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南方谷地付近において刺殺せしむることとせり。各隊ともに午後五時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後7時30分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。(筆者注:50名ずつを各中隊が何回に渡り殺戮を行ったかはわからないが、刺殺(一人ずつ)ということなので二時間半ではそう多くはできない。朝捕らえた300余名が相応であろう)

  13日夜 —— 雨花門外において第百十四師団歩兵66連隊第一大隊は12月12、13日の間、投降兵1657名(将校18、下士官1639)を捕虜とし、13日午後全員を処断した。

(筆者注:この1657名と先の300余名は別件とみなせる。また12日に捕らえた約1500名とその他を合わせて1657名と思われ、先の1500名の捕虜たちは12日から二度ほど食事が与えられ、一日置いて合わせて1657名「処断」したということである。これに似た例は後述する幕府山でも見られるが、初期の大勢の捕虜に対する戸惑いの中の例であろうが、捕虜はこれ以降陸続と増えていく)

 そもそも「皇軍」とされた日本軍がこのような非道な虐殺を行うわけがないという固定観念で論じている人たちがいるが、戦争というもの(つまり無条件に敵を殺すという無法状態の中)がどれほど人を変えるか、しかも「皇軍」だからという自負で、相手国民を下等とみなし、何をやっても許されるという戦場での心の変質を見抜けない人々が「なかった派」に与していると思われる。つまり自分を含めて人間の裏表の心を観察し分析もできない人々がそうであるということである。いずれにしろ中国側の被害記録を見ていると、筆者自身も想定を超えるまさかの出来事が繰り返し各地で展開されていて、書き写すに忍びないことがしばしばであった。

 また他に明確な証拠がないとする方もいるが、他の師団・連隊などの陣中日記などが世に出され始めたのは1980年代からであって(それもたまたま縁があって一師団や支隊の兵士たちの記録集めに無償で奔走された方々がいたからのことで、自発的におぞましい自身の記録を望んで公表する人は滅多にいない)、しかも終戦時に軍関係の記録資料は全て焼却するようにとの軍中央部からの指示があって、師団・連隊の記録のほとんどは焼却され、自分が書いた日記も焼却した場合もあったし、逆に関係者が個人的に家に持ち帰ったものだけが残された。これは日本国内各市町村の出征記録もその対象であり、戦後に戦死者などの記録を作るのにも各市町村が難渋した事実がある。したがって他に記録がないからと簡単に言うことはできない。

大量の捕虜に対する司令官・師団長たちの対応と虐殺への流れ

 上記の「旅団命令により捕虜は全部殺すべし」、に相応するように上海派遣軍第十六師団長の中島今朝吾中将の日記には次のような記述がある(1980年:昭和55年代初めに、中島今朝吾の陣中日記が発見され、今ではあちこちで引用されている)。

 12月13日、「大体捕虜はせぬ方針なれば、片端より之を片付くることとなしたるとも、千、五千、一万の群衆となれば之が武装を解除することすらできず …… 之が一旦騒擾せば始末に困るので部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ13日夕はトラックの大活動を要したり …… かかる処置は当初より予想だにせざりし処なれば、参謀本部は大多忙を極めたり」と、まずは捕虜をどこかに移すように動いているが、同じ13日の記述の中に、「本日正午高山剣士来着す。捕虜7名あり、直に試斬を為さしむ。時恰(あたか)も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頸二つを見事斬りたり」とあって、残忍な行為だという感想も何も見えず、これが戦場が生む特有の無感覚状態なのであろう。

 さらに中島中将は、当初の「千、五千、一万の群衆」について、「後に至りて知る所に依りて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、大平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約千三百、其仙鶴門(南京城外東方)付近に集結したるもの約七、八千人あり、尚続々投降し来る。此七八千人之を片付くるには相当大なる濠を要し中々見当らず。一案としては百二百に分割したる後適当の箇所に誘きて処理する予定なり」と記しているが、「相当大なる濠を要し」とは殺戮して埋めるためである。ちなみに南京の城壁内外にはそうした濠(掘割)が多くあった。

 上海戦の時と違って、南京で大量虐殺や婦女暴行が起こった遠因の一つとしては以下の流れがあったとされる。「上海の要衝、大場鎮の攻略を目ざす苛酷な戦闘のなかにあって、兵士たちを精神的に支えていたのは、上海を攻略すれば戦争は終結する、少なくとも自分たちの部隊は交代して故郷に帰れるという期待であった」。その大場鎮の陥落後、「戦争は終った、内地へ帰れるぞという噂が広がった」(第九師団歩兵十九連隊下士官:宮部一三)。その兵士たちの多くは、上海戦で急遽出征を余儀なくされた予備役兵・後備役兵(一度兵役期間を終えて国内に戻り待機していた人々が中心で、30代の男性が多かった)で構成された特設師団で(第十三師団も含む)、すぐにでも妻子の待っている日本に帰還できると思っていた。そして急遽一転して南京に向かうこととなり、周到な準備もなくほとんど補給のない戦場で毎日一般民家からの略奪をくり返しつつ戦うしかなく、次第に兵士たちの精神は荒れていった(「天皇の軍隊と南京事件」(吉田裕;青木書店)。そしてその兵士たちの荒れた精神を掻き立てたのが、「南京に一番乗りすればしたい放題だ」という噂話であった。

 それでも一応司令官は、「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を発していた。 

一、皇軍が外国の首都に入城するは有史以来の盛事にして、永く竹帛に垂るべき実績たりと世界のひとしく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々、将来の模範たるべき心組みをもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為など絶対に無からしむを要す。

一、部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、苟も名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す。

一、入城部隊は、師団長が特に選抜せる者にして、あらかじめ注意事項、特に城内外国権益の位置等を徹底せしめ、絶対に過誤のなきを期し、要すれば歩哨を配置す。

一、略奪行為をなし、また不注意といえども火を失する者は、厳罰に処する。軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。(注:実際に憲兵は当初ほとんど配置されず、「やりたい放題」という兵士の気分のままに略奪や放火、強姦などの暴虐行為が展開された)

 実はこの中に決定的に欠けているのは、捕虜の扱いのことで、何も考えていなかったということになる。ただ将校たちの日誌や記録によると、南京に進軍を決めてから捕虜は取らずに処分するという内密の指示があって、実際に南京以前の進軍中にも、捕虜の数は少ないとしても「処分せよ」の命令があって処分したとの記録が、元兵士たちの日記の中に多く見られる(後述)。この様相が南京以降も続く8年の間に中国内で連綿と展開されていく。

アメリカ人記者たちの惨劇の目撃と世界へのニュース配信

 12月15日、それまで南京にとどまって取材していたダーディン(ニューヨーク・タイムズ)、 スティール(シカゴ・デーリー・ニューズ)ら五人の新聞記者・カメラマンは、通信手段が破壊されて南京からの記事の送信ができず、上海に移ることになったが、以下はそのダーディン記者が上海に着いてアメリカ船オアフ号から17日、ニューヨーク・タイムズ宛に報じた内容で、まず日本軍が占領する前の状況からである。

   —— 南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。中国当局の瓦解と中国軍の崩壊により、南京の大勢の中国人は、日本軍の登場とともに打ち立てられる秩序と組織に応える用意ができていた。日本軍が南京城内の支配を掌撞した時、これからは恐怖の爆撃も止み、中国軍の混乱による脅威も除かれるであろうとする安堵の空気が一般市民の間に広まっていた。少なくとも戦争状態が終わるまで、日本の支配は厳しいものになるだろうという気はしていた。ところが日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。

 —— 多くの外国人ジャーナリストは外交関係者とともに南京を去った。したがって南京陥落時(12月13日未明)に城内にとどまっていたジャーナリストは、ダーディン、スティール、それにロイター通信のスミス記者とAP通信の記者1人を含め、わずか5人だった。その他アメリカ人16人を含む20数名の欧米人が残り、そのほとんどが安全区国際委員会、国際赤十字南京委員会のメンバーとなるなど、2つの委員会と関わりを持っていた。特にアメリカ人の多くが宣教師であった(注:彼らの活躍は後述する)。 …… 歓呼の声で日本兵を迎えた一部の住民もいたものの(注:これは後にも記すが、住民の知恵の一種で、日本の国旗を作って自分の家に被害が及ばないようにするため)、占領してから2日間に事態は一変。大規模な略奪、婦女暴行、市民の虐殺、捕虜の集団処刑などで南京は恐怖の町になってしまった。

 …… 14日、安全区国際委員会は難民区内における日本兵の暴行事件について委員会が記録した資料を添えて、戦時国際法に則って、武装解除した兵士の生命は保障するよう、南京日本軍司令官宛に正式な要望書を提出した。しかし日本軍は南京攻略戦を包囲殲滅戦ととらえ、中国兵は(疑わしい者も含めて)すべて武装解除のいかんに関係なく、殺戮するという考えに固執していた。 …… 大勢の中国人が、妻や娘が誘拐され強姦されたと我々外国人に報告にきた。これら中国人は助けを求めるのだが、外国人はたいてい無力であった。捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、日本軍は市内を回り、もと兵士であったと思われる市民の服に身を隠した男性たちを捜し出した。安全区の中のある建物からは、400人の男性が逮捕された。彼らは50人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場 (南京城外の揚子江口下関地区) に連行されて行った。 

 …… 15日まで2万人の捕虜処刑、数千人の民間人(老人、婦人、子供なども含む)の殺害があった。 …… とくに警察官や消防士が攻撃の対象であり、犠牲者の多くが銃剣で刺殺されていた(筆者注:日本軍は「公務員」とみなせば、軍人と同様殺害の対象とした。例えば爆撃によって市の発電所が破壊されたが、占領後そこに修理に来ていた中国人技師たち数十人が日本兵に殺害され、電気の復旧がさらに遅れた事実がある:後述)。

 …… 日本軍の略奪は、町ぐるみを略奪するのかと思うほどであった。日本兵はほとんど軒並みに侵入し、ときには上官の監視のもとで侵入することもあり、欲しい物はなんでも持ち出した。しかも日本兵は中国人にしばしば略奪品を運ばせていた。なにより欲しがった物は食料品であった。その次は、有用なもの、高価な物を片っ端から奪った。とくに不名誉なことは、兵隊が難民から強奪を働くことであり、集団で難民センターを物色し、金や貴重品を奪い、ときには不運な難民から身ぐるみ剥いでいくこともあった。アメリカ伝道団の大学病院の職員は、現金と時計を奪われた。ほかに、看護婦の宿舎からも品物が持ち去られた。日本兵はアメリカ系の金陵女子文理学院の職員住宅にも押し入り、食料と貴重品を奪った。アメリカ大使の私邸さえもが侵入を受けている。(注:これらの恥ずかしい不祥事、所業は、上海からの進軍に際して、必要なものは「徴発」つまり現地調達にしろという無茶な通達から派生したものである)

 …… 上海行きの船に乗船する間際に、 記者は埠頭で200人の男性が処刑されているのを目撃した。殺害時間は10分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。 それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひく動くものがあれば弾を打ち込んだ。

 別途、スティール記者は、同じ現場を「米艦オアフ号に乗船して南京を離れる時、われわれが目撃したものは河岸近くの城壁を背にして300人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝が埋まるほど死体が積まれていた」と報じている(200人と300人の違いがあるが時間差かもしれないし、二人が単にざっと見た感覚による違いかもしれない)。

 一方、同じ15日に南京を出て上海に移動したロイター通信のスミス記者の報告「1937年12月9日から15日にかけて南京で起こった戦闘中のできごと」がある。要約であるが、陥落後初期の南京の状況がよく表わされ、後の出来事もこの中にほぼ集約されて見てとれる。    

 12月9日、初めて遠くに砲声が聞こえ、南京周辺でかなり大きな軍隊の動きがあった。

 10日、中国軍の移動は大規模になった。城内でも軍隊が動き始めた。砲声は時間とともに激しくなった。

 11日、日本軍の最初の榴弾が城内に撃ち込まれたが、さほど甚大な被害は出なかった。外国の軍艦が川の上流へ航行したため、南京に残っていた外国人は軍艦との接触を断たれた。夕方には給水が停止した。南京は一日中、日本軍機の攻撃にさらされ、爆撃を受けた。さほどの被害はなかったので、主に偵察のためとみうけられた。

 12日朝、福呂ホテルの前に爆弾が落ち、それで10名の中国人が命を失った。正午ごろ、日本軍砲兵隊の南京砲撃が再開され、電気が遮断された。紫金山の上に中国軍が日本軍の砲火に見舞われているのが見えた。斜面下方への無数の爆撃とそれによる火災が、中国軍を山の上方へ追いたてた。

 南京城内では、中国軍の一師があわてて中山路を北上し、潰走していたが、別の師の一部が一斉砲撃で逃走経路を遮断し、同師はひき返した。午後遅く、城内南部から北方(揚子江方面)へ向かって大方の軍が退却を始めた。まだ城内南部には約一千名の兵士がとどまって、勇敢に市街戦を戦ったが、真夜中までに全滅した。退却中の部隊は、閉ざされた北門(挹江門)前で動きがとれなくなり、城壁を越えて逃げのびるために縄梯子とロープを掴んだ。部隊のパニック状態は、北門の近くに日本軍の榴弾が打ち込まれたことでいっそう高まった。…… 北門前で起きたパニックの結末は、約一メートルの高さに層をなして積み上がった兵士と市民の死体である。私の見積りでは、約一千名がここで命を失った。(注:この挹江門事件については中国軍の同士討ちの事実もあるが、後述する)

 12日から13日にかけての夜、中国兵や民間人が略奪を始めた。食料品店がまっ先に略奪され、民家から食料品を持った中国兵が出てくる姿も見られた。しかし中国軍が組織的な略奪を企図したと主張するのは誤りである。例えば城内南部の中国人衣料品店の前では、何百人もの兵士が店の前に押し寄せ、あらゆる種類の平服が「飛ぶように」売れていった。兵士たちは軍服を投げ捨て、路上で着替え、市民に紛れて立ち去ったのである。

 13日正午近くになって、城内南部で最初の日本軍の警ら隊を見かけた。散発的に銃声が聞こえたが、道端にはあちこちに(日本軍が言うには)逃走中に撃たれた市民が倒れていた。それでも、日本兵の出現で、中国市民の間にはある種の安堵感が生まれたようである。(それまで日本兵は規律正しい軍だという噂があって)もし日本兵が人間的なふるまいをしてくれれば、かれらを受け入れる心づもりはできていた。しかしいわゆる安全区では流れ弾と榴弾によって約百人の中国人が死亡し、さらにもう百人ほどが負傷した。

 13日午後、日本軍戦車隊が先遣部隊を従えて入城した。部隊は疲労困憊の様子をしていた。中山門と光華門の付近での戦闘はもはやなかった。夜になると、日本軍が安全区にも入ってきた。安全区の管理下には、約七千人の武装解除された中国兵がいた。

 14日朝、まだ日本兵は中国の一般市民にたいして敵意ある態度をとってはいなかった。だが正午ごろになり、6-10人ぐらいの日本兵の小グループがあちこちで組織された。かれらは連隊徽章をはずして、家から家を略奪して回った。中国兵は主に食料品に限って略奪したが、日本兵は見境なしであった。かれらは町を組織的かつ徹底的に(トラックも使って)略奪したのである。

 私が南京を去る15日までに、私と他のヨーロッパ人の見たところによれば、中国人の家はおろか、ヨーロッパ人の家はその大部分が日本兵に略奪しつくされた。屋根になびくヨーロッパの国旗は日本兵に引きずりおろされた。日本兵の一団が家財道具を持ち去る光景も見うけられた。まだ南京に残っていた外国の車も押収された。さらに安全区国際委員会の車二台とトラック数台も押収された。途中でラーベ氏(下記「欧米人の難民のための奮闘とその記録」参照)に会ったが、ドイツ国旗を下ろして店を略奪しようとしていた日本兵を、店の支配人と力をあわせて追い払っているところだった。

 国際赤十字の旗がはためく外交部には約6百人の中国人負傷者が収容されていた。伝道団の二人の米国人医師はなかに入ることを拒否され、負傷者に食料品を送ることも許されなかった。外交部には何人かの負傷した中国兵も避難していたが、彼らは日本軍に連れ出され、射殺された。

 鼓楼病院で働いていた看護婦たちは整列させられ、所持品検査がおこなわれた。そして、腕時計、万年筆、所持金などが没収された。日本軍は4、5百名の中国人を縛り、下関(揚子江河岸)へ連行した。下関まで追跡しようとしたわれわれヨーロッパ人の試みは日本軍に強硬に阻止された。

 15日、安全区では約5千人の中国人難民が整列させられ、およそ180ドルが奪われた。大勢の若い中国人女性と少女たちが自宅から連れ去られた。その後、彼女たちを見かけた人はいないので、彼女たちの身に何が起こったかはわからない。日本軍上級将校は、まだ南京に来ていず、こうしたふるまいを訴えて止めさせることは不可能だった。

 メトロポリタン・ホテルはまず中国兵に、その後日本兵によって根こそぎ略奪された。米国領事館の前では中国人市民が4名、長江ブリッジ・ホテルの前ではおよそ20名が日本兵に射殺された。

 この日、われわれ外国の記者団は、日本軍艦に乗って南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。出発までに予想以上に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこでわれわれが見たのは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、すぐに立ち去るように命じた。それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回ほど観察した。他の中国人がどうなったのかはわからない。

 また、AP通信南京特派員マクダニエルの記録である。

 12月14日、入城した日本軍が全市にわたって掠奪を行うのを見た、—— 日本兵は安全地帯に避難していた住民に銃剣を擬して三千ドルをせしめた。

 12月15日、米国大使館の傭女と共に彼女の母親を探しに出かけたところ、母親は溝の中で無惨な死体となって発見された。午後、自身も武装解除を手伝った中国兵数名が屋外に引摺り出され銃殺に処せられた上、溝の中に蹴こまれた。夜一般民及び武装解除された中国兵500名以上が日本兵により安全地帯から何処ともなく連れ去られた。勿論一人も帰って来たものはなかった。住民は軒に日章旗を掲げ帽子に日の丸をつけていても続々逮捕され引張られて行く。

(以上は主に『ドイツ外交官の見た南京事件』笠原十九司著その他より)

 改めてダーディン記者のこの戦闘の観察と分析がある。

  —— 南京の占領は、中国人が被った最も大きな敗北であり、近代戦史における最も悲惨な軍隊の崩壊であった。中国軍は南京の防衛を企図し、自ら包囲下に陥り、その後に続く虐殺を許すことになった。 …… ドイツ人軍事顧問および参謀長である白崇禧将軍の一致した勧告に逆らってまで、無益な首都防衛を許した蒋介石総統の責任はかなり大きい。もっと直接に責任を負わなければならないのは、唐生智将軍と配下の関係師団の指揮官たちである。彼らは軍隊を置き去りにして逃亡し(陥落前日夜)、日本軍の先頭部隊が城内に入ってから生ずる絶望的な状況に際し、ほとんど何の対策もたてていなかった。大勢の中国兵の逃走には、ほんのわずかな逃げ道しか用意されていなかった。侵入者を阻止するため、戦略上のわずかな地点に部隊を配置して、その間に他の兵隊は撤退するという措置もとらずに、大勢の指揮官が逃亡したことは、兵隊の間にパニックを引き起こした。長江の渡河が可能な下関に通ずる門を突破できなかった者は、捕らえられて処刑された。

 南京の陥落は、日本軍の入城がなるより二週間も前に、詳しく予告されていた。日本軍は、装備の貧弱な中国軍を広徳周辺およびその北方で敗退させ、一網打尽にすると、首都に入る数日前には、長江沿いの南京上流の蕪湖など二、三の地点を攻め落とした。日本軍はこのようにして、中国軍が上流に退却するのを拒んだのである。… 

 日本軍が下関門を占領すると、南京からの出口はすべて遮断された。そして、少なくとも三分の一の中国軍が城内に取り残されることになった。中国軍の統制の悪さから、火曜日(13日)の昼になっても、まだ抵抗を続ける部隊がかなりあった。これらの多くが、日本軍にすでに包囲されていることも、また、勝てる見込みがないことも知らずに戦っていた。日本軍の戦車隊が整然とこれらを掃蕩していった。火曜日の朝、記者は下関に車で出掛ける途中、25人ほどの絶望的な中国兵の一団に出会った。彼らは依然として中山路の寧波会館を占拠していたが、のちに全員が降伏した。何千人という捕虜が日本軍に処刑された。安全区に収容されていた中国兵のほとんどが、集団で銃殺された。市内は一軒一軒しらみつぶしに捜索され、肩に背嚢の痕のある者や、その他兵士の印のある者が探し出された。彼らは集められて処刑された。なかには、軍とはなんの関わりもない者や、負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。記者は水曜日の2、3時間の間に、三つの集団処刑を目撃した。そのうちの一つは、交通部近くの防空壕で、100人を越す兵隊の一団に戦車砲による発砲がなされた虐殺であった。日本軍の好みの処刑方法は、塹壕の縁に10人ほどの兵隊を集め、銃撃すると、遺体は穴に転がり落ちるというものである。それからシャベルで土をかけると、遺体は埋まってしまうというわけだ。… 

 南京の戦闘は、近代戦史における最も悲惨な物語の一つとして、歴史に残ることは疑いない。(注:その通りとなっている)

 近代軍事戦略の指示にことごとく反し、中国軍は自ら罠にかかり、包囲され、少なくとも三万三千人を数える兵力の破滅を許した。この数は南京防衛軍のおよそ三分の二にあたり、このうち二万人が処刑されたものと思われる。

 攻防戦は、全体としておおむね封建的、中世的なものであった。城壁内において中国軍は、市の中心から数マイルに広がる村落、住宅地、繁華な商業地区を大規模に焼き払って防戦し、占領後には日本が虐殺、強姦、略奪を働くという、すべてがまるではるか昔の野蛮な時代の出来事のように思われる。… 

 日本軍にとり、南京占領は軍事的・政治的に最も重要であった。しかし、野蛮な行為、大規模な捕虜の処刑、略奪、強姦、民間人の殺害、その他暴行などにより、日本の勝利は台なしになった。そればかりか、日本陸軍や日本国民の名声を汚すことになるだろう。

(『南京事件資料集1・アメリカ関係資料編』より)

 この数字はあくまでダーディン記者が見聞きした15日まで三日間のものであり(この後記者たちは南京から退去させられ、上海に移った)、その後さらに大量虐殺が展開されていく。

日本政府の報道統制

 この時期の海外の新聞報道に関し、日本の外務省情報部がその内容をチェックしていた記録がある。

・12月17日、スティール特派員(シカゴ・デーリー・ニューズ)は南京陥落に関する電報を「南京に於ける日本軍の鬼畜の如き虐殺」なる見出しで掲載し、支那軍の無秩序なる野蛮行為が日本軍に依りて行われたる如き印象を読者に与へ、「パネー(パナイ)」号事件(既述)に関する米国民の興奮を一層煽り立てて居る。
・12月19日、ニユーヨーク・タイムス紙):反日思想の除去は疑問

 南京に入城した日本軍の行動は実に数百年も昔の様な話である。斯様に支那人を野蛮に取扱って、支那から反日的思想を除去することが如何にして望まれようか。「パネー」号事件も日本の主張する様に単なる誤認と認めることは出来なくなった。明らかに此の事件は最初考えたより重大な米国権利の侵害行為で、国務省の執った手厳しい処置は当を得たるものである。

 こうした新聞等のニュースに関し、出来るだけ日本軍の醜聞を外部と日本国内に漏らさないように内務省警保局が統制を図っていた。「出版警察報」によると下記のとおりである。

・1937.12.18 The Times — 「南京のテロ」と題する記事(以下同)
・1937.12.23 The Shanghai Evening Post & Mercury — 「南京に於ける暴虐、司令部を驚愕せしむ、軍隊無統制」
・1937.12.25 「天光報」 — 「敵は首都に於て大屠殺」
・1937.12.25 The Shanghai Evening Post & Mercury — 「南京にある日本軍の暴虐は事実なりと目撃者曰く」
・1937.12.25 The North China News — 「首都攻略直後強姦略奪行わる」
・1937.12.25 「工商晩報」 — 「敵南京を陥落せしめたる後屠殺を恣にし、荘丁5万人を惨殺す」
・1937.12.25 「越華報」 — 「米国記者、敵の南京に於ける姦淫、略奪、蹂躙の惨状を発表せり」
・1937.12.25 The New York Times — 「捕虜は全て斬り殺す」
・1937.12.25 New York Herald Tribune — 「南京陥落後の恐怖状態を告発する書」
・1937.12.26 「国華報」 — 「敵、南京に於て姦淫、掠奪、大屠殺を行う」
・1937.12.26 The Peoples Tribune — 「南京に於る日本の文化的使命」
・1937.12.27 「循環日報」 — 「南京より来港の西洋人、日軍の南京蹂躙情況を憤慨して語る」
・1937.12.29 The North China Herald — 「首都占領時に於る強姦略奪」
・1937.12.31 Reking & Tientsin — 「首都占領後の強姦略奪」
・1938.1.10 Life 「南京攻略に関する記事並に写真」
・1938.1.23 「中山日報」 — 「獣性狂を発し敵南京を屠る」
・1938.1.29 The Natal Mercury — 「南京に於る残忍な色欲の乱舞」
・1938.2.11 The Manchester Guardian Weekly — 「南京に於ける暴虐」
・1938.2.11 「華字日報」 — 「南京を脱出し、漢口に来たれる者の談話」

(『世界に知られていた南京大虐殺』笠原十九司、教科書検定訴訟を支援する全国連絡会の法廷意見書より)

 なお、すでに占領されていた上海では新聞などの検閲が行われ、それによって地元紙は11月半ばに発行を自発的に停止、当然南京でも同じ状況となった。

 日本国内でも既述のように新聞等の報道に厳しい規制が加えられていたが、大手新聞以外の地方紙では時折戦場の実態が漏れ出ることがあった。

 10月8日の『横須賀村報』第10号には、「素っ裸のX X兵が○名取りまかれて来るので何事かと問へば○○隊の者にてX Xするのだと言うので見物の兵と一緒に見に行きました。最初の一人を(○○刀の斬れ味を見よ)と将校の人が水をかけてすっぱりと打ち下ろしたらころりと首が落ち」と、上海派遣軍のある軍曹からの通信を掲載した。

 翌年1月17日の『日本武道新聞』第55号には、「日本軍に対し行動疑惑のある(つまり抗日思想のある)部落の如きはこれを攻め、妻女の前にて夫を斬り、子の前で親を撃ち、家に火を放ち掃蕩することもあります」という記事を「戦地だより」に掲載した。

 2月4日の『西部菓子飴新報』第103号には、「敗残兵見付け次第一人残らず切り殺しております。面白いものです。男といわず○(ママ)といわず見付け次第一人残さずという意気込みで殺しております」という通信記事を掲載した。以上はそれぞれ発禁処分とされた。

 メディア以外にも個人の発言に対する弾圧も厳しかった。途中で日本に帰還した傷病兵には戦場の現状に対する箝口令がしかれていたが、それでも「戦地では日本の兵隊が三、四人宛一緒に支那人の家に豚や鶏を略奪に行き、あるいは支那の女を強姦している。捕虜五、六人宛並べて置いて銃剣を突刺したこともある」(恵村伊一)、「日本軍も中々乱暴なことをする。この間支那から帰った兵隊の話を聞けば、日本の兵隊は人を殺したことがないから殺してみようと言って支那兵はもとより土民等を大変に殺して回るそうだ」(田中清)、「日本の新聞紙上では支那の良民を日本軍が可愛がっているように発表しているが、それは陸軍報道部御手のものの宣伝である」(西尾清三郎)などの発言があって、これに対しいずれも「造言飛語」を流したとして禁固刑に処せられた。

(以上は『天皇の軍隊と南京事件』吉田裕、1986年)

挹江門事件

 この事件は、基本的に中国軍が南京城内から城外へ脱出しようとする守備軍兵士を、督戦隊が撃ち殺すという行為によって生じたもので、この事実をもって南京事件は中国兵自身が起こしたものであるという日本の論客もいるから、以下に多少以上に詳しく検証するが、この門に関しては証言者の見る角度よって様々な違いがあることがわかり、参考になると思われる。

【中国軍将兵の逃亡と惨劇】

 南京陥落の前日の12月12日午後、南京城の中華門・光華門が陥落するが、その数時間前に中国国民政府軍の南京防衛軍司令官唐生智は(部下の防衛軍を置き去りにして)南京城西北の港湾地区下関から揚子江(長江)対岸へ脱出した。長江へ通じる門は三つあり、中国軍は日本軍攻撃を前に城門すべてにバリケードを張り巡らせ、重要な門にのみ狭い通路を残し、他は土嚢を積み上げて閉門していた。城内に進撃しようとする日本軍の攻撃によって、逃げ遅れた将兵は残った揚子江に近い唯一の脱出口であった南京城西北の挹(ゆう)江門に殺到したが、門は開くことができず、城壁を乗り越えて脱出するしか方法がない状況だった。

 挹江門を通り抜けようとした潰走兵に対し、それらを武力阻止するよう唐生智に命ぜられた「督戦隊」(もともと蒋介石の軍は敵前逃亡を禁じ、そのための部隊を作っていて、時折他の場面でも督戦隊のことが出てくる)が発砲、潰走兵もそれに応戦し多くの死傷者が発生、さらにこの時に挹江門近くの100万ドルと言われた豪華な交通部庁舎に火が放たれ、庁舎は燃え上がり中庭に積まれていた(あるいは内部に保管されていた)爆薬に火が移り大爆発が連続して起きた。これが混乱に拍車をかけ、死傷者を踏み越えて次々と城壁を登ろうとして圧死の上に圧死が重なった。これによる中国軍兵士の死者は、数千名とされる。登りは梯子か何かの道具を使えたのであろうが、そこから降りる時に急造のロープ(衣服や軍服などをつなぎ合わせて作ったという)で降りるが、その多くが墜落して死亡している。しかも翌朝、今度は待ち構えていた日本軍(第十六師団33連隊の一部)に銃撃され、外側にも多くの死体が積み重なった。

 かろうじて脱出して長江に面する下関にたどりついた兵士たちに立ちふさがったのは、先に首尾よく港口に到着した者たちが船のほとんどを使って、すでにまともな船がないことであった。そこで兵士たちは数少ないジャンク船を使い、あるいは丸太や板戸や、あらゆる浮物にすがって渡河しようとした。また落ち着いて筏を作って逃げ延びようとした者たちもいたが、揚子江上には日本の海軍の艦船が待ち構えてそれによる砲撃や、それを逃れても対岸に待ち伏せしていた第五師団の国崎支隊によって銃撃される運命が待っていた。あるいは多くの兵士は川に飛び込んで泳いで渡ろうとしたが、対岸まで泳ぎつかず途中で溺死した者も少なくなかったとされる。それ以上にこの地域に逃れてきた中国軍民のほとんどは、この揚子江岸の下関地区に留め置かれ、そのほとんどが日本軍の追撃隊によって殺戮された。(注:この下関地区の惨劇については詳しく後述する)

 この挹江門の修羅場の中で指揮官の一人、郭岐は12日のうちに部下500名と城内に引き返し、安全区(外国人の作った難民区)に避難して、軍服を脱ぎ民間人の衣服を借りるなどして紛れ込み、自身はイタリア領事館に潜入した。同様な部隊は他にも多くいて、これが後述する「便衣隊」の一部となり、民間人を巻き込んだ日本軍の掃蕩作戦で引っ張り出され、やはり下関まで運ばれて集団虐殺される。

 この挹江門の死者の大半は日本軍によるものではないが、日本軍の侵攻による犠牲者であることに違いはない。それに、この門の前後に積み重なった死体の上を、日本軍の戦車が踏み潰して行ったというから恐ろしい(戦車は閉ざされた門を突き破るために使ったのかもしれない)。しかもこの積み重なった死体は放置され、しばらく後に土砂で覆われ、その上を車が頻繁に行き交った様子がある。挹江門は揚子江の港口下関に連絡できる主要通路で、その都度車がゆらゆらと揺れ、気持ちが悪かったとの記述が見られる。

 ここに日本軍の攻略戦の中、南京に留まり、国際安全委員会を作って南京住民を守った22人の欧米人の一人、クリスチャン・クレーガーが残している目撃記録がある。

 —— 「この日(12日)中国軍は次々と撤退を始めた。撤退はまず城南から始まり、最後に撤退したのが城西守軍であった。南京の外郭をめぐる防衛戦は、布陣が乱れていたため、この撤退は史上類のない大悲劇であることが最初から決まっていた。今に至るまで、これらのこと、特に唐生智最高指揮官が追い込まれた状況を考えるたびに、私は大きな痛痒を感じる。彼はかつて何人かと一緒に南京城壁と共倒れすると主張したが、いざとなると真っ先に川を渡って逃げた。そのため前線の各陣地は、それぞれまったく連携が取れなくなった。予定されていた重火器も陣地に入ってこなかったため、一人の将校が城南から指令を受けに来たが、総司令部が完全に空になっていることに気づいた。撤退は命令もなく潮が引くように始まった。午後5時近くになって、撤収が始まった当初は、数少ない部隊が散発的に撤退し、隊列を組んで行軍していた。その後、他の部隊が撤退し始め、動きが乱れ、人が押し合い、秩序が乱れた。夜半になると撤退は逃亡に転じた。城外の下関(揚子江の埠頭地区)へ通じる挹江門がすでに数日前に半分を閉鎖して、土曜日にはすべて閉鎖され、前は砂袋のバリゲートを張って逃げ道を完全に塞いでいた。また交通省庁舎のすぐ前の通りにもバリケードが築かれ、道の半分が塞がれていた。撤退する激しい人波が狭い通りを埋めていた。道がさらに狭くなり、ついに人々が息を吞んだ災難が襲った。この撤退によって、中国の優秀な部隊のどれだけの命が奪われたのか、永遠に統計がとれない」

(『ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店より)
【挹江門に関わる証言各種】

 この惨状がなかったような目撃談もある。(第十六師団のもの)

・ 平井秋雄:歩兵38連隊通信班長

 —— 14日朝、獅子山砲台付近(城外)の宿営地出発、挹江門に到着。挹江門は外側に土嚢を積み上げて閉塞され入城できない。約二時間の作業で通過できるようになった。城門の右側には数本のロープが吊り下がっている。…

(『南京戦史』 偕行社 p160)

・ 羽田武夫 歩兵33連隊機関銃中隊

 —— 中隊ごとの掃蕩(注:おそらく下関で)がほぼ終了した時点で前進したが、挹江門は土嚢でぎっしりと固められており、(城内には脇の門から入ったと思うが)城壁には確か15、6本のいろんな布切れの綱が垂れ下がっていた。挹江門前の広場には約300と推定される死体が広範囲に散らばっていた。

(同上)

*同じ師団の別な証言

・ 平山仁三郎:歩兵33連隊

 —— 挹江門から入った時、死体をようけ見た。死体が5-6尺(約2m)に重なっていて、…… 重砲を積んだ馬車がその上を通る。わしら兵隊も死体をグシャっと踏んで城内へ入った。

(『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』)

・ 大窪寛三:歩兵38連隊

 —— 陥落4日目(16日)に揚子江に一番近い挹江門を通った時、近くに死体が山ほど積んであった。高さは2mぐらいで道路の横の空き地に累々といくつもいくつも積んでいた。……とにかく積み上げられる所まで積み上げた。あれはもうすぐ入城式なので、後で日本軍の邪魔になるから整理したと思う。

(同上)

・ 東史郎歩兵20連隊第三中隊

 —— (翌年)1月23日 — 南京と別れる日が来た。夜明け前に出発。やがて城門に近づいた。城壁には無数の縄がぶら下げてあった。

(『南京事件・京都師団関係資料集』)

・ 斉藤忠次郎:輜(し)重第16連隊

 —— 19日に南京に入城して一週間ぐらいたったころ把(挹)江門を通った。門の内側、扉のところに中国兵の死体がいっぱいあって水漬けのようになって、道のくぼみに二、三層にも折り重なっていて、その上を人や馬が通った。

(『続・隠された連隊史』下里正樹)

 これほどに見た人によって事実が違うとは(ロープも「数本」と「無数」の違いがある)、別な城門のことを取り違えているのか(例えば地図で見ると挹江門の少し北側に興中門があってそちらでも乗り越えようとする中国兵がいたのではないか)と思われるが、ともあれこれは日本軍の虐殺の話ではないことは留意しておくとして、この話を利用して、南京虐殺は中国兵同士がやったことで、日本軍は関与していないという空論をばらまく軽薄極まる論者もいて、いわゆる南京虐殺の「論争」が、どの場所の記録や証言を根拠にしているのかで見方が全く違うことがわかるし、その無駄が察せられる。ただ1990年(平成2年)前後より多くの証言記録が輩出し、すでに論争の時代は終わっているのであるが …。いずれにしろこの事件の関連の話を傍証していく。

【陥落二日後まで駐在していた外国人記者たちの記録】

*A・T・スティール/シカゴ・デイリー・ニューズ:12月17日の記事

 —— 北門(挹江門)には、かつて200人ほどの人間であったはずのものが、くすぶる肉塊と骨片の集積となっていた。城門を出て、城壁に吊り下げられた衣服や毛布で作った紐縄を見た。城門が閉鎖されたことを知った後に大勢がそこから町を脱出したのだが、ただより恐ろしい死の罠にはまっただけであった。

(『南京事件資料集1—アメリカ関係資料編』)

*同じ15日に南京を出て上海に移動したロイター通信のスミス記者の報告

 —— 南京城内では、中国軍の一師があわてて中山路を北上し、潰走していたが、別の師(中国軍)の一部が一斉砲撃で逃走経路を遮断し、同師はひき返した(注:上記「督戦隊」によるものである)。12日午後遅く、城内南部から北方(揚子江方面)へ向かって大方の軍が退却を始めた。…… 退却中の部隊は、閉ざされた北門(挹江門)前で動きがとれなくなり、城壁を越えて逃げのびるために縄梯子とロープを掴んだ。部隊のパニック状態は、北門の近くに日本軍の榴弾が打ち込まれたことでいっそう高まった。…… 北門前で起きたパニックの結末は、約1メートルの高さに層をなして積み上がった兵士と市民の死体である。私の見積りでは、約一千名がここで命を失った。

(『ドイツ外交官の見た南京事件』笠原十九司著より)

*ニューヨーク・タイムズのダーディン記者の1938年(昭和13年)1月9日の記事(上海1937年12月22日発)

 —— 12月12日午後遅くには、下関門(挹江門)の狭い通路を大勢の中国兵が通り抜けようとして、大混乱となった。兵隊は争って門を通り抜けようとしたため、パニックとなった。兵隊は軍服をつなぎ合わせて壁をよじのぼるロープを作った(注:これは上記のように降りるためのロープであろうが、先に城壁まで登った中国兵が後続兵のためにロープを作ったのかもしれない)。夕方には、退却中の中国軍は暴徒と化した。中国軍は完全に瓦解した。…… 真夜中、市内でいちばん立派な、建築費20万ドルの建物に火が付けられ、内部に保管されていた弾薬が何時間も爆発しつづけ、それは壮絶な光景であった。…

 またダーディンの1938年(昭和12年)8月のインタビューである。

 —— 下関地区では、それこそ大勢の兵隊が挹江門から脱出しようとして、お互いに衝突したり、踏みつけあったりした。私たちが南京を出るときに、この門を通ったが、車はこの門から脱出しようとした中国軍の死骸の山の上を走らねばならなかった。中国軍はあちこちで城壁によじ登り脱出を試みた。これらの死体の山は日本軍がここを占領する前にできたように思う。

(『南京事件資料集1—アメリカ関係資料編』)
【指揮官たちの実際の見聞】

*海軍軍医大佐泰山弘道が17日の入城式参列のために南京を訪れた時の日誌から(『南京戦史資料集 II 』 )

(12月16日、上海から水上艇(飛行機)で昼に到着、午後、南京見学のために下関の桟橋から自動車で出発)

 —— 直線なる広き舗装道路を走るに路面には小銃弾丸散乱して恰も真鍮の砂を敷きたるが如し。路傍の草原には生々しき支那兵の死体の散在す。やがて挹江門に到るや、高く聳ゆる石門のアーチ形の通路はその高さの約三分の一は土に埋もれて之を潜るには下関側より坂路をなす。徐に進む自動車は空気を充満せるゴム袋の上に乗れる如き緩やかな衝動を感じつつ軋む。これ車が無数の敵死体の埋もれる上に乗れるなりと。さもあるべし、土の層の薄き所を進むに忽ち土の中より肉片の沁み出ずるあり。凄惨の状筆舌に尽くしがたし。ようやく門を潜り抜けて南京側(城内)に出ずれば、敵の死屍累々たるが黒焦げとなり鉄兜も銃剣も黒く燻りて …… 堆く積める土壌も黒く焼けて、その混乱と酸鼻の景は譬えん方なし。…

*松井司令官の日誌より(『南京戦史資料集 I 』 )

 —— 21日:挹江門付近下関を視察す。この付近なお、狼藉の跡のままにて死体などそのままに遺棄せられ、今後の整理を要するも一般に家庭などの被害は多からず、人民もすでに多少ありて帰来せるを見る。(筆者注:おそらく挹江門で上記泰山と同じ体験をしたようで、翌年の2月8日、松井はこの挹江門の中国軍民犠牲者に対して「日支の僧侶」を参列させ「武士道の情けなり」として慰霊祭を行った。少なくとも10万人単位の捕虜虐殺は見ぬふりをしながらの特別な計らいであるが、おそらくこの門の犠牲者は主に中国軍の同士討ちによるものと聞いていたからであろう、武士道の情けを言うならその10倍以上に及ぶ日本軍の虐殺は武士道の情けに外れていないのか、松井の自分に都合の良い無責任な心情が透けて見える。なお、日本の僧侶はこの戦争だけでなく、日清戦争の頃より従軍僧として出征していた。これは従軍看護婦と同様の軍のやり方である)

*輜重兵小原孝太郎の日記から(『日中戦争従軍記』法律文化社 1989年)

 —— 21日:挹江門に差しかかった。その壮大なアーチ形の門の内側には土嚢が門の高さだけ積み上げてある。どれだけの土嚢を要したことかとてもわからないが、小さい山一つぐらい崩さなければあれだけの土嚢は積めまい。

 筆者私見:小原は18日に東方の紫金山方面から初めて南京に入って見学中の時に挹江門を松井司令官と同じ21日に見ていることになるが、「土嚢が門の高さだけ」とは驚きで、本当に門の高さまでであれば門内を通行できないからある程度の高さであろう(上記泰山大佐は三分の一の高さとしている)。ただ、一週間前の目撃証言にあるように、最初は死体が2m程度そのまま積み上がっていて、その上を乗り越えて通ったという。だからその後に土嚢を重ねて隠したわけであろう。もう一つ、日本軍の攻撃に備えて門の内側に土嚢を積み上げていてその上に死体が折り重なった可能性もある。というのも最初にどのように城門の上に登れたのか、土嚢と死体などが積み上がった高さである程度は登りやすくなっていたのではないか。そしてその上に後続の敗残兵が次々と押し寄せて、その死者の上を駆け上がり、つまづいた兵士たちを踏み台にして圧死した人々も多かったのではないか。逆に督戦隊員も途中から一緒になって逃げようとしたことも考えられる。次に城門の上から外側に降りる時には服などで作ったロープが途中で切れたり、腕力がなく途中で落下死した人も多かったのだろうか。そこで怪我をして動けなかった兵士はその後やって来た日本軍に殺された可能性もある。日本軍占領後に処理し切れない死体の上に土嚢をさらに積み上げたと推察できるが、少なくとも外側の死体は門の戸を開けるのに両脇に片付けられたはずであるが、それも土嚢や土砂で隠されたのであろうし、通路の内側との段差も土嚢でならされたのであろう。

 ちなみに小原は土嚢の下の死体に気がついていないようだが、この門から南の方の河岸へ糧秣補給に行ったようで、帰りは城塞西側真ん中あたりの漢中門から入っていて、下関の惨状は見ていない。だから揚子江の波止場(下関南方河岸)はお粗末だとけなしている。人が見る場所によってこれほどに違う。

 以上からすると、挹江門における千人単位の積み重なった死体は、土嚢などをその上に積んでしばらく放置され、その上に車などが通っていたと見てよいだろう。少なくとも松井司令官が翌年(翌月)この場所で慰霊祭を行うまでには処理されたと思われる。なお、中国の奉仕団体「紅卍字会」が南京全体で10万体以上の死体の処理をしているが(この稿の後半「南京にとどまった欧米人の…」の中でも触れる)その記録の中では、この挹江門では約500体を処理したとなっている。ただし死体を処理したのは紅卍字会だけではない。

【もう一つの中国軍将校たちの逃亡劇】

 これとは別に、南京陥落前に南京から列車で逃亡しようとする中国国民党軍の部隊がいた。それを見た南京住民も一緒に乗り込もうとした。それに対し、国民党軍の指揮官は住民たちに降りろと命じ、それに対し誰も従おうとしないので、部下に銃殺を命じた。これによって約千人の住民が虐殺された。この他にも中国軍の敗残兵たちは逃げるときに住民からの略奪を繰り返した。これについては総司令官の蒋介石自身が、「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。… 敗れた時の計画を先に立てるべきだった。(このような)軍規逸脱の凄まじさにつき … 」と反省しているが、先に逃げた唐生智南京防衛司令官を乗せた戦車が挹江門を通って中国兵や中国人市民を踏み潰して行ったとの話も残る。(筆者私見:こうした話や先の挹江門事件の話だけを取り上げて、南京における虐殺は中国軍自身がおこなったものであると、多角的に調べる努力もせずに、したり顔で主張する論者たちもいるから厄介である)

 しかしこれと同様な話は日本軍にもあって、日本の敗戦間際にソ連軍が満州に侵攻してきた際に、まず列車を仕立てて逃げたのが日本軍人の将校とその家族、そして満州鉄道に関わる官僚の家族たちであり、乗せてもらった民間人はおそらく彼らの知り合いで、わずかであった。そのほか残された居留民たちには、日本軍がこの南京の中で犯した惨劇とほぼ同様な悲劇(殺害・略奪・強姦)がソ連軍によって展開され、そこから日本に向かって逃げた多くの一般兵士と民間人が途中で命を落とした。死を免れた中には残留孤児となって地元の中国人の養子となった場合も少なくなく、したがって、日本軍が明治以来(西郷隆盛の征韓論以来)しばしば戦争発端の口実とする「居留民の保護」のための進軍など(この日中戦争もその前の満州事変も居留民を保護する名目で行われた)、その結果においても虚妄の口実と言わねばならない。

 ちなみに日本本土が米軍機によって激しい空襲に晒されているときに、国内の防衛役の軍人が真っ先に防空壕の中に逃げ、後から入り込もうとする住民、つまり女性や子供や老人を一杯だからと追い出した話は各地に残り、当時の女学生や子供の証言もある(それを見た一人の軍国少年は、もはや軍人を信用しなくなり、兵隊への夢を捨てた)。つまり彼ら軍人は「皇軍」としての特権意識しかなかったということであり、皇軍本来の役目、「天皇の臣民(国民)を守る」という意識を欠き、その教育が軍人にはされていなかったことになる。そして皇軍は侵略地においてその優越意識を持って、勝手に劣等民族とみなす中国人をいくら抹殺しても何の痛痒も感じない人間と化していた。

 今ひとつ、国内でのもっと悲惨な話は1945年(昭和20年)、米軍の沖縄上陸で激しい地上戦になった時に、日本軍は沖縄住民に大きな犠牲を強い、女学生も含めて集団自決に導いた話は近年よく知られるようになっているが、15歳前後の中学生をも兵士に仕立て、爆弾を持って米軍の戦車に向かって突撃させたとか、そのような非道な話も少なくないのである。

南京陥落後の各城門付近における捕虜と避難民虐殺

挹江門については先述)

雨花門/中華門外(第114師団66連隊)

 既述の「初期の捕虜への対応」の項において触れている雨花台における第114師団歩兵66連隊による捕虜虐殺に関連する。

 12月12日、南京城中華門南方の雨花台で第114師団歩兵66連隊は中国軍と激しい攻防戦を繰り広げ、日本軍は中国軍を城壁まで追い込み、そこで約1500名の捕虜を得た(10日からの戦闘で中国軍の戦死者約6千名)。その後中華門とその東側にある雨花門(鉄道を通すために1935年:昭和10年に新たに作られた門)を歩兵102連隊と合同で攻略し、13日早朝までに占領を終えた。その時までに約1500名に合わせて投降兵1657名(将校18、下士官1639)を捕虜とした。その捕虜たちを「鉄道線路上」つまり雨花門の外に集めた。

 この投降兵の主体は突撃準備期間の12日午後、一部は13日午前中に第一大隊が収容して捕虜としたものであるが、同大隊は13日午後2時の連隊命令、「旅団命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何」に従って「13日午後全員を処断した」とある。ただし12日に捕らえた兵約1500人には二回ほど食事を与えた後のことであった。(歩66第一大隊戦闘詳報、『南京戦史』偕行社より)

 別の300名の捕虜については三つの中隊が主に刺殺する方法で「処理」したとあったが、この1657名については他の部隊の数々の虐殺例(後述参照)から推定するに、この「処断」は雨花門外側のクリーク(日本と同じで城壁を守る堀や壕)の側で機銃掃射され放り込まれた可能性が高いと思えていたが、中国側の証言を調べると近くの谷間に連れて行かれ機銃掃射で殺戮されたとある。以下はその中国側の証言で、その犠牲者は中国軍将兵だけでなく、民間人のほうがはるかに多いことがわかる。

 —— 「私は南京防衛軍の一人だったが、極度の混乱の中でばらばらになって挹江門から脱出し、下関に着いた時にはすでに船もなく、そのまま上新河のほうに流れて行き、私たち数百人が日本軍に捕らえられた。そのまま板橋鎮(雨花門南の雨花台区にある)の谷間に連れて行かれ、集団で機関銃で撃たれた。日本兵は銃撃が終わってまだ死んでない仲間たちを銃剣で突き刺した。私は仲間の死体の下にいて、しばらく動かないでいた。その後様子を見て抜け出して奇跡的に生き残った」(皇甫澤生:1992年当時73歳)

 —— 「私は当時、板橋鎮の道児関という村にいて、12月のある日、日本軍が一万人ほどを村から遠くないところに集めて機銃掃射して殺すのを見た。その音で村の外に走って行ったが、日本軍はその後ガソリンを撒いて燃やし、死体まで跡形もなくそうとした」(徐建陶:1992年:平成4年当時65歳)

 —— 「(南京陥落当時)日本軍は板橋鎮にいた中国軍と付近の村民合わせて二万人あまり(注:上記では一万人とあるが、同じ事件と思われる)を、今の寧蕪公路と古雄駅から梅山工程指揮部までの専用鉄道とが堺を接するところ(私の村の近くの唐家沖)に集め、そこに駆り立てていく間に、中国兵とそうでない無垢な人々をまるで西瓜を割るように斬り殺し、集め終わってから日本兵は小高い場所に機関銃を据え、窪地にいる二万人に向け気狂いのように機銃掃射した。途端に地の一面が死体で敷き詰められ、傍を流れる小川が真っ赤な血に染まった。続いて日本兵は死体の山の周りに薪を並べ、死体にガソリンを撒き、燃やしてしまうという身の毛もよだつ残虐な行いをした。日本兵が去ってから、未だ死に切れない者たちがたくさん苦しそうにうめいていて、ごく少数の者だけが九死に一生を得た」(徐正陶:1992年:平成4年当時60歳代)

(以上は『南京大虐殺生存者証言集』1994年/日本語版『この事実を …』 1999年、南京大学出版社)

 中国側の証言からすると1657人どころか、一万から二万人、最終的にはこの板橋鎮は同じ雨花台区の花神廟につながっていて、その地に建てられた花神廟地区叢葬地記念碑には計2万7239体が数ヶ月以上かけて掘り出され、埋葬されたとある。つまり第114師団による13日の捕虜だけでなく、その後の掃討作戦によって兵士と民間人を城の内外から連れ出し、さらに虐殺を加えた結果と思われる。

太平門=西大門(第十六師団33連隊)

 南京城外の東側にある紫金山で、12月10日から激しい攻防戦があり、約三日間をかけて第十六師団佐々木支隊歩兵第33連隊は紫金山要塞を占領した。13日早朝、33連隊第二大隊の一部(第6中隊)が先に太平門を占領して日章旗を城門高く掲げた。その後連隊主力もふもとにある中山門とその北側にある大平門に攻め降りたが、すぐに太平門と中山門に守備隊を残して下関方向に前進して行った。ところが大平門では東方向の鎮江から逃れてきていた中国軍の敗残兵が多くやってきて(まだ戦闘に決着が付いてないと思い、城内に避難しようとしてのことかどうか)、そのまま千人以上が捕虜となった。その措置を師団に問い合わせると「処理せよ」との返事であった。その中島師団長の日記では「後にいたりて知るところによりて」として「大平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約千三百」と13日付の後書きの形で書かれている。また上海派遣軍参謀長飯沼守の日記、12月26日には「太平門(33連隊一中隊が千数百の捕虜を獲処分したる所)」とある。

 その「処理」の実態はまず、「太平門では多くの敗残兵を捕らえたが、ヤッテシマエと襲いかかるケースが多かった」(歩兵33連隊第二機関銃中隊長島田勝己)、そして捕虜を城壁の角に集め、柵(鉄条網)で囲って城壁の上から石油を撒き、火をつけて焼殺しようとしたが、殺しきれないものは手榴弾や機関銃で殺した(そしてその死体を城壁外の壕=池に放り込んだ)。

  その後、十六師団の輜重兵第16連隊の西川繁美がこの門を通った時の証言。

 —— 「南京の太平門の入り口にもいっぱいあったな。太平門の所から引っ張って(近くの)大きな壕(沼地)の中に放り込んでいた。だいぶ深かったと思う。死体が逆とんぼになっているようにどこが頭か手足か分からないぐらいいっぱいあったな。浅い濠でも数mあってね、濠の中がいっぱいになって外の道路と同じ高さかそれよりも高くなっているところもあったな。わしが何人ぐらいの中国人を殺したか、自分ではわかるけど、他人には言えん」。

 ついでながら、西川の証言の最後の言葉である。

 —— 「今やっぱり戦争のことを思い出すと、心の中では涙が出るな。向こうもこっちもいっぱい死んだ。どっちも悪い時期に生まれたと思うし、そんなことが起きるとわかっていたら、この世に生まれてこなかったら良かったと思うな」

 次に33連隊第二大隊の大沢一男の証言

 —— 「(13日)夜明けに突撃して、紫金山からまっすぐ下りて、太平門に向かった。大きな門は開いていて門を入ったところに敗残兵がたくさんいました。敗残兵はあかんと思ってかどんどん手を上げて出てくるんですわ。次の日ぐらい、それは大勢の敗残兵を城壁の角っこに全部集めてぐるりを鉄条網で囲みました。城内の防空壕、要塞の中にはなにやらいっぱいありますねん。石油をとってきて城壁の上から敗残兵の頭にぶっかけました。支那人ちゅうのはあきらめがいいんやね。じっ としている、火をつけたら逃げた者もおりましたで。それでもくすぶって人間なんて燃えませんで。死体はそのままでほっていました」(『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』)

 また紫金山の天文台付近で戦った第二野戦高射砲兵司令部副官の石松政敏の記録

 —— 「二千の虐殺死体とか言われるが、門の外側で見たのは千にも足らなかったと思う(筆者注:ただし外壕に次々と落とされた死体は重なっていたわけだから表面上は千人に満たなかったのはその通りであろう)。一部の死体は人に踏みつけられて気の毒だったが、この人達は紫金山の戦いに破れて城内に逃げ込もうとしたかどうかはわからないが、太平門まで来てやられたのではないか。門外には大きな壕がありそこに死体が落とされて土で覆われた。門の正面の城壁の曲折部の下方には100近い死体が土もかけられずにあったが、これは爆弾でやられたようだった。(偕行社機関紙「証言による南京戦史-9」より)

 また佐々木支隊長の私記には、翌14日にも「終日各所に銃声が聞こえた。太平門外の大きな外壕が死骸で埋められていく」とあって、この日は改めて城内の敗残兵掃蕩によって太平門まで連れ出されておそらく最低でも500人程度が殺戮されたと思われる。

 これを裏付ける証言が後に出てきて、それが33連隊第二大隊の徳田一太郎(仮名)である。

 —— 「14日朝、太平門に入った。…… 太平門近くに大勢の捕虜がうろうろしていた。そこで年寄りも男も女も子供も一緒くたにして三、四百人ぐらい捕まえてきた。門の外から見て右の一角に工兵が杭を打って、それから鉄条網を張って、その中には地雷が埋めてあった。そこへ彼らを集めて入れて囲い、地雷を引いてドンと爆発させた。その後死体が積み重なって山のようになっていた、そこへ我々が城壁の上からガソリンを撒いて火をつけて燃やした。死体が山積みでなかなか燃えなかった。翌朝分隊長が初年兵に「とどめを刺せ!」と命令し、積み重なっていた死体の中からまだ生きている人間を刺し殺した。他の中隊や中隊長もいた。…… 死体の山の大きさを畑の寸法でいうと百坪くらいあった」

 以上の証言などからすると太平門においては13日が1300、14日500人で、合計1800人程度の犠牲者が出ていると思われる。なおこの後16日以降は、ほとんど「死体の処理しやすい」揚子江岸の下関地区へ連行して虐殺が行われるのである。

 主に『南京戦元兵士102人の証言』などを著した記録作家松岡環の調査と現地での活動により、2007年(平成19年)12月12日、日中共同の「日本軍南京大虐殺太平門犠牲同胞記念碑」が太平門に建てられ、除幕式が行われた。その碑文には、「1937年12月13日、第十六師団三十三連隊六中隊などの支那派遣軍部隊は南京太平門の近くで、武器を置いた中国人将兵や無辜の市民約1300人を集め、周囲を金網で囲み、事前に埋めた地雷で爆撃し、機関銃で掃射し、ガソリンをかけて焼き、翌日、日本軍は再び死体の検査を行い、瀕死者を銃剣で刺して死亡させた。太平門集団虐殺で中国人は一人も生き残れなかった」とあるが、この13日朝の状況からすると碑文の「無辜の市民」がここにいたとは考えられない。つまり城門は攻防戦で閉ざされていて城内の市民が門外に出ることはできなかったし、城外の住民も避難するか家の奥に閉じこもって出て来れなかったからである。またこの時点では元日本兵の証言以外にこの事件の生き残りの人を探し出すことができていなかった。

 ところが松岡の執念はここでは終わっていず、その後も中国を訪れ調査を継続した。そこに南京市師範大学卒業後に名古屋大学を卒業、桜花学園大学教授となっていた高文軍(女性)が松岡の調査に共鳴して途中から加わり、2011年(平成23年)、高は太平門の虐殺を目撃した人の甥や子供(女子)に巡り合った。その一人が指摘する墓のような大きな塚の二つの場所が元日本兵士の証言と一致した。その子の母親は当時子供で、「城門外にある死体の山を這い上がって城内に入った」(注:おそらく難民区への出入りのため)とか、自分が中学生の頃太平門周辺の道路建設中に大量の頭蓋骨や白骨が出てきて、男の子はそれをボールがわりに転がして歩いたなどの話があった。その後も何かの工事のたびに白骨が出てきたという。(「南京大虐殺——歴史事実の調査に加わって」高文軍:桜花大学人文学部研究紀要第14号)

 この一連の調査の中で、松岡はついに生き残りの王という人の話をよく聞いていた董義洪に出会った。王はその頃小王と呼ばれ、「(中隊長だった)私の兄は太平門で12人の日本軍が並んで機関銃で射殺、兄はその場で死んだが私は死の淵から逃げました」という話をした。小王は雇われていたおばさんから「良民証」(日本軍が南京住民に発行するもの)を手に入れてもらい、敗残兵狩りを免れた。この話は松岡のその後の活動を集成した『南京—— 引き裂かれた記憶』(社会評論社 2016年)からであり、上記徳田一太郎の証言もその中に入っている。徳田はまた、「南京の虐殺は日本軍と政治家の命令で起こり、わしらが実際に参加したから嘘ではない。しかし南京の事実を表立って学校の先生や歴史の研究者たちに言うことは怖いですな。こんな歳になってこういうことを言ったらどんな人がいるかもしれないし、怖くて言えない。子供や孫などがいるから余計に言えない」と語り、それが匿名の理由になっている。

 いずれにしろ、日本人が海外で犯した罪は、後年になってその自国民の罪を贖うために松岡のような日本の一般人が調査活動をするという例が(中国関係に限らず)多いのが特徴であると筆者には思える。その他の国際的な、しかしマイナーな支援活動を含め、日本人は世界的にも信用度が高いが、逆に政治的には反省をしない国として世界的には信用が低いのが実情である。

中山門(堯化門南方仙鶴門における捕虜)

 同じ紫金山の攻防で、14日朝、郊外の堯化門(南京城の旧外郭門の跡地)付近の任務を持つ第十六師団第38連隊第10中隊が、紫金山北東方面(堯化門南方)の仙鶴門(同じく外郭門跡地)鎮で中国軍の大部隊と遭遇し戦闘の後、昼ごろになって、8千-1万人の白旗を掲げて投降してきて(注:中島師団長の日記では7−8千人、後の戦闘詳報の記録では7200人で内訳は将校70、下士官兵7130と詳細である)、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除させた。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていた(この「首都防衛決死隊」は、重機関銃、迫撃砲を中心に装備され、正規兵の外に大学生を含めた一般市民の志願兵もかなり加わっていた)。

 軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」(あるいは「支那兵の投降を受け入れるな、処置せよ」)との通達があり、自分の隊だけでは無理だとして拒否すると、「では歩兵4個中隊を増援するから中山門まで連れて来い」と命令され、歩兵20連隊の第9中隊が救援し午後武装解除して仮収容所に収容、その翌15日、7200人を歩兵20連隊の第3、第4中隊が下方の麒麟門付近に移送して再度収容、その後(16か17日)中山門まで連れて行った(佐々木支隊の独立攻城重砲兵第2大隊第1中隊・沢田正久中尉の証言と他数人の証言を混成、沢田氏自身が中山門近くまで同行したと記している)。

 この中山門に連れて行かれた7200人の捕虜たちがその後どうなったかはあれこれの説があり具体的に不明だが(ただ、門の城壁の外側の堀に多くの死体が倒れていたとか、内側にも死体があったとの証言もある。しかしこれはおそらく12日深夜から13日未明の攻防戦によるもので7千人の規模ではないだろう)、おそらく他の捕虜と同様下関に連れて行かれて「処分」されたのではないかとも思われる。この数の捕虜の(中山門からの)移送は大変だが、中島師団長の日記に「之が一旦騒擾せば始末に困るので部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ13日夕はトラックの大活動を要したり」とあり、実際に捕虜がトラックで次々と下関に運ばれてくる光景を見た証言も少なくなく、同様に後述する下関地区にトラックで運ばれた可能性は高い。

 ただ、沢田中尉はこの後「私が陸士を卒業する直前の1937年(昭和12年)6月、市ケ谷の大講堂で飯沼守生徒隊長(陸士本科生徒隊長で上海・南京戦では上海派遣軍参謀長として司令部にいた)から記念講演「捕虜の取扱について」を聞き、捕虜は丁寧に取り扱わねばならないと教えられた。その生徒隊長は、いま上海派遣軍の参謀長です。卒業後わずか5ケ月の今日「直ちに銃殺せよ」とは、一体誰が決定し、誰が命令を下したのか」と憤慨するように記しているから、殺戮されたのは間違いないであろう。(後述の「下関地区」の項で結果と思われる資料が出てき、17日に下関地区で虐殺されるとある)

漢中門=漢西門(第十六師団)

 漢中門は南京城東側の中山門に対して西の揚子江側にある。

 金丸吉生軍曹(第十六師団経理部)の手記:

 —— その頃(15日以降)のある日の夕刻揚子江岸道路を軍歌でも歌っているような大合唱が耳に入ったので何事かと止まって待っていると、四列縦隊の中国兵約一個大隊ほどが大声を発しながら(これは大声で泣き叫んでいる声でした)、その両側を10m置きぐらいに剣付きの三八式歩兵銃を持った日本兵が監視をしながら行進して来たので「何処へ行くのか」と聞いたところ「処分をしに行きます」との返事だった。 

 私は「そうか」と言ったものの何となく寒気を感じた。日本兵はこの捕虜たちを漢西門ちかくの水濠(クリーク)と城壁の間にある斜面になった土地へ連れていき、機関銃で処分し、石油をかけて焼却したことを後に知った。それを聞いてやっと判ったことは、私たちの居た製粉会社の倉庫の裏は揚子江で、その反対側には高い堤防がありそれは道路になっていて、その向こうが水濠で水面幅が約30mくらいあり、その向こうに2、30mのゆるい斜面の土地があって、その向こうに城壁があった。そこで数日間毎日夕方から夜になると盛んに銃声が聞こえ、その後で火が燃え上がり毎夜おそくまで青白い焔が燃え続けているのを見た。正確な数は判らないが、一夜に五、六百名として三千名から四千名くらいの処分があったものと想像された。これが私の見た中国兵処分の実態です。(南京戦史資料集Ⅰ)

 さらに後述する北山与と牧原信夫の27日の日記に、食料の徴発に漢中門を通って揚子江側に行こうとしたところ、門の外側に五、六百人の死体の山が折り重なっているのを見たと二人が同様に記している。

 日記以外に、病床にいる北山を直接取材した下里正樹は「漢中門の城壁のすぐ外が丘のように斜面になっていて、そのすぐ向こうに川(つまり城壁外側を流れる濠を兼ねた支流)があって、そこに小舟が行き来して、斜面に重なる死体を舟に積んでいた。揚子江に捨てに行くためです」と聞き出した(筆者注:死体を船に積む中国人がわざわざ「同胞」を揚子江に捨てに行ったとは考えられない。つまり同胞としては普通、死体を川などから引き上げ、埋葬する行動をとる。実際に揚子江や支流の岸辺に滞留している死体を黙々と引き上げて近くの穴に埋葬していた中国人住民の姿が海軍の将校に目撃されている。したがって捨てに行くとは日本軍に命令されてのことと思われる)。続いて「道の両側、丘の斜面 …… 全体を合わせて支隊の数は軽く千を超していたと思う。死体は青い服、黒い服をまとっていて、明らかに中国兵ではない、綿入れを着た住民とわかるものが多かった。年寄りや婦人、子供もいたし赤ちゃんの死体もあり、お母さんと一緒に死んでいた。…… 殺される、と感じて四方へ逃げようとするのを周囲から重機で掃射したんや。MG(機関銃隊)の兵が見ればすぐにわかる(注:北山は第三機関銃中隊所属)。道の両側は畑のようだったが、ずうっと向こうまで死体が重なっていた」と北山は下里に語った。

 15日の虐殺からするとすでに12日経過していたが、この頃には南京の慈善団体などによる死体の回収と埋葬が始まっていたはずであるが、あちこちにあるあまりにも多くの死体を一度にできるわけもなかったから、この門外の死体はまだ放置されていたのであろう。

(以上は『続・隠された連隊史』下里正樹:青木書店 1988年より。なお、北山与も牧原信夫も下里氏の熱意によって日記が表に出されたもので、それが『京都師団資料集』刊行につながっていく)

 以下、さらに被害者中国人の証言である。これによるとやはり捕虜に限って虐殺されたわけではないことがわかる。

 —— 「私の家は(南京城内の)鼓楼区三条巷にあった。ある日(15日ごろ)突然日本兵数人が車でやってきて、家の辺りから私も含めた青壮年3、40人が捕えられて車に乗せられ、漢中門の外の河付近に着いたところで降ろされ、そして河の真ん中まで引っ立てられた。冬だったから河の水は多くなかった。そこから両岸に日本兵が何十人も銃を水平に構えて立っているのが見え、私たちはその中に挟まれ、そこには少なくとも4、500人はいた。しばらくして笛の音が響いて、機関銃が一斉に唸り、世にも凄惨な虐殺が始まった。普通の平民の叫び声と唸り声と怒り罵しる声とがあたり一面に響き渡り、同胞は血の海の中に倒れた。私は倒れた人に倒されて幸いにも銃撃から免れたが、気が付いた時は身体中が同胞の血と泥に染まっていて、その同胞の屍の中から這い出し、辺りを見回して現場を離れた。そこから日本軍に見つからないようにビクビクしながら夕方やっと家に帰り着いたが、ヘトヘトになり、まるであの世にいるかのようだった」(揚正有:1992年:平成4年当時82歳)

 —— 「私たちの家は漢中門の近くの二道埂子で、12月15日の午後、日本軍が漢中門外で二千人くらいをいくつかの集団に分けて機関銃で虐殺し、撃ち殺されなかった者は銃剣で突き殺され、さらにガソリンで焼かれたのを見た」(仲兆貴:1992年:平成4年当時73歳)

 —— 「私は漢中門の近くの二道埂子に住んでいた。12月15日午後から日本兵が漢中門外で中国人を機関銃で掃射し、暗くなるまでずっと何千人も殺した。後でまたガソリンをかけて焼いたり、死んでない者は銃で撃ち殺したりした」(徐歩鳌:1992年:平成4年当時66歳)

 —— 「私たちは上海路(上海に通じる路)の難民区にいた。ある日日本軍が闖入してきて、従弟の夏洪才を捕まえ、自動車に括り付けた。この時捕まったのはトラック二台分の人たちで、日本軍は彼らを漢西門外に連行し、その壕に押し込んで機関銃で掃射した。夏洪才とは小さい時から南京に来て小さな車を引いて一緒に生活をしてきたのに、思い出すと今でもたまらない」(夏洪芝:1992年:平成4年当時80歳)

 —— 「1月6日の午後、漢中門を城外に通った時石城橋の東側に日本軍に虐殺された屍がうずたかく三つの山になっていて、ざっと三千体ほどあるのを見た。後に中国紅十字会が屍を片付けるのに小舟で二道埂子まで運び、そこに穴を掘って埋葬した」(梁玉山:1992年:平成4年当時82歳)

 このほか、同じく漢中門外に住む孫文慶(77歳)が12月末から1月にかけて漢中門一帯で日本軍がほしいままに虐殺していたと証言しているから、1日だけのことではないということがわかる。また彼は二人で歩いているときに日本兵に見つかり、二人とも競争で走らされ、その友は標的にされ撃ち殺されたという。また岳父が日本兵に撃ち殺されたこと、自分も危うく殺されかけたこと、さらには隣人の謝金如が日本兵に捕まり、花姑娘(若い娘)を探せと言われ、しかし見つからなかったのでその場で銃殺された話等、これと同様な話は各所にある。

(以上は『この事実を … 』より)

 なおこの漢中門の記念碑の碑文は後述参照。

和平門(第十六師団佐々木支隊)

 この門は太平門の北西にあり、あまり情報はないが、「南京では一番先に堕ちたのが和平門。その和平門から最初に入城したのは私らです!日の丸の旗を振って入りました。それを知らずに門の外から千人位の支那兵が軍旗を持って四列で入城してきました。これを捕まえて捕虜にしトラックに積んで下関まで連れて行って四列に並べて発砲し殺したんや」(第38連隊 岡崎茂:『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』(松岡環:社会評論社)という記述がある。この中国兵達の行動は不思議だが、上記太平門でも同じことが起こっていて、1300人がその門外で虐殺されている。中国軍守備隊のなかで情報の行き違いがあったのであろうか。ただ、佐々木支隊長の私記にある13日には「午後2時頃、概ね掃蕩を終えて背後を安全にし、部隊をまとめつつ前進して和平門に到る。その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す。激昂せる(日本)兵は上官の制止を聞かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と(上海からの)10日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも”皆やってしまえ”と言いたくなる」(『ある軍人の自伝』 佐々木到一)とあって、和平門における捕虜はとりあえずその場で一定の殺戮をし、その後「トラックに積んで下関まで連れて行って」殺戮したということだろうか。ただし筆者のその後の調べで、和平門外で中国赤十字社が遺体の収集と埋葬を行い、その数が5704体とあった。

玄武門/玄武湖(第十六師団第20連隊)

 先に取り上げた著述業の下里正樹は、1987年(昭和62年)3月、「平和のための京都の戦争展」で元兵士たちから提供された資料を見て、京都の丹後半島に赴き、元20連隊関係者の証言と新たな資料を得て、新聞掲載後、『隠された連隊史』(青木書店)を同年11月に上梓したが。既述の東史郎と同じ第十六師団第20連隊第4中隊(東は第3中隊)の増田六助も取材対象の一人であった。

  その増田の陣中日記で明らかになった虐殺現場である。

 —— 12月14日、外国租界(国際安全区)に入り、避難民中に混りている敗残兵を掃蕩す。第4中隊のみにても500人を下ざる、玄武門側にて銃殺せり。各隊にても又同じ処置という。

 そして以下は増田からの下里の聞き書きである。

 —— 南京でのことは、わしも思い出すまいとしとっても、忘れられん。おっそろしゅうて … 人様の前ではとても話なんかでけんことや。… いかに上官の命とはいえ、むごいことをしたもんだと … わしの罪を中国の人たちに懺悔する気持ちでいます」。そうして下里が見せられた手帳に冒頭の記述があった。

 —— 銃殺というか、あれは罪もない人間を引っくくって皆殺しに … とにかく重機二挺、軽機六梃でもって、数珠つなぎにして押し集めた500人余りに … 号令一下一斉射撃をして、50メートルも近かったやろうか、至近距離から撃ったら脳みそが飛び散るんです。頭半分ぐらいがパッと吹っ飛んでしまう。わしは(機関銃隊ではないので)離れたところで警備にあたっとった。… 脳みそや肉片が飛び散るのが見えた。… 撃たれたあと、まだ体の動いているのもいた。そんなものに構っとられんので、死体の上に土をかけて、… あとはどうなったか …。殺されたのは …半分以上は一般の市民やった」。

 —— 掃蕩には中隊200人のうち150人が参加した。難民区(国際安全区)に入り、大きな建物の中の区切りによって各小隊ごと掃蕩区分を決め、次々に若い男ばかりを別の部屋に連れ込み、敗残兵かどうかの識別作業に入った。(衣服はすでに平民の服に着替えているので)全部上半身裸にして …「こいつも生活の臭いがせん、兵隊や」と片っ端から選別したと増田は語る。さらに下里の質問に対して、「本物の中国兵は十人中、一人か二人やったかもしれん。……けど、若い男を見ると、こいつらは間接的には中国軍の使役に応じていただろう、広い意味の敵に間違いないと思い、片っぱしから『殺せ、殺せ』という感情が中隊全体にみなぎっていた。 …… 一見して病人、あるいは15歳以下とわかるものだけを残し、怪しいものイコール中国兵と認定する」。また両手を出させ、手が柔らかであることが「農民じゃない、兵隊だ」、手にタコがあれば「兵役訓練を受けた奴だ」、色白の顔は「百姓ではなく兵隊だ」、日焼けしていれば「軍人だ」となり、どのみち敗残兵とみなされた。(筆者注:これはどの掃蕩部隊でも同じような判断の基準がされていて、おそらく上層部から掃蕩対象の目安と伝達されていたようである)

 —— 500人余の敗残兵を連れ出し、大隊本部の西崎第一大隊長に伺いを立てると「適当に処置すべし」との指示があり、「敗残兵」たちを五、六縦隊に並ばせ、倒れた電柱から電線を回収し、それを外側の人間だけ太ももにくくりつけ数珠繋ぎにして、安全区から一番近い玄武門に連行した。玄武門の外側には玄武湖があり、そこで「処置」する予定であったが、玄武門はまだ防御のため高々と積み上げられた土嚢で通れず、やむをえず近くに土嚢のために掘り下げた窪地があった。そこに集めようとしたが逃げる者も出て、それを日本兵が銃剣で突き刺し、残りの中国人を追い詰めた。そして「撃て!」の号令が出て先述の光景となる。「作業はおよそ30分で完了した。まだ動いている体もあったので、何人かは土の下から生き返った者もいたんやないかと思う」と増田は語ったが、実際に多くの現場で数人は生き返って、虐殺を証言した中国人もいて、筆者も各所で取り上げている。

 ここには500人余の敗残兵とあるが、第4中隊長坂清が隊員に南京入城後の体験を書かせたものの中に増田の別の日誌があり、そこでは600人となっている。これとは別に第四中隊戦闘詳報には「午前10時より(前日に続く)城内第二次掃蕩区域の掃蕩を実施、敗残兵328名を銃殺し埋葬す」とあり、増田の中隊は午前中328名を縛り付け、この後別な建物に一杯の避難民がいることを知り、「その中から怪しそうな者千名ばかりを引き出し、さらにその中から兵隊に違いない者ばかりを選り出して300人位の奴等を縛った」ということで、合計600名以上を玄武門に連行し銃殺したということらしい。こうした経緯は下里のような取材側の客観的な追及がなければわからないことであったろう。

 東史郎は同じ連隊でも第3中隊であったが、第4中隊とは別に玄武門に200−250人ほど「敗残兵」を連行して銃殺したことを後に証言している。ただし、東は自身が戦時に書いた日記等を一時除隊した2年後から清書しつつ詳しく加筆しているが、なぜか12月15日から20日頃までのことが(後述する17日の南京城外東方の馬群、仙鶴門における7千人の捕虜の連行以外)詳しく書かれていず、玄武門の250人のことも実際には記述がない。その経過は後述するが、東は1994年(平成6年)、2度目の南京訪問の時に玄武門の左側約50mの近くまで行くと、突然城壁の根元を指差し、自分がここで虐殺に加わったことを告げ、中国国民に謝罪した。「国際安全区から約200人の中国人を逮捕し、ここまで連行し機関銃で全員殺し、遺体はここに積んだ」ということであった。さらに東は揚子江岸下関の中山埠頭でも虐殺に関わったことを証言した。東はこの中山・下関埠頭についても日記には書いていないが(中山埠頭での虐殺についてはこの後各所で触れる)、南京陥落後の12月14日から20日頃までは、いわゆる南京事件とされる多くの虐殺が集中していた時期で、東自身が思い起こすのも辛く、自身も虐殺に関係していたがとても書けないような状況の中にあったのではないかと推察させる。我々の立場からすると疑問が残るが、他の元兵士たちが簡単には証言しないのも無理はないこともうかがえる。

 ともあれ、玄武門については増田と東の証言を合わせると少なくとも600人が虐殺されたということであり、おそらく年を越える頃までには地元の慈善団体による遺体の収集と埋葬が行われていたようで、すでに骨は発見されず、その代わり(中国側の調査で)城門内側の壁の低い位置に弾痕が多数残されていたという。ただ現在は城門と城壁は作り直され残っていない。(この部分は中国の「揚子晩報」から新華網が抜き出したものを翻訳転載)

<玄武湖>

 海軍航空隊分隊長であったの奥宮正武の証言

 —— 玄武門内側付近を捜索したのち、玄武門外に出た。そこには広大な玄武湖があった。ところが、そこで、目もあてられないような惨状を目撃した。湖岸やそこに近い湖上に、数え切れないほどの数の中国人の死体が投棄されていたからであった。どうしてこのようなことになったか、と尋ねようとしたが、付近には人影がなかった。が、このことは、それまでの南京で異常な事態が発生したことを示唆していた(註:13日、一部の部隊がここで敗残兵を処刑したとの記録があるが、私の見たところではそれだけではないようであった)。

(『私の見た南京事件』 PHP研究所 1997年)

 玄武湖に関するはっきりした証言は今のところこれだけであるが、上記太平門は玄武湖の南西端に位置し、「太平門外の大きな外壕」とはそれを指すものと思われる。それ以外に13日の陥落時に玄武門の外で捕虜となった中国兵がここで殺され、玄武湖に投げ込まれたものと思われる。

麒麟門(南京城外東方の旧外郭門の跡地)

 上記玄武門で言及した東史郎の日記からである。

 —— 昨日(12月15日)の入城式(第十六師団のみのもので正式には17日に挙行された)には大野部隊として自分たちも参加したことになっていると言ってくれた。当たり前だ。…… 突然捕虜収容の命令が来た。捕虜は約二万人だという。軽装で出かけ、夜になり三、四里歩いたと思われる頃、(麒麟門で)無数の煙草の火が明滅し、蛙のような喧騒を聞いた。約七千人の捕虜が畑の中に武装解除されて座っている。枯枝に結びつけた二本の白旗を取り巻く七千人の捕虜は壮観な眺めである。あり合わせの白布を木枝に結びつけて降参してきた様子を想像するとおかしくもあり哀れである。…… これだけの兵力には相当な数の将校がいたに違いないが、一名残らずうまく逃げた者だと感心する。我々は白旗を先頭に四列縦隊に彼らを並べ、前進をさせた。…… 彼らの中には十二、三歳の少年さえ混じっている。休息になると彼らは再三、「私は殺されるのか」と尋ねた。私は顔を横に振ってこの哀れな羊達に安心を与えた。夜が深まった頃、下麒麟村のとある大きな建物に到着し、彼らを全部この中に入れた。彼らは入ることを躊躇していたが、仕方なく入っていった。戦友のある者は門を入っていく彼らから毛布や布団をむしり取ろうとし、取られまいとする捕虜と争っていた。捕虜の収容を終えた私達はコンクリートの床だけの焼け残った家に宿営することになった。

 翌朝(17日)私達は馬群鎮(麒麟門の西方南京寄り)の警備を命ぜられた。この馬群鎮の警備についている間に、昨日の捕虜達は(分隊ごとに)二、三百名あて割り当てられて殺されたという。何故この多数の捕虜が殺されたのか私達にはわからない。七千の命が一度に消されたということは信じられない事実である。…… 私達の生命は、戦争という巨大な箒にはき捨てられていく何でもないものなのだーと思うと、戦争に激しい憎悪を感じる。

 東とは別に、上海派遣団の野戦郵便局長、佐々木元勝の日記(「証言による南京戦史9」:雑誌「偕行」1984年12月号)からである。佐々木は12月15日に上海を出発し、一団でトラック3台に分乗し16日に南京城手前の麒麟門に着いた。

 —— 16日、(南京城外の東方)麒麟門から少し先の工路試験所の広場に苦力みたいな青服の群れがうずくまっている。武装解除された四千の兵である。道端にもうんといる。ぎょろっとした彼らの眼の何と凄かったことか。弾薬集積所であった馬群鎮では敗残兵二百名の掃蕩が行われた。 …… 麒麟門での敗残兵との一戦では、馬群の弾薬集積所で五名の(日本)兵が、武装解除した五百人を後手に縛り、昼の一時頃から一人ずつ銃剣で突刺した。…… 夕方頃、自分が通った時は二百人が既に埋められ、一本の墓標が立てられてあった。(部下の「吉川君が実見したもの」として)わが兵七名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を降り、意気地なくも弾薬集積所に護送されて来た。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まったく平然としていた。服装検査の時、髪が長いので「女ダ」ということになり、裸にして立たせ、皆が写真を撮った。中途で可愛相だというので、オーバーを着せてやった。殺す時は、全部背後から刺し、二度突刺して殺した。虜の中三人は水溜りに自から飛び込み、射殺された。

 東史郎の約七千人と佐々木の四千人との違いはあるが、実際に捕虜を連行した東の約七千人が正しいのであろうが、疑問なのはなぜ陥落から三日後に郊外に敗残兵が残っていて「一戦」の末、数千を超える捕虜を捕えたのかということである。16日は翌日の「入城式」のために主に城内の掃蕩作戦が行われていたが、おそらく麒麟門にも敗残兵がいるという情報があって、東の第20連隊が朝から向かったのであろう。

 ただこれに関連していると思われる日記がある。同じ第十六師団だが歩兵第9連隊(奈良県)第9中隊の小林太郎である。

 12月16日 — 敗残兵討伐に向かう。稜線で敵の白旗を持った降下兵に出会う。

 12月17日 — 帰途に紫金山麓を討伐す。地雷に他の隊の者7名かかり手足がばらばら、可哀想に。

 (注:麒麟門とは書いていないが、翌日の「帰途に紫金山麓を討伐す」で、地理的にみると麒麟門の帰途と推定できる)

(以上の項の多くは主に「証言による南京戦史」(偕行社)の1985年12月号からと、『南京戦史』(偕行社)および『京都師団資料集』(青木書店:1989)からの抽出である)

江東門(南京城外西方の旧外郭門の跡地)

 江東門は漢中門と水西門から西の揚子江に向かう途中にあり、今は道路名のみに残っているが、約800mから1kmの範囲を指す。1930年(昭和5年)、中国国民党は江東門に陸海軍の中央軍人監獄(刑務所)を建設していて、これが日本軍に利用され、虐殺を加速させた。

—— 「一度日本軍に野菜を担がされ、鳳凰西街から江東門まで行ったところで同胞の死骸をいっぱい見た。その中には国民党の兵隊も少し(!)いた。焼き殺された者もあり、あっちの道端やこっちの溜め池に折り重なったりで見るも悲惨なありさまだった。日本軍の南京占領から一ヶ月余りして避難していた鳳凰西街から私の家に戻ったら、一族の家が三軒とも日本軍に焼かれていた。しかも地下の穴に殺された7、8人の死骸があった」(陳永富:1992年:平成4年当時69歳)

 —— 「(南京陥落後、国民党軍だった私は)下関から長江を渡って逃げようとしたが船一つなく渡れず、南下して故郷の安徽に逃げる一団に加わり、三汊河から江東門まで来て、道には屍がいっぱい敷き詰められ、ある電柱には7、8人の死体かかっていて、それがみんな針金を鎖骨に通して繋げてあり、男女子供までいた。江東門の監獄の門まで来た時、一隊の日本兵に止められ、白旗を掲げて「投降した兵士だ」と言ったが、日本軍は有無を言わさず50人足らずの私たちを監獄の東側の野菜畑まで駆り立て、銃剣や軍刀で私たちに襲い掛かった。私は首を切られ意識を失ったが、気が付いた時には二、三人の死体の下になっていた。50人近くの中で、私だけが生き残った」(劉世海:1992年:平成4年当時73歳)

 —— 「(南京陥落の翌月、16歳の時)1月12日、夜明け前に仮住まいの家が日本兵に襲われ、兄が殺された。二日後、日本軍は家の近くの軍人監獄から国民党軍の捕虜を大茶亭までの2kmくらいのところに集めて、銃剣で刺すやら機銃掃射するなど一日中殺しまくり、ほんのわずかな人しか生き残らなかった。また、日本軍飛行機に爆撃されて壊されていた古い橋(江東橋)に、同胞の死体を積み重ね、その上に板を敷きそれを橋の代わりにしたのを見た」(劉修栄:1992年:平成4年当時63歳)

 この橋の話はいくつもある。

 —— 「石城街や鳳凰街一帯は道側の至る所が死体だらけで、回り道して江東門あたりに行ったら、やはり道の両側が死体でうず高くいくつもの小山になっていて、江東橋は爆破された後、日本軍が屍を敷き詰め、橋にして歩いているのを見た」(朱応泰:1992年:平成4年当時65歳)

 —— 「1月14日、近所の王明才が日本軍が来るのを見て豚二匹を隠した。まもなく日本軍に見つかり、王明才は銃殺され、豚も殺された。そこで私と寺の和尚が豚の皮を剥ぐように命じられ、和尚は大きな袖が邪魔で袖をまくって手間取っていた時に遅いと言って溜め池に蹴り込まれて殺された。そして自分一人で豚の皮を剥いだら、それを持って日本軍に江東門の監獄のところまで連れて行かれた。その時に一千人以上の難民が監獄から縛られて連れ出され、江東橋の端から鳳凰街あたりまでずっと並ばされているのを見た。何歩か毎に日本兵が一人ずつ刀や銃剣を手にし、将校が一声大きく叫ぶや否や、無垢の中国人同胞を一斉に滅多突きにし、血の海にした。やがてこの人たちはみんな河の中に引きずり込まれ、死体で積み上げた橋にされた」(邱栄貴:1992年:平成4年当時70歳)

 —— 「(鳳凰街から逃れて)閻王廟の方へ向かい江東門の陸軍監獄のあたりに差し掛かった時、たくさんの死体を見たが、爆破された江東門の橋では日本軍が屍を土台にしてその上に木の板を敷き詰めていた。数週間後、紅卍字会が死体の片付けをし、軍人監獄の向かいに長さ200m余り、幅1m、深さ1m半の塹壕と煉瓦造りの粗末な便所の中に死体をびっしり運び込んだ(注:中国の昔の便所は何人も入れる広い空間であり、他でも日本軍が虐殺した死体を次々と便所に投げ入れたという話が時々ある)。これが今日「万人杭」と言われているものの一つだ」(孫殿炎:1992年:平成4年当時58歳)

(以上は『この事実を … 』から)

 以下、これらとは別の証言である。

 —— 1937年(昭和12年)12月16日夕方、日本軍は旧国民政府軍監獄内に収容されていた武装解除された1万人以上の中国軍兵士と民間人(半数以上)を江東門付近に追い出した。突然、日本軍の一声の下で、道路の両側のわらぶきの家はすべてガソリンをかけられて燃え、川端の光の照明の下で機関銃が一斉にに掃射され、途端に悲鳴が上がり死体は江東門の川面を覆った。さらにこの死体を利用して戦車、軍用車、騎兵が江東河を渡ってきた。日本軍はこれを「中島橋」(中島師団長の名前から)と呼んだ。その後、南京赤十字会と紅卍字会で約1万5000体の遺体を収容し、「万人坑」と呼ばれる近くの二つの大土坑に埋葬した。

(「侵華日軍南京大虐殺史料」江蘇古籍出版社1985年)

*この16日という日は後述するように、17日の入城式に備えて14日から城内の大掃討作戦が実施され、元兵士(便衣隊)と疑われる男性たちが安全区を含めて城内から引き出され、しばしば触れる下関で大量の捕虜が虐殺されたという記録は日本側でも比較的多く残るが、そこから南方に位置するこの江東門については日本側の証言資料はあまりない。しかし中国側には欠かせない出来事として証言が多々あり、事後この地に大量の骨が出てきて、万人坑として残すとともに南京大虐殺記念館が設置されることになる。

水西門から上新河一帯(上河・新河鎮)

 上記江東門(南京城西の旧外郭門)の西側は揚子江右岸の上新河に通じていて、北の下関埠頭で逃げ場を失った兵士や避難民たちがこの上新河から揚子江を渡って逃げようと流れ来、あるいは漢中門や水西門をへて江東門地区からも人々が逃れた来た。しかしすでに(13日前夜以前からの逃走劇で)船は一艘もなく、ここでも多数の兵士と避難民の虐殺現場となった。

 —— 「私は郊外の沙洲圩に避難していた。水西門から上新河までの道5、6kmに、日本軍に殺害された人々がまさに死屍累々と野ざらしになっていた。紅卍字会の埋葬作業でこの道は2、30mおきくらいに一つずつ屍が丘のようにうず高くなっていたのを覚えている」(何玉峰:1992年:平成4年当時59歳)

 —— 「日本軍が南京を占領してから度々食べるものを探して郊外の私たちの家々にやってきて豚や鶏を見つけては持っていった。その時は自分たちで掘った洞窟に身を隠していた。ある日私が城内に行ったら、日本軍が手にタコのできている人たちを捕まえて(注:これは手にタコのある場合と頭に帽子の跡がある人間を隠れ兵士と日本軍はみなしたのだが、それは当然農民にもあると思われるが)トラック八、九台に乗せて漢中門の埠頭(注:上新河と思われる)まで連れて行き機銃掃射で殺した。午前九時、十時頃から午後の二時ごろまで銃声がずっと鳴り続いていた。後で仲間と走って見に行ったが、死体で埠頭が埋まっていたのを見た」(高秀琴:1992年:平成4年当時64歳)

(以上は『この事実を …』から)

  この上新河地区は日本側の記録では、13日早朝から第六師団の左翼隊約二万が南方から揚子江沿いに攻め上がり、一方で北側から南下し敗走してきた中国軍約1.5万人とこの地で激突、約1万を殲滅し、残り5千人以上を下関まで追い詰めそこで捕虜にしたとある。

 中国側の記録では、12月13日に日本軍が南京を占領すると、南京市民と武器を捨てた中国兵2万8千人余りが水西門外の上新河一帯に集まり、ここから揚子江を渡って脱出しようとしたがすでに船はなく、日本軍の捕虜となり、残忍にも殺害された。日本軍は機関銃を乱射したり、刀で斬り、縄で手足を縛って水中に投げ込んで溺死させたり、柴草をかぶせて灯油をかけて焼死させたとある。上新河地区在住の目撃者湖南木商の盛世征の証言 —— 「日本軍が江東門、鳳凰街、ラジオ局、上水道工場、新河口、曳板橋、菜市口、螺子橋、東岳廟などで南京難民を虐殺する情景を見た。日本軍は被捕虜軍人及び避難民、計2万8730人を殺害した。12月中旬のある日、日本軍は捕虜にした軍民の目を塞ぎ手足を縛り、川の中に突き落とし、ある者は柴草をかぶせて石炭を入れて焼死させ、婦女幼女は姦死者となった。そのほか、銃剣などの武器による死者が多かった。あたりは国民党軍および避難民の死体でいっぱいになり、血で染まった。地元の人たちはすでに逃げていたが、私たちは湖南の木商だから、財産の関係で立ち去らず、惨状を見て気の毒に思い、私たちが個人的に人を雇い、死体を集めて埋めた(「国民政府文書案」中国第二歴史檔案館蔵)。この中の2万9千人近くの数については裏付けとなるような記述が見当たらず、おそらく上記江東門(上新河につながる街路上にある)の1万5千人も含んでいるものと思われる。その数と、第六師団との戦闘による戦死者約1万人を合わせるとほぼその数になるが、いずれにしろ日本軍が「2万8730人を殺害し」そのまま遺体を自分たちで収容したとは考えられない。というのは下関地区でもそうだが、日本軍はまとめて虐殺するときは揚子江やその支流のそばで殺戮し、できるだけ川に落とす方法をとるからで、すべての死体が地上に残ることはないからである。

幕府山における大量虐殺と第十三師団山田支隊

 12月11日、南京城攻略軍とは別に、中国軍の退路を遮断するために上海派遣軍では第十三師団の山田栴二(せんじ)少将の部隊を編成し直してそれにあてることにした。編成された山田支隊は歩兵第65連隊と山砲兵第19連隊、騎兵第17大隊その他から成る歩兵第103旅団として鎮江市にいたが、12月12日午後、南京攻略を命じられ、翌未明に出発予定のところ、その日夕方に急遽鎮江を出発、夜行軍となった。倉頭鎮で仮眠し、13日朝、倉頭鎮を出発、南京北方の烏龍山砲台に向かい占拠、まずここで捕らえた「敗残兵を多数捕獲し、一部は銃殺する」。14日朝に幕府山砲台を占領した(戦略的に言えば南京攻略は包囲網作戦によって西側の揚子江を背にして第十三師団が北東方から、第九、第十六師団などが東から、第六師団が南東方から攻め上がった)。中国軍の城外の守備隊は、すでに南京城が陥落していたこともあってほとんど戦意はなく、簡単に投降してきた(「国際法」によって捕虜は殺されない決まり事を期待してのことかどうか、というより日本軍はさほど残虐なことはしないという初期の噂もあったという)。そしてこれら大量の捕虜を「処置に困って」、二日ほど何とか兵舎のような建物に収容して食わせた後に、幕府山麓の揚子江岸で虐殺することになる。これは南京城内に残っていた敗残兵の処分とは全く別に行われたことである。この幕府山近辺で捕えた中国兵捕虜は、本来上記の下関において第十六師団(師団長中島今朝吾)が引き受けることになっていたが(第十六師団は主に13日から15日にかけて捕虜5万人程度を殺戮したこともあってか、あるいは幕府山から下関までの移動距離が長いこともあってか)受け取りを拒否し、逆に山田支隊に全員殺害を命じたわけであった。

大量の投降捕虜に対する困惑

 以下、14日の捕虜獲得の様子である。

 まず山田支隊歩兵65連隊(両角業作部隊=会津若松隊)の本部通信班小行李の斎藤次郎輜重特務兵は次のように記す。

—— 「(前日11:00幕府山砲台を占領後)、五時出発。行軍約半里にして手榴弾位の爆音が前方30間の処で聞こえる。…… 第一大隊の捕虜にした残敵をみる。その数五、六百名はある。前進するに従い、我部隊に白旗を掲げて降伏するもの数知れず。午後5時頃まで集結を命ぜられたもの数千名の多数にのぼり、大分広い場所を黒山の様に化す。若い者は12才位より長年者は50の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思われる。山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば1万4千余名が我が軍に降った。機銃、小銃、拳銃、弾薬も沢山捕獲した。入隊以来本日の様に痛快に思ったことはない」。そして欄外に「1万4777名捕虜とす。旅団本部調査」とあり、収容するときに数えたと思われる。

 次に山田支隊歩兵65連隊第4中隊、宮本省吾の記述である。

—— 「南京近くの敵の残兵を掃蕩すべく出発す、攻撃せざるに敵はすべて戦意なく投降す。次々と一兵に血塗らずして武装を解除し何千に達す。夕方捕虜を引率し来り城外の兵舎に入る。無慮万以上に達す、直ちに警備につく。中隊にて八ヶ所の歩哨を立て軽快に任ず。捕虜中には空腹にて途中菜を食うものあり、中には二、三日食を取らず渇きを訴えるものあり、全く可哀想なるも戦争の上なればある程度断固たる処置を取らねばならぬ。夜半、また衛生隊が二百余の捕虜を引率し來る、巡警200余もあり隊長もあり相当訓練的に人員を調べる等、面白き事なり。少佐とか参謀とか言う者もあり、通訳より『日本軍は皆に対し危害を与えず、だだ逃ぐる事、暴れる様なれば直ちに射殺する』との事を通じ、支那捕虜全員に対し言逹せし為、一般に平穏であった。ただ水と食料の不足で全く閉口した」

(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』より)

山田支隊長と隊員たちの陣中日記から

 山田栴二支隊長の14日の日記でも大量の捕虜に困惑している。

 —— 「幕府山は先遣隊により午前8時占領するを得たり、近郊の文化住宅、村落等皆敵の為に焼かれたり(注:これは中国軍自身が日本軍との戦闘に備えて焼いたもの)。捕虜の仕末に困り、恰も発見せし上元門の学校に収容せし所、1万4777名を得たり。斯く多くては殺すも生かすも困ったものなり。上元門外の三軒家に宿す」

 これについて16日の東京朝日新聞号外では「両角部隊大武勲/敵兵一万五千余を捕虜」として報道している。

 —— 「両角部隊のため烏龍山、幕府山砲台付近の山地で捕虜にされた1万4777名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕らえた部隊の方がいささか呆れ気味で、こちらは比較にならぬほどの少数のため手が回りきらぬ始末、まず銃剣を棄てさせ付近の兵舎22棟(山田支隊長は上元門の学校としている)に押し込んだ。…… 〇〇部隊長が『皇軍はお前たちを殺さぬ』と優しい仁愛の言葉を投げると手を上げて拝む、…… 一番弱ったのは食事で、部隊でさえ現地で(いわゆる「徴発」で)求めているところへこれだけの人間に食わせるだけでも大変だ … 」とある。

 両角部隊は会津若松の大隊であるため、東京朝日福島版では、「おゝでかした両角部隊、捕虜一万五千とは何と凄い武勲だ / 県下に又々歓喜爆発」と報じられ、17日の新聞では「全県下ははち切れれんばかりの爆発的歓喜に包まれ、「でかしたでかした」と出征家族の門前には感謝感激の日の丸が躍り出で、町といわず村といわず、この日の丸の下で譬へようのない喜びの挨拶が交はされ、学校では早速教室で教材に取り上げられ、生徒児童の万歳の爆発となり …… [白旗を立てゝ降参するに至れり]とは痛快だ、思ひ切って一人残らず屠殺してやればよいのに、と老若男女一様に南京陥落の祝賀の興奮消えやりぬ胸を再び沸き立たせた」と報じられた。

 そして実際に、日本軍は日本の新聞上で期待されたように、この捕虜たちを数日内に「思ひ切って一人残らず屠殺」することになる。この時国内に生じていた雰囲気は、軍の宣伝とそれに乗じた当時の新聞等のマスメディアの煽りと、煽られた人々によって作られたものであるが、このように醸成された世間とは恐ろしいもので、これが全体主義の一つの様相である。このような世相が軍事展開との連鎖を呼び、その世間の応援を得た軍政府はさらに図に乗って太平洋戦争まで国民を巻き込んで行くことになる。

 ところがこの後で支隊各兵士たちの日記を列挙して示すように、16日から18日にかけて、このほとんどの中国兵が揚子江を背にして日本軍に半円形に囲まれ、機銃掃射によって順次殺戮された(この時、捨て身になった捕虜の集団が異様な雄叫びを上げながら、機関銃隊へ向って逆に殺到し、あっという間に押し潰されてしまったケースもあって、日本兵にも多少の死傷者が出ている)。この殺戮された中には心配して捕虜に同行していた家族(妻や子供)もいたという。その後、積み重なった屍体の中で動き出す生存者がいれば銃剣でとどめを刺した。その中でも稀に生き残って隙を狙って逃げ、城内の「難民区」の病院に駆け込んで、その虐殺の実態を証言した捕虜、あるいは民間人もいたのである(後述=「南京にとどまっていた欧米人の難民のための奮闘とその記録」参照)。

 さらに山田栴二支隊長の『陣中日記』の続きである。

 15日、「捕虜の仕末其他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す」。この「皆殺せ」と山田支隊に命令できるのは、師団長あるいは中支那方面軍ということである。

 傍証として、上海派遣軍参謀長飯沼守の15日の日記には、「山田支隊の捕虜東部上元門付近に一万五、六千人あり。なお増加の見込みと、依って取りあえず十六師団に接収せしむ」とある。

 ところが後述するように十六師団はこれを断り、全員を山田支隊で処分することになる。上元門は幕府山のふもとで、度々虐殺の場として出てくる下関の北方にあり、揚子江に接していてこの人数を虐殺することは(他の部隊と同様死体を揚子江に投げ捨てることで)難しくない。

  16日、「相田中佐を軍司令部に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合わせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり。砲台の兵器は別として小銃5千重機軽機其他多数を得たり」

 17日、「晴の入城式なり」とのみある。つまり山田は捕虜の処理は部下の隊長らに任せたまま城内から動いていない。

 18日、「捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸に之を視察す」

 19日、「捕虜仕末の為出発延期、午前総出にて努力せしむ。軍、師団より補給つき日本米を食す」。(注:「総出にて努力せしむ」というのは殺戮した捕虜たちの死体の処理のことで、下記にも見られるように、捕虜の「始末」が終わらず、出発が延期された)

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』の記録から

 先にその一部を紹介した『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(1996年、大月書店)をまとめた小野賢二は、化学会社の工場の勤め人で、きっかけがあってこの南京事件の究明のため私費で現地に通ったり、仕事の合間を縫って国内で生き残りの人たちから長年かけて約200に及ぶ証言を得、また20冊に及ぶ陣中日記を発掘して実態を解明した。これは小野の地元福島の第十三師団の山田支隊に属していた元将兵たちの証言となっている。先述の南京攻略までの行程の日記の続きが以下である。分隊等の役割により記録が一様でない部分もあるが、山田支隊としての捕虜虐殺は、具体的には16日の午後から始まり、ほぼ17日いっぱいに終え、18、19日はその遺体処理に追われていることが読み取れる。またそれまで捕虜は二万以上に増え、その食料をなんとか調達して与えていたこともわかるが、その限界を超えた結果ということである。

*黒須忠信

12月13日 — 朝、某所を出発、揚子江付近を通過する際、我が海軍の軍艦が悠々と進航しているのがよく見えた。敵の敗残兵は諸所に殺されていた。
12月14日 — 未明に出発して前線に進む、敵弾は前進するに従って頭上をかすめて来る。敵の真ん中を打ち破りぐんぐん前進する途中、65連隊にて1800名以上捕虜にし、その他沢山の正規兵で合計5000人の敗残兵を十三師団にて捕虜にした。全部武装解除をして見事なものである。我が大隊は幕府山砲台を占領して東外村に宿営す。…… 捕虜兵は両手を縛られてある広場に集められていた。
12月15日 — (休養日)
12月16日 — 午後一時、我が段列より二十名が残兵掃蕩の目的で幕府山方面に向かう、二、三日前捕虜にした支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸(上元門=草鞋峡付近)に連れ出し、機関銃を以って射殺す。その後(機関銃で死んでいない捕虜を)銃剣にて思う存分に突刺す、自分もこの時ばかりと憎き支那兵を三十人も突刺したことであろう。山となっている死人の上を上がって突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気が出て力一杯に突刺したり。うーんと呻く支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる、一人残らず殺す。刀を借りて首をも切ってみた。こんなことは今までにない珍しい出来事であった。帰りし時は午後八時となり、腕は相当疲れていた。
12月17日 — 本日意義ある南京入城式が挙行され、自分もその一人として参列する光栄を得た。朝香宮殿下の閲兵が行われ後に市街見物もできて実に嬉しかった。
12月19日 — 故郷へ南京入城の音信を出した。故郷では今頃我らはどうかと案じている事だろう。— (注:自分たちが殺害した多くの捕虜の家族を思いやる心は微塵もないことがわかる。とにかく戦場では「敵」を倒した満足感しかないことが多くの一般兵士の心境であるが、もちろん心を痛めた兵士もいた)
12月24日 — (12月20日南京を出発し進軍、安徽省滁州市烏衣街にて)全員必要物品の徴発を行う。山砲十九連隊では現在までの戦死者36名、負傷者1919名、馬の戦病死146頭である。
12月28日 — 毎日糧食の徴発をしなければ食うことが出来ない。

*堀越文雄

  12月13日 — 棲霞山に於て電話架設の予定なるも南京戦線有利に進展、すでに三ヶ師団侵入、敵を掃蕩中なり。

  12月14日 — 未明、油座君支那の工兵大尉を一人捕える。年、25才なりと。八時半出発、その工兵大尉に車をひかせて南京に向かう。第一大隊は一万四千余人の捕虜を道上に監視しあり。午後、敗残兵一人を射殺。一丘を越えて南京城壁を間近に見る。城壁手前にて工兵大尉を切る。沈着従容たり。

  12月15日 — 十時頃より××伍長と二人して徴発に出かける、何もなし。唐詩三百首、一冊を得てかえる。揚子江岸に捕虜の銃殺を見る。三、四十名ずつ一度に行う。(注:これは第十六師団の一部隊の実行と思われる)

  12月17日 — 南京城へ向う。松井大将、朝香宮の閲兵あり。午後二時過ぎ、国民政府楼上に国旗掲揚式をみる。故国(注:異国か)の空に万歳三唱あり、まさに劇的一シーンなり。

  12月18日 — 下関へ線路の偵察に向かう。

  12月20日 — 支那の(電)線を徴発、十巻余なり。下関より(揚子江)対岸の浦口に渡る。

  12月22日 — (話では)十三師団は二月中旬頃凱旋の予定なりと(注:しかし戦線は拡大していき兵士たちの夢は実現しなかった)。土民、日の丸を立てて我等を迎える。

  12月25日 — 大三中隊の兵、徴発にゆき土民に撲殺されたりと。(注:こうした例は時々あり、それによって日本軍はその村を殲滅する場合が多々あった)

*遠藤高明

 12月13日 — 烏龍山砲台攻撃に向う。途中棲霞山麓に於て盛んに銃声を聞く、敗残兵多数ありと。… 南京陥落の報に接す。

 12月14日 — 未明に幕府山攻撃に向う。… 正午幕府山麓着、敵は戦意なく敗残兵450名及び兵器多数獲得、夕刻よりさらに400余の捕虜を得。

 12月15日 — 午前九時、幕府山東側江岸に敗残兵掃蕩に赴き、306名捕虜とし、尚一万近き敵兵ありとの情報を得たるも途中より引き返す。

 12月16日 — 午後十二時半、捕虜収容所火災のため出動す、三時に帰還す。朝日新聞記者横田氏に逢い、一般情勢を聞く。捕虜総数1万7025名(二日で数千名増えている)。夕刻より軍命令により捕虜の三分の一(約5千人)を江岸に引き出し、第一大隊において射殺す。一日二合あて給養するに(捕虜のためには)百俵を要し、(我々)兵自身が徴発により給養している今日、到底不可能時にして軍より適当に(捕虜を)処分すべしとの命令ありたる。

 12月17日 — 幕府山頂警備のため、(小隊から)9名差し出す。(松井司令官の閲兵を受けたが正式な入城式には参加せず)。夜、捕虜残余1万余処刑の為、(小隊より)5名差し出す。

 12月18日 — 午前一時、処刑不完全の為生存捕虜あり、整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く。寒風吹き募り三時頃より吹雪となり骨まで凍え夜明けの待ち遠しさ言語に絶す。八時三十分完了。… 正午第四次補充員九名(が自分の小隊に)編入さる(山田支隊全体で430名)。午後二時より七時三十分まで処刑場死体一万有余取片付けの為、兵25名(新入りの補充兵を含めて)出動せしむ。

 12月19日 — 前日に引き続き死体取片付けの為、午前八時より兵15名差し出す。

 12月20日 — (揚子江対岸の浦口に渡る)— 浦口の街大半焼失し住民全くなし。

*目黒福治

 12月13日 — 午前四時出発、南京幕府山砲台攻撃のため前進す。途中、敵捕虜各所に集結、その数約一万三千とのこと、12、3歳の子供より、50才位までの雑兵にて中に婦人二名あり、残兵なお続々と投降す、各隊にて捕らえたる総数約十万とのこと。(注:この日付は14日と思われる)

 12月14日 — 首都南京も落つ。休養、午前中南京市内見物と軍馬の徴発に行く。城内の膨大なるに一驚す。

 12月16日 — 休養、市内に徴発に行く、至る処支那兵日本兵の徴発せる跡のみ。午後4時、山田部隊(支隊)にて捕えたる敵兵約7千人を銃殺す、揚子江岸壁も一時死人の山となる、実に惨たる様なりき。

 12月17日 — 城外の宿営地出発、軍司令官の南京入城式、歴史的盛儀に参列す。午後5時敵兵約1万3千人を銃殺の使役に行く。二日間にて山田部隊2万人近く銃殺す、(その他)各部隊の捕虜は全部銃殺するものの如し。

 12月18日 — 朝起床して見ると各山々は白く雪を抱き初雪となる。南京城内外に集結せる部隊数約10ケ師団との事なり。午後5時残敵1万3千程銃殺す(注:前日との重複か)。

 12月19日 — 昨日銃殺せる敵死体1万数千名を揚子江に捨てる、午後1時まで。午後、(明日の)出発準備。

(注:この十三師団山田支隊の連隊が関わった掃蕩作戦だけで三万三千人銃殺したということになるが、占領初日の13日の時点で各部隊による捕虜の総数が10万とあるのは注目すべきである ー 他の日記にもこの10万という数字は出てくる。これは別記する下関地区の第十六師団とは別と見るべきであるが、そもそも南京防衛軍が約10万とされている中でこの10万という数は大きい)

*荒海清衛(同じ65連隊で第一大隊、『南京戦史資料集II』より)

 12月13日 — 10時敵と対し、行動開始。砲台(注:おそらく烏龍山砲台)付近にて宿営。

 12月14日 — 朝4時出発、30分ほどにて捕虜千名、10時頃二千名あり。計一万五千名位。

 12月15日 — 今日一日捕虜多く来たり、いそがしい。

 12月16日 — 今日南京城に物資徴発に行く。捕虜の厩舎失火す。二千五百名殺す。

 12月17日 — 今日は南京入城式なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で。大隊で負傷、戦死あり。

 (荒海の隊はこの後20日に南京を出発)

その他の山田支隊兵士たちの日付順に編集した記録

さらに以下は『皇軍兵士たち』と『南京戦史資料集Ⅱ』(偕行社)から山田支隊の他の兵士の記録を日付順に編集したものである。

12月13日:「夕刻南京東方四里(約16km)の一寒村に宿営。夜大隊の二名が敗残兵一名を捕虜にして来る。一将校が軍刀で切味を試さんとしたが少しの隙をみて逃げ出したので自分とXX君とで追い、銃剣をもって肩先に一剣をあびせるとその場に昏倒する。そこに先の将校が来て脳天を真っ二つに割る、…… 敵兵も26、7才か、妻子を残して我らと同じく生命を賭しているのかと思えば敵兵を倒す痛快な反面、悲哀の情が湧いてめい福せよと頭を下げる」(斎藤次郎)

 同日、「途中数十名の敗残兵を射殺し十時頃銃砲声の中に入りたるの感あり。午後三時頃烏龍山砲台を占領」(中野政夫)

 同日、「我中隊は〇〇山城にて警戒中敵兵を捕虜とし、小隊長、長刀にて殺す。手帳はその兵の持物なり」(新妻富雄)

 同日、「午前八時半出発、鉄路に沿い行軍す。棲霞山近く山中一村に宿営、夜、敵将校、斥候三名捕える」(菅野嘉雄)

 同日、「南京攻撃もあと五、六里に接近した。敵兵近きとのこと(注:この時はまだ、山田支隊には南京陥落の報が伝わっていないことがわかる)」(近藤栄四郎)

12月14日:「明け方になると前衛の第三大隊が支那兵を捕虜にしていた。いるわいるわ、全部集めて一部落に収容したが、その数およそ一万七、八千と数える」(柳沼和也)

 同日、「午前五時出発、途中降参兵沢山あり、中隊でも500名、連隊では二万人余も捕虜した」(本間正勝)

 同日、「五時出発、南京城街外約6km幕府山麓付近にて敗残兵捕虜する事約一万七千、第三大隊収容隊となる」(杉内俊雄)

 同日、「夜明け頃より敵兵続々と捕虜とす。幕府山要塞を占領し、午後二時戦闘を中止す。廠舎に捕虜を収容、その数一万五千」(菅野嘉雄)

 同日、「南京中間虎子台砲台攻撃。… 夜明間も無(数)敵兵白旗を翻し約一万六千人武装解除、砲台は戦死者45名負傷者78名にして占領」(新妻富雄)

 同日、「前進して午前八時頃降伏兵の一団に会い敗残者の悲哀、さらに数団、全部にて三千に達せん。揚子江を船で逃げる兵を小銃軽機にて射撃するのも面白し(注:おとなしく捕虜になったものとは別に、幕府山のふもとは揚子江に接していて逃げるものがあり、それを銃撃したということである)。南京を目の前に南京城を見て降伏兵の一団を馬上より見下ろすのも気持ちが悪くない」(近藤栄四郎)

 同日、「敗残兵掃蕩のため中隊長准尉一小隊の分隊と我四分隊とで砲台に行く。幾名とも知れず射殺す」(中野政夫)

 同日、「朝四時出発。二時間行軍して夜が明ける。朝十時、残兵五百余と交戦し、二百余を武装解除。警戒しながら戦闘をし、途中で揚子江岸を一里余、四隻の軍艦が江を上流へ進んで居る。盛んに揚子江岸の残兵に射撃して居り、大砲も射つ。夕方、南京城外の支那軍宿舎にて、連隊本部に解除した残兵を引渡す。両角部隊にて約二万五千余名の敗残兵。これをどうするのやら、自分たちの食糧もないのにと思った」(佐藤一郎:歩兵第65連隊、『南京の氷雨』の転載)

 同日、(補充兵として11月末に上陸したが、早々に足に怪我を負い、兵站病院で過ごしていた兵士の記録)「今日は待ちに待った陥落祝賀式が行われた。宮城遥拝、国家合唱、伊佐部隊長の祝辞後余興が行われた。余興は各人の芸、看護婦たちの鮮やかな芸に一日を愉快に意義深く味わうことができた。下給品が色々あり紅白餅も戴いた。皇軍万歳」(大内利巳:第9中隊)

12月15日:「夕方より(捕虜に)一部食事をやる。兵へも食料配給出来ざる様にて、捕虜兵の給食は容易なものでない」(宮本省吾)

 同日、「十六師団が敗残兵を殺すのを見たが残酷だったと聞く」(柳沼和也)

 同日、「今日も引き続き捕虜あり。総計約二万となる」(菅野嘉雄)

 同日、「敵の捕虜兵二万五、六千名、我が連隊のみで収容したと言うことだ」(新妻富雄)

 同日、「今日は歩兵は残敵掃蕩するのに朝九時頃出発して要塞地帯一帯に行く、自分等三名は馬糧を徴発してくる。今日も残敵五、六百名を捕虜にしたとか」(斎藤次郎)

 同日、「中隊主力(×小隊欠)残敵掃蕩の為出動、小隊軍旗護衛の為待機」(杉内俊雄)

12月16日:「夕方、二万の捕虜が火災を起こし、…… ついに二万のうち三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し、そして全部処分し終わる。生き残りを銃剣にて刺殺する。断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし」(近藤栄四郎 — 注:七千人は上記遠藤と目黒の日記と一致する)

 同日、「午後三時、大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す。戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である」(宮本省吾)

 同日、「正午頃兵舎に火災あり。夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引き出し銃殺に付す」(菅野嘉雄)

 同日、「朝七時半、宿舎前整列。中隊全員にて昨日同様に残兵を捕へるため行く事二里半、残兵なく帰る。昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想いにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事。直ちに残兵に備えて監視。あんなに二万人も居るので、警備も骨が折れる。警備の番が来るかと心配する。夕食後、急に整列と言うので、また行軍かと思って居ると、残兵の居る兵舎まで行く。残兵を警戒しつつ揚子江岸、幕府山下にある海軍省前まで行くと、重軽機の乱射となる。考えて見れば、妻子もあり可哀想でもあるが、苦しめられた敵と思へば、にくくもある。銃撃してより一人一人を揚子江の中に入れる。あの美しい大江も、真っ赤な血になって、ものすごい。これも戦争か。午後十一時半、月夜の道を宿舎に帰る」(佐藤一郎:南京城外北部上元門にて、故郷を思ひつつ書く)

12月17日:「本日は一部は南京入城式に参加、大部は捕虜の処分に任ず。…… 夕方ようやく帰り、直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す。二万以上のこととて、ついに大失態にあい(注:捕虜たちに逆襲されたこと)、友軍にも多数死傷者を出してしまった」(宮本省吾)

 同日、「夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く。兵を半円形にして機関銃や軽機で射ったと。そのことについては、あまり書けない。一団7千余人、揚子江に露と消ゆるようなことを語っていた」(柳沼和也)

 同日、「中隊の半分は入城式、半分は銃殺に行く、今日一万五千名、午後11時までかかる」(本間正勝)

 同日、この日部隊を追って南京に着き、午後からの入城式に参列、「その夜は敵の捕虜2万人ばかり揚子江岸にて銃殺した」(伊藤喜八)

 同日、(城内警備において)「毎日敗残兵の銃殺、幾名とも知れず」(中野政夫)

 同日、「未曾有の盛儀南京入城式に参加、一時半式開始。朝香宮殿下、松井軍司令官閣下の閲兵あり。捕虜残部一万数千を銃殺に附す」(菅野嘉雄)

 同日、「七時半に整列、中隊は一ヶ小隊に編成して出発、行程一里半余、今日は南京入城式の日だ。途中にて野戦局があったので、周家宅以後二ヶ月振りにて、実家に無事入城を知らせる。午後四時に中山門を通って無事宿舎にて散解する。夕食の準備をして居ると、また残兵の連行だと言う。幕府山下まで行き、昨夜同様の事が起こる。午後十二時に宿舎へ帰る。四人で入城式の事を語り、戦争が無事終わった事を喜ぶ」(佐藤一郎)

 同日、「南京の捕虜約10万、第九、十一、十三師団。65連隊の捕虜一万二千」(65連隊に合流したばかりの第四次補充兵の大寺隆の日記の余白)

12月18日:「午後敵死体の片付けをなす、暗くなるも終わらず。明日またなす事にして引上ぐ、風寒し」(宮本省吾)

 同日、「午後銃殺現場を見学した。実にひどい惨状でした」(伊藤喜八)

 同日、 「十二時に第四次22名が第十一中隊に入る。南京を見学に行こうと思うが行かれなかった。午後には連隊の捕虜二万五千近くの殺したものを片付けた」(大寺と同じ補充兵の高橋光夫)

 同日、「第七中隊に入れてもらう。午後は皆捕虜片付けに行ったが自分は指揮班のため行かず。昨夜まで殺した捕虜は約二万、揚子江岸二ヶ所に山の様に重なっているそうだ。七時だがまだ片付け隊は帰って来ない」(大寺隆)

 同日、「朝より小雪が降った、銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し」(菅野嘉雄)

 同日、「朝飯を食してより南京見物に行く。午前十時勤務交代上番する。中隊では死体片づけに全員行っている。夕飯の準備をしているうちに戦友が真っ黒な顔をして帰ってくる。聞いてみれば、煙にて染まったとか(注:つまり捕虜を焼却処分したため)」(佐藤一郎)

 同日、「午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する。途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く。揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する。捕虜銃殺に行った十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され、断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる。午前三時帰営、就寝。朝食用意をして三君等と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する。南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ。敵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある」(斎藤次郎)

12月19日:「昨日に引続き早朝より死体の処分に従事す。午後四時までかかる。夕方また捕虜の衣類の始末につき火災おこる」(宮本省吾)

 同日、「第三小隊は一昨日の支那兵を取り片付けるに行ったが、自分は足が痛いので残る。皆これを片付けるに面白いとのことであったと」(柳沼和也)

 同日、「(昨日に続き)本日も敵兵の片付けに行く。自分は行かなかった」(菅野嘉雄)

 同日、「本日も中隊の位置にて分隊に入る。第一小隊、第二分隊、午前は死体を片付けるために前日の地に行く。本日また16人程の敗残兵を殺した」(高橋光夫)

 同日、 「午前七時半、清掃作業(捕虜の死体の処理)に行く。揚子江岸の現場では折り重なる幾百の死骸に驚く。石油をかけて焼いたため、悪臭はなはだし。今日の使役兵は師団全部、午後二時までかかり作業を終える。(片付けの現場で)松川の菊池さんに会う」(大寺隆)

【捕虜の哀願】

 ちなみに第65連隊の一人、小隊長天野三郎(注:何でもやれと言った天野中隊長とは別人)が17日に、捕虜となった中国軍の代表から中国語の書面が届けられ、それを自分の日本宛の手紙に転記していたものが以下の内容である。

—— 「我々は軍を離れて大日本軍隊に武器を渡し投降してよろしくお取り計らいくださるようにお願いしました。しかし …… 数万人の哀れなものたちは4日以上もひもじい思いをしています。重湯は少しも腹の足しになりません。我々はまもなく餓死してしまうでしょう。 …… 我々は大日本が数万人の命を救ってくださるようお願いいたします。(その場合)我々は大日本のために水火をも辞さず恩に報いる所存です。どうか我々が生きてゆけるように食べ物を下さるよう切にお願いいたします。大日本万歳。/謹呈 第日本長官殿/投降者代表 釜核 拝

 追記として —— 「我々が安心して服従し解散し、故郷に帰り安らかに暮らし、楽しく仕事に励むことができるようにしてください。ご恩は忘れません。大日本の前途に勝利があることを高らかに叫びます」

 しかしこの後の手紙にはこの懇願に対してどのように処置したか、何も書かれていない。

(注:この翌年の徐州作戦当時の記録には、銃殺後にまだ息の残っている「一見将校とみえる捕虜は、『日本軍は宣伝文で投降者は殺さないといいながら殺すのか』と問いかけ、恨み、怒りに燃える目でみすえた」とある)

栗原利一伍長の証言とその裏付け

 なお、早い時期から比較的多く引用されている第十三師団第65連隊の栗原利一伍長の証言がある。

—— 「(17日)、二時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も二、三隻見えた(注:栗原のスケッチには中国兵が揚子江を背にして日本軍に半円形に包囲され、機銃掃射されようとする様子がある)。うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があがり、すぐ機関銃の射撃が始まった。銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。その後、火をつけて熱さで動き出す生存者を銃剣でとどめをさし、朝三時ころまでの作業にクタクタに疲れて隊に帰った。死体は翌日他の隊の兵も加わり、楊柳の枝で引きずって全部川に流した」。

 栗原によるとこの背景として、この日の朝、まず中国人捕虜たちに対し、揚子江の広大な中洲である八卦洲という小島(幕府山北側)に移送すると伝えた。そうして捕虜の両手を背後に縛り付ける作業に取り掛かり、この仕事だけで午前中と午後の大半の時間を費やした。そうして夕刻から捕虜を四隊に分け、西に向かって行進させ、揚子江岸まで連れて行った。しかし暗くなってきた中で川を渡る船も見当たらず、捕虜たちは川を背に包囲されて機関銃が向けられていることに気がついた。殺されると知った捕虜の一部が反乱、日本軍の銃撃隊の中に突っ込み、銃を奪って反撃、それに対して一斉射撃により捕虜たちを殲滅した。

 ちなみに既述した小野賢二の『皇軍兵士たち』の記録の多くは栗原と同じ第65連隊であり、そこから栗原証言の裏付けとなる12月17日の記録を再度簡単に並べてみる。

  • 「夜、捕虜残余1万余処刑の為、(小隊より)5名差し出す」(遠藤高明)
  • 「午後5時敵兵約1万3千人を銃殺の使役に行く。二日間にて山田部隊は2万人近く銃殺す、(その他)各部隊の捕虜は全部銃殺するものの如し」(目黒福治)
  • 「(入城式から)夕方ようやく帰り、直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す。二万以上のこととて、ついに大失態にあい、友軍にも多数死傷者を出してしまった」(宮本省吾)
  • 「夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く。兵を半円形にして機関銃や軽機で射ったと。そのことについては、あまり書けない。一団7千余人、揚子江に露と消ゆるようなことを語っていた」(柳沼和也)。(注:ここに「兵を半円形にして」という同じ表現がある)
  • 「午後からの入城式に参列、「その夜は敵の捕虜2万人ばかり揚子江岸にて銃殺した」(伊藤喜八)
  • 「(南京入城式に参加後)捕虜残部一万数千を銃殺に附す」(菅野嘉雄)
  • 「中隊の半分は入城式、半分は銃殺に行く、今日一万五千名、午後11時までかかる」(本間正勝)
  • 「夕食の準備をして居ると、また残兵の連行だと言う。幕府山下まで行き、昨夜同様の事が起こる。午後十二時に宿舎へ帰る」(佐藤一郎)
  • 「南京の捕虜約10万、第九、十一、十三師団。65連隊の捕虜一万二千」(大寺隆)
  • 「俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名、今日は山で」(荒海清衛)

 こうして寄せ集めれば17日に一万五千名前後、16、17日二日間で最低二万人以上というのは間違いないであろう。その人数を翌日にまたいで殺戮したということである。これらはすべて幕府山付近のことである。この翌日からは死体の片付けとなるが、既述のように「連隊の捕虜二万五千近くの殺したものを片付ける」が揚子江には死体が積み重なってなかなか流れず、これにより18、19日の二日間で終わらず20日までかかり、そのため山田支隊の20日から他所への転進予定が遅れた。

【証言者に対する非難中傷】

 栗原利一は1984年(昭和59年)8月5日の毎日新聞社会面にインタビュー記事を発表し、南京虐殺の現場のスケッチ二枚と実名と住所を堂々と公表した。また翌月、朝日ジャーナルにも二週連続でインタビュー記事が掲載された。すると「なかった派」の誹謗中傷に散々さらされ、しかもその連中は自分の名を名乗らないのである。これは現今のネット上の無責任な投稿と同質であるが、まだこの時代の証言者は少なく(証言すれば自分の恥よりも戦友や上官を巻き込むことになるという理由もある)、実際に証言した東史郎などとともに長く針のむしろに居続けることになった。彼らを援護する証言が多く出始めるのはそこから10年ほどかかる。つまり日中両側での体験者たちが80歳前後となり、日本側では「(戦友たちや上官の多くが死亡し、自分もいつ死ぬかわからないし)そろそろ語ってもいいのではないか」と思い始めた頃、中国側では思い出すのも辛い体験で、それでも同様に語るべきとして少しずつ心を開いてきたからである。

 戦争が終わってみれば、「何のために」ここまでしなければならなかったのか、そもそも何のために「国」(軍政府)はこの戦争を始めたのか、これが「皇軍」の行う「聖戦」なのか、終戦後、日本に帰還できた兵士たちには持って行き場のない空虚感と罪悪感だけが残り、しかもそうした思いを仲間や家族への配慮もあって長い間胸の奥に閉まっておくしかなく、戦後の経済復興時に仕事に没頭することにより、忘れようとしたのではあるまいか。またそのことと、虚しく戦死した戦友たちの為にもという思いがある面で戦後復興の原動力になったのではないか。そして時が来て小野賢二や松岡環のような無私で熱心な人たちに導かれて語るようになったのである。そうした証言を集めた本の多くは仮名であると非難する連中がいるが、仮名でなければその連中自身が栗原や東に対するように個人攻撃をするわけで、家族にも迷惑がかかることを恐れてのことであって、何をか言わんやである。

 なお現在、栗原利一の資料集はご子息によってネット上にアップされ、閲覧できる。

虐殺と屍体の処理について

 膨大な遺体の処理は、18日から19日にかけ、一部は石油をかけて焼かれ、残りは楊柳の枝の股に引っ掛けて長江(揚子江)や近くのクリーク(運河のような掘割や支流)まで引きずって運ばれ、投げ捨てられた。この「片付け」作業には虐殺に関わっていなかった上記大寺隆のような新米の若い兵士たち(途中で派兵された補充兵である)も積極的に使われた。クリークの「屍体は一たんは水底に沈むが腐敗がすすむにつれてガスがたまり、浮き上がって来る。その屍体で水面が覆われ、見えなくなる程だった」というが、これはまさに後の東京大空襲による大火で隅田川に逃れて息絶えて浮かんだ人々の光景と同じである。ただ、下関から幕府山にかけての遺体は全部そのように処理されたわけではなく、低地を掘って投げ込まれ埋められることもあった。残された骨はのちに南京の住民たちに発掘され、今は下関を含めた南京の各地に虐殺の記念碑が20ヶ所以上建てられている。現今の日本人旅行者はくれぐれもその心構えを持って南京および中国各地(日本軍が攻め込んだ多くの場所も)注意深く歩かなければならない。

 他にも65連隊がこの二日間の死体処理を行った証言として、『南京大虐殺の研究』(洞富雄他、晩聲社 1992年)から引用する。なおこの出版の時期は、まだ本人の名前を表に出すと非難中傷によって本人ばかりでなく家族に迷惑がかかるとされ、隠されているが、これらの中にはその後出版された上記の『皇軍兵士たち』に重なり、その中では名前が出ている人もいる。下記の引用はそれ以外の人からである。

—— 「捕虜がどこから連行されてきたかは知らないが、一回目の連行が五千人位で三日間続いた。……二日目からは軍服を濡らして持って行き(銃身が熱くなるから)冷却しながら撃った。揚子江岸に船などはなかった。死体はその日のうちに揚子江に流し、一日目には流れたが、二日目、三日目には死体が溜まって流れなくなった」(第三機関銃中隊で西白河郡のH氏)

—— 「南京付近で捕虜はかたまって無抵抗で投降してきた。相当年配の捕虜もおり、14、5歳の若者もいた。捕虜収容所は幕府山の南側にあり、山の下に“もろ”があり捕虜はそこに全部収容した。何日か後に捕虜には『対岸に送る』と説明し、夕方五人ずつ数珠つなぎにして二日間にわたって同じ場所に連行した。収容所から虐殺現場までは2−3kmで、一日目の連行数は4、500人だった。虐殺現場は二階建ての中国海軍兵舎、10mくらいの桟橋があったが、桟橋に船などなかった。重機関銃は兵舎の窓を切り、銃口を出した。笛の合図一つで銃撃を開始し、10分間くらい続いた。重機関銃は三、四丁あり、それに軽機関銃、小銃も加わった。この時我々歩兵は捕虜を取り囲んでいた。死体処理は一日目はその夜のうちに揚子江に流し、二日目は次の日に片付けた」(第九中隊・伍長で伊達郡のI氏)

—— 「私はマラリアにかかり南京で発病して宿舎にいたから暇だった。その前に一度だけ捕虜収容所の警備をやった。収容所(兵舎)は10棟あったが、捕虜はすし詰め状態で、この時一万人と言われていた。食料には非常に困り、全員には行き渡らなかったが、飯を炊いて少しは与えた。私は捕虜が連行されていくのを見ただけだったが、初日に3千人連行、二日目は7千人、前日と同じ場所に連行したと聞いた。捕虜たちは虐殺されるのを察知していた様子だったというが、暴動は起きていない。ただ、捕虜の中に整理係として入っていた日本兵が引き上げないうちに打ち始めてしまったと聞いた」(第九中隊・上等兵で伊達郡のG氏)

 —— 「日本軍が占拠した幕府山砲台の下に中国軍の兵舎があり、その数は20棟くらいあったと思うが、その兵舎に捕虜たちを収容した。兵舎の周囲は歩兵隊の機関銃が20丁も並べられ厳重に警戒されていた。腹が減っても食料を与えることができず(注:上のG氏の記憶と違うが、G氏が見たのはほんの一部であっただろうし、他の兵士の証言でも食事は与えていない)、収容はしたものの実際には(捕虜の)処置に困っていた。上の命令を待っていたところ、「戦争はまだ終わらない、全員虐殺せよ」との指令が出たようで、我々はそこいらにある布切れを引き裂いて紐を作り、捕虜たちを後ろ手に縛り二人一組で表の広場に立たせた。中には捕虜を縛らずに時計や金などを専門に奪っていた兵隊もいた。南京付近で捕虜にした数は全部で9万人とも言われていたが、わが若松両角部隊の捕虜はここだけで2万人いたと言われ、しまいには縛るものがなくなり捕虜のゲートルをほどいて縛るようになった。

 半日もかかって5千人くらいは縛ったであろう。夕食など食う余裕はなく、我が兵たちの銃には着剣をして(注:銃先に装着する剣)捕虜たちの両側に2mおきくらいに警戒にあたりながら捕虜を闇の中に歩かせた。暗い中、捕虜たちはつまづいて転ぶから、兵隊は起き上がるのを待たず、銃剣でざくりと刺し殺してしまう。途中珍しく我が郷土出身の宗形少尉その他三名に会い、本当に懐かしかった。だが長話もできず、「俺ら、これからこれをやりに行くのだ」と突くまねをしてみせると、自分たちもこれから行かなくてはならぬと言っていた。

 約一時間くらいかかって揚子江岸のとある二階建ての建物に着いた。その川に続く砂原の広い庭に捕虜たちは次々と座らせられた。庭の向こうは高い山で囲まれ、逃げることができなかった。さっそく座らせられた支那兵を連れ出して首を切ったり、銃剣で刺し殺したりする兵もいた。そうこうしているうちにワアーという喚声が上がったと思う間もなく、機関銃の音が闇をつんざくように一斉に何十発も発射された。私等はいつも後方部隊なので銃など撃ったことがなかったが、この際撃ってみようと兵隊の間から二、三発撃った。捕虜たちはベタベタと庭にうずくまって死んだが、全部に弾はあたっていないから、今度は着剣して死体の上を渡り歩き、ざくりざくりと刺していった。私はおそらく30人以上は突いたであろう。翌日になって腕があがらぬくらい痛かった。ところが二人がその場で戦死し、一人は機関銃小隊長であるというニュースが入った。それは宗形少尉であることがわかったが、殺されることがわかった捕虜たちが立ち上がって来たため、制止に入った少尉が巻き込まれ、そこに兵士が発射してしまったという。しかしこの事実は誰にも知らされず、名誉の戦死ということになった。今一人の日本兵は ……

 それから毎日残敵掃討の名目で次から次へと捕虜たちは殺されて、死骸は揚子江に投げ入れられ、その死体で揚子江の水の流れは一時止まったと言われたほどだった。私らは南京が陥落したのだから今度こそは(上海戦の次に南京攻略となったから日本へ)凱旋間違いなしとみんなで語り合ったが、戦いはまだ序の口だった」(山砲兵第19連隊のE氏の私家版『実録・日中戦争の断面』)

 この他に、「17日、(大隊の大部分も処理に加わって)連隊の捕虜二万五千近くの殺したものを片付け、二日がかりで揚子江に流した。19日、午後は死体を片付けるために前日の地に行く」(65連隊第三大隊、いわき市のF氏)、「18日は連隊総がかりで死体を(支流などから)揚子江に流したが、流れが悪く、川岸に5、60mの死体の半島ができ、その上を歩いてさらに死体を引っ張って捨てた」(当時軍曹で原町市のD氏)等とある。

 この「死体の半島」ができるほどの量は、この第十三師団山田支隊65連隊だけの虐殺からではなく、後述する第十六師団が13、14日あたりから関わった下関における大量虐殺があり、そこから下流の幕府山近くに滞留し、重なったものと思われる。後述する「太田寿男の供述書による死体処理の実態」によれば、実際に14日から18日までの5日間で下関地区で処理した屍体数(第十六師団などの虐殺によるもの)は約10万体となっていて、そのうち約7万を揚子江に流したとしている。太田寿男は前線の部隊ではなく第二碇泊場司令部から虐殺された死体処理を目的としてこの時期に派遣されたのであり、その前に別部隊が5万体を揚子江に流した、つまり合わせて12万体が18日まで流されていたわけで、65連隊が18日から遺体を揚子江に流そうとしても「死体が溜まって流れなくなった」のはもっともなことであった。

○ この後、第十三師団と合流するために山田支隊は20日には揚子江を対岸に渡って転戦するが、12月29日、連隊の慰霊祭が行われ、65連隊の戦死者679名、負傷者1400余名、十三師団の戦死者2300−2400名とされた。

幕府山一帯における犠牲者数(燕子磯・上元門・草鞋峡など)

 この幕府山地区における中国側の記録では幕府山の地名はあまり使われず、後に南京各所に建てられた「遭難記念碑」としては幕府山地区は「草鞋峡」と「燕子磯」との二つに分かれている。ただ、上記の山田支隊の動きの中では虐殺に関わる場所は幕府山南西側の「上元門」として出てくるが、この上元門の揚子江側が草鞋峡であり、片方の燕子磯は揚子江に沿って北東側にあって、こちらは日本軍の記録にはほぼ見当たらない。しかし山田支隊が13日に最初に攻略したのは燕子磯の東にある烏龍山砲台であり、その時の攻防戦で多少の戦死者は出ていると思われるが、捕虜に関しては大きな数は記されていず、数百人程度の敗残兵に対する殺戮はあったようである。そこから翌日早朝、山田支隊は幕府山に向かい、その途中に燕子磯があって、ここを通過しているのは事実である。そして燕子磯の碑文には犠牲者5万余と記されているが、どう記録を検証しても5万余の犠牲者が出ているようには見えない。そこで中国側の証言記録を眺めてみると、南京陥落前日の12日午後から日本軍の攻勢から逃れて多くの中国兵が北側の燕子磯まで来て、そこから揚子江を渡って中洲の八卦洲(後述)に渡ろうと集まったが、残された船もなく、筏などを作って渡ろうとした人々は海軍の砲撃や銃撃が待ち構えていて逃れるすべはなく、諦めて滞留しているところに14日になって日本軍に捕まり、草鞋峡まで歩いて連れて行かれ、その二日後から集団虐殺され、その中で辛くも生き延びた兵士と民間人がいたという流れになっている。

 一応中国側の具体的と思われる証言を書き写すと、

—— 「私たち中央軍2、300人は燕子磯に逃げ、三台洞(燕子磯南方)付近に隠れていたが、日本軍が燕子磯江灘で武装解除された「中央軍」二万人以上を大虐殺する光景を目撃した」

—— 「私が所属していた首都警察の一部は燕子磯に退き、そこで約二千余が銃殺された。南京城で防戦した国軍第88師は、陥落後に散り散りになった。そのうち19歳の兵士郭国強は、燕子磯の三台洞に避難した。一昼夜の銃声の後、江灘に二万人余りの中央軍兵士の遺体が積まれているのを目撃した」

 という内容で、ただこれはまとめた人が結論的に、この2万人を飛び越えて、(蒋介石国民党軍による)「南京軍事法廷は、日本軍が燕子磯江灘で中国人難民や武装解除した兵士を5万人以上虐殺したと認定した」としていて、どうして2万人が5万人以上となるのか不明である。またこの2万人は草鞋峡の2万人とも重なる。

 それに加えて山田支隊の兵士達の日記には、この後の草鞋峡(上元門)での虐殺とその支隊処理のことは数日にわたり具体的に書かれているのに、その少し前の燕子磯ことは誰の記述にも出てこない。つまりここで戦闘以外に虐殺があったとしたら日本軍の他の師団が行なったとしか思えないが、他の師団にもこの地を経由して行った形跡がない。

 また筆者の調べた範囲で一件だけ、上記の山田支隊の兵士達の日記で触れた菅野嘉雄が戦闘詳報を自分の日記以外に別に記していて、12月14日に烏龍山を経て幕府山に向けて出発後、観音門付近で対岸の七里(八卦州)方面から銃撃があり、直ちに反撃、さらに砲列を整え、揚子江を渡河退却する敵の船約6艘を撃沈とある。この観音門を地図で確認するとまさに燕子磯の入り口にあり、しかしこの小戦闘の記録はこの支隊の他の日記等の中ではまったく見られないし、ただ菅野は砲中隊に所属し、砲中隊の行軍は歩兵部隊より遅くなるから、菅野の中隊だけに起こった出来事かもしれない。さらに「その後途中の敗残兵を掃蕩しつつ南部上元門(草鞋峡)に至る」とあって、これは上記の流れに重なる。いずれにしろ中国側の記述で見られる「(12−13日にかけて)武装解除して燕子磯江灘で渡河を待っていた中国軍民5万人余りが日本軍に包囲封鎖され、次々と射殺された」という事実にはまったく裏付けがなく、日本軍の動きにもその形跡はない。強いて考え合わせるなら、南京攻略後の一週間程度の範囲のことではなくて、翌年1月頃までにかけて掃討作戦による虐殺は行われているから、それもありうるとも思われたが、その後半は状況的に万人単位の集団虐殺はほぼあり得ず、それらを考慮してもこの5万余の犠牲者数は過大で(あったとしても上記のように2万人程度)、後述する下関地区の犠牲者を混同した誤認ではないかと思われる。

 念のため、ジャーナリストの本多勝一が1983年(昭和58年)の取材で得た当時16歳の唐広晋の証言を要約する。

—— 「当時は陸軍の雑務員として勤務していたが、12日の夜になって防衛司令官ら数十人は兵卒たちに最後まで抵抗せよと言いながら彼らは馬で先に逃げて行った。深夜になって自分たち仲間六人も逃げようと挹江門を目指した(注:挹江門での混乱は記述の「挹江門事件」参照)。なんとか挹江門から抜け出し、そこから同僚の康鶴程と二人で長江の河岸に出て、そこから船か何かを探しながら北へ歩いていき、燕子磯あたりで夜が明けた。浮きになるものを探し、二つの木箱などをくくりつけて康と一緒にシャベルを櫂にして河中に出て行ったが、逆風もあって結局岸に戻された。その日は暮れ、二人とも眠りこけ、夜明け(14日)に銃声で起こされた。群衆と一緒に自分たちも日本軍の騎兵隊や歩兵に追い立てられ、燕子磯の西の野菜畑に三、四千人が集められた。全員が身体検査を受け、めぼしい貴重品はみんな奪われた。昼になって四列縦隊になって並んで歩かされ、5、6km先の国民党軍の訓練用の草営房のいくつかの仮兵舎に分けて詰め込まれた。一週間近く食事も与えられずここに放置され、その間に捕虜が連れ出されたり、新たに連れ込まれたりしている様子があった。ある朝、食事を与えると言われ、移動の前に数時間かけて全員が後ろ手に紐などで縛られ、上元門と草鞋峡の間の老虎山の麓を降りて長江岸に連行された。夕暮れになり湿地帯に座らされたが岸の向こうには二隻の軍艦が甲板に機関銃などを据えていて、暗くなると探照灯で現場を照らした。誰もが殺されると思い、仲間内で密かに紐をほどく助け合いが始まった。そのうち枯れ草が周りに集められ、そして枯れ草が一斉に点火されて燃え上がると同時に一斉射撃が始まった。一度射撃は止み、地を揺るがすような群衆の喚き声が上がった。その時は同僚の康も生きていた。再度一斉射撃がはじまり、唐は右肩をやられた。その方角からして軍艦からの射撃と思われた。二度目の掃射で康は動かなくなった。その後日本軍が見回りに来て、生きている者たちを銃剣で刺したり、射殺して回った。唐は左の脇腹をやられたが下になっていたので傷は浅かった。その後、ガソリンが撒かれて死体を焼き始めたが、唐は少しずつ後退りして河の汀までたどり着いた。死体はそこまでびっしりと覆っていたが、その陰に隠れてしばらく動かずにいた。そこから時間をかけてなんとか逃れているうちに八卦州の農民が船で藁を取りにやってきたときに助けられた。その半年後に同じように虐殺から逃れて背中に大やけどを負った楚と知り合い、楚はその後新四軍(人民解放軍の前身)に入隊、その半年後に唐自身も新四軍に入隊した。

(『本多勝一集:第23巻』)

 つまり燕子磯で捕らえられた三、四千人は草鞋峡まで連行され、数日後その他の捕虜と一緒に虐殺されたということである。

 次に草鞋峡の碑文では5万7千人余り(別の中国側の記述では5万7418人)とされている。これも上述のように山田支隊長と支隊員各人の日誌の中では最初の頃の捕虜が1万5千人、その後追加されて2万5千人程度が「殺処分」されたとなっていて、これも5万7千人には届かない。そこで一応、『南京大虐殺生存者証言集』(1994年 南京大学出版社/日本語版『この事実を …』 1999年)の中に取り上げられている草鞋峡と燕子磯を含む幕府山一帯の証言約10人分を見直してみると(そのうち何人かは機銃掃射等された中で致命傷に至らず生き残った者である)、虐殺はやはり2万人程度の数字しか出てこない。これもその後一二ヶ月の間にこの地に連れ出されて処刑された可能性を考えてもやはり過大であろう。また一応二カ所の記念碑の数を合わせると10万人以上となり、10万人以上とは以下に述べる下関地区に展開された犠牲者数、その他等を合わせるといわゆる全体の「30万」に対しても過剰となり、疑問が残る。

 ただ、草鞋峡は後述の下関地区に比較的近く、その周辺の犠牲者数も入っているのかとも思われ、それと思われる「魚雷営」と「煤炭港」はやはり別に記念碑があって、魚雷営においては「12月15日夜、中国侵略日本軍は南京市の民間人と武装解除された守備兵9000人余りを拘束し、魚雷営に連行し機関銃で集団射殺した。同月、日本軍はまた魚雷営、宝塔橋一帯で再び我が軍民3万余人を殺害した」とあり、また煤炭港においては「12月17日、日本軍は各所から我々武装解除した兵士と民間人3000人余りを逮捕して、煤炭港の下流の川辺に拘禁し、機関銃で射殺した」とあり、こちらに関しては後述の下関地区で触れるように十分にありうる数字である。そしてこの煤炭港と山田支隊の草鞋峡における2−2.5万人を合わせると約5万7千人余りとなり、この数は筆者にとって納得がいく。なお一兵士の証言に「17日夜、魚雷営に死体がたまったため、虐殺場所を大湾子(河辺で砂洲になっている場所)に移した」ともあるからこの地区一帯で大虐殺が行われたことがうかがえる。また一人の中国人証言者によればこの大湾子で2万人が殺されていたともある。

 さらに5万7418人という端数のある数字は、南京の慈善団体「紅卍字会」や「崇善堂」などが遺体の収集・埋葬に数ヶ月以上かかって活動している記録があちこちに残っていて、おそらくこの地区一帯の遺体の収集活動から出てきたものだろうが、何かで重複している可能性が高い(今のところ筆者が目を通した範囲の中には合致する数字は見当たらない)。

 なお、上記の「南京軍事法廷は、日本軍が燕子磯江灘で中国人難民や武装解除した兵士を5万人以上虐殺したと認定した」という部分について、その責任を死刑宣告した第六師団谷寿夫師団長一人に帰しているが、後述するように第六師団は幕府山一帯の攻防には一切関わっていず、また下関地区の数々の虐殺にはほぼ無関係であり、冤罪であると筆者はみなしている。しかしこのことに言及する論者はなぜかいず、逆に谷師団の戦跡だけを検証して南京虐殺はなかったとする偽善的学者もいるから厄介である(いずれも別記)。ちなみに後述するが、大虐殺の中心を担ったのは第十六師団の師団長中島今朝吾(戦後すぐに病死で訴追されず)や佐々木支隊長(裁判当時はシベリアへ抑留)であり、谷はその身代わりとなった。

再び山田栴二の日記

 12月20日の支隊長山田栴二の日記

—— 「第十三師団は何故田舎や脇役が好きなるにや、既に主力は鎮江より16日揚州に渡河しあり、之に追及のため山田支隊も下関より渡河することとなる。午前、浦口(揚子江の対岸)に移り、国崎支隊長と会見、次いで江浦鎮に泊す」

 したがって山田支隊はこの後の南京における虐殺その他の暴虐行為には関わっていないが、南京までの行軍の途中や、その後の転戦で、部下たちの規律の悪さに辟易していたようで、不軍紀として「放火、強姦、鳥獣を勝手に撃つ、掠奪」とある。さらに山田は、「明日をも知れぬ生命の危険の地を往来し、疲労困憊、唯任務の為に体を運びある境地に於て、心が荒び道徳律の低下するは真に己むを得ざりものありと雖も、皇国の為に国民一般の教養を高め、道徳を向上するの要大なりと認む。内地にては接触することなき層の人物の、外地にては目にもつき接触する為ならん、唯に兵のみならず、所謂ゴロつき我利々々(ガリガリ)亡者多く渡来し、国家の名誉を著しく毀損してやまず」と記している。この最後の文は興味深いが、当初の満州地区を始めとして、日本軍が侵攻して統治すると、そこに何らかの利を求めて日本の一般人(すでに中国にいる日本人も含め)がやってくるということである。

 具体的には、「放火狂:大半は火の後始末せず、後のことなど考えぬ、屋内にてドンドン火を焚き、藁を敷き、其の侭出発するに起因すれど、又必要分のみか藁束、藁小屋にいきなり火をつけ、面白がっている者あり、徴発に行きて火を放つもあり」/「強姦、略奪、窃盗 後方部隊残置背嚢より物をとる者、他隊のロバをとる者、行李積載品の紛失」/「慾:五銭の煙草を病人に十銭で売る兵、通訳等と共謀し支那貨を半値にて売買の兵」/「利己:一箇の桃の実を取らんと大樹を倒し顧みぬ、一本の葱を取る為に畑全部を踏みにじる、蜂蜜を取るため巣全部を破壊する、家探しして何もないと全部ひっくり返す」/「放置、放棄、無視、無関心:食器や器物のみか、兵器や被服まで。弾を捨て行く者あり、二十里舗前進時は小銃さえも。器具類放棄も多し。ロバを捨てる、豚の片足のみ取りてあとは捨てる。きゅうりを多量に取り捨て、不熟のかぼちゃを採取」等々である。結局この時期の日本軍は南京以外でも同様な暴虐行為を続けていたことがわかる。

 さらには行軍の途上における愚痴のような書付もある。 —— 「徴発のふしだらは、結局与ふべきのもを与へざりし(注:後方からの補給が来なかったこと)悪習慣なり/徴発に依りて自前なる故、或る所は大いに御馳走にありつき、或る所は食ふに食なしの状を呈す/先に処女地に行く隊のみ、うまきことをすることとなる /兵の機敏なる、皆泥棒の寄集りとも評すべきか/師団司令部にてもぼやぼやし居れば何んでも無くなる、持つて行かる、馬まで奪られたり」。この他、行軍の苦難と食事を含めた日常生活の不便も書かれている。

 こうした細かな指摘を見ると、山田支隊長は戦場にあってもかなり平常心を保った人物だったように思える。たまたま成り行きで南京では大量の捕虜を預かり、いったん、捕虜を上海へ送り労役に付かせる策も考えていたとされるが、一部はそうしたとしても全員はとても難しかったであろうし、そもそも山田支隊だけの捕虜数ではない。また若い憲兵が伝達に来たところ、大量の捕虜を見せて「君、これが殺せるか」と問いかけたとされるが、最終的には処分せよとの命令により自軍の部隊が虐殺することになる。心の内ではなんとか避けたかったのであろうが、結果的にこの時期の日本軍全体の大きな流れには抗えなかったのであろう。

 ちなみに行軍途中に立ち寄った民家や小学校などに「抗日教育の徹底」の跡を山田は見ている。—— 到る所の民家には国民教育資料として、「瓦斯防護」、「歩兵操典」、防空、戦車、軽機、測図等、初等士官学校教育程度の単行本あり / —— 小学校其他の壁書、道路の宣伝皆然らざるなし、倭奴、鬼子 / —— 活動写真の広告、エロ本の中にも必ず抗日の記事を発見せざるなし、暴日侵略暦日、年表、或は記事、画面、影画等々、戦争に関する画報にても、滁県の家にて見たるだけにて、「血戦画報」、「戦争画報」、「抗戦画報」、「抗敵画報」、「抗戦撮影集」と各種あり ——

 「抗日教育」ということであるが、これは少なくとも六年前の満州事変以来日本に侵略され続けている中国民にとって当然のことであり、日本でもこの時代、軍国主義教育が徹底されてきていて、中国人は憎むべき敵であり、日本軍は天皇直属の皇軍であり常に正義の軍として戦っていると小学校から教育され続けていて、男の子は大きくなったら兵隊さんになって、一人でも多くの敵を殺すのだと信じ込んでいた、ということからすれば、抗日教育というのは実際に目の前に展開されている数々の被害の事実に対するもので、侵略された立場の国であれば当然生じる行為である。

【両角業作大佐の偽善】

 重ねて述べるなら、山田支隊の主な実行部隊は歩兵65連隊であり、その実行隊長は両角業作大佐であって、中島師団長に「処置」を命じられた山田支隊長が大いに困惑するなか、両角連隊長がその実行を請け負ったということである。ただし、『郷土部隊戦記』(福島民友新聞社:1964年)や『ふくしま 戦争と人間』(福島民友新聞社:1982年)などでは両角が戦後しばらくたって書き起こした日記(注:当時の日記ではなく、後年に書かれたことがポイント)や回想ノートなどをもとにした記述の中では、両角は(山田の気持ちを汲んで)17日の夜、その捕虜たちの大半を幕府山河岸から揚子江対岸に渡る船を用意して逃がしたとしている。しかし少なくとも何千人以上を乗せる船を一夜に用意できるはずもなく(注:少なくとも南京陥落前の12日夕刻から中国軍将兵の一部が残存する船を使って対岸に逃避していて、残った船は一隻もない)、南京付近に待機している日本海軍の軍艦を使うなら別だがその事実はないし(逆にそれらの軍艦は筏などで揚子江を渡ろうとする軍民を江上で銃撃し「殲滅」したとある)、そのための船を用意したという部下の証言は全くないから、両角の創作であるというしかない。つまり既述のように連隊の多くの部下たちの証言を見ると(両角の証言が一として、部下たちの反対証言が十あるとも言える)、逆にその大半を河岸において機関銃で殺戮し、その後数日をかけて大量の死体を揚子江に投げ込んだことは連隊の兵士達の日記によって明らかである、両角自身は単に命令する立場で実際に虐殺を行なっていないとしてもである。

 それらの部下たちの日記や証言は、両角の手記(戦後20年後)からさらにその30年後かそれ以上経って続々と出てきたものであり、つまり戦後しばらくの間は一般の元兵士たちが「侵略戦争」について自由に物が言える時代状況になく、逆に両角は隊長の立場で早期に自由に物が言えたということである。両角と多くの部下たちの証言で一致している部分は、その日、捕虜の一部の反乱があり、日本軍兵士にも若干の死傷者が出たということだけである。『郷土部隊戦記』では「両角部隊は虐殺に関係なし」、「捕虜を殺せとの軍命令を蹴る」、「郷土部隊に虐殺の証拠なし」としているが、それは両角が後年書いた創作をもとにするものであって、これこそ改竄であり、この約30年後以降に部下による虐殺の証言が次々と出てきている。

【歴史に消えた山田支隊長の存在】

 第十三師団の山田栴二支隊長の日記はあちこちで引用されているが、後述するように山田が(虐殺に主に関与したのが配下の両角部隊であるにしろ)、第六師団の谷寿夫のように戦後なぜ中国側の訴追の対象にならなかったのか、筆者は何か手がかりがないか調べてみたが、山田に関する記録はほとんど見当たらず、山田栴二の名前はウィキペディアにも取り上げられていず(基本的に支隊長もしくは少将以上のレベルはまず掲載されている)、それではと近年上梓された『アジア・太平洋戦争辞典』(吉川弘文館 2015年11月)の分厚い本にも出てこず、その索引にすら名前が出てこない(つまり山田の陣中日誌の紹介もないということ)。これは他の将校の取り上げられ方から考えても不思議というしかない。ちなみに筆者は『アジア・太平洋戦争辞典』は発刊当初気になって内容をざっと眺めたが購入するのはやめている。現今、より詳しい情報がネットで得られる時代、概説だけの辞典は必要ないと思ったからで(おそらく図書館の飾り用に作ったのであろう)、それにしても山田栴二の名がそこに欠落しているのは、戦史研究者たちが参加している意味を疑うしかない。あえて言えば「共同執筆」というものはこのような欠落を生じさせやすいのは確かである。つまり野球で言うポテンヒットエラーがそれである。

 ただ唯一、山田は『日本陸軍将官辞典』に取り上げられていて、その記事と他の多少の資料を合わせると、山田は日中戦争前は仙台教導学校長としてあり、日中戦争開始後上海派遣軍として出動、南京攻略戦を経て翌1938年(昭和13年)11月、満州北部で第三独立守備隊司令官として転出、1939年(昭和14年)に一時的に満州・新京第一中学校長を経て帰国後東部軍附予備役となり(中将に昇進)、太平洋戦争には出動せず、1944年(昭和19年)に仙台幼年学校長となり、終戦を迎えている(1977年:昭和52年没)。筆者が山田の日記を見て感じるのは、軍人の将校レベルにはあまり見かけない、知性派的な姿であり、仙台幼年学校長となったのは自然な流れであったろう。

陥落直後の揚子江岸下関地区における大量虐殺と第十六師団

敗残兵包囲作戦と海軍の加勢

【揚子江上の虐殺】

 海軍の南京虐殺に関わる記述は極めて少ないが、無視できないものがある。

 陸軍の揚子江岸における掃蕩作戦に並行して、南京遡行作戦経過概要にある海軍の第一掃海隊の記録では、「烏龍山水道より南京下関まで(12月13日)」として、「13時23分、前衛部隊出港、北岸揚子江陣地を砲撃制圧しつつ閉塞戦を突破(注:これは中国軍が揚子江に何隻かの船を撃沈させ、日本軍艦船の南京への遡上を妨害していたが、「幅約350mの水路の空き」を見つけて突破したという意味で、午後2時に下関の江上に到着したとある)、沿岸一帯の敵大部隊および江上の船艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、全滅せる者約1万に達し …… (さらに)15時30分頃下関付近に折から城外進出の陸軍部隊に協力、江岸の残兵を銃砲撃しつつ梅子洲(江心洲のうちで南京側)付近まで進出し、掃海索を揚収す …… 終夜江上の敗残兵の掃蕩をおこないたり」とある。

 これとは別に海軍第11戦隊の上海戦従軍日誌には、「沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、撃滅せるもの約1万に達し」、また「下関に追いつめられ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗りて逃げんとする敵を、第11戦隊の砲撃により撃滅したるものもの約1万に達せりと云う」とある。これについては上海派遣軍参謀長飯沼守の日誌にも、「松田海軍参謀の報告、第11戦隊(司令官近藤英次郎少将)は13日その大部隊を以って南京下流に到着、敵の筏に依って退却する者約1万を撃滅す」とあり、揚子江上で下関から逃げる約1万の軍民を海軍が「全滅」させた事実は確かであろう。

 また第11戦隊近藤司令官の13日の回想によると、「此の時南京より其の下流約十海里(約18km)の間はジャンク、筏、ボンツーン(平底の小舟)等に乗り或は椅子、机等にすがり北岸に逃れんとする敵兵でさしもの広い江面が一杯に掩われるという様な情況で御座いまして中には折角便服に着替えながら戦闘帽を脱ぐのを忘れ或は鉄兜を以て水を漕ぎ明瞭に馬脚を現わすという様な笑止な光景もあり」と、当時の状況を語っている。

 さらに翌年にまとめられた戦闘詳報(『支那事変主要作戦研究2』)からである。

 12月13日—— 前衛隊は13:30、主隊は15:15、南京に向け進撃開始、江上、江岸に算を乱して敗走する敵兵約一万を射殺しつつ先頭の保津・勢多(砲艦名)は15:40、主力は17:00南京突入、硫安工場上流北岸の野砲陣地及敵大部隊より相当猛烈なる抵抗あり。勢多は下関桟橋に於て敵兵約300を殲滅、…… 前線各艦殆ど終夜敵敗残兵の掃蕩に努む。

 12月14日—— 熱海(砲艦名)は南京下流に於て庫船内の残敵約700を武装解除す。……

 12月15日—— 掃には龍潭水道に於て残敵約500を殲滅す。栂(砲艦名)は南京下流に於て庫船内の残敵約700を殲滅す。

 12月16日—— 勢多は終日宝塔水道一帯の残敵を掃蕩し勢多は陸戦隊を揚陸し硫安工場一帯の敵陣地を占領す。南京付近在泊艦艇は15日夜より引続き江上を漂流する残敵を掃蕩せり。

(以上は吉田裕の著作その他より)

 このように海軍は13日とそれ以降も「終夜江上の敗残兵の掃蕩をおこない」、「軍艦から一斉にサーチライトを照らして機銃掃射を続けた」というから、時折虐殺の反論として取り上げられる「(江岸で)数千人の敗残兵を逃した」という言説は成り立たない。あるいは逃亡したという説もあるが、いずれにしろ助かる見込みはなかった。また海軍の陸戦隊つまり陸上部隊も「残敵を掃蕩」しているが、その姿は中国側の被害者の数少ない証言に見られる。

 ここに当時14歳で南京の防衛団として狩り出され穴掘り作業などに従事していた孫歩方の証言がある。

—— 「13日夜明け、下関の江辺では十万人以上もの兵士や民衆が押し合いへし合いしていて、なんとか長江を渡って逃げようと、誰もが商店の戸板や机や家具やらを壊して筏に組んでいて、私たちも午後になってようやく筏を作って岸辺を離れようとした時、兵士が来て私たち二人を下ろして自分が乗って行った。それで私は助かった。というのもすでに敵の海軍が燕子磯の川面を封鎖していて、そのまま長江を流れて行った船や筏のほとんどは日本軍に掃射されて死に、一人として生きて帰ったものはいなかった。…… (その後本人は日本軍に捕まり、使役として働かされた)」(『この事実を …』 より)

【揚子江中洲における捕虜の処分】
<江心洲=江興州>

 第五師団の国崎支隊は他の師団と同様に南京攻略戦を展開し、南方から攻め上がってきて途中から南京へのルートから外れ、揚子江上流にある太平(南京南方)を攻略、そこからさらに北上して揚子江を渡り、南京の対岸浦口まで攻め上がり、13日夕刻には浦口を平定した。ここで南京から揚子江を渡って逃れてくる中国兵を待ち伏せ、殲滅する作戦であった。翌日、この浦口と南京を結ぶ揚子江のやや南にある大きな中洲(江心洲=江興州)に多数の敗残兵が逃れてきているという情報を得て(この中洲までは南京江岸から数百m先で渡河しやすかったこともあり、上記のように海軍が待ち伏せしたのはその北側の下流までであった)、国崎支隊は歩兵第41連隊第7中隊と第12中隊を夕刻に派遣、中洲の南北から攻めて行き、敗残兵を囲い込み、第12中隊中隊長は、最初の捕虜を利用して危害を加えないと約束し、それを触れ回らせて投降させた。戦闘詳報には「午後7時30分より続々兵器を持参し白旗を掲げて我が第一線に投降す。中隊長は兵器と捕虜を区分しこれが整理をおこなえり(翌朝までかかる)。これよりさき支隊長に捕虜の処分、兵器の処理の指示を受けしに、武装解除後兵器は中隊とともに、捕虜は後刻処置するをもってそれまで同島において自活せしめよとの命令あり。捕虜2350人」とある。同島において自活せしめよとは、島から出すなということであり、食料を現地住民から「徴発」することでしか調達できない日本軍にとっては、この捕虜たちも口減らし=殺戮する以外の方法はなかったことになる。捕虜を処分したことは戦闘詳報には書かれていず、書かれているのは、捕虜を投降させたのちに中隊は「発動汽艇によりて兵器を携えて浦口站に帰還し守備に着く」とあって、捕虜は放置したことになっている。これはいかにも不自然で、放置して餓死させたのかどうか。

 仮にその場で全員を釈放したとして、後述するようにすでにここでは大虐殺が行われていて、上記のように揚子江やその支流から船や筏で逃げようとしていたものは岸辺から機関銃で撃たれ、本流上では海軍の砲艦や銃撃隊が待ち構えて流れ来たるものはほぼすべて撃ち殺された。しかも14日から15日にかけても万単位の捕虜が下関で機関銃や銃剣で殺戮されている。そうした事実からすると、『南京戦史』(偕行社)において畝本正巳が「釈放された捕虜の主力は、河幅が狭く渡河容易な江興州(江心洲)に逃れたものと思われる」と希望的に付記していて、別記においても全員を釈放したということになっているが、状況的には仮に釈放しても捕虜たちに逃げ場はなく、上記のように国崎支隊が捕殺したと考えるのが妥当であろう(記録としては13−14日にかけて江興洲で2350人、対岸の浦口で625人とあるが、浦口においては国崎支隊が初期の戦闘において捕らえた捕虜か、南京から逃れてきた敗残兵かは定かでない)。実際に2350人を虐殺したことはずっと後年になって将校たちが証言している。

<八卦洲>

 もう一つ、揚子江の南京北側に八卦洲という広大な中州がある。これに関してドイツ大使館南京駐在書記官のジョージ・ローゼン(南京安全区国際委員会で難民のために活躍)が、12月24日、ドイツ外務省に送った報告書の中で、「下関を通過したとき、日本軍が下関あたりで中国人を虐殺するのを目の当たりにした。死体がたくさんあり、死体は庶民の服装をしている」と報告し、また別の報告書では、 —— ローゼンは日本軍の八卦洲における中国軍人に対する大虐殺を明らかにした。また彼がイギリスの軍艦に避難している間(注:つまり、日本軍の侵攻によりローゼン等は一時的にイギリス船に避難する際に下関を通りその途中で虐殺現場を見たということ)、日本海軍の近藤少将がイギリス海軍の将軍ホルトに会いに来て、南京下流の大揚子島(八卦洲)にはまだ3万の中国部隊が残っており、「一掃」しなければならないと述べた。「一掃」とは、日本人の言う「掃蕩」のように、もはや防衛能力のない敵を殺すことであり、日本軍は機関銃で中国人を殺害するほか、ガソリンで人を焼死させるなど、特殊な殺害方法を展開していた。(新華社のサイト「新華網」その他より)

 このローゼンの報告にある3万の中国部隊というのは、少なくとも八卦洲においてその事実は見当たらず、あったとしたら南京側の燕子磯江岸に南京城内から脱出して集まった中国兵と民間の避難民で、しかし渡河に使える船もまともになく、その揚子江上では包囲作戦により日本海軍の艦船が何隻も待ち受けていて、先に船や筏で先を争ってなんとか渡ろうとした軍民は、「機銃掃射され、たちまち死体が川を覆って水は赤く染まり、流れは妨げられ、残存者は砂浜に囲まれ、(追撃した陸軍の)数十丁の機銃で撃ち殺された」。

 またこの八卦洲に関しては後年、南京の遺体埋葬に関わった世界紅卍字会八卦洲分会の資料が見つかり、それによると「洲江岸に沿って、敵艦機銃で撃たれた死者は184名、江沿いの両岸には1218体、江の中から引き揚げた者は157体、それぞれ埋められた」とあって、合計1559体が埋葬されたとされる。ただしこれらは江岸沿いに残された遺体だけであって、揚子江の中に流され、下っていった遺体に関しては一切不明である。上記江心洲に関しても同様であり、後述の下関地区で行われた大虐殺に関してはその数は計りようがなく、追い込まれた軍民の総数から埋葬された遺体数を差し引きして推定するしか方法がない。ただ、その追い込まれた総数も不明である。

 ちなみに燕子磯は南京から揚子江岸に逃れるおそらく最北端の場所で、この南西にある幕府山は後述する第十三師団が中国軍守備隊を万単位で捕虜にし、その西にある上元門=草鞋峡に連れ出し、揚子江を背にして囲い込んで虐殺している。

(ここまでは『南京戦史資料集II』、笠原十九司『南京事件』、月刊『人権と教育』32号[2000.5.20]高興祖「南京大虐殺の残虐行為」、中国側のサイト等より。なお下関地区ではこの後も南京城内から連れ出された人々に対する虐殺が続き、後述する)

第十六師団による下関地区での惨劇

(第六師団から第十六師団に引き継がれた捕虜の処分)

 挹江門西方の下関地区は揚子江における南京の港湾口として主要な地であり、陥落当初は城内から敗残兵がここまで逃れ、すでにまともに船がない中でその大半が逃げ場を失い、日本軍の追撃によってそのすべてが機銃掃射等で殺戮された。そしてその後も捕虜はこの広大な地に連れ出され、虐殺されていく。

 第六師団の南京への攻略戦は12日、兵力二万で城外の西側南方から攻め上がり、江東門西方を進軍、そこで南下して逃走中の中国軍一万五千との攻防を行い、北側の下関に向かって追撃し、そこまでの戦闘で中国軍ほぼ一万人を殲滅、「一帯の沼沢は死屍で埋められた」。翌13日、第六師団歩兵45連隊第二大隊は下関付近で5500人を投降させ捕虜とした。そして「午前中投降集団の武装を解除し、正午ごろ非戦闘員を釈放し、残りの捕虜は第十六師団(佐々木支隊)に申し継いだという」(『南京戦史』)。別途、第二大隊の大隊長成友藤夫少佐の回想記「追憶」にこの敗残兵について、「幹部らしいのを探しだして集合を命ずると、おとなしく整列した。その数五、六千名。…… そこで『生命は助けてやるから郷里に帰れ』といった。…… 折から連隊から江東門に下がって宿営すべき命令に接したので、第十六師団に後を申し継いで後退した」(『南京事件』秦郁彦)とある。

 これをもってこの5500人の捕虜は釈放されたという論説にもなっているが、それが仮に事実だとしても、幾らかの「非戦闘員を釈放し」ただけであって、「残りの(5500人の)捕虜は第十六師団に申し継いだ」結果、同師団の裁量に委ねたということである。しかも第十六師団の中島今朝吾師団長は「大体捕虜はせぬ方針なれば、片端より之を片付くることとなしたる」(『南京戦史』偕行社)としており、この後も連隊単位の機関銃中隊に命じて城の内外から補足した捕虜をこの下関において虐殺している事実がある。

 仮に全員を釈放したとして、この下関に逃れてきた敗残兵や避難民が、揚子江やその支流から船や筏で逃げようとしていたところを機関銃で掃射され、後述するように本流上の河上では海軍の銃撃隊が待ち構えて「流れ来たるもの」はほぼすべて撃ち殺された。そうした状況の中で、ある部隊の捕虜だけが釈放されたとしても、完全包囲作戦の中、他の部隊が捕え直して殺戮した可能性はかなり高い。しかも14日から16日にかけても万単位の捕虜が南京城内外から引き出され、機関銃や銃剣で殺戮されている。

 まず第十六師団佐々木到一支隊の歩兵第33連隊戦闘詳報では、「13日午前7時半頃、第二、第三大隊は相呼応して天文台高地を占領し、(その前の)同時10分、第二大隊の一部(第六中隊、機関銃小隊、工兵一小隊)が太平門を占領して日章旗を城門高く掲揚せり。聯隊は午前9時30分、一六師(団)作命甲第171号にて、一部を以て太平門を守備せしめ主力は下関方向に前進して敵の退路を遮断すべき命を受け、午前10時半出発、第二大隊(二中隊欠)を前衛とし、太平門─和平門─下関道を下関に向ひ前進す。而して進路の両側部落には敵敗残兵無数あり、之を掃蕩しつ前進を継続せり。午後2時30分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江には無数の敗残兵、舟筏其他有ゆる浮物を利用し江を覆て流下しつつあるを発見す。即ち連隊は前衛及速射砲を沿岸に展開し、江上の敵を猛射する事二時間、殲滅せし敵、二千を下らざるものと判断す。爾後、連隊は右側支隊と連絡し其指揮下に入れり」とある。

 つまり13日午後、前日夜から南京城内や城外の東あるいは東北方向の戦闘地域から逃れて下関地区にやってきて揚子江岸に群がり集まった中国軍兵士(敗残兵)や民間人(避難民)で大混乱の中に佐々木支隊がやってきて、彼らを機関銃で「ほぼ皆殺しにした」という記述があり、上記の戦闘詳報にそのまま重なる。

 佐々木支隊歩兵第33連隊戦闘詳報をよく見直すと、10−14日の「彼我の損害戦果」の中に、敵の遺棄死体として13日が突出して5500となっていて、「ただし敗残兵の処断を含む」としている。これが第六師団が第十六師団つまりその第33連隊に引き渡した捕虜であろうと思われる。つまり佐々木支隊第33連隊は第六師団から5500人を引き受けたその日に「処断」していることになる。また翌14日の捕虜が3096人(将校14、下士官兵3082と具体的)となっていて、やはり「処断す」とある。これは佐々木支隊長の14日未明の各種命令のうち「歩兵第33連隊は金川門(含む)以西の城門を守備し、下関及び北極閣を東西に連ぬる線及び城内中央より獅子山に通ずる道路(含む)城内三角地帯(南京城内のほぼ北西地区)を掃蕩し、支那兵を掃蕩すべし」との指示に従っての結果と思われる。

 上記の各城門における虐殺の多くはやはり第十六師団が関わっていて、その場合各城門から捕虜を揚子江岸の下関地区にトラックなどで輸送して機銃掃射などによって虐殺している。またこの下関地区における数多くの虐殺事件は幕府山事件と一緒に語られていることが多いが、筆者は別に扱った方がよいと見て後述している(いずれにしてもこれらは特に1990年前後以降に資料や証言が掘り起こされて明らかになったものが多く筆者はそれらを参考にしている)。こうして13日から14日にかけて下関付近だけでみても殺戮された中国の軍民は、中島中将の日記だけからの約2万4千人と海軍の約1万もしくは2万、そして中洲の2350人を足すと約3万6千人以上、もしくは4万6千人以上となる。

佐々木支隊長の私記に見る恐るべき酷薄さ

<「解決」という名の大量殺戮と英雄的陶酔>

 再度、佐々木到一支隊長の私記『ある軍人の自伝』 (勁草書房 1969年)からである。

 12月13日 — (紫金山における前夜から未明にかけての戦闘の後)敵陣地を突破し続いて敵を急追した。軽装甲車中隊は午前十時頃まず下関に突進し、江岸に蝟集しあるいは江上を逃れる敗敵を掃射して無慮一万五千発の弾丸を射つくした。この間、歩兵38連隊は城北の五個の城門を占領して敵の背後を絶ち、33連隊とともに装甲車隊を追い、挹江門付近の逃げ遅れた敵と戦闘を交えた。…… 少し遅れて第六師団の一部(左翼隊)が南方より江岸に進出し、海軍第11戦隊が遡江して流下する敵の船筏を掃射しつつ午後二時下関に到着し、岡崎支隊は午後四時対岸浦口に来着、その他の城壁に向かった部隊は城内を掃蕩しつつある。実に理想的の包囲殲滅作戦を演じた。…… この我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千にのぼり、その外、装甲車が江上に撃滅したもの並びに各部隊の俘虜を合算すれば、 我支隊のみにて2万以上の敵は解決されているはずである。

 筆者注:何と虐殺を「解決」という言葉で済ませている。ただし「遺棄された敵屍は1万数千」は前日夜からの激戦による死者と見てよく、捕虜の「虐殺」から外していいかもしれない。続いて佐々木は「午後2時頃 … 10日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも”皆やってしまえ”と言いたくなる」と<和平門>で書いた記述に至っている。自分たちの「辛惨」と言っても、勝手によその国に攻め込んだ側の辛惨であって、それで簡単に殺されてしまう立場の人々は何なのであろうか。しかし戦場ではそのような思考回路は働かない。

 さらに佐々木は「白米はもはや一粒もなく、城内にはあるだろうが、捕虜に食わせる持ち合わせなんか我が軍にはない」と記し、他の指揮官の発言などから見てもこれが敗残兵(捕虜)虐殺に関しての理由(「解決」する方法)として一番大きかったように思える。つまりもともと南京への侵攻が周到に準備されてのことではなかったからとされるが、それだけの問題ではなかったであろう。このほぼ2年後、日本の同盟国であるナチスドイツ軍は隣国ポーランドに突然侵攻し、日本軍と同じような虐殺を重ねて行く。

 そうして佐々木は「和平門の城壁に登って大元帥閣下(天皇)の万歳を三唱し奉る。… 自然に目頭が熱くなった」(13日の続き)と自己陶酔する。

 12月14日 — 城内外の掃蕩を実施す。いたるところに潜伏している敗残兵を引きずり出す。五百、千という大量の俘虜が続々と連れられてくる。… 敗残兵といえども抵抗するもの従順の態度を失するものは容赦なく殺戮した。終日各所に銃声が聞こえた。太平門外の大きな外壕が死骸でうずめられていく。(注:この日の太平門での殺戮は、前日の1300人と異なり、城内の掃蕩作戦によるもので、500人程度と思われるが、既述のように15日はさらに約2000人が別部隊により殺戮されている)

 12月15日 — 我十六師団の入城式を挙行す。各師団その他、種々雑多な各部隊が既に入城していて、街頭は兵隊で溢れ … 戦闘後、軍紀風紀の退廃を防ぐため指揮官がしっかりしないと憂うべき事故が頻発する。… 城内において百万俵以上の南京米を押収する。(注:「軍紀風紀」については少なくとも佐々木の言えることではなく、殺戮以外の別のことをいっているのであろう。現にこれほどの大量の米を「押収」とは、残った住民のことが全く考慮されていないし、すでに殺戮した捕虜のことも頭に残っていないことがわかる)

 12月16日 — 命により紫金山北側一帯の地域を掃蕩す。少しとはいえ、数百の敗兵を引きずり出して処分した。

(以下は松井司令官のたっての望みで挙行された南京入城式における佐々木支隊長の感激である)

12月17日 — 中支那方面軍の入城式を挙行せらる。… この盛観!… 将兵が粛然としてこの晴れの盛儀に参列した記憶は永久不忘、末代までの語り草となるであろう。

(注:このような感慨は多くの将兵が抱いたようであったが、残念ながら現今の我々にこの日の入城式の盛況が語り継がれていることはまずない。その理由は後世の我々から見れば、これは日本の勝手な侵略戦争であって結果的に日本が失敗した戦争であったからということになる。以下続く)

  — 予は軍司令官の近接を待って部隊に敬礼を命じ、数歩馬を列中より乗り出して人員の報告をなす。“よくぞ男に生まれたる” 感激のこの一瞬、予の心身が昇天して神の霊内に溶け込むような衝動を覚えた。… 方面軍司令官は『大元帥閣下(天皇)の御陵威によりまして我派遣軍は赫赫の戦果を収めここに … 』と述べ、 … 誰かこの無限の感激に心を動かさぬものがあろう。

(注:おそらくこの光景は後世の教科書にも載せられるべき最高の場面と佐々木は心の底から思っていたのであろう。それにしてもすでに万を超える中国人兵士と民間人を自らの手で虐殺したことも、ここに至るまでの自分の英雄的行為として誇っていたのであろう)

 さらに佐々木の私記では、佐々木支隊は翌年になっても敗残兵(とみなせるもの)を南京城内から下関地区に引き出し虐殺をしていることがわかる。

 12月21日 — わが師団は南京城を含む周囲地域を警備。予は城内を含む南京地区西部(つまり下関も含む)警備司令官を命ぜられ、派遣軍司令官の直轄となる。

 12月22日 — 城内粛清委員長を命ぜられ、直ちに会議を開催す。

 12月24日 — (連日の会議を経て)査問工作開始。(注:査問会とは、国際安全委員会の設置していた城内の安全区の中の避難民の中の敗残兵を分別するために行ったもの)

 12月26日 — 宣撫工作委員長命ぜらる。城内の粛清は土民にまじる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するにあるとともに我軍の軍紀風紀を粛清し民心を安んじすみやかに秩序と安寧を回復するにあった。予は峻烈なる統制と監察警防とによって概ね二十日間に所期の目的を達することができた。

 1月5日 — 査問会打切り。この日までに城内より摘出せし敗兵約2千、旧外交部に収容。外に宣教師の手中にありし支那傷病兵を俘虜として収容。城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛。下関において処分せらるもの数千に達す。南京攻略戦における敵の損害は推定約7万にして、落城当日までに守備に任ぜし敵兵力は約10万と推算せられる」

 注:この日の佐々木の処置は、兵士と民間人の分別はせずに避難民を強引に敗残兵として引っ張り出して処刑したことになる。この中には多くの民間人男性がいることは、後述する「南京にとどまっていた欧米人の難民のための奮闘とその記録」のミニー・ヴォートリンその他の外国人の日記でも明らかである。佐々木はこの後1月22日、警備司令官の任を第十一師団の天谷少将と交代、北支(満州)へ転戦する。なお佐々木はこの転戦により終戦時に満州に侵攻したソ連軍に捕らえられ、シベリアに抑留されて中国における戦犯としての裁判を免れた。

<「皇国の精華」としての殺戮>

 ついでながら同じ佐々木の私記の中に、この時代に書かれた雑誌の記事が引用されている。この中には「十二日間(つまり12月13日から25日頃まで)は毎日二千人三千人の敗残兵殺しにて … 揚子江の河畔は死人の山にて … (南京までの)十日間は毎日の残敵殺しに上海より南京間の敵兵全部打ち殺した」とストレートに書かれている。

(以下はその中の引用文より)

 1939年(昭和14年)1月発行、『全国各県代表新聞五十社協力執筆 支那事変 皇国の精華』より

 —— 大泊町(注:当時の日本の領有下の樺太に存在した町)出身の出征兵士歩兵上等兵K・M君(原文実名)は栄ある南京攻略一番乗森塚部隊に属して入城せる唯一の郷土出征兵士であるが、去る元日付(注:昭和13年1月と思われる)義弟N・N氏(原文実名)の許へ左の如き書翰を寄せ近隣は勿論町内一般に対し多大の感銘を与へた。

 先回も申上げた通り敵の逃げ足の早い事毎日五里乃至七里といふ進軍には誠に兵士もヘトヘトに相成り、身には軍装十四、五貫目位付いて居ります。

 周宅という処より始まり南翔站、安定站、昆山、蘇州、無錫、常洲、金丹、白面站、句容、修山まで追撃々々とて(注:この行程からするとK・M君は第十六師団所属と思われる)我軍の食料も食いつくし支那米の徴発にて毎日食塩よりなく、夜は野原に休んだり畑中に休んだり、偶には支那の家に休んで誠に百五十里位の道を修山迄来た時は自分ながら能く来たものと思いました。明日向ふ処は支那の都南京です。

 さすがは敵国の都です。敵も今までの退却ばかりでなく我軍に向つて打出す砲撃を惜まず、何分にも南京の右側にある紫金山といふ山は全部トーチカ陣地です。盛んに打出す小銃、機関銃、迫撃砲、野砲です。二回目の畔家宅の激戦当日の様でして (中略=原文通り)小隊長佐藤殿の談にて初めて自分等が下関占領致したのだと云う事が判りました。

 その後十二日間は毎日二千人三千人の敗残兵殺しにて、突く又は斬る撃つので、揚子江の河畔は死人の山にてお話になりません。私等も毎日なので飽きました。よくもこんなに斬り殺し突き殺したものと思いました。私等の目についたものだけでも三、四万人以上にて、上海より南京迄の敵国の死体百万人を算すると言われて居ますが尤もと思います。(南京までの)十日間は毎日の残敵殺しに上海より南京間の敵兵全部打ち殺したと申しまして口はばかり無いと思います。

 その後は兵站部付と相なり12月28日まで南京に居り、29日には銷江(注:鎮江と思われる)に初めて汽車にて行軍です。それに当銷江には我軍の電気がついて家らしき家へ這入りました。上陸以来百十日目でした。又南京攻撃の時には食料欠乏致した時敵弾の雨霰と来る中を潜り牛を分捕りに行きその肉を食わせてやりました。(以上)

 筆者私見:そもそもこの記事がよく当時の検閲に通ったと思うが、それはこの本の性質「皇国の精華」によるもの、つまり殺戮数の大きさが戦争の一つの精華と見なされている面があったのであろう。またこれを引用した佐々木の私記も「皇国の精華」からまもなく書かれたもので(南京戦から2年経たない1939年)、佐々木自身も大量殺戮は日本軍の強さを誇るものとして捉えていたのであろう。

 ここに「上海より南京迄の敵国の死体百万人を算すると言われて居ますが尤もと思います」とある。この兵士が、自分の部隊が南京まで進軍・戦闘してきた現実の状況から見ても全体で百万人と言われている犠牲者も「尤もと思います」と正直に記しているのは重要である。それはまた筆者自身が南京以前の上海の戦闘からここまで調べて書き起こしてきたことからも裏付けられる。しかしこの南京までの多大な犠牲者というのは、戦後になってからこの日中戦争自体が(太平洋戦争に比べて)ほとんど隠されてきたこともあって、この期間の出来事を指摘する研究者やジャーナリストは(本多勝一を除いて)ほとんどいず、表に出されていない。むしろ目立った南京のことだけが取り上げられるようになり、それが主な論争の種になっていて、その前後、あるいはその周辺の数々の出来事が忘れ去られる(というより無視される)と言うまさに「木を見て森を見ず」的理不尽な状況になっている。実は南京における30万人虐殺というのはむしろこの戦争全体の犠牲者からすればさほど大きな数字ではないと筆者は断言できる。ついでに言えばこれと同様に、日本軍の侵攻の前には必ず大量の爆撃(南京に限っても110回を超える)があって、この爆撃についても重慶以外に取り上げられることはない。これについても筆者は「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」として数年がかりで取り組み、別稿にしている。

 そもそも南京事件があったかなかったかという論争が長く続けられているが、基本的なことに触れれば、例えば戦後の昭和23年(1948年)の極東国際軍事法廷において、南京では「一般市民と捕虜の総数20万人以上」(当時の試算)が殺戮されたこと等を認定し、その責任は将兵の暴走を防がなかった中支那方面軍司令官の松井石根にあるとし、松井を戦犯として死刑にしたという事実がある。いわゆる南京事件はこの時点で認定されているが、後年になってこのこと自体が無視されて論争が起こっている。「なかった派」のそれは筆者が見るに、ほとんどが森の中の木一本を見て言っているに過ぎない。またそれは「皇軍」と呼ばれる日本軍がそんなことをするはずがないという固定観念から論じようとするもので、ある意味自分だけは他人と違って清く正しい人間であると言っているに等しい。そんな人間がいるならお目にかかってみたいが、人間、若い頃はいろんな道に迷い込み、悪事とは言わないまでもお互いに傷つけあって反省し、成長してきている。この時期の日本軍もそして同時期のナチスドイツも、人類史の中の一時期の汚点であると思いなし、正面から見つめ直すのが正しい道であると筆者は思う。

 すでにこの論争は時代遅れで無駄と言うしかなく、「なかった派」(清く正しい派)の言論はもはや犬の遠吠えと思いなし、偏向論者として相手にせず、放っておくのが正しいだろう。なお、松井自身は南京において個々の虐殺事件には直接関わっていず、それらのことを後からの報告で数々聞いて、なかでも大量虐殺の主役であった第十六師団の中島師団長に対して苦々しく思っていたことは彼の日記で知れることで、あくまで当時の全体の指揮官としての責任を問われて死刑となっている。だから本人が具体的に指揮していないから南京事件はなかったと言う論者は、ただの野次馬に過ぎない。

『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて —— 元兵士102人の証言』より

(第十六師団佐々木支隊の証言者たち)

 以上は1990年(平成2年)ごろになるまでの比較的客観的な資料によるものであるが(つまりこれ以降本当にこれまで黙して語ってこなかった現場の兵士たちが語り始めてくる)、主にこの第十六師団(師団長中島今朝吾)佐々木支隊の第33連隊(三重県他)による兵士の証言を新たにまとめたものがこの『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』(松岡環:社会評論社 2002年)であり、松岡は4年間に及んで主に関西地区の元兵士に執念の聞き取り調査を行い、その重い口を開かせた。大虐殺から、60年も経っているので、ほぼ80歳以上であり、上官の多くは死んでいて、周りの戦友からの締め付け(つまり自分たちが悪行をしたことは、自分たちの名誉のためにも話してはならないという戦友会などからの締め付け)も緩くなったので、正直に証言できるようになったという(なお松岡はほぼ並行して中国の被害者側の現地調査も行っていて、『南京戦・切り裂かれた受難者の魂―被害者120人の証言』を翌年上梓している)。この約100人に及ぶ内容を要約するのは難しく、以下、適当にタイトルの部分だけ少し拾ってみる。

 —— 捕虜を筏で流し、重機関銃で撃ち殺した / 陸上から我々が、軍艦からは大砲で、揚子江は血の海になった / 河辺で逃げきれない数千人を九二式重機で連続射撃 / 下関で貨車に詰め込まれた捕虜や、殺される捕虜を見た / 1200人の捕虜を一気に処分、飛び散る肉片 / 倉庫に詰め込んだ老若男女の中国人を焼き殺す / 堤防の上に4丁の重機を並べ至近距離で捕虜を撃った / 朝から夕方まで飲まず食わず何千人も処分した / 城外の堀は中国人の死体でいっぱいだった / 千名の捕虜をトラックに積んで下関で処分した / 殺した中国人の死体を一週間かけて河に流した / 太平門の捕虜は師団命令で「処置せよ」ということに / 敗残兵に石油をかけて焼き殺した / 良民と言うてもおかしな奴は殺せと言われた / 第一線で働くものは相手を殺すことばかりだった / 大隊長の「斬れ」の仕草で投降した敗残兵を殺した / 入城式までにすごい数の死体を片付けた / 小隊長が捕虜を試し斬りしていた / 逃げ遅れた人?機関銃?言うのは勘弁してください / 捕虜を貨車ごと河に落としたり、倉庫ごと燃やした / 捕虜を突堤に向けて走らせて重機で撃ち殺した / 自分のがないのに捕虜に食わせるのはあり得ない / 兵隊も女も子供も混じった死体を揚子江に流した / 50人の捕虜を後ろ手に縛り、河に沈めた / 春になってもクリーク一面に死体が続いていた / 現地では豚でも鶏でも盗るのは当たり前 / (食べ物は支給されないから)徴発(軍隊が強制的に物を取り立てること)しないと生活できない / 家はみんな焼いてしまえと聞いた / 兵隊も泥棒と一緒 / 子供を捕まえ、使役したりなぶりものにした / ややこしいと思ったら誰でも捕まえて上官が試し斬りをした / 男を殺し、女を徴発するのは兵隊の習い / 強姦はし放題、分隊でクーニャン(中国女性)を飼った / 天野中隊長は「強姦、強盗、放火、殺人、なんでもやれ!」と言った / 金陵女子大から女の子がトラックで連れ去られた / 良民証の交付をして天野中隊長はベッピンを自分の女にしていた / 南京城内には10ヶ所ほど慰安所があった / 初年兵は女の子を探さないと怒られる / 女の子を連れてきて私設の慰安所に入れた / 裸の女の死体をよく見たから、負けたらこうなると思った / 現地では豚でも鶏でも盗る(徴発という)のは当たり前 / 徴発しないと生活ができない / 支那の家はみんな焼いてしまえと聞いた / 盗った狛犬を梱包して日本に送った / あの戦争は侵略戦争と思います ——

 この中から第十六師団の証言を一部取り上げてみる。殺し方は一様ではなく、倉庫に閉じ込めて焼き殺した場合も見られる。

*平山仁三郎:第33連隊

 —— 南京の下関では、日本兵がいっぱいいて、2大隊も3大隊もいた。揚子江を河一杯に中国人が筏や戸板につかまって流れていく。大きいのには60人位かな、数人のもあったな。目の前を通る度に、バリバリ撃つんや。揚子江には日本の軍艦もいて砲撃していたな。2、3時間は撃ってたかな、流れる血で揚子江は血の色やった。

*古川康三:第33連隊第2機関銃中隊

 —— 紫金山から下りてきたわれわれ中隊は南京へ集結して一応落着いて、2、3日してから、「使役」と言う敗残兵の整理の任務を命じられた。重機関銃を担いで行った。下関の揚子江の端の貨物駅でね、ずらっと並んでいた貨車の中へ中国の兵隊を貨車に詰め込んでいた。貨車の扉を開けるとあまりに人を詰め込みすぎたんやろな、冬の極寒の時なのに、皆暑くて息苦しくて自分の衣服を脱ぎ捨てて素っ裸になっていた。フラフラに弱った裸の兵たちを下ろして揚子江に流れていく筏に載せ、それを重機関銃で射撃した。… 使役は2、3回あったが、どれも貨物車から引き出した敗残兵を筏に載せ、河に流してから自分が小隊を命令して重機関銃で撃ち殺した。… 機関銃で撃ち殺した敗残兵は、兵隊であるか民間人であるか区別はつかなかった。けど、一応はもう敗残兵という格好で処分した。

*佐藤睦郎:第33連隊第1機関銃中隊

 —— 下関でさらに数千の男女を撃ち殺した。南京が落ちてすぐですわ。下関の手前まで来た時は、もう鎮江やら紫金山やらから逃げてきた中国兵が右往左往していた。中隊長の「掃蕩にかかれ!」で数人で組になってな、攻め込んでいくと、大きな道路に飛び出してきた中国兵が群れになってまた逃げて行く。わしら、日本兵は撃たなしゃあない。逃げるのは兵隊だけやない。男の子もおれば女の人もおる。若い衆もおる。そんなものお構いなしにめくらめっぽうに連続発射で流すんやから。もう前方で人間を見たら、重機をパッと組み立てて全部殺すんや。下関でさらに数千の男女を撃ち殺した。エンジンのない舟が揚子江をどんどん流れていくんや。いっぱい人が乗っててね、それを撃つんですわ。中には普通の服着てる良民もいる。それを全部ダダーと撃った。… 港にぎっしりと集まった大勢の人は、女も子どもも年寄りもいた。400−500m向うにいる中国人たちに射撃の角度を考えて、範囲を決めて撃った。人の固まりが崩れていく。… 我々はただちに小隊長から「撃て」との命令を受けたけど、命令は師団長(中島)が出したやろな。… その次の日、松井司令官が来るというので、こんなに殺したらあかんというて、たくさんの死体を今度は隠さないとあかんというようになって、死体を埋めることになった。焼くということもあった。… 14日、南京城内の倉庫がいっぱいある所で、兵隊が中国兵をいっぱい連れてきてね、倉庫に詰め込んでるんです。中国人を殺すのに「もう弾が足りない」言うてね、ぐるりに燃える物持ってきて積み上げて火をつけたんです。煙が充満してきてね。中国兵が屋根を突き破って必死になってる。それをまた、日本兵が撃ち殺すんですわ。そんなのも見た。今新聞でいろんなこと載ってますがな、事実南京はえらい目にあってます。そんなこと言うと、政治に関係するので、うかつに言えんが、それはかわいそうなことしました。

*田中次郎:第33連隊

 —— 12月14日、一小隊が200名位の敗残兵を捕虜にした。これをいかに処置するか大島副官に聞きに行った。「200あろうと、500あろうと適当なところへ連れて行って殺してしまえ」と言われて駅の空貨車に詰め込んで、小隊は重機と協力して捕虜の処分を揚子江岸でやることになった。… 貨車倉庫から皆引き出して、膝を没する泥土の中に河に向かって座らせた1200人、命令一下、後ろの壕に秘んでいた重機で、一斉に掃射を浴びせた。将棋倒し、血煙肉片、綿片、飛び上がる。… ああ、何たる惨憺たる光景ぞ。かかる光景が人間世界に又と見られるであろうか …。(注:このように「貨車に詰め込んで」という話はこれだけではない)

*大川護男:第33連隊大隊砲

 —— 駐屯してからな、慰安的な女の子をさがしてきたこともあったな。その場でやったな、その時分は少々悪いことしても、後でわかったらいかんというので、殺してしまやいいんや、自分らが悪いことしたら殺してしまえと部隊の中で言ってる者がいた。反日の思想が強いので全部殺してしまえという部隊があったと聞いている。その証拠に武器なんか隠してるかちょっとおかしかったら家を全部焼いてたわな。上海から南京に行くまで、自分らはいつも後方部隊やから、燃え落ちた後の部落を通った。

*岡崎茂:第38連隊

 —— 南京では一番先に堕ちたのが和平門。その和平門から最初に入城したのは私らです!日の丸の旗を振って入りました。それを知らずに門の外から千人位の支那兵が軍旗を持って四列で入城してきました。これを捕まえて捕虜にしトラックに積んで下関まで連れて行って四列に並べて発砲し殺したんや。… 南京で5人の首を切った。ハエを殺すのと同じ感覚です。首の前の皮を残して切るのがコツですわ。あぐらをかかせ腕を組ませてるから首を切ったとき前屈みに倒れるんですわ。… 家を焼いて残った柱に中国人を縛って、部下に銃剣で突かせて殺させたこともある。

*福田治夫:歩兵第9連隊

 —— 「子供や年寄りも(何をしてくるかわからないから)全部殺してしまえ」と連隊長の命令が出た。ぐるりにいる人間を見れば発砲して殺した。(兵隊と思える者たちを)クリークのふちに連れ出してそこに座らせ、将校は自分の軍刀で試し斬りをし、私ら兵隊は銃剣で突き殺した。… その時は気が立っているから、つまり気が狂っているということですな。戦闘の直後は何くそっと突いたりできるけど、一日二日たつと普通になって絶対できない。命令だから仕様のないことでしたわ。戦争は行けと言われたら行かなしゃあない。侵略戦争でしたな。

*町田義成(松村芳治):歩兵第33連隊

(注:先に記したように 町田の実名は松村であり、その『松村伍長の手紙』の中から抜き書きする)

 —— 敵はすでに逃げ腰にかかり、もう抗戦する力もなく銃も持たず、小さな木っ舟や筏や材木を拾って、それに掴まって揚子江を下っていく。5−8人乗っている小さい舟も、30人くらいの船もあってね。船には女や子どもの姿も見られ、こちらに向かって抵抗することはありませんでしたな。すぐ目の前の2−30m先に逃げる敗残兵を、こちらにいる日本兵は、みんな機関銃や小銃で一方的に撃つんや。舟や筏には、普通の服を着た中国人が、小さくじいっとして乗れるだけ乗ってどんどん河を流れていく。命中すると舟はひっくり返って、そこらの水は血で赤く染まっていた。銃声に混じってすさまじい断末魔の叫び声が聞こえてな。水の中でもがき浮き沈みする人が流れていく。自分の機関銃分隊は、33連隊の他の中隊と共に撃ちまくった。ものすごい人数の日本軍が機関銃や小銃であるだけの弾を撃ち込んだ。… この時、南京の城内でも下関でも中国兵は逃げていて、服装を変えて銃も何も持っていないので、こちらが撃たれることはほとんどなかったはずで、13日は日本軍の一方的な攻撃でした。

(この松村が故郷の婦人会に送った手紙)—— 特に12月13日午後、敗残兵が逃げる途なく、小舟に乗って揚子江を流れのままに降りる事その数実に5万。我が軍機を逸せずこれを全滅、思わず万歳を高唱致し候。

*朝倉正男:33連隊第2大隊

 —— (13日)紫金山から下りると敗残兵がいっぱいおってな。揚子江の近くまで行った広いところで、汽車がいっぱいありましてん。そこにあった空の貨車に捕まえた敗残兵をどんどん詰め込んで、ここらは坂になっていてな、みんなでちょっと押すと貨車が動いたんで、「こいつら、河に流し たれ」て言うて、みんなで押して揚子江へビシャと放り込んだんや。貨車のあるところの手前では、工兵隊が濠の中に人を入れて、その周りを銃を持った兵隊が見張っているさかい逃げるちゅうわけにいかん。その上を戦車でゴー とひいているのを見ました。自分らは貨車のほうで(敗残兵を貨車に詰め込む)仕事をしてるからじっとは見てなかったけどな。

 陥落してから2日ぐらいしてから南京城内で掃蕩した。家を一軒一軒調べて、男なら全部引き出した。調べることはせえへん。捕まえて調べるので引っ張ることもあるし、その場でぽんと銃でやってしまうこともあった。その時、私の分隊は、敗残兵を30人くらい捕まえたな。男ばかり若いのから中年くらいやねえ。それを集めて倉庫みたいなところに入れました。女は女で倉庫というか宿舎みたいなところに別に集めて入れて処分や。それはよくやりましたが、そやけど逃がした者もおるんでな。それが後から戦争のなにで〔裁判で証言するので〕やったことがわかってくるのやろな。倉庫に入れた者を銃で撃ってから、後で火をつけた。中はそれは騒ぐ。(すぐに)死なんから、わー助けてくれ言うような喧しい声が聞こえた。叫んでいる中で日本語の助けてという声も聞こえた。

 憲兵隊は見なかったな。クーニャン(若い女性)徴発はあったし、分隊内では好きな人が一人か二人はおって、女探しに出かけていった。しばらくすると女の人がやって来るしな(慰安所ができたということ)。そういう所にいく人はおるおる。みんな珍しがっていきましたな。朝鮮とか中国人の女の人が多かったな。(朝鮮人の場合、おそらく満州から集められた)揚子江にはよく行った。死体が浮いとったり、岸に流れ着いているのを見たなあ。ごみみたいに寄せられていた。死体は慣れっこになっていて驚くどころやなかった。…… 南京大虐殺も強姦もあった。

『南京戦・切り裂かれた受難者の魂―被害者120人の証言』から見る被害の実相

 松岡環は既述の『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて—元兵士102人の証言』の取材を日本軍元兵士からしている間に、並行して中国通いしながら調べていくうちに、加害者の証言と重ね合わせていく必要を感じ、そこから通訳を伴ったりして中国で残り少ない生き残りの被害者を時間をかけて探し出し、重い口を辛抱強く開かせ、長い時間をかけて整理し、『南京戦・切り裂かれた受難者の魂―被害者120人の証言』(社会評論社:2003年)を上梓した。この地道で根気強い松岡の努力には頭が下がるが、一方で、あまりにも辛く思い出したくもない記憶を呼び起こしながら証言した、これら中国の方々が(老いた証言者の写真も載せられているが、涙を抑えながらの姿も見える)、その寿命が尽きるまでに、同じ日本人に語ることによって心の負荷が多少でも軽減されたのであればその分幸いであったろうと思われる。以下、そのタイトルだけでも目につくものを拾い出してみる。(タイトルを眺めているだけでも心が重く、気が遠くなりそうである)

 —— 村に攻め込んだ日本兵に強姦され、その間に生後数ヶ月の娘が焼き殺された / 女性への強要を拒否して父は銃殺された / 日本兵は藁の山に銃剣を差し込み女性を見つけ出して強姦した / 日本兵は女性を追い回して強姦した女性を慰安所に閉じ込めた / 浦口あたりの農村にも日本軍は来て家畜を盗っていった / 火をつけられ命からがら逃げたが母親は焼き殺された / 父は食べ物を探しに隠れ家から出て日本兵に殺された / 船や筏、身一つで揚子江を逃げる人でいっぱいだった / (揚子江で)無数の死体が浮いていて櫓にまとわりついた / 中山埠頭で集団虐殺され、死体の中から生き返った / 下関で数千人の人と一緒に機銃掃射された / 戦後、煤炭港の河ざらいをすると殺された人の骨がいくつも出てきた / 避難先の家から連行され、14人の日本兵に輪姦された娘もいた / 金陵女子大の正門から日本兵はトラックで女性を連れ出した / 日本兵は花姑娘(きれいな娘)と叫びながら難民区の中を探し回っていた / 人力車夫だった父は難民区に帰る途中日本兵に殺された / 金陵女子大の華小姐(ミニー・ヴォートリン)のおかげで助かった / 金陵女子大の部屋の中で五、六人の日本兵が少女を輪姦した / 夫は食べ物を探しに出て胸を刺し殺された / 家族三人が同じ日に日本兵に殺された / 華小姐(ミニー・ヴォートリン)は日本兵の強姦をやめさせようとしてビンタを張られた / 妊娠中の兄嫁が強姦され精神を病んで死んだ / 良民証を発行すると称して多くの男が連行され殺された / 五台山小学校の運動場に並ばされた男たちは集団虐殺された / 兄や叔父、従兄弟5人は連行後殺害、祖父母は目の前で刺殺された / 私を助けようと瀕死の重傷を負った父の目の前で私と母は凌辱された / 強姦を逃れるために母は水に飛び込み、祖父母、父も撃ち殺された / 日本兵は母を犯そうとして邪魔な娘の目を突き刺した / 父は連行、兄は追われ、弟は刺され、わが家の男はすべて殺された / 夫は日本の旗を持たされ、銃剣で刺し殺された / 日本軍とは知らずお茶を出して迎えた母は撃ち殺された / 強姦後、虐殺された女性の死体をよく目にした / 叔母さんが強姦に抗い、刺し殺されるのを見た / 日本兵に捕まり蕪湖まで強制労働させられた / 13人の家族が強姦され殺されるのを便所から覗いていた / 日本兵はいきなり村人を殺し、女性を連行して強姦した / 日本兵がやってきて藁山に火をつけて娘をあぶり出した / 日本軍は花姑娘を求めて家に火をつけた / 泰准河の堤防に避難民何百人も並ばせて機関銃で掃射した / 日本兵は村へ来て豚を盗り、女を追い回した / 江東門で日本軍の集団虐殺を目撃し、死体の片付けをさせられた / 日本兵は子供に飴を与えて花姑娘を聞き出そうとした / 夫の妹は強姦され続け、気が狂った / 従兄弟の嫁は輪姦され続けて衰弱死した / 日本兵は花姑娘を探し、いないと言えば殺し隠しても殺した / 空爆で街の人は殺され、夫も日本兵に首を切られた / 安徽省に逃げたが食べ物がなく、二人の子は栄養失調で死んだ / 日本兵は郊外の六合でも村人を殺し、女性を強姦した / 上流の南京から虐殺死体がどんどん流れてきた / 12、3歳の少女も捕まると駐屯地に連れて行かれた / 安徽省に避難していて村の自衛隊が日本軍に反撃した ……

 筆者私見:先に松岡環の日本兵士の加害証言のタイトルを書き写した時と、この被害者側の証言のタイトルを書き写す場合の筆者の心持ちがいささか違うことに気がついた。つまりこの場合、筆者の心が被害者側の気持ちに寄り添っているわけで、たかだかタイトルだけなのに、一層心が辛くなるのである。辛いとは、できれば被害者のこんな残酷な経験は知りたくないし、中の記述を読みたくない気持ちも重なっている(実は本当に目を背けたくなる内容なので、流し読みあるいは拾い読みしかできていない)。本来、あってはならないし、ありえないことなのであるが、実際には今の平和な時代にも巷において時折こうした残虐な事件が起こるし、戦争になるとその事件が日常的に繰り返されるということで、どれだけ戦時下の人間の精神状態が狂気の中にあり続けているか、その意味は、兵士にとっては被害者側の立場や気持ちがまったく顧みられない状態にあるということで、加害側の兵士にも自分の家族があり、その自分の家族が同じような目に遭うとしたらどんな気持ちになるかなど、ほぼ100%気がついていない。つまりそのような同じ人間として相手の立場に寄り添ってみるという、普段の人間の社会生活に必要な客観的な視点がまったく持てない精神状態の中にあるということである。そうした中で(この目次の中にも出てくるが)後述するミニー・ヴォートリンはほぼ100%中国人被害者の気持ちに寄り添ってその身を挺して活動し、その戦争の狂気と闘ったが、どこまでも続くその日本軍の狂気に打ちのめされ、結果的に自身の精神を壊してしまった。ただ、このような尊い人を含めて、当時南京に残って住民たちを日本軍の暴虐から守った外国人たちを今もって「反日外国人」と呼ぶ連中がいるから信じがたく、むしろ同じ日本人として恥ずかしいものがある。

 強いて言えば、中国側の被害者の気持ちは、この後太平洋戦争に突入して、米軍による大空襲によって初めて日本人が共有するのであるが、実はその中で沖縄が日本で唯一の大戦場となり、余儀なくこの時期の中国の人々と心を共有させられることとなった。ただ、それでも中国の都市占領後の日本軍の暴虐行為に及ぶものはない。つまり米軍は一部において例外はあるが、そこまで占領後の沖縄で酷いことをしていないし(逆に進んで食料の援助や孤児の救済をしていて、むしろ日本軍が自国の住民に酷いことをしている —— つまり戦闘初期の頃は沖縄住民の食料を略奪するとか、終盤には男子中学生を突撃隊にしたり、女学生や一般住民を巻き込んで自決に追い込んだり …)。そしてその大きな犠牲となった沖縄の人々が、いまだにこの日本の国の中で大きな犠牲を強いられている。その犠牲を強いてなんとも思わない、つまり住民の立場を思い遣ることのできないのが今の日本の政官の組織の中に巣食う人間たちであり、上記の「反日外国人」のような言葉を安易に使う連中なのである。何が反日なのか、その言動が逆に一層「反日」を招いていることを客観的に考える能力もない人間が、そのような言葉を軽々しく使うのであり、仮にも当時の中国の戦場に彼らが行けば、同様な残虐行為を平然としてしまう差別的人種に違いなく、そしてまた今の世に戻れば、「虐殺などなかった」と言い立てるのである。つまりこうした人種は、誰しもが持っている人間の心の暗部とも向き合うことができず、一面的な思考しかできない軽々しい偏向した人間であると断言してもよい。

【語られなかった強姦の実態】

 ついでながら松岡の日本側の『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて——元兵士102人の証言』と中国側の『南京戦・切り裂かれた受難者の魂―被害者120人の証言』の両者の証言のタイトルだけ比べてみての大きな違いは、後者では女性に対する「強姦」がらみの事件が異様に多く語られ、逆に前者ではあまりまともに語られていないことである。これについては後述するミニー・ヴォートリンの日記の内容も、彼女は安全区内で難民の保護活動をしていたから虐殺現場を直接目にすることはほぼなかったが、毎日のように続く後者の被害の多さに胸を痛めた。先に曽根一夫の私記で触れたが、元兵士たちにとって、「虐殺」のことはそれが捕虜や一般人に対するものであっても(また一方的残虐行為という自覚は当然あるとしても)戦争における殺し合いという流れの中のことと済ませるが、強姦は私的欲情からくるもので、むしろ率直には語りづらく書きづらいのである。それだけに、証言も片方からでなく、松岡環のように両方からきちんと取材するということがどれだけ大事かということがわかる。

 ここで思い切って強姦に関わる被害者の証言をいくつか拾い出し要約してみる。同じ松岡の後年の著作『南京 — 引き裂かれた記憶 — 元兵士と被害者の証言』(2016年)からである(『被害者120人の証言』と重なる部分がある)。

 —— (日本軍の南京)入城から二週間ほど経った頃、食べ物が乏しくなり十数人の若い女の子たちで少し離れた畑に野菜を取りに行った。…… 日本兵はだいたい朝8時ごろから行動を始めるので私たちは朝7時ごろ出かけた。野草を摘んで、日本兵が来る時間だからと畑から立ち上がると、すぐそこに十数人の日本兵が来ていた。怖くて飛び出して逃げたが、私を含めて六人が逃げ遅れて捕まった。私はその時妊娠七ヶ月だった。畑の近くに80歳ぐらいのおばあさんが一人で住んでいて、その家に私たちを連れ込んだので、おばあさんは「とんでもないことを!」と怒って日本兵に訴えた。おばあさんの怒った様子を見た日本兵は、何かを叫んで銃剣で刺し、殺してしまった。六人の中には18歳ぐらいの未婚の女性が三人いた。三人のうち二人は二人の日本兵に、一人は三人の日本兵に輪姦された。全員が強姦され日本兵が立ち去った後、どの娘も泣きながら衣服を付け直して帰った。未婚の少女は出血がひどくてズボンは血だらけだった。私も強姦され、当時の防空壕に帰ってからずっと泣き続け、母に日本兵に強姦されたことを話すと、「命が助かっただけでも良かった。このことは誰にも話してはいけない」と諭された。だからその後はずっと、夫にも大人になった息子にも家族にも話していない。それから家に戻り出産したが子供は生まれて間もなくなくなった。こんな忌まわしい話は思い出したくもないけど、今の日本は多くの人を虐殺したことを認めない人たちがいることを聞いて、話すことを決心した。(陳文恵、1917年生まれ)

 —— 入城から二ヶ月経った頃のこと。五台山で難民区にいたお産直後の蔡さんという女性を二人の日本兵が強姦するのを見た。女性に覆いかぶさっている時日本兵は銃を壁に立てかけていて、そこで蔡さんの夫と弟が怒ってその銃剣で日本兵を突き殺した。その後日本兵の一団が帰ってこない二人の兵の捜索にやってきて、あたり一面を焼き払った。数百軒は焼かれた。被災者は逆に蔡さんのせいでこうなったと恨んでいた。またこんなこともあった。まだ17歳の女性が日本兵に強姦されて殺されて素っ裸で転がされていた。股間に国民党の旗の棒を差し込まれていた。ある時、日本人がいる家の壁で立ち小便をしていた子供が刀で殺されるのも直接見た。… 話すと当時のことを思い出して腹立ちが収まらない。日本人にはもう我慢ができない。… 私たち中国人は日本人捕虜を決して殺さなかった。にも関わらず … 1945年(昭和20年)の日本が投降した時のこと、ある日本人捕虜は私に家族の写真を見せながら命乞いをした。彼も戦争に行きたくなかったのだろう。(王明、1915年生まれ)

 —— 南京郊外南西の沙州圩に住んでいたが、いきなり日本兵十数人がやって来て、父を支那軍だと言って連れて行こうとしたが、私(11歳)と妹は野良仕事の鍬を持ってきて一生懸命ひざまずいて説明した。何を言っているのかわからないようだったが、父は助かった。その後両親と男の兄弟は先に家を出て逃げて行き、祖父と私たち三人姉妹は残った。1938年(昭和13年)の旧暦で1月15日(2月14日)以降だったが、一人の日本兵が18歳の毋方の叔母を見つけ、強姦しようと裏の庭まで連れて行ったが、叔母は抵抗し、その結果日本兵を野つぼに落とし、すぐにその日本兵を棒で殴って殺した。夕方その日本兵が戻らないので近くに駐屯していた日本軍が探しにきたが、見つからず一旦帰っていった。村では「きっと明日は村へ殺しに来るぞ」と言って、私たちも趙家苑のクリークの中に逃げ、10日間以上いた(逃げなかった村人はみんな殺された)。その期間中2、3回日本兵が来て若い女性を強姦していったが、ある時、大きな広場に顔を黒ずみで塗っていた若い女性を数十人並べて、その中で綺麗な顔をした娘数人を選んで顔を洗わせ別な場所に連れて行き、なんと残った娘たちを機関銃で殺してしまった。その頃のもう一つの暴行は、3、4人の一歳にも満たない赤ちゃんを(母親から引き離して)日本兵は面白がってお尻を銃剣で突き刺し、持ち上げて空中で振り回し、それを見て十数人の日本兵が笑って拍手していた。赤ちゃんが死んだのを確認すると、放り投げて捨てた。(注:信じ難いであろうが、逆にこんなことは想像をはるかに超えたことであり、わざわざ創作できる話ではないことがわかる)

 しばらくすると、元の村のほうが安全になったと聞いて、村に戻った。ある日突然日本兵たちがやってきた。祖父は私を守ろうと抱きしめたが、日本兵は祖父の背中を銃剣で突き刺した。そして日本兵は子供の私を隣の空き家の部屋に連れ込み、ベッドに倒すと服を脱がせ、私の性器を無理やり開かせ、私は苦痛で気絶したまま強姦された。気がつくと、祖父は血だらけの私の足を閉じ、縄で縛ってお腹をさすって揉んでくれていて、こんなことになってと泣きながら私を気遣ってくれた。長い間足は全然動けない状態で、今でも天気の悪い日は後遺症で痛む。

 さらに二月のある日、昼間は危険なので祖父が私を藁山の中に隠してくれた。しかしそれと察した日本兵は隠れている若い娘を探すために藁山を突き刺すようになった。私の左指が半分切られ、それでもじっと我慢して日本兵をやり過ごしたこともあった。そのうち日本兵はやってくると藁山に火をつけるようになり、昼間は近くの湖の小島に船で40数人が送ってもらって身を隠していたが、ある日日本兵に見つかって対岸から機関銃で撃たれた。私と近くの三人は水の中に飛び込み、しばらく隠れていたが、他の40人は殺されてしまった。(注:日本兵からすれば自分たちからこそこそと逃げること自体が腹が立つようで、こうした殺人は各所に見られる)

 村の中では十数人が強姦され、中には強姦された後、性器に銃剣を突き刺されて殺された女性もいた。私は隠れるところもなくなって、坊主頭にして男の子に見えるようにした。すると日本兵は村の豚や鶏を奪って持って行くとき、運ぶ仕事を何度もやらせた。……(張秀紅、1926年生まれ)

 この張秀紅の話も相当に酷い事実であるが、今ひとつ、「これはとても書き写せない」と、一旦避けようとした証言をあえて要約する。

 —— 当時、家族は南京城の南、通済門に近いところに住んでいて、私はまだ七歳だった。父は竹細工の仕事をしていて、日本軍が来ると聞いて近所の人たちは次々と遠くへ避難したが、父はいくら日本軍が悪いといっても年寄りや子供には危害を加えないだろうと家に残った。(南京が陥落した)12月13日の朝、三、四人の日本軍がわが家の門から銃を乱射して入ってきた。この家(共同住宅)には三家族が住んでいて、まず家主のお婆さんと管理人のお爺さんが撃たれ即死だった。そして父が左腕を撃たれ、大量の血が流れた。母は必死に父の血を止めていた。午後になってまた二人の日本兵がやってきて、家にあった布団を奪い、母の綿入れを銃剣で引き裂いた。その拍子に避難するために用意していたお金が落ち、日本軍はそれも奪い、母のイヤリングも引きちぎって奪っていった。夜中に近くの避難所に逃げようとしたが、日本軍に遮られ、家に帰された。

 翌14日昼、冬で暖房もなかったので庭に出て陽だまりに当たっていると、二人の日本兵が馬に乗ってやって来て、馬から降りて長い髭面の兵が私に近づいてきた。私をひょいと抱き上げズボンに手をかけ脱がそうとした。激しく抵抗する私に父が近づいて私のズボンを引き上げようとした。するともう一人の兵が父をなぎ倒し何度も殴り、父の首を三度も切りつけた。血だまりの中で父は動かなくなった。

 さらに翌15日午後、台所の下で母と一緒に横になっていた。再び二人の日本兵がやってきて、まず横たわって動けずにいた父に近づき、目を指で開き、刀を口の中に差し込んだ。そして中国語で「死了!死了!」(死んでる)と言い、次に母親に近づいてズボンを引き下げたが、母は顔の煤を擦り取ろうとした日本兵の手を噛んだ。怒った日本兵は母を何度も殴ってから強姦したが、その後日本兵は母の性器に銃身をねじ込んで遊んだ。もう一人の日本兵は私のズボンを引き下げ、性器を指でこじ開けながら弄んだ。私は痛さで泣き喚いたが、それでも日本兵は強引に私を強姦した。そこから二人は交代で私と母を強姦した。大量の血が流れ、痛さで歩くこともできなかった。父が亡くなり、母も精神を病み、後を追うようにして亡くなった。私は治療をすることもできず、今も失禁に悩まされ、普通に小便をすることもできない。その後私の世話をしてくれた16歳の童養息の娘も三人の日本兵に強姦され、後で戻ってきた夫は日本兵と寝た女と彼女を責め立て殴り、彼女は絶望して入水自殺した。私もその後強姦されかかったが、日本兵は下半身が腫れ上がっているのを見て、私を殴って出ていった。

 私は孤児となり、街で売り物をして生きながらえた。人の紹介でかなり年上の人と結婚したが、「親なし子」として夫やその姉から毎日のように酷い仕打ちを受けた(注:この孤児としての境遇の話は、日本の戦争孤児とまったく同じである)。日本人は本当に残酷で、いくら恨んでも恨み切れない。私は今まで自分の被害を子供達にも言っていないし言えなかった(注:この誰にも言えなかったという話も、日本における被害者と同様である。そもそも日本においても中国においても、こうした証言が表に出てくるのは1990年前後以降のことである)。同じように大勢の中国人が被害にあっている。日本には南京の虐殺を認めようとしない人がいると聞くが、私は生き証人として信じられない思いでいる。(楊明貞、1930年生まれ)

 松岡は日本兵士側の強姦に関する率直な証言を数々引き出しているが、その中から典型的と思われる一例を挙げる。

 —— (強姦は)そこら中でやっとった。付きもので、そこら中で女を担いで、強姦しとる。婆さんも見境なしじゃ。陥落して二日後、下関あたりに徴発に出た時、民家のあるところに米や食べ物を徴発するついでに女も徴発した。家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとる。纏足で早く逃げられんで、そいつを捕まえてその場で服を脱がして強姦した。パンツみたいなものははいとらんで、すぐにできた。やった後、「やめたれ」て言うたんやけど、銃で胸を撃って殺した。後で憲兵が来てばれると罪になるから殺したんじゃ。暗黙のうちの了解やな。平時と違って罪にはならんかったが、「やめとけよ」と怒られる程度じゃった。悪いことし放題じゃった。十人おって九人まで強姦しとらんもんはおらん。自慢話にもなった。

 南京に入る前から、入ったら女はやりたい放題、物は取りたい放題と言われておったから、街の中でも女が隠れとる所をよく知っとるから若いもん、お婆もみんなやった。女は大概穴の中に隠れておった。ほとんど女ばかりの難民区にもだいたい一個分隊で行って、部屋に入ったらこれとこれと指差して選び放題でやった。見張りをつけて交代でやった。女も殺されるのが怖いからすぐにやらせた。顔に鍋の墨を塗ってるけど、すぐにわかる。十数回は行ったかな。

 慰安所(注:これは後述のミニー・ヴォートリンの日記を中心とした記述の中でも触れるが、南京占領後から早々に慰安所が作られ、それは欧米人の作った安全区の中の女性からも募集され、他は満州あたりから連れてきた朝鮮人娼婦、その後は日本からも娼婦が「調達」された)を作っても強姦は減らん。街に行ったら「ただ」やったから。部隊によっては自分たちで慰安婦を囲っていた。(第十六師団、歩兵33連隊第三大隊、出口権次郎/注:この第十六師団は他でも多く触れるが、「南京事件」における最大の虐殺集団であった)

【日中双方の証言の落差】

 上記で見るように、おなじ松岡が取材した、日本兵による後年になってからのこうした元日本兵士の証言と、中国の被害者側の証言は生々しさが異なる。とりわけ「語られなかった強姦の実態」でも触れているように、女性に対する強姦とそれに続く残虐行為については、元日本兵士の正直な証言もかなり曖昧になり、それに対して中国側被害者の記録は読み進めるその目を背けさせるほど残忍なものが多く、とても書き写せないと思わせる場合がしばしばである。例えば元日本兵が、(集団虐殺は別として)「中国人捕虜を座らせ、その首を軍刀で切り落とした」と正直に証言している場合は少なくないが、(中国側の多くの証言のように)「女性を強姦したあげく腹を切り裂いて殺した」あるいは「その後裸にして木に吊るした」などのようなこと証言するのは(ためらわれるのであろう)、まずいない。これは基本的に強姦は元兵士の男としての恥を表に出すもので正直に言えないこともあるだろう。もう一つの例としては、母親と一緒にいる小さな子供を突き殺したりするようなことも中国側の証言には各所で見られるが、これも後から思い起こせばあまりに非道なことであったという自覚からであろう、日本側の証言にはまず見かけないのも事実である。

第九師団と第十六師団による南京城内大掃蕩作戦

「入城式」強行による事前掃蕩という名の虐殺

 功名心にはやる松井石根総司令官が17日に「入城式」を強行することにした。これには日程的に難しい、20日以後にしてくれと城内の将校たちからの声があったが、松井は17日にこだわった。すでに日本国内は南京陥落のニュースで沸き立っていて、少しでも早くと功名心が働いたのである。もともと参謀本部の意向に逆らって彼が強行した南京への進軍であり、それを国民が熱狂的に祝賀している(これは新聞等のメディアの過剰な報道の力が大きい)状況の中、こうした大げさな儀式を必要とし、少しでも早くの気持ちがあったであろう。

 ちなみに同様にこの世論に押されたか、松井は天皇からお褒めの言葉をいただいていた。さぞまわりの側近たちが、天皇にお褒めの言葉を賜りたいと熱心に助言し、天皇もそれに従ったのであろう。すでに天皇は軍政府の決めたことに「逆らわない」と決めていたからである。

 現地の日本軍は14日から16日にかけて、南京城内の徹底した残敵掃蕩・ 殲滅作戦を行うことになった。17日に強行されることになった入城式に皇族の朝香宮中将も参列し、万一のことがあってはならないということもあって、城内に残る敗残兵狩りを、少しでも疑いのある民間人も巻き込んでも捕捉・殲滅するように指令が出されたのである。したがって入城式での行進予定の大通りに残っている戦闘時の遺体はすべて脇道か見えない場所に隠され、城内に隠れていると思われる敗残兵はそれらしい民間人も含めて徹底的に引っ張り出され、縛って行列して城門の外で殺すか、トラックや貨車などで城外の下関近辺に連れ出され、揚子江河畔で並べられて機関銃で銃殺された。ちなみにこの入城式に備えて死体などが片付けられた大通りの写真等をもって、虐殺などなかったという単純な人もいるからあきれる。

第九師団による掃蕩

 入城式にあたっての城内の掃蕩を命じられたのが第九師団第6旅団歩兵第7連隊と第十六師団歩兵第20、33、38連隊などである。(以下は『南京戦史資料集1』偕行社、『南京難民区の100日—虐殺を見た外国人』、『南京事件』(笠原十九司)、その他から編成)

<第九師団作戦経過の概要>

第九師団歩兵第7連隊の命令(14日午後1時40分:安全区を担当) —— 「各隊の俘虜はその掃蕩地区内の一ヶ所に収容すべし、これに対する食料は師団に請求すべし」

 この南京城内の掃蕩作戦で注目すべきは「これに対する食料は師団に請求すべし」との記録である。既述のように城外の下関や幕府山などでは捕虜に対してこのような指示はなされていない。南京城外での虐殺は第十六師団と第十三師団により始まっていて、要は城外と城内の掃蕩作戦は別々にみなければならないが、これまでの「虐殺論争」ではその視点がしばしば無視され、「なかった」派が利用するもとになっている。しかも陥落後の城内に残る中国兵もしくは兵とみなされる若い男性を掃蕩作戦で、いくつかの分隊が何百人単位で日々捕らえた場合、彼らは城外の揚子江付近の下関あたりまで連れ出されて虐殺されたから、城内で殺戮する光景など見たことはないという証言もあながち嘘ではないのであって、単に「なかった」派の読む資料が(誘導された)限られた範囲のものでしかなく、しかもここまでだけで見たように、何人もの学者や民間人が地道に足で歩いて調べた結果に対して、自分で動いて確認しようともせず、その穴を見つけて鬼の首を取ったように強調するばかりで広範囲な視野で見ようともしない彼ら(例えば後述する大学教授の資格を持つ似非学者と言っていい東中野修道など)の探究心の無さは明白である。それに大多数の中国兵は城内ではなく、13日までの城外の戦闘で捕虜となってそのまま揚子江岸(下関埠頭など)に連行されて殺戮されたことを見落としてはならない。

 ともあれ、第九師団の同じ「概要」の中で「判明せるもの」として上げられている数字に、12月10日の攻撃開始から13日までの自軍の損害は、戦死460名、負傷1156名、それに対し敵軍の遺棄死体4500(これは戦闘によるもので虐殺には入らない)、この他(13日以降の)城内掃蕩数約7000とある。この7千人をどうしたか、つまりその食料を師団に請求したのかどうなのかが書かれていない。そのことを以下、陣中日記等から探ってみる。同じ「南京戦史資料集1」からである。

第九師団の兵士たちの日記その他

【歩兵第7連隊の日付順の混成記録】

  以下は第九師団歩兵第7連隊の陣中日記あるいは兵士の日記から日付順に編集したものである。

12月13日 : 「西作命第167号により午前7時30分東南方山麓に集結し本隊となり中山門に向い前進す。 … 中隊は午後1時40分中山門より入城、西作命第168に依り城内掃蕩を実施す」

 同日 、「引き続いて市内の掃蕩に移る。市内と言っても大都市南京、ほんの一部分の取りついた附近の小範囲に過ぎない、夥しい若者を狩り出して来る。色々の角度から調べて、敵の軍人らしい者21名を残し、後は全部放免する」(水谷荘)

12月14日:「朝来掃蕩を行ふ。地区内に難民区あり。避難民約十万と算せらる」(連隊長:伊佐一男)

 同日、「昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩にあたり、若い男子のほとんどの、大勢の人員が狩り出されてくる。靴ずれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢のよい者、目つきの鋭い者、などよく検討して残した。昨日の21名と共に射殺する」(水谷荘)

 同日、「午前八時整列、城内掃蕩の為出発、敵最後の陣地攻撃す。 … 今日の戦闘は実に面白かった。 … 支那軍の屍は山を築き、血河をなして、兵器は皆捨て、馬はすて、道路上は実に無残なる近影である。 五百余名の支那軍捕虜兵を第八十八師の営庭で銃殺及び刺殺」(第3機関銃中隊:田中義信)

 同日、 「午前八時半整列して昨夜の地点を今一度残敵掃除に行く。昨夜の地点は国際避難地区を米国人が経営している。中立地帯として日本に願いに出ているが日本人は此は認めない。朝日新聞記者の報にて現場にかけつける。約600名の敗残兵が外人の建物にあふれている。此の処置を日本大使館に委任す。午後四時迄残敵掃蕩終わり帰る」(井家又一) 。

(筆者注:この時期、何の権限もない「日本大使館に委任」とはあり得ず、もしそうであるならその建前にして釈放したか、あるいは上記のように別働隊が処理しているものと思われる)

 こうした日記を裏付ける記者の記録がある。

 —— 「連絡員の一人が何かやっていると知らせて来た。何事かよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出かけた。行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、その全景を撮った。中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には五メートル平方、深さ三メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭部に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ死体となって落ちていった。左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。たまたま穴の方へ歩かされていた一人の中国兵が、いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた日本兵は、素早く小銃を構えて射殺したが、筆者から1mも離れていない後方からの射撃だったので銃弾が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだった。戦場で敵を殺すのは、殺さなければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持たない人聞を殺すには、自己の精神を狂気すれすれにまで高めないと、殺せないのだろう。写真を撮ったが、その門の上には「駐軍八十八師司令部」の文字が読みとれる。さらに営門の両側の哨舎のうち、右の哨舎には<伊佐部隊・棚橋部隊>、左の哨舎には歩哨の陰になっているが「棚OO 、捕虜収容所、歯獲品集積所」という文字が読める。八十八師といえば、中国軍の中でも蒋介石直轄の精鋭部隊として知られていた。ところで、八十八師の営門の哨舎に書かれている<伊佐部隊・棚橋部隊>とは、上海戦で勇戦し感状を受けた第九師団歩兵第七連隊第三大隊の通称である」(東京日日新聞=毎日新聞写真部:佐藤振壽「従軍とは歩くこと」より:『南京戦史資料集Ⅱ』 1993年)

12月15日:午後8時30分の連隊命令 —— 「連隊は明16日全力を難民区に指向し徹底的に敗残兵を捕捉殲滅せんとす/ 各大隊は明16日早朝よりその担任する掃蕩地区内の掃蕩、特に難民地区掃蕩を続行すべし」(注:17日に松井中支那方面軍司令官と皇族の朝香宮中将が入城式に来るためである)

 同日、 「朝来担任地域内の掃蕩を行う。午前九時半より旅団長閣下と共に地区内を巡視す」(連隊長:伊佐一男)

 同日、 「難民区に行く。広い道は逃走の間際脱ぎ捨てられたものの如く、支那軍の軍装で埋め尽くされていた。 …… よくもこんなに大量の軍服を脱ぎ捨てたものだ。その膨大な数量にも驚いたが、この軍服を脱ぎ捨てた敵将兵が悉く市内に潜伏しているとしたら、城内に夥し残敵が、便衣をまとって好機を狙っているのかも知れない」(水谷荘)

 同日、 「道路では早くも店を張っている。食料品がおもであり、散髪を大道でやっているのやら、立って喰っているの、家屋やら大道には人の鈴成りであり、40余名の敗残兵を突殺してしまう」(井家又一)

 同日、 「午前七時半出発。 支那第八十八師軍兵舎の附近で第三大隊は駐警す。その後警備隊形にある。 午后十時起床、支那軍捕虜兵、千七百名余名銃殺す。 陸戦隊警備地付近にて、見る間に屍は山となり、揚子江は血河流屍の流失で、血生ぐさき江流の絵巻は寒風深夜の風に何処の彼方に消え行く」(田中義信:第3機関銃中隊としての役目である。機関銃によっては一時間に五千発の弾丸を放てるという)

12月16日:「真黒暗の支那軍の銃殺終りて、帰舎時は午前六時。 西門城の屍を乗越え、拂暁に到着」(田中義信)

 同日、 「若い奴を335名捕らえて来る。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れて来るのである。まったくこれを連れ出すのにただ泣くだけなので困る。…… 揚子江付近にこの335名を他の兵が射殺に行った。この寒い月夜の中に永久の旅に出ずる者ぞ、何かの縁なのであろう。皇道宣布の犠牲となりてゆくのだ。日本軍司令部で二度と腰の立て得ない様にする為に若人は皆殺すのである」(井家又一)

 同日、 「午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通遮断の上、各中隊分担の地域内を掃蕩する。 目につく殆どの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行してくる。各中隊とも何百名も狩り出して来るが、第一中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引き立てて来る。その直ぐ後に続いて、家族である母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。市民と認められる者は直ぐ帰して、36名を銃殺する。皆必死に泣いて助命を乞うが致し方もない。真実は判らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだいう。多少の犠牲者は止む得ない。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃蕩せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃蕩は厳しいものである」(水谷荘)

 同日、 「三日間に亙る掃蕩にて約6500を厳重処分す」(連隊長:伊佐一男)

 同日、 「難民区内で各中隊が定められた区画ごとに辻々に立哨し掃蕩・摘発した敗残兵と覚しき男たちを一ヶ所に集め、夕刻より命令に従い挹江門の外下関に連行した。私たちも敗残兵も以心伝心的に下関に行けば捕虜収容所があって、そこで用済みと思っていたので黙々と行進し、下関に着いたのは薄暮だった。他の部隊も同様に引率して来ており、相当な人数(数千単位)に上った。そのままだいぶ時間が経ち、その中、どこからともなく刺殺する部隊が出て来て、…(中略)帰途の道すがら、小隊長が『今からの戦争は民族と民族の戦いだから …』と自らを納得させるかのように言われた」(Y・N)

 上記と同じく東京日日新聞(現・毎日新聞)写真部、佐藤振壽の記述である。

 —— 「難民区近くを通りかかると、何やら人だかりがして騒々しい。そして大勢の中国の女が、私の乗った車に駆け寄って来た。車を止めると助手台の窓から身を車の中に乗り入れ、口々に何か懇願するような言葉を発しているが、中国語が判らないからその意味は理解できない。しかし、それらの言葉のトーンで何か助けを求めていることだけはわかった。彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と同じ服装をしていた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろう(上記、伊佐の約6500に相応する)と答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた」。

12月17日: 「昨夜12時頃、非常呼集があって、第一機関銃中隊は揚子江河岸に1200名の銃殺に行っていたが、夜中に入りそれまで死体を装っていた多数の相手に包囲されて苦戦中とのこと、急遽出動したが、途中で大隊本部よりの命令で概ね鎮圧した由」(水谷荘)

12月19日: 「醤油と砂糖の徴発に出かけ難民の家に行き、箱から蓋を取った釜の中を見、引出の中を聞き色々と探すのだ。難民の見ている前でやるのだから彼等とて恐ろしい日本兵のこと、何もすることも出来ず、するままである。畑の中で葱、人参、菜葉を取って籠まで取ってきて難民に洗わし掃除まで皆やらすのだ。手榴弾を取って来て池の中に投げ、魚を取る。全く悪い事を出来うるかぎり働くのだ」(井家又一)

12月22日: 「タ闇迫る午後五時大隊本部に集合して敗残兵を殺しに行くのだと。見れば本部の庭に161名の支那人が神妙にひかえている。後に死が近いのも知らず我々の行動を眺めていた。彼らを連れて南京外人街を叱りつつ(歩かせ)、日はすで西山に没してすでに人の変動が分るのみで家屋も点々とあるのみ、池のふちにつれて来、一軒家にぶちこめた。その家屋から五人連をつれてきて突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落着きを失っているのを見る。戦にやぶれた兵の行先は日本人軍に殺されるのだ。針金で腕をしめる、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩くのもいた。突かれた兵が死んだまね、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人がとんで出て来たのを突殺す。暗き中にエイエイと気合をかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しパンパンと打つ、一時この付近を地獄の様にしてしまった。終りて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。後の家屋は炎々として燃えすでに屋根瓦が落ちる、火の粉は飛散しているのである。帰る道振返れば赤く焼けつつある。向うの竹薮の上に星の灯を見る、割合に呑気な状態でかえる。そして勇敢な革命歌を歌い歩調を取って死の道を歩む敗残兵の話の花を咲かす」(井家又一)

 この後第7連隊は常熟(蘇州)に向かう。(以上は主に『南京戦史資料集 I 』偕行社:1989年より)

【歩兵36連隊の記録】

 同じ第九師団の歩兵36連隊は南京陥落後、第一線から予備隊に回され、掃蕩任務からも外されて気楽に過ごしていることが見られる。

 乙副官の菅原茂俊の日記(『南京戦史資料集 II』)では、上海戦後の11月下旬から南京に向けて第一線で、13日朝の陥落まで多くの戦友や上官を失いながら連戦してきた様子が書かれている。

 12月13日 —「どうも昨夜から敵の銃声が少ない。三時ごろからさっぱり応射しない。午前六時過ぎ第一線は城壁上を占領したとの報告あり。城壁に近付けば壮烈な戦死者の死体が転がっている。城壁に上れば軍旗を出し宮城(皇居)を遥拝す。万感胸に迫り感慨無量。中山門に日章旗を見る。喇叭を聞くと亡き戦友達のことが思われ知らず涙が流れた。夕、会食祝杯、記者団と共に。歩兵19連隊(同じ第九師団)は夜八時過ぎ軍司令部方向に移動、残敵掃蕩らしい」。

 14日 —「久しぶりにのんびりと過ごす。風呂に入り心地よし。何もすることがない」

 15日 —「のん気な一日。家へ手紙を書く。何もすることがない。…… 自動車徴発に行くも面白からず …」

 16日 —「午後、トラックで自動車徴発班の様子を見に行く。途中大通りを通りいろんな大きな建物を見る …」

 17日 —「入城式。自分は残留。しばらく本部で遊んで帰る。午後四時、明日の慰霊祭の打ち合わせに行く」

 等と、第7連隊の掃蕩作戦従事者と大きな違いがある。実際、前線で戦闘が続く中でもこのような交代があったことは各兵士の日記の中でもよく見られ、先述の同師団第36連隊の山本武も南京陥落後は予備部隊となり、同じくこの期間は暇の中にあった。

 以下は南京攻略以前に記した第36連隊山本武の日記の続きである。

 12月13日 — 光華門上に高く日の丸の旗が上がっている。双眼鏡で見ると城壁には第一線の勇士達が銃を振り上げ万歳を叫んでいる。どんなに嬉しかろう。… しかも一番乗りの栄光は我が連隊の将兵の手によってあげられた。… 祝福する気持ちとともに自分が第一線に参加できず敗残兵の掃蕩くらいで日を暮らし戦が終わってしまったのが淋しく、万歳をしている彼らがうらやましい。

 12月14日 — 街の中は兵隊がたくさんブラブラと歩いており、トラックや自動車が走り、平和な気分があふれている。ただ昨日、軍司令官令により、略奪、放火をはじめ、諸注意事項が厳達されたにも関わらず、あちこち火災があり、軍記厳正は掛け声ばかりの感じである。

 12月15日 — 14日付の新聞号外が来る。内地では南京城陥落を祝って旗行列、提灯行列、祝賀会など大変な騒ぎらしい。もちろんわが脇坂部隊一番乗りも報道されていて実に嬉しいかぎりである。

 12月19日 — 半月余りも勤めた、旅団長閣下警護の直括部隊の任を解かれ、やっと懐しの中隊に復帰する。午後、友達と南京の市内見物に出かけたが、かなり立派な洋館建ての建物は目立つけれど、市民はほとんど逃げて、索漠とした感じである。……

 なお、この朝風聞するところによると、こんどの南京攻略戦で、杭州湾に上陸した第六師団(熊本)が、南京の下関において、敵軍が対岸の浦口や蕪湖方向に退却せんし、揚子江岸部(下関)に集まった数万の兵達を、機銃掃射、砲撃、あるいは戦車、装甲車などによって大虐殺を行ない、 白旗を掲げ降伏した者を皆殺しにしたというので、軍司令官松井大将が「皇軍にあるまじき行為」として叱り、ただちに死体を処理せよとの厳命を下し、毎日六師団が死体を焼却するやら、舟で揚子江上に運び捨てているなど、現場はじつに惨たんたる情況である、という。物好きにも、わざわざ遠く下関まで見物に出かけた馬鹿者がいるらしい。

(注:この第六師団に関しては後述するが、この虐殺はほぼ第十六師団が関わっていて行軍記録によると、この時第六師団は捕虜を第十六師団に預けただけである)

 12月29日 — 昨夜来の雪は約二寸積る。午前七時二十分整列にて、八時より鉄路伝ひに、常州に向ふ。大平達は舟にて行く。雪道にて極めて道悪し。約五里前進して一小町に泊る。午後七時頃、便衣隊員らしい者一名連れ来り、土本等と共に惨殺す。大根のお菜おいしかった。

 筆者注:仮にこの菅原や山本の日記だけを見ると、どこに大量の虐殺なんかあったのか?単に聞いた話だけではないかとなるであろう。ただし、南京への進撃の途次、いずれも各地で数人あるいは数十人単位の捕虜や怪しいとにらんだ民間人殺戮をしているし、時には戦死した戦友の仇と思って殺して「気持ちよし」と書いたりしている。

 一方で第九師団第7連隊は戦車と第1中隊などの応援も得て、文字通り全力をあげて掃蕩にあたった。その成果を連隊長の伊佐大佐は、「約6500を厳重処分す」と記している。厳重処分とは、殺戮したということだが、本当に軍人の使う言葉というものは欺瞞的で偽善的というしかなく、このような軍人が横柄な態度で支配する世の中というのは戦場だけでなく、日本国内の空気をも歪めてしまっていた。

 この中で注意を引くのは「皇道宣布の犠牲」という言葉であり、そのような観念を兵士たちは叩き込まれて、虐殺も「止むをえない」として、無感覚に行っていたことがわかる。それまで収容されていた捕虜とともに大量に処刑された状況は、虐殺現場からそれこそ奇跡的に生き延びることができた者たちが、 安全区にある鼓楼病院などに助けを求めてくることによって、次第に知れるようになる(「南京にとどまった欧米人の難民のための奮闘とその記録」で後述する)。

 以上の中で少なくとも約6500を厳重処分したことがわかり、第九師団歩兵第7連隊の経過概要にある捕虜約7000とほぼ数字が一致し、これだけの人々が虐殺されていることがわかる。なお城内の掃蕩作戦は各部隊別に地域を区分けされているからこの数字で終わっていないことは理解できるだろう。

再び『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』から

 以下は同書にある第十六師団についての『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて——元兵士102人の証言』(松岡環)から掃蕩作戦に関わりのある証言を拾ったものである。

【兵士たちの証言】
*松崎二郎:歩兵第38連隊第3機関銃中隊

 —— 紫金山で投降してきた捕虜の人数は一万人位あって堯化門から南京城まで連れて行った。捕虜は飯食わさなあかんが、炊く物がない。捕虜を座らせたら、田んぼ2反ぐらいの面積になった。… その後、捕虜はどないなったかわからん。… わしら清掃を命じられた。… 中国の兵隊の服着てる者、兵隊ばかりじゃない普通の服着てる者、女の人もいる。輜重兵が大八車引っ張ってきて、それに自分の手で死体を乗せた。… 松井石根の入城式が17日にあるから片づけをどんどんやらなあいかん。すごい死体の数やった。歩兵も工兵もみんな入城式までやった。… やっぱり人を一人でも殺したら戦犯やな。息子にも戦争のことは聞かさへん。

*大窪寛三:第38連隊

 —— わしらが城内に入る時、残敵が逃げ遅れていっぱいいた。… 捕虜がたくさん投降してきた。釈放したらまた悪いことするんで、わしらも捕虜に疲れて、揚子江にどんどん連れて行って銃殺したな。毎日機関銃の音がした。トラックに捕虜をいっぱい乗せて行って、トラックはまた空で帰って来たな。… 陥落4日目に揚子江に一番近い挹江門を通った時、近くに死体が山ほど積んであった。高さは2mぐらいで道路の横の空き地に累々といくつもいくつも積んでいた。…とにかく積み上げられる所まで積み上げた。あれは後で、もうすぐ入城式なので日本軍の邪魔になるから整理したと思う。入城式の時は整然としてそんなものはなかった。死体は埋めたのか、揚子江に持って行って流したか、どちらかだと思う。(挹江門については既述参照)

*平山仁三郎:歩兵第33連隊

 —— 南京が陥落して、すぐに掃蕩に入った。13日、14日と城内掃蕩をやった。挹江門から入った時、死体をようけ見た。死体が5−6尺(約2m)に重なっていて、… 私らの一個分隊だけで、一日目の掃蕩戦で700人捕まえたな。重砲を積んだ馬車がその上を通る。わしら兵隊も死体をグシャっと踏んで城内へはいった、ぎょうさんやで。すごい数や。

*田中次郎:第33連隊

 —— 12月14日、揚子江岸で捕虜を1200人いっぺんに処分した。日記に書いているように惨い事ことでした。遺棄された手榴弾も武器もざらに落ちていて、拾っていたんですわ。手榴弾は信管を引き抜き、掃蕩する家の中に次々と手当たり次第投げ込んだ。… 捕虜狩りの時は人数を数える暇もなく、どんどん捕まえた。捕虜と言っても中国服着た男ばっかり。掃蕩をやる時は中隊長の指揮によってで、注意事項と言うものはなく「戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ」と上部の命令として言われていた。… 実際、捕らえても一人一人を調べることなどしなかった。おとなしく投降しても、中国人は全部殺してしまう。手榴弾を捕虜の処分にも使っていた。最初自分たちがあんなたくさんの捕虜を全員撃ち殺したことから考えたら、(他の部隊の)捕虜は全部処分されたのだと思う。

*山川裕美:十六師団の輜重兵第16連隊

 —— 初めて南京に入った時、外側の道の両側に死体がずっと並んでいたのが見えた。入城式の1、2日前やったかな、男ばかり7人捕まえたんや。班長は「どないなとせい」言うて、わしら分隊の者は、支那人を突き殺したろかと、銃剣を胸元に突きつけたんや。弾をあまり使うなと言われてたからな、銃を撃つと難儀やさかい、突き殺そうと言って、そいつらみんな後ろを向かせたんや、けど「1発の弾で何人殺せるやろ」と言うた者がおってな。それで、7人を全部同じ方向に向かせて、腹の辺りを銃でうったんや。7人全部貫通したわ。みんな倒れたで。小銃の威力はすごいもんや。… 隠れていた女の子を引っ張り出して、 日本軍が好き勝手にやるのを見て、手榴弾でも放り込もうと思ったこともあったな。将校は休憩に入ったらまずク-ニャン(若い女性)探しに行ったな。

*小竹巌一:輜重兵第16連隊

 —— 南京では掃蕩で敗残兵を見た。制服着てるもんもおるし、民間服着てるもんもおる。銃でたたいてたたき殺したり、撃ってころしたり、殺さんかったら向うへ行かれへん。少ないときで5から6人、多いときは50人から100人ちかいときもある。どこの部隊かわからんくらいあっちこっちで掃蕩しとる。捕まえても殺してしまう。残しといたら今殺さないと後の人が殺されるからなあ。わしは輜重やったから歩兵とはちょっと違うけどな。歩兵が第一線やからそのすぐあとに行くんや。徴発のとき女を見つけたら兵隊によっては追いかけまわすもんもおった。兵隊の半分はやっとる。路上でもどこでもやる。中国人が逃げたら撃つんや。オイ!と声かけてポンと撃つ、ポンコロや。

【欧米ジャーナリストの報道と国内の様子】

 一方でニューヨーク・タイムズの記者ダーディンが15日までに(城外で)2万人の捕虜処刑と数千人の民間人の殺害があったと報告しているが、それに加えての記述。

—— 「16日から17日の午前にかけて(城内の)掃蕩作戦による虐殺が行われている。実は敗残兵は追手を逃れるために普段の服装に着替えたりして(便衣隊と呼ぶ)身を隠すものが多かったため、日本軍は徹底的に取り調べを行い、そのため兵士の疑いをかけられた一般の男性も捉えられて殺される者が多かった。すでに南京在住の欧米人によって安全区(難民区)が作られていて、そこに軍隊が立ち入らないように要請されていたが、16日にはたとえ難民区内であっても便衣隊が逃げ込んでいるとして、一般男子難民を巻き込んだ敗残兵狩りが行われ、城外に連れ出されて虐殺された」(『南京難民区の百日―虐殺を見た外国人―』笠原十九司)

 17日の南京入城式は中山門より陸軍部隊、挹江門より海軍部隊が入城し、 国民政府の庁舎の正面内庭で入城式典が挙行された。その様子は大報道陣によってニュース映画、ラジオ、 新聞、雑誌を通して大々的に日本国内に報道され、国民は沸き立ち、国内の各地では改めて提灯行列も行われた。入城式で主役を演じた司令官の松井石根は、得意絶頂にあった。そしてその裏で勝利の美酒に酔いたい日本軍の兵士たちは、式典後に城内で略奪や婦女への強姦などに走った。

第十六師団第20連隊兵士たちの証言や日記

 以下は主に第十六師団の兵士の日記の南京入城後(12月13日以降)の記録(『南京事件・京都師団関係資料集』)からである。なおこの第十六師団第20連隊は南京城内の掃蕩作戦に関わっている隊と関わっていない隊に分かれている。

*増田六助:第十六師団第20連隊第4中隊伍長

 増田の属する第4中隊長坂清が隊員に南京入城後の体験を書かせたものの一つである。この時期の日本兵に共通する心情が書かれている。

 12月13日 — この日こそが我が国史の上に永遠に燦として輝く南京陥落の日である。…… 蒋政権は破邪顕正の刃を止むる盾なく正義に劔とる我皇軍の前にはひとたまりもなく、僅か三日間の攻撃にてもろくも破れた各城門には日章旗が翩翻と飜えり、皇軍勇士の凛とした顔には感激の涙さえ光っていた。中隊は息つく暇もなく田中少尉指揮下に城内の敗残兵掃蕩を開始した。南京大衆病院に踏み込んだが、血まみれの軍服や毛布等があるばかりで、憎き支那軍の収容所であっただけでも腹が立つ。戸棚や机など手当たり次第に打ち壊した。そこを引き上げての道路一帯には兵器、弾薬、被覆から馬や車が打ち捨てられ、建並ぶ商家はすっかり持ち去られて何一つなかった。その夜は久しぶりに家屋に泊まることになった。掠奪は本意ではないが、これまでの不眠不休の戦闘と幾多の戦友の尊き犠牲があっての今日である。方々から徴発した洋酒、ビール、支那酒、色々の缶詰類を集めて呑み、祝戦捷の歌を朗らかに歌った。

 12月14日 — 今日は国際委員会の設置している難民区へ掃蕩に行く。昨日まで必死に抵抗していた数万の敗残兵は、八方より包囲されて唯の一人も逃げていない。結局この難民区へ逃げ込んでいるのだ。今日こそ虱潰しに、草の根を分けても捜し出し、亡き戦友の恨みを晴らしてやろうと意気込んで配置に付いた。各小隊分かれて、それぞれ複雑な支那家屋を一々捜して男は全部取り調べた。… 片っ端から引っ張り出して裸にして持ち物の検査をし、道路へ垂れ下がっている電線で数珠つなぎにした。大西伍長、井本伍長をはじめ気の立っている者どもは、木の枝や電線で力まかせにしばき付けながら、「きさま達のために俺たちはこんなに苦労しているんだ、エイ、ピシャン … 素裸の頭といわず背中といわず蹴る、しばく、たたく、思い思いの気晴らしをやった。少なくとも300人くらいはいる。ちょっと多すぎて始末に困った。しばらくして委員会の腕章をつけた支那人に「他に中国兵はいるか?」と聞くと向うの大きな建物を指した。そこに入ってみると一杯の避難民がいて、その中の怪しそうな者千名ばかり選び出し、またその中より兵隊に違いない者ばかりを選び最後に300人くらいを縛った。金や時計を出して命乞する者もあったが、投げ捨てて知らん顔をした。… 夕闇せまるころ、600人近くの敗残兵の大群を引き立てて玄武門に至り、その近くで一度に銃殺した。各隊にても又同じ処置という。

 また、同じ『南京事件・京都師団関係資料集』にあるA・J中尉(第十六師団20連隊12中隊)の14日の陣中日記より

 —— 野戦重砲の掩護にゆく。投降者二百余名 死刑に処す。一匹、余自ら一刀両断。手ごたえ小気味よし。血を吸うた業物の切れ味格別なり。白旗を翻えすもの次第に多く続々投降す。其の数二千以上一万。

 今ひとつ、第十六師団経理部予備主計少尉の小原立一の日記(『南京事件』秦郁彦:中公新書、2007年)の14日より

 —— 最前線の兵七名で凡そ三百十名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った(注:この数字は下記牧原の日記と符合するが、次の二百人と二千名はA・J中尉と一致する)。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す。… 中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた。(注:「木片を」と同様な事例・描写はあちこちにあるが、筆者は書き写すに忍びずできるだけ避けていたが、同様な行為があまりにも多くここでは記した)

*北山与(あとう):第20連隊第3機関銃中隊

 12月13日 — 朝方から砲銃声の音が絶える。さてはと思うと「中山門に向かって前進すべし」との命令。… 西山を一回りして下りて来ると、壕内に敗残兵がいたと大勢の人達が集ってヤイヤイ云っている。紅顔の美少年である。シャツは抗日救国連合会(注:1931年=昭和6年の満州事変以後から形成された組織で国民党正規軍や共産党軍とは異なる)の署名入りのものを着ている。祖国中華民国を守れと随分苦労したろう。余り皆んなが残酷な殺し方をしようとするので見るに忍びず僕が銃殺しようとするが、皆が承知しない。戦友が無残な死に方をしたので唯の殺し方では虫が納まらぬのだと云っている。無理からぬこと。だが余りに感情的ではないだろうか。日本軍は正義の軍であり、同時に文化の軍でなければならない。同じ人を殺すにしてなるだけ苦しめず一思いにバッサリ殺ってやるのが、日本の武士道ではないだろうか。少しの抵抗もせず、ここを撃って殺して呉れと喉を示して哀願するのを、寄ってたかって虐殺するのは、日本兵の恥である。

 14日 — 午後2時戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。午後12時過ぎ掃蕩から帰る。800名程武装解除したらしい。皆んな一人残らず殺すらしい。敵兵もよもや殺されるなぞとは思っていまい。学生が主力らしく大学生なぞ沢山居たと云う(シャツは抗日救国連合会の名入りのものを着ている)。生かして置けば随分世界文化の発展に貢献する人も有るだろうが惜しいものだ。尊い生命が何の躊躇もなく失われて行く。戦争の酷烈な姿をつくづく感じる。(注:言うまでもなく、この生きていれば「世界文化の発展に貢献する人もあるだろう」という思いは、この時この兵士も普通の感覚を取り戻していたのであろうが、のちの太平洋戦争終盤に、学徒出陣などによって日本の若者たちに再現されることになる)

 15日 — 愈々南京入城である。今日のため、この喜びのため、みんなすべてを犠牲にして耐え忍んできたのだ。勝利の時振って喜べとの背嚢から出した国旗が銃の先頭に、馬の背中に、車輌にハタハタと翻っている。

 16日 — 戦銃隊は城内敗残兵掃蕩に行く。(我々は)炊事場、入浴場、厩舎なぞ設備する。国際委員会管理下に避難民区という特別な地域があり、入って見る。随分収容している。帰る途中、飲料店があってサイダーが山ほどある。早速付近で人力車を一台徴発し、いっぱい乗せて你公に曳かせて帰る。他の者も寝台、家具、酒、砂糖、飴、蓄音機なぞ(他にも鉛筆、石鹸、銀製のフォークなど)沢山持って帰っている。

 20日 — 連隊の慰霊祭に参列する。正面に並べられた二百に近い遺骨、早くもこれだけの戦友がなくなったのだ。尊い戦の犠牲、護国の鬼と化した戦友に一同涙を流す。(注:「尊い戦」「護国の鬼」という言葉に違和感が残るのは筆者だけではないだろう。何よりもこの戦争は「護国」のためではなく侵略戦争なのである)

 27日 — 漢中門を出て菜っ葉、水牛の徴発に行く。出た所、物凄い死人の山である。500を越えるであろう。折重なって殺されている。敵兵が主らしいが一般の你公の服装のも居る。大方敗残兵を始末したものだろう。道路の両側も敵兵の死体で一杯である。

*牧原信夫:第20連隊第3機関銃中隊(下関および幕府山事件と合わせて参照)

 12月13日 — 午前五時、西山高地を出発、南京街道に出る。途中敵の遺棄死体や手榴弾、小銃弾が無数に捨てられている。話では十二中隊の将校斥候が西山下の三叉路で敵の地雷にかかり三名即死、六名が負傷とのこと。道々では敵が敵の地雷にかかり手足が飛び無残にも真っ黒になって四名が死んでいた。大隊は城門手前にある遺族学校にて朝食とり、その後城門手前百米の土手にて休息する。新聞記者も続々と嬉しそうに自動車や徒歩にて入城する。(同学校で昼食をとり)中山門に向かう。九中隊は紫金山の残敵掃蕩か?

 14日 — 午前7時起床。午前8時半、第一分隊は12中隊に協力。馬群方面の掃蕩に行く。敵も食うに食なくふらふらで出て来たそうだ。直ちに自動車にて出発す。しかし到着したときには小銃中隊だけで、310名位の敵の武装解除を終り待っていたとの事。早速行って全部銃殺して帰って来た。… 午後2時大隊は山岳部の掃蕩に行く事になった。… 岔路口手前約一里半の所で九中隊は一ヶ分隊の兵力で約1800名からの支那軍を連れて帰ってくるのに出会った。敵は食なくふらふらしていたのも可哀想であった。… また鉄道線路のすぐわきの所には百余りもの支那軍が友軍の騎兵隊の夜襲を受け全滅していた。… 今一つの悲惨な光景は、とある大きな車庫の様な建物に150−160名の敵兵が油の様なものをふりかけられ焼死体となって扉から一生懸命のがれようともがいたまま倒れていた。しかし今は僕達いくら死体を見ても何とも思わなくなった。午後11時50分無事到着。

 15日 — 午後、師団の入城式に参加するために第三大隊のみ師団長閣下を迎えての入城式に参列する。さすがは敵の首都、立派な建物が軒を並べて堂々と立っている。… 入門してより約一里(4km)ほど前進したある建物に泊まることになった。… 午後四時半、全員建物前に揃い、夫々徴発をして各宿舎に着く。三、四ヶ所火の手が上がるのが見えた。

 16日 — 本日各大隊は掃蕩に出る。…… 過日来悪戦苦闘して前進した道を逆に進む。… 午後、王家街に到着。道中、国旗を高々と掲げ、逃げるものは逃げよ、我は追わずといった誠に陽気な討伐振りであった。

 17日 — 連隊は午前八時半、謝塘(江寧区)を出発、部落を通過毎に火をつけて南京に向かう。…… 途中、野菜徴発が許され各中隊は徴発に飛び出す。歩兵学校にて昼食をとり出発、午後南京市街に帰る。今夜も二、三ヶ所に火の手が上がっている。(この日は正式な入城式があったが参加していない)

 19日 — (朝食を終え)城外に副食物の徴発に出る。しかし城外には十三師団の各隊がいるため駄目だった。約1時間休息しその家を焼いて帰る。… 城内に入ると相変わらず遺棄死体(注:中国軍が遺体を収容せずに放置したもの)が転がっていた。途中雑貨商店に入り、手帳、鉛筆、インクを徴発して中隊宿舎に戻る。

 21日 — 毎晩の様にあちこちで火事が起きるので不審に思っていたところ、果せるかな支那人の一部が日本人の居る附近に石油をまき、付火する様だった。今日は1名捕えて殺す。

 27日 — 午前6時起床。直ちに食事準備をなして食事を終え、午前8時野菜の徴発に出る。四方伍長引卒なり。漢中門を通り揚子江の方に向う。漢中門を出た所には5、6百の死体が真っ黒に焼かれ折重なって倒れている(注:この光景は上記北山の日記の重なる)。焼けただれた皮膚が黄味を帯びて全く見苦しい。戦闘が間遠になっている関係か気持が悪くなった。あちこちにこのような無残な死体が散乱していた。大きな橋を渡り更に進む。道端には更に遺棄死体がころがっている。

(この後第三大隊は南京から25kmの湯水鎮へ転進、その後満州に向かう)

*上羽武一郎:第20連隊衛生隊第2分隊衛生兵

 12月13日 — 午前二時半、今中工兵隊の爆薬で突撃路を開き、三時十分、我福知山第二十の大野隊が一番に占領したと太々と記してあるを見たとき、本当にうれしかった。夕7時、我々一車両が病院へ行く途中敵襲に合い、生きた気持ちせず。歩兵がトラックに分乗、早速かけつけて難なく撃退する。話に依れば、300人程度の兵を武装解除して倉庫に入れ、10人ずつ出して殺して居る時、此を見た中のやつがあばれ出し、7、8人で守って居た我兵の内38銃をもぎとられて交戦し、それが逃げてきたらしい。彼等は武装解除して使役にでも使われると思ったらしい。

 14日 — 患者を第二病院、南京中国病院へ運ぶ。城壁、中山門の砲の弾痕物凄し。

 15日 — 話に依れば、城内北方に敵武装解除したる兵1万5千人居て、此れを機関銃で囲んでいるそうな。又紫金山のトーチカ内に1ケ師団程いて、此れも囲んで守って居るそうな。徴発(物品略奪)にいく。面白い、何もかも引っぱり出してさがして行く。 

 18日 — 徴発に出る、面白し。洋服を着るやら、トランク下げるやら種々様々の服装でもはや凱旋気分一杯だ。

 21日 — 晴、行軍をなして中山陵激戦の跡を見学に行く。太平門の入口にうち殺した死体五百名程が無残につんであった。人間もはかないものなり。腹を突き破り、頭、顔等所かまわず切った死体、砲車(の残骸)等中々奮戦の跡を思わせる。… 午後1時松田部隊長の訓示ある(軍紀厳正 健康保全)。戦車も今日徴発に出とる。

 31日 — 曇、南京波止場迄わら取りに行ったが、一つもなかった。駆逐艦や御用船が居るわ居るわ。逃散兵が河の波打際に五、六百程殺されて投げられていた。

*東史郎:第20連隊第3中隊

 12月13日 — 午前七時整列、南京は昨夜陥落、只今より入城すると中隊長は宣言した。何という大きな喜びであり興奮であろうか。しかしあの時(臆病な)中隊長が進軍停止命令を出さなければ我らの手で一番乗りの栄誉を勝ち得られたのに誠に残念なことであった。この日我々分隊は負傷者の護衛収容を命じられ、南京入城はできなかった。

 14日 — 四方城を出て南京城に向かう。死骸は黒ずんでふくれ道端に転がっている。高い城壁が現れた。中央に大きな三つの門があった。真ん中の半開きの扉に「大野部隊(東の20連隊)十三日午前三時十分占領」とあり、新聞記者がパチパチと写真を撮っている。兵士たちの顔も明るく朗らかに笑っている。… 中隊の在所に行った。中隊の兵達は沢山の菓子を持っている。久しぶりに菓子をたらふく食った。

 16日 —(注:以下は既述の内容と重複する) — 昨日の入城式(注:第十六師団のみのもの)には大野部隊として自分たちも参加したことになっていると言ってくれた。当たり前だ。…… 突然捕虜収容の命令が来た。捕虜は約二万人だという。軽装で出かけ、夜になり三、四里歩いたと思われる頃、無数の煙草の火が明滅し、蛙のような喧騒を聞いた。約七千人の捕虜が畑の中に武装解除されて座っている。枯枝に結びつけた二本の白旗を取り巻く七千人の捕虜は壮観な眺めである。あり合わせの白布を木枝に結びつけて降参してきた様子を想像するとおかしくもあり哀れである。… これだけの兵力には相当な数の将校がいたに違いないが、一名残らずうまく逃げた者だと感心する。我々は白旗を先頭に四列縦隊に彼らを並べ、前進をさせた。… 彼らの中には十二、三歳の少年さえ混じっている。休息になると彼らは再三、「私は殺されるのか」と尋ねた。私は顔を横に振ってこの哀れな羊達に安心を与えた。夜が深まった頃、下麒麟村(南京城外東方)のとある大きな建物に到着し、彼らを全部この中に入れた。彼らは入ることを躊躇していたが、仕方なく入っていった。戦友のある者は門を入っていく彼らから毛布や布団をむしり取ろうとし、取られまいとする捕虜と争っていた。捕虜の収容を終えた私達はコンクリートの床だけの焼け残った家に宿営することになった。

 翌朝(17日)私達は馬群鎮(麒麟門の西方南京寄り)の警備を命ぜられた。この馬群鎮の警備についている間に、昨日の捕虜達は二、三百名あて割り当てられて殺されたという。何故この多数の捕虜が殺されたのか私達にはわからない。七千の命が一度に消されたということは信じられない事実である。… 私達の生命は、戦争という巨大な箒にはき捨てられていく何でもないものなのだーと思うと、戦争に激しい憎悪を感じる。

 21日 — 城内警備を命ぜられ馬群鎮を去る。何処からか一人の支那人が引っ張られてきた。戦友達は子犬を捕まえた子供のように彼をなぶり、さらに一人の兵が彼を郵便袋の中に入れ、フットボールのように蹴り、小便をかけ、そして自動車からガソリンを出して火をつけた。袋の中から悲鳴が上がり、袋は火玉のように転がった。戦友達の中にはこれを面白がっていた。「そんなに熱ければ冷たくしてやろう」と手榴弾を袋に結びつけ、そばの沼の中に放り込んだ。火が消えて袋が沈み、手榴弾が水中で炸裂した。… こんな事は戦場では何の罪悪でもない。ただこの男の残忍性に私達が呆れただけである。次の時間には何もなかったように鼻歌を歌って歩いている。洋館造りのアパートを宿営と定め、相変わらず家々から徴発して食料をかき集め、奪ったもので部屋を飾った。

 —— 毎日何もすることはなく、苦のない楽しい日々を送った。話題は帰国がいつになり凱旋できるかということだった。… 次の宿舎は下関(注:大量虐殺のあった場所の一つ、下記参照)に近い敵の軍政部だった。ここで次の出発までの一ヶ月を過ごすことになった。近くの平屋の多くの部屋には敵の負傷兵208人がいた。彼等の治療には我々大隊の軍医があたり、毎日午後三時には姑娘の看護婦四名が自動車でやってきた。(筆者注:この捕虜の負傷兵を治療するという話はまず他では見られず、特別な事情があったのか、管理する大隊長が善意に溢れた人物であったのか、その経緯はわからない)。私達は慰問袋の中の煙草をかけて朝から晩までトランプでカブというバクチをやった。私達は武功に輝く南京一番乗りの勇士であると気負い、充足感の中にいた。自分たちが得た骨董などの徴発品の品定めもやった。毎日大飯を食らって五日に一回兵営に行く以外は何もすることがなかった。

 —— 本日は難民区の掃蕩をする。「怪しい者、隠された兵器などを全部出して来い」との中隊長の命令で、中山通りの裏側の国際委員会による難民区の家々をしらみつぶしに探した。… 手榴弾が十発、怪しい男が七名拉致された。銃殺を考えていると、日本に住んでいた日本語の話せる男がやってきて、彼らは皆善良な住民であるから解放してほしいと嘆願した。彼の出現に驚いたが、これまで言葉が通じない故にどれだけ多くの良民が残敵あるいは悪意のある住民として我々の手で命を失ったかしれない。私達は手榴弾だけを収穫として帰った。

 昭和13年1月1日 — 27歳の正月を支那大陸で迎える。内地から届く新聞には華々しい戦場が描かれ、戦果が記載されている。だがその現実は如何に惨めなことよ。

 —— 南京の街にはやっと電灯が輝いた。一月のある日、慰安所へ行きたいものは申し出よとの達しがあった。この聞き慣れない慰安所とはいわゆる売笑婦のいるところで、日本人の売笑婦が五台のトラックで市街をデモ行進して、兵士達が嬉しさに大騒ぎしたニュースの数日後の事だ。この種の商売人(仲介人)の抜け目のなさも感心するが、この戦線の地まで肉を売りに来る日本の女達には不快な気持ちになる。… 「中山路の周り角の空き家に10人いるぞ / いや、こっちの洋館に30人いる / 支那女もいる / 朝鮮女もいる」と兵士達は喜びにあふれた声で言い合う。「兵隊さーん」と呼ぶ黄色い声がわけもなく勇士達の心を打ち砕く。

 筆者注:日本女性も中国、朝鮮の女性もほぼ専門の仲介人が軍に依頼されて連れてくるのが通常で、この後の太平洋戦争まで「従軍慰安婦」(これは後の言葉)として「徴用」されていた。ただしこの時期の南京では下記においても触れるが、慰安所で金を払うより、「徴発」したほうがタダでできるとして相変わらず女性への暴虐が続いた。

 1月23日 — 南京と別れる日が来た。夜明け前に出発。やがて城門に近づいた。城壁には無数の縄がぶら下げてあった(注:既述の挹江門事件参照)。… 朝日の中に長江が輝き、無数の大船や灰色の軍艦が現れる。夜が明けると私たちの前に凄惨な光景が展開した。岸壁に牛や豚のように虐殺され放り込まれた敵兵の膨れ上がった黒い死体が揚子江のなぎさに山となって転がっている。この黒い死体の上を黄色い河水がひたひたと洗っている。流された死体は丸太棒のように揺られている。ある死体は連絡線の下敷きになっている。兵士達は踏めばぐしゃりとして贓物の出てきそうな腫れ上がった死体の上を硬い靴でポンポンと飛んで連絡線に乗る。(注:こうした光景は下記の「下関における虐殺」の結果である)

 水上工兵達はボートの上から長い柄の先についた鉄の鉤にこれらの死体をぐいと引っかけて沖へ流しに行く。その工兵の一人が、「毎日トラックで一杯敗残兵を積んできた奴を波止場にずらりと並べておいて河の中に突き落とし、泳ぐ奴をズドンズドンと撃ち殺すのだ。これが俺の毎日の仕事だよ」と顎をしゃくって言った。嫌な仕事だ。… 私達は「帰国だ、帰国だ」と叫びながら六千トンの新興丸の船底へもぐった。その後馬の積み込み、車輌の積み込みが終日行われた。翌朝、1800人を乗せた軍用船は河口から海へと出発。(その後大連着、帰国とはならず、翌年末まで満州北部に従軍する)

 筆者注:東は元の戦時下の日記を二年後に除隊になってから二年をかけて清書しながら書き加えているが、少なくとも15日以降からの時系列が曖昧で、例えば15日については「昨日の入城式」と書いてあるので、同じ連隊の記録から付け合わせてみるとそれは16日となり、翌日七千人の捕虜収容の任務に就き、その翌日は別の場所の警備をしたとだけで、その後20日までの記録もないまま21日に急に移っている。それまで日々の出来事を欠かさずに詳しく記しているだけに、この欠落はいかにも不自然で、どうしても自分の言葉で語り得ない(彼が直接関わった)非情な出来事がこの期間にあり、東はあえて記述を避けているように思われる。この期間、予備隊に変えられて「何もすることのない」警備に付いていたとしても、下記のような出来事がいくつもあったはずであり、むしろ前線から予備隊に交代した時期にこそ日本軍は駐屯する町や村で食料調達などの名目で蛮行を行なっている傾向がある。

 なお東史郎は最初に『わが南京プラトーン』(1987年)を上梓し、その後日記全体をまとめた『東史郎日記』(2001年)が熊本出版文化会館によって上梓されているが、この期間の記述を比較すると、後者ではおそらく編集者が訂正した日付が間違っているように見え、あるいは東があえてそうさせたのか、いずれにしろこの期間、東とその部隊がどんなことに関わっていたのか不信感が残る。

*小林太郎:第9連隊

 12月13日 — 6時30分発、午後2時半、中山門より南京へ入城す。城内の掃蕩をすませ宿舎に入る。

 12月14日 — 午前9時より大隊の予備隊として市内北部を掃蕩する。

 12月15日 — 午後、中山路を東へ向かう。宿舎に入り、酒、煙草、キャラメル等加給せられる。

 12月16日 — 敗残兵討伐に向かう。稜線で敵の白旗を持った降下兵に出会う。

 12月17日 — 帰途に紫金山麓を討伐す。地雷に他の隊の者7名かかり手足がばらばら、可哀想に。

 12月21日 — (自分を含む)機械技術者4人が中隊より選ばれて南京発電所水道局の復活作業に行くことになる。下関発電所にまず行く。支那人を特務機関で集め、作業を開始。

 12月22日 — 発電所に向かうが、700m離れた宿舎に入り準備をなす。日本語の話せる支那人が連れてきた三人の苦力(クーリー)のうちの年若の一人が手癖悪く加給品の缶詰や煙草を取ったので夜死刑に処す。

 12月26日 — 北尾氏、豚を撃ちに行く。発電所の支那人を連れてボイラーを点検、まず他の発電所で発電しここへ送電せねばならぬことがわかった。

 12月29日 — 支那人の前発電所に居た技師を特務機関で発見、通訳してもらって上坊門の予備発電所のある事を発見。

 12月31日 — 下関発電所の組と私は上坊門の交代に行く。昨日より運転している各変電所と連絡なり。軍司令部、師団司令部及宿舎に本日送電を開始す。中島師団長、涙を流し喜ばれ、白鹿(酒)を一樽加給せらる。

(『中国戦線、ある日本人兵士の日記』新日本出版社:小林太郎 2021年』)

 筆者注:ここから小林が肝心の下関発電所を復旧させるのに1月11日までかかる。実はこの下関発電所は日本軍が南京を攻撃するときに爆撃機で破壊したもので、しかも南京安全区国際委員会の委員長となったドイツ人のジョン・ラーベが、日本軍占領の数日後に、電気を復活させるべく「日本軍に、発電所の作業員を集めるのを手伝おう、下関には発電所の労働者が54人ほど収容されているはずだから、まずそこに行くように」と申し入れた。「ところが何と、そのうちの43人が3、4日前に縛られて河岸に連れて行かれ、機銃掃射で処刑されたという。中国政府の企業で働いていたというのがその理由だ。これを知らせてきたのが一人の作業員で、たまたま彼らの下敷きになって河に落ちて助かったという」とある。このように日本軍は後先を考えずに占領する予定の街を破壊したことがよくわかる。例えば後年米軍が日本本土を爆撃するときには(下町への無差別絨毯爆撃などは別として)占領後を想定して残すべき建物などは事前に把握し、外して爆撃している。もちろん高度からの爆撃で誤爆は三割程度あったというが、その意味でも日本軍はお粗末というしかない。

 なお上述のように南京城内での「掃蕩」の実態を書き残している日本兵は珍しいが、ジョン・ラーベ等の活動については、後述する「南京にとどまっていた欧米人の難民のための奮闘とその記録」で詳しく記す。そこでは「掃蕩」のついでに食料の「徴発」はおろか、略奪や女性への強姦などが多発していたことがわかるはずである。

【松井石根中支那方面軍司令官の日誌より】

 16日 — 南京城内外掃蕩未完了。ことに城外紫金山付近にあるもの相当らしく捕虜の数既に二万を超ゆ。かくて明日予定の入城は尚時日過早の感なきにあらざるも、あまり入城式を遷延するも面白からざれば、断然明日入城式祖を挙行することに決す。

 17日 — 中山門より国民政府にいたる間両側には両軍代表部隊、各師団長の指揮の下に堵列。予はこれを閲兵しつつ、馬を進め、両軍司令官以下随行す。未曾有の盛事。感無量なり。… 朝香宮軍司令官殿下最もご健勝にご機嫌また麗しく、ことに予の部下として軍司令官の職に励みたまう誓旨の程感激に堪えず。

 20日 — 尚聞くところ、城内残留内外人は一時多少恐怖の情なりしが、我軍の暫次落付くと共に漸く安堵し来れり。一時我将兵により少数の掠奪行為、強姦等もありし如く、多少は已む無き実情なり。(注:つまり松井の仄聞では掠奪や強姦は少数であろうし、“多少はやむなき”としている)

 21日 — 挹江門付近下関を視察す。この付近なお、狼藉の跡のままにて死体などそのままに遺棄せられ、今後の整理を要するも一般に家庭などの被害は多からず、人民もすでに多少ありて帰来せるを見る。

(『南京戦史資料集1』 偕行社:1989年)

 筆者注:「挹江門事件」で述べたように「狼藉の跡」とは12日から13日朝にかけての南京陥落時に、城内から逃亡しようとする中国軍兵士に対して敵前逃亡を禁じる「督戦隊」が同士を銃撃したことと、土嚢を積んで閉じられた門を越えようとする逃亡兵が数千人単位で圧死したことで、遺体はそのまま放置されていた様子を指していて、日本軍が虐殺した跡のことを言っているのではない。なお松井はこの後22日、日本海軍の船で上海に戻っている。

城内掃蕩作戦による被害者の証言

 以下、城内の掃蕩作戦に巻き込まれた中国側の人々の証言である(『南京大虐殺資料集:第1巻』洞富雄編、極東国際軍事裁判南京事件関係記録より)。文言は読みやすく要約している。

 —— 私は当時18歳で南京に住んでいた。日本軍南京入城の第二日即ち12月14日朝、日本軍は避難地域から私を含めて39人の者を引き出した。それ等は総て一般人で、日本軍は額に帽子の痕のある者または手に銃を操縦して出来たたこのある者は小さな留置所に入れられ、反対側から引き出された。私と今一人は一方の側に入れられた。そして日本兵は軽機関銃を用いて私たち以外の者を殺した。殺された者は37名で私は現にそれを見た。この人々の大部分は一般人で、私はそのうちの数名を知っていて、特に一人を私はよく知っていた。彼は南京の警官であった。それ等の人々は四ヶ月後に紅卍字会の手により埋葬された。死骸は抛り込まれた池の中にあって、私も日本兵の命令で死骸を池に抛り込む手伝いをした。これは米国大使館の附近で白日の下に行われた。その同じ日の午後、日本兵三人が学校の校舎で16歳の唖の娘を目の前で強姦するのを見た。

 16日、私は再度日本兵に捕えられ、その若者の一群の中から壮健なものが選ばれて、日本兵は彼らと相撲を取った。そして相撲で勝てないものを銃剣で刺し殺した。午後、私は太平路に連れて行かれ、三人の日本兵がホテルと家具商の家に放火したのを見た。(陳福宝の証言)

 —— 私は南京の食料品商であり、1937年(昭和12年)12月から市の警官をしていたが、一度も中国軍の一員であったことはない。南京市陥落後、およそ300人の警官と一緒に司法院にいた。我々の武器は全部南京安全区国際委員会に引き渡してあったので武装をしていなかった(安全区に入るには武器を持ち込めない決まりがあった)。司法院は難民収容所となって警官の他に多数の一般市民がいた。12月15日、日本兵が司法院にやってきて、すべての人に同行を命じた。国際委員会の二名がやってきて我々が軍人でないことを告げたが、日本兵はこの二人に出て行くように命じ、我々を市の西大門(漢中門)に行進させた。その門の内側に座るように命ぜられ、数台の機関銃が門の外の両側に据え付けられた。外側には運河があり運河に向かう急坂があって橋がかかっていた。100人以上の一団が銃剣で門を通るように強制され、外に出ると機関銃で撃たれ、その体は転がって運河に落ちた。機関銃が当たらなかった者は銃剣で刺された。各組100人以上の計16組が門を通らされ殺された。私の組が門を通るように命ぜられた時、私はできるだけ早く走り、機関銃が発射される直前にうつ伏せになり弾は当たらなかった。そこに日本兵が来て銃剣で私の背中を刺したが、死んでいるように動かなかった。さらに日本兵はガソリンをまき、火をつけて立ち去った。ガソリンは私にはかからず、暗くなってきたのを利用して死体の間から這い上がって一軒の空き家に入りそこに10日間いた。付近の人が毎日一碗の粥を届けてくれ、それから市内に入り込み大学病院(金陵大学付属鼓楼病院)に行った。ウィルソン医師(注:後述の「南京にとどまった欧米人の難民のための奮闘とその記録」で取り上げる)が私の手当てをしてくれ、50日以上入院して退院した後、江蘇省北部の郷里に戻った。私が述べた事件の時に、約二千人の警官(おそらく平服の便衣隊を含む)一般人が殺害された。(伍長徳:1946年7月26日の陳述)

 —— 私は中国軍軍医として上海から南京に退却したが、南京は日本軍に占領されつつあった。私達は南京において中国人負傷者を看護し、占領された後も留まるように命令されたが、赤十字章が何の防衛の役に立たないことがわかり、日本軍が侵入してきた時には庶民服を着て避難民収容所(国際安全区)にいた。12月16日に我々は揚子江岸の下関に赴くように日本軍に命ぜられ、四列並んで五千人以上の者が行進していたように私は推定した。その行列の長さはおよそ4分の3マイル(1.2km)だった。午後5時ごろ避難者収容所を出て7時ごろ江岸に到着した。着いてから揚子江近くに一列に並べられたが、列の両側および前面に日本兵がいて機関銃が向けられ、綱で我々は五人を一団として後ろ手に縛られ、最初の組が小銃で撃たれ揚子江に投げ込まれた。そこには自動車に乗っている将校、その他の将兵を含めて約800名の日本兵がいた。我々を順に縛って射殺が行われ、四時間続けられた頃に私と友人はむしろ河に飛び込んで死んだほうが良いと決心し、11時ごろ友人と私は河の方に駆け出して飛び込んだ。機関銃が撃ち込まれたが当たらず、崖の下に隠れていたが肩を撃たれた。その日は月が輝いていて様子がよく見え、手首に時計があって、射撃は深夜の2時ごろまで続けられた。貧血のため気が遠くなり気がついたら朝だった。それから江岸を這い上がり、近くの小屋に隠れた。三日間飲み食いできずに小屋にいると、日本兵がやってきて小屋を焼いたので、小屋から這い出した。日本兵に見つけられ将校に尋問されたので、私は日本兵に雇われた苦力(クーリー)だと答えると、将校は家に帰る通行証をくれ、それで家に帰った。友人とは後で再会したが、他にも数名は河に飛び込んだがすぐに射撃されたので逃げ遂げたものがいるかどうかはわからない。収容所から出されて並ばされていた時に数名のアメリカ人が来て日本兵に止めるように言ってくれたが、退去するように命令され、この虐殺を止めることはできなかった。(梁廷芳:1946年4月7日の証言)

 —— 私は当時『上海路華新巷一号』(避難民地区内)に住んでいた。12月16日午前11時頃、日本軍の兵隊(中島部隊の兵かと思われる)によって拘引された。同時に拘引せられたのは、私の兄徳仁(元嘉興航空站書記)、また私の従兄徳全(元絹物商)、及氏名不詳の隣人5人であった。二人ずつ一本の縄で手を縛り合わされ、揚子江岸の下関に連行されました。そこには千人以上の一般男子が居た。皆座るように命ぜられ、私達の前30mの所には、十余の機関銃が私達に面していた。4時頃になって一人の日本将校が自動車に乗って来て、日本兵に私達に対して機銃射撃を始めるよう命令した。射撃に先だって私達は起立を命ぜられ、私は、射撃の始まる直前に地上に倒れると忽ち私の上に屍骸が覆ひ被さって私は気を喪った。気が付いて約5分後に私は死骸の山から這ひ出し、そこから逃げて家に帰ることができた。(尚徳義:雑貨商当時23歳、1946年4月7日の証言)

 次に国際安全区委員会(後述)に協力していた「紅卍字会」の副会長で、かつてアメリカに留学し博士号を取得し、南京で鉄道省に奉職していた許伝音の宜誓口供書である。(1946年7月26日の陳述)

 —— 南京を占領した日本軍は非常に野蛮で、人を見当り次第に射撃した。例えば街を歩いている者、若しくはそこ等に立止っている者、若しくは戸の隙間から覗いている者、若しくは逃亡しようとした者もことごとく射った。

 三日目に私は死者の状態を見るために日本兵を伴うという条件の下で市内を通った。屍体は到る処に横たわっていて、ある者は酷く斬り刻んであり、ある者は身体を曲げており、又ある者は両足を拡げていた。それらの屍体が殺された時の状態のままに横たわっているのを見た。ある主な大通りの所で私は屍体を数へ始めたが、その両側で約五百の屍体を数えた時、もう是れ以上数えても仕方がないと思って止めた程であった。その時私の車に、中国人が一人乗っていたが、彼は日本に留学していた。自動車で彼の家に行ってみると彼の兄弟が殺されていて、家の入口の所にまだ片付けてない屍体が横たわっていた。南京市の全体で同じ状態が起っているようだった。私の見た屍体は老若男女の市井人、普通の人間であった。

 —— 国際委員会の安全区には武器を携帯している者は入ることを許されなかったし兵隊も入って来ることできない規則があった。12月14日の朝8時頃、地位の高い日本軍将校が国際委員会の本部に入って来たが、その時ちょうど私だけが本部にいた。この将校の目的は中国兵士が隠れているから安全区を捜索する許可を得たいということであった。ラーベ氏(委員長:後述)もフィッチ氏も私もともにこの申出を拒み、安全地域内には、一人も武器を携帯している中国兵は居ないと伝えた。それにもかかわらず次の日、日本軍将校及び兵士達がやってきて、このキャンプや私人の家(外国人たちの居宅)から兵士であるとの名目で避難している一般の人々を連れて行った。

 ある日私は紅卍字会の他の者と罹災避難民に対して食糧を配り、仕事を終りかけた時、二人の日本兵がやって来て、門を固く閉め護衛に就いた。それから他の日本兵が入って来、避難民の手を縛り、十人あるいは十五人の一団に固めて連れ去った。私はその場にいてこの状景に胆を潰した。この建物の中の避難民のうち千五百人が連れ去られた。彼等は紅卍字会の職員までも連れ去ろうとしたが、我々が説明して放した。私は国際委員会のラーベ氏に、このことを(日本大使館に)報告するように頼み、彼とフィッチ氏は直ちに動いてくれ、私と日本語を話せる中国人も一緒に日本の特務機関の司令部に出かけた。ラーベ氏は抗議してなぜ日本兵が安全区に入り、一般中国市民を連れ去り、またどこに連れて行ったかを聞き、更に直ちに連れ戻すように申し立てた。この抗議と質問に対する返事として、日本の特務機関は知らぬと答えた(注:現今の日本政府の返答に類似する)。そこで我々はどこに連れ去ったかを知る為に一時間そこで粘ったが、彼等から何等の満足すぺき返事を得ることはできなかった。彼等は朝までに返事することを約束した。しかしその約束を果たさないまま、翌日の7時か8時頃、我々は国際救済委員会及び紅卍字会の建物の附近で、機関銃の音を聞いた。そこで何が起っているかを人に見にいかせたところ、中国人市民が機関銃で殺され、その死骸が散らばっているとのことであった。その後我等はそれらの死骸を集め、死骸の中に氏名が判明したものもあった。その後もどのキャンプにおいても、毎日日本兵が入って来て、中国市民を探索し、拉致していった。…(そうして連れ去られた千五百人については)私の得た情報によれば、彼等は機関銃で殺され、その死体は池の中に投げ込まれ、後日、引揚げられ、卍字会員の手によって埋葬された。各キャンプにおいても、ある日には十数人、ある日には数百人の中国人市民が連れ去られたが彼等も全部殺されたことが分った。日本側の弁明は、これらの一般市民が兵隊であるということであったが、実際の所、総て一般市民であり、この中の一人といえども、軍服を着たり、武器を持ったりした者はいず、武器を捨てた者はすべて一般市民である。

 —— 日本兵はキャンプにやって来ては女性を連れていった。一つのキャンプの例では、日本兵は三台のトラックを連ねてやって来、総ての女を外に連れだし、全員を強姦した。私たちは日本兵を阻止しようとしたが、無駄に終った。連れて行かれた女性は十二、三歳から四、五十歳の間であった。ある場合には日本兵は浴場で中国婦人を強姦した、後から我々が其の浴場に入った時裸の女が泣いて悄然とした姿でいた。

 十三才以上、七十以下の女という女は続けざまに日本兵に凌辱された。幾千とも知れない女達は、日本兵に凌辱された揚句に殺されて屍体までも汚されていた。市中及びその外郭で繰り返し行われたこの兵士たちの行為の例証として、私は南門の新開路七番地の例を上げる。その家では十一人が殺された。兵隊が戸口に来た時に、祖父が応対に出るとその場で射殺された。七十を超えたその妻は何事がはじまったのかと思って外に出ると、彼女も夫から数歩の所で射殺された。次に娘が赤ん坊を抱いて出て来たが日本兵はその母子を二人共殺した。その家族には十七と十四になる二人の女子がいて、二人とも兵士に凌辱を受けた揚句に殺された。一人の女の子はテーブルの上の血の海の中で陰部に棒切をつきこまれて横たわって居り、もう一人は香水の瓶を陰部につきさされてベッドの血の中に横たわって居た。五人の他の女も此の家で殺された。すなわち日本兵がその家で見つけた全員が殺された。一人の少女は家の近くに一日一晩かくれていたので助かった。

(筆者注:ここまでの『南京大虐殺資料集』の中に記述されている証言は、1946年の極東国際軍事裁判によるものであり、このほかウィルソン医師たち(南京に残って住民たちを守った「南京安全区国際委員会」のメンバー:後に詳述)の証言も含めて多数掲載されている。その結果、南京では少なくとも20万人の虐殺があったと認定された。ところがこの数十年後に国内で起こる南京事件に関する論争では(とりわけ「なかった」派において)一切これらの裁判記録が無視されているのは何故なのか。いずれにしろ筆者は、その論争の書籍などはあえて読まずに国内と中国側の原資料を多方面から渉猟してこの稿を記述しているが、そのためにも南京以外の地区においても日本軍の行動を詳しく調べた。その結果、南京事件は単に南京だけではないことが、これまでの調べでもはっきりしてきているはずである。すでに南京事件に関する論争は無駄であると知っていただく必要がある)

掃蕩作戦による城外の下関地区での第二波虐殺

 南京の西郊外、揚子江岸に面した下関には港の機能を持った大きな埠頭があり、ここから下流の上海や上流の武漢など、そして対岸に渡る船が出入りする場所で、列車の駅もあった。この下関地区では既述のように南京陥落当初(12月13日未明)から城内外からの敗残兵と避難民が長江を渡って逃げようと殺到し、それに対して南京城外北側の東から包囲作戦で攻め込んできた第十六師団が下関一帯の煤炭港、魚雷営、宝塔橋、中山埠頭などの地で大規模な集団虐殺を行った。これに続く第二波として14日から掃蕩作戦が展開され、南京城内の国際安全区などに隠れた敗残兵が徹底的に探し出され、敗残兵は民間人の服に着替えて(便衣隊という)難民の中に紛れ込んだこともあって、少しでも怪しいと睨まれた多数の民間人男性(城内からだけでなく、城外の住民も多くいた)も問答無用と拘束され、下関まで連行されて「処分」された。それは翌年まで続けられた。

【難民避難所における虐殺】

 南京城外の下関地区にも難民避難所が設置されていた。宝塔橋と呼ばれる土地にイギリス人経営の「和記洋行」という大きな食肉加工場があり、そこは租界地として日本軍の入れない安全な場所とされ、城内の安全区に入れない住民の多くがここに避難した。この避難民のほとんどは民間人と思われるが、ここで集団虐殺が発生した。そのうちの一人、陳徳貴(当時19歳:自転車の修理見習い)の話である。

 —— この年の12月下旬、日本軍の指示による「(治安)維持会」が作られ(注:これは日本軍の統治に協力する中国人のグループで、大きくは南京市には自治委員会という名称で組織され、占領地域には必ず作られた)、その多くは裕福な市民が自分の身を守るために参加していた。ある日その20人が近くの煤炭港の日本軍兵営に出向き、するとその日の午後、日本軍騎兵7、8人が難民区に入り視察したのちに引き揚げた。翌朝、少なくとも200人の日本兵が現れ、維持会が協力して避難民数千人の中から成人男子の狩り集めが始まった。約二千人が三ヶ所に分けて集められ、その中に陳もいた。日本兵はまず全員を四列縦隊に並ばせると腕時計や銀貨などの貴重品を差し出させた。続いてポケットなど身体検査をした結果、何人かは貴重品をまだ持っていて、取り上げられた上に殴られた。その後(午後3時ごろ)全員が膝をつく格好の姿勢にされ、4時半ごろから四列縦隊のまま煤炭港まで歩かされ、ここは石炭の積み下ろし場で大きな倉庫があって、その中に二千人が詰め込まれ、身動きができない状態となった。逃げられないように戸口に歩哨が立ち機関銃が据えられた。翌朝8時ごろ、入り口と反対側の岸壁側の出口が開かれた。

 「これから作業場に行くから10人ずつ出てこい」と通訳が伝え、出口付近の10人がつかみ出されて戸が閉められた。まもなく銃声が聞こえ、再び戸が開き、また10人が出された。三度目の10人に陳が入っていた。両側に銃を構えた日本兵が列を作り向かい合っていて、後ろから「走れ」と怒鳴られ、その間(右に倉庫、左に護岸)を走って抜けていき、長江本流の岸の近くまできた時、右の倉庫の陰に30人くらいの日本兵(海軍の制服のようで黒っぽかった)が銃を構えて待ち構えていて、さらに「走れ」と怒鳴り声あり、護岸の角まで来ると「飛び込め」という大声が聞こえると同時に一斉射撃の銃声があった。みんな水の中になだれ込んだが、幸いに陳には命中せず、また水泳が得意だったのでそのまま潜水してしばらく水中を左に進み、そこには小型の軍艦が平行にいて、その横を進みつつなんとか隣の埠頭の端まで行った。そこにも列車の引込み線があって、その端から貨車が連結したまま川の中に突っ込んでいた。おそらく防衛軍が貨車に乗って逃げてきてたらしい。陳はその列車の陰の水中から頭を出し、虐殺の様子を見ていた。10人ずつが同じように走ってくると横に並んだ兵隊の最前列がまず一斉射撃し、まだ生きている者を次の列が狙い撃っていた。死体が水際に折り重なると軍艦がスクリューを回し、すると長江の水が濁流となってこの死体を下流に流していった。この惨劇は薄暗くなるまで続き、日本兵たちは去った。まだ倉庫には中国人が残っているようだった。陳は水の中で凍り死にそうだったが(注:12月の水はかなり冷たいはずだが、空気の温度低下に比して水温はそのまますぐには下がらない。例えば三月の東京大空襲の時の隅田川の水温は冬を経てかなり冷たくなっていたから、大火を逃れて隅田川に飛び込んだ人の多くは体を冷やして溺死している。それでも陳の場合体を動かしていなければ持たなかったであろうが、水泳が得意な陳は時々立ち泳ぎなどでしのいだのではなかろうか、他にも水中で長時間隠れていたという例はある)、60mほど上流の桟橋まで岸沿いに這って行き、その水面にはやはり多くの死体が浮かび、水際の地面にも死体が重なっていたので、近くにあったボロ布を拾って、その死体の中に混じって横になった。この桟橋の死体は日本軍の別部隊が行なった虐殺のようだった。ただ、木製の桟橋の上を時々歩哨が歩く音がしていた。明くる朝、桟橋の上に来た歩哨が重なる死体に手榴弾を投げた。おそらく死体を早く川に流そうとしたのだろう。そのうち歩哨が桟橋を降りてきて陳のいる橋脚のそばまできた。陳は朝の寒さで震え、両手を内股で挟んでいたところ、多分震えに気がついたか小銃を放ちその内股と薬指を貫通したが、こらえて動かないうちに日本兵は去っていった。

 さらに一夜を経た日の午後、日本兵と維持会の一団が労工を連れて死体の後片付け(つまり揚子江に流す)にやってきた。労工たちは次々と死体を運んでいったが、陳の番になり持ち上げた途端「まだ生きている!」と驚いて叫んだ。なぜここに来たかと問われ、自分は良民だと話すと労工たちは確かに良民に見えると応援してくれて助かった。さっさと行けと日本兵に言われ、維持会の通訳が日本語で「通行証」を書いてくれた。その時の腿の傷はいまだに残ったままで歩くときに支障がある。なおのちに聞いてわかったが(注:常にまとわりついた話であるが)、難民区から二千人が狩り出された後、夜になって日本兵が現れ、若い女性を見つけ次第連行していった。強姦のためであったが、なかには反抗して殺された者も少なくなかったという。

【日本軍の「気まぐれ」】

 近郊の農民はほとんど貧しく、自分の土地に縛られていた。そこに日本軍が駐屯軍の見張り隊としてあちこちにやってきて、それはやはり敗残兵の探索の名目もあったが、食料探しのほうが大きかった。次は集団虐殺ではない南京郊外の農村の例で、これも枚挙にいとまがないが、当時16歳の梅福康の体験であり、日本軍の「気まぐれ」の結果であるという。

 —— 12月のある日、多分午後三時ごろ、軍刀を下げた一人の日本兵が馬に乗って六世帯20人の村に現れた。騎兵は大声で何かを叫んでいて、みんな驚いて外に出てみると、馬を降りて家の中を見て回り、まもなく立ち去った。すると10分ほどたって、20人ほどの歩兵を連れてきた。ここに泊まるから家を提供せよという。そしてすべての村人は暴力を受けながら家から追い出され、夜になると日本兵は女ばかりを集めて6、7人の見張りをつけて一部屋に閉じ込め、男12人と老女一人は別室に閉じ込められた。ところが見張りの兵が眠っている間に女たちはみんな逃げ、気づいた日本兵は男たちを詰問しつつ殴る蹴るを重ねた。

 村には貯水池があり魚を飼っていた。日本兵はそのなかに手榴弾を放り込んで魚を殺し、水面に浮いた魚を村の男たちに裸で池に入らせて回収させた。その後日本兵が梅の家に入って布を切り裂く音が聞こえてきた。そして男たちを集め、段々畑の丘に連れ出し、円陣形に外に向いて並ばされ、持ってきた布切れで隣同士の手を縛った。それが終わると日本兵は丘の陰に行き、手榴弾を円陣の中に投げ込んだ。男たちの輪は爆発と同時に血しぶきが散乱し、何人もの呻き、叫び声が上がり、そこに日本兵が走ってきて、まだ生きている男たちを銃剣で刺し殺した。梅は手榴弾で顎と舌の付け根をやられ、胸を二ヶ所とお尻を突き刺された。日本兵は全員が死んだものと思って引き上げたが、村の全戸に火をつけていった。午前10時ごろだった。

 村の男12人のうち重傷を負ったが3人が生き残り、梅の家族の祖母・父・次兄・甥・従兄3人の計7人が殺された。長兄は日本兵に隣村での炊事係として連れて行かれていて、自分の村の火事に気がつき、隣村の人と二人で駆けつけ、家々はほとんど焼け落ちていたが、走り回って惨事の現場を見つけた。長兄は生きている梅を板に乗せ、日本兵に見つからないように山の中に運んだ。さらに長兄は隙を見て村に行って7人の家族の遺体を片付け、穴を掘って埋めた。梅の傷は長兄の世話でなんとか回復したが舌がうまく回らず後遺症が残っている。

 次は下関地区でも貧乏で家を持てず、長江の内側の運河の川岸で小舟(サンパン)に一家9人で住んでいた姜根福(当時9歳)の受けたあまりに酷い話である。

 —— 姜には上は3人の姉(18・13・11歳)と下は3人の弟(7・5・2歳)がいた。18歳の姉はすでに人に売られていたが(注:貧乏のため身売りさせたということだが、日本でも昭和初期まで農家では娘の身売りが少なくなかった)、日本軍がいつ襲ってくるかわからず(その運河にも死体がたくさん浮き、水は赤く染まっていた)、どこかの村に避難しようと舟で移動しようとした。しかし数km進んだあたりでボロ舟は浸水してしまい、仕方なくそばの土手に上がった。岸辺の十数戸の民家はみんな逃亡し、空き家だったが、危ないので湿地帯の葦の間に隠れた。8人の家族は一ヶ所に固まらないよう二ヶ所に別れた。2歳の弟が空腹で母乳を求めて泣き出した。それを10人ほどの日本兵が聞きつけ、数人が葦の中にやってきて、弟を抱いた母を見つけると、引きずり出してその場で強姦しようとしたが、母は頑強に抵抗した。怒った日本兵は弟を母親から引き離すと、地面に叩きつけた。弟は声も出ずに即死した。半狂乱になった母が子を抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母を拳銃で二発打った。血をほとばしらせて母は死んだ。日本兵が立ち去るのを確認して父と姉二人は走り寄ってきて、母を抱きかかえて声をあげて泣き、姜も初めて泣きだした。落ち着いてから父は板切れや筵を集めて二人の死体にかぶせた。他に逃げようがなくそのまま葦のなかにいると二、三日後、父が日本兵に見つかり、父は日本兵の背のうを担がされ、どこかに連れて行かれた。これが父をみる最後の姿だった。残された子供五人は一ヶ所に固まって隠れ続けていたが、二日後、また日本兵に気づかれ、彼らは葦のなかに入ってきた。そこで13歳の姉が強姦の対象に選ばれたが、姉は憎しみのあまり日本兵に殴りかかり、すると日本兵の一人が軍刀を抜き、姉を切り裂いた。日本兵が去って駆け寄ると姉の頭は真っ二つに割れていた。

 その後も子供四人で一枚のボロ布団で葦の中で過ごしたが、寒い時はこっそり空き家に入った。食べ物は滅多に探せず、水は器を持って運河までいったが、岸辺には死体がぎっしり漂着し、それを踏み越えて行かねばならず、しかも運河の水は血に染まっていて、出来るだけ血の薄い水をすくって飲んだ。しばらく後、ある農家の空き家で大きな甕二つに白菜の漬物がぎっしりあるのを見つけた。このあたりは11月になると漬物を仕込むが、この住民はそのままどこかに避難したらしい。兄妹四人はこれを主食にした。この大甕の一つ半がなくなり、春の兆しが訪れたころ、そこで「維持会」の一隊に見つけられた。(注:維持会は上記のように日本軍に味方して護身を図る油断のできない中国人団体であるが)、彼らは四人を1km半ほど離れた三汊河(注:下関の南側で、ここでも多くの虐殺があった)まで連れて行き、11歳の姉はそこで売り飛ばされ、姜は姉にしがみついたが、維持会の一人に蹴り上げられ、肩の骨にヒビが入った。続いて5歳の弟も売られ、7歳の弟と姜の二人が残され、浮浪児となった。そのうち下関で港湾労働者の一人姜書文が兄弟を気にかけてくれ、自分の子が病死していたこともあって養子にしてくれた。同じように姜書文の弟の楊国真が弟を引き取り、元は徐の姓だったが、それぞれ姜と楊となった。

 四年後13歳になった時、養父とともに日本軍に徴用され埠頭で荷物の運搬をやらされ、それは日本の敗戦まで続いた。戦後、国民党と共産党の内戦が終わった後の1951年(昭和26年)、新政府の尽力で姉が雲南省の貴州に生きていることがわかり、その5年後、姉が三人の子供を連れて会いにきてくれ、二人で抱き合って黙って泣き続けた。5歳で売られた弟はやはり1951年(昭和26年)に南京の鉄工場で働いているのがわかった。姜は子供三人に恵まれた。(注:この姜の親子は9人のうち4人が生き残ったわけだが、これ以上に不幸な例は数知れずあり、その一部はこの稿の中でも触れている)

(以上は『中国の旅』本多勝一より)

殺戮に関与しなかった将兵たちの現場からの証言

証言各種

*海軍航空隊分隊長 奥宮正武

 奥宮は12月24日に上海から飛行機で南京城外の大校飛行場に着き、約一週間をかけて、南京城内はもとより城外のかなり広い地域を、亡き戦友(南京爆撃時に迎撃され墜落死等した)の消息を求めて、駆けめぐることとした。その時に見た陸軍の虐殺の様子などである。(既述の玄武湖の虐殺現場は省く)

 —— 12月25日、下関にはかなり大規模な停車場と開源埠頭があった。その付近を見回っているうちに、陸軍部隊が多数の中国人を文字通り虐殺している現場を見た。揚子江の埠頭の下流にある倉庫群に約30名の中国人を乗せた無蓋のトラックが次々と消えていた。不思議に思ったので、何が起こっているかを確かめようと、警戒中の陸軍の哨兵にことわって、構内に入った。私が海軍の軍服を着た将校であったことで私の動きを阻止する者はいなかった。構内の広場に入って見ると、両手を後ろ手に縛られた中国人十数名が、江岸の縁にそって数メートル毎に引き出されて、軍刀や銃剣で惨殺されたのち、揚子江に投棄されていた。死にきれないものは銃撃によって、止めが刺されていた。この一連の処刑は、流れ作業のように、極めて手順よく行なわれていた。そのことから見て、明らかに陸軍の上級者の指示によるものであると推察せざるをえなかった。私は、しばらく一連の処刑を見たほか、合計十台のトラックが倉庫地帯に入るのを確認したのち、現場から退去した。… 人間とは不思議な性格を持っているようで、最初に下関で処刑を見た時には、甚だしい衝撃を受けた。ところが、しばらくその場にいると、次第に異常さを感じなくなった。その場の雰囲気は、平時には考えられないほど特異なものであった。翌日は基地にいた。

 —— 27日、市内の西部を見回る予定であったが、前々日の光景があまりにも鮮明に記憶に残っていたので、まず、再び下関に行くことにした。この日もまた、域内の方から、中国人を乗せた無蓋のトラックが、続々とやってきて、倉庫地帯に消えていた。再び、警戒中の哨兵にことわって、門を入ったところ、前々日と同じような処刑が行なわれていた。そこで、混乱もなく中国人をどうやって連れてきたのかと下士官に尋ねると、「城内で、戦場の跡片付けをさせている中国人に、”腹のすいた者は手を上げよ”と言って、手を上げた者を食事の場所に連れていくかのようにして、トラックに乗せている」と説明。また、日本刀や銃剣で処刑しているのは、弾薬節約のために上官から命じられたとのことであった。私は、この二日間に下関で見た合計約二十台分の、言いかえれば、少なくとも合計五百人以上の中国人の処刑だけでも、大虐殺であった、と信じている。… それらに加えて、玄武湖の湖上や湖岸で見た大量の死体のこととも考え合わせて、正確な数字は分からなかったが、莫大な数の中国人の犠牲者があったのではないか、と考えざるをえなかった。

 ちなみに奥宮はその前後に調査を続け、日本機の消息を聞いて回った。

—— 一軒の民家に日本機一機が墜落して、家族全員が死亡したとの気の毒な話を聞いた。が、機体は片付けられていたし、搭乗員の遺体は他に持ち去られていた。その後、市の南部にある中華門を出て、雨花台方面を調査したところ、計九名の遺体を発見することができた。いずれも土葬で、立派な木製の棺に納められていた。私はそのような手厚い取り扱いをしてくれた紅卍字会の人々に感謝せずにはいられなかった。この日、多くの中国人と接触したが、城内でも、城外でも、多くの人々が積極的に、私の質問に答えてくれた。… 一連の捜索の結果、発見できた遺体は二十数柱であった。正確な数字が分からなかったのは、遺骨となっていた死体の数を判別し難かったからであった。

(『私の見た南京事件』 PHP研究所 1997年)
*海軍兵士三上翔

 —— 13日の落城のときには揚子江上から艦砲射撃で陸上の砲台をすぐに沈黙させた。戦闘が終わった後、川を見ると上流から中国人の死体を1.5mから2mの高さまで整然と積み上げた筏がいくつも流れてきた。我々は怪しんで小銃で撃ったが、反応はなかった(つまり殺戮されていた)。17日の入城式に参加する途中で城内の道の左右の空き地に山のように遺体が積まれていたが、数珠つなぎになった者や縄で数人ずつつなぎ合わせて銃剣で刺されたり射殺されていた跡があった。軍艦に戻って、翌日から艦上で交代で見張りを行なっていると、毎日毎日、朝から晩までトラックで繰り返し捕虜とも民間人とも区別のつかない人々を2、30人ずつ運んできては中山埠頭から川の中へ追い落とし、それを機関銃で射殺しているのを目撃した。そして夜になると何か叫ぶような声が向こう岸から聞こえてきて、見ると炎が揺れてスーと横に走り、人間が焼き殺されていた。その翌日は火事場の跡の焼け棒杭のように人間の形をした黒焦げになって倒れているのが望遠鏡でよく見えた。昼間岸辺では7、8人の中国人が死体を片付けている姿も見えた。私は27日を最後に佐世保に帰ったが、少なくとも25日まではトラックで運んできた中国人を日本兵が銃撃する状態が続いていた。

(『南京戦:閉ざされた記憶を訪ねて』より)

 三上は、陥落4日後の中山北路の広場にあった50−60体の死体の山の「多くは老人や女性で、子どももおり、すぐに一般市民であることがわかった」と「中国網」のインタビューに答えて証言した。12月18日午後、軍艦のブリッジで見張りをしていると、下関南岸から機関銃の銃声が聞こえたので望遠鏡で見ると中国人が処刑されていた、その後数日、朝から晩までトラックで20人、30人が連行され処刑された、「南京を離れたのは12月25日だが、それまで下関の岸では毎日こうだった」とする。

*陸軍飛行隊井出純二の見た虐殺現場

 飛行隊第八大隊軍曹の井出は12月29日に南京に入った。(注:日付からしても一連の掃討作戦後も虐殺が続いていたことがわかる)

 —— 私の南京入りは13日の首都陥落から二週間以上遅れた12月29日だから、それ以前のことは全く知らない。中支方面軍最高指揮官である松井大将が、慰霊祭における訓示の中で、特に軍の暴行にふれて批難、叱責したのも、今後の再発を予見し、戒めてのことではなかったのか。にもかかわらず、それから十数日経った後、南京埠頭で私が見た光景は、なんと解すべきか。軍司令官の威令、日本の軍規は、なぜにそこまで堕落していたのか。ましてや私が見た限りでは、大量、組織的、 軍命令による白昼堂々の”公的処刑″としか見えなかったのは、いったいどうしたことなのか。

 さて、現場は、歩哨も憲兵もいなくて立入り自由、写真撮影さえ可能で、いま考えると、なんとも不思議な話で、残虐シーンを次々にカメラに収めたが、数枚を除いてほとんど紛失してしまったのは残念である。下関駅から引き込み線と鉄橋が江岸まで延びていて、その江岸は少し凹んでいて、ここで処刑すれば、ひとりでに河中に落ちるが、一部は流れて行っても、多くの死体はそのまま岸に累積、停留する。

 当時私は部隊の炊事を担当していたので、毎日一、二回、下関駅近くの糧秣廠へ、食糧その他の受領にトラックで出かけていた。営舎からの外出は自由であり、29日以降、明けて正月5日ごろまでの間に、少なくとも三、四回は現場へ出かけたと思う。…… 私は”血の桟橋”と名づけた。鉄橋の手前で、収容所から運ばれてきたらしい20人ばかりの中国人捕虜がトラックから降ろされ、江岸へ連行されて行く。釈放するからと偽って連れてきたのか、 みんな大きなフロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を着ていた。軍服姿は見当たらなかったが、2、30歳代の男が主で、坊主刈りが多いので、便衣兵かなあと眺めていた。江岸まで200mもあったろうか、道路のカーブを曲ると、江岸の斜面から水際にかけて処刑された死体がゾロゾロと重なっている。追い立てられてよろよろと歩いてきた捕虜たちは気づいて動揺したようだが、ここまで来ると、もう逃げ道はない。私は彼らが屠所へ引かれる羊のようにおとなしく追い立てられるのが、ふしぎでならなかった。腹が減って抵抗する気力もないのか、と想像したが、今でも解けない謎だ。もっとも、その前に北支戦線でやはり捕虜を日本刀で処刑する現場を見たことがあるが、このときも観念しておとなしく斬られていた。あきらめのよいのは中国人の民族性なのだろうか。

 さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、水面にけり落しているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数だが、念入りにやるのも面倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落していた。傍まで行くと、四十歳前後のヒゲの応召兵が「戦友○○のカタキ討ちだ。思い知れ」と大声で怒鳴りながらダンベラをふるっている。私に気がつくと、「航空隊の人よ。少し手伝って下さいよ。手首も腕も疲れた。頼みますよ」と言われたが、30分近く見物しで胸が悪くなっていた私は、日夜連続、命がけの苦戦を重ね、多くの戦友を失った人にしてはじめて許される憎しみ、非人間性、野獣化だろうと、むしろ老兵に同情する気持だった。

 その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に江岸で数人の兵が指さしながら見物しているので、「何ですか」と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた舟を揚子江の中流まで漕ぎ出して捕虜を突き落し、舟の上から機銃で射ち殺しているところだった。その前後、江岸にたまった死体を工兵隊らしい連中が、舟の上からサオとカギを使って流しているのを目撃して、カメラに収めた。北支でもそうだったが、こうした処刑場面を第三者の目から隠そうという気持が、当事者にはまったくなかったようだ。…

 またそのころ市内の電柱に、日本軍の名で「兵器修理工場をつくる。少しでも兵器取扱いの経験者は来れ、優遇する」といった求人広告が貼ってあるのを見た。中国で兵器取扱いの経験者といえば、旧軍人とみてまず間違いなしというわけで、これも苦しまぎれの敗残兵狩出しの奇策だったようだ。(注:この推論については他の例を見てもあたっているであろう)

(「増刊歴史と人物 秘史・太平洋戦争」1984年12月発行『私が目撃した南京の惨劇』より)
*泰山弘道海軍軍医大佐

 17日の入城式参列のために南京を訪れた時の日誌(『南京戦史資料集 II 』 偕行社:1993年)

 —— 12月16日、 (注:上海から水上艇で昼に到着、午後、南京見学のために下関の桟橋から自動車で出発。そして既述の「挹江門事件」の項で引用した光景、つまり「車が無数の敵死体の埋もれる上に乗れるなり」と経験した記述の後)市内に近づくに従い、敵の遺棄せる藍色木綿の便衣は襤褸の如く道路を埋め、所々にカーキ軍服いかめしく革の脚絆を穿ち、手足の関節硬直して仰臥せる敵将校の死骸をも見る。……(早々に)今日の見学を止め、安宅(艦船)に帰還す。夜に入れば満月に近き冬の月は江上を照らし、浦口及び市内各所より起れる火災による紅蓮焔は天を焦がすばかりにて、陰惨の鬼哭啾々たり。時々静寂を破る機銃の音は抗日の執念抜くべからざる幾千の敵兵が魂消えゆく音なり。凄絶壮絶の光景これ新戦場の夜半なり。

(注:「幾千の敵兵が魂消えゆく」は、他の証言で5千から7千の捕虜=中国人がこの日夕刻から夜中過ぎまで銃殺された音であろう。また「天を焦がすばかり」とは、この日まで日本兵が怪しいと思う家などを次々に放火していたとも思われるが、数日前に戦闘状態は終っており、数々の証言からすれば、実態は好き放題に店や民家を略奪した後に放火していたと見るのが正しい。なお、翌日の入城式に備えて市内の片付け作業が行われているはずだが、主要な中央通りしか片付けられていないことがこの日誌でわかる)

 12月17日、朝まだきに起きて加藤主計大佐と共に朝露置きたる新戦場を揚子江の汀に沿いて下るに、下関一帯の二、三町の間には小銃や機銃が枯木の枝の如くに散り敷き、各種の弾が砂利の如く路面を埋め、砲弾、手榴弾、飯盒、水筒、胴籃、鉄兜等の随身物も撒き散らされ、狼藉言わん方なく、剣帯、脚絆、軍衣、毛布、便衣などが塵芥の如く堆く積まれ、その間には天を仰ぎ、或は地に臥して、敵兵の累々たる屍が四肢を空中に伸せる軍馬の屍と入り乱れ、犬の屍すら混じりて吹き来る風も生臭く窒息せんばかりなり。(注:「狼藉言わん方なく」とあるが、この軍医大佐は、日本軍が捕虜たちを並べて機関銃等で殺し、その大半を揚子江に投げ込んで、その彼らの遺物であることを理解していたのかどうか)

 揚子江の波打ち際で石垣の陰より便衣を着た二人の敗残兵が現れ、我らに手巾を振り何事かを合図する。過ぎ行こうとするに彼等の一人は追い来たりて地に伏してチナチナと叫びながら救いを乞うが、頭部に傷を負い顔面は血に塗れている。埠頭の関係者に救いを乞うように手真似で示すも彼はなお紙片を拾い木炭で何事かを書き訴える。折しも我が陸軍の兵が来たりて彼を預け、歩を進めながら振り返るに、我兵は敗残兵を後ろに向かせ銃口を背に向けて引金を引く。彼は悲しき一声を発して斃れたり。

 朝食の後、自動車にて戦跡を見学す。挹江門に再び敵屍の山を越えて城内に入り、中山北路の沿道に人馬の死屍累々たると黄包車(人力車)、自動車の残骸雑然たるは、幾度見るだに敗戦の惨めさを示す。敵師団司令部、交通部、鉄路部等の焼け崩れたる墟趾に在りし日の美観を偲びつつ中華門を潜る。堅牢無比な城門なるに、忠勇無双の我陸軍の砲弾により破壊するや肉弾を以って突撃しこれを乗り越え城門を開き、全軍潮の如く押し寄せ、敵をして防戦に暇あらしめず、戦史未曾有の敵撃滅戦に成功したるものなり。

 やがて大校飛行場に着く。ここは我海の荒鷲(注:飛行部隊のこと)が幾度か死を決して爆撃を行いし処にして、幾多有志の花と散りしを思えば感慨無量なり。飛行場には我が爆撃により噴火口の如き大孔を穿たれ、…… 我海軍航空隊は既にこの基地の設営を行いつつあり。

(注:直接戦闘に関わっていない泰山大佐の想像が強い文面であるが、まず城内での激しい戦闘はほぼなく、城門が突破されると中国兵はすぐに逃走状態に入り、追撃戦は城外で行われ、殺された万単位の捕虜は城外で捕らえられたものである。またこの飛行場への爆撃よりも市街地への爆撃のほうがはるかに多く、市街地の主要な建物の破壊や放置された人馬の死骸のほとんどは12日までの爆撃によるものである)

 午後二時、松井軍団司令官は馬上の英姿颯爽として正門前に来られ、朝香宮派遣軍司令官、柳川第十軍司令官また正門前に馬を下りて門に入り式壇に上らる。続いて第三、第九、第十三、第十六、第六、第百十四の各師団長が式壇の所定の位置に着かる。門前には二三日前まで獅子奮迅の戦を続けた幾万の皇師が列を正しく街路を埋める。門に近く整列せる兵士は戦友英霊の箱を白布にて包み、首より胸に吊るして恭しく捧げて英霊また式に参列す。君が代のラッパは響き渡り、…… 旭日大国旗は正門楼上を上り行く。その荘厳言わん方なく、その日の丸の赤き色こそ我が幾多将士の血潮を以って染め出されたるを感ぜしむ。この歓喜の中にも思わず熱淚は流れ感無量なり。…… 脱帽最敬礼を行いたる後、松井軍団司令官の音頭にて、故国にも響けよかしと大元帥陛下万歳を三唱す。…… 祝宴場に入るや、大元帥陛下の万歳を三唱して乾杯を挙ぐ。余の近くに列せらるる指揮官連の顔も朗らかなり。(注:直接戦闘に関わっていない人の思い入れによる感動の風景である)

 艦に戻りて小憩の後、陸戦隊司令官と共に余が今朝中途より引き返した下関下流の江汀を視察。波打ち際には無数の敵屍が黒焦げとなり、或は水に浮かび、或は石垣に寄りて相重なるもあり、修羅の惨状名状すべからず。道を返して上流なる堤防の内側を窺うに、我が日本刀の切れ味を喫したる敵の死体(注:つまり首なし死体である)6、70あり。南京市街戦は如何に激しかりしかを思わしむ。(注:これも泰山軍医大佐の想像違いで、市街戦はほとんど行われていない。しかも下関ではこの後も虐殺が続くとは思ってもみなかったであろう)

 12月19日、(朝、掃海艇にて上海に向けて出発) 南京は江上より眺るも今は全く死の都と化す。聞くならく、最後迄南京を守りし支那兵はその数約十万にして、その中の約八万人は勦滅せられ、江を渡り浦口より逃げ延びたる者約二万人あり(注:実際にはまともな船などなく、それほど揚子江を渡ることはできず、また浦口では第5師団の国崎支隊が待ち構えて包囲されほぼ殲滅された)。下関に追い詰められ武器を捨てて筏に乗りて逃げんとする敵を第十一戦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万人に達せりと言う。

 これとは別に上海派遣軍報道部長、木村松治郎大佐の日記には実際の出来事の見聞が書かれている。

 —— 12月20より22日まで:これと共に遺憾に堪えざるは日本兵の略奪、強姦、家宅侵入事件の数多きこと、…… 小生の滞在時にてもすでに外支人の領事館の訴え来しもの百件に及ぶ、…… 外国大使館、個人の住宅、学校等に侵入し、なげかわしき乱脈振り …… 金陵大学女子部(六千人の女、避難)の如き特に然り。

*野戦郵便局長 佐々木元勝の日記

 この他、実戦部隊以外の従軍者の虐殺目撃記録で、上海派遣団の野戦郵便局長、佐々木元勝の日記(「証言による南京戦史9」:雑誌「偕行」1984年12月号)から。佐々木は12月15日に上海を出発し、一団でトラック3台に分乗し16日に南京に着いた。

 —— 16日、(南京城外の東方)麒麟門から少し先の工路試験所の広場に苦力みたいな青服の群れがうずくまっている。武装解除された四千の兵である(注:「中山門」の項で記した場所で、15日に一時7200名の捕虜が収容されたが、その捕虜とは別)。道端にもうんといる。ぎょろっとした彼らの眼の何と凄かったことか。弾薬集積所であった馬群鎮(麒麟門の西方南京市寄り)では敗残兵二百名の掃蕩が行われた。(注:この四千の兵は、この後、南京に移送されたというが …)

 …… 夕日が沈まんとする頃、トラックを走らせて揚子江河岸停車場近方の郵便局に向かう。ここは上海の閘北の如く荒れている。揚子江河岸にも支那兵の殺された無数の跡があり、…… 新局舎の前には士官らしい支那兵が脚から腹の方を焼かれてまだ燃えている。少し前殺されたらしい中老の死体が口と鼻から血を出して倒れている。

 麒麟門で敗残兵との一戦では、馬群の弾薬集積所で五名の(日本)兵が、武装解除した五百人を後手に縛り、昼の一時頃から一人ずつ銃剣で突刺した。… 夕方頃、自分で通った時は二百人は既に埋められ、一本の墓標が立てられてあった(注:この文は上の揚子江河岸と同じ夕方となっていて、南京を挟んで東西にあり場所的に矛盾するが、これは「吉川君が馬群で実見したもの」とある)。わが兵七名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を降り、意気地なくも弾薬集積所に護送されて来た。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まったく平然としていた。服装検査の時、髪が長いので「女ダ」ということになり、裸にして立たせ、皆が写真を撮った。中途で可愛相だというので、オーバーを着せてやった。殺す時は、全部背後から刺し、二度突刺して殺した。虜の中三人は水溜りに自から飛び込み、射殺された。

 南京で俘虜は四万二千人とか、揚子江河岸からの帰り、続々と夥しい行列をなして兵に連れられて行く。警戒の兵にトラックの窓から聞くと、皆殺してしまうのだと答えた。便衣に変装して避難していたのを一網打尽にされたので、日の丸の腕章をつけたものが多く、15、6歳の給仕みたいのもいた。……(下関の)埠頭(中山埠頭)の局に行った運転手の兵等がだいぶ遅くなってドヤドヤ帰ってきたが、埠頭で二千名の俘虜を銃殺したという話。手を縛り、河に追い込み銃で撃ち殺す。逃げようとするのは機関銃でやる。三人四人ずつ追い立て、刺しても斬っても自由というわけで、運転手の兵も15名は斬ったという。

(注:16日というこの日は後述の「南京入城式前からの大掃蕩作戦」に記す、17日に行われる入城式までの掃蕩作戦によるものと思われ、下関は揚子江沿いの広大な敷地であり、他の部隊によってもこれ以上が殺戮されている)

 17日、…… 野戦郵便局の前を素通りして揚子江岸に出ると、ここで人類最大の悲劇に直面した。昨夜銃殺した俘虜は二千名余で、道路の一方の空地に縛しておき、四人ずつ石畳の河岸に追い出して打ちまくり、逃げるのは機関銃でやり、江上には駆逐艦が居て照明をし、二箇所でどしどし大量虐殺が行われた。道路の近くでは石油をかけられて黒焦げになり燻っている。波打ち際には血を流した死体が累々と横たわっている。… 兵站部の兵二名と他の一名が河岸に下りて立って余喘?のあるらしいのを打つ。向こうの箇所でも他部隊の兵が道から拳銃で撃っていた。トラックで入城式に向かう。…(終わって)中山陵に向かう。近くの松林で青竜刀を持った一人の兵士が敗残兵一人を後手に縛り、… 斬首。

 夕霞に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された大群に遇う。7200名とかで一挙に殺す名案を考究中だと、引率の将校がトラックの端に立ち乗りした時に話した。船に乗せ片付けようと思うが船がない。しばらく警察署に留置し餓死させるのだとか …。(注:ここに「中山門」の項で記した7200名の捕虜が出てくる。それを中山門まで連れてこいと命令された記述と一致する)

*小原孝太郎の日記

 この野戦郵便局長佐々木元勝の記録に相応していると思われる日記がある。既述の挹江門の項で触れた第十六師団輜重兵第16連隊特務兵、小原孝太郎が戦後清書し直したという日記である。(『日中戦争従軍日記』 法律文化社 1989年)

 —— 15日、山の向ふの空高く、アドバルーンが二つ浮いている。どうもあのあたりが南京らしい。一通り山を越えて、少し平らかな所に村があった。そこに驚くべき光景にぶつかった。竹矢来で囲まれた広場の中に、無慮2千人の捕虜が我軍の警戒裡にうようよしているのだ。これには驚いた。後で分ったのであるが、これは南京攻撃に於てこれだけの捕虜があったのだと。話によると、約7000人の捕虜があったそうだ。彼等は白旗を掲げて降参したのを武装解除させたものである。… 一応しらべて、銃殺なり使役に使うなり解放するなりするわけである。後ろの山には、銃殺された捕虜の屍体が山のようになっているそうだ。南京は七分通り片が付いたらしい。

 17日、27班が乾草の徴発に行ったら農家の藁の中に敗残兵が四名隠れていたので、それを捕らえてきた。自分等のXXXが業物を抜いてずばっと一刀のもとに切り捨てたら、首がぶらんぶらんしていた。次に△△△が抜くなりやったら …… ○○○が「俺のを手本にしろ」というなりズバッと飛閃一陣、首は前に転がって血潮がそれを追っかけてほとばしった。 …

 捕虜が来た!一昨日見たあの村にいた捕虜だ。銃剣つけた一個小隊位の兵の間に挿まれて、来るは来るは、数知れず来る。駆けていって聞いてみたら、約4千人の捕虜だという(注:この数は前日に佐々木野戦郵便局長が出会った捕虜数に一致する)。みんな33や38や20連隊が此の方面の戦闘で捕えたものであると ——。これを護衛しているのもみなそれ等の連隊の兵隊なのだ。こんなもの連れていって何するのだろうか、みな銃殺だといふ者もあるし、南京で使役に使ふのだといふものもある。要するにわからないが、捕虜は2万人あったのが、これだけに処分したのだという事である。(注:小原孝太郎が南京城内に入ったのは18日である)

*第十三師団吉田庚

 歩兵58連隊の吉田庚が転戦の途中、一時原隊から離れて12月28-31日に南京に滞在した時の記述である。

—— 南京を出発する前に準備も完了している気安さから、噂に開く下関埠頭の捕虜銃殺現場を検分する。街側堤防脚部に監視兵に取囲まれた多数の捕虜うごめき、二十名堤上に整列させ半数は揚子江に面して半数は裏向きとして前向き十名は桟橋に駆足行進濁流に投身せしむるのである。強行溺死の処置であるが、生還せんとするものまたは逃げんとせし者は数名の歩兵が膝撃の構えで射殺する。終ると残る裏向き十名が前向けに替り、終れば堤脚部から二十名整列、これを繰返すのである。鮮血河流を紅とす。鳴呼惨たる哉、已むを得ざる処置なる哉。… 上流に向かって堤防を行く川面側の堤下には、到る処正規兵の死体と銃器、弾帯、鉄兜散乱し逃げかねて濁流に流されしものも多数あらん。小型小銃を見付け点検せしに我が軍の騎銃のごとく、口径は一回り大きく弾も廿数発拾得して試射せしところ異常なし、よって今後の戦争に役立てんとして持ち帰る。

(『軍馬の想い出一輜重兵の手記』 軍馬の想い出刊行会:1979年より)
*梶谷健郎の日記

 梶谷(南京・第二碇泊場司令部:騎兵軍曹)は12月13日に第二碇泊場司令部隊員として南京に着任している。

 —— 12月14日、南京入城の日。時に正午、城内の残兵は未だ相当あり、(下関)北部の埠頭(中山埠頭)には行けず、鈴木部隊長も来られた。約二千名の敗残兵は武装解除をされ城内に連行さる。感激の南京に遂に自身入城をなす。

(注:この「城内に連行さる」というのは不自然で、わざわざ城内に連行して混雑させることはこの時期考えられない。あるいは16日に「敗残兵2千名の射殺」とあり、一度城内のどこかに留保しておいて16日に再度城外で殺戮したのかどうか)

 12月15日、昨日軍司令部は敗残兵の射撃を受けた由なるも、之を直ちに撃退す。支那の巡警察18名使用す。午前午后共附近の敗残兵を海軍と共に掃蕩す。十数名を射殺せり。負傷せるものも多数あり、之等を一ケ所に集合せしむ。

 12月16日、午前2時ころ機関銃の音さかんに聞ゆ。敗残兵の2千名は射殺されたり。揚子江に面する下関において行わる。午前中部隊長、少佐と共に港内巡視を行う。二番桟橋にて約7名の敗残兵を発見、これを射殺す。15歳くらいの子供もおれり。死体は無数にありて名状すべからざるものあり。常熟より後続部隊来る。(注:この「敗残兵の2千名」の射殺は翌17日の2千名と同様、第十六師団などによるものを見たということである)

 17日、午前1時頃より約1時間にわたりて敗残兵2千名の射殺あり、親しくこれを見る。まことにこの世の地獄にして月は晄々と照り、物凄きかぎりなり。10名ほど逃走せり。

 18日、昨日より花園飯店の宿舎に移る。本部は桟橋前にして南京碇泊場の看板挙げあり。本日夜、本部衛兵所前にて射撃事件あり、之を取調べ銃殺の予定の所、先方の部隊長に引渡す。

 19日、午前中より作業を始む。汽船続々投錨し、揚搭は盛んに活動せり。埠頭附近の掃除(注:死体の処理)も大半整理せらる。… 敗残兵射撃の銃声は漸く止みて、混乱せる各所も各員の努力に依り大方清潔になりつつあり、毎日多忙なり。

(注:日を置いて26日、「午后死体清掃の為め苦力四十名を指揮し悪臭の中を片附く。約一千個に及べり。目を明けて見る能はず、誠に今世の生地獄と云ふべきなり」とあるが、場所は不明である)

太田寿男の供述書による大量の死体処理の実態とその総数

 太田寿男騎兵少佐は上記の梶谷健郎が「常熟より後続部隊来る」と記している部隊長で、同じ第二碇泊場司令部に上海碇泊場許甫鎮支部から12月15日夕刻に赴任した。梶谷が19日、「埠頭附近の掃除も大半整理せらる」と記しているが、太田がその多大な死体処理の任務を与えられていた。太田は戦後、満州からシベリヤに抑留されたのち、撫順戦犯管理所(後述)に戻されて、1954年(昭和29年)の供述書に南京での詳細が描かれている。

【供述書の具体的内容】

 12月15日夕、南京下関に到着し、下関司令部において次の要旨の命令を受く。 — 「第二碇泊場司令部は南京攻撃部隊と協力して下関地区にある中国人の死体の処理を実施し、目下安達少佐が担任せるを以って太田少佐はこれに協力せよ」と。私は直ちに安達少佐(第二碇泊場司令部部員)に面接し次の報告を受ける。

*処理法 —— 大部は下関碼頭(中山埠頭)及びその少々下流より揚子江に流す。一部は浦口(下関の対岸)東方約四粁の地点に於て焼却埋没す(燃料は主にガソリン、埋没は窪地、地隙等を利用す)。南京市内にある死体は攻略部隊が貨物自動車にて揚子江岸に運搬し、直接埠頭の上流付近より揚子江に流す(その数約五万)。

*運搬のため使用せる人員機材 —— 配属小舟、約30(一隻に死体約50を積載し得)。貨物自動車、約10(埠頭より遠き位置にある死体運搬に使用、一台約50を積載し得)。配属陸上輸卒隊、約800名(主に第十一師団より配属せられしもの)

*運搬状況 —— 下関地区の大部は碼頭に運搬し揚子江に流し、一部は小舟にて少々下流に運搬し揚子江に流す。碼頭より遠き場所にあるものは貨物自動車、手車等を用い、近きものは簡単なる担架により運搬す。この運搬には陸上輸卒隊が従事し … また死体の中には絶命しあらざるもの若干あり、これ等は手鉤を以って頭部或は心臓部を突刺し絶命せしめて運搬せしものあり。 

 焼却、埋没地までの運搬は配属小舟を以ってし一回三十隻運行、一日概ね十回、約二日間実施す。焼却埋没作業は攻略部隊の人員500名を以って実施す。その人員はいずれの部隊かは明らかならず。 

*処置死体の概数、日数、区分等 —— 第二碇泊場司令部に於ける死体処理は12月14日より概ね五日間に亘り実施す。14、15日は下関地区を一地区とし安達少佐がその処理を担当せしが、私が12月15日夕、南京碇泊場司令部に着任後はに地区に分け、私は(下関地区の)西半分を担任し、16、17、18日の三日間実施す。

 14、15日に安達少佐が全部を担任し実施せし時(昼間は勿論、夜間に於ても処理を迅速に行う):推定死体総数約10万の内、

 埠頭及び一部少々下流より流したる数、約三万五千

 焼却、埋没位置に運搬せる数(二日間にて概ね終わる)、約三万

 以上の内、重症にて瀕死の数(手鉤を以って頭部或は心臓部を突刺し絶命せしもの)、千五百。合計 六万五千

 16、17、18日三日間の安達少佐担任地区(東部):揚子江に流したる数、約一万六千

 太田少佐担任地区(西部):揚子江に流したる数、約一万九千。合計三万五千

 以上、南京碇泊場にて担任せる総計 約十万

 これ以外に、攻略部隊が取扱いたる数(注:つまり太田・安達少佐の率いた部隊が処理した以外に、既述の日記等の証言に示されている各攻略部隊が独自に処理した数)約五万、合わせて十五万と推定す

 ここで太田少佐は「実地に処理した死体の種別として、(十万のうち)抗日軍捕虜は推定三万、その他は住民にして老若男女あり、要するに死体の内別は住民のほうが多数であったことは明らかなり」としている。

(以上は『南京戦史資料集IIより』)

【下関の中山埠頭地区で処理した遺体の実数】

 この中で、太田・安達少佐が処理した約10万のうち、埋めたり焼却したりせずに揚子江に流した遺体は7万となっているが、「攻略部隊が取扱いたる数約五万」についても「埠頭の上流付近より揚子江に流す」とあって、合わせて12万が揚子江に流されたことになる。また「一部は浦口(下関の対岸)東方約四粁の地点に於て焼却埋没す」とあるが、小舟を一回30隻運行、一日概ね十回、約二日間で一隻50体を運んだとの計算で3万体となり、この運搬も大変な作業であって、どうしてすべて揚子江に流さなかったのかとの疑問は残るが、合わせると15万体となる。日本軍としては下関地区の大量殺戮の証拠を消したかったのかもしれない。また、太田・安達少佐が処理した約十万のうち「抗日軍捕虜は推定三万、その他は住民」というのは、城内で平民服に着替えて潜伏しようとした中国兵も多くいたから、それを太田・安達が状況を理解して区別ができていたかどうかはわからない。従って住民の七万は必ずしも正確とは思えないが、それでも住民の割合は半数に上るのではないだろうか。いずれにしろ太田が関わり、示した遺体処理の総数は15万という、実に30万とされる半数に上っている。

【ウィキペディアの記事の明白な誤りと作為】

 ついでながらウィキペディアの中に「南京事件の証言」という項目で書かれているものがある。これは基本的に「なかった派」の方が書いたもののような傾きがあり、証言の範囲も偏狭であり、広範囲な資料の収集が全くなされていない。それは別として、この中の太田証言に関しての記述が基本的に間違っているのでここで訂正しておく。

 一つの注釈にまず、「碇泊場司令部勤務の梶谷健郎軍曹が当時綴った日記(防衛庁防衛研究所戦史部所蔵)には、12月25日『常熱より太田少佐外来る』とあり、供述書に言う16日から18日の死体処理は不可能である」とある。筆者の上記の梶谷健郎騎兵軍曹の日記では16日、「常熟より後続部隊来る」とあり、太田の名はなく、また16日の「午前中部隊長、少佐と共に港内巡視を行う」というのが太田との打ち合わせを指している。太田が南京下関の第二碇泊場司令部に到着したのは12月15日夕方であり、15日がどうして25日になるのか。また安達少佐は太田少佐より先の14日より遺体処理の作業に従事していて、それには触れていない。

 次に、「安達少佐も入城式(17日)、慰霊祭(18日)に参加しており、多数の死体処理を行える状況ではない。26日より2日間、処理した数はせいぜい一千体くらい、女子供の死体は無かった」とウィキペディアの記事にはある。しかし太田はこの26日にはすでに作業を終え南京を離れていて、この日は梶谷自身が「午后死体清掃の為め苦力40名を指揮し悪臭の中を片附く。約一千個に及べり。目を明けて見る能はず、誠に今世の生地獄と云ふべきなり」と日記に記しているのであって、どうしてそれを太田に置き換えてしまうのか、明らかに作為がある。

 そもそもこの入城式は17日の正午から開催され、二時間程度で終わっている(ちなみに翌日の慰霊祭は午前中の一時間程度で終わっている)。それに既述の兵士たちの日記などには、「入城式を終え、死体の処理に行く」との記述があちこちに見られ、これはつまり太田少佐の言う、「(南京)攻略各部隊」から選抜して太田・安達に差し向けられた兵士たちと一致しているし、それまでに太田少佐は800人の処理部隊を使用している。それに例えば山田支隊の兵士たちも死体処理に赴いているが、山田支隊長は入城式に出席しているものの処理は隊員任せると日記に書いている。同様に太田・安達少佐が入城式に出席しても何の支障もなく、間違いなく入城式後、下関に監督として戻ったはずである。またもし太田・安達が5日間で処理した10万体が多いと思うなら、そのうち7万体は揚子江に流し、埋葬したのは3万体であったということであり、そのような分析にも目が及んでいない。

 このウィキペディアの筆者は偕行社の『南京戦史』三冊セットくらいもっと読み込んだほうがいい。もともと偕行社は虐殺がなかったことを証明するために、主に元陸軍将兵達から証言や日記を集めたのであったが、結果的に虐殺その他を認めざるを得ない内容が多く集まり、偏見を排す覚悟を持って隠すことなく本にしたのである。

 なおこの太田寿男少佐の供述書については、ウィキペディアの記事がその基本的な事項(日付など)をあえて書き替えて排除しようとしているように、南京事件の反対論者の多くが無視しているのは何故なのか、太田は虐殺死体の処理を目的として特別に上海から派遣された立場であったから、その処理した遺体数の把握は報告の義務もあったであろうし、およそにおいて正確であったはずで、むしろそのことにより触れるのを避けられているのであろうか。

元将兵の証言等の記録に関する偕行社の決断

 ここまでの各所において偕行社の『南京戦史』、『南京戦史資料集』から引用しているが、旧陸軍将校の親睦団体であった偕行社の畝本正巳が、もともとは南京虐殺はなかったことを証明するために、1985年(昭和60年)、機関紙『偕行』において旧軍人たちから手記を募集し、連載記事「証言による南京戦史」を開始した。ところがすでに戦後40年(あるいは南京戦後48年)経っていて、それまで心の中に封殺して忘れてしまいたい出来事に対し黙して語らずであった元将兵たちの中に、事実は事実として語っておきたい、後世のために語っておくべきという空気が醸成されてきていた。そこから大虐殺否定論を否定する証言が次々に出てきて、虐殺に関わる重い証言を無視することはできなくなり、連載を12回で打ち切って、将兵たちの日記も集め、残された当時の各部隊の戦闘詳報などにもあたり、4年間の編集作業を経て1989年(昭和64年・平成元年)、『南京戦史』と『南京戦史資料集』を同時に非売品として上梓、さらに4年かけて1993年(平成5年)に『南京戦史資料集Ⅱ』を発行した。この8年の年月だけ見ても偕行社の覚悟がうかがえるが、『南京戦史』のあとがきには、「(編集の)畝本氏はご自身の体験により参戦した多くの方々の証言をもとにして(南京事件の)無実を証明すべく南京戦史に取り組まれたが、結果的には真実追求のためありのままの記事を書かねばならなくなった」と正直に記している。

 ただその過程において、なぜこんなものを出版するのか、皇軍に泥を塗るのか、中国国民に詫びるのかなどとの批判にさらされたとあとがきにあるが、「真実の究明」は必要として「ありのままを記述する」方針を貫いた。結果的にこの三点セットは南京戦に関し、日本陸軍の内側からの記録として画期的とも言える内容となっている。この中では自分は見なかったという人の意見も合わせて載せていて、また注釈の各所では犠牲者が少ないほうを選ぶ傾向が見て取れるが、客観性を保つ姿勢は十分にある。これ以降、研究者も偕行社のこの三点セットから多く引用しているが、筆者も同様である。ただ、なかには犠牲者数をわざと少なくしていると批判する論者もいるが、その程度は別資料と比較すればわかるから構わないし(仮に3万人を1万人としていたとしても、大量虐殺に変わりはない)、数字的な判断などは別にして、掲載されている陣中日誌や戦闘詳報などの内容が改ざんされていない限り問題はない。

虐殺に関わっていなかった第六師団
—— 戦犯として処刑された師団長谷寿夫の冤罪

 谷寿夫第六師団長は戦後、蒋介石国民党政権の南京軍事裁判によって、「南京事件」に関わったとして死刑に処せられたが、筆者は全体の流れを時系列で調べているうちに冤罪であるとの結論に達した。おそらくこの断定的見解を言うのは筆者が最初であろうと思われるが、逆にこの第六師団のことだけ調べて、南京事件はなかったとする学者もいるから厄介である。それは後述する。

他の部隊の虐殺現場を見る

 当時の第六師団(主に熊本・大分兵団からなる)の輜重(しちょう=軍需品を扱う)第6連隊小隊長の高城守一が、12月14日に糧秣を補給しに下関にいったとき、彼が見た状況である。

 —— 揚子江の流れの川面に民間人らしい死体が累々と浮かんでゆっくりと流れていて、波打ち際には、打ち寄せる波にまるで流木のように死体がゆらぎ、 河岸には折り重なった死体が見わたす限り累積していた。それらのほとんどが南京からの難民のようであり、その数は何千、何万というおびただしい数に思えた。南京から逃げ出した民間人、男、女、子供に対し、機関銃、小銃によって無差別な掃射、銃撃がなされ、大殺戮がくり拡げられたことを、死骸の状況が生々しく物語っていた。道筋に延々と連なる死体は銃撃の後、折り重なるようにして倒れている死骸に対して、重油をまき散らし、火をつけたのであろうか、焼死体となって、民間人か中国軍兵士か、男性か女性かの区別さえもつかないような状況であった。焼死体の中には子供に間違いないと思えるのもおびただしくあり … 私は、これほど悲惨な状況を見たことがない。大量に殺された跡をまのあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。

 さらに 同師団歩兵第13連隊(熊本)の赤星義雄の回顧である。

 —— 12月14日、私たちは城内を通り揚子江岸に向かって進んで行った。… 揚子江岸は普通の波止場同様、船の発着場であったが、 そこに立って揚子江の流れを見た時、信じられないような光景が広がっていた。2千m、いやもっとであろうか、その広い川幅いっぱいに、 数えきれない程の死体が浮遊していたのだ。 見渡す限り、死体しか目に入るものはなかった。 川の岸にも、そして、川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も、男も女も、まるで川全体に浮かべた”イカダ”のように、 ゆっくりと流れている。 上流に目を移しても死体の”山”は続いていた。 それは果てしなく続いているように思えた。 少なく見ても5万人以上、そして、そのほとんどが民間人の死体であり、 まさに揚子江は”屍の河”と化していた。

(上記はいずれも『揚子江が哭いている —— 熊本第六師団出兵の記録』創価学会青年部反戦出版委員会編)

 このように他の部隊が殺戮をしている現場を直接見たという記録しか見当たらない。

第六師団の進軍経路

 そこで第六師団自身による捕虜殺戮もあるのであろうと筆者は一通り調べてみたが、南方から南京城に攻めてきた第六師団は12日、右翼隊と左翼隊に分かれ、右翼隊は早朝より南京城南側の中華門を中心に攻め、深夜から翌日にかけて占領した。「城門付近敵の死体累々、実に惨憺たり」と一参謀の日記にあるが、新聞記者の一人は「中華門は激戦で日本兵の死体も中国兵の死体もあったが、それほど多数という印象はない」と語っていて、これは見る場所によっての違いである。

 一方で南京城外の南側から北に向かって攻める計画の左翼隊(主に歩兵第45連隊)は12日から13日未明にかけて南京城を西北から脱出して南下してきた中国軍の大集団と新河鎮(あるいは上河鎮)あたりで激烈な戦闘を交えつつ、下関南方の三汊河まで進出した。そこで中国軍は背水の陣を敷いて抵抗したが機関銃中隊、大隊砲、速射砲の攻撃で中国軍は多数の戦死者を残しつつ後退、揚子江岸から逃げるものもいた(ただし船はほとんど残されていなかった)。この時の連隊の一部第11中隊の戦死傷者50数名、敵死は2300名(後日の確認では2377名)という。ここまでは『南京戦史』からである。

 第六師団の「戦時旬報」では「12月12日−13日」の項に「左翼隊に属する騎兵聯隊は(12日の)夕刻新河鎮に於て下関方面より南下する約一万の敵と遭遇、激戦後死体約一千を残し(「このため一帯の沼沢は死屍で埋められた」とある)対岸三角洲に壊走せしむ」という記述がある。また南京城外の攻防戦で第六師団の兵力は2万、敵は1.5万で、この戦闘で約一万の敵を戦死させ、そのうち7千人以上は揚子江上で砲撃とあり、これを虐殺とみなしている記述もあるが、厳密には「追撃戦」つまり戦闘行為の延長線上であろう。またおそらくその「7千人以上」のうち殺害を逃れて揚子江上を船などで敗走した2千数百の敵は、対岸(島状の大きな中洲:江心州)で第五師団の国崎支隊が捕獲したとの記述もあり、それが第六師団の追撃から逃れた敗残兵かどうかは確かでないが、この国崎支隊はその敗残兵を殲滅している。また同じ「戦時旬報」の彼我損傷一覧表の備考には第六師団の捕虜5500とあり、既述の「下関地区における大量虐殺と第十六師団」で示したようにこの捕虜を第十六師団に引き渡し、師団の佐々木支隊第33連隊が引き受け、その日(13日)のうちに「処分」していて、このことにより第六師団は捕虜虐殺の行為を免れている。

 なお13日朝は南京城南の中華門占領後、第六師団の二大隊が城内を掃蕩したとあるが、これは中翼隊ともいうべき第23連隊が水西門から入ってほぼ城壁の内側に沿って掃蕩戦に参加しただけで、その時点の掃蕩は「ほとんど人影を見ず、中国兵の捨てた銃器や衣類のみ」で、14日以降のように本格的なものではなく、従って第十六師団のように城外の揚子江岸の虐殺には直接関わっていないと推察できる。ただし第六師団の戦時旬報によると第13連隊が13日、南京城南側の中華門を攻略後、漢中門内側の清涼山と五台山を占領、その際に23連隊の砲台を派遣とあるから多少の攻防戦があり、その地の記念碑には千人以上が犠牲とあって、その仔細はわからないが虐殺の範疇ではないと思われる。

 一方で同師団にいた平松鷹史「郷土部隊奮戦史1」(大分合同新聞社)によると、—— 「第六師団が抗洲湾に上陸、崑山に直進中、第六師団司令部に『女、こどもにかかわらずシナ人はみな殺せ。家は全部焼け』という無茶苦茶な命令が届いた」とあり、これに対して師団司令部副官であった平岡力中佐も「こんなバカな命令があるか」と一言のもとに蹴飛ばしたとある。そのことからしても南京への進軍中の第六師団の行動には、既述にある他の部隊よりも抑制が保たれていたように思われる。

 今ひとつ、第六師団の左翼部隊(第45連隊)の一部は追撃戦後、そのまま城外で一夜を明かし、人のいない家々から食料を「徴発」して空腹を満たし、14日には次の作戦で揚子江沿いに南下し(つまり下関北部まで行かず)蕪湖に向かっていることが『揚子江が哭いている』の中で複数人によって書かれている。つまり第六師団は城内に入った一部隊がそこで一泊し、翌朝揚子江岸の下関に行って虐殺されたおびただしい死体を見、逆に城外で宿泊した部隊は何も見ることなくそのまま蕪湖に向かったのである。下関に行った第六師団の別部隊も15日から入城式後の17日にかけて蕪湖に向かっている。そして12月21日には谷自身も南京を出て転進しているから師団としては捕虜虐殺には関与していなかったと思われる。

 なおほぼ同じ日に南京から転進している山田支隊は、既述のように下関で虐殺した膨大な死体の片付けを数日かかって行っている記録が複数の兵士の日記にあるが、第六師団第45連隊第11中隊の上等兵福元続の日記には、新河鎮(上新河)での戦闘の翌14日より、食料の徴発や武器の手入れや入城式と慰霊祭への参加、南京城内見学、敵死体の確認(2377人)などで過ごし、22日になってやっと宿泊先の江東門刑務所を出て本隊を追って蕪湖に向かっている。どうやら自軍の戦死者の帰還作業を担当していた様子がある。また同じ第45連隊の第2中隊の陣中日誌には毎日のように軍紀・風紀の維持についての注意が書かれていて、むしろ珍しいほどである。(『南京戦史資料集II』より)

 しかし師団長の谷寿夫は戦後になって日本から召喚され、捕虜の大虐殺を指示したとして蒋介石国民党軍の南京戦犯裁判所において銃殺刑となる。筆者は専門家ではないが、筆者なりに相対的に資料を分析した結果、谷の場合は南京への進軍途上の村々において(補給がなされなかったため)食料等の「徴発」はしたであろうが(ただし谷師団は後発のため、先発隊が荒らした村々の跡を見ることが多く徴発にも苦労したようであるし、村人もすでに村を捨てていなかった)、捕虜の大量虐殺の意味では「冤罪」と思われ、本来、第十六師団の中島今朝吾師団長と主な実行部隊長としての佐々木到一が戦犯として死刑になるべきであったし、またあえて言えば谷よりも既述の第十三師団の山田栴二支隊長が(中島師団長の命令で)支隊が捉えた1万4777人とその後の追加で2万人以上の捕虜虐殺に関わったとして、戦犯になっても全くおかしくない(山田支隊の実行部隊は既述のように両角業作歩兵65連隊である)。ただ山田は日記を見る限り冷静で理性的な指揮官に思え、当初はその虐殺に反対したという事実は記録にもあるが、結果的に捕虜の処分に意欲盛んな連隊長の両角に任せてしまった。だからといって罪が逃れるわけではない。

第十六師団中島今朝吾師団長の身代わりとしての谷の処刑とその理由

 以上の経緯から、どう見ても谷は彼らの大量虐殺の罪を身代わりに着せられた面が大きいように思われる。というのも(大量虐殺の戦犯として本命の)中島師団長は1945年(昭和20年)の終戦から数ヶ月で国内で病死し、佐々木支隊長は終戦後、満州でソ連軍に捕えられ長きにわたりシベリア抑留となっていて、南京戦犯裁判所の時期には召喚できず、その後共産党による中華人民共和国成立後に撫順戦犯管理所(後述)にソ連から引き渡され、収容後、周恩来の恩赦政策によって帰国も間もないと思われた1955年(昭和30年)、管理所で脳内出血のため没した。

 実際に谷は、南京戦犯裁判において「被告(私)の聞知する所にては南京大屠殺は、中島部隊(師団)の属せる南京攻略軍の主力方面の出来事にして、其の被害者に対しては真に気の毒の至りなるも、柳川軍(注:谷は第十六師団が属する上海派遣軍とは異なり第十軍の柳川司令官下の第六師団長である)方面の関係なき事項にして、即ち被告の部隊に関係なき事項なり」、さらに「中島部隊と被告(私)の部隊とに関し、両指揮官としての性行及び南京戦前後に於ける両部隊の行動に於ては、根底より相違せる事実は、日本内地には幾多の証人あり。然るに此須知の事項を混同、若しくは被告側に移して、同一視せらるるは真に遺憾千万なり」と弁明し(その通りであると筆者は見ている)、その証人を日本国内から召喚してもらえるよう訴えたが、南京戦を指揮した中支那方面軍(上海派遣軍と第10軍を統合)の最高責任者である松井司令官は極東国際軍事裁判所(東京裁判)でB級戦犯として起訴されていて(のちにA級先般的扱いで絞首刑)、形式上の上海派遣軍(第十六師団が属する)司令官の朝香宮鳩彦王中将は皇族のために訴追されていず、また立場上召喚は難しく、しかも第10軍の柳川司令官も終戦前に病没し、肝心な中島師団長も世に居ず、他に召喚に値する適切な責任者がいなかった。一方で中国側(蒋介石国民政府)としては、最低一人は主要な責任者を処刑することを国民に示めさなければならなかったという背景があった。ただ、今では谷は銃殺刑となった重要戦犯人としてあちこちでそのまま記載されているから、筆者のこの見立ては「あった派」や中国の人たちにも違和感を持たれるかもしれない。実際に谷はこのため、中国側の文献では第十六師団の中島師団長や佐々木支隊長の代わりに最初に名前を挙げられる例が多い。そうした中で、谷の出身地熊本では谷師団長の汚名を晴らすとして無実を訴える元師団員の声も多くあり、筆者はそれに与する。

 よって、中国側の記述では谷は南京戦犯裁判所で死刑になったからとして、「支那派遣軍司令官の松井石根(東京裁判で絞首刑)と第六師団長の谷寿夫の指揮の下で」という無思慮的な書き方が散見されるが、「第六師団長谷寿夫」は「第十六師団長中島今朝吾」と書き換えていただく必要があるだろう。実際の南京戦闘史の中においても第六師団は主な攻略戦がほぼ終わるころの12月12日に南京城外の南側から西北に向かって攻略し城内からの多数の逃亡兵と戦闘しただけで(敵死者約一万)、戦闘の主力と捕虜虐殺の主体はあくまで第十六、第九、第十三師団なのである。

谷師団を利用した「なかった派」のずさんな論説

 この筆者の見立て通りというか、逆にこの谷寿夫の第六師団の日記や部隊の記録だけを集めて南京の大虐殺はなかったとする論者(大学教授の東中野修道による『1937・南京攻略の真実』小学館文庫:2003年)がいて、その調査対象がこの師団に限定されたもので、これは単一の事件を取り上げるフリーライター程度の仕事であり、その大学教授の立場としての資格が疑われる(こういう人物を「偏向」論者という)。これまでに触れた幕府山や下関における捕虜集団虐殺もまったく東中野は無視しているし、調べてもいない。これを世に出した出版社のレベルすら疑われる。おそらく東中野に立場が近いはずの偕行社の『南京戦史』三点セットすらきちんと目を通していないであろう。むしろそれらに目を通すのが怖いのであろう。仮に理系の学者であるなら、自分の仮説に対して実証実験などが必要であり、それも他の学者の追試での確認が求められる。それを必要としない少ない限られた資料だけで堂々と論を張る文系の学者というのは気楽でいい。そしてその自分の説に同調してくれる論者がいればそれで済むのである。何よりも彼には人間という善と悪にまみれた存在に対する観察力、強いて言えば自分の心の中の弱さに向き合う姿勢を持たず、だから相手側の立場に配慮することもできず、常に自分を安全な立場に置いて物を言う類の人間なのであろう。なお東中野のその他の愚行については後述する補遺の中の「二つの名誉毀損裁判:夏淑琴」についても触れる。

統制の効かない軍紀 — 侵略軍としての止まらない暴虐行為

松井司令官の慢心と無策

【松井の弁明】

 入城式の裏で虐殺事件が多々発生したという報をあとで聞いて、松井司令官の報告にはこうある。

  —— 「図らざりき、我軍の南京入城に当り幾多我軍の暴行掠奪事件を惹起し、皇軍の威徳を傷くること尠少ならざるに至れるや」とあり、その理由として、「一、上海上陸以来の悪戦苦闘が著しく我将兵の敵愾心を強烈ならしめたこと / 二、急劇迅速なる追撃戦に当り、我軍の給養其他に於ける補給の不完全なりしこと、等に起因するも亦、予始め各部隊長の監督到らさりし責を免る能わず」としている。一、に関しては上海戦において自軍に多くの犠牲者を出したことで、将兵の間に戦死した仲間の敵討ちをしようという心境が芽生えていたことを言う。ただ、それは手前勝手というもので、攻め込まれてそれ以上の犠牲者を出した相手の軍民の心を全く無視している。また補給が追いつかなかったともしているが、充分な補給もせずに追撃戦を行ったのは松井司令官自身であり、その責任は負うべきであろう。続いて「予は南京入城翌日(12月17日)特に部下将校を集めて厳に之を叱責して善後の措置を要求し、犯罪者に対しては厳格なる処断の法を執るべき旨を厳命」したが、「然れども戦闘の混雑中惹起せる是等の不詳事件を尽く充分に処断し能わざりし実情は巳むなきことなり」と責任追及ができる状況になかったと言い訳をしている。

 松井が決定した南京攻略戦そのものが、松井の慢心による無計画性と無謀性から発したと言われていて(南京攻略戦は事後に陸軍中央において追認されているが)、単に上海を攻め落とした勢いだけで、まともに糧秣の準備もせずにそのまま上海派遣軍を南京に向けたわけである。さらに現地軍将校が無理というのを押して12月17日に「入城式」を挙行させ、そのために事前に城内大掃討作戦を行うことにより、さらに日本軍兵士の暴虐行為を加速させた松井は、その入城式後の様子もまともに把握せず、あるいは多少は耳にしていても戦闘行為の一環との認識で、そのまま凱旋将軍として12月22日に上海に帰還した。そしてその日の日記の中で「上海出発以来ちょうど二週日にして南京入城の大壮挙を完成し帰来する気持は格別なり。これより謀略其他の善後措置に全力を傾注せざるべからず」と、記している。

【松井司令官への批判と解任】

 ところが15日に南京を発ったダーティンやスティールらの新聞記者が17日には上海に到着し、自分たちが目にした日本軍の蛮行を暴く記事を次々と発信し、アメリカを中心として大きな国際問題になり、当然現地の国際都市上海を中心としてその情報は広まり、国内の日本軍政府にもその情報は迂回して伝わっていた。そこに松井司令官は悠然と帰ってきたわけで、批判の目にさらされることになった。

 松井は12月26日の日記に「南京、杭州付近また奪略、強姦の声を聞く。幕僚を特派して厳に取締りを要求する」、そして29日には「南京において各国大使館の自動車その他を我が軍兵卒奪略せし事件あり、軍隊の鞭乱暴驚くに耐えたり。せっかくの皇軍の声価をかかることにて破壊するは残念至極」と記しているが、その後も軍紀を回復することができず司令官を解任され、本国へ呼び戻された(実際に参謀長閑院宮載仁親王の名で、松井司令官に対し、「軍紀風紀に於て忌々しき事態の発生近時漸(ようや)く繁(しげき)を見、之を信ぜざらんと欲するも尚疑わざるベからざるものあり」と、異例の「戒告」の文書を発した)。ただし、これらのことに松井は日記では触れず、それよりも自分の手で中国の領地拡大への戦略を陸軍中央に具申していたが、聞き入れられなかったという嘆きを書いている。

 一方でこのような多大な犠牲と軍紀の弛緩の発生は、陸軍中央にとっても深刻な問題になりつつあった。当時の陸軍省軍務局軍事課長、田中新一大佐は次のように記している。—— 「軍紀頽廃の根元は、高年次招集者にある。召集の憲兵下士官などに唾棄すべき知能犯的軍紀破壊行為がある。現地依存の給養上の措置が誤って軍紀破壊の第一歩ともなる。すなわち地方民からの物資購買が徴発化し、掠奪化し、暴行に転化するごときがそれである。…… 補給の停滞から第一線を飢餓欠乏に陥らしめることも軍紀破壊のもととなる。… 当面緊急の問題は、… 後方特設部隊(兵站機関)の軍紀的乱脈が大問題である。軍事的無智、無規律、無責任、怠慢などおよそ団体行動の要素は皆無」とある。つまり松井司令官の不用意な南京への進軍決定が、南京とその進軍途上の街々における暴虐行為を導いたと言える。しかも軍紀、軍紀と言いながら捕虜をどう扱うかのような具体的対策を何もしていなかった。

 さらに松井は翌年の1月24日の日記において、中島今朝吾第十六師団長について、「その云うところ言動例により面白からず、殊に掠奪等の事に関し甚だ平気の言あるは、遺憾とする所」と記して、「由て厳に命じて転送荷物を再検査せしめ鹵獲、奪掠品の輸送を禁ずることに取計う」、つまり中島自らが略奪をして、その物品(とりわけ南京の蒋介石旧邸にあった家具・財産)を日本に送っていた疑いがあるからそれを禁じる予定という。また中島は部下の略奪品を「上納」させていたとの話もある。いずれにしても中島は彼の上長である松井司令官の訓令を歯牙にもかけていなかったことがわかる。中島が南京城外における捕虜大量虐殺の一番の主導者であることは間違いないが、松井は別な日の日記でそのことに触れている。にもかかわらず松井が中島を更迭できなかった理由というのは、松井が人事においては優柔不断であったのかどうなのか、結果的に逆に自分が更迭されたわけであり、本来更迭という処分では済まない多大な犠牲者を松井は南京とその周辺で生じさせた責任は甚大である。

 ただし、ここで重要なことは、こうした軍紀弛緩に対する一時的な処置というのはまさに一時的に終わっていて、司令官が交代しようが、この後の日本軍の各地への進軍の過程において、その攻略の現場において蛮行が直るわけではなかった。それがこの後8年間続けられるのである。

【戦犯としての処刑】

 戦後、松井は極東国際軍事裁判(東京裁判)において戦争犯罪人として逮捕、起訴され、南京で起こした虐殺について、その防止や阻止、関係者の処罰を怠ったとして他のA級戦犯者と同等な扱いで絞首刑の判決を受ける。松井は公判における口述書では、南京攻略当時は蘇州において病臥中で、将兵の暴虐行為を知らず、何の報告も受けず、「17日南京入城後、初めて憲兵隊長より之を聞き、各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰をなさしめたり」とあるが、確かに松井の日誌には中島師団長らの勝手極まる蛮行を嘆き、その気ままな掠奪行為に怒りも表しているが、その調査と処罰をしたという裏付けは取れていないし自身の日記にも処断は難しいと書いている。しかも「軍隊の将兵の軍紀・風紀の直接責任者は私ではない」と返答している。つまり「私が受けておる権限は、両軍を作戦指導するという権限である。その以上には何もないのであります」と責任回避の返答をしている。彼の日記や訓示にある言葉とは様子が違う。ちなみに肝心な中島師団長は、戦後まもなく軍事裁判前に日本で病死している。

 そして1948年(昭和23年)年12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行されたが、処刑前の言葉として「(自分が死刑になることで)当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省をあたえるという意味で大変に嬉しい」と自分の死を意味付けているが、「当時の軍人たちに」としていて、自分自身が深く反省しているとはとても見えない。人間というものはそう簡単には人のことを自分のこととして受け止めないし、自身が反省もできないのに、人に「反省をあたえる」ことなどできるわけがない。

 ところで意味不明だが、1978年(昭和53年)、靖国神社は(GHQ占領軍が日本から撤退するのを見計らって)、立派に戦死したわけでもない松井を他の同様なA級戦犯者たちと共に合祀した。靖国神社は簡単に言えば戦死者があって成り立っていて、戦争がなくなった現今にあっては、その種の人間(戦争に関わっていたというだけで)を積極的に取り込んでいるように見える。しかしそれ以降、昭和天皇は靖国神社への参拝を取りやめている。おそらく昭和天皇の心にはその処置に対する怒りがあったと思われ、少なくともそれが天皇のけじめであったのであろう。

アリソン事件 —— 蛮行による日本将校処分の例

 南京において緩んだ軍紀の中で一番目立って蛮行を繰り返した中隊長がいた。『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて—元兵士102人の証言』の中でもタイトルに、「天野中隊長は“強姦、強盗、放火、殺人、なんでもやれ!”と言った」と書き出される男であるが、この人物が外国人に対しても事件を起こしている。

 翌年の1月24日の夜、日本兵が金陵大学農学部に侵入し女性一人を連れ去った(実際には二人のようである)。その女性はアメリカ人カトリック司祭の家(おそらく司祭は上海かどこかに非難していた)に連れて行かれ、その家を占領していた日本兵たちに強姦され、二時間後に戻ってきた。そこで二日後、アメリカ大使館のアリソン書記官は金陵大学のリッグスと一緒に被害女性に案内させ、日本の領事館警察と憲兵も同行して、強姦が行われた家の中に入ろうとしたところ、中から日本人将校が出てきて、アリソンとリッグスに平手打ちを食らわせた。憲兵が止めに入ったが、この将校はさらに激昂してリッグスの襟を引き裂き、シャツのボタンを引きちぎった。

 それに対してアメリカ政府はグルー駐日大使を通して強硬な抗議をし、日本政府はすぐに謝罪して賠償を約束して一応の決着をみたが、アメリカ国内のメディアは見過ごしておかなかった。メディアは、アメリカ人施設に侵入し占領したうえに中国夫人を凌辱した日本兵の調査に行った同国の書記官が逆に暴行を加えられ侮辱を受けたとのニュースを流し、それまでにも日本軍の中国内での数々の暴虐事件の報道は重ねて行われていたから、またこれに並行して南京に残って中国人の難民を守っているアメリカ人宣教師や国際委員会のニュースもすでに伝わっていたから、米国内での日本製品の不買運動にも繋がっていくが、むしろそれら難民を支援するために多くの市民団体が南京に向けて支援物資を送る流れになった。

 一方で現地では翌日に本郷少佐がアリソンを訪れ、謝罪した。この本郷からの報告を上海派遣軍参謀長の飯沼守少尉が日記に記している。

 —— 「訴えに依り強姦されたと言う家を確かめたるところ、天野中隊長及兵十数名宿泊せる所なるを以て、其家屋内を調査せんとしたるに米人二名亦入らんとし、天野は兵を武装集合せしめ逆に米人を殴打し追い出せり。其知らせに依り本郷参謀現場に到り、中隊長の部屋に入らんとしたるも容易に入れす、隣室には支那女三、四名在り強て天野の部屋に入れは女と同衾しありしものの如く、女も寝台より出て来れりと、依て中隊長を訊問したるに中隊長は其権限を以て代わる代わる女を連れ来り金を与へて兵にも姦淫せしめ居れりとのこと」とあって、天野は他の将兵らとともにこの司祭の家を一種のハーレムの家としていて、その中の様子を見られたくないために玄関口でアリソンらに暴行し、本郷が入ってくるのにも抵抗したわけである。なお「金を与へて」とあるが、天野は銀行の金庫を爆破して金を奪ったともある。

 これらのあまりにも目立った蛮行により当然天野郷三中隊長は「軍法会議」にて処分され、一兵卒に格下げされた。このように「軍法会議」にかけられた例は天野一人ではないが、全体の無数の事件からするとわずかであって、逆に言えば運の悪かったケースであろう。

(この節は主に『南京難民区の100日—虐殺を見た外国人』笠原十九司より)

日本軍発行の機関紙の虚偽

 日本国内での報道は当然のことながら占領した中国各地における将兵たちの蛮行を取り上げることは一切なかったし、報道は厳しく規制されていた。それとは対照的に、日本軍はニュースの飛び交う上海において中国語の機関紙を発行していた。「上海新申報」がそれで、以下は翌年1月8日の記事で、まだ南京において日本軍の暴虐が続いているさなかである。

 —— 「 南京市の街は依然として静寂である。慈愛の陽光は西北角の難民区に照り輝いている。死から逃れた難民は今では皇軍の慰撫を受けていて、彼らは路傍にひざまづき感激の涙を流している。皇軍入城前には反日的中国軍の圧迫を受け、病人は医療上の助けもなく、飢えた人は一粒の米も粟も得られなかったが、もう市民の苦痛はなくなった。… 老若男女は皇軍をひざまずいて迎え、忠誠心を表している。難民区内では日本兵が難民に食料を分け与え、感激にあふれないものはない。… 鼓楼から眺めると日本大使館の近くには米国国旗が、西北方には英国国旗が、北方には仏国国旗が、東方にはソ連の赤旗が翩翻と掲げられ、… 中央には高く日章旗がそびえている。運動場では日本兵が中国児童と楽しく遊んでいて、南京では安らかな生活に愉快な仕事の空気を呼吸することができる。全世界の人々は今後南京の発展に注目すべきである」

(既述の『外国人の見た日本軍の暴行』ティンパーリー著より)

 この記者はおそらく日本軍の指示によって、虚偽の記事を得意然として流したのであろうが、外国人記者にも読まれていることを想定していたかどうか、あるいはこれでごまかせると思ってのことかもしれない。いずれにしてもこうした見え見えの虚報は記事にすれば後の世まで残ってしまうが、余計なことながら、「なかった派」はこうした虚報すら利用するものである。

軍紀・風紀の乱れに対する各種通達と現実

 日本軍の上層部では、さすがに南京での残虐な出来事が海外にも知れ渡り、国際的な非難を浴び始めていたので、参謀総長から以下のような通達を出した。

 —— 「顧みれば皇軍の奮闘は半歳に近し。その行く所常に必ず赫々たる戦果を収め、我将兵の忠誠勇武は中外等しく之を賛して止まず。… 然れども一度深く軍内部の実装に及べば未だ瑕瑾の少なからざるものあるを認む。

 就中軍紀風紀に於て忌々しき事態の発生は近時漸く繁きを見、之を信ぜざらんと欲するも尚疑わざるべからざるものあり。惟うに一人の失態も全隊の真価を左右し、一隊の過誤も遂に全軍の聖業を傷つくるに至らん。… (遡って今回の作戦の推移や実情を考慮すれば厳正な軍紀風紀の維持は困難な面があることも認めるが、露見している「犯則」などを挙げて逐一外征部隊の責任に帰すつもりはなく、それでも不利不便な状況の中)、之が克服の努力を望まざるを得ず、…… 日夜健闘しある外征将士の心労を深く偲びつつも断じて事変の完美なる成果を期せんが為、ここに改めて軍紀風紀の振作に関し切に要望す。

 本職の真意を諒せよ/昭和13年1月4日/大本営陸軍部幕僚長 載仁親王」

かなり遠慮がちな通達であるが、命令でもないからほとんど効果がなかったことはこの後も「事件」は続いているので明らかである。

 続いて三つの師団を束ねる第十軍(司令官:柳川平助中将)の法務部が同じ一月に出した「戦地に於ける犯罪の予防に就て」という文書で、特に「強姦の罪」について述べている。強姦に至る将兵の心理を斟酌した文面となっている。

 —— 「本罪は一時の情欲に捉われて犯す場合、異国人に対する好奇心により犯す場合、同僚に対する見栄より犯す場合等、その原因は種々あるも結局敵国婦人に対する貞操観念の希薄と日本兵の優位を以ってすれば如何なる不徳義も容易に実現出来、且つ発覚する恐れもあるまいと云う気持ちが動機の根底を為すものであると思う。…… 本罪は直接婦人に暴行脅迫を加えて姦淫せずとも既に兵威に怖れて抵抗不能に陥れる婦人を姦淫すれば強姦罪の成立を認める故、其の点注意すべきである。刑罰は二年以上の懲役となる。

 これ以前の12月20日(南京占領一週間後)付で、第十軍の参謀長の通達がある。

 —— 「掠奪婦女暴行放火等の厳禁に関しては屡次訓示したる所なるも、本次南京攻略の実績に徴するに婦女暴行のみにても百余件に上る忌むべき事態を発生せらるを以って、重複をも顧みず注意する所あらん」

 この百余件は報告のあったわずかな例であろうが、注意だけでは効果が薄い。それでも翌年に入って憲兵も増やされ、実際に立件する例も出てきた。1938年(昭和13年)2月18日時点での第十軍の事件一覧表では、既決事件102人中、強姦23人、殺人27人、強盗殺人2人、傷害致死2人となっている。その中でも上記のアリソン事件は目に余った例であろう。

 とりわけこの日中戦争においては日清・日露戦争に比べて犯罪の発生率が極めて高いとされ、陸軍省が開戦後二年間の中国戦線における事例をまとめた調査の中では、いわゆる現役兵に対して、開戦に際して徴集された予備・後備役、補充兵の悪質な犯罪(掠奪・強盗・強姦)数が四倍以上となっていて、それが「聖戦完遂を妨害する」ものとして格別な教育指導が必要と述べている。さらには兵役を終えて帰還する者や傷病兵たちが、国内で「よからぬ言説」をする場合があり、それに対して陸軍省は「帰還部隊の軍紀風紀及防諜上の指導に関する件」という通達で「…… 或いは我軍将兵の行動に関し殊更にその非行を誇称し軍の威信を失墜する処あるもの、或いは戦場の惨状労苦等を誇大に述べ将来軍民離間又は反戦思想の因となるべき処 …」と記している(昭和13年2月19日)。

 またこの一年後の2月に同様な通達(「… 言論指導取締に関する件」)を出し、その参考資料として強姦についての帰還兵の露骨な言辞(つまり日本に帰った帰還兵が周囲に語ったこと)が載せられている。

 —— 「親子四人を捕え、娘は女郎同然に弄んでいたが、親が余り娘を返せと言うので親は殺し、残る娘は部隊出発まで相変わらず弄んで出発間際に殺してしまう/ ある中隊長は「余り問題が起こらぬ様に金をやるか又は用を済ませた後に分からぬ様に殺しておくようにしろ」と暗に強姦を教えていた/ 戦争に参加した軍人を一々調べたら、皆殺人・強盗・強姦の犯人ばかりだろう/ 約半年に亘る戦闘中に覚えたのは強姦と強盗位のものだ」

 これを最初に読む人は愕然とするだろうが、既述、後述にはこうした光景が溢れている。

(以上は主に『南京の日本軍』藤原彰:大月書店、1997年より)

【強姦され娼婦として拉致された若い女性の一例】

日本軍が南京を陥落させ、中国人婦女が強姦された事件は数万件に達したが、そのうちの320人が慰安婦として東北に密送された。以下はこの件の調査人が東北豊満水電駅からこの受難者の一人の生存者を探し当て、聞き出したものである。(『日軍侵華暴行実録』第1巻より。訳文筆者)

 —— なんというか、思い出すたびに私の神経がおかしくなったのは、この事でつらかったからです。賠償してくれるって言ってたけど、鬼子がくれるのか?あれからもう何年経っている?

 見てください、私のこの歯、上の方は全部なくなっています。その年つまり1937年(昭和12年)12月16日の朝、南京で日本軍が私を捕まえた時の暴力からです。その時私はまだ14歳で、芝居小屋で芝居を習っていた。家は鼓楼四条巷にあって、私を強姦した日本軍の曹長に噛みついたら、彼は私の首に足をかけ口を足で踏んだ。起き上がって血を吐くと、歯が抜けていた。鬼子は本当にひどい。しかしすでに国民党の軍隊はぞくぞくと手を挙げて降参し、日本軍は下関の中山埠頭まで家畜を蹴り出すようにして連れて行き、五千人くらいを機関銃で掃射したのを見たけど、この中には住民も多くいた。私は日本軍も憎いけど、総崩れになって逃げた国民党の軍隊を恨んでいる。

 16日のこの日、日本兵は突然鼓楼四条巷二条に押し入り一軒一軒を捜索し、何が目的なのか分からず、若く強そうな青年を見て捕まえた。捕まえたのは230人余りで、全員を6束にくくり、四条巷の三つの池に押し入れ、池は人でいっぱいになって水が岸まで上がった。

 若い女の人はすべて一軒の大きい庭に囲い込まれて、日本軍はこの庭の中のすべての女の人を犯して、また反抗する4人の女の人を殺した。私を犯した日本鬼子は今でも覚えている。年は40歳くらいで彼はまず銃剣で私を壁の隅に追いやり、それから服を脱がせ、私が怖くて脱げないと、彼は銃剣を目頭の下に突いた。この場の女の人たちはみんなそういう状態で裸になって震えながら脱いでいた。わたしの脱ぎ方が遅いのか、何か怒鳴られ動けなかった。銃を捨てて飛びかかってきた。彼は私のズボンを何度か引きちぎろうとしたが、できないので銃剣でズボンの胴から上に持ち上げた。私は呆然としていたが、こんなことをさせてはいけないと目を離した隙に鼻を強く噛んだ。彼はわっと飛び起きて顔が血だらけになり、あとで鼻が私の口の中にあることを知った。彼は顔を覆って地面を転げ回って、私が起きようとしたときに彼は足で蹴ってまた私を倒した。私は目から火花が出て、私が外に口の血を吐いたとき、歯がすべて折られたことに気づいた。鼻のない日本人に会ったら、今は8、90歳くらいだから、それがその人で、ちゃんと弁償してもらわなくちゃ。

 この後一度に7人の日本兵が私に飛びかかってきて、私を部屋の中に引きずり込んで、火をつけて暖を取って、交代で私を強姦した。私は抵抗したが彼らはテーブルをひっくり返して、私の手足をすべて4つの机の脚に縛り輪姦した。私の左の肋骨3本はその時に折れた。その後も誰も迎えに来なくて、そのうちに気を失った。目を覚ましてみると、部屋には誰もいなかった。火も消え、私は縄を切って一人で誰か脱ぎ捨てた服を探して着て、涙を流しながら家に向かった。家に着いてみると、家も隣も誰もいず怖かった。私は鼓楼四条巷二条を飛び出したが、通りには中国人が殺されていて、ゴーストタウンになっていた。

 私の向こうから来た女性たちに会って話しかけようとしようとしたら、後ろから押し寄せてきた日本兵に捕まった。両側はすべて銃を持っている日本の鬼子で、私たちを押してどこかへ連れて行こうとした。それから駅に連行されて、畜舎用の貨車に入れられた。床には牛の糞と豚の糞が転がっていた。日本軍の指示で自分たちで始末して最後に草を敷いたらドアが閉まった。

 口はもう痛くなくて、私が国民党をののしり始めていると、一人の女性が私の耳をぶった。私はたった今日本人に輪姦されたばかりで今また中国人に殴られて腹が立ち、殴り合いになった。後になって私はこの車両に収容されているのは演劇劇団と歌劇団の者であることを知った。彼女たちは私を脇に引き寄せて、こんなことをしても仕方がないと説得した。日本人への怒りはすべて受けても、同胞からの怒りには耐えられない。私もそう聞いて、泣いてしまった。私が泣くと、貨車のみんなはすべて泣き出した。みんなは泣き疲れてたが、行き先は誰も知らない。通りには食事を運んでくる日本野郎がいるだけで、皆で国民党政府をののしり、軍隊の無能さをののしった。

 いつのまにか汽車が停まっていて、私たちは大小便をさせられて貨車にもどってくると、百人以上もの鬼が押し寄せてきて、いくつかの貨車を全部埋めてしまった。汽車が動き出しても彼らは降りず、ドアを閉めて、それから私たちを強制的に強姦し、輪姦した。私たちも反抗できないわけではなかったが、すでに白菜の葉っぱになってしまったのにローマの休日(注:有名な映画の主人公のことであろうが、今さら淑女)を気取っても……。本当のことを言っているのです。

 私達は最後に下車したが、雪が降っていて、木にも氷がかかっていた。ここはどこだろう、私たちを日本に連れてきたに違いないとみんな思い込んでいた。ここは驚くほど寒く、東北であることを知って、私たちが歌っていた「わが家は東北・松花江のほとり」の場所(下記の*参照:松花江は満州地区に流れている)だった。私たちが慰安所に連れていかれると、日本鬼子の一団が走って入ってきた。彼らは長い間女の人を見たことがなかったようで、私たちを見ると何故か泣いていた。嬉しすぎたのだろうか。彼らは一列になって私たちに発散した。私は3番目の日本鬼子が私の体を上から押さえつけたのを覚えていたが、疲れてすぎてすぐ眠った。私たちはずっと汽車の中にいて、途切れることなく駅ごとの鬼子を接待した。汽車を降りて、まだ一睡もしていないうちに、鬼の兵隊がどっと押し寄せてきたのだ。

 この慰安所はロバと馬の種付け所になっていた。私たちは死ぬ気もなくなって、何もかもに無感覚になって、毎日板の上に寝ころんで、外に並んでいた日本兵がいなくなって、小屋の石炭が燃えなくなってやっと仕事を終えた。慰安所から逃げる機会を探していたが、ずっと見つからなかった。

 (8年後太平洋戦争で日本が負けて満州に)ソ連軍が攻めてきて、日本兵が崩れて逃げている間にここに来て、人参を掘っている男を見つけて、二人で山の中で暮らした。私はずっとこのことを言えなかったが、村の人たちは私が従軍慰安婦をしていたことを知ったら、きっと石で私を打ち殺してしまうだろう。今は解放されていると言われてもだめ。

 私が飛び出して走って出た時、道々他の慰安婦は日本鬼子にたくさん殺されていて、私が走って山の谷を出て振り返ってみると3人しか出てこなかった。その一人が私に向かって「南京に帰りましょう!」と叫んだ。私は首を振って、あんなところには帰らないと。彼女たち2人は南京に帰るかもしれないし、途中で死ぬかもしれない。

 これは何ですか?取材費?いいから私の名前を言わないで。いつか本当に日本人が証人を欲しがったら、また私を呼んでくれたら、そのときに初めて私はこのことに向き直ることができるかもしれない。

*上記の歌の名前は「松花江上」(松花江の畔に:作詞・作曲 張寒暉)であるが、1931年(昭和6年)9月18日、日本の関東軍が起こした柳条湖事件によって満州事変が勃発し、それによって満州地区の東北軍兵士や住民が故郷を追われ、万里の長城の東端の山海関から南に逃れて流浪した。1936年(昭和11年)、その人々の望郷の思いを張寒暉が作詞・作曲したもので、翌年には広く歌われるようになっていたということである。なお1939年(昭和14年)、香港で製作されてヒットした抗日映画「孤島天堂」の挿入歌としても採用され、この時代、数多く作られた抗日歌の中でも代表的な歌となって歌い継がれ、全中国人の国民的愛唱歌となっている。さらにはこの映画の中には戦後中華人民共和国の国歌となった「義勇軍行進曲」も挿入されている。つまり中国ではいろんな歌が「抗日」運動によって作られているということである。

 ちなみにこの歌を元にして戦後(1958年)の台湾で、映画「水擺夷之戀」の挿入歌として『我的家在山的那一邊(私の家は山の向こうに)』が作られた。これは共産党との内戦に破れた中国国民軍が台湾に逃れ、一緒に移住した家族たちが故郷を思って歌った内容になっている。そして1989年5月27日、北京での天安門事件の直前(学生を中心とした民主主義を求める大規模デモが継続されている中)、テレサ・テン(鄧麗君)が、香港で連帯を示す大規模集会において、学生たちの求めに応じてこの歌を歌った。しかし6月4日、天安門のデモは出動した戦車を先頭とした軍隊によって多数の死者を出して鎮圧された。(いずれも筆者の別稿「日本の軍歌とその時代背景」参照)

南京占領に対する昭和天皇からの恩賞

【残虐行為の隠蔽】

 敵の首都南京を陥落させたとして、大元帥である昭和天皇から39名もの指揮官たちが名誉としての勲章を授けられた(中島第十六師団長や佐々木到一支隊長、第十三師団山田支隊長、谷第六師団長などの名も入っている)。もちろん当時の天皇は虐殺の実態を知る由もなく、大臣や陸海軍大将が推挙するままに勲章を授けた。したがってそれを汚すような残虐行為は逆に隠蔽されることになる。またそれが暴かれれば自らの指揮官としての統率力が疑われることにもなるから結局、自分たちの名誉を優先していくのである。このような隠蔽行為は軍隊だけでなく、いわゆる役人を含めた官僚組織の中では現今でも普通に行われる。そしてこのような表面的な取り繕いの積み重ねが、国民や弱者の大きな犠牲を生んでいくのである。

 いずれにしろこの恩賞は、日本軍が首都であった南京を陥落させたことにより、これでもう中国軍が降伏し、戦争が終結すると思っていたからであろう。しかし中国は広大な国であり、蔣介石の国民政府軍は反攻体制を整えるために、とりあえず重慶に遷都を決定し、(国民政府軍が人数の割には弱体であったこともあって)南京を早々に明け渡したに過ぎなかった。中国では昔から内戦でもこうした作戦がしばしば取られ、日本軍はそれを理解していなかった。この泥沼の戦争から抜け出せないまま(米英等の諸国から中国戦線から手を引くようにと経済制裁を受け、せっかくの占領地を手放すことを惜しんで受け入れず)4年後に太平洋戦争へ突入、1945年(昭和20年)の日本の敗戦まで、8年間中国での戦闘が続く。現代のわれわれの印象の中には、メディアが主に報じる太平洋戦争のことが主体となっているが、満州事変から丸14年間続けられた中国における戦争の内容は、この南京占領時の出来事以外はほぼ置き去りにされている。ただしこの南京における虐殺事件も、既述するようにこの戦争の蛮行全体からすればやや大きめな事件に過ぎない。

【弱者としての天皇】

 ところで昭和天皇は、戦後の1952年(昭和27年)に「支那事変では南京でひどい事が行われてるということを、低いその筋でないものから(注:つまり高官ではない者から)うすうす聞いてはいたが、別に表だって誰も言わず、従って私はこの事を注意もしなかったが、市ケ谷裁判で公けになった事を見れば実にひどい」と側近に語られていたことが、ずっと後年になって明らかにされた。戦時下で天皇に隠されたことはこの後の太平洋戦争開戦から敗戦までに数々あって、隠されながら天皇も戦争の継続を黙認していたことになる。戦後になって情報開示の下いろんな事実が明らかになり、天皇も一人の人間として、内心では軍政府の要人に対して腹わたが煮え繰り返る思いと国民への後悔の思いを繰り替えされたのではないか。ただそのようなことは決して公言できないから、天皇というものはつくづく不自由な立場であると同情を禁じ得ない。というのも本来天皇は「臣民(国民)の安寧を祈る」立場にあって、その臣民をむやみに戦場に送って命を奪うようなことは決して本意ではなかったはずである。しかしいったん始めた戦争において、軍人たちは「天皇のために立派に死ね」、あるいは「上官の命令は天皇の命令と思え」(明治に作られた「軍人勅諭」には理念としてこのような書き方がされている)と言って国民を送り出したのである。どれほどに歪んだ観念に取り憑かれた軍人や政治家たちが(天皇を赤子のようにうまく利用しつつ)この時代の日本を支配していたか、この単純な構図を見ても明らかである。

 極論を言うなら、日本の天皇はわれわれにとって最も目に見えない弱者である。権力者は天皇を最大限に利用する、ということは権力者に利用される天皇という存在は弱者にほかならない。現実に弱者としての「臣民(国民)の安寧を祈る」立場の天皇ができることは、どこまでも祈ることだけであって、国民に厄災をもたらす権力者の策謀を止めることはできず、そこでできることはその無謀な施策を承認すること、つまり権力者の前で否応なく御璽(ぎょじ)を押すことだけなのである。

「聖戦」と「皇軍」という言葉の下で

 いずれにしろ、日本軍の軍紀の乱れ(単に乱れという言葉では済まないものがある)は上海・南京戦に始まったことではなく、大正時代のシベリア出兵から始まっていた(筆者の「日本の戦争:大正編」参照)。そして1931年(昭和6年)の満州事変から中国本土の占領、植民地化という形態を取ることにより、日本軍は「皇軍」(天皇直属の軍隊)という名の下に傲慢になり、抗日軍退治の名目の中でゲリラ隊が潜むとされる村々を襲撃し虐殺、放火が頻繁に行われるようになった(昭和6年以降の筆者の記述参照)。さらに6年後の日中戦争に入ってからは、日本の軍政府は「新東亜建設の大理想」のための「聖戦」(天皇の名による正義の戦争)ともっともらしい言葉を掲げて国民を鼓舞し、メディアもそれに便乗して侵略戦争を賛美した。

 そしてその当時の言葉を信じたまま、皇軍にはその自覚があるから風紀を乱したり、暴虐行為をするはずがないとの立場からものを言う人たちが現今にもいる。その人たちはさぞ普段から清廉潔白に生きておられるのであろうが、人間とはどういう生き物であるか、つまり置かれた環境や立場によってどのように精神状態が歪められ変わっていくかなど、客観的な思考力と自立した精神を持たない人々であろうと言うしかない。そもそも「戦争をする」と決めて、侵略戦争を「正義の戦争」として国民を煽って動かした軍政府の人間たち、つまり命令するだけで最前線にも出ていかない当時の彼らの腹の裏がどのようになっているか、それに対して前線に出征して銃器を持って戦闘する一般の兵士たちがどういう精神状態に置かれているのか、何よりも「聖戦」と「皇軍」という言葉の下で兵士たちが思考停止に陥り、善悪の区別がつかない感覚にある人間の行動がどのようになるかをもっと謙虚に反省されたほうがよい。とりわけ南京陥落で「大勝利」と煽られた日本の将兵たちは、どのような心理状態になっていたか、しかも日本軍将兵は相手を劣等人種とみなしていたから、「何をしてもいい」という感覚にとらわれていた。そのような心理状態の中に将兵たちがあったということを前提として、後世の我々はここで起こった出来事をありのまま見つめ直すべきであるし、後世の我々こそそれができる立場にある。

 しかし今もってそうした客観的な見方と思考力を持てない言論人や政治家が、固定観念あるいは先入観をもって南京における虐殺の事実はないとのうのうと言って退けるわけで、情けないレベルの人間たちという他ない。とりわけ1990年(平成2年)前後以降に、日本軍の虐殺を裏付ける決定的な資料や証言が次々と出てきているが(それまでにも地道に調べ続けていた人たちは多くいた)、それらを無視し、厚顔にも「なかった」と発言し続けている御仁たちには、それこそが日本軍の恥辱を上塗りし、日本人は反省のできない自覚の薄い国民であるという国際的にも低い評価を定着させてしまっていることを自覚していただかなければならない。

 ちなみに、この後も太平洋戦争まで続く昭和の大戦争を、かの歴史小説の大家である司馬遼太郎はどこにも扱っていない。司馬は1943年(昭和18年)に学徒出陣で戦車連隊に入隊、訓練後満州に派兵されたが、戦闘は体験しなかった。ただその時に体感した日本軍の暗愚な体質に疑問を持ち続け、どうして日本はここまで堕落してしまったかを問いかけるために、特に幕末から明治にかけての名作を多くものにした。そして一度はこの昭和の戦争の中の一つの事件(ノモンハン事件)を題材にして資料集めをしたが、「昭和の日本陸軍のトップの頭の悪さ」、自信過剰で、正義はおのれだけにあって、そのために他を犠牲にすることをなんとも思わない軍の参謀たちと、その後先を考えない戦略などを、「調べていけばいくほど空しくなって」、このまま書けば「血管が破裂する」と思って筆を折ったのである。

【東條英機と靖国神社】

 東條英機はこの1937年(昭和12年)の日中戦争勃発時には関東軍の参謀長であったが、9月、兵団長として山西省陽高県に攻め入り、その時に捕虜を一人だけ残して他のすべてを殺戮していて、そのことで「日本の威力」を知らしめたとしている(既述の「陽高事件」参照)。そして4年後の太平洋戦争開戦時には首相としてあり、例えば戦陣訓(有名な「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」の条項がある)を発した。敗戦後、GHQによりA級戦犯とされ、出頭前に演技のような自殺未遂で生き残り(他の大将級の軍人の何人かは立派に自決した)、その上自分が鬼畜とした米軍の病院で治療を受けるなどと、それこそ恥辱を受けても生き延びたという体たらくで(その後の判決で絞首刑にされるが)、このような小心な軍人が下手なプライドを持って空疎な言葉を掲げ、米英を敵とする太平洋戦争を引き起こしたのである。それも米英から日中戦争の拡大に対して大きな経済制裁を課され、その交渉において中国戦線から撤退することを条件とされ、すでに多くの犠牲者を中国で出して各地を占領していた手前、そんな「損なこと」はできないとして後に(天皇の名を借りて)米英に宣戦布告し、その後敗戦までの約4年間で、それまでの10倍以上の国民の命を奪って多大な「損」を生じさせ、それにも増して中国とそれ以外の海外の戦地、とりわけ東南アジアでその地の人々の命をもたくさん犠牲にしたのである(事実として日本の戦死者310万人に対してその十倍近い戦死者が中国を含めた東アジアで生じていることが知られていないのは何故なのか)。しかも学徒動員で20歳前後の多くの若者を特攻隊に仕立て上げて、死に追いやって「散華」という言葉で飾り立て、「英霊」として祀りあげて何の痛痒も感じることのない東條ような男たちを、後年その無垢な若者たちと一緒に合祀する靖国神社とは一体どういう存在なのであろうか。唯一考えられるのは、東條や松井たちが、この多大な犠牲者を出した「戦争の遂行に大いに貢献した」ということではないだろうか。その意味なら理解できるが、もとより靖国神社は国が戦争を行い、その犠牲者で成り立っている。だから決して「英霊」ばかりを祀っているわけではないし、その多くの英霊たちを生じさせた、本当の意味での戦争の重罪人である東條たちをも靖国神社は祀っているわけで、靖国が日本により戦争被害を受けた海外から非難されるのは無理もないのであって、むしろ日本人自身がその不合理を理解していない。

 それは別として、あえて言えば本来、8月15日という終戦記念日は、「全国戦没者追悼式」としてあるが、日本国民の戦死者や空爆・原爆の犠牲者を追悼するだけでは済まない、少なくとも日本軍が犠牲にした海外の多くの人々をも悼む心を持って同時に黙祷しなくては意味がない、本当に世界の平和を希求するなら、と筆者は心底で思っている。

【「桃太郎」の罪】

 余談ながら、昔から世に親しく広まっている「桃太郎」の童話と歌があるが、これは「鬼」を敵として桃太郎が犬・猿・雉子を連れて鬼ヶ島に鬼退治に行き、鬼の持っていた金銀財宝を分捕って車に積んで帰ってくるという、単純な英雄の話となっている。しかし、この鬼がそれまでどこでどんな悪いことをしていたのか、まったくわからない。桃太郎が成長するまでに育ててくれたおじいさんおばあさんが鬼にひどい目にあっていたという話もない。これは対中国に仕掛けた戦争と同じ構図で、そもそも中国がどうして憎むべき敵となったのか、明治以来の流れを見てもまったくわからない、というより明治初期以来日本が中国にちょっかいを出し続けたところからこの大きな戦争に至っている。逆に中国側から仕掛けてきた戦争は1200年代の元寇(モンゴル帝国)以来ない。明治の日清戦争も日本が中国大陸に足がかりを築こうとして(朝鮮への覇権を争って)仕掛けた戦争である。つまりこの後の太平洋戦争も日本が米英に仕掛けた戦争であって、そこから相手国を(中国も米英国も)悪い「鬼」としての征伐戦争としている。この構図はどういうことであろうか。そもそもこの「桃太郎」のような、日本軍が相手国に征伐に行くのは無条件で正義によるものであるという童話のストーリーが、われわれ日本人の中に潜在的に刷り込まれていて、このような侵略戦争をはなから許容する体質が日本人にはできていたということではなかろうか。そのような疑問を筆者は寡聞にして他から見聞きしたこともないが、童話だからということでそのまま見過ごされているのではないだろうか。このように考えれば、この桃太郎の話と歌はかなり罪深いものを含んでいる。

南京における数多くの記念碑(慰霊碑)

南京各地に建つ主な記念碑(慰霊碑)と碑文

 下記の碑文は主に中国の歴史サイトから抽出した(訳文は筆者)。南京全体の「南京大虐殺紀念館」については後述するが、1985年(昭和60年)、その中心施設の建設に合わせて以下の施設も各所に建設された。これらは南京戦から48年後であり、日中戦争後からしても40年後であり、いかにも遅いが、それだけ中国内は内戦も含め混沌が続いたということであろう。

【燕子磯江灘遭難同胞記念碑】(幕府山の北、揚子江岸)

 —— 1937年(昭和12年)12月、中国侵略日本軍が南京城を陥落させた当初、南京の難民はおびただしい勢いで逃亡した。城内には武装解除した三万余の兵と二万余の民間人がいて、燕子磯江岸に集まって北への脱出を求めたが、日本の艦隊に封鎖されて五万余が逃げ場を失った。嗚呼!死体は無残な姿となり、河は血で染まり、受難した人々の惨状は世にも稀なり。これを追慕して痛みなきものか。ここにこの碑を立てて永遠に忘れず、死者を敬い、黄泉の後の来世を祈り、奮起して中華を振興し、世界の平和を守ろう。

【草鞋峡遭難同胞記念碑】(幕府山南西、揚子江岸)

 —— 1937年(昭和12年)12月13日、中国侵略日本軍が南京を攻略した後、下関の川沿いに集まっていた我々大勢の難民と武装解除した兵士、合わせて5万7千人余りが日本軍に捕獲され、その後ことごとく幕府山下の四、五ヶ所の村に集中的に拘禁された。そして連日のように虐待され、餓死者が続出した。18日夜ことごとく拘束され、草鞋峡に護送され機関銃で集団射殺された。傷を負いながら死ななかった少数の者は銃剣で突き殺され、さらに死体は放火されて焼かれ、残骸はことごとく川に投げ捨てられた。嗚呼!屠殺の刃の下で、血は山河を染めた。死者は何の罪を犯しこのような迫害を受けたのか?これ以上に痛ましいことがあろうか?この碑を建てて謹んで哀悼の意を表す。我々は奮起して強靭に生き、千古の戒めとしよう。

(注:上記二つの記念碑については「幕府山一帯での犠牲者数」の項参照。5万余と5万7千との数字に関しては筆者の調べた範囲では相応する裏付けが取れず、地理的観点からしても重複の可能性が高いし、草鞋峡についてはさらに下記の魚雷営とも重なっているように思われる)

【魚雷営遭難同胞記念碑】(下関地区の北側)

 —— 1937年(昭和12年)12月15日夜、中国侵略日本軍は南京市の民間人と武装解除された守備兵9000人余りを拘束し、魚雷営に連行し、機関銃で集団射殺した。同月、日本軍はまた魚雷営、宝塔橋一帯で再び我が軍民3万余人を殺害した。犠牲者の遺骸は、翌年二月になって兵営埠頭などに露見され、見るにたえない惨状であった。その後、紅卍字会が現地で埋葬し、2月19日、21日、22日の3日間だけで約5000体が埋葬された。惨史は忘れ難く、憶往志慨(過去を憶いながら慨嘆する)し、特にこの碑を立てて、世に正告する。

【煤炭港遭難同胞記念碑】(下関地区の北側)

 —— 煤炭港は中国侵略日本軍南京大虐殺の主要遺跡の一つである。1937年(昭和12年)12月17日、日本軍は各所から我々武装解除した兵士と民間人3000人余りを逮捕して、煤炭港の下流の川辺を拘禁し、機関銃で射殺した。負傷者は近くの茅屋に連行され、放火されて殺された。中国人民の抗日戦争勝利40周年にあたり、特にこの碑を立てて死者を追悼し、永遠に後世の人々を戒め、歴史を記憶し、中華を振興するものである。

【遭難同胞挹江門叢葬地記念碑】

 —— 挹江門付近は、中国侵略日本軍南京大虐殺で遭難した同胞の遺体が埋葬された場所の一つである。1937年(昭和12年)12月から1938年(昭和13年)5月まで、南京崇善堂、紅卍字会などの慈善団体は前後して6回にわたり、合計5100体余りの犠牲者の遺骨を回収し、挹江門東城根及びその付近の姜家園、石榴園などに埋葬した。特にこの碑を建てるのは、そのことを志とし、死者を慰霊することによって、子孫を励まし、歴史を心に刻み、中華を振興させることである。

 注)挹江門の項参照:この門の場合、中国軍の「督戦隊」が潰走兵に対して殺害したものも多く含まれると思われる。

【中山埠頭遭難同胞記念碑】

 —— 中山埠頭(下関埠頭ともいう)は南京大虐殺遺跡の一つで、当時、国際安全区に避難していた青壮年難民がここで惨殺され、その数は合わせて1万人以上に達している。このうち1937年(昭和12年)12月16日夕刻、日本軍は原華僑招待所に避難していた難民の中から、いわゆる「徴兵」容疑者5000人余りを逮捕し、この地に連行、機関銃で集団射殺した後、川に死体を捨てた。12月18日、日本軍は大方巷に避難していた難民のうち、青年約4000人を逮捕して連行し、機関銃で射殺した。これに先立ち、日本軍は隣接する南通路の北麦畑と九甲川のほとりで、同胞の避難民八百余人を銃殺した。嗚呼!その時埠頭は鬼域(廃墟)となり、同胞悉く斃れ、惨なり!鳴呼、政閉国弱、何ぞ安全なり?外国の侮辱を免れるにはただ自らを強くするのみ。今は時の勢いが異なるが、「前事を忘れない」としている。この碑を建立し、後世の人々を励まし、歴史を記憶させ、中華を振興させよう。

【江東門遭難同胞記念碑】(「南京大虐殺記念館」に付設)

 —— 1937年(昭和12年)12月16日、日本軍は武装解除された中国の兵士と民間人、その他余人を元陸軍刑務所の敷地内に収容し、夕方江東門に連行し、民家に放火して周囲を明るくし、突如として機関銃を群衆に向かって乱射、犠牲者たちは悲鳴を上げて血溜まりの中に倒れ込んだ。遺骸は枕のように道を盈たし江東河面を蔽い風日の下に至るまで、長く人に収容されることなく、情は惨烈に至る。数カ月経って暖かくなった頃に、南京の慈善団体によって死体万余を収容し埋葬したが、そこは二大土坑内であった故に集団墓地という。ここにこの碑を建てて、志を立てて哀悼し、死者を悼み、後世の人々を励まし、祖国を愛し、心を奮い立たせ、侵略戦争に反対して世界平和を守るものである。

 注)慈善団体が埋葬したのは約1万5千体とされる。

【上新河受難同胞記念碑】(下関地区の南方)

 —— 1937年(昭和12年)12月、日本軍が南京を占領したあと、武装解除された兵士と一般住民など上新河一帯に逃げまどう大勢の我が同胞難民合わせて2万8730人余がこの地(上新河)で日本軍によりことごとく虐殺された。日本軍の虐殺方法は極めて残忍で、ある者は縛られて溺死させられ、ある者は薪を積み上げて生きたまま焼かれ、銃で撃たれ刀剣で切り殺されるなど惨劇を免れたところはどこにもない。女性は大人から子どもまで全員がまず強姦され、そのあと殺害された。これ以上惨たらしいことはこの世にないほど残虐きわまりなく、死体は山のように積み重なり、血が河のように流れた。

 その後、湖南の木材商人・盛世征と昌開運の二名が、見るに忍びないこの惨状を目の当たりにし、自ら寄付金を出して大量の遺体(上記の2万8千余体)を集め埋葬した。その後を引き継ぎ南京紅卍字会が1938年(昭和13年)1月から5月まで14回にわたり合計8万459体の遺体を上新河一帯で集め埋葬した。その内訳は次のようである。(略)

 過去の経験を忘れないで将来の戒めとしよう。その言葉に基づいて、この記念碑が特別に建てられた。死者を慰め、後世の人々の励ましにもなろう。我が中華民族を愛し、祖国を強くさせ、侵略に反対し平和を守ろう。

 注)この商人盛世征の2万8千余体については中国側であちこちで引用されているが、筆者の調べでは上新河地区でこれだけの数は考えられず(裏付けが取れない=中国人個々の証言記録にも見当たらない)、上記江東門一帯を含めた数と思われるが、この上新河だけでは「合計8459体」(日本軍第六師団との戦闘による戦死と推定できる)が適切な数と思われる(既述の「各城門付近における捕虜と避難民虐殺」参照)。

【漢中門外遭難同胞記念碑】

 —— 1937年(昭和12年)12月15日、南京の「国際安全区」に避難していた民間人と武装解除された軍警2000人余りが日本軍に捕虜にされた後、漢中門の外に連行され、機銃掃射で殺害された。傷を負っただけで死ななかった者は、刀で斬り殺され、あるいは火を放たれて焼かれ、死体は野を覆い悲惨な光景となった。翌年2月11日と18日の二日間、慈善団体南京紅卍字会が遺体計1395体を収容し、漢中門の外の広東墓地と二道畦の一帯に埋めた。嗚呼!今のこのにぎやかな地で、かつての日本軍の暴虐によって多くの同胞が犠牲になったことを誰が想像するだろうか。ここにこの碑を立て、その事を志す。わが国人は、この惨史を心に刻み、国難を忘れるなかれ、住安思危、奮発図強、同心同徳、中華振興。平和の時代の危機に備え、一生懸命働き、心を一つにし中国を振興させよう。

【遭難同胞花神廟地区叢葬地記念碑】(雨花台地区)

 —— 1937年(昭和12年)12月13日に南京が陥落した後、中国侵略日本軍は血なまぐさい大虐殺を行い、死体が散乱し、惨憺たる姿を呈した。南京紅卍字会と崇善堂の両慈善団体は1937年(昭和12年)12月22日から1938年(昭和13年)4月18日まで、中華門外の雨花台、望江磯、花神廟一帯で遭難した同胞の遺体を計2万7239体埋葬した。また南京市民の芮芳縁、張鴻儒、楊広才らは難民30人余りを組織し、1938年(昭和13年)1月から2月までの40日余りの間に、花神廟一帯に中国同胞の遺体7千体余りを埋めた。そのうち難民の遺体は5千体余り、軍人の遺体は2千体余りだった。ここにこの碑を建立し、遭難した同胞を追悼し、永遠に歴史を忘れず、中華を振興させる。(詳しくは「雨花門/中華門外」の項参照)

【北極閣付近遭難同胞記念碑】(玄武区)

 —— 1937年(昭和12年)12月、中国侵略日本軍による南京同胞の虐殺は30万人に達した。北極閣の付近だけでも、惨殺された者は二千余人にのぼる。その時、鼓楼から大石橋、北門橋から唱経楼、太平門、富貴山と藍家荘などの地では死骸が街を埋め、血の塊は人々の目を濡らした。翌年の一月と二月に、犠牲者の亡骸は南京崇善堂によって、この山の麓や近山の城壁の根元などに葬られた。ここにこの碑を立てて、永遠に後人を励まし、奮起して中華を振興し、国運を盛んにすることを忘れまい。

【清涼山遭難同胞記念碑】(南京城内漢中門北側:河南大学構内)

 —— 1937年(昭和12年)12月、中国侵略日本軍は国内外を震撼させる南京大虐殺事件を起こし、私たちの数多くの罪のない同胞が当院の境内、即ち清涼山付近の呉家巷、韓家橋などで遭難した。死者を記念し、子孫を激励し、中華を振興し、平和を守るために、特にこの碑を建立する。(注:犠牲者千人以上とされるが、この地で13日に中華門から侵攻してきた日本軍第6師団と第114師団との攻防戦が行われていることで中国防衛軍の死者が多く含まれると思われる)

【東郊合葬地記念碑】(中山門外の東方)

 —— 1937年(昭和12年)12月、中国侵略日本軍は南京大虐殺を狂気のように実施し、東郊一帯でも、惨殺された同胞の遺体が丘を覆い、長期間にわたり荒野に曝され放置され、遺体が腐乱し臭気を漂わせていた。翌年の4月に、崇善堂等の慈善団体により初めて遺体が収集され、中山門外から馬群一帯の荒野や草原に3万3千体余の遺体が埋葬された。それから数カ月後に、丘と林の間に残されたままになっている遺体がまた見つかり、あたり一面に腐臭が漂っていた。翌1938年(昭和13年)12月に、衛生局が傀儡の市政督に命じられ、馬群・卯山・馬鞍・霊谷寺などで遺体3千体余を収集し、霊谷寺の東方にまとめて埋葬した。そして、1939年(昭和14年)1月に「無主孤魂墓碑」が建立された。その碑文の拓本が今も残されているが、残念なことに墓碑本体は残されていない。この碑を改めて建立して犠牲者を追悼し、併せて後世の人々に惨劇を伝える。

 注)受難記念碑は南京の西側に集中するが、この東郊は南京郊外東方の数少ない碑であり、また多大な犠牲者の葬られた場所である。上記の二つの人数は、既述の「南京陥落後の各城門付近における捕虜と避難民虐殺」の中の中山門と麒麟門について触れた犠牲者とほぼ符合している。

【仙鶴門遭難同胞記念碑】(上記東郊記念碑に近い場所)

 —— 12月13日、中国侵略日本軍は南京東郊の馬群、仙鶴門一帯を攻略し、抗戦将兵及び民衆15000人余りを捕虜にした。同年12月18日、日本軍は武器を持たない民間人と捕虜4000人余りを分散して集団虐殺した。1938年(昭和13年)春、村民たちは遭難した同胞の遺骨をそれぞれ近くにある「大墳」に自発的に埋葬した。この「大墳」には約700体の遺体が埋葬されている。

 注)日本軍の日誌では仙鶴門あたりで捕虜にした約7200人をとりあえず中山門に連れて行き、そこから下関地区に移送して殺戮したとの流れになっているが、それ以前に15000人のうちの4000人余りが分散して虐殺して埋められ、それ以外に翌年まで放置されていた遺骨の約700体が改めて埋葬されたということになる。

【太平門遭難同胞記念碑】

 —— 1937年(昭和12年)12月13日、第十六師団33連隊6中隊などの支那派遣軍部隊は南京太平門の近くで、武器を置いた中国人将兵や無辜の市民約1300人を集め、周囲を金網で囲み、事前に埋めた地雷で爆撃し、機関銃で掃射したうえ、ガソリンをかけて焼き、翌日、日本軍は再び死体の検査を行い、瀕死者を銃剣で刺して死亡させた。太平門集団虐殺で中国人は一人も生き残れなかった。

 南京大虐殺事件発生70周年にあたり、太平門付近で罪のない中国人犠牲者を追悼するため、侵華日本軍南京大虐殺犠牲同胞記念館、在日華僑中日友好交流促進会、日本記念南京大虐殺犠牲者60周年全国連絡会、日本の「銘心会南京」訪中団が共同で碑を建て、犠牲者の魂を祀り、歴史の教訓を銘記し、それをを肝に銘じ、中日両国の青少年に歴史の悲劇を繰り返さないように伝えるものである。

 注)この太平門の記念碑は、元日本兵の証言や日本人女性記録作家松岡環の執念の調査によって明らかになった虐殺の現場で、その理由もあって日中共同の記念碑となった(付記として「これは日本の友好人士で、日本銘心会友好訪中団団長の松岡環が元日本兵を訪ね、太平門の集団虐殺に参加した元日本兵6人から聞きだしたもの」とある)。ちなみにこの虐殺に関しては、この日未明の攻防戦による捕虜に対してのもので、その状況の中では「無辜の市民」はほぼいなかったというのが筆者の見解である。つまり城門は攻防戦で閉ざされていて城内の市民が門外に出ることはできず、城外の住民がこの門に近づくこともあり得なかったし、むしろ近隣住民はこの12日夜からの日本軍攻撃による戦闘下でほとんどが避難していた。

 ただ「中国人は一人も生き残れなかった」はずであったが、松岡の再度の調査(2011年:平成23年)に加わった中国人研究者によって、唯一の生存者と思われる元兵士からの話を聞いていた人が現れ、また当時子供であった人がかろうじて虐殺の現場を目撃していた事実も出てきた。さらになお、この13日の翌日の14日にも500人の捕虜が太平門で虐殺されていることも判明した(既述の「南京陥落後の各城門付近における捕虜と避難民虐殺」の太平門の項参照)。

【普徳寺叢葬地記念碑】

 —— 1937年(昭和12年)12月の中国侵略日本軍による南京大虐殺の惨事は、世界の人々を驚かせた。中山秦淮区には赤い血が流れ、私たちの罪のない同胞の不幸な犠牲者は30万人を超えた。普徳寺は私たちの遭難した同胞の亡骨叢葬地の一つで、南京赤十字会の手を経て前後してここに埋葬された者は合わせて9721体に達し、故に「万人坑」とも称される。付記はその年月の埋葬記録である。(略:12月22日に280体から始まって28日には6468体に及び、翌年10月30日まで12回で9721体に及んだ)

 中国人民抗日戦争勝利40周年にあたり、これを石に刻んで死者を地下に慰霊し、後世の人々を永遠に励ますことを目的とする。痛ましい歴史を忘れず、中華の振興を志す。

【正覚寺遭難同胞記念碑】

 —— 1937年(昭和12年)12月13日、中国侵略日本軍は武定門正覚寺で、この寺の僧慧兆、徳才、寛宏、徳清、道禅、劉和尚、張五、源諒、黄布堂、暁侶、慧璜、慧光、源悟、能空、提唱修、広祥、広善など17人を集団で銃殺した。同時に日本軍は中華門の外で尼僧の真行、灯高、灯光などを殺害した。南京大虐殺事件50周年にあたり、特にこの碑を立て死者を悼み、後世を永遠に戒め、歴史に銘記し、中華を振興する。

 注)この記念碑は漢中門の南の城壁の内側にあるが、そもそも寺院は難民を庇護する立場にあり、その僧侶たちがことごとく殺害されたという異様な事件である。ただし同様な事件は、これまでも各所で触れているように少なくない。

【金陵大学難民収容所と遭難同胞記念碑】(南京大学天文学科院内)

 —— 1937年(昭和12年)12月、日本軍が南京を占領した時、南京に残っていた外国人のメンバーたちは、撤退できなかった多くの難民を収容するために、元金陵大学などを中心に、城内に「国際安全区」の敷地面積が約3.86平方kmあり、内に25箇所の難民収容所を設置し、(最大時で)難民約25万人を収容した。その中でも旧金陵大学は比較的大きな難民収容所の一つで、収容者は3万人余りにのぼった。

 元金陵大学付近は、中国侵略日本軍が同胞に対して集団虐殺を実施した場所の一つでもある。1937年(昭和12年)12月26日、日本軍は難民の「登録」を理由に、元金陵大学図書館内に避難していた二千人余りの難民を、テニスコート(現在この地は地質実験棟として建設)に集め、中から300人余りの青・壮年を捕らえ、五台山及び漢中門外まで追いやってことごとく殺害した。

 金陵大学の敷地内は、犠牲者の遺骨が埋葬されている場所の一つでもある。当時の慈善団体紅卍字会埋葬資料によると、1938年(昭和13年)1、2月の間に、同会は城北の各所で遺体を収容し、金銀街の元金陵大学農場及び陰陽営南秀村に埋葬した犠牲者の遺体は774体に達した。1950年(昭和25年)代、南京大学が南秀村に天文台を建設した際、この遺体が発掘された。

 過去の経験を後世の師とするため、 今この碑を建て、永遠の喪に服し、故人を慰霊し、自己改革を止めず中華を振興する。

 注)当時の金陵大学は米国教会によって設立された女子大学であり、その理由もあって日本軍は安全区にあるにも関わらず中国軍の便衣隊が隠れているとして一般男子も標的にした。なおここに記されている五台山にも記念碑があり、250体が埋葬されたとある。

南京大虐殺記念館(南京大屠殺遭難同胞紀念館)

【設立の経緯と場所】

 1982年(昭和57年)、中国政府の鄧小平主席ならびに中国共産党中央委員会が、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立するよう指示を出した。この指示を受けて、1983年(昭和58年)、中国共産党江蘇省委員会と江蘇省政府は南京大虐殺記念館を設立することを決定した。鄧小平は1985年(昭和60年)2月に南京を視察に訪れ、建設予定の紀念館のために「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫し、その視察直後に建設が着工された。場所は水西門西方の江東門近く(水西門大街)で、抗日戦争終結40周年に当たる同年8月15日にオープンした。また同時に南京市は17ヶ所の大虐殺遺跡地に記念碑を設置した(これらの施設は上記にあるが、現在は22ヶ所)。この大虐殺の記念日は、南京が占領され虐殺が始まった12月13日とされる。その50周年の1987年(昭和62年)に日本人研究者やジャーナリストが訪中団を結成し(藤原彰団長他13人)、調査を兼ねて記念式典に参加した。この時特別に参加したのが東史郎で、その経緯は「東史郎の50年後の闘い」の項で触れたが、中国の人々に和解を求めた彼の功績は大きい。開館からこの時まで2年4ヶ月の来場者は中国内から約50万人、海外(香港・台湾・マカオ、日本・アメリカ・ドイツ・イギリス・オーストリア・ロシア・朝鮮・シリアなど)から約1万5千人が来館したと発表された。さらに翌年12月13日に和平公園も併設されて開館した。また2014年(平成26年)から、ここは南京大虐殺犠牲者国家追悼の指定場所となっている。

 ちなみにこの江東門において、南京陥落の三日後の12月16日の夕刻、つまり翌17日の南京入城式を控え、城内における大掃蕩作戦によって武装解除された中国軍兵士と兵士と見なされた一般男性1万人余が城内から連行され集団虐殺されたとされる。しかも南京攻略前に日本の爆撃機に破壊されていた古い橋(江東橋)の跡にその死体を積み重ね、その上に板を敷いて橋の代わりにしたのを見たと証言した住民は多く、日本への証言もある(既述の「江東門」の項参照)。またここには元の国民党陸軍監獄に収容していた1万人余の兵士がいたとあって、16日以前にも殺戮されていた可能性がある。さらには翌年になってもここで次々に虐殺が展開されていた。それもあって江東門付近の遺体はそのまま放置されていたが、翌年春先に南京の慈善団体が死体を集めて周辺の数カ所に埋葬し、「江東門万人坑」として保存されていたその場所に記念館が作られた。ところが記念館工事中にも次々と遺骨が発見され、それらは敷地内に遺骨陳列室としてそのまま展示された。しかもその後1998年(平成10年)の発掘調査でも新たな「万人坑」が発見され、さらに2006年(平成18年)6月から南京大虐殺70周年の12月13日落成を目指して本館拡張工事が開始された時にも新たな集団遺骨が発見され、それらすべてがそのままの移設する形で展示されることになった。

【日中双方における記念碑の位置】

 ところで鄧小平は1978年(昭和53年)、日中平和友好条約批准のために、中国の首脳として初めて日本を訪れ、日本の大企業を積極的に誘致して中国の産業発展に寄与した人物で、別に「反日活動」の一環としてこの記念館を作ったわけではない。自国民の受けた大量虐殺の事実を忘れないようにという当然の行為で、むしろ遅すぎた感がある。これは広島や長崎がその原爆被害を受けた事実を忘れないようにと記念館を作ったことと同列で、「反米」ということではない。このあたりを取り違えて「反日」という人たちがいるが、何を勘違いしているのか、むしろ僻み根性というしかない。

 一方で、1945年(昭和20年)3月10日の、およそ10万人の犠牲者を出した米軍による東京大空襲の記念館がない(民間の小さな資料館はある)ことに気がついている人がどの程度いるだろうか。これは占領当初からアメリカ軍政府の圧力があって設置されなかったが、戦後50年の1990年(平成2年)代、おそらく最後の機運として青島都知事の時に建設が決定、資料集め等がなされていたが、次の石原都知事によって計画は簡単に棚上げされた。これによって東京では記念館が設置される可能性はほぼなくなった。実はその慰霊碑さえも戦後しばらく作ることができなかったが、これもアメリカに遠慮して、大正時代の関東大震災の犠牲者の慰霊碑の敷地(墨田区横網町)に合葬されることになった。中国と違って、堂々と大空襲被災者の慰霊碑と記念館を作れなかったという情けない状況の中に日本はある。つまりこれはかって敵国であった米国の、今では従属国家であるという一面を表わしている。

 広島や長崎の記念館は、さすがに全世界に知られた悲惨事なのでアメリカも圧力をかけることはできず、早くから設置された。また沖縄戦の記念碑と記念館は長年アメリカ軍の統治下にあっても逆に沖縄県民の「民意」を無下にすることはできないとして早くから設置されたが、1995年(平成7年)に新たに「平和の礎」が建造され、沖縄戦で犠牲となった軍民と米軍戦死者の20万人以上の名前のすべてを石碑に刻み、平和祈念公園として整備された。今も新たな犠牲者が判明すると石碑に刻まれていて、沖縄以外の沖縄戦の遺族も訪れ、その名前を指でなぞりつつ涙している。これほどの平和公園は他にはない。

 いずれにしても仮にも今後中国を訪れる人たちは、実際にこの記念館には行かなくても、そういう記念館・記念碑が(南京市内の各地と南京以外の)中国の各地にあるということだけは頭の片隅にでも入れていたほうがよいだろう。でないと、たまたまそういう場に巡りあった時、日本では何も教えられていないとして、気恥ずかしい思いをすることになる。

 本当は日本政府の要人がその記念日にともに追悼するために訪問すれば、日中友好として一番良いのだが …。そのようなオープンな行動が一番の友好の手段であり、中国の人々に大歓迎されるはずである。それに対し日本の首相がアメリカの戦没者慰霊施設であるアーリントン国立墓地にはよく行く姿を見るが、どうして同じような行動が中国に対してできないのか。心のどこかでそうした謝罪を恥ずかしいと思っているからではないのか。しかし心を開いて素直に謝罪することがどうして恥ずかしいのか、それこそ立派な行動なのではないか。逆に言えば日本の同様な施設である靖国神社には海外の要人が誰も訪れないのはなぜなのか(昭和天皇もA級戦犯が靖国神社合祀されてから参拝を取りやめている:筆者の千代田区の項にある「靖国神社」参照)、そのことを問いかける言葉が聞かれないのはなぜなのか、視点を変えて考えてみる必要がある。

 このように自分たちの過去の不都合な行いを曖昧にし、正面から向き合おうとしない日本人の傾向は、例えば中国への侵略を進攻という言葉に変えたり、侵攻を進行と変えたりするところにも出ている。実際に筆者が国内の大学の戦時下の状況を書き進めていた時に、ある保守系大学に連絡し、参考になる校史を寄贈してもらったが、その時に書いたものをチェックしてもらった際、侵攻という言葉は使わないでほしいと言われた事実がある。言葉でその実態が変わるわけではないのだが、どこか後ろめたい気持ちを隠そうとする心の作用があるのではなかろうか。

【残虐性の比較】

 この後の太平洋戦争終末期(1945年:昭和20年8月)に南京と同様な惨劇が逆に日本人に対して生じた。それはソ連(ロシア)軍が日本の敗戦を見越して(8月6日の広島に対する原爆投下の二日後、長崎への原爆投下の前日)いきなり日本に宣戦布告をして満州に攻め込み、軍人(関東軍)ばかりでなく多くの日本人居留民(特に満蒙開拓団で満州事変以降の移住者)に襲いかかった時である。ただ、南京ほどには戦闘以外に軍人に対する殺戮は行われなかったが、その代わりそのまま約57万5千人がシベリアに抑留され、極寒の中の強制労働によって約5万8千人が死亡した。抑留された中には女性もいて、それは満州にある陸軍病院の看護婦や、特務機関の軍属や電話交換手、通訳などで、後者の彼女たちは受刑者として監獄に入れられた。

 それは後の話として、ソ連軍の侵略により多くのものが略奪され、それ以上に多くの女性がソ連兵に連行されて強姦され、あるいは開拓団の一つの村の犠牲として未婚女性らが性接待係としてソ連兵に差し出された場合もあり、その結果自決した女性もいた。中には凌辱されまいと、小さな村ごと、あるいは女性の同志で集団自決した場合もあった。むろんそこにいた子供も道連れである。そのような目にあって生きて帰された女性は、逆に日本の同胞から差別を受け、その心の傷で、中には帰還船で日本の土を踏む前に、海に身投げした場合もあった。あるいは大連などからの帰還船に乗る機会を逃した人々は、日本の植民地であった現在の北朝鮮から南下して日本を目指した。しかしそこにもソ連兵は襲ってきて、さらに多くの女性が犠牲となった。しかも敗戦となった後に現在の南北の国境線となった38度線で帰路は閉ざされ、そこで約3万人の日本人が餓死などで命を絶たれた悲劇もあり、そのことは今でも(あるいは最初から)滅多に語られることはないから知られないままである。なお当時満州に残された日本の一般兵士と民間人は150万人とされ、そのうち24.5万人が帰国できずに命を落とした。

 ここで言えることは、日露の人間のどちらが残虐で罪深いかということではなく、戦争という名の下で発生する特殊な状況がどれだけ人間の心に潜む残虐性を引き出し、悲劇を生むかということである。何しろ戦争の基本は殺し合いであり、その殺し合いという無法状態の下に行われることであるから、何が起きてもおかしくない。そして敗戦国は戦争犯罪として大小の処罰を受けるが、勝利国はほぼ戦争犯罪についても処罰も受けることはない。そのことが兵士たちには暗にわかっていて、南京では勝利軍であり、「南京に一番乗りすればしたい放題だと煽られて」いた日本の占領部隊は、南京陥落と同時に無秩序に暴虐の限りを尽くしたという側面もあるだろう(もっとも既述のように南京以前にも同様な虐殺が行われていた)。そして8年後の満州において、ソ連兵たちは関東軍の防御力が弱体化した状態の中で、ほぼ無抵抗の日本の居留民に対して、かつての日本軍と同様な暴虐行為(物品の略奪も含め)に打って出たのである。ただ、筆者の調査の中で、大正期のシベリア出兵において、日本軍がシベリア地区のロシア人に対して少なからず虐殺をしていた事実があり(その史実は、出兵の失敗ということもあって、ほとんど国内では隠されたままである)、その積み重なった怨念が残っていて仕返しの意味もあったのではないか(日露戦争の敗戦も含めて)と思われる節がある。

 実は当初は筆者も、日本との不可侵条約を突然破棄してソ連が満州を急襲したことに対して、卑怯な国だと思っていた。しかし調べを拡げ、明治時代から日本の戦争を相対的に比べるうちに、日本も十分に卑怯な侵略戦争を行っていたことも理解した(日本の戦争の場合はすべて相手国への侵略から始まる)。

 例えばシベリア出兵の1916年(大正5年)の時点で、ウラジオストクを中心にハバロフスク、イルクーツク、ウスリースクなどを含めて、漁業者や商人の日本人居留民は4400人もいたが、届出なしを含めると全体で6000−8000人と言われ、とりわけハバロフスクには中国人、朝鮮人、ユダヤ人、ポーランド人、ギリシャ人も隣り合わせて住んでいて、交流もあった。しかしこのシベリア出兵において、いつもながら日本軍の建前は居留民の保護という名目であったが(明治初期の西郷隆盛の征韓論も同じ名目であり、満州事変も南京攻略の前の上海事変も同じである)、居留民の保護どころか、その自由な交流の土地を日本軍の侵攻による暴虐行為が台無しにしてしまった。それにより日本人のためにハバロフスクに開山していた仏教寺院も閉じて引き払った。

 関連して述べるが、このシベリア出兵時の出来事の中で、1920年(大正9年)に起きたニコライエフスク(尼港)事件だけは、日本人居留民の多くがソビエト革命軍パルチザンの犠牲になったことで、今も時折メディアに日本人が受けた残虐事件として取り上げられる。しかしそれ以前の日本軍の為した暴虐行為は当時も今も取り上げられることはまずないが、何らかの原因がなければ、この尼港事件は起こらないことは知るべきであろう(実はこのシベリア出兵から特に日本軍には軍紀が緩んだとされている)。どうして日本は自身に都合の悪いことを隠したがるのか、今に至るまでそうした日本の政官人の体質は変わらないが、その体質を変えない限り、国際的な信用は得られない。それでも日本人が今の時代ある程度かそれ以上の信用を得ているのは、海外における日本の経済人にしろ民間人にしろ、個々人が誠意を持った活動や交流をしてきたからである。

それは別として、ロシアのエリツィン大統領は1993年(平成5年)10月に訪日した際、シベリア抑留における強制労働を「非人間的な行為」として謝罪の意を表した。この謝罪には女性たちが受けた陵辱は入っていないであろうが、逆に日本政府は今日に至るまでどの国に対しても謝罪の言葉を発することを避け、ただ平成天皇・皇后が、多くの犠牲者を出したフィリピンなどへの戦地巡礼の形で誠意を示したに過ぎない。日本人が特に残虐な民族であるということは相対的に見ても決して言えないが、政治家が体裁でよく言う「是々非々」の気持ちを本当にもって、相手に対して非を詫びる勇気を持てない、あるいはそのようなことを率直に語れる政治家を持ち得ない国であることは確かである。国を代表する政治家が、エリツィン大統領のように率直に謝罪を語れば、どれだけ民間の人々は交流しやすくなるだろうか、時折、そのような志を持って個人の方が現地の調査をし、あるいはそこでの救済活動に身を投じ、交流を深めている姿を見聞きすることはあるが、そのような人たちに対して頭が下がる思いがするのは我々一般人で、政官の人間たちは見て見ぬ振りをして済ましているだけである。なお、ドイツのメルケル首相は2019年(令和元年)の12月6日、第2次大戦中にナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の舞台となったポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡を初めて訪れた。そして加害国の首脳として犠牲者を追悼し、「虐殺を行ったのはドイツ人だった。この責任に終わりはない」と演説、改めて過去を謝罪した(それ以前にもドイツは近隣諸国に謝罪をしている)。

日中両軍の戦死者数と南京の被害者数の検証

南京に至るまでの両軍の戦死者

 後年の資料では南京攻略戦の前の上海事変から11月8日までの日本の上海派遣軍の戦死は9115名、負傷3万1257名に達したとされ(合計4万372名、ただし山田支隊は不明で算入されず)、ただ終盤に参加した第十軍の戦死は少ないと思われる。これに対し、同じ上海戦における中国軍の戦死は、当時の日本軍の発表では「敵方遺棄死体8万4千、捕虜1万5百」とあるが、最終的に中国側の調査では戦死18万7200名、戦傷8万3500名で(合計約27万)、捕虜は戦死に含まれると思われるが、このように戦傷よりも戦死が多いのは尋常ではない。

 これに続く南京への追撃戦で上海派遣軍の戦死4976名、負傷1万3785名で合計1万8761名(ただしこれは第九師団のみで、上海派遣軍は全五個師団である)、また南京攻防戦における戦死者1558、戦傷者4619、合計6177名とされ、第九師団と合わせて戦死傷者は約2万5000名、これに上海戦まで合わせると日本軍の戦死者1万5649、戦傷者は4万5042、合計6万9929(6万5310との数字もあるが、別な報告では上海事件以来南京占領までの日本軍の戦死者は2万1300余名、傷病者の総数は約5万人、合計7万人を越えるという数字もある)となるが、これに不明分(山田支隊や第九師団以外の四師団)を少なくとも数万以上をプラスしなければならないだろうから、総数は10万人を越えるものと思われる。これは防衛省の戦史叢書による公式な数字も入っているが、それがこのように欠落したままなのはなぜなのか。やはりこの8年後の1945年(昭和20年)8月15日の敗戦決定時に軍政府が戦闘記録や軍事関係資料を焼却処分するように海外の戦地にまで指示したことが大きいのではないか。何よりも日本全国各地の出征名簿さえ焼却されてしまったから、正しい数字は戦後になっても出されていないというずさんな面が日本にはある。

 また上海戦後の南京への追撃戦における中国軍の戦死と捕虜は約5万人(上記12月12日−17日の間の数にほぼ合致する)、そして逃亡が約7万人とされるが、この逃亡兵の大半が日本軍の東からの南北三方面による進撃に押されて西側の揚子江に向かって逃げていて、江岸に追い詰められたことから惨劇が展開された様子がある。

 日本軍の報告もまちまちであるが、この上海戦から南京に至る戦闘による中国軍戦死者の数は厳密に言えば「虐殺」の数に入らないから、以下ではその視点も踏まえて検証していく。ただ、日本軍の掃蕩作戦は翌年にも継続して行われている。

様々な角度から

 南京攻略後に虐殺された全体の死者は、中国側は埋葬記録などをもとに30万人以上と発表しているが、1980年(昭和55年)代以前の日本人側の(学者的な人たちの)考証では人により数万−20万人としていて、今ではやはり30万人は動かないとされている。筆者はまず、そうした数字を追うことはせず、あれこれの記録や証言を渉猟し、ここまで長々と書き重ねてきた。結果、いくら何でも数万はないが、これは資料の集め方や調査された時期にもよるし(つまり後からのほうが掘り起こされた新しい資料によりその数も単純に多くなる)、その範囲の区切り方にもより(南京城内だけを見るか城外も確認しているか=城外の方がはるかに多い)、例えば当時のアメリカのニュース雑誌「TIME」(翌年Feb.14.1938の発行)では、南京では日本軍は2万人を処刑し、11万4千人の中国兵を上海−南京攻略の戦いで殲滅し、他方、日本人は1万1200人が戦死したとあるが、戦死ということであれば、11万4千人は虐殺とはならないし、2万人は捕虜の虐殺であろう。他の記事の中には中国人が日本兵2千人を殺害したというのもあるが、これも侵略された側からすれば報復措置として十分にありうるし、中国側の恨みからすればむしろ少ないくらいであろう。

 後述する南京安全区国際委員会委員長を務めたドイツ人ラーベの、事件翌年6月のヒトラー宛「上申書」には(この時期ラーベはナチス党員で、まだヒトラーを「信用」していた)、「中国側の申し立てによりますと、十万人の“民間人”が殺されたとのことですが、これはいくらか多すぎるのではないでしょうか。我々(国際委員会)としては、殺害された者は5、6万人と見ています」とあり、続けて「遺体の埋葬をした紅卍字会によりますと、一日200体以上は無理だったそうですが(注:ヴォートリンの日記にもあるようにその後作業者はもっと増やされているし、他にも国際赤十字会やいくつもの慈善団体の作業への協力がある)、私が南京を去った2月22日には、3万の死体が埋葬できないまま、郊外の下関に放置されていたといいます」ともあるが、ラーベはあくまで城内の安全区の中に入ってくる日本軍兵士の乱暴狼藉に対する難民の救助に奔走し、城外のことはあまり知らない。ただ、ラーベの言葉のまま受け取ると、これは“民間人”とあって、兵士すなわち捕虜が入っていない。これはラーベが国際委員会の立場で民間人(難民)を保護した視点から言っていることで、とにかく想像を超える民間人が殺戮されたことを示している。そもそも10万人とは通常の感覚で想像できる範囲を超えていて、「いくら何でもそこまでは」と思うのが普通である。

 ここで基本的なことを押さえておくと、戦後1946年−1948年(昭和21年−23年)に開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)において、南京の中国人被害者だけでなく南京に残った多数の外国人からの証人喚問を踏まえた上で「一般市民と捕虜の総数20万人以上」が殺戮され、略奪や放火などを含め数多くの厄災をもたらしたことを認定し、その指揮管理責任は中支那方面軍司令官の松井石根にあるとして、松井をA級戦犯的扱いで死刑に処したという事実がある。ただ松井は、南京における虐殺等に直接関与していたわけではなく、これまでに多々記しているように松井指揮下の中島師団長その他が勝手にやりたい放題の蛮行を行い、それを聞き及んだ松井はしばしば「皇軍の名誉を汚す」として嘆き、さらに中島の目に余る掠奪行為にも怒りを表すが、だからといって中島を軍規に反するとして処分することはなかった。だから松井はあくまで総責任者として刑に処せられた。

 しかしこの後の日本の世論において、この国際軍事裁判の判決の内容が無視された上で「数万−20万人」という論が展開されているから、この流れは何なのだろうと首をかしげる。それに当時、外国人記者たちによる南京での暴虐行為が次々と上海経由で欧米に発信されていたが、これらが日本では表に出されることもなかった。ただ仮に数万人としても(戦闘行為によるものでなければ)大虐殺に変わりはないという認識は必要で、極端に言えば数字の大小はどちらでもよいだろう。いずれにしろ筆者はここまで、いわゆる学者と言われる人たちの論は後回しにして(ただし基礎的な資料は尊重する)、日本軍の上海から三手に分かれた南京への進軍経路と各師団や支隊別の南京城攻略図を時系列を踏まえて確認しつつ、そこに各師団や支隊の兵士たちの証言や日記、そして被害者の証言記録と照合しつつ書いてきた。その量は(この後に記述する「南京にとどまった欧米人の難民のための奮闘とその記録」なども含め)、おそらくこの1937年(昭和12年)だけで原稿用紙で2千枚近くになっているが、それらをもとにして以下、犠牲者数の検証をしていくが、基本的によくあるような「専門家」の意見の写しは排している。

【南京と南京以外の犠牲者数の区別】

 12月28日の上海派遣軍の発表では、上記のように南京攻略戦では8万4千人の中国兵を殺した(「敵の遺棄死体」との表現)とするが「もっとあると思う」との一兵士の証言もある。実際に南京戦に関わったのは上海派遣軍だけではなく、その後に投入された第十軍の三個師団(プラス一支隊)によるものもあるから少なくともこれに何万も加算される。ただこれは上海から転戦して南京までの進軍途上を含めた数字である可能性は高く、その進軍途上の戦闘による死者は建前上は戦死であり虐殺ではない。しかし進軍途中で捕虜にした中国兵はその進軍の邪魔になるという理由でほとんどが虐殺されていることは、これまで取り上げた各兵士の日記や司令官レベルの発言や日誌でも見て取れるし、その捕虜を虐殺した数は入っていないであろう。また進軍途上で虐殺されたのは捕虜だけでなく、食料調達などで攻略された各都市の住民も巻き込まれたことは「南京以前・以外の都市における数々の惨劇:その一・その二・その三」で既述した通りで、これらの惨状も看過できない。南京以前から「南京事件」はいち早く各地で実行されていたが、「南京以前・以外」に関する具体的な犠牲者数は、専門家の中でもこれまでほぼ検証されていないことを筆者は確認している。ただ筆者が記述してきた町村では数百から数千人単位で虐殺された例は数知れずあるから、この年の南京以外でもこの年だけで軽く10万人単位に上るのではないだろうか。いずれにしろ南京攻略後における中国軍民に対する虐殺は、これらとは別であるという前提で、ここまでは「南京事件」の計算には入れない。

 今ひとつ、エドガー・スノーが4年後の1941年(昭和16年)に日本軍の支配地域を訪問して書いた『アジアの戦争』で、中国人の犠牲者は「上海から南京間で30万人」と記していて、これを上海事変から南京攻略までの戦闘による死者と捕虜や民間人を巻き込んでの犠牲者と考えると、これは十分にあり得るし、最低限の数字と考えてよいだろう。ただし、エドガー・スノーが訪れた地域は限られていて(とは言っても各地から情報は得ていたであろう)、その全貌をこの時期に把握できていたとは思えない。ここでの一番の問題は南京陥落前後に捉えた捕虜の数であり、占領後に捕らえられて虐殺された兵士と市民の数である。
 次に南京中国防衛軍は城の内外を含めて当初30万人であったとされるが(このうちの半分以上は上海戦から撤退して合流している)城内の防衛軍は10万人前後とされている。南京陥落前の日本軍の総攻撃により城外の戦闘では相当数が逃走したようであるが、その中で5万人以上が捕虜として早々に投降したことは、第十三師団の幕府山や第十六師団の紫金山手前の麒麟門、仙鶴門の記録で明らかになっていて、その数分の一がその南京東北郊外の地で殺戮され、残りの多くが中山門を経て下関地区に運ばれた(既述)。また城内にいた中国軍の多くは、前日から司令官や将校たちが先に逃げたとして、一斉に逃亡を図り、その大半は西の揚子江に向かい、その通路である挹江門に殺到し、そこで逃亡を阻止しようとする中国軍の「督戦隊」が彼らを銃撃し、おそらく千人単位がここで死亡した。それでも後続の逃亡兵が次々と殺到し、閉ざされた門を乗り越えようとしてそこで多くの圧死者が生じた。この圧死者は少なくとも数千人以上と思われるが、この門の犠牲者については日本軍の虐殺の結果ではないと判断でき、逆にそれを明らかにするために詳しく資料を集めて客観的にしたものを既述した。ともあれその挹江門からと他の門からの脱出者も合わせて万単位の中国兵たちが城外に逃れて下関地区を中心として南北の揚子江岸に向かった。対岸に逃げるためであり、この中には女性子供を含めた多くの住民もいた。しかしそこには日本軍が待ち受けていて、朝早くから脱出して船や筏で支流などから川に出たものは日本軍の機銃掃射に遭い、また本流に出ると待ち構えていた海軍の戦艦から砲撃や機銃掃射に遭い(海軍は約一万人を殺害したとしている)、生き残るものは少なかった。遅れて河岸に着いたものはすでに船も何もなく、その大半が捕虜になり、そのままその地で虐殺された。主に下関地区ではこうして早期に虐殺された兵士たち(兵士たちの家族もその中にいた)と、占領後にそこに連れ出され、虐殺された兵士と民間人(この場合、おそらくその半数以上が逃亡兵とみなされた民間人であった)とが二重になっていて、その数は合わせて10万を下ることはないだろう。

【南京入場式強行による惨劇の拡大】

 さらにこれ以降、松井司令官が12月17日に「入場式」をやると通達し、これに向けて14日から16日にかけて、南京城内の徹底した残敵掃蕩・ 殲滅作戦を行うことになった。これには皇族の朝香宮中将も参列し、万一のことがあってはならないということもあって、城内に残る敗残兵狩りを、少しでも疑いのある民間人男性も巻き込んでも捕捉・殲滅するように指令が出された(既述の「南京城内大掃討作戦」参照)。これによって三日間で5万人単位の兵士と民間人が城内からやはり揚子江岸の下関地区およびその周辺の江東門などに運ばれ、機関銃などで大量に殺戮された。その上で多くの死体が揚子江の支流に投げ込まれた。これはこの後も断続的に続けられた。ちなみにこの入場式に参列した軍やメディア関係者が、街中の通りはきれいなもので、死体などなかったとして虐殺はあり得ないとする者もいたが、当然であった。東京大空襲の後、昭和天皇が街の惨状を見たいと言いだし、軍関係者は天皇の巡行日を指定し、慌てて軍属や学生たちを狩り出して死体の処理をした、これと同じである。また城外でも下関以外の周辺における殺戮、城内の各地でもこの年を越えて虐殺が続いた。

 ここで筆者は、ここまでに取り上げ、時系列で詳細に記述してきた主に日本側の各種資料、証言、日記などから取り出した虐殺数を抽出して加算し、全体数を割り出してみようとしたが、もっと簡単な方法があった。それが以下である。

日本軍の遺体処理作業と揚子江に流された膨大な遺体

 先に詳しく記しているが、1954年(昭和29年)に太田寿男(当時少佐)が撫順戦犯管理所で供述した資料がある(既述参照)。太田は日本軍部から大量の死体処理の任務を負い、12月15日、上海から南京碇泊場司令部に派遣された。またその少し前に安達少佐も派遣され同様の任務を負っていた。安達は14日から、太田は16日から18日まで、運輸兵800名を使って膨大な死体の処理を行った。詳細は既述を見てもらうとして、太田・安達少佐が処理した約10万のうち、埋めたり焼却したりせずに揚子江に流した遺体は7万となっていて、残り3万は500名を使って揚子江対岸の浦口の東方の地まで二日かけて船で小刻みに往復し、「焼却埋没作業」を行ったとある。さらに別の攻略部隊が独自に約5万人を「埠頭の上流付近より揚子江に流す」とし、「合わせて十五万と推定す」としている。そのうち合わせて12万が揚子江に流されたことになる。また、太田・安達少佐が処理した約十万のうち「抗日軍捕虜は推定三万、その他は住民」とも証言している(ただ城内で平民服に着替えて潜伏しようとした中国兵も多くいたから、それを太田・安達が状況を理解して区別ができていたかどうかはわからない)。いずれにしろ太田たちが処理に関わった遺体処理の総数は15万という、実に30万とされる半数に上っている。

 ここに再度引用するが、第六師団の赤星義雄が12月14日に見た光景である。—— 私たちは城内を通り揚子江岸に向かって進んで行った。…… そこに立って揚子江の流れを見た時、信じられないような光景が広がっていた。2000m、いやもっとであろうか、その広い川幅いっぱいに、 数えきれない程の死体が浮遊していた。見渡す限り死体しか目に入るものはなかった。 川の岸にも、そして川の中にも。それは兵士ではなく、民間人の死体であった。大人も子供も男も女も、まるで川全体に浮かべた”イカダ”のように、 ゆっくりと流れている。 上流に目を移しても死体の”山”は続いていた。 それは果てしなく続いているように思えた。 少なく見ても5万人以上、まさに揚子江は”屍の河”と化していた。

 これが太田少佐の言う別部隊が先に5万を処理して揚子江に流したものと見てよいだろう。これについては第十六師団(主に佐々木支隊)が南京陥落の13日に南京の東から攻め立て、そのまま城外の北側を抜けて下関地区に至り、そこに前夜から逃避していて揚子江とその支流を前にして滞留していた何万もの敗残兵と避難民に対して機関銃で銃撃を加えていった様子はすでに既述の「揚子江岸の下関地区における大量虐殺と第十六師団」で明らかにしている。またそれ以前に小舟や筏によって江上を下っていたものたちに対しても「面白いように」機銃掃射で殺戮していたし、仮にその場を運良く逃れても海軍の軍艦が待ち受けてほとんどが殺戮された。南京陥落から二日目の14日にすでに広大な揚子江には死体が滞留していて、その上で太田・安達少佐の遺体処理班が18日までに7万の遺体を揚子江に流したということになる。

 今ひとつ、この南京から約7、80km下流にある鎮江市における中国人の目撃証言がある。—— 「(家族で南京から逃げて揚子江下流の鎮江付近にいたとき)、たくさんの死体がどんどん途切れることなく流れてくるのを見た。その中でもわずかに生きていた兵士を住民が助けて傷が癒えるまでかくまっていた。数えきれないほどの死体が岸辺にあふれ、暖かくなるとそれらが腐敗し、とても耐え難い悪臭を放った。…… 住民は河べりに穴を掘って死体を埋めていったがきりがなかった」(劉聚才証言『南京戦:切り裂かれた受難者の魂』より)。 「その中でもわずかに生きていた兵士を住民が助けて」ということは、はるか先の下流においても岸辺に遺体や生存者が滞留していたということである。こうした事実に関わる太田の証言が論者たちにはあまり引用されず、むしろ避けられているように筆者には感じられるが、それは別として、この太田の作業は18日までのことであり、その後も日本軍の「掃蕩作戦」は翌年にもまたがって継続されている。そしてこの後に遺体の埋葬作業を行うのが南京の地元の複数の慈善団体であった。ただ、日本軍はなぜか年内まで城内の遺体の埋葬をしばらく禁じていて、その作業は城外の周辺から行われた。

地元慈善団体等の遺体埋葬作業と各種資料の比較

 ここでまず第三者の記録を入れると、後述する南京陥落以降も南京に残って南京安全区国際委員会で住民を守るために活動したミニー・ヴォートリンの日記があり、これは笠原十九司がアメリカの大学に行って見出し、1999年(平成11年)末に上梓されたもので、1997年(平成9年)に翻訳出版された同じ国際委員会の委員長ジョン・ラーベの日記『南京の真実』とともに合わせてみれば、日本軍の南京の内側における通常の世界では信じがたい残虐行為は一層明らかな事実として残る。ただし客観的に知っておくべきは、ヴォートリンたちが見聞きし実際に日本兵たちと対峙して書いている事実は全体の中のごく一部であって、そもそも南京は城壁内の市街の面積だけでも東京の山手線内と同等な大きな都市で、その中で10数人の外国人たちが「安全区」の内外で知り得て対処できたことはごく限られているということである。ここではヴォートリンが慈善団体紅卍字会から数度にわたって聞き出した遺体の収集と埋葬数があり、翌年4月半ばまでに紅卍字会が城内において埋葬した遺体は1793体、うち80%が民間人。城外では同じ時期に男女子供を合わせて3万9589体、そのうち25%が民間人であるとし、合わせて4万1382体となっている。この後のヴォートリンの記録は途絶えているが、紅卍字会は道教系の宗教団体「道院」に付随する修養慈善団体であり、また埋葬に関わった慈善団体は他にもあり、主体となったのは崇善堂で、この団体は当時すでに140年の歴史があり、通常は寡婦救済・保育援助・棺材の施し・診療所の運営などの貧民救済を行なっていた。いずれもこの作業では貧民を雇い、日当を支払っている。両者とも一般に考えられるボランティア団体とは違い、仕組みはしっかりしていると言える。また国際委員会もこのための費用を拠出していることが記されている(国際委員会の初期の会計を担当したルイス・スマイスは、紅卍字会に三万体の埋葬費を払ったとしている)。なお、翌年植民地満州の満鉄調査部が派遣した調査員の南京班報告書には、遺体収容作業がまだ続いていて3月15日の時点で3万1791体の遺体を南京紅卍字会が埋葬したと記録されているからヴォートリンの記述とも時系列で合っている。これ以外にも下記のように他の団体による埋葬記録が残るが、国際委員会は南京紅卍字会にのみ接触できていたものと思われる。

 以下、こうした埋葬活動についていくつか引用する。まず中国の歴史学者、高興祖が1997年(平成9年)に書いた小論である。

 —— 南京の慈善団体の崇善堂が1937年(昭和12年)12月26日から翌年5月1日までに埋葬した死体は、城内では7549体、 城外での埋葬は10万4718体で合計11万2266体になる。…… 南京紅卍字会は1937年(昭和12年)12月22日から翌年5月31日まで死体を埋葬し、 城内で1793体、城外で4万2230体、合わせて4万4023体の死体を埋葬した。 この紅卍字会の(途中経過の)数字は1938年(昭和13年)4月16日の『大阪朝日新聞』の「北支版(北中国)」に載せられた。

 さらに、中国赤十字(中国語では紅十字)南京分会が22371体を埋葬、日本の傀儡南京市長高冠吾が「無名孤魂」として3千体余り合葬し、 また南京城外の揚子江右岸の上新河で虐殺され放置されていた死体を湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫を雇い、2万8千体を埋葬、 市民の芮(ゼイ)芳縁たちが7千体を埋葬しているなど、全部合わせると埋葬死体はおよそ22万体を数える。

 次に「北京週報日本語版」(2007年:平成17年12月)からである。

 —— 世界紅卍字会南京分会は4万3123柱、崇善堂は11万2267体、中国赤十字南京分会は2万2371体、同善堂(もとは南京市で子供を専門に埋葬する機関)は7000体余り、回族の埋葬隊は400体と、これだけで18万5000体以上の遺体を埋葬した。放置するに忍びないと感じた湖南省出身の商人の盛世征、昌開運は自腹を切って人を雇い、上新河付近で2万8730体の遺体を埋めた。南京城の南に住んでいる苪芳縁、張鴻儒、楊広才らは中華門外で7000体余りの遺体を埋めた。

 日本軍の傀儡政府(自治委員会)も道路の清掃や疫病防止のために遺体を埋葬していた。下関区役所は下関、三汊河で3240体、第一区役所は南京城の南東で1233体の遺体を埋葬した(合わせて4473体)。南京市政公署衛生局は1939年(昭和14年)1月、中山門外霊谷寺と馬群で収集した3000体余りの遺体を霊谷寺の東に埋葬し、「無名孤魂碑」を立て、碑文の中には遺体を埋めた経緯が詳細に書かれている。

 このほか、『日軍侵華暴行実録第1巻』では、南京市崇善堂が11万2266体、紅卍字会が4万3071体、下関区が2万6100体、芮芳縁等三名が約7000体、「無名孤魂碑」で3000体等とあり(他に個人名で5万7400ともあるが、筆者にはこれは数合わせの恣意的な数字と思われた)、ここには中国赤十字南京分会と上新河がなく、下関区がそれに近い数としてある。

 さらに『侵華日軍暴行総録:江蘇省編』では、「世界紅卍字会南京分会、中国赤十字社南京分会、崇善堂、同善堂などの慈善団体は戦後、22万6713人の死体を埋めた書面証拠資料を南京軍事法廷に提出した。これらの慈善団体が死体を埋める際には、それぞれ組織的に数の確認が行われていて、埋葬された死体数は正確である」としている。

 これら以外の資料では、崇善堂については、男性10万9363体、女性2万91体、子ども813体の合わせて11万2267体と分類された記述もある。それぞれの方法で記録していたことは間違いない。中国赤十字会はまだ埋葬に対する日本軍の正式許可が出ていない12月24日から死体を埋葬し始め、まず下関一帯で3245体、和平門外で5704体、合わせて8949体を収容、埋葬した。そして翌年1月6日から各地に分散して埋葬し、それを一日単位で記録し5月末まで1万3722体を埋葬、軍民の死体2万2671体を埋葬したとしている。この中で興味深いのは、揚子江上浮游死体として約300としていることである。他に中国側の資料の中には上記の各種団体の他に市民団体などを付加して15件の表を作成し、合計を約30万にしているものもあるが、これは30万を意識した帳尻合わせに見え、逆に信用できない。

 これらとは別に、筆者が既述している中で、揚子江の大きな中洲の一つ、江心洲において国埼支隊が捕虜2350人を処分し、またもう一つの中洲八卦洲では、紅卍字会八卦洲分会が1559体を埋葬している。これを合わせると約3900体となる。

結論的に

 以上、端数など多少の差異はあるが、いずれもおよそ20万体を軽く超えている。この中で上新河における2万8730体は、「各城門付近における捕虜と避難民虐殺」の「水西門/上新河」の項でも触れているが、筆者の調べた範囲の日本側の記録では裏付けが取れていない。最初にこの地域に攻め込んだのは日本の第六師団であるが、その時に相手にしたのが中国軍1.5万人であり、そのうち1万人を戦死させたとしているからそれは虐殺の数の中から外すとしても、約2.9万の数とはかけ離れている。ただこれは下関地区で退路を閉ざされた敗残兵が南下してここまで来たようにされている。日本軍の記録の詳細は部隊によっては「戦闘詳報」が残されているが、1945年(昭和20年)の敗戦時に内外の戦争関係資料をすべて焼却するように軍政府より通達がなされ、実施されているので逆にその多くが残されていず追跡できていないという事情もある。また、当時の将兵の日記も残されて公開されているのは一部であってその多くをこの稿でも引用しているが、まったく情報のない部隊もある。ただ2.9万の件がその理由で見当たらないのかどうかはわからない。

 実際に後年地元に設置された「上新河受難同胞記念碑」の碑文にはその数が記されているが、商人盛世征と昌開運の私財によるとしながら、「その後を引き継ぎ南京紅卍字会が1938年(昭和13年)1月から5月まで14回にわたり合計8459体の遺体を上新河一帯で集め埋葬した」とある。(この紅卍字会の数は全体の約4万3千体の中に含まれるとして)つまり盛世征の埋葬作業はそれ以前となっているわけで、すると紅卍字会が始めるまでの12月下旬の10日間程度と1月初旬にかけての数週間で果たして約2.9万の埋葬作業が可能であったのかどうか、その時期にはまだ日本軍から埋葬への正式許可が出ていないが(ただ上新河は南京城外である)、中国赤十字会が12月24日から二週間で8949体を埋葬している事実があり、不可能ではないが、この記録だけが孤立している。筆者の推論では2.9万は江東門(上新河につながる街路上にある)の1万5千人も含んでいるものと思われる。今ひとつ、「草鞋峡遭難同胞記念碑」と「燕子磯江灘遭難同胞記念碑」に記されているそれぞれ5万人以上の犠牲者についても裏付けが取れないし大きな重複があるのではないかと同様に筆者は疑問視している。つまり中国側の資料も多少検証が足りず(学者、高興祖のものも含め)、そのまま信用することはできない部分がある。もちろん犠牲となった側としての気持ちは理解できる。

 このなかでほぼ動かないのは崇善堂と紅卍字会で、合わせて15万6千体以上、そして中国赤十字社2万2370、傀儡自治政府の4473プラス「無名孤魂碑」3000体の合わせて約7500体、同善堂の7000体、小さくは回教徒の400人と筆者は見るが、これらを合わせると約19万3千体となる。これ以外にも各所において自発的に埋葬されていただろうことは容易に推測できるから、(上記2.9万や芮芳縁等の約7000体は外しても)20万を軽く超えている。

 ここで二つの集計、つまり太田少佐の示した15万体と慈善団体等による埋葬記録を合わせると35万体以上となり、いわゆる30万人をも軽く超えてしまう。これをどう見るかである。

 太田・安達少佐の処理した遺体と慈善団体等の埋葬記録は実際に扱った「実数」と言ってもよい。ただ、ここにも大きな重複の可能性がある。まず太田少佐は別部隊の処理した5万体を合わせて15万体のうち12万体は揚子江に流したとしているが、上記のように”屍の河”と化していた揚子江は広大であるがゆえに、岸辺の泥砂の幅も広く、そこに留まって流れていかない遺体も数えきれずあったはずである。実際に岸辺から死体を引き揚げている中国人たちの姿を見たという日本海軍兵の証言もあるが、南京から約7、80km下流にある鎮江の岸辺にも多くの遺体が滞留していた。もちろんその手前、下関の下流にある草鞋峡や燕子磯などにも遺体は滞留していたであろうし、この12月から春になるまではとりわけ揚子江の流量は少なく、これら岸辺に残された多数の遺体を紅卍字会や崇善堂がこの後回収し埋葬していったことは間違いないであろうし、その数は軽く万単位になると思われる。

 これが筆者が二者の数字が重複していると見ている理由であり、この重複は数万人以上と見てよいかもしれない。これに類することとして、米軍による東京大空襲の際、強風に煽られた大火の中、約10万人が焼死等で死亡しているが、そのうち数万人が火を逃れて隅田川に入るなどして死んでいる。さらにそのうち少なくとも一万人が川から海に流されていると見られているが、流れずに河岸に留まった遺体も数知れずあり、その処理(引き揚げ)に一ヶ月以上かかっている。したがって揚子江岸で収容され埋葬されたそれら数万人以上は重複しているとして、35万人から差し引いてもいいだろう。そこから「挹江門事件」での最大5千人や上新河地区の一万人以上の戦死者なども除くとして、虐殺の犠牲者はやはり30万人を超えるであろう。

占領軍としての日本軍の怠慢 — 後始末ができない日本軍

 ここで改めて確認しておくと、太田少佐が遺体を処理したのは12月18日までであり、しかし日本軍は南京城内外においてしばらく遺体の収容をなぜか禁じており、地元の慈善団体が本格的に埋葬を始めたのは主に翌年に入ってからである(ヴォートリンの日記においても国際委員会のメンバーが日本軍に苦情を申し入れている事実がある)。そして日本軍の掃蕩作戦は翌年まで続けられ、慈善団体の遺体収容作業も夏場まで行われる。例えば翌年になって南京の下関に駐屯した日本軍兵士の話では、春になっても城外のクリーク一面に死体が浮いていて、しかも水が少なく、下には腐っている死体もあったが、上には1ヶ月も経っていない死体もあったという。つまり掃蕩作戦による虐殺はなおも続けられ、クリークなどに投げ捨てられていた(というよりクリークのそばまで連行して並ばせ、銃撃してそのまま投げ落とした)ということである。それにしても日本軍は南京を占領してすぐに傀儡の市政府を作っておきながら、自分たちが引き起こしたその大量の遺体をきちんと処理して埋葬することを怠っているのはどういうことであろうか。一方で自軍の戦死者に対して何度となく慰霊祭を行なっている。

 翌年4月16日の『大阪朝日新聞』北支版である。

 —— 「戦いのあとの南京でまず整理しなければならないものは敵の遺棄死体であった。濠を埋め、小川に山と重なってゐる幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。紅卍字会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶らが手を握って片づけはじめた。腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近までに城内で1793体、城外で3万311体を片づけた。約一万一千円の入費となっている。苦力も延五、六万人は動いている。しかしなお城外の山のかげなどに相当数残っているので、さらに八千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終はる予定である」

 誠に遅ればせに日本側としての努力を見せようとしているが、この記事には虚偽がある。埋葬数は紅卍字会のものを利用しているが、実際にはこの自治委員会がこの時期になって初めて埋葬に関わったのであり、その数は上記のように約4500体であり、しかも従事者が延五、六万人というのは過大で、紅卍字会と崇善堂の記録ではもっと少ない。

 同じ時期にドイツ大使館書記官ジョージ・ローゼンの外務省宛報告書がある(1938年:昭和13年4月29日付)。

 —— 「玄武湖公園内と、孫文の墓のある中山陵に、高さ2.5mほどの四角い木柱が建立された。そこには[大日本陸軍使用地]と記されている。奉天の満州皇帝陵と同じように、かつてあれほど美しく整備されていた中山陵のいまの荒廃ぶりはひどい。木柱のすぐ脇では、12月の戦いで落命した中国人の遺体が朽ち果てている。ある軍隊の精神の気高さを、斃れた敵にたいする敬意の度合いではかるとすれば、「大日本」の評点はまったく感心できるものではない。中山陵周辺に散乱する中国人の屍を野犬とカラスが食い荒らすままにしておくのではなく、回収して国民的英雄顕彰碑を囲む緑地公園に合同埋葬してやることはたやすいことだったはずだ。一方で日本兵の場合はみな、戦死した場所に細長い木の墓標が立てられ、絶えず花が手向けられている。かれらの遺灰は故国に送られるのである」

 せめて「大日本陸軍使用地」とした敷地にある敵の遺体くらいは敬意を持って丁寧に扱うことができないのかという意見であるが、皇軍と自称する日本軍が、こうした自分本位の行いしかできていない様子を仮に垣間見れば、統率者としての昭和天皇もさぞ嘆き悲しんだのではなかろうか。ここまでの日本軍の有り様は、「皇軍」としての品位と誇りを持ってという意識はまったく見えず、むしろ皇軍だから何をしても許されるという逆の次元の発想から来ているように思われる。それが畏れ多くも天皇を辱める行為であるとの自覚すら皆無である。

中国各地に多発した事件の中の一例としての南京事件

 こうした低レベルの日本の軍隊は想定できない、皇軍がこうした残虐行為などするわけがないという固定観念にとらわれている人たちには、まずこの1937年(昭和12年)7月に発生した盧溝橋事件以降の4、5ヶ月間に生じている「南京以前・以外の都市における数々の惨劇一・二」(既述)をざっとでも流し読みしていただきたい。そしてこの南京以降も中国において約八年間続く日本軍の度重なる蛮行を考慮すれば、いわゆる「南京事件」はその全体の中で多少目だった出来事に過ぎないのである。もはや南京事件があった、なかったのレベルで論じている場合ではなく、そのレベルをはるかに超えている事態が明らかになっていることを我々は知らなければならない。しかも例えば別稿として筆者が各種資料や当時の新聞から抽出した「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」の量は半端なく(時折語られる重慶爆撃もその全体から見るとほんの一部に過ぎない)、米軍の原爆投下は別としても、その米軍の日本への爆撃数をはるかに上回っていて、現今の日本人のほぼ誰もがその実態を知らないし、これも併せて考えれば、中国の全体の犠牲者数は南京の30万という数字がどこかにかき消されるほどに大きなものであることを改めて知っていただかなければならない。

 あえて言えば、自らを「皇軍」と名乗る傲りからの延長として、相手を同等の人間として扱わない差別意識によって、ナチスがユダヤ人(のみならず侵略した国々の人々)に対して行った民族差別による大量虐殺と同等な虐殺が、中国全体で展開されていたと認識してもまず間違いではないのである。筆者も若い頃にはアウシュビッツに関わる本もいくつか手にしたことがあるが、まさか日本軍が同質なことを中国において展開していたとは、ここに至るまで思いもよらなかった。戦前から連綿と続く日本の政官人の隠蔽体質によるものであろうが、むしろ戦後のドイツがナチスの実態を謝罪も含めて積極的に明らかにし、そこで我々日本人はそちらに気を取られ、まるで他国で起きたこととして、自分の足元を見ないようにされていたと言えるかもしれない。

【南京事件論争の無駄】

 ではなぜ中国は戦時下の日本の行いを長い間弾劾してこなかったのか。これには、戦時下にあって日本軍に対して共闘関係にあった国民政府と共産党は、戦後すぐに覇権争いで内乱を起こし、四年後に共産党が政権を握ったが、共産党政権も疲弊し尽くした国内を建て直し、共産党の思想を普及させ、また食うや食わずの七億(当時)の民衆に十分に食料を供給することなどで国内にはまるで余裕がなく、余裕ができる頃には「文化大革命」で国内は大混乱となって多くの犠牲者を出し、そこから立ち直るのに1980年(昭和55年)代を待たなければならなかったという事情がある。裏腹に日本にあっても同様で、戦後の復興でわれわれは過去を振り返る余裕はなく(また思い出したくもなく)仕事に邁進し、経済先進国と言われるようになって(1970年:昭和45年前後)やっと過去を振り返る余裕ができた。その頃から伝え聞いていた南京虐殺について歴史学者などが調査を始め、それらが書籍になり始めたのが1980年(昭和55年)代に入ってからである。さらにそれらに対して「なかった派」が論争を仕掛ける形となり、その論争は長年続けられてきた。

 筆者はその論争に深入りするつもりはまったくなく、むしろそれを読むのさえ時間の無駄として避けつつ各種資料にストレートにあたってきた。その結果、南京事件だけに捕らわれていたら大局を見失うことがよくわかった。少なくともこの日中戦争における中国側の犠牲者数は総量において南京をはるかに超える。それは筆者のこの「昭和12年」の稿だけでも南京以前の出来事、つまり第二次上海事変から南京に至るまでの半年間に日本軍が引き起こした数多くの惨事、そして今やほとんど触れられることのない満州を含めた中国北部(山西省や山東省、河北省など)における日本軍の残虐行為などを流し読みするだけでもわかるであろうし、この影に日本海軍の飛行隊を中心にした圧倒的な爆撃(戦略爆撃)による犠牲者が横たわっている。しかもこれらは1937年(昭和12年)だけのことでなく、この後も蛮行は続けられて行くのである。

日中戦争全体の犠牲者、また第二次世界大戦との比較

 ひるがえって、虐殺30万人云々というより、この後1945年(昭和20年)まで8年も続く日中戦争全体での中国における犠牲者数はどうなのか。これに関しては、国民党軍と共産党軍の内戦による死者の問題もあるが、対日本軍のために国民党と共産党が連携した「国共合作」の時期はそのまま日中戦争の時期と重なるので、あまり考えなくてもいいだろう。そしてこの丸8年間(太平洋戦争はこの後半の4年弱に重なっている)もの長い戦闘による戦死者は、実は南京の30万人がかすんで見えなくなるほどである。どうも今の日中両者においても南京事件だけにとらわれ過ぎている気配がある。南京事件は第二次上海事変以降から始まった日本軍の中国占領地拡大政策の端緒に過ぎず、この後8年近くをかけて、中国中南部の主要都市を侵略していく。その過程で、緩んだままの軍紀で日本軍が南京と同様のことをこの後8年間続けて中国各地に侵攻していけば、どれだけの被害を生み出したか、ということである。

【日中戦争の犠牲者】

 この後も8年間続くこの戦争において、国民党の統計では軍人の死者132万8501人(満州地域除く)、負傷者176万9299人、民間人の死者はなんと439万7504人(負傷者473万9065人)。共産党の統計では戦死者16万0603人、負傷者29万0467人、民間人の死者317万6123人(負傷者不明)、このほか共産党では強制連行276万0277人、寡婦、孤児、身障者296万3582人、難民2600万人となっている(『日中戦争 』(臼井勝美:中公新書 2000年)。国民党と共産党はそれぞれ自軍のものだけなので、これを単純に足し算すると、戦死者は約149万人、民間人の死者は757万人、合わせると約907万人となる(別な統計では全体の軍民犠牲者は1100万人以上となっている)。国共合作といっても、広大な大陸の中で別々に日本軍と戦っているからそれぞれの数字を合計するわけだが、この中で共産党軍の戦死者が少ないのは、共産党軍は主にゲリラ戦に特化していたからかと思われる。ただそのために、各地の村々ではゲリラが潜んでいるとして日本軍によってしばしば殲滅作戦が行われ、これが逆に民間人の犠牲者を増やした。実際にはそれら犠牲になった民間人の数字は不確かで、従って中国の統計では年を下るごとにその数は増え、二千万人は超えるのではないかとされている。そのことはこれまで筆者が記した、日本軍の侵略先、あるいは占領地内での虐殺は数知れずあって、当時7億に達する中国の人口からすればあり得なくはないと思われる。

 ちなみに太平洋戦争開戦後にも並行して行われた中国戦線での日本軍戦死者の数は39万人に達したが、戦後シベリア抑留などで死亡したものを含めると44万4千人に及んだ。この戦後の死亡の中には、日本が敗戦となって、中国内で国共合作が破綻して内戦となり、上官の命令で蒋介石国民党軍に加わって4年間の戦いの中で命を落とした日本軍兵士たちもいたのである(その上官は先に日本に帰った)。逆に帰国の機を失い中国共産党軍に加わった兵士もいたし、何よりも民間人の中で技術を持った日本人が重用され、中国側に懇願され居残った人々もいた。これらの経緯は戦後の項で別記する。またこれとは別に日本の植民地であった朝鮮人が日本兵として徴用されての戦死は2万2182人、台湾人の戦死は3万306人となっている。

 ともあれ南京における30万人の大小にこだわるよりも、アジア支配の野望を持った日本の軍政府によりもたらされた中国戦線での少なくともこの1000万人以上、あるいはその倍以上という膨大な犠牲者の数字を前にして、しばらく瞑想して黙祷を捧げなければならない。またこれ以前の、一般的には日中戦争期間とはみなされない満州事変の1932年から1934年(昭和7年~9年)までの東北での中国人死者は6万7千人とされている。これだけでも正規の戦闘期間でないとすると、相当に多い。

【第二次大戦・太平洋戦争の犠牲者】

 これに対して参考として対比すべきはナチスドイツ軍がどれほどの戦争被害をもたらしたかであるが、虐殺したユダヤ人は一般的に600万人とされるが、当然それだけではない。ナチスによる大量虐殺には非ユダヤ人、つまりロマ人(流浪の民)や身体障害者、精神障害者、同性愛者、またナチスが人種憎悪を抱いたスラブ系ロシア人や政治犯を含めて被害者数は1100−1700万、となるとの指摘もある。またそのジェノサイド政策によって民衆殺戮の犠牲者は2090万人(近年では2500万人)とする説もある。他の数字としては1040万人が殺害され、そのうちユダヤ人犠牲者は600万人と、他に700万の犠牲者がいると指摘もあるし、ユダヤ人は560−570万の被害で合計は1200-1400万とする説もある。これらからするとナチスドイツが仕掛けた第二次世界大戦によって、ユダヤ人を含めた欧州地区の民間人の犠牲者は最低1100万人以上とみられる。ただ、ナチス占領下のソ連だけでも多数の捕虜が殺戮され、総計820万(内訳はウクライナ人400万、ベラルーシ人250万、ロシア人170万)とする説もあり、これらの中には病死や餓死も含まれるから、民間人犠牲者は最低でも1500万人、多めには2千万人以上とみたほうがいいかもしれない。

 それに対して日本側としては途中から並行して行われた太平洋戦争の犠牲者がある。具体的には一人の研究者の記録では、中国人369万5000、インドシナ人45万7000、朝鮮人37万8000、インドネシア人37万5000、マレー・シンガポール人28万3000、フィリピン人 11万9000、ビルマ人6万、太平洋諸島5万7000人とし、これより多く推定した別な研究者の記録では、中国人1239万2000、インドシナ150万、朝鮮50万、オランダ領東インド300万、マレー・シンガポール10万、フィリピン50万、ビルマ17万、東南アジアでの強制労働7万、非アジア人の抑留民間人3万、チィモール人6万、タイと太平洋諸島6万というのもある。前者の合計は542万人、後者の合計は2036万人となっている(いずれの記録も日中関係以外の調査で、総計3000万人以上という研究者もいる)が、例えば前者の「フィリピン人11万9000」というのは今ではありえず、全体で100万が定説とされている(ただし日米の市街戦による犠牲者も含まれる)から、後者の「フィリピン50万」が実際には近い。ただ、後者の中国人1239万2000は、ここでは少なめに1000万人以下として(それだけでも異様に多い数字である)、その割合で単純に掛け合わせて見ると中国以外の太平洋戦争における民間人犠牲者数は約800万人となり、合計はおよそ1700万人以上、多めに見ればナチスドイツによるソ連を含めた犠牲者と同様、軽く2千万人以上となる。

 これだけで比較してみると、欧州各国にわたるナチスによる民間人犠牲者に対して、日本軍による「アジア・太平洋戦争」の諸外国民間人の犠牲者は少なく見てもほぼ同程度で、ナチスドイツ軍の残虐行為に比べても日本軍は負けず劣らずであったと言える。

【捕虜の犠牲者】

 捕虜に限定してみると、ナチスによる犠牲(虐殺)は、研究者の一人によれば310万で、そのうちソ連(ロシア)兵捕虜は260万から300万が犠牲となったとあり、特にソ連は民間人も含めて殺害され、餓死、強制労働の被害者も加わって、第二次大戦の犠牲者は最大と言われ、別な研究者はソ連においてナチスはパルチザン弾圧で50万を殺害、飢餓計画で100万、ソ連兵捕虜300万が犠牲になったとしているが、今では全てを含めて2500万人が犠牲となったとも言われる。ただし、イギリス人捕虜14万数千人に対しての死者は約7300人で少ない。これはナチスがイギリスに対し過剰な空襲でロンドンの街の破壊はしたが、本土に侵攻していなかったせいだろう。イギリスの場合、連合軍としてナチスに占領されているフランス等に攻めていった戦いであった。

 アジア・太平洋戦争を通じて日本軍による捕虜殺害は総計53万9000人(内訳:中国人40万、フランス・インドシナ(仏印)3万、フィリピン2万7300、オランダ・インドネシア(蘭印)2万5000、フランス1万4000、イギリス1万3000、イギリス植民地(インドやシンガポール)1万1000、アメリカ合衆国1万700、オーストラリア8000人)であるとしている。このうち中国人40万というのが際立っているが、筆者の調べでは実際にはこれよりはるかに多いと思われる。以上の比較では、ナチスドイツの捕虜虐殺数には日本は及ばないと思われるが、二位としてはダントツである。

 ただし、ナチスに過酷な目に遭わされたソ連自身も、敗戦間際の弱体化した日本に対し、不可侵条約を一方的に破棄し、満州に攻め込み、日本軍が中国で犯した残虐行為(銃撃・略奪・強姦など)と同様な所業を数々行ったこと、その結果満州と関東州にいた約150−160万人の日本人居留者(軍属・家族・開拓団)が日本に帰る道も閉ざされ、戦後数年の間に20数万人が暴行や飢餓や疫病あるいは自殺(女性たちがソ連兵の暴虐を受け、あるいはそれを逃れようとして)などで死亡し、さらに日本兵60万人近くをシベリアに送り極寒の地で強制労働をさせ、その10%の人々を過労や飢餓や凍死で無残に死なせたことを思えば(中国帰国者問題同友会資料より)、戦争という無法状態にあってはどの国もどのような蛮行をも容易に行ってしまうこと、いわゆる「戦争犯罪」の国際的条項など(本来殺し合いを前提とする戦争そのものを容認していることで)まるで意味をなさない綺麗事であり、戦争自体が人々を思考停止に追い込み、あらゆる悪を引き出しその連鎖を生むことを我々は知るべきである。敗戦後の戦勝国からの一方的な裁判も、半ば自国の戦争犯罪を覆い隠すものでしかない。

【内向きの追悼式】

 毎年8月15日の終戦の日には第二次世界大戦(正確には日中戦争を含めた「アジア・太平洋戦争」)で戦死し、また犠牲となった民間人を対象に、全国戦没者追悼式が東京において開催されている。追悼の対象は日本軍軍人・軍属約230万人と、空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人(沖縄や満州、東南アジア、南洋諸島など海外での死者も含む)の日本人戦没者計約310万人ということになっている。これについては筆者も普通の戦争犠牲者の追悼行事として受け止めてきたが、自分で「日本が関わった戦争」として調べていくうちに、これは片手落ちの追悼行事ではないかと思うようになった。少なくともこの長期のアジア・太平洋戦争は、日本軍が挑発して起こした戦争であり、であるならこの戦争で日本が巻き込んだ中国とその他のアジア各地の犠牲者も一緒に弔うべきではないのかということである。本当に世界平和を希求する追悼式を行うなら、である。

 その良き例は日本に先例としてあり、それは相手国米軍の戦死者も含めた20万人以上の氏名を漏らさず一緒に石碑に刻んでいる沖縄の平和の礎(いしじ)にある。ここでは「本土決戦」の前哨戦としての盾となり、一番多く無残な犠牲者を出した沖縄の人々の志を見て取れる。しかし日本政府は戦後もこの沖縄に米軍基地を許容し、まさに「前哨戦」の延長で利用し続けることによって、沖縄の人たちの心を蹂躙し続けている。さらに言えば「空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人」に対する補償は一度もなされていないし(補償に対する訴訟は東京も含めて各地で数多くなされているがすべて却下、ただし広島・長崎の原爆被害に関しては無視するにはあまりに大きい出来事であり、加害国アメリカへの非難を和らげる日本側の配慮もあって一通りの補償はされている)、その代わりに、軍人関係者には毎年多額の恩給や年金が支払われ続け、さらにその対象が遺族も含めて年々拡大解釈され続け、一兆円ではきかない額が毎年国家予算からいまだに払い続けられている。その事実は大半の国民が知らないが、その元軍人関係者と遺族が政権与党の票集めの基盤の一つとなっていることは我々は知っておくべきであろう。それが現今の政治家の票集めに役立つとして、それがまた国の役に立っているのかどうか。

 なお、一般の空襲被害などに対し国が訴訟を却下し続けてきた理由というのは、一度それを認めれば「雨後の筍のように」訴訟が頻発してくるから国の予算にも影響してくるという、橋本首相時代の諮問委員会の判断によるものであった。それ以降の訴訟もその国の意向に沿って自動的に却下されている。これも第二次大戦後にきちんと国民に補償したドイツやフランスとの大きな違いである。

偏狭なものの見方と思考力が欠如した言論人の偏向性

 既述の太田寿男少佐が中国の撫順戦犯管理所で1954年(昭和29年)に供述した死体処理の内容が、1990年(平成2年)に産経新聞と毎日新聞で報道された。毎日新聞は、供述が事実なら、中国側「15万5千余」(この数字は上記でみるように慈善団体二者の埋葬数にほぼ近いが、その後の調査で増える)と合わせ「南京大屠殺30万」が証明されることになると報じた。これはこの時になって初めて中国側から資料が公開されたことによる報道であろうが、筆者はこの後に発行された『南京戦資料集』(1993年:平成5年)からこの供述内容を引用した。しかしこの報道に対して、撫順戦犯管理所での長期拘置中に「認罪」し「思想改造」の程度によって罪の軽重が決まるという供述書では信用できないという論者がいた。この撫順戦犯管理所の詳細については後述(「補遺」の項)するが、どうしてこのような詳しい内容を捏造とするのか。例えばこの中の二つの手書きの地図は当時の処理班の動きと作業状況を示していて簡単に作成されたものでないことは見ればわかるが、これも作り物とするのであろう。であれば、これにかかわらず各種の事件をこの人たちに捏造してもらいたいのだが、その見本を作って見せた人はいない。筆者は各所で示したように、疑わしい記録は裏付けが取れないものとしてきちんと排除している。なぜか日本では自分の単なる机上において、他者が努力した「成果」に対して簡単にけちを付ける人が多いが、その安易な発言を恥ずかしいと思わないのであろうか。

 こうした「なかった」という論を張る人というのは、証言者等の記述を載せた著作を比べるとしても、自分に都合のよい部分のみを抽出し、あるいはその中のちょっとした矛盾を突いて別な解釈に当てるなどして論を張るが、自身を一介の労働者と言う既述の小野賢二のように、たまたまこの事件のことを知り、本当にそうなのか?という疑念に駆られて会社の休日などを使って中国にもわたり、さらに自分の住む地元の部隊の名簿を得て、その一人一人と会って(ストレートに会ってくれる人は少ない)その表情を汲み取り、これまで胸に秘めてきた思いをなんとか言葉にして吐露する姿に接しながら証言を得て(あるいは当時の日記を借り、その現場のスケッチを描いてもらいながら)記録をまとめて出来上がった書籍などを、何もしない者たちが勝手な理屈をつけて軽く一蹴しようとする。その姿勢は傲岸不遜としか言いようがない。例えば筆者が先に取り上げた太田証言に関する「ウィキペディアの記事の明白な誤り」で指摘しているように、わざわざ日付を取り替えてありえないとしているなど、これは明らかに元資料をすぐに読めない読者をたぶらかすものであり、改ざんも甚だしい。 しかも既述するように日本の敗戦が決まると同時に軍事関連の記録は日本の軍政府の指令により内地と占領地に渡りすべて(個人的に意図して残したもの以外)焼却してしまったから、そうした人々は(その記録資料が焼却されていることを背景に)、「証拠がない」と語ったりしていて、厚顔無恥と言うしかないが、これは現今の政治家も同様に「資料が見当たらない」と調べもせずに平然と言ってのけるから、何のための政治家なのか、その資質を疑うしかない。

 一方で、中国近現代史学者としての笠原十九司(ばかりではなく先駆者として洞富雄がいる)が、中国に行って調査するのはもちろん、米国の国立公文書館やその他大学の図書館に頻繁に通い(日本国内ではこの後の太平洋戦争も含めて戦時関連の記録や資料はほぼ全て、敗戦と決まって意図的に焼却されて残っていないためである)、司書の方々の協力を得ながら、南京事件に関わっていた南京安全区(難民区)国際委員会の人々の日記や記録などの資料を掘り出していくつもの書籍にした。そうした地道な努力をも顧みず(あるいは敬意を払うことすらせず)、自分の論に都合の良い資料だけを取り上げ(筆者が既述において大虐殺に関わっていないと結論し、師団長の谷の死刑を冤罪とした第六師団のみを取り上げて南京虐殺はなかったとした似非学者東中野修道のように)、都合の悪いものを無視して「大虐殺や略奪、強姦などはなかった、あったとしても小さなものであった」のように論を張る人たち、その彼らは一体何を目的として理屈をかざし、何を隠したいのであろうか。日本の「皇軍」が、皇軍であるがゆえにそこまでの悪行をするわけがないと言いたいのであろうか。そして仮にもその当時の南京(ばかりではなく殺すか殺されるか)の戦場の中に一将兵として自分がいれば、果してどのような行動をするだろうか、皇軍の一員として絶対にそんなことはしないと(後述の「補遺」で触れるキリスト教信仰者渡辺良三のように)断言できるのであろうか?ましてや勝利軍として何をしてもいいという気分の中で、無謀な兵士の集団が生まれることは十分にあり得るし、その場の中で上官や同僚が残虐な行動に走るのを見て、体を張って阻止し、「皇軍」の道を諄々と説いて従わせる自信でもあるのか、そのように自分をもその状況の中に置いてみて、客観視して物事を考えることが大事なのであって、そうした想像力も欠如しているなら、他人を思いやることもできない自己本位の偏向した人間であろうと思われる。むしろ筆者は、こうした連中こそ、実際に戦場に出れば(戦時下の無法をよいことに)簡単に悪事を為す人種だと思う。 もとより戦争ばかりでなく、戦後から長く続いている今の平和の世の中でも、普段の人間の行いに善悪を含めて何があっても不思議でないことは、時折残虐事件が報道されるメディアのニュースを見聞きし、世間を観察していれば分かるであろうに、自分の現に存在する世の中への観察力も持たない彼らが、何のために綺麗事を言いたいのか。それこそ人間の世の中は清濁併せて見つめることが肝心で、一方的な考えに固執して物事を捉えることしかできない人というのは(いわゆる保守・革新、右翼・左翼を問わず)、人間としての進歩がなく、それこそ偏向的でむしろ害をなす人種と言える。

 その「なかった」派の人たちが共通して言うことは、多くの証言者がその「現場」を直接見ていないとしていることである。この歪んだ思考法は何なのか、その理屈からすると、例えば歴史家なるものは、古来より不死で、数々の現場を瞬時に移動し見張っていかなければ成り立たなくなる。でなければそれこそタイムマシンにでも乗って、時を遡って現場を目撃していかねばならないし、そうでなければ彼らの言う「真実」とはならないわけである。そんな常識的なこともあえて無視して馬鹿げた理屈を言っているわけで、恥ずかしくないのであろうか。

 例えば逆の例として程瑞芳が1938年(昭和13年)1月25日の日記(後述)において、避難民から、クーニャン(姑娘:若い娘)を求めて家にやってきた一人の日本兵を、中国人の女性たちが酒を振る舞い巧みに酔わせて殺して捨ててしまったという話を聞いて、心が晴れる思いをしたように書いているが、これに対して彼らは同様に程が実際に見た話ではないからそんなことは信用できないとするか、逆にそうやって日本兵を騙して殺すなどとは許しがたい重罪人であると断ずるのであろうか、しかも彼女たちはそれまでどれだけの女性が日本兵に凌辱された上にその多くが殺されているかを知っての上で知恵を絞った仕業であり(筆者は程の気持ちに与するが)、そのあたりの(「言論人」たちの)感想を知りたいものである。

 そもそもが、学者の洞富雄や笠原十九司、その他のジャーナリストや民間の人たちが一種の使命感を持って早い時期から資料を渉猟し、 あるいは現地に何度も足を運んでの取材や元兵士の固い口を開かせて証言を得ること自体を無駄とするのがその派の人たちの言説であって、おそらく彼らはこれ以上の証言記録を増やしたくないからそのように言うのであろう。繰り返すが、何のためにそうしたいのか、それは日本という国を守るのではなく、むしろ日本人の精神的レベルを貶める言動であることがなぜわからないのか。しかもそうした言動が人種差別を増幅させることにつながっていることがわからないのであろうか。自分たちが何らかのコンプレックスを隠し持っているから、逆にどこまでも人種差別をしたいのであろうが、(重箱の隅を突くように人の言葉の齟齬を追求することより)自分自身の心の内の歪みを分析することの方が先ではないのか。この広大無辺の宇宙に奇跡的に存在するたった一つだけの地球に住む人類の仲間として、その人種を超えて少しでも融和して意思を通じ合うことを目的として、黙々と努力をしている人たちを、どうして貶めるのか。それは自分自身の人間性を貶めていることになるのがどうしてわからないのか。自分だけは清廉潔白であるかのような顔をしている彼らをこそ、筆者は偏向的人種として差別したい。

目次

目次を開く