東京都武蔵野市:旧北多摩郡武蔵野町
武蔵野市の空爆被害
〇 空爆日:19年(1944)11月24日、12月3日・27日、20年1月9日・27日、2月17日、4月2日・7日・12日、8月8日(全13回)
〇 被害状況:死者約250人、負傷者500人以上、家屋全焼全壊等約300戸、被災者1000人以上。
〇 出征者と戦死者:不明
<空爆被害の詳細>
昭和19年(1944)11月24日:米軍は日本の統治領であったサイパン島を手始めにマリアナ諸島 を7月に陥落させ、そこを空軍基地として整備し、最新鋭超大型爆撃機B29を配備、この日、94機で日本への本格的な空爆を開始した。まず武蔵野の中島飛行機製作所の工場が最初の空爆対象となった。爆弾と焼夷弾合わせて46発、この時の死者は73、重軽傷者84人。工場には地下道が縦横に作られていたが、付属病院の入り口の地下道には運ばれた死傷者が両側に並べられ、あちこちから呻き声が上がっていた。日本機も迎撃したが、6機を失い、体当たりでB29一機を撃墜しただけだった(太平洋上に墜落)。工場の機械設備の損害は少なく(命中率が低かったため)、翌日には必要箇所を修復して工場の作業は再開された。
12月3日:B29・86機により武蔵野工場を中心に大きな爆撃を受け、工場内では大型爆弾(500kg)により数箇所で約150人が生き埋めになり(防空壕ではなく、爆弾による大量の土砂で周囲にいた人が埋まったもので、仮にその中心部にいたら体の形は残らない)、警防団や警察関係者の必死の救助活動があったが50人が死亡。工場倉庫5棟が全焼し、勤労動員の10代の学生たち16名も犠牲になった。武蔵野高等女学校のテニスコートの防空壕に直撃騨が落ちて4人の女子生徒が亡くなり、また関前三丁目交差点から現在の武蔵野大学までのあいだで、二家族10名が防空壕内で爆死した。吉祥寺の精工の工場も爆撃され、一棟全壊、三棟半壊で死者2人。この日の近隣全体の死者は185人、重軽傷者240人。なお、低空で空爆してきたB29に向かった自軍の戦闘機(飛燕)が撃墜されたが、B29の損失は5機。
12月27日:B29・72機が来襲、中島飛行機が三度目の集中爆撃を受け、死傷者37人、この時付属病院3棟も焼失したが、すでに職員と患者を含めて荻窪などに分散疎開していた。B29の損失3機。これにより中島飛行機は工場の一部を武蔵境に移設した。
20年(1945)1月9日:B29が48機来襲、この日は全体で爆弾約42トンが落とされ、工場付近で6人の死者の他、自宅の貯蔵庫に避難していた母子3人が直撃され埋没、発掘するも深さが3-4mあり、救出できなかった。多摩地区全体で28人の死者。
1月27日:米軍の記録にはB29約70機が中島飛行機へ出撃とあるが、曇天のため途中で目標を都内中心部に変更、昼間の有楽町付近で死傷者数百人が折り重なった。武蔵野は一部のB29が飛来するが被害小。
2月17日:空母から発進した艦載機、グラマン戦闘機32機が来襲、急降下によって中島飛行機を爆撃、さらに立川飛行機や日立航空機(東大和市)を爆撃していった。爆撃の後、低空から人を狙って機銃掃射も行った。地区全体で死傷者450人以上。日立航空機では従業員や動員された学生、周辺の住民など77人が死亡、負傷者100人以上。その多くはやはり防空壕が爆撃によって崩れて埋もれたことによる。またこの日は江東区でも多くの被害があった。
3月10日未明:いわゆる東京大空襲の日。江東、墨田、台東区等参照。武蔵野の人たちは自宅の屋根に上って轟音とともに赤く燃え上がる東の夜空を夜明けまで眺め続けたという。
4月2日未明:多摩地域へB29・115機が来襲。吉祥寺の多摩電機製作所が全壊、境浄水場も破壊され、一部送水不可になった。また武蔵野青年学校(現・武蔵野第四中)および同校寄宿舎が焼失。死者20(そのうち防空壕が直撃されて5人死亡)、負傷者3、家屋全壊全焼等26戸。北多摩地区での死者は164、負傷者10人、家屋の全壊全焼等148戸、被災者520人。なお井の頭公園付近には時限爆弾が落とされ、朝方になって爆発音が轟いた。
4月7日:中島飛行機を中心にB29が103機、艦載戦闘機が97機来襲。爆弾は1トン級175個も含めて581個が投下され、武蔵野市以外も含めての死者44、負傷者15人、家屋の全壊全焼等107戸。これまでの爆弾は250kgや500kgが主であったが、1トン級爆弾がこの日から使用され始めた。ちなみに1トン爆弾の威力は(普通の土であれば)30m程度の穴を円錐状に空け、その分の土砂を吹き飛ばし、周囲にいる人々を生き埋めにする威力を持つ。
これに対してこの日は調布飛行場を発進した戦闘機飛燕がB29に体当たりして3機を撃墜、1機は空中分解して調布に墜落し一家8人死亡。米兵士10人が墜落死し(調布市参照)、体当たりした飛行士はパラシュートで生還したが、飛行機は吉祥寺駅前に落ち火災発生。別の一機は杉並区久我山に墜落、米兵11人全員死亡(B29は定員12人で、通常11人が乗る)。自軍の飛行士は川口市に墜落死。残るB29一機は千葉県銚子市で空中爆発し8人死亡、4人がパラシュート降下して捕虜となった。
4月12日:都区の北西地区から多摩地区にB29が107機、戦闘機P51が97機が来襲、武蔵野は工場7棟と寄宿舎7棟が全焼または全半壊したが、死者1名のみ。中島飛行機工場はこの日でほぼ壊滅とみなされ、爆撃機数は延べ505機に及び、投下された爆弾は6400発、2602.5トンというすさまじさだった。田無駅北口前や所沢街道北原での1トン爆弾による被害が大きく、100人以上といわれる死者が出た。また武蔵野町関前では高射砲陣地(現・赤十字病院と思われるが、成蹊学園にもあった)を直撃し、兵士ら30人近くが死亡した。
7月29日:中島飛行機エンジン工場のあった保谷(西東京市)柳沢南の畑に1万ポンド爆弾(原爆の模擬爆弾とされるパンプキン爆弾)が投下された。畑仕事をしていた女性や子どもが3名亡くなった。
8月8日:広島と長崎への原爆投下の間の日。武蔵野市を中心に空爆され、関前の防空壕に避難していた住民が1トン爆弾に直撃され18人が死亡した(うち一家5人が全滅)。都全体での死者は72人。
戦時下の出来事
中島飛行機製作所武蔵工場
旧武蔵野町の一帯は、広大な田畑と雑木林のある田園地帯だった。昭和13年(1938)、その土地の一部(約66万㎡)を群馬県太田市を本拠とする東洋最大の飛行機製作会社、中島飛行機が買収、陸軍専用戦闘機のエンジン組み立て工場として武蔵野製作所を設立した。この製作所開設当初の武蔵野町の人口は3万人だったが、2年後には5万人に膨んだ。なお当初、この武蔵製作所の工場建設工事に250人、工場の職工に200人の朝鮮人が働いていたという。
陸軍の主力戦闘機は中島飛行機が機体の生産も担っていた。それに対して海軍では三菱重工業が担当し、15年(1940)から零戦(零式艦上戦闘機)が主力戦闘機となっていたが、エンジンは中島飛行機製であった。海軍はもともと艦載機(空母から発着する戦闘機)を主力としていたが、戦線は(12年開戦の日中戦争から)拡大しつつあり、戦闘機の増産のために、16年(1941)に陸軍の工場の西隣に多摩製作所を建設させた。当時は陸軍と海軍は融和されていず、両工場は壁で仕切られ、それぞれの思惑で動いていた。16年(1941)末に太平洋戦争に突入、さすがに18年(1943)に入ると無駄を省くために両工場は合体し、武蔵製作所と改め、東、西工場と呼んだ。4400台の機械と、2万7800人の工員(正規社員の数)が従事する日本で最大級のマンモス工場となった。創業以来の生産実績は、機体2万5935機、発動機は4万6726基に達した。
そして米軍はこの製作所を本土空襲への最大のターゲットに定め、19年(1944)11月24日より工場への爆撃を開始、徹底破壊する。最終的に設備の約70%を焼失し、工場は事実上壊滅した。ただ陸軍は、米軍との「本土決戦」に備えて生産を維持させるため、兵器や軍需品などの備蓄施設として当時八王子の山中に造成した巨大な地下壕(浅川地下壕)の一部をエンジン部門の緊急疎開先に選び、20年(1945)4月頃より生産を開始した。ただ地下壕内は湿気が多く、機械はすぐに錆びたりしてまともに作業ができなかった。(八王子参照)
市民の戦争体験
以下は武蔵野市のサイト「市民の戦争体験」から拾い出したもので、文章は簡略にしながら引用している。
<中島飛行機での空襲体験>
—— 太平洋戦争が始まって間もない昭和17年(1942)4月、15歳の私は前年11月に稼働したばかりの中島飛行機多摩製作所に第一期の養成工として入社した。養成期間中は一般教養や機械工学と工作実習を学んだ。その他に青年学校の軍事教練もあった。戦時特例で12月に養成期間の授業は打ち切られ、翌18年(1943)の1月から現場に配属された。その時期の飛行機の増産は国の至上命令で、そのため昼・夜二交替や三交替の24時間のフル稼働であり、最盛時には正規社員、工員・徴用工・学徒動員の生徒その他を含めて約5万人が働いていた。配属された職場ではエンジンの部品を製造し、まだ未成年の労働規制もない12時間の二交替夜勤体制であった。昭和18年(1943)に武蔵野と多摩が統合し、武蔵製作所になってから東工場に移った。給与は良かったが買う物がないので使い道がなかった。
昭和19年(1944)11月1日の昼過ぎに警戒警報が鳴り、すぐに空襲警報に変わった。工場の上空をB29一機が、銀翼を光らせ白く長い飛行雲を引きながら東から西の方に飛んでいくのが見えた。下から高射砲を打つのだが、8千mくらいで爆発し、1万mの高さを飛ぶB29までは届かなかった。この日は偵察だけで、たぶん3・5・7日も来たと思うが、この時にB29は工場の全景を航空写真で撮って行ったと後で知った。
11月24日、昼食のため食堂に行く途中、突然ドカーン、ドカーンと今まで経験したことのない大きな音がした。「防空壕に入れ」という声で急いで近くの防空壕に入った。大きな音と地響きがする度に防空壕の土が崩れるので生きた心地もしなかった。静かになったので外へ出てみると、今まで働いていた工場が燃え、本館の時計台が無残にも壊れていた。地下道に避難して直撃を受けて負傷した人や死亡した人達が、担架で病院に運ばれて行った。死亡78名、重軽傷が80余名の犠牲者が出たと記録にある(注:上記の数字と多少違うがそのままとする)。会社はこの時まで工場の外へ避難することを禁止していたが、犠牲者の多いのに驚いて禁止令を解除した。12月3日の空襲のときは、武蔵境駅や三鷹駅の方に逃げる人波が続いた。上空を見ると編隊で次々と飛んでくるB29が、弾倉を開いた瞬間黒いものが一瞬見えたが、そのあとは空気を圧するようなグオウーグオウーと爆弾の落下する音がし、そのうちドカーン、ドカーンと破裂する音が工場の方でした。空襲警報解除で職場に戻ると、屋根がすっ飛び機械の周りはメチャメチャに壊れていた。
4月2日は夜勤だった。夜中に空襲警報が鳴って、照明弾が落とされ周りは昼のように明るくなった。シュッシュッと何か落ちる音がするだけで爆発はしなかった。警戒警報が解除されたころから、ドーン、ドーンと爆発し始めた。時限爆弾であった。続いて4月12日の1トン爆弾のときは、夜勤明けのため寮で寝ていた。あちこちで大きな音がしたので急いで工場内の防空壕に入った。ズシーンと強く大きな音がして、防空壕が崩れて半分生き埋め状態になった。土をかき分けて外を見ると、土の塊が雨のように降り紙屑が舞っていた。外に出てみると、50mも離れていない一軒の家が跡形もなくなっていた。救護の兵隊たちが来て掘り起こしたが、出てくるものは肉体の破片だけだった。左腕が千切れ腕時計だけ残っていたのが忘れられない。ここに住んでいた5人が直撃で吹き飛ばされて死亡したのである。欅の木には肉片や着物の切れ端がくっついているのが無残だった。(西東京市:古内 竹二郎)
—— 11月24日、第一回の爆撃を受ける。空襲警報が出ても、職場を守れの命令。初めの爆弾は250kg位か。空襲解除後、三階を突き抜け二階階段の踊り場に不発弾がころがっているのを見た。空襲も回を重ねる毎に、爆弾も大きくなり被害も大きくなってきたので、男子も警戒警報と同時に避難が許された。誤爆もあるのでかなり工場から離れる必要があり、女子はトラックで避難ができた。B29の編隊は富士山を目標に飛来し、そこで向きをかえて中島に向かう。警戒警報から空襲警報まではかなり時間があった。
2月17日は違った。艦載機は超低空で来るので、発見がむずかしい。この日は警報と同時に銃爆撃が始まった。私は慌てて地下道ににげ込んだ。地下道は防空壕ではなく、職場間の部品の運搬路。電気は消え、爆煙充満、入口も見えない。完全に生き埋めか。20−30分して入口から明かりが差し、急いで外に出る。鋸屋根の工場は屋根が無くなり青天井だ。
4月2日、夜間空襲。吉祥寺東町の自宅にいたので、爆弾の落下音は聞こえるのに破裂音がない。朝方になり、井の頭公園のあたりでバーン、バーンと破裂が始まった。時限爆弾だった。この夜間空襲では、田無・保谷などの工場外の民家にもかなりの被害が出た。7・8・9回目の爆撃になると1トン爆弾が用いられた。その落下音は「ザァー」ではなく「ゴォー」と唸り、落下時に地上に伏せていると体が舞い上がる程。鉄筋三階の建物は跡形も無くなり、中島飛行機は廃墟と化した。工場は八王子の浅川に疎開し、高尾山の洞窟で操業となった。
(8月、終戦となり)20歳で死ぬべき命、永らえて80余歳の今日を得た。でも、昭和天皇が昭和16年(1941)12月8日の宣戦布告を拒否する勇気があったら、あたら有為な青年、国民を死なせずにすんだはず。他国やその国民を苦しめ、多大の迷惑をかけずにすんだはず。世界の国々、人々を塗炭の苦しみに陥れた日本軍部の罪はどんなに憎んでも余りある。(西東京市:志賀 一将)
—— 私は、大正15年(1926)12月の生まれで、最初は正田飛行機製作所の下請け工場で旋盤工をしてエンジンを作っていた。そこから昭和18年(1943)8月に中島から徴用がかかり、昭和20年(1945)8月までのちょうど2年間、中島で働いていた。中島での給料はとても良くて、父がびっくりしていた記憶がある。空襲が始まってからは、みんな鉄かぶとを持って通っていた。仕事場へ入るときには国民服を作業着に着替えたが、その作業着に切削油が付着し臭いがとてもきつかった。研修後、最初に配属されたのが武蔵野工場で、勤務は2交代制であった。
11月24日の空襲の時は西工場の3階にある職場へ移っていた。私は消火班で、焼夷弾がおちてきたら防げと上司に言われていた。食事が終わった後の昼過ぎ頃、誰かが「空襲だ!」と言って、全員地下道へ降りた。その直後、250kg爆弾が落ちてきた。爆弾は三階の屋上から地下まで抜けていったが、幸いそれが不発だったので、死傷者は出なかった。誰かが「時限装置がついているかもしれない!」と叫び、みんな逃げ出したが、結局その後は何事もなく、工兵が無事に処理した。私たちは外が暗くなるまで地下にいて、その日は工場の被害状況を知らずに家に帰り、父は私が遅くまで帰ってこなかったので死んだと思っていたようだった。
その後、私は青年学校へ職場が移った(注:当時は多くの学校が工場化されていた)。そこでの仕事は以前とほとんど同じで、小さい部品を主に作っていた。職場にはいろいろな立場の人がいて、その中に朝鮮から来た労働者の方々がいた。そのうち半島労務者の方たちは他の職場に移っていき、その後は共立高女と海城中学の学生たちと一緒に仕事をした。その他の従業員には、現役の兵隊(新兵、航技兵など)やフィリピン帰りの兵隊のグループもいて、フィリピンでは戦闘中に船が全部やられてしまったので、輸送機で浜松の飛行場へ帰ってきたといっていた。もうすぐ伍長に任官する人や技術将校もいた。この人たちは偉ぶったりもせず、普通に会話ができた。自分の年齢を聞かれたので答えると「もう兵隊へは行かなくて済むね」と言っていて、変なことを言うなと思っていたが、戦争がもう終わりに近づいていることが分かっていたかもしれない。
4月の空襲で工場の電気系統に大きな被害を受けたので、結局、工員たちは各工場へ分散することになった。境の月島鉄工所と一三六工場、それと興亜専門学校(現亜細亜大学)の3カ所に分散された。私は一三六工場に行った。6月頃の「大詔奉戴日」に、興亜専門学校に先輩が来るということで行って待っていた。そこへゼロ戦が飛んできて、専門学校周辺を超低空で、何回となく飛んで帰っていった。首にマフラーをつけた20歳ぐらいの兵士で、服装から見てもこれから出撃し、二度と帰ってこないだろうなと思いながら見ていた。最後は皆で手を振り、今でもその光景が頭の中に残っている。自分たちの作ったエンジンを積んだ飛行機が低空で飛んでいたことにも驚いたが、あの人はきっと死んでしまうのかと思ったら、本当に何と言っていいか分からなかった。
私は8月15日の日は夜勤明けで家に帰って寝ていた。自宅にラジオがなかったので父がラジオのある近くの工場へ向かい、帰ってくると「何か戦争が終わったらしい」と言っていた。これから自分たちはどうなるのか、解雇されてしまうのかという思いでいた。終戦を迎えたあとの8月23日に退職金をもらって解散した。そのときに「おまえたち中島にいたのが分かると、進駐軍にいろいろと言われるかもしれないから、要らないものは捨てたほうがいい」と言われた。工場で働いていた証拠書類などは、全部燃やしてしまったという人もいた。(三鷹市:岩崎兼男)
<戦時下の日常>
—— 戦時下では隣組、町内会という組織があり見事な連携をしていた。「銃後の守り」という標語のもとに地域の団結力が図られた。町内会はほぼ十五戸世帯単位で構成する隣組に分かれ、各隣組は回覧板を毎日のように隣から隣へ廻していた。隣組では当番制で「常会」を開き、上からの指令の伝達や防空演習の打ち合わせ等をやった。どの家にも掘ってあった防空壕を時には共同使用できるように話し合ったりした。そのほか、血液型の検査もし、これを胸の名札に添えて書いていた。空襲に備えバケツリレーの訓練もしました。我が家の隣組にはドイツ人宣教師の宿舎があり、彼らも(友好国として)協力的で妙なアクセントの日本語でメガホンを使い空襲警報の発令を告げて回っていたのをよく覚えている。
戦前も中央線を西へ向って吉祥寺駅までは線路際までほぼ家屋が連続して建っていた。そこで駅の近くの線路に沿った家屋・商店等は50mほどの幅ぐらいが、強制撤去ということになり、結局駅だけが残った。中島製作所の工員は吉祥寺駅からバスで向かっていた人が多く、また南口方面にも軍需工場が多くあり、乗降客でいつもごった返していた。中島へ向う工員は「中島北裏」行の定期バスで、今、青梅街道沿いにその名をとどめている。
米軍の東京空襲は中島飛行機のある武蔵野から始まり、春頃からは焼夷弾を使っての夜間空襲となり、3月10日の東京大空襲の時は屋根に上がって見ていて、東の空が異様に赤く染まっていた。夜間では爆撃の前に必ず落下傘につけた照明弾を何発も時には一度に十発も、それはそれはゆっくりと落ちてくる。工場が明るく照らし出され、目標が鮮明になったところで大型爆弾を落とし炸裂させる手を使っていた。この照明弾が夜空を赤く染め、まだ子供だった私にはまるで今のイルミネーションを見るように素敵に映った。一方、昼間にはグラマン戦闘機がいきなり低空で現れ、地上の標的に向かって機銃掃射をした。パイロットが肉眼でよく見えました。高射砲陣地は今の松庵交差点、三浦屋の筋向いにあったように記憶しているが、敵機めがけて打った砲弾が上空で炸裂しこれが破片となって落ち、怪我をした方もいる。
私たちの家族は空襲を避けて、昭和20年5月に「縁故疎開」で家族全員地方に疎開した。東京23区内の小学校は学校単位で子供だけで地方に集団疎開をさせられたが、武蔵野町には適用されなかった。(吉祥寺東町:芦川 真純)
—— 私が府中にある中学校に入学したのは、昭和19年(1944)4月であった。三人の姉たちは学徒動員に従事していた。中学校には陸軍の配属将校がいて軍事教練を受けさせられた。お手玉の4倍程度の小石を入れた布袋を片手に持ち、30mほど匍匐前進をした後に起き上がり、全力疾走を20mほどしてから、小石の入った模擬手榴弾を投げる練習を何度もさせられた。これは敵軍に対する肉弾戦の練習である。次第にB29爆撃機の空襲が激しくなってきた。家の近くには高射砲陣地(現武蔵野赤十字病院敷地)があり、夜間空襲の際には一瞬雷光のような青白い閃光が走り、その後に発射音が聞こえてきた。空中戦での薬莢などが、高射砲弾の破片とともに、屋根瓦に落ち屋根に穴が絶えず開いた。
雪が降ると学校に連絡があって、近くの調布飛行場の滑走路の雪かきに動員され除雪作業を度々行った。ある日の朝、飛燕戦闘機が数機編隊で硫黄島に出撃していったが、夕方までに一機も帰還しないこともあった。20年(1945)3月10日の東京大空襲の時には、東の空は夕焼け時のように朝まで一面明るかった。このとき何故か高射砲の発射音は聞こえなかった。翌日には高円寺から東が一望丸焼けになったことを知った。またある日、学校の帰り道に空襲警報が出て、空中戦でB29に戦闘機が体当たりをして撃墜した。その墜落していく様を追いながら小平の墜落現場にまで行ったことがある。
中学二年になると、府中の東芝の工場に学徒動員された。工場では特殊潜航艇の電流遮断機を作らされたが、製品合格率は40%程度で、海軍の検査官に何時も叱られた。 工場ではムスタングP51戦闘機の機銃掃射をうけた。空襲下の帰り道に多磨墓地近くでも機銃掃射を受けた。操縦士の顔も見え、横に逃げたため難を避けられた。九十九里浜の国土防衛の部隊移動のために、陸軍兵士たちの分散宿泊所として家を軍に提供させられたこともしばしばであった。(境南町:佐野 和生)
—— 私は昭和18年(1943)に北支より復員してきた夫と中央線東中野にある日本閣に於いて結婚式をあげ、中島飛行機製作所の社宅に新居をかまえた。家屋は木造平屋建ての二軒長屋で二百余世帯あった。周囲は農家の青々とした畑、雑木林に飛んでくる小鳥のさえずり、上水の清らかな水の流れに足をぬらしながらの生活が懐かしく思い出される。しかし、世情は想像のつかない程大変な時代でで、すべてが配給になり、お米は大八車で隣組の方々と徒歩で僅かな量をいただきに行き、足りない時は大豆等で我慢していた。長男が生まれ、私は母乳で子供を育てたが、母乳の出ない方、又足りない方は当時の役場で証明書を戴きミルク等買っていた。又農家に行き物々交換で野菜等を補った。衣類等も衣料切符が配布され、私達母親は自分の浴衣をおむつにして子供を育てた。
戦後、子供達は3年生までは武蔵野第二中学校の教室で勉強し、4年生になると武蔵境の第二小学校まで歩いて通学した。晴れた日はよいが、雨の日等はぬかるみの泥んこ道で大変だった。給食、ランドセル、雨合羽等勿論なかった。(桜堤:工藤 ハナエ)
<若者たちの勤労動員>
—— 昭和19年(1944)の秋、その頃私は旧淀橋区(現・新宿区)内の国民学校高等科二年生だった(13−14歳)。ある日、担任の先生から二年生全員は勤労動員として、軍需工場への派遣が申し渡された。派遣先の一つは中島飛行機武蔵製作所で、もう一つは高田馬場近くの時計会社だった。この会社は時計の他、主に軍需工場として高射砲弾の信管などを作っていた。私の組は中島となった。当日の朝、東伏見の駅前には既に男女の学生達がそれぞれに整列していた。私達も整列し点呼の後、担任と級長を先頭に工場へと向かった。北口正門には銃を持った兵士が警備で立っていた。すると先頭にいた級長は「歩調取れ、頭右っ!」と号令を掛けたので慌てて敬礼して入ったが、私達も兵士になったような気がして、戸惑った。私の配属先は東工場三階の発動機の組立現場だった。この作業は女子学生の他、熊谷の陸軍少年飛行学校生徒や太刀洗の特別幹部候補生などが加わっていたが、何故、飛行学校から派遣されて来たのか不思議に思い尋ねたところ、戦局が厳しく、特に飛行機の不足を補う為、学校での学習や訓練どころではない、直接、飛行機の生産現場への派遣が軍部の方針という事で派遣された由、改めて戦局の厳しさを感じた。
程なく作業にも慣れて来た11月1日の昼頃、空襲警報が鳴り空を見上げると、青空高く銀色に輝くB29が一機、悠々と飛んでいて、遥か下の方で高射砲の弾が破裂していた。偵察飛行だろうとの話だったが、これが後の大空爆の序章になろうとは考えてもみなかった。やがて11月24日の昼休み、級友と誘い合わせて地下食堂で昼食を取り、大勢が談笑していたところ、突然「ドーン」という爆発の音と地響きがした。皆、食事を止め、「空襲だ!」の声と共に一斉にドアー目がけて殺到した。慌てて後に続き階段を駆け上ろうとすると、逆に上から担架に怪我人を乗せた4、5人の人達が駆け降りて来た。見ると全身、大火傷を負い髪の毛も焦げてチリチリとなっていた。そこで急いで地下道に入って奥へと進み、コンクリートの床に腰を下ろした。爆発の音や地響きがする度に天井からコンクリートの破片がバラバラと落ち、恐怖から膝の震えが止まらなかった。やがて空襲が治まり外に出て工場を見ると、建物は無残な有様でコンクリートの破片で足の踏み場もなく、やっと組立の場所に着くと、先に戻った学生達が互いの無事を確かめ合っていた。しかし一緒にいる兵士達は空襲の際でも「命令で」離れる事が出来ず、軍人とは言え、思わず気の毒になった。(三鷹市:内藤 昭雄)
—— 昭和19年(1944)11月に中島飛行機武蔵製作所に爆弾が落ちたとき、工場から離れた吉祥寺で見ていた。高射砲の破片が本堂の屋根を破いたりして、高射砲の破片のほうが被害が多かった。当時私は、今の日大二高(付属中学)にあたる旧制中学の三年生で、仲間たちはほぼ勤労動員に行っていた。学校では戦争中、鉄砲をかつぐ授業や柔道、剣道、教練の体育があって、農業とか馬術までさせられた。馬が30数頭いたが、えさがなくなり、そのえさの草刈りのために私たちは動員に行かずに、15人ほど学校に残されていた。今の鷺宮辺りで草刈りをやったが、広い野原のようなところで、川は一面沼みたいになっていた。馬を放し飼いにして草を食べさせている間に魚釣りをしたり、弁当を食べたりした。ある時、釣った魚を焚き火で焼いていたら、その煙がアメリカ軍のグラマン戦闘機に見つかり、いきなり3機が急降下してきて、機銃弾の土煙がバッと上がった。50mぐらい離れていたので、遊ばれたのだと思う。戦中は馬に食わせなければならないから、もう土日なし、夏休みもなかった。私が学校で勉強をすることができたのは、中学一年までだった。その馬は戦後に接収され、破傷風の血清をとるために、一頭も残らなかった。
当時、井の頭公園のお茶の水の近くに木工所があった。これは中島飛行機の空襲で亡くなった方のお棺をつくるために、公園の杉を材料として切り、そこで製品にしていた。またそこで私達はよく松根油を採っていた。それは飛行機のガソリン代わりだった。だからアメリカの飛行機が落ちると真っ白い煙、日本の飛行機が落ちると、真っ黒い煙で、もう煙から違っていた。焼夷弾は草や枯葉の積んであるところに落ちると、衝撃が少ないので、破裂しないものもあった。焼夷弾にはボタンがあって、そのボタンを押すと中の板が破裂しない。学校に荻窪警察や消防署の人たちが来て、扱い方を説明してくれていた。だから焼夷弾の不発弾が見つかったときは、みんなそのボタンを押した。焼夷弾の束が二本あると、それを使って風呂を一回沸かすことができた。草刈りして帰ってきた後、途中で何本か拾ってきて、焼夷弾で風呂を沸かして入ったことがある。
昭和20年(1945)2月ぐらいのこと、線路を空襲から守るために中央線の線路の脇にある家を全部壊した(注:建物強制疎開という)。私は阿佐ヶ谷のあたりから今の荻窪の光明院あたりぐらいまで、工兵隊と一緒に家を壊して歩いた。吉祥寺駅前の今のハモニカ横丁があるところは全部壊してしまって、原っぱになっていた。そこに戦後、露天商が出て、それを通称やみ市と言っていた。
終戦後、工場ががめちゃくちゃにやられた中島飛行機の後片づけに行った。戦後の食事はひどいもので、戦時中はコウリャンや大豆など色々混ぜてあったけれども、終戦後の二学期の秋ぐらいから、流通機構が機能しなくなり、配給も来なくなり、本当に食べものがなくなった。今はかぼちゃもおいしくなったけれども、うらなりのかぼちゃを切って、中の種を取って、それに小麦粉に膨らし粉を入れて、ふかしたものが弁当だった。ただ母が山梨の農家出身なので、土曜日になると母の実家に行ってちゃんと白米を食べて、帰りにおにぎりをたくさんもらい、食べ物をめいっぱい背負って運んでいた。(吉祥寺東町:服部 賢昌)
—— 昭和19年(1944)7月、都立第六中学校(都立新宿高等学校)四年生のABC組(約150人)は横河電機へ、DEF組(約155人)は中島飛行機武蔵製作所へ動員された。私は中島飛行機組で、青年学校で職場の状況や就業上の注意等の教育を受け、適性検査終了後に現場に旋盤工として配置され、鋳物工場から運ばれて来た配油盤の最初の荒削りを担当した。
11月24日昼前、「空襲だ!避難しろ」という声で取るものもとりあえず地下道に降りて西に向かい、所定の退避場所に行き、同級生と並んで座っていた。しばらくすると、ドドーンという音と共に、目の前を真っ赤な炎が西から東へ走った。とっさに私は母が作ってくれた前掛を頭から被ってうずくまった。何がなんだかわからないうちに、人波に押されて真っ暗な中を東に歩いていた。地上に出る階段は両側から来た人々で、我先にと押し合ってなかなか上れない。この焼夷爆弾は地下道の入り口から飛び込んで、地下道内で爆発したものだった。地上に出たら、工場内の広場に円形の土嚢を積んだ所があったので、その中に入った。陸軍中尉の軍人が来て「ここは危ないから工場の外に逃げろ」と言われたので、すぐ成蹊学園の方に走って行って、畑の中でうろうろしていた。同級生は顔が赤黒く(私は前掛けを頭から被ったおかげで顔はなんともなかった)、痛いから病院へ行くと言って土嚢の所で別れていた。
午後4時頃工場に帰り、同級生がどうしているか心配だったので、地下道を通って病院に行った。病院の入り口の地下道には、死体や負傷者が両側に並べられていて悲惨この上もない状況だった。頭と頭の間が60cmくらいの所を歩いたら、突然、右足首をつかまれて動けなくなった。「水をくれ!水をくれ!」と言って離さない。見ると左眼球が飛び出していて右目は真っ赤だった。「水を持って来るから」と耳元で言ったら離してくれた。死体の間を通り抜けて病院に入ると、大混乱で同級生のことなど答えてくれる人はいなかった。顔面のやけどなどで休学した者は出たが、死んだ者はいなかった。(調布市:安達 祝伍)
—— 夏休み以来、15歳の私は風船爆弾の製造に東京宝塚劇場に動員されていて、たまたまその日(12月3日だと思われる)はお休みだった。母は国防婦人会の一員で、出征兵士の見送りに忙しくしていた。井戸水をタンクに汲み上げる重労働は私の分担で、手袋を脱ぎながら家に入った頃、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。かねて用意の防空壕に転がり込んで外の様子を窺っていると、すさまじい轟音と閃光の雨。母子三人は寄り添って眠れぬ夜を過ごした。翌日、弟と私は母の止める声を背に、昨夜の轟音の結果を尋ねて西へと向かった。なんと家から四本目の青葉小路に一トン爆弾が落ちて、直径十mくらいの大穴が掘られて家は吹っ飛んでしまっていた。その家の主らしき人がバケツを手に放心状態で立っていた。
この日から二日置きくらいの空襲が始まり、爆弾と焼夷弾の雨が夜空を覆った。空襲の形態がだんだん変化して2月頃には艦載機の編隊が多くなり、そのうちの一機が、執拗に屋根の上を目がけてきた。この時、飛行服のメガネの顔がはっきり見えて恐怖を感じた。空襲が過ぎ、庭を横切る時に機関銃の薬莢が沢山ころがっていた。弟は庭中を駆け回って拾い集め、「まだ温かい」と騒いでいた。
食料はますます不足して、脱脂大豆を炒ってテニスボール大に油紙でくるみ、お弁当にしていた。その粗末な昼休みを終えた2月中旬(注:おそらく2月25日)、空襲警報解除になって外を見ると大雪だった。作業は中止してこのまま帰宅するようにと命令が出て、三時頃に帰宅の途に着いた。有楽町から東京までは何事もなく、中央線に乗り換えるとその混雑は凄まじく、200%くらいの乗車率だったと思う。新宿を過ぎてやっと直立出来るようになったが、今度はノロノロ運転。雪が線路を覆って進めない。何とか中野駅までたどりついた。そこで暫く停車してまたノロノロ、それでも当日中に吉祥寺に着いた。駅から家まで路肩の雪を拾っては食べ、拾っては食べながら帰った。この頃には中島飛行機武蔵製作所は壊滅して、吉祥寺目当ての空襲はほとんど終わっていた。
2月下旬だったと思う(注:以下は1月27日の出来事)。私達の職場の東京宝塚劇場が空襲された。筋向かいの山水楼と帝国ホテルもやられ、地下室から逃げる途中に何人かの死体が転がっていた。近所の三信ビルの地下に避難して空襲が終わるのを待った。その後それぞれの帰宅方面グループに分かれ、中央線グループは四谷まで歩き四谷の駅前で別れた。午後7時に7人くらいの友人と新宿で別れ、中野まで親友と二人で線路上の枕木をつたい歩いた。この日も残雪で靴も靴下も絞るほどに濡れて、寒さで歯がガチガチと鳴った。電気の一つもついていない線路上は、黒っぽい人の列が蟻のように連なり、足跡をたどったので歩きやすかった。中野から電車が動くとの噂で、線路から上がって深夜のホームに立ってどのくらい待ったか。午前2時に荻窪、電車はここでエンコして人々はまた線路を歩き始め、吉祥寺まで歩いた。やっとたどり着いた家、半泣きで玄関のドアノブを回すと、ドアの内側に椅子を置いて母が眠って待っていた。私に抱きついて「生きていたの?」を繰り返した。母はラジオで日比谷の空襲を知って諦めていたらしい。空襲にあってから14時間もかかっていた。(吉祥寺北町:岡村 千鶴子)
<学徒出陣>
—— 私は第三期の学徒出陣として昭和18年(1943)12月、軍隊に入った。「五体そろっていて、うろうろしているのは国賊だ」とかで半ば強制で志願をさせられた。母親には「うちは子供が三人しかいないのに(注:当時は5、6人が普通)、いくら戦争といっても全員が戦争に行くことはないだろう」と猛反対された。兵役検査を受けると甲種合格で、12月10日に千葉県の柏にある陸軍第四航空教育隊に入隊し初歩的な訓練を受けた。訓練はとても厳しいもので、航空隊にいながら歩兵の訓練が多かった。脱走兵が出ることもあって、そのときは全員何時でもたたき起こされて「捜索に行け」とかやられた。やがて半年後、適性検査を受けた。適性検査には操縦、整備、通信があり、六、七割の人が操縦を志望した。私も操縦を志望して試験に合格した。そこからまた半年ぐらい基礎的な訓練を柏で受け、熊谷飛行学校に転属になった。熊谷では即成の訓練で、パラシュートの降下演習や赤とんぼという練習機で操縦訓練を受けた。しかしガソリンがないので私は二、三度しか搭乗の経験がない。あとは格納庫で自動車のハンドル操作とか対処訓練を受けて半年間で下士官になって飛行機搭乗の資格を得た。
食事はコウリャン飯で、モロコシの麦飯よりもひどいご飯だった。冬は火が焚けないので、前の日に焚いたものがそのままで、翌朝は氷のように凍ってしまいガリガリとなる。東京の人間は胃腸が弱く、みんな下痢を起こした。幹部候補生になると茨城県の鉾田にある飛行第45戦隊へ配属された。B29に対する要撃戦隊で、私が乗っていた機種は新司偵という偵察機を改造した襲撃機で、訓練と言っても毎日毎日、格納庫での操縦訓練だった。新司偵にはエンジンが二つあり、機関砲を装備し、操縦士と副操縦士と二人乗りで副操縦士はボタンを押して爆弾を落とすとか、あるいは機銃、機関砲の射撃手の役割だった。我々は航空隊と言っても名ばかりで、燃料がないので下手に燃料を使わず、次の襲撃に備えるということで襲撃機に乗ったのは二度しかない。鉾田で外出すると「(敵の)飛行機はどんどん来ているのに、鉾田の航空隊の兵隊さんは何をやっているの」と言われた。
昭和20年(1945)6月初めごろ「何月の何時に飛行基地を出発して、沖縄の要撃作戦に参加せよ」と特攻作戦命令が出た(注:沖縄戦は6月末に終結)。作戦命令が出ると外泊、面会禁止となった。しかし出撃する飛行機が揃わず、名古屋の八日市にある三菱重工の工場から飛行機が届いてきても、足が出ずに胴体着陸して駄目になったりした。一次、二次、三次と出撃を送るが、すべて燃料を片道切符分だけ積み、敵艦めがけての攻撃だった。出撃の前の晩、出撃をする兵(特攻兵)は第一装のだれも着たことのない飛行服を着て、飲めや歌えやの大宴会だった。夕闇迫るちょうど7時ごろ、薄暗くなり始めた時間に出撃して行った。飛行場を二、三周して行くが、私達もいずれはああなるのかなと思うと、とても悲壮な気持ちになった。
私はまだ18歳なのに、親の反対を押し切って軍隊へ行き、軍隊に入っていろいろと絞られて、夜に月を見ると家のことを思い出した。それから出撃命令が出て「爪を切れ。髪の毛を切れ。写真など何か目ぼしいものがあったら全部うちへ送るから支度をしろ」と命令された。周囲から「兵隊に行け」と進められ、嫌々ながら志願したので、職業軍人のような心の整理ができていず、なかなか切ない気持ちだった。結局、鉾田を飛び立った最後の出撃部隊は7月の末で、私は第五次の戦闘隊だったが、とうとう飛行機が揃わず出撃できないまま終戦の日を迎えた。(境南町:大矢 与七)
<終戦秘話>
—— 昭和20年(1945)7月5日、18歳で勤労動員による埼玉の農村で田植え作業の最中に召集令状を受け、さっそく渋谷の砲兵隊に入営した。その夜、赤飯による歓迎と思いきや高粱飯で腹をこわし、更におびただしい南京虫の洗礼、空襲警報で逃げ惑い右往左往の有様で第一夜が明けた。多くの兵隊は渋谷方面に焼け跡の鉄屑回収に駆り出された。鉄屑を集めて兵器を作るという。私は砲手役に廻され、弾丸のつめ方、撃ち方など先任上官に手ほどきを受けたが、肝心のタマが在庫ゼロの状態だった。
7月15日より藤沢の小学校教室に寝泊り一週間。馬の飼料用の草刈り。22日茅ヶ崎に移動、一般民家に4人宛分宿させてもらう。わが砲兵隊分隊40数名、隊長は慶応大学生で見習士官。靴は壊れたら修理不能につき使用禁止。当初民家より下駄を借用、その後申し訳ないからと三分の一の兵隊がワラ草履作りに専念、三分の一の兵隊は海岸でたこつぼ掘り(敵上陸用舟挺迎撃に備え、竹やりと手榴弾を持たす為のもの)。兵器委員を命ぜられた私の仕事は、朝夕竹の棒80本があることと、ごぼう剣五本の確認だけ。他に鉛筆削りに使う小型ナイフを二人に一個、いよいよの時のため戦友の首を切り合う為に持たされた。食器は木の板、汁椀は竹、水筒は班長のみであった。
大砲一門が8月3日茅ヶ崎駅に着く。全員で引き取りに行くも、砲弾なく操作もわからず、神社の境内に置いた。このような軍隊で役立つと思われる品物が自宅にありそうな者は持って来いとのことで、代わる代わる帰宅もできた。そのうち日本は降伏するらしいとの声が耳に入ってくるようになった。8月6日(広島に原爆投下の日)早朝、相模湾防衛部隊の完結式が私ども砲兵隊の居る茅ヶ崎の丘の上で行なわれ、数千の将兵が集結。師団長物部中将閣下よりご訓示の旨のアナウンスがされた。そこへ米軍のグラマン戦闘機の来襲で、我々はクモの子を散らすが如く逃げ回り、ほうほうの体で自分の宿舎に帰り着いた。この日は色々な思いで眠られぬ夜を過ごした。このような武器などで敵に勝てることができるのだろうか。
8月13日夜、突如部隊長より呼び出しあり「特別の事情によりお前等を家に帰すことになった。14日に衣服、靴等持って帰隊するように」との話で驚いた。何がなんだかわからないまま、夜衣類を持って帰隊した。15日7時半、隊長の訓示後、服、シャツ、靴、毛布等、官給品を全て返納。同僚との別れに切ないものがあるも、事情わからぬまま世話になったお宅に挨拶中、玉音放送となり、戦争は終わった(注:日本がポツダム宣言を受諾するとの通知を連合国に通達したのは10日であり、それは軍の幹部だけが知るところであり、この早めの除隊はこの部隊長独自の判断であった)。急ぎ列車に飛び乗り帰宅した。僅か40日の軍隊生活であった。(吉祥寺南町:林 治一)
<従軍看護婦として>
(この「わが町の戦争」の東京都の稿では戦地のことはほぼ取り上げていないが、例外として転記する。惨禍を極めたフィリピン戦線の話である)
—— 私が女学校を卒業する頃は戦争続きで、毎日の様に軍歌や歓呼の声に、出征される兵隊さんを駅までお見送りし、その姿を見て私もお国のために何とかお役にたちたいと考えた末、赤十字の救護看護婦(注:「従軍看護婦」の名称は戦後である)になりたいと思 い両親にお願いしたが大反対、隠れて試験を受けてきびしい教育の末卒業、「赤紙召集令状」を頂き、激戦地フィリピンに出征した(注:1994年後半のことと思われるが、赤十字の看護婦の場合、一般兵士と同様に「赤紙」で召集された)。必ず戦争に勝って凱旋して宝冠章という勲章を頂いて、その時こそ親に喜んでもらえると信じていた。
途中千五百トンの小さい船で臓物を吐き出す程の船酔いに苦しみ、マニラの港にやっと到着、と同時に日本の輸送船が米軍の魚雷攻撃を受け、血だらけの日本の兵隊がぞくぞくと運び込まれる様子を横目で見ながら、クラーク飛行場近くの兵站病院に到着。その頃から飛行場への攻撃が激しくなり、夜になると負傷した兵隊がぞくぞくと運び込まれ、足の飛ばされた者や顔に大やけどして見るかげもない兵隊、すでに死んでしまっている兵隊、苦しそうにうめく断末魔の声、重傷患者はあとまわしでほっておかれた。久しぶりに日本の女性を見て、声を聞いて、母や妻子を思い出すのでしょう、私達の手をしっかりにぎりしめて名を呼び「お母さん」と一言叫んで死んでいった兵隊さんは何人いたかわからない。夜が明けると、あざける様な敵機が赤十字マークを無視して爆撃してきて、病院はひとたまりもなかった。病院の中では悲しい出来事がくり返された。食べる物は原住民が残していった掘り残しのさつまいもを掘ったり、鼠や蛇を見つけては火の上で焼き、いわしの缶詰の空き缶で油虫を真っ黒く焼いてはさつまいもと一緒にと、口に入るものは何でも食べた。鼠や油虫をどうしても食べられなかった栄養失調の同僚は、お腹がぱんぱんにはれ目だけぎょろつかせ「お茶が飲みたい」「白いご飯が食べたい」と言って死んでいった。巡回から戻ると死期の近い兵隊さんが死んでいた。処置しようと毛布をはぐと、死体の太ももの肉がえぐり取られて、ざくろのような傷口を見せていた。普通では考えられない状況の中、追いつめられた三人の患者はボツボツと「腹が減ってたまらないので……」。私は驚いたが、三人はどんなにつらかっただろうと思うと、軍医には報告出来なかった。その三人は三ヶ月も過ぎた頃、一人ずつ亡くなられた。夕方、巡回が終わる頃には毎日のように三人四人と、多い時は十名も死んでゆかれた。その死体を私達救護班は一つの担架に二人ずつ乗せて近くの山に運び、月の光を頼りに帯剣で穴を掘って埋葬する。とてもこわくておそろしくて、私共救護班にとって一番つらい役だった。
米軍が上陸してきたと聞いた私達は、歩ける患者の手を引いて山の奥へ奥へと歩いた。重傷患者はどうする事も出来ず、軍医の命令で衛生兵達が昇汞(しょうこう)水を注射して 息を引き取らせた。重傷患者は、今自分がどうされるか本能的にわかるので「頼む、歩くから連れて行ってくれ」と衛生兵にしがみつき、両手を合わせて拝んだ。こうしたむごい光景に目を腫らし、行くあてもなく奥へ奥へと入っていった。うじのたかった日本兵の死体が道に転がっていて、川があれば川に流し、山があれば穴を掘って土をかぶせた。深い崖にへばりつくような細い山道、近眼の同僚がよろめく足を踏み外し、大きな悲鳴を上げて転落してその途中の木の枝に宙吊りになり、もう動かなかった。凱旋を夢見て生きてきた同僚を引き上げる事も出来ず、置き去りにする他なかった。あの山の中で一人残されたままのことを思うと申し訳なさでいっぱいだった。
米軍機が撒いたビラで終戦を知り、敗戦国日本の浦賀に帰ってきた。日本を出発した時12名だった同僚も6名に減った。何度も何度も夢に見た母、白髪のふえた母に抱きついて泣いた。ただ今は、戦死した戦友一人一人の顔を、姿を思い出し、今は平和になった日本の中で、どうぞ安心してください、ありがとうございましたと、毎月ご命日には一人一人戒名を読み上げて、ご供養させて頂いている。(吉祥寺南町:西山 清子、84歳)
戦後の出来事
中島飛行機解体とその後
<跡地利用と復興>
空爆で破壊された中島飛行機工場の跡地は、爆弾で凸凹になった土地の修復をするにも、不発弾が無数に埋まっていて、その除去作業は数年以上かかった(下記参照)。その後米軍宿舎や都営住宅(武蔵野病院跡地)や野球場などが建てられ、その米軍宿舎は接収解除後に武蔵野中央公園となり、その周囲は公園ホール、武蔵野市役所、NTT研究所、都立武蔵野北高校などになっている。都営住宅は老朽化で2012年に取り壊され、2016年、そこに武蔵野中央公園を拡張する工事をした際に、かつての工場の施設をつなぐ地下道のコンクリート床板が発見された。大工場内の部品の移動の効率化もあって縦横に張り巡らされた地下道の一部であった。
軍需工場であった中島飛行機は、戦後は航空機の生産は継続できないとして富士産業株式会社と改称するが、占領軍GHQ(連合国総司令部)から4大財閥に準ずるものとして解散させられ、細かく分社された。武蔵野に残った従業員は戦災を免れた機械を使い、鍋や釜、乳母車などを作って当座の糧とした。しかしエンジニアたちはこうした片手間仕事に飽き足らず、残っていた爆撃機の尾輪を利用しスクーターを試作、ラビットと名付けて販売すると、手軽な乗り物として人気を博した。1952年にサンフランシスコ講和条約が発効、翌年に米軍が接収していた土地や建物の返還が始まり、解体されていた中島飛行機関連の工場が再び結集し、富士重工業株式会社が誕生した。そこでかつての飛行機製作の技術者が集結し、小型乗用車の開発をスタート、革新的な車スバル360を発売し大ヒットさせた。なお富士重工業は武蔵野には社宅を残しているだけで、三鷹の元中島研究所跡に東京事業所が設立されている(三鷹区参照)。
<戦後の不発弾処理とグリーンパーク>
—— 私は昭和18年(1943)12月25日に岡山の工兵隊に入隊した。そこで教育を受けたのち、約500人が外地に行くことが決まり、私も編制された。ところが「今度、少年兵が4月に入隊するから、その少年兵の教育係で残れ」ということで、私を含めて6人が残った。そして残った者でみんなが船に乗るのを見送った。すると半年もしないうちに戦友たちの乗った輸送船が戦地(注:おそらくフィリピン戦)に向かう途中で沈んでしまった。私は教育係を半年間やった後、戦地へ行くことが決まった。屋根はあるものの、窓も何もなく外も見えない貨車で、岡山から二日三晩かかり、着いたところが小田原だった。そこから横須賀へ行き、船に乗ると思っていたが、一向に横須賀へ行く気配はなく、小田原の停車場に貨物列車をつけたまま、二日間そこにいた。
二日目の11時ごろになって出発の命令が出て、私ども120人ぐらいは小田原高校の体育館に行き、そこで三、四日は何もやることもなく過ごしていた。そのうち編成・配属が行われ、小田原は相模湾の中で一番敵が攻めやすいということで、陣地構築をすることになった。工兵隊として小田原の早川にあるミカン山に横穴を掘って、敵に対して大砲を備えたが、米軍の偵察機が飛んできても、来たる本土決戦に備えて砲弾を温存するため、使うことができずにいた。そのうちB29が小田原に富士山を目がけて来るようになった。「あれはどこへ行く」と思っても、大本営の発表でもあまり爆弾を落としたことは言わない。中島飛行機がちょっと被害を受けたことは新聞に載っても、大きな被害は受けたという記事は一つもなかった。
終戦の一週間前、「15日に小田原を攻撃する」とのビラが飛行機からまかれた。「来るわけない」とたかをくくっていたが、15日の朝、小田原市が空襲でやられ三分の二が燃えてしまった(その日の正午、終戦の詔勅)。終戦となって進駐軍がやってくれば「兵隊の服を着ていると殺されるから、早くどこかへ雲隠れしろ」と話があり、私は岡山へすぐに帰った。しばらくすると「小田原の工兵隊で使用していた道具はどうした?」と手紙が届いた。すぐに私は小田原に戻ったところ、ちょうどミカンの取り入れ時期で「男衆がいないので手伝ってくれないか」と、約15日間手伝った。そこでたまたま居合わせた人に「これから武蔵野の中島飛行機の爆弾の穴埋めに行くのだが、おまえも行かないか」と誘われ、連れていってもらった。中島の工場はとても大きく、至るところ爆弾の穴で荒れ放題だった。結局、私は富士産業という中島飛行機の残務整理を行う傘下の会社で、爆弾であいた穴埋めの仕事を始めた。
二月のある雪が降る寒い日で暖をとろうと薪を燃やしていた。するとすぐそばに250kg爆弾の不発弾が出てきた。そこで工兵隊で経験のある私が爆弾の雷管を抜くことになって、爆弾を無事処理した。その後あちらこちらから不発弾が出るので、不発弾の処理を担当するようになった。ある日一トン爆弾の処理を行うことになった。不発弾は深さ10mの穴にもぐっていて、さらに上の穴から横へ3、4mとずれていた。爆弾を掘り当て、信管を抜く際になり、使用するレンチが日本のものとサイズが合わず、それで米軍の横田基地に行って、将校からレンチを譲ってもらって処理をした。その後も不発弾の処理は続いた。
昭和25年ごろ、工場の跡がきれいになったので、野球場を作る話が持ち上がった。そこで私がその指揮を執ることになり、各地から若い者を連れてきたり、宿舎を作ったり、関東一円から機械を調達し、穴を掘ったり埋めたり、爆弾の処理を続けながら、野球場を整備していった。しかし駅から遠く、批判はあったが戦時中にあった工場への引込み線路を利用することで(今はグリーンパーク遊歩道になっているが、一時、引込み線を利用した武蔵野競技場前駅が設置された)、一年後のこどもの日に開園することが決まった。開園までに芝を根づかすために、桶で水を汲んでいって外野に水をまき続けるなど、大変な作業だった。開園の日には花火を上げ、セレモニーを行った。ところが野球開始直前に強い風が吹き荒れ、ほこりが舞い、プロ野球には不評だった。その後は二年間ぐらい大学野球や草野球場に貸して、この土地を今の(日本住宅)公団に売却した。
昭和32年ごろ、当時の市長に「今度は工場の外の爆弾処理を自衛隊と行うので会社を作ってやらないか」と声をかけられた。そこで会社を立ち上げ指名参加願を出したが、他に応募する会社はなかった。自衛隊は機械と金属探知機で一生懸命地面を探していたが、当時の金属探知機は深さ1mぐらいしか効果がない。結局自分たちが探して処理したが、その場所は探していたところから7mもずれていた。そこから3mの突っつき棒で斜めに穴を掘って爆弾を探し当てるのだが、穴の中は上から土が崩れてくるので何度か危ない目にあった。
ある時、いまの都民銀行のところに建物を建てた人から「爆弾が落ちているから調べてくれ」と頼まれ、調べてみても爆弾の穴が見つからない。二日目の昼休みに寝そべっていると、そばに欅の木が5本あり、その欅の中に爆弾の破片が刺さっているのを見つけた。爆弾は破裂した後だった。ところが最近、東京都による道路拡幅によりこのケヤキを切ることが決まり、私は「このケヤキを切っては困る。どこかへ移植してくれ」とお願いしたところ、三鷹の天文台の門のわきへ移植された。爆弾86歳だけど、生きているうちはちょっとでも働き、自分のためだと思って頑張っている。(武蔵野市のサイト「市民の戦争体験」から。八幡町:岡本 勇)
<慰霊碑と平和活動>
昭和23年(1948)、中島飛行機製作所近くの源生寺の境内に、工場で働いていた朝鮮人を含む身元不明者の殉職無縁者永代供養のため慰霊碑が建立された。その後昭和39年、慰霊碑の完全な保存と永代祭祀のため東伏見稲荷神社の境内に遷座し、20年祭を挙行した。さらに52年、19年の初空爆からの全犠牲者の33回忌として、延命寺境内に平和観音菩薩を建立、開眼大法要を厳修した。延命寺では檀家などが所蔵していた鉄かぶとや防空頭巾などの資料を集め所蔵し、250Kg爆弾の破片も展示している。
慰霊碑は他にも各所にあるが、武蔵野市は世界連邦運動協会(戦後の1946年にルクセンブルグで結成)の活動の一環として、昭和35年(1960)に協会に加盟、10年後に市の補助金と市民の募金によって三鷹駅前に「世界連邦平和像」(駿馬にまたがる女神像)を建立、その台座は世界各国の48枚の石を組合せて作り、その中には戦時中に亡くなった市民の名簿が収められた。さらに平成23年(2011)、武蔵野市は最初に空爆を受けた11月24日を「平和の日」と制定した。