(東京都全体については「東京都の概要」参照)
品川区の空爆被害
〇 空爆日:昭和17年(1942)4月18日、 19年(1944)11月24日、12月11日、20年(1945)4月4日, 15日、5月24日, 25日, 29日、8月13日(全9回)
〇 被害状況:死者452人、負傷者4870人、被災者20万1000人、焼失等家屋5万2440戸。(近年の品川区の調査では死者603人、負傷者3114人、焼失等家屋51097戸)
〇 出征と戦死者数:不明(敗戦直後に各自治体の兵事関係簿を政府の指示で焼却してしまったことによる)
空爆被害の詳細
17年(1942)4月18日:前年12月8日、日本軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃をしかけた後、米国軍による初空爆の日で、米軍は太平洋上の母艦から京浜地区から神戸にかけB25中型爆撃機13機を発進、そのうち6機が東京に空爆、品川では西品川と大崎、大井町に爆弾7個と焼夷弾105個が投下された。被害は品川区が一番多く、死者26人(都内で39人のうち)、重軽傷220人、焼失等家屋104戸。大崎被服工廠を爆弾が直撃し、血の海となり10数人が死亡。
19年11月24日:米軍は7月に日本の占領地サイパン島を陥落させ、そこを最新鋭大型爆撃機B29の基地とし日本への本格的空爆を開始した。B29約88機(別に護衛戦闘機が23機)が、武蔵野市の中島飛行場を主な目標とし、品川と杉並、江戸川区にも分散空爆した。品川区は戸越、平塚、豊町、大崎、五反田が被害を受け、死者93、重軽症148人、家屋全焼全壊92戸、半焼半壊128戸で、都内では一番被害が多かった。
12月11日未明:品川と大田区に限られた小規模で、合わせて死者1人、重軽症16人、家屋全半焼44戸、被災者225人。
20年3月10日:東京大空襲の日。詳しくは江東、墨田、台東区等参照。品川区は自軍の高射砲弾の破片落下により死者2人、負傷者2人。
4月4日未明:B29約110機が主に立川方面に来襲、品川区は死者54、負傷者43、被災者201人。
4月15日夜間:B29約200機(303機とも)が横浜から東京城南地区にかけて来襲、品川区は死者17人、負傷者44人、焼失家屋3400戸、被災者1万4910人。
4月19日:川崎から都の南部と多摩地区に戦闘機P51・20機が分散して来襲、低空からの機銃掃射があり、品川では上神明小学校が攻撃されるが被害なし。また荏原区にその一機が墜落し、搭乗員一名が捕虜になった。
5月24日未明:(城南大空襲)B29が525機、皇居から南西部に来襲、品川区としての被害は最大で、死者252人、重軽症2285人、家屋全焼約2万4550戸、被災者約9万5000人。東京全体の死者762人、負傷者5130人、焼失家屋6万4060戸、被災者23万8376人であった。
続く25日夜間:(山の手大空襲)三多摩地域とやはり南西部を中心にしてB29が470機来襲、品川区は死者10人、重軽症283人、家屋の全焼約1220戸、被災者約6260人。東京全体の死者3599人、負傷者1万7899人、焼失家屋16万5103戸、被災者62万125人であった。
ちなみに米軍の記録によると、爆弾の量は5/24の焼夷弾の投下は3687t、5/25の投下は3302tであり、3/10の大空襲はB29約300機、投下量は1783tで、それぞれの半量前後である。つまり下町三区の住宅密集度もあるが、3/10の晩冬の乾燥した強風がどれだけの大火災を呼び起こしたかがわかる。
5月29日:横浜大空襲の日、その流れで品川、港、大田区にも被害があり、区では死者2、負傷者29人、全焼家屋455戸、被災者約2308人。この日以降、米軍は地方都市への空爆を加速して行った。
8月13日朝:(8月10日、長崎への原爆の翌日、政府は御前会議で降伏を決定、連合軍に通告したが)品川、大田を中心として艦載機約60機による爆撃があった(関東甲信越全体では500機以上)。区内の死者14人、負傷者15人。(8/15終戦)
なお初空爆から敗戦までの品川・荏原両区における被害状況は、罹災面積では、品川区の罹災率38.4%、荏原区の罹災率95.8%となっている。特に荏原区は35区中で本所区(墨田区)と並ぶ罹災率で、区のほとんど全部が焼き尽くされた。罹災者は昭和20年6月15日現在で、品川区で4万8668人、荏原区で7万399人であった。
焼失した小学校等
品川区では昭和初期から15年まで多くの小学校が建設・開校されたが、その多くが戦災で焼失した。
全焼:中原、三ツ木、旗台、御殿山、立会、大井第一、山中、伊藤、鈴ヶ森、鮫濱、源氏前、杜松、大間窪、大原、三木、上神明、小山、平塚、宮前、京陽、大崎、第一日野、第二、第三、第四、第五日野(廃校)の26校。これは江東区、墨田区に次いで多い。
半焼:浅間台、原、戸越
被災を免れたのは7校のみであった。これは一番空襲被害の多かった江東区、墨田区についで多い。
このようにどの地域も共通して、学校は米軍の爆撃の対象から外されていない。上空から工場と学校の区別はできるはずであるが、無差別爆撃と言われる理由がここにもある。米軍は東京の文化財的建築や皇居や特に京都を爆撃の対象としなかったが、学校も将来の文化を創造する担い手を育てる場であるという認識はなかったようである。
戦時下の出来事
概説
品川は大正12年(1923)の関東大震災で大火災を免れていたこともあり、当時の東京の市街地拡大政策により人口が流入し急増していた。特に大井・荏原地区はほぼ農村地帯であったが「耕地整理」が実施され、もとの8千人の人口が昭和初期には13万人を超えていた。この傾向は大田、目黒、渋谷あたりも同様である。昭和10年(1935)には品川区は約36.6 万人と、15年間で3倍以上となり、特に荏原地区では15倍以上と急速な人口流 入が進んだ。その後も人口は増え続けたが、戦時中の疎開により、昭和20年(1945)6月時点で、品川区が12万7000人と戦前の54%、荏原区が 11万5000 人と58%に減少した。
昭和に入って日本は深刻な経済不況下にあり、また何度かの凶作によって農民も疲弊し、その危機感が軍部を煽り、海外に活路を求めて行った。昭和6年(1931)に満州事変、12年に日中戦争(支那事変)が始まり、国民精神総動員運動が起こされ、翌年には国家総動員法よって本格的な戦時体制が敷かれ、国家予算の多くは軍事費に割かれていった。「ぜいたくは敵」「ほしがりません、勝つまでは」という合い言葉のもと、日常生活では各種の制限や禁止事項が押し進められ、生活物資の切符配給制から始まり、主食である米も配給制になった。15年には大政翼賛会が発足し、町会や隣組を指導することになった。16年(1941)春には小学校が国民学校とされ、秋には大学など高等教育の卒業が三ヶ月短縮と決定され、その12月、日本は太平洋戦争に突入した。武器生産のための金属も不足し、「金属回収令」が発令され、それは家庭の家庭の鍋や釜などから始まり、そのうち銅像、寺院の仏具や梵鐘なども対象となった。
召集令状による出征兵士の壮行会も町内各地で行われ「勝ってくるぞと勇ましく…」の歌とともに戦地に送られた。兵士を乗せた列車の沿線には見送る人々や激励のビラが貼られていた。何よりも戦意高揚が優先され、ある時老いた母親が一人息子を駅に見送りに来て、別れ際に「死なずに帰って来い!」と縋り付いて言葉をかけると、側にいた憲兵が「この不忠もの!」と言って母親を殴り倒したという。18年(1943)10月には文科系学生の徴兵猶予が撤廃され、徴兵年齢も下げられ、学生たちは休学して徴兵された。続いて男性の徴兵年齢が40歳以下から45歳以下に引き上げられた。そして戦況が悪化するこの終盤では、引き上げられた中年の男性が招集されるようになり、周囲に目立たないようにこっそりと出立したという。ちなみに19年の春、当時の国鉄の大井町工場の名物だった桜も、ちょうどつぼみがふくらんだ頃「この重大事に花見とは何事か」と批判があって伐採された。これは軍部による指示ではなく、「聖戦」遂行に熱狂する民間人の声によるものだったという。
戦場に行く男性が増えると労働力不足が深刻となり、18年には学生や生徒に勤労動員令が発せられ、中学校以上(13歳以上)の生徒から一定期間の勤労が課せられ、軍需工場への労働や不足する食糧増産のための農作業に従事するが、次第にその割合は多くなる。一般男性や女性に対しては改正国民徴用令が実施され、簡単な作業には男子は就業できないようにし、女子が当てられるようになった。学生・生徒以外の女子は挺身隊という名で軍需工場に動員された。若い女学生の勤労動員では工場で機械を扱うハードな仕事に就くことも少なくなかった。
19年11月下旬から米軍による本格的空爆が開始され、20年(1945)の3月には、国民勤労動員令が出され、13歳以上の学業は一年間停止され、通年動員体制が敷かれた。同時期に国民義勇隊が組織され、「本土決戦」が叫ばれるようになったが、その3月下旬から米軍が沖縄に上陸、本土決戦の前哨戦となり、三ヶ月の激戦を経て沖縄は敵味方20万人を超える犠牲者(その半数は住民)を出して陥落した。7月26日に連合国より無条件降伏を求めるポツダム宣言を受け、それに対し日本政府が返答を保留しているうちに8月に入り広島・長崎に原爆を受け、15日に敗戦を迎えた。
空爆下の様子
以下は『東京大空襲戦災誌』第2巻からである。
まず、上大崎のアパートに住んでいた当時29歳の北村世記の話である。
—— 5月24日夜、空襲警報が発せられ、ラジオで「東部軍管区情報、敵一機本土に侵入せり、続いて B29の大編隊続々侵入しつつあり」との声が終らないうちに、一機の後から不気味な重苦しい唸りが数を増して次第に頭上近くなる。爆音が頭上近くなった瞬間、空一面真昼のように照らし出され、見事な編隊が見え、全員退避で防空壕に身を隠した。しばらくして半身をのり出して空をのぞくと、敵機の中に日本の爆撃戦闘機も入り混じって機関銃で応戦し、高射砲も各方面からさかんに打ち出しはじめた。的中誠によく火を吐きながら落ちていく(B29の)機体をはっきり見ることができた。別の両翼が燃えながら麻布の方に落ちていく一機が片翼を焼き落としたと思ったら途端に向きを変え、私達の真正面をめがけてきた。夢中で豪に伏せ、同時に50m先の伏見宮の別邸の林に突っ込み、大音響とともに地面が揺れ、10m余の火柱が上がった。
その後低く爆音がと思うまもなくザアー、ザアーと雷雨のように何かが降ってきた。筒先に火のついた焼夷弾が次々と家々の屋根の上に、軒先に、表裏の道路にバラバラと落ちてきて、消火作業の暇もなかった。電柱は火柱を立て、電線はシュウシュウ音を立てて火花を散らし、第三日野小学校は天をつく勢いで燃えさかり、道下にある通信省電気通信試験所の木造倉庫7棟は一気に炎を噴き上げていた。ふと見ると傍の防空壕に直撃弾が5発も突き刺さり火と煙を出していて、中にいる人を呼び出し、毛布や座布団を防火用水に突っ込んで水を含ませて上からかぶり、火の海と化した熱風の道を声をかぎりに走り続けた。もう動けない、先に行ってくれと言う人の手を引っ張り、肩をかして夢中で二本榎(港区)の山に駆け上がった。…… もうこれ以上とても逃げきれぬと覚悟を決めて(アパートの人たち)7人と固く手を握り合って祈り続けた。
夜も明け、火が弱まってきたので焼け跡に戻ると、池田山などに逃れていた人も戻ってきて、全員無事な姿を見てとを取り合って喜んだ。壕の中で煙臭くなった米を炊き、一緒に朝食をとり、まだ熱い焼け跡を片付ける。アパート跡に直径15cm、長さ1m前後の焼夷弾のカラ筒、六角、丸型合わせて48発があってぞっとした。昨夜墜落したB29を見に行く。3m余も深く地にめり込んだ機体をみんなで汗だくで掘り出した。エンジンなどはなかったが、車輪は無傷だった。墜落の際、落下傘で降りたと思われる米兵二人が電気試験所の歩哨塔に降りて保護されたと聞いて見に行く。二人とも平然として顔色一つ変えず、黒山の人だかりの中には怒りでツバを吐きかける人もいた。(注:この撃墜されたB29に関し、日本における捕虜の行方を調査するPOW研究会の資料では、墜落地点は現在の港区白金台4丁目で、7人が墜落死し、4人がパラシュート降下して捕虜となったとしていて、そのうちの二人であろうか。その後東京憲兵隊へ送られ、戦後米国へ帰還とある)
三軒残った寺が避難所にされたので一応そこに落ち着き、午後、都電が動きはじめたので会社に相談に行った。目黒から京橋までの都電の沿道も数えるほどしか家は残っていず、コンクリート建ても中はきれいに焼けて人影はなかった。夕方近く会社から帰って乾パン二袋の配給を受けた。組長さん宅ではドラム缶の露天風呂が沸かしてあって、入浴後、焼死した鶏の鳥飯をご馳走になり、今後のお落ち着き先を話していたら前夜と同時刻くらいにまた空襲警報が鳴り、10機くらいのB29がやってきて、焼夷弾の雨となり、せっかく建てたバラックも、昨夜の焼残りにも火がつき、山の立木も坊主にされていて逃げ場がなく、近くの石垣にヤモリのように身をすりつけてじっとしていた。B29は電気試験所本庁舎をめがけて全くの低空で搭乗員の姿が見えるくらい、それは時限爆弾のようで5分か10分過ぎるとあっちこっちで爆発して火災となった。私達の足元近くにも落ちたが、幸いに不発弾だった。かなり離れたエビスビールの建物も時限爆弾の集中攻撃を受けていた。五反田の星製薬のビルも燃えていた。三軒残っていた寺も二軒焼け落ちて、自分が避難していた寺のみ半分残っていた。私達の家のまわりは焼夷弾の直撃でお婆さん一人が死亡しただけだった。
荏原区小山町5丁目に住んでいた当時21歳の石川清の話である。
—— 私は母と妹三人で小山小学校近くの家の二階に住んでいた。立会川の自宅は強制建物疎開で祖父の知人の家にいるようになった。別の妹二人は学童疎開として父方の叔母の所に行かせてあった。24日の夜は空襲警報が鳴るとともに母を強制疎開跡地に逃げさせ、私は防空後に入ったりして外の様子を見ていた。しばらくすると武蔵小山の方に焼夷弾が落下するのを見た。するとその下から真っ赤なひが燃え上がった。近所でも焼夷弾が落ちたようで騒がしくなった。火は学校を舐め、大きな火焔となって迫ってきた。私達はこれまでと思い、持っていけぬものを防空壕に投げ込み土地を被せ、水をかぶりながら妹とともに逃げ出した。途中の大きな地主さんの長い塀に沿って進めば立会川の強制疎開跡地に出られると、地面を這うように身を低くし、煙を吸い込まないようにしたが、熱風で窒息死しそうであった。やっとの思いで疎開跡に着いたが、なおも焼夷弾は落ちてきた。気がつくと手には金物の急須とバケツの柄だけを持っていた。ここで母と会い、立会川下流の第二延山小学校に避難した。……私はこれで人並みに家を焼かれ、仲間入りしたことで安心した。
荏原区東中延3丁目に住んでいた当時15歳の竹中宮子の話である。
—— 当時女学校三年生で学徒勤労動員で工場に通っていた。そこで3月10日の経験者より、逃げるということを教えられていた。5月24日も防空壕に泥をかけ、家を放り出して最も広い第二京浜国道へ出てみた。照明弾がふらふらと落ちてきて非常に明るい。驟雨の如くカランコロンと降ってくる焼夷弾は恐かった。中延と大田区馬込町の境にある食糧倉庫が火の塊となって燃え、表通りの商店街も次々と火を吹きだしていた。消防団が手押しポンプを国道の真ん中に出し消火を始めたのを見て少し安心したが、身体は畑の多い間米の方に走っていた。食糧倉庫の脇は呼吸が苦しい。水筒の水をタオルにかけ口にあて思い切り走って突破した。間米は暗く、嘘のように静かだった。真っ赤に燃える我が家の方をはるかに眺め、夜の明けるのを待ち、戻りかけた時だった。天に轟く音、煙の中に舞い上がるトタン板、今度は爆弾攻撃かと思い、また逃げた。崖の影に身をひそめ、何組かの人々と夜明けを待った。その時、黒い雨が降った。
あとでわかったことだが、轟音は私鉄の線路を中心に起こった竜巻だった。消防車も逆さに舞い上がり、私の級友も吹き飛ばされて意識不明で救助された。小学校の校庭が救護所となりやけどの手当がされていたが、その中に着物を引きずり、顔にやけどをして気が狂ったように泣き叫んでいた女の人、焼夷弾の殻をのぞき、下のボタンを押して顔にやけどをした男の子、その直撃を受け生死をさまよう級友のお母さん、一片の地獄図のように浮かんでくる。柱一つ残らず焼けた瓦礫の中に立ち、もう焼け出される心配はないという変な安心感が残った。夜になると電柱がくすぶってちらちら燃え、今夜も目標にならなければと案じていたが、やはり大空襲だった。焼けた晩から防空壕に母が留守をかねて泊まり、姉と妹の三人は遠くの延山小学校まで布団を持って教室のむしろの上で寝た。夜は小学校、朝は防空壕へ戻り食事をして工場へ通学(?)する日々が続いた。(註:当時はこのように家を焼け出されても、軍需工場への勤労動員を休むことは許されなかった)
そして数日は、さがし出した肉親の遺体を焼く紫の炎が青い五月の空に条々と立ちのぼっていくのが目にしみた。
荏原区西中延3丁目に住んでいた当時35歳の佐野芳子の話である。
—— 25日夜11時ごろだったか、突然警戒警報のサイレンが鳴り響き、続いて空襲警報が鳴った。主人は寝ていたが、すぐにはね起き、枕元に非常持ち出しのリュックと、ゲートルはいつも巻いて寝ていたから、上着だけの身支度で逃げる用意がすぐにできた。そのうち焼夷弾の雨となり、庭の防空壕あたりも燃え始め、外では一面真っ赤になり、おびえる人達が右往左往、少しでも暗い方へと逃げ惑ううち、夫とはぐれた。私の家の裏には幅約7m、水の深さは約50cm、岸から水面まで約3mの立会川があった。その頃はザリガニやエビガニがいるきれいな川、この川にみんな飛び込んだ。中には腰や足の骨を折った人、そこで焼夷弾の直撃を頭に受けて即死した人、足に直撃を受けた10歳の男の子もいたが、この川で助かった人は数知れずいた。私も我が家から100mくらい先で川に飛び降りたが、リュックを背負っていては飛び降りれないので川の淵に置いた。川は身動きもできないほどで、お湯のように熱くなっていて、そこにも焼夷弾は降ってきた。ふと前の人をみると防空頭巾に火の塊が飛んできて燃え出し、懸命に水をかけて消した。火の粉ではなく、火の塊が頭上に飛んでくるのであった。
B29はもう去ったと誰かが言い、あとは川沿いの家々が焼け落ちるのを待つばかりで、消防隊も私共ふだんの訓練もこの大火の前には、ただ燃えるに任せるほかなかった。ほぼ焼け尽くしたと思われた午前4時ごろ、また敵機ではないかと思われる音がし、戸越方面を見ると、空はまだ真っ赤で、大きな塊が泳いでいるように見えた。これは竜巻が起きているのだと聞き、その影響で焼け跡の火も舞い上がって危険だった。やっと川から這いあがり、リュックを取りに行ったら、リュックの中のジャガイモが黒焦げにちょうどよく焼けていた。なんとか我が家の焼け跡にたどり着いたら、泥だらけになった夫を見つけ、無事をお互いに喜び、涙が溢れた。そして先ほどのジャガイモを朝食にした。
翌日、廃墟と化した焼け跡にやかんのようなものを誰かが見つけ、よく見るとそれは人間の首だった。消防団が掘り起こしたところ、中から父母と4歳ぐらいの男の子が出てきた。母親のふところから住所と写真が出てきたので身元がわかったが、親子三人は逃げ場を失ってここまでたどり着いて蒸し焼きになったようだった。「これは息子だ、嫁だ、孫だ」と顔中涙にして悲しんでいた老人の姿が忘れられない。竜巻で人間も舞い上がって戸越公園で黒焦げになった死体が十数体あった。
学童疎開
迫り来る空襲を予想して、昭和18年(1943)後半から都市に住む学童を地方に疎開させるとして縁故疎開が行われていたが(19年4/1現在、品川区3460人、荏原区2268人)、なお不十分として19年6月30日に「学童疎開促進要綱」を決定、主に大都市の小学校3年以上6年までの縁故のない学童を対象とした。それにより旧品川区の学童は約8500人が三多摩(八王子や西・南多摩郡など)に分散して疎開、荏原区は約6700人が静岡県に疎開した。宿泊先は寺院や公会堂であった。予定は翌年3月までであったが 、空襲の激化により延長、新1、2年生も対象とし、 荏原区の学童は約1200人が富山県に疎開した。疎開先の食料も軍事用が優先で乏しく、児童たちは一年数か月にわたる耐乏生活を続けた。しかし東京近郊へも爆撃が重ねられるようになり、学童たちは疎開先でも以下のような空爆被害にあった。
5/25、山の手大空襲の際、疎開先の南多摩郡にも空爆があり、伊藤国民学校の妙延寺学寮・ 鈴ヶ森国民学校の万松寺寮・山中国民学校の宝蔵院学寮が全焼したが、学童は防空壕に避難し全員無事。(稲城市参照)
7/6、八王子への空襲により鮫浜国民学校の円通寺学寮が全焼、学童は全員無事。
7/8、やはり八王子空襲で原国民学校の疎開先の相即寺が米軍の戦闘機P51の機銃掃射を受け、原小学校4年生の学童が死亡(寺に供養地蔵が残されている)。
7/28、当時の西秋留村(現あきる野市)に疎開していた第一日野国民学校5年の児童が八王子方面から来たP51の機銃掃射を受け頭部損傷で翌日死亡。戦争終盤に米軍機は制空権を得て自由に飛び回り、戦闘機が低空飛行で外に遊ぶ子供達を遊び半分で狙い、このように死亡した例もある。それは各所で多くの子供たちが証言している。
8/2、八王子大空襲の日、 大井第一国民学校の宇津木学寮、立会国民学校の大林寺学寮、原国民学校の宝生寺学寮、鮫浜国民学校の乾最寺学寮、浜川国民学校の妙経寺学寮が全焼。 学童は全員無事。
なお6月、静岡県も米軍の空爆の対象になり、荏原区の学童は青森県に再疎開した。
疎開児童たちが帰京したのは10月以降であった。大崎駅に降り立ち、懐かしいわが家に帰れると思った子供達が見たのは一面の焼け野原であった。自宅も学校も焼けてなくなっていて、自宅の場所も目印がなく、すぐには探せなかった。焼け跡の学校を前にして呆然としていると、親達が迎えにきて「生きていてよかった」と抱き合う姿も多くあったが、中には親を探している子供の目の前に声をかけてきたのはおばあさんであった。「おばあちゃん!」と駆けよって「お母さんは?お父さんは?」と聞いたが、おばあさんは黙っていた。親が焼死して孤児になった子供には過酷な人生が待っていた。(下記と墨田区や江東区参照)
戦争孤児
<トラックで棄てられたわたし>
山本麗子(終戦時9歳)の体験である。
わたしの生まれは東京都品川区です。1945年5月24日の空襲で、父は焼夷弾の破片を前身に浴び、終戦後の10月2日に亡くなった。当時結核で寝込んでいた母も、11月3日に死亡した。両親の死により、兄、わたし、弟の3人は離れ離れに親戚に預けられ、わたしは静岡県西伊豆の叔母の家に行くことになった。
9歳で孤児になったわたしを待ち受けていたのは、想像を絶する生活でした。叔母の家では毎日、山へ薪ひろいに行き、その薪を背負って、一日何回も海岸まで運ばされた。 小学3年生でしたが、学校には行かせてもらえなかった。夜は海岸で山からひろってきた薪をひと晩中燃やし続け、火の番をさせられた。海水から塩を採るためです。9歳のわたしにはとっても辛い仕事でした。
わたしが11歳のときだったか、ある日別の親戚の家に預けられていた弟が病気だとの知らせを受けた。叔母の家から駆けつけてみると、弟は馬小屋に寝かされていた。やせ細った体でうめくような声で「お母ちゃん、お母ちゃん」といいながら、うどんのような回虫を吐いて死んだ。弟の死んだ姿を見て、わたしは叔母の家に戻る気をなくした。このまま叔母の家にいたら、わたしも弟と同じ惨めな死に方をするにちがいない。
わたしは東京に向かった。線路伝いに歩いて十数日かけて、やっと東京の品川にたどりついた。……その間、空腹と夜露をどうしのいだのか、どうしても思い出せない。なんとか東京に戻れたわたしは、上野駅に行ってみた。駅は焼け残ったものの、周囲はまだ焼け跡だらけで、あちこちにバラック小屋が建っていた。わたしは駅の地下道へ行ってみた。裸電球のついたトンネルの壁際に子どもたちがびっしり座っていた。わたしはその日からその地下道で同じように浮浪児になるほかなかった。昼間でもほとんど外に出ず、うずくまって過ごした。夜も座ったまま、防空ずきんをかぶって寝た。
東京で浮浪児となったわたしは、毎日をぽんやりと過ごしていた。2日に1回、ボランティアのおばさんが配るおにぎり1個で生きていた。おにぎりを2個もらえたら、1個ずつ2日に分けて食べる。……まわりの人と話すこともない。「今日はおばさん、おにぎりを持ってきてくれるかな」と、それだけを待つ毎日でした。
上野では「狩り込み」に捕まった。「狩り込み」とは、駅や公園、路上などに群れ集まっている浮浪児たちを、捕まえて車に乗せ、孤児収容所などに連れていくことだが、おじさんたちは「いいところへ連れていってやる」といって、わたしたちを無理やりトラックに乗せた。その車は、東京の街を走り抜けると田んぼや畑が広がるでこぼこ道を走って行った。しばらく田舎道を走ったあとは林の中で、やがて車は薄暗い森の中で止まった。そしてわたしたちを車から降ろすと、逃げるように走り去った。山奥へ棄てられたわたしたちは、みんなで声をかけ合いカを合わせながら、なんとか山を下りることができた。あとで考えると、棄てられた場所は、茨城県の土浦方面だったようだ。
そしてまた上野に戻り、駅の地下道で暮らした。上野駅の地下道で数年過ごしたあと、わたしは親戚を頼って茨城へ行った。親戚の知り合いがお寺だったので、お手伝いとしてお寺で生活することができた。お寺では、朝5時と夕方5時に鐘をついた。ご飯の支度、雨戸の開け閉めと小坊主のような毎日で、ここでも学校には行かせてもらえなかった。20歳になる少し前にお寺を出て東京に戻り、飯田橋の料理店で働くことになった。
空襲のことは、今でも夢に出てきて、そのつど怖い思いをする。別れた兄とは一度も会えず、数年前、亡くなったと病院から連絡を受けた。今まで苦しく厳しいことばかりだった。よくここまで生きてこられたと思います。両親の死後、とうとう学校には通わせてもらえず、わたしの学校生活は小学校3年生で終わった。
(『もしも魔法が使えたら— 戦争孤児11人の記憶』講談社、2017年:星野光世編より。その冒頭の句 —「もしも魔法が使えたら、お母さん、あなたに会いたい!あなたは今どこにいますか?」)
なお、山本は孤児で記録作家の金田茉莉が関わった東京空襲訴訟の原告の一人となった。金田は以下のように語る。「訴訟には国へ納める印紙代5万円その他が必要で敗訴になれば更に1.5倍の費用がかかるが、それでも控訴に加わった。国からゴミとして棄てられた彼女の無念、怒りが訴訟へ駆り立てたと思う。孤児たちは『私の人生を返せ。親を返せ』と訴えている。戦争は遠い所で行うもので、大人たちが子どもを護ってくれると信じていた。その大人から、棄てたり、犯罪者に仕立てられたりした。国は訴える術のない孤児を無視、放置してきたために、浮浪児という大きな社会問題を起こした。そして世間一般の人たちは戦争孤児たちを『手に負えないガキども』として軽蔑し、差別してきた。人間としての尊厳、人格も破壊され、ドブネズミのように生きてきた。誰ひとりとして自分が孤児になりたいと思ってなったわけではない」。
ちなみに「東京空襲訴訟」のような訴訟は一度ならず提訴され、その都度無惨に敗訴した。その経緯は筆者の「昭和の戦争と東京都の概要」の「戦後の補償」の項を参照。
東京荏原郷開拓団
日本は昭和6年(1931)に満州事変を起こして中国の東北地方の満州を支配するが、政府は翌年から昭和20年(1945)終戦間際まで満蒙開拓団(満蒙とは満州と隣接する内蒙古のこと)として満州へ移民を送り続けた(その数27万人)。大半は長野県などの貧しい農村からの移住であり、村ごとの移住もあった。1929年の世界恐慌の影響で失業者があふれ、また一方で国内は冷害による凶作もあって農家は飢餓に苦しみ、この時期に植民地化された満州はそうした人たちの格好の受け入れ先として政府によって満州への移民政策が立てられていった。昭和11年(1936)に日本政府は「満州農業移民百万戸(500万人)移住計画」を立案、さらに日本は12年に日中戦争開戦、その4年後には太平洋戦争まで起こすに至り、国内の産業は軍需一色となり、日用品や食料は配給となり、いわゆる商店や不要不急の零細企業は成り立たなくなって、「転廃業者は工場で武器を造るか農地で食糧を作るか、道は2つあるのみ」とされ、商店関係者は主に軍需工場に動員されることになる。東京では昭和14年(1939)、東京初の開拓団「第八次東京郷開拓団」を送り込むが、17年(1942)から東京商工会議所が転廃業者を積極的に満州に送り込む施策を進め、山の手の五大商店街の一つに数えられるほどのにぎわいを見せていた品川区の武蔵小山商店街もこれに応え、18年から19年まで一年がかりで第十三次東京「荏原郷開拓団」として商店街ぐるみで1039名が満州へ渡った。ほぼ家族ぐるみでそのうち4割は子供であった。これは東京での最大の開拓団の組織であった。
荏原郷開拓団の入植地は興安(現・内モンゴル自治区)街西北8kmの場所で、新天地は先住民から奪ったソ連の国境近くの土地であり、冬は−30°以下になる過酷な生活であった。そして入植から一、二年後の昭和20年(1945)8月9日未明(長崎への原爆の直前)、ソ連軍が日ソ不可侵条約を破棄して突然満州へ侵攻、多くの惨劇が生じた。約3千人いた興安の居留民は避難することにし、東西の二班に分かれ、西の班は先に貨物列車に乗って脱出したが、東半分の住民は集合に手間取り、すでに列車はなく、馬車や自動車は、住民を守るはずの関東軍将校や諸官庁の職員が列車を使って先に逃げていた。そこで葛根廟駅への列車の到着を待って南下するという計画にし12日から移動を開始、14日に葛根廟丘陵付近まで到達したところで、ソ連軍中型戦車部隊と歩兵部隊に遭遇した。ソ連軍は丘の上から避難民に対し戦車と機関銃で攻撃を加え、時には人々を轢き殺し何度も繰り返し、最後には銃剣で止めを刺していった。これに加えて、もともと日本軍が追い出した現地の農民たちから派生した匪賊や暴徒が逃避行する日本人を襲った。 彼らは15日に終戦になったことも知らされず、助けてくれるはずの関東軍もすでにいなかった。
この逃避行で1000人以上が犠牲となり、その犠牲者の多くは女性子供であり(男性の多くは満州国内で徴兵されていて、侵攻したソ連軍に捕まってシベリアに送られた)、残った人々の多くは帰国を諦めて自決し、生存者は百数十名とされている。犠牲者のうちの200名近くの児童は、興安街在満国民学校の児童であった(葛根廟事件)。この葛根廟事件とは違う流れで興安にいた居留民のうち約3割は荏原郷開拓団の人々であった。脱出を試みたが追い詰められ、8月17日に一部の人々は双明子の麻畑の中で集団自決し(家族で自決する際、まず自分の幼子を殺す)、残った人々は、飢えと病のために力尽き、800人余りの人々が非業の死を遂げた。またこの興安の荏原郷の人たちの近くには港区麻布材木町にあった乗泉寺の信徒が仁義仏立講開拓団として入植していて、その彼らも680名中、戦死・自決469名、生還はわずか20名だけだった(港区参照)。(数字は諸説あるが、満州居留民の死者7万2千人、残留孤児・婦人1万1千人。この逃避行で残留孤児となってその後も過酷な体験をした人の語りは、筆者の「各種参考資料」の中の「満洲開拓団の死の逃避行—— 須田初枝のライフヒストリー」参照)。
なお「第十三次満洲興安東京荏原郷開拓團殉難者慰霊碑」が品川区小山の朗惺寺にある。
大東亜戦争終末、ソ連参戦で暴徒による虐殺・集団自決した興安省入植中の団員約800人の慰霊顕彰
碑文
昭和20年8月9日 日ソ国交断絶するや、全満州に亘りソ連の進撃開始され 之に呼応して隆起せる匪賊暴民の難を避くるため南方白城子方面へ脱出の興安東京荏原開拓団団員家族全員が 兆南縣明子部落付近に於て多数匪賊の襲撃進退窮まり 遂に男子七十余命は婦女子保護のため之と死闘を交ふるに至り 8月17日 山崎団長以下八百余名の大半が戦死 或は自決等々万斛の恨みを呑んで遭難しせるは極みなき痛恨事に他ならず 茲に其第十三回忌を迎えるに当り われら本団「ゆかり」の同志相計り浄財を集め 本団発祥の当地にこの碑を建立し供養して殉難者慰霊の一端に資するものである。
昭和三十二年十月十七日 建立
東京武蔵小山商店街協同組合員一同/満州興安東京荏原郷開拓団生存者一同
戦後の出来事
概説
戦災で焼け出された人達は、散在するトタン板で防空壕の上を囲って暮らしたり、空地や学校の校庭にバラック小屋を作ったり、区もその校庭に被災者用の簡易住宅を作った例もあった。戦前からの食糧不足はますます深刻となり、配給される量も少なくなり、人々は闇の市場や近郊の農家に食糧の買い出しに走った。しかしせっかく手に入れた米なども、闇物資として警察に没収されたりして、泣くに泣けない例も多々あった。終戦の翌年の昭和21年の5月における東京都の調査では、まったく米飯を食べていない学童は43%、一食しか食べていない学童もほぼ43%であった。食糧の買い出しのために、学校や工場では休暇も取れるようになった。それよりも弁当を持って来れない生徒が多いため、午後の授業をやめた学校もあった。そのうち占領軍GHQや米国の奉仕団体が余剰の食糧を日本に無償で提供してくれるようになり、それが小学校の給食でも配られるようになった。そのことでGHQ司令官マッカーサーに対し、感謝状を送る学校もあった。一方で戦後のインフレーションで庶民の生活は苦しいままであった。
戦後に品川区がまず取り組んだのは、戦災で焼失した学校の再建だった。しかし焼失した学校を再建しようにも肝心の木材がなかった。木材も配給制であったが、父兄も協力して地方に木材を探し回った学校もあった。さらに疎開先から戻って増え続ける児童の数に学校建設が追いつかず、やむなく残存した学校を借りて二部や三部制の授業が行われた。また本格的な住宅建設が始まったのは昭和25年頃からである。
戦前から品川区の地場産業であった電球の生産が、21年より再開され、22年にはクリスマス用の豆電球400万個がかつての敵、米国に輸出された。そして25年からの朝鮮戦争による米軍の特需で日本の産業は復活のきっかけをつかんだ。
昭和23年(1948)に東京都が35区制から23区制に移行し、品川区と 荏原区が合併し、現在の品川区となった。また、戦後の外地からの引揚げ、復員、転入等によ り、昭和21年から30年(1955年)までに、人口が 2.6 倍に増加 した。
品川俘虜病院
東京俘虜(捕虜)収容所には撃墜された米軍のB29から落下傘で生き残った捕虜や、海外の戦地でとらえられた捕虜を収容していた。その収容所の各分所の重病の捕虜を収容するために、昭和18(1943)年8月、東京俘虜収容所本所跡地を利用して、品川区東品川に病院が開設された。(本所は大田区参照)
この品川の捕虜病院では病室には医薬品などはまったくなく、重患で運び込まれた栄養失調や脚気の捕虜4人に対し、徳田軍医が豆乳を静脈注射するという人体実験で4名の死者を発生させるという事件があった。 それぞれの捕虜の死亡原因は結核、脊髄炎、末期胃癌、肝硬変とされていたが、 豆乳注射が生体実験であるとし、戦後米国占領軍に徳田大尉は捕えられ、横浜の戦犯裁判で、死刑の判決が下された。しかし彼は巣鴨刑務所でハンガーストライキに加えて発狂を偽装して精神鑑定ののち無期に軽減され、その後放免された。なお捕虜が死亡した時はほとんどの場合火葬され、分所の近くの寺院などに遺骨が預けられることが多かった。遺骨は戦後、占領軍によって回収された。
ちなみに日本には約130カ所の捕虜収容所があり、占領地で捕虜となった連合国軍兵士約3万6000人が日本に連れてこられ、炭鉱や軍需工場、港湾などで働かされた。これ以外に国内で墜落してとらえられた搭乗員捕虜は、すべて国際法に従って処置されたわけではなく、その場で軍人や住民に袋叩きにされ、殺された場合もある。もちろん墜落した搭乗員をきちんと捕虜として扱った場合もあるし、墜落死した搭乗員を手厚く葬った場合も少なくないが、占領後米軍は、日本各地でその現場を追及し、殺すなどした当事者を捕えて横浜のBC級戦犯裁判にかけ、その多くを国際法違反として死刑にした(筆者の「各種参考資料」の「BC級戦犯とその裁判について」あるいは「世紀の遺書」参照)。
