書き方と使用する記号について
この爆撃記録は、主語に当たる「日本軍の飛行機(日本機)」をほぼ省略しているので、内容により判断していただきたい。
*は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である。
日中戦争突入から8年間展開された想像を絶する空爆(続き)
昭和13年(1938年)
満州地区を含めた華北=北京を含む中国北部から中北部あたりまでは陸軍航空隊の攻撃(守備)範囲で、海軍航空隊はそれより中南部が空爆の攻撃範囲となっていたが、陸軍地上軍の中南部への侵攻作戦に沿って、積極的に支援爆撃を行った。また陸軍航空隊は中国華北の抗日部隊を殲滅することに力を注ぐが、抗日部隊は山村に陣地を置くことが多く、市街地はもとより、村人にも多くの犠牲者を出すようになる。とりわけこの年から1940年までの海軍と陸軍の航空隊による空爆の量は凄まじく、自分たちが誇るように世界線史上類を見ないであろう。
1月
*1月1日:47機が広州の白雲飛行場、粤漢・広九の両線路を襲い、投弾数十発でレールが壊れ、民間人が数十人死傷した。
*1月2日:南昌・安慶・従化の各飛行場、および広九・粤漢鉄道を爆撃。(粤は広州の別称で、粤漢は武漢と広州を結んだ鉄路で、国民政府が南京から武漢に臨時政府を設置したことで、広州からの物資輸送を遮るために日本軍は粤漢線を狙った。また広九は広州と香港を結ぶ鉄路)
▽ 同日:中国軍機は占領された南京大学の飛行場に爆弾を投下し、日本の爆撃機2機を破壊した。
*1月3日:江蘇省徐州と隴海鉄道を爆撃。
【台湾鉱山労働者の反乱】
▽ 台湾労働党の指導者である高斐は鉱山労働者数千人を率いて宜蘭で反乱を起こし、阿里山の中で高山族と結合して抗日根拠地を作った。
*1月4日:21機が湖北省武漢の漢口・漢陽の飛行場などを空襲、投弾70余発であったが、中国空軍が迎撃し、日本機1機を撃墜。
△ 1月5日、海軍一連司令部、木更津航空隊、南京大校場飛行場に移る。
▽ 1月5日、中国空軍は南京と蕪湖の日本軍飛行場を攻撃し、日機6機を破壊した。
【ソ連航空志願隊が参戦】
▽ ソ連航空志願隊100人余がソ連機で武漢に到着、対日作戦に参加する。
*1月6日:38機が武漢の漢口と武昌、南昌の飛行場を爆撃し、格納庫三棟、飛行機14機を破壊、炎上させ、100人余りの死傷者を出した。(日本軍は3機が撃墜されたが、国内の記事には「全機帰還した」とある)
*同日:日本機は安徽省鳳陽県臨淮関鎮を爆撃、住民は防空壕、地下室に避難した。爆弾は店口街の各所に着弾し爆破、数人が爆死した。 その後1月31日、日本軍は臨淮関鎮を占領したが現地軍などの抵抗にあい、2月10日、報復するために黄泥坂を占領し、庄内の住民は、銃剣で刺されたり、銃殺されたり、家族が殺されたりして、一時は村じゅうに死体が散らばった。占領が終わるまで黄泥坂庄内および付近の住民1000人以上が日本軍によって虐殺された。(『侵華日軍暴行総録』)
*1月7日:山東省菏沢市の鉅野付近で、山東軍の自動車部隊に数度にわたり爆撃、約60台を爆破した。
*同日:山西省太原の古交鎮に蟠踞して抗戦する山西軍を爆撃し、低空で機銃掃射を加えた。
*同日:江西省南昌の飛行場を襲撃するが、中国軍機と空中戦となり、7機を撃墜、地上の10機を破壊した。
*同日:爆撃機が2機、安徽省五河県城の上空を偵察、順河街や外河口一帯に大小数十隻の船が停泊しているのを見て、船に爆弾を4発投下した。船はほとんど爆破されて乗組員数十人が死傷し、血が川を染めた。
*1月8日:13機が2度にわたり広西省南寧を初空襲し、格納庫や軍事学校を爆破、空中戦で6機を撃墜するが、3機が撃墜された。
【外国人医師団の救護活動】
*同日:著名なカナダ人医師ノルマン・ベチューンは、カナダと米国人で構成された医療チームを率いて香港に到着した。1月下旬、周恩来は医療援助チームと会見した。3月末、医療チームが延安に到着し、4月に晋察冀辺区に移り、戦地で医療サービスを展開した。1939年11月12日、彼は河北完県で医療中、傷病者から受けた中毒により逝去した。
*1月9日:36機が江西省南昌の飛行場などを襲撃し、爆弾70数発を投下し、地上の7機を破壊、空中戦で1機を撃墜するが1機が撃墜された。
*同日:広東省深圳市の宝安県城の防御陣地を爆撃、また江西省吉安市の粤漢鉄道の横石と黎洞の間の鉄路を爆破し、警備軍に機銃掃射した。
*同日:安徽省亳(はく)州市蒙城に三機が飛来、三報司街、蒙家蒼、稽山坑、青雲街一帯で、爆弾数十発を投下し、家屋200余軒を爆破、死者20余人を出した。この時、韓八万の家族全員が死亡した。
*1月10日:江蘇省の徐州、広西省の南寧の飛行場を爆撃。
*同日:江西省の吉安市と撫州市の南城、上饒市の玉山、浙江省の衢(く)州の飛行場等を爆撃。及び粤漢線の広東省琶江口、横石などを爆撃した。
*同日:隴海線(江蘇省連雲港市と甘粛省蘭州市を連絡する)と津浦線の駅を爆撃し、線路、列車、建築物を多数破壊した。別途、謬済鉄道(山東省済南と青島を結ぶ)を爆撃。
*同日:広西省柳州を初空襲、戦闘機三機と空中戦、二機撃墜、地上の数機爆破。
▽ 中国空軍は日本の占領する広徳爆撃を行い、敵機10機余りを破壊した。
△ 1月10日、海軍の陸戦隊が山東省青島を占領、また11日、陸軍は山東省済寧を占領。
*1月11日:武漢の漢口の飛行場を爆撃し、飛行機9機を破壊した。江蘇省海州も空爆する。
【抗日組織の村民を虐殺】
*同日:河北省石家荘市元氏県の東陽村には抗日組織が潜んでいた。この日の明け方、100人以上の日本軍が包囲、機関銃を構えて村の入り口を封鎖した。村長は5、6人の村民を連れて「もてなし」に出て行ったが、村の入り口で日本軍の無差別掃射を受け、訳がわからないままみんな血の中に倒れてしまった。その後、日本軍は奇声をあげて村に突入、人を見れば殺し、家を見れば焼き、物を見れば奪った。1歳に満たない娘を抱いた李煥銀も背後から日本兵に撃たれて死んだ。日本軍が東陽村を離れた後、村人たちが大火の中、血の海を分けて自分の家族を探している最中、1機の日本軍機が飛来、硝煙に包まれた村に向かって急降下して機関銃を掃射した。東陽村は再び災難に見舞われ、山村のいたるところで悲鳴が聞こえた。今回の惨事で、村民48人が惨殺され、多くの女性が強姦され、その中にはわずか14、5歳の女性もいた。(『侵華日軍暴行総録』)
△ 1月11日、山東省済寧を占領する。
*1月12日:山東省済寧市の金郷付近の中国軍部隊を爆撃。
*同日:江西省南昌の新旧飛行場を襲撃、格納庫と地上の飛行機数機を爆破。
*同日:海南島の海口市と儋(だん)州を爆撃。
*1月13日:広東省から奥地への輸送路を遮断する目的で特に粤漢線の各要所を爆撃。広東省広州市の大塘において大型輸送船2隻を爆沈、広州の軍田、三華店、江村、琶江口その他で貨物列車を多数破壊。
*同日:山東省済寧の単県で、中国軍部隊が塹壕構築中なのを見て爆撃を加える。
*同日: この日以前から数度にわたり安徽省蕪湖市繁昌県の県城、荻港、旧県、黄滸、馬壩などを爆撃。民家約1500軒を爆破し、住民約220人を死亡させ、116人に重軽傷を負わせたほか、橋や水道施設などを爆破した。 占領後から1940年6月3日まで、各地で放火、略奪、虐殺が繰り返され、家屋計3500間余りが焼失し(人を家内に閉じ込めて焼いた場合もあった)、県内の住民計910人余りを虐殺した(飛行機による爆死数を含まない)。
*1月14日:山東省徳洲市の梁今荘にいる「匪賊約500を空襲し、猛爆と機銃掃射を浴びせて完全にこれを殲滅した」。
*同日:前日に続き輸送路遮断の目的で粤漢線、広九線、広三線の鉄道要地を爆撃。
*同日:浙江省杭州市潜県城を爆撃、民間人2人が爆死、家屋10間を爆破。
*1月15日:江西省南昌の飛行場を爆撃。
*同日:湖北省の長沙、考感の軍事、交通の要所を爆撃。
*1月16日:山東省臨沂市の沂(ぎ)水を空爆、中国軍大部隊と軍事施設を「粉砕した」。
*同日:広東省全般にわたって爆撃、特に粤漢線の鉄路と陸橋を爆破した。
【近衛内閣の国民政府を対手とせず宣言】
〇 1月16日:近衛内閣は「帝国政府は南京攻略後なお支那国民政府の反省に最後の機会を与えるため今日に及ぶ、然るに国民政府は帝国の真意を解せずみだりに抗戦を策し、内民人塗炭の苦みを察せず、外東亜全局の和平を顧みる所なし。よって帝国政府は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす」と発表した。
筆者私見:これはどう見てもこの戦争を仕掛けた側の傲慢で手前勝手な言い草であり、近衛の知性が疑われる。もっとも知性があれば、「暴支膺懲」のような無思慮極まる言葉を掲げてこのような一方的な戦争は始めていなかったであろう。これによって蔣介石国民政府との交渉ができなくなってこの戦争を長引かせる一因ともなるが、この2年後に日本は南京に傀儡政府(南京国民政府)を作ることになる。
*1月17−18日:粤漢線の鉄道要地を爆撃。
*1月18日:9機が江西省九江市星子県(現・慮山)海会軍官訓練団営房を爆撃し、数十発の爆弾を投下し、営房の多くが破壊された。日本機はまた県城の小西門を爆破した。受験生1人が死亡し、住民30人余りが死傷した。
*1月19日:山西省長治市沁県の千年近く雄大な城(関帝廟や孔子廟、数々の大きな寺院がある)で、人々が旧正月の物資を準備し、商店街に集まって買い物をしていた時、6機が急に上空に侵入して爆弾を投下し、20人以上を爆殺した。
*同日:江蘇省連雲港市の海州から甘粛省蘭州市へつながる隴(ろう)海線の駅や鉄橋を爆撃。また別働隊は粤漢線の鉄路、貨車、橋梁を爆破、「連日の爆撃で隴海線の連絡はほとんど途絶した」とある。ただその後日本軍は広州を占拠し、その鉄道を自ら復旧させるわけで(当然中国人労働者を使うが)、ご苦労なことである。
*1月20日:広東省東莞市の企石の東江上で大型ジャンク船を、同市錦厦(前日に続き)と恵州市楊村の自動車道や橋、深圳市龍華ではトラック群、東莞市麻涌では機関車をそれぞれ爆撃した。
*1月20−21日:江蘇省徐州を連続して爆撃。
*1月21日:5機で甘粛省蘭州を爆撃。
*1月22日:浙江省衢(く)州の飛行場と浙贛鉄道の要衝江西省玉山等を爆撃、粤漢鉄道も。
△ 1月22日、日本の海軍相米内は貴族院に、昨年8月13日から今年1月3日まで、日本海軍機による中国への爆撃は延べ1万3000機、上海だけで延べ6000機に達したと報告した。
【八路軍のゲリラ的戦法】
▽ 八路軍115師団688連隊は晋東南北馬摞山地で日本軍200人余りを殲滅した。(国共合作で、共産党軍は八路軍として主にゲリラ的戦法で活動し、国民党は正面作戦とした)
*1月23日:徐州と雲南省硯山を爆撃。(この日、おそらく徐州で日本軍部隊が中国機に爆撃され死傷20数名とある)
*同日:浙江省金華市蘭渓を爆撃、被害は家屋3棟。
*1月24日:24機が湖北省宜昌を初めて爆撃、飛行場の16機を爆破、あるいは炎上させた。ただし中国側の記録の一つは「午前10時、日本軍9機が宜昌を初襲撃し、鉄道や飛行場を爆撃、中国軍機6機を爆破し、労働者や市民200人余りを死傷させた」とあり、もう一つは「宜昌の空港は拡張中で、四郷で募集した民工が働いていた。朝、南京から出た日本機が、突然宜昌の上空に襲来、爆弾を投下し労働者数百人を爆死、負傷させ、飛行場の航空機6機を失った」とあり、日本側の24機というのは他の地区への爆撃も合わせたものであろう。
*同日:浙江省衢州・寧波の鉄道要所や飛行場を爆撃。
*同日:江蘇省徐州を襲撃、駅周辺やトラック軍を爆撃。
*同日:広東省広州白雲や江蘇省海州の飛行場を爆撃。
*1月25日:広東省の鉄道を爆撃、その後広州天河と東山、福建省厦門の飛行場を爆撃、さらに国民政府が購入して陸揚げ中のイギリス機にも爆撃を加えた。
*同日:浙江省杭州桐廬県を爆撃。この日から45年の終戦までに、日本機147機が同県城郷に43回にわたって爆爆、564発の爆弾を投下し、民間人79人を爆死させ、137人を負傷させ、民家2778棟を爆破、民間船4隻を沈めた。
*1月26日:浙江省衢州の飛行場、また粤漢鉄道を爆撃。
【中国空軍の反撃】
▽ 1月26日、中国空軍は占領された南京、蕪湖を襲撃し、飛行場の日本機30余機を破壊したが、日本軍は空中戦で3機を撃墜した:日本国内の記事には空中戦のみで自軍機が破壊されたことは書かれていない。ただ、撃墜死したパイロットを検証するとソ連(ロシア)人であったとしているが、実際にこのころ国民政府はソ連の航空部隊を頼みにしていた。
*1月27日:江蘇省徐州を爆撃、飛行場を始め、軍事施設、兵舎などに「大打撃を与えた」。
*同日:徐州付近の隴海線と津浦線の鉄路や鉄橋を爆撃し、輸送路に「大損害を与えた」。
*同日:江西省南昌城を襲撃、中国軍機10数機が迎撃したが7機を撃墜、南昌飛行場の3機と格納庫を爆破した。さらに別の一隊15機が漢口と浙江省衢州の飛行場を爆撃。
*1月28日:江蘇省臨淮(現・淮安市)等の津浦線上の要衝を爆撃、さらに隴海線の安徽省鳳陽・渓河を重ねて爆撃し「敵密集部隊に殲滅的打撃を与えた」。
*同日:29機が広東省韶関市曲江河頭駅を空襲し、20発余りの爆弾を投下、駅と列車4両を爆破された。
*1月29日:江蘇省海州飛行場を爆撃。
*1月30日:隴海線の中枢地、河南省洛陽を30機で爆撃。この時中国軍機20数機の迎撃があったが、日本機の護衛戦闘機が13機を撃墜した。
*同日:陸軍の侵攻を援護し、安徽省滁州市全椒県を爆撃。その後陸軍は沿道の家屋300余軒を焼いて30余名を惨殺した。翌日:日本軍は馬廠から帰るとき、小集街を四分の三ほど焼いた。
*1月31日:広九線と粤漢線の鉄道沿線を爆撃、電信電話線を遮断した。
*同日:広東省広州市黄埔の軍事基地を爆撃。この地への爆撃は数十回に及んだ。
*同日:広東省の仏山市三水、東莞市錦厦を爆撃。
△ 陸軍は重爆撃機の拡充のため、前年、イタリア機の購入を決定し、この1月に中国の遼寧省大連に第一船が到着し、吉林省長春市の公主嶺で組み立てられ、ほぼひと月毎に10数機が到着し、合計72機が輸入された。別途、日本製の新式重爆機もこの年投入された。
〇 海軍報道部は2月3日、1月に海軍航空隊が撃墜した中国軍飛行機は確実なもの27機、地上にあって破壊したものは78機とし、自軍の損害は2機としているが、上記では少なくとも8機である。また事変後に撃墜し、地上で破壊した中国軍飛行機は631機、自軍機は65機としている。
*1938年2月1日:地上軍の津浦線北上に呼応して、江蘇省の鳳陽・総舗付近を退却する「敵部隊に猛爆を敢行」、臨淮関と総舗の占領を支援した。
*同日:浙江省寧波を空爆。駅や工場を爆撃、別途、浙贛鉄道の要衝江西省玉山の飛行場等を爆撃。
*同日:三機が安徽省蚌埠(ほうふ)市懐遠城を爆撃し、一人が死亡、数人が負傷、家屋三十余戸が爆破された。
2月
*2月2日:前日に続き地上軍を支援、安徽省蚌埠付近の軍事拠点に「痛烈な爆撃を加え」、その西方の懐遠付近を敗走する「敵陣地に投弾、これをほとんど全滅せしめた」。
*同日:福建省廈門島を爆撃。
*2月3日:5機が広東省仏山市高明県明城に10個以上の爆弾を投下、滄江橋を爆破し麻風院の宿舎は10室以上を破壊。
*同日:福建省廈門を7回にわたり空爆、出米岩一帯の民家63棟を破壊、住民16人が死亡、15人が負傷した。
*2月4日:85機の大編隊が交代で広州を襲撃し、粤漢線と広九線の沿線、東莞市の虎門要塞などに大空爆、黄埔の軍事施設、白雲飛行場にも大打撃を与えた。空中戦で3機が撃墜された。
*同日:広東省汕頭、立水(不明)を爆撃。
*同日:安徽省蕪湖市繁昌県、農業中学校、孔子廟小学校、高等学校などを爆撃し、家屋約100棟を破壊し、住民数十人が死傷した。
*2月5日:広東省深圳で英領香港との境界の南頭を爆撃。
*2月6日:浙江省麗水を初爆撃。
▽ 2月7日、中ソは『軍事航空協定』を締結した。
*2月8日:30余機が武漢の漢口、武昌、漢陽を爆撃、漢口、浙江省麗水の飛行場を爆撃、空中戦で中国軍の米国機1機を含め7機を撃墜した。
*同日:湖南省長沙、安徽省六安、河南省南陽、湖北省宜昌市と襄陽市樊城、広東省仏山市三水、広州市増城などを広範囲に爆撃した。
*同日:安徽省の津浦線淮河付近一帯の中国軍に対して「大爆撃を敢行した」。
*同日:(前日に続き)山東省南部の日照や石臼所に残る中国軍陣地を爆撃、さらに300人の集団に「機銃掃射を浴びせてほとんど全滅せしめた」。
*2月9日:湖北省北部の要衝襄陽の飛行場を爆撃、ソ連製20数機に迎撃されたが、5機を撃墜、地上の2機を爆破した。
*同日:福建省北部の建甌、浦城、安徽省安慶の飛行場を爆撃。
*同日:湖南省長沙、河南省南陽の飛行場を爆撃。
*同日:広九鉄道沿線を爆撃。また空中戦で7機を撃墜。
*同日:浙江省杭州の分水城と農村に、日本機がこの日から1942年までに、44機が10回爆撃し、84発の爆弾を投下、民間人17人を爆死させ、29人を負傷させ、民家145軒を爆破し、民間船1隻を沈没させた。
*2月10日:河南省安陽市の湯陰司馬村に5機を出撃させ、爆弾195発を投下し、民間人11人を死亡させ、4人が負傷、多くの家屋を爆破した。(4月26日に湯陰は占領され、その間256人が虐殺された)
*同日:京漢線の黄河にかかる鉄橋(これまでも爆撃され修復されたもの)に爆撃を加え、橋脚を爆破した。翌日も念押しで爆撃し、修復不能にした。
▽ 中国空軍は蚌埠から北渡した日本軍を猛爆した。
*2月11日:津浦線の安徽省宿県(現・宿州市)、固鎮(蚌埠市)を爆撃、さらに列車十数輌を破壊した。
*同日:武昌の軍官学校を爆撃。
*同日:3機が広東省清遠県城、廓南河西を空襲し10数発の爆弾を投下、電気船2隻、大小の船15隻を爆破し、水上学校1棟も爆破。
〇 2月11日、延安で反侵略大会が開かれ、毛沢東は「中国の敗戦は一時的なものであり、中国の抗戦は必ず最後の勝利を勝ち取ることができる」と強調した。また同日、毛沢東氏は米記者と会見し、中国の抗戦は先敗するが必ず後勝し、日本は完全崩壊の道を歩むと指摘した。
*2月上旬−中旬:安徽省蚌埠市と郊外の隣接する町を何度も爆撃し、住民1000人余りを死傷させ、線路沿いの町々は、廃墟と化した。あるとき、爆弾が市街地の三径街の百貨店のビルに投下されると、爆煙と血と肉片が飛び散り、家屋、家具、荷物、そして周辺のすべてが破壊された。また連続投弾が虎山のふもとの国民党軍の弾薬庫に命中し、弾薬の連鎖爆発が起こり、硝煙が渦巻き、炎が天を衝き、数時間に及んで爆発音が天地を揺るがした。
*2月12日:江西省九江市鄱(は)陽湖畔にある星子飛行場や軍事施設を爆撃。
*同日:広東東莞市錦厦を爆撃。
*2月13日:15機が河南省鄭州を初爆撃、鉄道駅周辺が何カ所も破壊され、華安レストラン、五州ホテルなどが全焼し、住民200人以上が死傷した。日本側の記録ではさらに軍用列車、貨物列車約50輌を爆破したとある。
*同日:編隊が広東省に向かい、広九線と粤(えつ)漢線の英徳駅付近の鉄路、鉄橋を爆撃、さらに西江、東江上のジャンク船群、自動車道路、軍事施設を爆撃。
【祭りの市中への爆撃】
*2月13日:(元宵祭の前日)、安徽省蕪湖市繁昌県の繁華街交差点あたりは祭りの準備で人々でごった返していた。朝食時、敵機一機が偵察に来て、空中で二度旋回して帰った。間もなく敵機が再来し、急降下機銃掃射を行い、爆撃を加え、群衆は逃げ出したが、もは間に合わず、多くの死傷者を出した。県庁、農業中学校、雲路街小学校、南門大橋、孔子廟などと家屋百余戸が破壊された。
*2月14日:(元宵祭=旧正月の満月の日)15機が日本軍占領地安陽(河南省安陽市安陽県)から出撃、3回に分けて河南省鄭州を爆撃した。この日は元宵節の当日で、午前10時ごろ、市民たちは舟形の山車を出して竹馬に乗って踊り、竜灯を飛ばして通りを練り歩いていた。その時、轟音と伴に爆弾が駅舎とその周辺の商店街に降り注いだ。たちまち車両、線路、駅のホームが爆破され瓦礫と化した。駅付近の最も繁華な地区に最も多くの爆弾が落ち、5階建ての華陽春飯店の全館が爆破され、宿泊客と従業員の2人を除いて全員が死亡した。華安飯店、五洲旅館も瓦礫と化した。この日の爆撃で民間人500人以上が死亡、飛び散った遺体の収容に3日を要した。(『侵華日軍暴行総録』)
この後、2月15日にも同様以上の惨劇がある。
【ある村の悲惨な事実】
*同日:河南省新郷市汲県楊井村に配備された国民党軍を陸軍が襲撃するのに合わせて飛行隊が爆撃、続いて戦車を先頭に両軍の激しい戦いが行われたが、夕刻、国民党軍は楊井村から撤退、すると日本軍は村に入り、深夜から暴虐を重ねた。この500人の村に起きた惨劇を要約して書き写す。
—— まず、村の数十軒の家を燃やした後、罪もない男たちを捕えて銃剣で突き殺し、火に入れて焼いた。残酷にも12歳の子供を真っ二つに引き裂いた。 さらに日本軍は女性を捕まえては強姦し、その後女性たち殺害、さらに残忍なことに、日本兵は1歳になるひとりの子供をナイフで真二つに切り裂いた。また李赤胡は日本兵が妻を強姦しようとして止めに入ったため、その場で射殺され、妻は日本軍に輪姦された後、刺殺され、五臓六腑が流出した。李小六の弟、息子も殺され、彼自身も日本軍に木に吊され、棒で殴り殺された。王同林は60代の父親、7歳の息子が刺殺され、叔父は銃殺され、弟は火中に投じられ、弟嫁は姦通されて腹を切って死んだ。王同林も銃剣で胸や頭を5回刺され、血の海の中で昏倒していた。痛みをこらえて起き上がったところを日本軍に発見され、無惨にも刺され、大きな石を押しつけられた。幸い彼はまだ死なず、楊井村での大虐殺の立会人となった。日本軍はこの村の住民60余人を惨殺し、家屋60余戸を焼き、家畜60余頭を奪い、楊井村を廃墟と化した。わずか数ヵ月の赤ん坊が、死んだ母親のかたわらの血だまりを這いまわっている惨状は目に余るものがあった。。
(『日軍侵華暴行実録』第1巻)
筆者注:このような情景はにわかには信じられないであろうが、こうしたことは前年12月の南京事件以前から日本陸軍の進撃先で行われていて、『日軍侵華暴行実録』全4巻ともこのようなおぞましい話で満ちている。南京事件はそれらの中の目立った例に過ぎず、とりわけ(この爆撃記録にあるように)先に飛行隊が先導して爆撃しつつ、陸軍が侵入、占領した地域では、逐一書かないし書けないが、同様な悲惨な光景が各地で展開されていった。
*同日:山西省呂梁市文水県の石永鎮で1機が爆撃し、村民3人を爆殺し、1人を負傷させた。
*同日:粤漢線の英徳や広九線の沿線を爆撃。
*同日:一機が江蘇省蘇州市呉江県の千芦墟、幸塔、周庄各地の上空を旋回しつつ周庄の街と郷に弾を投げて投下、幸いにも死傷者はいなかった。
*同日: 浙江省杭州市臨安県の県庁周辺に小型爆弾5発を投下、民間人2人を殺害し、1人が負傷した。
*同日: 湖南省岳陽市平江県を爆撃。
【河南省鄭州の惨禍:爆死、焼死、爆傷数千人】
*2月15日:河南省鄭州の大同路、徳化街、駅などの繁華街は、この日、伝統的な上元節で(旧正月16日)、朝から人々の群れが波のように押し寄せ、賑わっていた。そこに9時頃緊急警報音が鳴り響き、北東から三機が飛来し、すぐに急降下して低空で機銃掃射してきた。つづいて爆弾が投下され、繁華街は狂乱の場となり、さらに空をを覆うように18機が押し寄せ、3隊に分かれて爆撃を繰り返し、11時になってようやく飛び去った。駅や大型の建物やホテルなどは火の海となり、街中には血まみれの死体が横たわり、さらに切り裂かれた各部の肢体や頭の半分や肉片が飛び散っていた。当時の鄭州で一番規模が大きく千人収容できる華陽春飯店は丸3日3晩燃えつづけ、千人以上の人がその建物の中で焼死、圧死した。爆死、焼死、爆傷は数千人に上り、物的財産の損失は計り知れない。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:安徽省宣城市の寧国、蕪湖市とその中の湾沚鎮を爆撃、地上部隊の追撃を支援した。
*同日:この15日から4月20日まで、日本の爆撃機は河南省商丘市虞城県城の利民鎮、馬牧集、賈寨などで300発以上の爆弾を投下し、民家600軒を爆破し、住民200人以上を爆殺、負傷者もそれ以上であった。そのうちの一度は20機以上の日本機が県城を爆撃し、南二街だけで200戸以上を破壊し、40人以上が爆死傷した。
その後の5月28日に(書くのも辛いが)虞城県の一つの村で起こった惨劇である。
—— 午前、日本の十六師団(筆者注:南京虐殺で一番の立役者)の別働隊が、虞城県店集郷前の曹庄村辺の大通りに沿って進攻してきた。突然の日本軍の侵攻に、村民はあちこちに逃げたが、例えば日本兵は25歳の青年曹司を捕まえて、まず平手打ちをし、ズボンの紐をといて縛り、刺殺した。次に村の麦打ち場で、曹慎智を捕まえ、木に縛りつけて銃剣の突き刺しの練習をし、十数回突き刺された後、26歳の彼は血にまみれになって息絶えた。次に村の東頭で、日本軍は21歳の曹百留を一家の庭で捕まえて、二人の女性と奸通させて、楽しんだ。そしてその場で刺殺された。村の南西の角では、日本兵は灌木の叢の中から数十人の村民を探し出して一緒に捕らえ、曹修作等8人の青壮年を蔡河沿に連行して銃殺した。村民たちは争って逃げ回ったが、日本兵は四方から追いかけ、墓のそば、境内、村頭で、曹慎立、曹慎有、曹乱、曹黒等を殺害した。庄東南角で、そこに避難してきた董油坊村の夫婦に出会い、直ちに包囲して、先に女性の懐の中の幼児を奪い取って投げ捨て、その後女性を引っ張っていって、遊び半分に凌辱した。夫は辛抱できず制止しようとしたが、日本兵に銃殺された上、3歳の幼児は泣き叫んで刺されて死亡した。女性は怒り狂って悪口を言ったが、そのため日本軍に腹を切り割かれ、五臓をむき出しにされた。日本軍は無辜の村民を殺しながら、金品を略奪し、家畜を殺した。そして彼らは飯釜を壊したり、水甕を突き破り、麦を焼き、穀物を撒き散らし、洗面器に糞をしたり、甕に尿をまいたりして、悪事の限りを尽くした。午後3時、十数名の村人を苦力として捕らえ、村から西へ侵攻した。
(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*2月16日:地上部隊の黄河以北作戦に呼応して黄河鉄橋は付近の中国軍陣地を爆撃した。
*同日:粤漢・広九・広三線の鉄道沿線の他、東江、珠江の軍事施設を爆撃。
*同日:安徽省蕪湖市繁昌県を6回も爆撃し、住民数十人を死傷させた。
*2月17日:湖北省宜昌、湖南省長沙、広州天河飛行場、粤漢・広九の鉄道沿線を爆撃。
【上海市新港での爆撃と焼殺】
*同日:早朝、2機が上海市虹口区新港上空を旋回し偵察した後、低空爆撃を加え、十数個の爆弾を投下、港内に停泊していた大型帆船や町の多くの家屋を爆破した。続いて陸軍の突撃隊が上陸し、大量の焼殺を行った。 新港から斜橋に至る西側の倪家埭と夏家埭、東西約4里、南北約2里の区間における家屋の約半数が焼け落ち、逃げ遅れた30人以上が亡くなった。ことに新港県と近隣の通州扜、十節埭が最もひどく焼かれ、1−2%の家屋を残すのみで、ほとんど焦土と化した。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:安徽省蕪湖市南陵県の城廂区を2機の日本機が前後して2回県城を襲撃、電燈会社、四和楼茶館など10数箇所が被爆し、家屋100軒近くが爆破され、住民30数人を爆死させた。
*2月18日:南京の大校場飛行場から9機が揚子江に沿って西進、重慶の下流約20kmの広陽壩など8カ所に爆弾14発を投下し、3人が負傷、2軒の家屋が破壊された。
*同日:38機が武漢の漢口などへの爆撃に向かったが、上空で空中戦が行われた。この時期はソ連(ロシア)の志願兵が中国空軍と協力して日本軍との激戦に参加、この日中国軍は日本機12機を撃墜、中国機の損失は5機。
*同日:12機が江西省九江市星子県城紫陽門及び班本部の兵舎を爆撃し、10発余りの爆弾を投下、4人を爆死させ、家屋10棟余りが破壊。
*同日:49機がこの日分散して広東省の粤漢・広九の両沿線各地を爆破した。
*同日:湖南省衡陽、江西省玉山の飛行場を爆撃、また粤漢・広九線の沿線を爆撃。
*同日:江西省九江市星子県(現・慮山)を爆撃。
△ 2月18日、日本軍は12月24日に占領した杭州の余杭区喬司鎮を四方から包囲し、各通路を封鎖し、凄惨な大虐殺を開始した。瓦礫と化した繁華街の喬司町には血が流れ、被害者は1300人余りに達し、7000軒余りの家屋が放火によって破壊された。(喬司大虐殺)
*2月19−20日:広九鉄道の沿線を爆撃。
【小さな村での惨殺の現場】
*2月20日:夜明け、山西省長治市に3機が来襲、東街の上空に入ってきた。自分の家に防空壕があるのはすべて入り、ない者は東崖の下の公共防空壕に走って行った。ところが日本兵は同時に村に侵入していて、東崖の防空壕に入る村人を見つけ、壕の中の人々を叫び出し、軍刀と小銃で18人を斬り殺し銃殺し、それから牛嶺の上に向かって歩いて行った。大人16人、子供2人、合わせて18人が殺された。仰向けに胸を刺されているのもいれば、頭部に銃弾を受け目が突き出ているものもいて、無惨この上ない。従兄の春只は結婚してまだ23日しか経っていない。泣き崩れている時、牛岭上から二人の日本鬼子が降りてきて、一人の子供が北営街口に向かって逃げているのを見て、日本兵の一人が銃を出して撃ち子供は地面に倒れて二回転げて動かなくなった。わずか37戸の回教民が住んでいた小北営では、11戸の家族で19人が殺害された。長治を攻撃した日本軍は左藤部隊ということだった。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*2月20日:8機が甘粛省蘭州を爆撃。
◎ 日本の同盟国ドイツは満州国を承認すると発表、中国外交部は24日、ドイツ政府に抗議した。
*1938年2月21日:広東省を61機が4回に分けて爆撃、別途粤漢・広九の鉄道沿線、広州の白雲・天河の飛行場等を爆撃。
▽ この日、中国空軍は杭州筧橋飛行場に停泊していた日本機を10機撃破した。
*同日:湖北省宜昌、湖南省衡陽、江西省吉安の各飛行場を爆撃。(衡陽にて空中戦あり)
*同日:浙江省紹興、黄河の各渡し場と河南省鄭州市の鞏県の駅をそれぞれ爆撃した。
*同日朝、山西省長治市長子県城に4機がを侵犯して爆撃し、軍民60数人を爆殺し、民家250数軒を爆破した。—— その後日本軍は長子県を占領し、1938年から1945年までの間、老若男女を問わず、あくどい穴埋め、斬首、狼犬による食い殺し、銃剣による練習のための生きた標的として、銃殺、刺殺、火でやけどをさせた後に水をかけ、ラー油を入れ、さらに女性を強姦するなど、極めて野蛮な暴虐行為をした。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
【一夜にして村民700人を惨殺】
*同日:山西省晋城市の陽城に城内一帯に爆撃を加え、1000余軒の家屋がたちまち爆破され、270余名がその場で命を落とした。
—— その後の4月14日、日本軍は晋城県周村を拠点とする自軍を集め、東坡頭関帝廟で数発の砲を城内に撃ち、城門を開いた。そこから銃剣を持って、城の中に乱入し、老若男女を問わず、不具者を問わず、人を見れば刺し、人に逢えば殺した。寺院などに追い詰められた住民も、次々と残酷に突き殺された。各所にあった十数個の大きな洞穴の中の人々は、火と煙を立てられ、毒ガスを撒かれ、生きたまま洞内で死亡した。南関四角院外の大きな井戸には、死人がいっぱい詰まっていた。どこもかしこも、首のないもの、腕のないもの、舌のないもの、耳のないもの、腹を切られたもの、目をえぐられた者、乳を切られた女性などが横たわり、まともな死体は一つもなかった。一夜にして、日本軍は城内の民衆を700人近く殺し、すべての家屋を焼き払い、衣服の財物は略奪した。(同上)
*2月22日:粤漢・広九・新寧の鉄道沿線、広東省東莞の虎門飛行場を爆撃。
*同日:日本機は浙江省紹興市上虞県曹娥老壩を爆撃、民間人19人が死傷した。
*2月23日:粤漢・広九の鉄道沿線と江西省吉安の飛行場を6機で爆撃。
*同日:36機が甘粛省蘭州と寧夏中衛などを爆撃した。
*同日:7機が浙江省建徳県城(現梅城鎮)と城郊外に26発の爆弾を投下、80軒の民家を爆破し、死者12人、負傷者8人。
【中国空軍の台湾爆撃】
▽ 2月23日、中国空軍30機が台湾に出撃し、台北の日本軍飛行場の航空機数機及び空港の油庫を爆破した。
*2月24日:福建省漳州に3機が来襲、爆弾と焼夷弾30余発を投下、民家114間を爆破、死傷者100余人。中でも小学生8人が爆死。
*同日:広東省韶関市南雄飛行場を水偵機18機で爆撃、中国軍飛行機15、6機と空中戦で9機撃墜、地上の4機爆破、格納庫4棟破壊、日本機は138発被弾しつつ被害は2機。この日は広東省の南部沿海に位置する万山諸島からであった。
*同日:福建省の福州・厦門・漳州、浙江省衢(く)州・麗水、江西省玉山の各飛行場も爆撃。また粤漢・広九の鉄道沿線を爆撃。( 厦門では2機が曽厝垵付近、廈港福海宮に爆弾6発を投下、2人が死亡、6人が負傷した)
*2月25日:中国空軍による23日の台湾爆撃への報復として、江西省南昌飛行場を59機で空爆し、地上を含めて40余機を撃墜また爆破したが、日本機は8機が撃墜された。
*同日:広西省悟州・浙江省麗水・福建省建甌の飛行場を43機で爆撃。
*2月26日:広東省東莞の虎門、広州の天河・白雲の飛行場等を爆撃。
*同日:浙江省衢州・温州永嘉県、江西省撫州南城の飛行場等を爆撃。
*同日:広九・粤漢・新寧の鉄道沿線を爆撃。
*同日:15機が福建省竜岩飛行場を爆撃、爆弾48発で負傷2人、死亡1人。(同じ空爆の流れの中かもしれないが)15機が福建省漳州の汀観道付近に三発の爆弾を投下、三棟の民家が倒壊したが、死傷者なし。
*同日:蕪湖市の三山、横山などの沿江地区の村を爆撃し、婦女子供や乳児十数人を爆殺。一方では陸軍が保大地区を爆破し、大々的な放火を行なった。村全体で200戸余りの家を焼き払い、村人は家を追われて放浪した。
*同日: 安徽省宣城市績渓県で午前と午後に爆撃を行い、10人以上が死亡、20人以上が負傷した。
*同日:午後、山西省臨汾市襄陵県(現・襄汾県)に日本軍5機が城南東の柴村と南辛地区一帯に偵察掃射を行い、爆弾20発以上を投下、その場で中国軍民50人以上が死亡、負傷者10人以上を出した。
*同日: 山西省呂梁市への侵略時に日本機が磧口鎮を爆撃、翌日磧口鎮を占領した。その後村民に対し尋問と拷問を行い、3日目の未明に日本軍が退却した時、8人を麻縄4本で、2人ずつの左右の腕を4対につなぎ、河原に引いて銃剣で刺し殺し、黄河に投げ込んだ。
*同日: 山西省晋城県城に3機が飛来し連続的に爆撃、南関の家屋20数軒を爆破、民間人10数人を死亡させた。その後日本軍は県城を占領し、放火、殺人、姦淫、略奪を繰り返し、罪のない住民2500人以上を殺し、家屋4000戸以上を焼き、家畜1500頭以上を屠殺した。
(上記三件は『侵華日軍暴行総録』より)
*2月27日:広東省天河・韶関、浙江省衢州、江西省玉山、南昌の飛行場等を爆撃。
*同日:1/19に続き(陸軍の山西省攻略に呼応して陸軍飛行隊は)山西省長治市沁県の古城において共産軍司令部に「大爆撃を加えこれを粉砕し、潰走する共産軍を掃射して大打撃を与えた」。
—— その後4月10日、日本軍は沁県城を占領した。そこから東、南、北の三条大街および南北関を焼き、ついで県庁、機関、寺院、学校、そして民家を焼いた,全市はたちまち火の海となった。古い寺院、商賈店、役所などが燃え上がった。4月10日から20日までのわずか10日間で、日本軍は全部で30余りの村を焼き尽くし、民衆数百人を連行しつつ虐殺し、食糧と財物を略奪した。
(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:山西省を南北に流れる汾河の西側道路を爆撃、臨汾市襄陵付近を南進中の自動車群10台と襄陵南方を退却中の車輌40台を破壊し、中国軍兵士「約400人を攻撃し、これを殲滅した」。
*同日:山西省臨汾市古県に日本軍機1機が県城の上空に侵入、爆弾2発を投下、1発は爆発せず、1発は田家の敷地内に落ち、田氏兄弟2人が爆死した。その後4月初め、日本軍2000人以上が大挙して県城を占領、城中の住民は城を捨てて避難したが、一隊の日本軍は県城の西山秦吃塔に侵攻、村長などの村民20数人を虐殺、別の日本軍は下羊荘や辛荘などの村を襲い、商人5 人と県劇団俳優20人以上を殺害した。(『侵華日軍暴行総録』)
*2月28日:50機が広州市の黄埔、軍田、恵陽市などを爆撃、続けて同市の天河・従化を爆撃。
*同日:湖北省の襄陽・宜昌を爆撃(裏陽にて中国軍戦闘機12機と空中戦、1機撃墜)。また粤漢鉄道を爆撃。
*同日:午前10時頃、12機が陝西省渭南市潼関県駅、西関公路に爆弾を投下、貨物場に貯蔵してあったガソリンが爆発し、駅舎は火の海となり、12棟の倉庫が倒壊、鉄道労働者と車夫12人と5頭の馬が爆殺された。
*同日:山西省南部地区の同蒲線の各鉄橋を爆撃、続いて臨汾市曲沃を南に退却中の中国軍兵士約200人および馬に対し「猛爆、これを殲滅した」。
この流れの中かどうか、中国側の記録では、「2月28日未明、 日本軍が山西省臨汾市隰(しつ)県城に侵攻を続ける中、日本機も上空を旋回し、急降下して機銃を掃射、爆弾も投下し、文廟、城隍廟、大寺などの古い建物や商店、民家が破壊され、文廟に居た負傷兵や住民が爆死した。街のあちこちに死体が散乱し、日本軍は城内に入ると盛んに家々を捜索し殺人と放火を繰り返した(『侵華日軍暴行総録』)」とある。
【忻州市保徳県の虐殺と放火】
*同日:山西省忻州市保徳県上空に5機が飛来、1発の爆弾を投下して飛び去ったが日本軍機は再び飛来、爆撃を繰り返しながら機銃掃射、住民10人以上が死傷した。その日の夕暮れ、日本軍は騎兵を先頭に県城を占拠した。3月17日、日本軍兵は二手に分かれ、再び保徳県城に侵入、人を見ると捕まえ、縄で縛り付け、いくつかの大院に集め、中国軍との戦闘中に射殺された日本軍18人の遺体の所在を追及し残酷な拷問を行ったが住民たちは答えなかった。怒った日本軍は、捕獲した30人にガソリンをかけ焼き殺した。3月19日の夜、日本軍は県城に放火、全城の1000戸以上の家屋と寺、役所、学校までも一夜にして灰燼に帰した。さらに20日、日本軍は撤退するとき、東関に火を放った。今回の大火で4000人以上の人々が家を失った。(『侵華日軍暴行総録』)
△ この月、関東軍は満州北部で、浜松飛行隊と連携して毒ガス攻撃と防護の演習、また陸軍航空技術研究所、科学研究所と合同で、ガス弾の冬場の不凍性の試験を行う。
【浙江省麗水の場合】
この2月から例えば「麗水飛行場を爆撃」という記録が麗水に限らず数多く出てくるが、これは日本軍側の記録(新聞)をそのまま写したものであり、実際には飛行場とは限らない。それはよいとして、この麗水は驚くことにこの日中戦争の間に360数回にわたって爆撃されたとある。これはよく知られる重慶爆撃の218回を軽く超える。早めに陸軍に占領されていればこれほどの爆撃を受けないが、筆者のこの記録で収録できているのはざっと見て70-80回程度である。麗水への爆撃の様子は以下のようである。
—— 昼、夜、晴れ、雨の日を問わず、すべて家屋が密集している地域(宋学基、高井弄、碧角橋など)、重要な施設が置かれている地域は多く爆撃された。飛行場、役所、英士大学、病院、学校、救護所、保育所、その他渓口の桐油会社、塩会社とその倉庫、工場などが破壊あるいは焼かれた。敵機は爆撃のたびに、少くて一、二機、普通は三、四機あるいは五、六機、多ければ一二機、多い日には三、四十機もあった。当初の23回の爆撃は、延べ272機、一回当たり平均して12機で、740個の爆弾を投下した。そのうち焼夷弾は68発で、主に夜に投下された。一日に6回来た時は、午前に3回、午後に3回という具合であった。夜間の爆撃もあり、一旦警報が鳴ると防空壕に逃げ込み、朝の八時頃になって敵機はようやく去り、一晩中家に帰ることができない場合もあった。住民の被害の惨状は割愛するが、もう爆撃はないだろうと爆破された家を三回建て直したという運の悪い住民もいた。役所、学校、病院、工場、民家などを2200軒以上も爆破し、不完全な集計だが、8年間に麗水県では爆死した人は約千人に上る。
(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
3月
〇 1938年3月1日、大本営海軍報道部の発表では支那事変(日中戦争)発生以来約7ヶ月間の戦果として、中国軍の飛行機を空中で撃墜し、また地上機を爆破して与えた損害は確実なものとして764機、自軍の損害は78機とした。
*1938年3月1日:広州の天河・白雲、東莞(とんがん)の虎門の飛行場等、さらに前年に続き広州の中山大学を爆破した。
*同日:22機が広州市新街と英徳沙口鎮の間の鉄路を空襲し、列車1台を爆破、旅客10人余りを死傷させた。
*3月2日:広東省広州の粤漢・広三線の鉄道沿線、連江口・黎洞・潖(は)江口の駅等を爆撃。
*同日:山西省沂州の中国軍拠点を爆撃し、地上部隊を援助。
*同日:5機が陝西省楡林市府谷県城を爆撃し、50発余りの爆弾を投下、軍民40人余りを爆死させ、民家200間を損壊した。
*3月5日:河南省鄭州飛行場を2度襲撃したが、中国側の高射砲で6機を撃墜された。
*同日:広西省悟州の飛行場その他軍事施設を爆撃、しかし中国軍は「我が軍を見誤り、全く油断していたので思う存分爆撃し大打撃を与えた」。
*同日:河南省の鄭州の駅のほか、京漢・隴海鉄道の列車を爆撃、また禹州の飛行場を爆撃、地上機に多大の損害を与えた。
*同日:午前7時、日本軍の爆撃機5機が 陝西省楡林市府谷県城と対岸の山西省保徳県城両岸に20発以上の爆弾を投下した。このうち府谷街の民家は20棟以上が破壊され、10余人が死亡。そして午後4時、日本軍約1000人が保徳県城を占拠、さらに翌6日、日軍は約600人で、府谷県城西関に侵入し商店街、民家400軒以上を焼き払い、市民38人を銃殺した。
*3月6日:山西省北部、陝西省との境にある三岔(た)堡一帯に駐留する中国軍約三千の兵を午前午後の2度にわたって爆撃、地上部隊の進撃を援助した。
△ 3月6日あるいは7日、山西省永済県に駐留していた日本軍地上部隊は一昼夜にわたって対岸の陝西省渭南市潼関県を砲撃、砲弾321発を発射、市街の多くを破壊し、県政府と各部門は県城を退去し、禁溝口に移転した。
*3月8日:河南省北部の彰徳(現・安陽市)と山西省運城から発進した飛行隊が陝西省西安の飛行場を各飛行部隊が連続して爆撃、50kg爆弾17発を投下、飛行場を壊し、大格納庫の大小一機ずつを破壊したが、中国軍機の迎撃に対して9機を撃墜、しかし自軍機の一名が戦死した。
*同日:別途、福建省漳州の飛行場、隴海線の主要駅河南省鄭州を爆撃。
*同日:湖北省の襄陽飛行場を急襲、中国機と空中戦で4機を撃墜、格納庫を爆破。
*3月9日:粤漢鉄道沿線を爆撃。
*3月10日:東莞市錦厦を爆撃。
△ 3月10日、水上機母艦「千歳」竣工。
▽ 3月10日:中国空軍は南京を襲撃し、日本機を10余機を破壊した。
*3月11日:占領した山西省太原から30機が出撃し、陝西省西安を4回に分けて飛行場など爆撃した。「空中戦で5機を撃墜、地上の2機と格納庫等を爆破、大損害を与えた」。他に広九鉄道を爆撃。
◎ 3月12日、ロンドンで国際反侵略運動大会が開かれ、反日援助中国特別大会として、日本の中国侵略に対する蛮行を糾弾、各国政府に対日協力の停止を促し、日本国民に中国侵略行為への反対を呼びかけた。
【無錫市馬山で1500人の大虐殺】
*3月12−13日:日本軍は江蘇省無錫市馬山鎮 を包囲、それを飛行機が援護し無差別爆撃を行なった。その後日本軍は人を見ては殺し、物を見ては掠奪、家を見ては火を放った。古竹湾付近の竹林に隠れていた100人以上の老人、子供、女性たちは、日本軍に機関銃4挺で2時間近く掃射され、皆殺しにされた。紐琦村は全体で10世帯48人が殺害され、家屋5軒の内48軒が焼失した。紐琦涧南原には3世帯25人が住んでいたが、全員が広場に追いやられ、雪の中にひざまずかせられて機銃掃射を受け、あるいは銃剣で突かれ、ガソリンをかけられて火をつけられ、ケガをした子供2人を除いて全員が殺害された。檀渓湾には老若男女18人が住み、ひとつの池に隠れていた。敵を驚かせないように子供が泣くと、親は口に木綿の塊を入れ、泣き叫ぶ子供を尻の下に座らせて窒息死させた。さらに日本軍は檀渓に到着後、焼殺と略奪を行った。洞窟に隠れる10人を機関銃で殺害し、3人に重傷を負わせた。馬山大虐殺で、日本軍に殺害された民間人は1500人以上、焼失した家屋は3000間以上、漁船40隻以上が破壊された。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*3月13日:午前9時、24機が陝西省漢中市南鄭飛行場(西郊空港)を爆撃、燃料庫が爆破された。
*3月14日:午前11時、26機が漢中市南鄭県城西郊を爆撃、投下した焼夷弾で民家40軒以上を焼いた。
*同日:山西省運城から出撃し、陝西省西安を爆撃。
*同日:昼間、陝西省南鄭、浙江省衢州の飛行場を、夜間に湖北省武漢の漢口、江西省南昌の飛行場などを空爆、四ヵ所を炎上させた。
*同日:漢口飛行場を爆撃。
*同日:山東省の沂州・台児荘など広九鉄道を爆撃。
【山東省滕州県での惨殺:三日間で2259人】
*3月14−18日:14日夜明け、 山東省棗荘市滕州県に日本軍の歩騎兵1万以上が、大砲千門以上、戦車20台以上を配備し、20機以上の航空機支援の下で滕県に進撃した。翌15日午後5時頃、日本軍は城東の小吉山と孤山一帯に逃げてきた避難民に機銃を乱射、72人が撃たれて死亡し、なおも北岸の菜園家の避難者22人にも銃を撃ち続け2人を除いて全員が死亡した。16日早朝6時、日本軍は県城の城東程堂村を砲撃した。17日、日本軍の砲火は更に激しく、また20機以上の航空機で無差別爆撃を行い、県城全体が燃え上がった。東門に立てこもっていたわが四川軍はみな戦死し、日本軍は東門に侵入してから、一軒一軒の家を捜索、婦女を見ては強姦して殺害、男を見ればその場で斬殺するか集団で銃殺した。東関大街、沙窩街と等国門街の1400戸余り、4700間以上の家屋が焼失した。ある18歳の少女は城から逃げる途中に日本兵に出くわし、日本兵に輪姦され、その後腹を切られて死亡した。春秋閣街の王氏婦人は2人の日本兵に強姦された後、撲殺された。張大山の母と弟は驚いて井戸に飛び込んだが日本兵に石を投げつけられて死んだ。18日、日本軍が6、7人の民衆を捕えて、縄で全員を縛り連行、その後行方不明になった。正午、日本軍はまた東門の中でいくつかの商店の洞の中に隠れていた人々を虐殺した。徳源号、徳聚泉酒油坊、恒盛公染坊の地窯だけで110人が死亡した。わずか四日で、滕県城関では2259人の住民が日本侵略軍の下で惨殺された。(『侵華日軍暴行総録』より)
*3月15日:江西省吉安、浙江省麗水、福建省福州、広東省梅県(現・梅州)、広州市の天河・白雲・従化の各飛行場を爆撃。
*同日:夜間に南昌を三度、漢口を二度爆撃。
*3月16日:15日より日本軍が山西省の臨汾の 襄陵県城を侵略する中、日本機が16日爆撃、再度 襄陵県城を占拠し、家々を焼き払い、全城に火烟が天を衝き5日間燃え続けた。繁華街一面が瓦礫となり、商店、民家など合わせて800棟以上が焼失、住民50人以上が殺された。臨汾はさらに4/6まで断続的に爆撃を受けた。(『侵華日軍暴行総録』より)
*同日:福建省福州、広東省広州従化の飛行場を爆撃、また粤漢線・広九線を爆撃。
*同日:南昌・漢口を三日連続で夜間爆撃、空中戦となるが、飛行場内の23機と格納庫他の建物も爆破するが、一方で市街地八ヵ所を炎上させた。
*同日:山東省沂州を爆撃。
*同日:粤漢・広三鉄道沿線、広東省の河頭・連江口・軍田等の各駅を爆撃。
*3月17日:56機が出撃し江西省南昌の新旧飛行場を爆撃、爆弾100発以上を投下した。別途8機は江西省吉安市を爆撃し、20数発を投下した。
*同日:広東省の広東省韶関・広州軍田を38機が爆撃。
*同日:15機が福建省漳州を爆撃し、爆弾100発以上を投下した。
*同日:8機が安徽省の安慶・銅陵・大通を爆撃した。
*同日:36機が出撃し、安徽省宿城(宿州)を爆爆、東門内の薬店街の家屋百余軒を爆破し、北門内の道路は火の海となり、西門の甕城は爆破され、東関駅の貨物室、興行屋はすべて爆破された,線路が曲がり、1000人以上が死傷した。
*3月17、18日、20日: 江蘇省連雲市贛楡県石橋村に3機が焼夷弾3発を投下、家屋200軒以上を焼き、3人を焼死させた。翌18日、3機が石橋上空に再び飛来し、機銃掃射を行い1人が負傷した。20日、さらに5機が石橋村に多くの爆弾を投下、100棟以上の家屋が焼けた。
*3月18日:中国主力軍のいる江蘇省徐州を、陸軍地上部隊を支援するため重爆隊が爆撃したが、中国軍の迎撃もあり日本人飛行兵4名が戦死した。
*同日:山東省棗荘市の台児荘、晋城市の下台村、河南省安陽県磊口を爆撃した。
*同日:浙江省衢(く)州、江西省撫州市南城、南昌の各飛行場と広東省の粤漢線の英徳、広九線などを爆撃。
*同日:広東省白雲飛行場、清遠市清城区の琶江兵器廠、粤漢線の英徳・河頭・沙口・清遠駅、広九線の石龍駅などを「完膚なきまでに爆撃」。
*3月19日:福建省漳州を再度爆撃、また湖北省宜昌を夜間爆撃した。
*同日:安徽省宣城市郎渓梅渚を爆撃し、2人が死亡、10人以上が負傷した。
*3月20日:河南省新郷市を爆撃。4/7まで断続的に爆撃した。
*同日:江蘇省無錫市宜興の張渚を爆撃、それ以降、官林、楊巷、徐舎が爆撃された。
*3月某日:海南省屯昌県烏坡墟を爆撃。
【軍功と航空隊員たちの笑顔】
この時期、爆撃などで勲功を立てた者たちには「感状」が送られていた。その一つの例である。
「感状」 〇〇航空隊
昭和13年3月14日より16日に至る間、月明りに乗じ漢口および南昌敵空軍飛行根拠地に対して猛烈なる照射砲撃と執拗なる敵戦闘機の妨害を排除しつつ連続有効的確なる夜間攻撃を加へ多数の敵飛行機および軍事諸施設を爆破し多大の戦果を収めたるは自後の作戦に資するところ極めて大にしてその武勲顕著なり、よってここに感状を授与す
昭和13年4月20日 / 支那方面艦隊 司令長官 長谷川 清
この文面の中で違和感があるのは「敵戦闘機の妨害」であるが、相手側からすれば妨害ではなくて「防御」であろう。
なおこれは戦時中発行の「支那事変画報第35集」(1938年8月1日発行:毎日新聞社)の「海の荒鷲の栄誉」(荒鷲は飛行隊員のこと)として掲載されているもので、画報だから写真も大きく載せられていて、飛行隊隊員たちの若者はどの場面でも皆、快活な笑顔で写っている。筆者の違和感は、この若者たちの「活躍」の影でどれだけの中国の人々が爆撃死しているのだろうという思いである。この20世紀の飛行機という最大の殺人兵器の利点は、空からの爆撃では地上で悲惨な姿で爆死する人々の姿は見えないことであり、そのことがこの若者たちの笑顔を支えているということである。
*3月21日:河南省鄭州付近の列車を狙って爆撃、数日後にも鄭州の停車場(駅)を爆撃した。
*同日:山西省呂梁市の石楼の抗日部隊を爆撃した。
*同日:午前、2機が湖北省 襄陽市韓家庄を爆撃、爆弾30発を投下、6人が死亡、4人が負傷、民家19棟、車1台を爆破した。
*同日:安徽省宣城市寧国城東の丘の間に鉄筋コンクリートで築かれた大きな砦が隠されているのを発見、爆撃機はここに大型爆弾を三つ投下、命中はしなかったが付近に巨大な穴を開けた。砦は外から見ればそれほどの損傷ではなかったが、中にいた人間がみな鼻と口から血を流して死んでいた。
*同日:安徽省宣城市広徳を攻略する陸軍を支援爆撃。
*3月22日:日本軍は山東省聊城市陽谷県阿城鎮を攻撃する際、爆撃機一機を呼び寄せ、同時に砲撃、銃撃した。午後に阿城は陥落し日本軍は村と町を占拠し、虐殺が始まった。…(略)その惨状は語ることができない。私の町では212人が屠殺され、生き返った者10人(その中の女性数人)。最後まで城を守っていた馮寿彭の3個中隊270人はほとんどが戦死した。北門の内外で犠牲になった兵士と屠殺された住民が最も集中し、死体が山となって血を流していた。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
【報復としての虐殺】
*3月25日以前:江蘇省塩城市東台県の台城新橋口、九竜港、呂祖宮及び林家橋河南などを交互に爆撃し、民家数十軒を爆破し、多数を死亡させた。その後25日、日本陸軍は東台城に侵入し、台城の有名な古い建物である魁星楼とその周辺の民家を大砲で破壊、さらに十数人の日本軍が趙家(今東台郷長青村6組)に侵入し、母里師範の全部の校舎と近くの民家に放火、110棟と250戸が焼失した。
さらにその後4月9日、日本兵6人が唐柳竈で女性を強姦し、怒った住民が釘で5人を殴り殺して一人が逃げ帰った。翌日、台城を占領している日本軍百余人が、大水溜、唐柳竈に報復的な「掃討」を行ない、沿道において大水溜以南の黄家一竈、柳家竈、高家竈、唐家竈など自然村の民家25軒余りを全焼させ、唐柳竈だけでも290戸、藁葺き700戸あまり、豚舎約350戸、耕牛約10頭、炊草約30万斤、穀物約16万斤、水車など大型農具約210点が焼失した。この年、東台安豊鎮では50人余りの女性、頭竈の3人の女性が日本軍に輪姦され、中には銃剣で突き殺される悲惨な姿も少なくなかった。安豊瓦禅堂では尼が5人の日本軍に輪姦され、憤慨して自ら命を絶った。豊西村の農民周氏は、日本軍による実の娘の強姦に抵抗して、日本軍から軍刀で頭を切り落とされ、便所に投げ込まれた(注:当時の中国の便所=トイレは同時に何人も入れるように広く仕切られ、日本軍は時には殺戮した数十人をその中に投げ込んだ)。このほか1944年まで東台は略奪や殺戮、強制労働などが繰り返された。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
【台児荘の戦い】
日本軍の北支那方面軍隷下の第二軍は政府大本営の戦線不拡大方針に反し、3月13日、第10師団と第5師団に対し山東省最南部の大運河の線(徐州の北韓荘−台児荘)までの中国軍撃滅を命令、3月23日、棗荘市峰県峰県から台棗鉄道の支線に沿って南下し、山東省最南部の台児荘に侵入した。そこに布陣していた孫連仲軍3個師により頑強な抵抗を受けた。その中で前線が混乱し、攻略困難として日本軍は4月6日に撤退し、形の上で中国軍の勝利となった。日本軍の損害は、第5師団の戦死1281、戦傷5478、第10師団の戦死1088、戦傷4137で、合計戦死2369、戦傷9615、総計1万1984名であった。中国軍の死傷者は約2万人とされる。
*3月25日:河南省帰徳(商丘)で空中戦があり、その後数次の空戦で日本軍はほぼ制空権を手にした。
*同日:浙江省湖州市徳清県雷甸の白雲橋あたりで両軍の戦闘があり、日本機2機が出撃、第一弾は南舎抣に投下され、民家10棟以上が焼かれた。
*同日:17機が英徳駅を空襲、23発の爆弾を投下、貨車4両を爆破し、先頭車両を駅のホームに放り上げた。
*3月下旬:日本機3機が江蘇省連雲市贛楡県白石頭村に爆弾を投下、1回目は家屋100棟近くを破壊、死傷者は数人、2回目は家屋数十棟を爆破した。また贛楡県の東に停泊する日本の軍艦2隻は、拓汪から海頭一帯の村々に3度にわたって砲撃を加えた。1回目の砲撃は10発以上、拓汪の群衆1人を爆殺、2回目の砲撃で一般市民1人を爆殺、1人を負傷させた。3回目の砲撃は数十発であった。砲撃後、日本軍はモーターボートで上陸し、海頭を焼いた。
*3月26日:江蘇省徐州を爆撃し、爆弾34発を投下した。
*同日:爆撃機5機が河南省の開封に爆弾12発を投下、3機が鄭州を爆撃し3発を投下した。
【火の海となった140−150の村々】
*同日:浙江省麗水市慶元県から徳清県付近の竜渓を日本軍は陸上と空から攻撃、陸軍の放火と飛行隊からの焼夷弾で竜渓はたちまち火の海になり、至るところで爆発音、銃撃音、大衆の叫び声がした。屋外へ逃げ出した群衆は敵の銃口と銃剣の下で死んだ。ある老人は家が破壊され、家族が亡くなったのを見て、悲しみと絶望のあまり大火の中に飛び込んで自殺した。この大焼殺によって、北は呉興菱湖の査家箭から南は杭県の王家荘まで、長さ120華里(約60km)に及ぶ竜渓の両岸に、大小140、50の村々が完全に灰と化した。あくる日の明け方まで、竜渓から十数里離れたところに、まだ火雲の空が見えていた。この目撃者である馮黙存は、1946年に徳清師範に勤務した時、多くの学生と保護者の協力を得て、半年の時間を費やし、徳清県境の竜渓両岸にある8つの郷・鎮のおよその損失状況を究明した。(詳細略)合計で、村落百数十ヶ所、破家2045戸、家屋7799軒、死者585人(負傷者は別)。徳清県の八十里竜渓両岸の損失で、もし呉興を加えれば、杭県四十里竜渓両岸の損失は、きっと上記の数字を大きく上回る。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*3月26、28日:日本軍は2回合わせて6機を出動させて、陝西省楡林市呉堡県城(宋家川)を爆撃し、民間人30余人を死亡させた。
*3月27日:武漢の武昌・漢口を80機が襲撃し、武昌の粤漢鉄道総局、駅周辺、南飛行場、漢口飛行場ほか市街地に140発の爆弾を投下し、各地で火災が発生、100人余りを爆死させ、156人を負傷させた。
*同日:安徽省安慶を爆撃。
*3月28日:江蘇省徐州を12機が爆撃。
*同日:59機が9回に分けて広東省北部、粤北・増城・従化・南雄の飛行場等、及び粤漢鉄道の河頭、韶関駅などを爆撃、機関車や列車、橋梁を破壊した。
【列車への銃爆撃】
*3月28日:(上記の鉄道への爆撃のうちであろうが)敵機が粤漢鉄道南段の各駅を襲撃、広東省の英徳清遠間で爆弾58発を投下、そのうち韶関市に向かう客車にも機銃掃射と投弾を繰り返した。列車が止まると乗客300人余りが直ちに降りて避難したが、敵機はこの時低く飛んで列車に機銃掃射し、爆弾2発を打ち込み列車は転覆した。現場には血肉が飛び散り、悲惨を極めた。死傷者百人余りのすべてが民間人であった。
*同日:安徽省合肥市を5機で爆弾100余個投下、四方で火災発生し、特に四牌楼、十字街以東が火の海となり翌日の朝まで焼き続け、家の家屋1000余間を焼失。爆死した中には、一家全員が死亡した場合もあり、九獅子河の丁守榜親子が爆死、12歳の娘丁先桂が片足を飛ばされ一生の不具となった。北油坊の一家4人も爆死、遺体は燃えて灰になった。さらに一度立ち去ったと思われた偵察機が戻ってきて低空飛行による機銃掃射を行い、合計死者は200余人。
*同日:安徽省蕪湖市繁昌県の戴冲を爆撃、各所に爆弾31発が投下され、18人が死亡、2人が負傷。
*3月29日:武漢の漢陽に5機が来襲し、大別鎮(亀山一帯)上空から20発余りの爆弾を投下し家屋50棟余りを爆破、機銃掃射を加えて130人を殺害し、300人余りを負傷させた。別途、漢陽の段家港を爆撃した後、2機が鸚鵡洲に飛んで盲目的に爆弾を投下、河湾街道沿いに家屋10棟余りを爆破、住民は腰路口の長堤の両側に避難したが、日本機は堤に沿って低空飛行して機関銃を乱射、罪のない民衆400人余りの死傷者を出した。
*同日:陸軍地上部隊の進撃に呼応して、山東省棗荘市台兒荘で運河の橋梁を爆破して中国軍の退路を遮断。また河南省開封駅で兵士と兵器を乗せた列車、および線路を爆破。
*同日:広西省防城港市防城の白竜尾砲台が爆撃され、爆弾6発を投下。
*3月30日:広東省東莞の虎門、福建省福州と漳州、浙江省衢州の各飛行場を爆撃。
*同日:広東省の粤漢鉄道の各要所を爆撃、機関車1、貨車17輌、橋梁、鉄路数カ所破壊、また河川のジャンク船数十隻を爆沈させた。
*同日:海南省海口市の瓊(けい)山の中国軍司令部などを爆撃。
*同日: 昼、江蘇省塩城市に日本機3機が初爆撃、蔡院橋一帯に8発の爆弾を投下、市民10数人を爆死させた。西門の外には60発以上の爆弾が投下され、40人以上が死傷、焼けて破壊された民家は1600軒以上に上った。
*3月31日:広東省の英徳南方の粤漢鉄道鉄橋、清遠市の琶江兵器廠、河源市竜川県白泥塘の軍需工場を爆撃。
*3月某日:江蘇省南通市の狼山(日本軍の侵攻を逃れて市内から多くの人々が避難してきていた)の小さな市街地が絨毯爆撃され、約300人が死亡。
▽ 山東省棗荘地区で2万人が反日「侵略デモ大会」を行い、沛県、滕県、峰県で武装蜂起を起こした。
【山東省臨沂市の3000人以上の犠牲者】
*3月下旬:日本軍機は山東省臨沂市城内を爆撃、爆弾は城内の北大街の雑貨屋を営む南一家の防空壕に落ち、30人以上が死亡した。西門のキリスト教会に避難していた群衆も爆死し、300人以上が負傷した。一方で日本軍は 城北にある古城村に突入した。農民の王漢友一家4人はサツマイモのむろの中に隠れていたが、日本軍が藁に火をつけて出入り口を塞いだため焼き殺された。日本軍は家々に火をつけ、一日もしないうちに、古城村は廃墟と化し、村全体で62人が殺害された。もう一隊の日本軍は大嶺村に侵入し、27人が銃殺された。村の西にある観音寺に隠れていた数十人の村民のうち、脱出した2人を除いて、残りの45人は機関銃で全員射殺された。村の家屋300軒が全焼し、四家の家族全員が皆殺しにされた。さらに日本軍は城内西北の平地にある3つの防空壕及び西城の城壁の下に隠れていた住民を発見、まず機銃を掃射し、次に軍刀で突き刺し、480人以上を全員殺害した。寧振芳の一家は10人のうち9人が殺害された。日本軍の殺人手段は残忍で、西問里太公巷の一人の少女は日本軍に輪奸された後に殺害された。日本軍はまた南門里のある雑貨店から20人以上を引っ張り出して全員銃剣で刺し殺した。日本軍が城隍廟の東楊家園を捜索した時、女性たちは次々と井戸に飛び降り自殺し、たちまち死骸が井筒に詰まった。茶棚街の胡士英の家の防空壕には多くの人が避難していて、日本軍はその出入り口を塞いで機銃を乱射、また壕の中に手榴弾を投げ入れ、中の人々は全員死亡した。ある日、日本軍は30人以上を捕え、彼らを清掃街道と呼ばれる場所に連行、機関銃で全員を射殺した。日本軍は城内で狂ったように住民に対し虐殺を行い、火神廟房と南門の中に2つの殺人場を設けて、軍犬に噛ませ、銃剣で住民を刺し殺して楽しんだ。今回の臨沂大虐殺で、日本軍は十数日で住民3000人以上を殺害した。(『侵華日軍暴行総録』)
4月
〇 1938年4月1日に国家総動員法が公布・制定される。日中戦争の長期化による国家総力戦の遂行のため、国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる旨を規定したもの。
*1938年4月1日:江西省吉安・福建省福州の飛行場、新寧・広三・粤(えつ)漢の鉄道沿線を爆撃、貨車10数輌を破壊、そのうち2輌は火薬類で、猛烈に爆発した。別途、広東省西北の盧包で軍需品運搬車やジャンク船を爆破。
*4月1−4日:山西省呂梁市石楼県に3千人余りの陸軍が侵略して焼き討ちや略奪を繰り返した三日間の前後に、5回にわたって17機が石楼を爆撃し、爆弾50数発を投下した。その間に住民20数人を爆殺した。日本軍は石楼を占領後、多くの罪のない民間人を殺害した。城内の商店を全て焼き払い、民家や 城隍廟、永慶寺などの文化財もほとんどが灰に帰した。日本軍は家や物を焼くだけでなく、洞穴に逃げた人間も焼いた。女性10人以上が強姦され、ひとりは首を吊って死に、もうひとりは崖から飛び降りて死んだ。3日間、日本軍は石楼で罪のない村民100人以上を殺害、家屋500棟以上、洞穴住居700穴以上が焼かれた。(『侵華日軍暴行総録』)
△ 海軍は台湾の高雄に航空隊を設置。下旬より中国への爆撃開始。
*4月2日:広州の黄沙駅に集結する百数十輌の貨車を爆破し線路も数カ所切断、さらに仏山市三水北方の河川で運搬中の大型ジャンク船10余隻を爆破撃沈させ、その付近の自動車4台を銃撃、炎焼させた。
*4月3日:広東省の韶関飛行場や、虎門・中山市、河南省信陽市の固始を爆撃。
*同日:福建省福州飛行場を爆撃。
*4月4日:河南省固始・駐馬店、浙江省麗水の飛行場等や粤漢鉄道を10機で爆撃。
*同日:広州の黄沙駅の貨車、列車を再び爆破、また増城区の万角砲陣地を爆破。
*同日:陝西省西安飛行場と西安西北の三橋鎮駅の建物、列車を爆撃。
*同日:浙江省杭州市臨安県に数発の爆弾を投下、武甫里の茅ぶき屋根の家に命中、家の中にいた善卿の母親とその息子が爆死。
*同日:午前、河南省駐馬店市確山県城に3機が飛来、低空で偵察飛行を続けた。城内の住民たちは恐怖に震えながら老人と子供たちの手を携え、南山信義小学校の西側の防空壕に向かった。日本機は逃げる人々を見つけると、急降下して機銃を乱射し爆弾を投下、たちまち人々の群れは四散し防空壕付近では3人が死亡、2人が負傷した。別の防空壕も爆破され、3人が生き埋めとなり死亡した。これにより民間人10人以上が死亡、50棟以上の家屋が爆破された。
*4月5日:福建省漳州飛行場と「市街地を爆撃。
*4月5、7日:湖北省宜昌を20機以上で爆撃。
*4月6日:河南省許昌市禹県に2機が飛来し、県城の上空を旋回し、すぐに県庁の上空に来て機銃掃射しつつ、火神廟一帯に避難している住民を発見するや、その人々に集中して爆弾を投下した。一群の爆弾が群衆の中で爆発し、現場は悲惨極まりない地獄と化した。現場の地面には爆弾の穴が空き、周囲には死体が散乱し麦畑の中では長い髪の人の頭が投げ出され、至るところに一塊の肉、流れた血、土は血泥になって、血泥には頭が欠けて手足が足りない死体があって、悲惨極まりなかった。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:河南省固始、福建省漳州の各飛行場を爆撃。また福建省厦門の砲台を爆撃。
*同日:広東省北方、粤漢鉄道の西村駅において、集結した貨車百数十輌、その他倉庫および線路を爆破した。
*同日:浙江省紹興市上虞県を4機が爆撃、百官鎮中街、下市頭で14個の爆弾を投下、45人が死亡し、60人が負傷。なお上虞は1940年までに20回の爆撃を受け、80発余りの爆弾が投下され、1160人が死傷した。
【徐州作戦】(徐州会戦)
△ 台児荘の戦いによって、中国軍の大部隊が徐州付近に集結していることが判明し、4月7日、大本営は「徐州付近の敵の撃砕を企図」する命令を北支那方面軍・中支那方面軍に下達した。これは江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯で6月7日まで行われ、日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかった。日本軍は北支那・中支那方面軍合同で約21万6000人、中国軍は約5-60万人という大規模な戦闘で、日本軍の全体的な損害は今に至るまで不明とされ、数万人と思われる(敗戦時に全ての戦時資料を焼却してしまったことによるのだろうが、それにしても不明とはお粗末極まりない)。また日本軍の推定では、中国軍兵力の約1割(参加兵力60万人なら6万人)を撃滅したとしている。
*4月7日:河南省信陽、広東省天河・白雲・従化の各飛行場、福建省厦門島を爆撃。(信陽からの帰途、中国軍機10数機と空中戦、3機を撃墜)
*4月8日:約20機で広東省梅県(現・梅州)、広州の従化・天河・白雲の各飛行場、再度粤漢鉄道の西村駅で貨車30輌を爆撃。
*同日:地上部隊の援護で、山東省の沂(ぎ)州を爆撃。
*4月9日:江蘇省海州、広東省梅県(梅州)、広州の天河・従化、福建省漳州の各飛行場、さらに厦門島を爆撃。
*同日:続けて粤漢鉄道の広東省琶江口付近と西村駅で貨車数十輌を爆撃。
【縫製工場爆撃で女子工員85人死亡】
*4月10日:広州を爆撃し、大利裁縫工場の女子工員85人が死亡、100数十人が重軽傷を負った。
*同日:午後2時ごろ、湖南省長沙を27機が4度目の爆撃をし、爆弾30余発、焼夷弾10余個を湖南大学とその近辺に投下、湖南大学の学生と近隣の民間人100人近く(うち学生38人)を爆殺し、湖南大学図書館や科学棟の貴重な図書と研究資材、学生寮3棟が破壊、焼失し、さらに清華大学も被害を受け、200万元余りの損害を被った。
*同日:湖南省長沙岳麓山付近の軍事施設を約30機で空襲し「壊滅的損害を与えた」。(上記と同じ長沙であるが、おそらく日本軍の記録にある「軍事施設」だけでなく市街地を爆撃したのであろうが、「無差別」を隠すために記録には「市街地」とは書かれず、その場合「市街の軍事施設」となる)
*同日:広東省梅県・白雲、福建省漳州の各飛行場を爆撃。
*同日:江蘇省海州の隴海線において運行中の数百輌の貨車・機関車を爆破。この時、河南省帰徳(現・商丘)の上空で空中戦となり、中国機の多くを撃墜した。
*同日:粤漢鉄道の琶江口付近の貨車数十輌や線路に「徹底的損害を与えた」。
*同日:福建省厦門の砲台に対して「爆撃ならびに機銃掃射を敢行した」。
*1938年4月11日:広東省の従化・梅県、福建省竜岩、浙江省衢州の飛行場に対して「爆弾の雨を降らせ、破壊した」。
*同日:前日と同様に広東省白雲各飛行場、粤漢鉄道の琶江口の貨車数十輌、厦門の砲台を爆撃。
*同日:山東省沂(ぎ)州城内の中国軍司令部を爆撃、火災を生じさせた。
*同日:午前9時、約10機の爆撃機が浙江省湖州安吉県の市街を急降下爆撃。赤ん坊を抱いた女性が一緒に爆死したほか、ある一家は、10歳の末妹が用事で城外に出て難を逃れたのを除いて、祖母と夫婦2人と3人の子供を含めて6人が爆死した。安吉県は何度かの爆撃による爆死が298人、負傷2840人であり、占領後の日本軍による被害状況は機銃掃射による死者998人、連行され音信不通になった者500人以上、強姦された女性270人(その内、死に至った者14人、負傷したもの45人)、焼失した家屋2万2850軒、略奪された農機具35万2225件、焼かれ奪われた食糧33万8650斤、衣服3万6387件、耕作牛786頭、豚2894頭、他の家禽類8万8811羽となっている。(『侵華日軍暴行総録』)
*4月12日:浙江省麗水・寧波、福建省建甌・福州・泉州市留安、広東省潮州の各飛行場等を爆撃
*同日:江西省南昌と湖北省武漢の漢口を夜間爆撃した。
*同日:山東省済寧市金郷県の鶏黍集を急襲、街の中心と東門の内外を選んで、爆弾3個を連続投下し、即死117人、負傷174人を出した。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*4月13日:武漢に9機が来襲、防空壕へ避難する集団へ爆弾投下し、240人以上が死亡、破壊焼失家屋40棟であった。
*同日:午後2時頃、3機が武漢漢陽上空に来襲、市民は連れ添って鼓楼東街と晴川街に築かれた防空壕に逃げ込んだ。敵機はこれを発見して猛烈に爆爆し、防空壕内に隠れていた住民240人余りは全員死亡した。家屋40棟余りも破壊された。
*同日:浙江省衢州・温州、福建省の漳州・福州、広東省広州の天河・白雲の各飛行場、また江蘇省海州を爆撃。(白雲飛行場で戦闘機20数機と空中戦、15機撃墜、日軍機は3機撃墜された)
*4月14日:広東省天河・白雲の飛行場、広九鉄道、東莞市錦厦を爆撃。
【谷間の寺に避難した人々への重爆撃】
*同日:日本軍は大量の空陸連合作戦部隊をもって、山東省棗荘市滕州から峰県に大挙侵入し、通過地を掃討した。峰城付近の多くの人々は、戦乱を避けて山陰村西の谷間にある老和尚寺に集まった。寺の外には絶壁が見え、山の奥深くに隠れているので、周囲の人々は戦乱を避けるにはいい場所だと思って、ここに避難し、その数は2、3千人にもなった。この日の朝、空は曇り、何千人もの人がこの狭い谷に集まっていた。昼、突然北から南へカラスのような黒い飛行機が二機飛来して、和尚寺の上空を二度旋回した。人だかりが狙われて爆撃され、人も家畜も谷底を走り回った。飛行機は角度を変えて、谷の人たちに超低空で機銃を乱射し、地面を耕すように十数回爆撃した。そうして気分良く日本軍機は去っていった。
谷は煙と炎に包まれ、きれいに整頓されていたはずの寺院は、壁が崩れ、死体が散乱し、血が流れ、木々には色とりどりの衣服の断片がぶら下がり、両側の石崖には村人たちの血と肉がこびりついていた。老人は谷いっぱいに息子や娘を呼び、子供はあちこちで父母を捜した。崩れ落ちた垣根の下の一青年は食べかけの茶碗を持って地面に倒れ、道ばたの赤ん坊は死んだ母親の上にうつぶせになって乳首を口に含んでいるのにもう吸うことができなかった。家族の死体を戸板に乗せて、よろめきながら悲しんでいる者もいれば、家族を背負いながら血を流し続けている者もいる。こうした悲惨な光景は、見るに耐えなかった。この事件でわが家の三女は最愛の息子を失い、娘は顔の半分を吹き飛ばされ、伯母の背中の爆弾の破片は死ぬまで取り出せず、伯父の脚は爆弾によって大きく肉を引き裂かれた。この村の王景全おじいさんは血を流す腹を押さえつつも彼の息子を見つけることができなかった。西王荘の宋徳福一家は5人全員が死亡、劉村の劉希の一人息子が爆死し、彼自身も痛みで苦しんだ。私が知っているのはこれだけで、他の多くの村人も苦しんでいる。後の関係者による統計では、この爆撃で千人以上が死傷し、財物の被害は数え切れない。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*4月中旬:安徽省綏西県の関帝廟を通過する時、機銃掃射で農民2人を殺害。唐家廟で一人を、新集で爆弾二発を投下して46名を爆死させた。
*4月15日:江西省南昌飛行場、粤漢・広九鉄道を爆撃、軍用貨車、線路、鉄橋を爆撃し「多大な損害を与えた」。
*同日:安徽省合肥市呉家崗・漵州市赤鎮に集結する中国軍を爆撃し「多大な損害を与えた」。
*同日:福建省寧徳市古田県城に2機が来襲、6発の爆弾を投下、南関外の運動場に爆弾が落ち、農民の2人が爆死、3人が負傷した。
*4月16日:未明に南昌飛行場を攻撃、新飛行場に爆弾を集中し火災を生じさせた。
*同日:続けて粤漢・広九鉄道を爆撃。さらに広州から香港をつなぐ新設の自動車道を数本爆砕。
*4月17日:広州を13機が爆撃、大・小北路及び徳宵東路口一帯に重さ約250ポンドの爆弾を多数投下し、小学校も爆撃にあい200余人が死傷、古刹の大北双山寺も破壊された。別途市外の工場や白雲飛行場を爆撃。
*同日:未明に2度、武漢の漢口飛行場を爆撃、「全弾を飛行場に命中させた」。
*同日:広東省広州の粤漢鉄道西村駅付近の貨車群を、同鉄道英徳北方において軍需品倉庫を爆撃、炎上させた。
*同日:山東省沂州、湖北省の孝感飛行場を爆撃。
【防空壕の中で爆死】
*同日:午前、3機が安徽省蚌埠五河県城上空に飛来し、旋回して泗県方向に飛び去った。それまでの噂から町中の人々は恐怖におののき、ある者は防空壕に逃げ込み、ある者は草むらに身を潜めた。30分もしないうちに、3機が突如として北方から来襲、五河城の順河街に向って急降下爆撃を繰り返し、爆弾を20発以上投下、油坊横丁一帯は、たちまち火の海となった。民間人6、700人を爆死傷させ、家屋2千余軒を爆破した。趙希良、呉華雲、劉万順、陳長友ら七世帯は全員防空壕の中で爆殺された。医師王文斎は5人の子供を連れ、若い妻とその二人の妹の計9人と草むらの中に隠れていたが、爆弾一発で全員死亡した。油屋に住んでいた外地の商人20人あまりも爆死した。(『侵華日軍暴行総録』)
*4月18日:続けて未明に武漢の漢口・武昌の各飛行場を三度爆撃。
*同日:湖北省孝感、粤漢鉄道の各駅を爆撃。
*同日:安徽省馬鞍山市和県の遊撃部隊本拠を爆撃。また山東省沂州を爆撃。
*4月19日:粤漢・広九鉄道を爆撃、線路数カ所を破壊した。
*同日:陸軍地上部隊に協力し、山東省沂州の中国軍野砲陣地を「撃砕した」。
▽ 4月20日:日本の偵察機一機が武漢の偵察を行ったが、孝感上空で撃墜された。
*4月某日:山西省臨汾市の浮山の抗日部隊を爆撃。
*4月某日:江蘇省塩城市阜寧城域を爆撃。
*4月某日:陝西省宝鶏県城を7機が爆撃した。住民はまだ防空の常識に欠けていたため、100人余りの死傷者が出たが、1つの穴居のそばに爆弾が落ち、中に避難した30人余りが死傷した。
*4月某日:未明、陝西省渭南県城の老市場を爆撃し、四発を投下し、8人を爆殺、3人が負傷 、13棟の家屋が爆破された。
*4月某日:浙江省寧波市鎮海鎮海城区の笱街の長生橋に初爆弾を投下した。それ以来、この町を空爆し続けた。
*4月某日: 湖北省咸寧市通山県の慈口一帯を爆撃、多くの民家、公共の建物、商店や住宅を破壊した。
*1938年4月21日:安徽省淮南市の大通、白雲飛行場を爆撃。
*同日:粤漢・広九鉄道、広東の自動車道を爆撃、鉄路、鉄橋を「粉砕」。
*同日:正午、爆撃機六機が再々度安徽省五河城上空に飛来し、旋回偵察を行なった後、重爆弾十数発と焼夷弾20数発を投下し、同時に機銃掃射を行なった。約4千余間の民家が火災で全て灰になったが、住民の多くは助け合って四郷へ避難していて死傷者は少なかった。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*4月22日:午前9時、三機が江蘇省無錫市宜興の張渚を襲撃し、低空飛行で爆弾計16発を投下、六つの村を爆撃し、竹船1隻、民家20余棟、また城隍廟の後宮をすべて破壊した。その住民のうち60人余りが死傷し、血まみれとなり、19人が犠牲となった。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*4月23日:粤漢鉄道の琶江口の貨車と鉄路数カ所を爆破。
*同日:広州市黄埔の火薬庫を「爆砕した」。
*4月24日:山東省威海市の文登、粤漢鉄道の琶江口南方の機関車と貨車、鉄路数カ所を爆破。
*同日:陸軍の揚子江上流の安徽省和県の占領に協力して爆撃。
*4月24、25日:まず3機が江蘇省塩城市の西門と北門の外を爆撃、数人が死亡、数百軒の家屋を焼いた。 翌日は北門閘一帯を爆撃。同日午後、中国軍塩城守備軍は撤退間際に火を放ち焦土抗戦を実行(これは時々中国軍が取る方法)市民は農村部に逃げた。 日本軍は26日に一時占領するが、7月5日に日本軍が撤退した時、塩城は見渡す限り焦土と化し、当初5万8700戸以上あった家の80%が焼失、残った家は約1万2000戸と集計されている。逃げなかった市民の多くは日本軍によって殺害され、赤十字社は西大街で約480の遺体を回収した。(『侵華日軍暴行総録』)
*4月25日:浙江省衢州飛行場、粤漢鉄道を爆破。
【教会への遠慮のない爆撃】
*4月下旬:江蘇省宿遷市宿城を爆撃。36機が鉄道駅から県庁に沿って、3回にわたって爆撃、約150発を投下、住民の死傷1000人以上。小東門内のカトリック教会にはイタリアの国旗が掲げられていて、イタリアは日本と同盟しているからカトリック教会は爆破されないだろうと、日本軍機が来たときは、住民は教会の地下室に隠れていた。しかし日本軍は教会に人が集まっているのを見て爆弾を投下し、家屋や地下室を爆破して100人以上の死傷者を出した。城隍廟の本堂と両廂の廊房もすべて吹き飛び、廟西街の両側の妓楼は爆破され、電柱、壁、門前の石獅子にも人の血と肉が付着し、あちこちに死体が転がった。県庁付近には藁葺家屋が多く、一面の火の海となった。大火は一日余り燃え続けた。北門内九角一帯の家々も焼け野原になった。 (『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*4月26日:江蘇省塩城市建湖県の上岡鎮、草捻口などを17機で爆爆。28日に陸軍は上岡を占領し、上岡人民に対して「血生臭い虐殺」を行った。日本機の爆撃と日本軍の略奪によって、400軒余りの家屋が破壊され、ある者は銃剣で腹を突き刺され、ガソリンをかけられて焼かれるなどで100名近くの住民が殺され、30人余りの女性が捕らえられて輪姦された。日本軍が上岡を占領して68日間、家屋26772間(瓦屋根の家16827間、わらぶきの家9945間)が焼失し、至る所が壊れ、廃墟となっていた。その後の占領で終戦までの7年間に(暫定集計によると)、上岡、草原口、朦朧、北秦荘、陸庄、顧荘、大興、喬荘などを掃蕩し、惨事9件、軍民2251人を殺害、830人に重軽傷を負わせ、婦女暴行 986人、焼失家屋54700間、食糧約400万斤、牛596頭、豚2049頭、牛車等486台、農船719隻となっている。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
〇 4月26日、国民政府軍事委員会は、今月18日から20日にかけて日本軍が蕪湖、深陽、宜興、繁昌、香港などで大量に毒物、毒ガスを使い、その被害状況を列挙し、各戦区に警戒を呼びかけた。
*4月27日:福州飛行場、福建省竜岩、隴海鉄道沿線を爆撃。
*同日:29機が広東省韶関市街の米行、烟礅などの住宅地を爆撃し機銃掃射した。
*4月28日:江蘇省徐州を爆撃し、爆弾百発以上を投下し、100人余りの人を爆死、負傷させた。
*4月29日:(天長節:天皇誕生日の日)武漢の漢口・漢陽を45機で爆撃。飛行場や漢陽沿襄河一帯を爆撃し、83発の爆弾を投下し、(5月の中国側の調査では)153人の住民を爆死させ、163人が重軽傷、232棟の家屋を破壊した。
一方で空中戦があり、日本側の記録では、日本機は48機で、漢口上空にて米機を含めた中国空軍80余機と大空中戦を展開、51機を撃墜、日本軍機の損害4機で「世界空中戦史に誇る凱歌を奏した」とあるが、これは天長節の日にそのままを日本に報じることができず、虚報とされる。中国側の記録では、ソ連の中国への援軍としてソ連機40機と中国軍機20機が漢口(武漢)の東30kmのところで疲弊している日本軍機に対して、39機のうち36機を撃墜して打撃を与えたとある。また別の記録では「中国空軍は爆撃機10機、戦闘機11機を含む日本機21機を撃墜し、日本軍パイロット2名を捕獲した。中国は航空機9機を失い、師団4人が戦死、ソ連の志願隊は航空機2機を失い、1名が戦死した。中国空軍が大勝」とある。なお1937年10月から1939年9月まで、ソ連は中国に計985機の航空機を 提供、さらに1940年に250機を提供した。
*同日:広州の白雲・従化の飛行場を爆撃。
*4月30日:浙江省衢州・福建省竜岩市長汀の各飛行場、および河南省帰徳(現・商丘)を爆撃。
*同日:安徽省蚌(ぼう)埠の日本軍陣地に中国軍3機が爆弾を投下、これを迎撃して猛追し、3機とも撃墜した。
*同日:山東省済寧市南陽鎮の南陽湖岸で、約150隻の船で待機中の中国軍兵士に爆弾を浴びせて「殲滅」した。
*同日:9機が広東省英徳南門河に爆弾10発を投下、小艇12隻、客艇3隻を爆沈、船民死傷5人。
*同日: 日本軍は江蘇省塩城市阜寧県溝墩鎮に航空機と大砲の援護の下、国民党守備軍陣地を攻略、守備軍の頑強な抵抗にあって多くの死亡者を出したが、5月2日、日本軍は溝墩鎮を占領、焼殺を行い、民家2000間以上を焼いた。
*4月27日−5月6日の間、日付が不明のもの:<隴海線沿線>河南省開封市蘭封、安徽省宿州碭(とう)山・六安市新安鎮・安慶市望江県十里、湖北省武漢市武昌蛇山・江夏区孫家店等を爆撃、鉄道駅と周辺の貨車・機関車・倉庫・線路・軍事施設・密集部隊を「爆砕した」。
この他中支(華中)では、江蘇省塩城市埠寧、四川省成都市西河鎮、南支(華南)では広東省広州市の黄埔軍学校、同省梅県(現・梅州)の飛行場等を爆撃、また粤漢鉄道の潖(は)江口を中心とする鉄道と広九鉄道沿線を爆撃、「南支一帯はわが巨弾をあびて軍事施設は壊滅の状態である」。
〇 大本営海軍報道部の5/2の発表では、支那事変(日中戦争)発生以来約9ヶ月間の戦果として、中国軍の飛行機を空中で撃墜し、また地上機を爆破して与えた損害は確実なものとして846機、自軍の損害は82機とした。
【毒ガス弾使用に関する具体的指示】
前年からガス弾投下は実行されていたが、1938年4月11日、参謀本部の極秘「大陸指第110号」指示によると、「1. 以下の範囲に於てあか筒軽迫撃砲用あか弾(特殊毒ガス弾)を使用する事を得」として、「(1) 使用目的:山地帯に蟠居する敵匪の掃蕩戦に使用す/(2) 使用地域:山西省及びこれに隣接する山地地方/(3) 使用法:努めて煙に混用し厳にガス使用の事実を秘匿し、その痕跡を残さざる如く注意するを要す」とある。これは参謀総長戴仁親王から北支那方面軍司令官寺内寿一と駐蒙兵団司令官蓮沼蕃にあてられている。
そして上記4/26に国民政府軍事委員会は18日から20日にかけて日本軍が各地で毒ガスを使用していることを明らかにした。
次に5月3日、北支那方面軍参謀総長は「特種資材使用に伴う機密保持に関する指示」を出し、「1、ガス資材の筒・収容箱の標記をあらかじめ削除すること/2、使用後のあか筒は蒐集して持ち帰る事 …… /4、使用の場合、使用地域の敵を為し得る限り殲滅し、以って之が証拠を残さざる如く努めること(つまり全員殺し尽くせということ)…… /8、毒ガスを使用したとの敵側の宣伝に対しては、毒煙ではなく単なる煙であると宣明すること」など、その秘密性が露見しないように注意しているが、とりわけ「毒煙ではなく単なる煙であると宣明すること」というのは無理な話で、この時期の日本軍の幼児的凶暴性を示している。当然日本国民はこうした事実を知らず、戦後になっても政府筋は知らんぷりを決め込んでいた。
同じ5月3日、大陸指第120号により、中支那派遣軍に「みどり筒(毒ガス資材の筒)使用許可」が出され、結局山西省以外にも使えるとした。さらに1938年8月6日の大陸指第225号として、武漢攻略戦でのあか弾・あか筒使用許可の指示、12月2日の大陸指第345号として閑院宮参謀総長から中国戦線の全日本軍宛で、「在支各軍は特種煙(あか筒・あか弾・みどり筒)を使用することとを得、但之が使用にあたりては市街地特に第三国(外国人)居住地を避け、勉めて煙に混用し厳にガス使用の事実を秘し、その痕跡を残さざる如く注意すべし、特種煙の使用並びに利用に関する部隊の練成は更に一層向上徹底せしむるを要す」と指示を発している。ちなみにあか弾は嘔吐、呼吸困難を引き起こし、みどり弾は催涙ガスであるが、この後もっと重度な毒ガスが使われていく。
5月
*1938年5月1日:安徽省六安市新安鎮(隴海線)、山東省臨沂市郯(たん)城県帰昌の軍事拠点を爆撃して「大損害を与え」、その帰途に郯城南方の沐河地区を南下中の中国軍部隊約一万を発見しこれを爆撃、「壊滅的打撃を与えた」。
*5月1−2日:粤(えつ)漢・隴(ろう)海鉄道の沿線を爆撃。
【空爆下の悲惨な光景】
*5月2日:午前10時頃、日本機3機が江蘇省常州市溧陽県戴埠鎮鎮の上空に飛来、上空を旋回した後、街に集っている群衆に向かって爆弾を投下、さらに逃げ惑う群衆に低空で機関銃を掃射した。瞬く間に戴埠の街は血肉となった死体があふれた。町全体で208人が爆死した。当時の生存者によると通りの至る所に人の肉がこびりつき、電柱にも人の腸がぶら下がっていたと語っている。遺体を引き取りに来た親族も見分けがつかないほどであった。買い物に来ていた主婦は、爆死して太ももも頭の皮も弾かれて白い頭蓋骨だけになっていた。一人の少女は小さな妹をおぶって人の群に続いて逃げた。日本軍の爆弾の破片はその妹の腕を半分削ぎ落とし、姉が知らないまま、妹は背中で死んだ。もう一人の女性は子供を抱いて町の外に走ったが、彼女は爆発音で子供を地面にして自分の体で子供を守った。そして彼女の臀部が爆破されその場で死んでしまった。子供は生きていたが、母がどんな顔をしていたのかも覚えず、孤児になった。爆撃が終わってから一週間後、爆弾で散った指を街で見た人もいたが、この指が誰のものなのか誰もわからなかった。(中国版「捜狐新聞」より)
なお筆者は、先に日本における米軍による空爆被害などを調べたが、その中には同じように女性が赤ん坊を背負って空爆から逃げるなか、焼夷弾の筒によって赤ん坊の首が飛ばされ、母親はそれに気がつかないまま、逃げた先の人々の異様な眼差しで気がついたという話を読んだことがあり、これは忘れられない。以下にも同様な光景がある。
*5月3日:3機が安徽省蕪湖市の南陵県に再び来襲、城廂区の十字街、王家祠堂城隍廟など10カ所余りをを交互に爆撃し、家屋約200軒を爆破し、住民約170人を死亡させた。城関中街王家坦では防空地帯が「迎春園」の後ろから北の城壁の根あたりにあった。午前11時過ぎ、遠くから飛行機の音がして、街の人々は迎春園の裏に押し寄せた。爆弾はほとんどすべて「迎春園」の後ろ一帯に投下された。警報が解除されたあと、人々の嗚咽の声や悲鳴や泣き叫ぶ声が混じりあった。私が一旦隠れて避けた城壁の溝に残った8人の男たちはみんな吹き飛ばされ、大きな女の子は四肢がばらばらになり、男の子の腹部には穴があき腸は外に流れていた。赤ん坊を抱いていた母親は片手でその死体を抱きしめて体外に流れ出た腸を手で腹に押し込んでいた。6人の男性たちは、頭部が遠くに吹き飛ばされ、二人は土に半分埋められ、胴体も血と肉が飛び散って判別がつかなかった。残りの何人かは、腕がちぎられたり、足を失ったりし、「迎春園」の裏庭の壁には、人の皮や肉などが飛んだ残骸が一枚一枚くっついていて目も当てられない惨状であった。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
別途、同県弋江鎮を4機が爆撃し、200人余りの死傷者を出し、民家数十軒を爆破した。
*同日:2機が江蘇省無錫市宜興の張渚鎮を、4/22以来再び襲い、重爆弾13発、焼夷弾3発を落とし、37名を爆殺、家屋10数軒を破壊、焼失させた。その後も大量の飛行機が繰り出され、交通線状にある官林、楊巷、徐舎、張渚を爆撃した。空襲警報の設備がないこれらの地域では老人も若者も互いに助けあい、昼は共に壕に隠れ、田や野に伏し、山谷に避難し、夜、暗くなって帰るが、少しの明かりでも灯すわけにいかない苦しい生活が続いた。(これはまさに太平洋戦争時の米軍による日本への空襲時に似た光景である)
*同日:江蘇省徐州沛県、常州市上浦埠、安徽省馬鞍山市博望鎮を連続爆撃、「蠢動する敵を粉砕した」。
*5月4日:粤漢・隴海鉄道の沿線を爆撃。
*同日:安徽省新安鎮より山東省郯城県奪還を目指して北上中の中国軍約一万を数十度にわたり猛爆し、「この大部隊を部落とともに撃滅」した。
*同日:安徽省蚌埠市懐遠県洪廟村で陸軍の侵攻を支援して爆撃、その後村に侵入した日本軍は村民30余名を惨殺した。また同県荆山鎮支湖村にも支援爆撃、その後殺戮、強姦、放火が行われ、村民70余名が犠牲となった。
*5月4−5日:津浦線(天津と南京対岸の浦口を結ぶ)方面の河南省信陽、安徽省阜陽・宿県(現・宿州)、江蘇省徐州等の要衝に連続爆撃を加え、その輸送を撹乱した。
*5月5日:安徽省の蚌埠市固鎮、亳(はく)州市蒙城を爆撃。蒙城では18機が6時間にわたり、繁華街のほとんどが爆破された。家屋1400余間が爆破され、370余人の死傷者を出した。この後蒙城はこれまで三回と合わせて1942年まで十回爆撃を受け、家屋2150余軒を損壊し、爆死、爆傷460数人、四百余戸が被害を受けた。
*同日:隴海線上の山東省日照市街頭鎮南方に後退した中国中央軍約4万に対し「猛烈なる反復爆撃をなし、さらに逃ぐるを追ってこれを完全に壊滅せしめた」。(これら日本側の記録が正しいとすると、4、5日の二日間で約5万人の中国軍を戦死させたということになる)
*同日:早朝、2機が福建省漳州市雲霄(しょう)県の東坑村の上空に進入、先頭の一機が塩艇「光寧」号に急降下して弾を投下したが、命中しなかった。もう一機も再び急降下してきたが命中せず、岸にあった木製艀船二隻を爆破しただけだった。翌朝、2機がまた汽艇を爆撃し、4弾を投下したが、やはり命中しなかった。
*同日:日本軍機は江蘇省連雲港市贛楡青口を2回爆撃し、家屋数軒を破壊した。3回目の爆撃では爆弾は東門の外に落ちた。
〇 5月5日、中国空軍司令部は、4月に日本機75機を撃墜したと発表した。
【中国戦線の泥沼化】
〇 中国戦線の泥沼化、長期化により巨額の出費を必要とし、日本政府は1938年5月5日に国家総動員法を施行、報道管制はもちろん、総力戦の遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できるようにした。
*5月6日:広東省の粤漢線英徳駅および沿線を爆撃し、倉庫や貨車、鉄路を破壊、また焼夷弾で家屋数十戸を焼失させた。
*同日:江蘇省海州、淮陰に集結する中国軍大部隊に「爆弾の雨を降らせてこれを壊滅」。
*同日:津浦線および京漢線堰(えん)城(河南省漯河市)を爆撃、武漢方面への物資輸送を困難にした。
*同日:安徽省合肥市盧州、六安間と浙江省諸賢および寧波を急襲、軍事施設を爆撃。
*同日:安徽省蕪湖に対し、6日から三日間にわたる空襲が展開され、人口18万人の蕪湖はたちまちゴーストタウンと化した。10日には日本軍が蕪湖に侵入して放火し、西門から徽州まで、上海銀行から川辺まで燃やした。繁華街の中山路にある国貨ビル一帯は、塀だけが焼け残った。城中にひそんでいた一万余の人々は、ある者は焼き殺され、ある者は街頭で射殺され、ある者は家中で刺殺された。
*同日:山東省郯城県を爆撃。
*5月7日:江蘇省塩城市の運河駅への爆撃を手始めに、下旬までに各地の停車場、電信局、高騰司令部などを攻撃した。
*同日:江蘇省北部の要塞、徐州市邳(ひ)県の南澇要塞、山東省済南市莱城区後王家を爆撃。
*同日:安徽省阜陽市潁(えい)州を通過しているトラック200余台を発見、これに爆撃、機銃掃射を加えて「大部分を粉砕」。
*同日:安徽省合肥市盧州・六安、淮南市寿県、河南省帰徳(現・商丘)を爆撃。
*同日:江蘇省徐州の隴海線龍池集駅、運河駅、炮車駅を爆撃、集積した軍需品や貨車、鉄路を破壊した。
*同日:日本は徐州を包囲するため、蚌埠方面から渦河に沿って安徽省蒙城に向かった。その支援で飛行隊は蒙城を爆撃した。8年間の抗戦期間に、日寇は前後して蒙城に対して10回の爆撃を行い、何度も占領し、破壊した。統計によると、損壊家屋は1180軒余り、被災住民は2830戸余りに達した。住民を殺害し、怪我をさせた者は600余人、味方の将兵は2740余人。総損失資産は2785万2900元余りに達する。
*同日:広東省の粤漢線黄石駅、琶(は)江口駅を爆撃、軍用貨車、軍工場、鉄路を破壊した。
*同日:浙江省上虞県道墟を爆撃、縁日に来ていた民間人100人余りが死亡。
*5月8日:安徽省宿県・鳳台、江蘇省塩城市阜寧・連雲港市贛楡を爆撃。このうち江蘇省に対しては航空母艦から戦闘機を出動させたもののようである。
*同日:広東省粤漢線の清遠市琶江口駅、隴海線運河駅の沿線を爆撃、機関車、軍用貨車、倉庫などを破壊。
*5月9日:津浦線宿駅(安徽省)、隴海線の新安鎮(河南省洛陽市)、運河駅(江蘇省)を爆撃。
*同日:日本機が数機、安徽省亳(はく)県城(当時亳は阜陽に属す)を爆撃、北門口と青雲路に数発の爆弾を投下し、40人余りの死傷者を出した。
【徐州大爆撃】
*5月10日:地上軍の徐州包囲作戦が始まり、徐州駅などに爆撃を加え、「軍用貨車数百輌、集積軍需品に爆弾の雨を降らせた結果、各所に火災を起こし、殲滅的打撃を与えた。しかしこれは中国側の記録では「徐州の市街地を5回に分けて爆撃し、200発以上の爆弾を投下し、各所に火災を生じさせ、300人以上が死傷、4000戸以上を破壊、焼失させた」となる。(徐州に対してはこの後占領する19日まで連続で大量爆撃を行う)
*同日:山東省棗(そう)荘市台兒荘西南の鳳皇山南に集結中の中国中央軍約1万を急襲し、約10度にわたって反復爆撃し、大打撃を与えた。
*同日:安徽省蚌(ぼう)埠市固鎮、淮南市大興の中国軍司令部、密集部隊を「爆撃、壊滅させた」。
*同日:安徽省宿州の東関通りと大隅口にも爆撃を加え、多くの家屋が焼かれ、住民の死傷者は約百余人にのぼった。
*同日:安徽省合肥市廬江県城を爆撃(これは日本軍が占領した蕪湖市の飛行場からから出撃させた)、住民20余名を爆死させ、40余名を負傷させ、家屋600余戸を破壊した。この後廬江県へは1942年夏まで、17回爆撃された。
*同日:午前11時ごろ、8機が安徽省蒙城楚村上空で旋回偵察を行った後、交互に爆撃を行い、楚村集落と周辺は炎上しすべての家屋が焦土と化した。この時、兵18人、住民4人、民家の180間を焼き、楚村に大きな被害を残した。
*同日:3機が安徽省六安市舒城を爆撃し、数十発の爆弾を投下、市民約160人を死傷させ、南門と西門の主要路の家屋約千軒を爆破、市街地はほぼ全焼した。その後6月8日、日本軍第16坂井師団の3000人以上が城関を占拠し、公然と焼殺、暴行を行い、城内で逃走しなかった400人以上の住民を全て殺害し、城内に残った国民党部隊100名近くの負傷兵も殺害した。三里街の李家貴門にある数本の青桐の木に首を吊られて2、30人が殺害され、日本軍はまた至る所で婦女を強姦、水巷口で子供を生んでまだ3日目の女性が棺枢の中に隠れていたが日本兵に発見され、30数人の日本兵に輪奸され死に至った。強姦された女性の中には、腹を切られたり、乳首を切り取られたりする人もいて、その惨状は見るに忍びない。調査によると、全市で強姦された女性は150人以上に達する。同年8月中旬、駐城関日本軍は桃渓に退却したが、3日後に突然引き返し、馬頭街塩倉付近で、岩塩を掘り返していた民衆70人以上を殺害した。(『侵華日軍暴行総録』)
*同日:福建省廈門市同安県 城に襲来、松柏林街などで4人が死傷した。
【海軍陸戦隊による福建省厦門の惨劇】
*同日:海軍陸戦隊が福建省厦門島東北隅の五通付近に強行上陸する際に支援爆撃。11日午後、日本軍は市街を占領、13日までに廈門全島が日本軍に陥落した。その数日間、日本軍は行く先々で殺戮と焼き討ちを敢行、五通の街が最もおおくの被害を受けた。村民の陳秀治の家族8人全員も殺された。この人口70人ほどの村で、24人の村民が日本軍の銃刀によって惨殺された。ビルマから帰った華僑、叶君添の新築の大きな家は火に焼かれ、叶も日本兵によって戸外で銃殺され、同時に家族6人が銃殺された。2日後、村人が資金を集めて3人が犠牲者の遺体を埋めたが、日本軍の巡察隊に目撃され、銃殺された。11日午後、日本軍から逃れようと、大勢の市民が中山路、大中路、昇平路から鎮邦路、海后路一帯に押し寄せ、「公共租界」の鼓浪嶼に海を渡って逃げるため船を待っていたが、日本軍機に発見され、多くの人が船に乗る前に日本機の機銃で射殺された。船に乗った者は渡海中に日本軍機の爆撃、機銃掃射を受け、鮮血が廈鼓海峡を赤く染めた。12日、日本軍は曽厝垵に侵入、村に入るとすぐ一軒一軒を捜索、ドアをノックしても開けない家にはすぐに火をつけ、大きい家だけで40−50棟の家屋が焼かれた。日本兵は口実をつけては抗日人民として調べ、十数人を捕らえ、機関銃で集団射殺した。統計によると、日本軍が廈門を陥落させた数日間で禾山一帯の村々だけで、住民は500人以上が日本軍によって虐殺された。その後の7年間、日本軍は厦門で暴虐の限りを尽くし、餓死者も出るほどだった。(『侵華日軍暴行総録』)
*5月10日前後、江蘇省宿遷市宿城を爆撃。東関通りと大隅口が狙われ、家屋はほとんど全壊し、住民の死傷者は約100人に上った。馬号巷ではまだ重さ約500kgの不発弾が落ちており、地下10mあまりの深さに達し3ヵ月後にようやく掘り出した。(ちなみに500kg爆弾が爆発すれば20−30mの大穴が空き、その範囲の人間の肉体は飛び散って残らない)
*5月11日:約30機で4回にわたり徐州東・北両駅を爆撃、「軍用貨車群、倉庫などを爆破、炎焼せしめた」。
*同日:福建省福州・建臨・竜岩・長汀、さらに同省厦門に向かう自動車群を爆撃。
*同日:広州天河・白雲の各飛行場を爆撃、他の一隊が津浦線の宿県、固鎮間の貨車などを爆撃。
*同日:安徽省盧州・六安、安徽省北部を流れる澥河右岸の東平県、隴海線の河南省帰徳、商丘市永城、斬剣(省市不明)を爆撃。また安徽省毫県(州)の飛行場上空で空中戦、5機を撃墜。
*同日:安徽省宿州に二度目の爆撃、住民百人以上を爆死させ、市内の主要商業地区は廃墟となった。
*同日:午後、4機が金郷県城の上空に進入し、数十発の爆弾を投下し、城北門から城西門にかけては煙と火の海となった。食事を共にしていた馬家胡同の徐占安全家の3人は血肉となって吹き飛ばされ、住民は恐怖に慄き逃げ出した。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:12時頃、3機の日本軍機が 山東省菏沢市東明県に飛来、爆撃により一瞬にして全市は混乱に陥った。関帝廟の門前で鍋を使って飯を炊いていた二人が爆死、馬道胡同の西側で木の穴に隠れていた5人は爆発した土砂の下に埋まり、4人が窒息死した。理髪店では、散髪中だった2人が爆死、茶屋を開いていた親子二人は、そろって門の下で爆死し、この日14人が死んだが、この衝撃で気が狂い、やがて死んだ者も数人いた。(『侵華日軍暴行総録』)
*5月12日:徐州を54機が爆撃した。また広州の天河・白雲の各飛行場を爆撃。
*同日:津浦線の安徽省宿県、亳州市蒙城を爆撃。
*同日:広東省肇(ちょう)慶市高要飛行場と付近の市街地を爆撃。
*同日:日本機6機が江蘇省連雲港市贛楡県墩尚鎮の市場を爆撃、7人が死亡し、十数人が負傷した。同時に小道口村付近の山東大衆燃料輸送部隊を爆撃し、1人を爆殺、油輸送車十数台を破壊した。
*同日:朝、5機が河南省商丘市永城県城の上空で旋回し機銃掃射してきた。続いて午前十時頃、日本軍第13師団の戦車、自動車数十台が、飛行機の援護を受けて安徽省方面から永城に侵攻してきた。国民党大隊は少し抵抗したが県城から撤退。城内の住民も弾雨の中を城外へ逃げた。敵の機関銃、大砲が一斉に発砲し、東関三台閣が倒され、崇法寺塔、魁星楼が砲撃された。三台閣から一里あまりの商業地域約千戸が灰と化した。日本軍の鉄蹄は遠慮なく、放火、殺人、略奪、婦女を姦淫等の悪事は尽きなかった。一度に住民と壮丁隊員三十余人を捕らえ、城の東南角の南店子に連行して集団銃殺した。大隅口李保君の一家6人は洞窟の中に隠れていたが、発見されて全員が榴弾によって洞窟の中で爆死した。県城全体で7、8日間火が消えず、家屋は3000軒以上が焼かれた。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
【山東省の南湖惨事】
*同日:山東省日照県(現・日照市)西部の南湖村の川原で市が開かれ、村人たちが大勢集まっていた。突然10時ごろ、東北方面から5機の日本軍機が飛来、市場の上空を低空旋回し、一斉射撃を浴びせた。慌てた人々は悲鳴を上げて逃げ回り、人と牛、ロバ、豚、羊がぶつかり合い、人の悲鳴と動物のわめきが渦巻いた。さらに市の中心部で爆弾数十発が爆発し、煙が燃え上がった。川原は血の流れで目を覆うような惨状となった。日本機はいったん飛び去るかのようにみせた。それを聞いた南湖の村の人々は急いで家族を探しに行き、川原は父や母を、息子や娘を呼ぶ声で覆われた。そこに去ったはずの飛行機が戻ってきて、皆はあわてて南湖村へ逃げていった。さらに日本機は低空を旋回して、逃げる村人に向かって数十個の爆弾を投下し、瞬時に南湖村全体が火の海に包まれた。数百戸の南湖村は、川原の市場から村の集落と街路にいたるまで、爆撃にさらされた。青年の臼学吉は一ヶ月前、日本の侵略軍に銃剣で刺殺され、悲しみに沈んでいた妻の家に爆弾が落ち、両足のみを残して吹っ飛ばされた。またその日、近くの村に住む娘が野菜を売りに市場へ行き爆撃に遭った。親は娘が帰ってこないので急いで川原へ探しに行き、くまなく探したが娘の姿はどこにもなく、ついに一本の木の上に髪のおさげを見つけ、おさげについた紐が娘のものとわかった。両親は、娘が形骸さえ残さず死んでしまった悲しみにその場で気を失った(爆弾の中心付近にいた肉体の形は残らないのが普通)。南湖村の王応城は家にいたが川原の消火に駆けつけた。消火後、水を飲みに家に帰ると友達の王公辰が妻と一緒に家に避難に来ていた。ちょうど王応城の妻が湯を沸かしている時、日本機が戻り2度目の爆弾を落とし、王応城とその妻、そして自分の妻も爆死した。三人の体は血肉となって吹き飛び、人の区別ができなくなっていた。
二度目の爆撃の時、南湖村の趙自乾の妻と妹の2人は、娘2人を抱えてベッドの下に伏せていた。爆弾一個が庭に落ち、わらぶきの家が崩れ落ちて火事になり、家族4人が下敷きとなった。隣人が火を消して助け出してくれたが、大人2人は焼け死に、子供2人が意識不明の状態で助かったのは1人だけだった。長女の趙従集の頭には、いまだに長い火傷の跡が残っている。許延福の12歳の娘は両足に爆撃を受けて苦しみ、家には治療費がなく、その子は痛みに耐えられず、服毒自殺した。これが恐ろしい「南湖惨事」だ。事後集計によると、市が開かれた川原で死者468人、重軽傷者は集計不能。村の中では169人が死亡し(合計637人が爆死)、273人が重軽傷を負った。家屋1292軒が焼かれ、食糧147716斤、家畜79頭が爆殺された。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*5月13日:陸海の飛行隊が共同で70数機をもって徐州を大爆撃、百数十輌の貨車と駅施設、集積軍需品を徹底的に爆砕した。
*同日:鄭州(河南省)を18機が爆撃し、97発の爆弾を投下し、鄭州の34の通りや路地が破壊され、100人余りの死傷者を出した。別途、同省の開封・蘭封も爆撃。
*同日:河南省商丘市夏邑県に13機が出撃し、夏邑県と周辺の村を順次爆撃し、機銃掃射した。家屋、庭、樹木を焼き尽くし、民衆は逃げ惑い、200人以上が爆死し、数えきれないほどの家財が灰になった。
*同日:日本軍第十師団は永城夏邑県侵攻に向かい、韓鎮で国民党軍と遭遇、両軍の交戦と同時に、日本軍の爆撃機と迫撃砲の大爆撃によって、800余戸の大集落は完全に砲煙に包まれ、多くの家屋は倒壊し、千年もの間水に漬かっていた古代の牌坊までが吹き飛んだ。韓鎮の住民たちは家を捨てて逃げ回った。日本軍は韓鎮を占拠した後、狂ったように蛮行に走り、逃げ遅れた住民を虐殺し女性を陵辱した。集鎮東頭では一度に郭利坤ら10余名が日本軍によって掠殺され、50代の王好夫妻は路傍に縛りつけられて生きたまま焼き殺され、王愛雲の両親は生きたまま引き剥がされた。北街の老婦人は陵辱された娘のために命乞いをしたが、日本兵に一刀で斬殺され、娘は日本兵に戦車に乗せられて観音堂に連れて行かれ、輪姦されて殺された。また、一人の少女は数人の日本兵に輪姦され障害を負い、生涯寝たきりになった。集計によると、全町800余戸のうち500余戸が焼失し、8世帯が全員殺され、100余人の女性が強姦された。この後、5月24日、日本軍の第十六師団(南京虐殺で一番の“活躍”部隊)は夏邑県の北楊集を占領し、上記第十師団と同様な行為(割愛)を繰り返した(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:広東省肇慶市高要飛行場と民家を連続爆撃。
*同日:広東省梅県・天河、福建省竜岩・長汀などの飛行場を爆撃。
*同日:江蘇省隴海線の運河駅、広東省の粤漢線清遠市琶江口、広九線の石龍駅を爆撃。
*同日:午後3時、3機が武漢漢陽の乾隆巷で爆弾10発以上を投下し、家屋20棟余りを破壊し、住民20人余りを死傷させた。
*5月14日:徐州を70機が爆撃し、700人以上が死傷した。
*同日:広東省の粤漢鉄道の広州西村駅他隴海鉄道の沿線、広東省潮州市・肇慶市高要、福建省漳州の各飛行場を爆撃。
*同日:湖北省監利市柳家集(現・柳関社)、江蘇省泗洪県双溝、山東省曹県土山集などに敗走する中国軍部隊を爆撃。
*同日:徐州に接する安徽省宿県城内の中国軍部隊を二編隊が爆撃、別部隊がその周辺の30以上の部落を爆撃。
*5月15日:徐州を100余機が爆撃し、市街は一面火の海となった。
*同日:河南省の開封・蘭封・民権(商丘市)などを爆撃。
*同日:広州の天河・潮州、福建省の福州・漳州の飛行場、雲南省硯山を爆撃。また広東省粤漢線琶江口駅周辺を爆撃。
*同日:安徽省宿州市の隴海線碭(とう)山、津浦線上の宿県、蚌埠市固鎮を猛爆し、駅周辺や中国軍陣地に「殲滅的効果」を挙げた。
*5月15−17日:三日間、20機が、安徽省宿州市碭山駅に重爆弾を投下、給水塔を破壊したのを始めとして多数の死傷者を出した。16−17日、日本機は碭城の上空低空旋回し、急降下して機銃掃射、さらに多くの爆弾を投下するが、その中で三発の重爆弾と数発の焼夷弾が国民党県政府を破壊し、商店、民家を爆破した。町中が火の海となり、財物は焼き尽くされ、城内の軍民におびただしい死傷者を出した。日本軍鬼子は24日、県城を占領してから、南関で50人余りの人々を捕らえ機関銃で射殺、 城北の関帝廟の防空壕に隠れていた30名の住民を捕らえ全員を銃殺した。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*5月15−21日:7日間にわたって、安徽省蚌埠市五河県城に20数機を出動させて爆撃、民家、商店は半分壊滅した。
*5月16日:広東省梅県・白雲、福建省竜岩・建甌の各飛行場、広九鉄道、別途、徐州を爆撃。 竜岩では中国側の記録では「4機の日本機が上杭県城上空に侵入、2度旋回した後、うち2機が4発の爆弾を投下、そのうちの1発が城西の私立崇真初級小学校(カトリック教会所属)に命中、小学生の鐘兄弟が爆死した。水巷にも爆弾1発が落ち、住人の2人が爆死、一人の頭部は弾片で削られ、脳漿が飛び散った。城西に位置する郵便局の近くにも1発の爆弾が落ちて、1人の婦人が圧死した。この爆撃で民家3棟と小学校1校が破壊され、5人が死亡、19人が負傷した」(『侵華日軍暴行総録』)となる。
*5月17日:徐州、広東省高要飛行場、粤漢鉄道を爆撃。
*5月18日:福建省竜岩を爆撃。 また寧徳市福安県城に2機が侵入、急降下して3発の爆弾を投下、竜江街呉祠坪と民家3間を爆破して2人が爆死した。数日後、3機が襲来し、爆弾3発を投下、呉祠坪に落ち、2人が爆死した。
*5月19日:徐州攻略の最終段階に当たって、海軍飛行隊は徐州城内外の中国軍部隊を爆撃、また河南省商丘の夏邑城も爆撃。一方で陸軍飛行隊は徐州から潰走する中国軍部隊に猛爆を加え、安徽省蒙城県小澗集付近の1500の部隊を「粉砕」、別途、宿県の部隊にも「大爆撃」、さらに船で逃走する1500人の部隊も「爆滅せしめた」。
*同日:18機が安徽省宿州城を爆撃、午前8時から爆弾と焼夷弾多数を投下した。焼夷弾を受けて宿城は3日間に渡り大火が続いた。東大街の交通銀行が爆発炎上し、ここが起点となって火は中砲楼を経て東西に広がり、東城門まで延焼した。最初の調査では民家の損壊は約6000以上、死傷者は40人以上とされている。
*同日:安徽省亳(はく)州城を爆撃、40人以上の死傷者を出した。
21日、日本軍機3機が十河集を爆撃、48人が死傷、家屋300間以上を破壊した。同時に、日本軍機3機は古城集を爆撃、20人以上の死傷者を出し、50以上の家屋を破壊した。この他、龍徳寺を爆撃、20人以上の死傷者を出した。
△ 5月19日、日本軍は徐州、宿城を占領。
▽ 5月19日夕刻、中国軍機(米国製)2機が浙江省寧波(上海南方)の飛行場を離陸し、高度3000mで東北に向かい、九州熊本県人吉町の上空から宣伝ビラを撒き(長崎、福岡、久留米、佐賀及び九州の各都市ともある)、そのまま江西省南昌に帰着した。ビラの内容は「日本の労働者諸君へ!」のタイトルで日本軍の数々の残虐行為が記されていた。日本軍は驚いたが、報道管制が敷かれていて、この件は伏せられた。逆に中国の新聞は快挙として大きく報じた。
*5月中旬:河南省朱集(現・商丘市)は隴海鉄道の路線上にあり日本軍第16師団は徐州を占領した後、朱集に侵攻、そこに20機以上を出動させ、2度にわたって朱集を爆撃、民家100棟以上を爆破し、民衆500人以上を爆死させた。5月27日、日本軍は中国第10師団と戦闘を交え、中国軍が撤退、日本軍は朱集を占領してすぐに周囲の村を「掃討」し、焼き殺し、略奪し、罪のない人々を惨殺した。徐庄の村民12人が殺され、80軒余りの家屋が焼かれ、大陳荘では収穫したばかりの新麦5万余斤が燃やされ、民家300軒以上が焼かれた。寧陳庄のでは村民13人が殺害された。(『侵華日軍暴行総録』)
*5月20日:徐州西南側山地を退却する数千名の部隊を爆撃、さらに河南省商丘市永城地区を潰走する部隊、澗村一帯の千数百の部隊を「壊滅」。
*同日:同様に徐州からその東方にある閻窩村に逃げる軍民も多く、追撃する陸軍部隊を支援して爆撃。そしてこの閻窩村でも惨劇が起こる。
*同日:徐州南方の安徽省宿州市褚(ちょ)蘭、隴海線新安鎮(河南省洛陽市)南方の江蘇省宿遷および河南省帰徳などを襲撃し、中国軍陣地や鉄道貨車10数輌を「粉砕した」。
*同日:30数機で河南省帰徳に集結する中国軍部隊を爆撃、江蘇省北西部淮河の洪沢湖をジャンク船で移動する部隊を攻撃。
*同日:陸軍上陸作戦に合わせて、江蘇省連雲港市街と東連島を爆撃。 これは中国側の記録では「日本軍機6機が連雲港市小東関村に爆弾を数発投下、家屋100棟以上を損壊、死傷者数人を出した」となり、また「4機が連雲港板浦鎮上空に飛来、多くの爆弾を投下し、17人を爆死させ、家屋数百戸を破壊した」ともある。
【河南省駐馬店で1500人余りが死傷】
*5月20−21日:午前11時ごろ、河南省駐馬店に安徽省蚌埠方面から18機が飛来、18機は6つの小隊に分かれ、順次に商業繁華街洋街(現中山街)、北大街(現新華街)、長寿街、自由街、菜市街に向って急降下し、機銃掃射、爆弾を投下し、それを四回繰り返した。市街地は炎が燃え上がり、火の海となった。西南寨門から北大街、菜市街の南端までは、傾斜地の一部の建物を除いて、他の家は跡形もなく消えた。洋街に隣接する自由街、長寿街はすべて廃墟となり、焦土と化した。街には死体が累々とし、血の川となっていた。洋街の南の端には、爆発で分断された死体が百体以上もあった。駐馬店最大の胡永茂金号の三軒のビルに爆弾が直撃、家族と使用人は20人近くいたが、胡永茂の妻の腕だけが見つかった。菜市街の南の菜園にも死体が百体以上あった。農村から来て親戚に身を寄せた一人の娘も免れず、頭のお下げが壁にかかっていた。西劉荘の大きな樫の木は、枝が生い茂っていてたため、百人以上が木の下に集まって飛行機を避けたが、大木と一緒に爆破されて身体が散り散りになった。その中の一人の妊婦は、爆弾で胎児が十数歩の距離に飛び出した。西劉荘の防空壕では家族9人全員が死亡し、長寿街の10人ばかりは簡単な穴に隠れていたが、その家屋が爆破され、地面が崩れ落ちて全員が押しつぶされて死んだ。千寨河に逃げ込んだ百人近くの人が溺死した。翌21日も続いた爆撃で、罪のない住民1500人余りが死傷し、家屋3000軒余りが破壊された(『日軍侵華暴行実録』第2巻)。
*5月21日:安徽省淮北市百善・臨渙・宿県などにいる敗走兵に「反復爆撃ならびに大機銃掃射を加えた」。
*同日:21日未明、8機の飛行機が東方北方から安徽省亳(はく)州市渦陽県(十河鎮)に飛来、交互に数十発の重量爆弾と焼夷弾を投下、たちまち渦陽県城は煙と炎に包まれた。爆撃は日が暮れるまでつづき、50余名の死傷者を出し、県城の主街道、名所旧蹟をことごとく破壊、 家屋300軒以上を破壊した。午後、3機が高炉集の上空に来襲、旋回して爆弾を投下し、 20人以上の死傷者を出し、50軒以上の家屋を破壊した。翌日地上軍が渦陽県を占領。
*5月22日:正午頃、また河南省駐馬店に18機が飛来し、人家が密集している段庄を爆撃した。19歳の若さで、段庄に嫁いだばかりの王は、近隣の百数人の人々と村の防空壕に入って隠れたが、防空壕が爆破されて、一人の生き残りもいなかった。土砂が飛び散り、家屋はすべて灰と化し、段庄は瞬く間に廃墟になった。千人近い段庄で、生存者は三百人であった。(防空壕で何十人以上も死亡する例は、この6、7年後の日本でも米軍の爆撃によりしばしば生じた)
*同日:江蘇省連雲港市海州、広九鉄道を爆撃。
*同日:河南省開封を爆撃、駅付近20数両の列車、主要路線を爆撃。安徽省北部で淮河支流の澮河および澥河に集結する数千の部隊、同省六安の軍拠点を爆撃。
*同日:安徽省蚌埠東北地区における村落に潜む敗走兵、また河川上のジャンク船、河溜鎮などの残留部隊を反復爆撃して「多大な損害を与え」、また江蘇省海州における残部隊に対しても「致命的打撃を与えた」。
*5月23日:20数機で駐馬店を四度目の爆撃、飛行場その他各所に火災を生じさせた。
*同日:連日で河南省開封を爆撃、列車群、車輌群、兵営の部隊などを徹底的に爆撃、また澮河東北に敗走中の部隊に「銃爆撃を加えて大損害を与えた」。別途、河南省鄭州飛行場、蘭封地区の中国軍部隊を爆撃。
*同日:江蘇省北西部の洪沢湖、連雲港市の板浦鎮・墟溝、安徽省亳州市渦陽・蒙城等に「猛爆を加えた」。
*同日:南京の揚子江の対岸にある六合県城と竹鎮を爆撃。
*5月23−24日:23日午前10時ごろ、江蘇省淮(わい)安市に3機の日本機が城上空を低旋回、淮城南門の外側は食糧の集散地で、人の往来も大変にぎやかだった。突然1機が急降下して爆弾を投下、城楼の中央部分が崩れて落下、1人が圧死、2人が負傷した。 翌日午前9時頃、12機が淮城上空に飛来、城を一周して無数の爆弾を落とした。街の中心部の淮楼から南門市場の繁華街である南門街は一瞬にして瓦礫となり、その山の中には人の頭だけが出ているものもあれば、体の一部分だけが出ているものもあった。10代の子供が1人、穴の壁の土の中に埋められた。当時淮城で最も頑丈な防空壕では約100人ほどが避難しただけだったが、大型爆弾が壕に落ち、爆弾は不発に終わったが、強力な衝撃で壕は崩れて全員死亡した。この爆撃で、民家を1000軒近くが破壊され、民間人200人以上が死傷した。(『侵華日軍暴行総録』)
*5月24日:江蘇省の洪沢湖、徐州市豊県大沙河鎮、宿遷市泗陽およびその附近部落を爆撃。
*同日:日本機15機が江蘇省連雲港市贛楡県沙河鎮の市場を繰り返し爆撃、まず機銃を乱射し同時に焼夷弾数十発を投下、10人以上の死傷者を出し、家屋数百棟を破壊、焼失させた。
*同日:江蘇省海州西北方の大河・河鉄付近の集団部隊を爆撃。
*同日:20数機が江蘇省海州および 河北省邢台市「沙河鎮の約五千の敵を潰走せしめた」。
*同日:10余機が河北省恒州の鎮州城内にあふれる中国軍「敗残兵に百数十弾を投下して殲滅した」。
*同日:安徽省の阜陽市街区穎(えい)州、蚌埠(ほうふ)市の五河を爆撃。
*同日:午後、 安徽省阜陽市太和県城の上空に飛来、まず北関に3発の爆弾を投下、その後も何度も県城を空襲し、一度に来襲した航空機は多い時で10機以上で、関帝廟、孤救院、東大街の役所、西大街及び小南門にあった数百軒の家屋を爆破し、10人以上を爆死させた。(『侵華日軍暴行総録』)
*同日:9機の日本軍飛行機が安徽省阜陽市を交互に爆撃し、激しい焼夷弾を投げ、文徳街、大寺街、三府街、颍州師範学校、黉学院、昭忠小学校に着弾し、大火が2昼夜延焼し、 1938年の爆撃で市内の1100人が死亡、75%の家屋が爆破され、焼失した。(この38年の1100人とは主にこの5月初旬から6月で、さらにその後の侵略による暴虐行為の犠牲も入っているのかもしれない)
*同日:午前、8機が福建省漳州市漳浦県城を空襲、急降下爆撃の後、民家が倒壊炎上し、おびただしい死傷者を出した。現地の英国キリスト教会の牧師は、教会が運営する逢源小学校の運動場に大きな大英帝国の国旗を広げて日本機の爆撃を防げると考えたが、その結果はその小学校と教会の女子寮、医師棟が爆撃され、教会に隠れていた長老蔡発祥と源梁病院職員が爆死した。また蔡恢一家は悲惨で、住宅が崩落し、本人と両親と妻子5人は爆死した。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*5月25日:河南省南陽飛行場、湖北省裏陽・老河口、江蘇省海州の飛行場等、また広東省の粤漢線の琶江口南方の敦塘駅、広九線の石龍駅などを爆撃。
*同日:安徽省蚌埠市懐遠南方・鳳台北方・穎(えい)州を爆撃。
*同日:安徽省亳州市渦陽県を襲撃、午前、3機が国民党軍の退却した高炉集上空に来襲、民間人3人と兵士5人が死亡。午後また6機が急降下機銃掃射を行い爆弾を投下、爆撃は大火を引き起こし、高炉集は東西南北で一面の火の海と化した。家屋六百余軒を焼き、家財などを無数に失った(2日連続で1000軒以上、100人以上が爆死ともある)。
その後の5月29日午前7時、日本軍は高炉集西楊楼に侵入し、楊志栓など5人を束ねて西北角場に連行して銃殺した。続いて午前12時、楊建武、小利子、長山の3人を千東北角場内で銃殺。午後1時、子供の楊軒、小芳等4人と祖母たち計6人が殺害された。同日午前8時、別の日本軍が楊寨に入り、張麻子、張小志、施長乙等12人を殺害した。翌日午前8時、日本軍は渦河を渡り、李春荘で李玉卜一家等の10人を殺害した。李腰荘では、大伸、李子明、王愚人ら8人が殺害され、朱荘でも5人が殺害され、計53人の老若男女が殺害された。さらに楊上楼、田小廟、楊庄、楊寨、李春庄及び李腰庄などで計100人余りの女性が強姦された。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*5月26日:江西省玉山・南城、浙江省麗水・温州、福建省竜岩・長汀・南平市浦城等の飛行場、また粤漢鉄道沿線を爆撃。 浦城では飛行場とは別に県城街を空襲、28発の爆弾投下し、女の子1人が爆死。
*同日:徐州からの敗走兵大部隊に対し江蘇省六合付近で「約70機をもって大空爆を敢行した」。
*5月27日:河南省鄭州市街・開封・蘭封の要塞、山西省忻州市清涼寺付近の砲兵陣地、四川省徳陽市馬道府・紋廟、安徽省霊璧県崔楼・阜陽市袁寨等の中国軍陣地に「爆弾の雨を降らせ、多大の損害を与えた」。
*同日:広東省広州市石龍、東莞市常平などの広九鉄道沿線を40機で爆撃、鉄橋、駅近辺の建物、鉄路を切断埋没は10数カ所に及んだ。
*5月28日:71機が広州を3回に分けて爆撃し、中山記念堂、昌華大街、逢源三巷、田慶新街、中央公園、合華路などに大型爆弾150数発を投下、600人以上が爆撃を受けて死亡し、1000人余りの負傷者を出し、600以上の家屋を破壊した。また河岸の大小20数隻の船を爆沈させ、川面には100以上の死体が散らばり、負傷者は血まみれの中で苦悶していた。
*同日:浙江省寧波市・紹興市諸曁(き)、江西省撫州市の南城・広昌、贛(かん)州市の贛県の飛行場等、江蘇省海州一帯の敗残兵陣地を爆撃。
*同日:広東省南雄、東莞の砂糖工場を爆撃。
*同日:30機で広州の粤漢線起点の黄沙駅の施設や貨車群、鉄路、倉庫などを爆撃。
*同日:3機が安徽省廬江県城に十数個の爆弾を投下し、郵便局と十数軒の民家を爆破。爆弾の落ちた場所からは一人の女性と、十六、七歳の少女の死体が見つからなかった(爆弾に直撃されると人の形は残らない)。
*同日:安徽省毫州の張集 を爆撃、3人の死傷者を出して、家屋10以上を破壊。
*同日午前:3機が福建省漳州市漳浦県に飛来し、県前街に焼夷弾数発を投下、4棟の建物が焼失し、住民13人が爆死した。
*5月29日:連日で広州を36機が2回に分けて爆撃した。中学校や小学校も爆破され、死傷者は500人余りに達した。
*同日:四川省綿陽市曲興村西方の部隊に機銃掃射、河南省蘭封西方の砲部隊を載せる列車を「爆砕」、商丘市野鷄崗付近を走る中国軍兵「満載の列車群を爆襲した」。
*同日:30機をもって広州付近の軍事施設を爆撃、省政府・軍司令部に対しても多数命中し炎焼せしめ「壊滅的損害を与えた」。
*同日:広州市河南の工場地帯、東莞増歩の電力、セメント、硫酸等の工場を爆撃。
*同日:江蘇省海州に密集する敗残兵を爆撃。
*同日:数機が安徽省亳州市義門鎮の商業地区と住宅地区を爆撃し、水巷口以西、街南巷北の商店、平屋をほぼすべて爆破した。大火は一晩中燃え続け、無数の財物を焼いた。最も惨めなのは東街の老番頭の一家で、被爆して血だらけになって全員死亡した。またちょうど麦の収穫の季節で、渦河の両岸には数千畝の小麦が一面に黄金色に染まっていた。その渦河一帯の麦畑に対して、数十発の焼夷弾を投下し、数千畝の小麦を灰に変えさせた。この月の渦陽に対する乱爆により、400余名の命が失われ、家屋7千余間が延焼、破壊され、数千人の帰る家がなくなった。なお、この日から翌30日にかけて日本軍は義門鎮の楊楼など6つの村で、男女老幼53人を虐殺し、婦女への強姦300余名と『渦陽県誌』にあるが詳細は省略。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:一機が福建省漳州市華安を爆撃。
【日本軍に記録されない市場への爆撃】
*5月30日:(以下、5月12日と同様、普通の町の人が集まる市場が爆撃された例で、この種の市街地への無差別爆撃は同じく日本側の記録にはない)
日本軍の2機が、山東省臨沂市莒南県劉家荘を空襲、爆弾3発を投下、民衆283人を爆殺し、恐ろしい惨事を引き起こした。朝食後、私(王康聚)は祖父と一仕事を終え、祖父は「市場でナイフを買ってくる」と言って出かけた。午前9時頃東北の空から、翼の下に太陽の紋章をつけた黒い飛行機が二機飛来した。市場の上空で急降下して爆弾を落とし、轟音とともに一瞬煙が立ちのぼり、飛行機は何周か回ってすぐに飛び去った。それを見て慌てて市場へ走った。木の下には、血の滲む死骸、足の欠けたもの、腕の切れたもの、頭の半分しか残っていないもの、腹が割け腸を出したもの、息も絶え絶えに呻き、もがいていて見るも無残な惨状だった。ここで33人の同胞の命が奪われ、さらに多くの負傷者を出した。死傷者が最も多かったのは西門だった。市場の人々は飛行機が急降下してくるのを見て、必死に西門の中へ走ったが、混んでいて、西門はふさがっていた。1個の爆弾がちょうどその人の群れの中に落ちて、60mほどの列になった場所で 女33人、子供3人を含む 97人が血の中に倒れた。柑橘類の木の枝にはたくさんの人肉、血のついた衣服、切断された足や腕で覆い尽くされた。もう1つの爆弾は、家畜市場に落ちた。そこには38体の死体が横たわっていた。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
なお、爆弾三発にしては爆死者が多いと見えるかもしれないが、この場合500kg爆弾を投下したと思われる。500kg爆弾は直径30m程度の大穴を空け、その中にいた人は形が残らず、土砂は周囲を埋め、粉々になった破片も飛び散り周辺の人々を殺傷する。
*同日:四日連続で広州市街を爆撃し、市民400人余りが死亡し、700人余りが負傷した。(当時の日本の新聞記事には「広州市内外の軍事施設、省市政府、軍司令部などを炎焼せしめ」とあり、実態とは違う)
*同日:広州市増城の万角砲陣地、東莞市増歩付近の軍需工場などを「粉砕した」。また連日で海州に密集する敗残兵を爆撃。
*同日:福建省建甌・福州・浦城、浙江省麗水・衢州・寧波、江西省玉山、湖南省湘潭市の各飛行場を爆撃。
*同日:河南省開封市陳留口は黄河両岸をつなぐ重要拠点で日本軍が占領していたが、中国軍の反撃に対し、「徹底的爆撃を敢行した」。
*5月31日:武漢の漢口飛行場等を爆撃。艦戦30機が漢口上空で中国機50機と空中戦、20機を撃墜したとするが、中国側の記録ではこの日の気象条件が悪かったため、日本機(戦闘機36機、爆撃機16機)からはまともな攻撃はなく、「中ソ空軍が30分ほどで(目標に到着できずに武漢の外で滞留している)数機の日本機を撃墜、中ソ空軍は1機ずつの損失とパイロット1名ずつの犠牲であった」としている。
*同日:広州の白雲飛行場北部の兵舎群、増城の万角砲陣地を爆撃、炎焼させ、粤漢鉄道広州西村駅北方の貨車群、鉄路数カ所を爆破。
【慈善団体によって多くの住民が虐殺から救われたが…】
*同日:日本軍が4月3日に続いて再び海兵隊300人以上を集め、十数台の軍用車と大量のオートバイに乗り、5、6機の飛行機の援護の下、山東省煙台市牟平城を攻撃した。まず飛行機が牟平城上空を旋回、機銃掃射と爆弾を投下、続いて城西門前で航空機、機関銃の援護の下で、壁を越えて城内に入った。城内では住民を見ると、男女を問わず遠ければ銃を撃ち、近ければ銃剣で突き刺した。防空壕に人がいると、機銃を掃射し手榴弾や毒ガス弾で爆破、防空壕にいた住民はすべて死亡、城東門北側の防空壕内では13の死体があった。別の日本軍は老若男女4000人以上を城の南西のある空地に追い立て、強制的にひざまずかせた。十数挺の機関銃が周囲に据えられ、数百の銃剣が周囲に整列し、大虐殺が始まろうとしていた。紅卍字会(奉仕団体)の2名の責任者、王心斎と賀俊生が死を冒して日本軍に八路軍に加担する者はこの中にはひとりもいないと懇願、この場の大量虐殺は免れた。 しかし日本軍は収まらず、群衆の中から住民十数人を選び出し、水をつけた革鞭で交互に打った。殴られたあとは肉が裂けて死んでいった。抗日兵士と疑われた何人かの青年は、その場で斬殺された。その後、群衆の中から30人程の青年男女を選び出し、縛って車に放り込み、煙台まで連行し、男は東北の労働者として送られ、女は強姦され、売春宿に送られた。さらに 9月15日、烟台に駐屯していた日本軍200人以上が、オートバイ兵と騎兵を先頭に再び牟平城にやってきた。途中、村を見ては焼き、塀を倒し、家を壊し、兵糧を灰にした。牟平城内の住民たちは日本軍の到着前に家を捨てて城を出て周辺の村に避難した。日本軍機が町中を爆撃する一方で、日本軍歩兵は城に入ると、兵を四隊に分けてガソリンを各戸にかけて家々に火をかけ、町中が火の海になった。この大火で民家289間が焼失し、牟平城内の重要文化財である文廟、文昌閣、魁星楼及び校舎の一部が全焼し、避難に間に合わなかった老人、産婦、乳児数十人が焼け死んだ。1938年2月から9月までの半年間に、日本軍機は牟平に数十発の爆弾を投下、100人近くの民間人を死傷させた。(『侵華日軍暴行総録』)
〇 5月28日からの広東省広州への連日の大爆撃により、市内は大混乱に陥り、避難民が続々と香港へ殺到し、5月末までに広州、汕頭、厦門方面からの避難民は75万人に上った。広州は貿易で栄えた街であり、日本軍は中国側の物資輸入を困難にする目的で爆撃を重ねたが、当然欧米の商社や領事館などが多くあり、日本軍の無差別爆撃に対する抗議の声が強まった。それに対して日本の外務省情報部長が以下のように反論した。—— 広州は無防備都市ではなく、強力な防衛設備を有している。また日本の空爆の目標は軍事基地や軍事工場であり、住民の居住区を目標としていず、危険にさらすことはない。住民の被害は中国軍が反撃のために榴散弾を使ったために起こったのであろう。—— 28日に600人以上が爆死し、1000人余りの負傷者を出し、翌日にも500人以上の死傷者を出している現実をまったく無視した言い草である。
【5月中の海軍航空部隊の爆撃数】
〇 大本営海軍報道部の6月2日の発表では、5月中の海軍航空部隊の爆撃は約1800回、投下爆弾は900余トンに達した。また破壊した機関車は15、貨車400輌を超え、敵飛行機の損害は不確かも含めて26機、自軍は2機としている。「事変」以来の敵機撃墜の確実なものは417、地上機450、総計867機、自軍の損害は84機であった。(こうして発表するのは自分たちの戦果として誇っているのである。陸軍の詳報はないが、陸軍は主に華北を主とし、また地上軍の侵攻に合わせて爆撃をし、海軍ほど多くはない)
【爆撃による死者1万6千人越え】
〇 中国側の記録では、1937年8月より1938 年5月までの間、日本軍の華北(中国北部のことで中南部は入らない)での空襲回数は2446回、投下爆弾量 22020発、 爆撃により4275人が死亡、6238人が負傷、家屋8836軒が全半壊した。
〇 別の国民政府統計では(1938年8月発行)、1937年8月より1938年5月までの全都市と町村(中国では郷と鎮)への爆撃は16の省の275地区で、計2204回、爆弾26951発、死者10482人、負傷者13319人、家屋の損失は42087軒となっている。(この2204回は少ないし、まだ調査が仕切れていないのであろうが、最終的に1945年8月までの空爆回数は1万2592回、死者33万6千人、負傷者42万6千人とされている)
▽ ただ、もう一つ上海文化界国際宣伝委員会が調査した同時期の調査では、同じ16省で計2473回、爆弾33192発、死者16532人、負傷者21752人とされていて、こちらの方が細かく調査されている可能性はあるが、後年日本が米軍機により受けた爆撃の時も正確な数値は出されていない。
6月
◎ 6月1日:国際連盟の胡世沢中国大使は、中国の無防備都市への連続爆撃と一般住民への虐殺について、日本の戦争犯罪として国連に制裁を要求した。
*1938年6月1日:河南省開封市杞県城とその西側周辺に駐留する大部隊を空爆、またその北方の四原の野砲陣地、開封西方20kmの興隆集の退却部隊を襲撃した。
*同日:広東省粤(えつ)漢線の清遠市琶江口南方でガソリン輸送中の貨車群を爆撃、炎焼(ママ)させた。
*同日:朝、9機が安徽省六安市金寨県流波䃥鎮を爆撃、西遷中の国民党安徽省政府の壊滅を狙ったが、その爆撃の中、南街で豆腐屋の家族6人全員が爆死、4歳の息子は小さな手は吹き飛ばされ、10m離れた戸板にめり込んでいた。城の中心部の家屋は爆破されて見渡す限りの廃墟となった。さらに午後1時ごろ、6機が第2次の爆撃を行い、小河の南の家々は爆発炎上、小河の溝に避難した人々はすべて爆死、血肉が糊のように流れていた。その後日本機は5回も爆撃を行い、城全体で700戸以上の家屋が倒壊し、400人以上が死亡した。(『侵華日軍暴行総録』)
*同日(あるいは8日)、三機が安徽省阜陽市穎(えい)上県新渡口を五回にわたって爆撃、船二百余艘を爆破し、渡河する難民三百余名を爆死させ、百余名の重傷者を出した。南北両岸は300mほどにわたって死体が散乱し、多くの女性や抱えていた子どもたちが一斉に吹き飛ばされ、子どもたちは泣き叫び、荷物があちこちに散乱していた。
*6月2日:広東省韶関市南雄飛行場を爆撃、付属建物と滑走路を破壊した。また広州と香港の九龍間の自動車道を攻撃、軍用自動車約20台を破壊し、道路十数カ所を爆破した。
*同日:河南省開封城東南の宋門とその付近の部隊を「粉砕した」。
*同日:日本機2機が江蘇省連雲港市贛楡県柘汪鎮の市場に爆弾を投下、村民4人が爆死。同日2回目の爆撃も2機が行い樹林に向けて爆弾1発を投下したが、死傷者はなかった。3回目は湾内の港を爆撃、漁船2隻を爆破、魚民2人が爆死した。別途6月上旬、日本軍機は贛楡県九里村に2回爆撃を行い爆弾数発を投下した。
*同日:午前1時2分、3機が再び福建省竜岩の上杭県城を襲い、爆弾12発を投下、城東の李家祠、瑞慶巷、学坪、丘家祠などに落ちた。南通百貨店の入口前の道路にも1発が落ち、4間の店舗が壊され、7人が死亡、32人が負傷。
*6月3日:福建省の浦城・建甌・竜岩・長汀の各飛行場と付属施設を爆撃。
*同日:福建省三明市永安県を初爆撃。数発の爆弾が投下され、銀行などに着弾、金庫と民家数軒を爆破、住民2人が死亡、女性1人が足を切断される重傷を負った。
*同日:江蘇省高郵付近にいる敗残兵を「猛爆し、これを壊滅した」。これに対し中国側の記述では、「6月3日、日軍機による爆撃は高郵城市入口で市民20数人を爆死させた」とある。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:広海沖で武装した大型ジャンク船6隻に海軍艦艇が攻撃を受け、それに対して空爆し三隻を焼却、一隻を大破させた。
【爆撃と機銃掃射と拷問と銃殺と強姦と放火】
*6月4日:午前、河南省開封市の尉氏県市街地を爆撃、機関銃掃射によって、300人以上が殺害された。この日本軍第十六師団(前年末の南京大虐殺の主役)が尉氏県に侵略、占拠して蘇堂・劉荘村一帯を通過した時、蘇堂村だけで罪のない住民26人を殺害し、家畜を30数頭殺し、この一帯で女性100人余りをレイプした。更に悲惨なことに、この「獣兵の群れ」は劉の3人の娘を輪姦し、なんと刘をそばで見るように強要した。6月6日の朝、開封から許昌に向かっていた6人の男女避難学生が、県北関祖師廟のそばを歩いていたところ、廟にいた日本兵に発見されて捕らえられ、男三人を木にくくりつけて拷問し、女性をレイプした。最後に道路の溝に連れて行って銃剣で突き殺した。この他、尉氏県の各地の村でひと月の間に同様な暴虐が繰り返され、約千人が銃殺や焼殺などで虐殺され、婦女子が強姦され、千戸以上の家が焼かれたが、一度、怒りに囚われた村人が、入ってきた日本兵11人殺し、二人は傷を負って逃げた。そのため日本兵は大砲や機関銃で村を包囲し、より大きな虐殺、強姦、放火を繰り返した。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:広州市の広東省本部、無電台、保安総本部、公安局などを「徹底的に爆破」した。これは中国側の記録では、「市街地を約40機が空襲し、約40分にわたって爆撃、市民に多数の死傷者を出した」となっている。
*同日:安徽省安慶、江西省九江の飛行場、粤漢・広九線の黄沙駅、石龍、常平駅の要衝を爆撃。
*同日:浙江省麗水市、寧波市慈渓、江西省玉山を爆撃。
*6月5日:広州を34機が爆撃し、600人余りの死傷者を出し、中山大学(孫文ゆかりの大学)が三度目の爆撃を受け、文・理・法学院また付属中学校が破壊された。
(ちなみに後年の米軍の日本への爆撃は、あらかじめ皇居や東大などを含めた主要な文化施設は爆撃の対象にしなかったが、それでも3割は誤爆があった。日本軍の場合、建前は軍事施設とされたが、実際にはそうした配慮は一切なされていない)
*同日:江西省上饒市玉山・浙江省麗水・広東省南雄・白雲、河南省南陽の飛行場を爆撃。
*同日:広東省の広九・粤漢鉄道の黄沙、黄村、石龍、西村の各駅とその周辺の施設を爆撃。
*同日:安徽省淮(わい)南市鳳台・壽県を爆撃。
◎ 6月5日、ジュネーブ国際禁烟(アヘン)委員会で中国代表の胡世沢は、日本軍が中国でアヘンを販売している罪を暴いた。
*6月6日:広州を40機余りが三回に分けて爆撃、100発余りの爆弾を投下し、2千人以上の死傷者を出し、家屋700棟余りを破壊。街中に50数発が落とされ各所に死体が散乱した。広州市民はこの1週間で、爆撃による死傷者が5000人に達した。アンリ駐日フランス大使は6日、日本政府に抗議した。
*同日:広西省南寧市付近で、日本海軍の爆撃機が輸送油の貨物船を爆破し、船は炎上した。また日は定かでないが、南寧市の石油倉庫を爆撃し、大火を引き起こした。
*同日:河南省鄭州市の京漢線新鄭付近で南方に退却中の列車を数輌爆撃し、「粉砕炎焼せしめた」。別途鄭州駅を爆撃し、鉄路の分岐点、設備建物に42弾を命中させた。
*同日:河南省洛陽の兵営を爆撃、中国軍陣地を混乱させた。
*6月7日:広州市天河飛行場を爆撃。
*同日:広州市街を昼夜の別なく爆撃、民間人には低空で機銃掃射を行った。
*同日:再度河南省鄭州を連日爆撃し、「重要建築物を爆破、炎上せしめた」。
*同日:河南省許州(許昌)の京漢線を爆撃。また再度洛陽を襲い、西停車場の駅および列車を「爆砕した」。
*同日:安徽省寿県正陽関、安徽省阜陽市穎(えい)上県新渡口を交互に爆撃。
*6月8日:50数機が数波に分かれ、広州を一日中爆撃。西村発電所が爆撃され全市が停電となった。そのため各病院が負傷者の手術ができず、なすすべがなかった。死傷者は数千人に及んだ。なお1931年に建てられた孫文ゆかりの中山記念堂が爆撃を受け、破壊された。(日本のグラフ誌に、破壊された記念堂の前に誇らしげに立つ兵士たちの写真が載っている)
*同日:広州天河飛行場と粤漢鉄道沿線を爆撃。
*同日:浙江省を流れる銭塘江の南岸蕭山東方に集結した数千の部隊を爆撃。
*同日:三機が安徽省阜陽市穎(えい)上県新渡口を五回にわたって爆撃し、船二百余艘を爆破し、渡河する難民三百余名を爆死させ、百余名の重傷者を出した。南北両岸は300mほどにわたって死体が散乱し、多くの女性や抱えていた子どもたちが一斉に吹き飛ばされ、子どもたちは泣き叫び、荷物があちこちに散乱していた。
*6月9日:広東省の広州・白雲・韶関・福建省の浦城・建甌・竜岩・長汀、江西省広昌の飛行場および広九鉄道を爆撃。
*同日:9機が安徽省滁州市全椒県県城を爆撃、 同時に民衆に向けて機銃掃射、この空襲は30分も続いた。城内の軍民80人以上が被爆して死亡、百戸近くの家屋が爆破された。
〇 武漢駐在の党政軍機関は撤退を始め、党政機関は重慶、軍事機関は湖南に移った。
【広州大爆撃:5000人以上の死者】
広東省広州に対し、5月28日からこの6月9日まで、13日間連続で30回以上爆撃し、340機以上が出撃、5000人以上が死亡または重軽傷を負い、3000軒以上の家が破壊された。つまり、5月までの死者の報告からひと月で少なくとも5千人増えた。
*6月10日:安徽省阜陽市穎(えい)州を偵察攻撃、また六安市の軍事施設を爆撃。
*同日:広東省広州市天河区黄華堂村を爆撃し、数十人を爆死させた。
*1938年6月11日:続いて安徽省六安を爆撃、また蕪湖市無為県付近に集結していたクリーク内の300のジャンク船を「微塵に粉砕した」。
◎ 6月11日、国際反侵略運動大会は中国支援議案を採択し、各国に中国支援と日本製品ボイコットを要求した。ルーズベルト米大統領とハル国務長官は、日本への米国製航空機の販売を止めると述べた。
*6月12日:河南省の開封と鄭州を爆撃。(ここまで開封は日本機の空爆を十数回受け、鄭州は20回以上も爆撃された)
*同日:福建省福州市に34機が日本の植民地台湾の基地より来襲、馬尾造船所、海軍病院など爆撃、以後、1機から20機で爆撃、時に低空で機銃掃射、10人が死亡、9人が負傷。
*同日:広東省の粤漢・広九の鉄道沿線、広州市従化の飛行場、東莞市虎門の兵営を爆撃。
*同日:「早朝、敵の終結陣地漢口飛行場を一挙に破壊すべく〇〇基地を出発」。
*同日:明け方、日本軍は江上から大砲火で安徽省安慶の揚子江沿いの軍事目標と住民家屋を撃ち、続いて爆撃機が空から乱爆した。日本軍は上陸後、中国人を見ては殺し、至る所で火をつけて、街道沿いの住民200人余りが殺され、江沿いの商店の住民の家屋は半分以上爆破された。
*6月13日:福建省福州・泉州の恵安・建甌の飛行場等を爆撃。
*6月14日:広東省の粤漢鉄道、福建省福州・恵安・建甌の飛行場を爆撃。
*同日:広西省桂林の飛行場を10数機で初空襲。
*同日:江蘇省南部と浙江省北部の境界にある太湖と安徽省六安を爆撃。
*6月15日:湖北省京漢線襄陽、河南省信陽の飛行場、また江西省九江市の馬当鎮砲台を爆撃、また揚子江上のジャンク船を各所で撃破した。
*同日:山西省呂梁市離石県を爆撃、20日まで継続され、毒ガスも投下された。(山西省は既述のように毒ガス弾の対象となっている)
*同日:日本軍は共産党軍の根拠地である山西省朔州市山陰県に討伐作戦を展開、共産軍は谷間に追い込まれ、空から飛行機5機が爆弾投下と機銃掃射を繰り返し、合わせて53人が爆死、殺傷された。
*同日:広東省広州の省政府を「爆破炎焼させ」、軍需工場数棟を爆破、京広線銀盞(さん)坳・軍田駅付近で貨車10数輌を爆破、線路を寸断した。
*同日:河南省許昌市長葛方面に集結中の中国軍部隊を連続爆撃、また安徽省潜山付近を偵察中の陸軍機が地上からの猛射を受けて炎上し、中国軍陣地に目がけて自爆し、二名が「壮烈な戦死を遂げた」。
*同日:18機が安徽省合肥市立煌県独流鎮を爆撃し、住民四百人以上が死亡した。
*同日:8機が安徽省金寨県流波鎮を爆撃し、全鎮の家屋の3分の1を爆破し、380人の死傷者を出した。
*同日:湖北省黄岡市蘄春を初爆撃。
*同日:午後五時ごろ、警戒警報が発せられないうちに、江蘇省淮(わい)安市の上空に日本機6機が侵入、次々と爆弾を投下、さらに機銃掃射をした。近くの百善巷、鍋鉄巷、穿家巷も爆撃と機銃掃射を受け、30人以上の死傷者を出した。庭の小さな防空壕に隠れていた青年学生林宝昌は強烈な爆風で空中に吹き飛ばされて通りを越え、遺体は数十メートル先の釜鉄巷に落ちた。南東部の三角橋一帯には大量の焼夷弾が落とされ30数棟あった王氏の大邸宅の家の全棟を爆破、散在していた数十軒の草ぶきの家も焼失した。日本機はまた屋内から逃げ出してきた民間人たちに機関銃を猛烈に乱射し、死体は銃弾痕だらけになっていた。 この年、淮城は3回爆撃を受け、合わせて320人以上の民間人が死傷、民家1300以上が破壊された。(『侵華日軍暴行総録』)
*6月16日:江西省贛(かん)州市龍南、江蘇省淮(わい)安市と市街区准陰、広東省広州天河飛行場、同省韶関市楽昌を爆撃。(楽昌上空で中国軍戦闘機11機と空中戦、3機撃墜、日本機も3機あるいは5機が撃墜され、一人が捕虜となったが、殺されてはいず、傷は治療された)
*同日:続けて広州の残存する省政府、軍需工場を爆破、また京広線銀盞(さん)坳付近で貨車群を爆撃炎焼させた。
*同日:揚子江を進撃する陸軍部隊を支援し安徽省蕪湖上流両岸、江蘇省淮陰・淮安攻撃にも協力して市内の陣地、軍事施設に「大打撃を与えた」(5/6に「壊滅」させたはずであったが)。
*6月17日:武漢を爆撃、別途漢陽の兵器工場と鉄工所を破壊。これに対する中国側の記録は「12時、敵機が武漢を爆撃した。1群の敵機は漢陽まで飛んで、先に機関銃で地面に向かって掃射して乱爆、さらに亀山北部に移動し、漢陽の兵器廠、鉄工所に爆弾を投下し工場を破壊、工場に隣接する乾隆巷の高公橋や漢水沿いの住民も爆撃され、血と肉が飛び、手足がもがれ、首がバラバラになり、死傷者は数えきれなかった」(『日軍侵華暴行実録』第4巻)となる。
*同日:海南島の北岸、海口市の警備司令部、軍事施設を爆撃、「大破せしめた」。
*同日:広東省江門市台山の新寧線斗山駅の貨車群、線路を切断。
【武漢作戦】
日本の大本営は6月18日に「武漢作戦」の準備を命令、目的は中国国民党が仮の政府を置く要地である武漢三鎮の占領である。日本の兵力は35万人で、目的はこの日中戦を早期に終えることであった。
*6月18日:福建省福州の兵舎・兵工場、広東省韶関駅建物、貨車群、線路、飛行場、海南島海口砲台を爆撃。
*同日:江西省九江市瑞昌の馬頭鎮を爆撃。(馬頭鎮は武漢の東南にあり、武漢攻略にあたっての中国軍の守りの要衝で、長江(揚子江)南岸にあり、その北岸にあるのがやはり守りの要衝の田家鎮(湖北省黄岡市武穴)で、この両岸に地上部隊の援軍として爆撃が加えられるようになる)
*6月19日:九江市馬頭鎮を反復爆撃。
*同日:広東省粤漢線琶(は)江口駅、広九線沿線の貨車、線路、東莞市常平付近の砲台、また海南島海口を海軍の艦船と協力して爆撃。
*同日:江蘇省無錫市宜興の徐舎を爆撃、爆撃は3日間で6回続けられ、米棲、蛟爪扜など約20箇所が被爆、小爆弾80以上、200以上の民家や寺が破壊され、100人以上が死傷した。最大200ポンド(90kg)前後と思われる爆弾が地面に炸裂し直径3m以上、深さ2mほどの穴を空けた。
*同日: 安徽省安慶市潜山県梅城鎮に対する日本軍の攻略を支援して爆撃。この後1943年4月までに、日本軍は4回も梅城鎮を「掃討」し、現地の人々に対し血なまぐさい虐殺を行った。また日本機は梅城鎮とその周辺に対して20数回の無差別爆撃を行い、軍民600人以上を殺傷、1000間以上の家屋を爆破、梅城の4つの街は一面の廃墟となり、県民教館所蔵の図書約4万冊も失われた。東街の防空壕では日本軍機が投下した爆弾が命中し、避難していた2人を除く40人以上が死亡した。日本軍は掃討中、好き放題に焼殺淫掠を行い、黄鋪、由坎、方湾などの地だけで虐殺された民衆は300人以上に達し、婦女120人以上が強姦された。(『侵華日軍暴行総録』)
▽ 同日、抗日連合軍の一部が吉林を襲撃、吉林通集線土口子トンネル工事現場で、敵9人、捕虜多数を射殺し、中国人労働者700人余りを解放した。24日、同地の工事現場を再び襲撃し、中国人労働者250人を解放した。
*6月20日:江西省贛州市龍南、広東省梅県、福建省竜岩の各飛行場、および広東省汕頭市、広州市粤漢線琶(は)江口、東莞市の広九線常平を爆撃。
*同日:30数機が湖北省宜昌市帰徳附近の中国軍部隊を爆撃、また江蘇省北西部、淮河の中流の洪沢湖およびその西方地区においてジャンク船で移動する集団部隊に対し「終日反復猛爆を加えた」。
*同日:隴海線の陝西省潼関付近で黄河を渡って山西省南部に進行する中国軍数千に「爆弾の雨を降らせた」。
【江西省彭沢県の惨禍】
*同日:江西省九江市彭沢県の馬当を爆撃。これを始めとして1940年までに彭沢の馬当、県城、黄嶺、老湾汪村、高屋陶村、太平関、廟前街、郭家橋など計16回にわたって大規模な爆撃を行い、家屋2000棟余りを爆破し老若男女児童を含め800人余りを爆死させた。その後彭沢は占領され、1945年に解放されるまでの期間、日本軍のあらゆる暴虐により5344人が死亡、そのうち男性3145人、女性2077人、子供121人。また行方不明者は593人で、男性は330人、女性は214人、子供は49人となっている。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*6月21日:江西省九江市馬頭鎮・南城・広昌、広西省梧州、福建省建甌・長汀の飛行場および粤漢・広九沿線を爆撃、「大損害を与えた」。
*同日:30数機が河南省駐馬店の京漢線の航空基地と停車場を空爆し、集積軍需品と構内線路を爆破、また江蘇省徐州東南方地域においても集団部隊を「爆滅した」。
△ この日、河南省蘭封から出撃しようとした重爆機一機が離陸直後に墜落して三名が死亡した。
*同日:馬頭鎮の上流で中国軍敷設艦を爆撃で座礁させた。
*同日:午前、湖北省宜昌を襲撃、11人が死亡。午後には日本機が焼夷弾を投下し、大道路、力行四街一帯の家屋はほぼ全焼し、川岸の木船数十隻が焼け、200人余りの死傷者を出した。
*6月22日:広東省汕頭・白雲飛行場および粤漢線の黄沙・黎洞駅を爆撃、多数の貨車、線路、黎洞では発電所を爆破した。
*同日:再び隴海線の潼関付近を渡河中の大部隊を爆撃。
*同日:九江市の長江の両岸、馬頭鎮と田家鎮を爆撃。
*同日:日本軍の3機が江蘇省揚州市高郵城を爆撃、住民50名以上が爆死し、家屋数十軒が破壊された。
*同日:湖北省老河口市を初爆撃。
*同日:日本軍機2機が江蘇省連雲港市贛楡県黒林鎮の市場を攻撃、爆弾1発を投下し、機関銃の弾丸数百発を発射した。死者23人、負傷者31人。
*6月23日:長江(揚子江)北岸の湖北省黄岡市の田家鎮、福建省福州市の火薬庫、その市内の馬尾の海軍工廠、広東省汕頭駅、広州郊外の砂糖工場を爆撃。
*同日:広西省の東興(南の国境付近)を曇天で視界不良の中、「軍事施設および山積する武器軍需品に対し、最初の空襲を敢行した」。
*同日:6機が江西省九江市星子県の清風郷胡家の門前を爆撃し、第一区署職員6人、現地農民7人が爆死、家屋3棟を爆破した。
*6月23−25日:この3日間、日本機は連続して51機の出動をして、浙江省寧波市鎮海に304個の爆弾を投下、家屋の1580余りを壊して、62人の死傷者を出した。この年から3年間に鎮海を空襲した日本機は231機に達し、757発を投下、死者は163人に達し、家屋を2265間も破壊した。
*6月24日:長江北岸の湖北省田家鎮の陣地を爆撃、「果敢な攻撃を行って敵を壊滅した」。
*同日:広九鉄道の広東省韶関市楽昌・汕頭市駅・東莞市樟木頭駅、韶関飛行場、海南省瓊(けい)州の軍司令部を爆撃。
*同日:安徽省蚌埠(ぼうふ)市の五河(洪澤湖附近)、江蘇省宿遷市泗陽およびその附近部落を爆撃。
*同日:江蘇省連雲港市海州西北方の大河・河鉄(?)付近の集団部隊を爆撃。
*同日:20数機が江蘇省海州および 河北省邢台市沙河鎮の「約五千の敵を潰走せしめた」。
*同日:9機が湖北省宜昌に飛来し、飛行場の中国軍機その他を爆破し、200人余りの死傷者を出した。五竜民族、民俗、民権、民主などに停泊していた汽船も爆撃を受けた。
*同日:江蘇省准(わい)安市・准陰その他を爆撃し多大の損害を与え、別途10余機は河北省恒州の鎮州城内にあふれる中国軍「敗残兵を百数十弾を投下して殲滅した」。
*同日: 江西省九江市湖口県に多数の艦上式航空機を出撃、長江中流域に位置する馬垱軍事要塞を爆撃した。
【日本軍の記録と中国側の記録の相違】
*6月25日:「江蘇省塩城市阜寧付近の敗残兵の集団に爆撃」と日本側の記録にあるが、中国側の記録ではまず、「日本機6機が、阜寧の益林、東溝などの町を爆撃、107人が死亡し、東溝鎮の姚徳志豆腐店、賓来園菜館などの家屋が爆破された」とあり、次に「午後2時頃、国民党89軍33師と57軍111師が防衛交代のため阜寧板湖鎮へ集合した。そのとき日本機12機が交互に爆撃、板湖を掃射し、重量爆弾数十発を投下、軍民200人余りを死傷させた。板湖の小街はたちまち焦土と化し、街の中心は血にまみれ、その状況は惨憺たるものであった」となる。(『日軍侵華暴行実録』 第3巻)
*同日:(「壊滅」させたはずの)田家鎮、広東省掲陽市の岐寧を爆撃。また粤漢・広九沿線を爆撃。
*同日:安徽省六安、河南省信陽市商城・固始方面を偵察爆撃。
*6月26日:中攻機18、艦戦機30の計48機で江西省南昌飛行場を攻撃、中国機35機と空中戦となり19機撃墜、地上の2機を爆破したが中国軍に5機撃墜された。ただし日本側の記録は「機体に数弾を受けたのみ」としている。
▽ 同日、中国空軍は日本軍基地のある安徽省安慶飛行場と上海馬当付近で日本艦艇を爆撃、7隻に命中し、大きな損傷を与えた。
*同日:引き続き田家鎮、広東省梅州市梅県の兵舎5棟、潮州駅、広九線の東莞市樟木頭駅と石龍の鉄橋、および海南島楡林港砲台を爆撃。
*同日:安徽省六安市の舒城で毒ガス弾が投下された。(これまでの主に山西省に対する毒ガス弾投下に加え、武漢作戦でも秘密裏に毒ガス弾使用が許可された)
*同日:5機が安徽省安慶市岳西県を爆撃し、住民23人を死亡させ、家屋52軒を爆破した。
*同日:陸軍の攻撃に合わせ、午前11時、江西省九江市湖口県城の上空に10機が侵入、爆弾投下と機銃掃射が一時間にも及び、川沿い一帯の家屋はたちまち廃墟と化し、民間人5、60人が死傷した。
*6月26−29日:午前11時、日本軍機10機が再度、江西省湖口県馬垱要塞攻略の戦闘を支援した。日本軍機は県城で一時間もの間、無差別爆撃を行い、県城の川沿いの家屋はすべて爆破され廃墟と化し、民間人50−60人が殺傷された。同日、日本軍は馬防を占拠した。翌日も9機が約1時間にわたって湖口を無差別に機銃掃射を行い、三里、馬影、鳳村、文橋、流泗村などが爆撃された。28日、三里街、馬影橋、下秦村一帯を爆撃、29日、再度県城を爆撃し、鉄馬山洞内で80人以上が爆死した。
*6月27日:長江岸の田家鎮、江西省南昌飛行場を爆撃。また9機が江西省湖口県城と付近の村々を銃爆撃。
*同日:日本軍機9機は約1時間にわたって九江市湖口で無差別に機銃掃射を行い、爆撃目標は県城のほか、三里、馬影、鳳村、文橋、流泗村など多くの村であった。
*6月28日:安徽省安慶、江西省南昌・吉安飛行場を爆撃(41機による南昌飛行場の空中戦で、2機撃墜、3機爆破)。また広東省広九線の要地を爆撃。
*同日:連日で安徽省安慶市太湖地区を爆撃し、4機、6機、9機と分かれて数百発の爆弾を投下、住民169人を死亡させ、家屋約三千室を破壊した。
*同日:広東省韶関市曲江の武江のほとりにある武渓公園内の関帝楼を爆破。この建物は歴代の文人墨客が多くの詩文を残しており、広東北部文化の宝と言えるが、日本機はこの関帝楼に爆弾3個を投下、ここでに避難していた200余人が爆死傷した
*6月29日:安慶下流の江岸付近で中国軍陣地の部隊、また海軍艦艇と協力し、上流の陣地も爆撃。
*同日:江蘇省海州、江西省吉安、浙江省金華市義烏および粤漢・広九沿線で河南省洛陽駅などを爆撃。
*同日:重爆撃機9機が福建省福州市閩海から出撃し、広東省韶関市南雄を襲撃、西門平民住宅地及び飛行場付近一帯に、47発の爆弾を投下、民家数十間を破壊し、38人が死傷。
*同日:江西省九江市湖口県城を爆撃、鉄馬山洞内の80人余りが爆死。
*6月30日:広東省韶関市の楽昌駅の貨車、倉庫等、広州市石井の兵工廠、東莞市樟木頭駅付近の橋梁や鉄路を爆撃。
*同日:広東省韶関市曲江大橋の左側にある湛江河畔の三界廟を空襲、犠牲者30余人。
*同日:山西省呂梁市離石への爆撃で毒ガス弾が投下された。
*同日:安徽省六安市金家寨を三度爆撃し、数十発の爆弾を投下し、60余人を爆死、50余人を負傷させ、家屋400余軒を爆破した。
*同日:数十機が安徽省合肥市上川、三河を爆撃し、十数発の爆弾を投下、数十名の死者、百余名の負傷者を出し、民家数百軒を爆破した。
*6月某日:湖北省荊門市沙洋県に三機が飛来、爆弾10数発を投下。
*6月下旬:安徽省安慶市桐城孔城鎮を数度爆撃。
【一年間の爆死傷者3万8千人】
▽ 上海文化界国際宣伝委員会は日本機による中国への爆撃の統計を発表した。
—— 1937年7月から1938年6月末までの一年間、日本機は江蘇、浙江、安徽、江西など16の省の257の都市、18の交通線路に対して、出動した飛行機は1万6710機、爆撃は2472回、投下弾は3万3192発、それにより住民1万6532人が死亡し、2万1752人が重軽傷を負った。また外国在中国機関を17回破壊、外国人77人が爆殺され重軽傷は25人。
【日本の報道内容】
これに関する日本のグラフ誌の記事。
—— 5月末から6月中旬にかけてわが海の荒鷲(海軍飛行隊のこと)は連日その無敵の鵬翼を連ねて南支の重要拠点たる広東付近を空襲し、… 今度の空爆は猛烈を極め、的確なる直撃弾は省政府、軍司令部、軍需工場等を一弾ごとに粉砕し、…人心は極度に動揺して香港方面への避難者相次ぎ、…市内は収集すべからざる混乱状態に陥った。/防御手段に窮した支那側では早速お得意の対外宣伝を始め、わが連続的空爆は非戦闘員に対する無差別爆撃なりとのデマ放送を行った。もちろん広東(広州)は完全なる武装都市であり、市内に31カ所の高射砲設備があり、… 支那の宣伝がとかく弱い支那に同情しがちな諸外国のセンチメンタリズムを狙った悪質デマであることは明白である。…(外務当局談)「広東に対するわが空爆は何ら非難せらるる筋合いのものではなく、日本空軍の関する限り非戦闘員を攻撃目標とするがごときは過去、現在、将来を通じて絶対になきことを宣明する…」
(『支那事変画報』(大阪毎日新聞/東京日日新聞社)第32集)
日本軍が一方的に侵攻し攻撃する中、防衛手段として軍事設備を増強するのは当然であるが、実際に軍事関連施設にだけ正確に投爆できているなら、既述のように75万人も香港その他に避難するわけがない。8年後の米軍の進化した照準器を備えた爆撃機でも誤爆は多かった。中国側の被害記録を見ていると、日本軍は偵察しながら人の集まっている場所(祭りや特別な市など)を見ると爆撃した上で低空で人々に向かって機銃掃射をするケースが多くあった。
7月
*1938年7月1日:福建省福州の兵工廠、広東省汕頭の市政府司令部、広州の粤(えつ)漢線英徳駅を爆撃。また江西省九江市の長江上流にいた中国軍の艦艇を爆沈させた。
*同日:陝西省渭南市の隴(ろう)海線潼関駅付近の「軍施設、重要拠点を爆砕した」。
*同日:江蘇省揚州市高郵城を爆撃し、住民40名以上が爆死し、家屋数十軒が破壊された。
*7月2日:広東省汕頭市を6機が3時間爆撃し、300人余りの死傷者を出した。他に粤漢鉄道の広州西村・汕頭・潮州駅、さらに福建省福州を爆撃。
*同日:長江(揚子江)両岸(馬頭鎮と田家鎮)を爆撃し、湖北省武穴(田家鎮)付近の砲艦一隻を爆破。
*同日:続けて潼関駅付近を爆撃、また山西省運城市の黄河北岸の垣(えん)曲を爆撃。
*同日:安徽省池州市青陽県の中国軍部隊を爆破。ただし、中国側の記録(『日軍侵華暴行実録』第3巻)では「日本軍機6機が青陽県県城を爆撃し、市民140余名を爆死、200余名を負傷させた」となる。この青陽県に7月2日から1940年4月28日まで、日本軍は約120機の飛行機を出動させて青陽の蓉城、木鎮、丁橋廟前、陵陽などの地区に約370焼夷弾、数十発を投下し、軍民約380人を爆死させ、家屋300余戸を爆破する。
*同日:南京の揚子江対岸にある六合県の竹鎮、馬集、八百、瓜埠、東王廟などを連続爆撃。
*7月3日:安徽省安慶の長江岸を爆撃、田家鎮付近の中国軍の砲艦一隻を撃沈、安慶の空中戦で15機撃墜。
*7月4日:河南省洛陽を11機で爆撃し、130発以上の爆弾を投下し、200人以上を殺傷した。(日本側の記録には洛陽の敵司令部、軍施設を粉砕とあるのみ)
*同日:江西省南昌の新旧飛行場を50機で爆撃、数百発の爆弾を投下し、地上の9機と滑走路、格納庫等に「壊滅的打撃を与えた」。また中国軍の50機と空中戦になり、ソ連製を中心とした中国機に対して45機を撃墜、日本は1機が撃墜されたのみであった(正確には不明)。
*同日:安徽省安慶市潜山、六安市、淮南市寿県正陽関の中国軍を爆撃、また山西省運城市の垣曲、別途、浙贛鉄道沿線の輸送中の部隊を爆撃。
【世界戦史に比類なき大記録】
『支那事変画報』第35集では、7月4日(日付の誤記があるが訂正)、「南昌において大空襲を敢行、敵の命とたのむ英・米・ソ連製新鋭機54機を完膚なきまでに粉砕して以来、ほとんど連日にわたる南昌、漢口飛行場基地、心臓部の急所を突き、敵に再び立つ能わざる打撃を与え」とあるが、この後南昌に対する爆撃は翌年春まで続いている。またこれらについての当時国内の新聞記事では「6月末までに敵機の損害一千余台、わが海軍航空隊は一年未満にして世界戦史に比類なきこの大記録を立てた」とある。
*7月5日:江蘇省南部と浙江省北部の境界にある太湖付近の中国軍部隊と司令部を反復爆撃し、「徹底的に壊滅」、また太湖のジャンク船十余隻を爆破。これに対する中国側の記述は次のとおりである(略記)。
—— 太湖の徐家橋湖畔の埠頭には多くの民間船が停泊しており、波止場や街には(軍需を含む塩などの)物資を運んだり買い物をする人々であふれていた。午前八、九時頃、突然西の空から日寇の六機が来襲し、昼までの数時間にわたり過激な爆撃をした。まず上中街や近隣の多くの店舗は、すべて爆破された。この街に来たばかりの塩を運ぶ労働者たちは、爆弾や機銃掃射で不意打ちにあったように惨殺された。次に繁華街の真ん中では王信茂商店、同孚煤石油店など30数軒の大商店がここに集中していて、街は一面の火の海となって、午後まで燃え続けた。焼損した店は全体の三分の二を占め、残った店の多くは弾痕だらけだった。さらには下街の産福堂染店と高昇館一帯の家屋は爆破され、店主たちの遺体も見つかっていない(爆弾の爆発する範囲の中では肉体は残らない)。大まかな推定によると爆死が約百人、爆破・焼失した店舗は100軒以上で、その他の財物の損失は計り知れない。
(『日軍侵華暴行実録』第3巻)
*同日:河南省の京漢線信陽を爆撃。また河南省郴(ちん)県が爆撃を受け、その後も計27機が8回爆撃し、81発が投下された。
*同日:河南省郴(ちん)県が爆撃を受け、その後も8回、計27機が爆撃し、81発が投下された。
*7月6日:長江岸、福建省建甌飛行場、福州の無電台を爆撃。建甌はこの年11回爆撃された。
*同日:24機が安徽省安慶市太湖県に6時間連続して数百発を投下、県城全体は火の海となり、血と肉が吹っ飛んで散乱した。多数の機関、学校、商店が爆破され、北門の大通りは一面の瓦礫となり、3000以上の民家が爆破され、169人の同胞が無残に死に、財産の損失は計算できない。
別途、6機が徐橋鎮を爆撃し、6発の爆弾を投下、中街や正街、下町の店舗の多くが全焼した。この爆撃で 百人以上の死者が出た。
*同日:午後二時、三機が武漢漢陽の千年古跡の琴台に四発投弾、琴台は破壊され、貴重な文化財は灰燼に帰し、民家二棟爆破、住民六人が死亡。
*同日:9機が河南省信陽駅や付近の住宅街を来襲、その時、列車が駅に到着した。緊急警報が鳴らされ、乗客たちは一目散に逃げた。日本機は彼らを追って爆撃、約800人の乗客と近隣の住民数百人が死傷、多くの家屋が被爆して出火した。火は燃え広がり30時間ほど燃え続け、近くの林に逃げ込んだ難民たちは無残な形で枝にぶらさがっていた。
*7月7日:福建省福州、湖南省衡陽を爆撃、衡陽飛行場の地上機を12機爆破。
*同日:広東省仏山市三水、粤漢鉄道を爆撃。
(広東省の記録では、前年8/31の広東省広州に対する初空襲から、この7/7事変一周年までの広東省各地の空襲被害の統計は、空襲回数397回、延べ飛行機数5191機、投下爆弾数9900余個となっている)
〇 7月7日、武漢の「新華日報」は葉剣英の「八路軍の晋綏冀察の年」という一文を発表し、八路軍が参戦して10カ月間、傀儡軍との大小戦闘638回を行い、敵軍の死傷者は3万4000人以上、2094人を捕虜にし、わが軍の死傷者は2万20人になったとした。(これは国民政府軍の戦闘による死傷者は入っていない)
*7月8日:安徽省安慶、長江北岸の田家鎮、粤漢鉄道を爆撃。
*同日:武漢武昌の揚子江岸中国軍陣地を爆撃。
*同日:広東省清遠市英徳の鉄道駅、倉庫、線路を爆破、また付近の北江上のジャンク船約100隻を爆破。
▽ 7月8日、中国空軍は安慶、蕪湖の日本軍飛行基地及び湖口の日本艦船を5回爆撃、日本機を20機余り爆撃し、日本の艦船10隻余りを大破させた。
*7月9日:大挙して江西省南昌の新旧飛行場を爆撃、「完膚なきまで爆破した」。
*同日:湖南省衡陽の飛行場を悪天候と防空砲火をつき爆撃、全機が無事帰還した。
*同日:陸軍地上部隊を支援し、揚子江北岸田家鎮の中国陣地を爆撃、「大損害を与えた」。
*7月10日:午後4時、9機が3組に分かれて陝西省潼関を爆撃、県城内の東大街・張家巷・楊家巷・徐家巷・水坡巷などが被爆、死傷者は二人だったが、民家25棟を爆破し、家畜2頭を爆殺した。水坡巷では沈木田の住宅前の兵舎が全て倒壊し、ここに居住していた中国軍の109師団の40数名の兵士が生き埋めとなり死亡した(大型爆弾は10−20数mの大穴を穿ち、その土砂で周囲は埋められてしまう)。日本機は最後に西大街の孔子廟に1発の爆弾を投下したが不発に終わり、のちにその不発弾を掘り出して西安の民衆教育館に展示した。
*同日:湖北省田家鎮の中国軍拠点を爆撃し付近の長江上の艦船を爆破、また同省襄陽・老河口を爆撃。
*同日:河南省信陽飛行場、広東省東莞珠江関門の虎門を爆撃。
*7月11日:粤漢線の要衝、広東省清遠市の源潭鉄橋を「完全に爆破」、さらに英徳駅と付近の鉄橋と陣地、広九線の石龍駅と鉄橋を爆撃。
*同日:長江岸の田家鎮、九江市湖口県を爆撃。
*7月12日:武漢(武昌・漢口)を68機で爆撃、昌三道街、双柏廟、忠孝門、長湖堤などのほか埠頭、駅、学校、病院などに100発以上の爆弾を投下、米国の宣教師住宅も爆撃した。173人が爆死、308人が重軽傷、141棟の家屋が破壊された。
*同日:江西省九江市獅子山の中国軍砲兵陣地および付近の長江上の艦船を爆撃撃沈、また田家鎮付近の輸送船2隻を「炎焼」させた。
*同日:湖北省宜昌・江西省九江市永修・上饒市玉山の飛行場等を爆撃。
*同日:広州を爆撃し、市民300人余りが死傷。河上の木造船も多数破壊された。
*同日:広東省黄沙駅を中心とする軍事施設、福建省漳州の軍事施設を爆撃。
*同日:3機が福建省漳州市雲霄県東坑村の江上の塩艇「光寧」号に照準を合わせ、交互に爆撃し、撃沈させた(5月に撃沈できなかった船)。
▽ 7月12日、中国空軍は安徽省の安慶、貴池、東流一帯の川面で日本の艦船3隻を沈没させ、空中戦でそれぞれ1機を失った。
*7月13日:3機が湖北省黄石市を初爆撃、黄石港と大冶県城に爆弾を投下した。その後数ヶ月、日本機は黄石港、大冶城、陽新城、金牛、保安、殷祖、劉仁八、朱山頭、七里界、何錫鋪などを何度も爆撃した。黄石港はもとは繁華な商業港で、日本軍に何度も爆撃された後、廃墟と化した。
*同日:九江市鄱陽湖上の砲艦を爆撃し「全弾命中して」湖底に沈没させた。
*同日:20余機が安徽省池州市東至県東流、至徳県を次々と爆撃し、家屋30余棟を爆破し、住民の死傷は数知れず、張の一家8人が全員死んだ。その後、両県内の全ての集落を連続爆撃し、堯渡、長安埠、張渓鎮などだけで約260棟の家屋を爆破した。またこの日、池州市青陽県も9機に爆撃され、 爆弾数十発が市街各地に投下され多数死亡、夫子廟の防空壕内では80人以上が防空壕の崩落で窒息死した。さらに貴池城茅坦郷も爆撃されたが、茅坦は1939年の冬から1943年初めまでに、3カ所で大虐殺事件が発生、民間人400名が犠牲となった。
△ 同日、日本軍は中国南シナ海の西沙諸島を占拠した。
*7月14日:広州を爆撃し、1000人近くの死傷者を出した。
*同日:夜明けに9機で武漢の漢口飛行場を爆撃し、地上の戦闘機約10機を破壊、また8機で江西省南昌飛行場を夜間爆撃。
*同日:広東省の粤漢線韶関・楽昌を襲撃、また天河・白雲飛行場を爆撃して「大損害を与えた」。
*同日:7機が、湖北省黄岡市蘄春の劉公河鎮に侵入、機銃掃射と爆弾投下を行い、爆破された家屋は50棟以上、部屋数は150間以上。軍と民間人25人が死亡、10人が負傷した。
▽ 同日、中国空軍は広東省の東流江面で日本艦4隻を沈没させ、日本機1機を撃墜した。同日、日本艦は鄱陽湖に入り、2隻が撃沈された。
◎ 1938年(昭和13年)7月15日、近衛文麿内閣は閣議で1940年開催予定の東京オリンピック、札幌冬季オリンピックの開催返上と日本万国博覧会の延期を決定した。中国侵略により日本は国際的に非難され不参加を表明する国が続き、また現実的に膨れ上がる戦費と物資不足がその要因となった。
【海の荒鷲座談会】
〇 『支那事変画報』第35集において、「海の荒鷲座談会」が掲載されている。7/12早朝に「漢口飛行場を一挙に殲滅すべく出発した〇〇部隊」の各編隊が戦果を挙げて、「全機悠々帰還する姿」を眺めながら、特派員記者が「まこと海の荒鷲に対する国民として真実からなる感謝と尊敬の念をささげ」るとし、その感動の冷めないその日のうちに海軍飛行隊員数十名をテント内に集結してもらい、開かれたものであった。ただ、この日は中国軍側からの迎撃がなく、それが残念であったとかを含めてほとんどは空中戦の話で、ここに記すことはあまりない。最後に隊長が「空中戦でたとえ戦死しても形見になるものはなしと思えば可哀そうだが、みな皇国のためと思えば喜んで死ぬ」と語っている。
筆者私見:先にも記したが、この若者たちの「活躍」の影でどれだけの中国の老若男女や子供たちがその生活、人生の途中で爆死あるいは一生消えない体の損傷を受けているのか、空からの爆撃ではその悲惨な人々の姿は見えないし、そのことがこの若者たちの「精神」を支えているということである。近代の戦争は相手と顔を会わせることがないから心を痛めることが少ないのである。
*7月15日:艦載機を中心として25機で江西省南昌飛行場を襲撃し、地上の15機を爆破炎上させ、格納庫や工場をを爆破した。日本軍指揮官戦死。
*同日:湖北省黄岡市蘄(き)春、田家鎮上流で偽装した砲艦を爆沈、九江市獅子山の中国軍砲兵陣地を連続爆撃して「完全に沈黙せしめた」。
*同日:海軍機が陸軍に協力して安徽省池州市の香口鎮の敗残兵を爆撃し壊走させた。
*同日正午、日本機が広東省韶関市郊外及び四廟、米行、煙墩などの街、風烈、風度南二路、帽子峰、庚戊巷などに飛来し、計40発余りの爆弾を投下。
【武漢大爆撃】
*7月15−17日:3日間連続、武漢に100機以上を出撃させ、爆撃した。
*7月16日:武漢の漢口飛行場を爆撃し空中戦で約10機を撃墜、さらに湖北省黄岡市蘄(き)水(田家鎮の北西)の陣地を反復爆撃。
*同日:黄岡市蘄(き)春と武穴間の艦船三隻とジャンク船数隻を爆破、撃沈させた。
*同日:広東省東莞市の広九線樟木頭駅、粤漢線英徳駅を爆撃し、駅設備や貨車、線路を「粉砕」、沙口南方の鉄橋、付近線路を爆撃し「多大の効果を収めた」。
*同日:日本機が安徽省池州市青陽県に第二次爆撃をし、殷家巷の一角だけで30余人が死んだ。
*同日:海南島海口を爆撃。(海口上空で空中戦、10機撃墜、地上の3機爆破)
*7月中旬:安徽省六安市を爆撃、北門の外で10発の爆弾が投下され、市民20人余りが死亡、この一帯の家屋は灰燼に帰した。
*7月17日:25機で南昌飛行場を爆撃、地上の7機と格納庫等を爆破。
*同日:江西省鄱陽湖の呉城鎮で軍用艦船一隻と曳航船を爆沈させ、九江市獅子山の中国軍陣地を爆撃。
*同日:広東省で広州市粤漢線の黄沙駅の駅舎と鉄路、東莞市増歩の火薬工場、清遠市琶江口の兵器工場、広九鉄道を爆撃。
*同日:1機の爆撃機が湖南省岳陽を攻撃、しかし守橋部隊の高射砲に撃たれ機体に火がついまま、操縦士は爆弾6発を投下、爆弾は馬家湾の宝鶏山上の防空壕に命中して爆発、壕内にいた老若男女60人以上が全員死亡した。
*7月18日:連日で陸軍の南昌侵攻を支援、27機が南昌を襲撃し、空中戦で8機を撃墜、逆に4機が撃墜されたが、地上の5機を破壊。
*同日:長江の九江市下流獅子山と新港の陣地、粤漢線琶江口の兵器工場、広九線の深圳市沙村付近を爆撃。
*同日:湖南省永州市祁陽県を襲撃、考棚、保安里、昭陵街、楊家橋、唐家を爆撃し、図書館と蔵書を全部焼き払った。 東江街の住民は東江橋の下に隠れていたが爆弾が直撃、爆死者は30人以上、負傷者は多数。西横街では唐安生一家5人全員が爆死、その他5家族24人全員が爆死した。
*同日: 午前10時頃、河南省濮陽市南楽県の商工業者が県城の建物で会議を開いていた。1機の日本機が飛来、低空で旋回した後、会場に3発の爆弾を次々に投下、会場は悲鳴と泣き声がひびき渡り一瞬にしてがれきの間に足や腕がバラバラになった死体が散乱、臭気をあげる焼死体で鼻がむせた。業者たちの変わり果てた姿は見る影もなかった。近隣も含めて49人が死亡した。
*同日:4機が陝西省楡林市呉堡県を爆撃を行って、家屋30余室を破壊。
【市の立つ日を狙った爆撃】
*同日:山東省濰坊市諸城県の営馬村では市の立つ日で、午前10時ごろ、突然、南東方向から日本軍機2機が飛来、市場の上空でしばらく旋回、すぐに飛び去った。その10数分後に日本軍機はまた戻ってきて低空で市場に向かう人の群れに向けて2発の爆弾を投下、たちまち市場は硝煙が立ちこめ、血肉が飛び散り、多くの人が血の中で横たわった。続いて日本軍機は2回目の爆撃を行い、さらに多くの人々が爆弾を受け死亡した。腕や太ももは爆発で吹き飛ばされ、屋根の上や木の枝にぶら下がり、腸は破裂して数尺の長さまで引き摺り出され、痛みであちこちを転げ回人もいた。ある犠牲者は下半身を失い、上半身は地面に直立したままだった。妊娠していた女性のお腹が破裂して胎児が床に転がっていた。この爆撃で、日本軍機は計4発の爆弾を投下、40人以上が死亡、20人以上が負傷した。また、10人以上が爆撃の衝撃で病身となり死亡した。(『侵華日軍暴行総録』)
【南昌空襲:赫赫たる戦果】
〇 この日の南昌空襲に関し、当時の雰囲気がうかがわれる日本の記事がある。
「事変勃発(前年7/7)以来、海の荒鷲の活躍は世界空中戦史に比類なき数々の記録を打ち樹てているが、7月18日未明の南昌空襲こそは敵飛行場着陸という空前の快挙を敢行したことによって、不朽の金文字をさらに世界戦史上に刻みつけた。この日わが攻撃部隊は …… 三隊に分かれ黎明長江の朝霧を衝いて長駆、敵空軍根拠地南昌を空襲した。(そこで)敵機約15機が離陸し遁走せんとしたので、南郷大尉指揮の部隊は直ちにこれを急追、たちまちにしてその8機を撃墜した。(一方で)松本少佐指揮下の爆撃隊は逃げ遅れた敵重爆撃機3機、戦闘機9機を認め、急降下 … 反復爆撃を加え内7機を炎焼せしめたが、惜しくも銃弾尽き地上にはなお若干の敵機が残されていた。これを見た小川中尉指揮下の〇機は豪胆無比にも飛行場真ん中に着陸、機体から躍り出た中尉以下8名は銃を片手に逃げ遅れの重爆撃機5機を焼き払い、続いて … 格納庫に残る10余機を機関銃等で放火、一つ残らず炎焼させ … 敵機の壊滅を確認したのち、その機銃弾装二個を分捕って全機悠々帰還した。 … この赫々たる武勲の中、至宝南郷大尉の壮烈な戦死という惜しき犠牲があった。 … この南昌空襲は対外的にもセンセーションを巻き起こし、香港の英字紙テレグラフなどは“… 日本軍は今また敵飛行場着陸という前代未聞の離れ業を演じた。死を鴻毛より軽んじる日本人の精神は外国人にはわからない”と驚嘆の辞を連ねている」。
(「支那事変画報」第36集より)
筆者私見:7/4の空爆に関する記事にも「世界戦史に比類なきこの大記録を立てた」とあるが、ここにある“世界空中戦史に比類なき数々の記録”、“空前の快挙”、“前代未聞の離れ業”とか興奮して書いても、もはや今に語り継がれていることは何もない。日本側の華々しい戦果も、それは少なくとも7年後の敗戦を期にして隠されてきているといってよく、中国に与えた大きな被害のことも一緒に忘れられ、葬り去られている。
【漢口大爆撃へ】
*7月19日:17日に続いて武漢の漢口を39機が襲撃、「猛烈な地上砲火を冒し果敢な低空飛行により飛行場およびその付近に隠匿しある敵機20数機を発見、…相当数の損害を与えた」。これに対し中国側の記述では「(日本機は漢口に)爆弾200発以上を投下し、徐家棚駅と古い住宅地が爆撃され、たちまち火の海となり死傷者600余人(『日軍侵華暴行実録』第4巻、『侵華日軍暴行総録』では1000余人)、焼夷弾も投下されたため500棟以上の家屋が破壊され、焼失した」となっている。この後、8/3、11にも武漢・漢口へ大爆撃を行う。
*同日:武昌の蛇山機銃陣地および兵営を爆撃。他に粤漢線の琶江口の兵器工場、広九線を爆撃。
*同日:安徽省池州市の長江黄石磯上流で、貨物船2隻を爆沈、2隻を損傷させた。これに対し中国空軍は江西省九江市湖口で日本艦船を3隻爆破した。
*7月20日:湖南省岳陽の洞庭湖上の艦船、軍艦2隻爆沈、4隻大破、運送船一隻爆破。また江西省九江市湖口上流の中国軍陣地を海軍艦艇と協力して爆撃。
*同日:琶江口の兵器工場の残存部や倉庫を爆撃、ほぼ壊滅させた。また粤漢線の広東省韶関市楽昌駅、広九線の東莞市石龍駅の鉄路を切断、
*同日:江西省九江市徳安県を初爆撃。
*同日: 日本軍は山西省晋城に2回目の侵犯を行った。まず航空機で県城に10発以上の爆弾を投下、城内の文昌閣と裏々の路地が被爆、男女10人以上が爆殺され、また段小紅の2棟の住宅では一家8人が爆死、爆破された死体が飛び散り、腹腸が木にぶら下がっていた。日本軍は県城に至るまでに通りがかった10ほどの村々で、強制労働のために村民たちを好き勝手に連行し、食糧を奪い取り、家畜を持ち去り、家屋を焼き、婦女を強姦し、一般庶民を殺戮した。県全体で焼かれた家屋は1万2000軒以上に達し、殺された住民は5000人以上、略奪された家畜は約8000頭、財物は数えきれないほどとなった。(『侵華日軍暴行総録』)
【中国空軍の実情】
ちなみにこの時期の中国空軍は、臨時的な傭兵としてのソ連(ロシア)人のパイロットが多く、またソ連やイギリスから新鋭機を多数購入していたが、中国人パイロットの養成も追いつかず、その技術が未熟なままで空中戦に弱く、ましてや外国人部隊は「勇猛果敢」には攻めて来ず、上記のように日本軍の飛行編隊が来襲すると飛行場から逃げてしまうという有様であった。したがって時々日本軍が占領した飛行場に奇襲攻撃することはあっても、それ以上の戦果はなく、蒋介石を苛立たせることが多かった。
*7月21日:河南省信陽を5機が襲撃、駅一帯を爆撃、焼夷弾も使用したから市街は30時間燃え続け、家屋は倒壊し、何百人もの死傷者が出た。林に避難していた避難民にも爆弾が投下され。木の葉のかわりに、人間の血の皮が、梢いっぱいにかかって、泣きわめく声は凄惨だった。(日本軍の記録では「駅建物、貨車を爆破炎焼させた」とあるのみ)
*同日:江西省九江付近兵舎二棟を炎上させ、さらに九江市新港南西の陣地に「殲滅的打撃を与えた」。
*同日:湖北省黄石市大冶下流の湋源口で軍用船一隻を爆破、さらに軍用ジヤンク船20数隻を爆破。
*同日:広東省韶関市の粤漢線坪石付近の鉄橋、貨車群を爆撃、他に広九・京漢沿線を爆撃。
*同日:午前10時、18機が湖南省岳陽を襲撃、800人余りの住民が死傷、民家、店舗300余り棟を爆破。城内四、五カ所に死体の山ができ、城南の印山にあった防空壕が崩壊し、壕にいた200余人が圧死した。岳陽楼の下にある流水洞の中でも100人余りが爆死、圧死した。
*同日:江蘇省連雲港市板浦鎮を爆撃、孤児院も爆撃され、乳児や子供、通りかかった人など40人以上が死亡した。
*7月22日:漢口、湖北省の宜昌・荊門市、孝感飛行場(3機爆破)、湖南省長沙、広東省の広九線石龍、粤漢線新街を爆撃。
*7月23日:長沙飛行場を襲い、地上4機と建物群、付近の森の加工品を爆撃。
*同日:広東省広州の粤漢線西村駅の鉄路と貨車、湛江市の広九線沙古圩鉄橋、東莞市増歩の火薬工場を爆撃。
*同日:広東省韶関市内の関帝楼に重爆弾一発が命中し、107人が爆死、数十人に重軽傷を負わせた。死者の中には首が取れていたり、腰を切断されていたりした。崩れ落ちた関帝楼の階下から掘り出された死体が川べりの道路にずらりと並べられた。
*同日:湖南省邵陽市邵陽県を爆撃。
△この日より、陸軍地上部隊の九江攻略戦が始まる。
*7月24日:福建省福州市連江口付近と広東省清遠市英徳南方の鉄路、汕尾市河口圩駅南方の鉄橋を爆撃。
【江西省徳安県の惨禍】
*7月26日:午前7時頃、江西省九江市徳安県の上空に9機の日本機が来襲、3機が1組になって県城を夜になるまで何度も乱爆した。爆発音と空に向かって燃え上がる炎と烟は遠く永修からも見ることができ、音も聞こえた。県城には防空壕が39ヶ所あり、2千人余りを収容できるが、避難が間に合わず爆死・焼死するか、瓦礫の下で圧死するなどした。駅の防空壕では、爆弾がちょうど穴の前に落ちて、穴の入り口に密集している人のほとんどが爆死、死者の顔さえ見分けられなかった。県城の中心街の衙前街、通津街の851軒の家屋が、なんと821軒も破壊、炎上された。
この後の日本軍の占領により、徳安県は死亡4872人(男2891人、女1981人)、重傷1464人(男1010人、女454人)、軽傷744人(男616人、女128人)、全体の死傷者は7080人 の犠牲者を生じ、 これは陥落前の全人口の11%にあたる。財産の総損失は計り知れない。なお、1938年9月から翌年年2月にかけて、日本軍は毒ガスも使用し、死ななかった人は障害で苦しんだ。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*同日:九江の江上の砲艇一隻を爆沈させた。
*7月26あるいは27日:広東省韶関市曲江県城を爆撃、三界廟(右側は曲江大橋で敵機の空襲目標であった)が爆破され、避難していた民衆30人余りの死傷者が出た。
*7月27日:漢口、湖北省黄岡市武穴(長江北岸)付近を爆撃、空中戦で2機撃墜。江西省の南涛鉄道では九江市徳安、修水付近で敗残兵を爆撃、他に鼠守漢鉄道を爆撃。
*同日:湖南省粤漢線岳州駅の倉庫、貨車数輌を爆破炎焼させ、湖北省咸寧咸(かん)寧の倉庫と貨車を大破し、鉄路数カ所を破壊。(中国側の記述:咸寧では6機が永安鎮を初めて爆撃し、家屋14棟を爆破、火災車両3両を爆破し、軍民520人余りを死亡・負傷させた。その後、3機、6機、9機と連日続いた。永安鎮の家屋の90%以上が破壊され、咸寧城関の大部分が廃墟となった)。
*7月28日:湖北省黄岡市蘄春付近の揚子江上のジャンク船を爆破、武穴の田家鎮の中国軍陣地を爆撃
*同日:安徽省安慶市宿松の中国軍陣地、江西省南昌西方の樟樹鎮の飛行場その他を爆撃。
*同日:浙江省寧波市慈渓観海衛(現観城鎮)を爆撃、ここまで三回にわたって合わせて爆弾22発を投下し、民間人を19人爆殺、多数の負傷者を出し、多くの家屋を焼失及び破壊した。
*7月29日:安徽省淮南市大通付近の敗残兵の拠点を爆撃。
*同日:広東省韶関市南雄を襲撃したが、中国軍に6機撃墜された。(日本軍の記録にはない)
△ 7月29日、満州国南東部の突端にあたる豆満江河口で国境線を巡って日本軍とソ連軍の衝突が起こった。(張鼓峰事件:8月10日に休戦協定を締結したが、この事件で日本軍は1440人の死傷者を出した)
*7月31日:九江市の長江上流で反復爆撃し砲艇三隻を爆撃炎上または座礁させ、小蒸気船1隻とジヤンク船10数隻を爆沈。
*同日:江西省九江市沙河、安徽省馬鞍山・金家山の中国軍陣地を空爆。
*同日:広西省防城港市防城の市街地を爆撃、15個の爆弾を投下し、6人が死亡、重軽傷20人、民家や公的建物20棟余りを破壊。
*7月から10月にかけて、湖北省随州市応山県(現・広水市)へ80機余りが出撃、家屋1400軒余を爆破し、列車2両を爆破、58人が死亡、157人が負傷。10月24日、応山は日本軍に占領され、あらゆる暴虐行為が行われ、約7万人がこの地を脱出し難民となった。
*7月から翌年4月にかけて安徽省安慶市宿松県への爆撃が15回行われ、家屋約287室が爆破され、49が死亡、23人が負傷した。
*7月某日:日本機は100戸程の住民が住む湖北省咸寧市通山の宝石大湾に爆弾8発を投下、家屋10棟以上を跡形もなく爆破した。
8月
*1938年8月1日:長江沿岸の湖北省黄岡市蘄春、田家鎮、黄石港付近で、砲艦3隻を撃沈、3隻を炎焼大破、砲艇3隻を撃沈、5隻を大破、ジヤンク船数隻爆破した。また武漢の新洲の陣地等を爆撃。
*8月2日:京漢線の河南省信陽や湖北省広水駅構内や倉庫群を炎焼させ、鉄路数カ所を破壊、蘄春で大型運送船一隻を撃沈、また広九線の常平駅を爆撃、大損害を与えた。この広水は中国側の記録では、——「9機が広水に対し時に急降下爆撃して、時には低く飛んで機銃掃射して、ほぼ2時間猛威を振い、ざっと死傷者は200人余、家屋損壊は20棟余。その後、日本機はしばしば京漢鉄道に沿って低く飛んで銃を乱射し、沿道の人々の多くが死傷した」(『日軍侵華暴行実録』第4巻)とある。
*8月3日:武漢の漢口を艦戦機を含め全68機で空爆、中国空軍は50数機で迎撃したが空中戦で32機撃墜、地上の7機爆破して「偉勲を立てた」が日本機は3機を失った。これに対し、中国空軍とソ連空軍支援隊が出撃し、日本機12機を撃墜したとある。また、九江上流黄石港北方と武林港対岸にて砲艦一隻、砲艇一隻を破砕し、大型ジャンク船10数隻を爆沈させた。続いて再度、28機が漢口飛行場を爆撃した。(これは日本側の記録なので被害者数など不明)
*同日:九江市の彭沢付近の数万の大部隊を爆撃、別途湖北省黄石の倉庫群、田家鎮の陣地を爆撃。
▽ 8月3日:重慶では首都移設と日本軍の大規模爆撃に備えて、東西南北3700m以上に及ぶ防空地下トンネルの建設工事が開始された。
*8月4日:南潯(九江−南昌間)鉄道沿線を爆撃、特に江西省南昌駅付近を27機でが2回に分けて爆撃し、爆弾100発以上を投下、数カ所が火の海となり、260人が死傷。
*同日:広東省掲陽市恵来県恵城の鋪仔頭、学井巷及び恵来の中孔廟の後壁などを爆撃し、5発の爆弾を投下し、住民15人が爆死。
*同日:長江沿岸の黄石港付近でジャンク船10数隻を爆破。
*8月5日:陝西省西安の飛行場を爆撃、9機を破壊した。
*同日:湖北省黄石港で大中小蒸気船各一、ジャンク船数隻を爆破炎焼させ、黄岡市田家鎮と浙江省紹興の洋山磯の陣地、広東省広九鉄道の石灘・軍田・銀盞(さん)拗・源潭の各駅を爆撃。
*同日:湖南省常徳市漢寿県を爆撃、米工場の家屋数棟、1人の妊婦が爆死、多くが爆傷。
*8月初旬:湖北省荊門市摂刀石飛行場を爆撃、爆弾10数個を投下、家屋20数棟を破壊し、住民死傷20数人、耕牛爆死3、40頭。飛行場の一部も破壊された。また9機が荊門市砂洋県を攻撃し、爆弾30数発を投下。
*8月6日:26機により漢口飛行場を爆撃、数百の爆弾を投下、15機爆破、倉庫8棟、汽船2隻爆破。
*同日:浙江省麗水と洋山磯、金華市蘭谿飛行場、江西省上饒市玉山、湖北省黄石港と鄂城、広州市粤(えつ)漢鉄道の銀盞拗駅付近の鉄路、鉄橋を爆撃。
*同日:28機が広東省英徳駅を爆弾40発で爆破した。
*同日: 江蘇省徐州市睢寧(すいねい)県の双溝では市が立ち、街は人で溢れていた。突然、双溝上空に飛行機の轟音が響き、日本機はまず双溝の后街に爆弾1発を投下、食堂が倒壊し店主と客数人が爆死した。さらにあちこちに爆撃を加え、約15人が死傷した。やがて日本軍の地上部隊が双溝を占領した。彼らはまだ逃げ遅れた住民を捕らえ、銃殺、生き埋め、斬首、刺殺、焼殺、のこぎりで切る、犬にかませるなど残酷な手段で住民を殺していった。1940年夏、双溝鎮の日本軍は農村に入り、残虐な方法で農民たちを殺していった。…(これは残酷すぎて書き写せない)… 日本軍が双溝で民間人を殺害した人数は計57人に達し、略奪や器物損壊は数えきれない。(『侵華日軍暴行総録』)
【武漢作戦と毒ガス使用】
中国国民政府軍の主力の殲滅をめざした徐州作戦に失敗した大本営は、続いて武漢作戦に転じる。武昌・漢口・漢陽の三鎮からなる武漢は、湖北省の省都であり、長江中流の中心地で、京漢鉄道(北京─武漢)と粤漢鉄道(広州─武漢)の起点になっている要衝で、南京から重慶へ首都を移すことを宣言した蒋介石国民政府が、武漢に暫定的に首都機能と軍事機関を集結させていた。
この作戦にあたり、1938年8月6日、嘔吐性毒ガス(あか弾・あか筒)使用許可の指示(大陸指第225号)が司令部よりあった。使用にあたっての最大の注意は「証拠を残すな」ということで、そのためには敵兵を「殲滅」することが最善策とされた。これによって陸軍の地上軍だけではなく、飛行隊からのガス弾投下も必要に応じて行うことになるが、機密保持のため、記録には残されなかった。残されているのは被害にあった中国側の記録であるが、日本軍の記録にはないからと、それを偽情報としてはならない(以下の8/29参照)。
*8月7日:江西省南昌の新旧飛行場を爆撃。また南昌駅のや付近の倉庫群を爆撃、炎焼させ、さらに江西省宜春市樟樹鎮の駅倉庫や貨物列車を爆撃した。
*同日:漢口から江西省九江市にかけて(湖北省愕城・薪春・田家鎮)の揚子江上の艦艇・軍用船を爆撃、一部を撃沈させ「多大な戦果を収めた」。
*8月8日:前日、広州に「自後10日間大々的爆撃を続行するにつき市民は避難すべし」との警告ビラを散布し、この日より爆撃を開始、省市政府庁舎、軍司令部、発電設備等を狙うが、700人余りの死傷者を出し、四牌楼やフランスのカトリック教会も破壊された。
*同日:揚子江沿いの湖北省鄂城、黄岡市田家鎖、安徽省蕪湖、また揚子江上の艦船を爆撃。
*同日:広東省韶関市南雄県城の練兵場を爆撃した。
▽ 同日、中国空軍は香口、彭沢一帯の日本の船舶を爆破し、船艇10隻余りを撃沈、大型艦6隻を破壊した。
▽ 同日、日本軍に傭兵された偽軍第1軍副軍長兼参謀長の徐靖遠は、部隊7000人余りを率いて河南省彰徳水冶町で反乱を起こした。
【海軍航空隊の燦たる勲功】
〇「昨年8月14日、わが海軍航空隊の精鋭が悪天候を冒して最初の渡洋爆撃を敵都南京に敢行してから早くも一年になる。この間世界の軍事専門家を驚倒させたわが荒鷲隊の燦たる勲功は世界戦史に新しい巨大な記録を残した。… そしてこの8月8日現在で敵機爆破撃墜1200余台となった。今や全支の大空は完全にわが制空権下にある」(支那事変画報:第38集より)。
*8月9日:広州を48機が襲撃し、白雲飛行場以外に市街地で160人以上が死傷、家屋200棟以上が破壊された。
*同日:江西省吉安飛行場、宜春市の樟樹駅倉庫や貨物列車、太湖西方、湖北省黄岡市蘄(き)春、広州粤漢鉄道の西村・江村の貨物列車群、軍田の鉄橋、広九鉄道の石牌駅の鉄路や軍需品格納庫を爆撃、炎焼させた。
この日本側の記録に対し中国側の記録では、この中の湖北省黄岡市蘄春は「黄岡市英山県に3機の日本軍機が飛来、何周も旋回し地勢を偵察しビラを撒いた。翌9日午前10時、日本軍機9機が突如、県の上空に現われ、機銃を乱射しながら大型爆弾数十発と焼夷弾数発を次々と投下、県中心部にある小学校の校舎数十棟が瓦礫と化した。西、南、北の三街の商店や民家100軒以上も焦土と化し、無数の物資が爆破された。県城全体が黒煙に覆われ、悲鳴がこだました。犠牲者の手足が垣に張り付いて見るに忍びなく、ある女性は大腸が破裂した後、水を飲んだ側溝のそばで亡くなり、もう一人は腹が破裂して内蔵が柳の枝にぶら下がっていた。西門の外で洗濯をしていた若い姉妹2人は同時に爆死、抱き合って死んでいた。1歳の赤ちゃんを抱えた女性と夫の3人も爆弾で命を落とした。今回の県城爆撃で爆殺された住民は42人、重傷5人、軽傷は数人だった」(『侵華日軍暴行総録』)のようになっている。
*同日:6機が湖北省咸寧市通山県南林橋上空に飛来、爆弾4発を投下し大型のトーチカ1座、民家3棟を破壊した。
*8月10日:広州の粤漢鉄道西村駅付近の貨物列車十数輌と鉄路数カ所、増歩の工場群、さらに高角砲陣地を爆撃。
*同日:湖北省鄂城を爆撃、水雷艇一隻爆破。
*8月11日:湖北省黄石港のジャンク船10隻、安徽省池州江岸の中国軍陣地を爆撃。
*同日:広西省梧州の工場群、広東省高要飛行場、また粤(えつ)漢線の広州市銀盞拗・清遠市黎洞・湖南省源漳・琶口江、広九線の樟木頭付近の鉄橋、鉄路を爆撃。
▽ 8月11日、中国空軍は江西省九江市長江上の日本艦を爆破し、3隻を沈没させ、5隻を大破した。
*8月11−13日:南京の揚子江北側対岸にある六合県の竹鎮、馬集、八百、瓜埠、東王廟などを連続爆撃。
【武漢(漢口、武昌、漢陽)・黄石大爆撃】
武漢攻略に向けた爆撃作戦は7月より展開されているが、この後も占領まで続く。
*8月11、12、13日:11日、湖北省武漢三鎮(漢口、武昌、漢陽)を70機(艦船機含)以上が3回に分けて爆撃し、爆弾200発以上を投下し124人が死亡し、556人が負傷、430棟余りの家屋が破壊された。漢陽南門河街一帯に住む民衆は爆撃を避けて身を隠す場所がなく、川に飛び込んで避難し、多くの人が溺死した。また華中大学が爆破された。
続いて12日、武漢三鎮を72機(100余機とも)で空襲、「効果100%の大爆撃を敢行した」。武昌・漢口駅の構内および周辺の倉庫群に「全弾命中させて壊滅的損害を与え」、武昌南西では中国軍司令部などの軍事施設を「徹底的に破壊した」。実際に中国側の記録では「市街地(武昌徐家棚、水陸街、文昌門及び漢口江岸駅)に対して爆弾350発以上を投下し、447人が死亡、728人が負傷し、785棟の家屋が破壊された。武昌芸術学校も全焼した」とある」。別途、すでに日本人居留民が引き上げていた租界を爆撃し、ガソリンタンク等の施設も爆撃した。
13日、湖北省黄石市の陽新を100機以上が3回に分けて爆撃し、毎回800発以上の爆弾を投下、 大火を引き起こし城内の大火は14日になってもまだ消えず 1300人以上の人々が死傷した。この爆撃量は尋常ではないが、日本側の記録には現在のところ見当たらず、これに関する別の記述では、「軍民の死傷総数は干人以上」とあり、日本軍の武漢侵攻作戦に対してその途上の黄石では中国軍守備部隊が駐留していたことによるのであろう。なお「最も大きな穴は中山公園の北端の池近くで、穴の直径は約20m余り、深さは6m余り」とあり、この爆弾はおそらく250kg爆弾で、大型爆弾も交えた大量の爆弾が多くの死傷者を出した。一つの爆弾で60余人が死亡したともある。三日後、城内の片付け作業の現場では、兵士が部隊で死体を収容し、家族が肉親の死体を収容したほか、主のない死体(焼けて判別がつかないものなど)は三百余りあって、それらは「同善堂」(慈善団体)が儒学培深坑に運んで埋めた。また爆弾に直撃されて肉体が残らなかった死者もいた。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*8月12日:数十機で湖北省黄石港、江西省九江市を爆撃、九江上空で空中戦、5機撃墜、汽艇一隻、ジヤンク船4隻爆破、さらに粤漢・広九鉄道を爆撃。
*8月13日:黎明に漢口と江西省吉安・南昌飛行場を爆撃、漢口では燃料庫を燃え上がらせ、南昌では老営房・青雲譜飛行場、格納庫、兵舎、機銃陣地、駅構内貨車を破壊、吉安では飛行場滑走路他、駅の貨物車20輌、倉庫7棟を爆撃した。
*同日:広東省陽江市陽春、浙江省寧波・麗水・玉山飛行場、湖北省黄岡市黄州・蘄春では千トンの汽船一隻を爆沈させジヤンク数隻爆破、粤漢・広九鉄道の広州銀盞拗南方の鉄橋、軍田駅・常平付近の鉄橋、鉄路を爆撃。
*8月14日:広東省香山県(現・中山市)の中国軍陣地、粤漢鉄道の銀盞拗、新街、天河駅を爆撃。
*8月15日:21機が湖北省孝感・漢口両飛行場を爆撃、九江市で二機を撃墜。
*同日:広州の粤漢鉄道の黄沙駅構内、貨車群、鉄路を爆撃、また西村、軍田両駅も同様に爆破。
*8月16日:陸軍の漢口攻略作戦の事前爆撃に参加、武漢三鎮(漢口・武昌・漢陽)を81機が3回に分けて爆撃し、260発以上の爆弾を投下し、300人余りの死傷者を出し、300以上の建物を破壊した。
*同日:広州の粤漢鉄道の銀盞拗・源漳・石龍を爆撃、特に銀盞拗の大鉄橋は連日の爆撃で完全に破壊、漢口と広州を結ぶ動脈を切断した。
*同日:長江岸陣地(田家鎮あるいは馬頭鎮か)、広州白雲飛行場、粤漢鉄道沿線を爆撃。
*同日:安徽省池州市香口鎮南方の嘴向観測所ほか集落を爆撃。
*同日:広東省潮州市広済を爆撃。
【湖南省長沙へ第七次爆撃】
*8月17日:湖南省長沙の南駅と東駅の軍事品倉庫群を爆撃。これは中国側の記述では、「18機が長沙へ七度目の爆撃、120数発の爆弾を投下し、300人以上が死亡、500人余りが重軽傷、建物300棟余りが破壊された。南区で被爆した場所は、東瓜山太乙寺、青龍廟、大椿橋、惜陰街、小蟻巷、糞埠頭、宝華硝子工場など。特に東瓜山の被害は最も悲惨で、敵機はここに集中して40数発の爆弾を投下、低空での機銃掃射も行い、瞬時に血と肉が飛び散って、三百数十人死亡、ある一家の老幼すべてが全滅した。ある者は影もなく、行方不明、ある者は腕と足がちぎれ、内臓と脳は地に流れていた」とある。「影もなく」というのは爆弾の直撃を受けると肉体は四散して残らないからである。
*同日:粤漢鉄道の広州銀盞拗を爆撃、修理中の鉄橋を再度爆撃、また軍田駅では停車中の貨物車十数輌と鉄路を爆撃。別途、長江岸陣地(田家鎮・馬頭鎮か)を爆撃。
*8月17−19日:南京の揚子江北対岸の六合県城と竹鎮を交互に爆撃。これまでの爆撃で全県は2000余りの民家を爆破され、死傷者1000人余り、竹鎮だけで9回の爆撃を受けた。
*8月18日:湖南省衡陽飛行場を爆撃(衡陽では空中戦で中国機16機撃墜、地上の12機爆破)、また湖南省宝慶(現・邵陽市)飛行場を爆撃。別途湖北省鄂城の爆撃に向かった一隊は下流の軍用船一隻撃沈するが、中国軍機10数機の迎撃に逢い、4機を撃墜、一機が撃墜された。
*同日:漢口攻略作戦の事前爆撃に参加。6機が鄂城下流にて50トン汽船を破壊、中国機15機と空戦、4機を撃墜するが1機撃墜された。
*同日:粤漢・広九鉄道の銀盞(さん)拗・江村・軍田・石灘の鉄橋等を爆撃、粤漢鉄道の開通見込みを絶った。
*8月19日:江西省九江市の瑞昌・徳安・星子(現・廬山市)を爆撃、瑞昌では「市街に密集せる敵集団部隊および付近陣地、部落による敵軍に徹底爆撃を行う」とあるが、集団部隊が市街に密集するとは考えにくい。この被害に関しては資料が見当たらないが、多数の死傷者が出ているはずである。このほか、徳安では例のごとく駅および付近の倉庫・陣地を「猛爆」、星子では部落陣地の集団部隊にも「反復爆撃を行い、多大の損害を与えた」。
*同日:湖北省黄岡市武穴・田家鎮付近の岸辺の陣地や江上のジャンク船を多数撃沈させた。
*同日:連続して粤漢・広九鉄道の修理中の銀盞拗の鉄橋を爆撃、また黄村・軍田・石灘の各駅と鉄橋等を爆撃。
*同日:8月19日、日本軍機は 湖南省岳陽市平江県城を爆撃、県民200人以上が爆死した。
*8月20日:広州の銀盞拗の修理中鉄橋を爆撃、畢村荘付近の鉄橋も爆撃。
*同日:午前10時近く、江蘇省南通市を占領する日本軍の飛行機3機が偵察を行いつつ呂四鎮上空に侵入し、計12発の爆弾を投下、13人が死亡、18人が負傷、113軒の家屋を爆破した。
*同日:陝西省宝鶏城内北崖の洞窟に逃れていた人々を偵察中の日本軍機が発見、家窯に向けて爆弾を投下し洞窟で20人以上が爆殺された。
*8月某日:浙江省台州市椒江の海門を爆撃、死者200人以上、負傷者200人以上であったが一家全員が犠牲になった場合もあった。その後の爆撃と二度の侵略で、海門では608人が殺害され、爆撃機の下で351人が死亡、拉致された者285人(うち32人は連行の途中で死亡)、強姦された婦女154人、家屋1500間が燃やされ、船の損害は50数槽であった。
*8月21日:武漢の武昌西方の兵営を爆撃、また海軍艦隊と協力して長江岸陣地(田家鎮・馬頭鎮か)を爆撃。
*同日:江蘇省塩城市阜寧の益林でちょうど集会があった時、日本機数機が2度目の空爆をし、100人余りが爆死。
△ 江西省廬山市星子県への侵攻作戦途上で日本軍は毒ガス砲弾を使った。
*8月22日:湖南省株州を大挙して襲撃、倉庫・貨車群・大工場を爆撃を爆撃。
*同日:漢口攻略作戦の本作戦発動、陸海軍が協力して長江岸陣地、粤漢鉄道の銀盞拗、筆村鉄橋、郭塘駅を爆撃。
*同日:午前、湖北省黄岡市蘄春の漕河鎮上空に襲来、家屋21棟と100以上の部屋を爆破した。
*8月23日:前日と同様に株州、長江岸陣地、粤漢線の郭塘駅・江村鉄橋・銀盞拗、広九線の樟木頭を爆撃。
*8月24日:午前九時頃、湖北省咸寧市通城県に3機が突然急降下し、爆弾投下と機銃掃射がなされた。至るところに穴があき、家や建物が倒壊した。3か所の大きな弾坑はいずれも長さが10m近く、深さが4mあった。隆平寺近くでは一家全員が死亡した。首の行方がわからない人、頭があって手足が跡形もない人もいて、約40人が死亡した。再び午後二時頃来襲、焼夷弾が投下され各地で火を起こし、家の多くが焼き払われた。
*同日:30機で湖北省宜昌飛行場の格納庫や倉庫を爆撃、他に陸軍攻撃に協力して終日江西省瑞昌を反復爆撃。
*同日:引き続き粤漢鉄道の銀盞拗・源漳・石龍付近鉄橋を爆撃。
*同日:中国民間航空会社の「桂林」号が香港から重慶に向かう途中日本軍に迎撃され、経済関係者の乗客12人が死亡した。
*8月25日:湖南省長沙の東と北駅を18機が爆撃、爆弾60個で駅舎および倉庫群を爆撃、炎焼させ、60人以上が死傷した。
*同日:江西省吉安と南昌を爆撃、別途広西省梧州の工場群を炎焼させ、また粤漢鉄道の銀盞拗鉄橋を爆撃(すでに完全爆破したはずであったが)。
*同日:日本機4機が上海南匯区(当時は江蘇省で現在は浦東新区)恵南鎮を爆撃、9発を投下、多くの家屋が破壊され、住民10人余りが爆死した。
*同日:陸軍が徐州邳州市土山鎮を攻めるに当たって三機が支援爆撃。
▽ 同日、朱徳は八路軍成立一周年を記念して「国民に訴える書」を発表、1年間に八路軍と日本軍は600回以上交戦し、日本軍3万4000人余りを殺傷し、捕虜2000人を殺したと話した。
*8月26日:前日に続き湖南省長沙飛行場と北駅で格納庫、駅構内倉庫群を爆撃。
*同日:江西省瑞昌を爆撃、小学校などが破壊された。
*同日:広州の粤漢鉄道黄沙駅を攻撃、構内施設、貨車群を爆破炎焼せしめ、江村付近の鉄路七ヶ所と鉄橋二ヶ所を爆破。
*8月27日:江西省九江市瑞昌・廬山(星子)陣地を2度爆撃。12発の爆弾を投下し、続いて低空で機銃掃射し、120人余りの死傷者を出した。
*同日:広東省韶関市南雄飛行場を集中爆撃。
*同日:銀盞拗鉄橋を改めて爆撃(この日本軍の執拗さには感心するが、記録上これで15度目である)、付近の修復材料も爆破。さらに源漳の鉄橋を爆破。
*同日:朝、約100機が、日本陸軍の支援のため、江西省上饒市大天山、安徽省馬鞍山・金家山などの陣地を爆撃。
*8月28日:江西省瑞昌の中国軍陣地を爆撃。
*同日:午後一時頃、広東省清遠市仏崗の湯塘を3機が急襲、低空での機銃掃射を含めて3機が連続して爆撃、30人以上が爆死、20隻の木造船が爆沈された。
【湖北省荊門市京山県:1938年の空爆による最大の被害数】
*8月29日:(日本側記録には「中支方面では日本晴れの快晴に恵まれ」とあり、すでに中国を日本の傘下に置いたような表現である)湖北省荊門市京山県を初空襲し、夜明けから11時ごろまで57機が3回に分けて爆撃を行い、爆弾と焼夷弾約2000発を投下、城内の街から城外の村落にかけて、さらに曲水河上の数十隻の小船はすべて破壊され、川は血の色に染まった。死者は諸説あり、1000人余りともあるが、埋葬作業に参加した人は「計1964体」と報告し、ただし城外の船民、農民が親族に埋葬された犠牲者を加えると、死者総数は2000人以上と思われ、負傷者は3000人余りにのぼった。建物は城内には1260棟の家屋のうち1165棟が破壊されたとしている。京山城の生存者は親戚を頼って数ヵ月人の姿がなく、カラスや野犬が残った人肉を食い、山城は廃墟と化した。(『日軍侵華暴行実録』 第1巻)
これはこの年で一地区で最大の被害数と思われるが(前年では江蘇省溧水県)、この戦争を通しても最大の犠牲者であろう。
*同日:江西省九江市赤湖を爆撃。
*同日:粤漢鉄道沿線を爆撃。
〇 8月29日、武漢作戦における陸軍地上軍で、午前7時ごろ第11軍の熊本第106師団によって嘔吐性ガス筒(あか筒)1200本、催涙筒(みどり筒)300本、発煙筒400本、迫撃砲あか弾300発が同時に使用された。使用された毒ガスは、正面2km、縦深2kmの地形に約40分も漂い、国民政府軍は陣地を捨てて退却した。
*8月30日:湖南省長沙・郴(ちん)県(現・郴州)飛行場、江西省九江市、広東省韶関・南雄飛行場を爆撃(長沙飛行場では3機と空中戦で撃退、南雄空襲では格納庫破壊、地上の3機大破、17機撃墜、日本は2機失う)。
*8月31日:湖南省長沙・株州を爆撃。株州では18機が株洲汽車南駅、北駅一帯に重爆弾、焼夷弾100発余りを投下し、70人余りの死傷者を出し、100棟余りの民家を破壊した。南駅付近の湘江埠頭では民間船8隻が爆破され、北駅構内では新兵輸送車両1列が転覆し、壮丁200人余りが死亡した。
*同日:湖南省九江市廬山方面・赤湖を爆撃。
*同日:広東省梅州市の豊順の市街地軍事施設、兵営を爆撃、また盞拗鉄橋南側を爆撃、鉄路8ヶ所を破壊。
*8月末、安徽省安慶の抗日部隊を攻撃した。
〇 中国国民政府の発表によると、8月中の日本空軍の武漢三鎮への空爆は12回、うち市街地空爆は6回、死者は829人、重傷者は9982人、軽傷者は1387人、建築物破壊は2906軒とした。
9月
*1938年9月1日:長江岸陣地(田家鎮・馬頭鎮か)、九江市徳安付近を爆撃。
*同日:広東省粤漢・広九鉄道沿線の畢村・白石・石灘・源潭を爆撃し陸橋や鉄路を破壊。
*同日:湖北省黄岡市黄安県を18機が初爆撃し、60発余りの爆弾を投下、家屋14棟を破壊し、住民24人を爆死、負傷させた。翌年3月までに、日本機は計100機余り出撃し、県城、七里坪、八里湾などに8回の爆撃を行い、数百発の爆弾を投下した。
*9月2日:河南省信陽市と大別山、江西省の鄱陽湖を爆撃し、日本陸軍の地上作戦に協力した。
*同日:長江岸陣地、広西省梧州飛行場(地上の15機を撃破)と工場群、また引き続き広東省粤(えつ)漢線の畢村を爆撃。
▽ 同日、豫北(河南省)済源の傀儡軍の王興煥が日本軍将兵を殺し、千余の部隊を率いて反乱した。
*9月3日:江西省九江市廬山方面および粤漢線の鉄路を爆撃。
*同日:広西省梧州の広西大学やいくつかの工場を爆撃。
▽ 同日、中国空軍は江西省瑞昌、磨山、洪山を飛行し日本軍陣地を爆撃した。
*9月4日:九江市瑞昌・馬廻嶺、広東省潮州市広済、広州市粤漢線の銀盞拗付近の貨車や鉄路を爆撃。
△ 九江市瑞昌西北郊外の我克郎君山で日本軍はまた毒ガス砲弾を使った。
*9月5日:大部隊が河南省信陽を攻撃、駅舎および付近の倉庫、工場に大火災を起こした。
*同日:湖南省岳陽、江西省南昌、九江市の瑞昌・馬廻嶺・徳安、広東省広済、粤漢線の粤漢線の源漳・琶口江の鉄橋等を爆撃。
【民間旅客機を撃墜】
*同日:民間機ユーラシア航空15号は、香港から昆明に向かい、広東省英徳県の鐘岡上空で日本の3機に撃墜され、胴体に被弾して柳州に着陸した。さらに6日、湖北省嘉魚上空でユーラシア航空17号機を撃墜した。
*9月6日:江西省南昌、湖南省長沙市寧郷の飛行場、九江市徳安・瑞昌、粤漢線の源漳を爆撃。寧郷はこの日から1944年6月までに、日本機による空襲を延べ6回受け、221発の爆弾が投下され、105人の死傷者、197人の負傷者、86棟と177軒の家屋が破壊された。
*9月7日:湖北省黄岡市浠水、湖南省婁底市の漕家鎖、九江の瑞昌陣地を爆撃、また九江上流で来襲した中国軍重爆撃6機中3機撃墜。
*同日:7機が前後して湖北省黄岡市蘄春の劉公河に侵入し、例によって機銃掃射、爆撃を加えた。劉公河の役所も民家も、瓦礫の海と化した。家屋50棟余り、150余間を爆破。また午前、敵機は漕河上空に寄り、店舗21棟、100余間を爆破した。
*同日:河南省汝州市の広済地区に敗走中の一万の部隊を爆撃、「大損害を与えた」。
*同日:9機が広西省梧州の大東路、竹安路の一帯に80個以上の爆弾と焼夷弾を投下、228人を死傷させ、400余りの家屋が損傷し、3000人以上が家を失った。
【国際連盟への毒ガス使用の訴え】
9月7日、中国政府は国際連盟に通告文を提出し、日本軍が4カ月間に11回も毒ガスを使用していたこと、日本軍の暴行を制止するよう要請した。国連事務局はこの日、通告文を公表して加盟国に送った。(しかしこの後も毒ガスの使用は続く)
*9月8日:黄岡市武穴(田家鎮陣地)、江西省吉安飛行場を爆撃。
*同日:浙江省杭州南方の銭塘江南岸の蕭山・桐慮・考豊・臨安の陣地を爆撃。
*同日:江西省星子(現・廬山市)南方の東山孤嶺の陣地を終日爆撃。また広済西方に敗走中の部隊を追爆撃。
*9月9日:長江岸陣地、江西省玉山飛行場、粤漢鉄道を爆撃。
*同日:河南省信陽市羅山・光州・鄧城などの大別山系の中国軍拠点を爆撃。
*同日:江西省九江市瑞昌・馬廻嶺・東孤嶺の中国軍拠点を爆撃。
*9月10日:長江岸陣地、京漢・粤漢・広九鉄道を爆撃。
*同日:河南省南東部潢河橋梁とジャンク船10隻を爆破。
*同日:安徽省六安市金家塞の密集部隊、河南省固始県富金山と華烟山の陣地に反復爆撃。また河南省信陽市商城の飛行場と兵営、河南省広済、江西省九江市瑞昌と西孤嶺の陣地を爆撃。
△ 9月10日、水上機母艦千代田竣工。
*9月11日:江西省廬山の星子付近の東孤嶺に毒ガス弾を投下。
*同日:長江岸陣地、江西省南昌、河南省信陽市光山および駐馬店市の確山、広九鉄道沿線を爆撃。このうち光山県は午後1時頃、18機が光山県城の上空に飛来、次々に市街地に急降下し、機銃を乱射し爆弾を投下した。沿道の建屋の大部分が爆破され、城内の住民が南関に押し寄せた時、日本機は彼らに低空掃射を行い、死傷者を増やした。東街口の林開太は、文廟口で吹き飛ばされ、吹き飛ばされた足は文廟院の大木に吊るされ、頭は100m離れた大きな甕の中で見つかった。南門の外の曹圍孜村は40棟以上の建屋が跡かたもなく破壊された。この無差別爆撃の後、肉親を探し求める叫び声が至る所で聞かれた。この光山県城での爆撃による死者・負傷者300人以上、爆破された家屋450棟以上。(『侵華日軍暴行総録』)
*同日:河南省商城の軍事施設、陣地を連続爆撃、軍司令部、火薬庫、兵営数棟を爆撃、炎焼させた。
△ 同日、日本軍は毒ガスで河南省固始県石門口、富金山陣地を攻撃した。
*9月12日:河南省信陽を爆撃。また華烟山より退却中の中国軍部隊を「猛爆、壊滅せしめ」、安徽省金家塞の陣地数カ所を炎焼させた。
*同日:長江岸陣地、江西省九江市瑞昌、湖北省随州市高城県飛行場を爆撃。
*同日:午後、陝西省楡林市府谷県城を爆撃。
*9月13日:河南省平頂山市、汝州市広済、信陽市羅山・光山県孫鉄舗、江西省南城を爆撃。
*同日:広西省南寧・梧州・柳州の各飛行場を襲撃、空中戦で12機撃墜、地上の十数機を爆破。
*同日:湖北省西部の江南戦線各所の陸軍地上部隊の作戦に呼応して中国軍陣地を「粉砕」、また西孤嶺南方の敗走部隊に「壊滅的打撃を与えた」。
*同日:山西省運城市安邑(ゆう)県(現・夏県)の大部隊に「巨弾を浴す」。
*同日:湖北省黄岡市麻城を襲い、中国軍兵士を輸送中のトラック数十輌と荷揚げ中の船舶150隻を「粉砕」。また河南省光州城内の「敵密集部隊」を爆撃。
*同日:陝西省楡林市神木を爆撃。
*同日:広東省仏山市高明県明城新市を襲撃し、爆弾数発を投下、爆死2名、負傷3名。
△ 同日、日本軍は浙江省松陽橋で毒ガス砲弾を使用。
*9月14日:江西省廬山の星子付近の西孤嶺に毒ガス弾を投下。(日本陸軍の記録では、「星子方面の敵の前線陣地および隘口街付近の砲兵陣地を爆撃、制圧す」とある)
*同日:湖北省黄岡市武穴、河南省汝州市広済、山東省済南市劉公河陣地を爆撃。
*同日:河南省信陽市光州(現・潢川)および商城において敗走兵を重爆撃し、また河南省広済戦線において陸軍地上部隊の進撃を援助して追撃戦を行った。
*同日:河南省駐馬店市の京漢線確山駅と鉄路を爆破。
*同日:江西省瑞昌西方の山岳地帯の中国軍陣地を爆撃。
*同日:午前7時、9機が湖北省黄岡市薪州の上空を旋回した後、機銃を城内外に向けて乱射し、半時間にわたって100発余りの重爆弾、焼夷弾を投下。その後城内には死体が散乱し、家々が倒壊した。城内の県政府、民教館、積穀倉、電信局、郵便局、警察所及び公共の家と近くの民家はすべて爆破された。城外では北門から石牌楼、張楼坊に至るまでのにぎやかな商場が、すべて爆破されて平らになった。民家200棟余りを破壊し、軍民500人余りの死傷者を出した。約1000人が帰る家を失った。
*9月15日:湖北省黄岡市武穴・田家鎮・蘄水、九江の瑞昌陣地、安徽省馬鞍山を爆撃。
*同日:江西省廬山星子の隘口街付近を爆撃、地上軍の追撃に呼応、また河南省広済戦線で広済西方と平頂山市界嶺付近の中国軍部隊を「猛爆」。
*同日:河南省信陽市の光州・商城戦線において城内の軍需品と部隊を爆撃、「多大の損害を与えた」。
*同日:湖北省黄石市陽新・大冶・紅安を爆撃し、地上軍の進撃に協力、また中国軍退却部隊を「壊滅」させた。別途、湖南省常德市莫家舗・河南省信陽市馮家舗を爆撃。
*同日:安徽省蚌埠市五河県が4機により四度目の爆撃を受けた。「五河県誌」によると、1938年から1938年まで約40機が五河県を爆撃し、約140発の爆弾を投下し、1378人の住民を死傷させ、家屋約1万間を破壊した。
【日本軍の占領下の実態】
〇 占領下の事例:河南省信陽市商城に対しなんども爆撃を重ね、16日に日本軍は商城を占拠、そこから11月に撤退するまで日本軍第13、16師団が駐屯していた時期に、南関の井戸、店の半分の一帯が400軒を焼かれた。またしばしば武漢から飛行機を送って爆撃した。撤退するとき、南関から大十番街、北関、西門に至るまで、千軒以上の家を焼いた。町はずれの大碑一帯の十余の村は、ことごとく日本軍に焼かれた。李集峡口一帯の十余の村々の家屋も稲も焼き払われ、達権屋郷集は一度に三百余戸を焼かれた。上石橋集の二百余戸も全焼し、四顧燈郷の王襞街から柳坪までの長さ約30mの沿道において、焼討ちは二日間にわたって行われ、大小の村々450余戸、家屋一万余戸、大小の稲架400余個を焼き、耕牛80頭を奪って殺した,豚や羊の家畜は数知れない。王襞村の香店、椿林など三つの村では、30余世帯の百余戸、28戸の稲が踏み倒され、あるいは焼かれた:(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*9月16日:江蘇省鎮江市黄土橋、河北省衡水市景県大楓林、木石橋・沙幅嶺陣地(両地とも省市不明)、粤漢鉄道沿線を爆撃。
*9月17日:広西省の柳州・梧州を30機が爆撃し、梧州で300人以上が死傷した。
*同日:広西省桂林、広東省東莞市虎門の各飛行場を爆撃。
【武漢攻略途上に廃墟となった街】
*同日:湖北省黄岡市武穴鎮・田家鎮への地上部隊攻撃に協力、軍陣地に反復爆撃し「多大の損害を与えた」。
日本軍は武漢攻略への途中、手前の武穴鎮に侵攻するが、約200人が張才垸に侵入し、村落に火炎放射器を使って火をつけた。逃げ遅れた者はほとんどが焼死した。その後日本軍は手分けして全垸(張才垸)を捜索、ばらばらに捕らえた者は銃殺され、あるいは銃剣で刺し殺されて殺害された。40人ほどは裸にされて月塘の河の中に追いやられ、生きた標的にされ、銃で撃たれて死んでいき、月塘は血で赤く染まった。農民張細は女の子をおんぶして逃げようとしたが、橋を渡っている最中に日本軍に発見され、銃で撃たれて父と娘は死亡した。ある日本兵は、生まれて間もない赤ん坊を銃剣の先に乗せて楽しんでいた。日本軍は防空壕に隠れていた300人の住民を集め、老若男女を問わず、服を脱がせ、祠の入り口の稲場にひざまずかせた。日本軍は稲場のそばの墓の上に機関銃を据えて、集団虐殺をしようとしていたが、その時突然飛行機が飛んできて、何かを投下した。将校のような日本兵が日の丸を 振り、日本軍はやっと引き揚げた。この時、まだ30人余りが隠れていて、統子を越えて脱出しようとしたが、日本軍に発見されて、全部境外の川の堤の辺で捕らえられて集団で殺された。三日三晩火はおさまらず、すべてが廃墟となり、飢えと寒さと病気に苦しみ、彼らは次々に死んでいった。夜になると日本軍はしばしば婦女を強姦し、若い娘たちを連れ去っていった。推定ながら、300人ほどが殺され、10数世帯が一家全員殺されたという。全垸の家屋700棟のほとんどが焼失した。(『侵華日軍暴行総録』)
*同日:江西省瑞昌と湖北省陽新間の山岳地帯に潜む部隊を爆撃。
*同日:粤漢線の江西省横石・広東省源潭・黎洞付近の鉄路や鉄橋を爆撃。
*同日:瑞昌西方戦線から退却する中国軍に対して大挙して爆撃、壊滅させ、さらに湖北省陽新、湖南省湘潭市辛潭舗を爆撃。
*同日:湖北省黄岡市蘄春から東進する中国軍数千人の部隊を「徹底爆撃」。
*同日:湖南省衡陽市 衡山県を爆撃。
*9月18日:広西省柳州飛行場を襲撃、格納庫や軍事施設を「木っ端微塵に粉砕」、火災を起こし、地上の15機も爆破、13日の爆撃と合わせて「跡形もなく全滅させた模様」。別途、粤漢鉄道沿線を爆撃。
*9月19日:広西省梧州・南寧の軍事施設を爆撃。これが中国側の記録では「8機が梧州に飛んで、広西大学の近くで30個以上爆弾を投下、校舎は全壊した。給水塔が爆破され、その場で多数の死傷者が出た」となる。
*同日:30機が広東省粤漢線の清遠市源潭と潮州市の銀盞拗の鉄橋(両方とも再び修復されたか)を爆破。
△ 9月19日、英国領香港につながる広東省・広州は中国にとって華北を日本軍に抑えられたのちの主要な物資補給ルートであり、武漢攻略を終えた大本営は、このルートを遮断すべく陸軍とその航空隊に広東攻略作戦を命じる。
*9月20日:広西省九江市の瑞昌、長江南岸の呉家脳・大脳山陣地へ毒ガス弾を投下。
*同日:京漢線の河南省信陽の約400輌の軍用列車を爆撃し、その数十輌を「粉砕」、また信陽城内の大部隊を爆撃して「多大の損害を与えた」。
*9月21日:長江岸南北陣地(田家鎮・馬頭鎮か)、広西省南昌・欽県(欽州)を爆撃。羅山
*同日:河南省の信陽駅で貨車数十輌を爆撃、また信陽市街西部を爆撃し「多大の損害を与えた」。
*同日:九機が広西省防城港市防城企沙街を爆撃、民家十六軒、学校一棟を爆破、死傷の住民数人。
*9月22日:広西省欽州・南寧・武鳴の兵舎や軍事施設を爆撃。
*同日:江西省南昌市隘口街における地上部隊の進撃に協力して砲兵陣地を爆撃、さらにその南方の吉安市黄塘舗を爆撃。
*同日:広東省惠州市四圍において中国軍に包囲された陸軍を援護して反復爆撃、また弾薬を地上部隊に投下。
*同日:湖南省益陽市蘭渓鎮、また湖北省黄石港上流で艦船一隻爆沈。
*同日:粤漢鉄道の広東省琶江口、源潭の鉄橋、鉄路を爆撃。
*9月23日:広西省欽州、広東省源潭・軍田・琶江口を爆撃。
*同日:前日に続いて陸軍地上部隊を支援。
*同日:湖北省黄岡市蘄春を爆撃、各所に火災を生じさせ、陽新南方の天橋洞、水口張間の船艇群を急襲して爆沈させた。
*同日:日本軍機約60機が湖北省咸寧市通山県城の上空に飛来、隊列を組んで旋回し、爆弾を投下、城内の民家や商店72棟を破壊した。(これは上記黄岡市と同じ流れかもしれない)
*同日:江西省九江市武寧において瑞昌戦から退却中の部隊に「猛襲を加え市街に火災を起こさしめ、ついでに南方陣地を爆撃しこれを壊滅した」。別途、黄石市南山下に集結している部隊約二千に「鉄槌を下し多大の損害を与えた」。
*9月24日:湖北省黄岡市麻城宋埠鎮の「軍事施設」を爆撃。これに対する中国側の記述である。
—— 27機が、3機一組になって人の字のような戦闘態勢をとって、麻城三大集のひとつ宋埠を乱爆した。第一組は宋埠西門外の湘幇河から、正街に沿って東門外の魏家咀に至るまで、大悪罪とも言える爆弾を投下した。次の組は宋埠鎮に集中して爆撃。大南門巷の龚医師は脳と四肢が吹き飛んで、血と肉が壁に飛び散った。30代の陳大姉は顔の半分が削られ、乳房が飛ばされた。破裂した腸を押さえて、助けてと叫ぶ人もいた…。鎮の中心部正街にある3階建ての望楼は、唯一の頑丈な建物で、100人以上の住民がここに避難したが、日本軍は次々と爆撃、機銃を乱射し、瓦礫が死体と共に丘のように積み上がった。一週間後にも瓦礫の底で呻いている者もいた。軍の指揮機関が駐屯している南門廟の前、中山台側の馬家塘は、鬱蒼とした樹林があり池には蓮の葉が繁茂していて、住民は安全と思ってそこに集まった。これが敵機に発見され、狂ったような機銃掃射で池の碧水は真っ赤になり、50人余りの命は泥の中に埋まった。 村の竹林に隠れていた20人以上の女性や子供たちは全員死亡、安徽省の日本軍の占領地域から避難してきた女性は4歳の子供を抱えたまま惨死した。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)その後宋埠鎮は日本軍に占領され、数々の暴虐行為に見舞われ、1700人以上が犠牲になった。
*同日:9機が安徽省池州市青陽の中国軍作戦根拠地を爆撃。これに対し中国側の記述は、「孔子廟に隠れていた老若男女80人余りが洞窟の入り口がふさがれ、全員が窒息死した」とある。
*同日:6時20分、浙江省台州市臨海城区を初爆撃。爆弾18個を投下して、住民73人を爆殺、50人近くが重軽傷、家屋12棟を破壊。その後翌年から1945年まで臨海県への空襲は65回、飛行機252機を出動させ、爆弾1288個を投下、182人を爆殺し、203人を負傷させ、建物の1761軒を壊した。また民間船5隻を爆破、165人を殺し、196人が負傷。また何度か日本軍に占領され、1945年までに全県で746人が虐殺された。
*同日:浙江省台州市黄岩城に3機が13発の爆弾を投下、被爆と機銃掃射で死者49人、負傷者19人、家屋48棟を爆破。死者の中には全身が飛び散った3人の子供もいた。
*同日:中秋節の日、1個中隊9機が湖南省衡陽の上空に侵入、まず機銃掃射し、続いて急降下して爆弾を投下、噴煙が充満します。住民は防空壕に入る前に多くの死傷者を出した。新婚夫婦が二人とも爆死、新婦の足は木の梢に飛び、新郎は木の下に横たわって血だらけになっていた。
△ 同日、日本軍の日波田支隊は浙江省東富陽の富池口要塞を毒ガスで攻撃した。
*9月24−28日:湖北省黄岡市大冶城関、黄石港、石灰窯、金牛、保安、劉仁八、殷祖、朱山頭、七里界、何場鋪などの郷や村を連続爆撃、7月から10月までに日本軍機は大冶県城を75回にわたり空襲し爆弾369発を投下、家屋数百棟を爆破、繁華な東街はすべて灰となり、住民数百人以上が死傷した。その後日本軍が大冶に駐屯中、あらゆる悪行を重ねた。
〇 上記馬鞍山には鉄鉱山があり、日本は占領後に製鉄所を作り、またこの大冶にも鉱山があって1908年に日本は多額の借款と引き換えに鉄鉱石の供給元としていたが、この戦争により10月、大冶鉄鉱を占領してこれを日本製鉄に与え、1942年には年間145万トンの生産高を記録した。しかしそのころから日本軍は劣勢となり日本に輸送することも困難となった。
*9月25日:湖北省黄岡市蘄春・田家鎮、咸寧市通山、広東省陽江市陽春を爆撃。また田家鎮付近の長江上で機艇、ジャンク船40数隻爆破。
*同日:初めて貴州省に侵入し、貴陽を偵察し 清鎮飛行場と南門外に爆弾を投下、また册享県の軍事施設を爆撃。
*同日:浙江省杭州市富陽の陣地、金華市、紹興市諸曁(き)、義烏(う)市等の折贛(かん)鉄道沿線を爆撃。
*同日:安徽省池州市青陽県に25機が出撃し、4回に分けて空爆、爆弾60余個、焼夷弾10余発を投下した。県庁の建物は全壊し、城壁の段及び60、70軒の民家が崩れ落ち、蓉城は一面の焦土と化した。民間人が多数死傷し、城の防衛を担当していた将兵約20人も全員死亡した。
*同日:9機が江西省九江市星子県の横塘鋪を爆撃し、家屋5軒を爆破し、7人を爆死させた。
【崇左市竜州県へ174回の爆撃】
*9月25、26日:31機が広西省崇左市竜州県の箕橋を爆撃し、56人が死傷した。翌日、12機が竜州県を爆撃、竜州城区新街、康平街、東街、西街、南街、興仁街、仁義街、埋立地などの街を爆撃し、家屋の多くが爆破された。
竜州県はこの年、174回の爆撃を受け、1200人余りが死亡、家屋の1600間余りが破壊された。最もひどかったのは、ある日、3機が金弄廟川辺の貨物場を爆撃し、保管していた物資がすべて焼失し、石油と桐油で幅100mの川面が火の海となり、4昼夜燃えてようやく消えた。高熱で固まったコンクリートは今も河岸に残っている。
*9月26日:湖北省田家鎮付近の長江上で機雷敷設中の船艇やジャンク船40数隻を爆撃。および長江上の日本軍艦艇と地上部隊の作戦に呼応して中国軍陣地、また京漢線上の貨車群を爆撃。
*同日:湖北省黄石市陽新、咸寧市通山の中国軍部隊を爆撃。陽新では一回の爆撃だけで、数百の住民と300人余りの撤退する負傷兵を爆死させて、県城全体が40時間燃え上がり、死体はいたるところに散らばった。
*同日:河北省承徳市興隆県の半壁山を爆撃。
*同日:広西省柳州・桂林の飛行場、粤漢鉄道沿線を爆撃。
*同日:武漢三鎮を大編隊で爆撃、対空砲火がある中、漢口飛行場の大型爆撃機、戦闘機など12機を爆砕、また軍需部も爆撃した。
*同日:湖北省黄岡市蘄春において中国軍部隊、迫撃砲陣地、トラック部隊を銃爆撃。
*同日:広西省防城港市防城企沙街を爆撃、住民1人が死亡、8人が負傷。
*9月26−28日:三日連続して湖北省随州市広水を爆爆。
*9月27日:広西省桂林・柳州、南寧市武鳴飛行場を爆撃。
*同日:広西省梧州の広西大学の図書館、理工学院を爆撃。(広西省は9月にはこの日まで19回爆撃された)翌年2、6、8、9月にも日本機はしばしば梧州に侵入、爆撃した。
*9月28日:台湾高雄から雲南省昆明を9機が初爆撃、市街地各所を含め、昆華中学校も爆破され(日本側の記録では軍官学校となっていて、その他大建築物十数棟を灰燼に帰し、軍工場も爆破炎焼させたとある)、死者119人、重軽傷233人であった。空中戦では戦闘機15機と空中戦、6機撃盤、地上の4機爆破、8機炎上、日本機は一機失う。この一機は搭乗員6名の重爆撃機で、銃弾を受けてもしばらく戦い、友軍各機に別れの手を振りつつ敵高射砲台に向けて自爆死した。ちなみにこの日の攻撃を「武勲顕著なり」として、支那方面艦隊司令官より担当航空隊に「感状」が発せられている。
*同日:長江(揚子江)岸の田家鎮の砲台陣地を反復爆撃、地上部隊の進撃と海軍艦船遡行部隊を支援。
*同日:70機余りが河南省信陽市五里店と中山舗付近の中国軍大部隊を爆撃。信陽県城では、数百発の焼夷弾が投下され城内はたちまち火の海になり、家屋の大部分は焼失し、多くの住民が死傷した。
*同日:粤漢鉄道沿線の主要駅を襲い、駅諸施設、貨車20数輌を「粉砕した」。
*同日:京漢線に対する連日の爆撃により、花園駅は廃墟、広水の施設は全滅、信陽駅は灰燼に帰し、信陽以南は運行が途絶した。
*同日:広州の白雲・天河・従化の飛行場、残存格納庫などを爆撃。
*9月28日:日本軍機は湖北省咸寧市通山に大量の爆弾を投下、県城は一面の火の海となり、県政府、小学校だけでなく、多くの商店、工場、民家などが廃墟と化した。
【武漢作戦:田家鎮を400機による大爆撃】
*9月29日:武漢作戦に向けての陸軍の田家鎮攻略戦で、陸軍飛行隊だけで約400機を出撃させ、投下爆弾2500発(約100トン)という凄まじい爆撃をし、地上部隊には弾薬、小銃および機関銃総計6万発、手榴弾約2000、糧食材料合計100梱を補給投下した。なお、後年の米軍機による3/10の東京大空襲は、約500機による爆撃である。
*同日:午前10時、爆撃機3機が東北から飛来、陝西省楡林市府谷県城に爆弾9発を投下し、民家40棟以上を破壊、死傷者3名を出した。
*同日:この日も信陽を爆撃。「9月15日から29日までの十数日の間に、日本軍機は信陽に千発以上の爆弾を投下し、市街地はほとんど廃墟と化し、民間人100人以上の死傷者を出した」。
*9月30日:河南省信陽の京漢線駅と近くの兵舎を爆撃、別途鄭州も爆撃(これらはすでに占領していた河南省彰徳=現・安陽の基地からの爆撃であった)。中国側の記録ではこの日、信陽の花山寨が爆撃され、何千人もの人が逃げ惑い、百数十人の死傷者を出した。「次兄の熊徳元は神経が参ってしまって、それ以来気が狂ったように『飛行機が来た、飛行機が来た、逃げろ』とわめき散らしていたが、二年後に死んだ、とある。
*同日:長江岸陣地、田家鎮を爆撃。
*9月某日:湖北省黄岡市梅川鎮を爆撃し、大火が起こり200余人が爆死した。
(9月中、湖北省黄岡市は約30回以上の爆撃を受けた)
〇 6月11日から開始された武漢作戦は、特に9月末の空陸の攻撃を最後として、武漢に通じる揚子江北岸の田家鎮と南岸の馬頭鎮の両要衝が陥落し、武漢三鎮への日本軍の占領は時間の問題となった。中国国民党としても最大の防御戦であったが、日本軍は田家鎮に毎日百発の爆弾と9/29には400機で投下爆弾2500発という究極の攻撃によって攻略を成功させた。これにより臨時政府のあった武漢・漢口から蔣介石は10月17日に撤退、新たな首都として準備していた重慶に移動した。
10月
*1938年10月1日:山西省忻州市代県灘上村を爆撃、同時に毒ガス弾も投下された。
*同日:河南省鄭州市の氾水を爆撃。
*同日:広東省清遠市の粤漢線源潭と潮州市の銀盞拗の鉄路を破壊。
*同日:広州市内の軍事施設、郊外飛行場を爆撃。
*同日:広東省仏山市高明県明城の東門を襲撃、店舗2間を爆破、2人が爆死、1人負傷。
*10月2日:鄭州市の隴(ろう)海線氾水駅および鞏県の鉄路やトンネルを爆撃、これにより隴海線は遮断された。
【江蘇省揚州市の惨劇】
*同日:未明、8機の日本機が交互に江蘇省揚州市の車輪理、高郵城を爆撃し、陸軍の攻撃を援護し、7時ごろ、日本陸軍が入城した。
その後日本軍は揚州の石工頭、西門湾 一帯に侵攻し、住民200人余りと西后街北頭一帯の住民300人余りを銃殺し、干明寺南菜畑で農民数十人を集団で銃殺した。そして日本軍の入城から1ヵ月も経たないうちに5回の大虐殺が行われ、無辜の市民1200人あまりが殺害された。あるとき、西の裏通りで日本兵が一人殺される と、日本軍はこのあたりで百人あまりの住民をつかまえ、ロープで縛りあげ、機銃掃射を加え、全員射殺した。日本軍は捜索を名目として、家々を回り、金銀財 宝を見て、略奪した。手にタコのできた青壮年男子を見れば「支那兵」と思って殺害し、青年女子を見れば勝手に暴行した。そのあとすぐに東の郊外にある農 村を焼打ちし人々を焼殺した。(『日軍侵華暴行実録』 第3巻)
*10月3日:広西省南昌を爆撃し、300人以上が殺害された。
*同日:江西省宜春市の樟樹鎮、浙贛・粤漢・広九鉄道沿線を爆撃。
*同日:河南省三門峡市の隴海線澠(べん)池駅との市街地を爆撃。
*同日:河南省信陽市の駅付近の列車、駐留部隊、さらに市街地を爆撃した。別途、信陽市の要衝五里店と中山舗付近の部隊を爆撃。
*同日:湖北省黄岡市黄安(現・紅安)を急襲し中国軍司令部や自動車部隊を爆撃し「壊滅的打撃を与えた」。
*同日:6機が初めて湖北省荆門城関を爆撃、5発を投下。
【重慶初爆撃】
*10月4日:重慶市を18機が初爆撃し、 広陽壩飛行場や牛角県などに爆弾36発を投下、24人が死亡、23人が負傷した。(正確には2/18に広陽壩を爆撃している。なお、重慶爆撃は海軍航空隊が主力となってここから1941年9月まで218回行われるが、その後海軍航空隊は12月に開戦となる太平洋戦争への準備のために中国内から配置替えとなる)
*同日:河南省の洛陽市街地を爆撃。
*同日:四川省梁山飛行場を初空襲、 梁山飛行場では20数機と空中戦を交えて敵機7機撃墜、地上の9機爆破。他に重慶飛行場、湖北省孝感・襄陽・老河口の各飛行場を爆撃。
*同日:田家鎮対岸の黄石市陽新県の半壁山要塞を反復爆撃。
*同日:湖北省黄岡市蘄春を爆撃。蘄春は6月15日からこの日まで、100機以上の航空機を動員して薪春上空に侵入、そのうち8回は当時薪春県の県城であった薪州を猛烈に爆撃し、漕河、清水河、劉公河、青石岭、張家湾、横車橋、西河駅、株林河、黄柏城、嵐頭磯などを爆撃した。執事窯などの町や村に300発以上の爆弾を投下し、718人の兵士と民間人を殺害、家屋1197間を破壊した。
その一週後、日本軍は蘄春を占領し、以後7年の間に様々な暴虐行為に及び、中国軍民1800人を殺害、婦女への強姦は数知れず、その他、放火で家屋4621軒、農機具1575点、家具3918点が焼失した。また日本軍は耕作牛412頭、穀物と綿花5万3235荷、衣類1925点、図書1万2471冊を略奪した。(『日軍侵華暴行実録』 第4巻)
*同日:9機が湖北省荆門城関を爆撃、40発余りの爆弾を投下、多数の死傷者を出した。
*10月5日:武漢の漢口付近、湖北省咸寧市通山付近、京漢鉄道(北京−漢口間)を爆撃。(漢口付近で6機と空中戦、2機撃墜)
*同日:京漢線の河南省信陽を急襲、市街の軍事施設ならびに集結した部隊に反復爆撃、そのため信陽市街の北門付近は大火災を起こした。
*同日:四川省梁山(現・重慶梁平区)を爆撃、爆弾30発以上を投下、2人が負傷、家屋3棟損壊。
*同日:浙江省杭州市臨安県城を爆撃、土砂が現市政府の裏口程家弄の防空壕を塞ぎ、28人が窒息して死亡。
*10月初旬:河南省駐馬店市の確山・遂平、許昌市を爆撃。
*10月6日:広東省東莞市虎門砲台、広九線の石龍を爆撃。
*同日:広東省粤漢線の銀盞(さん)拗・軍田・源潭を爆撃。
*同日:広西省桂林・平楽県を爆撃。
*同日:河南省信陽市固始県を爆撃。
△ 同日、河南省信陽市羅山で日本軍は窒息毒ガスを放出し、中国軍の犠牲は甚大であった。
*10月8日:湖北省黄岡県上河鎮を12機で空襲。一時間以上にわたって爆撃掃射を缲り返し、軍民50人余りを爆殺し、家屋40棟余りを破壊した。
*同日:湖北省咸寧市通山県を爆撃。(この後日本軍は何度も通山を「掃討」し、 通山で日本軍に虐殺されたものは7354人にのぼる)
*同日:湖南省衡陽飛行場を夜間に三波攻撃、地上の数十機と兵舎17棟爆破。
*同日:広西省桂林、平楽、粤漢鉄道を爆撃。
*同日:安徽省淮南市鳳台城が陥落するが、城を攻略する前に、まず爆撃機で風台城を爆撃し、城内家屋を焼いた。さらに地上部隊が侵入して火をつけ、大きい火は3日3晩燃え、大通りと路地はほとんど焼かれて、中山街だけで家屋2500間を焼いた。
*同日:未明、四川省重慶を18機で爆撃、郊外の広陽壩などに爆弾5発を投下。その後成都を爆撃。
【台湾での反戦運動】
10月8日と11日、台湾の六甲、高雄などで、反戦暴動が起こり日本警察所を襲撃し、警士数十人が銃殺された。日本軍は弾圧を行い、島民200人余りを殺害し、4、5百人を逮捕した。
*10月9日:湖南省衡陽を再度21機で夜間爆撃。
*同日:広西省桂林飛行場を夜間爆撃。
*同日:広州の天河・白雲飛行場、黄沙駅とその付近の軍事施設を6度にわたり「徹底爆撃を敢行」。
*同日:広東省粤漢線の清遠市源潭・琶江口、広州市華県を爆撃。
*10月10日:連日で衡陽の新旧飛行場を24機で夜間爆撃、数カ所炎上させ、空中戦で日本軍機は2機撃墜される。前日から爆弾120発で、約120人以上死傷。
*同日:陸軍への支援のため江西省石堡山を爆撃(万家嶺の戦いと言われ、日本軍は敗退)。
*同日:長江南岸、湖南省長湖北岸および下湋山(確認できず)東麓の陣地に「猛爆を加えた」。
*同日:35機が3回にわたって湖南省長沙を空襲、市民300人余りが死傷。
*同日:広九鉄道の広州市西村駅、深圳市塘頭、厦蟎(かまん)を爆撃、貨車20輌、建物数棟を爆破。また粤漢鉄道の英徳、源潭間の鉄橋と銀盞拗鉄橋その他に「大損害を与えた」。
*同日:九時過ぎ、広東省韶関市楽昌県を9機が爆撃。城内の東頭街一帯に爆弾の爆発音が連なった。強風の中、焼夷弾も落とされ、多くの店舗が一度に燃え上がった。敵機が去って間もなく、東頭街一帯の住人が続々と戻ってきたが、大火は収まらず、間もなくこの一帯は一面の火の海となった。まだ火の出ていない家では、あわてて家の中へ入って、日用のものをとり戻し、運びながら泣いていた。この大火は街の東端から西端まで燃え続け、夜になってようやく消えた。運輸会社の倉庫には、綿糸、軍米、その他の荷物が保管されていたが、残り火は三日後に消えた。かつて百商が集まって賑わっていた東頭街は焦土と化し、空前絶後の大災難であった。多くの人は夫や子を失い、大声で泣き叫び悲しみに暮れ、また多くの人は家を失い途方に暮れ、着るものも食べるものもなく、子供が泣き、どうして生計を立てていくのかわからない。一生の苦労が灰となり悪夢となった。今回の敵機の投下した爆弾は多く、最も大きいのは李家祠の近くに落ち、約15mの大穴が空き、周辺には手足のない死体、五臓が飛び散って木の枝にぶら下がっていたものもあった。楽昌から北郷までの道路、鉄道までの区間は低空の機銃掃射で10数人が銃殺された。楽昌駅は何度も爆撃され、楽昌城内も何度も爆撃されたが、東頭街の爆撃が最もひどかった。この度の爆撃では店舗や家屋2300間が被爆・焼失し、被害者は数百戸、死傷者は100人余りであった。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*10月11日:さらに18機が衡陽の市街地を夜に4回に分けて爆撃、120発以上の爆弾を投下し、100人以上の人が死傷した。
*同日:台湾の台北基地から14機が出撃、広西省南昌飛行場を日没時攻撃、格納庫、兵舎、浙贛鉄道の浙江省金華、江西省玉山駅を爆破。
*同日:陸軍への支援のため24機が江西省万家嶺を爆撃。
*同日:3機が陝西省楡林市呉堡県を爆撃し、民間人3人が死亡。
*同日:12機が重慶の万県を爆撃、爆弾12発で多くの家屋や船舶が損壊、死傷者数名。
*10月12日:広東省を集中して爆撃。午前中は広州市天河・増城・軍田・従化・華県、肇慶市悦城、東莞市市街と樟木頭、恵州市、韶関市楽昌、清遠市源潭・琶江口等を爆撃、午後も続行された。
*同日:粤漢・広九・広三鉄道沿線を爆撃した他、中国軍兵士を乗せたトラック60余台を「粉砕」。
*同日:陝西省西安を3回に分かれて爆撃と機銃掃射。午前7時頃20機、8時30分には9機で県城南門の外側に13発の爆弾を投下、死傷者4人を出し、6棟の家屋が倒壊。午後1時40分、9機が鉄道の両側に爆弾を30発以上投下した。
*同日:午前、7機が陝西省渭南県を空襲し、爆弾13発を投下、負傷者4人、家屋6棟を損壊した。午後、9機が30発余りの爆弾を投下、鉄道の沿線地区を爆撃。
*同日:河南省南陽市の桐柏県の街と近郊農村を爆撃。
*同日:11機が広東省仏山市高明県三洲を襲撃、爆弾30発余を投下、1人が爆死させ、2人負傷。
【河南省信陽の占領後の実態】
*同日:河南省信陽に対する爆撃の支援を最後として日本陸軍は信陽を占領する。
—— この日の占領後、信陽には中国側のゲリラ部隊が潜伏していたこともあって、数年の間に大虐殺が行われ、南関柳林堤畔の河岸の下(現在のガラス工場の近く)に、いわゆる「万人坑」(集団虐殺して埋めた場所)が作られた。これ以外も含めて虐殺された市民は五千人はくだらない。その他信陽の街と農村で3万5千人余りの住民を徴用し、飛行場、道路、鉄道、橋梁、拠点等の工事に従事させた(強制労働)。そして家屋2万8000余軒を壊し、1千畝余りの良田を荒れ地にした。日本軍が信陽を占領している間、捕まえた女性を信陽の街に集めて慰安所や「花乃家」など十近い娼妓館を開設し、周辺の駐屯地にもが設けられた。しかも日本軍の司令官だった「老黒頭」が妓楼を数ヶ所営んでいた。信陽城内には日本人が経営する四十数軒の店が開設され、信陽の食料や生活必需品市場を独占し、略奪品も含めて日本軍の倉庫は充実し、長沙や広州などの日本軍への補給も行なっていた。
(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
このような占領地区による日本軍の暴虐行為は、これまでにも触れているが、この占領軍は第十軍第三師団であるという。
なお、陸軍の信陽攻撃に際し、多数の砲弾が撃ち込まれたが、2019年8月16日午前、信陽勝利路の小学校の工事中、敷地内で砲弾104発が発見された。砲弾は主に3種類あり、1つ目は迫撃砲、二つ目は徹甲弾で、3つ目は75ミリの野砲の砲弾だった。翌日砲弾はすべて除去されたが、廃棄現場では、代表的な砲弾2発を選び、爆発実験を行い、威力と装薬量を確認した。100発もの砲弾がまとまってあったということは、日本軍が敗戦時に未使用の砲弾を故意に埋めたということだろう。(「青海生活频道官方」8月19日)
*10月13日:再び南陽市の桐柏県城、月河などを爆撃し、県城の家屋千余軒を爆破して、100人以上を爆死させ、家畜500頭も殺した。月河では爆弾70発以上を投下、そのうち爆弾5個が金橋淮河南岸の林の中で王洪生、李玉清などの30人を爆破し、肉片は木々の枝にいっぱい掛かって、鮮血は淮河の水を赤く染めた。わずか25世帯の北湾村東林庄でも日本機の機銃掃射、爆撃で100人が死亡し、すでに遺体を収容する人もいなくなった。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:河南省駐馬店市の遂平県市街地を爆撃。
*同日:広東省恵州市恵陽を爆撃し、日本軍の上陸部隊を支援。
*同日:粤漢・広九・広三鉄道沿線で、深圳市宝安、東莞市樟木頭、潮州市黄岡、清遠市英徳・源潭・琶江口を爆撃。 このほか戦車80余台、汽艇2隻を爆破。
*10月14日:河南省駐馬店市の確山市街地を爆撃。
*同日:連日で恵州の中国軍部隊を爆撃し、日本軍上陸部隊を援護。
*同日:恵州博羅県の部隊と陣地、塹壕、兵舎等を爆撃、さらに博羅沿岸で軍隊輸送中の船艇2隻、ジャンク船多数を爆撃、珠江の東江両岸の自動車軍と二個中隊を「撃滅した」。
*同日:広州の増城、従化区渓頭の砲台陣地、橋梁を爆撃。
(この日は広州市街地には爆撃せず、上空より降伏の勧告ビラを散布した)
*同日:広九鉄道の東莞市石龍・横瀝墟、梅州市石馬鎮などで貨車80輌を「破壊、炎焼させ」、深圳市龍華墟において軍馬約20頭、兵士約100人を「殲滅した」。
*同日:広東省汕頭市を午前と午後に渡って猛爆し、また潮汕鉄道駅を粉砕、続いて汕尾市海豊を爆撃。
*同日:9機が広東省高明県三洲、尼教、仙村を爆撃、家屋3軒倒壊、3人が爆死。
*同日: 安徽省合肥から爆撃機3機を発進させ、肥東県梁園鎮を爆撃、4人が爆死し南街一帯の民家の多くが焼失。
*10月15日:安徽省安慶から二度出撃し、広東省の恵州市博羅、汕尾市陸豊・海豊、広州増城、東莞市石龍・樟木頭などを爆撃、「甚大の損害を与え」、また広九鉄道沿線に停車中の貨車軍を「ほとんど壊滅した」。
*同日: 午後2時、9機が 湖南省岳陽の市街と駅を爆撃、2回にわたって100発以上の爆弾を投下し、民家や商店150棟以上を爆破、民間人100人以上が死傷した。
*同日:広東省南部珠江デルタ地帯の龍江鎮から仏山を移動中の大部隊に対して爆撃。
*同日:東莞市横瀝、恵州における日本上陸軍の戦闘を支援。
*同日:江西省贛州市崇義県石灰窰、湖北省黄石港、他に京漢・粤漢鉄道を爆撃。
*10月中旬:各6機が再び湖北省荆門城関と沙洋を爆撃。
*10月16日:広州の従化において野砲10門、トラック30台、中国兵300人を「撃滅した」。
*同日:粤漢鉄道の英徳駅を爆撃。また恵州の博羅を攻撃中に自軍一機が砲弾を受け、二名が戦死。
*同日:湖南省株洲を38機が爆撃。
*10月17日:150機が6回に分けて各方面を爆撃、中国軍部隊が湖南省衡陽方面に撤退する動きを阻止するため、長沙南方の株州停車場を爆撃。別途同省岳陽を爆撃。
*同日:江西省九江市徳安、江西省贛(かん)州市石灰窟を爆撃した。
*同日:広東省韶関市の南雄・楽昌飛行場を爆撃、軍事施設や工場を爆破したが、対空砲火により日本は二機を失った。
*同日:京漢線の河南省許昌・鄭州・臨穎(えい)、郾(えん)城の各要所を二度にわたり「痛爆」、鄭州南方の待避線の軍用列車数十輌、新鄭南方に進行している三個列車、駐馬店の二個列車を「木っ端微塵に粉砕した」。他に広九・粤漢鉄道沿線を爆撃。
*10月18日:河南省南陽市の城内市街地と飛行場を爆撃。
*同日:武漢の漢口飛行場爆撃を12機で攻撃、地上の大型9機、小型約20機を爆破、中国軍戦闘機6機と空中戦、2機撃隊。
*同日:粤漢線の源潭、広九線の石龍の鉄橋を爆撃、崩壊させた。
*同日:湖北省咸寧市崇陽を爆撃。
*同日:陸軍が徐州邳州市土山鎮を攻めるにあたって三機が支援爆撃。
*10月19日:湖南省長沙を45機が3回爆撃し、300人以上が死傷した。ただし、日本側の記録では「抗日政府の巣窟長沙を襲い、市街北部にある飛行場に猛爆を敢行」とあるのみ。
【湖南省岳陽市:日中双方の記録の相違】
*同日:「(湖南省岳陽市平江の)市街東側にある敵戦闘司令部に機銃掃射を浴びせ、逃げ惑う敵兵や自動車数台を屠って悠々〇〇基地に帰還した」と日本側の記録にあるが、中国側の被害の要約は以下である。
—— 午後1時、岳陽市の平江を爆撃、主要な街路・建物を爆撃し、機銃掃射もおこなった。市街地から出火し、街は瓦礫の山となった。爆死者は200人、負傷者は700人を超えた。北街の彭家祠堂・傷兵医院では60人余の重症者が爆死した。その死体に完全なものはなく、20mあまりの高さにまで吹き飛ばされ、近くの屋根や高灯の柱に飛び散った。宋家塘では防空壕が直撃され、壕内の約50人が死亡。また、燃焼弾も投下され、600余棟が焼失した。
(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*同日:100機余りが株洲を爆撃、機銃掃射を繰り返し、南北の鉄道駅付近の民家、道路、交通施設を破壊、死傷者は数えきれない。
*同日:河南省洛陽を急襲し、市内軍事諸施設、飛行場を爆撃。
*同日:洛陽の龍門、広州市従化・増城の中国軍陣地を爆撃し、戦車や軍用自動車群に大損害を与えた。
*同日:武漢の漢口を連日で爆撃。
*同日:広州の天河・白雲・従化の各飛行場、粤漢鉄道沿線を爆撃。
*10月20日:午前、12機で湖北省黄陂(ひ)県城を爆撃し、家屋500棟余りを爆撃し、600人余りの死傷者を出した。
*同日:湖北省京山飛行場を急襲し地上の軍事施設を爆破。
*同日:広東省韶関市翁源を爆撃、城内各所に大火災を起こし、また広州市増城を爆撃。
*同日:湖南省衡陽の粤漢鉄道を爆撃。
*同日:武漢郊外の漲渡湖、武湖付近の要衝新洲区、李家集および漢口東部の要衝黄陂(は)の軍事施設を爆撃し、「敵重要根拠地を覆滅した」。
*10月20−23日:3機から9機が交代して湖北省黄岡市の黄州、淋山河、新洲、柳子港、李集、倉埠、陽邏等の地で9回爆爆し、大量の焼夷弾を新洲に投下し、民家760余棟を破壊し、民間人57人を死傷させた。
*10月21日:海軍航空隊は陸軍の各方面作戦に全力で協力したが、この日は特に未明より広州の中国軍部隊を爆撃、正午ごろより中国軍は軍事施設等を自爆して退却、陸軍戦車隊は午後三時半に広州市内に突入した。これについては「広州攻略では飛行隊の支援をもってバイアス湾(現大亜湾)に奇襲上陸、10月13日には司令部も上陸し、10月21日に広州に入城・占拠した」とある。
*同日:広州市天河区竜洞村を爆撃し、数十人の死傷者を出した。その後日本軍は竜洞村に進駐するが、その前に逃げようとした村人の数百人が惨殺された。占領軍の松岡部隊は中国人の人命を蟻のように扱い、崖の上で首を切る、木に縛りつけて銃殺する、拷問の上殺す、強姦殺人などあらゆる残忍な方法で村人を殺した。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*同日:武漢付近の長江(揚子江)沿岸、また北岸一帯を爆撃。
*同日:湖北省富水北方の中国軍司令部を急襲し、「猛爆を浴びせた」。
*同日:午前9時、8機が湖北省荊門市京山宋河鎮を爆撃し、死傷者300人余り、家屋100棟余りを破壊した。楊家樹の防空壕が直撃され、洞内の70人余りが全員死亡した。
*同日:爆撃機9機で湖北省孝感市雲夢県城を爆撃、家屋八十余棟を爆破し、住民300人余を爆殺、100人を負傷させた。
*同日:広西省防城港市防城企沙街を爆撃、敵艦も同時に砲撃し、民家5軒を破壊し、住民5人を死傷させた。
*同日:18機が四川省梁山飛行場を爆撃、家屋数軒が損壊。
【56回の爆撃による広州占領】
〇 10月21日、日本軍は広東省広州を占領。1937.8.31からこの前日まで、日本軍機の攻撃はとりわけ1938年初頭には連続10日間の爆撃を広州市に敢行、14か月間で延べ56回、800機以上におよび、投下爆弾2630発、広州爆撃による死傷者は7000余人(死者1453人)に上り、民家や商店が大規模に破壊焼失した。広州は中国最大の海港であり、政権の頭脳に当たる武漢とこの「食道口」の広州を制圧することによって決定的打撃を与えることを日本軍は目論んでいた。
これに関して『支那事変画報』では、「この旬は支那事変最終の目的武漢占領と広東攻略が完成され、わが空軍の活躍も陸海軍の驚異的進撃陣に先行して … 広東攻略に当たっては作戦開始前には敵航空兵力を撃滅して完全な制空権を握り、… 上陸軍の前駆として敵第一線を爆撃啓開し、世界の驚異となった広東急進撃の陸軍部隊に一大与力となって日本空軍の精華を発揮した」とあるが、「最終の目的」の二都市を占領しても、まったく終わりの見えない戦争となったのは、日本軍政府の大きな誤算であった。
△ 同日、湖北省大別山区にある王家薬局、獅子脳陣地は日本軍の毒ガスで破壊された。
*10月22日:長沙南方の株州停車場を再び爆撃。
*同日:武漢の漢口と武昌を36機で爆撃。
*同日:四川省梁山飛行場を18機により爆撃、爆弾104発を投下、農民4人が死亡、14人が負傷。空中戦で中国機5機撃墜、地上の8機爆破。
*10月22−24日:連日で広東省仏山市三水県河口と西南鎮を爆撃した。西南鎮の汽車鉄橋、後王廟(現県委員会庁舎)、陳家祠、牛墟、マッチ工場、老沙の穂豊祥油工場、穂昌誠米機、大有年蚕繭場などが爆弾で破壊された。肆江の両岸には、烈火が飛び、牛墟や陳家祠の一帯には、40余人の死者と、血肉となった死体が散らばっていた。人々は泣き叫び、逃げ惑い、目を覆う惨状になった。その後日本陸軍は25日に大量のゴムボートを駆って武廟口埠頭に上陸したが、住民は恐怖におびえ、家を捨てて逃亡した。日本軍は西南鎮に放火し、25日から27日の三日三晩にわたって大炎上した。かっての繁華街三民路、中山路と竹器街や米街、杉街、菜籽街、火水街などすべての店舗、民家が全焼し、瓦礫となった。全町の70%を占める800余りの店舗、倉庫が焼失した。死者は100人を超え、千戸余りの民が家を失い、5千人余りが流浪した。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*10月23日:湖南省長江城陵磯江面で襄陽号と大型石炭船を爆沈させ、乗客と避難民1000人余りが死亡した。
*同日:午前10時、武漢からの避難民を満載した2つの列車が武昌駅から南方の紙坊駅に向かったところ、日本軍機3機が列車を爆撃、下車した人々に向かって狂ったように機銃掃射し、八分山の麓が死体だらけになった。
*同日:武漢の武昌を36機で攻撃、軍事施設、駅を爆撃。
*同日:重慶市涪陵区白濤山、京九線南昌駅を爆撃。
*同日:6/15に爆撃した安徽省金寨県流波鎮に対して9度の爆撃を加え、3度の機銃掃射を行い400人以上の死者を出した。
*同日:午前11時、3機が広東省清遠市仏岡府城及び石角威に爆弾各6発を投下。
*10月24日:江蘇省帰義の鉄道橋を爆破。
*同日:午前、日本機6機が武昌の金口鎮の上空に飛来、まず胡家の家屋2棟を爆破し、死者8人を出した。当時、金水河に停泊していた漁、貨物船は多く、木船10余匹を沈め、船民は続々と上陸して逃げ、また機銃掃射により100人近くの死傷者を出した。
*同日:15機が武漢南方の長江の金口から、湖南省岳陽市の城陵磯までの長江港道を次々と爆破し、中国軍砲艦の楚同艦は湖北省咸寧市嘉魚で破損、中山艦は金口に沈没し、艦長以下25名が犠牲、行方不明数名となった(ただし、乗組員99名のうち、18名が生存との記述もある)。
注)中山艦は1910年、清国政府が日本に発注した砲艦で三菱造船長崎造船所が製造、中山艦は孫文にちなんだ名前で、1997年に引き上げ後、修復作業を経て現在、武漢にて展示されている。
*同日:武昌、漢口飛行場を夜間爆撃、戦闘機3機と空中戦、格納庫2棟、飛行場内5ヵ所炎上。
*同日:24機が分散して広東省仏山市南海区の西樵山や周囲の村々を襲った。爆撃で沙頭郷の黄祈路、太監崗、紫雲峰、北江のいたるところに住民の遺体が残された。西樵山の主峰の近くに位置する碧云村では爆風で家屋が崩壊し、逃げ遅れた村人は爆死した。この後日本軍の侵略で村々は虐殺の屠場となった。例えば西樵山では400人が殺戮され、碧雲村の人口は300人ほどだったが、虐殺や略奪で半分になってしまった。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
【爆撃による死者3万人へ】
〇 10月24日:中国の全国救済協会事務局は、抗戦以来今日まで、日本機による中国の都市爆撃は3318回に及び、19省314の都市が被爆し、民間人3万7222人が重軽傷を負い、2万9968人が死亡したと発表した。
【「その意義は絶大な」武漢占領】
〇 10月25日、武漢は陥落し、国民党軍は武漢を撤退するが(主席の蔣介石は10月17日に漢口から撤退、国民党は南京から重慶に政府の拠点を移すまで仮政府を武漢においていた)、1937年8月20日から1938年10月25日にかけて、武漢は延べ946機の出撃で、空襲を72回(61回の説も)受け(うち漢口31回、武昌32回、漢陽9回)、投下弾3030発あるいは4590発以上、死亡者1651人、負傷者3147人(死傷8500人以上、うち死者3389人の説も)、家屋3437棟(漢口554棟、武昌1359棟、漢陽1524棟)を爆破した。
翌26日、日本軍は武漢三鎮(武昌・漢陽・漢口)を占領、この戦果を「その意義は絶大なものがあり、… わが国創設以来二千六百年我々の祖先がいまだかって経験したことのない華々しい記録であることは勿論世界線史上に見てもそのスケールの壮大さ、戦線の複雑さ、演ぜられた戦闘の近代的多彩さにおいて類例を発見し得ない」として、成吉思汗(ジンギスカン)とはその範囲において劣るとしても、ナポレオンのモスクワ進撃に比肩し、その激烈さ、苦しさにおいてはるかに勝る、と誇っている。(『支那事変画報』第46集)
しかしながらこれまでの地上軍の戦いで日本軍の損害だけでも戦死者約7000人、戦傷者約2万5000人という犠牲を出したが、中国軍の犠牲は膨大で、日本軍の発表では遺棄死体14万3650、戦傷者21万(推定)、捕虜5270となっている。
この後占領した武漢の飛行基地から重慶に空爆を始めることになる。なお、この占領後7年間にわたり、日本軍は武漢において家屋4万3025万戸を破壊し、住民1万3508人を虐殺し、財産979兆元を略奪する。
*10月25日:湖南省長沙市潭州付近、粤漢鉄道を爆撃。
*10月25、26日:湖北省黄岡市黄安県を48機が順番に県城と付近の農村を爆撃し、110発余りの爆弾を投下、家屋200棟余りを破壊し、10人余りを爆死させた。
*10月26、27日:広東省仏山市三水県芦苞などを連日爆撃。
*10月27日:湖北省孝感市雲夢県城を5機が2回目の爆撃を行った。古い建築物である城隍廟 、山西会館及び白布街などの数十棟が全焼し、住民20人余りが死傷した。この後10月31日に雲夢県は陥落した。
*同日: 午前、2機が東から孝感市街上空に侵入、立て続けに数発の爆弾を投下、駅の給水塔に続いて市内を爆撃して飛び去った。 5人が死亡、多くの人が負傷した。
*同日:午前9時過ぎ、湖北省孝感市応城県に偵察機が来た後、9機が来襲、夕方まで城内外を爆撃、400人以上が死傷した。この後応城は陥落し、日本軍は七年間にわたり凄惨な「三光」政策を実施した。全県で虐殺された罪のない民衆は1050人、そのうち女性と子供293人、耕牛4704頭、焼失家屋13971室、塩棚702箇、農具63504個、荒れ地70030畝、食糧2.6億斤、綿花42.84万斤、布2.46万尺が強奪された。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*10月28日:河北省保定市の阜平からの撤退時に毒ガス弾を投下した。
*同日:広州陥落から敗走した中国軍を追撃すべく、広東省韶関市翁源、清遠市英徳を爆撃。
*同日:広東省汕尾市陸豊、仏山市三水の東江、西江の中国陣地、広西省梧州を爆撃。
*10月28、29日:午前、3機が海を越えて福建省漳州市漳浦県に飛来し、旋回しながら急降下して爆弾を投下、県城打錫巷内の李家の建物及び祠堂3棟を爆破した。万年春巷の王姓平房は7間が爆破され、死者一名。翌朝、また3機が来襲、北街黄志昌平房六間を爆破して、幸い死傷なし。
*10月30日:広東省韶関市翁源を大爆撃。100−200機の飛行機が出撃、翁源の中国軍十二集団の兵舎と倉庫を狙うものであったが、午前9時から午後2時まで上空を往来し、数百個の爆弾と多くの焼夷弾を翁城の市街地に投下し、黒雲が城を圧し、街並みは瓦礫と化し、家屋は炎上した。県府、孔聖廟、駅、黄塘楼、牛角塘、倉庫などが爆撃された。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*10月31日:江西省の南昌を爆撃し、爆弾数百発を投下し、300人以上が死傷した。
*同日:「残敵」を狙って韶関市翁源を中心に、清遠市英徳、河源市連平・紫金を爆撃。
*同日:湖北省荊門市京山、随州市を敗走する中国軍部隊を空爆。
*同日:湖南省岳州の駅に停車中で兵士を満載している軍用列車を爆撃、「多大の損害を与えた」。
*10月31日:3機が広東省仏山市三水県芦苞を爆撃。
*10月某日:日本軍機5機を出撃させ、陝西省固林県(中国共産党の抗日根拠地で現在の延安市延長県付近)を爆撃、爆弾15発を投下し、家屋4棟、石窯3、食料450斤(約225kg)を爆破した。
*秋の某日:江蘇省塩城市阜寧鳳谷村を2度にわたって爆撃し、群衆50人余りが爆死した。
11月
【山西省楡社県への毒ガス弾投下】
*秋のある日:山西省晋中市楡社県河峪鎮輝教村を低空で爆撃しつつ、毒ガス弾を投下、村民400人のうち200人が中毒症状を起こし、体に水泡ができて痛痒があり、黄色い液が出た。
*1938年11月初め:湖北省襄陽市棗陽県城を二機が爆撃したのを皮切りに、1942年12月までに、棗陽城郷を21回爆撃し、計603発の爆弾を投下(うち焼夷弾は15発)。棗陽県の住民224人が爆死、354人が重軽傷、家畜58頭を失い、家屋2557間が破壊された。なお、1945年12月の『湖北省抗戦損失統計資料』(旧日本軍の侵略と飛行機の爆撃損失を含む)によると、避難民の合計9万1747人のうち棗陽県の死亡4154人、身体障害2217人、食糧160万5474石、綿布260万匹、綿花7万6812担、耕牛1651頭、農機具9万3666個、家屋3838棟であった。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*11月1日:安徽省安慶・広成圩、湖南省長沙を爆撃。
*同日:広東省翁源・英徳、仏山市三水の西江、河源市紫金、粤(えつ)漢鉄道を爆撃。
*11月2日:広東省汕尾市陸豊・河源市・韶関市翁源・清遠市英徳を爆撃。
*同日:広東省翁源・英徳、韶関市新豊、肇(ちょう)慶市仏崗を爆撃。
*11月3日:広東省陸豊・河源・翁源・英徳を連続して爆撃。
*同日:湖南省岳陽市の城陵磯、臨湘、干州、粤漢鉄道を爆撃。
*同日:湖南省常徳を初爆撃。1943年12月の常徳会戦終了までに、日本軍は延べ310機を常徳に出撃させ、39回の空襲と680発の爆弾を投下した。
*同日:湖北省荊州市江陵を6機が初めて爆撃。57人が即死し、数百人が負傷。張文発飯店と玄帝宮銭湯の客は全員死亡した。その後も日本軍の爆撃が激化した。
*同日:午後2時、5機が陝西省楡林市城垣を初めて空襲、まずビラを撒いた後、爆弾を投下。爆弾は大部分塩市巷から天神廟巷一帯に落ちたが大きな被害なし。
〇 11月3日、近衛内閣は対中声明で「東亜(東アジア)新秩序」の建設を提唱し、日・華・「満」の3カ国が協力し、政治経済文化などの互助連環関係を訴えた。(空疎な言葉である)翌日、国民政府報道官は近衛内閣の声明に反駁し、「中国が自由独立国家の神聖な権利を犠牲にしようとしていることに対して、中華人民は最後まで抵抗する」と指摘した。
*11月3−4日:日本機は湖北省襄陽、樊城の両地を連続爆撃、爆弾約100発を投下した。樊城大橋口から江西館と襄陽昭明台、東門街などの地域が爆撃され、家屋160棟が灰となり、死者傷者60人以上が出た。
*11月4日:陝西省漢中市を18機が爆撃し、200発以上の爆弾を投下した。
*同日:26機が漢中市南鄭県城西関一帯を爆撃し、数十人の死傷者を出し、100軒近い家屋を破壊した。(上記漢中市とどのように重なっているかは不明)
*同日:湖北省宜昌・荊州・咸寧市崇陽、湖南省岳陽市平江・長沙を爆撃。
*同日:広東省河源市連平、清遠市英徳・連県、韶関市翁源、仏山市三水の北江・西江を爆撃。(この日のような爆撃をして「敵の再起の企図を粉砕した」と日本軍の記録にある)
*11月5日:江西省宜春市宜豊・豊城を爆撃、また南昌と豊城間の列車十数輌を爆破。
【湖北省荊門市沙洋鎮爆撃による多大な犠牲】
*同日:湖北省荊門市沙洋鎮の飛行場を爆撃。これは日本側の簡単な記録だが、中国側では、「沙洋鎮を数十機が朝から晩まで一日中交代で休みなく爆撃と機銃掃射を繰り返した。たった一日の間に沙洋の整然とした街並みは破壊され、塀が傾き垣が折れ、あちこちで死体が散逸し、血の臭いが鼻をついた。沙洋で破壊された家屋は30%を超え、衝撃波や機銃掃射による被害者は30%以上で、二十余の寺観廟、庵堂、館閣はことごとく破壊された。死者は2千人を超え、負傷者は計り知れない。死者の多くは当鎮の住民を除いて、他所からの難民と四方から集まった民衆と駐屯軍の受難者である」(『日軍侵華暴行実録』第4巻)となる。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)これは一日の犠牲者数としては同じ荊門市の京山県(8/28)の犠牲者数に近いが、沙洋鎮はこの後も長く爆撃が続けられた。
*同日:湖北省の宜昌飛行場と飛行場の火薬庫を爆破。この日本側の記録と重なるかどうかは不明だが、この日、宜昌市当陽県城を6機が爆撃した。南門外で黄子明など200余人が爆死、城内で20余人が爆死し、関帝宮、火神廟を爆破させ、長坂坡一帯で桃売人など10余人を爆死させた。別途、河溶で20人余りが死亡し、清渓も爆撃を受けた。
*同日:湖北省咸寧市崇陽を爆撃、また岳陽市平江・南江橋を大破。
*同日:四川省梁山飛行場を強襲、敵戦闘機20機と空中戦、15機を撃墜、地上の5機を爆破、2機を不時着させ「多大な戦果を収めた」。
*同日:前日に続き、広東省河源市連平、清遠市英徳、汕尾市海豊を爆撃。
*同日:湖北省仙桃市襄河を遡上中の兵士満載のジャンク船20数隻を「粉砕」。
*同日:広東省仏山市高明県明城新市を爆撃、一人が負傷。
*11月6日:連日で広東省英徳・海豊・連平を爆撃。
*同日:朝8時頃、18機が清遠市連州城に初来襲、まず3機が巾峰山を爆撃し、その後遠ざかったと思って住民が安心しているところに15機が戻ってきて急降下して爆弾を投下、城内の常平社学と東岳廟、城外の老人橋などに34発の爆弾を投下、住民85人を爆死、110人を負傷させ、家屋37間を破壊した。投弾された各所に大穴が空き、人々が生き埋めになって、住民は土砂を掘り返し、救い出そうとしていた。周囲には下半身が残って砕けた死体や、頭と手は木に飛んで、五臓は別の木に掛かり、白い脳みそ、赤い血肉などが点々と四方に満ちていた。防空壕では、爆弾で崩れ落ちた天井や爆発した土に覆われて窒息死したものが多数発掘された。この日は清遠地区の爆撃のなかで単日の死傷者が最も多かった。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)
*11月7日:湖南省衡陽の飛行場などを40数機で爆撃、戦闘機16機を破壊した。
*同日:武漢から逃れて湖北省荊門市京山に「蟠踞」する中国軍部隊に「巨弾の雨を降らせ城内にある司令部に多大の損害を与えた」。
【成都初爆撃】
*11月8日:四川省成都を18機が初爆撃。 鳳凰山飛行場に56発、外南の紅牌楼空軍訓練基地にも46発の爆弾を投下。成都上空で中国軍5機と交戦、2機撃墜、地上の8機爆破、別働隊が成都西方の飛行場を襲い、5機と交戦、1機撃墜、地上機と大小建物を爆破。(この成都爆撃により中国の大都市すべてを空爆したことになる)
【衡陽大爆撃】
*同日:湖南省の衡陽市衡山県他各地を109機が6回に分けて爆撃した。衡山は廃墟となりおよそ千余名の死者がでた。
*同日:湖南省懐化市芷(し)江・衡陽飛行場を爆撃、16機と空中戦で、9機撃滅、7機爆破、日本は2機喪失。
*同日:広東省深圳市宝安・河源市連平・英徳・翁源を爆撃。
*同日:重慶の飛行場を急襲、1機を撃墜、地上の24機を爆破。
*11月9日:湖南省長沙市の瀏陽を爆撃し、市内全体で大火災が発生し、千余名の死傷者を出した。
*同日:前日に続き衡陽飛行場を襲い、他に江西省南昌、安徽省宣城市寧国、浙贛鉄道を爆撃。
*同日:湖南省の常徳・桃源・平江を爆撃、また同省衡山の軍施設・南岳の軍拠点を爆撃(中国側の記録では南岳の歴史的建造物が破壊されたとある)。
*同日:6機が江蘇省揚州市高郵臨沢鎮を爆撃し、家屋およそ800間を焼き尽くし、15人が死亡、20人余りが負傷した。
*同日:湖北省随州市随県の敗走兵を空爆。
*同日:12時30分、11機が広東省梅州市五華県城を爆撃、爆弾29発を投下し、機銃掃射も加え、爆死4人、負傷11人、家屋40軒を破壊。
*11月10日:湖南省長沙市瀏陽・岳陽市臨湘を爆撃。瀏陽では27機が1時間余りにわたって爆撃し、100数発を投下、機銃掃射も行い、800人余りの死傷者を出し、家屋1300棟余りを爆破した。国民党県党本部、県政府、教育局尺豫章小学校と南台書院などの建物と主要な通りはすべて爆破された。
*同日:広東省英徳飛行場、汕尾市の海豊・陸豊を爆撃。
*同日:江西省九江市武寧や修水から湖南省平江・長沙に向けて敗走中の部隊を「従爆撃し、殲滅的効果をあげた」。
*同日:8機が広東省五華県横波を爆撃し、30数発の爆弾を投下、民家、商店13軒を爆破、20数人の死傷者を出した。
*11月11日:浙江省金華市駅、湖南省常徳市街と桃源を爆撃。
*同日:湖北省荊州市公安県などで貨車、倉庫、自動車軍を爆撃。これに対する中国側の記述は、「まず焼夷弾数発を投下し、後に爆弾100発余を投下、低空飛行して機銃掃射を一時間行い、民家90棟余を爆破、150人余を爆死(負傷60人余)させ、さらに穀倉1棟を爆破し、兵糧4000石余りを損失させた」となっている。
*同日:広東省清遠市・陽江市平岡・広州市太平鎮を爆撃。
*同日:長江上の湖北省石首付近で砲艦二隻を大破、一隻を浸水させた。
*同日:湖北省荊州市洪湖県の峰口に、この日から数日間、次々と爆撃機が出撃、餓狼のように町に襲いかかってきて、300発余りの爆弾を投下した。町は一面の火の海となり、峰口の住民は空前の災難を蒙った。茶問屋楊公堂の一家六人の誰も生き残っていない。11日だけで、死傷者は200余人、数日の爆撃を経て、全街並みが破壊され、子孫を絶った家は40余戸に達した。
*11月12日:粤漢鉄道の広州市黄沙駅を攻撃、兵士満載の列車や鉄路を爆破。
*同日:広西省南寧市・百色市、江西省武寧、等広(省市不明)を爆撃。
*同日:湖北省随県を午前と午後に二度爆撃。別途、湖北省咸寧市通城南方を爆撃。
▽ 11月12日、10日に湖南省岳陽が陥落した後、長沙軍警備当局は日本軍が来襲するというデマを誤解し、この日深夜に市街地の建物に放火し、16日まで火災が続くという惨禍をもたらした。16日、蒋介石は長沙を視察し、事件を起こした人物を厳罰(死刑)に処した。(中国軍は敵の攻撃から撤退するときに、占領される前にその街を焼き払うという習慣があり、南京攻略時の郊外でも見られたが、このように大きな街全体を焼き払うということは滅多にない)
*11月13日:浙江省金華駅、湖南省衡陽・常徳市桃源、湖北省石首を爆撃、貨車、倉庫群を「多量爆破粉砕した」。
*同日:20数機が湖南省衡陽を襲い、城北北正街、両頭忙帝主宮、堰塘巷などに多くの爆弾を投下、住民約千人を死傷させた。
*同日:湖北省宜昌・荊門の飛行場を爆撃。また湖北省黄岡市羅田に「巨弾の雨を降らせた」。
*同日:山西省忻州市偏関の中国軍根拠地を「猛爆」。
*11月14日:甘粛省の蘭州を重爆撃機が攻撃、飛行場や軍施設を爆撃した。
*同日:湖南省益陽市、岳州(現・岳陽市)と衡陽間、平江・常徳、浙贛鉄道を爆撃。
*同日:浙江省金華市義烏、蘭渓を爆撃。蘭渓では午前9時ごろ、9機が三陣に分かれて蘭城に爆風を浴びせた。爆撃は半時間余り続き、城内の所々で、煙がもうもうと上がった。今回日本機は殿山路、大夫第、豆腐橋頭、塘湾巷、下卡、余店などを爆撃したが、その中で下卡が最もひどく、住民の爆死は計り知れず、血と肉が飛び散り、電線には腹腸と腕がぶら下がり、溝の中も溝の外も死体で埋まり見るも無残であった。北門石畳路の頭の一地域だけで、被爆家屋が100軒あり、塘曲柴家巷1号唐畢の家では7人が爆死した。(『侵華日軍暴行総録』)
*同日:午後3時、安徽省宣城市涇県城に爆弾2発を投下し、家屋11軒を爆破、2人が死亡、5人が負傷した。
*同日:湖北省石首西北、江西省九江市修水を爆撃。
*同日:広東省の広州太平鎮・四海、南雄飛行場を攻撃、軍施設を爆撃した。
*同日:湖北省黄岡市英山・羅田を急襲し二千人の部隊と自動車十数輌を「爆撃粉砕した」。
*11月15日:広西省柳州市を爆撃し百余発の爆弾を投下、街全体で火災を起こし多くの死傷者を出した。別途、広西省南寧も爆撃。
*同日:四川省成都を二回に分けて鳳凰山飛行場を攻撃、上空で、10機と交戦、一機撃墜、地上の6機爆破。爆死3人、重傷2人。
*同日:甘粛省蘭州を急襲し空襲戦で6機と交戦、二機撃墜、軍事施設等を爆破。
*同日:甘粛省白銀市靖遠東湾堡子を2機が爆撃、爆弾4発を投下、10人が負傷し、70軒の家屋が破壊された。
*同日:寧夏省(現・自治区)を強襲し、城外の飛行場・営舎、城内の軍事訓練所等に「巨弾を投じ」、10万のビラを散布した。
*同日:陝西省の西安の飛行場を空襲、地上の約10機および格納庫等を「爆砕した」。
*同日:綏遠省(現在の山西省、陝西省、内モンゴルをまたいだ旧省)五原の共産党軍拠点を爆撃。
*同日:広西省南寧を爆撃。
*11月16日:粤漢線の湖南省の株州・衡山・長沙、常徳市漢寿県を爆撃。
*同日:広西省柳州を爆撃、「市内外の兵営その他軍事施設を粉砕」。
*同日:陝西省の西安を大編隊をもって爆撃。西安駅では列車、貨車、機関車、鉄路等を破壊し、隴(ろう)海線西部を寸断し、事後には多数のビラを散布して「無垢の民衆に日本軍の真意を徹底せしめた」。
*同日:広西省崇左市龍州飛行場を爆撃、「壊滅的打撃を与え」また市内中央江上にあった軍用船艇約三十隻を大破転覆させた。
*同日:9機が広東省仏山市高明県三洲を襲撃、爆弾30発余を投下、2人が死亡、1人負傷、店舗10数軒破壊。
*11月17日:綏遠省五原の軍舎や市街地を爆撃。一方で寧夏に向かった一隊も悪天候で対象を五原に変更し重要軍事施設を徹底爆撃。さらに数十万枚のビラを散布した。
*同日:湖北省宜昌、湖南省平江、芷(し)江飛行場を攻撃、飛行場の3機爆破。
*同日:広西省百色市、南寧市を爆撃。
*同日:午前9時半、一機が広東省清遠市陽山県城に爆弾4発を投下、その場で2人が死亡、4人が負傷。
*同日:6機が広東省河源市連平県城に飛来、低空爆撃で兵営や市街地の店舗、民家などが破壊された。
【教会や病院への爆撃】
*11月18日:湖北省の宜昌を爆撃し、フランスのカトリック教会や病院の難民が投爆され、50人以上が死亡した。これに対する日本側の記録は「宜昌付近の倉庫群、軍需品集積場等を爆撃し、4カ所より火災を起こさせた」とあるのみ。
*同日:粤漢線の湖南省長沙と株洲市朱亭の間の貨車軍や倉庫、工場を爆撃。また広東省河源・陸豊を爆撃。
*同日:陝西省西安を攻撃、共産党本部、その他軍事施設を「徹底的に爆撃した」。
*同日:前日に続き、9機が河源市連平県城を爆撃、西北角の牟爺祠、何生祠(、西南角の城隍廟、関帝廟、学宮背の鄭氏宗祠と黄氏祠(今県文化局)、および東西大街、南大街のたくさんの商店と民家を破壊し、約20人が爆死傷した。
*11月19日:陝西省楡林市および神木の炭鉱を爆撃、「巨弾の雨を浴びせた」。中国側の11月某日の記述には「5機が楡林県城の上空に侵入し爆弾を投下、県鎖南街にある県立新明楼巷小学校の6つの教室を爆破した」とある。
*同日:広東省韶関市翁源、清遠市連州、広西省賀州の軍事施設やトラック軍を爆撃、また貴港市桂平では兵営二棟、その他三棟を爆破。
*同日:朝9時、安徽省宣城市涇県県城に爆弾2発を投下、55軒の家屋を爆破し、8人が死亡、3人が負傷した。
*11月20日:湖北省宜昌の倉庫群、軍需品を爆撃、三ヶ所に大火災を起こした。
*同日:広西省の南寧市街と武鳴の兵営十数棟、賀州北方の西湾炭鉱と付属建築物を爆破。
*同日:河北省邢台市清河を急襲し中国軍を潰乱した。
*同日:広東省汕頭の市街と潮陽の「軍事施設を徹底的に猛爆した」。
*同日:午前8時頃、湖北省仙桃市沙湖鎮に日本の占領地武漢から三機が飛来し、沙湖鎮に対して何度も周回して爆撃、機銃掃射を行い、午後四時頃に立ち去った。沙湖鎮ではまだ防空対策をしていず、沙湖小学校の空き地だけでも罪のない住民が20人以上も死亡した。民家80余棟が破壊され、死者190余人、負傷者30余人を出した。12月初めに再び6機が襲来、正街の民家50余棟、河南岸の民家百数十棟は、ことごとく焼夷弾で灰になり、住民40余人が爆死や焼死、十余人が負傷した。
【共産党拠点、陝西省延安を初爆撃】
*11月20−21日:中国共産党中央の拠点である陝西省の延安を初爆撃、連日で7回の出動があり、30機以上で爆撃し、爆弾150個投下、152人が死傷し、300棟以上の家屋が破壊された。この日の日本側の記録は「赤化都市延安に最初の空爆を決行し、共産大学および赤化施設に猛爆を加えてこれを粉砕大打撃を与えた」とある。ちなみに共産大学というのはなく、この三年後に共産党系幹部学校その他が合併して延安大学が設立され、今では陝西省人民政府に属している。いずれにしろいつものことながら「軍事施設」などを的確に選んで狙っていたことはないと言ってよく、でなければ爆弾150個も投下する必要はないし、一般人を含めなければ死傷者が152人も出ることはない。また翌日の日本側の記述は「引き続き延安を空襲、共産軍司令部ならびに重要建物に猛爆を加えこれを粉砕した」とある。これ以降1941年まで日本軍機は17回にわたって延安を爆撃。
*11月21日:9時頃、湖北省仙桃市沔(べん)陽県を9機が爆撃、下関街から竜家湾までの繁華街のほとんどすべて灰と化した。龚万泰は出かけている間に家族全員を失った。遺体を引き取る人は自分の親族を見分けることができないほどで、見るに忍びぬ惨状があった。死者300余人、負傷者50余人。
*同日:湖北省黄岡市峰口を爆撃。峰口では日本機が河岸に集結した約300の軍用船艇から多数周囲の部落に逃げ込むのを見て「これを爆撃、部落八ヶ所を猛火に包み、これを壊滅した」。つまり村の住民の家々を焼き尽くしたということである。
*同日:湖北省荊州市洪湖県の峰口、漢河口を20余機が400発余りの爆弾を投下し、民間人150余人を爆死、450余人を負傷させ、民家500棟余りを破壊した。
*同日:河南省周家口飛行場を攻撃、大型機1機、小型機約10機爆破、艦載・艦攻機31機破砕。
*同日:広西省桂林飛行場を爆撃、地上の6機破壊、7機大破、他に格納庫や倉庫を爆破。また桂林市中央の官営を破壊。
*同日:広東省東莞市石龍西方、三水の東江上に数千名の兵士を乗せたジャンク船300余隻に対して「爆弾の雨を降らせこれを壊滅した」。
*同日:広西省梧州の軍事施設を爆撃。
*同日:午前8時、陝西省楡林市府谷県北部の哈拉寨(現・哈鎮)に爆弾9発を投下、爆死2人、民家20棟を破壊。
*11月22日:広東省清遠市仏岡、鬱林州(現・玉林市)の倉庫や軍事施設を爆撃。別途河南省周家口飛行場で空中戦となり、日本軍は一機失う。
*同日:大挙して広東省仏山市三水の西江沿岸に「策動する敵大軍に対して大爆撃を敢行」、また「西江航行中の軍需品輸送ジャンク船、汽船300余隻に巨弾を浴びせ100数十隻を爆沈した」。
この爆撃の流れであろうか、この日、山水県東魯郷の宝月の村人たちは、初めて空襲警報を聞き、老人や子供の手を引きながら避難した。秋の収穫期であり、すぐに逃げ出せない村人もいて、そこに日本軍がやってきて、村人の朱業安の次女や朱日周の母、また村の外で稲を刈っている朱照祥が惨殺された。
*同日:広東省肇(ちょう)慶付近の江上で汽船10数隻を撃沈した。
*同日:地上部隊三千余人が、南、西、北の三方面から同時に江蘇省宿遷市宿城に進撃、その支援爆撃を行う。
【西安のイスラム教区を爆撃】
*11月23日:大挙して西安を空襲、共産党司令部、中央軍学校分校、その他軍事施設を多数爆撃、また同所付近の敵二個師にも投弾し甚大な打撃を与えた。これに対する中国側の資料では「陝西省西安市街のイスラム教区を20余機が爆撃し80余個の爆弾投下、200人以上がが死傷、150戸以上の家屋が破壊された。この日はイスラム教徒の開斎節(断食明けの日)で、市街の西北に住む西安回族の人々がモスクに集まっていた」となる。
*同日:湖南省衡陽の新旧飛行場を対空砲火をかわして爆撃。
*同日:湖北省沔陽県、広東省江門市沙湖鎮の拠点部落を反復爆撃。
*同日:同省粤漢鉄道上の韶関市の韶関駅と楽昌駅の貨車群、軍事施設を爆撃。
*11月23日:午前十時、三機が広東省清遠市清城上空を奇襲、旋回の後、焼夷弾十数発を急降下投下し、上廓街は一面火の海となり、炎に閉じ込められた住民は焼け焦げて地を這い廻った。前線から退却した二十数人の国軍もこの空襲で命を落とした。清城は上廓の猪行から小南門付近まで燃え、商業地区は焦土となり、生臭い臭いが数か月にも及んだ。
*同日: 湖南省常徳市 澧県を爆撃。
*11月24日:河南省洛陽飛行場を爆撃、6機を爆破、2機を破壊。
*同日:広東省礬(はん)石水道、広西省龍州、湖南省長沙の粤漢鉄道を爆撃。
*同日:広東省三水の北江上流の清遠付近に集結しているジャンク船300余隻を爆撃「これを壊滅せしめた」。別途肇慶市四会のジャンク船群を撃沈した。
*同日:海軍陸戦隊と協力し、広州の河口の二虎島を「残敵討伐」で爆撃。
*同日:陝西省渭南市潼関駅を23機が襲撃、潼関駅の機関区と発電室の全てを爆破、また「進行中の列車を粉砕し七里村付近で隴海線を爆破」。
*11月25日:広東省深圳市平山駅付近で「潰走しつつある敵を急追撃、殲滅的打撃を与えた」。
*同日:広東省肇慶市広寧、清遠市英徳を爆撃。
*11月26日:18機が湖南省衡陽の飛行場のほか、 江東岸と江西岸に爆弾数十発を投下、また北生街、両頭忙、王宮、堰塘巷街道など市街地に爆弾を投下し、1000人以上の民間人を殺傷した。
*同日:湖北省宜昌の飛行場付近の建物を3棟大破、また対岸の徐家口の倉庫群7棟を爆撃炎上させた。
*同日:江西省萍郷市蘆渓県の浙贛線宜風鎮で列車を爆撃、湖南省の粤漢線衡陽では新飛行場の建物、倉庫、工場を爆撃、炎焼させた。
*同日:広東省広州市番禺区の浮蓮崗と海珠区赤崗の拠点部落、同省汕尾市陸豊・河源の軍事施設を爆撃「大損害を与えた」。
*同日:広東省三水の東江以南における陸上部隊の「残敵掃討戦」に呼応して、深圳市平山・惠州市多祝・汕尾市白雲仔で部隊集団を「粉砕」、清遠市英徳でもジャンク船10数隻を撃沈、梅州市興寧でも軍事施設を「猛爆」。
*11月27日:湖北省宜昌を連続して攻撃、飛行場付近の倉庫群や兵営など10数カ所を爆撃、8カ所を全壊、一部を炎焼させた。
*同日:粤漢鉄道の湖南省株洲駅、淥 (ろく)口駅、安徽省宣城市の石壁口など安徽省宣城市の石壁口を爆撃、倉庫3棟を炎焼させ、多数の貨車を「木っ端微塵に粉砕した」。
*同日:広東省肇慶市の四会・広寧、広州南村南方の陣地、福建省南平市杭頭を爆撃。
*同日:湖南省洞庭湖南岸の要地益陽を急襲し軍事施設に「巨弾を投じ…約七個師団に甚大な被害を与えた」。また益陽城内は火災に包まれ「大混乱を呈した」。
*同日:広西省西安を爆撃。
〇 同日、ドイツのコンドル機がベルリンー立川間、1万3600kmを42時間26分の記録を立てた。
*11月28日: 日本機は2度にわたり安徽省池州市青陽県の木鎮を爆撃した後、140−150人の兵を木鎮に送り込んだ。逃げる住民を機銃で撃ち、6人を射殺、4人を負傷させた。木鎮を占領した後も住民を捜索して殺害した。日本軍は木鎮を撤収する前に放火し、青陽県最大の町が焦土と化した。
*11月29日:湖北省宜昌飛行場付近の倉庫や建物、兵舎を爆撃、対岸の倉庫群の半数を全壊。
*同日:湖北省襄陽市の棗(そく)陽・樊(はん)城を爆撃、「敵兵満載のトラック軍を重爆撃、これを殲滅した」。
*同日:広東省広寧、広州の珠江江岸の禺区の員岡・大石の拠点部落を爆撃。
*同日:陸軍航空隊が大編隊をもって湖南省常徳を襲撃、飛行場や市街の軍事施設、集結中の中国軍大部隊を爆撃、市内の十数カ所に火災を起こし「悠々全機帰還した」。
*同日:広東省韶関市翁源・韶州、韶関市新豊、河源市内と同市連平の五カ所を爆撃、「広東奪回を夢見て集結中の敵部隊に大打撃を与えた」。
*同日:山西省忻州市静楽県城の共産軍拠点に「巨弾の雨を降らせた」。
*同日:正午頃、8機の爆撃機が陝西省宝鶏県城の上空に侵入し、城内の薪市、菜場、馬道巷一帯を爆撃、住民16、7人(別説では80−90人)を爆殺した。城内北崖張家窯も爆撃され、5、6人が死亡した。この後、一か月以上の間、城内の住民は昼間、田舎に避難して空襲を避けた。
*11月30日:広西省桂林の市街地を51機が爆撃し、100人以上が死傷した。(日本側の記録では「敵軍潜伏の重要施設を反復爆撃これを粉砕」とあるのみ)
*同日:連日で湖北省宜昌を爆撃「大損害を与えた」。
*同日:粤漢鉄道の湖南省長沙・株州、姜園駅で貨車群、駅舎を「爆撃粉砕」。
*同日:広西省賀州県城の軍事施設、飛行場東南の燃料倉庫を爆撃、倉庫は火災を生じ灰燼に帰した。
*同日:広東省韶関市湯塘を爆撃、さらに清遠市源潭を二度にわたり爆撃し「多大の効果を収めた」。
*同日:山西省忻州市河曲・保徳付近から黄河を渡り内モンゴル伊克昭(イフジョー)盟北部および陝西省北部に移動中の中国軍部隊、さらに両城に密集する大軍に「連続的爆撃を敢行し大打撃を与えた」。
▽ 11月、国民政府はソ連政府と「中ソ通航条約」を締結し、12月からモスクワから重慶までの航空便を開設した。
12月
【満州での毒ガス特殊演習】
〇 満州の内モンゴル・ハイラルで11月26日から12月7日の間、「第二次関東軍特殊演習」が行われ、浜松陸軍飛行学校による毒ガス雨下(散布)の実践研究があった。これに合わせて1938年12月2日、大陸指第345号として、閑院宮参謀総長から中国戦線の全日本軍宛に「特種煙(あか筒・あか弾・みどり筒)を使用することとを得」とされた。ただし「市街地特に第三国居住地を避け、つとめて煙に混用し厳にガス使用の事実を秘し、その痕跡を残さざる如く注意すべし」とある。
*1938年12月1日:山東省煙台市龍口、吉林省長春市大辛店、浙江省寧波市新浦鎮を爆撃。
*同日:浙江省衡州、江西省玉山の両飛行場を爆撃、また付近の駅の貨車30輌を爆破。
*同日:粤漢鉄道の広東省楽昌で貨車や大小倉庫群を爆撃。
*同日:湖南省益陽の根拠地を襲撃、司令部や軍事施設を「片っ端から粉砕し市街数カ所に火災を起こさしめた」。(この市街地という言葉から無差別爆撃を思わせる)
*同日: 湖南省株洲市小金塘付近の経盤店で「敵密集部隊を爆撃殲滅した」。
*12月1日:各機が数十回にわたり広東省高明県明城を爆撃し、100数発を投下、店舗20数軒を爆破、60人余が爆死、20人余が負傷。死者は血みどろになり、木に引っかかったいくつかの胴体などは目も当てられなかった。
*12月2日:桂林市街南方地区一帯を猛爆、数カ所より「大火災を起こさしめ軍事施設を壊滅」した。これに対して中国側の記録は「桂林の南門や倉庫、市街地を19機が爆撃、火は延焼して甚大な被害となり、民間人死傷数千人とされる」とある。荊門市京山県
*同日:山東省威海衛付近の「残敵掃討」作戦に協力、また同省煙台市龍口・大辛店を痛爆、別途、江蘇省連雲港市墟溝、南通市新店鎮の「残敵拠点部落ならびに陣地を爆破し、大打撃を与えた」。
*同日:内モンゴルのオルドス地区伊克昭盟の東勝に三度猛爆、共産軍を四散させた。
*12月3日:江西省玉山飛行場・吉安飛行場の滑走路などを「使用に堪えないまでに破壊」。
*同日:広東省仏山市西江方面、同省肇慶市高要西方を爆撃。
*同日:西江左岸の広東省仏山市西樵(しょう)山・官山墟・簡村・九江鎮付近の500の船舶を爆撃、続いて西江右岸に「潰走する敵300を殲滅した」。
*同日:広州市増城、恵州北方の諸部落に「蝟集する約1500、馬200を爆撃し多大の損害を与えた」。
*同日:湖南省長沙市寧郷を十数機で襲い、「完膚なきまで叩きのめした」。
*同日:再び内モンゴルのオルドス地区の東勝を爆撃。
*同日:黄河渡河点の山西省保徳で人馬約千に対し爆撃、さらに対岸の陝西省楡林市府谷に密集する大部隊を奇襲、山西省忻州市河曲において渡河中の船12隻に対し急降下爆撃、「人馬約600を粉砕した」。
*同日:浙江省紹興市嵊県を初爆撃、倉帝寺付近に3発の爆弾を投下、住民7人が爆死。
*12月4日:甘粛省蘭州飛行場を攻撃、ソ連製の14機を爆破、3機を破壊。
*同日:湖北省宜昌とその対岸の倉庫等を爆撃。
*同日:広東省肇慶市高要西方の江上で砲艦一隻を爆撃、また付近の油槽船一隻、砲艦一隻を爆撃し大破。
*同日:湖南省岳陽市平江を襲い、郊外の兵舎、地上部隊を猛爆「甚大な損害を与えた」。
*同日:9機が広東省韶関市曲江を空襲、船乗りたちは連続して29発の爆弾を受け、42人が爆殺された。17隻の船が撃沈され貨物と石油、食塩などを損失した。
*12月5日:河南省鄭州市鞏(きょう)県、広西省柳州飛行場を爆撃。
*同日:広東省高要で機銃や飛行機部品等の兵器工場を爆撃、潰滅的損害を与えた。さらに砲艦と軍用船各一隻を爆沈させた。
*同日:広東省南雄飛行場を大空襲、しかし反撃はなく、「徹底的に蹂躙した」。
*同日:広東省肇慶を三時間連続爆撃、「敵司令部を壊滅せしめた」。
*同日:広西省柳州の飛行場と市街に散在する倉庫群を爆撃、うち5棟を炎焼させた。
*12月7日:陝西省にある隴海鉄道の潼関駅、広西省貴港市桂平・貴県方面の軍事施設を爆撃、さらに付近の軍用船艇約50隻のうち10数隻を爆破。
*同日:広東省清遠市・仏山市北江方面を爆撃、砲艦と軍用船一隻を大破させた。
*12月8日:広東省韶関市楽昌の粤漢鉄道沿線を爆撃、機関車2輌、貨車15輌、線路数カ所を爆破、また清遠市英徳付近の軍用船艇数隻を「粉砕」。
*同日:湖南省岳陽市の平江北方の新牆(しょう)、楊柿の市街に集結している部隊と陣地を爆撃、また平江と南江間のとトラック軍を爆撃、「殲滅的打撃を与えた」。
△ 12月8日、中国は広州などの港湾が閉ざされた結果、ビルマ(ミャンマー)ヤンゴンから軍需品等を雲南・ミャンマー道路に沿って昆明に運ぶ作戦をとった。その結果、日本軍は雲南省昆明や桂林への爆撃を強化する。
*12月9日:江西省南昌において、中国空軍30機と空中戦、撃墜12機、地上機爆破12機、日本軍機の被害1機。
*同日:広西省桂林市全州県駅付近の建物群、と倉庫、貨車約30輌を爆破、一部を炎焼させた。
*同日:広東省南雄市水口墟で小型軍用船艇約30隻を襲い大破させ、別途、仏山市西江方面を爆撃。
*同日:湖南省の粤漢線郴(ちん)県(現・郴州)以南の鉄道輸送機関を猛爆し、機関車7輌、客車、貨車60輌および重要施設を破壊した。
*12月某日:12機が荆門城関を10時間余りにわたって交互に爆撃し、50発余りを投下、北門の対月街、響井街(現北門路)一帯、関帝廟街などを廃墟にした。
*12月11日:広東省の粤漢線の清遠市英徳付近の機関車5輌を爆砕、また広州市増城北方の中国軍部隊を爆撃。
*同日:湖南省常徳市桃源 を爆撃。玉帯街、官埠頭と東街文廟と多くの民家が爆破され、400人以上の市民が死傷した。県城ではいたるところに死体が横たわり、呻き声、激しく泣き叫ぶ声が聞えた。
*12月12日:午前10時過ぎ、陝西省延安を7機が7回にわたり爆撃、40−50個の爆弾投下、空襲警報で市民は速やかに避難したが、民家100棟以上を破壊、家畜5頭が爆殺された。
*同日:陝西省西安を日没時爆撃、空中戦で2機撃墜、1機爆破、また江西省南昌飛行場を爆撃、空中戦で7機撃墜、3機爆破した。
*同日:岳陽市南方の新牆付近の大部隊を空襲、低空飛行で爆撃し、部落二ヶ所に「火災を起こさしめた」。
*12月13日:江西省南昌、広東省陽江・英徳沙口圩の粤漢鉄道を爆撃。
*同日:広東省仏山市三水と陽江市の倉庫群、船艇、陣地を爆撃。
*同日:陝西省延安を連日で40機が急襲し、「共産大学その他赤色重要建造物を破壊」、また延安西方黄河左岸の延川の共産軍軍事拠点を「覆滅」し多数の宣伝ビラを撒いた。 (この後、延安は日本軍機の爆撃を防ぐため、共産党中央機関は市街地から城外に移転した)
*同日:綏遠省(現在の山西省、陝西省などをまたぐ)五原の共産軍兵営、軍事施設を猛爆、また湖北省荊州市監利を襲撃。
*12月14日:河南省信陽市の商城が爆撃され、爆撃は商城と農村に対して翌年1月24日まで続けられた。城関大十街の張静和の家族全員が爆死、南河湾の牛行一帯に数百人が集まって商売をしていたが、そのほとんどが投弾で爆死、北関に小食屋があって、南から北へ来た二、三十人がしゃがんで食事をしていたが、ほとんどが爆死した。城区の官井沿、西門口、大十街、南関など、千軒以上の家が吹き飛ばされ、瓦礫と化した。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:山東省煙台市芝罘(しふう)・登州、済南市北雲台を爆撃。
*同日:粤漢鉄道の広東省沙口圩および河頭圩北方を爆撃、停車中の貨車群を粉砕し、鉄路多数を切断。
*同日:江西省南昌飛行場を攻撃、地上の19機を爆破、戦闘機10数機と空中戦で14機撃墜。
*同日:広西省賀州市昭平で5、60隻の船舶を低空で爆撃、全部を撃沈、さらに広州市従化西方に移動中の7、800の部隊を爆撃し「殲滅した」。
*同日:大編隊をもって湖北省監利に集結している大部隊を再度爆撃、「これを壊乱せしめ、軍用倉庫や施設を爆撃して炎焼させ、大打撃を与えた」。
*同日:浙江省杭州市楊嶺金岫、衆社嶺などの地を爆撃し、9発の爆弾を投下し、7人を爆死させた。
*同日:山東省青州南方の臨沂市沂水に集結している「残敵」を爆撃。 山東鉄道沿線の延安、内モンゴル自治区包頭西北の大興公および鳥蘭脳包の陣地を「爆滅した」。
*12月14、15日:連日で陝西省延安を爆撃、40-50発の爆弾を投下
*12月15日:河南省駐馬店に4機が2隊に分かれ来襲、駐馬店に残っていた駅に通じる三民街(現在の解放路)に沿って、300m近くの路上に十数個の爆弾が投下され、駅前の小さな広場では4、5発の爆弾が落ち、20人余りの死体が弾倉の周りに散らばり、足や腕を折るか失っている人があちこちで呻き声をあげていた。三民街の爆弾の穴は連なり、家屋4、50軒が爆破され、住民30数人が爆殺された。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
*同日:陝西省延安を爆撃。
*12月16日:12機が広東省高明県明城の孔堂、鉄岡村を襲撃し30数発を投下、孔堂死者5人、負傷4人、家屋6軒。鉄岡で1人死亡。
*12月18日:湖北省の宜昌、広西省北海市を爆撃。
*同日:広東省の陽江市陽春の桟橋、汕尾市陸豊の兵舎、南雄市水口墟で砲艦と軍用船艇各一隻を大破爆沈、肇慶市高要の陣地と船艇数隻、
*同日:粤漢鉄道の広東省英徳市沙口圩、仏山市西江方面を爆撃。
*同日:黄河北方、内モンゴル臨河の城内の数百の人馬を爆撃して「壊滅」。
*12月19日:広東省英徳の軍用船艇、沙口圩の鉄橋を爆撃。
*同日:粤漢鉄道沿線の広東省韶関市楽昌の橋梁を爆撃、また仏山市三水と恵州市博羅地区に集結している約一千の部隊を爆撃。
*同日:広西省梧州を爆撃。
*12月20日:3機が湖南省常徳市漢寿県城及び近郊を爆撃。龍池書院に数弾、楊旗嘴では民家数棟、北門外の埠頭は街全体が炎上し、150棟以上焼失。敵機は何度も上空を周回し、絶えず機銃掃射し、女性子供20数人を焼き殺した。小漢寿城のほとんどすべてが爆破され、至る所瓦や垣が崩れて死傷者が枕を並べて倒れていた。
*12月某日:河南省の洛陽、陝西省の西安・宝鶏を爆撃した。
*12月某日:陝西省渭南県城北塘巷を爆撃し、10人余りの死傷者を出した。
*12月某日:浙江省金華市で、紹興酒を満載した二つの船隊の一つが金華婺江で日本機の爆撃に遭い、船は酒沈み、一つは紹興龍尾山で日本軍に略奪された。
*12月22日:江西省南昌の新旧飛行場を爆撃、地上の約13機爆破、空中戦で13機撃墜。別途、河南省周家口を爆撃。
【日本への降伏要求】
〇 12月22日、近衛首相は対中声明として「善隣友好」、「共同防共」、「経済協力」の3原則を打ち出し、国民政府に降伏を促した。翌日、国民政府外交部は痛烈に反駁した。
*12月24日:広西省桂林の市街地を爆撃、「市街の軍事施設は概ね壊滅するに至った」。これに対する中国側の記述の一部は「敵機9機が午後1時に城区上空に侵入し、東南城依仁路、榕城路、環湖東路一帯に50発以上の爆弾を投下し、文明路、福旺路、桂南路などでは焼夷弾で燃え上がり、桂南路の米国宣道会と通泉巷の回教堂が爆破された。全市の三分の一の民家が爆破されて焼失した。この山水秀麗で有名な都市はどこも瓦礫、コークス、爆弾坑、散乱した電話線、干からびた街路樹の姿となった」とある。
*同日:広東省湛江の赤坎阜、新興県、青胆江(不明)方面を爆撃、大型軍用船や倉庫などを大破させた。
*同日:陝西省西安の飛行場と軍事施設を爆撃、また省の主要建築物を「徹底的に爆破、敵に大脅威を与えた」。
3編隊12機が福建省漳州市竜海区石碼上空に飛来し、爆撃11発を投下、爆死12人、負傷17人、巡艇及び木帆船6隻が爆破された。
*同日:5機が武漢の武昌紙坊鎮老街の張韻軒、李正太氏の家屋2棟を爆破し、避難者に銃を乱射、死者は60人余りになった。
*12月25日:湖北省裏陽飛行場のソ連機を4機爆破。別途、江蘇省連雲港市埒子口を爆撃。
【武漢・漢口占領による航空基地からの爆撃】
*12月26日:陸軍飛行隊が武漢の漢口(占領後、ここに日本陸軍の航空基地が建設された)から初の重慶爆撃を計画。その攻撃命令には「飛行弾の主力を持って重慶市街を攻撃し、蒋介石政権の上下を震撼せんとす。… 目標は重慶市街中央公園、公安局、省政府をつらぬる地区内とし、副目標を重慶飛行場とす。爆弾は100kg以上のものを使用すべし」とあり、「軍事施設」としていない。この前後に記している各地での爆撃記録では、必ずと言っていいほど「軍事施設を爆撃」と出てくるが、実態は異なっている。
この日、重爆撃隊22機が出撃するが雲霧のため的確な爆撃が難しく(重慶は中国西部の山脈間の盆地にあり、冬場は晴れる日が少なかった)、第一編隊は市街地東部を推測爆撃、第二編隊はその北西部に位置する合川区を爆撃した。ただし陸軍の記録では「飛行場に巨弾の雨を降らせ、… ついで城内と南方の県政府、兵工廠、兵舎、無電局など重要施設を片っ端から痛爆、木っ端微塵に市街を火の海と化し、悠々全機帰還した」とあり、あたかも正確な爆撃がなされたような記述になっている。中国側の記録では重慶の合川に爆弾28発が投下され、家屋6棟が破壊され、2人が負傷とある。
*同日:江蘇省中正鎮、埒子口の敗残兵拠点部落を「粉砕」。
*12月27日:広西省柳州に25機が出撃、河南あたりに爆弾約50発を投下するが大きな被害なし。
*同日:山西省臨汾市大寧の軍事施設および地上の密集部隊を爆撃、また同省晋中市霊石西方に集結していた共産軍約一千の部隊に「巨弾の雨を降らせ壊滅せしめた」。さらに同省の蒲県、郷寧、吉県に「徹底的爆撃を加え、敵の既設陣地を粉砕した」。
【桂林爆撃】
*12月29日:重ねて18機が午後2時8分に桂林市上空に飛来、桂林の市街地に焼夷弾、爆発弾を百発落とした。この日の強風が、大きな火災を引き起こし、楽群路、桂南路、桂西路、中北路などは火勢が最も強く、城南の文昌街、桂南路一帯は夜10時までに家屋1500棟以上を焼き払い、万人以上が路頭に迷った。11月30日からの4日間の爆撃で美しい桂林は無残な姿になり、桂林の人々に大きな損害を与えた。 この後も含めて、桂林は51回の空爆を受け、多くの焼夷弾も落とされ、全家屋のほぼ半分の3000戸以上の家屋が壊されあるいは焼失した。634人が死亡し、1056人が負傷した。
*同日:湖南省衡陽の市街地を爆撃、また広西省桂林と陝西省西安を爆撃。
*同日:湖南省懐化市の芷(し)江に向かった爆撃隊は悪天候のため代わりに常徳市の龍陽鎮などを爆撃。
*同日:貴州省貴陽の奥地を爆撃、その帰途に湖南省長沙、桃源などを爆撃。
*12月30日:山西省臨汾市の浮山城を6機が爆撃し、爆弾20数発を投下し、小学生を含めた16人を爆殺し、16人が重軽傷を負った。手足をばらばらに切断されて血まみれになっているものもあれば、脳漿を流して血まみれになっていて見るに堪えなかった。生徒の保護者たちが死体を探しに来た時、衣服や靴、靴下の破片などから判別するしかなかった。これに関する日本側陸軍の記録では、「臨汾東方の浮山を猛爆、県城内の軍事施設を粉砕した」と、あくまで軍事施設とする建前にしている。
*同日:河南省洛陽の飛行場で4機爆破。広東省陽江方面を爆撃。
*12月31日:山東省煙台市登州、広東省江門市台山・封州、梅州市瑶子頭、広西省梧州市、応海寨(塞)荷役場(省市不明)を爆撃。
*同日:12時ごろ、日本機6機が 山西省臨汾市浮山市街を爆撃、30数個の爆弾を投下し、8人が死亡、8人が負傷したほか、小学校では子供たち18人が死亡、8人が負傷した。その後日本軍は浮山城を占領後、トーチカを構筑するため、城の内外の廟や民家を壊さらに抗日幹部や一般民衆に対して拷問を行い、残酷に殺害し、死体を北門内の枯井の中に投入した。7年間に罪のない中国軍民をどれだけ殺害したか、例えば1939年7月6日、辛荘村に泊まった日本軍の1隊は村外の洞窟の中に隠れていた婦女子を捜し出し、80人以上を強姦した。同年12月25日、日本軍は浮山の住民が兵糧を運ぶ使役を拒否したために怒り、直ちに日本偽軍100人以上を浮山の村一帯の家々に放火、多く民家と大量の燃料用の柴や草を燃やした。1942年11月5日、日本軍は高家河村で罪のない村民16人を殺害。1943年9月初旬、寨吃塔郷小邢庄で村民83人を殺害、太皇峪で13人を殺害。9月13日、喬家垣郷南山で村民13人を殺害、綿花荘では村人32人を殺害。9月20日、郭店郷柳樹垣村で68名を殺害。9月22日、喬家垣郷坡頭村で村民6名を殺害、南安、木耳凹、北陽庄、東溝、小溝などで村民70人以上を殺害。同日、郭店郷河底村で村民41人を殺害。同年冬、日偽県長呂光華は西佐岭で徴用した民工50人以上を殺害した。(『侵華日軍暴行総録』)
