昭和17−20年(1942−45年)

(日中戦争突入から8年間展開された想像を絶する空爆)

書き方と使用する記号について

 この爆撃記録は、主語に当たる「日本軍の飛行機(日本機)」をほぼ省略しているので、内容により判断していただきたい。

 *は日本軍が行なった爆撃、△は日本軍の爆撃以外の動きその他、〇は政治的動きその他、◎は国際関係、▽は中国側(米軍機を含む)の日本軍への攻撃などの場合である。

日中戦争突入から8年間展開された想像を絶する空爆(続き)

昭和17年(1942年)

 前年末の太平洋戦争(大東亞戦争)突入により、海軍の航空部隊は太平洋海戦や南方戦線に向かう。中国内は満州の関東軍を含めた陸軍の航空部隊が空爆を担当することになる。また中国南部は、ベトナムなどに移駐した飛行隊が加勢して爆撃、その逆もあった。ただ海軍に続いてすでにこの時期「少年飛行兵」の学校制度に応募が殺到、操縦士はいくらでも増員が可能で、その卒業生が続々と輩出し、飛行機も増産を続けていた。

 ちなみに『支那事変画報』(毎日新聞社)を『大東亞戦争画報』と変えたグラフ誌も各地の戦果を報告しながら興奮して記事を書いている。(第3号)

 —— 世界戦史にまさに「驚異」の二字を刻む雄大な規模を持って展開された大東亞戦争は、新春に入るとともに戦況はさらに急進展を示し赫々たる戦果相次ぎ、英・米・蘭印・重慶の共同戦線は完膚なきまでに破砕され、無敵日本の凱歌は黒潮踊る太平洋を圧して、全世界に輝き渡っている。中でも香港を屠り、マニラを手中に収めた陸軍部隊の各戦線における活躍は目覚ましく、稀有の戦果を収めつつある。……

1月

【爆死した母の乳を求める子】

*1月1日: 28機が江西省贛州市に侵入、市街地の上空を旋回し三度にわたって爆弾を投下、各地に大火を引き起こし贛州城は一面の火の海となった。中山路、文清路と公園附近に隣接する繁華街の商店、銀行、機関、学校及び住民住宅は、すべて灰燼に帰し、廃墟の上には血まみれの死体が転がっていた。ある母親は爆死したが赤ん坊はまだ生きており、子は母親の体に腹ばいになり乳を求めていた。この爆撃で200人以上が爆死し、300人以上が負傷、大きな防空壕が崩壊し60人ほどの人が掘り出されたが生き残ったのは10人にも満たなかった。家屋1000以上が破壊され焼失した。(『侵華日軍暴行総録』)

【二十六カ国条約:連合国共同宣言】

◎ 1日、中、米、英、ソ、蘭など26カ国がワシントンで共同宣言「二十六カ国条約」(連合国宣言)を締結した。宣言の主な内容:(一)すべての軍事と経済資源を使用し、ドイツ、イタリア、日本のファシズムの侵略に共同で対抗することを確約する(二)各国は敵国が単独で停戦協定または講和条約を締結することを保証する。

▽ 中国空軍は粤漢線湖南境内の三門駅で日本重爆撃機1機を撃墜し、飛行員2名が死亡、他2名が捕虜となった。

△ 1月2日、日本軍はフィリピンの首都マニラを占領。

◎ 1月3日、米、英、蘭、豪の4カ国は南西太平洋連合軍司令部を構成することを決定。

*1月2−4日:安徽省六安市金寨県を連日で爆撃、家屋の二万余室を焼き、住民百余人が殺傷された。

*1月4日:上記地区の偵察爆撃など行った。

【日本軍のビルマ侵攻】

△ 日本軍10万人がタイ・ビルマ(ミャンマー)国境を突破、ビルマに侵攻した。

〇 1月6日、米英との開戦1ヶ月後、陸海軍機、合わせて1000機が集まって東京上空でデモンストレーションを行なった。戦意高揚のための景気付けである。

*1月7日:今回の長沙作戦における日本軍は苦境にあり、この日の陸軍飛行隊は中国軍包囲網脱出に向けて中国軍を攻撃、支援した。

▽ 同日、米軍機がタイの首都バンコクを爆撃した。

*1月8日:長沙上空で中国空軍機と空中戦になり、4機を撃墜。

▽ これに対する中国側の記述は、「第2大隊長の金雯が9機の飛行機を率いて、湘北長楽街、新市、語市口一帯を爆撃し敵を退却させた。わが機は8機の日本機と遭遇し、1機撃墜し、2機負傷し、わが機は2機損失し、飛行士3人が犠牲になった」としている。

△ 同日、飛行部隊の前進基地湖北省白螺磯(はくらき)飛行場に燃料輸送船が故障で届かず、漢口から空輸したがそれでも不足した。

*同日:広東省肇慶の拠点、及び四江支流の貨物線、ジャンク船群を爆撃。

*1月9−11日:長沙における日本軍の反転作戦は行き詰まり、飛行隊は連日打開すべく協力するも一つの大隊が玉砕、師団一つが包囲されたが、飛行隊と他の部隊の協力でなんとか危地を脱した。しかし白螺磯飛行場は中国軍部隊の砲撃を受け、破壊された。

▽ 日本軍は長沙作戦に苦戦し、10日、湘北の日本軍は国民党軍に福臨舗一帯を包囲され、11日には日本軍8000人が殲滅され、約1000人が捕虜となった。(中国側の記録であるが、この主な戦闘以外に、日々各地で戦闘が起こり、双方で数百人単位が戦死している)

▽ 1月14日、国民政府はビルマに遠征軍を派遣し、イギリス・ビルマ軍の作戦を支援するよう決定した。

*1月15日:江西省贛州市に28機が来襲、上空を旋回しながら3度にわたり爆弾投下、贛州城内が火の海となり、商店、銀行、学校、公共機関が灰燼となり、死者200人、重軽傷者300人。

*同日:9機が福建省竜岩市長汀県城を爆撃、爆弾43発と焼夷弾2発で大火を引き起こし、水東街、司前街、司背街、半片街一帯は火の海となり民家と商店600余間が被害、汀江中の民間船9隻を撃沈させ、5隻を破壊、死者95人、重傷27人、軽傷44人。これに続き正午、おそらく同じ9機が竜岩市 漳平県永福鎮上空に侵入、20発以上の爆弾を投下、菁城小学校、居仁小学校などに着弾し、多くの民家が破壊された。小学生を含む2人が爆死した。

△ 1月16日、第二次長沙会戦は日本軍の敗退に終わった。日本側の記録によると、日本軍の死傷者は6060人余りで、中国側の戦報によると、日本軍の死体は6千9百余体あり、その中で中国軍は大隊長、団長以上の将校10人、139人を捕虜にした。また日本側は中国軍の遺棄死体2万8612 人、捕虜1065人としている。

*1月17日:雲南省紅河の蒙自を、占領したベトナムのハノイから爆撃。

*1月18日:同様にハノイから広西省南寧市の近郊軍施設を爆撃。

*同日:30機が広西省の桂林を3回に分け爆撃。

*同日:雲南省蒙自付近上空でアメリカ義勇航空団AVG(飛虎=フライング・タイガー)10数機と交戦、3機を撃墜したが、2機が撃墜された。

【中国軍のビルマ遠征】

▽ 1月19日、中国遠征軍が雲南省からビルマ(ミャンマー)入り、南進した。同時に日本軍はタイからビルマ国境を突破し、一部を占領した。

▽ 1月20日、八路軍本部は、戦争に反対して中国側に逃れてきた日本の将兵、家族及び日本の居留民に対して、国際的な友人として取り扱うよう命じた。

▽ 1月21−22日、中国空軍がベトナムの日本軍基地を空襲し、日軍輸送機2機を破壊した。翌日、中国機43機と米志願隊15機がベトナム・ハノイに飛んで日本軍の飛行場を爆撃した。

*1月某日:安徽省合肥市胡家店、関山河、裂石店、楊家灘などの一帯に爆弾を投下し、次に低空で機銃掃射、逃げ惑う600余人を殺傷した。

*1月某日:浙江省衢州の鉄道駅に30発の爆弾を投下し、死傷者不明。

▽ 1月25日、中国空軍の米志願隊は太平洋戦争が勃発してからこの日まで、ビルマや昆明などで計190機を撃墜し、志願隊機は5機を失った。

*1月下旬:日本軍の傀儡政権のある河北省東部における共産党ゲリラ隊に対する陸軍の掃討作戦に協力爆撃。

【アメリカ義勇航空団AVGの中国軍協力と戦果】

▽ 1月25日:中国空軍に協力する米義勇航空隊AVGは太平洋戦争勃発からこの日まで、ビルマ(ミャンマー)や昆明などで日本機190機を撃墜し、AVG機は5機を失ったとあり、日本側の記録ではこの地区の冬場は霧が深くほとんど晴天がなく、攻撃できなかったともある。

▽ 1月27日:中国空軍に協力するAVGはヤンゴンで日本軍と空中戦を行い、日本機12機を撃墜した。

△ 1月31日、日本軍はマレー半島を陥落させ、英軍はシンガポールに後退した。〇 1月前半はほぼ中国内への空爆記録は見当たらないが(記事が太平洋戦線に偏っていく影響もある)、陸軍の発表では、先月から1月12日までの戦闘による「戦果」として、中国軍の遺棄死体1万449、捕虜1788、自軍の戦死181、戦傷580人としている。

〇 陸軍の発表では、先月から1月中旬までの「戦果」として、中国軍の遺棄死体3万5928、捕虜3810としている。上記の1月12日までの戦果に比べると大幅に増えているが、後から追加情報があったためであろう。

2月

*1942年2月3日:山西省沁源県の唐城、郭道地区を急襲爆撃。

◎ 2月3日、連合同盟国はベトナム・ビルマを含む中国戦区連合軍の最高統帥権者として蒋介石が就任すると発表した。

▽ 2月6日:米軍義勇航空隊AVGはビルマのヤンゴン上空で日本機20機を撃墜。

【シンガポール占領】

△ 同日:日本軍はシンガポールを占領。

*2月7日: 日本軍は安徽省蒙城に進攻、中国軍との攻防戦の中、日本機3機が爆撃、民家30数軒が爆破され、楽育小学校の教師など数人が爆死。

*2月16日:福建省漳州の市街地を爆撃。ちょうど春節で人々が街に集まっている時、日本機は急降下爆撃を行い、まず旧橋のたもとの酒店で一弾を落して、左右の4軒が倒れて、爆死10人、負傷7人。また陳公巷栄美布店で一弾を落し、倒壊3軒、爆死5人、負傷数人。更に竜眼営益美燭店にて一弾落し、倒壊3軒、死者4名、負傷数名。もう一回数機が八卦楼一帯の霞薫里及び下沙礼拝堂付近を爆撃し、民家百数十軒を爆破し、おびただしい死傷者を出した。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

◎ 2月17日、蒋介石はインドを訪問し、18日に中印協定を締結し日本軍に対抗した。

【オーストラリアへの爆撃】

△ 2月19日、前年に真珠湾攻撃を仕掛けた日本軍空母4隻が、米軍や豪州軍が補給基地としているオーストラリアのダーウィンを目指し、その零戦も含む艦載機188機が港湾の軍艦や貨物船、施設や飛行場、官庁街などを第二波にわたって空爆、軍人や一般市民252人が死亡した。これはオーストラリアが受けた史上最大の空爆である。この後、日本軍のダーウィンへの空襲は1943年11月まで64回に及んだ。

*2月某日:山東省南部と山西省における陸軍の作戦に呼応し、何度か爆撃。

【赫々たる戦果という楽観論】

〇 『大東亞戦争画報』第4号によると、1月中旬から2月初旬までの動静として「英米の敵勢力を駆逐して大東亜共栄圏建設の聖戦を展開中のわが陸軍はマレーを席巻、フィリピンを制圧してビルマに進撃を開始し、また「大東亜海」において蘭(オランダ)・英領のボルネオ、ビスマルク群島を鉄蹄下に蹂躙し、支那方面では重慶軍に不断の膺懲(懲らしめ)戦を展開、赫々たる戦果をあげつつある」としている。

〇 日本軍は2月初旬にビルマ(ミャンマー)を制圧したことにより、米英軍から中国重慶への最後の補給路を絶ったとした(実際には5月末)。これで重慶政府は孤立化し、あとは日本軍の大きな鉄槌が加われば重慶は崩壊するであろうと日本側は観測している。「かかることは支那事変は大東亜戦争に発展したが、大東亜戦争はやがて再び支那事変の解決に帰ってくるという観測は必ずしも否定できない」としている(『大東亞戦争画報』第5号)。しかし大きな楽観論であった。

3月

*1942年3月初頭、湖北省白螺磯周辺の掃討戦に支援爆撃。同様に、安徽省宣城市広徳及び寧国付近も爆撃。

*3月2日:3機が安徽省宣城市の広徳に12発の爆弾を投下し、東門で2人が死亡し、1人が負傷、草屋3間を爆破。

▽ 東京都に属する太平洋上の南鳥島へ米海軍艦載機が爆撃、これは台湾など植民地を除く日本の領地への初爆撃と思われる。

*3月5日:正午、3機3編隊の9機が 広西省欽州市街区域の魚察西街を爆撃、40人以上が死亡、30人以上が負傷した。

▽ 3月6日、重慶に駐留していた米国の砲艦ツツイラ号(Tutuila:前年、日本軍が爆撃し損傷していた)が中国に寄贈された。

【強制連行と虐殺】

△ 6日、日本軍は河北省豊潤県楊家屯など15の村を「掃討」し、村民5000人余りを捕縛し、その中の1500の青壮年を東北(満州地区)に押し込んで労働者として使役した。

〇 3月9日、日本軍はフィリピン、マレー半島、シンガポールを次々と占領し、1月にオランダ領インドネシア侵攻を開始、2月にはスマトラを占領、3月にジャワ島に上陸して5日に首都バタヴィア(現ジャカルタ)を占領、9日にオランダ東インド軍は降伏した。

△ 日本軍5000人余りが抗日軍の根拠地冀魯豫区の濮陽、内黄地区を襲撃し、ペスト細菌を散布した。

△ 3月11日、山西省霊寿城南村で日本軍は村全体の老若男女800人余りを溝里で封鎖し虐殺するという惨事を起こした。

*3月18日:8機が湖南省零陵に侵入して爆撃。

*同日:日本機40余機が(英米中軍と攻防中の)ビルマのトングー(ヤンゴン北方260km)を爆撃、終日大火になり、街は瓦礫の山と化した。なお前年12月中旬に首都のラングーンへの攻撃から始まった陸軍飛行隊のビルマへの爆撃回数は66回、撃墜・撃破した飛行機は369機である。

*3月中旬:広東省珠江下流のデルタ地区「密輸匪賊」掃討作戦に協力爆撃。

*3月20日:浙江省麗水を爆撃、白塔頭の呉政偉家三代の11人が爆死。

△ 同日、山東省威海市劉公島に駐留する日本海軍陸戦隊は、銃を紛失したことを口実に、文登県営南陳家村を包囲し、翌日までに村民230人余りを惨殺し、放火して1015軒を延焼させた。(営南陳家村惨事)

*3月21日:この日から翌日にかけて、日本軍は350回もの飛行機を出動させ、イギリス軍のビルマ空軍基地を襲撃、イギリス機28機を損傷し、29機を破壊した。

*3月24日:11機が陝西省を襲い、西安近郊を爆撃した。

*3月下旬:山東省東部における掃討作戦に協力して数度爆撃。

△ 3月26日、ビルマにおいて日本軍と中国遠征軍は激しい市街戦を行い、守備軍としての遠征軍の死傷者は甚大だった。

*3月28日:海南省琼中県岭門墟は海口に続く商業貿易の中心地で350軒の商店があった。この日はちょうど市場の立つ日で、そこに日本機が来襲し爆撃、20人余りが死亡、50人余りが負傷し、町は一面の瓦礫になった。午後、駐南坤を拠点とする日本軍は、三路から嶺門地区に侵入し、その沿道で村民を焼き討ちにした。嶺門地区で300人余りの村民を殺害、山黎村で20人余りを捕らえて殺害し、家屋18軒を焼き、耕牛38頭を奪った。

▽ 米国は租借法に基づいて中国に航空機を提供、この月から年末までに爆撃、戦闘機179機を提供した。それ以来、中国空軍の戦闘力は大幅に増加した。

▽ 米軍は日本軍のビルマ侵攻への対処にも手を取られていたが、中国側の航空戦力の増強を図り、米軍中将を蒋介石の参謀長にした。

〇 12月8日から3月末までの日本の支那方面軍陸軍の「戦果」として、中国軍の遺棄死体5万8000余、自軍の戦死2536とした。

〇 日本の防衛総司令部参謀長は、米軍の中国からの爆撃の可能性を訴え、国民に注意を呼びかけた。この時の可能性は浙江省あたりからが想定され、その範囲は大阪までとされた。(この時期、浙江省麗水・衢(く)県(州)及び江西省玉山、福建省建甌などが米空軍の前進基地として拡張整備されているとされ、それらの飛行場に対して杭州の日本軍基地から空爆を始めた)

4月

【連合国の太平洋作戦会議】

◎ 1942年4月1日、米、英、中、豪、新、加、蘭の7カ国の代表が米ホワイトハウスで第1回太平洋作戦会議を行った。

*4月1日:浙江省衢州、麗水を、49機が四回に分かれて爆撃、「多大な戦果を報じた」。

*4月2日:江西省上饒市玉山県を、38機が二回に分かれて爆撃し、数十発の爆弾を投下し、多くの民家を破壊。

〇 4月2日、中国と英国は『中印航空協定』に調印した。

*4月3日:麗水の飛行場設備、市街地南側甌江の軍需品倉庫集積所、また衢州飛行場の格納庫や燃料庫、衢州駅、さらに江西省玉山飛行場を爆撃。

*4月4日:悪天候であったが浙江省衢州、麗水飛行場に第三次爆撃、残存施設や集積軍需物資を爆砕。

*4月8日:日本軍は浙江省紹興市上虞県陶朱郷の東渓村に侵入し、略奪した後、飛行機から焼夷弾を投下、村全体で240軒近くの家屋が全焼し、10人以上の死傷者を出した。

*4月10日:20余機が連日雲南を襲撃したが、アメリカの義勇航空隊(AVG)に7機が撃墜され、4機が損傷した。

【世界から中国への支援金】

◎ 4月10日から19日まで、全米で「中国ウィーク」が開催され、700万ドルを募金して中国難民を救済することになった。

*4月15日:9機が浙江省 衢州江山県に向かい、中山路や孝子街などを順番に爆撃し、民間人50人余りを爆死させ、民家52軒を爆破。

*4月15日:午前8時半ごろ、日本機は再び福建省南平市崇安県(現・武夷山)城を襲撃、9機が3機一編隊となり、横城街一帯に爆弾と焼夷弾を投下、さらに半時間にわたって機銃を乱射、赤石鎮まで爆撃を行った。県城では百戸以上の住民が焼け出され、10人以上が死亡、赤石鎮では、一番の繁華な下町が焼け野原になっていた。事後の集計によると、日本機は計70発以上の爆弾を投下し、30棟以上の民家と9棟の店舗を爆破、44人が死亡、48人が負傷した。(『侵華日軍暴行総録』)

*4月17日:12機が陝西省漢中市南鄭県南関を爆撃。

*4月某日:漢中市南鄭県城北の学校を爆撃、学校では教職員大会が開かれていたが、すぐに避難し無事だった。

*4月18日:雲南省建水県城を爆撃、18人が死亡、60人が負傷。

【米軍機の日本本土への初爆撃】

◎ 4月18日:太平洋上のアメリカの航空母艦から16機のB25大型爆撃機(B25は欧州戦線に投入していた当時の最大の爆撃機)が発進し、東京や名古屋、神戸などを初爆撃した。この爆撃機の多くが中国各地に不時着等したが、一部が中国の浙江省以南の国民革命軍の飛行場に着陸、しかし日本軍の占領する飛行場にも二機が不時着し、パイロット8名が捕虜となった。現地の日本軍は彼らのうち3名を「無差別爆撃」をしたとして死刑にした(自分たちが散々中国内で無差別爆撃をしていて、まるで自覚がない)。なお大本営は「敵機9機を撃墜」と発表したが、実は不意を突かれて出撃が遅れ、実際には一機も撃墜できなかった。また米軍パイロット80人のうち64人が中国に着陸し、他の5人がソ連で拘束されたと発表した。

 これに驚いた日本軍は、B25が戻った中国の飛行場(浙江省と江西省にまたがる地域)を破壊する計画を立てた。これを浙贛(せきかん)作戦として、陸軍地上軍に先行して、近辺の飛行場基地を破壊すべく爆撃を開始した。陸軍は約12−18万の兵力を用い、飛行場破壊にともなって「飛行場を中心とする半径1.5km周辺地域の施設、利敵民家、樹木、橋梁はほとんど破壊」するとし、浙江省内の主要鉄道も破壊した。また沿線の民船約800隻を押収し、水陸輸送能力を撃滅するというような破壊方法だった。日本軍はこの戦役で約1万7千人の戦死傷者を出した。

*4月19日:前日の日本空襲に反撃すべく、浙江省衢州、麗水、江西省玉山、吉安の各飛行場を連続爆撃、「米国の対日空襲基地再建の企図を挫折せしめた」とあるが、実際には天候不順で十分な爆撃はできなかった。

*4月20日:浙江省衢州蓮花巷を爆撃し、3人を、翌日には8人を爆死させた。

*4月21日:衢州を36機が5回爆撃し、爆弾53発を投下した。

*4月21−23日:衢州を含め、麗水、玉山の飛行場を陸海飛行隊で連日爆撃。23日は吉安も爆撃。

*4月22日:日本軍機12機が突然、広西省広西省欽州欽県内に侵入、防空警報が解除されたばかりで二馬路の大通りや江浜、沙灘などでは死体が散乱した。欽県では11回の爆撃で675人の死傷者が出た。

*4月26日:雲南の空軍基地を爆撃したが、米航空隊に11機撃墜された。

△ 4月27日、18日の米軍の日本への空爆に対応するためにフィリピン戦線から一重爆戦隊が南京に戻された。

*4月28日:7機が陝西省西安の臨潼を夜間爆撃、格納庫等軍事施設を爆破。(西安は重慶空軍の西北基地としてあった)

〇 この日、中米間で無線写真電送が開通した。

*4月29日:陸軍の作戦に協力して山東省武城県を爆撃。

*同日:西安を連続爆撃。

*4月29日:浙江省衢州江山県の中心街を爆撃し、民家10軒を爆破。

*4月29−30日:陸海軍が協力して衢州、麗水、玉山、吉安、遼寧省建昌の飛行場を連日爆撃。

▽ 4月下旬:中国空軍は陝西省南鄭飛行場に進駐し、日本軍機を何度も迎撃した。

*4月30日:午後、陝西省南鄭県城を爆撃、駐屯する中国空軍はこれを迎撃、漢江上空で空中戦を行い、日本の零式爆撃機1機を撃墜、搭乗員4人が焼死、1人が落下傘で脱出し捕虜となった。

△ 日本軍は熱河(河北省)青龍(現・赤城県境)で大検挙を行い、村民422人を捕縛し、そのうち342人が惨殺された。

*4月末日:桂林を爆撃。

5月

【浙贛作戦】

△ 1942年5月、日本軍は中国軍と米国空軍の動きを警戒し、浙贛作戦として浙江省への陸軍部隊の侵攻と爆撃を繰り返した。そのため満州からも飛行隊が南京などに展開、支援した。

*1942年5月1日:同様に上記各飛行場と市街地を加えて爆撃。

【ビルマからの雲南省爆撃】

*同日:日本軍の爆撃機は占領したビルマから雲南省拉孟に進撃し、恵通橋周辺を爆撃、陸軍の侵攻を支援した。

*5月2日:湖北省宜昌市へ300kgの毒ガス・イペリットが雨下(散布)された。

*同日:9機が浙江省衢州の鉄道駅を爆撃、多くの壮丁が爆死した。

*5月3日:浙江省衢州の荷花巷を爆破、6、7人が死亡。衢州飛行場に対する日本の爆撃回数は59回で最も多く、合計1341発が投下された。

*同日:浙江省麗水、江西省玉山を爆撃。

【保山大爆撃:死者3828人】

*5月4日:拉孟に続いて雲南省保山を同じくビルマからの27機が「狂ったように」爆撃した。その後も続いた爆撃で二千人もの死傷者を出し、数千軒の家屋が破壊された。

当日の被害状況 —— 日本軍第56師団と第18師団は、ビルマから雲南省西部の国境地帯に侵攻した。日本軍は中国西南地域への輸送路を遮断すべく、多くの航空機を出撃させ、滇(雲南省)緬(ビルマ)公路沿線の重要な町、橋、要害の地に無差別爆撃を行った。保山は滇緬公路の重要な区域に位置している。市内にある功果橋、恵通橋はいずれも物資輸送の要害で、保山は日本軍機爆撃の重要な目標となった。当時保山市内には日本軍による占領から逃れて中国各地やビルマから逃れてきた難民も含め、たくさんの人々が入り混じっていた。この日は 定期市が立ち、市場に人びとが集まり、また保山城内の3つの中学校が合同で運動会を開催していた。そこに正午、日本軍機27機があらわれ、はじめに城南地域を爆撃し、つぎに城北地域を爆撃した。雲南省立保山中学の校舎は破壊され、校長の段宝光をはじめ生徒30人ほどが死亡した。保山県立中学も爆撃され、男子中学生34人が死亡した。馬里街にあった女子部の校舎には焼夷弾が投下され、すべてが焼失した。その際、女子第五班の生徒30人余は焼夷弾の直撃を受け全員が焼け死んだ。学校前の広場では50人ほどが爆死した。華僑中学も爆撃され、多くの教師・学生が死傷した。運動会会場の公園も爆撃され、生徒100人余、観衆300人余が死傷した。一方で上巷街の孔憲章の一家は焼夷弾により12人中10人が死亡、鉄楼街の李尚武の一家は14人中13人が死亡した。旧県街の店で子どもに乳を飲ませていた女性は顔を吹き飛ばされ、座ったまま鮮血を流していた。ビルマから逃れてきていた華僑三家のの父母6人が手や頭を吹き飛ばされて死亡し、花摘みに行っていて難を免れた子どもたちは血と肉にまみれた父母を見て泣き叫んだ。その後、5月5日、13日、23日、24日に再び保山を爆撃し、5月に入ってからの爆撃による保山市民の死亡者は3828人、重軽傷者は418人、破壊家屋は1967軒という。(なお、負傷者よりも死者の方が圧倒的に多いというのは異例で、焼夷弾による火災が多々あったと思われ、1945年3月11日の東京大空襲も同様であった)(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:衢州・麗水を9機が爆撃し、また6機が玉山を爆撃。別途、湖南省衡陽飛行場を爆撃。

*5月5日:雲南省の国境に118機が(ビルマの地区から)侵入し、そのうち28機が前日に続いて保山の市街地に多数の爆弾を投下した。ただ中国空軍の米義勇隊(AVG)によって8機撃墜された。

*同日:麗水及び玉山飛行場を爆撃。この日は日本軍の威力を示すため、250kgと500kg爆弾を主に使用した。

*5月6日:湖南省懐化市の芷(し)江の飛行場を爆撃。

*同日:福建省建甌、遼寧省建昌の飛行場を爆撃。

*5月7日:湖南全域を12機が4回に分けて爆撃し、そのうち9機が衡陽を爆撃した。

*同日:雲南省建水県城を爆撃、4人が死亡、8人が負傷。

*同日:江西省の贛州を20機が2回に分けて爆撃した。

*同日:2機及び9機で玉山飛行場及び付近の軍事施設を爆撃。

*5月8日:湖南省衡陽、広西省桂林を爆撃。

*5月9日:江西省贛州を16機が7回に分けて攻撃し、玉山飛行場にも爆弾を投下。

*5月10日:午前10時頃、江西省上饒市鄱陽県石門街鎮に3機が南西から飛来、一機ずつが急降下し、爆弾22発を連投し、大型の建物と小店舗、民家40棟余りを爆破、その場で15人が死亡。

*5月13日:5日に続いて雲南省保山を爆撃。

*同日:3機が浙江省金華市永興の古山鎮を爆撃、民家5カ所を爆破して、12人を爆死させた。

△ 5月15日、日本軍は浙贛作戦を開始。4月に米軍より受けた日本本土への空襲の爆撃機の着陸地が中国大陸であったことから、中国に設置された米軍飛行場などを殲滅する目的で浙江省から江西省(浙贛線にある)を攻撃の対象とした。

【浙江省金華への爆撃と占領後の厄災】

*5月15日:(この日に開始された浙贛作戦として)19機が午前9時から浙江省金華を3回に分けて爆撃し、100発以上の爆弾を投下し、100人以上を死傷させ、70戸以上の家を破壊した。5月の金華地区爆撃は航空機450機余り、爆弾、焼夷弾1056個を、家屋の10800間を爆破して、軍民の1308人を爆殺。さらに28日に占領された後に民間人1万7204人が虐殺され、負傷者3万6569人であった。(『侵華日軍暴行総録』浙江省編)

△ 5月15日、地上部隊は雲南省のビルマ公路の要衝で保山に迫る騰越を占領。

*5月18日:雲南省保山飛行場を爆撃、中国軍機4機を撃破、貨車60輌を大破。

*同日:浙江省衢州江山城内を爆撃。日本軍は江山県を占領する前に何度も県城を爆撃、石門、厳麻車、鳳林、峡口、廿八都などが爆撃されて、全部で民衆122人を爆殺、86人が重軽傷を負った。

*5月19日:広西省桂林で21機が爆弾20発以上を投下した。また柳州、贛(かん)州の飛行場、軍事施設などを爆撃。

*同日:広東省韶関市南雄、湖南省衡陽の飛行場、軍事施設を爆撃。

*同日:福建省の福州を数機が爆撃。

*5月20日:桂林を24機が4回に分けて爆撃、さらに南西部の郊外に20機以上が爆弾を投下し、多数の家屋を破壊した。

*同日:浙贛線沿線の要衝、江西省上饒市玉山・広信と鷹潭市貴渓を急襲爆撃。

*同日:浙江省衢州・麗水・龍游飛行場を爆撃。

*同日:浙江省金華市の東陽・義鳥の陣地、移動部隊を爆撃。また永康県付近の自動車40台、列車を爆撃。(中国側の記録では永康県古山鎮を爆撃し民家3軒を爆破とある)

*同日:江西省撫州市東郷・進賢・臨川・黎川の軍事施設、工場、車両などを爆撃。

*同日:広西省全州、湖南省永州市零陵などの湘桂鉄道沿線の要地を爆撃。

*同日:浙江省杭州市建徳を爆撃。

*5月21日:浙江省金華、龍游間で機関車9、貨車60を攻撃粉砕。

*5月22日:浙江省蘭渓、永康(古山)、金華、衢県(州)、江山を爆撃。永康はこの二日後日本軍に占領され、古山村を中心として大きな被害(放火、略奪、惨殺、強姦)が生じた。

【爆撃後の873人の虐殺と連行され行方不明となった3850人もの人々】

 日本軍は浙江省江山県を占領する前に、石門、厳麻車、鳳林、峡口、廿八都などを爆撃、住民122人を爆殺、86人を負傷させた。その後日本軍は 江山占領、住民873人を殺害し、3850人が連行され行方不明となった。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

 筆者注:こうした不明者は他所の土地での強制労働と推測できるが、日本軍は占領した各地で住民を捕らえ、満州の鉱山・工場、あるいは飛行場建設などに送ったが、過酷な環境と過重労働により多くの労働者は途中で死に、するとその人手を補充するために次々と占領地から住民が送られていた。そして彼らが戦後に故郷に戻ってくることはほとんどなかった。後述するように中国側の調査では日本軍は5年間で500万人の労働者を徴用しているとしている。

*同日:6時25分、安徽省宣城市寧国県城門の外、甲路、周湾、塵岭脚、蜀洪などで、日本機は10発の爆弾を投下し、13人が死亡、4人が負傷。

*同日11時頃、6機が安徽省宣城市歙県から績渓県臨渓鎮の上空に侵入し、焼夷弾2箇、爆弾5箇を投下し、店房2棟を破壊し、爆死3人、負傷2人。

*同日:江西省の永康・玉山・吉安・南城などを35機が一括爆撃。

*同日:浙贛線沿線の要衝を爆撃、線路を寸断。

△ 5月22−23日、陸軍地上部隊はこうした飛行隊の協力により、江省紹興市新昌、金華市東陽、同市義烏を占領、金華城を包囲した。

*5月23日:浙江省金華、蘭谿、衢州、麗水、江西省玉山などの飛行場および浙贛線沿線を爆撃。

*同日:雲南省のビルマルート諸要地(保山を含む)を爆撃。

*5月23−24日:浙江省の浙贛線沿線の輸送機関、拠点、飛行場を爆撃。

*5月24日:雲南省保山を連続爆撃。

*5月下旬:日本軍は浙江省の金華、江山などを相次いで陥落させ、続いて敵机は麗水市松陽県を爆撃、その後竜游から松陽に侵犯した。松陽は占領された後、歴史上まれな災難(虐殺、放火、強姦、略奪)に見舞われた。

*5月26日:30機が浙江省蘭谿を爆撃。

*同日:浙江省金華を20機が爆撃し、1000発以上の爆弾を投下。金華ではここまで776人が爆撃によって死亡した。

*同日:浙江省建徳市の白沙陣地に8機が毒ガス弾を投下、また中国軍が新安江を渡河する際に毒ガス弾を投下し、日本軍の追撃を支援。

△ 地上部隊は27日、浙江省蘭谿を占領、翌28日、金華を占領。1946年の中国の統計によると、日本軍が金華を占領した約3年以上の間、民間人2855人が殺害され(爆撃による死者を含まない)、戦乱による死傷者は約5000人に上り、女性千人以上が強姦され、家屋の4万5515室が焼失した。

【地下道への毒ガス弾で800人以上の死者】

 5月27日、日本軍第59師団の上坂勝少将率いる大隊の500人余りが河北省保定市定県(定州)の北疃(北坦)村を攻撃した。抗日の八路軍の一部は撤退しつつ、この村の住民と合わせて1000人以上が抗日用に掘られた地下道に入った。日本軍は村の地下道を見つけ、その出入り口を掘り下げて出入り口から毒ガス弾を投げ込んで布団をかぶせ、柴草に火をつけて出口を塞いだ。たちまち毒気と煙が洞内に充満し、人々の叫び声、罵声、呻き声がひびきわたった。ある人は地面を掘って顔を埋め、ある人は自分の服を引き裂いて顔を覆い、ある人は口から泡を吹いて子供を抱いて死んでいて、その惨状は見るに忍びなかった。日本軍は地下道から人々が逃げ出すのを防ぐため、それぞれの出入り口を守り、薪に火をつけた。もがきながら這い出してきた人々のある者は縛り上げられて銃殺、刺殺され、ある者は木に縛り付けられて腹を切られて焼死した。また日本軍は付近の井戸にも投げ込んだ。それ以外に捕虜となった村民は皇島市石門労働訓練所に送られ、その後撫順の千金寨炭窯に運ばれた。日本軍は10歳の幼女から50歳か60歳の老婦女まで蹂躙し、一人として生き残ることはできなかった。その数は統計するのが難しいが、こうして抗日軍民800人余りが殺害された。「5・27」北疃大惨事(北坦事件)という。(『侵華日軍暴行総録』河北省編)

*5月28日:陝西省西安、咸陽市三原、渭南市富平を急襲し爆撃。

*5月30日:広西省桂林を17機が爆撃し、北部郊外に20発以上の爆弾を投下した。

*同日:四川省重慶梁山を空爆(この年初)、県城西正街高家巷を爆撃、被害は家一軒。

*同日:浙江省衢(く)州で輸送機関などを爆撃。

【中国軍ゲリラ隊の反撃】

▽ 八路軍の突撃大隊が山西省長治の日本軍空港を奇襲し、3機、自動車14台、ガソリン庫2基を破壊し、90人余りを射殺した。

*5月某日:河南省鄭州市鞏県で、37機が骨董市に集まった群衆に数十個の爆弾を投下し、人々は四散して逃げたが、20数人が爆死した。

*5月某日:午前9時、日本軍機は渭南市潼関県平原に4発の爆弾を投下、1人が負傷。

*陸軍航空隊は5月−6月、江西省上饒市の玉山・広信、鷹潭市の貴渓、撫州市の東郷・進賢・臨川・黎川を継続して爆撃した。

▽ 5月、日本軍の連年の掃討作戦により、八路軍、新四軍(いずれも共産党軍)は1940年初めに50万人近くから30万人に減少した。

6月

【米国の中国への全面支援】

〇 1942年6月、日本軍は英米中連合軍と戦い、ビルマを占領し、中国への物資輸送の「援蒋ルート」を遮断したため、米軍はインドから(ヒマラヤ山脈越えで)中国昆明まで空輸で物資を輸送する支援に出た。空輸量は毎月1万トンに達した。

〇 6月初頭、米国と中国は武器貸与協定を締結し、米国は重慶政権の勝利まで無制限に飛行機その他の武器、軍需品を送ると言明、それまでの米義勇隊(AVG)と正式の米軍航空隊は合同して米陸軍航空部隊となり、その使用基地は雲南省昆明、桂林、浙江省温州市白石、四川省成都市新津などであった。また成都には新飛行場が計画された(のちに成都から日本への爆撃が行われる)。

△ 1942年6月1日:地上部隊は広東省従化県城を占領。

*6月2日:江西省東郷、豊城、鄱陽、吉安などを36機が爆撃。

*同日:陸軍の侵攻に合わせ、江西省上饒市玉山、浙江省衢州の江山を爆撃。

*同日:10時5分、5機が安徽省宣城市歙県から績渓県の上空に侵入し約30分で計13発を投下、民家35間を破壊し、1人が死亡、2人が負傷。

*同日:浙江省淳安県城に数発の爆弾を投下、約10人が爆死傷した。

*6月2−3日:浙江省衢州の東山、前渓口一帯の中国軍陣地を爆撃しつつ毒ガス弾も投下。

*6月3日:江西省上饒市広信の駅周辺を爆撃。(地上部隊は進賢を占領)

【ミッドウェー海戦】

〇 3日、日本海軍は太平洋上で米軍とのミッドウェー海戦を行う。その結果米軍に空母4隻を損傷・撃沈、重巡洋艦1隻が撃沈され、航空機200機-300機を喪失、日本軍の戦死3057人(航空機搭乗員の戦死者は110)、米軍戦死307人であった。これが快進撃を続けていた日本軍の転換点となった。

*6月4日:広西省桂林、広東省肇慶を猛爆。

*6月5日:地上部隊の衢州攻略を支援して爆撃、また退却する中国軍を追撃。

△ 地上部隊は5日、江西省撫州と東郷を占領、7日、浙江省衢州を占領。

*6月7日:雲南の保山を爆撃。

*同日:江西省新喩、豊城、榜樹、玉山、上饒などを連日爆撃した。

*6月8日:江西省上饒を22機が三回にわたって爆撃し、チラシを撒いた。

【撫州市崇仁県の惨事】

*同日:江西省撫州市崇仁県の鳳崗奸で、爆弾を3個投下、1人が爆死、1人が負傷した。

 一方で早朝、撫州市崇仁県城に9機が飛来し、数発の爆弾を投下し、芒麻園に集まって隠れていた官民100余人を爆死させた。そのすぐ後日本軍は入城し2日後に撤退したが、17日、再度侵入し7日間をかけて城内を放火、266人を殺害し、さらには婦女子百数十人を強姦、その中の少女3人がその後に殺されるという残忍非道な行いがあった。またこの日同時に日本軍の別部隊が崇仁県を通りがかり、許坊の小学校に立ち寄ったところ、陥落した南昌から宜黄に避難中の江西私立葆霊女子中学の300人余が許坊、許丁坊の小学校に泊まっていて、日本軍に約30人が輪奸された後惨殺されて遺棄された。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*同日:江西省玉山、広信を爆撃。

*同日:重慶梁山を空襲、県城南門と西正街西門を爆撃、家屋16軒破壊。

*6月9日:湖南省と江西省を爆撃し、6機は衡陽を爆撃し、12機は贛州を爆撃。

*同日:51機が江西省の玉山を爆撃。

*同日:広西省桂林を爆撃。

*6月10日:梁山の県城南門を爆撃、家屋20軒破壊。

*同日: 2機が浙江省温州市楽清県の蒲岐鎮に1発ずつ爆弾を投下、1発は第一保南街の西端にあるキリスト教会に命中し3人が負傷、もう一発は第5保北街の東端に着弾、母子など5人が死亡した。

*6月10−11日:中国軍戦区司令部のある江西省上饒玉山を連日で爆撃。特に11日は大量爆撃。

△ 6月11日:遼寧省建昌を占領。

*6月12日:江西省広信と福建省南平市建陽を爆撃。

*同日:18機が広西省桂林飛行場と付属施設を爆撃、米義勇航空隊AVGと数度の空中戦で9機を撃墜、4機が撃墜された。中国側の記録では日本機 11機を撃墜とある。(この時、米国のP40戦闘機が日本の九七式戦闘機を性能で上回っていることが確認され、新しい一式戦闘機を中国派遣軍は要請する)

*6月13日:連日で桂林を爆撃。(この後、多くの機体の損傷修復でしばらく出撃を控える)

*6月14−15日:福建省南平市建陽県に3機が城関上空に侵入、数発の爆弾と焼夷弾1発を投下、大きな屋敷などが焼かれ、1人が被爆して木っ端微塵になった。西街の黄と言う名のペンキ屋の店内にも着弾、家屋が破壊された。翌15日、3機が来襲、焼夷弾1発が民家10棟以上を焼き、爆弾で一家3人を含む計6人が爆死。

*6月15日: 日本軍は艦載航空機の支援を受けて江西省贛州 余干県瑞洪鎮への攻撃を開始し、倉前村で中国軍と激戦を繰り広げた。日本機は画眉園村の竹林に大量の爆弾を投下し、村人や中国軍数十人を爆殺。午後4時、日本軍は瑞洪鎮を攻略し、多くの軍艦が川を遡上して避難民を機銃掃射し、馬嘴埂と瑞洪の川面だけで10人以上を殺害、2村80戸の民家を焼き払った。地上部隊は江西省上饒市を占領。(『侵華日軍暴行総録』)

▽ 同日、曇天の隙をついて、米軍のB25爆撃機が日本軍の占領する広東省広州市天河飛行場を爆撃。被害は少なかった。

*6月中旬:三機が麗水市松陽県の古市を爆撃、低空で六発を投下、街中の建物が多大な被害を受けた。古市は1940年5月からこの年の8月まで、7回の爆撃を受けた。

△ 6月16日:日本軍は江西省鷹潭と貴渓を占領した。さらに29日、同市弋陽を占領。ここまでとその後を含め、貴渓を含む鷹潭市は1937年8月15日から延べ404機が出動し72回爆撃された。

*6月18日:(旧端午節の日)湖南省常徳を爆撃。爆撃の後、町のいたるところに死体が横たわり、電柱や木の枝や屋根には腸や手足がぶら下がっていた。戦後の湖南省政府の統計によると、日本機は延べ467機が常徳に侵入し、73回爆撃、2181発の爆弾を投下、3638人の民間人が死亡、4024棟の家屋を破壊した。

【500万人の労働者を徴用】

〇 6月21日、延安の中国共産党「解放日報」は「この5年来、日本軍は華北で500万人の中国人労働者を強制連行している」と発表した。

*6月23日:浙江省麗水を爆撃。

*同日:麗水からトラックで敗走する部隊を爆撃。

*6月24日:麗水飛行場を攻撃。(その後麗水とその飛行基地を占領)

*6月28日:日本機が福建省厦門の小嶝島を機銃掃射し、漁民の洪玉順らが銃撃死した。

*同日:福建省寧徳の三都島を15機が襲い、計32発の爆弾を投下、8人の死傷者を出し、家屋108軒を破壊し、13畝の田畑を破壊した。なお三都島は福建省の重要な玄関口で、日本軍の爆撃は10回近くあった他、1939年から軍艦からの砲撃を何度も受け、漁船を爆沈させたり材木や船を強奪されたりし、上陸作戦後には略奪、放火、強姦等の悪行で中国人民の生命を雑草のように扱った。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*6月29日:浙江を西侵する日本軍と南昌を東侵する日本軍が江西省上饒市横峰県で合流した。その合流前、日本機が横峰に対し無差別爆撃を行い、焼夷弾投下によって蓮荷の家屋を二日二晩焼いた。住民の多くは外地や深山に逃げ、県城に残った住民は1000人にも満たなかった。小さな県城は日本軍の2個旅団以上の兵員に耐えられず、県城は食べるものを略奪さして空になったほか、財物を強奪、罪のない人々を惨殺、婦女を姦淫し、家屋を焼いた。7月6日の撤退までの8日間、日本軍は3000軒以上の家屋を焼き、200人以上の婦女を強姦、83人の民間人が虐殺され、63人が重傷を負った。(『侵華日軍暴行総録』)

*6月30日:9機が湖南省常徳を爆撃し、100発以上の爆弾を投下し、100戸以上の家屋を破壊し、数十人が死傷した。

*6月某日:28機(別説では38機)が陝西省宝鶏県城を爆撃、多数の死傷者を出し、駅近くの電柱は全てなぎ倒され、炭市街の一部の家屋は倒壊した。

*6月某日:日本軍が江西省南昌市進賢県民和鎮へ侵攻の前後、支援爆撃によって大石橋、橋得頭、偽県政府、中山記念堂、武営塘巳は一面の焦土となった。一時占領後、日本軍が推進した三光政策「殺し、燃やし、奪う」は町民も免れることができず、北門外寸、岡前、五里岡など県城郊外でも多くの難民が刀や機銃掃射で殺された。そればかりか、数十人の女性が捕まって強姦された上殺害された。7月16日、彼らが県城から撤退する前に、県城を焼き払った。蘇街角(今西北街)を除いて、残りの各地は瓦礫になった。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

【泰緬鉄道建設開始】

〇 1942年6月、日本軍は占領したビルマにおいて、ビルマとタイを結ぶ補給ルート確保を目的として全長約400キロの鉄道(泰緬鉄道)を計画、建設工事を開始し、作業員として日本軍1万2000人のほか、イギリスなど連合国の捕虜6万2000人、募集で集まったタイ人数万人、ビルマ人18万人、マレー人8万人、蘭印人4万人が参加した。日本軍は人海戦術による突貫工事を要求し、雨季の間も強引に工事を進めた。作業現場ではコレラが流行し、大量の死者を出した(捕虜としてはイギリス人6904人、オーストラリア人2802人、オランダ人2782人、アメリカ人133人の合計1万2621人が死亡)。こうした犠牲のうえに、鉄道は1943年10月に開通した。なおこれは1997年に『戦場にかける橋』のタイトルで英米の合作映画として制作され、ヒットした。

7月

【中米連合軍の逆爆撃】

▽ 1942年7月1日、米軍のB25爆撃機9機が日本軍が占領する江西省九江、江西省贛州市石灰窰、また漢口にまで出撃、翌2日と3日には、いずれも三機が武漢の漢口の海軍桟橋付近を爆撃、また3日はP40戦闘機と合わせて9機が江西省南昌飛行場に襲来した。この月、アメリカ陸軍航空隊が中国航空任務部隊(CATF)を組織し、日本軍占領地への爆撃が加速していく。

*7月3日:1機が浙江省温州市楽清県の蒲岐を爆撃、6発の爆弾を投下、7人が爆死。その中で戚希文の妻は出産後1ケ月で、生まれたばかりの赤ん坊と一緒に死亡した。

*7月4日:米軍が基地にしているとする広東省肇慶市懐集、広西省賀州・桂州を爆撃。

▽ 7月5日、米軍のB25爆撃機5機が戦闘機とともに広州天河飛行場に襲来し爆撃。

*7月6日:雲南省東南部の河口鎮を爆撃。

▽ 同日、米軍機は漢口、南昌、広州の白雲飛行場などを爆撃した。

【日本軍占領地の実態】

*7月初旬:海南省(海南島)屯昌県烏坡墟を爆撃。その後日本軍は烏坡墟に拠点を構え、付近の民家を取り壊して拠点工事を行った。日本軍が烏坡を占領している間は人災で田園が荒れて食糧が取れなくなり、食料は高騰、母子の多くが餓死した。日本軍が烏坡を統治している間に、597人が死亡し、女性433人が強姦され、973人が餓死した。毒ガスにより1783人が足を壊死させ、民家413軒を取り壊し、土と木の建物2735室が焼かれ、耕牛477頭、生豚1333頭と多くの家禽が強奪された。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

【日本軍の掃討作戦の残虐さ】

*7月7日:午前、日本機24機が 山西省晋城市 陵川県に飛来、県南関の民家をすべて爆撃し、山間の小さな村さえ見逃さず爆撃した。1940年から1943年まで、日本軍は陵川に対して5回の「掃討」を行い、その掃討毎に住民を焼き殺し、略奪、姦淫を行った。その中でも 1941年、古郊村では日本軍に食料を奪われ約50人が餓死、43年の5回目の掃討ではまる2ヶ月の間掃討を繰り返し、そのため民衆は方々に逃げ、食べるものも着るものもなく、病気が流行し、大量の死者が生まれ、奪火一帯はほとんど無人区となった。爽底村では100人以上の村民がいたが、7人しか残らなかった。統計によると、この時期に奪火・横水の両地区だけで死亡した村民は1万276人、家畜5256頭が失われ、家屋3702軒が焼失した。竜王山の1万本近い大木はほとんどすべてが切られ、城の周りの10余里の古代の建物も、ほとんどが取り壊された。最終的に1945年の日本の敗戦までの2年間、 陵川県で殺害され、餓死した住民は合わせて3万人とされる。(『侵華日軍暴行総録』)

〇 7月7日、蒋介石は(盧溝橋事件以来の)抗日戦争第5周年記念日として、全国の軍民に向けてラジオ放送を行い、中華民族の伝統精神を発揚し、抗日戦争の勝利を約束した。

〇 同日、八路軍と新四軍が公表した抗日戦績の総括として「1941年1月から1942年5月まで、八路軍、新四軍は共に大小の戦闘を1万4648回行い、死傷させあるいは捕虜にした日本軍は12.9万人、自軍の死傷は8.1万人余り」と公表した。

*7月7−8日:福建省南平市の建甌と飛行場を爆撃。

*7月9日:福建省南平市崇安(現・武夷山市)の中国軍司令部などを爆撃。

*同日:1機が福建省漳州市竜渓県石碼の六昧街に2発の爆弾を投下、家屋9棟を破壊し、5人が爆死、24人が負傷した。

▽ 同日、米軍機が日本軍占領の江西省南昌に、翌10日には撫州の臨川に来襲。

*7月上旬:湖南省衡陽の飛行場を爆撃。

*7月10日:重慶梁山(現・梁平区)を空襲、県城西門外を爆撃、家屋9軒破壊。

*7月10−11日:福建省の建甌の市街地を連日爆撃した。特に11日は午前8時、17機が襲来、まず一機が銘三路の大同旅館付近へ焼夷弾4発を投下し、大火を起こし、その後16機が市街地に散らばり爆弾と燃焼弾数十発を投下した。逃げ惑う人々へ低空で機銃掃射を行い、爆撃によって中山路・中正路・銘三路三条の街が大きな被害を受けた。午後三時になって立ち去ったが、爆撃後の焦土に慟哭の声が響いた。爆弾68発により354棟が被災し、死傷者は285人となった。

*7月12日:雲南省の首都昆明および建水を爆撃、空中戦あり。

*7月15日:9機が四川省達州市大竹県清水郷の新庵子に爆撃を行い、多くの村民が人形劇を見ていた場所に1発の爆弾が投下された数名が死傷、広大な竹林と農作物が破壊された。

▽ 7月16日、米軍B25・4機が日本の占領する武漢地区に侵入、20日は九江の日本軍輸送船を攻撃し、相当の被害を受ける。

*7月20日:浙江省金華市蘭渓県黄沢に日本軍が急襲、町に放火し、略奪した。午後になって飛行機が襲来、爆撃で源大糸工場が破壊されて、門楼が壊れた。この日:住民32人が殺され、重軽傷者数十人であった。数人の婦女が強姦され、三階建ての建物五間を焼き、米穀四千余斤、米千余斤、豚20頭、鶏数百羽、黄酒十壇、綿五条を奪われ、その他の財物は数えようがない。

*7月26日:午前、3機が福建省南平市の五夫郷を急襲、その日はちょうど市の立つ日で、街には人や物資が集まっていた。そこに日本機が東北方向から飛来、編隊を組んで爆弾と焼夷弾を投下し、合わせて機銃を乱射した。10分後、13歳の女の子がその場で爆死、100人以上が死傷し、民家25棟が破壊された。

【ガンジーの警告】

◎ 7月26日、インドのガンジー師は「日本人に警告する」と題して、日本の中国侵略を痛烈に批判した。

*7月27日:未明の3時ごろに湖南省衡陽、湖南省懐化市の芷江、広西省桂林を爆撃。(この時期から日本は夜間爆撃を主体にする)

*同日:23時ごろ衡陽と桂林を爆撃。

*7月28日:浙江省杭州市建徳を爆撃。5月20日からこの日まで4度爆撃、322名を死傷させ、家畜4000頭余りを失い、家屋の損失は3400数間であった。

▽ 7月28日、米軍機が漢口に来襲、「わが高射砲の射撃は効果がなかった」とある。

*7月30日:衡陽を未明に三回爆撃した。これに対して米軍の編隊が迎撃し、日本機は3機を失った。さらに昼前、フィリピンで活動している一式戦闘機を主に使う飛行隊援軍が同様に衡陽を爆撃、米空軍との交戦では4機を撃墜、1機を失った。

*7月31日:数回にわたり同じく衡陽を襲撃、空中戦で4機を撃墜、地上の3機を破壊、自軍は3機を失った。(ただし両日でまとめて13機を撃墜破ともあり、この「破」は撃墜ではない)

*7月某日:日本機は渭南県城を爆撃、二馬路の溜池の堤に3発の爆弾を投下したが、不発、家屋3間を破壊。

【開戦5周年の日本軍の戦果】

 7月6日、日本の大本営は支那事変(日中戦争)5周年にあたり、敵遺棄死体233万8千人、撃墜・破壊飛行機2800機と発表。この中国側の死者は日本陸軍が戦闘過程において遺棄死体として確認できた数値であり、これ以外に爆撃による兵民の死者、河川上の砲艦爆撃による死者、さらに各地の捕虜や民衆への虐殺、殲滅・掃蕩作戦による村の住民ごとの虐殺も含めれば、この時点でも500万人は軽く超えるであろうし、これ以降もまだ三年続く。

 ちなみに日本側の日中戦争から太平洋戦争にかけての全死者(戦闘、国内の空襲や原爆による死者、沖縄戦、南洋諸島や満州など居留民の死者、シベリア抑留での強制労働死等々、すべて合わせて310万人)を、中国における日本による戦争犠牲者ははるかに超えることになる。この重い事実も戦後の日本は振り返ることをしないからほとんどの人は知らない。

8月

*1942年8月1日:湖南省衡陽を連日爆撃したが、中国軍との空中戦で17機が撃墜された。

*同日:4機が安徽省阜陽市を爆撃、小隅首、大隅首、西大街などが爆破され街路上で死体が散乱した。

*8月2日:浙江省麗水市雲和を11機が朝から三度の分けて爆撃し、40発以上の爆弾を投下し、30名以上が死傷、多くの民家を破壊した。(この時、細菌爆弾が投下されているが、下記参照)

*8月5日:悪天候の中、衡陽を襲撃、空中戦で6機を撃墜、2機が撃墜された。また別途広西省桂林を爆撃。

*同日: 浙江省金華市武義県の 柳城鎮を爆撃、3人が爆死した。 日本軍はこの8月から武義を占拠してまる3年間、武義の人民3000人以上を虐殺し、焼失と破壊された家屋は1万3800軒以上、全県で略奪を受けた家は16万700軒以上に達した。

*同日か翌日:広東省韶関と市内の坪石、広西省南寧を爆撃。

*8月8日:9機が四川省梁山を襲撃、爆弾20発のほか、「細菌弾」4個を投下。

▽ 8月8日、米軍機が広州天河飛行場を襲撃、空中戦で2機撃墜、1機を失う。

*8月11−12日:浙江省建徳県市街区は連日の爆撃で、千数軒の民家が爆破され、20数人が爆死。13日も150軒が爆破された。

*8月12日:8機が浙江省淳安県城を爆撃、2人死亡。淳安は小山城で、1937年11月からこの8月まで、淳安は8回空襲し、数十人が死亡し、116軒の民家が破壊され、3隻の帆船が沈没した。

*8月13日: 27機が湖南省永州市冷水灘の駅、通化街から、一気に黄泥井までを爆破、400棟以上の家屋を破壊し大火は長い間収束せず、街のいたる所に死傷者が横たわり、通化街一口池塘のそばにある1軒の草ぶき屋根の民家では17人が死んだ。この爆撃で40人以上が死亡、負傷者は数知れない。

〇 8月15日、華北の日本人反戦団体代表大会が延安で開催され、会議は「反戦同盟華北連合会」の設立を決定し、18日に閉幕した。

*8月18日:湖南省衡陽を爆撃。

*8月某日:浙贛作戦の支援で、浙江省の臨海市、瑞安市、温州市、河南省の鄭州市、福建を爆撃した。

*8月22日:午前八時すぎ、7機が突然福建省南平市浦城県仙陽の上空に来襲、低空降下を開始し、機銃掃射と爆弾投下を二時間以上続けた。当時、国民党政府が各地から徴集した「鉄肩夫」50人余りが黄松泰の倉の中にいたが、爆弾一つで全員が爆死。また仙南李斯年の建物には江蘇省と浙江省の難民24人がいたが、これも爆風で壁が倒れてほとんどが死亡した。全部で百数十人の死者を出し、また多くの家屋を破壊した。

【ペスト発生】

 この爆撃から半年が過ぎて、仙陽の群衆は手足が腐る疫病が蔓延した。1943年の春の終わりから夏の初め、仙陽は更に深刻な悪性のペストの発生を招いて、100人余りが死亡した。この時期には他の多くの地でも同様な現象が見られ、日本軍の細菌散布の可能性が高い。

*8月23日:浙江省麗水市遂昌県(すでに攻略され荒らされていた町)に三機が来襲、次々と東大街、南街、東街を爆撃し300以上の建物が焼失した。

*同日: 浙江省衢州市開化県青山底村に3機が飛来し急降下爆撃を行った。爆弾7発が投下され6人が死亡、12人が負傷、民家10棟以上が破壊された。

*8月24日:12機が広西省百色市平馬鎮に三度目の爆撃を行った。この日は前後して12回の散発的な爆撃と機銃掃射を行い、被爆した地面の弾痕はおびただしく、至る所が瓦礫となり、川では多くの船が爆撃で川底に沈んだ。主に三度の爆撃で被害家屋440余軒、船舶600余艘、死傷2100余名、その他の財物損壊は計り知れない。

▽ 8月26日、米軍潜水艦が福建省江口外で日本の輸送船2隻を撃沈した。

〇 華北の朝鮮独立同盟と朝鮮義勇隊は、北朝鮮の亡国32周年を迎え、朝鮮同胞が中国の抗戦に協力し、すべての力を提供し、韓族の自由を勝ち取るよう呼びかけた。

*8月某日:湖南省常徳市澧県を爆撃、住民の母子3人が爆死、6歳の長男は骨と肉がわずかに残っただけで、3歳の末っ子は腸1つしか残っていない。

*8月下旬:浙江省と江西省に対し細菌作戦が行われた(下記参照)。

〇 5月より開始された浙贛(せっかん)作戦は、7月までの動員兵力約18万、3個飛行戦隊により、目的の浙江省から江西省にかけての飛行場の破壊と同地を守る中国軍師団を打ち破ることに成功、この作戦は1942年9月30日に終了が発表された。中国側によると日本軍は2万2413人を殺害し、53人を捕虜にした。連合国側は中国大陸から日本本土を空襲する作戦を立てていたが、この日本軍の浙贛作戦によって使用予定の衢州飛行場が攻撃占領されたこともあって場所を移し、中国軍との共同作戦体制をこの月に作る。当初は中国内の日本航空隊との空戦や相互の基地の爆撃を行うが、2年後の1944年6月に米軍は最新鋭大型爆撃機B29をもって、成都から北九州の八幡への爆撃に成功する。その7月に米軍は日本の占領するサイパン島を攻略し、そこをB29の基地として11月下旬より日本への本格的空爆を開始する。

【一連の細菌作戦の被害と戦後の訴訟】

 上記の浙贛作戦は占領目的ではなく一時的なものとされ(太平洋戦争突入で、日本軍には各地に守備隊を置く余裕はなくなっていた。ただし徴兵年齢の上下限の拡大となどにより、中国への兵力は減らされることはなかったが)、浙江省や江西省の各地に侵攻して中国軍を撃退して一時的に占領するも、すぐに退却することになった。この撤退する際に、中国軍に再び飛行場の修復や再利用を阻むために(だけではないだろうが)、日本軍は細菌による汚染地帯にするという計画を立てた。それが以下である。

 まず既述の5月4日の雲南省保山爆撃で投下した爆弾3、4百のうち、細菌弾も同時に投下したとされるが、数日後再び、保山の施旬の町に細菌弾を投じた。日本軍が投下してから数日後、保山、施旬にコレラが爆発的に流行し始めた。たった数ヶ月の間に保山でコレラに罹って死んだ人は6万人、施旬ででは1万以上に達した。コレラは保山、施旬、昆明への道路に沿って蔓延していった。そして雲南58の県市でコレラが発生し流行した。コレラの患者は12万人以上、死者は9万人以上だった。(「ペスト菌爆弾」は、病原菌を媒介するノミ大量に育てた上で特製の陶器に入れ、少量の火薬で粉々に飛び散って中身の細菌が生きたままばら撒かれるようにしたもので、証言者によるとこれを杭にくくりつけた捕虜たちの前で炸裂させ、その感染経過を観察し、死亡後には解体して臓器へのダメージを徹底的に調べたという経緯がある)

 続いて日本軍は雲南省滇西を占領後、一時駐屯した防疫給水部はネズミを収集し、細菌を培養し、生体実験をおこなった。撤退する前の日:感染したネズミを放ち細菌戦をおこなった。これにより滇西16県でペストが流行し、死んだ人は約4.5万になり、このコレラとペスト二つの細菌作戦で1944年まで雲南省全体では13−14万の人々が命を落とした。そのコレラ罹患者の死亡人数及び地点分布表が残されている。

*8月2日:浙江省 麗水市の雲和を爆撃した時、別途、5平方kmの市街地にした。明け方の朝霧の中、3機の日本軍機が爆弾を落としたが、これらの爆弾は爆発しなかった。間もなくして雲和県の町ではいたるところでネズミが死ぬなど異常な現象が多く現れた。その後ペストが流行した。

*8月初め:朝、日本機が3回に分かれて雲和県に爆弾を投下した。多くは爆発せず、当時の目撃者によると日機は雲和県の高家老屋敷、黄家大門の間にいた。旧市街の橋の下などに投下された爆弾はいずれも爆発しなかったし、河川敷にも三つの爆弾を投下して三角形に並べたが、一つも爆発せず、特に黄家の爆弾は屋根から屋根を貫通していた。さらに地下1m以上の深さに打ち込んで不発。

*8月19日:これは飛行機からと地上での散布で、日本軍は江西省上饒市玉山・広豊から浙江省衢州市江山金華に向けて撤退する時、細菌に感染したノミを空より散布し、また地上ではペスト・コレラ・チフス菌などの入った瓶や缶、水筒などを井戸や沼や貯水池に投げ入れ、またこの頃はさすがに捕虜は全滅作戦を取らずに収容所に入れていたようであるが、二棟の収容所に約3000人いた中国兵捕虜に細菌入り饅頭を配って食べさせて釈放したと言い(元衛生兵の証言)、さらに細菌入りのビスケット等を日本兵が置き忘れたかのようにして木の下、休憩地などにばらまいた。この時の第一次感染死亡者は300人というが、一つの井戸を使った家族13人のうち10人が嘔吐、下痢、身体中に潰瘍ができて苦しんで死に、10人の家族で一人きりになったものもいた。500人以上いた毛宅村は200人になり、稲刈りの農繁期に人手がなく、稲を腐らせてしまった。

*8月下旬:関東軍731部隊の作戦参加(約60名)により、飛行機から浙江省金華市の公信・永康、衢州市、麗水市の縉(しん)雲などに対しペスト菌を、浙江省衢州の江山・常山にはコレラ菌を散布した(方法は既述のように藁や麦などに汚染されたノミを混ぜて低空から散布する)。衢州、麗水ではチフス菌も撒かれた。この他炭疽菌や赤痢菌も使われているという現地の検査結果がある。

*8月26日: 3機の日本軍機が浙江省 麗水市雲和県城の上空に飛来、連続爆撃を行い、大量の細菌弾を5平方kmの都市部にばらまいた。ペストが最初に発見されたのは県城から3里ほど離れた河上村妙厳寺にある浙江省立児童保育園だった。8月−9月までの間、雲和県城と農村部の人々のあいだに、足が腐る病や疥癬のほか、赤痢、脳膜炎などの伝染病が併発した。沙渓郷高営村では赤痢が流行し、上村林家大院では30人以上が死亡、林大旺一家は10名以上の命を奪われた。雲和鎮の中心部にある「葉家庁」上堂庁の住人の二世帯で相次ぎペスト患者が発生、中正街西街でもペスト感染が広がり、次々と死亡した。この時に発生したのが「腺ペスト」で、その一つ一つがペスト菌をもった鼠のノミから伝染し、死亡率は81パーセントに達した。1943年から1944年にかけ、雲和県城のいたるところでペストが発生した。

 こうした細菌作戦により、浙江省と江西省では約2万人の住民が死亡した。ところがこの細菌戦は秘密の作戦だったため、通常の日本軍には 知らされていず、中国軍撤退の後に汚染された地域に踏み込んだ日本兵に多くの被害を出した。その1万人がコレラ・ペストなどに感染し、1200人以上の兵士が死亡した。当然この事実は日本国内には伝わらず、家族には「名誉の戦死」として扱われたはずである。

*9月21日:浙江省義烏市崇山村の上空で、日本の戦闘機が音のしない爆弾を落として飛び去った。それから一週間後、崇山の村道や農家からネズミが大量に出てきて死んだ。その直後、村に最初の患者が現れ、のどの渇きと連続する高熱のため、医師の効果もなく、不思議な死に方をした。翌日:看病した王道生夫妻も、なぜか突然、口から泡を吹いて死んでしまった。それから、崇山村では鼠蹊部とリンパが腫れ、顔が酒に酔ったように赤くなったり、口から泡を吹いて日一日と、人が死んでいった。義烏市の調べでペストの感染が分かったが、感染は猛威を振るい、死者は300人を下らず、患者を隔離して防疫注射をし、防衛措置を講じた。ところが11月18日午前、日本軍の部隊が突然崇山村を包囲し、彼らは皮のような化学防護服を着て全身に薬を塗り粉をまいていた。彼らは生き残った者たちを一人ずつロープで繋ぎ、銃剣で追い立てて近くの山林寺に連れて行き殺害した。血は本堂を赤く染め、本堂の前の青い石畳の上に死体が積み上げられた。その後家々は焼かれた。(当時隠れて生き延びた王潤華の証言:重慶爆撃民間対日賠償案原告団)

 こうした行為は上記の陸軍防疫部731部隊と飛行隊の協力作戦で、この村は全体で391人が発病し、386人が死亡、19世帯が全滅した。1946年8月2の極東国際軍事裁判で、元日本軍731部隊支隊長は、この部隊が中国の浙江省一帯で細菌兵器を使用したことがあると明らかにした。

<戦後の訴訟>

 ちなみにこの2年前の1940年10月4日にペスト菌を散布された浙江省衢(く)県、同じく10月27日に散布された浙江省寧波、翌年11月4日に散布された湖南省の常徳、そして再発した衢県から飛び火した金華市義烏と崇山村、そしてこの年の上記の各地の住民(遺族)らが1997年8月11日、「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」として東京地裁に提訴した。6回の審理を経て、2002年8月27日の判決では東京地裁は731部隊細菌作戦の事実と細菌戦での死者数も約1万人いることを認め、さらに細菌戦が第2次世界大戦前に結ばれたハーグ条約などで禁止されていたと認定したが、原告団側の国家賠償請求を棄却した。その理由は、この件は政府が国会において「高次の裁量により決すべき性格のもの」ということであった。それに対して原告団は控訴するが、2005年7月19日、東京高裁が原告団側の控訴を棄却、さらに2007年5月9日、最高裁判所は原告団側の上告棄却・上告不受理決定という結果となった。

 筆者注:この種の裁判は日本国内の空爆被害者を始め、何度も提起されてきたが、勝訴になった例はない。ましてや海外の例においておやであるが、その理由は、仮に一例を認めると「雨後の筍のように」訴訟が起こり、きりがないと政府が恐れるからであった。この「雨後の筍」は政府が委託した1980年当時の有識者会議の元東京大学総長(世界平和アピール七人委員会のメンバーでもあり、文化勲章まで授与されている)の発言であり、政府はこうした学識者をも懐柔してしまう力をもつ。そしてこの方針がその後も前例として踏襲されていった。上記の東京地裁のように事実の認定をするのが裁判所としては精一杯で、特に最高裁ではことごとく「棄却」されている。棄却とは権力を持つ政府の意向を忖度する上級裁判所にとって、それまでの裁判資料を詳細に検証し直すことも必要とせず、一番楽な採決方法であるが、裁判官の使命を放棄しているように思われる。本来、最高裁とは三権分立制度にあって、政府をも正しく裁きうる権限を持っているはずなのだが。ちなみに日本国内の空爆被害者や戦争孤児たちは、1円の補償も受けていない。原爆被災者を除いては。それに比して海外に多大な被害を与えた元軍人関係者は、今に至るまで十分すぎる補償を重ねて得ている。その額は年間で兆を超える。

9月

*1942年9月3日:33機が4回にわたり湖南省衡陽、永州市零陵、広西省桂林の飛行場を襲撃、衡陽上空で交戦があったが、地上の10機を爆破。

*9月6日:44機が8回に分けて出撃し、湖南省衡陽、零陵、邵陽市宝慶、また広東省恵州市龍門県を銃爆撃。

〇 9月16日、ビルマ(ミャンマー)全土が日本軍に占領され、中国遠征軍はすべて撤退した。

【日本軍による歓楽街の新設】

〇 この日の『晋察冀日報』(華北地方の抗日拠点で発行されていた新聞)によると、日本軍は石家荘においていわゆる「歓楽街」を新設し、一等遊女館8軒、二等遊女館16軒、三等遊女館31軒、商家32軒、遊女検査所1カ所、共同家屋1250軒を建設、敷地面積は2万2000平方mで、75万元余りを費やした。

【無人地帯を作る】

〇 9月17日から11月15日まで、日本軍は冀東(河北省東部)の秋冬「掃蔭」を行い、兵力約5万人を投入し、万里の長城外に複数の封鎖溝を構築し、万里の長城から8kmから30kmの南側に、長さ350km、幅40kmの帯状の「無人区」を作り、すでに築かれていた満州の長城外側の「無住禁作地帯」と接続された。これによって万里の長城の内外のつながりを断ち切り、抗日ゲリラ根拠地を無人地帯とし、この地区の2342世帯の住民が他郷への移転を余儀なくされた。

◎ 米国のハル国務長官は「九・一八」(満州事変)から十一周年に関する声明を発表し、日本を大戦の禍主と批判した。同日、米情報局は11年間の米国の極東政策を説明し、「敵(日本)は条約を破棄し、東北を占領した。米国は原則を堅持し(満州国を)承認しない」と明らかにした。

【子や親を探し、夫や妻を探し、親が泣き……】

*9月18日:湖南省郴(ちん)州市臨武県城を7機が急襲、2機が低空で機銃を乱射、5機が低空で爆弾を一つずつ落とした。瞬く間に火花、塵、煉瓦の破片が舞い上がり、凄惨な声と黒い煙が県全体を覆った。焼夷弾3発を含む爆弾19発を投下し、家屋16棟を爆破、兵民34名を爆死させた。西城では爆弾12発、死者22名で、盧家の盧青青父子は体が四散し、身ごもっていた妻の熊氏の胎児は川柳街投げ出された。老人徐霊芝の死体は30余m飛んだ。西城の農夫の鄧睾頭は田で爆破され田の端に腰をおろした姿で手にはまだ嫌刀を握っていた。東城羅章の2人の娘は南口に豆腐を売りに行って爆撃を逃れて家に帰る途中東獄巷で爆死した。玉屏村の陳徳林は稲わらを担いでいて、機銃を受け田の中で死んだ。空襲のあと、子や親を探し、夫や妻を探し、親が泣き、友が泣く悲惨な声が至るところから聞こえ、胸が張り裂けた。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*9月24日:1機が福建省泉州市南安県城の政府機関建屋前に3発の爆弾を投下、住民5人が死傷した。

▽ 9月24日、江蘇省如皋(じょこう)、高郵などで3万人余りの農民が暴動を起こし、食糧を強奪した日本軍の隊と格闘し十数人を殺傷した。翌日、日本軍が報復に来たが、新四軍が撃破した。

【終わらない日本軍の暴虐】

*9月27日:河南省濮陽市范県に対し、陸軍の「大掃討」が行われた。午後三、四時に「鉄壁の包囲」が形成され、避難する人をすべて旧城村の南西から西北の高埠頭郷石楼村に通じる約10数kmの河溝に押し込んだ。空からは日本軍の飛行機が爆撃し、川の両側には日本軍の騎兵と歩兵がいて、川沿いの4か所に分かれて住民に対して恣意による銃撃と斬殺が集中的に行われた。甘草堌堆(現・台前県内)に逃げ込んだ住民は、砲撃や飛行機の爆撃を受け、300人以上の死傷者を出した。また旧城西南窯の近くで、中国陸軍中学の学生と党政幹部、合わせて200数人が日本軍に囲まれて機銃掃射され、全員殺された。旧市街のカトリック教会で、日本軍は包囲された陸軍中学の師範、学生と一般人を縛り付け、縄や針金捻りは普通で、ある人はベルトを解かれて、それで両手を縛られ、ベルトが解かれるとズボンは足首に脱落して足の枷になった。…… さらに井縄(地元で柳の根で編んだ直径約3cmの太い縄)で首を巻いて、それで学生たちをつないだ。そうして日本軍は彼らを、旧城の馬漢臣の家に閉じ込めて三日飢えさせた後、四人を一列に縛り、車に積んで山東省済南に運び、そのまま行方不明になった(行方不明者は鉱山や工場での強制労働のためで、総数1000人に近いとされる)。

 さらに日本軍は旧城村の住民をすべて村の北に追いやり、10数人の若者を引っ張り出してひざまずかせ、それから彼らは近くの1個の砲弾の上の鉄輪をはずして、次々と若者の頭、背中、両腕を打ちつけた。苦痛に歪み悲鳴をあげる若者の表情を見て、日本兵は悪魔のように笑い、殴っても叫びもしないようになるまで続けた。女性に対しては、いつもながら日本兵は獣欲を満たそうと、若い女性と少女は決して見逃さず、あるいは子供を生んだばかりの女性までも輪姦して殺した。…… 高埠頭村で、日本兵は7人の男女を吊り上げ、口の中に唐辛子の水、馬の糞水を注入して床に放り投げ、腹の上に立って力いっぱい踏み込む、水が口や鼻から水が流れ出し、再び同じものを彼らに注入、また踏み込む、このようなことを繰り返して、1人が死亡し、6人が意識不明となった。この范県における「九・二七」の蛮行で日本軍は同胞1200人以上を虐殺、300人以上の女性を強姦、そのうちの80%が輪奸されて死に至った。「鉄壁の包囲網」の内側の村の家屋はほとんど焼き尽くされ、食糧、鶏、アヒル、家畜は略奪されてしまった。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

 筆者注:この地に陸軍学校があったゆえに特に過酷な掃討作戦が行われたものと思われるが、日本軍の暴虐状況は、1937年からの中国侵略当初から一貫して変わらず、いわゆる南京事件などは、これら全体の暴虐行為の前のはほんの大きめな一例に過ぎないことがわかる。ここに記述する空爆に関する事例のほとんどが、戦後、我々日本人には隠されてきた(というより国としてこの戦争を振り返って検証する作業など何もなされなかった)だけである。

10月

*1942年10月10日:河南省洛陽の軍事施設と司令部を「痛爆」。

〇 駐中国イギリス大使は宋美齢にイギリス連合の援助として12万ポンドの小切手を渡した。

△ 10月19日、日本は4月18日の日本本土への初爆撃で捕虜になった米国人パイロットを処刑した。

▽ 10月21日、夕刻、米軍機が日本軍が支配する天津の開灤(らん)炭鉱を爆撃し、発電所と鉱山の重要設備が破壊された。

*10月24日:雲南省の蒙自を15機が爆撃。

*10月24−25日:連日で広西省桂林と湖南省芷江を爆撃。

▽ 10月26日、米軍機は昆明から日本軍占領の香港・広州を猛攻撃し、日本機10機を撃墜した。その後も米軍は衡陽や桂林などを前進基地として香港や漢口を攻撃する。

*10月27日:雲南省蒙自を12機が爆撃。24日と合わせて20人が死亡、19人が負傷。

*同日:広西省桂林を爆撃。

*10月下旬:揚子江の船艇群を爆撃。

*10月28日:雲南省蒙自、大荘、河口、広西省龍州を爆撃。

▽ 10月28日、米軍機が香港に来襲、空中戦で2機を撃墜。

*10月29日:広西省桂林を未明と早朝の二度爆撃、また湖南省芷江を爆撃。

*10月31日:午前八時、福建省建甌に9機がやってきて、三個小隊に分れ、建甌の豪棟と鐘楼前、倉長路、中山東路一帯に36発の爆弾を投下、死傷19名。さらに正午近くになって、また3機が二度目の爆撃を加え、24人の死傷者を出し、一日に43人の死傷者となった。

*同日:未明に2機で桂林を爆撃。

【浙江省金華における強制労働】

 日本軍は1942年秋から、占領した浙江省金華の空港を造成し翌年7月までに完成させた。一日の平均派遣労働者は1000人で、延べ36万人に達した。このため地元や中国内の占領各地から労働者を集めたが、5000人余りが空港工事中に死亡した。また日本軍は蛍石を略奪するため、金華から武義までの金武鉄道(未完成)を建設し、民工を毎日約1000人、累計9万人強制徴用した。その他鉱山開発や運送に民夫を強制的に徴用され、毎日400人余りの労働者が送り込まれた。この3項目だけで57万人の労働者で、農民は1年のうち半年を日本軍のための労役に服した。その結果多くの土地が荒廃した。

 別途、同時期に浙江省舟山市定海に海軍の飛行場を作るため、山東省や江蘇省北から労働者として600人余りを連行した。その中で200人余りが拷問や病気などで倒れて動けなくなった。(『侵華日軍暴行総録』浙江省編)

【桂林集中爆撃】

 桂林には中国軍を支援する米軍機の基地があった。

11月

*1942年11月2日:(前月24日からの連日の爆撃に続き)54機が三隊に分かれ広西省桂林を爆撃、空中戦で3機を撃墜(中国側としては1機のみ)、日本機は4機撃墜された(この4機は中国側の資料からで、実際にはわからないというよりも、日本軍側はあまり自軍の損害を書かないか、少なくしている傾向がある。というのもこの頃は訓練された米軍戦闘機と交戦していて、常に自軍の損害が少ないのも不自然である)。

*11月2−3日:湖南省郴県を連続爆撃。

*11月3日:江西省贛県(州)を13機で進撃したが、飛行場に機体はなく、郊外に30発以上の爆弾を投下。

*11月4日:連続で江西省贛州を爆撃した。

*11月9日:広西省桂林を爆撃、空中戦で一機撃墜。

*11月11日:一機が西南角より広東省清遠市清城に侵入、爆撃一発で北門温書院内の防空壕に命中し、死者5人。

▽ 11日、米潜水艦が上海呉恨付近で日本汽船2隻を撃沈した。

*11月12日:桂林を襲撃、P40との空中戦で一機撃墜、自軍は3機破損。

*同日:一方、漢口から湖南省零陵を襲撃し、上空でP40、10機と交戦、「二機撃墜、三機を撃破」。

*11月13日:四川省梁山飛行場を爆撃、労働者1名死亡。

*11月14日:安徽省阜陽市穎(えい)州の根拠地を爆撃。

*11月23日:未明、3機が桂林を爆撃、しかし2機が帰還せず。

*同日: 正午、日本軍第三艦隊の一隻が祥芝鎮厝上村沖に入港、一機が艦上から居上村上空に飛来し、村の建物に国民党軍の青天白日旗が掲げられているのを発見、しかし爆弾は標的に当たらず、ビルから500mほど離れた民家の前に落ち、村人の邱は孫娘2人を連れて避難したが、すぐそばで爆弾が爆発、一緒に死んだ。

▽ 11月23日夕刻、米軍のB25とP40を合わせて24機が広州の天河飛行場を襲撃、日本軍も急遽出撃したが捕捉できず、飛行機の損失は不明ながら中隊長を含め戦死19名、重軽傷30名、その他地上部隊にも「相当の死傷を生じた」

▽ 11月24日夕刻、上海黄浦及び下流の船舶に米軍機が襲来、日本機は迎撃で一機を撃墜。別途午後、米軍のB25とP40を合わせて7機が広州上空から爆弾十数発を投下、迎撃でP40一機撃墜。

△ 11月25日、山東省青島市膠東を「掃討」した日本軍は海陽県馬石山を攻略し、逃げようとした500人余りの民衆を全部殺害、「馬石山惨案」と呼ばれる。

▽ 27日、米軍機による上海日本軍への襲撃があり、「相当の損害あり」。

◎ 英国議会訪中団は重慶で会見し、英国はまずドイツを撃破し、さらに日本が降伏するまで戦うと語った。

*11月27日:午前8時、湖南省株洲街区を8機が爆撃、死傷10余人。1937年10月から1942年末までに、株洲は延べ約1000機による爆撃を受け、人口10万の街は瓦礫と化した。

【日本へ4万人以上を強制連行】

〇 この日、日本の内閣は「中国人労働者の日本国内への強制入国に関する決定」を下した。日本はこれによって国内の労働力不足を解決しようとし、多くの中国人を強制的に日木に運んで苦役に従事させた。統計によると、1943年から1945年までに69回、4万1762人が日本に護送され、135の企業に配属されて苦役させ、そのうち7000人が奴隷のようになって死亡した。(『中国抗日戦争大事記』)

*11月30日:2機が広東省清城に侵入、下廓裏街の郭祠堂後園が一発の爆弾を受け、死者3名。

12月

▽ 1942年12月1日、浙江省東部の紹興市関東鎮で傀儡軍7000人が寝返った。

【ゲリラ隊根拠地に対する報復:1280人を虐殺】

△ 12月4日、日本軍は河北省で第5次「治安強化運動」を推し進めていたが、灤南県潘家戴荘を根拠地とする八路軍の攻撃を受けた。それに対して日本軍は徹底的に粛正するとして12月5日早朝、250人余りの騎兵隊を潘家戴荘に差し向け、全村の人々を村の東南の空き地に追い立て、老若男女1280人を銃殺、斬殺、焼殺、生き埋めにして虐殺した上に家屋千間余りを焼き払い、金品を略奪した。30人の赤ん坊が投げ捨てられ、60人の妊婦が殺害され、27世帯の一家が全員殺害され、31世帯では孤児と未亡人だけが残された。これは日本軍が河北省で起こした第二の大惨事であり、戦後、村の西南に「抗日戦争潘家戴荘殉難烈日記念碑」が建立された。(『侵華日軍暴行総録』河北省編)

〇 12月5日、新華社通信によると、日本軍の「治安強化運動」が実施されて以来、北平(北京)図書館は日本軍に略奪されて空になり、運び出された書籍は除くとしても、焼却された文献書籍だけでも4万5000冊に上るとした。

*12月6日:江西省贛州を11機が爆撃。

*同日:広西省桂林を31機が爆撃し、30発以上の爆弾を投下。

*同日:福建省建甌を爆撃。

*同日:江西省玉山、吉安市遂川を爆撃。

*同日:9機が広東省清遠上空を北上したが、3機が戻ってきて清城を襲撃、10数発の爆弾を投下し石獅子巷は家屋10数軒を爆破され、死者は10数人に上った。

*12月7日:湖南省衡陽を18機が爆撃した。

*同日:福建省建甌を12機が爆撃し、31個の爆弾を投下。

*同日:江西省贛州を爆撃。(上記を含めていずれも飛行場とされている)

*12月8日:広西省桂林郊外を28機が二度に分けて爆撃し、多数の爆弾を投下。

【福建省建甌への連続爆撃】

*同日:福建省建甌を7機が爆弾40発で爆撃。建甌はこの年だけで60回、平均6日に一回爆撃を受けた。投下弾は353発で、その半分は焼夷弾だった。死傷者の数は455名と、前四年半の15倍にのぼった。焼失家屋は399軒。その他の物資、ガソリンなど、公私の財産の損失は甚大であった。(翌年は63回となる)

*12月13日:日本軍機は浙江省杭州市建徳県の寿昌鎮、更楼鎮に多数の爆弾と焼夷弾を投下し、寿昌鎮の西湖から中山道の両側にある200軒余りの家屋が全焼し、更楼鎮の家屋の大部分が焼失した。

*12月15日:広西省桂林飛行場を爆撃し、大型機4機を破壊。

▽ 日本軍第11軍司令官塚田攻中将他将校9人は、飛行機で南京から漢口への帰途、安徽太湖県境上空で、大別山に駐留する中国軍第138師団の高射砲部隊に撃たれて墜落し、全員が死亡した。

△ 12月19日、この撃墜を受けて日本軍は大別山南の中国軍部隊を攻撃し、大別山戦闘が始まった。

△ 12月21日、天候不良で桂林爆撃を中止。

*12月24日:三機が湖北省黄岡市の李婆墩の上空で偵察しつつ、急降下して機関銃で民婦の柳氏など二人を射殺。

*12月25日:雲南省雲南駅飛行場を爆撃し、約10機を炎上させた。

*12月26日:17機が雲南駅を爆撃、17人が死亡。また大理州祥雲飛行場で地上の6機を破壊、空中戦で5機を撃墜したが、日本軍は数機が撃墜された。

*12月27日:連続で雲南省祥雲県の飛行場を爆撃、25人が死亡、12人が負傷。

*12月29日:広東省肇慶市を5機が爆撃し、市街地に30数発の爆弾を投下した。

*12月下旬:1938年10月に占領した河南省信陽を拠点とし、陸軍の中国軍への大別山作戦に協力して翌月まで爆撃を続ける。

【米軍による一大航空輸送開始】

◎ 5月の日本軍のビルマ(ミャンマー)占領により、雲南ビルマ道路による中国への軍事物資、石油、その他の貨物を輸送が閉ざされ(すでに中国の湾岸は日本軍によって閉ざされ、船による物資輸入はできなくなっていた)、4月にはアメリカ陸軍航空隊に India-China ferry が創設され、英国とインドの英連邦軍の協力と、中国航空隊も加わって、国民政府は継続的な空中補給の支援を受けることに同意した。ただしこの計画はインドからヒマラヤ山脈を越えていく以外に道はなく、当時の航空機の性能からすると積載重量の問題もあって非常に危険な方法であった。12月になり米軍のC-87やC-109輸送機の到着により比較的低い山頂(4500m ~ 5000m)まで直接飛行できるようになり、「駝峰航路(ハンプコック航路:The Hump)」として本格的輸送作戦が始まった。これはヒマラヤ山脈の駱駝のこぶのような峰々に沿って飛行していくために名付けられた。それでも全長800kmの輸送は困難を極め、山頂上空では結氷状況に遭遇してコントロールを失うこともあり、高地への着陸の失敗なども含め、アメリカ政府の統計によれば、1942年4月から1945年8月までの中国援助空輸の中で、各種の戦争物資65万トンを空輸したが、その間米空軍は500機以上の航空機(初期のC-46やC-47を含む)を墜落させ、468機の米国機と46機の中国機を失い、また合計で1500人以上が犠牲となった。(中国のサイト「維基百科」より簡約)

昭和18年(1943年)

 前年からはほぼ陸軍航空隊の空爆であるが、陸軍の主要重爆撃機は太平洋戦争に回され、中国内は軽爆撃機による空爆が多くなる。中国南部における1月の天候は12月よりも悪化し、空爆の機会がより少なくなり、当面その戦力を中部に向けることになった。一方で米軍からの中国国民党軍への支援が活発になり、その連合飛行隊による爆撃を中国駐留日本軍は多く受けるようになる(対日本軍への攻撃は▽で示す)。なお、日本軍は太平洋戦争においてその大半の戦力を注いでいるように一般的には思われているが、中国における兵力は減らしていず、日々各地に攻撃を仕掛け、国民政府軍と共産党軍との戦闘を続け、日々相互に数百人単位の犠牲を出している。ただしここではそのわずかしか取り上げていない。

1月

*1943年1月1日:12機が江西省贛州市を爆撃し、多数の焼夷弾も投下、市街各所で大火が発生した。

【六安市金寨県への爆撃で600人が死亡】

*1月2日:午前8時、安徽省六安市金寨県の楊家灘に突如として敵機三機が来襲、急降下しつつ投弾、機銃掃射し、人々は逃げ惑い楊家灘の谷に爆音が轟いた。楊灘は南から北まで火の海となり、家屋、家具、商品などはすべて灰になり、約600人が死亡した。爆破された楊灘の小集落は焼け野原となり、死体は無惨に血まみれになって横たわっていた。楊家灘、北側の青蜂嶺頭と嶺北上硌子の二カ所だけで二百余人の老若男女が爆殺され、数日間死体は放置された。お産したばかりの若い女性が生まれたばかりの赤ん坊と一緒に死に、老油坊の路傍で爆死した20余人の死体の中に、死んだ二人の子の手を両手でしっかりと握っている女性がいた。臼馬寺通りには20数人の避難者が群がっていたが、そこに日本機は一個の爆弾を投下して去った。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

 続いて日本軍は金家寨を陥落させ、3日間にわたって焼き討ちと略奪を繰り返し、焼失した機関、商店、学校、民家は1万軒以上で家屋と公私の財物は灰燼に帰し、逃げ遅れた64人が殺害された。また多くの婦女が強姦され、20数名の女子中学生が強姦された後、恥辱に耐えられず留利坪で自殺した。5日、日本軍は金家寨から葉家集、固始、商城へ向かった。(中国側のサイトより)

*同日:福建省三明市永安県を30機が爆撃し、郊外に150発以上の爆弾を投下し、20数人が死傷した。(そのうちと思われるが)約20機が永安の燕渓畔及び江濱路一帯に約30発の爆弾を投下、10棟以上の家屋を破壊し、住民10人以上が死傷した。

*1月初旬:石角の日で広東省清遠に行商人が集まっていた。三機が突然来襲、低空で爆弾を投下、50人が死傷した。北江河畔の船は爆破されてばらばらになり、砂浜には数十人の犠牲者の死体が並べられた。

*1月4日:正午、広東省韶関市楽昌を24機が襲撃し、市内各地で出火、燃え上がり、74人が死亡、300人以上が負傷し、2000軒以上の家屋が破壊され、街の中心地の半分が失われた。

*同日:広西省桂林を21機が爆撃し、100発以上の爆弾を投下した。

*1月5日:20数機が広東省韶関市の風風路(繁華街)、河西、黄田ダム一帯を爆撃した。韶関市街区は一面火の海となり、商店、家屋の2500間余りが爆破され、73人が死亡、90人余りが負傷、数万人の被災者が出た。

*同日:江西省贛州を爆撃。

◎ 1月5日、米、英、ソ、中等18カ国がロンドンで共同宣言を発表し、日独伊の枢軸国の略奪と残虐行為に抗戦し、闘う決意を表明した。

〇 1月6日、日本の経営する鶴岡炭鉱南岡の三つの坑道でガス爆発があり、日本の管理者は炭鉱設備を火災から守るためとして労工たちが坑内から脱出する前に出口を閉鎖した。このため94人が死亡したが、閉鎖された出口の手前に多数の遺体が折り重なっていた。

*1月9日:広東省韶関市曲江、肇慶市四会、広西省梧州を爆撃。

▽ 1月10日、中国空軍は湖北省襄陽市の襄河荊門の日本軍飛行場を襲撃し、8機を破壊。

▽ 1月11日、日本の軍艦7隻が護衛する穀物輸送船60隻が上海の呉淞口海で連合軍潜水艦の攻撃を受け、日本の軍艦5隻と穀物輸送船はすべて撃沈された。

▽ 1月12日、中国空軍が長江一帯を偵察し、宜昌南東で日機1機を撃墜した。

〇 1月15日、12月中旬から始まった湖北省北東部の大別山戦闘が終了した。、日本側の死傷者は1万人に達したとされる。

*1月16日:雲南省大理州祥雲県雲南駅を爆撃、2人が死亡、4人が負傷。

▽ 1月16日、米軍機は雲南省滇西で日本機と空中戦し、7機を撃墜。

*1月13日:午前十時頃、三機が広東省清遠城上空で数回旋回し、爆弾6発を投下した。そのうちの1弾が椋油巷の曹宅小学校内の防空壕に命中し、壕の入り口が土砂でふさがれ、小学生20人余りが窒息死した。

*1月19日:雲南駅飛行場に向かい地上の7機を爆破。

▽ 1月22日、広東省順徳県馬寧付近で、中国軍機雷隊は日本の千トン砲艦1隻を撃沈した。

*1月28日:山西省趙城に毒ガス弾を投下。

〇 1月28日、中国共産党山東支部は、中央に対する報告で、山東には日本軍が3.7万人、傀儡軍18.8万人だが、国民党軍は17万人から9万人に下がり、敵拠点は3300カ所に達した(年間1200カ所増)とした。

*1月29日:福建省漳州を3機が爆弾投下。東閘口一帯を爆撃して、数名が爆死。

【日本軍の作った強制収容所:「集家並村」と「無人区」政策】

 1月、日本軍は満州の熱河省青龍県で軍警を大量に動員し、「集家並村」を推進した。全県の1686の村の1219カ所が取り壊され、「無人区」を作り、16.6万人が358の「人圏」に追い込まれた。
 筆者注:これは日本軍のゲリラ対策の一つで、村ごと家々を打ち壊しあるいは焼き払い、一つの地区にまとめて移住させ、さらに塀で囲い込み、その周辺に広い無人地帯を作って日本軍が住民を管理しやすくするための策であった。これは満州事変後に関東軍が満州の各地区に対して行なった「集団部落」政策と同じで、抗日ゲリラ隊と各村の住民を切り離すために作られた強制収容所であり、農民たちに何世代にもわたって耕してきた土地と家から追放され、指定された部落への移住を強制され、拒否した農民は惨殺された。当然移住した農民たちは24時間監視され、農作物の収穫は激減し、疲弊の極みに達した。その中で日本軍は好き放題に略奪、暴力、殺人、強姦を繰り返した。それにしても大規模で非道極まる蛮行であり、こうした事実もわれわれ日本人は知らない。

2月

*1943年2月2−3日:福建省永安と湖北省老河口を爆撃し、数十人の死傷者を出した。

*2月5日:安徽省亳州市渦陽で銃爆撃。

*2月7日:陝西省安康市を急襲、飛行場と付属設備を爆撃。

*同日:3機が、広東省清遠城上空に侵入、交代で急降下して爆弾を投下。爆弾は南門大街第一鳥居付近に落ち、家屋七、八軒を破壊し、愛群旅館も爆破された。日本機が去った後、保甲訓練隊が発掘救助を担当し、瓦礫の中から10数人を救った。

*2月8日:広西省桂林を60機が午前8時から午後2時までに3回爆撃し、西南郊外に100発以上の爆弾を投下した。

*同日:湖南省の衡陽を爆撃。

*同日:陝西省の安康、渭南市富平を爆撃。

*同日:湖北省宜昌付近の揚子江岸三斗坪の輸送船団を爆撃、2隻を大破させ、大型民間船を撃沈。別途、湖北省恩施巴東付近で輸送船4隻を撃沈。

*同日:午前10時、12機が陝西省漢中市南鄭県を爆撃。さらに9機が同市西郷県城を爆撃、まず機銃掃射を行い、後に爆弾30発(うち時限爆弾5発)を投下し、住民6人を爆殺、多数に重軽傷を負わせ、また西郷中学校の教室や広慶寺街、民家が多い小東街の他、無数の建物が被害を受けた。

*2月9日:広西省柳州・桂林、湖南省永州市零陵を爆撃。

*同日:河南省三門峡市盧氏県、湖北省襄陽市老河口を爆撃。

*2月10日前後、湖南省衡陽、安徽省徽州を爆撃した。

*2月11日:広西省桂林を24機が爆撃し、40発以上の爆弾を投下し、さらに低空で住民を機銃掃射した。

*同日:18機が広西省柳州市を爆撃した。

【一つの村の壊滅】

*同日:河南省平頂市を爆撃した。この日は黄山の諸庄・武庄の二つの村の祭りで、黄山の上空でしきりに旋回していた日本機は人の群れを見つけると、まず機関銃を乱射し、その後は爆弾と焼夷弾を降り注いだ。一瞬の間に、諸庄も武庄も一面の火の海となった。この大惨事で、住民の275人が死亡、傷痍者はもっと多く、家屋はほぼ壊され、牛、ロバ、ラバ、馬は200頭余り、豚、犬、鶏、鴨はほとんど残っていず、二つの平和な村は壊滅した。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

*2月12日:広西省柳州市を爆撃。

▽ 江西省奉新陽仙嶺で中国軍が日機1機を撃墜した。

*2月17−20日:湖北省荊州市洪湖県の百千橋、峰口、三官殿などを80機が爆撃、800を超える爆弾を投下し、1300人以上が死傷、家屋1500棟を破壊した。

*2月20日:日本軍は19日に江蘇省塩城市阜寧、東贛を占領し、艦艇で沿海港を封鎖、この日、飛行機が爆撃支援し、塩城市八灘、六合荘地区に向かって進撃した。

〇 20日、山西省倫陥区陽泉でこの日から飢餓民300余が日本軍司令部を3日間包囲し、日本軍が略奪した食糧の一部を奪回した。各地の被災者は相前後して陽泉駅に1万人以上押し寄せ、駅の食糧庫は被災者に破壊された。

△ 2月21日、日本軍は広州湾を占領した。

*2月23日:天候回復により四川省重慶梁山攻撃に向かうが、誤認して陝西省安康を爆撃。

*2月24日:改めて17機で梁山(現・梁平区)に向かうが、飛行場に軍機の姿がなく、三隊に分かれて航空廠等の施設、万県では市街地や船舶運航施設に爆弾28発を投下、13人が死亡、17人が負傷、家屋271軒損壊。別の一隊は米軍機P43と交戦、一機を撃墜した。

3月

*1943年3月1日:湖南省岳陽市華容県の扇子を爆撃。焼夷弾と爆弾を40個以上を投下、一時間にわたって機銃掃射し、住民と国民党軍の将兵を30人余りを殺害し、家屋300軒余りを破壊した。

【全村民の60%の死者】

 3月1日、山西省大同市霊丘の上北泉を占拠した日本軍隊長の佐藤は日本軍70−80人、漢奸10数人、清郷隊(工作隊)50数人を引き連れ、劉荘一帯を襲撃掃討した。村に入った後、戸毎に侵入し、刀や銃を手に老若男女200人以上の村民を村の裏手の西に追いやり、機銃掃射によって殺害した。さらに日本軍は家々に放火し、家屋の1500室が焼かれた。劉庄では村民243人が殺害され、死者は全村民の60% に達し、35戸の家族が断絶となった。(『侵華日軍暴行総録』山西省編)

*3月3日:湖南省洞庭湖北方の揚子江上の船艇16隻を撃沈。

*3月7日:一機が湖北省荊州市公安県南平東門、港関一帯を爆撃。数発の爆弾を投下し、国民党軍兵士を爆死させた。別の一機が汪家漢に飛来し、数発の爆弾を投下、広大な田畑を破壊した。この後8日朝から日本軍は南平を攻略し、9日午前8時に県城を陥落させた。日本軍は小山大尉が率いる一個中隊約400人で占領、毎日数十人を農村に派遣して、捕虜を虐殺し略奪を重ね、婦女を強姦した。ある日、章荘鋪で民家30軒を焼き、多くの罪のない住民を焼き殺した。日本軍が南平鎮を占領している間、殺害した男女45人のうち、先に強姦してから殺害した女性は35人であったが、唐慧春、唐三妹の姉妹二人は、日本軍兵に追いつめられ、姉妹共に腕を組んで川に身を投げ水死した。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*3月9日:9機が陝西省南鄭県城を爆撃。

【2年半の占領で虐殺された住民1万4056人】

*同日:湖南省岳陽市華容県の扇子拐を3機が再爆撃。10人余りが死亡。翌日10日も華容を爆撃しつつ、華容県城を占領、13日には梅田湖、扇子拐、墨山、南山などを占領した。ここから日本軍が投降する1945年8月までの2年半の占領の間、住民1万4056人を殺害、このうち1943年5月に日本軍が漢寿工場で行った大虐殺では、華容の犠牲者6400人以上となり、婦女2278人を強姦、牛、家畜1万7000頭以上を略奪し、食糧3万8700荷以上を奪った。日本軍は華容県城の周囲2.5km以内の民家、学校、祠廟をすべて燃やして破壊し、南山を占領する時、彭家橋から南山沿線で、一度に254軒の民家を焼き払い、さらに2万担(1担=50kg)を貯蔵していた20棟の倉庫に火を放って破壊した。また日本軍は墨山、七女峰などの要害の高地を占拠した後、拠点付近の道路の両側にあった民家100棟以上を一斉に焼き払い、三郎堪では耕牛380頭以上を奪った。日本軍はたびたび掠奪のため村を襲い、村民は県内の桃花山、晋竹溝などの深山密林の中や岩穴の中に逃げ隠れたが、飢えのために死んだ人も多く、野獣に襲われて死亡した人もいた。毛家嘴では日本軍は逃げる村人の胡神保、胡炳泉の2人を捕まえて、ロープで彼らを大木に縛り付け、木の下に家具を積み上げてガソリンを撒いた。日本軍はまず真っ赤に焼けた鉄製の熊手を彼らの顔に押しつけ、2人の顔を本人と判らなくなるほど焼き、眼球も飛び出した。最後は家具に火をつけ、2人を焼き殺した。毛家嘴では日本軍は一日のうちに罪のない村民16人を虐殺した。扇子拐では村民の劉じいさんと長男の嫁が日本軍に捕まって、息子と孫の3人が救おうとしたが、全員が殺された。劉家の嫁は姦された後に銃殺された。北景港に駐屯していた日本軍の山崎少佐は、一人の農婦を強姦し、焼けた鉄の棒で被害女性の陰部を刺して殺した。ここに駐屯していた日本軍は「維持会」を作らせ「慰安所」を設置するよう強要し、捕まえてきた一群の若い女性に番号をつけ、日本軍に日夜姦淫させた。前後して10人以上が拷問されて死んだ。このような虐殺の例は数え切れず、統計によると県内では計1万4056人が死亡、2459人が負傷し、経済的損失は2011億元(法貨)に上る。(『侵華日軍暴行総録』湖南省編)

▽ 3月11日、米国陸軍スティーブンソン将軍は、駐中国米空軍を駐中、印、ビルマ米軍第14航空隊に改編すると発表した。

*3月13日:江西省玉山を二度、他に広西省桂林、雲南省昆明を爆撃。

*同日:8機が広西省桂林南郊梧州の広西大学から良豊行きのバスを機銃掃射して、15人の死傷者を出した。多くの人がバスから出て逃げたが、車や道端にの影に隠れていた乗客に向けて掃射した。

〇 国民政府軍事委員会は「抗戦の6年間で、敵は116万8千人の兵力を動員し、わが捕虜の5分の1を殺害した」と発表した。

*3月16日:24機が三波にわたり重慶の万県を爆撃、住民数人が死傷、 盤盤石に停泊していた木船28隻を爆破、低空での機関銃掃射も行い41人が死亡、51人が負傷、57間を破壊した。

*3月16−17日:湖北省老河口付近の司令基地と巴東の江上の船舶や軍事施設・資材を爆撃。

*3月17日:8機が重慶の梁山に飛来、機銃掃射を行う。

*3月18日:9機が湖北省荊州市公安県閘口鎮を爆撃。西堤街、上河街、中心街、堤月街、東堤街、土地巷と新旧茅草街の家屋1000軒余りを爆破し、300人余りの死傷者を出した(同年、閘口鎮は前後12回にわたって日本機の爆撃を受けている)。

〇 3月23日、ルーズベルト米国大統領は、日本が中国で毒ガスを使用している状況を調査すると宣言した。

〇 同日、米赤十字社は、5万米ドルを中国赤十字社に寄付し、「戦時責任として協力する」と発表した。

*3月30日:浙江省麗水を10機が4回に分けて爆撃し、60発以上の爆弾を投下し、20名以上が死傷した。

*3月某日: 朝、 27機が湖南省永州市冷水灘に飛来、交代で宝光寺に爆弾を投下し機銃を乱射、国民党の初年兵師団は朝食中で避難しきれず、死傷者は将兵300人以上に上った。

【日本のアヘン拡大政策】

 日本政府は東京でアヘン会議を開き、満州国と内蒙古をアヘン生産の主要地域とし、アジア全域へアヘンを供給することを決めた。奉天省で200ヘクタール、四平と吉林省に400ヘクタールを植栽することを指定した。 もともとアヘンを栽培していた熱河省は1000万−1400万両(1両:50g)の生産量を規定している。

4月

*1943年4月1日:福建省南平市建甌を爆撃。

*同日:湖南省永州市の零陵を爆撃、上空で米軍機と交戦、お互いに4機ほどを撃墜。(米軍は7機を撃墜ともある)

*4月2日:続けて零陵を爆撃。

*4月3日:数ヶ月ぶりに重慶を猛爆。

▽ 4月5日、陥落した山東省泰安駅では4000人以上の飢えた住民たちが、日本軍から大規模な食糧強奪を行なった。

△ 日本軍3万人余りが10路に分けて太行山の八路軍根拠地区に対する掃討作戦を開始した。10日間の激戦を経て、八路軍は日本軍の将兵2000人余りを殺傷し、人民1300人余りを解放した。続いて11日、山西省の西太行山で激戦があり、日本軍は太行山根拠地を破壊し、中国の新5軍は崩壊、第24軍の死傷者は4000人、日本軍の死傷者は約5000人となった。この日本軍の太行掃討作戦は9月まで続いた。

*4月8日:福建省建甌飛行場を爆撃。

【満州における金属回収令】

〇 満州では『金属献納強調要領』を制定し、いわゆる「大東亜聖戦」を支えるために(日本と同様の)金属回収令を打ち出した。

▽ 4月9日、広東省湛江市西営(現・霞山区)を米軍機が攻撃。

*4月中旬:日本軍が占領している武漢周辺への地上軍掃討作戦に協力して爆撃。

*4月中旬:江蘇省泰州市泰県(現・姜堰区)への掃討戦に協力して爆撃。

〇 山西省の太原鉄工所の労働者がストライキを行い、その後多くの労働者が工場から逃げ出し、脱出者だけでも1400人に達した。

*4月20日:この日以降の山西省の太行作戦において、毒ガス弾が投下された。

【日本機の多大な喪失】

▽ 米軍は4月前半に西南太平洋で日本機128機、日本軍艦、貨物艦19隻を破壊したと発表した。米軍機の損失は25機で、日本機と比較して1と5の比となった。

*4月20−21日:19機が陝西省南鄭県城を連続爆撃。

*4月23日:浙江省鎮海を爆撃。1937年8月からこの日まで、日本機は鎮海へ315回の爆撃を行い、1052発の爆弾を投下、2311軒の家屋が破壊され、1469軒の家屋が倒壊、住民156人が死亡、153人が負傷した。

*同日:安徽省阜陽市三里湾を爆撃。

▽ 4月24日、米軍航空隊の中国人飛行士がビルマの日本軍基地を初めて襲撃した。

*4月24日:44機が永州市零陵の米空軍基地を空襲、上空の交戦で3機を撃墜、自軍も数機失う。

*4月25日:山西省晋城市陵川県を爆撃。この時毒ガス弾も投下された。

*同日:安徽省阜陽市潁州を爆撃、まず西南関から花鼓楼を爆破し、家々を焼き尽くした。

【ビルマから中国への爆撃】

*4月26日:(ビルマの日本軍基地から)雲南省会駅飛行場を爆撃。

*同日:雲南省大理州祥雲空港を爆撃し、398人が死亡、371人が負傷。

*4月27−28日:広西省桂林市の東桃を連日爆撃。

*4月28日:(同じくビルマから)45機が雲南省の昆明の米軍飛行場と周辺の村を爆撃し、爆死57人、負傷44人、家屋の全半壊270戸であった。ただし日本機は18機の損失を受けたが、日本の大本営は5月1日、米機5機を撃墜し、地上で破壊した米軍機は41機であると発表した。

*4月29日:再び31機で昆明の米軍基地を爆撃、桂林地区の米空軍を後方に移動させた。

*同日:32機で湖南省零陵を襲撃、地上の小型機2機を爆破、ただしこれは偽飛行機と疑われた。

【25万人の住民を強制移住】

△ 4月、日本軍は河北省承徳市灤(らん)平県で「大集家」(集家並村:村から人々を追い出し一つの地区にまとめて囲い込む)を完成させ、4万3576戸、24.5万人余りの住民を543の「人圏」に囲い込み、230平方kmの「無人区」を作った。(1月末の注釈参照)

5月

*1943年5月2日:47機が湖南省零陵と衡陽を襲撃したが、米軍機に追尾され、7機が撃墜され、7機が損傷、連合機を1機撃墜した。

*5月4日:福建省の建甌を爆撃。

▽ 同日、米軍機B24が日本軍占領の海南島に来襲、海軍の燃料庫が被害にあった。

*5月5日:河南省南陽市内郷県城の高速道路に中国軍用の麦を積んだ車が延々と走り、西崗から東坡まではほとんど先頭が見えなかった。そこに日本機6機が低空で飛来し、特に軍用車両を乗せた車に6発の爆弾と機関銃を次々に撃ち落とし、自動車上の兵器が爆発して炎上した。沿道の牛車は180台以上が爆破され、爆死し、怪我をした牛は道に沿って数え切れないほどであった。午後はまた3機が飛来し、再び爆弾と機銃掃射で、18人が殺され、34人が怪我を負い、死傷牛76頭、牛車50台を壊し、その他軍用車と軍麦、軍用物資の一部を爆破した。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

【江南殲滅作戦】

△ 同日、日本軍は「江南殲滅作戦」または宜南作戦、中国では鄂西(湖北省西)会戦を開始、洞庭湖西方の長江南岸地域の中国軍の撃滅を図った。

*5月6日:午前6時、2機が湖南省常徳市津市を侵犯、南岸の襄陽街に10数発の爆弾を投下、住民8人を爆死させた。

*5月7日:江西省贛州、湖南省零陵を爆撃。

*5月8日:湖南省の零陵を含めた各地を6回にわたり爆撃し、5回目の7機は長沙を爆撃、数十発の爆弾を投下し、民家や商店百余棟を破壊し、民間人20数人を死傷させた。

【湖南省廠窖における大虐殺】

*5月8−11日:陸軍の作戦(江南殲滅作戦)に協力し、洞庭湖西方長江南岸地域を連続爆撃。この後も戦闘は続き、湖北省の宜昌下流の高家堰、流渓、謾頭咀、竜舟坪、枝江南方などや湖南省益陽市廠窖の鶏窩嶺の両岸地域は多数の船舶が行き来し、それを毎日10数機が爆撃、急降下低空機銃掃射を交代で繰り返し、船舶民の大部分が死傷、さらに焼夷弾投下によって多くの船は大火を起こし沈没した。西河口に駐屯していた国民党軍は日本軍の奇襲挟撃を受け、多くが戦死した。一部の国軍は西洲尖子などから河を渡り、漢寿酉港方面に撤退したが、水面に小洲が散在し、河漢が縦横に流れていたため、渡河が困難になり、日本軍の水、陸、空からの挟撃を受け、その死傷者の様子は悲惨を極めた。屍は野や河にあふれ、西洲の両側の水域を漂い、流れに乗って東下し、草尾の河口に入った。上流の廠窖の方から流れて来た死体は、大部分が河川の防壁の上で迂回して浮沈していた。この陸軍の作戦により湖南省常徳市(益陽市に隣接)では中国軍と民間人3万2000人が死亡、日本軍の死者は771人。特に南県の廠窖鎮では三日間で3万人余が大虐殺される惨事を引き起こした。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

 「3万人余」とはただ事ではない数字なので、中国のサイト(百度百科)の記事からの要約は以下である。

 —— 1943年、中国の大地はすでに6年もの間、至る所に狼煙が立ち込めていたが、災難が続くなか中国の庶民は依然として命をつなぐために忙しく働き、湖南省南県廠窖鎮の農民たちは風習に従って田植えをし、湖に入って漁をして生活していた。1943年、太平洋戦争で劣勢に陥った日本軍は、中国政府に降伏を迫ろうと「江南殲滅戦」を発動し、宜昌から武漢までの長江航路を打開し、中国の穀倉奪取と大量の船舶積載物資を強奪する目的で、5月5日から6月10日にかけ、中国派遣軍第11軍横山勇司令官率いる5万人余りの兵力を送り込んだ。日本軍の計画は荊江南岸と洞庭湖北岸の間に駐屯する国民党の野戦部隊を殲滅し、宜昌−武漢間の軍事航路を確保することであった。これに対し防御する国民党第73軍などは南県で激しい防御戦を行ったが、9日までに5000人余りの死傷者を出し、廠窖方面にいったん退却した。しかし日本軍は先に水陸から包囲網を作り、国民軍の退路を遮断した。その逃避先の廠窖には先に戦場からの避難民も多く逃れていて、廠窖の村々にかくまわれ、身を隠した。

 廠窖は三方が水に面し、南北10数km、東西約5kmの半島のような形をしていた。そこに日本軍独立混成第17旅団約3000人とモーターボート60隻余りが、先遣部隊として廠窖地区に向け水陸からの殲滅作戦を展開した。第73軍の潰走兵約1万人と近辺の戦場から逃れてきた2万人余りの避難民と現地の2万人余りの住民を加えると、5万人余りがすべて日本軍の虐殺対象となった。虐殺は5月9日から始まり、1日平均1万人以上が虐殺された。5月10日、約6000人の難民が黒洲子の堤防西部へ逃げ込み、まず戦闘機が爆弾を投げ込み、急降下掃射を行い、続いて歩兵が群衆に手榴弾を投げ込んだ上で機関銃掃射、それから騎兵が群集の中に突入し、刀を振りまわし、馬の脚を血で染めた。虐殺の後、日本軍は死傷者をすべて川に投げ込み、川の水は濃い血漿水となり、後にここは「血の貯水池」と呼ばれるようになった。瓦連堤辺の肖家村の27世帯の129人は、日本軍に皆殺しにされ、1人の生存者もいなかったため、人々はこの堤を「絶戸堤」と呼んだ。さらに日本の船団は至るところで水上船民を追い詰め、廠窯の10kmの河線に封じ込められた2000隻の船は、ほとんど全部焼き尽くされ、河上は死体で埋め尽くされた。人間としての理性を失った日本軍は殺人を楽しみ、虐殺の手段は様々で、首を切る、皮を剥ぐ、死体をばらばらにする、腰を切る、腹を切る、熱湯を沸かす、目をえぐる、舌を切る、性器を切るなどだった。最もひどいのは女性と子供で、3日間で凌辱された女性は2000人余りに達し、虐殺された乳幼児は1000人近く、傷害致死者は無数に上った。虐殺が終わりに近づくと、日本軍は堤防を掘り崩し、水を引いて村人たちが育てた作物をすべて水没させ、すべての家屋を焼き払い、すべての船を破壊し、すべての財物を略奪し、寒さを防ぐための衣類まで奪った。人間の暴力には限界がないようであった。

 1カ月後、国民党『陣中日報』の記者・袁琴心が廠窯を訪れ、惨事現場の様子を次のように書いた。「両岸に黒焦げになった船が、魚を干すように並べられている。廠窖河に浮かぶ死体で、船が通れないようだ。船が川に向かって動くと、前後左右から死体が浮き出てきて、腐乱した肉体が船体のまわりにへばりついてしまう。埋められた死体は、数十人或いは百人余りが一つの穴に埋められ、それは至る所にあった。通りかかると臭気が漂い、骨が雨水に流され外に表れている。本当に悲惨だ」

 これに沿う形で作戦後、日本軍がまとめた戦果の概要は、中国軍の遺棄死体3万766、捕虜4279(兵器の鹵獲等略)。対して日本側の損害は戦死者771人と戦傷者2746人で、うち戦死者157人と戦傷者238人は空襲による損害であったとしているが、この空襲による損害とは5月末からの米中連合軍機の攻撃によるもので、そこから日本軍は南県から撤退した。

(ちなみに死者の内訳としては、廠窖の住民が7000人以上、南県・華容・安郷の難民5000人余り、武漢・岳陽・長沙などの遠籍難民1万2000人余り、国民党73軍は5000人以上、溺死や強姦による死など各地の民衆1000人以上とされている)

【荊州市公安県の受難】

*5月9日:1機が湖北省荊州市公安県界渓橋上を低空掃射し、10分間銃爆撃した。1938年11月から1943年5月にかけて、日本機が公安県城南平や水門などを交互に爆撃したのは28回に達した。

 —— 1943年3月9日、日本軍は公安県新口を攻め落とし、町内の住民200人以上を残酷に虐殺した。やがて日本軍は閘口鎮に進駐し、住民50人以上を一度に殺害した。5月9日、日本軍は県都南平を陥落させ、城内で3日間、焼殺・略奪を行った。罪のない住民80人余りを殺害し、うち女性35人を殺害した。7月、麻豪口の17歳の張満姑は、数人の日本軍に姦通され、川に投げ込まれて死亡した。東石郷の楊済敏ら6人の女性は日本軍の凌辱に耐えきれず自刃した。鄭公渡仙女廟の前で8人の女性が日本軍に湖の岸辺まで追いかけられ、手をつないで投水自殺した。10月、朱家嘴郷の70代の農民熊克仁は日本軍に捕らえられ、強制的に労役をさせられ、日本軍の獣行を罵倒して殺された。観音寺農民の葉治林は日本軍に捕らえられ、軍犬に半死に至るまで噛まれて生き埋めにされた。12月8日、章庄で三省橋を架ける時、一度に73人が焼死した。1945年5月、楊家嘴農民の楊家咀の農民である李賢臣、龔千、標ら8人は、日本軍に「匪賊隠匿」の罪で射殺された。同月、日本軍は永清浣泥別口の住民10人余りを殺害し、家屋18棟50室を焼き払った。三保浣漁民の鄒代は早朝に町へ魚を売りに出たところ、日本軍警備隊に刺殺された。日本軍の占領期間中、公安全県で日本軍に殺害された住民は1027人、重軽傷者237人、そのうち女性は31人、子供は14人だった。強制労働者3782人、女性130人、子ども914人。日本軍に強姦された女性は数えきれないほどいる。爆破、焼失、破壊された民家は5400棟、1万5000軒。占領区内は一面が荒れ果て、道路が寸断され人影はまばらとなった。

(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

▽ 5月9日、米軍航空隊は広州市街と天河、白雲両基地を空襲し、日本機21機を撃墜もしくは爆破した。この時期、米軍航空隊はP40戦闘機94機、B24爆撃機33機、B25爆撃機14機という構成であった。

*5月10日:3機が重慶万県を爆撃、被害は家屋損壊のみ。

*1943年5月12日:湖南省常徳、徳山を爆撃。

*同日:山東省臨沂市沂蒙山で戦闘が起こり、この日は航空機による交互爆撃が行われた。

*5月13日:数機が湖南省常徳市津市陽由垸、襄陽街、果樹園に多数の爆弾を投下、石油タンクや民家を爆破した。

*5月15日:(ビルマの飛行場から)雲南昆明の中米空軍基地などを爆撃した。14機を破壊し、6機を撃墜した。逆に日本機は15機撃墜された。別途、昆明の宿村も爆撃、死者は24人、重軽傷43人、家屋の全半壊210戸。

◎ 5月17−18日、太平洋合同参謀会議が開かれ、ルーズベルト、チャーチル、そして蔣介石の代理である宋子文が参加、ルーズベルト米大統領は中印空輸物資の増強を約束し、ビルマ反撃計画は年末に英国と実施すると明言した。

*5月19日:福建省の建甌、四川省重慶梁山を大爆撃。

*同日:1機が 湖南省常徳市石門県庁を爆撃、1人が死亡。

【中国空軍の反撃】

▽ 5月19日、(江南殲滅作戦の中)湖北省西方揚子江岸の日本軍は分数路で大規模な進攻を開始した。中国爆撃機は戦闘機の援護の下、枝江洋溪の日本軍の渡河点及びその補給基地を共同で攻撃し、爆弾を数トン投下し、日本軍に重大な損害を与えた。

*5月20日:建甌を連日で爆撃、また湖南省零陵と衡陽も攻撃。

*同日:四川省梁山を25機で三回にわけて爆撃、この襲撃は予見され、飛行場に軍機は見られず、代わりに市街区に爆弾75発、焼夷弾12発を投下、3人死亡、10人負傷、家屋37棟喪失。

【中国八路軍の反撃による日本軍の多大な損害】

▽ 八路軍(共産党軍)は白晋路の東側で機銃で日機1機を撃墜した。5月中旬から中国の連合軍が日本軍の攻撃に対抗し1カ月余りをかけて、合わせて2900余名の日本軍を殺害し、700余名を捕虜にし、1600余丁以上の武器を押収した。

▽ この時期、天候不良で日本機は重慶地域に容易に出撃できず。それを見越してか、21日、米中空軍爆撃機は宜昌の日本軍司令部及び軍事倉庫などの重要な工事を爆撃、迎撃して一機を撃墜。25日も宜昌が攻撃された。

*5月22日:雲南省昆明上空の空中戦で米軍機多数を撃墜。

〇 5月23日、中国宗教徒懇親会が重慶で設立された。同会は仏教、カトリック、キリスト教、イスラム教が連合して結成された宗教団体で、一致団結して日本のファシズム戦争に反対し、中国の抗戦を支持するとした。

*5月25日:山西省東部の太行山の麓の遼県に置かれた共産党八路軍本部に対し日本陸軍が太行作戦(4月下旬から5月)を行い、飛行隊が援助爆撃、八路軍の重要指導者が爆死した。(この年は中国北部河北省や山西省、山東省を中心として活動する共産党軍に対して殲滅作戦が行われていて、それぞれの作戦に「北支那方面軍」に属する飛行隊が協力していたが、その具体的な記録はあまり残されていない)

▽ 5月27日、米中空軍大編隊が湖南省北の長陽の日本軍司令部などの軍事目標を爆撃。

*5月28日:湖北省恩施、四川省万県を爆撃。

*同日:河南省孟津・鞏県などを爆撃。

▽ 同日、米中飛行隊は湖南省岳陽・臨湘の日本軍施設を爆撃。

*5月29日:36機が四川省の梁山の飛行場・県城・城西郷・天竺郷・雲陽などを爆撃、機銃掃射で2人死亡、5人負傷。洞窟に避難した住民で圧死事故があり、3人死亡。

*同日:河南省洛陽市を爆撃。

▽ 5月29日、太平洋戦争でアッツ島の日本軍守備隊は、上陸したアメリカ軍と17日間におよぶ激しい戦闘の末、玉砕した(戦死 2371、生存=捕虜29名)。

*5月30日:12機が2回に分けて河南省の盧氏、霊宝などを襲撃した。さらに翌日の正午まで、12機が順次黄河渡口に沿って偵察を行い、偃師(えんし)境内に投弾した。

▽ 同日、米中空軍は大編隊機をもって作戦に協力し、日本軍の占拠する湖北省宜昌と荊門、白螺磯の飛行場を爆撃し、日本機23機を撃墜し、8機を撃破し、重大な損害を与えた。迎撃した日本軍はB24に損害を与え、P40、3機を撃墜。

*5月30−31日:河南の孟津・鞏県・洛陽、四川の成都・雲陽・梁山を連日空襲。

*5月31日:内モンゴルの包頭に毒ガス弾を投下。

*同日:午前、9機が湖南省常徳市石門県城を爆撃、27発の爆弾を投下し西門巷の全ての商店や民家など計35棟を焼失した。

*同日:湖北省宜昌上空の空中戦で米軍機6機を撃墜。(もうこの辺りでは日本軍自身の損害はほぼ記録されていない)

*5月某日:2機が福建省南平市建陽県に数発の爆弾を投下、そのうちの1発が民家に落ち、住民4人が爆死、もう一発は大街に落ち、徐斯庭の染色工房が爆破された。

6月

*1943年6月1日:河南省洛陽市の偃師(えんし)周家山・孟津・白鶴等を爆撃。

▽ 中国空軍爆撃機は湖北省宜昌付近の日本軍の軍需品や船舶を爆撃した。

*同日:山西省呂梁市の孝義を爆撃。

【中国軍の反攻】

〇 国民政府軍事委員会の発表では、5月18日に日本軍が湖北省西部に大挙して侵攻(江南殲滅作戦)して以来、30日までに中国軍は全面的な反攻に転じ、激戦は31日正午まで続き、日本軍は全線で撤退して、総じてここまで、日本軍の死傷は3万人以上で大勝とした。

*6月2日:河南省洛陽市偃師周家山および孟津、白鶴などを爆撃した。

▽ 同日、中国空軍は湖北省宜昌、宜都一帯で撤退する日本軍を激しく爆撃、また機銃掃射した。

*6月3日:四川省重慶梁山飛行場に18機が急襲、爆弾60余発及び低空の機銃掃射で13人死亡、8人負傷。地上機と空中戦などで11機を撃墜、日本機は2機撃墜された。

*6月3−4日:河南省孟津、偃師一帯を爆撃した。

*6月5日夜、陝西省南鄭県城を爆撃。

*6月6日:四川省の梁山飛行場を20機が奇襲爆撃し、爆弾48発で地上のP40型米戦闘機を15機、車両10台を破壊、将兵6人が死亡、上空の交戦で1機を撃墜、2機が撃墜された。また湖北省恩施の飛行場も攻撃したが、迎撃に遭い、一機を失った。中国側の記録では 日本機は「飛行場と県城を爆撃、13人が死亡、8人が負傷、民家4棟を爆破した」。

 梁山県(現・重慶梁平区)では1938年10月4日より、この日まで日本機の爆撃は49回行われ、633人死亡、930人負傷、家屋2477棟が破壊、焼失した。

*同日:湖北省荊州市江陵県の長江堤防沿いにある郝穴鎮を8機が交互に三回爆撃し、四千人に満たないこの小さな町で158人が死亡、家屋53戸が破壊された。

▽ 6月6日に山西省東南の和順、遼県などで、八路軍は「食糧奪還出撃」を幅広く展開し、食糧強奪をした日本軍拠点を包囲攻撃し、この日から24日までの18日間で120回以上の作戦を行い、日本の傀儡軍1192人を殺傷、237人を捕虜にし、食糧5万斤余りを奪還した。

*6月7日:湖北省荊州市公安県で日本軍は河西を隔てて退却できず、そこで日本軍の3機が国民党軍陣地を急襲、さらに付近の村に数発の投弾を行い、日本軍が川を渡るのを援護した。このほか、日本機は沙口市、胡家廠、何家潭などに爆弾を投下し、家屋数棟を爆破、多数の住民を殺害、負傷させた。

*同日:宜都の日本軍は包囲され、日本軍は飛行機で援護し、包囲を突破するために毒ガスを使用、東へ逃げた。

〇 「江南殲滅戦」(宜南作戦:鄂西会戦)において、この日からの中国軍の猛攻撃により日本軍は崩壊、双方は5月5日の元の態勢を回復し、会戦は終了した。

【満州における金属回収の成果】

〇 満州のチチハル当局は、軍需のために市民に金属の納入を強要していたが、この日チチチハルの神社で献納式を行い、鉄鋼19トン、銅1トン、合金類51トン、その他の金属72トンが計上された。

◎ ルーズベルト米大統領は、独、日に毒ガスを使用しないよう再警告した。

*6月10日:湖南省衡陽の飛行場を爆撃、地上の5機を破壊、迎撃隊と交戦となり4機を撃墜、2機を失う。

▽ 同日、米軍機が湖北省荊州市沙市と湖南省岳州(現・岳陽)の日本軍基地を攻撃、日本軍は追尾しつつ上記衡陽を攻撃した。

*6月13日:河南省洛陽一帯を攻撃した。

*同日:6機が広東の肇慶を爆撃。

*6月14日:江西省贛州、吉安市遂川を爆撃。帰路途中、一部の編隊が米軍機P40の攻撃を受け、3機が撃墜された。また日機32機が江西省宜春市樟樹で連合機8機と遭遇し、連合機は少なくても日機6機を撃墜した。

*6月17日:5機が湖北省荊州市江陵県唐朝の資福寺を爆撃し、焼夷弾数十発を投下し、寺も街も一面の火の海となり、18時間、その惨状は目に余った。

*6月21日:3機が江西省贛州、吉安市遂川に対し機銃掃射を行い、1機撃墜され、飛行士1名が捕虜となった。

△ 同日、台湾で陸軍志願兵第2陣1030人が日本軍に入隊した。

*6月22日:午前十時ごろ、福建省南平市光沢県を爆撃し、西門の外で33人を爆殺、52人を負傷させ、焼夷弾により西門から西橋頭の端まで、全部で約70棟の家々を焼き払い、百軒の家を破壊した。

*同日:湖南省衡陽を爆撃。
△ 6月24日、河北省定県(定州)の日本軍300人余りは定県の43の村を包囲し、7日間にわたる「駐屯掃討」を行った。32の村の統計によると、3000人余りが捕縛され、1189人が非道な暴行を受け、1568人が殴打されて障害を負い、数十人が殺害された。

*6月某日: 山西省呂梁市交城に侵攻する日本軍を援護爆撃、麻会村で数十人が死傷。その後日本軍の掃討作戦で、全村の家屋はほぼ全焼、家畜や食糧や衣服は全て略奪され、生産農機具はことごとく破壊され、全村の59人が殺された。

【続く「集家並村」という強制移住政策】

〇 6月、日本軍は熱河省興隆県で4カ月間にわたって非人間的「大集家」(集家並村:家々をまとめて追い払い一つの地区に囲い込む)作戦を経て、家々の計7万室余りを焼き払い、家畜3万頭余りを奪い、11.1万人余りが199の「人圏」に追い込まれ、「無住禁作」(無人区)地帯1190余平方kmを造り上げ、それは全県の総面積43%となった。「人圏」内の病気による死亡者は6000人余りに達した。(1月末の注釈参照)

【日本軍発表の戦果】

 大本営の発表では、前年7月以降一年間の中国における総合「戦果」は敵死(遺棄死体)約45万7800、捕虜約14万9000、帰順約9万6000、飛行機270機とされた。帰順とは捕虜でなく、中国側の言葉では「偽軍」、つまり日本軍として中国軍と戦う兵士となるということであろう。また捕虜はおそらく「良くて」強制労働者とされたはずである。

7月

▽ 7月3日、在中国アメリカ空軍第14航空隊は、華南のアメリカ空軍基地で創設一周年記念会を催した。一方で日本軍は米軍飛行隊の展開に脅威を覚え、対抗するため南方マレーで展開していた一個飛行団を中国に移動させた。

*1943年7月4日:夜、陝西省南鄭県城を爆撃。

【中国八路軍と新四軍による戦果】

▽ 7月6日、八路軍本部は昨年7月から今までの1年間の戦績を発表:行われた大小の戦闘は2万2735回、日本軍の死傷者は5万5637人、日本傀儡軍の死傷者は6万2405人、日本軍の捕虜は296人、傀儡軍の捕虜は3万1161人、鹵獲した銃は3万6608丁であった。

▽ 新四軍(八路軍と同様の共産党軍)軍部は1年来の戦績を発表:大小の戦闘を4822回行い、日本・傀儡軍3万9879人を殺傷し、日本・傀儡軍9923人を捕虜にし、投降軍7921人を捕獲し、銃2万6672丁を鹵獲、攻略拠点179カ所であった。

*7月初旬:二回連続して安徽省阜陽城を爆撃した。

▽ 7月8日、日本艦は800人余りの将兵と大量の弾薬を載せて長江の安徽省を経て航行する途中、馬当付近で機雷に触れて沈殿し、日本軍将兵はすべて溺死した。

【イギリスの中国への拠出金】

◎ 7月14日、英政府は中国駐留公誼救護隊、中国赤十字社及び中国医療支援隊に3万ポンドを拠出し、中国の軍民を救護することを決議した。

*7月16日:江西省上饒市鄱陽(波陽)県の17里の小さな村を爆撃して、10人が死傷、家屋5棟を破壊された。

*7月20日:昆明で米軍機と空戦となり、12機が撃墜された。

*7月21日:100余機が湖南省の米軍航空隊基地の2カ所を4回に分けて襲った。米機は応戦し、日本機16機を撃墜したが、米機1機が地上で破壊され、数機が損傷した。

*7月23日:湖南省永州市零陵に(武漢の漢口から)21機で向かい、爆弾を投下するが、米軍機の迎撃で2機を失う。午後に別の編隊が(武漢の武昌から)零陵飛行場を爆撃した。日本側は合わせて米軍機5機を撃墜したと報じている。この日さらに零陵に第二次攻撃をし、米軍機P40を5機撃墜、日本機は3機以上撃墜された。

*同日:湖南省衡陽飛行場を爆撃。

*7月24日:18機が出撃し湖南省衡陽の飛行場を爆撃。迎撃戦で7機を撃墜するが13機を失った。

*7月25日:湖南省邵陽市宝慶、懐化市芷江、衡陽、また福建省建甌を爆撃。迎撃はなかったが、その後B25爆撃機6、7機が日本軍出撃基地漢口を爆撃。三日間で衡陽、零陵および桂林で敵機28機を撃墜、自軍の損害は8機としている。

*同日:正午頃、日本軍機5機が福建省南平市建陽県城関上空に飛来、多数の爆弾を投下、2人が爆死。

*7月26日:再度米軍機B25他が漢口を爆撃、日本側は大きな被害を生じ、空中戦でも同様であったが、その隙を突いて一部の飛行隊は福建省建甌飛行場を爆撃。(23日からこの日まで、日本側の損害は一式戦闘機12、重爆機4であり、米軍機に対しては23機撃墜したとある)

*7月27、連日で福建省建甌飛行場などを爆撃。

*7月28、12機が建甌の吉陽、東遊、渓口などと市街区が同時に爆撃、計120発を投下した(これ以降30日まで建甌を連続爆撃)

▽ 7月27−28日、米軍機が香港や海南省三亜の日本軍を爆撃。さらに香港及び九龍の日本軍を継続して爆撃した。

*7月29日:湖南省衡陽飛行場と鉄道駅を大きく破壊した。迎撃で相互に多少の被害。

◎ 7月29日、米、英、中、ソの4カ国は、独、日、伊の三カ国は無条件に降伏しなければならないと言明した。

*7月30日:湖南省衡陽を爆撃、迎撃で日本は4機撃墜、逆に2機が撃墜された上、全機が被弾した。

*7月某日: 四川省瀘州を爆撃、石場湾から揚子江南岸の橋溝頭を爆破、城壁の足元の防空壕が崩壊し、数十人が死傷した。

8月

【日本軍の中国への降伏勧告】

〇 1943年8月1日、日本の大本営報道官は『庸報』記者に対し蒋介石への提言として、もし重慶が抵抗を停止し、反米反英、東亜統一戦線に参加することに同意するならば、日本は中国から撤退し、中国の独立を承認する。その後18日、再び中国への降伏勧告を発表。

【海南島の受難】

*1943年8月1日:六連岭は海南省万寧県北部に位置し、抗日闘争の主な根拠地であった。この日から、数機が六連岭の根拠地の村を爆撃し、これと同時に日本陸軍が「掃討」を行い、上城、九阜、加栄、加索などので村民60人余り、田頭村で村民30人余りを殺害し、村の半分が焼失した。10月下旬、300人余りの日本軍は六連岭の万一区瑞安郷南台、新潭等の村、万二区茂岭之高平、厚皮子、紅石子、石井などの村、大中郷石協、石狗などの村に対して交代で「掃討」を行い、民家600軒余りを焼き、村民200人余りを殺害した。また万二区長礼郷の七、八甲、方三区和楽郷の塩墩、南山、禄塘、竜文などの村を「掃討」し、塩墩村で200人余りを殺し、民家100軒余りを焼いた。禄塘郷の好喉村で16人、軍察、端熙、排渓などで60人余りの住民を殺害し、民家100軒余りを焼いた。六連嶺地区周辺の村々は日本軍に蹂躙され、561の村のうち、290の村が被害に遭い、被害者は4195人。和楽区六連郷の統計によると、完全に破壊されて荒れ地になった村は上南坡、下南坡、赤坎など30ヵ所。家屋は全焼し、住民はほとんど殺されたが、一部の生存者がいる村は多賢、東阜、南池、旧地、加索、上城など260の村である。旧地村の約30世帯百数十人余りの村は4世帯の10数人を残すだけで、加索村には20数世帯100人余りの住民がいたが、生存者は廖崇権氏1人だけだった。日本軍の殺人手段は残忍極まり、たとえば抗日女性同志の英は捕獲されて、拷問に遭い、日本軍はまず彼女の両乳を切って、また耳、舌を切り、両眼を抉り出して、最后に両脚、両腕を切り、そうして殺した。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*8月8日:四川省梁山に9機が侵入し、爆弾20発と細菌弾4発を投下した。細菌弾の綿のような落下物に対し、すぐに衛生院は細菌弾であるとし、注意と消毒がなされたが、翌年、細菌弾投下地域で病気が発生、柏家・石安・福禄・城東などで123人(138人ともある)が死亡した。

【過大な戦果報告】

四川省重慶地域は天候不順で上旬は攻撃できず。ただ、8月10日付で、飛行団長の日記で以下のように記された。

 —— 「従来戦果報告は常に過大なり。過大報告は上級指揮官の作戦指導を誤らしむるを以って確認せざる戦果の報告を厳禁せるも現在依然としてその弊止まず。航空戦においては… 最後まで見届ける余裕なき等の為、戦果の報告課題となり易きを以って報告の厳正を必要とす」(戦史叢書『中国方面陸軍航空作戦』より)

*8月16日:51機が3陣に分かれて湖南省長沙市瀏陽、岳陽市湘陰営田、株洲市醴(れい)陵、江西省宜春市銅鼓・万載などを攻撃しつつ衡陽上空に侵入し爆撃。

*8月20日:武漢と広州から二つの戦隊が出撃し、桂林飛行場を爆撃、迎撃戦で2機を撃墜。(夕刻、米軍機が広州市白雲南村飛行場に襲来、迎撃したが自軍は一機損失)

*8月21日:二隊が湖南省衡陽飛行場を爆撃、迎撃戦で3機を撃墜したが4機を失った。

▽ 8月21日、米機が日本軍の占領する漢口を空爆し、日本機35機が破壊され、貨物廠が炎上し翌日まで燃えた。日本側は追撃しB24一機を撃墜。翌22日、B25爆撃機7機が襲来、「相当の死傷を生じた」。

〇 日本の御前会議において「大東亜戦争完遂に向けて中国問題処理の基本方針」を制定、具体的政策を規定し、汪精衛傀儡政権を大いに育成強化し、蒋介石に圧力をかけ、蒋汪の合流を促進し、「以華治華」の目的を達成することを企図した。

【最後の重慶爆撃】

*8月23日:47機が重慶地域8地区を爆撃した。これが重慶に対するほぼ最後の爆撃で、151発の爆弾が投下され、21人が死亡、32人が負傷、99軒の建物が破壊。空中戦で少なくとも6機を撃墜、日本機は重爆機を含め2機が撃墜された。

△ ここまでの重慶への爆撃は218回に上り、死者は2万3600人、重軽傷者3万7700人とされる。

*同日:四川省の万県で埠頭、軍事施設を爆破炎上、大型船一隻、小型船数隻を撃沈。中国側の記録では27機が万県城区を爆撃、64発の爆弾を投下し、22人が死亡、51人が負傷。

▽ 8月23日、延安の『解放日報』は『国共両党の抗日戦争成績の比較』『中国共産党が抗戦した全ての傀儡軍概況』という2つの文書を発表した。共産党は中国侵略日本軍全36師団60万人の58% (35万人)に抗戦したが、国民党はわずか42% (25万人)であり、共産党はさらに全部の傀儡軍62万人の90% 以上(56万人)に抗戦し、国民党は傀儡軍を牽制するだけでそれは10% に満たなかった。

▽ 浙江省寧波市余姚の南郷の3000人の住民は現地の自衛軍と協力し、日本軍の手から奪われた食糧10万斤余りを奪い返し、山間部に運んで隠した。

*8月24日:四川省万県を連日で23機が爆撃した。これは重慶の天候が悪く、代わりに爆撃したものであった。 中国側の記録:41機が140発の爆弾を投下し、18人が死亡、35人が負傷、家屋327間を破壊した。

*同日:湖北省宜昌市三斗坪の揚子江上で船舶一隻を撃沈、二隻を撃破。

*同日:武漢地域で中国軍機20数機のうち10機近くを撃墜。

【重慶・成都爆撃訴訟】

 1938年(昭和13年)12月からこの1943年8月まで、日本軍の侵攻により中国国民政府が南京から遷都した重慶への爆撃は218回に上り、延べ1万1千機の日本軍機により死者は2万3600人、重軽傷者3万7700人とされ、合わせて約6万1300人となっている。このうち、41年6月5日の爆撃では市民が避難する防空壕として使用していた校場口の大トンネルが爆破されて一度に千人以上が死亡した例もある。重慶は、四川省の山に囲まれた広大な盆地にあり、日本軍は陸上からの攻撃ができず、重慶と同じ四川省の商業都市成都その他の都市に対しては飛行機による戦略爆撃を多用した。なお成都へは1938年11月8日から44年12月18日まで、31回、出動爆撃機695機、投下爆弾2031発、5337人の死傷者が出たとされる。そこから60年以上経って重慶と成都を種とした爆撃被害者からの訴訟が起こされた。裁判における被害者の陳述はここまで日付に応じて挿入しているが、以下はこの裁判の経緯だけを追う。

 筆者注:既述の細菌弾に対する訴訟が起こされたのは1997年であるが、いずれもこれほど年数が経って訴訟が起こされたわけは、中国民にとって戦後の内戦から共産主義政権に移行し、その体制が落ち着くまでに長い年数がかかり、その間、戦時下の出来事を振り返る余裕がなく、これは日本においてもある意味同様で、双方で体験者自身の証言が表に出てくるのが1990年前後以降なのである。ではそれまではと言えば、ほとんどの人の場合、その心の奥に秘めた苦悶の体験を誰に語ることもなく人生を終えて行った。比較的長生きをした人たちの中から加害と被害の双方から語る人が出て来、その流れの中で訴訟が起こされたと言っていい。

 2002年4月 — 『重慶大爆撃』(西南師範大学出版社)が出版される。

 2002年7月 — 盧溝橋事件65周年の時に重慶市の弁護士が主宰して重慶大爆撃の被害調査が行われた。

 2002年中秋節(旧暦の8月15日で9月下旬)に抗戦勝利57周年を記念して重慶で被害者座談会が開かれた。

 2004年4月7日 — 重慶大爆撃被害者民間賠償請求原告団設立大会」が開かれた。

 2004年6月5日 — 重慶大爆撃被害者民間賠償請求原告団が重慶大爆撃犠牲者の追悼会を主催。その後被害者とその家族は対日損害賠償訴訟団を発足させ、東京地方裁判所に訴訟を起こした。

 2006年3月30日 — 東京地裁に第一次提訴(原告40人: 重慶市34名、楽山市5名、自貢市1人)。

 2006年10月7日 — 東京大空襲を体験し、日本政府に賠償請求している日本人被害者が重慶市を訪問し、重慶大爆撃対日民間賠償請求訴訟原告団と交流した。この団体は東京空襲遺族会の関係者や弁護士ら約20人であり、成都や楽山などの被爆都市も訪問し、中国側の原告、弁護士ら約20人と交流した。

 2006年10月25日 — 第一回意見陳述が東京地方裁判所で行われ、原告4名(重慶市)が意見を陳述した。

 2008年7月4日 —− 東京地裁に第二次提訴(成都市の原告22人)。

 同年12月3日 − 東京地裁に第三次提訴(原告45人:楽山市42人、自貢市1人、瀘州市(合江県)1人、重慶市1人)。

 2009年10月5日 — 東京地裁に第四次提訴(原告81人: 重慶市50名、成都市17名、楽山市3人、自貢市5人、松潘県6人。ここまでの原告は計188人となり、日本政府に謝罪と一人1千万円の損害賠償を求めた)。

(2013年5月8日 — 東京大空襲損害賠償訴訟において、最高裁第一小法廷原告側の上告を棄却した。原告らは、旧軍人・軍属には恩給や遺族年金が支給されるのに、民間の被災者に補償がないのは「法の下の平等」を定めた憲法に違反するなどと訴えていた)

 2015年2月25日 — 東京地裁が原告団側の請求を棄却。裁判長は爆撃被害を認定した上で「主文、原告らの請求はいずれも棄却。裁判費用は原告負担とする」と原告の代表22人の前で読み上げ、「原告には当時の国際法に基づく損害賠償請求権がなく、民法の規定でも国は損害賠償責任を負わない」と述べた。その間わずか30秒ほどであった。ただし判決書は80ページ以上にわたり、200回におよんだ重慶大爆撃の加害の事実と、それによって原告一人ひとりに重大な被害を与えた事実について事細かに記述されていた。裁判の日本側弁護団事務局によれば「判決書にこれほど長文で具体的な事実確認をした例は極めてまれ」だという。市街地=非軍事施設への爆撃を国際法違反と認定したことも重要とされるが、個人への請求権は認めず、1947年に国家賠償法が施行される以前の行為に関し国は賠償責任を負わないとする「国家無答責」などの法理論で、請求は退けられた。ほかの原告・支援者らと来日した栗遠奎原告団長は「188人の原告と10万人の被害者を代表して、不当判決に抗議し控訴する。日本政府が謝罪するまでたたかう」と話した。また林剛・首席弁護士は、「原告が中国からはるばる東京にやって来たにもかかわらず、裁判所は通訳も提供していなかった。裁判官の判決は1分にも満たず、原告が判決結果を理解していない間に、裁判官が退出した。極めて傲慢な態度」と非難した。そして原告団の意向を踏まえて弁護団は、東京高裁に控訴の手続きを開始した。(188人の原告の中にはすでに老齢でここまでに25人が死去しているが、十数年間、訴訟団のメンバーたちは30回にわたって日本を行き来した)

 2017年3月18日 — 「重慶大爆撃」対日民間賠償請求訴訟控訴審の第二審が東京高等裁判所で二回目開廷した。この前日、対日民間賠償請求訴訟原告団は東京で日本政府に加害事実を認め、謝罪と賠償を行うよう要求した。

 2017年12月14日 — 東京高裁は一審東京地裁判決を支持し、遺族らの請求を棄却。

 2018年12月14日 — この後1年の準備を経て、一瀬弁護士が東京最高裁判所に、上告の理由書を提出した。

 2018年12月30日から翌年1月4日 — 重慶大爆撃賠償請求訴訟の日本弁護士団のメンバー・一瀬敬一郎弁護士と田代博之弁護士夫妻は、成都、楽山、自貢、重慶を訪問し、重慶大爆撃の被害者や遺族を見舞い、記念碑の前で爆撃の犠牲者に献花、黙祷を行った。1月2日には対日訴訟の中国と日本の弁護士・専門家が交流セミナーを開く。(ここまで日本弁護士団は10年連続で被害者や遺族を見舞うために中国を訪問している)

 2019年12月25日 — 最高裁第二小法廷が原告側の上告を棄却。これで長期にわたる裁判はあっけなく終結した。

 ここまで重慶を40回以上訪問した一瀬弁護士は「重慶大爆撃の案件の調査を始めた時、私は52歳だったが、今はもう70歳。でも88歳の田代団長は依然として奔走している。私もあと少なくとも17、8年は頑張らなければ」と語った。この後活動は「重慶大爆撃を語り継ぐ会」などによって引き継がれている。

 (以上は中日の各種資料から編成した)

 筆者注:上記の中に東京大空襲に関する日本の賠償請求団との関わりがあるが、東京大空襲ばかりでなく、大阪や名古屋の米軍による大空襲の被害者たちがそれまでに国を相手取って何度も訴訟を起こしている。しかしすべて上告で同じ理由(国家無答責)で却下されている。だから中国からどのように訴えてきても、賠償が認められるわけはなかった。その大きな理由は、一度認めてしまえば日本国内においても(既述の1942年の細菌作戦に対する戦後の訴訟で触れたように)日本各地から「雨後のタケノコのように」賠償訴訟が起きることが予想されるからであった。国としてはそのような事態になることを恐れ、編成された諮問委員会にしてもその国の意向に従い、最高裁判所も同様であった。ましてや中国側からの訴訟に対して、その被害の事実が認証されるとしても、国家賠償を認めるわけにはいかなかった。

 この稿全体で詳細に記すように、中国への無差別爆撃は重慶への218回に対して中国側の試算では1万2592回であり、その中で重慶は多少目立った例に過ぎない。また日中戦争開始から南京侵攻に至る約4ヶ月間の南京に対する爆撃は110回以上であり、その密度は重慶をはるかに超える。南京については爆撃よりも侵攻後の大虐殺が語られるが、その虐殺についても、8年間の日中戦争全体からの多大な総数(数百万人ではきかない)からすれば多少目立った例に過ぎない(筆者の「昭和12年」参照)。「重慶大爆撃」にしろ「南京大虐殺」にしろ、これらに重点を当てることは中国への爆撃と中国人への虐殺の全体量に対する認識という意味ではむしろ矮小化されかねない恐れが十分にあるし、現今の日本ではそうなっているのではなかろうか。

<2004年、重慶で行われたサッカーの試合上で>

 この年の7月31日に重慶で行われたサッカー・アジアカップの試合の日本―ヨルダン戦で、試合は1―1でPK戦となった。日本選手が蹴るたびに、中国の観客は一斉にブーイング、外すと大歓声が起きた。日本の勝利が決まった瞬間、日本の約20人のサポーターは日の丸を取り出し歓声を上げたが、周りの観衆から紙コップなどのゴミが投げつけられ、「帰れ、帰れ」などと罵声を浴びた。終了後、日本人は警備員に囲まれて会場を後にした。これまでの予選でも観客の荒れた雰囲気があり、この日も会場周辺は多数の武装警察が待機し、物々しい雰囲気に包まれた。また試合中には「歴史を直視し、アジア人民におわびし、釣魚島(尖閣諸島の中国名)を返せ」と書かれた横断幕が掲げられていた。

 一方、中国共産主義青年団の機関紙「中国青年報」は、一連の反日行為について「こうした『愛国』には誰も喝采しない」との見出しの記事を掲載、「スポーツと政治を混同するな」と指摘した。別のメディアも「市民の不満は、主に日本の右翼勢力の劣悪な行為のため」「行き過ぎた民族感情のなかで報復の快感を味わったかもしれないが、スポーツの尊厳を損ない、本来の意義を失わせる」とした。(朝日新聞デジタル版より要約)

 ちょうどこの二ヶ月前の6月5日に 重慶大爆撃の被害者とその家族は対日損害賠償訴訟団を発足させ、東京地方裁判所に訴訟を起こしたばかりであった。騒いだ中国人観客の中にはその報道の内容を念頭に置いていた人も多かったであろう。反対に日本人選手も限られた日本人サポーターも日本軍による重慶爆撃のことはほとんど知らなかったであろう。実際に日本人サポーターの一人も「なぜここまでブーイングされるのか分からない」と語った。日本では学校でもどこでもそのような日本の加害行為に関しては教えられないからである。

【米中合同軍機の日本軍占領地への爆撃】

▽ 8月25−26日、米中合同飛行隊がB24大型爆撃機を主体として武漢を空爆し、日本機19機を破壊、それに対する日本の迎撃戦でB24を始め双方に多くの被害が出た。翌日米中飛行隊は広州、香港を空爆し10機を撃墜した。なおこの頃に米軍は建甌、桂林、零陵、衡陽のほか、昆明、霑益、南雄などに各種の飛行機を配置していた。この後も連続で米中合同の爆撃は続けられる。

*8月26日:重慶梁山と桂林を爆撃。

*8月27日:陝西省長安(現・西安)、湖北省監利市白螺磯(はくらき)で米軍機と空戦、2機を撃墜。

*8月28日:万県を爆撃。万県はこれまで爆撃を29回受け、1403人が死亡し、1529人が負傷した。

▽ 8月30−31日、米中飛行隊は日本の占領する香港と海上の船舶が続けて爆撃され多くの被害を受けた。

*8月31日:湖北省宜昌市岳州付近を爆撃、空中戦で米軍機2機撃墜。

9月

*1943年9月1日:27機が杭州から出撃、江西省を経由して福建省建甌を爆撃し、市の郊外にも爆弾を投下した。

*同日:7機が福建省南平市浦城県仙陽鎮を爆撃、家屋10棟を爆破、100人以上が爆死し、数十人が負傷した。また王家倉廊内に収監されていた「鉄肩伏」40人以上(各地から強制徴用された)と李家倉廊に住んでいた外地難民50人以上が全員爆死あるいは爆傷した。

*同日:広東省韶関市南雄、湖北省恩施市巴東、宜昌市帰州、三斗坪、米倉峡などで揚子江上の船などを爆撃。

▽ 9月1日、米中合同軍機が日本軍の支配する広東省汕頭を爆撃、飛行場のほか、江上の白銀丸が爆撃により炎上、死傷者100名以上。その他、湖北省咸寧や江西省石灰窰も爆撃を受け、江上の船艇や建物も被害を受けた。翌2日も香港が爆撃された。

*9月2日:日本軍の支配する広州、香港に来襲した中国軍機と空中戦、2機を撃墜。

*9月3日:広東省韶関市南雄、広西省梧州、福建省建甌を爆撃。

*9月4日:約70機が三回にわたって広西の柳州、桂林に向かったが、天候不良で特に梧州市街および飛行場を爆撃した。市街では九坊路の開源銀行の地下室出入口を爆破し、水道管が破裂、地下室内で49人が溺死した。

*9月6日:江蘇省常州市溧陽を爆撃、ここまで日本機は溧陽爆撃を34回行い、122機の航空機を出撃させた。

*9月7日:広東省東莞市常平鎮を爆撃。

◎ 9月8日、イタリアが連合国に降伏。10月13日、イタリアはドイツに宣戦布告した。

▽ 9月9日、1日に続き、米中合同軍機の編隊が日本軍の占領する広州白雲飛行場を爆撃、格納庫や兵舎に50kg−500kgの爆弾が落とされ、多くの損害を受けた。「敵の爆撃は正確で、おそらく照準器が優れていると推定された」。翌日も広州地区が爆撃を受けた。

▽ 9月10−11日、日本軍の占領する武漢が米中軍機より爆撃を受け、鉄道貨物や鉄道隊、また武昌、漢口埠頭付近に80発の爆弾を受け、倉庫や家屋の破壊と中国人労働者100数十名が死傷した。

*9月16日:湖北省恩施市巴東の揚子江上で船舶を撃沈。

*9月18日:広東省韶関市の南雄と乳源あるいは臨武を爆撃。これは台湾の嘉義からの飛行部隊によるものであった。

*同日: 午前、7機が湖南省郴(ちん)州市臨武の上空に飛来、38発の爆弾を投下、96人が死亡、49人が負傷、家屋339間、もみ582トン、米1.44トンを爆破、牛25頭、豚156頭が殺された。

【日本軍のハノイからの爆撃】

*9月20日:悪天候等により満を持して日本軍占領地ベトナムのハノイから発った飛行隊(護衛戦闘機一式“隼”30数機、重爆撃機18機)が、雲南省昆明の飛行場を爆撃、米中軍数十機との迎撃戦で少なくとも10機を撃墜、自軍は重爆機5、戦闘機1を失い、重爆機6、戦闘機1を損傷させた。また飛行場北側の付属施設など半分を炎上させるが、別途、昆明の宿村も爆撃、その地で死者9人、重軽傷26人。

*同日:広東省雲浮と広西省の南寧の軍施設や飛行場を爆撃。

*9月10日より20日:連日で飛行場、船舶、軍事施設等を攻撃し「多くの戦果を得たる」。

*9月21日:広東省雲浮、南雄の飛行場等、また江西省南寧を爆撃。

*同日:広東省韶関の駅で貨車多数、湖南省郴(ちん)県を爆撃。(この日は台湾の嘉義からの出撃)

*9月22日:昆明を40機以上が三回にわたって爆撃し、市の南東郊外に爆弾を投下した。死者33人、負傷者69人。米機は迎撃し、17機を撃墜した。

*同日:広東省韶関の軍実施設、南雄の兵舎を爆撃。

*9月24日:福建省建甌、湖南省長沙を爆撃。

*9月26−27日:江西省贛州市と吉安市遂川の飛行場等を連日爆撃。

▽ 9月27日、米空軍機が中国から東京湾を急襲し、日本の石油船1隻を爆破した。

*9月29日:正午近く、日本機が飛来、福建省晋江市東石鎮の三公宮口に人々が蝟集しているところを見下ろして、突然高空から8発の爆弾を投下し、轟然と地面に落ち一大爆音となって爆発し、大穴が穿たれ、洋館一棟、平屋十余棟を破壊、たちまち煙が立ちこめ空が暗くなり、血肉が村の家々に飛び散り、爆死32名、負傷者無数。生臭い臭いが鼻をつき、悲惨この上なかった。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*9月or10月某日:午後、9機が湖南省益陽市の市街区に侵入し、万寿宮の上から臨興街まで連続して焼夷弾数十発を投下した。たちまち煙が噴出し街は火の海となった。街道の延焼は2km余りにおよび、死者は十数人だったが、財物の損失は計り知れず、おびただしい数の市民が財産を失い、家を失い放浪した。

〇 日本軍が9月までに中国に投入した兵は63万9909人に達する。

10月

*1943年10月1日:江西省贛州市の米軍基地、竜南と信豊を爆撃。

【国慶節の祝賀行事を狙った爆撃】

*同日:広東省清遠市で国慶節の祝賀行事が行われていた午後4時、5機が襲来するが、銅鑼や太鼓や爆竹の音が飛行機の音をかき消し、敵機を察知した時にはもう待避する時間がなかった。人々は逃げ惑い、踏み潰し合い、最初の爆撃で数十人の死傷者が出た。水関門から東門を脱出した者も日本機に発見され、爆弾数発が投下されて犠牲者20数名。また新街の尾城の防空壕に入りきれなかった者の十数名が即死。市街地を脱出した者もいたが機銃掃射を受け、倒れて血溜まりを作った。この日は百数十名が死亡した。被爆現場は無残であちこちに血肉が飛び交い、鳥居の前には足が転び、上には腸がぶら下がっていた。

*同日:地上軍の侵攻作戦に合わせ、江蘇省宣興市、浙江省湖州市武康、安徽省宣城市を爆撃。

▽ 米軍14航空隊は日本の占領するベトナムのハイフォン(海防)市を爆撃し、日本機29機を破壊した。

【防空壕を直撃】

*10月2日:福建省建甌を7機によって二度爆撃。その際、城関の西南門禄馬巷の住民が雲仙仔夫婦の養女の結婚を祝って30数名の人々が集まっていた。そこに午前9時、空襲警報が鳴り、人々は争って防空壕に入ったが、新婦は赤い正装の服を着ているので止められた。近所の人々も同じ防空壕に殺到したが、そこに爆弾が直撃し、全員が死亡した。生き残ったのは防空壕に入らなかった新婚の養女を含めて二人だけだった。この防空壕では87人が死亡したが、そのうち江西出身の李添炎一家4代7人が全員爆死、湖南出身の楊益三一家3人も死亡した。敵機が去った後、禄馬巷では号泣の声が天にとどろいた。犠牲者の遺体を掘り起こしたところ、遺体はいずれも破損が激しく特定が困難であったため、12個の甕で87人をまとめて葬った。(『侵華日軍暴行総録』:防空壕への直撃は各地で発生するが、2年後の日本においても米軍の爆撃で同様なことが生じた)

*同日:午前、6機が安徽省宣城市広徳の西街、南街を爆撃し、3人が死傷。

△ 10月2日、地上部隊は安徽省宣城市広徳と米軍の広徳飛行場を占領。

*10月3日:夜、陝西省南鄭県城を爆撃。

*10月4日:30機余りが3回に分けて広西省桂林の吉安と広東省韶関の「軍事施設」を爆撃。

△ この日で南方からの応援飛行隊は任務を終え復帰した。

*10月5日:再度桂林に向けて二隊が出撃するが、「敵機に遭遇せず」、しかし自軍一機が未帰還。

*同日:山西省呂梁市興県において八路軍の攻撃に対し支援爆撃。

*10月6日:46機が江西省の遂川を2回に分け爆撃、帰途2機が撃墜された。

△ ここで夏季作戦は「所期の成果を収め得ずして終了した」 … これは自軍の一式戦闘機が米軍機P40に劣る性能と航空補給力、航空通信技術の差異によるものとされ、また悪天候続きもあって攻撃の機会を逸失したが、「総じてわが航空技術の質量にわたる総合的弱体」が原因とされた。またこの期間の損失は戦闘・爆撃機49機、未帰還の戦闘機25、爆撃機14、戦死113名、未帰還者17名。なお、大本営の発表で、七月下旬から十月上旬までの在中国米軍機戦果として、撃墜100機、飛行場、軍事施設爆砕17箇所で延べ53回、船舶撃沈7隻、撃破11隻、わが方の損害は自爆40機とある。

*10月15日:20数機が福建省竜岩市長汀県を襲撃し、厦門大学水力実験棟及び民家を爆破、30数人が死傷した。

*10月17日:広東の各地を35機が5回にわたって爆撃し、肇(ちょう)慶などに爆弾を投下した。

*10月18日:福建省建甌を爆撃。

【平陽大惨事:住民1000人以上を殺害】

△ 18日、日本軍荒井部隊の500人余りは、河北省阜平県平陽地区に対して残酷な「討伐」を行い、銃殺、火あぶり、刀刺、生き埋めなど各種の残忍な手段で住民1000人余りを殺害した。「平陽大惨事」である。これは『中国抗日戦争大事記』の記事からであるが、この事件は『侵華日軍暴行総録』では詳細にわたって記されている。ここでは割愛し、記念碑の「千人墓」碑文を紹介する。

 —— 1943 年の秋、日本軍は 4万人の軍隊を集め、北越地区に対して 3カ月間にわたり「鎮圧と掃討」作戦を実施した。阜平が掃討の中心であり、 四つの地区を掃討の中心とした。 新井部隊は極悪の獣兵と化し、妊婦の腹を割り、新生児の肉を喰い、世界を震撼させた平陽大虐殺を引き起こした。わが同胞のうち567人が虐殺され、 四地区以外の郡では800人以上、合わせて1000人の同胞が殺害された。 四地区では我らの英雄的な民兵の手によって獣兵を殺害すること約千人に達した。 しかし深い憎しみと恨みはこれで相殺されるわけではなく、何千人もの人々の墓を建てることは、忠実で勇敢な同胞を追悼するだけでなく、血債を返すことでもある。(裏面には惨事の犠牲者の名前が刻まれている)

【出陣学徒壮行会:学徒動員】

 10月21日、太平洋戦争の戦局悪化(泥沼化)に伴い、東條英機内閣は、兵力不足を補うため、文科系大学生や旧制専門学校生の徴兵猶予を停止し、20歳以上の青年を在学途中でも徴兵するという特例法を発し、この日、東京の明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が行われた。同日、植民地である台湾(台北)においても当地の学生たちが日本人と同等の扱いで行われ、学徒動員として戦場に送られることになった。そして速成訓練を受け、その多くが下士官として最前線へ送られ、特攻隊に加わった若者も多くいた。続いて10月30日には朝鮮(京城)で、11月3日には「満州国出陣学徒壮行式」 が各地区で行われた。

*10月22日:陸軍の雲南(首都:昆明)戦線侵攻作戦に協力、怒江の渡河と瀘水市を爆撃支援。

*10月25日:23機がビルマから雲南省大理州下関(現・大理市)に侵入し、金星村などを爆撃、8人が死亡、11人が負傷。(6回の大理州、特に祥雲爆撃だけで458人が死亡、409人が負傷、家屋60棟が爆破された)

*10月28日:浙江省境南から9機で福建省建甌に入り爆撃した。

*10月某日:広西省梧州の大中路梧州女子商業科実習店が爆破され、従業員と学生合わせて8人が死亡した。

◎ 10月30日、米、英、中、ソの四カ国がモスクワで「四カ国普遍安全保障宣言」に調印した。この同盟国は敵が無条件降伏するまで作戦を継続するとし、第二次世界大戦後に国際的な平和機構を再建する必要性が訴えられた。(これがのちの国際連合に繋がる)。

▽ この月、中国空軍は米空軍と混成航空団(CACW)を設置創設し、装備機種はP40戦闘機とB25中型爆撃機を主力に、新型のP38戦闘機やB24重爆撃機も配備された。

【731部隊の活動】

 日本の731部隊は遼寧省海城、大石橋、錦州などから800人の労工を黒竜江省ハルビンに連行し、全員をハルビン賢鄰村の正黄旗五屯の労働小屋に拘禁した。2カ月も経たないうちに600人が殺害され、死体はすべてこの屯西の「万人坑」に投げ込まれた。

11月

◎ 1943年11月1日、蒋介石はルーズベルト大統領から電報を受け、11月下旬にエジプトのカイロで彼及び英首相チャーチルと会談することになった。

【常徳殲滅作戦】

△ 11月2日、日本軍は常徳殲滅作戦(常徳会戦)を開始。湘北の重鎮・常徳を占領し、洞庭湖の全資源を掌握しようとした。

*11月2日:10数機が福建省の建甌、江西省上饒市玉山を爆撃。

△ 11月3日、日本軍の山西省剿共(共産党殲滅)作戦の中間戦果発表では敵遺棄死体5850、捕虜1080、施設破壊約70。

*11月4日:18機が台湾より派遣され、福建省三明市永安、建甌を爆撃。 この永安について中国側の資料は「約30機が県城に飛来、無差別爆撃を行い焼夷弾も含む135発の爆弾を投下、街路一帯は一面の火になり、城内の中心街はほとんどが焼き尽くされて、死体が散乱した。家屋は978棟が破壊され、住民の死傷者は約500人(大部分が死亡)、これまでの爆撃の中で最も大きな被害を受けた」となる。

*11月5日:午前9時20分、21機が7隊に分かれて福建省竜岩の長汀県城を爆撃。府背、三官堂前劉衙巷、郭家巷、永定公所、新街巷口、五通廟前、半片街、司前街、営背街、蒼玉洞、厦門大学、西門付近、大同郷、元霹靂公園、中山公園、県政府、専員公署などに爆風が炸裂した。当時、由幹は空襲が頻繁で、万一に備えてあらかじめ疎開するようにと通達があった。警報がなると続々と蒼玉洞に来た。そこに爆弾一個がちょうど蒼玉洞の「一線天」の岩の頂に落ちて、轟音とともに破片となった石が一斉に飛んで、その場で二十数人が死亡、十数人が負傷した。蒼玉洞峡に隠れていた黄和初の一家7人が爆死した。蒼玉洞の内外では血まみれの肉体が散乱していた。この空襲では128発の爆弾を投下、爆殺47人、爆傷66人、民家27戸、商店23棟、厦門大学の他長汀中学校の教室などが爆破された。(1938年4月から1943年11月のこの日までの間に、長汀県城は15回にわたって100機近い日本機に襲撃され、死亡248、負傷204人となった)

▽ 同日、米軍機10余機が湖北省の監利・石首地区に駐留する日本軍を襲撃。

【大東亜会議】

 11月5−6日、大東亜会議が東京で開催された。日本が占領、もしくは同盟国とした満州、ビルマ、フィリピン、インド(亡命政権)の首脳と中国は傀儡の汪兆銘が政権代表として出席した。 汪兆銘は会議で日本とは互いに尊重し、独立自主し、心を一つにして協力し、共存共栄すると宣言、「大東亜共同宣言」が調印されて閉幕した。

*11月8日:午後3時、4機が西南方向から日本機が飛来、江西省上饒市鄱陽県石門城中街の曹家祠堂に焼夷弾12発を投下、祠堂にすぐに燃え上がった。火は風に乗って南、北、西の三方に延焼し、次々と商店、民家を呑みこみ、店は倒壊し、多くの死傷者を出した。この大火は三日三晩燃え続けた。1420軒余りの民家、店舗、高層建物が焼けて灰と化した。

▽ 同日、米軍14航空隊が厦門を空襲、日本艦5隻を撃沈。

【洞窟内に毒ガス弾を投入】

△ 河北省石家庄市井陘県老虎窩村の住民100人余りは日本軍から逃げて近くの洞窟に逃げ込み、身を隠した。日本軍はこれを発見すると、直ちに毒ガス弾を洞内に投入し、百人余りが全員死亡した。

*11月10日:陸軍の常徳殲滅作戦に呼応し、湖北省宜昌市の長陽と磨市を爆撃。別途、湖南省常徳市の津市、灃県、石門で陸軍を支援爆撃、日本軍はこの三地を猛攻し、15日に失陥させた。

【常徳における毒ガス作戦】

〇 この11月からの常徳殲滅作戦において日本軍は毒ガス弾を多く使用している。12月26日付の『第6戦区常徳会戦戦闘要報』によると、日本軍は常徳会戦で74回毒ガスを使用し、そのうち常徳城とその付近で35回あったとしているが、以下で記録を拾えているのは10回に満たない。

*11月12日:山西省沂(ぎ)水で毒ガス弾を投下。地上の砲兵隊も同時に行った。

▽ 中米連合空軍の80機余りが江陵、石門、慈利、公安、肖家岩、王家畈、子良坪などの日本軍を襲撃し、地上部隊の子良坪への攻撃を援護した。

*11月13日:浙江省麗水市を爆撃。

*同日:福建省建甌を爆撃。建甌はこの年63回爆撃、爆弾1447発が投下され、死傷者350人、家屋231棟が爆破された。

△ 11月14日、湖南省の常徳殲滅作戦の中で、数日前より日本軍第3師団と国民党第73軍第5師団が石門県青山尾の大尖山、金鶏観、牛角尖、白沙渡、百歩墩などで激戦を繰り広げた。そこに日本軍第13師団の増援部隊が駆けつけ、戦闘を展開したが、日本軍は毒ガスを放射、国民党第5師団第一大隊の大隊長以下1000人近くの将兵が犠牲となった。石門県城が陥落した後、日本軍は「三光」政策を実行し、4226人が死亡、1095人の女性がレイプされ、2211棟の家屋が焼失し、5973戸の農家が略奪に遭い、1万2000人以上の住民が家を失い難民となった。(『侵華日軍暴行総録』)なお、地上戦による毒ガス使用はこの稿ではあまり取り上げていない。

*11月15日、午後3時、8機が湖南省常徳市津市陽由垸上空に侵入、湯家巷に焼夷弾数発を投下、16人の死者と20人以上の負傷者を出し、焼失家屋は36棟93間に上った。

▽ 11月17日、米空軍は香港の日本軍基地を爆破。

*11月18日:湖南省張家界市の慈利県に4回にわたって毒ガス弾を投下した。(常徳殲滅作戦の一環)

▽ 11月20日、中米連合空軍は共同で台湾の新竹飛行場を奇襲攻撃し、日本機20機余りを爆破した。

*11月21日:湖北省恩施を爆撃。空戦で日本機は2機が撃墜された。

*11月22日:湖南省益陽を8機が爆撃し、市街地に多数の爆弾を投下した。

*同日:寧郷(湖南省長沙市)を9機が爆撃し、30人以上が死傷し、20軒以上の家屋が破壊された。

【カイロ会談】

◎ 11月22日から11月26日にかけて、対日方針を協議するためエジプトのカイロで米英中の首脳(ルーズベルト、チャーチル、蒋介石)会談が開かれた。ここで日本に対する爆撃計画が検討され、戦後処理として日本の占領地の中国への返還と朝鮮半島の独立も合意された。また蒋は会談で、ルーズベルトの問いに答え、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだとした。12月1日のカイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。

*11月25、常徳作戦に協力して常徳地区を爆撃、三方向から地上軍の攻撃を援護した。この時毒ガス弾も投下した。

*同日:日本軍が湖南省常徳市漢寿県を撤退後、数個の爆弾を投下、被害は少ない。

▽ 11月25日、米国空軍が新たな前進基地江西省遂川から出撃、大型爆撃機B25と戦闘機P38の計15機が台湾の新竹市を奇襲空爆し、日本機47機を破壊した。日本軍25人が戦死し、20人が負傷。

*11月27日:湖南省岳州[現・岳陽]方面の地上戦により、楊林街、通城、桂口を爆撃して支援。

*11月下旬:山東省臨沂市の沂水に再び毒ガス弾が投下された。

*11月28日:常徳城における激しい攻防の中、20機余りの航空機を交代で支援爆撃した。

*11月29日:常徳への爆撃支援に対し、米軍機4機から攻撃を受け、空中戦で2機を撃墜。

12月

【カイロ宣言】

◎ 1943年12月1日、カイロでの米英中の首脳(ルーズベルト、チャーチル、蒋介石)会談により「カイロ宣言」が発表された。その主旨である。

 —— 三大同盟国は日本国の侵略を制止し、これを罰する為今次の戦争を為しつつある。同盟国は自国の為に何等の(中国に対する)利得をも欲求せず 、また領土拡張の何等の念をも有しない。その目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国が奪取し、占領した太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島などの日本国が中国より略取した一切の地域を中華民国に返還することにある。また三大国は朝鮮人民の奴隷状態に留意し朝鮮を自由且独立させる決意を有する。以上の目的を以て三同盟国は日本国の無条件降伏をもたらすために必要な重要な長期の行動を続行する。 (この一年後に米軍の日本本土への本格的爆撃が始まり、そこから9ヶ月後に日本は敗戦となる)

【常徳への集中爆撃で3638人が死亡】

*1943年12月1日:湖南省常徳への爆撃を継続し、中央銀行を標的にした。同時に陸軍地上部隊は東・四・北の三方から市街を砲撃した。この後3日、日本軍は常徳城を陥落させた。ここまで、日本軍は常徳に延べ310機で39回の空襲を行い、爆弾680発を投下、軍民死傷1408人、破壊家屋2959棟。ただし戦後の湖南省政府が発表した抗戦損失統計によると、日本機は常徳に467機で73回爆撃し、2181発の爆弾を投下、3638人が死亡、4024棟の家屋が破壊されたとする。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

*12月2日:江西省の吉安、遂川を3回に分けて爆撃。

*同日:広東省の南雄(韶関市)を20機で二度爆撃、一機が撃墜される。

△ 日本軍は常徳城の興街口を陥落させ、中国守備軍は狭い範囲に追い込まれた。3日、中国守備軍は10回以上肉弾戦を行うが、全員が犠牲となり常徳城が陥落する。中国軍配属部隊は8529人で、生存者は321人だった。日本軍の損害は、日本側によれば戦死傷1万1000人。また、日本側の戦果記録によると、12月8日までの範囲で中国軍の損害は遺棄死体2万9503体、捕虜1万4025人にのぼったとするが、過大であると見られ、戦死者の実数は1万人程度とも推定される。これに対し、中国側によれば日本軍の損害は死傷4万人以上、中国軍の死傷は6万人としている。当初より日本軍は常徳を占領する意図は持たず、また中国軍の反撃もあって12月末までに日本軍は撤退し、常徳は再び中国軍の支配下となった。また日本の支那派遣軍総司令官の畑俊六はその後の日記の中で、今回の常徳作戦では中国軍の防備が強固で、日本軍の損失は甚大であり、総兵力5万余人が参戦したが、死傷者、病気1万人に達し、戦闘力を回復する必要があり、前後の補給線も1本しかなく、常徳を取り戻すことはすぐにはできないと記している。中国軍の戦力を削ぐという目標を一応は達成したとするが、それにしても一ヶ月で双方で数万の命を奪うという無駄という以上の愚かしい戦争であった。もとよりこの日中戦争自体がそうであるが。

*12月5日:広東省韶関を爆撃。

〇 日本が占領する上海市は12月8日から廃金属回収運動を展開し、鉄類3万トン、銅類500トン、鉛、亜鉛、錫などを回収すると発表した。

*12月7日:韶関と広西省梧州の飛行場などを爆撃。

▽ 延安の「解放日報」は、「英米太平洋戦争の1年間の戦果」を公表した。1942年12月8日から1943年12月8日まで、英米同連合軍は太平洋戦場で日本軍10万人余りを殺害し、日本機4122機を撃墜し、368機を破壊し、日本艦船270隻を撃沈させ、197隻を損傷させた。

*12月9日:13機が梧州と湖南省の衡陽を爆撃。この日かどうか、梧州九坊路の百福堂薬屋が爆破され、この店の防空壕にいた従業員と住民49人が、壕の入り口が爆発で塞がれ、水道管が切れて水浸しになって全員死んだ。三日後にようやく片付けが終わり、遺族たちは泣き叫び、通りかかった人々も涙を流した。

*12月10日:早朝、湖南省の衡陽飛行場を爆撃、米軍機B25を3機、P40やP51の12機を炎上もしくは破壊、空中戦で2機撃墜、自軍は6機が撃墜されたか大破。

*同日:上記衡陽飛行場から米軍機は永州市零陵に主力を退避させたとの情報で、夕刻改めて零陵を爆撃、地上のP型機11機を炎上もしくは破壊、空中戦で日本機は1機が撃墜され、3機が損傷した。この日、衡陽と合わせて延べ60機以上が9回に渡って爆撃した。

*同日:広東省韶関を爆撃。

◎ 12月上旬、英国共同援助募金運動の第4陣の募金15万5000ポンドが宋美齢に送金された。

*12月11日:江西省の遂川飛行場を爆撃。

*12月12日:再度衡陽飛行場を爆撃、爆撃後米軍機に追撃され二機が撃墜され、数機が被弾。

【アメリカ義勇航空団による攻撃】

▽ 1943年12月13日、アメリカ義勇航空団AVG(フライング・タイガー)の指揮部は昆明から桂林に移され、桂林は当時のAVGの華南最大の空軍基地となった。戦後のアメリカ第14航空隊AVG協会の統計によれば、1943年3月から1945年8月まで、全部で日本機1281機を撃墜し、655機に損傷を与え、地上機1057機を爆破した。

*12月18日:雲南省に40機以上が2回に分けて(ビルマの占領地区から)侵入し、蒙自付近と昆明の東南に爆撃した。一部は米軍と空中戦を行い、4機が撃墜された。日本側の記録では24機を撃破とあり、飛行場での爆撃であろうが、別に雲南駅で32機を撃墜ともある。

*12月19日:38機が雲南に再侵入し、9機が撃墜された。

〇 12月20日、国内外の記者と米英仏連合国の武官一行30人余りの視察団が常徳に到着。沿道の農村はすべて日本軍に焼き払われ、住民で殺害された者と婦女が強姦された者は数千人に上り、常徳の郊外も日本軍の砲火によって破壊されていた。21日、ニューヨーク・タイムズの特派員は、「かつて人口16万人、6万世帯が暮らしていたこの街で、壊されていないものを探すのは至難の業だ」と発信、22日、中央社は、常徳争奪戦中、湖南省第4行政区(9つの県の人口300万人を含む)の統計だけでも、被災民衆は30万−40万人に達し、常徳一隅の損失財物は47.5億元以上、殺害され、姦淫され、拉致された男女と児童は1万人以上に達したと報じた。

*12月21日:8機が湖南省長沙を爆撃。

*同日:未明に5回にわたり広西省桂林を波状爆撃。

*12月22日:早朝から41機が桂林を爆撃、しかし敵機を見ず。

*同日:ハノイから77機が2回に分けて昆明に侵入して爆撃、米軍と空中戦を行い、日本機20機余りが撃墜された。死者12人、負傷者11人。日本側の記録は昆明飛行場を爆撃、撃墜29機、撃破14機とある。

【昆明への爆撃】

△ 1938年9月からこの日まで日本軍は昆明に通算67回、311機を出撃させ、3043発の爆弾を投下し、2099人の罪のない人々を爆殺し、2402人が重軽傷を負い、2万5029の家が破壊された。

*12月23日:江西省遂川飛行場を爆撃。その後米軍機に追撃され、日本軍の支配する広州の白雲飛行場を破壊されたが、迎撃してB24一機を含む13機を撃墜。

*12月24日:広西省柳州の鉄道駅とその付近を爆撃、数カ所を炎上させたが、その後米軍編隊に追撃され、広州南村飛行場が爆撃された。その空中戦で日本機は20機以上が撃墜され、しかし反撃してB24戦闘機に10機以上損害を与えた。

△ 12月25日、日本軍はゲリラ掃討作戦の一つで「無人区」(非居住区)を作るとして、傀儡軍1万人余りを集めてそれぞれ冀南(河北省南部)の抗日根拠地に対して報復的掃蕩を行った。中国軍民は勇敢に抵抗し、傀儡軍1000人余りを銃殺した。

【「無人区」造成による死者10万人】

 12月、日本軍は長城沿線の約500kmに「無人区」(1月末の注釈参照)を作り、面積は約2.5万平方km、その地区の人口は100万人であったが、他の地区に追いやられ、凍死、飢餓、疫病による死者と殺害された者は約10万人となった。

*12月26日:広西省の南寧を爆撃、大火災を起こした。

*12月27日:18機が広東省韶関の駅と軍事施設を爆撃。

*同日:江西省の遂川・泰和・吉安・臨川などに20機余りが次々と爆撃、地上のB25二機を炎上させ、4機を大破。迎撃戦で3機を撃墜したが4機が撃墜された。

〇 12月29日、国民政府行政院の張平群参事は外国記者との会見で以下のように述べた。中国の学生は「一新運動」により従軍し、過去数週間で約2万人の学生が自主入隊し、そのうち大学生は二、三千人だったと述べた。重慶、成都に2つの訓練団を設立して初歩的な訓練を受け、その後インド遠征軍(ビルマ作戦)に参加する予定である。中国の4億5000万人の人民のうち大学生は6万4097人、高校生は11万6771人、中学生は58万6985人である。

*12月30日:江西省遂川飛行場を爆撃、5機を炎上もしくは爆破。また空中戦で7機を撃墜、一機自爆(日本軍の発表では撃墜されても「自爆」あるいは「未帰還」とする)。

△ 日本軍は承徳避暑山荘珠源寿の歴史的建造物、宗鏡閣銅殿を解体して運び出した。この殿は乾隆二十六年(1761年)に建てられ、赤銅207トンを使っている。

△ 1942年半ばから44年末、少しは翌年まで、日本軍は静岡県三方原(戦後浜松市に併合)において、盛んに毒ガス投下演習を行っている。

昭和19年(1944年)

1月

【中国共産党軍の戦果】

 1月1日、八路軍は1943年の戦闘で2万4847回戦闘し、日本軍6万4472人、偽軍(傀儡軍:傭兵)7万1929人を殺傷し、捕虜は日本軍421人、偽軍5万1273人、偽軍6588人、攻略拠点743箇所を占領した。八路軍は2万1874人の負傷者と1万1981人の死亡者を出した。新四軍は5327回の戦闘を行い、5万4070人を殺傷し、1万2357人を捕虜とし、9357人を転向させ、拠点203カ所を攻略した。新四軍の死傷者は1万8997人であった。

*1月11日:江西省遂川を爆撃、しかし三機が撃墜された。

▽ 同日、米国空軍が中国内の基地から日本の植民地、台湾高雄のアルミ工場と東石港、また台南市塩水、新営を爆撃。

*1月12日:湖南省衡陽を爆撃。

〇 1月15日、在中国日本人反戦同盟華北連合会拡大執行委員会が延安で開催された。

*1月16日:広東省韶関の鉄道駅を爆撃。

*1月20日:江西省贛州、福建省漳州を爆撃。

*1月24−25日:福建省建甌を連日爆撃(台湾の嘉義からの攻撃)。

▽ 米軍航空隊が江蘇省連雲港市東海で日本の艦船3隻を撃沈させた。

*1月28日:夕方、陝西省西郷県城に二度目の爆撃、広慶寺と北門の外で数発の被弾を受け2人が負傷、多く家屋が壊された。

*同日:湖南省湖南省常德市漢寿県紙料洲を3機が来襲、江上の船舶を襲い、沈没船10隻、10人死亡。

▽ 1月末、アメリカ軍は日本軍の占領するマーシャル諸島一帯を激しく空襲し、日本軍の基地航空部隊を壊滅させた。

▽ 1月31日、ビルマ北部において中国駐印軍はフコン渓谷で日本軍1個団を殲滅した。翌日、日本軍のビルマ北部の交通要衝を奪取した。

◎ オーストラリアは日本軍の蛮行を調査する委員会を設置した。

2月

*1944年2月5日:湖北省襄陽市の老河口を爆撃。

*2月9日:9機が陝西省南鄭県城と西安を爆撃。

*2月10日:江西省贛州市の遂川を爆撃、上空の交戦で5機を撃墜したが日本機は6機を失った。

△ 2月上旬、日本軍と傀儡討伐隊は熱河省興隆県洒河川を包囲して、2000人余りを捕縛し、120人を虐殺、残りはすべて東北(満州地区)に送って強制労働させた。

*2月11日、米軍機が日本の占領する香港、九龍を空襲する情報を得た日本陸軍機は、江西省遂川に向かう予定を香港に向け出撃し、同時に出動していた海軍機と合わせて7機を撃墜、自軍機は5機が撃墜された。

*2月11−12日:広東省の南雄を爆撃。

*2月12日:江西省遂川を爆撃、空中戦で12機撃墜するが、中国側は8機を撃墜し、日本艦1隻を爆沈させたとある。

*同日:湖南省衡陽および長沙を爆撃。

*2月13日:広西省貴港市丹竹の飛行場を爆撃。

*同日:湖南省の衡陽、衝山、長沙を爆撃。

*2月18日:福建省建甌飛行場を「猛爆」。

△ 日本軍は台湾に総司令部を置いた。

*2月24日:江西省贛州市と吉安を爆撃。

*2月28日:福建省建甌飛行場を爆撃。

3月

【米中連合軍機の攻勢】

▽ 1944年3月1日、米中空軍の混成大隊が日本海軍の占拠する海南島を30機で爆撃、日本機多数を破壊。

*3月4日:深夜から未明にかけ、江西省贛州市の遂川基地を7機で爆撃、また湖南省衡陽も7機で爆撃、地上の施設と一機を爆破。空中戦で10機を撃墜、撃破。

▽ 同日、米中空軍は日本軍の安徽省蕪湖、江西省石灰窰、九江を爆撃。

▽ 3月9日、米中空軍が12機のB25と20機のP40で江西省石灰窰を攻撃、迎撃戦で日本機はP40を2機撃墜。

*3月10日:広西省桂林を爆撃、地上の2機を炎上させ、また別に市街地も爆撃。

▽ 同日、日本軍の占領する安徽省安慶に米軍機来襲、二機撃墜。別途米軍12機が香港に来襲、またP40三機が福建省厦門に来襲、一機を撃墜。

*3月11日:桂林を爆撃、大型機2機、小型機9機を撃破(とは追い散らしたという意味)、地上の施設を「爆砕」。

*3月13日:7機で桂林を爆撃、そのほか広西省梧州と広東省肇慶の軍事施設を爆撃。

*3月14日:未明、江西省遂川に二度、湖南省衡陽を二度爆撃。

*3月17日:5機で湖南省衡陽を5機で爆撃。

*3月18日:湖南省の衡陽を強襲。

▽ 3月18日、米軍機P51を含む十数機の編隊が九江に来襲、迎撃戦で1機撃墜。

*3月27日:夜、2機で福建省建甌を爆撃。

▽ 3月29日、インド駐留中国軍と連合軍がビルマのフーコン渓谷で日本軍に勝利した。1943年10月から1944年3月末にかけて、インド駐留中国軍はビルマ北部に向けて南進し、150kmあまりにわたって、日本軍の将校60余人、兵士4100人余人を殺害し、その死傷者は合計1万2000人余人、中国軍の死傷者は6495人であった。

△ 2月半ばより、中国における日本の航空隊の劣勢を巻き返すべく再編し、「第五航空軍」が新設され、航空撃滅戦として、湖南省衡陽・零陵・芷江、江西省遂川、広西省桂林、そして四川省梁山、湖北省恩施など対象にした。ただ、作戦中にアメリカ軍により日本軍の占領するマリアナ諸島が陥落し、米軍の新兵器で大型爆撃機B29が成都に配置され、日本本土が攻撃範囲内になったことから戦略目的は大きく狂うことになる。

【拡大される「無人区」と犠牲者】

△ 3月、日本軍が作った「無人区」の範囲は、河北省秦皇島市で青竜など5県の全域、河北省承徳市豊寧など7県の大部分、遼寧省葫芦島市綏中など3県の一部、そして長城内の幅数kmから20−30kmの幅であった。無人区の面積は3万平方kmで(12月の時点では2.5万平方km)、「集家並村」(農民をもとの村々から追い出して一つの地区に囲い込む)政策で焼き払われた家屋は380万室、奪われた食糧は96億斤に達した。20万人を下らない人々が殺害され、監禁され、放逐され、病気などで死亡した。

【インパール作戦】

△ 1942年に日本軍はイギリスの占領するビルマを攻略し、それに対し中国を含めた連合国は反攻作戦を続けていたが、日本軍はさらにイギリス領インドへの攻略を企て、1944年3月8日、ビルマからインド北東部のインパールへの侵攻を開始した。これは国境の山岳地帯を越えて兵器を運んでいくという難渋極まりない行軍となり、まともに食料も携行せず(生きたヤギを連行したが行軍の邪魔になったともある)、三ヶ月後に日本軍は敗北し、さらにイギリス軍による追撃戦を受け、多大な犠牲者を出した。近年においてもこのインパール作戦は、その破滅的な結果によって日本軍における「史上最悪の作戦」と評されている。死者の多くは戦闘によるものより、双方でマラリアなどの病気や最終的に餓死によるものが多いとされ、その正確な数は分かっていない。一応日本側では犠牲者数を発表していない部隊もあり、戦死者は2−3万人、戦傷病者も2−3万人、ただしイギリス軍の公式記録によれば、日本軍の人的損害(戦死傷者、戦病者、捕虜すべて)の合計は6万5978人としている。一方でイギリス軍側の損害は、死者約1万5000人、戦傷病者2万5000人としている。このほか、このビルマ戦全体で日本軍はこの倍以上の戦死傷者を出しているが(この中では中国派遣軍との戦闘もある)、3万人以上行方不明ともあり、全体が無益な作戦であったことを思わせる。

【大陸打通作戦】

〇 1944年4月、日本軍は中国において「大陸打通作戦」を展開する。この作戦の最大の目的は、華北と華南を結ぶ京漢鉄道を確保することと中国西南地区(桂林や柳州)に設置されたアメリカ空軍基地群を排除、占領することだった。また日本の勢力下にあるフランス領インドシナへ中国からの陸路を開くことも目的とした。これは一号作戦として作戦距離は2400kmに及んだ。この後日本軍は北京から広州まで大陸縦断鉄道の京漢線、粤漢線の全線占領に成功、更に年末までに西南の広西省桂林、柳州、南寧にまで達した。これは順調とも言えたが、蒋介石国民党軍は日本軍とまともに戦う意志を持たなかったからで、すでに太平洋戦線での日本軍の敗戦を予測していた蒋介石は、その後の中国共産党との戦いに備えて戦力を保持しておきたいという作戦によるものであった。

4月

*1944年4月2日:午前、河南省汝州に一機で県城を空襲し、住民十余名を爆死させた。午後になって、三機が城東の住宅地に大量の爆弾を投下し、住民数十名を爆死させた。このうち、張公巷街にある防空壕に着弾して穴がふさがり、17人が壕の中で悶死した。(この日の爆撃は日本側の記録にはない)

【汝州の塩蔵大惨事】

*4月3日:前日に続いて夕刻、汝州に砲声が轟いた。日本軍は爆撃機の援護のもとに、戦車連隊、野砲隊、榴弾砲隊が一団となって汝州の県城を攻撃し、国民党軍は抵抗したが敗退し、日本軍の一個師団が城内になだれ込んできて、火の手が上がり、多くの商店や民家が焼かれた。幸いに多くの市民は日中に県城を脱出し、殺戮を免れた。しかし日本兵は獣性を現し、街中に入って「花姑娘(クーニャン)」を探索し、女児から70の老婆まで強姦した。

 そのひと月後の5月9日、日本軍は河南省汝州の蟒川鎮半扎街に侵入した後、北門の外で国民党軍と農民兵数十人を生き埋めにした。この日から、日本軍は全県の食糧と食塩を制圧し、住民はそれを手にすることができなかった。塩1斤の価格はなんと数十斤の小麦に匹敵した。そこで人々は暴走して倉巷街の塩倉庫に集まって塩を奪って背負って逃げた。これを聞いた日本軍は、ただちに大量の軍隊を出動させ、実弾を装填して塩倉庫を包囲し、武器を持たない民衆に機関銃を乱射した。あっという間に、乾家の大庭は死屍累々で血の海となった。そのうちの一山だけで29人の死体があった。負傷して死んでいない者たちは、仰向けになったり、左右に倒れたり、もがいたりしていたが、日本兵に銃剣で次々に刺し殺された。楊金挙は腸を突かれ、腸をつかんだまま尚章平家に逃げて生き延びた。これは「塩蔵大惨事」と言われる。

 5月中旬:日本軍は「汝陽中学校」を司令部とし、県城に日本軍の「治安維持の会」が発足した。城内に出入りする時、四門を守る鬼子兵に頭を下げなければならない。あるとき、屈辱に耐えかねて反抗した民が、その場で日本兵に銃剣で刺し殺された。

 6月4日深夜、日本軍が突然汝州の焦村鎮を包囲し、村人たちは目を覚まして逃げ散った。村はずれで、焦文志ら四人を銃剣で次々と刺し殺され、村中で焦祥群、焦船など6人が死んだ。村じゅうで何十頭もの牛やろばが殺されて食べられ、ほかは生きたまま捨てられ、衣類や家財道具はすべて略奪され、家屋は数百戸が焼かれた。

 汝州市の統計によれば、日本軍は民間人514人を殺し、200人を生き埋めにした。数百人の女性が強姦され、致死は32人、強制労働として捕縛された住民1227人、焼失家屋1081軒、家畜、豚、羊8千376頭を殺害し、牛車282台を押収し食糧122万3千627斤を奪った。ちなみに強制労働として連行された場合、大半が東北地区、満州の炭鉱地区や日本の進出工場の労働力としてであった。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

▽ 4月6日、日本軍の占領する海南島北部に米中軍機21機が来襲。

*4月7日:広西省桂林を三回に分けて爆撃、しかし2機が撃墜された。

*4月14日:湖北省襄陽市の老河口を爆撃。

*4月14−15日:広東省深圳市丹竹、韶関市南雄、江西省上饒市玉山を連続爆撃。

*4月15日:河南省南陽市の内郷県を爆撃。

*同日:福建省建甌および河南省内郷の両飛行場を爆撃。

*4月17日:河南省の鄭州市を陸軍の支援のために爆撃。(鄭州会戦)

*4月19日:地上軍の河南省洛陽市嵩県魔鬼への攻略に際し、約20機が3回にわたり中国軍陣地を爆撃。

*同日:別途、数十機が洛陽の東の河南省南陽市覇王城陣地を朝から夕刻まで数十回にわたり、延べ200機に及ぶ連続爆撃を行った。

*同日:日本軍はまず砲兵をもって河南省鄭州市中牟県の叩山頭守備軍の予備第11師団の陣地に猛烈な砲撃を加え、その後飛行機と毒ガス投下による援護によって猛襲し、翌日、日本軍は鄭州など多くの要地を陥落させた。

*4月20日:地上軍は覇王城陣地を占領したが、退却する部隊を追撃して銃爆撃。このほか、河南省枯川南岸の砲陣地、氾水、偃(えん)師の陣地を援護爆撃。

*同日:河南省三門峡市陝州から陝西省渭南市潼関の間の駅および鉄橋など、また河南省許昌市禹県と襄城あたりの部隊を銃爆撃。

*同日:退却する中国軍部隊を追撃し、河南省鄭州市密県(現・新密市)に追い詰めて撃滅を目指す地上部隊に協力爆撃。

*同日:河南省洛陽市を爆撃、無電台、洛陽長官部、米国人宿舎を狙った。

【縁日の中での銃爆撃】

*同日:(以下は本隊から離れた偵察機が行った爆撃と思われる)河南省許昌市禹県ではちょうど禹県城東関外太山廟古刹で縁日があった。午前9時、日軍機が縁日の上空を飛んできて、雨のように機銃掃射を浴びせ、続いて県城十三幇一帯を乱暴した。約20分後、北東からまた二機が太山廟上空に突入し、一機は爆弾を投下し、一機は機銃を乱射した。たちまち会場には煙火が立ちこめ、土ぼこりが舞い上がり、血で染められた。爆撃4発が投下され、機銃掃射と合わせて17人が死亡し、数十人が重軽傷を負った。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

*同日:8機が陝西省華県鉄道駅の上空に侵入、中国軍砲兵団が列車に乗込む時に機銃掃射し1人を射殺、6、7人が負傷した。

*同日:8機が陝西省の漢中、城個両飛行場を大編隊をもって空爆、滑走路と付属施設を「爆砕」。別途同省興安飛行場を爆撃。

*4月某日:8機が福建省南平市街地上空に侵入、西門横並び駅付近一帯に爆弾と焼夷弾を投下、一帯はたちまち火の海となり、民家、店、省企業会社制造部の工場と社宅を炎上させた。4世帯9人が火の中で死亡。

△ 4月20日に鄭州を占領。鄭州はここまで通算170回以上日本軍に爆撃された。

*4月21日:陝西省漢中市と陝西省宝鶏市の飛行場などを爆撃、帰路、隴(ろう)海線の列車を銃撃(このような列車を急襲して銃撃するのは米軍も日本で行うようになり、数々の悲劇を生んでいる)。続いて同省寳鶏飛行場も爆撃。

【鄭州市密県の惨劇】

*4月22日:河南省鄭州市栄陽と郭店鎮から武器弾薬を連ねて潰走中の部隊約三千人を密県付近で銃爆撃。この日本側の爆撃記録の裏で行われた中国側の記録である。

 —— 日本軍地上部隊は飛行隊の銃爆撃に続いて密県城外の民家百数十軒を焼き捨て、婦女60数人を強姦し、耕牛2、30頭を屠殺処分し、他の家畜や数えきれないほどの財物を略奪した。続いて翌日、日本軍は密県城を占領。日本兵は出会う住民や逃げる住民の数十人を殺した。避難していた女性が、日本軍の銃剣で陰部から胸まで突き刺されて殺された。さらに逃げ出そうとした多くの女性が強姦された。そこから5月3日の夜、日本陸軍は密県の西瓦店の南から唬珀嶺を通って平陌寨に向って攻撃したが、守備軍に抵抗され未遂に終わった。翌4日、日本軍は新寨村に入った後、銃剣で農民の申文堂などの10数人を刺し殺し、そして逃げられなかった女性を輪姦した。4月23日から5月4日まで密県では住民452人が惨殺され、家屋は600軒余り焼かれ、耕作牛二千頭余りが屠殺された。

(『日軍侵華暴行実録』第2巻)
【洛陽市に1日で延べ113機が出撃】

*同日:河南省洛陽市を爆撃。この日だけで延べ113機が出撃、大砲16門、車両120を撃破する等の戦果があったが、開封で一機が自爆炎上、4名が死亡。この日本側の爆撃記録に相応する中国側の記録の一部である。

 —— 河南省洛陽市偃師(えんし)区の城関鎮新寨村には市場があり、人々でにぎわっていた。そこに3機が突然新寨村の上空に飛来し急降下、機銃を乱射し爆弾を投下した。日本機は何度も往復して人の群れに向けて空爆を行った後、東方に去って行った。しかし一時間後、さらに3機が新寨村を爆撃した。後で判ったことだが、空襲前日の夜、新寨村の東街に4台の武器を満載した中国軍のトラックが停まっていた。その情報を日本軍が察知、いち早く新寨村に爆撃を行なった。しかし武器を満載したトラックは夜明け前に出て行き、代わりに(実際に近隣でトラックを見つけて爆撃したかもしれないが)日本軍は新寨村に小型爆弾100発以上を投下、この村の住民30人以上が死亡、80人以上が負傷、死傷した役畜は数十頭、民家80棟以上を爆破した。

(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:陝西省西安飛行場と格納庫、兵舎等施設、また咸陽飛行場も奇襲、滑走路など「粉砕」。

▽ アメリカ海軍艦隊の司令官は、アメリカはすでに太平洋上で守勢から攻勢に転じ、現在海軍を含む海戦隊200万人、空母50隻を保有し、かつ水陸作戦の技術はいずれも改良されている、と語った。

▽ 4月24日、日本軍の占領する海南島西岸にB25が4機来襲、空中戦で一機撃墜。

*4月25日:陝西省漢中を目指したが悪天候で中止、別働隊が河南省盧氏県飛行場を爆撃、「市街の軍事施設に巨弾の雨を降らせ、炎上させた」。また村落一ヵ所に火災を生じさせた。

〇 晋察冀辺区(山西省、河北省、遼寧省、内モンゴル自治区)政治委員会は、日本軍が昨年の秋、31県、人口約100万人の地区で、わが同胞6674人を殺害し、家屋5万4779軒を焼き、食糧2734万斤を略奪したと告発した。

*4月28日:河南省許昌の襄城県城への爆撃によって城内を攪乱し、その後陸軍の侵攻により県城が陥落した。その後終戦までの日本軍の占領により約三千の民間人が虐殺された。

*同日:夜、福建省建甌を爆撃。

▽ 同日、米軍機B24の編隊が鄭州の橋梁を爆撃、高高度からで、被害小。

*4月29日:河南省三門峡市霊宝と函谷関の間の鉄橋を爆撃。

*同日:江西省上饒市玉山飛行場を爆撃。

*同日:江西省九江上空で米軍16機を迎撃、7機を撃破。

▽ 同日、中国空軍は鄭州の黄河鉄橋を爆破し、日本軍の南下を阻止した。

*4月30日:陸軍は河南省許昌の城門攻略に難渋し、航空隊が支援爆撃、翌5月1日、許昌城を占領する。

*同日:陝西省の安康飛行場を爆撃。別途、江西省興安飛行場を爆撃。

5月

【湘桂作戦】

△ 1944年5月、「湘桂作戦」が実施される。揚子江南部、洞庭湖から南部地域、湖南省を中心とした作戦。

*5月1日:湖南省の衡陽を爆撃。また陝西省漢中市南鄭飛行場を爆撃。

*5月3日:許昌市禹県と襄城、臨汝(現・汝州)への陸軍部隊の攻撃に協力爆撃。

*同日、7機が夜間、湖南省の衡陽飛行場の滑走路、宿舎地区を爆撃。

▽ B25の編隊が日本の占拠する黄河橋梁を低空爆撃、また洛陽に向かう日本軍を低空で急襲。

*5月6日:米軍基地のある広東省の南雄を爆撃。

*同日:河南省霊宝付近で兵士満載の貨車11両を「爆砕」、また隴海線の函谷関のトンネル内に時限爆弾二個投入に「成功」、爆破して陸路を遮断。

*同日:河南省の臨汝と魯山道を南下中の車両50台を撃破。

▽ 同日、米中連合隊が新鄭の日本軍司令所を二度銃爆撃。

【42回の爆撃で三千人余りが死亡】

*5月8、10日:湖南省岳陽市湘陰県を爆撃。ここまで湘陰県は42回の爆撃を受け、三千人余りが死亡した。

*5月9日:河南省臨汝南方、伊陽付近を偵察爆撃、また霊宝東方の大営鎮駅を爆撃、線路7ヶ所と貨車30両近くを「爆砕」。

*5月10日:7機が深夜に四川省梁山に爆弾と焼夷弾37発を投下(死傷各1)、別の7機が四川省万県を爆撃。

【洛陽会戦】

*5月10−11日:大陸打通作戦の中で洛陽会戦を開始。河南省洛陽、新安、宜陽、嵩県を襲撃、貨車・列車数十両を爆破炎上、数十台の車両部隊にも大損害を与える。空中戦で米軍機2機を撃墜。

 これに対する中国側の記述。—— 午前中、河南省洛陽市嵩県の県城周辺を4機が爆撃し、県城社会服務処、人民生活供給所など6つの市関係の建物が爆発炎上し、食糧2万斤余りを焼失した。同日、日本軍機動兵力第3大隊は嵩県に進攻した。14日、日本軍第13師団は掃討作戦を行い、15日、嵩県の大章、千秋、県城周辺を襲った。河南大学は大章疎開地の高倍率顕微鏡52機(ドイツ・チェイス社製)を日本軍に奪われた。15日、日本軍が嵩県潭頭に侵入した時、河南大学北山に退避していた一部の教授や家族、学生に対して発砲し、5人が撃たれて死亡、女学生の李姉妹の二人は、辱めを受けることを潔しとせず、井戸に身を投げて死んだ。助教授高紹湯、呉鵬、医学院長張静吾妻、学生の劉祖望などが日軍の銃剣の下で死んだ。服飾学院長の王直青ら教え子20人余りは捕虜になり、王直青は崖から飛び降りたが生き延びた。河南大学では10人以上が死亡し、それ以上の多くの人が行方不明となった。その後日本軍は嵩県の大章などを占領し、虐殺や強姦、略奪など様々な暴虐行為を続けた。日本軍は青壮年に会うと軍用物資を担いで運ぶか、苦役を強いた。民夫が重い荷物を背負って滑って転ぶと、日本軍は銃剣で民夫を刺し殺した。一里余りの道中で、20人余りが刺し殺された。西関豫劇団の有名な俳優、柳玉川が日本軍に捕えられ、百余斤を肩に担がされ、日々百余里の道のりを歩き、飲み食いをさせられず、動けなくなると路傍で刺し殺された。また日本軍は要塞の建設に毎日数百人、のべ1万5000余りの民夫を出動させた。日本軍は嵩県に外地からアヘンの種子を買い入れ、アヘンを生産し県城に麻薬を大量に売る「大昌煙草館」を約10ヵ所設置した。アヘンを吸う人が一時的に増え、嵩県の人々に害を及ぼした。田湖鎮毛庄には、日本軍に強姦されたとき抵抗して生き埋めになった娘がいた。また日本軍が飯坂一帯を掃討した後、日本軍に暴行された女性は10人余りに上った。(『日軍侵華暴行実録:第2巻』)

*5月11日:広西省貴港市丹竹、江西省撫州新城、四川省梁山と万県を爆撃。

*同日:夜間から翌朝にかけて16機が三回、江西省遂川の米中軍機基地と市街地を爆撃、地上の5機を破壊、炎上させたが、一機を失う。

【激化する米軍機の攻撃】

▽ 同日、米中軍機70機が日本軍の進軍に対して爆撃。

*5月12日:午前、59機が同じく遂川の米中軍機基地を3回に分けて攻撃、激烈な対空射撃の中、地上の4機を爆破、米軍機と空中戦で2機を撃墜、2機が撃墜された。午後にも58機が遂川に出撃、地上の10機を炎上させ、空中戦で2機を撃墜したが2機が撃墜され3機が大破した。

*5月11−13日:河南省洛陽周辺を連続爆撃。

*5月13日:福建省建甌と江西省玉山を爆撃。

△ 1937年11月からこの5月13日まで、日本軍は洛陽に469機を出撃させて爆撃を続けた。

▽ 5月12−13日、米軍機は日本の占領する武漢地区に対し、両日に渡り延べ34機が4回に渡って爆撃、揚子江上の日本の船舶や鉄道関係も被害を受けた。

*5月13−16日:洛陽から退却する中国軍に対する追撃作戦に協力、洛河(黄河の支流)河谷奥、洛寧、長水鎮などで爆撃。

*5月14日:福建省建甌と江西省玉山の飛行場を爆撃。

▽ 5月15日、米軍はビルマ北部のカチン州の州都ミッチーナ飛行場を占領、17日、中国駐印軍はミッチーナの戦いを開始した。

*5月17日:湖北省荊州市沙市付近に来襲した米軍機を追尾して湖南省衡陽に入り空中戦で相互に2機を失った。

*5月17−18日:河南省三門峡市盧氏県方面で退却する部隊の追撃に協力爆撃。

*5月18日:陝西省陝州の隴海線を爆撃。

【投降兵100人と住民500人を惨殺】

*5月20日:地上部隊は河南省三門峡市盧氏県城を攻略、 同時に爆撃機7機を出動させ、城西飛行場を爆撃、「掃討」を行った。午前8時頃、日本軍の後衛部隊は城内に入り、中国軍守備部隊100人余りと遭遇、守備隊は武装解除され投降したが、日本軍は投降兵にゲートルで自縛させ一列に繋いで縛り、護送の途中で思いつくまま何人かを殺し、範里郷に着くころには全員を殺害した。城東では50人以上の住民が日本軍によって蛮子廟に追いこまれ、男は銃剣で刺されて殺され、女は輪姦された後、銃殺された。最後に日本軍は、蛮子廟に火をつけて死体を焚いた。城北の坡根では日本軍に集められた30人以上の女性が全員凌辱され、銃剣で刺されて殺された。午後、日本軍は撤退前に民家に火をつけ、城内は四方八方から燃え上がり大火は3日3晩燃え続け、民家340棟以上を焼き、500人以上の中国人が日本軍の軍刀の下で惨殺された。(『侵華日軍暴行総録』)

*同日:河南省洛陽城壁の陣地を三回爆撃。

*5月24日:日本機は洛陽城壁を全力で爆撃し、破壊。翌25日に日本軍は洛陽を占領し40日間にわたる河南省の戦いが終わり、鄭州、許昌、洛陽など45の重鎮と38県の国土が相次いで陥落、国民党軍は20万人余りを失った。

*5月25日:湖南省の長沙の軍事施設を爆撃。

*5月26日:13機で湖北省荊門市沙洋鎮を攻撃し、迎撃戦で一機を撃墜。

*5月27日:湖北省襄陽市の老河口飛行場を爆撃。

*同日:湖北省咸寧市大沙坪の陣地を爆撃。

*5月28日:河南省新墻(しょう)河左岸の陣地を爆撃。

【河南省制圧と湖南方面侵攻作戦】

△ 日本軍は河南省を制圧し、12万人の兵力で湖南省へ進撃した。

*同日:湖南省岳陽市の汨(べき)水を陸軍の支援で爆撃。

*5月29日:湖南省衡陽飛行場を爆撃。

*同日:洞庭湖東岸の磊石山から新墻(しょう)河南岸の陣地を数回にわたり爆撃、地上軍の進軍を支援。

*同日:数機で四川省重慶梁山(現・梁平区)を爆撃、爆弾42発で4人が死亡、4人が負傷。

*5月30日:10機が四川省梁山を爆撃、県城・城西郷・安勝郷などに爆弾109発を投下、死亡8人、負傷6人。 この爆撃の流れかどうか、夕方、3機が城口県城から100km以上離れた鶏鳴郷の上空で何度も旋回、爆弾10発を投下、村民の薛祥順の母子が爆死した。

*同日:湖南省岳陽市梅仙付近を退却する約1000の部隊を爆撃。

*5月30−31日:湖南省岳陽市平江県汨水の水路上に兵士・資材を満載した船艇を数度にわたり爆撃、29隻を撃沈、33隻を大破。さらに湖南省岳陽市の関王橋以南、平江周辺における地上作戦に協力、約4000の部隊を爆撃、また関王橋東南の朱公橋付近を退却中の約3000の部隊を爆撃。

*5月31日:広西省桂林市興安を爆撃。

*5月某日:福建省漳州に2機が爆弾投下、運河の泥浚い作業員100余人が死傷、船民小学校が機銃掃射され女教師1人死亡した。(ここまで漳州は1937.8.26より日本軍機延べ181機来襲、100回以上で投下爆弾346個、死者189人、負傷者217人、家屋数百軒が破壊、焼失)

【国民総決起運働】

〇 5月、大政翼賛会・翼賛政治会により国民総決起運働が提唱され、戦争勝利のために国民の総力を集結しようという運動が5月から6月にかけて行われ、日本各地に働く女性像が描かれたポスターが貼られた。

6月

*1944年6月1日:湖南省岳陽市湘陰付近の船艇群を爆撃、500tと50tの各一隻を大破。

*同日:洞庭湖をわたり赤山半島に攻め込む地上軍を支援して爆撃、また付近の船艇25隻を撃沈、29隻を大中破させた。

*6月2日:湖南省永州市零陵を爆撃。

〇 アメリカ下院交付金委員会によると、次年度の中国支援法案の金額は、1億4900万ドル余りになるとした。

*6月2日−7月2日: この間、12回にわたり30機が湖南省株洲市茶陵県城、龐陽、電虎、綱云、文江などの地域を爆撃、138発の爆弾を投下した。7月10日、県城が陥落し、1945年8月18日まで1年以上を要して茶陵県城と県下の郷鎮が日本軍に占領され、日本軍あちこちで掠奪、拉致(強制労働用)、姦淫を行い、無辜の住民を虐殺した。全県で9440人が殺され、1万7011人が負傷した。(『侵華日軍暴行総録』)

*6月5日:陝西省漢中市を爆撃。

*同日:湖南省岳陽市達摩山、青山地区で地上部隊の援護爆撃。

【ノルマンディー上陸作戦】

◎ 6月6日、英、米連合軍は1万1千機の航空機、4千隻の船艦を出動させ、ドイツ占領下のフランスのノルマンディーに大規模な上陸作戦を成功させ、戦線を切り開いた。翌日、蒋介石は英米指導者に祝電を送った。

△ 6月8日、湖南省益陽市沅江を占領。ただし1日の洞庭湖渡湖からこの日まで、米軍機の爆撃により、120隻あった日本軍の船艇が30数隻になっていた。

*6月8−10日:湖南省益陽、湘陰、臨沘、寧郷などの軍事施設、また退却中の中国軍の船艇20隻を撃沈、40隻を爆破。

【一地方寧郷における惨劇】

 このうち1938年9月6日に寧郷県は日本機による爆撃を受けてから1944年6月までに、寧郷への空襲は延べ64回に及び、221発の爆弾が投下され、死者105人、負傷者197人、86棟と177軒の家屋が破壊された。 この後の7月29日、日本軍第10軍の800人余りが県城に攻め入り、店舗と民家は略奪された上に大部分が焼かれ、街頭は死骸でいっぱいになった。全県9郷で女性への姦淫と残忍行為が繰り返され、夏鋒鋪圏門湾の5人の農民は日本軍に捕らえられた後、自分で穴を掘らされて生き埋めにされ、万寿山では7人の難民が捕らえられた後、空中に投げ飛ばされて死んだ。日本軍は殺人を楽しみ、被害者を木に縛りつけてゆっくり刺し殺したり、四肢を広げて壁に釘付けにしたりした。竜従郷の統計によると、郷全体で8818人、うち1125人が日本軍によって直接殺害され、219人が入水、崖から飛び降り自殺を余儀なくされた。芳儲郷および停鐘地区では417人が殺害され、298人が負傷し、65人の女性が強姦された。県全体の統計によると、3451人が殺害され、7万3231人が負傷し、6万2460人が捕虜となり、家畜2万7682頭が屠殺処分され、食糧266万7200石を掠奪され、財物損失額は2382億元に上った。(『侵華日軍暴行総録』)

*6月9日:湖南省零陵を爆撃。

*同日:午後10時、陝西省南鄭県城北郊の十里鋪と八里橋を爆撃し、第四兵器庫の火薬庫を目標に小型爆弾を数百発投下。

*6月10日:江西省の遂川を爆撃。

*同日:湖南省長沙会戦開始により地上部隊を援護爆撃。

*同日:湖南省益陽市稻香湾村を数機が襲い、湖に浮かぶ船に向かって急降下、機銃掃射によって三人が死亡。この村は8日から占領され日本軍の銃剣や銃弾、棍棒の下で21人、入水の被害者1人、強姦された女性は統計外。

*同日:湖南省永州市零陵、衡陽を急襲、13機を撃墜、撃破。

*同日:四川省梁山に数機が来襲、爆弾39発で1人死亡、2人負傷。

▽ 日本の占領する山西省太原に中国機が来襲、迎撃で一機撃墜、一機捕獲。

【八路軍反撃の拡大】

▽ 八路軍冀中部隊はこの日から7月20日にかけて青紗帳(コーリャンやトウモロコシの畑)戦争を発動し、捕虜の日本傀儡軍3000人余りを殺害し、冀中(河北省中部)平原の抗日根拠地を強固にし、拡大した。

*6月11日:湖北省恩施を爆撃。

*同日:長沙市白沙上空で激しい空中戦。

△ 同日、湖南省益陽を占領。

▽ 同日:日本軍の占領する安徽省安慶に中国軍7機が来襲、3機撃墜。

*6月12−13日:湖南省長沙市岳麓山の陣地を爆撃。中国側の記録では「6月12日、13日の爆撃により河西一帯で民間人100人以上が爆死、岳麓郷二保三甲の王家屋場(現・五星村周家湾)で14人が爆死」とある。

*同日:10機が梁山飛行場とその周辺に爆弾60発を投下、 県城、城西郷、金帯郷、安勝郷などを爆撃して3人が負傷、民家5棟を爆破した。

△ 大本営発表では、6月1日から12日までの「戦果」として、敵飛行機撃墜は16−21機、飛行場での炎上54機、撃破68機、船艇の撃沈撃破89隻、自軍の損害8機と発表した。

*6月13日:午後、20機で福建省の建甌飛行場および軍事施設を爆撃。建甌はこの年27回の爆撃を受けた。

*同日:湖北省恩施、四川省梁山飛行場を爆撃。

*同日:夜間に27機で湖南省零陵と衡陽飛行場、および付近の鉄道橋を爆撃。

*6月14日:湖南省衡陽を爆撃。

△ 同日、長沙市劉陽を占領。

*6月10−14日:陸軍の湖南戦線、河南戦線に協力して連日爆撃。

▽ 6月15−16日、小笠原諸島父島と母島、硫黄島に米軍機約100機が来襲、父島と母島は焼夷弾の投下と機銃掃射により、一般人の死者20人、負傷者14人この日は強風下で、多くの家屋が全焼、焼失全壊等家屋193戸。軍関係での死者4人、負傷者64人となった。大村役場、大村国民学校も焼失した。まるで日本軍が中国で行ってきた爆撃の再現であるが、大本営の発表では「所在の我が部隊はこれを迎撃し敵機17機以上を撃墜、我方への損害極めて軽微なり」としている。

【大型爆撃機B29の成都への配備と北九州への爆撃】

 1944年6月16日、四川省の成都はアメリカ軍の要請により、4月ごろまでに米軍飛行場基地として四ヶ所が整備されて中国政府から米軍に提供され、日本爆撃用に新たに開発された12人乗りのB29超大型爆撃機の基地となった。6月16日未明、B29爆撃機が、日本本土を空襲開始、とりあえず集結した83機のうち63機が発進し(75機のB29が出撃、うち47機が爆撃したという記述もある)、北九州の日本製鉄八幡製鉄所を中心とする5都市=八幡・小倉・戸畑・門司・若松を空襲し、死者216人(270名以上の説も)、重軽傷者376人、全半焼家屋318戸以上の被害を出した。米軍側報告では作戦中の事故で5機のB29が損失、2機が日本軍機により撃墜とされた。これに対し、日本側報告では撃墜6機(内不確実2機)、撃破7機、日本側被弾機1機と報じられたが、1942年4月18日の本土初空襲の時に「敵機9機を撃墜」との発表が、実は一機も撃墜できていなかったことを考慮するとこれも信用できない。この後、成都から九州への空襲は10回にわたって行なわれ、のべ363機のB29が九州の主要都市を襲い、377人以上の犠牲を出した。この他、成都から日本の植民地満州も爆撃している。また16日、日本軍の占領するサイパン島に米海軍が上陸した。

*6月15日:湖南省長沙市岳麓山後方の砲兵陣地を爆撃。

*6月16日:長沙市西方に巨弾を投下、「敵の指揮中枢部を粉砕」。

*同日:数機が四川省梁山を爆撃、3人死亡、2人重軽傷。

△ 16日、湖南省株州を占領。

▽ 6月17日、湖南省の洞庭湖に注ぐ湘江上を遡行した陸軍野戦重砲団が米軍機の攻撃を受けて大損害を生じた。

*6月17日:浙江省麗水、江西省上饒市玉山を爆撃。

【開戦時から続く長沙の厄災】

*6月18日: 陸軍の長沙攻略戦において30数機が援護爆撃を繰り返し、低空での機銃掃射も行った。長沙市南と岳麓山北の日本軍砲兵も激しく砲撃し、その中には多くの毒ガス弾が混じっていた。午後、長沙城はすべて日本軍の手に落ちた。( この後、日本軍占領による長沙の住民の死者6万8147人、負傷者14万6224人となる)

▽ 18日夜、日本軍が占領した長沙にアメリカ軍機が激しい空爆をし、長沙市街は焼きつくされた。

▽ 18日、日本の占領する安徽省安慶に米中軍機が来襲、空中戦で7機撃墜、撃破。

*6月19日:陸軍の湖南省衡陽攻略作戦に呼応して、湘潭市湘郷、岳陽市湘陰の軍事施設や退却軍を爆撃。

▽ 19日、マリアナ沖海戦(米国ではフィリピン海戦)で米軍は日本の空母「翔鶴」(真珠湾攻撃に参戦)など3隻(そのうち一隻の空母大鳳は竣工してからわずか3カ月)が米潜水艦や艦載機に撃沈され、日本は400機以上の航空機を失った。この海戦の敗北によりマリアナ諸島のサイパン島から次々に米軍の攻略を受け、日本軍は敗北の連鎖の状況となる。

*6月20日:午後2時、江西省上饒市鄱陽に戻る定期客船「永発号」は鄱陽湖独山付近を通る時、突然3機の襲撃を受け、機銃掃射と砲撃により船の後部が破壊され、落水者を含め、乗客110人余りのうち少なくとも30人以上が死亡、10人の船員のうち4人が死亡した。(『侵華日軍暴行総録』)

【湖南省衡山で一万人近くを殺害】

*6月20−21日:湖南省衡陽市衡山、湘潭市湘郷などの軍事施設および退却軍を爆撃。21日、衡山は陥落。 この後日本軍は1945年8月20日まで、この地を衡陽包囲攻撃の立脚地にした。この間、日本軍は計9872人を殺害、4万8623人を負傷させた。

*6月22日:この日から地上軍による<衡陽・保衛戦>が始まり、それを支援する爆撃が開始された。

*6月25日:衡陽西方の白鶴舗の鉄橋、衡陽南東の陣地、長沙市潭州の蓮水上の船艇群を爆撃、空中戦でそれぞれ一機失う。別途日本軍の河南省鄭州が攻撃され空中戦で4機撃墜、3機撃墜される。

*6月26日:昼間と夜間で湖南省零陵を爆撃、地上の数機を爆破したが、2機が未帰還。

*同日:衡陽の主陣地、また付近の粤漢線、蓮水の船艇を爆撃。

*6月27日:衡陽の主陣地を爆撃して包囲網を作りつつ、地上部隊が飛行場を奪取、しかし事前に破壊されていて修復に着手。

*6月28日:飛行部隊は衡陽飛行場に前進、同時に地上部隊は各方面から総攻撃するも防御されて失敗。飛行隊は衡陽西側の陣地を銃爆撃。空中戦で一機撃墜。

*6月29日:浙江省麗水市青田県に10機が2陣に分けて県城を爆撃、25発の爆弾を投下、民間人12人が死亡、15人が負傷、191軒の家屋を爆破。青田県は1938年8月9日からこの日まで、40機余りが、鶴城鎮、温渓、沙埠、石渓、海口、海渓などに爆弾、焼夷弾76発を投下し、住民38人を爆死させ、34人を負傷、家屋427軒、民間船6隻を爆破した。

*6月29−30日:地上部隊の攻撃は進展せず(砲弾不足が主因)、飛行部隊は何度も米軍機と交戦、二機を撃墜するが自軍不明。

*6月30日:地上軍別部隊の広東省清遠攻略に合わせて清遠周辺を爆撃。

【河南作戦の戦果】

△ 日本軍は河南作戦(前年からの大陸打通作戦のうちで、青 島、済南、開封、鄭州、許昌方面の攻略)による6月20日までの戦果は、中国側遺棄死体6万1862、捕虜1万9777、撃墜した飛行機35、自軍の損害は戦死2008とした。

7月

*1944年7月1日:広東省韶関市曲江の陣地を二度爆撃。

*同日:地上部隊の攻撃を捕捉しつつ衡陽の市街南側陣地を爆撃。

*7月2日:深夜に悪天候を突いて衡陽の市街地を爆撃、その中枢部を炎上させる。別途北西方の拠点を爆撃し、十数カ所を炎上。

*7月3日:深夜、16機で湖南省芷(し)江飛行場(米中軍は衡陽飛行場を日本軍に奪われたため、この飛行場に集結していた)を爆撃、小型機約20機を炎上爆破、別途、湖南省常徳、衡陽の陣地を爆撃。

*同日:湖北省恩施、巴東を爆撃。

△ 3日、広東省清遠、湖南省衡陽市来陽、翌日江西省吉安市永豊を占領。

*7月4日:夜間、14機で陝西省漢中飛行場を爆撃、約10機を炎上爆破、別途西安と衡陽の陣地を爆撃。

*同日:四川省梁山県(現・重慶梁平区)を爆撃、目立った被害なし。

*7月初旬:湖南省益陽市桃江の犀牛洲辺及び鄒家河の渡し場に中国軍が滞留していたところ、7機が襲撃、鄒家河の渡し場は血と肉が飛び散り、家の壁や木の棒には肉の破片や腸が張り付き、10人以上が死亡した。桃江鎮横街口の楊涵学一家8人と居候していた邵陽劉姓人夫婦、息子も一緒に爆死した。理髪店で3人死亡。更に低空機銃掃射して数人が死亡。同日、益陽城を爆撃した際、県境で4人が死亡した。爆死計30人余り、機銃殺死4人、負傷1人、爆破家屋3棟13間、木船10余艘。この後、益陽に駐屯していた日本軍はこの年の秋と翌年の春夏に何度も桃江の村々に侵入し、殺戮、食料の略奪、婦女への強姦の限りを尽くした。(『侵華日軍暴行総録』)

【米軍機104機が日本軍占領地へ出撃】

▽ 7月5日、米軍機は延べ13回で104機が日本軍占領地へ出撃、その中で香港をおよび広州に襲来、飛行場に大きな損傷はなかったが、市街で戦死11名、重軽傷10名。これは日本が被害側なので人数が把握できているだけで、これまで長年の中国側の被害の大きさは日本軍は全く把握していない。

〇 日本軍は帝国政府の名で声明を発表し、「日本軍の河南省と湖南省に対する攻撃の目的は、米国と英国による侵略を鎮圧することである」と宣言した。

*7月5−6日:湖南省岳陽市(類推)新市や衡陽上空で交戦、5機程度撃墜、一機を失う(だけか?)。

*7月6日:深夜に「月明かりを利用して」11機が衡陽の市街地を爆撃、その中枢部21ヶ所に火災を生じさせた。

*7月7日:江西省贛州を8機で深夜爆撃、他に湖南省衡陽の市街地(拠点)、また湖南省 懐化市、四川省の梁山を爆撃。

【爆撃下の惨状】

*同日:湖南省衡陽市衡東県呉集を7機が急襲、まず機関銃を乱射し、さらには爆弾を一つずつ投下し、たちまち呉集街道は炎に包まれ、廃墟となった。住民40余人が爆死し、ある者は腹を木にぶら下げ、胴体は肉の糸になり、ある者は四肢を幾つかの節に切断され、原形をとどめず、不気味だった。福寿街で豆妓坊を開いていた呉義和の家では、6人の家族のうち5人爆死。嫁の曹田娥は両手で子供を連れて、腹の中に赤ん坊を抱え、片方の足を門をまたいだ瞬間、四人の娘は爆死、妊婦は片方の足でひざまずいたままだった。砂糖屋の羅家は並びの3軒の家が全部爆破され、爆発の中心点は今は大きい池になっている。瓦礫から運び出された死体が一ヶ所にに積まれていた。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

〇 同日、中国抗戦7周年記念として、チャーチル英首相は「西側でドイツを破った後、東方で全力を尽くして日本を打撃する」と述べた。ヘル米国務長官は声明を発表し、米政府が国民政府を恒久的に支持することを重ねて表明した。

*7月8日:湖南省衡陽の市街地などを攻撃、B25を7機炎上爆破、小型機4機を炎上。

*同日:湖南省永州市冷水灘の鉄道駅と施設、貨車を爆撃、炎上9ヶ所。別途、江西省の遂川を爆撃。

*同日:四川省梁山県を三回爆撃、爆弾20数発で3人負傷、家屋4棟喪失。

*7月9日:夜間、13機で広西省桂林第一飛行場を攻撃、大小飛行機計28機を炎上もしくは爆破した。

*同日:夜明け前と薄暮に衡陽市街地(陣地)を爆撃。

▽ 同日、日本軍の占拠する湖北省白螺磯と湖南省岳州(現・岳陽)、また広東省白雲の各飛行場に米軍機が来襲。

【サイパン島陥落】

▽ 7月9日、米軍の攻略により、日本軍が生命線として死守するサイパン島が陥落、全軍が玉砕し、4万人の戦死者のうち現地人、日本人居留者等の民間人犠牲者は1万人に達した。このサイパン島から日本本土はB29の射程内に入り、空港が整備されて11月24日より日本本土への本格的空襲が始まる。(サイパン攻略の後、米軍は8月1日にテニアン島を攻略、さらに8月10日にはグアム島を攻略し、これらを合わせて日本本土への爆撃体制が整った)

*7月10日:衡陽の市街地(城内の対空火器陣地)を三度、さらに西側陣地を爆撃。

*7月11日:未明、地上軍の衡陽第二次攻撃に先んじて市街地ならびに南西城壁に沿う地区を爆撃、50kg弾129発と焼夷弾50発を投下し、30数ヶ所を炎上させた。

*同日:早朝と夕刻、衡陽の西側と南側の拠点、また鉄道南部三角地帯を爆撃、別途衡陽市街西端と東端地区の防御施設ならびに南側陣地を爆撃。

*同日:衡陽の虎形山を爆撃、この時地上の砲兵隊と合わせて毒ガス弾を投下した。

*同日:夜、11機が湖南省芷江の飛行場を攻撃、対空砲火を冒して飛行場全域を爆撃、地上のほとんど50機近くを破壊炎上。

*7月12日:広西省桂林の第1、第2飛行場を15機で夜間爆撃、両飛行場で大きな戦果を得た。

*同日:湖南省芷江飛行場を攻撃、大型機2機、小型機49機を撃破。

*同日:江西省新城、韓州、遂川、四川省梁山、陝西省漢中などを爆撃。

*同日:衡陽の市街北側を爆撃、10ヶ所を炎上させた。

*7月13日早暁、続けて桂林を爆撃、前日と合わせて多数(89機)の米軍機を爆破、炎上させた。

*7月14日:湖南省芷江飛行場を猛爆、また広西省貴港市丹竹を爆撃。

△ 同日、衡陽郊外で激戦が続き、日本軍は何度も毒ガスを投じた。

▽ 7月14日、米軍機が河南省新郷駅舎を爆撃、日本軍約200人爆死。別途、湖北省白螺磯に米軍機が来襲、数機の損害と戦死6名、重傷16名。

*7月15日:地上軍の衡陽に対する本攻撃に合わせ、早朝、城の南西および南の拠点を銃爆撃、さらに昼間に二度、同拠点を銃爆撃。

*7月16日:衡陽市街を朝夕爆撃、特に夕刻、蕭家山高地の陣地を繰り返し猛爆撃、「轟々たる爆音とともに濛々たる爆煙が蕭家山を覆い、そのものすごい情景は全軍の将兵を興奮させ… 地上の大隊は突撃を起こし、工兵の鉄条網爆破とともに一挙に敵陣内に突入、これを占領した」。 この後衡陽城攻撃は中国軍の頑強な抵抗と後方支援軍への米中軍機の攻撃で頓挫、日本軍は体制を立て直すため一旦中止。

*同日:湖南省湘潭市湘郷を爆撃。 湘潭は1937年から1943年までの7年間で、25回、延べ931機による空爆を受け、2717発の爆弾が投下され、県民1303人が爆殺され、1254人が負傷した。

*7月17−20日:地上軍支援で湖南省衡山県蓮花峰、湖南省株洲市茶陵などを爆撃。別途、江西省萍郷を爆撃。

【毒ガス使用への抗議】

〇 7月18日、第18軍参謀長の葉剣英は声明を発表し、全世界の人々に日本軍の毒ガス使用の罪悪行為を訴え「日本の侵略者は長年にわたって毒ガスを使用し、その動かぬ証拠は山のようにある。国際法を侵している日本の侵略者は、必ず敗れ去るであろう」と述べた。

〇 20日、太平洋戦争の戦況悪化の責任を問われ、東條内閣が総辞職。

*7月21日:広東省清遠を落下傘爆弾で「盲爆」。

〇 22日、日本の小磯新首相は「政府と大本営が一致団結し、断固たる意志で国策を遂行し、この戦争に勝利するよう努力する」と述べた。

*7月24日:衡陽市街爆撃に対し、米軍機と空中戦、米軍が優勢であった。

▽ 同日、米軍機は白螺磯を爆撃、地上の日本の9機が炎上大破した。

*同日:湖南省零陵飛行場を急襲、小型機18機を炎上爆破。湖南省岳陽市岳州上空で空中戦、三機を撃墜し撃破。

*7月25日:湖南省芷江に10機で向かうが悪天候で一部爆撃。(米空軍は湖南省岳州飛行場に襲来、交戦で7機撃墜、2機を失う)

*7月27日:夜間、広西省柳州を10機で爆撃、大小機16機を炎上、10機を破壊。 同時に8機で湖南省芷江を爆撃、大小機14機を炎上、5機を破壊。

*7月28日:広西省桂林の第一、第二飛行場を18機で襲撃、「炎上撃破64機に及ぶ大戦果を挙げた」。

*同日:湖南省零陵・芷江、広西省柳州・貴港市丹竹などを猛爆撃。

▽ 同日、米空軍は岳州飛行場を攻撃し、日本機34機を破壊した。

*7月29日:悪天候の中、桂林・柳州を攻撃、飛行場の大小機11機炎上させる。

【B29の満州への爆撃と日本の制空権喪失】

▽ 同日、米軍機B29が成都から72機出撃、故障などで12機が脱落したが、満州の天津、大連、鞍山、塘沽及び河南省鄭州などの日本軍事施設を爆撃した。これに対し河南省鄭州の覇王城上空で帰還中のB29を3機撃墜とある一方で、B29は捕捉できずとの記述もある。その後8月の記述ではまだ一機も撃墜できずとあるからこの3機はP51などの護衛戦闘機であろう。なお満 洲鞍山の昭和製鋼所ではこの爆撃で129人が死亡し、工場の生産は減産を強いられた。またここまで日本機も相当数米軍のP51戦闘機等を破壊したが、米軍側の機数はそれ以上に補充され続けていて、逆に陸軍航空隊はこうした消耗と太平洋方面への転出で200機弱程度に減少していて、米中軍機は約三倍と推測され、制空権は米中の連合軍に半ば以上奪われつつあった。この情勢の報告をもって日本の大本営は新たな四式戦闘機を中国に投入することを決め、また一部はすでに東南アジアの南方戦線から援軍が送り込まれていた。

*7月30日:四川省梁山を数機が爆撃、被害なし。

*7月31日:桂林・柳州を攻撃、特に柳州では大小機14機炎上、9機撃破。

*同日:広西省貴港市丹竹、梧州を爆撃。

*7月某日:上海南匯区黄路郷友愛村倪家付近で爆弾数発が投下され、田を鋤きこんでいた陳才根ら3人が死亡、3人が負傷した。

8月

*1944年8月1日:桂林の第1・第2飛行場を爆撃、別途、柳州・丹竹・芷江飛行場を爆撃、炎上撃破数十機の多数の戦果を得た。

△ 同日、江西省萍郷市蓮花を占領。

▽ 同日、米空軍が海南島の日本軍を爆撃した。

*8月2日:陝西省の安康市を猛爆撃。(桂林方面は天候不良で中止)

*8月3日:衡陽市街中心部、また市内の岳屏、四差路を編隊が交互に爆撃し、陸軍は翌日から第三次攻撃を開始した。

▽ 冀魯豫(華北一帯の抗日根拠地)軍部隊は山東省鄂城境内に秘密裏に侵入し、砲火の援護の下で日本軍に攻撃を開始した。6日までに、郭城周辺の重要拠点を攻略、8日、八路軍は付荘を強攻し、傀儡軍の4中隊を殲滅した。続いて拠点36カ所を攻略し、傀儡軍を3000人近く殲滅した。

*8月4日:陸軍の進撃を支援し、衡陽戦場上空で交戦しつつ爆撃、そのほか岳屏高地などの陣地数ヶ所を爆撃。地上軍に物量投下のために向かった大型機が米軍機の攻撃で撃墜され乗員4名戦死。

▽ 4日、米軍機B29数機が満州鞍山製鉄を爆撃。

△ 4日、広東省雷州半島廉江を占領。

【米中連合軍のビルマ攻撃】

▽ 4日、中米連合軍はビルマ北の要衝であるミイトキーナ(ミチナ)を攻略し、合計3000人余りの日本軍を殲滅した。

*8月5−6日:衡陽攻略に対する支援爆撃を続行、米軍機の防御も依然活発であった。

*8月7日:払暁、陸軍の砲兵隊が一斉に衡陽市街に砲撃開始、航空隊も米軍機と交戦しながら夜間まで隙を突いて各陣地を爆撃、地上部隊は衡陽内の多くの地区を占拠。

【衡陽への大量爆撃と占領後の惨禍】

*8月8日:陸空の大攻撃により湖南省衡陽を陥落させる。

 この日までの48日間ほぼ毎日、日本機は衡陽を攻撃し、各地に爆弾と焼夷弾を投下し、多数の民間人を殺害した。3万2500軒以上あった家屋で完全に残った家屋はわずか5軒であった。統計によると、日本軍機は(1937年秋から)計569回にわたり衡陽を空爆、航空機延べ1703機が出動、投下した爆弾は3958発(別の記録では656回、2690機、6115発)に及んだ。

 日本軍はこの占領した衡陽飛行場を早急に修理し、米軍機の基地となっている広西省桂林を集中的に爆撃することになる。日本軍の確認したところでは、衡陽での敵死体は4100人以上(爆撃後すぐの占領で、衡陽市側で死者の確認はできていないからこの数字は爆死者と戦死者を合わせたものかもしれない)、捕虜1万3300人としている。

 日本軍の発表では、5月27日に開始した湖南方面作戦において、8月8日の衡陽陥落までの「総合戦果」は、我方にて収容せる死体(初期では「遺棄死体」としていたが、無責任との雰囲気によって使われなくなったと思われる)6万6468人、捕虜2万7447人、自軍の戦死5343人としている。

 衡陽陥落後の第五航空軍の戦果報告では、湘桂作戦開始以来衡陽陥落まで(5/27−8/9)侵攻による地上機の撃破炎上654機、うち大型機171機、迎撃戦による撃墜破215機、うち大型16機とし、別途船艇群撃沈撃破は232、兵員2万3300人とあるが、この死者はどこまでも推定で、また654機は「相当に過大である」と自身で評価し、215機も過大であろうが近い数字としている。自軍の損失は攻撃によるもの65機、襲来によるもの40機となっているが、これもどうやら実際より少ないと見て取れる。また自軍戦死者は277名、戦傷121名となっているが、相互の戦死者を戦果、損失と言うのも人の命に対して違和感が残る。

<その惨禍の証言>

 朱富章:6月、日本軍が衡陽を陥落させる前、私たちの易頼街の近くで食糧を奪い、私も捕らえられ彼らのために米を運んだ。賀という老人も肩に炊事道具を担いで、下り坂で滑って転んでうめき声を上げ、そこに日本兵が鞭で打つと地面を転げ回り、するともう一人の兵が、彼に対して銃で撃って死んだ。もう一人の楊も荷が重すぎて担げなかったので日本兵は彼を殴って血だらけにした後、約100m離れた田んぼの中に引き込んで彼を射殺した。

 舒名世:1944年夏、衡陽が陥落する前、日本軍は郊外で略奪を繰り返した。数人の日本兵が二塘近くの唐家で婦人を見て強姦を企て、その夫が助けようとしてたが、日本兵は彼を針金で木に吊るし、ガソリンをかけて、火をつけて焼き殺し、その上で婦人を強制的に輪姦してから刺して殺した。別の村では、竹の茂みの中に隠れていてた4人の女性が日本兵に発見され、女性たちは逃げることができず、襲ってきた一人の兵士を道連れにして側面の深い池に転が落ちて死んだ。残りの兵士は怒って、村全体を放火して燃やした。

 王恢端:衡陽から郊外の東郷黄竹奸大牧嶺王家に疎開していたが、8月末に衡陽から日本軍が来て、私の村を一晩占拠して、2頭の豚、数十羽の鶏を殺し、たくさんの家具を焼いた後、私の家から劉家に行き、女性たちを何度も姦通した。

 黄崇礼:衡陽が陥落した後、市内の大部分は廃墟となり、日本兵は昼間から郊外で騒乱を起こし、強姦と略奪をくりかえした。衡陽から遠くない小さな町で、日本軍は約4、50人の小隊を派遣したが、町では財物を奪う以外に、町に残っていた女性を強姦し、一人の老女性も十数人の獣兵に輪姦されて死に、幼女も強姦後に日本兵に銃剣で刺されて死んだ。

 華光伍:日本軍は衡陽の陥落前、郊外に侵入して略奪を繰り返した。一群の兵が私の家に駆け込んで、まず私の父を捕まえて、酒がほしい、砂糖がほしい、娘がほしいと尋ねた。私の父は彼らの言葉を理解せず、ただ首を横に振ると、一人の兵が軍刀を抜き、頭を割って、私の父を殺した。それから私は閉じ込められ、毎日私を用事に使った。最終日に私は殴られて筋骨を折り不具にされた。

 孟祥:8月に衡陽が陥落した後、私の松山郷で日本軍に銃殺され、強姦されて死んだのは、全郷の人口の40%以上を占めた。第五住民組には弯弓塘屋場があり、90数人の住民がいたが、日本軍によって70数人殺され、残ったのは20人足らずだった。

 朱章:8月以降、日本侵略軍は、焼、殺、略奪、姦淫などの残酷で非人道的な手段で衡陽人民を破壊するだけでなく、細菌戦で衡陽人民を苦しめ、赤痢、腸チフス、疫病を大いに流行させた。両親も妹も赤痢に命を奪われ、私が住んでいた家では五戸28人のうち赤痢で9人が死亡した。最も悲惨なのは桐子坪村で、4世帯16人が敵の細菌投与によって赤痢を患い、一ヶ月もたたないうちに12人が死亡した。

<惨禍の実態>

 占領期間は日本の敗戦まで1年2カ月に及び、衡陽の住民は空前の大惨事を経験した。全市の人口は戦前は約53万人余りだったが、市街地に残ったのはわずか16万人余りで、元の人口の30%であった。戦禍を避けて貴州省、桂州、四川省などの省や湘南、湘西に亡命したのは約8万人余り、衡陽県の辺鄙な農村に逃れたのは約10万人余り、衡陽に滞在している他省の他県出身者は、日本軍を避けて帰郷して二度と衡陽に帰らない者約10万人余り。3つの合計は元の人口の55%を占めている。戦争で死亡した約5万人、陥落期間中、病気、赤痢、チフスなどの病気にかかった9万人余り、うち3万人余りが死亡した。この戦禍による疫病で死亡したのは、元の人口の15%を占めている。市内の家屋はもともと3万2500棟余りあったが、戦後は完全な家屋5棟しか残っていない。深刻な破壊を受けても、かろうじて住めるのは60棟にも満たなかった。財物などの損失は莫大で試算できない。郊外では耕作牛1万2000頭余り、豚3万4000頭余り、鶏、アヒル、犬、羊などの家禽家畜の損失は数えきれない。田畑の90%は荒れ果てた。住民の食糧は茶陵、攸県などから援助を受け、常に食糧危機が発生した。なおこれは衡陽市全域のことではなく、市区に限っていて、衡陽市全域での損害等の数字はこの数倍から10倍に及ぶ。(以上は『日軍侵華暴行実録』第4巻)

【衡陽における戦後の爆弾処理】

〇 2014年12月8日、湖南省衡陽市の警察は爆弾の廃棄作業を行ったが、ここ数年の間に集めた爆弾は約1000個、航空機搭載爆弾22個、最も重いものは1150kg、合わせておよそ10トンの爆弾を集中的に廃棄した。爆弾のほとんどは1944年の衡陽市防衛戦の際に投下されたもので、ここ数年の間、各種建築物の工事現場から見つかったものであるとしている。(中国国際放送局日本語版:2014年12月10日)

*8月8日:夜間、6機で湖南省芷江を爆撃、炎上撃破約10機。別途江西省贛州を2機で襲撃、炎上撃破8機。

▽ 8月8日、米軍機が日本の占領する上海を初爆撃。

▽ 8月9日、米軍機は連日で上海の日本の軍事施設を爆撃、また黄浦江の日本の軍艦を爆撃した。

*8月10日:広西省桂林市興安、陝西省西安を爆撃。

*同日夜、4機が陝西省南鄭県城を爆撃。

【米軍機B29が成都から長崎を爆撃】

▽ 8月10日、米軍のB29が20数機で成都から長崎の工業地帯を夜間に焼夷弾による空襲をした。別途日本軍の占領地広州を爆撃。

*8月11日:払暁、偵察機が帰還途中のB29が陝西省西安に3機、山西省蒲州対岸に1機不時着しているのを発見、直ちに出動し蒲州の1機を爆撃。

*同日夜、西安および漢中の飛行場を爆撃、大型6機、小型数機を炎上。

*8月12日:広西省柳州の飛行場を爆撃、22機を撃破炎上させた。

*同日:四川省万県回龍郷を夜間爆撃、照明弾を投下した後爆弾約100発を投下。

▽ 8月12日、米軍機が日本の植民地朝鮮南部と九州北西部を爆撃。

*8月13日:四川省梁山に爆弾約400発を投下。

*8月14日:桂林飛行場を強襲、四機炎上。

【河南省舞陽県における残虐行為】

*同日:未明、河南省漯河市舞陽県朱蘭店を爆撃し機銃掃射、村の家々が燃え上がり、住民は泣き叫んで続々と逃げ出した。続いて完全武装した日本軍が村に入り、46世帯の家屋を強引に接収、562人が家を失った。日本軍は村で鶏や羊を捕らえ、豚を殺し、人を捕らえ、女性を強姦した。さらに残虐なことに、日本軍は捕えた人々を病院に送り、血を採り、切り裂き、心臓を摘出して人体実験を行った。近くを通る村人を手当たり次第に射撃の標的にし、朱蘭店では民間人41人が殺害され、400人以上に暴行を加え、女性54人を強姦し、家352軒を焼き払い、家畜42頭を屠殺し、樹木3000本以上を伐採、財物5000点以上を略奪した。(『侵華日軍暴行総録』)

▽ 8月15日、八路軍は山東省臨沂市沂水で戦闘を開始し、四方から忻水に突入し、日本軍と市街戦を展開、16日までに傀儡軍1000人余りを全滅させた。

▽ 8月16日、米軍機は日本軍が占領した衡陽を数度爆撃。

*8月17日:福建省建甌、江西省九江を爆撃、空中戦でB25、P51を撃墜。

▽ 8月17日、米軍機は日本の占領する山西省太原を数度爆撃、10数機が破壊炎上された。

△ 同日、中国における日本飛行隊の戦力低下に対して、大本営は次の作戦を成功させるべく、一ヶ月限定で国内と台湾から重軽爆撃機三部隊の派遣を決定した。

▽ 同日、イギリス軍がインド国境から日本の占領するビルマに侵攻した。

▽ 8月19日、米機が湖南省岳陽で日本汽船1隻と400隻の軍用帆船を爆破した。

【B29が成都から61機で北九州を爆撃】

▽ 8月20日夕刻、米軍機のB29が成都から61機で出撃、北九州の八幡製鉄所を再び爆撃、迎撃する日本軍はB29四機を撃墜し、一機は対空射撃、三機は戦闘機によるもので、そのうち2機は体当たり、つまり特攻自爆であった(その後の発表で日本軍は米軍の10数機を撃墜としているが誇大であろう)。実は対空射撃といってもこの時期の設備では、B29の高度1万mには届かないから、いずれもB29が低空に来た時であろう。米軍は17機の日本機を撃墜、13機撃墜不確実、12機を撃破と報告した。ちなみに八幡市は、翌1945年の終戦直前の8月8日(長崎原爆投下の前日)の3度目では、マリアナ諸島基地発のB29が焼夷弾爆撃を行い、罹災者数5万2562人、罹災戸数1万4000戸 、死傷者は約2500人の被害を被った。
▽ 同日、米軍機は北九州への流れで本州中国地方西部も爆撃。61機と合わせて82機が爆撃した。

*8月某日:午後、広東省清遠市英徳県青塘を爆撃し、防空壕に逃げ遅れた3、40人の人々を吹き飛ばした。村民の陳阿安と父の陳道房の二人は朝一緒に豚肉を担いで市場で売っていたが、父親は被爆して死体が分散し、それを息子が一つずつ拾ってザルに入れて帰り、埋葬した。日本機は、あるときは一機、三機、六機、あるいは九機で、あるときは一日に三、四回青塘へ爆撃を行った。数年の間、青塘の住宅と商店は280軒余りが爆撃を受け、残りの150軒余りも様々な被害を受けた。爆死した住民は300余人。

*8月21日:日本軍機は陝西省渭南県城を爆撃、南塘巷口に焼夷弾4発を投下したが、被害はなかった。

▽ 21日未明、米軍機が再び北九州を爆撃。

【早くも連合軍による戦後処理方針】

◎ ワシントンで、米国、英国、ソ連、中国代表が、戦後の世界平和機構の設立を検討した。

▽ 21日、米軍機の攻撃により、台湾全島が戦争状態に入り、台湾総督府は連日防空会議を開催した。

*8月下旬前半、江西省遂川、湖南省零陵を夜間爆撃。

*8月25日:江西省贛州と遂川を夜間爆撃。

▽ 同日、米軍機B29が満州遼寧省鞍山製鉄所を爆撃。

*8月26日:二機が四川省梁山県の飛行場、城北郷に爆弾約100発を投下。

*8月27日:湖南省芷江、永州市零陵を夜間爆撃。

▽ 同日、米軍機B29数機が満州鞍山製鉄所を爆撃。

△ 同日、浙江省麗水を占領。ここまでの麗水攻略における「戦果」は、敵遺棄死体1803、捕虜95であった。

*8月28日:夜間、8機が桂林、湖北省恩施を爆撃。また地上軍の侵攻に合わせ広西省柳州を爆撃。

*同日:四川省梁山飛行場、城北郷に爆弾50余発を投下、被害なし。

▽ 同日、米軍機41機が日本軍の湖南省衡陽、来陽を主とし、一部は湘潭、岳陽、湖北省白螺磯に来襲して爆撃。

*8月29日:夜間、12機が4回にわたり四川省梁山の飛行場・県城・城北郷・擂鼓坪などを爆撃、爆弾約40発で死者7人、負傷9人。

*同日:夜間、3機で広西省桂林を爆撃。(この日、湖南省岳州、山東省斎寧、湖北省荊州市監利などの上空で米軍機との空中戦)

▽ 8月29日、米軍が日本軍の占領する福建省厦門、また40数機が武漢に来襲、空中戦で13機を撃墜。

*8月30日:夜間、3機で湖北省恩施飛行場を爆撃。

*同日夜:江西省遂川飛行場を爆撃。

*同日夜:貴州省威寧二塘から雲南省玉渓大営街の間の宿営を爆撃。

*8月31日:夜明け前、零陵飛行場を爆撃、大小5機を炎上。

*同日夜:広西省柳州、丹竹飛行場を爆撃。

*同日:貴州省二塘付近の陣地守備隊を爆撃。

*同日:陝西省渭南県城の南塘巷を再度爆撃、家屋11棟を破壊した。

▽ 8月末、米軍のB29大型爆撃機1機が河北省昌黎県付近で墜落し、7人のパイロットが脱出、抗日根拠地の軍民が救護にあたった。

【大東亜戦時画報から】

〇 『大東亜戦時画報』(第34号:毎日新聞1944年9月8日発行)の記述からである。

 —— 支那大陸の敵航空基地は五集団基地群に分かれ、しかも各集団基地群は有機的な連携のもとに体制を築き、わが荒鷲に叩かれても叩かれても間断なく数十万の苦力とトラクターを有する在支米軍工兵隊の手で急速に復習作業を行い、わが荒鷲と敵復旧作業隊とは「爆砕と復旧」の反復戦を繰り返している。かくて敵の各基地は着々強化され何れも二、三千mの滑走路を建設して大型爆撃機の離着陸に使用できるようになっている。しかもこれらの主要基地には二、三千名を収容しうる地下待避壕、地下格納庫、対空砲火陣地群まで構築し膨大な航空要塞を形成している。そして各飛行集団基地群には……米軍主力の各種戦闘機とB25爆撃機を配置し、重慶、成都など奥基地にはP47と最新鋭爆撃機B29を集結、着々増強して対日空襲に虎視眈々としている。……これらの基地は合計三百有余に達するといわれ、ただ蜀滇(四川省と雲南省)奥地基地軍は印支(インドと中国)空輸基地として兵站基地的役割を演じ、機体、必需物資、搭乗員、設営隊などが到着、再び各飛行基地に中継し、インドからの入支空輸量は最近では月一万五千トンに達するといわれ、毎日18分毎に一機の割合で飛び、二百人を楽に積む大型機も就航していると宣伝している。…… 叩かれても叩かれても補給する敵に対し、わが方では補給しても補給しても叩き潰すのみである。

 筆者注:「印支空輸基地として」というのは、中国の重要な物資輸入港である上海と広州、香港は日本に占領され、ベトナム方面(援蒋ルート)からの輸入も日本軍の占領によって閉ざされたから、米軍はインドから大型機でヒマラヤ山脈を越えて空輸し、中国軍を支援した。逆にすでにこの時期は米軍による太平洋海上封鎖が次第に強化され、日本本土からの日本軍への物資輸送は難しくなっていた。さらに言えば日本軍の特攻作戦でこの年末から沖縄やフィリピンに向かい特攻隊員たちを運ぶ艦船の多くが撃沈され、若者たちは特攻の使命すら全うできず、その途上で多くが命を失った。

 なお日本軍の爆撃はこの時期ほぼ夜間に行われているが、理由は昼間では米軍機との交戦で対等に戦えないからであった。

9月

*1944年9月1日:広東省広州市洪橋の自動車部隊を爆撃。

*同日夜、3機で江西省贛州を爆撃。

*同日:鄭州の覇王城上空で三機撃墜、9/8にも三機、9/26に八機、9/27には五機、いずれも中国上空で撃墜した。

*9月2日:江西省上饒市排山鎮付近の部隊を爆撃。

*同日:湖南省長沙市黄土嶺その他で中国軍敗走兵を銃爆撃。

*同日:2機で陝西省安康を爆撃。

【生き埋めに】

*同日:4機が湖南省永州市祁陽県の帰陽(現・帰東)を爆撃、泗仙橋、開福街、駅前街、太平街、王福街に爆弾を投下、家屋数十カ所を爆破され、数十人が死亡した。爆撃の後、日本軍第11軍所属の某部隊が帰陽に進駐、油木嶺で黄家坪の青年学生周振玉を捕まえ、中国兵だと言って、生き埋めにした。山林屋のふもとでは民夫(役所や軍隊の賦役に駆り出された労務者)30人以上を生き埋めにした。9月6日、高嶺背山で婦女10人以上を強姦、その中のひとりは6人の日本兵に輪姦され、命を落とした。(『侵華日軍暴行総録』)

*9月3日:湖南省永州市祁陽碼頭付近の船艇群を二度爆撃、45隻を撃破。

*同日夜、湖北省襄陽市老河口、陝西省安康飛行場を爆撃。

△ 同日、湖南省衡陽市常寧を占領、5日に永州市祁陽、さらに6日に同市零陵を占領。

*9月4日夜、3機で広西省柳州を爆撃、大型5機炎上。

*同日夜、3機で江西省南城の建昌の飛行場を爆撃。

*同日:湖南省永州市祁陽付近の船艇群を爆撃。実際には祁陽市街を爆撃していて、日本軍はこの日祁陽を占領。 この後1年近く続いた占領は祁陽の人民に重大な災難をもたらし、県全体で1万9266人が死亡、3万8120人が傷を負い、経済的損失は3279億元に達した。

△ 同日、地上部隊は陝西省渭南市白水を占領。

*9月6日:未明、湖南省零陵飛行場を爆撃、市街4ヶ所を炎上、そして占領。さらに零陵の渡河点を爆撃、倉庫10数棟炎上。

*同日:湖南省邵陽市新寧県の市街と回竜、自沙、南廟、窯市、凍江口などの地区を爆撃。

*9月7日:明け方、湖南省邵陽市宝慶飛行場と市街を爆撃。

*同日:地上軍の零陵追撃に協力爆撃、その後地上部隊が零陵市街を占領。

*同日:広州市西関地区を爆撃。

*9月8日:午前1時頃、2機が陝西省南鄭県城を爆撃、19発を投下、董家坡文家廟内の西北医学院教務長万大夫と冷水区陳家営陳土保など数十人が爆死した。

【桂柳作戦】

△ 同日、日本軍は湘桂鉄道の両側に沿って広西省に急進し、大陸の交通線を開通させるための最終段階の作戦、桂柳作戦を開始した。

【米軍の満州爆撃】

▽ 9月8日、米軍は大型爆撃機B29を再び成都から109機出撃させ、そのうち95機が満州の遼寧省鞍山の製鉄所を爆撃。死傷者は300余人。ただその往路と帰路に陸軍飛行隊は邀撃し、戦闘機の撃墜2機、撃退10機とした。さらにその深夜、飛行隊は成都の彭山と新津の飛行場を18機で初めて報復爆撃、天候不良の中、計7機が空港上空に達し、B29、5機を炎上、9機を撃破、残りの機はその他の地区を爆撃炎上等させ、未帰還機1機としている。ただし米軍の記録ではB29の損害は4機としている。この日同時に米軍は遼寧省本渓湖の炭鉱を8機で爆撃。

*同日:地上軍の湖南省永州市道県、河南省全県の線への進出に協力爆撃。

*同日:雲南省保山を急襲、空中戦で輸送機と戦闘機4機を撃墜、地上の2機を撃破。自軍2機損失。

*9月9日:浙江省温州を爆撃。

*同日:午後、4機が湖南省永州市帰陽を再び空襲、大量の焼夷弾を投下、帰陽の大小の河の両岸に炎が燃え上がり、町は全焼した。

*同日:B29一機が老河口に不時着しているのを認め、編隊をもって攻撃、これを「捕捉炎上させた」。

▽ 9日、米軍は連日、11機で満州の鞍山の製鉄所を爆撃。

*9月10日夜、4機で江蘇省徐州から西安飛行場を爆撃。

*同日夜、1機で柳州飛行場を爆撃、一ヶ所炎上。

*9月11日夜、陝西省西安、広西省丹竹飛行場を爆撃。

*同日:昼、4機が陝西省南鄭県城を爆撃、46発の爆弾を投下、3人が死亡、9人が負傷。

*9月12日:成都を爆撃、一機を失う。

【湖南省永州市道県の場合】

*9月12日以降:湖南省永州市道県の県城、稟仁、許家などの地域に249機が41回にわたり猛烈な爆撃を行い、367発の爆弾を投下した。9月12日と12月14日、日本軍は2度にわたって道県国境を侵犯、2万4726人を虐殺し、9786人を負傷させ、1874億元の経済的損失を道県にもたらした。(『侵華日軍暴行総録』)

*9月13日:夜、広西省柳州飛行場を爆撃。

*9月14日:連日で柳州飛行場を爆撃、また柳州東北25kmにある雒(らく)容鎮を初爆撃、駅付近の倉庫や車両群を爆撃。

▽ 同日、中国遠征軍は雲南省騰沖(保山市騰衝)を攻略した。遠征軍は川を渡ってからここを攻略するまで、40回以上の大小の戦闘をし、日本軍将校100人余りと兵士6000人余りを銃殺し、将校4人と兵士60人余りを捕虜とした。遠征軍の死傷者は将校1334人、兵士は1万7275人であった。(中国遠征軍とは、ベトナムやビルマに侵攻した日本軍に対する遠征軍であり、その日本軍は国境の雲南省の保山などを基地としながらその作戦を展開しているため、その地区での戦闘となっている)

△ 9月14日、広西省桂林の前衛拠点全州県を占領、日本軍はここを桂林爆撃の前進基地とする。

▽ 米軍のP40、20機が日本軍の占領する広東省仏山市三水に来襲、二機を撃墜。

*9月16日:広西省柳州を爆撃、大型機二機を爆砕。

△ 9月16日、広東省仏山市高明を占領。

*9月17日:湖南省懐化市芷江の飛行場を爆撃、上空の交戦で2機を失う。

*9月17−18日:夜間、広西省柳州を連続で爆撃。

*9月17−18日:江西省贛州を夜間爆撃。

△ 9月19−20日、広東省肇慶市雲浮を占領、翌日肇慶市徳慶を占領。

*9月20−21日:陝西省西安を深夜と未明に爆撃。

*9月20−数日:広西省南寧を連続爆撃。

【湖南省常徳市漢寿県の場合】

*9月某日:湖南省常徳市漢寿県の百禄橋付近を9機が襲撃、沅江上の行き交う船を見つけては機銃掃射や爆弾投下をした。順豊社の汽船「穏平」号は、当時数百人の乗客を乗せていたが、日本機は前後左右に爆弾を投下、船上では死体が乱雑に重なって血が流れ、穏平号はゆっくり沈んでいき、船の周りの水面は血に染まった。生き残った乗客も従業員もわずかしかいなかった。

*9月某日:夜、日本軍機の一団が湖南省馬陽県高村上空に侵入し、小型焼夷弾で無差別爆撃、高村の兵器庫と駐屯地を破壊しようとして機関銃を掃射した。 高村の隣にある馬南村も爆撃を受け、1人が死亡、2人が負傷した。

△ 9月22日、広東省梧州市を占領

▽ 9月22日、武漢地区に米軍の大型機数機が来襲。

▽ 9月23日、8月18日に八路軍膠東軍区部隊は秋の攻勢を開始し、9月23日までに、連克拠点は138カ所、日本傀儡軍5000余人を殲滅し、その中で日本軍222人を死亡させ、日本軍35人を捕虜にし、傀儡軍1520人を死亡させ、傀儡軍2674人を捕虜にし、傀儡軍970人を寝返りさせ、国土5000平方キロを解放し、青〈島〉煙〈台〉道路のライヤンから福山までの100キロ近くを制御し、浜海地区の東海、北海、西海、南シナ海の4つの区画がつながった。

*9月23−24日:湖南省芷江の飛行場と広西省柳州を二日連続で夜間爆撃、合わせて28機を炎上爆破。

*9月24日:湖南省邵陽市宝慶を夜間爆撃。

*同日:一機が四川省梁山飛行場を爆撃、爆弾10発で被害なし。

△ 広東省肇慶市封川と都城を占領、また雲浮市羅定を占領。

▽ 9月24日、米軍機が武漢漢口を爆撃、損害多し。

*9月25日:5機が数回にわたり四川省梁山の飛行場・県城・城北郷を爆撃、爆弾約40発と焼夷弾3発で家屋などが焼失、破壊されるが人的被害なし。さらに数機が万県を爆撃、被害多し。

▽ 9月25日、米軍機が南京を爆撃、日本軍の数百人を爆殺した。

*9月25日:四川省梁山(現・重慶梁平区)飛行場を急襲、地上の5機を爆破炎上。市街区も爆撃、3人負傷。

*9月26日:四川省梁山と成都の新津飛行場を爆撃。

▽ 9月26日、米軍機のB29編隊130機が植民地満洲遼寧省の鞍山と大連を爆撃。これに対する日本軍の邀撃で往路と帰路に撃墜8機と撃破10機の戦果とあり、普段はP51やP40戦闘機何機と記録しているのに、あえてそれを書かず、いかにもその相手がB29のように記されているが、そうではない。ただしB29は5機が損傷を受けたと米軍の記録にある。また日本企業の運営する炭鉱のある本渓湖にも爆撃。

*同日:このB29編隊が成都に帰還した夜間、天候不順を突いて7機が新津飛行場を急襲、空中戦で4機撃墜、地上のB29を7機炎上させた。別途梁山飛行場を襲撃、小型機を数機炎上させ撃破した。

*9月27日:陸海軍共同で福建省福州に奇襲上陸する部隊を支援爆撃。

*9月27−30日:柳州を四日連続で夜間爆撃、相当の戦果を挙げた。

【湖南省永州市永明の場合】

*9月27−30日:湖南省永州市永明県の永和、公允、永康、沐水、剛強、桃川、永谷、永清の8郷は連続4日間9回にわたり日本軍機63機による猛烈な爆撃を受け、119発の爆弾が投下された。その後の日本軍の侵攻により、県内で2945人が殺害され、5583人が負傷し、経済的損失は690億元に上った。

△ 9月27、湖南省邵陽市宝慶を占領。

*9月28日:広西省貴港市丹竹の飛行基地を爆撃。

*9月29日:広西省の南寧を夜間爆撃。

*9月30日:広西省河池市宜州の懐遠鉄道橋を爆撃。

*同日:広東省清遠市連州を急襲、兵舎等6棟を爆破。

▽ 同日、米軍機が広州へ連日爆撃。9月下旬はほぼ毎日米軍機と空中戦が行われ、数十機の撃墜撃破と記されているが、自軍の損害記さず。また夜間の爆撃においては炎上撃破計148機の戦果としているが、これも自軍の損害記さず。

【抗日軍の攻勢と日本軍の飽くなき占領】

▽ 9月30日、この日まで八路軍晋綏軍が8月28日から行った秋の攻勢で、山西省忻州市静楽から汾陽までの日本軍拠点を攻撃し、9月30日までに奪還した。日本の傀儡軍2000人余りを殲滅し、446人の村落を奪還し、人口5万人余りを解放した。

△ 9月の間、日本軍が占領した地区は、広西省では全州県、梧州、玉林市容県、桂林市灌陽、貴港市丹竹と平南、湖南省では宝慶、永州市零陵と東安、広東省では廉江、肇慶市高要、福建省連江などであり、太平洋戦争が不利な状況の中、中国における日本軍は活発である。

10月

▽ 1944年10月2−6日、米軍機は広東省広州や香港、西江水域上の船艇群、広西省梧州など日本軍要地に攻撃を続け、それに対して日本軍は迎撃戦で相当数の戦果を挙げたとしている。

*10月3日:陝西省西安と漢中を爆撃、合わせて11ヶ所を炎上。

*同日:雲南省保山を爆撃、死者2人、負傷者4人。日本軍機の爆撃による保山県城での死者数はここまで3953人、倒壊した家屋は2205棟にのぼった。

【増え続ける米国の対中支援】

〇 ルーズベルト米大統領は記者団に対し、対中借款について、「米国の対中空輸物資は、1年前は月2、3千トンだったが、現在は月2万トンに増えても不足している」と述べた。

*10月4日:陝西省西安、湖北省恩施・老河口、四波(地区不明)を爆撃。

△ 同日、福建省福州を占領。

▽ 4日、広東省西江地区に米軍機P51が10機来襲、これを追尾して梧州付近で5機撃墜。

〇 朝日新聞は、現在の中国における日本軍の作戦は、重慶ではなく英米軍を狙ったものだとする日本当局の声明を載せた。

*10月4−5日:柳州を二日連続で爆撃、5日は地上の9機を撃破炎上させた。

*10月5日:広西省河池市懐遠の鉄道橋を爆破。

▽ 5日、広東省西江地区に米軍機B25、P51等30数機が来襲、これを追尾してP51を5機撃墜、自爆3機。

*10月6日:14機が江西省贛州飛行場を夜間爆撃、2機を炎上させ、施設5カ所を炎上。

*同日:柳州を爆撃、滑走路を爆砕。

*10月7日深夜:成都の彭山飛行場を爆撃、4機を炎上(あるいは夜間大空襲し、B29を23機、小型機13機を撃破との記録もあるが、撃破とは多少壊したという意味に近い)。また成都の衛星基地的大平寺、新津区、陝西省宝鶏を急襲、地上施設を大破。

*同日:陝西省西安と漢中を爆撃、4ヶ所を炎上。

*同日:午前、2機が陝西省南鄭県城を爆撃、6発を投下。

*10月8日:陝西省西安を爆撃。迎撃で一機を失う。

【米軍の連続大爆撃】

〇 10月8日、中米空軍混合大隊は雲南省で設立一周年大会を開催し、一年間の戦績を報告した。出撃は5000回以上で、日本機420機を撃墜し、日本艦1215隻を破壊し、5750人以上の日本兵を殺害した。

▽ 10月8日、アメリカ海空軍は中国軍との連合作戦を行い、台湾における日本の軍事基地を連続的に攻撃し、14日までに日本機600機を撃破し、日本艦船約70隻を撃沈した。これは日本側の記録には見当たらない。

▽ 同日、米軍機が4回に渡り延べ400機をもって日本の南西諸島(沖縄、宮古島、奄美大島等)を空爆、しかし日本側の記録では「我が方、船舶及び地上施設に若干の損害を受く」とだけある。そんなはずはなく、翌年3月の米軍の東京大空襲は500機である。

▽ 10月12−14日、米軍は12日は早朝から夜まで、台湾へ「優勢な敵機」延べ千百機(航空母艦からが多数)で襲撃、それに対し日本軍は「我航空部隊は台湾東方海面において夜半に亘り反復攻撃せり」、「我部隊はその約110機を撃墜、また空母一隻撃沈」としている。また13日も台湾は朝から爆撃を受け、14日には二度にわたり米軍の延べ約450機が各地に来襲、さらに午後、中国本土方面からB29約100機が来襲、「我航空部隊は台湾東方海面の敵機動部隊を猛攻、14日までに判明した戦果は各地上空での撃墜約160機航空母艦三隻、不明艦船三隻、駆逐艦一隻」とあり、「我方は飛行機、船舶及び地上で若干の損害を受く」とだけで、自軍の被害の実態は全く表に出されていない。実際はアメリカ軍はほとんど損害を受けておらず、逆に日本軍は航空戦力を消耗しただけに終わった。

△ 10月12日、陸軍の「大陸打通作戦」は継続され、日本軍は広西省の要衝、桂平を占領。

【中国青年遠征軍設立】

▽ 10月14日、国民政府は10万人の知識青年に従軍を呼びかけ、それにより全国知識青年志願従軍指導委員会が設立され、青年遠征軍10師団を計画、編成した。

*10月15日:一旦台湾沖から退却した米軍船団を追尾し「反復猛攻を加え戦果拡充中、航空母艦四隻撃沈」、またここまでに「敵に与えた人員損害は推定一万三千、飛行機損害は七百機以上に上る見込み」とあるが、自軍は「若干の損害」としていて過大と過少であろう。

▽ 10月15日、中国駐印軍は第2期ビルマ北部反攻作戦を発動した。

*10月16日:8機が福建省漳州市詔安を爆撃、6人が死亡、2人負傷。なお詔安は福建省の最南方にある小さな県城だが、1939年6月25日から日本機の爆撃、掃射を受け続けた。また三度日本軍による城関占拠を経験した。この7年の間に日本機の侵入回数は153回に達し、217発の爆弾が投下され、爆撃地点は87ヶ所で、民間人109名が死傷し、家屋266軒と漁船6隻が爆破された。

▽ 10月15−17日、主に広州上空で空中戦が展開されるが、16日、日本軍の占領する香港地区に米軍機が来襲、戦闘機4機を撃墜、続く17日、広州にB24とB25の16機、P型戦闘機20数機が来襲、うちP型3機撃墜。それ以外に広東省深圳市丹竹飛行場にP40三機が、厦門にB24十数機が来襲。すでにこの時期、攻守が逆転していた様子がうかがえる。

【中国における日本軍航空隊がフィリピン方面に転戦】

〇 10月17日、大本営はフィリピン方面を米軍との主決戦場とする作戦を発動、それに伴い中国における航空隊の支援軍は台湾などに帰還した。これにより中国における航空隊の戦力は大きく減じたが、「湘桂作戦」はまだ終わっていず、飛行機は満洲を含む中国北部からある程度補充した。一方でフィリピンではレイテ島を中心に大航空戦が展開されていく。

*10月18日:広西省柳州を夜襲、4機を爆砕炎上。

*10月某日:湖北省宜昌の三斗坪江辺に停泊した「竜安号」に対し、7時間爆撃して汽船は爆沈された。また三斗坪の百棟以上の家屋はほとんど爆撃で破壊された。

*10月某日:福建省漳州市長泰の武安鎮に爆弾三発を投下、大きな被害はなかった。

*10月23日早朝、3機が広東省清遠市連山の吉田道路沿いで4回急降下して機銃掃射を行い、死者1名、重傷者1名、貨車二両、家屋と小商店各1軒を損壊した。

【レイテ沖海戦と特攻隊出撃】

 フィリピン・レイテ島沖で10月20日から双方合わせて20万人以上の海軍兵員が参加し、日米共に艦船と航空機を総動員したが、日本軍の大きな敗北となった。24日からの本格的海戦で、日本海軍は航空母艦4隻を出動させ4隻とも失い、さらに戦艦武蔵ほか戦艦3隻など残存艦船をほぼ失い、米海軍は航空母艦17隻出動させ、失ったのは1隻だけだった。また日本軍は航空機約600機が出撃したがその大半を失い、米軍は約1000機の出撃で255機を失ったとされ、日本軍の戦死者は8千人から1万人、米軍の戦死者は2803人となっている。ここでも日本軍の死者数は曖昧である。この海戦で日本海軍の戦力は事実上消滅した。連合国軍の最高指揮官マッカーサーは、25日にレイテ島に司令部を設置した。

△ 10月25日、このフィリピン大海戦にあたって海軍の神風特別攻撃隊が初の出撃(21日に一度出撃したが悪天候に阻まれた)、20機近くが米軍艦船に次々と体当たり突撃、護送用航空母艦一隻を撃沈、その他五隻に損傷を与え、一応の戦果を出したが、17機18名が突撃死した。この日以降、月末までの「戦果」は、撃沈が空母三隻、巡洋艦一隻、輸送船一隻(「撃破」は正確でないので省略)とあるが、特攻隊の62名が突撃死した。

▽ 10月25日、米軍機が日本艦船の停留する江蘇省連雲港と上海を爆撃。別途、B29編隊が北九州と韓国の済州島を爆撃。

*10月26日夜間:成都の飛行場を急襲爆撃、B29を15機炎上、42機撃破したと報告された。

△ 同日、広西省桂平の江口鎮を占領。

*10月27日:四川省梁山に27機が襲来、飛行場、県城、城西郷、天空郷などに爆弾、焼夷弾100発を投下して3人が死亡、5人が負傷。

*同日:続けて成都を爆撃、また湖北省恩施を爆撃。

*10月28日夜間、10機で柳州を襲撃、三ヶ所を炎上。

△ 10月28日未明、魚雷挺身隊がパラオ諸島の「ペリリュー島東方海面的輸送船団を肉薄攻撃し、4隻を撃沈2隻を撃破」(この後神風特攻隊とともに特殊潜航艇人間魚雷回天が投入されていく)。ただし、ペリリュー島守備隊は11月27日に全員玉砕する。

*同日:陝西省漢中市西郷県城と広慶寺を爆撃し、2人を負傷させ、家屋を多数破壊。

*10月29日:成都の新津飛行場と湖北省恩施を爆撃、恩施で小型機数機炎上。また広西省桂林の前衛拠点霊川を占領。

*10月30日:湖南省芷江飛行場を二度にわたり爆撃、10機を炎上

*同日:湖北省老河口と恩施飛行場を爆撃、恩施では二機を炎上、九機を撃破。

*同日:下旬後半から地上部隊は広西省柳州攻略作戦を展開、柳州を爆撃。

*10月31日:湖南省岳陽市臨湘の陣地を爆撃。

11月

*1944年11月1日:湖北省恩施や成都付近などを爆撃。

*同日:広西省貴県鬱江上の人員資材満載の船艇10隻を攻撃撃沈、また付近村落の兵士たちを銃爆撃。

△ 同日、広西省桂林郊外の三つの飛行場を日本軍が占拠。

【岩穴に毒ガスを投げ込み300人余りが惨死】

△ 11月1日、日本軍は桂林攻略戦の中で、七星岩の中国守備軍に毒ガスを投げ込み、守備軍300人余りが岩穴で惨死した。

*11月2日:曇天の中、湖北省老河口を爆撃。

▽ 同日、中国駐留の米軍機が日本軍の占領するベトナム・ハノイをP51等の11機で爆撃。

*11月3日:湖北省老河口を爆撃。

△ 同日、桂林市陽朔県、茘(れい)浦県を占領

▽ 同日、中国駐留の米軍機が日本軍の占領するビルマ(ミャンマー)のラングーン(ヤンゴン)を約100余機で爆撃、日本軍は三機を撃墜した。

*11月4日:広西省桂林の市街地を爆撃、「大損害を与え」、また柳州を爆撃。

△ 同日、広西省欽州市龍山圩、中竃圩を攻略。また桂林の飛行場を全て占領。

〇 11月5日、神風特攻隊がフィリピン東方の海上で米軍艦船に特攻攻撃、空母3隻を撃沈。ただしこの日までにすでに20数機が攻撃途上で撃墜されている。7日にも第二陣がフィリピン・ルソン島東方で「敵機動部隊を猛攻、体当りす」(戦果記載なし)。

◎ ルーズベルトが米大統領に4度目の当選を果たした。

*11月8日:広西省桂林・柳州を爆撃。翌日地上部隊が柳州飛行場を占領。

△ 1937年10月15日からこの日までの7年間、桂林は51回空爆され、690人が死亡し、1056人が負傷、3000戸以上の家屋が焼失、破壊された。

*11月8日:湖南省懐化市沅陵県を爆撃。沅陵県は1939年9月30日からこの日まで、14回延べ227機に爆撃され、爆弾1016発を投下された。1075人が死傷、そのうち360人が死亡し、合計で家屋3099棟を爆破、物資損失は180万元であった。

*11月9日:5機で湖北省老河口、6機で陝西省安康飛行場を爆撃。

*同日:地上軍の桂林総攻撃に合わせて市街地を爆撃。

*11月10日:払暁、15機が地上軍の総攻撃2日目に合わせて桂林市街と北西高地の拠点を爆撃。

*同日:別途桂林の北部の高地風洞山の中国軍砲兵陣地の抵抗を抑えるために出撃、しかし米軍機に追撃され4機が撃墜された。

*同日:6機で湖南省芷江を爆撃。別途湖南省 懐化市を爆撃。

△ 古都桂林を陥落させた。

〇 傀儡の南京国民政府の首席汪精衛(汪兆銘)は日本の名古屋の病院で療養中に病死した。

*11月11日:柳州市街を爆撃、その後地上軍は米軍基地を攻略し柳州を占領。

【桂柳作戦の戦果】

〇 この日大本営発表の桂林攻略の戦果として、中国側の遺棄死体5665、捕虜1万3151とした。その後の発表で、桂林と柳州を合わせた作戦(9月上旬よりここまで)においての戦果は、敵死3万9千、捕虜1万8200、自軍の戦死4500とした。

△ 11月12日、陸海の特攻隊がフィリピンのレイテ島湾内において米軍艦艇に体当たり攻撃、戦艦一隻、輸送船三隻を撃沈。翌13日もルソン島で戦艦一隻を撃沈。

【11月の米軍機の中国を拠点とする爆撃】

 11月10日:米軍機B24、10数機が武漢地区に来襲。

 11月11日:湖南省衡陽の日本軍占拠の飛行場に対し、米軍機約40機が7度にわたって来襲、迎撃で1機撃墜するが日本側は合わせて12機が撃墜炎上、6機が大小破壊されるなど大損害となった。なお9−11日の米軍機来襲機数は延べ180機以上であった。

 同日:米軍のB29が日本軍の占領する安徽省蚌埠(ほうふ)に来襲、嘉山と明光上空で各一機撃墜。

 同日:米軍は前日深夜、大型爆撃機B29約100機を成都から九州西部の大村飛行場に向けて出撃させたが、台風の影響で攻撃が難しく、その大半が引き返し日本軍の占領する南京に目標を変え、20数機が南京、数機が上海を攻撃、大きな損害を与えた。鉄道線路、発電所、日本軍の兵営舎、警察署などが被爆、揚子江両岸の堤防、虎橋地区の日本軍の兵営は全部破壊され、浦口停車場も破壊された。また列車にのっていた日本兵約100人も死亡したと伝えられるが、民間人の犠牲者も多く出ているであろう。この日は別途、朝鮮の済州島も爆撃された。空中での邀撃戦では各戦隊合わせて9機を撃破とあるが、これは撃墜ではなく多少の傷を与えたようだということで、結果的に日本軍の数機が撃墜され、戦果はなかった。

 11月16日:日本軍の占拠する広西省梧州にP51が4機来襲、一機撃墜。

 11月17日:九州の西部大村基地にB29が偵察爆撃。

 11月18日:日本軍の占拠する桂林を爆撃。

 11月21日:B29の編隊7、80機が北九州を爆撃、現地上空で迎撃し一機を体当たりで撃墜、損傷推定17機、自軍機損失4機、その帰路に安徽省と河南省上空で日本機は捕捉攻撃し、3機を撃墜、2機を失う。

 同日:上海にB29数機来襲、また安徽省安慶にP51数機が来襲。

 同日:B29数機が満州地区を爆撃、そのうち一機が故障でソ連領内に不時着し、乗員は捕虜となったが機体は没収され解体調査された。それによって戦後ソ連でもB29に似た爆撃機が開発、生産された。

 11月22日:武漢地区にB24、B25が10数機来襲。

 11月24日:漢口にB24、B25が10数機来襲。

 11月25日:米軍機が漢口を含む武漢を爆撃、日本軍死傷者約2000人。

 同日:揚子江岸の安慶にP51が10数機が来襲、これを4機撃墜。

 11月21日から30日まで中国駐留米軍機が日本軍の占領する仏印(ベトナム地区)に加えた爆撃は54回、延べ213機に達した。

〇 1944年11月13日時点での日本陸軍第5航空軍の可動兵力は、各種戦闘機48機・九九式双発軽爆撃機38機など総計152機を保有するだけであり、これに対する米軍機は800機と推定された。

△ 11月17−18日、日本軍は広西省来賓市忻城、桂林市龍勝を占領。

【人間魚雷回天のわずかな戦果】

〇 11月20日、西太平洋カロリン諸島東北にあるウルシー環礁に停泊する米軍艦船を、日本海軍の人間魚雷回天(菊水隊)が攻撃、用意した8基のうち、3基が故障で発進できず、残った5基のうち2基が途中で座礁して自爆、1基は途中で敵駆逐艦の攻撃を受けて沈没、残る2基が湾内に入り、給油艦1隻を撃沈、米兵犠牲者63名、最後の1基は至近距離で発見され、砲弾を受けて爆沈した。翌月下旬にも同地区を金剛隊が6度攻撃を試みたが、事前に察知された潜水母艦が撃沈されることが多く、戦果はほぼなかった。回天は400基量産されたが、その後の戦果は翌年7月24日に米軍駆逐艦一隻を撃沈させただけである。むしろ回天を搭載した母艦の被害のほうが大きかった。

*11月21日:江西省の遂川を夜間爆撃、大型一機と小型二機を爆破炎上、また贛州を爆撃。

*同日夜、成都新津基地の米軍のB29を狙って夜間爆撃(9月8日から6回目)、B29四機を炎上させた。

▽ 同日、八路軍は冬の戦いの第1段階の攻勢を開始、山東省臨沂、費県の周辺日本軍拠点を粛清した。また山東省南部から中部までを攻略し、沂河では捕虜の傀儡軍826人を殺害し、拠点5カ所を回復した。

*11月22日:湖北省襄陽市老河口を急襲爆撃。

△ 11月21−22日、広西省の金城江、思恩、賓陽、河池、上林、武林を続けて占領。

*11月23日:3機が四川省梁山県(現・梁平区)を爆撃、爆弾約200発を投下、人的被害なし。

△ 11月24日、日本軍は南寧を占領。

【米軍の日本本土への本格空爆開始】

 11月24日、米軍のB29・88機がサイパンより初出撃、東京武蔵野にある中島飛行機工場を爆撃、日本本土への本格的空襲を開始する。東京はこれ以後、翌年3月10日の大空襲を含め、106回の空襲を受けた(ちなみに日本軍は日中戦争突入後の1937年8月15日から陥落前の12月12日までの四ヶ月間、南京に対し115回の爆撃、さらに南京から首都移管した重慶に対しては1938年2月から41年8月にかけて218回の爆撃を行なっているが、これらは既述のように膨大な爆撃回数全体のごく一部に過ぎない)。またこれに対し、日本軍は26日より発進基地のサイパンやテニアン島を爆撃、反抗していくが、大きな効果は得られていない。

 11月25日、国民政府はネルソンを高等経済顧問として招聘し、孔菜は戦時生産局顧問となった。

【連日の特攻隊の活動】

 11月25−27日、まず25日、神風特攻隊がフィリピン北部の敵艦船に体当たり攻撃、大中空母各一隻、巡洋艦一隻を爆沈させた。26日、フィリピン中部、レイテ島北東部のタクロバン沖の輸送船群に体当たり攻撃、大型輸送船2隻を撃沈、27日、レイテ湾内の艦船群を特攻攻撃、戦艦一隻、巡洋艦三隻、輸送船四隻を撃沈。(この後も特攻隊の出撃は断続的に行われるが、割愛する)

△ 11月27日、米軍との二ヶ月の戦闘でパラオ諸島のペリリュー島が陥落、日本兵守備隊はほぼ玉砕し、戦死者1万人以上。

*11月28日:雲南省の雲南駅飛行場を爆撃、大小の四機を爆破炎上。

△ 同日、広西省南丹を占領。

*11月29日:貴州省独山北方8kmの鉄橋を爆砕。

▽ 11月30日、米軍機B24が小笠原の父島、母島に約20機来襲。小笠原島には6月半ばより約30数回目。

【国民政府と中国共産党の埋まらない溝】

 日本軍が本格的に中国への侵攻を開始した1937年の国共合作以来、両者は対日本軍への戦闘は協力しても、蒋介石国民政府は政治経済的政策への共産党の参画を認めず、むしろ共産党軍を弾圧することもあった。それが抗日戦争への妨げにもなり、ルーズベルト米大統領はその調停のためにハーリーを特任大使として中国に送り込んだ。11月8日、ハーリーはまず「合意の基本」とした文書を毛沢東、周恩来、朱徳に手渡し、それに対して共産党側も10日、ハーリーに「五条協定草案」を提出した。18日、ハーリーはその草案を蒋介石に提示し、翌日も協議を続けたが、蒋介石は拒否し、別の協定草案を提示した。ハーリーは21日に周恩来と会見し国民党の協定草案を周恩来に渡した。周恩来は国民党は一党独裁の誠意を変えていないとハーリーに指摘し、調停交渉は頓挫した。12月28日、周恩来は特務大使ハーリーに書簡を送り、連合政府を作る条件として国民党に4点を要求した。——1)政治犯を釈放、2)辺境区の包囲と華中、華南の抗日武装に対する攻撃の停止、3)人民の自由を制限する各種禁止令の撤回、4)特務活動の停止。ハーリーはそれを国民党政権に伝えた。

12月

▽ 1944年12月1日、米軍機B24が硫黄島に20数機来襲。硫黄島へは6月半ばより約30回目。(12月の米軍の中国内の爆撃については後述)

△ 12月2日、日本軍は貴州省独山及び八寨を占領。

*12月3−9日:対日空襲基地としてある江西省贛州を4回爆撃、遂川を5回爆撃、湖北省老河口、湖南省芷江を各1回爆撃。

【西安への爆撃】

*12月4日:陝西省西安に日本機の最後の爆撃があり、西安は1937年秋から145回にわたって空爆され、1106機の出撃があり、3440個の爆弾を投下され、1244人が爆殺され、1245人が負傷し、6783軒の家が焼失、破壊された。

*12月7日:江西省遂川飛行場を夜襲、四機炎上。

*12月8日:江西省遂川と贛州の両飛行場を夜間爆撃、大型機2機と小型機3機を炎上、その他二カ所を爆破。

*12月9日:遂川飛行場を攻撃、大型機2機と小型機2機を炎上。

▽ 12月12日、八路軍冀熱遼部隊は河北省唐山市楽亭県劉石各荘の傀儡軍1500余人を全滅させた。

△ 12月13日、広東省の要衝欽州を占領。

▽ 12月14日、八路軍の晋察冀銃隊が密かに石家荘を襲撃し、日本軍の監獄を破壊し、逮捕された抗日幹部及び青壮年6000人余りを救出した。

【中国駐印軍の日本軍との戦闘】

▽ 12月15日、中国駐印軍は10月15日からビルマのミッチーナからバモーに向けて進撃して以来、70回以上の戦闘を経て、日本軍2400人余りを殺害し、20人余りが捕虜としたが、駐印軍は1000人余りの死傷者を出した。

*12月17日:江西省贛州飛行場を「猛爆」。

*12月18日:江西省遂川、贛州を爆撃。

*同日:月明かりの夜間、数機が四川省梁山(現・梁平区)と万県を爆撃。

〇 12月18日、湖南省と広西省の難民4万人以上が貴陽に到着した。

*12月18−19日:18日深夜から未明にかけて10機で成都を襲撃、新津飛行場と市街地を爆撃。これが成都への最後の爆撃となり、1938年11月8日からこの日まで、成都への爆撃は(1941年7月27日の大爆撃を含め)25日31回、出動爆撃機695機、投下爆弾2031発、5337人の死傷者が出たとされる。

*同日:四川省梁山地域を爆撃。2人が死傷。これが重慶周辺地域への最後の爆撃となった。

*同日:夜、1機が四川省開県の上空を通り、爆弾と手榴弾を霊通、鉄橋、南雅等郷一帯に投げ、5人が爆死、3人が負傷した。

*12月20日:江西省遂川、贛州を爆撃。

〇 中国の知識層青年の従軍志願が開始され、全国で従軍志願者は12万人に達した。

*12月21日:雲南省昆明、湖北省襄陽市老河口、陝西省安康、江西省遂川、贛州を爆撃。

*12月23日:老河口を爆撃、また広東省の米軍飛行場を爆撃。

*12月24日:昆明を奇襲、地上の飛行機を多く破壊。

*同日:江西省遂川飛行場を夜襲、地上の施設5カ所を炎上、爆破。

*12月25日:江西省遂川、贛州両飛行場を急襲、小型機三機を撃破。

*12月26−27日:遂川を連続爆撃。

*12月27日:江西省贛州を爆撃。

▽ 雲南省国民政府軍とビルマ北の中国遠征軍は滇緬公路の国境で日本軍を総攻撃し、連日大勝を収めた。

*12月31日:湖北省老河口を爆撃。

*12月後半:上記を含め12月後半の日本軍の攻撃は、江西省遂川9回、贛州5回、湖北省老河口4回、雲南省昆明2回、陝西省安康と広東省南雄を各一回で、地上機の炎上15機、その他の炎上爆破は18ヶ所。

〇 12月31日、延安(中国共産党根拠地)『解放日報』は「敵後方戦場の偉大な勝利の一年」を発表し、次のように指摘した。この一年間、敵と二万余回戦い、22万余人を殺害し、6万余人を捕虜にし、3万人近くの傀儡軍を寝返らせた。47の県城を攻め、5000以上の要塞と砦を築き、国土8万平方kmを回復し、同胞1200万人を解放した。正規軍は47万人から65万人に増え、民兵は200万人から220万人に増えた。解放区の人口は8000万人から9200万人に増加し、わが軍の反攻力を増強した。

◎ アメリカのルーズベルト大統領は一般教書演説で、アメリカは1945年の戦闘を決して緩めず、国際協調政策を堅持し、武器生産を拡大し、中国を支援し続けると述べた。

【12月の米軍機の中国を拠点とする爆撃】

 米軍機の攻撃は活発で、この12月上旬、湖南省衡陽・常寧、付近に9回、広西省桂・柳地区に14機が来襲、山西省太原飛行場と鉄工場を8機が銃爆撃、河南省新郷駅で4機が列車を機銃掃射した(日本機が中国でやっていたことを再現している)。

 12月6日、米軍機は青島を襲撃し、日本軍の艦艇2隻、浚渫船1隻を爆破。

 12月7日:米軍B29爆撃機約70機が満州の奉天(長春)と一部は大連を爆撃、この時往路と帰路を日本軍機は邀撃し、2機撃墜、3機を撃破した。

 同日、米航空母艦1隻は山東の斗母島の近くに現れ、艦載機を延べ百数十回出動させ、招遠、黄県、掖県の一帯で日本軍の拠点を爆撃した。

 12月8日:南京の日本軍航空基地がアメリカ軍P51戦闘機十数機の攻撃を二度受けて、一挙に27機の航空機を失った。この他米第14航空隊は日本軍の基地のある香港では輸送船や輸送機を爆破し、安徽省安慶も爆撃。

 12月11日:米軍機は広州を爆撃し、日本機20機余りを炎上破壊した。

 12月13日:満州の大連を二度爆撃

 12月17日:米軍機は日本軍が満洲国の首都として定める新京=長春をB29で爆撃。

<米軍の漢口大空襲>

 12月18日:アメリカ陸軍航空隊(第20爆撃機総隊と第14航空隊)が合同で日本軍占領下の漢口(現武漢市の一部)と湖南省岳陽に対し、B29とB24約90機(あるいは110機)と戦闘機150機以上による五波に及ぶ大量の爆弾と焼夷弾500トン以上の投下を行った。この時期日本陸軍の戦闘機隊は漢口など武漢地区に集中配備しており、この結果、日本航空隊は大きな打撃を受けた。迎撃する空中戦で戦闘機4機が撃墜され、地上で戦闘機14機を含む各種航空機19機が撃破され、その他で全70機を失い、武漢地区の可動戦闘機は20機に激減した。ただし日本軍はB29、2機とP51、7機を撃墜。

 漢口の市街地では焼夷弾による大火災が発生し、長江岸から5km以内の範囲は3日間にわたって燃え続けた。これにより日本人居留地(日本租界)はほぼ壊滅、市街地は50%が焼失した。結果的に市民2万以上死亡、建物6900戸以上が破壊された。

 この日の爆撃は「漢口大空襲」と呼ばれるが、すでに米軍は先月下旬から、日本軍から奪取したサイパンなどマリアナ諸島からが日本本土に対して本格爆撃を開始していたが、この漢口への爆撃で大量の焼夷弾を初めてこ使った。この焼夷弾は日本の木造家屋用に新たに開発していたものであり、その効果を試すべく米軍は、漢口において実験的にとはいえ、約500トンもの焼夷弾を投下した。これは米軍のルメイ少将の指揮によるもので、それまでの日本への高高度からの爆撃の効果が思ったほどではなく、翌年一月、ルメイ少将がこの漢口での成功を踏まえ、マリアナ諸島の爆撃司令官に転任して指揮をとり、低空からの焼夷弾による絨毯爆撃へ戦術転換させ、3月10日未明のB29約500機による東京大空襲となり、10万人を超える死者を生じさせた。そしてそれ以降も焼夷弾による日本の都市殲滅作戦を行っていく。

 翌19日:B29、数10機が南京と上海、一部は九州大村飛行場を爆撃、これに対する日本軍の邀撃戦では2機を「撃破」するにとどまった。

 同日:別途、B29が6機、日本軍の占領する南京を爆撃。

 12月20日:米軍機は香港にP51、3機で来襲。

 12月21日:米軍はB29約90機で満州の奉天(長春)と大連、瀋陽の日本工業地帯を爆撃、この時の邀撃で日本軍戦闘機はB29を一機撃墜した。またこの日、北朝鮮にもB29一機が襲来。

 12月22日:米軍機のP51、10数機が広州、香港地区を爆撃、日本軍は3機を撃墜。

 12月25日:米軍機10数機が南京に襲来、日本軍は9機で迎撃したが、すで熟練飛行士があまりいず、教育・錬成飛行隊から早期に配転させた者たちで、6機が撃墜され、他の3機は被弾して損傷を負った。自軍は1機撃墜、3機を「撃破」。

 12月27日:米軍機16機が広州に襲来、日本軍は10機で迎撃し、その後8機が漢口から加わり、8機を撃墜したとしたが、自軍は9機が撃墜された。

 以上を含め、12月後半の米軍機の攻撃は(日本本土への連日爆撃を除き)、広州3回、揚子江上船団護衛中3回、武漢地区と南京、満州へ数回、その他香港、九龍埠頭、湖南省零陵、河南省許昌・覇王城、安徽省安慶、山東省済南などであり、それに対する撃墜18機、しかし自軍は17機撃墜され、地上機の炎上27機であり、大きな戦力喪失となった。

<漢口米軍飛行士虐殺事件>

 これは11月24、25日の米軍による漢口への爆撃に起因するものと思われるが、このどちらかの日(おそらく被害の大きかった25日)、撃墜された米軍飛行士3名が戦闘機から脱出し、日本軍に捕えられた。12月16日、漢口に駐留する日本の第34軍司令部参謀部の命令で、憲兵隊は捕虜となっていた3名を街中に連れ出し、江戸時代のいわゆる「市中引き回し」を行った。途中、激昂した漢口市民らによっても飛行士は暴行を受け、夜になって郊外の火葬場近くに到着、命令により憲兵隊は捕虜3名を絞殺後、遺体を火葬場で焼いた。戦後になって米軍は実行した憲兵たちを戦犯として捕らえ、1946年4月、上海における裁判で5人が死刑に処された。ただし命令した上官はうまく逃げ、軽い罪で済んだという。

 なお、筆者がここまで調べ、記述した中では、日本機が撃墜されて飛行士が脱出し、中国側に捕らえられた場合、このような虐殺事件はほぼ見当たらない。仮にそうした例があれば日本側のメディアは大々的に書き立てていたであろうが、それは見られないし、もちろん自分たちの虐殺を知っていても取り上げることはない。また実は、米軍による爆撃を受けた日本の各地でも「市中引き回し」はなかったが、脱出した飛行士は各地で虐殺され、それに関わった日本兵たちは戦後に裁判を受け処刑されたが、命令した上司が逃げた結果、冤罪もあったという。

【太平洋戦争上の米軍の爆撃】

 米軍は日本軍の占領するフィリピンや南洋諸島、中国内基地からの東南アジア(タイやベトナムなど)方面への爆撃に加え、サイパンなどマリアナ諸島から日本本土に対しては主に以下がある。12/3:東京、12/6:東京、12/7:関東地方、四国、山陽地方、12/9:東京へ二度、東海地区と信州、12/10:東京と西九州、12/11:東京、12/12:関東、東海、静岡、12/13:四国、愛知、静岡、12/15:東京、阪神地区を初爆撃、硫黄島に6回、このほか小笠原の父島と母島に11月中に15回、硫黄島には12月に14回の爆撃)などである。

昭和20年(1945年)

 前年後半からの太平洋戦争戦局悪化により、陸軍飛行隊は前年10月から南方戦線やフィリピン、この年に入って硫黄島や沖縄の戦いに駆り出され、中国内の爆撃量は減速していくが、それでも日本陸軍は中国の占領地の拡大に余念がなく、侵攻前には爆撃を行い、各地を占領した。ただ、それもこの年の4月ごろまでで、逆に中国軍(国民政府軍と共産党軍)の攻勢が強まり、中国軍の奪還作戦が各地で成功していく。一方で前年11月下旬より開始された米軍の日本本土爆撃は容赦なく行われ、これまで日本軍が中国で行ってきた爆撃で受けた中国の人々の惨禍をわれわれ日本人は身を以て体験することになる。その最大の例が広島・長崎への原爆投下であり、それによって日本は敗戦を迎える。

1月

〇 1月1日、蒋介石は全国に向けて重慶で元旦放送演説を行い徹底抗戦を訴え、毛沢東は延安で外国人を招待した宴席で、「中国共産党の任務はすべての力を結集し、日本帝国主義を倒すことだ」と演説した。

▽ 同日、前年に中国政府の呼びかけに応じた学生たちを主体にした青年遠征軍の七つの師団が設立された。

【1月の米軍機の爆撃活動】

 1月3−10日:日本の植民地台湾に対し、延べ50機で連続爆撃。また3日、沖縄本島を急襲した。

▽ 1月7日、成都から出撃した米軍のB29爆撃機が九州の大村飛行場基地を空襲。これを最後に成都からの米軍の日本本土空爆は打ち切りとなり、サイパンやグアム島などのマーシャル諸島からの空爆に全面的に切り替えられた。

 1月14日:大型約50機が台湾中南部を爆撃。

 1月15日:早朝、米軍は艦載機(空母)からの戦闘機20機で広州を襲撃、また香港にも20機を向け、午後も襲撃した。これに地上の飛行場からも攻撃があった。迎撃戦で7機を撃墜、自軍の損失は1機であったとしている。

 1月16日:同様に約20機が広州に襲来、地上30mで銃撃してくる場合もあり、余裕の行動であった。

 1月17日:米軍機は日本軍の占拠する上海の虹橋飛行場に襲来、迎撃戦で8機に損害を与えたが、自軍は炎上を含めた大中破は25機、大きな喪失となった。

 1月26日:米軍第14航空隊は、1月に入ってからすでに日本機305機を破壊したと報告。

【米中連合隊との攻防】

 1945年初めから、米中第三連隊空軍は老河口飛行場を基地として、上海、南京、武漢の日本軍と平漢鉄道に対して大規模な戦略爆撃を続け、日本軍の物資輸送システムに深刻な打撃を与えた。中米空軍連隊は連続して出撃し、二ヶ月の間に中国から日本本土(九州が主)を二度爆撃し、平漢鉄道を100回余り爆撃、日本軍に対して強力な抑止力を発揮した。それに対して日本軍は鄂北作戦(老河口作戦)を発動し、老河口空軍基地を奪回することを主要目標とし、3月26日、県境に攻め入り、攻防戦の後4月8日、日本軍は老河口を攻略した。

【止まらない日本軍の虐殺行為】

*1月10−11日: 湖南省郴州市資興県東江上を2機が爆撃、家屋10棟以上を破壊した。11日、2機が資興県城を爆撃、2人が死亡、1人が負傷した。この後 1月27日から8月21日まで、日本軍第11軍第3師団の一部が資興を占領している間、987人を虐殺し、7864人を負傷させ、強姦された婦女子は無数、家屋8054棟が破壊、焼失し、9万8998担の食糧が焼かれ、7466頭の耕作用の牛が殺された。

*1月14日:陝西省安康市を爆撃。なおここまで陝西省の55以上の県市が日本機の爆撃を受けた。甚大な被害を受けた都市は西安、延安、宝鶏、安康、渭南、楡林、咸陽、漢中などで、陝西省を爆撃した日本機の大部分は、日本軍が占領した太原、臨汾、運城、包頭などの地から来襲し、陝南の安康、漢中は武漢、宜昌空港から来襲した。

▽ 中国駐印軍は、日本軍に攻撃をかけ、ベトナム北東の南坎(ナンカン)に突入し、激しい市街戦を経て午後まで南坎を占領し、日本軍は潰走した。この戦いで日本軍1780人を殺害し、12人を捕獲した。

△ 日本軍は広東省海豊、陸豊の両県を陥落させた。

△ 1月20日、戦線全体の苦境を見て、日本大本営は初めての陸海軍合同の作戦計画を策定。

*1月20日夜間、江西省遂川基地を爆撃、大小7機を炎上。

*1月22日:広東省韶関市始興を爆撃、建物などを爆破した。日付は定かでないが中国第二歴史檔案館の記録によると、この時期、日本軍は3機の飛行機を出動させて韶関市楽昌を空襲し、15発の爆弾を投下し、計8人が死亡、4人が負傷し、3軒の家屋を爆破した。

*1月26日:8機が安徽省宣城市寧国港鎮に対して2時間にわたって爆爆を行い、さらに焼夷弾を投下した。街中から下町まで店舗256軒を焼き、死傷者20余人、あるものは四肢が横に飛び、腹が木の枝に引っかかって、無残な姿になった。

*1月27日夜間、米軍基地のある湖北省老河口を爆撃、しかし米軍の迎撃により優秀な飛行士数名を失った。

△ 1月29日、地上部隊は江西省遂川飛行場を占領。

【中国政府の戦果】

▽ 1月29日、国民政府軍事委員会は次のように発表した。——1943年10月末以来、ビルマ北部と雲南西部のわが軍は連続的に日本軍への攻撃を開始、 7万9154人が死傷、 敵兵4万8858人を殺害し、数年間遮断されていた中国とインド間の交通を開放し、雲南省とビルマの侵略者、日本軍の第18師団と第56師団を殲滅した。

2月

△ 1945年2月1日、日本軍は広東省始興、3日、広東省南雄を、5日に福建省泉州市南安と江西省大庚県(現・大余県)をを、6日に江西省贛州を、7日に江西省新城をそれぞれ占領。贛州では多くの民衆が焼殺され、陽明路、中山路付近はほぼ完全に灰となり、日本軍による姦殺で死亡した女性は約百人余りとなった。

【マニラ攻防戦】

▽ 2月3日、米軍が日本軍の占領するフィリピン・マニラを攻略。2月7日の中央社によると、フィリピンの華僑4万人は中国のゲリラ隊を組織して連合軍と連携して戦った。この攻防戦は一ヶ月間の激しいものとなり、日本軍の戦死は約1万2000名(陸海軍約1万4300人のうち)であったが、マニラの民間人が約10万人以上犠牲となった。この理由は、米軍の激しい砲撃に加え、日本軍に抗日ゲリラと疑われた現地市民、あるいは単にゲリラの可能性があるということでほとんど無差別に、多数の市民が虐殺されたとされる。この戦闘を指揮した司令官山下奉文大将は、市民虐殺についての責任を問われ、戦後のマニラ軍事裁判で裁かれ、絞首刑となった。

〇 2月7日、A空輸総隊中印区司令官の藤納少将は、中印区輸送機が1月に中国に輸送した作戦物資は4万4000トン近くで、前年同期の1万3000トンより2倍以上多いと発表、中国行きの飛行機は、1日24時間、平均2.5分に1機であった。

*2月8日:湖北省老河口を爆撃。

▽ 2月10日、中米連合空軍の混合大隊は青島空港を襲撃し、日本機98機を破壊し、膠済沿線で機関車10両を爆破した。

▽ 2月11日、八路軍膠東軍区部隊は傀儡軍の根拠地である山東省煙台市莱陽県に攻撃を開始、戦闘は19日までに勝利に終わり、傀儡軍2000人余りを殺害、2000人余りを撃破、捕虜7370人であった。

【ヤルタ協定】

◎ 2月11日、2月4日からクリミア半島のヤルタで開かれていた米英ソ三国首脳(ルーズベルト、チャーチル、スターリン)による会談が閉幕した。ドイツの降伏も近いと想定され、日本も含めた米英ソ三国による戦後処理に関する協定がこの会談で締結された(ヤルタ協定)。この中でドイツの分割や、戦争の早期終結のためのソ連の対日参戦(当時、日本とは中立条約があった)を認める協定が秘密裏に締結された。これとは別に、ソ連の日露戦争以前の中国東北部での権益回復(旅順と大連の権益保障、満鉄線・東支鉄道への経営など)及び千島諸島の獲得が秘密裏に認められた。これに対し蒋介石は中国の主権を著しく侵害するとして激怒した。

【ドレスデン大爆撃】

◎ 第二次大戦終盤の2月13日から15日にかけて、英米連合国軍はドイツの東部の都市ドレスデンへの大規模爆撃を行なった。のべ1300機の重爆撃機が参加し、4度にわけて合計3900トンの爆弾が投下された。この爆撃によりドレスデンの街の85%が破壊され、死者数は2万5000−3万5000人とされる。ドレスデンは古都であり、多くの貴重な文化遺産も爆撃によって破壊された。この爆撃は世界的に知られ、まるで他人事のように日本の教科書にも出てくるが、それに比して日本軍の中国各都市に対する大量爆撃がほとんど知られていないのはなぜなのか。

▽ 2月16−17日、米海軍は東京を中心とした関東方面に、空母16隻を中心とする艦隊を出撃し、艦載機約1200機による爆撃を遂行した。(ジャンボリー作戦)

▽ 2月17日、米軍航空隊は日本軍の占拠する隴(ろう)海線、同蒲線、平漢及び衡陽以北の粤(えつ)唯鉄路を襲撃し、機関車2機を撃破、貨物を載せた汽車4列車を破壊し、信陽及び臨汾駅を爆撃した。

▽ 同日、晋綏八路軍は日本に対して春の攻勢を開始し、2カ月余りをかけて、山西省方山、嵐県、五寨の3つの県城を含む54カ所の敵拠点を回復し、村724カ所の9.4万人を解放し、大量の武器を分捕った。

▽ 2月17日、米軍は硫黄島に上陸を開始した。

*2月某日:福建省漳州市長泰の岩渓郷湖珠村に爆弾一発を投下。

▽ 2月、広東人民抗日軍が日本軍の占領する広東省英徳に侵攻した後、広東漢鉄道を破壊し、頑固軍一団を粉砕した後、仏岡、新豊、翁源の間に20万人を解放し、清遠東北で横石や高田などの拠点を攻略、文洞を中心とした新区を開いた。さらに抗日軍は湛江市廉江以西の新塘地区に挺進し、10万人を解放した。

*2月22−23日:河南省南陽市社旗県を連続して爆撃した。これにより古都は大きく破壊された。爆撃以外に低空から住民に向けた機銃掃射により多くの人が直接銃弾を受けて死亡した。女性や子供や老人も避難所を探して、走っている中で銃殺された。(筆者注:これはちょうど同じ時期に米軍機から我々日本人が本土内で受けた姿と全く同じである。しかし違うのは次のような追い討ちをかける惨禍である)

【惨禍の一つ】

 —— このひと月後の3月23日、日本軍第15師団の部隊が前後二回にわたって社旗県の埠口街を侵略、財物を略奪し、女性を強姦し、豚を見たら殺し、鶏を見たら捕まえ、農具を壊し、家具を壊して燃やして炊事をした。町中には百頭以上の豚がいて、その他のニワトリやアヒルも全部殺された。住民の食糧は彼らに食べられたり、軍馬にえさとして与えられ、一部は持ち出され、処理できない場合彼らはその上で糞尿をしたりした。ある80歳代の老女は時間通りに日本軍にニワトリを捕まえられなかったとして、彼らに首を切られた。15、6歳の娘が日本兵数人に母親の前で輪姦をされた。母は娘のために助けを求めたが、日本軍に銃剣で刺され死亡した。その少女は肉体的にも精神的にも打撃を受け、廃人同然となった。また80人以上の若者が苦力(クーリー)として捕縛された。さらに4月14日、日本軍の一小隊30人と偽軍(傀儡軍)の孫正訓が師団を招き入れて町を占拠し、ほしいままに住民の財物を略奪し、無辜の民衆を無差別に殺害した。町の中で10数人が惨殺され、西北の門の外で7人を生き埋めにした。(『日軍侵華暴行実録』第2巻)

【飽くなき占領行為】

△ 1−2月の日本軍の中国における占領地区は、湖南省郴州市資興県、臨武県、広東省海豊・陸豊、始興、南雄、曲江、恵陽、河北省邯鄲市大名県城、浙江省永嘉、江西省吉安市遂川、永新県城、南康県新城、大庚県(今大余県)、贛州などである。その一方で中国軍は八路軍を含めた共産党軍が各地で奪還作戦を行い、しばしば成功するようになってきた。

3月

【中国での特攻隊訓練と航空機の不足】

 太平洋戦争ですでに始まっている特攻作戦により、1945年3月に入ってから(一部は2月中旬から)中国日本国内と朝鮮で編成された19隊の特攻隊が順次中国に到着していた。そこから在中国の第五航空軍のもとで、蕪湖や杭州、天津(唐山)において特攻のための訓練がなされ、それを終えて3月31日と5月1日に九州と台湾に転属、そこから沖縄に赴き、特攻隊として殉じた。

 ただしこの時期、日本軍の飛行機は米中軍の反撃により減少していて、多少の増強がなされるが、訓練した飛行士に対して飛行機が不足し、損傷した機体の修復が優先された。また新たに占領したいくつかの飛行場の修復作業に人手が足りず、放置され、重点目標に限ることになった。

*3月7日: 湖南省長沙市衡山県を爆撃。衡山は1938年9月17日から1945年3月7日まで計23回、日本軍機延べ223機による爆撃を受けた。

*3月上旬:日本軍は4機の爆撃機、3機の戦闘機で老河口飛行場を奇襲、中米連合軍機との空中戦となり、日本軍は爆撃機を1機脱出させたが、残りは全部撃墜された。

▽ 江蘇省の無錫・常熟国境の安鎮農民は2月27日、蜂起を行い、13人の日本軍と10数人の特務機関兵を殺し、多くの武器を収奪した。その後、江陰、無錫、常熟地区の農民は次々と蜂起を行い、28日に数百人の農民が張洗橋で傀儡保安隊員10人を殺した。3月3日に1000人以上の農民が徐州東湖で傀儡軍を攻撃し、3月14日と16日には数千人の農民が無錫市璜塘で傀儡軍を追撃した。

▽ 3月8日、中国駐印軍は三路に分かれてビルマ北の重要拠点、腊戍(ラシオ)の日本軍を攻撃し、約50日余りの激しい戦闘を経て、この日に市街地に突入し、日本軍を完全に殲滅して回復させた。また中国・ビルマ道路が完全に復旧した。

▽ 3月10日未明、米軍機B29約500機による東京大空襲で、強風の中、大火災が生じ、一日で10万人近くの死者が出た。

△ 日本軍がベトナムに進駐した後、フランスとの共同統治を行っていたが、フランス軍がやがて連合国側に寝返ることを予見した日本軍は3月10日、突然攻撃を開始し、ベトナム総督府、発電所、放送局、駅、郵便局、銀行、駅埠頭を占領、ベトナム総督の軍の要人たちを拘束し、ベトナム政権を直接接収、ベトナムは日本軍独占の植民地となった。

【傀儡軍の寝返りと中国軍の増強】

〇 3月17日、延安の解放日報は「昨年一年間の傀儡軍(日本軍の傭兵部隊)の中国軍への寝返りは3万4000人余りで、1943年より倍増した」とし、「現在も敵後戦場における傀儡軍の数は膨大で、昨年11月以前の統計によると78万人、うち傀儡正規軍は38万人、傀儡地方武装軍は40万人、警察、傀儡自衛団を加えれば、すべての傀儡軍は90万人以上になる」と指摘した。

 また重慶の新華日報によると、華北、華中、華南の敵後八路軍、新四軍及び華南抗日縦隊の武装数は絶えず増加し、昨年の双十節(10月10日)時の57万から76万に増大したと報じた。

▽ 同日、日本軍輸送機はサイゴン方面から上海に向かっていたが、上海付近の上空で米機の攻撃に遭い、浙江省沿岸に不時着した。機内には海軍将兵12人が搭乗し逃亡を図っていたが、浙江省水警部隊は包囲し8人を射殺、4人を捕虜にした。

【老河口作戦】

△ 3月21日:老河口作戦(豫西鄂北会戦:河南省西部および湖北省北部)が開始される。日本軍は7万人を集結させ、南陽、老河口、襄樊、西峡口に侵攻した。

*3月22日:日本の地上部隊が一斉に米軍基地のある老河口を攻撃、これを空から支援、その後も続ける。

▽ これに対し中米混合航空隊が全力で支援し、日本軍の攻撃を阻止した。5月31日までに各大隊は計1047機を出動させ、日本軍の後方や交通線への攻撃などの面で、大きな戦果を収めた。

【米軍が沖縄本島に延べ355機の空爆と上陸作戦開始】

▽ 3月23日、沖縄本島に延べ355機の米軍機(艦載機)による空襲があり、その他先島諸島・大東島地区・奄美地区にも空襲があった。26日、米軍は沖縄上陸作戦を開始、3ヶ月の悲惨な戦いが始まる。

△ 同日、日本軍は湖北省自忠県(現在の宜城県)を占領した。

△ 同日、米機が台湾を連続爆撃した。

▽ 3月26日 、硫黄島が陥落した。戦死者約2万、米軍の戦死者約6800。

△ 3月27日 、地上部隊は湖北省老河口飛行場を占領。

【米軍が日本海域へ数千の機雷投下】

▽ 同日、米空軍は大量の航空機を出動させ、日本列島とその占領域水域に数千の機雷を投下した。その後も米軍は日本海域に機雷を投下し続け、日本の船艇の運行は麻痺状態に陥った。

*3月29日:福建省建甌を爆撃。建甌では1937.8.30からこの日までに日本軍機は176回来襲し、のべ761機を出撃させ、2581発の爆弾を投下し、869人の死傷者を出し、650軒の家屋を焼失した。この中にはカトリック教会、キリスト教病院、新聞社、中・小学校もある。

【中国軍のビルマ北雲南西作戦による双方の多大な犠牲者数】

▽ 3月30日、中国駐印軍のビルマ北雲南西作戦は勝利に終わった。1943年1月から月末までの1年余りで、中国軍は日本軍2万5120人を捕らえて殺害し、中国軍は3万1443人を犠牲にし、3万5948人が負傷した。6月、中国遠征軍と駐印軍はすべて帰国した。

*3月31日:陝西省華県上空に侵入、石堤河の西付近を走行中の列車に爆撃を加え、機関手と助手各1人が死亡、10人以上が負傷した。

*春の某日:日本機は湖南省益陽市の非武装地帯の三堡一帯に焼夷弾を投下、家屋数十棟余りを焼き、財物100万元を損失させた。そのほかにも小さな爆撃や機銃掃射が何度も繰り返され、ある時午後、頭堡文家埠頭河街で数発の爆弾を投下し、30人余りが死亡し、家屋10棟余りが破壊された。ある時の正午に大埠頭賽楚南面館に3個の爆弾が落ち、麺を食べていた8人が死亡、太和永書店の家屋が爆破され、さらに自動車通りの裏手に数発の爆弾を投下されて3人が死亡、一人が負傷した。(『侵華日軍暴行総録』)

▽ 3月、中国の青年遠征軍第209師団が設立され、師部は江西省鉛山に置かれ、福建省上抗に旋回移動した。全師団計1万2510人となった。

△ 3月、中国の日本軍は主に米軍機の各地への攻撃に対する防空に追われている様子があるが、例えば日本軍の『中国方面陸軍航空作戦』には作戦のことばかりで具体的な記述がほとんどない。

4月

▽ 1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸。熾烈な沖縄戦が始まる。

【中国における国共内戦の予感】

〇 毛沢東、周恩来、朱徳は延安で中印ビルマ戦区の米軍司令官と会見した。毛沢東はもし中国で内戦が起これば、アメリカが国共双方に対して手を出さない政策を取ることを望むと述べ、さらに、中国共産党がアメリカから1丁の銃、1個の弾丸を受け取ることができるかどうかに関わらず、中共は引き続きアメリカと協力することを望むと述べた。

 筆者注:ここで毛沢東は、日本との戦争が終わったら蒋介石国民党との内戦を想定していることがわかる。日本軍の侵攻に対処するため、1937年から国共合作の協定を結び共同作戦をとったが、基本的に日本軍に対し合同で戦うことはなく、共産党軍はゲリラ戦術を主に展開した。そしてここまで、少なからず内部衝突があり、国民党軍が共産党軍を攻撃する場面もあった。それは蒋介石がどこまでも共産党への敵視政策を捨てなかったことによる。この内部対立を米国のハーリー特任大使が前年秋より仲裁し続けてきたが、ここまで進展はなかった。蒋介石は共産党に一切妥協せず、共産党は国民党の一党独裁を非難し、連合政府を作ることを要求し続けたが、果たしてその中国共産党は、戦後の内戦で国民党に勝利し、政権を取ってからは一党独裁政治を崩さず、その強権政治体制は21世紀に入ってからますます強固になっている。

*4月2日:陝西省華県に侵入、小漲村で墓参りをしていた人々に爆弾一発投下、死傷者なし。おそらく偵察中の戯れによる投弾であろうが、これは米軍機が終盤に日本で行なったことに重なる。

▽ 4月2日、米軍機は上海の飛行場を襲い、日本機29機を撃破、16機を損傷させた。

*4月3日: 湖南省郴州市汝城県城と広坪飛行場を爆撃。

△ 4月8日、地上部隊は老河口市街を占領。

*4月12日:6機が湖南省邵陽市 城歩県の県城と巫浜郷を2度爆撃し、17発爆弾を投下した。

*4月16日:湖南省懐化市黔陽県を爆撃、その後日本軍第20軍の一部が県内の洗馬、鉄山、竜船などの郷に侵入、撃退されたが、日本軍は黔陽で最後のあがきを見せ、沿線の地域で狂ったように掠奪を行い、住民を焼き殺した。この時日本軍は県内で22人を殺害、負傷者は230人、婦女強姦は100人以上、略奪された財物の被害は無数に上る。

*4月17日: 湖南省益陽市安化県を爆撃、ここまで安化県に何度にわたり80発の爆弾を投下、1065人が死亡、2814人が負傷した。

*4月18日:中国の第五航空軍は20数機を沖縄戦の支援のために九州に派遣し、この日の夜、米軍への攻撃に向かった(その位置不明)。

*4月某日:正午、5機が広西省柳州市柳城県城の上空から銃を乱射し、何度か旋回した後、大量の爆弾を投下、全城に火花、レンガや敷石が飛び散り、城外は弾痕だらけで、無数の民家が跡形もなくなった。今回の爆破は、四穿楼から西門まで15棟、四穿楼から南門まで35棟、四穿楼から牛巷街を含む北門まで15棟、西門の城外と北門外虷上38棟で、中学校、県庁、農場など合わせて115 棟が爆破された。

【血の負債】

 前年11月に柳城の風山鎮を占領し、この爆撃後の7月6日、県城を撤退するに当たって日本軍は県城の沙街全体を焼き尽くし、225戸を灰燼にさせ、2000人以上が家を失い、5人に1人が家を再建することができず、よそに移って生計を立てた。また占領の8ヶ月間、日本軍は当初、人を見ては銃で殺し、村を焼き討ちし、婦女を強姦し、耕牛肉豚を掠奪した。駐留後は、兵糧、砂糖、酒、肉、家禽などを定期的に納めさせ、また「慰労」のために婦女を出させ、そのうち「慰安所」が設けられ、婦女は長期間監禁された。少しでも自分たちに不都合があれば、沙埔街村のように村を包囲して機関銃で掃射し、30数人を集団虐殺し、若い女性30数人を強姦し、財産は略奪する。わずか30数戸の小屯一新南屯は、包囲されて銃を乱射され、その場で19人が撲殺され、72人どこかに連れ去られ、4人が強姦された。さらに悲惨なことに、敵は鶏母嶺を包囲攻撃した時、ガス弾を民衆に浴びせかけた。雷榴村に駐留していた日本軍は、人の五体を馬で引き裂いて殺害した。日本軍が柳城で犯した数々の犯罪は、血の負債となっている。県全体で約1500人が殺害され、1370人余りが負傷し、戦乱後には大規模な疫病が発生し、6330人余りが罹患、1770人余りが死亡した。(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

◎ 4月25日、米、英、中、ソの4カ国政府が発起し、米政府が42カ国を招待した国連会議が米サンフランシスコで開かれ、国際連合憲章を協議した。(これはこれまでの国際連盟の組織を踏まえ、戦後に向けて新たな国際連合設立を協議するもの)

【3−4月の日本軍の占領地区】

△ 3−4月の日本軍の占領地区は河南省新郷県李官橋、南陽市鎮平、内郷、懐化市芷江の空軍基地、鄭州市浙川県、邵陽市新寧県、益陽市、湖北省襄陽、樊城(現・襄樊市)、襄陽市老河口、自忠県(現・宜城県)、広東省恵州市竜門県城、広西省都安などである。中国軍の反攻作戦は一層強まり、日本軍の侵攻作戦もほぼこのあたりで終わっている。

5月

◎ 5月2日、4月25日のヒトラーの自決を経て、ベルリンは占領されドイツ軍は連合軍に降伏した。

▽ 5月3日、イギリス軍の一部がビルマ国民軍の協力を得てビルマの首都ヤンゴンを日本軍から奪還。

【ドイツの無条件降伏と残る日本への国際的監視】

◎ 5月8日午後11時、ドイツの無条件降伏の承認式典がベルリンで行われた。この降伏文書は1945年5月9日0時に発効した。9日、国民政府は、ドイツの無条件降伏、ヨーロッパ戦争の終結、連合軍の完全な勝利を祝い、三日間、国旗を掲揚した。蒋介石はトルーマン、チャーチル、スターリン、ドゴールに祝電を送った。同日、イギリス国王ジョージ六世は蒋介石に電報を打ち「今日、西方の戦争はすでに終結した。わが国の全力を集中して、日本を徹底的に打ち負かす」と述べた。サンフランシスコ国連会議の各代表は会場で1分間黙祷し、戦争で亡くなった烈士に捧げ、欧州戦争の勝利を祝った。中国とフランスの代表は「今後、世界がどのように日本に対処するか、日本は目を開いて待つべきだ」と述べた。

▽ 5月8日、中国第4方面軍は5月6日に日本軍第116師団の主力部隊の湖南省西江口、西岩などへの攻撃を破った後、この日、中米の空軍の全面支援を受けて日本軍に対する本格的な反撃を開始した。

〇 5月9日、日本政府は臨時閣議を召集し、ドイツが無条件降伏したことについて、日本側は深い遺憾の意を表明するが、日本の作戦継続の決意は揺るがない、との声明を発表した。

【日本軍の一部撤退作戦と特攻隊作戦】

 1945年5月8日、大本営は米軍の侵攻による本土決戦を想定し、南朝鮮と済州島を航空作戦の重要拠点とし、中国内の第五航空軍を中国戦線から外し、その主力を朝鮮に転用することにし、残りの一部は第十三飛行師団として支那派遣軍に残された。これに伴い朝鮮に移転する関連地上勤務部隊は一万を超え、燃料弾薬等の資材も膨大であった。主には鉄道輸送であったが、天候不順もあって米中軍機の攻撃も比較的少なく、この月下旬に移動は完了した。

 ただし朝鮮南部を拠点としても中国中東部も可動範囲にあり、第十三飛行師団との共同作戦も想定され、そのための飛行場として以下が整備された。—— 南京、上海、江蘇省常州・蘇州・揚州・鎮江・泰県(現・姜堰区)、浙江省杭州・寧波、安徽省蕪湖、回避のための飛行場として武漢の漢口・武昌、安徽省安慶・蚌(ぼう)埠、江蘇省徐州。

 一方で米軍が中国沿岸からの上陸する可能性もあって、支那派遣軍は中国南部(雲南、広西、広東、福建省など)の戦線を縮小し、上海、南京、杭州の三角地帯に兵力を集中させようとしていたが、米軍の増強した攻撃もあって鉄道や揚子江の船舶輸送も途絶され、移動は極度に制約され、ほとんど徒歩行軍となっていた。残された飛行各部隊も武漢以北に転進するように指示され、その地上勤務部隊は、自分たちが破壊し占領後修復したであろう粤漢鉄道なども使えず、その行軍は困難な状態の中で行われた。こうして日本軍が1941年より奮戦し、多大な犠牲(つまり中国民も含めて)を出しながら手に入れたはずの中南部地方を実質上ほぼ手放すことになった。また支那派遣軍の一個軍団は満州に向かい、対ソ作戦の準備をした。

 5月下旬、第十三飛行師団は海軍との連携において、師団全部を特攻隊に改変し中国の沿岸から100km以内に侵入する米軍輸送船団に対し一機一船必中を期するものとし、その訓練をすることにした。その対象の特攻隊は八隊で、訓練は払暁と薄暮、そして月明かりの中で行われた。この後、上海の揚子江流域から侵攻する米軍を想定しての計画・訓練も行われた。

 6月中旬、さらに特攻隊としての飛行士や器材が補充され、特攻兵力76機、援護戦闘機24機となった。下旬にはさらに朝鮮、満州その他から配属され、特攻機は全部で174機となった。これは沖縄戦の敗北によって米軍の中国への侵攻があると見越してのことであろう。なおこの特攻機の中には練習機も含まれていて、すでにそれだけ戦闘機は不足していた。しかし、米軍艦船の中国本土上陸作戦はなく、中国における特攻機のほとんどは出撃することなく終わった。

▽ 5月12日、中国共産党は解放区戦場における春季攻勢の勝利公報を発表し、1月から最近にいたるまで、共産軍は大小の戦闘を百回以上行い、計22の県城を奪回したとし、敵の重要拠点300余カ所を攻略し、人民500余万を解放し、日本軍と傀儡軍1万5000余人を殺傷、傀儡軍の投降は6000人余りであったとした。

*5月15日:明け方、中国軍の駐留していた安徽省阜陽市潁(えい)上県五里井孜村に対し日本軍が包囲し、地上の大砲と飛行機の機銃掃射で攻撃した。中国軍が撤退すると日本軍は潁上五里井孜村で見るも残酷な蛮行を犯した。村人の多くは麦畑などに逃げて隠れたが、逃げ遅れていた者の家々には日本軍が侵入、略奪し、女性たちは強姦された。別の日本軍は村人に牛や豚や鶏を捕まえて持って来させ、鍋で料理をさせた。その後(残虐の細かな詳細は省くが)……この日のうちに、この地の民は鬼兵に17人を殺され、47人が強打されて怪我を負い、21人の婦女が強姦された。(『日軍侵華暴行実録』第3巻)

【ソ連軍の侵攻準備】

▽ 5月26日、米国のホプキンス特使はモスクワでスターリンと対日戦争と中国問題について話し合った。 スターリンはソ連軍は8月8日に満州を攻撃するが、それは中国がヤルタ協定を受け入れるかどうかにかかっていると述べた。

▽ 5月27日、中国軍は広西省南寧を奪還。

△ 5月31日、日本軍による老河口作戦が終結した。戦闘は72日間(3月21日から5月31日まで)続き、日本軍は河南西部を占領し、老河口空軍基地を制圧するという目標は達成したものの、中国軍の発表では日本兵1万5760人を死傷させ、 6名を捕虜にし、軽機関銃と重機関銃92丁、小銃556丁、迫撃砲4丁が押収した。

▽ 東北抗日連合軍教導旅団はソ連極東軍区司令部の命令指示に基づき、反攻作戦を策定した。これにより第88独立歩兵旅団として黒龍江省佳木斯(ジャムス)地区への作戦任務を担当した。

6月

△ 6月4日、梅津美治郎参謀総長は大連に赴き、関東軍と支那派遣軍の司令官に「対ソ連作戦計画」を伝達した。

▽ 6月7日、湖南省西部の戦いが終結。中国軍は、中米の空軍の支援を受け、残った日本軍を掃討し、戦闘前の状況を回復したが、この戦いで合計2万4千人以上の日本兵が死傷した。

▽ 6月15日、米軍の隊B29爆撃機の編隊が成都基地を離陸し、日本本土への爆撃を行った。

【ニューヨーク・タイムズ紙による日本軍の配備状況】

〇 アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は、日本軍の配備に関する統計を報じた。「日本本土に165万人、中国東北部、華北、北朝鮮に112万5千人、中国中部、華南、台湾に90万人、ベトナム、ミャンマー、タイ、マレーに34万5千人、オランダ領インドシナに21万5千人、琉球列島で13万人、南西太平洋で10万人、中部太平洋で10万人、フィリピンで6万人、 さらに中国には依然として100万人の傀儡部隊がおり、台湾と北朝鮮には100万人の労働者がいる」とした。

▽ 6月21日、蕪湖市では、日本軍による穀物の略奪により、市民は飢餓状態になり、「買えなければ奪い取れ!」との声により、市内の老若男女10万人以上が立ち上がり、米船、米蔵の穀物まで、二日連続で強奪が行われ、夕方になって日本軍と傀儡軍が鎮圧し、沈静化したのが22日午後だった。

〇 6月22日、3月に施行された「義勇兵役法」にもとづく民兵組織国民義勇戦闘隊が公布・施行された。これは迫り来るアメリカ軍の本土への上陸に備えたもので、義勇兵役の対象は原則として男性は15歳から60歳まで、女性は17歳から40歳までで、年齢制限外の者も志願することが認められていた。これにより「一億玉砕」なるスローガンが一層唱えられた。義勇戦闘隊は2800万人が本土決戦に動員される予定だった。しかしすでに3月下旬から始まり、この翌日集結する沖縄戦では、陸軍省令によって14歳−17歳の少年兵が「鉄血勤皇隊」や「通信隊」、また「護郷隊」、女学生も学徒隊として防衛召集され、召集された学徒の半数以上が戦死している。

〇 6月23日、沖縄全土での米国との戦闘が終結(陥落)、3ヶ月で敵味方合わせて約20万人以上の死者(そのうち住民が半数)を出した。

△ 6月23日、中央通信社は日本軍による新たな犯罪を報じた。—— 湖南省西部の武岡県で日本軍が1800軒以上の店舗と3700軒以上の家を焼き、4300人以上が死傷し、6000人以上が連行され、そのまま帰還せず、2800人以上の女性が凌辱された。18万7000トンの官民米が焼かれ、6万石の穀物、8000頭の牛が殺された。(『中国抗日戦争大事記』)

【国際連合憲章採択】

◎ 6月25日、連合国50カ国が参加して開催されたサンフランシスコ会議は第9回会合を開催し、国際連合憲章および国際司法裁判所規程を全会一致で採択し、さらに国際連合設立準備委員会の設立が可決された。 憲章は、前文、19章、111条、合計1万語以上からなり、国連機関とすべての加盟国が遵守すべき基本原則と、国際平和と安全を維持するための効果的な方法を明確に規定した。憲章は翌26日に全会一致で採択された。50か国の合計153人の代表が憲章に署名し、中国の代表が最初に署名した。 参加国は3ヶ月後までに批准を終え、正式に国際連合が成立することとなった。発足は日本降伏後の、1945年10月24日であった。

【最後まで続けた細菌散布】

*1945年夏、日本軍機が再び浙江省雲和県上空でペスト菌を含んだ綿、菓子、菓子、玩具などを投下した。疫病は燎原の勢いとなり、重河、貴渓、長田、象山、睦田、小徐、局村、石浦、長汀、小順、天井、麻廠、石塘、梅源、東坑、赤石など数十の郷村に広がり、発症した患者は秋まで続いた。特に恐ろしいのは肺ペストで死亡率が95.24%に達した。同時に敗血型ペストも発見され、死亡率は90%に達し、皮膚型ペストも発見された。家族全員が死亡する例も多発した。統計によると、雲和県でペストなどの疫病が発生した場所は183ヶ所、罹患者は2740人、死亡者は1045人。雲和県によると、1943−45年のペスト患者は745人、死亡者は537人で、うち男性239人、女性298人だった。(『侵華日軍暴行総録』:ただし雲和県は既述のように1942年8月からペスト菌は撒かれている)

 もちろんこれは雲和県に限った例であり、浙江省は日本軍の細菌戦の主戦場であり、被災地であった。1939年6月から1945年夏にかけて、日本軍は杭州、寧波、紹興、金華、衢州、麗水、温州など7つの市10余りの県に対してペスト、コレラ、チフス、炭疽、鼻疽などの殺人毒菌を拡散させる大規模な投与を何度も行った。浙江省の疫病菌感染者数は30万人以上、死者は6万人を超えた。

7月

【南京に匹敵する衡陽市における虐殺数】

*1945年7月7日:湖南省衡陽市耒陽県を爆撃。日本機は1937年10月9日からこの7月7日までに483回にわたり耒陽に空爆を行い、県城、小水鋪、金盆塘、竈市街、亲城、灘平、関福など15の郷鎮に対して879個の爆弾を投下、湖南省における最も深刻な被爆県のひとつになった。また耒陽は1944年7月3日、日本軍の第11軍が占領し、1945年8月の日本の降伏まで(実際に占領が解かれたのは降伏後の8月20日)の15カ月の間、全県の26町村の全てが日本軍の蹂躙を受けた。日本軍は耒陽で罪のない住民に対し無差別の殺人行為を行い、全県で10万人以上を殺害、13万9148人の負傷者を出し、婦女を姦淫し、無数の家屋を燃やし、2856億元の経済的損失をもたらした。(『侵華日軍暴行総録』)

 筆者注:衡陽に関してはここまでも数十回以上の爆撃を記しているが、この犠牲者数は本当か?と思われるほどである。『日軍侵華暴行実録』第4巻では、10万4680人となっていて、しかも衡陽市全体(衡陽県・衡山県・常寧県・祁陽県・耒陽県)では33万1817人(重軽傷者27万645人)となっている。これはほぼ一年間の犠牲者数であり、30万を超える犠牲者数は南京に匹敵するが、ほぼ知られていないのはなぜなのか、もっとも知られていないのは衡陽ばかりではないが。

*1945年7月10日:湖南省邵陽市新寧県を爆撃。 前年よりここまで新寧は57機が53回、422発の爆弾を投下した。

*7月15日:夜、陝西省漢中市西郷県北の碾子沟の農民の炭焼窯の出した火の光を日本軍機が発見、10数発の爆弾を投下、廟児溝、丁家溝の農作物と山林が損害を被った。

【ポツダム宣言と敗戦まで】

〇 1945年7月16日、アメリカで原子爆弾の実験に成功。そして7月25日、トルーマン大統領は日本への原子爆弾の投下命令を下した。

◎ 7月26日、アメリカ・イギリス・中国の三国が、日本に対し、無条件降伏を求めるポツダム宣言を発した。しかし日本の軍政府は無視を決め込み、翌日何のコメントもせず公表した。それに対し28日、日本のメディアは「笑止、対日降伏条件」、「笑止!米英中共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戦飽くまで完遂」などの論評が紙面を飾った。これに対し鈴木貫太郎首相は記者会見で「共同声明はカイロ会談の焼直しと思う、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し断固戦争完遂に邁進する」と述べた。アメリカは後ろ手に原爆の実験成功を隠して宣言を発したわけで、この無視が日本への原爆投下の理由を与えたことになった。実際に米国大統領トルーマンは、7月25日の日記で「日本がポツダム宣言を受諾しないことを確信している」と記していて、日本側の拒否は折り込み済みであった。これにより広島・長崎に原爆が投下され、少なくとも20万人以上の命が失われた。

*7月29日: 湖南省益陽市沅江を爆撃。ここまで日本軍は216機の航空機を沅江に出動させ、16回にわたって県内に379発の爆弾を投下した。

*7月某日:江蘇省南匯区(現・上海)の今黄路郷友愛村に数発の爆弾が撃ち込まれ、綿畑で草を鋤いていた陳才根ら3人が爆死し、3人が負傷した。

△ 7月下旬、特攻の7隊、15機が配属されたが、「8月中旬まで目的地(不明)に到着できたのは3隊であり、他の4隊は北支と満州で終戦を迎えた」。

8月

〇 8月1日、新任の王世傑外相は外国人記者に対日政策について語り、中国は復讐の態度を取らないと表明した。

▽ 同日、米第10航空隊はビルマから中国に派遣された。

▽ 8月6日、広島に原子爆弾が投下される。翌日、トルーマン大統領は声明を発表し、日本政府に無条件降伏を促したが、政府は動かなかった。

▽ 8月8日、ソ連(ロシア)は日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告を行った。翌9日に日付が変わる頃、一斉に150万の軍が国境を越えて三方面から満州に進撃し、空軍も三方面から侵入、満州の関東軍は一部を除いて遁走あるいは壊滅し、戦闘は敗戦後も続き、その中で数多くの日本の居留民が残され、数多くの悲劇が生じた。ちなみにこのソ連の参戦は、2月に行われた米英ソ三国によるヤルタ協定の中に秘密事項として織り込まれていた。

▽ 8月9日、長崎に原子爆弾が投下される。

△ 8月9日、ソ連軍の侵攻に対して航空師団として新たな作戦遂行を計画、北京の6ヶ所の飛行場へ124機を転出させるとするが、飛行機の装備、機材や整備員の派遣、天候などによって思い通りに動けず。

〇 8月10日未明の御前会議においてポツダム宣言の受諾が決まり、連合国むけに通知されたが、国内には知らされなかった。

*8月12日:満州に残存していた戦闘機42機が遼寧省錦州に集結し、そこから侵攻してきたソ連軍の戦車20輌を破壊、しかしそれ以上ガソリンが残っていず攻撃できなかったとされる。

*同日:湖南省郴(ちん)州市汝城県城を爆撃。統計によると、郴県は1938年7月5日から日本機の爆撃を受け、以降8回、計27機、81発の爆弾が投下された。1945年1月24日に日本軍第11軍所属の一部に占領されてから8月25日まで、全県で4292人が殺害され、546人が負傷し、経済損失は1148億元に達した。

△ 8月14日 、日本の第十三飛行師団は北京において攻撃準備を完了。

◎ 8月15日、正午、ポツダム宣言の受諾と無条件降伏を昭和天皇がラジオを通じて国民に正式に発表した(玉音放送)。この玉音放送を中止させようとする陸軍青年将校の反乱が15日未明にあったが失敗に終わった。

*8月15日:早朝、北京の南苑から22機が出撃し、河北省張家口市張北においてソ連軍の機械部隊を爆撃、「相当の損害を与えた」。引き続き三つの戦隊でもって波状攻撃する予定が、正午に終戦となり、この攻撃は一撃だけで終わった。第十三飛行師団の活動は周到に準備した特攻隊を含め、本格的な活動をする前に終えた。「吉田飛行師団長以下、敗戦の実感は全くなく、司令部以下各部隊は終戦後も厳格な軍旗を維持し」、翌年3月日本に帰還、復員した。

 この飛行師団は全中国に点在する航空地上勤務部隊の全部をその指揮下に入れ、その数は3.5万人以上に達した。しかし遠隔地部隊の中には帰還が著しく遅れた者たちも生じた。ただし、航空隊でも特に満州内にいた飛行士、整備員たちの多くは、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに送られたが、防衛省の戦史叢書『中国方面陸軍航空作戦』にその記述はない。
▽ 8月15日、中国における米国の航空隊は、終戦までに日本軍が占領する地域や施設に対する爆撃で、機関車1225台、日本機2315機、橋梁356カ所を破壊し、艦船を含む船舶の445隻を揚子江や珠江の沿岸で沈め、日本兵約6万名、軍馬1万8689頭を殺傷したとしている。日本軍の中国への8年間分の空爆による(だけでなくその後の占領による)破壊や殺傷はこの何倍どころではなく、どれほどの犠牲であろうか、筆者もここまで細かく記してきて、気が遠くなるほどである。

〇 この日、トルーマン米大統領は、中国東北部(満州)の日本軍はソ連に降伏すること、中国(台湾を含む)と北緯16度線以北のインドシナ地域の日本軍は「蔣主席に降伏する」とした『第1号命令』を発表した。

〇 8月17日、マニラの中国副領事はマニラの米国通信社に対し、開戦時に日本軍により総領事館職員8、9人を含む華僑4000人が殺害されたと語った。 またある銀行幹部によると、フィリピン在住の華僑13万人のうち、過去3年半で計1万人が日本軍によって殺害されたという。

【敗戦後も続く爆撃】

*8月16日:前日、無条件降伏で終戦となったにも関わらず、黒竜江省チチハル市駐留竜興地区司令官の土谷は、9機の航空機を市街地に出撃させ、数十発の爆弾を投下、市民多数が死傷した。チチハルでは3万人以上の市民が家を焼かれて失い、嫩江(アムール川水系に属する松花江最長の支流)西岸に避難した。この一方で憲兵隊少佐土屋芳雄は部下に516部隊(毒ガス部隊)から毒ガス弾3万発の取得を命令、その毒ガス弾でチチハル市民を惨殺しようと企てたが、516部隊が敗戦を知り逃走したため、その陰謀は失敗した 。(『侵華日軍暴行総録』 )

【敗戦後も続く占領地での蛮行】

(筆者注:日本軍の中には敗戦を信用せず、各地で9月初旬まで占領した土地での虐殺を繰り返していた例が各地であった。それは中国では日本軍は負けていないという考えもあったようであるが、何よりも日本の参謀本部からの通達が徹底されなかったことにより、つまり撤退作戦もまともに示されず、ましてや将校たちが列車や飛行機を使って先に逃げてしまうケースも多く、「皇軍」としての無責任さを露呈した。終戦となってからどれだけ海外の居留民や兵士が放置されたまま死んでいったか、ここで逐一記す余裕はないが、我々の想像以上の実態がある。以下はほんの一部の例である)

 —— 1945年8月23日、日本軍数百人が広西省全州県竜水郷の百福、小洞、小竹、辛田、舒家一帯に隠れていた28人を捕まえ、午後4時ごろ、磨頭江東岸で全員を銃剣で殺害した。そして日本軍が撤退する時、、日本軍は井頭村で民家13軒を焼き払い、稲もみを堂屋に積み上げて放火し、村中の豚、牛、財物を略奪し尽くした。その場で日本軍は銃や銃剣で数人を刺し殺し、さらに2人の子供は投げ上げられて銃剣で突き殺された。もっと悪辣なのは、日本軍は高い壁のそばに深い穴を掘り、死体と捕えた住民を一緒に穴の中に押し込み、それから高い壁を倒して埋めたことである。この時の被害者は5、60人であった。

 これらとは別に、日本軍は掌家湾、大福嶺、寺背一帯で住民を捕縛し、途中で多くの人が逃げたが、残りの12人は大福嶺で2人、その他は枯牛嶺の黄花衝水溝に押し込まれ、9人がロープで松の木に吊るされ、もう1人の謝を幹のそばに置いた。それから日本軍は銃剣で一人ずつ殺害し、一人殺すごとに謝の体に血痕をつけ、9人を惨殺した謝は恐怖のあまり、3日後には口が震えて話せなくなった。

(『侵華日軍暴行総録』 )

 —— 湖南省永州市双牌県が日本軍による占領を解かれたのが終戦二週間後の8月29日であった。双牌県は1944年9月9日からその日まで、日本第11軍第3師団が侵攻し駐屯し、数々の残虐行為を行った。 五里牌周辺では35軒の家が焼かれ、双排、上呉江、桐沢、建桃湾など小水幹線沿いの家々もすべて焼き払われ、全財産が略奪され、損失は数え切れない。1944年12月、日本軍は馬江郷天津頭村の旧中庭で12人を捕らえ、鞭で打ったり蹴ったりした上で全員を拷問して殺害した。盲目の陳広東は日本軍に捕らえられ、四つに切断された。 城関鎮羅家嶺では一度に14人が日本軍に捕らえられ、鄴公寨の森に縛り付けられて面白半分に銃剣を使って殺害された。現場は2時間にわたって泣き叫ぶ声が続いた。その中に妊婦1人と1歳児6人を含む死者がいた。 麗家平の潘定源と呉は同時に日本軍に捕らえられ、日本軍は潘をはしごに縛り付け、火で焼き、銃剣で刺し、最後に池に投げ込んで死亡させた。呉は日本軍によって首を切り落とされた。城関鎮韓沢村では一度に5人が日本軍に捕らえられ、全員が鶏のように殺された。 霧白郷白木桝村の毛啓豪の12歳の娘は日本兵20人に輪姦され悲劇的に死亡、商呉江市では楊未亡人と老婦人葉能生も輪姦されたうえ死亡、日本軍は双牌で数え切れないほどの女性を強姦し、馬江鎮では50人以上の女性が日本軍によって強姦された。 双牌鎮の不完全な統計だけでも、日本軍に捕らえられて連行され帰らなかった人が40人以上いたという。

(『日軍侵華暴行実録』第4巻)

〇 8月21日、日本の関東軍は満州ハルビンで正式にソ連軍に降伏し、ソ連軍は日本軍を59.4万人余りを捕虜とし、順次シベリアに連行した。

〇 8月28日、駐中国ハーレー米大使の仲介のもと、蒋介石は毛沢東を招待し、毛は周恩来、張志忠、王若飛とともに重慶へ飛んだ。夕刻、蒋介石は毛沢東らを招いて桂園で宴席を設けた。29日午前、毛沢東、周恩来、王若飛は国民党代表の張泊中と会談、午後、毛、周、王は蔣介石らと会談した(蒋毛重慶会談)。この日、国共双方は主に今回の和平交渉の必要性と交渉の原則、方針と手順などの問題を検討し、この後ひと月以上協議が続けられた。

 筆者注:ハーレー米大使は前年秋より国民政府と中国共産党の共闘体制を壊さないよう、つまり日本軍への反撃の力が削がれないようにと活動していて、それまで国共の会談に至る場合、重慶に赴き蒋介石と会うのは常に周恩来であった。今回、蒋介石と毛沢東が会うのは1931年の満州事変からの記録の中では初めてで、1937年に国共合作に至るまでの協議に出かけるのも周恩来であった。それほどに毛沢東は周恩来を同志として信頼していたが、戦後、内戦を経て共産党が政権を奪ってからは、周恩来は毛のもたらした独裁政権下で緩衝的な役割を果たした。しかしその間、周は相当に苦悩と忍耐の中に生きていたと思われる。この周恩来の誠実な姿が、今に至るまで中国民にとって尊敬の対象になっている。

〇 8月29日、中国陸軍総本部は蒋介石の命令により、降伏した日本軍から香港および九龍の両地をイギリスに接収させた。日本軍の占領前に160万人の人口を抱えていた香港は、70万人前後の住民が中国本土に退出し、この8月の日本の降伏の時点では人口が60万人程度にまで減少していた。

〇 8月30日、28日に米軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に到着し、この日に連合国最高司令官として米国のマッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。

◎ 9月2日、日本政府は米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印した。日本側の全権代表は重光葵外相、軍の代表として梅津美治郎参謀総長が署名、続いて連合国の代表たちが署名した。その後マッカーサー元帥は「相互不信や憎悪を超え、自由、寛容、正義を志す世界の出現を期待する」との演説で終戦を宣言した。

 筆者私見:これにより「4年にわたる太平洋戦争は終結した」と記されることが多いが、日中戦争からは8年、満州事変からは14年の中国に対する日本の戦争が終わったという意味の方が大きいであろう。そもそも太平洋戦争の原因となったのは日本が始めた日中戦争であり、その日中戦争に対して米英が圧力を強め、それに反発した日本が太平洋戦争を起こした。しかも太平洋戦争における軍民の死者の総数よりも、中国における軍民の死者の数の方がはるかに多いことを、我々日本人が知らないのはなぜなのか。

【中国、朝鮮、台湾での降伏調印式】

◎ 9月3日、新たな国際連合において連合各国は「反ファシズム戦争勝利の日」を祝った。

〇 9月9日午前9時、中国における日本軍の降伏調印式(受降式)が南京中央陸軍士官学校大講堂で行われ、中外代表千人余りが出席し、国民政府陸空軍総司令何応欽氏が主宰し、日本軍降伏代表に支那派遣軍総司令官岡村寧次、総参謀副長兼中国大使館付駐在武官今井武夫、支那方面艦隊司令長官福田良三ら7人であった。岡村が降伏書に署名した後、何応欽が署名した。

〇 9月9日、日本の敗戦により朝鮮は35年にわたる植民地支配から解放された。しかし朝鮮では陰の政府もない状態で、独自の政権樹立はすぐに対応できず、連合国内の協定により、ソ連軍は満州から38度線以北(現在の北朝鮮)に侵攻してその管轄下においており、9月2日、連合国総司令部は38度線以南を米軍の管轄とした。9日、朝鮮総督府で日米間の降伏調印式が行われ、その後総督府では日の丸が降ろされ、米国の星条旗が上がった。実はあまり知られていないが、満州から命からがら逃れてきていた日本人が、この38度線で帰国への道を閉ざされ、飢餓により命を失った人たちも多くいるし、朝鮮人に助けられた人たちも多くいる。

〇 10月10日、8月28日から重慶で蒋介石と毛沢東との会談(蒋毛重慶会談)から始まった国民党と中国共産党の協議により、双十(10月10日の意味)協定が締結された。それは「内戦を避け、和平建国に努め、徹底的な三民主義を実行する」ことから始まり、「国共停戦協定」も調印された。しかし蒋介石の徹底した共産党嫌いが消えるわけもなく、翌年3月の党大会において、国民党は共産党が提唱する「民主連合政府」の拒否と国民党の指導権の強化を決議した。6月には蔣介石は共産党への攻撃を命じ、国共内戦が勃発した。これは毛沢東自身が予測し、望んだことでもあり、裏で軍備増強を進めていた。

〇 10月25日、台湾省における日本軍の降伏式が台北市公会堂(中山堂)で行われ、日本側の代表は台湾総督兼第10方面軍司令官の安藤利吉であった。その署名による正式な降伏を受けて、即日から、台湾と澎湖列島は中国版図に再入され、中国の主権の下に置かれた。午後3時、台北市で民衆祝賀大会が行われ、国民政府は10月25日を台湾光復節と定めた。これにより台湾は50年もの間の日本による植民地から解放された。

【毒ガス弾の戦後処理】

 毒ガスは1915年4月、第一次世界大戦においてドイツ軍が初めて毒ガス兵器を使用した。日本陸軍は、1919年(大正8年)という早い時期から毒ガス弾の研究を開始し、1927年(昭和2年)には飛行機から投下の訓練をしている。国際的には1925年にその使用禁止条約を締結しているが、日本は批准しなかった。

 8月15日、日本の敗戦(無条件降伏)が決定するその少し前から、降伏を察知した日本軍は、日本国内に残存する毒ガスを主に各地の海中や地下にも投棄した。残りの多くは駐留アメリカ軍によって明らかにされたが、戦後に発見された毒ガスによって日本国内で死者も出ている。中国では毒ガス弾が約30万発(充填された毒ガスは約300トンで実際に使用したのは5万3000発)埋め立てられるなどして廃棄されたとされる。例えば中国の黒竜江省チチハルには日本軍の拠点があり、敗戦によって毒ガス缶が飛行場周辺に埋められ、近くの川に投棄された例もある。2003年8月に地下駐車場設置工事の際、深さ5mの地点で5個の毒ガス缶が掘り出された。そこから毒ガスが漏れ出し、住民44人が被害を受け一人が死亡し、生き残った人々は後遺症に苦しんだ。もちろん今だに中国の各所から毒ガスは発見され、日本の研究者がその処理方法を開発して協力もしている。本来そうした毒ガスを埋めた場所など、政府が日本の元将兵達に聞き出して開示すべきであったろうが(そもそもそのような戦時下の書類は「敗戦」となった時点で軍は国内外の軍事関係資料を焼却してしまったという見過ごせない事実がある)、そのような努力をしない政府(だからこそ愚かな戦争を始めた)の代わりに、その穴を埋めるのが日本の民間人の活動なのである。

 2007年に満州のチチハルの被害者が原告になり、国家賠償を求めて提訴したが、2010年には東京地裁で敗訴、さらに控訴も敗訴、最後の最高裁で却下され2012年に敗訴が確定した。その事件後日本政府は調査団を編成し、工事現場から発見されたドラム缶が旧日本軍の遺棄化学兵器のものであるかを調査し、その結果、ドラム缶が旧日本軍の「きい剤補給容器Ⅰ型」と同一であること、内容物は旧日本軍が製造したびらん剤の「きい剤(マスタードとルイサイトの混合物)」と確認した。ただそれだけであって、政府は補償行為をしないで済ませている。

 海外だけのことではなく、米軍による空襲での国内の被害者や親を失った孤児たちに対しても、日本政府はここまで(何度もの裁判を経て)一円の賠償もしていないから、ましてや海外における戦争の「恥(罪)は掻き捨て」である。その意味で恵まれているのは元軍人が受け取る恩給とその遺族(今や親族まで支給されている)だけである。

【終戦時に中国に残っていた日本軍の兵士数】

 日清戦争から始まって丸50年間に及んだ日本の戦争は、最後まで中国を中心としていた。4年前から太平洋戦争に突入し、一挙にアジア全体に戦線を拡大した後でも、終戦時に中国に残っていた兵員数は全体の約60%であった。具体的にはアジア各地全体で残留していた日本軍は陸軍296万3300人/海軍38万1800人=計334万5100人、そのうち中国での満州・台湾を含んだ総数は、陸軍184万7800人/海軍13万3100=計198万900人となっている。

 この事実の持つ側面は日本ではあまり語られることがなく、語られるのは太平洋戦争のことばかりである。ただこの事実において、とりわけ日中戦争の8年間において、どれだけ中国の人々が犠牲になったか、その数が1千万人をはるかに超えることを我々は想起すべきである。一方で太平洋戦争を含めた日本の軍民の犠牲者は、310万人を超える程度である。この大きな差をどうとらえるべきであろうか。

 とりわけ日本の海・陸軍の航空部隊によるその8年間に及ぶ中国各地で展開された空爆回数は1万2592回で、死者33万6千人、負傷者42万6千人とある。米軍の日本本土への空爆は約9ヶ月間で、死者は約40万人以上、そのうち広島・長崎の原爆で約20万人以上、東京大空襲で約10万人以上、その他が10万人である。犠牲者の密度は原爆などにより米軍の空爆のほうが高いが、執拗さと回数でははるかに日本軍のほうが勝る。そしてこの事実も日本ではほとんど語られることがない。中国の人々も自分たちの受けた残虐的な犠牲の数々を受容しているかのようにも見える。しかし一度中国側の記録を読んでいくと、日本軍による信じられないほど数多くの事件(惨劇)が生じていることがわかる。その惨禍が及んでいるのは広大な中国の省や自治区、直轄市などの33区域のうち28省区もある。ここまで筆者が恣意的に織り込んできたそれら惨劇の内容は、爆撃関係以外を含めると全体のごく一部であると認識していただきたい。

 実際に、ここで逐一取り上げることはできないが、中国側の各地の記録では、各市県(県は日本と違い、市の中に含まれる)の記述の最後に、例えば「1941年9月の日本軍の占領から1945年8月の降伏までに、〇〇県が日本軍の暴虐により虐殺された住民の数は」として、少なくとも千人単位以上、多ければ万単位の犠牲者数が挙げられていて(上記の衡陽市参照)それがどの省にあっても数限りなく存在する。それこそ「えー?!」と声を上げるほどである。

 日本では、米軍による爆撃の惨状は、毎年8月を中心として数多くメディアに取り上げられるが、こうした中国で日本軍がもたらした惨状はどうして知られていないのか、日本では残虐事件は南京、無差別空爆は重慶と決まったように論じられるが、それは全体からすればほんの一部の多少目立った例であって、いわゆる南京事件の論争など、我々は無駄だと知らなければならないだろう。筆者はこの『空爆全記録』の稿と同様に『昭和12年』の稿において、7月の盧溝橋事件から12月の南京事件に至るまで、その実態を(主に中国側の資料をもとにして)可能な限り詳細に記述し、さらにさかのぼって昭和6年9月の満州事変以降から12年の7月までの間にも特に満州地区において多数の暴虐(虐殺)事件があることを知り、それらも逐一調べて加筆したが、量も多いのですべてに目を通していただくのは難しいかもしれず、目次だけでも確認していただければおよそのことはわかっていただけるとありがたく思われる。

【日本軍の証拠隠滅作戦と戦後の国際社会への対応】

 これもほんの一例である。

 2013年、中国吉林省公文書館が第二次大戦中の日本軍が残した記録文書を公開した。これら文書資料は主に関東憲兵隊司令部の記録文書や傀儡満州国時代の資料の中にあったもので、そのうち文書が337点、資料が2冊あった。文書には中国の労働者を多数徴用し、奴隷のように働かせ、残虐な扱いをしていたことが記されている。12歳の子供が日本軍によって強制的に徴用され、その後幸運にも逃げ延びていたことを示す記録も見つかった。中には感電死させられた労働者の写真や労働者証もあった。労働者を徴用していた日本軍は76の部隊、8つの憲兵分隊、分遣隊に及び、さらに日本と満州国が管轄する企業は少なくとも63社あり、その中には建設業界を代表する清水建設や南満洲鉄道に所属した昭和製鋼所などがある。

 1943年8月2日、斉斉哈爾(チチハル)憲兵隊が関東憲兵隊司令部に報告した文書「斉憲高第307号」には、チチハル満洲第983部隊が徴用した1300人の労働者の状況が記録されている。 同公文書館歴史公文書管理所の趙玉潔所長は、いずれの文書資料の中にも日本の関東軍各軍隊が労働者の捜査、指名手配、逮捕、死刑を命じた案件が見られるとしている。 文書番号「延憲高第368号」の「五家子軍事施工中の労働者使用状況に関する報告」などは労働者の到着、死亡、病気などの状況を詳しく記録している。資料によると、逃亡や武装暴動などの反抗活動を行ったことで関東憲兵隊によって氏名が登録された「特殊労働者」は221人、一般労働者は622人だった。関東軍は華北に駐屯する日本軍から移管された捕虜や投降した兵士を「特種労働者」と称して軍の労働者として使った。華北・蒙疆地区で捕らえられた捕虜や投降兵は日本軍が開設した訓練機関で「訓練」を受けた後、満州国が管理する労働者として引き渡され「輔導労働者」と呼ばれた。『関東軍特殊労働者処理規定』では日本軍の極秘軍事施設建設の中で鉄条網による隔離や拘禁、監視などの極めて残酷な管理拘束措置を取っていたとしている。

 同公文書館に保存されている文書は10万巻(冊)余りに上り、その中で最も多いのは日本軍が1931年から45年まで中国東北部(満州)を支配した時代の記録である。日本が降伏した後、日本軍はこれら文書を数日間にわたり焼却したが、すべて焼却するのには間に合わず、残った文書は土に埋めた。1950年、吉林省の建設工事の際にこれら文書が見つかった。

 筆者注:「日本軍はこれら文書を焼却した」ことについては、海外の戦地においてばかりではなく日本全国において展開され、各地方の役場でも出征記録までもが焼却された。残されたのは20数カ所の村だけであり、その担当者の恣意で家に持ち帰ったのである。これにより、日本全国で戦死者の把握が困難となり、筆者もまず東京都の市町村において出征者と戦死者の数を把握しようとしたが、ほとんど出てこなかった。例外として日野市は戦後におそらく戸別訪問を行なったのであろう、海外で戦死した場所も含めてきちんと調べて発表している。この内外における焼却行為は、少なくとも日中戦争開始から太平洋戦争に至る8年間のこの戦争がまるでなかったようにするものであり、戦争終盤において若き命を散らしていった特攻隊員たちもこれでは浮かばれない。日本という国は恥というものを知らないのであろう。そうして日本は戦後のドイツが為したように隣国などに過ちを謝罪することなしに今に至っている。「なかった」ことにしたから、謝罪もできないのである。日本はこの一点において、つまり国際社会の中で信用という意味において、いまだにその地位を築けていない。以下の記事を見てもドイツとの対比が明らかである。

 2015年3月9日、ドイツのメルケル首相が来日し、東京都内で行った講演や会見の中で歴史認識に触れ、「過去の総括は、和解をするための前提になっている。和解の仕事があったからこそ、EUを作ることができた」と述べた。またメルケル首相は、ヴァイツゼッカー独大統領(当時)の1985年のスピーチ「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」を引用し、ドイツは戦後かつての敵国とどのようにして和解することができたのかとの質問に対して「近隣諸国の温情なしには、不可能だった。ただ、ドイツ側も過去ときちんと向き合った」と述べた。

 一方日本では、2014年4月の参院予算委員会で安倍首相が、戦前の日本による「植民地支配と侵略」について謝罪した村山富市首相の「談話」を否定し、「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」というような発言をした。また(メルケル発言の数日前)、自民党の「党三役」の一人である稲田朋美政調会長が、太平洋戦争などをめぐり日本の指導者が責任に問われた東京裁判について「事後法(での裁き)だ。法律的には問題がある」との認識を示した。(ロイター通信の3/9記事より)

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