昭和15−16年(1940−41年)

書き方と使用する記号について

 この爆撃記録は、主語に当たる「日本軍の飛行機(日本機)」をほぼ省略しているので、内容により判断していただきたい。

 *は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である。

日中戦争突入から8年間展開された想像を絶する空爆(続き)

昭和15年(1940年)

【中国から東南アジア侵攻へ】

 1937年の日中戦争開始により日本は不足する軍需資源を「南進政策」、つまり東南アジア進出によって確保することも早期に意図していて、同時に中国軍の物資ルートを遮断するためにイギリス領香港に隣接した広州を1938年10月に占領した。そこから39年2月の中国海南島の南北の要港(三亜、海口)占領が南進政策の発端となり、6月に広東省汕頭などの湾岸地域占領により華南沿岸の封鎖に向けて侵攻していく。そして9月、第二次世界大戦が勃発すると、英仏勢力がアジアから後退した機会を利用して、南進政策はいっそう積極化し、仏印(フランス領インドシナ:現ベトナム・ラオス・カンボジア地域)と蘭印(オランダ領インドシナ:現インドネシア)の二方面に進められ、戦略物資輸入を部分的に実現しながら、広州ルート封鎖に加え、中国軍の南方(仏印)からの援蒋(蒋とは中国軍の総統、蒋介石のこと)ルートの封鎖に向けて11月にベトナムに近い広西省南寧と隣接する龍州を占領、そこから陸海航空部隊は桂林や柳州、雲南省昆明などを頻繁に爆撃し続け、作戦の展開を支援した。この南進作戦が翌年末の太平洋戦争へとつながっていく。

1月

*1940年1月1日:朝9時、爆撃機3機が江西省上饒市鄱陽県華光巷河辺、一条巷、康王廟などで12発の爆弾を投下、機銃掃射も加え、25人が爆死、重軽傷41人を出した。

▽ 国民政府軍事委員会は、抗戦以来、日本陸軍の中国での死傷者が146万人余り、毎月平均約5万人の死傷者が出ているとした。

*1月1日−18日:日本機は雲南越(越はベトナム:現・昆河線)鉄道中国区間を順次爆撃した。ベトナムを植民地とするフランス政府は5日と8日、日本政府に2度にわたって抗議し、損害賠償を求めた。

*1月2日:湖南省宝慶・衡陽の飛行場(宝慶では地上の7機を爆破)、また安徽省水塘湖を爆撃。

*同日:大挙して雲南省の滇(てん)越鉄道の線路、鉄橋数ヶ所、トンネル一つを爆破。

*1月3日:24機が湖南省宝慶飛行場を襲撃し、地上の3機を破壊し、4機を損傷させた。

*1月4日:雲南省蒙自飛行場を27機で爆撃、4人死傷。

*同日:台湾の高雄から出撃した12機が、雲南省の昆明からベトナム・ハノイを結ぶ滇越鉄道の鉄橋を爆撃。

▽ 1月4日:中国空軍は桂南から日本軍の占拠する南寧の飛行場を爆撃し、4機を破壊した。

*1月5日:大挙して雲南省蒙自を中心に滇越鉄道の鉄橋や沿線数ヶ所を爆撃、「甚大な損害を与えた」。

*同日:湖南省株洲市醴陵県の瓜含坪と七眼塘一帯に五発の爆弾を投下し、死傷者18人。

*1月6日:続けて蒙自からベトナム国境間の滇越鉄道に多数の直撃弾を落とした。

*1月7日:山東半島青島市即墨東方の海岸の要地怒山衛を爆撃。

*1月7−8日:広西省賓陽付近の崑崙関・思朧司・九塘・八塘・唐報墟・雛喝を爆撃。

*1月8日:広東省清遠市の地上軍を毒ガス攻撃で支援。

*同日:河南省信陽西南の花山新店に集結する部隊を反復爆撃、別途地上部隊に協力して同省合六安方面に敗走する部隊に「巨弾を浴びせる」。

*同日:広東省仏山市三水区芦苞を爆撃。

*1月9日:3機が湖北省荊州市公安県南平において低飛行で半時間爆爆し、30数発を投下、民家10余棟を爆破、30数人を爆死させ、糧船10余隻を沈め、食糧1000余石を損失させた。

*1月10日:陸海共同の大編隊をもって広西省柳州を爆撃、空中戦で14機を撃墜、さらに飛行場の9機を炎上させた。

*同日:艦載機を含めた55機が桂林飛行場に出撃、中国機30数機と空中戦で13機撃墜、地上の9機爆破。

*1月12日:安徽省潞安(六安)の中国軍部隊に「猛爆を敢行」。

*1月15日:湖北省随県東北の部隊に対し「巨弾を投じ大損害を与える」。

*同日:5機が浙江省金華市湯渓駅を空襲、3両の車両とプラットホームを破壊。

*同日:午後12時頃、日本軍機3機が東方から江蘇省泰城(泰州)上空に飛来、城内の西橋、大林橋、王家橋、府前街一帯に連続して爆弾が投下され、住民10人が死亡、30人以上が負傷、家屋40軒以上が破壊された。

*1月中旬:福建省福州市の馬尾造船所に9機が襲来、造船所に大型爆弾を多数投下し、30名の労働者が爆死。

*1月16日:湖北省潜江において活動する中国軍を随所で爆撃。

*1月17日:広西省貴港市の八塘を爆撃、毒ガス弾も投下。

*同日:日本軍機は泰城に4度目の空襲を行った。泰州北山寺の二殿が爆破され、光孝寺の二殿と永寧寺も破壊された。

*1月18日:山東省濰坊市安邱を爆撃。

*1月19日:浙江省寧波飛行場を爆撃。

*1月21日:浙江省杭州市萧山を占領、主要な町の至る所で姦淫、略奪、放火を繰り返し、1945年8月15日の日本降伏まで、5年8ヶ月の間、焼かれた家屋38429間、焼滅された町村やは40カ所余り、人民の死傷者は数えきれなが、10回にわたって爆撃と機銃掃射を受け、470軒の家屋を破壊し、30人余りの住民が銃殺された。

*1月22日:海南島(省)西北の大星および抱舎の中国軍部隊を銃爆撃、また蘭洋の兵舎二棟を粉砕。

*1月23日:広西省柳州市を爆破したが、蒋介石は柳州市で軍事会議を開いていて、危うく難を逃れた。

*同日:湖南省湘桂線の要衝湘潭と長沙の飛行場、また浙江省紹興市諸曁(き)の飛行場、軍事施設を爆撃。

*同日:安徽省池州市香口鎮の砲兵部隊を爆撃。

*1月24日:綏遠(現・内モンゴル)東南の東勝の軍事施設、陝西省楡林市神木の軍拠点を爆撃。

*同日:海南島光林付近で海軍陸戦隊の攻撃に協力、約1500の部隊を銃爆撃。

*1月25日:内モンゴルの五原および黄河右岸地区一帯の陣地を爆撃。

△ 同日、山西省晋中市昔陽県皋落鎮を日本軍700人余りが攻撃し、八路軍が反撃して日本軍80人余りが戦死したが、日本軍は毒ガスを投与し、八路軍400人以上が中毒した。

*1月26日:広東省雲浮市の羅定を爆撃、毒ガス弾も投下。

*同日:湖南省岳州(現・岳陽)下流の白螺磯を奇襲、飛行場周辺の陣地を銃爆撃。

*同日:安慶上流香口鎮の陣地と軍需倉庫、その東方の王村および広済の抗日拠点を爆撃。

【八路軍の活動による日本軍の犠牲者数】

 国共合作により、中国軍は国民政府軍と共産党の八路軍に分けられ、国民政府軍は正面からの戦闘、八路軍はゲリラ的戦法による反撃を担うようになった。その八路軍総本部参謀がこの1年間の戦績を公表した。—— 1939年1月12日から1940年1月3日まで、八路軍は日本傀儡軍と400回以上戦って、1万400人余りの日本傀儡軍を殺害、23人の日本軍、1150人の傀儡軍を捕虜にした。

*1月28日:内モンゴル・バヤンノール市の臨河を午前午後の二度にわたり爆撃、その帰途に五原を襲撃。

*同日:滇越鉄道の線路、鉄橋を爆破。

*1月某日:甘粛省蘭州、広西省桂林を爆撃。

*1月某日:広西省南寧市の横県に毒ガス弾が投下された。

【空爆下の惨状】

*1月30日:河南省駐馬店市新蔡に、6機が飛来し、城を一周して約数分で引き返し、一機ずつ急降下した。2歳から50歳までの住民20人が爆殺され、負傷者は10数人、民家を百軒爆破した。被爆地は南・北大街路東和西大街路南一帯で、軍事施設などどこにもない。被曝の例として、南大街の王承軒の妻と2歳の息子は家に着弾して火が出て、逃げられず焼死、郭茂興漆店の中には4人がカード遊びをしていたが、家が爆破されて炎上、死体は黒焦げになって家族は顔も識別できず、一部の特徴や残存する衣服の端片から識別することしかできなかった。朱さんは裏庭のトイレにいて、爆弾が近くで爆発し、体が散り散りになり、片足は梢に掛かり、首の後ろの大きな皮の肉が裏通りの工場の看板に落ちた。北通りの20歳以上の娘は、爆弾が目の前に落ち、体がばらばらに飛び散った。他にも枝にぶら下がったり壁に貼りついた肉の塊もあった等々である。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

*1月31日:湖南省常徳市武陵を午前と午後に爆撃、また張家界市南賓東北の密集部隊を爆撃。

*同日:浙江省嘉興市烏(う)鎮・小廟于を爆撃。

*同日:広西省南寧市武鳴、甘栗圩方面の約1500の部隊を午前と午後二度にわたり爆撃、さらに同市賓陽を進軍中の約一万のトラック、砲撃車等に爆弾の雨を降らせ、また賓陽南方の高田圩に集結する部隊と砲兵陣地を「猛爆し、敵の遺棄死体は1500を下らぬ見込み」。

*1月末ー2月初:広西省賓陽・南寧を抗日部隊への攻撃で爆撃。

2月

【米欧からの制裁と日本の驕り】

 こうした日本軍の無差別爆撃は重慶に各国の大使館があることにより、逐一米国政府にも報告が行き、また爆撃の様子も写真とともに新聞で報道されていたから、米国政府だけでなく米国民の日本に対する不信感は増大し、1940年1月に日米通商航海条約破棄が通告され、その後、日本は米英等から経済制裁を受け始めることになる。

 こうした制裁に対して「うるさい米国」というタイトルの記事がある。

 —— 「かくのごとく米国が日本に対し小面憎く当たってくるのは何故かといえば、日本が九カ国条約(1922年:大正11年のワシントン会議で9か国、すなわち欧米諸国日本・中華民国の間で締結された条約で、中国権益の保護と門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を図ったもの)を踏みにじり、米国の権益を破壊しているとするものであろう。米国は日本が自衛権を発動して現在支那で大規模な戦闘行為が行われているという事実を認めないばかりか … 支那に安易な同情を売りつけようとしている。… 米国は日本の強大化が太平洋の安全感を破ることを恐れているのである。米国は日本民族の発展が恐ろしいのであり、だから日本がこの二年半の戦争で相当国力が疲弊したとみて、この際日本を叩いて支那に発展しよう(恩を売ろう)と考えたものとみられる。… 元来この九カ国条約自体は支那の次植民地的地位を維持しようとする以外の何ものでもないのであるから速やかに破棄されるべきであろう。… (この条約は)日本の支那に対する正常な経済的発展をも抑圧せんとしたものであるから、… 廃棄して米国から条約尊重顔のベールを取り去るだけでもせいせいするであろう」(『支那事変画報』第78集より)とあり、条約無視を認識していてもあくまで日本の正当性を主張している。

*2月1日:前日に続けて広西省南寧市武鳴と賓陽を爆撃、橋梁なども破壊。

*同日:27機が雲南省蒙自の滇(てん)越鉄道(越はベトナム)の湾塘駅を爆撃、乗客101人死亡、負傷者121人。その中にはフランス民間人が5人含まれていた。フランスは3日、再度日本に抗議した。乗客以外には23人死亡。(日本側の記録は「迎撃機の挑戦を排して滇越鉄道主要鉄橋および線路数ヶ所を爆破した」とあるのみ)

*2月2日:午前11時、12機が陝西省楡林市府谷県城関を爆撃、80発の爆弾を投下し、33人が爆死、50人が重軽傷、民家600棟が破壊、炎上した。

*同日:陸軍の内モンゴル南部オルドス殲滅作戦に呼応して陝西省楡林市府谷(上記参照)・神木・哈拉寨(カラチャイ)、山西省忻州市河曲を爆撃。

*同日:南寧市賓陽平野を退却する中国軍部隊を飛行編隊が大挙して爆撃、「ほとんど一人残さず殲滅した」。また南寧市上林、遷江で弾薬食料を運搬中のトラック約50台を爆砕、さらに重要道路の橋梁などを破壊。

*同日:内モンゴルの五原北方の万和長の拠点を爆撃、その後地上部隊が万和長を占拠。

*同日:地上部隊に協力して内モンゴル五原南方の敬生郷や土城から退却中の密集部隊を急降下爆撃し「その大部を殲滅した」。

*同日:36機が雲南省文山州西疇県、馬関県一帯を爆撃し、死傷者200人以上を出した。

*同日:広西省南寧市遷江の軍事拠点を爆撃、「これをほとんど壊滅」。

*同日:海南島における「共匪」(共産党ゲリラ隊)に対する掃討作戦に協力し、後水、儋(だん)県を爆撃。

*2月3日:桂南(桂州と南寧)間の遷江を爆撃したが、中国空軍に1機撃墜された。

*同日:広西省雷平を約30機で襲撃したが、2機撃墜され、飛行士5名を捕虜とされた。

*同日:雲南省の滇越鉄道の鉄橋、線路を爆撃し、「甚大な損害を与えた」。

*同日:内モンゴルの臨河・百川堡で五原から退却する部隊を爆撃。

*2月4日:地上部隊が五原を陥落させたのち、中国軍部隊が後退して拠点とする百川堡を爆撃。

*2月5日:陝西省楡林市北府谷県を12機で襲撃し、爆弾40数発を投下した。

*2月6日:午前10時、日本軍機9機が陝西省楡林市県府谷県城関を爆撃、爆弾60発を投下し、5人を爆死、10人を重軽傷、民家50軒を破壊した。

*2月7日:爆撃機10機が楡林市府谷県哈拉寨を爆撃、70発の爆弾を投下し、爆死7人、爆傷11人、民家170棟以上が破壊された。 

*2月8日:江西省玉山、浙江省衢(く)州、麗水の各飛行場の滑走路、軍事施設に「巨弾を浴びせ」、さらに浙贛沿線の玉山、衢州両停車場(駅)を爆破。

*2月9日:湖北省の大别山南麓で紅安県七里坪鎮壇樹崗に居留する中国軍部隊1500人に「巨弾を浴びせ、さらに低空飛行で過半数を死傷せしめた」。

*同日:江西省吉安飛行場、軍事施設を爆撃、また贛州の贛江岸の倉庫群を爆撃。

*同日:浙江省麗水西北の倉庫約30棟、さらに南東の倉庫群に「巨弾を浴びせ」、爆破もしくは炎上させた。

(前年12月以来の二ヶ月間、広西省南寧における攻防戦で海軍航空隊は陸軍に協力、水上機や急降下爆撃機、渡洋爆撃も含めて延べ出撃数は1500機に及んだ)

*2月10日:浙江省の諸曁飛行場および付属軍事施設などを爆撃、一部に1時間にわたる火災を生じさせ、また同省東部の渓口の倉庫群を爆撃、2棟を粉砕した。

*同日:(上記日本側の記録「渓口」と一致する)9機が再び浙江省寧波市奉化の渓口を爆撃し、48個の爆弾を投下し、家屋60間を壊し、47人が死亡、それ以上の負傷者を出した。この後も日本機は渓口で、11回爆撃し、100人以上が死亡した。 

*2月11日:河南省許昌市禹県を爆撃、7機が城壁の上空で全部で10発余りの爆弾を乱投下した。長春観後街に1発、白家口から常家楼までを4発、角坊と金胡同街に1発ずつ、他にも公桟街、書院裏街などを爆撃、この爆撃で50数人の死傷者が出た。

△ 2月11日、日本で皇紀2600年を祝賀。ちなみに零式戦闘機(零戦)が7月に採用されるが、この最後のゼロにちなんだものであり、九六式とは皇紀2596年式のことである。

▽ 2月11日、中国軍の一部が安徽省合肥市の日本軍を攻略し、800人余り殺傷した。安徽省淮南の偽軍(日本軍の傭兵)の王古林が1000人余りの部隊を率いて反乱した。

*2月13日:またも雲南省滇越鉄道を爆撃し、鉄橋と鉄路を破壊、空中戦で1機を撃墜した。

*2月14日:続けて滇(てん)越鉄道の重要拠点数箇所を爆撃。

*2月15日:浙江省杭州市蕭山の銭塘江付近の攻防戦に協力、中国軍の「頭上に巨弾の雨を降らせる」。

*2月16日:雲南省蒙自市芷村に「大爆撃を敢行、多大の損害を与えた」。

*同日:雲南省の滇越鉄道を爆撃。

*2月16−17日:内モンゴル・バヤンノール市の臨河の国民党軍陣地に毒ガス弾が投下された。

*2月17日:夜、日本軍が軍用船三隻に分乗して山東省威海市栄成の石島湾に侵入し、翌日午前九時、飛行機の爆撃援護を受けて上陸した。上陸後四日間で栄成全域を占領した。統計によると占領後5年間(つまり日本の敗戦まで)で、住民1313人が虐殺され、重軽傷496人, 強制労働8782人、食糧676万斤、現金6829万元、黄金46斤、白銀1049斤、大家畜23023頭、食塩1070万担、焼失家屋12408戸、その他数えきれない。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

*同日:陸軍の侵攻作戦に協力し浙江省紹興市諸曁をはじめ各地を空襲し爆弾の雨を降らせた。

*同日:雲南省にある滇越鉄道を爆撃、「甚大な損害を与えた」。

*2月18日:連続で滇越鉄道を攻撃、また蒙自付近の艦橋や鉄路、トンネルを爆撃、「極めて有効なる爆撃を実施」。

*同日:午後2時、安徽省宣城市寧国に5機が飛来、港町一帯に爆弾6発投下。民家7棟損壊、死者10人、負傷者5人。

*2月19日:(旧正月)日本軍は湖北省荊門市鍾祥県の襄東を占領した後、石牌及び肖家堤、岳家堤一帯を頻繁に砲撃と航空機で爆撃した。二度の爆撃で住民40数名が爆死し、10数名が負傷し、人の血肉や腸などが樹上、軒のいたるところにあり、見るも無残な姿であった。

*同日:浙江省杭州市浦陽江東岸にあるトーチカ陣地に対し、陸軍に呼応して爆撃。

*2月20日:7機が安徽省宣城市寧国県を急襲し、死者20余人、負傷者10余人、店舗40余間を破壊した。別途、午前9時と午後3時に7機が同市涇県城を爆撃、家屋30余間を爆破、軍民15人が死亡、負傷33人。さらに午前10時、4機が同市郎渓県城を爆撃、東南門で10数発を落とし、36人の死傷者を出した。

*2月某日:老河口を爆撃し、千年の古寺宝林寺が廃墟と化した。

*2月21日:9機が広東省仏山市三水区芦苞を朝から晩まで連続爆撃。爆弾六、七百個を投弾、町は火の海に包まれた。この日は商店130軒以上を爆破し200人以上が爆死、数百人が負傷。船民の黄居一家七人と船に避難していた仲間40人余は全員死亡。桄椰子の下に隠れて爆死した者は6、70人だった。

*2月22日:約50機が広西省柳州の中国軍陣営のある羊角山を2回に渡って爆撃、「敵軍司令部に直撃弾の雨を降らせ木っ端微塵に粉砕、壊滅的打撃を与えた」。そのうちの一弾は防空壕の右方の山の頂上で被弾し、衛士12人を負傷させた。

*同日:安徽省蕪湖市繁昌の中国軍陣地に進撃中の陸軍を支援爆撃。その後繁昌を占領。

*2月23日:浙江省寧波市余姚を爆撃、城東邵家渡で客船が爆破され、死者25人、負傷者40人。

*同日:7機が浙江省建徳県城(現梅城鎮)と城郊外に26発の爆弾を投下、80軒の民家を爆破し、死者12人、負傷者8人。

*同日:江蘇省常州市東坡鎮と南渡鎮の中国軍陣地に地上軍の砲撃に呼応して爆撃。その後南渡鎮を占領。

*同日:広西省南寧市西南方向の山墟と同省崑崙に集結する中国軍部隊を爆撃。

*2月23−24日:河北省邯鄲市大名の八路軍への陸軍の攻撃に協力し爆撃。

*2月24日:江蘇省溧陽の中国軍約3万の守備部隊の攻撃に協力爆撃。その後溧陽城を占領。

*2月25日:江西省北東の浙贛沿線の偵察爆撃を行い、午前と午後、鷹潭市の鷹潭・貴渓の両駅に「巨弾を浴びせ貨車20余輌を転覆せしめ」軍需倉庫群数ヶ所を炎上させ、貴渓駅を灰燼に帰した。貴渓での死者84人、破壊された家屋は690棟余り(つまり駅近辺だけではなかった)。

*同日:2機が安徽省宣城市郎渓県梅渚を爆破し、死者3人、負傷者11人、民家15棟を破壊した。翌日から27日にかけて、続けて県城や湯橋などを爆撃。

*同日:安徽省池州市香口鎮、九江市彭澤(ほうたく)付近の中国軍部隊を爆撃。

*2月26−27日:河北省滄州市河間地区の八路軍への陸軍の攻撃に協力し爆撃。

*2月28日:日本機3機が浙江省建徳県城区に爆弾15個を投下、民家31軒を爆破、爆死15人、爆傷49人。

【日本軍占領地区の犠牲者】

*同日:広東省仏山市三水区芦苞対岸の村頭村を爆撃し、機銃を乱射し、30人余りが惨殺された。日本軍は2月22日に芦莟を占領した後、すべて重要な場所に見張りを設置し、砲塁を築き、禁止区域を定め、罪のない良民を濫殺し、恐怖の支配を実行した。当時、北江の水路は封鎖の列に入っており、西河に避難していた東岸の村民は、夜になって密かに川を渡り、村に食糧を運び入れていた。しかし、往々にして、江辺の敵に発見されて銃殺された。あるとき日本軍は70余人を捕らえ、手足を針金で縛ってことごとく入江に投げ入れて殺した。芦苞付近の村民は町に品物を買いに行くと、しばしば立ち入り禁止区域に迷い込み、その場で日本軍の哨兵に殺害された。さらに残忍なことに、日本軍は捕らえた住民を芦莟の外の干潟に引っ張り出して杭に縛って刺殺練習を行った。1941年夏、漁船100隻近くを浮橋で封鎖し、船民300人余りを餓死させた。1942年夏には、他所から強奪したものも含めて千隻以上の漁船に大量の物資を運搬させ、戦艦で曳航させたが狭い水門を強制的に通過させた結果200隻以上が沈められ、約千人が溺死した。人々はこれを「東海口の惨事」と呼んだ。戦後の1951年に芦莟民工が水利工事をした際、干布池で13体の遺体を掘り出した。調査によると、抗戦期間中に芦莟は爆死500人余り、被殺2千人余り、行方不明(おそらく拉致)600人余り、飢餓と疾病による死亡は統計がない。こうして芦苞は廃墟となった。

*2月:このほか山西省臨汾市大寧・蒲県・永和、浙江省杭州市臨安、金華市蘭溪、山東省濰坊市王家庄、烟台市劉家顔楼・三界首、安徽省蕪湖市南陵、宣城市広徳、亳州市新河庄、内モンゴル蕃壩、恵徳成などを爆撃している。

【遺棄死体と爆死者と占領犠牲者】

 この2月だけの中国における戦闘で、日本軍が確認した中国軍遺棄死体は6万5150、捕虜は5057とされている(12月の遺棄死体は9万としている)。1937年7月の日中戦争開始からここまで2年と8ヶ月経ち、仮に中国側の死者が1ヶ月5万人平均として、すでに160万人が戦争の犠牲になっていることになる。そしてこれに中国市民の犠牲者が足されなければならないが、空爆の犠牲者などは遺棄死体には入っていず、またこれまでにいくつも例を挙げているように、日本軍は各地へ侵略するごとに住民を虐殺しているから、その犠牲者は合わせると兵士の死亡数に匹敵するかそれ以上とみてよいだろう。

3月

*1940年3月1日:日機は江蘇省揚州市宝応の射陽鎮と曹甸李溝を爆撃し、住民100人以上を死傷させた。

 この後4月1−2日、日本軍は宝応の小瓦甸、夷家溝を含む11の村で49人を虐殺し、民家1366軒を焼払った。さらに7月14日、日本の傀儡軍500人余りが直港を包囲討伐し、花亭蕩一帯で国民政府の医療支援員35人、民間人4人を焼殺し、民家1000軒を焼き払った。およその集計によると、 日本軍は占領中に宝応県内で 、曹甸区2800軒、氾水区4552軒、望直港1200余軒、石塘区3000余軒を含 む1万1632軒の民家を焼いた。張橋、曹甸、王営、射陽、芦村などの村を焼討し、住民2606人を殺害、9563人を拉致し(拉致の目的は既述のように当時の日本の植民地である満州などの鉱山や工場の労働力として送ったとされ、その多くが行方不明、生死不明となった)、1395人が負傷し た。こうした虐殺により6345人が孤児となり、4695人が流浪の民となった。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

*3月3日:広東省澄海市樟林一帯の軍陣地を爆撃。

*3月4−13日:日本軍は前年2月に海南島を占領していたが、各地でゲリラ隊=匪賊の攻撃が止まず、この日より陸海軍が協力して、未占領の地区を含めて掃討作戦を開始する。それに対して特に海軍飛行隊が協力、ほぼ毎日各所に爆撃を加えた。

*3月7日:地上部隊の侵攻に合わせ、海南島儋(だん)州市雅星を爆撃、さらに東方に敗走する部隊を追撃。

*同日:広東省汕頭市桑埔山・登岡・下埔山、陽江市沙渓頭の陣地を爆撃、さらに6、700人の部隊を「一挙に殲滅」。

*3月7−8日:地上部隊の広東省潮州市彩塘その他への攻撃を援助爆撃。

*3月8日:広東省潮汕(現・潮州)北方山地白水を爆撃。

*同日:浙江省麗水に夜間、18機が8個の照明弾を投入した後、飛行場一帯に大量の爆弾を投下した。崔公寺の刑務所が爆破され、数十人の囚人が爆死、わずかに一人の囚人が脱出後戻ってきたが、刑務所の警備員は、他の囚人がすべて死んだのを見て、囚人の足枷を解いた。

*同日:数機が海南島儋州市雅星への攻撃に協力し爆撃。

【米国の中国への医療支援】

◎ 3月8日、ルーズベルト米大統領は新聞界に談話を発表し、米国医薬援助委員会が55万ドルの寄付金を受け取り、すべての医薬品を中国に寄付すると述べた。9日、蒋介石はルーズベルト大統領に電話し、心から感謝の意を表した。

*3月9日:汕頭市北洋付近で各500の敵部隊を爆撃。

*同日:広東省揭陽市の揭陽江で各数百の兵士を乗せた軍用船4隻を銃爆撃、完全に沈没させた。

*3月9−10日:広東省潮汕の掃討作戦に協力して爆撃。

*3月10日:安徽省黄山市太平(現・黄山区)を午前と午後の二度猛爆撃。

*3月11日:9機が江西省の浮梁を襲撃、日本機は一機撃墜され飛行士3人死亡。

*同日:午前、4機が海南省白砂県城牙義鎮を爆撃し、全鎮が破壊された。琼中県境内の松涛、水上場、嶺門、新市、新朗、大山朗、嶺頭新舗、加釵、新村、大墩で、潮村、扜鎮村、均遭などを爆撃、多くの命と財産が奪われた。

*3月12日:浙贛線の要衝、江西省上饒市を襲撃、軍事倉庫や駅に停車中の貨車群を爆砕、「多大の損害を与えた」。

*同日: 山東省煙台市海陽北方を掃討中の陸軍部隊に協力爆撃。

*3月13日:安徽省廬州北方の敵陣地を爆撃。

△ 3月13日:海南島の母瑞を陥落させ、ほぼ全島を占領、10日間で中国軍遺棄死体1400余とある。

*3月14日:浙贛線の江西省鷹潭市貴渓鉄橋と付近の鉄路を二時間にわたり猛爆撃し、「甚大な損害を与えた」。

*同日:安徽省廬州(現・合肥市)に「蠢動する」中国軍二師団を猛爆。

*3月15日:山東省煙台市海陽北方を掃討中の陸軍に協力し、中国軍部隊を反復爆撃、「壊滅的打撃を与えた」。

*同日:26機が甘粛省平涼県、涇川県を空襲し、74発の爆弾を投下、6人が死亡、2人が負傷、家屋2棟を爆破。

*3月16日:広西省欽州東北部を退却中の中国軍約二千が退路を包囲遮断され、そこに飛行隊が追加爆撃。

*3月19−20日:海南島南西部のほぼ最後の拠点楽安市を連日爆撃し、海軍陸戦隊が占領。

*3月20日:広西省霊山東北部楽民圩付近を潰走中の中国軍部隊また陣地、兵営等を九州爆撃。

*3月某日:安徽省合肥市への侵攻作戦上で、3機の航空機が援護、梁園鎮を中心に血生臭い「掃討」を行った。この日、日本軍は家屋数百間を焼き、100人以上の死傷者を出し、無数の金品を奪った。

*3月21日:広西省鬱江河岸の要衝貴県を急襲、渡河点両岸にある船艇、大型民船等およそ300隻を爆撃、そのほとんどを撃沈あるいは炎上させ、さらに貴県城内に「巨弾を投じ」損害を与えた。

*3月23日:広西省貴県を急襲、城外の渡河点付近両岸にある発動機船、大型民船等およそ300隻を爆撃、発動機船10隻を撃沈させ、重油満載の民船団を炎上させ、その他も爆砕、さらに貴県城内の兵営に「巨弾を投じた」。

*3月24日:6機が安徽省宣城市郎渓天主堂を爆撃し、50人余りが死傷した。

*3月24、25日:安徽省池州市香口鎮南方の山岳地帯における殲滅作戦で陸海機共同で爆撃、10数kmにわたって「残敵を追撃掃蕩した」。

*同日: 湖北省老河口で午前9時20分、緊急警報発令、10分後敵の17機が二隊に分かれ襄樊から太平店を経由して市内に侵入、数十弾を投下し、市街の各地が爆破され炎上し死傷者約50名、家屋100棟余りの他に民間船5隻も爆沈し、4人が溺死した。 

*3月25日:四川省梁山(現・重慶梁平区)城内の県立女子中学(桂香書院)などを爆撃。

*同日:広西省崇左市龍州の鬱江両岸に山積されたガソリンのドラム缶約500本を爆撃、たちまち炎上、川面は火の河と化し、さらに江上の運搬用民間船約50隻を撃沈、その他数ヶ所の弾薬庫などを爆砕、「多大の戦果を収めた」。(この二年後あたりから日本軍にはガソリンが枯渇してくるが、後からあれはもったいなかったと思ったのではなかろうか)

*3月26日:湖北省孝感市安陸の壩平鎮と雷公鎮で約二千の部隊を発見、「これに巨弾の雨を浴びせ殲滅的打撃を与えた」。また漢水の東岸の冀陽付近に集結中の約一千の敵兵に「痛撃を敢行、壊滅せしめた」。

*同日:陝西省渭南市白水の軽便鉄道を爆破、また隴海線上の物資集散地渭南市街を爆撃。

*3月27日:午後、13機が浙江省寧波市余姚の五車堰を爆撃、爆弾17発で家屋74軒を爆破、5人死亡。翌日も余姚の五東堪、臨山などを爆撃。

*3月27、28日:連日で浙江省紹興市上虞の百官、五車堰、小越、豊恵、五夫などを爆撃し、59人が死亡し、62人が重傷を負い、軽傷142人、家屋657室が破壊された。1938年からここまで上虞県の12の主要な鎮は20回爆撃され、爆弾80数個を投下され、その中の百官鎮の被害が最もひどかった。

*3月27、28日:内モンゴル五原奪還を目指してきた中国軍を爆撃し、潰走させた。

*3月28日以降数日:日本軍は占領した南昌の飛行場から江西省上饒市鄱陽(波陽)への爆撃、機銃掃射が頻発し、ほとんど毎日石門街、漳田渡、謝家灘、香爐山、黄家弄、田販街などの街と農村を狂ったように攻撃した。

*3月29日:陝西省咸陽の「市内中枢部」および師団所在地付近を空襲、数十弾を投下し「粉砕した」。

*3月30日:数十機で江西省玉山飛行場、別途同省吉安飛行場と付属施設を反復爆撃。

*同日:18機が福建省厦門の大嶝島を爆撃、このうち3機が小嶝島を爆撃し、村民の李好、邱網秀母子、王套母娘、張売の計6人が死亡、4人が負傷、民家35軒が崩壊した。大嶝島の陽塘村では9機が爆撃、村民の張宗妙の建物に9発の銃弾が撃ち込まれ、張天晟の妻の鄭立と息子、娘の3人と安盆、蔡娥夫妻の計5人が同時に死亡し、家屋が10軒以上倒壊した。田埋村は3機に爆撃され、5人の村民と大嶝島に駐屯していた塩兵の河仔(福州人)ら6人が死亡、11軒の民家が廃墟となった。別の3機は双滬、睨崎を爆撃し、村民の2人が死亡し、2人が負傷した。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*同日:陝西省咸陽市外軍事施設、および咸陽−西安間の鉄橋を「完膚なきまでに爆砕」。

*3月31日:十数機が南昌の南方地区に潜む「敵部隊を攻略、壊滅せしめた」。

〇 この三月中の陸軍の「戦果」は、中国軍遺棄死体2万9087、捕虜3411、そして各種銃砲のほか、馬439匹、南支(華南)だけで米378万斤、塩400石、砂糖4万斤が戦利品とされていて、さぞ中国庶民たちは生活に困ったことであろう。本来、この中国攻略戦においては日本からの食料補給は最初から計画されていず、「現地調達」の方針であったから悲劇が増幅された。

4月

*1940年4月1日:江西省新余市分宜、別途玉山飛行場を爆撃。

*同日:四川省梁山県(現・重慶梁平区)を9機が襲撃、爆弾73発を投下、4人死亡、1人負傷、飛行場の格納庫二棟を爆破。

*4月2日:陜西省延安に12機が襲来、爆弾52個投下、洞窟住居4軒破壊。別途、共産軍の本拠地とされる同市洛川を爆撃、総監部他の「軍事施設を木っ端微塵に爆砕」。これを合わせてかどうか、延べ43機の航空機が来襲、52発の爆弾が投下されたとの記述もある。

*4月3日:陝西省の「赤都」西安を急襲、軍事施設を完膚なきまでに「粉砕」。(中国側の記録では、20機が西安を爆撃し、家屋50棟余りを破壊し、住民10人余りを死傷させた、とある)

 この爆撃に同乗した特派員の記事である。—— 「かくて約一時間にわたり赤都西安を隈なく爆破、… 地上の敵の機関銃を尻目にかけ、直ちに編隊形に移り悠々西安上空を旋回、廃墟のように破壊された赤都西安に最後の決別を告げ、華山山脈を眺め、たくましい銀翼を輝かしながら全機悠々〇〇基地に帰還した」。この記者も地上で起こったであろう惨劇を想像すらしていない。

▽ 4月3日、ソ連空軍志願隊は中国空軍に協力し、23機で湖南省岳陽の日本軍を爆撃し、洞庭湖の軍艦1隻を爆撃した。別途、山西運城を襲撃し、日機30機を損傷させた。これに対し日本側の記録は、岳陽では「爆弾7発が畑地に落ち、住民4人死亡、8人負傷」とあり、運城では「民家数戸を破壊、土民(?)死者2、負傷4」とあって、自分たちが被害の場合のみ「盲爆」として死者数を数え上げいるのがおかしい。

*4月4日:午前、江西省の浙贛沿線の金華市を襲撃、市内外の軍事施設を爆撃。

【爆撃機に同乗した新聞特派員の記事】

 やはりこの爆撃機に同乗した新聞特派員の報告である。

 —— 「午後二時半離陸。〇〇部隊長の搭乗機を先頭に堂々の銀翼陣を張って一路南へ、霞たなびく春空に機影を浮かべたわが荒鷲隊は一大編成群で空の勇士達の面上に一入旺盛な闘志がひらめいている。やがて眼下の山々にぱっぱっと紫の煙が上がる、日機襲来の狼煙だ。目指す上饒の空に達すると指揮官機からの命令で各機とも巨弾を次々と落とす。胸のすくような連続投下だ。続いて新中国の春を告げるビラの雨が降る。地上にもくもくと黒煙が上がった。黒煙が数百ヶ所から一斉に上がるのだ。全弾みごと命中、兵営や抗日機関や敵陣地がすっかり黒煙に包まれてしまった。かくて凱歌も高く翼を返して黄昏〇〇基地に全機無事に帰った」。

 これによる地上の惨劇は知る由もない彼らであり、この四年半後に自分たち日本が米軍による爆撃で悲劇に見舞われるとは思ってもいなかったであろう。実際に米軍はこの日本の中国に対する無差別爆撃を見て、同じことを日本にすることを企図したのである。

*同日:午後、江西省上饒市広信を二度爆撃し、駅や市内外の「軍事施設に爆弾の雨を降らせ」、「甚大なる損害を与えた」。この日本側の記録に対する中国側の記録である。

 ——「4月4日午前、20機が上饒市(広信)皂(そう)頭鎮を爆撃し、皂頭小学校校長一家3人が爆死した。同日午後、36機が三隊に分かれて順番に皂頭を爆撃し、数十発を投下、100人余りの死傷者を出した」。

*同日:連日で浙江省金華市を爆撃。

*同日:27機が仏印(ベトナム地区)より貴州に至る輸送ルートにある広西省百色市平馬の渡船岸を集中爆撃、汽船一隻・ジャンク船数十隻・自動車群・燃料庫などを炎上させ「壊滅」、滇(てん)越鉄道(ベトナム・ハノイと雲南省の昆明を結ぶ)への打撃と合わせて中国軍の物資輸送を困難にした。

*4月5日:大編隊で江西省浙贛線上の鷹潭(ようたん)市を襲い、駅、機関庫および二ヶ所の軍需品集積所に「大爆撃を加えた」。

*同日:山東省莒(きょ)県の「共産匪討伐」に向かう地上部隊に協力して爆撃。

〇ちなみに共産匪の「匪」とは匪賊のことで「集団をなして掠奪・暴行などを行う賊徒」の意味であり、侵略側の日本軍に対して(当然のことながら)抵抗して反撃する中国人兵士を指し、この他日本軍は、「敵匪」や「共匪」、「匪軍」、「賊軍」、「討伐・討匪」という言葉を敗戦まで好きに使っているが、客観的には侵略側の身勝手で傲慢な精神状態にあったと言える。これは自分たちを絶対正義の「皇軍」として名乗ることからも来ている。

*4月5−7日:江西省上饒市の広信とその周辺を連続爆撃。

*4月6日:午前10時頃、江西省南昌市進賢県羅渓鎮でちょうど市場取引のピーク時、4機が羅渓上空に侵入し激しい爆撃と機銃掃射を行った。午前十時から午後七時までに数十回往復し爆弾29発が投下された。即死100人余り、爆傷100人余り。羅渓湖の百余艘の船は、機銃掃射を受けながら半日も漂流し、死体となって収容されなかった者もいた。空襲に続いて、日軍は水陸両道から来襲し、残酷な焼討ちと破壊を行なった。

*同日:河南省鄭州を急襲、隴海線の司令部や軍事施設を爆撃。

*4月6日:海南省儋(たん)県新隆村はこの年に前後して、大砲で2回攻撃され、飛行機で2回爆撃され、日本軍に2回侵入されて住民が焼き殺された。合わせて村民119人が殺され、家屋72軒を焼かれ、耕牛78頭が奪われた。

*同日:河南省鄭州を連続爆撃。

*4月7日:河南省周家口を爆撃。

*4月7−8日:連日で浙江省衢(く)県東方を爆撃、烏渓の300mの鉄橋に「巨弾の雨を降らせ完全に破壊」、また浙贛線のまだ破壊していない金華、玉山、広信、衢州の線路、駅、軍需倉庫、陣地などを「ことごとく爆弾の餌食」とし、ほぼ浙贛線全域を「全身不随」に陥れた。

*4月8日:江西省南昌方面の地上部隊に協力、三次にわたり出動し、江西省上饒市広信、九江市九仙陽、宜春市高安・同安の高等司令部などを爆撃。

*同日:河北省唐山市陳荘、石家荘市慈峪鎮を爆撃。

*同日:河南省の古都洛陽を急襲、司令部や軍事施設を爆撃、8ヶ所に大火災を起こし、午後には鄭州を襲い、兵舎等を爆撃。

*4月9日:連日で河南省洛陽および鄭州の司令部建物、兵営などを爆撃、ここまで三度の爆撃により「敵の軍事施設をほとんど爆砕した」。

*同日:2機が福建省厦門の大嶝島と小嶝島を爆撃、村民10人以上が死亡、民家20軒が破壊された。

*4月10日:2機が安徽省宣城市郎渓定埠を爆撃し、爆死8人、負傷9人。

*4月11日:広西省桂林飛行場を急襲、付近山麓の軍事施設、軍需品を「木っ端微塵に壊滅」、さらに山蔭に秘匿してあった大型飛行機二機を「粉砕」。

*同日:広西省南寧市武鳴北方の旧思恩城付近、また南の国境に近い百色市靖西・恩隆を「猛爆」。

*4月12日:湖南省芷江飛行場を「大編隊をもって」爆撃、滑走路、付属施設を集中爆撃し、「甚大なる損害を与えた」。

*同日:仏印(フランス領インドシナ地区)との輸送ルートにある広西省百色市靖西・天保・平馬を爆撃、ガソリンを積載する船舶150隻、軍需品を満載する10数台を爆砕、炎上させた。

【中国機の盲爆】

▽ 同日:午後、湖南省岳陽市岳州(日本軍が占領)上空に16機編隊の中国軍爆撃機が高度7千mで飛来したが、迎撃して2機を撃墜した。さらに中国機は市街から離れた駅附近に約5、60個の爆弾を落として逃げ去ったが、「この盲爆で付近の農夫3名即死、5名負傷」と日本側の記録にある。(日本軍の管理下にある被害に関してはこのように中国機の「無差別」をあばきたてようとしているが、これまでどれだけ自分たちが「盲爆」してきたか、その自覚はない)

*4月13日:江西省撫州市臨川と張王廟の各司令部を爆撃。

*4月15日:安徽省宣城市郎渓県城を爆撃。商店の多くが破壊された。

*同日:河南省三門峡市東虎嶺、内モンゴルの五原を爆撃。

*同日:江西省九江市修水を爆撃。

*4月15、16日:浙江省衢州を2度爆撃、住民14人が死亡、17人が負傷、家屋28軒が破壊された。

*4月16日:山西省中條山脈に拠る中国軍を爆撃、また五原および西北の部落の集団を爆撃。

*同日:仏印との国境付近、広西省の百色市靖西・恩隆で(重慶への)軍需品輸送中のトラック250台に爆撃を加え、うち22台を炎上させ、30台を大破、また輸送中のガソリン約250缶を残らず炎上させたほか自動車群、倉庫三棟を破壊。

*同日:前日夜半から未明にかけて三次に分けて大挙出動し、浙江省麗水飛行場を二度、江西省上饒市広信の駅構内の貨車群を爆破災焼させ、同市玉山駅の機関車庫や石炭倉庫、さらに吉安の飛行場と前線基地を爆撃。

*同日:午前10時頃、江西省南昌市進賢県羅渓街でちょうど市場取引のピーク時間、日本の4機が羅渓の上空に侵入、その後47機で午後7時まで爆撃し、100人以上が死亡、100人以上が負傷、市に集まっていた100隻以上の民間船も機銃掃射で破壊された。(『侵華日軍暴行総録』)

*4月17日:早朝から山西省運城市平陸、その東方の大臣村・趙村・馬村を中心とした中国軍陣地、砲兵陣地、平陸下流の渡河点に待機中の大型渡船22隻を「木っ端微塵に粉砕」、その退路を塞ぎ、午後にも同地区をくまなく爆撃し「殲滅的大打撃を与え」、およそ12時間にわたって地上部隊の侵攻を支援、翌18日、平陸を占領した。

*同日:河南省南陽市に朝7時過ぎに警報が鳴り、午前10時すぎ、日本機は唐河県城上空を旋回し、午後、32機の飛行機が東南から唐河県城に飛来、南閣外、河道、邢家窯、南泉から北泉、竹林寺一帯、城内大寺付近を爆撃、重爆弾百数発を投下して、七百数十戸の家屋のを破壊、焼却した。死傷者はその数を知らず、腕が欠け足が切断されて、見るに堪えない状態だった。城関甘口口(現県民病院の後ろ)の楊という一家7人のうち6人が爆死、8歳の女の子だけが残った。このような例は枚挙にいとまがない。

*同日:地上部隊と協力し、山西省潞安、同浦線(大同から太原を経て南へ続く)の各地を爆撃。

*4月18日:陸軍の侵攻を支援し、20機が山西省臨汾市の翼城県官門村を爆撃。この時、催涙ガス弾も投下された。

*同日:山西省の連枝山脈の中国軍拠点を急襲爆撃。

*4月20日:12機が陝西省延安を爆撃し、52発の爆弾を投下、洞穴4孔、住居6間を爆破し、馬1頭を爆死させた。

*同日:山西省平陸県の瀧底村と毛家山に拠る「敵大部隊を猛爆撃を加え多大の戦果を収めた」。

*同日:山西省大行山系の沁水における陸軍の侵攻を支援爆撃、翌日占領した。

【米国の日米戦の可能性予告と準備】

◎ 1940年4月22日:米国海軍少将ジョセフ・タウシツグは海軍委員会で「日本はその独特の方針に従って支那(中国)を征服したのちはフィリピン、仏領インドシナ、蘭印(オランダ領インドネシア)に手をのばすのは必然である。これはやがて米国と日本の戦争をもたらすであろうが、米国としてはますます海軍を増強しグアム島の防御を固め、大商船隊を建造して英仏と協力し東亜の現状維持に努め、もって日本に挑戦の機会を与えないことが何よりも重要なことだ」と述べた(1940年4月24日:東京日日[毎日]新聞)。これはまさにその通りとなったが(ただし仏国はこの後ナチスドイツに占領され、日本軍の侵攻に抵抗できなかった)、この時点では米国メディアも政治問題に関与する発言と批判し、米国高官も全く個人の発言としてその可能性を否定した。

*4月某日:河南省南陽市桐柏に15機が来襲、県城の女性学校の校舎百房、民家六百軒を爆破して、小学校の教師十数人、小学生40人余り、町民150人余りを爆殺した。

*4月某日:湖南省長沙市瀏陽市張坊、内モンゴル自治区の五原を夜間爆撃。

*4月某日:日本機の一群が湖北省黄岡市黄安県の両道橋から檀樹岡一帯を掃射爆撃し、家屋400軒余りを爆破。

*4月22日:四川省宜賓市叙州飛行場を27機が三次に分かれ夜間爆撃、飛行場の七ヵ所と城内一ヶ所に5百発の爆弾を投下。

*同日:四川省梁山、長寿、江津、南充を爆撃。 梁山(現・重慶梁平区)では26機が襲来、100発の爆弾を県城と空港に投下し10人が爆死、30人が爆傷を負い、民家100棟を爆破した。

*同日:浙江省寧波市余姚の丈亭江に爆弾を投下、小型の汽船2隻を破壊し、多数の死傷者を出した。

*同日:午前9時、2機が安徽省宣城市郎渓県梅渚を爆撃、6発を投下し、11人が爆死、3人が負傷、家屋40数軒が爆破された。

*同日:広西省鬱江、貴県を爆撃。

*4月24日:湖南省岳陽南方、洞庭湖の鹿角、九馬嘴における攻防戦に海軍機が支援爆撃、艦砲射撃も合わせて敵軍を撃退した。

*同日:山東省方面の地上部隊の作戦に協力、江南戦線(長江南岸の安徽・江蘇両省境付近)の戦闘にも協力、根拠地を銃爆撃した。

*同日:32機が四川省を夜間爆撃、そのうち16機が深夜1時35分に重慶市の駅に突入し、40発の爆弾が投下され、民家67軒が破壊され、4人が死亡、1人が負傷した。

*同日:江西省鷹潭市貴渓城内を爆撃、家屋108棟が破壊された

*同日:山西省晋城市沢州の中国軍前進陣地を爆撃。

【住民4万1000人以上を殺戮】

 この晋城について中国側の記録である。——「24日、日本軍は二個師団で南北から4度目の晋城侵犯を行った。飛行機や大砲で県城や道路沿いの村を激しく爆撃し、多数の罪のない住民を爆殺、大量の家屋を破壊した。日本軍はこの4度目の晋城占領の間、20回以上の大規模な掃討を行い、罪のない民衆2万1500人以上を殺害、3万8000以上の家を焼き払った。家畜3万7000頭以上を屠殺し、食糧150トンを奪い、鉄板1200トン以上を略奪した。ここまで4回にわたる晋城侵犯において、日本軍は合わせて家屋7万8000棟以上を焼き払い、罪のない住民4万1000人以上を殺戮、大型の家畜5万7500頭を屠殺、無数の財物を略奪した」(『侵華日軍暴行総録』)。日本軍の都市や町村への侵略は二通りあって、晋城のように「必要に応じて」行う場合と、一度占拠すると守備隊を残して最後まで支配していく場合である。

*4月24−25日:32機が三回にわたり四川省重慶付近、遂寧市の城内を夜襲、さらに午前1時35分から偵察機1機が照明弾を落とし、重爆撃機27機が重慶白市駅飛行場を連続して爆撃、爆弾40発を投下し、民家は67戸破壊され、4人が死亡し、1人が負傷した。あるいは公営住宅23棟、民家105棟を爆破、市民78人が死亡、207人が負傷ともあり、一連の被害のことかもしれない。

*4月25日:広西省崇左市龍州を襲撃、鬱江両岸に山積されたガソリン缶の山を爆撃、大炎上させ、また江上の大型輸送船約50隻を次々に撃沈、次に市内外の弾薬庫とおぼしき倉庫などを爆砕、「多大の戦果を収めた」。

*同日:広西省柳州付近の軍需基地を爆撃。

*同日昼、2機が安徽省宣城市涇県城を爆撃、県府の周囲に6発の爆弾を投下、民家4軒を破壊、また城南に焼夷弾5発を投下し茅屋31戸を破壊、7人が死亡した。

*4月26日:陝西省渭南市白水県の橋梁を爆破。

*同日:湖北省孝感市安陸西方の陣地を急襲、また同省荊門市の沙洋鎮の拠点を爆撃、別途河南省洛陽を爆撃。

*同日:26機が重慶近郊梁山(現・梁平区)を爆撃、飛行場を含め、約100発を投下、10人死亡、30人負傷、家屋100軒余が破壊。

*同日:福建省漳州市南靖県城を2機が爆撃、爆弾を2発投下したが建物の被害のほかは死傷者なし。

*同日:雲南省にある滇越線(昆明市とベトナムハノイを結ぶ)を爆撃、また復旧しつつあった白寨鉄橋を爆砕した。

*同日:湖南省洞庭湖上にある海軍艦隊が湖岸の中国軍陣地と交戦し、そこに飛行隊が支援爆撃、低空での機銃掃射も加え、「殲滅的打撃を与えた」。

*4月27日:連続で雲南省の滇越線の蒙自と開遠間を爆撃。

*同日:河南省北部の済源で敗退する中国軍に「猛爆を浴びせ、退路を遮断した」。

*同日:湖南省洞庭湖の鹿角南方の湖岸の陣地を艦隊とともに銃爆撃し、「完全に制圧」。

*同日:安徽省南部の池州市太平、石埭、甘裳緬を偵察爆撃、さらに陸軍に協力して南陵、繁昌を爆撃。

*同日:安徽省池州市青陽何家山の敵陣地を猛爆撃、さらにその東方龍頭山一帯の敵1500を低空で銃爆撃、「多大の損害を与えた」。また別の一隊が東辺山、胡脚山などの「敵陣を粉砕」、続いて青陽西南方向に潰走する敵兵に痛烈な爆撃を加え、別働隊が青陽南方の高地を敗走する敵兵千に対して「猛烈なる銃爆撃を敢行」。(翌日、青陽県と陵陽鎮を占領)

*4月28日:隴海線にある陜西省渭南の爆撃を手はじめにその後連日江西省基地吉安、玉山の両飛行場を徹底的に爆撃、さらに咸陽、耀州同官、南昌東南方並びに西南方の司令部、西安の軍事施設、折江省金華、江西省広信などの爆撃を敢行、「画期的成功を収めた」。

*同日:安徽省青陽、陵陽から潰走する敵兵を追撃する陸軍部隊に呼応して数カ所で襲撃、「多大の損害を与えた」。

*同日:日本機2機が浙江省上虞県恵豊鎮南街、学宮、新街口などを空襲、民間人80人余りが死亡、商店29軒、民家44棟を爆破した。

▽ 同日:山西省西南端の浦州方面より中国軍爆撃機8機が雲上西南の虞郷に侵入、城内に爆弾20個を投下、中国人死者6、負傷者25、家屋67戸が破壊され、自軍に被害なし。

*4月29日:陝西省咸陽市内の中枢部および師団付近に数十弾を投下、枢要部を「粉砕」。

*同日:湖北省荊門市鍾祥の胡家集襄河渡し場の浮橋を9機1隊、3機1組で交互に爆撃、船民と付近の村民300人を爆殺した。

▽ 同日:日本軍が占領する河南省信陽に中国軍機11機が現れ、郊外などを「盲爆」、ほぼ被害なし。

*4月30日:早朝、まず9機が重慶郊外の広陽覇飛行場を爆撃。次に18機が白市駅、さらに巫山などを襲い、投弾125発、死者77人、負傷113人。さらに残りの編隊が梁山(現・梁平)の飛行場と市街地を爆撃、爆弾69発で4人死亡、1人負傷。

*同日:江西省九江市修水を爆撃。

*同日:福建省漳州市平和県の山間の九峰鎮で人々が祝日の宴会をしていると日本機が飛来、てっきり偵察だけと思っていると轟音がして、孔廟の南街路に爆弾が落とされ一人が爆死。

*同日:安徽省池州市石埭付近の殲滅作戦に協力爆撃、「多大の戦果を挙げた」。

*同日:湖南省洞庭湖の鹿角の陣地に全艦船を挙げて一斉砲撃、それに合わせて背後の拠点を爆撃。

*同日:午後4時、8機が浙江省金華市羅埠、沢頭、潤琳に60発余の爆弾を投下、民間人24人を殺害、重傷12人、軽傷6人、民家200軒余りを破壊。

5月

△ 1940年5月1日から6月18日にかけて、日本軍は20万人の兵力を集結し、棗宜会戦を起こした。日本軍は湖北省棗陽と宜昌地区を中心に、大規模な攻勢を展開し、重慶を脅かす作戦を展開した。棗宜会戦は一ヶ月半にわたったが、中国軍は重大な損失を被った。

*1940年5月1日:24機が陝西省安康の五里飛行場と市街地を爆撃、180発以上の爆弾を投下し、民間人200人以上が死傷、家屋120棟以上が爆破された。 

*同日:交通の要衝、貴州省貴陽を爆撃、市街南西三ヶ所に約50台ずつ分散しているトラック群を攻撃、大火災を起こし、近くの火薬庫も大爆発、軍需品も壊滅させ、「絶大なる戦果を収めた」。

*5月1−6日:地上部隊の宜昌作戦に協力するため、占領した漢口飛行場から、広西省桂林市興安飛行場、陝西省の安康、河南省唐河県沘源、湖北省の襄陽と老河口、光化、河南省南陽市などを次々と爆撃した。

*5月2日:雲南省開遠県の阿迷付近の滇越線と拠点を大挙して空爆。

*同日:湖北省襄陽を爆撃、城内では100人以上が爆死、樊城の商業繁華街ではさらに多くの死傷者が出た。

▽ 同日:中国軍を支援するソ連空軍志願隊飛行機13機がそれぞれ湖北省鐘祥、山西省運城の日本軍飛行場を爆撃。

*5月3日:陸軍航空隊は河南省駐馬店市泌陽県沙子において中国軍約400人に対し爆撃と機銃掃射で「ほとんどこれを全滅せしめ」、また同市確山県西方の中国陣地の約一千の兵を「熾烈なる対空砲火を浴びながら通爆、大損害を与えた」。別途、河南省商丘市睢県小林店に駐屯する大部隊に「巨弾の雨を浴びせ潰走せしめた」。

*5月4日:河南省南陽市、唐河県沘源の軍事施設と司令部を猛爆、「木っ端微塵に粉砕した」。

 これに相応する中国側の記述は以下である。

 —— 日本軍第11軍司令官園部中将は、第3師団に「沘源(唐河県にある古い地名)一帯を急襲せよ」と命令、これに伴い午後、日本軍機32機は信南公路(信陽市と南陽市を結ぶ)に沿って唐河県城を襲撃、猛烈な爆撃を行い、100発以上の大型爆弾を投下した。西関の被害は最も重く、700棟以上の家屋が爆破され、100人以上が死亡、城西から約500mの曹墳岡村では、60人以上が死亡、100棟以上の家屋が破壊され、80頭以上の家畜が爆死した。城関の甘口嘴では楊一家7人全員が爆死。その日の夜、日本軍第3師団歩兵第6連隊は唐河県境に進駐、翌日、村の二つの洞窟に避難民が潜んでいるのを発見し10人以上を殺戮、計188人が死亡、384人が負傷し、多大な財物を損した。(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:日本軍の棗(そう)宜作戦に合わせて航空機33機を発動して湖北省襄陽市樊城・十堰市張湾一帯を爆撃、約1000人の死傷者のうち、樊城の死者220人、重軽傷者130人。

*5月5日:13機が浙江省金華市の羅店、山口馮などで爆弾130発を投下、民間人38人を爆殺し、80人を負傷、民家77軒を破壊した。

*同日:午前、湖北省襄陽市老河口の中国軍総司令部および密集部隊に「巨弾を浴びせ大打撃を与え」、午後にも同地区の拠点に蟠踞している部隊に猛爆を加え「片っ端から吹き飛ばした」。さらには老河口の光化城の軍拠点を爆撃、なおも沘源北方の源潭鎮の軍事施設を爆撃、「壊滅的打撃を与えた」とあり、いかにも軍拠点への爆撃のみのように書かれているが、中国側の記録では、「約60機が分かれて湖北省襄陽市光化県城と老河口を爆撃、光化県城には2つの大通りしかなく、爆撃を免れた完全な家屋は一つもなく、死傷者は60人余りであった」とある。

*同日:午後、一機が福建省漳州市平和県の九峰鎮上空を旋回した後、急降下して、雍畝小学校を含めて爆弾を三つ投下。建物数カ所が崩壊しただけで人命被害はなし。

*同日:河南省駐馬店の泌陽から南陽市の源潭に至る街道上の中国軍部隊を発見して「巨弾を浴びせ爆砕した」。

△ 5月5日、日本軍は約1万5千人の兵力を出動させ、河南省の抗日根拠地の濮陽市、南楽、清豊、滑県、内黄などの県を掃討、20余日にわたる掃討で、1477人が殺害され、129人が負傷し、258人が行方不明となった。さらにこの日から、日本軍1万余人が再び「掃討」を開始し、その抗日根拠地である北沙地区では、12日までに、141の村が略奪され、2300余人が惨殺され、160人が負傷し、263人が行方不明になり、2万1159戸が焼失し、6万228戸が食糧を奪われたり焼かれたりした。(『日軍侵華暴行実録』第1巻)

【縁日に集った人々を爆撃】

*5月6日:河南省南陽市の方城県寺門村では縁日の二日目であり、午前中から人々でごった返していた。そのとき急に日本機が飛来し、6発の大型の爆弾を落とした。たちまち会場と周囲の麦畑には血痕や肉塊や衣服の破片が散乱した。会場の大きなポプラの木の梢が半分ほど削ぎ落とされ、一本の大きな三つ編みが頭皮をつけて樹にぶら下がっていた。地面に転がっている死体は、手足は吹き飛ばされ、顔はよくわからず、髪の毛とブラウスから娘だとわかった。楊という男の死体が吹っ飛んでしまい、女房が泣き叫んで探し回ったが、片方の足に自分の手作りの靴を見つけて、それが自分の夫のものだとわかった。この大惨事では死者が400人余り、負傷者が200人余りに上る。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

*5月6日:広西省柳州の司令部飛行場、軍需品倉庫に「巨弾の雨を浴びせ、ほとんど破壊炎上せしめた」。

*同日:未明、河南省南陽市桐柏西方20kmの西新集と西10kmの鴻儀河にある中国軍の大部隊を痛爆、「これを壊乱、敗走せしめた」。さらに唐河県湖陽鎮を敗走する約一千の中国兵を発見し爆撃。

*同日:河南省南陽の司令部を爆撃。

*同日:広西省河池市東蘭県などの自動車群やガソリン庫などを爆撃。

*同日:湖南省益陽市沅江を爆撃。

*5月8日:河南省の光州、正陽、方城、舞陽、南陽等を退却する部隊を捕捉し爆撃。

*5月9日:「日本晴れに乗じて長駆して … 敵軍輸送の中枢たる」雲南省昆明の飛行場や施設、周囲の集落を28機で猛爆撃。中国軍機5機と空中戦、1機撃墜、地上の5機破壊、「絶大なる戦果を収めた」。中国側の記録では「19機が昆明巫家壩空港と香条村を空襲、蘇文才夫婦は生まれたばかりの赤ん坊と一緒に倒壊した家の梁に押しつぶされ焼け死んだ。この爆撃で、香条村民と近隣の同胞20数人が死亡」とある。

*同日:湖北省咸寧市嘉魚県を爆撃。日本軍は空・陸両軍に分かれて渡普口、王家庄などの地に掃討作戦を行った。陸軍は2つのルートに分かれて侵入した。空軍は武漢から離陸し、渡普口を直撃した。午前9時頃、3機が襲来、金水河の両岸に沿って、機銃を乱射し、続いて東南方向に走り、浄堡寺頂に爆弾を投下した。王家庄の街は一瞬にして瓦礫と化し、浄堡咀、東鲁湾の家屋は212軒が破壊され、住民3人が爆死。爆撃が終わってから日本軍が侵入し、王家庄の焼け残った家を「匪賊の巣」として焼いた。金水河畔の溝の中で8人の住民が隠れているのを見つけ、彼らを機関銃で殺した。さらに町中の逃げていない老人を集め、死体を川に投げ込ませた。さらに食糧や貴重な物を見たら略奪し、そして略奪した油、酒、砂糖、布を馬車に積み、米は5つの木造船に積んで彼らの駐屯地に持ち帰った。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*5月12日:広西省南寧市邑寧県の壇洛鎮では「四月八」伝統農具節の市が開かれており、周辺数百十里に及ぶ地域から約3万人の人々が集まっていた。このとき、集まった農民の防空のために壇洛坡東の竹林に市場を移した。午前11時半ごろ、日本軍機3機がこの臨時市場上空に飛来、急降下爆撃を行い群集に目がけて急降下し、およそ50発の爆弾を投下した。また、低空での機銃掃射をも繰り返し行った。一瞬の間に血と肉が飛び散り、仮の市場の地面は血と死体でうめ尽くされた。村の周辺のいくつかの池には、死体が浮き水を赤く染めた。現地の統計では、400人以上が死亡、重傷者は300人以上。(『侵華日軍暴行総録』)

*5月13日:戦闘により湖北省荊門市京山県宋河の楊家湾一帯に後退していた国民党軍に対し、日本軍は三日三晩にわたって航空機で爆撃、国民党軍は北へ脱出した。楊家湾には22世帯69人の農民がいて、日本軍の砲火に巻き込まれ、農民は四散して深山や熊谷沖に隠れた。そこに日本軍の中隊がやってきて獣性を発揮した。婦人を強姦の上殺害し、男に対しては中国兵と疑い虐殺した。李という二歳の女の子が、母親の腕の中で乳を飲んでいるところを、日本兵に刺し殺された。楊家湾の22世のうち20世帯が殺害にあい、8世帯が家族全員、そして逃げ込んだ36人のうち33人が殺され、3人が怪我を負って生き延びた。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*5月14日:雲南省昆明から貴陽間の滇黔(てんけん)公路のトラック群を爆撃。

*5月15日:湖北省随県の大別山頂上付近で中国軍大部隊と交戦中の輸送トラック部隊に協力して低空爆撃と機銃掃射を行い撃退。

*同日:5機が福建省莆田市涵江を爆撃し、6棟の民家が破壊された。

△ 5月中旬、海軍は重慶空爆戦を強化し、漢口に戦闘機を90機集結させ、戦闘機を322機から408機に増強した。

*5月16日:早朝、一機は浙江省金華市仁義に爆弾一個を投下、1人が死亡。15時40分、今度は金華駅に爆弾4個を投下。

*同日:湖北省随県西北唐県付近の敵部隊を痛爆、壊乱させた。

*同日:湖北省鐘祥県利河口付近の軍需品倉庫を爆破炎上させ、漢水桟橋の軍用船艇群を爆破、次に陸上部隊の進撃に呼応して襄陽市老河口の本営、襄陽の中国軍司令部、貢河集に大爆撃を加えこれらを焦土と化し、さらに敗敵を急追して襄陽北方の白河唐河畔、南陽西方内郷などの上空にも翔け巡って河畔に集積する物資を破砕した。

*5月17日:広西省龍州の中国軍輸送路にある軍需品倉庫、また隆山の燃料倉庫、貨車10両、柳州馬平の燃料倉庫や火薬庫等々を大爆撃、炎上させた。

*同日:浙江省温州港、福建省寧徳市三都澳および興化などの陸水路輸送地帯の橋梁や倉庫などを爆撃。

*同日:福建省南平市で午後2時30分頃、閩清口から貨物を積んで航行していた民間船4隻が、樟湖の板頭付近の水上で3機に襲撃され、民間船は沈没。7人が死傷した。

*5月17−24日:陝西省西安、漢中市の南鄭に対し夜間も含めて連続爆撃した。

【重慶地区への重点爆撃作戦】(百一号作戦)

△ 5月18日より、日本軍は占領した漢口、孝感、宜昌、運城の基地から重慶、成都を空襲する陸海共同の百一(101)号作戦を開始。これについて一大尉が「作戦指導部がついに市街地域の徹底した破壊を決意し、地区別に絨毯爆撃をかけることになった」と表明している。今更ながらの言であるが、無差別爆撃を厭わないということである。この共同作戦は9月4日まで続く。

*5月18日:未明から重慶西方遂寧飛行場を急襲、内外の施設を銃爆撃、大火災も生じさせ、夜間には成都、温江、大平寺の各飛行場、再び遂寧飛行場を爆撃。この18日から30日までのうち12日間、日本軍は重慶に対し延べ608機を出撃させ、爆弾419トンを投下した。

*同日:浙江省麗水軍需品倉庫4棟と道路上の軍用トラック群を銃爆撃、また江上の軍用小型船舶群5隻を撃沈。

*5月18−19日:夜半から翌日にかけ、21機が三隊に分かれ成都および遂寧を急襲、照明弾を利用した夜間爆撃で城内数ヶ所の軍事施設に大火災を生じさせ、地上の数機も炎焼させた。空中戦で5機破壊。

*5月18−20日:連日夜、四川省梁山に80機による爆撃を遂行、18日は爆弾100発を投下、そのほとんどが外の農村に着弾し死亡者は30人以上、重傷者は10人以上。19日夜、96発の爆弾を外南の紅牌楼一帯に投下、農民3人が死亡、8人が重傷を負った。別な記録:5月18日と19日、日本の陸海軍連合飛行部隊は中国空軍を殲滅し制空権を掌握するため、まず重慶付近の白市駅と梁山県(現・梁平区)の飛行場を爆撃し、次に成都、温江、南充、宜賓などを爆撃した。5月20日以降、日本機は爆撃の重点を再び重慶に移した。

*同日:四川省遂寧飛行場を連日で爆撃。

*5月20日:午前、梁山飛行場を大挙して襲い、空中戦で二機を撃墜、さらに飛行場と付属施設に「巨弾を投じ、全く使用不能ならしめ多大の戦果をあげた」。

*同日:9機が重慶広陽覇飛行場に爆弾54個を投下。 市街地では夫子池、中山一路、七星崗一帯に爆撃が集中し、民家80棟以上を爆破、市民56人が死亡、134人が負傷。

*同日:達州市開県に爆弾3発を投下。1人死亡、2人負傷。

*同日夜、12機が2回に分けて陝西省漢中市南鄭を爆撃、城東郊外の黄家坡・国立西北医学院(西安から移転)へ爆弾40発以上を投下、医学院教授楊其昌や母子ら14人が爆死し、17人が重軽傷を負った。

*同日:四川省宜賓・成都・梁山県の各飛行場を30機で夜間爆撃、8機を爆破、七ヵ所炎上。

*5月下旬:湖北省随県の厲(り)山鎮を爆撃。

*5月21日:29機が重慶を爆撃し、爆弾225発を投下、地上の大小飛行機9機を破壊、中国空軍はこれを迎撃し、日本機1機を撃墜し、数機を損傷させた。

*同日:(上記と入り混じっているようだがこちらは日本側)重慶近郊の広陽覇、白市駅、梁山飛行場を56機が夜間爆撃、爆弾492発を投下、また中国機約10機と空中戦、3機撃墜。

*同日:国民党保安団が安徽省郎渓県城に駐屯しているのを知り、日本軍は7機を出撃させて県城を襲撃し、北街を中心に大量の爆弾と焼夷弾を投下し、50人余りが爆死した。

*5月22日:未明より54機が三回にわたり重慶の白市駅・広陽覇飛行場付近を夜間爆撃、空中戦で中国機2機を撃墜、地上の飛行機12機を破壊。爆弾140発を投下し、37人が死亡、10人が負傷、家屋280余軒が破壊された。

*同日:陸軍の進撃に協力し、江西省九江市湖口東方100km経公橋に至る奥地の敵陣を爆撃、自軍一機が撃墜された。

*5月23日:3機の飛行機が宜昌に飛来、低空で旋回し、爆撃を重ねた。

▽ 23日、河南省信陽の偽平和軍団長袁興国、偽軍第3旅旅長陳維漢、第4旅旅長玉祥斎らが率いる部隊千人余りが日本軍から寝返った。

*5月26日:6機が湖北省襄樊から漢水の西に沿って、襄陽市泥嘴村上空に飛来、2編隊に分かれ、1編隊の3機が泥嘴の街を爆撃、別の編隊3機は泥嘴の北西10km以上離れた辺境の山村、永安港を爆撃した。これにより軍民30人以上が死亡、20人以上が負傷、木造船10数隻が沈没、家屋100軒以上が焼失した。襄陽市は1937.12.28よりこの日まで、日本軍機の空襲120回、投下爆弾4097個、死者2460人、負傷者3548人、破壊焼失家屋6463軒、破壊船舶46隻、破壊機関車14両であった。

*同日:午後、59機が三回に分けて重慶市街と白市駅飛行場と倉庫群を爆撃、また化竜橋、紅岩嘴一帯を爆撃し、市街地では合計爆弾209発、69人死亡、111人負傷。高射砲で日本機2機が撃墜されたが、地上の6機を爆破(以上は日本側の記録と混成)。

*同日:別途、36機が重慶西方の小龍坎を爆撃、空中戦で5機撃墜。さらに重慶市永川・綦江、瀘州市合江を爆撃。

*同日:浙江省金華市湯渓県仙舟郷が爆撃され祝村の6人が爆死した。

【海軍記念日を期して】

*5月27日:午後、「第35回海軍記念日を期し」重慶に対し、31機が北碚区新村北を、36機が浮図関を、27機が磁器口(古代からの町)を攻撃、計94機が出撃し、それぞれの軍事施設などを爆撃。(中国側の記録では爆撃の狙いはほとんど市街地で工場や学校も含まれ、 復旦大学に2個の爆弾が相次いで投下され、6人が死亡、4人が負傷し、三波で合計137発、152人死亡、201人負傷)

*同日:浙江省紹興市 嵊県を移動する中国軍に向け爆弾を投下、松明暗村に落ちて爆発、農民の一人が死亡。

*5月28日:重慶を99機が午前から4回に分けて爆撃し、212発の爆弾と12個の焼夷弾が投下され、227人が死亡、432人が負傷し、250棟余りが破壊された(別な記録では402発、250人死亡、420人負傷、家屋44棟387軒が損壊)。中国空軍は地上の砲兵と応戦し、日本機2機を撃墜した。この日は要人住宅地も狙ったという。

 これは日本側の記録で「35機が重慶の川東地区、26機が江北地区を、36機が広陽覇飛行場を襲撃、広陽で12機と空中戦で1機撃墜」とあるのに重なるが、同じ日でなければ別な被害のことのように見える。

▽ 中国空軍は湖北省安陸の日本軍基地を襲い、自動車数十台を爆破した。

*5月29日:63機が二度重慶を爆撃し、爆弾180発を投下、68人が死亡し、95人が負傷した。重慶大学は35発を被弾、工学院は爆破された。日本の一機が迎撃されて撃墜。

 前日と同様、日本側の記録では、「27機が重慶の磁器口、36機が浮図関を爆撃、中国機14、5機と空中戦となり2機撃墜」とあることに相応する。ちなみに同日の日本の新聞では第七次(101号作戦のうち)重慶空襲として、「重慶西郊外川東師範学校地区の軍事施設軍に対し巨弾を浴びせ全弾命中、四カ所より大火災を生ぜしめ … さらに広陽覇飛行場を急襲し敵戦闘機6機と交戦、うち一機を撃墜し、同飛行場東南部と南方付属施設を爆砕、 … 重慶の人心を震撼せしめ全機無事帰還せり」等とある。

*同日:広西省柳州、貴陽間の要衝宜山、河池方面の軍需倉庫及びトラック群を爆撃銃撃し「赫赫たる戦果を収めたり」。

▽ 同日、重慶大学の葉元龍総長、上海・復旦大学の呉南軒総長、中央大学(現・南京大学)の羅家倫総長は、日本軍の「蛮行」を阻止するため、米政府に鉄鋼および石油輸送日の速やかな禁止を求め、日本の戦争犯罪を阻止するよう呼びかけた。

*5月30日:27機と偵察機3機が重慶を爆撃、広陽覇飛行場に爆弾27発、焼夷弾26発を投下、死者1人、負傷4人(ほとんどが広大な地下防空壕に避難していたため被害小)。また合川に爆弾35発、焼夷弾4発で75人死亡、149人負傷、さらに涪陵(ふりょう)区に爆弾4発、焼夷弾4発で61人死亡、84人負傷、家屋倒壊等305軒。

【毒ガス使用指令】

*同日:第1次襄陽陥落を前に、日本陸軍は「飛行機、大砲を掩護して毒ガスを施せ」との指令で樊城に向けて毒ガスを発射した。(この月の7、8日にも中国軍の抵抗を受けて日本軍は毒ガスを使用した。「嘔吐して涙を流した後、鼻の穴や胃の中が熱く、火がつくような痛みを感じ、日本軍が放つ毒ガスは窒息性と催涙性の2種類だと判断した」と中国側の記録にある)

*5月31日:河南省南陽市鄧県汲灘鎮に9機が飛来、投弾62発、爆死27人、負傷33人、家屋470余軒が破壊された。

*5月下旬:陸軍航空隊は河北省襄東・白河・唐河方面への地上部隊の包囲作戦に協力、別途河北省の大行山嶺東側地区を爆撃、また山西省掃討戦、内モンゴルの綏遠・王愛召、山東省東営市大王鎮などを爆撃)

*5月某日:この5月の間に、日本機は数回にわたり武漢武昌の法泗洲地区を爆撃し、民家と小屋10軒を爆破し、鎮周辺の周家湾、黄狮咀、株林、後屋など10余村湾の民家200軒余りを爆破し、30人余りが死亡、そのうち陳胡氏一家7人は全員が爆死。日本軍はここまで武昌県を34回空襲し、爆弾1148発を投下、爆死853人、負傷1583人、民家を1148棟爆破し、家畜55頭を爆死させた。

*5月:安徽省宣城市涇県は日本機による3回の空襲を受け、計6機が焼夷弾22発を含む33発を投下、家屋111室が破壊され、死者8人負傷者3人となった。

6月

【日タイ友好条約】

◎ 日本軍は40年6月の日タイ友好条約で南方進出の足場を確保した。前年9月、第二次世界大戦が勃発すると、タイ政府は厳正中立を表明したが、ヨーロッパ戦線に注力しなければならない英仏は、タイとの不可侵条約締結の意向を示し、タイ政府は日本にも同様の条約を締結することを申入れ、1940年6月12日、相互の条約が調印された。

*6月1日:湖北省荆門の基地から飛び立った日本機は湖北省宜昌市遠安県城に飛来、しばらく空中を旋回、西門河の渡し場に人通りが多いのを見て、急降下爆撃を行った。渡し船が着岸したところで40人余り乗船客は逃げ回り、農民2人が爆死、5人が負傷した。

*6月1−3日:日本軍は(宜昌攻略の途上で)湖北省襄陽市への攻撃開始、その作戦を援護するため、陸海軍飛行隊連合で3日まで連日で空爆、南漳県城と武安鎮を襲撃した。ここまで南漳県城は21回爆撃を受け、爆弾150発余りのうち焼夷弾は20発余り、家屋700余間、爆死150余人、負傷70余人。また武安鎮は23回爆撃を受け、爆弾150発余り、うち焼夷弾は数十発。家屋800間、爆死180余名、負傷90余名であった。

【襄陽市:2年半で120回の爆撃を受け死者2460人】

 「襄陽県志」によると、1937年12/28から日本軍に占領されるこの時期まで、襄陽市全体で爆撃を受けた回数は120回、投弾数は4079個、死者は2460人、重軽傷者は3548人、家屋破壊1372棟、6463間、破壊船舶46隻、破壊機関車14両となっている。日本軍は占領後、武安鎮で婦女80人以上を強姦し、中には14歳の少女もいて、7人の日本兵に何度も輪姦された後、刺殺されて死んだ。占領の間、沐浴の村では、444名の婦女が日本軍に強姦された。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*6月2日:重慶の涪陵区を爆撃、78人死亡、84人負傷。

*6月2−3日:広西省の南丹、帰順(靖西)方面の軍需品輸送部隊を爆撃、また河池西北において軍需倉庫群を撃砕、その付近の橋梁を爆破、甚大な損害を与えた。

*6月3日:18機が湖北省荆門市の子陵鋪、荆門城関と近郊を爆撃、撤退中の国民党将兵にも打撃を与えた。また同日:4機が拾回橋を爆撃し、30発余の爆弾を投下、多くの住民の生命、財産を奪った。

*同日:湖北省ではこの他、襄陽市の安家集、麗家集、劉家集、胡家集、石橋駅付近の中国軍、軍事施設、橋梁などを爆撃。

*同日:安徽省南西部、長江沿岸に位置する安慶の沿岸の水陸交通の要衝の敵陣及び軍事施設を爆撃。

【アヘン政策への抗議】

〇 6月3日、中国アヘン禁止会議が重慶で開催され、「日本軍とアヘンはわが民族の最大の敵である」と抗議した。実際に日本軍はアヘンの栽培を促進し、下記の宜昌で記されるように、街中にアヘン販売の店を作るなどしている。

*6月4日:陸軍の追撃に呼応し、敵部隊を猛爆しつつ湖北省荆州、宜昌、江口鎮、当陽県双蓮場の軍需集積場等に爆撃を加えた。

*6月5日:湖北省襄陽市宜城西北に退却中の部隊に対し、「夕闇迫るまで12回に渡り反復大爆撃を加えて潰走せしめ、別の一隊は宜昌市当陽の敵拠点を急襲、巨弾の雨を降らせ数カ所より大火災を生ぜしめ多大の戦果を収めた」。

◎ 米国国務省は、航空機やその部品、オートバイなど、国防上のさまざまな重要な物品の輸出を禁止することを日本大使に通知した。

【陸海軍飛行隊協力による重慶爆撃】

*6月6日:陸海軍の飛行隊が協力して大編隊で重慶と成都を「徹底的に爆撃」。

△ 防衛省の戦史叢書『中国方面陸軍航空作戦』ではこの日が「重慶への第一撃」としている。重慶に対しては海軍が前年から爆撃していて、既述のように5月には重大な犠牲をもたらす爆撃をしているが、陸軍としては初めて海軍と協力したということであろう。この協力は8月まで続き、 以下がその具体例である。

*同日:海軍機34機と陸軍機36機が三回に分けて重慶の白市駅・梁山県(現・梁平区)を爆撃し、各飛行場のほか県城・天笠郷・城西郷を爆撃。全体で348発が投下され 、死者96人、負傷者201人。なお白市駅上空において中国軍機数十機との空中戦で9機を撃墜とある。

*同日:(上記重慶への爆撃の流れで)53機が四川省遂寧市飛行場を機を爆撃、中国空軍は迎戦したが3機の損害を受け、日本機1機を撃墜。

*同日:湖北省の要塞、宜都を空襲し軍事施設など爆撃。

*6月7日:湖北省宜昌と荊州市沙市の間の揚子江沿岸の各地の要衝を猛爆。

*同日:広東省江門市沙堆の中国軍司令部を爆撃、さらに4時間にわたって兵営、武器庫、弾薬庫などを爆撃。

*6月8日:湖北省荊州市沙市に三機が朝から晩まで9回、砂市街を爆撃し、焼夷弾により市内は火の海となり、住民たちは逃げ回った。多くの大型建物や中山記念堂なども燃えて灰燼に帰し、住民の大部分は梱包工場、赤十字社などに避難した。午後3時過ぎ、日本軍は二手に分かれて沙市に侵入し、焼き討ちと略奪を行い、廬舎はすべて廃墟となった。青年農民の竜家声は向家橋の下で草を刈っている時、日本兵の銃剣で背中を突き刺され惨死した。路傍にいた牛頭を見て、日本兵は刀で牛の尻の肉を切り取った。(以下転記に忍びず略)

*同日:上記の爆撃に連動して、午後4時ごろ、「荊州市沙市や江陵から敗走する大部隊に巨弾を投じ、潰走せしめた」。

*同日:宜昌市当陽東方15km清渓河南方の山地の敵陣地部隊を猛爆、「これを壊乱せしめ、次に当陽東方8km付近を敗走する約1千の敵に巨弾を浴びせ大打撃を与えた」。

*同日:湖北省宜昌、沙市、江口、弥陀寺、双蓮寺場を爆撃、いずれも市街に命中、数カ所を炎上させ、甚大な損害を与えた。翌9日、日本軍は宜昌市遠安県土門に侵入、占拠後、まず民衆を捕獲して170人以上殺害、家々に火を放ち、駅の近くでは110戸以上の家屋が焼かれた。烏鵲嶺へ向かう沿線道路では1000軒以上の家屋が焼失した。(『侵華日軍暴行総録』) 

*6月9日:99機が重慶に出撃したが、悪天候のため大半が引き返し、一部が白市駅飛行場に爆弾を投下、地上の一機を破壊。

*同日:湖北省宜昌の市街と近郊を爆撃、さらに低空で機銃掃射し、多くの市民が死傷した。

*同日:宜昌下流32kmの白洋および河溶、半月山場付近の敵密集部隊およびトラック群を猛爆撃、多大の戦果を収めた。

【三週間連日100機以上による重慶爆撃】

(6月末まで天候不順の日を除き、ほぼ100機以上で重慶を爆撃する)

*6月10日:126機が4回に分けて四川省を攻撃し、うち2回は重慶の市街地を爆撃し、97発を投下、9人が死亡し、20人が負傷。中国軍機数十機との空中戦で16機を撃墜、2機を失う(中国側の記録は日本機5機を撃破したが、10機が撃墜されたとする)。

*同日:再び梁山県の飛行場・県城・城西郷・天笠郷・仁賢郷を爆撃、爆弾95発、12人死亡、23人負傷。

*6月11日:前日と同様に約117機が4回に分けて重慶市街と江北市街や金陵兵工廠を爆撃した。118ヶ所に283発、焼夷弾23発、死者64人、負傷者172人、家屋188棟470軒。中国空軍は9機が撃墜され、日本の数機を撃破した。

*同日:日本軍は百機以上を出動させて湖北省宜昌を日夜猛爆撃して街を破壊した。翌12日、日本軍は宜昌を陥落させた。

*同日:10数機が湖北省宜昌市当陽県の玉陽、渭渓、河溶の3鎮及び人家の密集する村を爆撃し、140人余の民間人を死傷させた。その後当陽は占領され、第十三師団本部は玉陽山に置かれたが秋には宜昌に移動した。その後、県民は日本軍の暴虐行為の犠牲となった。

*6月12日:引き続き114機が4回に分けて(あるいは154機が6回に分けて)、290発の爆弾と28個の焼夷弾を重慶の市街と江北市街の22の街路の広範囲に投下した。市街各地で火災が発生し、電話線などが切断された。死者は222人、負傷者は463人におよび、たくさんの難民が出た。別途、観音岩防空洞が破壊され、窒息死61人、負傷282人。

 これに対し日本側の記録は、「(陸海航空部隊が)重慶軍事施設に対し十二分に爆撃を敢行、全弾要部に命中し諸所に火災を起こしたほか、空中戦においては確実なるもの13機、不確実なるもの7機を撃墜、多大の戦果を挙げて帰還した」、また2機が撃墜されたとある。そもそも上空の爆撃機から「全弾要部に命中」ということはありえず、つまりとにかく重慶市街の範囲内に爆弾を投下できたということである。

【宜昌占領と大虐殺】

 6月12日、日本軍は湖北省の宜昌を占領する。ここまで5月初頭の「宜昌作戦」から宜昌に侵攻する前後までに、陸海航空隊は宜昌へ30回以上の空爆を実施し(9−11日の間に延べ400機を出動させたと日本側の記録にある)、市街地と街路の100か所以上が爆撃、家屋は1000軒以上の被害を受け、死傷者は2千人に近くに達した。そして宜昌占領後、日本軍の略奪は、食糧は506785万石、農具は21万7931件、土布は1490万尺、綿は1080万斤で、損失金額は1183億銀元に達した。爆撃で死傷した2千人を含め、1945年8月までの5年の占領の間に殺傷された住民は18万5千人を超えた。また日本軍は9日に占領した遠安県土門に飛行場を敷設、そのために苦力として武漢も含めて各地から連行してきたが、過労死、轢死、餓死、斬殺された人々は、約1500人に上り、死体は空港の丘の上のいくつかの土坑に放り出された。戦後の統計によると、日本軍は土門で4000人の罪のない人を虐殺した。(『侵華日軍暴行総録』) 

 以下は宜昌の当陽県についてである。

 —— この6月から1945年8月までの5年間、日本軍は当陽占領区域内で三光政策(焼き尽くす、奪い尽くす、殺し尽くす:筆者からすればもう一つ「姦し尽くす」がある)を実行した。調査によると、焼失家屋は2万1236軒、価値は12万74万元に達し、住民8万87600人(男5万5929人、女3万1671人)を殺害し、綿花556万5千斤、豚・羊6万67680頭、耕牛2万4058頭、農機具5万7000点余、食糧2万1219公斤、鶏・鴨5万3000匹余、騾馬・ロバ2万3000匹余を奪った。また、日本軍は占領の間、月刊誌「沮漳新潮」や「大江日報」を大量に発行し、青少年に対する奴隷化教育を学校に強要した。さらに広く烟(アヘン)店を設け、阿片を売って人民を毒し、その上賭場台を設けて人民の経済を枯渇させていった。若い女子には「皇軍」を慰労させ、風俗を乱すに至っては、これ以上甚だしいことはない。さらに「興亜会」という組織を作り、それを利用して、裏切り者、スパイとして次々と魚肉のように良民を虐殺し、その鬼畜にも劣る行いは筆舌に尽くし難い。(『日軍侵華暴行実録』第4巻。この当陽県における虐殺数は宜昌市の18万5千人に入っていると思われ、これは南京に続く犠牲者数であろうか)

【寺院や教会への爆撃に対する抗議】

◎ 6月12日、中国仏教の国際訪問団は、日本機の爆撃で破壊された重慶の仏教の古刹の長安寺、羅漢寺からの特使がビルマ(ミャンマー)、ベトナム、インドなどに訪問し、日本が仏教国を名乗りながらも寺院を爆破したという偽善を暴き、「全世界の仏教信者は速かに立ち上がり、仏教を破壊する悪魔を滅すべきだ」と訴えた。

◎ 6月15日、米国のハル国務長官は記者と会見し、日本空軍の重慶を濫爆した罪行を非難し、重慶の米国教会への爆撃に抗議した。

◎ 6月14日、ナチス・ドイツ軍がフランス・パリを占領、17日に全面降伏する。これによりフランスの占領地(仏印領:インドシナ地区でベトナムやカンボジア、ラオスの地域などを含む)が手薄となり、日本軍は北部仏印を狙い、9月23日に大きな手間もかけずに仏印進駐を果たす。

◎ 6月18日、日本はフランスに戦時物資のベトナム経由中国への搬入を禁止するよう迫った。フランスは20日、日本の要請を受けてベトナム鉄道を閉鎖し、中国のベトナム経由国際通路が閉鎖された。(この年の5月にフランスはナチス・ドイツに侵攻され、日本の同盟国ドイツの意向であろう)

*6月13日:3機が山西省晋城市の外山村の抗日軍拠点を爆撃。この時、毒ガス弾も投下された。

*6月15日:重慶の市街地を爆撃。「外国権益」の地区に誤爆したとある。

*同日:四川省徳陽市中江県で王場飛行場を建設中、日本機は交代で急降下爆撃、出稼ぎ労働者に向かって乱射された。民工や村民の死者80人以上。

*同日:4機が海南省楽東県保定村を爆撃し、爆弾と焼夷弾を投下、全村100戸余りの民家と穀倉が爆破され、焼失した。時は種まきの季節で、村民の多くは田畑で耕作していたため、死者は1人、負傷者は3人だった。翌年2月15日、日本機は再びこの村を爆撃し、村の周囲のうっそうとした竹林から火が出て大火災となり数日燃えた。二度の爆撃で村全体が廃墟と化し、千余の村民が避難を余儀なくされ、村には誰もおらず、田園は荒れ果てた。

*6月16日:午後、陸海合同の117機が重慶の市街の16の街路に4回に分けて爆弾233個、焼夷弾72個を投下し、116人が死亡、232人が負傷し、各地で火災が発生し、建物725棟と526軒、43隻の木造船、貸切車3両が破壊された。別の資料では279人死亡、104人負傷、家屋371棟と264軒とある。

【両国での記録の相違】

 この日の日本側の資料で簡単なものは「重慶城内の軍事施設を爆撃」とだけあり、詳しいものは「(陸海の大編隊群が)重慶を急襲し50数門の高射砲からの弾幕を突いて重慶市街の要部に大型爆弾を浴びせかけ、重慶政府の党本部をはじめ県公署、軍需施設など重要施設に全弾を命中せしめ、十数カ所に大火災を生じさせて甚大なる損害を与え、空中戦で10機を撃墜」とあり、12日と同様、実際にはこれだけの違いがあるわけで、軍側の記録だけではその実態はわからない。世の多くの戦時の記録本は、大半がこの軍側の記録だけで成り立っていて、自軍の損失と「敵機」の撃墜しか書かれていず、その空の下の一般人の犠牲者などまるで頓着されていないという、真の「戦記」として意味のない、役に立たない本と言える。(例えばこの稿で少しだけ参考にした『日本陸軍重爆隊』では100%軍側の(軽爆撃機に対する)重爆機のレベルや兵備の記録だけであり、それも極めて限られている)

*同日:京漢線東部安徽省と湖北省の間にある大別山系の遊撃隊を重爆撃し、「壊滅的大打撃を与えた」。

*同日:安徽省江南地区奥地の敵拠点軍事施設を爆撃。

*6月17日:重慶の広陽覇飛行場を27機で薄暮爆撃、次に広陽覇・白市駅の飛行場を50機により夜間爆撃、「地上数ヶ所に火炎の上るのを眺めて全機無事帰還した。空中戦で敵一機を撃墜」。この爆撃で爆弾計370発で12人死亡、13人負傷。家屋132軒損壊。この日で白市駅飛行場はほぼ使用不能になる。なおこの日は第13次の爆撃とあるが、6月の記録としてであろう。

*6月17−23日:悪天候が続いたが、この間も日々数十機で重慶への爆撃を続けた。

*6月18日:9機が、湖北省宜昌遠安県城と付近の丘を順番に爆撃し、住民が臨時に建てた藁小屋をことごとく爆破したほか、民間人と付近の国民党兵士20人余りを爆死させた。

*6月19日:宜昌奪還を目指す中国軍の拠点5カ所を爆撃、「これを壊滅せり」。

*6月21日:日本軍機3機が浙江省麗水市雲和城区に爆弾3発を投下、3人を爆殺、15人が負傷した。

*6月22日:安徽省宣城郎渓県城に日本機二機が飛来し、梅渚の北門及び梅渚小学校附近を爆撃、20数名の死傷者を出し、多くの家屋が破壊された。

*6月23日:6機が安徽省宣城市郎渓を爆撃、爆弾30数発を投下、56人が死亡し36人が負傷、50数軒の民家が爆破された。

【各国大使館・領事館・学校・病院への爆撃】

*6月24日:(天候良好となり)89機が四回に分かれ重慶の北碚と江北の市街を攻撃し、投下爆弾300余発、死者81人、重軽傷者119人。イギリス総領事館が全壊し、イギリス大使館とフランス領事館も損壊した。別に一つの小学校が焼夷弾により生徒50人以上が死亡、江蘇医学付属病院では患者20人余が死亡。日本側の記録では「残存敵軍事施設に巨弾を浴びせ、全弾命中」とあるのみ。大使館などには国旗も掲げられていて、これが最初ではないので誤爆とは言えないだろう。以下、この日の被害者の証言。

 「正午ごろに空襲警報が鳴り、8歳の私と母は防空壕の入り口に駆けていって避難しようとしたが、防空壕は人が一杯で中に入ることができなかった。そこに日本の飛行機がやってきて機銃掃射の音が聞こえ、ついで爆弾が投下され、私は人事不省になり昏倒した。気がついたとき、防空壕の入り口にたくさんの死体があるのをみた。母は私を死体の山から引っぱり出したが、私の左足はすでにちぎれていた。母は私を道の端に抱えていき、救急隊員が来て、担架で私を北碚江蘇医院に運んでくれた。その晩の12時に手術をうけたが、私の左足は大腿部から切断された」(重慶爆撃民間対日賠償案原告団:万泰全の証言)

*同日:別途、重慶石馬鎮飛行場を爆撃。

*同日:陜西省渭南市華県の南大街などを爆撃、焼夷弾で街が焼かれたが負傷者2名。 

*同日:広東省深圳方面の地上部隊と協力、英国領国境付近の軍事施設を猛爆。

*同日:湖北省恩施市来鳳を爆撃。

*6月25日:陸海合同の125機が4回に分けて重慶に向かい、白市駅飛行場等を爆撃するが、悪天候のため多くは梁山県飛行場、県城、天笠郷を爆撃。死者29人、負傷46人。これに対する日本側の記録は「重慶市内の政府重要機関、軍事工場地帯を虱潰しに爆破」、「空中戦で6機撃墜、地上の4機爆破」となっている。

*同日:2機が四川省開州開県の大慈山に爆弾2発を投下、7人が爆死、11人が負傷。

*同日:フランス租借地広州湾の背面地区を「痛爆」し、敵の補給路切断に多大な戦果を収めた。

【重ねて大使館、教会、病院を爆撃】

*6月26日:88機で重慶白市駅および銅梁飛行場、「軍事施設」(日本軍の記録)などを爆撃。実際には重慶八つの市街区と巴県龍隠鎮に爆弾213発、焼夷弾12発を投下、市区のソ連、ドイツ大使館、教会、仁斎病院を爆撃、19人が死亡、34人負傷、家屋59棟228軒を破壊。

*同日:広西省崇左市寧明、明江、龍州等の主要陣地に猛爆猛射を浴びせた。

*6月27日:90機で三回にわたり重慶の西部および浮図関地区の軍事施設(日本側の記録)を爆撃。まず重慶近郊李子壩などに爆弾105発、焼夷弾8発で51人死亡、138人負傷。次に34機が5隊に分かれ梁山(現・梁平区)地区に飛行場を含めて爆弾200発(半数が焼夷弾)を投下、2人死亡。万県と忠県に爆弾4発で4人死亡。

【焼夷弾1000発以上】

*6月28日:約120機(90機の記録も)が三回にわたり重慶を襲撃、「軍事、政治の中枢機関を爆撃、敵機一機を撃墜」と日本側にはあるが、実際には市街地に焼夷弾1000発以上を投下、連日の猛暑と干ばつのため、各所で火災は猛威を振るい、全市に拡大した。揚子江と嘉陵江上に多数の避難民が押し寄せ、ジャンク船は沈没し、死体は江上を累々と流れていった(東京大空襲の時の隅田川の悲惨な光景を思い起こさせるが、多数の焼夷弾とは米軍の糸と同様に明らかに市街地を燃やし尽くす目的である)。77人死亡、128人負傷、家屋326棟とあるが、「死体は江上を累々と」とあるように、死者はもっと多いものと思われる。

*同日:広西省崇左市憑祥の要衝を爆撃。

*6月29日:陸海軍機約120機が四回にわたり重慶を襲撃、市街区、巴県、白市駅飛行場(地上の6機を爆砕)、重慶中央大学や周辺の工場地帯を爆撃した。死者は13人、負傷者は19人、建物448棟。重慶大学に対しては計画のうちとされている。空中戦で日本は中国の2機を撃墜。

*6月30日:90機で重慶を襲撃。天候不良のため27機(あるいは34機)が梁山県で飛行場、城内、城西郷、天竺郷に爆弾200発、焼夷弾100発を投下、25人が負傷、民家16棟を爆破した。

(ここまで重慶は5日連続で爆撃されているが、こうした中での死者数は正確ではなく、資料によって数などは食い違っている)

*同日:37機が陜西省西安の市街地や軍施設を大爆撃(元の目標は成都で、悪天候により変更)。数カ所に大火災を起こし、この爆撃による死傷者は400人以上。

*同日:広西省龍州東方古坡と南方崇明の敵陣地に猛爆を加えた。

*同日:陸軍地上部隊の攻撃に協力、江西省南昌南方の西山、万寿宫を反復爆撃。

*6月某日:江西省南昌県城を5機で5個の爆弾を投下、3人が爆死。

*6月某日:江西省新余市分宜が5機により、5発の爆弾を受けて、3人が爆死、機銃掃射で王士番が死亡、彼の一軒家も破壊された。

*6月某日:48機が華東から出撃して湖南省衡陽を襲い、衡市城南、城北に多くの爆弾を投下し、家屋200棟余りを爆破、住民約千人を爆死させた。

*6月某日:湖南省常徳城を爆撃、馬木橋近くの防空壕に爆弾が当たり毛華章一家6人が爆死した。

【6月の出撃機1300機以上】

〇 この6月の空襲では陸軍航空隊の出撃は延べ320機で、4機が失われ、戦死・行方不明28名、負傷17名で、海軍の陸上攻撃隊=航空隊は延べ1014機が出撃し、自爆5機、被弾144機、戦死36名、負傷13名で、敵機に対する撃墜は約70機となっている。

▽ この時期、重慶市臨時参議会で採択された決議。—— 「(日本軍の空爆により)無辜の市民多数が犠牲となり、… 敵の目的は明白で、われわれの抗戦意欲を打ち砕き、その上で日本軍が東亜に君臨する意図の実現を図ろうとする。… その意図は決して達成されることはない。空襲の下でわれわれに刻み付けられた恨みは、百年経っても消えるものではない」。その通りであった。

7月

【米国の「道義的禁輸」法】

◎ 7月2日:米国で国防法が成立、「道義的禁輸」により、軍需品や戦争機材、航空機や金属、その製造設備などの日本への輸出が禁止される。

*1940年7月1日:広西南寧市養利の兵営その他軍事施設を猛爆、「木っ端微塵に粉砕した」。

*7月3日:午前9時、陝西省西安市街を爆撃し、その帰路に東北方面の臨潼県城を爆撃、5人を爆殺。

*同日:重慶巫山県を18機が二回爆撃。爆弾72発で10人死亡、15人負傷。 

*7月3−14日:日本軍第11軍は岳陽の日本軍基地と長江に停泊している軍艦を国民党の江防部隊が砲撃したことへの報復として、航空機を出撃、華容県城と郷鎮を連続爆撃した。

*7月4日:(陸海軍合同の)63機が四回にわたり重慶を爆撃、203発が投下され(89機で153発の記録もあり)、市民の死傷者は20人余り、再び重慶大学や中央大学が狙われ多数の校舎が破壊された。日本機は一機が撃墜された。

*同日:重慶北西の遂寧市の飛行場を奇襲爆撃、地上施設を爆破炎上させた。中国側の記述では「35機が遂寧を爆撃、都市部に200発の爆弾を投下、7人が負傷、1人が死亡、家屋4棟を破壊した」とある。

*同日:洞庭湖北岸濠溝およびその北方広興州の敵陣地を爆撃。

*7月5日:重慶の墊(てん)江県と綦(き)江区の纂(さん)江を50機で爆撃、また纂江を再度36機で爆撃。綦江区ではバス停車場などに103発投下、287人死亡、245人負傷。以下はこの日爆撃を受けた墊江県の人の証言である。

 —— 私は小学2年生で、ちょうど夏休みで母の実家のある北渡郷に遊びに行っていた。遠くの方で爆発音が聞こえたのでそちらの方向を見ると、空が真っ赤になっていた。……爆撃後の県城には至るところに引き取り手のない死体が散乱していた。私の家の周辺では100人余りの死者が出て、その中の20人余りの死体は親族に引き取られたが、残った90人余りの死体は(誰のものか特定できずに)引き取られなかった。残った死体は、その場に掘られた3つの穴にまとめて埋葬された。全部で約200平方mの広さがあった3階建の自宅は半壊し、さらに母が経営していた旅館も全焼してしまった。……自宅にいた41歳の私の父の体は(爆弾の直撃で)バラバラになってしまい、遺体は見つからなかった。そのため父は埋葬もできなかった。母も自宅の中にいたが、爆弾の破片が右足の太ももに突き刺さり、一部肉がひきちぎられるという重傷だった。……この後私と母と兄は、父の実家のある東渓鎮で生活したが、母は爆撃の後遺症で仕事をすることができなかったため、私の家族の生活は非常に貧しく、食べるものにも事欠く有様で、母の兄弟の家から食糧の援助を受けて最低水準の生活を続ける状態であった。そのため私は小学校は通うことができたが、中学校は親戚の援助で進学し、なんとか卒業することができた。しかし高校はいったん進学はできたが、お金が続かなく、途中で退学せざるをえなかった。……今は私は結婚して家庭をもち4人の子供に恵まれたが、すでに66年経った今でも爆撃で殺された父や伯母、重傷を負った母のことを思い出し、日本軍の爆撃のことを忘れたことはない。

(重慶爆撃民間対日賠償案原告団:危昭平の証言)

*同日:四川省自貢市自流井の軍事拠点および重慶南方20kmの兵器物資の要衝綦江を奇襲爆撃。

*同日:江西省貴渓駅を奇襲し、駅広場に集積する軍需品および倉庫群に銃爆撃を加え「甚大なる損害を与えた」。

*7月6日:7機が広西省南寧市隆安県城の拱閣街から陳黄村一帯の河辺を襲い、爆弾42発を投下、現場では血肉が飛び、竹の枝に内臓が飛ばされていた。合わせて45人が爆死し、43人が負傷、これまでの被爆者の中で最も悲惨なものとなった。

*7月8日:快晴の中、89機が重慶を爆撃し、248発を投下、98人が死亡し、81人が負傷、家屋200棟534軒破壊。空中戦では中国機が日本機3機を撃墜。(日本側の記録は発電所や火薬庫、蒋介石の住宅地を爆撃、全機無事帰還したとある)

*同日:広西省百色市靖西付近の輸送路に積み上げた石油缶の山を発見し爆撃、膨大な石油を炎上させた。

*7月8−9日:広西省河池市南丹および貴州省貴陽の軍需品倉庫や輸送機関を爆破。

*7月9日:90機が三回に渡り重慶市街区と南川区を爆撃、200発余りを投下。51人死亡、134人負傷。空中戦では日本機4機を撃墜し、5機を損傷させた。(日本側の記録は、「旧市街の蒋介石委員長行営を爆砕、また造船所を爆破炎焼させ、重要拠点南川区の工場地帯数ヶ所を炎焼、空中戦で1機を撃墜」とある)

*同日:広西省西部の恩隆を襲撃、軍事施設と集積されたガソリン缶を爆撃、さらに移動する敵軍を猛爆。

*7月上旬:江西省九江市拓林鎮付近の中国軍師団、司令部拠点を数度にわたり爆撃。

*7月7−10日:湖北省宜昌に活動する中国軍部隊を連日爆撃、特に8日:西陵峡にある砲陣地を集中爆撃。

【爆撃現場の証言】

*7月10日:四川省綿陽市三台県の被害証言。

 —— 空は快晴であった。午前10時ごろ、防空哨所から突然空襲警報が出た。人々は空襲警報が続くうるさい日々に慣れて、少数の人しか町から避難しなかった。20分後には、敵機27機が三台県の上空を通過し、左右両翼の品型の3チームに分かれて成都方向に飛んで行った。半時間後、敵機は突然引き返して、三台の北塔、鳳凰山上空に飛来し、隊形を一文字に引き伸ばした。この時、人々は慌て始めたが二秒もしないうちに、爆弾が空気を切り裂く音がして、真北の東に爆弾が落ちた。爆発音が天を揺るがし、煙が立ちこめ、塀が倒れ、家屋が倒れ、地が揺れた。敵機は爆弾を投げた後、急降下し2、30mの低空から機銃掃射して横暴を極めた。

 事後調査では敵機は103個の爆弾を投下し、成人男女93人を爆殺し、74人の重傷者と97人の軽傷者を出した。家屋578室を爆破し、被害住民560戸。被爆地区は東街、雷神廟巷、前小弯、後小巷、東関外その他20を超える街道と郊外である。その中で県政府は大部分が爆撃され、刑務所、国民党県党部、真武郷(今北堤郷)、吉太絹工場などもあった。住民の被害は東、北城区が一番重く、特に北門一帯の府堂街の木造店で、一つの爆弾が部屋の真ん中に落ち家族全員が死亡した。王湯元の家族は7人で1人しか生き残らなかった。外から来た若夫婦が北街の中を歩いていたところに爆弾が落ち、血肉が街の壁に飛び、肉片が道端の木の梢にかかった。東街の防空壕の杜家坑には多くの人が避難し、中に爆弾が落ち数十人が死傷した」

*同日:重慶栄昌区を18機が襲撃、83人死亡、127人負傷。重慶全体では、88機の航空機を出動、4回に分けて重慶の商業地区、住宅地区を爆撃し、 市民12人が死亡、49人が負傷、ともあり、死者数などが入り混じっている。(『侵華日軍暴行総録』四川省編)

*同日: 四川省遂寧市の東郊空港付近の市場に農民たちが集まっているところに63機が爆弾880発を投下、同時に機銃掃射を繰り返し血と肉が飛び散り、27人が死亡、137人が重軽傷、家屋30棟を破壊した。

▽ 7月10日、魯南の偽軍(日本軍の傭兵)趙益増部隊5000人余りが中国軍に寝返った。

*7月11日:午前と午後にわたり広西省南寧、柳州、河池、百色市恩隆、養利県、崇左市崇善・左県などを爆撃。

*同日:江西省鷹潭市貴渓西方の倉庫群と駅周辺を爆撃。

*7月12日:貴州省貴陽に第三次爆撃、軍需品倉庫5棟を炎焼させ、貨車数輌を爆撃し破壊。また柳州ー貴陽間の補給道路のトラック群のうち十数台を破壊。

*7月12、15日:湖北省恩施市巴東県を二度にわたって乱爆し、67人が死亡、35人が重傷を負い、被害は55世帯に達した。

*7月13日:貴州省独山県の麻尾鎮で市場が立ち並んでいた。日本機は麻尾鎮上空に侵入して25発の爆弾を投下、同時に民衆に向け機銃掃射を行い、32人が死亡、16人が重傷、軽傷者多数、250の家屋が破壊された。

【血祭り】

*7月14日:広西省奥地の仏印(ベトナム)国境に集結している中国軍を爆撃、さらに百色、賀州市富州、河池、恩隆などの800の兵、200台のトラックを「血祭りにあげた」(日本側の記録)。

*同日: 重慶市豊都県の繁華街に多数の爆弾を投下、いたるところで火災が発生し、死者20人(許一家5人が爆死)、負傷者60人以上、家屋200棟以上が破壊された。

*同日:福建省漳州市雲霄県では前年12月の大空襲からすでに八カ月が経過していて、疎開していた人々の多くは帰城し、生活は正常に戻りつつあり、防空警報も休止していた。日本機が来たときには、市場はいつも通りに取引されていて、学校もいつも通りに授業を受けていた。突然の轟音を聞いて住民は慌てたが、関帝廟が焼き払われた後、一軒の爆撃だけで死傷はなかった。

*同日:正午、1機が雲南省文山州富寧県城に焼夷弾2発を投下、100戸以上の民家が焼失、また爆弾数発で住民12人を爆殺。

▽ 7月14日、中国軍の一部が湖南省東虞城をの日本軍を攻撃すると、偽軍(日本軍の傭兵)旅長李万興は部隊3000人余りを率いて反乱を起こした。

▽ 八路軍楊成武支隊は河北省易県で250人余りの敵を殲滅した。続いて15日、日本軍2700人余りが山西省の西北根拠地に向けて「掃討」を行い、八路軍がこれに抗戦し、敵400人余りを殲滅した。

*7月15日:広西省桂林を爆撃、約一千mの貨車を連結する軍用列車を転覆させ、さらに富州を爆撃。

*7月16日:54機が重慶を二回爆撃(第23次)、一度は新市街加陵江南岸の水道および電力設備を爆砕。爆弾122発、焼夷弾12発、死亡10人、負傷21人、家屋破壊175棟。空中戦で一機を撃墜、中国空軍は全力をもって迎撃し、日本機3機を撃墜した(日本側の記載なし)。

*同日:浙贛線の基点である浙江省寧波市鎮海に散在するいくつもの砲台を艦隊とともに爆撃、破砕した。

【空母と軍艦による砲撃と爆撃】

*同日:夜明けの4時頃、日本の空母2隻が外海から出動し、福建省泉州市恵安県の深滬湾に迫った。さらに、六隻の軍艦、四隻の上陸高速艇、数十のゴムボートが、深滬湾の深滬湾の海域をぐるりと取り囲んだ。同時に、7機が航空母艦から離艦し、永寧地区の各村落を低空で旋回して偵察し、爆撃を行った。それにあわせて敵艦の大砲も周囲の村々へ、猛烈な砲撃を加え、砲声、爆弾の音、叫び声が天地を揺るがした。日本軍は瞬く間に全永寧海域を制御して、上陸高速艇と小さなゴムボートで坑尾按心と外高按二処に上陸し、永寧と崇武地区に侵入した。日本軍の上陸作戦援護爆撃では200人以上の死傷者を出した。崇武の住民は日本軍が後海、三嶋、東澳に上陸したことを知った後、慌てて西門外北山などに避難した。一つの爆弾が某坑洞に命中し、住民22人が即死。蛇嗣山頂水警所には艦砲弾が命中、死傷13名。その他、畑や浜で飛行機の機銃掃射を受けて死亡した。さらに日本軍は民間船を焼き払い、永寧湾内に停泊していた45隻の大型漁船及び貨物船、商船など合わせて200余隻をことごとく放火し、たちまち濃い煙が湾内を覆い尽くした,燃えさかる炎は翌日の午後になってやっと消えた。崇武でもまず倉庫に貯蔵されていた灯油を奪い取った後、港関、後海、港瑾、大妦、前按などに集まっている商船、漁船に灯油をかけて火を放ち、16日から17日まで燃え続けた、船上の貨物と合わせて多大なの被害が出た。多くの漁民、漁師、商人が生計を立てることができなかった。この後、日本軍は永寧と崇武地区で放火、殺人、婦女強姦、強制荷役などの悪行を犯したが詳細は割愛。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*7月17日:9機が福建省莆田市涵江及び三江口などを爆撃し、1人が爆死、11人が重傷を負い、56棟の民家が破壊された。

*同日:桂柳鉄道を猛爆。

*7月18日:広西省友晶壩を急襲爆撃。

*7月19日:広西省武鳴、崇左市崇善など敵拠点を爆撃。

*同日:安徽省安慶東南の城南湖東岸の敵陣地を銃爆撃して「壊滅」、また蝟集するジャンク船群にも銃撃。

*同日:16日に爆撃し大打撃を与えた寧波市鎮海奪回を目指す中国軍部隊約一万に対し、空陸海の三方の猛撃により撃退。

*7月20日:内モンゴルの五原西方善壩の軍事施設を爆撃。

△ 同日:単機で二名搭乗の陸軍機が重慶上空で中国軍数機の迎撃を受け、撃墜され戦死。(このような場合、日本の報道は「自爆」とする)

*7月21日:大編隊で広西省鎮南関(現・睦南関)、憑祥、平面関、水口関、龍州などの国境地帯を監視しつつ、南寧西南の左県を爆撃。 

* 同日:日本軍は再び福建省寧徳市三都を侵犯、7機の航空機と5隻の軍艦が連続して爆撃・砲撃を行い、大火災を引き起こし、大半の民家と商店が灰となった。日本軍は上陸するとすぐに暴虐に振る舞い、三都鎮の町長は大勢の人を率いて抵抗したが敗北、全員が日本軍に惨殺された。 

* 同日:午後、四川省綿陽市塩亭県に9機が飛来、城西雲渓の城廂小学校、陝西会館一帯に9発の爆弾を投下、3発が爆発し民間人4人が爆死、8人が負傷した。

【零戦(零式戦闘機)投入】

△ 7月21日(15日とも)、占領する漢口の基地に海軍戦闘機の零戦13機が投入される。なお戦闘機は爆撃機の護衛と敵機への攻撃が主な役割である。

【街の7割が焼失】

*7月22日:重慶方面悪天候のため(朝、重慶方面の天候と飛行場の偵察に向かった一機が消息を絶つ)、120機余りが重慶北方50kmの合川、綦江に対し爆撃、特に合川を3回に分けて500発余りの爆弾を投下し、合川城内は火の海となり、約7割が爆撃で破壊、焼失した。人々の生命財産の損失は悲惨であった。この年の前後に合川を98回にわたり空爆し、570余発の爆弾を投下、630余人を爆殺し、315人を重軽傷させた。

 —— 7月22日、合川が爆撃された日の朝、母(呉理華、1917年生まれ)は、7歳の私(羅漢)と妹を連れて友達の家に用事にでかけた(それで被害を逃れられた)。その途中で私たちは合川城内からの警報を聞いた。続いて日本軍の飛行機の群れが合川の方向へ飛んで行くのが見えた。母は私と妹を竹林に連れて行き避難させ身体を覆い被せて私たちを護ってくれた。間もなく、ドカン、ドカンという爆弾の爆発音を聞き、合川城内が火の海になったのが見えた。爆撃が止み敵機が去ると、母は私たち兄弟を友達の家に預け、急いで市街地に戻って行った。母は戻る途中、川辺付近で市街地から逃げてきた多くの罹災者を見たが、川岸で茫然とした姿で手に小包を持って座っていた祖母を見つけた。祖母は泣きながら、家が爆撃で壊され、隣りの一家が全滅し、私の父(羅志強、1907年生まれ)が爆撃で重傷を負ったことを母に伝えた。母が病院で父をみつけだした時、父の手のひらは爆弾の破片で潰され、右足は機関銃弾で貫通され、重傷であった。翌日北碚江蘇医学院に移ると、破傷風と診断され、もう会話もできない状態で、その日の深夜、父は病院で亡くなった。私と妹は、父の最後に会うことさえできなかった。父は音楽家で、父が亡くなった後、母は祖母や私たち兄弟の面倒をみなければならず、しかし頼るべきところがなく、母はやむなく私を歌楽山孤児院に預け、祖母と妹を連れてよそに嫁ぎなおした。孤児院での生活条件はとても悪く、三食ともお腹一杯食べられず、肉体労働もしなければならなかった。山の上から岸辺まで米や、木板を運んだ。子供たちのなかでは営養不良で夜盲症になり、夕方になると目が見えなくなった。重慶大爆撃によって私は家族を失った。この血と涙の家族の歴史は一生忘れられない。(2006年10月、「重慶大爆撃被害者民間賠償請求原告団」の一人、羅漢による東京地方裁判所における陳述より。こうした情景は日本の戦災孤児と重なる)

*同日:広西省の桂林、柳州で南下する中国軍部隊と軍事施設を猛爆、また軍需品を満載する列車30数輌を爆砕。

*7月23日:正午、四川省広安に27機が飛来、護安郷沙背山に機銃を乱射した後、爆弾と焼夷弾数十発を投下、一家5人の内4人が死亡。さらに城区南園と王爺廟一帯に10発以上の爆弾を投下、木造船6艘を沈め、船大工1人が死亡、3人が負傷した。

*7月24日:四川省成都を36機が(陸軍機として初)爆撃し、市街地に130発を超える爆弾と多数の焼夷弾を投下し、各所で火災が起き、諸葛井の李一家四人の爆死や幼子を抱いたまま爆死した女性など、死者は102人、負傷者は133人に及んだ。なお救出隊員が扱った死傷者は153人であった。家屋の損壊は638戸。日本側は重爆機一機が撃墜され7名が死亡、他に被弾6機、負傷2名であり、空中戦で日本機は中国軍機2機を撃墜。(日本側の記録は「市街地重要施設と市外西南地区の軍事施設に全弾を命中、各所に火災を生じさせた」とあるのみ)

*7月25日:浙江省寧波市奉化の江口、西塢、方橋、朱応などの村を爆撃、20人以上の死傷者を出した。

*同日:江西省鷹潭南方にドラム缶を運ぶトラック群を銃爆撃。

◎ 7月25日、米国は日本への自動車、航空機燃料、石油製品、金属スクラップ等の輸出を禁止する。

*7月26日:午前7時、湖北省老河口市を9機が攻撃、市街地の中心で数十個の爆弾を投下。第二陣は7機が侵入し、数十個の爆弾と焼夷弾を投下。第三陣は5機飛来し数十個の爆弾を投下。以上三回にわたり100発余りの爆弾を投下、市街の54カ所を被爆し、130軒余りの家屋を爆破・焼失した。死者は68人(男39人、女29人)、負傷者41人(男24人、女17人)であった。

*同日:江西省鷹潭南方鄧埠にドラム缶を運ぶ牛車20車を爆砕。

*7月27日:浙贛鉄道沿線の浙江省衢(く)県、金華、江西省上饒広信、さらに粤(えつ)漢鉄道の要衝湖南省衡陽の軍需倉庫爆撃と輸送路を爆撃し遮断。

*同日:広東省汕尾、媽宮の港湾を海陸空で奇襲攻撃、海軍陸戦隊の上陸を容易にし、続いて市街を爆撃、夕刻には汕尾市を占領した。

*同日:広西省河池市東蘭郊外の倉庫群、軍需品を満載した数十輌のトラック群に「巨弾を浴びせこれを爆破炎上せしめ」、さらに東蘭南方に点在する多数の倉庫群をしらみつぶしに爆砕。

*同日:江西省鷹潭と建昌の間の軍需品満載のトラック群を低空爆撃。

*同日:昼12時10分、27機が四川省南充市閬(ろう)中 に飛来、県城の下半分の地区に9発の爆弾と2発の焼夷弾を投下、16人が死亡、35人が負傷し、51軒の家屋を破壊した。

*7月28日:90機で重慶「南川・万県の残存軍事施設を爆砕」。実際の中国側の記録では、万県に62機が飛来、「残存」地区に爆弾321発、367人死亡、422人負傷。南川区では255発で24人死亡、46人負傷、家屋565軒損壊。奉節では爆弾8発、9人負傷。

*同日:広西省奥地の懐遠、河池の中国軍輸送路を狙い、国境に集積していた物資、弾薬を運ぶトラック五百台以上の大輸送隊を発見、次々に爆撃し百台以上を「血祭りにあげた」。

*同日:江西省南昌市西南の西山および撫州方面の敵部隊を午前午後の数度にわたり爆撃、また午後には隣の吉安市福坊のトラック群に機銃掃射を浴びせた。

*同日:重慶に至る主要路にある貴州省貴陽の軍需品倉庫群に「巨弾の雨を降らせ」、数十棟を炎上させた。これは中国側の記録では「8機が午前10時頃、貴陽市に侵入、東南郊の団坡付近に爆弾10数以上を投下、1発が中央病院の食堂(今市第二人民病院)に着弾、数人の死傷者が出た」とある。

*同日:浙贛沿線の江西省鷹潭と鄧埠駅の倉庫群を爆撃。

*7月29日:前日に続き浙贛沿線の鄧埠、鷹潭、建昌の倉庫群、貨車、トラック群に「爆弾の雨を降らせた」。

*同日:一機が湖北省荊州市公安県南平上空に飛来し、10発余りの爆弾を投下したが、いずれも空振りに終わり、けが人はなかった。

*同日:8時、6機が安徽省宣城市旌徳上空から11発の爆弾を投下し、男女28名が死亡、41名が負傷し、家屋90軒余りを爆破した。また県府の背後及び付近の塔の足もとに各1発を投下、計3人が負傷、家屋一軒が倒壊した。

*同日:前日に続き貴州省貴陽を第五次爆撃、軍需品倉庫群とトラック群に巨弾を浴びせ、倉庫数十棟、トラック約三百台を爆砕、炎上させた。これは中国側の記録では「貴州省独山県城東北角を爆撃、1人が死亡、1人が負傷、別途9機が午前9時、貴陽市の花渓鎮を2回に分けて空襲、多数の爆弾を投下、水田で1人死亡」とある。

*同日:浙贛沿線の江西省上饒市広信駅および付近倉庫群、また弋(よく)陽と鷹潭市貴渓間の倉庫群を銃爆撃。

*7月30日:河南省洛陽を急襲、軍事施設、司令部、周辺の敵軍を爆撃。

*同日:前日に続き浙贛沿線の要衝、江西省上饒市広信、弋陽、横峰、撫州市建昌の駅や付属倉庫群を爆砕、そのほか鉄道線路を破壊。

*7月31日:海陸航空隊が協力して重慶を第24次爆撃。124機が四回に分かれて重慶の北碚・銅梁・江北・涪(ふ)陵の各区を爆撃。日本側の記録では、「第一陣は工場地帯に的確なる巨弾を浴びせ/第二陣、行政院および蒋介石の住宅を爆砕/第三陣は中国機約20機と空中戦で三機撃墜/第四陣は重慶下流の涪州(涪陵)の軍事施設に巨弾を浴びせた」とある。中国機は空中戦で5機撃墜され、10機が損傷した。北碚では爆弾30発で死者15人、負傷40人。銅梁では爆弾焼夷弾92発で85人死亡147人負傷、家屋971軒破壊。市街区、江北では126発で2人死亡、28人負傷。涪陵の被害が大きく、爆弾、焼夷弾161発で470人死亡、340人負傷、家屋約1400県破壊。爆死した死体の処理は困難で、埋葬以外に形になっていないバラバラの死体は夜になって長江に運び投げ捨て、その処理に十数日かかった。

*同日:浙贛線の江西省宜春市豊城を爆撃。

*同日:四川省銅梁と北碚の「軍事施設と行政機関を爆砕炎上」させた。

*同日:江西省鷹潭と貴渓間を偵察爆撃、また鷹潭南方と武寧金谷の間の倉庫群と物資満載のトラックを銃爆撃。

*7月某日: 36機が陝西省宝鶏県城を爆撃、三馬路と北崖の防空壕に爆弾を投下し、50人以上の住民が生き埋めになり死亡した。その中で趙至善一家の8人家族全員が死亡した。

【撃墜された日本機】

*7月某日:午後3時ごろ陝西省商洛市洛南県に重慶から戻る日本軍爆撃機3機が南西から飛来、そのうちの1機が中国軍機により追撃され、洛南県城の北郊の洛河畔に不時着した。搭乗員4人の内1人が瀕死の重傷を負い、同乗していた仲間に殺され、残りの3人は飛行機を燃やした後に逃走(中国側の記述なので確かなことはわからないが、敵軍の中で不時着した飛行機を燃やすのは機密を守るための決められた行為である。重傷を負った仲間を殺すというのは日本人的感覚からすると、本人が望んだことであったのかもしれない)、途中、洛南県の地方武装組織に捕まり、当時、商県にあった商洛市の出先機関に引き渡された。翌日午前、日本軍は2機の爆撃機を洛南県に送り、報復爆撃を行った。日本軍機は県城東川一帯に到着すると、機銃掃射を開始し、県城上空に侵入した後、西街火神廟、中街銀行、東小(現在の城関糧駅)、王家巷(現在の城関中学巷)などに投弾し、住民3人を爆殺し、1人を負傷させ、民家数軒を破壊した。

△ 日本軍は援蔣ルートを遮断する作戦の一環として、7月15日から杭州湾、温 州港、福州三都澳及び福州付近の各港に対して、第三国船舶を含む 一切の船舶の出入港の禁止を宣言し、重慶国民政府の海外補給線を切断しようとした。

※ここまでかなりの部分の記録を拾い出した『支那事変画報』(大阪毎日新聞社)は、これまで月二回の発行であったが、「用紙および写真材料の節約のため」、月一回の発行となる旨の「謹告」がある。なお翌年末の太平洋戦争開戦からは『大東亜戦争画報』と改題される。

8月

◎ 8月1日、松岡外相はベトナム(仏印の一部)を領有するフランスの日本大使に対し、日本軍のベトナム通過と越境、飛行場使用の許可を求めた。6日、ベトナム総督は日本代表の西原と協議し、日本軍の海防上陸を許可した。

*1940年8月1日:12機が浙江省の麗水市雲和雲和城上空を旋回、50個以上の爆弾を投下し、民間人13人が死亡、4人が負傷し、民家70軒以上が爆破された。

*8月2日:120機余りが数度に分かれて第25次の重慶空爆に出撃するが、中国空軍の迎撃により重慶の中心市街上空には進入できず、重慶の周辺地区、北碚区新村、璧山区、瀘州市瀘県、内江市隆昌、達州市大竹などを爆撃、死者57人、負傷者103人。隆昌では重量爆弾19発、破甲弾(対戦車榴弾)94発、焼夷弾6発を投下、637軒の家屋が爆破され、住民166人が死亡、195人が負傷した。

 日本側の記述では、瀘県には低空の連続爆撃で全市街を「紅蓮の炎につつみ」、隆昌市街地5カ所に大火災を生じさせ、璧山上空と合川上空の空中戦で6機以上を撃退とある。これに対し中国側の記述では、「2日、敵機は5回に分けて魯を攻撃した。午後、27機の第1陣が市内上空に侵入し、70発か80発の爆弾を投下した後、鹿城慈善街の寧光門地区に侵入し、約20分後に火災が発生した。また廬龍路沿いの市上空に低空飛行し、機銃掃射し、爆弾を投下、爆弾は100発以上あり、轟音は耳をつんざくほどであった。この大惨事による死傷者数は2千人以上で、慈善路、蘇公路、南吉路、大雲路などの街路が焼けた」とある。これは前年9月11日の瀘県への大爆撃に続く大災害であった。

同日:四川省広安と隣水で爆弾107発により37人死亡、46人負傷、家屋193棟が破壊。 

*8月3日:36機が重慶西北70kmの銅梁を爆撃、爆弾132発、焼夷弾115発、死者は7人、負傷者は9人。重慶に隣接する広安市隣水では8発、負傷1人。日本側の記録では、「31日の第一次爆撃(おそらく第二作戦の)で無残な破壊の跡を見せる市街地および飛行機工場その他軍事施設に大型爆弾を浴びせ完膚なきまでに爆砕、全弾命中し諸所に火災を起こさしめ甚大なる損害を与え、上空の空中戦で4機のうち一機を撃墜」とある。

*同日:江西省吉安の軍事施設一カ所を炎上させ、水路の要衝臨江の四ヶ所を爆撃、一カ所は火薬庫で激しく爆発。

*同日:鄱陽湖東方の江西省景徳鎮市浮梁の倉庫群を爆撃。

*同日:陸軍の侵攻に協力し、安徽省安慶市宿松の敵部隊を攻撃、また 安徽省中台羅の弾薬庫を爆破。

*同日朝、陝西省西安飛行場を急襲、高射砲などの砲撃を受けたが、低空飛行で銃撃。

*同日:江西省上饒市弋陽、横峰において進行中の列車を爆撃、機関車を大破させた。

*8月4日:陜西省延安に27機が襲来、爆弾100個投下、死傷者6人。

*同日:江西省吉安および新淦を奇襲、軍事施設を爆撃。

*8月5日:浙贛線の江西省鷹潭駅を奇襲、待機中の機関車、貨車および満載のトラック群を銃爆撃。

*同日:遼寧省の水陸交通の要衝、永康を爆撃、軍需品倉庫群を爆砕炎上。

*同日:福建省泉州市恵安県峰尾村を爆撃、3隻の船が沈没し船民4人が爆死、2人が負傷。8/7にも2隻の船が撃沈された。

*8月5、8日:広東省仏山市高明県明城を爆撃、祠堂1室を爆破。8日、明城を爆撃、黉宮魁星閣を爆破。

*8月6日:浙贛線の江西省鄧埠駅の機関車、貨車群を爆撃。

*8月上旬:湖北省荊州市監利県の堤頭を9機が一時間以上も爆爆を行い、三百人近くが死傷した。

*8月6−7日:浙江省寧波市余姚の軍事施設および温州数カ所の軍事拠点を爆撃。

*8月7日:浙贛線の浙江省金華と義鳥の駅を爆撃、軍需品倉庫を灰燼に帰し軍用列車を破壊。

*8月9日:(「久しぶりの快晴に恵まれ」第26次として)重慶の市街地に91機が二回に分けて302発の爆弾と47個の焼夷弾を投下し、253人が死亡、226人が負傷、建物333棟505軒が破壊された。この日は曽家岩の蒋介石宅を狙ったというが、成功していない。別途、重慶嘉陵江北岸(涪陵)官山坡の工業地帯を痛爆、また揚子江南岸の海棠渓を初爆撃。

*同日:浙贛線の鷹潭駅の残存倉庫を爆撃。

*同日:湖北省恩施市来鳳を爆撃。

*8月10日:粤漢線の要衝、湖南省衡陽を三度にわたって爆撃、軍事施設や駅周辺倉庫群を多数破壊炎上させた。

*同日:二隊に分かれ、安徽省池州、銅陵方面を偵察爆撃、また江西省上饒市弋陽、鷹潭、広信を攻撃、弋陽では21輌連結の列車を爆撃、さらに弋陽駅の貨車の積荷を炎上させ、鷹潭南方の渡船場で運搬船3隻を爆破、広信では貨車14輌を爆撃した。

*8月11日:第27次重慶爆撃、市街地に90機が二回に分かれて、爆弾310発と焼夷弾28発を投下し、123人死亡、147人負傷し、建物83棟262軒が破壊。 嘉陵江北岸で大火が続いた。空中戦では中国機35機と激戦、中国機3機を撃墜するが(中国側の記録では)日本機は5機が撃墜された。

*同日:一機が、湖北省荊州市公安県南平三仏寺及び吏部街裏に10数発の爆弾を投下し、家屋6棟を爆破し、3人が爆死、1人が負傷。

*8月12日:90機が四川省瀘州瀘県、自貢市自流井、内江市隆昌を爆撃。 瀘州城では爆弾20−30発を投下、家屋60棟を破壊し機銃掃射も含め256人が死傷した。また凝光門と中城公園一帯での爆死、爆傷、防空壕の崩壊による死者は125人に上る。このうち100人以上が凝光門の防空壕に避難し、爆弾により入り口が塞がれ、死亡した56人のうち30人は窒息死であった。自流井市では10カ所が炎上。この日は重慶市内にも警報が出され、大トンネル内に避難民を収容しすぎた上、猛暑のため9人が窒息死し、40人余りが負傷した。(『侵華日軍暴行総録』四川省編)

*同日:浙贛線の浙江省金華と孝順を急襲、駅付近の軍需倉庫群を炎上させた。

*8月13日:広西省奥地の桂林、柳州の鉄路を爆撃、武器弾薬、糧秣、石油などを満載する貨車を爆砕、さらに軍事拠点桂林を空襲、重要施設を破壊した。

*同日:連日で2回にわたり四川省の自流井を痛爆、別の一隊が瀘州を急襲。

*同日:浙贛線の江西省鷹潭南方渡船場付近の軍用倉庫を爆撃。

*8月13−14日:浙贛沿線の要地、江西省広信、玉山、江山などの偵察爆撃を実施、浙江省衢県では運行中の列車を爆撃、客車は脱線転覆した。

【「世界史に誇る」渡洋爆撃三周年記念行事】

〇 8月13日、日本海軍は、上海事変から三周年、特に「世界史に誇る渡洋爆撃」を記念し、銃後の意気を昂揚する目的もって、この日夜、東京日日新聞車主催、海軍省国民精神総動員本部後援のもと、小石川の後楽園スタジアムで「海軍渡洋爆撃記念の夕べ」が、大日本吹奏報国会や海軍軍楽隊、海洋少年団音楽隊などと宝塚少女歌劇団や松竹歌劇団ほかの舞踊団等々の豪華出演者をもって開催された。

〇 8月14日、海軍航空隊はこの日をもって5月以来3ヶ月間の陸軍航空隊との重慶地区合同爆撃を終了すると発表、その攻撃日数38日、出動攻撃延べ機数は3300、投下爆弾は2500トン、敵空軍に与えた撃墜機は65、うち不確実は9、地上機の爆破は57とした。ただし合同作戦は実際には翌月の9月4日まで続けられている。

【中国空軍の日本機撃破記録】

▽ 同日、中国航空委員会は、この3年間で中国空軍が日本機848機を撃墜し、飛行士1148人を撃殺し、艦船154隻を撃破したと発表した。

*8月14日:午前と午後にわたり、湖南省衡陽の駅付近の軍需品倉庫群および待機中の貨物列車を爆撃。

*8月15日:前日に続き、三隊が順次に粤漢線の要衝、湖南省衡陽付近の残存倉庫群、軍需輸送車、駅施設、機関車を奇襲爆撃。また湘桂沿線の倉庫群、貨車を爆撃、湘江河上の輸送船数十艘を破壊炎上させた。(中国側の記録では、8/10からの爆撃で衡陽は700発余りの爆弾が投下され、住民2000人以上が死傷した)

*同日:浙贛線の鷹潭駅の倉庫群、また南方にあるトラックやドラム缶約50を銃爆撃。

*同日:広東省の南部沿岸地域にある下川島に敵前上陸する海軍陸戦隊に協力して爆撃、また対岸の湖南省邵陽市新寧鉄道付近の軍事施設を爆撃。

*同日:河北省の献県付近の中国軍を爆撃。

*8月16日:重慶南部の四川省瀘州合江・瀘県の「軍事施設」を53機で爆撃。このうち合江についての中国側の記録である。(瀘県は12日にも爆撃されている)

 —— 午前11時頃、日本軍機20機以上が東から西に合江県城をかすめて飛行、瀘州方向に向かった。午後1時頃、日本機は引き返して来て、金華山の上空に向かい、「一」の字編隊に広がり、編隊別に県城に急降下し爆弾、焼夷弾を投下、また機銃を乱射した。たちまち、城内は黒煙に包まれ、火は天を衝き、家屋は崩れ、煉瓦が飛び散った。再び城東の筆架山に向かって旋回飛行し、東から県城に向かって急降下、県城を爆撃と機銃掃射を行った。そこから合江城の半分は火の海になり、最も悲惨だったのは北門城外の大通りや路地で、血と肉が飛び散り、瓦礫が 山となり、叫び声が天を震わせた。今回の爆撃で、合江県城は2000戸以上が被害を受け、破壊、焼失した家屋は全城の家屋総数の2/3を占めた。重傷者は張家沟、仁里沟だけで130人以上が収容された。報恩寺王火砲の家族12人は全滅した。中街の胡海安は煉瓦の下敷きになり頭だけが外に残っていて、助けを求めて叫んだが、大火が近づいて救出することができず、そのまま焼け死んだ。(『侵華日軍暴行総録』四川省編)

*同日:広西省南寧西北の恩隆の軍事拠点を急襲、爆砕 、また別の一隊が同省雷平付近の「敗敵を猛爆」。

*同日:浙江省の浙贛線上の金華と義鳥の中間を走行中の軍用列車20輌を爆破転覆させた。また金華西方の寧波市渓口の軍事施設関係を爆撃。

*8月17日:90機が重慶氷川区、万県市、雲陽県を爆撃。氷川では数十カ所に爆弾約140発で147人死亡、257人負傷、家屋253棟1002軒が破壊。万県では爆弾70発で60人死亡、70人負傷。また雲陽県では6機が飛来、数十発の爆弾を投下、城内の主な街区と城外の小河湾が爆撃された。公園の岩下の防空壕の入り口に爆弾に爆弾が落ち、その場で6人が死亡、6人が重軽傷。

*同日:四川省自貢市富順県を27機が爆撃、百数十発の爆弾を投下し、市街区の大半を破壊した。住民140人が死亡、145人が負傷したが、張綿煜一家6人は全員が爆死、西門林家湾の林作成家では家人14人と雇い人、来客合わせて16人全員が爆死した。さらに9機が富順県城の南、沱江から城内に急降下、28発の爆弾を投下(うち5発は不発)、同時に機関銃乱射し住民40人以上が死亡、数百人が負傷(重傷者は127人)、民家700軒以上を爆破した。江家祠堂の張吉三一家7人で全員が死亡し、卿永豊家の2人の娘は被爆して遺体が3つ切断され、正街周益森の10歳の子供は数個の塊となった。

*同日:湖南省衡陽を爆撃。

*同日:浙江省温州南西にある集積基地古鰲頭を爆撃、風に煽られ全倉庫が灰燼に帰した。

*同日:広西省柳州を急襲、軍需物資とトラック約60台を爆砕。また広西省賓陽の敵陣を急襲し壊滅した。

*8月18日:前夜から未明にかけて第28次として重慶を三波で攻撃し、市街地では3ヶ所、万県では4ヶ所を炎上させ「甚大な損害を与えた」。市街区に爆弾20発、焼夷弾9発を投下、14人死亡、20余人負傷。万県では爆弾128発を投下、12人死亡、13人負傷、家屋293軒破壊。

*同日:陜西省宝鶏を中国共産軍のルートの軍事施設を爆撃。

*同日:湖北省宜昌市の水陸の要衝長陽を爆撃。

▽ 同日:中国軍爆撃機が日本軍が占領する湖北省宜昌を9機で攻撃、海軍飛行隊が迎撃し、5機を撃墜した。

*8月19日:未明より36機で重慶市街を第29次攻撃、政府関係施設、軍事施設を爆撃、6ヶ所を炎上させた。再度午後に第30次として重慶市内および新市街地ある軍事施設、飛行場に「正確有効なる爆撃を実施、市街の数ヶ所を炎上させた」。また別な記録には「重慶石馬州飛行場を90機が空爆、零式艦戦(零戦)初進攻、敵戦闘機離陸逃避」とある。以下は中国側の記述で、多少機数等に差異がある。

【とまらない大使館、、学校、病院等への爆撃】

 —— 重慶の巴県を含めた繁華街に、午前11時22分、119機が三回に分けて304発の爆弾(そのうち250kg爆弾90発)と53個の焼夷弾を落とし、50以上の街路や大きな建物が爆撃され、火災も発生、181人が死亡、132人が負傷し、家屋643棟と1180戸を破壊し家を失った人は2000人に及んだ。(なお250kg爆弾は地面に落ちると15−20mの大穴が空き、その範囲にいた人は形が残らず行方不明となり、周辺の人は土砂で生き埋めになる)さらに1時42分、再び9機が重慶市に侵入、41発の爆弾、10個の焼夷弾を投下し、91人を殺害、57人が負傷した。目立った建物では川東師範学校、国民党軍、ソ連・イギリス・フランス大使館、仁愛医院など多くの施設が破壊された。

(『侵華日軍暴行総録』)

 —— この日、12歳の楊昌華は一人の姉と疎開していたが、どうしても母に会いたいと伯父にせがみ、三人で市内で店をやっている母に会いに行くことになった(父はすでに病死)。城門まで来たとき爆撃に遭い、気がつくと伯父は重傷を負い倒れていて、姉は左足が切断され血があふれていて、自分も右足に重傷を負い血が流れていた。しばらくして救援隊が来て病院に運ばれたが、数日後意識が回復したとき、伯父と姉は亡くなったことを知った。やっと動けるようになって母の店のある街に向かった。街は瓦礫の山で、通りかかった人に「お前のお母さんは真っ黒になって死んでいたよ」と知らされ、店は完全に燃やされ、母の遺体がどこに埋葬されたかもわからなかった。私は孤児になり、親戚の家も生活が困難で、路上生活を始め、2年間続けた。

(重慶爆撃民間対日賠償案原告団:楊昌華の証言)

 こうした境遇は、1944年末から翌年に米軍により爆撃を受けた日本の各地に起こったことにそのまま置き換えることができる。

8月19日の爆撃は特に悲惨で、日本海軍は140機以上の爆撃機を投入し、重慶の2000軒以上の民家が破壊され、1940年までに日本軍は重慶に4333トンの爆弾を投げた。

*同日:安慶上流湖東(瀋陽湖東岸地帯)方面に偵察攻撃を実施。

*同日:浙江省浙贛線の諸曁駅を奇襲、付近倉庫群を爆破、さらに寧波ルートの要衝東陽でガソリン満載のトラック群、またその西方の嵊州の軍需倉庫を銃爆撃。

*8月20日:午後、陸軍だけで重慶の軍司令部や行政府の密集する市内北部官邸街を猛爆し大火災を起こす。さらに夜間、第31次として重慶の巴県、涪陵などを含めた繁華街に、152機が五回に分かれ、そのうち第一回36機、第二回36機、第三回27機、第四回27機で爆弾426発、焼夷弾268個を投下、全城38ヶ所から火が上がり、133人が爆死か焼死し、208人が負傷(これは被害全地区ではない)、建物988棟と2314軒が破壊、炎上し、一万人以上が難民となった。多数の街路や銀行区も火災に襲われ、外国施設や南岸・江北も被弾した。この連日の爆撃は重慶の都市機能の多くを破壊するものだった。中国軍高射砲で日本軍機4機が撃墜された。(海軍の記録では巴県白市駅飛行場を90機で爆撃、その他重慶南方の弾子石および軍需工場のある海棠渓とある)

【自貢爆撃の被害例】

*同日:四川省で重慶西方の自貢市(塩都と称され、良質の塩が産出される街)を17日に続き爆撃。

 —— 鐘国華の一族は市の中心部である自流井区で30数名になる五家族で住み、養豚業などを営んでいた。日本軍の爆撃を避けるために敷地の小高い丘の一部を削って草木で覆った避難小屋を作っていた。これは防空壕ではなく、単に飛行機から見えないようにするためだった。この日、鐘家では13人ほどが家にいて、みんな警報と轟音に驚き、急い で敷地内の避難小屋に逃げ込んだ。避難小屋に12人が入った直後 に、爆弾投下が始まり、大叔父の鐘森栄が逃げ遅れて自宅に隠れた。その時、投下された爆弾で自宅が倒壊し大叔父は倒壊家屋の下敷きに なって死亡した。 ほぼ同時にもう一つが運悪く避難小屋を直撃し、鐘家の12人は全員即死した。しかも12人の体は頭や手や脚がばらばらになってあっちこっちに吹き飛ばされてしまい、例えば一番目の伯父の頭は台所のドアの近くに落ちていた。また誰の ものかわからない人の腸が庭の植木や葡萄の木に引っかかっていた。自宅にいて爆弾で倒壊した建物の下敷きになって亡 くなった大叔父の遺体だけは完全な姿をとどめていた。亡くなった13人以外の鐘家一族は、この日、全て別の場所にいたため 助かった。私と母も縁戚の家に行っていて助かった。生き残った家族は、亡くなった親族の遺体を集めたが、ばらばらになった遺体は誰のものか全く判別がつかず、やむを得ずばらばらになった遺体をまず籠に収め、 それから素焼きの壺に入れて埋葬した。しかし埋葬した後でも、遺体の一部があちこちで次々と見つかった。

(重慶爆撃民間対日賠償案原告団:鐘国華の証言)

*同日:四川省梁山県飛行場、また重慶に隣接する南充市を爆撃。

*同日:広西省桂林市霊川を初爆撃、駅や市内の倉庫十数棟を破壊。

*同日:貴州省貴陽(重慶や成都に通ずる要路)を第六次爆撃。

【日本のマスメディアの高揚】

  8/20付の毎日新聞は、1937年8/14の渡洋爆撃から三年、また重慶(国民政府の首都)に爆撃を開始して三ヶ月余の節目として(重慶への初爆撃は海軍による1938年2月18日であるが、三ヶ月とは陸軍航空隊との計画的合同爆撃を指す)、「我が陸海空軍の偉業——独英戦をはるかに凌ぐ」とのタイトルで記事を載せている。

 —— 最近のドイツの英国に対する大爆撃は世界の耳目を集め、日本人すらそのはなやかな一面に幻惑されて東亜の一角に我が無敵空軍が死力を尽くして敢行する聖戦の厳たる事実を忘れがちである。われら空軍が敢行している重慶爆撃は、独空軍の英爆撃の比ではなく(ただしドイツ軍のロンドンへの本格的空爆は9/7からであり、この12日からイギリス軍の基地に攻撃を始めたばかり)、日本空軍にして初めて可能というべき偉業である。すなわち重慶の位置する四川盆地は一年の大半が密雲によって庇護されその気象は魔の空であり、またわが〇〇基地から〇〇kmの長距離の行程を翔破しなければならず(当時の新聞は基地の名も距離も攻撃飛行機数も伏せられていた)、我々の爆撃行はイタリア空軍がローマからロンドンを急襲するに等しく、しかも中国では一度飛び立てばすべて敵地である等々、その困難性と日本空軍の勇猛果敢さを称えている。

 筆者私見:当時の日本はこの種の記事で溢れているが、戦後から今に至るまで日本でそれが回顧されることはまずない。現在でもドイツ空軍のイギリスへの爆撃が語られることがあっても、である(ちなみにドイツ軍のロンドン空爆は翌1941年5月末まで約9ヶ月行われ4万3000名以上が死亡)。いずれにしても日本軍の重慶を含む中国への爆撃はこの稿で詳述しているように、「偉業」としてはドイツを「はるかに凌ぐ」ものであり、後年の米国の日本への爆撃(8ヶ月)をもはるかに凌いでることをわれわれ日本人がまったく知らないことは、その世界史的認識からしても異様というべきである。

◎ イギリス軍は上海を撤退した。

【八路軍の「百団大戦」】

▽ 中国共産党八路軍は、日本軍に対する「百団大戦」作戦(百個の連隊を使った作戦とされる)を主に華北で展開する。

*8月21日:広西省桂林・柳州・南寧市遷江・来賓を爆撃、桂林・柳州では鉄道、橋梁など、遷江ではトラック20数台破壊。

*同日:36機が四川省達州市の渠県、達県、綏(すい)定県を三波で爆撃、爆弾400余発で109人死亡、270人負傷。ただし渠県だけの記録では、36機が3回に分けて爆弾と焼夷弾40発以上を投下、渠城の住民400人以上が死亡、200人以上が負傷とある。またこの爆撃後大風が吹き荒れ、渠城は一面の火悔となり渠城正街と車門街の全て、北大街の大部分、南街の一部はすべてが廃墟となり、街の家屋の80%以上が灰となり、財産の損失は数億元に達した。なお1人の女性は子供を抱いて逃げたが子供の頭は敵機の爆弾に吹き飛ばされ、また大勢の住民が裏手にある渓谷に避難の途中、敵機に発見、20分以上も爆撃と急降下機銃掃射を受け、その渓谷は死体で埋め尽くされ、その悲惨な情景は言葉に出来ない。別途達県では、9機が飛来、城内の東半分に爆弾、焼夷弾40発以上を投下、城壁が10mにわたり崩壊、民家が30数軒が爆破され死者44人、負傷者64人とある。(『侵華日軍暴行総録』他)

*同日:貴州省貴陽を連日で爆撃、石油倉庫等六棟を爆破炎焼させた。

*同日:浙江省浙贛線広信および安徽省蕪湖市無為を偵察爆撃、二箇所で列車を銃爆撃し客車を破壊。

*同日:浙贛線の浙江省義鳥の大橋梁を爆破、また付近の自動車、軍用倉庫、約百個のドラム缶、さらに金華駅付近の貨物列車二輌、金華西の蘭谿の石油貯蔵庫群、衢県の荷揚場や倉庫、その付近の小型輸送船などを爆撃。

*8月22日:9機が広西省崇左市竜州県金荷村を爆撃して3発を投下、民家5軒を爆破し、村民13人が爆死、3人が負傷。

*同日:広西省河池市東蘭の自動車群約40台を爆破、また南寧北方の野車河の倉庫群を猛爆。

*同日:浙江省浙贛線広信西北の30輌連結貨車を銃爆撃、転覆させ機関車も破壊、また江西省上饒市横峰では列車16輌を銃爆撃、さらに横峰、弋陽間の25輌、弋陽の13輌、鷹潭では10輌と13輌を銃爆撃大破させた。

*8月23日:81機が第23次重慶爆撃を敢行し、南岸区弾子石・海棠渓などに爆弾284発を投下、12人が死亡し、37人負傷、家屋348戸を破壊。

*同日:陸軍の掃討作戦に協力し、安徽省無為県開城橋の敵拠点を爆撃。

【空襲警報がやまない重慶】

〇 この日まで重慶は8月中に日本軍の空爆で空襲警報が発せられた日数は13日、その時間は52時間で長いものは6時間、最短で1時間25分、1日平均で4時間であった。なお重慶の天候が良ければ日本軍はもっと空爆を増やしている可能性は十分にある。

*8月24日:早朝、大編隊で広西省要衝の桂林を襲撃、軍事施設や待機していた貨車群一千数百輌に爆撃を加え「大損害を与えた」。

*同日:広西省柳州、霊川、南寧市遷江などを奇襲爆撃。

*同日:8機が山西省晋中市楡次東建の八路軍129師団の陣地を爆撃し、軍民100人余りを死傷させた。

*8月25日:10機が陝西省華県境西部の赤水職業学校や圪搭廟一帯を爆撃。 

*同日:広西省柳州を大挙して急襲、停車場と貨車約30輌、軍事施設を爆撃。

*同日:広西省桂林市の興安と全県の停車場や軍事施設、多数の貨車群を爆砕。

*同日:3機が広西省防城港市防城の那梭垀を爆撃、投弾12発、住民死者4名、負傷者5、6名、家屋三軒。

*同日:湖北省襄陽市老河口の軍事拠点を爆撃。

*同日:徽省無為県開城橋で日本軍と対峙する中国軍400を銃爆撃し壊走させた。

*8月24−26日:50機で広西省桂林を爆撃し、飛行場や輸送機関を破壊した。

*8月26日:陸軍航空隊は大編隊で広西省桂林の西南方飛行場、停車場を爆砕、また柳州駅北待避線上の軍用貨車百輌を火の海にした。さらに広西省賀州および広東省肇慶市開建の軍事施設や軍需品を爆砕、次いで桂林市霊川にも「巨弾を投下」。

*同日:8機で、山西省晋中市の楡次東建に居る共産党八路軍の陣地を爆撃し、100人以上の死傷者を出した。

*8月27日:浙贛線の江西省上饒市横峰東方に運行中の列車を爆撃、さらに鷹潭でも列車を銃爆撃、貨車を炎上、機関車を大破させた。またその途上、安徽省安慶下石牌の陣地を爆撃。

*8月29日:広東省韶関市を二回に分けて爆撃、司令部軍事施設や軍需品満載の約300隻のジャンク船を炎上破壊した。

*8月29−30日:広東省河池市東蘭を連日爆撃、数十輌のトラック群と倉庫群を爆砕。

*8月30日:24機で陝西省咸陽市武功県、また12機で咸陽の市街を襲撃、そこにある紡績工場を爆撃し、従業員10人が爆死、数人が負傷。(日本側の記録は、敵主要軍事工場を爆撃とある)

*同日:広西省柳州と貴州省貴陽を結ぶ要衝東江の橋梁を奇襲爆撃、切断に成功。

*同日:四川省達州市達県に9機が飛来、通川橋に10発以上の爆弾を投下し破壊、3人が死亡。

*8月31日:36機が三派に分かれて陜西省宝鶏郊外を爆撃し100発以上の焼夷弾を投下、そのうち21弾が申新紡績工場へと投下され工事中の工員一人が死亡、また太白廟近くの中学校、闘鶏駅、龍泉巷口で10棟以上、中山西路の家屋7−8棟、姜城堡娘廟、渭河南郷村などが爆破、炎上し2、30人が死傷した。(日本側の記録は、軍需工場や巧みに隠匿されていた軍需品、軍用道路を爆撃、各所に大火災を起こしたとあるのみ)

*同日:浙江省浙贛線要衝江西省貴渓、弋(よく)陽の貨車群を爆破転覆させ、鷹潭東方に隠匿するトラック群やドラム缶を銃爆撃、多大な損害を与えた。

【大量爆撃にも動じない重慶政府と焦る日本軍】

 8月23日以降、重慶への爆撃は一旦休止されるが、日本軍の観測では首都としての重慶は疲弊し、蒋介石は重慶を捨てて広西省の「蛮地」に遷都しようとしているとして「抗戦四年目」にして日本軍の勝利は目前のような書き方を新聞紙上でしている。しかし重慶の実態は大きな防空壕や地下壕が張り巡らされ、いくら大爆撃をしても犠牲者の数は少なくなっていることに(地上の様子がわからない分)日本軍は鈍感なようであった。むしろ日本軍のほうがこの長期にわたる戦争の終結が見えず、世界的にも孤立を深め、次第に焦りが出てきて翌年末に太平洋戦争に突入することになる。

 なお重慶爆撃は海軍航空隊が主であるが、陸軍航空隊としてはこの夏の時期天候が悪く、また使用する飛行場も簡素なものだったので、数日雨が降り続くと、数日は出撃できないという状態で、十分な活動ができなかったが、これまでの三ヶ月間の重慶を含めた奥地侵攻作戦攻撃日数は22日:出撃延べ機数は約一千、投下爆弾約六百トンであった。いずれにしろ陸軍の支那派遣軍は9月3日までで重慶爆撃から撤退し、飛行隊を南方作戦、つまり中国軍の物資支援ルートであるフランス領インドシナ(ベトナムやラオス方面、略して仏印とされる)に進軍、封鎖する作戦に向けられて行く。実際のところ、フランスはすでにナチスドイツに侵略され、身動きできない状況であり、日本軍はその隙を狙って、まず9月下旬には現在のベトナム・ランソンに侵攻、その後ハノイにも進出し、そこから逆に国境に近い中国南部地区を爆撃するようになる。

▽ 国民政府の重慶救済委員会の発表では、この1940年の空爆による損害について、「投下爆弾7084個、焼夷弾2512発、死者1226人、重傷2492人(うち瀕死1770)、防空壕内での生埋めや家屋の下敷きになった者530人、家を失った者約7万人」としている。(この記事は9/2毎日新聞からで、つまり日本軍の戦果として堂々と報じているもので、中国が「他国の同情を誘うべく宣伝に努めている」としている)

9月

*1940年9月1日:27機が二波で重慶の広陽壩飛行場と万県、梁山(現・梁平区)を爆撃。

*同日:再度、柳州と貴陽を結ぶ要衝東江の橋梁を爆砕、補給路に甚大な損害を与えた。

*9月2日:陜西省宝鶏を爆撃。爆弾290発で2人死亡、15人重軽傷、家屋破壊158軒、372人が難民となる。(日本側の記録は、大編隊で宝鶏に襲撃し軍需品集積工場等を猛爆、これが三回目で重要施設は完膚なきまで爆砕した、とある)

*同日:安徽省蚌埠市懐遠の自動車、倉庫群を猛爆。

*9月3日:午後2時頃、陝西省安康(興安)県城に空襲警報が出された。10分後、12機が県上空を西から来て爆撃と機銃掃射を加えた。その後、第二次、第三次の各12機が来襲し急降下投弾、三次合わせて36機が焼夷弾、毒ガス弾を合わせて500発以上投下、県城の大通りと路地は一面の火の海で、死傷した民間人は800人以上に達し、無数の民家が爆破された。北馬道廟台子では死亡30数人、金銀巷口福泰昌菓子店で死傷者7人、大小南門外一帯の死傷多数、新城南井街で死亡10人、興安師範で学生7人が死亡、老城土西門から大什字一帯で死亡100人以上、県郵電局が爆破され、安康中学の機器室が全焼、陝西会館に保管していた百万斤の桐油が被弾して出火し、三昼夜にわたり煙が充満した。(『侵華日軍暴行総録』)

 以上とは別の記述では「爆弾と焼夷弾によって市内全部が炎に包まれ、特に旧城中部の龍窩街が廃墟になり、ある一家では来客19人が死亡し、母と生まれたばかりの子だけが助かった。北正街では兵士200人ほどが被爆、一人も助からなかった。この日の死傷者は1500人を越えた。また、焼夷弾とともに毒ガス弾も投下された」とある。 (この日の安康への爆撃は四川省への予定が悪天候のため安康に変更したもの)

*同日:午前:湖北省恩施市巴東県を20機が3回の爆撃で10数発を投下、爆死48人、重軽傷22人、家屋28軒を焼失、破壊37軒、木船2隻爆沈。日本側の記録では、全市街に大火災を生じさせ、揚子江上の砲艦克安を撃沈、また輸送船4隻も爆沈させた。

*同日:27機が重慶北方防空監視区の四川省広安を爆撃、爆弾219発により61人死亡、169人負傷(101人死亡とも)、家屋410軒損壊。

【収容された死体は1300以上】

*同日:ちょうど上記広安の隣の南充市順慶では定期市が開かれる日で、各市場は混雑していた。正午、36機が4隊となって南充の上空に飛来、まず市街地にビラを撒き、一旦北に飛び去り、また南から城区に急降下、次々と機銃掃射を行いながら大量の爆弾や焼夷弾が投下された。たちまち全城は山が崩れ落ちるような爆発音に包まれ、血と肉が飛び交い城下は見渡す限りの火の海となった。日本機は3回爆撃を行い、南充市全城が被爆、外武顕廟米市では完全な死体をひとつも見つけることができず、林氏一家26人は全員が死亡、他にも多くの家が絶家となった。興業巷の王明徳老人は家族全員が死亡し彼ひとりが生き残った。5人家族で妻の張氏ひとりだけが生き残ったが、夫の遺体が足が1本しか残っていないことで、精神に異常をきたし間もなく死亡した。果山公園内の大きな黄桷樹の木の下に100人以上の人々が隠れていたが機銃掃射を受け死体が散乱していた。大東街、二府街と果山公園の楊槐樹には首がぶらさがっていたり、四肢がぶらさがっていたり、内臓や肉がぶらさがっていたりした。大南門外の城康辺だけでも、男女の区別もつかない200体以上の黒焦げ死体が横並びになっていた。当 局は遺体の収容を始めたが、死体は1300以上を数え、それもすべてではなかった。(『侵華日軍暴行総録』) 

*同日:浙江省浙贛線上の広信を爆撃、また弋陽、貴渓間の貨車合わせて16輌やドラム缶50を銃爆撃、鷹潭や安徽省合肥市鄭埠などにおいて合わせて機関車3、貨車客車10数輌、トラック他車両30数台などを銃爆撃大破させ、「近来稀なる戦果を収めた」。

*同日:1日に爆破し、代わりに急造された柳州東江の100mの舟橋を再び急襲、切断した。

*9月4日:湖南省懐化市芷江県城に対し第3次爆撃を行う。午前8時ごろに突然来襲、河西黄甲街付近の神廟が爆撃され、高い塀が崩壊し、近くの数十人を圧死させた。当時県城新北門の撫水河に仮設の浮橋が架けられていたが、その日、何千人もの住民が早朝から空襲を避けて浮き橋を渡って城外に出ていた。しかし空腹に耐えられなくなり、家に帰って食事をしようとする者も出てきた。ところが浮橋の辺に戻って間もなく、敵機が突然襲って来て、爆弾数個を落とし、たちまち数十人の住民は無水河の水を真っ赤に染め、河川敷で草を食べていた十数頭の牡牛もすべて爆死。城内の東紫巷五通廟に閉じこもっていた100名余りの住民も爆撃の下で一人も生き残らなかった。万里の獅子巷に隠れていた57名の外地からの難民は、敵機の爆撃の後、ただ一名、傷を負った六歳の子供が倒れて泣いているだけだった。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

【防空壕で110人全員窒息死】

*同日:午前6時、27機が 湖南省懐化市辰渓県城の上空に飛来、市民は次々と城外に避難した。日本軍機は県城を2周ほど旋回して飛び去った(この後上記の芷江県城に向かったと思われる)。市民は日本軍機がまた戻ると思い城内に戻ることができなかったが、午後1時過ぎ、空腹で次々と城内に戻ってきた。午後2時頃、18機が突然飛来、家に帰った住民たちは必死に城外に向かって走ったが、彼らに対し無差別爆撃と低空掃射を1時間もかけて行い、城全体は火の海になり、あちこちに爆弾跡が残り、死体が散乱した。師団管区に労役させられていた40人以上の壮丁と監獄に収監された受刑者100人以上は、外に避難することができず、爆死、焼死した。海軍魚雷大隊兵舎跡の小園付近では100人近くが死傷、小園内の防空壕の出入り口が爆破され、中に避難していた女性と子供約110人が全員窒息死した。城全体の700棟以上の家屋を破壊され、1000人以上が死亡、負傷者の数は計り知れない。この爆撃の後、政府機関は麻痺し、商工業は停止し、学校は休校となり、県城は荒れ果てて見る影もなかった。(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:芷江のほか懐化市辰州と辰谿に対して爆撃、合わせて十カ所以上を炎上させた。

*同日:湖北省巴東を連日で攻撃、揚子江上の商船1、輸送船3を撃沈。

*同日:大編隊をもって広西省柳州、河池間の約40台のトラックを爆砕、さらに河池市東蘭の渡河用の桟橋とトラック十数台を爆砕。

*同日:浙江省寧波を午前午後の二回にわたり爆撃、周辺防空陣地より砲撃を浴びながら市内の司令部などを爆破炎上させた。( 中国側からは、寧波市鄞県の商業地区や住宅地への爆撃で多数の死傷者と家屋が破壊されたとある)

【日中両国の重慶爆撃の記録】

〇 陸軍航空隊の発表では、5月18日から9月5日まで約3カ月半の百一号作戦は解かれるが、その期間中、重慶爆撃に投入された飛行機の延べ機数は(飛行基地への攻撃は除き)海軍が1737機、陸軍が286機、投下した爆弾数は海軍が6種類で9819発(うち焼夷弾315発)で総量1281トン、陸軍の爆弾数は1201発で125トンであった。また海軍の爆弾の1/4は250kg爆弾であるが、800kg爆弾がなんと278発もある。この時代、他国ではまだ滅多に使われない大型爆弾で、この3年後に米軍が日本本土に使った爆弾は250kgが主で次に500kgで、1トンは稀である。

 中国側のネット上の資料では、この作戦の第1期は主に重慶を、第2期は主に成都とし、110日間にわたって爆撃、そのうち重慶を30日間爆撃し、延べ2329機以上出動させ、7441発以上の爆弾を投下、2178人を死亡、2459人を負傷させ、家屋1万6763軒を破壊したとしている。あるいは重慶防空司令部の発表では66日間で延べ3219機、爆弾7530発を投下としている。集計の仕方によって違うのであろう。

 この後は海軍が主体となって重慶地区への爆撃を継続していく。

*9月4−5日:浙贛線上の浙江省弋陽、江西省鷹潭市鄧埠で機関車三台、また鷹潭ではトラック群、撫州市金谿付近で搬送中のトラック130台を爆破炎上させた。

*9月5日:

*9月7日:126機が重慶の悪天候により、目標を変えて四川省広安市、南充市の順慶などを爆撃。

*同日:大編隊で湖南省衡陽市、永州市祁陽および冷水灘を爆撃、衡陽は爆撃が全市に及び各所を炎上させ、湘桂沿線の祁陽と冷水灘では駅周辺の軍需倉庫や燃料倉庫を爆撃、一瞬で火の海となった。

*同日:5機が湖北省宜昌市帰州県境を1時間ほど旋回し、30発余の爆弾を投下し、長江を航行中の千五百トン級の商船3隻を爆撃、うち2隻は爆沈、また停泊していた7隻を爆破。このほか宜昌市長陽の軍事施設を爆撃。

【ナチス・ドイツのロンドン爆撃】

◎ 9月7日からナチス・ドイツはイギリスに対し夜間空襲を開始、ロンドンへは連続57日間に及び、翌1941年5月まで続けられた。それまでに4万3000名以上の民間人(半分がロンドン市民)が爆撃で死亡、100万以上の家屋が損害を受けた。

*9月8日:浙江省浙贛線上の金華付近の軍用倉庫とドラム缶約200、紹興市諸曁(き)駅の貨物や江岸荷揚場の貨物を爆撃、また線路数カ所を爆破。諸曁駅は翌日も攻撃、軍用倉庫や荷揚場、貨車二両を爆砕。

*9月9日:昼、湖南省懐化市辰谿対岸の兵器工場と倉庫群、辰州および衡陽、衡山を爆撃し、敵陣地を壊滅。夕刻、再度辰谿の兵器工場、衡陽、衡山の倉庫群を爆破炎上させた。

*同日: 午前9時頃、湖南省瀘渓県に9機が飛来、県城に対して交互に急降下爆撃を行い、前後30分余りの間に約100発の爆弾を投下した。市全体で40人以上が死亡、100棟以上の家屋が倒壊、焼失した。

*同日:浙江省紹興市諸曁の倉庫群を爆撃。

*9月9、11日:浙江省寧波市鄞県を爆撃。鄞県には1937年11/12から七回にわたり計52機の航空機が出撃、148発の爆弾が投下され、2000棟余りの家屋が破壊され、293人の住民が死亡、600人余りの住民が負傷した。当時の市街の要所や商業地は爆撃され廃墟になった。

*9月10日:江蘇省と安徽省の間、高郵湖と洪沢湖をつなぐ草河河岸の要衝の安徽省滁州市仁和集と三河河口の将堰付近に密集する中国軍部隊を爆撃、また江蘇省白馬湖西側に敗走する二つの部隊を追爆撃。

*9月11日:広西省賓陽周辺の軍事施設、兵営等を「木っ端微塵に粉砕」。

*同日:広西省柳州市貴陽街道の倉庫群を爆撃。

*9月12日:(久しぶりに天候が良く)重慶に出撃、48機が昼と夜の二回にわたり市街区を爆撃、「蒋介石ならびに要人達の住宅を虱潰しに猛爆」、あるいは地上100mの低空飛行で機銃掃射を加え、全機無事に帰還」。爆弾75発、焼夷弾5発で25人死亡、41人負傷、家屋52棟129軒破壊。

*同日:夜間、再度重慶に向かい、城内軍事施設を爆撃。

*同日:成都市李家花園を爆撃。

*9月12、13日: 福建省三明市三元県に4機が襲来、城関と列東街道に8発の爆弾を投下、うち城関に5発が三元中心小学校、陽巷尾、后路施庄公祠、周舎巷世栄祠などに着弾、建物や民家を破壊し重軽傷者が出た。省保安所の兵営にも落ち、兵士3、4人が爆死、多数が重傷を負った。翌日、3機が三元県の列西街道に飛来、5−6発の爆弾を投下、低空を飛行し地上に機銃掃射も行った。このうち4発が「呉厝官庁」の周囲50−100m区域に落下、多くの民家が破壊され、数人が死亡、負傷した。(『侵華日軍暴行総録』)

*9月12、13日: 湖北省巴東県を攻撃。 まず正午12時、6機が弾数10発を国民党軍の病院などに投下、国民党軍の兵士26人を爆死させ、負傷者47人。住民・難民14人を死傷させた。家屋14棟を爆破、艀船1隻を沈没させ、海兵輸送船1隻を焼失させた。翌日正午、9機が爆弾25発投下、爆死9人、爆傷1人、沈没1隻。

*9月13日:重慶を昼夜に分けて43機で襲撃、「城内の要人の住宅ならびに軍事施設に必中弾を浴びせ」、空中戦では20機を撃墜。中国側の記録では13機が撃墜され、市街区を53機で三波で爆撃、焼夷弾を含めて86発投下、市民14人が死亡、53人が負傷、別に13人が防空壕内で窒息死。 

*9月14日:重慶を昼夜に分けて30機で爆撃、西方郊外の軍事施設に「巨弾を浴びせ」、深夜は「城内重要施設を爆砕、重慶官民を不眠の死地に陥らしめた」。中国側の記録では、市街区を57機で4隊編成で市街区と巴県を爆撃、焼夷弾を含めて141発投下、26人死亡、負傷77人、建物44棟103軒。

*同日:山西省晋城市を爆撃。この時毒ガス弾も投下された。

*同日:貴州省独山県および広西省河池市東蘭県奥地の物資輸送トラック数百台、倉庫20数棟を爆撃。

*同日:浙贛線上の江西省広信、鷹潭、弋陽、鄧埠方面で列車50両、倉庫40棟、トラックなど100台を爆砕。

*9月15日:重慶を昼夜に分けて30数機で爆撃、昼間は四時間にわたり新市街や郊外江北の軍事施設、倉庫群に対し五回の反復爆撃。中国側の記録では、70機が市街区、南泉、小龍坎、美術学校等に爆弾、焼夷弾72発、19人死亡、38人負傷、家屋67軒。

*同日:2機が出動し、陸軍の江蘇省淮安市肝眙県への侵攻を支援して爆撃。この後、日本が敗戦するまで肝眙県城は日本軍に占領された。

*同日:貴州省貴陽の「抗日拠点」を急襲爆撃。これは「8機が11時頃、貴州八寨県(現・丹寨県)県城を爆撃、30人以上が死亡、20人以上が負傷、後に三合県(現・三都県)の錦鉱工場を爆撃、1人が死亡、1人が負傷、民家数棟が爆破された」に相応するかどうか。

【毒ガスで窒息死】

*9月中旬:6機が陜西省潼関県城南大街を爆撃、また麒麟山の山麓にある沈鳳山家の防空壕に毒ガス弾が投下され、7人全員が毒ガスで窒息死した。 

*9月16日:重慶を未明に30数機で攻撃、「要人住宅地に巨弾の雨を降らせ」、午後には郊外の南温泉や要人住宅を猛爆、また長江上流に繋留していた飛行艇を炎上させた(5/18の101号作戦開始からここまで海軍機として重慶爆撃は40回としている)。中国側の記録では、84機が五隊の編成で市街区と巴県に爆弾162発、焼夷弾16発を投下、38人死亡、38人負傷、家屋損壊81軒。

*9月12−16日:(中国側の記録)重慶を毎日数十機が出撃して爆撃し、爆弾計592発を投下し、129人が死亡、168人が重軽傷を負った。空戦では中国軍27機を撃墜、日本機は6機が撃墜された)

*9月16日:午後3時頃、河南省駐馬店市汝南県王崗鎮の上空に5機が飛来、旋回後、急降下し、逃げ回る群衆に投弾と機銃掃射を行なった。あたり一面に泣き声と叫び声が上がり、李長林一家は4人が死亡、胡清雲の18歳の娘、胡小向は両足を吹き飛ばされて死亡し、胡清林氏の17歳の娘と40代の胡耳は爆死、徐雲の9歳の娘と5歳の息子は爆弾の破片で無残にも死亡、畑仕事を手伝っていた外省人の老馬婆は2、3歳の女の子を抱えてサツマイモ畑に走って逃げたが頭上に爆弾が投下され、2人とも肉体が飛び散った。この爆撃で、20人以上が死亡、10人以上が負傷、40軒以上の家屋が破壊された。(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:安徽省池州市秋浦を爆撃。

【見るにたえない惨状】

*9月17日:午前7時頃、河南省駐馬店市汝南県に一機の日本軍偵察機が飛来、城を一周して去った十分後、一編隊三機の三編隊が偵察機に率いられて汝城の上空から急襲した。午後4時まで、日本機は三編隊が交互に6回爆撃し、汝南は城の東西数里の地に沿って、特に西関に集まった牛やロバなどによる軍用食糧運搬車の隊列が狙われた。合わせて50数回も連続銃爆撃され、人々は血の海に倒れて、呻き声をあげ、壁や床には血の跡があり、木の枝に肉片が垂れ下がっていた。城の川は一面に真っ赤で、牛の太ももさえも百m以上の南関街に飛んだ。生き残った負傷者が走り泣き叫ぶ姿は、見るにたえない惨状であった。この爆撃で市民は100人以上の死傷者を出し、牛車100台余りを爆破、牛やロバや馬の死傷は数え切れないほどで、県の穀倉と民家の多くを爆破した。(『日軍侵華暴行実録』第2巻) 

*同日:2度にわたり四川省万県城区を爆撃、220発以上の爆弾を投下し、爆死12人、負傷者13人、200間以上を破壊。

*同日:湖南省岳陽市湘陰県を爆撃。

*9月18日:浙贛線上の江西省上饒市横峰駅とその周辺の列車、トラック群を爆撃。

*同日:浙江省紹興市諸曁駅の物資満載の貨車10両を爆砕あるいは炎上させ倉庫も炎上。

*9月19日:浙江省諸曁南方を進行中の列車を爆撃、また浙江省麗水谷間の燃料貯蔵庫を爆撃、三棟と周囲に積まれたドラム缶を爆破炎上させた。

*同日:海軍艦艇の沿岸封鎖に呼応し、浙江省寧波市石浦および温州の軍事施設や倉庫群を爆撃。

*同日: 2機が浙江省寧波市象山県の東門島を爆撃、2人が死亡、民家19棟を爆破。

*9月19、21日:浙贛線上の江西省広信、鷹潭において、機関車、客車、貨物車を含めて105両、トラック20台を爆破、弋陽では線路5ヶ所を破壊。

【米英の中国支援】

◎ 9月19日:米国アジア艦隊提督は「米国は極東から決して脱退せず、あらゆる可能な方法で中国を援助し、日本への軍需物資の輸送を停止する」と表明した。またこの後10月8日、英国はビルマ(当時は英国の植民地)との輸送ルート(援蒋路=蒋介石軍を援助の意味)を再開すると日本政府に通告、日本側は不満を高め、「わが国としては重慶政権打倒作戦遂行の必要上、断固独自の方策をとり、実効ある措置を強行する」とした。

【ベトナム進駐】

◎ 6月14日にドイツ軍がパリを占領しフランスが降伏すると、日本政府はフランス政府にフランスの植民地である北部仏印(ベトナム・カンボジア・ラオス地区)への進駐を申入れたが、本国の同意が得られないまま経過、そこで国境に待機する日本の南支那方面軍は、9月23日、参謀本部の意図に反して強引に陸軍を侵攻させ、その後ハノイなど重要拠点に進駐、仏印国内の飛行場や港湾の利用権を獲得した(国内新聞紙上では仏本国との協議によって平和的に進駐したと書かれている)。すでに蒋介石中国軍へ北部仏印からの物資支援ルート(援蒋ルート)を遮断すべく、爆撃隊は中国南方に展開していて、その初期の例が8月下旬の桂林や韶関への爆撃であったが、その後中国軍はビルマとの国境に新たなルートを開いた。そのルートを断つためにメコン川上流にかかる功果橋とサルウィン川上流の恵通橋の二つの橋の破壊を日本軍は狙った。しかし翌年1月中旬には両橋とも修復された。また雲南省昆明はそのルート上の重要拠点となり、日本軍は爆撃の重要目標とし、進駐したハノイなどの空港から出撃した。

◎ 9月27日、日本はベルリンにおいてドイツ・イタリアとのあいだで日独伊三国軍事同盟を結んだ。

*9月21−29日:航空母艦飛龍を海南島に進出させ、艦載機が陸軍の北部仏印進出作戦を支援爆撃。

*9月27日:日本軍の零戦が重慶を襲撃、中国軍27機を空中戦で撃墜。

*同日:浙江省の金華江鉄道橋を爆破した。

*9月28日:重慶近郊梁山県(現・梁平区)を爆撃、27人死亡、43人重軽傷。

*同日:湖南省衡陽、永州市祁(き)陽・霊陵、岳陽市湘陰を爆撃。

*9月30日:27機が雲南省昆明の市街地を爆撃、12人が死亡、重軽傷250人、家屋の全半壊約400棟。(日本軍の記録は「敵軍事施設に猛爆を加え、甚大なる脅威と損害を与えた」とある。日本側の爆撃は建前上「軍事施設」関係でなくてはならない)

*同日:山西省晋中市楡社県北方と遼県北西の共産軍を猛爆撃。

*9月某日:広西省桂林・興安、江蘇省開建を爆撃。

10月

*1940年10月1日:滇越鉄道の要衝、雲南省開遠県阿迷の軍事施設などを爆撃。これに相応する中国側の記録は「開遠県城を爆撃して42人が死亡、28人が負傷した」とある。

*10月2日:午前11時、6機が 湖北省巴東県上空に侵入し、4回にわたって24発の爆弾を投下し、11人が死亡、18人が負傷、13棟の家屋を爆破した。

*同日:湖北省帰州を爆撃、ガソリンタンクを爆砕し全市は火の海となり、別の編隊が湖北省恩施巴東を急襲、市街地数カ所で大火災を起こした。

*同日:湖南省永州市祁陽西方の倉庫群、鉄橋、工場等を爆撃、同市冷水灘区の工場、倉庫群を爆撃。

*10月2−3日:江西省弋陽、横峰、玉山において西行中の列車を爆撃、貨車7両を大破。

*10月3日:「爆撃日和に恵まれ」大編隊で軍事的要衝の湖南省衡陽、長沙、株洲市雷打石を爆撃、雷打石では燃料貯蔵庫に着弾、大火災が起り全市街が火の海となる。

*同日:浙江省麗水を急襲、軍需工場、倉庫群、トラック群、兵舎等を爆撃。

*同日:日本軍は山西省長治市襄垣県南姚村に飛行機の援護の下、攻め込んだ。全村2里の100戸以上の家が日本軍の放火により焼かれ、洞窟式住居250以上、食糧520石以上、家畜30頭以上が焼かれ、村民の多くが虐殺された。

【731部隊の細菌散布作戦】

 関東軍731部隊は、1940年9月18日から10月7日まで6回にわたる細菌攻撃を浙江省の各地に実施し(ただし筆者はそのすべてを確認できていないが10/8にもある)、それはペストノミを含んだ穀物や綿花、紙包み、ぼろ布などを飛行機で投下するという方法であった。以下は10月4日浙江省衢県に行った事例である。(この後10月27日に寧波、11月27日には金華に細菌を投下するなど多発、また毒ガスも併用している)

*10月4日、午前9時、浙江省衢県(現・衢州市)の城内に日本軍一機が侵入し、細菌を混ぜた麦粒、粟米、破布、麦敖、黄豆、白色粉未、跳聖などを空から投じた。すぐに住民に発症しなかったが、17日後、街中に大量の死んだネズミが発見された。さらに20日後の11月12日、一人の女子(12歳)が発病し、 翌日から相次いで発病者が出た。いずれも発病後3、4日で死亡した。県衛生院は20日、腺ペストと診断したがこの年以前にはペストが発生した歴史事実はなかった。11月下旬以降もペスト発病者の数は増え、報告を受けた国民党軍第三戦区司令部は、ペスト流行地区をまず封鎖するように衢県駐屯の軍政部防疫部隊に命令した。ペスト感染者は隔離病院に入れ、患者の家族や流行地区の住民は隔離検査のため、それぞれの地区内の隔離所と衢江に浮かぶ船にしばらく移転させるなどの措置がとられた。さらに学校閉鎖やワクチンの予防接種、ペスト患者の出た住宅の焼却などを行った。12月末までに羅漢井、県西街、水亭街で計22人が発症、21人が死亡した。しかし衢県でのペスト被害はこの年だけに止まらなかった。翌41年3月上旬、ペストは衢県城の坊門街で再発し、まもなく城内十数の通りで同時に発生、流行地区は城内全域に及んだ。家族全員が死亡する例もあり、郊外でも二カ所で流行した。このペスト流行は12月になってようやく終息した。 統計によれば、41年に衢県県城地区で発生したペスト患者は281人、うち死者は274人であった。凄まじい死亡率である。

 さらにこの間、日本軍機が頻繁に県城を空襲したため、城内の住民は農村に疎開し、ペストは近隣農村に広く蔓延した。県城地区とその周辺農村をあわせれば、そこからまた41年9月、金華市義烏に市街地に飛び火し、崇山村を含む義烏周辺の農村にまで伝播、翌年の2月まで流行し、義烏では215名が亡くなり、さらに東陽県にも伝播した。この地域のペストによる死者は、1947年のペスト統制時までに、少なくとも1200人にのぼった。(731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟資料等より略記。それにしても日本軍の占領各地区による虐殺数からすれば、微々たる数と思えるのが恐ろしい)なお、10月27日、11月27日も参照。

【成都への本格的爆撃開始】

*10月4日:53機の重爆​​撃機が成都を襲撃、揚子江上の26隻の日本の駆逐艦を援護しながら爆撃し、爆弾51発、焼夷弾42発を投下、105人が爆死、530人が負傷、160軒以上の家が破壊された。 城壁のそばにあった西蜀小学校の分校が焼け、校門の外に身をひそめていた11−12歳の小学生たちが焼け焦げになり、誰のものか識別できなかった。(日本側の記録では、この時空中戦で中国機5を撃墜、太平寺飛行場の26機を低空射撃しながら爆破、炎上させたとある)

*同日:四川省万県を13機が二回にわたり爆弾30発を投下、10人死亡、25人負傷、家屋の損壊60棟。

*同日:浙江省衢(く)県に2回にわたって細菌(ペスト菌)付きの麦粒、大豆、粟、麦ふすま、砕布、綿、ノミを含む小さな紙包みを撒いた。10月10日以降、衢城では死亡者が相次いだ。遺族は「罹患期間中に高熱、寒気、わきの下リンパ節腫れ痛などの症状があった」と述べた。県保健院はペストの疑いがあると診断した。

*同日:江西省鷹潭と貴渓間の東行列車6両と機関車を破壊。

*同日: 湖南省懐化市沅陵県に27機が70発の爆弾を投下、224棟の家屋が焼失、死者148人、負傷者42人を出した。

▽ 八路軍の新四軍は安徽省銅陵、繁昌、雲陵地区での日本軍の掃討作戦を撃退し、11日までに「3000人近くの敵を殲滅した」。

*10月5日:前日に続けて成都を33機で空襲、市外の軍事施設に「巨弾の雨を降らせ」、郊外の鳳凰山飛行場の爆撃機・戦闘機を機銃掃射、炎上させた。 中国側では「この爆撃で爆弾73発、焼夷弾27発の計100発を投下、被爆した街は15街道、家屋539軒が破損し、民間人47人が死亡、121人が負傷、救護要員も5名が死傷」とある。

*同日:浙江省紹興市の諸曁(しょき)県城郊外に低空飛行で白色の糸状のものにペストノミを混ぜて散布した。(この日の日本の新聞上の記録では、諸曁について「敵軍需品堆積場を爆撃粉砕」とあるのみ)

*同日:午前、4機は浙江省寧波市奉化城内で13発の爆弾を投下、家屋60軒を壊し、4人を負傷させた。(1945年まで、奉化は20回の空襲を受け、66機が222発の爆弾を投下し、家屋400軒を爆破し、33人が爆死、100人余りが爆傷)

*同日:午後1時、6機が 湖北省巴東県に20発の爆弾を投下、9人が死亡、31人が重傷を負い、家屋90余りを爆破。

*同日:浙江省の金華駅の列車3両を爆破、付近の運河でドラム缶を積む船艇13隻を爆沈炎上、また麗水ではドラム缶約1千個を爆破、さらに浙江省奉化、台州市海門を急襲。

*10月5、6日:陸軍の安徽省銅陵への掃討作戦に協力し敵部隊拠点を銃爆撃。

△ 日本軍は仏印のハノイ飛行場に進駐。

*10月6日:42機が二回に分けて重慶を爆撃し、191発を投下した。死者74人、負傷者156人、民家300軒以上を破壊。中には天主教仁愛病院、イギリス大使館の一部が破壊。次に15機が梁山の飛行場、県城、天竺郷などに爆弾71発、8人死亡、20人負傷、焼夷弾で家屋31棟全焼、43棟破壊。 日本側の記録では、重慶市街ならびに対岸の軍事工場地帯の弾子石を爆撃、また別働隊が梁山市街と飛行場を急襲、市街を火の海と化したとあり、無差別爆撃をしていることをにおわせている。

*同日:浙江省寧波市奉化渓口の倉庫やトラック群、台州の橋梁、海門の軍需倉庫群、台州海岸の黄岩の荷揚げ場、輸送拠点天台、寧波市寧海の軍事拠点などを爆撃。

 この黄岩についての中国側の記録は「台州市黄岩を爆撃、 焼夷弾を投下して市街地の家屋234軒を焼き払い、17人が死亡、17人が負傷」となっていて、さらに寧海については「 日本機が県城上空に飛来し爆弾6発を投下、同時に機銃掃射を行った。城内入口は爆弾と焼夷弾で2時間以上も燃え続け、寧海中学校の運動場と事務室前に各1発を投下した。西山巷から城内入口まで焼かれた商店は40軒以上、破壊された住宅は数十棟、民間人16人が爆死、20人以上が負傷した。県城が陥落して4日間、日本軍が住民を殺害する等の罪行が続発した」となっている。(『侵華日軍暴行総録』)

【ハノイから雲南省への爆撃開始】

*10月7日:5日に進駐したハノイ飛行場から約30機が雲南省昆明飛行場と城外の兵工場を爆撃、空中戦で10数機撃墜、地上の5機を破壊と海軍の記録にあるが、中国の記録ではそれらのうち18機が市街地西南を襲撃、爆撃により死亡41人、重軽傷53人、家屋の全半壊約145棟。

◎ 7日、日独伊三国軍事同盟記念祝賀会が東京で行われる。

*10月8日:浙江省衢州市江山県の賀村駅を爆撃し、線路や駅舎が破壊され、列車は長期にわたり通行不能となった。

*同日:中国軍の一部は日本軍の占領する湖北省の宜昌城に攻め入ったが、日本機は毒ガスを投下し、中国軍は深刻な被害を受けて撤退した。

*同日:江西省弋(よく)陽停車場を爆撃、貨車10数両を爆砕。

【細菌弾と毒ガス弾同時投下に続く陸軍の放火】

*同日:午前8時頃、9機が浙江省杭州市臨安上空に飛来、臨安県城を中心に金岫、横渓、上甘、板橋の諸郷村を次々に旋回し、青山、横畈で機銃掃射を行った。さらに午後4時頃まで旋回爆撃を続け、于潜、昌化両県城を爆撃、楊嶺、下洪岱、衆社嶺などの地を爆撃し、100発余りの爆弾を投下し、そのうち18発の細菌(ペスト)弾を投下、住民16人が直接死亡し、59人が毒ガスの被害を受けて相次いで死亡、80軒余りの家屋が破壊された。

 当日午前、日本陸軍は爆撃機の援護の下、余杭から二路に分かれて臨安へ進撃した。途中の町村で殺人や放火を行いながら、9日未明に臨安に到着、日本軍は臨安市の全市に放火した。…… 城内の商業繁華街は焼け野原となった。その後10日まで臨安県の各地は荒らしに荒らされた。

△ 10月8日、日本の植民地となっていた満州の吉林省の白城市の白城子平台に日本陸軍の軍学校のひとつが前年の1939年7月に設立され、主として航空航法の教育と研究を行っていた。学校本部は埼玉県所沢町=現在の所沢市であった。この時期、ここで冬季航空研究演習として毒ガス・イペリットなどの試験に隊員が参加し、隊員が被毒した事故があった。

*10月8−9日:9機が浙江省杭州市潜県城を爆撃、爆弾195発を投下し、民間人58人を爆死、79人を負傷させ、商業街区の家屋421軒を爆破。

*10月9日:浙江省温州市の軍需倉庫20棟を爆破炎上させ、寧波市石浦の軍事施設などを爆破。( これについての中国側の記録は「日本軍機4機が石浦を波状爆撃、民間人21人が死亡、民家1700間以上を爆破した」とあり、軍事施設ではない)

*同日:浙江省金華の倉庫群20数棟を爆破。

*10月10日:31機が二波で重慶の北碚、新村の「残存施設」を爆撃、数ヶ所を炎上させ、その他周辺各飛行場を低空で銃爆撃。実態は爆弾と焼夷弾41発、22人死亡4人負傷。

*同日:6機が安徽省黄山市屯溪を空爆し、民家数十軒を爆破、住民数十人を爆死させた。 

*同日:39機が安徽省宣城市涇県の第六督察専員公署を爆撃し、付近の家屋はすべて破壊され、大火は午前0時まで続き、死者12名、負傷者20名を出した。

*同日:浙江省紹興市の諸曁付近を進行中の貨車6両、金華駅において軍用列車6両を爆破。

*同日:浙江省衢州と金華市蘭渓の倉庫群30棟を爆撃炎上。

*同日: 34機が四川省万県城区に150発の爆弾を投下、130人が死傷、640間を破壊した。

*10月11日:湖南省衡陽の工場と倉庫群、永州市祁(き)陽の市街地と軍事施設、懐化市辰渓の軍事施設などを爆撃、各所に火災を生じさせた。

*同日:湖北省宜昌の野砲陣地を爆砕。

*10月12日:27機が成都を爆撃、「繁華街に巨弾の雨を降らせ全弾命中、数カ所より大火災」を起こす。以下は中国側の記録である。

 —— 敵機27機が東北の上空に現れ、わが軍の高射砲が激しく砲火を浴びせ、敵機は低空で飛ぶことが出来ないまま県城一帯の住宅地区に向かって爆弾、焼夷弾96発を投下、20数条の街道や路地が瓦礫や火の海に変わり、588軒の家屋が破壊され、民間人の死者は124人、負傷者は227人であった。馬道街のフランス国聖修病院は100以上のベッドを備えた設備の整った大病院で、2発の爆弾で建物や医療設備の約半分が破壊され、患者にも多くの死傷者が出た。平安橋のフランスのカトリック教会は1棟で2亩以上の敷地を占める古い建物であったが、1発の爆弾が貫通し教会は爆破され、隣接する民家も爆震で倒壊、10数人が負傷、圧死した。この城内園にある四川大学は、2発の爆弾が撃ち込まれ、図書館と校舎の一部が破壊され、学生にも死傷者が出た。瓦礫の中から救出された手足を失った重傷者は、第5中隊の一個中隊が収容しただけで70人以上、埋葬隊に引き渡された死体は約30体以上もあった。各中隊の防護要員も8人が死亡、6人が負傷した。

*同日:陸軍の侵攻を援護し浙江省杭州桐廬県窄渓鎮を爆撃。陸軍は民間人9人を殺害し、民家678室を焼いた。さらに1940年から1945年にかけて、日本軍は3回にわたって桐廬、分水両県を占領し、民間人1291人を殺害し、婦女1293人を凌辱し、民家6685軒を焼き、食糧4250石と耕牛1259頭を奪い、1万6400人余りをホームレスにさせた。

*同日:湖南省株洲市渌口を爆撃、燃料倉庫などを爆破、「火炎天に冲す」。また株洲の東流東方歴山の中国軍陣地を爆撃。

〇 12日、大政翼賛会の発会式が国内で行われる。

*10月13日:27機が重慶の市街地に向かうが、天候不良で万県の市街および軍事施設を爆撃、大火災を生じさせた。実態は万県で177発、75人死亡、68人負傷、さらに梁山(現・梁平区)で30人死亡、24人が重軽傷。

*同日:ハノイから27機が雲南省昆明を襲撃、市街地の多くが爆撃され、雲南大学も破壊された。死亡67人、重軽傷140人、家屋の全半壊約400棟。(日本側の記録は、「兵器工場その他の軍事施設を爆撃、甚大なる損害を与えた」とあるのみ)

*同日:浙江省温州市平陽県の鰲江江口を爆撃し、県城南門街及び江南などの地で10数人が死亡、10数人が負傷。

*同日:陸軍の作戦に応じ湖北省宜昌付近の砲兵陣地を爆撃。

▽ (上記の日本軍に対し)中国軍は宜昌日本軍飛行場を砲撃し、日本機14機を撃破し、飛行士等30人余りを死傷させた。

*10月14日:前日に続き宜昌付近の砲兵陣地および部隊を爆撃。

*10月15日:浙江省温州市平陽県の鎮下関を爆撃、死者13人。

*10月16日:3機が重慶を夜間爆撃し、爆弾11発を投下、死者4人、負傷者4人。

*同日:安徽省六安市馬頭鎮江岸の敵部隊と飛行場を爆撃。

*同日: 浙江省寧波市象山県の東門島を爆撃、2人が負傷、民家25軒を爆破。

*10月17日:天候が悪いなか、27機が重慶市街地を爆撃し、57発を投下、25人死亡、79人負傷、家屋437件が破壊。別途、嘉陵江南岸の工場を爆撃。

*同日:18機が昆明に来襲、東南の市街地を爆撃し、死亡4人、重軽傷6人、家屋の全半壊約80棟。(日本側の記録は、「飛行機製造工場を爆砕」とあるのみ)

*同日:安徽省池州市東流に上陸する海軍陸戦隊を支援爆撃。

△ 日本軍は山西省晋陽西峪村で村民386人を虐殺した。

*10月17−18日:安徽省安慶、馬頭鎮の中国軍根拠地を爆撃。

【ビルマからの輸送ルートを爆撃】

*10月18日:ビルマとの輸送ルート(援蒋路)にある雲南省蒙自を急襲、その錫精錬工場とメコン川上の大吊橋を爆撃。また蒙自県城を爆撃し5人死亡。

*10月20日:69機が雲南省昆明および蒙自のビルマルート上の物資輸送中のトラック群数十台、および橋梁を爆撃。

*10月21日:蒙自のビルマルートと橋梁を爆撃。

*同日:安徽省安慶市三橋鎮および潜山付近の陸軍作戦に協力、低空で銃爆撃し「甚大なる損害を与え、西方に潰走せしめ」た。

*10月22日:浙江省の麗水市雲和に飛行機から細菌を撒く。(10/4、11/27参照)

*10月23−24日:7機が、広東省江門市台山県に爆弾18発を投下、弾は多く通済橋の近くで落ちて、39人が爆死、92人が重軽傷、商店14軒を破壊。翌24日には11機が周回して台城を爆破、合わせて33発を投下し、15人を爆殺、48人を負傷させ、商店30軒、民家12軒を破壊。この後1945年まで台山の市街や農村で延べ356機が127回の爆撃を行い、339人が死亡、負傷者は471人で、工場や商店565軒が爆破され、船52隻が沈没した。なお、台山の

*10月24日:山西省晋中市桐峪鎮の陸軍の作戦に協力爆撃。

*10月25日:44機が重慶を襲撃、市街西地区と長江南岸の米国大使館の近く等の26ヶ所に爆弾、焼夷弾118発、さらに涪陵に16発を投下合わせて死者48人、負傷64人。 また河岸に停泊していた米艦Tutula号の至近距離にも爆弾が投下され、香港のスワイヤー・グループの「万象」、「万流」号が被弾した。

*同日:ビルマルートにある雲南省保山市のサルウィン川上流の恵通橋、メコン川上流の功果橋を、海軍の占領する海南島海口からの大編隊による4回の爆撃で破壊。

*同日: 広西省欽州市の大寺鎮では市の立つ日で約3000人が市に集まっていた。11時頃、大寺江下流の上空に3機の日本機が出現し、群衆は四方八方に逃げたが街路地は狭く、出入口は少なく、逃げるのは困難で群集は混乱状態となり、川に逃げた。日本機はまず川に続けて爆弾を投下、次に街路に急降下して投弾と機銃掃射を繰り返した。川辺では40人以上 が死亡または重症を負い、街中では爆弾6個が50人以上の命を奪った。別な通りでは40人以上が死亡した。爆弾18発で、住民146人が爆死あるいは銃撃で死亡、重症を負い治療中に死亡した者8人、負傷者は計り知れず、家屋30軒以上が爆破された。(『侵華日軍暴行総録』) 

*10月25−26日:広西省南寧市賓陽と欽州市霊山などの市街地や各地の中国軍拠点と軍事施設を連日爆撃。また安徽省安慶と桐城の軍事拠点、施設を連日爆撃。

*10月26日:33機が重慶を連続爆撃、市街地に爆弾79発を投下、死者15人、負傷33人、170軒以上の家屋を破壊。(日本側の記録には「壊滅的打撃を与えた」とあるが、何度その言葉を使っていることか)

【この年の重慶爆撃の量と被害】

〇 重慶は霧季に入り、日本軍はこの年の重慶爆撃を終了した。この年、日本軍は重慶に対し191編隊で延べ4727機の爆撃機を80回にわたり出撃させ、1万587発の爆弾を投下した。重慶市民の死者は4149人(あるいは4232人:死者は相対的に少ないように見えるが、重慶は巨大な地下壕を構築していた)、負傷者5411人、家屋の損壊は6952棟に上った。

*同日:成都を爆撃、新津飛行場で空中戦となり、中国機10機を撃墜。

*同日:9機が昆明を襲撃したが、ユーラシア航空会社の航空機1機と接触し、4人の中国人と外国人の乗客が負傷し、航空機は損壊した。

*同日:雲南省西端ビルマとの国境に近い保山市龍陵の飛行機大工場を爆撃。

*同日:陜西省延安に最後の爆撃。

*同日:二度にわたって安徽省黄山市屯渓区を空襲し、十余発の爆弾を投下、十余名の死傷者を出し、家屋は十余棟の破壊を受けた。

*10月27日:21機が成都を爆撃、「全弾市街軍事施設に命中、甚大なる被害を与えた」。「全弾市街軍事施設に命中」ということはあり得ないが、以下は中国側の記述からである。

 —— 21機が午後12時20分に成都上空に入った。わが高射砲の猛烈な砲火で、日本軍機は低空を飛ぶことが出来ず、2、3千mの上空から94発の焼夷弾と爆弾を投下、同市の西、南、北門一帯の街巷の多くが砲弾を受け、440軒以上の倒壊家屋が爆破され焼失し、死者は32人、重傷は39人に上った。この爆撃により同市で直接被害を受けた街道は20街以上、被害は住宅が多く、店舗がそれに次ぐものだった。表具屋、古道具屋、仕立屋、筆墨紙屋、茶屋、そば屋、酒屋、荷車、人力車などの店舗が破壊され、一軒の茶店の女将とその子供が被爆し肉片が泥のようになり家は焼けてしまった。路傍には血まみれの死体が縦横にならんでいた。少城公園の民衆教育館の家屋10−20棟が爆破され、陳列館の文物や書画がほぼ全壊した。動物園でも多くの動物が爆死した。

(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:15機が重慶万県に爆弾59発を投下、3人死亡、7人負傷。

【陸軍の細菌散布作戦】

*10月27日:陸軍航空隊は浙江省寧波の繁華街(開明街と中山交路)に低空で穀物や綿に混ぜたペストノミを散布した。この方法は巧妙で、まず朝に食料援助や中日親善を示すビラを撒き、午後になって飛行機で大量の小麦粉や麦粒を投下した。それは黄色い煙のように見えたが、飛行機が飛び去ったあと開明街一帯の商店の庭、屋根、水瓶、路上には小麦などが散乱し、生きている多量のノミが住民によって目撃された。それに触れた人々の多くは数日を置かず発病し、3、4日後に死亡するケースが多かった。全身の皮膚が真っ黒になり、痙攣を起こし、体をエビのように曲げて苦しんで死んでいった。華美病院の丁立成院長が、患者のリンパ腺から菌を分離し動物実験でペストであると断定。氏名が判明した人で106人が死亡、家族全員が死に絶えたのが12家族、このペストを撲滅するために11月末には開明街の137棟の建物と5千㎡が焼き払われた。住民には予防注射も打たれ、県政府当局と防疫機構がすばやく対応し、患者の隔離や汚染地区焼却、流行地区から逃亡した住民の捜索などの措置を徹底して行った結果、12/2に終息とされるが、この汚染区の住民約500人は、住む家や生業(商店経営)を失い、路頭に迷うものも多かった。一帯は、1960年代まで人が住むことがなく「ペスト街」と呼ばれた。なお731部隊の日本人医師の記録では、二次感染は1450人とされているが詳細は不明。

 当時関わった兵士の証言によると、731部隊のあるハルビンからドラム缶に入った細菌を混ぜた粘液を浙江省杭州市の筧橋まで空輸し、筧橋飛行場で別の特殊容器(圧搾空気ボンベ)に分けて移され、飛行機に装着してから現地に飛び散布されたという。ところが「ある作戦で、ボンベが誤作動して1本分の菌が機内で吹き出してしまった。乗り込んだ6人は全員腸チフスに罹った。一番大量に菌液を吸い込んだ同期のSはしばらくして亡くなってしまった」という。またこの作戦の様子は731部隊の指揮官石井四郎によって記録映画として撮影されたものを見たとの兵士の証言があるが、敗戦時に焼却処分されたことは、日本の内外の軍関係資料が軍中央の指示によってほぼすべて焼却されているから確かであろう。

*10月28日:9機が雲南省昆明の東北の市街地を爆撃、死亡16人、重軽傷7人。

*10月28−29日:ハノイの基地から連日でビルマルートとサルウィン川上流の恵通橋、メコン川上流の功果橋を完全に切断した。(しかしすぐに修復されるが、1942年に日本軍がビルマを占領するに至り、中国はこのルートを使えなくなり、インドの方からの空輸に頼ることになる)

*10月28−29日:広東省雷州半島北部の物資集散の要地水東市を軍事施設や軍需倉庫を爆撃、倉庫30棟および山積する石油等を爆破、炎上させた。

*10月30日:25機が甘粛省平涼県城を爆撃、214発の爆弾を投下し、16人が死亡、14人が負傷、家屋126軒を破壊。

*同日:重慶巫山県に4機が爆弾30発を投下、30人死亡、66人負傷。

*10月31日:浙江省杭州市横畈を爆撃、爆弾数十発を投下、また機銃掃射を行い、19人死亡。

*10月某日(秋のある日)、広東省韶関市曲江県の武渓公園の関帝廟を爆撃。廟内に400人以上の人々が隠れていたが。日本機は大型爆弾で廟全体を爆破した。午後、日本機が飛び立った後、掘り出された遺体は約300体。また東河ダムのボートに隠れていた三人が爆爆撃され肉体が飛び散って死亡した。

*10月某日:湖北省襄陽市老河口と光化はたびたび日本機の爆撃を受け、光化県城で94人が死亡、95人が負傷。老河口では死者127名、負傷者104名。

*10月某日:5機が浙江省衢州の新駅巷、新川沿いを爆撃し、無数の民家を爆破した。

【海外の華僑からの中国支援】

▽ 1937年の抗日戦争から今月まで、海外の華僑は各種の飛行機217機、戦車27両、救急車1000台余り、米1万袋、薬品、衣類などを寄付し、祖国の抗日戦争を支援した。また国内からも約1000機以上の航空機が寄付されていて、航空機の寄付は日本国内においても同様に行われたが(半ば強制)、ただ、海外の日本人からの華僑のような大きな支援は聞かない。

11月

*1940年11月1日:朝食後の時間帯、9機の爆撃機が江西省宜春県城に数十発の爆弾を投下した。城区楊家山、三眼井、経征処、泡沙河などが被爆し、軍民の死傷者数十人、家屋数十棟が倒壊した。

*同日8時40分、爆撃機5機が安徽省宣城市涇県震央郷に爆弾2発を投下し、家屋3軒を倒壊させ、4人を負傷、財産1500元余りを損失させた。

*11月2日:午前、湖北省襄陽市南漳県の肖堰に日本の偵察機2機が旋回して立ち去り、住民は驚いて逃げようとしたが、中国軍部隊の警備が厳重で逃げることができなかった。その後、20数機が集中爆撃、爆弾60数発を投下、さらに機銃掃射を数十分間続けた結果、中国兵150余名、馬20余頭が爆死、住民の死者80人余り、負傷者30人余り、家屋90棟余りが破壊された。

*11月3日:広西省南寧市永淳付近で渡河中の大部隊と渡河船数十隻を爆砕。さらに南寧の綏淥(すいろく)と扶南の大部隊も爆撃、壊乱させた。

*11月5日:8時15分、水上爆撃機8機が安徽省宣城市績渓上空から急襲、約40分間にわたって爆弾19発、焼夷弾2発を投下し、機銃掃射を浴びせて民家45戸を破壊、2棟を焼き、爆死25人負傷18人。

*11月5−6日:広西省欽州と南寧を結ぶ欽寧公路付近の中国軍部隊を爆撃。

*11月6日:江西省九江市彭沢東南の中国軍部隊を爆撃。

*11月7日:広西省城港市上思県、また南寧市蘇圩の中国軍部隊を爆撃。

*11月10日:陸軍の河北省保定市阜平県城の攻略に協力、共産軍討伐として山西省沁源を敗走する中国軍約二万に爆弾の雨を降らし、同省晋中の太行山に拠る師団二万を猛爆した。

*11月10日:午前10時、広東省肇慶市高要県水坑に3機が4発の爆弾を投下、民家10余棟を破壊し、村民3人が爆死。

*11月12日:広西省欽州(欽県)霊山の中国軍司令部を爆撃。

*同日:昆明を爆撃。

*同日:安徽省池州市劉街の兵舎や倉庫群を爆撃。

*11月13日:浙贛線上の江西省鷹潭、鄧埠の機関車、客車37両を爆撃、駅倉庫を爆破炎上させ、江西省南昌黄渡街の拠点を爆撃。

*同日:9機で昆明を爆撃。

*11月13日−14日:陸軍の撤収に合わせ、広西省欽州周辺(霊山、扶南、大寺圩、大直圩、陸家圩など)の中国軍司令部、前線基地などを数日間爆撃。

*11月14日:広西省欽州周辺の牛崗圩、大洞圩、六冬圩、大顕などの軍需倉庫群を爆撃、「黒煙天に冲するのを確認」。

*同日:雲南省蒙自県城を爆撃し3人死亡、1人負傷。

【イギリスが難民救済支援会を設立】

◎ イギリスは、100万ポンドで中国難民救済緊急支援会を設立した。

*11月14−15日:山西省北部の中国共産軍の動きに対し「猛爆を浴びせ」爆砕した。

*11月15日:午前8時から4時間以上、雲南省昆明とその郊外の軍事施設を猛爆、「昆明一帯を大混乱に陥れた」。

*同日:江西省上饒市鄱陽県北部の軍用倉庫や兵舎群を爆撃。

*同日:広西省防城港市上思県と周辺の軍事施設、司令部を反復爆撃。

*同日:広西省欽州(欽県)周辺の大直圩、平吉圩、大唐墟などの陣地を爆撃。

*11月16日:江西省楽平・景徳鎮、安徽省池州市秋浦・張渓鎮などの兵舎、倉庫群、工場に「巨弾の雨を降らせた」。

*11月16−17日:広西省欽州東方の平銀渡、大寺圩、邦間壩などの陣地を連日爆撃。

△ 海軍はサイパン島とパラオ島に飛行基地を作る。

*11月20日:安徽省安慶安市潜山と三橋、また桐城の軍事拠点などを爆撃。

*同日:河北省石家荘市深沢県城の日本軍守備隊を低空爆撃で支援。

*11月20−21日:3機が福建省漳州市竜海の石碼に侵入、直扶街、鋳鼎巷、礼拝堂、苑南亭、新行街、天主堂など8カ所を爆撃、負傷38人、死亡8人、家屋10数座を破壊した。翌日も3機が爆弾3発を投下、六味街、福寿街、下碼廟、打索街などで家屋30数軒が損壊し、 住民5人が死亡、 34人が負傷。(これは12/18ともされる)

*11月21日:安徽省池州市秋浦北方の中国軍一千を爆撃、その南方に集結する約六千の軍ならびにその後方の拠点石門街を「猛爆、壊滅的打撃を与えた」。

*11月22日:初めて陝西省渭南市韓城県城を爆撃し、中山堂が被弾、陝西省の「進歩的な青年たち」50人以上が密かに訓練されていたが、その内50人が爆死、13人が負傷した。 

*11月25日:陸軍の漢水(湖北省)作戦に応じて湖北省宜昌市遠安北東50kmに集結する中国軍を攻撃、退却中の部隊に機銃掃射しつつ反復爆撃。

*同日:湖北省襄陽市棗陽、石家、馬家集を攻撃。

*11月25−26日:陸軍の侵攻作戦に合わせ、湖北省襄陽市棗陽、孝感市張家集、荊門市を反復爆撃。

*11月28日:400機(?)が連続して甘粛省白銀市靖遠県城を爆撃し、約300発の爆弾を投下。

*11月27、29、12月1日:この三日の間に、日本機60機が蘭州市街、空港、黄河鉄橋を爆撃、308発の爆弾を投下し、82人が死亡、55人が負傷、1756軒の家屋を爆破した。

【細菌散布の方法】

*11月27−28日:10月27日に続く細菌作戦である。浙江省金華市の県城(市街地)に一機が飛来し白い粘着質の顆粒状の物質にペスト菌を混ぜたもの(これまでのように感染させたノミを穀物に混ぜたものではない)を低空で散布した。28日にも、2機が南門の外で同様な白い霧状のものを撒布した。すぐに省の衛生班が採取してペスト菌と判断されたが、これに触れた住民が12月3日までに37人死亡した。全体で死亡者160名であったが、早めに防疫が徹底され他所に拡散することはなかった。これにより上記のノミ作戦のほうが効果があると731部隊は判断したという。

 当時関わった兵士の証言によると、731部隊のあるハルビンからドラム缶に入った細菌を混ぜた粘液を浙江省杭州市の筧橋まで空輸し、筧橋飛行場で別の特殊容器(圧搾空気ボンベ)に分けて移され、飛行機に装着してから現地に飛び散布されたという。ところが「ある作戦で、ボンベが誤作動して1本分の菌が機内で吹き出してしまった。乗り込んだ6人は全員腸チフスに罹った。一番大量に菌液を吸い込んだ同期のSはしばらくして亡くなってしまった」という。またこの作戦の様子は731部隊の指揮官石井四郎によって記録映画として撮影されたものを見たとの兵士の証言があるが、敗戦時に焼却処分されたことは、日本の内外の軍関係資料が軍中央の指示によってほぼすべて焼却されているから確かであろう。

▽ 浙江省政府は12月5日、11月28日に日本機が散布した白煙状の粒が厳密な検査の結果、ペスト菌であることを発表した。

*11月28日:湖北省襄陽の中国軍を急襲、「巨弾の雨を降らせ大損害を与えた」。

*11月29日:正午、6機が湖南省株洲街区を空襲、民家数棟を爆破し、10人余りの死傷者を出した。

*11月下旬:広東省韶関と香港間の輸送ルートを連日で爆撃、トラック50余台、ジャンク船80余隻、ガソリン1千缶を爆砕。

*11月某日:浙江省永嘉県(現・温州市)を爆撃。街中の八角井頭20数軒がたちまち廃墟と化し、20数人が爆死、死骸は男女の区別さえできなかった。

【満州における毒ガス弾の調査研究】

△ 11月13日から12月8日にかけて、満州のチチハル(黒竜江省)において関東軍の「冬季航空研究演習」が浜松飛行学校と連携して行われ、高度戦闘爆撃、夜間爆撃、航空化学戦を主とし、毒ガス弾投下と雨下(散布)の効力の調査研究も行った。

【アメリカ義勇航空隊参入と続くソ連の支援】

 11月、中国国民党蒋介石主席は当初、日本軍の航空攻撃に対抗するためにソ連(ロシア)のパイロットを雇い入れていたが、この時期米国機の購入とともに(中国空軍の不足を補うため、米国戦闘機500機を発注)米国人パイロットを雇用するようになり、一人の退役パイロットが中心となり112名のパイロットが集まった。これをアメリカ義勇航空隊(AVG)というが、通称フライイングタイガーとして活躍するようになる。またこの一年後日本の米国への宣戦布告により太平洋戦争が開始されると、米国は正式に飛行部隊を投入、中国へ肩入れするようになり、日本軍が占領した中国の都市に爆撃を加えていくようになる。

◎ ソ連政府はチェコフ氏らソ連の顧問、専門家1人を中国に派遣するとともに、ソ連側は中国が発注した爆撃機100機、戦闘機148機、大砲300門、自動車500台などの物資を輸送した。なお抗戦以来、ソ連志願航空隊の隊員の中国での犠牲者数は、大隊長らを含めて100人を超えた。

12月

*1940年12月1日:重慶を9機で急襲、「巨弾の雨を降らせ、久方ぶりに敵の心胆を寒からしめた」。

*12月1−2日:雲南省蒙自・箇旧の錫精錬工場を連日で爆撃。(この時飛行士二名が自爆とされるが、日本軍の記録では敵機に撃墜されたとは書かない)

*12月2日:重慶を47回目の爆撃。

*12月3日:広東省の輸送ルート新豊の橋梁を爆砕。 

*同日:雲南蒙自県境の芷村駅を爆撃し、25人が死亡、31人が死傷、家屋23戸が倒壊。

*12月4日:広東省韶関の停車場を爆撃。

▽ 12月5日、八路軍本部は8/20から展開した百団大戦の終結を発表した。この役は3ヶ月半をかけて、戦闘を1824回行い、日本軍と傀儡軍2万5790人を射殺し、日本軍281人を捕虜にし、傀儡軍1万8407人を捕虜にし、鉄道948里、道路3000里を破壊、駅、橋、トンネル260余カ所を破壊し、そうして大量の敵堡と拠点を破壊し、正太鉄道と井怪炭鉱(河北省にあり、筆者の昭和12年=1937年参照)に深刻な打撃を与えた。八路軍も1万7000人以上の死傷者を出した。

*12月8日:3機が浙江省金華駅を爆撃、駅舎などを破壊。

*同日:12機が広東省肇慶市高要県の蓮塘村を爆撃、続いて鳳凰垀を爆撃、住民数十人の死傷者が出た。その後水坑村を一時間以上にわたって雨のように爆撃し、民家を無数に破壊した。また日本機は低空から機銃掃射を浴びせ、70人余りの死傷者を出した。

*同日:湖南省株洲の市街と江上のジャンク船、雷打石の工場、江西省広信の停車場を爆撃。

▽ 日本軍2万人余りが晋西(山西省)の八路軍根拠地に対し狂ったような「掃討」を行った。行く先々で空前の残酷な焼殺と略奪を行った。不完全な統計によると、山西省呂梁市興県だけで死傷者は1179人、家屋は2万6850軒を焼失し、家畜6280頭、食糧520石を失った。八路軍は35日間の257回の戦闘を経て、日本軍と傀儡軍2500人余りを殺害し、敵30人余りを捕虜にした。

*12月9日:3機が金華市の孝順鎮を爆撃、清華中学校の校舎が破壊された。

*同日:9機が広西省防城港市の東興を爆撃、32発の爆弾を投下し住民111人が死亡、民家16軒を破壊。

*同日:広西省龍州を爆撃、橋梁と敵陣を爆砕。

*同日:湖南省永州市冷水灘駅付近を爆撃。

*12月9−10日:浙江省の沿岸地区および浙贛線上の建築物や軍需倉庫などを爆撃、さらに金華市孝順から義烏間を進行中の機関車、貨車群に低空で銃爆撃。

*12月10日:四川省梁山(現・重慶梁平区)を6機が爆撃、爆弾20発で10人が死亡、4人負傷、家屋50軒破壊。

*12月11日:約10機(そのうち台湾の高雄から3機)で雲南省昆明飛行場、および航空軍官学校を爆撃。また開遠市阿迷の発電所を爆破。

【従軍画家の同乗体験】

 この日の昆明爆撃に際し、従軍画家二人が爆撃機に同乗し、その「すばらしい体験」を新聞紙上で語り、若い飛行士たちを頼もしいと讃えている。なお先にも記したように、新聞記者も時々同乗している様子も散見される。いずれも爆撃下の地上の様子などわからないから、その体験に興奮してしまう。

*同日:6機が梁山飛行場と 県城、城西郷、福禄郷などを爆撃、爆弾29発で18人が死亡、9人負傷、家屋46軒破壊。

*12月12日:梁山の飛行場および市街に「巨弾の雨を降らせ全弾命中、市街二カ所に火災を生ぜしめ甚大なる効果を確認」。

*同日:雲南省祥雲飛行場を爆撃。祥雲では地上の戦闘機など22機を爆破炎上させた。また別働隊が雲南省のベトナムルート上の功果橋(メコン河上流)爆撃。

*同日:湖北省宜昌市長陽の竜舟坪に対して5月7日から12月12日まで、9回も集中爆撃があった。49機が出撃し、計151発の大・中型爆弾を投下し、軍民30人を爆死させ、59人を負傷させ、家屋123棟、寺院7棟を破壊した。

*12月13日:雲南ビルマ道路の中国区間を爆撃し、雲南翔栄空港で22機の中国機を破壊。

*同日:雲南省開遠市阿迷の水力発電所、箇旧市の錫工場、湖北省宜昌市長陽を爆撃(箇旧市と長陽は台湾高雄飛行場から9機が参加)。 

*同日:雲南省蒙自県城を爆撃し、112人が死亡、113人が負傷、家屋1078戸が倒壊した。

*同日:江西省景徳鎮の市街と工場を爆撃。

*12月13−15日:連日で湖南省衡陽南駅付近の倉庫群および飛行場の軍事施設、軍需品を爆撃。

*12月14日:昆明の発電所と(台湾高雄飛行場から9機が合流し)メコン河の新功果橋を爆撃。

*12月15日:高雄飛行場から8機が旧功果橋を爆撃。

*同日:広東省韶関の東部軍施設を爆撃。

*12月16日:三日連続で高雄飛行場から9機が功果橋を爆撃。

*12月17日:湖南省衡陽駅付近の倉庫群および貨車群を低空で銃爆撃、燃料庫も爆破炎上。

*同日:福建省泉州市恵安県峰尾村を爆撃

*12月18日:雲南省昆明、由江の倉庫群を爆撃、1機が撃墜された。

*同日:日本機が福建省厦門市大嶝島を爆撃、一人が死亡。

*12月19日:湖南省株洲の鉄道分岐点と倉庫群を爆撃。

*12月20日:山西省呂梁市興県西北の黒峪口の渡河点を猛爆。

*12月21日:安徽省池州市貴池に密集する部隊を爆撃。

*12月22日:雲南省蒙自の大工場、箇旧を爆撃。

*12月25日:広東省陽江市広海寨、汕頭市豊頭港、珠海市大澳、茂名市電白県などを爆撃。

*12月26日:広東省茂名市の水東港、電白、陽江市海陵港などに貨物を満載するジャンク船百数十隻を大爆撃、また別働隊が広海に停泊中の大型汽艇二、ジャンク船約三百隻に徹底的に爆撃を加え、大損害を与えた。

*同日:山西省呂梁市白文鎮西方大壮山の共産軍根拠地を爆撃。

*同日:江西省楽平西方の軍需品工業地帯を爆撃。

*12月26日−28日:3日間で312機を出撃させ16回に分けて甘粛省蘭州を爆撃。城内外に2000発の爆弾を投下、死者75名、負傷者55名、城内の家屋7053軒を破壊した。家を失った市民は517世帯、1835人。

*12月27日:江西省鄱陽湖畔の軍事拠点および楽平西方の軍需工場を爆撃。

*同日:広東省恵州市龍門地区の敵拠点を急襲爆撃、さらに龍門西方の北江左岸の白泥付近の軍需品満載のジャンク船数十隻を爆破炎上させた。

*同日:江西省広信の沿線と市街地を爆撃、また安徽省銅陵県観音橋の軍拠点を破壊炎上。

*12月28日:広東省韶関の軍用道路拠点を「片っ端から爆撃」、また龍門付近の東江上流から韶関に至る輸送路とジャンク船を爆砕炎上、さらに清遠市仏岡の軍事施設、軍需品を爆破。

*12月28−29日:浙贛線上の浙江省金華と江西省鷹潭を連日で猛爆撃、「敵輸送機能を完全に遮断」「抗戦力に甚大な損害を与えた」。

◎ 12月29日、ルーズベルト米国大統領は「炉端談話」を発表した。—— 「一)中、米、英蘭国の運命は密接な関係があり、二)米国は民主国家の兵力工場の職務を担うことを決意し、三)大量の軍需で中国を援助する」とした。

*12月30日:成都を爆撃、飛行場の大型機3、小型15機を炎上させ、別途小型11機を大破させた。

*同日:湖北省恩施を爆撃、「全弾命中」で三カ所を炎上。

*12月31日:夜間から翌日にかけ、山西省臨汾市翼城東南の内村付近の中国軍師団を攻撃。

*12月某日:広東省恵州の市民は防空警報を聞いて若瑟病院に逃げ込んだ。午後四時頃、人々で一杯になった病院に爆弾が落とされ、病院の建物は崩れ落ち、二百余名の死傷者が出た。血と肉とまみれになった死体は判別不能の、ヨセフ病院の裏手にある「死仔の巣」という野山に運ばれ、大きな穴に埋められた。(これは27日の恵州のことかと思われる)

〇 個別の記録上ではほとんど出てこないが、湖北省政府『湖北省統計提要』の「抗戦4年来敵機空襲損害」によると、1940年12月まで「湖北省襄陽市光化県は空襲34回、爆弾958発、死者362人、負傷者540人、家屋損壊2365棟、1882間」とある(『日軍侵華暴行実録』第4巻)。

△12月某日、吉林省白城市において、陸軍空爆隊が極寒期における毒ガス(イペリット)の性能試験に従事したが、一人の整備員が被毒した。

▽ 12月、国民政府経済部の調査によると、抗戦以来、日本は上海で工場2300軒を破壊し、損失資金は5億元だった。また上海以外部に登録されている工場、被害者は1465社、損失資金2.3億元であった。

【1940年の戦闘集計】

〇 大本営海軍報道部は今年度の飛行機出動延機数は2万814機、使用爆弾は8519トンと発表した。また中国機撃墜、撃破は海軍で累計1900、陸軍で累計580機としている。

〇 大本営報道部発表では、事変以来(1937年7月)1940年11月までに中国軍に与えた損害=日本側で確認した遺棄死体180万80350。その他の死傷、逃亡、捕虜との総計は少なくとも350万である。また日本側の戦死者10万1899(ノモンハン事件含む)、そのうち1940年の日本軍戦死者1万3131人、中国軍遺棄死体58万9888、捕虜5万5127としている。

1941年(昭和16年)

 海軍航空隊の中国内での空爆はほぼこの年の9月頃までであり、その後は12月の太平洋戦争開戦準備に向かう。したがってその後の中国内の爆撃は主に陸軍が担う。

【年初からの爆撃とガス弾投下】

1月

*1月1日:2機が安徽省安慶市の潜山に対しびらん性ガス弾を投下。

*同日:早朝、「年初の光を受けて会心の爆撃を敢行」、広東省東江上流の中国軍拠点各所を急襲、また広東省西南地区の遊撃隊を「殲滅」。

▽ 中国軍政部長の何応欽は、戦争が発生して以来、日本側の死傷者は160万人を超えたと発表した。

*1月2日:台湾高雄から航空隊12機が出撃、雲南省昆明飛行場に待機する4機を爆破、さらに軍学校などを爆撃。別途、昆明の水力発電所を爆撃し破壊。

*1月3日:18機が雲南省昆明東南、養済院一帯を爆撃、死者41人、重軽傷101人、全半壊家屋約90棟。

*同日:昆明路上の自動車群を爆撃。別途、高雄航空隊が雲竜県功果橋を爆撃。

*同日:滇緬(てんめん:ビルマルート)路の要衝、雲南省保山を爆撃。死者106人、負傷者141人、倒壊家屋120棟。

*同日:河北省邯郸市趙王村を8機が爆撃し、10人余りを爆死させ、6人を負傷させた。

*1月4日:昆明の飛行場、発電所、雲南ビルマ道路の数か所を爆撃した。

▽ 国民政府軍事委員会は、長江砲兵が年間200隻以上の日艦を撃破したと発表した。

*1月5日:9機が昆明の中心街と円通街、平政街一帯を爆撃、死者12人、重軽傷39人、全半壊家屋約70棟。

*同日:ビルマルートの要衝、雲南省功果橋を22機(高雄から9機)が爆撃、「命中するも橋梁落下せず」。

*同日:広東省東南部恵州城内の永福廟の敵司令部を爆撃。

【従軍記者の便乗】

*同日:陸軍飛行隊は山西省楡社県趙王村一帯の中国軍に対して「初爆撃」。なおこの時従軍記者も便乗していて、「わが荒鷲部隊の前にはひとたまりもなく壊滅した」と興奮気味に記すが、時々そうした便乗例は見られ、しかし爆撃される地上の惨劇は当然その目に映ることはない。

*同日:広東省韶関方面の輸送路、河源市龍州、連平の自動車軍を爆撃、また恵州南端の東江岸の乗船場と木材や筏を炎上させ、石油を積んだジャンク船を大爆発させた。

*1月7日:広東省の恵陽・河源を襲撃。

*1月8日:広東省恵陽などを襲撃し、市民5、600人を爆殺した。

*同日:広東省陽江市渓頭港、海口埠、茂名市袂花鎮などの軍用倉庫を爆撃、続いて珠海市斗門、湛江市大赤坎、西江江口などを爆撃。

*同日:安徽省安慶の東南方面の機雷敷設本部を爆撃。

*1月9日:浙江省杭州市富陽区大源鎮、蕭山区臨浦鎮、建徳市里山などを爆撃。

*同日:広東省珠海市斗門・泥湾、湛江市大赤坎、江門市梅閣などの西江地帯を爆撃。

*1月10日:日本軍爆撃機7機が突然浙江省寿昌県(建徳市)に飛来、低空爆撃で重機関銃を乱射、続いて第2陣の12機は爆弾投下と機銃掃射、第3陣まで20機が攻撃を繰り返し、爆死が27人、重傷者が7人、パニックによる死亡者が2人、家屋50棟と200軒を爆破した。

*同日:浙江省麗水付近に建造中の飛行場と付属軍事施設を爆撃。

*1月10−13日:10日、湖北省宜昌市宜都、江西省上饒市鄱陽、11日、上饒市鄱陽、12日、上饒市玉山、13日、上饒市広信を爆撃。

*1月11日:午前、江蘇省塩城市東台を攻撃、台城旧支司衙門(人民大会堂所在地)、大聖寺、北門門外の各所を爆撃し、多くの家屋を爆破し、数十人を爆殺、また城隍廟前程家の米屋に隠れていた貧民約10人を全員爆殺した。

*同日:広東省の汕尾市から深圳一帯の湾岸地区にある海軍施設を爆撃。

*同日:4機が江西省都陽を襲う。

*1月12日:午前、9機が重慶巫山県城東の南辺に42発の爆弾を投下、47人が爆死、24人が負傷、第十七後方病院に収容された負傷兵、30名が爆死、20名が負傷した。

*1月13日:広東省広州市従化東北の良口鎮に集結する部隊を爆撃。

*同日:広東省バイアス湾(大亜湾)沿岸の海上にジャンク船群の動きを見てその50隻を「完全に撃滅」。

*同日:広東省韶関市の軍事施設、集団部隊を反復爆撃。さらに同省清遠市関前墟の大部隊へ爆撃。

【すし詰めの渡し船を機銃掃射】

*同日:(これは飛行機による爆撃ではないが)福建省福州市福清 の下海澳から小さな船が乗客をすし詰め状態にして平潭県塘嶼島北楼村に向けて出航した。船が塘嶼島付近の官嶼沖まで来た時、北から来ていた日本軍駆逐艦がこの渡し船に向けて機銃を乱射、銃弾を受けた乗客は悲鳴あげて海面に落ち、鮮血があたり一帯の海を赤く染めた。機銃を逃れた乗客は狼狽して海に飛び込み、泳げない者は溺死した。艦上の日本軍はこの惨状を見て、手をたたき小躍りして喜んでいた。この船に乗っていた40人以上が死亡、 一部の犠牲者は家がこの地から遠く離れていたため、数日後に家族に知らせが届き駆けつけてきたが、遺体は見当たらず、しばらくの間、遺族が海岸から海を眺めて叫んでいた。(『侵華日軍暴行総録』)

*1月14日:9機が重慶市街に機銃掃射、さらに合川飛行場と付近に爆弾33発を投下、51人死亡、34人負傷。

*同日: 福建省福州市福清の海口鎮第一堂底を爆撃、十数人を爆死させた。

*1月15日:粤(えつ)漢線の要衝、湖南省衡陽を爆撃、「全弾市街南方倉庫群に命中」(とは嘘くさい)。

*同日:4機が浙江省金華市を襲撃、また5機が金華市湯渓鎮の駅を爆撃、列車3車両を破壊。

*同日:朝、二機が湖北省襄陽市老河口に侵入し、一機が低空飛行中に砲撃され、東北の田舎に墜落、操縦士は捕虜となった。

◎ ハル米国務長官は日本を侵略の張本人と非難した。

△ 海軍はマーシャル諸島クェゼリンに航空基地を設立。

〇 1月16日、日本の大本営陸軍部会議を開き、『大東亜長期戦争指導要綱』と『対中長期作戦指導要綱』を審議、承認し、昭和18、19年までを目標に、中国の南方及び北方問題の処理に関する総合的な国策案を制定することを決定した。

*1月18日:広西省の南寧市街を爆撃、この爆撃で430人が死傷した(南寧での最大の被害)。 

*1月19日:湖南省衡陽、江西省都陽を連日襲った。

*同日:雲南省箇旧で修復作業をする錫精錬工場を「完膚なきまでに」爆砕、周囲のバラック建物を炎上。

*同日:台湾高雄から出撃した9機が雲南省のメコン川上流の修復された功果橋、滇緬公路の要所を爆撃。

*同日:雲南省昆明を爆撃。

*1月20日:重慶市の巫山県を爆撃、爆弾43発を投下、17人死亡、4人負傷。日本側の記録では「全弾市街に命中、二ヶ所より火災を起こした」。

*同日:湖北省宜昌対岸の中国軍拠点を爆撃。

*同日:広東省広州市従化東北方の中国軍部隊を銃爆撃、また恵州市バイアス湾(大亜湾)沿岸のジャンク船150隻に対し「その全部を完全に撃沈した」。

*同日:広東省韶関市の軍事施設と部隊を「木っ端微塵に」爆撃、また市街五ヶ所に火災を起し、帰途で清遠市英徳横石付近の部隊を爆撃、「これも撃滅」。

*同日:朝、福建省泉州市石獅県において、日本の空母1隻が深滬半島沖から漁港の祥芝鎮の海域に入り、祥芝村に向けて砲撃、その後軍機1機が艦上から飛び立ち、村の上空を旋回、機銃を乱射し3人が死傷した。同時に日本艦が海上で漁船に砲射撃し、漁船1隻が撃沈、3隻が被弾して炎上した。この蛮行で漁民5人が死傷し、数十軒の漁民が操業に出る漁船がなく、生活が窮地に追い込まれた。同年某日、日本機は東石港渡仔頭に爆弾を投下、恵安人江金木の連絡船「信徳」号を撃沈、生還者はいなかった。

*1月22日:19機が重慶磁器口を爆撃、「全弾命中し五ヶ所より炎上」、23発を投下し、6人が死傷した。

*同日:18機が昆明の市街地南区、風壩村、玉皇閣を爆撃、死者27人、重軽傷44人、全半壊家屋約70棟。

*同日:宜昌対岸拠点を爆撃。

*1月23日:9機が昆明の市街地と駐留所の自動車群、再度保山の功果橋を徹底爆撃、また滇緬公路の各所を爆撃。

【千人を惨殺】

△ 1月25日、日本軍は河北省唐山市豊潤県潘家峪を密かに包囲し、村の1033人の罪のない大衆を大院里に集め、機銃で掃射し、その後放火して殺した。4人が免れ、82人がやけどをして死亡しなかったほか、残りはいずれも惨殺された。

*1月26日:河南省漯河市舞陽県城を爆撃し、一家7人の全滅を含め、27人が死亡した。この後1月30日に日本軍約1万人が舞陽県城に侵入し、まず官公庁に逃れていた村人約30人を銃殺した。子営村で6歳児と母親を射殺し、5人の子供が残された。さらに家屋30余戸を焼き払い、略奪も行なった。またこの後、1944年5−8月に日本軍は舞陽に再進駐し、県城、呉城、辛安、姜店、保和、朱蘭などで100人余りの村人を爆殺し、108人を銃殺した。また婦女120数人を強姦し、住民一万人余りを強制的に動員(強制徴用で満州などに行かせた)し、家屋二百数十棟を焼き払い、二千数十戸を壊し、その他の財物の略奪と破壊の損害は計り知れない。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

*1月26日:午後1時、7機が広東省韶関市翁源県翁城の南門廟に焼夷弾20数発を投下、民間人2人が死亡、3人が負傷し、民家6、7軒が焼失した。その後、北方の新江墟を爆撃、焼夷弾10発余りを投下し、民間人50人余りが死亡、7人が負傷し、民家の3分の2が焼失。

同日:(旧暦の大晦日)7機の日本軍機が飛来、爆撃で100人以上の住民を殺害、翌日(旧暦の正月1日)も日本軍機は9回出撃し、10人以上が死亡、2万軒以上の家屋が破壊された。

*1月27日:春節の日、河南省桐柏の県城に焼夷弾を投下し、民家50軒を焼却し、10人余りを焼死させた。毛集街も前後十数回爆撃、最初の爆発で80人以上が死亡、5人の子供が爆死した。爆撃後、毛集街の南西部には一面に人の残骸が広がり、頭も足もない、腹も裂けて腸も流れ、血まみれの死体がいたるところに見られた。二回目の爆死は43人で、58人が重軽傷を負った。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

*同日:広東省清遠市源潭鎮・代店付近を「猛爆」。

【ゲリラ殲滅のために村を放火】

*1月28日:前年9月に河南省駐馬店市汝南県が激しい空爆に襲われ、危険を逃れて県城の北東18里の殷湾寨に逃げた人々がいた。その殷湾寨に未明、日本陸軍が攻め込んできた。それに合わせて一機の飛行機が低空で機銃掃射と爆撃、さらに地上軍が砲撃を加えた。その後日本軍は村中を荒らし、村人を殺して放火し、家屋三、四千房室を焼きはらい、村は焼け野原となり、何百世帯の家族が家を失った。上記1月25日と同様、おそらく抗日ゲリラがいると疑われて一つの村が消滅された例である。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

*同日:河南省漯河(らが)市郾(えん)城、羅河塞を爆撃、十数ヶ所に火災を生じさせた。

*同日:午後、5機の日本軍機が陸軍自動車隊を援護するために、八路軍雁北支隊を追撃、山西省朔州市応県の東上寨上空で機銃掃射、日本軍の歩兵も村の上下に照準を合わせて挟撃した。たちまち村は大混乱となり、人々は四散して逃げ去った。2時間後、日本軍は去る前に村中に火を放ち、村人の家財はすべて焼かれた。

*1月29日:雲南省昆明を17機が2回に分けて市街区、民権街、福照街、文林街一帯を爆撃し、その結果西南連合大学や赤十字社昆明分会と職会病院、職業学校(海軍側はこれらを軍事学校としている)なども爆撃された。死者54人、重軽傷82人、全半壊家屋約650棟。

*同日:河南省漯河市舞陽県から平頂山市葉県に向けて撤退する中国軍を爆撃、壊滅させた。

*同日: 安徽省阜陽市太和県倪邱(にきゅう)鎮を3機が爆撃、4人が爆死した。

*1月31日:山東半島の威海市栄成清海衛および五〇湾?付近の軍拠点を急襲、ジャンク船群を爆撃。(この後海軍はこの地域に艦船からの砲撃と陸戦隊の上陸をもって制圧する)

*同日:日本軍機20機(あるいは26機)が陝西省南鄭県城西郊空港及び西関一帯を爆撃、爆弾70発以上を投下、空港の滑走路と南関小学校の西側と漢江に落下し、中には時限爆弾が数発あり、午後6時に爆発、南関の民家の3棟を破壊した。(時限爆弾は後の米軍の日本本土爆撃にもしばしば使われた) 

◎ 1月31日、タイ、フランス、日本の3か国の代表がタイ・ベトナム停戦協定を締結し、日本はタイに侵入した。 

2月

*1941年2月1日:河南省南陽市鄧県白頭鎮に5機が飛来、投弾57発、爆死21人、牛33頭、家屋百余軒であった。

*同日:陸軍に協力して湖北省洪湖市峰口、仙桃市通海口の軍拠点を爆撃。

【人の集まる市場への爆撃】

*同日:安徽省阜陽市に27機が飛来、界首県大田では市が開かれ、集まっていた人々に爆弾と焼夷弾を投下、全部で合わせて700人余りが死傷、その中の30世帯の家族が全滅し、80%の家屋が破壊された。

*2月2日:山東半島の威海市栄成清海衛付近の中国軍小部隊を爆撃。

*同日:安徽省阜陽市を再び爆撃、多くの住民が死傷した。

◎ オランダ政府はオランダ領インドシナを「東亜(東アジア)新秩序」に編入するという日本政府の要求を拒否した。

*2月3日:重慶への補給路の要地、湖南省永州市冷水灘の軍用倉庫を爆撃、「火焔天に沖し付近一帯を火の海と化した」。

*同日:江西省広信の軍用倉庫二ヶ所を炎上させた。

*2月4日:河南省鄭州を三度、また同省南陽市を爆撃。(この日、陸軍は河南省南陽を陥落させた)

*同日:重慶合川県の市街区を9機が爆撃、爆弾44発、2人死亡、10人負傷、家屋損壊270軒。また広信南方の軍事施設(とは限らない)を爆撃。

*2月4−7日:香港からの隠密輸送路とされる公韶公路に対する陸軍の作戦に協力して爆撃。

*2月5日:連日で江西省広信の軍拠点を爆撃。

*2月7日:援蒋ルートである雲南省メコン川の功果橋を27機で3回にわたり爆撃。

【細菌散布計画】

〇 2月7日付けで重慶の軍事委員会は国防部軍医局に対して、日本軍は近く包頭市で鼠を一匹につき一円の値をつけて、十万匹を買収する予定であるという。聞くところでは毒菌やペスト菌を繁殖するために使われ、その一部は飛行機でわが陣地に散布して、無血刃の効果を収めるために使われるという。委員会は今後荷物類を周到に検査するように通達した。

*2月8日:揚子江岸の安徽省銅陵市大通における陸軍に協力し、鄱陽湖西岸の軍拠点30ヶ所を爆撃、5ヶ所を炎上させ「敵死約300を機上より認めた」。(この「敵死」の表現は極めて珍しい)

*2月9日:雲南省保山市の修復されたサルウィン川の上流惠通橋を26機で爆撃。

*同日:雲南省昆明を爆撃、対空砲火を掻い潜って軍事工場を炎上させ、滇緬(てんめん)路の各所を破壊。

*同日:雲南省蒙自県 迷拉地を爆撃、6人が死亡、3人が負傷。 

*2月11−12日:4機が雲南省文山県城に爆弾6発を投下、15人が死亡、7人が負傷。

【低空から学校を爆撃】

*2月13日:午後3時、1機が雲南省文山県で低空から省立開文中学校に照準を合わせ爆弾2発を投下し、図書館と教室を爆破、また、開広警備司令部に向かい爆弾1発を投下、死傷者10人以上。

*2月12日:昆明の大倉庫群を爆撃、大火災を生じさせた。

*同日:功果橋を27機で大爆撃、やっと橋は爆破され、また待機中のトラック群二百数十台も爆破。

*同日:広東省南方西江口三角地帯の古井墟、沙富大亭墟の軍拠点を爆撃。

12日、第7戦区の一部が反撃し、芦苞を回復した。日本偽軍(傀儡軍)の一部は河北青龍県大屯村を包囲し、一軒一軒を捜索して焼殺した。わずか5時間で、村人187人を殺害し、家屋535問を焼失し、食糧30万斤を強奪した。

*2月13日:安徽省宣城市郎渓県城の梅渚の南門と外西門を爆撃。3人が死亡、7人が負傷し、民家15間を爆破。

◎ ルーズベルト米大統領は15日から日本への石油輸出を禁止するよう命じた。

*2月14日:浙贛線上の要衝江西省鷹潭市鄧埠および南方の軍用倉庫を爆撃。

【桐城市で600人以上の死傷者】

*2月15日: 未明、日本軍は安徽省安慶市桐城市の抗日根拠地である桐東を目標に3時間の連続爆撃を行い、一面の火の海となり、死体が散乱し、血肉が飛び散った。翌日「掃討」を実行、農民の家屋40戸数戸を全焼させ、根拠地の党・政・軍幹部兵士は40余人を犠牲にしたが、民間人の死傷者は600人で、そのうち一家5人が全員死亡した例もあった。

*同日:安徽省合肥市堯渡街を爆撃。

*同日:陝西省楡林市府谷県の哈鎮にある中国軍陣地を爆撃。

*同日:2機が雲南省文山州馬関県城を空襲、投弾11発で爆死7人。さらに西疇県城を爆撃、爆弾13発を投下し11人が爆死。

*2月中旬:10数機が江西省上饒県城西大街、南門口、牌楼底を爆撃、焼夷弾数十発を投下し、鼓楼洞一帯と郊外の西大街および各路地の店舗や住宅1000軒余りを焼失し、いたるところが焦土になり逃げ遅れた人々の爆死、焼死者は数えきれない。

*2月17日:湖北省の監利、安徽省安慶南方の養風鎮の軍事施設を急襲、爆撃。

*2月17、19日:湖北省宜昌の野砲陣地を反復爆撃。

*2月18日:江西省撫州・上饒市広信・吉安市泰和・萍郷市蓮花を爆撃、さらに西方で運行中の列車、吉安泰和を爆撃。

*2月19日:湖北省荊州市洪湖県の峰口、漢河口を爆撃、200発余りの爆弾と焼夷弾数発を投下し、民家100棟余りと木船120隻をを破壊した。

▽ 2月20日、中国空軍は広州の天河空港を爆撃し、日機5機を破壊した。

*2月21日:51機が雲南省昆明を襲撃、一大倉庫群に大火災を生じさせた。。別途26機が惠通橋を爆撃。

*同日:正午、4機が安徽省宣城市寧国県河瀝渓鎮に14発の爆弾を投下、民家38軒を爆破・倒壊させ、死者2人、負傷者5人。 

*同日:3機が雲南省文山州文山県に爆弾4発を投下、11人が死亡、13人が負傷、倒壊した家屋は130以上。さらに2機が馬関県城に投弾と機銃掃射を行い、市街地がたちまち炎上し、翌日まで燃え続けた。住民7人が死亡、民家100棟以上が焼失。また3機が文山州西疇県城西洒鎮を爆撃、爆弾13発を投下、12人が死亡、4人が負傷し、30戸以上の家屋が焼失。

*2月22日:26機が雲南省惠通橋を爆撃、別途滇緬路(雲南ビルマ道路)を爆撃し、箇旧市の錫鉱山も再び破壊した。

*同日:雲南省蒙自県の市街地を爆撃、家屋185戸を損壊。

*2月24日:安徽省合肥市堯渡街から江西省との境の石門街一帯の中国軍師団の拠点を爆撃、(兵器弾薬を収納している)数十の家屋は大音響をあげ爆発、「覆滅的打撃を与えた」。

*2月26日:27機が二隊に分かれ、昆明の市街の中心地と臨江里、大東門、東庄一帯を爆撃、死者103人、重軽傷91人、全半壊家屋約140棟。(海軍側の記録は「昆明西方の大倉庫群、また市街の重要軍事施設に対し猛爆、大火災を惹起させた」とある)

*同日:惠通橋を31機が爆撃。

*同日:安徽省廬江県の黄姑閘、盛家橋を爆撃。

*2月27日:惠通橋を26機が爆撃、その他昆明市街と箇旧市を爆撃。

*同日:雲南省蒙自県の 馬拉格を爆撃、6人が死亡、9人が負傷、倒壊家屋は11戸。

*同日:安徽省安慶漑口鎮(不確定)の「軍用家屋」その他を大破炎上させ、「同部落北方の敵兵百余名を銃撃し概ねこれを撃滅」

*2月某日:黒竜江省の嫩江市・五大連池市・伊春市の小興安嶺にある抗日共産軍の陣地をそれぞれ爆撃した。

3月

*1941年3月2日:9機が江西省上饒市鄱陽(波陽)県に来襲、一条巷から四条巷まで40数発の爆弾を投下して、31人を爆死させ、140棟の家屋を破壊した。鄱陽(波陽)県は1938年8月以来、石門街、謝家灘、响水灘、漳田渡、万家虷、香炉山…などが83回にわたって空襲を受け、374人が死傷し、家屋1137棟が破壊され、直接的な経済損失は計り知れない。(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:9機が広西省崇左市竜州県上金旧街を爆撃し、民家80軒余りを爆破。

*同日:正午、9機が福建省福州市福清の海口鎮に侵入、無差別爆撃を行い住民約40人を爆殺、楊学端の妊娠中の妻の遺体はその家の対面にあった陳得標店の前の電柱からぶら下がり、その息子の片足は電話線に垂れ下っていた。

 この一方で、福州市平潭県城へ36機を出動させて県城の市街地各所に70発以上の爆弾を投下、店舗や民家数十軒を爆破し、30人以上を死亡させ、100人近くが負傷した。

*3月2−3日:二日間で日本軍機が7度、福建省連江県城に対して爆撃を行い、白石頂、高吟里、厝辺、天皇前、娘奶宮付近を爆破、16人が爆死、4人が負傷、約50世帯以上に被害がでた。 

*3月3日:江西省上饒市戈(よく)陽を27機が爆撃した。 爆弾100余が投下され、300人を超える人々が死亡または負傷した。さらに54機が上饒の市街を2回に分けて爆撃した。またこの流れの中と思われるが、同省鷹潭市と貴渓に対し1236発の爆弾が投下された。

*同日:湖南省長沙を30機が爆撃、9機が浙江省江山区曲県を爆撃。

*同日:浙江省衢州市江山県の列車の鉄路を27機が爆撃、他に民家38間、22人を爆殺し、9人が負傷した。

【撫州市南城で1000人以上の死傷者】

*同日:江西省撫州市南城を27機が襲撃、飛行機は二群に分かれ、一群は南門から始まり、金闘事件、小学校場、西大嶺、水際に多くの爆弾を投下、もう一群は西から東に向かって、イエス堂、大旅館社、羅家垮上、裕民銀行、十字街、石家巷、下挟城豚行、犀牛望月等で多くの爆弾を投下した。また空港で万年橋、楊家坊を機銃掃射し、南昌方面へ逸れた。この日は1000人以上が死傷、100軒以上の家屋が破壊された。

*3月4日:連日で江山城区を爆撃し、列車の鉄路、水星楼民家の18間を破壊した。

*3月3−15日:陸軍の雷州方面作戦(広東省の雷州半島およびその東西の沿岸地区攻略)に呼応して適時爆撃。

*3月5日:湖南省長沙と常徳爆撃。

*3月9日:雲南の安寧、江西の卑陽を爆撃。

*同日:雲南省昆明を爆撃。

▽ 中国空軍は湖北省宜昌の日本軍陣地を爆撃、日本軍の死傷者は多かった。

*3月10日:抗日ゲリラを狙って山西省運城市の垣曲・同善鎮を爆撃。この時、毒ガス弾も投下された。

*同日:昆明新飛行場を爆撃。

*3月10−20日:この間、安徽省安慶周辺の望江・池州市香口鎮・蕪湖市無為・合肥市廬州・四川省宜賓市上石灰、鄱陽・浙贛ルートの江西省鄧埠・鷹潭、湖北省宜昌市長陽・南陀、揚子江岸の三斗坪・帰州・巴東・恩施などの軍事施設、駅付近の設備や燃料庫などを順次爆撃。

【米国の中国支援政策】

◎ ルーズベルト米大統領は中国支援の「武器貸与法案」に署名した。また、民主国家への支援を強化するために70億ドルを国会に拠出するよう諮問した。

*3月12日:浙贛線の要衝江西省上饒市を爆撃。

*3月中旬:海南島南凱、船埠および雅会を爆撃。

*3月14日:成都の基地群を零戦を含めた24機で爆撃。空中戦により21機撃墜、地上の5機を炎上、大破。日本は5機撃墜された。

*3月17日:午後1時、湖北省宜昌市帰州県城を 6機が順番に爆撃し、10発余の爆弾を投下、民家15棟及び北門内の中心学校、九九後方病院、負傷兵収容所を破壊し、44人が死亡、10人が負傷した。

*同日:9機が江西省宜春市銅鼓県県城を爆撃、爆弾、焼夷弾を投下し、機銃掃射を行い、爆死21人、重軽傷35人、家屋破壊79棟、損壊27棟。

*同日:8機が広西省防城港市防城の企沙街及び県城を空爆、県城に16発の爆弾を投下、住民24人、兵士11人が死亡。

*3月17−18日:浙江省杭州市三都から福建省莆田市興化湾に至る連島・熨島・梅花・広石・三江口などの軍拠点を銃爆撃、「甚大なる戦果を収めた」。

*3月18日:重慶を二度爆撃、一波は9機が小龍坎、二波も9機が磁器口を襲い機銃掃射、爆弾計22発、焼夷弾2発で死傷者10人以上。

*3月19日:18機が重慶を襲撃し、郊外で爆弾20発を投下、2人を負傷させ家屋15軒を破壊した。

*3月20日:四川省遂寧飛行場、雲南省昆明飛行場を爆撃。なお遂寧飛行場を爆撃後、3機が城内に焼夷弾18個を投下、街路の商店など多くが燃やされた。

*同日:海南島嘉積、龍江を爆撃。

【占領後の蛮行】

*同日: 浙江省湖州市長興県の泗安、平和、水口などに対しこの日から4月30日までの間に92発の爆弾を投下、 民間人32人が死亡、74人が負傷、民家491棟が爆破された。その後、日本軍は長興を8年間占領し、民間人1008人を殺害、家屋3万4279戸を燃やし、食糧13万9100石、家畜9万200頭、家禽類55万7000羽を奪い、樹木584万株、毛竹219万本を伐採した。

*3月21日:揚子江流域、湖北省宜昌西方の太平渓、荊州市沙市南方の藕池口、孝感市安陸奥地の盛家橋を爆撃。

*同日:安徽省合肥市廬江県城を爆撃。また宣城市の広徳流洞橋を10機が爆撃し、20人以上が死傷した。

*同日:8機が浙江省衢州新橋街で燃焼弾を投下、大火は南街に沿って燃え上がった。

*同日:浙江省台州市黄岩から約30km離れた浮山荘を爆撃、1人が死亡。

*3月23日:江西省宜春市の奉新にある華林・白茅山一帯の中国軍陣地に毒ガス弾を投下。

*3月23−数日:陸軍の広東省汕頭市対岸の上陸作戦に協力、軍は汕尾、朝陽を占領。

【カトリック教会への爆撃で死者500人以上】

*3月24日:2月13日に続き、安徽省郎渓県城を爆破した。スペイン国旗が掲げられたカトリック教会は、これまで一度も日本機が爆撃しなかったため、「安全な場所」と考えた人々が避難した。多くの行商人さえ教会の広い院内でテントを張って、露店を飾って商売を始めていた。日本機は郎渓県の上空から、教会の敷地内にある天幕や行き交う人々を見つけ、旋回しながら機銃掃射をし、爆弾や焼夷弾を投下した。たちまちカトリック教会は煙を上げ、建物の一部や周辺の家々も破壊され、死体が飛び散り、瓦礫が散乱し、倒壊した建物に押しつぶされたりして、カトリック教会に避難した住民は、少数の生存者以外、死者500人以上を数えた。(『日軍侵華暴行実録』第3巻) 

 この他、午前8時から9時まで、9機が蕪湖方面から飛来し、郎渓県城の別地区を爆撃、爆弾数十発を投下の上機銃掃射を繰り返し、死亡67名、負傷42名、家屋134軒を破壊し、北門一帯は廃墟と化した。また同県湯橋の爆撃では、死者4人、負傷者8人、家屋57間が破壊された。

*同日: 浙江省紹興市嵊県の黄沢源大絹糸工場を爆撃。その後日本軍は嵊県の 富潤、 甘霖、 雅岑村、 黄沢などに侵入し、悪虐の限りを尽くした。

*3月25日:安徽省合肥市堯渡街を爆撃。

*同日8時、6機が安徽省宣城市寧国県河瀝渓で22発の爆弾を投下、30軒の家屋を爆破し、2人が死亡、2人が負傷した。

*同日:9機が広西省防城港市防城の企沙街を爆撃、住民9人死亡、家屋7軒破壊。さらに翌日も一機が、防城の東興街を爆撃、4発を投下し4人を負傷させた。

【リットン卿の後悔】

◎ 前国連調査団長のリットン卿は、日本の中国侵略(満州事変時)をかばった過ちを悔やみ、世界の民主国家に中国支援を呼びかけた。

*3月26日:9時から17時まで16機が安徽省宣城市郎渓県城を爆撃。県城の中心市街地や天主堂に計40発余りの爆弾を投下、200人以上が死亡、数十人が負傷、数百軒の家屋が破壊された。凌笪、湯橋、東夏などの村を順番に爆撃した後、日本軍は県城に侵入した。

*同日:湖北省宜昌付近と揚子江岸三斗坪、浙贛線の江西省玉山を爆撃。

【占領地の麻薬の拡散】

〇 中央社の報道によると、日本軍の河南省占領区での麻薬乱行は日増しに深刻化している。占有地ごとに、日本軍はヘロイン、モルヒネなどの麻薬を売り込み、わが民衆に吸引させ、その毒を受けた者は数えきれない。そして豫北、豫南、豫東各県はアヘンを栽培している。

*3月下旬:江西省上饒市の石頭街に毒ガス弾を投下。

*3月27日:范陽東南、山東省聊城市楽平を爆撃。

*3月29日:9機が再び広西省崇左市竜州県上金旧街を爆撃し、住民31人が爆死、3人が負傷、小学校の校舎も爆破。

*3月30日:湖北省荊州市藕池口、江蘇省蘇州市相城を爆撃。

*3月31日:雲南省昆明、別途浙江省広信を爆撃。

*3月某日:浙江省寿昌に3機が飛来、爆弾と焼夷弾を投下し、河南里村で3人が死亡。

*3月某日:福建省泉州市永春県に24機が飛来、数十発の爆弾を県城と五里街一帯に投下、民家数十軒を破壊、住民数人を死傷させた。

4月

【上饒市で680人が死傷】

*1941年4月1日:夜明け、36機が江西省上饒市に侵入、12の爆撃機が皂(そう)頭鎮を、残りの24機が市街地の中街(今の信江路)王万祥薬局から上街の保康恒店まで、2km余りに及ぶ大通りの両側の店と住居はすべて爆破され、瓦礫が炸裂し、血肉が散り流れ、680人が死傷した。

*4月3日:福建省福州市連江県を多重爆撃、死亡者多数。午後3時にはさらに5機の日本軍機が襲来、焼夷弾を投下し、城関の辻は一面の火の海となり、翌日に鎮火、店も財産も全焼し、5600軒の店舗、民家が焼失、1700戸以上が被害を受けた。

*4月4日:午前8時30分、24機が江西省上饒市皂(そう)頭鎮を爆撃し、100発余りの爆弾を投下した。さらに午後2時、36機が県城上空に侵入し、80発余りの爆弾を投下、師団管区、専員公署、県庁舎、県党本部、警察署、第1区署及び監獄署一帯はいずれも破壊され、軍警、民間人20人余りが爆死した。重傷者50人余、倒壊家屋70棟余。

*4月5日:浙江省衢州城の路地、天福堂の建物の近くに爆弾が投下、7、8人が焼死。

*4月7日:湖南省懐化市辰谿を攻撃、「極めて正確なる爆撃に全弾軍需庫に命中、大火災を生ぜしめた」。

*同日:福建省寧徳市霞浦県を爆撃。

【ハノイから昆明への爆撃】

*4月8日:(占領したベトナム・ハノイから)27機が昆明の市街中心区などを爆撃、死者26人、重軽傷38人、全半壊家屋約1300棟と多いが、焼夷弾による大火災によるものと思われる。日本側の記録は「猛烈なる防空砲火を冒しつつ市街軍事上の要点に一大鉄槌を加え、甚大なる効果を収めた」とあり、焼夷弾のことは記録していない。

*同日:9機が広西省百色市平馬鎮(ベトナムから貴州に至る輸送ルートにある)に大爆撃を行う。

*同日:雲南省蒙自の「軍事上の要点」を爆撃。

◎ 米英荷はマニラで太平洋合同防衛会議を行った。

*4月9日:雨天の中、湖南省長沙に進撃、市内の軍需倉庫などに低空より猛爆撃。

△ 日本軍は呉淞口の米商テキサス石油会社のガソリン1400トンを強奪した。

*4月9−10日:雲南省昆明、安徽省桐城を連日襲撃した。

*4月10日:広東省河源市龍川の橋梁を爆撃。

*4月11日:再び蒋介石の故郷である浙江省寧波市奉化県を爆撃した。奉化は2年前から爆撃を受け、20回以上の空襲で、延べ66機により222発の爆弾を投下、100人以上の死傷者を出し、400軒以上の家を破壊。この後4月23日、奉化は陥落。 奉化の渓口鎮が陥落して1576日、217人が日本軍に銃殺され、73人が捕らえられ行方不明になった。

*同日:1月に修復されたビルマとの国境の攻果橋を再度爆撃に向かうが、悪天候のため不発、そこで雲南省蒙自の錫精錬工場(および軍司令部?)を爆撃。

*4月12日:悪天候の中、安徽省蕪湖市南陵の市中央部を爆撃、「多大の戦果を収めた」。

*4月13日:安徽省の皖南・南陵、江西省上饒、湖南省衡陽を連日で爆撃した。

*同日:27機が浙江省金華の武義城と白渓口空港を爆撃し、大型爆弾と焼夷弾40個以上を投下、死者40人以上、重軽傷数10人、家屋240間余りを破壊した。

*同日:浙江省麗水、浙江省金華市永康を6機が爆撃。

【ソ連に代わる米軍の航空隊支援】

◎ 4月13日:日本政府は日ソ中立条約の締結によって、モンゴル人民共和国と「満州国」双方の領土保全と「神聖不可侵性」を相互に尊重した。こうしてソ連(ロシア)の対中国援助を封じたが、ソ連は対中政策を維持していると声明した。

◎ 同様に日本は米国とも同様な交渉を開始したが、米国はあくまで中国からの撤兵を主張した。中国国民政府は前年11月に米国に中国からの日本本土空襲を提案していて、二月には米軍機P40百機の供与を決定、この4月15日、には米国のルーズベルト米大統領は、米軍予備役将校と退役者が志願航空隊を組織し、中国に参戦することを秘密裏に許可した。さらに五月には武器の援助、七月には爆撃機500機と所用兵員の中国派遣を決定した。

【浙江省への集中爆撃】

 3月から5月にかけて浙江省への爆撃が続けられている。

*4月15日:「折からの快晴を利して」浙江省衢州市衢県・開化県、江西省鷹潭市貴渓・餘江、上饒市弋(よく)陽・広豊、江蘇省無錫市崇安(現・梁渓)、福建省南平市浦城・龍泉などを逐次爆撃。(以下は中国側より)衢州では30機が石畳庁、道前街、五聖巷などを乱爆し、住民21人が死亡、2人が負傷。開化では20人余りが死亡、多数の負傷者と、302軒の商店、94軒の民家、53軒の公共家屋を爆破。浦城では 27機が県城上空に侵入、30発以上の爆弾を投下、県政府の大会堂が爆破され、市街地の要所などに弾が命中、合わせて39人が死亡、家屋100軒以上を爆破。

*同日:浙贛鉄道沿線の浙江省金華市の武義・蘭谿・嶺下朱、杭州市天目山などを急襲、司令部、軍事施設などを「粉砕、炎上」。さらに浙江省紹興市諸曁(き)付近を南下中の大部隊を爆撃。

 これに対する中国側の記述は、「杭州の西天目山の『千年の古刹』禅源寺を爆撃、30発余りの爆弾を投下し、爆死傷者48人、寺院、僧房など350室余りが破壊され、数百年の歴史をもつ大規模な禅源寺は、天王殿と山門を除いてすべて灰燼に帰した」とあり、また浙江省金華などについては、下記同日の爆撃記録に重なっていると思われる。

*同日:浙江省金華の武義県の白渓口空港に7機が30発余りの爆弾を投下し、空港の兵舎200間を爆破して焼き、駐軍7人を爆殺、6人を負傷させた。別途、北壺窯に9発を投下、民家40余間を爆破し、さらに白洋渡に数発を投下、民家数十間を爆破し10余人を殺した。

*同日:18機が浙江省衢州市江山県城区の民家92室を爆破し、24人を爆殺、13人を負傷させた。

*同日:この日を初回として27日までに浙江省金華市浦江県の青蘿郷、浦陽鎮、中余、会竜橋、仏堂店、寺前、虞宅、石斛橋、呉大路、岩頭陳などの村鎮に対し18回爆撃を行った。最初の10回の爆撃で、80人が死亡し、66人が負傷し、759軒の家屋が破壊され、114軒の家屋が倒壊した。このうち浦陽鎮は4回の爆撃で500軒余りの家屋が破壊された。なお、その後の占領で、1945年7月初めまで、日本軍は県内で39回にわたって掃蕩を行い(放火・略奪・強姦・拉致)、家屋6662軒を焼失し、住民は1200人余りの死傷者を出し(うち415人が殺害された)、全県の工農商が被った直接・間接的な経済損失は莫大であった。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

*同日:江西省上饒市広豊県を9機が襲撃、まず3機が戊午小学校に爆弾を投下、校舎と民家の間を爆破、民家の8人全員が爆死した。六機は城内大街の大井頭から県庁の入り口まで、17個の爆弾を投下、広豊城の中心市場街の40棟以上の商店を爆破。

*同日:午前11時、27機が福建省南平市崇安県(現・武夷山市)上空に侵入、先頭の3機が南門頭鬼仔門に飛来、 10発以上の爆弾を投下、続いて3機編隊が、南北にわたる城区1kmの市街に爆弾を投下し、すぐにUターンし、北から南へ爆撃と機銃掃射を30分ほどかけて行った。全城に火は燃え広がり、家が倒壊して街は血と肉で満ち溢れ、叫び声が絶えなかった。住民の40人以上が死亡、多数の負傷者がでた。水系門一帯の瓦礫の中には、犠牲者の切断された腕や内臓、肉の塊が目につき、遺体はもはや身元が確認できない様相であった。市街地は一面の廃墟と化し、財産の損失は計り知れない。(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:安徽省合肥市廬江県城を爆撃。

*4月15−19日:四日間、浙江省沿岸要衝の鎮海、寧波市石浦、温州に上陸する陸軍部隊の作戦(浙東作戦)に先立ち、水上機をもって、温州市楽清・台州市温嶺・大渓・楚門・黄巖・天台・仙居・松門、寧波市寧渓、麗水市青田、江蘇省南通市海門などの要地を攻撃、司令部、兵営、陣地、軍需倉庫、貯油庫、江上の船艇群、橋梁などを爆撃、「完膚無きまでに撃砕」。

*4月中旬:江蘇省南通市海門を急襲、東支那海に向けた砲台および観測所を「木っ端微塵に粉砕」。

*4月中旬:福建省福州市 倉山龍潭角碼頭付近を爆撃、住民が死亡、10人以上が負傷。

*4月16日:またも大挙して出撃、浙江省温州市温州・海門、台州市温嶺・黄巖城・松門・新河鎮・大渓・路橋鎮・玉環、寧波市石浦などを逐次攻撃、軍事施設、拠点を爆破または炎上させた。さらに杭州市謝家村に集結する部隊を爆撃。 

*4月16、18日:雲南省紅河州建水県城を2度爆撃、19人が死亡、65人が負傷、120戸の家屋を爆破した。

*4月17日:湖南省常徳の軍事拠点を爆撃、湖畔の倉庫などを「粉砕、炎上させ甚大なる効果を上げた」。

*同日:午前10時ごろ、6機で、浙江省金華市武義県の曲湖、回川、桐琴などで数十発を投下し、7人が死傷。3人は機銃掃射で殺された。また白溪口、童廬、白渓、泉渓、張宅、双路亭などの村も爆撃された。県内では21回の爆撃を受け、家屋1593間が破壊され、財産損失は計り知れない。なお武義県はこの後日本軍の占領により、1945年の撤退までに約三千人が虐殺されている。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

*同日:午前9時、浙江省金華市義烏は仏堂の市の日で、人々が集まっていた。敵機は人々が最も密集している老市基に一つの爆弾を投下、それが豚市場で爆発し120人余りが爆死した。

*同日:浙江省麗水市青田県城に3機が3発の爆弾を投下、2人が死亡、6人が負傷、民家46軒を爆破。

*4月18日:雲南省昆明に向かったが天候不良で開遠市阿迷に転じ、「全弾を市街に命中させて帰還した」。この阿迷は開遠の旧称で、これに相応する中国側の記述は「開遠県城東門を日本軍機が爆撃、28人が死亡、27人が負傷、394戸の家屋を破壊した」とある。

*同日:雲南省蒙自駅を爆撃、16人が死亡、19人が負傷、110戸の家屋を破壊。

*同日:地上部隊の浙江省銭塘江南方の掃討戦に協力、また江西省上饒市玉山飛行場を急襲、地上の爆撃機等6機を爆砕。

*4月19日:貴州省貴陽市の清鎮を爆撃。

*同日:11機が浙江省新昌県城を爆撃、爆弾42個を投下、30人が爆死、6人が負傷、家屋多数破壊。翌日も新昌の抜芽、曹州に3機が来襲。

【鎮海の死傷者3500人以上】

△ 4月19日、浙江省鎮海は日本軍に占領されるが、日本艦艇から砲撃、日本軍機の爆撃と機銃掃射、軍刀による斬殺で死亡した住民は737人、負傷者2820人(うち男性1087人、女性1733人、後遺症や障害が残る214人)にのぼり、日本軍によって爆撃され焼失した民家、学校、廟などの建物の総数は1万軒以上に達する。

*4月19−21日:福建省福州を地上部隊の侵攻に合わせて爆撃支援。

*4月某日:海南省楽東県の道教、好球の2つの村を爆撃、120余りの農民の家屋と穀倉が灰になり、千人近くを流浪民とした。

*4月某日:湖北省宜昌を48機が交替で爆撃し、多くの漁船を沈没させ、多くの無辜の人々を死傷させた。

*4月某日:安徽省合肥市肥西県三河鎮に三機が飛来し、住民八人を爆殺した。

*4月某日:3機の日本軍機が福建省漳州に飛来、東門に続く官亭付近に爆弾を投下、民家2棟を爆破した。

*4月21日:日本軍は福建省福州を占領するが、これまでに福州の飛行場と市街地爆撃で死傷者380余人、海軍基地のある馬尾に対しては爆撃107回、死者94人、負傷者92人であった。この日、福建の水口、閩清などを爆撃した。(なお、福州への爆撃は主に日本の植民地台湾の飛行団が担当した)

*同日:11日に不発に終わった雲南省ビルマルート(滇緬路)の攻果橋の攻撃に向かうが、曇天の中爆撃するも効果不明、その帰途に雲南省保山を爆撃、死者17人、負傷者15人、倒壊家屋109棟。

(ただし別の記事では、攻果橋を「徹底的に爆撃し全機無事帰還」とのみあるが、深い谷間の雲に遮られて中止している。このように新聞などでは「出撃」と聞いただけで「徹底的に爆撃」と書いてしまう傾向があることがわかる。しかも軍内でも飛行士の報告が、やや誇張気味の傾向があるとしている)

【ペスト菌の投下】

*同日:日本の防疫部隊(731部隊)は浙江省新登県上空からペスト菌を投下した。

*4月22日:浙江省金華市孝順鎮大街に27機が奇襲、爆弾と焼夷弾で1685軒の家屋を破壊、800mの長い通りが瓦礫し、1090年の歴史ある義済橋も壊され、女性6人子供3人を含む18人が死亡。

*同日:雲南省昆明および雲南省箇旧市の錫鉱山を爆撃。

*同日:湖南省長沙を爆撃、民間人死傷90人余り。

*同日:安徽省廬江県城を爆撃。4月15日と合わせて焼夷弾を多用し、太平、育嬰、高旭、県府、牌楼五保の70余戸400余間、衣服、家具、古画文物、祠堂廟の一部を焼き、多数の民間人が死傷した。

*4月23日:長沙を連日爆撃燃料貯蔵庫に命中し大火災を起こした。

*同日:湖南省益陽の市内外を爆撃。

*同日:日本機は再び浙江省金華駅を爆撃し、駅長室、貨物駅及び車屋、鉄砲丸が爆破され、給水塔が破壊された軒

【防空壕の全員が窒息死】

*同日: 浙江省麗水で、 エンジュの樹の下にあった郵便局の防空壕に爆弾が落ち、防空壕が崩壊、塹壕門が閉鎖されたことで、塹壕にいた60人以上の全員が窒息死した。その多くは郵便局職員とその家族であった。

*同日: 浙江省金華市永康を27機が爆撃。

*4月24日:浙江省寧波市鎮海の郭巨を空襲、82戸347軒の家屋が焼失、郭巨南門は廃墟と化した。

*4月25日:夜明け、浙江省台州市玉環の近く黄門外沖に日本の空母が停泊し、そこから4機の艦載機が玉環を攻撃、半日で50個の爆弾を投下、激しい火災が生じ災は二日間続いて、教場頭の主要な通りを焼いて焦土になった。三陽泰の南北の倉庫をはじめ、大小28軒の家屋が全焼した。死者4人の中で最も痛ましいのは東王文の妻には産後10日の子供がいて、逃げ遅れて夫婦と子供は炎に包まれ焼死した。家屋約500間を失い多くの住民は流浪の身となった。さらに同日午後、日本機はまた県城を爆撃し、爆弾8個を落とし、4人を爆殺し、10人余りが負傷した。その後5月にも楚門などが爆撃された。なお、玉環県は何度か日本軍の侵略にあい、556人が死亡している。そのうち兵士ではない77人が敵と戦って戦死した。また女性への暴行被害は「とても集計できない」とあるが、輪姦されて自死した女性もいる。占領時、町に「維持会」を作り、その下に坎門で妓楼を設けて、その名を「招待所」とし、女性を招待員と募集して、一部はだまされて娼婦にさせられた。ここでも何人もの女性が殺された。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

*4月26日:この日も攻果橋に向かうが曇天で不発、代わりに昆明の市街と南岳廟、小西門外の趙家堆・梁家河などが爆撃され、死者14人、重軽傷26人、全半壊家屋約140棟。

*同日:湖南省の長沙、零陵、益陽、常徳及び浙江省金華を連日で爆撃。

*同日:地上部隊に協力、安徽省池州の陣地に「全弾を命中せしめ破壊した」。

*同日:雲南省蒙自県城を爆撃、 5人が死亡、17人が負傷、150戸の家屋を破壊した。

*4月28日:午後1時、福建省寧徳市古田県に3機が飛来し県城の北から南までを爆撃、13発の爆弾を投下して民家4棟、店舗9軒を破壊、住民30人以上が死亡し、5人が負傷。

【天長の佳節に100kg弾を173発投下】

*4月29日:27機が昆明市街中心区へ100kg弾173発を投下し、爆死者78人、重軽傷119人、全半壊家屋約1150棟。(日本側の記事では「天長の佳節=昭和天皇誕生日に際し、… 大編隊軍をもって昆明に進攻、省政府、軍官学校、軍需工場・倉庫などに巨弾を浴びせ黒煙天に沖し火の海となりつつある昆明を後に全機悠々帰還した」とある)

*同日:9機が四川省梁山(現・重慶梁平区)を急襲爆撃、県城内に爆弾54発、焼夷弾7発により死亡10人、負傷23人、家屋23棟が瓦解。

*同日:湖北省思施を爆撃、その中心部に全弾を投下し「敵の心臓を寒からしめた」。

*4月30日:引き続き昆明のほか、湖南省祁陽、浙江省金華を爆撃。

*同日:午後4時、8機で浙江省金華の羅埠、沢頭、潤琳の3郷鎮に60個余り爆弾を投下、24人を爆殺し、18人を負傷、家屋200軒を破壊。

5月

*1941年5月1日:午前、30機が安徽省宜城寧国に出動し、県内各地を交互に爆撃し、同時に機関銃を乱射、約3時間ほど続けられ膨大な損失をこうむった。このうち県城駐屯軍は20数人、住民は10数人が爆死。また県政府庁舎及び多数の民家が爆破された。河瀝渓の被害も甚大で、死者も多く、そのうちの一発が石橋のそばの川に落ち、船大工7人が血みどろになって即死した。

*同日:日本機は浙江省浦江県城を爆撃し、民間人7人を爆殺、12軒の民家を破壊。さらに余、寺前、会竜橋などの村を爆撃し、死者37人、民家310軒を破壊。翌2日から21日にかけて、日本機は県城を4回爆撃し、民間人30人余りが死亡、525軒の民家が破壊された。

*同日: 浙江省温州市永嘉県を占領していた日本軍は撤退する時、2機が援護爆撃、住民6人を爆殺した。

*5月1−2日:福建省福州市福清県北部の后坂、西亭、東田、厝店などの村々を爆撃、后坂村だけで6人が爆死、4人負傷、民家16棟が破壊された。翌日、また6機が来襲、爆弾10数発を投下、后板、大玉宮、陽下などの村々に落弾、3人を爆死させた。

*5月2日:27機が重慶を爆撃し、住民50人余りを死傷させた。(海軍機はこの日から22回連続して重慶を爆撃した)

【再び重慶地区への集中爆撃作戦】(102号作戦)

 前年の同時期に展開された百一(101)号作戦と同様に、5月3日から8月にかけて百二(102)号作戦として首都重慶と四川省地区への集中爆撃が再開された。この102号作戦は、日米間の国交が険悪化しつつある折から兵力に余裕のあるうちに、後悔せずにすむようにするのを目的とし、第11航空艦隊の兵力の大部(海軍陸攻約180機)を漢口及び孝感の基地に進出させて支那方面艦隊の指揮下に入り、8月31日まで重慶及び成都を中心とする四川省要衝の徹底的航空攻撃を行うこととし、この作戦には陸軍の爆撃隊も協同した(『戦史叢書 中国方面海軍作戦〈2〉』の7月27日付より)。しかし前年101号作戦と同様、日本軍は深みから抜け出ることはできなかった。

*5月3日:63機が二波で重慶市街区を爆撃、147発を投下、また176発の焼夷弾も投下され、大火災が生じた。一つの大型爆弾が都心の観音岩地区に直径14mの巨大な穴を空けた。6人死亡、18人負傷(死傷者59人とも)、家屋269軒破壊。

*5月5日:9機が広東省肇慶の市街地を爆撃、商店街の10余軒を破壊した。

*同日:浙江省浙東を爆撃。

*5月6日:陜西省南市潼関を爆撃、前年に続き爆弾20余発が投下され再び西安大華紡績工場が爆破された。民間人死傷者20数人、家屋破壊10数棟で、大きな損害を与えた。

*同日:28機が陝西省の境を襲撃し、さらに咸陽、臨潼、大茘、澄城、朝邑などを爆撃した。

*同日:河南省鄭州、氾水を急襲、兵営、糧秣・弾薬倉庫軍事施設を爆撃。

*同日:陜西省渭南市同州と澄城県を急襲、密集部隊に「巨弾を集中、大損害を与えた」。これが中国側の記述では「日本軍機が澄城県城上空に侵入、端正街、衙門前街、北門や北横街、南街小学校、南城壁外大路などに数十発の爆弾を次々に投下、同時に機銃掃射を行い、約30分の間に、罪のない住民14人を爆殺、負傷者数人を出し、20−30の家屋と窑洞住居、店舗5軒を爆破した」となる(『侵華日軍暴行総録』)。 

*5月7日: 32機が2回に分けて重慶を攻撃、市街区に70発以上の弾を投下、市民13人が死傷。

*同日:5機が湖南省の撫陵・沅陵・辰溪を一括爆撃し、数十発の爆弾を投下。

*同日:28機が雲南省の昆明を経て蒙自と建水を爆撃、駅や軍需倉庫、自動車工場を「壊滅せしめた」。 中国の記録による被害としては蒙自県甸村で1人が死亡、2人が負傷、家屋5戸を破壊、建水県東郊では4人が死亡、8人が負傷。また蒙自駅を爆撃、3人が死亡、5人が負傷。

*同日:陝西省渭南市潼関、河南省洛陽、山西省運城市垣曲を爆撃。

*同日:雲南省昆明の北部郊外が爆撃された。

*同日:3機が湖北省荆門市仙居、劉猴集などの地を爆撃、数十発を投下し、30余人を爆死させ、家屋140余棟を破壊した。

【中原会戦(晋南会戦)】

5月7日、日本の支那派遣軍は山西省南部の山岳地帯(中条山脈)を拠点にしている国民党中央軍を撃滅し、山西省内の治安圏を拡大するための作戦を計画した。6月15日、日本軍は「赫々たる戦果」を収めて中原会戦を終了した。中国軍に与えた損害は遺棄死体約4万2000、捕虜約3万5000人(中国側の数字では7万5600人の死傷として捕虜としての数字はない)をとされ、日本軍の損害は戦死673名、負傷2292名であったとするが、戦死傷者約6000人~7000人という数字もある。この後日本軍は、徹底した剿共(共産軍=八路軍の剿滅)作戦を実施していくが、ゲリラ戦法を得意とする八路軍には(ここではあえて記載していないが)これまでも月に5回以上、日本軍は数百人から千人単位で各地で殺されている事実がある。この後も八路軍の活動は変わらない。

*5月8日:山西省運城市垣曲県横皋を爆撃、毒ガス弾も投下された。

*同日:34機が広東省の翁源、清遠、莫徳などに爆弾を投下。

*同日:連日で18機が昆明の北郊外、沙溝壩、湾子壩を爆撃、死者68人、重軽傷69人。(日本側の記録は「枢要部を焦土と化した」)

*5月9日:80機が重慶を三回にわたり爆撃し、300数発を投下し、家屋200数十棟を爆撃し、死傷者150人以上を出した。

*5月10日:54機が2回に分けて重慶を爆撃。繁華街が狙われ、179発投下、家屋264軒が破壊され、13人死亡、34人負傷。李子覇嘉陵江一帯の住宅地が壊滅、イギリス大使館とフランス大使館の一部が損壊。

*5月11日:9機が昆明の南郊外を爆撃し、死者11人。

*同日:雲南省箇旧を爆撃。

【雲南大学の深刻な被害】

*5月12日:雲南省昆明の南区が爆撃され、死亡者3人、重軽傷者17人。また雲南大学が深刻な損失を受けた。

(この辺りまでは効果橋への爆撃は一度も成功しなかったと軍の記録にある) 

*5月13日: 浙江省金華市永康県古山鎮を爆撃、民家5戸を爆破、住民12人が死亡、9人が負傷した。

*5月14−15日:浙贛線沿線の要地、江西省上饒市広信・玉山を爆撃。

*5月15日:占領した上海の大場鎮の飛行場より15機が出撃、浙江省金華市駅を爆撃し、7本の鉄路と機関車一台を破壊、民間人と工員20人以上が殺害された。

【金華の受難:1万7204人もの虐殺】

△ ここまでの浙江省金華地区への爆撃は航空機延べ450機余り、爆弾、焼夷弾1056個、軍民の1308人を爆殺、家屋1万800室であった。この後金華市は占領され、4年間で市全体では民間人1万7204人が虐殺され、負傷者3万6569人であった。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

*同日:浙江省金華の義烏市街と西部の軍司令部を爆撃した。

*同日:江西省上饒市鄱陽(波陽)県の石門街が9機の爆撃を受け、2人が爆死、6人が負傷、家屋358棟をを爆破。また、県城、響水灘、万家土玉蓮湖朱家を相次いで爆撃。この爆撃と同時に、日本軍は石門街に侵入し、沿道で放火、殺人、略奪が起こった。

*同日:正午、3機が福建省福州市閩清県城梅渓口方向から県城上空に侵入してきた。較場坂には10数隻の鼠船が停泊していて、船に乗っていた10数人の船員は先を争って砂浜に飛び上がり逃げようとしたが、日本機は彼らを狙って、連続して22発の爆弾を投下した。すぐに砂浜には噴煙が湧き上がり、血と肉が飛び散った。傷を負った生存者もその後回復せず死んだ。閩清では2回の爆撃で計25発の爆弾を投下し、合わせて36人の船員が爆死、19人の住民が負傷した。(『侵華日軍暴行総録』)

*5月16日:重慶を62機が2回に分けて繁華街を爆撃。外国大使館とその主要人物の居住地、重慶社会服務処なども被爆。爆弾129発、焼夷弾14発で17人死亡、34人負傷、家屋699軒破壊。

*同日:四川省忠県に爆弾2発で22人死亡、40人負傷。

*同日: 浙江省金華市蘭谿市街の補給施設を爆撃。これは中国側の記録では「日本機6機が蘭谿の女埠鎮に爆弾と焼夷弾を投下、鎮の街々はすべて被弾して炎上、商家や民家100戸以上が爆破され、住民2人が死亡した」となっている。

*同日:河南省洛陽を大爆撃。

*5月17日:浙江省の衢県(衢州)市街を爆撃、投弾と機銃掃射によって30人余が死亡、30軒余りの民家が焼失。

*同日:重慶巫山県城を爆撃、爆弾36発、焼夷弾7発により5人死亡、6人負傷、家屋150棟損壊。

*同日:14機が浙江省衢州市江山県城内公園とその前の民家18室を爆破し、3人を爆殺、4人を負傷させた。

*同日:江西省上饒市の玉山県の中国軍諸施設を爆撃。

*同日:9機が 湖北省宜昌市帰州(秭帰)県香渓を爆撃し、焼夷弾3発、爆弾10発余を投下、家屋8棟、大小の木船20匹を爆破し、70人余りの死傷者を出した。

*5月18日:江西省広信市街と浙江省新昌市街と軍施設を爆撃。

*同日:江西省上饒市の広豊の西北郊外を爆撃。

*同日:河南省西安を爆撃。

*同日:一機で陝西省渭南市蒲城県の南西郊に数発を投弾、小麦畑数畝を破壊。 

*5月19日:河南省洛陽を爆撃。

*同日:5機が浙江省新昌県城を爆撃、爆弾56個を投下、12人が爆死、9人が負傷、家屋多数破壊。翌日も3機が新昌県祥棠、下滔、大坂などに来襲、爆弾10個で5人死亡。

*5月20日:浙江省の歙(きゅう)県市街を爆撃。

*同日:広西省欽州市の市街地と貨車、倉庫、軍施設、また甘粛省蘭州飛行場を爆撃。

*同日:21機が11時10分成都市街に侵入、12機が一字隊形を組み、城南の武侯祠から南西方向に黄田壩、簇橋、太平寺一帯を低空飛行し、民間人に機銃を乱射した。

*同日:27機が四川省宜賓市街地に飛来、旋回した後、菜堤空港に300発以上の爆弾を投下、1人を爆死させ、数人を負傷させた。

*同日:四川省梁山(現・重慶梁平区)を12機が爆撃、爆弾73発、焼夷弾4発により県城、城西郷、石安郷などを爆破、18人死亡、77人負傷、家屋39棟損壊。 

【金華市義烏の例】

*同日:浙江省金華市義烏県城を爆撃。午後2時、諸曁方面より12機が来襲し、城の上空を数周旋回し煙幕弾を投下した後、城の各門に爆弾235発、焼夷弾14発を投下した。全城がにわかに炎上したが、敵機は低空で機銃掃射してきた。敵機が去って行くのを待ったが、火の手はすでに蔓延し、すでに民家314軒を爆破し、820間が全焼した。全城の精華(財物)をことごとく焼失した。防衛策により人の被害は少なかったが6人が爆死した。このほか、蘇渓が3、400軒、華渓が100軒余り、植林が300軒余りの家屋を破壊された。なおこの後の日本軍の義烏への攻撃と占領で住民の死亡は1767人、負傷して障害を負った者は1549人、家屋の損失は1万7613間、家畜の損失は6万5390頭で、食糧損失は計り知れない。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

*5月某日:日本軍飛行隊の広州駐屯地から4機を出撃させ、仏山市南海和順鎮の文頭岭に掃射と爆撃を行い、横岡呉に7発を投下し、家屋五間を破壊、死者14名、負傷者5名。また元岡に約十発を投下し、家屋三間を破壊、死者2名、負傷者数名。湯南に対して25発を投下し、男3人、女2人、子供1人が死亡、家屋五間を破壊し、男女約十人が負傷した。湯北には8発を投下、死者は女1人、負傷者は男女3人。南辺村には四発が投下され竹林に落ちたため死傷者はなかった。

*5月某日:3機が広州市従化県錦羅郷上羅沙下洞村を爆撃、鳳鳴里だけで7人が死亡、その中の子供二人は食事を終えて家を出たところで爆死した。この村の門楼内の床には7体の血だらけの死体が並べられたが、あるものは下半身が破裂し、腸まで流れ出ていた。

*5月21日:浙江省麗水市街地と軍施設を爆撃。

*同日:四川省梁山(現・重慶梁平区)を22機が襲撃、県城市街、飛行場、柏家郷などに爆弾228発、焼夷弾36発で1人死亡、6人負傷、家屋152軒焼失。

*同日:午前10時、40機が陝西省漢中市南鄭県城を爆撃、死傷者30人以上。 

*同日:安徽省の桐城及び陝西省西安、渭南、咸陽などを連日爆撃。

*同日:27機が甘粛省蘭州を3回爆撃、1人を爆死、15人を負傷させ、家屋98軒を破壊、91軒を全壊させた。

*同日:雲南省昆明を爆撃。

*5月22日:浙江省金華市蘭谿の市街、および杭州を爆撃。

*同日:偵察機、爆撃機、戦闘機など合わせて38機がまず甘粛省蘭州の飛行場を連日で爆撃、ソ連空軍志願隊と中国空軍が迎撃したが「撃破した」。次に蘭州市街に、8つの爆弾を投下、南関などで家屋50棟以上を破壊。

*同日:27機で2回にわたり成都を爆撃、外南の太平寺、簇橋、紅牌楼などに爆弾42発を投下した。死者は29人、重傷者は11人。

*同日:四川省梁山と万県を爆撃、61人死亡、51人重軽傷。 万県では58発の爆弾を投下、市街区の一馬街など7カ所が被爆し死者50人、負傷者43人。

*同日:陜西省宝鶏飛行場を爆撃、「市街の諸施設に甚大な損害を与えた」。

【軍事施設爆破という記録の裏側で】

*同日:安徽省宣城市寧国の軍事施設を爆破、とは日本側の記録であるが、中国側では以下の通りである。 ── 「5月22日:30機が安徽省宣城市寧国県城を急襲、県城の西街、河瀝渓の3カ所を順に爆撃し、100発近くの爆弾を投下し、住民に機銃掃射を浴びせた。3時間にわたって民家155軒を爆破し、民間人22人、重傷4人、軽傷1人を死亡させた」。

*同日:陝西省宝鶏の申新紡織工場を再び爆撃した。まず一機が申新工場の上空に侵入、1時間後、8機の日本軍機が列を成して工場上空に出現、数回旋回の後、4機ずつに分かれて交互にさまざまな種類の爆弾約40個を投下、すべての爆弾が工場内に落ち、工場内で工事作業を行っていた下請会社の労働者1人が死亡した。家屋約20棟以上、製粉機数台、綿花約1000包以上が焼き払われた。 

*5月24日:安徽省安慶市東南、劉壩街の軍陣地、倉庫群を爆撃、倉庫の一つは一大音響と共に爆発し付近一帯を猛火に包んだ。

*同日:46機が甘粛省蘭州、さらに平涼市固原を爆撃。

*5月25日:安慶市東方、府城鎮に拠点を置く大部隊を急襲、兵舎の爆撃および部隊に低空で機銃掃射した。

*同日:江北の遊撃隊の拠点である安慶市桐城義津橋および潜山源潭を爆撃。

*同日:一機が湖北省荊州市公安県南平の吏部街を襲撃し、爆弾10発余りを投下、家屋7棟を爆破。 

*同日:8機が四川省梁山(現・重慶梁平区)に襲来、爆弾16発を投下、県城、城西郷などを爆撃して民家5棟を爆破した。

*5月26日:甘粛省天水飛行場を攻撃し撃墜5機、破壊1機。

*同日:湖北省荊州市南郷飛行場、陝西省漢中市南鄭を爆撃。

*5月27日:39機で甘粛省蘭州・天水飛行場、固原を爆撃。

*同日:陝西省咸陽飛行場と市街、倉庫群を爆撃。

*5月29日:湖南省懐化市の要衝芷江、江西省吉安の工場、物資の集散基地贛(かん)州の飛行場、諸施設、市街、倉庫群を爆撃。

*同日:広西省西林を爆撃。

*5月30日:四川省梁山県城および飛行場に爆弾11発を投下。 

*5月30−31日:午前8時、日本軍機2機が福建省福州市羅源風坂村を爆撃、7人を爆死させ、2人が負傷。翌日、2機が皇万村を爆撃、2人が爆死。

*5月某日:浙江省寿昌に1機が急襲し、2発の爆弾を投下。800年以上前の宋代の橋の橋脚が破壊された。

6月

*1941年6月1日:27機の爆撃機が重慶を襲撃、爆弾169発を投下、重慶朝天門一帯や通遠門、重慶最大の百貨店である「陪都商場」、繁華街の五四路一帯その他が破壊された。32人が死亡し、59人が負傷、家屋364軒損壊。

*同日:湖南省永州市冷水灘を27機が急襲、市街、駅などに「必中弾を浴びせた」。

*同日:雲南省昭通飛行場を爆撃、大小爆撃機8機を爆破または炎上させた。

*6月1−3日:雲南省と貴州省をつなぐ滇黔(てんけん)公路の省境の峡谷の上にある北盤江上の吊り橋を連続爆撃した。この橋は二十四道拐(かい=二十四曲がりの道、この戦争時の補給路として急造され、現在では「抗日戦争遺跡80」の一つとなっている)につながっていて、日本軍はそれを断つことを目的とした。(現在は高さ565mの北盤江大橋として、「世界一高い橋」と言われている)

*6月2日:重慶の市街地に対して32機が午前10時29分に278発の爆弾と16発の焼夷弾を投下し、124人が爆殺され、86人が負傷、家屋150棟660軒が破壊された。七星崗一帯や病院や公的施設も破壊され、また英国大使館で3弾、フランス大使館で8弾が投下され、建物が破壊された。(これに対し日本側の記録は、「城内市街の敵残存諸施設に直撃弾を集中、痛烈な打撃を与えて全機無事帰還した」とあり、実態と大きく異なっている)

*6月3日: 9機が貴州省盤江橋(雲南省との間にある)に飛来し、爆撃を投下したが成功せず、その後、安竜県城に向かい爆弾1発を投下、県政府の建物1棟、民家22棟を破壊、20人が死亡、3人が負傷。

【重慶の大トンネル惨事】

*6月5日:重慶の市街地に24機が3回に分けて攻撃、夜の7時28分、8時47分、10時35分に、82発の爆弾と13個の焼夷弾が投下され、この時、市民が避難する防空壕として使用していた校場口の大トンネルが爆破されて1019人(1115人とも)が死亡する大惨事が生じ、負傷者は173人(776人とも)、大トンネル以外の死者は165人であった。建物117戸と73棟が破壊され、上清寺にある国民党中央宣伝部は2発の焼夷弾で焼かれ、市街地の安楽洞と中一路、純陽洞の「抗建堂」一帯が爆撃された。

▽ 湖北省偽保安隊(日本軍の傭兵)1000人余りが陳樹民の指揮の下、天門県で日本軍に反乱を起こした。

【台湾で志願兵制度実施】

〇 日本は台湾で志願兵制度を実施し、募集した。

*6月7日:32機が二回で重慶の七星崗地区を爆撃し、繁華街と住宅地は瓦礫の山となり、消防隊員は大火の消火に追われた。12人死亡、10人負傷、家屋185軒が破壊または焼失。

*同日:安徽省の貴池、湖南省常徳を爆撃。

*6月8日: 戦闘機2機、爆撃機1機が江西省南昌市進賢県に侵入、3発の爆弾を梅荘鎮に投下した。民間人や農民12人を爆殺し、多くの負傷者を出した。帰る際、さらに機銃掃射を行い、水上生活者を撃ち殺した。

*同日:6月1日に攻撃した北盤江弔り橋を再び爆撃、橋は完全に落下した。別途再び貴州省盤江橋に襲来して投爆したが成功せず、飛び去って行った。

*6月9日:貴州省安順市東関を爆撃。

*同日:広東省韶関市の軍事施設を「爆砕」。

*6月10日:重慶の磁器口を爆撃。

*6月1−10日:上記のほか、広東省沿岸および西江河口付近の広州市拓林、黄岡、江門市崖門、汕頭市南澳島対岸などの軍拠点、倉庫、軍需品輸送中のジャンク船群を爆撃。また広西省西部省境の要地、東蘭・横県などの軍事拠点を爆撃。

*6月初旬:18機が江西省南昌から鷹潭に侵入、大埠頭に沿って竜頭山、鉄道駅の一帯を爆撃、沿線の百数十棟の民家が爆破され30数人が死亡。

*6月11日:72機が3回に分けて重慶市街地、涪陵、巴県をに対し154発を投下、武庫街、石灰市、磁器口、歌楽山、中法大薬防や開明書店も破壊された。死者4人、負傷者11人。(この日の海軍の記録は重慶磁器口の軍需工場・倉庫、石馬州飛行場を爆撃とあるだけ)

*同日:湖北省恩施の飛行場、軍事施設を爆撃。

*同日:揚子江流域石墟北方の部隊を陸軍と協力して撃砕。

*同日:安徽省淮南市大通東方に集結する部隊を爆撃。

*6月12日:江西省上饒県城西大街を爆撃し、焼夷弾、爆弾各数十発を投下、「秦山堂」の薬房を爆破し、後方の防空壕が倒壊し、壕の入り口が閉塞、壕内に隠れていた30人余りは全員窒息死した。

*同日:粤漢線の要衝湖南省衡陽周辺の倉庫群を爆撃。

*6月13日:6機が陝西省渭南県城の南塘港外を爆撃、死傷者14人を出した。 

*6月14日:34機が二回に分けて重慶市街区を爆撃し、88発を投下し、9人が死亡、30人が負傷、家屋194軒損壊。

*同日:江西省九江市都昌、上饒市鄱(は)陽の拠点、倉庫群、軍用小型船艇群を爆破、炎上させた。

*同日:雲南省の蒙自南方の要衝を急襲し、物資集積所を「壊滅」。

*同日:湖北省恩施市来鳳を爆撃。

*6月15日:27機が重慶の繁華街の一つ林森路を爆撃し、59発を投下し、街は破壊された上、市街は大火で燃え上がり廃墟となった。53人が死亡、41人が負傷。別な記録では、爆弾と焼夷弾計83発、77人死亡、124人負傷とある。(日本軍の記録は、この14、15日は「政治および軍事施設を爆撃」とあるのみ)

【米大使館と米軍艦を爆撃】

*同日:この重慶爆撃の時、米大使館の武官事務所が爆破され(日本軍が設定した安全区にある)、また重慶の川辺に停泊していた米軍艦のツツイラ(Tutuila)号に爆片が命中、モービル社の事務所も被害を受けた。グルー駐日米大使は翌日、松岡外相に厳重抗議、クレッグ駐日英国大使も日本外務省に抗議した。しかし7月30日にも日本機はツツイラ(Tutuila)号と米大使館の至近距離に爆弾を落とした。

*同日:雲南省広南および曲靖市霑(てん)益の飛行場を爆撃、また湖南省長沙を急襲、司令部および湖南大学に拠る部隊を爆撃。

*同日:安徽省安慶市潜山の兵営を爆撃炎上。

*同日:午前8時頃、一機が江西省上饒市鄱陽県石門街鎮の上空を周回した後、中街に向かって爆弾を4つ落とし、豆腐屋の台所に落ちた。朝食後、食器洗いをしている老女の下肢を飛び散らせた。床面積は200㎡が破壊された。

*6月中旬:40余機が湖南省衡陽を襲った。衡中付属小学校には千余名の軍人が住んでいて、一発の爆弾が校内に落ち、将兵百数十人が爆死した。

*6月某日:広東省仏山市高明県富湾一帯を爆撃、機銃掃射を行い、船民2人を爆死させ、耕牛2頭を銃殺した。

*6月16日:この日は重慶市街地の予定を変更して27機が梁山飛行場、県城他の地区を爆撃。爆弾158発、焼夷弾25発、1人死亡、11人負傷。

*同日:早朝、9機が雲南省文山州広南を爆撃、12発の爆弾を投下、71人が死亡、46人が負傷。

*同日:江西省鷹潭市余江の軍用倉庫群2ヶ所に大火災を起こす。

*同日:安徽省池州市青陽南方廟前鎮に集結する部隊約一千を銃爆撃し「壊滅」。

*6月17日:10機が西安を爆撃し、家屋300軒余りを破壊し、民間人40人余りを死傷させた。

*6月18日:59機が四回に分けて甘粛省蘭州に出撃し、蘭州の東西両飛行場その他を爆撃。

*同日:安徽省合肥市廬江の軍事施設を「撃砕」、さらに安慶市南方十海里付近の新設の機雷倉庫、機雷用ジャンク船を攻撃し、5ヶ所を爆破炎上させた。

*同日:陝西省曲靖市西海の軍事施設を爆撃。

*6月18日、3機が福建省泉州市永春県城を爆撃、県衛生院が被弾した。

*6月20日:湖北省恩施の飛行場、軍事施設を爆撃。

*同日:安徽省六安市舒城の司令部を急襲、兵舎、軍倉庫を「撃砕」。

【ドイツのソ連侵攻】

◎ 6月22日、ヒトラー・ドイツがソ連との「相互不可侵条約」を破棄し、宣戦布告してソ連に侵攻。同日、チャーチル英首相はソ連を援助すると発表、米政府もドイツを非難する宣言を発表した。

〇 これにより日本の関東軍はソ連が満州に侵攻する恐れがなくなったとして、逆にソ連侵攻作戦のための関東軍特種演習を、航空隊も含めて7月に実施するが、途中で日本軍は方針を南方作戦(香港、マニラ、シンガポール等への侵攻作戦)に切り替えるために中止となった。またこれまで中国空軍に協力していたソ連飛行兵もドイツの侵攻により引き上げていったが、代わりに米軍の航空隊が援軍としてやってきた。

〇 日本政府は南部仏印(フランス領インドシナ)へ進駐を決定、すでにドイツに占領されて弱体化しているフランス傀儡政府は、7月にやむなく日本の進駐を認め、これで日本と米英間の関係悪化は決定的となった。

*6月22日:52機が四川省広元市・雅安飛行場を襲撃、午後、宜昌南岸の中国軍砲兵部隊は日本軍の占領する宜昌空港を攻撃し、13機を撃墜した。なお広元では 午前10時30分、27機が南西から両翼に分かれて広元を空襲、魯家湾、東山、城内、上西坝などに爆弾100発以上を投下した。加えて低空から機銃掃射を行い、死亡48名、負傷103名を生じた。この機銃掃射は、土手で草刈りをしていた農民数人をも狙って爆殺したとあり、日本軍が遊戯感覚で空爆していたことがわかる。

*同日:66機が成都、陝西省、青海省などを攻撃し、蘭州上空で4機を撃墜したが2機が撃墜された。このうち成都には36機が向かい、市街地を爆撃。

*6月22、23日:連日で50機が甘粛省蘭州・天水・武威・定西・臨洮等を爆撃。

*6月23日:27機が山西省の運城空港から青海省西寧に飛んで、市街地で260発以上の爆弾を爆撃し、43人を殺害し、28人に重傷を負わせ、家屋520戸を破壊した。これに対する海軍の記録には、「敵空軍の壊滅を期し、逃れるてきを求めて長駆西寧飛行場を攻撃した。本攻撃こそは海鷲=海軍飛行隊の卓越せる技術、烈々たる戦闘精神の発露によって成し遂げた世界空前の長距離爆撃の一記録である」と、大げさに誇っている。

*同日:54機が四川省成都・広元・松藩・宜賓、広西省興安を爆撃。

【無差別爆撃:松潘の被害例】

*同日:四川省松潘県(唐の時代からの歴史のある高原の山間の街で軍事施設など何もない)を27機が爆撃、南門、東門、北門洞窟入口をはじめ松潘城内に多数の 爆弾、焼夷弾を投下し、その後逃げ惑う人々に向け機関銃攻撃を加えた。松潘城内の家屋は、木造建物がほとんどであったため、爆弾で倒壊し、焼夷弾で燃え尽くされた。 罪のない500名余の人々が爆撃により死亡し、死体があっちこっち に転び、血が川のように流れ、人間の身体がバラバラに飛び散り、また怪我を負った700名余の悲鳴や泣き声が途絶えることなく聞こえ、家が瓦礫の山になり、黒い煙が空高くまで立ち上がった。北門、東門は破壊し尽くされた。とくに被害がひどかったのは、松潘県高等小学校で、松潘の東 街に位置して、校舎内では生徒たちが授業を受けていた。日本軍機は学校に機関銃攻撃を加え、学校の 正門から避難できなくなるようにしてから校内に爆弾を投下した。木造の校舎は激しく燃え上がり、爆撃と機関銃攻撃から逃げる場所を失った全校100人余の生徒 と教職員と校長馬育賢は学校に閉じこめられたまま死亡した。また松潘実業学校も爆撃され、教員一人が逃げ遅れ学校の玄関で亡くなった。 また回族の寺院二つとチベット族の寺院と漢民族の仏教寺院2か所も 破壊された。他にも3つの橋が破壊され、学校、病院、銀行、中国明の時代の城壁と公共 施設が破壊されるなど重大な被害を受けた。 当然松潘県城内の四大商店街も破壊され、数百軒の様々な 店が営業できなくなった。当時の松潘は、中国内陸の四川省でも西の方に位置していたために戦争の関わりはまったくなく、畑作と牧畜の農業を主な産 業とする、平和な町であった。(重慶爆撃民間対日賠償案原告団:張翔里・馬福成の証言)

 この日の松潘への攻撃はどこから見ても無差別爆撃であるが、当初より日本軍は躊躇なく人の集まるところを好んで爆撃していた。その目的は中国人民に「恐怖を与え、戦意を喪失させる」ことであったというから、逆に反発を生むだけで、後に占領するときの障害になるのは明白であって、当時の日本軍の感覚はずれているとしか思えない。もっとも 感覚がずれているから戦争を起こしたのであろうが。

*6月24日:午前8時、一機が湖北省宜昌市帰州の茅坪を爆撃、25発の爆弾を投下し、家屋1棟を破壊、死者5人、負傷者4人。

*同日:江西省上饒県城の八角塘の防空壕が敵機の爆撃で崩壊し、10人が窒息死した。

*同日:午前7時50分、9機が広東省湛江市廉江県安鋪鎮を低空飛行し、三隊に分かれて二度旋回した後、21発の爆弾を投下した。旧糖行では一発で家屋8軒を破壊し、住民の黄七五一家7人全員が爆死し、近くの住民2人が死亡。婆廟の一弾で廟全体が破壊され、学生18人が爆死。万生祥の一弾で家屋は全壊、女将は爆死した。警察署は東西に二発、家屋8軒を破壊、羅忤華の一家6人も主人のみ残る。凜子家に一発、家族6人のうち保子一人残り、親族も爆殺され、この日の爆撃で倒壊した民家や商店は計120軒余り、死傷者は83人。現場の死体は血肉が四方に飛び、この惨状は見るに忍びなかった。

*同日:1機が文山州馬関県都竜鎮に飛来、投弾をしながら機銃掃射し、家屋数十間を爆破、道路と井戸を爆破し、1人を爆殺。

*6月25日昼、前日に続き、八機が廉江県安鋪鎮を再爆撃し、爆弾18発が投下され、塩埠(今の中華小学校)、海安、安楽所前、中義街和豊、咸魚街羅姓之鋪など、民家、商店あわせて48軒が倒壊し、14人が死亡。(1939年8月から1944年の5月にかけて、日本機は安鋪を53回爆撃し、民家、商店など400軒余りを爆破、230人余りを爆死させた)

*6月26日:午前4時、日本海軍陸戦隊300人余りが2機の日本機の援護を受けながら広東省掲陽市恵来県神泉に侵入した。また日本機は交代で神泉南華街と恵城鎮恵西馬路、北門などに爆弾を投下し、多数の住民を爆死させた。

*6月27日:39機が陝西省蘭州、陝西省咸陽飛行場を爆撃。

*6月28日:53機が二回にわたり重慶巴県、南温泉、忠県などを爆撃、爆弾43発、死者13人、負傷19人、家屋16棟。さらに万県に対し爆弾224発で77人死亡、116人負傷、家屋463軒が破壊、焼失した。

【外国領事街を爆撃】

*6月29日:重慶を63機が2回に分けて爆撃した。152発を投下、186人が死亡し、64人が負傷した。また重慶の外国領事街を攻撃し、駐中英国大使館とその防空壕が被弾し、英国人館員4人が負傷した。翌日、クラーク駐日英国大使は日本機による英国大使館爆撃に抗議した。 

*同日:12機が四川省広元を2度に渡って爆撃を行い、爆死者8人、負傷者39人を出した。ある家族は全員が死亡、また顧恩栄の家族6人は5人が被爆して死亡、10歳の幼子顧鴻書だけが残された。

*同日:広西省柳州を爆撃。

*6月30日:48機が重慶市街地を爆撃し「全弾市街中部に命中」(つまり無差別に爆撃したということ)、138発を投下し、14人が死亡、34人が負傷(爆弾200発、25人死亡、37人負傷とも)、家屋300軒が破壊された。ただし4機が中国軍に撃墜された。

*同日:8機が湖北省荊州市公安県閘口を爆撃し、小学校街、南堤街、内河街及び中心小学校の全校舎を爆破し、200人余が死亡、300人余が負傷。

*同日:9機が再び貴州省盤江橋に襲来し投弾、橋は破壊された。

*6月某日:午後5時、陝西省宝鶏を爆撃した。通常、空襲は午前中に行われることが多く、午後4時には警報が解除されていた。そのため、日本軍機が県城の上空に入った時、人々は防空壕に駆け込むことができず、近くの塹壕に逃げ込んだ。日本機は三馬路、西街の塹壕と中山西路県政府の裏庭の3カ所に投弾し、合わせて20人近くの住民を爆殺した。その他日本機は3度にわたって宝鶏を空襲し、渭河両岸を爆撃、住民2、300人を爆死傷させた。

*6月某日:浙江省寿昌県城を爆撃、商店の47棟を破壊、電気工場の設備が破壊され停電した。

*6月:河南省三門峡市陝県では、1938年から1941年6月まで、日本軍は飛行機で45回爆撃し、爆弾1370個を投下し、この他地上から砲弾を3460発以上発射し、合わせて死傷者は953人、家屋や窯は7150軒余り破壊され、汽車は12両、木造船は10隻の損害であった。

7月

*1941年7月1日:安徽省池州市唐田鎮の機雷庫および敷設用のジャンク船を爆撃。

*7月2日:雲南省昆明市尋旬(てん)県、曲靖市霑(てん)益を爆撃。

*7月3−4日:広東省甲子角から福建省馬尾に至る沿岸各地の軍拠点を連日爆撃(拓林付近での陸軍上陸作戦に呼応)

*7月4日:53機が二回に分かれ重慶市街区と梁山飛行場地区を爆撃。まず28機が重慶市街地17地区に爆弾54発、焼夷弾15発を投下、28人死亡、29人負傷、家屋205棟。梁山(現・梁平区)には29機が二回にわたり爆弾185発を投下。

*同日:湖北省黄岡市黄梅の大兵舎および威湖上で軍需品輸送中のジャンク船数百隻を爆破撃沈。

*同日:福建省漳州市詔安に6機が爆弾6個を投下、朝天宮、十字街南門虷、三玉劇場、王公廟を爆撃、爆死13人、家屋19軒が破壊された。

*7月5日:雲南省昆明の茨壩(しは)を爆撃、死者4人、重軽傷6人、全半壊家屋約200。

*同日:浙贛鉄道の要衝應潭(たん)の大型倉庫群、別途、昆明北方の中央兵工場を爆撃。

*同日:午前9時、9機が湖北省宜昌市帰州県城を爆撃、50発の爆弾を投下し、南門内外及び沈家巷の家屋27棟を破壊し、死者4人、重傷56人、軽傷10人余を出した。

*同日:22機が重慶市街区24地区を爆撃。48発のうち大半が焼夷弾で13人死亡、42人負傷。666軒が損壊あるいは焼失。 別の記録では、36機が重慶を爆撃、空襲警報が鳴り響くと、重傷者用病院全体の医療スタッフが慌ただしく働き、病室に向かって走った。やがて日本機が飛来し1発の爆弾が病院を直撃、手術室は倒壊した。防空壕への移送に間に合わなかった50人以上の負傷者が病室でもがいていて、癒えたばかりの傷口が再び割れて血が流れていた。もう1発の爆弾が落ち、第一病室は銃弾を受けて全壊し、室内の女性看護婦2人が死亡した。そこへ3発目の爆弾が轟き、病院の建物は崩壊、看護師と用務員9名が死亡、2名が負傷、第一病室、手術室、納戸が爆破されたと当局に報告された。(『侵華日軍暴行総録』)

*7月5−7日:揚子江岸の要地、四川省巫山、湖北省恩施巴東、宜昌市帰州・三斗坪などの軍事施設、倉庫群を連日爆撃。

*7月初旬:12機が江西省鷹潭大埠頭から鉄道駅までを爆破、さらに川沿いに焼夷弾を投下、木造船100隻余り、民家40棟余りが破壊され、8人が死亡。

*7月初旬:福建省福州市福清県竜田郷を爆撃、竜田街の住民や村々の住民など多くの人々が犠牲者となった。

*7月6日:重慶を27機が三回にわたり夜間爆撃、市街区と涪陵、奉節に対し爆弾59発、焼夷弾22発で2人死亡、8人負傷、家屋損壊232軒。別途巫山に対し9機が爆弾42発を投下、21人死亡、19人負傷。また万県に対し9機が爆弾81発を投下、16人死亡、11人重軽傷。

*7月6、7日:6機が湖北省宜昌市帰州の茅坪を爆撃し、12発の爆弾を投下し、死者3人、負傷者6人。翌日も6機が茅坪を3回爆撃し、民家68軒を破壊・死者5人、負傷者6人。別途3機が帰州の何家湾、旧州河などを爆撃し、20発の爆弾を投下、家屋10棟を破壊し、死者5人、負傷者13人を出した。

【中国政府軍の戦果】

▽ 7月6日、国民政府軍事委員会報道官の談話によると(正式ではない)、抗日戦争4年来、在中日本軍の死傷者は甚大で、中国側は2万4082人を捕虜にし、飛行機を撃墜したのは2054機、死傷し捕虜となった飛行士はは2650人だった。

*7月7日:重慶市街区を17機で昼間爆撃、さらに27機で夜間爆撃。合わせて爆弾92発、焼夷弾29発を投下、56人死亡、65人負傷、家屋381軒損壊。さらに涪陵、奉節、巫山に対し合わせて爆弾約70発により少なくとも84人以上死亡、200人以上負傷。家屋多数損壊。なお

*同日:安徽省安慶市桐城の兵舎、倉庫群を爆撃。

*同日:午前11時頃、空襲警報が鳴った途端、9機の日本機が湖南省郴(ちん)州市永興の上空から突然急降下して爆弾が落とされ、次に機銃掃射が行われた。。水星楼、横街上、河岸辺、井頭山、坳台上などで20数個の爆弾を受け、100人以上の住民を死傷させた。一店舗の前の爆弾一つで13人が死んだ。一番ひどいのは横町で、一つの爆弾で7人が死んだが、そのうちの3人の婦人は幾枚かの布や幾つかの血塗られた肉片が壁に跳ね、髪が木の枝にひかかっていただけであとは何も残らなかった。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

【八路軍の4周年の戦績】

▽ 7月7日、八路軍本部が公表した抗日戦争4周年の戦績:大小の戦闘1万5777回、日本軍の死傷者17万9702人、偽軍(傀儡軍)死傷者は6万486人、日本軍の捕虜1400人、偽軍の捕虜4万308人であった。(これには国民政府の統計は入っていない。なお八路軍は飛行隊を持たない)

*7月8日:25機が重慶の浮図関他市街区30数カ所を爆撃、爆弾84発、焼夷弾18発で84人死亡、33人負傷(89人死亡、180人負傷とも)、家屋損壊426棟。また二つの防空壕爆弾が直撃し片方で53人死亡、85人負傷、もう一方で26人死亡、56人負傷。

*同日:安徽省合肥市堯渡街の倉庫群を爆撃。

*7月10日:54機が二度に分けて重慶の弾子石・浮図関その他20数カ所をで爆撃、爆弾127発、焼夷弾22発で15人死亡、40人負傷、家屋51棟197軒損壊。

*同日:福建省寧徳市霞浦県を爆撃。

△ 7月4−8日、10日:延べ189機が夜間も含めて集中的に重慶を爆撃し、568発を投下し、156人が死亡し、343人が重軽傷となった。このうち、再び英国大使館が爆撃され、英大使の住居も破壊された。

*7月11日:6時30分、日本軍水上爆撃機4機は安徽省宣城市涇県西郷章渡鎮、云嶺、董村一帯を旋回し、黄村に4発を投下、宗祠1基、民家1棟を爆破し、死傷者は計7人になった。その後市街地に2発の爆弾を投下、東街と北街后の稲田内に落ちて民家5間を爆破、婦人一人が死亡。

*同日:湖北省襄陽市宣城雲嶺鎮の司令部や兵舎を爆撃。

*同日:湖北省宜昌上流の陣地および補給地を爆撃。

*7月12日:福建省厦門(あもい)周辺の陣地を爆撃。

*同日:福建省莆田市涵江付近の鎮前村、寧海橋を爆撃、男女各1人が負傷した。

【アメリカ赤十字社の対応】

◎ 米赤十字社は、緊急需要に対応するため、中国に100万元相当の医薬品を輸送すると発表した。同社が中国に輸出した医薬品は350万ドルに達したという。

*7月15日:雲南省大理州 下関を空爆、8人が死亡し、11人が負傷、倒壊家屋50棟。

*7月16日:湖北省老河口を6機が爆撃し、40数発の爆弾を投下し、死者45人、重軽傷78人、100軒以上の家屋を破壊。(日本側の記録は「老河口の敵軍事施設を爆砕」とあるのみ。

*同日:安慶市桐城の兵舎を爆撃。

*7月中旬:日本機12機が江西省鷹潭烏亀嘴、項家から駅まで爆撃、6人が死亡、100棟以上の家屋が爆破された。

*7月16−17日:漢水沿岸の湖北省荊門市沙洋鎮、天門市多宝湾の陣地を連日爆撃。

*7月18日:27機が重慶の李花園一帯を爆撃、爆弾87発を投下し、死者9人、負傷12人、家屋51棟197軒を破壊。

*同日:安徽省安慶東方梅林の機雷組立工場を爆撃。

*7月19日:安徽省池州市唐田鎮の機雷倉庫および軍事施設を爆破、炎上。

*同日:湖北省宜昌上流の陣地および補給地を攻撃。

*7月20日:安徽省廬江県を爆撃。

〇 7月20日、在中国日本人民反戦同盟が重慶で結成一周年を記念して宣言を発表、日本人民に奮起を呼びかけた。

◎ 7月21日、フランス政府は、日本のベトナムにおける軍事支配の要求を受け入れ、日本のベトナム駐留に同意した。

【アメリカのフライング・タイガー(AVG)投入】

▽ 7月、アメリカは中国の援助のため、中国空軍所属の義勇航空部隊としてフライング・タイガー(AVG)を投入して英領ビルマに派遣、ここから中国南部の日本軍を攻撃していくが、太平洋戦争に突入すると、アメリカ軍は中国内にも基地を作る。

◎ 7月25日、米英中が共同声明を発表、日本のベトナム侵略、侵害を非難した。

【成都大爆撃】

*7月27日:四川省成都を108機が4回に分けて西、南、北のエリアに爆撃を行い、爆弾403発と焼夷弾43発を投下した。これに対し日本側の記録は「大編隊をもって成都を急襲、主要軍事施設に巨弾を浴びせた」とのみで、実態は以下である。

 —— 錦江両岸の82の街・路地が被爆、燃え上がり、約3600の家屋が破壊、焼失され、698人が死亡し、1368人が重軽傷を負った。この日は成都最大の被害で「日本機108機による成都爆撃」として今でも語り継がれている。 特に少城公園には避難民が多く大惨事が発生、家々の軒の下、樹木、果樹栽培の棚の下、池の周辺や土手の下に遺体が散乱し血の海となっていた。頭や手足が吹き飛ばされて木の枝や屋根にぶら下がっていたり、血みどろになった遺体が壁に張り付いていた。当時の新聞には、爆死した妊婦の頭、胴体、手足が判別できず、腹の裂け目からはみ出した赤子の頭と足が、血のついた泥にまぎれて黒ずんでいたとある。

(『日軍侵華暴行実録』)

 また以下は当時11歳で、成都の八寺巷(現・西華門街)に家族と住んでいた蘇良秀が2014年6月、重慶・成都大爆撃賠償請求訴訟の証言者の一人として日本の法廷に立った時の証言の一部である。

 —— 「当日、もうすぐ正午になろうとする時に、突然、空襲警報が鳴り響いた。家族と親戚は急いで庭のクルミの木の下に隠れた。運が悪いことに爆弾はちょうど木に命中し、庭には6m四方ほどの大きな砲弾の穴ができた。木の下に隠れていた10人のうち、ある者は身体が半分ほど土に埋まり、ある者は手足が吹き飛ばされた」。この襲撃で、蘇良秀の祖母の蘇黎、母親の蘇賈、父親の1番下の妹の蘇紹群、上の弟の蘇良兄、下の弟の蘇良酬、いとこおばの達鳳英の6人が爆撃により即死、蘇良秀自身と他の3人も重症を負った。

*同日:9機(上記成都への大爆撃の流れであろうが)が四川省綿陽市三台県を爆撃、18個の爆弾を投下し、男女15人を爆殺して、重傷17人、軽傷10人。東街民教館と西街警察局と城南皂角城一帯の民家が爆撃され、271人が家を失った。またこれと同じ9機によるものと思われるが、隣の 遂寧県城区に爆弾7発を投下、家屋23棟を爆破した。

*同日:午前11時頃、緊急警報が過ぎたところで、27機が城南方面から四川省南充城の上空に飛来、地上約300mの高度から、3回に分けて南充の嘉陵江上の交通線を爆撃、一部の爆弾は城内の市街地に落ち火災が発生、計28発の爆弾により爆死18人、負傷16人。

*同日:9機が重慶忠県を爆撃、5人死亡、20人が重軽傷。

*7月28日:108機が重慶市街区や大足、合川、壁山、万県、忠県などを5回にわたり爆撃、爆弾約190発を各地に投下、88人死亡、100人以上重軽傷。

*同日:重慶西方180kmにある四川省自貢市自流井・瀘州・栄県、内江市などを空襲。内江は自貢爆撃の帰途で、 爆弾15発、爆死15人、重軽傷37人。

*7月29日:101機が、重慶市街区十数ヶ所や南川等に爆弾174発、焼夷弾14発を投下(爆弾231発、焼夷弾32発の記録も)、死亡37人、重軽傷62人(死亡75人、重軽傷99人の記録も)、家屋349棟402軒を破壊。なお、ソ連大使館、英国大使館がまたも爆破された。 

*同日:午前11時頃、6機が四川省雲陽県城を空爆、4発の爆弾を投下、公園内の防空壕が洪水で水が溜まっていて、避難した住民の8人が溺死した。

*同日:自貢市自流井を爆撃。自流井は塩の生産地であり、日本軍は中国が塩不足と聞き、困らせるためであった。「敵に塩を送る」の逆であるが、自分たちが占領するときに困ることを計算していない。

*同日:安徽省宣城市旌德県では朝市で街には人通りが多かった。6機がに偵察に来た後、すぐに引き返し県城に向かって急降下して来て次々と爆弾を投下した。悲鳴と泣き叫ぶ声、家屋の倒壊音が混じり合い街は混乱の極みに陥った。城内外に爆弾21発と低空での機銃掃射を行った後去っていった。住民の死傷者は117人(死者43人、うち男24人、女11人、子供8人。負傷者74人、内子供15人)であった。 中東門橋頭の義童学校は授業中、学校の屋根と壁が倒れ、多くの死体がいたるところに散乱した。

△ 7月29日、日本軍は仏印(フランス領インドシナ)の南部に進駐。

【台湾からの爆撃】

*7月30日:130機(台湾高雄からの援護も含め)が5回にわたり重慶市街区20数ヶ所と江津、巴県、長寿、隣水、渠県、万県、梁山(梁平)などを爆撃し、合わせて爆弾約400発、焼夷弾40発以上を投下、30余人が死亡(78人とも)、約100人が重軽傷、家屋約400棟余りが破壊された。なお渠県では27機が侵入して54発の爆弾を投下、家屋18棟を爆破し、民衆13人が爆死、5人を負傷させた。

*同日:また重慶近くの揚子江上の米艦ツツイラ(Tutuila)号は、6月15日に続き、再度7mの至近距離に爆撃を受けて艦尾を損傷、米国大使館のすぐ近くにも爆弾が投下された。即日、米国は日本に抗議、日本は正式に謝罪し損害賠償するとした。1937年12月にも南京で米艦パナイ号を撃沈させたが、日本軍の統制が取れていないというしかない。

*同日:湖北省恩施市来鳳を爆撃。

*7月31日:連日四川省の自貢市自流井を狂ったように爆撃し、市民に多くの死傷者を出した。

*同日:27機が重慶の万県を爆撃、爆弾33発で3人死傷。

*7月29−31日:湖北省宜昌周辺における陸軍の作戦に協力し、連日爆撃。

*7月某日:湖南省株洲の北駅を爆撃、100発近く爆弾を投下し駅の防空壕が爆破され壕の中の300人余がすべて死亡した。

8月

【米欧による対日資産の凍結と石油禁輸】

◎ 1941年8月1日、米国は日本の中国への侵略拡大と度重なる空爆への措置として、日本に対して石油輸出の全面禁止、その前の7月25日の対日資産の凍結と合わせて経済制裁を発令し、イギリスとオランダ、カナダもただちに同調した。これで前年の日米通商航海条約の破棄通告から始まり、石油を中心とした米国からの必要物資は全て閉ざされ、国内物資の困窮が一層強まった。陸海軍は石油の禁輸についてはあまり想定していなかったが、政府はそれに備え、オランダ領東インド(蘭印=主にインドネシアで、大きな石油基地を有していた)と石油の輸入を交渉したものの決裂した。米国側の条件は日本軍の中国からの撤退であったが、日本は受け入れず、これをきっかけとして日本は東南アジアに石油の資源を求め、太平洋戦争を始めることになった。事実、12月8日の開戦の日、海軍の真珠湾攻撃と同時に陸軍はマレー半島にも侵攻し、それはオランダ領インドネシアの石油基地を狙うもので、宣戦布告は米英だけでなく、オランダと豪州に対しても行われた。ちなみに米国のルーズベルト大統領は、この日本の捨て身の行動を予感し、石油禁輸の決定を遅らせていたとされる。

〇 8月、日本軍は欧米諸国からの締め付けに対して中国の重慶政府への作戦を加速させ、重慶への補給路である粤漢、湘桂、株泙、浙贛の各鉄の沿線施設や倉庫などへの爆撃を盛んにしていく。

【8月の重慶集中爆撃】

 今回の百二号作戦において、8月6日、海軍から陸軍に重慶に対する再度の共同爆撃の申し入れがあって、陸軍はそれに向けて配置した。8月8日から8月14日まで7日連続で重慶を100機前後で大量爆撃した。

*1941年8月1日:江西省貴渓の諸施設、倉庫群を爆撃。

*同日:17機が重慶北東の奉節の製塩所を爆撃、爆弾49発、焼夷弾12発で11人死亡、55人負傷。

*8月2日:江西省景徳鎮、安徽省合肥市堯渡街を爆撃。

*同日:8機が重慶の奉節県を連日爆撃、爆弾8発で16人死亡、19人負傷。また梁山(梁平)でも2人死亡、7人負傷。 

*同日:重慶雲陽県雲安鎮を10機で襲撃、爆撃と機銃掃射を繰り返し、叶家橋から馬卡口までの一帯だけで死者は100人以上に上った。雲安鎮は当時、四川省東部における塩業の最大産地で、この日本機の空襲は前後2時間近く続き、塩工場10カ所以上を爆破し100発以上の爆弾を投下、200人以上が爆死、140人以上が重軽傷を負った。

*同日:正午、陝西省渭南県城を爆撃、二馬路雷家堡に6発の爆弾を投下し、2人を爆殺、5人が負傷を負った。

*同日:陝西省咸陽を爆撃。

*同日:江西省新余市分宜に9機が20発の爆弾を投下、12人が爆死、家屋11棟100間が破壊された。

*8月3日:湖南省の長沙市、衡陽市衡陽・衡山、懐化市芷江・辰渓などを爆撃。

*同日:27機が湖南省株洲市醴陵県市街地に爆弾20個余りを投下、繁華街を爆撃し百人余の死傷者を出した。街中に血肉が飛び散り無残であった。 また1000棟以上の民家が破壊され、醴陵の繁華街はほとんどが消え失せた。

*同日:安徽省池州市張渓鎮の司令本部を爆撃。

*同日:湖北省宜昌周辺における陸軍の作戦に協力、宜昌北方の陣地、揚子江岸の三斗坪・南陀を爆撃。

*同日:陝西省延安を12機が爆撃、また保安を爆撃。

*8月3−4日:湖北省恩施巴東を爆撃。

【湘潭大爆撃:死傷1100人】

*8月3日−8日:湖南省湘潭県に112機が352発の爆弾を投下、死者645人、負傷者451人、家屋は1434軒が破壊された。1937年から1943年までの7年間に、日本の航空機は湘潭県境を25回空襲し、931回の航空機を出撃させ、2717発の爆弾を投下し、1303人の県民を死亡させ、1254人の負傷者を出し、家屋2732軒を破壊した。

*8月4日:湖南省長沙市、永州市冷水灘・祁(き)陽、郴(ちん)州市郴県・永興、衡陽市衡陽・株州・来陽、広東省清遠市大陂、湖北省宜昌などを爆撃。

*同日:連日で陝西省延安に延べ27機が3回に分けて100弾を投下、市民6人が負傷。

*同日:午前7時30分、湖北省巴東県に9機が来襲、爆弾数十発を投下、爆死37人、重軽傷26人、爆破家屋48間。

*同日:湖南省衡陽市、安徽省安慶市桐城の軍拠点を爆撃。

*同日:陝西省武功を爆撃。

*同日:湖南省常徳を爆撃。

*8月5日:36機が甘粛省の天水市と隴西、武山を爆撃。

*同日:山西省臨汾市郷寧に駐留する中国軍を爆撃。

*同日:安徽省安慶市桐城を爆撃。

*8月6日:陝西省の宝鶏と延安を爆撃。

*同日:湖南省の長沙市瀏陽・寧郷、湘潭市湘郷、衡陽市株州、湖北省荊門市沙洋鎮を爆撃。

*同日:陝西省宝鶏、鳳翔、安徽省立煌などを爆撃。

*同日:四川省重慶北東端部の巫山と大寧を爆撃。

*同日:2機が福建省竜岩市警察署、簡師講堂、寝室、建国住宅などを爆撃、爆撃6発で家屋10余軒を破壊、死者18人、負傷者20余人。

*同日: 陸海軍航空隊は重慶への「疲労爆撃」を開始。昼夜を問わず、交代で重慶を空襲し市民を疲弊させる目的である。1週間の間、重慶市内では水道や電気が途絶え、市民は眠ることもできなかった。この日、日本軍機86機が6回に分けて順番に重慶を爆撃、重慶市民39人が死亡、66人が負傷し、家屋100棟以上が損壊した。

*8月7日:湖南省長沙、衡陽を爆撃。

*同日:江西省吉安、湖北省沙洋鎮南方の張貸河を爆撃。

*同日:3回にわたり陝西省宝鶏の渭河(黄河最大の支流)両岸を爆撃し続け、一般人200−300人が死傷した。 

*8月7、8日:湖南省湘潭市滴水埠には塩鉱業会社が集中していて、それを狙って9機が5発の爆弾を投下、死傷三人、家屋の一部を破壊。翌日午前八時頃、9機が更に膏塩鉱区に五十発余りの爆弾を投下、死者16名、負傷者7名を出し40棟余りが焼失した。

【ドイツ人記者の重慶爆撃報告】

〇 ここ一年間重慶に在住していたドイツ人記者トランス・オーシャンが台湾にわたり、8月5日、日本軍統治の台湾軍司令部を訪問し、重慶の状況を語った。

 ——「重慶の抗戦士気はまだ盛んであって、空襲にも慣れている。空襲警報は日本機が漢口(日本軍占領の武漢)出発と同時に予備警報が発せられ、その後第一、第二の警報があり、飛行機が来る頃には路上に巡査のほか人は見かけなかった。爆撃は大きな損害を与えているが、重要軍需工場には命中していない(日本側の記録では命中ばかりとなっている)。重慶の防空施設は世界一で、大きなものは約10kmの長さがあり、内部で交差している。市民の訓練も高度に達し、爆撃により戦闘意欲を挫折させることは不可能であり、蒋介石の抗戦意識は強固である。… 米国からの支援輸入は確実に増加している」。

*8月8日:27機が重慶を目指すが天候不良のため、重慶北東端部の巫山と涪州(涪陵区)を爆撃し、巫山では爆弾39発、焼夷弾54発を投下、死者16人、負傷者15人。 また巫山県の隣の巫渓県では午後1時、7機が侵入、計35発の爆弾が投下され、製塩所2ヵ所、民家21棟、木造船1隻を破壊、住民4人が死亡、重傷9人、50人が軽傷。さらに豊都県(ただし重慶は別の記録では翌9日の大爆撃の記録と大筋逆になっているが、一応日本側の出撃記録を基準とする)

*同日:安徽省合肥市芦江、陝西省西安を爆撃。

*同日: 午後3時頃、1機が湖南省常徳市 澧県澧蘭鎮を爆撃、4発の爆弾を投下し郵便局の女性従業員ら10人が爆死、11人が負傷、家屋5棟を爆破した。

*8月9日:重慶の市街地に対して115機が3つの編隊に分かれ、そのうちの最初の編隊が58機、2番目の編隊が48機で、全体で414個の爆弾と22個の焼夷爆弾を投下し、196人の市民を爆殺、259人の市民が重軽傷を負い、建物148棟428軒を破壊した。

*同日:陝西省延安市宜川を襲撃、軍事施設や物資などを「完膚なきまでに爆撃」、城内外は猛火に包まれた。

*同日:上記は海軍機であるが、陸軍の30機は途中の巴山山脈の天候不良に遮られ、方向を変え、陝西省西安、咸陽を爆撃。(陸軍飛行隊のこの時の基地は山西省運城)

*同日:湖北省揚子江岸の三斗坪で兵力移動中の船艇群を爆撃、「揚子江の藻屑」とした。

*同日:9機が前後して湖北省宜昌市帰州の楊泗郷長富を爆撃、27発を投下、木船3槽を爆破して沈め、10人が死亡、9人が負傷。

*同日:陝西省渭南市韓城を空襲、市街地数カ所より大火災を起こした。

*同日:安徽省安慶市宿松を爆撃。

*同日:30機が福建省泉州市南安県城に侵入。初めは機銃掃射を行い、その後焼夷弾を含む爆弾投下を繰り返し、新街、大同路、中華路、愛国路一帯の建物を破壊、郊外の麻嶺尾大帝宮一帯も爆撃された。住民数人が死傷。

△ 8月9日:空母翔鶴竣工。

*8月10日:重慶市街地に対して99機によって四回の爆撃が行われ、午前7時55分に、33機が24発の爆弾と37の焼夷弾を投下、48人が死傷。また105棟の建物と243戸、5隻の木造船が破壊された。午後3時16分に、42機が2つの編隊に分かれ、最初の27機は57の爆弾を落とし、重慶郊外の沙坪壩(は=ダム)や小龍坎などに爆弾57発、焼夷弾2発を投下し、市民25人が死亡、40人が負傷し、家屋92戸を破壊した。夕方の6時40分に、18機が重慶の都市部に21発の爆弾と10個の焼夷弾を落とし、建物10棟を破壊。夜10時と0時18分に、6機が2つに分かれ、130発の爆弾と焼夷弾11個を投下、42人を爆殺、22人を負傷させ、建物24棟35軒を破壊した。

*同日:26機が昆明の中心区と大西門、小虹山など、また茨壩、馬街子工場区を爆撃、100数十発の爆弾を投下、21人が爆死、40人が負傷、200戸以上の家屋を破壊し、死者28人、重軽傷41人、家屋の全半壊約750棟。 

*同日:江西省上饒市広信の機関車、機関庫、軍用列車を爆撃。

*8月11日:重慶の市街地7街路と郊外の磁器口、竅角淪に108機が6回に分かれ、そのうちの4回目27機、6回目23機が、112の爆弾と26の焼夷弾を投下した。57人が爆殺され73人が負傷、家屋29棟349軒および3隻の木造船が破壊された。午後3時30分に、18機が重慶の市街地で270発の爆弾と71の焼夷爆弾を投下し、48人が殺害され、90人が負傷、家屋53棟と294戸が破壊された。(重慶は他に涪陵区、南川区、長寿区、北西部合川が爆撃を受ける)

*同日:成都飛行場を27機で爆撃、空中戦で中国機16機を爆破、5機を撃墜。

*同日:四川省重慶の北東の奉節、開県温湯を爆撃、温湯では塩井に爆弾46発、焼夷弾16発を投下し、街を炎上させ死者28人、負傷者43人。 

*同日:未明、27機が四川省宜賓市街地に100発以上を投下。南街の街道、外南街、栈房街、土橋街、城墙巷など38カ所が被爆し、爆死100名以上、負傷100名以上、民家150間以上が爆破された。

*同日:湖北省恩施市来鳳、さん江を爆撃。

*同日:江西省景徳鎮・曉州(現・上饒市)、安徽省池州市劉街・九華、桐城市孔城鎮を爆撃。

*同日:福建省三明市永安・建寧、南平市延平・麻沙鎮、寧徳市古田、厦門市大盤角、漳州市などの軍事施設、倉庫、工場、砲台などを爆撃。

*同日:昆明を連続攻撃、兵工場、倉庫、発電所などを爆撃。

△ 8月11日:特設空母春日丸就役。(民間の輸送船を特設空母として改造したもので、この頃よりこの他多くの民間船が徴用される。12月8日に始まる大変洋戦争に備えてのものである)

*8月12日:99機が重慶を4回爆撃した。午前2時7分と午前4時20分に、9機の日本機が重慶と巴県の市街地に対し3回で32発の爆弾と3個の焼夷爆弾を落とし、4人が死亡、5人負傷し、家屋16棟と7戸、車両2台を破壊した。午前8時18分、36機が二回に分かれ、そのうち最初の27機は重慶と巴県新発郷の市街地に35個の爆弾を落とし、12人が死亡し、10人が負傷、家屋27軒が破壊された。さらに正午12時18分、27機が巴県の李家淪と張家溝で92機の爆弾を投下し、15名が死亡し36名が負傷、75戸の住宅が破壊された。午後3時48分に、27機が重慶の市街地で249発の爆弾と37個の焼夷爆弾を投下した。45人が死亡し、100人が負傷、建物6棟213軒が破壊された。(この日も陸軍側は巴山山脈の天候に遮られ、参加できず)

*同日:18機が昆明の茨壩(しは)、黄土坡を爆撃。死者28人、重軽傷6人、家屋破壊100戸。

*同日:雲陽県雲安鎮製塩所に8機が侵入、46発の爆弾を投下、うち焼夷弾は7発で爆死5人、負傷6人、塩井1口、塩釜10基、家屋25軒を爆破、3軒が焼失、法貨約100万元が失われた。 

*同日:15機が福建省泉州市南安県城大街及び省政府門前一帯を爆撃、家屋60棟以上が破壊され、住民10人以上が死傷した。

*8月13日:重慶への連続爆撃の五日目、84機が6回爆撃。午前2時45分に、9機が重慶市郊外の歌楽山、石門などに17発を爆撃し、3人を爆殺し、7人を負傷させ、家屋16軒を破壊した。さらに午前5時56分、午前8時17分、午前11時20分、午後1時50分、および午後2時52分、105機の日機が5回で312発の爆弾と52個の焼夷弾を市街区に投下し、市民158人が死亡、183人が負傷、建物5棟500軒が破壊された。別に神仙洞防空壕が爆撃され、177人死亡、167人重症、172人軽傷との記録もある。

*同日:陝西省の西安・潼関・渭南を爆撃。

*同日:昆明中心区の各街道を爆撃、130発の爆弾を投下、44人が死亡、38人が負傷、1270戸の家屋を破壊した。

*同日:湖北省恩施巴東および宜昌市帰州の屈原廟、胡家坡を爆撃、さらに揚子江上の船舶2隻を爆撃、乗組員4人が死亡、2人が負傷。

*同日: 1機が湖南省竜山県城を爆撃、2人が死亡、35人が負傷、

【中国航空委員会の戦果発表】

▽ 8月13日、中国航空委員会は、この4年間で日本機を約1500機撃墜し、1200人を撃墜死させ、69人を捕虜にしたと発表した。

*8月14日:前夜から135機が重慶を15時間にわたり連続爆撃。市街区(桂花園、鼓門山、劉家台、喜楽渓など)と合川、巴県、長寿、南川、巫山、忠県などに爆弾232、焼夷弾35発が投下され、死者27、負傷16、家屋40棟で203軒が損壊。

△ 8日から14日まで延べ476機(682機とも)が重慶を爆撃し、1839発を投下し、466人が死亡、658人が負傷した。その中で外僑財産監理会、米国メソジスト宣教会、安息会、英大使アパートなどが爆撃された。蒋介石の曽家岩の住居への3度の銃撃は命中しなかった。

*同日:27機が昆明の市街中心と東南区を爆撃、156発の爆弾で死者19人、重軽傷37人、家屋の全半壊約880戸。

*同日:福建省竜岩市漳平県永福鎮上空に3機が突然飛来し、旋回偵察後、続けざまに3発の爆弾を投下、その一発が斗蓋木の墓地付辺に着弾、以下の5人(子供1人) が爆死、2人が負傷した。

*同日:湖北省恩施を爆撃。

*8月15日:雲南省下関、四川省万県などを爆撃。万県では18機が爆弾95発、焼夷弾4発を投下、爆弾は主に貧民区に投下され、死者38人、負傷63人、家屋399軒。

*8月中旬:86機が湖南省衡陽上空に侵入、各所に分散して爆弾を投下、雁峰付近を周回しただけで住民500人余りを爆死させ、その他の各所でも多くの住民を爆死させ、全城で千人以上を爆死させた。

*8月16日:湖北省老河口を17機が爆撃し、市街地に百数十発の爆弾を投下し、30人以上の民間人を死傷させた。

*同日:湖北省黄岡市羅田渓の揚子江上の汽船を撃沈。

*同日:四川省南充市閬(ろう)中の保寧を爆撃。爆弾150発以上 (8個が不発)、焼夷弾は約20発、全市20数条の通りを爆破、住民158人が死亡、210人が負傷した。

*同日:27機で陝西省志丹県保安の軍事施設を爆撃。

*同日:午前11時頃、日本機が福建省三明市三元県城関上空に飛来、紅印山上に設けられた公的機関(訓練所や宿舎)を目標に12発の爆弾を投下、深刻 な被害を受けた。翌朝、日本軍機の再爆撃から逃れるために、大勢の城関住民と一部の関系者の家族子女が、沙渓河対岸の長安堡と白砂村に避難しようと川を渡るとき、防空警報が鳴ったので、みんながあわてて一つの渡し船に乗りこみ、船は過積載のために川の中で沈没、30人以上の婦人、子供、老人が溺死した。数日の間、死体の引き揚げと納棺の時、沙渓河の両岸では、悲鳴の叫びが絶えなかった。日本機は三元県を3回爆撃し、計約26発の爆弾を投下、37人を死亡させた。(『侵華日軍暴行総録』)

*8月17日:重慶の西方にある四川省自貢市の市街地を爆撃した。死者36人、重軽傷者69人。

*同日:16機が重慶地区万県に対し爆弾76発、焼夷弾90発を投下、82人負傷。

*同日:同じく自貢市自流井の居住区を爆撃し、死者は24人、重軽傷者は46人だった。ただし日本側の記録では自流井の製塩所、倉庫群を爆撃、数カ所を炎上させたとなっている。

*同日:27機が昆明の市街中心区を爆撃、死者15人、重軽傷26人、家屋の全半壊約1300棟。(昆明の家屋の破壊は異様に多いのが続いているが、主に焼夷弾による火災であろう。いずれにしろ重慶と同様に街を「焦土」にする日本軍の意図が見える)

*同日:福建省建四、三元、南平等地を連日襲撃した。

*同日:四川省重慶北東端部の巫山、開州開県を爆撃。 巫山では18機が巫山県城に108発の爆弾を投下、13人が爆死、12人が負傷。開県では16機が飛来、市街地を爆撃したが、尋盛門外の田んぼに打谷子と㨂谷子の大人や子供合わせて200−300人が作業していて、日本機はそれを目標とし、啄啄丘一帯だけで40人以上が爆死、田んぼには死体が散乱した。1人の女の子は頭と足だけが残り、身重の女性は、爆片が当たって身体を真っ二つに切断された。皮家院の陳潤生は妻と子供たち6人が爆死し、1人残された。東街の雷聘九は一家全員死亡。この爆撃で日本軍は爆弾76発、焼夷弾90発を投下し、死者170人以上、負傷者400人以上を出した。(『侵華日軍暴行総録』)

*8月18日:日本軍は占領している江蘇省連雲港市贛楡県で中国軍民の抵抗を防ぐため、海頭鎮海前村に拠点を置いたが、周囲の障害物を除去するとして、飛行機による焼夷弾投下とガソリンでひと月と17日の間、4000軒以上の家を焼き、107人が焼死、その後、残った壁をすべて取り除いた。

*8月19日:連日で四川省自貢市に対し7度目の爆撃。ここまでに自貢市では爆撃機474機、爆弾1544発を受け、約千人の死者と重軽傷者がでた。

*同日:同様に自流井の製塩所、居住区を爆撃。(対空砲火で一機が片発飛行で宜昌に帰還、しかし数機が飛行場外に不時着し大破炎上、3名が戦死、4名が負傷)

*同日:重慶近くの忠県、巫山の「軍事施設」を爆撃。中国側の記録では軍事施設ではなく、45機が出撃、忠県では15機が市街地一帯に爆弾120発を投下し、死亡2、負傷9、家屋134軒が焼失、巫山県では爆弾26発、焼夷弾2発で死亡2人、負傷9人であった。 さらに渝中区神仙洞の公共防空壕に爆弾と焼夷弾が1発ずつ落ち、6月5日に起きた1000人を超える大トンネル惨事に次ぐと思われる死者130人、重傷者180人を出した。(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:陜西省延安に対する第17次空襲は最後の大規模な空襲で約30機が100個余りの爆弾を投下、しかし重要機関に被害はなく、民間人が軽い被害を受けた。

*8月中旬:雲南省大理州下関で自動車群、軍需倉庫を爆撃。

*8月中旬:広西省柳州、龍州の軍司令部、倉庫、貨車、防空施設を爆撃、「壊滅させた」。

*8月中旬:海南島の新市・南埠・嶺肚・西昌・坡尾・加栞・桃波関などの軍拠点を爆破。

*8月某日:広東省仏山市高明県城東門、西門の各村を爆撃、多くの家屋を爆破した。

△ 8月中旬あたりに、陸軍飛行部隊は新型の九七式重爆撃機II型を投入する。

*8月22日:131機が4回にわたり重慶とその近郊を爆撃、爆弾236発、焼夷弾38発が投下され、39人が死亡し、72人が負傷、家屋254軒が破壊された。被害は重慶大学、中央大学も含まれる。別途、巫山青石洞を通過する民間船を7機が襲撃、交替で爆撃、機銃掃射を繰り返し、船は撃沈され、船員70人と負傷将兵160人、旅客20人計250人が死傷した。 

*同日:正午頃、9機が四川省内江県城の上空に飛来、急降下して地上100mの高さから低空爆撃と機銃掃射を行った。町中に爆弾と焼夷弾が落ち、逃げ惑う群衆に向かって銃弾が放たれた。爆弾44発、焼夷弾7発で商店街の多くが炎上し灰になり、死亡72人、重傷42人、軽傷81人、焼失家屋763間、爆破家屋470間。

*同日: 午前、七機の爆撃機が 陝西省宝鶏鳳翔県の北の山に沿って県城上空に入った。その時、中央陸軍士官学校の士官候補生たちが城内の張某家西側の壁と郗家東側の壁の間で隠蔽訓練をしていた。それを日本軍の偵察機が発見、急降下して3発の大型爆弾を投下、その1発が両家の2つ壁の間に落ち、21人の士官候補生が爆殺され、数十人の死傷者が出た。 

*同日:55機が分かれて甘粛省の蘭州、天水、武威を爆撃。

*同日:7機が陝西省鳳翔県中央陸軍士官学校第七分校を爆撃し、軍士官学校の将兵21名を爆死させた(全体の死傷6、70人)。

*8月23日:135機が四川省各地を4回に分けて襲撃し、重慶市郊外の沙坪壩(は)や磁器口・小龍坎・涪州(現・涪陵区)、嘉定(現・楽山市)の市街地一帯に合わせて265発、焼夷弾56発を投下し、死者43人、重軽傷者81人、家屋数百棟を破壊した。この中で 楽山では7機が楽山城区に対して34発の爆弾、12発の焼夷弾を投下、商店街の多くが焼失し、11人が死亡、30人が負傷した。また沙坪での証言がある。

【爆撃下の一人の体験】

 —— その日、私は紡績工場で働いていた。空襲警報が鳴り、工場の同僚と一緒に空襲を避けるため、(沙坪壩区)磁器口百岩洞という防空洞に向かって走りった。百岩洞の近くに着いたころ、日本軍の飛行機が爆撃を始めた。しかし私たちが目指していた防空洞は、すでに避難した人で一杯だった。まだ13歳で力も弱かった私は、防空洞の中に入ることはできず、防空洞の出入り口のところに留まっていると、そこに爆弾が投下された。その爆弾の破片が四方に飛び散った際、その破片の一つが私の右頬に深く突き刺さった。爆弾が破裂したとき、もうもうと煙や霧が立ちこめ、天も地もまっ暗になったように感じた私は、夢中で自分の手荷物をつかんで、押し合う人の群れに混じって走った。すると突然、誰かが私の幼名を呼んで、「どうしてお前は人の頭なんかぶら提げているのか?」と叫んだのが聞こえました。そう言われて私は驚いてつかんでいた「手荷物」を見た瞬間、私は「頭だ!」と叫び、そのまま気絶した。…… 夕方になって、兄がやっと死体の折り重なっている山の中から私を見つけ出した。私は、数ヶ月間入院し大きな傷を負った顔の右側の手術を何度も受けた。治療を受けている間も頬の部分が腐ってきて蛆虫が湧きだし、当初の半月ほどは水も飲めない状態だった。…… 私が負傷した数日後にも再び日本軍の飛行機が重慶を爆撃した。この日の空襲で私の家も爆撃を受け、さらに火災で全部焼失して私の家族は帰る家もなくなり、街頭で野宿するしかなかった。私は、数ヶ月後に退院したが、家が無くなっていたので、他人の家に一時的に住まわせてもらうなど、あちこちを彷徨うような生活を送らざるを得ず、生活の環境は一変してしまった」。

(趙茂蓉の証言『重慶爆撃とは何だったのか』高文研:2009年)

*同日: (上記一連の四川省内の爆撃に入るかもしれないが)午前11時と午後1時、17機が2回に分けて忠県城上空に飛来、投下した爆弾は92発、焼夷弾30発。丁字街、正街、老街、会仙橋、北門場など十数箇所に着弾し、8人が爆死、重軽傷者は21人。忠県では19日から23日までの5昼夜、警報が解除されず、住民は悲鳴を上げた。空襲を避けて川を渡ろうとして、込み合って川で溺死した人は数えきれない。この爆撃で忠県古城内の有名な唐代の古廟、竜興寺、四賢閣、太保祠などの名勝古刹も破壊され、その損失は計り知れない。

*同日:(上記と同様であるが) この日の前の8日、10日、合わせて3回にわたって重慶市豊都県を空爆、爆弾と焼夷弾 66発を投下、計39人が死亡、重傷59人、軽傷47人、家屋114棟が爆破され、家屋287棟が倒壊。新しく建て替えた3階の建物が焼かれ、その母は痛苦に耐えられず、火に身を投げて自殺した。

*同日:9機が四川省梁山(現・重慶梁平区)に襲来、爆弾93発、焼夷弾14発を投下して飛行場、県城、城東郷、柏家郷里、屏錦鎮などを爆撃して1人が爆死、3人が負傷、民家53棟を爆破した。

*同日:日本機は再び湖北省荊門市の劉猴集と仙居などを爆撃し、住民27人を死傷させ、家屋68棟を破壊した。

◎ イギリスのチャーチル首相はラジオ放送で、日本は長年「中国案件の解決」と呼んできたが、実際には南洋にまで貪欲に手を伸ばしていると述べ、このような行動は止めなければならないと述べた。

*8月24日:福建省寧徳市の古田県市街地と軍施設を爆撃。(福建省辺りは台湾の嘉義からの爆撃)

*同日:福建省莆田市涵江、三江一帯を3時間にわたって襲撃、多数の爆弾を投下し、7人が爆死、15人が重傷を負い、90以上の民家と学校の校舎が破壊された。

*同日:39機が甘粛省蘭州、天水、西寧を爆撃した。

*同日:湖南省長沙の軍団司令部、衡陽の軍需倉庫群を「爆砕」、さらに湘潭市内、永州市祁陽の軍需倉庫を「猛爆」。

*同日:広西省桂林の軍需倉庫、また霊川の石油倉庫に巨弾を命中させ黒煙が一千mの上空に達した。

*同日:四川省雲陽の製塩工場及び軍事施設を爆撃、「雲陽市街を黒煙の中にし」多大の戦果を収めた。これに対する中国側の記述。—— 2機が先頭に立って15機がそれに続き、雲陽県城東側の新津口方面から低空で侵入、県城の主要な建物と街道を爆撃、城内の東城小学校、区立小学校、中央銀行、郵便局、塩業公会、税務局、万寿宮、天花宮、禹王宮、小東門、大水井、舫興楼、観音閣など20数か所が被爆、瞬時に炎上して県城は一面の火の海となった。敵機は機に乗じて逃げ場のない人々に爆撃と機銃掃射を行い1時間近く爆撃、90発以上の爆弾と焼夷弾は30発余りを投下、観音閣岩嵌に避難していた100人以上が爆弾4発、焼夷弾2発を受け、その場で壮丁30人以上が爆死と焼死、16人が重傷を負った。この空襲で爆死及び焼死者69人、重傷38人、軽傷100人以上を出した。(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:湖北省恩施市巴東及び宜昌市帰州を急襲、巴東では千トン級大型汽船一隻と五百トン級の汽船数隻を撃沈、帰州の江上でも千トン級大型汽船一隻に火災を生じさせた。

*8月25日:36機が分散し、陝西省の渭南県二馬路雷家堡を爆撃し、6発の爆弾を投下、2人が死亡、5人が負傷。また10機が同省華県の赤水職業学校を爆撃、その他潼関などを6回に分けて爆撃。 

*同日:36機が甘粛省蘭州、臨洮、臨夏を襲撃した。

*8月25、26日:陝西省宝鶏を爆撃。

*同日:海軍の陸戦隊の掃討作戦に呼応、福建省北東岸、三都澳を爆撃。同様にこの後、海南島の掃討作戦に協力。

*8月27日:重慶市街地や北西の工場・倉庫群を爆撃。

*同日: 87機が蘭州、平涼市霊台などを爆撃。

*同日: 陝西省西安市藍田県の小村と白済の中国軍指揮拠点を爆撃。

*同日:午前、重爆撃機6機が浙江省孝豊南門鎮の上空に爆弾を投下、家屋数十棟を破壊し、20人余りが死亡。

*同日:陝西省延安を爆撃。

*同日:午前10時、3機が福建省寧徳市古田県城を爆撃、民家3棟27室を爆破し住民4人が死亡、3人が負傷した。また1機が同省福州市福清県 五竜一帯の村々を爆撃。

*8月28日:陝西省宝鶏市街と鳳翔県を爆撃。 

*同日: 山東省聊城市の東阿県東張の軍事拠点を爆撃。

*8月29日:陝西省漢中市の南鄭に28機が襲来、南門新市場などに70余弾を投下、そのうちの7発は時限爆弾で同日と翌日に3発が爆発し、残りの4発は中国防空部隊が撤去した。別途、軽爆撃機16機は市街に50kg爆弾96発を投下、大火災を生じさせ、重爆撃隊12機は主に飛行場の残機を爆破。

*同日:午前10時15分、36機が2隊に分かれて四川省南充市閬(ろう)中 に飛来、合わせて200発以上の重量爆弾、20発以上の焼夷弾を投下し、再び9機が引き返して来て錦屏山、閬南橋、馬家溝一帯に沿って60発以上の爆弾を投下、同時に機銃掃射を行った。この爆撃で爆弾300個以上、また焼夷弾20数発を投下、住民70人以上が爆死、190人以上が負傷、家屋302棟が爆破された。日本軍は1ヶ月の間に、閬中に3回の無差別爆撃を行い、航空機を94回出動させ、数百発の爆弾と40数発の焼夷弾を投下、住民250人以上が爆死、430人以上が負傷、家屋数千間を破壊した。

*同日:9機の日本軍機が四川省広元上空に飛来し爆撃、爆死38人、重傷47人、軽傷35人を出した。

*同日:四川省南充市閬中保寧の市街地と江上の船艇群に100kg弾210発を投下。 

*同日:2編隊28機が二度に渡って陝西省南鄭県城を爆撃し、主な目標は南門新市場で、計70数発(別説、80数発)を投下した。 

【一日に205機による重慶爆撃】

*8月30日:陸海飛行部隊の協同撃滅作戦として、205機が8回に分けて重慶を爆撃、480発を投下し、110人が死亡、190人が負傷した。中央大学、四川省教育学院も再爆撃された。別働隊が79機で重慶の要人住宅地爆撃、また軍事会議場を狙い、南岸の街区、蒋介石の黄山官邸雲岫楼が爆撃をうけ、衛士2人が死亡、4人が負傷した。 

*同日:15機が四川省万県城を爆撃、長江沿岸の河川に停泊していた民間汽船を爆撃、4隻が沈没、死者68人、負傷者5人、家屋80間が破壊された。

*同日:午前8時頃、17機が四川省雲陽県城を爆撃、64発の爆弾を投下、主な市街地と旧市街を爆撃し42人が爆死、重傷32人、軽傷18人。

*同日:甘粛省蘭州を爆撃、死者7人、負傷者は10人。

*同日:陝西省楡林市の綏州の市街東部を爆撃。

*8月31日:最後の協同作戦として、137機が7回に分けて重慶地域を爆撃し、爆弾223発を投下。市街区で死者67人、負傷73人が出た。家屋35棟193軒、印刷工場が全壊した。この中で16機が四川省梁山に襲来、飛行場、県城、聚奎郷などを爆撃した。投下した爆弾は137発、爆死5名、負傷8名、民家16棟を爆破した。

*同日:四川省成都と雲南省昭通を重慶に並行して爆撃。成都では 双流県城が夜襲され爆弾1発、焼夷弾5発を無差別に投下、空港近くの10世帯以上の民家が被爆し10人が死亡した。

*同日:四川省西昌の小廟空港を36機が爆撃。130発以上の爆弾を投下、農民2人が死亡し、4人が負傷した。

*同日:重慶北東部の雲陽を爆撃。

*同日:陝西省咸陽や湖北省を爆撃。 

*同日:福建省福州市福清を爆撃。

*8月31日:87機が8回に分けて甘粛省蘭州、武威、臨洮、武都を爆撃した。蘭州市街地では65発の爆弾を投下、7人が死亡、10人が負傷し家屋400余軒を破壊。日本機一機が砲撃を受け自爆。 

 1937年11月5日よりこの日まで蘭州は20回以上の爆撃を受け、2千数百発以上の爆弾が投下され、252人が犠牲になり、7千戸が破壊され、2千人近くが家を失った。甘粛省全体では38回、延べ1700数機の航空機を出動させ、爆死者663人、重軽傷者680人であった。なお1937年10月から1938年2月までの間に、ソ連が中国に提供した大量の兵器物資は西北国際交通線を通じて中国に運ばれ、主に軍用機297機、各種火砲290門、戦車87両、自働車400両及び各種部品などであった。ソ連のアルマトイとザバイカルから中国に向かう大量のソ連機は蘭州で給油、検査し、各地に飛んだ。ソ連は蘭州に外交・軍事代表所を置き、ソ連の志願航空隊も蘭州の各空港に進駐していたから日本の重要攻撃目標になっていた。この後日本軍は太平洋戦争への準備に向けて中国の攻撃を半減させ、2年間に約20回の偵察機の侵入はあったが、 最後に甘粛省上空への侵入は1943年10月4日であった。(以上は『侵華日軍暴行総録』その他を混成)

【自画自賛の集中爆撃】

〇 日本軍は8月、この年では最も多く爆撃を展開している。日本はアメリカとの戦争を視野に入れ、中国軍を早く平伏させ、終わらせようとする意図があった。以下は『支那事変画報』9月20日号(第99集)からの要約である。

 ——「わが陸海荒鷲(陸海軍飛行部隊のこと)が8月に入ってからの抗日支那奥地(四川省重慶を中心とした地域)爆撃はまさに空戦史に燦たる一ページを飾るべき熾烈さを極めたものであった。中でも海軍航空隊が8月8日以来敵首都重慶および周辺一帯の軍事拠点に対し二時間ないし五時間の息つく暇もなく14日午前十時まで約150時間における爆撃回数は実に40回を算し、参加延べ機数一千におよぶ。ドイツ空軍のロンドン爆撃に勝る大爆撃を敢行したのを始めとして、8月中旬から8月末までに海鷲の爆撃参加延べ機数二千四百機、投下爆弾一万五千個、空中戦で撃墜した敵機8、銃撃炎上または破壊したもの18機、炎上3機、爆撃地区は重慶を中心として成都 … など六省21の拠点を鵬翼下に蹂躙した。また陸鷲は七月末から延安、蘭州 … などの西北ルートの拠点を始めとして8月11日:本年初の重慶爆撃を行ってから …… 9月6日までの投下爆弾一万個、その爆撃都市は40を超える広範囲なもので …… その成果は(中旬までに)“重慶の相貌は一変し地上に残存建築物なし”と報じられている。 …… 8月8日から14日までの市民の死傷者は5千人に達したと報じられ、全期間を通じての被害は驚嘆に値するものがあるのは当然で …… (市場の混乱で紙幣価値が下がり、民衆は米が手に入らず)餓死者は防空壕を埋め、政府怨嗟の声は街頭にあふれている。 …… 設備の不完全な他の都市はこの世の生き地獄を現出しているといっても過言ではない。陸海空軍の攻撃は …… (中国軍の)抗戦に絶望感を与えるのは言うまでもないが、同時に重慶への援助によって日本の支那事変解決を妨害しようとする英米民主主義国家群に対し、その企図がいかに効果のないものであるか事実をもって知らしめている。 …… これまで民主国家群によって重慶、成都を中心とした飛行場が次々と整備されているが、 …… 8月に入ってからのわが勇敢な連続奥地(重慶を含む主に四川省のこと)爆撃はこの施設をことごとく爆砕していて、民主主義国家群に与える影響は致命的なものがある」と、かなり楽観的憶測による観測を語っている。物資の流入が減り、物価が高騰していることは確かだが、他は先のドイツ記者の話の通りである。

 筆者注:ちなみにこの中では民主主義を敵対視しているが、この時代の日本国内では、自由、民主主義という言葉は共産主義や社会主義とともに禁句であり、その種の本を持っているだけで逮捕、場合によっては警察で拷問を受け、死に至る場合もあったし、そうした「危険思想」を取り締まるために至る所で特高警察が見張っていた。なぜかというと、神としての天皇の存在を脅かす主義主張はすべて悪とされたからである。ある意味、その天皇の存在を当時の軍政府は戦争のために利用していたとも言えるが、その天皇への絶対視が日本軍を「皇軍」とするイメージを形作り、その驕慢さが他国人に対する蔑視を生み、劣ったとみなす民族に対しては何をしても許されるという流れを作った。

 ただこの中に、“重慶の相貌は一変し地上に残存建築物なし”とあるのは、これまで「市街の軍事施設を爆撃」のようにしか報告されていなかったことは事実ではないわけで、完全な無差別爆撃であることを表しているが、それよりも、一週間で五千人という重慶市民の多くの死傷者(実際にはそこまで多くないし日本側の推測である)という情報に対し、いい気味とは言わないまでも、何の憐憫の情を表す言葉もないばかりか、「この世の生き地獄を現出している」としてそれを戦果として誇っている。これがこの世界戦争の時代を覆っていた雰囲気というしかないし、その返り討ちとして日本は太平洋戦争終盤に米軍からの原爆を含めた大空襲を受け、自分の国の「銃後」の一般住民がまさに生き地獄を味わうことになることを、中国での爆撃に関わる将兵の誰が想定しえたであろう。しかも、中国側と支援する「英米民主国家群」は決して「致命的」な打撃を受けていず、日米開戦後の1944年6月、米国は日本に対して本格的空爆を行う前に、この成都に四つの飛行場を構え、最新鋭の超高度航行可能な大型爆撃機B29を配備し、そこから北九州の工業地帯に空爆を実行し、日本に衝撃を与えた。

 上記海軍の「8月8日以来敵首都重慶および周辺一帯の軍事拠点に対し2時間ないし5時間の息つく暇もなく14日午前10時まで約150時間における爆撃」に関し、中国軍側の証言がある。

 —— 「1941年夏の爆撃は最も凶悪なものであった。 …… 昼夜ぶっ通しで七日間ほとんど絶え間のない爆撃が行われ、その間爆撃が途絶えたのは長くて5時間、短くて1時間半であった。そのうち数日間は政府の役人は1日平均10時間から15時間を防空壕の中で過ごさねばならなかった。この電撃作戦に日本は連続150時間にわたり一千機以上を出動させた。しかし重慶はこの苦痛に毅然として耐えた。 …… 日本は重慶を爆撃すれば中国政府は降伏するだろうと誤信していた。 …… しかしさすがに三年目の終わりには彼らも中国人の忍耐力を信じられないほど低く見積もっていたことに気がついた」

(中国国民党中央宣伝部次長 董顕光 『日本の戦史:第6巻、日中戦争 4』毎日新聞、1979年)

 これは「疲労爆撃」という戦術であり、数度きりの大量爆撃ではなく、適度な数の爆撃機を使って一日中連続して何度も空襲、さらには何日間も継続して空襲する。そのため重慶市民は連続した空襲警報の下奔走し、疲れ果ててしまい、正常な生活や仕事ができなくなって、精神的に常に緊迫した状況に置かれた。これを6月中旬から8月まで繰り返した。

9月

【保定市淶水県の受難】

*1941年9月初め:河北省保定市の淶水県において日本軍と一部の偽軍(捕らえた一部の中国兵を自軍の勢力にした場合もある)は、房山十渡、易県紫荊関、涿鹿大廟の三つの道を攻撃して淶水の山地を掃討し、その掃討の間、ほぼ毎日十数機の飛行機が白澗区の蓬頭近辺の30余りの村の上空を偵察、機銃掃射、爆撃した。そこから40数日に渡り、日本軍は数々の虐殺や強姦、略奪(金品ばかりでなく、多くの家畜を殺して自分たちの食料とし、牛馬を奪った)をしたばかりでなく、白澗区の李各荘、蓬頭、湯家荘、其中口、板城など20数村の2千人近くの民を東北の満州(日本の植民地)に家族ごと強制移住させて炭鉱などの労働者とした。そこでの過酷な労働で数多くの人たちが病死、虐待死、自殺、あるいは飢餓で死んだ。そうした状況の中、6千人以上の村人が日本軍の目を盗んで各村から逃走し、流浪の民となった。その後村々は焼き払われた(抗日ゲリラを掃討する「無人区」作戦の一つ)。少なくとも全体の死者は千人以上のようである(『日軍侵華暴行実録』第2巻)。これは単なる要約であるが、こうした陸軍部隊の残虐行為を、侵攻を支援した特に海軍の飛行部隊が知り得ていたのかどうかわからないが(ただし海軍は海南島を占領したのち、陸軍と同様な残虐行為を展開している)、凄惨な詳細はここには記す余裕はない。

*1941年9月1日:27機が重慶大渡口を爆撃し、爆弾85発、焼夷弾45発を投下、33人死亡、68人負傷、家屋67棟損壊。また製鉄所を爆撃し、大火災が三ヶ所から起き、労働者9人が死亡し15人が負傷した。(この日で102号作戦は打ち切り)

*同日:湖北省老河口江岸地区の物資集積所及び軍事施設を爆撃。これは中国側の記録では以下のようになる。

 ——「6時30分、空襲警報が鳴り30分後、敵の偵察機が市空に侵入し、一周旋回して飛び去った。7時半に爆撃機が16機も再侵入、三編隊に分かれ、六機二編隊は襄河に沿って、四機は襄樊道路に沿って市内上空に入り爆撃した。味方の高射砲部隊も猛烈に応射した。9時25分、12機と5機の爆撃機が再度来襲、市内を爆撃した後飛び去った。11時35分に第三次空襲警報が発令されたが敵機は数回上空を旋回してから去った。計2回の36機で、百個以上の爆弾を投下、市内の数か所が着火して、民間家屋の100棟以上が焼失した。正大街、中山街、大巷子の損失が大きかったが(防空訓練の結果)死者は6、7人、軽傷1名だけであった」

(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*同日:10数機が分散して浙江省湖州市孝豊県城及び鶴鹿渓を爆撃し、民家数十棟を爆破。

*9月1−3日:福建省福州市福清の軍事拠点を連日爆撃。

*9月1−10日:多数の日本機が湖北省荊門市仙居に何度も襲来、爆撃した。 

*9月2日:2機が重慶巫山を爆撃、爆弾3発で2人が負傷。

*9月3日:日本軍は占領していた福建省福州市から撤収、その直後、日本機は馬尾鎮区及び中岐郷を爆撃し、死者39人、負傷者83人を出し、羅星塔付近の一号ドック、前清海軍船政街門跡と長門要塞を破壊した。 馬尾では、日本軍機は107回爆撃して、94人が死亡、92人が負傷した。

*同日:小舟窩(地域不明)の釣橋を爆撃。

◎ 同日、ドイツ軍がモスクワを包囲。

*9月4日:陝西省渭南市の潼関・韓城・朝邑・華陰、咸陽市の三原・涇陽を(演習を兼ねてという)爆撃。

*9月5日:湖北省老河口江岸地区の物資集積所及び軍事施設を爆撃。

【開戦を前提とした御前会議】

〇 9月6日:日本の大本営は御前会議において、「帝国国策実施要綱」を採択し、米英蘭を相手とする戦争を想定しながら交渉を進め、10月末を期限とし、期限までに外交交渉の要件が満たされない場合は、直ちに米国、英国、オランダと開戦すると決定した。

*9月初旬:午前11時頃、日本軍機27機が人字形になり来襲、陝西省宝鶏市鳳翔県陳坡上空で投弾して機銃掃射を加え、住民4人が死傷した。その数日後)の夕方、日本軍機1機が再び鳳翔県城を爆撃し、3発を投下、北大街の民家1軒を爆破。

*9月8日:渭南市の蒲城県を爆撃。

*同日:2機が福建省竜岩市の郵便局バス停付近に多数の爆弾を投下、3人が死亡4人が負傷。

*9月8−9日:湖北省の宜昌における陸軍の戦闘で、毒ガス(イペリット)弾を投下。

【子供の頭が無い】

*9月9日:正午、4機の爆撃機が江西省上饒市鄱陽県石門街鎮に来襲、劉壩塘上空から急降下し機銃掃射を開始、水たまりに連続した水しぶきが立ち上がった。続いて4機の爆撃機が交互に急降下し、大型爆弾が天から降りて爆発し、煉瓦や土埃が舞い上がった。住民は四方を駆け、ある者は銃弾を受けて倒れ、ある者は負傷して悲鳴を上げた。さらに4機が白虎塘の内側に大勢が隠れたのを発見し、連続して40発余りの爆弾を集中投下、その場で36人が死亡し、100人近くの負傷者を出した。桃園全体がちぎれた足、頭の破片、腹を裂いた残骸であふれ、枝の頭上にも人肉がぶら下がっていた。 一人の婦人は爆風で子供を抱えたまま10m以上も飛ばされて死亡、抱えていた子供は頭が無くなっていた。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*9月11日:午前、5機が陝西省渭南市朝邑、蒲城を爆撃、蒲城では城西の総里局巷、中山街、関帝廟後巷などに20数発を投弾、5人が爆死、8人が負傷、50軒以上の家屋が爆破された。

*同日:山西省汾城を爆撃したが、汾城上空で1機が撃墜された。 

*9月11−12日:湖北省老河口、巴東を連日爆撃。

*9月12日:午前10時半、湖北省巴東県を18機が4回にわたり、爆弾60数発を投下、石灰窯、竜船埠頭、範家埠頭、馬鹿口、十五号防空壕、王家溝などが被爆し、家屋183間を爆破し、6人が死亡、18人が負傷した。

*同日:21機で陝西省西安を爆撃。爆撃は二波にわたり、市街地の西安駅・崇耻路・北城培・六合新村・雷神廟街・九府街・紅埠街・蓮花池街などを爆撃。 これらの爆撃を空撮した写真が残っている。

△ ここまでで「奥地(重慶を含む四川省や陝西省、甘粛省など)侵攻作戦」を終了とする。

*9月13日:貴州省三合県、八塞県などを爆撃。

*9月14日:午前2時、日本軍は河北省石家荘市平山県南庄鎮に侵攻し、日本機も支援爆撃した(2人が爆死)。村人は直ちに張大溝などに逃げた。日本軍は村に突入したが村はもぬけの殻で、追走し張大溝を取り囲み、夜が明けてから村に入って捜索、人を見ると殺害した。さらに捕らえた14人を穀倉に連れて行き、1人1人に藁の束を抱えて積み上げて火をつけ、火が燃え広がる前に彼らを銃剣で刺した。この日、日本軍は南庄の村民70人を惨殺し、その中には輪姦された後、銃剣を突き刺され惨殺された婦女子も含まれる。

*9月15日:貴州省貴陽市を爆撃。

*9月中旬:湖北省宜昌の東寺山地区に毒ガス(イペリット)弾を投下。

*9月某日:6機が浙江省湖州市孝豊県城南門を爆撃し、100kg爆弾20数発を投下し、家屋10棟を破壊し、死傷者40数人。 

*9月16、17日:湖南省岳陽市湘陰県を爆撃。

【重慶爆撃の終了と海軍航空隊の撤退と新たな戦争への準備】

〇 9月1日、海軍は全面戦時編成を発令、9月初頭に全陸上攻撃機(中攻機)部隊を、15日に艦上戦闘機部隊を日本本土に引き揚げさせ海軍航空隊の中国作戦終了とし、これに伴い海軍が主体として行った重慶への爆撃も終了した。この海軍航空隊の作戦終了は、日本軍の南方作戦(仏印:ベトナム地区以南)への転換(米国等による石油禁輸政策もあり、資源獲得の活路を南方に見出そうとするもの)に連動するものでもあったとされるが、すでに南方作戦は半ば進行中であり、実際には日米のみならず欧州との関係悪化を受け、密かに米欧に対する開戦(太平洋戦争)を想定して新たな作戦に配置するためであった。海軍の航空隊は主に真珠湾攻撃への準備に入るが、陸軍は南方作戦の延長で、東南アジアを支配する英・蘭・豪(仏のベトナム地区は占領済み)に対する開戦準備であり、これも12月8日同時にに決行された。

【重慶爆撃の戦果】

 重慶爆撃は1938年12月18日からここまで、218回行われた。またこの年、重慶には1941年の1月22日から9ヶ月間で53回(64回ともあるが、地域の区切り方などによって異なる)の爆撃が行われ、出動航空機2180機、合計5628個の爆弾と723の焼夷爆弾が投下され、死者2601人(あるいは2469人、6月5日の大トンネル惨事の死亡人数を含む)、負傷2569人、損壊家屋7527棟5987戸、173隻の船と13台の車両が破壊された。(ただしこれらは資料の年代によって異なるが、最新としては全期間での爆撃による死者は2万2709人、重軽傷者は1万6771人となっている)

 筆者注:中国奥地四川省の重慶地区に対する前年の百一号作戦と、この5月から9月初旬までの百二号作戦に関して、陸海軍飛行部隊が協同して行ったものの、効果が薄く無意味かつ非人道的で国際法に反する行為であるとして強く反対する声が(今更ながら)陸軍内部からあり、第3飛行団長として重慶爆撃を指揮していた遠藤三郎陸軍少将が中止を主張、上級部隊である第3飛行集団長木下敏陸軍中将に「重慶爆撃無用論」を9月3日に提出した(遠藤自身は実際に重慶を爆撃する九七式重爆に何度も搭乗し、その無意味と非人道性を認識した)。この「重慶爆撃無用論」は参謀本部作戦課にまで届き採用され、陸軍は重慶爆撃を中止することとなったとされる。その要旨としては「従来の要地攻撃成果は一般に過大評価されている。ドイツ空軍のロンドンに対する近距離目標での1000機を越える年余の大爆撃でも英国を屈服できない現状と中国奥地に対する我が攻撃とを併せ考える時、地上侵攻を伴わない航空の要地攻撃は労攻相償わない」というものであった(防衛省の戦史叢書『中国方面陸軍航空作戦』p231)。

 つまりこれは重慶爆撃は効果的に疑問があったというだけのことで、多少でも人道的な考慮が加えられたわけではまったくない。後年において、上記のように遠藤少将(後に中将)の主張が聞き入れられて重慶爆撃が中止されたとして語られる場合があるが(遠藤少将の人間性に疑問の余地はないが)、そうした助言を聞き入れるほど陸軍の参謀本部がヤワな精神構造を持っていたとはとても思えない。事実、この後も陸軍航空隊だけでこれまでと同様に中国各地に爆撃を継続していくことは、これ以降の記録を見れば明らかで、しかも細菌爆弾や毒ガス弾の投下もまったくやめていない。今さら重慶にかぎって「非人道的行為」とは、これまでの膨大な重慶以外への爆撃量からすれば言い訳がましく白々しい。重慶は早くから巨大な地下壕を建設し、政府組織も地下にあり、爆撃の大半は無駄であったという理由が一番大きいであろうが、ここに日本軍は米英との開戦を想定し、その準備のために海軍航空隊を中国から撤退させる計画が重なっただけのことである。撤退後は陸軍航空隊が重慶以外の各地に相変わらず無差別爆撃を続けていく。それは陸軍の侵攻作戦上、戦闘・爆撃機からの空爆は欠かせないことであったからである。いずれにしろここまで日中戦争の早期終結を目指して首都重慶に対して徹底的な空爆を加えながら、中国軍がまったく降伏する様子を見せないのは日本軍にとって目算外れのことであった。

 そしてこの日中戦争(支那事変)の解決の糸口が見つからないという負の面を抱えながら、この3ヶ月後に米英を相手とする太平洋戦争に突入する。海軍飛行隊は太平洋戦争開戦に向けての配備に向かい、衆知のごとく、12月8日のハワイ真珠湾奇襲攻撃において華々しい活躍をする。同時に陸軍航空隊も約40%がマレー・インドネシア・ビルマ方面への侵攻作戦へ向かい、12月8日、陸軍はマレー半島に奇襲攻撃し上陸する。そしてこの開戦に一番喜んだのが蒋介石であった。

 ちなみにこの25年後に始まったベトナム戦争に米国が介入したが、この時期の日本軍と同じ過ちをしている。北ベトナムに対する激しい空爆と、森林には空から枯葉剤を撒き、ゲリラが潜むとされる農村を焼き尽くした。そして10年もかけて自軍にも多大な犠牲を出したのち米軍は敗れた。

【長沙作戦】

△ 9月18日、日本陸軍は「長沙作戦」を開始。

*9月18日:陸軍の進撃に協力、湖南省長沙から下流の湘江や汨(べき)水や営盤付近、瀏陽河畔などを偵察爆撃、また岳陽市長楽街付近の橋梁や船艇群を爆撃、さらに中国軍司令所のある永州市洪洞、関王橋を爆撃。

*9月20日:湖南省岳陽市汨水、瀏陽市撈刀河を爆撃。

*9月22日:長沙市瀏陽方面に移動中の中国軍部隊を爆撃。

*9月23日:湖南省衡陽市長嶺付近の二千の部隊、瀏陽、常徳市新安付近の四千の部隊を反復爆撃。

*同日:未明、湖南省株洲市醴陵県南門の外で機銃掃射を行い、農民1人を負傷させた。8時、関家巷育嬰堂一帯に四発の爆弾を投下し、家屋数十軒を爆破。

*同日:広東省清遠市英徳の青塘鎮で市の日があり、村民たちは青塘街に集った。突然防空警報が鳴り、人々はすぐに丘に沿った石山岩里に逃げた。そこに9機が青塘の上空に現れ、偵察旋回した後、交互に急降下爆撃を行い、280発余りの爆弾(この数の多さは異例)を投下した。爆弾は青塘墟に落とされ、児条街はたちまち瓦礫と化した。その中で西大街の損失は最も大きく、恒源、恒発淵、和隆、保安堂、太和堂、順隆、永源、怡泰など五、六十軒の大小の商店が爆破された。頑丈な質屋の塀も爆弾の衝撃で崩れ落ちた。破壊力のある重量級爆弾もあれば、殺傷力の強い平射爆弾もあった。稲田に投下された爆弾は、作物を刈り取った後のように稲を吹き飛ばした。さらに日本機は爆弾投下後、逃げ遅れた群衆に機銃掃射を浴びせた。その後も数度の爆撃があり、300人以上が犠牲となった。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

【連日で市場への爆撃】

*9月24日:河北省渤海沿岸の滄州市海興県を爆撃し、130人が死亡、140人以上が負傷する大惨事となった。ちょうど小山村では市の立つ時間帯で、東営門の市場に集まり、商人と人々が潮のように押し寄せていた。午前9時ごろ、日本軍機9機が急降下、人々は慌てて隠れたが、次々と爆弾が投下され、爆発音と伴にたちまち死体があたり一面に広がり、首や手足、内臓が飛び散り、血が川のように流れた。趙子静の妻の頭は200m以上飛び、趙金生の妻の腕は300m以上に飛ばされた。(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:長沙市瀏陽河や永安付近の橋梁や船艇群を数回爆撃、その他随所で陸軍の進撃を援助した。

*同日:広東省珠海市の前山を爆撃。

*同日:重慶市九竜坡区白市駅に3機が侵入し機銃掃射をして引き返した。(これは陸軍機によるもので、重慶へは翌年8月23日に最後の爆撃が行われている)

*9月25日:長沙の軍事施設を爆撃、20ヶ所を炎上させた。

*同日:永安市に援軍に向かう中国軍部隊に対し10回近く反復爆撃。

*9月25−26日:地上部隊の支援で湖南省株州を連続爆撃。また衡陽、芷江、江西省吉安の飛行場を急襲し爆撃。

*9月26日:湖南省長沙市瀏陽城を爆撃し、32人の死傷者を出した。

〇 日本軍は駐ハノイ中国総領事館を占拠し、中国人駐在員約100人が無許可で逮捕された。 国民政府外務省はフランスのヴィシー政府に交渉を申し入れた。

*9月26−27日:永安、瀏陽洞陽、春華山で地上軍と交戦する中国軍部隊に大打撃を与え、敗退させた。

*9月26、28日:河北省滄州市海興県小山村を24日に続いて爆撃。この爆撃で趙洪如一家は、1回目で父と妹を亡くした。2回目の爆撃で妻の命が奪われ、一家は趙と子供1人だけが残った。

*9月27日:地上部隊の長沙の北東への突入を支援して反復爆撃。翌28日、日本軍は長沙を占領、その翌日株州も占領。

*同日:湖南省株洲市醴陵県の北正街に四発を投下、多くの商店が被弾して倒壊炎上し、数日間燃え続けた。

*9月28日:河南省鄭州市新鄭を爆撃し、100発以上の爆弾を投下、県城の内外は弾痕だらけで、死体は飛び散り、100人以上の民を爆殺した。

*同日:河南省玉県を27機が爆撃し、百数発の爆弾を投下し、200人以上を死傷、家屋2000軒以上を破壊した。

*同日:広東省韶関市街と南雄を爆撃。

*同日:湖南省株洲市醴陵県の板杉屋駅を爆破、二人が負傷。1937年10月8日からこの日まで12回の爆撃で300余人が死傷、 家屋は約二千間が壊された。

【モンゴルにおけるアヘン栽培】

〇 日本軍はモンゴル地域で毒化政策を推進し、アヘンを大量に栽培している。綏遠の包頭、帰綏、薩拉斉、托克勒、清水の5県だけでアヘン栽培には数十万の商人がいる。国民政府内政部は外交部に各友好国の注意を促すよう要請した。

*9月29日:湖南省衡陽の鉄道駅とその付近を爆撃。

*同日:雲南省大理市南澗の張皮荘の抗日部隊を爆撃。

*同日:海南省海口市椰県を爆撃。

*9月30日:湖南省衡陽を続けて爆撃。(この数日間の韶関、南雄、衡陽、椰県を爆撃した重爆飛行部隊は、この後太平洋戦争に向けてカンボジアのプノンペンに向かうが、途中での天候悪化により、36機のうち11機、73名を失った)

【「戦史を飾るべき偉大な足跡」という空爆への誇り】

  9月までの陸海軍航空部隊の戦果を誇る記事がある。

 ——「今次事変におけるわが陸、海荒鷲の活躍は、わが戦史を飾るべき偉大な足跡を残した。支那空軍を木っ端微塵に粉砕して英米など援蒋(蒋介石支援)国家群の大わらわな航空機補給もまったく旧餅(旧弊)に帰せしめ、支那全土は完全にわが空軍の制空下にあり、重慶をはじめとする奥地の敵大都市はことごとく果敢なる爆撃にさらされて、今や蒋介石政権は気息奄々たる惨状を呈している。この支那の空を鵬翼下に蹂躙している陸、海荒鷲の事変以来の輝かしい活躍ぶりが、去る9月19日、意義深き第二回航空日を前にして陸、海両省から発表された。

 陸軍航空部隊=陸鷲は事変以来四ケ年有余、地上作戦と協力して偵察に連絡に寧日なく縦横に翔り、また鵬翼を広げては敵重要拠点を猛爆、その軍事施設を粉砕し、重慶、成都などの大空襲を敢行しては敵の再起せんとする意力を喪失せしめた。(事変以来この九月中旬まで)敵飛行機撃墜数は1744、地上爆破241、総計1985に達する大戦果を収めた。

 海軍航空部隊=海鷲は事変劈頭、世界戦史に初めての大渡洋爆撃を敢行以来、支那全土を文字通り鵬翼下に収めてから重慶はじめ奥地の長距離爆撃を続行、四年間世界に無敵海鷲の威力を誇示した。これを重慶爆撃行で見ると昭和13年度中に三回、 … なお現在も猛爆中で(実際には上記のように9月24日で終了した)次に事変以来の奥地爆撃回数を総合すると重慶の92回を筆頭に(実際には218回とされていて、つまり一日に午前午後、夜間というように数次の爆撃が行われている理由による、以下も同様)昆明30回、成都20回、蘭州12回、滇(てん)緬公路18回という不朽の記録を示し、このうち本年度の重慶爆撃で特に注目されるのは … わが爆撃行に敵の挑戦はわずか三回に過ぎず、 … (特に六、七、八月の)息もつがせぬ猛襲に重慶はまったく相貌を一変し、わが海鷲の制空下に重慶奥地は摺伏し、世紀に不滅の偉容を飾っている」。(『支那事変画報』10月20日号:第100集からの要約)

 筆者私見:『画報』の第99集から使っている言葉で、「空戦史に燦たる一ページを飾る」、「偉大な足跡」、「世界戦史に初めて」、「不朽の記録」、「世紀に不滅の偉容」という表現が並ぶ(今でも「世界の航空戦史において特筆すべき出来事」という言葉も見られるが)。本当にそうであったなら、なぜ日本の現在にあってこうした数々の栄光とも言うべき事実が堂々と表に出されていないのか、誇るべき記録であればどこまでも誇るべきであろうが、この記録の下に中国の人々の惨禍があり、空爆によって「この世の生き地獄を現出」させたというそのこと自体を戦果として誇っていたこと、しかしそれらの行為が跳ね返って自国内に同様な生き地獄を生むことになり、結果的に敗戦したことにより「偉大な足跡」は偉大ではなくなり、むしろ悪行として覆い隠すしかなかった。実際に太平洋戦争で勝利した米軍でさえ、戦後の占領時、日本に対する数々の無差別爆撃と原爆投下を日本人に忘れさせようと骨を折った経緯がある。さすがに原爆投下はそういうわけにはいかなかったが、3・10東京大空襲については記念碑・記念館の設置を抑止することに(日本政府と東京都の米国への忖度の助けもあって)成功した。

10月

*1941年10月1日:陸軍の長沙攻略作戦への協力で長沙の梓江、湘江、瀏陽を爆撃。

*10月2日:河南省許昌市禹県は9月上旬から防空警報が毎日5、6回鳴り、住民の多くは田舎に避難していた。この日、開封に駐屯していた日本軍第12軍の内山中将は航空隊に禹県城を偵察爆撃するよう命じ、午前7時、1機の偵察機が県城に飛来し低空を旋回、続いて三隊に編成された27機が飛来し、百数十発の爆弾を城内に降り注いだ。街全体の店舗と民家の2000軒以上が爆破され、住民270人が死亡した。街中の惨状は見るに忍びず、被害者の家族は悲しみと憎しみで胸をいっぱいにしてきた。(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:河南省鄭州を爆撃。(4日に鄭州を占領)

*10月3日:長沙北東で中国軍に包囲された地上部隊を攻撃、救出に協力。

*同日:3機が浙江省寿昌県城を爆撃、家屋百軒以上を爆破。

▽ 10月4日、中国軍は日本軍が手薄になっていた湖北省宜昌市の奪還作戦に動いた。

*10月6日:広東省韶関を爆撃。また4機が湖北省宜昌付近を爆撃し、1機が撃墜された。

【長沙への爆撃量】

△ 10月6日、長沙作戦終了。9月18日からこの日まで延べ爆撃機数は1532、50kg爆弾1793発、15kg爆弾4033発、機関銃弾12万4268発、1日平均攻撃機数約80機となっている。これは第一飛行団隊であり、この他第三飛行団隊の参加も多少ある。なおこの役の日本軍の死傷者は4万8372人、中国側の死傷者行方不明者は7万人余りだった。

◎ 米国は租借法に基づく新たな資金調達案で1.33億元の航空機を中国に供給した。

*10月8−9日:湖北省宜昌市の市街地を連続爆撃、8日は64機、9日は125機。

【宜昌に連日でガス弾を投下】

*10月9−10日:9月中旬に続いて宜昌の宜都の茶店子地区に連続して大量のイペリット毒ガス弾を投下、特に10日には36機が宜昌市街を爆撃、同時にイペリットガス弾を投下、これによって死者は400人を超えた。

*10月11日:中国軍は宜昌から退却を開始、その退却中の部隊を追撃する。

*10月12日:湖北省宜昌を攻撃する地上部隊を援護して低空爆撃を敢行、135機で追撃した。

*10月12、13日:4機が湖北省宜昌市帰州の茅坪及び長富一帯を爆撃、民家2棟、木船4隻を破壊し、死者24人、負傷者49人。翌13日、5機が再び茅坪及び長富一帯を爆撃、11人が死亡し、9人が負傷。

〇 近衛内閣が総辞職し、東条英機新内閣が発足、東条は陸相及び内相を兼任し、新内閣は引き続き「支那事変の解決と大東亜共栄圏の実現に関する既定の国策を堅持する」と主張した。

*10月21日:数機が晋西及び陕西省の北部各地を襲撃したが、1機撃墜された。

*10月23日:広東省韶関を爆撃。

*10月25日:日本軍は猛烈な砲火で河南省鄭州南西の黄崗寺一帯を攻撃し、空からは飛行機の爆撃、地上からは大砲や機関銃の砲撃により村民40人以上が死傷した。日本軍は村に入ると住民を集め、周囲に4挺の機関銃を据え、その中から11人を選び出し、一軒の民家に連行し、その家に火を放って焼死させた。掃討には3日間かかり、逃亡者は発見次第銃剣で刺し殺された。同時に家屋1700軒以上が焼かれた。(『侵華日軍暴行総録』)

*10月26日:陝西省延安を17度目で最後の爆撃。ここまで257機が1690発の爆弾を投下し、死者214人、重軽傷184人、家屋の全半壊15628戸であった。(延安は中国共産党の本拠地であった) 

*同日:午前七時、27機が湖北省宜昌市遠安に来襲、急降下機銃掃射、その後の爆撃で県城は一面炎上し、至る所で血と肉が飛び散った。西湖村と西門の南の路地口だけで80人余りが爆死した。

*10月27日:退却する中国軍を黄河渡河点で猛攻、対岸の砲兵部隊を爆撃。

*秋の某日:(1月27日以来)河南省桐柏の毛集街に大量の焼夷弾を投下して、50人以上が死亡、家屋はほぼ焼き尽くされて、一面の焦土となり、人々の財産は跡形もなくなった。

▽ 10月31日、中国機は河南省信陽北で日機1機を撃墜し、隊長の今井雄司らが射殺された。

△ 日本軍と傀儡軍は、熱河県の豊寧、漆平、寛城その他の場所で抗日運動を弾圧し、豊寧と漆平では1500人以上が逮捕され、200人以上が殺害され、1000人以上が処刑された。 日本軍は寛城の十数の村で300人以上を捕縛し、住民80人以上が殺害された。

11月

【学校を狙った爆撃】

*11月1日:河南省鄭州市鞏県の県城を数機が襲撃した。その中の一機は県都から2km離れた倉西学校の上空から爆弾を数発投下し、教室は全部爆破されて、瓦礫の中に沈み火の海になった。生徒は生き埋めとなり、日本機が去った後、人々は一斉に救助に向かい、瓦礫を掻き分け、木材をはがし、建物の下に埋まった生徒を探した。多くの生徒はすでに死んでいた。47人が死亡し、 生存者は重傷を負い、障害を負ったまま人生を送った者もいた。(『侵華日軍暴行総録』)

*11月1−2日:地上部隊に協力し、京漢線の要衝、河南省駐馬店市正陽県城を攻撃、呉砦、王庄、柳庄、毛集、柳店など、次に敗走兵を追って正陽西方の宋家店を爆撃。

*11月3日:河南省駐馬店市汝南県城を攻撃、その後地上部隊が侵攻。

*同日:午後1時頃、10機が湖南省益陽市街を旋回、市民が逃げているのを発見し、市街地の将軍廟、熊家平、木瓜園、郭城義山、白骨塔一帯を低空飛行しながら旋回し、直ちに低空飛行で乱爆し、また機銃掃射した。当時の統計によれば、発見された死体は1300体余りに達する。その後も人里離れた場所で、続々と遺骨が発見され、負傷者も死亡した。これは益陽が爆撃を受けた中で最も悲惨な事件である。これを「十一・三の惨事」という。

【細菌散布による被害の実態】

*11月4日:湖南省の常徳へペスト菌を空から散布した。早朝、一機の飛行機が霧の中を低空飛行し、三回旋回したのち常徳の法院街、関廟街、府坪街、東門などに栗や麦、綿などの穀物、またペスト菌をつけた布などをばらまいた。警察が落下物を集めて検査のために広徳病院に持ち込んだ。病院では遠心分離機と染色によってペスト菌と判断した。ペストはまず穀物を食べたネズミに感染し、そこから人間に移る。常徳市では直ちに落下物を住民に回収させ予防法を紹介、隔離病棟も設置したが、患者が広がるのは避けられなかった。ペスト菌の散布は731部隊と陸軍参謀が随行しながらおこなったが、731部隊にも航空班があり、この日はその一員が散布した(この一員は戦後、防衛大学校に勤務した)。ただしこの日は一つの容器(36kg)の箱が開かず洞庭湖上に落としてしまったという。

 最初の患者は11月12日、発病から36時間後に死亡、その後の三日で4名が死亡、いずれの遺体からもペスト菌が発見された。翌年半ばまでの死者のリストは42人であったが、これは隔離病院で死亡した数のみで、患者を出した家は当局によって焼却処分されるので遺族は密かに埋葬する場合が多く、また死者の出た家族は周囲の目を恐れて他所の地に逃げることもあって、二次、三次の感染を広範囲に引き起こした。近年の調査では犠牲者は全体で7千人を超えるとされるが、当時の731部隊の医師の追跡調査でも(必ず自分たちが事後にその効果の調査をするのが慣例であり)一次感染は310人、二次は2500人としている。

 二次感染とは、いったん患者の発生がやみ、終息を告げたかに見えたところ、ネズミ類の間でのペスト流行があり、42年3月、新たな流行が始まり、県城地区では同年3月から6月までに28名の犠牲者を出し、5月には隣県の桃源県に波及、常徳で感染した農民の家族を中心に17名が肺ペストで死亡した。さらに同年10月から11月にかけて43名が常徳県石公橋・鎮徳郷でペストに倒れた。なお、当時の防疫当局の報告書は、この2年間にわたった常徳ペストの流行の死者を約100名前後としているが、伝染病の猛威に恐れをなした人々は郊外へと難を逃れたうえ、患者に対し隔離・解剖・火葬などを強制する防疫関係者には、発病者の存在が隠され、公的記録にない犠牲者の数のほうが多い。実は二次感染の数は1996年から2002年にかけて、常徳市の「細菌戦被害調査委員会」が当時の流行状況を再調査したもので、その後の三次感染は1945年まで漢寿県、臨灃県、益陽県、津市、南県など常徳周囲の7県、486カ村に波及し、終息するまでに死者は7643人に及んだとされている。なお、1990年から翌年にかけて、湖南省と常徳市は衛生防疫要員を組織して湖南省ネズミを徹底的に調査し、現地のネズミからペストの「F1抗体」が発見された。これはすなわちネズミ間でペストが発生したことを意味するものであり、再発を防ぐためにその後10年以上にわたってネズミの駆除が行われ、同時に調査が行われた。

(「731部隊による細菌戦と戦時・戦後医学」三田学会雑誌 106巻1号:2013年、「細菌戦被害の戦後への波及−日本の侵略戦争と細菌作戦に起因する湖南省と浙江省のペスト被害」江田憲治ほかから混成)

△ 11月4日:陸軍は河南省駐馬店市街を占拠、翌日同市確山県を占拠

*11月6日:広東省韶関を爆撃。

*11月6−7日:駐馬店の竹溝、油房庄、毛集の陣地を爆撃。

*11月9日:湖南省長沙市瀏陽の鎮頭市を爆撃。

*11月12日:8機が福建省に襲来したが、2機が事故で墜落した。

*同日:地上部隊に呼応し湖北省宜昌東方の土門で中国部隊を低空爆撃。

*11月13日:40機が柳川、平楽、桂林及び湖南省苓陵に侵入し爆撃した。うち2機は帰路に墜落した。

*11月14日:89機が福建省各地を爆撃、南平市街にも投弾し、市民3人を爆殺、20人を負傷させた。

*同日:8機が浙江省金華を爆撃。

【三つの”品”の字に並んで】

*同日:午後3時ごろ、突然重爆撃9機が、三つの”品”の字に並んで、江西省撫州市南城に侵入、急降下し焼夷弾を大量に投下し、飛行場、県庁、糧米倉庫、学校等あちこちで火が出た。洪家巷、府前門口、醤巷、雍熙街、沿望亭、風書崗院はことごとく被弾し、城内は火の海となり、血と肉とが飛び、叫び声が天を震わせた。いくつかの防空壕が倒壊して、壕の中に逃げ込んだ人々はすべて圧死した。今回も数百人の死傷者が出た。(翌年6月11日、日本軍は南城に侵略し、駐留一ヶ月間に三百余人の殺人や強姦等の暴虐行為を行い、略奪は牛、羊、鶏、鴨など食べられるものはすべて食べ尽くし、一月後退却する時に街中を放火、そしておそらくペスト菌を撒き、2か月で千人以上が死んだ):(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*同日:18機が、三路縦隊に分かれて浙江省衢州西安門沿いの城から北門まで爆破、計30発余りの爆弾を投下し、5、6人が死亡、2人が負傷。

*11月15日:河南省鄭州の韓洞・胡洞に毒ガス・イペリットが雨下(散布)された。

*11月15−17日:湖南省長沙市瀏陽城を連続爆撃、70人余りの死傷者を出した。

*11月16日:広東省韶関と広西省桂林を爆撃。(この爆撃隊は、この後すぐにベトナムのサイゴンに向かったが、そのための陽動作戦であった)

*11月21日:午前10時、日本機はしばらく上空を旋回した後、安徽省宣城市郎渓県東夏を爆撃。午後2時、敵機は県城を爆撃し、機銃掃射を近隣の村に浴びせた。溧陽から出発した日本軍は北から定埠に侵入し、梅渚に迫った。西からの軍は22日午前8時、東夏県城に侵入した。もう一方の軍は21日午前10時、椏溪港を占領した後、梅渚、定埠へ進撃を続け、三路の日本軍合わせて4000人余りが県城に向って進撃した。

*11月23日:午後3時30分、1機が西から安徽省宣城市郎渓県城上空に飛来し爆撃、爆弾4発、また機銃掃射した。日本軍は西北二方面から県城を猛攻し、守備軍の大半が戦死、県城は陥落した。東西の通りが焼かれ一面が瓦礫になった。日本の爆撃機1機が守備部隊から被弾し、広徳県泉口付近まで飛んで墜落した。

*11月25日:湖南省長沙市瀏陽県城のバス停が爆破された。県城の北盛倉は12月に二度爆撃された。

【無人村になる】

*同日:海南省海口市瓊(けい)山の樹徳郷は抗日根拠地の後背地の一つで、文徳頭村は『抗日新聞』機関紙の所在地であった。この日、日本軍は占領する海口の飛行場から6機を出撃させ、この村の上空に飛来、交互に急降下して爆弾を投下、多くの家族が命を失った。翌日未明、日本軍300人余りが村を包囲し、捕らえた老若の女性を殺害し、爆破された城壁を倒し、ガソリンで稲ワラや使えるものをすべて燃やした。131人の村はその後、三年間無人村となった。

*11月26日:韶関市南雄城を爆撃し、爆死39人、負傷36人、民家26軒を破壊。

◎ 11月26日、米国のハル国務長官は、野村駐米日本大使に「覚書」を渡し、「中国とフランス領インドシナからの全面撤退、南京の臨時国民政府及び満州国を認めない、三国同盟」を撤廃する」などを示した。

*11月28日:南雄県城を爆撃、19発の爆弾を投下、39人が死亡、36人が負傷し民家26軒を破壊。

*11月29日正午過ぎ、軽爆撃機2機が韶関市翁源県のダムから南に戻って三華の東約10キロ地点などに6発を投下し、南竜駅付近に1発を投下、大きな被害なし。

11月31日:日本機は韶関市街及び汽車駅一帯を空襲し、30人余りを爆死させ、7人を負傷させ、70軒余りの家屋と1隻の船を焼却した。

*11月30日:日本機は雲南ビルマ道路を爆撃し、トラック50台余りを破壊した。

*同日:隴海線の要衝、河南省三門峡市霊宝、陝西省宝鶏、咸陽、武功、周至などの駅や軍事施設、倉庫などを爆撃。

*同日:8機が2回に分けて広西省防城港市防城の江平街を爆撃、百十数発を投下したが街中に落ちたのは20数発。民家35軒が破壊され、死傷者35人。

*同日:広東省韶関市街及び鉄道駅一帯を空襲、30人余りが爆死、7人が負傷、70軒余りの家屋と1隻の船が焼失した。

12月

▽ 1941年12月1日、中国軍は広東省恵陽で日機1機を撃墜した。

〇 12月1日、日本は御前会議において、対米英オランダとの開戦を決定、作戦開始日を12月8日とした。

*12月2日:河南省西安の大華紡績工場を3度目の爆撃、焼夷弾4個投下、綿倉庫に着弾し、綿1456包を焼却し、約100万元の損害を与えた。

*同日:午前8時50分、爆撃機二機が飛来して韶関市翁城を空襲、1機は翁城駅を爆撃、6発を投下して、旅館、茶楼を爆破して、住民2人を爆死させた。別の1機は劇場付近を空襲し、低空飛行で銃を200発余り乱射、兵士1人が死傷した。同日、翁源県龍仙鎮付近を空襲し、機銃掃射200余発、死傷者数は不明。

【略奪と家畜の屠殺と殺戮と強姦と放火】

 この後翁城は陥落し、日本軍は翁城に入ると、家々に侵入して箱をひっくり返して財物を略奪し、牛や豚を見れば殺して食料とし、食べ終わったらどこでも捨ててしまい、略奪後七日間はまだ生臭い臭いがした。日本軍鬼子は男を見ては捕えてすぐ殺し、殺されなくても荷かつぎに使われ、女は強姦して殺した。日本軍は退却の際あちこちに火を放ち、一晩で翁城の四方は火の海となり、煙幕は空を赤く染め、民家の六、七千間を焼き焦土となった。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*12月4日:午後2時、8機が陝西省南鄭県城を爆撃し、数十人が負傷。 

*12月5日:湖南省衡陽を襲撃し、陝西省西安、南鄭、湖北省鄖西と続けて爆撃。

〇 12月8日、重慶防空司令部は抗日戦争以来、日本軍機による重慶爆撃はすでに数百回に達し、計9218人の爆死者と1万3908人の負傷者を出し、全四川省の被爆死者数の41%と負傷者の53%を占めたと発表した。

【太平洋戦争突入】

◎ 12月8日:日本軍は米国の真珠湾への奇襲爆撃と英国領マレー半島に奇襲上陸、さらに米国領のフィリピンへの奇襲爆撃、そして英国領香港への奇襲攻撃により、米国と英国に宣戦布告し、太平洋戦争が始まる。これにより米英が日本に宣戦布告、オランダ、中国もそれに合わせて宣戦布告した。ソ連はドイツの侵攻で苦境にあり、対日宣戦布告する余裕はなかった。同日、日本軍はタイにも武力進駐した。中国は独、イタリアにも宣戦布告するが、これで米英を中軸とする連合国に対する日独伊の戦争という第二次世界大戦の構図ができた。実は日本は宣戦布告なしに1937年から日中戦争を支那事変と称して展開していた。ここまで中国内の陸軍地上部隊の一部、海軍の艦船と航空部隊は密かに12月8日の開戦に合わせて南方などへ転進を図っていた。

【英領香港を空爆】

*12月8日:イギリスが統治していた香港に対し、朝8時20分より日本の航空部隊の12機がで空爆を開始。これにより九龍の啓徳飛行場と地上の12機を炎上、英軍の軍事施設を破壊、市庁舎も爆撃し、市街地には煙が立ち上った。別途、港湾上の英国砲艦が撃沈された。午後にも出撃、高射砲による迎撃はあったが奇襲は一応成功した。

*同日:23機が陝西省の西安、眉県、合陽、朝邑を23機が爆撃し、西安の市街地に30発以上の爆弾を投下し、80数軒の家を破壊した。

*12月9日:香港に対して10時30分ごろから数隊に分かれて出撃、宣伝ビラの散布と艦艇攻撃を行い、一隻を航行不能にした。

*同日:21機が湖南省常徳・徳山などを爆撃。

【共通の敵、日本】

◎ 米国のルーズベルト大統領と英国のチャーチル首相はそれぞれ中国の蒋介石主席に電話し、その友好と共通の敵日本を一掃し勝利するまで戦うことを誓い合った。

*12月10日:引き続き香港の艦艇を攻撃、直撃弾もあったが被害不明。

△ 日本軍は米国領グアム島を陥落させた。

*12月11日:香港に対して三次の爆撃、一次は27機でストンカッター島の砲兵隊を攻撃、兵舎や兵器庫などに爆弾の雨を降らせ、火災を生じさせ、第二次でもさらに砲兵に打撃を与えた。第三次では香港島における重要砲台を爆撃、住民にも脅威を与えたが、報道班員を乗せた一機が高射砲射撃によって撃墜され未帰還となった。

*同日:6機が四川省重慶梁山県(現・梁平区)を爆撃、爆弾20余発を投下、19人死亡、9人負傷、家屋8棟38軒を破壊。

*12月12日:地上部隊の重砲隊が香港ストーンカッターズ島の砲台及び施設を大破させ九龍半島の防御線を突破、飛行部隊も早朝からこの攻撃を3回にわたって援護し、九龍半島を占領した。

*同日:桂林飛行場を爆撃。

*同日:中国への物資輸送を断つため、ビルマ(ミャンマー)を初攻撃。

*12月13日:陸軍攻撃部隊は香港島に投降勧告をし、悪天候もあって飛行隊は攻撃を中止。

*12月14日:午後に天候が回復し、香港のビクトリア要塞(砲台)を爆撃

*12月15日:連続で香港のビクトリア要塞を反復爆撃、さらに港湾上の艦艇を爆撃するが、英軍側の高射砲弾が猛烈で、互いに命中弾なく終わった。出動回数6回。延べ80機であった。

*同日:香港の九龍を爆撃し、九龍空港に駐機している中国航空とユーラシア航空の大型航空機を破壊。

*同日:10機が広西省の桂林・柳州・南寧を爆撃し、そのうち南寧は30人以上が死傷し、家屋10戸以上が破壊された。

*12月16日:香港の水牛角南縁の砲兵陣地、艦艇を攻撃、市街地に火災を生じさせた。この日は海軍航空隊も台湾から加わり、艦船や砲台を爆撃した。また制圧した香港の東部要塞から址旗山要塞を連続して爆撃。

【米英蘭豪中の五カ国軍事協定】

〇 12月16日:中国の首都重慶において、米英蘭豪と中国の五カ国軍事協定の成立を期して祝賀会が行われた。

*12月17日:28機が250kg爆弾二発ずつ積み込み、軍事施設のほか香港市街地を爆撃、全体が火炎と煙に包まれた。また砲艦一隻、魚雷艇6隻を撃沈、その他数隻を大破させた。この日三度目の降伏勧告をなしたがイギリス軍総督は拒否した。

*同日:湖南省岳陽市湘陰県を爆撃。

*12月18日:香港に対し陸軍部隊が夜に海側からの上陸を予定する日であり、それを援護するために北から侵攻してきた陸軍砲兵隊は朝から砲撃を続け、航空隊も支援、夜に上陸が敢行された。

*同日:10機が雲南省昆明の東郊を爆撃、死者147人、重軽傷218人、家屋の全半壊約50棟。

▽ 中国軍は福州で日本機を5機撃墜した。

*12月19日:上陸部隊が香港市街地まで侵攻、午後にはほぼ香港島を占領する形になった。航空隊は英国艦艇3隻が上陸部隊の進撃を妨害するところを急降下爆撃し、阻止することができた。

▽ 12月20日:中国空軍とアメリカ義勇航空団(略称AVG)が連合して昆明上空で空中戦を行い、日本機4機が撃墜された。同時にAVGはイギリス軍と協力し、ビルマのラングーン上空で、日本機21機を撃墜させた。

〇 在中国の反ファシズム日本代表の青山和夫、緑川英子、池田幸子、鹿地亘らは日本人民は中ソ米英諸国の政府と人民と共に奮闘し、共通の敵である日本軍閥を消滅させたいと表明した。

◎ 20日、米軍はマッカーサーを極東連合軍総司令官に任命した。

*12月21日:長沙、桂林を爆撃し、中国空軍に1機撃墜された。

*12月22日:4機が安徽省宣城市広徳の県城を爆撃、20発以上の爆弾を投下し、10人以上が死傷、25室が破壊された。

*12月23日:午後、1機が広徳の県城に爆弾3発投下、その後西郊七里岡を飛んで中国軍のラバ馬隊を掃射した際、不注意で地面に触れて破壊、日本兵は死亡した。

◎ 23日、中、英、米合同軍事会議が重慶で開催された。

【第二次長沙作戦】

△ 12月24日、河南省において第二次長沙作戦開始(中国側呼称は第三次長沙会戦)。

*12月24日:湖南省岳陽市湘陰県を爆撃。

*12月25日:中国への物資搬入を妨害するため、連日ビルマのヤンゴンを爆撃し、中国はカルカッタへの輸送を開始した。

【香港への出動機数は980機】

△ 香港の攻防戦は20日に大勢は決していたが、しばらく持久戦となり、日本軍が九龍上部の貯水池からの給水を遮断したことなどもあって、25日、香港は降伏した。この間、飛行隊の延べ出動数は980機であった。

▽ 米空軍志願隊(AVG)はヤンゴンで日本軍と空戦し、12機を撃墜した

*12月29−30日、長沙作戦に伴い、この日朝から地上軍の支援に活動、偵察爆撃など行った。

【毒ガス散布】

*12月31日:河南省鄭州市中牟の中国軍守備陣地に毒ガス・イペリットが雨下(散布)され、70人余りが被毒した。

*この年、4回にわたって広東省韶関市新豊を空襲し、7機が出動し、10発の爆弾が投下、5人が死亡、6人が負傷し、6軒の家屋が爆破された。

*12月31日−1月2日:海軍航空隊は陸軍の第二次長沙作戦に協力し、広東省韶関駅、楽昌、湖南省郴県を爆撃。

【広東省の多大な空爆被害】

〇 12月末、広東省の統計では、1938年8月31日から1941年末まで、日本機の広東への総出撃数は1万9281回、投弾3万3857発、総爆死7153人、重軽傷1万1838人、家屋1万8021戸が破壊されたとあり、当然この後もまだ続いた。

【日本軍発表の戦果】

〇 英領香港における12月31日までの「戦果」は、遺棄死体1555、捕虜1万1241、自軍の戦死675、戦傷1044、そのほか飛行機撃墜14機、艦船・砲艦撃沈4隻、船舶13隻としている(各種武器などの戦利品は多数)。

〇 中国以外の12月8日からの太平洋・東南アジア戦線における陸軍の戦果として、遺棄死体2105、捕虜1万3865、飛行機撃墜559機、艦船・砲艦・魚雷艇等撃沈16隻、輸送船38隻、自軍の戦死752、戦傷1835、飛行機81機、船舶沈没5隻としている。初戦はある意味大勝利と言えるが、それも翌年までであり、その後は苦戦が続く。

〇 翌年3月に発表された1941年一年間の日本軍の「戦果」(カッコ内は前年)は、遺棄死体34万7671(42万6772)、捕虜10万4682(5万149)であった。

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