新宿区:四谷区 + 牛込区 + 淀橋区

(東京都全体については「東京都と戦争の概要」参照)

新宿区の空爆被害

〇 空爆日:昭和17年(1942)4月18日/昭和19年(1944)12月27日/昭和20年(1945)1月9日・27日・29日、2月16日・17日・19日・25日、3月10日・31日、4月1日・4日・7日・4月13ー14日、5月7日・24日・25日・29日(全19回)

〇 被害状況:死者1286人、重軽傷5100人、被災21万2120人、焼失等家屋5万6700戸。

〇 出征者と戦死者:不明

<空爆被害の詳細>

 昭和17年(1942)4月18日:日本本土への初空爆の日で、ドーリットル空襲と言われる。米軍は太平洋上の空母からB25中型爆撃機16機を発進、神戸から東京まで分散して攻撃し、東京へは6機が来襲、そのうち一機が焼夷弾を鶴巻町の早稲田中学校に投下し、校庭で見学していた中学生15歳が焼夷弾の直撃を受け死亡した(同日、葛飾区の小学校でも生徒一人が機銃掃射を受け死亡)。この日のB25は超低空で襲い、パイロットの顔も地上から見えたというから、わざわざ校庭で初めて見る爆撃機を興味深く眺めていた子供達を狙ったものと思われる。また西大久保でも死者1人、他に重軽傷19人、全半焼家屋64戸。日本全体での死者は船上も含めて87人、重軽傷者466人、損失家屋262戸の被害が出た。日本軍にとってこの空爆は不意を突かれてまともな応戦ができず、記録では迎撃する自軍の対空高射砲からの破片による被害もあった。この被害は不名誉なこととして報道統制し、まず大本営は「敵機9機を撃墜。損害軽微」「わが空地上両航空部隊の反撃を受け、逐次退散中なり」と発表、翌日の新聞では「初空襲に一億たぎる闘魂、敵機は燃え、堕ち、退散」「われに必勝不敗の国土防衛陣あり」等と報じた。しかし都民の間では誰も敵機が追撃されるのを見ず、しかも自軍の対空高射砲からの破片による被害も各地であり、それによる犠牲者は9名であった。そして軍は住民にこの空爆での被害の口外を禁じた。都内のこのほかの主な被害は荒川、品川、北区である。本格的な空爆は一年半後の昭和19年(1944)11月24日から新たに開発された長距離大型爆撃機B29によって始まるが、この年の6月、米軍は中国本土の奥地、成都の基地から北九州の工場地帯に試験的にB29による初爆撃を行っている。

 昭和19年(1944)12月27日:主に武蔵野の中島飛行機工場に向けての空爆で、都内の死傷者は約160人、新宿区の被害は旧牛込区で軽微。

 昭和20年(1945)1月27日:B29約60数機が都区内全域に空爆し、死者約530人、重軽傷者約800人、新宿区は軽微。1月9日、1月29日も被害小。

 2月16日:早稲田講堂に爆弾が落ちたが、迎撃した高射砲の弾片によるもので、1月9日も同様。その後4月7日も高射砲の不発弾落下により2名が死亡する。

 2月19日:日本軍に撃墜されたB29の頭部が四谷の第七国民学校校庭に落下、米軍兵士7人の遺体もあった。これは渋谷区千駄ヶ谷に機体が落下し16戸の民家を焼失させ犠牲者を出したB29と同じものと推測される(渋谷区参照)。

 2月25日:B29約200機が東京都区南西部を除く全域に来襲、焼夷弾を中心に約500トンを落とし、多くの被害があったが、四谷区坂町、本塩町が焼失、新宿区は焼失70戸、負傷者6人であった。

 3月10日:世に流布する東京大空襲の日であるが、新宿は主に牛込加賀町一丁目、納戸町、砂土原町一丁目が焼かれ、死傷者60人、焼失家屋750戸、被災者2900人で、この日の悲惨な実態は墨田江東台東区等を参照。

 3月31日:B29一機が主に新宿区に来襲、通常の爆弾を投下し、死者19人、負傷者47人、全半壊家屋141戸。

 4月13ー14日:東京都区南西部を除く多くの区部に対し、B29約330機が深夜に来襲、主に焼夷弾が2000トン以上も投下され、全体の死者1800人以上、負傷者約5000人、家屋の全焼等約17万戸、被災者約71万人。新宿区は主に淀橋、四谷で死者約80人、負傷者約240人だが、家屋の全焼等は2万2230戸、被災者約8万人に及ぶ。この頃は避難体制が強化され総被害に対し死傷者が少ない。この中で、戸山、淀橋第一、大久保、四谷第一、戸塚第二、第三、第四、落合第二の国民学校、その他海城中学校、家政女学校、第五高女、東京医専、大久保病院、東京陸軍第一病院などが焼失した。

 5月7日:被害小。

 5月24日:これまで空爆被害の少なかった都区南西部に連続して大量の空爆がなされた。24日未明、品川、太田、目黒区を中心とした大空襲で、新宿区は死傷者45だが、それでも焼夷弾による被害は大きく、全焼家屋約1230戸、被災者約5450人。

 5月25日夜間:B29約470機が来襲、新宿区ではもっとも被害が大きく、死者約940人、重軽傷者約5240人、全焼家屋約3万650戸、被災者約12万人以上である。都全体での死者は約3650人、負傷者約1万7900人、全焼家屋約16万5500戸、被災者約62万以上であり、これを山の手大空襲という。国会議事堂周辺や新宿駅も焼かれ、早稲田大学は大隈会館や恩賜記念館などが全焼したほか、演劇博物館も半焼するなど、多大な被害を受けた。また理工学研究所のあった喜久井町キャンパスの地下にはL字型の防空壕があり、学生や近隣住民ら多数が避難したが、火焔と煙に包まれて300名以上が死亡した。この壕は勤労動員で掘られたもので、横穴式で両側に出入り口があり、その両側とも火で塞がれたという。またすでに壕がいっぱいでこの中に入れてもらえず、助かった人もいた。

 5月29日:河田町、富久町に被害。

 これ以降米軍は、東京の市街地はほぼ爆撃したと判断し、日本全国の地方都市に向かって行った。そして8月6日の広島と8月9日の長崎への原爆投下後、8月10日、日本は無条件降伏決定したが、空爆は終戦日8月15日の玉音放送の後まで続いた。(青梅市参照)

 戦災前、新宿旧3区の戸数は6万3295戸を数えていたが、戦時中の建物疎開や戦災で5万6459戸を失い、6836戸を残すのみとなり、人口も戦前は約40万人近くあったが、終戦時には約7万8000人と減少した。

<空爆で焼失した小学校など>

 全焼: 戸山、余丁町、戸塚第二、第三、淀橋第一(現・柏木)、淀橋第四、淀橋第五と淀橋第六(両校は現・西新宿小)、落合第二と明星(両校は合併)、富久、天神、四谷第一と四谷第二(第二は廃校となり現・四谷のみ)、早稲田、鶴巻小学校など。

 半焼:津久戸(鉄筋の作りであった)、江戸川、大久保小学校など。

 このほか、高千穂中学(廃校)、第四中学(現・戸山高)、第五高女(現・富士高校)、東京家政女学校(現・豊島岡女子学園)、四谷高等家政女学校(第五高女へ吸収)、学習院女子中・高等科などが全半焼した。

戦時下の出来事

(戦時下全体の出来事については「東京都と戦争の概要」参照)

空襲下の体験

(以下は『東京大空襲・戦災誌』第2巻より)

 当時16歳で、17年4月18日の日本への初空襲の時、早稲田中学にいて空襲に遭い、友達の一人を亡くした尾山令仁の話である。(その経緯は上記の詳細参照)

 —— クラスメートの小島君が焼夷弾の直撃を受けて即死した。焼夷弾が落ちてくる直前まで私は彼と話していた。そのちょっと後で私は飛行機を見るために場所を移動した。だから彼が直撃弾を受けたことは後で聞くまで知らなかったし、あの60発の焼夷弾は彼以外の誰にも当たらなかった。そしてクラスの机に空き席ができた。私の心の中にはこの仕返しをしなければという思いがつのっていた。私は卒業する時、陸軍経理学校に入り、士官候補生としての厳しい訓練に耐えた。私は今の戦いは正義の戦いであり、憎き鬼畜米英を倒して東亜に共栄圏を確立することこそ日本の使命なのだと教えられたことをそのまま信じ込んでいた。それは学校でも社会でもいたるところで教えられていた。

 しかしこの戦争はついに敗戦という結果をもたらした。そして今まで糊塗されてきた欺瞞が次々と暴露されていった。大東亜共栄圏もうそ、八紘一宇も出鱈目ということになると、今まで大人たちが教えていたことはみな虚偽ということになった。今まで私が全存在をかけてきたものが否定されてしまった時、私は人生観が根底からゆさぶられ、すべてのものへの不信と懐疑に悩まされた。私は今深くキリスト教を信仰しているが、その契機は親友の爆死であったろうか。私はその死を無意味なものにしたくないと思い、米英を撃つことで報いようとしたが、それは果たせなかった。それどころか敗戦国の国民として、その考え方に大きな疑問を抱くようになった。私は今、あの親友の死を無駄にしない道は、憎しみをこの世界から取り除き、平和を作り出す者となっていくことではないかと思っている。

 当時18歳で四谷花園町に住んでいた正木和代の昭和20年(1945)4月13日夜から14日(終戦4ヶ月前)の空襲体験である。

 —— 例によって教科書に入ったカバンを背負い鉄兜を被ったまま眠りこけている13歳の妹を引きずるようにして地下壕に入った時には、もう新宿駅、十二社方面に火の手が上がっていた。ますます激しくなる焼夷弾の雨を見上げながら、去年戦病死した長兄の一歳半の子を背負った母と妹の手を引いた私は、もう逃げようと壕を出たところで次兄が戻ってきて「大宗寺の方はまだ大丈夫だ」というのに従い、その境内に行ったが、誰かが御苑へ逃げようと言い、一団となって御苑入り口に向かった。

 行き着いた御苑の黒い鉄の門はしっかり閉まって呼んでも怒鳴っても返事はなく、今度は塀沿いに左に進み、区役所入り口の門の前では、すでに富久町方面から来た人達で一杯になり、口々に開けろと怒鳴っていた。この門には守衛がいて開けることはできないと言い、一人がなぜだとなじると、天皇陛下のお芋が植えてあるとの返事が返ってきた。それを聞いた人々は、一斉に門に打ちかかり、その勢いに押されて門はようやく開かれ、私たちは生まれて初めて御苑の中に入った。足元をみると、おそらく元は芝生であったと思われる地面一帯に薩摩芋の緑の葉が茂っていた。その頃四方の空は真っ赤に染まり、うす桃色の満開の梅が一層あでやかに舞い散っていた。私達は火が来たらこの水に入って布団を被ろうと池のほとりに陣取った。母は甥を背中から降ろし、ほっとしていると、母が逃げる時ふところに突っ込んで持ってきた布切れが、全部父と兄のパンツだとわかって、みんなで気が狂ったようにゲラゲラと笑い転げた。夜が明け、家に帰ることにし、よそは焼けても自分の家だけはとの心も空しく、我が家の焼け跡はあまりにも小さく、命を託した地下壕には家全体が焼け落ちていた。

 一晩中消火に駆け回っていた兄が玄米のおにぎりを持ってきてくれ、みんなで食べていた時、馬に乗って従兵を連れた将校が来た。見上げる私達に「いやご苦労、ご苦労」と晴れやかとも思える声をかけて通り過ぎて行き、兄が「ちきしょう」と小さく言い、私もみじめな気持ちになった。その夜から鉄筋建てで残っていた母校の四谷第七小学校に泊まることになったが、学校はすぐに汚され放題となって情けなくなった。

 次に、当時高等女学校二年生、牛込揚場町に住む14歳の鵜澤希伊子の体験の一部である。

 —— 4月14日の日の出は異様だった。一面赤茶けた雲が低く覆っていた。一帯に焼き尽くされた生命財産の名残りの煙だった。気がつくと太陽はくっきり輪郭を示して相当高みに姿があった。その下に姿を曝した光景はなお異常だった。江戸川公園から戻りつつ見る眺めは無の一言に尽きた。人間の生活を示す姿が一夜でかき消え、どこまでも遥かに瓦礫の広がりが続くのみだった。飯田橋駅のホームが骸骨のように高みに見えた。後ろは東京湾まで見渡せる気がした。そこに伯父が現れた。……我を取り戻した私は改めて自分達を眺めた。背負われた11ヶ月の弟も8歳と5歳の妹も煙と煤に汚れ果て、夜っぴて逃げ回った疲れをためた顔に、赤い目ばかりぎょろぎょろと光っていた。鳴き声も立てずぐずりもせず、よくぞ二人とも一晩中歩き続けたことかといとしさに胸が迫った。

 ぽっぽと熱気を放つ焼跡を通り過ぎながら足は重かったが、自宅に戻れば我が家が姿を現すものと思われた。津久戸小学校が目に飛び込んできた時、やっぱり!と目先が暗くなった。燃える限りの物は燃え尽きていた。感慨も湧いてこず、いつまでも立ち尽くしていた。罹災者となった私達は、鉄筋建で焼け残った津久戸小学校に収容された。……母は弟に与えるミルクのお湯に苦労していた。私たちの食事など思いもよらなかった。お腹が空き切って、床にうずくまっていた。炊き出しが届いたのはその日の夜だったろうか。一人に一つ、掌の中に隠れてしまいそうな小さな、真っ黒な玄米のおにぎりだった。味もわからないうちにお腹に収まって、空腹は一層募った。三日目に従兄がやっと探しあてたと言っておにぎりを背負って来た。どこの家でも木片に炭で避難先を書き、焼け跡に立てていたというが、父は町会の世話で忙しく、そんなこともしていなかった。その結果、自宅の焼け跡も他人に荒らされていた。

 その後3年生の妹は学童疎開で栃木県へ、母と弟妹は埼玉県へ、父と祖母は伯父の家へ、私も目黒の親戚宅へ世話になり、7人の家族はこうして四散した。焼け出されても当座は悲しいとも困ったとも思わなかった。むしろ「これで一人前になった。みんなの仲間入りをした」という気持ちの方が強かった。都民のみんなが戦災者だったから。

 5月25日の空襲で、当時、淀橋区柏木3丁目に住む16歳で女学校を卒業したばかりの笠井久代の体験記である。本来、高等女学校は5年生であり17歳が卒業の年であったが、大学を含めた繰り上げ卒業で一年短縮されていて、学校の勤労動員から引き続き東中野の軍服工場に勤務していた。また上の妹は勤労動員、下の妹はまだ女学校一年生で通学をしていた。

 —— 空襲も激しくなり、荷物を整理して郊外に引っ越しをする人、他県に疎開する人が多くなった。食糧事情は日増しに悪くなり、大豆、麩、とうもろこしなどが配給になり、毎日それらを入れたご飯を食べた。幸いにも母は健康で買い出しに行き、米野菜に不自由はしなかった。食堂で雑炊を出すと聞き、食券で並んで一度食べてみたが、あまりおいしくなかった。20年(1945)になると日中はガスもあまりでず、ご飯は夜炊いた。石炭も統制され、お風呂も沸かせなくなり、銭湯に行くようになった。結婚して近所に住む姉は銭湯で下着を盗まれた。衣類、履物、石鹸すべて狙われた。女学校の制服も16年(1941)ごろより粗悪になっていた。勤労動員していた軍服工場では、元洋服店主、工場長、洋裁学校生徒の人たちが主となって軍服を作っていた。すでに洋服業は成り立たなくなっていた。前年から始まっていた建物疎開は、空襲の激化によりさらに進められ、新築の立派な家も惜しげもなく太い綱で引き倒された。我が家も強制疎開の対象となって、たまたま空き家になった近くの知人の家に引っ越した。

 5月25日夕、友人と二人で新宿へ映画(『残菊物語』)を見に行き、感動して西口で手を振って別れた。もちろんまた明日、会社で会うつもりで。その夜、身支度をして寝たが、どのくらい経ったか、夢うつつに空襲警報が鳴り、またかと思いつつ、今夜は爆音が近いと感じた。そのうち外が騒々しくなり、外で防火に当たっていた父が、「もうダメだ、逃げよう」と言い、妹二人を連れて先に行った。母と私は(消火活動もせずに早々に逃げると非国民と言われたから)何とか頑張ろうとバケツを下げて立っていたが、もう周囲には誰もいなかった。……四方火の海で、途方に暮れ、もっと早く逃げればよかったと後悔した。そのうち強制疎開になった空き地に出ると、そこには井戸があった。そこで少し休んでいるうちに火の手は迫ってきて、さっき歩いてきた路地の家並みも見る間に紅蓮の炎に包まれ焼け落ちた。火の海の中から突風が起き、焼けたトタン板が木の葉のように舞った。火の粉が雨の如く降りかかり、チロチロと衣服を燃やした。みんなで井戸水を交代で汲み上げ、衣服にかけて消した。そのうち火は家々を舐め尽くし、遠ざかって行った。

 夜が白み始めてみると、見渡す限り焼け野原となり、驚いたことに遥か彼方に中央線の線路が見えた。線路は左右にどこまでも見える。井戸に残っていた人はみんな我が家の方へと戻って行った。我が家は燃え落ち、家の焼け跡には父と妹二人がいた。庭の壕にも火は入り、せっかく入れた物は半分焼けていた。幸いなことに昨日母が買ってきたじゃが芋が頃合いよく焼けていた。焼け跡でご飯を炊き、朝食にした。とてもおいしかった。父と妹たちが逃げ込んだ防空壕の隣の壕では向かいの家の母と3歳の子が座った姿で焼死していたという。その家の父息子二人が残って、とても淋しそうだった。父は疎開になった家の跡に大きな防空壕を作っていて完成前だったが、その壕は焼夷弾の直撃を受けて見事に粉砕していた。焼け跡での朝食を済ませた後、母の実家がある田舎行きが決まり、なけなしの荷物を持ち、姉夫婦と中央線沿いに新宿よりお茶の水を目指してとぼとぼと歩き出した。この空襲で近所に住む友人と母と幼児も死亡したと聞き、前夜、一緒に映画を見て別れた友人の消息は未だにわからない。

 次に同じ5月25日に、牛込喜久井町に住んでいて被災した当時14歳の長谷川佳通子の体験である。

 —— 学校が学校工場になったのは19年(1944)の秋だったと思うが、この年は本当に勉強した覚えがない。……5月25日夜、綺麗な仕掛け花火のような焼夷弾の投下が神楽坂方面から近づいてくると近所は騒然となり、普段の防火訓練なんぞどこ吹く風、隣組長や警防団の人達も逃げ始めた。我が家の母は病人で、姉が早めに早稲田小学校の地下に避難させたが、再び我が家へ戻ろうとした時にはもう無理だった。私と兄は残っていたがすでに誰もいず、逃げようと兄を誘うと、もう少し頑張るから先に江戸川公園に行けという。兄は防空頭巾の上から水をかけてくれ、夢中で早稲田の方に走った。強制疎開跡地に出ると早稲田通りの向かいはすでに一面火の海で、江戸川公園へは行けなかった。火と火に挟まれ、石の影で私はうずくまったが、防空頭巾から燃えて火だるまになって転がる人、親子が離ればなれになって呼び合う声、戸板を盾にして走る人、そのように巨大な火の下にうごめいている人間が虫けら以下に思えた。……私はこのような所で死ぬことはアメリカに負けることであり、何としても生き残ってみせるという気でいっぱいになった。燃え盛る火も、建物が焼け落ちると薄い煙が漂ってくる。

 白々と夜が明けてきた。昨日までの町並みは跡形もない。家の方への道を急ぐが、あちこちに焼死体がごろごろとしていて、自分が生きているのが不思議であった。黒焦げになっている者、真裸で異様に膨れ上がり、性別もわからぬ者、衣服はきちんとしているが口や鼻から出血して死んでいる者(おそらく窒息死)、その人たちを目をそむけようもなく通る。ようやく我が家の焼け跡に戻ると姉一人が立っている。母の無事を聞き、兄は?と聞くとわからないという。母を連れて帰り、残った庭の防空壕に落ち着いた。姉は一人兄を探して病院や学校の避難所を尋ねて日が暮れた。数日探し歩いたが、どこにも兄の姿はなかった。一時親類の家に世話になったが、母の親戚を頼って高松に疎開した。姉はすぐに東京に戻り、兄の遺体が見つかったと知らせてきた。それによると家の裏手の小高い所に早稲田の理工学部があり、その崖の部分に、U字型横穴が掘ってあり、そこへ兄は逃げ込み、これがU字型であったためか、ちょうど煙突のようになって煙がすいこまれ、身体の損傷はないのに、そこに逃げ込んだ人は窒息して皆死んだという。兄はポケットから出た早大の学生証で身元がわかり、遺体はまとめて池袋の戦没者墓地に埋葬されていた。こうして焼夷弾が落ちたら消火せよ、万一の場合は防空壕へと、政府の指導通り実行した兄は無惨な死に方をした。1平方mあたり十数個の焼夷弾が落ちたというが、こんなことで命を落とした兄が哀れでやり切れなかった。兄は当時19歳であった。

(なお記録によれば各所に作られた防空壕では助かった例は多くなく「どの壕もどの壕も多くの人が死んでいた。どれも立派な壕だったが、みなきれいな顔のまま窒息死していた」とあるが、小さな壕では焼夷弾が突き抜けて焼死したりした例も多い)

 今ひとつ、柏木に住んでいた当時17歳男性(石井 稔)の体験である。

—— 4月の空襲の時、隣の奥さんが小さい子供を背負って家族みんなを引き連れて逃げていったが、私の目の前でで背中の子供に焼夷弾の筒が直撃し、その子の首が吹っ飛んだ(注:同じ例は他にもいくつか見られる)。しかし奥さんは気付いていなかった。私は「おばさん、その子、首がない」と言った。……(柏木の家が焼かれ、淀橋に越した後の)5月の空襲では延焼で家に火が迫って逃げようとすると、消防団の団長が大きく手を広げて「戻って火を消せ」と怒鳴ってきた。仕方なく来た方へ戻ると自分の家は燃えていた。そこに二人の子供を連れていた若い母親に呼び止められ、「二人を連れて逃げきれないから一人を連れて逃げてください」と頼まれた。自分にもそんな余裕はなかったが、怯えている子どもの姿を見て 、とっさの判断でその子を預かり、神田川に一緒に飛び込んだ。それでも火の粉や熱風が感じていた。辺り を見回すと、野球場のスタンドに立っているような 感じで、周りが焼野原になっていて何にもなかった。 ……(「新宿区平和都市宣言30周年記念誌」より)

学童集団疎開

 日本本土への本格的空襲が予想され、昭和18年(1943)学童の地方への縁故疎開を奨励した。旧三区を含めた新宿区として、小学生を中心に約4350人が疎開した。しかし戦局の悪化と「本土決戦体制」を見据えて、縁故のない児童を対象に、翌19年6月に政府は学童集団疎開を決定、小学生3ー6年生を対象とし、新宿区の児童には栃木、山梨、茨城、群馬県に疎開先を割り当て、およそ 1万3600人が分散疎開し、受け入れたのは、寺院118、旅館138、学校等4、民家2の合計262ヶ所だった。

 これは20年(1945)3月までの予定であったが、前年11月下旬から始まった米軍の本格的空襲で延期し、3月以降は1年生以上も対象とし、福島県も追加して疎開させた。この3月に6年生は卒業と進学への準備として帰京したが、その多くが3月10日の大空襲直前で、特に下町三区の子供達は、家に帰れた喜びも束の間、大火に見舞われ親と共に焼死した子供が多くいた(台東区など参照)。8月に終戦となり、この年の秋頃に児童たちは帰京して来たが、新宿にも4月と5月に大空襲があり、多くの家が焼かれた。肉親がその空襲で亡くなり、孤児となった児童もいた。

 こうした孤児の数は、他区も含めその調査は戦後の混乱の中で実施されていない。その結果、訴える手段を持たない孤児たちは放置され、その多くが悲惨な状況に追い込まれた。昭和22年になって国の調査結果が出て、戦災孤児の数が12万数千人とされたが、それまでに飢えや病気などで死に、また調査の網にかからなかった子供の数は入っていない。

 以下は「30周年記念誌」にある疎開の体験である。

 —— 私は当初箱根の学園に縁故疎開していたが、妹の集団疎開に合わせて栃木県の都賀郡(鹿沼)のお寺に行った。初めの一週間は寂しさで泣いていた子もいた。まず悩まされたのはノミとシラミであった。シラミは下着にびっしりと張り付いていて、寮母さんたちが熱湯処理をしてくれた。他の寮では家恋しさに脱走を試みた子もいた。悲しいことは一人の女の子が腹痛を起こし、治らないので医者を呼んだが、そのまま亡くなった。腸閉塞ということであったが、現在なら死ぬ病気ではなかった。戦争はこのように弱いものにしわ寄せがくる。(当時12歳、菅野晃)

 —— 3月10日の大空襲を見て、おふくろが危ないというので、実家がある茨城県の 日立に疎開させられた。当時、小学一年生。日立に避難しても日立製作所が国営の工場になっていたので、狙われて艦砲射撃にあった。戦艦とか大きい船が海の沖にずらっと並んで、一斉に大砲で攻撃してきた。一部の工場はほとんど壊滅し た。何発かは工場を通過ぎて町に落ち、死人も出た。疎開中、ロッキードP38(艦載機)にも追いかけられた。すごい勢いで急降下してくるので神社の木の中に逃げ込むのだが、ある日そこに穴を掘って防空壕を作り、友人とみんなで隠れていた。穴の中から覗くと向こうからおばあさんが来た。一生懸命駆け出してい たけれど、間に合わず、おばあさんは水を張ったばかりの田んぼのところで撃たれ、血が飛び散っていた。8月15日、重大放送があるというので祖父が庭の木にラジオを引っ掛けて近所の人を集めた。よく聞き取れずみんなちんぷんかんぷんだったが、祖父が日本が負けたことを伝えた。みんなが唖然とし、息子たちが戦争に行っている人が多く、泣き出す人もいた。戦地にいたままでどうなるのかという心配だった。(大森 保)

 —— 私は昭和15年の3月に 高等女学校を卒業し、太平洋戦争が始まった時は18歳だった。まだ子どもで、これが「大変な事になる」という自覚はなかった。その後小学校の先生になり、集団疎開に参加した。疎開先は群馬県にある旅館だった。小学6年生は3月に卒業なので、6年生の担当だった私は東京大空襲の2日前に東京へ帰った。そこで空襲に遭い、そのあと次の学年の担当になったので、また疎開先へ向かった。疎開に行くといっても低学年の子は遠足気分だから、一週間もすると泣いて泣いて大変だった。疎開先の生活は朝5時半起床から始まり、朝礼や勉強をし、ご飯は寮母さんが世話をし、入浴は夕方4時になると変わりばんこに入る(注:旅館の場合風呂に毎日入れたが、寺院などは無理だった)。夜8時には消灯。そんな中で農家のお家にお泊りをしたり、まきを運んだり、秋には遠足もした。
 終戦の日。玉音放送は子どもたちと一緒に疎開先のラジオで聞いた。聞いたときはただ動けなかった。1・2年生は大泣きする。4年生の女の子から「先生、日本は負けちゃったんだから大沼へ行って皆で死んじゃおうよ」と言われた。その時私は「あんたたちが死んじゃったら日本はなくなっちゃうよ。これからの日本はあんたたちが生きてかなきゃならないんだから、死ぬなんて考えちゃダメ」って諭した。唯一幸せだったのは、疎開先から帰って来たとき、子どもたちの親御さんが亡くなったとか、そういう話がなかったこと。戦後になってから、子どもたちの食糧事情の悲惨さは身に染みた。子どもたちに食に対する作文を書かせたときは泣いた。自分は一人娘だったから、子どもたちがこんなにひどい生活をしているなんて知らなかった。今の若い人たちには 今の時代の贅沢さ、幸せさをもう少し噛み締めてほしい。(白根光子)

ある子供の戦時体験(「30周年記念誌」より要約)

 昭和8年、牛込区市谷谷町の米屋の三番目の子どもとして生まれた。昭和12年、支那事変がはじまり、出征兵士の壮行 会が行われるようになった。子どもたちの遊び場だった念仏坂の石段下の小広場に箱を並べ、「祝出征○○ ○○君」と書いた赤いタスキを掛け、壇上に立ち、軍服姿の在郷軍人があいさつをし、みんなでバンザイを唱えた。また愛国婦人会のタスキを掛けた割烹着姿のおばさん達や子ども達も一緒になり「勝ってくるぞと勇ましく」と大声で謳いながら、大幟を立て、今の靖国通りまで送り出した。また週に一度、陸軍戸山学校から代々木の練兵場に演習に向かう隊列をバンザイで見送った。
 やがて米、味噌、醤油、酒、たばこ等、みんな配給制となり、我が家も店を閉じた。父は配給所の職員となり、休みの日はリヤカー運送を始めたが、その後徴用され、飛行機工場に通うこととなり、次々に近所の店も閉じられ、町は淋しくなっていった。日曜は警防団として空襲に備えて隣組ごとに防火演習を行い、バケツリレーの訓練も行った。灯火管制で電灯の笠に風呂敷を掛けた。
 小学校は国民学校と名を変えた年の昭和16年12月8日、先生からアメリカ・イギリスと戦争となったこと、海軍がハワイを空襲してアメリカ艦隊を撃滅したことを聞き、みんなでバンザイを繰り返した。翌日から黒板の脇に世界地図を張り、地図に日の丸を張り付けたマッチ棒を突き立てた。毎日戦争の話からはじまり「ハワイ・マレー沖海戦」やニュース映画等の迫力に夢中になった。春になると学校長以外はみんな女の先生になった。翌年4月の土曜日、町の通りで遊んでいた昼頃、突然警戒警報のサイレンが鳴り響き、戸山方向でドンドンと大砲(高射砲)の音がし、振り向くと白い煙の花が浮かび、その下を超低空で黒い胴体に黄色い星の双発の飛行機が見えた(上記17年4/17の空襲)。翌日には早稲田の岡崎病院の前で子どもに焼夷弾が直撃し亡くなったと聞いた。
 昭和19年、学童は地方に疎開することとなり、牛込仲之国民学校は栃木県益子町を指定された。我が家は3年生の弟も一緒だった。夏のある日、学用品・着替え等を持ち、親に付き添われ30人位が学校に集合した。先生2名・寮母さん2名に引率され、上野を出発、益子に到着した。駅では町役場の人や先生たち10人位が出迎えてくれた。小山の中腹にある宿舎の観音寺に着いたのは日の暮れた頃。親と離れ淋しさが増し、弟は泣き出しそうだった。お寺に案内され、食事の後諸注意を受け、本堂に布団を並べて敷いた。便所は本堂裏の山際にあり、暗くて怖く感じた。翌朝は6時に起床、和尚が唱えるお経を一緒に唱えることが毎日の日課となった。益子小学校では生徒と先生が出迎えてくれた。教頭先生が朝礼台に上り、朗朗とした声で明治天皇の御製を唱え、その意味を教わった。冬の寒さは厳しかったが下駄スケートも楽しんだ。
 昭和20年3月、東京が大空襲を受けたことを知ってから、じきに帰京することとなった(弟は残された)。帰りの列車の窓には幕が張られていた。上野では異様な焼けた匂いがしていて、迎えに来た親たちも押し黙っていた。校長先生の簡単なあいさつの後、すぐに解散。立ち退き(建物強制疎開)により我が家には帰れず、迎えに来てくれた父に連れられ、見知らぬ町で家族と合流した。それからわずか3日で埼玉の父の実家へと疎開した。父は自転車で先導し、叔父と兄はそれぞれ自転車にリヤカーをつけ、箪笥や大風呂敷など荷物を積み、布団で囲った中に、母と2人の妹、弟の4人が乗り、私は押す役だった。7時に出発をし、池袋・板橋・志村をとおり、戸田橋を渡って埼玉県に入ったが、道は荷物を積んだリヤカー・大八車があふれていた。昼を過ぎ、大宮の氷川神社の参道に着いた。父の実家にやっとたどり着いたのは夜11時を過ぎていた。
 田舎での生活は祖父をはじめ、叔母さん一家7人と合わせて12人という大所帯の生活になった。つるべでの水汲みは大仕事であり、子どもたちや老親の洗濯、食事の支度等、母は慣れない田舎暮らしに大変だったと思う。母子5人を残し、父たちが帰京して3日目の夜、家の庭先の遠方、森の上の空が真っ赤になった。祖父が東京が空襲されているといった(おそらく4/13の空襲)。翌日、父が無事を知らせに自転車で 駆け付けてくれたが、自転車に食べ物を積んですぐ帰っていった。
 それからは、村の高等小学校に通いつつ、馬の鼻取り、田植え、桑の葉つみ等、一生懸命農作業の手伝いをした。8月15日、重大放送があると田舎の家の縁側にラジオを持ち出し、近所の人々と一緒に聞いた。終戦の詔勅であった。老爺が「どうやら敗けたらしい」といった。数日後、父達がリヤカーで迎えに来て、東京に戻ると一面焼け野原だった。焼けトタンのバラック住まいで、薯と雑草を摘んで煮炊きし飢えをしのいだ。(小林 八郎、当時12歳)

神宮外苑で行われた出陣学徒壮行会

 戦局悪化により昭和18年(1943)10月1日、東條英機内閣は、在学徴集延期臨時特例を公布し、主に文科系の高等教育(大学生や専門学生)在学生の徴兵猶予措置を撤廃、同年10、11月に徴兵検査を実施し丙種合格者までを12月に入隊させることにした。この第一回学徒兵入隊を前にした10月21日、明治神宮外苑競技場で、文部省主催の出陣学徒壮行会が開かれ、東條首相らの出席のもと関東地方の学生を中心に77校の2万5千人が集められた。そして観客席には5万人を超える大観衆が集められ、その大半が都内の高等女学校の女子生徒であり(これも学生たちの「決意を高揚する」という政府の戦略であった)、他に徴兵猶予された理工系学部生、中等学校生徒も参加した。この日は冷たい秋雨が降りしきる中、軍楽隊が奏でる行進曲に合わせて学徒たちは入場し、東京帝国大学を先頭にそれぞれの校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担いで行進した。整列したのち宮城(皇居)遙拝、岡部長景文部大臣による開戦詔書の奉読、東條英機首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、「海行かば」の斉唱などが行われた。ラジオは、この模様を2時間余り実況中継し、その学生たちの姿は映像にも残っている。式後に学徒たちは競技場から宮城まで行進した。この壮行会は全国7都市と満州や朝鮮、台湾の植民地でも開かれた。これは現地の日系学校の日本人学生たちが対象であった。壮行会のあと、学生たちはそれぞれの本籍地に帰って入営手続きをし、短期間の訓練を経て、フィリピンなどの激戦地へと送られて行った。

 明治神宮外苑競技場があった現在の国立競技場の敷地内には「出陣学徒壮行の地」の碑が建てられている。平成5年(1993)に元学徒兵の有志が建立したもので、壮行会が行われた10月21日に犠牲者を追悼する式典が行われている。

 出陣した学徒は10万人と言われているが、出陣学徒の人数は伏せられた。最終的に駆り出された学徒の数は13万人とされるが、戦死者ともに不明のままである。ただし大学によってはそれぞれ追跡調査して死者を割り出しているが、それらはほぼ平成2年(1990)以降のことである。ただこの不明については「空襲で記録が焼けるなどしたため、正確な人数はわかっていない」との記述が散見されるが、それは誰もが思う推測であって事実ではない。仮に焼失したとしてもそれは限られているはずで、まず記録類は先に持ち出されるものである。例えばこの新宿区の出征者数と戦死者も不明であり、全国的に各自治体における戦死者数はごく一部を除いて不明となっていて、ほぼ正確にわかっているのは空襲による戦災死者数だけである。その理由は敗戦が決まった8月15日、軍政府が全国に軍事関係資料の焼却の指示を出し、それは海外の占領地の軍隊も含めてであり、各自治体の出征記録も焼却の対象であった。大学においても同様で、大学自身が4、50年以上経って戦時下の自校の調査するときに戦時下の知りたい資料が何も残されていないという事実に直面した。しかも筆者が調べた範囲において、それが焼却されていたためであるということがほとんど認識されていない。極端な場合、女子高生がその影響で自分の日記を燃やした例もある。戦争を起こした人間たちは、負けたという途端、この多大な犠牲を出した戦争を無かったことにし、自分たちの罪から逃れようとしたのである。戦災死者数は自分たちの被害記録のゆえに焼却されなかったのであろう。

 そもそも戦争に踏み切る為政者もしくは軍人は、どの国においても正義の戦争という名目を掲げるのが常で、その名目で若者の心を鼓舞し「お国のために」と戦地に向わせる。この学徒出陣式もその例である。しかも学徒たちはこの戦争の端緒となった日中戦争開始の頃は10歳前後の子供で、その頃からいずれは戦争に行き国のために死ぬことは義務として脳裏に焼き付けられ、徴兵忌避などという発想はなかった。そして戦死した学徒たちは「英霊」とされたが、焼却という行為はその英霊すらいなかったことにしたわけである。ちなみに特攻隊となったのは、即成の学徒兵が多いが、これは少年時代から育成した飛行兵(海軍の予科練など)に比べて、金をかけずにすむからとの軍の政策でもあったという。

市ヶ谷の参謀本部

 自衛隊の市ヶ谷駐屯地は江戸時代には尾張徳川藩の江戸屋敷があった。明治7年(1874)に兵学寮が京都より移転し、陸軍士官学校となった。昭和9年(1934)、この陸軍士官学校の校舎として、市ヶ谷1号館が建設された。しかし陸軍士官学校はその数年後に座間・朝霞などに移転し、その後、昭16年(1941)12月までに陸軍省・参謀本部などが市ヶ谷に移り、この建物を使用することになった。そして太平洋戦争時の陸軍の中枢部はここに置かれ、主要な作戦指導が行われ、戦時になると参謀本部の下に報道や補給部門が編入されて陸軍大本営となった。

 戦後、市ヶ谷には第一復員省が設置されたが、まもなく米軍に接収され、1号館の大講堂は昭和21年(1946)5月から23年(1948)11月まで、極東国際軍事裁判(東京裁判)の法廷として使われた。その後も極東米軍の司令部(朝鮮戦争時には国連軍司令部)として使われていたが、昭和34年(1959)に日本に返還され、陸上自衛隊の東部方面総監部として使われることになった。昭和45年(1970)11月25日、この1号館で三島事件が発生、建物2階の総監室に三島由紀夫と楯の会のメンバーが立て籠もり、集められた自衛官に向かってバルコニー上で演説をし、その後三島は総監室で割腹自殺を遂げた。

 その後1号館は老朽化が進み、また防衛庁が港区赤坂から市ヶ谷に移転することが決まったため、惜しまれつつ解体されたが、その跡地には新しい防衛庁の庁舎が建設され、1号館は大講堂と正面玄関部分だけを組み合わせ、記念館として市ヶ谷駐屯地の高台に移築された。

 なお戦時下の日米開戦前の1941(昭和16)年8月から地下壕の建設が開始された。完成当時は、地下15mで長さ約50mの通路3本に連絡用通路2本が並行して掘られており、厚さ約4mのコンクリートに覆われ、爆撃に耐えられるよう設計された。ここには陸軍大臣室や通信所もあった。総面積は1200平方mで、映画館が二つ入るほどの広さがあった。現在、この地下壕と市ヶ谷記念館は一般に公開されている。

陸軍戸山学校と軍楽隊

 明治初期に大日本帝国陸軍は新宿区戸山に陸軍戸山学校を設立するが、大正元年(1912)に戦術科、射撃科、教導大隊を分離し千葉県に陸軍歩兵学校を設けた。戸山学校は体操科(剣術)、軍楽生徒隊を統括し、その後射撃術も取り入れた。今の戸山公園部分から西早稲田キャンパスのある場所一帯に射撃訓練場もあった。学校では中尉・少尉、下士官を対象とする甲種学生には、体操、剣術、銃剣術などの訓練を行った。乙種学生は各隊の喇叭長が対象で、喇叭譜の訓練を実施、そこから軍楽部を志す者から選抜し教育して陸軍戸山学校軍楽隊となった。太平洋戦争中は陸軍戸山学校を中心に隊員を捻出して関東軍・支那派遣軍・南方軍といった総軍に軍楽隊を派遣した。軍楽隊では演奏のみならず、部隊歌といった軍歌・軍楽の作曲や、行進曲への編曲活動も盛んに行われ、「陸軍士官学校校歌」や、昭和15年(1940)当時の南支那方面軍軍楽隊が作曲した「飛行第64戦隊歌(加藤隼戦闘隊歌)」などがある。また戸山学校軍楽隊には軍楽隊員の中から臨時的に編成される合唱団の存在があり、演奏ともども多くのレコードに歌を吹き込んでいる。昭和19年(1944)には、中国戦線で速成される軍楽隊をコミカルに描いた映画『野戦軍楽隊』が制作、公開された。

 昭和20年4月13日の城北大空襲で戸山学校が焼かれ、総勢250人の軍楽隊は中央区の日本橋女学館の校舎を借りることになり、そのうち180人がそこに居住した。彼らはまず空襲を避けるためとして校舎の白壁にコールタールを塗り迷彩を施した。そして食料を確保するため校庭で豚を飼い、近くの焼け跡を耕して野菜作りをした。ところが5月25日にこの学校も空襲に遭ったが、屋上などに降り注いだ焼夷弾を音楽隊と校長たちが消し一部の被害にとどめた。実はこの軍楽隊の中に戦後日本の音楽界で活躍する団伊玖麿と芥川也寸志、梶原完、斎藤高順などがいた。みんな東京音楽学校在学中であった。終戦で解散される日に音楽隊はこの学校で音楽会を開き、代わりに生徒たちは合唱で応えた。戸山学校の跡地には現在国立国際医療研究センターが所在する。

陸軍軍医学校と731部隊

 昭和4年(1929)陸軍戸山学校に近接した場所に陸軍の医学科系教育機関が移設された。昭和7年(1932)に陸軍軍医学校防疫研究室が設立され、8月、陸軍軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「 三研」)が開設され、翌年には近衛騎兵連隊の戸山の敷地を譲り受け、防疫研究室は鉄筋2階建の研究棟に移った。防疫とは一般的に衛生としてのイメージがあるが、具体的には細菌の大量培養が行なわれ、戦時下用の細菌戦のための研究であった。部隊は石井四郎軍医少将をトップに技師、技手、技術雇員、医学部の学者、研究者、医師等で組織される300人位の集団に膨れ上がった。

 これに並行して日本が占領する中国満州に関東軍防疫部が設置され、ハルビン市郊外に本格的な設備を備えた施設を建設した。昭和15年(1940)には「関東軍防疫給水部」と改称し、満州各地に支部を持つようになり、ハルビンの本部は昭和16年(1941)に「第731部隊」と改称された。731部隊は中国人を使って人体実験をしたことで有名であるが、例えば極寒の地に被験者を置いて故意に凍傷にさせる凍傷実験や、毒ガスの致死実験、異種血液の注入、伝染病の感染実験などの人体実験を行い、国際法上使用が禁止されていた細菌などを使った生物兵器や、毒ガス兵器の研究・開発を行っていたことが戦後の調査でわかっている。ちなみに石井四郎は日本が敗戦となって部下たちをおいてすぐに日本に逃げ帰ったが、戦後の占領米軍により戦犯として一時収容されるも、731部隊の詳細な研究資料提供と引き換えに訴追を免れたという。

 731部隊は日中戦争の前線でも細菌弾(ペスト菌など)も製造し、それを飛行機から散布し、大きな被害を与えた。日中戦争終結後においても、ペスト菌は残留し、中国の湖南・浙江両省の人々の生活と健康を脅かし続けた。また日中戦争では毒ガスも多用されていたが、これについては陸軍は昭和の初期から製造し、演習場で投下実験を繰り返し、その役割は731部隊にも引き継がれ、実戦では毒ガス弾は細菌弾以上に多用され、その遺棄弾(敗戦後、日本軍は数万発以上の毒ガス弾を処理せずにそのまま埋めてしまった)が今も中国各地に残っていて害を与えている。現に、日中戦争以降の戦時下の女学校の防空演習の時に、防弾マスクを着用して訓練を行ったとの記述もあり、日本軍自身が中国で使っていたから、敵からも使われるであろうとの予測によるものである。ただし米軍の空襲で毒ガス弾が使われた形跡はない。

(ペスト菌散布については昭和15年から16年(1940−1941)に多く行われ、毒ガス弾の使用についても筆者の「中国における日本軍の年月日別空爆全記録」参照)

戦後の出来事

敗戦となって

 当時、海軍潜水学校に配属されて訓練中に天皇の終戦の詔勅のラジオ放送を聞いた当時21歳の人の話である。—— 終戦まで私たちは「お前たちは戦争で戦って死ぬんだ」と洗脳されていた。しかし上官から「戦争は終わった。お前たちはもう家に帰っていい」と告げられた。それを聞いた時、私の頭が思考停止した。死ぬということから、生きていくという急な転換に頭がついていけなかった。慣れてきたのはそれから2年後のことだった。

 当時、市ヶ谷に住み、昭和17年(1942)4月の最初の米軍の空襲で家を失い、終戦の年に13歳で、軍需工場で勤労動員していた人の話である。

—— 市ヶ谷は軍人が多く、かっこよくて憧れていた。18年(1943)には空襲に備えた建物疎開で家屋を綱で引っ張り、壊していく作業も手伝った。終戦のラジオの放送では何を言っているかわからず、大人たちから日本が負けたことを知らされた。戦争が終わって電気をつけて生活できるようになりホッとした。焼け野原になって四谷のほうまで見渡せるようになり、実際に軍人さんが書類などを燃やしているのが見えた。

 当時、14歳で疎開先で勤労動員していた男性の話。

——講堂でラジオを聞くために軍靴を脱いで足にゲートルを巻いた姿で正座した。最初はよく聞き取れなかったが、「忍び難きを忍び」と聞いた時、日本は負けたのだと知った。「神州不滅」「有史以来負け知らず」と教えられていた軍国少年にとって大変ショックだった。放送が終わると前の方の生徒数人が大きな声を出して背伸びした。ゲートルを巻いたまま正座したので足が痺れていた。すると若い教師がその生徒達にいきなり往復ビンタを加え「貴様達のような奴がいるから日本は負けたんだ」と言った。憂さ晴らしだったのだろう。

 当時、12歳だった女性の話。

—— 敗戦の日、隣の友達の家に行った。「戦争終わったね」「うん」「もうB29来ないね」。空を見上げると抜けるような青空にぽっかり二つ夏雲が浮かんでいた。その時12歳の私は、戦死した父は無駄死にだと思った。その日まで「日本は神国で負けたことはない」「最後には必ず勝つ」と信じ込まされていた。騙されたあの時以来、私にとって我が国はこの国になった。残された遺族にとって、毎日が辛酸の日々となった。

 当時、13歳だった女性の話。

—— 終戦の時の開放感は大きく、「これで命の危険はなくなった」とほっとした。放送を聞いた後、花柄の半袖の服に着替えた。戦争は映画に出てくるような綺麗事じゃない。優しくしてくれた従兄弟たちも出征して戻ってこなかった。

 当時、19歳だった男性の話。

—— 初めは日本が勝つと思っていた。けれど食べ物がなくなり、空襲で家を焼かれるといつ終わるんだという気持ちになっていた。戦死した兄の遺物を受け取るため増上寺に行ったが、そこでは「名誉の戦死」と言われて箱(遺骨)を渡された。コロコロと音がするので開けてみると石ころが一つ入っていた。

(「新宿区平和都市宣言30周年記念誌」より)

新宿マーケット

 戦前から栄えていた新宿の大通り商店街は、戦時下の物価統制と物資不足による配給制により正常な経済活動は停止し、ヤミの取引が行われるようになっていた。そこに米軍による大空襲が襲い、商店街は壊滅的な被害を受けた。新宿区域は 80%が 焼け野原になった。戦後のヤミ市は新宿がその先頭を行った。

 終戦となってすぐにこの大通りにトタンや廃材で小屋がけをして商売をはじめる人が出てくるようになった。ところが終戦3日後の8月18日、 都内主要紙の朝刊にテキヤの関東尾津組が「新宿マーケット」の商品を募集する広告を掲載。20日、新宿駅東口の焼跡に露店市が開店された。「光は新宿より」のキャッチフレーズでヨシズ張りマーケットだった。マーケットは今の高野果実店の脇から焼け残った三越あたりまでの一角を占めた。当時は疎開したまま戻ってこない商店主も多くいて、自分の土地に戻ってきたとき、すでにマーケットのバラックが建っていたからいざこざも起きた。ただ尾津組は土地の一時的な利用許可を警察から得ていた。その後も参入者が増え、この地区は無法の街となっていた。

 当初は日用雑貨が主だったが、軍需用の半製品を抱えたまま終戦で納入先を失った下請け業者らが翌日から続々と詰め掛けた。まもなく食べ物も売り出し、人々が殺到した。その後武蔵野館から南口にかけての和田マーケットと、西口線路沿いに民衆市場その他もできた。ほぼ同時に当時の角筈一丁目北町(現在は歌舞伎町の一部)の町会長・鈴木喜兵衛が復興計画に着手、8月23日には町会員に趣意書を送った。健全な娯楽街とすることを目指し、街を整理し、民間主導の戦災復興事業となった。それが現在の東洋一といわれる繁華街、歌舞伎町となった。これらがつながって新宿西口の思い出横丁ややきとり横丁にもなった。ただし特に「新宿マーケット」では土地の所有に関しての訴訟もあり、その解決には時間がかかった。昭和20年(1945)ごろから露店への規制が強くなり、昭和30年代(1955-64)半ばに新宿駅付近の大規模復興計画が始まり、これらのマーケットは消滅した。

陸軍軍医学校跡地

 上記で触れた軍医学校跡地において、平成元年(1989)7月、国立感染症研究所の建設工事中、多数の人骨が発見された。当初の警察発表では頭蓋骨・大腿骨が中心の35体とされたが、骨の鑑定を求める市民の声が上がり、平成3年(1991)秋新宿区が札幌学院大学の佐倉朔教授に鑑定を依頼、翌年にその結果が出て、人骨は百体以上、1例を除きモンゴロイド系人骨だが複数の人種からなり、頭蓋骨十数個には人為的な加工の跡があり、さらに銃弾や刃による傷のある遺骨が複数あったため、満州の731部隊による生体実験の犠牲者ではないかなどの疑惑が高まった。それを裏付ける証言は(下記の軍医湯浅を含めて)複数あり、近隣住民と市民団体は遺骨の調査を求めて提訴したが、平成4年(1992)、新宿区は今後の人骨の扱いについて「厚生省と協議するが、区としては焼却・埋葬する方針」と発表した。一方で厚生省は同年、人骨の由来調査を開始した。

 平成5年(1993)には109名の新宿区民と市民団体が新宿区に対し、発掘された人骨を焼却せず、その調査・研究を行えるようにと人骨焼却差し止めの監査請求、それに対して新宿区は監査請求を棄却、さらに市民団体は新宿区長他3名に対し、人骨焼却差止訴訟を東京地方裁判所に提訴、翌年東京地裁は却下の判決を下す。この却下判決を受けて日本弁護士連合会人権擁護委員会は12月、新宿区に人骨の保管を勧告し、東京高裁に控訴、平成7年(1995)に控訴棄却の判決、さらに住民側は最高裁に上告、平成12年(2000)、上告棄却の判決となった。ただ結審後の12月、由来調査中の厚生省と人骨を保管している新宿区とで以下の協議が行われ、平成13年(2001)、将来の由来調査を前提に(身元確認の科学的知見が整うまで)、弔意をもって人骨を保管することを決定した。そして国立感染症研究所を含む戸山研究庁舎内に御影石造りの納骨施設が建立され、平成14年(2002)3月に納骨式が行われた。

 一方で厚生省は厚生労働省となるが、その調査報告は「大量人骨は(中国の)戦場に遺棄された戦死体からの研究用標本」つまり「第731部隊の生体実験との関連性は見いだせなかった」と結論付けた。しかし市民団体は厚労省の報告書の基となった元軍医学校関係者約300人への聞き取りや郵送調査の回答票などの開示を同省に請求し、そこには「戦場に遺棄されている多数の中国兵戦死体から主として、頭部戦傷例を選別し旧軍医学校に持ち帰り標本としたものだと聞いた」や「ハルビンよりドラム缶のホルマリン漬けの生首が届けられ、使役で取り出しに参加した」などの証言があったと報告した。

 平成18年(2006)、軍医学校の元看護師の女性(戦後は旧陸軍病院であった国立東京第一病院に40年ほど勤務していた)が「終戦と同時に進駐軍に見つからないように人体標本を三カ所に埋め」「埋めるのを手伝った」と証言したことから平成22年(2010)、厚生労働省が改めて発掘調査を行う方針を固め、翌年、職員住宅を壊して調査したが、軍医学校時代のものと思われる医療用の器物以外に新たな人骨は出てこなかった。

 上記の市民団体「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」の一連の動きの中で、会は中国帰還者連絡会(中帰連)と連絡をとり、平成3年(1991)中国友誼促進会(友促会)対外連絡部代表が来日した。その二ヶ月後、究明する会の予備調査メンバーが訪中し731部隊の被害者遺族と面会した。少なくとも3000人はいたと言われる731部隊の犠牲者のうち、59名が確認されていた。そこから遺族たちは日本弁護士連合会(日弁連)人権擁護委員会を通して日本の外務省と厚生省、新宿区に対して「人骨」の保存と調査、身元が判明した場合の返還と補償を求めて申立書を提出した。また遺族たちは平成5年(1993)の証言集会でも来日し、この動きは日本国内での731部隊展開催への流れを作り出し、さらに731部隊の犠牲者、毒ガス戦・細菌戦の被害者たちが日本軍を告発し、裁判闘争を始めるという状況も生まれたが、ことごとく却下された。

 戦時中の満州に置かれた731部隊では軍医や研究者が多く集められていた。その中の一人、元軍医で戦後も中国に残り医者として地域医療に貢献していた湯浅謙は、人体実験の罪で撫順戦犯管理所に収容された。その時の経験を湯浅は本にしているが、実際に人体実験で殺した青年の母親に引き会わされ、大いに動揺した経験を持つ。人体実験は731部隊の中では日常的に行われていて、ほとんど誰も罪の意識を持たずに行っていたことも描かれている。だからこそ湯浅は戦後も中国に残留していた。なお上記に「ホルマリン漬けの生首」とあるが、湯浅の本の中にも、ある学者がその生首を研究用に自分で持ち帰ったとの話も記されている。(なおこの本の要約は筆者の『各種テーマ別の記録・証言』の「慈恵医大卒業生:湯浅謙の軍医体験」を参照)

防空壕犠牲者慰霊碑

 昭和20年(1945)5月25日の山の手大空襲で、早稲田大学喜久井町キャンパス内の防空壕で犠牲となった学生数名と近隣住民ら約300名を慰霊しようと戦災者供養観音像が理工学研究所によって昭和30年(1955)5月に建立され、昭和58年(1983)には碑文も設置され、毎年5月25日、喜久井町町内会との共催で観音慰霊祭を行っている。これとは別に昭和52年(1977)、隣接する感通寺敷地の奥に観音像が建立された。以下はその碑文である。

[建立縁起]

昭和20年5月25日 当町を含めて山手地区は米軍の空襲を蒙り悉皆灰燼に帰せり酸鼻の状たる死屍累々として巷に倒れ残月白骨を照し遂に惨害して異物と為すの観なりき。殊に夏目坂台地より早稲田通に向けL字型構築せる地下壕の中に避難の人々は爆撃炎上焔と瓦斯のため犠牲者参百余名を超えたりと。親は愛児を抱き、若きは老たるを庇い、夫は妻を助けんと為したる等、或は全身大焼炭化し、或は生けるが如く直立し、或は両手を虚空にして落命せる等、目を蔽い言を失う恐怖地獄の惨状なりき。惨害無残非命に倒れし犠牲を念ずとき人皆歔欷し或は慟哭し、心折れて生事を悲しむなり。屍を積んで草木腥く流血は瓦礫を染めて声なし、まことに国破れて山河あり、魂魄招けども再び来らずの感慨を深からしむ、ここに春風秋雨めぐりて三十三年の歳月を閲みし漸くにして観世音菩薩一体を造立し奉ることを得たり、願くば日米彼我戦歿之諸英霊・町内戦災殉難之諸精霊・当寺戦死病没之諸英霊・鎮魂供養のためなり。今や一会の大衆と供に梵唄誦経修する所の秘妙五段の加持を以て観世音菩薩御尊像開眼供養の法儀を営なみ、仰而喜久井町観音と名づけ奉る者也、造立し奉る喜久井町観音、その妙智之力は能く群生の苦厄を救い、十方諸々の国土に於て身を現ぜざるなく、克く生老病死の苦を減じ常に苦悩諸厄に於て依怙とならせ給わん事を。

 昭和52年5月25日

  造立願主感通寺二十世伝灯新間日恵

 このそばに「町慰霊園」碑があり、町の碑文と犠牲者89人の氏名が刻まれている。なお刻まれた犠牲者が少ないのは、残された家族が四散したこともあるだろうし、一家全滅もあるからと思われる。

野球の復活と神宮球場

 戦前、神宮球場では東京六大学野球リーグが行われていたが、昭和18年(1943)4月7日、戦況の悪化により文部省はリーグ解散を通達し、28日、東京六大学野球連盟は解散する。その半年後の10月21日、学生への徴兵猶予解除により神宮外苑競技場で学徒出陣式が行われるが、その前の10月16日、出陣前の学生たちによる学徒壮行早慶戦が早大の西早稲田戸塚球場にて行われ、これが戦時中最後の試合となった。ちなみに戸塚球場は戦時下の国の金属回収令により、6月には鉄製スタンドと照明塔が撤去されていた。

 20年(1945)5月25日、空襲により神宮球場は大火災で焼失。当時神宮球場は都の貯蔵倉庫として使用されていた。投下された数百個の焼夷弾に、格納されていた薪炭、建築資材、糧まつなどが数日間燃え続け、鉄筋コンクリート造りの巨体も僅かに鉄骨の残がいが残るという惨状であった。敗戦後の20年(1945)9月、明治神宮外苑を進駐軍GHQが接収、神宮球場は『ステートサイド・パーク』と名付けられ、進駐軍専用野球場として使用された。

 GHQはスポーツには寛容であり、20年(1945)10月28日、神宮で東京六大学OB紅白試合、続いて11月18日、オール早慶戦が開催され、この時の観衆は4万5000人にものぼり、日本の復興へ向けての人心を支えた。続いて11月23日、神宮球場で戦後最初のプロ野球試合として神宮球場で東西対抗戦が行われた。翌21年(1946)3月11日に東京六大学野球連盟が復活し、球場は21年(1946)5月から22年(1947)6月にかけて全面修復工事を行い、8基の照明塔も新設された。その間、21年(1946)9月より進駐軍はシーズンオフでの学生野球使用を許可した。

 昭和27年(1952)3月、神宮球場接収解除。明治神宮に返還された。(後楽園球場については文京区参照)

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