東京都台東区:下谷区 + 浅草区

台東区の空爆被害

〇 空爆日:昭和19年(1944)12月10日・30日・31日、20年(1945)1月1日・27日、2月24日・25日、3月4日・10日・18日、4月4日・13−14日、5月19日・24日・25日、7月10日、8月13日(全17回)

〇 被害状況:死者1万2383人以上(遺体の実際の処理数)、別な記録では行方不明者5770とあり、合わせると1万8153人以上となる。この不明者の数は江東区の次に多いが、その数が明確に記されている例は極めて少ない。この大半は大火災で焼けながら冷たい墨田川に逃れて溺死や凍死し流された人たちであろう(東京湾・お台場の項参照)、負傷者1万840人、被災者26万3030人、焼失等家屋4万3800戸。

 15年(1940)当時、下谷区と浅草区に分かれていたこの地域は10万1273世帯、46万254人が住んでいたが、20年(1945)6月にはその15%の1万7144世帯、6万9932人にまで下がった。

〇 出征と戦死者数:不明

年月日別被害記録

 昭和19年(1944)12月10日夜:B29 2機が来襲、江東区を中心に焼夷弾446個が落とされ、死者は浅草の1名のみ。全体の重軽傷者4人、家屋の全半焼26戸。このころはまだ、落とされた焼夷弾の数を数える余裕があった。

 12月30日未明:B29・1機が隅田川沿いに焼夷弾448個(461個との記録も)を投下、浅草と蔵前、他には両国、日本橋、神田、麹町あたりまで被害があった。浅草で死者3人、重軽傷者19人、家屋の全半焼244戸(工場二棟含む)。

 12月31日夜間:主に御徒町、浅草、神田地域へ、B29・1機により、焼夷弾1436個(1457個との記録もある。上記の計算からすると1444あるいは1482となるが、不発弾で柔らかい土中に埋まるか川に落ちる場合もあっただろう)が落とされた。全体の死者1人、負傷者63人に対して家屋の全半焼866戸。この二日間の家屋の焼失数を見ると焼夷弾の威力がわかり、この後の3月10日の大惨事を予想させる。被災者は二日間で3476人。

 20年(1945)1月1日:前日夜間に引き続いて未明にB29が1機と2機、主に台東区と墨田区に分散して来襲、焼夷弾773個、全体で死者5人、負傷者29人、全半焼39戸、被災者173人であった。

 1月27日:B29が62機来襲、250kg爆弾124個、焼夷弾1200個を有楽町・銀座地区を主にして都内広範囲に投下、有楽町駅付近は遺体であふれた。台東区の死者は103人、重軽傷者約200人、家屋の全半壊、全半焼約262戸。都内での死者532人。

 2月24日:雪の日の夕刻と夜間にB29がそれぞれ1機来襲、主に台東区の浅草と下谷地域がやられた。この時は250kg爆弾14個、焼夷弾2個とあるが、これは各焼夷弾を38発内蔵する収束焼夷弾が2個ということであろうか。ただこれだけの爆弾数で、死者102人、重軽傷者105人、家屋の全壊・全焼114戸、半壊半焼78戸。

 2月25日:雪の日の朝にB29 10機と空母からの艦載機56機、午後、第二次としてB29・201機が都区の北東全域に来襲、第一次で焼夷弾7550個、第二次で高性能爆弾42t(250kg爆弾とすれば約170個)、区の死者17人、負傷者27人に対して全半焼1471戸、被災者4395人。全体の死者は約200人以上、負傷者440人、全焼等被災家屋約2万700戸。

 3月4日:午前:B29・177機が都区内と田無、東久留米に飛来し、250kg爆弾その他で350個以上、焼夷弾が二種合わせて約8600個落とされた。台東区では谷中地区に爆弾のみ26個が落とされ死者80人、重軽傷170人、家屋の全半壊約200戸(下記体験談参照)。全体では死者650人。

 この辺りまで、爆弾、焼夷弾の量に比して被害が少ない。1月末に空爆の指揮官がカーチス・ルメイ少将に変えられ、彼は司令官として住宅密集地への低空からの絨毯爆撃作戦に切り替えた。そして3月10日である。

 3月10日:日付の変わった未明:東京大空襲の日。B29 301機が大量の焼夷弾を投下、ちょうど北北西からの乾燥した強い冬風が吹き荒れる気象も重なって(米軍は気象を読んでいた)、火の海あるいは地獄の劫火と言われる大火災を引き起こし、多くの住民が逃げ場を失い焼死した。この日だけで死者3万8000人、負傷者1万9000人、被災者27万9000人、焼失家屋7万2800戸とされる。(同日の墨田区と江東区の3区を合わせた死者は約7万3200人、負傷者9万8700人、被災者77万3500人、焼失家屋19万7100戸となっている)。特に浅草区は旧35区内でもっとも人口密度が高かったが、この日の大空襲では浅草区全域と下谷区の東側半分が焦土と化した。5日後の3月15日現在の調査では、この日の台東区に限った犠牲者は1万1823人、重軽傷者4711人である。

 3月18日:B29一機が午前と午後に浅草地区に来襲、100kg爆弾13個を投下、蔵前と駒形で死者2人、重軽傷9人。すでに焼き尽くされた後なので、家屋に目立った被害なし。

 4月4日未明:B29約110機が多摩地区も含めて分散的に来襲、隅田町の鐘淵東京兵器工場に焼夷弾が多数落とされ、数棟が全焼。他の被害は不明だが、都全体で死者710人。

 4月13−14日:深夜からB29約330機がほぼまだ打撃を与えていない都の北西部に来襲、豊島、北、荒川、足立、板橋、新宿区に大きな被害が出た。城北大空襲と呼ぶ。区は主に残部の下谷地区が空襲を受け、被害は死者19人、負傷者は141人、家屋の全焼約3000戸、被災者1万2400人。

 5月19日:B29とB24が約30機来襲、しかし爆弾投下は9個のみ。そのうち浅草の日本堤に爆弾3個落とされるが、いずれも不発で人に被害なし。

 5月24日未明と25日夜間:城南大空襲と山の手大空襲の日で、爆撃機も投下爆弾トン数も3月10日の大空襲の倍前後となっている。相応に家屋の焼失と被災者数は多いが、死傷者は比較にならないくらい少ない。避難体制もあるが、多くの住民が疎開したことも大きい。この両日の大きな被害地区は渋谷、目黒、品川、太田、中野、新宿区である。台東区は死者1人、負傷者5人、家屋の全焼47戸、被災者303人。

 7月10日:空母艦から艦載機226機が来襲、板橋・練馬地区と北多摩地区を襲撃する。下谷地区には主に宣伝ビラを撒いたとある。この時期はすでに日本軍機はほぼ底をつき、米軍機は自由に日本の各地を飛び、時には外で遊んでいる子供たちをパイロットが笑っている顔が見えるほどに低空で銃撃した。宣伝ビラとは、日本軍はあなたがたに嘘をついているから信用してはいけないとか、日本語で警告するビラである。中には八王子に対して空襲の予告ビラもあり、実際に8月2日に八王子を焼き尽くしたが、人的被害は少なかった。

 8月13日午前:終戦直前であるが主に中央区と品川、大田区に、艦載機からの約60機(関東甲信越一円では500機超)による爆撃があり、台東区の場合は南稲荷町からの高射砲弾の破片で一人負傷させた。ちなみにすでに8月10日(長崎への原爆投下の翌日)に日本政府は連合軍に対し降伏を通達していたが、正式発表の15日まで、米軍の攻撃は容赦なかった。

 台東区の被災地域は旧浅草区で約90%、下谷区で約25%となっている。

焼失した小学校など

 忍岡小学校、谷中小学校、富士小学校、石浜小学校、千束小学校、龍泉小学校(東盛小学校に併合され、現:東泉小学校)、福井小学校(廃校)、山谷掘小学校(廃校)、今戸高等小学校(廃校)、新堀小学校(廃校)、御徒町小学校(他校と合併)、小島小学校、済美小学校で、すべて全焼となり、小島と済美は蔵前小学校へ併合された。この他、蔵前の浅草実科高等女学校(都立浅草高校の前身)が全焼し、宿直していた女学生数十名が全員焼死した。

 以下は焼けた学校の様子である。

 空襲時の避難場所としては、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した小学校のうち、多くが鉄筋コンクリート造りに建て替えられ、それらの校舎が指定されていた。

 富士小学校は鉄筋3階建ての校舎であったが「木造の門や下駄箱や避難者の運び込んだ荷物に火がつき、満員の人たちは全滅した」 「講堂にも次から次へと大勢の人が押し寄せ、観音開きの扉が開かなくなったところで、持ち込んだ布団に火がつき、あっという間に燃え広がって、全員が亡くなった。人々が折り重なった焼死体の山は人数すら特定できなかった」。他区の学校でも似た話があり、講堂が一種の大きな焼却炉のようになるのだという。また「学校のプールだけでも(その中に逃げ込んだ)800人が死んでいる」とあり、プールの上にも強風に乗った火が覆い尽くしたようで、水の中に押し込まれて水死した人もいたのであろうか。

 千束小学校も鉄筋だったが強風の中の火の粉と炎はガラス戸をその熱で壊して校舎の中に入り、大勢の人が焼け死んだ。講堂にも多くの人が逃げ込み、扉を閉めきったが、隅のピアノから燃え始めて酸欠状態となり、一部の人たちはプールに逃げ込み、助かった。プールで助かった人の話では「学校のげた箱周辺には逃げ遅れた親子とみられる黒こげの遺体が無残に横たわり、校舎内の防空壕へ避難した人は全員窒息死(中毒死)したようだった。卒業式出席のため、空襲3日前に疎開先から帰京し、久しぶりの再会を喜び合った大勢の同級生も12歳で空襲の犠牲となった」とある。黒焦げの遺体は校庭に並べられ、翌日あたりから肉親を探して見回る人が多くいた。

 「今戸小学校へ避難した人々にも多くの犠牲者が出て、学校の入り口、廊下、階段に隙間のないくらい死体があったという」/「南部では済美小学校が全焼し、駒形橋近くの金時ビルの地階と一階では、女性や子供290人近くが焼死した」(注:これ似た話は中央区の明治座にあり、参照)。そのほかにも学校での同様な悲劇はあるようだが、表に出て来ている証言は多くない。そのほとんどの人が死んでいることもあり、生き残った人も思い出すのも辛く、話せない人も多くいた。(以上は『台東区史通史編III下巻』より)

 焼け残った小学校などは、家を失った住民の仮住まいとなった。

戦時下の出来事

空爆の実態

 当初の米軍のB29による爆撃は、武蔵野の飛行機工場や軍需工場への爆弾投下が主であったが、それも1万mの高高度からで、命中度は低かった。主に使われた250kg爆弾というのは、何もない地上であれば直径15−20m近くの大穴を空ける威力を持ち、その中心にいれば人の体は残らず、周囲の人は土砂で埋まってしまい、掘りださなければ窒息死する。こうした爆弾で行方不明になっている場合は、この中心にいた人で、体が砕け散って形が残らないからである。米軍はこの爆弾と焼夷弾を併用するが、焼夷弾は主に住宅地に向けられた。当初は焼夷弾も高高度からであったが、日本軍の対空高射砲の精度が甘いのを見たのであろう、次第に低空からの爆撃に切り替えられていく。またそれまでの爆撃の指揮官が手ぬるいとして、米軍は欧州戦線で実績のあるルメイ少将を1月末に新たに任命、ルメイは徹底した焦土作戦に転じ、低空からの焼夷弾を多用するようになった。

 ちなみに B29・1機で焼夷弾をどの程度積めるのかを調べると、対日本用に開発されたE46集束焼夷弾一筒の中に38個のM69という焼夷弾が入っていて、それを空中で分解させる。焼夷弾一発あたりの大きさは、直径8cm・全長50cm・重量2.4kg程度で、38発入れた収束焼夷弾が12束落とされた計算となり、正確には456発のようである。すると一束の重さが91kgで、全1100kg(1.1t)となる。それでもB29は約9tの積載量があり、なお余裕がある。そこから見ると焼夷弾は少なく見ても3000発以上積めたのではないか。またB29は12人乗りで(通常は11人)、分担して作業ができ、焼夷弾と爆弾を同時に積んで落とす場合もあった。「B29爆撃機は、電柱と衝突するのではないかと思うほどの低空飛行を続け焼夷弾を次々と投下、火の海と化した町中を、大勢の人が荷物や布団を背負い逃げ惑っていた」。

 実は米軍は、米国の知日派の識者などにより空爆を外す場所や文化財的建物をあらかじめ決めていて、皇居や東大や重要と思われる場所は、計画的に外されていた。浅草寺もその対象であったが、本堂と五重塔が焼失した。3月10日の大火では延焼による焼失を免れなかったということである。「この時突然、五重の塔が炎上し始め、続いて…観音堂が一大音響とともに炎につつまれた。…この光景を見た数百の区民は皆、手を合わせて拝み、泣いた。…この本堂は死んでも守ろうとお互いに訓練し、覚悟も定めていたのに…。また五重の塔、仁王門も焼け落ち、御神輿殿、御神楽殿も失ってしまった」。(『東京都戦災誌』より)

 その3月10日、隅田川の両岸から人々が炎に追われて逃げ込んだ言問橋や吾妻橋などでは、折り重なった人々に勢いを増した炎が覆い被さり、大八車や自転車に乗せた荷物に火がつき、身動きできないままほとんどの人々が橋の上で焼け死んだ。中には隅田川に飛び込んだ人も多く、両岸から川岸に逃げ込んで、それでも追って来る火を逃れて溺死した人も多くいた。強風に煽られた炎は川面まで包み込み、水面に出した頭の髪が焼けたという話もある。夜が明けたころ、言問橋の上には橋の欄干を越える高さまで死体が折り重なっていたと言い、その犠牲者は5千人ともいう。

 戦後になって、橋の欄干に抱きついたまま焼死した人の油が人型のまま黒く残っていたこと、折り重なるように避難した亀戸のガード下でも壁面に山積みになって焼け死んだ人たちの油が跡になり、何度ペンキを塗っても浮き出てくることなど、体験した人々には凄惨な記憶が傷跡として残っている。(同日の墨田区江東区、および東京都の概要参照)

 台東区側の隅田公園には対空高射砲陣地があり、立ち入り禁止だったが大勢の人々が避難してきたため、開けられた。しかし覆い込んだ火の手は避難者が持ち込んだ荷物や布団などに燃え移り、木造の兵舎も焼かれ、それ以上逃げ場のない人々の大半が焼死した、その数約4000人という。これは関東大震災の時の状況と同じである。

体験記録各種

 2月25日の空襲は朝から大雪が降り積もっていた昼間。

 ——出産して間もない私は産院で寝ていた。朝からの空襲警報で心細く、医師に退院させてくれるように頼んだが、産後に悪いからまだだめだと注意された。それでも子供を抱えて無理に抜け出し、歩いて30分くらいの自分の家に戻った。急いで床を敷き、湯たんぽを用意して赤ん坊と一緒に布団にもぐった拍子に大きな音とともに家が大きく揺れた。すぐに二階に火が回ってきて、慌てて赤ん坊を座布団にくるんで二階から駆け下り、寝間着姿のまま外に出た。戦闘機が低空で機銃掃射を仕掛けてくるのを雪の中にうずくまって身動きできないまま避けた。難を逃れて、産院に行けば布団一組、衣類もあるかと思って主人に取りに行ってもらったが、なんと私と一緒に寝ていた産婦さんは爆弾で飛び散って、壁に肉の塊がついて、布団の形もなかったということであった。たった一時間の差の生死であり、戦場と同じ恐ろしさであった。いまだに私の足にはその時の傷痕が残っている。(『東京大空襲戦災誌』第2巻)

 3月4日の空襲は谷中地区が主にやられた。

 ——役目柄、私は死体収容にあたった。谷中小学校を中心とした一帯で113人が死んだ(注:この人数は上の記録の80人と異なるが、こちらが正しいのか、その後の空襲を含めてのものか不明)。真島、三崎町が一番ひどかった。一家全滅もかなりあった。最初は全生庵の筋向かいの寺の前に運んで、首のない仏、手のない仏をまとめた。今考えると恐ろしいが、ああなると怖くはないんです、夢中になって。遺体は全部大仏寺に収容し、本堂の畳を全部あげて、その頃はまだお棺があった。一番困ったのは宗林寺の大きな欅の木で、そこに死んだ人が飛ばされてぶら下がっていた。(鳶の)頭に頼んでロープで吊り下ろした。本授寺は一発で飛んじゃった。安立寺もやられた。(この日は谷中には爆弾のみ26個が落とされ、その結果人間が樹の上に吹き飛ばされ、寺が一発で飛ばされたりしたという。この後の3月10日には焼夷弾で三つのお寺と住宅も焼けたが、町内みんなで必死に消火に励んだという。これは台東区通史にある当時町会長をやっていた江川政太郎の話)

 なお同じ日の話として、自分の家族は空襲警報で自宅の小さな防空壕に入っていたが、大きな家で立派な防空壕を作っていて近所の家族はそちらの方に入りに行った。しかしその大きな防空壕に爆弾が直撃し、みんな亡くなった、また大圓寺の裏の防空壕はそばの水道管が破裂して全員溺死したが、後からそこに入ろうとした人はすでに一杯で入れず、助かったという話もある。その後の3月10日の焼夷弾の嵐の中では小さな防空壕では大半の人が蒸し焼きになったというが、このように大きな防空壕でも250kg爆弾が落ちればひとたまりもなく、同様な例は各地にある。

 ——私の姉夫婦が谷中三崎町に住んでいた。姉は日赤に勤め、義兄は教育者で一人娘が小児麻痺で寝たきりでいた。私の田舎(群馬県)に疎開してくるように何度も伝えたが、それができぬ立場だった。そこへ当時小学校3年生の娘の幸子が、「兵隊さんも頑張っているのだから(当時の学校教育の成果である)わたしも東京へ行って、おじさんとおばさんのお手伝いをしてあげると言って、上京してしまった。一般の子供達がこちらへ疎開してくるというのに、その逆で、何度か夫も連れ戻しに行ったが、一生懸命やっているから心配しないでと返されていた。6ヶ月過ぎた3月4日、東京に空襲があったと聞いた。娘たちの身を案じていると、姉夫婦の近くの交番の警察官(娘を可愛がっていた)から電報があった。偽りであってほしいと願いつつ、夫が上京した。(爆弾を受けて)姉は玄関先で死んでいた。小児麻痺の姉の娘は200mほど離れた木の枝に手足をばらばらにされぶら下がっていたという。義兄は防空壕の入り口で立ったまま生き埋めになっていた。娘の幸子は見つからず、夫が三日間探し歩いて、二丁目ほど離れた初音町で、爆弾で空けられた穴に大きな水溜りができ、その近くで娘の防空頭巾が見つかり、それから消防署の人たちに水をかい出してもらったら、娘の遺体が見つかった。小学校3年生の子が健気にお国のためだと言いながら上京して、その幸子と姉一家の命が奪われてしまった。その時の娘の姿を思い浮かべるだけで、今も身の震える思いでいる。(『東京大空襲戦災誌』第2巻:深津マツ子)

 ——3月10日未明、16歳の時、ドドド、ドーンと地響きがして向かいの家に焼夷弾が落ち、火を噴いた。家族を先に逃がし、おやじと僕はバケツで消火にあたったが火の手が強過ぎ、強風でかけた水が戻ってくる。どうにもならず自転車に2人乗りで逃げた。周りは全部火の海。隅田川の白鬚橋を渡ると、鐘紡の工場がすごい勢いで燃えていた。これ以上進もうにも熱風で息ができない。隅田川そばの空き地で夜を明かしたが、地獄絵だった。川にたくさんの死体が浮き、道端に焼け焦げた死体がゴロゴロ転がり焼死臭が漂う。背中に死んだ子どもをおぶったまま女性が倒れていた。わが家は全焼し、家の前の防火用水桶にお地蔵さんがと思って目を凝らすと、焼け死んだ子どもだった。猛火の中、母親が水に入れたのだろう。水は蒸発し、手を合わせるように…お地蔵さんは子どもの化身なんだろうと今も思う。(写真家田沼武能)

 以下、主に『台東区戦争体験記録集』より。

 昭和4年(1929)生まれの真田精三。

 ——17年(1942)に高等小学校(6年制の小学校の上級の2年制の学校で、5年制を中学校と呼び、卒業後、希望すれば中学校の3年から編入できた)に入り、英語の授業が禁止され、授業の大半が軍事教練になった。服もカーキ色の国民服となり、足にはゲートルを巻いた。

 20年2月25日の空襲で自宅が焼け、父の故郷の千葉県鴨川市に疎開した。3月10日の空襲をみて、母親に言われて東京に行った。電車は新小岩までで、そこから自宅付近まで行ったが、すべて焼き払われて家の土台も残っていなかった。途中、川に死体がたくさん浮いていて、鳶(とび)口で引き上げている光景をよく見た。家の庭に作った小さな防空壕では蒸し焼きになっている人、母親が子供を抱きかかえながら死んでいる姿、道路で丸焦げになっている人、窒息死(ガス中毒死)でまるで生きているような人などを見た。

 鴨川の疎開先である時、煮干しを作っていると、山の向こうから米軍機が飛んでくるのが見えた。目を凝らしていると、低空で近づいてきたその戦闘機の操縦士と目が合った。すると機体を旋回させて機関砲を打ってきた。急いで家に逃げ込んだが、その家の壁に銃弾が数発めり込んでいた。(注:この話は日本各地であって、終戦の数ヶ月くらい前から、日本軍の戦闘機も人も底をつき、米軍機は自由に飛び回って、米兵はこのように遊び感覚で子供を狙った)

 8月15日の天皇の終戦の詔勅の放送(玉音放送)は雑音で、よく聞き取れず、負けたんだという人もいれば、そんなことはないと信用しないで(これから本土決戦だと)防空壕を掘る人もいた。私はまずほっとして、もう死ぬことはない、死なないで済む、母親も「よかった、よく助かった」と言った。

 昭和5年(1930)生まれの大橋良。

 ——16年(1941)12月8日、朝早くからラジオ体操で広場に集まっていると、突然ラジオから国歌が流れた。そして「臨時ニュースを申し上げます。…大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」(注:この時はハワイの真珠湾奇襲攻撃ばかりが強調されるが、実は日本軍は事前に東南アジア方面へ向かっていて、同じ日にイギリス領マレー半島や香港に侵攻した)。学校の朝礼で校長が「日本は新しい戦争に入りました。相手は…」と語った。(注:多くの国民は「ついにやった!」と興奮状態であった。満州事変から日中戦争へ突入していた日本に対して国際的非難が高まり、米英からの経済制裁が強まり、軍政府やメディアは主にこの二国を敵とするプロパガンダを行っていたことも影響している)

 御徒町小学校(廃校)を卒業して私立の中学校(五年制)へ入ると軍事教練があり、射撃、手榴弾の投げ方、銃剣道の訓練、そして武装して石垣を登ったり、川幅20mの荒川を渡って、渡った後に火を起こし、服を乾かすなどの訓練をした。三年生になると勤労動員で授業の代わりに尾久の軍需工場に毎日通った。19年(1944)末からは空襲が始まった。焼夷弾が落ちてくると、大人の男性はほとんどいないため、町内の女性と一緒に防火用水を使って火を消すこともあった。

 20年(1945)2月24日、夕食どきに空襲警報があり、閃光と同時に激しい音がした。すぐに玄関に移動してうずくまると自分の上に重いものがかぶさってくるのを感じた。それは母親であった。しばらくして静まったのを見て外に出るとほこりが舞い上がっていた。近所の家の庭の防空壕に爆弾が落とされていた。その家の人は別の防空壕にいて助かったが、近隣の16人が犠牲になった。爆風で屋根の上に飛ばされた二人の遺体を下ろす手伝いをした。それから家に戻ると電気も切れていて、ろうそくの明かりで夕食の続きをしたが、砂ぼこりのせいで口の中がジャリジャリした。当時の竹町(台東2−4丁目)では爆弾による全壊44戸で、自分の友達も3人失った。

 3月10日の空襲では、最初は自宅の庭の防空壕に入っていたが、異様な様子で外に出たら東の墨田区の方向は真っ赤な色で染まっていた(注:この日は風下の東南から舐めて行くように焼夷弾が落とされた)。B29は手に触れるぐらいの低空で頭上を旋回していた。墨田区の方からはひっきりなしに黒焦げになった人たちが逃げて来ていた。しかし中には手探りするように元に戻ろうとする人もいた。煙やガスで目をやられ、明るい方へ行こうとするようだった。私たちは必死に止め、戻っては駄目だと声を出し合って引き戻した。火が収まり夜が明けて厩橋の方に戻ってみると、橋向こうは何も残っていず、隅田川は変色し、飛び込んだ人々の遺体とその人たちの荷物で埋まっていた。

 その後、父親の工場も焼けて工場ごと福島に疎開することになり、一家で引っ越し、私は福島中学校に転校した。そこでも中島飛行機の疎開工場があり(山の中腹を掘ったトンネル工場)、そこへの勤労動員となった。終戦となって午後には解散し、駅で列車に乗ろうとするといっぱいで入れず、窓から乗った。軍人がたくさん乗っていて「釜石の海岸防衛線に行く」という兵隊に「日本は負けました」と告げると、「この売国奴が」と返された。ずっと列車の中で知らなかったようで、列車の中は大騒ぎになった。

 昭和6年(1931)生まれの柿沼由夫。

 ——中学に入るとすぐに先生が「みんな兵隊さんになるんだよ」とか、「お前たちは先のことを考えたってだめだよ。二十歳になる前に死んじゃうんだから」と言われた。私たち子供だって本当は死にたくないけど、表向きは「(お国のために)喜んで死にます」と言わなくてはだめな時代だった。学校の中はまるで軍隊のような空気で、配属された軍人の教官がいて、軍事教練があり、木銃を抱えて四、五列に並んで分列行進の練習をしたり、砂袋を積んだ場所に木銃を構える練習をしたりした。この練習にも成績がつけられ、これが悪ければ進学できないほどだった。子供たちの進学の第一志望は海軍兵学校とか、陸軍士官学校だった。…

 3月10日の空襲後、半分くらい焼け残った学校に行っても、半分の生徒しか出ていず、授業にもならず、そこで軍隊と一緒に焼け跡の遺体の処理に動員された。一つの遺体を戸板に乗せて何人かで東本願寺まで運び、半日で5、6体運ぶ日が続いた。川の中の遺体はボートで運ぶ他に、川淵から鳶(とび)口で遺体を引っ張り上げて、戸板に乗せて運んだ。真っ黒に焼け焦げ棒のようになった遺体はすぐに慣れたが、体が裂けた遺体や、水に浮かぶ遺体は生きたままの顔が見えるから怖かった。東本願寺に集められた遺体は、兵隊がトラックに積んで、運ぶ途中に落ちないように、焼けたトタン板を上に乗せて、その上に兵隊が乗って運んでいた。上野の山に埋めたという話であった。その後4、5日は寝ていてもうなされていたと母親に聞いた。

 8月15日に終戦の玉音放送があって、にわかには信じられず、しかし夜の街の家に電気がつけられたのを見て、負けたんだと思った。9月に入って初めて学校に行ったら、われわれを殴るばかりだった軍事教官が「おはよう」と声をかけてきて、びっくりしたが、大人の汚さを感じた。

 消防学校を出て19歳で消防士になった中川慶基地。

 ——最初の仕事は望楼(見張り台)に上がって火事が起きていないかを見張る仕事だった。あとは町へ行って防火について指導して歩き、休む間がなかった。当時の写真などを見て水をバケツリレーで火にかける様子を想像するが、バケツではうまく火に届かず、各町会に手押しポンプがあって、そのポンプにバケツリレーで水を入れ、二人掛かりでポンプを押して空気の力でホースから水を発射するものであった。それでも強い火には対応できないので「空襲の時は爆弾が次々落とされるから、自分の家は燃えたら燃えたで諦めて、自分の命が大事だから上野の山に逃げなさい」と教えた。(注:それでも当時は「防空法」というものでまず消火にはげめ!と決められていたから、町会の役員などは必死に消火にあたって焼死した人が多い)

 19歳だった私も3月10日の大空襲の日まで、敵が日本本土に攻めてきたときは神風が吹くと本気で信じていた。だからとにかく政府が我慢して消火に努めろと徹底させていたので慣れてしまって、はじめの頃は「なんでこんなことしなきゃならないんだ」と思っていたが、苦労も別に苦に思わず、日常になっていた。…

 3月10日に日付が変わる頃、空一面にB29がそれはもう、くっついて落ちるんじゃないかというほど密集して飛んできた(機体の底の弾倉が開いてバラバラと焼夷弾が落とされるのも見えた)。軍部からはなんの連絡もなく、どう対策したらいいかもわからず必死で放水した。しかし焼夷弾は生ゴム製で油脂が入っているから水をかけるとかえって火が強くなった(注:まだリボンの火だけで油脂が燃えていなかったら消せたという話も残る)。小島町付近で火を消していたら私一人になっていて、消防自動車が燃えていた。そこで近くの防火用水で消防服を濡らしてそれをかぶって逃げた。どうやって自分が生き残ったか思い出せない。本署も燃え、実家も燃えていた。

 当時大学生だった酒井博二。

 ——小学校入学の頃から満州事変が起きていて、明治時代の日露戦争の話もよく聞いたので、戦争というのは年中あるもので、男は決まって戦争に行くものだと思っていた。中学校(五年制)に入ると週に二度、軍事教練が正課としてあった。最初の頃は体の鍛錬などであったが、三年になると銃剣を持つようになった。学校に武器庫があり、訓練服に着替えてそこから銃剣を持って集合した。その頃は誰も日本が戦争に負けると思っていなかった。

 中学五年生を終えると、大学予科に三年行って、学部に三年行くはずだったが、太平洋戦争の戦況が悪化し、学生を早く戦場に送り込むために学生の徴兵猶予年齢が撤廃され、昭和18年(1943)に20歳で徴兵となったが、大学予科が二年に短縮された。同時に中学校、高等女学校も4年に短縮された。

 3月10日の大空襲の時は、最初の頃は消火活動をしたが、近所の人ともうダメだと判断し、燃える自宅を後にして逃げた。御徒町のあたりで夜が明けて見ると、焼かれた深川や本郷の両方から歩いてくる人たちがいて、みんなで紐で輪を作って電車ごっこのようにやって来た。みんな煙で目をやられて、見えなくなっていたからだった。隅田川が大変だというので行ってみると、川に飛び込んで死んだ人を引き上げていた。それでも地下鉄や焼けていない電車は動き、郵便配達員が郵便物を配達していた。日本人の勤勉さを感じた。

 19年(1944)に予科の二年生になって川崎の工場に勤労動員に行っていたが、3月10日の空襲で焼けてしまって、5月に入って北海道まで援農として食料増産の手伝いに行った。ところが援農先の農家の息子は東京の焼け跡整理に駆り出されて、ちぐはぐな施策を思った。そのうち体調を崩し、家族の疎開先の静岡に行ったが、そこでまた6月20日の空襲にあい(注:東京は5月25日の大空襲がほぼ最終で米軍は地方都市への空襲に向かった)、家族は無事だったが、建てたばかりの家をなくした。

 そこに召集令状が来た。7月に入って群馬県の部隊に入隊した。しかしすでに軍服や武器もなく、学生服にゲートルを巻いた。砲兵としてであったが、仕事は防空壕堀であった。食料も食器も十分でなく、衛生状態が悪く、隊員はしょっちゅう下痢をした。すでに敗戦は決まったようなものであった。終戦となって空襲もなく夜はぐっすり眠れ、電気をつけて生活できることが嬉しかった。毛布と乾パンと少しのお金をもらって、家族のいる静岡に帰ったが、焼け跡に乳飲み子を抱えた女性を見て、持っていた乾パンをあげた。戦後も食べ物はなかったが、ラジオで進駐軍のジャズなどを聞けて楽しかった。戦時中はそんなものを聞いていたらぶん殴られたから、何もなくなったけど戦争が終わってよかった。

 当時13歳だった瀬田綾子。

 ——(3月10日) … 逃げながら母と近所のキク子ちゃんと三度目に防空壕に潜り込んでいると、誰かに「こんなところにいると蒸し焼きになったしまうぞ、早く出て走れ!」と言われて公園に向かった。公園(注:待乳山聖天公園か)に入る人波はものすごく、キク子ちゃんと手が離れてしまい、何度も名前を呼んだが子供たちの泣き声や男たちの「荷物は捨てろ!」と言う怒鳴り声にかき消されてしまった。… 側の小高い聖天様の境内の木が燃えて、その火の粉が公園に降り注ぎ、人々が火だるまになって焼け死ぬ姿が目の前に広がっていた。母の「ちょっとでも人が少ない反対側に行こう」との判断で、火柱を上げている大きな穴(そこには荷物が投げ捨てられていた)を超えるしかなく、次の瞬間、母は私の手を引いて燃え盛る穴に突進し、飛び越えたが、私は荷物に足を取られて転んだ。なんとか反対側にはい上がった時には、肩に背負った荷物も消えていた。朝になってもくすぶり続けている穴の向こうには、見える限り動いている人はいなかった。気が付いた時には靴は燃えてなくなり、コートやセーター、セーラ服まで焼け、下着一枚を残して背中一面が焼け、防空頭巾も髪の毛も焼けていた。それでもキク子ちゃんを探しに行かなくちゃと、開けることのできない目の痛みの中、思っていた。それっきりキク子ちゃんとは会えなかった。

 父は防火活動で家に残っていたが、私たちが生き残っているとは思わず、それらしい死体を夢中で探し回っていたと言う。跡形もないわが家にたどり着いた時には呆然とするだけで、涙も出なかった。他に行くところもなく、私たちは十条の叔母の家に向かった。叔母に駆け寄ると、「あんた誰?」と冷たく言われ、あまりの変わりように見知らぬ孤児と思われたようで、姪だと気づいて抱きしめられた時に、初めて焼けた体の痛みが出てきた。

 注:この人の同級生70名のうち、50数名が亡くなったという。ちなみにこのように戦災で体に深い傷を負った被害者に対して、ましてや死者に対しても戦後、国は何の補償もしていない。いまだに潤沢に補償しているのは軍人関係だけであり(筆者の「東京都の概要」の戦後の項の中の<軍人に対する戦後補償と戦争被災者と戦争孤児に対する極端な差別>以降を参照)、そして孤児になった人たちに対しても同様に何もしていない)

 昭和4年(1929)生まれで、何度も死の危機に瀕しながら生き残った浅見善四郎。

 —— 連日の空襲、空襲警報で防空壕の生活で風呂にも入れず、国民服を来たままでシラミまみれの状態で過ごしていた3月9月から翌日にかかる深夜、空襲警報と同時に激しい空襲が始まった。大事なものを持って出る余裕もなく、そのうち町は火の海になった。近所の人と一緒に鉄筋の家の地下の防空壕に入っていたがすぐに全員が出て、「浅草橋に逃げろ」という父親の合図でバラバラになって逃げた。浅草橋はその前の空襲で焼け野原になっていた。しかし火災旋風が起きてトタン屋根などが舞い上がって飛んできて、死に物狂いで逃げ回り、煙で目は腫れ、顔は真っ黒になりながら、普段なら蔵前から浅草橋まで5分程度で着くところを、朝方までかかった。周りには真っ黒に焼けた人たちがいっぱいいた。浅草橋では奇跡的に両親に会えたが、一緒に逃げた近所の人とはそれっきりだった。しばらくの間は行くところもなく、あちこちで寝たが、寒かった。食べ物は誰かが落としたものを拾って食べた。

 それから知り合いの紹介で板橋の軍需工場に行き、そこで再び空襲に遭い、今度は爆弾で生き埋めになり気絶した。目が覚めたら真っ暗で上に乗っている人たちに「起きろよ」と言ったが返事もなく、みんな死んでいた。外から「誰か生きているか」との声があり、すぐに返事をした。助け出されて体は汗でびっしょりと思っていたら、全部血だった。周りは死体だらけで、目玉が飛び出ている人もいたし、生きて気が違って笑っている人もいた。それは三日後のことだった。

 その後、今度は工場から広島に行かされることになった。理由も聞かされず、ただカバンを渡されて「これは命より大切で死んでも離してはいけない」と言われ、一度四国に渡り、そこから広島の呉の軍港に向かう経路だった。ところが船が出港して気がついたらカバンが無く、港に置き忘れていた。すると上官にぶん殴られ、蹴飛ばされた。すぐにボートで港に引き返したら、さっきまで乗っていた船が機雷で沈められた。次の船に乗ったら、自分を殴った人たちもみんな海の上に浮いていた。呉の軍港で無事にカバンを渡し、広島市内に行った。広島でしばらくゆっくりしていこうと思っていたはずが、無性に帰りたくなって、列車で東京に帰った。東京に着くと、「お前たちが行った広島に特殊爆弾が落とされたらしいね」と言われ、それが原子爆弾で、まさにその前日に広島を後にしていた。

(記録集外)

 —— 広島、長崎の原爆と同じ大虐殺だ。あれが戦争犯罪でなくてなんなのか。大空襲の数日後、同級生の安否を尋ねて深川方面へ向かった。道に散乱する炭化した死体をまたぎながら歩いているとき、門前仲町の三菱銀行の前で母親が赤ん坊を抱いたまま死んでいいて、火にあぶられてピンク色をしていた姿が忘れられない。当時、東京では軍の指導で家ごとに防空壕をつくったが、家の畳の下に穴を掘ったり、上に人が乗ったら落ちるような粗末なもので、その中に逃げ込んだ人はみんな蒸し焼きになって死んだ。自分の手で火葬場を掘ったようなものだ。一夜にして下町は焼け野原にされたが、その後も米軍の艦載機が生き残った人をめがけて機銃掃射をしかけ、おもしろ半分で笑いながら撃っている米兵の顔がくっきり見えた。戦後、この絨毯爆撃を指揮したルメイ将軍に政府は勲章をやったが、腹が立って仕方がない。私の知り合いにインパール作戦の体験者がいるが、白骨街道になったビルマではみんな餓死と病死だったという。今安倍首相が「後方支援は安全だ」といっているが、それならなぜアメリカは無抵抗の市民が住む東京を取り囲むように焼き尽くし10万人もの人々を殺したのか。むしろ後方(銃後)こそ標的にされるのだ。(2015年10/21:長周新聞/台東区花川戸で履物屋を営む87歳の男性)

 —— 当時私は、夫と4人の子供とともに浅草に住んでいた。戦時中、家族で世田谷の親戚の家に疎開したが、夫だけ3月9日に所用で浅草の両親の実家に出かけていった。翌10日未明の下町への大空襲は、世田谷からも真っ赤な炎が確認できた。夜が明けて私は浅草に赴き、夫と両親を捜し回った。小舟でたくさんの遺体が引き揚げられていたが、私は厩橋の下で夫の遺体を見つけ(一ヶ月も探して見つけられなかった人たちの例をみると奇跡に近い)、一人で夫を川から引き揚げた。そして夫の冷たい顔に触れ、その両目を静かに閉じた。すでに岸辺に並べられていた多くの遺体は、まるで蝋人形の様だった。結局、両親は行方不明のままで、その後、私は子供たちを連れ岩手の親戚を頼り疎開した。しかし、今度は3歳の長女と1歳の三男が病気になり、7月20日と24日、医薬品の乏しい田舎で相次いで死んでいった。戦争のことは、思うことも話すことも書くこともしたくない。(墨田区郷土文化資料館「東京空襲60年3月10日の記憶」より)

遺体処理の様子

 —— 私は自転車に乗って回ってみた。浅草の御酉様前通りはぜんぶ灰燼になり、電柱は倒れて電線は垂れ下がり、電車2、3台、下部のボディーだけ残っていた。道路には衣類が燃えてしまって男女の区別もつかない遺体が、赤茶色の棒のようになってたくさん転がっていた。陸軍の兵隊が鉄カブトに軍手をして口に手ぬぐいで猿ぐつわをして、焼け落ちた防空壕を掘っていて、すでに手足が焼けて骨になって出てきていた。死体には指、足などに荷札で番号を書いて付け、ブリキの担架に乗せて西徳寺の墓所の通り道へ運ばれていた。そこは原型をとどめていない死体でいっぱいで、墓石の上を歩いていかないと向かい側には行けなかった。浅草国際劇場前の交差点から観音裏通りには、原型もない遺体が言問橋方面まで続いていた。… 隅田川に焼けた大きな砂利船がどんどん流れてくる。その川面には人々の遺体が浮いていて、それを2、30人くらいの消防署と警護団の人たちがボートに二人ずつ相乗りし、紐の先にS型の金具をつけて死体の襟に引っかけ、それを岸まで持っていき、岸では丸太が二本置いてあり、その上で肩と足を持ってコロコロと転がし、地面に並べて胸に縫い付けた氏名をノートに書いていた。

 —— (二日後に)隅田川の方に歩いて行くと異様な臭気が流れ、集団のかけ声が聞こえ、近くに行ってみると、警防団員が川で亡くなった人達を引き上げていた。ワッショイワッショイという声が、曇った空に響き渡った。黒焦げになった亡骸が次から次へと道端に放り出され、川沿いに大きな黒い山がいくつもいくつも果てしなく作られていった。あの黒く積まれた山が人間なのだ。つい昨日まで生きていた人たちなのだ。

(『東京大空襲戦災誌』第2巻より)

公園などに仮埋葬された遺体

 大量の焼死体や窒息もしくは中毒死した人たちの遺体は、軍隊が緊急主導し、結果的に大雑把な処理作業がなされた。確認された遺体数(筆者は三種の記録を織り交ぜている)は以下の通りである。( )内は氏名判明のもの。

 3月10日の大空襲後、焼死体が上野公園に約8386体(1128)、墨田公園浅草側に1155体(432)、玉姫公園に787体、東本願寺に738体、蔵前三丁目都有地に773体、今戸三丁目空地に705体、谷中墓地に673体(161)、本龍寺に166体などで、わかっているだけで1万2383体(1332)以上が仮埋葬された。そして4、5年後に掘り起こされて火葬され、墨田区の慰霊堂(墨田区参照)に納められた。

 氏名判明者が少ないのは、それだけの人々が黒焦げになったということではなく(川に飛び込んで亡くなった人も多くいた)、軍隊が処理を焦って公園などに大きな穴を多数掘り、その中に氏名のわかる遺体(当時はみんな上着に氏名と住所のわかる名札を縫い付けていたから焼けない限り判別できる)をもむやみに埋めていったからである。それに関しては墨田区および「東京都の概要」の<膨大な遺体の処理と天皇の巡行>等を参照。

 ただしその中でも都の公園課の人たち(公園課が遺体処理の役割を担っていた)の手が及ぶ範囲では(氏名のわかる人たちを別にして)同じ上野公園内でも他の空いた場所に遺体を平らに並べて、長方形の白木の小さな墓標を立て、肉親を探し歩く人々がわかるようにした。氏名がわからない遺体には「男・何歳位」「女・〇〇(姓のみ)」としていたという。そしてしばらくは土をかけずに置き、その間は発見した肉親に引き取られたが、土をかけた後は動かせないものとされ、改葬されたのちに骨を渡されたようである。とはいえ、こっそりとそこから遺体を持ち出した遺族も少なくなかったと思われる。実際に、死んだ子供や親兄弟を見つけた場合、自分たちの手で近辺の焼け残りの木材などを集めて自宅の焼け跡や空き地で火葬にした話も少なくない。

 しかし軍隊が来て処理している中で肉親を見つけた場合には、近づくなと言われて無視され、トラックに次々と放り込まれ、運ばれて公園などに埋められたというからひどい話である。公園課の人すら川から引き上げられている遺体の調査に行くと、何しに来たかと軍人に怒られたという。当時の軍人は「皇軍」として、国民の命を守るどころか、その権威をかさに着てその大半が周囲にいばり散らしていたわけだが、ここまで自国の死者を粗末に扱った例は、他国では見られない。少なくともナチスドイツですら、自国民の戦死者や戦災死者は大事に扱った。

戦時下の生活

 太平洋戦争が始まってから「大本営発表」では日本軍の勝利の報道ばかりで、不利なことは知らされず、国民はそのまま信じていた。国内では食料も物資も不足していて、衣料品も切符制になり、食料も配給制となって、その上家庭内の鍋釜の金属類も最低限以外は供出させられ、富裕層に対しても貴金属の供出が強いられるようになった。金属製の門扉なども個人宅から学校、公共施設まで、そしてお寺の梵鐘まで武器や航空機を作るために取り上げられた。昭和12年(1937)に日中戦争を始めてから、日本に対する国際的非難が高まり、経済制裁があって物資の輸入ができなくなっていたからで、そのことで逆に米英を敵として太平洋戦争を始めた経緯がある。その時点ですでに無理がある戦争であった。しかし国民は日本は必ず勝つと軍政府に思い込まされて、辛抱生活に耐えた。農作物も全て軍隊優先に回されて、農家にも食料の余裕はなかった。子供達も休みの日には空き地や河川敷などを開墾して田畑にし、自分たちの食べ物を確保していく状態が続けられた。

 —— 私が女学校に行く頃は疎開が始まっていて、高学年は学徒動員で軍需工場に通っていたし、みんなバラバラでした。学校に行くのも大変で、空襲警報が出たら電車が止まり、近くの家の防空壕に入れてもらい、空襲解除になったら電車が動き出して、遅刻や欠席なんて関係なかった。制服はセーラー服でも、下はモンペでした。防空頭巾に血液型や住所を墨で書いた布を縫い付けて必ず持っていた(注:普通は服の胸に縫い付ける)。

 —— 衣料切符には点数がついていて、シャツや靴下などそれぞれの点数分のお金を出して買うことができた。自分のうちは当時では珍しい三人家族だったので、余分な切符は赤ちゃんや幼児のいるうちにあげていた。鉛筆一本、紙一枚でも大切に使っていた。… 食料が配給制度になって毎日のご飯はお米がわずかしかない雑炊だった。その前は煮焼き物のおかずを食べていたが、その頃は雑炊しか記憶にない。… 小学校単位で江戸川の河川敷に農園を作って、自分たちで肥桶を担いで肥料をやり、収穫した大根やサツマイモなどを味噌汁の実にして給食にすることがあった。それが当時ではごちそうだった。

 —— 戦前の一般家庭では、かまどでご飯を炊いて七輪の火で煮物や焼き物をし、たらいを使って手洗いで洗濯、はたきとほうきで掃除をし、今のような家電製品は一つもなく、すべて手作業で家事には手間がかかったから子供たちもみんな家の手伝いをし、夜は家族そろって食卓を囲んで団欒の時間があった。そんなことがささやかな幸せだったが、戦争によって否応なく壊されてしまった。少しでも戦争に反対、軍に批判的なことを言おうものなら、すぐに憲兵に引っ張られて何処かに連れて行かれた。街中でもうっかりものが言えない時代だった」

 —— それまで自宅は商売をやっていて何不自由のない生活だったが、太平洋戦争が始まると(家の商売は成り立たなくなり)食事も配給制になり、少ない雑炊を家族で分け合うほどになった。お国の物資不足を補うために家にある金属類が回収され、リヤカー一杯分くらいで、中には家紋のついた銀製品もあった。少しくらい持ってりゃと思っても、近所から非国民と言われて憲兵が来て調べて持って行かれた。敵のアメリカのおもちゃなんかがあれば非国民ということで、捨てられたり燃やされたり、小さな女の子が持っていた人形も憲兵が取り上げて、かわいそうだった。

 —— 中学校での体育の時間は体練と呼ばれ、竹槍で突く練習、女の子はバケツリレーで消火の訓練を毎日のようにやった。上級生になると銃剣術も加わり、軍隊から教官が来て、アメリカ人が来たら刺せと言われ、竹槍や銃剣(銃の先に付いた小さい剣)で藁人形に差し込む練習を何度もさせられた。学校では、いざとなったら神風が吹いて日本は必ず勝つと言われて、それを信じていた。みんな戦争に行くことは当たり前と思っていて、実際に同級生も予科練という特攻の部隊に10人以上行って、誰も帰ってこなかった。それをクラスのみんなで、万歳、万歳と言って送り出し、自分も行くつもりでいた。

 (以上は『台東区戦争体験記録集』より)

学童集団疎開

 米軍による空襲が予想され、当初は縁故疎開が奨励されたが、戦局の悪化した19年(1944)6月、政府は都市部の小学校3−6年の学童集団疎開を決定し、8月までに下谷区の児童7500名は福島県方面へ、浅草区児童は1万9700名(都内では最多)宮城県方面への集団疎開が実施された。その後の大空襲もあって20年4月より新1、2、3年生も対象となり、下谷区は2998名、浅草区は3676名が追加疎開した。

 浅草区の金龍国民学校3−6年生174人の集団疎開を受け入れた宮城県の山間地にある鳴子温泉郷の旅館で、子供たちの世話をした砂金(いさご)元子(98歳)の話である。

 ——この旅館では付き添いの教師や寮母、作業員らを含めると計約200人が暮らした。「子どもたちは母親や父親を恋しがり、汽車が通るたびに線路の方を寂しそうに見ていた。どんなに悲しい思いをしたことか。こちらも胸が痛くなった」

 砂金は涌谷町の高等女学校を卒業後、仙台市の洋裁学校で学んだ。多くの男性が兵役に就き、労働力が不足した工場などで働く女子挺身隊の募集があり、友人と上京。東京・赤羽台の陸軍被服本廠で事務の仕事をした。米軍の空襲で焼け野原になった空襲跡を見た。実家の旅館が学童疎開で忙しいため、帰郷して旅館を手伝った。

 「毎日、毎日、ご飯の用意ばかりしていた」。米の配給はあったが、みそやしょうゆは不足し、特に野菜が足りなかった。子どもたちに少しでも食べさせてやりたかったから川向こうの農家に行って野菜を買ってきた。母と一緒に買い出しにも通った。空襲を避けるための学童疎開なのに、鳴子にも空襲があった。市街地を焼き尽くした仙台空襲から1カ月後、空襲警報で児童らと一緒に杉林に避難した(鳴子町史によると、終戦の5日前の昭和20年:1945年8月10日、防毒面の部品をつくる工場が米軍艦載機の銃撃を受けて「一瞬にして飛散炎上」し、1人死亡、4人重傷の被害に遭ったとある)。

 8月15日、砂金は旅館のラジオで終戦を告げる玉音放送を聞いた。「なんたらこったべ。あー、神の国もだめなんだ」。国民は「神の国」という軍国教育を受けていた。東京で焼け野原を見ても鳴子で空襲に遭っても「日本は負けない」と信じていた。それなのに負けた。「本当にがっかりした」。苦難は戦後も続いた。疎開児童は東京などに帰って行ったが、親を亡くした孤児は行き場がない。旅館では戦災孤児約50人を引き受け(注:この数は一つの旅館としては異様に多く、一夜にして10万人の死者を出した下町三区の一つならではである)、翌昭和21年(1946)3月まで世話をした。戦災孤児が新聞で報道されると、慰問の品や食料を届ける人がおり、子どもたちに食べさせられた。一方で「女の子を」「男の子を」と孤児をもらいにくる人もあった。女将の母は、市町村長の証明書がなければ引き渡さなかったという。

 戦後79年。学童疎開や戦争を知る人は少なくなった。「戦争はおっかね。あらゆる人を精神的にも肉体的にもだめにする。戦争は終わった後も人を苦しめる。あー、戦争は身にしみて嫌だ」と砂金は語る。

(朝日新聞、2024年8月16日より)

 3月10日の大空襲直前の9日、前年から疎開していた6年生は卒業と進学の準備ということで帰京し、その多くの子達がやっと再会できた親たちと共に焼死した。一日遅れで帰郷した児童もいたが、すでに家は焼失し親兄弟も死んでいて、その場で孤児となった子供もいた。

 当時、待乳山小学校(現東浅草小)の6年生の場合。

 —— 3月9日午後4時過ぎの列車に乗り、宮城県から常磐線で上野に向かった。早くも途中の平(現いわき市)で爆撃にあい、3、4時間とまって動き出し、松戸まで来たら東京の空が真っ赤になっていた。時間的には空襲は終わっていた。その時は誰も自分の家が焼けていると思っていなかった。そこで北千住まではいけるというので松戸で乗り換えて北千住駅で降りた。この日はその辺りはそれほど空襲被害を受けていなかった。ホームを歩いていると、母が飛んで来た。よく見ると全身火傷だらけで顔も真っ黒、目は煙でやられていた。すぐに家が焼けたことがわかった。父はそのホームで疲れと空腹で浮浪者のように横になっていた。そこで宿舎の旅館を出る前に作ってもらったおにぎりを父に渡した。そこから埼玉の親戚に身を寄せた。数日後兄を探しに浅草に出かけたが、隅田川にはまだ人が浮いていた。結局兄は見つからなかった。家族が死んで一人ぼっちになった級友もいることがわかった。

 浅草区日本堤の小学校の6年生であった梶原昌弘の場合。

—— 3月9日夜、6年生全員は母校での卒業式と中学校受験のため、東北本線白石駅から東京行きの列車に乗ったが、発車して間もない福島駅のあたりから、すでに東京の空が真っ赤に燃えているのが見えた。徐行、停車を繰り返しながら、翌日の正午に上野駅に着いた。駅には約三分の一程度の父母が迎えに来ていて、残りは先生に引率されて、まだくすぶり続けている街中を浅草観音の境内まで歩き、そこで疎開学童の解散式と卒業式を簡単に行い、その場で多くの児童が父母に引き取られて帰って行った。しかし私を含めて孤児になった何名かは誰も迎えに来なかった。家族の死亡:父(39歳)、母(35歳)、祖母(61歳)、弟(9歳)、妹二人(6歳と2歳)、そして同じく疎開中であった11歳の弟と二人だけが残された。遺体は、母と、母が背負っていた2歳の妹だけが隅田川で見つかった。遺品は私と弟が疎開中に届いた両親と祖母や弟からの多数の手紙だけである。そこから私と弟には長い長い茨の道が始まった。ただ、一日早く疎開先から帰っていたら、両親と運命を共にしていたかもしれない。

 当時15歳の勤労動員中の女学生の話。

—— 家の近くで私たちと同じ日(2月25日)に焼け出された秋山さんという表具屋さん一家は、3月10日、身を寄せていた千束の知人宅で5人亡くなり、言問の河原に飛び下りて足をくじいたつや子さんという娘さんだけが助かった。その妹の三年生で学童疎開している千枝子ちゃんに、私は家族の死を知らせてあげる手紙を書きながら、ついには言葉が見つからなくて、声をあげて泣いてしまった。

(以上は『東京大空襲戦災誌』第2巻より)

 以下は『台東区戦争体験記録集』から拾い出した話である。

 ——集団疎開先の宿泊所は旅館やお寺が多かったが、旅館といっても食事は貧しく常に生徒たちはお腹をすかせていたという話が大半であった。ところが上野からの疎開ということで、明治維新の時の戊辰戦争の一環で、上野の寛永寺で新政府軍と戦った彰義隊が会津藩とつながりがあり、その後会津藩は旧幕府軍として敗北し、その縁で福島の会津高田町の人たちから手が上がり、坂本、下谷、西町小学校の生徒がお世話になった。そして地元の人たちが歓迎してくれ、旅館では足りない食事を援助してくれて、地元の小学校に通えば(いじめられる話も多いが)仲良く勉強できた。

 これを語る人が、戦後大学生になって校内を歩いている時に出会ったのが、新入生として入って来た、会津で世話になった家の仲良くしていた子息であったという。そして家でも歓待し、そして後年になって、こちらからお礼に行ったりした縁で、台東区と高田市は友好都市になった。

 ——(一方で)宮城県白石市に疎開した子供たちは空腹に苦しめられた。最初は旅行気分で楽しくても3、4日すると寂しくなり、そのうち寮を脱走し、駅から線路伝いに歩いて家に帰ろうとする子も出てきた。それを上級生が自転車で探しにいって乗せて帰ってきた。空腹に耐えられず、薬局に行って小遣いでエビオスやわかもと(今も売られている)などの健康栄養剤を買って食べたりした(この話は各地で出てくる)。そのうちみんなも買うので薬局からは無くなってしまった。秋になると干し柿が吊るしてあり、高くて取れないから、下に干してある柿の皮を食べた、池のカエルの卵も食べてみたともある。

 その頃はどこも不衛生だったから頭に毛ジラミが付いて、髪の長い女の子は坊主にされたこともあった。服の縫い目にも付いていて、それを寮母さんが沸騰したお湯やアイロンで処理した。郵便は必ず先生がチェックし、親に「帰りたい」「お腹が空いた」とは書けなかった(中には手紙を折りたたんでポケットに入れ、外出時にこっそり自分でポストに入れた子もいた)。親からの荷物も食べ物は取り上げられるか、先生によっては均等に分けられた。親の訪問も許されない学校もあり、そうでない学校もあった。仮に親が来ても、他の子に見られないようにその場でこっそり食べるしかなかった。しかし体が空腹に慣れてしまって、一度に食べると下痢もした。中には計算してみんなに分けられる分の食べ物を持ってくる親もいた。

 8月15日、疎開先で天皇からの終戦の玉音放送を聞かされたが、雑音がひどく、大半の人は内容がよくわからなかった。「戦争に負けた」と先生から聞き、夢であった「海軍兵学校を卒業し、お国のために死ぬ」ことをあきらめ、「米軍が来たらまず男は殺される」と教えられていたから、死を覚悟し、悲しい気持ちで昼食が喉を通らなかった。

 疎開中の生徒は、家族と頻繁にハガキのやり取りをした。ところが3月10日を境に、親から便りが届かなかった子もいた。その中で友達から自分の母や妹が死んだことを知らされ、先生に聞くと、そんなことはない、東京も焼けていないし、誰も死んでいないと言って本当のことを教えてくれなかった(先生側の検閲でそういう「配慮」があった)。その後父親が面会に来て、事実だとわかり、しかも妹の遺体も見つかっていないという。ただ呆然として、悲しいとも悔しいとも何も考えることができなかった。終戦となって女の先生も泣きながら「今にみんな殺されちゃう」と言っていたが、やはり何も感じなかった。とにかく腹が減っていた。相変わらず軍歌を歌わされるばかりで、ご飯の量も増えなかった。11月初旬に帰って来て焼け跡を見たが、一度にいろんなことが起こったので感じる心の余裕がなくなっていた。自分の通っていた田中小学校は被災者のアパートのようになっていて、しばらくは待乳山小学校と一緒に勉強した。

浅草国際劇場

 昭和12年(1937)に開場。それまで「浅草松竹座」で行われていた松竹歌劇団(SKD)のグランドレビューと松竹映画の組み合わせで興行があった。これは千代田区の日本劇場に並ぶ大劇場であった。浅草松竹座などで活躍していた松竹少女歌劇団もここに本拠を移し、東京宝塚劇場と人気を競った。その他人気歌手の実演や女剣劇、喜劇なども上演されたが、昭和19年(1944)3月、決戦非常措置要綱により閉鎖され、松竹少女歌劇団は解散となり、そのまま「松竹芸能本部女子挺身隊」に改められ、内外の軍隊への慰問興行に回った。国際劇場は5月から日本劇場や東京宝塚劇場とともに風船爆弾の工場となった。

 昭和20年(1945)3月10日の大空襲の時にこの大屋根に爆弾が落とされ、国際劇場の建物前面部が破壊された。近くの多聞寺にその時の歪んだ鉄骨の一部が置かれ(大部分は江戸東京博物館に展示中で、風船爆弾のミニチュアも展示されている)、その説明文にこの中でたくさんの人が焼死したとあるが、その人数は不明となっている。他の記録によると当時はこの風船爆弾の工場には、勤労動員の女学校の生徒(15−17歳)や芸者系の人たちが動員されていた。また風船爆弾は東京以外の地方でも作られていた(千代田区の「風船爆弾の製造」参照)。

 終戦後の10月、松竹舞踊隊は30名の団員を擁して「松竹歌劇団」として再出発、同時に新団員の募集も行い、翌21年(1946)より、かつての関係者が所属する劇団との合同という形をとりながら公演を再開し、立ち直って行った。22年(1947)秋には大空襲で損壊していた国際劇場が修復、復興記念公演を行った。戦前からのSKDの『東京踊り』、『春のおどり』、『夏のおどり』、『秋の踊り』に代表される大規模なレビューとフィナーレのラインダンスは名物となったが、昭和57年(1982)に約半世紀の舞台に幕を下ろした。SKDは他劇場でレビュー公演を続けたが平成8年(1996)に解散した。この地は現在浅草ビューホテルとなっている。

戦後の出来事

焼け跡から

 戦災で生き残った人々には、縁故を頼って疎開した人も多いが、行き場のない多くの人は自宅の焼け跡にトタン板の仮小屋を建てたり、残された防空壕に屋根を建てつけて住まいにした人々も多かった。それらは壕舎とか小屋掛と呼ばれ、台東区では戦後二ヶ月の時点で約3400人がその中で暮らしていたとある。都内全体では約31万人とされる。

 戦時下に引き続き戦後もそれ以上に深刻な食糧難が続いた。つまり下町地区では家もなく食料もない家庭が大半であった。東京では全ての食料が配給制で統制され、それでは足りないから茨城県や栃木県、群馬県まで買い出しに行き、時には山奥まで歩いてお百姓さんの家々を訪ね歩いた人もいた。戦後はインフレが目立ち、お金より着物などの物々交換が多かった。そこまでしても、闇物資の規則違反として警察に列車の中や降りた駅でその食料を没収される人も多くいた。ひどい話である。それでも駅近辺には闇市ができ、お金を出せば何でも買えたが、物々交換所もあった。配給品の中にはタバコや酒もあり、必要としない人はそれを食品に代えた。

 各家庭でも焼け跡の小さな庭で野菜作りに励む人たちも多かった(焼け跡は野菜がよく育ったという)。不忍池周辺も戦時中から畑にされていたが、22年(1947)あたりから池を埋めて水田にされ、稲が植えられ、裏作には麦が植えられた。そこには「戦災者救済会」や「〇〇青年団」などの札が立てられ、収穫時には「上野田圃豊年祭」などの催し物も行われた。この状態は数年間続き、その跡地には野球場を建設する案なども出されたが、議論の末、元の池に戻された。

 戦地から帰還してくる兵士や外地の居留民の一部が上野や浅草に「浮浪者」となってあぶれ、20年(1945)12月、都は浮浪者一斉収容として「2500名の寄る辺なき人々を収容した」とあるが、どこにどのように収容したかの記述がない。計画だけで終わったことは確かである。この中には孤児になった子供たちも多くいたはずであるが、その追い込まれた状況は以下に記す。

戦争孤児の悲惨

 集団疎開中に肉親を空襲で失った子供は少なくないが、一部を除きその全体の人数は不明である。また疎開せずに空襲で親と一緒に焼死した子供達は別として、自分一人が生き残った子供もいたが、家族の何人が死に何人が孤児になったのか、その詳細も不明である。実は日本各地の役所の出征兵士や戦死者の記録なども含めて、戦災孤児の記録も敗戦直後に国の命令で全て焼却処分された。占領軍に対して戦争の証拠をできるだけ隠すためである。ただし被害者としての空襲の記録だけは基本的に残された。

 多少は知られている話だが、孤児たちは雨露や寒さをしのぐためもあって都内の大きな駅に寝泊まりするようになった。その中で上野駅に一番多くの孤児たちが集まった。駅から京成上野駅につながる地下道もあって、寝ぐらとしては好都合であった(もちろん「浮浪大人」たちもそこに多くいた)。しかしここで孤児たちが飢えや病気や衰弱その他腐ったものを食べての中毒や虐待等で死んだ例がどれだけあったか、そして地下に場所を得られず冬に凍死、最後には子供心に悲観して鉄道自殺などしたものも含めて、正確な数はわからない。

 「冬の時期は凍死してしまうので地下道に集まってくる。ものすごい人の数で、大小便をその場でする人もいるし、病気の人であれば我慢できない。身体が弱い人は次々と死んでいく。病院に運び込まれて亡くなっていく子どもたちもいた。最期まで、もう会えないお母さんの名前を呼んで死んでいったり、ご飯が食べたいと言うので仲間が手に入れて戻ってくると死んでいたり。仲間が死んだ子の口にご飯を入れて『おいしいだろ』と呼びかけていた。そういう光景が当たり前だった」(ノンフィクション作家:石井光太)

 8月の終戦から翌年の春までの7か月で京浜地区(東京、川崎、横浜)での戦災孤児を含めた餓死者は1万3000人以上とされる。一方でこの戦争において東南アジアを含めた南方の島々の戦線での兵士の死亡理由の6割以上は餓死であり、つまり補給路はほとんど断たれ、食料自体も国内はすでに枯渇し戦後も海外ではその状況が続いていた。

 21年(1946)11月18日の朝日新聞で「上野駅で処理された浮浪児の餓死体は10月の平均で1日2.5人」とある。つまりこの駅でひと月に75人の孤児が死んでいたことになる。それに敗戦から1年以上の月数を掛けると、上野駅でのその月までの孤児の死は、軽く千人を超える(その前の冬場にはその平均以上の孤児が死んだであろう)。さらにその後何人の孤児たちが想像を超える孤独と悲しみと苦しみの中で死んで行ったのか。ひどい例は、地下道の壁に「浮浪児には食べ物をやらないでください」という貼り紙がされた。

 孤児たちの中には邪魔者として親戚をたらい回しにされ、差別されたり奴隷のように酷使されたりして耐えられずにその家を出て、街の中に移った者も多くいた。実は終戦翌年は大凶作となり、決定的に食料が不足し、人々の心に余裕はなく、その荒波がものを言えない孤児たちに押し寄せ、死へと追い遣った。ただ、いわゆる悪徳商人やヤクザたちに利用される孤児たちも少なくなかったが、むしろそのことで餓死を免れたケースもあった。生きていることがあまりに辛く苦しいから「死んだお母さんのところに行きたい…どうして自分も連れて行ってくれなかったの?」これが残された孤児たちの心の中であろう。

 以下は集団学童疎開中に疎開先にいたまま孤児となったうちの一人の話である。

 —— 学童疎開をするまでは、浅草区(現台東区)で両親と祖母、2人の幼い弟の6人暮らしで、当時、小学校4年生だった。父は軍の地図制作に携わっていたから、私の家族は東京を離れることができず、昭和19年(1944)9月、長野県境村(現富士見町)へ学童疎開することになった。疎開先では6年生がよくお世話をしてくださったが、3月8日には、卒業式と上の学校への試験のために帰京されて、10日の東京大空襲で亡くなられた。私の家族も同じで、両親、祖母、弟たち… みんな死んでしまい、私だけが生き残ってしまった。

 父からは疎開先に3日に1度は絵はがきが届いていた。父は銅版職人だったから、絵が上手で、同級生からはうらやましがられ、自慢だったが、絵はがきは3月10日を境にぴたりとこなくなった。5月になって、疎開先でお世話してくださった若い女性の先生が、桜を見に行きましょうって、何人か同級生と一緒に私を連れて行ってくださった。そこで、先生は「野花を摘んできてちょうだい」って、私は言われた通り、花を摘んで戻ると、先生が泣いていた。そこで、いきなり先生にきつく抱きしめられて、家族全員が東京大空襲で亡くなったと聞かされた。先生は泣きながら、「でも秀子ちゃんね、絶対に幸せになるからね」。私はなんだか信じられなくて、まるでひとごとのように感じた。一緒に花見に連れられてきた同級生たちも同じように家族を失っていた。桜の下でみんなで輪になって、大泣きした。

 その後も、どうしても信じられなくて、毎日、疎開先の駅へ通った。家族が無事だった同級生たちは、親が迎えに来て、東京へ戻っていき、少しずつ同級生の数も減って、それでも、私は駅で待ち続けていたけれど、(戦争が終わって)秋になっても、両親は来なかった。それで、お父さんもお母さんも、おばあちゃんも、弟たちもみんな死んじゃったんだなあって……。

 結局、父の妹にあたる叔母が迎えに来てくれ、叔母の家へ引き取られたが、その家には、私のほかにも東京から疎開していた家族がいて、13人の大所帯。その中で、私の居場所はないに等しく、食べ物は私の口まで回ってこなかった。水だけを飲んで1週間過ごしたこともあり、どんどん痩せていき、体重は20キロくらいまで落ちた。風が吹いたらふらふらって飛ばされてしまうほど、とても苦しかった。

 父が残した絵はがきの束を読み返しては、いつも泣いていた。それを見た親類が「そんなことは早く忘れなさい」って言って、全部焼かれてしまった。一年ほどくらいたって叔母が結婚して家を出ることになって、私は本当に居場所がなくなってしまった。親類たちは「酒屋へ奉公へ出そうか」と話し合っていて、それではあまりにかわいそうだと、たまたま小学校の同級生の子供のいないお姉さん夫婦に引き取ってもらえることになって、私は養女になった。

 養父は元衛生兵で、軍隊から帰還してきた際には、たくさんの薬を持って帰ってきていた。栄養失調になると、固形物は食べられなくなる。養父はそんな私が食べられるように、固形のブドウ糖をナイフで細かく砕いて、少しずつ根気よく口に運んでくれた。とっても甘く、あめのようで、そのおかげで私は生き延びることができた。養母も毎日、櫛で髪をとかしてくれたが、なんて呼んでいいのか、わからない。数カ月かかったある日、畑仕事を手伝いながら、お父さん、お母さんとつぶやくように言ったら、二人とも「ようやく呼んでくれた」って涙を流して喜んでくれた。

 養父は勉強しろって口うるさくもあって、私を高校まで行かせてくれた。当時は一般の家庭でも高校へ進学する人は少なかった。大学へも行けといってくれたけれど、私はそこまで勉強が好きではなかったから。

 その後、公務員の夫と結婚して、子供にも恵まれ、今は孫もいる。私の戸籍謄本には「親権者なし」という欄がある。それがずっと、とても寂しいことに思っていて、今もそう。でも、私は恵まれていて、本当に幸せだった。(孤児になって、苦労した人は他にも一杯いるのに)私だけが恵まれて申し訳ないと思う。戦後70年経とうとも、いくつになっても、やっぱり親には会いたい。家族の遺骨は見つからないままで、だから私にとって、戦争は終わっていない。(西山秀子=仮名80歳:産経新聞:2015年3月10日)

孤児が生き残るために

 一方で戦災で焼け残った浅草東本願寺に厚生会浮浪者収容所が設けられていて、ここには被災者や大人の浮浪者も収容されていた。ここには早期に援助がなされ、そのために逆に新興暴力団が支配し、人員の水増しや特別配給食の横領などが行われ、孤児たちも彼らに利用され、窃盗や詐欺に加担させられた。ここにいた孤児たちの生活手段を調査した記録があるが、警視庁の記録も合わせると下記のようになる。

 彼らの生活手段は、貰い(乞食)が最も多く、時には残飯あさりもあり、新聞売り、靴磨き、露店手伝いなどが続いている。煙草の喫殻を拾い集めて巻き直して売る、女児は花売りの仕事もした。他には雑役も多く、女子の売春も少なくなかった。ただ、中には街中に生きていくために次第に引き込まれていった犯罪行為があって、グループになって窃盗などを行つている者たちもいた。一例ではスリの仕事で、浮浪児スリはほとんど親分や兄貴分の支配下になって、数人が連携し安全剃刀を用いて、鉄道・都電・バス乗客の着衣や所持品を切り裂いて金品をすり取った。稼ぎは全部彼らに渡し、その高に応じて食費や外食券、宿泊費が与えられた。時には農村地帯で芋・米を物乞いすることを「田舎まいり」と称し、あるいは田畑で作業中で留守の農家を狙って泥棒にもなった。入手した食糧などは闇売りした。中には米兵相手に売春をするパンパンと呼ばれる街娼たちの使い走りをして小遣い稼ぎをした子もいた。

 こうした「悪行」を続ける孤児たちを「戦災その他の敗戦の直接被害を浮浪の原因としているが、 社会の混乱によりその本来の非行性を露呈したと考えられる者もかなり多く、その少年の資質にも問題があり、学業成績劣悪な者が多い」と調査した学者が言っているが、それは違うであろうと筆者は断言する。学者の調査自体を否定するものではないが、「本来の非行性」とか「その少年の資質」とか、何をもって決め付けているのだろうか。そもそも勉強ができる環境を奪われ、日々の食べ物を自分一人で探さなければ生きていけないのである。「拾うか、もらうか、盗むか。それしか生きる道はなかった」のである。学者に限らず(救済するはずの役人も含めて)、自分の先入観でもって安易な憶測をして調査してはならない。それがそのまま差別につながるからである。しかし一方でそのような孤児たちの心の側に立って、孤児たちが自立して生きていくようにと一緒に生活して育てた大人も世間には確かにいる。そうした人たちには心から敬意を表したい(中野区の「愛児の家」および中央区の「少年ハウス」参照)。

浮浪児狩り

 終戦2年後の昭和22年(1947)8月、厚生省養護課調査では「浮浪児」が全国で推定3500名いたとしている。そしてその半年後の23年(1948)2月1日現在の厚生省調査では、孤児は約12万3500人としているが(自身が戦争孤児で記録作家の金田茉莉が1995年に隠されていたその資料を横浜の図書館で発見した)、ただこの種の数字は各自治体の担当員の熱意の差によって左右される。いずれにしてもそれまでの2年半の間に餓死や病死した孤児は数に入っていない。

 「終戦からの7ヶ月間に京浜地区の餓死者は1万3000人以上」から推測するに、名古屋や大阪、京都、神戸、広島、福岡、長崎などの主な地域を加味すると23年(1948)2月1日までの孤児を含めた全国の餓死者は3万人から4万人に達するのではないだろうか。

 要はその時までの餓死・病死者や、戦後の混乱で調査の及ばなかったであろう孤児たちを含めれば、その数は16万から20万人になると推測される。しかもここで、厚生省は身寄りのない孤児たちを「浮浪児」と名付け、メディアも何も考えずにこの言葉を使い、世の中での差別を助長した。これはむしろ罪作りの言葉として残る。

 東京都が作成した『戦災誌』の中で「できるだけの対策をし、孤児となった疎開児童の一部を三多摩地区に幾つかの施設を作って数百人を助けた」と記しているが(別な調査では80人程度のみ)逆に言えば東京都はわずかそれだけのことしかしていないし、これは疎開児童のみが対象で、それ以外の戦災孤児たちはまったく無視されている。しかも上記の疎開先である宮城県の温泉地一つだけで50人の孤児が出ている。民間の人達が善意で救いの手を差し伸べたという美談は少なくないが、とても行き届くものではなかった。(東久留米市参照)

 孤児たちが街を徘徊するのが目立つようになると、米占領軍は「浮浪児狩り」を命じ、そのまま日本の警察は応じて、街にたむろする彼らをリアカーやトラックに乗せ、鉄格子のある場所に入れたりしている(東京港・お台場の項参照)。ひどい例は、収容先に困って、山の中に捨て置いた事実も残る。その後生き延びて大人になっても、彼らは孤児というだけで差別され、迫害され続けた。しかもその後為政者は軍人や軍属(軍のサポート係)とその遺族は恩給や遺族年金を豊富に受けられたが、孤児だけでなく戦災の犠牲者たちも今日に至るまで1円の手当もされていない。あれほど国民全員をくまなく戦争に巻き込んでおいて、表に出ない戦争犠牲者には現在に至るまで冷酷であり続けている(「東京都の概要」の「戦後の補償」の項参照)。

孤児の過酷な人生

 地方の戦災で孤児となって上野駅を拠り所にした女性の話である。

 江東区に生まれて育った私は、終戦の前年に一家で母の実家の山形に疎開していた。終戦直前の8月10日、山形県の真室川で空襲にあい、父母と妹一人が焼夷弾の破片を浴びて相次いで亡くなった(山形県の戦災死者は37人であり、不運というほかない)。15歳だった私は東京で仕事を探そうと、叔父にもらった多少のお金を頼りに、10歳の弟と8歳の妹を連れ、上野にやってきた。しかし、見慣れていた東京は一面焼け野原となっていて驚き、家は跡形もなく焼け落ちており、住む場所もなく、仕事のあてもなくなり、身を寄せたのが上野駅の地下道だった。夜になると人でいっぱいでほとんど空いているところはなく、壁に寄りかかって、妹と弟と3人で寝た。お母さんとお父さんがいたらなあと、毎日思わない日はなかった。

 そこは連日のように死者がでる過酷な環境だった。限られたお金しかなかったから、買えたのは1日1本のサツマイモだけで、きょうだい3人で分け合って食べた。しかし食べる物のない子どもが命を落としていく様子を見ていたから、強い罪悪感があって、ほかの人に見えないように食べた。自分を守るので精一杯で、かわいそうだなと思うだけで、何もしてあげられなかった。夜になると地下道は孤児であふれ、食べ物もなくやせ細った子供たちが「母ちゃん、母ちゃん」と最後にうめくように呼びながら死んでいった。

 私たちは浮浪児と呼ばれていた。浮浪児の最大の恐怖は「狩り込み」(注:上記の浮浪児狩り)だった。狩り込みで捕まると、鉄格子の檻の中に入れられ、水をかけられると聞いていた(注:「東京湾・お台場」の項参照)。外に出れない雨の日に地下道にいると、狩り込みされるので、公衆便所に行き、板切れを拾って便器の上に渡し、3人で一つのトイレの中にじっと隠れていた。

 当時、上野にはすでに闇市ができ、お金さえあれば、食べ物を手に入れることができた。しかし、地下道で飢えている子どもたちを気にかけてくれる大人はいなかった。周りにこういうところ行けとか、大丈夫かとかそんな言葉は一切なかった。そんな優しい人はいなかった。なんで国はおにぎり一つもくれないのかなって、それは思っていた(注:戦時の子供達はお国のためにと教育されていたから余計にそう思ったのではないか)。

 11月ごろ地下道でさつまいもを売っていたおばさんの紹介で、また山形の農家に手伝いに行った。朝早くから夜遅くまで、一日の休みもなく働いた。しかし弟たちはまともな仕事ができないため、陰でいじめられていたようで、ある日、「姉ちゃん、この家にいたくない!」と泣きながら訴えてきた。翌朝すきを見て一年あまりいたその農家を逃げ出した。行くあてもなく、その日と次の日は大きな樹の根元で野宿した。そして母方の親戚の家に行こうと、駅に着くと、お金が足りない。仕方なく妹だけ電車に乗せ、「きっと迎えに行くからね!」と胸が張り裂ける思いで見送った。そこから何とか父の叔父に迎えにきてもらい、栃木県の父方の親戚の家にあずけられた。すると私はすぐに女中奉公に出され、弟は何と「人買い」に売られてしまった。二人のことが心配で、何度も山形の叔父に手紙を出したが、返事がなく、やっと連絡が取れたのは6年後だった。

 そこから何とか二人のいるそれぞれの田舎に会いに行った。弟はまるで奴隷の生活だった。11歳から荒地や山林を開墾する重労働を始めてから、学校に通うこともできず、弟はとうとうまともに読み書きもできないまま大人になった。妹は山形の親戚や知人の家を転々としていて、その田舎に訪ねて行った時に、近所の人から「山で泣いている妹さんの姿を何度も見たよ」と聞かされた。誰にも苦しい心の中を打ち明けることもできず、たった一人で耐えていた妹を思うと、今も胸が痛む。

 23歳の時に結婚し、2人の子どもを育てた。しかし、飢え死にする恐怖におびえる日々を送った経験は、みじめな記憶として長年自分を苦しめた。45年間連れ添って優しかった夫にさえ、上野駅で浮浪児として過ごしたことは最期まで打ち明けることができなかった。戦争で親がないというだけで、住み込みで働いていたって言うだけで、上野で過ごしたっていうことだけは言えなかった。怖いという思いで…。

(注:この方、金子トミは80歳を過ぎてから、近所で清掃のアルバイトを始めた。国に対して、空襲の被害者への謝罪と補償を求める活動に寄付をするためだった。これらの実情については「東京都の概要」の<戦争孤児>とそれ以下の項目参照。

 なお、以上は2018年8月「NHKスペシャル “駅の子”の闘い」および『もしも魔法が使えたら』講談社から、同じ金子トミの体験記を織り交ぜて記述した。 同じく戦争孤児であった海老名香葉子の体験談は「各種参考資料」参照)。

 筆者私見:それにしても世間は親がいないというだけで、どうしてここまで手のひらを返したように差別し、冷たく扱うのか、犬猫のようにではなく、野良猫や犬以下の扱いである。例えば上野の地下道では、浮浪児たちを邪魔だと言って「蹴飛ばしていく人もいた。優しい言葉をかけてくれる人は一人もいなかった」。親戚ですらそうなのである。戦争で不幸な被害を受けた子供達を、さらに踏みにじるように差別するという世の中の人々、この種の人たちというのは、地位のある人に対しては犬が尻尾を振るように言い寄るに違いない。もし自分がこの子たちの立場だったら、という想像力がどうして働かないのか。それは、彼らを浮浪児と呼び、邪魔者扱いした国も全く同じでなのである。しかも、国自身が戦争を起こして国民と子供を巻き込み、その結果として生じた多くの孤児たちを救うこともせず、どこまでも無視を決め込むという冷酷な仕打ちに出たのである。

 これは国の許しがたい大きな罪作りと言っていい。そういう国の怠慢というか無為という無責任さが断罪されない日本という国は何なのか(ただ、権力側にいる公務員は無為により断罪されることはまずないし、仮に救済を訴えても先例がない、法律がないという言葉で簡単に退けてしまう)。上記の金田によると、「地下道の老幼婦女など大人の浮浪者は、生活保護法によって救済され、次第にいなくなった。しかし戦争孤児は10万人以上が無償で、親戚、知人に預けられ、厄介者として追い出されたり、虐待されて逃げ出し、行く場所がどこにもないため、浮浪児になっていく。子どもゆえに訴えられず、生きるため盗みをする浮浪児は、犯罪者として取り締まりの対象にされてしまった」という。つまり国会では何度かこの問題が取り上げられたが、児童保護法も作られず、孤児の実際の人数も確かめられず、政府としては孤児の数を極力少なくしたかったのだろうと金田は言う。そして金田は「孤児は国から捨てられた」と理解した。

 以下、『もしも魔法が使えたら』から、いくつか拾い出す。

 —— 私が3歳の時に七五三を祝ってもらった写真が手元に残っている唯一の宝物。その後の3月10日の大空襲の夜、たまたま近くの母の実家に泊まりに行っていたため、助かった。父母と小さな妹は死んでしまった。両親が死んだことすらわからないまま母の実家に引き取られ、5歳になった頃に、父の郷里の新潟の実家にあずけられた。その時の条件が、今後一切会わないこと、連絡も取らないこと、どんな育て方をしても文句を言わないことということであった。そこから半年後に父の姉の家に引き取られた。その伯母の家にいた時、お腹をこわして下痢をした。すると伯母は雪の降る夜、私を外に連れ出して、氷の張っているバケツの冷たい水を私の体にかけた。ごめんなさい、ごめんなさいと謝ったが、「お前も親と一緒に死んでしまえばよかったのに」と言われ、その時初めて親が死んでいたことを知った。(注:当時の孤児に対する親戚縁者の同様な冷酷な言葉は、よく聞くことで、海老名香代子も経験しているし、孤児自身もお母さんと一緒に死んでいれば幸せだったと語ることが多い)

 —— 長野にいた6年生の終わり頃に(注:縁故疎開先か)、養子として隣村にもらわれて行った。実際には籍のない居候の立場で、その家には2歳年上と同い年の女の子がいた。食事時には私がご飯のお代わりでお茶碗をそっと出すと、「お茶か?水か?」と言われて、仕方なくお水と言わされた。弟は別な家で、体がうずくほど働かされ、馬小屋で毎夜泣きながら寝ている生活で、自分が東京に戻されて奴隷のような生活をしていた時にも、東京に働けるところを探してくれと、何度も手紙が来たが、どうしようもなかった。その後弟は家出をして行方が分からず、7歳だった妹も親戚から邪魔者扱いされ、やはり家出をしてしまい、二人とも行方が分からないままになっている。(男性)

 —— 孤児になった4歳の時、父方の田舎に連れて行かれた。その家では食事も寝場所も差別され、しかも従兄弟から、「なーんだ、お前なんか親がいなくて、おいらの親が育ててやっているんじゃないか」と言われ、どんなに悔しくても言い返すことができなかった。(注:このような心ないいじめの子を育てるのも、その親の心が貧しいためで、陰でそのような言動をしていたからであるとしか思えない)

 —— (当時9歳で、上野付近にいた時の話)、男の人に「ねえちゃん、いいセーターを着ているじゃないか、30円で買ってやるよ。お腹すいてんだろう」と言われてセーターを脱いで渡し、そのお金でパンを買ったとたんに浮浪児が出てきて、買ったばかりのパンを取られてしまい、思わず泣き出した。

 ここに書き出した話はごく一部で、悲話は無数にあるが、多くの人は何も語らず(語って思い出すのも辛いから)胸に秘めたまま亡くなっている。

上野動物園の慰霊碑

 よく知られている話だが、戦争の激化により空襲時に逃げ出したら危険だということと餌が不足しているという理由で、昭和18年(1943)半ば、当時の東京都長官(知事)が、上野動物園に対してゾウやライオン、トラなどの猛獣の薬殺処分を指示した。当然園の職員達は反対したが、他に道はなかった。しかしゾウは皮膚が固く注射での毒殺処分はできないため、餌に毒を混ぜて与えたが三頭のゾウは感知して食べず、結局は餓死させるしかなかった。終戦2年前の9月前後のことである。その後残っていたカバなども餌がなくなり殺処分された。終戦時にはほとんどの動物は死に、大きな動物で生き延びたのはキリンだけであった。この象舎のそばに動物慰霊碑が建立され、その行事は戦後70年を経た現在も続いている。

 しかしながら、すぐ側の上野駅で餓死した数多くの孤児たちのことを思うと、この扱いの差は何なのであろうか。いかにもわかりやすく哀れな動物の逸話のほうが繰り返し語られている。とりわけ都は「戦争を思い出させるような施設を作ってはならない」との米占領軍の通達に従ったから、もとより都内に戦災の犠牲者を追悼する正式な記念碑は少ないが、多くの餓死・病死した孤児たちを追悼する施設のことはまず聞かない。

 実に上野に限らず餓死した多くの孤児たちは、動物園で犠牲になったゾウたちより存在を無視されている。そのこと自体が孤児たちの孤独と不幸を表している。子供は自分でその境遇を訴え、直接声を上げることもできず、だからその悲痛な声なき声が為政者の上層に届くこともなかった。しかも、その声が届くような時代になっても、その声は振り返られず、無視され続けている。

 平成16年(2005)同じ戦災孤児である海老名香葉子が上野公園の片隅に母子像と「時忘れじの塔」の慰霊碑を建てた。上記の金田茉莉も含めて毎年3月9日、ここに集い慰霊を続けている。

台東区各地の慰霊碑など

*東京大空襲犠牲者追悼碑(浅草7丁目言問橋西側:隅田公園内)

 —— 隅田公園のこの一帯は、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。 いま本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調整するとともに、この地に碑を建立した。 — 昭和61年(1986)3月 台東区。(この戦災死者名簿は困難があって実現されていない。墨田区の戦後の項の<せめて名前だけでも>参照)

*平和地蔵尊(浅草寺淡島堂)

 戦災で亡くなった人たちの霊を慰め、世界平和を祈念して篤志家・龍郷定雄氏が昭和24年(1949)に建立。

*みしま地蔵尊

 昭和23年(1948)、当時の三崎町、初音町4丁目、真島町の有志により3ヶ町(三四真と3ヶ町の名から)の3月10日の戦災死者70余名の霊を永久に供養するために地蔵尊が建立された。

*浅草大平和塔(浅草寺)

 昭和38年(1963)、戦災犠牲者を供養するため、浅草の町会連合会などによって浅草寺境内(淡島堂)に建立された。

*母子地蔵尊(浅草寺淡島堂)

 中国東北部(旧満州)で逃避行の末、命を落とした日本人の数は20万人をこえるといわれており、中国からの引き揚げ死別あるいは生き別れて死亡した母子の慰霊のために、二度と戦争という過ちを繰り返さないことを祈念し、平成9年(1997)4月に建立。満州生活体験者の漫画家9人が発起人となり、ちばてつや氏が母子像をデザインした。

*母子像・時忘れじの塔(上野公園 清水観音堂付近)

 上記、海老名香葉子と有志一同が戦後60年の平成17年(2005)3月、東京大空襲の惨禍と孤児を残して逝った母親を追悼するため建立し、東京都に寄贈した。

*哀しみの東京大空襲慰霊碑(上野公園、龍院山門)

 同じく海老名香葉子と有志一同が東京大空襲の際に惨禍を後世に伝えていきたいと同年に建立。

 この碑は主に、「翌日からこの上野の山には焦土と化した下町から夥しい数のご遺体が運ばれて来ました。この慰霊碑の付近の道端にも、米俵や筵を掛けられたご遺体が並べられたのです。やがて、大八車やリヤカーを引いて、ご遺体を引き取りにみえる方もありましたが、多くのご遺体は身元不明のままでした。そうしたご遺体は、この近くに巨大な穴を掘って、そこに仮埋葬され数年後に改めて掘り起こされ、荼毘に付された」人たちのためである。

*戦災供養地蔵尊(浅草寺境内淡島堂)

 浅草花柳界に身を置き、戦災によって亡くなられた方の霊を慰めるため、旧浅草芸妓屋組合が建立。

*戦災慰霊碑(本龍寺境内)

 大空襲時、本龍寺本堂下に設置されていた防空壕へ逃げ込んだ多くの方々が亡くなった。その方々を供養するため墓地の一角に建立された。

*はなし塚(本法寺境内)

 昭和16年(1941)10月、太平洋戦争へ向かう戦時下に落語界で時局にあわない禁演落語53種を選び、これらの作品と落語界先輩の霊を弔うため建立。塚には禁演となった落語の台本などが納められた。

*長応院墓地内地蔵尊(長応院墓地内)

 町内の犠牲者を供養するために、地元町会(三筋2丁目町会)が建立。空襲で亡くなった方々の名前、年齢が刻まれている。

(この空襲全体の犠牲者を慰霊する施設として、墨田区の<横網町公園と東京都慰霊堂>参照)

台東区の女学校

目次を開く