千代田区:麹町区 + 神田区

千代田区の空爆被害

 昭和6年(1931)日本軍は満州事変を起こして翌年満洲国を設立、そこから領土の拡張を狙って昭和12年(1937)に日中戦争(支那事変)に突入、この戦争で欧米からの非難が強くなり、経済制裁もあって日本は昭和16年(1941)12月8日、日本海軍は米国真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、同時に陸軍は英国領マレー半島に上陸作戦を行って、米英に宣戦布告して太平洋戦争(大東亜戦争)に突入した。しばらくの間日本軍は米英や豪州軍に対して快進撃を続けるが、ミッドウェー海戦に破れて攻守が逆転していき、それでも日本は中国と東南アジア各地に戦線を拡大して行った。昭和19年(1944)半ば、米軍は日本軍の占有するサイパン島を手始めとしてマリアナ諸島の島々を陥落させ、そこに空軍基地を整備、最新鋭の大型長距離爆撃機B29を大量に配備し、昭和19年(1944)11月24日より日本本土への本格的空爆を開始した。

〇 空爆日:昭和19年(1944)11月29日、12月10日・27日・31日/昭和20年(1945)1月9日・27日、2月19日・24日・25日、3月10日、 4月13-14日・15、5月24-25日、7月20日(全14回)

〇 被害状況:死者896人、重軽傷者4900人、被災者4万850人、焼失等家屋2万5690戸。

〇 出征者と戦死者:不明(敗戦直後に各自治体の兵事関係簿を政府の指示で焼却してしまったことによる)

<空爆被害の詳細>

 昭和19年(1944)11月29日 夜間:米軍の記録ではB29爆撃機25機が出撃、目標は工業地帯及び造船所とあるが、10機程度が神田地区から東の4, 5区に来襲、神田の被害が大きく、死者12人、重傷34人、焼夷弾により全焼家屋1294戸、被災者約5000人。

 12月10日 夜間:B29が2機、偵察と訓練を兼ねてか有楽町と江東、台東区に来襲、焼夷弾を数十個投下し、全体で死者1人、重軽傷者2人、家屋の全半焼25戸。

 12月27日 昼:B29、52機が武蔵野の中島飛行機工場を目標にして来襲、都区内にも分散して空爆し、京橋で自軍の対空高射砲の弾片が落下し、負傷者2人。

 12月31日 夜間:B29が1機のみ来襲、その1機で焼夷弾を1676個投下した。旧神田区の他、台東、文京区が被害を受け、全体の死者1人、重軽傷者19人、家屋の全焼506戸。焼夷弾は上空で分散された小さい筒状で燃えながら落下し、人の手でも消し止めることができたが限度があった。

 昭和20年(1945)1月9日 午後:麹町区で高射砲の断片により負傷者3人。

 1月27日 午後:B29、62機が来襲、250kg爆弾124個、焼夷弾1200個を主に有楽町・銀座地区を中心に投下、有楽町駅付近は低空からの機銃掃射が行われ、街や駅を行き交う人を狙い、付近は遺体であふれた。有楽町と銀座つまり中央区と千代田区の死者は約250人、負傷者270人、被災者1640人、被害家屋370戸。負傷者は各病院に搬送され、死体は日比谷公園にトラックで仮収容された。焼夷弾は使われなかったため家屋の焼失は少ない。その日の目撃証言に「第一生命ビルの脇に死体が山の様に高く積まれていて、先程まで生きていた人に縄がかけられ、ツルハシで物のようにトラックへ引きずり上げられる様を見て気の毒で涙が出た」とある。この日の空爆は広範囲で、都内全体で532人の死者となった。

 2月19日 昼:米軍の記録ではB29、131機が武蔵野の中島飛行機を目標としたはずが、都区の東側に来襲、爆弾と焼夷弾を混じえて投下、死者163人、重軽傷者223人、家屋の全壊全焼等1021戸。区の被害は小。

 2月24日 夜間:1機のB29が来襲、250kg爆弾7個と焼夷弾2個を投下、旧神田区への爆弾で死者8人、重軽傷者19人、全半壊家屋4戸。

 2月25日 午後:B29、201機が来襲、神田地区の死者は9人、重軽傷者68人であるが、焼夷弾による家屋の焼失が他区より飛び抜けて多く7576戸、被災者は約2万9000人。

 3月10日 未明:いわゆる東京大空襲の日で、被害の詳細は墨田区江東区などを参照。千代田区の死者は旧神田区306人、麹町区31人、重軽傷者は神田区2424人、麹町区746人、家屋の全焼は合わせて5600戸、被災者1万1400人。空襲の様子は浦和に疎開していた人からも見えたという。

 芳林(現昌平)小学校は関東大震災で焼失し、鉄筋コンクリート造りとなり、空襲時の避難場所に指定されていた。しかしすでに一杯で中に入れてもらえなかったお腹の大きいお母さんが3歳ぐらいの女の子の手を引いたまま一緒に小学校の裏で焼け死んでいたという。また神尾病院の防空壕で看護師8人が煙で窒息死した。(こうした悲劇はその後の空襲でも日常的に見られた)

 神田駿河台にあるニコライ堂は実はロシア系の教会ということで、米軍の空爆対象から外されて焼け残ったため、地元民の要望により、この日の空襲で焼死した遺体の安置場所として解放された(同様な話として中央区の聖路加病院を参照)。

 4月13日 深夜:B29、330機が来襲、豊島、北、荒川、板橋区を中心として大きな被害となり、城北大空襲と呼ぶ。区の死者14人、重軽傷者150人、家屋の全焼1860戸、被災者約1万500人。この日、法政大学と飯田橋の逓信病院が罹災した。

 5月24日 未明:B29が最大の525機で来襲、品川、大田、目黒区を中心に大きな被害があり、城南大空襲と呼ぶ。区の被害は死者1人、重軽傷者26人、家屋の全焼等800戸。

 5月25日 夜間:B29が前日に続き470機で来襲、山の手大空襲とされる。区の被害としては旧麹町区の被害が大きく(それまで焼かれていない場所が多かったため)、死者201人、重軽傷者128人、焼失家屋5500戸、被災者2万5500人、神田区はそれぞれ3人、159人、505人、2553戸となっている。麹町区役所の地下に避難した人たちは爆弾避けに周囲に木材を積んだが、焼夷弾ではそれが仇となり、大半の人が焼死した。皇居の明治宮殿も被弾し焼失したが、皇居は米軍の空爆対象から外されていて、誤爆と思われる。この時、B29、1機が対空砲火により一番町の英国大使館東側に墜落、乗員12人全員死亡、ただし焼死体は9人しか確認できず、小石川の陸軍墓地に埋葬され、戦後米軍が引き取った。

 6月の調査では、残存戸数が麹町区で900戸、神田区で3000戸となった。

 7月20日 午前:B29が1機来襲、東京駅八重洲口に500kg爆弾一個を投下、死者3人、重軽傷者3人。これは原爆投下のための実験的な大型のパンプキン爆弾とされ(西東京市参照)、当時八重洲は堀であったため、被害が少なかった。

空爆で焼失した小学校など

 番町小学校(北側8教室を除く)、佐久間小学校(現和泉小学校)、麹町小学校、富士見小学校、練成小学校(現:昌平小学校で、終戦直後に芳林小学校へ吸収統合され、芳林が淡路と合同し昌平となる)、橋本小学校(戦後、廃校となり一橋中学校に)、白百合学園・三輪田学園初等科(高女とも)。

 他には私立の暁星中学、大妻学院、家政学院、麹町学園、雙葉学園、精華(高女)、順天中学(その後北区に移転)などが全焼した。

戦時下の出来事

 基本的に戦時下とは、昭和6年(1931)に始まった満州事変からをいうが、その時期の詳しい出来事と背景は「東京都の概要」を参照。

集団学童疎開

 以下は各種資料より混成している。

 千代田区の小学生は、予想される東京への空爆被害を避けるため、19年(1944)3月までは1700人程度が縁故疎開していたが、親戚のない子も多く限界があり、6月に小学生3− 6年生の集団疎開が計画され、8月から実施された。神田区は福島県や埼玉県に約2700人、麹町区は山梨県(河口湖など)に約1300人が参加したが、強制ではないこともあってそれぞれ予定人員の半数以下であった。学校に集合して上野駅まで歩いて行く時、沿道で日の丸の小旗を振って送られ、まるで兵隊が戦地へ行くようだった。宿泊先は寺院や旅館が多く、そこから地元の小学校に通う場合や、お寺の本堂で付き添いの先生が授業をする場合もあった。男の子は「あなた方は未来の兵隊になる大切な身だから疎開するのだ。身体を丈夫にしてアメリカと戦わなければならない」と先生に言われていた。当時は小学生にも軍国教育が行われ、子供は「少国民」として教育され、みんな軍国少年であった。つまり大きくなったら「お国のために死ぬ」と考える子どもが普通にいた。

 疎開先は田舎でも、食料は軍隊優先に供出され、食べ物も子供たちにはあまり回ってこなかった。旅館にも米がなく代用食が多かった。山になっているグミとかアケビを採ってくるが、変なものを食べて中毒になった子もいる。川の魚やミジンコなど食べられるものはなんでも食べた。それでも栄養失調で皆やせてしまっていた。子供達は乏しい食料で空腹を抱えながら、淋しさもあって親兄弟に手紙やハガキを書いてせっせと送った。あるいは男の子たちは空腹と家恋しさに脱走を図るものもいた。冬は雪に囲まれて寒かったが、暖房もなかった。授業はあまりなく、木刀や竹槍などでの軍事教練や長距離の行軍もあり、農作業の手伝いもあった。

 「宿泊先は大きな立派な温泉旅館でした。けれども食べ物のないひもじさと、親から離れた寂しさで東京の親のところへ帰りたかった。近くにお土産屋さんはあっても何にも売ってない。ワサビの粉しか売ってなくて、それを買ってなめたり、ツツジの花を食べたり、青梅をもいで食べたりした。食べるものがないというのがどんなに辛いか。あのときは戦争に勝たなければいけないという思いしかなくて一生懸命でした。勝つまでは頑張ろうと、愛国精神のかたまりで、みんな文句ひとつ言わずに我慢していました。でも、私は5月に栄養失調になってしまった。病院で診断書を書いてもらい、父親が面会にきて連れて帰ってもらった」(栄養失調になると逆にまともに物が食べられず、回復には時間がかかった)。/「うちもそうですよ。埼玉に疎開していた4つ下の妹が栄養失調になりましたから引き取りました」/「食べるものはやはりなかったです。日に日にやせ衰えていきました。疎開中に、皇后陛下からビスケットが届いたことがあります。人数が多かったので、3枚しかもらえませんでしたが、少しずつなめながら一週間くらいかけて食べた記憶があります」。(千代田区戦争体験記録集より)これでも疎開費用は親から現在のお金で月に数万円ずつ徴収されていたのである。

 公立の学校と違って、千代田区に多い私立の学校は自分たちで疎開先を探した。4月13日の空襲で焼失した三輪田学園は東村山に学校農園を持っていて、前年8月に子供を疎開させていたが、教室もなく松林の中で授業をした。白百合学園も同様に箱根に児童を疎開させたが、やはり学校は焼失した。(注:両校の戦時下の様子は下欄の「千代田区の大学・女学校」から検索、参照)

 この疎開は20年(1945)3月までの予定が、戦況の悪化で延ばされた。同時に小学生1、2年生も追加された。ただし6年生は卒業式や進学の目的で3月9日までに帰京したが、直後の3月10日未明の大空襲で焼死した児童もいた。ところが中学校に進学できた永田町の生徒は、4月からそのまま勤労動員で静岡県の御殿場にひと月近く行かされ、石油の代用品を作るための松の根掘り(清瀬市参照)などに従事させられた。そして帰ってきたら立て続けに空襲にあった(5月24日、25日の城南、山の手大空襲)。しかし中学生以上は防空壕には入ってはいけないと決められ、米兵が来たら逃げずに竹槍を持って戦えと言われたという。

 疎開児童が帰京できたのは終戦の年の秋頃である。しかし帰ってきた時には自分の家が焼けていた子も多かった。親戚の家に一時的に間借りしたり、焼け残った学校の教室を間借りしたり、あるいは焼け跡の防空壕を使って屋根を作り、親と一緒に小屋の中で生活する子も少なくなかった。料理の煮炊きは石油缶などを使って外でした。

風船爆弾の製造(日本劇場と東京宝塚劇場)

 日劇は昭和8年(1933)に竣工、大きな舞台を持つ日本初の高級映画劇場として登場したが、東宝の経営下に入り、11年(1936)よりショー・ダンスに転換、日劇ダンシングチームを結成し、客足が増えた。13年(1938)には同盟国ドイツから来日したヒトラーユーゲント(ドイツのナチス党内の青少年組織)の歓迎公演も行った。しかし米国を敵視し始めた15年(1940)には英語の使用が禁止され、東宝舞踏隊と変えられた。その後16年(1941)の太平洋戦争開始前から、チームは東宝慰問隊の一団に参加して、日本軍の占領する広東や海南島、インドシナ(仏印=フランスの植民地であったベトナム・ラオス・カンボジア地域)など訪れ、1日数回の慰問公演を精力的にこなした。この時期は一般の劇団や漫才師たちも含めて内外の軍隊への慰問に駆り出されていた。昭和18年(1943)3月、戦時統制により、日劇の公演は中止となり、戦意高揚のための映画上映館に切り替えられた。

 一方で昭和9年(1934)1月、東京宝塚劇場が完成。13年(1938)、宝塚歌劇団は第一回ヨーロッパ公演に出発、「日独伊親善芸術使節団」としてドイツ・ポーランド・イタリアの26都市を巡演し、翌年3月に帰国した。そのまま同年、「訪米芸術使節団」としてアメリカ公演にホノルルと米本土9ヵ所を巡演した。米国との開戦2年前である。15年(1940)、宝塚歌劇音楽奉仕隊を結成、唱舞奉仕隊と改称して日本軍の病院や軍需工場を慰問した。米国との開戦の翌17年(1942)、第一回満州(現・中国東北部)各地と朝鮮半島(当時は日本の植民地)の京城(現・ソウル)で公演した。そして昭和19年(1944)3月、日劇閉鎖の一年後、宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)と東京宝塚劇場に閉鎖命令が下った。

 こうして両劇場とも閉鎖され、19年(1944)5月には風船爆弾工場となる。風船爆弾とは気球爆弾とも言われ、丈夫な和紙とコンニャク糊で作った直径10mの気球に水素を詰め、太平洋上空の高層圏を西から東に流れるジェット気流(偏西風)に乗せてアメリカ本土を攻撃しようとする兵器で、このためコンニャク芋が市場から姿を消したという。これは、資源が欠乏してしまった日本には格好の武器に思えたようであった。

 風船爆弾は『ふ』号作戦として19年(1944)9月に総員約2千名で気球連隊が編制された。千葉県一宮海岸と茨城県大津(現在の北茨城市五浦海岸一帯)、福島県勿来の三ヶ所に何基もの放球台、水素ガスタンク、水素ガス発生装置などを用意し、焼夷弾・爆弾を装填した。現場には陸軍気象部や中央気象台の技師といった科学者も配属されていた。ほかに気球の行方を追う標定隊があり、宮城県岩沼や青森県古間木にも設置された。その年11月から翌年3月までの間約9300発が放球されたが、アメリカ本土に到達したのはアメリカの記録では285発とされている。昭和20年(1945)年5月5日、オレゴン州で木に引っかかっていた風船爆弾の不発弾に触れたピクニック中の民間人6人(妊娠中の女性教師1人と生徒5人)が爆死した例が確認されているのが唯一の戦果であった。アメリカ政府は日本軍に伝わることを警戒して、厳重な報道管制を敷いた。終戦とともに陸軍は施設を爆破し、書類を焼却した。茨城県には放球作業中の事故の犠牲者を慰霊する石碑が残っている。

 この風船爆弾の工場は、他に浅草国際劇場、両国国技館にもあった。特に日劇と東京宝塚劇場には、主に千代田区に多数ある高等女学校の生徒(主に14−17歳)が勤労動員として駆り出されたが”(他に学生以外の14歳以上の“女子挺身隊”や、仕事の無くなった芸者さんたちもいた)、こんにゃく糊を扱う作業では、手が真っ赤に腫れ上がったという(糊に混入されている防腐剤の影響)。またせっかく作った風船を検査のためにふくらませている時に、パンと破裂してしまうこともあって、そんな時は本当に情けなく悲しかったという。なお風船爆弾の製造は主に高等女学校生徒を中心に、群馬県以西、宮崎県までの18都府県と満州にまで及び、100校ちかくを数え、都内だけでも、国公私立をふくめ、35校に及ぶという。戦況が悪化し、追い詰められていたとはいえ、戦時下では大変無駄なことをやっていたことがわかる。もちろんこの戦争全体では、国内外の多くの命(無駄死)も含めて壮大な無駄事が行われたわけである。

 戦後の20年(1945)9月、東京宝塚劇場は米軍占領軍に接収され、「アーニー・パイル劇場」として占領軍の劇場とされた(宝塚の大劇場も同様に接収されたが、翌年に解除された)。その間、復活した宝塚歌劇は日劇や帝国劇場で公演を行った。昭和30年(1955)4月になって、東京宝塚劇場は米軍接収解除ののち、新装開場した。

 日劇は20年(1945)11月に営業が開始され、再び多くの客が詰めかけた。露出度の高い衣装を身に着けての華麗な踊りは、長い戦争で娯楽のなかった観客を熱狂させた。翌12月、日劇ダンシングチームとして公演を再開したが、日劇は昭和56年(1981)2月をもって閉鎖し、現在有楽町マリオンとなっている。

国内の軍隊(「千代田区戦争体験記録集」より)

 徴兵された男性は海外の戦地に出征するばかりではなく、国土を守るための軍隊に入営する者も少なくなかった。以下はそのうちの九段北に住んでいた信太衛(大正12年:1923生まれ)の談話からである。

 —— 中学校を卒業してからは早稲田大学の専門部に進学した。今の短大のようなもので、その頃学校には軍隊がよく勧誘に来ていた。半年もしたら将校になれるといい、特に海軍の白い洋服は格好がよく、同級生はみんな憧れてずいぶん軍隊に入った。結局、私も専門部の学生のときに召集され、軍隊に行くことになった。この時代は天皇の召集ということで黙って受けるしかなく、逃げようものなら非国民と言われ、憲兵が来てすぐお縄になってしまう。みんな「元気で行ってきます!」と言っていますが、心の中では違うのではないでしょうか。

 最初の頃、出征の見送りは国防婦人会などの女性が割烹着を着て、旗を振りながら盛大に送り出していたが、私たちが出征する(戦争終盤の)頃は、「スパイがどこにいるか分からないから派手な見送りをするな、そっと出征してくれ」と軍に言われた。まず、横須賀の重砲(大砲)兵連隊に入り、砲兵として配属された。大砲の重いのは何トンとあるから、馬8頭くらいで一台の大砲を引っ張った。大砲には方向を計測する観測班、信号で知らせる通信班、砲士班の3つに分かれ、私は通信を担当した。宿舎は廊下の両脇に10くらいの部屋が並び、一部屋に20−30人が寝泊まりしていた。横須賀重砲兵連隊には全部で1000人くらいいた。

 午前中は学科、午後は演習、夜は銃器の手入れ。それから訓示があって、食事が終わってからは毎晩、営庭で30分くらい軍歌を歌い、そして就寝。寝具にはノミや南京虫がいたが、疲れ切っているからすぐ寝入った。

  軍隊の訓練では匍匐(ほふく)前進がいちばん辛かった。銃を持ち、地面にはいつくばって、100m前後やらされる。なにしろ上官の命令は天皇陛下の命令ということになっているから、絶対服従だった。「お前たちは戦地に行きたいか、行きたくないか」と上官に言われたが、本当に行かされたら困ると思い、返事をしないでいると、その日の晩にひどいいじめを受け、目から火が出るくらい殴られた。閉鎖的な団体生活だから、よし、と言うまで懸垂のようにずっとぶら下がっている“シャケ”、柱にかじりついている“セミ”、ウグイスの鳴き真似をする“ウグイスの谷渡り”など、いろいろないじめがあった。いちばん多いのはビンタだった。

 横須賀に半年くらいいて、それから沿岸防備隊として千葉県の銚子へ配属された。銚子ではほとんど砲台を作るための穴掘りばかりだった。毎日、地元の人を呼んで一緒に穴掘りをやった。(学徒勤労動員の)若い男女がたくさん来て手伝ってくれた。大砲といっても、もう明治式のもので、米軍が太平洋からくるのを防備するために、それを岩の間に据え付けた。靴は米軍が攻めてきたら履くように言われていて、裸足で作業を行った。

  銚子も、終戦近くにB29の攻撃を受けた。その2、3日前には水戸へ艦砲射撃があった。就寝していたら銚子までドカンドカンとすごい音が聞こえてきた。機銃掃射に遭ったこともあり、そのときは軍隊が利用していた小学校の校舎を出たときに本当に低いところを飛んできた。米軍の操縦士の顔が見えたし、すぐそばで薬莢が落ちる音まで聞こえた。もう壁際に逃げるので精一杯でだった。(米軍機は子供も平気で狙ったという証言がいくつも残っている)

 敗戦の放送(天皇の玉音放送)は銚子の軍隊で聞いたが、若い連中は「本土決戦だ!」と騒いでいた。そこでまた穴を掘って、軍事機密になっている重要書類や軍隊手帳などを放り込んでみんな焼いた。(この書類の焼却の光景は各地に残る)

 軍隊は紙一重で、同級生で一緒に出征した友人はシベリアへ連れて行かれて死に、硫黄島やサイパンで死んだりしている。私はただ運がよくて、今こうしてここにいる。

特攻隊の実態(同区体験記録集より)

 栃木県出身だが、戦後から、九段南4丁目で写真店を営んできた小野寺盛三郎(大正15・昭和元年:1926生まれ)の話からである。

 —— 横浜市立鶴見工業高校へ通っていたとき、たまたま学校に予科練の募集がきて、当時の予科練は真っ白な制服に”7つボタンは桜に錨”と憧れの的であり、自身も含めて三人が試験を受けることになり、学校で居残りの猛特訓を受け、三人とも受かった。16歳の時であった。予科練はまず茨城県の土浦海軍航空隊で一年間教育を受ける。この一年間も午前中は学科、午後は体育などの実地訓練があり、毎朝試験があってトイレの中でも勉強を強いられた。また予科練では10名の班に分かれており、一人でも何か過失があったら連帯責任で、過失の内容によって1−3回、精神注入棒(バットを改造したような棒)で尻を叩きつけられ、3回やられたものはみんなその場で倒れてしまい、トイレでもかがめないほどになった。

 真冬の真夜中12時頃、非常召集がかかり、裸にパンツ1枚で飛行場に整列、大きな飛行場を1周する。その一周で真冬でもさすがに汗をかいた。すると次は防火用水に飛び込み、端から端まで泳がされた。水から上がると、誰かまわず取っ組み合いの相撲で、さらに滑走路へ整列して腕立て伏せが待っていた。体育の時間でも騎馬戦や棒倒しがあって、勝つまでやらされた。あまりに辛くて3人で脱走しようと考えたこともあり、毎週土曜日の午後から外泊日があり、そのときに脱走しようと相談したが、脱走すると一族全員の戸籍が赤字になって、いっさい公職に就けないと聞き、どうせ死ぬならお国のために死のうと思い直し、脱走をあきらめた。しかし食事は最高に優遇されていて、滅多に食べられない白米や生卵に牛乳、今でいうステーキも出された。

 半年後に飛行機に乗って訓練が始まり、「赤とんぼ」と言われた練習機を使った。最初のうちは教官が前に乗り、一週間後に操縦席に座った。予科練の訓練が終わると実際に戦争をする部隊に配属になり、鹿児島の鹿屋海軍航空隊へ配属になったが、そのときは、鹿屋が特攻基地だということを知らなかった。

 鹿屋からは、17年(1942)から19年(1944)にかけて南洋に基地のあったニューギニアのラバウルに何度も航空隊を送っていて、小野寺もラバウルで補給が滞り物資が不足するという事態になり、危険な船の輸送から切り替えた輸送機の護衛に当たった。しかし給油地の台湾の高雄の基地が19年(1944)5月に米軍に破壊されて動けず、6人の仲間と日本にしばらく残ることになった。その間に、鹿屋の仲間30人のうち、24人がラバウルの戦闘で戦死した。

 一方で、鹿屋に行って半年くらいたってから、予備学生が入ってきた。予備学生とは(昭和18年:1943秋に徴兵年齢を切り下げられた学徒出陣によって)大学在学中で志願してくる者で、予科練は一年間教育されて実戦部隊に配属になると、陸軍でいう伍長、海軍でいう二等兵になるが、彼らは一年で少尉に任官した。しかし「私が今こうして生きていられるのは、予備学生が入ってきたおかげです。予備学生は実戦部隊に配属され、半年後にはほとんどが特攻機に乗せられた。班長から私たち予科練卒は莫大な金をかけて教育したのだから簡単に死なせない、というようなことを言われた」と語る。それに短い訓練で、予備学生は目標に突っ込むことしか教育されていなかった。空中戦もやらなければならない予科練とは違ったという。

 「特攻隊員が特攻機に乗って涙を流している映画がありますが、私が知る限りでは誰一人としてそんなことはありません。あの当時、特攻機に乗る人間は神様以上です。特攻隊員は“行ってくるよ”、送り出す連中も“必ず成功しろよ”と言って、別れの盃を交わします。特攻機が飛び立つときは、司令から全員が一列になって見送り、最初は緊張していますが、実際にエンジンがかかって出るときは、“じゃあ、あとを頼むよ”と、みんな笑顔で手を振って飛び立っていきました。とにかく、特攻機に乗ったら生きて帰るということは考えていません。そういうふうに教育されていますから、死ぬことを全然怖いと思わない。それがみんな19歳から20歳ですよ」と。

 特攻のほとんどは一週間から10日前に班単位で「XX班、○月○日出撃」と指定された。その代わり一週間は「悔いのない生活をしろ」と言われ、無礼講で好きなことができた。出撃は終戦間際はほとんど沖縄で、米軍の軍艦へはとても無理で、物資を運んでいる輸送船や指揮艦を狙った。指揮艦を狙うのは特攻の班長の役目だった。つまり小野寺は鹿屋基地に配属されたが特攻隊員ではなく、ゼロ戦と言われる戦闘機を使っての戦闘員であった。ゼロ戦は米軍のグラマン機よりもスピード等で劣るが、グラマンの半分くらいで旋回できたから俊敏であった。その結果、グラマン一機を撃墜できた。

 昭和19年末(特攻隊がフィリピンなどで突撃を始めていた頃)に愛知県の明治村(現:安城市)の航空基地に鹿屋から20人が配属となった(注:おそらく「本土決戦」のための配置)。そこで訓練を続けていて敗戦の玉音放送があった日、隊内では(敗戦に)納得しないという空気が流れ、マッカーサーが相模湾に着水する予定ということで、隊長が撃墜しろという命令を出し、全機エンジンをふかして待機していた。実際に飛び立つというときに、司令から「絶対に飛び立ってはならん。そんなことしたら国賊になるという指令があって、中止になった。それに対して、みんな死ぬ気になっていたから、なぜやらないんだと残念に思ったという。もう少し敗戦が遅かったら自分は生きていなかっただろうと小野寺は語る。

 この誤報と同様な話で、大きな悲劇がある。—— 高知県の手結海軍基地(現・香南市)には約170人の特攻部隊と震洋25隻が配備されていた。震洋はベニヤ板で作ったモーターボート状の特攻艇である。ここには小野寺のあとに15歳で志願し(年々志願年齢は下げられていた)、同じ土浦航空隊で訓練した若者もいた。しかし兵器も物資も尽き、上官に「もう飛行機はない。水上特攻だ」と言われ、長崎県の大村湾にあった訓練所で震洋の操縦を学んだが、そこで教官に「トラック用のエンジンをつけかえた。ほかに戦うものはない。軍艦は無理だが、輸送船なら4メートルの穴はあく」と、2、3隻の集団で体当たりする訓練を重ねた。そして20年(1945)5月(沖縄戦で激闘のころ)、彼らは手結基地に配属された。

 終戦の日、敗戦と知らされ「ぶつかってやりたかった」と悔しくてみんな泣いた。翌日の8月16日、部隊に須崎の第23突撃隊司令から出撃準備の命令が無線で届いた。基地の拡声機が「敵が本土上陸を目的に土佐沖を航行中」と告げた。そこから出撃準備にかかり、船首に爆薬200kgを積んだ震洋を、みなで手分けし、壕から浜に並べ整備が終わるのを待っていたとき、1隻から火が出て周りの艇に次々と引火し、大爆発した。そして搭乗員、整備員等111名が爆死した。翌朝、誤報であることが判明、無駄死にであったが、この戦争自体の無駄を象徴する悲劇であった。

宮城事件:クーデター未遂事件

 これは宮城(皇居)の一角(現在の北の丸公園の南端)にあった近衛師団(天皇と皇居を護衛する)司令部が舞台となる。

 この戦争の終盤間際の7月26日、連合国により日本に降伏を求めるポツダム宣言が発せられた。しかし本土決戦を標榜していた軍政府は無視、翌日、各新聞社はその連合軍の降伏を求める宣言を嘲るような記事を載せ、2日後に鈴木貫太郎首相は戦争継続を表明した。そして6日に広島、9日に長崎へ原爆投下され(実は米国は7月16日に原子爆弾の開発・実験を終えて、日本の降伏拒否を待っていた)、その間の8日未明にソ連(ロシア)が日本との不可侵条約を破棄、日本の植民地満州に侵攻するに至って、その日、最高戦争指導会議で鈴木内閣はポツダム宣言受諾を検討、その後10日午前0時に天皇臨席の御前会議を招集し、最終的に降伏する方針となった。その早朝、中立国であるスイス及びスウェーデンの日本公使を通して連合国に通達した。

 その御前会議での決定を知らされ、徹底抗戦を主張していた多数の陸軍の将校から激しい反発が巻き起こった。さらに12日の連合国の回答文は「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従うものとする」とあって、天皇の地位が保証されていないとして、戦争続行を唱える声が大半を占めた。しかし翌日の最高戦争指導会議を経て回答受諾が決定された。その決定に対し官邸に戻った阿南陸軍大臣は6名の将校に詰め寄られ、クーデター計画への賛同を迫られた。

 さらに翌14日の最高戦争指導会議と合同の御前会議で天皇は無条件降伏を是認、その日の夜にポツダム宣言受諾の詔書に署名した。そして15日に国民に対し「終戦の詔勅」(玉音放送)をする運びとなり、深夜から宮内省政務室において天皇による録音が行われ、15日の午前0時過ぎ玉音盤は金庫に保管された。

 それを受けてこの日未明、あくまで徹底抗戦を主張する一部の陸軍将校達がクーデター実行に動いた。彼らは近衛師団長の森赳中将を担ぎ上げようとしたが、拒絶されたため、銃で撃った上、軍刀で斬殺、その場にいた参謀も一緒に斬殺した。続けて反乱将校達は偽の師団長命令を発し、近衛歩兵連隊を宮城占拠に向かわせ玉音盤の奪取を試みる一方、東部軍管区司令部にも決起を要請、さらに放送会館(現NHK)も占拠して決起声明を放送しようとした。

 しかし早朝、彼らを諫めようとして阿南陸軍相が割腹自殺し、事態は鎮圧に向かった。反乱に失敗した将校の一部は自決し、その他は憲兵隊に逮捕された。そして天皇による放送は予定通り正午に行われた。(実はその時まで米軍の空爆は続けられた)

 他にも「皇軍の辞書に降伏の二字なし」として徹底抗戦を唱え、首相官邸の襲撃や首相、枢密院議長、東久邇宮稔彦王らの私邸にも火を放ったグループもいた。終戦後も軍内では不穏な日々が続き、田中東部軍管区司令官の自殺もあった。事件に関係し残った将校たちは、敗戦に伴う軍組織の解体などの混乱により、軍事裁判にかけられることもなく戦後を無事に生き延びた。しかも自分たちを皇軍としながら、天皇の最終決断に従おうとしない彼らは反逆罪に等しいであろう。

 そもそもこうした国内にいた将校たちは、戦闘の前線で身を挺して戦うこともなく、頭、つまり観念の中だけで戦争を行なっていた。とりわけ太平洋戦争は、そうした将校と軍首脳部のせめぎ合いの中で決められ、そこに国民のことなど存在しなかった。それでも時代状況と軍によるそれまでの巧みなプロパガンダ(情報操作)が、この開戦で国民の多くを興奮させ、支持を得ていたわけで、軍民一体となっていた戦争であった。

 一方で同じ近衛師団でも、下層部の隊員にはこの日の出来事は何が何だかわからなかったという。ある近衛師団通信隊の分隊長は、14日夜、「宮城ハ、近衛師団ニ占領サレ、通信不能、善処乞フ」との電文を受け意味が飲み込めず、不安な気持ちで参謀本部に持って行ったとある。この分隊長は終戦のことも知らなかったのである。後で考えると数日前から広場でどんどん書類を焼いていたから何か変だなと思っていたという。この書類焼却は8月15日前後から内外を問わず、各地の部隊で行われていて、敗戦による占領軍からの追求を逃れるための、自分たちの戦争遂行に関する証拠の隠滅で、この大戦争を軍人たちはなかったものにしようとしたということである。

 別な隊員は数日後、師団司令部に今後のことを聞きに行くと、「命令なくして階級章を外してはならん」と言いつつ、トップの連中はさっさと階級章を外し、毎夜先頭に立って軍の物資を勝手に運び出していて、その後闇市に並べて儲けたという。これが”皇軍”の姿であった。「お国のためにという教育を受け、そのことのみを信じて死んでいった兵士たちのことを思うと、やりきれない気持ちでいっぱいだった」と。外地でも、敗戦となって兵士たちを置いて先に逃げた将校たちは多い。

 軍には優先的に食糧が供給されていたから、特に国内の軍隊内には豊富に食糧が備蓄されていた。仮にも上記の反乱将校たちが、国民一般と同様に栄養失調になるほどの食糧しか配給されていなければ、反乱する気にもなれなかったのではないか。恵まれた立場の中での自分勝手な暴走である。

 なお、この近衛師団の司令部庁舎は戦後は放置されたままであったが、昭和47年(1972)に国の重要文化財に指定され、東京国立近代美術館工芸館として改修整備されたが、その後工芸館は石川県に移転し、閉鎖された。

戦後の出来事

敗戦と将校の自決と軍事資料の焼却

 都の下水道局員として皇居前広場で軍の指揮下で工事をしていた人の話である(中野区の戦時下資料から)。

 —— 終戦の三日前に、陣地の隊長から集合命令が下り … 彼が、近いうちにあっと驚く事態が起こるから、みなさんは国家のために大変ご苦労であった、二日間だけ暇をやるから一度家へ帰ってこいと。みんな喜んで家に帰って、15日の朝に戻って来たら、正午に陛下から直々の放送があるから聞くようにと。これはいよいよ(本土決戦で)一億総玉砕だろうと思うが、どうも戦争は負けらしいという者もいて、そんな馬鹿なことはない、陛下はきっとみんな陛下のために死んでくれというに違いないと思っていた。ところが玉音放送で終戦となって、みんな気が抜けて、… とりあえずは陣地を解散して、武器も書類も焼けということになって、呉服橋の本部まで行って、書類をみんな焼いて、… 東京駅前の国鉄のビル(現丸の内一丁目)の職員なんかビルの窓から書類をみんな道路にぶん投げて、道路上で書類を焼いていた。すぐに敵が上陸して来るからそれまでに焼かなければと、みんな焼いた。(その後、陣地の食糧用に飼っていた牛を隊長からもらって呉服橋まで一頭連れて行ったものの、みんな殺し方もわからず処理するのに困ってしまい、そのうち日が暮れたので、また元の皇居前広場に牛を戻し終えると)3人の将校が二重橋の前で軍服を脱いで、軍刀で割腹自殺をしていた。そばまで行ってみたら、あの隊長(中尉)と少尉二人で、もう息はなかった。隊長はまだ27、8歳、少尉は25歳ぐらいだった。… あのまま隊長のそばにいて、一緒に国に殉じようという声がかかったら、私らも死んでいたかもしれないとその時思った。10年近く(以上)も戦争して、今までの苦労は全部水の泡になったわけだから。——

 筆者注:軍人でないこの方も誘われれば死んでいたかもしれないと思ったほどに、この時代は国=天皇に殉じても構わないとする思考停止の精神状態に国民は包まれていた。しかし、仮にもそれを天皇が直接聞くことができたなら、馬鹿なことはやめなさいと言われたであろうことは容易に察しがつく。ちなみにこの日は近隣の主婦や女学生も含めて大勢の一般の人が皇居前に集まり、土下座しながら涙する人も多かった。その中で同じように皇居前で切腹等で自決した軍人たちは約30名、そして日本の敗戦が決まった時から数ヶ月以内に自決した軍人は580名に上るという。遠く九州で一家で自決した軍人もいる。その中に東京の高等女学校で学んでいた女学生もいた。

 戦時の記録書類や資料の焼却については、上記に限らずあちこちにその記述が残されているが、正義の戦争とし、天皇の意志による聖戦のはずが、根本は全くそうではなかったということを軍政府自身が示す行為であったと言える。仮に本当に聖戦と信じてやっていたなら、書類など(聖戦の証拠品であるから)燃やすわけがないし、その行為は天皇への背信である。しかしそれを信じて特攻で死んで行った多くの若者(「散華していった英霊」とよく表記される)も含めて、これまで神州不滅、最後には神風が吹いて日本は必ず勝つという言葉を巷に流し、国民全体を煽ってきたことに申し訳が立たないと思わないのか、そんなこともわからない軍政府=大本営(大日本帝国の参謀本部)の連中が、この戦争を率いていた。

 これによって外地の戦線での残虐行為などの記録もなくなり、その後いつまでもそんな記録はありませんとしらを切る政府が続いている。同時代にもっとひどい戦争を仕掛けたドイツにも劣る国となっている。「歴史が判断してくれること」とよく政府の要人は言うが、その判断の元となる資料全てを焼き捨ててしまって、何の歴史というのか。結果、都合の悪いことについては、その記録を隠すか処分し、「そのような記録はございません」で済ませてしまう政官人がいまだに多くいる。反省することすら放棄してしまう日本国とは何なのか。一般の人々の中には反省する心を持った人は多く見かけるのであるが、その乖離は大きい。

 なお、冒頭にある<出征者と戦死者>が不明となっているのも(一部は戦災で焼失したとしても)、各区市町村の兵事関係書類も焼却されたからである。

戦後の生活

 千代田区にあっても多くの住宅が焼け、とりあえず自宅に掘った防空壕を利用してトタン板で囲い、一時的に住む場所にしたり(雨の日は大変だったとか)、板をあちこちから拾って来て仮小屋を建てたり、中には二間(畳4つ分)だけの「復興住宅」が配給され、家族4、5人でしばらくそこで暮らしたりしたという。食料不足は戦後もますますひどくなり、小さな土地があればそこを畑にし、国会議事堂の敷地内でもカボチャなどを作り、盗まれないように交代で見張りをした。料理も外で石油缶の下に穴を開け、薪を入れて煮炊きをした。風呂もドラム缶で沸かして下駄を履いて入った。

 学校も多くが焼失していて、授業は焼け残った学校に間借りしたり、できない場合は青空教室となり、雨の日は休校となった。麹町小学校は無事だったが、外地から引き揚げて来た人たちがそこでしばらく暮らし、再開された授業のかたわらで、おしめなど洗濯物が校庭に干してあったりしていたという。

 戦時下の女学校を個別に調べていて目にしたことであるが、戦後の食糧不足は深刻で、学校に弁当を持ってこれない生徒が多く、学校によっては仕方なく、しばらくの間授業を昼までとしたり、食べ物確保のために近郊まで出かける生徒も多いので隔日の出校にしたりするケースもあった。

 以下は「千代田区戦争体験記録集」より

 ——(食料事情は)むしろ戦後のほうが、ひどかったん じゃないですか。お米が本当に手に入らなく なって、うどん粉を練ってすいとんにしたり、 サツマイモをふかしたようなのが主食という家 庭が多かった」/「配給される農林1号ってサツマイモは、まずくて食えたもんじゃなかった」/「アメリカ軍からの放出物資では、おいしいものがたくさんありました。コンビーフの缶詰などは、うれしかったですよ。育ち盛りで肉に飢えていましたから」/「食糧事情ですが、この年は暑かったんですよね。焼けた敷地 をみんな耕して畑にしていて、カボチャとサツマイモがものすごくとれたんです」/「戦後の食べ物で思い出すのは、お堀の鯉ですね(笑)。憲兵隊司令部の前にあるお堀で、でっかいのが釣れたんですよ。サツマイモを釣り針の先へつけて、ぽーんと遠くへ放ると、面白いようによく釣れた」/「何でも食べました。芋のツルや葉っぱまで食 べました。もちろん、おいしくはありません。 大根おろしをするように、芋を裏ごし器みたいなものですり下ろして片栗粉用のでんぷんを取るのですが、すった後にカスが残るでしょう。 それをまんじゅうに入れて食べました。食えたものではなかったですが、闇市ではそれまで売られていました。ザリガニはたくさん捕れて、おいしかったですね。——

<闇の食料>

 —— 千葉で農家に食料をもらったり、買ってきたり売ったり。あの頃は誰もが闇で売ったり買ったりしていた。米をはじめ、味噌、しょうゆ、油、砂糖などみんな配給だから、とにかく闇で売っている物を食べないと生きていけなかった。大きな駅には必ず闇市があり、神保町から九段下に向かう通りにも闇市があった。当時は物価統制令が敷かれていたから、経済警察というのがいて、千葉で米などを調達して汽車に乗ると駅に警察が張っていて没収されてしまう。千葉からの汽車は両国駅に着きます。千葉でやられなくても、両国駅で没収されることもあった。経済警察は汽車の中に入ってきて、「網棚に乗っている荷物は誰のものだ」と、そこでみんな没収されてしまう。「荷物はもちろん、罰金も取られた」、「たばこも需要が高かった。その調達は芝浦の埠頭には米軍がいて、彼らから仕入れた。それが飛ぶように売れた」——

 —— (今まで鬼畜米英と呼んでいたアメリカ軍に対して、恐怖感はなかったのですか?との質問に対して)それはありましたよ。年頃の娘は「田舎の方へ隠れていろ」と言われて。「そういえば、戦後しばらく街には男ばかりが目立ったね。配給を取りに行くのも、姉じゃなくて私が行かされた」。逆に結核で苦しんでいた人が、米軍の抗生物質で医者の驚くほどの回復をして助けられた人もいた。

占領軍の接収した建物など

 東京駅東側の日本劇場(日劇)や東京宝塚劇場、有楽座は上記のように戦時中、風船(気球)爆弾の製造工場とされて、主に女子生徒が動員された。三つとも空襲を免れていた。そのうち宝塚劇場は戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され駐留米軍の娯楽施設として使われた。(皇居は空襲の対象外とされていたから東京駅周辺も避けられたと思われるが、下記のように多くの建物がGHQに接収されている様子を見れば、それを見込んで米軍は周辺も空襲を避けていたものと思われる)

 東京駅西側大手町の帝国ホテルはそのまま米軍のホテルとして接収、昭和27年(1952)に返還された。第一生命館には総合指令本部が置かれ、やはり27年(1952)に返還されたが、現在でもマッカーサー総司令室が保存されている。平成8年(1996)に建物の外観を維持したまま高層ビルにした。

 その近くの明治生命館はアメリカ極東軍司令部として使われ、対日理事会の第一回はここで行われた。31年(1956)に返還され、後に昭和の建造物として初めて重要文化財に指定された。朝日(当時帝国)生命ビルはMP(憲兵)司令部として、また富国館(富国徴兵保険、後の富国生命保険)は21年(1946)6月から24年(1949)12月までGHQ用のホテルとして使用され、27年(1952)に解体され建て直された。大手町側のこれらの建物は米軍が占領を見越して意図的に空爆を避けていたことが伺える。当然英国大使館も避けられている。

 江戸時代の三宅家・井伊家の屋敷があった三宅坂は明治時代から陸軍省と参謀本部などが置かれたが、昭和16年(1941)末に市ヶ谷台に移転、陸軍の航空・兵器本部となったが、戦後は米軍に接収されてGHQの将校とその家族が住むパレス・ハイツになった。占領が解除されて返還された後、昭和40年(1965)から最高裁判所と国立劇場、国立演芸場が相次いで建設された。別途井伊家の跡地は国会図書館等に転用、残余は公園化されて憲政記念館と国会前庭になっている。

 一方、赤坂見附近くの永田町に四宮家の一つ閑院宮家邸(京都に本宅)があったが、焼失後の土地をGHQが接収してジェファーソン・ハイツとなり、返還後の跡地には現在の衆議院・参議院議長公邸が建てられた。もったいないほどの広大な敷地である。またその東側のお堀近くの霞ヶ関にやや小規模の住宅リンカーン・センターがあったが、現在は総務省や国土交通省の合同庁舎になっている。その西側にGHQ家族用のチャペルセンターがあったが、現在は整備されて国会前庭の一部となっている。

 神田駿河台にある山の上ホテルは、昭和11年(1936)に建てられ戦時中は帝国海軍に接収され、敗戦後は米陸軍婦人部隊の宿舎として29年(1954)まで使用された。女性兵士たちにHilltopと呼ばれていて、ホテル開業時に「山の上」とされた。その後流行作家が執筆のためこのホテルにしばしば缶詰され、「文人の宿」としても有名になった。この他、民間のいわゆる豪邸も850軒、米軍の将校用の住居として接収されたが、そうした費用はすべて日本政府の負担であったという。

千鳥ケ淵戦没者墓苑:無名戦没者の墓

 千鳥ケ淵は桜の名所であるが、そのほとりに慰霊施設があり、それはアジア太平洋戦争で軍人、軍属、一般人等約240万人の戦没者の遺骨のうち、身元不明や引き取り手のない遺骨を安置した無名戦没者の墓であり、昭和34年(1959)に政府が建立した。25年(1950)に米軍によりフィリピンの戦没者4822柱の遺骨が送還されたが、政府が外地の遺骨を戦後はじめて収集したのは28年(1950)、マリアナ諸島などからである。そうした遺骨を少しずつ納め、それを全戦没者の象徴として六角堂に安置している。

  この納骨室は平成28年(2016)5月の時点で36万4896柱の遺骨が安置されているが、未だに年々増えている。そのため過去に二度ほど六角堂の奥にも納骨室が増設された。

 毎年終戦の日には、厚生労働省によって戦没者追悼式が武道館で挙行され天皇も臨席されるが、別途ここで戦没者を慰霊する拝礼式が挙行され、皇族や内閣総理大臣などが参列する。一方で千代田区は、毎年7月13日にこの無名戦没者の墓のある戦没者墓苑で戦没者追悼式を行っている。千代田区は平成時代になってから(1995年あたりから)毎年中高校生を10人ほど選んで広島・長崎・沖縄に平和使節団を派遣しているが、この追悼式の日にその使節団の高校生に司会などをやってもらっているという。

 だが戦後70年を過ぎてもまだ約113万人が戻されていないのである。戦後71年目の平成28年(2016)になって改めて遺骨の収拾強化に乗り出すとの議員立法が成立したが、あまりにも遅い。持ち物も朽ち果て、ほとんど特定は難しい。これまで遺族や有志の方々によって細々と収拾してきたが、その中の人の証言では「密林から掘り出された兵士の頭骨には木の根が詰まっていた」とある。

 そもそも日本軍は戦線をあまりにも拡大し過ぎ、補給もまともにできず、外地での戦死の約6割以上は餓死であった。遺族の元に還された白木の箱には骨など入っておらず、死亡通知の紙切れ一枚であった。大半の兵士の骨は無名となった。

 余談ながらその千鳥ヶ淵の散歩道の堤塘の上に小さな広場があり、そこに皇居を空襲から防衛するために近衛第一師団の機関砲部隊が設置した近接高射機関砲の台座跡7基が残っていて、今は石造り円形ベンチにされている。この機関砲は、通常の高射砲とは別に近接防御用に開発されたもので、B29のように高々度から爆撃する航空機に対して対応できるものではなかった。

 ちなみに有名な米国のアーリントン墓地には無名戦士も祀られているが、元治1年(1864)の南北戦争からの無名戦士を含めた全体の埋葬者は40万人を超える数と言われ、そこからすると千鳥ケ淵に収められている36−37万の遺骨の数だけでもどれほど多いかがわかる。しかもまだ110万柱以上の遺骨が戻されていないわけで、これも異様な数である。さらに、この無名戦士の追悼に関しては、日本の場合、国ではなく千代田区が主催して追悼式を行なっているが、国としてはどういう認識をしているのだろうか。

 戦後日本を占領した米国駐留軍は、直ちに日本全国に散らばって、B29爆撃機その他戦闘機が撃墜などで落とされた可能性のある土地をくまなく調査して、その遺骨を持ち帰っている。さらに自軍の捕虜が虐待または殺戮されていた場合、戦犯として裁判にかけている(下記「撃墜された米軍機の捕虜」参照)。都区内でもその動きをわかった範囲で記述しているが、もちろん戦勝国だから堂々とできたこととはいえ、遺骨に限っても、日本の政府がその気になって協力を求めれば、フィリピンの島々でもサイパン島でも米国はその調査に大いに力を貸してくれたはずである。そういうことすら積極的にしなかった事実は、日本の領土として返還された硫黄島(同島参照)でも、約6割の遺骨(約1万2千柱)が残されたままであることでよくわかる。このことだけでも日米のどちらが戦死者に対して慰霊し、顕彰する心が強いのか、自明である。日本人が昔から死者を尊ぶ気持ちが強いとは、まったくの勝手な思い込みに過ぎないのではないか。

靖国神社

【戦時下の靖国神社】

 靖国神社は元は東京招魂社と言って明治時代の初期、維新の動乱(戊辰・西南戦争など)の時に「官軍」側の戦死者を祀るために創建された。一方で明治新政府と対峙し「賊軍」とされた戊辰・西南戦争など、つまり白虎隊や会津軍や越後長岡軍の人々、西郷隆盛を中心とする薩摩の人たちは一切祀られていないという変則的な施設であった(ただし昭和40年:1965年になって小さな「鎮魂社」に祀られた)。明治12年(1879)に靖国神社と改称され、運営管理は内務省と陸海軍が行なった。その後の日清・日露戦争の戦死者もここに祀られ、シベリア出兵、第一次世界大戦を経て、昭和6年(1931)の満州事変から始まったいわゆる15年戦争の間も、靖国神社は国に殉じた戦死者の「忠魂」を慰霊し、それを「英霊」として「招魂」し、神(軍神)として祀る場として存在した。したがって日本軍の戦死者は必ず靖国神社に祀られるものとされた。例えば若き特攻隊員が出撃の際、後に続く仲間に「靖国で会おう!」と言い残して突撃して行ったし、親が出征の前に子に対して、もし自分が死んだら「靖国に会いに来なさい」と遺書にしたためて戦地に向かったのである。

 とりわけ日中戦争以来、次々と戦死者が出てきて彼らを「英霊」として靖国に祀る一方で、軍国主義下の政府は遺族に配慮する方法として、日本各地から遺児たちの代表を靖国神社に呼び寄せた(その後出雲大社にも招待した)。例えば昭和16年(1941)に、中国で戦死した兵士の息子を山梨県から招待し、皇后から下賜されたという記念品を手渡した。その記念品を手にしながら仰ぎ見る姿の少年の写真が、国の情報局編集の『写真週報』4月9日号(国策誌)の表紙に載せられている。そして記事では「靖国の子」として健気に生きていこうとする少年を称えている。しかしこの頃の美談記事の中で「この光栄の日を一生涯忘れず、宏大な皇恩に立派な日本人となって父の志を継ぎ、…」と書かれた記事があり、ある新聞社が近年、高齢となったその「遺児」本人にその記事を見せると、「これは(国の)捏造でしょう」とその方は一蹴したとあって、その時代の国の必死さが伺える。

 また同時期の記事の中に、「晴れて嬉しき靖国社頭の対面を明日に控えた3月27日、青山憲法記念館式場において、かしこくも朝香軍人援護会総裁宮殿下には、温情溢るるばかりのありがたきお言葉を賜りました。今日、目の当たり、尊き天子様のお姿を拝し奉り、また恐れ多くも国母陛下より御下賜品を賜って、重なる光栄に浴した感激の全国遺児を代表してイワナカショウジ君は、殿下の御前に参進。必ずや亡き父の志を継ぎ、天皇陛下の御ために忠義を尽くし、ただいまのありがたきお言葉に沿い奉る雄々しき覚悟を謹んで奉答。この日この時の感激を、小さな胸いっぱいに膨らませて、声を限りに聖寿の万歳を奉唱いたしました」とある。これもあくまで国の官僚たちが書いた記事である。後でこの記事を見た遺児たちは父親を失ったという重い事実の前に戸惑ったであろう。しかしこれらは日中戦争開始からしばらくの間の行事であって、太平洋戦争突入後は戦死者が増え、遺骨さえ持ち帰ることができなくなり、逐一このような対応はできなくなる。

 同じ『週報』の昭和18年(1943)4月7日号に載せられた一文には『時の立札』として、「靖国の社頭に頭を垂れ/父の遺志に耳を澄ます可憐な姿/やがて父子相伝えて国に殉ぜんことを誓う/われらひたすらその健やかな成育を祈り/心を一つに力を共に/われらすべてがその父たらんことを希う」(靖国に掲示されたもの)とあって、父に続いて「国に殉ぜんことを誓」わされた子供の姿が示されているが、正直、この軍国主義下のどこに「健やかな成育を祈」る余地があるのか、仮に健やかな成育を果たしても、父に続いて国に殉じる、つまり国のために死ねと言っているわけで、ため息が出そうである。

 親が戦死して「護国の英霊」となった遺児たちは、「靖国の遺児」「靖国の子」「誉れの子」などと呼ばれ、一方で若くして戦場で散った子の母親を「靖国の母」、あるいはその地名で「九段の母」(歌詞は筆者の「日本の軍歌とその時代背景」参照)、そして結婚していた女性は「靖国の妻」、総じて「靖国の遺族」「誉れの遺族」などと呼ばれた。すべてを靖国神社に帰結させれば、国民の悲しみを癒せると官僚たちは思い込んでいたのであろう。

【戦後の靖国神社】

 戦時の米軍の度重なる激しい空襲の中で、靖国神社は被災を免れた。これは事前に米軍内の文化人スタッフの進言で、皇居を含めて日本の神社仏閣や美術館(例えば上野)などがリストアップされ、空爆の対象外とされたためである。米軍側の靖国を示す場所の表記では「軍事博物館、招魂社、九段付近」となっている。もちろんその対象外の中でも浅草寺のように周囲の猛火から類焼し、焼け落ちてしまった例も3割程度ある。

 戦後、連合国占領軍GHQは靖国神社は軍と連携して国家神道として戦争を遂行する役割を担ったとし、翌21年(1946)9月、国家機関から民間の一宗教法人に変え、それにより天皇との密接な関係も分断された。さらに新たな日本国憲法第20条に政教分離の原則が示された。

 一宗教法人になった靖国神社は、戦死者や連合軍による戦犯刑死者(日本国内と海外の戦地の裁判によってそれぞれ行われた)を祀るが、自身での確認作業には無理があって、国の調査に頼ることになる。戦前に靖国を所管した陸・海軍省は、やはり占領軍によって解体されたが、残務処理を担う第一、第二復員省がそれをになった。その後も復員省は改組を繰り返し、昭和29年(1954)4月から厚生省内の引揚援護局となり(のちに厚生省援護局)そこに旧軍人が流れ込んで、軍人の援護業務を担当した。その結果、旧軍人・軍属(そして元戦犯も)には手厚い援助がなされていくが、同じ戦争の犠牲者でも軍関係以外の多くの人たちが排除されている(筆者の「東京都の概要」の戦後の項参照)。

 靖国神社には(平成27年:2015)現在、明治以降の戦死者246万6千余柱が祀られ、そのうち(満州事変以降の)昭和の戦争の戦死者は約215万柱という。ただしこれは靖国神社が祀っているという数であって、全てではない。またこの中には日本兵として戦った朝鮮や台湾出身の元軍人も祀られているが、戦後は独立国となったという理由で国からの補償金は支給されていない。このほかに、兵士と同様の資格で徴用された従軍看護婦その他の女性5万7千余も含まれているが扱いは準軍人であった。沖縄で亡くなったひめゆり・白梅などの七女学校部隊の生徒、これもある意味強制徴用であったし、「対馬丸」で沖縄から鹿児島へ疎開中、敵潜水艦に撃沈された小学生たちも入るというが、これはメディアでも取り上げられる目立った悲劇だからであろう。兵士と共に民間人が撃沈され数百人以上の単位で死没した船舶は枚挙にいとまがないし、海洋上では生き残りが少ないため、あまり表に出されることがないからどこまで補償されているかはわからない。さらには学徒動員で軍需工場などで爆死した学生・生徒たちも入るというが、約1万1000人の全てが入っているのか、一緒に動員されていた女子挺身隊(学生ではない14歳以上の無職であった女性たち)の犠牲者はどうなのか、掘り起こせばきりがなく、境界が曖昧ですべての人が「手当て」されているとわけではない。

 戦争で子を失った親としてはその悲しみの持って行きどころがなく、例えば神社内にある記念館としての「遊就館」は今は立派な建物になっているが、その館内には遺族から奉納された小さな遺影がずらっと飾られている場所があり、そのここかしこに花嫁人形が写真に相対して置かれている。それは、「少年たち、青年たちのほとんどが、妻を娶ることなく、女性を知ることもなく、手さえも握ることなく、死んでいったのである。それを哀れに思った母親や姉たちが、亡き息子に、亡き弟にと花嫁人形を贈ったのである。若者の遺影の前に飾られている花嫁人形を見るたびに、私は泣けてしかたがなくなる。彼らの無念と、戦争の無情さを思い、常にその場に立ちすくむ」(三宅久之)という思いに突き動かされる光景なのである。

 その人形たちの一つに添えられた手紙である。

 「武一よ、… 23才の若さで家を出て征く時、今度逢う時は靖國神社へ来てくださいと雄々しく笑って征った貴男だった。… 沖縄の激戦で逝ってしまった貴男。年老いたこの母には今も23才のままの貴男の面影しかありません。日本男子と産まれ、妻も娶らずに逝ってしまった貴男を想うと涙新たに胸がつまります。今日ここに日本一美しい花嫁の桜子さんを貴男に捧げます。私も84才になりましたので、元気で居りましたら又逢いに来ますよ。どうか、安らかに眠ってください。有りがとう。昭和57年3月28日 母ナミ」(昭和21年生まれの方のブログより転載)

 このように、遺族の心の平安をいくらかでも保つ役割を靖国神社は担っていることは確かであろう。しかし、息子を国に奪われたとして、決して靖国に来ない母親もいることも確かであり、息子は犬死であったと、祀られることに異議申し立てをしている親もいる。

【A級戦犯の合祀と昭和天皇】

 日本人にとって特別な存在である天皇の処遇もGHQにとって一番大きな問題となり、米国内には第一級戦犯とすべし、という意見もあったが、実は米国では事前に日本の政治状況や社会体制についての十全な調査研究行われていて、天皇への処断の仕方によっては多くの殉教者も出て来かねず、大きな混乱を招くという見方が大勢になっていた。その後、GHQ最高司令官マッカーサーと天皇の会見が実現し、天皇はすべての責任は自分にあるとしたが、天皇制は守られた。

 戦後、昭和21−23年(1946−48)にかけて連合国が共同で行った東京裁判(極東国際軍事裁判)において、日本人指導者28名をA級戦犯として裁いたが、昭和26年(1951)9月8日に日米講和条約が締結され、形の上で日本は独立国となった。これを機に(あるいはそれを待っていたとばかりに)、かねてより遺族の強い要望もあって法務省は翌27年(1952)5月の通牒によって、軍事裁判による戦犯は日本の裁判所で刑を受けた者と同様に扱われるとした従来の解釈を取り消し、戦犯の公民権回復を認めた。さらにその翌年には戦犯の刑死・獄死も公務死に準ずる「法務死」とした。そこから昭和31年(1956)、厚生省と靖国神社が協力し、34年(1959)3月にBC級戦犯の祭神名票を靖国神社に送付した。靖国はこのBC級戦犯の合祀にすぐに応じ、翌月に346柱を合祀し、その後も靖国は42年(1967)10月まで4次に分けて合計984柱のBC級戦犯を合祀していった。これに対し合祀を望まない遺族も当然いた。

 昭和41年(1966)2月、厚生省がA級戦犯12名の祭神名票を靖国に送付した。12名の内訳は、東條英機を含む絞首刑になった7名と後の服役中に病死した5名である。そして厚生省援護局と靖国神社は44年(1969)1月、A級戦犯を合祀すること、ただし「外部発表は避ける」ことに合意した。それでも正式の合祀はなかなか実現せず、神社側の東京裁判全面否定論者はA級戦犯を合祀しなければ「東京裁判の結果を認めたことになる」と主張した。ところが合祀をいつ実施するかについては当時の宮司の決断に委ねられ、皇族系の筑波宮司は、極力先延ばしにする意向であった。しかし昭和53年(1978)にその宮司が急逝するやいなや、後任の宮司松平永芳は「すべて日本が悪いという東京裁判史観」を否定しなければならないという論で、3カ月後の10月17日、裁判の判決前に死亡した2名を含むA級戦犯14柱を秘密裡に合祀した。このA級戦犯合祀という事実は翌年4月の新聞報道で露見した。その後、終戦40周年の昭和60年(1985)8月15日、中曽根康弘首相が靖国公式参拝に踏み切ると、近隣諸国(過去に日本が侵略した国々)からの激烈な批判を浴びることとなった。要は日中戦争から太平洋戦争までの侵略戦争を主導した東京裁判でA級戦犯とされた軍政府の要人たちが合祀されていること、それを日本の現政治家が容認していることが問題となっている。(主にnippon.comに掲載された帝京大学教授、日暮吉延の記事より)

 昭和天皇は、戦後30年(昭和50年=1975)までは靖国に数年に一度参拝されていた。しかしA級戦犯者たちが合祀された後には参拝せず、平成天皇も参拝されたことはない。昭和天皇は、A級戦犯となった要人たちも含めた軍政府の巧みな説得に導かれて望まぬ戦争突入に同意した経緯がある。その戦時下では天皇に正しい情報が届くことはなく、戦後次第に明らかになった多くの外地における戦死者と犠牲者、国内で空襲等で亡くなった国民のこと、とりわけ若い学生たちが特攻隊で突撃死したことなどに対して、どれだけ天皇の心は辛い痛みに耐え続けたであろうか。しかも軍の要人たちは突撃死する若者たちに「天皇陛下万歳」と言わしめた。こうした悲劇を生じさせたA級戦犯者たちの合祀を一番望まなかったのは昭和天皇であろう。

 日経新聞が平成18年(2006)7月20日付朝刊で、昭和天皇の側近であった元宮内庁長官・富田朝彦が遺した昭和63年(1988)4月28日のメモをスクープした。そこには天皇の言葉として 「私は或る時に、前の筑波(宮司)は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」とあった。そしてこの天皇の御心に対し、靖国側と政官人は無視を決め込んだ。自分たちが囚われている固定観念に外れるものには知らないふりをするのが、この種の人間たちの流儀である。つまりこの種の人間はそうした天皇のご意向を尊重して動くという気持ちはなく、言い換えればもともと天皇を崇敬する心はなく、天皇を自分たちの都合に合わせて利用する考えしかないことがわかる。そしてそういう人間たちが天皇の名を利用して過去に次々と戦争を起こしたわけである。

(この続きは「各種参考資料」の「靖国神社の役割」を参照)

撃墜された米軍機の捕虜:東部憲兵隊事件

 爆撃機B29などが日本軍によって撃墜されて生き残った米兵はそのまま捕虜となったが、そこで住民や軍人により惨殺される場合もあった。戦後GHQは自軍機が墜落した場所を逐一特定し、とりわけ死亡した米兵士の経緯を徹底的に調べ上げた。

*捕虜飛行士の虐待事件

 東部憲兵隊司令部(千代田区九段)に収容された多くの捕虜飛行士に対して、適切な居住設備、衣服・食事・医療処置などを与えず、十分な手当もせず虐待を加え、17人の捕虜飛行士を死に至らせたとして、GHQにより6人の関係者が責任を問われた。戦犯裁判の結果、東京憲兵隊長のO大佐は、上野憲兵隊事件(足立区参照)とあわせて懲役10年、1人が無罪、他4名の将校が懲役3−8年となった。

*捕虜飛行士毒殺事件

 昭和20年(1945)3−6月ごろにかけて憲兵隊へ連行されて来た米軍捕獲飛行士たちの中、重体者に対してS大尉の指示で、H軍医中尉、憲兵付のM軍医少佐、東部軍付のH見習軍医士官らが毒薬を注射、合計9人を殺したとされる。

 M軍医少佐とH見習士官は戦後自決。裁判において被告側は「助かる見込みのない者に対する安楽死」と主張したが、S大尉とH軍医中尉が無期懲役となる。

(以上はPOW研究会資料より。なお関連した捕虜については渋谷区の「東京陸軍刑務所焼死事件」、別な形の捕虜については荒川区の「隅田川捕虜収容所」あるいは大田区参照)

 これらは国内において戦後BC級戦犯として裁かれたものであるが、一方で前線で戦った多くの日本軍将兵たちが、内外で戦争犯罪人として各地で裁判にかけられ、先に逃げた上官の代わりに理不尽な形で死刑にされた下級兵士は多い。(下記参照)

愛の像(処刑されたBC級戦犯たちを祈念する像)

 平成30年(2018)、新装されたJR東京駅の丸の内駅前広場の南西側に10年ぶりに復活した「愛の像」がある。この像は昭和30年(1955)に同じ駅前に最初に建てられ、いわゆるBC級戦犯として裁判にかけられ、処刑された人たちを祈念するもので、天を仰ぎ両手を高く掲げる青年の像と、その台座には「愛」の文字とギリシャ語の愛を表す「アガペー」の文字が刻まれている。それ以外の説明文はなく、これだけ見れば、何を意味する像なのかはわからない。

 BC級戦犯裁判は、戦後の日本における連合軍GHQによる裁判だけでなく、戦争被害にあった中国や東南アジアなど49ヵ所で行われたが、約5700名が起訴された(ソ連=ロシアと共産党政権後の中国を除く)。そのうち死刑を宣告された者は971名に及ぶ(別の資料では死刑が宣告されたのは984人で、実際に執行されたのは920人、あるいは934人とされる)。日本におけるBC級戦犯裁判は横浜で行われ、死刑は巣鴨プリズン(豊島区参照)で執行されたが、有罪となって日本に送還されて執行された場合もあって、その中には植民地の台湾・朝鮮人(そのほとんどは軍人ではなく軍属)もいた。(BC級戦犯裁判については「各種参考資料」参照)

  敗戦後、占領地から直ちに自分だけ逃げ帰った将校もいたし、自分は命令などしていない、彼らが勝手にやったことだと罪を部下に押し付けて刑を逃れた上官も少なくなかった。そうなると実際に現場で命令されて捕虜の虐待や殺傷を行った兵士たちは、現地において直接顔も覚えられていたから、戦犯として指弾されても逃れようがなかった。ただし、現地にいただけで虐待に直接関わっていない兵士もいたが、気の毒であったのは軍属として命令に従った台湾・朝鮮人である。先に逃げ帰った上官たちは、この現地で捕らえられたBC級戦犯たちが追い込まれた苦悩など知りようもないし、知ろうともしなかったであろう。さらに数少ない上層部のA級戦犯レベルの人間たち、つまり「戦争をする」と決めて国民を召集して有無を言わせず戦地に送り、侵略を重ねて中国をはじめとしたアジア諸国で膨大な犠牲者を出すに至った人間たちは、そのような瑣末に等しいBC級戦犯たちの苦悩を想像する心すら持たなかったであろう。しかし例外的な将校が一人いる。名古屋において繰り返された空襲で、対空砲などで撃墜されたB29爆撃機の搭乗員の多くは脱出し、そのうち38名の米兵を東海軍管区内の守備軍が捕獲、略式手続で処刑した。その処刑に関わった守備隊の20名がBC級戦犯としてGHQによって起訴され、東海軍管区の司令官であった岡田資中将も同時に起訴されたが、岡田は『部下が行った行為の全責任は上官たる自分にある』との論陣を裁判で展開、結果的に部下たちは死刑を免れ、岡田一人が絞首刑台に立った。

 このBC級戦犯として死刑の判決を受けた人たちの教誨師となって、巣鴨で相談相手となりその死を見届け続けた僧侶の田嶋隆純が、海外で処刑されたBC級戦犯たちも含めてその遺書や遺稿701編を集め、昭和28年(1953)、『世紀の遺書』という本を上梓した。それが反響を呼び、その収益と支援者の寄付によってこの愛の像は建造された。その後地下鉄の工事で昭和44年(1969)に撤去され、昭和62年(1987)に復活、さらに東京駅の修復と周辺の工事のために平成20年(2008)に再び撤去された。そこから田嶋の娘たちによる再設置の嘆願書が都知事やJR社長、東京駅長に出され、復活されることになった。この台座の中には『世紀の遺書』が収められ、その中には戦犯たちの世話をした元刑務官の名前も入れられている。(2018年2月26日、朝日新聞記事その他より混成)

 その遺書の筆致は一様に遺された妻や子供、親たちを思いやる言葉にあふれたものである。しかし一方で、この人たちが戦地で、上官からの命令とはいえ行ったであろう捕虜や現地人への殺傷などについてはほとんど触れていない。彼らは、ある意味自分が戦場で為したことについて振り返ることなく、処刑されて行った。そこに共通するのは、自分たちは戦争に敗けたが故、裁かれることになったというもので、すべては戦場で止むを得ずやらなければならなかったことであったとの意識が強く残っていて、例えば自分が戦場で殺傷した相手の家族のことを、自分の思い遣る家族のことから憶測して思い遣る心はない。しかしそれは自分自身の死を前にすれば普通のことであったのであろう。彼らが死刑の日まで考えたのは、戦争が終わった今、自分は何のために死ぬのか、何のために犠牲にならなければならないのかという自問自答であった。ただ、ほぼみんなが最終的に心を整え、従容として死んでいく姿が見られる。(『世紀の遺書』の一部を抽出したものは各種参考資料参照)

千代田区の大学・女学校

目次を開く