東京都三鷹市:旧北多摩郡三鷹町
三鷹市の空爆被害
〇 空爆日:19年(1944)12月27日、20年 (1945)2月17日・19日、 4月2・4日・7日・19日、 5月25日、7月28日、8月2日(全10回)
〇 被害状況:死者約40人、負傷者約20人以上、被災者不明、焼失等家屋約150戸
(多摩地区は被害が一括りにされ、個別の資料が少なく、数が正確につかめない)
〇 戦死者:654人
<空爆被害の詳細>
19年(1944)12月27日昼:B29約250機が都区西部から多摩地区に広範囲に来襲、武蔵野の中島飛行機が集中爆撃を受け、調布飛行場から出撃した自軍機一機がB29の最後尾に突っ込み、三鷹の畑に墜落したが、B29は東京湾に墜落した。
20年 (1945) 2月17日:太平洋上の空母による艦載機・グラマン戦闘機が多摩地区や板橋、大田区その他京浜地区に合わせてなんと600機が分散して来襲、武蔵野の中島飛行機や立川の立川飛行機、日立航空機近辺を重爆撃していった。三鷹駅車庫、深大寺・北野、大沢に爆弾投下と機銃掃射があり、それに対して大沢にあった高射砲部隊が必死で応戦したが、部隊員の死者4、重傷6人となった。米軍機が去った後、周囲や家の中にも銃弾が転がっていた。またこの日、防空壕を中島の三鷹研究所に落とされた爆弾が一つの防空壕を直撃、4人の工員が死亡した。
2月19日:爆撃機B29が約130機、都区の北東地区と多摩地区に来襲、中央航空研究所の工場三棟が破壊され重傷6人、三鷹は新川の高橋町長宅が全壊、数件の家が全焼。町長の家族は防空壕で一時生き埋めとなったが、隙間から這い出して無事だった。またある一家は土蔵に避難したところに爆弾の直撃を受け、祖父と孫を除いて全員死亡したという。野崎では全焼5戸、半焼9戸であった。
(3月10日:東京大空襲、墨田区など下町三区で多大な死者が生じる。その後焼け出された人たちが縁故を頼って三鷹などにも次々とやってきた)
4月2日未明:板橋から多摩地域へB29が115機来襲、三鷹は境浄水場と下連雀二丁目に爆弾51個が落とされ、死者28人とされ、その多くが自分達が作った防空壕が破壊され、あるいは近くの爆弾による土砂で防空壕内で生き埋めになったためであり、そのなかには3月10日の大空襲で亀戸から焼け出されて逃げてきた人、一族10人が生き埋めになり、主人一人が守備隊で不在のため生き残り、呆然としている姿もあった。他に負傷者2人、家屋の全壊等24戸。低空で照明弾と時限爆弾を使用するという新しい戦術であり、5、6個が落とされ、時限爆弾は昼までに爆発し、何人かが亡くなったようである。
4月4日:都区南西域と多摩地区に110機が来襲、地区全体で死者147人、負傷者100以上、被災者1100人、焼失等家屋538戸とあるが三鷹の詳細は不明。
4月7日:B29・103機が中島飛行機へ。ただ三鷹は中仙川に多少の被害のみ。なお調布飛行場を発進した戦闘機飛燕の体当たり攻撃により、B29一機を撃墜し、杉並の久我山に墜落、米軍搭乗員は11名全員死亡したが、三鷹からも墜落現場への見学者が押しかけた。飛燕戦闘員は埼玉県川口市付近に墜落死。もう一機の飛燕も体当たりし、B29を撃墜、それは国領町へ墜落、搭乗員10名が死亡した。この飛燕戦闘員はパラシュート降下して生還。
4月19日:主に多摩地区にB29が3機と戦闘機P51が20機来襲、各地の工場が襲われた。P51は工場などの屋根スレスレにやってきて逃げる人々を機銃掃射で襲った。三鷹は中仙川、正田飛行機が空爆され、民家一戸が曳光弾により全焼。
5月25−26日:深夜から翌未明にかけてB29が三鷹の中島飛行機研究所を爆撃、多数の焼夷弾が落とされ、野崎で全半焼14戸、新川で全焼54戸。死傷者不明だが多摩地区で死者2、負傷7人となっている。(山の手大空襲と呼ぶが、渋谷、新宿、港、目黒区等参照)
7月28日:B29一機とP51約10機が多摩地区に来襲、死者4(内一名は西秋留野で疎開児童が機銃掃射で狙われ殺される)、負傷者21人、民家の被害5戸程度、三鷹の死傷者はない模様。
8月2日未明:八王子大空襲の日であるが、新川にも爆弾が落とされた。被害軽微。
戦時下の出来事
軍需工場地帯へ
多摩地区(武蔵野から立川、八王子まで)はほとんど森林と農村の丘陵地帯であった。農村といってもこの地は水田による米作よりも畑作が多く麦作と野菜作りが主要であった。昭和6年(1931)年に満州事変が起こり、軍需産業拡大が打ち出されると、この広大な丘陵地帯には昭和10年(1935)前後から飛行機会社の他、戦車、軍用トラック、銃火器などの工場が新規に設立、あるいは広い敷地を得て移転して来ており、一大軍需産業地帯となっていく。三鷹にも昭和8年に下連雀に正田飛行機、11年(1936)に三鷹航空工業が設立され、12年(1937)には日本無線が移転してきた。その後は加速度的に工場が立ち並び、上連雀も含めて電気機器や銃器製作所などの軍需支援工場が集積し、中でも中島飛行機は16年(1941)に三鷹研究所を設立、19年までに70社以上の工場が作られた。11年(1936)には三鷹村として人口8千人であったが、15年(1940)には町制となり、19年(1944)の人口は3.5万人、翌年には4万人を超えた。
12年(1937):7月の盧溝橋事件を経て、8月に日中戦争が勃発。三鷹市の市史には「8月:第一師団、満洲出動/9月:愛国婦人会三鷹村分会設立、井の頭大盛寺において武運長久祈禱法要を挙行/10月:飛行機献納動員実施(当時は民間で飛行機の資金を集め、軍に献納する運動が盛んに行われた)/12月:三鷹村国民精神総動員実行委員会結成」等とあり、軍事体制が強化されていることが伺える。
13年(1938):4月に国家総動員法が公布され、戦時体制が加速された。隣の武蔵野町にアジア最大の航空機製造会社中島飛行機のエンジン生産工場が開設され、この地区の工場集積は加速された。そのために人口も増え、三鷹にも19年1月までに第三、第四小学校が開校し、それでも間に合わなかった。また高台の田園地帯であった新川が国立中央航空研究所(戦闘機用)の建設予定地として広い範囲で農家や地主の土地が強制収容されることになり、反対運動も起きたが、抵抗はできなかった。畑のなくなった人は研究所で雇われた。そのうち研究所は塀で囲われ、子供たちはこの外をまわって時間をかけて学校に行かねばならなかった。敗戦後に米国占領軍はこの研究所の設備をほとんど破壊した。
14年(1939):国民徴用令公布(民間人を強制的に軍需産業の仕事に向ける)。新川に中央航空研究所が開設、調布飛行場(正門などは三鷹のうち)の建設開始(完成後は主に戦闘飛行機のテスト・訓練用として使われた)、これらにより多数の労働者が必要となり、工事人夫の主体は全国から集められた刑務所受刑者や朝鮮人労働者であった。各町内に防空対策の警防団が設置される。物資不足が目立つようになり、衣食住あらゆるものの節約と貯蓄運動が実施される。
15年(1940) :三鷹が町制となる。戦時体制下の各政党を大同団結させるための大政翼賛会が発足、翌年、三鷹町支部が結成された。警防団指示による防空訓練が町内や学校でも度々行われる。
16年(1941):中島飛行機は三鷹研究所として大沢の地に、武蔵野工場の3倍の敷地62万坪(約200万㎡強)もの広大な土地を、300人を超える農家や地主から強制的に買い上げた。反対して動こうとしなかった農家もあったが、周囲が次々と買収されて抵抗できなかった。同時に同じ大沢に高射砲陣地ができることになり、これも強制的農民から強制的に買い上げとなったが、陸軍の買い上げの値段は中島飛行機のそれの1/6であったという。7月、大政翼賛会三鷹支部を結成。三鷹研究所の建設は12月8日が地鎮祭・鍬入れ式の日であったが、その日に真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が勃発した。なおこの三鷹研究所ではB29のエンジン4発を超える6発のエンジンを持つ大型の爆撃機の開発を進めており、アメリカ本土を爆撃する計画もあったが、物資や人員不足もあって計画は頓挫し、戦争終盤では特攻機の製造に傾いていた。この年より従来の小学校は国民学校とされた(皇国の道に則って国民の基礎的錬成を目的とする)。
17年(1942):三鷹町翼賛壮年団結成。新たな工場建設が続く。4月に米軍による日本への初空襲。6月、日本海軍はミッドウェー海戦に敗北。
18年(1943):食料を含めた物資不足が深刻になり、すべてのものが統制配給制となる。9月、「各国民学校で町葬とり行われる」とあるが、この頃までは次々と外地で戦死した人たちを公けに弔う余裕がまだあった。戦局は明らかに悪化しつつあり、政府は兵力不足を補うため、これまで徴兵猶予していた大学生特に文科系を繰り上げ卒業させ、徴兵し出征させることを決定、10/21に神宮で「出陣学徒壮行会」を大々的に行った。彼らの戦死率は高く、特攻隊も彼らの役割であった。戦争終盤には戦死者の骨も回収されず、家族に返された白木の箱の中には石ころや死亡通知の紙一枚が入っているだけであった。
19年(1944):11月24日、三鷹には被害がなかったが、米軍は武蔵野の中島飛行機工場を中心に本格的爆撃を開始。12月、「井の頭公園池畔の杉並木立伐採」とある。これは木材不足のため、明治時代は宮内省御用林として存在したこの公園の池畔の杉1万5000本を伐採し軍に拠出した。この時期は日本各地で木材はおろか寺院の鐘や家庭の中の金属類の拠出も強要された。この年もまだ三鷹には軍需関連の工場が新たに作られていた。
またこの年の9月以降には学生・生徒の14歳以上は授業の大半が停止となり、ほとんど中島飛行機を中心とする周辺の工場へ勤労動員に回されたが、翌20年3月からは12歳以上、つまり小学生以外の授業は完全停止され、通年動員となった。女生徒も旋盤旋盤を扱い、指を切り落とした場合もあった。この年の戦況としては、日本軍は7月のサイパン島陥落から次々と南洋諸島占領地を失い、そこを米軍は最新鋭超大型爆撃機B29の基地とし、11月下旬から日本本土への空爆を開始、最初の対象は武蔵野の中島飛行機工場であった。これ以降続く空襲により、勤労動員する学生・生徒の中にも死者が出た。
20年(1945):米軍による打ち続く空襲対策のため警防団の活動が増え、三鷹では8月までに警備出勤人数、延3万2776名とある。空襲激化の3月下旬、政府は空襲被害の復旧などに全国民を動員するための国民義勇隊の創設を決めた。これは同時に郷土防衛隊組織として本土決戦に備えるものとされ、三鷹市も5月末に組織を編成した。隣組が班となり、その上に分隊、その上の町会を小隊とし、さらに中隊、三鷹町全体を大隊にするという軍隊的組織であった。この年3月末には硫黄島で日本軍は玉砕し陥落、続いて沖縄が6月に陥落、すでに敗戦は必至の状況になっていたが、日本の軍政府(大本営)は、本土決戦という国民の命を道具とする強気の戦術に固執し、「一億玉砕」(当時の日本の人口は約7千万人であったが、植民地であった台湾や朝鮮も含めた言い方)という言葉が発せられるようになった。米国は7月16日に原子爆弾の開発を終え実験に成功し、26日に米国を中心とした連合軍は日本に対してポツダム宣言を発し、全面降伏を求めた。しかし大本営の意見は統一できず、翌日完全に軍部の御用機関となっていた新聞各社は「笑止!聖戦飽くまで完遂!」などと報道した。これが連合軍には拒否とうつり、8月6日・9日の広島・長崎への原爆投下に直結し、8月15日に日本は敗戦を迎えた。
三鷹戦時下の体験
以下は三鷹市の『いま語り伝えたいこと』(三鷹戦時下の記録編集委員会編集:昭和61年)から抽出したものである。
<出征>
昭和12年に日中戦争が始まると、三鷹村にも国から動員令が届き、それにしたがって兵事課が召集令状(赤紙)を発行し、その日のうちに(深夜になっても)各家に配達した。三鷹村の場合、対象はほぼ農家の若い働き手であった。召集の対象はそれまで徴兵制度により徴兵検査を受けて合格していた者であり、この時代、出征は名誉なこととされ、家の玄関には「祝、出征、何々君」と幟が立てられ、また日の丸の旗に武運長久と書いた周りに寄せ書きをして出征者に持たせ、村をあげて神社で武運長久祈願をして万歳三唱をしたのちに、愛国婦人会や青年団や子供達が日の丸の小旗を手にして軍歌を歌いながら三鷹や武蔵境の駅まで見送って行った。出征者が多い時には村の学校で歓送式を行った。なお、召集令状から入営までの期限は一週間しかなく、その間に身辺整理をするが、仮にも出征をためらうような素振りを見せれば、非国民として村八分とされたから否応なしであった。また本来、農家では出征は主な働き手を失うことであったが、そのような配慮は一切なかった。その代わり、青年団などがその農家に出向いて勤労奉仕をした。しかし食糧不足は次第に深刻になった。
そのうち戦死者が増えてきて、その公報の配達も兵事課の役目だった。その役目も気の重い仕事で、それを受け取る妻や母親は、その場に倒れんばかりの姿も見せた。村では戦死者を英霊として出迎え、小学校などの校庭で、一度に5、6人の戦死者に対し葬儀を厳粛に行った。ただ焼香の際、結婚して何年も経たない母親が、やっと歩けるようになった小さな子供に焼香をそえさせてやる姿には涙なしに見ていられなかったと当時の村長は述懐している。戦争終盤になると戦死者も増え続け、その知らせもすぐには届かず、町葬は行われなくなるが、そもそも太平洋戦争を経て昭和18年の学徒出陣を打ち出す頃から、徴兵年齢の上下幅が拡大され、壮年男性も招集されるようになり、その頃には歓送式も行われず、応召者は夜密かに出かけるようになっていた。
<兄の戦死>
戦時中、深大寺新田の親戚の家で暮らしていた鈴木ヒロさんの話である(終戦時23歳)。
—— 四人いた男の従兄弟たちは次々に応召して家に残ったのは女二人だけになった。私のたった一人の兄は、役場に勤めながら学校に行っていたが、昭和15年、20歳の時に徴兵検査で腎臓のために不合格になった。友人たちが元気に出征していくのに、自分だけがお国のために働けないのは情けないと、食事に気をつけながら再起をはかった。そうして体調を整え、次の検査には合格して16年に入隊した。訓練を終えて満州のハルピンに行き、そこから中支(中国中部)に転戦、19年に戦死した。何も腎臓を一生懸命治して兵隊に行かなくてもよかったのにと悔やまれる。
隣の家の左官屋さんにも19年に召集令状が来て、奥さんが心配そうに見送ったが、一週間もしないうちに電報が来た。奥さんが驚いてその電報を読んでくれとのこと、それには「門司沖で戦死」と書いてあった。出航間もなく輸送船が米軍の魚雷で撃沈されたという。奥さんの号泣された姿は今も忘れられない。
<戦時下の生活>
同じく鈴木ヒロさんの話である。
—— 国防婦人会や女子青年団は防空演習でよく今の日産厚生園や第三小学校に集められ、整列、番号、行進等をさせられた。モンペに白鉢巻姿でオイッチニ、オイッチニと歩いた。その後は火ハタキの使い方、バケツリレーの消火訓練をして解散した。
19年(敗戦の前年)になると負け戦が続き、食べ物もそこをつき、今でも思い出すと気持ちの悪くなるネチネチした甘ったるい小麦粉、スイトンにしてもうどんにしても食べられたものではなかった。魚の配給も嫌な臭いのするもので、みんな「欲しがりません、勝つまでは」と一生懸命だった。
戦争終盤になるといよいよ食料もなくなり、配給のイモもなくなり、誰もがお腹を空かせていた。ジャガイモや麦は上等で、米は宝物扱いだった。闇で買うにしても衣類等の贈り物を見せないと売ってくれないので、そのうちタンスが空になった。農家でなくても少しの空き地があればカボチャやイモを作った。
当時の家はトタン屋根が多かった。今の日赤のところが高射砲陣地で、空襲があると高射砲の砲弾の破片が落ちて屋根に穴があいた。そこで修理に頼みにいくと、職人さんはまず、食料は何をくれるかと聞いてくる。ジャガイモと麦をどれだけ、費用はいくらと、ほぼ食料次第だった。職人さんも材料のブリキを仕入れるのに食料が交換条件であった。
毎日のように空襲警報があったが、後半ではB29より艦載機が集団で襲ってきて低空で機銃掃射をするから恐かった。8月に戦争が終わり、アメリカ軍が進駐してきた。天文台通りは爆撃で穴ぼこだらけだったが、それを今まで見たこともない機械を使って二日くらいで立派な道路を作ってしまった。日本が戦争に勝てるわけがないと思った。
<長久寺の出来事>
明治44年(1911)、東京天文台が建設される時にその計画地にあたる墓地を移転、改葬した。そして昭和14年(1939)に調布飛行場が建設されることになり、再度墓地を移転、改葬することになった。さらに16年(1941)、大沢に中島飛行機工場が建設されることになり、長久寺の鎮守である青龍権現二塚神社が移転を余儀なくされた。なお、調布飛行場と中島飛行機工場が建設される時には膨大な土地が買い上げられ、農家の人々は大きな打撃を受けた。
その16年(1941)末、太平洋戦争が開戦されると、物資不足が顕著となり、国から金属類の供出が求められるようになった。それは神社仏閣にも及び、仏具だけでなく、梵鐘も供出が求められた。この梵鐘は天保11年(1840)に作られたものであったが、「国難に殉ぜんと」お国のために応召することになった。17年末、鐘楼の周辺には檀家や近所の人が集まり、式典を挙行、「直ちに破邪顕正の剣となり弾丸となり又武器となりて戦場に活躍せんとす」として送り出した。しかしその後町役場に保管中に終戦となって戦後間もなく返還された。
戦死者が多くなり、法要の際には卒塔婆が建てられるが、そのための木材が不足し、やむをえず本堂の裏にある竹林から竹を切って加工し、卒塔婆に代えた。それは終戦後もしばらく続いた。また戦争末期は寺の本堂には多くの兵隊が駐留してきた。その時には上官が若い兵隊をぶん殴る光景がしばしば見られた。
終戦32年後の3月10日、ある家の33回忌法要が長久寺で営まれた。新しい石碑の墓誌には父母、弟妹三人計五人の戒名が刻まれていて、死亡年月日は昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲の日であった。この時、大沢の親戚に疎開していた小学校3、4年生の長男長女を除いて一家五人が劫火の中で一度に亡くなったのであった。(以上は当時子供であった長久寺の住職の話から)
<供出>
戦時下では生活必需品が食料も含めてすべて配給制となっていたが、一方で物資不足による物の国への供出が求められた。公共の橋の欄干や門扉の金属類、都市区では家庭の金属や貴金属の供出が多かったが、多摩地区は農場・畑が多く、ジャガイモ、サツマイモ、麦などが割り当てられた。不足すれば近隣から借りて出すこともあった。農家だからといって自分たちの食べ物を十分に確保できるわけではなく、そうした中で高射砲の兵隊たちが腹を空かせて食べ物を乞いにきたこともあったし、東北などから工場に徴用された15、6歳の子たちも食べ物を売ってくれときたこともあった。そうした供出はしても、食料の配給は少なく、食べるものはほんの少しの米、大豆、豆かす、とうもろこしの粉、ぬか、ふすま、さつまいもの種芋、ツル、スケソウダラ、ダイコンの葉、雑炊やお粥などであった。すべては「勝つため」であり、大半の人は勝つと信じて辛抱した。
そのほか雑木林から木材、馬の飼料用の干草などもあった。井の頭公園の杉林からは棺桶用の杉が伐採され、戦争終盤には松林から松の根を切り出し、松根油というものを作り、それを不足するガソリンの代用とした。とりわけ多摩地区には松林が多く、その供出が各地区に割り当てられた。ただ松の根200個で飛行機一機を1時間飛ばせるレベルだったという。この作業をやらされる人の中には、こんなことをやるようでは日本は負けると密かに噂しあった。これは日本中で行われ、その作業には子供まで駆り出された。他に三鷹には屋敷林として欅も多く、艦船の骨組みに適しているとしてこれも供出の割り当てがきたが、役場の職員がある家に頼みに行くと、「大事な息子を戦死させている上に(先祖代々の)木を切とは何事だ」と怒る農家もいた。
<学校日誌など>
昭和20年度からは今の中学校以上の生徒はすべて勤労動員が課され、国民学校(小学校)の授業だけが続けられた。4月から8月までの三鷹第二国民学校の学校日誌を見ると、毎日のように空襲の警戒警報があり、その都度授業が停止され帰宅することが多くなって、まともに授業は行われていない。その中でも4月には防空壕掘り作業が行われている。また兵隊が学校で訓練する姿もあり、それで授業ができない日もあった。5月25日の空襲で焼夷弾が学校にも落とされたが、すぐに消し止められた。5月と6月に6年生の滑空訓練というのがあり、これはグライダーの練習と思われる。6月から松の根の運搬があるが、松根油のために製造所に運ばれたものであるが、その掘り出し作業は職員がやったとある。またこの年だけでなく、勤労奉仕は時々行われている。7月下旬からは夏休みであるが、「夏季休業廃止」とあり、戦争終盤の非常事態と、授業が遅れていたことがあるだろう。8月、空襲警報が続く中、勤労奉仕作業もあった。15日、授業は休業、警報は正午まで続き、正午、天皇の終戦の詔勅。16日、詔勅の訓話。31日、一学期の終業式。
次は明星学園の初等部の日誌である。
17年(1942)1月1日、戦捷の輝かしい元旦を迎えた。奉祝劇の会開催。/1月9日、部隊編成、非常時の徒歩帰宅演習。/1月26日、祈願と感謝の巡拝を行う。/2月2日、昨日の大雪の後で朝からドンドン山に全児童行軍、雪合戦を行う。/2月18日、大東亜戦争第一次の奉祝式挙行。/2月21日、慰問袋作り午後行う。/2月23日、6年生、自転車隊で慰問袋を海軍省に献納。/3月12日、ジャワ島蘭軍無条件降伏につき第二次奉祝日。式後、村の神明様に旗行進を行う。
19年11月24付で初等部から保護者へのお知らせがある。それは「非常時対策—防空壕・非常用食料—」として、学校における防空壕造りのために木材などの材料の供出と非常用食料の供出(米二合、豆一合、うどん粉茶碗一杯)のお願いが書かれている。それもおそらく一般家庭は配給の中からである。別途、防空壕造りにあたっては一週間、1−4年生は午後休みとし、職員全員と5、6年生が壕造りにあたるとある。この11月24日は、米軍の本格的空襲開始の日であった。
以下は中等部の日誌から。(勤労動員の日誌と混成)
19年5月25日、 五年生25名(当時の中学は五年制)田無の豊和重工東京工場へ学徒動員として出動、入所式や工場案内を経て翌日より勤務。主な仕事はヤスリ仕上げ、フライス盤、のこ盤、研磨盤、材料運搬等。
7月21日、3・4年生の豊和重工への入所式。7月22日、3・4年生の付き添いの教師に召集令状。午後に帰宅される。
20年2月13日、三鷹航空の学校工場として作業開始。/2月16−17日、中島製作所などに空襲、物凄し(2月は空襲に関する記事が半分)。
3月23日、一教師に召集令来り、夜出発。/3月24日、豊和重工(中学部生徒の勤労動員先)の学校への配置転換につき工場長へ談じ込む。(3月も空襲の記事が続く)
4月7日、午前、B29を主隊としてP51初見参。百機内外が明星学園の上空を大編隊にて飛行、P51の機銃掃射、新校舎に当たる。/4月29日、天長節(天皇誕生日)儀式挙行。勤労動員に行っている学徒が来校、全生徒が顔を合わす。
5月26日、(昨夜からの空襲で)明星学園の上空を通過せるもの全部で400機位。広範囲に焼夷弾による火災発生。荻窪駅以東中央線不通。豊和重工本館焼失、停電のため作業中止、動員学徒帰宅。6月2日、電気が回復せず、学徒は
7月1日、特別幹部候補生・少年航空兵・幼年学校志願者の書類作成(注:この戦争終盤においても少年たちに戦場へ向かわせる準備をしているということである)。転入転出生徒の取扱、多忙を極む。/7月18日、学校農場のジャガイモ盗まれる。残りを収穫して生徒に分配。翌日も人参収穫し、生徒に分配。
8月4日、生徒全員を学校に召集し、軍に供出する銃器手入れと員数調べ(注:戦時下において、学校にも戦闘訓練用の銃器が配備されていて、軍は不足している銃器の補充のため、それらの回収を図っていたということである)/8月7日、卒業生の一人が昨朝、厚木の望楼城でP51編隊の機銃掃射で戦死。/8月12日、銃器買上、供出検査官来校。14日、2年生以上が登校し、部隊へ銃器運搬。
8月15日、昨夜からラジオ放送がなく、不気味。早朝から空襲警報。正午に天皇の御放送を謹聴、聖断下る。屈辱、終に大日本帝国は戦いに敗れたり。/8月16日、勤労動員の学徒家庭に待機。
明星学園の女生徒は、千人針といって出征兵士の安全祈願のために一枚の布に赤い糸を縫い付けて千人分の結び目を作るもので、それを慰問袋に入れてハガキと一緒に戦場の兵士に送る作業があった。衣類も布が不足し、おしゃれ着などまったく作れず、普段は母親の着物を仕立て直したモンペなどはいていた。石鹸も配給で、洗濯にも困った。授業中に空襲警報があると近くの防空壕に避難し、授業にならない日が多かった。特に戦後の食糧不足は一層深刻で、学校に弁当を持ってこれず、昼には教室を出て過ごす生徒もいた。
<調布飛行場と高射砲台と掩体壕>
調布飛行場は昭和14年(1939)に調布町・三鷹町・多磨町にまたがる広大な敷地(畑・家屋・寺など)を強制的に買収して造られた。16年12月の太平洋戦争開戦後には陸軍が利用することになり、帝都防衛のため、戦闘機「飛燕」を中心とした陸軍飛行部隊が配置された。戦況が悪化すると、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練と九州知覧基地への中継地になった。
昭和18年(1943)9月に調布飛行場と周辺の軍需工場を防衛する目的で大沢に6門の高射砲台が設置され、陸軍の高射砲部隊が守備に着いた。この用地も強制買収であり、そうでない農家の屋敷林も砲弾の邪魔になると無断で切られた。20年(1945) 2月17日、飛来してきた大量の米軍艦載機に対し高射砲で応戦したが機銃掃射により 4名の隊員が戦死した。日時は定かでないが、この高射砲で一度だけB29を打ち落としたという。しかし4月末には丸太で作った偽の高射砲を据え、一部は日本海側に移されたという。現在、砲台跡地は椎の実子供の家となっており、園の創設者の意志もあって4門の砲座が園内に保存されている。
また飛行場の戦闘機を敵から隠すために掩体壕(格納施設)が作られた。昭和19年(1944)頃からコンクリート製、土塁製、あるいは竹製の掩体壕が一帯に約60基造られた。空襲になると人間が引っ張って掩体壕に入れた。飛行場も高射砲台も掩体壕もそれらの土地はすべて農家の土地を強制的に買い上げたものであったが、近くに家のあったある農家の人は、危険を感じて丸太などを使って頑丈な防空壕を作った。ところが空襲になると飛行場の兵隊たちが、警報の鳴る前に(先に空襲の情報が入るので)この壕に逃げ込んできた。しかし自分たちは警防団の役割があるので消防器具などを取りに走った。兵隊たちは申し訳なさそうにしていたが「こんな状態では戦争に負けるなと言っていたら、やはり負けてしまった」と語っている(海老沢氏の話から)。ちなみに本土防衛のための兵隊たちが、女子子供を押し退けて自分たちが先に防空壕に入るという姿は、各地で散見する。
さらに電波探知機というものがあった。これは高射砲と連動するものであった。18年の秋、兵隊が突然やってきて、住まいの南側に杭を打ち込み、今から軍で使用するから立ち入り禁止にすると言い、一町歩の畑全部を強制借上げで取られてしまった。兵隊たちが畑を堀に掘り、大きな穴を作り、残土を穴の周りに盛り上げた。穴の中央に線路を敷き、幅が五間くらいの建物に車輪をつけ、その上に乗せた。これが今のレーダーであった。この機械の南側には半地下の兵舎を三棟作った。これで畑は穴だらけになった。戦後、その場所はそのまま返され、毎日家族で土を運び、穴を埋めたが、丸四年かかった。(伯母氏の話から)
これらのほかに、今のなんじゃもんじゃの森(野崎にあるこども林間研修広場)には本土決戦用の戦車を隠す大きな壕が三つ掘られていた。武蔵野の森公園には、「大沢1号」「大沢2号」と名付けられた飛行機用の掩体壕が2基残っている。
<調布飛行場と特攻隊>
20年(1945)2月16−17日には調布飛行場付近にも米軍艦載機が大挙して押し寄せ、これに飛行場から飛び立った戦闘機が迎撃、さらに高射砲からも激しく砲撃したが、ともに戦果は少なく、被害は多く、周辺の住民を震え上がらせたことのほうが大きかった。この時期を境にして、防衛司令部は調布飛行場の戦闘機は、大型爆撃機B29の来襲の時のみ邀撃し、艦載機来襲に対してはそれを温存するという作戦にかえた。このころすでに多くの戦闘機を特攻隊に向けるという方針が打ち出され、特攻作戦は前年11月のフィリピン戦やこの後の3月からの沖縄戦でも実施された。したがってこの時期から調布飛行場の戦闘機は掩体壕や近くの林の中に隠され、表には模造飛行機が20−30機並べられた。住民からは「調布の飛行機は空襲警報が鳴ると姿を消す、何とだらしない」と非難された。
なお、前年6月の「サイパンの時、二個ずつ爆弾をつんで4、50機の飛行機が行ったけどぜんぜん帰って来なかった」という。
大沢の高射砲陣地で通信兵として服務していた本間 紅氏の記述からである。
—— 米軍による本格的空襲が始まるころ、調布飛行場から特攻機が出撃するようになった。私は丘の上の施設から対空用眼鏡で飛行場の様子を見ることができた。この飛行場はもともと米軍の攻撃に対して首都防衛のために戦闘機を配備していたが、南方での戦闘が激化するに従い、その数は減少し、そこへ型の変わった戦闘機(おそらく練習機)が数機ずつ飛んで来ては数日のうちに南の空に飛び立って行き、再び戻って来ないことが度々あった。そのことは、航空無線を傍受していると、暗号などで九州方面の飛行場を基地として南方へ特攻機として出撃していったものと思われた。
ある朝、飛行場脇の金網の張られた高い柵にしがみついている数人の人影を見つけた。眼鏡で覗くと防空頭巾と風呂敷包みを背負った老夫婦と赤子を背負い手提げ袋をもった若い婦人とが、一心に滑走路の北端に整列している三機の飛行機を見つめている様子がわかった。いずれの機も補助タンクと魚雷型の爆弾を胴体につけていた。やがて機は離陸して飛行場上空を二周すると南の方向に飛び去って行った。その時老夫婦は手を振り、若い婦人は白いハンカチを高々と振っていた。おそらく最後の面会に来て帰るに帰れず見送りになったのであろうと思われた。私たちはこの光景に終日心が重かった。その後も同じような光景が何回かあったが、眼鏡を覗く気にはなれなかった。
ある日、公用で外出した私は飛行場外柵の方から出て来た老婦人と調布駅まで一緒に歩いて行った。その婦人は私に次のような話をしてくれた。
「昨日午後一時から息子に面会できるとの通知があったので仙台から夢中で出てきました。息子は一人子で私一人で育て上げ大学まで進み、あと一年で卒業という時、学徒動員で航空学校へ入りました。日焼けした丈夫そうな息子の顔を一年振りで見ることができました。会うまでは顔が見たい声が聞きたいの一心でしたが、会った瞬間から大きな心配が出てきました。息子の態度に親の直感で何か異様なものを感じたのです。一時間の面会を終わって帰る時、息子が学生時代から大事にしていた万年筆を無言で私によこしたのです。私も無意識のうちに握りしめていた白いハンカチを息子に渡したのでした。息子はそれを小さくたたんで内ポケットにしまい、挙手の礼をして足早に兵舎の方へ行ってしまいました。
面会人は他に五組ありました。門を出たところで挨拶しながらいろいろとお話ししました。その中の父親らしい人が『明日どこかへ飛び立つらしいので、私たち夫婦は近くの農家へ泊めてもらい息子を見送ってから山梨へ帰ります』とのことでしたので、私も無理に頼んで農家へ泊めていただき、今朝は夜明け前から外柵のところで三時間も待っていました。霜が降りてかなり厳しかったです。ちょうど九時に三機が次々と飛び立ち、上空を二周すると翼を振りながら南の空に飛んで行ってしまいました。軍国の母なるが故に涙一つ見せずに見送ってきました。明日から何をたよりに生きたらよいのかわかりません。家へ帰るまでは決して泣きません。家へ帰ったら独りで思い切り泣かさせていただきます」。
戦後の出来事
<行路病者>
『いま語り伝えたいこと』に掲載されている当時町役場勤務の石田太郎の記述からである。
—— この無意味な戦いも8月15日に終結したが、こののち行路病者が続発、空襲により焼け出され離散した人々が近くに頼る者なくさ迷ううちに餓死するもの、死に至らぬも餓死寸前の男女子供が毎日のように三鷹町内で歩けなくなって路上に倒れ、またそのまま死亡する等で、これらの人々を助け処理するために三鷹町でも夜間(当直)の職員男子二人であったものを8−10人に増員、夜間リヤカーにて交代で行路病者の救助に従事した。一夜で多い時には3−4人の病者あるいは死亡者がおり、役場の収容室に入りきれぬ日もあった。生きている行路病者には食事を与え、医薬を与えて朝を待ち、保健所や警察その他身寄りを探す等の処置を行った。こうした事柄は昭和21年(1946)秋まで続き、23年(1948)ごろにはどうにかなくなった。今考えると一時の悪夢の如くに思える。(注:このような事例は数々の証言の中でも滅多に見れないが、むしろ各所に発生していたのではないかと思われる)
<中島飛行機三鷹研究所のその後>
この研究所では米軍のB29の能力をはるかに超える6発のエンジンを持つ超大型爆撃機や、当時では最新鋭のジェット戦闘機が開発されていた。この超大型爆撃機は米国本土襲撃を可能とするものであったが、三千機作る予定であったという。試作機は富岳と名付けられていたが、いずれも空襲激化と燃料の欠乏により中止とされ、戦闘機(特攻用)の増産に切り替えられた。敗戦後、占領軍GHQは日本の飛行機会社を解体させ製造を禁止した。これにより日本の飛行機産業は大きく立ち遅れることになった。創業者中島知久平は実業の傍ら、昭和5年から終戦直後まで政治家として大臣も歴任していた。戦後、A級戦犯容疑で逮捕され、約二年間を泰山荘に自宅拘禁されたのちに放免となったが、その二年後の昭和24年に64歳で死去した。
昭和28年(1953)にこの地に開校した国際基督教大学(ICU)は、この研究所の建物を活用しキャンパスと本館とした。敷地は19万坪で全体の1/3弱である。中島飛行機の創業者中島知久平が住んでいた泰山荘も大学の敷地内にあり、国登録有形文化財となっている。平成29年(2017)11月、ICUの構内でそのジェット戦闘機「火龍」のエンジンの部品が発見されたと報道された。完成予定は敗戦の年の末だったというが、すでに日本の資力は尽き果てていた。また残りの別の5万坪の地に中島飛行機の後継の会社である富士重工(現スバル)三鷹事業所が建てられている(富士重工の経緯は武蔵野市参照)。そのほかは野川公園となっている。今でもこの近辺には工場をつないでいた無数の地下通路があるという。
<戦没者慰霊碑と平和の像>
市内の禅林寺にある戦没者慰霊碑には、三鷹から出征し、帰らぬ人となった654人の名前が刻まれている。実はこのように戦死者数を把握している自治体は全国的にも極めて少ない。これは敗戦直後に戦時関係資料の焼却指示が軍政府から出され、役場の兵事係の出征記録なども焼却されたからである。それは軍の上層部が、やがてくる占領軍から自分たちの戦争責任を免れようとしたためであった。なんという無責任な軍政府であることか、情けない限りである。
ところが三鷹の兵事主任をしていた鴨下氏は、その記録を焼却するに忍びず、密かに自宅へ持ち帰って屋根裏に保管していたという。全国でも同様な事例があり、20の町村で出征記録は保管された。ただ三鷹のようにそれを石碑に刻んだ例は少ないと思われる。有名なのは沖縄の平和祈念公園にある平和の礎(いしじ)で、敵味方や人種の区別なく20万人余の戦争犠牲者全ての氏名を広大な地に並べた石碑に刻んでいて、これに勝るものはない(広島と長崎は名簿で記念碑の中に収められている)。
なお平成元年(1989)11月、みたか百周年記念事業の一環として、長崎平和祈念像を原型に、三鷹の平和のシンボルとして仙川公園に新たに祈念像を建立した。
<三鷹平和カルタ>
昭和60年(1985)に市民グループ「わだちの会」のメンバーにより作られたもので、その中から抽出した。
— あいついで遺骨で帰る三鷹駅(日中戦争以来、戦死者は英霊として町々に迎え入れられたが、太平洋戦争終盤になってからは、その光景もなくなった)
— 芋を掘る母あとずさり不発弾(食糧不足により空き地があれば野菜が作られていた中での出来事)
— 餓え死の兵士の胸に子の写真(太平洋戦争における東南アジアや島々においては補給が届かず、死者の6割は餓死とされる)
— 掩体壕勤労奉仕にかり出され(今の中高生などが勤労奉仕としてその造成に動員された)
— 学校を兵舎に使う戦時中(勤労動員で生徒たちは学校に登校できず、その空いた教室を軍隊が使った)
— 仮祝言あげて夫は出征し(召集令状は突然やってくるので、出征前に身内だけの仮祝言であった)
— 軍刀にものをいわせて土地買収(三鷹や調布地区は軍の施設や軍需工場を作るのに適した広い土地があった)
— 公園の杉の伐採棺桶作り(空襲による戦災死者を収める棺桶作りに主に井の頭公園の杉林が利用された)
— 残留の孤児を育てた中国の愛(満州から避難する時に多くの孤児が生じ、その子らを現地の中国人が育てた)
— 侵略を助けた教科書墨ぬられ(戦時下の教科書は戦争讃歌の色が濃く、戦後にはその部分が墨で消された)
— 千人針願いもむなし夫戦死(出征兵士の無事を祈るために作って贈られたが、日の丸の寄せ書きもあった)
— 疎開先枕に涙のあと三筋すじ(空襲被害を避けるためとして学童集団疎開で小学生は親元を離れ地方に送られた)
— 大本営ラジオでうその勝ちいくさ(太平洋戦争の初期を除いて日本軍のまともな勝利はなかったが、大本営発表はほぼ戦勝の報道となっていた)
— 電燈の明るさ目にしむ終戦日(戦時下は灯火管制が敷かれ、電燈は制限されていた)
— 兄さんの戦死の夜は押入れの中(戦死は名誉とされ、親族も人前で泣くことは許されなかった)
— 非国民パーマふり袖指輪まで(質素倹約が旨とされ、贅沢は敵、飾り物をすると非国民と呼ばれた)
— 防空壕一般市民は後まわし(軍用には堅固な防空壕が作られたが、市民は自分で自宅周辺に作るしかなく、そのために簡易な防空壕で死ぬ市民が多かった)
— 舞鶴にダモイ(帰還)の夫今日も見ず(終戦直前にソ連軍は満州その他に侵攻し、日本軍兵士や男性の多くがシベリアに抑留されて過酷な環境で強制労働となったが、生き残った兵士たちが船に乗って帰された港が舞鶴であった)
— 面会所臨月の妻に敬礼し(徴兵されても国内に配置された兵士、あるいは特攻隊となって出撃前の兵士が面会を許されたのであろうか)
— 焼き芋を三等分したる学童疎開(地方への疎開とはいえ、その地方の食糧も軍隊優先で、子供たちに回される食べ物は少なかった)
— ゆく兄を見送る妹挺身隊(挺身隊とは就学していない若い女性が軍需工場へ勤務する場合をいうが、その妹が工場から駆けつけて兄の出征を見送る姿)
— よろこんで拾ったどんぐり代用食(どんぐりは秋に実がなり、すぐに大量に地面に落ちるので拾いやすいが、アク抜きをしないと食べづらい)
— ラーゲル(収容所)は雪の荒野の生地獄(シベリアの強制収容所を言い、冬は零下30度以上にもなった)
— 留守まもる妻に無情の戦死公報(子を抱えた妻だけでなく、親にも無情な通知であった。しかも当時は家の奥で隠れて泣くしかなかった)