目黒区の空爆被害
〇 空爆日:昭和20年(1945)2月16日、3月5日、4月15ー16日, 4月19日、5月24日, 25日, 29日(全7回)
〇 被害状況:死者291人、負傷者1553人、被災者1万3425人、焼失等家屋2万6097戸。
〇 出征者と戦死者:不明
<空爆被害の詳細>
19年(1944)11月24日:東京に本格的な空襲が始まってからしばらくは、目黒区の被害は少なかった。
20年(1945)2月16日:関東全域に艦載機約290機が来襲、目黒は直接の被害はなかったが、自軍の高射砲弾の落下で民家小破。
3月5日:B29が9機で分散来襲、目黒は爆弾数個が落とされ、全半焼家屋2戸。
3月10日:東京の約4割を灰燼に帰した東京大空襲の日。江東区、墨田区、台東区の下町を中心に焼夷弾で焼き尽くされた。被害のなかった目黒区では約6000人の罹災者を受け入れ、臨時の救護所を開設している。
4月15日:深夜から未明にかけ、東京の城南地区にB29約110機、川崎、横浜地域に合わせて約200機が来襲、約3時間の波状攻撃を続け、焼夷弾と爆弾を混投し大火災を発生させた。目黒区では唐ケ崎町・鷹番町・中目黒2-4丁目・上目黒5丁目・自由ケ丘・原町・洗足・月光町・碑文谷3丁目・緑ケ丘地区で、死者40人、負傷者101人、全半焼家屋2817戸、罹災者1万100人という被害を受けた。また都内の死者716人、負傷者1464人、家屋の全半焼6万2110戸、被災者約24万2000人とされる。
4月19日午前:B29が3機、P51戦闘機20機による都区西部から多摩地区への空爆、低空からの機銃掃射による攻撃が主で、目黒は軽傷1名のみ。
5月24日:24日未明にB29 525機が、東京の西南部方面に梯団で侵入、約2時間にわたって波状爆撃を行なったが、大量の焼夷弾投下によって広範囲に火災が発生し、大災害を生じた。なお目黒区の被害は現在のサッポロビールなど多くの工場のほか、上目黒・中目黒・下目黒・清水町・鷹番町・三谷町・唐ケ崎町・向原町・月光町・東町であり、月光原小学校、油面小学校、日の出高等女学校、目黒女子商業学校等と区役所の一部も焼失した。死者84人、重軽症者524人、全焼家屋9200戸、被災者約3万4600人となり、都区内では死者559人、重軽傷者3993人、全焼6038戸、半焼141戸、被災者23万8378人と、被災者のわりには死傷者は少ないのは、3月10日の大空襲被害を身近にし、それを教訓に消火より先に避難することと逃げ場をあらかじめ決めていたことによるだろう。
25日夜:続いてB29・470機による空襲を受け、残存していた東京西南部の地区が焼かれ、都内の死者3596人、重軽症者1万7899人、全半焼16万5442戸に及んだ。目黒区の被害は、鷹番町・芳窪町・三谷町・柿ノ木坂・駒場町・上目黒・下目黒などで、死者104人、重軽傷者448人、全焼5341戸、被災者2万3225人とある。なおその爆撃下の夜、住民が逃げ惑う中、大方のB29の編隊が去った後、一機の日本の戦闘機「月光」が、サーチライトに照らし出されたB29に向かって近づいて来て機銃掃射し、B29からも機銃掃射を受けるうちに、「月光」はB29に近づいてパッと閃光がきらめいた。体当たりであった。そして次の瞬間「月光」は火だるまとなって落下した。B29はエンジンから黒煙を吐きながらゆらゆら飛んで行った。その様子を見学していた住民は「畜生、悔しいね。あれだけぶつかってもまだ生きてやがる」「なんてやつだ、まるで化け物だ」と地団駄を踏んだとある。
この両日を城南・山の手大空襲と呼んでいるが、実はこの両日の投爆規模は3月10日のそれよりも2倍前後大きい。24日が525機、焼夷弾の投下量は3687t、25日は470機、投下量3302tであり、3月10日は301機、投下量1783tで、それぞれ半量前後である。つまり3月10日の下町の住宅密集地への大量の焼夷弾による空襲が、乾いた北風が吹き荒れた中でどれだけ効果があったかがわかる。目黒区はこの両日で約30%が焼き払われたが、先述と同じ理由で、死者などは相対的に少ない。
5月29日(横浜大空襲の日):自軍の戦闘機が墜落して上目黒5丁目の工場1棟と民家3軒が全焼、人的被害なし。
<焼失した小学校など>
5月24、25日の両日で焼失した小学校は以下の11校である。
菅刈小学校/下目黒小学校/油面小学校/大岡山小学校/烏森小学校/向原小学校/鷹番小学校/月光原小学校/駒場小学校/不動小学校/トモエ学園(幼稚園小学校:後に廃校)。その他目黒女子商業、日の出高等女学校、トキワ松学園も焼失した。学校は工場とは区別できるはずで、しかし米軍は狙いやすい大きな建物を遠慮なく焼き払ったということである。
戦時下の出来事
(戦時下全体の出来事については「東京都と戦争の概要」参照)
昭和12年(1937)の日中戦争(支那事変)以来、日本政府は「国家精神総動員運動」を展開し、勤労奉仕や消費節約による戦争協力を説き、「戦時体制の強化を促進した。さらに翌年には「国家総動員法」が公布され、これは国内のすべての資源に統制を加え、産業を規制し、国家のためにこれらを動員する権限を、政府に与える法律であった。次いで昭和14年(1939)には「国民徴用令」が施行され、軍事産業における労働力を確保し、政府が国民の徴用を強制的に行なうことができるようにした。
昭和16年(1941)4月から、東京都は全国に先駆けて、米の割当配給制度を実施するようになった。配給も当初は米だけであったが、7月からは豆類が追加されその後も砂糖や塩、味噌、醤油にも拡大された。食料だけではなく衣類や生活物資も統制されたが、その前年より欧米より経済制裁を受けてきた影響も大きかった。制裁の理由は昭和12年(1937)に日本が開始した日中戦争(支那事変)に対する非難からであったが、16年(1941)には石油も止められた。そのような状況下で12月に米英を敵として太平洋戦争に突入したが、その時点ですでに無謀な戦争であった。そして「欲しがりません勝つまでは」の耐乏生活が強いられることになり、さらに戦時体制として武器の生産増強のために金属供出令が出され、全ての役所と学校の暖房器機から銅像まで回収対象となり、家庭の鍋釜、仏具、箪笥の取手、店の看板なども回収された。昭和19年(1944)からは、肌衣類・晒布・手拭・足袋などの衣料品も隣組を通じて配給されるようになった。それでも軍国主義下の徹底した世論作りによって、人々はお国のためにとおとなしく従っていた。それはおそらく軍部が神格化された天皇の存在を何かにつけ利用した効果が大きかった。この戦争は天皇のための聖戦とされ、軍隊は皇軍と呼ばれ、その戦争の前線で身を挺して活躍する皇軍兵士に対する国民の銃後の守りが大事とされた。
思想統制の一つの例として、自由が丘という地名の自由という言葉がけしからんと特高警察が言って来た。しかし住民は無視し続け、その名は残った。同じ例として自由学園(東久留米市参照)がある。
18年(1943)には勤労動員令が発せられ、中学校以上の学生・生徒は一定期間の勤労が課せられ、軍需工場への労働や不足する食糧増産のための農作業に従事するが、次第にその割合は多くなり、20年(1945)になると学業は一年間停止され、通年動員となった。18年(1943)10月には文科系学生の徴兵猶予が撤廃され、学生たちは休学して徴兵された。また想定される空襲に対し、小学生を縁故疎開することが奨励され、翌年には集団学童疎開が実施された。それに伴い、政府は都心から建物・物資・人員疎開の方針を示し、住宅密集地の建物も延焼を防ぐためとして空き地を広げる計画で間引きされた。こうした経緯もあり、目黒区においても、昭和19年から20年(1944ー45)にかけて急激に人口が減少し、さらに昭和20(1945)年の4月と5月の大空襲後の6月には、7万を若干上まわる程度となり、最大人口時の36%にしか達していなかった。
(以上は目黒区史などより)
空襲下の様相
目黒区上目黒8丁目に住んでいた当時38歳の主婦、竹内きゑの5月25日の体験である。(『東京大空襲戦災誌』第2巻より)
夫は大工で、そのころは方々の兵舎を建てたり補修していたせいか、赤紙が来るのを免れていた。私は17歳の長女と2歳の女の子と赤ん坊を抱えていた。三女の登美子を出産した19年(1944)12月8日は真珠湾攻撃の記念日で、B29の大空襲があるという噂が流れていた。3月10日の大空襲の後、夫は警察に呼び出されて江東区の焼け跡整理に行った。そこでスコップを渡されて、深川の猿江公園で焼死した人々の死体を埋める作業をしたという。夫はその死体の無惨さに怖れて私にしつこく疎開を勧めたが、幼児二人を抱えた私は夫と離れたら生活できないと、死なばもろともと思い、東京に留まった。
5月25日夜11時ごろ、空襲警報があって「今夜こそ危ない」と夫は床下に掘った四畳半ぐらいの防空壕に非常持ち出しの品物を入れ土をかけた。生後6ヶ月の登美子を長女に背負わせ、次女の澄子を自分でおぶって戸外に出た。ナザレン教会近くの防空壕に近所の人と身を潜めていたが、飛行機の近づく音に不安になって外に出た。すぐ近くの地面には一間くらいの大穴があき、道路上はもう煙でいっぱいで、熱さで息がつまりそうだった。夫に防火用水でタオルを濡らしてもらい、子供たちの頭にかぶせた。次に自分のをとタオルを受け取ろうとした時、上空で雨が降るような異常な音がした。空を見上げるとB29が低くまるで大きな鳥のように、その翼は地上の炎に赤く染まって過ぎ去って行こうとしていた。その瞬間、右手に強い衝撃を受け、気を失った。
耳元で怒鳴られる声がし、目を開けると近所の人が私の名を呼んでいたが、夫はいなかった。次女の澄子が足が熱いと言うので見ると小さな足は火傷していた。血の吹き出した右手を上にあげて血止めしながら駒場に向かう途中で夫に出会った。雨の降るような音で落下した焼夷弾が夫の身体をかすめて石に当たり、その破片が私の右手を傷つけたらしい。夫はショックで心の平衡を失い、あたりをうろうろしていたらしい。
私たちが逃げ込んだ東大構内は大勢の人が逃げてきていて、近所のおばあさんに誘われて構内の大きな穴の中で一夜を明かした。明くる朝よく見たら大きな不発弾が穴の底に突き刺さっていた。なんとそこは爆弾の上だった。帰ってみるとわが家はすっかり焼けて自転車の残骸とトタンくずだけだった。夫は大工の腕を生かして焼け跡のあちこちから材料を集めて早速に家を建てた。つまり火事場泥棒で、昼間目星をつけた強制疎開などで解体された家屋の木材などを日暮れとともに担いでくる。その木材を置いたわが家の軒下に、真夜中ひそかな足音がしてカタリと音がする。他の誰かがせっかく盗んできた材料をまた盗んでいった。被災者どうしが泥棒ごっこしているようなもので、良心など持っていては飢え死にする他に道はなかった。
傷を受けた私の右手は、その後も痛みが止まらず昼も夜もうずき続け、知り合いの内科の治療でも激痛はやまず、郷里の米沢に疎開した。私が傷と生活に必死に追いまくられている間、不思議に登美子は泣かなくなった。普段から信心しているお地蔵様のご利益かと私は勝手に思い込んでいたが、ある人に「あまりに口を聞くのが遅すぎる、一度よく診察してもらうといい」と言われ、医者に連れて行くと、この子はツンボ(ママ)になっていると告げられた。あの空襲の時、爆風が口から入り、鼓膜と脳を損なったのだろうと言われた時は、登美子を抱いたまま奈落の底に吸い込まれて行くような気持ちがした。なぜあの時、二人で一緒に死んでしまわなかったのかと、神仏を恨みたかった。登美子は空襲の時の赤ん坊の心のまま、「ああ」とか「おお」という母音の外に言葉を持たず、体だけは穏やかに大きくなった。この子は自分の身体の一部だと思うようになるまで20余年間どれだけの涙を流し続けたことだろう。
私の手の傷はその後治療し続けても一向に良くならず、昭和26年(1951)、国立第一病院で親指と人差し指の間に焼夷弾の破片が食い込んでいることが発見されて、手術して軽快することができた。夫は登美子を案じながら働き通して前年他界した。夫が残してくれた家賃の収入で登美子と一緒に生きている。
「戦争でこんな目にあったのだから、国からお金が下りるんでしょう」と事情を知らない人によく聞かれるが、私は黙って笑うだけだ。今までに一銭でも国から助けていただいたことはない。空襲で死んでしまった人達だってそうだから、命のあった自分達はと、我慢してきた。
(注:最後にこの竹内の言っている事実は重く、日本は戦災等で孤児になった人々にも何も補償していず、それこそ一銭も支給していない。日本と同じように戦争を起こして敗残したドイツは、各国に賠償金を払いながら自国民のそのような被害者に対し、補償をきちんと行なっている。この違いは何なのであろうか)
出征
ほんの一例である。
「昭和17年(1942)のある日、東原小学校(後に廃校)5年生だった私は先生に呼ばれて職員室に行った。廊下には軍服姿の兵隊さんが立っていた。母の弟だった。叔父は千葉県から出征して、何ヶ月間かの内地勤務を終え、戦地に赴くために一晩の外泊許可がおり、姉の家が見つからず、私の小学校を訪ねたのだった。その夜は母の手料理で、配給のわずかなお酒を父と酌み交わし、軍歌を歌い、やがて叔父は母の鏡台の中から水白粉を取り出して顔に塗り始めた。… そして母の割烹着を着ておどけながら踊っていたが、最後に母の肩に手を当てて泣いていた。… 翌日、父と私は芝浦の埠頭まで叔父を見送りに行った。巨大な船体を見せる軍艦の下で、まだあどけなさの残る“兵隊さん”は、父にキリッと敬礼をして、船の中に消えて行った。それがフィリピン沖で戦死した叔父の最後の姿だった」(『昭和の戦争記録ー目黒の住民が語るー』岩波書店)。なお、敗戦時、日本の軍政府は役所のこうした出征記録も焼却を指示、したがって戦死者の具体的な数字は不明となっている。時折、記録は戦災で焼けたとされることがあるが、それは単なる推測に過ぎない。
建物強制疎開
昭和19年(1944)1月に発令された都の方針において、住民の疎開だけではなく「建物疎開」も実施され、目黒区においても、上目黒二丁目の342戸や洗足の309戸をはじめ、合計2563戸の家屋が強制疎開された。つまり取り壊されて、災害時の延焼を防ぐために空地や避難用道路が作られたのである。しかも通達が来てから三週間以内に引っ越すようにとの強引な命令であった。しかし結局この地区は上記のように丸ごと焼かれてしまった。助かったのは否応なく疎開させられた人たちであったかもしれない。その家財も守られ疎開手当が支給されたであろうから。ちなみに空襲が開始されてから当初の数ヶ月くらいは国から被害手当が支給されていたが、3月10日以降、それどころではなくなりほぼ休止された。そして戦後は申請次第で支給されたとある。
目黒区は、昭和19年から20年(1944ー45)にかけて急激に人口が減少し、20年(1945)6月には7万を若干上まわる程度となり、19年(1944)2月の人口に比べると36%になっていた(東京都民生局戦時援護課調べ)。
集団学童疎開
来たりくる空爆を想定して、昭和18年(1943)に入ると児童の縁故疎開が奨励されたが、19年(1944)に入り、都市部の集団学童疎開が政府によって計画され、目黒区は8月に福島県と山梨県に3ー6年生が集団疎開することとなった。早朝に学校に集合し、今まで訓練されたとおり整然と校庭に並んだ。見送りに来ていた親達は今別れようとする自分の子供の姿をしっかりと心にとめておこうとするように列の近くに迫って背のびしてのぞきこんでいたという。ひょっとしたら今生の別れになるかもしれないからであるが、「勝ってくるぞと勇ましく…」と子供達は軍歌を歌いながら、行列を保って校門を出た。眼に涙をたたえた親達からのいろいろな声が、子供達の歌声の上に飛び交った。勝つまではがんばるぞと子供達の心も勇み立っていた。つまり当時はこういう教育がされていたのである。
疎開先での子供たちの生活は、当時は地方の田舎であっても、米を主とする農作物は軍に優先的に供出され、食料は不足していて、常に空腹に悩まされた。悪いことをすれば家に帰れると思い、盗みを働いた子供もいたという。時折疎開地へ面会に来た親もその痩せた姿を見て心配し、持って来た食べ物を陰でこっそり食べさせた光景も見られた。また子供の世界によくあるいじめも多かったが、その場合帰るところがなかったから子供は耐えるしかなかった。
福島県の湯本の温泉宿に集団疎開した6年生女子生徒の話である。
—— いつもお腹が空いて立っていられないほどで、いつも静かにしていた。家に出す手紙も検閲があって、本当の気持ちは書けなかった。絵が得意だったのでいつも食べ物の絵を描いて送ったら父が突然地元で干し柿を幾箱も買って持って来た。自分の子供だけ食べさせるわけにはいかないからであった。先生は戸惑って全員に配ったが、戦争中なのだから空腹は我慢すべきと父に言って喧嘩になったという。そのうち弟も疎開して来たが大腸炎となり、ハガキで知らせたら父が飛んで来た。連れて帰ろうとしたら先生が、では学校を除籍すると言い、父はそんな事より命が大事と空襲下の東京に連れて帰った。
友達と逃げようかと相談したが無駄だった。ある日友達が食べ物の絵を描いてくれというのでお団子やお饅頭など次々と描いて渡し、みんなが喜んでいるところに先生が急に障子を開けてひどく怒られ、その遊びもできなくなった。子供は8時ごろに寝てしまうので、その後隣の男の先生の部屋で時々宴会が始まっていた。旅館の人がお酒を運び、ゆで卵を持って来て賑やかにやっているのを、私たちは障子を少し開けて何度も見て、いいな、食べたいなとみんなで言った。子供心にも納得できなかった。父は後で、先生たちだけ色つやがよく太っていて腹が立つと言っていた。(上記『昭和の戦争記録』より)
注:この疎開は無料ではなく、一人につき月幾らと親が支払っていたのである。旅館も戦時下で客が少ないところを助けられていたはずで、それなのに、である。学校によっては先生たちが子供たちのために必死に食料を求めてあちこち駆けずり回っていた話もある。もちろん引率した女の先生も寮母さんも同じひもじい思いをしていたことも記録にある。
今ひとつ、月光原小学校の学童疎開は山梨県の甲府市であった。以下は浅野幸雄の話である(小金井市の「戦争体験談集」より)。
—— 私は小学生の頃は目黒区に住んでいた。昭和19年(1944)8月に月光原小学校の学童疎開に参加し、山梨県の甲府市に疎開した。甲府市内の旅館や料亭など16カ所に、町内会ごとに別れ、学校は学年毎に市内の小学校に通っていた。 私は竹屋旅館で生活していたが、この旅館には、甲府に疎開して来た陸軍学校の将校さん三人が分宿することになった。 その将校さんには、肉が配給されたが、将校さんは、宿の調理に頼まず、寮母さんに渡してくれ、寮母さんはその肉を使ってカレーを作ったりして、将校さんと夕食会を度々した。(注:このように軍人には食料が優先して配給されていた)
甲府も空襲の危険が迫り、私たちは再疎開をすることになったが、その時私は日の丸の手拭に、お別れの記念の言葉を書いてもらった。 その一人、水乃谷少佐は「戦況急なり、我は征かん、幼き友の後に続くを信じて」 と書いてくださった。 幼き友を守るためでなく、幼いあなたたちが、私たちの後につづいて敵と戦ってく れることを信じて、だからこそ戦地に征けると云う意味に今は解釈できる。また二人の将校さんは「葉隠に曰く、武士道とは死ぬことと見えたり」 「誠実」という言葉を残した。 死と向き合った人の言葉を切々たる思いで感じている。(注:他でも同様な例があるが、おそらく特攻隊に選ばれた人たちであろう)
再疎開は穂積村、今の富士川町穂積地区であった。穂積村での生活は、食糧不足を少しでも自分達の手で補わなければならず、寮であるお寺の側の沢の蟹は、一日で食べつくし、ヘビも皮をむいて火にあぶって食べた。背丈を超える蕗を山に入って取って来て、お米の中に入れて食べました。青年団の人達もいっぱい持って来てくれ、大変ありがたく思った。 寮長の先生と鍋を持って、農家に味噌やしょうゆをもらい歩いた。農家の草取りをして、そのごほうびに、ふかしたさつま芋をもらい、混ぜて食べたりした。 また村の婦人会の皆さんが、一日里親と云って、私たちを家に招いて、お菓子を食べさせてくれた。
皇后陛下から疎開学童に恩賜のお菓子をもらった時には、一日里親になってくれた家におすそわけをした。その時の御歌は「つぎの代をせおうべき身ぞたくましく/正しくのびよ里にうつりて」とあり、この御歌の拝誦を繰り返して涙を流した先生もいた。また陸軍の将校による閲童式が行われたことがある。月光原小学校の学童が伊勢小学校に集められ、分列行進をした。 この時、私は行進の先頭に立ち「歩調とれ!」「右向け右!」「敬礼!」の掛声を校庭いっぱいに響かせた。この頃の私は軍国少年であった。
怖かったことは、寮長先生と山を下りてさつま芋を買出しに行ったときのこと、突然轟音と共にバリバリという音がして体のわきに、ぬうように土がはね上った。上を見るとグラマン機が、操縦士の顔が見えるほどの低空飛行をして機銃掃射をしていた。運が悪ければ命はなくなっていた。
再疎開は甲府が空襲される2週間前であったが、(再疎開先は無医村だったので42名の)病弱な子供たちは、甲府でも西の郊外にあった遠光寺寮に置いていった。しかし先生方の配慮も空しく、甲府は7月6日の夜に大空襲を受け、市内は焼きつくされ、この空襲で生徒2名が焼夷弾の直撃で即死、もう一人と学寮長一人が、全身に火傷の重傷を負った。 私たちは、そのようなことになっていたとは知らず、甲府盆地を見下ろす山の上のお寺の寮の庭で、釜の中で湯がたぎる様に炎をたぎらせている甲府を茫然と見ていた。 そしてこの重傷を負った二人を交代で見舞いに行った寮母の一人山田さんが病院で流行っていたチフスに感染して亡くなられた。この寮母さんは身寄りもない人だった。
その時に全身火傷を負った遠峯英雄の話である。
—— 眼のまわりから左のほほのやけどのあとが首すじから全身にかけて引きつっていて、左足は永久に曲がらない状態となった。毎日の包帯かえはたまらなく痛く、うみが出て包帯につき、ひりひりとする。 それが体一面だからやりきれない、今考えてもぞっとするくらいだ。 戦争中はそれでも気が張っていた。「勝つまではがんばれ」、それが戦争に負けてからは「可哀相に。運がなかったのだ」となった。 一時はやけになり周囲に当たったが、家の人にこの体でもできる仕事をさがしてもらった。手に職をつけようと、お菓子屋さんを選んだ。 戦争は二度とくりかえしてはならない。学童疎開も完全に私たちを守りぬくことができなかったでないか。……
(再び浅野幸雄)—— 昭和20年(1945)8月15日、穂積校の校庭で全生徒が集められ、玉音放送を聞いたが音が悪く、声もはっきりせず何をいっているのかわかからかったが、先生方の態度で、日本が戦争に負けたことを感じた。10月25日、校舎のない校庭で、解散式を行い、それぞれの家へ帰った。 私の家は幸いに焼けなかったので、家につくと畳にふとん敷き、午前中いっぱいぐっすりと寝た。
20年(1945)3月上旬には第一次集団疎開の6年生が卒業と進学の準備で一斉に帰京した。その直後の3月10日の大空襲であった。この日は目黒地区への影響はなかったが、下町三区の6年生は、親に会えた喜びも束の間、親と一緒に焼死した子供も多かった。それを受けて4月より、新一年生から第二次の集団疎開が実施された。8月に終戦となったが、混乱で交通事情も悪く、子供達が帰って来たのは10ー11月であった。帰って来て驚いたのは5月の空襲で自分たちの学校が空襲を受けてなくなっていたことであり、自分の家も焼かれた生徒も多くいた。また父親が戦死して母子家庭になったり、母親も焼死して孤児になった子もいた。一方で、一人で縁故疎開した子供たちの話に多いのは、その地の学校の子供たちにひどいいじめにあったということであり、受け入れてくれた家で働かされ続け、学校にも行けなかったと区民の証言には残っている。
戦後の出来事
終戦時(昭和20年=1945)、戦禍の中になお区内に居住していた人びとは10万213人、3万2064世帯であり、そしてそのうち3829世帯・1万1065名が壕舎・仮小屋に住んでいた。壕舎・仮小屋とは、自宅の焼け跡にバラックを作り、あるいは戦時中に掘った防空壕の穴にトタン板の屋根をつけただけのものだったりした。ある人は「まず柱を立て、焼けトタンを拾ってきて片側だけの屋根を作り、釘もないからトタンには飛ばないように石を乗せ、隙間風を防ぐために板壁に内側から紙を貼った。… 武蔵小山駅を降りるとすでに夜だった。降り積もった雪で、小山台高校の裏から見ると、遠くまで見渡せる焼け野原は白一色の銀世界だった。その中で町の人々が生きているのだと言っているかのように壕舎の中や防空壕の入り口の隙間から、ロウソクや裸電球の小さな光があちこちから見えた。それはまるで地の底から光っているようだった」(『昭和の戦争記録』より)と語っている。
復興は、まず住民の帰還から始まった。目黒区でも4割も焼失した住宅の復興がまず難問だった。人々は食糧不足に加え、建築物資もヤミでも手にいれようとしたから、諸物価は高騰した。あらゆる物資が、配給を待ちきれずヤミ市場に現れるが、かねて退蔵されていた物が放出され、軍部の放出品、それに農民の保有していた食糧などが、ヤミ商人の投機もあってインフレが到来した。
学校も問題となった。小学校児童は、住民の帰還に比例して予想を超えて増加した。そのため校舎の多くは焼けていた。さらに新学制によって、中学校の建設も課題となった(戦前の中学校は5年制で現在の高校も兼ねていた)。また焼けた小学校にも残った学校にも校庭には戦災バラックが多く建ってしまっていた。校庭にそうしたバラックが並び、洗濯物が並んでいた中で小学生は勉強した。とくに大岡山・菅刈ほか4校では、その住民たちがなかなか動かず、この立ち退き問題は、区議会が特別委員会を設け、都からも移転費用を計上して、ようやく25年(1950)になって片付いた。
下目黒小学校の例
5月25日の空襲で焼けてしまい、学校は校門とジャングルジムの焼けた鉄柱が残っているだけだった。終戦後、秋になって集団疎開から生徒たちが帰って来ると田道小学校の教室を借りて授業が始まった。教室が足りないから授業は午前と午後の二部制で、低、中、高学年の三つに分けられた。それまで空いた時間に下目黒に行き、空襲で凸凹になった校庭を少しずつ整備した。コンクリートの塊りや石やガラスの破片などを取り除いた。教科書は新しいものがないので、戦前の教育のよくない部分を墨で塗りつぶし、1ページが丸ごと潰された教科書もあった。
「悲しかったのはお掃除」とあり、雑巾を各家庭から持って来るようにと言われたが、戦後すぐには物は何もなく、布の切れ端もないから持ってこれない生徒が多かった。特攻隊帰りの若い先生は、持ってこれない男子生徒に服を脱がせてそれで雑巾掛けをさせた。それでも負けたアメリカからの援助などで少しずつ給食が良くなって、楽しみだった。運動会もお腹が空いて力が出せなかったけど、それでも他に行事がないので楽しかった。
23年(1948)になってやっと仮校舎ができた。これも親たちからの寄付金が主だったという。国や都も戦争で使い果たして資金もなかったからである。校舎ができても机や椅子がなく、田道小学校から余っている机や椅子をもらったが、それでも足りず、家からリンゴやミカンの木箱を持ってきて机代りにした。それもない子は床に教科書やノートを置いて勉強した。このようにして15年ぶりに戦争のない新しい時代が始まった。(『昭和の戦争記録』より)
戦争孤児と「若葉寮」
救世軍士官であり日本基督教団正教師となっていた高橋直作は、敗戦直後から住む場所を失って上野の地下道等で野宿する男女の大人と子供のための救護収容活動を行い、東京都民政局厚生課に掛け合い、旧陸軍の兵舎を借り、社会福祉法人愛隣会を昭和21年(1946)に設立。また孤児となった子供達のために昭和22年(1947)に、17名の戦災孤児を目黒若葉寮に受け入れ、翌年に養護施設として認可された(初代寮長は高橋潔士)。
一方で「浮浪児」となっていた孤児の多くは「刈り込み」によって収容所や施設に送られたが、その中の一つ、東京湾のお台場にも収容施設(東水園)が作られ、多くの孤児が強制的に収容された。この施設の扱いはひどく、何人もの孤児が逃走を企てた(「東京湾・お台場」の項参照)。詳しい経緯は不明だが、23年(1948)、この東水園から若葉寮に15名の孤児が移送された。「若葉寮に着いた時驚いたことは、塀もなければ鉄条網もなかったこと、更に20円のこずかいをくれたことだった。これまで施設に入れられれば、すぐ逃げ出す算段をしてその日のうちか二、三日中に芝浦に帰っていたものだが、ここではいつでも逃げ出せると思うと、しばらくは様子を見ようという気になった。9月になって学校へいかせて貰えるようになると、いつのまにか逃げ出す気持ちはなくなっていた」。
そうしてこの孤児は、ここから中学、高校へ通い、あいりん会の職員になって夜間大学へ通った。なお、この中学校は目黒第一中学校で、当初、中学校側が受け入れを拒否していたが、寮長の高橋潔士が当時の校長を説得して通わせることができた。また、若葉寮は高校進学を指導目標としたことにより、昭和25年(1950)当時、都内の施設から高校に進学した者25名中、8名が若葉寮の児童であった。
ところが昭和24年(1949)12月3日、深夜に火災が発生し、就寝中の収容児29名と職員は逃げ場を失い、4人の児童と1人の女性職員が焼死した。この結果、若葉寮は翌年、一旦閉鎖された。現在、愛隣会は高齢者ホーム、障害者支援施設、保育所、児童施設(若葉寮)を経営する総合的な社会福祉法人として継続して活動している。
(以上は明星大学社会学研究紀要「終戦後に東京都の「特質浮浪児」対策の拠点となった養護施設」藤井常文などより)
占領軍GHQによる接収
<海軍技術研究所(エビスキャンプ)>
現在の中目黒二丁目の地に、明治13年(1880)に目黒火薬製造所が設置され、日清・日露戦争の需要に応えた。大正12年(1923)の関東大震災後、周囲に住宅が増えて行き、昭和5年(1930)に製造所は群馬県岩鼻村に移管され、築地にあった海軍技術研究所がこの地に移設された。同所は戦艦大和や武蔵の設計にも関わったという。
終戦の年11月、この海軍技術研究所は占領軍GHQに接収され、英連邦豪州軍のエビスキャンプとなったが、昭和31年(1956)接収解除された。この地を大学の学部施設にという要望もあり、当時の社会情勢としては、旧軍関係施設は公共団体に 優先開放が認められていたが、25年から28年(1950ー53)にかけて 朝鮮戦争が起こり、自衛隊の強化のため、再び軍事的な施設(防衛庁技術研究所) として利用されることになった。32年(1957)8月、技術研究所目黒試験場を設置 、翌年防衛研修所(現防衛研究所)が霞ヶ関から移転し、技術研究本部第1研究所に改編等を経て、現在、艦艇装備研究所や陸海空自衛隊の幹部学校、目黒留学生会館などがある。当時の建物はいまも一部残っている。
<目黒雅叙園>
昭和6年(1931)に料亭として開業した目黒雅叙園は、長引く戦争によって物資が制限され、政府は15年(1940)に料理飲食業者に米食の提供を禁止、19年(1944)には政令で飲食店の営業の一時停止を決定、雅叙園もこの年から休業を余儀なくされた。「昭和の龍宮城」と讃えられた建物は、海軍病院分院として接収されたが、20年(1945)の東京大空襲時に、閉鎖中の二号館に焼夷弾が直撃し焼失した。目黒雅叙園は、終戦の翌21年(1946)1月、今度はGHQの管理下に入り、駐留軍の将校宿舎として使用され、やっと29年(1954)に返還された。よほど駐留軍将校にとって居心地がよい場所であったのだろう。
祐天寺の遺骨
昭和46年(1971)、祐天寺は当時の厚生省から、旧日本軍に召集された朝鮮人(現在の韓国と北朝鮮)軍人や徴用された労働者らの遺骨2327体を仮安置するように委託され、その後平成20年から22年(2008ー2010)の間に数回ほど朝鮮側に返還されたが、北朝鮮を含む政府間の調整が頓挫したまま平成30年(2018)現在700体が残されている。そのうちの425体は今の北朝鮮出身者で、その中には死刑となったBC級戦犯も含まれているという(BC級戦犯については後述)。
700体の残りの275体については、青森県下北半島で働いていた朝鮮人労働者ら3735人を、終戦一週間後の20年(1945)8月22日夜に旧海軍の輸送船浮島丸に乗せて釜山へ向けて大湊港を出港したが、24日、航行中に米軍が仕掛けていた機雷などを避けて舞鶴湾に針路変更して寄港した際、佐波賀沖で機雷に触れて浮島丸は爆発し、大爆発音とともに真っ二つに折れ、乗客・乗員計549人が犠牲になり、そのうちの275体という。
この浮島丸事件に関しては、当時救助活動を行った地元の関係者らが、昭和29年(1953)から同市内で追悼慰霊祭を開催し、53年(1978)には現場近くの佐波賀に、幅広い市民の浄財と府と市の補助金を得て、市内中学校美術教師の集団制作によって像の制作がなされ、「殉難の碑」として建立された。その後8月24日には同地とともに祐天寺でも追悼式が行われている。
余談ながら祐天寺に遺骨が預けられるまで、厚生省がそれを収集、保管していたという経緯は筆者にはさだかではないが、戦時下においては、当時日本の植民地であった朝鮮人は、日本国内(当時のいわゆる内地は樺太や南洋諸島を含む)への否応なしの徴用で、軍の施設の建設工事や軍需工場に連れてこられ、その労働に従事させられていたことがある。これがしばしば強制連行、強制労働と呼ばれるが、賃金は安いが相応に支払われ、朝鮮人の貧しい層がその仕事をあてにして家族ごと日本に移住して来る場合もあって、そこに専門の朝鮮人手配師も介在した。
ただ同じ強制労働という意味では戦時下の国内の中高大学校生に課された勤労動員もそうであるが(別稿の「戦時下の大学・女学校」を参照)、終戦の際のどさくさで、その報酬が朝鮮人には支払われなかったこともあり、それが(慰安婦問題も含めて)現在まで日韓関係に尾を引いているようである。
なお、日本の中高大学校生も軍需工場での勤労動員中、米軍の爆撃にあって死亡する者も少なくなかったし、過労や病死もあった。「それぞれの職場において終戦の詔勅を聞いた動員学徒の数は340万人をこえたといわれる。そして学徒動員による死亡者は1万966人、傷病者は9789人であった」(文部科学省:学制百年史編集委員会資料より)。徴用された朝鮮人も同様に爆撃死や工場の事故、病死、過労死などで死亡しているが、その朝鮮人は延べ約53万8千人とあり、その遺骨が2327体という死者の数は相対的に異様であり、彼らが日本の学徒より過酷な環境下に置かれていたことが伺える。
<BC級戦犯>
朝鮮と同様、やはり当時植民地であった台湾からも日本軍により徴兵され、軍人もしくは軍属(こちらの方がずっと多く通訳も含む)として日本軍が侵攻する東南アジアに派兵され、その多くがタイ・マレーシア・ジャワ・ボルネオに置かれたイギリスやオランダ、オーストラリア人たちの捕虜収容所で監視要員として過ごした。日本が敗戦となって現地の彼らは日本兵とともに捕らえられ、現地における戦争裁判か、あるいは日本人とともに日本に送還され、巣鴨プリズン(豊島区参照)に収容され裁判を受けた。その数は朝鮮人が148名、台湾人が173名だった。そして朝鮮人の23名、台湾人の7名が死刑となった(日本人を含めBC級戦犯として処刑された者は971名)。彼らは現地で日本人上官の命令で動いていただけであるが、直接顔を覚えられていて、名指しされればそれまでであった。逆に日本人将校の多くは敗戦とともに彼らを置き去りにして遁走した。しかも釈放となった残りの朝鮮・台湾人は戦後は「外国人」として軍属としての補償や援護の対象からはずされ、その上祖国では「対日協力者」として非難され、帰れなかった人も多くいたのである。その中に戦後、「在日」と言われる人たちもいる。なお、処刑されたBC級戦犯を祈念する「愛の像」が東京駅の丸の内駅前広場南西側にあり、その遺書や遺稿701編を集めた『世紀の遺書』という本が台座の中に収められている(千代田区参照:また筆者の「各種テーマ別の記録・証言」の中に『世紀の遺書』の内容を抜粋して記述している。なお「愛の像」だけではその主旨がわからず、多少の説明文が必要と思われる)。
ちなみに朝鮮半島から旧日本軍の軍人・軍属として徴用されて戦死・戦病死した人々は2万2205人に上るという(厚労省調べ)。その中で、いわゆる神風特攻隊員として戦死した朝鮮人は18名という。またその中で上記の祐天寺に遺骨のある日本名河田清治(盧龍愚)は当時の報道で「身をもって皇土防衛の任を達成した」とされ、帝国軍人の亀鑑として賞讃された。しかしその遺骨は故郷の兄弟にすら受け取りを拒否された。というのは、逆に自国を侵略していた日本軍の功績者となるのは裏切り者に等しいからである。さらにこうした戦死者を靖国神社(千代田区参照)は英霊として祀るが、遺族の了解なしに祀ることは許されないと訴えを起こされたこともある。
なお、これらの遺骨の中には実際に名簿を検証した結果、少なくとも7体の遺骨が他人のものであることが分かり、二人は日本に生きていたという。持ち帰られた遺骨のうち遺族が判明していない195人分の遺骨は韓国天安市の「国立無縁墓地・望郷の丘」に安置されている。戦後の混乱の中での正確な調査は難しかったであろうが、おそらく「他国人」の調査は後回しにされたこともあるのではないか。というより、戦時関連書類はまさに敗戦日前後に軍政府の指令で(連合軍の追求を恐れて)各市町村の出征者の記録まで焼却されたから(この大きな戦争をなかったことにするもの)、日本軍の正確な記録さえ残っていないという呆れるほどの無責任な国の実態があった。
(日本国内の捕虜収容所については荒川区と大田区参照)
五百羅漢寺の二つの慰霊碑(満蒙開拓団と皇軍慰問劇団)
五百羅漢寺には満州興安開拓者2千余名柱の慰霊顕彰の「興安友愛の碑」がある。興安とは満州国内のモンゴル(蒙古)族居住地域である興安省を中心とした地域(現在の内モンゴル自治区の東部に相当)で、昭和6年(1931)に日本が満州事変を起こして占領した地域の一端にあり、満州と統括して満蒙地区と言われ、その後日本政府はここを開拓の新天地として「満蒙開拓団」を送り込む計画をし、家族だけでなく年少者も含めて大々的に宣伝活動をして送り込んだ。中には長野県や新潟県の貧しい村を丸ごと強制的に移住させた例もあった。そして日本に原爆が落とされ、終戦間近の20年(1945)8月8日にソ連(ロシア)軍が急に不可侵条約を廃棄してこの地域に進行してきた。とりわけソ連との国境に接した満蒙地区は大混乱となり、数多くの悲劇が生じた。すでに日本軍の統率力もなくなっていたというより、日本軍将校たちは(ごく一部を除き)争って特権を活かして先に列車などに乗って逃げてしまい、居留民だけが残されたのである。そしてソ連軍のやりたい放題の事態が生じた。多くの軍属を含む男性はソ連軍に連れて行かれ、いわゆるシベリア抑留となり極寒の中の貧しい食事と過酷な労働で多くの死者を出した。若い女性は連れ去られて凌辱され(あるいは捕らわれた日本人たちを守るためと犠牲として差し出され)、またそれを恐れてソ連軍に包囲された時に、各地で女性を中心とした集団自決が起こった(この現象は戦時下の日本軍に、「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」と教導されていた影響が大きい)。さらに残された家族は散り散りになって帰国の途につくが、長期の逃避行のため足手まといになるとして多くの子供が現地の人たちに預けられ、いわゆる中国残留孤児となり、また一、二ヶ月かそれ以上の逃避行の途上で、病死した幼い子供も多く、それでも日本に帰れずに命を落とす人たちも多かった。戦争下で一般の人たちの上に起こった数多くの悲劇の一端である。
その碑文には、「吾等はかつて若い血をたぎらせて民俗協和と楽土建設のため日夜懸命に興安蒙古の地に於いて働き続けて来た。遇々第二次世界戦争の終末に当り全く予測せぎる混乱の渦に巻き込まれ不幸現地に於いて又湖北のソ連において幾多の同志及び其の家族を失った。冥に痛恨の極みである。ここに13年を迎えて、諸精霊を慰め日蒙親善の礎となった同志の趾を遺さんがため興安友愛の碑を建立する所以である。昭和33年9月21日」とあり、説明板には「この碑の中心部に2千余柱の遺骨及び遺髪、遺品等が納められており、毎年11月3日に慰霊祭が行われています」とある。
今ひとつは、戦時下の東京では劇団の運営が困難となり、それぞれ戦火を逃れつつ地方巡業へ赴いた。その一つ、地方への慰問巡演活動をしていた「苦楽座」が「桜隊」と改称、疎開を兼ねて広島に拠点を置き、軍人病院や軍事施設に「皇軍慰問」として中国地方の島根や鳥取県の8カ所での公演を済ませ、広島に戻り、8月6日朝に宿舎で団員9人で稽古前の食事をとっていた時、原爆が投下された。その宿舎は爆心地から750mであり、女性5人が即死、残る4人も苦しみながら亡くなった。その中には元宝塚の人気女優もいた。桜隊には珊瑚座という移動劇団が同行していたが、広島湾の宮島(厳島)の寺に、7月末に移動し、原爆の被害を免れた。珊瑚座のメンバーは、桜隊の行方を探し、宿舎で亡くなった5名の遺骨を掘り出した。戦後7年経った昭和27年(1952)、苦楽座にいた徳川夢声によって、下目黒にある五百羅漢寺に9人の遺骨を納めた「原爆殉難の碑」が建立された。時を経て劇団人による追悼会が毎年行われるようになった。広島の平和大通りにもさくら隊殉難碑が建立されている。
ちなみに名脇役で鳴らした女優沢村貞子も、戦時下、東京を離れて劇団の地方巡業で大阪にいる時に空襲に遭い、逃げ惑う中で、「私の一生もこれで終わりらしい、… それにしても人間はなぜ戦争をしなければならないのだろうか。戦争をする、と決めた人たちは一人もこんな死に方はしないのだろうな …」と思ったとその半生の記で語っている。その通り、「戦争をする、と決めた人たち」は常にその身は安全な場所で、頭の中だけで考えた指令を出し、最後に危険が迫った時は真っ先に逃げられる立場にいる。その意味では戦国時代の武将たちは自分が先頭に立ってその身を危険にさらしながら戦っていて、精神的立場が全く違う。つまり近代の戦争とは人の顔を見ずに為される戦争であり、その結果原爆のような近代兵器による大量虐殺が容易に行われてしまうのである。
目黒区の大学・女学校
東京工業大学/駒場高等学校/目黒高等学校/トキワ松学園
